*****韓非子の部屋*****
●右の画像はー45秦始皇二十六年銅詔版(陝西省博物館蔵・秦都の咸陽遺址ー現在の咸陽の東郊ーから出土)
「廿六年,皇帝尽并兼天于諸侯、黔首大安、立號爲皇帝。乃詔丞相状綰、法度量、則不壹、歉疑者、皆明壹之」と小篆で記されており、大意は次の通り。「秦の始皇帝は二十六年(前221年)全国を統一し、人民は安定し始めて皇帝の称号を確立した。丞相の隗状と王綰に命じ度量衡を統一し、また疑わしい場所のものをも全て統一した。」
ある特定の思想を研究していると、例えば小説・通俗的な概論書の類によって世間で理解されているものと研究者が理解しているものとが食い違っている場合があります。その責の一端は小説・通俗的な概論書の著者にあるのですが、また専門の論文が一般の人の目に触れる機会が少ないことにも原因がありそうです。
韓非子というと過酷な法思想の推進者というイメージでしか捉えられていません。漢代では「彼は当時の聖人である」(「当世之聖人也。」『孔叢子』答問)という記録もありますが、なぜ韓非子が法に執拗にこだわったかのかをも追求の射程内に入れなければ、その人物思想を完全に把握できたとは言えないでしょう。ここに紹介するのはやや難解な表現も見られますが、私のノート集と思ってください。
まず基本的なことから。『韓非子』と韓非子とは異なります。『韓非子』は書物を、韓非子は人物を指します。その『韓非子』ですが、現在二十巻・五十五篇の本が流通しています。そして、『韓非子』の中には韓非子自身のものではない著作が含まれているというのが現在の定説です。下の表が『韓非子』の巻数・篇目ですが、例えば初頭の初見秦自体木村英一氏は、「初見秦・存韓・難言の三篇は、漢代韓非子の書が整理された時、集成者が韓非の事蹟に関する記録として採入したもの。」(『法家思想の研究』p117)としています。韓非子自身の著作とされているのは学者の説によってまちまちですが、五蠧を含めて数篇に満たないものとされています。
| 巻一 |
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初見秦 存韓 難言 愛臣 主道 |
| 巻二 |
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有度 二柄 揚権 八姦 |
| 巻三 |
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十過 |
| 巻四 |
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孤憤 説難 和氏 姦劫弑臣 |
| 巻五 |
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亡徴 三守 備内 南面 飭邪 |
| 巻六 |
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解老 |
| 巻七 |
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喩老 説林上 |
| 巻八 |
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説林下 觀行 安危 守道 用心 功名 大體 |
| 巻九 |
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内儲説上 |
| 巻十 |
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内儲説下 |
| 巻十一 |
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外儲説左上 |
| 巻十二 |
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外儲説左下 |
| 巻十三 |
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外儲説右上 |
| 巻十四 |
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外儲説右下 |
| 巻十五 |
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難一 難二 |
| 巻十六 |
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難三 難四 |
| 巻十七 |
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難勢 問辯 問田 定法 説疑 脆使 |
| 巻十八 |
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六反 八説 八経 |
| 巻十九 |
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五蠧 顕学 |
| 巻二十 |
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忠孝 人主 飭令 心度 制分 |
●あとがきー韓非子の思想について知らなければならないか、また、なぜ韓非子に興味を持ったかを簡単に記しましょう。儒学を客観的に判断しうるには墨子なり韓非子なりの対立的立場にある思想を詳しく把握しその論拠の瑕疵までも見通せなければならないからです。私自身高校時代に感銘を受けたのが儒学思想でありまして、今では希有といっても過言ではない四書の講義を開講している二松学舎大学に進み、陽明学を研究対象としましたが、好きで専攻した儒学の表面と裏面との考察が甘かったことを幾星霜の後痛感し、名古屋大学大学院に入学しましたが、韓非子を研究対象とすることは今まで疎かであった漢代の思想をはじめから学ぶことと同義であり、また法思想と儒学との関連で難解な『尚書』にまで足を伸ばさなければならなくなりました。この経緯によって研究者としての自分なりの陽明学・『尚書』に関する論文をものすることができました(HPにある論文がそれです)。
韓非子に関する雑誌・単行本を出版する際、出版社は過度に韓非子の法家思想が現代に有効などと喧伝する向きもあり、また以後ありうるでしょうが、そのように煽り立てる出版社・著者は二流以下と先ずは疑ってください。というのも韓非子は法思想のみではなく、君主を擁護する術・勢に言及し、また人間の本性についても論究しているからです。
このページは永遠に未完成、つまり増補改訂を繰り返すつもりです。
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