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(2011.7.13) |
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| 先日、「東京国際ブックフェア」に行った日のことです。朝、自宅の本棚で通勤時に読む本を物色していたら、ちょうど手塚先生のチーフアシスタントをされていた福元一義さんが著者の「手塚先生、締め切り過ぎてます!」(集英社)が目につき久しぶりに再読することにしました。 この本では、昭和20年代から手塚先生が亡くなられるまで一貫して、手塚先生の漫画製作にたずさわった著者が実際に経験した手塚先生にまつわるいろいろなエピソードが紹介されています。ファンにとっては一級の手塚関連資料です。 とても面白く、東京ビッグサイトに行く途中も電車の中で熱烈に読んでいました。 東京国際ブックフェアの手塚プロブースは、手塚治虫文庫版全集がたくさん並んでいましたが、こじんまりしていて少し物足りなく感じました。ささっと見て立ち去ろうとした時、たまたま奥の方に本が置いてあることに気がつきました。それが、「ブラックジャック創作秘話」(秋田書店)だったのです。 出たばかりなのでネタばれにならないように内容の詳細は書きませんが、ブラックジャック、三つ目がとおる、ユニコなどで多くの連載を抱え、手塚先生が最も忙しかった頃の手塚先生、手塚プロスタッフ、編集者が演じた感動ストーリーを漫画にした本で、福元さんも登場するのです。その日から読み始めた本の著者が、別な本にも登場した偶然に驚きました。あるいは、そういう運命だったのでしょうか? 前にこのブログで書きましたが、昔、富士見台にあった手塚プロに押しかけた時対応していただいたのが福元さんでした。その頃の手塚プロの仕事場は、手塚先生とアシスタント諸氏が同じ部屋で漫画を製作していたのです。おかげで私も実際手塚先生が仕事をされている光景を少しだけですが拝見できたのです。 「ブラックジャック創作秘話」の中で同じ時期にアシスタントをされていたM先生が、どんなに、殺人的に忙しくても同じ部屋に手塚先生がいるのはうれしかったと述懐されていました。いろいろひどい目にあった編集者の方も同じだったのかもしれません。だからこのような本が出されるのでしょう。とにかく、みんな熱かったのです。 (補足) その後、この本は「このマンガがすごい!2012」男部門1位となり話題となりました。このあいだ久しぶりに昔録画したNHK特集「 手塚治虫・創作の秘密」を観ました。ブラックジャック、三つ目がとおるなどを発表した後で少し落ち着いた時期かもしれませんが、手塚先生はやはり大変お忙しそうでした。また、この番組にはチーフアシスタントをされていた福元さんも少しだけ写っていました。懐かしかったです。(2012.3.20) |
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(2011.7.2) |
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| 上野の東京国立博物館で開催されていた「手塚治虫のブッダ展」が先週末で終了しました。その直前でしたが、
少しだけ空いた時間ができたので、ようやく観に行けました。 手塚先生は、ブッダが遺したさまざまなエピソードを誕生から涅槃まで通して長編作品「プッダ」で描かれました。この展覧会は、ブッダの各シーンの原稿とそれに対応した国内に所蔵されているブッダ関係資料(主に彫刻などの立体物)を併行に展示したものです。 1990年に国立近代美術館で大規模な手塚治虫展が開催されましたが、美術館よりお堅いイメージの国立の「博物館」に手塚先生の原稿が大量に展示されるのははじめてだと思います。私は個人的に仏教美術が大好きで博物館にもよく行っていますが、国立博物館で漫画の原稿が展示されたことに驚きました。 さて、今回の展覧会を観た感想ですが。。正直少し無理があったように感じてしまいました。 手塚先生の原稿を直接観ることができたことは良いのですが、展示されているのは仏陀の生涯のエピソードの一部分を紹介するために一番近いシーンを並べたもので、「ブッダ」というオリジナル作品を十分理解するにはちょっと不十分だったと思います。 一方、併行して展示されていたガンダーラ仏などの仏教資料のラインナップは小品が多く目玉展示もなく、たぶん古美術ファンが観るとちょっと物足らなかったかもしれません。 要するに、どっちつかずになってしまったかもしれません。全部否定するわけではありませんが、もう少し企画を練った方が良かった気がしました。 ちょっと厳しい感想を書いてしまいましたが、今回、国立博物館が漫画を採りあげたという実績は大変貴重な一里塚だと思います。漫画は日本が誇る素晴らしい文化ということが少しは浸透したのかなと嬉しく思います。 麻生政権の時、マンガ、アニメなども対象とした国立メディア総合センターの設立企画が持ち上がり論議を呼びましたが、結局現政権で撤回されました。必ずしも新しい箱モノを作らなくてもできることがあると思います。今回のように着実に実績を築きながらしっかり構想を練っていただきたいと思います。 |
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(2009.5.27) |
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| 「手塚先生、締め切り過ぎてます!」(集英社)は、手塚先生のアシスタントを長く勤められてきた福元一義さんが手塚先生との関わりを淡々と書かれた本です。手塚ファンクラブの会誌で連載していたものをまとめたものです。 福元さんと手塚先生は昭和20年代のまだアシストタント制度がなかった頃からのお付き合いで、単にアシスタントという概念を超えた存在だったのではと思います。とにかく超人的な手塚先生の仕事ぶりを今に伝える生き証人です。 講談社の手塚全集の表紙の額縁のデザインは福元さんが描かれたとのこと。これ以外でも今まで私達が見ていた手塚作品の多くの部分に副元さんが加わっていたようなので、手塚先生の影武者、分身、いや一部といっても過言でないかもしれませんね。 貴重な本です。ぜひみなさまご一読ください。 実は、個人的には、私も福元さんと小さな接点があります。 私は、昭和49年(たぶん)頃、富士見台の駅近くにあった手塚プロに押しかけたことがありました。いきなり行って、扉をコンコンとたたくと若い編集者が出てきたので、「私は手塚先生のファンなんですけど。。」としどろもどろで言うと、彼は一度奥に行って別な人を呼んできました。その人が当時チーフアシスタント(ですよね。)を勤められていた福元さんだったのです。福元さんは、私をじっと見るとしばらくして「先生に話しかけないなら、ちょっとだけ仕事場を見ていいよ。」と言ってくれたのです。 本に手塚先生の仕事場のイラストが掲載されていますが、まさに、あの部屋でした。あの時代、手塚先生もアシスタントと同じ部屋で仕事をされていたのです。 幸運なことに珍しく仕事が修羅場でなかったのでしょう。手塚先生もちゃんといらっしゃって伝説の猛スピートでマンガを描いていました!別なところで書きましたが、その時禁を破って結局先生にちょっとだけ声をかけてしまいました。(福元さん、すいませんでした。。) あの時、福元さんに中に入れていただいた事は、本当に一生の思い出です。あらためて、感謝いたします。福元さん、ありがとうございました。 (補足) この文を書いてから今までに何回もこの本を読み返しています。とにかく手塚先生の仕事ぶりはすごいですが、一緒に働いていたアシスタントの方々も大変だったでしょう。アシスタントは雑誌デビューしたり、いろいろな事情で通常は2年程度の勤務だったようですが、福元さんは先生が亡くなられるまでずっとでした。福元さんも超人です! (2012.3.20) |
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(2009.5.21) |
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| 5月19日、ようやく両国の江戸東京博物館で開催されている手塚治虫展に行くことができました。混雑を避けるために平日の午前中に行きましたが、ちょうど大相撲が開催されていることもあり、結構お客さんがいました。お客さんは団塊世代が多かったかな、ちょうど手塚先生の作品をリアルタイムに読んで育った人たちで、展示を見ながら、当時の事などを話されていましたが、そのお話がとても興味深かったです。 手塚先生の本格的な回顧展は、1990年に国立近代美術館で開催されて以来だと思います。1990年の時は、とにかく展示された生原稿の数が多く手塚先生の息づかいを直接感じることができる貴重な経験でした。今回は、手塚治虫そのものを主として、その人間から産まれたさまざまなもの、例えば作品、思想などを統合して展示した展覧会でした。 先生が生まれ育ったところの紹介、子供のころの様子、友人など周囲の人々。そして先生の宇宙観、死生観などがうまくまとめられていたと思います。 いつもながら、先生の原稿のすばらしさには感嘆します。線のすばらしさ、一人一人の登場人物がそのまま単独の挿絵として使えそうです。(今のマンガは、一枚の原稿に描かれている情報が少なくちょっと大味な感じですね。) 個人的には、大阪万博のフジパンロボット館のロボットが展示されていたのに感動しました。その中のジャンケンロボットとは、当時私もジャンケンしたんですよ。約40年ぶりの再会でした。いやー!残ってたんですね。 展示の最後の方に飾られた手塚先生ゆかりの人々の文章と品物の展示も興味深かったです。みんな保存してるんですね。鈴木伸一先生の秘蔵品で手塚先生が描いたジミニークロケットとキンボールが描いたドナルドが共演しているナプキンは、本当に貴重なものですね。 何か記念品は?とグッズの売店コーナーを探しましたが、他でも買えるキャラクターグッズが大半だったので図録とBJのトイレットペーパーだけ買ってきました。 そうそう、グッズーコーナーの入り口にアトム関係のお菓子の箱とおまけを展示した明治製菓のショーケースがひっそりと置いてありました。いずれも貴重なもので、グッズ好きな私にはうれしい展示でした。 結局4時間くらい会場にいたでしょうか?後ろ髪を引かれる気分で帰りました。 両国駅には、たくさんお相撲さんがいました。なんとなく、アトムに出てくるロボットに見えてしまいました。 |
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(2007.9.1) |
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| 手塚先生が天に召されてからはや18年ですが、いまだにたくさんの手塚作品が書店に並んでいます。アトムのテレビ放映が終了してから、一般のおもちゃはあまりおもちゃ屋さんにありませんが、景品やマニア向けグッズは次々と発売されています。こうなると、手塚グッズを集めている人にとってはきりがありません。その都度出されるアイテムをコンプリートしていくのは、経済的、体力的になかなか大変です。 私は、自分が集めるグッズの範囲として「手塚先生ご健在時」ということで一線を引いており、その線より前に世に出たり、企画されていた物を主として集める事にしています。すなわち、手塚先生の作品発表当時の物で直接的間接的に手塚先生のフィルターを通過した物を「手塚物」、その後のマニア向けグッズや、PLUTOやBJなどのリメイク作品を「手塚系」と定義し、前者だけを趣味の対象としています。 この定義は、私の勝手な決め事で、もちろん手塚系アイテムを否定する物ではありません。要するに、私が集めたいと思うものが、ここでいうところの手塚物であるというだけです。 PLUTOは大好きな作品で、毎号ビッグオリジナルに掲載されるのを楽しみにしています。でもあれは、一応コラボということになっていますが、手塚先生の作品というより、浦沢直樹先生の作品ですよね。話題になった映画「どろろ」もまったく違った作品でしょう。手塚先生を起源とした世界がこれからさらに拡がっていくためには、このような手塚系作品がたくさん発表されることが不可欠だと思います。かつて、ストーリーマンガを創出したと言われる手塚先生のDNAが広がり文明における一つの種(?)のようなものを形成することは、私も熱望するところです。 ただ、私の趣味の範囲は手塚物であり、今現在も手塚物をしこしこと集めることに努力しています。このあたりを、他の人に説明するのはなかなか難しい事です。実際、手塚先生は、ご自分の作品関連のグッズ、例えばおもちゃやメンコ、シールのようなものは、他の人が作った物で自分とは関係無いと切り捨てられていたという事です。そうなると、私の趣味も手塚オリジナルとは言い難いですよね。趣味なんて、やっている人の独りよがりの産物であり、また、それでいいと思っています。 |
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(2006.1.14) |
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| 現在、物で埋まっている部屋(我が家ではアトム部屋と呼ばれています。)のスペース拡張のためビデオをDVDにダビングする作業を延々と行っています。だいぶ処分したとはいえ、捨てられないで持っていたビデオは1000本くらいあります。今は大きなケースに保管されていますが、これがなくなると部屋がとてもすっきりするので、少しは家族の「邪魔だ!」攻撃が緩むのを期待しています。 ビデオテープのダビングの場合は、等倍速での再生となるため、懐かしい番組などは、ついつい見てしまいます。録画されたコンテンツは、いろいろなジャンルがありますが、やはり、手塚先生関係が多いようです。手塚先生がお元気だった頃の番組もたくさんありますが、お亡くなりになってから、さらに多くの番組が制作されているようです。同じ時代を生きた日本人にとって先生は、やはり特別な存在だったのかもしれませんね。 NHK殿は、BSも含めて定期的にアトムや手塚アニメのスペシャル番組を制作されています。手塚先生を好きなプロデューサーの方がいらっしゃたのでしょうか?普段堅い表情でニュースを読まれている司会のアナウンサーの方が、実は大変なアトムファンであることを告白され、それからは、ニュースなどで、そのアナウンサーの方を見かけるたびに、思わず微笑んでしまいます。 その他、目に付いた番組を列挙すると、 「世界ふしぎ発見」「知ってるつもり!?」「驚きももの木20世紀」「西田ひかるの痛快人間伝」「芸術に恋して」「カルトQ」「日曜美術館」「トュナイト2」「人間大学」 などとても多彩です。 手塚先生のよく知られたエピソードが紹介されており、内容が重複しているので資料的な価値はないかもしれませんが、番組に登場するタレントの方は、いずれも、とても想いを込めてお話をされており、その映像は貴重です。 特に、世界ふしぎ発見で黒柳徹子さんが、とても真剣な表情で回答を考えられていたのが印象に残りました。手塚先生は、徹子の部屋にも出演されており、それ以前にもおつきあいがあったのかもしれません。私はもちろんお会いしたことありませんが、「いい人だな〜」と思ってしまいます。 いずれの番組もエンディングまで、とても丁寧に作られています。制作に携わったスタッフの人達も、みんな手塚先生に一目おいているかのように感じられます。(そうだったらいいな。という希望も込めて。。) どうも、私の手塚先生ひいきを披露した文章になってしまいましたが、それぞれの手塚先生があるんですね。 |
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| 冷や汗の手塚プロでした (2005.12.3) |
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| 恥ずかしながら、こどもの頃、マンガ家志望だったんです。墨汁でケント紙なんかにカリカリマンガ描いたりしてました。 小学生の頃、石森章太郎先生の「マンガ家入門」を読んで、マンガ研究会なる活動にあこがれ、まねして肉筆同人誌を作りました。当時は実際に墨汁でマンガを書いている子供は少なく、たまたま近くのマンガ好きの同級生など、何人か仲間を集めてなんとか本にしました。そういえば、苗字が「石森」という子がいて「君の名前はマンガを描くのに向いてる。」なんて言って無理やりまんが描かせたりしました。ひどいね。 原稿を集めて、順番を決め、頁数を書きこみ、目次、表、裏の表紙をつけると内容はともかくとして、なんとなく達成感がありうれしかったものです。(この本、実は、まだ残っていますが、怖くて見れません。)その快感がたまらなくなり、自分で編集してまとめるという作業にはまって、その後、中学、高校、大学、そしてなんと社会人になってからも同人誌を作ってしまいましたが。。。 私が最初に手塚先生の仕事場を訪問したのは、中学1年の頃でした。その時は、手塚先生が缶詰(〆切が厳しくて。仕事に専念してもらうため、旅館、出版社などに監禁状態(!?)となること。)になっていて、結局お会い出来ませんでしたが、手塚先生のお母様がお世話してくださり、とても丁寧に対応していただけました。手塚プロと虫プロを見学することができましたが、特に手塚プロでは、たまたま部屋にいたアシスタントの方とたくさんお話することができました。 そのアシスタントの方は、まだ幼い私を見ながら、「そういえば、ちばてつや先生は中学生でデビューしたみたいだよ。きみもがんばってね。」とか「手塚先生はシェークスピアなんか読んで、今でも色々勉強してるんだ。きみも、まんがばかり描いてたらだめだよ。」なんていうことを話されていました。その内、部屋にたくさんアシスタントが集まってきて、めずらしく、ひまだったのか、私達を囲んで、わいわいと、話しの輪ができはじめました。たぶん今では有名な方もいらっしゃったのでしょうね。 みなさん、とてもいい方ばかりで子供の私とも隔たりなくお話してくれましたが、その内、「そうだ、きみの作品を手塚先生に見せたらいいよ。」「そうだそうだ、せっかくここまで来たんだから、手塚先生にご指導いただくといいよ。置いてけよ。」などという論調で場が盛り上がってしまったのです。私としては、恥ずかしいやら。恐れおおいやらで、冷や汗がたらたら。「今、原稿持ってきてないんです。」、「じゃあ、送ってきたらいいよ。」、「はい。」という事で、お開きになりましたが、実はその時、私のかばんの中には、私が作った、肉筆の同人誌が入っていたんです。。。 手塚プロを出て、富士見台の駅から帰る電車の中で、その同人誌を眺めほっと一息ついたのを、今でも良く覚えています。あの時の事は私の中ではちょっとしたトラウマになっているようで、その後もたびたび夢を見て冷や汗をかくことになりました。 今思うと、手塚プロの方々は、お世辞で私に原稿を置いてけといわれていたような気もしますが、そんな事をしなくて良かったかなと思います。あの段階では、マンガ家になりたいごっこをしていただけですからね。 |
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(2004.2.21) |
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| 遅ればせながら。2月9日は手塚先生のご命日でした。(実は、今年は、手塚先生のご命日をうっかり忘れていて、だいぶ後に気づきました。)あれから15年も経ってしまったのですね。 あの日。私は遅くまで仕事をしてから、ぐったりとした気分でアパートに帰りました。扉の郵便受けには、いつものようにその日の夕刊が突き刺さっていました。「バタン!」と新聞を取り出して自分の部屋に戻り、何気なく新聞に目を向けると、そこには、信じられないニュースの見出し。手塚先生が亡くなられたというようなことが書いてあるようなんです。 まさにガーン!みなさんもそうだったでしょうけど。本当に信じられませんでした。 しばらくすると、友人からの電話。みんな、誰かと話さずにはいられない気分だったのです。ひさしぶりに話をした友人もいました。 私たちは、月刊誌と週刊誌が併存していた頃に漫画と接し、しばらくすると、アトムのアニメの洗礼をうけた世代です。いつも中心には、手塚先生がいました。手塚作品に興味がない人でも、手塚治虫がどんなことをしている人かは必ず知っていましたし、直接、間接に何らかの影響を受けていました。ですから、みんな、この悲しいニュースを大きな感慨をもって受け止めたと思います。すでに手塚治虫は「生きた伝説」になっていたんですね。存在そのものが空気のようなものだったんでしょう。 ところで、手塚先生はご自分が神棚にまつられるのは、あまり。良しとはされていなかったようです。その時々の有望な新人をチェックされて、猛烈なライバル意識をもたれていたとのことです。トキワ荘の先生たちもライバル候補だったかもしれません。石森先生、藤子先生たちにとっては、理解しにくいことだったでしょうね。なにしろ。相手は神様ですので。 いろいろな考え方があるでしょうが、手塚先生の作り上げた漫画のスタイルがその後の漫画の発展に大きな影響を与えたことはまちがいないでしょう。 先生が新宝島はじめ赤本を描かれていた頃、先生の作品は前衛というか、非常に新進的なものだったのです。とにかく、それまで前例のないスタイルだったのですから。 その後、先生のスタイルを受け継いだストーリー漫画が爆発的に発展しました。そして大半の作品は同じDNA(このようなものがあるとすればですが。)を引き継いでいるのだと思います。まあ、ホモサピエンスのようなものでしょうか?ですから、先生の存在が空気のように感じられたのかもしれません。 現在も盛んにマンガが描かれ、多くのマンガ本が出版されています。手塚先生がいらっしゃらないのは寂しいですが、これからも手塚先生の空気を感じながら、これらのマンガ達に接していきたいと思います。 たまには、年一回くらいは、あらためて真面目に(?)手塚先生の事をいろいろと考えてもいいかなと思います。(先生、たまにですいません。だって空気なんですもの。) |
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(2002.9.20) |
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| 最近インターネットでいろんな人のサイトを拝見してます。いずれのサイトも素晴らしく、ウエブマスターの方々の熱い想いが伝わってきます。 手塚学の主流は、もちろん漫画研究だと思います。 |
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(2002.4.20作成) |
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| 2003年4月7日は、アトムが生まれた日ということになっています。これにあわせて、いろんな所でイベントが企画されているようです。日本は、世界で最も工業用ロボットが普及している国ですが、アトムの影響のおかげというわけで、普段お堅い工学系の学会まで何かイベントをやろうとしています。 ファンにとっては、うれしいかぎりですが、よく考えてみると何でそんなに大騒ぎするのかなとも思います。アトムが雑誌に連載されていたり、テレビアニメとして放映されていたのは大分前で今の子供達はもちろん、20代くらいの人は生アトムの体験はないはずですよね。よく広告などのキャラクターに使われているんでアトムの絵はみんなどこかで見てると思いますが、作品の内容をよく知ってる人は、30代以上の人でしょう。 イベントのプロデュースをしたり、決定権を持ってるのは、アトム世代の人なので、アトムイベントが企画されるんでしょうが、若い世代は、ピンとこないかもしれないですよ。ただの回顧展になっちゃうのが心配です。 でも、少なくともアトム世代は、会場に行ったら元気になるはずです。自分が一番多感で感性がしなやかな時期に触れていたものですからね。アトムは。アトムのいろんな展示を観て、そのたびに昔最初に観たり読んだりした時の忘れていた記憶を思いだし、きっと歓声をあげることでしょう。 一緒に来ている彼らの子孫(つまり、息子や娘)は、仕事ばかりしてたり、生活に疲れたりして、くたびれている自分の親から、普段はない熱気を感じ、驚くかもしれません。30代、40代は、一番忙しい社会生活をしている世代ですものね。一生懸命生きてて、ちょっと前の事、忘れても無理はありません。 アトムを媒体として、昔のことを目を輝かして語る親に触れ、子供達は、ちょっと、自分の親を見直すかもしれません。そして、子供たちが、そんな親を素敵だと思ったら、次に、親達の世代のアトム体験をうらやましく思い、自分たちの「スペシャル体験」を探し始めるに違いありません。もしそうなら、アトムイベントの最大の成果かもしれませんね。 |
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(2001.11.17作成) |
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| 前にも書いたかもしれませんが、手塚治虫というアーティストは、その時代を代表する巨人であることは、誰も異論がないでしょう。戦後、マンガにさまざまな表現手法を導入して多くの賛同者を獲得し、間を大きく飛ばしちゃいますが、結局、今や日本が世界に冠たるマンガ・アニメという分野の創出の非常に重要な役割をはたしちゃったんですからね。手塚先生は。 僕もその一人ですが、先生が亡くなられてからも、ファンが多くいて、熱っぽく先生の世界を語り合っています。変な話ですが、亡くなられてからも、ファンクラブなどが存続し、研究書が出版されるなど、いろんな活動が続けられているのも、手塚先生が最初で、こんなことも開拓されてしまいました。 でも、僕は時々少しばかり複雑な心境になることがあります。例えば、川崎に造られるという手塚ワールドやDVD−ROM全集の刊行、手塚作品の原画復刻販売などのニュースが聞こえてくる時なんかがそうです。 やっている人たちは、もちろん一生懸命なので、こんな言い方は酷ですが、これらは、手塚先生が直接介在したものではなく、あくまで2次生成物で、手塚先生じきじきの作品のように、好きになれるかな、と思います。なんか、ここまでやらなくとも・・・。なんて考えてしまいます。最近の「メトロポリス」もそうかな。手塚先生のお子様たちの活動もそうですね。 なんでも、手塚先生関係というだけで、無理やり好きになれとというのはできませんよね。 ここいらは、何か、別な視点を持たないといけないのでしょうね。たぶん。 でも、神格化だけは、したくないな。 たかが、まんが、と言いたい気分になりたいことがあります。 要するに、自分の問題なんですよね。 まったくの愚痴です。 うじうじ。 |
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(2001.4.8作成) |
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| このごろ、「手塚学」なる学問領域を勝手に作って、あちこちのサイトでしゃべりまくってます。堅い表現なので、「何んだこいつは?」とあきれられたり、警戒されると困るので少しばかり説明したいと思います。 実は、小生、奈良が好きでよく行きます。学生時代から、ずいぶん通ってます。でも、そんな人は、たくさんいて私なんかは、まだまだ若輩者です。人々が奈良を訪れるきっかけは、仏像、古美術、建築、歴史、お祭りなどなど、いろいろありますが、何回もかよううちに、他の分野にも好きなものができてくるものなのです。また、定宿ができて、知り合いがぽつぽつとできて来ると、ますます、奈良を訪れるのが楽しくなります。 私の場合は、仏像と古代史が好きで奈良に通いはじめ、今はなき「日吉館」という奈良の名物旅館に宿泊してから、古美術、焼き物、音楽、建築、写真、絵画、考古学、工芸などいろんな分野の人と交流していくうちに、はまってしまったんです。 そのようにして、なんとなく奈良そのものが好きになって長逗留したり、何回も訪れる人がたくさんいるんですね、奈良には。そんな人達を「奈良病」にかかったといいます。 そして、奈良に関するいろいろな事柄をまとめて呼んでみようということで、「奈良学」という言葉が生まれました。 インターネットで色々な手塚関連サイトを眺めているうちに、手塚関係も、ちょっと、奈良学に似てる感じがしたんです。マンガ、アニメ、おもちゃ、演劇などについて、いろいろな角度で取り上げられていますが、最終的には、手塚先生自身に回帰し、手塚ということでまとまってるように見えるんです。そこで、奈良学と同じように「手塚学」と呼んでみました。 最近は、大学なんかで、手塚研究の講義があったりしてるんで、そのうち、まじめに手塚学会が開かれたりするかもしれませんね。キャラクターの版権などで、難しいかな。宝塚の手塚治虫記念館あたりが、手塚学の殿堂になるといいんだけどな。学問とか学会なんてとっつきにくいかもしませんが、あくまで、遊びの範疇のつもりです。 私は、おもちゃを研究したいもんです。 |
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(2001.3.31作成) |
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| 僕は手塚作品のファンで、結構長くファンをやっています。小学生の頃から、マンガ、アニメはもちろんのこと、少なくとも手塚関係情報が掲載されている雑誌、書籍は、すべて保存しています。子供のころのものは、何回も繰り返し読んだため、ぼろぼろですが、どうしても捨てられません。先生は、同じ作品でも単行本が出るたびに書き直しをされていたので、同一タイトルでも購入しました。 手塚先生は、「マンガの神様」とか「ストーリーマンガの生みの親」なんて呼ばれてたんで、単純な僕は、しだいにすべてのマンガに対象をひろげました。少年マンガ、少女マンガ、青年マンガ、さらには、すこしエッチな成人向けマンガまで、なんでも読み、また、集め始めたんです。自宅は、自分の部屋がマンガで埋まり、他の部屋までマンガ、マンガ、マンガ。マンガの山です。学生の頃は、バイト代をほとんど、マンガに使っていたものです。最近、一階で寝ていて、二階の息子のマンガにつぶされてしまった方がいらっしゃいましたが、他人事とは思えません。 上京してからも、同じ、本屋さんに行くと、置いてある新刊本をバサバサバサと重ねてまとめ買いです。就職して財力も増大したため、さらに、マンガ本の数の増え方は、加速していきました。すごいマンガマニアでしょ? ところが、1989年2月9日が、やってきました。手塚先生がなくなられた日です。 あの日から、ほとんどマンガを買わなくなってしまったのです。もちろん、好きな作品は買いますが、二ヶ月に一冊程度というペースです。自分でも、意識していなかったのですが、買おうというものが急になくなっちゃったんです。 ここに至って、実は自分は、マンガファンではなく、手塚ファンだったんだということを自覚しました。そして、自分の趣味は、手塚治虫そのものが対象だったんだとね。本当に魅入られたものです。我ながら。 手塚関係のグッズやおもちゃに入れこむのも、自分の手塚治虫趣味の一環だと思います。普通のおもちゃマニアは、いろんなものを集めますけど、僕の場合、本当に手塚物だけですから。 |
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(2001.3.19作成) |
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考えてみると、手塚作品のことをあまりお話ししていませんでした。一番好きな作品は0マンですが、他にもたくさん好きな作品があります。 W3!。タイムパラドックスを織り込んだあざやかなラストシーン。 バンパイヤ!。実は、自分もオオカミ男になりたかったです。 どろろ!。どろろが女の子だったなんて・・・。 ロック冒険記!。ディモン星の伝染病の恐怖。 人間ども、集まれ!。中性人間にとっても、おとうさんは大事。胸がつまりました。 リボンの騎士!。 実は、中学生の頃。サファイアの絵を定期入に入れてました。 きりがありませんが、とにかく、手塚作品が大好きでした。僕だけではないと思いますが、手塚マンガは、他のマンガとは、何かが違っているように感じてました。絵が洗練されていてカッコ良かったし、物語もなんともいえない説得力と魅力がありました。 時々思ってることがあるんです。 手塚先生の作品は、絵がらとか、話の内容も含めて読む人がみんな好きになるんですよね。何故だかわかりませんけど。手塚先生は、天才だったって言われることがありますけど、人に好かれる作品を生み出す才があったんだと思います。 だから、年齢や国籍に関係なく今でも、みんな好きなんじゃないでしょうか? 天国に行かれた後も、みんなに作品が読まれ、また、いろんな所、例えば、インターネットのHPなんかでみなさんの熱い思いに触れるたびに、「ああ、先生の作品は、みんなが好きになっちゃうんだな。」と思ってしまうんです。 |
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(2001.1.21作成) |
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東北の地方都市に住んでた中学生にとって、東京に行くチャンスなんかは、そうそう訪れないですよね。とりあえず、地方でマンガを読み続けてました。高校生になってくると、だんだん、生意気になってきて、COMを読んだり、ガロでカムイ伝なんか読んだりしてました。そのうち、大変ショッキングなニュース。なんと、虫プロ倒産! 虫プロイコール手塚治虫と思ってた僕は、ガーン!と衝撃を受けました。手塚治虫はどうなるんだろう?と心配したりししてね。雑誌に作品が発表されてたんで、アニメがつぶれてもマンガは大丈夫だと思ってましたが。でも、作品は何となく暗めで調子いまいちという感じがしてました。 高校3年の時やっと上京のチャンス。これは、いかねば。と思い。とりあえず、虫プロがあった富士見台に行ってみました。虫プロがあった場所は、差し押さえられてましたが、建物は健在で、門に、手塚プロの新しい所在地の貼り紙。駅の近くでした。 今思えば無礼な奴だったかもしれないけど、いきなり、手塚プロの扉をたたいてみたらアシスタントの人が出てきて、中に入れてくれたんです。手塚先生のお仕事をじゃましないという約束でね。ブラックジャックや三つ目がとおるが始まる前で。まだ、余裕があったのかな?驚くほど素朴な仕事場で手塚先生が仕事をされてました。ベレー帽かぶってなかったけど。 近づいたら、先生は、怪訝な顔でこちらを見て、また、机に。ついつい、生意気な高校生は、「最近先生の作品、調子良くないみたいですね。」という意味のことを言ってしまったんです。先生、ムッとした顔。「どこから来たの?」それから、ひとこと、ふたこと話していただけました。 さすがに、じゃましちゃ悪いと思い、すぐ、手塚プロをおいとましました。その後、手塚先生の仕事場は高田の馬場へ、仕事も復活しさらに一時代を築かれました。調子悪いどころか、充電されてたんですね。 今思うと、おみやげくらい持っていけば良かった。何しに行ったんでしょうね。 |
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(2001.1.19作成) |
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虫プロといえば、当時のマンガ、アニメファンのあこがれだったんじゃないかな。当時、虫プロ(後から考えると虫プロ商事かもしれないけど。)から出版されてたCOMっていう雑誌のキャッチフレーズは「まんがエリートのためのまんが専門誌」なんていうものだったくらいだからね。 とにかく、僕は、中学になった時、たまたま。上京するチャンスがあって思わずホテルから電話したんです。どこにかというと、手塚治虫の家にでした。僕にとっては、虫プロと手塚治虫はイコールだったんですね。当時は、まだ、のんびりしてた頃で、ホテルにある電話帳に手塚治虫の名前で電話番号が載ってたんです。電話をかけると、ちゃんと手塚家に通じて、お母様に相手していただきました。 田舎から出てきた少年がとつとつと話すので、気の毒に思われたのか、「とにかく、明日また電話してください。」って言ってくださいました。次の日に、また電話したら、「治虫に話して、会ってあげたらって言っておきました。この電話番号に電話してくださいな。」とのことでした。結局、手塚先生は、缶詰になっていてアシスタントの方に対応していただき、虫プロもひととおり見学できました。ちょうど、千夜一夜物語の製作が終わった頃で、佐武と市捕物控なんてのを作っている頃だと思います。富士見台の頃で、手塚先生も隣に住んでいらっしゃった頃でしょうね。お母様にお茶を入れていただき、短い時間でしたがお話ししていただきました。 後で、伝え聞くと、手塚家は、ファンみんなに、とてもやさしく対応してらしたとのことですが、当時の僕は、本当に有頂天でした。ますます、手塚ファンになっちゃいますよね。 |
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(2001.1.13作成) |
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一番好きな作品は、「0マン」。はじめて読んだのは、1959年に少年サンデーで連載された時ではなく、別冊少年ブックの上下巻でした。小学生でした。物語も大好きなんですが、この作品には個人的に思い出があるんです。実は、小生、小学生の頃家を飛び出た事がありました。気持ちは家出でした。その時、本屋で買った別冊少年ブックの下巻を一緒に持っていったんです。隣町をてくてく、あてもなく歩いてゆくうちに、雨が降りはじめました。それでも、持ってた本を頭にかざしながら、歩き続けました。雨は、さらに激しくなり、たまらず、八百屋の軒先で雨宿り。店に買いに来たおばさんに、「どうしたの?」なんて言われたりしながら。店の軒先を転々としながら、歩いていくうちに、日がくれてきました。結局、本当にしょぼくれて、情けない気持ちで一杯になりながら、家に帰りました。子供なりに、本当に情けない気持ちになりながらね。 その時手に持ってたのが、ぬれてぼろぼろになった0マンでした。 |