謹告 平成19年10月、田畑義雄軍曹殿(終戦時は陸軍少尉)は、 富山県氷見市のご自宅で病のため永眠されました。享年86歳。謹んで哀悼の意を表すると共に、ご冥福をお祈り申し上げます。 平成19年11月1日   「関西壱岐の会」Home Page管理人 齋藤茂夫。


平成16年2月20日

筒城浜基地に実戦配備された
船舶飛行第2中隊(オートジャイロ部隊)の消長

元オートジャイロ部隊搭乗員 陸軍軍曹 田畑義雄(82歳)
富山県氷見市在住


1.前書き

 平成15年12月2日、「関西壱岐の会」Homepage管理人の齋藤茂夫氏から、昭和19年末から昭和20年5月の間、筒城浜飛行場に実戦配備され た、船舶飛行第2中隊(オートジャイロ部隊)の消長に就いて、元搭乗員としての実体験を基に、何か文章を書いて戴きたいとの要請を受けた。私の船舶飛行第 2中隊所属は、凡そ60年も以前の事、時間の経過と共に当時の記憶も薄らいでいるが、幸い当時日記を書いていたので、其の日記を基にして、船舶飛行第2中 隊の実戦体験を綴って見たい。但し記述はストーリーとしての一貫性は無く、思い付くまま断片的に記すことをお許し願いたい。
 私の筒城浜基地滞在期間は昭和20.1月〜5月迄の約4ヶ月であった。其の間オートジャイロ機搭乗員として、博多〜朝鮮間を航行する我が国輸送船団の護 衛、壱岐水道や対馬海峡を遊弋する敵潜水艦攻撃等を任務としていた。そして20.5月対馬厳原飛行場に配転、20.6月には能登半島の飛行場に転属。昭和 20.8.15終戦を迎え、20年9月復員した。
 右の写真は昭和19年2月18日熊谷飛行学校児玉分教所で撮影 陸軍軍曹 21歳。

2.私の軍歴

 
本文の冒頭に先ず、船舶飛行第2中隊の消長を容易に理解するための一助として、自己紹介を兼ねて私の軍歴 を簡単に記す。

大正10.3.3    富山県氷見市(現在の)に於いて出生
昭和17.4. 10  陸軍東部第48部隊に現役兵として入隊
   18.8. 31  陸軍船舶部隊・暁2940部隊(大阪)に転属
   18.9.  3 
 第2陸軍技術研究所に研修(高円寺 無線、国分寺 気象)
   18.11. 5 
 中部第4127部隊に宿営 
   18.11.28  中部100部隊に宿営
   18.12. 1  熊谷陸軍飛行学校に入校。95式中型練習機で訓練
   19.3. 19  熊谷陸軍飛行学校を卒業 
   19.3. 22  下志津陸軍飛行学校に入校
、銚子分教所で操縦訓練 
   19.6. 10  西部第5部隊本橋部隊に帰隊
             広島吉島飛行場にてオートジャイロ機操縦訓練開始
   19.12.31  船舶飛行第2中隊動員編成(オートジャイロ部隊)
   20.1.  4  船舶飛行第2中隊編成完結(第2940部隊 本橋部隊)
   20.1.  5  軍装検査
   20.1. 14  広島飛行場をオートジャイロ機で出発
             防府飛行場に着陸 エンジン始動 調子悪し 吹雪のため5日間逗留
   20.1. 19  防府飛行場を出発 福岡県雁ノ巣飛行場に着陸
   20.1. 22  16時30分雁ノ巣飛行場を筒城浜飛行場に向かって
             野中機、梶田機、田畑機3機編隊で出発
             途中で梶田機エンジン不調で編隊離脱
             18時30分 
私と野中機の2機で壱岐島・筒城浜飛行場に着陸 
             石田村筒城西触 堤 貞春様方に民泊
             筒城浜飛行場では連日船団護衛と敵潜水艦殲滅等の任務遂行
   20.5.12   対馬厳原飛行場配転命令を受け、10時20分筒城浜飛行場を離陸
             11時50分 対馬 厳原飛行場に着陸 厳原町築城官舎に宿泊
   20.6.26   富山県高岡市への配転命令を受け
             07時00分 厳原港をS18号艇にて出港 艇長 香山少佐
             17時30分 壱岐島郷ノ浦に寄港 19時00分 郷ノ浦港を出港
   20.7.12   高岡中学に到着宿営。校庭で離着陸訓練
   20.8. 1   能登 松波飛行場に転進
   20.8.15   終戦講話の大詔渙発 ラジオ放送 雑音多し
   20.9. 8   宇品船舶司令部にて部隊解散式
   20.9.10   復員 氷見駅着 徒歩にて帰宅(23歳)
 
3.オートジャイロ機とは

 下の写真は筒城浜飛行場に実戦配備されたオートジャイロ機と同型機
 以下掲載の全てのオートジャイロ機写真も同型機



@.仕様

 当時外国語の使用が禁止されており、オートジャイロとは呼ばす回転翼機と呼ばれ、略して「カ号」と呼ばれていた。諸元として時速120〜130Km、搭 載燃料はガソリン200L強、航続距離は約300q、 搭載機器は飛2号無線機等。出撃時には対潜水艦攻撃用50s爆雷を搭載。機関銃などの攻撃兵器は搭 載せず。但し前記で数字で現してある諸元は、記憶が定かで無いため推測値を記してある。

A.燃料

 使用燃料の「ガソリン」については、一般に「オクタン価」(對爆性)が高いもの程良質とされている。これには92、88、77、72等が使用されてい た。戦場に出撃するオートジャイロ機には92を積み、熊谷飛行学校時代の練習機は77、筒城浜時代は88を使っていたようだ。因みに自動車用ガソリンは 60、ハイオクで70位でないだろうか。なお、ジエット機の燃料は、灯油の様なものと聞いている。

B.操縦

 当時オートジャイロ機はご存じの様に、ゴム掛け始動に始まり暖気運転をした。オートジャイロ機の始動車は部隊の人員即機数が少ない為か配備されなかっ た。この始動車があれば整備兵達は楽だったと思われる。
 さーエンジンが始動した。そして暖気運転、始動整備員が調子の具合等を点検して、当日の搭乗員に細部を報告する。
 整備員から報告を受けた搭乗員は、まず操縦席に腰を降ろす。次にどうすると思う?。 先ずシートベルトだ。次に左側にある(自動車で云うアクセル)レ バーを徐々に移動し、エンジンの回転を全開にし、直ちにスロー回転に戻す。次に一気にレバーを全開にし急激にスローにする。この間エンジンの調子、メー ターの指示、針の振れ具合等を点検する。「良し」と思ったら、両手を顔の高さまで挙げ「車輪止め外せ‥‥」の指示となる。飛行場の片隅にある吹き流しを確 認をして、風向き、風速を脳裏に刻みながら離陸地点に向かう。この時点で着陸態勢に入っている他の機があれば、絶対に邪魔してはならない。

 次に飛行場の片隅に在る″吹き流し″に就いて記そう。これは紅白の「ダンダラ模様」が規則の様だ。ダラリと下がっている時は秒速0〜1mの風、45度の 角度になっている時は6〜8mの風、尻がピンピン跳ね上がっている時は13m<以上だったと思う。吹き流しは一般に飛行場に行かないと見られないと思うが そうでもない。高速道路を走行中、注意していると白と緑のマンダラ模様の吹き流しが目に入る。一寸短いような可愛らしい吹き流しである。
 高速道路の吹き流しは、一般に山間の谷間の道路脇にボツンと立っている。谷から吹き上げる突風に、車の横転や運転に充分注意の上、走行して下さいと云う ことだろう。

 この他「対空布板」と云うものがある。どこの飛行場も原則、左旋回になっているが遵守しない者が時たまいる。計測をした事は無いが、縦5m<横1m程の 白色布製で出来ている物を、吹き流しの近くか飛んでいる飛行機より見易い場所に、T字型に並べ置く。吹き流しと布板により、現在は此の方向に向かって着陸 すべし指示しているのである。



C.強風時の着陸は困難

 オートジャイロの特性は離陸滑走距離の短いこと。着陸滑走は殆ど無い程である。今思えば筒城浜基地では随分神業操縦をさせてもらった。それは任務終了し て帰還、筒城浜に着陸の時、白砂八幡神社方向よりの風に迷った。目測を誤れば、あの大きな鳥居に体当たりかと。風が納まるまで上空で待つべきか? それと も強引に降りるか? 迷った。
 強風の中、強行着陸を決意する。右手方向の崎辺の低い岬を廻り海上に出る。海上高度10米だったか、筒城浜の波打ち際で5米、速度を落として砂浜を超え た。よーーし うまく いったーー。滑走路の中央に無事着陸する事が出来た。あとは整備兵の誘導に従って機体の定位置まで移動。本橋隊長に帰還報告した ら、「ご苦労」と言ってにっこり笑われた。

D.オートジャイロとヘリコプターの相違点

 私はヘリコプターには、乗ったことも触ったことも無い。比較することはおこがましいが、唯異なっている点を簡記したい。
 ヘリコプターは、エンジンがロータ(回転翼)に直結されていると思われる。オートジャイロは、エンジンが推進のみのペラ(プロペラ)に直結して居て、出 発時に上部のローターを回転させるため、エンジンの回転を少し上げながら、ロータとエンジンを繋ぐために、クラッチをゆっくりと引き、間接的に直結をする (現今のクラッチのない自動車の原理を思い出すと解る)。
 ロータの回転が毎分180回転に達したら、「出発進行」の合図として片手を顔の高さまで挙げ、それからロータに繋がっているクラッチを切り、離陸の為の 滑走となる。どの飛行機もスピードを上げれば上げる程、揚力が増える設計になっている。これは翼の断面図を見ると良くわかる。機会があれば図解する事もあ ろう。

 飛行機の翼と原理の似通った形になっている3本ロータも、当初は他力で廻す仕組みであるが、走り出すと220〜240の回転となり自然に浮揚することに なる。また空中において前進のプロペラが廻る限り、ロータが頭の上でブァーブァーと回転する。
 離陸滑走距離がいくら短くても、180回転少々のところで、強引に操縦桿を引いても機体は簡単に浮いてくれない。広い飛行場ならまだしも、狭い谷間風の 吹く筒城浜飛行場であれば、尚更慎重に離陸しなければならない。



4.筒城浜飛行場での空中勤務者18名の出身別構成

 1.熊谷陸軍飛行学校 15名
   
 私は昭和18年12月1日、熊谷陸軍飛行学校・操縦学生として入校した。同期で入校したのは16名だったが、その内1名は健康上の理由で脱落、結局ここ を卒業したのは下記の15名
。下記氏名の右は、平成16年1月現在の消息を表す。 
    
陸軍少尉 村本外喜夫 
住所 生存 不明    
陸軍少尉 天海義二       ご病気の奥様を介護中
陸軍軍曹 荻原 実    平成8.9.19死去
〃      田畑義雄    筆者
〃      井上勇二    昭和55.12.11死去
〃      宮田喜惣次      〃
〃      柳沢徳男        〃
陸軍伍長  野中 寛     平成13.2.8死去
〃      相原 憲     昭和20.4.8戦死
〃      菅野 保   平成10.3.1死去
〃      梶田 肇   平成7.1.2死去
〃      遠藤末松   住所 生存 不明
〃      小島武義        〃
〃      柴 一郎        〃
〃      久保田正男       〃

2.読売飛行場 3名

 読売飛行場にて飛行訓練を受けた人は4名だったが、1名は第2航空技研に残られたのか、船舶飛行第2中隊には其の姿はなかった。

陸軍中尉  湯浅時二       死去
陸軍軍曹  田村重義  昭和51.7.31 死去
〃       佐田好男
  住所 生存 不明

3.空中勤務者合計 熊谷15名と読売3名の
18名。上記階級は昭和18年12月現在。尚、昭和20年8月1日付で萩原 実、田畑 義雄、井上勇二の3名は陸軍少尉に任官。



5.吉島飛行場に於ける飛行訓練

 昭和19.6〜12月まで、広島の吉島飛行場に於いて、始めてオートジャイロ機の離着陸訓練を 受ける。その他三角航法(宮島→江田島→飛行場など)、爆雷投下、編隊飛行等々の訓練も受けた。

 以下に爆雷投下訓練に就いての体験を記そう。

 昭和19年12月26日10時30分過ぎ、査閲の予行練習のためオートジャイロ機を操縦して離陸した。爆雷投下は高度約200mより突き込み、約 50〜60mになった時、機を水平にして目標を狙う。惰性で30m程の高さになる。獲物が機体の影に隠れる瞬間に爆雷投下のスイッチを押す。陸上では着弾 10m前方に、海上では爆雷が沈下する速度を勘案すれば、理論的に合格と想われる。

 これで機の高度を揚げて、油が海上に浮上するかを確認することになるが。本日は予行演習。
爆雷投下後の高度を揚げるため操縦桿を引けども動いてくれない。何時もなら左旋回するのだが微動だに動かず。頭の中は混乱し、強引に右上の旋回を狙って操 縦桿を引いた処、機は少し方向を変えたが高度は揚がってくれない。緩い旋回をして格納庫に突き込んで行く。速度計は150Kmを超えていたかも知れない。 速度計のメーターに白髪の母が笑顔で 「コレ ナニ シトルンカ モウ スコシ ヒッパレーーー」と叫んでいるように見えた。想わず操縦桿を力一杯引いて みた。機は少し浮いた様な感じがして、格納庫に自爆する事も無く、やがて緩やかに上昇した。 アア 助かった! 全身が冷や汗でビッショリ。
 戦闘指揮所(ピストと呼んでいる)に見守っている隊長や戦友諸君は「田畑の奴まーた 派手な事をやりやがって」と想っておるだろう。此方の命懸けの行動 を知る由もナシ。高ぶる心にて所定の場所に着陸、誘導により停止位置まで移動さしてエンジンを切る。

 ピストの責任者に搭乗報告「田畑軍曹 ○○号機操縦 爆雷投下演習 投下後操縦桿作動せず 辛うじて離脱しました。機内の中を点検願います」。直ちに整 備隊長と機付長そして機付きの人達が、隈無く点検した事は云うまでもない。結果として機体内にドライバーが1本置き忘れて有り、それが操縦桿の支点にガッ シリと絡んでいて、動かないことが判明した。ドライバーを置き忘れた整備兵は、此の後どうなったかは皆さんが自由に想像して下さい。この日の私の日記の片 隅に下記の様な事が記されている。

灰色の地面も屋根も浮き上がる 死出の旅路の機会ぞ逃る
冷や汗に顔をほてらせ地に立ちて あと振り替り身の毛よだちぬ

 とにかく 生命を永らえた事に感謝しよう。



6.船舶飛行第2中隊の編成目的

 編成の目的は、私のような第一線搭乗員には正確には把握出来ないが、当時の状況から推測すれば輸送船団の護衛だったと思う。

 其の頃、我が輸送船団が兵員、食料、弾薬等を満載して南方などの目的地に向かって航行していたが、目的地に着かない途中で敵潜水艦に発見さ れ、美味しく料理されている。特に台湾〜フイリッピン間のバシー海峡での損害は多大であった。そこで船団護衛のためオートジャイロ部隊が編成されたと思わ れる。

 しかし足の短い(航続距離が少ないこと)オートジャイロ機を、如何にしてバシー海峡方面まで輸送するかが困難であった。陸軍では大型輸送船「あきつ丸」 を急遽航空母艦に改造して、オートジャイロ機を搭載した。空母「あきつ丸」は広島湾でオートジャイロ機の離着陸訓練の後、 比島方面に出撃したが、バシー海峡で撃沈されたとの風評をきく。

 下の写真は「あきつ丸」の勇姿



7.船舶飛行第2中隊の構成

 昭和19.12.31の船舶飛行第2中隊が広島宇品で動員編成された。編成人員は下記の通り。
 中隊総員 269名 内将校17名 見習士官18名 下士官57名 兵177名。269名中、筒城浜飛行場に配属された人数は、本橋隊長以下 ?名で あった。但し、私は総務の仕事をやっていた訳ではないから、上記人数は推定であり確定数でないことをお含み願いたい。



8.筒城浜基地に向かって初飛行

 昭和20年1月22日、私は野中伍長機、梶田伍長機との 3機編隊で、16時30分頃雁ノ巣飛行場を筒城浜飛行場に向かって離陸した。30分も飛んだ玄界灘洋上で、梶田伍長機がエンジン不調の信号を発し、編隊を 離脱して雁ノ巣飛行場に引き返した。当日の玄界灘の波頭は高く白く、向かい風の強い日であった。筒城浜飛行場に着いたのは18時30分頃だった。
 空を飛んでいる時は明るく感じていたが、さて着陸しようと思った所、どの方向よりどれだけの強さの風邪が吹いているのか不明で、どうして着陸すれば良い のか随分心配した。長い時間ではなく、只の3分程だが非常に長く感じられた。暗くなる、燃料は少ない。高度の判定が出来ない(50m以下では計器は見ず、 着陸する地面を見て速度や高度を判断して行動する)。

 何処の飛行場でも必ず赤と白の斑の吹き流しが見られるが、其の吹き流しの向いておる方向で風邪の吹く方向を、そして垂れ下がっている具合で風力を見る。 全ての搭乗員は飛行場に着いたら必ず上空を2〜3回旋回するのは其の為である。その他にもまだまだ細かい取り決めがあるが省略する。現在はコントロールタ ワーより無線電話で指示を受けて着陸や離陸姿勢に入る。当時の軍用機は吹き流しと布板により行動していた。

 しかし筒城浜飛行場の現実に戻ると地上は暗くなるばかり、夕闇が訪れる筒城浜の海岸と山の手を2回ほど旋回した。白砂八幡神社の裏山に在る或る民家の庭 で焚き火の灯りが見え、淡く煙の立ち昇るのを発見して、北西の風3m位だと判断して、筒城浜の崎辺の岬より道路の方へ向かって着陸した。暗闇の中の着陸で あり、高度が判らず飛行機の破損を覚悟していたが、無事に接地出来たのは不思議な程だった。続いて野中伍長機も着陸した。何処までも悪運が強く、広島で3 回も死線を越え、尚今回とこの後にもう1回数えられるが、この時は其の様な運命が待っていることは神ならぬ身で知る筈もない。



  扨て、この後本橋隊長に着任申告するため隊長宿舎に寄り道をした。当日は1m先の人の顔も見えない程の暗黒の夜でしたが、隊長申告の後あの砂利道を先着兵 隊の道案内で此からの宿舎である、堤 貞春さん宅に到着した。早速堤 貞春さんや堤 栄さんに初顔合わせしたのが、20.1.22.19時頃だった。「只 今着任しました田畑軍曹です。これから宜しくお願い申し上げます。又お世話に成ります」と挨拶する。すると堤さんご夫妻は優しい眼差しで「アァお出でなさ い。大変だったでしょう」と、土間が通りになっている左側の部屋で、四角い火鉢を前にしてお二人で迎えて下さった。其の堤さんご夫妻の姿は、今日に成って も忘れられない。


 

9.筒城浜飛行場での任務

 私は前述の様に昭和20.1.22の夕方、筒城浜飛行場に着陸した。与えられた任務は博多→→釜山港間の船団護衛であった。時に は本物の爆雷を搭載し、船団の上空200m辺りを、基地帰投の燃料を気にしながら、先頭より殿に亘り警戒のため旋回した。帰路に就く時は抱えていた爆雷 を、潜水艦が最も魚雷を発射し易いと思われる付近に威嚇投下をして、次の護衛機と交替する事になる。

 潜水艦は昼間には滅多に浮上しない。浮上した場合は速度は○○、潜航しての速度は××と直ちに計算がなされ、発見した地点「此の場合は海域」より時間× 速度が潜航している円の内側となるため、攻撃の範囲が円の中に限定される。故に昼間は海中に潜水していて、余程のことがない限り昼間の攻撃は行われない。 攻撃は薄暮から夜間になってから行われる事が多い。帰路7〜8分位で僚機と交替となる。



 
10.白沙八幡神社御神木誤伐採後、本橋隊長機墜落他事故多 発

 現在の自衛隊はイラク・サマワで見られる如く自己完結型の組織であるが、当時の船舶飛行第2中隊は、現地からの支援協力も必要であった。各宿舎の浴場の 湯沸し用薪等は現地から調達された。
 着任後間もなく、白沙八幡神社の境内にある枯れ木を、湯沸かし用薪に当てるため、伐採しても良いとの連絡があった。こんな事が好きな年頃の者達が集まり 早速実行に移る。大きな松の木に、地上5mの処に4m程の枯れ枝を発見。梯子、鋸、油、手際良く準備されて、真っ先に田畑、梶田、井上の3人が順に行動開 始、2番手として田村、菅野、梯子の途中に誰かが居たが名前を想い出せず。
 1時間程で枯れ枝を幹から切り離すことに成功。物凄い地響きをたてて地上に落下した。直径50p以上はあったと想われる。白沙八幡神社から5〜600m も離れている宿舎の堤さん宅まで、車に乗せてどうにか運んだ。枯れ枝を燃料にして暖かい風呂に入ったことは言うまでもない。

 枯れ枝伐採のあと操縦班に意外な事が起きることになる。伐採後2〜3日 すると、原因不明の発熱42度で井上、田村、田畑の3名が、隊長宿舎隣家の医療宿舎に1週間ばかり起居する羽目になった。

 此のあと2日後に本橋隊長と久保田伍長搭乗機が、飛行場横(現壱岐飛行場)の松林に突き込む事故が起きる。本橋隊長は左足関節の複雑骨折、久保田軍曹は 前の風防ガラスにより顔面に切り傷、直ちに武生水の陸軍病院に緊急入院。本橋隊長は左足不自由、久保田伍長は視力低下の後遺症残る。これで事故が止まるか と思ったが。まだ続くのである。しかも重大な事故だ。



11.山本中尉・相原伍長戦死

 私達が医療宿舎に入ってから1週間が過ぎ、操縦宿舎に帰宅する事の許可を、町田軍医に連絡しようと立ち上がったとき、医務室付けの兵隊が駆け込んでき た。
 “軍医殿 飛行機が玄界灘に落ちました。すぐ 飛行場までおいで下さいとの事です”。勿論この指示は、本橋隊長不在間留守を預かる湯浅操縦隊長からであ る。吾々3人も飛行場へ走った。機を操縦しているのは相原伍長、オペレーターは山本中尉であることが判る。時は15:00頃であったか。日没は近い。直ぐ 暗くなってゆく。これが一番心配だ。沢山の漁船が落ちた海域に向かって走っていた。捜索に出発した2番機の宮田伍長機は、不運にも自分の機もエンジン故障 で海上に不時着する運命となった。幸い宮田伍長は、付近の漁船に救助された。

 私達は湯浅操縦隊長に直訴した。「軍医殿に了解は得てないが、搭乗してもよい身体になっていると思う。玄界灘の潮の流れは、一般の者には知る事は出来な いだろう。漁夫の子供として育ってきた私には自身がある」と、強く訴えても聞き入れて貰えなかった。日も落ち次第に夕闇は濃くなり、事故当日の捜索は打ち 切られた。第2日、第3日、第4日と空振りの日が過ぎ去って行く。何故、潮の流れ具合を関係方面に聞かれなかったのか。結果として悔やまれる。此の後色々 と憶測が出た。

 そして事故があって1週間後、馬渡島の海岸に飛行服を着た二つの遺体が打ち上げられているとの連絡が入る。勿論山本中尉と相原伍長の遺体だ。遺体は現地 で荼毘にして壱岐に帰ることになった。この遺体の捧持には、故山本中尉を鈴木中尉、故相原伍長を井上軍曹が担当することになる。

12.山本中尉・相原伍長の葬儀(戦死後の階級は山本大尉・相原軍曹)


 遺骨を胸元に捧持して壱岐島に帰られたとき、白沙八幡神社の正面を外し、現砂浜の南端にあるセメント造りのトイレ付近に上陸された。操縦班一同は砂浜の 沿道に整列して呼べど答えぬ戦友を泪でお迎えをし、葬儀会場の筒城分教場(下の写真)まで後を並んで随行した。葬儀は地元の方々も出席され、厳粛に執り行 われた。


 
 葬儀は滞りなく終了し、一両日を経て遺骨を捧持して(捧持者は前回と同じ)博多に渡り、故山本中尉の御霊は御尊父に、故相原伍長の御霊は令夫人に夫々お 渡しした。
 その後は飛行機2機と有能なパイロット2名を失うという大事故にもめげず、訓練や事故の無い整備と気合いが倍加してきた。そんな 時、私達操縦班の伐採した枯れ松は、白沙八幡神社の御神木の枝であったことが耳に入ってきた。重大事故続発は神の祟りではないかと、お酒のない時でもあり 葡萄酒をお供えして、お祓いが既に終了していることを聞いた。

 反省 ご神木を誤って伐採したのは、松に注連縄がなされていなかった。また古い注連縄が松の付近からも発見出来なかった。伐採連絡文の中に、ご神木との それらしき文言が見当たらなかった。

13.隊員の食事

 部隊の必需品である
糧秣や衣服、兵器部品、ガソリン等は、博多港より木造機帆船により、印通寺港に陸揚げ され、部隊のトラックにより運搬され、夫々の集積場に格納される。
 食事は一括して筒城分教場近くの炊事場で準備され、各宿舎の当番兵が運搬、配膳、後片付け等を担当するのは、何処の部隊でも同じである。尚、炊事場は現 筒城小学校横のT字路を、山崎触の方へ50m位行った場所に在った。その反対方向は印通寺方面。T字路の角に船舶飛行第2中隊本部が在った。


14.宿営地での過ごし方

 船舶飛行第2中隊の隊員は、数カ所に分散して飛行場周辺の民家に宿営していた。将校・見習士官宿舎は現西福寺住職の実家で故山本文夫氏宅他に、下士官、 兵は夫々担当係毎に分散して宿営していた。喜多チサトさん(郷ノ浦町在住)実家や堤 玲子さん(福岡在住)実家などにも宿営していた。

 私は堤さん宅に操縦隊の下士官15名と当番兵2名の17名で起居していた。この17名は全員が同時に宿営してのではなく、広島より先発した者、途中から 参加するなどして15名となった。当番兵の所属は整備だったか警備だったか記憶に残っていない。
 堤さん宅の宿営していた搭乗員15名の戦友は萩原 実
(操縦班長)、 田畑義雄、井上勇二、柳沢徳男、 小島武義の軍曹5名と野中 寛、佐田好男、田村重義、柴 一 郎、久保田正男、相原 憲、菅野 保、梶田 肇、遠藤末松、 宮田喜惣次の10名の伍長。
 船舶飛行第2中隊の操縦隊の構成は吾々15名と将校3名、隊長の本橋大尉の19名だった。その他に偵察の見習士官が約15名配属されていた。

 私達は宿舎の当主である堤 貞春氏を叔父さんと、令室の堤 栄さんを叔母さんと呼んだ。貞春さんと栄さんには、父代わり母代わりとして、大変お世話して 戴いた。
       

 それでは飛ばない時は何をしていたかと云えば、身辺の整理、将棋、明笛や尺八、また堤さん耕作の畑のお手伝い等だった。
 私達の堤さん方宿営は、約110日間であったが、その間色々な思い出がある。
食べ物に何一つ不自由していないのに、裏 山で蛇や蛙を捕らえ、ゲテモノ喰いをして身体に斑点を出した宮田伍長等。
 前述の白砂八幡神社の御神木の枯れ枝誤伐採で、井上軍曹、田村軍曹と私の3名が原因不明で42度発熱、本橋隊長・久保田軍曹機が墜落負傷、更に山本大 尉・相原軍曹機が玄界灘で墜落戦死等々。
 又グミの木の枝付きの良いところを探し、アニメに出てくるポパイのパイプを作ったり、宿舎の前庭の石垣に腰を掛けて尺八を練習する者、部屋に入って観世 流の謡曲をうなる者あり。これを聞いて堤 貞春叔父さんは良く笑われた。
 更に囲碁や将棋に興じる者、田村軍曹と私は悪戯に小池の水を掻き回し鮒や鯉を採った。

 宿舎では熊谷学校組と読売技研組の15名が、荻原操縦班長の指揮のもとに行動しており、その他当番兵2名と一つ屋根の下に暮らしていた。当番兵とは階級 差が大きく、連隊内務班で日常茶飯事だった私的制裁は皆無であった。他の宿舎でも私的制裁は無かったと思うが知る由も無し。
 私達の宿舎の当番兵は別途勤務があるため、定められた時間の集合が事前に班長が聞いているので、時間に遅れないように送り出し、操縦の連中が残務の整理 をすることが度々あった。



15.出撃時には、宿営先の堤さん方上空で方向転換

 私達搭乗員は船団護衛の任務に就く時、或いは演習に飛び立つ時は、必ずと言っても良いほど宿舎である堤さん宅上空で方向変換して、海上方向に機首を向け て飛行した。未だ高度は100mも上昇していないので、機体の胴腹の赤く書かれている、日の丸と機体番号は堤さん宅からはっきりと見えた。任務を終え只今 と帰宅すると、栄叔母さんが「今日は誰々が飛ばれたね‥‥」と楽しそうに話されていた笑顔が浮かんでくる。その頃私は23歳だった。
 又、村の人達が何故堤さん宅上空だけを頻繁に飛行し、其処だけで方向転換するのかと評判だったと聞いている。私達は意識的に高度の維持と方向転換地点 を、丁度宿舎の堤さん宅上空にしていた。 当時は現在の壱岐飛行場の辺りは松林だったが、其の上空辺りでも方向転換可能であった。しかし前述の本橋隊長・ 久保田伍長搭乗機は、其の松林に墜落すると云う事故を起こした。

16.昭和20.5.12、厳原飛行場に移動

 昭和20.5.12日10時30分、命令により筒城浜飛行場を佐田軍曹機と共に離陸し、対馬厳原飛行場に向かった。勿論堤さん宅上空を飛行したが、栄叔 母さんが庭先で日の丸の旗を、千切れるばかり打ち振って見送って戴いた。
 厳原飛行場は海面より50m程の高台にあり、周りは山に囲まれている。飛行場は平坦でなく、高低差は3m位はあったと思う。何度着陸態勢に入っても高度 は落ちない。可笑しいなーーー速度計・高度計を見る。ここは平地ではない(筒城浜は0mと異なり、ここは高台の飛行場であること)頭の中を切り替えて、慎 重に着陸したことは論を待たない。

 対馬厳原飛行場に配属された隊員は概ね下記の通り。

基地隊長(操縦隊長) 天海義二
副隊長          藤江 統
偵察(オペレイター)   服部茂雄
〃     〃        宇野耕雲
操縦 田畑義雄
〃  佐田好男
〃  野中 寛
〃  遠藤末松

 厳原飛行場には上記の他兵器、整備、炊事、警護、医務、経理等50名ばかり駐屯したようである。ここの任務は壱岐、対馬間より釜山港迄の船団護衛であ り、今までの距離を二分して効率よく実施出来ることだったと思う。

 昭和20.6.26日、能登転属命令により、AM7時、LS挺18号に乗船し、対馬離れることになる。オートジャイロ、その他の機材を能登まで誰がどう して運んだかは全く知るよしもない。

17.昭和48年・筒城浜基地跡と宿営先の堤 栄叔母さん宅を訪問

 昭和48年9月15日、職場の慰安旅行を抜け出して壱岐に渡った。郷ノ浦港で下船して、バスに揺られて筒城小学校横の停留場で下車。当時軍歌演習をしな がら通った凹凸の道は舗装され、木造の校舎はコンクリート造りに変わり、筒城浜には夏の海水浴客が残して帰ったジュースの空き缶等が、うず高く3山もあ り、28年の歳月は夢を少しあて押し流している様だった。思い出多い松林を駆け上がると、立派な飛行場が出来ており、YS11が丁度着陸するところだっ た。白沙八幡神社の前の広場には牛が5〜6頭放牧、また道路沿いに所々の芝草が剥ぎ取られ醜い穴が残されていたのは、オートジャイロ機援待壕の傷跡だろう か。

 





 筒城浜からの帰り道に、筒城小学校前の保育所(或いは託児所か)で、賑やかな音楽が聞こえたので覗いて見たら、可愛らしい娘さん 達が4〜5人踊りの練習をしていた。指導されている年配の先生と目が合い目礼したが、何処かで逢った様な感じがしたが、其の時は想い出せなかった。後刻、 栄叔母さんさんが、印通寺の娘ですよと云われ、アッそうだったかと当時を思い出した。

 筒城小学校から近道をせず広い道を通り、堤 栄さん宅に行った。堤さん宅は当時の玄関の入り口は無かったので、正面入口より訪ねた。応対に出られたご婦 人は初の拝顔の方だった。ご婦人は私達が宿営時出入していた入り口で、栄 叔母さんに「富山の田畑さんが来られましたよ」と案内された。すると栄 叔母さ んは「トヤマのタバタさーん あのような遠いところから来られる訳ないよ。先に来た手紙には何も書いてないし、老人をあまり揶揄わないでよ」と、独り言を 云いながら玄関口まで出られた。玄関先にポツンと立っている私を見て「アー本当に田畑さん。よくお出でなられましたね‥‥」と、泪を流しておられたのが、 印象に深く残っておる。既に堤 貞春叔父さんは他界されており、貞春叔父さんの遺影に合掌した。 尚、
母親代わりだった堤 栄さん も、平成元年1月14日昇天された。合掌。

18.遺書を書く

 当時航空隊の搭乗員は誰れもが遺書 を書いた。いや書かされたと言った方が正確だろう。私は昭和19年3月22日、四街道に在った下志津陸軍飛行学校の偵察専門教育をする銚子分教所に入校し た。ある日降雨の為、偵察飛行訓練が中止となった。当時は悪天候での飛行訓練は原則として行われなかった。其処で河原部隊長に本日の訓練課目を伺いに行っ た。部隊長は暫く考えていたが、訓練生全員に遺書を書くようにと指示された。そして各人に書き終わった遺書を厳封させ、私に纏めて提出するようにとの指示 があった。

  扨て、改まって遺書を書くとなれば、仲々思うように書けない。苦心しながら筆を走らせて書いたが、ほろ苦い一日であったことが記憶に残っている。その遺書 は奉書紙に墨筆したが、今日まで破棄した記憶は無いので、押入などを探せば何処かから出てくるものと思われる。

 

19.後書き

  船舶飛行第2中隊は、今や旧陸軍関係者にも、地元壱岐・筒城の人でも、其の存在を知る人は少なくなった。私は栄光ある船舶飛行第2中隊の存 在が、世間から忘れ去られるのを憂うものである。従って其の活躍を後世に語り継ぐべく筆を執った。文拙く意足らざる点多々あると思われるが、お許しを賜り 度。今後新事実が判明すれば推敲を加える。