下野・会津・津軽地方に連綿と伝わる匠の技術がつくる 手仕事・伝統的工芸品、民芸品 専科 本文へジャンプ


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干支「午」特集
仕事専科は、㈱とぴい企画のブランドです。
「和美との生活」を提唱しております。
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下野地方・会津地方・津軽地方に連綿と伝わる匠がつくる「手仕事」・伝統的工芸品、民芸品そして伝統的食品をご紹介し、通販にて販売しています。
・・・・手仕事専科では、”
和美との生活”を提唱しています。・・・・
□■現在107業種157工房■□  □■下野地方の手仕事■□  □■津軽地方の手仕事■□
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 会津地方の手仕事 21業種28工房    
漆器工房鈴武・一汁三菜椀
会津塗
漆器工房鈴武
鈴善漆器店 ぐい呑み
会津塗
鈴善漆器店
会津絵ろうそく 山形屋本店
絵ろうそく
山形屋本店
会津本郷焼「閑山窯」
会津本郷焼
閑山窯
会津本郷焼 樹ノ音工房
会津本郷焼
樹ノ音工房
 会津本郷焼 鳳山窯
会津本郷焼
鳳山窯
金継ぎ・漆の修理
金継
 
会津木綿「原山織物工場」
会津木綿
原山織物工場

会津木綿
山田木綿織元
奥会津編み組細工 マタタビ細工
マタタビ細工
奥会津編組
 
奥会津編み組細工 ヒロロ細工
ひろろ編細工
奥会津編組
 
奥会津編み組細工 山ブドウ細工
山ぶどう細工
奥会津編組
赤べこ (有)荒井工芸所
赤べこ
荒井工芸所
起上り小法師 山田民芸工房
起上り小法師
山田民芸工房
風車 山田民芸工房
風車
山田民芸工房
初音 山田民芸工房
初音
山田民芸工房
 
蒲生マユミ

白河だるま
佐川だるま製造所

渡辺だるま店

川俣シルク
齋藤産業㈲

川俣シルク
斎脩絹織物

川俣シルク
三浦機業場

着物仕立て
富士商店

和布仕立
工房たかだ

奥会津
編組細工
工房間方

奥会津編組
細工
工房間方

奥会津編組
細工
工房間方

ステンドグラス
工房 松崎徹
  本醸造酢 太田酢店
本醸造酢
太田酢店
会津 高田梅 
高田梅
有機果菜食品
 
会津の醤油・味噌 イゲタ醤油
会津味噌
イゲタ醤油
 

山ぶどうジャム
ひゃくしょう塾
  

燻製卵
スモークハウス
  

磐梯鯉
鯉のうま煮

㈱熊田水産
   
 
 私が、「下野・会津・津軽 仕事専科」に会津を含めたのは、羽鳥湖高原レジーナの森に3年間、勤務(日本ビューホテルからの出向)していたことによります。当時は、クラブツーリズムの2泊コースを組み、100%を超える催行率と、90点を超える評価とで、評判の施設となっていました。その際に滞在者向けに「会津めぐりの日帰りコース」を作ったことが、やはり人気を呼んでいました。施設では、会津塗「漆器工房鈴武」さんや大内宿が、人気でした。
 そのようなご縁から、漆器工房鈴武の鈴木誠一郎氏を知り、その郷土愛と会津塗にかける想いを伺い、サイト作りにご協力いただくことになりました。もうひとつの津軽を香り漂う地と述べておりますが、会津は、もっと戦国時代からの歴史を感じる土地柄です。会津は、まだまだ沢山の文化、手仕事を伝えております。ぜひ継続して、ご紹介して参りたいと存じております。

                                     -2010.04.08-
 現在、第6期に向けてスタートしておりますが、会津地方の手仕事も充実してまいりました。
 2011.03.11の東日本大震災による福島第一原発の放射能汚染の影響で、会津は、壊滅的な打撃を受けました。私の住む那須高原も同様でした。風評被害といわれていますが、お子様を持つご両親にとって、避けざるを得ないでしょう。
 現地に棲む私たちには、先祖代々に引き継ぐ土地田畑をすてて移住することは、難しい選択です。そのような中、人気の工房であった原山織物工場が、今年の1月に閉鎖・廃業いたしました。震災の経済的落込みの打撃から、回復途中でしたが、力尽きたことによります。
 それでも日本中から、そして、世界各国からの支援によって、会津は、随分と復旧してまいりました。今では、被災前ほどではありませんが、6割程度にまで、戻ったでしょうか。
 そのような中、新たな工房も増えました。
 会津木綿は、山田木綿織元が、その一つです。そして、白河だるまでは、もうひとつの工房である渡辺だるま店です。また、昨年お取引のできた奥会津の編組細工の工房間方です。これは、第3セクターの工芸館を退職された元「奥会津三島編組品振興協議会」事務局だった菅家藤一氏のスタートされた工房です。現在の公社の事務局の方は、ご注文対応をなされないので、工房間方は、嬉しい編組細工の手仕事の窓口です。
 第6期にむけた営業活動では、大きな力になるものと存じます。これからも宜しくお願い致します。

                                      -2015.06.08-


 会津  会津(あいづ)とは、福島県を南北に連なる奥羽山脈と阿武隈高地の2つの尾根線を概ねの境界とした「会津」「中通り」「浜通り」の3つの地域の1つ(西から列挙)。現在の福島県西部にある会津盆地を中心として、東は奥羽山脈、は飯豊山地、西は越後山脈、南は下野山地(帝釈山脈、大佐飛山地を含む)に囲まれている。中心地は会津若松市である。 

 律令制度下で陸奥国が設置され、その中の郡の一つとして会津郡が設置された。その後、平安時代に入ってから耶麻郡が分離され、更に大沼郡と河沼郡が分離され、以後は会津郡とこれら3郡を総称して会津四郡と呼ばれる事となる。

 江戸時代には会津藩の領地となり、藩の殖産興業政策によりそれ以来は漆器産業等の伝統工芸が多く立地している。会津藩は、幕末には松平容保が京都守護職になって孝明天皇の信任を得たものの、孝明天皇の死後は薩摩藩と長州藩を中核とした明治政府軍と対立し、戊辰戦争では白虎隊に象徴される惨劇の舞台ともなった。

そして、廃藩置県を前にして、会津藩の領土は、明治政府民政局による直轄地とされた。廃藩置県でも、会津藩の領土を範囲とする若松県が成立したものの、1876年8月21日には、磐前県(浜通り)や福島県(中通り)と合併し、現在の福島県の一部となった。

会津の手仕事   会津の伝統工芸品や物産の多くは、今から400年ほど前の室町時代の領主・蒲生氏郷の奨励により誕生し、 伝承されてきました。会津の伝統工芸品と物産の数々は、会津地方の厳しい気候・風土と、勤勉で粘り強い職人気質に支えられています。
 ・会津絵ろうそく・会津漆器・陶芸(会津本郷焼)・会津木綿・張子の民芸品(赤べこ、起上り小法師、風車、唐人凧) ・会津桐箪笥・会津下駄・味噌・醤油・酒など。
蒲生氏郷  蒲生氏郷は、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚しています。現在の会津若松の基礎は彼によって築かれました。黒川を若松(会津)と改めたのも蒲生氏郷です。文武両道に優れた人材でしたが、わずか40才でこの世を去りました。
■蒲生氏郷の生い立ち
 政宗のあと、会津は伊勢松坂(三重県)の領主蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられました。 氏郷は弘治2年(1556)、近江国日野城主(滋賀県)蒲生賢秀の子として生まれました。幼くして織田信長の人質となりましたが、その非凡な才能を信長に愛され、娘冬姫と結婚することとなりました。1代の英雄信長が若き氏郷に与えた影響は大きなものであったと思われます。
 その後、秀吉のもとで小牧・長久手の合戦に活躍し、伊勢国松ヶ島(後の松坂)に12万石を与えられ、九州征伐・小田原征伐の功のよって会津40万石、後に92万石の領主となりました。
■文武両道
 氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られますが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する文化人としても有名です。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです。利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあり、茶の湯を通じた利休と氏郷の交流には興味深いものがあります。
■短い生涯
 このように、文武両道に秀でた氏郷は36歳の若さで会津の領主となり、仙台の伊達政宗や山形の最上義光などを抑える要(かなめ)の役割を果たしましたが、文禄4年(1595)2月7日、40歳の若さでこの世を去りました。当時の名医、曲山瀬三によれば、死因は下毒症とされていますが、あまりにも若すぎる死にいくつかの謀殺説も伝えられています。辞世は「限りあればふかねど花は散るものを心みじかき春の山風」とあり、墓は京都の大徳寺と会津若松市内の興徳寺に残されています。氏郷の死後、その子、鶴千代(のちの秀行)が13歳の若さで跡を継ぎますが、慶長3年(1598)幼弱で家中を統率できないという理由で、下野国宇都宮18万石(栃木)に減封されました。氏郷未亡人である冬姫が秀吉の意に従わなかったからとも伝えられています。
■産業おこしと町わり
 信長は安土城を築き、楽市楽座を設け、城下町を整えるなど、自由で豊かな桃山時代をおこしたことで有名ですが、その女婿でもある氏郷も会津に大きな足跡を残しました。
 氏郷は会津に入ると鶴ヶ城の整備に着手しました。氏郷の郷里近江の国からたくさんの技術者を呼び寄せ、現在も残されている野面積み(のづらづみ)の天守台を築き、七層の天守閣を建てたと伝えられています。
 また、葦名時代の手狭な城下を一新し、郭内から神社やお寺を外に出して家臣の屋敷を連ね、車川を利用して外堀を築き、郭外には庶民を住まわせ、その要所に神社やお寺を配置するなど今日の会津若松市街地の骨格を定めました。そして郷里である近江国蒲生郷の「若松の森」にちなんで黒川を若松と改めました。
 さらに商工業の発展を奨励するため、いくつかの有意義な施策を講じました。その一つは市を設けて生産物の交易を図ったことです。馬場町は「1」と「8」、本郷町は「2」と「7」、三日町は「3」、柱林寺町は「4」と「9」、大町は「5」と「10」、六日町は「6」と、日を定めて市を設けました。次に近江国から木地師と塗師を招き、会津の地場産業として今も大きな役割を占めている会津漆器の基礎を作りました。また酒造や金工など、上方の優れた技術を会津へ移入することで後世に伝えられる産業の振興を図りました。
■郷土の恩人・蒲生氏郷
 このような、氏郷の功績は、今も私たちの生活に大きな影響を残しています。大町の十日市は会津の正月を彩る一大イベントですし、夏のお日市はまちまちの風物詩として親しまれています。氏郷が近江国から移入した漆器と酒造は、歴史と自然に恵まれた郷土会津を代表する2大地場産業として全国に知られています。会津若松市民が今も郷土の恩人として氏郷を讃えていることも当然といえます。
 
保科正之 将軍秀忠の庶子・保科正之
 保科正之は二代目将軍・徳川秀忠の庶子にあたります。秀忠が実子と認められず、信濃の保科正光の養子として育ちました。やがて三代将軍・家光に実弟として認められ、会津を領地として与えられます。
 やがて、保科正之の子・正容が三代目を継ぐと、幕府から松平姓と葵の紋を与えられ、正式に徳川親藩に会津は組み入れられる事になります。
こうして、会津の松平藩政は九代続きました。
■2代将軍秀忠の庶子・保科正之
 加藤嘉明が重臣、堀主水とのいさかいが原因で会津を去ると、保科正之が出羽(山形県)から入部しました。正之は2代将軍秀忠の子として生まれましたが、秀忠は正室の怒りをおそれて、実子として認めなかったため、武田信玄の娘の見性院のもとで養育され、7歳の時に信濃国(長野県)の城主保科正之の養嗣子となりました。
 父秀忠の生前は父子としての対面はありませんでしたが、3代将軍家光は正之を実弟として認め、寛永13年(1636)には出羽山形20万石、寛永20年(1643)には、会津23万石と高遠3万石と比べて破格の待遇をうけることとなりました。
■支配構造の確立と藩士の心構え
 正之は会津に入ると領内を巡視し、民政18条や郷村収納の法をはじめ数々の法令を定めて領国内の支配構造を確立しました。また家訓十五条を定めて徳川本家に対する忠誠や藩士の心構えを明らかにし、会津松平藩政の精神的な柱としました。さらに殉死を禁じて戦国の気風を断ち切り、神社を再興して仏事を抑え、会津風土記を編纂して領内の由来を明らかにするなど、9代続く会津松平藩の基礎を築きあげました。
■松平姓と朱子学
 3代将軍家光が亡くなると、その遺言によって正之は4代将軍家綱の後見となり、11歳の将軍の養育に努めました。とりわけ、戦国の気風を伝える徳川3代の武断政治を改め、朱子学を中心とする文治政治への転換を図り、徳川幕府三百年の基礎を確立した功績は大きなものがありました。
 正之が寛文12年(1672)62歳で亡くなると、その子正経、ついで正容が後を継ぎ、この正容の代に松平の姓と葵の紋を幕府から与えられ徳川親藩に組み込まれることとなりました。正之は謹直な名君でしたが、その朱子学的な保守は会津藩の精神風土となり、ともすれば時流に遅れがちな気風を残すことにもなりました。 
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