生き活き教育

子供たちに教えたい維新の偉人『山岡 鉄舟』
                              てっ   しゅう
山 岡 鉄 舟

江戸百万人の命を救った「江戸城無血開城」の立て役者




剣、禅、書、すべてに長けていた鉄舟

 幕末から明治時代にかけて活躍した人々の名前をあげる場合、西郷隆盛・大久保利通・木
戸孝允・坂本竜馬等、多くの人々の名前が出てくるでしょう。しかし、その中に「山岡鉄舟」をあ
げる人は多くないのではないでしょうか。
 鉄舟山岡鉄太郎高歩。知る人ぞ知る、幕末から明治時代にかけて活躍した剣の巨峰で、若
い頃から剣術修行に明け暮れ、真影流(しんかげりゅう)・北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)を学び、さら
に小野派一刀流の浅利又七郎義明に学んで、後に一刀正伝無刀流(いっとうせうでんむとうりゅう)を開
きました。
 しかし、剣だけではありません。
座禅にも修行の道を求め、臨済宗天竜寺(りんざいしゅうてんりゅじ)の適水禅師(てきすいでんし)から印可
を受けています。また、書(書道)についても大森曹玄老師(おおもりそうげんろうし)は、その著「山岡鉄
舟」で、「何といっても近代では天下第一である」と賞賛されています。
しかし、それだけではないのです。実は、もしこの人がいなければ、幕末の日本、ひいてはそ
の後の日本が全く違ったものになっていたかもしれません。

維新前夜が始まる

 よく知られるように、ペリーが来航して以来、我が国は上を下への大騒動が始まりました。そ
して鳥羽伏見(とばふしみ)戦いに幕府軍が敗れ、官軍と幕府軍との戦いは、官軍優位の状況と
なり、幕府軍を追撃して官軍は駿府(静岡)まで進んできました。そんな時、徳川慶喜(よしのぶ)
江戸城を出、上野の寛永寺(かんえいじ)に入って自ら謹慎(きんしん)をしました。しかし幕府軍は慶
喜の意に反して戦いの継続を主張する者が多く、このままでは江戸の町は戦いで火の海とな
ります。
 ここで歴史に突如として登場するのが山岡鉄舟です。

将軍慶喜に懇願

 ある日、幕臣鉄舟は慶喜に呼ばれ、慶喜は彼に心情を吐露(とろ)します。
 「自分は朝廷に対してすこしも二心を抱くものではない。赤心をもって恭順謹慎(きょうじゅんきんし
ん)しているのだが、一度、討幕の勅命(ちょくめい)が下った以上は、自分の命はないものと覚悟し
ている。けれども自分のこの気持ちが伝わらず、朝敵(ちょうてき)とまで憎まれて死ぬのかとおも
えば、返す返すも残念である。・・・」と、涙を落す主人慶喜を見、鉄舟は一命にかえてもこれを
官軍に伝えんものと決意します。これは言うのは易く、行うのは至難の業です。なにしろいきり
立つ官軍の中を単身本営まで抜けて行くのですから、命はないものと覚悟してかからねばなら
ない事態です。



西郷に懇願

 勝海舟(かつかいしゅう)と会って打合せ後、供を一人だけ連れて出発します。駿府(するが)に到着
し、東征軍参謀(とうせいぐんさんぼう)の西郷隆盛と会って、鉄舟は人間的な迫力の中に誠実さをに
じませて慶喜の本心を訴えます。そして、「私は主人慶喜に代って、慶喜の本心を礼を厚う
して言上したのです。先生がもしこの慶喜の心をお受け下さらぬなら、致し方ございませ
ん、私は死ぬだけです。そうなると、いかに徳川家が衰えたりとはいえ、旗本八万騎の中
で決死の士はただ鉄太郎一人のみではござらぬ。そうなれば一徳川家のみでなく、日本
の将来はどうなりましょうか。それでも先生は進撃なさるおつもりでござるか。それならも
はや王師とは申せません。謹んで惟(おも)うに、天子は民の父母です。理非(りひ)を明ら
かにし、不逞を(ふてい)討ってこそ王師(おうし)と申せますが、ひたすら謹慎して朝命に背か
ぬことを誓う臣下に対し、何ら寛大の御処分がないのみならず、敢(あ)えてこれを討伐す
るなら、天下これより大乱となること、火を見るより明らかでござる。お願い申し上げま
す。先生!どうかその辺の事情をご推量(すいりょう)下さい。」
 切々と訴える鉄舟に、大度量にして情の人隆盛、ついにその意を汲んで、「維新(いしん)の実
をあげるためには、倒幕の戦いを決行し将軍を武力で倒す」という計画を中止する決意をした
のです。そして五日後、芝高輪の薩摩藩屋敷(さつまはんやしき)での西郷隆盛と勝海舟の有名な会
見が行われ、「江戸城無血開城」が実現しました。

 教科書などでは、この西郷隆盛と勝海舟の会見は絵入りで紹介されることもあり、徳川家を
救い、また江戸の町を戦火から救ったのはこの二人の会見があってのことだと思っている人
が多いと思われるのですが、実はその前に、山岡鉄舟の決死の活躍があってこその会見であ
ったのです。

 西郷隆盛と勝海舟は、それまでにも会っており、お互いにその人間性を認め合っていまし
た。しかしそれでも、時の勢いを止めて江戸の町を守ることができたか、大変疑問です。鉄舟
なくして二人の会見が可能だったかどうかさえわかりません。もし鉄舟の活躍がなければ、江
戸の町は焼け野原になっていたことは、想像に難くありません。
 「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但しあんな始
末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。
本当に無我無私(むがむし)の忠胆(ちゅうたん)なる人とは、山岡さんの如(ごと)き人でしょう。」
西郷隆盛が勝海舟に述べた鉄舟への評価です。
 教科書も、遅ればせながらもこの山岡鉄舟にスポットライトを当てる必要があるのではないで
しょうか。

 勝者が敗者に対して冷酷(れいこく)な扱いをしない
我が国の良き伝統

 我が国には素晴らしい伝統があります。それは、たとえ敵味方に分かれて戦っても、勝負が
決した後は勝者が敗者に対して冷酷な扱いをしないということです。人間のことですから、例外
はもちろんあるでしょう。しかし大体において、執拗(しつよう)に敗者を攻撃・排斥(はいせき)すること
は潔くないこととして評価しません。
この幕末から明治にかけての、国をあげての大戦においても然(しか)りで、血気に逸(はや)る東
征軍の矛先(ほこさき)を鈍らせてしまった山岡鉄舟も、明治になって岩倉具視(いわくらともみ)や西郷
隆盛の推薦で「元朝敵家来」山岡鉄舟がなんと侍従(じじゅう)に任ぜられて、明治天皇のおそば
に仕えることになりました。

明治天皇が鉄舟に相撲で倒される

 こんなエピソードがあります。明治天皇がお若い頃のある日、鉄舟たち侍従とのお酒の席で
鉄舟に相撲を挑まれ、鉄舟を押し倒そうとされました。天皇と臣下(じんか)、普通なら天皇に勝ち
をゆずるでしょう。しかし鉄舟は、飛び掛られた際に横にかわし、天皇は鉄舟の後ろに倒れて
しまわれました。周囲は鉄舟に謝罪を勧めましたが、鉄舟はこれに応じず、「陛下と相撲を取
ることなど、この上ない不倫(ふりん)であること。また、わざと倒れるのは迎合することであるこ
と。またもし、私が怪我をすれば陛下はどれほど後悔遊ばされるか。もし陛下が私を悪いと仰
せられるなら、謹んでこの場で自刃してお詫(わ)び申し上げる覚悟であること。」を決然と言いま
す。

 明治天皇は鉄舟の言葉をお聞きになり、「私が悪かった。」と仰せになったとのことです。
決死の覚悟でお諌(いさ)めする鉄舟、非を素直に認められるお若き日の明治天皇。このよう
な、君臣(くんじん)互いに信頼の絆(きずな)で結ばれているのが、日本の伝統なのでしょう。このよ
うな情景は、昭和20年、終戦後にも、昭和天皇と国民との間でGHQ相手に遺憾(いかん)なく発
揮されました。



 鉄舟の、禅による精神面の修行には常人には信じられない言い伝えもあります。
壮年時代のこと、殺生(さっしょう)が嫌いな鉄舟なので、家では鼠(ねずみ)がよく出たらしいのです
が、鉄舟が家で座禅を組み始めると、一匹もいなくなってしまったそうです。気の凄まじさを感じ
るのでしょうか。それが晩年には、座禅や写経(しゃきょう)の最中でも鉄舟の膝(ひざ)や肩に鼠が
よじ上ったといいます。
 人の精神修養の進み具合をよく表した話です。

 山岡鉄舟にまつわる話はほかにもいろいろとあります。便利になりすぎ、合理的・効率的なこ
とに価値観をおく現代には、剣・禅・書で大成した鉄舟のような途轍(とてつ)もない人はもう現れ
ることは不可能かもしれません。それだけに、かつてこの日本には、現代人が想像も出来ない
ようなものすごい人がいたのだ(それも沢山!)ということを語り伝えてゆくことは、大変必要なこ
とではないか、と思います。もしかしたら何年か、何十年かすれば再び、日本を、世界を導いて
行く大人物が我が国から生まれ出る可能性はゼロではないでしょう。そのために、特に若い
人々に私達の先祖の歴史をしっかりと教え、若い人々はこれを十分に学ぶ姿勢が大切ではな
いでしょうか。
           完 
(本文作成にあたり、大森曹玄著、春秋社刊「山岡鉄舟」を参考にさせて戴きました。)
   


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平成生き活き教育研究会
山岡鉄舟 資料
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