ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1981〜1985年】(昭和56〜60年)



【1981年】(昭和56年)

日 付事 件
1/22 概 要 <替え玉保険金殺人事件>
 1981年1月22日、佐賀の漁港で墜落したレンタカーの中から死体が発見された。死体は水産会社社長S(42)のものと判明し、妻H美(41)と水産会社社員で愛人のY子(43)はともに死体がSであると証言した。警察はこの証言を鵜呑みにし、死体をSと断定した。ただ、レンタカーの破片などから事故ではなく殺人と判断。Sの保険金目当ての殺人とにらみ、H美とY子を逮捕した。警察は二人を追求していたが、二人の供述にばらつきがあることが判明。さらに尋問を続けた結果、H美が自供した。実は死体はSではなく、Sが競艇場で知り合った大工M(46)であった。経営する水産会社が数億円の負債を抱えたため、自分は自殺したことにし、保険金を妻と愛人に与え、借金を返そうと目論んだ替え玉殺人だった。Sは28日、下関駅で列車に飛び込み自殺した。
 1984年5月、佐賀地裁はH美に懲役4年、Y子に懲役7年と、この種の事件にしては軽い判決を言い渡した。
文 献 「替え玉殺人事件―『S・妻と愛人を犯行の道連れに』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

中村光至『刑事─唐津・虹ノ松原殺人事件』(トクマノベルス,1984)
備 考  
3/25 概 要 <三和銀行1億3000万円オンライン横領事件>
 1979年3月、三和銀行茨木支店に勤めるI(30)は、支店でも若社長として有名だったM(32)と知り合う。6歳年上の男性との不倫が10年続いていたIはMの誘いに応じデートを重ね、いつしか肌を重ねるようになる。ところがMは家族持ちであり、しかも仕事が苦しいからと金を借りるようになり、2年間でIが貯めた約720万円がゼロとなった(最終的には、922万円となる)。1981年3月、Mはヤクザから金を借りて脅されていると嘘をつき、Iに2億円程度の架空振込詐欺を持ちかける。このとき、Mはサラ金や親戚から合計5000万円以上の借金があった。
 1981年3月25日10時、Iは支店のコンピュータ端末からオンラインで大阪府内、東京都内の計4つの支店に開いた口座へ、合計1億8000万円の架空入金を行った。大阪府内で金を下ろした後飛行機で東京へ飛び、都内の銀行で再び金を下ろした。現金5000万円、小切手8000万円の合計1億3000万円を引き出したIは都内で全てMに渡し、引き出し損なった1冊の通帳と、Mに渡された現金500万円を持ち、そのまま羽田空港よりマニラへ逃亡した。しかしMはマニラへは行かず、渡された金で家族と豪遊するなど遊んでいた。
 9月5日、横領の事実が新聞夕刊に掲載された。Iは国際指名手配され、8日昼、オーバーステイ容疑で逮捕された。マニラ市の出入国管理局で待ち受けていたマスコミからのインタビューに対し、「好きな人のためにやりました」と答え、それは流行語となった。Mも8日に逮捕された。10日、マニラから国外追放処分を受けたIは日本へ強制送還され、航海上で私文書偽造、同行使、詐欺容疑で大阪府警の捜査員に逮捕された。有名私立大学でファンクラブができ、拘置所当てにファンレターや現金書留が続々届くなど、Iは1981年を代表する顔となった。
 三和銀行茨木支店の支店長と営業課長は1982年6月、ともに降格異動させられた。
 1982年7月27日、大阪地裁はMに懲役5年(求刑懲役7年)、Iに懲役2年6月(求刑懲役5年)を言い渡した。双方は控訴せず、刑は確定した。他に8000万円の小切手を預かるとともに、Iの逃亡に関与した男性と、Mに依頼されて小切手をスイスの銀行で換金しようとした男性にそれぞれ懲役1年、罰金20万円、執行猶予3年が言い渡された。
 Iは1984年1月17日、仮釈放された。1990年4月、2最年下の男性と結婚したという。
文 献 伊藤素子(聞書き 江森陽弘)『愛の罪をつぐないます』(二見書房 サラ・ブックス,1982)

小池真理子『女と呼ばれた女たち―阿部定から永田洋子・伊藤素子まで』(主婦と生活社,1982)

松田美智子『なにが彼女を狂わせたか』(恒友出版,1996)(後に『美人銀行員オンライン横領事件』(幻冬舎アウトロー文庫,1997)と改題)

山崎哲戯曲集『異族の歌―伊藤素子オンライン詐欺事件』(新水社,1984)
備 考  
4/4 概 要 <大宮母子殺人事件>
 S(30)は女性問題で勤務先を退職させられて金に困り、中学時代の友人を誘って強盗事件を計画。1981年4月4日午前2時頃、埼玉県大宮市で共犯者とともに面識のあった和裁教師(当時60)方に侵入。物色中に共犯者が教師に気付かれたため、共犯者が持参した鉄パイプで殴打した上、2人がかりで絞殺。さらに別室で寝ていた長女(当時38)を鉄パイプで殴った上、絞殺した。殺害後、預金通帳や現金など約670万円相当を奪った。
 Sは1982年3月30日、浦和地裁で求刑通り死刑判決。1987年6月23日、東京高裁で被告側控訴棄却。1991年11月29日、被告側上告棄却、確定。
 共犯者は逃亡し続け、1997年10月に病死。死後、書類送検されている。
 1999年12月17日、Sに対する死刑執行、48歳没。死刑反対グループが15日、執行停止を求める人身保護請求を東京地裁に申し立てていたが、裁判所の判断を待たずに処刑された。東京地裁は東京拘置所長に対し、17日までに申し立てに対する意見書を提出するように要請していた。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  共犯同士の片方は死刑台に、片方は、心の中はともかく、ベッドの上での死。運命とはいえ、境遇のあまりもの違いに驚かされる。もし共犯がどこかで逮捕されていたら、まだ執行されることはなかっただろう。
6/11 概 要 <パリ人肉嗜食事件>
 1981年6月11日午後4時頃、パリ第三大学サンシェ分校の留学生S(32)は、自分のアパートに、同じ大学で学ぶオランダ人留学生のLさん(25)を呼び出し、関係を迫ったところ、彼女から強く拒否されたので、カービン銃で背後から射殺。尻、太ももなどをナマで食べたあと、死姦。死体を運搬するために解体。その間にも人肉をビフテキのように焼いて食べ、冷蔵庫に死体の一部を保存していた。13日、Sは遺体をパリの西方にあるブローニュの森の湖畔に棄てた。同日夕方、死体を詰めたスーツケースが発見され、15日に逮捕、犯行を自供。Sは3月31日、Sはパリ郊外の精神病院に収容された。7月11日、フランスの予審裁判所は、事件当時Sは心神喪失状態であったとする医師の鑑定にもとづき不起訴を決定して確定した。1984年5月22日、帰国すると同時に精神科に入院。1985年8月の退院後、小説を出版しマスコミにも登場した。
文 献 「パリ日本人留学生人肉食事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「パリ人肉嗜食事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

安田雅企『パリ留学生人肉食事件』(思想の科学社,1983)
備 考  
6/14 概 要 <みどりちゃん殺人事件>
 1981年6月14日午後1時頃、千葉県柏市にある小学校近くで、小学6年生のみどりちゃん(11)が刺殺死体で発見された。捜査の結果、近くに住む中学3年生の少年が、現場付近のスーパーで凶器と同型のナイフを事件の1週間前に購入したことを突き止めた。警察は少年を参考人として連行。立会人なしで事情聴取し、犯行を自供したと7月6日に逮捕した。千葉家裁松戸支部は8月、少年院送致の保護処分と決定した。
 少年は1982年5月、無罪を主張、再審を申し立てた。根拠として、「返り血を浴びていない」「凶器とされたナイフと同型のナイフが自宅で発見されている」「アリバイがある」が挙げられた。少年は少年院を退院し、1985年7月17日までに保護処分が取り消された。8月22日、千葉家裁は、保護処分が取り消されていることを理由に少年の訴えを退けた。抗告したが、11月に東京高裁も「保護処分を終了したものは、その処分の取り消しを求めることはできない」として請求を退けた。1986年1月11日、最高裁は下級審の決定を支持し、少年側の再抗告を退けた。一般刑事事件では認められている再審は認められず、法の上の不平等を明らかにした。
文 献 小笠原和彦『少年は、なぜ殺人犯にされたか 「みどりちゃん殺人事件」えん罪の構造』(現代史出版会,1983)
備 考  
6/17 概 要 <深川通り魔殺人事件>
 1981年6月17日、東京深川の商店街で、元すし職人K(29)が主婦二人(33)(29)、幼児二人(3、1)を包丁で刺殺、女性二人に重軽傷を負わせた。さらに別の主婦を人質にして中華料理店に立てこもった。約7時間後に逮捕。就職を断られたことが直接の動機だが、血液と尿から覚醒剤が検出された。また立てこもっているときも「黒幕を出せ」「電波を送られる」などと叫んでいた。
 心神耗弱という鑑定結果から、検察側は死刑ではなく無期懲役を求刑した。1982年12月23日、東京地裁は求刑通り無期懲役判決を言い渡した。Kは当初は控訴する予定だったが、担当の国選弁護人が説得してやめさせ、一審で判決確定。
文 献 佐木隆三『深川通り魔殺人事件』(文藝春秋,1983/文春文庫,1988/新風舎文庫,2004)(改題『白昼凶刃』(小学館文庫 隣りの殺人者2,2000)
備 考  弁護人が説得した際、彼は「模範囚になって12、3年で出所する」とにっこり笑ったそうである。彼は本当に責任能力が欠けていたのだろうか。
6/27 概 要 <みどり荘事件>
 1981年6月27日深夜から翌日未明にかけて、大分市のアパートに住む短大生(18)が自室で乱暴され、首を絞められて殺害された。警察は隣に住む会社員の男性を重要参考人として捜査。任意で呼んだ男性にポリグラフをかけ、指紋・足跡・唾液・下着などを提出。半年後の翌年1月14日、警察は男性を逮捕した。厳しい"尋問"により男性は犯行を"自白"した。
 男性は捜査段階や地裁公判の初期に「被害者の部屋にいたことは覚えている」などと供述していたが、裁判途中から無罪を主張。直接証拠はなかったが、1989年3月9日、大分地裁は求刑通り無期懲役判決。福岡高裁の控訴審では1991年、裁判長が職権で、男性の毛髪と被害者の体内に残されていた精液とのDNA鑑定を実施。1993年8月に出た鑑定結果は「現場から採取された毛髪の一本から被告と同一型のDNAを検出した」とした。しかし、男性のものであるはずの髪の毛が男性のものではなかったことや、鑑定書写真と報告書に多数の誤りがあった。1994年12月、担当した筑波大学の助教授自らが信用性を否定。なお男性は、1994年8月、福岡高裁の決定により保釈になっていた。1995年6月30日、逆転無罪判決、そのまま確定した。
 無罪確定時で時効まで1年以上残っており、高裁裁判長が真犯人の存在を示唆したにもかかわらず、警察は「捜査はやり尽くした」と再捜査はせず、1996年に時効となった。
文 献 天笠啓祐・三浦 英明『DNA鑑定―科学の名による冤罪』(緑風出版,2006(増補改訂版))

小林道雄『夢遊裁判―なぜ「自白」したのか』(講談社,1993)(後に『冤罪のつくり方 大分・女子短大生殺人事件』(講談社文庫,1996)と改題、増補)

みどり荘事件弁護団『完全無罪へ 13年の軌跡―みどり荘事件弁護の記録』(現代人文社,1997)
備 考  当番弁護士制度発足のきっかけとなった事件である。また、男性に対する報道被害の問題が指摘されているが、マスコミ側からの謝罪は一切ない。
7/ 概 要 <覚醒剤密輸入冤罪事件>
 北九州市の自営業者Sは1980年10月、覚醒剤約3キロ(当時の末端価格約9億円)を当時北九州市に住んでいた男性Aらに運び込ませて韓国から福岡空港に密輸した。さらに1981年6月にも同様の手口で覚醒剤約1キロを持ち込んだ。さらにSは現金235万円を渡し韓国へ行かせたが、Aは覚醒剤を入手できないまま帰国した。
 1981年7月、福岡県警はSの幼なじみである暴力団組長Kを逮捕。Kは逮捕当初から全面否認し、物証もなかったが、福岡地裁はSやAが「Kに脅されて密輸した」という証言を認め、1982年10月、懲役16年を言い渡した。Sは懲役8年、Aは懲役2年が既に確定している。
 1983年3月、福岡高裁はKの控訴を棄却。1985年3月、最高裁はKの上告を棄却し、確定した。
 Kは1986年7月、第一次再審請求。福岡地裁は1987年3月、棄却した。Kは1988年8月、第二次再審請求。1989年11月、福岡地裁は棄却した。
 しかし1992年9月、Sが弁護団に偽証を告白。Sは10月に死亡したものの、弁護団は偽証告白のテープを元に、1993年7月に第三次再審請求を起こした。請求審では運び屋のAも偽証を認めた。
 1996年4月1日までに、福岡地裁は再審開始を決定した。共犯とされていたSやAの偽証告白の信用性を認めた上に、二人の旧供述自体の矛盾も指摘しての新旧証拠を総合判断した結論だった。
 検察側は即時抗告したが、2000年2月29日、福岡高裁は即時抗告を棄却した。福岡高検は最高裁への特別抗告を断念、再審開始が決定した。Kはすでに1988年に徳島刑務所を出所していた。
 2000年9月26日、福岡地裁の初公判でKは無罪を主張、検察側は確定判決は妥当と訴えた。
 2001年7月17日、福岡地裁はKに覚醒剤取締法違反については無罪を、傷害罪については懲役1年6月の判決を言い渡した。判決で裁判長は、2人の旧供述と新供述の信用性を、Kの渡韓記録や再審で初めて証拠採用された国際電話の通話記録など客観的な証拠に照らして検討し、「旧供述はKから密輸を依頼された経緯など重要な部分で変遷があり、不自然な点が多々ある。新供述はKに強要された形跡もなく、信用性は否定しがたい」とした。
 福岡地検は控訴を断念し、無罪判決は確定した。本事件では、捜査段階で収集されたKに有利な証拠が再審請求審で初めて開示されるなど、当時の捜査や立証方法の問題点が指摘されたが、地検はコメントを控えた。
文 献 目森一喜、斉藤三雄『司法の崩壊 やくざに人権はないのか』(現代人文社,2002)
備 考  
7/6 概 要 <神田ビル放火殺人事件>
 1981年7月6日、I(31)は会社の金の使い込みがばれるのを恐れて上司とビル管理人をバットで撲殺、ビルに放火して逃走した。Iは、会社の帳簿書類を焼いて逃亡するつもりであり、殺人は偶発的だと主張するも、1988年7月1日に死刑確定。1996年7月12日、執行。48歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
7/16 概 要 <石見町幼女殺害事件>
 1981年7月16日深夜、島根県邑智郡石見町(現邑南町)のドライブイン兼自宅から、経営者夫婦の娘(当時6歳)がいなくなった。近隣住民の捜索により、翌日午前9時55分頃、付近の梅林で娘の遺体が発見された。何者かによっていたずらされたうえ絞殺されていた。現場に残されていた靴跡から、ドライブインの常連だった塗装工見習いの男性(当時38)が同日午前11時頃に任意同行を受けた。男性は当初、酔っていて記憶がないと供述していたが、その後犯行を自供したため、翌日午前2時に殺人罪で緊急逮捕された。男性は16日にドライブインで酒を飲み、午後11時30分に店を出て、17日午前2時頃、隣の農協ガソリンスタンド内で横になっているところを捜索中の被害者の母親らに見られていた。そして17日午前に帰宅後、住民とともに女児の捜索に当たっていた。
 男性は強姦致傷、殺人罪で起訴された。しかし9月29日から始まった裁判では、大量の飲酒で記憶がないと主張し、無実を主張した。物証に乏しく、現場には足跡こそあったものの男性の指紋も精液も検出されなかった。精神鑑定の結果で、男性は当時急性アルコール中毒による記憶欠損状態であったとされた。
 1990年3月15日、松江地裁は男性の自白について変遷が多いことから捜査員の誘導が疑われ、かつ証拠と矛盾があることから信用性を否定。現場の足跡についても決定的な証拠でないとし、無罪を言い渡した。検察側は控訴せず、そのまま確定した。
文 献 佐木隆三『闇の中の光』(徳間書店,1993)
備 考  
7/22 概 要 <山梨主婦誘拐殺人事件>
 甲府林務所職員Yは株に失敗して借金を抱えたため、1981年7月22日、山梨県の主婦(当時58)を誘拐し、クロロホルムを嗅がせ布団をかぶせ、ぐるぐる巻きに縛って殺害。身代金5000万円を要求したが、逆探知で24日に逮捕された。日本で初めて逆探知に成功した事例とされる事件である。主婦は金丸信国会議員の義姉だった。
 1983年3月29日、甲府地裁で求刑死刑に対し無期懲役判決。Yの殺意は未必的故意にとどまると判断された。双方控訴せず、確定。
文 献 志村勲『我、逆探知に成功せり』(幻冬舎,2015)
備 考  
10/2 概 要 <群馬2女性殺人事件>
 失業中のS(54)は1981年10月2日、群馬県の畑で農作業中の女性(当時56)を見て強姦しようとしたが、付近の音が気になったため途中でやめたが、傷害を負わせていたため、その犯跡を隠蔽するために、手拭い等で首を絞めた上、小刀で胸などを刺して殺害した。1982年7月3日、群馬県内で農作業中の女性(当時79)に背後から声をかけたところ、驚いて大声を上げたため、警察沙汰になると困ると考え、手拭いで首を絞め、窒息死させた。さらに女性の陰部にいたずらした。
 Sは1950年1月、強盗致傷罪で懲役8年に処せられて、1953年に仮出所。1959年1月、千葉県で強姦致傷、殺人、死体遺棄の罪を犯して無期懲役判決(一審では懲役15年だった)を受け、1976年2月26日に仮出獄。事件当時も仮釈放中だった。逮捕後、時効が成立していたが、1947年10月15日、千葉県にて窃盗目的で侵入し、物色中に家人に目撃されたため、1名を短刀で刺して死亡、もう1名に傷害を負わせた強盗殺人事件を自供している。
 1983年12月26日、前橋地裁で求刑通り死刑判決。1985年1月17日、東京高裁で被告側控訴棄却。1988年5月20日、被告側上告棄却、確定。
 1995年12月21日執行、68歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
12/18 概 要 <「疑惑の銃弾」事件>
 1981年11月18日、三浦和義と妻(34)がロサンゼルス市内で何者かに襲撃され、妻は重傷、三浦も怪我を負った。三浦は意識不明の妻のために奔走し、1982年1月、米軍の病院機で帰国させたが、月末に死亡した。三浦は1億5千万円の生命保険金を受け取った。
 1984年1月〜3月、雑誌「文藝春秋」は「疑惑の銃弾」を連載し、事件と三浦に疑問を投げ掛けた。この特集にテレビ、新聞、雑誌などが追随、報道合戦を繰り広げ、「ロス疑惑」騒動が広がった。3月末には捜査当局も動き始めた。
 1981年8月31日に三浦の妻はロスのホテルで何者かに襲われ、1週間の軽傷を負っていたが、1984年5月に当時三浦と付き合っていた元ポルノ女優が犯人であると警察に名乗り出た。
 さらに三浦の交際相手であったSさん(34)が行方不明になっていることが判明した。Sさんは1979年3月に夫との離婚が成立し、29日にロスへ飛んだ後姿を消していた。三浦は3月27日にロスに行き、4月4日に帰国していた。また、Sさんの銀行口座に振り込まれていた離婚慰謝料のうちから約430万円を三浦が引き出していた。同年5月ロス郊外で身元不明死体が発見されていたが、1984年3月28日にロサンゼルス市警が歯形などからSさんと断定した。
 警視庁は1985年9月、三浦と元女優を殺人未遂容疑で逮捕。元女優は犯行を認めたが三浦は否認。1986年、東京地裁は三浦被告に懲役6年、元女優に懲役2年6ヶ月の実刑判決を下した。三浦被告は控訴した。
警視庁の取り調べはさらに続いていたが、Sさん事件では立件できず、妻の殺害容疑で三浦被告を計画者、同業者のOさんを実行者として起訴した。
 1994年3月、東京地裁で三浦被告に求刑通り無期懲役判決が言い渡された。しかしOさんに無罪判決が下された。さらに1998年7月の東京高裁では、三浦被告、Oさんともに無罪判決が言い渡された。検察側はOさんに対する上告を断念、しかし三浦被告に対しては実行者不明という形で上告した。
 三浦被告は控訴審無罪判決で13年ぶりに釈放されたものの、殺人未遂事件の実刑判決が1998年9月に最高裁で確定。11月に東京拘置所へ収監された。2001年1月に出所している。
 2003年3月5日付で最高裁は検察側の上告を棄却。殺害容疑の無罪判決が確定した。三浦元被告は別に会社の商品を故意に壊して保険金をだまし取った詐欺罪にも問われており、こちらについては懲役1年、執行猶予3年の一・二審判決が確定した。
 三浦元被告は多くの記事に対して名誉毀損を訴え、ほとんどの裁判で勝利している。
 三浦氏は2003年5月には東京都内の書店で雑誌1冊を万引した疑いで現行犯逮捕されたが、不起訴処分になっている。また2007年4月には、神奈川県内のコンビニエンスストアでサプリメントを万引した疑いで逮捕された。略式起訴で罰金刑が下されたが、三浦氏は正式裁判を申し立て、公判では万引を否認した。
 2008年2月22日(現地時間)、ロサンゼルス市警は、米自治領サイパン島のサイパン国際空港で日本からの飛行機を降りた直後の三浦和義氏を、妻殺害における殺人と共謀の容疑で逮捕した。1988年にロス市警が請求、発付されていた逮捕状が執行された。銃撃事件の舞台になったカリフォルニア州では、同じ犯罪行為の刑事責任を何度も追及することを禁じる「一事不再理」の原則を州刑法で定めているが、2004年9月に米国外での裁判に対しては同原則を適用しないと改正されていた。
 三浦氏及び弁護側は移送手続き取り消しと即時釈放の申し立てを行ったが、いずれも棄却。3月3日、サイパン地裁でロサンゼルス市への移送の可否を巡る審理が始まった。3月19日に開かれた審理で弁護側は、逮捕と身柄拘束が合衆国憲法に違反する不当な拘束であるとして、人身保護請求を申し立てた。
 4月23日、三浦和義氏の訴訟の可否を争う審理がロサンゼルス郡地裁で始まった。
 9月12日、三浦和義氏が申し立てた人身保護請求の審理が開かれ、サイパン地裁は請求を却下し、身柄移送命令を出した。
 9月26日、三浦和義氏の逮捕状取り消し請求についてロサンゼルス郡地裁は殺人罪を無効、共謀罪は有効とする決定を出した。決定でバンシックレン裁判官は、殺人罪については「2005年の州法改正前に日本で判決が出ており、改正をさかのぼって適用することはできない」と判断。一事不再理にあたり、米国で再訴追はできないとした。一方、共謀罪については、「『日本の刑法にある共同正犯とは構成要件が違い、一事不再理にあたらない』という検察側の主張に弁護側は十分反証しなかった」との理由で弁護側の主張を退けた。
 9月29日、三浦氏及び弁護側は人身保護請求を取り下げ、ロサンゼルスへの身柄移送に同意した。
 10月10日早朝、三浦氏は米サイパン島からロサンゼルスに移送された。同日夜、三浦氏はロス市警本部の留置場で、Tシャツで首を吊って自殺した。61歳没。遺書は見つかっていない。遺族、弁護側は他殺を主張したが、ロサンゼルス郡検視局は12月3日、ベッドにシャツをくくりつけての首つり自殺と断定する最終報告書を公表した。
 2009年1月14日、ロサンゼルス市警は三浦和義氏がSさんを殺害した容疑者だったと結論づける捜査結果とともに、容疑者死亡により捜査は終結したと公式に発表した。捜査報告では、事件の詳細が不明で新証拠はないとしながらも、事件後に三浦氏がSさんの銀行口座から多額の現金を引き出すなど、以前から明らかになっていた状況証拠から判断したとしている。2010年3月17日、ロス郡検察は、死亡時に対応した市警の看守らに刑事責任はないとし、三浦氏の自殺に関する捜査を終結するとの報告書(2010年1月4日付)を公表した。
文 献 「「疑惑の銃弾」事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「ロス銃撃事件」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収)

足立東『ロス疑惑三浦事件』(霞出版社,1995)

安倍隆典『三浦和義との闘い』(文藝春秋,1985)

飯室勝彦『報道の中の名誉・プライバシー 「ロス疑惑」にみる法的限界』(現代書館,1991)

家田荘子『三浦和義氏からの手紙−「ロス疑惑」の心の検証−』(幻冬舎アウトロー文庫,1998)

北岡和義『13人目の目撃者 三浦事件「ロスからの報告書」』(恒友出版,1984)

現代人文社編集部編『11年目の「ロス疑惑」事件 一審有罪判決への疑問』(現代人文社,1997)

佐々木良次『叫べ! 一美よ、真実を』(双葉社,1984)

島田荘司『三浦和義事件』(角川書店,1997)

週刊文春特別取材班『疑惑の銃弾』(ネスコ,1985)

福田洋『疑惑の銃弾 ロス殺人事件』(日本文華社文華新書,1984)

三浦和義『ネヴァ』(モッツ出版,2001)

三浦良枝『ラヴァ』(モッツ出版,2001)

三浦和義『弁護士いらず』(太田出版,2007)
備 考  

【1982年】(昭和57年)

日 付事 件
2/7 概 要 <西成覚醒剤常習者通り魔事件>
 1982年2月7日午前9時過ぎ、大阪市のアパートの2階に住むH(47)は、妻(34)が食事の用意もせず外出しようとしたのに激怒。台所から刺身包丁を持ってきて妻の胸を刺した。妻は出血多量で死亡。さらに止めようとした一人息子(11)も刺した。錯乱したHは隣の部屋に押し入り、Aさん夫婦をめった刺しにした。Aさん夫婦は血まみれになりながらも、廊下に逃げ出した。Aさんの妻は後に死亡。同じ二階に住むBさんはAさん夫婦を見付け仰天、慌てて自分の部屋に駆け込み、夫に向かって救急車を呼んでと叫んだ。Hはその声を聞きつけ、Bさん宅に飛び込み、たまたま一緒に食事をしていた同じアパートの住人C子さん(49)の胸を刺して殺害。一階に駆け下りたHは出勤しようとしていたDさん(56)の娘E子さん(20)と鉢合わせ。HはいきなりE子さんの顔に切り付けた。悲鳴を聞いて飛び出したDさんの胸にも包丁を刺し、Dさんは死亡。そのまま、表の路地に飛び出したが、通報で駆けつけた警官に逮捕された。
 Hは覚醒剤の常習者で、7年前にも幻覚症状から妻を切り付け、逮捕されていた。生活保護を受けていたが、どこからか金を工面し、覚醒剤を続けていた。近所の人々も彼が覚醒剤常習者だと気付いていて、半年ほど前にも連名で警察に何とかしてくれと届けていた。心神耗弱が認められ、無期懲役が確定。
文 献 「西成覚醒剤常習者通り魔事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
2/24 概 要 <「無尽蔵」殺人事件>
 1982年8月、東京・日本橋の三越デパートで開催された古代ペルシア秘宝展の展示秘宝が全て偽物と判明した。ニセ秘宝のルートに関わると見られる人物である、東京池袋の古美術店「無尽蔵」の店主は、1982年2月末以来失踪していた。警察は、当時「無尽蔵」の店員をしていた男性が店主を殺害、死体を隠したと疑った。9月26日以降、捜査当局は男性を連日2週間にわたって警察へ呼んで取り調べる一方、店主のアパートや男性が当時住んでいたマンションなどの家宅捜査を行った。12月4日、男性を別件の横領で逮捕。もっともこの「横領事件」容疑は骨董業界の商慣習を無視した強引なものであった。後に容疑は私文書偽造・行使、詐欺に切り替えられたが、この容疑もまた日常的な業務の一環として行われたものであり、身柄を確保するための強引な手法であった。警察の厳しい追及を受けた男性は、店主の殺害を自供した。
 1982年2月24日午後7時40分頃、「無尽蔵」店内で男性は店主を激情にかられて撲殺。死体を布で梱包し、翌日夜、車に積み込んだ。さらに10日後の3月6日、神奈川県の運河へ遺棄した、というのが「自白」内容である。ただし、「自白」内容には矛盾点も多く、さらには物的証拠は何一つ発見されていない。警察が「無尽蔵」で採集したという血痕は微量で、しかも人血かどうかさえ不明であった。しかも、犯行日以降に店主にあった者が法廷へ出廷した証人だけで5人もいる。遺体も発見されていない。
 法廷で男性は無実を訴えたが、1985年3月13日、東京地裁で懲役13年の判決が言い渡された。裁判所は目撃証言などは全て否定、自白は全面的に信用できると判断した。1987年5月19日、東京高裁で被告側控訴棄却。1990年6月21日までに、最高裁は上告を棄却し、懲役刑が確定した。
文 献 佐藤友之『夢の屍―無尽蔵殺人事件の謎を追う』(立風書房,1985)
備 考  
3/21 概 要 <黒崎町夫殺害事件>
 1982年3月21日早朝、北海道十勝支庁黒崎町で、牧場経営の男性(56)が自宅近くの路上で血を流して倒れているところを、帰省中の長男が発見。目が覚めると夫がいないと妻(54)が騒いで、探していたものだった。妻は夫が自殺をほのめかしていたと語ったものの、状況は他殺であったため、警察は不信を抱く。牧場とは名ばかりで、1979年からの牛乳生産調整で打撃を受けて30頭ばかりいた乳牛は次々と手放して一匹もおらず、土地の半分はすでに売却し、残りは牧草地として同業者に貸し、わずかな畑で蔬菜造りをすることで急場をしのいでいたが、負債は増加するばかりだった。しかも蔬菜造りをするのは妻であり、夫は本を読むか酒を飲むばかりだった。東京で会社を経営していた夫の兄の援助があったものの、夢ばかり語る夫に呆れ、1年前の秋から援助を打ち切っていた。援助をしていた夫の兄が東京から迎えに来たのを見た妻は、今までの否認を翻して犯行を自供、逮捕された。
 妻は事実関係を争わず、殺意も否認しなかった。近所の同業者からは行き当たりばったりの農政に振り回されたのが原因の一つと同情の声が上がり、黒崎町の有権者の70%以上が減刑嘆願書に署名した。釧路地裁で懲役5年(求刑懲役8年)判決。控訴せず確定。
文 献 「第五話 ロマンの夫婦」(佐木隆三『殺人百科(4)』(徳間書店,1986/徳間文庫,1993)所収)
備 考  
5/27 概 要 <広域重要指定112号事件>
 1982年5月27日、F(当時20)は藤沢市の会社員Hさんの長女(当時16)との交際を断られたことを根に持ってHさん方に押し入り、長女、次女(当時13)、妻(当時45)の母娘3人を次々と刺し殺した。さらに6月、犯行の手助けをし、一緒に逃亡していた元ゲームセンター店員の少年(当時19)を兵庫県尼崎市内で、犯行の発覚を恐れて刺殺した。
 Fはこれに先立つ1981年10月、横浜市戸塚区のキャベツ畑で、金のいざこざから盗みの仲間の無職男性(当時20)を刺殺している。
 1988年3月10日、横浜地裁で求刑通り死刑判決。控訴するも1991年4月、Fは弁護人の制止を押し切って控訴取り下げ書を提出。東京高裁は控訴取り下げは有効と決定し、弁護側の異議申し立ても棄却した。しかし弁護側は特別抗告し、最高裁は1995年6月28日、「判決のショックなどによる精神障害に起因する取り下げは無効」と判断、同高裁での公判再開を決定した。2000年1月24日、東京高裁で被告側控訴棄却。2004年6月15日、被告側上告棄却、確定。
 2007年12月7日、Fは死刑を執行された。47歳没。
文 献 遠藤允『静波の家―ある連続殺人事件の記録』(新声社,1983/講談社文庫,1988)
備 考  
8/19 概 要 <松山ホステス殺害逃亡事件>
 1982年8月19日、愛媛県松山市のマンションからホステスA子さん(31)が失踪。間もなく、郊外の山林に埋められていた遺体が発見された。捜査の結果、店の同僚だった福田和子(34)がA子さんを殺し、現金13万円と家具など956万円相当の品物を盗み、逃亡。犯行から2週間後の8月30日には東京の美容整形外科で隆鼻と二重瞼の手術を受けた。その後、大阪でも鼻と口元の美容手術を受け、各地を転々とした。
 1985年には石川県の和菓子店主Bさんの内妻に納まっていた。Bさんは入籍の話を持ち出すも、福田は返事を保留。1988年にBさんは親戚に事情を説明。ひとりが知り合いの警官に相談を持ちかけ、会ってみようと店を訪ねたら、近くの学校の行事の手伝いをしているという。学校に行くと既に帰ったとの返事。福田は警官の来訪を知り、そのまま自転車で逃亡していた。
 時効直前、愛媛県警や整形外科医は福田に懸賞金をかけ、それをマスコミが大々的に報じた。福井市内のおでん屋の女将と常連客は、手配写真が時々現れる客にそっくりであることに気付き、通報。1997年7月29日、福田は逮捕された。時効成立の3週間前だった。
 福田は裁判で、強盗目的ではなくA子さんとの競争心、嫉妬心が動機であることを主張。1999年5月31日、松山地裁は強盗目的と認定し、求刑通り一審無期懲役判決。二審ではさらに同性愛からのもつれである偶発的犯行と主張したが、2000年12月13日、高松高裁で被告側控訴棄却。2003年11月18日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 福田受刑囚は、和歌山刑務所に服役中の2005年2月末、刑務所内で倒れ、和歌山市内の病院に搬送されたが、3月11日、脳梗塞のため死亡。57歳没。
文 献 「松山ホステス殺害逃亡事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

大下英治『福田和子 整形逃亡5459日』(廣済堂出版,1998)(『魔性』(徳間文庫,2001/新風舎文庫,2006)と改題)

大庭嘉文『逃げる福田和子 極限生活15年の全真相』(リヨン社,1999)

佐木隆三『悪女の涙 福田和子の逃亡十五年』(新潮社,1998)

福田和子『涙の谷』(扶桑社文庫,2002)

松田美智子『整形逃亡 松山ホステス殺人事件』(幻冬舎アウトロー文庫)
備 考  
12/12 概 要 <戸塚ヨットスクール事件>
 戸塚ヨットスクールは、太平洋横断単独ヨットレース優勝者でもあった戸塚宏校長が、家庭内暴力や登校拒否などの情緒障害児を集団生活とヨット訓練によって矯正、治療を目的として開校された。規律第一で、違反すれば厳しい体罰が加えられる過酷なものであったが、スパルタ式教育で心身とも健康になった子供も多かった。
 1980年11月、大学受験生Yさん(21)が暴行による外傷性ショックにより死亡。1982年12月12日、訓練中の学生(13)がヨット上で角材で殴られ、死亡した。また1982年8月には、高校生M君、S君(ともに15)が、鹿児島県・奄美大島の夏季合宿の帰途、フェリーから海に飛び込み行方不明となっていることも判明した。他に1979年2月にも少年(13)が死亡しているが、こちらは病死として不起訴となっている。
 1983年6月13日、愛知県警は戸塚校長や関係者を逮捕。逮捕者は計20人、傷害致死罪、監禁致死罪などで起訴されたのは14人にのぼる。9月30日、ヨットスクールは自主閉鎖した。裁判は9年近く続き、1992年7月27日、名古屋地裁は戸塚校長に懲役3年・執行猶予3年(求刑懲役10年)、他の9被告に執行猶予付の懲役2年6ヶ月〜1年6ヶ月の有罪判決を言い渡した。ところが名古屋高裁は1997年3月12日、「無抵抗な訓練生に暴行を加えた犯行は悪質残忍」として一審判決を破棄、戸塚被告に懲役6年、コーチら3人に懲役3年6月〜2年6月の実刑を、元コーチの2人に懲役2年6月〜2年、執行猶予4〜3年を言い渡した。2002年2月27日、最高裁は上告を棄却、刑は確定した。
文 献 「戸塚ヨットスクール事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

有園幸生写真『戸塚ヨットスクール地獄の曳航』(レインボー企画,1983)

戸塚宏『私が直す』(飛鳥新社,1983)

戸塚宏『私はこの子たちを救いたい』(光文社カッパブックス,1983)

戸塚宏『孤独の挑戦』(ズーム社,1983)
備 考  戸塚宏は1986年に保釈され、ヨットスクールを再開。2009年現在もヨットスクールは戸塚たちの手によって運営されている。

【1983年】(昭和58年)

日 付事 件
1/7 概 要 <千葉大女医殺人事件>
 1983年1月7日午前4時頃、千葉市の路上で千葉大医学部の女性研究医(25)の死体が発見される。警察は顔見知り、行きずりの両面から捜査を開始し、22日、夫である千葉大附属病院研修医S(25)を逮捕した。二人は大学の同級生で、1年生の7月から付き合い始め、4年生の時からは同棲。卒業後の1982年4月に結納を交わして婚約。10月に帝国ホテルで結婚式を挙げた。Sは女性研究医の婿養子であり、病院を経営している妻の父親から自宅を新築、就職の世話もしてもらっていた。しかし女遊びの癖がついており、1982年6月下旬には千葉しないのトルコ風呂で女姓と親しくなり交際を続け、10月下旬には千葉市内のパブレストランでフィリピン人ダンサーと知り合って付き合っていた。1982年末、出張だと偽り、地方巡業しているダンサーと愛媛県で密会。帰宅後の6日、妻から女性関係、金銭問題で追求され逆上。実家に帰ろうとした妻の首を電気コードで絞めて殺したものだった。我に返ったSは強盗に襲われたように偽装するため、遺体を付近の路上に放置した。
 Sは2月に養子縁組を解消し旧姓のFに戻った。Fは取調中も不可解な言動を続け、1983年4月1日からの初公判では起訴事実を否認。その後は妻から自殺したいと頼まれたので殺したと嘱託殺人を主張。その後の言動も子供じみていた。1984年6月1日、千葉地裁で懲役13年(求刑懲役15年)判決。1987年、12月10日、東京高裁で被告側控訴棄却。
 1990年3月15日、最高裁第二小法廷で被告側上告棄却。特別抗告中の3月22日、東京拘置所の独居房で、畳から抜いた糸を首に巻き付け、ペンを差し込んで捻って首を絞めて自殺。判決が確定する前に死亡したため、公訴は棄却された。医師の資格も剥奪されなかった。
文 献 「千葉大女医殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版)所収)

「千葉大女医絞殺事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「千葉大女医殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

恋塚稔『虚構の館 小説・千葉大女医殺人事件』(評伝社,1983)

佐木隆三『千葉大女医殺人事件』(徳間書店,1984/徳間文庫,1989)(改題『女医絞殺』(小学館文庫 隣りの殺人者4,2000)
備 考  Fと付き合っていたフィリピン人ダンサー(19)は、2月に帰国。5月中旬、歌手として日本でデビューすると発表された。6月25日に徳間温工からレコード「LOVE・忘れないわ」が、7月にイメージビデオが発表された。本人は6月下旬にキャンペーンで来日する予定だったが、Fの弁護士が証人出廷を法務省を通じて要請し、政府間交渉で本人の意思を確認したところ拒否したため、ビザが発給されなかった。その後、入国を認められて巡業をしていたらしい。
1/14 概 要 <北海道拓殖銀行木更津支店強盗殺人事件>
 1983年1月14日、千葉県木更津市の北海道拓殖銀行木更津支店に集金帰りの男性銀行員(33)が駐車場で車から降りたとき、刺身包丁を持った男が鞄をよこせと要求。男性は大声を発したため鞄の取り合いになり、男が包丁で男性を何度も刺した。そこへ通用口から数人が現れたため、男は隣接するスーパーマーケットの駐車場に逃げ、徐行中のバイクの荷台に飛び乗り、運転手を脅して逃亡したがすぐに追手が男性の背中を鉄パイプで殴ったため転がり落ち、そのまま近くの家具店の駐車場から1階の売り場に逃げ込んだ。カウンターにいた女性レジ係(22)を脅して人質にしようとしたが、駆けつけた警官がピストルを向け、ひるんだすきに警棒で包丁を叩き落とし現行犯逮捕した。男性は防衛庁航空自衛隊の一等空曹Y(44)で、同日付で懲戒免職となっている。Yは1981年ごろに建てた住宅などで2300万円を借金し、月々17万円返済していたことから生活費に困ってサラ金に手を出し、約200万円を借りていた。事件後、1978年1月8日の千葉銀行木更津支店の駐車場で銀行員から預金通帳3通を奪った強盗事件についても認めた。
 1983年8月11日、千葉地裁木更津支部は求刑通り無期懲役判決を言い渡した。控訴せず確定。
文 献 「第一話 サラリーマン金融殺人事件」(佐木隆三『殺人百科(4)』(徳間書店,1986/徳間文庫,1993)所収)
備 考  
1/16 概 要 <パチンコ景品商殺人事件>
 寿司店経営S(51)は、二人目の子供が産まれて金に困り、ギャンブルに手を出したが、約300万円の借金を抱えることになった。その返済に困り、1983年1月16日、東京都内で知人のパチンコ景品買い業者(69)に借金を申し込んだものの断られ、持ってきた石塊で殴打するなどして殺害、現金128万円を奪った。
 Sは1950年7月に強盗殺人罪で無期懲役の判決を受け、1975年に千葉刑務所を仮釈放。仮出所後7年目の事件だった。
 1984年1月23日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1985年7月8日、東京高裁で被告側控訴棄却。1991年2月5日、被告側上告棄却、確定。
 1998年6月25日、Sは死刑を執行された。66歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
1/19 概 要 <赤穂母子殺人事件>
 会社員N(32)はゲーム機とばくに凝ったことためサラ金から借りた多額の負債返済に窮し、保険証を奪うことを計画。1983年1月19日夜、兵庫県赤穂市内の同僚方へ電話をし、同僚の妻(33)に対し、同僚が自殺未遂の果てに病院にいるので保険証が必要である旨嘘をついておびき出し、長男(当時4)を連れてきた妻を自動車に乗せて走行し兵庫県内の人気のないところに停車し、午後11時頃、ひもで妻の頸部を強く絞めて殺害し、保険証と印鑑を奪った。さらに寝ていた長男を橋の上から23m下の千種川に投げ込み、水死させた。奪った健康保険証を使ってサラ金から現金100万円を詐取した。妻の死体は海中に投棄した。搾取した金は賭博ゲームに使用した。
 1984年7月10日、神戸地裁姫路支部で死刑判決。1987年1月23日、大阪高裁で控訴棄却。1992年9月29日、最高裁で死刑確定。
 殺意はなかったと、再審請求と恩赦を繰り返し出願していた。2007年4月17日、第五次恩赦請求棄却。第五次再審請求の準備を始めた2007年4月27日、死刑執行、56歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
1/29 概 要 <元昭石重役一家殺人事件>
 保険代理店を経営していたI(42)は、伯父で元昭和石油重役(76)に借金を申し込んで断られたため、1983年1月29日午前1時ごろ、元重役方に侵入。元重役と妻(当時62)と妻の母(当時91)の3人を殺害。死体を台所の床下に隠し、奪った預金通帳を使って約400万円をおろした。
 1984年6月5日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1985年11月29日、東京高裁で被告側控訴棄却。1988年10月24日、天皇陛下ご逝去に伴う恩赦を期待して、上告取り下げ。ただし、恩赦にならなくても悔いはないと家族に伝えたらしい。1996年12月20日執行、55歳没。
文 献 清水一行『惨劇 石油王血族』(光文社文庫,1991)
備 考  
1/31 概 要 <勝田清孝連続殺人事件>
 元消防士勝田清孝(旧姓)被告は以下の事件を引き起こした。
  1. 1972年9月13日、京都市に住むホステスの女性(当時24)方に盗みに入って見つかったため強姦、現金1000円を奪った後、首を絞めて殺害した。
  2. 1975年7月6日、大阪府にあるマンションの通路で、帰宅途中でクラブママの女性(当時35)からハンドバッグを奪おうとして抵抗されたため絞殺、ハンドバッグに入った現金約10万円を奪った。さらに女性の車に乗って遺体を農業用水路へ遺棄するとともに、指紋の付いた車に放火した。
  3. 1976年3月4日、名古屋市の道路上を通行中の女性(当時32)からショルダーバッグを奪おうとして騒がれたため女性を絞殺。現金約12万円を奪った。死体は長久手町の休耕地に遺棄し、痴情による犯行に見せかけるため偽装した。
  4. 1977年6月30日、名古屋市に住むホステスの女性(当時28)宅に侵入。現金4万円を奪って逃走しかけたときに女性に発見されたため絞殺した。
  5. 1977年8月12日、空き巣目的で入った名古屋市内にあるマンションの廊下ですれ違った美容師の女性(当時33)にとがめられたため、女性を玄関内へ押し戻して暴行中、顔を見られたとして女性を絞殺、約45万円相当の指輪を奪った。
  6. 1977年12月13日、盗んだ散弾銃を使い、神戸市で集金帰りの銀行員の男性(当時25)を脅して現金を奪おうとしたが抵抗されたため射殺、現金410万円を奪った。
  7. 1980年2月15日、名古屋市で信金職員に散弾銃を突きつけてを脅し、小切手などを奪った。
  8. 1980年7月30日、名古屋市のスーパーにいた夜間店長(当時35)に散弾銃を押しつけて脅迫、現金576万円を奪った。店長を縛り上げようとしたが抵抗されたため射殺した。
  9. 1982年10月27日、名古屋・千種署田代北派出所から巡査をおびき出して車ではね重傷を負わせ短銃を強奪した。以後の事件は後に「警察庁広域重要指定113号事件」として指定される。
  10. 静岡県浜松市のスーパーに侵入し、拳銃で店長を脅かしたが抵抗されそのまま逃走した。
  11. 10月31日、滋賀県内でヒッチハイクした車の中で千葉県市原市の工員男性(当時27)を射殺し、現金約4万円を奪った。
  12. 11月1日、滋賀県養老郡でガソリンスタンドを襲い、1人に重傷を負わせた。しかし現金を奪うことはできなかった。
  13. 11月28日、京都市のスーパーに侵入。店員を拳銃で脅かし、現金約150万円を奪った。
  14. 1983年1月31日、名古屋市の銀行駐車場で客を拳銃で脅かしたが、周囲にいた店員たちに取り抑えられ、強盗致傷の現行犯として逮捕された。
 現行犯逮捕後、1〜8について自分から進んで供述した。いずれも迷宮入り目前となっていた。幾つかの事件では別の人物が犯人ではないかと警察から過酷な取り調べを受け、容疑者扱いされた結果妻と離婚をしたり、職場を辞める羽目になった者もいる。中には別件の微罪で実刑判決を受けた者もいる。報道では最大22人の殺害を自供したと書かれたが、勝田も警察側も否定している。
 1980年10月28日、大阪市で車上狙いの現行犯として逮捕された。1981年1月、窃盗他の罪により大阪簡裁で懲役10月、執行猶予3年の判決を受け、2月に確定している。この結果、それ以前の7件の強盗殺人などと、それ以降の短銃強奪による一連の警察庁指定113号事件の2グループに分けて起訴され、検察側はその両方について死刑を求刑した。
 1986年3月24日、名古屋地裁で死刑判決。1988年2月19日、名古屋高裁で被告側控訴棄却。1994年1月17日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 勝田は死刑確定後、点字のボランティアに勤しんでいた。
 2000年11月30日、勝田は死刑を執行された。52歳没。
文 献 「勝田清孝連続殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「勝田清孝連続殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

大下英治『勝田清孝の冷血』(現代書林,1983)後に『勝田清孝事件―冷血・連続殺人鬼』(新風舎文庫,2005)と改題

勝田清孝『冥界に潜みし日々』(創出版,1987)

来栖宥子『113号事件 勝田清孝の真実』(恒友出版,1996)

「不幸を撒き散らす男―『勝田清孝・広域重要手配一一三号事件』」(池上正樹『TRUE CRIME JAPANシリーズ2 連続殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

「第七話 疾走する消防士」(佐木隆三『殺人百科(4)』(徳間書店,1986/徳間文庫,1993)所収)

福田洋『連続殺人』(双葉ノベルス,1986)(『近畿・東海連続殺人』(双葉文庫,1988)と改題)

「点訳奉仕で身を粉に―罪障の償い―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「勝田事件 勝田清孝」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  一人が二度の死刑判決を受けて確定したのは戦後二人目。最高裁判決では初めて。
2/10 概 要 <横浜浮浪者襲撃殺人事件>
 1982年12月半ばから、横浜市内のマリナード地下街、横浜スタジアム、山下公園などでホームレスが襲われる事件が続出した。1983年2月10日早朝、横浜市中区の松影公園で、43歳のホームレスが頭から血を流して死んでいるのが発見された。2月12日、神奈川県警合同捜査本部は横浜市内の中学生を含む少年10人を傷害致死の疑いで逮捕した。メンバーは市立中学生が5人、定時制高校生が1人、無職少年が4人だった。彼らはゲームセンターなどで遊んでいるうちに徒党を組むようになり、退屈しのぎにホームレス狩りを始めるようになった。彼ら10人にはいずれも補導歴があり、しかも複雑な家庭環境を経験していた。2月5日夜も、横浜スタジアムでホームレス9人を次々に襲って重軽傷を負わせた。さらに山下公園で60歳のホームレスに殴る蹴るの暴行を加えた。このホームレスは2月7日に死亡した。
 被害者の証言ではほかに幾つかホームレス狩り集団があったらしい。このグループについては横浜スタジアムでの暴行事件、山下公園のでの殺人事件しか特定できなかった。横浜家裁は9人を少年院に、1人を救護院へ送致する決定をした。
文 献 「横浜中学生ホームレス狩り事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
2/23 概 要 <横浜老女強盗殺人放火事件>
 少年院3回、刑務所5回と、15歳から31年間で娑婆にいたのは11ヶ月と2週間というS(46)は1983年2月5日に満期で横浜刑務所を出所。横浜に住む母のアパートにいたが、4日後から盗みを再開。2月23日、Sは横浜市金沢区の家へ盗みに入ったが、家人の老女(63)が帰ってきた。Sは老女を押さえつけたが抵抗されたため、所持していた日本刀で殺害。現金を盗んだ後、家に火を付けて全焼させた。3月12日、Sは別の強盗事件で逮捕。4ヶ月後、殺人を自供した。さらにSは、32年前に幼女(3)を溜め池に放り込んで殺害したことも上申書として提出した。この件は既に時効となっている。
 Sは服役前の強盗2件を含む窃盗10、強盗6、強盗殺人1、強盗強姦1、現住建造物等放火2、傷害1、銃砲刀剣類所持等取締法違反1件の合計22件で起訴。後日、独房内で暴れた器物損壊1と傷害1が追加された。
 1986年3月25日、横浜地裁は無期懲役+懲役5年(求刑死刑+懲役7年)を言い渡した。Sは控訴したが2ヶ月後に取り下げた。検察側は控訴していなかったため、刑は確定した。
文 献 吉田和正『死刑を志願した男』(三一書房,1992)
備 考  
6/19 概 要 <練馬OLラストダンス殺人事件>
 1983年7月30日、練馬区にあるアパートの部屋からの悪臭に耐えかねた住人たちの訴えにより、大家が合い鍵を使って中に入り、奥にある六畳間の床板をはがしたところ、パンツ一枚の男性の腐乱死体が出てきた。その部屋に住んでいるのはOLであるK(23)であり、週末には実家の横浜へ帰っていた。そこで警察が横浜へ急行し、Kに任意同行を求めるとあっさりと自供した。被害者は鎌倉市の料亭経営O(28)であった。二人は大学の映画研究会の先輩、後輩ですぐに付き合うようになり、結婚の約束を交わした。Oは大学卒業後、機器メーカーに就職していたが、2年後に退社し、料亭を継いだ。その頃からKは、向上心を失っていくOへの愛情を失っていった。Kは大学卒業後就職し、別れ話を持ち出した。しかし結局ずるずる付き合い続けていた。
 6月17日、悩んだあげくKは殺害を決意。18日、Kのアパートへ来たOとデートをし、料理をして一緒に食べた。ラジオの音楽に合わせてダンスを踊り、セックスをした。19日午前0時頃、眠ってしまったOの首を電話のコードで絞めて殺害。鎮痛剤20錠を飲み、果物ナイフで手首を切り、ガスを漏出させたが、死ぬことは出来なかった。その後、Kは死体が白骨化するのを待ち、ふたりで旅行したことのある佐渡で遺骨を抱いて死のうと決意。8月末までに会社を辞めると伝えてあり、それまで彼女は床下に死体を隠し、一緒に暮らしていた。
 Kは逮捕後も食事を拒否した。精神鑑定で離人症を主張、抑鬱症状を伴っている神経症状にあったと判断された。ただし、完全責任能力と限定責任能力の両論が併記されるという珍しいケースとなった。1985年1月22日の東京地裁で懲役9年判決(求刑懲役12年)。弁護側が量刑不当と控訴。11月28日の東京高裁判決で、情状酌量の余地ありということで懲役7年の判決が下された。
文 献 「練馬OLラストダンス殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  1983年8月20日(起訴翌日)付の朝日新聞夕刊の「ニュース三面鏡」で、捜査本部が押収した便箋13枚の手記をスクープで紹介。それは弁護人が知らない間に開示したものだった。しかも「みっぽさん」宛の手記の「みっぽさん」を犯人自身であると記事で報道するも、それは被害者の友人女性であり完全な誤報であった。
6/27 概 要 <練馬一家五人殺人事件>
 東京杉並区の不動産鑑定士朝倉幸治郎(48)は、練馬区の洋書販売会社課長Sさん(45)が貸借して住んでいた家と土地が東京地裁の競売にかけられているのを知り、1983年2月、約1億円を支払って所有権を得るとともに、6月末に引き渡す転売契約を4月中旬に別の会社と結んだ。ところがSさん一家はまったく立ち退こうとしない。一度は民事に訴えるも、Sさんが転居を認めたことにより朝倉は訴えを取り下げた。ところがその後、Sさんは転居を再び拒否。引き渡しが出来ない場合、違約金3000万円を支払うことになる。焦った朝倉はSさんのところへ何回も訪れるも、家族の反応は冷ややかだった。
 1983年6月27日昼、再びSさん宅を訪れた朝倉は妻のS子さん(41)をいきなり金槌で殴り殺し、続いて次男(1)、三女(6)を殴殺、絞殺。まもなく帰宅した次女(9)も絞殺。夜、Sさんが帰ってくると、持ってきた鉞で切り付け、失血死させた。その後、死体をバラバラにし、ミンチ状にした。家を出たところを近所から不審の電話をもらった警察官に見とがめられ逮捕。「骨まで粉々にしてやりたかった」と自供した。次男は翌日死亡。長女(11)だけは林間学校に行っていたため、命拾いした。
 1985年12月20日、東京地裁で死刑判決。1990年1月23日、東京高裁で控訴棄却。1996年11月14日、最高裁で死刑確定。2001年12月27日、死刑執行。66歳没。
文 献 「練馬一家五人殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「練馬区一家五人惨殺事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「立ち退き話のもつれが招いた惨劇」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)

「練馬一家5人惨殺事件 朝倉幸治郎」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  立ち退きのトラブルとあるが、どちらが悪いかといえば立ち退かなかった一家の方であることは、法律的に見て明らかである。だからといって、Aのやった行為をかばうわけではないのだが、やりきれないものが残ることは確かである。
9/6 概 要 <杉並看護学生殺人事件>
 1983年9月6日午前2時40分頃、東京都杉並区の電気工事業A(35)は、杉並区のアパートに一人暮らしをしている看護学校生の女性(26)の部屋に侵入。寝ていた女性の首を両手で絞めて殺してから乱暴、ナイフで遺体の下腹部を切り取るなどした。
 Aは強姦致死、殺人、死体損壊の罪で逮捕された後自供したが、公判では「乱暴はしたが、殺したり死体を傷つけたのは、自分が逃げた直後に侵入した別人の犯行」と主張した。A及び弁護側は(1)被害者の首や背中の傷は、検察側が主張する犯行の態様ではできない(2)凶器とされた電気工事用のナイフからは血液反応が出ていない(3)被害者が殺害された時間帯には、被告は自宅に帰りテレビを見ていたアリバイがある(4)侵入、逃走の仕方や犯行時の履物、現場の足跡や血痕など、自白の内容と多くの食い違いが見られる。以上より、一連の犯行を認めた捜査段階での自白に信用性はないとした。
 1985年7月の東京地裁判決で、裁判長は被告の自白調書の信用性を一括して否定、凶器とされたナイフが犯行に使われたとは認められないなど証拠に疑問を投げかけた弁護側の主張に沿う判断を示したものの、「被害者の隣人らの証言、室内や遺体の状況から見て、一連の犯行を2人以上の人間が行ったとは考えられず、1人の人間が続けて行ったもの」と判断。求刑通り無期懲役を言い渡した。
 被告側は控訴したが、1987年2月に控訴棄却。1989年3月に上告が棄却され、刑が確定した。
文 献 五十嵐二葉『殺さなかった ドキュメント杉並看護学生殺し事件』(恒友出版,1988)
備 考  一審では、被告に現場で犯行を再現させた捜査側のビデオが証拠として出され、その信用性なども問題となったが、東京地裁裁判長は「犯行再現ビデオ」一般の信用性については触れず、その中身の信用性を退けた。
12/18 概 要 <桐生独居老人殺人事件>
 1983年12月18日、群馬県桐生市にある木造アパートの部家で、中年の女性2人が部家の住人である男性老人(84)を絞殺。部家を物色して現金と印鑑、90万円ほど入った預金通帳を盗んだ。翌日、女性は銀行で90万円を引き出した。
 捜査の結果、静岡県三島市に住む主婦O(49)とK(50)が浮上。翌年1月8日、任意同行された2人は犯行を自供、逮捕された。Oは1800万円、Kは360万円と2人ともサラ金から多額の借金をしていたため、Oがかつて桐生市に住んでいたときに面識のあった老人を殺害する計画を立て、相談。すぐにKも承諾した。二人は老人の家を訪ね、強引に泊めさせてもらい、犯行に及んだものだった。
 1985年3月13日、前橋地裁桐生支部で求刑通り無期懲役判決。2人とも控訴せず確定。
文 献 「独居老人殺人事件―『O・サラ金地獄による犯行』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)
備 考  

【1984年】(昭和59年)

日 付事 件
1/10 概 要 <北海道男児行方不明事件>
 1984年1月10日午前9時35分ごろ、札幌市豊平区の自宅で電話を受けたH君(当時9)が「ワタナベさんのお母さんが、ぼくの物を知らないうちに借りた。それを返したいと言っている」と家族に伝えて外出し、行方不明になった。
 88年6月、Kが以前住んでいた農家の納屋からポリ袋に入った人骨片などが見つかった。行方不明となった当時、H君の自宅近くに住んでいたKは任意の事情聴取に対し、関与を否定した。
 殺人事件の時効成立2ヶ月前である98年11月、道警はDNA鑑定により人骨片がH君のものと断定し、Kを逮捕した。 借金636万円の返済を迫られていたために身代金目的で誘拐したが、犯行発覚を恐れて殺害したというのが動機とされた。しかし「詳細な殺害方法は不明」であり、Kは完全黙秘を続けたため、事件の全容については明らかになっていない。
 2001年3月、札幌地裁において検察側は無期懲役を求刑するも証拠不十分により無罪判決。検察側は事実誤認を理由に控訴するも2002年3月19日、札幌高裁は一審判決を支持。K被告の無罪が確定した。
 Kは2002年5月1日までに、1998年11月の逮捕から2001年5月の釈放までに至る928日分について、1日あたり12,500円、合計1160万円の刑事補償と裁判費用を札幌地裁に請求。11月18日、1日10,000円、計928万円の刑事補償が決定した。裁判費用については約250万円を認めた。
文 献 「北海道男児行方不明事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「「完黙の女」は紅蓮の炎を見つめた−札幌「社長令息」誘拐殺害事件」(「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫,2002)所収)
備 考  
2/13 概 要 <学童誘拐殺人事件>
 1984年2月13日、T(44)は借金に困り、福山市議の長男で自分がコーチをしている少年ソフトの児童(9)を誘拐して殺害した。その後、身代金1000万円を要求するも、受け取りに失敗。逮捕される。会社の経営が苦しくなり、サラ金から借りた金の返済が動機。Tは1991年6月11日、最高裁で死刑確定。1998年6月25日執行、59歳没。
文 献 「境界線」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1993)所収)

大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  1980年、似たような誘拐事件が山梨であった。このK(というか、その家族)は被害者の遺族に慰謝料を支払った。そのせいか、Kは一審こそ死刑だったものの、二審では無期懲役に減刑され、確定した。しかしTにはそんな金はなかった。もちろん、慰謝料を支払うというのは罪を悔いている証明の一つかも知れないが、同様・同時期の事件で片や死刑、片や無期懲役というのも残酷である。と同時に、裁判官の裁量一つで死刑、無期懲役が決まってしまう法律の矛盾を示している。
3/12 概 要 <横浜・東高校生殺傷事件>
 1984年3月12日、学校から帰宅途中の4人の高校1年生の背後から、男性が運転する車が加速して突っ込み、はね飛ばした。1人は衣服ごと車のシャフトに巻き込まれ、約100mひきずられた。さらに男性は車から降りて登山用ナイフを持ち出し、倒れて動けなくなっていた3人を次々に刺した。1人(16)が死亡、3人が重傷を負った。
 H(26)はその場で逮捕。Hは前年7月18日にも、傷害容疑で逮捕されていたが、心神喪失で不起訴になっている。Hは精神分裂病の疑いで1982年、83年と医師にかかっていたが、きちんとした治療は受けていなかった。男性の精神鑑定の結果、横浜地検は7月14日、心神喪失を理由に不起訴処分とした。
 Hは不起訴処分後、措置入院となったものの、わずか3ヶ月で開放治療に切り替えられ、その4ヶ月後には自宅に戻っている。
文 献 野口幹世『犯人を裁いて下さい―横浜・東高校生殺傷事件の被害者は訴える』(星雲社,1985)
備 考  
3/18 概 要 <グリコ・森永事件>
 1984年3月18日夜、江崎グリコ社長E氏(42)が兵庫県の自宅で入浴中、銃を持った三人組の男に連れ去られた。犯人組は金塊100kgと十億円の身代金を要求。しかしE氏は21日に大阪府茨木市の倉庫から自力で脱出。犯人組は4月10日、江崎グリコ本社などに放火した。4月12日、警察庁は広域重要指定第114号事件に指定した。
 4月22日、犯人組は初めて“かい人21面相”と名乗る挑戦状をマスコミに出した。5月10日には「グリコ製品に青酸ソーダを入れた」との脅迫状が届く。グリコは28日、裏取引に応じるも犯人は現れなかった。6月22日には丸大食品に脅迫状が届く。6月26日には「グリコゆるしたる」の声明文が届く。9月12日には森永製菓に脅迫状。10月中旬、大阪、兵庫などのスーパーで青酸入りの菓子が発見された。11月7日にはハウス食品に脅迫状が届く。11月14日、森永との取引場所に犯人が現れるも、警察の横の連携が取れておらず、犯人を取り逃がした。12月7日には不二家に脅迫状が届いた。1985年2月には東京、名古屋で青酸入りの菓子が発見される。2月27日「森永ゆるしたろ」の終結宣言。8月7日、前滋賀県警本部長が自殺した。8月12日、犯行終結宣言が届き、以後の連絡はなくなった。
 2000年2月、全ての事件について時効が成立した。
文 献 「グリコ・森永事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「グリコ・森永事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「警察とマスコミを手玉にとった「かい人二十一面相」『グリコ・森永事件』」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ5 迷宮入り事件』(同朋社出版,1996)所収)

朝日新聞大阪社会部『グリコ・森永事件』(朝日新聞社,1985/朝日文庫,1994加筆/新風舎文庫,2004)

NHKスペシャル取材班『未解決事件 グリコ・森永事件~捜査員300人の証言』(文藝春秋,2012)

情報研究所編『21面相の手記』(データハウス,1985)

一橋文哉『闇に消えた怪人』(新潮社,1996/新潮文庫,2001)

小田晋『グリコ・森永事件』(朝日新聞社,1985)

グリコ・森永事件取材班『グリコ・森永事件中間報告』(山手書房,1984)

グループばぐ『かい人21面相の戦争』(泰流社,1985)

宮崎学・大谷昭宏『グリコ・森永事件 最重要参考人M』(幻冬舎/幻冬舎文庫,2000)

森下香枝『真犯人 グリコ・森永事件「最終報告」』(朝日新聞社,2007)
備 考  
3/23 概 要 <山下事件>
 1984年3月23日朝、横浜市の会社員Yさん(45)が起きたところ、隣で寝ていた妻のNさん(44)が亡くなっていた。Yさんはすぐに病院等に連絡を入れた。ところが警察がやってきて、Nさんは変死扱いということで解剖、扼殺と判断され、Yさんが逮捕された。取り調べで「自白」を強要。Nさんは重い心臓病であり、裁判で弁護側は、死体に扼痕が残っていない、頭部内出血は薬によるものであり、病死であると主張。第三者鑑定で東大法医学教室が乗り出し、I教授は殺人と判定。ところが裁判所は、弁護側が要求した第四鑑定を認め、藤田学園保健衛生大学法医学教室のN教授は病死と判定。1987年11月10日、横浜地裁で無罪判決(求刑懲役8年)。検察側は控訴せず、そのまま確定。
文 献 「山下事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人−東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)
備 考  
4/11 概 要 <史上最大拳銃密輸事件>
 1984年4月11日、東京の暴力団員らが貨物船のコンテナに短銃や実弾などをフィリピンから逆輸入しようとしたところを警視庁保安一課と東京税関が見つけ、5人を銃刀法違反で逮捕した。押収されたのは短銃351丁、実弾5564発にのぼる。短銃はS&W(スミスアンドウェッソン)、コルト、ルガーなどで、一部には米軍の刻印が入っていたことから、米軍から流出されたものと思われたが、実際はフィリピンで作られた海賊版だった。
 拳銃を送り出したKはフィリピンで逮捕され、日本へ強制出国させられた。懲役15年の判決を受けている。
文 献 金田仁『流転 「拳銃密輸王」と呼ばれて』(日本文芸社,2009)
備 考  Kは忌野清志郎を発掘し、RCサクセションをデビューさせた人物としても知られている。
5/5 概 要 <夕張保険金目当て放火殺人事件>
 H夫婦(41、38)は1984年5月5日、暴力団員に命令し、保険金目当てに自分の会社の従業員宿舎に放火させ、従業員4人、子供2人が焼死した。また消火時に消防士1名が殉職している。H夫婦は保険金約1億3800万円を騙し取った。しかし殺害されると思った実行犯である暴力団員の訴えにより、H夫婦は逮捕された。H夫婦は放火こそ認めたが、殺意は否認した。1987年3月9日、札幌地裁で一審死刑判決。共犯の暴力団員は分離公判で無期懲役判決がそのまま確定した。
 H夫婦は控訴したものの、昭和天皇崩御に伴う恩赦を期待して1988年10月11日に妻が、13日に夫が控訴を取り下げたため、死刑判決は確定した。恩赦はなく、夫は1996年5月、控訴取り下げは恩赦があると誤解したためなので無効であるとして札幌高裁に対し審理再開申立を行った。8月、札幌高裁は訴えを棄却。最高裁に対する特別抗告も1997年6月に棄却。
 1997年8月1日に死刑執行。夫54歳没、妻51歳没。夫婦ともへの死刑判決確定及び執行は戦後初。妻は戦後3人目の女性死刑執行者となった。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

原裕司『極刑を恐れし汝の名は―昭和の生贄にされた死刑囚たち』(洋泉社,1998)

「夕張従業員殺傷放火事件」(室伏哲郎『保険金殺人−心の商品化』(世界書院,2000)所収)
備 考  
9/4 概 要 <元警官強盗殺人事件>
 1984年9月4日、京都市上京区の船岡山公園を巡回中の京都府警西陣署巡査(30)が元同府警巡査部長の広田雅晴(41)に襲われ、刃物で刺されたうえ携帯していた短銃で撃たれて死亡した。短銃を奪った広田は、約3時間後に大阪市都島区のサラ金店に押し入り従業員(23)を射殺し、現金73万円を奪って逃走。警視庁広域重要指定115号事件に指定される。翌日、千葉県の実家に戻ったところを逮捕された。広田は現職警官だった6年前に郵便局強盗をして服役、8月30日に仮出所したばかりだった。
 1988年10月25日、大阪地裁で死刑判決。1993年4月30日、大阪高裁で控訴棄却。1997年12月19日、最高裁で死刑確定。無実であると訴え、再審請求を繰り返している。
文 献 「元警官強盗殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「元警官強盗殺人事件 広田雅晴」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
10/6 概 要 <調理人妻殺害事件>
 1984年10月6日午後、板橋区のアパートで主婦Sさん(26)が胸を刺されて殺害された。Sさんは妊娠9ヶ月だった。深夜、夫で調理人のF(24)が自供、殺人の容疑で逮捕された。給料のことで強くなじられたことにカッとなったのが動機と語った。
 1986年7月、東京地裁第5回公判で「精神分裂症で責任能力なし。決定的誘因は、カナダの日本大使館高官との同性愛体験による」との鑑定書が出された。Fは1979年から1981年の約1年半、駐カナダ日本大使館の公使公邸に勤務していたが、この公使に同性愛体験を押しつけられていた。給料が動機と話していたが、実際は充分な給料をもらっており、真の原因は同性愛体験によって精神のバランスが崩れていたことであることがはっきりした。なおこの高官は週刊誌のインタビューに対し、原則論を繰り返すのみであった。
文 献 「外務省高官によってホモにされた男の妻殺し」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
10/11 概 要 <山中湖連続殺人事件>
 元警部で、割烹料理店長の澤地和夫は、商売がうまく行かず、借金で首が回らなくなっていた。Iも一時は羽振りがよかったが、経営に失敗し借金を抱えていた。その二人が借金返済を企んで共謀し、1984年10月11日に宝石商、25日に女性金融業者を騙して連れ出し殺害、現金などを奪った。澤地は、1993年3月26日に死刑執行が3年4ヶ月ぶりに再開されたことに抗議し、7月にあえて上告を取り下げて死刑が確定。もっとも、他にも色々な計算(最高裁まで争った死刑囚よりも、途中で取り下げた方が執行が遅いなど。実際にはそのようなデータはない)があったようである。Iは1995年7月に死刑が確定。現在、ともに再審請求中。宝石商殺害の共犯Bは無期懲役判決が確定。
 澤地死刑囚は2007年10月に胃ガンが判明。11月に手術したが切除できず、その後は抗ガン剤治療などを拒んでいた。2008年12月16日午前1時47分、多臓器不全のため東京拘置所で死亡。69歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

佐藤友之『死刑と無期の間』(三一書房,1991)

澤地和夫『殺意の時』(彩流社,1987)

澤地和夫『監獄日記』(彩流社,1989)

澤地和夫『東京拘置所死刑囚物語』(彩流社,2005)

澤地和夫『なぜ死刑なのですか―元警察官死刑囚の言い分』(柘植書房新社,2006)

宍倉正弘『手錠−ある警察官の犯罪』(講談社,1987/講談社文庫,1990)

「山中湖連続殺人事件 澤地和夫」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
12/28 概 要 <日野町事件>
 1984年12月28日、滋賀県蒲生郡日野町の酒屋で店主の女性(69)が行方不明となり、翌年1月18日、同町内の宅地造成地で絞殺死体となって発見された。4月28日には、同町内の山中から、女性の手提げ金庫が発見されたため、強盗殺人事件となって捜査が行われた。
 事件から3年後の1988年3月9日、近所に住み、酒屋の立ち飲み常連客だったS(53)が日野警察署で事情聴取を受け、11日に自白。現金5万円を奪った強盗殺人で逮捕された。  裁判でSは無実を主張。事件当日には知人宅で飲んでいたというアリバイを主張するとともに、警察の取り調べで暴力を受けたこと、さらに逮捕された翌月に予定されていた次女の結婚式をガタガタにするなどとの脅迫を受けたと主張した。
 直接の物的証拠がないこと、Sも含めて働いていて貯金もあったことから金銭的な動機が見当たらないこと、自白内容と現場の状況が一致しないことなどが挙げられたが、大津地裁は犯行場所を特定せず、矛盾点は事件から逮捕まで3年経過した事による記憶違いであり、酒代欲しさの犯行と認定し、1995年6月30日、求刑通り無期懲役判決を言い渡した。1995年6月30日、大阪高裁は被告側控訴を棄却。2000年9月27日、最高裁が被告側上告を棄却し、刑が確定した。
 Sは広島刑務所で服役。2001年11月14日、日弁連の支援を受けたSは大津地裁へ再審請求。大津地裁が選定した鑑定人が自白調書による殺害方法と過去の鑑定結果が整合しないとの考えを示し、唯一の物証で物色行為を裏付ける手鏡の指紋鑑定結果の誤りを当時の指紋鑑定官が認めるなどがあったが、2006年3月27日、大津地裁は自白が客観的な証拠と矛盾していることを認めつつも、Sの記憶違いであるとして、再審請求を棄却。Sは即時抗告。2010年12月、Sは肺炎とみられる症状が出たため、広島地検が刑の執行を停止し、広島市内の一般の病変へ入院。2011年1月に意識不明となり、3月18日、肺炎で死亡した。75歳没。死亡に伴い、30日に訴訟手続の終了決定が出された。
 2012年3月30日、遺族が大津地裁へ第二次再審請求。弁護側は、請求により開示された中に、検察側が証拠としていた写真などに矛盾があると主張している。大津地裁は当初2013年3月に最終決定を予定していたが、期日を延期している。
文 献 吉屋行男『白い波―冤罪 滋賀・日野町強盗殺人事件』(光陽出版社,2004)
備 考  

【1985年】(昭和60年)

日 付事 件
1/16 概 要 <大手建設元専務夫人殺害事件>
 1985年1月16日午後0時20分ごろ、東京都港区のマンションに住む無職の女性(当時62)が、洋間のベッドで死んでいるとかかりつけの医師から警察に届け出があった。首を絞められた跡があり、検死で午前4時半から6時半までの間に殺害されたものと判明した。女性は東京一部上場の大手建設会社元専務の妻だった。二度の離婚歴がある長女(当時36)に結婚話があったが、相手には妻子がおり、覚せい剤取締法違反で執行猶予中だった。長女への尋問から男の容疑が強くなったところで、男が以前に裁判を受けたときの弁護士から出頭するとの電話があった。警察は東京駅に張り込んだが男は現れず、1月27日、男の自殺死体が発見された。捜査本部は2月15日、男を被疑者死亡のまま東京地検に書類送検した。長女についても証拠隠滅の容疑で書類送検したが、東京地検は不起訴処分とした。
文 献 毛利文彦『警視庁捜査一課殺人班』(角川書店,2005/角川文庫,2009)
備 考  
1/26 概 要 <山口組竹中組長射殺事件>
 1981年、山口組三代目組長田岡一雄が亡くなった。半年後、四代目に決まっていた山本健一が服役中に病死。その後組の運営は、八人の最高幹部によって行われてきた。1983年、組長代行の山本広山広組組長が入札による決定を提案。9月の定例会で立候補を宣言。武闘派の竹中正久若頭を筆頭とする竹中グループは反対運動を始めた。田岡文子三代目組長は、入札を辞めることを山本組長に言った。さらに遺言で山健(山本健一)のあとは竹中と言っていたと発言した。当然山広(山本広)は反発。1984年6月、竹中正久は四代目組長に襲名。山広グループは山口組脱退、一和会結成を宣言。このとき、山口組4700人、一和会6000人の構成員がいたと見られている。
 その後、山口組により一和会切り崩しが執拗に行われ、分裂1ヶ月後には山口組8000人、一和会4000人と勢力は逆転した。その後も切り崩しは続き、一和会は2800人まで追いつめられた。会が壊滅すると危機感を強めた一和会は、山広組行動隊を組織。1985年1月26日、竹中組長(当時50)は愛人が住む大阪府吹田市のマンションロビーで、行動隊8人による銃撃を受け死亡。ボディガードの若頭(当時47)、山口組系組長(当時47)2人も即死した。直ちに報復攻撃が始まり、死者25人、317件の抗争が続いた。
 計画者のIは1987年3月14日、大阪地裁で求刑死刑に対し無期懲役判決。裁判長は「山口組側の激しい切り崩し工作が誘発した犯行で、組長側にも落ち度があった。死刑適用は慎重にすべきである」と述べた。実行犯4人はいずれも無期懲役判決(求刑同)。監視役の3被告に懲役10年判決(求刑懲役20年)。 1989年3月20日、大阪高裁で検察側控訴棄却。そのまま確定。
文 献 木村勝美『極道の品格 山口組四代目暗殺の首謀者 元一和会直参・悟道連合会会長石川裕雄の闘い』(メディアックス,2011/文庫ぎんが堂,2015)

「山口組竹中組長射殺事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
3/8 概 要 <芦屋市幼児誘拐事件>
 1985年3月8日未明、兵庫県芦屋市のAさん方に男が押し入り、二階にいた母親をエーテルで眠らせ、そばに寝ていた園児(6)を連れ去った。隣室にいたAさんはすぐに後を追ったが、既に車で逃げ去っていた。午前10時41分以降、Aさん方に犯人から30回に及ぶ脅迫電話が入り、身代金5000万円を要求。中国自動車道の西宮北インターを指定。Aさんは20時33分、インターに到着。その後、電話の指示に従い下り車線長尾バス停に移動、22時34分、バス停のベンチの下に現金を置いてAさんは立ち去った。捜査員らはバス停周辺で待っていたが、22時40分、犯人は反対側上り車線から高速道路を横切り始めた。ところがそこに急ブレーキの音。上り車線を走行していたトラックが犯人を跳ね飛ばしたのである。犯人Y(26)は即死。捜査当局は、所持品検査からYが犯人であることは確認できたが、園児の所在を記した場所は発見できなかった。共犯がいる可能性もあったが、捜査の結果共犯者はいないと判断。9日午前、兵庫県警は公開捜査に切り替えた。13時34分、神戸市北区の駐車場のトラックで寝ていた園児を発見、無事に保護した。
文 献 「芦屋市幼児誘拐事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  
5/26 概 要 <函館妻バラバラ殺人事件>
 1985年5月26日、函館市の会社員K(50)は、24年間連れ添った妻(50)を両手で首を絞めて殺害、バラバラにして、函館市の山林に捨てた。動機は、妻が不倫をしているのに気付き、妻に文句を言ったが、馬耳東風で逆に堂々と外泊するようになり、とうとう怒りが爆発したものであった。27日に死体をバラバラにして、山林まで捨てたが、死体の入っていた麻袋を無造作に放り投げていたため、犯行を隠すというつもりはまるでなかったらしい。28日に死体が発見、数時間後に自首した。
文 献 「函館・夫による妻のバラバラ殺人」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  北海道の女性は「性行為は強烈で或溺も深いが、動物的で刹那的」と船山馨が書いている(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)より)。
6/18 概 要 <豊田商事永野会長刺殺事件>
 永野一男会長は、1981年に豊田商事の前身である大阪豊田商事を設立。「純金ファミリー証券」を販売するペーパー商法などの悪徳商法により4年間で2000億円を集めることに成功した。しかし1985年には悪徳商法が社会問題になり、警察やマスコミの注目を浴びていた。
 1985年6月18日、永野会長(32)は大阪市北区にあるマンションの自室にこもっていた。逮捕情報が流れていたため、周辺には行動をマークしている約30人の報道陣が張り込んでいた。午後4時30分過ぎ、自称右翼を名乗る町工場経営I(56)とY(30)が部屋のドアの前に立った。Iは「被害者六人から、永野をぶっ殺せと頼まれてきたんや」と報道陣に答え、報道陣のパイプ椅子を取り上げドアを激しく叩き始めた。Yは玄関横の窓のアルミ桟を蹴り、はぎ取ると窓ガラスを蹴破って部屋に飛び込んだ。数分後、Iが窓から出てきた。血まみれの銃剣を持ち、服にも返り血が付いていた。永野会長は病院に運ばれたが、出血多量により約40分後に死亡。二人は天満署員に殺人の現行犯で逮捕された。報道陣は二人を止めようともせず、テレビカメラを回し、シャッターを押し続けるだけだった。
 IとYには懲役10年、8年の実刑判決が言い渡され、確定している。
文 献 「豊田商事永野会長惨殺事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  豊田商事が集めた金のほとんどは流用されてなくなっていた。金の流れについては永野会長の死亡により、解明されなかった。
7/24 概 要 <熊本母娘殺人事件>
 Mは高校中退後、定職もつかずに全国を転々、各地で傷害事件を起こし刑務所とシャバを往復する生活を繰り返していた。1958年、Mは前科を隠して郷里の熊本でTさんと結婚。ところが仕事をせず酒を飲んで妻に乱暴する毎日。1962年には離婚の話し合いが持たれたが逆上。ナイフで義母を殺害、妻に重傷を負わせた。同年11月、熊本地方裁判所は求刑死刑に対し無期懲役の判決を下した。Mは服役中、Tさんの一族に対する恨みから復讐することばかり考えていた。1976年12月、仮出獄。
 子供の頃から育ててくれた叔父夫婦のところに身を寄せたが、相変わらずの酒浸り。注意されたら暴力を振るう。1978年6月、刺身包丁を振り回して叔母夫婦を殺害しようとした。そのため仮出獄は取り消し、熊本刑務所に逆戻りした。1984年2月、再び仮出獄。保護施設にいる間に復讐ノートを作成。ターゲットはTさん一族の他に、叔母夫婦や実兄も含まれていた。元妻の居場所を探るが成果が得られなかった。1985年7月24日、M(55)はTさんの親族であり仲人の未亡人でもあるMさん(63)を訪ねるも「Tさんの居場所は知らない」と言われ逆上。元々殺害を計画していたため、深夜になって忍び込みMさんを、さらに養女のNさん(22)を殺害した。Mさんが41ヶ所、Nさんが35ヶ所刺し傷があったという。現金を奪って逃亡、5日後に逃亡先の荒尾市で逮捕された。
 1986年8月5日、熊本地裁で求刑通り死刑判決。1987年6月22日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1992年9月24日、被告側上告棄却、確定。
 1999年9月10日、Mに死刑が執行された。69歳没。
文 献 「「無期懲役」で出所した男の憎悪の矛先−熊本「お礼参り」連続殺人事件」(「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる』(新潮文庫,2002)所収)
備 考  
9/19 概 要 <下関無差別殺人事件>
 1985年9月19日早朝、下関市農業A(37)方で、Aが母(72)の頭と首に日本刀で切り付け、即死。さらに団地内で就寝中の近所の人たちや牛乳配達、ジョギング中の人たちを次々に襲い、3人が死亡、3人が重体、5人が重傷を負った。Aは精神障害者として病院に運ばれた。
文 献 「下関・無差別殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)
備 考  
9/23 概 要 <キャッツアイ事件>
 暴力団会長Kは副会長を通じて組員2人に、対立する暴力団の組員殺害を命令。2人は1985年9月23日夜、暴力団関係者が経営する尼崎市のスナックに乗り込み、相手組員に向け3発発砲。1発が組員にあたり、1ヶ月の重傷を負わせた。もう1発はドラム演奏の片付けをしていたアルバイト女性(当時19)の腹部を貫通し、女性は死亡した。
 組員ら3人は1987年に逮捕された。Kは1989年2月21日に逮捕された。
 襲撃を直接指示した副会長は1990年に懲役12年の判決が確定。襲撃した組員は懲役18年の判決が1988年に確定。同行していたもう1人の実行犯は懲役7年の判決が1988年に確定している。
 Kは事件当初から無罪を主著。1996年2月7日、神戸地裁尼崎支部は懲役15年(求刑無期懲役)の判決を言い渡した。直接証拠はなかったが、実行犯の「Kの指示だと聞いた」という証言が重視された。Kはこの事件とは別に、有印私文書偽造、同行使罪などでも懲役1年6月(求刑同)を受けている。ただし実行犯は後に、証言を否定している。
 1998年2月23日、大阪高裁で検察・被告側控訴棄却。2001年12月3日、最高裁第二小法廷で被告側上告棄却、確定。Kは現在でも無実を訴えている。
 実行犯の男性は出所後の2006年8月11日、仲間の暴力団員と2人で大阪府堺市内の自営業の知人男性方を訪れ、事件のお礼参りとして因縁を付けて脅迫。出所祝い金名目で現金25万円を脅し取った。さらに500万円振り込めと脅したが、25日までに男性は逮捕された。2007年2月21日、大阪地裁で男性は懲役7年(求刑懲役8年)が言い渡された。共犯の暴力団員は懲役3年保護観察付執行猶予5年(求刑懲役3年6月)が言い渡された。
 殺害された女性の母親は1992年7月、「組長には組員の行為に対する使用者責任がある」として、Kらを相手取り1億1千万円の損害賠償を求めた。1995年5月、Kは「使用者責任は認められないが、配下組員がしたことへの道義的責任を感じている」と述べ、4000万円を支払うことで、和解が成立した。母親は和解金4000万円のうち500万円を日本弁護士連合会に暴力団被害の救済訴訟の支援のために寄付した。本件は、組長の使用者責任を問うた初のケースである。女性は現在でも「暴力団被害者の会」会長として、暴力団根絶を訴えている。
文 献 目森一喜、斉藤三雄『司法の崩壊 やくざに人権はないのか』(現代人文社,2002)

山平重樹『冤罪・キャッツアイ事件: ヤクザであることが罪だったのか』(筑摩書房,2012)
備 考  本事件は、暴力団対策法創設のきっかけともなった。
11/29 概 要 <神戸メッタ刺し事件>
 長崎県生まれの無職M(当時24)は住居侵入罪で1985年5月から服役していた姫路少年刑務所で、大金をつかんで遊んで暮らそうと強盗殺人を計画。1985年11月29日午前11時半ごろ、姫路少年刑務所から3日前に出所したばかりのMは、姫路市の塗装業Fさん(35)宅に侵入。現金4万円を奪い、妻のHさん(30)を台所テーブルに仰向けにして両手両脚を縛り付けた。そのとき、奥から長男(3)が駆け寄ってきたため、腹や背中などを十数回刺した上に左首を切って殺害、続いてHさんもメッタ突きにしたうえ、首を切って殺害した。
 さらに12月3日正午ごろ、神戸市の左官業Nさん(34)宅に侵入。妻のTさん(34)を脅迫、後ろ手に縛るも悲鳴を上げたため、胸、腹など十数カ所をメッタ付きにして殺害した。Mは同日午後8時半ごろ、神戸市の東灘署青木駅前派出所に血だらけのまま自首。そのまま逮捕された。
 Mの弁護士は裁判で犯行事実は認めながら、1)Mは16歳の時のオートバイ事故による頭部外傷の後遺症で器盾性精神病になり、犯行時も心神耗弱状態だった。精神鑑定通り精神病でなく人格障害だとしても、重度で善悪の判断能力が著しく減退していた、2)劣悪な成育環境にあったことも考慮すべき、3)1987年6月、文通していた兵庫県宝塚市の牧師夫婦の養子となって以来、遺族に謝罪の意を表している−−として懲役刑を求めた。しかし1988年2月26日、神戸地裁は求刑通り死刑判決を言い渡した。1990年10月3日、大阪高裁で被告側控訴棄却。1996年12月17日、被告側上告棄却、死刑確定。
 2003年9月12日、死刑執行、42歳没。
文 献 「神戸・メッタ刺し殺人事件」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)

秋吉好『棄身KISHIN』(大阪文学学校・葦書房,1998)

松下竜一『汝を子に迎えん―人を殺めし汝なれど』(河出書房新社,1992)(後にあとがきを追加し、『松下竜一その仕事24 汝を子に迎えん』(河出書房新社,2000)として刊行)

向井伸二の生と死を記録する会『子よ、甦れ―死刑囚とともに生きた養父母の祈り』(明石書店,2005)

向井武子『死刑囚の母となって―この病は死に至らず』(新教出版社,2009)

「養母と殺人者 人の道を踏みはずした者は救われないか」(『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社,1997)所収)
備 考  


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