モスクワ東洋学専門学校

 ここで私がモスクワ東洋学専門学校という名称で語る学校は、これまでの文献で
は、「東洋学院」、「東方学院」、「東洋大学」とかの名称で出てくるものである
が、本来のロシア語名は、Institut vostokovedenija imeni Narimanovaというもの
で、ナリマノフとはソ連の政治家の名で、その名を学校に冠したものである。

Institutは学校を指すときと研究機関を指すときとあって簡単には判断できないが、
このばあいは教育機関である。よって日本語には大学と訳すことが多いが、当時は大
学と称するほど充実した高度の教育機関ではなさそうなので、私は専門学校と訳すこ
とにした。全体としては、ナリマノフ記念東洋学専門学校と呼ぶことにする(公式名
称にはモスクワという都市名はつかない)。『闇の男』では、同じ機関が東洋大学と
か東洋学研究所とかの別々の名称で出てくるが、それは肝心のロシア語史料が、ロシ
ア語文献をよく読めない人物によって翻訳されたことを示している。小林・加藤両氏
が苦労して入手したほかの史料についても滑稽きわまりない誤読が見られる。

 モスクワ東洋学専門学校とはいかなる学校であったか。
 ここでまずしばらくソ連における日本語教育の歩みをかえりみることにしよう。
 ソ連における日本語教育ないし日本語研究の歴史はもちろん10月革命前にさかのぼ
るし、それには日本の学者たちも多く貢献しているが、10月革命後に限定すると、ま
ずペトログラード大学の東洋学部をその中心的存在としてあげなければならない。そ
こではポリヴァノフやロゼンベルグ等が教鞭をとっていた。1919年にその学部が廃止
され、1920年にペトログラード現用東洋語専門学校が設置される。これがのちのエヌ
キゼ記念レニングラード東洋専門学校である。

 1922年からは高名な日本学者コンラド(写真)がそこの日本語講座の主任となる。
        コンラドはレニングラード大学でも教えていた。
         一方、モスクワではナリマノフ記念東洋学専門学校で日本語教育がはじま
っていた。ポリヴァノフやプレトネルが担当者であった。
 プレトネルが亡くなり(1893ー1929年)、ポリヴァノフがモスクワを去った後、30
年代のモスクワ東洋学専門学校では、ナヴロン=ヴォイチンスカヤ、マルコヴァ、グ
シチョ、ゴルプシテイン、ヴァルドウリ、フォミン、それに極東大学から移ってきた
T.S.ユルケヴィチ、P.S.アヌフリエフ、N.P.マツオキンが教鞭をとった。
 1930年代はじめのソ連での日本語教育については日本側にも記録がある。 『日露
年鑑』(1931年版)によれば、当時、ロシアの日本語関係学校は5校あった。極東大
学、レーニングラード大学、モスクワ東洋学院、レーニングラード東洋学院、モスク
ワ陸軍大学である。(名称は『年鑑』記載のまま)。
 極東大学(1930年、ヴラヂヴォストークからハバロフスクに移る)では「東洋科日
本学部」の主任教授はマツォキン、ほかにアヌフェーエフ(アヌフリエフAnufrievの
誤記?)、ヨルケーウィチ(ユルケーヴィJurkevichの誤記?)、オヴィゼフの各教
授がいる。
 レーニングラード大学では「日本語学部」にコンラド(ニコライ・イオシフォウィ
チ)が主任。(1932年版では、ネフスキーの名が加わる。)
レーニングラード東洋学院の日本語主任教授はやはりコンラド。ほかにコルパクチ
(コルパチキKolpachkiの誤記?)、ジョセン(?)がいる。(32年版では、ネフス
キーがレーニングラード大学同様主任教授とある。)

 さて、モスクワ東洋学専門学校は、1920年9月7日、現用東洋語中央専門学校として
創設された。もっともそれには前身があり、19世紀はじめに創設されたラーザレフス
キー東洋語専門学校が1919年にアルメニア専門学校に改組され、それがのち西アジア
専門学校と改称され、ついで1920年に前記の現用東洋語中央専門学校へとさらに改組
された。それが1921年10月27日、モスクワ所在の各種の東洋語教育機関を統合してモ
スクワ東洋学専門学校へと改組されたのである。同校の創立記念日は中央専門学校の
発足の日とされている。のち、ナリマノフというアゼルバイジャン出身の政治家でソ
連東方の共和国の指導者の名を同校に冠した。

 日本の官憲記録によると、ナリマノフ東洋学専門学校は、レニングラード東洋学専門
学校とならんで、ソ連中央執行委員会に付属する教育機関で外務人民委員部ならびに
外国貿易人民委員部の東方関係勤務者の養成機関とされ、修業年限は4年で、入学者
は共産党員に限られる。学校には、日本、中国、モンゴル・チベット、インド・アフ
ガン、アラビア、ペルシャ、トルコ、中央アジアの8学部がある。日本語学部の学生
は現在約50名とある。  

 この学校は1954年に廃止になり、東洋語教育はソ連外務省付置のモスクワ国際関係
大学に移された。
 第二次世界大戦のあと数年は、日本語の教育・研究ではこの学校がソ連で中心的な
役割を占めており、コンラドがそこで日本語学科の主任をつとめ、フェリドマン、ナ
ヴロン=ヴォイチンスカヤ、ザルービン、ツイン等が活躍する。かれらの業績(辞典
編纂など)は今日の日本ではよく知られている。ツインは、岡田嘉子と獄中で親交を
結んでいた女性日本学者ツインの夫である。
 
 勝野金政もモスクワ東洋学専門学校で教鞭をとっていたことがある。アメリカから
入ソした同胞たちは、この学校についてほとんど記録を残していない(NKVDファイル
のほかには)が、祖国に生還できた勝野は『凍土地帯』(吾妻書房、昭和52年)など
で1930年前後のこの学校について貴重な記録を残している。