日本人の源流を探して

            第3部 弥生文化と渡来人の登場

02.水田稲作技術を伝えたのは縄文人か


  日本最古の水田址−菜畑遺跡の発見−

 現在、菜畑遺跡は、唐津湾から少し内陸に入った、丘陵地帯の麓にある。しかし、3,000年前、ここは直ぐ目の前まで潟が迫っていたといわれる。
 
  
 
この菜畑遺跡は1979年12月、唐津市の都市計画街路事業の事前調査で発見され、1年後の1980年12月から本調査が実施された。
 その結果、この遺跡は16の層からなり、縄文前期から弥生中期に亘る複合遺跡であることが分かった。上の層から8層目の下部からは、板付遺跡と同じ、縄文晩期末の夜臼式突帯文土器と共に、水田址10枚が発見された。
 その発見に止まらず、さらにその下(9〜12層)、縄文晩期後半の突帯文土器、夜臼式よりも古い山ノ寺式といわれる土器の層から、水田址4枚や「水田稲作」に必要な道具がセットで発見されたのである。
 板付遺跡よりも古い、日本最古の水田址の発見である。
 
 次表はその出土遺物を纏めたものである。

 主な石器は、次の写真のようなものである。
 

 さらに佐々木高明によれば、
 菜畑遺跡の最古の水田期(突帯文土器・・山ノ寺式期)では、イネの花粉と共にアワ、アズキ、ヒョウタン、メロン、ゴボウ、シソなどの主に畑で栽培される植物と、カタバミ、イヌホウズキ、ナズナ、ハコベなどの畑雑草の種子が数多く出土し、
 その上の層(突帯文土器・・夜臼式期)になると畑雑草が減少し、代わって水田雑草の花粉や種子が急に出てくる、という。
 
 すなわち、この菜畑ムラでは、「水田稲作農耕」は、当初、山の寺式期すなわち縄文晩期後半に、採集・漁労や従来からの畑作の中で、小規模に導入され、夜臼式期(板付遺跡と同時期すなわち縄文晩期末)になって、本格的になったと考えられるのである。
(畑作の中には、水田稲作に同伴してきたものもあった可能性がある。)

  水田稲作農耕の伝播ルート

 これまで詳しく調べてきたように、縄文時代の稲作は、縄文前期以来3,000年に亘って、焼畑技術の延長線上の稲作か、低湿地を利用した水陸未分化の粗放稲作であった。
 それに対し菜畑ムラの稲作は、小規模ではあったが、次元の違う稲作技術、すなわち“水田稲作農耕”の技術セットを取り入れた最初の稲作であった。
 この非常に手数のかかる、縄文人が長い間、頑強に拒否し続けた“農耕”という、生業の大転換を“もたらし”且つ“受け入れた”人達はどういう人々であったのだろうか。

 まず先達の学者が主張する各説を調べよう。どういう人々であったかは、水田稲作が何処から、どういうルートで伝わったかということが決定的な意味を持つ。

 この図は、安田喜憲が「環境考古学事始」に記述した、稲作の伝播ルート諸説である。この名著「環境考古学事始」が世に出た1980年頃は、丁度板付遺跡から縄文末期の水田址が発見された頃であったが、考えられる全ての説が出揃っていた。そして、すでに@とCの説は過去のものとなりつつあり、AまたはBの説が有力視されるに至っていた。
 安田喜憲等は、朝鮮半島の20地点でボーリング調査を実施し、花粉分析の結果、朝鮮半島における稲作の開始は、半島の南部において早く、北部に行くに連れて遅れていることから、@のルートの可能性は薄い。
 また、Cのルート、柳田国男が提示した南島の“海上の道”とも言える、このルートは、イネ花粉や炭化米の出土する年代が、南九州や沖縄の遺跡では北九州の遺跡より遅れていることから、このルートの可能性も低いとしたのである。
 以来、現在でもその状況にあまり変化はない。稲作の発祥地は、すでに東亜半月弧から長江中・下流域に大きく入れ替わったが、日本列島への伝播ルートについては、考古学者は、南部朝鮮からの伝播(Aのルート)が確実だと主張し、考古学者以外は、長江下流域・江南地方からの直接伝播(Bのルート)の可能性が大きいと見ている。

  菜畑遺跡の農耕用道具セットの源流

 日本最古の縄文水田址・菜畑遺跡から「水田稲作」に必要な道具がセットで発見された。
その“セット”とは次のようなものである。
    
 これらはいわゆる大陸系磨製石器と呼ばれるものであるが、例えば石包丁を例にとって見ると、一般的な丸い紐の通し孔を持つ形式ではなく、擦り切りによって溝状とした有溝式石
  
包丁と呼ばれるものである。この形式のものは、最初期の石包丁の形式で、朝鮮半島南部に集中的に見られるものであり、おそらく菜畑のものは到来品と見て間違いないと思われる。
 右図の抉り入り柱状片刃石斧と呼ばれる石斧は、加工用の鑿(のみ)のように使われたと思われる。“抉り(えぐり)”は、石斧を木柄に結びつけるときの紐がかりとするためのものと考えられる。
 その独特な形状からしてこれも朝鮮半島から導入されたと見て間違いなかろう。
 また、農工具の他にも、朝鮮半島に特有な磨製石剣 や磨製石鏃も到来している。 
   
こうした検証により佐原眞は、「大系 日本の歴史1 日本人の誕生」の中で(p230)、 
 --日本最初の農耕文化の状況を学習すると、これが朝鮮半島南部からもたらされたものであることは、いまや100%確実といえる。--
と言い切っている。三内丸山の大規模都市説にも疑問を呈したほどの、慎重居士の佐原眞としては珍しいことであった。
 またこの第3部のベーステキストとしている「日本の歴史 第02巻 王権誕生」の著者寺沢薫も、菜畑遺跡出土の磨製石器は“驚くほど朝鮮半島南部の無文土器文化前・中期の磨製石器群と似ている” としている。

 菜畑の水田稲作技術が長江中・下流域から直接ではなく、朝鮮半島南部を経由してもたらされたことは、まず間違いないものと思われる。

  朝鮮南部で水田稲作に出会った縄文人

 では、朝鮮半島南部にいたどういう人達が、水田稲作技術をもたらしたのだろうか。
 筆者は、第1部11節のまとめで朝鮮半島南部と北部九州との関係について、
 この地域は、国境のない時代、ほとんど継続的に交流のあった、日本海文化圏の主要な地域であり、遺伝子の混交、言語や文化・習俗の共通性などを視野に入れねばならぬ地域であったと言えるだろう。
と、結論した。それほど近しく親しい地域であった。文化面でも、地域差・地方色はあったであろうが、同じような文化を長期に亘って共有していたと考えてよいだろう。
 当然、対馬海峡を挟んで、頻繁な交流があったに違いない。両方の地域には、おそらくそれぞれのコロニーのような朝鮮人ムラや縄文人ムラまでが存在していたのではなかろうか。
 事実、NHK「日本人」プロジェクト編「日本人はるかな旅4」(p93)は、 
 ---東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、そこで出土する縄文土器は、縄文人がやってきた確かな証拠品といえる。朝鮮半島では銛(もり)や鏃といった漁労具や狩猟具に最適な黒曜石が産出されない。このため朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやってきたのではないかと考えられている。---
と記述している。
 
   
(筆者が“コロニー(居留地)”というような常駐地区まで想定するのは、数千年の歴史を持つ文化交流や交易などの深い繋がり、さらに言えば一種の原始的権益が、古く遠い昔からあったからこそ、のちの大和王権が伽耶(=任那)に異常な執拗さで拘り続けたのではないかと考るからである。)

 そして朝鮮南部に交易にやって来ていた北部九州縄文人や、朝鮮のコロニーに滞在する縄文人が、3,000年前ごろ(菜畑ムラに水田が現れる少し前)、中国山東半島から松菊里遺跡
慶尚南道・釜山地区などにもたらされた、最新技術の「水田」を直接目にしたであろうことは想像に難くない。それは右の写真のような景色であったに違いない。
 縄文前期以来3000年間、水田稲作を受け入
れず縄文稲作段階に止まっていた西北九州の縄文人も、自らの目で確認した、生産性の高
   
い最先端の農耕技術は、不振にあえぐ縄文の生業に代わり得る技術として、極めて魅力的に映ったに違いない。

  水田稲作技術を持って来たのは縄文人自身?

 以上のように、北部九州乃至は西北九州の縄文人が、水田稲作について直に肌で感じたり、実際に水田稲作に携った可能性を認識した上で、菜畑遺跡の出土物を観察するとき、その不思議な構成の理由が明らかとなってくる。
 先程、菜畑遺跡で出土した「水田稲作」に必要な道具のセットについて調べた。それらの先端的な道具は、確かに南部朝鮮からの到来品であった。
 ところが同時に発掘された“生活用具”の方は、
「日本人はるかな旅4」の記述によれば、--菜畑遺跡ではすべて縄文文化に由来するものだった。皿や浅鉢、甕、壺といった土器の類は、皆、典型的な「縄文土器」であった。--
また、「日韓交渉の考古学」(小田富士雄,韓炳三/編)の記述でも、--菜畑遺跡の晩期後半の石器には大陸系と縄文系の2系統があるが、量的には後者が圧倒的に多い。--としている。
 すなわち、菜畑ムラでは、従来どおりの西北九州縄文人が生活しており、そこに「水田稲作技術」だけが新たに導入された、という印象なのである。とても南部朝鮮人が集団で菜畑ムラにやって来て、水田稲作を営んだという痕跡はない。
 
 これは、“渡来人が水田稲作技術をもって九州北部に渡来した”という従来からの常識に著しく反する。どのように理解すればよいのだろうか。答えは二つしかない。
 一つは、菜畑ムラの出身者(または西北九州縄文人)が、朝鮮半島南部で水田稲作技術を習得し、水田稲作に必要な道具セットとともに持ち帰った。すなわち、水田稲作技術をもち込んだのは、縄文人自身であったと考えることである。(NHKスペシャル「日本人」プロジェクトはこの考えを提示している。)
 いま一つは、菜畑ムラの出身者(または西北九州縄文人)が、朝鮮半島南部で水田稲作技術の有用性に注目し、縄文の生業に代わるものとして、少数の朝鮮の農業技術者と道具セットを伴って、水田技術を持ち帰ったと考えることである。この場合も、朝鮮系の生活用具の痕跡が残ることは殆んどないだろう。

 もちろん他にも、最先端の農耕技術を身につけた南部朝鮮人が、寒冷化した南朝鮮から、より温暖な新天地を西北九州の地に求めて、縄文人に協力を求めたことも大いにあったであろう。
(しかしこのケースでも、一般の概説書のように、ボートピープルや漂流のような形で、偶然に西北九州沿岸に上陸して、当地の縄文人と仲良く共同生活をしたという絵空事ではなく、実態は慎重に事前に受け入れ先の縄文ムラを選定し、交渉成立してから渡来したものであったろう。)

 菜畑遺跡と同時期の最初期の水田稲作遺跡に「曲り田遺跡」がある。この菜畑と曲り田を併せて、最初期の水田稲作レベルや遺跡群のことを「菜畑・曲り田段階」と称することがある。
 弥生時代の土器に詳しい立命館大学の家根祥多(やね よしまさ)は、曲り田遺跡について次のような指摘を行っている。
 --弥生土器は朝鮮半島の無文土器の系譜をひいており、こうした無文土器を作る人々が稲作を持って渡来したことは確実である。その場合、福岡県曲り田遺跡では、
   
朝鮮系の無文土器の甕が30%、縄文土器の深鉢が60%存在する。--
 このデータから家根は、新たに渡来した人々は、縄文人と同じ集落に住み、村の住民の三人に一人は渡来人であったろうと推定している。曲り田遺跡では、夜臼式土器文化期の竪穴住居が30棟出土しており、菜畑遺跡の弥生初頭の竪穴住居8棟に比べると、かなり大きなムラであり、渡来人の集団もある程度の規模を有していたと考えられる。
 したがって、この曲り田ムラのケースは、まさに南部朝鮮人が、曲り田ムラの縄文人に協力を求めて、移住して来たと考えて間違いないだろう。

 このような事例に関して、安田喜憲は「縄文文明の環境」(吉川弘文館 p202)の中で
「このように争いをともなわず、新たに渡来して来た人々が、在地の縄文人と平和裏に融合して共に生活をした場合もあった。いな、むしろその方が多かったのかもしれない。在地の縄文人が積極的に渡来した人々を受け入れ、ともに仲良く暮していたと解釈できる事例が多い。古くから朝鮮半島との交流があった北九州では、言語の面においても十分に意志の疎通が可能であったかもしれない。」
 と述べている。筆者も大略、同感である。

 朝鮮式の支石墓に葬られていた人

 このページのトップの地図写真をご覧いただきたい。
 曲り田遺跡から数km、糸島半島の西側に新町遺跡という支石墓を伴う遺跡がある。
 その支石墓から被葬者の骨が発見された。
 支石墓は中国の山東半島や東北部、朝鮮半島に広く分布しているが、朝鮮半島南西部に特に集中して分布している墓形式である。その支石墓が造られた時期も無文土器時代、まさに弥生早期から前期の時代である。日本では支石墓は西北九州に偏在しており、出現時期も弥生早期の夜臼式土器段階である。
 したがって、この墓制は稲作や磨製石器農具などとセットで朝鮮半島南部から九州西北部に伝播したと考えられている。
   
 その墓に葬られている人だから「渡来者」に違いないと誰もが考えていた。
 新町遺跡の支石墓から出土した14体の遺骨のうち、弥生前期初頭の熟年男性2体から頭蓋形態が判明した。その特徴は予想に反し渡来形質の片鱗さえ認められず、ほぼ全員に施されている抜歯の様式も西日本縄文人の様式を踏襲していた。
 まさに「縄文人」の頭骨そのものであった。
 
 意外な結果に到達した人類学の中橋孝博は、この支石墓の被葬者を、
1.新しい稲作文化(稲作技術や墓制など)を取り入れた縄文人(漁労民)。
 (考古学者は西北九州の支石墓が朝鮮半島と違って甕棺や石棺・木棺(上図参照)を使わ
 ない、 所謂土壙墓(土葬)が一般的で、縄文的色彩の濃い副葬品を伴っていることから
 この説を支持する人が多い)
2.弥生早期のこの時期、朝鮮半島には高顔・高身長と低顔・低身長のタイプが混在しており
 両方のタイプが渡来してきたが、新町人は後者のタイプであった。
という可能性を指摘している。
 この中橋の指摘は、筆者には更にいろいろな疑問を生じさせる。
1.の縄文人(漁労民)は、朝鮮半島にどれほど関わったのか。墓も朝鮮式にするほど、南部
 朝鮮の習慣に慣れ親しんだのだろうか。すなわち、筆者の言うコロニーに長期滞在したよ
 うな縄文人なのであろうか。
2.朝鮮半島の低顔・低身長のタイプの人とは、北部九州の縄文人とどういう関係にあったの
 か。実は旧石器時代から南部朝鮮人と北部九州縄文人(西日本縄文人)とは強い遺伝的関
 係があった集団がいたのではないか。
 筆者にはそのような疑問が湧いて来るのである。   
 
 いずれにしろ以上の検討を通じて、最初期の段階での水田農耕は、縄文系が主体的役割をつとめ、南朝鮮系は従的存在に止まったように思われる。しかも先の家根祥多の推計によれば、唐津湾周辺と糸島半島海岸部の狭い地域に来往した稲作農耕民の数は微々たるもので、最大限見積もっても数百人のオーダーを超えるものではなかったとしている。
 とすれば、この最初期の水田稲作の到来が西北九州の縄文人に大きな遺伝的影響を与えたことはなかったと考えた方が妥当だろう。

 筆者は、この日本列島に渡来してきた人々は、漂流者やボートピープルなど偶然に到来して来たのではなく、事前に打ち合わせや下調べなど慎重な計画のもとに渡来してきたはずであると、強調してきた。この節でも、渡来人の計画性を指摘した。
 このような考えに立つ論述をなかなか見出せなかったが、「古代を考える 稲・金属・戦争−弥生−」(佐原 真編 吉川弘文館 p62)に、九州大学の田中良之が弥生人の渡来について、次のような記述をしているのを見出した。
・・このように在来住民との間に摩擦を生じずに移住しえたことは、渡来人側においては、それ以前からの交流と移住を通じて移住先の情報を蓄積していたこと、在来者側には、黒川式期を通じて流入・蓄積された稲作農耕とその文化への期待・憧憬が存在したことを示すものといえよう。・・
と。  筆者も全く同感である。
(注:黒川式期…縄文晩期の九州北部の土器形式。山の寺式、夜臼式の前の時期の形式)