生き活き教育

』資料編


 「学校で学びたい英語」に扱われている【増進堂】の高校英語教科書MAINSTREAMUの中に
Lesson 7 Visas for Life(生命のビザ)の原文と和訳を掲載します。前ページと合わせてご覧
下さい。
(点線を引いた文章は、関連資料をつけて疑問点を検証しています)

Lesson 7 Visas for Life
第7課  生命のビザ
(1)
 @ "Look outside," Sugihara Chiune, the Japanese consul to Lithuania, saidto his wife 
Yukiko. AIt was July 27, 1940, when the Sugihara family's lifechanged dramatically.
 BTogether, they peered out of the curtains. CThere on the normally quietstreet was a 
crowd of hundreds of people. DThey were moving about andhanging on the gates of the 
consulate. ESome were so desperate that theytried to climb over the fence. F "Who are 
these people?" Yukiko asked. G"They are Jewish refugees escaping from Hitler," Chiune 
replied.
 HThey looked out again. IFaces in the crowd were intense and tired out.JTheir terrified 
eyes were pleading. KSmall children crying with hungerand fear were in the crowd.
 L "What do they want?" Yukiko asked.
 M"They want me to arrange transit visas for them through the Soviet Unionand Japan so 
that they can get to free countries. NThey say if I don't helpthem, they will be killed by the 
Nazis."
(1)
 @「外を見てごらん」在リトアニア日本領事の杉原千畝が妻の幸子に言った。A1940年7月
27日、杉原の家族の生活に劇的な変化が起こった。 B二人はカーテンの合間から外を覗き
見た。C普段は閑静な街路に何百人もの群衆が犇めいていた。D人々は蠢き、領事館の門
にしがみついていた。E中には必死になってフェンスを乗り越えようとする者までいた。
 F「この人たちは何なの」と幸子が聞いた。
 G「ユダヤ人の難民だよ、ヒットラーから逃れて来たんだ」と千畝が答えた。
 H二人はまた外に目を遣った。I群衆の顔は険しく疲労の色がありありとしていた。J人々
の怯えた眼差しは何かを懇願していた。Kその中には空腹と恐怖に泣きじゃくる幼い子供の
姿もあった。
 L「何が目的なのかしら」と幸子が聞いた。
 M「通過ビザをこの私に何とかしてくれと言ってるんだ。ソ連と日本のね。自由のある国に行
けるようにということだよ。Nもし私が協力しなかったら、自分たちはナチスに殺されるって言う
んだ」



(2)
 @ Sugihara sympathized with the Jewish refugees, but he didn't have theauthority to issue 
hundreds of visas without permission from the ForeignMinistry in Tokyo. AHe sent a 
telegram the Foreign Ministry three times forpermission to issue visas to refugees. BThree 
times he was refused.
 CAfter receiving the third negative response from Tokyo, Sugiharadiscussed the situation 
with his wife and children. DHe had to make adifficult decision. EOn one hand, he was 
bound by the traditional Japaneseobedience he had been taught all his life; on the other 
hand, he had beentold to help those who were in need. FHe knew that if he refused the 
ordersof his superiors, he might be fired. 
GThis would result in financialhardship for his family. HSugihara and his wife Yukiko even 
feared for their lives and the lives oftheir children, but in the end, they followed their 
consciences. ISugiharadecided to issue the visas.
(2)
 @杉原はユダヤ人難民に同情する気持ちはあったが、東京の外務省に許可無く数百ものビ
ザを出せるような権限は彼にはなかった。A彼は外務省に電報を3度打って難民にビザを与
える許可を仰いだ。B3度とも許可は下りなかった。C許可しない旨の3度目の返事を東京か
ら受け取ったとき、杉原は今の状況について妻や子供たちと話し合った。D彼は難しい決断を
迫られていた。E一方では彼は生まれてからこれまで教えられてきた日本の伝統的な忠義心
というものに縛られてはいたが、また一方では真に困っている人には援助の手を差し伸べるよ
うにとも教えられてきたのであった。F彼は、上司の命令に従わなければ免職されるかも知れ
ない、ということは分かっていた。Gそうなれば家族にとっては経済的に大変困ることになる
だろう。
 H杉原と妻の幸子は自分や子供らの生活を思うと怯む気持ちはあったものの、しかし最後
は自分の良心に従うことにした。I杉原はビザを発給する決断をした。



(3)
 @ For 29 days, from July 31 to August 28, 1940, Mr.and Mrs.Sugihara satfor endless hours 
writing and singing visas by hand. AHour after hour, dayafter day, for these three weeks, 
they wrote and signed visas. BThey wroteover 300 visas a day, which would normally be 
one month's woth of work forthe consul. CYukiko helped her husband register these visas. 
DAt the endof the day, she would massage his fatigued hands. EHe did not even stop to
eat. FYukiko supplied him with sandwiches. GSugihara chose not to lose aminute because 
people were standing in line in front of his consulate dayand night for these visas.
(3)
 @1940年7月31日から8月28日までの29日間、杉原夫妻は机に向かって昼となく夜とな
くビザを手書きし署名をした。A1時間また1時間、1日また1日と、この3週間二人はビザを書
き署名をした。B二人は1日に300通以上のビザを発給したが、これは普通なら領事が1ヶ月
かけて発給する仕事量に相当するだろう。C幸子は夫を助けてこれらビザの登録を行った。
Dその日の仕事が終わると、彼女は夫の疲れた手を揉みほぐした。E彼は食事の時間でも仕
事を止めようとはしなかった。Fだから幸子は夫にサンドイッチを作って持って行った。G杉原
は寸暇を惜しんだ。領事館の前では人々がビザを求めて夜となく昼となく列をなしていたから
だ。



(4)
 @ After 1940, the Russians occupied Lithuania and pressured Sugihara toleave. AStill with 
more work to complete, he asked for an extension tostay. BHe continued to issue visas.
 C Finally, an urgent telegram arrived from Tokyo: AUGUST 28. LITHUANIA NOLONGER 
INDEPENDENT. LEAVE FOR BERLIN NOW.
 DRealzing that time had run out, Sugihara burned all his confidentialpapers and packed his 
bags. EDesperate refugees followed his car out of theconsulate.
 FWhile waiting in the train station, Sugihara continued to write visas.GEven as his train 
pulled away, he threw out blank forms from the window.HPeople ran alongside the tracks.   
I"Please forgive me! I can't write anymore." said Sugihara.
 J"Sugihara," one man cried out, "We will never forget you!"
 KYukiko wrote this poem as the train was leaving:
  The train pulls away
  Hands reaching out the window
  Passing out visas
  Hands reach out to the window
  For visas for life
  For hope
(4)
 @1940年以降、リトアニアはロシアの支配するところとなり杉原には退去するよう圧力が掛
かった。A為すべき仕事はまだ終わっていなかった。杉原は滞在の延長を求めた。B彼はビ
ザの発給を続けた。
 C遂に、東京から緊急の電報が届いた。8月28日、利都亞爾亞ハ最早獨立國ニ非ス。直チ
ニ伯林ヘ向フヘシ。
 D秋の旦夕に迫り来るを悟った杉原は機密書類を全て焼き荷造りをした。E必死の思いの
難民たちは車を追って領事館の外に出た。
 F駅で列車を待っている間も杉原はビザを書き続けた。G列車が走りだしても彼は窓から記
入用紙を投げ与えた。H人々は線路つたいに走った。
 I「許せ、私はもう書けない」と杉原が言った。
 J「スギハラ」一人の男が叫んだ。「アナタノコトハケッシテワスレマセン!」
 K幸子は遠ざかり行く列車の中で次の詩を書いた。
  汽車が出る 
  その汽車の窓から手を伸ばす 
  ビザよ届けと手を伸ばす
  汽車が出る
  その汽車の窓に手が伸びる
  命のビザよ、希望のビザよ、と手が伸びる



(5)
 @When Sugihara returned to Japan in 1947, he was told to resign from thediplomatic 
service. 
 AHis career as a diplomat was destroyed. BHe had tostart his life over. COnce a rising 
star in the Japanese foreign service,Sugihara could at first only find work as a part-time 
translator andinterpreter. DFor the last two decades of his life, he worked as a managerfor 
an export company with business in Moscow. EThis was his fate because he dared to save 
thousands of human beings from certain death.
 FSugihara never spoke to anyone about his extraordinary deeds. GIt was not until 1969 
that Sugihara was found by a man he had helped to save.
HSoon, many others he had saved came forward and testified to the YadVashem
(Holocaust Memorial) in Israel about his life-saving deeds. IThe Sugihara survivors sent in 
hundreds of testimonies on behalf of theirsavior. JAfter gathering the testimonies from all 
over the world, thecommittee at the Yad Vashem realized how enormous this man's self-
sacrificein saving Jewish refugees was.
 KBefore his death, he received Israel's highest honor. LIn 1985, he was recognized as "
Righteous Among the Nations" by the Yad Vashem Martyrs Remembrance Authority in 
Jerusalem. MFurther, a tree was planted in his name, and a street in Jerusalem was 
named in his honor.
(5)
 @1947年、杉原は日本に帰国した。外交関係機関(外務省)は彼に辞職するよう申し伝え
た。
 A外交官としての杉原の経歴は潰えた。B彼は新たな人生を切り開かねばならなかった。C
かつて日本外交の新星であった杉原が、最初に見つけた仕事というのは、パートタイムとして
の翻訳と通訳に過ぎなかった。D彼は人生を全うするまでの20年間をモスクワにある輸出関
連の企業経営者として働いた。Eこれは彼が乾坤一擲の思いを込めて数千人の人々の確実
な死を救ったことによる運命的なものだった。
 F杉原はこの途轍もない行為を誰にも語ろうとはしなかった。G1969年になって初めて杉
原は、自分がかつて救ったある人物と邂逅したのである。Hまもなくして、同じように彼に救わ
れた大勢の人々が現れ、彼の命を救った行為をイスラエルのヤドヴァシェム(ホロコースト・メ
モリアル)に証言した。I杉原によって命を救われた人々が自分たちの命の恩人に代わって
何百もの証言を伝えて来た。J世界の至る所から証言が集ったところで、ヤドヴァシェムの委
員会はこの人物の献身的行為によっていかに多くのユダヤ人難民が救われたかを悟ったの
である。
 K杉原は死ぬ前にイスラエルの最高名誉賞を受賞した。L1985年、彼はユダヤ人大虐殺
殉教者記念機関から「国民の中で最も高潔な人」と認められた。Mさらに、彼の名に因んで一
本の木が植樹され、彼の栄誉に因んでエルサレムに杉原通りと名付けられた通りが出来たの
である。




             関連資料          
(第一部の授業実践報告の内容と重複する部分があります。ご了承下さい)

【ユダヤ人を救った杉原千畝「生命のビザ」の真実】
◆前野徹「第四の国難」より
 昭和13(1938)年、日本政府は首相、外相、陸相、海相、蔵相で構成する日本政府の最高
意思決定機関、五相会議で「ユダヤ人を他の外国人と変わりなく平等に扱い、追放などの措
置は決して行わない」という趣旨の「猶太(ユダヤ)人対策要領」を決議し、ユダヤ難民が上海
へと逃れる際の主要ルートだった満州国へのユダヤ難民の入国を認めた。友好国ドイツから
の抗議に対しても東條英機・関東軍参謀長を通じて「日本はドイツの属国になったわけではな
い」と反論し、毅然としてはねつけている。
 当時、ユダヤ人の救出に尽力し、今もアメリカに亡命したユダヤ系市民に恩人として語り継
がれている日本人がいる。在カウナス(現リトアニア)日本領事館の領事代表、杉原千畝であ
る。
 当時、ポーランドを逃れたユダヤ難民がカウナスに殺到していた。ところが、米英の領事館
はユダヤ難民へのビザの発行を拒否したため、日本領事館にユダヤ難民がドッと押し掛け
た。杉原は、寝る間も惜しんで通過ビザを発行し続けた。
 昭和15(1940)年七月下旬から一ヶ月の間に、彼が書いたビザは、2139枚にも及んだ。
それは、杉原が外務省の命令で帰国しなければならなくなり、汽車に乗るギリギリまで続けら
れたという。そのかいあり、ビザを得たユダヤ難民のすべてが敦賀港から日本に上陸、日本に
滞在した後、米国や上海に逃れることができた。
 日支事変で日本軍が上海へ侵攻した時、大勢のドイツ系ユダヤ人が在留していたが、日本
は彼らに対しても丁重な扱いで臨んだと、後にユダヤ人難民のために奔走したエドマンド・デ・
ロスチャイルドはその自伝に書いている。


◆竹本忠雄・筑波大学名誉教授          「正論」平成十二年十二月号掲載論文より
 杉原千畝がリトアニアの在カウナス代理公使として着任するのは、「ユダヤ人対策要綱」(日
本政府が昭和13年の五相会議で決定したユダヤ人に対する日本の国策方針。要綱の要旨
は次のようになっている:「猶太人ヲ積極的ニ帝国ニ抱擁スルハ原則トシテ避クヘキモ、之ヲ獨
逸ト同様極端ニ排斥スルカ如キ態度」はとらない。そして、「日、満、支ニ居住スル猶太人ニ對
シテハ一般ニ外国人入国取締規則ノ範囲内ニ於テ公正ニ処置ス」)の通達後八ヶ月目、昭和
14年8月28日のことで、そのときには(杉原は)外交官として当然その内容は熟知していた。
押し寄せるユダヤ人難民に対して、杉原ばかりでなく、非差別の原則に従って在欧の日本人
公使たちはみなヴィザを発給したのである。杉原の苦悩と勇気は、ヴィザ発給の要件を満たさ
ない難民に対して、どうこれを処理するかを外務省と応酬しつつ、これをも断固救済したことに
あった。すでに戦時態勢下で食料も逼迫した当時の日本にとっては大量の難民を受け入れる
ことは困難(このことは、90年代になって中国や東南アジアの国々から難民がボートピープル
となって日本に大挙押し寄せてきた時のことを思い出してみるとよい。今の日本は昔より数段
豊かな国になっているが、それでも日本政府はボートピープルを全面的に受け入れることはで
きなかった。あのときのことを思い出してみれば当時の日本政府の行為も理解できる)で、行く
先が明瞭で日本を通過していく人にはヴィザ発給するが、難民として日本に在留する人には発
給を差し止めるよう指示されていたことは事実で、日本政府の方針ならびに外務省訓令とし
て、これはむしろ当然の処置というべきであろう。しかし、この点について正確な知識を欠くた
めに、「日本政府はドイツと組んで全ユダヤ人にヴィザ発給を止めていた」とか、「杉原のヴィ
ザ発給は全て彼個人の人道主義から出たものである」といった俗論が横行し、これを煽りつつ
反日運動家が杉原を「反政府の英雄」に仕立てつつあると言わなければならない。


◆加瀬英明(外交評論家)               「正論」平成十三年四月号掲載論文より
 今日では、杉原氏がユダヤ人難民に訓令(政府の命令)に違反して、ビザを発給したため
に、外務省を追われたことになっている。しかし、杉原氏は”生命のビザ”を発給したカウナス
からブカレストの在ルーマニア日本公使館へ転勤した翌年の昭和19年に、勲五等瑞宝章を
授けられている。
 外務省は敗戦後、外交機能を失ったのにしたがって、人員整理を行った。この時に多数の
職員が依願退職の形をとって、去っていった。外務省定員は昭和21年の2260人から翌年に
1563人に減った。杉原氏も、その中の一人であったにすぎない。
 杉原氏は退官する時に、岡崎勝男外務次官から「大変長い間御苦労様でした。衷心より厚く
御礼申し上げます」から始まる、懇切きわまる手紙と、特別賞与金を貰っている。
 もし、杉原氏がビザを濫発したために、本国政府の不興をかったとか、そのために戦後、罷
免されたのだったとしたのだったら、受勲することも、多額の賞与金を贈られることも、退官す
るのに当たって、外務省から丁重な手紙を貰うこともありえなかったはずである。

【ユダヤ人を救った日本人は、杉原千畝だけではなかった】
◆上杉千年                     「月曜評論」平成十二年八月号掲載論文より
 杉原千畝の外に関東軍ハルピン特務機関長樋口季一郎陸軍少将、大連特務機関長安江
仙弘陸軍大佐と上海犬塚機関長犬塚惟重海軍大佐がいた。著者はこの四人を・・・・「ユダヤ
人を救出・保護した八紘一宇の精神」の体現者として顕彰する運動を展開したいと念願してい
る。そして、「猶太人対策要綱」の策定された昭和13年(1938)12月6日に因んで12月6日
を「人道の日」とすべきであると切望している。
 「サピオ」(平成12年3月8日号)は、「秘史発掘『ユダヤ人救出作戦』こそ日本の誇り」の特
別リポートの中で、伊藤靖之氏の「『二万人のユダヤ人』を満州に受け入れた陸軍特務機関長
の英断」を掲載している。
 このユダヤ人二万人救出事件は、「オトポール事件」と呼称すべきものである。これは、昭和
13年3月8日に、「約二万人が、例の満州里西方のオトポールに詰めかけ入満を希望(樋口
『回想録』)」しているという情報がハルピン特務機関に入った。一方、ハルピン・ユダヤ協会
(会員五千人程)会長カウフマン医学博士の救出協力の要請もあった。そこで、樋口少将は満
州国外務部のハルピン駐在の「北満特派員公署」下村信貞特派員に外交的処理を要望し、十
日に松岡洋右満鉄総裁に電話で救援列車を要請した。そして、十二日に救援列車がユダヤ
人を乗せてハルピン駅に到着したのである。
 この「約二万人救出」説の初出は、樋口中将が昭和45年10月19日に東京で死去されたこ
とを報ずる「朝日新聞」(十月二十日号)に、「ユダヤ人二万に陰の恩人ソ満国境に救援列車」
と大きく報じている。


◆斉藤勉「平成15年夏」           産経新聞朝刊平成十五年八月十四日付記事より
 日本・ポーランド友好の源流というべき大正末期の逸話を近刊の『子どもたちへ/歴史に学
ぶ思いやりの心』(占部賢志著)は次のように記している。
 「ポーランドはロシア、オーストリア、プロイセン(後のドイツ)による1795年の第三次分割で
国土のすべてが消滅し、独立運動を展開した愛国者は家族もろともシベリアに流刑となった。
1918年末の第一次大戦終結時に独立宣言したのも束の間、前年のロシア革命の影響でポ
ーランド人はシベリアに難民として追われ、食糧の欠乏、伝染病の流行などで親を亡くした大
量の孤児が出現した」(要約)
 「ポーランドの窮状訴えにわが外務省は胸を打たれ、わずか16日間で救援を決定。日本赤
十字社はシベリア出兵の日本兵の協力も得て1920年と22年、一歳から十六歳まで合計
765人の孤児を海路で救出、東京と大阪に保護した。一人の孤児も死なせず、健康回復後、
祖国へ送り届けた・・・」(要約)
 在京ポーランド大使館のロドビッチ公使参事官は「日本にいたこの数ヶ月間だけが苦難に満
ちた孤児たちの人生で『天国』だったのです。彼らは帰国後、ポーランドと日本の親善のため
に『桜柳会』(柳はポーランドの象徴)を創った。日本人の思いやり、食べ物、気候、文化すべ
てが夢のようだったのです」と話す。日本からの出航のさい、孤児たちは「日の丸」の小旗を振
り「君が代」も斉唱したという。・・・・・
 平成七年(1995年)の阪神淡路大震災後、ポーランドはいち早く被災児数十人をワルシャ
ワに招き、すでに皆八十歳を越えていた四人のシベリア孤児から赤いバラの花を贈っている。
現場にいた両国関係者すべての目頭を熱くせずにはおかない「恩返し」だった。自衛隊のイラ
ク派遣決定では国営テレビが日本への熱き「連帯」を表明するようにトップ級で報道した。

  皆様方からのご意見をお寄せ下さい。  

トップへ
トップへ
戻る
戻る


平成生き活き教育研究会