<母シカからの手紙>
  私が35歳の時、ある1通の手紙が日本から届きました。それは、私に日本への帰省を催
促する母からの手紙でした。
  年老いた母が、幼いころ習った字を一生懸命思い出しながら書いた手紙。一文字一文
字から深い愛情が感じられ、幾度も読み返さずにはいられませんでした。

“おまイの しせにわ(出世)には みなたまけました
  わたくしもよろこんでをりまする
  はるになるト みなほカイド(北海道)に いてしまいます
  わたしも こころぼそくありまする
  ドカはやくきてくだされ 
  はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ
  いしょ(一生)のたのみて ありまする
  にしさむいてわ おかみ(拝み) ひかしさむいてわおかみ しております
  きたさむいてわおかみおります みなみたむいてわおかんておりまする
  はやくきてくたされ いつくるトおせて(教えて)くたされ
  これのへんち(返事)ちまちてをりまする ねてもねむられません
(明治45年(1912年)母シカが英世に宛てた手紙より抜粋)
生き活き教育

人シリーズ

野口英世とその母
献身(けんしん)な生き方を学ぶ





































 大阪の箕面(みのお)公園に野口英世(のぐちひでよ)博士の銅像が建っています。みなさんも知
っているように野口博士は梅毒(ばいどく)や黄熱病(おうねつびょう)やの原因となる病原体の研究
で世界的に有名になった細菌(さいきん)学者であり、また研究をしていた黄熱病で亡くなった事
でも有名です。平成16年11月には新千円札の顔にもなる偉人(いじん)ですが、生まれは福島
県の磐梯山(ばんだいさん)のふもとの貧しい農家です。成長してから東京で勉強しましたが、大
阪とは直接関係がありません。ではどうして大阪と直接関係のない野口博士の銅像が箕面公
園にあるのでしょうか。
 実はこの像は、箕面にあった「琴之家」という料亭の女主人が建てたものです。ではなぜ料
亭の女主人が博士の銅像を建てたのでしょうか。それには次のような話が残っています。

 大正4年(1915年)の9月、野口博士は15年ぶりにアメリカから日本に帰ってきました。
 世界的に有名な学者が久しぶりに日本に帰ってきたということで、全国各地から講演以来が
殺到しました。その時、博士は長い間さみしい思いをさせた母親に親孝行をしたいとの思いか
ら、一緒に連れて行くことになりました。東京、名古屋、伊勢をまわって大阪に着き、箕面の料
亭で歓迎会に招待されたのです。その宴会の場には、関西でナンバーワンといわれる芸者が
舞を舞って歓待しましたが、それには目もくれず、かたわらの母親に「お母さん、これはかつお
という魚のお刺身(さしみ)ですよ」「お母さん、松茸(まつたけ)のおつゆですよ」と箸(はし)を取って
食べさせ「お母さん、お母さん」と言って、まるでからだじゅうを撫(な)で回すようないたわり方で
した。舞っていた芸者は、本来であれば自分が無視された、と腹を立てるところですが、さすが
一流だけあって、博士の心情を理解し、並々ではできるものではない、と、そっと涙を流したと
言われています。そしてこの様子を見ていた女主人も、今までたくさんのお客を見てきたが、あ
の時の博士のように「お母さん、お母さん」とお母さんを大切にする客は一人もいないと深く感
銘を受けたのでした。そしてこのことをいつまでも忘れないでおこう、また後の人にも伝えてい
こうと思い、銅像を建てる決心をしたのです。しかし自分のお金を全部出しても足りませんでし
た。そこで近くの小学校の子供たちにも寄付を出してもらい、こうして公園には立派な銅像が
建ったのです。
それでは野口博士に親孝行をさせた母親とはいったいどんな人だったのでしょうか。




野口英世の生まれた故郷、猪苗代湖


 名前をシカといい、嘉永(かえい)6年(1853年)に生まれました。家は農業をやっておりました
が、夫婦仲が悪く、相次いで家出してしまったので、シカは祖母のミツの手で育てられました。
そのこともあってシカは祖母をとても大切に思っていたのです。ある時、シカは近所の子の子
守りをしましたが、そのお礼にもらったお菓子を食べないで家に持って帰り、そのまま祖母(そ
ぼ)に渡したといわれています。
 しかしシカが十歳の時、祖母はなくなり、一人ぼっちになってしまいました。シカは生前の祖母
が「観音様(かんのんさま)を信じていれば、必ずいい事がある」と言っていたことを思い出し「中
田の観音様」といわれる像がある弘安寺(こうあんじ)へ行き、父と母が帰ってくるようにと、一生
懸命祈りました。すると不思議なことに、父と母が相次いで家に帰ってきたのです。その時以
来、シカは観音様を深く信仰するようになりました。

 明治5年(1872年)、シカが19歳の時、佐代助(さよすけ)という男性と結婚しました。しかし佐
代助は酒と博打(ばくち)が好きで、あまり働きませんでした。そのうち女の子が生まれ、さらに2
年後の明治9年11月、シカは男の子を出産しました。「清作(せいさく)」と名づけられたこの男
の子こそ、後の「野口英世」となる人なのです。夫の佐代助はあまり家に帰りませんでしたが、
子供二人を授かり、貧しいながらも幸せでした。

 しかし、清作が二歳のとき運命の日がやって来ました。シカが畑仕事に出た後、ハイハイをし
ていた清作が誤って火種(ひだね)のある囲炉裏(いろり)の中に手を突っ込んでしまったのです。
泣き叫ぶ清作に、シカはどうすることもできず、ただ傷をなめ、抱きしめてやるだけでした。そ
れでも昼夜を分かたずの看病により、清作のやけどは治りましたが、左手は指がくっついてし
まい、まるで松の木のこぶのようになってしまったのです。



清作が左手をやけどした囲炉裏(復元)

 清作がやけどを負ってからのシカは、それまでにも増して必死に働きました。昼は畑仕事を
やり、夜子供たちを寝かしつけた後は、近くの川で雑煮(ぞうに)やエビを採り、翌朝それを売り
に歩いていくのです。また重い荷物を背負い、二十qの山道を運ぶ仕事もしました。シカにす
れば、清作のやけどは自分の不注意のせいだ、清作の手では畑仕事は無理だ、ちゃんと学校
に行かせて自分の道を見つけさせねば申し訳ない、しかし学校に行かせるにはお金がいる、と
そのような思いが強かったのです。当時は、小学校と言えども全員が行けるわけではなかった
のです。まして福島県の片田舎(かたいなか)では、小学校に行くのは裕福な家庭の子で、貧しい
家庭の子供は清作一人だった、といわれています。
 そのような状況も清作にはよくわかりました。一生懸命働く母親の姿を見ている清作に、感謝
の心が知らず知らずのうちに生まれて来たのです。
 しかし学校では「てんぼう、てんぼう」と手のことでいじめられました。じっと我慢(がまん)して勉
強をしていましたが、とうとう学校に行くのが嫌になり、ぶらぶらしている内に母親のシカに見つ
かってしまいました。清作はこっぴどく怒られると思っていましたが、シカはなぜ清作が学校に
行きたがらないのかよくわかっていたので「ゆるしておくれ。やけどをさせてしまったのはお母ち
ゃんのせいだ。つらいだろうがここで勉強をやめてしまったらせっかくの苦労もなんにもならな
い。おまえの勉強をする姿を見ることだけが楽しみなんだ。がまんしておくれ」と涙ながらにわ
びるのでした。幼い清作の心は激しく動かされ、このことがあってから清作は単に学校に行くだ
けではなく、猛勉強を始めるのです。



手術後の野口英世(右手)と小学校の友人

 それからの清作は努力のかいもあり、高等小学校にも進学し、さらに左手の手術の成功に
より、医学の道を志すようになります。そして手術を受けた会陽(かいよう)医院で住み込みで働
きながら医者になるための勉強をすることになるのです。しかしここでも一時、同じ病院で働く
仲間たちの嫌がらせを受け、たまりかねて家へ帰ろうとした事もありました。しかし家にいた母
親のシカは、清作の気持ちを理解しつつも、心を鬼にして、ここで負ければ何にもならぬ、と夕
食も食べさせず追い返してしまうのでした。
 そのかいもあって清作は医者になるための試験にも一回で合格し、また名前も英世に改め、
気持ちも新たにしていきました。
 さらに英世はアメリカへ渡り、今度は細菌学の勉強をすることになるのです。アメリカでも英
世は死に物狂いで勉強と研究をしました。同僚のアメリカ人は、日本の野口はいつ寝るのだろ
う、と不思議がったと言われています。

 さて母親のシカの方は畑の仕事や荷物運びのほかに、産婆(さんば)(助産婦)の仕事もする
ようになりました。それまで産婆をしていたクマさんが年をとって後をついでほしいと言って来た
ので、産婆になったのです。しかしそのうち新しい法律ができ、産婆の仕事をするには講習を
受け、検定試験にも合格しなければならなくなりました。シカはもちろん小学校に行っていませ
ん。しかし小さい時、近くのお寺の僧より文字を習ったことがあります。けれども筆や紙が買え
なかったため、お盆の上に、灰を薄く乗せ、その上をなぞって文字を練習したと言われていま
す。しかしその時からも随分年月がたっています。シカは必死で勉強し、ついに検定試験にも
合格し、念願の産婆の資格を得たのでした。

 年月が経ち、英世の研究がアメリカで認められるようになり、学者としての地位も確立しまし
た。それだけに今度はなかなか日本へは帰ることができません。田舎にいるシカは年もとり、
英世に会いたくてしかたがありません。そこで早く帰ってきてほしい、早く一緒に暮らしたいと、
その一心で手紙を書きました。ひらがなだけで書かれた手紙ですが、子を思う母親の気持ち
があふれ出ている感動的な手紙で、現在福島県の野口英世記念館に展示されています。そし
てこれがシカの現存する唯一の手紙です。「おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(げ)ました」
で始まる手紙ですが、読みやすくするため漢字を交えて、その一部を紹介しましょう



野口英世の母、シカ

「おまえの出世には、皆たまげました。私も喜んでおりまする。どう
か早く来てくだされ。
早く来てくだされ。
早く来てくだされ。
早く来てくだされ。
早く来てくだされ。
一生の頼みでありまする。
西さ向いては拝み、
東さ向いては拝み、しております。
北さ向いては拝みおります。
南さ向いては拝んでおりまする。
早く来てくだされ。
いつ来ると教えてくだされ。
この返事、待ちておりまする。寝ても眠られません」

 しかし研究に追われる英世はアメリカを離れるわけにはいけません。シカの心を察した英世
の友人は、シカの写真をアメリカの英世に送りました。写真を見た英世は大きな衝撃(しょうげき)
を受けるのです。そこに写っている母親シカは、背を丸めてやせ細り、小さくなっている姿だっ
たのす。
 英世は日本帰国を決心しました。
 こうして話は、この文の最初の大正四年の日本帰国となるわけです。

 さてアメリカに帰った英世は、日本各地で撮った写真を母シカへ送りました。シカはその写真
を時折見ては楽しかった日々を思い出し、これもみんな観音様のおかげです、ありがたいこと
です、と毎日お祈りをしていたということです。
 しかし大正7年(1918年)、シカは当時流行していたスペイン風邪から肺炎を患い、それがも
とで多くの人に看取(みと)られながら66年の生涯を閉じました。
 法名を「貞賢院産恵精安清大姉」と言います。
 産婆の資格を得てからの三十年間で取り上げた子供の数は二千人余り。不思議なことにそ
れら全てが「安産」であったそうです。そのことを尋ねられるとシカは「それはオレ一人でやって
んでねえがらだし。お産の時は必ず観音様にお祈りしながらやんのし。
そうしっと観音様がお力を貸してくれらんのし」と、いつもそう答えていたそうです。


参考図書
新藤兼人『ノグチの母 野口英世物語』小学館コンパクト
野口英世記念会『まんが シカ物語』野口英世記念館
馬場正男『野口英世』ポプラ社北篤『正伝 野口英世』毎日新聞社



  野口英世の生涯


<幼年期> 人生を大きく変えた左手のやけど

 私がこの世に生を受けたのは明治9年(1876年)。「英世」という名は21歳の時に改名した
もので、もともとの名は清作(せいさく)でした。
 父は郵便物の運搬の仕事、母は小さな体で畑を耕すなど、両親ともに必死に働いていました
が、その暮らしは大変貧しいものでした。
 私の人生を大きく変えたのは1歳半の時。いろりに落ちて左の手に大やけどを負ってしまっ
たことです。
 今、私の人生を振り返ると、このやけどが悪かったのか、それとも良かったのかは分かりま
せん。しかし、このやけどがあり、その後の私があるのです。

 <少年期> 磐梯山を仰ぎ、自然とともに遊んだ日々

 左手が不自由というハンデを背負(せお)いながら小学校に入学。雄大な磐梯山を仰ぎながら
勉学に励みました。11歳の時には、先生の代理として同級生の勉強を教えることもありまし
た。
 思い出としては、仲間と相撲(すもう)をとったり、自然の中で遊んだりしたこと。皆さん意外に
思われるかもしれませんが、私の相撲の強さはなかなかのものだったんです。そして、猪苗代
湖や小川では、よく釣りをして遊びました。後に、私がアメリカに建てた別荘は、その土地が猪
苗代とよく似た自然で、釣りができるというのが気に入り、建てたものなのです。
 ・・・思い出される自然とともに遊んだ日々。
 
<青年期> 医学の道を志す。生きた外国語も学ぶ。
 〜医学の道へ〜

 私が15歳のとき、学校の先生や級友が集めてくれたお金で左手の手術を受けることができ
ました。医学の素晴らしさに感動した私は、医学の道を志します。
 高等小学校を首席で卒業した後、左手の手術をしてくださった会津若松の会陽医院、渡部鼎
(かなえ)先生のもと、働きながら医学を学びはじめたのです。

 <成年期> 上京、単身外国へ。
 
明治29年(1896年)、19歳の私は、さらなる勉学の地を求め上京を決意。その思いを成し
遂げるため、生家の床柱に決意文を刻み、上京しました。
 当時、東京に出るのは非常に大変で、猪苗代から鉄道の通っていた東北本線本宮駅まで約
40kmの道のりは歩いて行くしかなく、さらに、そこから東京までは、鉄道で8時間もかかる行
程でした。
 
「志(こころざし)を得ざれば 再び此地
(このち)を踏まず」    野口英世


  皆様方からのご意見をお寄せ下さい。  

トップへ
トップへ
戻る
戻る


平成生き活き教育研究会