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この年表は、原本を抜粋略記、出典を省略し、主要史実を加えました。また、平成10年までを随時追加更新していきます。編集 引佐町歴史と文化を守る会井伊谷支部
| 大和時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・南北朝時代・室町時代・安土桃山時代 江戸時代 明治時代 大正時代 昭和時代 平成時代 |
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■大和時代 (古墳時代)
| 西 暦 | 和 暦 | 事 項 |
| 239 | j女王卑弥呼、魏へ朝貢 | |
| 350頃 | 北岡大塚古墳(前方後方墳) | |
| 380頃 | 天白磐座遺跡 | |
| 391 | (古墳時代) | 倭寇、高句麗と戦う |
| 450頃 | 馬場平古墳(前方後円墳))・谷津古墳(円墳) | |
| 500末〜 600頃 | 北岡1号墳(円墳)・北岡2号墳(円墳)・白山1号墳(円墳)・白山古墳群6基 | |
| 538 | 仏教伝来 | |
| 600始〜 600末 | 城山2号墳(円墳)・一の沢古墳群(円墳)・高辺古墳群 | |
| 604 | (飛鳥時代) | 聖徳太子の憲法17条なる |
| 645 | 大化改新の開始 | |
| 672 | 壬申の乱 | |
| 701 | 大宝律令なる | |
| 708 | 和同元年 | 金剛山正楽寺を行基が草創。当時の寺名は勝楽寺で江戸時代に正楽寺と改称。 |
■奈良時代
| 710 | 平城京遷都 | |
| 713 | 和銅 6 | 諸国の郡郷名を好字2字を用いることとしたため、渭郷または蟾郷を渭伊郷と改めた。 渭伊=井伊谷 |
| 733 | 天平 5 | 八幡山地蔵寺(龍潭寺の前身)が、行基自作の地蔵菩薩を安置して開創された。 |
■平安時代
| 794 | 平安京遷都 | ||
| 887 | 藤原基経、関白となる | ||
| 866 | 貞寛 8 | 遠江国正六位上蟾伊神(渭伊神社の前身)、従五位下に昇格した。 | |
| 901頃 | 延喜年間頃 | 三宅好用奈良より荘司として着任、多遅麻毛利命を三宅連氏神として祀る三宅神社を建立した。 三宅神社=二宮神社の前身 | |
| 927 | 延長 5 | 渭伊神社、三宅神社、大さ(たっさ)神社が式内社になった。 | |
| 1010 | 寛弘 5 | 井伊氏祖共保公が、八幡宮の御手洗井中より化現した。 |
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| 1032 | 万寿 9 | 井伊共保、井伊谷城を築城。遠江一カ国の治城。 | |
| 1093 | 寛冶 7 | 井伊共保公84歳で没し、八幡山地蔵寺(現龍潭寺)に葬る。法号により地蔵寺を自浄院と改めた。 | |
| 1156 | 保元の乱 | ||
| 1159 | 平冶元年 | 遠江は熊野三山造営料国となり、井伊郷は中泉の国衙領33の一つとしてこの事業に加担、21石1升2合が井伊郷の負担になった。 | |
| 1185 | 壇ノ浦の戦い、平氏滅亡 | ||
| 1191 | 建久 2 | 井伊六郎直綱の名が、吾妻鏡にある。 | |
■鎌倉時代
| 西 暦 | 和 暦 | 事 項 |
| 1192 | 源頼朝征夷大将軍となる。鎌倉幕府成立 | |
| 1199 | 源頼朝病死 | |
| 1221 | 承及の乱 | |
| 1245 | 寛元 3 | 井伊介鎌倉八幡宮御弓始め儀式に、三番弓手を務めた。(井伊介は日本武家の八介の一つ) |
| 1330 | 元徳 2 | 宗良親王は20歳で天台座主となり、尊澄法親王とよばれた。 |
| 1330頃 | 〃 | 南朝方の井伊介は井伊谷城に籠り坂田山(現6区)に砦を構築した。必死の防戦も利なく、興国元年(1340)には三岳城とともに落城した。 |
| 1333 | 元弘3年 | 鎌倉幕府の滅亡 |
■南北朝時代 (室町時代1338〜) ※(南)=南朝年号 (北)=北朝年号
| 1334 | 建武2年 | 建武の中興 |
| 1336 | 延元1(南) | 両朝の分立。井伊氏の出城、三岳城が築かれた。 |
| 1336〜40 | 延元年間 | 井伊谷坂巻より興禅庵下の不正堂(今の上町の井伊谷川右岸)まで新川を掘り、井伊城の要害とした。 |
| 1336〜42 | 延元1〜歴応年間 | 正楽寺地内の元市場・中市場下市場・須賀町を城山山麓に移し町並みとした。(元スズキ精密構内を南北に連なる) |
| 1337 | 〃 2 | 妙法院ノ宮尊澄法親王、還俗されて宗良親王となる。この年伊勢より井伊奥山に入られる。遠江井ノ助は妙法院ノ宮を取り立て奥の山に立てこもる。 |
| 1337 | 建武4(北) | 今川範国・筑後前司佐野大輔房等が井伊城を攻めた。 |
| 〃 | 〃 | 今川範国の軍勢と井伊一族の間で、三方原の戦いがくりひろげられた。 |
| 〃 | 〃 | 今川範国の家臣松井八郎助宗が井伊城を攻めた。 |
| 〃 | 〃 | 井伊城において、宗良親王に仕えていた井伊道政の娘重姫が、尹良親王を出産した。 |
| 1338 | 延元3年 | 足利尊氏、征夷大将軍となる。室町幕府成立 |
| 1338 | 延元3(南) | 宗良親王は、井伊谷を出て橋本(新居町)で北畠顕家の大軍と合流して西上、青の原、伊勢、奈良等を経て吉野に入った。 |
| 1338 | 歴応1(北) | 足利尊氏征夷大将軍となり室町幕府が成立した。 |
| 〃 | 延元3(南) | 宗良親王、伊勢大湊を出て東国へ航行中遭難し、遠江白羽港より再び井伊城に入る。 |
| 1339 | 応歴2(北) | 三岳城の出城と鴨江の城が7月26日落城した。 |
| 〃 | 延元4(南) | 後醍醐天皇吉野で崩御、52歳。後村上天皇即位。先帝の崩御は三岳城の宗良親王にも知らされ、親王は紅葉を折ってそれに「思うには 猶色あさきもみじかな そなたの山はいかが時雨るる」という歌を添えて四条隆資のもとに届けた。 |
| 〃 | 〃 | 三ケ日千頭峯城が落城した。 10月30日 |
| 〃 | 〃 | 谷津砦・上野砦が落城した。 |
| 1340 | 興国1(南) | 三岳城が落城した。 1月30日 |
| 1341 | 〃 2〃 | 宗良親王は駿河の阿部城狩野貞長のもとを辞し、富士山麓を廻り甲斐国を経て信濃国へ入る。 8月頃 |
| 1352 | 正平7(南) | 宗良親王は南朝の征夷大将軍となる。 閏2月6日 |
| 〃 | 〃 | 宗良親王は新田義宗(義貞の次男)とともに、足利尊氏を武蔵国小手指原・入間川原・高麗原に攻めたが敗れた。 |
| 1358 | 〃 13〃 | 井伊弾正直秀は武蔵玉川矢口の渡しで足利基氏の兵に舟を沈められ、自刃した。 |
| 1370 | 建徳1 〃 | 宗良親王は上洛しようとしたが果たさず、三河・遠江を経て再び信濃大河原城(長野県下伊那郡大鹿村)に帰った。 |
| 1371 | 応安4(北) | 九州探題の今川貞世は京都を出発して九州合戦のため鎮西に向かった。これに井伊氏も伴った。 |
| 〃 | 建徳2(南) | 宗良親王は信濃国から36年ぶりに吉野行宮に入った。後に再び信濃大河原に移られる。 |
| 1375 | 永和1(北) | 井伊氏は今川貞世に従い、南朝征西将軍懐良親王を攻めるため筑前世振山で菊池・詫間等と戦った。この戦いで奥山遠江守直朝が戦死した。 |
| 1381 | 弘和1(南) | 宗良親王は「新葉和歌集」1415首20巻を長慶天皇に奉じた。 準勅撰集 |
| 1385 | 元中2 〃 | 宗良親王が72歳で薨去された。 8月10日 宗良親王を自浄院(龍潭寺)に埋葬した説がある。法号にちなみ、寺号を冷湛寺と改めた。 |
| 1386 | 〃 3 〃 | 宗良親王霊を城山東麓の三宅神社に合祀し、二宮神社と改めた。 |
| 1392 | 南北朝の合体 |
■室町時代
| 1400 前半 |
北岡古墳築造。 中世墓2.2m×2.3m 井伊谷北岡地内 | |
| 1467 | 応仁の乱が起こる | |
| 1485 | 文明17 | 11代井伊忠直没する。 |
| 1492 | コロンブス、アメリカ大陸を発見 | |
| 1494 | 明応 3 | 駿河守護今川氏親・北条早雲が遠州侵攻を開始した。 |
| 1498 | 〃 7 |
大地震のため遠江国新井崎が壊れ、浜名湖と外洋が通じた。このため本坂道がにわかに重要になった。 |
| 1504 | 永正 1 | 今川勢の夜の不意打ちで、三岳集落の下手から火が放たれ、家屋が全滅した。 |
| 1507 | 〃 4 |
井伊直平は黙宗瑞淵を招き、自浄院を禅宗に改め龍泰寺(現龍潭寺)と改称し、井領田3反を寄進した。 |
| 1508 | 〃 5 | 三岳に慶蔵院建立。 |
| 〃 | 〃 〃 | 12代井伊直氏没する。 |
| 1510 | 〃 7 | 元遠江守護の斯波義達は5000騎で井伊谷西牧の宝光庵に陣を敷く。井伊直平は三岳城にたてこもる。今川氏親は伊達蔵人忠宗を刑部城・堀川城に入れて、忍びの放火により斯波・井伊を攻めた。宝光庵火災。 |
| 1511 | 〃 8 | 三岳の井伊直平の陣所・番所に忍びの放火があった。 |
| 1514 | 〃 11 | 今川の武将朝比奈十郎泰以が三岳城を攻め落とし、井伊直平は再び今川氏の騎下になった。 |
| 〃 | 〃 〃 | 井伊次郎は遠江守護の命を受け三岳に番所に就いた。 この頃三岳に寶泉庵が建立され蔵王権現を迎えた。水の弁財天琴神堂も当時建立された。 |
| 1515 | 〃 12 | 三岳集落戸数 8軒 |
| 1519 | マゼラン世界一周 (〜22) | |
| 1521〜31 | 大永〜享禄 | この頃、坂田に坂田平三入道と言う人物がおり、子孫は代々坂田を名乗って坂田郷を支配した。 龍潭寺の黙然和尚や南渓和尚筆の過去帳に記録されていると言われる。 |
| 1531 | 享禄 4 | 井伊直平は龍泰寺造営のため井伊八幡(渭伊神社)を現在地に遷座し、殿村を神宮寺村と改めた。 |
| 1532 | 天文 1 | 井伊直平は黙宗瑞淵を請侍して龍泰寺を造営し、師の文叔瑞郁を勧請開山第一座とした。後に龍泰寺を龍潭寺に改めた。 |
| 1542 | 〃 11 | 14代井伊直宗が三河田原城攻めにおいて野伏により討死した。 |
| 1543 | ポルトガル人種子島に来航 | |
| 1544 | 〃 13 | 井伊直宗の弟直満・直義が小野和泉守の讒言により、今川義元のため生害(自害)された。 直満の子亀之丞(直親)にも追ってがかかり、直満の家老今村藤七郎正実は9歳の亀之丞を叺(かます)に隠し、渋川の東光院に逃れた。 |
| 1545 | 〃 14 | 亀之丞は東光院住持能仲の案内で信州伊那郡市田村の松源寺へ行き、今村藤七郎が10年間養育した。松源寺は文叔瑞郁の開いた寺。 |
| 1550〜 55 | 天文年間 | 二宮神社が破損していたので井伊直盛が再建した。 |
| 1554 | 〃 23 | 小野和泉守没す。龍泰寺(現龍潭寺)に埋葬した。 |
| 〃 | 〃 〃 | 正泉寺が開創された。山号は龍谷山。曹洞宗可睡斎の末寺で、開山は慧湛和尚。 |
| 1555 | 弘治 1 | 亀之丞が帰国し、15代井伊直盛の養子となり直親と名乗る。 |
| 1556 | 〃 2 | 勝楽寺隆俊が大日如来を制作し、大日堂を造営して祀る。 |
| 1560 | 永禄 3 | 今川氏真が、龍潭寺棟別諸役一切免除の朱印状を出した。 |
| 1560 | 桶狭間の戦い | |
| 1561 | 〃 4 | 17代井伊虎松(直政)が2月9日、遠州の祝田で生まれた。 |
| 1562 | 〃 5 | 16代井伊直親は、「今川方のことを徳川方に内通した」との家老小野但馬守の讒言(事実をまげて言う)により、駿府に申し開きに向かう途中、掛川城主朝比奈泰朝の軍に攻められ、主従19人が討死した。 直親の子虎松(2歳)も命が危うくなり、井伊氏の重臣新野左馬助親矩に保護された。 |
| 〃 | 〃 〃 | この頃、現在の国道257沿いの井伊谷町筋が出来た。 |
| 1583 | 〃 6 | 13代井伊直平が犬居城攻めに向かう途中、今川の家老飯尾豊前守の妻に毒茶を呑まされ死亡(76歳)、川名の向山に埋葬された。従者の大石作左衛門も自刃した。 |
| 1564 | 〃 7 | 井伊氏の重臣新野左馬助と中野越後守が曳馬城攻めで討死し、井伊氏最大の苦難の時代を迎えた。虎松は龍潭寺2世南渓瑞聞が鳳来寺に移した。 |
| 1565 | 〃 8 | 井伊領の地頭となった次郎法師(直盛の息女)は、今川氏真が井伊領に徳政(民に恩徳を施す政治)を布くことを察知し、南渓和尚に徳政免除の黒印状を与える。 |
| 1568 | 〃 11 | 井伊3人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)は家康の遠州侵攻の道案内を承諾、朱印状を賜って家康を宇利(新城市中宇利)より陣座峠(奥山の狩宿)に案内した。11月13日 |
| 〃 | 〃 〃 | 11月14日、井伊谷3人衆は井伊谷城を横領した小野但馬守を攻め、徳川の大軍は井伊谷を通過した。 |
| 1568 | 〃 | 11月29日、次郎法師・関口氏経連名で井伊領に徳政令を発布した。 |
| 1568 | 織田信長入京 | |
| 1569 | 〃 〃 | 気賀堀川城の戦いの戦死者を、龍潭寺に葬られた。 |
| 〃 | 〃 〃 | 徳川家康は「井伊直親が徳川と内通した事実はない。小野但馬守の讒言で事実無根」として、但馬守を井伊谷蟹淵において獄門はりつけに処した。但馬守の男子2人も同様に処せられた。 |
| 1572 |
元亀 3 | 円通寺の足切観音堂が武田信玄の戦火により焼失した。 |
| 〃 | 〃 〃 | 三方が原の合戦の際、戦火により龍潭寺の堂塔が焼失した。 |
| 〃 | 〃 〃 | 武田の猛将山県昌景が山吉田城を攻め、井伊谷3人衆は城を開いた。同じ日井平城・仏坂(伊平)で決戦、城主井平飛騨守ら88人が討死した。3人衆は浜松城へ移った。 |
| 1573 | 室町幕府の滅亡 |
■安土桃山時代
| 1573 | 天正 元年 | 武田軍が井伊谷に乱入し、神社・仏閣・民家の別なく打ち壊し焼き払った。 八幡宮の鐘(井伊直平寄進)を三州野田の城攻めに持って行ったが、その後神宮寺より多人数で持ちに行ったとの言い伝えがある。 |
| 1575 | 〃 3 | 白岩大明神(六所神社)創立。 |
| 〃 | 〃 〃 | 17代井伊直政(15歳)は浜松において家康に仕え、万千代の名を与えられ旧知行地(支配地)の井伊谷を賜った。 |
| 1582 | 太閤地検始まる。 | |
| 1582 | 〃 10 | 龍潭寺住職南渓和尚は北岡の瑠璃山光照寺に弁天堂を建立し、弁財天を祀って鎮守とした。 |
| 〃 | 〃 10〜 | 太閤検地において正楽寺領を100石余り召し上げられた。検地役人原田左衛門に訴えたが取り上げられず、漸く15石が認められた。 |
| 1584 | 〃 12 | 徳川家康は三河・遠江に徳政を布いた。 |
| 〃 | 〃 〃 | 家康は尾張の鳴海において、井伊谷3人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に対し、井伊直政に仕えるよう命じた。 |
| 1585 | 〃 13 | 井伊直政は長久手の戦功により、井伊谷において6万石の大名になった。 |
| 1586 | 〃 14 | 徳川家康は龍潭寺棟別諸役等を一切免除した。 |
| 1588 | 〃 16 | 井伊谷3人衆の一人、近藤康用が井伊谷において死す。72歳 |
| 1589 | 〃 17 | 龍潭寺二世南渓随門に変わり、傑山宗俊が三世住持になった。 |
| 〃 | 〃 〃 | 瑞岩山正眼禅庵(現白岩の正眼寺)が開山。本尊は観世音菩薩。 |
| 〃 | 〃 〃 | 円通寺入り口に秋葉大権現が再建された。 |
| 1590 | 〃 18 | 家康の5ヶ国検地により、三岳村で御縄打ちが行われた。 |
| 〃 | 〃 〃 | 井伊直政は上野国箕輪(群馬県)の12万石の大名になった。 近藤秀用は井伊直政のもとを離れ浪人となって金指に移った。 |
| 〃 | 〃 〃 | 豊臣秀吉は、龍潭寺に96石7斗5升を安堵(与え)した。 |
| 1592 | 文禄 元年 | 近藤季用は采地(領地)1000石を賜って金指の領主になった。 |
| 1600 | 慶長 5年 | 9月15日関が原の戦い |
| 〃 | 〃 〃 | 10月10日、井伊直政は関が原の合戦の功により、近江佐和山18万石の大名となる。 |
| 〃 | 〃 〃 | 近藤季用は関が原戦の功により、井伊谷3050石を賜った。 |
| 〃 | 〃 〃 | 関が原戦後、松下常慶安綱は引佐郡の代官になり、松下勘左衛門・角田仁左衛門・山内新左衛門と一郡を割って務めた。 |
| 1601 | 〃 6 | 幕府は代官頭伊奈備前守忠次に、井伊谷筋の寺社領安堵の黒印状を与えた。 |
| 1602 | 〃 7 | 井伊直政が関が原の戦傷が原因で没した。43歳。 |
| 1603 | 徳川家康、征夷大将軍となる | |
| 1603 | 〃 8 | 井伊谷筋の代官として飯田助右衛門が井伊谷陣屋に勤め、慶長8〜10年の3ヶ年間で井伊谷筋の年貢8148石5升を徴税した。 |
| 〃 | 〃 〃 | 龍潭寺領96石7斗5升を家康から安堵された。 |
| 1604 | 〃 9 | 遠州に総地検が実施された。 |
| 〃 | 〃 〃 | 家康より寺社領として、二宮神社4石5斗・同神主屋敷1石7斗・井伊大明神2石1斗・明円寺(現晋光寺)2石8斗・興禅庵9斗・龍潭寺(含円通寺)84石・妙雲寺2石8斗・正楽寺15石・方広寺49石5斗(その他略)の黒印状が下付された。 |
| 1606 | 〃 11 | 三岳村は15軒であった。 |
| 1609 | 〃 14 | 上市場村・下市場村・中市場村・谷津村・上野村・一の沢村・北岡村が合併して、井伊谷村になる。 |
| 1610 | 〃 15 | 龍潭寺四世悦岫永怡(えっしゅうえいい・信長の子)が大本山妙心寺住持職を拝命し2期めた。 信長から悦岫永怡に与えられた建蓋禾目天目茶碗は町指定文化財。 |
| 1615 | 豊臣氏の滅亡 |