生き活き教育

子供たちに伝えたい先人たちの偉業


   
   もう、今ではほとんど知られていない先人達の偉業。子供達に勇気と
やる気を奮い立たせる偉業をなしえた先人達の数々を紹介します。

 「台湾へグルメ旅行に行きます」と多くの日本人が駆けつける台湾。雑誌「サピオ」でも産経
新聞ソウル支局長・黒田勝弘氏の長女、黒田節さんが台湾料理のおいしいお店を紹介されて
いました。折角台湾へ旅行されるなら、その台湾で精魂(せいこん)を込め全力を投入されて現在
の近代国家台湾を築くために苦労され、台湾の土になられた誇りと気概(きがい)に満ちた多くの
日本人の足跡にふれてその地を訪れるのも良いのではありませんか。おりしも台湾では今年
2004年を「台湾観光年」として政府をあげて取り組んでいます。多くの「親日派台湾人」の存
在理由もうなずけるとおもいます。ここで幾人かの先達を御紹介しましょう。



はじめに

 詳しい台湾史は述べませんが台湾経営は「侵略」ではなく、かって中国(清国)は台湾を「日
本に属する」と認めていました。
 18世紀乾隆帝時代 官定の正史「明史」に、台湾北部の鶏籠国(高山国)は「外国列伝」の
なかで「日本に属する」と書いています。1871年(明治4年)に「牡丹社事件」が起こりました。
清国政府は「台湾東南部の生蕃は(※)化外の地の民であるから所業の責任を負うことはでき
ない」ともいっています。
     ※化外(けがい)とは、中華帝国の「王化」の及ばない野蛮の地で、中国の世界観によれば「中国の神聖
       不可分の領土」でないという意味。

 日本政府はこの「牡丹社事件」から「台湾出兵」を決定しました。1895年(明治28年)4月1
7日、日本は清と下関条約を締結しました。台湾有力者は日本割譲に反対し清国の両広総督
と連絡をとりフランス将校の入れ知恵もあり台湾巡撫・唐 景松を擁立し「台湾民主国」をつく
るも近衛師団との初戦で敗退し総督も将軍も夜逃げ同然に大陸へ逃げました。無政府状態の
台北城内では清兵が「銀を略奪、糧庫や武器庫を襲い略奪(りゃくばく)・殺戮(さつりく)の限りをつく
した」ようです。この時の兵力は清兵5万人・守備兵約2万人に対して日本軍500人でした。中
国は今でもこれを指して日本兵の残虐行為と歴史を捏造(ねつぞう)しています。

一、台湾史上初の国土計画をつくった日本人

 日本の領台(りょうだい)後すぐにしたことは山岳探検隊、民俗調査、動植物学者による研究・調
査でした。これにより台湾の地理・地形・地勢・地貌(ちぼう)が明確になり、近代的な台湾建設が
始まりました。その先駆者として後藤新平があげられます。   
 後藤は1898年(明治31年)臨時台湾土地調査局に所属し近代的土地制度を確立し土地
の権利義務の関係を確立したのです。この近代的土地所有権の確立・保護は多発していた武
力による土地紛争を解決し住民間の土地を巡る衝突を防ぎ治安を保つことになりました。
 後藤は540万円の予算をかけ地籍・三角測量・地形測量で全島調査し26万6千甲(1甲約
1ヘクタール)の隠し田を発見、没収せずに買取して大地主の土地所有権利を消滅させ、また
二重所有権を解消して単一化を図るという台湾有史以来の一大社会改革でした。このために
要した地代は367万2436円でした。
 この結果耕地面積は清国時代の2倍 77万7850ヘクタールでしかも地租は日本が収穫の
25.5%なのに台湾は5%とまさに日本よりはるかに優遇されていました。
    

二 近代化の基盤 鉄道開設

 日本領台以前は道路と称されるものは皆無でした。日本領台以前の1887年(明治20年)
に確かに鉄道は敷かれました。基隆〜新竹間(全長約106km)を清朝(しんちょう)の台湾巡撫
劉 銘伝が指揮して敷きましたから、戦後の国民党政権下では「最初に鉄道を敷いた人物で
台湾近代化の父」とまで捏造されていました。しかし実際は実用性のない軽便鉄道でしかなか
ったのです。設計や技術の知識は皆無で勝手に路線変更し経費削減のためトンネルはなく迂
回し橋はほとんど木製で耐久性なく大雨でも降ろうならたちまち倒壊する代物でした。
 1893年(明治26年)11月、日本が台湾出兵の直前に台湾〜新竹間(約80km)が完成し
ています。総経費129万6000両 駅14 トンネル1 橋大小計74 平均速度13,7キロで
信号機やプラットホームは皆無というものでした。
現代の台湾鉄道建設最大の功労者は小山保政でした。

    ※1895年(明治28年)6月2日台湾永久割譲の文書交換6月6日 日本軍台湾上陸   
   6月10日 台湾鉄道総司令部発足し逓信省鉄道技師小山保政が派遣される。      
               台湾樺山初代総督は同年8月中央政府に
               @台湾縦貫鉄道敷設
               A基隆港築港
               B道路建設を提案し可決されています。

 上陸したとき軽便鉄道は軌道の一部ははずされ使用できる機関車は1輌で実用に耐えられ
ず「乗客は汽車から降りて汽車の後押しをやっているような」ようすでした。鉄道建設資材は台
湾ではとても調達できず、軌道、枕木、車輛、木材、セメントなどすべて日本から購入しまし
た。用地買収は最も大変だったひとつで台北駅建設用地確保に3万2639坪を買収していま
す。
 当初は風土病との闘いで作業員300余人中170余人が疾病するほどのものでした。明治2
8年度で鉄道隊員の風土病による死亡81名で明治32年までに241名というものでした。
余談になりますがこれほどまでの犠牲を払って完成させた鉄道も戦後大陸から渡した国民党
の「反日・仇日」教育では植民地侵略のためであり悪の権化(ごんげ)と教えています。
第4代総督児玉源太郎の時代に「鉄道国営政策」を策定 基隆〜高雄間に総延長405qの
本格的台湾縦貫鉄道に着手。この大プロジェクトの指揮に長谷川謹介があたることになりま
す。
長谷川は1899年(明治32年)「臨時台湾鉄道敷設部技師長」招聘するも、台湾鉄道の建設
は困難極まりなく、20以上の港がありしかもジャンク船しか入港できず未開発の港のため資
材が運べないようななかで果敢に取組むことになります。劉銘伝の鉄道は欠陥工事・欠陥鉄
道のため全面撤去し本格的な改築となるものでした。
全線を4区間に分けて同時進行しました。

   第1区 基隆〜新竹
  第2区 新竹〜台中
  第3区 台中〜嘉義
  第4区 嘉義〜高雄

この4区間に9年総工費2880万円を費やして1908年(明治41年)4月20日正式に通車し、
同年10月24日 台中で通車式典と汽車展覧会が盛大に開かれました。
現在の台中公園はこのときにつくられた公園で、この鉄道は現在も台湾国民をはじめ多くの
国々の人を乗せてかわらず走り続けています。
 台湾へ旅行され鉄道に乗車されましたらこのことを思い浮かべて先人の遺産に思いをはせ
ていただければいかがですか。
 台湾の領治にあたって鉄道の建設はその要でありましたがそれとともに道路の整備・建設は
産業発展に欠かせない大事業でした。では日本領台以前の道路事情はいかばかりでしょう
か。
        


三、近代化の基礎をつくった道路建設

 「交通の不便にして殆(ほとん)ど公道と称すべきものなき一事にありき」と竹腰与三郎氏は「台
湾統治史」に記しておられます。具体的にみますと、村落間には里道がありましたが「田畝の
畔の少しく広きものに過ぎずして幅1尺余なるのみ」となっています。また、牛車はありましたが
流通発達という側面から見れば村の作物を運ぶ程度で、物流や交通の道具としては使用され
ていなかったようです。
 日本領台時代前は東西南北総計2273清里(3清里=1里)の公称道路がありましたが、暴
風雨に1回襲われれば道が流されるか泥流に埋もれてしまう状況でした。晴れれば雑草やイ
バラが生い茂るという状態でした。こういう状態には当然理由がありました。19世紀までは匪
賊がバッコし「生蕃(せいばん)」が出没する社会のままで、かえって道路をつくらないほうが防衛
上安全でありました。中国義和団事件で有名な柴五郎も「想像をはるかに絶する進軍道路の
悪さ」と表現しています。
 
        ※横道にそれますが、台湾は島内に孤立社会が点在する状況で、台湾社会はアメリカと類似する 
          移民社会でありますから、いわゆる社会発展段階論でいう「原始奴隷社会」や「封建制度」という発
          展段階はまったくなかったといわれています。

 日本軍の牡丹社討伐に刺激を受けた清国政府は軍用道路として 宜蘭〜台東 雲林〜台
東 鳳山〜台東の三路を軍につくらせたが、原住民の襲撃(しゅうげき)にあったり疫病(えきびょう)
倒れたりの障害にぶつかり結局未完成のまま放置されるありさまでした。
そのような台湾に初めて公道をつくったのは日本台湾討伐軍の工兵隊でした。荒野と森林を
切り開き2万キロの軍用道路を完成させました。その結果北部で米輸出していても南部で米不
足という島内の不均衡が解決されました。物価の安定と地域間格差の解消は縦貫道路の完
成と道路整備が不可欠だったのです。  
領台時代の50年間に整備・完成させたのは指定道路(幹線道路)3689キロ 市街庄道路
(県道にあたる)1万3594キロ 計1万7280キロで橋は3236本でした。これがどれだけの
利益をもたらせたのかは高雄〜台南へ行くのに今まで丸二日間かかったのが道路整備と完
成により自転車で2時間で行けるようになったことをみてもわかると思います。

四、毒水を飲料水にかえた上下水道整備

 「台北市街では家屋の周囲又は庭内に不潔な汚れが流出し人民が犬豚と雑居し、共同便所
の設備あれど糞便(ふんべん)排散し・・・」と「南進台湾史考」(井出季和太著)にあります。一方台
南では「糞尿は各所に排散・堆積(たいせき)し排水溝は汚水を渋滞し悪臭と相和し・・・・城外より
城内に至るとき臭管刺激し殆ど吐心を催す」ような状況でした。街頭にはゴミが堆積し汚水が
あふれ、洪水があれば水が街道にあふれ汚水汚物までも一緒に流れ伝染病が蔓延(まんえん)
するため平均寿命は30歳前後と言われています。この状況にあたり政府は東京帝大講師の
バルトンと浜野弥四郎をこの整備任務に任命したのです。

 1895年(明治28年)台湾での始政式のあとすぐ「大規模都市改革計画」が策定されます
が、バルトン浜野コンビは豪族の水独占を禁止し上下水道をはっきり分離するため翌96年
(明治29年)〜99年(明治32年)の3年間山野を調査し上下水道工事の設計と水源地調査
を実施しました。バルトンは43歳のときマラリアに感染し帰京しますが、浜野は1919年(大正
8年)までの23年間工事の陣頭指揮し台湾主要都市の上下水道を完成させます。
 この台湾の都市上下水道建設は明治29年から始まり1940年(昭和15年)までに大小水
道133ヶ所総工費3428万円を要し人口156万人に水道水を提供しました。台北の鉄筋コン
クリートの上下水道は日本の東京・名古屋より早く、いかに精力的に台湾の為に取組んだか
わかろうというものです。

五、台湾の農業近代化を重視

 この浜野の指揮下で働いたのが八田ダムで有名な八田与一です。余談になりますが、戦後
大陸からの渡台した国民党は台湾に尽力した樺山・児玉・後藤の銅像を破壊するだけでなくバ
ルトン・浜野の銅像までも破壊しました。日本人としてだけでなく台湾住民の心を踏みにじる悲
しい蛮行です。そのなかでも八田与一の銅像は台湾人の努力で再建され今も八田ダムの湖
畔に奥さんとともにお二人でダムを眺めておられます。

      ※このたび台湾の企業家から故八田興一氏の胸像が寄付され5月29日に金沢市内で除幕式がおこな
       われました。

 当初浜野の指揮下で衛生設備の工事に専念していましたが途中電力とダム建設の調査を
命ぜられました。それは15万甲の嘉南平原灌漑(かんがい)計画でこの規模は当時の日本や東
洋にも無いほどの大規模なものでした。
 台湾は冬は乾季、夏は雨季で3000m以上の山が200以上もあり夏の平野は氾濫状態で
中南部 嘉南平野は「看水田」(天水畑)となり苦心して耕作してもいつまでたっても貧困から脱
け出すことは出来ないほどでした。
 1920年着工し1930年(昭和5年)に10年間の期間を要して完成しています。その規模は
堰堤1273m低部幅30m頂部幅9m高さ56mのダムで水路1万6000キロこれは日本の愛
知用水の13倍、万里の長城の6倍 総工事費は実に5348万円で犠牲者は134人(日本人
41人)でした。アメリカの土木の権威者ジャスチンは出来るはずがないというほどでしたが完
成後はアメリカの土木学会はこのダムを「八田ダム」(正式名称「烏山頭ダム」)と命名しまし
た。


六、台湾の工業化を促進した日月潭水力発電

 1915年(大正8年)に台湾総督府土木課長として就任したのが山形要介とその部下国弘長
重でした。台湾領台以後着実に発展したなかでこの時期に産業発展を台湾南北とも飛躍的に
もたらすには必要なだけの電力の水源を探索するのが急務となってきました。     
山形は部下の技師を全島各地に派遣し調査した結果、日月潭に建設することとなりました。水
源調査には主に国弘が担当し、そのアドバイザーにダム建設の功労者八田興一がいました。
またこの調査の副産物として先ほどの嘉南大?の水利事業の建設がなされた。
 この発電プランは当初大正6年に寺内内閣に提案されたがシベリア出兵の前夜であり計画
は棚上げされてしまいますが、翌大正7年明石元次郎が総督に就任して台湾電力株式会社を
同年9月に創立し発電所建設が決定されました。
12月に地質調査が始まり1919年(大正8年)に起工し、関東大震災の影響で一時中断しまし
たが16年の歳月をかけて1934年(昭和9年)11月に竣工しています。 
総工費は6800万円で総督府の年間予算を超える金額でした。 当時の台湾の総発電力は
約6万9000kWで火力は水力の約2倍、しかも大部分は製糖会社の自家発電でした。これが
稼動した昭和10年には約35万kWになり10年後の昭和18年には約119万5000kWと3
倍にまで飛躍し、台湾の工業化に大きな役割を発揮しました。この発電所が無ければ近代化
の産業投資はほとんど不可能で現在でも農業国家にとどまっていたに違いありません。。
 魯迅は「ものは比較しなければ分からない」と述べていますが終戦当時総発電力を人口で割
った1人あたりの平均使用電力は中国の233倍にもなっていました。中国大陸の電力施設の
ほとんどは日本と欧米の遺産でしかありませんでした。
 終戦後水道も電灯も見たことが無い大陸中国人と台湾人が文化摩擦と文明衝突を起こした
のにはこのような社会的背景があることも知っておきたいものです。

        ※まじめな笑い話をひとつご紹介しましょう。戦後大陸から大挙して流れてきた中国人は台湾での水
         道をみて驚きさっそく家に帰るなり水道のカランを家の壁 に取りつけ蛇口から水の出るのをじっと待
         っていたがいっこうに水がでないので台湾人に聞いたところ腹を抱えて大笑いしたとの嘘のような本 
         当の話があったそうです。 

ちなみに1999年(平成11年)の台湾大地震の震源地はこの日月潭付近でした。戦後建てら
れた湖畔の民家や観光ホテルなどはことごとく被害にあい全半壊しましたが、日月潭に被害が
及んだとの報道はありませんでした。戦前に総督府と日本の先人たちが心血を注いで建設し
たダムは見事マグニチュード7.6の力に耐えたことは日本人として誇るべき快挙です。
       
      ※日月潭の巨大ダムの結果生まれたのが日月潭の湖で、今も台湾八景に選ばれ台湾を代表する景勝
        地となっていますが観光案内には自然湖とされているのもありまますが本当は人造湖なんです。



七、海外への門戸 基隆港建設
 
 台湾の陸上交通は日本が道路建設や鉄道建設をするまではほとんど発達することなく主に
海上交通に頼る生活しかありませんでした。港で比較的に発達していたのは北の基隆・淡水、
南の安平・高雄でした。しかも入港できる船はジャンクか小船しかありませんでした。
1858年の(安政5年)天津条約以後、安平以下淡水・高雄・基隆と次々開港が決定し、外国
との通商が許可されても港が整備されていなければ何の役にも立ちませんでした。淡水港でさ
え満潮時に千トン以下の船しか停泊できないありさまでした。
 縦貫鉄道の建設資材の搬入口となった基隆港の建設はとりわけ重要な位置にありました。
 基隆港の築港工事は児玉源太郎総督時代の四大事業のひとつとして長期間にわたって行
われました。この事業に多大の貢献をしたのが川上浩二郎でした。(1873年新潟生まれ。東
京帝大土木工学科卒台湾総督府技師、臨時基隆築港 局技師兼総督府技師を歴任)
  台湾領台時代初期の基隆港は、沖縄・門司・長崎との間に2千トン級の定期航路を有してい
ましたが港に着くとサンパン(木造の小型船)に乗り換えて上陸する有様でした。)
 川上は築港工事を2期にわけ1899年(明治32年)から1902年(明治35年)の4年間に第
1期工事が行われ防波堤と港内浚渫工事が行われ,1906年(明治39年)から1912年(明治
45年)の7年間さらにひきつがれました。700メートルの岸壁、港内岩礁の除去、浚渫、岸壁
上の起重機、倉庫建築、海壁・内港防波堤の建築など大掛かりな工事の末、船舶5隻、繋留
波漂に8隻と6千トン前後の船舶を停留させることができる立派な港が完成しました。1926年
(大正15年)には入港船舶1958隻、重量合計611万トンにも上がりました。これ以後年々拡
張工事がおこなわれ、港としての機
能がますます充実してゆきました。高雄港も同じように築かれ(近くに軍港も築かれました)戦
前の台湾2大国際貿易港が完成しました。
 高雄へ観光に行かれたら是非打狗山(寿山)に登り山頂からこの壮大な高雄港を眺めてくだ
さい。日本人がいかに力を注いだのかがわかると思います。



八、台湾近代都市の建設

 台湾国民党議員は20世紀末までに台北市内の台湾総督府(現台湾総統府)をはじめとする
日本時代の建築をことごとく撤去・改築を台北市議会に提案してきました。
 しかし、戦後すでに半世紀以上にわたって使用され100年にわたり台湾史の貴重な遺産と
なっているものを破壊する必要はないと当時の台北市長陳水扁(現台湾総統)がこの提案を
拒否しました。朝鮮総統府が金泳三大統領によって破壊されたからといって台湾も同じように
しなければならないことはなかったのです。
もともと台湾は「匪賊(ひぞく)社会」でした。だから建築はすべて盗難・盗襲(とうしゅう)予防を優先
につくられ非衛生的で土塊の家屋でした。 
 さて台湾の近代都市計画工事は明治28年の台湾領台翌年から始まります。台北市の下水
溝工事から始まり、市区改正を企画し台北城の城壁を壊して幅25間の三線道路をつくり両側
に並木を植え公園をつくり家屋建築規制を発布し近代的な街にしました。また淡水川に堤防を
つくり毎年襲われる水害から台北市を守ったのです。
 市区改修工事は台北、基隆をはじめ新竹、台中、彰化、台南、嘉義、高雄、屏東の9市以下
計31市町の都市建設をすすめ、要した工事費は明治28年から昭和9年(1934年)までに計
1285万円でその約半分は首都台北市街の改修工事でした。
いまも台北市内に見られる多くの近代建築は設計士・森山松之助によって設計されたもので
す。そのなかでもシンボルともいうべき台湾総督府(現総統府)は東京駅に大変似ています。
 森山松之助は1891年(明治24年)に東京帝大を卒業し1909年(明治42年)に台湾に渡
り総督府建築設計に入選し以後、設計改築に参加するようになりました。台湾電力ビル(現国
防部)の建造も森山が手掛けたひとつです。
 それ以外に総督府技師の堀見末子(男性)は后里鉄橋、基隆港ビル建築6棟、明治橋(現在
の中山橋です)新店渓堤防、角板山道路、蘇花道路、大安渓など多くのインフラ建設に携わり
ました。
 堀見末子は明治35年東京帝大土木課卒業し明治43年台湾総督府技師になっています。ま
た、木村泰治も「台湾日々新報」の記者退職後台湾土地建物社長となり台北、基隆に多くの建
物を建てています。

                     
   台湾を潤(うるお)す八田ダム

   
   八田さんは東京帝国大学の土木科を卒業すると、明治43年(1910年)台湾の農地開発計
画を任されます。24歳の時です。4年の年月をかけて、台湾じゅうの山や谷、原野を歩いて、
ダム建設地の調査をします。赤痢やマラリアといった恐ろしい伝染病の潜む所にも、先頭を切
って分け入っていきました。そして、現在の場所を選び、ダムを造って嘉南平野に水路を張り
めぐらす計画を立てました。皆、その計画書を見て驚きました。台湾総督府の予算の6分の1
の資金を必要としたのです。
「八田くん、これでは政府から、工事の許可がおりないぞ。もう少し縮小したらどうか」
「いいえ、水路のとどく場所と、とどかない場所の農民とでは、貧富の差が生じます。私は、嘉
南平野に住むすべての農民に、同じように水を引いてあげたいのです」
 八田さんの熱意は総督府と日本政府を動かし、大正9年(1920年)に工事が始まりました。
 マラリアは猛威を振るっていました。そのため600人に近い日本人兵士や、乃木総督のお
母さんも病死します。ダム工事現場で働く労働者も、例外ではありませんでした。八田さんは、
原生林の広がる未開地で働く台湾人の労働者の健康を気づかい、定期的に薬を配りました。
しかし、彼らは副作用を嫌って飲みませんでした。八田さんは一人ひとりを並ばせ、直接、口に
丸薬を入れますが、みんなは後で道に吐き捨て、道はあられが降ったようになったそうです。
それを知ると、飛んでいって叱りつけました。ついに最後には彼らの家の一軒一軒を訪ね、薬
を飲ませ、ちゃんと彼らが飲みこむまでは、その家を立ち去りませんでした。そのおかげで、マ
ラリアにかかる人は少なくなります。
 3年目には、トンネルの工事でガス爆発が起きました。50数名が亡くなり、多くの重傷者が
出ました。八田さんは、すぐに台湾人の犠牲者の家の一軒一軒を回り、心から弔いと慰めの
言葉を伝えました。遺族たちは、その言葉を押しいただくようにして声を上げて泣きました。 
八田さんも責任を重くうけとめ、工事を中断しなければなりませんでした。しかし、「八田さん、
元気を出してやりましょう」と励ましたのは、台湾の人々でした。八田さんがどんなに台湾を愛し
ているかを、知っていたからです。
 こうして烏山頭水庫は東洋一のダムとして、10年の歳月をかけて、昭和5年にできあがりま
す。
 そして、八田さんの望みどおり、網の目のように引かれた水路によって、水は嘉南平野の全
域にとどけられました。その水路の総延長は1万6千キロで、万里の長城の6倍に達します。
  この八田與一のことについては、20年ほど前に高雄日本人学校に派遣された古川勝三先
生(現在、愛媛県の中学校長)が『台湾を愛した日本人――八田與一の生涯』(青葉図書)とい
う本を出版されています。


   



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平成生き活き教育研究会