第十五章
  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

一般訳は
「顛倒した夢想妄想から遠く離れ、涅槃の境地に辿り着く」
などという直訳が多いようだ。
そんな境地はツマランだろうなぁ。
少なくてもワシはツマラン。

夢想も妄想も無いような人とは付き合いたくない。
ロボトミー手術して理想郷を作ろうとした物語があった。
バカな感情が無く、マジメなロボットのような人々の国。
夢は見ない。
空想はしない。
ワシなら、そんな人とは付き合いたくない。

ブッちゃんもゲンちゃんも、そんな人とは違う。
夢想空想妄想大好き人間だろう。
イタズラ坊主だぜ。
夢想だらけだ。
明るい未来を夢想して経を説いているんだ。
キマジメな修行に明け暮れると、幸せにはなれない。
夢想や空想や妄想が適当にあってこそ、愉しい人生だぜ。

通常訳は間違いだろう。
無理もないのだ。
誰も涅槃に行った事がないのだ。
だから、そんなツマラン訳になる。
夢も希望も無い、涅槃になる。

涅槃は、そんな無味乾燥した境地じゃないだろ。
そんな所には行きたくなくなるから。
自分で行った事も無いのに、決め付ける。
涅槃には恐れも、迷いも、夢想もない。

「無」の意味を勘違いしているからだ。
「何も無い」のが「無」だと思っている。
だから涅槃が無味乾燥の境地になる。
「無い」と訳すと、経が観えなくなる。
心経は「空」と「無」の訳し方で姿を現す。

知ったかぶりで解説している人達がいる。
もちろんワシもその中の一人だ。
い、いや、ワシは知ったかぶりじゃない。
最初から独善迷説だといってる。
決して謙遜じゃないぞ。
誇張でも斜に構えたわけでもない。

経を読むのではない。
経を記した人(ゲンちゃん)を感じるのだ。
経を説いた人(ブッちゃん)に共鳴するのだ。
同じ人間だもの、できるさ。
ただし・・・正誤真偽は問わないぜ。

評価としては偉人だろう。
だが優しいオッサンには変わりない。
衆生やケモノや妖怪の苦しみを軽減したいのだ。
難しい屁理屈はいらない。
ならば、誰だって仏陀や玄奘に共鳴できる。
誰もが共鳴できる柔らかさが、偉人という意味なのだ。
一部の頭でっかちが理屈で解説する人達じゃないぜ。

誰かが言ってたなぁ。
「生死即涅槃」ついでに「煩悩即菩提」
こっちのほうがワシの性に合っている。
愚かな衆生のワシには合っている。
そして、ブッちゃんはワシ等の為に説いてくれた。

生きていれば、そこは涅槃でもある。
気づくか、気づかないかの違いだ。
特別な修行も精進も必要ない。
魂は自然に柔らかくなる。
何度も生死を繰り返して。

それでも、苦しむのは嫌だろう。
それを観るのも、忍びない。
だからブッちゃんは経を説いた。
涅槃の悦びを少しでも味わえるようにと。
要は本人次第なのだ。
だから、万人に万物に経は活かせる。

「顛倒夢想」の訳し方で意味が正反対になる。
「夢想のような転倒した心」というのが一般的。
ワシは独善でヒネクレているから、
「転倒した夢想」つまり「キマジメな心」と訳す。
「顛倒夢想」を素直に訳せばワシに近いと思うぞ。

涅槃にはどちらが溢れているか?
夢想の無いキマジメな心ばかり?
夢や空想や希望が沢山ある境地?
自由は夢と空想で溢れていると思うぜ。
そして、ブッちゃんは自由の素晴しさを説いている。
「空と無」で・・・。

それにしても夢想の転倒した心という表現はいいなぁ。
夢想の反対の心・・・。
「キマジメ」と直接いうより味がある。
優しさもある。
ワシのように「キマジメ」をからかうのは優しさが足りない。

ゲンちゃん(玄奘)は高僧だ。
だからイタズラ坊主だ。
ここでもヒネクレた(優しい)ワナを仕掛けた。
この文節のとらえかたで涅槃が変わる。
それぞれが、どんな涅槃を想像し創造するか?
クスクス笑いながら心経を書いたのだろうなぁ。

ワナは、ほとんどが落ちるように仕掛ける。
そして・・・見事に、ほとんどが落ちた・・・。
でも、これを見破るには知識はいらない。
堅苦しい理屈もいらない。
素直にみれば、判るように書いてある。
「夢想の反対(転倒)などとは遠く離れた境地だぜ」
(つまり、夢想が沢山ある境地だぜ)

だが心経は大般若経という難しいお経のエッセンスだ。
だから、きっと難しい真理が濃く詰まっているに違いない。
そうだ、そうに違いない・・・
そう思った解説者達は、自分や他人の知識をフル稼動して訳す。
そして、見事にワナにはまる・・・。
この世の仕組みは、知識じゃ無ぇ、理屈じゃ無ぇといっているのに・・・。
例えれば、長屋の八っつあんや熊さんに説いているんだぜ。

涅槃は、何もかも悟りきった人がいる境地じゃない。
そんな人は・・・いない。
五万歩譲っても、ほとんど、いない・・・。
対象者がいない相手に経を説くほど、ブッちゃんはボケてないぜ。
悟りきった境地だ、と解説する人だって悟った事は無いんだぜ。
そんな人相手に、ゲンちゃんも心経を書いたわけじゃないぜ。

心経が何故あるのか、もっと素直に観よう。
誰を対象にしているのか、素直に想像しよう。
衆生(衆生意外の人間なんていないけど・・・)や
ケモノや妖怪達の悩み苦しみの為に説いたし書いた。
当たり前じゃないかぁ。

それなら、大難し理屈や小難しい解説は間違いだろう。
八っつあんや熊さんが納得する話が経だろうよ。
夢想の無い境地が涅槃なら、誰も行きたがらない。
だから、夢想を遠く離れた境地というのは間違い訳だ。

ここでも「一切」が挿入されている。
どうやらゲンちゃんが勝手に入れたらしい。
原文には「一切」は使われてないらしい。
ならば、特に言いたい部分なんだろうな。

「涅槃の解釈を間違うなよ」
ゲンちゃんは優しいイタズラ坊主だ。
ワナを仕掛けたけど、注意書きもしておいた。
なのに「一切」を単なる強調語と訳してしまう。
頭のいい人達って、素直じゃ無ぇなぁ・・・。

「夢も空想も無い事(転倒)は、全て(一)幻(切)だ。
そんな心とは、おさらばすれば(遠離)いいさ。
そうすれば、生きているだけで涅槃ってもんだ
夢や空想や希望があるから、生きていけるんだぜ」
どうでぇ。
この訳の方がマシってもんだろ。

優れた経は多大な意味を内臓す。
心経も多種深遠な意味を内臓している。
だから解釈もいろいろ出来る。
出来るのに、既存の訳は偏りすぎている。
大体が同じような訳になってしまっている。

ワシ的訳はかなりコジツケてある。
そんな事は承知の上だ。
それでも、既存よりは役に立つと自負している。
悟りを目指す人の割合がどれだけいるか?
挙句に境地に辿り着ける人がいるのか?

人はそんなに優れてないのだ。
不完全で、不出来な魂なのだ。
更に不自由な肉体を、まとっているのだ。
そういう人に役立つ経ならば、生活に添ってだ。
暮らしに活かせなければ意味が無い。
思い上がった人達用の解釈は意味が無いのだ。

涅槃が特殊な境地だと仮定して。
そこに至る経が「大般若経」として。
今まで、幾人の人が行けたのか?
涅槃に行けた人(僧が主?)がいた、と仮定して。
その人は超エリート(選ばれた存在)なのか?
ある特殊な人にしか役立たないような、経か?
「般若心経」は、そんなチンケな経か?

ワシは思う。
キマジメな字面の訳は心経をバカにしている。
「煩悩を無くせば涅槃に辿り着ける」
こんな言葉は役に立たない。
「心を綺麗にすれば天国に行ける」
人が生きている事実を無視した言葉だ。
理屈だけの上辺だけの訳は害になる。

「毎日、生きていれば立派だぜ。
無理やり立派になるなよ。
悟ったりすると、涅槃じゃなくなるぞ。
涅槃は、普通の暮らしの中にあるんだぜ。」
ブッちゃんは、優しく、そう言ったと思う。

ワシ的訳。
「生きる、暮らすってのは毎日の事だ。
楽に生きる、元気に暮らすにはコツがあるぜ。
嬉しい事もあるけど、辛い苦しい事もあるよな。
そんな事ばかりだと滅入るよなぁ。
毎日の現実ばかり見ると、未来を暗くしちまうのさ。

だから夢があり、空想があるのさ。
夢や空想は現実からの逃避でも空しいモノでも無ぇぞ。
使い方さ。
毎日を明るく生きる為に使えばいいのさ。
時には夢や空想が現実にだってなる。

夢や空想を捨ててしまうなよ。
正しさや真実を追いかけると夢を失うぞ。
夢から遠く離れると、全てパァになるぜ。
生きているって事の意味が無くなるんだ。」

「正しさや真実だけ追いかける心から離れようぜ。
夢やアイマイなモノを大切にしろよな。
夢を持つから明るくなれる。
想いがあるから、温かくなる。

慈悲というのは、アイマイを大切にする心から生まれるのさ。
未熟な心を、そっと抱いてあげるのが慈悲ってもんだ。
未熟なのは、お互い様だぜ。
真実追求の心からは慈悲は生まれない。
それは非情ってヤツだ。

夢や想いや慈悲を持てば、そこが涅槃だ。
お互いに慈悲があれば、そこは極楽だ。
なにも遥か彼方にあるわけじゃ無ぇ。
毎日の生活の中に涅槃があるのさ。
(あまり真実追求にこだわるなよ、弟子達・・・)」

 

第十五章は終りです。ご苦労様でした
続いて第十六章に進む
また目次に戻って選ぶ