日本人の源流を探して         
   12.縄文最盛期の日本人像        
        
 
縄文時代人が決して閉鎖的、鎖国的ではなく、活発な国際交流のなかで新しい文化や技術を求めるという積極的な性格を持っていたことを明らかにしてきた。
 またテーマの関係であまり触れることのない列島内での広範な交易、三内丸山およびその周辺を包含する都市文明といってもいいような組織的な社会の存在が近年知られてきた。
 旧石器時代から縄文中期まで、これまで調べてきた人のダイナミックな移動を図示すると次のようになる。


  西日本と東日本の人口分布

 その中でナイフ形石器時代という早い時代から、列島内に東西差という地域差が生成されてきたことにも触れてきた。
 では西日本と東日本でどれだけの人口が住んでいたのか、その人たちはどういう遺伝的性質を持っていたのか、日本人の源流を探してきた旅の第1部を締めてゆこうと思う。

 アボリジニの生態などに詳しい小山修三 は日本列島を20万分の1地図一葉(枚)を一つのメッシュとして、その中にある縄文時代各期の遺跡数を集計し、それから時代毎・地域毎の人口を推計した。次の表がそれである。

 まず、この表にはないが旧石器時代の人口は20000年前で約3000人と推定される。東西の分布もほぼ1500人づつであった。それが縄文時代になると東日本に圧倒的に人口が集中する。おそらくその契機となったのは12000〜13000年前、バイカル湖文化センター方面からクサビ形細石刃文化をもたらした人々の急激な流入だっただろう。(筆者は上表の縄文早期の東日本人の人口から逆算して、10000人規模の大規模な流入があったのではないかと推測している。)

 ピークは三内丸山の最盛期と一致する縄文中期である。全人口26万人のうちなんと96%以上が東日本に分布した。西日本はほとんど過疎地であったと言っていい。
 しかし、ヒプシサーマルといわれる温暖期が過ぎ、気候が寒冷化する縄文後期、東日本の人口が急減する中で、西日本の人口が異例の増加をする。(この西日本地区の特異な現象については、いずれ検討したい。)
 縄文晩期になると西日本を含めて関東以西の地域はほとんど壊滅的打撃を受ける。縄文文化は東北地方から北海道西南部にだけ残り、亀ヶ岡遺跡や是川遺跡など爛熟した高度な文化、いわゆる亀ヶ岡文化を残した。
 このように縄文文化は人口面から見ても、東日本中心の文化であった。
 
  考古学からの縄文文化の総括

 考古学の佐原真は講演(於 京大学友会館 1989年)で縄文文化を次のように総括している。
・・・埴原先生がおっしゃったように、旧石器人、縄文人の体つきは南のほうの人びと(中国南部やボルネオなど)と結びつきがあるようにお話しがあったと思いますが、縄文文化を形成している要素をみると、
 縄文土器の深鍋はあきらかに北的なものです。これはユーラシア大陸からアメリカに亘るまで、北緯30度以北、涼しいところから寒いところにかけての地帯の土器です。南ではむしろ浅い鍋を使う。
 竪穴住居も明らかに北的なものです。
それから、なによりも縄文遺跡の8割が縄文前期以来の落葉広葉樹の地帯(中部・関東の山寄りから北海道の西部)にある。
そういうことからも、縄文文化は、むしろ北的な文化であるということです。
 ところが、鳥浜にあるような栽培植物、漆とかはむしろ南的である。なかなか文化の系統というのは難しいのです。・・・
 埴原和郎の主催する講演会なので、最後には少々バランスをとって、このような総括をされている。
 縄文文化は、あくまで北方的な文化が基盤としてあり、そこに南方からの有用な文化が取り入れられたと考えるべきであろう。

  
縄文人のGm遺伝子(試論)

 縄文人のGm遺伝子の頻度を推定しようなど無謀な試みに違いない。それを敢えて試みてみる。


  いろいろなシミュレーションがあると思うが、これはその1例と考えていただきたい。
 まず、➀の人たちはag,axgの遺伝子しかもっていなかったと思われる。なぜならab3st遺伝子は18000年前(極寒期)以後のそう遠くない時期に寒冷適応の結果発生したものと思われるからだ。
 しかも松本秀雄によればab3st遺伝子の頂点はバイカル湖付近にあり、そこから四方になだらかに低下していく、としている。そうすると➂に半円錐型細石刃核をもたらした中国北部の人たちも、13000年前頃ではまだab3st遺伝子を受け入れて(混血して)いなかったと想定する。
 以上の推定が正しければ、縄文早期時点でもGm遺伝子はシンプルなag,axgだけのシャバンテ型の頻度であったろう。

 縄文早期から縄文中期へ、約2000年の間に➅、➆、➇ の流入なり交流があった。実は縄文人としてはマイナーな西日本人をまず取り上げたのには理由がある。西日本人は2000年の間にわずか6700人しか増えていない。
 そうすると流入にも当然人数の限度というものが生まれてくる。実際、照葉樹林センターからどれほどの流入があったか漠としてわからない。しかし、それぞれの集団が同じような人口増をしていたと想定するなら、照葉樹林センターからの流入は6700人を限度とせざるを得ない。
(注・・・照葉樹林センターからの流入5000人というのは2000年間にということであ   るから、平均1年間に僅か2.5人の流入があり、正常に子孫を残したという想定になる。)

 以上のことを前提に上表のような推定値を置いてみると、この西日本人はかなり南方型のGm遺伝子頻度を示すということになる。松本秀雄のデータによれば、四川省宜賓
(ビンイン)の少数民族トゥチャ族と同じ頻度である。(表参照
 西日本人の言語はかなり南方の言葉が入っていた可能性が高いのではないだろうか。

 同じことを東日本人で試みた表が次表である。


 以上で「日本人の源流を探して」の第1部を完了します。

 第2部はしばらく時間をいただき、縄文の稲の栽培などから入って、日本人像を確かめて行きたいと思います。