日本人の源流を探して-2     
   02.縄文イネの品種と起源は    
     
        
 

   縄文イネの品種は

 縄文稲作が畑作系のそれも焼畑を活用する稲作だったとすると、そこではどんな品種のイネが栽培されていたのだろうか。
 藤原宏志は「稲作の起源を探る」で
「宮崎県えびの市の桑田遺跡で縄文晩期の層からイネのプラントオパールが検出され、その形状解析から熱帯型ジャポニカである可能性が高いことがわかったのである。・・・・・
・・・水田稲作の伝来以前にイネが存在していたとすれば、やはり、焼畑など畑作系譜の稲作を想定する以外にないとわたしは思う。水田稲作にともなう栽培イネが温帯型ジャポニカであるのに対し、畑作系のイネは熱帯型ジャポニカが多く、しかもこれが縄文時代のイネに多い。」
と述べている。
 また佐藤洋一郎も「DNAが語る稲作文明」のなかで
「最近では、縄文土器の胎土から稲のプラントオパールが検出されているが、これも多くは熱帯ジャポニカの稲由来のものであると言われている。----ごく端的に表現するなら、温帯ジャポニカが水田稲作を代表とする集約的な稲作に支えられた稲。熱帯ジャポニカは焼畑を代表とする粗放な稲作に支えられた稲である。----熱帯ジャポニカは縄文時代に西日本に伝わり、粗放な稲作に支えられていたと考えられる。」
と、藤原も佐藤も縄文のイネは熱帯ジャポニカであったと述べている。
 縄文の稲作の品種が熱帯ジャポニカであったことはまず間違いないらしい。

  稲作の起源説の変遷

 もともとアジアのイネの起源地は東インドの低湿地地帯だと考えられてきた。しかし1977年、渡部忠世は緻密な実証的研究の結果、古代の稲の伝播路の原点がインド東北部のアッサムとそれに隣接する雲南高地に収斂することを発見した。こののち、イネの起源地はアッサム・雲南センターであるというのが世界的定説となった。これでイネの起源地の問題は解決した、と誰もが思っていた。
 ところが丁度そのころ、1973年、長江下流の南、余姚(よよう)県河姆渡(かぼと)村から数十センチの厚さに堆積した籾をはじめ、おびただしい量の遺物が出土した。世界最古の稲作遺跡として世界にその名を知られることとなる河姆渡遺跡(7000年前)の発見である。
 アッサム−雲南起源説の隆盛の中、文化大革命による考古学者受難の中、この河姆渡遺跡の発掘は細々とつづけられ、1986年北京農業大学の王在徳によって発掘成果が発表された。その論文に出てくる地図はおよそ次のようなものである。
 
 この地図を見ると稲作は7000年前に長江下流・中流で発生し、その後長江を下流から中流へ遡るように広がり、3000年前くらいに今の中国の稲作地帯のほぼ全体に及ぶようになることがわかる。(アッサム-)雲南センターへはほぼ最終期に近い時期に広がった、と従来のアッサム−雲南起源説(雲南を起源として稲作は長江を下るように広がる)とは逆の仮説を王在徳が展開していることが分かる。
 
 いまや稲作の起源は長江中・下流説が主流になっており、それはさらに発展して中国の文明は黄河文明に先立って「長江文明」があったのではないかという議論にまでなっている。

  熱帯ジャポニカの起源

 先に縄文イネは熱帯ジャポニカであったとした。それでは温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカはどう違うのか、稲作の起源とどう関係するのかが問題となる。
 まず次の表と図を見ていただきたい。

 これらをみると、熱帯ジャポニカが粗放な作業で収穫が得られる品種であることが大体想像できる。
 おそらく、ごく少数の人々が何処に漂着するか分からないような遠洋航海に出るような場合、当然最低限の運搬物しか持って移動できないような場合、そして相手の農耕水準が粗放なレベルのとき、選ばれたのは熱帯ジャポニカであったろう。

 ではイネの長江起源説とはどういう関係にあったのか。長江のイネがジャポニカであることははっきりしている。しかし温帯ジャポニカか熱帯ジャポニカかは今のところわからない。
考えられることは二つである。
 一つは、ジャポニカ米が長江中・下流域で栽培され始めたときから、温帯型、熱帯型の両方が存在していたという考えである。
 もう一つは、熱帯ジャポニカのいろいろな性質を見てみると多少の例外を別にして、それが温帯ジャポニカとインディカの中間的な位置にあることである。すなわち熱帯ジャポニカが温帯ジャポニカと何か未知の系統との自然交配によって生まれた可能性があるということである。
 
 いまのところ明確な答えは出ていない。しかし私の考えは後者に傾いている。
稲作の発生や伝播の歴史が分ってくるにつけ、温帯ジャポニカ→熱帯ジャポニカ→インディカという開発過程が見えてくるからである。