野坂竜の逮捕をめぐって

(1996年2月発行・33k)

 はじめに

  野坂竜(1898-1971)とは、いうまでもなく、長らく日本共産党の最高指導者の地位にあった野坂参三(1892-1993) の妻のことである。彼女が1930年代の末にソ連でNKVD(ソ連内務人民委員部)によって逮捕されたことはよく知られており、その経過も断片的には小林 峻一・加藤昭『闇の男・野坂参三の百年』(1993年、文芸春秋社)によって明らかにされている。しかし判明した事実のすべてが公にされているわけではな い。私は、『モスクワで粛清された日本人』(1994年、青木書店)の著者である加藤哲郎・一橋大 学教授から、氏が同書の執筆のために収集したあまたの粛清関係資料を提供された。そこには加藤教授が単独で活用しきれなかった日露関係にかかわる重要資料 が多く含まれていた。そこで私は、それらの資料の検討結果をこのインターネット出版を通じて随時公開してゆくことにした。紙のメディアによらない初めての 「出版」の試みである。初回はまず、野坂竜にかかわる記録の全容を紹介することにする。もちろん本邦初公開の史料である。世 界の共産主義運動に、とりわけ日本共産党の活動や歴史に関心をもつ読者にとってそれは少なからぬ価値をもつことであろう。 

    日本共産党の一員(1923年入党)であった竜は、1931年、当時の日本共産党委員長、風間丈吉(変名はタケダ)に、夫の参三とともにソ連に渡るよ う指示を受けて非合法にソ連に入る。参三は日本共産党の活動についてコミンテルン執行委員会に報告し、竜は日本のモップル(国際救援会)の活動について モップル中央委員会に報告をするというのが二人の任務であった(後述する竜の供述から)。竜は入ソ後の1932年にソ連共産党に移籍、クートヴェ (KUTV・東洋勤労者共産主義大学の略称)で学んだあと、モスクワの外国労働者出版所で働くことになる。1930年代後半の粛清の嵐のなかで在ソ中の多 くの日本人共産主義者が逮捕・投獄・処刑の運命に見舞われる。その経緯は上記の加藤本に詳しい。コミンテルン最高幹部の地位にあった野坂の妻、竜もその例 外ではなかった。彼女も1938年2月、NKVDにより逮捕される。しかしひとり彼女の運命だけは不可思議である。彼女は逮捕から50日ほどで釈放され、 粛清を免れ、第2次大戦後、日本へ帰り、日本共産党の<輝ける指導者>野坂参三の夫人として天寿をまっとうするのである。野坂夫妻の生還には謎が多いが、 ここにかかげる資料はその謎解きに役立つかもしれない。読者もそれなりになにかの手がかりを発見してほしい。引用文のなかの[ ]内の注ならびにゴシックによる強調語句は、筆者藤井によるものである。
 

    私の手もとにある記録、NKVDモスクワ州局アルヒーフ第58303号、審理番号第676(以下、野 坂竜ファイルと呼ぶ)は、フジテレビ報道局の熱田充克氏がモスクワで入手し、のちに加藤教授に提供したものである。それにはつぎのような 目録がついている。

 1 逮捕請求状
 2 保全処分決定書
 3 逮捕・捜査令状
 4 捜査報告
 5 被逮捕者調書
 6 武器引き渡し受け取り
 7 タイプライター引き渡し受け取り
 8 居住証明書引き渡しうけとり
 9 コミンテルン執行委員会党委員会記録抜粋
 10 被疑者キム・シアンの上申書
 11 被疑者キム・シアンの尋問調書
 12 事件審理打ち切りにかんする決定

 これらの文書のほとんどは、野坂竜の逮捕・尋問関係の文書であるが、9と10だけは、竜が逮捕されるまえに作成さ れた文書である。
 そこでまずこの逮捕前の2つの文書を先にとりあげることにしたい。
     

1 野坂竜、除名を申請

 
 除名上申書

 はじめは彼女の「上申書」である。それは野坂竜が山本懸蔵が逮捕された当日、1937年11月2 日、山本の逮捕を知ってすぐにコミンテルン執行委員会の党委員会にさしだした文書である。竜は英文でしたためたようであるが、ファイルにあるのはロシア語 でタイピングされたもの。全文はつぎのとおり。

     「 コミンテルン執行委員会党委員会へ 

 1 今朝(11月2日)、タナカ[山本懸蔵]の妻が、タナカが朝早くNKVD に逮捕されたと私につたえてきた。                        
 2 私はタナカのことは1922年から東京で知っている。その頃かれは活動的な革命的分子として労働組合の指導部で働いていた。かれは同志オカノ[野坂 参三]を含む他の同志たちとともに、非合法の「左翼同盟」を結成した。何度かそのメンバーたちが私の家で会議を行なった。
 タナカは1923年の初めに日本共産党に入った。       
 かれは1922年の秋にソ連を訪れ、1923年の春に日本に戻った。その後、同年6月5日まで私の家に住んでいた。その日、東京で共産主義者たちの検挙 が行なわれた。かれはその時逮捕を免れた。その頃行なわれていたストライキを指導していて、家にいなかったからである。
 タナカはこの後再びソ連を訪れ、1924年の春、妻をともなって日本に戻った。私はこの時初めてかれの妻に会った。
 この後、共産主義者の大量逮捕が行なわれた1928年3月まで私とタナカの関係はごくありふれたものだった。私たちは労働組合の会議で会うだけで、私が かれの家に訪ねていく機会はなかった。
 この間(1924年から1928年)に、タナカは中国で開かれた太平洋労働者会議に出席し、1923年の共産党裁判にしたがって8ヵ月間刑務所に入った ほか、何度か共産主義活動の罪で逮捕された。いずれの裁判においてもかれは日本の警察に抵抗し、プロレタリアートの事業を擁護してきわめて真摯で強固な態 度をとった。日本の警察はかれに対してしばしば容赦のない拷問方法を用いたが、かれは決して敵に屈服しなかった。
 1928年6月、かれは警察の厳しい監視下にあった自宅を抜け出し、コミンテルンの第6回大会に出席するためソ連に向かった。
 1931年4月に私はヴラヂヴォストークで約3年ぶりにかれに会った。私は2週間ほどかれの家で暮らした。                  
 1931年12月にかれは妻をつれてモスクワに行き、プロフィンテルンで働いた。
 モスクワでは私たちの関係は日本にいたときよりも緊密だった。とくに同志オカノが外国に出かけた(1934年の夏と1936年)あとは、私はかれともっ とも親しい関係にあった。なぜならかれがモスクワにおける日本共産党の唯1の指導者であり、私たちは毎日コミンテルンでいっしょに仕事をしていたからであ る。
 9月の初めにかれは病気にかかり、10月25日まで入院していた。退院後は数日働いたにすぎなかった。 
 3 タナカが人民の敵としてNKVDに逮捕されたのは事実である。しかしながら、彼がソ連の裏切り者であり、ファシズムの手先だったと知ることは私には きわめてつらいことである。かれの過去を、そしてこの15年間のかれの活動を知っているからである。多少ともかれと関係のある日本人が何人か人民の敵とし てNKVDに逮捕されている。タナカが大きな誤りを犯したか、あるいはそれらの人々に対して不注意であったかしたということは推測できる。正直に言うが、 私は今朝まで、モスクワに住んでいる日本人のなかでもタナカのことをまるで自分のことのように信じていた。もちろんかれには個人的な欠点がある。しかし遺 憾ながら私はプロレタリアートの事業にたいするかれの信念にいかなる疑いも抱いたことがなかった。
 4 タナカの逮捕は私にとってまったく予期しない重大な打撃であった。私は党員としての自分の過ち、不注意、警戒心の欠如を深く自覚している。なぜな ら、党にたいしてもっと早くかれを摘発できなかったからである。よって私は私にかんして決定をくだすよう党に要請する。

                       キム・シアン[野坂竜]
                     1937年11月2日  」

  右の文書の欄外には「ペレグドフへ」(後述するNKVD国家保安中尉)という手書きの書きこみがある。

 竜の上申書には、山本懸蔵にたいする疑惑は1片たりともあらわれていない。むしろ正反対である。それにもかかわら ず、NKVDの措置にたいする疑念もまた表明されていない。したがって、逮捕されたからには、山本懸蔵の側にそれなりの非があるはずだ、という論理に竜は とらわれている。山本を昔から知っている自分としてはとうていかれを「人民の敵」とは考えられないとしても、ほかの3名はことによると「人 民の敵」であるかもしれず、その限りで、「人民の敵」を見ぬけなかった山本懸蔵にも非があるし、それを見ぬけなかった自分にも党員としての落ち度があると いう自己批判の論理である。
 とくに注目すべきは、「党にたいしてもっと早くにかれを摘発できなかったこと」を自分の重大な罪としていることである。事前の摘発とは、疑惑を感じたと きに関係機関に報告することである。これは、まさしく自分に<密告>する力量がなかったことへの自己批判である。このような規律意識(報告という名の密 告=党への忠誠とする)は、コミンテルン型共産党に共通のものなのである。同じような規律を固守している日本共産党が、同志である山本を「密告」 したかどで野坂参三を除名したのは、天に向かって唾する愚行に見える。

  除名 決定書 

    竜の除名申請を受けて、コミンテルン執行委員会のアパラート党組織の党委員会は即日、竜を召喚して、査問したようである。野坂竜ファイルの第9文書 は、党委員会書記のコテリニコフが作成した査問・処分決定記録である。その全文はつぎのとおり。(残念ながら文字が消えていて判読しえなかった部分もあ り、そこには?を付してある。)

   「 秘密
   37年11月2日付きコミンテルン執行委員会アパラート党組織から???へ
議事録第45号からの抄録
 
 キム・シアン問題を聴取した(コテリニコフ)
 
 キム・シアン(リョ・ノサキ)は、1898年日本の大工業家の家庭に生まれた。1932年以来全連邦共産党(ボ)員、党員証第1255866号。父は 1929年に死亡、母と兄弟ひとりが日本に住んでいる。兄弟は管理者として工場で働いている、非党員。
 キム・シアンは1918年まで学校に通い、東京の高等女子学校を卒業、1918年から1920年まで中学校で教師をつとめた。オカノ(オカノは就学中で あった)とともにイギリス、ドイツ、フランスに居住した。彼女は見学と休養のためにそれらの国々へ渡った。
 1922年ー23年には日本にいて雑誌の仕事をし、???を英語から日本語に翻訳したり女性問題について自由主義的な雑誌に書いたりした。
 1924年から1928年まで東京の研究所で書記として勤めた。その研究所はオカノが日本の???として組織したものであった。1928年にキム・シア ンは投獄され、13カ月入っていた。80円??の保証金をはらって釈放された。
 1931年、彼女は共産党の許可をもらって(彼女の申し出で)夫のオカノとともに非合法的にソ連に来た。???実習生として???、1934年まで  ???やクートヴェの??セクターのコースで学んだ。
 1934年から1937年3月まで外国労働者組合出版所で働いていた。
 キム・シアンは仕事上、また個人的に、今逮捕されている日本人の共産主義運動のメンバーたち、コン、タキウチ、コンジョと関係をもっていた。
 コン[逮捕済みの国崎定洞]とタキウチはキム・シアンといっしょに外国労働者組合出版所で働いており、かれらは彼女の住まいをよく訪ねていた。
 コンは逮捕の直前まできわめて頻繁にリュックス[ホテルの名]のキム・シアンのところに通っており、彼女から日本のブルジョア新聞を受け取っていた。し たがってかれは逮捕の日まで彼女と密接に関係をもっていた。
 キム・シアンはいま逮捕されている日本のスパイ、タナカと1922年に東京で共同の活動を通じて知り合いになった。その??年かれは数カ月キム・シアン の住まいに住んでいた。1931年にはキム・シアンが2週間ばかりタナカの住まいに住んでいた。
 タナカとキム・シアンがモスクワにいるときには、2人の間には仕事上でも生活上でもきわめて親密な友人関係ができていた。
 以下のとおり決定する。
 党と人民の敵とのつながり、ならびに???の信頼を裏切った者として、キム・シアンを全連邦共産党(ボ)の隊列から追放する。
       コミンテルン執行委員会アパラート党組織党委員会書記
                        F・コテリニコフ 」


 確たる根拠なしに、たんなる疑惑だけでみずからの非を認めて処分を上申する党員の論理、確たる根拠なしに、疑惑だけで処 分を決する党組織の論理ーーそうした党派性・党への忠誠精神こそ戦慄すべき大粛清の根底にあった根本的要因ではなかったか。
  文書の欄外には、NKVDの「同志ペレグドフへ」という手書きの書きこみがあり、この文書がNKVDによる竜の逮捕に活用されたことが知られる。

 

2 竜の逮捕


逮捕 状

 さて野坂竜ファイルの第1文書は、逮捕請求状である。つぎに全文をかかげる。

     「 照会状(逮捕について)
 
  キム・シアン(リョウ・ノサキ)、1896年生まれ、日本出身、大林業家の家庭出身、民族籍ーー日本人、ソ連市民、非党員、人民の敵とのつながりのた め全連邦共産党から除名される。ゴーリキー街第36号棟「リュックス」第56号室居住。
 キム・シアンは1931年に夫オカノとともに日本からソ連へ非合法的に国境を越えて入国した。1918年までは彼女は日本で学び、東京の女子高等学校を 卒業した。1920年以降、夫とともにイギリス、ドイツ、フランスの各都市をまわった。1922年から1923年まで日本で外国雑誌の翻訳者として働き、 のちキム・シアナ[ママ]は1928年に逮捕され投獄され、13カ月獄中にあったのち釈放された。加えてキム・シアンは1922年から、現在逮捕されてい る日本のスパイ、タナカと知り合いであった。そのタナカは彼女の住居で暮らしていた。彼女はまた摘発された人民の敵、コン、トキウチ、コンジョと仕事のう えで個人的につながりがあった。かれらはNKVDの機関によって逮捕されるまでしばしばホテル「リュックス」の彼女を訪ねていた。外国の諸国家のいずれか の国家のためにスパイ活動を働いていた疑いがある。
 ソ連内務人民委員命令第00583にもとづき、キム・シアンは逮捕に相当する。」
           地区支所捜査全権・国家保安軍曹オリムピエフ
   「同意する」
       NKVDモスクワ州局国家保安局キエフスキー地区支所長                    国家保安中尉ペレグドフ 
                            
               NKVDモスクワ州局国家保安局第3部長                    国家保安大尉 ソロキン
                1938年2月7日 」
  逮捕請求状は、同月9日、同国家保安局長代理国家保安少佐ヤクボヴィチにより決裁され、同月10日、VPMVO(モスクワ軍管区軍事検察官)により逮 捕が承認される。
 こうして野坂竜は、コミンテルン最高幹部の伴侶でありながら、逮捕される。

 逮捕された竜は、保全処分をうけ、告発される。
 つぎの第2文書は、「保全処分ならびに告訴の選定にかんする決定」という文書である。
 それは キム・シアンをスパイ容疑で、刑法第58条第6項により被疑者として、保全処分をとり、ブトウイルスカヤ監獄に拘禁するというものである。
 起案・決裁者は右の同じ4名である。
 第3文書は「逮捕・捜索令状」(第3034号)で、NKVDモスクワ州局の国家保安部が捜査係員に交付したものである。日付は38年2月11日。
 第4文書は捜査報告書。11日、ホテル「リュックス」の野坂の部屋で、フィリッポフという民警職員、グシャトニコフというホテル管理人の立ち会いのもと で、キム・シャンが逮捕され、つぎのようなものが押収された。
 国内用パスポート、居住証明書、党員証(第1255866号)、労働組合員証、ウェリントン式タイプライターとそのケース、ナガン式レヴォルヴァー1 丁、コロヴィン式ピストル、短剣1丁、ナガン用実包20発、ピストル用実包3発。

 第5文書は被疑者調書である。あらかじめ用意されている質問事項に被疑者の回答を記入する様式になっている。内容 は次の尋問調書と重複するので、割愛する。

3 尋問 

尋問調書

第11文書は「尋問調書」である。全文を示す。調書はソ連NKVDモスクワ州局のネーム入りの、記入項目があらかじめ印刷されて用意されている様式に必要 事項を記入するようになっている。NKVDによる尋問というものがどんな形ですすめられ、どんな形で調書が作成されるかがわかる史料でもある。

「 1938年2月12日、小官、キエフスキー地区支所長M・N・ペレグドフ国家保安中尉が、被疑者に尋問した。
 1 姓   キム・シアン(リョ・ノサカ) 
 2 名・父称
 3 生年 1898年
 4 生地  神戸市、日本
 5 居住地 ゴーリキー街第36号棟ホテル・リュックス第56号室
 6 民族・国籍  日本人、国籍喪失
 7 パスポート
 8 職業  外国労働者出版所、翻訳・編集員
 9 社会的出身 父、元商人・木材加工工場所有者、神戸市、1929年死亡
 10 社会的地位(職種・資産)
   a 革命前   生徒ー1918年まで
   b 革命後   1918年後、2年教師、政治政党活動?
 11 家族構成 夫ーオカノ、コミンテルン執行委員会幹部会員、1936年より外国におり、居所は知らない。
     母ークズノ・アキ、日本、神戸市
     兄弟ークズノ・サクタロウ、神戸市、工場所有者
 12 教育(普通、特殊)  高等、1918年、高等師範学校卒業            
 13 党籍(過去・現在)
      1923年以降、全連邦共産党(ボ)員、党員証番号 
      (1923年以降日本共産党、1932年以降全連邦共産党)
      1938年1月末、コミンテルン執行委員会アパラート下級党組織により、逮捕済みのタナカとのつながりで党から除名された。
 14 いかなる弾圧を受けたか、前科、逮捕等(いつ、いかなる機関により、なにゆえに)
  a 日本で:4回逮捕(2日間から20日間)、1回裁判。
    逮捕は1928年、日本の革命運動と共産主義活動に加わったため。1928年7月から裁判がある1929年7月まで在獄。裁判はおこなわれなかっ た。私が非合法にソ連に渡ったためである。
  b ソ連では逮捕されたことがない。
 15 ソヴェト政権下での受賞            なし
 16 兵役登録                   なし
 18 白軍・反革命軍での軍務            なし
 19 武装犯罪集団・反革命組織・反乱への参加    なし
 20社会・政治活動にかんする情報  
                     サイン キム・シアン
 

被疑者キム・シアン(リョウ・ノサカ)の供述
                1938年2月17日

問 : ソ連領内に住む親しい知人を全員あげてください。
答 : ソ連領内に住む私の知人のうち、
  1 タナカは、日本共産党代表で、コミンテルンで働いていたが、1937   年11月2日に逮捕されました。逮捕の理由は私にはわかりません。
  2 タナカの妻、アンドー・ユキ・タナカはレオンチェフ横町第2号棟A  第8号室に住んでいます。   
  3 ササキ・サブロウはスターリン地区の工場で働き、セーヴェルナヤ    鉄道のチェリュースキンツイ駅に住んでいる。
  4 コン・ジョは学生でトヴェルスコイ並木通り第13号棟に住んでいた   が、1937年5月にNKVD機関に逮捕された。
  5 コンは外国労働者出版所で働き、トヴェルスコイ並木通第13号棟に  住んでいたが、やはり1937年の8月に逮捕された。
   
問 : あなたがいつ、どこからソ連領内へ国境を越えたのか詳しく話して  ください。
答 : 1930年の末にソ連から日本へ帰国した、姓をタケダという知り合い  の男性が家にきて、私の夫オカノと私が国境を越えてソ連に行く必要があ  ると言いました。夫は日本共産党についてコミンテルン執行委員会に報告   をし、私は日本のモップルの活動についてモップル中央委員会に報告を  し、その後、残って勉強するようにと。1931年にタケダの指示に従い、私  たちは神戸から日本を出発し、旧東支鉄道を使って満州を抜けポグラニー  チナヤ駅まで行き、そこで1人のロシア人同志を訪ね、タケダが私たちに  あたえた暗号をつたえました。そのロシア人同志の助けを得て、私たちは  蒸気機関車の炭水車に乗り、非合法な形でソ連領に入りました。ヴラヂ  ヴォストークに着いて私たちはタナカに会いました。  
問 : 1931年まで日本であなたは何をしていましたか。
答 : 1918年に日本の東京市の高等師範学校を卒業しました。学校を卒業  してすぐ、兵庫県明石市の女子師範学校で1920年まで英語と国語を教えて  いました。1919年の初めにオカノに嫁ぎましたが、7月には夫は日本の労  働組合の特派員として、経済と労働組合運動を学ぶためイギリスにでかけ    ました。1920年の末に私は日本を出てイギリスの夫のもとへ行き、そこで  同じく労働組合運動を勉強しました。1921年のウェールズの鉱山労働者の   ストライキの時に、私たちはイギリスから追放されフランスのパリ市に移  り、そこで1ヶ月ほど暮らしました。そしてパリからドイツのベルリンに  移り、そこでも労働運動の研究にたずさわりました。1922年に私たちは日  本へ戻りました。
   日本帰国後、私は東京で女性労働者たちの間に手芸サークルを  つくり、彼女らの間で政治活動を行ないながら、また労働組合の女性新聞  の編集員を勤めた。1923年に私は日本共産党に入りました。1924年から  1928年まで労働問題研究所の秘書として働き、モップルの活動をしていま  した。1928年には私は何度か日本の警察に捕まり、2日間から30日間拘留  されました。7月にも逮捕され、東京の市ケ谷刑務所に入っていました。  しかし1年後、夫の弟オノ・ゴウイチが私の保証人になってくれ、80円を  払って保釈されました。ソ連への逃亡、つまり1931年まで私は母のところ  で暮らし、モップルの活動を手つだっていました。
問 : あなたの親族のうち、ソ連国外に住んでいるのは誰ですか。
答 : 日本に住んでいる私の親族のうち、母クズノ・アキ(主婦)と、兄  クズノ・サクタロウ(箱工場経営)が神戸市に住んでいます。東京市では  夫の弟オノ・ゴウイチがモーター輸入会社に勤め、夫の兄クズノ・トモツ  チが私の兄と1緒に働いており、また夫の姉妹2人ハヤカヤ(主婦)とア  ベ・リュウ(主婦)も東京に住んでいます。私は1931年以後誰とも連絡を  とっていません。
問 : なぜあなたは全連邦共産党(ボ)から除名されたのか話してくださ  い。
答 : 私は1923年に東京で日本共産党に入りましたが、非合法にソ連領入  りした後の1932年1月に日本共産党から全連邦共産党(ボ)へ移籍され  ました。しかし人民の敵タナカとのつながりのため1938年1月、コミンテ  ルン執行委員会の党組織によって全連邦共産党(ボ)から除名されまし  た。
問 : あなたがいつ、誰によってソ連領内でのスパイ目的にやとわれの  か、取り調べに対して嘘偽りのない証言をしてください。 
答 : 私は、ソ連領内に住んで、反革命的スパイ活動をしたことは1度も  なく、誰にもやとわれたことがないと言明します。
問 : あなたは嘘を言っている。あなたがソ連領内に住み、日本国家のた  めに反革命的スパイ活動を行なったことはわかっている。誰があなたをや  とったのか嘘偽りのない供述を要求する。  
答 : 私は、誰にもそして1度も私はやとわれたことがなく、また私が反  革命的スパイ活動をしたことがないという先の供述を確認します。

 調書は私のことばどおりに正しく記録されており、私はそれを通読しまし た。  
                           キム・シアン」             

   

4 釈放・その謎

裁判中 止   次の文書は、「裁判中止の決定」にかんするものである。

   「 1938年3月31日
 
「 1938年3月28日、小官、NKVDモスクワ州局国家保安局キエフスキー地区支所全権捜査官、国家保安少尉ルイバルキンは、キム・シアン(リョ・ノ サキ)の起訴にかかわる審理事件第676号を審理し、次のことを明らかにした。
 
 キム・シアン(リョ・ノサキ)、1896年、神戸(日本)出身、民族籍日本人、大木材業者の家庭の出身、1932年以来、全連邦共産党のメンバ−、 1937年11月、人民の敵とのつながりでコミンテルン執行委員会アパラート党組織によって除名。
 逮捕されるまで外国労働者出版所で編集員および翻訳員として働いていた。1938年2月11日にスパイ容疑で逮捕された。
 キム・シアンは、1931年に日本人の夫オカナ[ママ] とともに、満州からソ連へ非合法に国境を越えた。 
 行なわれた審理ではキム・シアンの側からのスパイ活動の事実は確認されない。
 彼女の夫オカナ、コミンテルン執行委員会アパラートの要員は、1936年から秘密の外国出張中である。    
 HKVD国家保安本部第3課の指示によれば、キム・シアンの拘禁は妥当ではない。             
 以上のことから次のとおり決定した。
 キム・シアン(リョ・ノサキ)の起訴にかかわる審理事件第676号は、審理を打ち切り、キム・シアンを釈放し、事件ファイルは文書館に保存するため NKVDモスクワ州局国家保安局第8課に送付する。
 本決定のコピ−をモスクワ軍管区検察官に送付する。」
    この文書は、1938年3月31日、前記のヤクボヴィチ少佐により決裁される。
 
 モスクワ州レヴェルのNKVD機関の粛清作業が、上級のNKVD機関である国家保安本部の第3課の指示で中止させられたことがわかる。ただし和田 春樹氏の調査では、出国禁止という処分を受けたという。1方、党籍も回復されたという。(「歴史としての野坂参三(上)」、『思想』1994年3 月号61ページ。)
 こうして竜は逮捕から50日余で釈放される。国崎、山本、カンジョ、タケウチ、モスクワ東洋学専門学校の教師たちなど竜とかかわりのあったほかの日本人 共産主義者がほとんどすべて、根拠なく処刑されていくのにひとり竜だけが死どころか投獄さえ免れた。ついでに言えば、モスクワ東洋学専門学校の教師たちは タナカと並んでオカノをもスパイとして供述しているのに、オカノこと野坂も逮捕さえされない。これらのことはたしかに奇異である。それはなぜか。この謎を めぐってさまざまな憶説が流される。

『闇の男』は夫の野坂が妻の救出のために必死の努力をしたのだと見る。根拠はもとのソ連共産党高級幹部コヴァ レンコの証言である。それによれば、野坂はコミンテルンのディミトロフ書記長や「東洋部の総責任者」のクーシネンに猛烈に働きかけ、その結果、 クーシネンと「コミンテルン人事部長のアンドレーエフ」がディミトロフに竜の釈放を進言し、その場でディミトロフがエジョフ(NKVD議長)に電話をか け、竜の釈放を懇請し、その結果、竜が釈放されたのだという。(『闇の男』137ー138ページ。
 まるでコヴァレンコがディミトロフのそばで電話のやりとりを聞いていたかのような証言であるが、かれははたして電話記録でも調べてみたのであろうか。だ が竜が拘束されている時期にアメリカにいた野坂が、どのようにしてディミトロフなどコミンテルン幹部に竜釈放を要請したというのか。アメリカから電話をか けたり電報を打ったりしたのか。現在ならともかく1930年代の後半にそのような連絡が秘密裏に可能であったのか。それとも郵便で? しかし秘密裏に外国 で活動していた野坂が50日足らずのあいだに郵便あるいは別の送付方法で「猛烈に働きかける」ことができただろうか。
 この疑問は、竜の釈放が野坂が山本を当局に売った見返りであるかのように見る憶測についても言えることである。

    野坂は秘密国際要員?

 「裁判中止の決定」には、オカノが「コミンテルン執行委員会アパラートの働き手」として(コミンテルン執行委員会 幹部会の1員としてではなく)秘密裏に外国に出張中と記されている。そのことは野坂がコミンテルン執行委員会の幹部会メンバー以外の役職にもついていたこ とを示している。このアパラートとはなにか。コミンテルンのアパラート内部に通じていたアイノ・クーシネンはOMS (国際連絡部)という機関についてつぎのように語っている。 (  A.Kuusinenn, Before and after Stalin, pp.58-59; 坂内知子訳『革命の堕天使たち』1992年、平凡社、78ー79ページ。)
 コミンテルンの執行委員会のメンバーを含めて、外国での秘密活動に長けた要員は、所属セクションや地位にかかわりなく、「国際要員」とし て随時、外国へーーただし自国をのぞいてーー派遣されていた。主たる任務は出張先の党の内部問題の調停であった。そういう「国際要員」は突如としてひそか にコミンテルン本部から消える。
 野坂はおそらくそうした「国際要員」のひとりではなかったか。しかし野坂が秘密工作従事者であるがゆえに、NKVDがスパイ容疑で逮捕されたその妻を 救ったということは考えにくい。NKVDの高官はおろかトップすら粛清を免れなかったのだ。
 前記のアイノ・クーシネンにしても、事実上、離婚状態にあったとはいえ、党の最高幹部のひとりとして、コミンテルン内部でどころかソ連共産党内で、夫が 野坂以上の枢要な地位にあったにもかかわらず、逮捕と投獄を免れなかったのである。かりにだれかを売ったとしても、それで身の安全が保障されるほど事態は 甘くなかったはずである。
 偶然のいたずらでなかったとすれば、野坂夫妻はまことに不可思議な特別に安全な地位にいたとしなければならない。謎はつきない。
 和田氏は、NKVDが竜を逮捕したのは、竜とその夫が日本のスパイであるという自供を得ることであったと考えてよいとしている( 和田、前掲論文、前掲 誌58ページ)。しかし竜ファイルを見る限り、和田のように判断する根拠は得られない。竜は自分がスパイであることの自供はもとめられるが、断固それは否 認するし、オカノについては取調官は尋問さえしていない。無根拠な憶測は禁物である。加えて竜はは少なくとも竜はだれをも売ってはいない。山本についてさ え彼女はどちらかと言えばかれに有利な証言をしていると言える。

 (本稿を準備するにさいし、判読困難な原史料の解読作業ででEkaterina Komkovaさん(イルクーツクからの留学生)の、また翻訳作業で金森寿子さん(富山国際大学講師)の助力を得ました。お二人に感謝します。)