日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 


          第1部  最初の日本人の系譜


10.日本人の心のふるさと−照葉樹林文化−

ここまで調べたり、研究して来たことを整理しておこう。

1)まず最初に、人骨の研究を主体とする形質人類学において、現在の最もポピュラーな説で
 ある埴原和郎の「二重構造モデル・南方起源説」について再確認の作業を行った。
2)ついで、ミトコンドリアDNAの先駆者・宝来聡が、浦和1号という人骨で、この二重構造
 モデルを証明したように喧伝されたが、それは事実か、その後mtDNAの研究はどこまで
 進展したか、を調べた。
3)次に考古学の立場から、旧石器時代の日本列島の文化がどう発展してきたか、それが何処
 からやってきたのかを、調べた。
  その文化の伝播には「人の渡来や移動」を伴っていたはずだという考え方に、筆者は立脚
 している。(注:文化の伝播と人の移動とは別に考えるべきだ、と主張する人もいる。)
4)以上の人類学や遺伝学、考古学からの知見に加え、Gm遺伝子という“ヒトの起源や人種
 の違いを考察するのに、特別に有効な遺伝子”の頻度分析では、どのような結果が得られて
 いるのか、を研究した。
  そして、文化面から捉えた「細石刃文化の伝播」とGm遺伝子が示す「ab3st遺伝子の流
 れ」が、いずれもバイカル湖畔を起点としているという、驚くべき一致を捉えることが出来
 た。
5)また以上の「人の渡来や移動」が、黒曜石の産地分析や遺跡分析から、陸橋の有無にかか
 わらず、すなわち、大陸とこの列島とが徒歩で渡れなくても、舟などの海上交通手段で旧石
 器時代から“比較的自由に往来出来た”と考えてよいこともわかった。

  縄文時代は鎖国状態か 

 氷河時代が終わり、気温が上昇して、あらゆる動物相や植物相が大きく変化した。当時の列島の人々は、そうした環境の変化に対応して、土器を発明し、槍に代って弓矢を発明した。
 「土器」は先にも触れたように、人類が初めて利用した“化学的変化”であり、「弓矢」はこれも人類が初めて利用する“物理的作用”であると言える。ホモ・サピエンスの知的能力が環境の変化に刺激されて、飛躍的に向上したことが窺える。
 すなわち、まさに「縄文変革」という画期が起こり、この列島の新石器時代、縄文時代の幕が開かれたのである。

 不思議なことに、この時代の変化は、研究者の姿勢にも大変化を及ぼした。
 旧石器時代、あれほど大陸からの文化の伝播や流入に興味を示した、人類学や考古学の研究者が、縄文時代になると、一斉にドメスティック(国内中心)になってしまうのである。
 続々と発見される縄文遺跡の人骨や遺物の研究に没頭し、大陸方面の同時代の人や文化に急に興味を失ってしまう。失うだけならまだ良いが、結論まで左右しかねないと、筆者の目には映るのである。
 たとえば人類学の埴原和郎は二重構造モデルの説明で、「縄文時代はほぼ鎖国状態であった。つまり日本人は10,000年にも亘る世界的にも稀な長期文化期において、他の民族、集団との交流はなかった。民族集団として小進化は認められるが混血などによる人骨の変化はなかった」としている。本当にそうであろうか。
 また、考古学の佐原真は、佐原の通説書「大系日本の歴史1 日本人の誕生」(小学館)の中で、縄文時代における大陸方面の動向について、ほとんど記述していない。中国大陸では、長江文明や黄河文明が勃興していたのに、一言もそれに触れていない。当然、その文明と日本列島との接触があったはずであるのに、その関連の記述もない。まさに列島以外は空白の縄文時代なのである。驚くべきことである。

 すなわち人類学も考古学も、縄文時代は鎖国に近い状態であったと表明しているに等しい。
 しかし旧石器時代、あれほど大陸から文化や人の流入があったこの日本列島が、そして高品質の黒曜石を求めてあれほど往来した大陸の人々が、急に、それも10,000年(上のグラフのように縄文時代というのは本当に長い)にも亘って鎖国状態に陥り、往来が途絶したなど、信じられるだろうか。

  ヒマラヤで誕生した照葉樹林文化論

 このあまりにも変則的な研究の偏りを正したのは、植物学・民俗学の中尾佐助だった。

 1952年、日本山岳会はヒマラヤのマナスル初登頂をめざして、事前調査のため「マナスル踏査隊」をネパールに派遣した。その一員に植物学者、中尾佐助がいた。
 中尾は、カトマンズ郊外のカカニの丘に立ち、周 
 
   
囲の山々を覆う森が、常緑のカシを主とする照葉樹林であることを確認していた。中尾はこのフィールドワークを契機として、照葉樹林文化論という壮大な仮説を構想したという。
 このときの感動がよほど大きかったのか、「照葉樹林文化論の誕生」という論文の冒頭で中尾は「それはネパール・ヒマラヤから始まった」と自ら述べている。
 
 照葉樹というのは、いわゆる常緑広葉樹で、植物に弱い筆者が図鑑で調べると次のようなものである。ツバキの葉のように、葉が比較的厚めで表面がテカテカと光っているので、照葉樹という名称が付けられたようだ。
    
 これらの樹木がネパールのヒマラヤの麓(海抜1,500〜2,500m)からブータン、アッサムの一部を通って、東南アジア北部山地、雲南・貴州高地、長江流域の江南山地をへて、朝鮮半島の南端をかすめ、日本列島の関東・信越の平地まで覆っているのである。
   
 日本人は稲作農耕文化の民だと規定したのは、民俗学の祖、柳田国男である。
 たしかに現代でも、稲作農耕文化は、その習慣や儀礼など形のあるものだけでなく、精神的風土として日本の文化の根幹を成している。
 しかし我々は稲作農耕文化以外の文化、もっとその下辺に潜む基層の文化を受け継いでいるという感覚、大変懐かしく感じるものがあることを知っている。
 
 中尾佐助はネパール・ヒマラヤで、我々が無意識に基層と感じているような、我々の古い民族習慣の中に深く刻み込まれた文化要素の多くが、「特有の文化のまとまり」として、この広域な照葉樹林帯にあまねく存在していることに気付き、それを「照葉樹林文化」と名づけたのである。

  日本人の琴線に触れる文化素

 我々は、何の疑いもなく正月には餅を食べ、雑煮には里芋をいれる。端午の節句にはチマキや柏餅を食べ、また、お祝いの席にはおこわや赤飯が用意される。
 こうした習慣や文化を、我々は殆ど無意識のうちに受け入れている。
 しかしこれらのことは、“お米を食べるという日常”とは異なる、いわゆる稲作農耕文化とは“異質の文化”が、「ハレ(晴れ)の日の特別な食べ物」として、習慣的に入り込んでいることを意味する。
 しかもその異質の文化は、稲作文化の発展形として出てきたものなどでは決してないことに、我々は教えられてもいないのに自然に気づている。
  おそらく我々が今浸かっている豊穣な稲作文化ではなくて、はるか昔の祖先から伝えられた、不作や飢饉の時には非常食物の知識として、大切にしなければならぬ文化伝統であるからこそ、それは特別に美味くも贅沢でもないのに、“ハレの日に食べねばならぬ”のであり、我々はその文化要素に触れたとき、“琴線に触れるような、密かな懐かしさ”をこの文化に感じるのではなかろうか。

 これらの食文化を含む文化クラスター(群・かたまり)が、照葉樹林文化と呼ばれるものであり、中尾と共に照葉樹林文化やナラ林文化の研究で名高い、佐々木高明の著書「日本文化の基層を探る」から整理すると、その文化要素は次表のように纏められる。

 この表を見ると、この文化が、極めて多岐にわたり、且つ世界的に見ても特殊な文化要素を孕み、各地の独自文化と混在しながら、西はネパールから東は日本列島までの、広範な地域に分布するという、まことに驚嘆すべき文化であることが、納得させられるのである。

  縄文のタイムカプセル…鳥浜貝塚…
 
 福井県若狭町に縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000〜5,000年前)の集落遺跡・鳥浜貝塚がある。
 風光明媚な三方五湖の最も南側にあり、下の想像図のように、当時は三方湖に面した集落であったらしい。
   
     ここの住人は、生活廃棄物を、岸近くの湖の澱みに投棄して処理していたと考えられている。
 湖底に沈んだ堆積物は、大気からはもちろん湖水の循環からも遮断され、虫や微生物も活動できない無酸素状態の、“偶然が用意したタイムカプセル”に閉じ込められたのである。
 もともと貝塚は、貝殻のカルシウム成分が土壌を中和し、有機物由来の考古遺物を保護
するため、人骨や獣骨、魚骨、骨角器などが数多く出土する。(旧石器時代と比べ縄文時代の人骨や遺物の出土が格段に多いのは、この貝塚という要因が大きい。)
 しかし
この鳥浜貝塚の自然の長期保存装置は、そのレベルをはるかに越えるものであった。
 木の葉は葉緑素が残ってグリーンの色で、漆の櫛は赤漆の色鮮やかに出土したという。(右図)
 もちろん、空気に触れると直ちに、数千年の時を一挙に使い果たして、色を失ったと言うが……。
 いずれにしろ、この縄文のタイムカプセルは、奇跡的レベルの有機遺物を保存していたといっていいだろう。
 なかでも特筆される発見は、縄文時代前期初頭の泥炭層の中から、ヒョウタンやリョクトウ(最近の研究
   
     ではアズキの仲間らしいとされる)、その他の栽培植物の種子が検出されたことである。
 ヒョウタンは炭化種子だけではなく、左図のような果皮も多数出土し、中には加工されたものもあったという。更に同じ地層から、エゴマやシソなどの種子も発見されている。
 それぞれの起源地は、ヒョウタンがアフリカ、リョクトウ(orアズキ)はインド、エゴマやシソは東アジアの照葉樹林帯である。ということは、いずれもアジア大陸の照葉樹林帯
を経由して、この日本列島に“人の手”によって持ち込まれたと考えざるを得ない。だから、これは野生ではなく、栽培されていたに違いないと考えられるのである。
 

 @エゴマ・・・荏胡麻。エゴマから取れる荏(え)の油は縄文クッキーなどのツナギなどに使わ
         れたが、漆の混和剤(まぜあわせ)としての活用が特に重要だったと考えられる

 
Aヒョウタン・・
     鳥浜でヒョウタンと言われているものは、
左上の果皮の一部の写真の形状から見ると、
左の写真のような、“ユウガオ”であった可
能性が強い。
 ヒョウタンは、ユウガオの変形である。

 ユウガオには丸い形状のものと細長いもの
があるが、鳥浜ではその中間形が植えられて
いたように感じられる。
 ユウガオはウリ科の植物で、寿司などに使
われる干瓢の原料であり、十分食用になりう
るものである。  
 

 この“人の手”が、照葉樹林文化を伴った人の渡来によるものか(もしかすると、浦和1号などは照葉樹林文化を伴って渡来した人の一人乃至は子孫かもしれない。)、列島人が大陸の照葉樹林文化圏へ“旅”をして、持ち帰った文化なのかは明らかではない。筆者はおそらく両方であったろうと考える。それほど活発な交流があっていたのではないかと考えるからである。

 しかも、鳥浜貝塚での発見以来、これらの有用植物は、長野県の大石遺跡や荒神山遺跡でエゴマが、千葉県大坪貝塚や滋賀県粟津湖底遺跡からヒョウタンが、岐阜県高山市ツルネ遺跡からエンドウかダイズと思われるマメが出土するなど、縄文前期・中期の遺跡や層から続々と発見されている。 
 さらに、縄文時代の前期から中期にかけての巨大遺跡、青森県・三内丸山遺跡からも、右図のように、赤い漆塗りのお椀が出土したのをはじめ、ヒョウタン、エゴマ、マメ類、ゴボウ、アサなど、鳥浜貝塚で発見された作物群とよく似た“栽培植物のセット”が発    
見され、プレ農耕段階の照葉樹林文化の影響が、当時すでに本州の北端にまで及んでいたという、驚くべき事実が報告されている。
 この事実は、縄文時代が決して鎖国状態などではなく、活発な国際的な文化交流があり、国内においても、東と西の大きな文化差を乗り越えた、人および情報の交換があっていたことの証左であろう。
 また、こういう認識があってこそ、すなわち照葉樹林文化の流入などの仮説を認めることによってのみ、日本の基底に流れる文化を理解し、オーストロネシア系の語彙などが、日本語形成に色濃く反映されている原因を、理解しうると考えるのである。

  南方系アジア人の遺伝子流入

 右の航空写真は、筆者の住む早良平野である。何処を掘っても弥生時代の遺跡が出てくる。吉武高木遺跡は、早良王国の王墓があるところであり、左の山を越えれば魏志倭人伝で名高い伊都国が、右に行けば奴国がある。
 四箇(しか)遺跡は、吉武高木遺跡に程近い微高地(標高22m)にある縄文時代後期から古墳時代に至る複合遺跡である。
 ここでは縄文後期の層からヒョウタンとマメのほか、ごく少量のハダカムギとアズキの炭化粒が出土した。さらに土壌サンプルの中からは野生食用植物や人里植物のほか、焼畑やその周辺に生育する雑草や樹木類の炭化種子が数多く検出さ
   
れたのである。 
 
安田喜徳による、この遺跡の花粉分析を見てみよう。
     
 花粉帯Tの古い地層からは、この地域が照葉樹に覆われた、鬱蒼とした森のあったことを示す花粉が数多く出現するが、縄文時代後期の層・花粉帯U(地下深度120〜135cm)になると、アカガシ亜属やシイノキ属は十数分の一に、エノキ、ムクノキ属は殆ど出現しなくなる。すなわち、森林の存在を示す花粉が激減し、代わって炭化した木片などが急増する。
 つまり人為的に森林が伐採され、焼き払われたことがわかる。
 この花粉分析の結果と、先の畑作物や焼畑雑草の種子が多数検出されたという事実をつなぎ合わせて考えると、縄文時代後期にこの四箇遺跡及び周辺において焼畑が行われていたことはほぼ間違いないと考えられる。
 
 四箇遺跡からさらに30数キロ西方の、唐津市の菜畑遺跡は、縄文時代晩期の、日本における最初期の水田稲作跡が発見されたことで有名だが、実は水田稲作が営まれる前に、ある種の畑作農耕--イネ(陸稲?)・アワ・アズキ・ヒョウタン・ゴボウ・シソなど--が行われていたことがわかっている。
 また、農学者の藤原宏志らは、精力的に稲のプラントオパールの研究をすすめているが、
    州地方を中心とした、縄文晩期の土器の胎土の中や、遺跡の土壌の中から稲のプラントオパールを多数発見している。
 その遺跡のひとつに、熊本県上南部遺跡がある。この遺跡は白川流域にあるが、河岸段丘の上に立地しており、水田には向かない土地である。した
がって、藤原はこの地を、イネが栽培されていたとしても、畑稲作を想定する方が自然な地形であるとしている。
 要は四箇遺跡にしても、菜畑遺跡、上南部遺跡にしても、水田稲作以前に、西日本では焼畑を含むある種の畑作農耕が、かなり広く営まれていたことが明らかとなってきた。しかも、その作物や随伴雑草の種類から見て、この農耕技術がアジア大陸の照葉樹林帯から伝来したものだということは、疑うことが出来ないというのである。

 さきに照葉樹林文化を要素別に分けた表を示したが、それを再構成して発展段階別に纏めると次の図のようになる。

 この表から、まずプレ農耕段階の照葉樹林文化が、縄文前期、6,000年前には列島(鳥浜貝塚を代表例として)に伝播し、中期にかけて全国に広がった。そして、縄文後期、4,000年前には、雑穀・根菜型の焼畑農耕段階のそれが、九州地方を中心に西日本に流入したと言うことが出来るだろう。
 
 すなわち、水田稲作文化を列島に持ち込んだ人たちが押し寄せてくる前に、東亜半月弧あるいは安田の言う東亜稲作半月弧と呼ばれる照葉樹林帯から焼畑農耕段階の文化を携えた人たちがやって来ていたことは間違いないと思われる。
 
 これはとりもなおさず、華北系やバイカル湖系の北方型アジア人で構成されてきた、この列島の西日本人、東日本人の中に、初めて南方系の遺伝子が入ってきたということに他ならない。

 *東亜稲作半月弧・・中尾佐助は稲作の起源を雲南として東亜半月弧を提唱したが、安田
          憲は最新研究により稲作の起源が長江中・下流域であることが明ら
          かとなったことを踏まえ、東亜稲作半月弧を設定してメソポタミア
          文明を生んだ肥沃な三日月地帯(西亜麦作半月弧)と対比しようと
          提唱している。
 
     

         
         
         

 
 

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