1−0.香西氏以前

 

 父方:藤原家成((1107-1154)現四条家などの祖)。鳥羽上皇の寵臣。平清盛義母(池禅尼)の従兄弟にあたる。

    「平家物語」に登場する。

  

  (系図:鎌足−不比等−房前−魚名−末茂−総継−直道−連茂−佐忠−時明−頼任−隆経−顕季−家保−家成

   摂関家は房前の子 真楯の子孫)

 

  (参考)詞花和歌集に、左衛門督家成の詠歌2首あり。

 

       春夏とそらやはかはる秋のよの月しもいかて照まさるらん

       いろいろにそむる時雨にもみちははあらそひかねてちりはてにけり

 

 母方:綾大領貞宣の娘(綾氏は日本武尊の孫より始まるとされる)

 

 子孫:章隆−資高−資光−信資−資村

 

 

----------付記-----------------------------------------------------------------------------------------------

「足利一門守護発展史の研究」小川信著(吉川弘文館)によると、

 

 (上記所伝は)にわかに信じ得ないとしても、(中略)香西氏が古来の讃岐在庁であったことは事実と思われる。

 

という説が述べられている。

以上をまとめると、

 

香西氏は、遅くとも平安時代後期には讃岐国で確固たる権力基盤を築いていた家柄である。

 

ということが言えると思われる。

 

 

1−1.香西氏の始祖

 

 讃岐藤原氏一族の資村。

 1221年承久の乱で鎌倉幕府側に。以後、各種史料に香西氏 の記事が散見される。

 

 

1−2.「香川史学」第17号

 

 以下、「香川史学」第17号『細川家内衆香西氏の年譜ー香西又六の山城守護代任命までー』より抜粋

 

 

1.建武四年(1337)六月二十日

  讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣することを伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。

(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810ページ 財団法人鎌田共済会郷土博物館所蔵乾板写真により日付を訂正。)

[顕氏は、頼春のいとこであり、定禅の兄弟、奥州守護家]

<1336年室町幕府成立。後醍醐天皇吉野へ移り南北朝分立 1337年妙心寺開山。元朝末期。英仏百年戦争開始>    

 

 

 

2.正平六年(1351)十二月十五日

  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。

(「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』113ページ 県史820ページ)

[頼春は頼之、頼有、頼元、詮春、満之らの父]

<1350年観応の擾乱 1351年夢窓疎石没。中国紅巾の乱起こる>    

 

 

 

3.観応三年(1352)四月二十日

  足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。

(「肥後細川家文書」同前60,61ページ 県史821ページ)

[頼有は、現細川家(熊本県)の祖である和泉上守護家祖頼長の父]

<1352年足利直義毒殺される、細川顕氏没、1353年ボッカチオ『デカメロン』を完成。前後ヨーロッパ大陸で黒死病流行>

 

 

 

4.応永十九年(1412)

  この年、香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香西郡坂田郷の所務代官職を年貢一七〇貫文で請け負う。

(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26ページ 県史990ページ)

 

<1411年明との通交中絶、大地震あり 1412年細川満元管領に。南蛮船若狭に来る 1413年伊達持宗ら陸奥大仏城に挙兵>

 

 

 

 

5.応永二十一年(1414)七月二十九日

  室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之二十、255ページ)

 

 

6.応永二十一年(1414)十二月八日

 管領細川満元、法楽和歌会を催し、百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺へ納める。百首和歌中に香西常建・同元資の詠歌あり。(「白峰寺文書」『大日本史料』第七編之二十、434-470ページ)

[満元は頼元の子]

 

<1414年コンスタンツ宗教会議 1415年上杉禅秀、持氏の怒りに触れ隠退>

 

 

 

 

7.応永二十三年(1416)八月二十三日

 丹波守護代香西入道常建、同国大山荘領家方の後小松上皇御所造営段銭を免除し、催促を止めることを三上三郎左衛門尉に命ずる。(「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之二十五、30・31ページ)

 

<1416年上杉禅秀の乱 1417年足利義量元服>

 

 

 

 

8.応永二十七年(1420)四月十九日

 丹波守護細川満元、同国六人部・弓削・豊富・瓦屋南北各荘の守護役免除を守護代香西豊前入道常建に命ずる。

(「天龍寺重書目録」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

 

<1420年朝鮮使節宋希mが訪日(老松堂日本行録の著者) 1421年明が北京に遷都>

 

 

 

 

9.応永二十九年(1422)三月二十七日

 丹波守護代香西常建死去。 (「康富記」『増補史料大成』本、一巻176ページ)原文は以下のとおり。

細川右京大夫(満元)内者香西今日死去、丹波国守護代也、六十一云々、」

 

<1421年管領細川満元から畠山満家に交代 1423年義持征夷大将軍を辞し、義量これに代る>

 

 

 

 

10.応永三十二年(1425)十二月晦日

 丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年三月四日、元資、籾井民部に施行する。

(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 資料編』232ページ)

 

<1425年足利義量没。足利持氏、義持の猶子になることを請う。京都強震>

 

 

 

 

11.応永三十三年(1426)六月十三日

 丹波守護代元資 、守護満元の命により、祗園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。

(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92ページ)

 

<1426年 6月京都地震>

 

 

 

12.応永三十三年(1426)七月二十日

 丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・并に八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。

(「上杉家文書」『大日本古文書』 上杉家文書一巻55ページ)

 

<1426年10月細川満元没 1428年1月足利義持没、籤により義教が将軍に>

 

 

 

 

13.永享二年(1430)五月十二日

 丹波守護 代、法金剛院領同国主殿保の粽持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。

(「仁和寺文書」 東京大学史料編纂所所蔵影写本)

 

<1428年9月正長の土一揆 1429年1月播磨の国一揆、3月義教征夷大将軍に ジャンヌ・ダルク、オルレアンの包囲を解く>

 

 

 

 

14.永享三年(1431)七月二十四日

  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。

(「満済准后日記」 『続群書類従』本、下巻270ページ)原文は以下のとおり。

右京太夫(持之)申、丹波守護代事申入処、此間守護代香西政道以外無正体間、可切諌由被仰了、如此厳密沙汰尤御本意云々、」

[持之は満元の子、兄弟に典厩家祖持賢]

 

 

15.永享三年(1431)九月六日

  香西豊前入道常慶(元資)、 清水神護寺より寺領讃岐国坂田郷の年貢未進を訴えられる。この日、幕府は神護寺の主張を認め、「其の上、彼の常慶においては御折檻の間、旁以って御沙汰の限りにあらず」として、常慶の代官職を罷免し寺家の直務とする判決を下す。(「 御前落居記録」前出)

同書の注記及び満済准后日記同年十一月二十八日条によれば、讃岐守護細川持之は坂田郷は「武州(細川頼之)以来、他知行これ無」き由を満済に説き、直務を止めるよう懇願し、その斡旋により、代官を交代させることで将軍の了解を取り付け、十二月十日、原判決は破棄された。

 

<1431年京畿飢饉 ジャンヌ・ダルク処刑 1432年10月細川持之管領に>

 

 

 

 

16.嘉吉元年(1441)十月

  守護料所讃岐国三野郡仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。

(「仁尾賀茂神社文書」県史116ページ)

 

 

17.嘉吉元年(1441)七月〜二年十月

  仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門所見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114-116ページ )

 

<1441年6月将軍義教殺害される 8月嘉吉の土一揆>

 

 

 

 

18.嘉吉三年(1443)五月二十一日

  摂津国住吉郡守護代香西五郎右衛門尉之長、万里少路家領の御厨子所率分関所のうち同郡堺北荘分の警護を得分五分の一で請け負う。得分の半分は本所万里少路家が、残り半分は関所の半分を請け負った細川持之の後家がそれぞれ負担する。なお、同年六月一日の持之後家阿茶子書状案に「かうさいの五郎ゑもん」と見える。

(「建内記」 『大日本記録』本、六巻59・60ページ、69-71ページ)

 

<1442年8月細川持之没 1443年7月将軍義勝没、8月世阿弥没(81歳) 1445年3月細川勝元管領に>

 

 

 

 

19.文安四年(1447)正月十九日

  興福寺大乗院門跡経覚、香西豊前入道に樽ニ荷等を贈る。

(「経覚私要抄」『史料纂集』本、一巻144ページ)

 

20.文安四年(1447)閏二月十六日

  大乗院門跡経覚、香西五郎左衛門に樽一荷等を贈る。五郎左衛門は、同月二十一日、同門跡領越前国坪江郷を年貢六十五貫文で請け負う。

(「経覚私要抄」『史料纂集』本、一巻166ページ)

 

<1449年4月足利義政征夷大将軍に>

 

 

 

 

21.宝徳三年(1451)十二月六日

  中原康富、鷹司家の使として和泉半国守護細川阿波守持久の守護代香西藤井の邸宅を訪問する。香西藤井は同年守護代に任命された。

(「康富記」『増補史料大成』本、三巻321ページ)

 

<1450年4月長尾景仲ら、足利成氏を襲う。成氏、江ノ島に逃れる>

 

 

 

 

22.寛正二年(1461)二月九日

  醍醐寺報恩院隆済、細川持之の弟右馬頭持賢に対し、被官人香西平五元資の寺領讃岐国阿野郡陶保の押領を訴える。同四年八月十九日の報恩院雑掌申状案によれば、元資持賢の斡旋により陶保の代官職を請け負っている。

(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書六巻293ページ、同六巻290ページ、県史547-550ページ)

 

<1457年4月太田道灌江戸城を築く、12月足利政知、堀越公方となる 1461年1月義政、細川勝元第にて畠山義就の追討を議する>

 

 

 

 

23.寛正三年(1462)十二月

  報恩院、再度、持賢に対し香西元資による陶保の押領を訴える。雑掌の申状案及び元資持賢の被官秋庭・有岡両氏に宛てた九月二十七日付けの書状によれば、陶保代官職は元資の曾祖父香西豊前入道−香西豊前−美濃守−元資と受け継がれている。

(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書六巻287ページ、同六巻294ページ、県史549-551ページ)

 

 

 

 

24.寛正六年(1465)八月二十九日

  摂津本郡守護細川勝元、同国多田荘内多田院領の即位段銭并に要脚段銭を同院造営のため寄付し、催促を停止することを本郡奉行人香西主計允・寺町三郎左衛門尉に命ずる。

(「多田院文書」川西市史編集専門委員会編『川西市史』第四巻395ページ)

 

<1465年11月日野富子、義尚を生む 1467年5月応仁の乱起こる>

 

 

 

 

25.文明八年(1476)二月二十七日

  摂津本郡守護代香西元忠、守護細川政元の命により、和泉国堺南荘と念仏寺領摂津国堺北荘につき段銭并に臨時課役を免除することを小守護代本荘上野介に命ずる。

(「開口神社文書」 東京大学史料編纂所所蔵影写本)

 

<1473年5月細川勝元没(44) 1476年4月遣明使竺芳妙茂ら、堺を出発する 1477年11月応仁の乱終わる>

 

 

 

 

26.文明十六年(1484)三月九日

  細川政元、犬追物を行う。香西孫五郎・同又五郎ら参加する。

(「薩藩旧記雑録前編」『大日本史料』第八編之十五、141,2ページ)

 

 

 

 

27.文明十七・十八年(1485,6)二月二十五日

  細川政元、北野社において法楽和歌会を催す。香西彦次郎長祐の詠歌あり。

(「二月二十五日一日千句御発句御脇第三」『大日本史料』第八編之十七、83ページ、同第八編之十八、220ページ)

 

<1485年12月山城の国一揆 1486年7月太田道灌没>

 

 

 

28.文明十八年(1486)七月二十五日

  細川政元、右京大夫の官途を許され、かつ管領に任ぜられた拝賀のため室町殿へ参る。香西又五郎ら五騎が伴衆を勤める。

(「蔭涼軒日録」『続史料大成』 本、二巻、374ページ)

 

 

 

29.文明十八年(1486)十一月二十七日

  細川九郎澄之、八条遍照院尭光の訴訟の事につき、香西五郎左衛門尉・清孫左衛門尉を両使として相国寺鹿苑院の蔭涼軒の軒主亀泉集証のもとへ遣わす。この件に関わって、五郎左衛門尉は翌月十四・十七両日も使者となっている。

(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、二巻、391・398・400ページ)

 

 

 

30.長享元年(1487)十二月十一日

  細川政元、近江国鈎(曲)の陣に参り、将軍足利義尚に謁する。香西五郎左衛門尉ら十五騎が、政元の伴衆を勤める。

(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻、38ページ、「伊勢家書」『大日本史料』第八編之二十一、78ページ)

 

 

 

31.長享二年(1488)六月二十四日

  足利義政臨席のもとに、相国寺普黄院において故足利義教の斎会を行う。細川政元、 門役を奉仕する。香西五郎左衛門尉、警護を勤める。

(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻、193ページ )

<1488年3月宗祇連歌会所奉行となる>

 

 

 

32.長享二年(1488)十月二十三日

  香西五郎左衛門尉細川政元の使として、相国寺崇寿院領和泉国堺南荘の代官職の件を蔭涼軒主に伝える。

(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻、269、230ページ )

 

 

 

33.長享二年(1488)十二月十三日

  香西五郎左衛門尉細川政元の使として、 真境和尚を鹿苑院後住に定める件につき蔭涼軒主の意向を尋ねる。同月十七・二十四・二十七の各日条も同じ。

(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻、293、296、301、304ページ )

 

 

 

34.長享三年(1489)正月二十日

  細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)、牟礼次郎ら参加する。

(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』第八編之二十八、198ページ )

<1489年3月足利義尚没(25)>

 

 

 

35.長享三年(1489)七月三日

  細川政国、飛鳥井雅親・細川政元并に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六、牟礼次郎ら参加する。

(「蔭涼軒日録」『続史料大成』 本、三巻、437ページ )

 

 

36.長享三年(1489)八月十二日

  明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』 本、三巻、470ページ ) 「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

 

 

37.長享三年(1489)八月十三日
   細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。
(「蔭涼軒日録」『続史料大成』三巻472-3ページ)

 

38.延徳二年(1490)五月十四日
   細川政元の命により内衆物部神六が幕府奉公衆上野玄蕃頭の扶持人を討ち取ったため、玄蕃頭は神六を討とうとして争いが生じ、政元被官の大平・長塩両氏とともに「牟礼・高西(香西)之一党」が玄蕃頭の宿所に攻め寄せる。
(『多聞院日記』一巻138ページ)
 

<1490年1月足利義政没(55) 12月畠山義就没>

 


 

39.延徳二年(1490)九月九日
   細川政元母山名氏、奈良・長谷に参詣する。香西五郎左衛門・同忠兵衛・鴨居元高・行吉ら御供する。
(「北野社家日記」『史料編纂』本、二巻132ページ、『多聞院日記』五巻142ページ)

 

40.延徳三年(1491)三月三日
   細川政元、奥州へ赴く。香西又六・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。
(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304ページ)

 

41.延徳三年(1491)五月四日
   香西五郎左衛門尉細川政元の使として蔭涼軒を訪れる。
(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻361ページ)

 

42.延徳三年(1491)八月十四日
   将軍足利義材、来る二十七日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は二十六日に比叡の辻へ出陣。「両香西」(又六と五郎左衛門尉)ら八騎は留守衆として在京する。
(「蔭涼軒日録」同前、四巻442ページ)

 

43.延徳三年(1491)八月十六日
   細川政元、相国寺徳渓軒を訪問する。香西又六・牟礼若衆二人ら九人座敷に招かれる。
(「蔭涼軒日録」同前、四巻443ページ)

 

44.延徳四年(1492)三月十四日
   細川政元、丹波国へ進発する。牟礼・高西(香西)又六ら少々を伴う。
(『多聞院日記』五巻166ページ)

 

45.延徳四年(1492)三月二十八日
   細川政元被官庄伊豆守元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死 し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
(「蔭涼軒日録」同前、五巻576ページ)

 

46.延徳四年(1492)四月四日
   細川政元、奈良・長谷へ参詣する。香西又六・牟礼兄弟ら六騎を伴う。
(「大乗院寺社雑事記」『続史料大成』本、十巻153ページ)

 

47.延徳四年(1492)五月四日
   香西氏、堺の郡代を勤める。
(「大乗院寺社雑事記」『続史料大成』本、十巻162ページ)

 

48.延徳四年(1492)六月十日
   牟礼次郎と物部氏とが喧嘩し、香西一党と安富氏は牟礼方に、香川・薬師寺両氏は物部方にそれぞれ味方する。細川政元の成敗により落着する。
(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻132ページ、「北野社家日記」『史料編纂』本、三巻178ページ)

 

49.明応元年(1492)八月四日
   香西千寿丸、鴨居美濃守元高の推挙により、妙法院領讃岐国香東郡野原荘の年貢を請け負う。翌年二月十日、元高のもとより年貢の残り二千疋が届く。
(「北野社家日記」『史料編纂』本、三巻209ページ、四巻33ページ)

 

50.明応元年(1492)八月十日
   香西仲兵衛尉長秋、南御所(室町将軍家の女性で京都・宝鏡寺内の尼寺大慈院へ入った者をいう)の料所讃岐国阿野郡南条山西分の代官職を年貢六五貫文で請け負い、知行分の摂津国島上郡内真上村地頭職を担保とする。
(「宝鏡寺文書」県史623ページ)

 

51.明応二年(1493)六月十八日
  蔭涼軒主のもとを訪れた羽田源左衛門が讃岐国の情勢を伝える。なかに香西氏に関する部分あり。
(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻369ページ)
釈文:「讃岐国は十三郡なり、六郡は香川これを領するなり、寄子衆亦皆小分限なり、しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり、七郡は安富これを領す、国衆大分限の者惟れ多し、しかりと雖も香西党、首として皆各々三昧し、安富に相従わざる者惟れ多きなり、小豆島亦安富これを管すと云々 」
 

<1493年4月明応の政変、将軍職は足利義材が追われ足利義澄に代わる>


 

52.明応二年(1493)七月七日
   細川政元、犬追物を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。
(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻380ページ)

 

53.明応二年(1493)八月二十三日
   細川政元、犬追物を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。
(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻405ページ)

 

54.明応六年(1497)十月
   香西又六、幕府より山城守護代に任命され、同月二十五日入部する。
(「後法興院記」『続史料大成』本、三巻330・1ページ)

 

<1495年4月北条早雲が小田原城を占拠、1496年5月日野富子没(57)、1507年6月細川政元没(42)、同8月香西又六元長没>

 

 

 

1−3.信長公記

 

 巻三(九)に下記の記述あり。(元亀元年(1570))

 

 

細川六郎殿・三好日向守・三好山城守・安宅・十河・篠原・岩成・松山・香西・三好為三・竜興・永井隼人、かくの如き衆八千ばかり、野田・福嶋に楯籠りこれある由候。

去程に、三好為三・香西両人は、御身方に参り、調略仕るべきの旨粗申合られ候といへども、近陣に用心きびしく、なり難く存知、八月二十八日夜中に、為三・香西天王寺へまいられ候。

 

 

(三好三人衆が、1570年に摂津野田、福嶋城に出兵してきた時の記述。前後の文脈によると、織田信長は八月二十六日、四天王寺に陣を置き、香西家は、三好為三とともに、織田方に内通して いたが、城内が厳重な警戒態勢のため、うまくいかないと判断し、二十八日に織田方の四天王寺にやって来た、との記述。この直後、九月半ばに、浅井、朝倉勢が京都付近に出兵してきて、織田勢は大坂より撤兵を余儀無くされる)

 

(「南海治乱記」によると、このとき福嶋城内で、香西伊賀守佳清が疱瘡に罹り、失明している)

 

(これとほぼ同じ内容の記述が、司馬遼太郎「播磨灘物語」の‐潮の流れ‐という章に存在する)

 

 

 

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