死刑確定囚(1991〜1995年)



※1991〜1995年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
諸橋昭江
事件当時年齢
 42歳
犯行日時
 1974年8月8日/1978年4月24日
罪 状
 殺人、死体遺棄
事件名
 夫殺人事件他
事件概要
 バー経営者諸橋昭江被告は、夫(当時47)に愛人ができ、家庭をかえりみなくなったことから、愛人のバーテンと共謀して殺害を計画。1974年8月8日夜、夫が東京都江東区の自宅で熟睡中、都市ガスを放出して一酸化炭素中毒死させたうえ、愛人と2人で死体をふろ場に運び、入浴中に誤って中毒死したように偽装した。
 さらに諸橋被告は、バーホステスが内縁の夫(当時36)と別れたがっていたことから、夫を殺し、夫が入っていた死亡時1200万円の保険金を分配することをホステスと共謀。愛人と店のバーテンを仲間に引き込んだうえ、1978年4月24日深夜、内縁の夫を江東区内のカーフェリー埠頭に誘い出し、睡眠薬の入ったドリンク剤を飲ませて首を絞めて殺害。死体は草むらに捨てた。
 内縁の夫殺人事件の取調中に夫殺しを自供。
一 審
 1980年5月6日 東京地裁 小林充裁判長 死刑判決
控訴審
 1986年6月5日 東京高裁 寺沢栄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1991年1月31日 最高裁第一小法廷 四ツ谷巌裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 被告側は一審以来、最大の直接証拠になった自白調書の任意性、信用性を争い、「夫はガス自殺を図って死んだ。義父との不倫関係を書いた夫の遺書が明るみに出るのを恐れて事故死を装った」と、「夫殺し」に関しては全面無罪を主張。控訴審では、ガス中毒死をめぐる法医学鑑定などをもとに、「ガスが放出されたのは、被害者が死亡したとされる1974年8月8日午後9時の約30分前であり、その時間帯には被告はバーに出店していて犯行は不可能」などとしていた。
 判決は、「被告らの供述経過、内容や取り調べ状況から、捜査官の暴行、脅迫による自白とはいえず、犯行を認めた自白調書は十分に信用できる」と判断。ガス中毒に関する鑑定については、「前提条件に制約があり、本件にあてはめるのは困難」としたうえ、「都市ガスを放出させて殺害したとの被告の自白が経験則に反しているとはいえない」と述べた。
備 考
 愛人のバーテンは懲役9年が確定。バーテンは懲役10年が確定。バーホステスは懲役18年が確定。
その後
 1991年、再審請求提出。1997年7月、再審請求棄却。2001年10月29日、即時抗告棄却。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)。2004年4月、特別抗告棄却。
 夫は自殺であると第二次再審請求するも棄却。第三次再審請求中。
 2007年5月14日、諸橋昭江死刑確定囚は急性心筋こうそくと診断され、都内の病院で治療を受けていたが、7月17日に間質性肺炎で死亡。75歳没。
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氏 名
島津新治
事件当時年齢
 51歳
犯行日時
 1983年1月16日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 パチンコ景品商殺人事件
事件概要
 元寿司店員で無職の古矢新治被告(事件当時の姓)はギャンブルによる約300万円の借金の返済に困り、1983年1月16日午後11時頃、東京都荒川区で知人のパチンコ景品買い業者(当時69)に借金を申し込んだものの断られ、持ってきた石塊で殴打するなどして殺害、現金128万円を奪った。
一 審
 1984年1月23日 東京地裁 田尾勇裁判長 死刑判決
控訴審
 1985年7月8日 東京高裁 柳瀬隆治裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1991年2月5日 最高裁第一小法廷 可部恒雄裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 東京拘置所
特記事項
 1950年7月に強盗殺人を起こして無期懲役の判決を受け、1975年に千葉刑務所を仮出所。仮出所後7年目の事件。
 事件後、島津の姓に戻る。
執 行
 1998年6月25日 66歳没
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氏 名
津田暎
事件当時年齢
 44歳
犯行日時
 1984年2月13日
罪 状
 身代金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者身代金取得等
事件名
 学童誘拐殺人事件
事件概要
 セールスマンだった津田暎被告は勤務先の金を使い込む等して退職したが、浪費癖により貸金業者などから借金を繰り返していた。
 1984年2月13日、福山市議の長男で自分がコーチをしている少年ソフトボールチームの児童(当時9)が下校する途中に出会い、乗用車に乗せ「バレンタインデーのチョコレートを買ってやる」とデパートへ行ったが、借金が約860万円あったことから、誘拐して身代金を奪うことを思いつき、広島県沼隈郡の駐車場まで連れ出した。児童が激しく泣きだしたため、ネクタイで首を絞めて殺しを誘拐して殺害。死体を付近の山林に投げ捨てて遺棄した。両親に電話して、指定場所に現金15万円とキャッシュカードを持ってこさせて奪い、身代金1000万円を要求した。
一 審
 1985年7月17日 広島地裁福山支部 雑賀飛龍裁判長 死刑判決
控訴審
 1986年10月21日 広島高裁 村上保之助裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1991年6月11日 最高裁第三小法廷 園部逸夫裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 広島拘置所
裁判焦点
 一審で津田被告の弁護側は、計画性がなかったと主張、さらに改しゅんしているとして死刑判決の回避を求めた。
 雑賀裁判長は「改しゅんの情も見られ、計画性も認められないが、被告に信頼を寄せていた将来ある命を奪ったのは許せない。両親はじめ遺族の悲しみは察するに余りある。社会に与えた衝撃も配慮した」と述べた。

 控訴審判決で村上保之助裁判長は「犯行は冷酷で残虐。結果の重大性や社会に与えた影響を考えると、極刑もやむを得ない」と一審判決を支持した。

 最高裁で園部裁判長は、「犯行は、ソフトボールの指導などで被告を信頼していた男の子を金ほしさから誘拐したうえ、足手まといになると考え殺したもので、動機に酌量の余地はなく、被告の責任は重い。さらに、被告は被害者を殺したあとも生きているように偽って親に電話をかけるなど、犯行は悪質で、殺害の方法も冷酷非道というほかなく、死刑はやむをえない」と述べ、上告を棄却する判決を言い渡した。
執 行
 1998年11月19日 59歳没
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氏 名
佐川和男
事件当時年齢
 30歳
犯行日時
 1981年4月4日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 大宮母子殺人事件
事件概要
 佐川和男被告は女性問題で勤務先を退職させられて金に困り、中学時代の友人を誘って強盗事件を計画。1981年4月4日午前2時頃、埼玉県大宮市で共犯者とともに面識のあった和裁教師(当時60)方に侵入。物色中に共犯者が教師に気付かれたため、共犯者が持参した鉄パイプで殴打した上、2人がかりで絞殺。さらに別室で寝ていた長女(当時38)を鉄パイプで殴った上、絞殺した。殺害後、預金通帳や現金など約670万円相当を奪った。
一 審
 1982年3月30日 浦和地裁 米澤敏雄裁判長 死刑判決
控訴審
 1987年6月23日 東京高裁 小野慶二裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1991年11月29日 最高裁第二小法廷 藤島昭裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 控訴審で小野裁判長は「罪責は重大であり、罪刑均衡や一般予防の見地から見ても極刑はやむをえない」と述べた。
特記事項
 共犯者は逃亡中の1997年10月に病死、書類送検。
執 行
 1999年12月17日 48歳没
 死刑反対グループが15日、執行停止を求める人身保護請求を東京地裁に申し立てていたが、裁判所の判断を待たずに処刑された。東京地裁は東京拘置所長に対し、17日までに申し立てに対する意見書を提出するように要請していた。
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氏 名
佐々木哲也
事件当時年齢
 21歳
犯行日時
 1974年10月30日
罪 状
 殺人、死体遺棄
事件名
 市原両親殺人事件
事件概要
 ドライブイン従業員佐々木哲也被告は、1974年10月30日午後5時20分頃、市原市の両親宅で、交際していた女性のことをめぐって父親(当時59)と口論になり、テーブルにあった登山ナイフで刺し殺したうえ、その直後に2階から下りてきた母親(当時48)もナイフで刺して殺害。11月1日早朝、2人の死体を車で同市五井海岸に運び、海に捨てた。
一 審
 1984年3月15日 千葉地裁 太田浩裁判長 死刑判決
控訴審
 1986年8月29日 東京高裁 石丸俊彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1992年1月30日 最高裁第一小法廷 大堀誠一裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 佐々木被告は逮捕当初こそ否認したが、後に捜査段階で犯行を認めた。しかし再び否認した。一審の初公判でも全面否認し、「父親を殺したのは母親で、母親は自分の知っている第三者に殺された」と主張した。
 弁護側は、「父親の殺害後に母親を見かけたという目撃証言がある」ことや「被告の衣類についていた血痕と母親の血液型が一致しない」「殺害動機」などを中心に争い、「犯行を認めた捜査段階の供述は無理な取り調べによるもので有罪の証拠にならない。父親を殺したのは母親で、母親は自分の知っている第三者に殺された」と主張した。
 判決で太田裁判長は、「目撃証言は勘違い、血液型の違いは腐敗した血痕からの鑑定が困難であることによる食い違いでしかない、と弁護側の主張を全面的に退けた。そして、両親の失踪を心配する姉らを後目に女性と連日遊興飲食していた事実や、その後の犯行否認などから全く反省していないと判断。冷酷無惨な犯行で、動機の自己中心的で同情の余地がなく、社会的影響も深刻であり、被告の刑事責任は重大で死刑はやむを得ないとした。また、弁護側の死刑は憲法違反であるという主張については、最高裁の判例より合憲であると確定していることから、判断をする理由も必要もないと述べた。

 控訴審でも佐々木被告は一審同様、「父親を殺したのは母親で、母親は自分の知っている第三者に殺された」と主張。弁護側も「母親の殺害日時」や「殺害動機」などを中心に争い、「捜査段階の自白は信用できない」としていた。
 判決で石丸裁判長は、凶器のナイフが佐々木被告の自白で初めて発見された点などを指摘、「被告の捜査段階の自白には真実性がある。第三者の犯行などとする公判供述は証拠もなく、信用できない」と判断。「死刑は重過ぎる」との主張に対しては、「冷酷残忍な行為で、被告の犯行であることは明々白々なのに、反省の言葉1つもない。かえって他に犯行を転嫁するなど被告の犯行は悪質である。両親との生活感情の差があったことなど、有利な情状を考慮しても、極刑に処することはやむを得ない」とした。
 2時間余の判決理由の朗読が終了したあと、石丸裁判長は「君の口から(謝罪を)聞きたかった」と語りかけたが、佐々木被告は「理解されなくて残念です」とだけ述べた。

 最高裁の口頭弁論で、佐々木被告の弁護側は「両親は同じ時間、同じ場所で被告が殺したとされているが、現場からは母親の血液が見つかっていないうえ、殺されたとされた時間の後に隣の人が母親に会ったと証言しており、実は母親が父親を殺したあと母親は別の場所で何者かに殺されたものだ。被告が捜査段階で両親を殺したことを認めた供述は、遺体の傷跡など多くの客観的事実と矛盾しており、信用することが出来ない」と述べ、改めて無罪を主張した。
 これに対し検察側は「両親は夫婦仲が良かったことなどから、母親が父親を殺すことはあり得ない。被告の無罪主張は罪を逃れるための不自然な弁解であり、一,二審の死刑判決は妥当だ」と述べて被告の上告を棄却するよう求めた。
備 考
 中上健次の小説『蛇淫』や、同小説を映画化した『青春の殺人者』(長谷川和彦監督)のモデル。
 一審では結審後に検察側が弁論再開を申請。新たな証拠を申請した上で、2度目の死刑求刑を行った。
その後
 1993年5月27日、佐々木死刑囚の弁護団は後藤田正晴法務大臣に対し、佐々木死刑囚への執行を行わないよう求める要望書を提出した。要望書では、佐々木死刑囚は無実を一貫して主張しており執行されればとりかえしのつかない結果をもたらす、としている。
 1998年11月12日、佐々木哲也死刑囚は「無罪を裏付ける証拠が見つかった」として千葉地裁に再審を請求した。佐々木死刑囚の供述調書を分析した庭山英雄・専修大教授(刑事訴訟法)の鑑定結果で、「長時間の取り調べによる心理的圧迫や捜査員による誘導が見られる」としている。庭山教授は「自白と客観的事実が食い違っており、虚偽の自白に基づいた審理だったと言える」と話す。
 2006年5月、最高裁で請求が棄却された。
 2006年6月8日、第二次再審請求。
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氏 名
佐藤真志
事件当時年齢
 42歳
犯行日時
 1979年7月28日
罪 状
 殺人、強制わいせつ、死体遺棄
事件名
 幼女殺人事件
事件概要
 佐藤真志被告は1979年7月28日夕方頃、東京都北区のアパート近くで遊んでいた女の子(当時5)を路上でいたずらした後、顔見知りの女児(当時3)をアパートに連れ込んで乱暴しようとしたところ抵抗され、泣き出した。そのため犯行が発覚することを恐れ、首を絞めて殺害した。さらに死体を近くのアパートの植え込み内に遺棄した。
一 審
 1981年3月16日 東京地裁 松本時夫裁判長 死刑判決
控訴審
 1985年9月17日 東京高裁 寺沢栄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1992年2月18日 最高裁第三小法廷 可部恒雄裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 最高裁は判決で、「無抵抗の幼女の生命を奪い結果は重大。仮釈放中の犯罪だったこととも合わせ、死刑はやむを得ない」と述べた。
特記事項
 1959年、22歳当時の佐藤被告は山口県郊外で花摘みをしていた少女(当時7)を山林に連れ込んで強姦しようとしたところ騒がれたため絞殺。無期懲役が確定。74年5月に広島刑務所を仮釈放されていた。
執 行
 1999年9月10日 62歳没
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氏 名
高田勝利
事件当時年齢
 52歳
犯行日時
 1990年5月2日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 飲食店女性経営者殺人事件
事件概要
 福島県西白河郡矢吹町の無職高田勝利被告は1990年5月2日夕方、馴染みである同町の居酒屋店内で、経営者の女性(当時41)の後頭部を鈍器でメッタ打ちにして殺し、約25,000円入りのバッグを盗んだ。
 高田被告は5月12日に捜査本部から参考人として事情聴取された際、自宅で割腹自殺を図り、全治2週間のけがをして町内の病院に入院した。その後、高田被告は仮釈放中の順守事項を守らなかったとして宮城刑務所に収監された。1991年1月16日、高田被告は逮捕された。
一 審
 1992年6月18日 福島地裁郡山支部 慶田康男裁判長 死刑判決
控訴審
 控訴せず確定
拘置先
 仙台拘置所
裁判焦点
 慶田裁判長は判決で「数万円の遊興費を得ようとした犯行は残虐かつ非道」と述べた。
 高田被告は、証拠のサンダルを見つけた女性に対し、恨みの言葉を宛てており、判決でも反省していない根拠の一つとされた。
特記事項
 1964年2月、クリーニング店に勤めていた元同僚の女性を絞殺、現金を奪い逃走。求刑死刑に対し無期懲役判決。22年後の1990年3月に仮出所。中学卒業後、仮釈放までの36年間に、社会生活をしたのはわずか5年9ヶ月とのこと。
執 行
 1999年9月10日 61歳没
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氏 名
森川哲行
事件当時年齢
 55歳
犯行日時
 1985年7月24日
罪 状
 強盗殺人、住居侵入、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 熊本母娘殺人事件
事件概要
 森川哲行被告は離婚話のもつれから1962年11月、妻の母らを殺傷し、無期懲役に処せられた。服役中に調停離婚したが、前妻やその一族に対する逆恨みの念を募らせ、2度目の仮出獄後も前妻の居場所を探し回ったが見つからず、所持金がなくなったため、前妻の叔母(当時63)を刃物で脅して聞き出したうえ、殺害を計画。
 1987年7月24日午前3時頃、熊本県の前妻の叔母(当時63)方へ侵入。持参した刺身包丁を突き付けて前妻の居場所を尋ねたが知らないと言われ、憤激して刺身包丁で殺害。女性の養女(当時22)も刺殺し、現金約68万円を奪った。奪った金は行きつけのスナックの女主人らと温泉で遊興。さらに行きずりの女性らを誘い遊び回った。
一 審
 1986年8月5日 熊本地裁 荒木勝己裁判長 死刑判決
控訴審
 1987年6月22日 福岡高裁 浅野芳朗裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1992年9月24日 最高裁第一小法廷 大堀誠一裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 最高裁の判決は「逆恨みである上、二人を殺した方法がしつようで残虐だったことや、別の殺人の前科があることなどから、被告の不幸な生い立ちなどを考慮に入れても死刑はやむをえない」と述べた。
特記事項
 1962年11月、別れ話のこじれから義母・妻を死傷させ無期懲役判決(求刑は不明)。1976年12月、仮出獄。子供の頃から育ててくれた叔父夫婦のところに身を寄せたが、相変わらずの酒浸り。注意されたら暴力を振るう。1978年6月、刺身包丁を振り回して叔母夫婦を殺害しようとした。そのため仮出獄は取り消し、熊本刑務所に逆戻りした。1984年2月、再び仮出獄。
執 行
 1999年9月10日 69歳没
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氏 名
名田幸作
事件当時年齢
 32歳
犯行日時
 1983年1月19日
罪 状
 強盗殺人、殺人、有印私文書偽造、同行使、死体遺棄、詐欺
事件名
 赤穂同僚妻子殺人事件
事件概要
 会社員名田幸作被告はゲーム機とばくのためにサラ金から借りた多額の負債返済に窮し、保険証を奪うことを計画。1983年1月19日夜、兵庫県赤穂市内の同僚方へ電話をし、同僚の妻(当時33)に対し、同僚が自殺未遂の果てに病院にいるので保険証が必要である旨嘘をついておびき出し、長男(当時4)を連れてきた妻を自動車に乗せて走行し兵庫県内の人気のないところに停車し、午後11時頃、ひもで妻の頸部を強く絞めて殺害し、保険証と印鑑を奪った。さらに寝ていた長男を橋の上から23m下の千種川に投げ込み、水死させた。その後、夫へ「奥さんが電車へ飛び込み自殺を図り、こちらで助けて保護している」などとうその電話をかけて山口県まで誘い込み、その間に夫の名前を偽り、奪った健康保険証を使ってサラ金から現金100万円を詐取した。そして妻の死体は海中に投棄した。搾取した金は賭博ゲームに使用した。
 1月24日、逮捕された。
一 審
 1984年7月10日 神戸地裁姫路支部 藤原寛裁判長 死刑判決
控訴審
 1987年1月23日 大阪高裁 家村繁治裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1992年9月29日 最高裁第三小法廷 貞家克己裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 判決で藤原裁判長は、綿密周到な計画準備の元に犯されたものであり、殺害の態様も冷酷極まりないと非難。さらに被害者には落ち度が全くなく、被害者遺族が極刑を望んでいると指摘した。また、同僚による妻子殺害として、勤務先関係者や地域住民に衝撃を与え、その影響は大きいと述べた。最後に、被告に前科がないことや深く反省していることを考慮しても、被告の動機に酌量の余地は全くなく、結果は重大であり、死刑に処することもやむを得ないと述べた。

 名田被告は殺意を否認して控訴したが、家村裁判長は「事件当時サラ金業者から強硬な取り立てを受けていたわけでもないのに、簡単に重大犯行に走った被告の態度はあまりにも自己中心的、短絡」と非難。さらに犯行後の行動には反省の情はみじんも感じられないと非難した。そして「手段を選ばぬ自己中心的な性格による冷酷、非情な犯行」として一審を支持した。

 最高裁判決で貞家裁判長は、「犯行は、借金の返済に困って他人の健康保険証を奪うために計画的に同僚の妻をおびき出し、子どもと二人を残忍な方法で殺したもの。被告の恵まれない生い立ちを考慮しても、犯行の動機、計画性、態様、残忍性、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響を考慮すれば、被告の罪責は重大であり、死刑はやむをえない」と述べ、上告を棄却した。
その後
 2004年6月1日、殺意を否定して第四次再審請求するも棄却。2007年4月17日、第五次恩赦請求棄却。
執 行
 2007年4月27日 56歳没 弁護人に再審請求の準備をする旨の手紙を出した直後の執行だった。
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氏 名
坂口弘/永田洋子
事件当時年齢
 坂口25歳/永田26歳
犯行日時
 1971年〜1972年2月
罪 状
 永田・坂口被告:殺人、死体遺棄、窃盗、強盗致傷、殺人未遂、公務執行妨害、銃刀剣類所持等取締法違反、爆発物取締罰則違反、火薬類取締法違反、森林法違反、傷害致死
 坂口被告はさらに航空法違反、威力業務妨害、住居侵入、監禁
事件名
 連合赤軍事件
事件概要
 京浜安保共闘と赤軍派が統合して結成された連合赤軍内で、それぞれナンバー2とナンバー3の地位にいた永田洋子被告と坂口弘被告が引き起こした主な事件は以下である。

●真岡猟銃強奪事件
 永田被告と坂口被告は他のメンバー6人と共謀。1971年2月、栃木県真岡市の銃砲店を襲撃。一家4人を縛り、散弾銃十丁と実弾などを奪った。

●印旛(いんば)沼殺人事件(革命左派当時)
 永田被告と坂口被告は、他の構成員3人と共謀して、1971年8月4日、千葉県で、アジトから逃走した女性構成員(当時21)を絞殺し、同月10日、同様の男性構成員(当時20)を絞殺し、2人の死体を千葉県の印旛沼付近の山林内に埋めた。

●山岳ベースリンチ事件
 永田被告と坂口被告は他の構成員と共謀して、同年12月31日から1972年1月17日までの間に、群馬県内の榛名山(はるなさん)ベースで構成員8人を、同年1月30日から2月10日にかけて、群馬県内の迦葉山(かしょうざん)ベースで構成員4人を、「総括」というリンチにかけて殺害し(11人に対しては殺人、1人に対しては傷害致死)、その死体を山林内に埋めた。
 永田被告は、連合赤軍内でナンバー1の地位にいた森恒夫被告とともに、同月17日、群馬県内で警察官に発見されたため、ヤスリ製よろい通しやナイフを構えて突進して、同警察官を殺害しようとしたが、逆に逮捕された。

●あさま山荘事件
 坂口被告は4人の構成員とともに長野県にあるさつき山荘に潜伏中の同月19日、警察官に発見されそうになったので、その4人と共謀して拳銃等を乱射し、同警察官を殺害しようとしたが、1人を負傷させただけにとどまった。
 その直後、あさま山荘に侵入し、管理人の妻(当時31)を人質にして、以来同年28日までの間、立てこもり、発砲を繰り返して、近づいてきた警察官2人と民間人1人(当時30)を射殺し、警察官15と記者1人を負傷させた。

 他に、羽田空港突入事件(京浜安保共闘当時)など多数の余罪がある。

(Done様、有り難うございました)
一 審
 1982年6月18日 東京地裁 中野武男裁判長 死刑判決
控訴審
 1986年9月26日 東京高裁 山本茂裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1993年2月19日 最高裁第三小法廷 坂上寿夫裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 坂口被告:「あさま山荘事件」での発砲はいずれも狙撃ではなく、殺意はなかったと主張。
 永田被告:リンチは行ったものの、殺意はなかった。外に放置して死ぬとは思わなかったと主張。再審請求では当時の天気図などを証拠として提出。
著 書
坂口弘『あさま山荘1972』上下(彩流社,1993)
坂口弘『続あさま山荘1972』(彩流社,1995)
永田洋子『十六の墓標』上下(彩流社,1982〜1983)
永田洋子『続十六の墓標』(彩流社,1990)
永田洋子『氷解 女の自立を求めて』(講談社,1983)
永田洋子『私生きてます』(彩流社,1986)
備 考
 1973年1月1日、森恒夫被告は初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺した。29歳没。
 1975年8月4日、日本赤軍はクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠し、赤軍派、日本赤軍、東アジア反日武装戦線のメンバー7人の釈放を要求。超法規的措置により、共犯の坂東国男被告ら5人は釈放され、出国した。坂東被告は現在も逃亡中のため公判停止。また、坂口被告にも釈放要求があったのだが、クアラルンプールからの国際電話に対して、自ら、「君たちは間違っている。私は出ていかない。君たちは大衆の支持を得ることはできないであろう」とのみ答えたという。
 他のメンバーは、無期(求刑死刑)、20〜4年の懲役刑に処された。無期懲役で服役中のY受刑囚を除き、全員出所している。
その後
 永田死刑囚は1993年に支援者の男性と獄中結婚したが、永田姓のままである。
 永田死刑囚は1984年に脳腫瘍の手術を受けた。その後も闘病生活は続いたが、2006年3月に東京拘置所で倒れ、脳萎縮と意識障害が認められ、同5月に八王子医療刑務所に移送。2007年3月に東京拘置所に移されたが、この間、寝たきりの状態が続いていた。2008年には危篤状態との報道も流された。
 永田死刑囚は肺炎を発症して2011年1月下旬に多量に嘔吐し血圧や心拍数が低下、酸素吸入などを施していたが、2月5日午後に心停止状態となり、同日午後10時6分、多臓器不全のため収容先の東京拘置所内で死亡した。65歳没。
現 在
 2000年6月2日、坂口死刑囚は、銃撃戦に巻き込まれ死亡した民間人について「医療ミスが原因」とした新鑑定書などを証拠に、殺人罪などを認定した判決は誤りで、傷害致死罪などにとどまるとして東京地裁に再審請求を行った。
 永田死刑囚は坂口死刑囚の手記や当時の気象記録などを提出し、「殺人の共謀はなく、凍死についても予測できなかった」と傷害致死罪を主張し、2001年7月?に再審請求を行った。
 2006年11月28日、東京地裁(高橋徹裁判長)は請求を棄却した。永田死刑囚、坂口死刑囚は即時抗告した。永田死刑囚はその後病死。2012年3月5日付で東京高裁(出田孝一裁判長)は、弁護側の即時抗告を棄却する決定を出した。弁護側は3月8日付で最高裁に特別抗告した。2013年6月24日付で最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は、特別抗告を棄却した。
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氏 名
澤地和夫/猪熊武夫
事件当時年齢
 澤地45歳/猪熊35歳
犯行日時
 1984年10月11日/25日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄 澤地被告のみ有印私文書偽造・同行使、詐欺
事件名
 山中湖連続殺人事件
事件概要
 澤地和夫被告は警視庁を退職後に開店した大衆割ぽう店の経営が悪化、1億5000万円の負債を抱えて閉店に追い込まれたため、一獲千金を狙って強盗殺人を計画。やはり1億6000万円の負債を抱えていた知り合いの元金融業者がこれに応じ、約7億円の負債のあった不動産業者猪熊武夫被告が加わって共謀。1984年10月11日、宝石取引を装って東京の宝石商(当時36)を山中湖畔の別荘に誘い出して絞殺。現金約720万円と株券など計約5400万円相当を奪った上、死体を別荘の床下に埋めた。
 さらに澤地被告猪熊被告は共謀して10月25日、埼玉県上尾市の金融業者(当時61)を融資話を装って呼び出し、同別荘前路上の乗用車内で絞殺。現金2000万円と貴金属計約2800万円相当を奪い、死体を同じ場所に埋めた。
一 審
 1987年10月30日 東京地裁 中山善房裁判長 死刑判決
控訴審
 1989年3月31日 東京高裁 内藤丈夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1993年7月7日 澤地被告のみ上告取り下げ、死刑確定
 1995年7月3日 最高裁第二小法廷 大西勝也裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 猪熊被告側は「両事件は澤地被告らが準備、計画したもので、猪熊被告は追随したにすぎない。死刑の量刑は甚だしく不当」などと主張していた。
附 記
 澤地被告は、1993年3月26日に死刑執行が3年4ヶ月ぶりに再開されたことに抗議し、あえて上告を取り下げた。もっとも、他にも色々な計算(最高裁まで争った死刑囚よりも、途中で取り下げた方が執行が遅いなど。実際にはそのようなデータはない)があったようである。
 澤地被告は元警視庁警部。
 元金融業者は無期懲役判決。
備 考
 澤地著書:『殺意の時―元警察官・死刑囚の告白』(彩流社)、『監獄日記―東京拘置所の四季』(彩流社)、『拝啓江副さん―東京拘置所からの手紙』(彩流社)、『東京拘置所死刑囚物語』(彩流社)、『なぜ死刑なのですか―元警察官死刑囚の言い分』(柘植書房新社)
その後
 東京高裁(池田修裁判長)は2007年1月22日、澤地和夫死刑囚の再審請求の即時抗告を棄却する決定を出した。澤地死刑囚は最高裁に特別抗告を申し立てた。決定によると、澤地死刑囚は犯罪事実のうち詐欺罪の無罪を主張。死刑の情状についても誤認があるとしたが、池田裁判長は「証拠に新規性や明白性がない」とした2003年3月の東京地裁決定を支持した。
 澤地死刑囚は2007年10月に胃ガンが判明。11月に手術したが切除できず、その後は抗ガン剤治療などを拒んでいた。2008年12月16日午前1時47分、多臓器不全のため東京拘置所で死亡。69歳没。
現 在
 猪熊武夫死刑囚は再審請求中。2010年3月30日、東京地裁で第五次再審請求棄却。4月27日、東京高裁で即時抗告棄却。特別抗告も棄却。2011年5月、第七次再審請求。
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氏 名
藤波芳夫
事件当時年齢
 49歳
犯行日時
 1981年3月29日
罪 状
 強盗殺人、強盗殺人未遂、住居侵入、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 覚醒剤殺人事件(前妻一家殺傷)
事件概要
 無職藤波芳夫被告は離婚した妻の居場所を教えない妻の実家の態度に腹を立てるなどして、皆殺しにして金を取ろうと決意。1981年3月29日午後3時30分頃、栃木県今市市で農業を営んでいた別れた妻の兄(当時44)方に押しかけ、たまたま居合わせた兄のめい二人の背中、胸を登山ナイフで刺して大けがをさせた。
 さらに、外出先から戻った兄の妻(当時36)と、騒ぎを知って駆けつけた兄の兄(当時55)の胸などをメッタ突きにして殺し、指輪やネックレスなどを奪って逃げた。
一 審
 1982年2月19日 宇都宮地裁 竹田央裁判長 死刑判決
控訴審
 1987年11月11日 東京高裁 岡田光了裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1993年9月9日 最高裁第一小法廷 味村治裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 覚せい剤中毒者だった藤波被告の責任能力の有無が最大の争点になっていたが、東京高裁岡田裁判長は「犯行当時、理非善悪を判断する能力を欠いたり著しく減退している状態にはなかった」と述べて、責任能力を否定する被告、弁護側の主張を退けた。
その後
 覚せい剤の影響下にあり、飲酒によってフラッシュバック状態になって事件を起こしたとして、責任能力に問題があったことを理由に再審請求。2004年3月30日棄却、即時抗告申立するも5月に棄却。第二次再審請求も2006年1月に棄却。第三次再審請求準備中。
執 行
 2006年12月25日 75歳没 執行当時は立つことができず、車椅子による移動だったといわれている。
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氏 名
長谷川敏彦
事件当時年齢
 32歳
犯行日時
 1979年11月19日〜1983年12月25日
罪 状
 強盗殺人、殺人、詐欺、死体遺棄
事件名
 名古屋保険金殺人事件
事件概要
 長谷川敏彦(旧姓竹内)被告は自己の事業経営がうまくゆかないため、一攫千金を狙い、同店従業員井田正道被告と共謀。1979年11月19日午前0時頃、店の客だったEさん(当時20)を釣りに誘い、井田被告が愛知県武豊町の海に釣り船から突き落として殺害。警察では自殺とされ、保険金受け取りに失敗した。
 長谷川被告と井田被告はスナック経営者(48 懲役14年が確定)と共謀。1983年1月24日午前0時30分頃、雇っていた運転手Hさん(当時30)を京都府相楽郡加茂町で殺害、山城町のがけに遺体を載せたトラックを転落させ、事故を装い保険金2000万円を受け取った。
 同年12月25日午後6時30分頃、長谷川被告は借金をしていた闇金融業者(当時39)を井田被告とともに愛知県半田市で殺害。債務の履行を免れ、アタッシュケース等を強奪。遺体を海に捨てた。
一 審
 1985年12月2日 名古屋地裁 鈴木雄八郎裁判長 死刑判決
控訴審
 1987年3月31日 名古屋高裁 山本卓裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1993年9月21日 最高裁第三小法廷 園部逸夫裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 名古屋拘置所
備 考
 最高裁判決は五裁判官全員一致の意見だが、大野正男裁判官は「死刑が残虐な刑罰に当たると評価される余地は著しく増大している。憲法違反と断定はできないが、その存廃や改善方法は立法府にゆだね、裁判所は限定的に適用すべきだ」と補足意見を述べた。
その他
 旧姓竹内。
 恩赦出願したが98年に却下。「共犯」の井田正道死刑囚は上告せず87年に確定、98年執行。同じ事件で「共犯」が別々に執行されるのは極めて異例。
 長谷川死刑囚の元部下で、83年に京都府内で保険金を掛けられて殺害された会社員(当時30)の母親(73)と兄(53)らは、「長谷川死刑囚の死刑執行を望まない」とする異例の嘆願書を1993年、2000年に、名古屋拘置所へ提出している。
執 行
 2001年12月27日 51歳没
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氏 名
牧野正
事件当時年齢
 40歳
犯行日時
 1990年3月12日
罪 状
 殺人、強盗殺人未遂、強盗致傷、住居侵入
事件名
 北九州母娘殺傷事件
事件概要
 北九州市門司区の無職牧野正被告は金を盗もうと1990年3月12日夕方、同区に住む会社員の女性(当時53)方に侵入し室内を物色。午後6時20分ごろ,女性の長女(当時25)に見つかったため、用意した包丁で長女の首などを数回刺して殺し現金2300円入りの財布等を盗んだ。逃げようとしたところ、帰宅した女性と玄関前でもみあい、包丁でのどを刺して2ヶ月の重傷を負わせた。
 さらに通り掛かった同市小倉北区に住む看護婦見習の女性(当時18)の後頭部を持っていた鉄製バールで殴って全治10日間のけがをさせ、手提げバッグ、現金2000円などを奪った。
 牧野被告は事件の3時間前になる午後3時20分頃,同市門司区のマンション前で通行中の女性(当時57)の頭を後方からナタで殴りつけ、頭の骨の骨折で全治2ヶ月の重傷を負わせたうえ、女性が持っていた現金500円、手帳などの入った手提げバッグを奪った。
 他に窃盗目的で侵入したが、帰宅した家人に発見されたので逃走した住居侵入が1件ある。
 牧野被告はボートレースに凝り、サラ金などに百数十万円の借金があった。
 捜査本部は3月20日に住居侵入容疑で逮捕。31日に強盗殺人などの容疑で再逮捕した。
一 審
 1993年10月27日 福岡地裁小倉支部 森田富人裁判長 死刑判決
控訴審
 1993年11月16日 控訴取り下げ、確定
拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 1990年7月11日の初公判で,牧野被告は事実関係を認めたものの,殺意については否認した。
 8月3日の第3回公判では,冒頭に発言を求め,女性方で物色後,1階に降りたら被害者が死んでいたと殺人を全面否認した。理由として,「最初は全部認めた方が楽だと思った。だが、被害者の遺族が、自分の別れた妻に恨みを持っていると聞き、本当のことを話す気持ちになった」と述べた。
 10月17日の第4回公判では,冒頭に発言を求め,「別れた妻が、被害者の遺族から仕返しをされると思って否認したが、本当はやった」と再び犯行を認めた。
 弁護側は被告が犯行当時、妻子に家出されるなど精神状態が不安定で、毎日多量の鎮痛薬を服用していたことなどから「薬の副作用で意識がもうろうとなるなど心神耗弱状態にあった。殺意もなかった」と主張し、精神鑑定を請求、実施された。気質的な脳障害がわずかに認められ、意志薄弱などの精神病質ではあったが、精神病ではなかった。当時、服用していた鎮静剤の影響もない」として、責任能力はあった、とした精神鑑定が提出され、証拠採用された。
 1993年4月23日の論告求刑で、検察側は「競艇に狂い金に困っての犯行で、無抵抗で体の不自由な女性を殺害するなど残忍な犯罪。凶器や被害者の傷からみて殺意は認められ、精神鑑定で被告の責任能力も証明された」と述べ、「無期懲役刑の仮出所中に同じ罪を犯し情状酌量の余地はなく更生の可能性もない」として死刑を求刑した。
 検察側は死刑に対する異例の見解を明らかにし「検察も死刑に慎重な立場をとるが、無期懲役中の被告に再び無期懲役刑を求刑すれば、遺族は絶望し、法と裁判に対する国民の信頼は失われる」と述べた。
 6月7日の最終弁論で、弁護側は「判例では、殺害された被害者が一人の場合は、死刑と無期懲役のボーダーライン上にある。犯行が計画的な場合は死刑になっているが、被告は生まれつきの脳障害で行動の抑制力がなく、犯行は衝動的だった」などとして、無期懲役を主張した。最終陳述で牧野被告は「死んで罪を償いたい」と述べ、死刑判決を望んでいる心境を明らかにした。
 10月27日の判決で、森田裁判長は「仮出所中に前の事件を上回る凶悪な罪を犯した。更生は不可能であり、前刑と同じ無期懲役を科すことは、社会正義の観点から容認できない」として、求刑通り牧野被告に死刑を言い渡した。判決では、母子殺傷はあらかじめ包丁を用意し、急所の首を狙うなどの行為を「準計画的」として殺意を認定した。さらに、判決は障害者であった長女が自立しようとしていたことを挙げ、「被告は犯罪性向は強固。現行の矯正方法では改善不可能」とした。

 弁護人は「判決は殺意の認定に拡大解釈がある」として判決当日、弁護士職権で直ちに控訴した。しかし牧野被告は控訴期限最終日の11月16日、自ら控訴を取り下げ、確定した。
 一審で主任弁護人を務めた川口晴司弁護士が11月15日、小倉拘置所(小倉北区)で面会した際、牧野被告は「こんな事件を起こし、死刑は当然だと思う。福岡高裁で争いたくない。死刑を受けたい。取り下げの手続きをする」と話していたという。同弁護士は、「考え直すよう忠告したが、翌日、地裁支部から取り下げ書が受理されたとの連絡を受け驚いた」と言っている。
特記事項
 牧野被告は19歳当時の1970年3月、福岡県北九州市門司区内のホテルでナイフを持って侵入。見つかったため居直って宿泊客二人を殺傷、現金を奪った。さらに5日後には逃亡先の久留米市のホテルで包丁を持って押し入り,現金を奪った。強盗殺人、強盗致傷、強盗の各罪により無期懲役に処せられ(福岡地裁小倉支部1970年10月7日)、熊本刑務所に服役。1987年5月13日仮釈放(在所約16年6月)となり、保護観察中だった。
その後
 1990年12月1日までに、竜谷大法学部の石塚伸一教授(刑事法)が、「一、二審の間に国選弁護人の空白期間が生じる制度上の問題が一因」などと、福岡県弁護士会に人権救済を申し立てた。慣例で、国選弁護人は初公判から上訴手続きまでしか担当しない。申立書の中で、石塚教授は「控訴後、弁護人の空白期間が生じたことと、長期の身柄拘束で適切な判断力が失われたことが、死刑確定を招いた」としている。
 さらに石塚教授は12月、福岡拘置所長と国に死刑執行の停止などを求め、福岡高裁に人身保護を請求、受理された。石塚教授は、請求の理由として「弁護人が選任されないうちに本人が控訴を取り下げて死刑が確定しており、拘禁は違法」と話している。
 請求の申立書によると、牧野死刑囚は、逮捕後の長期間の拘置や慢性的な鎮痛剤の使用から判断能力が低下し、控訴を取り下げるかどうかの判断ができたか疑わしいなどとして、死刑執行の停止と医療刑務所への移送を求めている。
 福岡高裁は人身保護請求を棄却。1991年3月6日、石塚教授は最高裁に特別抗告したが、後に棄却された。
 牧野死刑囚は5月、新たに控訴審の弁護人を選任。石塚伸一教授によると、本人は「当時は、だれにも頼めず手続きの煩雑さから取り下げた。再び控訴審を求めるとひきょう者と思われるかといろいろ迷ったが、あらためて控訴審に臨みたい」と話しているという。
 牧野死刑囚の弁護団は6月1日、「一審判決後に本人がした控訴取り下げは無効」として福岡高裁に控訴審の期日を指定するよう申し立てた。申立書は「上訴取り下げは訴訟の死命を制する決定的な訴訟行為。一審判決後に弁護人不在状態で取り下げを可能としている現行法は憲法違反」「本人は取り下げの効果を正しく理解しておらず訴訟能力は欠如していた」としている。
 福岡高裁(八束和広裁判長)は2001年9月10日、「判決後に二度、弁護人から控訴するよう求められており、実質的に弁護活動を受けていた」として、控訴取り下げの有効性を認め、裁判は終了しているとの決定を出した。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 刑事事件に弁護人を付ける権利を保障した憲法三七条について、八束裁判長は「起訴から判決確定まで間断なく弁護人が付くことまで保障したものではない」と初の判断を示した。決定で八束裁判長は弁護人空白期の存在を否定したうえで「牧野死刑囚は積極的に控訴する意思がなく、精神障害を疑わせるような所見も見当たらなかった」と判断し、控訴取り下げ時の訴訟能力を認めた。
 7人の弁護団は同日「誤った解釈であり、決定は納得できない」として、同高裁に異議を申し立てた。しかし退けられたため、最高裁へ特別抗告した。
 2004年6月14日、最高裁第一小法廷は棄却する決定をした。島田仁郎裁判長は「憲法は、判決確定まで間断なく弁護人が付けられることまでを保障したものではなく、控訴取り下げの際に弁護人がいなくても違憲でないことは、これまでの大法廷判決から明らかだ」と述べた。
 2004年9月、弁護団は福岡地裁小倉支部に再審請求を行った弁護団は、石塚伸一教授による新たな鑑定の結果、事件当時、牧野死刑囚は人格障害があり、服用した薬物の影響で、心神喪失か心神耗弱の状態だった可能性が高いことが判明したと説明している。
 同支部は2005年11月17日付で「石塚鑑定は、責任能力があるとした確定判決に合理的疑いを持たせるものでない」と棄却を決定。「心神耗弱の新たな証拠が発見されても再審事由に当たらない」とした。福岡高裁は2005年12月26日付で即時抗告を、最高裁も2006年1月18日付で特別抗告を棄却する決定をした。
 2007?年、恩赦出願、棄却。
 2008年、1970年3月の事件における一審福岡地裁小倉支部判決(1970年10月7日)における控訴取り下げ無効を申し立てた。取り下げの申立書は牧野死刑囚の筆跡ではなく、自署ではないから無効と訴えた。12月15日、同支部で申立棄却。12月20日、福岡高裁へ即時抗告していた。
執 行
 2009年1月29日 58歳没
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氏 名
太田勝憲
事件当時年齢
 35歳
犯行日時
 1979年7月18日
罪 状
 殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反
事件名
 平取猟銃一家殺人事件
事件概要
 北海道胆振管内壮瞥町はく製加工業太田勝憲被告は1979年7月18日夜、持参したライフル銃を“担保”に毛皮の取引代金127万円の支払いを待ってほしいと、日高管内平取町のはく製業者(当時51)に求めたが、ライフル銃を手にした業者が太田被告をなじったため、とっさに銃を奪い取って業者を撃ち殺した。さらに発覚を恐れ、妻(当時37)、長女(当時22)、次男(当時2)を射殺した。
 事件1週間後には参考人として太田被告が取り調べを受けていたが、捜査は難航。1年4ヶ月後の1980年11月15日に、太田被告が逮捕された。
一 審
 1984年3月23日 札幌地裁 安藤正博裁判長 死刑判決
控訴審
 1987年5月19日 札幌高裁 水谷富茂人裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1993年12月10日 最高裁第三小法廷 大野正男裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 札幌拘置所
裁判焦点
 太田被告は逮捕当初犯行を否認したが、5日目に全面自供。洞爺湖に捨てたとされるライフル銃が見つかっていないことなど、物証に乏しい。
 太田被告の意向とは別に、32人の大弁護団が結成された。
 1981年4月13日の初公判で、太田被告は「間違いありません」と起訴事実を認めた。しかし弁護団は証拠が不十分であることなどから、無罪を主張して弁護活動を続けた。太田被告はこの弁護活動に、供述を拒否するなど沈黙を続けた。
 判決で安藤裁判長は、「銃器鑑定結果から被告が犯人である可能性が極めて高く、自白は信用できる」と認定した。

 控訴後弁護団は退任し、新たに2人の国選弁護人が選任された。
 1985年10月1日の控訴審初公判で、弁護人は事実関係で争わず、「一審は審理不十分で量刑不当。被告はひたすら罪を悔いている」と減刑を求めた。そして太田被告の精神鑑定(結果は「正常」)や被告人質問などが行われた。
 太田被告は態度を軟化させ、弁護人による供述録取書の中や、裁判長の質問に答えて、断片的ながら改めて犯行事実を認めた。
 最終弁論で弁護側は、「悔悟の情が著しい」と無期懲役の判決を主張した。
 判決で水谷裁判長は一審の事実認定を全面的に認めたあと、「被告は男性から代金を厳しく督促され、激しくなじられて、とっさに殺害した」と犯行の動機に同情の余地はないと断定した。

 1993年10月26日の最高裁弁論で、弁護側は、事件が太田被告の犯行であることを二審同様認めたうえで「死刑は憲法違反」と主張した。理由として(1)犯罪人の生命であっても、これを奪うことは公共の福祉に反する(2)死刑か無期懲役かの量刑判断は裁判所によって一律ではなく、現行制度には欠陥がある(3)悔い改めている被告への死刑判決は残虐な刑罰にあたる(4)死刑を廃止する国が増え、制度が再検討されるべき時期に来ている−などの点を挙げた。さらに「事件の社会的影響は時間の経過とともに弱まり、結果の重大性に対する評価も時代の経過とともに変わりうる」「遺族の被害感情を量刑の重要因子とすることに、多大の疑問がある」「被告は真に悔悟反省しており、人間性を改善する機会を奪う必要はない」などとして量刑不当を訴え、無期懲役への減刑を求めた。
 検察側は「現行の死刑制度が合憲であることは、いくつもの最高裁判例で確立されている」と、死刑違憲論には理由がないと反論。量刑不当の訴えに対しても「一家四人を射殺した動機に同情の余地はなく、残虐な犯行の罪責は極めて重い。遺族の心情や、社会に与えた影響を考えると極刑をもって臨むほかない」と述べ、上告棄却を求めた。
 最高裁の判決で大野裁判長は、「現行の死刑制度は憲法に違反しない」と1948年の大法廷判例を踏襲したうえで、事件について言及。「犯行は、男性の言動に触発されたとはいえ、極めて短絡的、衝動的で、ライフル銃で至近距離から頭部を狙い撃ち、とどめまで刺した犯行手段も冷酷かつ凶悪。一家四人の生命を奪った結果は重大で、たまたま札幌にいて難を逃れた長男の被害感情、社会に与えた影響も無視できない」と述べ、一、二審の死刑判決を支持した。
 判決は大野裁判長をはじめ、五裁判官全員一致の意見だが、大野裁判長は「死刑が残虐な刑罰に当たると評価される余地は著しく増大している。憲法違反と断定はできないが、その存廃や改善方法は立法府にゆだね、裁判所は限定的に適用すべきだ」と補足意見を述べた。これは長谷川敏彦被告に第三小法廷が言い渡した判決で述べた補足意見と同じ意見となっている。
その後
 1999年11月18日、札幌拘置所内で入浴中、かみそりで右の首を切り自殺した。55歳没。
 首を切った後、医務室で手当てを受けたが、約30分後に出血多量で死亡した。首の傷は長さ4〜5cmで静脈まで達し、左手首にも切り傷があった。部屋には家族にあてた便せん5、6枚の遺書が3通あり、7日の日付で「ご迷惑を掛けました」などと書かれていた。死刑確定囚の自殺は、1961年以降4人目。
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氏 名
藤原清孝
事件当時年齢
 24歳
犯行日時
 1972年9月〜1982年10月
罪 状
 強盗殺人、強盗殺人未遂、殺人、強盗強姦、強盗致傷、強盗、強盗未遂、窃盗、公務執行妨害、住居侵入、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反
事件名
 警察庁広域重要指定113号事件他
事件概要
 元消防士勝田清孝(旧姓)被告は以下の事件を引き起こした。
  1. 1972年9月13日、京都市に住むホステスの女性(当時24)方に盗みに入って見つかったため強姦、現金1000円を奪った後、首を絞めて殺害した。
  2. 1975年7月6日、大阪府にあるマンションの通路で、帰宅途中でクラブママの女性(当時35)からハンドバッグを奪おうとして抵抗されたため絞殺、ハンドバッグに入った現金約10万円を奪った。さらに女性の車に乗って遺体を農業用水路へ遺棄するとともに、指紋の付いた車に放火した。
  3. 1976年3月4日、名古屋市の道路上を通行中の女性(当時32)からショルダーバッグを奪おうとして騒がれたため女性を絞殺。現金約12万円を奪った。死体は長久手町の休耕地に遺棄し、痴情による犯行に見せかけるため偽装した。
  4. 1977年6月30日、名古屋市に住むホステスの女性(当時28)宅に侵入。現金4万円を奪って逃走しかけたときに女性に発見されたため絞殺した。
  5. 1977年8月12日、空き巣目的で入った名古屋市内にあるマンションの廊下ですれ違った美容師の女性(当時33)にとがめられたため、女性を玄関内へ押し戻して暴行中、顔を見られたとして女性を絞殺、約45万円相当の指輪を奪った。
  6. 1977年12月13日、盗んだ散弾銃を使い、神戸市で集金帰りの銀行員の男性(当時25)を脅して現金を奪おうとしたが抵抗されたため射殺、現金410万円を奪った。
  7. 1980年2月15日、名古屋市で信金職員に散弾銃を突きつけてを脅し、小切手などを奪った。
  8. 1980年7月30日、名古屋市のスーパーにいた夜間店長(当時35)に散弾銃を押しつけて脅迫、現金576万円を奪った。店長を縛り上げようとしたが抵抗されたため射殺した。
  9. 1982年10月27日、名古屋・千種署田代北派出所から巡査をおびき出して車ではね重傷を負わせ短銃を強奪した。以後の事件は後に「警察庁広域重要指定113号事件」として指定される。
  10. 静岡県浜松市のスーパーに侵入し、拳銃で店長を脅かしたが抵抗されそのまま逃走した。
  11. 10月31日、滋賀県内でヒッチハイクした車の中で千葉県市原市の工員男性(当時27)を射殺し、現金約4万円を奪った。
  12. 11月1日、滋賀県養老郡でガソリンスタンドを襲い、1人に重傷を負わせた。しかし現金を奪うことはできなかった。
  13. 11月28日、京都市のスーパーに侵入。店員を拳銃で脅かし、現金約150万円を奪った。
  14. 1983年1月31日、名古屋市の銀行駐車場で客を拳銃で脅かしたが、周囲にいた店員たちに取り抑えられ、強盗致傷の現行犯として逮捕された。
 なお、報道では最大22人の殺害を自供したと書かれているが、勝田被告も警察側も否定しており、報道が先走ったものである。
一 審
 1986年3月24日 名古屋地裁 橋本享典裁判長 死刑判決
控訴審
 1988年2月19日 名古屋高裁 吉田誠吾裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1994年1月17日 最高裁第一小法廷 小野幹雄裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 強盗殺人7件、殺人1件、強盗殺人未遂1件、強盗致傷3件、強盗強姦1件、強盗2件、強盗未遂1件、窃盗10件、公務執行妨害1件、住居侵入2件、銃刀法違反1件、火薬類取締法違反1件の合計27件について起訴された。
 一審で勝田被告は起訴事実をほぼ認めるとともに、過去の殺人事件を自供したことや反省している点を訴えた。
 判決では、自供や捜査協力の点、写経に勤しんで贖罪の日々を送っている情状などは認められたが、約10年間に渡る犯罪は我が国犯罪史上例を見ない凶悪な犯罪として広く社会を震撼させたことや、犯行の重大性により、生命をもって責任を償うほかなく、極刑を選択するのが相当とされた。

 控訴審で弁護側は「死刑(絞首刑)は残虐な刑罰であり、憲法三六条(残虐な刑罰の禁止)違反である」「死刑執行の根拠は明治六年の太政官布告だけで具体的に定めた法律がなく、憲法三一条(法定手続の保障)違反である」「執行者には苦役となるため、憲法一八条(苦役からの自由)違反」などとする死刑違憲論を展開。さらに「工員射殺事件は銃の暴発によるもので殺意はなかった。5人の女性殺害も被告の自供によって明らかになったものであり、自首にあたり、刑の軽減を認めるべきだ」と減軽を求めた。
 判決で吉田裁判長は死刑違憲論については「死刑に違憲性はなく原判決に誤りはない。被告人に(窃盗罪の)確定判決前とその以後との犯行に(一審で)それぞれ死刑が言い渡された点についても、いずれが重いか明確でないなどという主張は受け入れられない」と一審判決を全面的に支持。さらに「自首軽減」の主張についても「逮捕されるまで連続的に殺人などの犯行を反復するなど、とうてい自首とは認められない」と退けた。そして「十年余の長期間にわたる一連の犯行は、飽くことを知らぬ金銭欲を充足させ、虚飾に満ちた生活の維持を図るべく行われた。いずれも周到かつ綿密な計画に基づいて敢行され、犯行を重ねるごとに計画性を高め、犯行手段を巧妙化させた。冷酷無残な凶悪この上ない手段・方法で8人もの生命を奪い去ったことは、社会に重大かつ深刻な影響を与え、わが国犯罪史上にも類例を見いだし得ない事件で、酌量の余地は何らない」とした。

 勝田被告は量刑不当他を理由に上告したが、判決では「自首の経緯や深く悔悟していること等の事情を考慮しても、被告の罪責は誠に重大であり、原判決を是認せざるを得ない」とした。
特記事項
 旧姓勝田。文通をしていた女性の母親と養子縁組をした。
 1980年10月28日、大阪市で車上狙いの現行犯として逮捕された。1981年1月、窃盗他の罪により大阪簡裁で懲役10月、執行猶予3年の判決を受け、2月に確定している。この結果、それ以前の7件の強盗殺人などと、それ以降の短銃強奪による一連の警察庁指定113号事件の2グループに分け、検察側はその両方について死刑を求刑した。
 1人の人物が2回死刑判決を受けて確定したのは、戦後2人目。
執 行
 2000年11月30日 52歳没
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 勝田清孝と来栖宥子の世界
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氏 名
宮脇喬
事件当時年齢
 45歳
犯行日時
 1989年2月14日
罪 状
 殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 先妻家族3人殺人事件
事件概要
 パチンコ店員だった宮脇喬被告は、勤め先の女性と親しくなったのが原因で、妻と離婚。その後、復縁をしようとしたが、元妻の両親(当時67、57)と妹(当時32)の3人に反対されて復縁できなくなったと思い込み、恨みをはらすため、1989年2月14日午前3時半ごろ、両親宅に押し入り、3人を包丁で次々と刺し殺した。
一 審
 1989年12月14日 岐阜地裁 橋本達彦裁判長 死刑判決
控訴審
 1990年7月16日 名古屋高裁 吉田誠吾裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1994年3月7日 上告取り下げ、死刑確定
拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 一審判決を受けた被告弁護側は(1)妹に対する犯行は偶然起きたもので、刺すつもりはなかった(2)両親に対しては攻撃されたため、防御的な犯行。殺意はなく傷害致死が相当で、一審判決は事実を誤認している(3)死刑はやむを得ない場合に限られるべきであり、一審判決の量刑は重すぎて不当だ―などと控訴した。
 控訴審の被告人質問で、宮脇被告は「妹に対しても殺意はなかった。一審の被告人質問で、3人全員について殺意を認めたのは本意ではない」として、殺意を全面的に否認した。
 名古屋高裁吉田裁判長は(1)捜査段階から一審まで、3人に対して殺意があったことを認めており、3人をメッタ突きした犯行態様からみても確定的な殺意があったのは明らか(2)自分の浮気が原因で離婚され、復縁に反対されたからと殺意を抱いたのは逆恨みで、酌量の余地がない。(3)3人を殺した犯行の重さを考えると、死刑が重すぎるとはいえない――などと、すべて退けた。
その後
 徹底して争う構えを見せていたが、突然上告取り下げ。拘置所内でキリスト教の洗礼を受け、裁判で争うことに消極的になったという。また、自分のことが新聞に載ると、親や兄弟が苦しむと悩んでいたらしい。
執 行
 2000年11月30日 57歳没
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氏 名
大森勝久
事件当時年齢
 26歳
犯行日時
 1976年3月2日
罪 状
 殺人、殺人未遂、爆発物取締罰則違反
事件名
 北海道庁爆破事件
事件概要
 1976年3月2日午前9時2分頃、出勤時の北海道庁本庁舎1階ロビーで塩素酸系混合爆薬を詰めた時限式消火器爆弾が爆発、道職員2人が死亡、95人が重軽傷を負った。事件後、札幌市内の地下鉄大通駅コインロッカーから「東アジア反日武装戦線」名のタイプライターで打ったカナ文字の犯行声明文が発見された。元「部族戦線」リーダーのメモから容疑者として大森勝久被告が浮かび上がり、北海道警は1976年8月10日、同被告を爆発物取締罰則三条(製造器具の所持)違反容疑で逮捕。その後、道庁爆破事件で再逮捕、道警爆破事件(1975年7月)でも再々逮捕した。札幌地検は道庁爆破についてだけ同罰則一条(爆発物の使用)違反、殺人、同未遂罪で起訴。
一 審
 1983年3月29日 札幌地裁 生島三則裁判長 死刑判決
控訴審
 1988年1月21日 札幌高裁 水谷富茂人裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1994年7月15日 最高裁第二小法廷 大西勝也裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 札幌拘置所
裁判焦点
 逮捕から起訴まで完全黙秘。一貫して無実を主張。物的証拠はほとんどなく、弁護側はわずかな物的証拠についても鑑定ミスもしくはでっち上げを主張。目撃証言についても曖昧さが残ると反論。

 控訴審で水谷裁判長は、「原判決の事実判断には、判決に影響を及ぼすような誤認はない」と、弁護側の事実誤認の主張を退けたうえ、個別の無罪主張について判断。爆弾の製造については、「逮捕の直前まで多量の硫黄、木炭、消火器、金切りバサミ、爆薬関係の文献を所持していた。ビニールシートなどに塩素酸ナトリウムの付着が推認され、除草剤を所持していたことが認められる。フトン袋から出てきたネジは、時限装置に使われたトラベルウオッチのネジを取りはずしたもの」と、一審判決通りに認定した。
 犯行声明文についても「大森被告が声明文中にある『※』印を書く習癖があったことに加え、道庁、北海道警爆破の両声明文は、体裁や内容などが共通する上、同じカタカナ文字盤を使って打たれた可能性が強い」「北海道警爆破の通告電話の声は被告の声と類似している」という二つの検察官新立証を認め、「犯行声明文の作成に関与したと認められる」とした。
 さらに、爆破前、大森被告が北海道庁に出入りするのを見たという「藤井証言」についても、「絶対間違いないとまでは言えないとしても、信用性は相当に高い」とし、検察官の図面改ざんなどを指摘し、その信用性を争ってきた弁護側の主張を退けた。
 犯行動機も「アイヌモシリ侵略を討つ闘いのため1974年6月末、北海道に来て、爆破対象として道庁を狙ったことは、リーダーの法廷証言からも明らか」と言及。
 水谷裁判長は、最後に「関係証拠を併せ検討すると、本件は被告によって企画、爆発物が製造、設置され、爆破が実行されたのは疑いをいれない程度に明らか」と断じ、共犯者が割れていない点については「被告が中心的役割を果たしたことは疑いなく、共犯者との関係は影響ない」と、弁護側が展開してきた無罪の論拠をすべて退け、一審を支持する判断を下した。
現 在
 無実を主張して2002年7月30日、札幌地裁へ再審請求。再審請求書では、爆発物製造に不可欠とされる塩素酸塩系除草剤を大森死刑囚が所持していたとされる証拠の鑑定について、「虚偽」と批判。弁護団は鑑定作業を再現したうえで、「道警側の鑑定は約6時間で終わるなど、時間的に不可能な作業だった」と指摘した。後日、「虚偽」を証明する鑑定書を提出するという。弁護団は「再審請求は来年春ごろまでにするつもりだった。しかし、死刑執行の危機が迫っているので、急きょ繰り上げた」と説明。同日、法務省や同拘置支所に電報などで、再審請求をすることと死刑執行の回避を求めた。弁護団は「北大助教授に道警の鑑定を検証する実験を委嘱した結果、捜査側が主張する時間内に鑑定を行うことは不可能と判明した」などとして、再審請求補充書七通と、北大助教授が作成した鑑定報告書など二十三点を新証拠として地裁に提出した。
 弁護側はその後の地裁、地検との三者協議で、鑑定を行った当時の道警科捜研職員ら十二人の証人尋問を請求していた。地裁はこのうち職員一人(退職)について証人尋問を行うことを決め、2004年9月29日に実施された。
 証人尋問は非公開で六時間行われ、四時間半が弁護側の主尋問に費やされた。弁護団によると、元職員は《1》これまで鑑定作業は「十日以上かけた」と証言していたのに尋問では「一日で終えた」と答えを変えた《2》除草剤検出に使用した水溶液は「二○○ccを一○ccに濃縮した」としていたが「二○ccを七ccに濃縮した」と述べた−など、一、二審で自ら語った証言内容を次々に否定した。元職員はこの日の尋問で「今言ったことが真実だ。それでも鑑定は可能」と主張したが、その根拠は示さなかった。
 これに対し、札幌地検は(1)再現実験は職員の証言内容と異なり、検証とはいえない(2)職員は再審請求審で初めて具体的に証言しただけで過去との矛盾はない――などと反論。「鑑定自体、揺るがないし、他の証拠もあるので有罪の立証は尽くされている」と請求棄却を求めていた。
 2007年3月19日、札幌地裁は請求を棄却した。半田靖史裁判長は、えん罪を主張した弁護側の新証拠について「確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じるとは到底認められない」と判断した。半田裁判長は検察側の主張に沿って鑑定に証拠能力があると認定。弁護側が提出した再現実験ビデオなどは有力な新証拠として採用しなかった。
 大森死刑囚は即時抗告した。札幌高裁は2008年5月28日、再審請求を退けた一審札幌地裁決定を支持、大森死刑囚の抗告を棄却した。矢村宏裁判長は決定理由で「弁護人が提出した新証拠は、大森死刑囚に無罪を言い渡すべき明らかな証拠には当たらず、再審請求を棄却した地裁決定に誤りはない」との判断を示した。即時抗告審で弁護側は、当時の鑑定にかかった時間を専門家に依頼して検証。その上で、「道警の報告書に記された時間内には終わらない」として、鑑定結果は捏造だと主張した。これに対し高裁決定は「弁護側の検証は、使用した器具や鑑定物の数などで前提を誤っており、鑑定を時間内に行うことは十分に可能」と判断した。
 大森死刑囚側は最高裁に特別抗告した。2011年12月19日付で最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は、大森死刑囚側の特別抗告を棄却する決定を出した。再審開始を認めない判断が確定した。

 大森死刑囚側は2013年1月23日、札幌地裁に第二次再審請求を行った。死刑囚の部屋から爆発物成分を検出したとする道警の鑑定など、有罪の決め手となった証拠の信用性を争う実験結果を新証拠として提出した。
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 大森勝久評論集
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氏 名
大石国勝
事件当時年齢
 37歳
犯行日時
 1983年5月16日
罪 状
 殺人
事件名
 隣家親子3人殺人事件
事件概要
 佐賀県鳥栖市の会社員大石国勝被告は、近所に住んでいた会社員の長男(当時13)が、大石被告方のホースバンドの金具を盗んだと思い込み(これは濡れ衣だった)、1983年5月16日夕方、会社員方に包丁を持って押し掛け、会社員(当時38)と妻(当時36)を次々と刺殺。さらに逃げ回る長男を追い掛け、めった突きにして殺した。
一 審
 1987年3月12日 佐賀地裁 早船嘉一裁判長 死刑判決
控訴審
 1989年10月24日 福岡高裁 丸山明裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1995年4月21日 最高裁第二小法廷 中島敏次郎裁判長 上告棄却 死刑確定
拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 一審で早嘉裁判長は起訴事実を全面的に認め「犯行時、精神状態は正常だった。改しゅんの情もない」と、求刑通り死刑を言い渡した。

 控訴審でも大石被告の犯行時における精神状態が争われた。
 丸山裁判長は「池田鑑定は妄想、体感異常などの典型症状について一般よりも拡張解釈しており採用できない。被告は軽度の精神障害者に匹敵する是非弁別能力を持っていた」と指摘。「大石被告異常性格による激情的な犯行だったが、是非善悪の判断能力はあった」とし、自白調書の任意性、信用性を認めた。そして「被告は軽度の精神障害者で、衝動的な犯行だが、心神喪失や心神耗弱状態だったとは認められない」「被告には改悛の情もなく、3人の人命を次々と奪った責任の重大性を考えると刑事責任は大きい。死刑の重大性を考えても、一審判決が極刑に処したのはやむを得ない」と、一審の死刑判決を支持した。

 最高裁でも弁護側は犯行前の大石被告の言動の異常性を強調し、「大石被告は心神喪失状態で責任能力はない」などとして、無罪または減刑を主張した。
 判決で中島裁判長は「大石被告の完全な責任能力を肯定した二審判決は正当」とし,「犯行の動機、結果などに照らすと、大石被告の罪は誠に重大で、妄想型人格障害である大石被告の衝動的犯行だったとしても、死刑はやむを得ない」とした。
執 行
 2000年11月30日 55歳没
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氏 名
藤島光雄
事件当時年齢
 27歳
犯行日時
 1986年3月6日/3月11日
罪 状
 殺人、死体遺棄、銃砲刀剣類所持等取締法違反、窃盗、恐喝
事件名
 2連続殺人事件
事件概要
 無職藤島光雄被告は1981年に結婚、子供を一人設けたが、典型的なヒモであった。1985年、傷害事件を起こして逮捕、新潟刑務所に収容されたのを幸いに妻は離婚届を提出、新潟から出ていった。しかし藤島被告の判決は執行猶予。三ヶ月余りで出所した1986年3月6日、山梨県に住む妻の養母であり実の祖母(当時73)の所へ直行、様子を探っていたが、祖母に見つかりとがめられて逆上。祖母の顔を浴槽の水に押しつけて窒息死させたところに、たまたま元妻が戻ってきたため、藤島被告は元妻を連れて逃走。
 二人は元妻の婚約者である茨城県の会社員(当時26)から金を奪おうと計画。3月11日未明、会社員を新潟市内のホテルに連れ込み、両手足をシーツなどで縛り、会社員を浴槽に押し込んで水死させた。死体は円形ベッドのマットを持ち上げて隠したが、偶然ベニヤ板で覆われた密封状態であったため、腐敗が進まず、死体に気がつかなかったという。藤島被告は元妻を連れて逃走。17日、京都で銃砲刀剣類所持等取締法違反により現行犯逮捕。
 余罪として窃盗2件、ナイフ携帯1件がある。
一 審
 1987年7月6日 甲府地裁 古口満裁判長 死刑及び懲役1年6月判決
控訴審
 1988年12月15日 東京高裁 石丸俊彦裁判長 控訴棄却 死刑及び懲役1年6月判決
上告審
 1995年6月8日 最高裁第一小法廷 高橋久子裁判長 上告棄却 死刑及び懲役1年6月確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審で弁護側は、親の愛情に恵まれない不幸な環境の元に生育したことが大きな原因であると主張。犯行に計画性がないことなどから、死刑の回避を訴えた。それと同時に、死刑は違憲であると訴えた。
 判決で古口裁判長は「二人の貴い人命を奪い、その動機も自己中心的で同情の余地がない」と述べた。

 弁護側は控訴審でも同様の主張を行い、被告が少年期に在籍していた特殊学級を担当していた教師を中心とした多数から嘆願書が提出された。
 判決は「わずか6日間内に連続して2人を殺害したことは、動機、経緯、態様、結果、罪質のいずれの点などからしても残忍、無惨、冷酷非情、自己中心的な犯行で、矯正の可能性はない」とした。

 最高裁の判決理由で高橋裁判長は、「犯行は冷酷、残虐で、遺族の被害感情も厳しい。被告人の不幸な生い立ちや反省を考慮しても、死刑判決を維持せざるを得ない」と述べた。
備 考
 元妻は無罪を主張したが、懲役5年の判決が一審で確定。
その後
 殺人は幼児期の虐待が事件の背景にあるとして再審請求。2004年2月25日、棄却。3月31日即時抗告棄却。4月21日特別抗告棄却。
 2004年、第二次再審請求。棄却。
 2009年5月、第五次再審請求。2010年3月30日付で甲府地裁は棄却した。藤島死刑囚は前妻の祖母に対する殺人については「犯行時に責任能力があったとは言えない」、前妻の交際相手に対する殺人については「承諾殺人が成立する」と主張したが、地裁はそれぞれ「それを認める証拠がない」、「要件が欠ける」などの理由で棄却した。これまでもほぼ同じ理由で再審請求しては棄却されてきた。その後、即時抗告、特別抗告友に棄却されている。
執 行
 2013年12月12日 55歳没 第六次再審請求準備中だったとされる。
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