
歴史学研究会と「田中上奏文」 藤井一行 (2008.12.22)
ーー犬丸義一氏の幻の卒論『満州事変原因論』の先駆性
§ 1 『歴史学研究』投稿<研究ノート>の運命
トロツキーの日本論を研究する過程で、「田中上奏文」(別名「田中メモランダム」)という文書の存在を知ったとき、その由来や性格を調べるた
めにまず注目したのは、歴史学研究会につらなる日本史研究者たちの著作や論文であった。歴史学研究会は日本の良識ある歴史
研究者たちで組織されたもっとも権威ある学会と見なしていたからである。
しかし歴史学研究会自身が編纂した『太平洋戦争史』をはじめとして、「田中上奏文」に論及ないし言及している研究者たちの諸著作に接して、多大な疑問を
おぼえざるをえなかった。そのほとんどが「田中上奏文」を<偽書>として位置づけていたからである。その点では、歴史学研究会を<自虐史観>としてとがめ
る<自由主義史観>論者と軌を一にしていた。
そしてさらに不思議なことは、いずれの側も「田中上奏文」を<偽書>と認定するための必要充分条件をあげていなかったということである。
そこで私は、「田中上奏文」
=偽書説を検証するーーテキスト研究から見えてくるもの」という一文を草して
『歴史学研究』誌に投稿した。それをやや改訂した論考をこちらにアップロードしておいた。
拙稿は採用されなかった。採否の権利は編集委員会にあるので、そのことに異を唱えるものではない。しかし、その不採用の理由=審査結果は納得のいくもの
ではなかった。とても歴史家集団の学問的審査とは思えないものであった。
歴史学研究会編集委員会の名義で私に届けられた文書(以下「審査報告」という)の全文は別掲画像
文書のとおりである。
私の投稿論文の構成はつぎのようなものであった。
1 はじめに
2 中国系テキストーー『時事月報』の問題性
3 コミンテルン系テキストーー 中国系テキストとの比較検討
4 テキスト研究から見えてくる真実
全体を「研究ノート」の制限紙数の50枚(x400字)にまとめたが、そのうち、論考の意図を記した「はじめに」のうちの3ページほどの部分が査読で問
題にされた。それは歴史学研究会の新旧の『太平洋戦争史』における「田中上奏文」のあつかいにふれた部分である。現時点でなお「田中上奏文」問題の研究に
空白が残ったままであるという問題状況を指摘したつもりであった。
当該部分を次にかかげる。
「1 はじめに
いまからほぼ50年まえ、歴史学研究会が編者になって東洋経済新報社から刊行した『太平洋戦争史』(1953年)という5巻物の書物がある。その第1巻
の末尾に「田中義一大将の「上奏文」」という「資料」がのっていた。
だが編者は、その「資料」の出所や信憑性についていかなる説明も加えていなかった。それまで「怪文書」とか「偽書」と
かされていた文書であったにもかかわらずである。
その書物は1958年にソ連で、ウサミ・セイジロー監修で翻訳され刊行された(История войны на Тихом океане. В
5 т. Пер. с японс. Б.В.Поспелова; Под ред. Усами Сэдзиро. М.,
1958.)。日本の権威ある進歩的歴史家集団の刊行物であるだけに、そこに収録されていた「田中上奏文」がソ連で真書としてうけとめられたことは想像に
難くない。
それから20年ほど過ぎて1971年、 歴史学研究会編の新版『太平洋戦争史』が青 木書店から刊行された。ところが、そこには、 「田中上奏
文」は収録されていなかった。その問題にかんする説明はどこにもなかった。
もっとも、本文には「田中上奏文」という項目を設けて1ページあまりの記述を用意していた。筆者は藤井松一氏。氏は、田中内閣の満蒙にたいする積極政策
について協議したいわゆる「東方会議」の基本的方向が「田中上奏文」から逸脱するものでなかったとのべつつも、それは「細かい記述について事実の間違いが
多くあり、形式的にいっても上奏文にふさわしくなく、なにものかがつくりあげた偽書であると考えられる」としていた(p.139)。
いくつか問題ある。
第一に、ロシアでは、21世紀に入った現在でも、歴史学研究会編の『太平洋戦争史』の旧版が流布しており、公的な学術書でも「田中上奏文」が真書として
あつかわれているという事実がある。たとえば、ロシア科学アカデミーのアメリカ・カナダ研究所と国立人文科学大学世界政策学部が共同で刊行している『体系
国際関係史・1918-1991年』(Системная
история
международных отношений в четырех
томах.1918-1991)という4巻物の書物や、E・アーブロヴァの『東中国鉄道とロシアの中国移民の歴史(20世紀前半)』(История
КВЖД и российской эмиграций в Китае (первая половина ХХ века
.1999)という本である。
歴史学研究会やアサミ・セイジロー氏は、『太平洋戦争史』新版で「田中上奏文」が削除されている事実や削除の理由をソ連・ロシア側に知らせたのであろう
か? そこでは歴史研究者としての 国際的な責任が問われているように思う。
第二には、当然ながら史実の検証責任の問題があろう。『太平洋戦争史』新版では、「田中上奏文」について史料批判がおこなわれた形跡は見られない。
上記の筆者は、「田中上奏文」の内容が、その後の日本の中国侵略の政策を先取りしていることを指摘しつつも、その理由の究明に踏み込むことなく、また多
くの事実の間違いがあるとしつつもそれを個々に吟味することもなく、「偽書であると考えられる」と逃げてしまっている。
拙稿での課題は、先行研究者たちが踏み込まなかったそうした問題領域に切り込み、歴史の死角に光をあててみることである。」
(以下省略。省略部分はこちらのサイトで確認されたい。前記の投稿原稿には、誤記や出
典記載面での不備があったが、それも「審査報告」では指摘されているので、あえて未訂正のままかかげた。)
歴史学研究会編集委員会の「審査報告」は、拙稿の本文は一顧だにせず、上記のほんの数ページの、序論部分での歴史学研究会批判にのみ鉾先を向けた。
審査結果のどこがなぜ納得できなかったのかを以下に論じる。同時に新たな視点も示すことにする。
§ 2 歴史
学研究会編『太
平洋戦争史』(東洋経済新報社、第1巻、1953年)の問題性
歴史
学研究会編の旧版『太
平洋戦争史』(東洋経済新報社『太平洋戦争史』第1巻(1953年)の
1「満州事変」には、「田中上奏文」についてつぎのように記されている。
「この「東方会議」の
決定にもとづく田中首相の上奏文として中国側の手によって暴露されたものが、「田中メモランダム」といわれたものであ
る。それは「支那を征服するためには、われわれはまず満州蒙古を征服しなければならぬ 」という文句にはじまり、具体的な満蒙経営の方針について述べて
いる(資料参照)。これは日本帝国主義の侵略性を証明する文
書として世界的に喧伝された。しかし、文中の細かい記述について事実の間違があり、そのまま信
用できないが、先の森の談話と併せ考える時「東方会議」の決議の基本的方向を示すものとして屡々引合に出されるのも無理からぬことと言えよう。ことに「そ
の後に発生した東亜の事態と、これに伴う日本の行動とは、恰も田中覚書を教科書として進められたような状態となったので、この文書に対する疑惑は拭い去る
ことが困難となった」(重光葵『昭和の動乱』)」(pp.71-72)
その記述と、そこで参照をもとめられている巻末付録の「資料」」について、私は投稿論文で、編者が「その出所や信憑性についていかなる説
明も加えていない」と記したが、「審査報告」は、まず第一にそのことをとりあげ、つぎのよ
うに指摘している。
「しかし......本文71〜72頁で「田中上奏文」について触れられており、......文中の細かい記述について事実の
間違があり、そのまま信
用できない」という記述がなされていると(「審査報告」1)。
「審査報告」は、何を指摘しようとしているのだろうか? 資料の信憑性については「そのまま信用できない」としているのだがら、私の批判はあたらないと
言いたいかの
ようだ。
だが、はたしてこの一節は、「田中上奏文」を偽書と判定したものであろうか?
「田中上奏文」研
究者として歴史に名を残した稲生典
太郎はその一節について次のようにのべている。
「「上奏文」の日
本語訳文を資料
として掲げ、本文の中では真偽いずれともとれるような解説を
試みている」。(『東
アジアにおける不平等条約体制と近代日本』岩田書院、1995年、p.188)
文書自体の真偽については判断を保留していると読むのが適切ではないか? その信憑性について少なくとも明示的には説明を加えていないと理解すべきで
はないか?
私が、問題にしたのは「資料」そのものについてである。もし信用できない「資料」ならば、巻末の「資料」編の適当な箇所に、たとえばタイトルの
すぐあとにでもその旨を記すべきであろう。だがそこにはいかなる説明もない(「資料1+資料2
」)。
第一。「田中上奏文」にかんする『太平洋戦争史』の記述にある「文中の細かい記述について事実の間違」
とはいったい何を
さすと編集委員会では考えるのか? 参照をもとめられている「資料」の中のどのような記述を言うのか? 少なくとも、のちに、『太平洋戦争史』新版を含め
て、「田中上奏文」=偽書説の根拠とするような「細かい記述について事実の間違」
は、そこには見いだせないのである。その問題点にはあとで論及する。
第二に当該「資料」が「そのまま信用できない」ような「資料」であるならば、他の信用できるような資料とはなぜ同列にあつかって、わざわざ「資料」とし
て
収録したのか?
第三に、「資料」の出所を明記していないという私の指摘には頬被りしている。信用できるか否かにかかわらず、出所を示すのが歴史研究者としての責
任ではないか? なぜ出所を示していないのか。その事態を編集委員会は適切と見るのか? 歴史書としてはとがめられてしかるべきではないか?
私が調べたところではーーというより、そこの草稿を執筆した犬丸氏に提供を受けた史料から、「資料」は、『日本週報』所載のテキストと同じものであるこ
とが判明した。最初の部分だけを画像で示す(『日本週報』所載のテキスト)。上記「資
料」と突き
合わせて確認されたい。
しかし、当該『日本週報』は「特輯 世界の怪文書」と銘打ってあり、「解説」にも「実に
驚くべき
怪文書」
であると記されているのだ。そのような文書を歴史書に「資料」として収録するからには、少なくとも一言あってしかるべきであろう。たとえは、「1946年
に『日本週報』に「怪文
書」として発表された文書の再録であり、その真偽は不明である」とかの注解を加えて。
しかし、本来なら、テキスト・クリティークをおこなって、『日本週報』版のテキストのもとの原典をさがしだし、その信憑性をさぐるぐらいのことをしても
よかったのだ。
第四に、「審査報告」で言及している本文そのものについて言えば、それを「資料」と単純につなげて理解することはできないのだ。というのは、本文には確
かに「資料参照」とあるもの
の, そこに引用されている「田中上奏文」の一節は「資料」編のテキストと一致
しないのである。その違いをいかに説明するか? 本文では明らかに別のテキストを用いている。
私の調べでは、本文で引用されているのは、実はコミンテルン系テキストでイスクラ社が刊行したものだ。だ
から本文で「そのまま信用できない」とした記述が、
「資
料」を念頭においたものかどうか疑義が残るのである。
第五に、『太平洋戦争史』第1巻の第3章「満州事変」の「万宝山事件」には、日本帝国主義の侵略の尖兵の役割を負わされた在満朝鮮人の不幸な運命をのべる
にあたって、巻末
「資
料」の一部を引用している(p.118)。
それは何を意味するか? 当該章の筆者が問題の「資料」を「そのまま信用できない」根拠どころか、信用できる「史料」として使っていたということではな
いのか?
では、そうした一連の不整合はどうして起こったか?
§ 3 犬丸義一氏の先駆的業績
ここで草創期の歴史学研究会の舞台裏をかえりみる必要がある。すると犬丸義一氏の先駆的な働きが浮かび上がる。
氏の東大卒業論文「満州事変原因
論」のこと
である。昭和
24年に東大の国史学科に入学した氏は、昭和27年(1952年)2月に当該卒論を提
出した。かつて江口
圭一氏はその犬丸論文について、
「不
幸にも公表
される機会のなかったこのすぐれた研究」と評した(「田中上奏文の真偽」、『日本史研究』八五号、一九六五年九月、六四頁)。
犬丸氏はその卒論の序文に次のように記している。
「幸、歴史学研究会近代史部会に
「満州事変研究会」が十二月から発足した。今後このグループの人々と共に、先に述べた目標(対外戦争の悲劇の原因解明と
いうーー藤井)を追求したいと思っている。」
つまり、1951年12月に、歴史学研究会近代史部会に
「満州事変研究会」が生まれていたのである。そのことは、氏の卒論と、やがて刊行される
『太平洋戦争史』の中の「満州事変」部分との関連を予想させるもので
ある。
私は犬丸氏自身から氏の当該論文
を借
覧し、かつコピーとHP公表について快諾を得た。犬丸氏が大学に提出した自
筆原稿の一部を画像ファイル(4.7MB)で紹介する。55年前に万年筆で書かれた肉筆
原稿
である。画像のあちこちが汚れているのは仕方がない。
インターネット上のファイルという形ではじめて世に公表される機会をもちえたわけである。
犬丸論文は、次のような構成に
なっている(漢字は当用にあらためた)。200字原稿用紙で420ページ
にのぼる大作である。
序論 満州事変の前奏曲
第一章 田中上奏文と日本帝国主
義の侵略計画
第二章 張作霖爆殺事件
第三章 国内改造計画と満州事変
本論 満州事変の勃発と展開
第一章 九.一八爆破
第二章 満州事変の真相
第三章 九.一八以後の情勢
総括 満州事変の歴史的背景
注目されるのは、
「序論」の「第一章 田中上奏文と日本帝国主義の侵略計画」である。「田中上奏文」というものがあたかも「満州事変の前奏
曲」の最初の「序曲」として位置づけられている感があり、そこに筆者犬丸氏の固有の問題意識が示されているように思う。
「田中上奏文」研究史上の一大特
徴としては、いくつかある「田中上奏文」テキストの中で、コミンテルン系のテキスト(イスクラ版)を「田中
メモランダム全文として重要なもの」と
わざわざ特筆していることを指摘できる。抄録でなく、フルテキストであることを重視して卒論で依拠したのである。私の調べでは、コミンテルン系のテキスト
に注目して「田中
上奏文」について論及した者は今日にいたるまで氏を置いてほかにいない。また「田中上奏文と日本帝国主義の侵略計画」というタイトルは、このコミンテルン
系テキストが筆者の問題
意識にあたえた影響をも示していよう。
スターリン時代のことである。歴
史研究者を含む左翼にとってコミンテルンの権威が絶大だった時代である。犬丸氏がそれを重視したのは当然すぎるくらい当
然であろう。
しかし、氏はその記述を鵜呑みにしたり、贔屓の引き倒しになることはしなかった。
同時に氏は、中国系のテ
キストの抄録版も利用している。正確に言うと、岩淵辰雄『対支外交史論』(高山書院、昭和21年)
所収の「田中メモラ
ンダム」という文書である。
その時点で氏は、『日本週報』版
のテキストもまだ見ていないようであるし、岩淵テキストの原典の所在にも気づいていないようである。(そのことは後日、氏に面談して確認した。)
岩淵テキストについて言えば、岩淵は「「田中メモランダム」の抄録にさいし
て、それを偽書と見なし、そう判断するいくつかの根拠をあげていた。その岩淵版「「田
中メモランダム」のテキストは、『日本週報』版
のテキストとほぼ同じ時期に公にされているが、両者はかなり違っており、相互の依存関係は認められない。
岩淵は、当該書で「長文のもので優に一冊子を成すに足る」文書からの「抜抄」であることを記している(p.111)。
また「抜抄」冒頭には「昭和二年(民国十六年)七
月二十五日」という日付が記されている。この(民国十六年)という日付は『日
本週報』版テキストにはない。
両者ともテキストの出所を明らかにしていないが、岩淵版は、おそらく『支邦(ママ)人の観た日本の満蒙政策』という小冊子(以下『満鉄版』という)に収
録されている「田中
義一上日皇之奏章」というタイトル(同書目次)あるいは、「田中義一の上奏文(祕)」というタイトル(本文)の文書が出典と見られる。そこには冒頭に「昭
和二
年(民国十六年)七
月二十五日」とある。
(『満鉄版』p.19)それに、岩淵が引用する文言も『満
鉄版』のそれと一致している。
『太平洋戦争史』が出た時点では、コミンテルン系テキストのほかに、内容が必ずしも同じとは言えない、『日本週報』版テキストと岩淵版のテキストの二
種類があったわけだから、史料批判
が不可欠であったことは明らかである。
とくに岩淵版では、「田中メモランダム」が捏造文書であることを明らかにするような部分があり、一方、『日本週報』版テキストにはそれらが欠けているの
であ
るから、そのことについて検討する必要があったはずだ。少なくともなぜその部分が『日本週報』版テキストに欠けているのか、また岩淵の捏造説とその根拠は
妥当なのかを吟味する必要があったはずである。
犬丸論文に戻る。犬丸氏は、コミンテルン系テキストと岩淵テキストの両者に見られる虚偽記述に注目し、関連史料にもとづいて、その当否をみずから検証す
る。その結果、たとえば、故人であるはずの山縣有
朋が大正天皇が召集した御前会議
に出ていたとか、田中義一が上海で襲われたとかの記述が虚偽であることを確認する。そこから氏は、「よって「田中メモランダム」は田中首相自身の
記述せる上奏文であるということには疑問を感ぜざるを得ないのである。」とした。(No.46)
犬丸氏のその記述が、『太平洋戦争史』における「田中上奏文」関連の記述に反映したのだと私は考える。
『日本週報』版テキストには、つまりは『太平洋戦争史』巻末「資料」には
見られないのである。
犬丸氏も
岩淵があげる偽書根拠について吟味し、「田中メモランダム」に史実に
反する記述があることを認める。
たとえば、山県が大正天皇の召集の御前会議に出ていたと
か、田中義一がヨーロッパ旅行の帰国時に襲撃されたとかの史
実に反する記述。
偽書説
をなす者は普通
はそこで終わりにする。岩淵本もそうである。しかし、犬丸氏は違う。そこが氏の
真骨頂である。
むしろ氏は、「田中メモランダ
ム」にも
られているもろもろの真実に注目する。
まず「東方会議」の結論、とくに
「対支政策綱領」。そこでの森恪の立場。森にかんする山浦の論評。
「「東
方会議」の決定は、田中上奏文の内容とも同一思想内容である。従っ
て田中上奏文は「東方会議」の決定そのものではないにしても、「東方会議」との何等かの関係を想像させるのである。」(No.73-74)
氏の結論はこうである。
1 「所謂「田中上奏文」なるものは、田中自身の記述したものとは言えない。従って上奏文ではない。」
2 「だが然し、東方会議の決定とは略々同一内容のことを述べた文書であり、日本の支配階級の一つの意図を示している文書である。」
3 「田中自身の記述せるものではないが、田中自身はこの文書にある様な計画を抱いていた。」
(No.85-86)
犬丸氏は、「田中上奏文」に見られる虚と実の双方に注目し、そこに
虚偽記載があるにせよ、限りなく当時の支配層の意思を伝えた文書と判断し
ている。むしろ真書と感じているように私には思える。
さて、歴史学研究会編の『太平洋戦争史』第1巻の問題の「田中上奏文」関連の記述にもどる。それを再掲する。
「この「東方会議」の
決定にもとづく田中首相の上奏文として中国側の手によって暴露されたものが、「田中メモランダム」といわれたものであ
る。それは(A)「支那を征服するためには、われわれはまず満州蒙古を征服しなければならぬ」
という文句にはじまり、具体的な満蒙経営の方針について述べて
いる(資料参照)。これは日本帝国主義の侵略性を証明する文
書として世界的に喧伝された。しかし、(B)文中の細かい記述について事実
の間違があり、そのまま信
用できないが、先の森の談話と併せ考える時「東方会議」の決議の基本的方向を示すものとして屡々引合に出されるのも無理からぬことと言えよ
う。」
犬丸氏によれば、当該部分は、
当初、犬丸氏自身が執筆した(第一
次原稿)。そこで引用されている「田中メモランダム」の一節が、コミンテルン系テキスト(イスクラ版)になっているのは、そのことの証しで
もある。
しかし、氏はまもなくある政治的理由で、中国への<亡命>を余儀なくされる。その
ため別の人物が最終
稿の完成に責任をもつことになった。犬丸氏の記憶によれば、それは遠山茂樹氏であ
る。論旨はさほど変わっ
ていないが、圧縮されたという。
先の引用文中の(資料参照)という一句ならびに巻末掲載の
「資料」については犬丸氏は関与していなかった。執筆時点では、犬丸氏は、「資料」、つまり『日本週報』版のテキストを入手していなかっ
たし、その所在についても知らなかった。巻
末の「資料」は遠山氏か編集担当者のだれかがいずれかの時点で発見して付したもの
であろう。しかも本文での記述や引用文との不整合性に気づくことなく。やむをえなかったことであろうが、<拙速>
の批判は免れないであろう。(そこには、重光葵
『昭和の動乱』(初
出は、1952年3月中央公論社刊)からの引用文もあるが、これも後任の執筆者
が加筆したものであるという。)
(A)の部分はコ
ミンテルン系テキストからの引用であり、(B)の部分は、コミンテルン系テキストと岩淵テキストにもとづいての所論である。(資料参照)という語句は完全に浮いている。なぜなら、くりかえすが、「資料」は、コミンテルン系テキストととも岩淵テキストと
も無関係なものだから。附属「資料」と本文の記述との不整合性は、記
述の受け継ぎが適切でなかったことのあらわれなのである。
それにしても、『太平洋戦争史』の編者は、「資料」になぜコミンテルン系テキス
トの方を収録しなかったのであろうか? こちらはコミンテルンが世界に公表した<権威ある>テキストであり、しかもフルテキストだった
のである。
ともあれ、『太平
洋戦争史』は「田中上奏文」についての真偽の判断は未解決の問題として将来に残したと言うべきである。史実誤認などの瑕疵はあるもの
の、真実をも反映している文書という認識のまま。
§ 4 「田中メモランダム」は現在のロシアでも公的に真書扱い
ところで歴史学研究会のこの『太平洋戦争史』は国外でも流布されることになった。1958年にソ連で、ウサミ・セイジロー監修で翻訳・刊
行された
(История войны на Тихом океане. В
5 т. Пер. с японс. Б.В.Поспелова; Под ред. Усами Сэдзиро. М.,
1958.)がそれである。その第1巻の巻末に「田中上奏文」が収録されている。ウサミ・セイジローとは、『太平洋戦争史』の執筆者リストに名があげられ
ている宇佐美誠次郎と思われる。
その文書が今日でもソ連では権威ある学術機
関によっ
て<真書>としてあつかわれている。
そこで私は投稿論文に、日本の権威ある進歩的歴史家集団の刊行物であるだけに、そこに収録されていた「田中上奏文」がソ連で真書としてうけとめられたこ
とは想像に
難くないと記した。
「審査報告」はこの記述部分についても問題にした。
歴史学研究会の『太平洋戦争史』が「日本の権威ある進歩的歴史家集団」の刊行物であるだけに、「真書としてうけとめられたことは想像に難くない」とする
のは、「論証を欠
いた印象批評」にすぎない、というのである。
これは確かにそのとおりである。しかし、拙稿は別にそのことを<論証>することを主眼にしていなかった。しかし、まったく成り立ち
得ない印象批評であろうか? そもそもソ連でなぜ歴研の『太平洋戦争史』が刊行されたと考えるか? 信用できると判断されたからではないのか?(これもも
ちろん
推
論)。ロシア語版の監修者は、日本語版の『太平洋戦争史』の執筆者でもある宇佐美誠次郎である。
「日本の権威ある進歩的歴史家集団」の刊行物であるだけに」という部分は確かに、私の推測であるが、「真書としてうけとめられ」ているのは、確かな事実
であるし、宇佐美が監修者であることも
同書の信憑性を保障したのではないのか。紙数制限のある論考執筆で、論証・例証をひかえざるをえなかった問題点は多々あった。しかし、そう判断する文献上
の根拠(ロシア側の)は示したおいたはずである。前記のインターネット上のサイトで確認されたい。
さらに「論証を欠
いた印象批評」それ自体は歴史研究から排除すべきか?
そもそも『太平洋戦争史』の当該記述(「そのまま信用できない」「無理からぬこと」など)自体が、「論証を欠
いた印象批評」ではないのか? 後述する新版での記述も含めて。
§ 5 中国系フルテキストの出現
稲生典太郎は1964年(S.39年)、「「田中上奏文」をめぐる
二、三の問題」という論文を発表した(初出『日本外交史の諸問題』1、昭和39年7
月)。そこで稲生は、日華クラブ刊の『支那人の観たるわが満蒙策』なるパンフレット所収の「田中上奏文」のフルテキストについて真偽を検証し、「田中上奏
文」を偽書と判定した
のである。
つづいて翌年、竹内好が主宰する『中国』という雑誌に、「日華倶楽
部」版として「田中上奏文」のフルテキストが発表された(第14号、1965年)。同
誌では「田中上奏文」をめぐる歴史学研究会メンバーによる座談会もおこなわれ、<偽書>説の基調が築かれる(今井清一、藤原彰、橋川文三等)。その中のひ
とり今井清一が、新版『太平洋戦争史』第1巻の「著者代表」となる。
江口圭一「田中上奏文の真偽」(『日本史研究』85号、1965年9月)はその
新たな状況のもとで書かれた。氏も、いくつかの根拠を示して、
「田中上奏文」そのものは偽物、すなわち田中自身の手になる正式の上奏文ではない偽文書と判断している。その根拠は、事実にかんする誤り(山県の
御前会議出席など)、上
奏文の形式状の誤り(表
現・上奏手続き、上
奏文全体の印象・様式の問
題など犬丸氏がかの卒論で示していた根拠、また稲生が新たに示した根拠に依拠している。
しかし、氏の問題
意識は、「田中
上奏文」の真偽検証には向かわない(むしろ意識的にそれを避けているかに見える)。江口論文の主眼は、稲生が「田中上奏
文」の主張と田中義一の政策を対置し、後者の侵略性を否定しようとする、あるいは「田中上奏文」を偽物とすることで田中に免罪
符をあたえようとする傾向にたいする糾弾にある。
「当時の日本の支配層の一部、そ
れも軍部を中心とする極めて有力な部分に、田中上奏文の趣旨とと大略同一の満蒙侵略計画ないしは方針が存在していたこと
は、これを否定することができない。そして田中義一自身もまた、少なくとも東方会議前後の時期には、「おら決心したから、世界戦争もあえて怖れない」とい
う決意を表明していたのである。」(pp.63-64)
しかし、稲生の
「田中上奏文」研究にはいくつもの重大な問題点がひそんでいたのである。最大の問題点は、「田中上奏文」という文書についてテキスト・クリ
ティークを怠っていることである。稲生が「田中上奏文」=偽書をとなえるにさいして依拠したテキストは、「日華クラブ」版とされる邦訳文である。稲生は、
世界に幾種類もの、異なる言語による「田中メモランダム」が流布していることをみずから指摘しながら、それらを照合してみようともしな
い。「日華クラブ版」の邦訳をその原典である『時事月報』所載の中国文と突き合わせてみただけでも、いろいろな発見が得られるのに。
まして前述のコミンテ
ルン系テキストと突き合わせたら、翻訳の問題に帰すことができないような文面の異同がわかるはずなのに、それもおこなっていない。
稲生は「田中上奏文」の流布経路についてテキスト系統図を作成しているが、それを見ればわ
か
るように、コミンテルン系テキストまで中国で刊行された英文版が底本とされている。しかし、それはかれが自分で確かめた結果ではなく、外国の論者の受け売
り
にすぎない。
かれは、
「日華クラブ版」の邦訳テキストにのみもとづいて記述の当否を吟味し、それを「田中上奏文」という文書の真偽のメルクマールとした。稲生の系統図に示されているテキストのいくつ
かは当時でさえ国内で入手できたはずである。それらを照合しさえすれば、偽書説の根拠の多くが崩れ去ったはずなのだ。
だが稲生も、<中国の会>も、またその後に「田中上奏文」問題に論及する歴史研究者も、だれひとりそうしたテキスト研究を試みようとした者はいなかっ
た。稲生論文にいわ
ば幻惑されたかのように。不思議なことである。
トロツキーの日本論を研究する過程で問題の所在に気づいた私は、トロツキーの「田中上奏文」=真書説を検証するために、みずからこの日本近代史上の謎の
解明にとりかかった。私の作業は、「田中上奏文」の各種テキストの収集からはじまった。予想以上の成果が得られたように思う。これまでの成果については、
私のWebサイト<「田中上奏文」研究:検証の旅>に発表してある。収集したテキスト
の全文も画像で提供している。
そうした研究状況が5年後に刊行
された新版の『太平洋戦争史』に反映ししているように思える。
§ 6 『太平洋戦争史』新版(青木書店、1971年)における「田中上奏文」の扱い
東洋経済新報社の『太平洋戦争史』(以下「旧版」)刊行から20年ほど過ぎて、 歴史学研究会編の新版『太平洋戦争史』が青
木書店から刊行された。ところが、そこには「田中上奏
文」という文」は収録されていなかった。そしてその問題にかんする説明はどこにもなかった。
もっとも、本文には「田中上奏文」という項目を設けて1ページあまりの記述を用意していた。筆者は藤井松一氏。
氏は、田中内閣の満蒙にたいする積極政策
について協議したいわゆる「東方会議」の基本的方向が「田中上奏文」から逸脱するものでなかったとのべつつも、それは「細かい記述について事実の間違いが
多くあり、形式的にいっても上奏文にふさわしくなく、なにものかがつくりあげた偽書であると考えられる」としていた(第1巻、1971年、
p.139)。
旧版では、真偽についての判断を保留していたが、新版でははっきりと<偽書>説に傾いている。それゆえに、「田中上奏文」を収録することをやめたのであ
ろう。
そこには、旧版以後の「田中上奏文」研究の進展状況が反映していると思われる。重要なのは、稲生典太郎による「田中上奏文」の
テキスト研究と、「中国の会」刊行の雑誌『中国』での「田中上奏文」フルテキストの公表とそれをめぐる論考などの掲載、
それに面しての江口圭一の稲生典太郎・「田中上奏文」論などの要因であろう。
新版の『太平洋戦争史』には次の
ように記されている。論
旨は基本的には旧版を踏襲して
いるが、重大な違いもある。(ABCなどは引用者による。)
A「東方会議の際に決定された
「帝国の満蒙に対する積
極的根本政策を、
田中首相が七月二五日天皇に上奏したという「田中上奏文」(「田中メモランダム」「田中覚書」)なるものが二九年一二月に中国の月刊雑誌『時事月報』にの
せられ、やがて世界中にひろまった。それは、「支那を征服するためには、われわれはまず満州蒙古を征服しなけれぱならぬ。世界を征服せんがためには、われ
われはまず支那を征服せねばならぬ。われわれが支那を征服すれば、その他一切のアジア諸国及ぴ南洋諸国はわれわれを恐れ降伏する。そのとき世界は東亜がわ
れわれのものであることを理解し、われわれの権利を侵さぬであろう。支那の資源を支配したのち、われわれはインド、小アジア、中アジア更にヨーロッパの征
服にうつるであろう。大和民族がアジア大陸において秀でんと欲すれぱ、満州及ぴ蒙古の支配権の掌握はその第一歩なのである」という文章にはじまり、以下満
蒙征服と経営の方針を具体的に述べたものであった。」
B「それによれぱ、満蒙征服のた
めには、陸軍機密費より費用をだして内外蒙古に軍人スバイ四〇〇人を送り、鉱山などを獲得し、また朝鮮人を大量に満蒙に
移住きせ、北満に軍事鉄道を敷設し、「赤
露南下の準備を口実として漸次北満
地方進出を強行し、以てその富源を獲取」するという。また「我が国が最近の将来に於て北満地方に在りて必ず赤露と衝突の時機あるべく、その時に当りては日
露戦争の例により東支鉄道を獲取し、吉林を獲取することとなるべく、北満の富源のために我が国が再ぴ南満の曠野において露国と角逐することは、我が国運発
展上、勢の免れ難きところなり」と予想する。さらに、満洲の鉄道敷設
計画を列挙し、貿易、海運、貨幣制度、投資、満鉄会社の経営方針
変更の必要、拓殖省設置の必要、その他が論じられている。」
C
「このように「田中上奏文」は、故意か偶然か二一カ条要求とおなじ計二一項目にわたって、満蒙を独占し征服する順序・方法を体系的に述べている。そ
れは、細かい記述について事実の間違いが多くあり、形
式的にいっても上奏文
にふさわしくなく、な
にものかがつくりあげた偽書であると考
えられる。しかし戦
後、重光葵が「その後に発生した東亜の事態と、これに伴う日本の行動とは、恰かも田中覚書を教科書として進められたよう
な状態となったので、この文書に対する疑惑は拭い去ることが困難となった」(『昭和の動乱(上)』)と述べているように、東方会議の基本的方向は「田中上
奏文」から逸脱するものではなかった。」(pp.138-139)
1
A部分は、旧版とほとんど同じ趣旨である。だが、引用文は不思議である。1929年12月に中国の月刊雑誌『時事月報』に掲載
されたものと記しているが、引用文は、『満鉄版』のテキストとは違う。口語文である。コミンテルン系テキストの言いかえに読める。それとも筆者自身が中国
文から訳したのであろうか?
2 B部分は新版で新たに追加した
記述。
ただしそこでの引用文は、なぜか旧版の「資料」によっている(p.253)。出所が明白な
『満鉄版』のフルテキスト(=『中国』誌所収「日華倶楽部版」)
があるのに、なぜ身元不明の旧版所収「資料」を?
3
Cのうち、朱色部分が新版での新記述。特徴的なのは、「な
にものかがつくりあげた偽書であると考えられる」とし、その根拠をあ
げていること。
いろいろ疑問が生じる。やはり史料=テキストを明確にしない記述は問題であろう。<偽書>としつつも、かなり長く引用するのは奇異に感じる。
また「細かい記述について事実の
間違いが多くあり、形
式的にいっても上奏文
にふさわしくなく....」という偽書根拠のうち、
前半は旧版記述を踏襲しているが、新版では新たに「形
式的にいっても上奏文
にふさわしくなく」
という根拠が加わっている。
どのテキストにもとづいて「細かい記述について事実の間違い」を云々す
るのであろうか? また「形
式的にいっても上奏文
にふさわしくなく」
という場合は、どのテキストを念頭に置いているのか?
この後者の根拠は、戦前には松岡洋右、戦後には有田八郎などがあげたものだが、それは『満鉄版』のテキストにはあてはまっても、旧
版の「資料」やコミンテルン系テキストにはあてはまらないのである。筆者はなにを根拠にそのように判断したのであろうか?
ところで、私は投稿論文に、新版について「そこには、 「田中上奏
文」は収録されなかった。その問題にかんする説明はどこにもなかった。」と記すと同時に、「
歴史学研究会やアサミ・セイジロー氏は、『太平洋戦争史』新版で「田中上奏文」が削除されていること、ならびに削除の理由をソ連・ロシア側に知らせたので
あろうか?」と問い、「そこでは歴史研究者としての 国際的な責任が問われているように思う」と書いた。
歴史学研究会編集委員会はその記述に過敏に反応した。
「新版では資料を付録するという形式をとっていないので、「削
除」という批判はあたらない」とするものであった。
これも遁辞、強弁のたぐいである。編集方針の問題にすりかえている。「非収録」と表現すればあたっていたというのかもしれないが、問題にしているのは、
新版と旧版での「田中上奏文」のあつかいなのである。「新版では資料を付録するという形式をとっていない」という回答は、その問題に答えていない。いった
い歴史学研究会の編集委員会自体は、旧版収録の「資料」の信憑性についてどう考えているのだろうか?
旧版で歴史を学んだ読者も、新版にアクセスできるなら、本文での「偽書と考えられる」との記述に照らして、偽書だから収録されなかったのだと推測できよ
う(それにしては偽書からの引用が長いと首をかしげるかもしれないが)。
しかし、新版にアクセスできない海外の読者はそうはいかない。前述したように、ソ連・ロシアで宇佐美監修の『太平洋戦争史』を学んだ読者は、公的にはい
まなお当該文書を<真書>として読まされているのだ。歴史の国際的な共同研究、日ソの歴史学者の交流がすすみつつあった時代に、『太平洋戦争史』新版が
出たこと、旧版が大幅に改訂されたことをソ連の関係機関に連絡する責任はあったはずだ。少なくとも、宇佐美には。
その指摘には編集委員会は頬かむりしている。
最後に、私が、新版での「田中上奏文」関連記述について、「「田中上奏文」について史料批判がおこなわれた形跡は見られない」とし、<検証責任>を問題
にしたことにたいして、編集委員会は「ことさら藤井氏の記述から議論を始める必要はなく、問題にするのであれば、旧版の記述から検討すべきだ」とした。
これも奇異な言いがかりのたぐいである。
私はそこで「ことさら藤井氏の記述から議論を始め」たわけでは
ない。そこで歴史学研究会における「田中上奏文」研究の歴史をあつかおうとしたわけではない。私が問題にしたのは、新版での「田中上奏文」の扱いであ
る。そこに「田中上奏文」が収録されなかったこととの関連で、藤井松一氏の所論を問題にしている。そこでは旧版の記述に論及する必然性はなかった。
しかし紙数制限がなければ、旧版に触れることはできた。論及する用意はできていた。
旧版にかんする検討は本稿の前段ですでにおこなっている。
さらに、 私が、「史実の検証責任」を問題にしたことについて、「審査報告」は、「以上の
ことから、これが特に歴史学研究会のみが負うべきものではないことがご了解いただける」と思うとする。
およそ歴史学研究者とは思えない遁辞である。「以上の
ことから」はなんのことか不明だし、私は歴史学研究会だけに検証責任があるなどとは言っていない。
§ 7 結びにかえて
以上にのべたように、『太平洋戦争史』における「田中上奏文」関連の記述、とりわけその真偽にかんする不明確な所論に私は、多大な批判をもつが、それに
もかかわらず、私はその不明確さに実は共感をおぼえていた。犬丸論文に感じる<真書心証>
の継承をそこに見出すからだ。トロツキーがいみじくものべているように、「田中上奏文」のような文書は<でっちあげ>できるものではないと私は感じる。
「東方会議」をのちの対中戦争の軌道を敷いた会議と理解する井上清(『日本の軍国主義』3、現代評論社、1975年、p.271以下)は、「田中上奏
文」にはまったく言及していない。その文書を偽書と見ているからであろう。歴史研究者としては当然の措置であろう。だがその視点からは、「東方会議」の舞
台裏は見えてこない。もしかしたら、<真書>ではないのか、という視点から「田中上奏文」に望んでみる必要があるのだ。
私の「田中上奏文」研究は、歴史学研究会のみならず、偽書説がとなえられはじめた1929年にさかのぼっておこなわれている。この論考ではその一部を公
にしたにすぎない。拙稿の本論部分は、すべて「田中上奏文」の真偽の検証にあてられている。
秦郁彦氏は、旧版と新版の記述について、次のようにのべている。
「自虐的史観に立つ歴史学研究会系統の史家も「細かい記述について事実の間違があり、そのまま信用できないが、東方会議の決議の基本的方向を示すものと
して屡々引合に出されるのも無理からぬ
」(傍点筆者){下線で代用ー引用者}と同情的に書くのが精一杯だった。それも一九七一年の改定版では「なにものかがつくりあげた偽書であると考えられ
る」
と改めている。政治家の出る国会討論会を見て、いつも思うことだが、論破されても「参った」とカブトを脱がぬ人士があまりに多い。学問上の論争でも似た例
は少なくないが、どうやら上奏文の真偽論争もこのたぐいらしい。」(文春文庫『昭和史の謎を追う』1999年、pp.21-22)
私自身の「田中上奏文」研究は、秦氏の「田中上奏文」論の迷妄を暴くためのものでもある(拙
稿「トロツキーと
「田中上奏文」;
『トロツキー研究』No.51, 2007年 Winter、p.260 ;
「日中歴史共同研究と「田中上奏文」問題 ーー 学
問的検証か政治的決着か (『労働運動研究』復刊19号、2008年4月、pp.44以下)
が、歴史学研究会編集委員会の「審査報告」に接すると、秦氏の
「自虐史観」派にたいする揶揄につい拍手を送りたくなってしまう。秦氏のこの批判にわが査読者がどう反応するかが読めるからである。「改め」てなど
いない、旧版でも同じように記述している、表現が少し変わっただけで、筆者が違えば表現が変わるのが当然である、などと。<われわれは無謬論をとらない>
と言い放ちながら、自党にたいする批判を頑としてはねつける某スターリン主義政党の自己保身>を彷彿させる言辞である。
私も「自虐史観」に立つ者だが、秦氏にそのような論法で対抗するのが学問的だとは考えない。必要なのは、自己批判を含めた過去の研究の検証であろう。
『太平洋戦争史』のかつての記述を無謬視するのではなく、さかのぼってその適否を吟味する姿勢こそ歴史研究者にはもとめられるのではないか。
新版『太平洋戦争史』第1巻の「刊行のことば」にはこうある。
「ここに約二年間の研究会の成果のうえにたって第1巻を刊行する運びとなったが、以上のようなわれわれの意図が、本書で必ずしも十分に達成されている
とはいえない。現代史の史料の整理と公開はまだ十分におこなわれず、とくに
政府・軍関係の文書類の多くがいまなお秘密にされ、国民共有のものとなっていな
いという事実がある。また現代史の研究者の層がいぜん薄く、取
りあげようとした諸問題のすべてについて専門の研究者が存在しているというわけではなかっ
た。こうした困難にくわえて研究の期間も短かかったため、多
くの欠陥がなお残っているが、読者諸氏の批判をうけて、この研究をいっそう発展させることを
願ってやまない。
一九七一年九月一八日
満州事変四〇周年の日に
歴史学研究会太平洋戦争史編集委員会 」(p.iii)
「田中上奏文」研究について言えば、1971年以来の30余年に、歴史学研究会はどれだけ成果をあげえたか? 残っているとされた「多くの欠陥」な
るものがどれだけ克服されたというのか?
拙稿の主眼は、「田中上奏文」という文書の信憑性の解明にあった。私は各種のテ
キストを収集・分析し、<テキスト研究から見えてくる>真実を明らかにしようとしたものである。残された課題があることを知り、空白を埋めようとしたのが
拙稿であった。
だが歴史学研究会編集委員会は、その作業は一顧だにしなかった。編集委員会による<査読>の視点は、『太平洋戦争史』という過去の歴史学研究会の刊行物
にたいする批判にもっぱら向けられた。
そうした姿勢は、前記の「刊行のことば」にもられた科学的精神に著しく背馳するもののように見える。
拙稿が採用され、誌上に発表されれば、その時点で私は自動的に歴史学研究会の一員になることになっていた。だから、拙稿は、歴史学研究会内部での<自己
批判>という意味をもつものであったはずだ。
<追記>
私の研究は犬丸義一氏がとりかかったものの、中断を余儀なくされた「田中上奏文」関連研究を50年後れで継承するものであり、氏は、私の研究の意義を理
解し、研究の進展を期待し、秘蔵の諸史料を提供してくれた。『歴史学研究』とか『歴史評論』への寄稿を進言してもくれた。ただし、両誌の編集姿勢の変質に
かんがみて不安も口にされていた。それがあたった
わけである。氏が心証としてもっていたはずの「田中上奏文」と田中義一政友会=内閣や「東方会議」との同根性については、これまでの
研究でかなり明らかにできたと思う。その詳細は『トロツキー研究』所収の拙稿にゆずる。「ト
ロツキーと
「田中上奏文」」(『ト
ロツキー研究』No.51 Winter 2007);「ト
ロツキーと
「田中上奏文」(続)ーー
「大東亜戦争」の源流としての「東方会議」を中心に」(『ト
ロツキー研究』No.53, Autumn- Winter 2008)
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