尾上郷川のこと
--昭和初期と平成の谷--

| この('05)お盆は、ありがたいことにK仙人に付き合ってもらえたので、いままでなかなか機会に恵まれなかった白山の尾上郷川へ行けることになった。出発間際になって天候が不安定になり、にわか雨、雷という予報に、稜線まで抜け出ることができるかどうか怪しいものがあったが、行ってみなければどうにもならないことも確かだ。 結果から言うと、さあこれからという1日目夕刻、モミクラ谷の出合で悪天に捕まり、雷雨をやり過ごした後、来た谷をとぼとぼ引き返したのだが、まあそれなりに、増水にビクビクしたり、燻るたき火と土砂降りの雨と雷の二夜を楽しんだりもした。行き帰りの日だけは無情に晴れだったのが、いかにも悔しかったけれど。 と、ここまでなら、いつもよくある失敗山行なわけで、誰かに報告することでもなんでもないのだが、帰ってからちょっと面白い本を見つけた。昭和4年に尾上郷川を遡った紀行である。今回の山行の視点から、この紀行文を読んでみるのも面白いかもしれない。 書名は、桑原武夫著「登山の文化史」(平凡社ライブラリー)。そのなかの「尾上郷川と中ノ川」(p.64-90)という紀行文だ。著者については、今更説明の必要もあるまい。フランス文学者で、かつ京大学士山岳会の初期メンバーとして、ヒマラヤ極地登山を推進し、一つの時代を画した人達の一人である('58カラコルム チョゴリザ登頂隊長、故人)。 エライお方の文章だから、この紀行を取り上げるということではなく、昭和初期の山行きがどんなものだったのか、そこに興味を引かれたからであることを、念のためお断りしておきたい。 桑原一行の山行期間は、1929年8月2日〜12日。メンバーは、 ・一行 田中喜左衛門、山本慶次郎、葉谷忠三郎、多田政忠、桑原武夫(当時24歳) ・人夫 宇治長次郎、先祖栄治、山本重松 ・地図 陸測5万分ノ1、白鳥、白山、白川村、白峰 となっている。尾上郷川から別山、室堂を越え、北面の中ノ川を下っているので、地図は5万図でも4葉を要している。このころは国土地理院ではなく、陸地測量部の発行だったのだと、いらぬ感心をしてしまう。メンバー名も何やら武士のような名が連なっている。人夫には...、おっとここにも著名人が名を連ねている。今なら人夫の賃金だけでも、目の玉が飛び出る程高くつくことであろうことは、想像に難くない。 |

| アプローチ 今なら、暗いうちに車で一っ走りの区間も、昭和4年ではそうは行かない。 8/2 一行は京都を早朝発、越美線(後の越美南線、3セク長良川鉄道)深戸着午後3時。深戸駅前から乗合バスで高鷲へ5時半着。ここで3人乗りのフォードに乗り継ぎ、当然満員状態で正ヶ洞へ。ここで旅館泊。 越美線終着の深戸といえば、郡上八幡のまだ手前である。当時は越美線は深戸までが開通していたのだ。(ちなみにこの年1929年秋、郡上八幡まで開通した。) 8/3 7時半すぎ、正ヶ洞発。ここからは当然徒歩である。改修されたばかりの赤土の幅広い道を蛭ヶ野へ。当時、蛭ヶ野北端には旅行者のための頑丈な雪中避難小屋があった。ここで休憩。一行の捨てた菓子の包み紙を、地元新開地集落の子供達が珍しそうに拾うというエピソードが記されている。蛭ヶ野から下り、牧戸で昼食と午睡に2時間半。さらに荘川沿いに北へ進み、中野の林屋旅館着、夕刻5時半。休憩もふくめてだが、正ヶ洞から中野まで、徒歩10時間かかっている。中野地区といえば、現在御母衣ダム湖岸の白川街道沿いに移植された荘川桜がもともとあったところだ。 8/4 停滞。中野で落ち合うはずであった宇治長次郎らが、手違いで下流の平瀬にいたため、連絡がとれなかったのである。中野で米1斗2升、味噌1貫、草蛙10足を調達。 尾上郷川へ 8/5 平瀬から来た越中の人夫達3人と合流後、中野発9時半すぎ。海上(かいしょう)を過ぎ、旧尾神村の尾神橋の袂から尾上郷川へ降りる。穏やかな静流を4度ほど徒渉すると、両岸が迫ってくる。小黒谷の手前で上を見上げると吊橋がかかっていて、こともあろうに自転車が走っている。唖然とした一行は、陸測の地図にはなかったのであろう上の道に出るが、この道はのちほど、大黒谷にできた製材所の製品搬出のための道だったことを知る。 |
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サブ谷の上流は大岩が行く手を阻む
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モミクラ谷出合左岸にて
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| 8/8 9時半発。カラスノ谷に入ると水量減少して遡行は格段に容易となる。やがて残雪が断続。11時半くらいから、カラスノ谷の滝場にさしかかる。以後8つばかり滝が連続し、一つを除き、おおむね左岸を使って越えて行く。滝場がすむとますます谷は傾斜が増し、最後に大平壁の左際の草付をピッケル頼りに越え、5時半、尾根に立つ。尾根上の、人が踏みこしらえた道が懐かしかったという。その日は、体調を崩した者もいたので、御手洗池の畔で泊まる。池の水で炊いた米は、プランクトンのおかげで赤く色づき、いいダシが出たそうな。 一行は、翌日(9日)には静かな尾上郷とは打って変わった喧噪の白山室堂に泊まり、米、味噌、塩鮭などをもとめた後、8/10から12日にかけて中ノ川を下り、金沢へ出て長い山旅を終える。 後半の中ノ川については私自身にとっても思い出深い谷なので、いづれまた別の機会にぜひ触れたいが、盛夏の10日間という、今にして思えば大きなスケールの山行に、登山本来の生き生きしたエッセンスを見出すのは、私だけだろうか? クルマから降りたらすぐに、核心部に到達したい、山はゲレンデだ、という便利最優先の行き方を続けることは、何か自分自身のなかのたいせつな「何か」をじわじわ失い続けることになっていはしないだろうか? 今、過去の紀行を読み、ほんの少しだが尾上郷川の素晴らしい部分に触れてみて思うのは、本流取水堰堤から上部の残された自然の豊かさ、ありがたさのことだ。一雨降れば、たちまち孤立してしまうことを考えさせられる程、自然そのままの谷が、今も残されている。そして付け加えると、林道がある堰堤から下流の荒廃は、上部と対照的なものがある。特に本流カラス谷上部左岸や大黒谷、コブ谷付近は、皆伐状態の斜面が目立つ。一方で林道をクルマを走らせながら、そういうことを口走る自分自身もいい気なものだ、という気もすることも確かだ。昔がすべてよかった、というつもりはないが、すくなくとも「山登り」という立場からは、今を生きる私たちは、よりそのことを考え、実践する環境を得るのが困難になっていることを痛感させられる。 とにかく、尾上郷川を目指す者なら、事前にこの桑原紀行に目を通し、70有余年の時空を感じながら、谷の自然に触れるのもなかなか興味ある、このうえない贅沢な楽しみなのだ。('05.9.1記) |
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ブナゴヤ谷二俣手前は4mほどの滝だが被っている。越えるなら道具が要るだろう
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*尾上郷川遡行に関するノート 1 アプローチの尾上郷林道入り口は、常時封鎖されているようだ。我々も山仕事の人に鍵番号を教えてもらってようやくゲートを通ることができた。しかし、何故か多数のレジャー釣り師の車が、林道内に立ち入っていた。(鍵番号を教えてもらう前、我々は取水堰堤までの--当然走行可能と高を括っていた身には絶望的とも言える--丸1日の林道歩きを考え、他の谷に転進することを、本気で考えていたことを白状しておこう。少なくとも自分にとって、便利さ、すなわち「文明」に頼りきることが何を意味するのか、これ一つとっても明白だ。) 2 本流取水堰堤を起点にカラスノ谷を遡行する場合、下降路はブナゴヤ谷を利用することになる。ブナゴヤ谷は本流出合からすぐに二俣になっており、両岸壁の発達したゴルジュとなって、高巻きしないとどちらの枝谷へも入れない。一ノ峰下の鞍部から右又を下る場合は、ゴルジュ手前から左岸側尾根を乗り越す。神鳩避難小屋付近から左又を下る場合は、同じく高く立った末端壁を避けるため右岸を巻く必要がある。ゴルジュを突破する場合は、相応の装備と時間が必要となるだろう。 |
