

※「
」の「
」の字はカバーされていないため、本サイトでは「啄木」と表記します。ご了承ください。
文中の写真をクリックすれば大きめの写真がでます。
※ 碑の説明文などをいくつか追加しました。('05. 05.18,26、 06.12)
明治35年、卒業まで半年を残して盛岡中学を退学、文学を志し勇躍上京した。もちろんこの上野駅に降り立った。体を壊し翌年2月に渋民に帰郷するまでほぼ4カ月滞在した。(初めて上京したのは、明治32年夏14歳の時。上野駅に勤めていた義兄山本夫妻を訪うた。)
同じ歌が、同じ頃、同じ理由(生誕100年記念というのが加わるが)で、上野駅を出で御徒町方向の商店街の入り口(上野6-12-10、JRガード下)の鞄店の前の狭い歩道上にもある。金田一京助の子息春彦氏の書になる銘板を埋め込んだ、少し赤みを含んだ御影石の立派な碑だか、存在を無視され段ボールなどが立て掛けられており、写真を撮ることもままならない。
[上野駅付近の地図。+印が商店街入口の碑]
湯島天神切通しの碑
クルマの行き来の激しい春日通りを行くと緩い坂にさしかかる。左に上れば湯島天神である。この坂の途中の左
側歩道に、歌稿ノート(明治44年1月)の文字を拡大し彫り込んだ、
赤心館跡
啄木が金田一京助の世話になり明治41年9月から翌年6月まで住んだ2番目の下宿蓋平館跡(本郷6-10-12)である。今は旅館太栄館が営業している。ここでは東京毎日新聞に連載された小説「鳥影」などを執筆し、また多くの短歌を作った。
ここは、明治42(1909)年 6月、函館に残してきた家族が上京すると言ってきたため急遽移転したのが、この床屋の2階6畳二間の間借りである。ここから京橋滝山町にあった東京朝日新聞に通った。ここでも、多くの作品を書き上げ、初めての歌集「一握の砂」を東雲堂書店から刊行している(明治43年12月)。しかしまた、ここでの生活の中で病が一家を襲う。啄木は腹膜炎から結核へ、母の結核から妻も罹患する。
本郷3丁目で地下鉄丸の内線に乗り(またバスに乗ってもいい)茗荷谷駅から春日通りを本郷方向に行き桜並木が美しい広い通りを左折、2本目の道をまた左折、初めの道を右折、12.3分は歩く。
啄木の葬儀が行なわれた浅草等光寺は、地下鉄銀座線田原町で降り広い国際通りを北に数10メートルの細い道を折すぐ次の角にひっそりとある(台東区西浅草1-6-1)。寺の門を入ってすぐ右手に啄木の顔のレリーフを彫り込んだこの歌の碑がある。
京橋区瀧山町にあった朝日新聞社には明治42年3月から逝去する45年4月まで在籍した。
第 8 回 −了−
(特記ない歌は「一握の砂」より)
('03/12)
※ 写真は他にも 写真帖「啄木所縁(ゆかり)」にあります。
東 京 啄 木 ゆ か り 散 歩 の 推 奨 コ ー ス
'05年5月某日しばらく振りに下記のコースで歩いてみました。順路としてお奨めします。
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スタート = 地下鉄銀座線「田原町」 (歩200m)→ @浅草等光寺の碑 → 田原町に戻る。地下鉄(2駅)⇒上野 A上野駅前商店街の碑 → <ああ上野駅の碑> → BJR上野駅構内の碑、 (JR1駅)⇒ 御徒町 (歩700m)→ C湯島天神切通しの碑 (歩650m)→ 本郷3丁目交差点「かねやす」前 → <一葉ゆかりの法真寺> (歩800m)→ D蓋平館別館跡の碑(旅館太栄館) → <一葉旧居跡・金田一京助旧居跡>(歩700m)→ E赤心館跡・菊富士ホテル跡の碑 (歩350m)→ F喜之床跡=理容アライ (歩100m)→ 真砂坂上バス停(バス10分)→ 小石川5丁目 (歩350m)→ G終焉の地(小石川5−11) (歩500m)→ 地下鉄丸の内線茗荷谷(地下鉄15分)⇒ 銀座 (歩400m)→ H銀座朝日ビル前の碑 (歩???m) → ご随意にどうぞ |
以 上
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| 第1回:北上川 | 第2回:盛岡中学 | 第3回:北海道流転T-函館 |
| 第4回:北海道流転U-札幌・小樽・釧路 | 第5回:初恋・思慕 | 第6回:思 郷 |
| 第7回:秋 想 | 第8回:東京啄木散歩 | 第9回:新年・新しき明日 |
| 第10回:誕生・渋民 | 第11回: 酒 | 第12回:終 焉 |
| 啄木幻想:はじめの恋 | 啄木略年表 | 写真帖「啄木ゆかり」 |
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