大阪経済大学『人間科学研究』12007年)原稿 

(原稿は長文であったため、『人間科学研究』第2号2008年)、第3号(2009年)に分割掲載された)

      

 

「ジェンダー概念の整理」の進展と課題

                             イダヒロユキ

目次

はじめに

1 バックラッシュ反撃本の成果と限界

2 「ジェンダー概念の整理」の進展

3 ジェンダー概念の整理をめぐっての論点

4 ジェンダーフリー概念を擁護すべきか

5 私たちは何をなすべきか

 

はじめに 

フェミニズムをめぐる誤解や揺らぎが目立ってきている。バックラッシュという反フェミニズムの動きの中で、フェミニズムのシンパ、中間派だけではなく、フェミニストの中でもフェミニズム(ジェンダー/ジェンダーフリー)の理解、戦略をめぐって「揺れ/混乱」があるように思う。しかしそれは、実はこれまで潜在的にあった問題点が顕在化しはじめたということでもある。大雑把なところではいいのだが、批判にさらされてそれに反撃/対応する中で、曖昧なところが出てしまっているという状況である。「専門家的に抽象的に言う」のはそれほど難しくないが、平易な言葉でバランスよく説明するというのは、実は案外難しい。そこに詰めきれていない理解の矛盾点が出る。

本稿では、2006年前後にバックラッシュに対抗する本がいくつか出たことを受けて、ジェンダーおよびジェンダーフリー概念について、どのような整理が進んだのか、そして何が未整理で、あるいは論点/対立点で、フェミニズムへの豊かな理解が広がっていくための課題は何なのかを明らかにしていく、

 

 

1  バックラッシュ反撃本の成果と限界

 2005年から2006年にかけて、バックラッシュに反撃するフェミニズム系の著作がいくつも出た(表―1)。[1]

 

 

表―1 バックラッシュ反撃本(20052006年を中心に)

 

浅井春夫・他編『ジェンダーフリー・性教育バッシング――ここが知りたい50のQ&A』大月書店、2003

日本女性学会・男女共同参画をめぐる論点研究会編「Q&A――男女共同参画をめぐる現在の論点」パンフ+HP、20033

日本女性学会編『女性学』11号、「男女共同参画社会をめぐる論点と展望」新水社、2003

『We』「特集バックラッシュを打ち負かせ!」200411月、20051月、同23月号
浅井春夫『子どもの性的発達論(入門)』十月舎、2005年7月
奥山和弘『ジェンダーフリーの復権』新風舎、2005
木村涼子編『ジェンダーフリー・トラブル』現代書館、2005年12月
『アジェンダ 未来への課題』11号(特集 ジェンダーバッシングに抗して)アジェンダ・

プロジェクト編、星雲社発行、2005年12月
あごら新宿編『ジェンダーバッシング』(あごら305号)BOC出版、20063
伊田広行『続・はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、20063
“人間と性”教育研究協議会編『新版 人間と性の教育◆\教育のネットワークQ&A』大月

書店、2006
浅井春夫・他『ジェンダー/セクシュアリティの教育を創る』明石書店、2006年4月
日本女性学会・ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング―

――バックラッシュへの徹底反論』明石書店、2006年6月
労働教育センター編集部・編『ジェンダーバッシングを超えて』(女も男も――自立平等――

NO107)労働教育センター発行 2006年6月
あごら新宿編『いま、女性学は』あごら306号)BOC出版、2006年6月
宮台真司・ほか『バックラッシュ!』双風舎、2006年7月
若桑みどり・他編著『「ジェンダー」の危機を超える! 徹底討論!バックラッシュ』青弓社、

2006年8月 

「反撃するフェミニズム」『インパクション』154号、200610
ジェンダー・学び・プロジェクト編『ジェンダーの視点から社会を見る』解放出版社、2006

 年11月

加藤秀一『ジェンダー入門』朝日新聞社、2006年11

唯物論研究会編 『ジェンダー概念がひらく視界―バックラッシュを超えて』(唯物論研究年誌、第11号)青木書店、2006

 

 

 出版が相次いだことも含めて、フェミ側の成果としては、量的な反撃ができたこと、質的にもほぼ、バックラッシュ派の言い分を批判しつくしているという意味で、反撃できたということがまずあげられよう[2]。またジェンダー概念の整理やバックラッシュという動きそのものの分析[3]も進んだ。

 また、フェミニストの中でも「ジェンダーフリー」概念には賛否両論があるが、バックラッシュ状況の中で、性教育の現場などから、実態に基づいた力強い議論が出され、それが共有され、フェミ側の団結がすすみ、基本的に「ジェンダーフリー」擁護の流れでまとまってきていることも成果の一つに数えられよう。

 さらにインターネット、メール、メーリングリストやHP/ブログを通じての情報交換や連携もようやく進んできている。東京での上野千鶴子講師はずし事件や福井でのジェンダー関連図書排斥事件などでは運動が盛り上がったし[4]、各地で条例改悪などとの戦いも行われている。さらに日本女性学会をはじめとしていくつもの学会がバックラッシュに対抗した声明をだした。[5]

 

 不十分点としては、フェミニズム側のそうした反撃が、ほとんどフェミ内部のみにとどまっており、メディアや行政を含む「社会全般」には届いていない/理解されていないという点があげられよう。バックラッシュに対抗する実践行動も不足している。本稿でみていくように、ジェンダーやジェンダーフリーをめぐるフェミニズム陣営内の無視できない差異や対立や未整理点も一部にある[6]。まだまだジェンダー、ジェンダーフリーの定義すら共有されていない。それも影響して、政府のジェンダー/ジェンダーフリーに対する見解へのスタンスもバラバラで、統一した対応が取れていない(後で、そのことが実践的には問題であると指摘する)。

 また理論的には、ジェンダーとセクシュアリティの関係、「性の多様性」「性別二元制(男女二分法)の問題」が、後述の議論にもあるようにまだまだ深まっていない。

 

 この間の「成果」を見てみれば、逆にこれまで意思統一が基本的なところでさえできていなかった(ジェンダー概念への無理解、浅い理解、不統一)ということでもある。研究者・学者が運動現場と切断されてきた傾向も明らかになったといえよう。

 

 

2 「ジェンダー概念の整理」の進展

私は拙著[2006](原稿執筆は2005年末)で、自分なりのジェンダー概念の整理を提起した。その過程で思ったことだが、これまで、日本でジェンダー概念がどのように使われているか、広く目配りしたうえで総合的に整理したものがなかったということである。 

それに対して、私の整理に加え、2006年にはいくつかのジェンダー概念の整理の論考が出てきた。そうしたことによって、現在、私も参加した、20063月の集会をまとめた若桑みどり・他編著[2006]での江原、加藤、井上各氏の整理とあわせて、ジェンダー概念の整理がほぼまとまってきているといえる状況である。[7]

 

伊田のジェンダー概念整理

まず私のジェンダー概念の整理を簡単におさらいしておく。[8] 私は以下の4つのジェンダー概念の区別が重要であると考えた。

 単なる性別としてのジェンダー

◆Ъ匆馘性別・性質としてのジェンダー(価値中立、当該社会に現存する性のありかた、性的アイデンティティ)

:規範および参照枠組みとしてのジェンダー

ぁА崟に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」としてのジェンダー

(い紡弍して、「そうした性に関わる規範性、差別・支配関係を明らかにし、それを解消することを目指すもの」というニュアンスを含む)

 

 これに対しては、井上輝子氏などから一定の賛同をえているが、まだ普及しているとは言いがたく、その意義もほとんど理解されていない状況である。[9]

私のジェンダー概念を踏まえれば、さまざまな誤解や批判にも適切に答えることができるのだが、そのことは、あとで徐々に説明していく。さて、私のジェンダー理解の上では、ジェンダー平等は、「男女平等」を超えて、性的マイノリティも含む解放の話というようになる。人の性のあり方は、本当は100100様なのに、2分法化・2種類のみにされ、その枠に押し込められているということを暴き、それに批判的になる(本質主義批判)というということまで含んでいるということになる。

 また、ジェンダー概念自体に、ジェンダーフリー、ジェンダー平等指向、ジェンダー・センシティブという意味があると明言するのが、私の主張の特徴である(これまでそのような明言はなかった)。

 

もちろんこのようにいうと、「ジェンダーは権力関係を示すと同時に、権力関係をなくすことも意味するなど、まったく反対の意味を持っていることになる。むちゃくちゃな概念だ」という批判がくるのはわかるが、単純に反対の意味があると言うのではなく、上記したように、基本的に社会的な規範や権力的関係の性を表すと同時に、そうしたことを見抜く視点(まなざし)であり、そこにはそれに対して批判的になるという暗黙の前提が組み込まれているという関係にある。結果、上記のようにまとめられるのであり、事実そのように多様な意味で使用されており、文脈で正しく理解できるので、それでなんら問題はない。

そもそも一つの概念で複雑な複数の意味を含むことはよくあることである。「資本や国家や貨幣や幻想」という諸概念しかりである。

またバックラッシュ派が、「ジェンダー概念自体に支配や差別を含んでいるからダメだ」「政府の見解と違っている」というようなことを繰り返し言っているが、先ず政府の見解が間違っているのであり、次にジェンダー概念に性差別・権力関係に批判的になるというニュアンスが入っているのは事実であり、それは誇らしいことなので、なんら問題はないと私は考える。バックラッシュ派と対決すべきは、まさに性差別に反対するのか否かという点なのであって、価値中立的にジェンダー概念を矮小化することで攻撃を避けるべきものではない。[10]

 

ジェンダー・バイアス、ジェンダー・センシティブ

簡単に、ジェンダー関連の諸概念の意味を整理しておく。[11]「ジェンダーの視点」でみたときの「偏り/偏見/非対称性」を総称して、「ジェンダー・バイアス」という。「伊田´◆廚紡弍して、単に現存の男女性別において「偏り/非対称性」があるというときもあれば、「伊田ぁ廚紡弍して、規範性や権力性を反映した「偏り/非対称性」の場合もある。

たとえば、性別によって異なる規範意識や性のステレオタイプ、偏見を強固に持ち、それを当然/自然と考え、相手にもそれをあてはめたり、押し付けたりする傾向は、ジェンダー・バイアスのある態度といえる。しっかりと反対意見を言ったとき、男性なら評価されて、女性なら「生意気だ」と思われるような、同じことをしてもそれが男性か女性かで評価が異なるという「偏り/偏見」がジェンダー・バイアスである。

 

ジェンダー・センシティブ」とは、「伊田↓ぁ廚琉嫐のジェンダーに敏感であることである。ジェンダー概念自体に、ジェンダーフリー、ジェンダー平等指向という意味があったのだから、ジェンダー・センシティブとは、生物学的性差(セックス)だけでなく、社会的性別であるジェンダーというものがあり、それが重要であるとみて、一見「自然」に見える事柄(性別による異なる扱いや個々人が持っている性に関わる規範)の中に「つくられたジェンダー」、「規範/差別/抑圧としてのジェンダー」を見出し、ジェンダー・バイアスをもたずに接する態度のこと、ジェンダーフリーやジェンダー平等を目指して敏感に接することをいう。

 一人の人に接するときに、性というものに関心をもたずにのっぺらぼうにみるのではなくて、その人のジェンダーが育った環境の影響を受けていることをふまえ、その人固有の立場や来歴、考え方に配慮し、その人のジェンダーに関わる全体を見出しつつそれらを尊重して関わるような姿勢も、ジェンダー・センシティブなありかたという。

 

ジェンダーフリー

ジェンダーフリーとは、社会的性別(ジェンダー)に囚われずに、行動したり考えたりすること、その考えで社会変革していくことという意味である。性別をすべてなくす(性別消去、ジェンダーレス)とか、みなを中性(1色)にしていくことを求めているのではなく、性別による「不必要・不適切な区別」「たった2色だけの扱い」をせず、ジェンダーの抑圧から解放されることを目指す概念である。ジェンダーフリーは、そうした考え方を基礎にして、文脈によって、目指す方向であったり、視点、考え方、生き方、状態、具体的制度設計などを意味したりする。けっして意識啓発だけを問題とする観念論などではない。

人間の中で男女の区別をなくし、1種類の「中性」人間だけにするなどということは、できるはずもないし、ジェンダーフリー論者も求めていない。その逆に、ジェンダーフリーは、100人を100タイプ(100色)の個々人として、その違い・多様性を尊重していく概念である(その意味で、個人単位の平等論)。

ある一人の人間のアイデンティティとは、一つだけなのではなく、多数の属性、多数の側面、多数の性質の集合としてのアイデンティティである。ある面では、日本人であり、ある面では地球人であり、ある面では男性であり、ある面では家事好きであり、ある面ではサラリーマン等々なのである。したがって性的にも、みな一人一人異なる。男女の2種類しかないと決めつけ、それを規範として男女2タイプの枠に押し込める伝統的な性別観のほうこそ、自由の抑制である。

つまり、ジェンダーフリーとは、ジェンダーの意味の「伊田ぁ廚離譽戰襪妊献Д鵐澄竺鞠阿鰺解した上で、従来の抑圧的・固定的なジェンダーから自由(フリー)になる(離れる、囚われないようになる)ことを目指すことであり、社会環境の面でも、「つくられた抑圧的なものとしてのジェンダー」、「ジェンダー・バイアス」、「ジェンダーに基づく差別・抑圧・暴力」「人を性的に差異化する政治」から自由になる生き方や思想や社会の仕組みのことである。[12]

各人が囚われから自由になって、多様な生き方ができるためには、多様な生き方を公平・中立に取り扱うことが要る。そのためには、考え方や制度設計を「個人単位(シングル単位)」に変えていくことが必要なので、ジェンダーフリーの思想は、個人単位型の社会に変革していくという意味をもっている。

 

ジェンダー・ニュートラル

 「ジェンダー・ニュートラル」は、「ジェンダー中立」とも言われる。ジェンダーの影響を受けない、ジェンダーに関係なく、ジェンダーに囚われないという意味での「ニュートラル」であり、したがってジェンダー・センシティブに、ジェンダーから自由に、ジェンダーフリーにというニュアンスまで含むのが積極的に用いるときの基本の意味である。ジェンダーに囚われず、多様な生き方の人が公平に生きられるようにするためには、上記したように考え方や制度設計を「個人単位」に変えていくことが必要なので、ジェンダー・ニュートラルが、個人単位型の制度に変革するという意味で使われることもある。

男女共同参画社会基本法第4条にある「社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない」という視点は、ジェンダー・ニュートラルにしろと言っていることになる。

 

しかしこの概念も、ジェンダーのどの意味を前提にしているかで、意味が異なってくる。「伊田↓ぁ廚泙覗管瑤魎泙鵑世箸は、「ジェンダーフリー」と近くなるが、「伊田|韻覆訐別」に限定しているなら、単に「男女・性別関係なく」という意味になる。

「⊆匆馘性別・性質としてのジェンダー」の意味に限定して、既存の男らしさ、女らしさを残したまま、しかしそれに対してどちらが得ということなく中立的なものをという程度の意味で遣うときもある。

フェミニズムでは、「ジェンダー中立的な制度設計をしよう」というように基本的には積極的な意味でこの概念を使ってきた。結論として言えることは、ジェンダーの意味を明示しつつ、文脈からジェンダー・ニュートラルの意味が適切に通じるように用いるべきだということである。

 

 

ジェンダーの視点

豊かなジェンダーの意味を尊重した視点ということであるから、「伊田ぁ廚凌綵爐泙粘泙瓩襪覆蕁屮献Д鵐澄爾了訶澄廚箸いΔ世韻如◆屮献Д鵐澄次Ε札鵐轡謄ブの視点」という意味や従来の性別役割から自由になって生きるという意味(ジェンダーフリーの視点)、ジェンダー平等指向の視点、ジェンダー・バイアスをなくす視点など多様な意味を含むことになる(どの意味になるかは文脈による)。

つまり、「ジェンダーの視点」といったとき、どの意味のジェンダーといっているかによって意味が異なるわけだが、「伊田ぁ廚離譽戰襪泙粘泙瓩襪函△修譴蓮基本的には、性が「社会的に作られたもの」であるということを見抜き、「ジェンダー・バイアス」を敏感に感じ取って、性に関わる差別をなくしていくという「ジェンダーフリーの視点」という意味まで含むのである。

 

ジェンダー平等

「ジェンダー平等」という概念も、「伊田↓ぁ廚泙粘泙瓩突解するなら、単なる性に関わる平等とか従来の意味での狭義男女平等というだけの意味ではなく、「性を、伊田い離献Д鵐澄爾了訶世膿爾とらえて、ジェンダーフリーを目指していく意味での平等」ということになる。

もう少し詳しく説明すると、男女二分法的/本質主義的に「男/女」を捉えた上での(=性別特性論の上での)男女平等ではなく、性の多様性を踏まえ、性的マイノリティも含むという意味で、男女平等を発展させた概念がジェンダー平等といえる。

ジェンダー平等とは、ジェンダーを見抜く、つまり、ジェンダーの観点で性のあり方を見抜き、社会的に形成されたものだと認識し、「伊田ぁ廚琉嫐まで含めてジェンダーを捉え、性差別を見抜き、性に関わる差別・権力関係をなくしていき、個人を単位として多様性を尊重した平等を考えていくという意味での平等といえる。

ただし、過去の運動で「男女平等」概念は、性における権力関係や差別をなくしていくという、非常に積極的な意味で使われてきたという実績もある。日本語として分かりやすいので、ジェンダー平等の意味を含ませつつ、分かりやすく男女平等ととりあえず言っておくということが有効な場合もある。したがって今日においても、「男女平等」という言い方が一概にだめということにはならない。大事なことは、その限界性を分かっておくことと、文脈・使い方であろう。

 

 

3 ジェンダー概念の整理をめぐっての論点

 

加藤秀一氏の本をてがかりに

加藤秀一氏はその著書『ジェンダー入門』(加藤[2006]、および若桑みどり・他編著[2006]内の論文)でジェンダー概念の説明などを行っている。キッチリ説明しているという意味で、基本的によい本で、フェミニズム側の財産となる作品である。立場としても、バックラッシュを批判し、ジェンダーフリー擁護に近い立場をとっている。しかし、明確に書いた分、私との違いも明らかになったので、加藤氏の論にコメントするカタチで、私のジェンダー概念の意味を整理/説明していきたい。

   

問題点(1)は、ジェンダーには、加藤の4つの意味以外の用い方があるのにそれを加藤は見落としている(排除している)という点である。加藤の「ジェンダーの4つの用法」とは、1:性別そのもの、2:自分の性別が何かという意識(ジェンダー・アイデンティティ、性自認)、3:社会的に作られた男女差(ジェンダー差、性差)、4:社会的に作られた男女別の役割(ジェンダー役割、性役割)である(加藤[2006]p23)。そして加藤は、4に規範があるとみる。

 しかし、私の意見としては、加藤の2,3,4は全部、「価値中立的で、社会的な性」という点で基本的に「伊田◆廖憤謀弔猟蟲銑△里海函砲砲泙箸瓩蕕譴襪箸澆襦焚弾の4の規範部分だけが伊田になる)。それどころか、「伊田◆廚任蓮⊆分がトランスジェンダーであるとか、同性愛であるといった、男女二分法を越えた多様なままの性自認も含むとみる。加藤の定義ではそこは明示されていない。

そして伊田の定義では、独自項目として、加藤の整理にはない、:規範・参照基準としての性、ぁЦ⇔牢愀犬箸靴討寮の定義を加えているので、伊田の定義のほうが網羅していると考える。しかも伊田定義では、い砲蓮規範や権力関係を見抜いてそれを批判する、変革して差別をなくしていくというニュアンスまで含みこんだ概念であると明確に指摘しているが、加藤にはそれがない。それでいいのだろうか。つまり、加藤氏のまとめ方は狭いのではないか?伊田のまとめのほうが優れているのではないかというのが、私の最初の指摘である。

 

問題点(2)は、性差と性役割の機械的分離の問題(加藤[2006]p32)である。加藤は、「性差=客観的な事実に即した記述的なもの」としている(「事実であるとは言わないと注釈してはいるが)。それに対し、「性役割=事実に即していない規範的なもの」として、2つを分ける。

学者的には、一見、「記述的なものと規範的なものの区別」というのはすっきりしたものであるように思いがちであるが、しかし、こと「性」に関わって「性差と性役割」という言葉をあててこの2つを切断することは必ずしもできない。加藤は説明において、「男性は頭がよい」とは事実に即していないというが、統計をもって、男性グループのほうが空間的能力に長けているとか、論理性があるとはいえるかもしれない。もしそれを批判するなら、性差といわれるものの多くも批判的に見直せる。加藤は「幼児が好きな遊びには性差がある」というが、そこには規範性はないのか。その事実認識自体に誤りやバイアスはあるのではないか。「事実」というが、どのような統計の取り方か?調査の仕方は? どのような調査設計をするか? どのような方法を選ぶか。どの局面をどのように切りとり、どう表現するか。そのようなことに、立場性/党派性が出る。規範的圧力の結果でもある。過去のプロセス・歴史や社会的影響を抜きに、いまの目の前の現象を記述するだけというなら、「家事は女性の役割、女はやさしい」というものも、ときには客観的に観察され記述されうるものである。事実に即しているといえるときがある。規範性自体を問題とするなら、伊田の定義のように明確に、価値中立的な△閥菠してとして独立して規定すべきで、加藤の区分では、規範性があらわにならない。ましてや規範と戦っていくというジェンダー概念の真髄が隠されてしまう。

つまり、性差と性役割を記述的なものと規範的なものとキレイに分けて説明することはできない。換言すれば、加藤の性差と性役割というわけ方は論理合理的なものではなく、価値中立的な記述(伊田の◆砲、規範性・権力性を見抜くという意味(伊田ぁ砲任△襪里の区分が重要だといえるのではないか。「伊田◆廚貌る性役割もあるし、「伊田」に入る性差もある。「女らしさ」「男らしさ」が単に社会的にあるものとするなら「伊田◆廚任△襪、それが社会的規範や参照基準の意味で使われるなら「伊田」である。つまり「女/男らしさ」をどの意味で使うかによって、それはあってもいいものか、なくしたほうがいいものかはわかれる。ジェンダー概念を価値中立的に使うときもあるが、性差別をなくすという価値を含んだものとして使うときもある。加藤氏の定義の「混乱」=「伊田△鉢の区別の重要性を理解しない混同」はここに関わっている。ここを自覚しないジェンダー理解が、加藤氏以外にも見受けられるが、それは問題ではないか。

 

問題点(3)は、加藤は、セックスとジェンダーという二分法を疑うといいながら、ジェンダーとセクシュアリティの区別/区分にはこだわっている点である(加藤[2006]6章では切断しているといえる)。しかし実際は、セックスとジェンダーとセクシュアリティは、どれも分けられるし、また分けることの限界もある。実はこの3つは、重なり合っている。かなり絡み合い、関係しているという面がある。

ジェンダーを語りながら、セクシュアリティを排除するというのは重大な問題なので、私のジェンダー論では、セクシュアリティに関する諸問題(セックス、性解放、性教育、性暴力、性の商品化、暴力的ポルノ、セックスワーク、中絶、化粧・ダイエットなど美への囚われ、恋愛等)を組み込んでいる。権力関係、規範性などを扱おうとするとき(ジェンダー平等、ジェンダーフリーを考えるとき)、セクシュアリティの問題抜きにはとても狭くなってしまうだろう。ここは性の多様性の理解に関わるところである。加藤はなぜ、「ジェンダー入門」でこのセクシュアリティとの絡みの重要性を言わないのだろうか。(この点についてはあとで再び触れる)

 

問題点(4)は、加藤は、ジェンダーを分析概念とすることで、その意味を限定し、ジェンダーフリー概念を軽視してしまっている点である。

 加藤は、セクシュアリティ概念は、「性欲(感覚、欲望)そのもの」を表す概念ではなく、性へ向かう私たちの〈まなざし〉であり分析概念だという(p151)。だが、それは、狭すぎる捉えかたではないか。両方の用い方があるとき、どうして一つだけにするのか。

同じように、加藤はどうも、ジェンダー概念も、「性別の状況そのもの」や、「性的あり方そのもの」、「性に関する意識そのもの」というようにはあまり積極的には捉えていないようである(規範となっているまなざしという点に重点をおく捉え方)。

だから「抑圧的固定的なジェンダーから離れて、それにとらわれずに自由に生きていくこと、それにとらわれない考え方や制度」という意味でのジェンダーフリーという概念に積極的な賛意を示さないのではないか。だが、それでいいのか。

ただし加藤の定義の「4、性役割=規範」としているときには、それから離脱していくというジェンダーフリーということをいってもよさそうであるが、「1、2、3」の側面を重視して、明確に「規範としての性のあり方を批判していく」というジェンダーのラジカルな批判的意味を押し出さない(自覚していない)ので、ジェンダーフリーに積極的でないのであろう。

この点は、政府のジェンダー概念定義が、「ジェンダーそれ自体には、良い、悪いの価値を含まない」というように、「伊田◆廚妨堕蠅気譴討靴泙辰討い襪箸いμ簑蠅抜慙△靴討い襦2弾の定義であると、政府のジェンダー定義が間違いだと言い切れるであろうか。

 

問題点(5)は、加藤の「分析概念」の意味が狭いという点である。私は、広義の意味で「分析概念」を捉えるべきだと考える。

私のジェンダー理解であろうと、社会的現実をジェンダーという概念で分析するので、分析概念といってもいいがそれは、かならずしもジェンダーが価値中立的な概念だということにはならない。これは、伊田の言う△世韻任覆、「伊田ぁ廚琉嫐まで含んでいるということに対応する。

しかし、加藤の定義には、「ジェンダー概念は価値中立的なものではない。フェミニスト的な価値を含んでいる」という明示がない。実際そのような意味があるのに、なぜ定義にそれを入れないのか。

推測するに、学問は価値中立的であるべきという悪しきアカデミズムの影響があるのではないだろうか(第5節で再言及)。政治や価値観から離れ、階級(階層)・立場(民族性、性、その他を含む)・身体性・個別経験から離れ、超越的な立場から絶対的真理を追及するというようなあり方のほうがよいとして、学者社会内部で通じる抽象的で普遍的な記述こそが学問的に洗練されているよいものであるというような、アカデミズムのあり方をどう考えるのか。そこに異議を申し立てるのが、女性学/フェミニズムのよい伝統ではなかったか? この点も(4)と同じく、政府のジェンダー定義へのスタンスに関わってくる。

 

江原由美子の主張をてがかりに

フェミニストの第一人者の一人である江原由美子氏は、若桑みどり・他編著[2006] 『「ジェンダー」の危機を超える!』内の論文で、ジェンダー概念を整理しており、またかなりジェンダーフリー擁護に近い立場を表明している。しかしジェンダー概念を価値中立的とするようなところもあるので、私のジェンダー整理との異同を検討しておきたい。

江原のジェンダー概念の7つの意味とは、1:性別、2:当該社会に現存する性差、3:社会的文化的な性別特性、4:性差に対する社会的意味付け、5:当該社会に共有されている性についての知識一般、6:性に関する社会規範や社会制度、7:男女間の権力関係のことである。そして江原自身は5の意味で使うと明言している。 

 

私の立場から見ると、「江原定義の2、3、4、5」は、基本的に「伊田◆廚任△蝓◆峭掌僑供廚「伊田」、「江原7」が「伊田ぁ廚箸覆辰討い襦しかし「江原4」は「伊田」にもなる。ここは、上記の加藤の問題点(2)でも指摘したところであるが、概念整理において価値中立かどうかの視点が明確に意識されていないことの現われではないだろうか。

また江原は、自分自身のジェンダー概念は「江原5」だと明言するが、なぜ多様な使い方が現実にあるときに、「5」に限定するのか。ジェンダー概念の中で非常に大事な点である「伊田ぁ廚鮗分は採用しないと言うのは、どういうことだろうか。ここには、加藤の問題点(4)(5)と同じ問題があるのかもしれない。江原は、「性別にかかわる変数に敏感であるべきだ」(p50)と述べて、一定のフェミニズム的スタンスを求めてはいるが、それはあくまで中立客観的な学問的スタンスとのバランスの中での話にしており、反差別、解決の展望や意欲を前に出さない。ジェンダーを「伊田ぁ廚里茲Δ僕解することにかなり明確に抑制的な立場をとる。

例えば「・・・平等な状態をジェンダーと呼ぶとか、不平等な状態、抑圧的なものをジェンダーと呼ぶとか、そういう概念の使い方をすると、現実を記述するときにとても面倒くさくなって使いにくいと思っています。そういう直感があって「中立」と申し上げただけで・・・」(p210)と述べて、他の人の使い方を縛りはしないが、自分は分析道具として価値中立的なものとしてのみジェンダーを使うとしている。だが、フェミニストのスタンスとしてそれで十分であろうか。また江原自身がこれまで行ってきた研究活動と実践において、ジェンダーをほんとうに5の意味だけで使ってきたといえるであろうか。この点は、加藤の定義と同じく、政府のジェンダー概念定義が、「ジェンダーそれ自体には、良い、悪いの価値を含まない」というように、「伊田◆廚妨堕蠅気譴討靴泙辰討い襪箸いμ簑蠅悗離好織鵐垢箸靴峠斗廚憤嫐を持ってくる。

これに関連するが、江原は、現存する性差そのものと観るか、認識概念とするかというようにも問題を設定している(p56)。しかしこれも二者択一にする必要があるだろうか。文脈によって両方を使い分ければいいのではないか(私がこの点にこだわるのは、政府定義への対応のスタンスという、実践的に重要な差異をもたらすからである)。

 ここで一定触れておくならば、江原の上記のスタンスは、内閣府の定義[13]への評価が甘いということにつながっているように見える。 

 内閣府がジェンダーの定義をしたことに対し、江原は、「行政機関の文書で使用する場合の定義を定めたものであり、この意味で十分意義がある」、「しかしそれが学問の世界における各自の概念定義や概念使用法まで縛るものではないことは当然」(p54)などと述べている。

 しかし私の立場は、政府のジェンダー及びジェンダーフリーの説明自体に重大な問題が内包されているというものである。[14] 簡単に言えば、政府はジェンダーを「伊田◆廚琉嫐に限定して、「伊田ぁ廚箸い辰神儷謀な意味を排除してしまっており、これはバックラッシュ派の言いなりになった定義といえる。政府・行政がこう定義することで、とても大きく現実のジェンダー平等運動を制約し、バックラッシュ派を勢いづかせてしまう。その意味で、江原氏のスタンスには危険性があると私は考える(この点については本稿5節で詳述)。

 

井上輝子氏の主張をてがかりに

井上輝子氏は、私のジェンダー概念の整理を踏まえて主張されており[15]、そのバランスの取れた全体的な立場には、私は基本的に賛成し共感する。ただし、井上の見解のうち、以下の2点について、少し言及しておきたい。

井上は、「私見では、ジェンダーフリーを目標として掲げることには積極的な意味があるが、教育や実践の方法としては、ジェンダーフリーというよりはむしろジェンダーに敏感であることが重要と思われる」(p78)という。
 だが、私がこの文章をより積極的に言い換えるとすれば、次のようになるだろう。すなわち「社会変革の目標だけでなく、教育や実践の方法としても、ジェンダーに敏感であること、ジェンダー平等を求めること、ジェンダー・バイアスをなくしていくこと、ジェンダーフリーの視点を持つこと等がすべて重要と思います。」
 つまり、ジェンダーフリーとジェンダー・センシティブを二者択一的にとらえるというより、私の考えでは、ジェンダー・センシティブ概念のなかに、「性差別を見抜き、それを批判し、それから離脱するという意味(ニュアンス)」も入っていることを自覚し、対立させないことが重要だと思う。ジェンダー・センシティブ概念に、「ジェンダーフリー的になること、ジェンダーフリーの感覚で敏感になること」がときには入っているし、またジェンダーフリー概念の中に、「ジェンダー・センシティブになって、ジェンダー平等を目指す、ジェンダー・センシティブの感覚」が入っていることがあるといえばいいのではないか。ジェンダーフリー教育が、現場で実際おこなわれてきたとき、それは何もジェンダー・センシティブと対立するものではなかったのだから。

結局、井上のように二者択一的にとらえる記述の積極的目的が不明である。これはジェンダーフリー攻撃があるときに、ジェンダーフリー概念擁護への消極的な姿勢のようにもとられかねない。井上氏にはそのような意図はないと思われるので、やはりここは、ジェンダー・センシティブとジェンダーフリーを二者択一的にかかずに並列させたほうがいいのではないかと言うのが私の意見である。(後述する、「ジェンダーの視点=ジェンダー・センシティブ・オンリー」でいいのかの検討項目参照)

 

 次に、井上は、「『このご時世だからこそ、ジェンダーフリーの旗を掲げるべきだ』『一度使い始めた以上は、この用語を使い続けるべきだ』といった原理主義的要請がフェミニストたちに投げかけられる例も耳にする」(p79)という一文も記している。このあと、井上は、ジェンダーフリー概念を使う/使わないは自由であるべきという。

「原理主義的要請」とはどのようなもののことなのか不明であるが[16]、私の見解は、ジェンダーフリーという用語を使う/使わないは各人の自由であるのは当然であり、文脈や場所、対象者、さまざまな状況で言葉は選択すればいいというものである。第3者が、他者にたいして、使い続けろとか、使うなとか指図すべきものではないと思う。その上で、本稿で示すように、ジェンダーフリー攻撃がある中で、その誹謗中傷には毅然と反撃し、「ジェンダーフリー概念は間違ったものではない」と擁護していくことが重要と思っている。

つまり、私の主張は、「『使用禁止、概念廃止(それによるフェミ攻撃)』への抵抗」であり、少数派の言論尊重=多様性の擁護である。「原理主義的要請」というレッテルを横に置けば、私は、「バックラッシュがある中で、ジェンダーフリー擁護のスタンスは重要である」という主張に賛成である。

 この問題を考えるとき、たとえば、ジェンダーとかリプロという概念にも同じことを言うだろうか、と問いかけてみればいい。「このご時世だからこそ、ジェンダー(/性教育/DV反対/天皇制反対)という言葉を使い続けるのは積極的だ。沈黙せず声を出していこう、権力が消滅させたがっている言葉を使っていこう。」ということは、積極的なことだと私は思う。

権力と対抗する、「マイノリティ=少数側の意見/思想を言う自由を守る」ことこそ多様性尊重なのではないだろうか。強い側/多数派が自分たちの意見を強制するときと、弱い側/マイノリティ側が自分の意見を言う自由とを区別すべきである。とすれば、いま、政府や東京都が使用禁止とでも言うべき圧力があるなかで、ジェンダーフリーという旗色の悪い表現を擁護しよう/使おうということは、積極的なことと思う。

以上、2点にわたって、井上の意見を契機に、私のスタンスを説明した。

 

「日本学術会議 学術とジェンダー委員会」の報告書の検討

2006年11月22日に「日本学術会議 学術とジェンダー委員会」(委員長 江原 由美子)が報告書「提言:ジェンダー視点が拓く学術と社会の未来」(以下「学術会議報告書」とする)を発表した。第一線の研究者が集まり、充実した内容となっているが、本稿の主題の点からは問題点もあるように思えるので、言及しておく。

 

 「学術会議報告書」では、ジェンダー研究とは、「ジェンダーに敏感な視点(ジェンダー視点)」に立って人類をめぐる諸現象を分析・解明する、学際的な研究領域であるとする。ジェンダー視点」とは、人種・民族・階級・年齢・障害の有無などの差異と交差するジェンダーを問い直すことを通じて、真に多様な人間存在に対して配慮を要請するものであるとする。そして、既存の学問における研究の主題や方法を「ジェンダー視点」で見直す諸研究は、人間存在の多様性に配慮することを通じて、多様な生の共存に貢献してきたという。

「学術会議報告書」では、ジェンダーとは「社会的・文化的性(性別・性差)」を意味する学術用語とするとしている。そして、以下のように説明する。

ジェンダーは、人種・民族・階級・年齢・障害の有無などの差異と交差しながら多様な形態をとることが知られている。ゆえに、「ジェンダーに敏感な視点」とは、人間という種を男女という生物学的性別に還元するのではなく、「人種・民族・階級・年齢・障害の有無などによって多様性を持つ性別=ジェンダー」に、十分配慮する視点のことを指す「ジェンダーに敏感な視点」を本報告では簡略のために「ジェンダーの視点」あるいは「ジェンダー視点」と呼ぶことにする。また、各学問領域において展開されている「ジェンダーの視点」に基づく諸研究を、「ジェンダー研究」と総称する。

 また、次のようにも言う。「学」という語が固有の対象と方法を有する専門分野という意味を持つのに対し、ジェンダー研究は、むしろ視点とアプローチの採用を意味する。このため、本報告ではジェンダー研究に「学」という語を使用することによる誤解を避け、学際的研究領域であることをより明確に示すため、「ジェンダー研究」という語を選択することとする。

 

 つまり、「学術会議報告書」は、ジェンダーの定義を基本的に「伊田◆廚箸垢詢場をとっている。私の立場から言えば、ジェンダーの定義(意味)が狭すぎる。そして「ジェンダーの視点=ジェンダー・センシティブ」としているが、これだけでいいであろうか。私の立場では、「ジェンダーの視点」ということの中に、ジェンダーフリーの視点など多様な意味を含めていた。「ジェンダー・センシティブ」を好むのは研究者/学者に多い見解であるが、ジェンダー・センシティブをジェンダーフリーやジェンダー平等と対立させることに、私は反対である。狭義の意味で、ジェンダー・センシティブをとらえるなら、それは、「ジェンダーという変数に敏感になるだけか?」「敏感になって、それで、どういう方向をめざすのか? 何もめざさないのか?」という問いに答えなくてはならない。私は、暗黙に含意されているものに目をつぶって、客観主義の装いを採ることは、消極的すぎるスタンスだと思うが、いかがであろうか。

 これに関係するが、ジェンダー研究を学際研究とすることには異論はないが、「視点とアプローチ」というように限定することは、上記の「伊田△妨堕蠅垢訥蟲繊廚鳩襪咾弔と、加藤の問題点と同じく、やはり狭すぎるのではないか。結局、「学術会議報告書」は、学問的な客観主義の装いをしすぎではないだろうか。これでは、後述する政府見解へのスタンスも曖昧なものにならざるを得ない。私は、この点をめぐってフェミ陣営で議論が必要であると思う。

 

「学術会議報告書」の矛盾

なお、「学術会議報告書」は総論としては上記のスタンスを取ってはいるが、各論では、そうした中立的概念(伊田△妨堕蝓砲鯆兇┐董◆岼謀牒ぁ廚噺世┐訥蟲舛盧陵僂靴討い襦つまり矛盾しているのである。

 

例えば、次のような、価値を含む説明が散見される(下線は筆者がつけた)。

差異があると思われているところでは差異を相対化し、差異がないと思われているところに差異を発見するという理論的なツールとして、ジェンダーという概念は強力な効果を発揮してきた」

「歴史研究が既存のジェンダー関係の再生産と普遍化に寄与しないためには、史料の記号、表象、観念、慣用句、観察方法に内在するジェンダー・バイアスに注意を払い、これを根本的に批判しながら推進していくことが必要である」

「植民地主義と性差別が折り重なる地点で重層的な抑圧が存在したことを指摘」

「精神分析が温存している性別二元論を仮借なく批判しつつも、「メランコリー」といったフロイトの分析ツールを積極的に活用して、心的構造に刻まれる男性中心的な異性愛規範を明るみに出そうとした」

「これまでの日本では女性への差別は不幸にして存在していた。これを無くすることは、重要な目標である。」(経済学)

「近代人権論や近代法の本質が批判されてきた」「性別役割分業論や公私二元論の下で女性に対する差別や人権侵害が温存されてきたことから、欧米では第二波フェミニズムの影響を受けて、性差別問題を法理論的に解明するフェミニズム法学」 

「このような現状は、「ジェンダー」が、現実世界の抱えている矛盾や問題点を分析し、解明するために有効な概念であり、また、矛盾や諸問題を克服、解決するための方法を提示し得る概念であることを示しているものと言えよう。」

「本報告書の各学問領域おけるジェンダー研究の成果が示してきたように、こうした研究の意義には「性差別の是正」、「格差の是正」等を挙げることができる。これらは、つまり、「学術研究」とは、多様性を持つ社会構成員の間に公正性や平等性が確立される上で、その成果が生かされるのであるという視点を示している。」・・・

 

こうした記述がありながら、どうしてジェンダー概念を価値中立的にのみ限定できるのであろうか。矛盾している。

 

 「学術会議報告書」では、求める方向としても以下のように言う。

 

科学者コミュニティに向けて、ジェンダー視点があらゆる学術研究にとって必要かつ有効であることを認識し、各学問分野にジェンダー視点を取り入れること

行政及び教育研究機関に向けて、ジェンダー視点に立った学術研究及び教育を支援・育成すること、およびジェンダー概念の重要性を十分に認識し、その使用を促進すること

マスコミ・企業・一般市民に向けて、情報の発信及び受信において、ジェンダーに敏感な視点を持つこと、経済活動及び社会生活において、ジェンダーに敏感な視点を持つこと

 

こうした文言も、上記の各論のジェンダーの視点を踏まえれば、かなり、積極的に今の社会に対して差別をなくしていく方向で介入しようとしていると読むことができる。結局、総論におけるジェンダーの定義の限定や、ジェンダー・センシティブをジェンダーフリーやジェンダー平等と対立させるような記述は、各論と矛盾していると言える。

 

政府のジェンダー定義

本稿で、何度か言及しているように、政府の「男女共同参画基本計画(第2次)」(200512月)の中で、ジェンダーについて以下のように記述された。

 

「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」

人間には生まれついての生物学的性別(セックス/sex)がある。一方、社会通念や慣習の中には、社会によって作り上げられた『男性像』『女性像』があり、このような男性、女性の別を『社会的性別』(ジェンダー/gender)という。『社会的性別』は、それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、国際的にも使われている。

『社会的性別の視点』とは、『社会的性別』が性差別、性別による固定的役割分担、偏見等につながっている場合もあり、これらが社会的に作られたものであることを意識していこうとするものである。

このように『社会的性別の視点』でとらえられる対象には、性差別、性別による固定的役割分担及び偏見等、男女共同参画社会の形成を阻害すると考えられるものがある。

その一方で、対象の中には、男女共同参画社会の形成を阻害しないと考えられるものがあり、このようなものまで見直しを行おうとするものではない。社会制度・慣行の見直しを行う際には、社会的な合意を得ながら進める必要がある。

「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。

例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。

また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。

 

これは、ジェンダーを「伊田◆廚妨堕蠅靴討靴泙辰拭誤った説明である。またジェンダーフリーの定義を示さずに否定してしまっている。その他さまざまな問題点を含んだ文章である。これについては、5節で再び触れる。[17]

 

 

4 ジェンダーフリー概念を擁護すべきか

ジェンダー概念の理解は、いまのジェンダー平等運動においてどのような戦略/スタンスをとるかということに関連しているが、バックラッシュ派が攻撃している「ジェンダーフリー」概念にどのような向き合い方をするかは、その具体的な表れである。この問題は、ジェンダーの思想=フェミの思想をどのように、バックラッシュに対抗して守り、豊かにしていくのかに関わる。単なる「学者の細かい定義争い」などではない。

 

バックラッシュ派の典型的主張

 バックラッシュ派の代表的宣伝紙である『世界日報』(06年12月10日)で、市川市の男女共同参画条例の「改悪」(フェミニストからみて)に関連させて、ジェンダー/ジェンダーフリーについて以下のように述べている。ここにジェンダー/ジェンダーフリーという概念が、バックラッシュ状況においてどのような意味を持っているかが逆に明らかになっていると言える。

 

旧条例は、ジェンダーを「生物学的性差とは別に、男女の役割を固定 的に捉え社会的文化的経済的に培われた性差」と定義し、これを男女平 等の実現を阻んでいる要因と指摘。「家族一人一人がジェンダーに捕ら われることなく、それぞれの個性を大切にする家庭」とうたい、事実上、父性、母性を軽視したものとなっていた。
 新条例案を議員提案した保守系四会派が、ジェンダーに込められた危 険な要因を見抜き、激しい批判に遭っても結束を乱さず、同条例案可決 にこぎつけたことは大きな意義がある。
 これまで、鹿児島県など、ジェンダーフリーの理念が盛り込まれた男 女共同参画条例を持つ自治体が、「ジェンダーフリー教育を行わない」 等の歯止めを掛ける県議会決議を行った例はあった。だが、ジェンダー の文言を随所に入れ込んだ過激な条例を抜本的に改めたのは、全国でも 初のケースだ。画期的な新条例の制定といえる。
 問題が表面化していなかった四年前に全会一致で可決された旧条例 は、全国フェミニスト議員連盟代表、石崎たかよ市議が中心となって作成したものだ。
 旧条例には「ジェンダーに捕らわれることなく」という表現のみならず、「市は、教育や男女平等に関する相談業務に携わる人を対象に、ジェンダーを解消するための研修を行わなければならない」という、極めて過激な文言が盛り込まれている。
 保守系会派市議は、ジェンダー解消を是とする条例が、「男らしさ、 女らしさ」の積極的な解消を重視し、男女ごちゃ混ぜ教育の根拠になっていくことを懸念。今議会で新条例案を提案した。
 実際、文部科学省が今夏公表した「学校調査」から、ジェンダーフ リー教育が教育現場に浸透していることが判明している。
 小学五、六年で、それぞれ七百三十数校が男女混合騎馬戦を実施して おり、その理由として「男女協力・男女平等の意識を育てるため」と答えている学校が少なくない。「男女の協力」との理由で、林間学校等で の男女同室の実施を説明している学校も見られた。
 さらに、児童の呼称を「さん付け」で統一している小学校は、七千二百八十九校、全体の32・8%にも上っている。
 保守系市議が市川市でも具体的事例があると指摘したのに対し、反対派市議は確認されていないと主張。また、過激なフェミニストは、市川市条例のような条例を根拠に全国的にジェンダーフリーを推し進めてき たといえる。実例が随所に現れてきてからでは手遅れである。

新条例は、間違ったジェンダーの思想を一掃した。その一方で、男女の特性を生かし    た積極的な共同参画の推進も唱えている。職場での「性別による差別」の是正は、旧条例の文言を生かしており、バランスの取れたものだ。
・・・ 今回、全国から保守会派市議への激励が多数寄せられた。市川市をモデルケースとして、全国でも間違ったジェンダー思想を一掃し、正しい男女共同参画のための条例へと改める時に来ている。」

 

この記事に明らかなように、まさにバックラッシュがいっているのは、フェミの思想そのものの否定である。表面上は、ジェンダーフリー、ジェンダーをめぐってであるが、その中身は、フェミニズムの主張全体の否定である。そのとき、ジェンダーフリーという言葉をダメなものの典型のレッテルにしている。

このようなときに、「ジェンダーフリーという概念はよくない」とするスタンスは、ジェンダーの理解を含めて、豊かなフェミを広げていくべき全体の構図(後述p○)の中で、その主観的意図とは別に、客観的にはバックラッシュに加担する効果を持つであろうというのが私の見解である。

 

山口智美氏の主張

 山口智美氏は、宮台真司・ほか[2006]『バックラッシュ!』やHP(20041216日、東京大学ジェンダー・コロキアム「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」の記録等)などでジェンダーフリー概念を批判しているフェミニストである。フェミニストとして積極的な主張をされているが、ジェンダーフリー概念については、私と大きく立場が異なる。ジェンダーフリーをめぐって、ある意味、典型的な主張をされているので、彼女の主張を元に、私の立場を説明していきたい(以下の引用は上記HPから:下線は筆者)。

 

「レースフリー」などという概念は考えられない。=差別を見えなくするから。「ジェンダーフリー」も同様に、おかしな概念。」「ジェンダー・フリー」にこだわる必要性はあるのか? 説明しやすいはずの、男女平等や、性別役割分業/分担ではなぜいけなかったのか?」「ジェンダーフリーを使わない=バックラッシュに「屈する」ということなのか?実は学者のメンツがかかっているから、行政と学者の密着関係を問い直すことにつながるから、やめられないのではないか?」「日本女性学会Q&Aなどでは、「女らしく、男らしく」から「自分らしく」へ、などと言われる:『ジェンダーフリー』な個人像を想定?「自分らしく」とはいったい何?ジェンダーがない人間など可能なのか?」

「私としては、「ジェンダーフリー」なんていう、曖昧かつ、保守的な言葉として生まれた歴史ももち、現在意味が混乱しまくっている言葉にこだわる必要がどこにあるのかと思っている。そんなわけのわからない言葉より、「男女平等」でも「性差別撤廃」でも「性別役割分担」でも、今まで女性運動がずっと使ってきた誰でもわかる言葉を使うか、あるいはそれらが不適切であるというなら、わかる言葉を作るかしたらいいのではないだろうか。

そもそも、「ジェンダー・フリー」が浸透しているという理解は本当なのだろうか?私の親類縁者やら、学校時代の友人やらを考えても、おそらく「ジェンダー・フリー」といわれてわかる人はほとんどいないと思う。だが、「男女平等」や「性差別」なら確実に通じるはずだし、「性別役割分担」は知らなかったとしても、説明しやすいだろうと思う。」

 「バリアフリー」という言葉でイメージされる「バリア」のイメージは、「なくすべきもの、ないほうがいいもの」である。では、「ジェンダーフリー」は?「ジェンダー」ってないほうがいいものなのだろうか?もし社会から押し付けられた性役割、としての「ジェンダー」の意味に限定するなら、それはないほうがいいだろう。そして、日本で誤訳されているように、ジェンダーが「社会的、文化的性差」だというなら、それだって存在も怪しいものだし、ないほうがいいのかもしれない。だが、「ジェンダー」には「アイデンティティ」としての意味もある。私が「女」として「女性解放運動」に関わっていることも、私の「ジェンダーアイデンティティ」に基づいているわけだ。ジェンダーは、私のアイデンティティの重要な一側面をなしているのだ。 「ジェンダー」は必ずしも、悪いものとは限らない。アイデンティティをなす、という意味で、物理的な障害を意味する「バリア」とはまったく異なる概念なのだ。」

「・・・「中間層」が、もし私の親類縁者やら、昔なじみの友人やらをさすのだとしたら、その人たちに「ジェンダーフリー」という言葉は、どう考えても届いていないのではないかと私は思う。 むしろ、「ジェンダーフリー」という言葉の迷走ぶりは、そういう人たちに届かせないために、理解して社会変革なんかに動かないでほしいがために、行政主導で考え出した「わけわからない」言葉なのではないか、というようにすら考えたくなるくらいだ。」

斉藤正美氏の主張

 斉藤正美氏は、山口智美氏と同じく、ジェンダーフリー概念批判をされているフェミニストである。一部であるが、引用しておこう(上記HPより)。

 「ジェンダーフリー」っていう言葉は、実際にそれが使われている条例を見ても意味が定まらないものです。ジェンダーフリーの定義として条例でこのように混乱した意味を示していると、施策のレベルに下ろしても役にたつ施策が生まれそうにないです。まるで呪文の言葉のようであって、市民をかえって遠ざけるか、こういうわからない言葉をお勉強しようって、お勉強好きな人しか寄って来ない、このわからない意味をわかりたいっていう奇特な人しか寄って来ないものになっています。

ジェンダーフリーっていうふうに使ってきたのは、「女性学者が行政と一体化し『ジェンダーフリー』という意味が定まらない呪文詞を導入することによって女性運動を体制順応型に変えた」と思うんですね。ジェンダーフリーは、基本的に学ばないとわからないものになってしまっている。

 

上野千鶴子氏のスタンス

『We』200411月号や同時期の研究会(20041216日、東京大学ジェンダー・コロキアムで行われた「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」というテーマの集まり[18])などにおいて、上野千鶴子氏は、「ジェンダーフリー概念を使わなければいい」などと主張した。[19]

 

まず上野氏は、『We』インタビューで、ジェンダーフリー概念をめぐる戦いは、言葉使用を巡る象徴闘争、名目上の戦いにすぎず、意地の張り合いに過ぎず、バッシング派と推進派のどちらが勝利しようと実際の女性の行動や運動は変わらないので、この戦いに乗らなければいい、ジェンダーフリーという用語を捨てたらいいなどと述べた。

また200412月の東京大学ジェンダー・コロキアムでも、以下のようにジェンダーフリー概念に批判的な発言を行った(注意:長いやり取りの内の関連発言部分を抜き出しているので文章はつながっていない。なお下線は筆者)。

 

上野 ジェンダーフリーという用語についてはどうですか?

山下:それも言葉は聞いたり流れたりはしましたけど、センターができる前なので、センター要望という活動中には、高岡ではジェンダーフリーという言葉は出ませんでした。

上野:ということはジェンダーフリーという用語が、全国に定着していたわけではなかったという、ひとつの証言ですね

(上野の「WE」での混合名簿・軽視発言に対して現場からの反論を受けて)

上野:男女混合名簿が現実を変えるかどうかについては、私は大学の教員として男女混合名簿を経験しておりますが、男女混合名簿と大学の性差別が何の関係もない、ということを実感しておりますので、そういうことを申し上げたんですが、学校現場では名簿が違う働きをしていると。実際それは現場では死活問題なのだというようなことを、私がこれまでお会いしてきた男女混合名簿推進者の女性教員の方から、今のような形で明確なご返答をいただいたことがありませんでした。だからサンプルが悪かったと言われればそうかもしれません。あるいは私の視野が狭かった、ということでしょう。

 

(現場教師からジェンダーフリー擁護発言が出たあと)

上野:ありがとうございました。ちょっと確認したいのですが、「ジェンダーフリー」が便利に使えると思われていたそうですが、それでも、代替案があればいつでもとり替えるとおっしゃいましたね。「性差別」とか「男女平等」では代替案にはならないと、お考えなんでしょうか。

上野:それを「性差別」だと言っちゃまずいんですか。

上野:そういう扱いを性差別というのですが。

上野:「ジェンダーフリー」を使って便利な言葉だと思っておられるとのことですが、「ジェンダーフリー」を使うためにはまず「ジェンダー」って何っていうことを相手に理解してもらわなければ使えません。「ジェンダーって何」、って子どもたちに聞かれて、そこから説明してじゃあ「ジェンダーフリーは」っていうほうがはるかに面倒くさくって、説明が難しい、という気がしますけど。

上野:相手は同僚ですか、子どもですか? 

教員A:はい、同僚です。 

上野:子どもには通じますか?  

上野:「ジェンダー」ということばをそのまま伝えるのですか 

教員A:ジェンダーということばが社会でこういう風に使われているということは社会(科?)の一部で伝えます。

上野:ふーん。「男らしさ/女らしさ」という言葉では具合悪いんですか。

教員A:それは男らしさ、女らしさっていう風に決めつけるのはまずいっていう・・・  

上野:だから、「ジェンダーフリー」を使わなくても、「男らしさ、女らしさにこだわらなくてもいいんだよ」って日常用語に言い換えたらどうですか。  

教員A:・・・・(無言)   

上野:先ほどのお話を聞くと、差別とか平等とかいうことばを使ったとたんに、めくじらたてる者がいて、トラブルメーカーというふうに扱われて具合が悪いという、ニュアンスを感じました。できれば差別という用語を避けたい、というふうなお話だったと解してよいでしょうか。  

教員A:いえ、差別差別という言葉を使うとまずいというのではなくて、差別という言葉だとみんなは私たちは差別をしていないんですよと言われるので、それをどう反映するか、差別、差別なんかありませんというのをどう説得するかに苦心していた。

上野:それを説明する際に、「あなたがやっている区別を差別というんですよ」、と説明すればよいので、「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」という用語を使わないと説明できませんか?  

教員Aあ、できると思います。できると思います。  

上野:はい、わたしもできると思います。今の上野の質問は誘導ってぽくていやらしいと思われたかもしれませんね(会場爆笑)。

 

上野: 全体の感じとして私が思ったことはこういうことです。「ジェンダーフリー・バッシング」という現象それ自体は不愉快だし、なんとかしたいが、だからといって「ジェンダーフリー」擁護に回る気持ちにはなれないというのが、教員Aさんを除けばここにいらっしゃる方の共通した立場だと思いますが、会場の中にはたぶん「ジェンダーフリー」擁護派に回りたい方もいらっしゃるかと思いますので、ここは議論したいと思いますが、、、。

 ただ、「ジェンダーフリー」擁護に回るかどうかということと、バックラッシュといかに闘うかという問題とは別の問題です。ただその際、私たちは妙な二者択一の踏み絵を踏まされるような感じになっています。バックラッシュと闘うべきかいなか、闘う際に「ジェンダーフリー」を擁護せねばならぬかどうか。「ジェンダーフリー」を擁護しないで、バックラッシュと闘う闘い方はあるか。それにはどうすればいいのか。あるいは「ジェンダーフリー」を擁護しないと言うときに、教員Aさんが危惧されたように、運動の中に分裂を持ち込むという、本来仲間であるべき人たちが割れるという不幸なことが起きるのかどうか、ということは検討の必要があります。

・・・・山口さんの意図はここにあると思うのは、ふつうにわかりやすいことばを使うということで、私はそれには100%賛成です。上野は難しいことばばかり使って誰に向けて書いているんだと言われますが、上野はバイリンガルです。つまり、アカデミックな場で使うのとそうでない日常用語の場で使う場合とでは、私はまったく用語を変えておりまして、その点では私は「ジェンダー・フリー」という言葉を使ったことがありません。なぜかと言うと、その意味が私にはわからないからです。それから「ジェンダー」という言葉も、私は一般向けには使いません。「ジェンダー」ということばを一切使わなくても話はいくらでもできますし、場合によってはフェミニズムということばすら使いません。このようなカタカナ言葉を使わなくても女性差別について話すことができますし、男女平等について語ることができると思いますので。

・・・ですからずっと私が違和感を感じ続けてきたのは、地方に講演に行って、「このへんじゃジェンダーて言っても通じないんですよ〜。遅れているんです」って言われるたびに、この人何言っているだろう、って思ってきました。「ジェンダー」って新しい用語ですし、カタカナ言葉ですし、定訳がありませんし、知らなくて当然じゃないですか。だからといってその地方の人が女性差別に苦しんでいないとか、男女平等に自覚的じゃないとかはいえないので、なんでこんなこと言うんだろうと昔から思ってきました。私はその点については、「ジェンダーフリー」推進派にいなかったのですが、これを責任と感じなければならないのかどうか。江原説では、「ジェンダーフリー」の流通を放置したことに責任があり、学者の怠慢だというのですが、怠慢だと言われても直接自分に実害がなければ、そんなものいちいち目くじら立てる必要がないんで、いろんなことばでいろんな人が思い思いに何かを言うっていうのは、ある運動の生成期にはいつでもあることですから、自分が使わないからと言ってその言葉を撲滅する必要はない。「ジェンダーフリー」を使う人がいたってなんていうこともない。私は使わないだけです。だから一つは、私はバイリンガルだと言いました。つまり学問のことばと日常用語とのダブルスタンダードを認めたうえで、日常用語としてはこなれないカタカタは使わないということです。2つめには、学術用語としてすら意味不明で定着していない、ジェンダー研究の業界で共通の了解がない概念を使わない、ということがあります。どちらの点から見ても、「ジェンダーフリー」は使わないという結論しか出ない、と言うのが私の立場です。で、代わりがあるかというと私はあると思っているのですがね。「男女平等」というりっぱな代わりが。

 その次に、「ジェンダーフリー」を推進してきた人たちが、女性センターや条例の命名について、この用語を導入しようとしてきたかどうかを考えてみましょう。「ジェンダーフリー」が用語として入っている条例があることは確認できますが、例えば、女性センターを、「ジェンダーフリー・センター」にしようという動きを私は聞いたことがありませんし、そう名乗ったセンターを私は知りません。日本人はカタカナ言葉が好きですから「アミカス」とかなんとかいろいろカタカタ名前のセンターはありますが。今あるのは「男女共同参画センター」ですが、私だけではなく多くの人びとが「男女共同参画センター」という名称に違和感と抵抗感を感じてきたというのは事実です。これに対して、富山の方たちは「男女平等センター」の方がましだという選択をおやりになりました。が、「男女平等センター」ですら気に入らない、「女性センター」とどうしてはっきり言わないのか、という思いはあります。

 

・・私が「ジェンダーフリー」批判をした時に出てきた反応に、女性運動の中に分裂を持ちこむな、というものがありました。先ほど、斉藤さんから行政と女性学研究者の結託という発言が出ましたが、行政に参加していった研究者とそうでない研究者の間での分裂、あるいは手を汚したと思っている人びとと、手を汚してないと思っている人びとの間の相互の対立というのもありうるかもしれず、裏返しにいうと、これもさきほど斉藤さんがおっしゃった通り、行政主導型フェミニズムに巻きこまれていった研究者や言論を担った人たちに対する批判や抵抗が抑制されていく、それこそ後退を強いられていくということもあり得るので、これはどちらの可能性を考えても危ないことだと私は思っています。

 

「第3の道」という『バックラッシュ!』のスタンスでいいのか 

宮台真司・ほか[2006]『バックラッシュ!』は、バックラッシュでもジェンダーフリーでもない、第3の道を主張するというスタンスが取られている。それは、「まえがき」に明示されており、同書所収の山口智美論文、上野千鶴子論文でもそうしたスタンスが示されている。同書の中の各論文には、必ずしもそうした「第3の道」の立場でないものも含まれており、斉藤環論文など有意義なものも多いが、同書全体のスタンスは、そうなっている。

 

例えば、「まえがき」には「ジェンダーフリー自体には距離をとり、時には批判をしてきた論者」、「ジェンダーフリーに対して批判的かつ傍観してきた論者にお集まりいただいた」、「ジェンダーフリーは推進しない」と明示されている。

 

上野論文では以下のような記述が見られる。

「ジェンダーフリーという言葉は、女性学の研究者の中でも合意が形成されていないという意味でフェミニズムのアキレス腱だった」(p378

(バックラッシュ派が)「「ジェンダーフリー」と「ジェンダー」を混同することはないだろう」(p379

「男女平等はもっと広義な概念ですから。男女平等を特性平等論に限局したうえで、男女平等という言葉ごと葬るのは拙速かつ拙劣な戦略」(p396) 

「そういうひと(男女平等教育をしてきた優れた教育者たち・・伊田注)の中で、ジェンダーフリーという言葉に飛びついた人を私は見たことがありません」(p397

「ジェンダーフリーと言えば、すぐにセクシャル・マイノリティを取り上げるという短絡に私は違和感を持っています」(p397

「女の子たちに、性的主体性や自律性を身につけさせるのには、どうしたらいいのかを考えると、10代の子どもの教育現場で重要なのは、「ジェンダーフリー教育」などというものではありません。」 (p398) 

 「「ジェンダーフリー教育」を唱える教育者たちが、いったい何をやってきたのかということを再考せざるを得なくなります。たとえば、「ジェンダーフリー」という標語があったおかげで、トランスジェンダーやゲイといったセクシャル・マイノリティについて教えることができた、という「ジェンダーフリー教育」の実践者がいます。しかし、そういう実践者の声を聞くたびに、基本的な何かを踏み外しているのではないか、という気持ちを私は持っています」(399)

「「ジェンダーフリー教育」をやっている人たちには、小中学校の先生たちが多いのですが、小学生に対して、どうやって「ジェンダー」を説明するのでしょうか。「ちゃんとお客さんを見てしゃべれよ」と言いたいです。生徒たちにわかる言葉を使わずに、「ジェンダーフリー」の教育実践をしているなんて言う人を、私は信用できません」(p399

「ジェンダーフリーという言葉がどのように使われているのかなどということは、特に心配するようなことではない」(p403

 

ジェンダーフリー概念に消極的・批判的なフェミニスト/専門家がいるのはどうしてか?

 上記のジェンダーフリー批判の諸主張について、以下、私の見解を述べていく。[20]

 

まず、ジェンダーフリー概念を好ましく思わない人は、「ジェンダーフリーは、ジェンダー(という重要な視点)をなくすこと」ととらえていることが多いようである。上記山口氏もそのように主張されている。シュガーフリーという言葉が「砂糖なし」を示すように、ジェンダーフリーが「ジェンダーの視点」自体をなくすこととか、性アイデンティティ自体の否定/無視のように感じるということだ。これはジェンダーを「伊田◆廚里澆僕解しているということと対応している。

しかし、ジェンダーの定義「伊田ぁ廚箸いΔ發里あることをふまえれば、誤解は解けるといえよう。つまり、「伊田△琉嫐のジェンダー」をなくすこと、あるいは「中立的分析道具」(まなざし)の捨象ととらえるならもちろん問題であるが、フェミ運動、ジェンダー平等運動でそのように使っている例はない。性差・性別をなくすどころか、ジェンダーフリーは、100100様の性の違いを認め尊重しよう、その意味で、従来の男女2種類だけという性の秩序を解体しようといっているのである。ジェンダー・センシティブになって、違いを尊重することを求めているのである。

したがって、「ジェンダーフリーは、“伊田△琉嫐のジェンダー”をなくすこと」というのは誤解であり、違う意味で使っているのだということで、この点からジェンダーフリーを使わないという主張は根拠を失う。言い換えれば、日本ではジェンダーフリーが積極的な意味でよく使われているということを知れば、ことさらジェンダーフリー概念自体に反対する必要のないことが理解されるだろう。

 

さらにいえば、上記の加藤氏や江原氏の立場にも少し見られたように、ジェンダーフリーに批判的な理由として、「分析道具」=「価値中立」に限定しようという立場に立っているからということもあるだろうが、それに私は批判的である(これについては後で再びベル・フックスの言葉の紹介を通じて言及する)。少なくとも、フェミニストは、自らの研究実践の政治性(価値非中立)を意識的/無意識的に、無視/排除しようとすべきではないといえるだろう。なお、私は、このように言うことが「原理主義的に偏狭な姿勢」だとは思わない。

 

次に、ジェンダーフリー自体が「よくない概念/意味不明の概念」という見方もあるようである。「ジェンダーフリーの意味が曖昧、あるいはジェンダーフリーが科学的でない概念だ、学術用語としてすら意味不明で定着していない「ジェンダーフリーは、フェミニズムのアキレス腱」というのである(上野氏の発言など)。しかしこの点についても、ジェンダーフリー概念は、「抑圧的なジェンダーの呪縛から離脱して自分らしく自由に生きていこうとする」といった積極的な概念といえるのであり、そうだとすれば、ジェンダーフリー概念自体にはなんら問題はないといえる(本稿2節の説明参照)。意味不明の概念などではない。フェミニズムのアキレス腱などでもない。上野氏は「ジェンダー研究の業界で共通の了解がない」というが、ジェンダー平等をめざす運動の中においてかなり広く共通了解されていた概念であったという事実がある。研究者も多様であり、運動は研究だけではなく、運動と研究はつながっており、またつながるべきである。研究が運動の上位にあるわけではない。研究者も運動の状況を見て自分の言動を決定していくべきなのではないのか[21]「ジェンダーフリーの流通を放置したことに学者は責任があり、学者の怠慢である」というような言い方は、学者の傲慢さがにじみ出た発言であろう。小中学校でジェンダーフリー教育を推し進めてきた実践者や、地方で「このへんじゃジェンダーといっても通じないんですー」と言ってきた聴衆者のことをよく知りもせず、レベルが低いかのように決め付けるのは、偏見/誤解の類であり、学者の傲慢な姿勢が表れている。草の根の運動にはさまざまなレベルもあるが、共感的に関わっていくならば、上から見下すような表現にはならないはずである。

 

問題は、バックラッシュ派が、世間の偏見を使って、ジェンダーフリーにおぞましいイメージを植えつけて、「ジェンダーフリーはひどい=フェミ自体がだめ」と攻撃していることなのである。とすれば、バックラッシュ派の定義にのる必要はまったくない。そんなことをしてしまえば、リプロ概念、性教育概念、中絶概念、家父長制概念、セックスワーク概念、セクシャル・ヘルス概念、シングル単位概念など、フェミが打ち立てた諸概念がみんな「ひどいもの」というレッテルを貼られ、「誤解を生じる」「見解が分かれている」からということで、その概念自体を使わないように(/その概念に関わることに言及自体しないように)ということにされてしまう。無限に後退しないためにも、ジェンダーフリーの使用中止/禁止自体に抵抗していくべきである、ジェンダーフリーの正しい意味を主張していくべきである、というのが私の立場である。 

 ほんとうにひどい/間違った概念なら守らなくてもいい。だが、ジェンダーフリーは、さまざまな現場で適切な使い方が実際なされてきていたのだ。そもそも、「規範を破る行為である逸脱が常に悪であるとはいえず、新しい社会の先駆けとなることもある」というのは社会学の教科書に書いてあることでもある。ジェンダー規範を見抜き、批判し、新しいあり方を追求していくことの積極性を表現しているジェンダーフリー概念を見捨てることは重大な間違いであるといえよう。

 

「性の違いをなくす平等」という理解?

「ジェンダーフリーはやはりジェンダーレスと同じとみなされる。誤解されやすいので使用しないほうがいい」という意見もよくある。だが「ジェンダーフリー」を悪い意味の「ジェンダーレス=人間の性の差異をまったくなくす平等」ととらえるのは、まさにバックラッシュ派の言い分である。私が理解するまともなフェミでは、100100様の性の違いを尊重する中での平等を求めているのである。皆を中性にする、画一化するなどとはまったく言っていない。だから正しく伝えていくことこそ、大事である。「誤解される」というなら正しく誤解されないように使えばいいのである。[22]「セクシュアル・ハラスメント(セクハラ)」「エンパワメント」「DV」「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」などの概念も、日本語で長々と説明するより、一言で言える新しい名称をつけて、その説明をしていき、理解が広がれば、そのあとは、その一言で豊富な意味が伝わるという便利な概念であった。これらも「誤解された」こともあるが、この概念/表現を捨てることにはならないだろう。

 

 もう少していねいにこの点を整理しておこう[23]。「ジェンダーフリーとはジェンダーがないという感じであり、ジェンダーがないというのは、男女区別がなくなり、皆が同じようになり、均一的で退屈な社会」といった見解は、もう少し深く検討すれば、これはフェミニズム潮流の差異派的感覚を反映した誤解であるともいえる。

差異尊重・性差極大論的なフェミニズムの立場の中には、本質主義的・男女二元制的に「女性こそ、平和的で非暴力的である」ととらえるようなのものもあり、「平等」を「差異をなくす画一主義」ととらえていたものがあった。その感覚でジェンダーフリーに違和感がある人がいると推測できる。

だが、「平等」を、「『個人差や階級差、国家や民族の違い、文化的差異、セクシュアリティの違い』などをみずに、画一的・同化的になることと捉えること」自体がまちがいである。「男女二分法/男女二元制を乗り越え、多様性を尊重した、皆が異なるという中での平等」をバランスあるフェミニズムは求めてきたといえる。「画一的平等から多様なものの平等へ」と理解さえすれば、ジェンダーフリーについても、誤解は解けるだろう。

 

これに関連するが、フェミニストの一部には、やはり男女二分法の上での女性本質主義的な立場が、一定程度あると思う。この点は、文脈・個別状況に沿って、具体的に論じなければならないと私は思っているが、一般論として、少なくとも単純な男女二分法の上で「男性敵視論」的になっているような水準のものは、もう少し多様な性の平等を認めていく、その意味で、男性の解放や性的マイノリティの解放も含むようなジェンダー平等論の水準になっていく必要があるといえるだろう。

もしジェンダーフリー批判派の中に、この男女2分法肯定の立場からフェミニズムをとらえて、ジェンダーフリーがフェミニズムの伝統(女性の立場、女性の団結、女性差別批判)を壊す匂いを感じて反対する人がいるとしたら、ジェンダーフリーは、そうしたフェミのよい伝統を否定はしておらず、発展させているのだと答えたい。いまだ社会にはジェンダーにこだわる仕組み、男女二分法による性差別社会構造がある。そのとき、マイノリティの立場、被差別当事者の立場の尊重、その意味で女性の立場の尊重は大事な視点である。ジェンダーフリーはそのことと何も対立しない。マイノリティの立場性の尊重、差別反対のための仕組みづくり、意識改革という意味で、ジェンダーとジェンダーフリーをとらえればいいのだ。ジェンダーフリーでめざしている具体的政策がシングル単位であるとわかれば、誤解は解けるだろう。

「男女共同参画センター」ではなくて「女性センター」であるべきだなどと、いたずらに不要な対立を煽る必要もない。「ジェンダー平等か、男女平等か」と二者択一になる必要はない。男女平等という言葉には歴史もあり、わかりやすく、今後とも積極的な意味で用いればいいだろう。ただし、ジェンダー平等と対立させる必要はないということであり、理論的には、男女平等がバックラッシュ派も使うように、性別特性論の上で使われることもあるので、そのような場合、性別特性論批判(男女2分法批判)をすることが大事である。そしてそういうときこそ、同時に、ジェンダー平等、ジェンダーフリー/シングル単位論も含めて打ち出すことで、男女平等概念も豊かにしていけばいいのである。

つまり、いま、男女平等やフェミニズムの主張を、シングル単位論として具体的かつ豊かに展開することこそが大事なのであり、ジェンダーフリーはそうした豊かに論を展開していくときの重要な道具なのである。繰り返すが対立させるものではない。

とすれば、「ジェンダーフリーではなく、男女平等、性差別反対でよい」というようなことをいうのは、後述するように、いまのバックラッシュ状況の中での各立場の構図上(後述)における「主要な敵」のとらえ方の間違いが反映しており、男女二元制・本質主義の傾向が残りすぎであるといえる。

 

男女共同参画/政府系フェミニスト嫌い?

次に、ジェンダーフリー=「行政による骨抜きの男女共同参画」とみなして批判する人がいることについて検討しておこう。斉藤氏たちも、「行政と学者の密着関係・一体化を示す概念だ」「この概念を使ってきた学者のメンツで使用存続にこだわっている」「意識啓発に限定するものだ」といった趣旨の発言をしている。上野千鶴子氏も「行政に参加していった研究者とそうでない研究者の間での分裂、あるいは手を汚したと思っている人びとと、手を汚してないと思っている人びとの間の相互の対立」、「行政主導型フェミニズムに巻きこまれていった研究者や言論を担った人たちに対する批判や抵抗が抑制されていく」「「男女共同参画センター」という名称に違和感と抵抗感を感じてきた」(2004年12月16日、東京大学ジェンダー・コロキアム発言)といった表現で、行政主導型フェミニズムへのかなり強い批判意識を表明している。宮台真司・ほか[2006]『バックラッシュ!』は、バックラッシュでもジェンダーフリーでもない、「第3の道」を主張しているが、その背景には、やはり行政型の男女共同参画への批判意識があるようである。

 

これに対しては、私は次のように考えている。まず、1990年代後半に政府・財界が男女共同参画社会基本法制定を推進/容認したことなどを踏まえ、それは「男女関係なく能力主義的に働く人間をつくろうとする、新自由主義的な流れの産物」であり、「ジェンダーフリー」もそうしたものと同類とみて批判する人がいることはわかる。そうした一面は確かにある。しかし、自民・社民・さきがけの連立政権であったという要因もあり、男女共同参画社会基本法には、フェミニズムの主張が反映したものとみなすことができる積極的側面もある[24]。大沢真理氏のように、男女共同参画政策を進めていく上でジェンダー平等の精神、フェミニズムの精神を入れ込むことに尽力した人がいたという事実もある。男女共同参画社会基本法第4条にある「社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない」という視点は、シングル単位的であって非常に積極的な内実を持っている。

私も新自由主義的能力主義には大反対で、北欧型の高福祉高負担の連帯社会(個人単位型の社会民主主義)にしていくことこそが大事と思って、シングル単位論を提唱してきた。そういう私の判断として、いまのバックラッシュの状況の中で、男女共同参画やジェンダーフリーを、新自由主義に対抗して、個人単位型の連帯社会にするものだと理解し、そのように宣伝し、政府の政策をフェミニズムの主張のほうに引っ張っていくことが重要であるという立場を取っている。[25]

 

この判断/戦略の背景には、ジェンダー平等/男女共同参画/ジェンダーフリーをめぐって、以下のような4つの潮流対立があると見る私の視点がある。

 

4つの潮流 

A)「バックラッシュ派好みの男女平等」 ・・・バックラッシュ派が賛成する性別役割存続型のもの。ジェンダーや性教育も否定。・・・・・それに対応した条例(宇部市、市川市)

B)「骨抜きの行政型参画」・・・・・一般的意識啓発だけで、既存性秩序を変えていくような具体的改革をまったくしない「男女共同参画」。フェミ精神が骨抜きされて、行政がタテマエ的におこなっている。新自由主義に対応した能力主義的なもので、エリート女性だけを優遇するような「男女平等」といえる。

C)「良心的な行政型男女共同参画」・・・世界的なジェンダー平等の潮流を受けて、性別秩序を差別が減る方向に一定程度進めていくもの。異性愛・性別二元制を前提にしており、ラジカルなフェミニズムほどの根本解決までは提起しないが、一定の積極性がある。

D)「ラジカルなフェミニズム」 ・・・・・性別二元制・家族単位制度自体をみなおし、シングル単位型社会、社民主義的なシステムへの変革を展望していくというように、根本的に性差別・権力関係を減らす方向で制度と意識の大改革を求めていくもの。  

 

ジェンダー平等を進めている草の根の活動には、(B)(C)(D)それぞれの潮流に属するものがある。ジェンダーフリーという表現が使われているのも、この3タイプがある

それに対し、上記のジェンダーフリー批判派は、「ジェンダーフリー」=(B)とみなして、ジェンダーフリー概念を攻撃/否定してしまっている。そうした見方は、(C)(D)においてもジェンダーフリーが積極的に使われていることを見逃している点でまず誤っていると私は考える。

また(A)に対抗して(B)(C)にもっとフェミの積極性を理解してもらってフェミ陣営側に近寄ってもらうことが必要であるときに、むしろ(B)(C)を(ジェンダーフリー攻撃というカタチなどで)攻撃してしまってフェミ陣営から遠ざけ、反対勢力を増やし、結果的に(A)を喜ばせている点でも誤っている。(B)を批判しているつもりで、客観的効果としては、(C)(D)の運動まで否定してしまっているのだ。

「ジェンダー平等」「ジェンダーフリー」よりも「女性解放」「男女平等」「性差別反対」がよいと上野氏はいうが、そのように対立させる必要があるだろうか? 素直にジェンダー平等、ジェンダーフリーの積極性を認めればいいのではないだろうか。ジェンダーフリーを使わずに「男女平等」概念でいいなどというのは、(A)勢力が「ジェンダー(フリー)はダメだが、性別特性論にのった正しい男女平等を」といっているときには有効ではない。

結局、バックラッシュ派は、男女共同参画やジェンダーフリーを〈悪玉〉に仕立て上げることで、それとともに性差別をなくしていく動き全体を葬っていくという政治を行っている。こうしたときに、行政型男女共同参画を批判し、それと一体のもとしてジェンダーフリー概念も攻撃するという戦略は、敵を見誤っているといわざるを得ない。とすれば、ジェンダーフリー=「行政による骨抜きの男女共同参画」とみなして批判するのではなく、「積極的なジェンダーフリーや男女共同参画」を支援するような対応が求められているのではないだろうかジェンダーフリー擁護に回るかどうかということと、バックラッシュといかに闘うかという問題とは別の問題ではない

 

バックラッシュ派が批判するから相手にしない戦略?

 ジェンダーフリーを使わないという判断の一つとして、「この概念が攻撃を受けている、攻撃されやすい、誤解されやすい、したがって、フェミニズム陣営としては、そのような攻撃されている概念にこだわって相手の土俵に乗る必要はない、この概念を防御するのはムツカシイ、この概念の防衛で戦うのは得策ではない」といった考えがあるようである。

 これに関連するが、ジェンダーフリーは、性差別のない、抑圧的なジェンダーのない、究極の解放像を求める過激な見解なので、世間には受け入れがたい、したがってここで防衛するのは得策でないというものもある。

 

だが、「戦争のない社会」「DVのないカップル関係」「環境破壊をしない開発」「差別のない社会」「セクシュアル・ハラスメントのない会社」など、今現時点での実現が非常に困難なことでも、目指していく方向性を示す考え方を提起し、使用していくことは有効であるように、理想方向をめざすジェンダーフリー概念を用いることは、それほど無茶なことではない。

そして防御するのが難しいのはジェンダーフリーだけではなくフェミの思想全体である。この概念が特に防御しがたいということはない(要は防御できるほどジェンダーフリー概念に自信をもてるかどうかであり、上記したように正しく理解すればなんら曖昧な概念などではないし、防御しにくいこともない)。「攻撃されている概念/誤解されやすい概念」でも重要なものならこだわることが必要である。攻撃を恐れていること(自分が政治的状況に関わることに腰が引けていること)が実は問題なのかもしれない。そうだとすればそのこと自体を考える必要がある。

全面的に「ジェンダーフリー」という用語の使用をやめるとすると、マイナスが大きい。バックラッシュ派は、「そら見ろ、こんないいかげんなモノだった。フェミニスト自身がこの概念がダメだったと認めた。フェミニズムとはこの程度だ」と畳み掛けてくるでしょう。中間派などに「ジェンダーフリー」という概念の自粛の雰囲気(長いものに巻かれろという風潮)があるとき、フェミニストまでもが「ジェンダーフリーを使用しないほうがいい」いうことで全体に与える影響も考えるべきである。社会の右傾化/軍事化、言葉狩りや行動狩り、言動チェック、監視体制が始まり、それに従う人が増えているときに、それに反抗する人がそのスタイルを表明すること、自由な意見表明の大切さを訴えることはとても大切であろう。

この問題を考えるとき、「君が代・日の丸」強制問題が参考になる。200310月の「日の丸・君が代」を強制する都教育委員会通達後、東京では「君が代」斉唱時に不起立しただけで、重い処分が課せられている[26]。日教組は、処分をちらつかされると「組合員の生活を守る」という観点で、組織として全員で反対するのをやめ、結局最後まで抵抗した心ある教員が処分されている。平和なときには口先できれいごとを言っていても、状況が厳しくなると口をつぐむならば、戦前の戦争への道から学んだとは言えず、腰砕けというしかない。「通達」のようなものを、自分には関係ないと思ってちゃんと皆で抵抗しないと、結局全体の運動が潰されていく。ジェンダーフリー・バッシングの動きにも、ジェンダーフリーを使っている人を切り捨てるようなことではダメだし、攻撃をおそれて口をつぐむような腰砕けではダメだろう。このようなときこそ、言論の自由、思想/学問の自由を掲げて、一人一人の覚悟をもって不当な言いがかりに立ち向かうことが求められている。ジェンダーフリーをめぐる戦いは、どうでもいいようなものではない。[27]

 

私がジェンダーフリー擁護、男女共同参画擁護の立場をとる理由

 以上を踏まえて、私がジェンダーフリー擁護、男女共同参画擁護の立場をとる理由をまとめておきたい。

 

1:今の情勢がバックラッシュ攻撃に対して、フェミ陣営が団結して対処すべきときだと思うから。
 「闘うべき敵」は、意見の異なるフェミや、不十分な、単純なフェミ(ジェンダーチェックに代表される、やばいもの)や男女共同参画ではなく、バックラッシュ勢力だというような構図にする必要がある。もちろん、意見はフェミニストの中でも多様でよい。多様性尊重は本当に大事である。だから、「ABかでない」というのは一般的にはそのとおりである。しかし、第3者的・客観主義的に、「バックラッシュもジェンダーフリーもダメだ」と高みから批判するような姿勢が、本当に、現在の全体の状況改善に有効だろうか? 

大切なことは、多様性の尊重と、「現実的なプロセスの中でのAの側に立つか、Bの側に立つかという選択の重要性」の両方のバランスをとることだろう。評論家的・傍観者的批判は、もっとも責任を負っていない。私は、総合的に判断してバックラッシュ勢力と戦うために団結することの重要性を訴えたい。

 

2:ジェンダーフリー概念を使っている、すばらしい現場の人をしっているから

そのように団結していくことを考えるとき、多くの人がジェンダーフリーを使って運動してきたという現実を尊重すべきである。教育現場、NPO, 行政の人など、啓発的な活動、初級入門的な活動には、厳密に考えると不十分なことが混じる傾向があるが、それを全否定するのではなく、支援していくことが必要である。

 

「男女二分法」を超える視点で団結を!――「性」「性別」「男女」というものへの理解をめぐって

バックラッシュ派との戦いを考えるとき、フェミニストの側でぜひとも整理していかねばならない課題が、「男女二分法の問題」、「ジェンダーとセクシュアリティの関係」、「性の多様性の豊かな理解」である。

バックラッシュ派が性的マイノリティを差別するのは、必然である。「男らしさ、女らしさ」といったジェンダーの自然視、男女2分法の固定化、したがって多数派のみ優遇しか考えられない人たちこそがバックラッシュ派だからだ。そのような鈍感な「性」のとらえ方が、性的マイノリティを差別する抑圧構造を支えている。それはまた自分の豊かな性を貧弱なものに落としこめている。
 それに対抗して、フェミニズムが目指すのは、各人の性の多様性の尊重、性における少数派(マイノリティ)、性における「中間派」、その他多様なものを平等に認めていくことである(資料―1)。このことを豊かに理解し、世間に広めていくことが求められている。ここには、「性、ジェンダー、セクシュアリティ」についての深い理解が必要であるが、いまだその議論と理解は十分ではない。ここには、性的マイノリティ・フォビアとフェミニズムの関係が関わる。「性は男女2種類だけとみる、男女二分法自体を乗り越えて、多様な人々の共生をさぐる」ということが、フェミニストやクイア・アクティビストの共通基盤になることが重要なのである。そしてこの問題を深く理解することが、フェミニズムを、ジェンダーフリーやシングル単位論と結びつけることにつながる。結果としてジェンダーフリーへの立場の選択にも関わる。

 

例えば、この問題は、男女共同参画社会基本法の射程をどこまでとするかという問題として考えることができる。同法の「男女が性別による差別的取扱いを受けないこと」を深く理解し広めていくこと、つまり性別や性的指向にかかわらず、すべての人の平等としていくことが、バックラッシュ派との対抗点である。

 「性」とは、セックス、ジェンダー、セクシュアリティ、その他、性に関わる生き方・思考・行動すべての総体である。それに関わって自分の性自認、ジェンダー・アイデンティティが確立されている。
 セクシュアリティとは、狭義には、性指向や性の嗜好、エロスや性的快楽のイメージ、身体イメージ、性的反応、生殖など性に関する欲望のあり方、性行動や恋愛感情や社会的なスタイルにおける性のあり方、自分の性的アイデンティティなどのことだが、広義には、生物学的性別(セックス)や社会的性別(ジェンダー)も含めて、ある人の性的なことがらを包括的に示す概念といえる。性自認はジェンダーだけでなくセクシュアリティも関わって形成されている。
 性に関わる要素の無数の組み合わせがその人の「性」である。その要素とは、身体特徴、性別役割・2分法の内面度、性自認、性指向、性的嗜好、言動・属性・考えのさまざま、性欲の程度など多くの分野に関わる。
 ステレオタイプの2分法ジェンダーを内面化した生き方(従来型の結婚、恋愛に無批判的)かどうか、性別分業を伴う法律婚(とくに片働き)に賛成か反対か、異性愛を当然・自然と思う異性愛主義か、そうでないか、生活形式として独身、離婚、単親家庭、同棲など非標準になっているかどうか、男女2分法ジェンダーを乗り越えるジェンダーフリー的言動を意識的に行っているかどうか、は、その人の「性」のあり方である(資料―2、参照)

 通常、「性自認、性のアイデンティティ」は、自分の性を女あるいは男ととらえることとされているが、典型的、2分法的な「男か女か」には当てはまらないというような「性のあり方」の場合もある。つまり、「男、女のどちらでもない」ととらえるような性自認はある。その根底には、「性」を大雑把な2種にはとらえていないという認識がある。例えば、トランスジェンダーの人の一部、インターセクシャルの人の一部はそうであるといえる。また自分の性を細かく見ていって、他の誰とも違うと思う人は、「X」という性を生きているといえる。「男らしくありたい」と思っても、それが「料理なんてするのは男じゃない」という場合もあれば、「料理する男ってかっこいい」という場合もある。男の身体に欲情するといっても、筋肉質のマッチョな肉体が好きな人もいれば、細くて繊細な肉体が好きな人、丸々とした身体が好きな人、いろいろである。
 つまり「性」をとらえるとき、身体だけをベースにする人、自分の主観をベースにする人、「2分法の社会的文化的な性=ジェンダー」をベースにするひと、性指向を重視する人、その他いろいろあるが、上記のように総合的に「性」をとらえれば、実は誰の「性」も同じではない。男女二分法で性は成り立っているのだと言い切るのは間違いである。[28] 
 大雑把に性を2種類だけと見て、それをベースにすることで便利なこと・実用的な場合もあるが、常にそれだけではいいといえず、時にはそれは差別にもなるし、不適切な場合もある。
 私はそのような複雑なままの豊かな「性の理解」をベースに、シングル単位論を主張してきたし、『始めて学ぶジェンダー論』などの本を書き、講義・講演をしてきた。
 その立場から言うと、どのような「性」であろうと平等に尊重されることがジェンダーの視点、ジェンダー平等だということになる。ジェンダーフリーの感覚はここにつながっている。
 そうすると、男女共同参画社会基本法の「男女が性別による差別的取扱いを受けないこと」というような考えは、性的マイノリティの権利などを明記はしていないが、その精神は、女性と男性をその性の違いで差別しないということであり、その他の部分に見られることも含めると、性による差別禁止と広く解釈できうるものである。
 その他の部分とは、参画法4条「社会における制度または慣行についての配慮」の項である。ここに見られる精神は、「社会の制度や慣行を、性に対して中立なものにすべき」というもので、ジェンダーフリー(ジェンダー中立)の精神、シングル単位の精神ともいえる。多様な人々がいる中で、どのような生き方をしようとも、それを阻害・差別しないような公平中立な制度にしよう(ジェンダー中立の制度設計)といっているのだから、それを具体化すれば私の持論であるシングル単位型の制度改革を求めていくことになる。
 つまり、男女共同参画社会基本法を「狭義の男と女の間だけの平等」に限定し、セクシュアリティ、性指向側面まで含んだ性の平等を排除していると理解する必要はない。
 そもそも、真に男女平等を理解すれば、多様な男性、多様な女性、全体を含んで、女性が働こうが、子どもを産もうが、結婚しようが、どの生き方でも女性の権利を侵害するな、ということである。女性の間の「性」の違いを認めるという精神なのである。男性が育児休業とっても、主夫になってもよいという精神である。
 だから「男女平等」を男女二分法の上で「狭義の男グループ(均一なもの)と女グループ(均一なもの)の間だけの平等」ととらえず、女の中の多様性、差異の尊重、「女と非女、女Aと女Bと女Cと男Dと男E、非男F、の人たち全員の平等」ととらえようというのが、フェミニズムの精神であり、ジェンダー平等(ジェンダーフリー論)はそのような意味で豊かなものとなってきたのである。だから私は、それをシングル単位論として、まとめてきた。
 このあたりの理解は、ジェンダーやセクシュアリティの理解も含めて、世間やフェミニストのなかでもまだ不十分と思う。そのようなとき、フェミニズムを男女二分法の上だけで理解していることには限界が多すぎる。フェミニズムを「男嫌いの女たちの動き」と描こうとするバックラッシュ派の戦略との関係で見るならば、私たちは男女二分法を乗り越えていかねばならない。

私は、当事者性や、マイノリティ性、自分の主観の尊重、セルフヘルプグループ尊重、などを認めつつ、同時に、シングル単位的に、カテゴリーを越える「多様性としての私」に至りたいと思っている。だから現時点において、フェミといえども、女性アイデンティティへのこだわりが、その他の問題へのバランスを欠いているような場合、問題だと思っている。本質主義と構成主義(社会構築主義)の関係で、単純にどっちというのではもちろんダメである。構成主義を認めつつ、本質主義的な利用をしていくという戦略(戦略として本質主義的な面を重視するフェミニズム)もありうる。「すべて社会的に作られたものであるから、どうにでも変えられる」というような単純な構成主義があるとすれば、それはもちろん問題である。

しかしここは、性的マイノリティからの提起と絡んでくる。性的マイノリティの中でも、戦略として、あるいはその他の理由で、本質主義的スタンスをとるものもあれば、FTXといったように、むしろ「X」という性的アイデンティティを主張していき、このままの私を認めるようにというのもある。後者は男女二分法破壊的である。私は後者のスタンスを支持している。ジェンダーフリー概念を擁護するという立場は、こことつながっている。ジェンダーフリー批判をする人の中には、先にも見たように、男女二分法のうえでの戦略をとっている人もいる。そこが2006年の日本のフェミニズムをめぐって考えるとき、どうなのか、という話である。

「資料― 廚鬚澆討い燭世たいが、私は、マイノリティの立場にたって、マジョリティが支配する秩序を解体し、多様な性が平等に共存できるようにしていこうとするのがフェミニズムだと考えている(創造的破壊)。その意味で、マジョリティが、この表を見て、自分にもマイノリティ側面、中間的な側面があることに気づき、そうしてマジョリティというもの自体の中に繊細な個々人の違いの感覚が生じて、マジョリティというもの自体が解体していくことを目指している。それが「男らしくならなくっちゃと思ってきたけど・・」というジェンダーへの気づきであり、その先に、そうしたジェンダーの枠に収まりきれない「ユニークな私と言う個」への覚醒がある。それをシングル単位(ジェンダーフリー)として伝えていきたいと考えている。

 

まとめ:ジェンダーフリー概念への賛否の距離[29]

 

ジェンダーフリー概念 擁護

      

      

      

              

鶴田敦子、木村涼子、館かおる、伊田広行、竹信三恵子

橋本ヒロ子、赤石千衣子、舟橋邦子

浅井春夫、村瀬幸浩、田代美江子、奥山和弘

井上輝子(センシティブ重視・原理主義批判)

若桑みどり(中立+しかし戦争状況考慮)

金井淑子、細谷実

ジェンダーフリー概念  

 容認 + 自分は不使用

 

江原由美子(中立的分析概念、価値があると記述しにくい)

加藤秀一 

ジェンダーフリー概念に批判的

上野千鶴子

山口知美 斉藤正美

 

 

5 私たちは何をなすべきか

以上の議論を踏まえて、この議論をどこに結びつけるのか、何をしていけばいいのかをまとめておきたい。

 

政府への対応 

 政府は「第2次男女共同参画基本計画」(0512月)の中で「ジェンダー・フリー」の定義を示さずに、その概念とフェミ運動の成果を一緒くたに否定的に記述し、061月には全国にジェンダーフリーの不使用を通知した[30]。バックラッシュ派はそれを悪用してジェンダー平等の成果を切り崩す活動をしてきている。

これに対して、フェミニストの中では見解が分かれている。2005年の秋、基本計画の閣議決定を控えて、「ジェンダー」概念を守る攻防があった。フェミニズム陣営では、「ジェンダー概念を残せた(守れた)のはよかった」という人も多いように見受けられるが、私の評価はまったくちがう。

061月の「ジェンダーフリー不使用の事務連絡」では、「地方公共団体においても、このような趣旨を踏まえ、今後はこの用語は使用しないことが適切」とまでいいきっている。ある「A」という用語の一部での間違った使用例があるからといって(実際はそれもでっち上げ)、「A」という用語の使用全体をやめるよう指導するというのは、論理が飛躍した対応であり、間違った対応である。そしてこれは「ジェンダーフリー」という学術用語、思想用語の使用を禁じ、それを用いるものを排除するということにつながる思想統制的で非民主主義的な対応であると考える。

バックラッシュ派の言い分(多くはデマゴギー)を、まるで事実かのように受け入れ、まず、「一部の間違った例」を書き、次に、そこから全面的に使用中止にするという、原則的姿勢も事実にもとづく科学的な姿勢もなく、なし崩し的に方針をバックラッシュ派が望む方向に変質させていっているのが政府の姿勢である。

 

江原氏は、内閣府がジェンダーの定義をしたことは、「行政機関の文書で使用する場合の定義を定めたものであり、この意味で十分意義がある」、「しかしそれが学問の世界における各自の概念定義や概念使用法まで縛るものではないことは当然」(若桑みどり・他編著[2006]p54)、ジェンダーフリーの「不使用通知は自治体の活動にだけ及ぶものであり、したがって東京都は上野氏にジェンダーフリーの語を使用しないようにお願いすることができるのがせいぜいのところ」(同p60)などと評価している。

 

だが、私の見解は、江原氏と異なる。江原氏の見解は、現実的には甘すぎる。行政とは誰のものか。市民国民のものである。そのめざすべきところは、市民の人権擁護・すばらしい平和で非暴力な街づくりである。行政が、市民にジェンダー平等を啓発していくべきときに、その主体の行政がジェンダーフリーを否定的に扱うとは、どのような現実的効果があるか。

先ず施策自体が後退する。望ましい水準にならない。職員の意識も後退する。次に、行政関連ということで、教育、市民教育でジェンダー平等が後退する。次に、図書購入、ジェンダーフリー関連のNPO市民運動、フェミニズム関連の講師が排除される。国公立の大学もある。そうしたところに制限があっても、民間でまったく行政に関係なく研究できたら、何も問題がないといえるか。もちろん大問題である。

むしろ、行政関係でもジェンダーフリーを使ってもいいとさせていくべきなのだ。それがフェミニズムを広げる上で、かつバックラッシュと戦う上で、とても現実的には有効だろうと思う。江原氏も、一定程度以上になると思想統制だというが、行政機関の文書、自治体の活動だけを縛るものというならよいというのはおかしい。それでは、線引きが甘すぎると思う。一つを譲ればそれはとめどなく広がる。

地方行政はお上(中央官僚)のいうことを無条件にきくべきか。もちろんそうではないであろう。しかし現実は、長い自民党政権のもとで作られてきた意識や慣習のゆえに、地方行政もメディアも市民の多くも、お上(中央官僚)のいうがままになることが非常に多い。

 

たとえば、福井県で「ジェンダーフリー」関連の図書の排除が行われたとき、その責任者は、判断材料の一つとして「第2次男女共同参画基本計画」が出たことをその理由にしていた。[31]

また政府がほとんどありえない極端な事例をわざわざ持ち出して「ジェンダーフリー」概念を批判したことはバックラッシュ派の望んだとおりであり、喜んでいる。例えば、八木秀次氏は、自身のバックラッシュ言説を肯定するために、『正論』(063月号)で「内閣府男女共同参画局も最近、男女同室着替えがあったことを認めている(『男女共同参画基本計画』)」と述べて、政府が「ジェンダーフリーによる男女同室着替え」の存在を『基本計画』で認めているというように利用している。政府の文書の文言は、このようにバックラッシュ派が「自分たちの主張が認められた」と利用してしまうような記述なのである

 バックラッシュ勢力の一翼である『産経新聞』『読売新聞』がその社説で「第2次基本計画」のジェンダーの説明を歓迎していることも、政府文書の性格を示しているといえよう(『産経』社説「男女共同参画 計画案の修正を評価する」20051228日、『読売』社説「誤解を招く記述の是正は当然だ」2006115日)。桜井裕子というバックラッシャーも、これら社説を受けて「性別否定を是正する指針を歓迎するのは当然だ」と評価している(「ジェンダーフリー」『社説対決・五番勝負』中公新書ラクレ、2007年1月)。つまり桜井氏には、「第2次基本計画」の説明は、「性別否定を是正」するものなのだ。

この背景に、猪口少子化・男女共同参画担当相と山谷えり子政務官などとのあいだでジェンダー/ジェンダーフリーの記述をめぐっての激しい応酬があったことは広く知られている。「第2次基本計画」では、ジェンダーという言葉は残ったものの、その定義は矮小化され、真髄の意味が消され、結果は、バックラッシュ勢力が満足するところとなったのである。

また北海道石狩市の広報誌「広報石狩」200611月号に「言葉の意味:社会的性別(ジェンダー)」「「ジェンダー・フリー」に関する誤解」というコラムが載ったのだが、そこでは政府の「第2次男女共同参画基本計画」のジェンダー関連の文言をほとんどそのまま示し、「このため内閣府では、社会的性別(ジェンダー)をすべて否定するこのような誤解を与える『ジェンダーフリー』という言葉を使用していません」と結んでいる。つまり、いったん政府が規定すると、日本中に誤ったジェンダー概念が広められ、ジェンダーフリーがまるで悪いものであるかのように伝えられていくのである。[32] 当然ジェンダーフリーを使用しているような市民団体も排除される。実際、北海道ではそうしたことを求める発言がバックラッシュ系議員から出されている。

 

さらに、政府自身が、「第2次男女共同参画基本計画」の文言をベースに新たな施策を展開していこうとしている。例えば、「家族・地域の絆再生」政務官会議PTによる「中間とりまとめ」(20065月)の中でも、「家族の絆を再生する国民運動の推進」の項目で、

 「国や地方において、家族や地域の人々が触れあう機会を増やし、相互の絆をより深めるとともに、家族や地域の絆についての国民的議論を喚起する契機をつくり、家族や地域の絆を再生するための国民運動を推進する。その際、男女共同参画の観点については、『男女共同参画基本計画(第2次)』(平成1712月閣議決定)にも明記されているように、「ジェンダー・フリー」という用語を使用して家族や伝統文化を否定することは「国民が求める男女共同参画社会とは異なる」ということに留意する。」(傍点筆者)

と記して、バックラッシュ派の望む伝統的家族・結婚重視の施策を実行していこうとしている。同「中間とりまとめ」では、

「今日の深刻な少子化の原因の一つとして、過度に経済的な豊かさを求め、個人を優先する風潮があると考えられる。家庭生活よりも職業生活を優先させ、個人が自らの自由や気楽さを望むあまり、生命を継承していくことの大切さへの意識が希薄化し、「結婚しない」あるいは「結婚しても子どもを持たない」方が、経済的、時間的な制約に縛られることがより少ないという考え方を背景に、非婚化、晩婚化、少子化が進んでいるという側面は無視し得ないと考えられる。」

家族(親と子、祖父母や兄弟、親類等)と家族が暮らす身近な地域(町内会等)の絆や生命を次代に継承していくことの重要性について、国民全体の理解を深め、家族と地域の絆を再生することにより、「結婚して子どもを産み育てることが当たり前と皆が自然に考える社会」の実現を目指す。」

「家族の子どもに対する責任感を高め、家族の絆をより深めるとともに、子どもの健全な心身を培い、豊かな人間性をはぐくみ、家族を大切にする意識を高め、結婚や出産を自然な生き方と考える次世代を養成するとともに、家族を大切にすることを中心とする社会形成の意識を高める。」

「家族を大切にすることを中心とする社会形成の意識を高めるため、より多くの子どもを持つ家庭が有利になる税制や、家族を社会構成の基本的単位とする法制の在り方について検討する。」

「男女共同参画の観点については、『男女共同参画基本計画(第2次)』にも明記されているように、「性と生殖の権利(リプロダクティブ・ライツ)」について、「我が国では、人工妊娠中絶については刑法及び母体保護法において規定されていることから、それらに反し中絶の自由を認めるものではない」ことに留意する。」

とも書かれている。多様な生き方の尊重がうたわれているときに、女性が仕事を持つことや中絶を非難するような記述の上に、「結婚して子どもを産み育てることが当たり前」「より多くの子どもをもつ家庭が有利に」などという考えで少子化対策を考えようとすることは、時代錯誤もはなはだしい[33]。「家族を社会構成の基本単位とする」というのは、まさに私がジェンダー平等政策の要と考える個人(シングル)単位に対抗する、まったく男女共同参画を骨抜きにする考え(旧いジェンダー秩序を再生する方向)に他ならない。この文書の反動性をみるならば、「第2次男女共同参画基本計画」のジェンダー関連記述に、こうした発想とつながるものが入っていたこと自体を問題としなくてはならない。

 

2006年、従来の「男女平等基本条例」を改廃し、新たに「男女共同参画社会基本条例案」を可決した千葉県市川市において、市は新条例の趣旨説明(20072月)で次のように発言した。

「男女がその特性をいかし」(条例第二条等)という文言が入ったことについて、「男女の特性とは、生物学的性差並びに国の第2次男女共同参画基本計画の中で述べられているところの、男女共同参画社会の形成を阻害しないと考えられる社会的性別を指し」「そうした 特性をいかしつつ個性と能力を発揮していくことを目指す」と。

つまり、まさに政府の文書をもとに、時代を後戻りさせるような「男女がその特性をいかし」という表現を入れたのだ。どのような場合にその男女特性をどのように生かすのかを規定せずに、そのように言うことは、ジェンダーが抑圧的な規範として多くの人の生活に影響を及ぼしているとき、従来の「女らしさ/男らしさ」を見直さず、逆に受け入れさせるような影響さえもたらす。事実上、ジェンダー平等が積み上げてきた成果を崩す作用を持っている。このように反動的強弁ともいうべき無理を言うときの根拠にされてしまうところに、政府の規定の問題が如実に出ている。
 また新条例制定の背景について市側は、「現行条例を見ると随所にジェンダーを否定するともとれるような規定がなされており、これが歪曲(わいきょく)された『ジェンダー・フリー』の思想、解釈に結び付けられるおそれがあった」とも述べたという。

 先ず「ジェンダーを否定する」ことがとても間違っているかのような表現であるが、「その人の個性を抑圧する規範や支配被支配関係をもたらすようなジェンダー」(伊田規定のぁ砲琉嫐でのジェンダーの場合、それを否定・批判することは積極的である。そのことをわかっていないという意味で、まったくこの答弁は誤っており、ジェンダーを伊田△硫礎傭耄的なものとだけとらえてしまっている。そうなっているのも、政府の文書が根拠になっている。
 次に、「歪曲(わいきょく)された『ジェンダー・フリー』」等という、バックラッシュが作り上げた幻想を根拠に述べているところも反動的である。これも政府文書を無批判的にベースとしている。

 結局、政府の第二次基本計画の記述が、このように全国でバックラッシュ的な動きを支えてしまっているのだ。
 

少し省みれば、2004年に東京都教育委員会が「ジェンダーフリー不使用」の見解や通知(誤ったジェンダーフリーに基づく男女混合名簿も禁止の通知)を出したが[34]、これに対して、フェミニズム陣営は十分には団結して戦わなかった。多くのものは放置した。(その理由は先述したように、敵を甘く見ていた、自分には関係ないと見ていた、バックラッシュ派からにらまれるのが怖かった、ジェンダーフリー概念に批判的だったなどが絡み合っていた。)しかし、その結果、さらにバックラッシュが進み、ついに政府の姿勢も東京都と同じく、ジェンダーフリー不使用(ジェンダー概念の骨抜き)に至った。東京都の蛮行に反撃が十分できなかったことが尾をひいているのである。

 

以上より、ジェンダー/ジェンダーフリーをめぐる議論や現実を踏まえて、私たちは、政府に、この間の間違った規定や対応を真摯に反省し、まず2006131日づけの「事務連絡『ジェンダー・フリー』について」文書を撤回するよう求めていくべきである。

次に、「男女共同参画基本計画(第2次)」の「ジェンダー(の視点)」と「ジェンダー・フリー」に関する記述自体を学問的水準を踏まえて、より公平かつ正確なものに修正・変更していくよう求めることである。

 

フェミニストの情報発信・政策提言能力を強化すること

メディア、男女共同参画に親和的な審議会メンバーなど、中間派へもっと積極的に、ジェンダー平等の意味、ジェンダーフリーの視点の意義などを伝えていくことが必要である。 現状は、フェミニズム、ジェンダーフリーの豊かな意味、明確なメッセージが伝え切れていない。教育基本法改悪などへの反対運動でも、十分な運動・連携ができていない。政党・政治への関わりも不十分なままだ。

 このことは、草の根のさまざまなジェンダー平等運動があるが、それらが連携・結合・情報共有できていないという問題と重なっている。性教育への攻撃がある中で、その反撃が一部で行われていたにもかかわらず、フェミニスト全体に広がっていなかったことはその典型である。フェミニズム運動の全国センターのようなもの(それに準じるネットワーク[35]がないことが、バックラッシュへの反撃が遅れた一因といえる。

 ただし、「Gender Studies ML」といったメーリングリストや「Against GFB」といったHPなどもできており、連携は徐々に強まりつつある。今後、フェミニストたちの連携を強め、バックラッシュに対して毅然と対抗し、クオータ制、アファーマティブ・アクションとも関連して具体的な制度改革(新社民主義的・シングル単位的な政策)の提起を行っていくこと[36]、その文脈での男女共同参画を進めていくことが要請されている。また日本学術会議(科学者委員会男女共同参画分科会)といったようなルートを通じて、実績を積み重ねるようなことも重要であろう。

 

教育実践:インテリ主義批判――大学人・研究者のあり方  

バックラッシュに対抗するとは、草の根でさまざまなジェンダー平等の活動をすすめて行くことであり[37]、教育の場においてもそれは同じである。その意味で、ジェンダーフリー教育、性教育を従来以上に積極的に行っていくことこそ、最大のバックラッシュ批判である。

私も微力ながら、いかに学生のみなさんにジェンダー平等の精神と視点を伝えることができるか、日々改善を重ねながら工夫している。ジェンダー論という人権論の精神は、決して一片の知識を覚えさせてわかるものではなく、シングル単位、エンパワメント、スロー、スピリチュアル、ピース、非暴力、多様性といった諸概念を含めて理解しなくてはならないものだと思っている。そして生活の中の具体的な問題に表れ出るジェンダーの諸相をめぐって、自分の生き方・思想と結び合わせて考え続けることが必要である。だから、恋愛、CM、DV、中絶、化粧、整形、嫉妬、結婚、セックスワーク、ポルノ、離婚、ファッション、ダイエットなどを私はジェンダー論で扱う。教育方法としても、ワークショップ(参加)型がのぞましい。私は、大教室でもワークシートに書き込む作業を通じて、自分の生き方の芯を見つめることを重視する講義を行っている。

 

最後に、教育に関わるものの姿勢ということで、ジェンダーフリーの議論で出てきた、客観性・価値中立性やアカデミズム/学問のあり方について、ベル・フックスの見解を紹介しておこう。

 ベル・フックスは、『とびこえよ、その囲いを――自由の実践としてのフェミニズム教育』(ベル・フックス[2006]で、教育者、学者研究者、大学人、フェミニストはいかに生きるべきかということを論じている。そこで彼女は、アカデミックな学者としての囲いを飛び越えよと訴えている。

彼女は、まず現行の教育のあり方に批判的である。大学教師の多くは基本的なコミュニケーション能力に欠け、自分の内面(心の豊かさ、スピリチュアル側面)・身体性・立場(階級、人種、民族、性など)等を隠蔽、あるいは無視し、研究が大事で、教育は副次的義務的な仕事と軽視し、しばしば授業を支配の手段、権力を不当に行使する統制の儀礼として悪用している。政治的に中立ではなく多数派の側の教育であるのに、中立の振りをし、中庸が大事と洗脳している。学生たちの参加を求めず、一方的に上から「真理・理論・学問」という名の断片的知識を注入し、情報伝達するだけの「預金型」の教育に成り下がっている。口先では多文化主義、反差別主義などといいことを言っている学者の多くが、実は見せかけだけで、生活実践では保守的で、「自分が論文に書いたり、教室で語ったりしたもの」と実践が一致していないことをベル・フックスは批判する。難しい理論を語るフェミニスト学者が、自分だけ学問的市民権、社会的地位や名声を得て、大衆的実践と切り離され、人々の中に理論的に語らないとだめだという雰囲気を作り出し、多くの人に劣等感を植え付け、多様な声を沈黙させ、人々を分断するようになっているとしたら、そんなフェミニズムはいったいなんのためにあるのかと問う。そんなものは、特権階級の占有物にすぎず、運動つぶしであり、差別と排除と支配の道具ではないかと非難する。調査し、情報を得て、自分の論文にして自分だけ出世するような学者は、反差別運動(フェミニズム)の名において非エリートたちを収奪しているのだという。

 

それに対して、まず教育において、ベル・フックスが主張し、実践するのが、パウロ・フレイレの「批判教育学」やフェミニズムのCR運動、さらにティク・ナット・ハンの影響を受けた、「関与の教育」、すなわちスピリチュアルな側面も含めた全人格的発達を目指す参加型教育である。

また、学び/学問は、生活の変革に生かされなくてはならないのだから、難解であってはならず、広範な人々にわかりやすく語りかけるものでなくてはならない、とする。したがって文体の選択も重要である。アカデミズムの世界では、高度に抽象的で、隠語だらけで、難解で、こけおどしの参考文献を並べた論文だけが、本格的に理論的な労作とみなされており、それに対して、多くの人に影響を与えるわかりやすいものは、キワモノ扱いされ、理論の名に値しないものだといって貶められているが、それはおかしいと主張する。理論(フェミニズム文献)は、自らの生活を変えていく具体的な実践の方法をもっと示さねばならない。世間がフェミニズムに批判的であるとき、自分はフェミニズムではないと逃げるのではなく、フェミニズムを魅力的に語る責任を引き受けなくはならない。

対立や闘争を避け、中庸や和解がよいとすることが、事実上、誰を利するのかを見きわめなくてはならない。怒りを含めた経験を語る学生の参加を恐れてはならない。それは豊穣な学びに不可欠なのだ。そのようなことをいう。[38]

 

以上に紹介したように、ベル・フックスは知識人批判をしている。日本でもジェンダー学が就職の手段であったり、知識・理屈というものが、自分が優位に立ち、相手を黙らせる道具になっていたりするということがあるが、そういうことでいいのかと、私たちは突きつけられている。私は、彼女の提起をフェミニストは重く受け止める必要があると思う。労働者階級的なものを軽視するようなインテリのあり方、草の根の現場をよく知らずに/相手の全体的な生き方をみずに、一面的に批判するような賢しらなあり方は、反省されねばならないと思う。

 

おわりに

伏見憲明氏は近著で、「フェミニズムは性差別をなくすために、性差解消を主張している。つまりジェンダーフリーはやはりジェンダーをなくすジェンダーレスの主張になるのではないか」「性別二元制を批判してきたが、そんな単純なものじゃないと思うようになった。性の二元制がなくなると性愛的に楽しくない」というような点から、「ジェンダー(フリー)の立場/フェミニズム」に疑問を出している(伏見[2006])。検討すべき諸点を提出している本であるが、ことジェンダーとジェンダーフリーについては、かなり表層的な理解に陥っている。ここで言う「表層的」とは、「伊田のジェンダー概念の整理」の水準を踏まえていないという意味である(注24参照)。(なお、伏見[2007]に対しては、伊田[2007c]で詳細に批判している。)

ただし、彼が根拠として引用している有名なフェミニストの言説には、確かに一定の問題があり、伏見の主張はそこを問題としている。つまり本稿最初で述べたように、バックラッシュ的な批判にさらされてそれに反撃/対応する中で、フェミニズム側の主張の曖昧なところが出てしまっているという状況は、やはりある。それが影響して、伏見氏ほどの人でも混乱/誤解している。しかし、だからこそ、私はフェミニズムを平易な言葉でバランスよく説明するという作業を行っており、それを踏まえれば、伏見[2006]のフェミニズムへの疑問や批判の多くは解決する。その意味でも、ジェンダーについて、本稿のような議論の水準がはやく全体化されることが望まれる。

 

     ★★★★★★★★★★

(追記:2009年1月)

本稿は、2007年初頭に書き上げたものであるため、2007年後半以降の情報はほとんど入っていない。安倍政権が倒れてジェンダーフリーバッシングは、その勢いを衰えさせたが、状況としてはいまだ後退したままの地点である。行政は相変わらずジェンダーフリーという用語を使わず、フェミニストの中でも意識的にジェンダーフリーを使っている人は少ない。だが、時間がたって、ジェンダーやジェンダーフリーという用語を使うことに躊躇した人も、なぜあのときそのような気分になったのか、今では忘れかけている。だが2000年ごろから2005年ごろまでは右翼的な風が強くなったために、バックラッシュ派から攻撃されることを恐れてジェンダーフリーを使わない人が増えていった。そのなかでの上野氏たちのジェンダーフリー概念批判であり、ジェンダーフリー批判のスタンスをとる『バックラッシュ!』(双風舎)出版であった。

だが、福井県に続いて、松山市男女共同参画推進センター・コムズの図書室の一部のジェンダー関係の図書撤去事件では、上野氏は先頭に立って図書排斥反対の運動を担った。事実上、過去のジェンダーフリー概念批判の立場を撤回されたとみなせる。

笑えることに、図書撤去理由として説明されたのが、松山市男女共同参画推進条例及び松山市男女共同参画推進プランの中に「ジェンダー・フリー」という用語が使用されていないことから、平成15年12月の棚卸しの際、タイトルに「ジェンダー・フリー」を含む書籍の閲覧を中止したということであった。ここにももちろん、バックラッシュ勢力の影響がある。男女共同参画、フェミニズムに関わる人たちは、ぜひとも日本女性学会・ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング―――バックラッシュへの徹底反論』を今一度読み直していただきたい。

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文献

ベル・フックス[2006]『とびこえよ、その囲いを――自由の実践としてのフェミニズム教育』新水社、2006年

伏見憲明[2006]『欲望問題――人は差別をなくすためだけに生きるのではない』ポット出版(オンデマンド版)

伊田広行[2006]『続・はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2006年

――――[2007a]「書評 ベル・フックス『とびこえよ、その囲いを――自由の実践としてのフェミニズム教育』」、日本女性学会編『女性学』Vol.14 新水社、所収

――――[2007b]「ジェンダー重視時代の新しい政治」畑山敏夫・平井一臣編『新 実践の政治学』法律文化社 2007年3月

――――[2007c]伏見憲明『欲望問題』(ポット出版 2007年)の検討―――差別問題を否定せず、スピリチュアルなレベルの差別問題に発展させていこう」イダヒロユキHP http://www.geocities.jp/idadefiro/fushimi.html 掲載(2007年3月)

――――[2007d]竹信・伊田対談:『性差別への問い』はどう継承されるか――格差社会におけるフェミニズムへの新たな提案」 日本女性学習財団『ウィ・ラーン』20071112月合併号

     

――――[2008]  「ジェンダーと貧困――DVを中心として 宇都宮健児・湯浅誠編『反貧困の学校――貧困をどう伝えるか、どう学ぶか』(明石書店,2008年10月)

 

ジェンダー・学び・プロジェクト編[2006]『ジェンダーの視点から社会を見る』(解放出版社、2006年10月) 

加藤秀一[2006]『ジェンダー入門』朝日新聞社

木村涼子編[2005]『ジェンダー・フリー・トラブル―――バッシング現象を検証する』白澤社、05年12月

宮台真司・ほか[2006]『バックラッシュ!』双風舎2006年7月

日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング―――バックラッシュへの徹底反論』(明石書店、2006年)  

21世紀男女平等を求める会編[2003]『誰もがその人らしく 男女共同参画』岩波ブックレットNo593,2003

若桑みどり・他編著[2006]『「ジェンダー」の危機を超える! 徹底討論!バックラッシュ』青弓社、2006年8月

 

  ★   ★

 

資料―1

性における多数派と少数派 

(『はじめて学ぶジェンダー論』p43を詳しくしたもの)

 

 嵜搬里寮」(生物学的、身体的区分)

  (セックス側面)

多数派明確な男女どちらかの身体的特徴

中間派一応女性/男性だが、身体の様子が典型的な女性/男性を基準とすると、少し外れている人

少数派インターセックス(IS:半陰陽)   

 

◆嵜瓦寮」 

ジェンダー側面)

(自分の性を女あるいは男あるいはどちらでもないととらえる、性自認)

性のアイデンティティ:自分はこういう性の人間であるという意識 

(そのベースには、社会的文化的な性=ジェンダーがある)

(役割意識、ファッション、話し方、振る舞い、言動などを含む)

多数派「身体の性」と自分の性自認が一致

  性に関わる言動が2分法にのっている

中間派「身体の性」と自分の性自認が基本的には一致している(違和感はない)が、男/女という2分法枠を超えた「X」という性のように生きている人/生きたいと思う人、それを自覚している人

 

少数派「広義のトランスジェンダー(TG)」(自己の「身体の性」と自分の性自認のあいだにズレや違和感をもつ人の総称)

(その中の多様なあり方)

トランスセクシャル TS

狭義トランスジェンダー TG

 FTMMTFFTMTXMTFTX

FTXMTX

クロスドレッサー  トランスヴェスタイト TV(異性装者)

性同一性障害 GID

サードジェンダー

ジェンダーブレンダー

 

 

「性的欲望に関わる性」

セクシュアリティ側面)

 

多数派ネイティブ女性/男性の異性愛者(ヘテロセクシュアル)

    モノガミー(ただしそれは建前で「浮気」「買春」容認あり)

中間派異性愛が基本だが、部分的にそうでもない傾向も持っている人

    TGで2分法明確の上でのヘテロ

    さまざまな性的嗜好のうち少し例外的な人

 

少数派同性愛者(ホモセクシュアル、ゲイ/レズビアン、FTMゲイ、MTFレズビアン)

バイセクシュアル

アセクシュアル

パンセクシュアル 

ポリセクシュアル

さまざまな性的嗜好のうち少数派/例外的な人

ノンモノガミー、ポリガミー

 

 

ぁ 崟犬方における性」

 

 

多数派家族単位的生き方

ステレオタイプの2分法ジェンダーを内面化した生き方(従来型の結婚、恋愛に無批判的)

    性別分業を伴う法律婚(とくに片働き)のカップル

異性愛を当然・自然と思う異性愛主義

中間派

家族単位的に生きているが、部分的に、2分法ジェンダーを乗り越えるジェンダーフリー的言動をとっている生き方

2分法ジェンダー意識をもっているが、生活形式として独身、離婚、単親家庭、同棲など非標準になっている人

 

少数派シングル単位的生き方

2分法ジェンダーを乗り越えるジェンダーフリー的言動を意識的に行っている人

典型的な家族単位の生き方以外の多様な生き方(非婚、独身、離婚、単親家庭、同棲、非異性愛主義など)を意識的肯定的にとっている人

 

 

 

概念の整理

○性的マイノリティの全体=クィア

LGBTI  

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセクシュアルの頭文字を集めたもので、性的マイノリティの代わりの言い方のときもある。

インターセックス(IS) (他に、インターセクシュアル・半陰陽とも言う)

性染色体、性腺、外性器など身体の性が男女どちらにも分化していなかったり、男女両方の特徴を持っていたりする人。多くは生後まもなく医師の判断で「外科的手術」により、男女いずれかに当てはめられる。

(タ−ナ−症候群、クラインフェルター症候群、真性半陰陽、男性仮性半陰陽・精巣性女性化症、女性仮性半陰陽・先天性副腎皮質過形成など)

広義のトランスジェンダー(TG)

自己の「身体の性」と自分の性自認のあいだにズレや違和感をもつ人の総称。伝統的な性役割や性別概念にとらわれずに自分の性のあり方やセクシュアリティを持つ人。性別越境者。

FTM  生物学的女性→ 男性として生きる道を選んだTG

FはFema1e(女性) MはMa1e(男性)、Fema1e to Ma1e=女性から男性へ移行する人

MTF  男性→ 女性

FTMTX 女性→ 男性→既成の女性でも男性でもない、「X」という自分らしい性のあり方

MTFTX 男性→ 女性→既成の女性でも男性でもない、「X」という自分らしい性のあり方

FTX  女性→ 既成の女性でも男性でもない、「X」という自分らしい性のあり方

MTX  男性→ 既成の女性でも男性でもない、「X」という自分らしい性のあり方

 

トランスセクシャル TS

 生まれ持った自分の性器への違和感を重視し、手術を求める人。

狭義トランスジェンダー TG

  自分が望む性で生きることを重視するが、性器への手術を重視しない人。

性同一性障害(GID:Gender Identity Disorder)

「身体の性」と自分の性自認のあいだにある違和感を病気/障害とみて、医学的に治療するものとみたときの医学的疾患名。性別二元制を前提にしている。

性別適合手術(SRS)

性同一性障害者の人に対して行われる治療方法。いわゆる「性転換手術」。

 “違う性に変える"というよりも、間違った身体を心の性に合わせると言う意味合いから、この言い方がされる。

トランスヴェスタイト TV(クロスドレッサー CD

異性装者。ホルモン投与や手術をしない。

サードジェンダー

男でも女でもなく、第3の性として既成の性のあり方を越えた生き方を選択する人

ジェンダーブレンダー

 いろいろなジェンダーをまぜたような生き方。男でも女でもない、既成の性のあり方を越えた生き方を選択する人

バイセクシュアル

 性的対象が男性/女性の片方だけではなく、女性も男性も性的対象となる人。「性別」が重要な要素となっていない人という広い意味(つまりパンセクシュアル、ポリセクシュアルを含む意味)のときもある。既存の男性/女性を前提にしたまま両性が好きというのではないと意味から「両性愛者」という訳語は適切でないという意見もある。

Aセクシュアル(アセクシュアル・エーセクシュアル)

性欲のない人。恋愛をしたいという欲求がない人。性的欲求がないのでセックスをしたいと思わない人。

パンセクシュアル

 すべての性的タイプの人(すべてのジェンダー・セクシュアリティの人、性的多数派も性的少数派も)を性的対象とする人。

ポリセクシュアル

 複数の性的タイプの人(ゲイ、TGISなどいくつかの性的あり方の人)を性的対象とする人。

モノガミー 

 1対1の関係に限る付き合い方(をする人)。貞操の義務があるとの意識あり。

ノンモノガミー 

1対1の関係を優先するモノガミー」ではない付き合い方(をする人)。

ポリガミー(ポリアモリー)

  ポリガミーとは、一夫多妻制など複数の相手と結婚できる制度(一妻多夫はポリアンドリー)のことであるが、複数の人と付き合うという広義の意味で使われることもある。狭義の結婚制度を超えた考え方と実践ということで、複数の相手との恋愛やセックスや親しい関係もありとかんがえることをとくに「ポリアモリー」(複数の愛の意味)と呼ぶことがある。ポリアモリーの考えというものは多様で濃淡があるが、私はモノガミー(一夫一婦制)ではない関係のあり方全体を――つまり非モノガミーという集合全体を――、広義のポリアモリーであるととらえている。

デボラ・アナポール『ポリアモリー 恋愛革命』インターシフト社(2004年、原著1997年)参照。  

 

ニューハーフ

職業として、女性の格好をして接客する男性。身体的にトランスするTG当事者がいる場合もある。

おかま

「男らしくない男性」「“女性的な"男性」や、TG、ゲイやバイセクシュアルの男性などを総称して広く使われる言葉で、蔑称となる場合が多い(この言葉を好んで自覚的に使う当事者もいるが、当事者以外の人が無自覚に使うのは差別的とされる)。

おなべ

職業として、男性の格好をして接客する女性(他にもミスダンディという言い方などする)。また、「おかま」の反対語として、“男っぽい"女性に使われる事もある。

 

(以上は、高取正昌氏のまとめと田中玲『トランスジェンダー・フェミニズム』インパクト出版、2006年を中心に、その他の資料を総合して作成しました)

 

資料―2

 

 

資料 多様な性をイメージする  (イダヒロユキ作成)
 

男1 男らしさ大好き マッチョな体指向 暴力的な性格 性分業賛成 異性愛  セクシー女が好き セックス好き

男2 男らしさ追求 細い体指向 おしゃれ  性分業賛成 異性愛 知的な女が好き 論理的 

男3 男らしさ追及しない おしゃれ 明るい性格 性分業反対  異性愛  ボーイッシュ女性好き  セックスにあまり興味なし  非論理的で感情的

男4 男らしさ追及しない おしゃれ興味なし 性分業関心なし 異性愛  清楚な女性好き  感情的かつ論理的

男5 男らしさ追求 おしゃれ 結婚に興味なし 異性愛  おもしろい女性好き

男6 男らしさ追及しない 大雑把で鈍感な性格  結婚願望強い 子ども好き 性分業賛成 異性愛  従順でおとなしい女性が好き  セックス嫌い

男7 男らしさ嫌い ユニセックス指向 おしゃれ 性分業反対 バイセクシャル  おしゃれで明るい人好き

男8 男らしさ追求 マッチョな体指向 おとなしい性格 異性愛7割・同性愛3割 静かな人好き  

男9 男らしさ関心なし 細い体指向 おとなしい性格 同性愛  たくましい男が好き

10 性自認は全体的には男だが、女性的な振る舞い方やファションも好き  ギャル系好き

11 性自認は女でも男でもないが日常は男性的に振舞っている  性分業反対 パンセクシャル

12 性自認は女性 おしゃれ好き 性分業賛成  異性愛 繊細な男性が好き

・・・・・

無数の組み合わせ・・・要素(身体特徴、性別役割・2分法の内面度、性自認、性指向、性的嗜好、言動・属性・考えのさまざま、性欲の程度など)を増やせば増やすほど、みんな違うことが明白化

(例:身長、太い/痩せ、顔、経済観念、家、仕事、介護、政治などへの考え方、話し方、好きなもの、趣味、友人、ペット、親、血液型、ファッション、振る舞い、文学好き、論理的/感情的、人前で話すのが苦手/得意、酒が強い/弱い、キレイ好き、几帳面、マジメ/不マジメ、神経質、大雑把、子ども好き/嫌い、料理好き/嫌い、掃除好き/嫌い、スカート好き/嫌い、化粧好き/嫌い、恋人に尽くす/尽くさない、はっきり意見を言う/いわないタイプ、文系・国語が得意/不得意、理系・数学が得意/不得意、機械に弱い/強い、積極的消極的/能動的受身的/活発おとなしい、体力がある/ない、力が強い/弱い、スポーツ好き/嫌い、などで多様に分かれる)

 

女性でも・・・上記と同じように各項目でタイプ分かれる


[1] 直接バックラッシュ批判ではないが、フェミニズム側からの関連のものとしては他にも多くの本が出た。金井篤子他編『ジェンダーを科学する』ナカニシヤ出版、2004年、伊藤公雄『男女共同参画が問いかけるもの』インパクト出版会、2003年、日本女性学会編『女性学』11号、2003年など。

[2] とくにバックラッシュがらみでよく出される質問にかなり詳しく、かつわかりやすくQ&A形式でまとめたもの(日本女性学会・ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング―――バックラッシュへの徹底反論』がでたことは、今後、草の根レベルでの共通理解が広がるうえで非常に有効であったと思う。

[3] バックラッシュの分析・規定での論者による細かい点での相違はあるが、バックラッシュは、単なる「女ぎらいの男たちの反動」などではなく、新自由主義、ミリタリズム、ナショナリズムなどが結合したものであるという点で大方の見解は似ている。私は、以下のようにまとめている(日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006])。

バックラッシュとは、ジェンダー平等(男女共同参画、ジェンダーフリー、性教育、男女平等フェミニズムなど)の施策がすすむことに対する組織的な攻撃(反撃、巻き返し、反動、抵抗)のことである。その性質は、/啓由主義展開・戦争遂行国家化による不満のガス抜きをすすめるための「フェミニズム悪玉論」(いけにえ)、政治や社会問題を批判的に見る目や考える力を奪い、「国を守るために闘う男/それを支える女」というジェンダー(男女二元制)を維持・強化することで、保守的・強権的社会を形成する動き(障害物の除去としてのフェミ攻撃)、0貭蠅離献Д鵐澄縞薪(ジェンダー主流化)の進展への保守派の危機感からの反撃、といったものである

周知のように、グローバル経済化、新自由主義の展開の中で、能力主義思想・優勝劣敗政策がすすみ、格差と貧困が広がっており、それにともなう不満・不安定への対応策として、家族(母性、父性)や国家、伝統・天皇制への帰属をうたう保守主義的な価値観を広げていこうとする動きが広がっている(新自由主義と新保守主義の融合体)。そのとき、個人の自立/権利/自由/性的解放を主張し、家族に埋め込まれているジェンダーの抑圧を批判し、シングル単位的なシステム改革(新社民主義)を提唱し、「国や天皇や会社のために戦う男・死ねる男/それを支える女」を批判するフェミニズムは、非常にじゃまな存在となっている。同じようにじゃまな存在が、人権擁護の運動であり、反体制的な勢力(左翼、野党、NPO、平和運動、良心的メディア、福祉充実論者、環境擁護運動等)であって、フェミニズムを担う勢力は、そうしたものと大きく重なっている。

 そのため、フェミニズム攻撃は、新自由主義と新保守主義を結合させている今の日本の政権とそれに親和的な勢力にとって、必須の課題となっている。したがって、バックラッシュは、新自由主義、自己責任を強調する能力主義、新保守主義、ナショナリズム、ミリタリズム、復古主義などが、個人の自由や平等を否定するという一点で反フェミ連合を形成し、全体として家族尊重の名の下、シングル単位的改革を敵視しておこってきたものであるといえる。

[4] 福井県の事件では、福井「ジェンダー図書排除」究明原告団および有志(上野千鶴子氏や事務局の寺町みどり氏が中心)によって、非常にすばらしい運動が展開されている。責任を曖昧にしない、このような粘り強い運動が求められている。

[5] たとえば日本女性学会は、20057月に「『女性学/ジェンダー学および『ジェンダー』概念バッシングに関する日本女性学会の声明」2006年12月に教育基本法「改正」に関する緊急声明」を発表した。

[6] 忘れてはならないのは、2005年末ごろまでは、「バックラッシュの言い分はあまりに愚かなので相手にしなくていい」というような雰囲気がフェミニストのなかでもかなり強かったという点である。メールアドレスを公開すると集中的攻撃を受けるなどの事例を受けて、声を出すと叩かれるから口をつぐんでおこうという「警戒心/恐怖心」もあったように思う。そのこともあって、明確な反撃が遅れたということは記憶しておくべきことだ。詳しくは、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収の年表を参照のこと。

[7] 私の見解では、私のまとめと他の論者のまとめは、かなり重なるので、大まかな方向としてはまとまってきていると判断している。ただし異同があり、そのことについては後で言及する。

[8] 詳しくは、拙著[2006]、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収のジェンダー概念整理の拙稿を参照のこと。

[9] 個人的経験として、ジェンダー関連のメーリングリストで2006年はじめにジェンダー概念をめぐって意見交換があり、いかに多くの人に私がまとめたような「ジェンダー概念の整理」構図がないかがわかったという経験がある。たとえばフェミニストでも「男らしさ/女らしさ」ということについて、問題ないといったり、なくさねばならないと言ったり、一面的に理解していることがあった。正しくは、伊田△鉢の両面があるので、それに応じて対応すべきななのである。

[10] 80年代から90年代にかけて、「女らしさ、男らしさに囚われることなく、自分らしく」というようなことがよく言われてきた。それが90年代半ばごろからジェンダーフリーというようになってきた。そうした蓄積を受けて、男女共同参画社会の推進においても、事実上のジェンダーフリー的な文言が入ることが多くなっていった。

例えば、千葉県市川市の男女共同参画社会基本条例は、ジェンダーを「男女の役割を固定的に捉える社会的、文化的又は経済的に培われてきた性差」と定義し、家族や地域で「ジェンダーにとらわれることなく」とうたい、実質的に「男らしさ、女らしさ」を否定する内容となっていた。ジェンダーフリー的な内容をもったものであった。

これに対して、バックラッシュの動きの中で、200612月、保守系議員が、ジェンダーの文言が無用な混乱を招いているとして、ジェンダーフリー的ではない新しい条例に変えた。新条例では、「男女が特性を生かし、必要に応じて適切に役割分担」する社会を目指すとし、ジェンダーの文言を一掃した。女性の恣意的な中絶を容認する「性と生殖に関する健康と権利」(リプロ)の部分も削除し、代わって、「子を産むという女性のみに与えられた母性の尊重」を盛り込み、「育児における父性と母性の役割を大切にし」とうたっている。加えて、ジェンダーフリー教育を排し、「思春期の性別に配慮した教育」「発達段階に応じて適切に行われる性教育」を実現すべきだとしている。

[11] 拙著[2006]にまとめたものを簡略して再掲している。

[12] その意味で、ジェンダーフリーを、ジェンダー・バイアス・フリーの略だと限定的に規定するのは間違いである。それは一つの意味に過ぎない。

[13] 200512月に政府内閣府の「第2次男女共同参画基本計画」で「ジェンダー」の説明文が挿入された。これについては後で詳しく言及する。

[14] 本稿5節でも言及したが、詳しくは、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収の拙稿「政府の「ジェンダー」および「ジェンダーフリー」に対する見解について」を参照のこと。

[15]若桑みどり・他編著[2006]所収の井上論文参照。

[16] 自分の立場を横において、あるいは自分がジェンダーフリーを使い続けると言うリスクを引き受けずに、他者(一度でも「ジェンダーフリー」概念を使ったもの)に、「使い続けろ」と言うように立場を迫るような姿勢があるとすれば、それは問題であろう。なお、ジェンダーフリー概念をめぐっては、『We』誌上で、上野氏の見解への批判がなされたことがあるが、私はそれは適切な批判であったと認識している。またあまり有名というわけではないが、女性学会のニューズレターなどで、私は『We200411月号の上野千鶴子氏の見解を批判したこともある。

[17] 詳しくは、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収の拙稿「政府の「ジェンダー」および「ジェンダーフリー」に対する見解について」を参照のこと。

[18] 「『ジェンダーフリー概念』から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」というテーマ企画は、山口智美・斉藤正美氏が企画し、上野千鶴子氏に持ちかけ、上野研究室ジェンダーコロキアムでの開催となった、と紹介されている。

[19] 上野氏は同様の発言を別の場所でもしている。桜井裕子氏は、上野千鶴子氏の講演会「ジェンダーフリーのどこが悪い」(神奈川県平塚市主催、2004年11月8日)での発言「ジェンダーフリーという言葉を使わなくても痛くも痒くもない。(中略)ジェンダーフリーという言葉は研究者の言葉ではない。」を紹介している。桜井裕子「ジェンダーフリー」『社説対決・五番勝負』(中公新書ラクレ、2007年1月)

[20] 本稿に述べた点以外のジェンダーフリー批判については、拙稿(「Q33 ジェンダーフリーという用語は誤解されやすく危険なので、使わない方がいいという人がいますが、どうでしょうか?」日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]所収)を参照のこと。

[21] ジェンダー概念は、変化してきている。日本で1990年ごろから広がり始めたが、最初はフェミニストの多くは警戒的であった。女性差別に反対すると言うフェミニスト的スタンスが背景に追いやられ、学問的に中立な、たんなる「性に関する分析」となってしまうのではないかという危惧などがあったからである。しかし運動実践のなかでその概念にフェミ魂が注入されていったのである。その結果を私は、「ジェンダーの4つの意味」としてまとめたのである。私自身、90年代初めは、ジェンダー概念をあまり用いていなかった。90年代半ばごろには、北京女性会議もあって、運動の中で積極的な使い方をされていることを知っていき、ジェンダー概念を使うようになっていった。同じように、ジェンダーフリー概念も変化している。最初の使い方だけを固定的に見る必要はない。私も最初はジェンダーフリーを使わなかったが、積極的な意味でも使われていることを知り、少し使うようになっていった。しかし私は主にシングル単位と言う切り口でやっていたのでジェンダーフリー概念は多用はしなかった。そんな中、バックラッシュが進み、バックラッシュ派がジェンダーフリー概念を中心的に攻撃するのを見て、その擁護に回ることを決めた。柔軟に社会全体の動きを見て、概念へのスタンスを変えていくことが必要であると思う。

[22] カタカナ語で普通の日本人にはわかりにくいということも言われるが、反論は本文で述べているとおり。

[23] 拙稿「フェミニストの一部がどうしてジェンダーフリー概念を避けるのか」若桑みどり・他編著[2006]所収、参照。

 

[24] 男女共同参画社会基本法には、「男女平等」といいたくないために「男女共同参画」という婉曲的な表現になったという経緯がある。それは後退だ、基本理念だけしか記されておらず具体性が弱い、労働問題への言及を避けている、罰則規定などの実効性確保の面が弱い、異性愛男女2分法発想がある、などといった限界性があると指摘されてきた。

しかし、国連が1975年を「国際女性年」とし、続く10年を「国連・女性の10年」と定めて以降、国際的にすすんできた女性の地位向上、男女平等の施策の、日本的な反映として、女性差別撤廃条約やILO156号家族的責任条約の批准、男女雇用機会均等法や育児・介護休業法の制定があり、その集大成に位置づくものとして男女共同参画社会基本法がある。同法は、事実上、「社会的・文化的に形成された性別(ジェンダー)」概念を包含しつつ打ち立てられており、今の社会での性別がもつ問題性(差別/権力性)を見直していくという精神を内包しているとみなせる側面がある。英語ではgender equalである「男女共同参画」の意味として、1996年の男女共同参画審議会では「男女共同参画は真の男女平等を目指すものである」と答申している。199968日の衆議院内閣委員会で、松本委員は「本法案につきましては、(略)・・社会的・文化的に形成された性別、いわゆるジェンダーに縛られない社会の実現ということであります。(中略)・・この考え方は、男女共同参画審議会がまとめた男女共同参画ビジョンにおいて初めて示されたものでありまして、(中略)生まれたときからのいわゆる性差、セックスというものではなく、後に作られた、男性はこうなければいけない、女性はこうあるべきだ、そういったものを取り除いていくということであります。再度お伺いしたいのですが、このジェンダーフリーの視点というのが本法案ではどのように規定をされているのでしょうか。」と述べ、それを受けて佐藤(正)政府委員が「先生お尋ねのジェンダーフリーということでございますが、(中略)本基本法案においては、社会的・文化的に形成された性別という言葉は用いていないところでございますが、この法案自体はジェンダーの視点を貫いておると考えておるところでございます」と答えている。

また法律ができたということは、ジェンダー平等(政策)を各地方自治体や各企業で推進していくときの根拠となり、追い風になる。男女共同参画条例を制定していくというように、その歩みをしっかりと行政的に推し進める根拠となる。バッシングをはね返す根拠となる。

したがって、同法自体に一定の不十分点があろうとも、バックラッシュ状況の中では、その目指す基本方向は正しいものだと言いえるし、総合的にみてこの法律は積極的に評価できると私は判断している。男女共同参画を評価するに当たっては、日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006],21世紀男女平等を求める会編[2003]などを参照のこと。

[25] 行政フェミを批判するあまり、「育児をしない男性を父親と呼ばない」という政府の男女共同参画キャンペーン・キャッチフレーズに対して、「育児をする男なんて濡れない」とちゃかしたフェミニストもいた。多様な批判があることは大切なことであるが、男性が育児に参加しようというキャンペーンを、私は支援する立場をとりたいと思っている。

[26] 東京都の「日の丸、君が代」強制への反対教員達(根津公子、河原井純子さん他)の運動をまとめたドキュメンタリー映画『君が代 不起立』(ビデオプレス、2006年12月製作)、『あきらめない 続・君が代不起立』(ビデオプレス、2008年9月製作)を参照のこと。「おかしいことには従えません」という勇気ある姿勢に心打たれる。

[27] フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店、2003年)という寓話では、何もかもが「茶色」になっていく中で、はじめ、なんとなくそれに反発していた人々も、科学者や国の権威筋がそういうし、自分は仕事や雑事で忙しかったし、「流れ」に逆らってごたごたに巻き込まれるのはごめんだから、おとなしくそれに従っていく。自分自身が深刻な被害にあわない限り、「茶色」の広がりもやりすごす。自分が弾圧にあうわけではないからということで思考停止するのである。茶色を受け入れれば、「茶色に守られた安心」と「茶色の自由」がもらえるのだから。そして、図書館や本屋から批判的な書物がなくなるころには、茶色に染まることにも違和感を感じなくなって」しまっている。しかし、やがて、自分には及ばないと思っていた「法」が過去にさかのぼって自分にも適用されることになって、はじめて彼は、自分の間違いに気づくのである。

『茶色の朝』はそんな話だ。このような思想統制社会への流れをとめるには、自分は大丈夫と思って、思考停止するのをやめることであろう。弾圧される人を「あいつは『茶色』を好まないのだから、弾圧されてもしかたがない」と思って、自分と「あいつ」を切断することをやめることが必要だと思う。私は、「そんな『茶色の自由・安心』はいらない!」と思うタイプの人が増えることを望んでいる。

長崎平和推進協会が、20061月に被爆者証言活動に対して政治的発言自粛を要請したことは日本の今の状況を象徴している。「国民の間で意見が分かれる政治的問題についての意見は慎んでいただきたい」と述べて、具体的には、「天皇の戦争責任、憲法改正、イラクへの自衛隊派遣、有事法制、原子力発電、歴史教育・靖国神社、環境・人権など他領域の問題」などで被爆者が自分の意見を言うことを抑制したのである。意見の違いがある問題に発言できないとなると、ほとんど何も話せなくなるす。「従軍慰安婦」問題はその典型だろう。教科書からも「従軍慰安婦」の記述が消され、女性国際戦犯法廷と旧日本軍の「日本軍性奴隷」問題(天皇の戦争責任も絡む)を扱おうとしたNHKのETV2001「戦争をどう裁くか」(とくに第2夜「問われる戦時性暴力」)は放送直前に大幅改ざんされた。「中立・公平」という名の下でである。私たちは、どんな社会を望んでいるのであろうか。

[28] したがって、性愛を男ジェンダーと女ジェンダー(男イメージと女イメージ)によってなりたつものと単純に言い切ることは間違いである。まして「性愛は差別を元にして成り立っている欲望」と言い切るのも間違いである。そういうことがいえる側面もあるが、全部ではない。単純化はよくない。男といっても多様ということや男と非男の境目が曖昧であること、男Aと男Bが異なって、その違いに基づいて欲情する場合があること、Xという性のあり方に欲情することもあることなどを踏まえる必要がある。したがって、「男ジェンダーと女ジェンダーの2つ」と大ぐくりでみてしまうことに問題がある。まして、この議論からジェンダーフリーは性愛の根拠をなくす(ジェンダー・カテゴリーをなくす)かのように理解するのは間違いである。この点で、伏見[2006]にはジェンダーフリーへの誤解がある。

[29] この表は、大雑把なもので、必ずしも単純に線引きできないことは了解していただきたい。文脈次第ということもある。またいうまでもないことだが、この表のジェンダーフリー概念に批判的な人も、ジェンダー平等運動に非常に熱心に取り組まれていることは事実であるのであって、この分類はジェンダーフリーへのスタンスをまとめたものに過ぎないことを再確認しておく。

[30] 「男女共同参画基本計画(第2次)」(200512月)の中の「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」という説明において、「『社会的性別』は、それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、国際的にも使われている。」と記述されている。ジェンダーには多様な意味があり、「伊田ぁ廚琉嫐でなら、概念自体に「良い、悪いの価値を含む」にもかかわらず、ここでは、そのうちの一つ(ジェンダーの意味伊田◆砲世韻鮗茲蠑紊欧董△修のみであるかのように記述するという誤りに陥っている。「第2次計画」でのジェンダー規定は、バックラッシュ勢力に押されて、「常識」「国民の求める」等という「価値判断」を滑り込ませ、社会運動としての男女共同参画/ジェンダーフリー運動の成果を、「ジェンダー」概念と切断するという、政治的な判断をしたものといえる。つまりここでは、「ジェンダー」概念を政治的に無味無害で中立のもの」(意味◆砲妨堕蠅靴董同概念を生き残らせ、その代わり、運動の具体的成果であるところの、性教育、「男らしさ/女らしさの見直し」、混合騎馬戦、トイレ表示の見直し、家族や伝統文化の一部見直しなどを事実上切り捨ててしまっているのである。換言すれば、バックラッシュ勢力の言い分だけを認めて、ジェンダーフリー概念を検討も定義もせずに否定し、ジェンダー概念は価値中立的と限定的に定義して、ジェンダー概念の積極的意義を消去している

これについての詳しい検討は、拙稿「政府のジェンダー及びジェンダーフリーに対する見解について」(日本女性学会・ジェンダー研究会編[2006]初秋) を参照のこと。

[31] 『世界日報』06年4月30日記事によると、県の前課長は、同紙の取材に対して「政府の基本計画改定で、男女共同参画が目指す方向がより明確になった。それを受けての措置」と述べ、「今後も県民の声に耳を傾けながら柔軟に対応したい」と語ったという。

[32] その他、福岡県春日市でジェンダーの視点にたった条例をめぐってバックラッシュ派は次のように反対意見を述べている。「安倍政権も、行き過ぎた男女共同参画活動に危機感を持っています。国は「『ジェンダーフリー』という用語を使用して、性差を否定し、男らしさ・女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すことは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」と言っているのです。」(古川詳翁議員)

[33] 柳沢伯夫厚生労働大臣が20071月27日、松江市で開かれた集会で、女性を子どもを産む機械に例え、「一人頭で頑張ってもらうしかない」と発言をした。またその後、「子どもを2人産むという意識は健全」などとも発言した。

ここには、人間をモノにたとえる人権感覚の欠如、女性を産む機械(産む道具)とみる女性蔑視、優生学的見地、産む・産まないの決定は、個々の女性(当事者各人)の権利であるという認識(リプロダクティブ・ヘルス・ライツ理解)の欠如、子どもを多く産む女性(カップル)に価値があるとすることで、その他の生き方を劣等視・差別する誤り、出産を政策の道具とみて生命の尊厳を軽視する誤り、少子化対策を労働環境や社会保障の制度改善として総合的に捉えず、女性の責任の問題(女性各人の結婚の有無や出産数の問題)と捉える誤り、個人の生き方への国家介入を容認する誤り、などが含まれていた。

 この柳澤発言は、「家族・地域の絆再生」政務官会議PTの考え方に呼応している。2001年の石原慎太郎「ババア」発言、2002年の森喜朗「子どもをたくさん生んだ女性は将来、国がご苦労様といって、たくさん年金をもらうのが本来の福祉のありかただ。・・・子どもを生まない女性は、好きなことをして人生を謳歌しているのだから、年をとって税金で面倒をみてもらうのはおかしい」発言も同類の思想である。

[34] 東京都教育委員会による文書とは以下のもの。

「『ジェンダー・フリーという用語の使用に関する東京都教育委員会の見解」(平成16年8月26日)

 東京都教育委員会は、最近の「ジェンダー・フリー」という用語をめぐる誤解や混乱の状況を踏まえ、以下のとおり見解を示すものであります。

  「ジェンダー・フリー」という用語は、男女共同参画社会基本法及び国の基本計画、東京都男女平等参画基本条例等においても使用しておらず、また、その意味や主張する内容は使用する人により様々であり、誤解や混乱が生じています。

 こうした状況の中で、内閣府においても、本年4月、この用語を定義できないとした上で、地方公共団体が条例等を作成する場合にはあえて使用しない方が良いのではないかとの考え方を示しています。

 また、一部には「男らしさ」や「女らしさ」をすべて否定するという意味で「ジェンダー・フリー」という用語が用いられることがあり、このことは、東京都教育委員会が目指す男女平等教育の考え方と明らかに異なるものであります。

 こうしたことから、東京都教育委員会は、男女平等教育を推進する上で、今後は、「ジェンダー・フリー」という用語は使用しないこととします。 

 

なお、当時の政府のジェンダー・フリーに対する立場は、以下のようなものであった。  

「ジェンダー・フリー」の使用に関する内閣府の考え方

 1 「ジェンダー」の使用状況等について

・ 「ジェンダー」という用語は、1995年の第4回世界女性会議で採択された北京宣言及び行動綱領において、生物学的な性別を示す「セックス」に対して、社会的、文化的に形成された性別を示す概念として使用されています。

 男女共同参画社会基本法においては「ジェンダー」という用語は使用していませんが、男女共同参画基本計画においては、「社会的・文化的に形成された性別(ジェンダー)」と規定し、これに敏感な視点などの形で使用しています。

 2 「ジェンダー・フリー」の使用状況等について

・ 「ジェンダー・フリー」という用語は使用する人によりその意味や主張する内容は様々であり、北京宣言及び行動綱領や最近の国連婦人の地位委員会の年次会合の報告書などでは使われておりません。

 また、男女共同参画社会基本法、基本計画等においても使用しておらず、内閣府として定義を示すことはできません。

 なお、一部に、画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で「ジェンダー・フリー」という用語を使用している人がいますが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではありません。

 3 地方公共団体における「ジェンダー・フリー」の使用等について

 一般論として言えば、地方公共団体の条例、計画等においてどのような用語を使用するかについては、それぞれの地方公共団体が判断すべき問題です。

 最近の「ジェンダー・フリー」という用語をめぐる誤解や混乱の状況を踏まえると、今後新たに地方公共団体において条例等を制定する場合には、敢えてこの用語は使用しない方が良いのではないかと考えております。

 なお、地方公共団体において、差別をなくすという意味で、定義を明らかにして使用しているものについては、問題ないと考えております。

男女共同参画社会について誤解や混乱があることは適当ではないので、今後あらゆる機会をとらえて、正確な理解のための広報啓発、個別照会への対応を行ってまいります。

[35] 女性労働関連では、「働く女性のための全国センター」が2006年末に設立された。

[36] クオータ制やジェンダー平等のための新社民主義的政治については、拙稿[2007b]を参照のこと。

[37] ジェンダーの視点が生活の場に生かされていることがよくわかる好著が、ジェンダー・学び・プロジェクト編『ジェンダーの視点から社会を見る』(解放出版社、2006年)である。こうしたものがある限り、ジェンダー平等の動きを消滅させることは決してできないであろう。

[38] 詳しくは、ベル・フックスの『とびこえよ、その囲いを』の書評(拙稿[2007a])を参照のこと。

 

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