増訂萬葉集全註釋三(卷の一・二)(1956.7.20)、639頁、480圓。
 
武田祐吉、角川書店、六(1956年12月,昭和三十一年)初版、1969、7(6版)、改造社版、1949年(昭和24年)。
 
武田祐吉 増訂萬葉集全註釋 三 本文篇一(卷の一・二)
 
(1)  凡 例
 
一、本書は、萬葉集の全部について註釋し、分冊して刊行する。この一冊から以下十冊は、その本文註釋の分で、各卷の註釋を順次分載する。
一、各條とも、初めに原文を掲げ、次に書き下し文、譯、構成、釋、評語、參考等に分かつて、これを註釋した。但し歌詞は見易いように、上部に書き下し文を掲げ、その下に原文を載せた。
一、原文は、主として定本萬葉集に依つたが、その後の研究に依つてこれを改めたところもすくなくない。定本萬葉集に依つたところは、本文研究に關する記事をそれに護つて省いたものも多いが、改訂したものは一々これを記した。定本萬葉集は、西本願寺本を底本とし他本および諸説によつて改訂を加えた本である。今、異體字は、なるべく普通の字體に改めたが、尓祢弥※[獣偏+葛]のような字形の相違の多いものは原形を殘した。但し解釋中に引用する場合は、便宜上、爾禰彌獵などの普通の字體によつた。原文は、漢文の部分には句讃點、返り點をつけ、歌謠の部分には、各句ごとに空白を置き、返り讃むべきものには返り點をつけ、漢字の右傍に片かなの訓をつけ、別の讀み方の參考とすべきもののある場合に限り、漢字の左傍にも訓をつけたものがある。
一 書き下し文も、主として定本萬葉集に依つたが、これも改めたところがすくなくない。殊に定本萬葉集に慎重を期して訓を缺いたものも、本書にはなるべく訓を下した。原文の簡易なものは、書き下し文を省略したものもある。歌の書き下し文の上にはその歌の番號を附した。この番號は國歌大觀の附けた(2)ものに依つたが、これは廣く行われているものである。歌詞の部分は、とくに行をわけて記し、これに相當する原文を、その行の下に掲げた。また」の記號を入れて、段落をあきらかにした。
一、譯は、歌謠に限り、現代語譯を附けた。なるべく逐語譯に從い、簡明に記したので、釋の部を參考してその意を得べきである。歌詞は、今日の口語に適譯を得られない場合があり、當らずといえども遠からずというべき程度のことも多い。たとえば、妹、吾妹子、君、ワガ夫子の如きも、妻か愛人か、二人稱か三人稱か、種々の用法があつて、現代語譯をすると、その一つに限定されて、誤解されるおそれのある場合も起る。そういう場合は、原語のままに殘さねはならないこともあるのである。枕詞、序詞の如きも、つとめて口譯したが、そのためにかえつて文意の通じないものができたかもしれない。
一、構成は、長歌に限つて、その段節の組織を説明した。
一.釋は、原文の語句、もしくは文を掲げて、その訓法と註釋とを記した。原文の語句、もしくは文の下にまず訓を掲げ、次に注意すべき異訓のぁるものは、參考としてこれを掲げた。但し本書は、諸説を紹介するを目的とするものではないから、訓釋に問題のある句に限りこれを載せることとした。一、評語は、歌について、批評鑑賞について記し、なおその他の事項にも及んだ。
一、參考は、歌の解釋鑑賞上、參考となるべきものを選んでこれを載せた。
一、かなづかいは、書き下し文、および引用の古文には、歴史的かなづかいを保存し、その他の部分は現代かなづかいに依つた。漢字は、特殊のもの以外はなるべく正體によつた。
一、引用した諸傳本および註釋書の名辭のうち、略號を使用したのは、次の通りである。
 桂  桂本               藍  藍紙本
(3) 金 金澤本              天  天治本
 元  元暦校本             嘉  嘉暦傳承本
 壬  傳壬生隆祐筆本          尼  尼崎本
 春  春日本              神  神田本(紀州本ともいう)
 冷  傳冷泉爲頼筆本          細  細井本
 西  西本願寺本            温  温故堂本
 矢  大矢本              文  金澤文庫本
 京  京都大學本            類  類衆古集
 古葉 古葉略類聚鈔           仙  萬葉集註釋(仙覺)
 管  萬葉集管見(下河邊長流)     拾  萬葉拾穂抄(北村季吟)
 代初 萬葉代匠記初稿本(契沖)     代精 萬葉代匠記精撰本(契沖)
 僻  萬葉僻案抄(荷田春滿)      童  萬葉童蒙抄(荷田信名)
 考  萬葉考(賀茂眞淵)        玉  萬葉集玉の小琴(本居宣長)
 槻  萬葉考槻落葉(荒木田久老)    略  萬葉集路解(橘千蔭)
 燈  萬葉集燈(富士谷御杖)    ※[手偏+君] 萬葉集※[手偏+君]解(香川景樹)
 攷  萬葉集攷證(岸本由豆流)     墨  萬葉集墨繩(橘守部)
 檜  萬葉集檜嬬手(橘守部)      私考 萬葉私考(不明)
 古義 萬葉集古義(拾鹿持雅澄)     札  萬葉集略解札記(岡本保孝)
(4) 美 萬葉集美夫君志(木村正辭)     補 萬葉集略解補正(木村正辭)
 註稿 萬葉集註稿木(關谷潜)       口譯 口譯萬葉集(折口信夫)
 註疏 萬葉集證疏(近藤芳樹)       新考 萬葉集新考(井上通番)
 新訓 新訓萬葉集(佐佐木信綱)      全釋 萬葉集全釋(鴻巣盛廣)
 講義 萬葉集講義(山田孝堆)     定本 定本萬葉集(佐佐木信綱・武田祐吉)
 新校 新校萬葉集(澤瀉久孝・佐伯梅友)  私注 萬葉集私注(土屋文明)
なお、元朱、元赭、元墨、類墨、神朱などとあるのは、元暦校本、類聚古集、神田本等の諸本に、朱、代赭、別の墨で書いてあるものを示す。その他の諸本諸書を引用した場合は、その名稱を略書しても、ただちにその本その書と知れるように注意した。寫本、版本には、濁點句讀の無いものが多いが、今便宜濁點を附しまた句を切つたものもある。なお引用の歌文の下に括弧して出所を記したもののうち、萬葉集の歌文には、書名を略して、ただ卷數と歌の番號とを記すに留めた。古事記日本書紀の歌謠を引用した場合には、岩波文庫の記紀歌謠集でつけた歌謠の番號を記した。
一、目録は、原典では各卷の初めにあるが、本書では、まとめて各冊の初めに、目次としてその一冊の分を出し、その書き下し文の下には、歌の番號を括弧して入れ、その下方に本書のページ數とを記して※[手偏+驗の旁]索に便にした。
 
(5) 目  次
萬葉集卷の第一
 
雜歌
泊瀬《はつせ》の朝倉の宮に天の下知らしめしし天皇《すめらみこと》の代《みよ》
 天皇の御製歌(一)…………………………………………………………………二六
高市《たけち》の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の代
 天皇の香具山に登りて望國《くにみ》したまひし時の御製の歌(二)……四三
 天皇の内野に遊獵《みかり》したまひし時、中皇命《なかつすめらみこと》の、間人《はしひと》の連《むらじ》老《おゆ》をして獻らしめたまる歌(三・四)……五二
 讃岐の國の安益《あや》の郡に幸《い》でましし時、軍《いくさ》の王《おほきみ》の、山を見て作れる歌(五・六)………………………………………………………六三
明日香《あすか》の川原《かはら》の宮に天の下知らしめしし天皇の代
 
萬葉集卷第一
雜 歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌
高市岡本宮御宇天皇代
 天皇登2香具山1望國之時御製歌
 天皇遊2※[獣偏+葛]内野1之時 中皇命使2間人連老獻1歌
 幸2讃岐國安益郡1之時 軍王見v山作歌
明日香川原宮御宇天皇代
〔以下略〕
 
(21)萬葉集卷第一
 
(22)(白紙)
 
(23)萬葉集卷第一
 
 萬葉集の卷の一は、雜歌の卷であつて、雄略天皇の御製の歌から、奈良時代の初頭の歌まで八十四首(長歌十六首、短歌六十八首)を收めている。このうちに或る本の歌四首(うち長歌二首)を含む。木文のはじめに、雜歌の分類項目があり、以下、各天皇の時代毎に分かつて時代順に歌を配列してあるが、大寶元年以後は、年號を標記してその年の歌を收め、最後に寧樂の宮と標記して歌一首を收めて終つている。この編纂法は、卷の二もほぼ同樣である。
 文字使用法としては、表意文字としての用法と表音文字としての用法を併用し、特に訓假字の使用が比較的多量になされている。上代假字づかいの例外的な用字法としては、四能(四五、小竹)が指摘される。特殊の用字として、白土(五、知ラニ)、金野(秋ノ野)、葉(四七、黄葉ノ)、西渡(四八、傾キヌ)などがあり、また莫囂圓隣之の歌(九)、清明己曾の句(一五)は、難訓をもつて知られている。
 作品は、その古い時代のものにあつては、歌曲の詞章ふうの歌謠であるが、時代が降るに及んで、歌體も固定し、獨語的な性質を増加して行くさまが窺われる。額田の王、柿本の人麻呂等の代表的作品のほかに、逸名氏の作にもすぐれたものが見出され、全體の歌數は少いが、優秀な一卷である。
 傳本としては、仙覺本以外の系統の本には、元暦校本が大部分を傳えている外に、神田本、傳冷泉爲頼筆本があり、類聚古集、古葉略類聚鈔も、多數の歌を傳えている。以上の諸本における特異の傳來としては、神田本および古葉略類聚鈔が、藤原の宮の御井の歌(五二)を重ねて書いていることが注目される。また仙覺本系(24)統の本には、西本願寺本、大矢本、京都大學本、その他數種がある。
 
 雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。ザフノウタ、クサグサノウタ等の讀み方がある。相聞、挽歌等の、他の部類に入らぬ雜多の歌を集めたという意味に解せられる。しかし卷中にも、例えば額田の王と皇太子との贈答の歌の如きは、むしろ相聞に部類した方が適當と考えられる。一體卷の一に雜歌を録することは、編纂法として不審である。元暦校本、神田本にこの一行が無いが、これはこの標目の次に目録を插入したとも考えられ、本文のはじめに、この標目のあるのは、後人がまたこれを補い入れたかとも考えられる。元暦校本に、この場處に、赭で「萬葉集卷第一 雜歌」とあり、傳冷泉爲頼筆本には、この行の前に、萬葉集卷第一の一行がある。これらの事實については、今明解を下し難いが、原形を考える上に參考となるであろう。卷の五の本文の初めの雜歌の一行も、神田本、細井本には無く、春日本の殘簡にも無い。
 次に元暦校本の本文の初めの部分の寫眞を載せる。初めの二行は、目録の終りである。萬葉集は、もと卷物の形の本であつたので、目録につづいて本文が書かれたのを繼承した形を傳えている。第一行の下方、および最後の行の此の字の左にあるのは、飛雲《とびくも》といつて、紅と藍の色を紙に漉き込んだものである。
 
 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇
 
【釋】泊瀬朝倉宮御宇天皇代 ハツセノアサクラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。古代は、天皇一代毎に皇居を改められたので、その宮號を稱して、いずれの御方であるかをあきらかにした。泊瀬の朝倉の宮は、雄略天皇の宮室の稱で、奈良縣磯城郡朝倉村の地であり、今の初瀬町の西、初瀬川に臨んで、(25)その地名を存している。日本書紀、雄略天皇即位前紀には、「十一月(安康天皇三年)壬子朔甲子、天皇命2有司1、設2壇於泊瀬朝倉1、即天皇位、遂定v宮焉。」とある。御宇は、馭宇(萬葉集)、御寓(日本書紀)とも書く。御は統治、制御の義、宇は屋宇の義から轉じて天の蔽える下意に使用する。日本靈異記序文に、輕嶋豐明宮御宇譽田天皇代とある訓釋に「御、乎左女多比之」、「字、阿米乃之多」とあつて、アメノシタヲサメタビシとも讀まれる。本集には天下治賜とあるもの二例あるに對して天の下シラスとあるもの九例あり、これに依つて、アメノシタシラシメシシと讀むこととする。僻案抄にはアメノシタシロシメスとあるが、本集には「天下《アメノシタ》 志良之賣師家類《シラシメシケル》」(卷十八、四〇九八)等、假字書きのものは、すべてシラシになつている。天皇は、天平五年の唐の國書に、「日本國|主明樂美御徳《スメラミコト》」とあり、これに依つて、スメラミコトと讀むべきが如(26)くである。但し本集の歌詞には、天皇の文字を四音の處に當てて使用してあり、これはスメラミコトと讀むことは不適當である。このスメラは、統《ス》ブの體言スメに、他語との間を接續する性能を有する助詞ラが接續したものと考えられ、例えば、赤ラ孃子《おとめ》、淺ラ褻《け》などの如き語法であろう。ミコトは敬稱の體言で、尊、命の字を當てられるものと同語である。天皇の文字は、大陸古代の皇帝に天皇氏があり、唐代には一時、皇帝を天皇と稱したこともあつたが永續せず、もつぱら日本で使用する例になつた。その古い使用例には、推古天皇の朝の文章と考えられる法隆寺金堂の薬師佛の光※[餡の旁+炎]の銘文に、「池邊大宮治2天下1天皇」など見えている。
 大泊瀬稚武天皇 オホハツセワカタケノスメラミコト。雄略天皇の御事である。日本書紀には大泊瀬幼武天皇とある。いまだ漢風の謚號を奉らざる以前の文とおばしく、この稱號を以つて、泊瀬朝倉宮御宇天皇の説明としたのである。この御稱號は、國風の謚號のようであるが、確實なことは知れない。雄略天皇は、允恭天皇の第五皇子、御母は忍坂《おさか》の大中《おおなか》つ姫の皇后。皇兄安康天皇の後を承《う》け、眉輪《まよわ》の王等を誅して帝位におつきになつた。天皇、勇武にましまし、狩獵を好ませられた。葛城山に狩せられた時、一言主の大神に出合つたこと、その他の記事が傳わつている。しかも一面には歌詠の作を傳え、數篇の美しい歌物語が、古事記や日本書紀に傳わつている。これらは泊瀬《はつせ》の天皇《すめらみこと》の名のもとに語り傳えられた歌物語を、天皇の御事蹟の如く取り扱うようになつたと考えられる。天下を知ろしめすこと二十三年にして崩じた。後世漢風の謚號をたてまつつて雄略天皇と申す。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇御製歌 スメラミコトオホミウタ。御製歌、オホミウタ(西)、ミウタ(西)、ヨミタマヘルミウタ(僻)、ミヨミマセルオホミウタ(古義)。天皇は、泊瀬朝倉宮御宇天皇代の標目のもとにあるので、雄略天(27)皇にましますことあきらかである。御製歌をオホミウタと讀むのは、古事記下卷の大御歌とあるに依るものである。御製の歌の如く、御製を字音に讀んだかとも考えられる。御製は、漢文に皇帝の制作する所にいい、御製詩、御製文、御製書等の用例がある。御製歌と書くを。正とするのであるが、歌の前行に御製とあれば、それでも意を通ずる。本集では多く御製歌とあるが、卷の四、四八五の前行には、崗本天皇御製一首とある。
 雄賂天皇の御製と傳える歌は、古事記、日本書紀にもあるが、歌曲の詞章と見られるものが多く、それらは、傳來した詞章について、作者を英雄的な天皇に附託したもののようである。ここに傳えているところも、ほぼ同樣であつて、まだ確實性には乏しい。しかし古い時代から、天皇の名のもとに傳えられているものであるから、この意味において、歌詞に對して、天皇の御製歌という限定は、不可分のものとなつている。
 
1 籠《こ》もよ み《こ》籠持ち、
 掘串《ふくし》もよ  み掘串《ぶくし》持ち
 この岡に 莱|採《つ》ます兒《こ》。
 家聞かな。 名|告《の》らさね。」
 そらみつ 大和《やまと》の國は、
 おしなべて 吾《われ》こそ居《を》れ。
 しきなべて 吾こそ居れ。
 吾こそは 告《の》らめ。
 家をも名をも。」
 
 籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》
 布久思毛與《フクシモヨ》 美夫君志持《ミブクシモチ》
 此岳尓《コノヲカニ》 菜採須兒《ナツマスコ》
 家吉閑《イヘキカナ》 名告紗根《ナノラサネ》
 虚見津《ソラミツ》 山跡乃國者《ヤマトノクニハ》
 押奈戸手《オシナベテ》 吾許曾居《ワレコソヲレ》
 師吉名倍手《シキナベテ》 吾己曾座《ワレコソヲレ》
 我許背齒《ワレコソハ》 告目《ノラメ》
 家呼毛名雄毛《イヘヲモナオヲモ》
 
(28)【譯】お籠《かご》を持ち、掘串を持つてこの岡に菜を採んでいる娘さん。お家が聞きたい。名をおつしやい。この大和の國は總じてわたしの領國である。すべてがわたしの家である。わたしこそは言いましょう、家をも名をも。
【構成】第一段、名ノラサネまで。まず岡の邊に菜を採んでいる娘子に對して呼びかけて、家や名を聞きたいという希望を述べている。第二段、終りまで。轉じて作者自身の上を述べている。自分こそはこの國の主人である。家や名をもあきらかにしようと述べられている。
【釋】籠毛與美籠母乳 コモヨミコモチ。
   コモヨミコモチ (西)
   カタミモ、ヨミカタミモチ(代清)
   カタマモ、ヨミカタマモチ(僻)
   カタマモヨ、ミガタマモチ(考)
   カツマヨ、ミカツマモチ(註稿)
   コモヨ、ミコモチ(古義)
   ――――――――――
   籠毛與美籠母乳之《カタマモヨミカタマモタシ》(墨)
 籠をコと讀むのは、倭名類聚妙に、「唐韻云、籠、盧紅反、一音龍、又カ董反、古《コ》」とあるに依る。本集でも、訓假字として、「射等籠荷四間乃《イヲゴガシマノ》」(卷一、二三)など、コの音に使用している。正倉院文書(大日本古文書九ノ三一九)に「海藻三古」とある古も籠の意と推定される。代匠記にこれをカミと讀むのは、日本書紀卷の二、神代の下の本文に「無v間籠」とあるのを、同じく一書に「無v間堅間」としている。カタマに通ずるものとしてカタミと讀む。古事記上卷には「无v目勝間」とあり、倭名類聚紗には、「※[竹冠/令]※[竹冠/青]、四聲字苑云、※[竹冠/令]※[竹冠/青]。零青二音、漢語抄云、加太美、小籠也」とある。コと讀むかカタマと讀むかでは、音節數の上に相違があるが、古歌には、「宇陀《うだ》の高城《たかぎ》に鴫※[横目/絹]《しぎわな》張る」(神武天皇御製、古事記一〇、日本書紀七)など、三音四音の句の例もかれこれと見え、(29)音節の數の制限からカタマの訓を採るべしというに至らない。本集および倭名類聚鈔に、籠をコと訓した例のあるに任せて、コと讀むによるべきである。竹で編んだ器である。モヨは助詞。籠に對して感動する意を表示する。モとヨとの接續による語である。「於岐毎慕與《オキメモヨ》 阿甫彌能於岐毎《アフミノオキメ》」(顯宗天皇御製、日本書紀八六))の例におけるモヨの用法は、今の用法に同じである。この句を、古事記には、「意岐米母夜《オキメモヤ》 阿布美能淤岐米《アフミノオキメ》」(一三)と傳えており、モヤというも同じであることが知られる。なお、モヨの用例には、「阿波母與《アハモヨ》 賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》(古事記六)、「怒底喩羅倶慕與《ノデユラクモヨ》」(日本書紀八五)、「母智騰利乃《モチドリノ》 可々良波志母與《カカラハシモヨ》」(卷五、八〇〇)・「斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》」(卷十四、三四三一)などある。ミは接頭語で、その添つている物件に對し、敬愛の情を感じている場合に使う。全然意味の無い接頭語では無い。まず籠モヨといつて、籠に對する感動をあらわし、これを受けて、お籠を持つてと續けている。次の掘串モヨミ掘串持チも同樣である。このようにまずその語を稱えて感動をあらわし、これを受けて、重ねてその語を擧げてこれを敍述するのは、「置目もよ、淡海の置目」(日本書紀八六)、「ま蘇我よ、蘇我の子らは」(同一〇三)等の例がある。「み吉野の吉野の鮎、鮎こそは島邊も宜き」(同一二六)の如きもこの例であつて、その他變化する所は多い。文字使用法についていえは、籠は表意文字、その他は表音文字で、毛與美母は字音假字、乳は訓假字である。
 布久思毛與美夫君志持 フクシモヨミブクシモチ。上の籠モヨミ籠持チの句に對して對句を成している。布久思は、倭名類聚鈔に、「唐韻云※[金+讒の旁]、音讒一音暫、漢語抄云加奈布久之。犂鐵又土具也」とあつて、これは犂《すき》の如き土具で、その金屬製の品をいう。ここに布久思とあるは、木または竹を以つて製して、菜根を掘り採るヘラ状のものをいう。類聚名義抄には、槍にフクシの訓があり、伊呂波字類抄には、※[木+立]にフクシの訓がある。この歌詞を始め、以上の文獻いずれも清音の文字を使用しているから、フクシと清音に讀むべきである。今は、九州邊に殘つている方言では、フグシ、フグセなど言つている。美夫君志は、上記のフクシに接頭語ミの添つたもの。(30)夫は濁音ブの音を表示する文字である。接頭語ミの添う場合には連濁にはならないものとされているから、これによれは、文字にはよらずに、ミフクシと清音に讀むべきが如くである。しかし理論上連濁の現象を採らないものでも、口頭傳承の場合に、理窟を離れて連濁になることがあり得るであろう。例えば、山高みは、山と高ミとが、粘著してはいないと考えられるが、古事記には、夜麻陀加美、日本書紀には、椰摩娜箇彌に作つている。これは上句に、山田ヲワシセ(日本書紀には、山田ヲ作り)とあるに引かれたものであろうが、濁音のダが使用されている。この籠モヨの歌が、口頭に依る傳承を經たであろうということは、推測に難くない所であるから、この語も、音聲に任せて、美夫君志と寫したかとも考えられる。萬葉集の訓は、なるべく文字通りに讀まるべきであり、また言語現象があつての語法であるから、此處も、ミブクシと讀むを可とすべきであろう。殊にこの場合は、ハ行音であるので、文字表示に一層の動搖がなされたと見るべきである。
 此岳尓 コノヲカニ。倭名類聚鈔に、「嶽、字亦作v岳、訓與v丘同、未v詳」とある。漢文では、岳は嶽に通じ用いられているが、わが國では、丘に通じてヲカの義に使用される。この岡は、何處であるか知られない。ヲカは、サカ(坂)と同じ系列の語で、前面の高いところの義で、山よりは低いものをいう。
 菜採須兒 ナツマスコ。古くナツムスコと訓せられていたが、本居宣長に至つて、ナツマスコに改めた。ナは、魚類野菜に通じて食料となる物についていう語であつて、「多良志比賣《タラシヒメ》 可尾能美許等能《カミノミコトノ》 奈都良須等《ナツラスト》」(卷五、八六九)とある奈は、魚に用いている。ツマスは、動詞採ムの未然形に、敬語の助動詞スの接續したもので、採ムの敬語法と解せられる。「乎登賣良我《ヲトメラガ》 春菜都麻須等《ワカナツマスト》」(卷十七、三九六九)の例がある。依つて、お採みになるの義をあらわすものであるが、元來敬語は、慣用されることに依つて、尊敬の意識無しにも使用されるものであつて、此處の用法はそれに近く「若干の親愛の情をあらわされる程度である。元來この語法は、ある動詞の準體言の形に、動作する意を表示する動詞スの接續したものが、國語接續の法則によつて、上の語(31)の語尾の音韻變化が行われたものに起原を有するが如く、自他を問わず使用したものが、他人のことにいう場合に敬意を感ずるに至つたのであろう。「御諸が上に、登り立ち、倭我彌細麼《わがみせば》、つぬさはふ磐余《いはれ》の池の、水下《みなした》ふ魚も上に出て歎く」(日本書紀九七、繼體天皇紀)のミセバは、自分のことについて、見ることをすればの意に使つているが如き、原形的な用法というべきだろう。「あり衣の三重の子が、佐々賀世流みづ玉盞に」(古事記下卷、一〇一)の佐々賀世流も、作者の位置におかれる三重の采女が、自分のことに使つている。萬葉集にも、「水縹《ミハナダノ》 絹帶尾《キヌノオビヲ》 引帶成《ヒキオビナス》 韓帶丹取爲《カラオビニトラシ》」(卷十六、三七九一)の取爲は、トラシと讀むべきが如く、自己の上に言つている。この外、神や天皇のような貴人の歌詞の中に、この語法はいくつも見出され、それらは、傳承者が、敬意を表示するために、この語法を使うものと解されているが、それらも再檢討を要するものがあるのだろう。「大宮能《オホミヤノ》 宇知爾毛刀爾毛《ウチニモトニモ》 比賀流麻泥《ヒカルマデ》 零須白雪《フラスシラユキ》 見禮杼安可奴可聞《ミレドアカヌカモ》」(卷十七、三九二六)の歌の零須は、フラスと讀まれ、白雪についていうものと解されるが、これも敬語法としては通じない。これを零流《フレル》の誤りとする説があるが、もちろん原形のままで解明が求められれば、これに越すことはない。菜採須兒の如き場合も、むしろこの方面から解説して行くべきものであろう。兒は、男にも女にも使用され、親愛の情をあらわしていう。小さいものに對していうのが本義の如く、轉じて下位の者に對しても、また親愛の情をあらわして使用される。此處の用法も、男にも女にも通じるのであるが、菜を採む、家や名を聞く等の附帶事項に依つて、女兒と推定するのである。この句は、呼格であつて、菜を採む娘さんと呼び掛けられるのである。「住吉《スミノエノ》 小田苅爲子《ヲダヲカラスコ》 賤鴨無《ヤツコカモナキ》」(卷七、一二七五)の例は、この用法に同じである。
 家吉閑 イヘキカナ。
   イヘキケ(元朱)
   イヘキカ(古葉)
(32)   イヘキカン(僻)
   イヘキカナ(美)
   ――――――――――   
   家告閇《イヘノラヘ》(考)
   家告勢《イヘノラセ》(古義)
   家吉閑名《イヘキカナ》(次句の名をこれに附ける、古典全書)
 家を聞きたいの意。古くは下の名の字をこの句に附けて、イヘキカナと讀んでいた。この後諸説が出たが、最近この訓に復歸しようとする説もある。それはn韻の字の終りの音をナとする例が固有名詞以外に無いとするによるものである(龜井孝氏 國語と國文學 昭和十八年四月)。しかしその説による時は、この句および次の句の訓は、イヘキカナ、ノラサネとなり、句形が、長句短句の形となつて、例外的な句形となる。また單に家のみを尋ねられることになつて、末尾の家ヲモ名ヲモの句と照應しなくなる。固有名詞以外に、n韻の字をナの韻であらわしている例は、「旦覆《タナグモリ》 日之入去者《ヒノイリヌレバ》」(卷二、一八八)があり、この旦覆は、アサグモリとも讀まれ、また旦は且であるかもしれないが、歌意としてはタナグモリと讀むことが適切のようである。また「百積船潜納《モモサカノフネカヅキイルル》」(卷十一、二四〇七)の百積は、モモヅミノとも讀まれているが、モモサカは、百尺讃嘆にも見える語であつて、百石の義なるべく、しからば積をサカに當てたのは字音假字と見るべきである。これはn韻の字ではないが、漢字字音の末尾をアの韻に當てて書く例になる。固有名詞におけるこの種の用字法は、かならずしも上の一音だけに當てたものでないことは、m韻の字とn韻の字とを使いわけていることによつても推考されるところである。これによつて、すくない例ではあつても、なお閑の字をカナと讀むにつくべきである。萬葉考にはこれを家告閉の誤りとして、家|告《の》ラヘと讀み、萬葉集古義は、家告勢の誤りとして家告ラセと讀んでいる。これらは誤字説であつて、そのような傳本は無く、他に恰好の説が無くやむを得ぬ場合で無い限り、採用することを得ない。家聞カナと讀むのは、木村正辭博士の説で、閑はn韻の字であるから、古代の國語でナ行の音に轉じて用いること、信濃のシナ、引佐《いなさ》のイナ等の例に同じであるとする。聞カナのナは、自己の希望をあらわす助詞で、「梅の花咲きたる苑の青柳を※[草冠/縵]にしつつ遊び暮らさな」(卷五、八二五)等の用例がある。(33)このナは、自己の希望をあちわす場合に限られて使用されるが、ただ給フに接續する場合に限り、他に對して囑望する意にも使用される。「毛呂毛呂須久比《モロモロスクヒ》 和多志多肺波奈《ワタシタマハナ》須久比多麻波奈《スクヒタマハナ》」(佛足跡歌碑)とあるが如き、度シ給フ、救ヒ給フは、先方の動作であるが、それを嘱望して助詞ナが使用されている。これは給フが自己に受け入れることを本義とする語である故に、かような例を見るに至つたものと考えられる。閑をカナと讀むことについては、字音辯證(木村正辭博士)に次のように記されている。
 「家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサネ》は、家將v聞《イヘキカナ》、令2名告《ナノラサネ》1也。考、略解等にいへのらへ〔五字右○〕とよみて、注に、吉閑一本告閑とあり、閑は閇の誤にて、告閇とす、いへのらへ〔五字右○〕とよみて、住所をまをせ也、とあるは非也。版本又は古本どもいづれも告閑とありて、こゝに異同あることなし。さればもとのまゝにて、家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサネ》とよむべきなり。閑は韻鏡第二十一轉山攝の字にて、漢音カヌ〔二字右○〕なれば、奈行の通にてカナ〔二字右○〕と轉用すべし。國名の信濃《シナノ》の信《シヌ》をシナ〔二字右○〕、因幡の因《イヌ》をイナ〔二字右○〕、郡名の引佐《イナサ》の引《イヌ》をイナ〔二字右○〕、雲梯《ウナデ》の雲《ウヌ》をウナなどにあてたると同例なり。(中略)凡字音の韻の撥假字に三つの別あり。これを悉曇家【印度の音韻學】にては、喉内聲舌内聲唇内聲といふ。喉舌脣の三内といふ是也。喉内は、本邦にてウ〔右○〕と引音、唐音にてはン〔右○〕と撥る文字なり。舌内は、本邦の假字にて其韻をヌ〔右○〕又はン〔右○〕と書るす文字、脣内はム〔右○〕としるす字な。さて古へ本邦にて舌内聲の字の韻は、ナニヌネノ、ラリルレロ〔十字右○〕に轉用し、脣内聲の字の韻は、マミムメモ〔五字右○〕に轉用したり。此等の例は本居宣長翁の地名字音轉用例、又其細説は釋義門の男信《ナマシナ》、太田方の漢呉音圖、等に見えたれは、其書どもに就て見べし、義門の著書を男信《ナマシナ》と名づけたるは、上野(ノ)國利根(ノ)郡なる郷名にて、男は厚内聲なれは麻行の通音にて、ナム〔二字右○〕をナマ〔二字右○〕と轉じ、信は舌内聲なれは奈行の通にて、シヌ〔二字右○〕をシナ〔二字右○〕と轉じ用ゐたるなり。これ一の地名にて、舌内と脣内との別を證する事を得るは、いとおもしろし。かくて本文に出したる引佐《イナサ》は、遠江の郷名にて、和名抄に伊奈佐と訓じ、雲梯《ウナデ》は大和の郷名にて、同書に字奈天《ウナデ》と訓じたり。又伊勢の郷名に員辨ありて爲奈倍《ヰナベ》と訓ぜり。比等|引《イヌ》をイナ〔二字右○〕、雲《ウヌ》をウナ〔二字右○〕》、員《ヰヌ》をヰナ〔二字右○〕に用あたるなり。されは閑はカ(34)ナ〔三字右○〕に轉用する文字なる事を了解すべし。此他舌内聲の韻のニヌ〔二字右○〕をネノリル〔四字右○〕等に轉じ用ゐたるものあり。いづれも上にいへる書どもに精しく載たれば、往見すべし。」
 名告紗根 ナノラサネ。紗は、仙覺本系統には沙に作つている。いずれも集中、字音假字としてサの音を表示するために使用されている文字である。ナノラサネは、代匠記の訓による。ナは名の義。ノラサは動詞告ルの未然形に、敬語の助動詞スの接續したもので、上のツマスと同樣の語法である。その未然形ノラサに、他に對して希望する意を表示する助詞ネが接續してノラサネとなる。同じ語形に、「奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》」(卷五、八〇〇)「玉藻苅《タマモカル》 海未通等《アマノヲトメラ》 汝名告左禰《ナガナノラサネ》」(卷九、一七二六)などある。先方の動作告ルに對して、希望の助詞ネを添えている。上の家聞カナと竝んで對句となつて、第一段を結ぶ。
 虚見津 ソラミツ。古事記に、蘇良美都、本集に、虚見、虚見通、虚見都、空見津の文字を使用し、ソラミツと讀まれるが、一例だけ「天爾滿《ソラニミツ》」(卷一、二九)と書いたものがあり、これはソラニミツと讀まれている。大和の枕詞。日本書紀、神武天皇三十一年四月の條に、「及d至饒速日命、乘2天磐船1、而翔2行太虚1也、睨2是郷1而降u之、故因目之、曰2虚空見日本國1矣」とあり、これによつて枕詞となつたと傳えている。本集中、多く虚見の文字を使用しているところを見ると、この起原説話が廣く信じられていたのであろう。天爾滿の一例は、元來四音の原形を、五音に整備して生じた形に文字を當てたものと考えられるから、これを以つて語義を解くわけにはゆかない。さて此處に神代の事と傳える起原説話のある枕詞を使用したのは、大和の國の提元を、莊重ならしめる上に大きな效果がある。ところで、虚空見ツの義と解せられていたとすると、ツは、下二段活用の助動詞であるから、これは終止形である。すなわち、ソラミツは、獨立文であつて、次のヤマトの語を修飾するものである。天ニ滿ツの場合も、滿ツは、四段活と考えられるから、終止か連體か不明である。獨立文が、次の詞句を修飾する例としては、「波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》 安里我欲比《アリガヨヒ》」(卷三、四七九)のハシキカモ、(35))「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》」(卷十七、四〇〇三)のコゴシカモの如きがあり、枕詞では、天カゾフ、カキ數フ、百足ラズなどがあげられる、四段活の動詞、また形容詞は、終止形も連體形も同じなので、獨立文であるか、連體句であるか、明白にされないが、「みつみつし久米の子」(古事記一一等)、「花ぐはし櫻のめで」(日本書紀六七)の、ミツミツシ、花グハシの如き、詠歎の氣分を感ずることから見ても、終止形のものであるようにも考えられる。體言の形を取る枕詞や助詞も同樣である。
 山跡乃國者 ヤマトノクニハ。ヤマトのヤマは、山岳の意のヤマとされるが、トについてはあきらかでない。野獣の通過した跡を、古くトという。アトというは、足の跡の義で、トとのみいうが原形であろう。アトの前略とするは當らぬようである。關係語に、跡見《とみ》、乾迹《からと》などがある。本集ではこの外に、日本、山常、倭、八間跡、夜麻登、夜麻等、夜末等、夜萬登、也麻等の字が當てられている。古事記下卷、石の比賣の命の御歌に、「つぎねふや山城川を、宮のぼりわが上《のぼ》れば、あをによし那良を過ぎ、をだて夜麻登を過ぎ、わが見がほし國は、葛城高宮、我家のあたり」(五九)とあるによれは、ヤマトは、もと奈良縣の一部分であつて、奈良と葛城との間であつたことが知られる。日本書紀の崇神天皇の卷に、大倭の大神を祀るに、神地を穴磯《あなし》の邑に定め大市の長岡の岬に祀り、大倭《やまと》の直《あたえ》の祖|長尾市《ながおち》の宿禰をして祭らしめたとある。これに依れば、穴磯の邊がヤマトの境に入つていたらしく、また續日本紀には、城下郡大和神山、延喜式神名には、山邊郡坐大國魂神社とあつて、もと磯城郡であつたのが、後に山邊郡に編入されたものと見られる。本集では、日本の青香具山、日本の宇陀などあり、また藤原の京あたりをもヤマトと言つている。語原については、太居宣長は、山處の義であろうといつているが、ヤマは山であるにしてもトに處の字を當てた文献は見當らない。賀茂眞淵の説に、「この國は四方みな山門より出入れば山門の國と名を負へるなり」とあるが、これは後の大和の國には適當であるが、その一部分の地名としては當らない。しかし山門の文字を當てたものには、播磨國風土記、美嚢《みなぎ》郡|志深《しじみ》の里の(36)條に、「針間國之山門領所v遣山部少楯」の句がある。また日本書紀神功皇后の卷にも山門縣の地名があり、これは筑後の國である。佳吉神社神代記には大和川を山門川と書いてある。この山門は、水門、河門、島門など同樣の語組織から推測するに、兩方から山の迫つている地形をいうものと考えられる。そういう地形の名稱から出發して、一定の地方をヤマトというようになり、更に他國からこの地名を呼ぶことに依つて、漸次その範圍が擴大して行つたものであろう。但し上代假字遣法において山門のトは甲類、山跡のトは乙類であることは、この説の難關である。この歌における大和の國の範圍は、嚴密なものでは無く、この郷土はぐらいの意味に使用されていると解される。クニは、天に對して、地上をいうが、多量に人文的要素を含んでいる。人の住む世界というような思想のもとに使用される。そうして一區域を何の國と呼ぶようになる。此處では後代いう如き行政上の區劃では無く、その地方という程度に使用されている。ここにいう大和の國は、今見えている全部の地域を含んでいるものであつて、ヤマトの起原的地方に限られてはいない。
 押奈戸手 オシナベテ。押は、力を加える意、ナベテは、從來靡かせての義と解せられていた。しかし本集における靡かせての意の押靡は「石根《イハガネ》 禁樹押靡《サヘキオシナベ》」(卷一、四五)、「旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》(同)、「不欲見野乃《イナミノノ》 淺茅押靡《アサヂオシナベ》(卷六、九四〇)、「秋野之《アキノノノ》 草花我末乎《ヲバナガウレヲ》 押靡而《オシナベテ》」(卷八、一五七七)、「我家戸之《ワガヤドノ》 麻花《ヲバナオシナベ》」(卷十、二一七二)、「秋穗乎《アキノホヲ》 之努爾押靡《シノニオシナベ》」(卷十、二二五六)、「賣比能野能《メヒノノノ》 須々吉於之奈倍《ススキオシナベ》」(卷十七、四〇一六)など、いずれも、植物の上にいい、それらを押し伏せての意に使用している。このナベテは、それらのナベとは違つて、「迦賀那倍弖《カガナベテ》 用邇波許々能用《ヨニハココノヨ》」(古事記二七)の那倍弖と同語として、竝べての義に解すべきである。この語は、本集では、多くマ行に轉じて、「友名目而《トモナメテ》 遊物尾《アソバムモノヲ》(卷六、九四八)、「宇麻奈米※[氏/一]《ウマナメテ》 宇知久知夫利乃《ウチクチブリノ》」(卷十七、三九九一)など、ナメテとなつてあらわれている。このオシナベテのオシは、ナベテの意味を強調するために、接頭語ふうに結合して、熟語を構成している。總じて、すべての意。「梅の花(37)それとも見えず。ひさかたのあまぎる雪のなべで降れれば」(古今和歌集卷の六)。
 吾許曾居 ワレコソヲレ。第一人稱の代名詞としてア、アレ、ワ、ワレがある。これは口語を寫音するに當つて、ア、アレとも、ワ、ワレとも、聞えるがままに記したものがもとになつているであろう。ワ、ワレと、ア、アレとは、古事記日本書紀、および萬葉集に竝んで使用されており、一首の中に兩方の表記のあるものもある。今これらの用例についてその使用囘數をあげれば下の表の通りである。この數字には、アゴ (吾子)、アセ(吾兄)、ワギヘ(我家)、ワギモ(吾妹)のような成語となつているものをも含む。古事記日本書紀は、歌謠のみについてあげた。
 下の表にあらわれた用例の數字、および個々の用法について知られるところを個條書きにすれば、次の通りである。
 一、古事記日本書紀の歌謠においては、ワ、ワレの方が壓倒的に多い。萬葉集でも、ワ、ワレの方が多いには多いが、その比率は、古事記日本書紀ほどではない。
 一、成語として、アに、アギ(吾君)、アゴ(吾子)、アセ(吾兄)があり、他語に直接に接續する。ワには、ワギヘ(吾が家)、ワギモ(吾が妹)、ワゴオホキミ(吾が大君)があり、助詞ガを伴なつて他語に接續する。
 一、一首の中に兩用しているもののうち、「わが見し子に……あが見し子に」
 
   記 紀 萬一 二 三 五 六 七 十一 十二 十三 十四十五十六十七十八
ワ  32 29 2 1 3 16 4 1 1  1 36 36 2 18 11     45
ワレ  5  9 2 1 3 18   1 1  1 39 37 2 23 16   9 68
ア  10 13      9      2   24 26   16  3 10 13
アレ  3  2      6         10  9   9  3 3 8
    記は古事記 紀は日本書紀 萬は萬葉集
 
(38)(古事記四三)、「あが思ふ妹……わが思ふ妹」(同九一)の如く對句に使つているものは、變化を求めるために意識して書かれたと考えられる。
 一、男女ともに、使つているが、大體、ア、アレは、うち解けた調子で親しみの情をあらわす場合に、しばしば使われる。「あれこそは世の長人」(古事記七三)は、この意味で例外的であるが、日本書紀では、ワレとしている。日本書紀では、播磨速待の「あれ養はむ」(四五)が例外的である。
 一、アは、助詞ガ、ヲを伴なうことが多く、助詞ハを伴なうものは一例あるのみである。ワの方は、ガ、ヲ以外の助詞を伴なうものが相當に多い。
 一、ア、ワは、他語との粘著力が強く、アレ、ワレは、それに比して弱いのは、アレ、ワレが、既に、ア、ワと、レの結合によつて成つているからである。
 以上の調査によつて、木集における吾我の類の字は、どちらにも讀み得るものであるが、ワ、ワレの方が歴史性の強いものと考えられるので、以下これによることとする。この句においては、ワ、ワレの兩訓が考えられるが、音調上、長い句の方が原則的であるから、ここには、アレ、ワレの類を採用すべきである。さてそのいずれを採るべきかというに、卷の一には、ワレの假字書きはあるが、アレは無い。依つて今、ワレと讀むこととする。居は、コソを受けて、已然形ヲレを以つて結ぶ。古くは、下の句の師を、この字に附けて、居師を以つてヲラシと讀んでいた。今、玉の小琴の説に依つて、師を下の句に屬せしめる。
 師吉名倍手
   シキナベテ(玉)
   ――――――――――
   告名倍手《ツケナヘテ》(西)
   告名倍手《ノリナバテ》(考)
 古くは、師を上の句に附け、吉を告に作るに依り、ツゲナベテ、ノリナベテなどと讀んでいた。玉の小琴に(39)至つて、師をこの句に附け、告を吉の誤として、シキナベテと讀むようになつた。シキは、一面に敷き行う意の動詞で、ナベテに對して接頭語として熟語を作り、ナベテの意を強調すること、上のオシナベテに同じである。總じての意。一體古く漢字の初畫を引き懸けて書く書風があつて、吉が告のように見え、それから告に誤つたものと見える。この外、比が此になり、枚が牧になるのも同樣の經過によるものである。吉が告のように見えるよい例は元暦校本の「朝裳よし」(卷一、五五)の歌の吉の字に見られる。上の圖を見られたい。
 吾己曾座 ワレコソヲレ。ワレコソヲラシ(西)、ワレコソマセ(略、宣長)。この座を普通にマセと讀んでいる。坐セは敬語であるが、天皇みずから敬語を用いる例は、日本書紀に雄略天皇の御製に、「鹿《しし》待つと吾《あ》がいませば、さ猪《ゐ》待つと吾が立たせば」等の例がある。しかし座をヲレと讀むことも、軍王見山の歌にも、「讀座吾衣手爾」(卷一、五)とあつて、座をヲルと讀むのであるから、不都合では無い。ワレコソヲレの同一句を重ねた方が古風である。上の、オシナベテ吾コソ居レに對して、シキナベテ吾コソ居レの句を以つて、對句としている。
 我許背齒告目 ワレコソハノラメ。ワニコソハノラメ(註稿)
(40)   ワレコソハノラメ(童喩)
   ――――――――――
   我許者背齒告目《ワレコソハセナニハツケメ》(西)
   我許曾者《ワレコソハ》背齒告目(代精)
   我許曾背齒告目《ワレヲコソセナトシノラメ》(僻)
   我許者|背齒告目《セトシノラメ》(考、春滿)
   我許者|背登齒告目《セトバノラメ》(考)
   我許曾背齒告目《ワヲコソセトハノラメ》(玉)
   我許者|背齒告目《セトハノラメ》(墨)
   我乎許曾背跡齒告目《アヲコソセトハノラメ》(古義)
   我許曾者背止齒告目《ワレコソハセトシノラメ》(美)
   我許背齒告自《ワレコソハノラジ》(新訓)
 通行本には我許者背齒告目とある。この者の字は元暦校本、類聚古集、古葉略類聚鈔、共に無いから省くべく、然らば、我許背齒をワレコソハと讀むべきである。萬葉代匠記には、許の下に曾の字脱として我許曾者背齒告目としている。又金澤文庫本にはその通りになつているが、金澤文庫本は仙覺本の一種であるから、この本一本のみの校異では直に本文を訂正するわけにゆかない。既に者の字が古寫本によつて省かれるのであるから、曾を補つても何にもならずまた補うわけにはゆかぬのである。告目は、このままならばノラメと讀んで、孃子の答を待たずに、自分こそ家をも名をも言おうの意になる。類聚古集には、目を自に作つている。これに依る時は、告自をノラジと讀んで、上に既にこの大和の國が居處なることをあきらかにしたのであるから、我は名告らないの意になる。それも一理あるが、類聚古集は、目を自に誤ること多く、次の歌の加萬目の目をも自に誤つているのであるから、この一本のみに依つて事を決するわけに行かない。上の吉の場合と同じく、目の初畫を誇張して書くことから自に誤つたものと解すべきであろう。
(41) 家呼毛名雄母 イヘヲモナヲモ。呼は、元暦校本等に依る。仙覺本には乎である。
【評語】この歌は、萬葉集中の最古の歌では無いが、仁徳天皇の皇后の御歌や、聖徳太子の御歌の短歌であるのに對して、かえつて古い傳誦の形體を備えているようであり、その意味でも、卷頭の歌としてふさわしいものがある。
 第一段、岡のべに菜を摘む孃子に呼び掛けられる部分は、あかるく和やかであり、和樂の氣に滿ちている。口語で、人を呼ぶには、その行爲の説明をしないのが通例であるが、この歌では籠や掘串《ふくし》を持つて、この岡に菜を摘む子と、こまかに説明している。これに依つて、その孃子の印象を明瞭にして非常に效果的である。しかもその持つている籠や掘串に對して、感愛の情をあらわして、籠モヨ、掘串モヨと歌つたのは、それらにも心が強く注がれていることを語る。かくして家聞カナと名告ラサネとが、語を變えて、對句として、上に説明した孃子に求められる所をあきらかにし、これに依つて心の集中點が元されている。
 第二段は、轉じて作者自身の上を説明され、ここには、莊重な表現に依つて、この國の帝王であることを示され、第一段とよい對照を成している。オシナベテ我コソ居レ、シキナベテ我コソ居レと、極めて類似した句を重ねて擧げているのは、強く指示する意志があらわれている。そうして、自分が名のろうとされる前提となつている。最後の家ヲモ名ヲモの一句は、上の家聞カナ名告ラサネの句を受けて、よく呼應した結末である。
 古代にあつては、人々は、名に對して特別の意味を感じていた。人に名を知られることは、その人に自己の全人格を支配されることである。それで孃子に名を問うことは、婚姻を申し入れることになり、孃子が名を答えることは、申し入れに應じたことになる。家を尋ねることも、訪問しようとする意志を表示するのであつて、特殊の關係を結ぼうというのである。この歌における家や名を尋ねることは、やはり特殊の關係を開こうとするにあつて、それ故に第二段の表白が力強く響くのである。泊瀬の天皇を主人公とした歌曲として宮廷に歌い(42)傳えられた歌の一つであろう。歌いものとしての性質が濃厚であつて、古事記などに傳わる幾篇の歌謠と同樣に、曲の形を失つて、歌詞のみが傳えられたのであろう。
 天皇と菜を採む娘子とを語る歌物語としては、古事記下卷に、仁徳天皇と吉備の黒日賣との物語が傳えられ、吉備の黒日賣が菜を採んであつものを奉つたとしている。その時に天皇が、黒日賣の菜をつむところにおいでになつて、「山|方《がた》にまける青菜も吉備人と共にしつめば樂しくもあるか」(古事記五五)の歌を詠まれたとしている。萬葉の籠モヨの歌にも、このような歌物語が成立していたのであろう。これはやがて仙女に出逢う物語に展開するであろうが、この歌自身、そこまで發展していたかどうかは不明である。
 形式は、短句を以つて歌い起し、長句がこれを承けて進行し、まだ五七調の定型に到達しないで、自由な格調を保つている。對句が多く使用され、いずれも有效に働いている。最後を五三七で結ぶのは、古長歌に往々ある格で、「うつせみも 嬬を 爭ふらしき」(卷一、一三)、「心無く 雲の 隱さふべしや」(卷一、一七)、「うらぐはし 山ぞ 泣く兒守る山」(卷十三、三二二二)などの例がある。これも五七七の定型に到達するまでの過渡的な形體である。
【參考】孃子に名を問う。
  丹比《たぢひ》の眞人《まひと》の歌
 難波潟潮干に出でて玉藻苅る海孃子《あまをとめ》ども汝が名|告《の》らさね(卷九、一七二六)
  和《こた》ふる歌
 漁《あさり》する人とを見ませ。草枕旅ゆく人にわれは及《し》かなく(同、一七二七)
 紫は灰さすものぞ。海石榴《つば》市の八十《やそ》の衢《ちまた》に逢ひし兒や誰(卷十二、三一〇一)
 たらちねの母がよぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか〔同、三一〇二、以上二首問答)
(43) 雎鳩《みさご》ゐる磯廻《いそみ》に生ふる名乘藻《なのりそ》の名は告らしてよ。親は知るとも(卷三、三六二)
 雎鳩《みさご》ゐる荒磯《ありそ》に生ふる名乘藻《なのりモ》の名のりは告《の》らせ。親は知るとも(同、三六三)
 隼人《はやひと》の名に負ふ夜聲いちしろく吾が名は告りつ。妻と恃ませ(卷十一、二四九七 )
 
高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
 
【釋】 高市岡木宮御宇天皇代 タケチノヲカモトノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。高市の岡本の宮は、舒明天皇の皇居。飛鳥の岡本の宮というのも同處である。日本書紀、舒明天皇二年十月、「壬辰朔癸卯、天皇遷2於飛鳥岡傍1。是謂2岡本宮1。」とあり、同八年の條に「六月、災2岡本宮1。天皇遷2居田中宮1。」とある。今、奈良縣高市郡高市村大字岡の地である。
 息長足日廣額天皇 オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト。舒明天皇である。息長は、近江の國の地名、母方の祖母は、息長眞手の王の女であるから、その系統の名を負われたのであろう。足日は、充實せる神靈の意。廣額は、容貌の特色を稱えたのであろう。天皇は、敏達天皇の孫、彦人大兄の皇子の子、御母を糠手《ぬかで》姫の皇女という。推古天皇の次に即位せられ、大和の高市の岡本の宮に都せられた。帝位にあること十三年にして崩じ、押坂の内の陵に葬つた。はじめ息長足日廣額《おきながたらしひひろぬか》の天皇と申し、後に舒明天皇と申す。また宮號によつて岡本の天皇とも申す。萬葉集の歌は、舒明天皇の御代から後は、漸次數量も多くなつて、彼此の間に系統づけても語られるようになつた。殊に齊明天皇は、天皇の皇后であり、天智天皇天武天皇はそのお二方のあいだに生まれた皇子である。
 
天皇、登2香具山1望2國之時、御製歌
 
(44)天皇の、香具山に登りて望國《くにみ》したまひし時の御製の歌
 
【釋】天皇。舒明天皇。
 香具山 カグヤマ。歌中には、天の香具山とある。奈良縣磯城郡(もと十市郡)にある山。標高一四八メートルの小山であるが、古くから神聖な山として貴ばれ、古代の神事には、この山から採取した士で祭器を作り、この山の賢木を根こじにして祭場に据え、またこの山の鹿の骨を以つて神事の卜占をしたことなどが傳えられている。大和の國の中央平原の東方に位し、中央部の觀望に適している。香具山は古事記の歌詞に迦具夜麻、日本書紀に香山と書き、その自注に「香山、此云2介遇夜摩1」とある。萬葉では、高山、香山、香來山、芳山、芳來山とも書く。カグは、もと神靈の意で、卜占に使われる神聖な鹿も同語である。「天降《あも》りつく天の香具山」(卷三、二五七)の句などもあつて、天から降つて來た山だという。それでこれを神聖視して天の香具山ともいうのである。
 望國之時 クニミシタマヒシトキ。歌中には、國見乎爲者とある。國見は、高處に登つて國状を觀察するをいう。日本書紀、神武天皇三十一年四月の條に、「皇輿巡幸、因登2腋上※[口+兼]間丘《ワキハミノホヽマノヲカ》1、而廻2望國状1曰、妍哉乎《アナニヱヤ》、國之獲矣。雖2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國《ウツユフノマサキクニ》1、猶如2蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメ》1焉、由v是、始有2秋津洲之號1也。」これはやがてこの歌の中に見える秋津島の語の起原説話になつている。元來國状御視察の義があり、國土讃歎の歌または詞を傳えるのを常とする。この歌も、その意味の御製である。なお國見は、本來春の耕作の初めに當つて、その年に耕作すべ(45)き土地を選定することから起つたのであろう。それが後にはただ風光を觀るだけの意味にも使用されるようになつた。「雨間かけて國見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも」(卷十、一九七一)の如きは、そのような用例である。次に、本集の題詞には、作歌の場合を説明するに、時の字を以つて示すことが多い。その時に接する用言の連體形を、いかなる時間の語法で讀むべきかは、不明である。今「御獵立師斯時」(卷一、四九)などの例により、過去にあつた事實を示すものとして、過去の時を以つて讀むこととする。
 
2 大和には 群山《むらやま》あれど、
 とりよろふ 天《あめ》の香具山《かぐやま》、
 登り立《だ》ち 國見をすれば、
 國原《くにはら》は 煙《けぶり》立ち立つ。
 海原《うなはら》は 鴎《かまめ》立ち立つ。」
 うまし國ぞ。
 蜻蛉島《あきづしま》 大和の國は。」
 
 山常庭《ヤマトニハ》 村山有等《ムラヤマアレド》
 取與呂布《トリヨロフ》 天乃香具山《アメノカグヤマ》
 騰立《ノボリダチ》 國見乎爲者《クニミヲスレバ》
 國原波《クニハラハ》 煙立龍《ケブリタチタツ》
 海原波《ウナハラハ》 加萬目立多都《カマメタチタツ》
 怜※[立心偏+可]國曾《ウマシクニゾ》
 蜻島《アキヅシマ》 八問跡能國者《ヤマトノクニハ》
 
【釋】この大和の國には、多くの山があるが、中にも見事なこの天の香具山よ。その山に登り立つて國見をすると、國の廣い所には煙があちらにもこちらにも立つている。水面には水鳥がそこにもここにも立つている。よい國だなあ、この大和の國は。
【構成】第一段、鴎立チ立ツまで。事實を敍述する。以下第二段、感想を述べる。かように第一段でまず事實を敍述し、第二段でそれを基礎とする主觀的敍述をするのは、古い長歌に、しばしば見られる所である。これは人間の心理現象の順序どおりの敍述法であつて、素朴感を有する表現である。三山の歌(卷一、一三)など、(46)この法に依つている。
【釋】 山常庭 ヤマトニハ。このヤマトは、大和の國一帶の義に用いられているが、それは行政區劃を意味する所の知識的なものでは無く、見渡される主要部を中心としていう言い方である。常をトの音韻に當てているのは、他に例も多く慣用となつているが、トコの下略であるとされている。しかし常影《とかげ》の如き用字例もあつてトに常久の義があつたものかとも考えられる。庭は、助詞ニハをあらわすために、訓假字として使用されている。この大和の國にはの意の句である。
 村山有等 ムラヤマアレド。村山は群山の義。山の多數なのをいう。等は、清音の字であるが、集中、濁音のドにもしばしは使われている。
 取與呂布 トリヨロフ。トは、意を強めるために附ける接頭語の動詞。元來、手にするの意味を有するのであり、その意味が若干殘つていると見られる、トリ持ツ、トリ見ル、トリ佩クなどの例もあるが、また、トリ續ク、トリ装フなど、原意を離れての用例もある。ここは原義を離れての用法である。ヨロフは、身を守る、装甲するの意の動詞で、甲鐙をヨロヒというも、同語である。新譯華嚴經音義私記傍訓鈔に、甲および冑に、それぞれ與呂比と訓している。この歌では、天の香具山が、山としての雄姿を具備し、貴むべく賞すべくある意に、その修飾語として使用されている。
 天乃香具山 アメノカグヤマ。古事記中卷に、「阿米熊迦具夜麻《アメノカグヤマ》」とある。この山に限つて、天ノを冠らせるのは、古來神聖な山として仰がれていたためである。釋日本紀に引いた伊豫國風土記には、「倭在天加具山、自v天天降時、二分而、以2片端1天2降於倭國1、以2片璃1天2降於此土1、因謂2天山1也。」とある。本集にも、「天降付《アモリツク》 天之芳來山《アメノカグヤマ》」(卷三、二五七)とあつて、天から降つて來たという傳えのある山である。天ノは、アメノともアマノとも讀まれ、本集にも兩方の假字がきがある。天は、獨立語としてはアメであるが、他語の上に(47)直接に冠して熟語を作る場合にはアマとなる、これは、たとえばタケ(竹)が、タカムラ(篁、竹村)となり、フネ(船)が、フナビト(船人)となるのと同じ現象である。天が助詞ノを伴なう場合は、天に獨立語としての性質が強いときはアメノとなり、これに反してノおよびその下の語と粘着性が強い時にアマノとなる。天ノ下がアメノシタであるのは、漢語の翻譯で、その成立が新しいからであり、天ノ原、天ノ河が、それぞれアマノハラ、アマノガハであるのは、熟語として各語の粘着が強いからである。アマノは、本集ではこの外に、假字書きのものに、アマノヒツギ(安麻能日繼四〇八九等)がある。天ノ香具山の場合は、本集には假字書きはないが、熟語としての慣用が廣いと見るならは、アマノカグヤマである。古事記にアメノカグヤマと書いたのは、歴史的記載法によつたものと見られる。さてこの句は、呼格であつて、その山を呼びかけて讃嘆の意をあらわされている。助詞ニを補つて解すべしとする説もあるが、意味はそうでも、ここはまずその山を呼びあげたものとしなければならない。それで無くては、感激の意が感じられない。
 騰立 ノボリダチ。香具山に登り立つての意である。日本書紀、繼體天皇紀に、「美母慮我紆陪※[人偏+爾]《ミモロガウヘニ》 能朋梨陀致《ノボリダチ》」(九七)とあり、本集に、「高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 上立《ノボリダチ》 國見乎爲勢婆《クニミヲセセバ》」(卷一、三八)とある。タチのタは、普通に清音に讀まれているが、上記日本書紀に能明梨陀致とあり、古事記下卷に、「淤斐陀弖流《オヒダテル》」(一〇一・一〇二、生ひ立てる)などあるに依れば、連濁として、タを濁音に讀むべきであろう。
 國見乎爲者 クニミヲスレバ。作者たる天皇御自身の行動を敍せられる。國見は、題詞の項に説明した。
 國原波 クニハラハ。クニハラは、下の海原を清音に讀むに倣つて清音に讀む。國の語に、廣平の處を意味する原の語の熟したもので、國土の廣く平なるをいう。原は草原に限らず、すべて廣く平な處をいう。ハルカ(遙)、ハロバロ(遙々)等のハル、ハロと同語で、その名詞形を採つたものと考えられる。ここは香具山から望見される大和の國土をいう。
(48) 煙立龍 ケブリタチタツ。
   ケフリタツタツ(冷)
   ケブリタチタツ(僻)
   ケムリタチコメ(考)
   ケブリタチタチ(※[手偏+君])
   ――――――――――
   煙立籠《ケフリタチコメ》(細)
 類聚古集に、龍を籠に作つている。元暦校本には、朱で竹冠を附けて籠に直している。細井本に籠に作つているのは、これらの系統を受けたもので、仙覺寛元本は籠に作り、文永本に至つて龍に改めたものらしい。次の加萬目立多都とある句と對する句であつて、それと同形であることは古風であり、また内容から言つても、煙立チ立ツの方が、動態を描いて、生き生きとしている。龍に作るに依るべきである。寛永版本に籠に作り、訓はタツになつているのは、本文は、細井本系統から來ており、訓はそれとは異種の文永本系統の本に依つて加えたので、かような矛盾した形を生じたのである。その成立經過は、今日では分明になつている。さて煙は人家の炊煙をいう。倭名類聚鈔に、「煙、於賢反、字亦作v烟介不利」とある。古事記、仁徳天皇の記に、「於v是、天皇、撃2高山1、見2四方之國1、詔之、於2國中1烟不v發、國皆貧窮1。」また「後見2國中1、於v國滿v烟。故爲2人民富1。」とある。民が富み榮えておれば、炊烟を擧げること多く、貧しければ、炊烟が乏しいとするのであつて、ここは、炊烟の多く立つことによつて、民の繁榮を知ろしめされたのである。煙は、「所v遊《アソバシシ》 我王矣《ワガオホキミヲ》 煙立《カスミタツ》 春日暮《ハルノヒグラシ》」(卷十三・三三二四)の如きは、煙霞の義に取つて、カスミとも讀めるが、丁ここはカスミでは適わない。タチタツは、同じ動詞を重ねて、その動作の繼續して行われるをいう語法。「在有而《アリアリテ》 後毛將v相登《ノチモアハムト》」(卷十二、三一一三)・「戀々而《コヒコヒテ》 相有物乎《アヒタルモノヲ》」(卷四、六六七)などの例である。煙があちらからもこちらからも、あとからあとから立ち昇る意である。この句は終止形であつて、下の加萬目立多都と對句になつている。
(49) 海原波 ウナハラハ。「宇奈波良《ウナハラ》」(卷五、八七四)などハは假字書きの例は清音である。防人の歌ではあるが、「宇乃波良《ウノハラ》」(卷二十、四三二八)の例もある。ウは海の義であるが、元來、大の義のある語で、ウミは大水の義であろう。海上をウナカミといい、ウシホ(海水)のウも同語であろう。依つてウミのミを略したものとするは當らず、もと大の義なるウに海の義を感じたとすべきである。ナはノに同じく接續領格の助詞。ヌナト(瓊な音)、ミナモト(水の源)、タナソコ(手の底)などの用例がある。ハラは、廣い處の義。海を原野にたとえていうのではなくして、海の廣い處であることをあらわした語である。この海原は、もと香具山の麓にあつた埴安の池をいう。飛鳥川は、今、畝傍山と耳梨山との中間を西北流しているが、當時は、更に東寄りに流れて、香具山の西麓において埴安の池に流入したものと思われる。今でも泣澤神社の森から北方一帶は、一段と低くなつており、池尻、池内などの村名も殘つている。埴安の池は、柿本の人麻呂の歌(卷二、二〇一)にもあり、また鴨の君足人の歌(卷三、二五七−二六〇)にも詠まれている。
 加萬目立多都 カマメタチタツ。加萬目は、鴎のことであるという。カモメは、羽の強い鳥で、隨分奧地まで入り來り、現に琵琶湖などでは常に見る所であるという。しかしこの歌としては、水禽の代表として、カモメを擧げたものと解すべく、これに依つて白い水鳥の群れ立つさまを想像すればよい。その白い鳥が、眞のカモメであるかどうかは、問題にならない。カモメのメは、スズメ、ツバクラメ、コガラメなどのメと同じく、女性の義なるべく、然らばカモメは、鴨女の義か。なお鴨の君足人の香具山の歌には「奧邊には鴨妻よばひ邊つ方《ベ》にあぢ群さわき」(卷三、二五七)と詠んでいる。タチタツは、上の煙立チ立ツと同樣、鴎が續いて立つをいう。以上第一段。
 怜※[立心偏+可]國曾 ウマシクニゾ。
    オモシロキクニソ(西)
   ――――――――――
   可怜國曾(僻)
(50)   ※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニソ》(考)
   可怜國曾《ウマシクニソ》(燈)
   ※[立心偏+可]怜國曾《オモシロキクニゾ》(墨)
怜※[立心偏+可]は、本集中他に所見が無いが、※[立心偏+可]怜は、「家有者《イヘニアラバ》 妹之手將v纏《イモガテマカム》 草枕《クサマクラ》 客爾臥有《タビニコヤセル》 此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》」(卷三、四一五)以下十一例がある。この※[立心偏+可]怜は、感嬬を※[女+感]嬬、鳳皇を鳳凰と書くが如き、漢字の連字扁旁を増す例で、可怜とあるべきを、怜の字に引かれて可を※[立心偏+可]に作つたものであつて、※[立心偏+可]は字書に無い字であるという。可怜は、日本書紀、神代の下に「可怜小汀」「可怜御路」、垂仁天皇紀に、「神風伊勢國、則常世之浪、重浪歸國也、傍國可怜國也」とある。※[立心偏+可]怜も、日本書紀にも遊仙窟にもあるので、漢土でも既に使用されていたものであろうとされている。依つて、此處に怜※[立心偏+可]とあるのは、※[立心偏+可]怜の誤りであろうという。訓は、日本書紀に、可怜小汀に註して「可怜、此云2于麻師1」とあるに依つて、ウマシと讀むべきである。但し本集における他の用例は、かならずしもウマシと讀むことが適切でなく、上掲の「此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》」(卷三、四一五)、「吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》」(卷四、七六一)、「※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》」(卷七、一四一七)、「※[立心偏+可]怜其鳥《アハレソノトリ》」(卷九、一七五五)、「※[立心偏+可]怜吾妹子《アハレワギモコ》」(卷十一、二五九四)、「※[立心偏+可]怜登君乎《アハレトキミヲ》(卷十三、三一九七)の諸例の如きは、アハレと讀むべく、「如是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》 縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》(卷四、七四六)、「痛※[立心偏+可]怜《アナオモシロ》 布當乃原《フタギノハラ》(卷六、一〇五〇)、「※[立心偏+可]怜《オモシロミ》 吾居袖爾《ワガヲルソデニ》」(卷七、一〇八一)・「秋山《アキヤマノ》 黄葉※[立心偏+可]怜《モミヂオモシロミ》」(卷七、一四〇九)の諸例の如きは、オモシロ(オモシロク、オモシロミ)と讀むべきである。また「※[立心偏+可]怜斷腸」(卷十六、三八三五)は、何と讀むべきか不明である。さてウマシは、物を賞美していう形容詞である。形容詞は、古くはその活用語尾シを以つて連體形としたので、ここもその連體法である。大和の國土を稱えて、良い國だとされたのである。もと食味の甘美を賞する語で、轉じて、すべて物を賞美するに使用される。「宇摩志阿斯※[言+可]備比古遲神《ウマシアシカビヒコヂノカミ》」(古事記上卷)の宇摩志などい、同じ語法、同じ意味に使用されている。この語は、後に(51)は、活用語尾キを以つて連體法とするに至つたが、竹取物語には、ウマシキという形が見えている。
 蜻島 アキヅシマ。上掲、日本書紀における神武天皇の、腋上《わきがみ》の※[口+兼]間《ほはま》の丘の國見の御詞に、蜻蛉《あきづ》の臀※[口+占]《となめ》せるが如もあるかとあるに依つて、この國を蜻蛉島というとする起原説話がある。古事記雄路天皇の記には「その虻《あむ》を蜻蛉はや噛《く》ひ、かくの如名に負はむと、そらみつ大和の國を、蜻蛉島とふ」(九八)とも詠まれている。そこには阿岐豆志麻と書かれているので、アキヅシマと讀むべきが如くである。この萬葉の歌では、大和の國の修飾語となり、枕詞として使用されている。なお本州を古事記には、大倭豐秋津島とし、日本書紀には、大日本豐秋津洲としているので、收穫のゆたかな國土の義にこの國土を稱えたのが本義であつて、後に蜻蛉島の義とする起原説話を生じたのであろうという。島は、水に面した美しい國土をいう語であつて、かならずしも水に圍まれた土地であることを要しない。なおアキヅは、明ツ神の明ツと同語で、アキヅシマは、現實にある美しの國土の義であるかも知れない。
 八間跡能國者 ヤマトノクニハ。この大和の國を提示して、主格を成している。これに對して上の、ウマシ國ゾが述語になる。
【評語】萬葉歌人の祖ともいうべき舒明天皇の御製として、萬葉集の歌の、最大多數の舞臺である大和の國の美を敍述された歌を見るのは、いかにもふさわしい。國土をほめる歌は、古くから數々あるが、この歌は高處から見下した特色が、よく煙立チ立ツ鴎立チ立ツの句に見えて、いかにも美しい古代大和の有樣が窺われる。まずトリヨロフ天ノ香具山と、その山を呼びあげて稱美され、さて國見された國土の状況の敍述に入る。殊に陸上水上の兩方面について、煙立チ立ツで、人民の繁榮を寫し、鴎立チ立ツで、自然の美を描かれている。短い句のあいだによく人事と自然との美を併せ有することを歌われている點は、實によくできている。香具山の上から御覽になつた風物は、種々であつたであろうが、その中から煙と鴎とを選定され、これに依つて印象を(52)あきらかにされた。その鴎は、水禽の代表としてあげられたものである。第一段において事實の敍述をなし、第二段に簡潔に總括された。主格を最後に置いて結末としたのもよく安定している。これも歌曲として傳えられた歌として認められ、歌いものらしい調子が感じられる。五七の句が既に整つており、末に至つて變化を生じているのは、古長歌の漸く整備に赴く過渡的な形である。
【參考】大和の國をほめた歌。
  大和は國のまほらま、疊なづく 青垣、山ごもれる 大和しうるはし。(日本書紀二二、景行天皇、古事記三一、倭建の命)
   正月元日讀歌
  そらみつ 大和の國は 神からか ありが欲しき。國からか 住みがほしき。ありが欲しき國は、あきづ島 大和(琴歌譜、景行天皇)
 
天皇、遊2※[獣偏+葛]内野1之時、中皇命、使2間人連老獻1歌。
 
天皇、内野に遊※[獣偏+葛]《みかり》したまひし時、中皇命《なかつすめらみこと》の、間人《はしびと》の連《むらじ》老《おゆ》をして獻らしめたまへる歌
 
【釋】天皇。前の歌に引き續いて、舒明天皇であることあきらかである。
 遊※[獣偏+葛]。 下の之時と併せて、ミカリシタマヒシトキと讀む。射獵のために遊行する義である。※[獣偏+葛]は獵に同じ。
 内野 ウチノ。奈良縣宇智郡の原野。吉野川の左岸、和歌山縣との縣境に近い處の地名。固有名詞としての野の名は、助詞ノを伴なつて何の野ともいい、また助詞無しに何野ともいつて一定しない。
 中皇命 ナカツスメラミコト。中皇命は、君之齒母(卷一、一〇)以下三首の題詞にも、「中皇命、往2于紀温泉1之時、御歌」と見えている。萬葉考には、皇の下に女の字脱としてナカツヒメミコと讀み、古義は、命(53)を女の誤りとしている。しかし女の字のある本、もしくは女に作つている本は無いのであるから、原文のままに解釋するを要する。近年喜田貞吉博士の中天皇考(萬葉學論纂所收)が出て、女性にして帝位につかれた方をいい、ナカツスメラミコトと讀むべしとした。この語の用例には次の如きがある。
 掛麻久毛新城大宮天下治給天皇。(續日本紀、神護景雲三年十月宣命)
 爾時近江宮御宇天皇秦、開髻墨刺刺、肩負v※[金+立]、腰刺v斧、奉v爲奏、仲天皇奏、妾我※[女+夫]炊女而奉v造(大安寺縁起流記資財帳)
 喜田氏は、前の例文の中都天皇を元明天皇、後の例文の仲天皇を倭姫の皇后(天智天皇の皇后)の事としている。なお皇命の字面については、天皇命の字面が古事記上卷に、「故是以、至v于v今、天皇命等之御命不v長也」とあり、また出雲國造神賀詞、續日本紀宣命等に見えている。これに依つて、此處も、ナカツスメラミコトと讀み、舒明天皇の皇后で、後帝位につかれた皇極天皇の事と解すべきである。
 間人連老 ハシビトノムラジオユ。間人は氏、連は姓、老は名である。日本書紀、孝徳天皇の紀に、遣唐使の判官となつた中臣の間人の連老であろうとされる。日本書紀、その人に註して「老、此云2於喩1」とある。
 この歌は、中皇命の御歌か、間人の老の作歌かというに、中皇命の御歌ならば、御の字があるべきであるが、その字が無いこと、間人の老が、御歌の俊使しただけならば、かように題詞にその名を出すはずが無いこと、これらに依つて、中皇命の命に依つて間人の老の作つて獻つた歌と定むべきである。
 歌の作られた事情は、題詞によつてあきらかであるが、この遊獵は、いわゆる藥獵であつたことと思われる。藥獵は、五月五日に行われる行事である。この日は正陽の節日であつて、この日に採取した藥品は、特效があるとされる。よつて男子は鹿を獵して、その袋角を採り、女子は藥草を採る。狩獵ではあるが、一面遊樂的な行事として、派手に行われる。本集に「かきつばた衣に摺り著けますらをの服襲《きそ》ひ獵する月は來にけり」(卷(54)十七、三九二一)、「春日野の藤は散りにて何をかも御獵の人の折りて插頭《かざ》さむ」(卷十、一九七四)などと詠まれているのも、この故である。今、歌詞によるに、皇后も獵場近くにお出ましになつているようであり、また反歌にはその草深野とあつて、夏の歌であることを語つているなど、この獵の藥獵であることを證するに足りる。
 
3 やすみしし わが大王《おほきみ》の、
 朝《あした》には とり撫でたまひ
 夕《ゆふ》べ には い寄《よ》り立たしし、
 御執《みと》らしの 梓弓《あづさゆみ》の
 中|弭《はず》の 音すなり。」
 朝獵《あさかり》に 今立たすらし。
 暮獵《ゆふかり》に 今立たすらし。
 御執らしの 梓弓の
 中弭の 音すなり。」
 
 八隅知之《ヤスミシ》 我大王乃《ワガオホキミノ》
 朝庭《アシタニハ》 取撫賜《トリナデタマヒ》
 夕庭《ユフベニハ》 伊縁立之《イヨリダタシシ》
 御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサユミノ》
 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈利《オトスナリ》
 朝※[獣偏+葛]尓《アサカリニ》 今立須良思《イマダタスラシ》
 暮※[獣偏+葛]尓《ユフカリニ》 今他田渚良之《イマタタスラシ》
 御執能《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサユミノ》
 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈里《オトスナリ》
 
【譯】天下を知ろしめす天皇陛下の、朝には愛撫したまひ、夕べには傍にお寄り立ちになつた、御料の梓弓の中弭の音が致します。朝獵に今お出ましになると見えます。夕獵に今お出ましになると見えます。御料の梓弓の中弭の音が致します。
【構成】第一段、初めの中弭ノ音スナリまで。第二段、終りまで。第一段で、事實を敍述し、第二段で、その(55)事實に基づく推量を延べるが、第一段の後半部を繰り返して、事實の敍述を確めている。
【釋】 八隅知之 ヤスミシシ。集中、八隅知之の字面は、この例を併せて二十例あり、外に、安見知之六例、安美知之一例である、これと同語と認められるもの、古事記に夜須美斯志《ヤスミシシ》四例、日本書紀に、夜輸彌始之、野須瀰斯志、野須美矢矢、夜須彌志斯各一例、續日本紀に夜須美斯志一例であつて、これらの文獻に依つて、萬葉集のを、ヤスミシシと讀むのである。この語は、わが大君を修飾するを例とするもので、天皇の威徳を稱える内容を有すると考えられるが、語義については、諸説があつて一定しない。それらの諸説を分類すると、ヤスミについて、八隅説を取るものは、釋日本紀、註釋(仙覺)、代匠記であり、安見説を取るものは、冠辭考、古事記傳、古義、美夫君志、正訓等である。今、その代表的なものとして、正訓の説を擧げれば、ヤスミは上一段動詞の未然形、上のシは、敬語の助動詞の連用形、下のシは時の助動詞の連體形と見るのであつて、安く治めなされたの意と解するのであり、語法の説明は、一往これで成立している。但しここに、安ミを、上一段動詞の活用と見るのは、文獻上の支持が無く、無理である。むしろ上一段動詞見ルに、形容詞安の冠せられたものと見るべきである。動詞の見ルに、敬語の助動詞スの接續した例は、「見之賜者」(卷一、五二)、「見之賜而」(卷六、九七一)などあり、假字書きの例としては、「和乎彌佐婆志理之」(常陸國風土記)がある。ただここに問題となり得るのは、萬葉集における多數の用例が、何故すべて知之の文字を用いているかである。これについてシシは知ラスの義であるとなす説がある。知ルの古語に、シスの如きものがあつたかも知れないが、まだその存在が證明されない。この語の解釋上、參考となるべきものとしては、萬葉集に、「日雙斯皇子命」(卷一、四九)、「日竝皇子尊」(卷二、一一〇題詞、一六七題詞)とある御方を、續日本紀に「日竝所知皇子尊」、粟原寺の鑪盤の銘に「日竝御宇東宮」とあることである。これによつて、知之を所知、御宇の義とするのであるが、しかしこの日竝皇子尊は、訓讀が決定しかねるので、これを以つて語義を證明するのは困難で(56)ある。また、母の枕詞タラチネノは本集において、「多羅知斯夜《タラチシヤ》」(卷五、八八六)、「多良知子能《タラチシノ》」(同、八八七)、「垂乳爲《タラチシ》」(卷十六、三七九一)の形を採るものがあり、また播磨國風土記に「多良知志吉備鐵《タラチシキビノマガネ》」とあつて、タラチシを以つて原形とするものの如くであるが、この語義は、足ラシシであろうかと考えられる。これによれは、八隅知之、安見知之の知之も、字音假字として、チシと讀むことも成立すべきである。しかし今しばらく舊訓のままに、ヤスミシシの訓を存置する。この句は、宮廷歌謠において傳誦せられ來たつた句であつて、早くからその語義が忘れられて使用され、或る場合には別の語原解釋をも生じたものと考えられる。かくしてこれを使用することによつて、歴史あり傳統ある皇威が感じられるようになつたのである。
 我大王乃 ワガオホキミノ。ワガオホキミノ(元朱)、ワゴオホキミノ(槻)。集中、オホキミの語を修飾する場合の我の語の假字書きとしては、和期大王五例、和期大皇二例、和其大王、吾期大王、和期於保伎美各一例あり、また和我於保伎美二例であつて、ワゴとあるものが斷然多い。しかもヤスミシシの語を受けているものは、すべてワゴの例中にある。この語は、歴史的に言えば、勿論ワガであるが、そのガがオホキミのオと結合して、音聲で聞く場合には、ワゴーホキミと聞えるのであつて、その寫音がワゴオホキミと記されるのである。これによれば、ここもワゴオホキミノと讀むべきであるが、吾大王の文字は、表意文字として使用されたものであつて、この場合、なるべく文字に即して書くを原則とすべきであるから、今なおワガオホキミノの訓によることとする。この句は、下の取リ撫デタマヒ、及びイ寄リ立タシシの句に對して主格をなすものであつて、大王は、舒明天皇を指し奉つている。オホキミは、本來、天皇に稱し奉る語。ここはその本義に使用され、時に親しみまつる意を以つてワガを冠している。
 朝庭 アシタニハ。アサニハニとする訓もあるが、「安志多爾波《アシタニハ》 可度爾伊※[氏/一]多知《カドニイヂタチ》 由布敝爾波《ユフベニハ》 多爾乎美和多之《タニヲミワタシ》」(卷十九、四二〇九)などの例に依つて、アシタニハと讀むべきである。庭は、助詞ニハをあらわす(57)訓假字として使用されている。下の夕庭も、これに倣うべきである。
 取撫賜 トリナデタマヒ。トリは手に取る意、ナデは愛撫する意の動詞で、熟語を作つているが、トリは接頭語となる傾向にあつて、ナデに意味の中心がある。タマヒは、敬語の助動詞。以上の二句は、下の、夕ベニハイ寄リ立タシシの句と對句をなしている。
 夕庭 ユフベニハ。朝庭の項參照。
 伊縁立之 イヨリダタシシ。
   イヨリタテリシ(元朱)
   イヨリタヽシシ(西)
   イヨセタテヽシ(神朱)
   イヨセタヽシシ(考)
   イヨシタテヽシ(※[手偏+君])
   イヨシタテシ(直好)
   イヨセタテシ(燈)
   イヨリタヽシ(攷)
   イヨシタヽシ(註稿)
   ――――――――――
   伊縁立坐《イヨセタテマス》(墨)
 講義(山田博士)には、緑に動詞としてヨスと讀むべき意義無しとしているが、集中、ヨスに當てて書いていると認められる例は多い。しかしここは、古事記雄略天皇の卷の「夜須美斯志《ヤスミシシ》 和賀淤富岐美能《ワガオホキミノ》 阿佐斗爾波《アサトニハ》 伊余理陀多志《イヨリダタシ》 由布斗爾波《ユフトニハ》 伊余理陀多須《イヨリダタス》 和岐豆紀賀斯多能《ワキツキガシタノ》 伊多爾母賀《イタニモガ》 阿世袁《アセヲ》」の例などに依つて、イヨリタヽシヽの訓を採用すべきである。イは接頭語。ヨリは寄る意の動詞。タヽシは動詞立ツに敬語の助動(58)詞の接續したもの。下のシは時の助動詞である。古事記の例に依れは、タタシの上のタは、濁音なるべく、寄り立つを一の熟語と見るべきである。以上の二句は、上の朝ニハ取リ撫デタマヒの句と對句を成し、この句の下のシは、取り撫デタマヒとイ寄リ立タシとの雙方を受けて、下の御執ラシノ梓弓を修飾している。梓弓のもとにお立ち寄りになつた意味の句である。朝な夕なに、御愛撫になりまたはお立ち寄りになつたの意で、それを朝夕と對句に分かつたまでである。
 御執乃 ミトラシノ。ミは敬語の接頭語。トラシは、動詞取ルに敬語の助動詞スが接續して、名詞形を採つたもの、ここでは梓弓を修飾する。御手にお取りになるものの義である。弓をミトラシ、ミタラシというも、この語から出る。
 梓弓之 アヅサユミノ。梓の木で作つた弓、もとアヅサノユミノと、中にノを入れて讀んでいた。この句は、一首中に同句が二度出ていて、原文は前のは御執乃梓弓之とあり、後のは御執梓能弓之とあるので、後のに引かれて、前のをもアヅサノユミノと讀んでいたのである。然るに古事記日本書紀の假字書きの例を見ても、アヅサユミとはいうが、アヅサノユミとはいわない。ツキユミも同斷である。ただ一つ、當集に「安都佐能由美乃」(卷十四、三五六七)の一例があるのみである。これは短歌で、七音の句に當るので、ノを入れたもので、普通はアヅサユミといつたものと見ねばならぬ。古寫本では、元暦校本にこの後の方の句を御執能梓弓之としている。これは前の御執乃梓弓之ともよく一致した書き方である。故にこれに從つて、前をもノを入れずに讀むのである。アヅサの樹については、白井光太郎氏はヨグソミネバリまたはハンザであろうとし、萬葉集講義は方言にヅサと呼ぶ木の一種であろうとしている。
 奈加弭乃 ナカハズノ。
   ナカハスノ(西)
(59)   ナガハズノ(代)
 ――――――――――
   奈留弭乃《ナルハスノ》(考)
   奈加弦乃《ナカツルノ》(考)
   奈利弭乃《ナリハスノ》(玉)
   奈加※[弓+付]乃《ナカツカノ》(攷)
   奈利弦乃《ナリヅルノ》(古義、石原正明)
 奈加弭は、加は利の誤として鳴弭であるとし、長弭であるとも解していた。今萬葉隻講義(山田博士)に、弭は弓と弦または矢のくいあう所で、弓の上下を本弭末弭という。これに對して中間を中弭というとするに從う。弓弭の音については、高市の皇子の殯宮の時の歌に、「取り持てる弓弭《ユハズ》の騷、み雪降る冬の林に、飄風《つむじ》かもい卷き渡ると、思ふまで聞きの恐く」(卷二、一九九)という例がある。
 音爲奈利 オトスナリ。ナリは、強く指定する意の助動詞で、古くは、用言の終止形に接續する。以上第一段。梓弓の奈加弭の音の聞える處で詠んでいる歌意である。
 朝※[獣偏+葛]尓 アサカリニ。朝獵夕獵と分けていうことは、「朝獵爾《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》 暮獵爾《ユフカリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》」(卷三、四七八)、「朝獵爾《アサカリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》 夕狩爾《ユフカリニ》 十里※[足+搨の榜]立」(卷六、九二六)などの例がある。朝の狩獵にの意。
 今立須良思 イマタタスラシ。タタスは、動詞立ツに、敬語の助動詞スの接續したもの。ラシは、根據ある推量の助動詞。出發される意になる。以上二句は、下の暮※[獣偏+葛]尓今他田渚良之に對して對句を成している。
 暮※[獣偏+葛]尓 ユフカリニ。夕方の狩獵にの意。
 今他田渚良之 イマタタスラシ。上の今立須良之と同語から成つている。二句ずつから成る對句で、下の一句が同語から成るものには、日本書紀に「くはし女をありと聞きて、よろし女をありと聞きて」(九六、繼體天皇紀)、「あつ取りつま取りして、まくら取りつま取りして」(同)、「萬代にかくしもがも、千代にもかくしもがも」(一〇二、推古天皇紀)など例が多くある。
(60) 御執能梓弓之 ミトラシノアヅサユミノ。もと御執梓能弓之とする本に依つて、ミトラシノアヅサノユミノと讀まれていた。今、元暦校本による。この事は既に上に述べた。
 奈加弭乃音爲奈里 ナカハズノオトスナリ。以上四句。第一段の末の四句を繰り返している。かような例は、日本書紀に「級《しな》照る片岡山に、飯に飢《ゑ》て臥《こや》せる、その旅人あはれ。親無しに汝《なれ》なりけめや、さす竹の君はや無き。飯に飢て臥せる、その旅人あはれ」(一〇四、推古天皇紀)、「打橋のつめの遊びに出でませ子。玉代《たまで》の家《いへ》の八重子の刀自.出でましの悔はあらじぞ、出でませ子、玉代の家の八重子の刀自。」(一二四、天智天皇紀)などの例がある。
【評語】この歌は二段から成つており、それぞれ同一の句法を以つて結んで、重疊の調を成している。偶數句形式で、御執シノ梓弓ノ中弭ノ音スナリと、ほとんど同音數の短句を重ねて結んでいるのは雄勁な古格である。歌いものの正統を傳えたものと云つてよく、獵場で歌いあげたものと解せられる。朝ニハ夕ニハと對句を用い、朝獵ニ暮獵ニと、對句でこれを受けたのも、用意がある。しかし朝と夕と異なる時間を一首中に竝立させ、しかもそれを、今立タスラシと受けたのは、その今が、いずれの時であるかをあきらかにすることができない缺點がある。他の、長歌中に春と秋との景物を竝敍したのと共に、印象の集中を妨げる不利益がある。これは、歌いものとして、調子に乘つて、内容に多くを顧慮しなかつた傾向があり、そこから生じた缺點と、考えられる。
 
反歌
 
【釋】反歌 ヘニカ。カヘシウタ(拾)、タンカ(睡餘漫筆、安井息軒)、ミシカウタ(僻)、ハンカ(美)。普通字音でハンカと讀んでいるが、反は集中「可反流左爾見牟《カヘルサニミム》」(卷十五、三七〇六)、「波也可反里萬世《ハヤカヘリマセ》」(61)(同、三七四八)など、への音に使つているから、ヘニカと讀んだものだろう。前の長歌の反歌である。反歌は長歌のうちの一節が分離獨立したもので、普通短歌形式のものであるが、「み吉野の瀧もとどろに落つる白波、留まりにし妹に見せまく欲しき白浪」(卷十三、三二三三)の歌は旋頭歌である。反歌の數は一首から多いのは六首(卷五、八九七の長歌の反歌)に及んでいる。通例、前に反歌もしくは短歌と記して添えている。本來古代の長歌に、一部を反覆吟唱する性質があり、その歌末の繰り返しの部分がちぎれて獨立すべき素質があつた所に、漢文學中、たとえば、荀子の反辭、離騷の亂というようなものの影響を受けて、獨立したものである。長歌の内容に對して、これを補足し、その一部を繰り返し、別の方面から敍述し、作者の環境を敍するなどの性質を有し、長歌に比して一層詠歎の氣分を集中せしめる性能を有している。本集中でもごく古い長歌にはこれの無いものがあり、比較的新しい歌には毎歌これがある。カヘシウタと讀んで、歌いものの末節を歌い返したから起つたとする説もあつて、そういう性質のあることは認められる。短歌と題してある例(卷一、四六など)があり、何とも題せずに書いてある例(卷五、八一四など)もある。
 
4 たまきはる 字智《うち》の大野《おほの》に
 馬|雙《な》めて  朝踏ますらむ。
 その草深野《くさふかの》。
 
 玉刻春《タマキハル》 内乃大野尓《ウチノオホノニ》
 馬數而《ウマナメテ》 朝布麻須等六《アサフマスラム》
 其草深野《ソノクサフカノ》
 
【譯】大和の宇智の大野原に馬を竝べて、朝お踏み遊ばしてでございましよう。その草の深い野を。
【釋】玉刻春 タマキハル。假字書きの例には、多摩枳波流(卷五、八〇四)、多麻吉波流(卷十五、三七四四)、多末伎波流(卷十七、四〇〇三)、多摩岐波屡(日本書紀、神功皇后紀)などある。その外、靈刻(卷四、(62)六七八)、玉切(卷八、一四五五)、玉刻(卷十九、四二一一)、等の字面をも、タマキハルと讀んでいる。靈寸春(卷十、一九一二)をもタマキハルと讀んでいるが、これは傳本に文字の相違あるものがあつて、文證としがたい。また類句としては、「年切《トシキハル》 及v世定《ヨマデサダメテ》 恃《タノメタル》 公依《キミニヨリテシ》 事繁《コトノシゲケク》」(卷十一、三二九八)というのがある。
 玉刻春をタマキハルと讀むにつけて、刻をキと讀むのは、訓キルの頭音を取つたので訓假字であるとされているが、靈刻、玉刻とあるものについては、それでは説明が困難である。玉切とも書いている所を見れば、キハルに刻切の意があるものの如くである。宇智の地に荒木神社があり、新撰姓氏録右京神別に、「玉祖宿禰、神牟須比命十三世孫建荒木命之後也」とあつて、玉を作る人の本居地であるので、玉を切る字智と續き、宮廷の意のウチにも冠し、また後にタマを靈に通わして、命、世にも冠するに至つたものか。眞淵は魂の極まるとし、雅澄は手纏佩くであるとし、他にも説があるが、いずれもまだ定説としがたい。枕詞として、内、命、世等を修飾する。
 内乃大野尓 ウチノオホノニ。字智の大野にである。
 馬數而 ウマナメテ。馬を竝べて。多くの騎乘で獵をされるをいう。數の字を使用しているのは、多數の義による。
 朝布麻須等六 アサフマスラム。フマスは、動詞踏ムに敬語の助動詞スの接續したもの。ラムは、現在推量の助動詞。その終止形である。ここに至つて、長歌に朝獵ニ暮獵ニといつたその夕べの方を消して、朝だけを出している。ここに時刻が明示されたのである。またラムを使用したので、作歌者の位置が、獵の現場で無いことを語つている。これは作者が、中皇命に代つて詠んでいるので、作歌者の位置としては、獵場では無いが、獵場に程近く中皇命の御座所が指定される。
(63) 其草深野 ソノクサフカノ。ソノは、上の朝踏マスラムを受けて、これを代理指示している。草深野は、草の深く生い茂つた野の意で、夏の獵場を描いている。
【評語】この歌は四句で切れ、一旦内容は完結する。五句は更に獨立した句で、草深い野を感歎したものと解すべきである。長歌には季節は無いが、反歌の草深野には、季節がある。夏五月のころ、藥獵を催された時のものと解せられる。推量が中心となつてはいるが、獵場の描寫は具體的であり、印象的なよい歌である。
 
 幸2讃岐國安益郡1之時、軍王見v山作歌
 
讃岐の國|安益《あや》の郡に幸《い》でましし時、軍《いくさ》の王の山を見て作れる歌
 
【釋】幸 下の之時と併せて、イデマシシトキと讀む。後漢書、光武紀の註に「天子所v行、必有2恩幸1、故稱v幸」とある。ここに幸とあるは、舒明天皇の行幸をいう。しかし國史には、舒明天皇が讃岐に行幸されたことを傳えない。ただ天皇の十一年に、伊豫の温湯の宮に行幸されたことがあるので、その途中、此處に幸せられたのであろう。但し歌意によれば、行幸の時でなく、この題詞は誤つているかもしれない。遠神の釋參照。
 讃岐國安益部 サヌキノクニアヤノコホリ。安益部は、延喜式に阿野郡とある。今、綾歌郡に編入せられている。高松市より西方の地である。
 軍王 イクサノオホキミ 他に所見が無い。古語に將軍をイクサノキミと訓しているに依れば、大將軍の意であるかもしれない。
 
5 霞立つ 長き春日《はるび》の
 暮れにける わづきも知らず、
(64) 村肝《むらぎも》の 心を痛み
 ※[空+鳥]子鳥《ぬえこどり》 うらなけ居《を》れば、
 珠襷《たまだすき》 懸けのよろしく、
 遠つ神 わが大王
 行幸《いでまし》の 山越す風の
 獨《ひとり》座《を》る わが衣手に
 朝夕《あさよひ》に 還《かへ》らひぬれば、
 丈夫《ますらを》と 思へる吾も
 草枕《くさまくら》 旅にしあれば、
 思ひ遣る たづきを知らに、
 網《あみ》の浦の 海處女《あまをとめ》らが
 燒く鹽《しほ》の 念ひぞ燒くる。
 わが下《した》ごころ。」
 
 霞立《カスミタツ》 長春日乃《ナガキハルビノ》
 晩家流《クレニケル》 和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》
 村肝乃《ムラギモノ》 心乎痛見《ココロヲイタミ》
 奴要子鳥《ヌエコドリ》 卜歎居者《ウラナキヲレバ》
 珠手次《タマダスキ》 懸乃宜久《カケノヨロシク》
 遠神《トホツカミ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 行幸能《イデマシノ》 山越風乃《ヤマコスカゼノ》
 獨座《ヒトリヲル》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》
 朝夕爾《アサヨヒニ》 還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》
 大夫登《マスラヲト》 念有我母《オモヘルワレモ》
 草枕《クサマクラ》 客爾之有者《タビニシアレバ》
 思遣《オモヒヤル》 鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》
 網能浦之《アミノウラノ》 海處女等之《アマヲトメラガ》
 燒鹽乃《ヤクシホノ》 念曾所燒《オモヒゾヤクル》
 吾下情《ワガシタゴコロ》。
 
【譯】霞の立つ長い春の日の、暮れて行つたほども知らずに、家戀しさに心が痛まれてヌエ鳥のように心中に歎いて居ると、ちようど家に還るということを口に出すのが好ましいと同じく、わが大君の行幸された山を越す風が、ひとりでいるわたしの衣服に、朝夕に吹き還るので、立派な男と思つているわたしも、草の枕の旅のことであるから、物思いをなくす手段を知らないで、網の浦の海人の娘子が燒く鹽のように、思いこがれるこ(65)とだ。わたしの心の中が。
【構成】全篇一文でできている。その用意で解すべきである。また枕詞を多く使用している。枕詞は、次の詞句を引き出すことをおもな任務とし、文義には直接の關係の無いのを普通とする。「網の浦の海處女らが燒く鹽の」は旅先の風光を使つて序として、次の燒クルを引き起している。
【釋】霞立 カスミタツ。その時の實際の情景を説明して春の枕詞としているので、全體の空氣を描く上に重要な意義を有している。枕詞でもあり、同時に實際の句でもある。
 長春日乃 ナガキハルビノ。日中の長い春の日の意で、次の暮レニケルに對して主語を成している。
 晩家流 クレニケル。助動詞ニに相當する文字は無いが、意を以つて添加して讀む。集中、かような文例は、はなはだ多い。暮れはててしまつた意である。
 和豆肝之良受 ワヅキモシラズ。
   ワツキモシラス(西)
   ――――――――――
   多豆肝之良受《タツキモシラズ》(玉)
   手豆肝之良受《タツキモシラズ》(古義)
   和肝之良受《ワキモシラズ》(古義)
 ワヅキは、他に所見の無い語である。玉の小琴には、和を多の誤とし、古義には、和を手の誤として、いずれもタヅキモシラズと讀んでいる。また古義の一説に、豆を衍として、ワキモシラズとしている。タヅキは、手段、方法の義で、ここには適わない。ワキは、區別で、ここに通ずるが、文字を衍入としなければならない。未詳の語という外は無い。
 村肝乃 ムラギモノ。群臓腑の義で、心の枕詞になつている。古代、臓腑の中に人の精神が宿つていると考えられていたので、この枕詞を生じた。「村肝之《ムラギモノ》 情摧而《ココロクダケテ》」(卷四、七二〇)など、心に冠する。
(66) 心乎痛見 ココロヲイタミ。「何(名詞)ヲ何(形容語)ミ」という語法上の型になるもので、心が痛くしての意をあらわす。風ヲイタミ、月ヲ清ミなど、この例である。痛ミは、動詞イタムのミ活用であつて、打撃を受ける意である。ヲは助詞であるが、月清ミなど、ヲ無くしても使用する。
 奴要子烏 ヌエコドリ。多くヌエドリと言つている。コは愛情をあらわして添えた語。鮎を「阿由故《アユコ》」(卷五、八五九)という類である。この鳥、フクロウ、コノハズクの類の夜鳴く鳥の總稱という。この説、是なるが如くである。また普通には、今、トラツグミという燕雀類の一種という。悲しげな聲で鳴くので、歎ク、ノドヨフなどの枕詞として使用される。
 卜歎居者 ウラナケヲレバ。ウラフレヲレハ(元墨)、ウラナケキヲレハ(元赭)、ウラナキヲレハ(西)、ウラナゲヲレバ(代初書入)。參考とすべき例としては、「奴延鳥之《ヌエドリノ》 裏歎座津《ウラナケマシツ》」(卷十、一九九七)、「奴延鳥《ヌエドリノ》 浦嘆居《ウラナケヲリト》 告子鴨《ヅゲムコモガモ》」(同、二〇三一)があり、裏歎、浦嘆を、四音に讀むべき場處に當てている。また「奴要鳥能《ヌエドリノ》 宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》」(卷十七、三九七八)の例があつて、宇良奈氣を以つて、名詞を作つている。動詞泣ク、鳴クは、普通に四段活として知られているが、「安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》」(卷十四、三四七一)の如く、ナクルの形もあつて、二段活のあつたことが推測される。そうしてウラナケの如き名詞形のあるによれば、下二段活と見るべく、よつて此處も、ウラナケヲレバと讀むべきである。下二段活のナクは、使役の意になるものとされているが、それはやや新しい語法であり、古くはむしろ所能の意味になり、他の刺戟に依つて泣くことが餘義無くされる意と解せられる。ウラは、内面的で表面にあらわれないことをいう。ここは、表面にあらわれないで心中に泣いておれはの意である。
 珠手次 タマダスキ。タマは美稱。タスキは肩に懸けるものなので、懸クの枕詞となる。次をスキと讀むことは、日本書紀、天武天皇の紀に、齋忌次とあるに註して、「次、此云2須岐1。」と見えている。
(67) 懸乃宜久 カケノヨロシク。縣は元暦校本、神田本、類聚古集等による。懸と同意である。言葉にかけることが都合よくの意で、句を隔てて、下の朝夕ニ還ラヒヌレバに對して、副詞句となつている。還るという語は、大和に帰ることの意味を含む語であるから、口にすることが好ましいというのである。「子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山岸に霞たなびく」(卷十、一八一八)などある。また遠ツ神ワガ大王云々の内容を説明するものとも見られる。
 遠神 トホツカミ。天皇は神聖にして、凡人の境界に遠いのでいう枕詞と解せられている。しかしこれは、この長歌の大君を、現在の天皇と解することを基礎とした解釋であるが、もし過去の天皇の行幸をいうと解するならば、遠ツ神は、過去に出現して今は神となられた方の義に解すべく、語義からいえば、その方が自然である。「住吉《すみのえ》の野木の松原遠つ神わが大君の幸行《いでまし》處」(卷三、二九五)の用例も、過去の天皇の意に、ワガ大君を修飾している。題詞に、幸讃岐國安益部之時とあることが、どのくらいの權威を與えるかも、從つて問題となる。これが歌詞によつて作られた題詞で無いとも保證されない。一體、この歌の歌品は、もつと新しく、舒明天皇時代の作とは思えないので、この句にいうところも、昔の天皇の行幸を追想して詠んでいるのでは無かろうか。それも舒明天皇が、伊豫の熟田津に幸せられたことを想起して、行幸ノ山越ス風と歌つているのでは無いだろうか。
 吾大王乃 ワガオホキミノ。下の行幸に對して、領格を成している。
 行幸能 イデマシノ。行幸は、イデマシ、ミユキの二訓がある。イデマシは、假字書きの例は無いが、歌中、行幸、幸行、幸の諸字面を、多く四音の場處に使用しており、此處も四音の處に當ててあるので、イデマシと讀むべきが如くである。またミユキは、「君之三行者《キミガミユキハ》」(卷九、一七四九)の一例がある。
 山越風乃 ヤマコスカゼノ。
(68)   ヤマコシノカゼノ(西)
   ヤマコスカゼノ(燈)
   ヤマコシノカゼノ(西)
   ヤマゴエノカゼノ(打聽)
   ヤマコシノカゼノ(西)
   ――――――――――
   山越風爾《ヤマコスカゼニ》(檜)
ヤマコシノカゼノとも讀まれるのは、反歌の詞によるのであるが、此處は七音に當る句であるから、ヤマコスカゼノと讀むがよい。この句は、下の還ラヒヌレバに對して主語となつている。
 獨座 ヒトリヲル。作者の動作で、次の句に對して修飾句を成している。
 吾衣手尓 ワガコロモデニ。衣手は、衣服をいう。テは接尾語で、衣服には手の部分(横に出ている部分)があるから、附けていう。「敷細乃《シキタヘノ》 衣手易而《コロモデカヘテ》」(卷四、五四六)など、全衣の義である。但し、衣袖、衣袂の字を當てているものもあつて、衣服の袖の義をも生じている。
 朝夕尓 アサヨヒニ。安佐欲比爾(卷十七、四〇〇六)など、アサヨヒニというが、アサユフニの例は無い。山越す風の吹き來る時刻を指示している。これはその常に吹くことを語るものであるが、しかし初めに、春の夕碁の敍述があるので、ここに朝夕にというのは、印象の集中を妨げる缺點がある。
 還比奴禮婆 カヘラヒヌレバ。カヘラヒは、動詞還ルの未然形に、その繼續進行をあらわす助動詞フの接續したもの。風が、衣に絶えず吹き飜ることを歌つている。この語法は、集中に例が多く、またそのフに當るところに、合、相の字を書いたものが多い。これはもと合フの語から出たものの如く、その動詞の内容が、たがいに行う意を元すもので、その意を殘していると認められるものもすくなくない。それからして繼續進行の意に展開したものである。
 大夫登念有我母 マスラヲトオモヘルワレモ。美夫君志に、大夫は、大丈夫の略であるとしているが、遊仙窟にも大夫の字を使用しているのを見れば、大夫に立派な男子の義ありとすべきである。これをマスラヲと讀(69)むのは、古くより慣用する訓である。マスラヲは、増荒男の義といい、集中、「益荒夫《マスラヲ》」(卷九、一八〇〇)、「益荒丁子《マスラヲノコ》」(同、一八〇一)の用例があり、また「健男《マスラヲ》」(卷十一、二三五四)、「建男《マスラヲ》」(同、二三八六)をもマスラヲと讀んでいる。マスラヲは、勇氣あり思慮ある男子の謂であつて、當時の男子の目標とする所である。マスラヲト念ヘル吾の句は、當時の男子の自負を語るものとして注意される。「大夫と念へる吾も敷細の衣の袖は通りて沾れぬ」(卷二、一三五)、「大夫と念へる吾をかくばかりみつれにみつれ片念ひをせむ」(卷四、七一九)、「大夫と念へる吾や水莖の水城《みづき》の上に涙|拭《のご》はむ」(卷六、九六八)、「大夫と念へる吾をかくばかり戀せしむるはあしくはありけり」(卷十一、二五八四)、「天地に少し至らぬ大夫と思ひし吾や雄心も無き」(卷十二、二八七五)など、マスラヲとしてあるまじきことを言い、いずれもマスラヲト念へル吾の自省が歌われている。
 草枕 クサマクラ。族の枕詞。古代の旅行には、草を枕とするよりいうとされる。
 客尓之有者 タビニシアレバ。客は、客旅の義に使用している。シは、強意の助詞。その上にある詞句の意を強調する。この句では、旅ニを強調している。
 思遣 オモヒヤル。思念を放しやる意。オモヒは動詞で、ヤルと結合して熟語を作つている。心の動作として、思念することの無い状態になるをいう。思いを遣るという言い方では無く、また後世の想像する義ではない。思ヒ亂ル、思ヒ止《や》ム、思ヒ忘ルなど、同樣のいい方である。假字書きの例には、「和賀勢故乎《ワガセコヲ》 見都追志乎禮婆《ミツツシヲレバ》 於毛比夜流《オモヒヤル》 許等母安利之乎《コトモアリシヲ》(卷十七、四〇〇八)などある。
 鶴寸乎白土 タヅキヲシラニ。鶴寸、および白土は、訓假字として使用されている。手著ヲ知ラニの義である。タヅキは、手段、方法。シラニのニは、打消の助動詞ヌの古い活用形で、その中止形である。このニは、自由な活動を失つて、わずかに、知ラニ、飽カニ、ガテニの如き、熟語的な用法においてのみ使用されていた。(70)この句は副詞句である。「雖v念《オモヘドモ》 田付乎白二《タヅキヲシラニ》」(卷四、六一九)などの用例がある。タヅキは、タドキともいう。「世武須便乃《セムスベノ》 多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》」(卷五、九〇四)などある。
 網能浦之 アミノウラノ。
   アミノウラノ(元墨)、
   ――――――――――
   綱能浦之《ツナノウラノ》(僻)
   綱能浦之《ツナノウラノ》(考)
   綾能浦之《アヤノウラノ》(古義、大町稻城)
 網の浦は、地名。所在未詳であるが、多分讃岐の安益の郡にある地名であろう。作者の現にいる地となすべきである。萬葉考に網を綱の誤としているが、そのような傳本は無い。
 海處女等之 アマヲトメラガ。海人中の苦い女のの義。處女は未通女とも書き、未婚の女子の義であるが、ヲトメの語は、かならずしも婚姻の有無に拘泥しない。つまりヲトメは、若い女の總稱で、その中に、處女、未通女の文字の當る者もあるのである。此處も外觀に依つていうので、處女の字に拘泥するに及ばない。鹽を燒く女たちを美しく言いあらわしたものと見るべきである。
 燒塵乃 ヤクシホノ。當時の製鹽法は、海藻に海水を浸ませ、これを蒸發せしめて鹽分の濃厚になつたものを燒いて鹽を採るという。それで燒くという。網ノ浦ノからこの句まで、次の念ヒゾ燒クルを引き出すための序である。燒く鹽の如く燒くると、譬喩に言つている。近邊の風物を敍して、一面には敍景的效果を期し、一面にはこれを利用して序としたのである。序には、本文の内容に關係あるもの、全然關係無く意外感を與えるもの、また同音韻を利用するもの等、種々の用法があるが、此處はその最初の類に相當する。
 念曾所燒 オモヒゾヤクル。オモヒソモユル(考)。本集における所の字の用法には數種あるが、そのもつとも廣く使用されるのは、受身の意をあらわすものであつて、此處もその用法である。「人不v見者《ヒトミズハ》 我袖用手《ワガソデモチテ》(71)將v隱《カクサムヲ》 所v燒乍可將v有《ヤケツツカアラム》 不v服而來來《キセズテキニケリ》(卷三、二六九)の所燒も、これと同樣の用法である。動詞燒クは、四段活用が普通であるが、受身の意味になる時に下二段活になる。依つて右の所燒乍可將有も、ヤケツツカアラムと讀まれる。假字書きのものには、「鶯能《ウグヒスノ》 奈久久良多爾々《ナククラタニニ》 宇知波米※[氏/一]《ウチハメテ》 夜氣波之奴等母《ヤケハシヌトモ》 伎美乎之麻多武《キミヲシマタム》」(卷十七、三九四一)がある。今の場合は、係助詞ゾを受けて連體形に讀むのであるから、ヤクルと讀む。思ヒ燒クの例は無いが、情ヤク、胸ヲヤクとはいう。「冬隱《フユゴモリ》 春乃大野乎《ハルノオホノヲ》 燒人者《ヤクヒトハ》 燒不v足香文《ヤキタラネカモ》 吾情熾《ワガココロヤク》」(卷七、一三三六)、「吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀爲便名鴈《コヒスベナカリ》 胸乎熱《ムネヲアツミ》 旦戸開者《アサドアクレバ》 所v見霧可聞《ミユルキリカモ》」(卷十二、三〇三四)。二個の動詞の中間に助詞ゾが插入される場合は、ゾは上の動詞の意を強調する性能を有するのであるが、意味は、上の動詞と下の動詞とを直に結合せしめて解すべきである。「呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》」(卷一、七〇)、「止曾金鶴《トメゾカネヅル》」(卷二、一七八)、「在曾金津流《アリゾカネヅル》」(卷四、六一三)の如き、その例である。この句は、終止形であつて、下の吾下情を主格として、それの動作を敍している。燒く鹽の燒くると云つて呼應するのであつて、燒をモユルと讀むべしとする説は否定される。
 吾下情 ワガシタゴコロ。ワガシヅゴコロ(考)。心の底、心裏の義。「吾屋前之《ワガニハノ》 毛桃之下爾《ケモモノシタニ》 月夜指《ツクヨサシ》 下心吉《シタゴコロヨシ》 菟楯頃者《ウタテコノゴロ》」(卷十、一八八九)。
【評語】この前に出ている數首の歌が、歌いものの系統を傳えて、短文を組み重ね、感動的な表現であるのに對して、この歌は、全篇一文から成り、順序を守つて進行するが如き敍述法を取つている。歌中にも獨居ル我ガ衣手とあるように、獨語性の歌であつて、文筆的作品としての性格が、確立している。枕詞を多數使用し、序をも使用して、詞句の修飾に苦心している跡が見え、これは煩わしくさえ感じられる。また副詞句が、數句を隔てて下の句を限定するなど、明快を缺く憾みが無いでもない。對句を使用しないのは、文筆作品たる傾向を強くする。前出の長歌に比して、滑らかさにおいて劣つているのは、知識者の文筆に依る創作であるからで(72)ある。形式は、長歌形式の定型に到達している。霞立つ長き春日のいつしか暮れはてた情景から説き起しているのは、全體の空氣を作る上に效果が多く、山を越して吹いて來る風に郷愁を催している心境も相當に描出されている。この歌は、舒明天皇の時代の作品として、配列されているけれども、文筆性の内容を有し、形式も整備して、作り歌である性質が濃厚であつて、實際の時代は、もつと降つて、藤原の宮時代以後のものではないかとも思われる。マスラヲト思ヘル吾の句や、歌中に長い序を有することなども、新しい時代の作品であることを語つているように見える。
 
 反歌
 
6 山越しの 風を時じみ、
 寢《ぬ》る夜おちず
 家なる妹を 懸けて思《しの》ひつ。
 
 山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自見《カゼヲトキジミ》
 寢夜不v落《ヌルヨオチズ》
 家在妹乎《イヘナルイモヲ》 懸而小竹櫃《ケケテシノヒツ》
 
【譯】山を越して吹いて來る風が、時はずれに吹くので、寢る夜ごとに、家にいる妻を、心に懸けて戀い慕うことだ。
【釋】山越乃 ヤマゴシノ。長歌の、山越ス風の句を受けて、反歌を起している。長歌の詞句の一部を反歌に使うことは、例が多い。これは長歌と反歌との關係を深からしめる上に役立つものである。
 風乎時自見 カゼヲトキジミ。上に説明した心ヲ痛ミと同じ語法、風が時じくしての意、時ジは、時ジケ、時ジク、時ジキ・時ジミの用例を有し、形容詞と同樣の活用形を有する語と認められる。「河上乃《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時伊時《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》」(卷四・四九一)、「時自久曾《トキジクゾ》 雪者落等言《ユキハフルトイフ》」(卷一、二六)・「登(73)岐士玖能《トキジクノ》 迦玖能木實《カクノコノミ》(古事記中卷)、「冬木成《フユゴモリ》 時敷時跡《トキジキトキト》 不v見而往者《ミズテユカバ》 益而戀石見《マシテコホシミ》(卷三、三八二)。名詞に語尾ジが接續して形容詞類似の形態を作るものには二種がある。一種は、鴨ジモノ、犬ジモノの類であつて、ジは、その如きの意を成すようである。今一種は、この時ジであつて、このジは、打消の意味を有するものと考えられる。そこで、その時にあらざるの意味をあらわすのであるが、これを、斷えざるの意に解する説(代匠記等)と、時を定めずの意に解する説(考)と、その時ならざるの意に解する説(古事記傳)とが出ている。しかし上の語例のうち、河上ノ伊都藻ノ花の例、冬ゴモリ時ジキ時の例の如き、その時ならざる意に解すべきであつて、これを正説とすべきである。今の歌の意は、春の頃であつて、風の強く吹くべき時節ではないのに、しかも吹くのでの意で、相當の強風、もしくは寒風について歌つているであろう。以上二句は、下の三句に對して根據となることをあげている。
 寢夜不落 ヌルヨオチズ。寢る夜は落つることなくの意で、連夜である。「眼夜乎不v落《ヌルヨヲオチズ》 夢所v見欲《イメニミエコソ》」(卷十三、三二八三)などの例がある。
 家在妹乎 イヘナルイモヲ。イヘニアルイモヲ(元)、イヘナルイモヲ(考)。ニに相當する文字無く、在の字のみで、ニアリと讀むべき例は、「此間在而《ココニアリテ》 筑紫也何處《ツクシヤイヅク》」(卷四、五七四)、「玉緒《タマノヲノ》 念委《オモヒシナエテ》 家在矣《イヘニアラマシヲ》」(卷七、一二八〇)、「榜間《コグホドモ》 極太戀《ココダグコホシ》 年在如何《トシニアラバイカニ》」(卷十一、二四九四)など多くの例がある。ニアリは、約してナリともいい、兩方とも集中に假字書きされたものがある。ニアリは歴史的であり、ナリは表音的である。これは書き方の問題である。
 妹は、婦人に對する愛稱であつて、夫婦關係、兄弟關係、朋友關係等、いかなる關係においても使用され、また女子相互にも使用される。ここは夫婦關係で、妻をいう。この家は、わが家で、そこに妻と住んでいたものであろう。
(74) 懸而小竹櫃 カケテシノヒツ。カケテは、「妹登曰者《イモトイフハ》 無禮恐《ナメシカシコシ》 然爲蟹《シカスガニ》 懸卷欲《カケマクホシキ》 言爾有鴨《コトニアルカモ》」(卷十二、二九一五)の如きは、口にかけていう意であるが、ここは心にかけてであろう。「留有吾乎《トマレルワレヲ》 懸而小竹葉背《カケテシノハセ》」(卷九、一七八六)などの例がある。小竹は、訓を借りてシノの音を寫している。櫃も訓假字である。シノヒは、ハ行四段に活用し、活用語尾は、假字書きのものすべて清音である。シノフには數義がある。一、思慕する。「念思奈要而《オモヒシナエテ》 志怒布良武《シノフラム》 妹之門將v見《イモガカドミム》(卷二、一三一)、二、想像する。「秋芽子之《アキハギノ》 上爾白露《ウヘニシラツユ》 毎v置《オクゴトニ》 見管曾思怒《ミツツゾシノフ》 君之光儀呼《キミガスガタヲ》」(卷十、二二五九)、三、賞美する。「黄葉乎婆《モミヂヲバ》 取而曾思努布《トリテゾシノフ》」(卷一、一六)。ここは思慕する意であるが、元來この語は想像して思慕するのが本意であろう。なお忍耐する意のシノブは、上二段活用で、ノは乙類、ブは濁音で、この語とは別である。その用例、「和我世故我《ワガセコガ》 都美之手見都追《ツミシテミツツ》 志乃備加禰都母《シノビカネツモ》」(卷十五、三九四〇)。
【評語】この歌は、長歌の意をつめて、殊に眞意のあるところをあきらかにしたものである。長歌では、わずかに歸ることを口にかけることも好ましいといつただけで、他の憂憤は何によるのかあきらかにしてないが、この反歌に至つて、家ナル妹ヲカケテシノヒツと明言している。その直接衝動として、山越シノ風ヲ時ジミと敍したのも、有力な手法である。長歌には、やや冗漫の嫌があつたが、これは短歌であるだけにそういう弊も無く、長歌よりもよく纏まつている。
 
右檢2日本書紀1、無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己己朔壬午、幸2于伊豫温湯宮1云々。一書、云是時宮前在2二樹木1。此之二樹、班鳩此米二鳥大集。時勅多挂2稻穗1而養v之、乃作歌云々。若疑從2此便1幸之歟。
 
(75)右は日本書紀を檢ふるに、讃岐の國に幸《い》でましし事なし。また、軍の王いまだ詳ならず。但し山上の憶良の大夫の類聚歌林に曰はく、天皇の十一年己亥の冬十二月の己巳の朔にして壬午の日、伊豫の温湯《ゆ》の宮に幸でましき云々。一書に、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩《いかるが》比米《ひめ》二つの鳥太《いた》く集れり。時に勅して多く稻穗をかけてこれを養ひたまふ。すなはち作れる歌云云といへり。けだし疑はくはこの便より幸《い》でまししか。
【釋】萬葉集には、歌の後に、作者または作歌事情等に關して記事を加えているものがある。攷證などには、後の人のしわざであるとしているが、その記事中には舊本ニヨリテナホコノ次ニ載ス等の文を有するものがあつて、本集の編纂に關與した人の筆のあることはあきらかである。中には後人の記事の、誤つて本文となつたものも絶無であるとは云い難いであろうが、さような證明の無い限りは、本集の成立當時からあつたものと見てよいであろう。
 日本書紀。續曰本紀の養老四年の條には、日本紀三十卷とあり、その他、古書に引く所は、多く日本紀とある。ここに日本書紀とあるは、書の字のある最古の文献である。但し本集にも、他には日本紀とするものもある。
 無幸於讃岐國。日本書紀には、舒明天皇の讃岐の國に行幸のあつたよしの記事が無い意である。
 亦軍王未詳也。また軍の王のいかなる人であるか知り難いよしである。これは日本書紀以外にもわたつての記事であろう。
 山上憶良 ヤマノウヘノオクラ。本集の歌人として著名の人である。續日本紀、大寶元年正月、粟田の朝臣眞人を遣唐執節使とし、無位山於の憶良を少録とすとあり、靈龜二年四月には、伯耆の守となり、養老五年正月には、退朝の後、東宮に侍せしめられた。本集では、天平二年に、筑前の守であつたことが知られ、その作(76)の沈痾自哀文(卷五)には、天平五年に年七十四であつたと記している。その年に病氣であつたことが傳えられ、その年以後の消息を傳えないところを見ると、まも無く死んだことと思われる。山上氏は、新撰姓氏録に、「山上朝臣、大春日朝臣同祖、天足彦國忍人命之後也、日本紀合」とあるによれば、柿本氏と祖を同じくしている。
 大夫 マヘツギミ、ダイブ。歌中にあつては、マスラヲと讀み大丈夫の義に使用されるが、散文中では四位五位の人に對する敬稱として使用される。
 類聚歌林 ルズカリニ。集中九箇所にその名が見えている。書名及びその引用の記事によるに、古歌を分類輯録し、作歌事情等をも記載した書と考えられる。萬葉集には類聚歌林から歌を採録してはいない。これは萬葉集の編纂が、類聚歌林を一つの成書として尊重していたことを語る。この書、今傳わらない。平安時代には、永承五年四月二十六日の正子内親王歌合に、「おくらが歌林とかいふなるより、古萬葉集までは、心も及ばず」、藤原清輔の袋草子に、「山上憶良類聚歌林一本書也。在2同寶藏1云々」。同寶藏というは法成寺の寶藏である。和歌現在書目録の序に「憶良臣傳2舊聞1以集2歌林1。」同假字序に「奈良の御門萬葉をえらひ、憶良臣哥林をあつめしよりは、」同書の類聚家の條に、「類聚歌林憶良在平等院寶藏」、藤原俊成の古來風體抄に、「又そのかみはことに撰集などいふこともなかりけるにや、ただ山上憶良といひける人なむ類聚歌林といふ物をあつめたりけれど、勅事などにもあらざりければにや、殊にかきとどむる人もすくなくやありけん、代にもたへてつたはらず、みたる人もすくなかるべし。ただ萬葉集のことばに山上憶良が類聚歌林に曰などかきたるばかりにぞさる事ありけりと見えたる。宇治の平等院の寶藏にぞあなるときくとぞ、少納言入道通憲と申ものしりたりしものむかし鳥羽院にてものがたりのつゐでにかたり侍し」。しかし平等院にあるという噂ばなしだけで、見たという人も無く、その文を引用した書も無い。また正倉院文書の寫私雜書帳に、天平勝寶三年に、市原の王の歌林という(77)書を寫したことが傳えられている。これに關する記事は、次の通りである。
  六月三日來歌林七卷 玄蕃頭王書者 收水主
  七月二十九日進送書十四卷 七卷本七卷今寫用紙百廿八帳 見請紙二百張
 これによれば、七卷あつて用紙百二十八張を要したことが知られる。一卷平均十八張強に當るが、一張は大凡一尺七寸内外であるから相當の長卷であつて、内容も豐富であつたものと推考される。この歌林が、憶良の撰の類聚歌林と同書であるか否かはあきらかで無い。但し憶良の撰は、普通に類聚歌林という書と解せられているが、山上憶良大夫類聚歌林という句は、山上憶良が類聚せる歌林の義とも解せられる。本集に引用したうちの八箇所までは、山上憶良大夫類聚歌林、山上憶良臣類聚歌林、山上臣憶良類聚歌林等と記し、ただ一箇所、卷二、二〇二の歌の左註にのみ、類聚歌林とだけ記している。この下の曰の下が類聚歌林の文で、乃作歌までがその文である。
 記曰 キニイハク。類聚歌林の引用文であるが、記というのは、日本書紀のことであろうとされている。それは、この記の内容が、日本書紀の記事と一致するからである。攷證は、意を以つて記を紀に改めているが、紀に作つている本は無く、もとのままで日本書紀のこととすべきである。琴歌譜にも日本記とある。
 己巳朔壬午 ツチノトミノツキタチニシテミヅノエウマノヒ。干支を以つてその日を指示したもので、十二月の朔日が己巳で、それから數えて壬午に當る日の義。十四日に當る。
 伊豫温湯宮 イヨノユノミヤ。伊豫の國の温泉の涌出せる地の宮。今の松山市の道後温泉の地にあつた行宮である。
 云々 シカジカ。なおその文の續行するを下略する時に使用する。如是如是の義に依つて、シカジカと讀む。日本書紀の文は、別に續行するものが無いが、類聚歌林にはなお文のあつたのを中斷したのであろう。
(78) 一書 アルフミニ。これも類聚歌林に引用する所であつて、下の乃作歌までがその文である。この一書は、伊豫國風土記の謂であろうとされている。伊豫國風土記は逸書であるが、仙覺の萬葉集註釋に引く所は次の如くである。文は、伊豫の國の温泉に、天皇等の幸すること五度とする。その中の一度に關する記事である。「以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1。于v時、於2大殿戸1有v椹云2臣木1、於v其集v上鵤與2比米鳥1。天皇爲2此鳥1、枝繋2穂等1養賜也。」この文は、此處の一書の文と一致しない。よつて、別書であろうとされる。但し、その文を引くに當つて、類聚歌林なり、萬葉集なりが、多少の變改を加え、意を取つて記しているかも知れない。
 是時 コノトキ。舒明天皇と皇后(後の皇極天皇)との行幸の時をいう。
 二樹木 フタツノキ。風土記の文によると、椹と臣の木とである。椹は、日本書紀、天武天皇紀に、「堪、此云2武矩1」とある。椋《むく》である。臣の木は、モミの古名と解せられている。山部赤人の伊豫の温泉で詠んだ歌の一節に、「み湯の上の樹群《こむら》を見れば、臣の木も生ひ繼ぎにけり、鳴く鳥の聲も變らず」(卷三、三二二)。
 斑鳩 イカルガ。風土記には鵤とある。鳴禽顆の一種。鳩ぐらいの大きさ。背および腹は灰色、翼および尾羽は黒色で青い光澤がある。
 比米 ヒメ。島名。倭名類聚鈔に、「陸詞、※[今+鳥]音※[黒+今]、又音琴、漢語抄云比米。白喙鳥也」とある。今の何の鳥であるかをあきらかにしない。但しこの比を、細井本大矢本系統には此に作る。今、元暦校本等の古本による。この島名、卷の十三、三二三九の歌にも出て、「下枝爾《シヅエニ》 比米乎懸《ヒメヲカケ》」また、「伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》 伊加流我等比米登《イカルガトヒメト》」とあり、その二つの比を、古本系統に比に作るに對して、仙覺本系統には此に作つている。これによつて、すべて此米とする説もあるが、萬葉集にあつては古本系統、風土記にあつては萬葉集註釋引用の文に、比米とあるものを、悉く此米の誤りとするは妄斷である。但し、此米という鳥もある。倭名類聚鈔に、「孫※[立心偏+面]曰、※[旨+鳥]【音脂、漢(79)語抄云之女。小青雀也。」燕雀環の一種。雀よりやや大きい鳥である。
 若疑 ケダシウタガハクハ。以下、萬葉集の編者の按文である。
 從此便 コノタヅキヨリ。伊豫の國に行幸された便宜に、讃岐の國にも行幸されたのであろうという編者の意見である。此ヨリスナハチと讀む説もあるが、行幸を此の一字であらわしたとするは無理である。
 
 明日香川原宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
【釋】明日香川原宮 アスカノカハラノミヤ。日本書紀、齊明天皇紀に、「元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、即1天皇位於飛鳥板蓋宮1。」また「是冬、災2飛鳥板蓋宮1。故遷2居飛鳥川原宮1。」ここに遷居とあるによつて、明日香の川原の宮にましましたのは、齊明天皇の御代とされる。川原の地は、飛鳥川の左岸、川原寺などある附近であろう。
 天豐財重日足姫天皇 アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト。皇極天皇の御事、日本書紀、皇極天皇紀に、この名を掲げて、「重日、此云2伊柯之比1」とある。天皇は、敏達天皇の曾孫、押坂の彦人大兄の皇子の子茅渟の王の王女で、舒明天皇の皇后となり、舒明天皇の崩後、即位せられ、これを皇極天皇と申し、後重祚して齊明天皇と申す。天智天皇、天武天皇の御母である。
 
 額田王歌未v詳
 
【釋】額田王 ヌカダノオホキミ。日本書紀、天武天皇紀に、「天皇、初娶2鏡王女額田姫王1生2十市皇女1。」とある。鏡の王は、尾山篤二郎氏の研究(萬葉集大成作家研究篇)に、奈良縣北葛城郡の穴蟲から出土した金屬製の骨壺の銘文に、「卿(威名の大村)、諱大村、檜前五百野宮御宇天皇之四世、後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第(80)三子也」とあるのを證として、威奈の鏡の公のことであるとし、その威奈氏は、新撰姓氏録左京皇別に「爲名眞人。宣化天皇皇子火※[火+餡の旁]王之後也。日本紀合」とあるのに合わせて、宣化天皇の四世の孫とし、額田の王は、その威奈の鏡の公の女で、姉に鏡の王女(藤原の鎌足の妻)があるとする。
 女王を王と書くことは、古事記に衣通の王等あり、本集にも丹生の王など、例の多いことである。額田は地名。奈良縣生駒郡。實名は、傳わらない。王をオホキミと讀むのは、「打麻乎《ウチソヲ》 麻績王《ヲミノオホキミ》」(卷一、二三)と、王を四音のところに書いてあるによる。平安時代にも、何のオホキミと稱することは殘つていた。額田の王、初め天武天皇の皇子にましました時代に召されて十市の皇女を生み、後、天智天皇の近江の大津の宮に召され、晩年は大和に歸つて持統天皇の御代に及んだ。豐麗な詞句に依つて純情を吐露される。萬葉時代初期を代表する歌人というべきである。
 未詳 イマダツバビラカナラズ。額田の王のいかなる方であるかについて未詳というのであろう。詳、類聚名義抄に、ツハヒラカニ、アキラカニの訓があり、よつて、未詳をイマダアキラカナラズとも讀まれる。
 
7 秋の野の み草《くさ》刈《か》り葺《ふ》き 宿れりし
 菟道《うぢ》の宮處《ミヤコ》の 假廬《かりほ》し念ほゆ。  
 
 金野乃《アキノノノ》 美草苅葺《ミクサカリフキ》 星杼禮里之《ヤドレリシ》
 兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》 借五百磯所v念《カリホシオモホユ》
 
【譯】秋の野のススキを刈り取つて屋根に葺いて宿つていた、あの兎道の行宮の假小舍が、思い出される。
【釋】金野乃 アキノノノ。金をアキと讀むのは、中國の五行説にもとづいている書き方である。五行というのは、宇宙間のあらゆる事象を、木火土金水の五行に配當して説明する方法であつて、四季を五行に配當するに、木は春、火は夏、土は土用、金は秋、水は冬に當てる。それで金をアキと讀むのである。その他、五方、五色の配當は、次の如くである。
(81) 五行 木  火  土  金  水
   五方 東  南 中央  西  北
   五色 育  赤  黄  白  黒
   五時 春  夏 土用  秋  冬
本集には、しばしば五行に依つて文字を使用している。金を秋に當てているのは、「金待吾者《アキマツワレハ》(卷十、二〇〇五)、「金風《アキカゼ》」(卷十、二〇一三)、「金山《アキヤマ》」(卷十、二二三九)などがある。その他「白風《アキカゼ》」(卷十、二〇一六)、「シロ※[草冠/互]子《アキハギ》」(卷十、二〇一四)、「事毛告火《コトモツゲナム》」(卷十、一九九八)、「二二火四吾妹《シナムヨワギモ》」(卷十三・三二九八)。火をナムに用いたのは、南の義によるのである。
 美草苅葺 ミクサカリフキ。ヲハナカリフキ(元)、ミクサカリフキ(元赭)。美草は、延喜式に「以2黒木1爲v輿飾以2美草1」とあるが、その美草は、賢木、弓弦葉、日蔭蔓、檜葉の類をいうのであつて、ここにいうのとは關係が無い。ここはススキ、カヤのような立派な草の義である。刈り葺きは、刈り取つて屋根に葺く意。
 屋杼禮里之 ヤドレリシ。動詞宿ルに、助動詞リの連用形リが接續し、それにまた助動詞キの連體形シが接續した形。過去に宿つておつたことをあらわす語法。この語法の例は、集中に多い。宿レリのような接續は、四段、サ變の動詞に限つて、助動詞リの接續するものである。カ變動詞にも接續するが、變形なので、しばらく別として、そのほかの場合は、動詞の已然形に接續するとされていたが、カ行、ハ行、マ行に活用する動詞の場合、そのケ、ヘ、メは、いずれも甲類の音なので、これは已然形ではなく、いわゆる命令形であることが知られる。宿ルのようなラ行活用の場合は、レに甲乙の二類はないが、他に准じていえば、已然形とはいえないことになる。助動詞リは、動詞アリと祖語を同じくするものの如く、ここに音韻變化の基礎が存するものであろう。
(82) 兎道乃宮子能 ウヂノミヤコノ。兎道は、山城の國の宇治。左註にいうように、大和から近江に行幸の途次、ここに行宮を營まれたので宮子というのであろう。宮子は京の義。行宮にても皇居のある處、これをミヤコという。「瀧之宮子波《タギノミヤコハ》 見禮跡不v飽可聞《ミレドアカスカモ》」(卷一、三六)の宮子は、吉野の離宮を稱している。宇治は、宇治の稚郎子《わきいらつこ》が、宮作りしておられた地であるから、それでミヤコというかもしれない。「宇治若郎子宮所歌一首」(卷九、一七九五題)。
 借五百磯所念 カリホシオモホユ。カリホシソオモフ(元)、カリイホオモホユ(類)、カリイホシソオモフ(古葉)、カリホシシノハル(僻)、カリホシオモホユ(考)。カリホは、カリイホの約。假廬の義。イホは元來簡素な屋舍をいうのであるが、それに更に假の語を添えて、一時的の旅の小舍であることをあきらかにしている。シは強意の助詞。上出の「草枕旅にしあれば」のシに同じ。オモホユは、自分には思われるの義で、受身である。假字書きのものも多くオモホユと書かれているが、「波漏婆漏爾《ハロバロニ》 於忘方由流可母《オモハユルカモ》」(卷五、八六六)は、オモハユと書かれた一例である。ここのオモホユは、追憶される、想起されるの意。
【評語】ある時の樂しかつた行旅を思い出して、しかも樂しかつたとは口に出さずに、假小屋を作つたありさまを敍述して、これをあらわしている。實に巧みな表現である。初三句の具體的な敍述が、全體を生かしている。追憶の内容であるが、印象的な歌であつて、この人の才氣のほどを思わせる。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書、戊申年、幸2比良宮1大御歌。但紀曰、、天皇至v自2紀温湯1。三月戊寅朔、天皇幸2吉野1而肆宴焉。庚辰ム日、天皇幸2近江之平浦1。
 
右は山上の憶良の大夫の類衆歌林を檢ふるに曰はく、一書に戊申の年、比良の宮に幸《い》でましし大御歌(83)といへり。但し紀に曰はく、五年春正月己卯の朔にして辛巳の日、天皇紀の温湯より至りたまひき。三月戊寅の朔、天皇吉野の宮に幸でまして肆宴《とよのあかり》きこしめしき。庚辰のそれの日、天皇近江の平の浦に幸でましたまひきといへり。
 
【釋】一書 アルフミニ。以下大御歌まで、類聚歌林の文である。この一書というも、何の書であるかをあきらかにしない。
 戊申年 ツチノエサルノトシ。戊申の年は、崇峻天皇の元年、孝徳天皇の大化四年、元明天皇の和銅元年等が相當するが、額田の王の年代からいえは、そのうちの大化四年が近い。比良の宮は、近江の比良と考えられるが、大化四年に行幸のあつたことは、他に傳わらない。
 大御歌 オホミウタ。上の戊申の年を大化四年とせば、大御歌は、孝徳天皇の御製である。ここに大御歌とあるは、別にその歌があつたのであつて、この金野乃云々の歌をさしていうのでは無い。作者に異傳があるが故に類聚歌林の文を檢したので無くして、近江に行幸のあつた事實を檢出して、兎道の宮子に行宮の營まれた年を證明しようとしたのである。
 紀曰 キニイハク。日本書紀の文を檢出して上の類聚歌林の文の參考としたのである。
 五年。以下日本書紀の文である。但し日本書紀には、ム日の二字が無い。この文は齊明天皇の五年である。
 幸吉野而。元暦校本、神田本には、而を宮に作つてあり、西本願寺本等には野の下に宮の字がある。今、類聚古集、古葉路類聚鈔、および傳冷泉爲頼筆本による。これは日本書紀の引用であるが、日本書紀には宮の字が無い。吉野の訓法については、三吉野之(二五)參照。
 肆宴焉 トヨノアカリキコシメシキ。御宴を催されたよしである。古事記に、豐明、豐樂、日本書紀に宴樂、宴會、宴饗などあり、いずれもトヨノアカリと讀んでいる。
(84) ム日 ソレノヒ。ムは某に同じ。これは三月だから、歌は、この行幸に關するものでは無い。
 
  後岡本宮御宇天皇代 【天豐財重日足姫天皇位後即後岡本宮】
 
【釋】後岡本宮 ノチノヲカモトノミヤ。日本書紀、齊明天皇の二年、「是歳、於2飛鳥岡本1、更定2宮地1。(中略)遂起2宮室1、天皇乃遷、號曰2後飛鳥岡本宮1。」齊明天皇の宮號である。
 
 額田王歌
 
8 熟田津《にぎたづ》に 船乘《ふなのり》せむと 月待てば、
 潮《しほ》もかなひぬ。
 今は榜《こ》ぎいでな。
 
 熟田津尓《ニギタヅニ》 船乘世武登《フナノリセムト》 月待者《ツキマテバ》
 潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》
 今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》
 
【譯】伊豫の熟田津で、船に乘つて航海をしようと、月の頃になるのを待つていると、月も滿ち、潮も船出に都合よくなつた。今は漕ぎ出ましようよ。
【釋】熟田澤尓 ニギタヅニ。熟田津においての意。日本書紀、齊明天皇紀に、「七年正月、庚戌、御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1」とあり、「熟田津、此云2※[人偏+爾]枳陀豆1」とある。當時は、今日よりも更に海が道後温泉の近くまで入り込んでいたとおぼしく、熟田津に温泉があつたので、熟田津の石湯の行宮と稱したのである。
 船乘世武登 フナノリセムト。船乘は、乘船して航海すること。假字書きのものには、「安胡乃字良爾《アゴノウラニ》 布奈能里須良牟《フナノリスレム》 乎等女良我《ヲトメラガ》」(卷十五、三六一〇)などある。熟田津に船乘せむとは、熟田津において出船しようとしての意。山部の赤人の伊豫の温泉で詠んだ歌の反歌に「ももしきの大宮人の飽田津《にぎたづ》に船乘しけむ年の知ら(85)なく(卷三、三二三)とある。
 月待者 ツキマテバ。潮は、滿月と新月のころに大潮となるので、船出をしようとして、大潮となるころを待つておればである。滿月と新月のいずれでもよいが、月待テバとある以上、滿月のころを待つとすべきである。日本書紀によるに、熟田津の石湯の行宮に泊せられたのは、正月十四日であるから、多分翌月の滿月のころの作であろう。これを月の出を待つ意とする解のあるのは誤りである。當時、事情に依つて夜間に船を進めることはあるが、普通に月の出を待つて夜間船を漕ぎ出すことは無い。
 潮毛可奈比沼 シホモカナヒヌ。潮モとあるので、月の滿月のころとなつたことが知られる。それと共に、潮も船出をするに都合よくなつた意である。句切。
 今者許藝乞菜 イマハコギイデナ。
   イマハコキコセ(神)
   イマハコギイデナ(代初)
   イマハコギテナ(僻)
   イマハコギコソナ(考)
   イマハコギコナ(攷)
   ――――――――――
   今者許藝※[氏/一]菜《イマハコギテナ》(玉、道麻呂)
   今者許藝手菜《イマハコギテナ》(燈)
   今者許藝天菜《イマハコギテナ》(札記師説)
   今者許藝出菜《イマハコギイデナ》(札記師説)
 乞は、「乞吾君《イデワガキミ》」(卷四、六六〇)、「乞如何《イデイカニ》」(卷十二、二八八九)、「乞吾駒《イデワガコマ》」(同、三一五四)等の例に依つてイデと讀み、出での義とする。ナは、自家の動作に關して希望する助詞で、動詞出ヅの未然形に接續している。「家聞かな」(卷一、一)のナに同じ。わが船は、今は漕ぎ出でたいことであると希望する語意である。
【評語】月待テバ潮モカナヒヌの句は、簡勁であつてよく意を盡している。名句というべきである。熟田津に停泊してやや時日を過したが、この行は新羅征討のための行旅であるので、兵船の装備を要するものがあつて(86)一處に長く碇泊されたのであろう。額田の王としては、出船を待ち遠に思つていた。その出船の時期の熟したよろこびを歌つたもので、よくその情をあらわしている。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、飛鳥崗本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后幸2于豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉、春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就2于海路1。庚戌、御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1。天皇御2覽昔日猶存之物1、當時忽起2感愛之情1。所以因製2歌詠1、爲2之哀傷1也。即此歌者、天皇御製焉。但額田王歌者、別有2四首1。
 
右は、山上の憶良の大夫の類聚歌林を檢ふるに、曰はく、飛鳥《あすか》の岡本《をかもと》の宮に天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔にして壬午の日、天皇、大后、伊豫の湯の宮に幸したまひき。後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁西の朔にして壬寅の日、御船西に征《ゆ》き、始めて海路に就きたまひき。庚戌、御船伊豫《いよ》の熟田津《にぎたづ》の石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ。天皇、昔日《むかし》よりなほ存《のこ》れる物を御覽《みそなは》して、當時《そのかみ》忽に感愛の情を起したまふ。このゆゑに歌詠を製《つく》りて哀傷したまふといへり。すなはちこの歌は天皇の御製なり。但し額田の王の歌は別に四首あり。
 
【釋】飛鳥岡本宮御宇天皇。舒明天皇。以下爲之哀傷也まで、類聚歌林の文である。飛鳥の岡本の宮は、高市の岡本の宮に同じ。
 九年丁酉。日本書紀には、この九年の行幸の記事無く、十二年にその記事がある。干支は、十二年の方に合うのである。この記事は、下の齊明天皇の行幸に關する記事の伏線として掲げたのである。
(87) 大后 オホギサキ。皇后の御事。後の皇極天皇。
 壬寅。元暦校本等に丙寅に作つているが、丁酉の朔ではその月に丙寅の日は無い。
 昔日猶存之物 ムカシヨリナホノコレルモノ。昔、舒明天皇の御代に、皇后として天皇と御同列で行啓になつたその時の事物の今に至るまで遣存せるもの。
 感愛之情 メグシトオモホスミココロ。殊愛を感じたまう御心。
 哀傷。昔は舒明天皐と御同列にて御覽あり、今はひとり御覽になるので、哀傷の情を起されるのである。
 此歌者天皇御製焉。この熟田津ニの歌は、類聚歌林には、齊明天皇の御製としている、というのである。但し、この歌には、哀傷の意無く、七年の行幸の記事に適わない。哀傷の意を盛つた歌は、別にあつたのであろう。
 額田王歌者別有四首。類聚歌林には、額田の王のこの時の歌として、熟田津ニの歌ならざる歌四首を載せているというのである。その歌は今傳わらない。
 
幸2于紀温泉1之時、額田王作歌
 
紀の温泉に幸《い》でましし時、額田の王の作れる歌
 
【釋】幸于紀温泉之時 キノユニイデマシシトキ。日本書紀、齊明天皇紀、四年、「冬十月庚戌朔甲子、幸2紀温湯1」とある。紀は紀伊であつて、和銅に至つて紀伊の二字としたのであろう。後の鉛山温泉の地という。この行幸に、額田の王が、御供にあつて詠んだか、または殘り留まつて詠んだかは、歌意が難解であつて、いずれとも決せられない。
 
9 莫囂圓風隣之大相七兄爪湯氣
(88) わが夫子《せこ》が い立たせりけむ
 五可新何本。
 
 莫囂圓風隣之大相七兄爪湯氣
 吾瀬子之 射立爲兼
 五可新何本
 
【釋】莫號圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本。齋明天皇が紀伊の國の温泉に行幸あらせられた時、額田の王の詠んだ歌で、この歌は、集中第一の難歌といわれている。それで古來多數の讀み方が傳わつているが、まだいずれも定説とはいえない。今日の研究も、それ以上多きを加えることを得ないが、もし第二句の湯氣が、ユケと讀むべきものならば、氣はケの乙類の字であるから、これは動詞行クの已然形と見るべく、それよりも上方に、助詞コソを含んでいるのでは無いかという推量がなされる。しかしどの字をコソに當てるかというと、大相七兄爪あたりのうちに求めるほかはあるまいが、ここに至つてまた行きつまらざるを得ない。校異としては、神田本に圓を國に作り、細井本西本願寺本等の仙覺本系統に、湯を謁に作つている。この歌は、仙覺の新點の歌百五十二首の最初の歌であつて、仙覺は、ユフツキノ云々の訓を附したのであるが、元暦校本神田本等にある訓のうちには、仙覺以前の訓があるようであり、仙覺は、これを見なかつたので、自分の訓を最初の訓と思つたらしい。元暦校本には、吾瀬子之射立爲兼五可(89)新何本の右に、赭でワカセコカイテタチシケムイツカシキカモとあり、神田本には、莫號國隣之の左に朱でナナクリノ、射立爲兼の左に朱でイテタチシケム、朔何本の左に朱でシテカモとある。今次に諸説を列擧する。
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ワカセコカイテタチシケムイツカシキカモ》(元赭)
   莫囂國隣之《ナナクリノ》大相七兄爪湯氣吾瀬子之|射立爲兼《イテタチシケム》五可|朔何本《シテカモ》(神朱)
   莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキノアフギテトヒシワガセコガイタヽセルネイツカハナム》(仙覺)
   莫囂圓隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキシオホヒナセソクモワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(代精)
   莫囂圖隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マガツリノオホヒナセソクモワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(緯、契沖)
   奠器國隣之大相七兄瓜湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフクレノヤマヤツイユキワガセコガイタヽセリケンイツカシガモト》(僻)
   奠器國隣之大相虎爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフキリノソラカキクレテワガセコガイタヽセリケンイツカシガモト》(僻)
   莫囂國隣之大相古兄※[氏/一]湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマコエテユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(考、春滿)
   莫囂國隣之《トツクニノ》(考)
   莫囂國隣之相大古兄※[氏/一]湯氣《イカノクニノアホコエテユケ》(選要抄)
   莫囂國隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマミツツユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(略、二句村田春海)
   莫囂國隣之霜木兄※[氏/一]湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマミツツユケワガセコガイタヽスガネイツカシガモト》(玉勝間)
   莫囂圓隣之大相士兄爪謁氣吾瀬子者射立爲兼五可新何本《ユフヅキノオホニテトヘバワガセコハイタヽセルガネイツカシガモト》(冠辭續貂)
   莫囂國隣之《アケクレノ》――――――――――(同、或説)
   莫囂圓隣之大相土无靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《カグヤマノクニミサヤケミワガセコガイタヽスガネイツカアハナモ》(信濃漫録)
   ――――――――――大相土見乍湯氣《ヤマミツヽユケ》(織錦舍隨筆)
   奠器圖隣弖美相嘉兒衣湯氣吾瀬子之射立爲兼五百可新何本《ヌサトリテミサカコエユケワガセコガイタヽスガネユツカシガモト》(織錦舍隨筆)
(90)   莫囂圓隣|支太相古曾湯氣《キホヒコソユケ》(書入本、粂川氏所引)
   莫囂圓隣之大相土无靄氣《ユフグレノヤマナクモリソ》吾瀬子之射立爲兼五可新何本(同)
   莫囂圓隣之大相古曾湯氣《ナゴマリシホヒコソユケ》(同)
   莫囂國隣之大相土見乍竭意吾瀬子之射立爲座吾斯何本《マツチヤマミツヽアカニトワガセコガイタヽシマサバワハコヽニナモ》(檜)
   奠器圓隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ミモロノヤマミツヽユケワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(古義)
   莫囂國隣之大相土覽竭意吾瀬子之射立爲座五可期何本《キノクニノクニミアカニトワガセコガイタヽシマサバイツカハナモ》(橋本直香の私抄)
   三栖《ミス》山の檀《まゆみ》弦《つら》はけわが夫子《セコ》が射部《イメ》立たすもな。吾か偲《シノ》ばむ(口譯)
   莫囂圓隣之大堆七兄爪□□謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マツチヤマミツヽコソユケワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(新考)
   草囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《サカドリノオホフナアサユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(粂川定一氏、國語國文の祈究)
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣《フケヒノウラニシヅメニタツ》吾瀬子之射立爲|兼五可新何本《ケムイツカシガモト》(宮嶋弘氏、萬葉雜記)
   莫囂圓隣之大相七里謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《シヅマリシカミナナリソネワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(土橋利彦氏、文學)
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフヅキノカゲフミテタツワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(伊丹未雄氏、萬葉集難訓歌研究)
   莫囂四隣之《ミヨシノノ》大相七兄爪湯氣《ヤマミツツユケ・ヤマミツメユケ》吾瀬子之《ワガセコガ》射立爲兼《イタタスガネ・イタタスガネヲ》五可新何本《イツカアハナモ》(尾山篤二郎氏・國語と國文學)
   莫囂圓隣之大相七見謁爪氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《シヅマリシウラナミミサケワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(澤瀉久孝氏、萬葉)
   莫囂圓隣之大相七見爪湯氣《シヅマリシウラナミサワク(キ)》(同)
   莫囂圓隣之《ユフヅキノ》 大相七兄爪湯氣《カゲフミテタツ》 吾瀬子之《ワガセコガ》 射立爲兼《イタタセリケム》 五可新何本《イツカシガモト》(伊丹未雄氏、萬葉集難訓歌研究)
 以上の外にもなお諸説があろう。またもとより訓によつて解釋が違い、同訓でも説が分かれている。例えば五句イツカシガモトと訓しても、代匠記は「何時か己が許」の義とし、僻案抄は「巖石が本」の義とし、考は(91)「嚴橿が本」の義としている。しかし結局訓義共に未決というほかは無い。
 
中皇命、往2于紀温泉1之時御歌
 
中皇命の、紀の温泉に往《い》でましし時の御歌
 
【釋】中皇命 ナカツスメラミコト。前出(三題詞)。中天皇と同語とする説によれは、女帝である。當時齊明天皇の御代であるが、歌詞によれば、更に若くして夫君を有せられる方のようである。よつてこれを求めるに、天智天皇の皇后|倭姫《やまとひめ》の命であろうか。皇后は、古人大兄の皇子の御女、天智天皇の七年に皇后となり、天皇の崩ずるに當つて、後事を付囑せられたのであろうとされている。紀の温泉に往かれたのは、齊明天皇の行幸に從われたのであろう。
 
10 君が代《よ》も わが代も知るや
 磐代《いはしろ》の 岡の草根を いざ結びてな。
 
君之齒母《キミガヨモ》 吾代毛所v知哉《ワガヨモシルヤ》
磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》
 
【譯】あなたの壽命もわたしの壽命も支配している、この磐代の岡の草を、さあ結びましょうよ。
【釋】君之齒母 キミガヨモ。齒は齡の義。君の壽命もの意で、次のわが代に對して竝立格をなしている。君は夫君をさしている。ヨは、二つの點の中間をいう語で、人に取つては、生涯の意になる。
 吾代毛所知哉 ワガヨモシルヤ。
   ワカヨモシラス(元)
   ワカヨモシレヤ(元朱)
       シラレン(僻)
(92)   ワカヨモシルヤ(考)
   ワカヨモシラム(美)
   ――――――――――
   吾代毛|所知武《シラム》(略、宣長)
 講義に、哉をムと讀む證として、「雖v見不v飽有哉《ミレドアカザラム》」(卷四、四九九)、「鳴渡艮哉《ナキワタルラム》」(卷十、一九四八)、「雲隱良哉《クモガクルラム》」(同、二三一八) の諸例を擧げているが、これらの諸例の哉は、元暦校本等にはいずれも武に作つているので、哉をムと讀む證明にはならない。此處は、文字どおりに、ワガヨモシルヤと讀むべきである。所は何々する所の義の用法。ヤは、用言の連體形につく感動の助詞である。かような哉およびヤの用例は、「天有哉《アメナルヤ》 月日如《ツキヒノゴトク》 吾思有《ワガオモヘル》」(卷十三、三二四六)、「夕附日《ユフヅクヒ》 指哉河邊爾《サスヤカハベニ》 構屋之《ツクルヤノ》」(卷十六、三八二〇)などの例がある。君の壽命もわが壽命も預り知つている所の意で、下句の磐代の岡を修飾する。知ルは、知識として知る外に、語原的意義として、管理支配する意があり、「天知也《アメシルヤ》 日御影乃《ヒノミカゲノ》」(卷一、五二)の用例などはそれである。また知ラスの用例によつても知られる。「大野有《オホノナル》 三笠社之《ミカサノモリノ》 神思知三《カミシシラサム》(卷四、五六一)などその例である。ここに所知と書いたのは、その意を示すためであつたのだろう。
 磐代乃 イハシロノ。和歌山縣日高郡の地名。有間の皇子が松の枝を結んだ地として知られている。(卷二、一四一參照)。
 岡之草根乎 ヲカノクサネヲ。ネは接尾語で、その草の根を張つていることを表示するためにつける。土に生えている草をいう。事實は草の葉をいうので、草の根の意では無い。「磯之草根乃《イソノクサネノ》 干卷惜裳《カレマクヲシモ》」(卷三、四三五)、「春野之《ハルノノノ》 草根之繁《クサネノシゲキ》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》」(卷十、一八九八)の草根、みな草葉の謂である。島根、垣板などの根の用法も同じである。
 去來結手名 イザムスビテナ。日本書紀、卷の一、竝に履中天皇紀に、「去來、此云2伊弉1」とある。イザは人を誘う語である。テは助動詞、ナは希望の助詞。さあ結びたいものであるの意。
(93)【評語】草を結ぶのは、古代の 民間信仰の一で、ムスブということにすべてを祝い籠める意があつた。卷の二にある有間の皇子が磐代の岡の松が枝を結ん幸福を祈られた歌は有名である。草を結ぶことについては、
  近江の海|水門《みなと》は八十をいづくにか君が船|泊《は》て草結びけむ(卷七、一一六九)
  妹が門行き過ぎかねて草結ぶ。風吹き解くな。またかへり見む(卷十二、三〇五六)
などの歌がある。かような信仰から、君ガ代モ我ガ代モ知ルという句が出て來たのである。磐代の岡は、特に震驗ある地とされていたのであろう。その岡のほとりの草葉を結んで、我等の運命を祝おうとする。しかしそれはごく輕い意味での、旅行中のある夕べなどの出來事であろう。君と共に旅行される親しい情愛をよくあらわしている。
 
11 わが夫子《せこ》は 借廬《かりほ》作らす 草《くさ》無くば、
 小松が下《した》の 草《くさ》を刈らさね。
 
 吾勢子波《ワガセコハ》 借廬作良須《カリホツクラス》 草無者《クサナクバ》
 小松下乃《コマツガシタノ》 草乎苅核《クサヲカラサネ》
 
 小松下乃 コマツガシタノ。コマツノモトノ(元)、コマツカシタノ(元朱)、コマツノシタノ(類)、コマツカモトノ(神)。コは愛稱。かならずしも若松の謂では無い。「わが命を長門の島の小松原幾代を經てか神さび渡る」(卷十五、三六二一)。澤瀉博士の説に、モトは本と書くので、下の字は、すべてシタと讀むべしとする。
 草乎苅核 クサヲカラサネ。カラサネは、名告ラサネの語法に同じ。刈ルの敬語法に、他に對して希望を表示する助詞ネの接續したもの。
【評語】岡の上の小松のもとなどの草を刈つて、假小屋を作つて宿つた古代の旅行の心もちがよく出ている。借廬作ラス草無クバと云つて、次に近くの草叢を指示した調子が、そこに宿りの用意をしている男たちの傍に、口添えをしている婦人の姿を描き出している。
 
(94)12 わが欲《ほ》りし 野島《のじま》は見せつ。
 底深き 阿胡根《あごね》の浦の 珠《たま》ぞ拾《ひり》はぬ。
  或るは頭にいふ、 わが欲りし子島は見しを。
 
 吾欲之《ワガホリシ》 野島波見世追《ノジマハミセツ》
 底深伎《ソコフカキ》 阿胡根能浦乃《アゴネノウラノ》 珠曾不v拾《タマゾヒリハヌ》
  或頭云 吾欲 子鳥羽見遠
 
【譯】わたしがかねがね見たいと願つていた野島は見せてくださつた。しかし底の深い阿胡根の浦の美しい珠を拾いません。
【釋】吾欲之 ワガホリシ。ホリシは、動詞欲ルに、時の助動詞キの連體形の接續したもの。次句に見セツとあつて、見ることを欲していたの意であることが知られる。
 野島波見世追 ノジマハミセツ。野島は、和歌山縣日高郡鹽屋の浦の南にある野島の里であるという。これは島嶼では無い。ミセツは、見しめつの義。ミセは使役の他動詞。下二段活。句切。
 底深伎 ソコフカキ。次の阿胡根の浦を敍述説明する修飾句。この句で、水の澄んで美しい地であることを語つている。
 阿胡根能浦乃 アゴネノウラノ。玉勝間に、野島の里の附近に阿胡根の浦があるという。地名の語義は未詳である。
 珠曾不拾 タマゾヒリハヌ。本集では、拾フを、多くヒリフと書いている。假字書きの例には、「於伎都白玉《オキツシラタマ》 比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》」(卷十五、三六一四)、「比里比登里《ヒリヒトリ》 素弖爾波伊禮弖《ソデニハイレテ》」(同、三六二七)などある。東歌には「多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》」(卷十四、三四〇〇)の例もあるが、これは東語であるから、多きについてヒリフとすべきである。タマゾは、珠を提示する意。珠は眞珠などの類で、服飾に用いたもの。古くは男女共に珠を飾りに使つたが、この集の時代では主として婦人の身の装飾である。その珠はまだ拾いません。だから、拾いに行(95)きたいという意である。珠を拾うは集中多く見受けられる事がらで、貝や石の珠とすべきを拾うことを云つている。
 或頭云 アルハハジメニイハク。或は、別の資料をいう。本集の例、類似の詞句を有する歌について、或云、或本、一本等として、本文との相違を擧げている。その別の資料は、稀に何の書であるかを察知し得るものもあるが、多くは不明である。此處も何の書とも知られないが、左註に擧げた類聚歌林であることも、有り得ないことでは無い。頭というは歌の初頭の意で、ここでは、初二句をさしている。「尼作2頭句1并大伴宿禰家持所v誂v尼續2末句等1和歌」(卷八、一六三五)、「或本歌頭云 人目多《ヒトメオホミ》 直者不v相《タダニハアハズ》」(卷十二、二九五八)、「或本歌頭句云、己母理久乃《コモリクノ》 波都世乃加波乃《ハツセノカハノ》 乎知可多爾《ヲチカタニ》 伊母良波多多志《イモラハタタシ》 己乃加多爾《コノカタニ》 和禮波多知※[氏/一]《ワレハタチテ》(卷十三、三二九九)、「一頭云 保等登藝須《ホトトギス》」(卷十八、四〇四三)。
【譯】あなたは旅の假小屋をお作りになる葺草がありませんでしたら、あの小松の下に生えている草をお刈りなさいませ。
【釋】吾勢子波 ワガセコハ。セは、男性に對して親しみいう語。コは親愛の情をあらわすためにつける。ワガセコは、男子相互間にもいうが、女子より男子をさしていう場合が多い。此處は夫君をいう。日本書紀に、「古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹」(仁賢天皇紀)とあるが、用例は、男子どうし、女子どうしでも、男子に對してセ、女子に對してイモと云つている。
 借廬作良須 カリホツクラス。ツクラスは、動詞作ルに、助動詞スの接續したもので、敬意をあらわす。その連體形。採マス、立タスなどの語法に同じ。
 草無者 クサナクバ。クサナクハ(元)、カヤナクハ(元朱)。借廬を作る料の草が無いならは、カヤナクバとも讀む。尾根に葺く料としてはカヤであるとするのである。但し一首のうちに草をカヤとクサと二語に讀み(96)分けることは、なるべく避くべきであり、クサと讀んで、意を成さぬでも無い。
 吾欲子島羽見遠 ワガホリシコジマはミシヲ。前の歌の初二句が、このようにあつたというのである。子島は所在未詳。ヲは、上に述べた詞句の内容について、然れどもの如き意を表示するもの。感動の助詞から分化した。子島は見たがしかしの如き意味において、次の詞句を迎える。
【評語】風光のよい野島を、夫君と共に見たことを述べ、しかも阿胡根の浦の底深くして珠を拾うに至らないことを惜しむ情がよく描かれている。その浦に下り立たないことを、珠を拾わないことで表現しているのは、珠に關心を持つ婦人としてふさわしいあらわし方である。これに依つて歌そのものが美しくなつている。
 
右、檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、天皇御製歌云々。
 
右は、山上の憶良の大夫の類聚歌林を檢ふるに曰はく、天皇の御製の歌云々といへり。
 
【釋】天皇御製歌。類聚歌林には、天皇の御製の歌としているよしで、本文に中皇命の御歌とすると、作者が相違しているから註記したのである。この天皇は、齊明天皇と考えられる。この記事は、右の歌三首のことか、最後の歌一首のみのことかについては、いずれとも解せられるが、特に一首と記していないのによれは、三首すべてにかかるのであろう。
 
中大兄近江宮御宇天皇三山歌
 
【釋】中大兄 ナカツオヒネ。天智天皇のこと。日本書紀、「天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也。母曰2天豐財重日足姫天皇1。」舒明天皇の第一皇子。ナカツは、中央中心を意味する語で、皇子皇女の名に使用されること多く、天の御中主の神の中も、同義である。長子末子に對して、比較的にいう中ではない。オヒネは、(97)文字通り、大兄の義で、長子をいう。スクネは、これに對して次の方の義であろう。大兄は、敬稱として附せられ、皇子等の語を添えないでもよいが、添えることもある。他に古人大兄の例などがある。ここは、天智天皇御即位以前のことであるから、この稱を用いたのであろう。
 近江宮御宇天皇 アフミノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコト。天智天皇の御事。中つ大兄の説明である。天皇は、近江の國の滋賀の大津に都されたので、かようにいう。
 三山歌 ミツノヤマノウタ。三山は、歌詞にある、畝火山、耳梨山、香具山の三山である。この三山は、大和の國の中央平野にあり、それぞれ孤立した山で、香具山はす東に、畝火山は西に、耳梨山は北に立ち、鼎立の勢いを成している。歌は、御歌とあるべきであるが、資料のままに記したのであろう。天智天皇が、まだ皇子でおいでになつたころ、播磨の國において、大和の三山に關する傳説に基づいてお詠みになつた作。それは、播磨國風土記の、揖保郡の條に、「出雲國阿菩大神、聞2大倭國畝火香山耳梨三山相闘1、此欲2諫止1、上來之時、到2於比處1、乃聞2闘止1、覆2其所v乘之船1而坐之。故號2神阜1、阜形似v覆。」と見える。耳梨、畝火は、古代の城塞であつて、今でも石鏃が多く發見される。古代民族がこれらの山に據つて戰つたことが、傳説のもととなつたのであろう。
 
13 香具山は 畝火を愛《を》しと、
 耳梨と あひ爭ひき。」
 神代《かみよ》より かくなるらし。
 古昔《いにしへ》も しかなれこそ、
 うつせみも 妻を 爭ふらしき。」
 
 高山波《カグヤマハ》 雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》
 耳梨與《ミミナシト》 相諍競伎《アヒアラソヒキ》
 神代從《カミヨヨリ》 如v此《カク》尓有《ナル・ニアル》良之《ラシ》
 古昔母《イニシヘモ》 然《シカ》尓有《ナレ・ニアレ》許曾《コソ》
 虚蝉毛《ウツセミモ》 嬬乎《ツマヲ》 相挌良思吉《アラソフラシキ》
 
(98)【譯】香具山は、畝火山を愛して、耳梨山と闘つた。神代からこの通り、人を爭つて戰うということはあつたのだ。古代からこの通りであるからこそ、この今の自分も、妻を爭うのであろう。
《構成】この歌は、二段に分かつて解釋される。第−段、アヒ爭ヒキまで。傳説の内容を敍する。以下第二段。第一段の事實を基礎として、推量をしている。
【釋】高山波 カグヤマハ。高は、kao の音の字であつて、カグと讀むべき字では無いのであるが、古音にカグと讀むべき音があつたか、または香字等の ng 韻の字に誤つて用いたかであろう。高をカガの音に使用した例は、美夫君志に擧げているように、日本書紀、孝徳天皇紀、白雉元年の條に、猪名公高見、天武天皇紀の上に、大紫韋那公高見とある人(額田の王の父と推考される人)は、その子大村の墓志には、紫冠威奈鏡とあると同人と認められ、高をカガに使用したことが知られる。この句は、下文に對して、主格を提示した句と考えられるが、これには異説もあり、その事は下に説明する。
 雲棍火雄男志等 ウネビヲヲシト。
   ウネヒヲヲシト(西)
   ウネヒヲ、ヲシト(※[手偏+君])
   ――――――――――
   雲根火雄曳志等《ウネヒヲヲシト》(古義)
 畝火山は大和の高市郡にある山で、三山の中では一番高く碓勁な山容をなしている。ヲシは、愛すべしの意の形容詞。古くは畝火を雄々しとしてと解していた。それによれは畝火山は男性で、香具山と耳梨山とは女性である。兩女性が一の男性を爭つて戰うこと、無いではないが珍しい。そこで、木下幸文と大神眞潮との説によつて、今の如く讀み改められた。また香具山をば、畝火と耳梨とで爭つたという説もあるが、反歌に香具山ト耳梨山トアヒシ時とあるは、闘爭の意に解すべきであるから、それも無理である。また風土記によれば、三山が互に相闘したとも解せられる。その場合は、三山とも男性で、一の女性(人間か)を爭つたものとすべき(99)であろう。なお澤瀉博士の萬葉古徑二には、香具山を女性、畝火と耳梨を男性とし、香具山は畝火を惜しとして耳梨山に背いて爭つたとしている。
 耳梨興 ミミナシト。大和の磯城都(もと十市部)にある。今、天神山と稱している。與は、漢文では二語の中間に置いてその竝立のものであることを示す辭であるが、これを竝立の助詞トの表示として、國語の語序に從つて、下に置いたのである。
 相諍競伎 アヒアラソヒキ。諍は、爭と通用する字で、諍競と熟して使用せられている。相は、國語アフを表示する文字として使用されている。アフは、相互にする意を表示するために、他の動詞に冠して使用される。アヒ思フ、アヒ見ルなど用例が多い。以上第一段。
 神代從 カミヨヨリ。神代は、わが國の古代を、神々の世界であつたとする思想から出る。神話時代の謂である。神代から人間の世界に續いているというので、後世の事物の起原を、神代に求める思想があつた。この歌においても、その思想が働いている。ヨリは、ユ、ヨに同じ。その時、もしくは點からずうつと引き續いての意を現す助詞。
 如此尓有島之 カクナルラシ。カカルニアラシ(西)、カカルナルラシ(僻)、シカナルラシ(考)、カクナルラシ(略)、カクニアルラシ(※[手偏+君])。上記の如くカクニアルラシとも讀まれているのは、尓は表音文字、有は表意文字として使用されているから、これを略體假字で表記する場合は、文字通りに書くのを至當とするのである。但し音聲としては約してナルとなるであろう。下の然尓有許曾の場合も同斷。第一段を受けて、神代からこの通りであると思われると推量している。ここで句切。以上、神代ヨリカクナルラシの二句は、次の古昔も然ナレコソと對句を成している。
 古昔母 イニシヘモ。イニシヘは、去《い》ニシ方《へ》の義と解せられる。古昔は、熟字として漢文にも使用せられ、(100)本集にも數個の用例がある。ここは遼遠の時代をいうが、「草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》 古昔念而《イニシヘオモヒテ》」(卷一、四五)の用例は、わずかに數年前をさしている。上の神代ヨリに對する句。
 然尓有許曾 シカナレコソ。ナレコソは、ニアリの已然形に、係助詞コソが接續して已然條件法を作つたもの。後世ならば、已然形を、助詞バが受けて條件法を作る所であるが、古くはバ無くして條件法を作る。バをはぶいたものではなく、バの無い方が原形である。これに係助詞の無いものと、係助詞ゾ、ヤ、カ、コソの接續するものとがある。それぞれその形の出た所で説明する。コソの説續したものでラシで結ぶ例は、「之可禮許曾《シカレコソ》 神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》 與呂之奈倍《ヨロシナヘ》 此橘乎《コノタチバナヲ》 等伎自久能《トキジクノ》 可久能木實等《カクノコノミト》 名附家良之母《ナヅケケラシモ》」(卷十八、四一一一)がある。かくて以上の二句は、上の神代ヨリカクナルラシの句と對句を作つているが、神代ヨリカクナルラシの句は終止形であり、この句は下に説續する。かような形の對句は、「鳴かざりし鳥も來鳴きぬ。咲かざりし花も咲けれど」(卷一、一六)など例が多い。元來對句は、一度歌い上げただけで滿足せず、更に立ち歸つて前句を反覆する所から出發したものであつて、その性質が遺存されて、かような形を採るものを見るのである。
 虚蝉毛 ウツセミモ。從來、ウツセミは、現シ身の義で現實に生ける身の意と説かれていた。この語を表示する文字としては、集中、宇都世美、宇都勢美、宇都蝉、打背見、空蝉、打蝉、鬱瞻、またウツソミとしては、宇都曾美、宇都曾見、宇都曾臣の字面が使用されている。この用例において、ミの音をあらわす文字として美見等が使用されているが、これらの文字は、上代假字遣のミの甲類美に屬する字であり、これに對して身を意味するミは、同じく乙類微に屬する音であつて、音韻が違うのである。またウツシミの原形が無くして、ウツセミ、ウツソミの轉音のみあるのも、現シ身説に不安を感じさせる。しかしこれに代るべき明解は無いが、一の私案を附記する。それは、古事記下卷、雄略天皇記に、葛城の一言主の大神について、「恐我大神、有2宇都(101)志意美1者、不v覺」とあることである。この宇都志意美も、現シ大身の義と説かれているが、同じくミの音を表示するに美を使用しており、音韻の相違が指摘される。萬葉集において、宇都曾臣の字を使用しているのは、四例あつて、いずれも柿本の人麻呂の作品中にあるが、オミの語が大身の義で無いとするならば、この臣の字などが當てられるのである。臣の語義については、後に述べる機會があることと思うが、連などと共に敬稱なるべく、一言主の大神に對して、宇都志意美あらむとは覺らざりきというのは、神の、現實の御方であることを意外とされたのであろう。然らば萬葉集のウツソミも亦、この義から出發して、現實に生ける人の義に使用したものと考えられる。その場合、ウツシオミが約してウツソミとなり、轉じてウツセミとなつたとすべきである。このミは、古代の神名人名の末尾にしばしば見られるミと同語であろう。しかしこの語は早く古語となつてその語義が忘れられ、空蝉、虚蝉の字面が、これに代つて登場すると共に、やがて無常思想の流布に伴なつて、はかないものの意識を感ずるに至つたのであろう。この世の人の意味に使用されている。枕詞としては、ウツセミの形を採り、人、世、命に係かるが、ここは普通語として使用されている。(以上大野晋氏同説)。なおミ及びオミの意義については、反歌の渡津海乃の條參照。
 嬬乎 ツマヲ。三音の一句。嬬は博雅に「妻謂2之嬬1、一曰妾」とある。ツマは配偶者の謂で、男子にも女子にもいう。
 相挌良思吉 アラソフラシキ。挌が木扁か手扁かの問題もあるが、古書では本扁と手扁とは區別はつかない。今普通に行われる所に依り、手扁とする。上の相諍競伎を受けて、アラソフラシキと讀むのがよいようである。助動詞ラシが係助詞のコソを受けてラシキと結ぶのは、古い語法であつて、「諾石社《ウベシコソ》 見人毎爾《ミルヒトゴトニ》 語嗣《カタリツギ》 偲家良思吉《シノヒケラシキ》」(卷六、一〇六五)の例がある。形容詞もコソを受けてはキで結ぶ。「己妻許増《オノガヅマコソ》 常目頬次吉《ツネメヅラシキ》」(卷十一、二六五一)、「野乎比呂美《ノヲヒロミ》 久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》」(卷十七、四〇一一)などある。
(102)【評語】この歌は相爭ヒキまで、傳説の内容を敍し、神代ヨリカクナルラシとこれを評し、その句を受けて、古モ然ナレコソと起して、今の作者の場合を敍したのである。理路整然.簡潔直截に自己の云おうとするところを盡している。結末五三七の音の句で留めたのは古法である。この歌の實際問題として、天皇と皇弟大海人の皇子(天武天皇)とのあいだに、額田の王が係爭せられ、これに關してこの歌が詠まれているという古人の説がある。額田の王は、はじめ大海人の皇子に召されて、十市の皇女を生み、後に天智天皇に召されて近江に下つたと傳えられている方である。しかしその事を詠んだとするは明證無く、一般的な世上の問題について歌われたとも解せられる。
 古人は、今の世は神代の延長であると考えていた。神代にあつた通り、神代にきめた通りの事が今の世に行われると思つている。この苦しい妻爭いは、やはり神代からあつた事だという、はかない自己慰安がそこに宿つている。
 
反歌
 
14 香具山と 耳梨山と 會《あ》ひし時、
 立ちて見に來《こ》し 印南《いなみ》國原。
 
 高山與《カグヤマト》 耳梨山與《ミミナシヤマト》 相之時《アヒシトキ》
 立見尓來之《タチテミニコシ》 伊奈美國波良《イナミクニハラ》
 
【譯】香具山と耳梨山とが戰つた時に、出雲の國の阿菩の大神が立つて見に來た、この印南の國原だ。
【釋】高山與耳梨山與 カグヤマトミミナシヤマト。二つのトは、香具山と耳梨とが、竝立格であることを表示している。
 相之時 アヒシトキ。兩山が出會つた時。アフには行き向かう義があるから、戰いの意になるのである。日(103)本書紀、神功皇后紀、熊之凝《くまのこり》の歌、「宇摩比等破《ウマヒトハ》 于摩譬苔奴知野《ウマヒトドチヤ》 伊徒姑播茂《イトコハモ》 伊徒姑奴池《イトコドチ》 伊装阿波那和例波《イザアハナワレハ》 多摩岐波屡《タマキハル》 于池能阿層餓《ウチノアソガ》 波邏濃知波《ハラヌチハ》 異佐誤阿例椰《イサゴアレヤ》 伊装阿波那和例波《イザアハナワレハ》。」(二八)の歌のアハナは、戰う意の動詞アフに、助詞ナの接續したものである。澤瀉博士の萬葉古徑二には、集中の用例により、アヒシを婚した意とし、女山の香具山と男山の耳梨山とが通じたのだとしている。
 立見尓來之 タチテミニコシ。阿菩の大神が、印南の國原まで、見に來たことをいうので、來シは連體形である。
 伊奈美國波良 イナミクニハラ。播磨の印南の平原をいぅ。政治上の區劃の一國ではなくて、一地方を國という。たとえは、大和の中でも、芳野の國、葛城の國などいう類である。播磨國風土記によれば、阿菩の大神が見に來たのは、揖保郡になつている。然るに、ここに印南國原とあるのは、印南郡の地方であろうから、地理的に合わない。多分印南地方にも、風土記にあるが如き傳説があつたのであろう。
【評語】この歌には主格が無い。ちよつと見ると印南國原が立つて見に來たようである。これは古歌の、稚拙なところで讀者の存在を豫想しないからであろう。香具山と耳梨山と戰つたというのだから、この兩山は男性らしい。しかし山の實際を見ると、畝火の方が男性的で、他の兩山は女性的のやさしい線の山である。
 
15 わたつみの 豐旗雲に 入日見し
 今夜の月夜 澄み明りこそ。
 
 渡津海乃《ワタツミノ》 豐旗雲尓《トヨハタグモニ》 伊理比弥之《イリヒミシ》
 今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》 清明己曾《スミアカリコソ》
 
【譯】海上の大きな旗雲に入日のさしているのを見た今夜の月は、澄み明るくあつて欲しいことだ。
【釋】三山の歌の反歌の二である。左註に反歌と思われないとあるが、今日では反歌として解釋している。萬葉集講義の説のように
、長歌短歌ともに播磨の國での作とするので、長歌と前の反歌一首とは三山の相闘に就(104)いて歌い、この歌は、轉じて作歌當時の實況を詠んだものと解するのである。かように見る時に、三山の歌全體の構成の大きいこともよく知られるのである。
 渡津海乃 ワタツミノ。ワタツミは海神の義である。古事記上卷に綿津見の神とある。山の神をヤマツミというと同樣の語構成である。ワタは海の義であるが、語義未詳である。ツは體言を連結する助詞。ミは尊稱で、神靈の義である。古代の神名人名には、その固有名詞の部分をミで終るものが多い。天の忍穗耳の命、神沼河耳の命等の如く、ミミの形を採るもの、また日子穗々手見の命、鳥鳴海の神等の如くミの形を採るものがあり、これらのミはいずれも尊稱と解せられ、御方の意味を有するものの如くである。ワタツミのミも、これと同じであろう。また君、民、臣のミも、これと同語ではないかと考えられる。いずれもミの甲類美の音韻に屬している。臣の語も神名に使用せられるもの多く、それらの中には、ヌミ、トミの形を採つているものもある。オミのオは、大を意味するのであろう。さてワタツミは海神の義であるが、轉じて海洋の意に用いる。元來海に對しては、その神秘不可測の性質を感じてここに海神の思想が成立する。海そのものを海神として表現するのである。よつてワタツミの語によつて表示される海は、神秘不可測の性質を強く感じているのが、本義である。今海上の夕燒雲の神秘を描こうとして、この語を以つて海を表示したのである。單に海の大なるをいう場合には、大海の語が選擇される。
 豐旗雲尓 トヨハタグモニ。トヨは、豐葦原、豐玉毘賣など、美稱として使用され、形容詞としての性格を有している。元來トヨは、穀物の豐富を表示する語であつたが、後、他物の美稱にも轉用されるようになつた。旗雲は、旗の如き形状をした雲。ハタは、織布の機にいう語であつて、古代のハタは、長い形のものであつた。よつて旗雲というのは、長い形の雲と解すべきである。文徳天皇實録、天安二年六月の條に、「庚子早朝、有2白雲1、自v艮至v坤、時人謂2之旗雲1」などある。
(105) 入日弥之 イリヒミシ。弥之は、諸本に相違するものが多い。一、元暦校本、類聚古集に、弥之。二、神田本、秘府本萬葉集抄に、佐之。三、細井本に、沙之。四、西本願寺本、金澤文庫本等に、祢之である。仙覺は祢之を採用して、「ネシトイフハ、ヤハラクト云コトハナレハ、入日ヤハラヒテハ、可v屬2晴天1コト、殊ニソノイハレアヒカナヘル也」と釋しているが、その説は無理であるから、これは捨てられねばならない。弥之、佐之(または沙之)は、いずれにても意味は通ずる。弥之による時は、見シの義とすべく、そのシは時の助動詞の連體形、佐之による時は、射シの義とすべく、動詞射スの中止形と見るべきである。而してそのいずれによるべきかは、一、傳來の性格、二、一首全體の調和の二點から觀察しなければならない。そこで傳來の性格としては、元暦校本と類聚古集とが一致して弥之としていることは、相當尊重されねばならない。これに對して、神田本が佐之、細井本が沙之に作つて、よし訓は同一でも、字面がそれぞれに相違する孤立的の傳來であることは、傳來の性格において弥之に讓るものとすべきである。次に一首全體の問題としては、この歌は、特に第五句が問題であつて、その句の訓をまず決定しなければならないが、同時にそれはまたこの第三句の決定如何に依つて左石される相關性の問題でもある。よつてここにはむしろこの三句を決定しておいて五句に臨む方針を採ることとする。
 今夜乃月夜 コヨヒノツクヨ。假字書きの例には、「奴婆玉乃《ヌバタマノ》 己與比能都久欲《コヨヒノツクヨ》」(卷二十、四四八九)がある。月夜は、月を主とした云い方で、夜は接尾語ふうな用法である。夜を重ねた云い方で、「生く日の足る日」の如き形であるが、夜は、ただ添えたもので、意味は、今夜の月はというほどのことである。
 清明己曾 スミアカリコソ。諸説があつて、問題となつている句である。この句については、清明攷(澤瀉久孝氏、萬葉古徑)に詳説がある。今これによつて、從來の諸訓を擧げれば、次の如くである。
 スミアカクコソ(元暦校本以下ノ――京大本ヲ除ク――古寫本ヨリ寛永本ニ至ル諸本、秘府本萬葉集抄、仙(106)覺抄、詞林采葉抄、拾穗抄、管見、代匠記)
 スミアカリコソ(京大本)
 サヤケシトコソ(僻案抄)
 アキラケクコソ(考、古事記傳、略解、燈、攷證、墨繩、新考、註疏、私抄、美夫君志、井上氏新考、折口氏口譯、佐佐木氏選釋、窪田氏選、豐田氏新釋、次田氏新講、橋田氏傑作選、山田氏講義、鴻巣氏全釋、正宗氏總索引、菊地氏精考、斎藤茂吉氏説〔綜合研究第一輯〕、金子氏評釋、新校)
 サヤケクモコソ(楢の杣)
 キヨクテリコソ(「明〔右○〕ヲ照〔右○〕ノ誤トスルモノ」古義、花田氏私解、「明〔右○〕ニ照〔右○〕ノ義アリトスルモノ」次田氏改修版新講)
 キヨクテルコソ(伊藤左千夫氏新釋)
 サヤニテリコソ(佐佐木氏増訂版選釋)
 キヨクアカリコソ(新訓、武田氏新解)
 マサヤケクコソ(古泉千樫氏説〔アララギ、第十五卷 第一號 輪講茂吉曰ノ中〕、島木赤彦氏鑑賞及び其批評)
 マサヤケミコソ(品田太吉氏説〔香蘭第十卷 第八號〕)
 キヨラケクコソ(松岡氏日本古語大辭典、折口信夫氏説〔「萬葉集の鑑賞」中央公論昭和九年一月號〕)
 サヤケカリコソ(森本治吉氏説〔國語・國文第七卷 第一號〕)
 澤瀉博士は、これらの諸説を批評して、更に私按として、マサヤカニコソの訓を出しておられる。以上の諸訓は多樣であるが、これをコソの立場から分類すれば、係助詞として下に敍述部の省路があると見る見方と、(107)希望の助詞と見る見方とに分かれる。係助詞コソとして見る時は、將來を期待した意になり、三句までは、目前の實景になる。係助詞コソの下に敍述部を省略した例としては、「時風《トキツカゼ》 吹飯乃濱爾《フケヒノハマニ》 出居乍《イデヰツツ》 贖命者《アガフイノチハ》 妹之爲社《イモガタメコソ》」(卷十二、三二〇一)の如きがある。しかし清明を形容詞として讀む訓の難點は、やはり形容詞に直接コソの接續した例の無いことである。そこで、マサヤカニコソの如き、助詞を插入した訓が考慮されるが、これもあり得べき語法というのみで、的確な文證は存在しない。また清明をマサヤカと讀むことの證明は無いが、マサヤカニの語例としては「伊呂夫可久《イロブカク》 世奈我許呂母波《セナガコロモハ》 曾米麻之乎《ソメマシヲ》 美佐可多婆良婆《ミサカタバラバ》 麻佐夜可爾美無《マサヤカニミム》」(卷二十、四四二四)の一例があり、有力な説として見ることができる。但し係助詞のコソは、古くは強調の意が強いのに、マサヤカニコソの場合は、比較的に輕く使われている上に、その敍述部が省略されているというのは、後世ふうの言い方であつて、この時代の歌としては輕快に過ぎる感がある。次に、コソを希望の助詞と見る時は、上の清明を動詞と見るのであるが、かような用例は集中に多數あつて、訓法からいえば自然である。清明の字面については、古事記上卷に、「爾天照大御神詔、然者汝心之清明、何以知」、「我心清明、故我所v生之子、得2手弱女1。」日本書紀、敏達天皇紀、十年閏二月の條に、「清明心」とあるが、これらは、いずれも心の状態についていつているので、今の歌に、月についていうものとは違うのである。今これを動詞に讀むについても、諸訓があるが、京都大學本にスミアカリコソとあるのが、調子もよく整い、平易である。但し京大本の訓は、スミアカクコソとあるべきを、誤つてスミアカリコソとしたものであろう。清をスミと讀むことは、地名のスミノエに清江の文字を當てたものがある。月について澄む、明るという例の無いのはこの訓の弱點である。上にもいうようにこの句の訓は、三句の訓と併せて考うべきものであるが、三句を入日見シとするについては、それを連體形と見て、今假に五句を希望の語法とするによることとする。
【評語】この歌は、初二三句の敍述が、海上の夕燒の壯大な光景を描いている。五句の訓が難點ではあるが、(103)それはこの歌自身の缺點では無い。元來名歌と考えられるだけに、何とかして明解を得たいものである。
 
右一首歌、今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載2此次1。亦紀曰、天豐財重日足姫天皇先四年乙巳、立2天皇1爲2皇太子1。
右の一首の歌は 今|案《かむか》ふるに反歌に似ず。但し舊本この歌を反歌に載す。故《かれ》、今この次に載す。また紀に曰はく、天豐財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》の天皇《すめらみこと》の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となしきといへり。
 
【釋】右一首歌 ミギノヒトツノウタハ。前掲の渡津海乃の歌一首をいう。ここに反歌ニ似ズというのは、海上の風物を詠んだ歌で、大和の三山の歌の反歌と見えないというのである。この事については、既に上に述べた通り、全部が播磨の國の海岸で詠まれたと解すべきである。
 舊本 モトノマキ。萬葉集は、漸次増益して今日の如き形になつたものと見られる。その前身をいうのであろう。今日の萬葉葉からいえば、資料となつたものである。舊本の語は、綜麻形乃(卷一、一九)の歌の左註にもある。また古本ともあり、それは、天離(卷二、二二七)、直不來(卷十三、三二五七)の歌の左註にある。舊本に、この歌を反歌としているから、そのままこの順序に載せておくという編纂者の説明で、後人の疑惑を避けるための注意である。
 亦紀曰 マタキニイハク。紀は、日本書紀をいう。以下三山の歌全體に關するもので、天智天皇の御事蹟について記している。
 天豐財重日足姫天皇先四年。皇極天皇の四年である。重祚された天皇であるから、先の四年という。
 立天皇。天皇は天智天皇。
 
(109) 近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇、謚曰2天智天皇1
 
【釋】近江大津宮 アフミノオホツノミヤ。天智天皇の六年三月に都を近江に遷した。今の大津市の附近で、これを近江の大津の宮という。
 天命開別天皇 アメミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇の稱號。多分、國風の謚號であろう。
 
天皇、詔2内大臣藤原朝臣1、競2春山萬花之艶秋山千葉之彩1時、額田王以v歌判之歌
 
天皇の、内の大臣藤原の朝臣に詔して、春山の萬花の艶、秋山の千葉の彩を競《あらそ》はしめたまひし時、額田の王の歌以ちてことわれる歌
 
【釋】天皇。天智天皇。
 内大臣 ウチノオホオミ。宮廷に奉仕する臣下の首班をいう、内臣の首席であつて、後の内大臣《ないだいじん》では無い。
 藤原朝臣 フヂハラノアソミ。藤原の鎌足。もと中臣氏であつたが、天智天皇の八年に藤原氏を賜い、天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつた。それを前に溯らして書いている。名を書かないのは、鎌足に對して敬意を表したのである。
 春山萬花之艶、秋山千葉之彩 春の花と秋の黄葉の美を、對句として表現している。題の意は、花と黄葉との美を競わしめたのであるが、文雅の遊びとして、多分漢詩などを作らしめたのであろう。
 以歌判之歌 ウタモチテコトワレルウタ。額田の王は婦人であるから、特に歌を以つて、花黄葉の優劣を判定したのである。天智天皇が、内の大臣の藤原の鎌足に詔して、春山の多くの花の艶《におい》と、秋山の多くの黄葉の(110)彩と、どちらがよいか、ということを競わしめたもうた時に、額田の王が、歌にて、その判斷をなされたのである。
 
16 冬ごもり 春さり來れば、
 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ。
 咲《さ》かざりし 花も咲けれど、
 山を茂《しげ》み 入りても取らず、
 草深み 取りても見《み》ず。」
 秋山の 木の葉を見ては、
 黄葉《もみち》をは 取りてぞしのふ。
 青きをば 置きてぞ歎く。
 そこしうらめし。秋山、吾は。」
 
 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》
 不v喧有之《ナカザリシ》 鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》
 不v開有之《サカザリシ》 花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》
 山乎茂《ヤマヲシゲミ》 入而毛不v取《イリテモトラズ》
 草深《クサフカミ》 執手母不v見《トリテモミズ》
 秋山乃《アキヤマノ》 木葉乎見而者《コノハヲミテハ》
 黄葉乎婆《モミチヲバ》 取而曾思努布《トリテゾシノフ》
 青乎者《アヲキヲバ》 置而曾歎久《オキテゾナゲク》
 曾許之恨之《ソコシウラメシ》 秋山吾者《アキヤマワレハ》
 
【譯】冬の終りから春になつてくると、今まで鳴かなかつた鳥も來て鳴いている。咲かなかつた花も咲いているが、山の木が茂さにはいつても取らない。草が深さに手に取つても見ない。しかし秋山の木の葉を見ては、黄葉を取つて愛する。黄葉せぬ青葉をは、うち置いて歎くのである。自分は秋山の方をまさつていると思う。
【構成】この歌は、二段に分かつて解釋される。第一段、草深ミ取リテモ見ズまで。春の花について論じている。以下第二段、秋の黄葉について論じ、最後に秋山を可として結んでいる。
【釋】冬木成 フユゴモリ。フユゴモリと讀むについては、美夫君志に、釋名釋言語に、「成盛也」とあるを引(111)いて、通用説を述べているのが廣く行われている。古書には或惑なども通用しているのであるから、この説も成立し得ることである。しかしまた、戍の字を、古書では戊の如く書くので、成と紛れ易く、現に戍とあるべきを成に作つている例もある。「押野辭訂郁訂臆戰野光彩がど酎舒ど鮮ど新鮮ボv粁野(卷十一、二八三九)の戍牛鳴を、諸本に多く成牛鳴に作つている。これは牛鳴はムの假字であるべきであり、一首の歌意からいつても、マモラムでなければならず、現に神田本金澤文庫本には戍に作つている。これによれば、冬木成は、冬木戍の誤りであるかもしれない。但し集中に冬木成六例のほかに冬隱三例がある。モリ(戍)のモは甲類、コモリ(隱)のモは乙類で、音韻が違う。語意は、冬のまだ殘つていることをいうので、冬の終りから春に續く意味で、春さり來るの枕詞となつている。なお枕詞でない用法もある。「冬木成時じき時と見ずて行かば」(卷三、三八二)、「冬木成春べに戀ひて植ゑし木の」(卷九、一七〇五)などはそれである。王仁の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」の冬ごもりの用法も同樣である。この語と同樣の構成の語に「夜ごもり」があり、それは「夜はこもる」の如き形にもなつている。(言語篇、冬ごもり考參照)。
 春去來者 ハルサリクレバ。徳田淨氏の説として、動詞去ルは、進行移動を意味する語として、方向の如何を問わず使用される。春去ればというも同じであつて、ここは七音の句であるから、春去り來レバという。春になれはの意。その他、朝、夕、秋等につけていう。「春之在者」(卷十、一八二六等)と書いたものがあつて、シアレバの約言サレバであるとする説もあるが、それは別語として、かように書いたものであろう。
 不喧有之 ナカザリシ。冬のあいだ鳴かなかつた意で、連體句。
 鳥毛來鳴奴 トリモキナキヌ。冬のあいだは鳴かなかつた鳥も、春になれば來て鳴く意。終止句。
 不開有之 サカザリシ。冬のあいだは咲かなかつたの意。連體句。
 花毛佐家禮杼 ハナモサケレド。サケレドは、動詞咲クに助動詞リの已然形が接續し、更に助詞ドが接續し(112)て、逆態條件法を作つている。上の鳴カザリシ鳥モ來鳴キヌに對して、咲カザリシ花モ咲ケレドは、對句となつているが、鳥モ來鳴キヌは、終止形を採り、この句は、後續の句に連續している。古い對句の一樣式である。三山の歌參照。
 山乎茂 ヤマヲシゲミ。「心を痛み」(卷一、五)の語法に同じ。山が茂くして、山の草木の繁茂せるをいう。萬葉考には、ヤマヲシミと讀んでいる。シミという語の有無については、講義には無いという。しかし、「之美佐備立有《シミサビタテリ》」(卷一、五二)、「美夜萬等之美禰《ミヤヤマトシミニ》」(卷十七、三九〇二)のシミ、「小屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》」(卷十三、三二七〇)、「鬼之四忌手乎《シコノシキデヲ》」(同)、「爲支屋所v經《シキヤフル》」(卷十六、三七九一)のシキ、「打靡《ウチナビキ》 四時二生有《シジニオヒタル》」(卷四、五〇九)、「竹珠叫《タカダマヲ》 之自二貫垂《シジニヌキタリ》(卷十三、三二八六)等のシジ、「京思美彌爾《ミヤコシミニ》」(卷三、四六〇)、「枝毛思美三荷《エダモシミミニ》」(卷十、二一二四)等のシミミ等を綜合して考えれば、繁茂を意味する古語シが考えられそうでもある。しかし文證の確なのについて、ヤマヲシゲミと讀むに決すべきである。
 入而毛不取 イリテモトラズ。春は、山の草木が繁茂しているので、立ち入りても取らずの意。終止句。
 草深 クサフカミ。草が深く生えているのでの意。
 執手母不見 トリテモミズ。春は草が深くあるが故に、花を手に取りても見ずの意。上の山ヲ茂ミ入リテモ取ラズに對して、この草深ミ執リテモ見ズは對句となり、共に、花モ咲ケレドを受けてその説明をしている。以上第一段。春は鳥鳴き花咲く好季節であるが、その利用價値の少いことを雖じている。
 秋山乃木葉乎見而者 アキヤマノコノハヲミテハ。以下秋葉について述べる。
 黄葉乎婆 モミチヲバ。モミチヲハ(元赭)、ソメシヲハ(僻)、モミヅヲハ(考)。草木の葉の、秋になつて變色したものをモミチといい、本集では、黄葉の字を多く使用している。ほかに紅葉と書いたもの一例(卷十、二二〇一)、赤葉と書いたもの一例(卷十三、三二二三)、動詞として赤を用いたものは二例である。これは本(113)集にあつては、廣く草木の葉の變色するのを愛したことを語つている。ここの黄葉は、名詞として使用されている。動詞として見る説もあるが、それは不可である。なお動詞としての用法については、その場合に述べることとする。モミチのチは、假字書きの例、知の字を用い、清音であつたと考えられる。
 取而曾思努布 トリテゾシノフ。手に取りて賞美する。シノフに數義あることは、山越乃(卷一、六)の歌の第五句の條に記した。ここはそのうちの賞美する、愛賞するの意に相當する用法。かような用法には、「百烏の來居て鳴く聲、春されは聞きのかなしも、いづれをか分きてしのはむ」(卷十八、四〇八九)、「初雪は千重に降り敷《し》け、戀ひしくの多かる吾は見つつしのはむ」(卷二十、四四七五)など。花については手に取つて愛することのできないのを缺點としたのに對して、黄葉については、手に取つて賞美し得ることを述べている。終止形の句。
 青乎者 アヲキヲバ。秋になつても黄葉しないのをばの意。
 置而曾歎 オキテゾナゲク。青くして殘れるをさし置いて歎息する意。上の、黄葉ヲバ取リテゾシノフに對して、青キヲバ置キテゾ歎クは、對句を成している。終止形の句。
 曾許之恨之 ツヨシウラメシ。
   ソコシウラメシ(管)
   ――――――――――
   曾許之怜之《ソコシオモシロシ》(玉)
   曾許之怜之《ソコシタヌシ》(古義)
 ソコは、それ、その點、その事などの意。上の青キヲバ置キテゾ歎クを受けている。シは強意の助詞。ウラメシは、恨まれる意の形容詞。終止形の句。
 秋山吾者 アキヤマワレハは。
   アキヤマワレハ(神)
(114)   アキヤマソワレハ(西)
   アキヤマヲワレハ(細)
   ――――――――――
   秋山曾吾者《アキヤマゾワレハ》(代初)
 吾は秋山を可とすの意。「秋山だ、吾は」の意で、秋山を指示している。この場合、秋山は、體言であつて、吾はに對しては述語となつている。以上は便宜上わかりよい説明をしたので、正しくいえは、秋山を提示するだけで、文は完成し、下の吾はは、それに對して主語を補足するものである。歌の末句として、強く言い放つている。
【評語】この歌、花と黄葉との優劣を論じ、春の花を抑えて秋の黄葉を擧げている。花黄葉の美を論ずるに、その本質的なものに觸れないで、手に取つて賞美することができるできないという二義的な理由によつて、判定を下しているのは、正しい議論とは言い難いが、とにかくかような議論的な内容を歌に詠みなした手腕は認めねばならない。歌が實生活の産物であつた性質から離れて、抽象的に花黄葉の美を取り扱うようになつたのは、文筆的作品としての地位を確保したことを語る。實生活以上の風雅の世界がここに開かれたもので、その先驅として意義の多い作品である。この作者に取つても、歌いものふうの他の長歌とは變わつて、かような理路の整つた作品を留めているのは、大陸文學の影響の大きく動いている時代の新傾向を示し、その才氣の非凡であつたことを語る。それだけに内容は抽象的で、描寫が無いのは缺點である。また初めの春の説明に力がはいつており、秋の部分がこれに比して特色の無いのは、元來この人が花黄葉の眞の美については、同等に感じていたことを、暗黙の間に語つている。結句の秋山吾はは、力強いいい方で、一首全體を引き締める效果がある。形は五七調がかなり整つているが、末節は七七である。文筆作品として見られるが、反歌を伴なつていない。これらは古い形の遺存している點である。この歌の成立時代については、この歌が、近江時代の最初にあり、また額田の王の近江に赴かれる時の歌よりも前にあるので、天皇のなお大和にましました頃の作であろう(115)とする説がある。しかし古い時代における歌の配列が、どの程度正確に年代に從つているかは不明であつて、これに依つて作歌年代を決することは危險である。
 春秋の季節を比較することは、古事記の神話にも、既に春山の霞|壯夫《おとこ》と秋山の下氷壯夫《したびおとこ》との對比がなされている。萬葉集に入つては、對句に春秋を對比することは常になされているが、しかしその優劣を判定することは、見えていない。そこにこの歌の歴史的意義が存在する。平安時代に入つては、春秋の優劣論は、しばしば見えている。今その二一二を擧げる。
   ある所に春秋いづれかまされるととはせたまひけるに詠みて奉れる      紀の貫之
  はる秋におもひみだれてわきかねつ。時につけつつうつる心は
   元良のみこ、承香殿のとし子に、春秋いづれかまさると云ひ侍りければ、秋もをかしう侍りといひけれは、おもしろきさくらを、これはいかがといひて侍りければ
  大かたの秋に心はよせしかど花みる時はいづれともなし
   題しらず  よみ人しらず
  春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる(拾遺和歌集卷の九雜下)
  こころから春まつ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ   秋好の中宮
  風に散る紅葉はかろし。春のいろを岩根の松にかけてこそみめ(源氏物語少女の卷)  紫の上
  祐子内親王藤壺に住み侍りけるに、女房うへ人などさるべきかぎり、物語して、春秋のあはれいづれにか心ひくなどあらそひ侍りけるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ 菅原の孝標の女
  淺みどり花もひとつに霞みつつおぼろに見ゆる春の夜の月(新古今和歌集卷の一春上)
   豐主とふ
(116)  おもしろのめでたきことをくらぶるに春と秋とはいづれまされる
   黒主こたふ
  春はただ花こそは散れ。野邊ごとににしきを張れる秋はまされり(樹下集)
 
額田王、下2近江國1時作歌、井戸王即和歌
 
額田の王の、近江の國に下りし時作れる歌。井戸の王のすなはち和ふる歌
 
【釋】額田王下近江國時作歌井戸王即和歌。
  額田王下近江國時作歌一首并短歌(代精)
  大海人皇子命下近江國時御作歌(考)
  井戸王下近江國時作歌額田王即和歌(燈)
  大海人皇子命下近江國時御作歌并短歌一首(墨)
  額田王下近江國時作歌(古義)
 下2近江國1時。額田の王が近江の國に下られたのは、多分近江の大津に帝都が遷され、そこにましました天智天皇に召されたのであろう。その途中、奈良山で、故郷を望み見て詠まれた歌と解せられる。もし然りとせば、近江の國に上ると書かねばならないのに、下ルと書いたのは、この歌を記し留めた人々に、大和を中心とする思想があつて、かように書いたのであろう。天武天皇の御代以後になつて、この題詞が書かれたのであろう。額田の王の故郷は、生駒郡平端村大字額田部の地が、それに擬せられている。
 井戸王即和歌 ヰノヘノオホキミスナハチコタフルウタ。井戸の王は他に所見無く、傳記等未詳であり、名の讀み方も男王か女王かも不明である。奈良縣添上郡に井戸村があつて、今その平和村に井戸野の字があるが、(117)關係地かどうか、不明。上の額田王云々の文にすぐ續けてこれを書いたのは、題詞として異例である。和歌は、和フル歌で、唱和の歌の義である。その井戸の王の歌は、綜麻形乃云々の歌をさすと見るほかは無い。誤謬があるとする説も多いが、異例だから誤謬であるということも無い。本集には、隨分不統一のものがあり、それらは多く資材としたものからそのままに受け入れたためであろう。原文のままに解釋を求むべきである。
 
17 味酒《うまさけ》 三輪《みわ》の山、
 あをによし 奈良の山の、
 山の際《ま》に  い隱るまで、
 道の隈《くま》 い積るまでに、
 つばらにも 見つつ行かむを、
 しばしばも 見|放《さ》けむ山を、
 情《こころ》なく 雲の 隱さふべしや。」
 
 味酒《ウマサケ》 三輪乃山《ミワノヤマ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良能山乃《ナラノヤマノ》
 山際《ヤマノマニ》 伊隱萬代《イカクルマデ》
 道隈《ミチノクマ》 伊積流萬代尓《イツモルマデニ》
 委曲毛《ツバラニモ》 見管行武雄《ミサケムヤマヲ》
 敷々毛《シバシバモ》 見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》
 情無《ココロナク》 雲乃《クモノ》 隱障倍之也《カクサフベシヤ》
 
【譯】あの三輪の山よ。奈良の山の間に、隱れるまで、道の曲角《まがりかど》が積り重るまでに、十分に見つつ行こうものを。しばしばも遠く望み見ようとする山であるを、心無く雲が隱すべきではありますまい。
【構成】全篇一文で、段落は無い。まず初二句で三輪の山を呼びかけ、その山を中心として、離れ去り難い情を述べている。
【釋】味酒 ウマサケ。ムマサケノ(元緒)、ムマサケ(古葉)、ウマサカノ(西)、ウマサケノ(細)、アチサケノ(古點)、ウマサケ(僻)。うまい酒の義で、三輪の枕詞になつている。倭名類聚鈔に、「神酒、日本紀私(118)記云、神酒美和」とあつて、酒の古語をミワという。日本書紀、崇神天皇紀に、「宇摩佐開《ウマサケ》 瀰和能等能能《ミワノトノノ》」とあり、本集には、「味酒《ウマサケ》 三室山《ミムロノヤマ》」(卷七、一〇九四)、「味酒《ウマサケ》 三輪乃祝之《ミワノハフリガ》(卷八、一五一七)などある。また「味酒呼《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)、「味酒乎《ウマサケヲ》 神名火山《カムナビヤマノ》」(卷十三、三二六六)、「味酒之《ウマサケノ》 三毛侶乃山爾《ミモロノヤマニ》」(卷十一、二五一二)など、ウマサケヲ、ウマサケノと五音に讀むべき例も存している。これは元來四音であつたものが、歌の文筆的性格が濃厚になるに及んで、五音に整理されたものと考えられる。
 三輪乃山 ミワノヤマ。奈良縣磯城郡三輪町にある山。平野に面して俊秀な山容を成しているので、遠方からも注意をひく山である。山名については、古事記中卷、崇神天皇記に、陶津耳の女の活玉依毘賣のもとに、何者とも知れぬ壯士の通つたのを、父母が教えて、麻絲を針に貫いてその壯士の裾につけしめたところ、朝になつて見れば、その麻絲が戸の穴から拔け出して、遣れる絲はただ三輪のみだつた。その絲をたよつて尋ねて行つたら、三輪山に至つて神の社に留まつたという。これは山號の起原傳説として見るべきである。一方には、酒の古名をミワということ、前掲の倭名類聚鈔に見え、また土佐國風土記の逸文にも、「神川、訓2三輪川1」とあり、神の字をミワと讀ましめている。播磨國風土記、讃容郡の記事のうちに、「伊和村【本名。神酒】大神釀2酒此村1。故曰2神酒村1」とあり、この神酒もミワと讀むべきもののようである。伊和の方の起原説明は無いが、ミワが、ミとワとに分解され、ミは美稱の接頭語となるので、イワというも、酒の義であるのかもしれない。ワは、輪を意味し、輪に神秘な力があるとすることから、酒をワといぅに至つたとも見られる。「天|※[瓦+肆の左]和《みかわ》齋許母利※[氏/一]」(出雲の國造の神賀詞)の※[瓦+肆の左]和は、大きい輪で、やはり神聖な場處を意味するのだろう。さて三輪は山、大神《おほみわ》神社の神體であつて、三輪山の名は、恐らくは神山の義が本義であろう。また三諸山と呼ばれることも旁證とするに足りる。さてこの句は呼格として見るべきである。解釋上からは、假にヲを補つて見るのもよいが、それは便宜のことであつて、正解では無い。下文に、その山をの意味の語が含みになつていると見るのが正しい(119)見である。
 青丹吉 アヲニヨシ。奈良の枕詞。語義未詳。古い歌いものから襲用されている枕詞で、用例として「阿袁邇余志《アヲニヨシ》 那良袁須疑《ナラヲスギ》」(古事記五九)、「阿烏珥預辭《アヲニヨシ》 儺羅烏輸疑《ナラヲスギ》」(日本書紀五四)、「婀嗚※[人偏+爾]與志《アヲニヨシ》 乃樂能婆娑摩※[人偏+爾]《ナラノハザマニ》」(同、九五)があり、本集での用字例には、安乎爾余之一例、安乎爾余志一例、安乎爾與之四例、安遠爾與之一例、阿乎爾與斯一例、阿遠爾與志二例、青丹余之二例、青丹余志一例、青丹與之一例、青丹吉十三例、緑青吉一例である。これによれば、通用語原として、青丹吉が意識に上つていたと考えられる。ヨシの語を伴なう枕詞としては、麻裳ヨシ、在根ヨシ、玉藻ヨシ、眞菅ヨシ、八百丹ヨシ等がある。このうち、眞菅ヨシについては、「眞菅吉《マスゲヨシ》 宗我乃河原爾《ソガノカハラニ》」(卷十二、三〇八七)に對して、「摩蘇餓豫《マソガヨ》 蘇餓能古羅破《ソガノコラハ》」(日本書紀一〇三)の如く、シの無い用例があり、八百丹ヨシについては、「夜本爾余志《ヤホニヨシ》 伊岐豆伎能美夜《イキヅキノミヤ》」(古事記一〇一)に對して、「八百丹《ヤホニ》 杵築宮爾《キヅキノミヤニ》」(出雲の國の造の神賀詞、但し八百丹は八百米ともされる。)の如く、ヨシの無い用例がある。これによつてヨは呼稱の助詞、シは強意の助詞であつたものと推定される。さてアヲニについては、奈良に蹈ミ平ラスの通用語原意識がありとすれば、ニはやはり土の義とすべく、アヲはその形容語とするを順當とすべきが故に、やはり青の義であつたであろうか。奈良の地をほめてこの語が使用されている。古事記中卷に、「櫟井《いちゐ》の、丸邇坂《わにさ》の丹《に》を、初土《はつに》は膚赤らけみ、底土《しはに》はか黒きゆゑ、三つ葉のその中つ丹《に》を、かぶつくま火にはあてず、眉《まよ》がき濃に書き垂れ」(四三)という句の歌があつて、丸邇坂の丹を、眉書きに使つたとしている。その丸邇坂は、春日の地と推考され、奈良山の南麓とも見られるから、奈良に關して青丹ヨシの枕詞が成立する理由もあるのだろう。なお、國内《くぬち》に係けて使用せられたもの一例(卷五、七九七)があり、これもその國土を稱美する意であろうと考えられる。
 奈良能山乃 ナラノヤマノ。奈良山は、奈良縣の北部、縣境を成す山。低い山であるが幅が廣い。大和から(120)山城への通路になつている。
 山際 ヤマノマニ。
   ヤマキハニ(元赭)
   ヤマノマニ(西)
   ヤマノハニ(附訓本)
   ヤマノカヒ(僻)
   ――――――――――
   山際從《ヤマノマユ》(考)
 山と山とのあいだに。山のあいだに。助詞ニに當る文字無く、讀み添えている。
 伊隱萬代 イカクルマデ。
   イコモルマテニ(元赭)
   イカクルヽマテ(西)
   イカクルマデ(古義)
   ――――――――――
   伊隱萬代爾《イカクルマテニ》(墨)
 イは接頭語。動詞について、イ行ク、イ取ルなど使う。隱ルは、四段活用として、連體形カクルを使つている。「比賀迦久良婆《ヒガカクラバ》」(古事記四)、「伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》」(古事記一〇〇)など、四段に使用されている。マデは助詞。體言、および用言の連體形に接續する。防人の歌の中には、動詞|來《く》の終止形に接續するものがあるが、それは特例である。三輪山が奈良の山の山間に隱れるまでの意である。
 道隈 ミチノクマ。クマは曲り角の隅のところ、日本書紀卷の二に「隈、此云2矩磨※[泥/土]1」とある。山路であつて、曲り角である。
 伊積萬代尓 イツモルマデニ。イツモルマテニ(元赭)、イサカルマテニ(僻)。イは接頭語。上のイ隱ルと同じ語法。山路で、曲り角が多く隈が重なるのである。上の山ノ間ニイ隱ルマデに對して、この二句は對句を(121)成している。但しニは、上のイ隱ルマデと、このイ積ルマデとを併せ受けている。
 委曲毛 ツバラニモ。
   クハシクモ(元赭)
   マクハシモ(西)
   イクタヒモ(僻)
   ツバラニモ(考)
   ツブサニモ(考)
   ――――――――――
   委曲爾《ツバラカニ》(古義)
 ツバラは、委曲、詳細。「安佐比良伎《アサビラキ》 伊里江許具奈流《イリエコグナル》 可治能於登乃《カヂノオトノ》 都波良都波良爾《ツバラツバラニ》 吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》」(卷十八、四〇六五)などの用例がある。靈異記の訓釋に、「委曲 ツ波比良計苦」とある。
 見管行武雄 ミツツユカムヲ。三輪山を仔細に見ながら行こうものをの意、ヲは、何々なるが然れどもの意をあらわす助詞として使用されている。
 數々毛 シバシバモ。度數多くも。數は頻數の義である。
 見放武八萬雄 ミサケムヤマヲ。サケは、下二段動詞離クの連用形。離クは、遠く距離を作るをいう語で、見サクは、眼を放つて見るの意である。「語左氣《カタリサケ》 見左久流人眼《ミサクルヒトメ》 乏等《トモシミト》 於毛比志繁《オモヒシシゲシ》」(卷十九、四一五四)の見サクルは、眺める位の意に使われている。山は三輪山をいう。上のツバラニモ見ツツ行カムヲの句に對して、この二句は對句を成し、今行く奈良の山のあいだから三輪山を眺めながら行こうとするのにの意をあらわしている。このヲも、何々であるが然れどもの意を示している。
 情無 ココロナク。下の隱スに係かる語。無情にも、無理解にも。「ま遠くの野にもあはなむ己許呂奈久《こころなく》里のみ中に逢へる夫《せ》なかも」(卷十四、三四六三)、「心無き秋の月夜の物思ふと寐《い》の宿《ね》らえぬに照りつつもとな」(122)(卷十、二二二六)などの用例がある。
 雲乃 クモノ。三音の一句。下の隱サフに對して主格を成している。 隱障倍之也 カクサフベシヤ。カクサフは、動詞隱スの未然形に、繼續の意を示す助動詞フの接續したもの。ベシは自然の助動詞。ヤは反語の助詞。ベシヤは、漢文の訓讀にいうベケムヤの意に同じ。隱すべきか隱すべきではないの意。
【評語】この歌は、まず味酒三輪の山と、なつかしの三輪山を呼びかける。住み馴れた故郷において、朝夕に見ていたその山を、顧みがちに山路をたどる心が、青丹ヨシ以下の句で描かれ、そのあいだに二個の對句を使用したのも、纏綿たる哀別の情を寫すに適している。シバシバモ見サケム山ヲは、希望の目標である山を出して、意味を強くしている。最後に障害となる雲に對して恨みの詞を述べている。結句が五三七で終るのは、古長歌に見られる所で、既に前に述べた。その五三七の五三の關係は、三七の關係よりも密接なものが多いが、この歌ではよく切れているのが特色である。元興寺縁起には、額田の王を采女としているが、召しに依つて故郷を離れて他國に赴く女性の心ぼそさがよく描かれている歌である。風格は歌いものふうで、各句の音數も不整のものが多く、感情中心に歌われ、前の花黄葉を論じた歌の理智的なのと、好對比をなしている。
 
反歌
 
18 三輪山を しかも隱すか。
 雲だにも 情《こころ》あらなむ。
 隱さふべしや。
 
 三輪山乎《ミワヤマヲ》 然毛隱賀《シカモカクスカ》
 雲谷裳《クモダニモ》 情有南畝《ココロアラナム》
 可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》
 
(123)【譯】三輪山をそのようにも隱すことか。せめて雲だけでも心があつて欲しいことです。わたしが見ようと思うのに隱すべきでは無いでしよう。
【釋】然毛隱賀 シカモカクスカ。その通りにも隱すことよの意。カは感動詠嘆をあらわす助詞。句切。「三輪山をしかも隱すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ」(古今和歌集、紀貫之)。
 雲谷裳 クモダニモ。ダニは、他の大きい事はしばらく別として、せめてこの小事でもの意をあらわす助詞。他に情無いものがあるが、せめては雲だけでもの意。「面忘れだにも得爲やと手握りて打てども懲りず戀といふ奴」(卷十一、二五七四)、「朝井手に來鳴く貌鳥汝だにも君に戀ふれや時終へず鳴く」(卷十、一八二三)。
 情有南畝 ココロアラナム。
   コヽロアラナム(元)
   コヽロアラナモ(講義)
   ――――――――――
   情有南武《ココロアラナム》(類)
 畝の字については諸説がある。まず傳來については、類聚古集に武に作り、西本願寺本等には、畝の左に武イとある。武に作るによれば、ココロアラナムとなり、意もよく通ずるが、元暦校本等に畝に作つているのを捨てるわけにも行かない。次に畝に作るによれは、ムとする説(古義、美夫君志等)と、モとする説(講義)とがある。古義には、「字彙に畝、莫厚切謀、俗作v畝非とあり、畝謀呉音ムなり、謀坂などいふを思ふべし」とある。謀は、本集にも「奈騰可聞妹爾《ナドカモイモニ》 不v告來二計謀《ノラズキニケム》(卷四、五〇九)の如く、ムに使つた例がある。講義には、畝の呉音モなりとし、誂の助詞ナムは、奈良時代にはナモであつたとしている。ナモの用例としては、「兒良波安波奈毛《コラハハナモ》」(卷十四、三四〇五)、「世奈波安波奈母《セナハアハナモ》」(同)の例があるが、これは東歌である。今、順當なるによつてココロアラナムとする。心があつて欲しいことだの意で、長歌の情無クに對して、逆の方面から説いている。終止形の句。心があるは、理解がある、同情があるの意。「鳩鳥の潜《かづ》く池水心あらば君にわが(124)戀ふる心示さね」(卷四、七二五)。
 可苦佐布倍思哉 カクサフベシヤ。長歌の末句を繰り返している。
【評語】長歌の末三句を受けて、これを變化させて作つている。長歌の末と短歌の末とが同一句から成るものは數々あることで、これに依つて兩者の關係を密接ならしめる。長歌と併せて味わうべきで、個々に離すべきではない。三個の短文を重ねて、特に詠嘆の氣味の多い歌である。雲ダニモ情アラナムと希望したことによつて、雲以外のもの、すなわち人は情無きものであることをあらわしている。それを直接に怨言を述べずに、雲に託して間接的に怨んでいるのは、女流の作としての特色を發揮しているものである。
【參考】ベシヤの語を使用せる短歌。
  大和戀ひ寐《い》の宿《ね》らえねに情無くこの渚埼みに鶴鳴くべしや(卷一、七一)
  出でて去なむ時しはあらむを故《ことさら》に妻戀しつつ立ちて去《い》ぬべしや(卷四、五八五)
  道の邊の草深百合の花ゑみに咲《ゑ》まししからに妻といふべしや(卷七、一二五七)
  海つ路のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや(卷九、一七八一)
  わが戀を妻は知れるを往く船の過ぎて來べしや。事も告げなむ(卷十、一九九八)
  戀ひしくはけ長きものを今だにも乏しむべしや。逢ふべき夜だに(同、二〇一七)
  さ宿《ね》そめていくだもあらねば白たへの帶乞ふべしや。戀も過ぎねば(同、二〇二三)
  戀ふる日はけ長きものを今夜だに乏しむべしや。逢ふべきものを(同、二〇七九)
  たらちねの母に障らばいたづらに汝《いまし》も吾も事成るべしや(卷十一、二五−七)
  おのれ故|罵《の》らえて居れば醜《あを》※[馬+總の旁]の面高夫駄に乘りて來べしや(卷十二、三〇九八)
   同、長歌
(125)  見が欲れば雲居に見ゆる、うつくしき鳥羽の松原、小子《わくご》どもいざわ出で見む。こと離《さ》けば國に離けなむ。こと離けば家に離けなむ。天地の神し恨し。草枕この旅のけに、妻離くべしや(卷十三、三三四六)
 
右二首歌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷2都于近江1。
 
右の二首の歌は、山上の憶良の大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江の國に遷しし時、三輪山を御覽《みそなは》せる御歌なりといへり。日本書紀に曰はく、六年丙寅の春三月辛酉の朔にして己卯の日、都を近江に遷しきといへり。
 
【釋】遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。以上、類聚歌林の文で、萬葉集と作者竝びに作歌事情の相違することを記したのである。ここに御歌とあるは、何人の御歌とも知り難いが、代匠記に天皇御製とし、古義には皇太子(天武天皇)の御歌としている。しかし歌意は、三輪山に別れを惜しむ情が強く、かつ雲ダニモ情アラナムと歌つているので、あらたに帝都を經營しようとする天皇の御製たるにふさわない。
 六年丙寅 以下日本書紀の文である。但し今の日本書紀には六年丁卯の年の事としている。この事については、美夫君志の別記に、詳論して、古本の日本書紀の年紀が今本と違うことを説いている。
 
19 綜麻縣《へそがた》の 林の始《さき》の さ野榛《のはり》の、
 衣《きぬ》に著《つ》くなす 眼に著くわが夫《せ》。
 
 綜麻形乃《ヘソガタノ》 林始乃《ハヤシノサキノ》 狹野榛能《サノハリノ》
 衣尓著成《キヌニツクナス》 目尓都久和我勢《メニツクワガセ》
 
【譯】綜麻の地方の林の先の野ハギが、著物を染めて色づくように、目につくあの方です。
【釋】前の題詞のうち、井戸王即和歌を、この歌の説明と見て解すべきである。但し左註には、和歌と思われ(126)ないよしを記している。和フル歌といつても、額田の王が、井戸の王に、歌を贈られたのではなく、たまたま井戸の王が、額田の王の歌を見て詠まれたものであろう。井戸の王が、その時、側近にいたかどうかも知られない。
 綜麻形乃 ヘソガタノ。ソマカタノ(西)、ヘソガタノ(代精)、ミワヤマノ(僻)綜麻をヘソと讀むことは、日本書紀崇神天皇紀にある大綜麻杵とある人を、新撰姓氏録には大閇蘇杵命と書いている。そうして形を縣の義とすれば、綜麻は地名ということになるが、それは何處とも知られない。滋賀縣栗太郡大寶村に綣《へそ》という地名があるというが、それがこの歌と關係があるとも思われない。ただそういう地名のあるべきことが推考されるだけである。倭名類聚鈔に、卷子を閇蘇と讀んでいるのは、績《う》んだ麻の圓く卷いたものの謂である。ガタはアガタの略。地方の義。この句、古くはソマカタノと讀んでいた。それでは意を成しがたい。僻案抄にはミワヤマノと讀んでいるが、その讀み方は無理である。ヘソガタの訓は代匠記の説である。
 林始乃 ハヤシノサキノ。ハヤシハシメノ(元赭)、ハヤシノサキノ(代初)、シケキカモトノ(僻)。林の先端の、林のとりつきのの義。
 狹野榛能 サノハリノ。サノハキノ(元赭)、サヌハリノ(僻)、サヌハギノ(考)。榛をハリと讀むか、ハギと讀むか、またはハンノ木かハギかについて問題が存する。榛は、新撰字鏡に、「叢生木曰v榛」とあつて灌木の叢生せるをいい、古事記下卷には、「天皇畏2其宇多岐1、登2坐榛上1」とあつて、その時の御製歌に「和賀爾宜能煩理斯《ワガニゲノボリシ》 阿理袁能《アリヲノ》 波理能紀能延陀《ハリノキノエダ》」とあり、榛のハリノキであることが知られる。本集では、榛は單獨にも用い、また榛原・眞榛と熱しても用いられている。その榛原と書いたものについては、「島之榛原《シマノハリハラ》 秋不v立友《アキタタズトモ》」(卷十、一九六五)の榛原の如きを、「蘇比乃波里波良《ワヒノハリハラ》」(卷十四、三四一〇)、「嶋針原《シマノハリハラ》 時二不v有鞆《トキニアラネドモ》」(卷七、一二六〇)の例によつて、ハリハラと讀むべきことが推考される。そのハンノキであるかハギであるかに(127)ついては、衣に摺るということ、秋立タズトモということ、「引馬野ににほふ榛原」(卷一、五七)、「白菅の眞野の榛原手折りて行かむ」(卷三、二八〇)の歌の如き、ハンノキでは風情をなさぬ歌のあること等によつて、ハギであることが確められる。しかし一方に、ハギは、波凝、波義の如く、假字書きにしたものがあつて、ハギであるが、古くハリとも言つたことは、播磨國風土記、揖保の郡萩原の里の條に、「右所3以名2萩原1者、息長帝日賣命、韓國還上之時、御船宿2於此村1、一夜之間、生2萩根1高一丈許、仍名2萩原1。即闢2御井1、故云2針間井1」とあることによつて證せられる。但しこの風土記の萩の字は、三條西家本には荻に作つているが、萬葉集註釋(卷の十四、イカホロノソヒノハリハラの條)に引いた文にはハギに作り、今も兵庫縣揖保郡揖保村に萩原の地名がある。よつてサノハリノと讀んで、サは接頭語、ノハリは野萩のこととすべきである。
 衣尓著成 キヌニツクナス。衣につくは、野ハギの花を採つて染料とし、これによつて衣を染めるをいう。ナスは、如くの意の動詞で、名詞または動詞の連體形に接續する。成スの義であろう。以上四句を序として、五句の目ニツクを引き出している。
 目尓都久和我勢 メニツクワガセ。目について忘れ難いわが君の意。ワガセは男性をさすことはあきらかであるが、何人をさすとも知られない。額田の王の思つておられる人をさすか、お召しになるところの天皇をさしているかである。
【評語】この歌は、作歌事情や讀み方に問題があつて、これを以つて、眞生命をあきらかにし得たとはいい難い所がある。しかし上四句は、畢竟譬喩で、主意は第五句にあるのだから、歌意においては、あまり讀み方に左右されない。下句の調子のよさは、何ともいえない。全く口で歌われる歌の調子を保有しているというべきである。一體詩歌に同音を利用するには、各種の方法があつて、それには種類もあるが、同音の詞句の所在についていえば、句頭にあるを頭韻、句末にあるを脚韻といい、これは從來もよく注意されたものである。しか(128)るにこの歌のは、句中にあつて、ツクの音を重ねており、しいて名を附けれは、腹韻ともいうべく、從來多く注意されなかつたものである。しかしこのために歌が一層諧調になるのは爭えない事實であるから、作歌の技術として、重視されねはならない。これは歌いものから來た所で、文筆作品になつて、發達しないでしまつた。「花ぐはし櫻のめで、ことめでは早くはめでず、わがめづる子ら」(日本書紀)の如きは、句中にメデの語を重ねた例である。
 
右一首歌、今案、不v似2和歌1。但舊本載2于此次1。故以猶載焉。
 
右の一首の歌は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。但し舊本この次に載す。故、猶載す。
 
【釋】 不似和歌 コタフルウタニニズ。題に、井戸王即和歌とありながら、この歌の内容が、前の額田の王の歌に和したとも見られないことを指摘している。
 舊本。前出(一五左註)。この記事によつても、この一團の歌および題詞が、資料のままであることが推知される。
 載焉。元暦校本、古葉略類聚妙に焉載に作り、古葉略類聚妙には如集と注している。傳冷泉爲頼筆本に爲載とあるのも焉載を誤つたものであろう。焉は、字書に「然也」ともあり、類聚名義抄にもココニの訓を載せている。
 
天皇遊2※[獣偏+葛]蒲生野1時、額田王作歌
 
天皇の、蒲生野に遊※[獣偏+葛]したまひし時、額田の王の作れる歌
 
【釋】天皇。 天智天皇。
(129)遊※[獣偏+葛]。 左註によるに、この※[獣偏+葛]は、天皇の七年五月五日に催された藥※[獣偏+葛]である。藥※[獣偏+葛]のことは、既に三の歌に記した。
 蒲生野 カマフノ。滋賀縣蒲生郡の原野。今、武佐、市邊のあいだに内野、蒲生堂、野口などの地名が殘つている。
 
20 《あかね》さす 紫野《むらさきの》行き 標野《しめの》行き
 野守《のもり》は見ずや。
 君が袖振る。
 
 茜草指《アカネサス》 武良前野逝《ムラサキノユキ》 標野行《シメノユキ》
 野守者不v見哉《ノモリハミズヤ》
 君之袖布流《キミガソデフル》
 
【譯】 ムラサキの植えてある園に行き禁園に行きなとして、番人は見ているではありませんか。それなのに、あなたは袖を振つている。
【釋】茜草指 アカネサス。枕詞。アカネは、アカネ科の多年生草本。ムグラに似た草で、茎は蔓性である。その根から赤い染料を採る。紫色は赤味を帶びているので、紫の枕詞とする。
 武良好野逝 ムラサキノユキ。ムラサキは草の名。ムラサキ科の多年生草本。根から紫色の染料を採る。野生もあるであろうが、古くは諸國をして栽培せしめ、その紫草園は國司巡硯して、雜人の亂入を禁じたものである。これは、その染料を尊重したためであろう。ここの紫野も、その栽培してある紫草園をいうので、次の標野も、語を代えていつたに過ぎない。諸國における紫草園經營の一例を擧げると、正倉院文書、豊後國天平九年正税帳(大日本古文書二ノ四〇)に、球珠郡天平八年の國司の巡行を記して、「壹度蒔營紫草園【守一人從三人竝四人二日】單捌人、上貮人【守】、從陸人」「萱度掘紫草根【守一人從三人竝四人二日】單肆人、上貮人【守】、從陸人」とあり、他の郡にもこれが見える。
(130) 標野行 シメノユキ。標は、占有を表示するもので、雜人の亂入を防ぐために榜又は縄を以つて、その意志を表出するものである。シメノは、雜人の入ることを禁じた野。ここでは前の紫野と同じ野とも、また別の野とも解される。そのような禁園を行つてというのは、寶際紫草園におられるので、それによつてこの句となつたのである。
 野守者不見裁 ノモリハミズヤ。野守は、紫草園また標野の番人をいぅ。禁斷の園なので、番人を置いて守らしめる。見ズヤは見ないか、見ているの意。ヤは反語になる助詞。この句は、以前は、獨立文で、君が袖ふるを野守は見ずやの意に解されていたが、澤瀉博士の説のように、上の三句を受けているものと解すぺきだろう。以上で、自分には番人のあることをいう。
 君之袖布流 キミガソデフル。袖は、衣の手を包む部分の、長く餘つているのをいう。袖を振るのは、合圖をするのである。皇太子が、野守の見ているのにもかかわらず、額田の王に對して、袖をふるのをとがめている。
【評語】この歌は、次の皇太子の御歌の意から推しても、天智天皇に寵愛されている額田の王の現在の身の上をも顧みずに、たとえば禁園にはいつて勝手な振舞をするが如きことのあつたのを説いているのであろう。紫野ユキ標野ユキと句を重ねて、藥獵の日のありさまをえがき、君が袖フルと野守の目にあまる光景をえがいて、巧みに人目を憚る心を寫している。美しい詞句によつて實況を寫し、しかもそれを利用して、情意を表現して(131)いる。越境を咎めるような語氣を用いながら、好意を寄せていることが感じられる。流麗であつて、言情兼ね備わり、最高度の作歌技術を盡している。名作というべきである。
 
皇太子答御歌【明日香宮御宇天皇、謚曰2天武天皇1】
 
皇太子の答へませる御歌【明月香の宮に天の下知らしめしし天皇、謚して天武天皇と申す。】
 
【釋】皇太子 ヒツギノミコ。舒明天皇の第二皇子。初め大海人の皇子といい、後、即位して天武天皇と申す。天智天皇の御代に、皇太弟として儲位にあつた。
 明日香宮 アスカノミヤ。天武天皇の明日香の淨御原の宮をいう。
 謚曰天武天皇 オクリナシテ天武天皇トマヲス。この註、古寫本にある。漢風の謚號は、天平勝寶三年の懷風藻に、文武天皇の御名が見え、天平寶字二年に、聖武天皇に勝寶感神聖武皇帝の稱號を奉り、同三年には、舍人の親王に崇道盡敬皇帝の追稱を奉つているから、その頃には既に上つたものと考えられる。よつて萬葉集にこれがあるのは、あえて恠しむに足らぬのである。歴代の天皇ことごとくに一度に奉つたものでなく、神武、天武、文武、聖武のような堂々たる稱號がまず奉られたのだろう。
 
21 紫草《むらさき》の にほへる妹を
 憎《にく》くあらば
 人妻《ひとづま》ゆゑに われ戀《こ》ひめやも。 
 
 紫草能《ムラサキノ》 尓保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》  尓苦久有者《ニククアラバ》人嬬故尓《ヒトヅマユユニ》 吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】紫の色のように美しいあなたを、憎く思うならば、他人の妻であるのに、わたしは戀をしないことでしよう。
(132)【釋】紫草能 ムラサキノ。額田の王の歌の詞を取つて歌い起している。ここでは紫のようにニホフと解すべく、枕詞と見るべきである。紫の色に出ることから、ニホフの主格となつている。
 尓保敝類妹乎 ニホヘルイモヲ。ニホヘルは、動詞ニホフに、助動詞リの連體形の接續したもの。ニホフは、色または香のあらわれるをいう。この歌では、美しい意に使つている。この語は、花もしくは色についていうのが普通であつて、それ故に、紫ノニホヘルを以つて妹の修飾句とするのである。紫の色にあらわれたような妹の義にとる。これによつて、初句紫ノを以つて、ニホフの枕詞とする。また稀な例ではあるが、「筑紫奈留《》爾抱布兒由惠爾《ツクシナルニホフコユヱニ》」(卷十四、三四二七)の如く、花や色の主格なく、直にニホフを以つて、美しいことを表現する例もある。妹は、女性に對して親しみいう語、額田の王をいう。要するに、紫はニホフ、そのようにニホヘル妹の義であつて、ニホヘルを以つて兩方にかけて解すべきである。
 尓苦久有者 ニククアラバ。好ましからずあるならばの意。
 人嬬故尓 ヒトヅマユヱニ。人妻である、それだのに。次句の戀フを限定する。人妻に對しての戀の意に下に續くのである。
 吾戀目八毛 ワレコヒメヤモ。ヤは反語。戀をしようか、戀うことはしまいの意。結局、憎くない故に、人妻に對して戀をするの意である。
【評語】前の歌の紫草を受けて、初句を起している。答の歌には、前の歌の詞句を取ること常例である。但し紫草の語の用い方は違つている。前は紫草といぅ草の名をさし、この歌では紫の色をさしている。初二句の美しい辭が全體を華やかにしている。額田の王の歌の婉曲に情意をいうのに對してこれはむしろ豪放率直に思う所を述べている。男性的な歌で、露骨になつているのはやむを得ない。人妻に對しては、集中の歌は、かなり嚴肅な倫理觀念を語つている。その良心の教えと、止み難い性の衝動との苦しい闘爭を語るものとして、注目(133)すべき作品となつている。
【參考】 人妻を歌つたもの。
  神樹《かむき》にも手は觸るといふをうつたへに人妻といへば觸れぬものかも(卷四、五一七)
  人妻に吾もまじらむ。わが妻に人も言問へ(卷九、一七五九)
  赤らひくしきたへの子をしば見れば人妻ゆゑにわれ戀ひぬべし(卷十、一九九九)
  もみち葉の過ぎがてぬ子を人妻と見つつやあらむ。戀しきものを(同、二二九七)
  うち日さす宮道にあひし人妻ゆゑに、玉の緒の思ひ亂れて寐る夜しぞ多き(卷十一、二三六五)
  人妻にいふは誰が言。さ衣のこの紐とけといふは誰が言(卷十二、二八六六)
  おぼろかにわれし思はば人妻にありといふ妹に戀ひつつあらめや(同、二九〇九)
  小竹《しの》の上に來居て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑにわれ戀ひにけり(卷十二、三〇九三)
  息の緒にわが息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも(同、三一一五)
  つぎねふ山城|道《ぢ》を人づま(男)の馬より行くに(卷十三、三三一四)
  人妻とあぜか其《そ》をいはむ。然らばか隣《となり》の衣《きぬ》を借りて著なはも(卷十四、三四七二)
  崩岸《あず》の上に駒をつなぎて危《あやほ》かと人妻子ろを息にわがする(同、三五三九)
  崩岸邊《あずべ》から駒の行このす危《あやは》とも人妻子ろをま行かせらふも(同、三五四一)
  なやましけ人妻かもよ榜《こ》ぐ舟の忘れはせなな。いや思《も》ひ増すに(同、三五五七)
 
紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縱2獵於蒲生野1。于v時大皇弟諸王内臣及群臣、悉皆從焉。
 
(134)紀に曰はく、天皇の七年丁卯《ひのとう》の夏五月五日、蒲生野に縱獵したまふ。時に大皇弟、諸王内臣、及び群臣、悉皆《ことごと》に從ひきといへり。
 
【釋】紀。日本書紀。
 天皇七年丁卯。天智天皇の七年である。但し今の日本書紀には、七年丙辰としてある。
 縱獵 ミカリシタマフ。藥獵であることは前に記した。
 大皇弟 スメイロト。天武天皇。
 諸王 オホキミタチ。皇族のうち、王と稱せられる方々を指す。
 内臣 ウチノオミ。日本書紀によるに、中臣の内の臣で、鎌足のこと。
 群臣 オミタチ。廣く地方官等をも含めていう。
 
 明日香清御原宮天武天皇代【天渟中原瀛眞人天皇謚曰2天武天皇1】
 
【釋】明日香清御原宮 アスカノキヨミハラノミヤ。元暦校本には、御の字が無い。この宮號、古事記の序文にも、飛鳥清原大宮とあり、かならずしも御の字を要しない。天武天皇の宮號であることは前に記した。
 天武天皇代。天武の二字は、元暦校本等による、宮の下に御宇の二字脱とする説があるが、無くても意をなさぬではない。漢風の謚號については前に記した。かように宮號の下に御稱號を擧げることに、卷の第二、一〇五の歌の前にある標目にも、「藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代」(元暦校本等)とあり、日本靈異記の序文にも、「輕島豐明宮御宇譽田天皇代」とある。
 天渟中原瀛眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。日本書紀の註に、「渟中、此云2農難1。」とある、天武天皇の御事。國風の謚號であろう。その語意は、渟は靜水で、玉のような水。中は接續の助詞ノ(135)に同じと見られる。天ノ渟中原は、天上の美原の義であろう。瀛は、御名、大海人の皇子と申すに寄せたもの。眞人は、尊稱である。
 
十市皇女、參2赴於伊勢神宮1時、見2波多横山巖1吹※[草冠/欠]刀自作歌
 
十市《とをち》の皇女《ひめみこ》の伊勢の神宮に參赴《まゐむ》きし時、波多《はた》の横山の巖《いはほ》を見て、吹※[草冠/欠]《ふふき》の刀自《とじ》の作れる歌
 
【釋】十市皇女 トヲチノヒメミコ。天武天皇の皇女、御母は額田の王である。弘文天皇の妃となつて、葛野の王を生まれた。壬申の亂には、夫と父との戰爭という悲しむべき境遇に立たれた。戰後、天武天皇の宮中にあつたが、その七年に薨ぜられた。その時の事情を日本書紀に次の如く記している。「是春、將v祠2天神地祇1、而天下悉祓禊之、竪2齋宮於倉梯河上1。夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1卜之、癸巳食v卜。仍取2平旦時1、警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣。」論者或るはいう、この祭祀は、壬申の年の戰に勝利を得たのを神祇に謝するにあり、これに當つて十市の皇女の急に薨ぜられたのは、みずから壽命を縮めさせられたのであるとしている。しかしそれは、推測に止まり、確論とするに至らない。この題詞に伊勢の神宮に參赴せられたとあるのは、日本書紀によるに、天武天皇の四年に、十市の皇女と阿閉の皇女(後の元明天皇)とが、伊勢の神宮に參詣せられたとある。その時にお供をした吹※[草冠/欠]の刀自が、波多の横山の巖を見て詠んだ歌である。お二方の御參詣であるが、題に十市の皇女のみを擧げたのは、この歌の内容または作者が十市の皇女に深い關係があるためであろう。
 波多横山 ハタノヨコヤマ。今の松坂市から、伊賀の伊勢地に越える途中に、八太村あり、延喜式にある波多神社もその附近にあつたのであろうという。波瀬《はぜ》川に沿つている通路である。横山は、長く横たわつている山勢をいう。卷の二十に多摩の横山の語がある。
(136) 吹※[草冠/欠]刀自 フフキノトジ。卷の四にも歌のある婦人であるが詳でない。※[草冠/欠]はフフキと訓んで植物のフキのことである。吹は餘分であるが、フの聲を助けるためにつけたものであろう。もとは吹黄とあつてフキと讀んでいたが、古寫本には大抵吹※[草冠/欠]とある。※[草冠/欠]を黄の草體と誤つて、吹黄としたものである。但し吹※[草冠/欠]は、名か姓氏か稱號か不明である。琴歌譜に「布々支乃乎止利」とあるフフキは、ウグイスのことのようであるから、ここもウグイスの意であるかもしれない。刀自は、一家の主婦の稱。わが兒の刀自、賞兒《めずご》の刀自など、若い女に用いた例もある。
 日本書紀に「戸母、此云2覩自1」(允恭天皇紀)とある。
 
22 河上《かはかみ》の 齋《ゆ》つ磐群《いはむら》に 草|生《む》さず、
 常《つね》にもがもな。
 常處女《とこをとめ》にて。
 
 河上乃《カハカミノ》 湯都盤村二《ユツイハムラニ》 草武左受《クサムサズ》
 常丹毛冀名《ツネニモガモナ》
 常處女煮手《トコヲトメニテ》
 
【譯】川の上流の神聖な岩村に草が生えないであるように、永久に若い女子として變ることなくありたいものでございます。
【釋】河上乃 カハカミノ。カハノヘノ(略)。講義に、カハノヘの語無しとして、カハカミノの訓を採つている。カハカミは、假字書きに、「多麻之末能《タマシマノ》 許能可波加美爾《コノカハカミニ》 伊返波阿禮騰《イヘハアレド》」(卷五・八五四)、「可波加美能《カハカミノ》 禰自路多可我夜《ネジロタカガヤ》」(卷十四、三四九七)の例がある。川中に對して、川の上岸をいうとの説もあるが、上流の義に使用しているものもあつて、「河上乃《カハカミノ》 列列椿《ツラツラツバキ》」(卷一、五六)の如きと共に、やはり川の上流の細く流れているあたりをさすと解すべきである。「河上爾《カハカミニ》 洗若菜之《アラフワカナノ》 流來而《ナガレキチ》」(卷十一、二八三八)の如き、カハカミを可とすと思われる例があるので、今、カハカミノとする。但しカハノヘも、「鴈我禰波《カリガネハ》 都可比爾許牟等《ツカヒニコムト》 佐和久(137)良武《サワクラム》 秋風左無美《アキカゼサムミ》 曾乃可波能倍爾《ソノカハノヘニ》」(卷十七、三九五三)の如き例があり、この倍が上の意味にも解せられることは、「多禮可有可倍志《タレカウカベシ》 佐加豆岐能倍爾《サカツキノヘニ》」(卷五・八四〇)、「波之太爾母《ハシダニモ》 和多之※[氏/一]安良波《ワタシテアラバ》 曾能倍由母《ソノヘユモ》 伊由伎和多良之《イユキワタヲシ》」(卷十八、四一二五)の如き用例の多いことによつて確められる。かくてカハノヘは、川中に對して川の岸上の義をなすであろう。
 湯都盤村二 ユツイハムラニ。ユツハノムラニ(類)、ユツイハムラニ(管)。盤は、磐に作つている本もある。盤磐は通用字であつて、巨石の義に使用せられている。盤村は、岩石群である。ユツは、從來五百ツのつづまれる言として、數の多いのをいうと説いている。しかしユツとイホツとは違うのである。イホツは、イホツノという時は五百箇ので、御統《みすまる》の玉、賢木《さかき》、野薦《のすすず》などに添うている。イホツから名詞につく時は、ツは助詞として解せられる。イホだけでは、五百引石、五百重浪、五百代小田、五百機などあるが、イホツの場合はユツと約せられるとして、イホだけの場合に、五百重をユヘともいわず、五百代をユシロともいわない。ユツは、眞椿、杜樹《かつら》などについている。古事記に伊耶那岐の命が火の神を斬つた條に、湯津磐村とあるを、日本書紀には五百箇磐石と書いてあるので、同語とも取れるが、これだけでは同語ともいわれまい。中臣の壽詞には、由都五百篁生出牟とあつてユツとイホとを重ねて、あきらかに別語であることを語つている。然らばユツの意義は何であるかというに、齋種《ゆだね》、齋笹《ゆざさ》、齋由《ゆぐし》、齋槻《ゆづき》等のユと同じで、齋忌の意とすべく、ツは體言と體言とを結ぶ助詞で、天ツ神、時ツ風、沖ツ浪の類のツであろうから、ユも體言であるべきで、意味は漢字に書く場合に多く宛て用いられている湯の義であろう。湯(熱水)は物を清潔にする力があると信じられ、神事に用いられる。熱湯を振りかけて、その物が神聖になると考えられていたものである。それで湯の字を書いているのは、訓を借りて用いたのでなくして、その字の内容にも、關連しているものであろう。この歌のユツイハムラは、神聖な磐石の群であつて、大巖石崇拜の意があらわれているものである。
(138) 草武左受 クサムサズ。ムスは草や苔の繁殖するに用いる。草については、「山行者《ヤマユカバ》 草牟須屍《クサムスカバネ》(卷十八、四〇九四)の用例がある。以上三句は、寓目の物を敍して、譬喩としている。草のむさずあるようにと解すべきである。副詞句。
 常丹毛冀名 ツネニモガモナ。ガが願望の助詞であつて、その上方にいう所の實現を願う意を表示する。その上方の詞句は、助詞モ、もしくはニモを伴なうを通例とする。ガで終止となるが、ガだけの場合もあり、またその下に、モ、モナ、モヤを伴なう場合もある。たとえば、鳥ニモガ、鳥ニモガモ、鳥ニモガモナ、鳥ニモガモヤなどいう。ここも常ニモガで意は通ずるのであるが、更にモナを添えて、詠嘆の意を強くする。永久であつて欲しいものだなあの意。モナの例、「
舒欝が粁肝伊野針ど譬空《アサヒサシマキラハシモナ》(卷十四、三四〇七)、「於登太可思母奈《オトダカシモナ》」(同、三五五五)。
 常處女煮手 トコヲトメニテ。トコは永久不變の意。常世、常夜、常宮・常闇など、他語を修飾して熟語を作る。ヲトメは、少女の義。若い婦人をいう。ここに處女の字を用い、また未通女の字も用いられているが、未婚の女子には限らない。ヲトコの語に對し、ヲは少の義、メは女性の義、トは接續の語であろう。常處女にて常にもありたきものだと、上の句の内容を限定する。
【評語】今見る所の、波多の横山の巖が、草も生えずあるようにと、嘱目の物を敍して、想を起している。四五句は、詠嘆の氣が強くあらわれている。壬申の亂後、その悲劇の中に處した十市の皇女は、鬱々として慰まない。その故に紛れるために、伊勢の神宮への參詣ともなり、吹※[草冠/欠]の刀自の、この歌ともなつたのだという説もある。この歌は、永く老いの至らないようにと願つた意であるから、ややその説に適しないであろうか。むしろ作者が、十市の皇女の、老のまさに至ろうとするのを嘆息されたのに同感して、詠んだものとすべきであろう。
 
(139)吹※[草冠/欠]刀自、未v詳也。但紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥聯丁亥、十市皇女、阿閉皇女、參2赴於伊勢神宮1。
 
吹※[草冠/欠]の刀自は、いまだ詳ならず。但し紀に曰はく、天皇の四年乙亥、春二月乙亥の朔にして丁亥の日、十市の皇女、阿閉の皇女、伊勢の神宮に參赴《まゐむ》きたまひきといへり。
 
【釋】紀。日本書紀。
 天皇四年乙亥。天武天皇の四年。但し今本の日本書紀には、四年は丙子である。
 阿閉皇女 アベノヒメミコ。天智天皇の皇女、草壁の皇太子の妃、文武天皇の御母。後、即位して元明天皇と申す。
 
麻績王、流2於伊勢國伊良虞島1之時、人哀傷作歌
 
麻績《をみ》の王の伊勢の國伊良虞の島に流さえし時に、ある人の哀傷して作れる歌
 
【釋】麻績王 ヲミノオホキミ。績、諸本に續に作る。績續は、古く通用している。系譜傳紀等未詳。この時代の王の稱は、縁故の地名または育てられた氏によるものが多い。麻績は地名によるか。次の二四の歌の左註にもあるように、日本書紀には、天武天皇の四年四月に、麻績の王が罪があつて、因幡に流され、一子は伊豆の島に流され、一子は血鹿の島に流されたという。何の罪であるか、不明。
 流 ナガサエシ。流刑に處せられた由である。
 伊勢國伊良虞島 イセノクニノイラゴノシマ。伊良虞は、今、愛知縣に屬し、三河の國の渥美半島の先端である。島嶼ではなくして押角であるが、往古は島嶼であつたともいう。しかし古語のシマは、水に臨んでいる(140)美土をいうので、かならずしも島嶼に限定しない。伊勢の國に近いので、その國から望み見て、伊勢の國と言つたのであろう。上にもいう如く、日本書紀には因幡に流されたといい、常陸國風土記、行方郡板來村の條には、「飛鳥淨見原天皇之世、遣麻績王居處之」とある。イラゴとイタコとは音が類似しているので、かような異傳を生ずるに至つたのであろう。地名は諸國に同名または類似の名が多い。また流謫の地が變更された等の事情があるかも知れない。
 人 アルヒトノ。この上に時の字の遺落したものとする説があるが、無くても意味の通ずる所である。當時の或る人の意であつて、誰であるか不明である。あるいは、上の句と合せ流さえし時の人の意であるかもしれない。
 
23 打麻《うちそ》を 麻績《をみ》の王《おほきみ》、
 白水郎《あま》なれや、
 伊良虞《いらご》が島の 珠藻苅ります。
 
 打麻乎《ウツシヲ》 麻績王《ヲミノオホキミ》
 白水郎有哉《アマナレヤ》
 射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》 珠藻苅麻須《タマモカリマス》
 
【譯】麻績の王は、漁夫であるのだろうか、伊良虞の島の藻を刈つておいでになる。
【釋】打麻乎 ウチソヲ。ウツアサヲ(西)、ウテルヲヲ(顛)、ウチヲヲ(代初)、ウチアサヲ(代初)、ウツノヲヲ(僻)、ウチソヲ(考)、ウツソヲ(古義)。打つた麻の義で、ヲは感動の助詞。打麻よというに同じ。打つた麻を苧《を》に績むと續く。績ムは、絲にするをいう。「打十八爲《ウチソヤシ》 麻績兒等《ヲミノコラ》」(卷十六、三七九一)の例があ(141)る。
 白水郎有哉 アマナレヤ。白水部は漁夫。倭名類聚鈔に、「辨色立成云、白水郎阿萬」とある。この文字は唐の元※[禾+眞]の詩にも、「黄家賊用2〓刀1利、白水郎行2旱地1稀」とあつて、漢文に始まつた字面である。また泉郎とも書き、そのいずれがもとであるかについては、漢文にも兩説がある。白水は川の名、蜀から流れ出る。その河濱の住民よく漁るよりいうとする。また泉州の民よく漁るよりいうとも説く。二個の漢字を一字に合わせて書くものには、麻呂を麿と書く如きがある。本集において、泉郎を用いた例には、卷の十七、三九六一の左註漁夫之船人海浮瀾の右に、元暦校本の赭に、「復有泉郎船、浮漂波浪」とある。ナレヤはニアレヤに同じ。ヤは係助詞、疑問の意である。この句に對して、第五句が結になつている。動詞助動詞の已然形を受けるヤについては澤瀉博士の説、(萬葉集の作品と時代所收、「か」より「や」への推移)は、これを反語としている。この語法の例は、「眞野の浦の淀の繼橋心ゆも思へや妹が夢にし見ゆる」(卷四、四九〇)、「朝井手に來鳴く容鳥汝だにも君に戀ふれや時終へず鳴く」(卷十、一八二三)、のように、輕く疑問の意をあらわしているものと、「玉藻刈る辛荷の島に島廻《しまみ》する鵜にしもあれや家念はざらむ」(卷六、九四三)、「しましくも獨あり得るものにあれや、島のむろの木離れてあるらむ」(卷十五、三六〇一)、のように、鵜ではないのに、獨あり得るものではないのにの意を基礎とするものとがあつて、まちまちである。口語としては、音の抑揚強弱によつて區別したかも知れないが、文字の上には、それはあらわれていない。助詞ヤは、感動の意が強いので、反語ふうな氣分をも生ずるのだから、一般的には、その意味で解すべきであろう。ここもそれで、海人ではないのだのにと、深く疑つている意の條件法と解される。下の「古《フリニシ》 人相和禮有《ヒトニワレアレ》哉」、(卷一、三二)も同樣である。  射等籠荷四間乃 イラゴガシマノ。荷は、字音假字として、ガの音を表示している。次の歌には、伊良虞能島之とあり、伊良虞が島とも、伊良虞ガ島とも云つたらしい。但し荷は訓假字としては、普通ニの音を表示す(142)るに使用されているが、荷前をノザキともいう如く、ノの音を表示していると解せられないこともない。
 珠藻苅麻須 タマモカリマス。
   タマモカリマス(類)
   タマモカリヲス(燈)
   ――――――――――
   珠藻苅食《タマモカリヲス》(古義)
 珠藻は、藻の美稱。萬葉集の人々の、藻に對する愛好の情をよくあらわしている。カリマスのマスは敬語の助動詞。苅麻須はカリヲスとも讀まれる。次の答歌に、玉藻苅食とあつて、食に關しているので、この歌にも食することをいうとも考えられるが、白水都ナレヤに對しては、カリマスの方が適するようである。ヲスは、食する意の敬語。他人の食するにいう。自己の食するに用いた例を見ない。
【評語】日本書紀には、事件について、しばしば時人の歌というを載せている。多くの歌が、事件の當事者の立場で歌われているのに對して、時人の歌は、事件を客觀視し、第三者としての批判性が窺われる。この歌も、王の名を詠み入れている點など、そういう傾向がある。五句の珠藻苅リマスは、王の海濱生活の一端が具體的に敍せられている。勿論實際に珠藻を刈つておいでになるとまで解するに及ばないが、白水郎でもないのに、玉藻を刈つておられるという所に、同情が動いている。
 
麻績王、聞之感傷和歌
 
麻績の王の、聞きて感傷して和ふる歌
 
【釋】麻績の王が、前の時の人の歌を聞いて、悲み傷んで和せられた歌。
 
24 うつせみの 命を惜《を》しみ
(143) 浪に濡《ぬ》れ、
 伊良虞《いらご》の島の  玉藻《たまも》苅《か》り食《は》む。
 
 空蝉之《ウツセミノ》
 命乎惜美《イノチヲヲシミ》
 浪尓所濕《ナミニヌレ》
 伊良虞能島之《イラゴノシマノ》 玉藻苅食《タマモカリハム》
 
【譯】生ける命の惜しさに、浪にぬれて、伊良虞の島の玉藻を刈つて食べている。
【釋】空蝉之 ウツセミノ。枕詞として使われている。語義は、既出(卷一、一三)。
 命乎惜美 イノチヲヲシミ。命が惜しくして。心ヲ痛ミ、山ヲ茂ミ等と同じ語法。
 浪尓所濕 ナミニヌレ。所は被役の義。浪に濡らされて。
 玉藻刈食 タマモカリハム。タマモカリマス(西)、タマモカリヲス(考)、タマモカリハム(元赭)。萬葉考にタマモカリヲスと讀んでいるが、ヲスは、自家の食事に使用した例が無い。ハムは喫食するをいう。「宇利波米婆胡藤母意母保由久利波米婆麻斯堤斯農波由《ウリハメバコドモオモホユクリハメバマシテシヌハユ》(卷五、八〇二)。
【評語】前の歌には、どことなく輕い氣分が感じられたが、それは白水郎ナレヤあたりの疑問的ないい方に煩わされたものであろう。この歌は、それに對して、事件が自己の事に關するので、一層眞劍である。初二句は、命の惜しさにかような習わぬ事をもするの意をいうものとして、よく利いている。また三句の波ニ濡レも、具體的に荒い海濱における漁夫の生活を描いている。沈痛な作とすべきである。
 
右案2日本紀1曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻績王、有v罪流2于因幡1、一子流2伊豆島1、一子流2血鹿島1也。是云v配2于伊勢國伊良虞島1者、若疑後人縁2歌辭1而誤記乎。
 
右は、日本紀を案ふるに曰はく、天皇の四年乙亥の夏四月戊戌の朔にして乙卯の日、三位麻績の王、(144)罪ありて因幡に流さえ、一の子は伊豆に流さえ、一の子は血鹿の島に流さえきといへり。ここに伊勢の國伊良虞の島に配さゆといへるは、若し疑はくは、後の人、歌の辭に縁りて誤り記せるか。
 
【釋】右案 ミギカムガフルニ。以下、編者の案文である。
 天皇四年 スメラミコトノヨトセ。天武天皇の四年。
 戊戌朔乙卯 ツチノエイヌノツキタチニテキノトウノヒ。十三日。但し今本の日本書紀は、甲戌朔乙卯としている。
 血鹿島 チカノシマ。血鹿は、今、値嘉の字を使う。九州の五島列島。
 是 ココニ。以下また編者の案文。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇御製歌。 天武天皇の御製である。作歌事情については、何の記載も無い、天武天皇、御名は大海人の皇子。舒明天皇の皇子。天智天皇の同母弟にまします。天智天皇の御代に東宮となられたが、天皇の御病あるにおよんで、疑いを避け辭して出家して大和の吉野に入られた。天皇崩じ、弘文天皇の御代となるに及び、兵を擧げて、遂に近江の朝廷を亡した。これを壬申の年の亂という。亂後、帝位に即《つ》き、大和の飛鳥《あすか》の淨原《きよみはら》の宮に都し、在位十四年にして崩じた。天の渟中原瀛《ぬなはらおき》の眞人《まひと》と申し、後に天武天皇と申す。皇后は天智天皇の皇女で、後に帝位に登られて持統天皇となられた方である。天武天皇の御製は、前の大津の宮の中にも額田の王の歌に答えたまう一首を載せた。
 
25 み吉野の 耳我《みみが》の嶺《みね》に、
(145) 時なくぞ 雪は降りける。
 間《ま》なくぞ 雨は降りける。」
 その雪の 時なきが如
 その雨の 問なきが如
 隈《くま》もおちず 念《おも》ひつつぞ來《く》る。
 その山道《やまみち》を。」
 
 三吉野之《ミヨシノノ》 耳我嶺尓《ミミガノミネニ》
 時無曾《トキナクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》
 間無曾《マナクゾ》 雨者零計類《アメハフリケル》
 其雪乃《ソノユキノ》 時無如《トキナキガゴト》
 其雨乃《ソノアメノ》 間無如《マナキガゴト》
 隈毛不v落《クマモオチズ》 念乍敍來《オモヒツツゾクル》
 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
【譯】吉野の耳我《みみが》の嶺《みね》に、何時《いつ》ともいわず雪は降つている。あいだも無く雨は降つている。その雪の何時という事の無いように、その雨のあいだの無いように、山道の曲りかどごとに、物思いをしながら來ることである。その山道よ。  
【構成】二段から成つている。第一段、間無クゾ雨ハ零リケルまで、吉野山中の光景を敍述して全體の空氣を描く。以下第二段、第一段の敍述に基づき、これを譬喩に用いて、自己の行爲について敍述している。
【釋】三吉野之 ミヨシノノ。ミは美稱。ミ熊野と同樣の云い方で、吉野が三地方ある謂では無い。吉野は、また多く芳野とも書いている。大和南部、主として吉野川を挿んだ南岸の地方の名。吉野の國ともいついている。三吉野は、古事記に、「美延斯怒」(九八)、日本書紀に「美曳之弩」(一二六)と書き、もとミエシノといつたようである。このエは、ヤ行のエで、良シの意の語のようであり、形容詞良シをも、「曳岐」(日本書紀、一二六)と書いている。萬葉集における假字音きは「与之怒河波《ヨシノガハ》(卷十八、四一〇〇)・「余思努乃美夜《ヨシノノミヤ》」(同、四〇九九)があるが、これは奈良中期の歌である。いつごろヨシノになつたかわからないから、今は、すべてヨシノと讀むこととする。
(146) 耳我嶺尓 ミミガノミネニ。次に載せた或る本の歌には、耳我山爾とある。ミミガノミネニと讀むべきが如くである。この歌の別傳ともいうべき歌には、「御金高爾《ミカネノタケニ》」(卷十三、三二九三)とあり、ミカネノタケとし、後世いう所の金の御嶽の事とする説もある。吉野山中の高峰をいうと思われる。
 時無曾 トキナクゾ。その時となく、定まりたる時無くで、絶えずの意になる。
 雪者降家留 ユキハフリケル。上の時無曾を受けて結んでいる。
 間無曾 マナクゾ。間隔摘無くで、やはり絶えずの意になる。假字書きの例には、「可保等利能《カホドリノ》 麻奈久之婆奈久《マナクシバナク》」(卷十七、三九七三)、「梶音乃《カヂノオトノ》 麻奈久曾奈良波《マナクゾナラハ》 古非之可利家留《コヒシカリケル》」(卷二十、四四六一)などある。
 雨者零計類 アメハフリケル。上の間無クゾを受けて結んでいる。時ナクゾ雪ハ降リケルに對して、この二句は對句をなし、高山に雨雪の絶え問なきことを述べている。以上第一段。
 其雪乃時無如 ソノユキノトキナキガゴト。第一段の、時ナクゾ雪ハ降リケルを受けて、これを譬喩に利用している。
 其雨乃問無如 ソノアメノマナキガゴト。これも第一段の、間ナクゾ雨ハ零リケルを受けて、譬喩としている。ソノ雪ノ時無キガ如と、ソノ雨ノ間無キガ如とは、對句となつて、下の隈モオチズ念ヒツツゾ來ルを修飾している。
 隈毛不落 クマモオチズ。クマは「味酒三輪の山」(卷一、十七)の歌の道の隈に同じ。オチズは、「山越乃風乎時自見《ヤマゴシノカゼヲトキジミ》」(卷一、六)の歌の落チズに同じく、遺すこと無く、ことごとくの意である。山路屈曲多く、隈が多數であるが、そのいずれの隈もの意で、絶えずの意になる。曲りかどごとに。
 念乍敍來 オモヒツツゾクル。物思いしつつその山路を通行する意である。講義に、下に其山道乎とあるに依つて、來をコシと讀むべしとし、クルならば、此山道乎とあるべきであるとしているが、それは理由の無い(147)説である。「妻ごみに八重垣つくる その八重垣を」の如き明證もあつて、現在形でさしつかえない、終止形の句。 
 其山道乎 ソノヤマミチヲ。ヲは感動の助詞。その山道なるよの意である.
【評語】第一段は、み吉野の耳我の嶺に雨雪の多いことを對句によつて成し、第二段は、その對句を受けて、また對句で起して單句で結んでいる。よく整つた樣式を有している。この歌は、天武天皇の皇子時代の御歌であろうとする説もあるが、その在位の時代に編入されているので、それによつて解く外は無い。元來作歌事情の記事を伴なわない歌で、從つて何時の御製とも傳えなかつたのであろう。歌の内容は、物思いのあることを中心としているが、次にも記す如く、別傳の多い歌であり、それは歌いものとして流傳されていたことを證するものであるから、かならずしも天皇の御製を始原とするとも斷定されない。天武天皇御自身も、歌物語中の英雄としての傳えを有せられていた。しかし諸傳來のうちでは、この歌が、もつとも原形に近いもののようだ。たぶん歌曲の詞章となつていたものだろう。
 
或本歌
 
或本歌 アルマキノウタ。集中に或本歌として載せてあるのは、本文の歌に對して、詞句の類似の多い歌、または作者、作歌事情の別傳などを、參考として載せるのである。或本というのは、本文以外の別の資料をいぅものと解される。その何の書をさしているかの知られるものには、古歌集(卷二、八九)柿木朝臣人麻呂歌集(卷三、二四四)がある。
 
26 み吉野の 耳我《みみが》の山に、
(148) 時じくぞ 雪は降るといふ。
 間なくぞ 雨は降るといふ。」
 その雪の 時じきが如《ごと》、
 その雨の 間なきが如、
 隈《くま》もおちず 思ひつつぞ來る。
 その山道を。」
 
 三芳野之《ミヨシノノ》 耳我山尓《ミミガノヤマニ》
 時自久曾《トキジクゾ》 雪者落《ユキハフル》等言《トイフ・トフ》
 無v間曾《マナクゾ》 雨者落《アメハフル》等言《トイフ・トフ》
 其雪《ソノユキノ》 不v時如《トキジキガゴト》
 其雨《ソノアメノ》 無v間如《マナキガゴト》
 隈毛不v墮《クマモオチズ》 思乍敍來《オモヒツツゾクル》
 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
【釋】時自久曾 トキジクゾ。トキジは、「山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自見《カゼヲトキジミ》」(卷一、六)の歌で説明した。ここはその副詞形が出ている。雪の降るべき時ならずしての意。
 雪者落等言 ユキハフルトイフ。ユキハオツトイフ(元赭)、ユキハフルトイフ(類墨)、ユキハフルチフ(僻)、ユキハフルトフ(考)。人が雪の時ならず降ることをいう由である。本文の歌と相違する點は、自身その地にあらずして人傳てに聞く趣に歌つている。下の雨者落等言も同じ。これは傳承した形であることを語る。トイフは、トフとも讀むが、トイフは、歴史的、トフは表音的の書き方で、別ではない。國語の習性として、重母音の場合に、後の母音が省略されるので、各語獨立語としての意識が強い時は、重母音といえども、保存される。文末におけるトイフの假字書の例。「和我理許武等伊布」(卷十四、三五三六)、「可藝利奈之等伊布」(卷二十、四四九四)。
 不時如 トキジキガゴト。トキジキは、連體形で準體言。時ジキコトの義である。
 
右句々相換、因此重載焉。
 
(149)右は、句々あひ換れり。これに因りて重ねて載す。
 
【釋】右句々相換 ミギハククアヒカハレリ。前の本文の歌と詞句に相違があるとの意で、編者の注意として、この或る本の歌を載せた所以を説明している。
【參考】別傳。
  み吉野の 御金《みかね》の嶽《たけ》に 間無《まな》くぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その 雨の 間《ま》無きが如《ごと》 その雪の 時じきが如《ごと》 間《ま》も墮《お》ちず 吾はぞ戀ふる 妹が正香《ただか》に(卷十三、三二九三、反歌略)
    類型。
  小治田《をはりだ》の 愛智《あゆち》の水を 間無《まな》くぞ 人は※[手偏+邑]《く》むといふ 時じくぞ人は 飲《の》むといふ ※[手偏+邑]《く》む人の 間無《まな》きが如《ごと》 飲む人の 時じきが如《ごと》 香妹子に わが戀ふらくは やむ時もなし(卷十三、三二六〇、反歌略)
 
天皇、幸2于吉野宮1時、御製歌
 
天皇の、吉野の宮に幸でましし時の御製の歌
 
【釋】幸于吉野宮 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。天武天皇が、吉野の宮に幸せられた時の歌である。吉野の宮は、後出の吉野の宮をほめる歌によつてあきらかであるように、吉野川に添うた處にあつた。今宮瀧という地であろうと思われる。もつと上流の丹生の川上であるとする説があるが取ることはできない。
 
27 淑《よ》き人の よしとよく見て
 よしと言ひし 芳野《よしの》よく見よ。
 よき人よく見つ。
 
 淑人乃《ヨキヒトノ》 良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》
 好常言師《ヨシトイヒシ》 芳野吉見與《ヨシノヨクミヨ》
 良人四來《ヨキヒトヨク》三《ミツ・ミ》
 
(150)【譯】昔のかしこい人が、良いと良く見て、良いといつた、この吉野をよく見よ。かしこい人はよく見たのである。
【釋】淑人乃 ヨキヒトノ。ヨキヒトは尊ぶべき人の意。淑人の字面は、佳字を選んだものと見るべく、詩經の※[(こざと+鳥]鳩に、「淑人君子、其儀一兮」など見えている。佛足跡歌碑に「与伎比止乃《ヨキヒトノ》 麻佐米爾美祁牟《マサメニミケム》」などある。かつてありし善い人をいぅなるべく、本集に「古の賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも」(卷九、一七二五)とあると、同樣の人であろう。また懷風藻、藤原の不比等の吉野に遊ぶ詩の句に、「今之見2吉賓1」とある吉賓もよき人であつて、吉野を遊覽する高士の謂である。
 良跡吉見而好常言師 ヨシトヨクミテヨシトイヒシ。初句の淑き人の行動を敍している。
 芳野吉見与 ヨシノヨクミヨ。淑き人の良しと言つた芳野だから、皆もよく見よと歌われている。見ヨは命令彩。
 良人四來三 ヨキヒトヨクミツ。
   ヨキヒトヨキミ(類)
   ヨシトヨクミツ(僻)
   ヨキヒトヨクミツ(僻)
   ヨキヒトヨクミ(墨)
   ――――――――――
   良人四來三四《ヨキヒトヨクミヨ》(玉或人説)
 良キ人良ク見ツの義で、良い人がよく見たの意に上の第二句を繰り返して、その意をたしかにする。良人は、初句の淑き人に同じ。かの淑き人は良く見しことぞとの意。この歌、歌經標式に載せて、この句を、与伎比等与倶美としている。澤潟博士の説に、そのミは命令形だろうという。
【評語】この歌は、詞句の頭にヨの音を用いること八個に及び、これによつて一首の調子を取つている。その(151)調子は、非常に輕く明快である。かかる頭韻の歌は往々試みられるが、この歌の頭韻に用いたヨの音は、やわらかな音であるから、これは重ねてあまり煩わしさを覺えない。天皇得意の境の御製で、多分帝位につかれて後、吉野遊覽の際の作品であろう。かような頭韻の歌は、愉快な内容を盛るに適している。文字も淑良好芳など變えて書いている。頭韻には二種類ある。一は同語を用いるもので、他は、異なつた語で、ただ上の音だけ同一のものを用いるものである。これに成音の同じなものと、子音だけ同じなものとがある。この歌では、ヨシといぅ一の形容詞を重ね用いたので、前項に屬するものであるが、ヨキ、ヨシ、ヨクの如く語尾の變化を利用して、重複の感を弱めている。別語を用いた例としては、「瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」(拾遺集、藤原公任)、子音だけ同じ例として、「甲斐の黒駒鞍著せば」(日本書紀雄略天皇の卷)の例がある。         
【參考】頭韻の歌。
  否といへど強ふる志斐能《しひの》が強語《しひがたり》この頃聞かずてわれ戀ひにけり(卷三、二三六) 
  來むといふも來ぬ時あるを來じといふを來むとは待たじ。來じといふものを(卷四、五二七)
  白珠は人に知らえず、知らずともよし。知らずとも吾し知れらば知らずともよし(第六、一〇一八)
  秋の野に咲ける秋はぎ秋風に靡ける上に秋の露置けり(卷八、一五九七)
  紀の國に止《や》まず通はむ。妻の社《もり》妻|寄《よ》し來《こ》せね。妻と云ひながら(卷九、一六七九)
  梓弓引きみ弛《ゆる》べみ來《こ》ずは來《こ》ず。來《こ》ばそそをなぞ來《こ》ずは來《こ》ばはそを(卷十一、二六四○)
【參考】別傳。   
  如2淨御原天皇御製歌1曰。
 美与旨能呼 一句 与旨止与倶美弖 二句 与旨等伊比旨 三句 与岐比等与旨能 四句 与岐比等与倶美 五句
(152) 毎句有v吉無v凶、 譬如3葉蝶聚2一處1、 故曰2聚蝶1爲v吉。(歌經標式)
 
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸2于吉野宮1。
 
紀に曰はく、八年己卯の五月庚辰の朔にしで甲申の日、吉野の宮に幸でましたまひきといへり。
 
【釋】紀曰。日本書紀に依つて、天武天皇の吉野の宮への行幸年月を註記している。
 
藤原宮御宇天皇代 【高天原廣野姫天皇、元年丁亥、十一年讓2位輕太子1、尊號曰2太上天皇1。】
 
藤原の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【高天の原廣野姫の天皇、元年は丁亥にして十一年位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇とまをす。】
 
【釋】藤原宮 フヂハラノミヤ。持統天皇文武天皇二代の皇居で、宮址は、奈良縣高市郡鴨公村大字高殿にあり、耳梨山を背後にし、展望雄大な勝地である。持統天皇の四年十二月に天皇御觀察あり、六年五月から造營し、八年十二月に遷居された。但しこの宮號によつて持統天皇をさしているが、この御代の標目の下に遷都以前の歌及び文武天皇の御代の歌をも載せている。大寶以後、年號が繼續するようになつてからは、年號によつて歌を掲載するのであるが、その前の、文武天皇の無年號の時代は、別に標記することなく、この藤原の宮の時代に收められている。
 高天原廣野姫天皇 タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト。持統天皇。この御稱號、日本書紀、續日本紀に、共に見えているが、續日本紀文武天皇大寶三年十二月の條には、謚して、大倭根子天之廣野日女の尊と曰すと見えている。少名は鵜野の讃良の皇女、天智天皇の第二女にまします。天武天皇の皇后となり、その崩を受けて帝位につき、在位十年にして、草壁の皇太子の皇子である輕の皇子に讓位された。これを文武天皇とする。はじめ高天の原廣野姫の天皇と申し、後には持統天皇と申す。天皇の御代には柿本の人麻呂をはじめとし、(153)歌道の大才輩出して、空前の盛觀を成した。いゆる萬葉集の黄金時代といぅべきもの、この御代に起るのである。   
 輕太子 カルノヒツギノミコ。文武天皇。草壁の皇太子の皇子。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇。持統天皇。
 
28 春《はる》過《す》ぎて 夏|來《き》たるらし。
 白栲《しろたへ》の 衣《ころも》乾したり。
 天《あめ》の香具山。
 
 春過而《ハルスギテ》 夏來良之《ナツキタルラシ》
 白妙能《シロタヘノ》 衣乾有《コロモホシタリ》
 天之香來山《アメノカグヤマ》
 
【譯】春が過ぎて夏が來たことと思われる。天の香具山のほとりでは、白い織物の衣がほしてある。
【釋】春過而夏來良之 ハルスギテナツキタルラシ。春の過ぎ去つて夏季の到れることを推量している。キタルは、來到るの略で、四段活。「武都紀多知《ムツキタチ》 波流能吉多良婆《ハルノキタラバ》」(卷五、八一五)の如く未然形にキタラがあり、「等利都都伎《トリツツキ》 意比久留母能波《オヒクルモノハ》 毛毛久爾《モモクサニ》 勢米余利伎多流《セメヨリキタル》」 (卷五、八〇四)の如く、終止形にキタルの形があるので、四段活用であることが認められる。ラシは推量の助動詞。根據のある推量に使う。
 白妙能 シロタヘノ。タへは植物性の織物、その白いのをシロタへといぅ。荒栲《アラタヘ》、敷栲《シキタヘ》などいう例である。妙は借字で、タへの音に假り用いている。コウゾの皮の繊維で織つた布が白栲であるが、白栲の麻衣などともいい麻布の方が實際に廣く行われたので、普通に麻布をも白栲という。此處は枕詞では無く、白布であるが、その材料は何でもよく、ただ色についていうだけである。 
(154) 衣乾有 コロモホシタリ。衣をほしてあるとの描寫である。句切。
 天之香具山 アメノカグヤマ。既出。白い衣のほしてある場處の指定である。天の香具山にの意味ではあるが、その山を呼んで稱美されており、語法上、呼格となつている。
【評語】天の香具山のほとりの住民が、白い衣服をほしている情景により、春の過ぎて夏の來たことを推察している。極めて印象約な敍述であつて、名歌というべきである。初夏の強い日光にさらされた白い衣服が、新緑の天の香具山の麓に懸かつている。藤原の宮の造營の時の歌よりも前に置かれてはいるが、多分藤原の宮に遷りたまうてからの御製であろう。天の香具山は、白衣のほされている場處を指示するものであるけれども、その山容が眺められる位置にあつて詠まれたものとして、その山に對する稱美の呼格となつている。これは歌全體の背景を語るものである。
 日本の文學にあつては、季節は重要な位置を占めている。日本の文學の生育地は、四季の循環の整然として推移する風土であり、自然に親しんで生活していた人々は、おのずからにしてこれに十分の關心を持つていた。しかしその四季のうちにも春と秋とは住み心地ょく、夏と冬とは、どちらかといえば好ましからぬ時期であつた。國文學が實生活以上の風雅を要求する時代にはいつても、それ故に春と秋との作品は多く、夏と冬との作品はすくなかつた。そうして春の來ることを喜ぶのは、冬の苛烈な寒氣から解放される喜びであつた。しかし時代は一轉して、ここに夏の來たことを、あかるい氣もちで迎えるようになつたのである。この歌の代表する藤原の宮時代は、萬葉の歌の完成した時代であり、ここにかような御製を見るに至つたのは、歌の歴史上、特記すべき事實とすべきである。
 この歌には、春や夏が概念として掲示されているが、三句以下は實景の敍述であつて、その敍景の上に歌の生命が存している。わが國の民族詩である歌は、祭の庭の如き民衆生活のあいだにおいて生育してきたので、(155)その主力はもつぱら人事詩の上に置かれて來た。人間相互の愛情が、そのまま歌の内容であつた。しかるにここに敍景詩を見るに至つたのは、やはり當時の歌が、實生活以上の線に到達し、言語の方向を自然に向けることの發達して來たことを語るものである。ここにもこの歌の有する歴史的意義が認められる。
 以上の如きは、藤原の宮時代における一般の傾向として指示せらるべきであつて、この歌のみの有する意義ではないけれども、この歌が、かような潮流の方向を指向する所の代表作であるとはいえる。この意味においてもこの歌の有する意義は大きいと言わねばならない。
 この歌は、小倉百人一首には、「春過ぎて夏來にけらししろたへの衣ほすてふあまの香具山」となつてはいつている。これは平安時代におけるこの歌の訓法を傳えたものであるが、衣ホステフでは、人のことばに聞くことになつて、原歌の生命を損ずる。どこまでも現に見る所によつて、敍述されたものとして解釋せねばならない。
【參考】季節の推移を歌うもの。
  寒《ふゆ》過ぎて暖《はる》來るらし。朝日さす春日の山に霞たなびく(卷十、一八四四)
  寒《ふゆ》過ぎて暖《はる》し來たれば年月は新なれども人は古りゆく(同、一八八四)
  白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも。春霞たなびく野邊の鶯鳴くも(同、一八八八)
  春過ぎて夏來向へば、あしひきの山呼びとよめ、さ夜中に鳴く霍公鳥《ほととぎす》(下略、卷十九、四一八○)
 
過2近江荒都1時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】過近江荒都時 アフミノアレタルミヤコヲスギシトキ。近江の荒都は、天智天皇の近江の大津の宮の荒(156)廢した跡である。この宮殿は、懷風藻の序文に、その朝廷の君臣の詩文の事を敍して、「時、亂離を經て悉く※[火+畏]燼に從ふ」(もと漢文)とあるによれば、壬申の年の亂に燒失したものと考えられる。柿本の人麻呂がこの地を過ぎてこの歌を詠んだのは、持統天皇の御代とのみで、その傳記中のいかなる時代であるとも知られない。また何のための旅行とも知られないが、官命を帶びて下つたことであろう。
 柿本朝臣人麻呂 カキノモトノアソミヒトマロ。柿本氏は、孝昭天皇の皇子|天押帶日子《あめおしたらしひこ》の命の子孫、春日氏(もと和邇氏という)と同祖、敏達天皇の朝に、その家門に柿の樹があつたので柿本氏という。はじめ臣の姓であつたが天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつた。春日氏は、代々皇室に、女子を奉ること多く、特に古事記、日本書紀の歌謡を中心とした歌物語と密接な關係がある。柿本氏もさような歌謠を傳えた家として考えられる。人麻呂の生歿年代はあきらかで無い。その作品は、持統天皇文武天皇二代のあいだのものがあり、溯つては、天武天皇の八年の作と推考されるものが、柿本朝臣人麻呂歌集の中にあり、降つては、その死去は奈良時代にはいつてからのことかとも考證されている。はじめ舍人として出仕し、のち他の官に移り、やがて地方官ともなつたらしい。紀伊の國にはすくなくも二囘は旅行した。そのうちの一囘は大寶元年の行幸に從つて赴いた。その他、山城の國を經て、近江の國に旅し、西の方は内海を航して、讃岐および筑紫に赴いた。晩年、石見の國にあり、そこから上京する作をも留めたが、遂にその國に歿した。その時の位は六位以下であつた。妻は數人あり、初めの妻は人麻呂に先だつて死に、後の妻は人麻呂の死を見送つた。作歌は、長歌、短歌共にこれをよくし、内容詞藻共に豐富である。固有の文學をよく傳えると共に、外來の文化をも攝取してすぐれた作風を成している。ひとりその時代を代表するはかりでなく、萬葉集中の第一人ともいうべく、また日本歌人中の第一人ともいうべきである。萬葉集の歌の大成者であり、その黄金時代の名譽を一身に負う作家でもあつた。その作品の傳來は、萬菓集におけるもののみ信ずべきであるが、それには、題詞に柿本人麻呂作とあるも(157)のの外に、柿本朝臣人麻呂歌集の所出のものがあり、また或云柿本人麻呂作の左註のあるものがある。柿本朝臣人麻呂歌集の性格については諸説があり、それはその集の名の出た所で、更に説かねばなるまいが、大體人麻呂の作品を中心にして集輯した書と考えられる。この近江の荒都を過ぎし時の歌は、その初期の作品であろうか。この歌をはじめ、人麻呂の作品中には或云として詞句の別傳の多いのは、これを傳唱するものが多かつたことを語る。現に天平八年の遣新羅使の一行も、船中にその作を吟じた。しかしかような事情のもとに、詞句の異傳が多くなつていることも事實である。朝臣は姓《かばね》。古寫本に多く麿の字を使用しているが、麿は麻呂の二字を合して一字としたもので、正倉院文書にも見られる所である。父祖を詳にしないが、日本書紀天武天皇紀に、柿木の臣佐留という人が見え、その名が猿を連想するので、人麻呂の近親ででもあるかとの推測もされている。
 
29 玉襷 畝火の山の
 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御代《みよ》ゆ【或るはいふ、宮ゆ。】
 生《あ》れましし 神のことごと、
 樛《つが》の木の いやつぎつぎに
 天《あめ》の下 知らしめししを【或るはいふ、めしける。】
 天《そら》にみつ 大和《やまと》を置きて、
 あをによし 奈良山を越え、【或るはいふ、そらみつ 倭を置き あをによし 奈良山越えて。】
 いかさまに 念ほしめせか、【或るはいふ、念ほしけめか。】
(158) 天離《あまざか》る 夷《ひな》にはあれど、
 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の國の
 樂浪《ささなみ》の 大津の宮に、
 天の下 知らしめしけむ。
 天皇《すめろき》の 神の尊《みこと》の、
 大宮は 此處《ここ》と聞けども、
 大殿は 此處と云へども、
 春草の 茂く生ひたる、
 霞立つ 春日の霧《き》れる【或るはいふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる。】
 ももしきの 大宮|處《どころ》、
 見れば悲しも。」【或るはいふ、見ればさぶしも。】
 
 玉手次《タマダスキ》 畝火之山乃《ウネビノヤマノ》
 橿原乃《カシハラノ》 日知之御世從《ヒジリノミヨユ》【或云 自v宮】
 阿禮座師《アレマシシ》 神之盡《カミノコトゴト》
 樛木乃《ツガノキノ》 弥繼嗣尓《イヤツギツギニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食之乎《シラシメシシヲ》【或云 食來】
 天尓滿《ソラニミツ》 倭乎置而《ヤマトヲオキテ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 平山乎超《ナラヤマヲコエ》【或云 虚見 倭乎違置 青丹吉 平山越而】
 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》【或云 所念計米可】
 天離《アマザカル》 夷者雖v有《ヒナニハアレド》
 石走《イハバシル・イハバシリ》 淡海國乃《アフミノクニノ》
 樂浪乃《ササナミノ》 大津宮尓《オホツノミヤニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食兼《シラシメシケム》
 天皇之《スメロキノ》 神之御言能《カミノミコトノ》
 大宮者《オホミヤハ》 此間等雖v聞《ココトキケドモ》
 大殿者《オホトノハ》 此間等雖v云《ココトイヘドモ》
 春草之《ハルクサノ》 茂生有《シゲクオヒタル》
 霞立《カスミタツ》 春日之霧流《ハルビノキレル》【或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留】
 百礒城之《モモシキノ》 大宮處《オホミヤドコロ》
 見者悲毛《ミレバカナシモ》【或云 見者左夫思母】
 
【譯】神武天皇以來、御出現になつた歴代の天皇は、次々に天下を統治遊ばされた武天智天皇に至つて、何とおぼし召されたか、大和の國をさしおいて、奈良山を越え、田舍は方々にあるけれども、中にも近江の國の樂浪《ささなみ》の大津の宮に、天下を統治遊ばされた、天皇の尊い御方の、大宮は此處であると聞くけれども、大殿は此處と云うことであるが、ただ春草の茂く生い、春の日のぼんやりとしている大宮處は、見れば、悲しいことである。
(159)【構成】別に段落は無い。全篇一文として解釋すべきである。
【釋】玉手次 タマダスキ。既出。ここでは畝火に懸かつている。手次は頸《うなじ》に懸けるもので、頸に懸けることをウナグというので、采女、畝火等のウネを引き出すために使用されるとされている。
 畝火之山乃橿原乃日知之御世從 ウネビノヤマノカシハラノヒジリノミヨユ。畝火の山の橿原の日知の御世は、神武天皇の御代をいう。古事記に「畝火之白檮原宮」、日本書紀に、「橿原宮」とある。その地は畝火山の東南とされ、今の橿原神宮の地であるという。ヒジリは、日知と書いてあるのが語義であつて、日を知る人の謂に賢明の人をいい、古代、農耕のうえに暦日を知る人を尊んで言つた語と考えられる。暦のことをヒヨミというは、日を數える義であり、月のことをツクヨミというも、月數を數える義であつて、共に農耕の生活から來た語であり、日知も同樣の造語であろう。漢字の入り來るに及んで、その聖の字の訓として用いられ、聖の字の意味に習合した。聖は、風俗通に「聖者聲也、聞v聲知v情、故曰v聖也」、尚書大禹謨傳に「聖無v所v不v通」、老子王注に「聖智才之善也」とあつて、事に通じてすぐれた人をいう。古事記下卷に、仁徳天皇の御世を稱えて、「故稱2其御世1、謂2聖帝世1也」、續日本紀天平十六年五月の詔に「飛鳥淨御原宮 爾 、大八洲所v知 志 聖 乃 天皇命、天下 乎 治賜 比平賜 比弖 」など使用し、みなこれをヒジリと訓讀している。從は、それよりしての意味の助詞を表示していると解されるが、國語のその意味の助詞には、ユ、ユリ、ヨ、ヨリの四種がある。集中、假字書きの例には、ユ三十八、ユリ二、ヨ十六、ヨリ四十四であつて、ユリの二例は防人の歌であるから、これを除外して、他の三種のうちいずれを採るべきかを決定しなければならない。まず一音に讀むべきか、二音に讀むべきかを考えると、集中、助詞に當てていると考えられる從の用例は、百九十七個あつて、それを含んでいる句の音數を、五音もしくは七音として見ると、一音に相當するもの百九、二音に相當するもの七十五、一音に讀んでも音數の超過するもの十、二音に讀んでも音數の不足するもの三である。かように一音に相當するもの(160)と二音に相當するものとが、共に相當に多數である以上は、その訓をその一方のみに決定してしまうわけにゆかない。よつて、なるべく一句の音數を、五音もしくは七音に近いように讀む外はない。そこでこの歌の場合は、ヒジリノミヨ從であつて、從の字を一音に讀む時に、この句は七音になるものであるから、そこで、ユもしくはヨのうちの一つが、訓として採擇せらるべきである。集中における、假字書きの例は、ユは、由三十四、遊一、喩一、湯二、ヨは、欲十三、夜二、用一であつて、ユの方が多く、その使用の時代も概してユの方が古い。古事記の歌謠では、ヨを用いているが、今、本集の例について、ユを使用することとする。ユの用法には、
 イ、ある點よりこなたの意。時についていうもの。「天地の別れし時ゆ、神さびて高く貴き」(卷三、三一七)
 ロ、同前、處についていうもの。「こちごちの國のみ中ゆ、いで立てる不盡《ふじ》の高嶺は」(卷三、三一九)
 ハ、を通つての惠。「卷向の穴師の川ゆゆく水の」(卷七、一一〇〇)
 ニ、そこからの意。「あをによし奈良の都ゆ、おしてる難波に下り」(卷十九、四二四五)
 ホ、に由つての意。「まけ長く戀ふる心ゆ秋風に妹が音聞ゆ、紐ときまけな」(卷十、二〇一六)
 ヘ、比較を元すもの、「心あれかも常ゆけに鳴く」(卷十三、三三二八)
の諸法がある。元來、ある點から起つて、ずうつとこちらへ引き續いての意がもとで、それから他の用法に分化をとげたもののようである。この歌のは、天地ト別レシ時ユの用法と同じく、時間的に、その時からこなたた引き續いての意を表示している。そこでこの句の意は、神武天皇の御世から引き續いての意になる。
 或云自宮 アルハイフ、ミヤユ。本文の御世從に對する別傳である。これは別の資料によつたものと認められるが、詞句の相違の多い場合は、或本歌として別掲し、比較的すくない場合に、本文の中に割註として插入したようである。それで大體、以下の或云のすべてが、同一の一個の別傳から來ているものと見てよい。かような別傳を生じたのは、作者の兩案もあるべきであるが、人麻呂の場合は、傳誦されたために生じたものが多(161)いのであろう。そうして大抵の場合、本文の方が正傳であつて、或云の方は詞句の弛緩があり、また時に從つて意識的にその場に適うように變更することもあつた。ここの自宮も訛傳であつて、本文の方が意味がよく通じる。
 阿禮座師 アレマシシ。アレは、出現する意で生まれるをいう動詞、下二段活。神、天皇、御子など貴い方の出現、出生をいう語。マシは敬語の助動詞。その下のシは時の助動詞。アレマシシ神は、天皇をいう。天皇はその崩御によつて神として考えられる。ここは過去の天皇なのでかようにいう。
 神之盡 カミノコトゴト。
   カミノコトゴト(玉)
   ――――――――――
   神之書《カミノシルセル》(神)
   神之書《カミノアラハス》(仙)
   神之書《カミノシルシニ》(代精)
   神之御言《カミノミコトノ》(僻)
   神之書《カミノミコトノ》(攷)
 仙覺本に神之書としているので、諸説があつたが、元暦校本等に、神之盡とあるので、問題はなくなつた。コトゴトは、悉皆の義。御歴代天皇のすべての意。この句は、下の知ラシメシシの主格になつている。
 樛木乃 ヅガノキノ。枕詞。音韻の類似に依つて、次のツギツギに懸かる。樛木は、詩經に「南有2樛木1」とあるが、それは枝の下勾せる木の意で、樹名では無い。しかるにわが國のツガにこの字を當てたのは、ツガには相當する漢名漢字が無いので、樹の特質より、この字を借用したのであろうという。本集では、「五百枝刺《イホエサシ》 繁生有《シジニオヒタル》 都賀乃樹乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤヅギヅギニ》」(卷三、三二四)、「水枝指《ミヅエサシ》 四時爾生有《シジニオヒタル》 刀我乃樹能《トガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギヅギニ》」(卷六、九〇七)、「可牟佐僻※[氏/一]《カムサビテ》 多※[氏/一]流都我能奇《タテルツガノキ》」(卷十七、四〇〇六)、「都我能木能《ツガノキノ》 伊也繼繼爾《イヤツギツギニ》」(卷十九、四二六(162)六)の如く、ツガノキともトガノキとも書いている。よつてツギの音に近くかつ例の多いのに任せてツガノキとするのである。
 弥繼嗣尓 イヤツギツギに。いよいよ次々に。副詞句として、下の知ラシメシシを修飾する。
 天下 アメノシタ。天空の下の義で、國土の意になる。この語は、天下の字を譯したものであろうという。
 所知食之乎 シラシメシシヲ。シラシは、知ルに敬語の助動詞スの接續したもので、統治するの意になる。天下の事を領知されるの謂である。本集假字書きの例に「安麻久太利《アマクダリ》 之良志賣之家流《シラシメシケル》」(卷十八、四〇九四)、「天下《アメノシタ》 志良之賣師家流《シラシメシケル》」(同、四〇九八)など、シラシメスとある。延喜式祝詞には「所知食、古語云2志呂志女須1」とあつて、後にはシロシメスに轉じた。メスは敬語の助動詞、語原は見スであろう。はじめ所知をシラスに當てて、知る所のの義を表示したものを、慣用によつて、メスの如き助動詞の接續する場合にも、シラシに所知の字を當てるようになつたものであろう。下のシは時の助動詞。ヲは逆轉の意を表示する助詞。知ろしめしたが、しかるにの意である。神武天皇以來の歴代の天皇が、天下を統治されたがの意であるが、下文の意味よりいえば、大和の國において統治されたがの意を語るものである。以上、下文に對して前提法をなしている。
 或云食來 アルハイフ、メシケル。本文の食之乎の別傳である。メシケルは、次の大和を修飾するが、これも本文の方がよい。
 天尓滿――ソラニミツ。大和の枕詞。この句、古事記、續日木紀に、蘇良美都、本集に、虚見、虚見都、虚見通、虚見津、空見津とあつて、いずれもソラミツと讀まれる。ニの加わつているのはこれのみである。これも元來四音の句であつたものが、歌が文筆的になるに及んで、ニを加えて五音の句となしたものと考えられる。
 倭乎置而 ヤマトヲオキテ。大和の國をさし置いて、この以前、歴代の皇居はおおむね大和の國にあつたの(163)を、天智天皇に及んで大和から出られたことをいう。
 青丹吉 アヲニヨシ。枕詞、既出。
 平山乎超 ナラヤマヲコエ。大和の國から奈良山を超えて、山城の國に出て、それから近江の國に向かわれたことをいう。平山は、大和の國の北部の山。既出。日本書紀、崇神天皇紀に、「官軍屯聚而※[足偏+摘の旁]2※[足偏+且]草木1、因以號2其山1、曰2奈羅山1【※[足偏+摘の旁]2※[足偏+且]此云2布瀰那羅須1。1」とある。踏み平《なら》したので、奈羅山といい、ここに平山の字を當てたのである。山容高からず廣がつているので、この山號となつたものであろう。
 或云虚見倭乎置青丹吉平山越而 アルハイフ、ソラミツヤマトヲオキアヲニヨシナラヤマコエテ。例によつて別傳であるが、本文の方が五七調が整い、この方は音數不整の句がある。平山乎超の句などは、本文の方が諧調である。
 何方御念食可 イカサマニオモホシメセカ。イカサマニは、いかなるさまに。オモホシは、思フに敬語の助動詞スの接續したオモハスの轉じたもの。メセは敬語の助動詞。カは疑問の助詞。思ホシメセバカの意で、條件法となり、係りの形になるが、實は獨立句として插入されたものと解すべきである。この種の用例は、數個あるが、同じ作者の一例をあげれば、「天つ水仰ぎて待つに、何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、 つれも無き眞弓の岡に、宮柱太數きまし、みあらかを高知りまして、明言《あさごと》に御言問はさず、日月のまねくなりぬれ、そこゆゑに皇子の宮人、行く方《へ》知らずも」(卷二、一六七)語の順序から云えば、この句は上のソラニミツ大和を置キテの上にあるべきであるが、この句の内容を強調するために、ここに插入して、大和を捨てて近江に遷都された眞意の測りがたいことを敍したのである。
 或云所念計米可 アルハイフ、オモホシケメカ。木文の御念食可の別傳である。ケメは過去推量の助動詞。お考えになつたのであろうかの意で、插入句となることは本文に同じ。
(164) 天離 アマザカル。枕詞。地方は、天空のもとに遠く離れているというので、夷を修飾する。サカルは、遠く離れる意の動詞。ヒナが、日の彼方で、日の去り行く方を意味するとせは、天を遠く去る日と續くとも解せられる。
 夷者雖有 ヒナニハアレド。ヒナは、都に對して地方をいう。ニに相當する文字無くして者をニハと讀む例は、「眞草苅《マクサカル》 荒野者雖v有《アラノニハアレド》」(卷一、四七)などある。近江の國をさして、夷にはあれどという。大和の國から夷というのである。
 石走 イハバシル。イシハシリ(元赭)、イハハシル(西)、イハバシノ(考)。古くイハバシルと讀み、水の石の上を走る義としていた。萬葉考には、イハバシノとし、石橋の義としている。集中、ノに當る字を書いている例無く、假字書きのものに、「伊波婆之流 イハバシル》 多伎毛登杼呂爾《タキモトドロニ》」(卷十五、三六一七)の例のあるに任せて、イハバシルと讀む。ここは枕詞として、淡海の水《ミ》に懸かると解すべきである。石走り合フの義より、アフに懸かるとする説もある。
 淡海國乃 アフミノクニノ。アハウミ(淡海)の約アフミとなる。遠ツ淡海(遠江)に對して近ツ淡海ともいい、奈良時代の初めに至つて近江と書くようになつた。
 樂浪乃 ササナミノ。近江の國南方一帶の地名。本集では、志賀、大津、比良、連庫山等に冠している。日本書紀、孝徳天皇紀には、「近江狹々浪合坂山」とあり、古事記仲哀天皇記には、「出2沙々那美1、悉斬2其軍1」とある。樂浪の字は、「神樂聲浪《ササナミ》」(卷七、一三九八)「神樂浪《ササナミ》」(卷二、一五四)と書いたものがあり、これを略して樂浪と書いたもので、神樂のはやし詞にササというより起つたものである。この句を枕詞とする説のあるのは誤りである。
 大津宮尓 オホツノミヤニ。天智天皇の六年に近江の宮に遷居されたことをいう。
(165) 天下所知食兼 アメノシタシラシメシケム。エムは過去推量の助動詞で、その連體形。上の天尓滿からこの句まで、次の天皇の修飾句である。
 天皇之神之御言能 スメロキノカミノミコトノ。スメロキは、皇祖、皇神祖などの文字を當てたように、先の世の天皇をいい、轉じては現在の天皇をも併せいう。假字書きは須賣呂伎と書いたもの十例あり、キは清音である。ここは天智天皇の御事であるから、スメロキと讀むを可とする。先帝なるが故に神という。ミコトは尊稱、語義は御言の義で、御言を發する方の意から出で、多く命、尊の文字を當てる。ここは天智天皇の御上をいう。
 大宮者此間等雖聞 オホミヤハコココトキケドモ。天智天皇の大津の宮の址は比處であると聞くけれどもの意。その既に荒墟となつていることを語つている。
 大殿者此間等雖云 オホトノハココトイヘドモ。上の大宮は云々の句と對句を成しており、同じ内容を、言を變えていつたまでである。
 春草之茂生有 ハルクサノシゲクオヒタル。ハルクサノ(元赭)、ワカクサノ(矢)、ワカクサカ(代初)、ハルクサシ(玉)。下の大宮所を修飾する。宮殿のあとが荒れて、ただ春草のみ茂く生いたるよしである。
 雷立春日之霧流 カスミタツハルビノキレル。霞立をカスミタチと讀んで、實景のこととする説がある。しかしこの句は慣用句で、春を修飾し、しかも一面には實景の敍述でもあること、既に軍王見山の歌に釋せるが如くである。キレルは、動詞霧ルに、助動詞リの連體形の接續した形。霧ルは、水蒸氣の立ちこめて霞んでいるをいう。春季に霧ということは、「春山の霧にまどへる鶯」(卷十、一八九二)などの例がある。上の春草ノ茂ク生ヒタルの句に對して、この霞立ツ春日ノ霧レルの句は、對句を成して、共に竝んで下の大宮所を修飾している。なおこの對句をいずれも疑問の格とし、ここで句切とする説があるが、誤解である。この對句は共に(166)實景であつて、何等疑問の分子を含んでいない。
 或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留 アルハイフ、カスミタツハルビカキレル、ナツクサカシゲクナリヌル。本文の春草ノ茂ク生ヒタル以下の別傳である。春日香、夏草香の二つのカは、共に疑問の係助詞であつて、これを受ける霧流、および成奴留は共に連體形の終止句である。この別傳は、春と夏とに關して對句を構成しており、今がそのいずれの時であるかを明瞭にしない點、また疑問の辭を用いて、身の其處にあらざる趣に言いなしている點など、本文の傳來に比して劣るものである。この別傳が傳唱されたものであり、近江の大津の宮址にあらずして吟唱したものであることを語つている。
 百礒城之 モモシキノ。枕詞。大宮を修飾する。モモは多數の意。シキは石の築造物の意で、大宮の壯大にして堅固なのを稱美してその修飾句となる。古事記雄略天皇記に、「毛々志紀能《モモシキノ》 淤富美夜比登波《オホミヤヒトハ》」とあり、古い歌いものから來ていることを證している。
 大宮處 オホミヤドコロ。宮殿のある土地。ここでは古く大津の宮のあつた土地をいう。
 見者悲毛 ミレバカナシモ。カナシは、感情が刺戟され激動する状態をいう形容詞で、古くは好愛の情にも悲哀の情にも使つている。ここは大津の宮の荒墟を哀悼せる意を表示している。モは感動の助詞。
 或云見者左夫思母 アルハイフミレバサブシモ。本文の見者悲毛の別傳である。サブシは、集中、不怜、不樂など書いたものをもかく讀んでいるように、心の樂しからざる貌である。後のサビシの原語であるが、ここには寂寥感は出ていない。
【評語】近江の大津の宮が、非常な抱負を以つて建設された皇居であり、新しい文化を採用した宮殿であつただけに、その荒廢したあとは、一層悲痛なものがある。湖上の春光はしずかに霞んで、この平和な、しかし寂寞の地上に臨んでいる。この間に立つ遊子の感懷は、この一篇の悲歌となつて傳えられる。天智天皇が、近江(167)に新京を建てられたのは、大和における舊い豪族の勢力から離脱しようとするにあつたと傳え、ここにそれらの大和における人々の不平も想像される。人麻呂は、その大和の國の住人の一人として、また遊子の一人として、この歌を作り、そういう氣分は、おのずからにこの歌の底の心となつている。畝火の山の橿原の御代から説き起した構成は、この歴史的な懷古の情を盛る歌として適切で、雄大感を與える。末に近く用いられた二個の對句も、それぞれに有效で、前の對句は、宮殿のあとを求める心があらわれ、後の對句は、季節の物を描いて、作者を包む空氣を作り成している。序詞のような冗漫な句も無く、全體によく纏まつている名作とすべきである。
 
反歌
 
【釋】反歌。以下二首とも、前の長歌の反歌である。
 
30 樂浪《ささなみ》の 志賀《しが》の辛碕《からさき》、幸《さき》くあれど、
 大宮人の 船待ちかねつ。
 
 樂浪之《ササナミノ》 思賀乃辛碕《シガノカラサキ》 雖2幸有1《サキクアレド》
 大宮人之《オホミヤビトノ》 舶麻知兼津《フネマチカネツ》
 
【譯】樂浪の志賀の辛碕は、變ることなく榮えてあるけれども、都が亡びてから、大宮人の船を待つことができなくなつた。
【釋】樂浪之思賀乃辛碕 ササナミノシガノカラサキ。近江の國の樂浪の思賀の地なる辛碕の意。第五句に對して主格であり、かつサキの音を引き出すに役立つている。
 雖幸有 サキクアレド。サキクは、無事幸福にある意の副詞。思賀の辛碕が、昔の大津の宮時代のままに變わらずにあれどもの意。第二句の末のサキの音を受けて、サキクと起している。かような例は、「樂浪乃《ササナミノ》 志(168)我能韓埼《シガノカラサキ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》」(卷十三、三二四〇)の如きがある。なお、「はね※[草冠/縵]《かづら》今する妹をうら若み、いざ率《いざ》川の音のさやけさ」(卷七、一一一二)、「いにしへの倭文機帶《しづはたおび》を結び垂れ、誰とふ人も君には益さじ」(卷十一、二六二八)の如きもあつて、これらは序詞を受けて同音の語で起している。
 大宮人之 オホミヤビトノ。大宮人は、宮廷に奉仕する人々。男子のみならず、女子をも含んでいう。
 船麻知兼津 フネマチカネツ。カネは得ざる意の動詞。獨立語としても使用されるが、多く他の動詞に附して助動詞のように使用される。大宮人の船を待つているが、その目的を達し得ないの意。
【評語】思賀の辛碕は、風光明媚にして昔ながらに存しているけれども、もうこの地に船を漕ぎ寄せる大宮人も無い由を歌つている。天地は悠久であるけれども、時は移り人は去つて、また舊時の姿にあらざる感情が巧みに歌われている。前の長歌の内容と全く別方面に詞を起して、同じく都の荒れたのを悼む心に歸つている。これも反歌の一形式である。サキの音を重ねたのも有效に響いている。こういう音を重ねるのは、序歌の手法から出發したものであろう。
【參考】類想。
  やすみししわご大君の大御船待ちか戀ふらむ。志賀の辛碕(卷二、一五二)
 
31 樂浪の 志賀《しが》の【一は云ふ比良の。】大曲《おほわだ》
 淀《よど》むとも、
 昔の人に またも逢はめやも【一は云ふ 會はむと思へや。】
 
 左散難弥乃《ササナミノ》 志我能《シガノ》【一云比良乃】大和太《オホワダ》
 與杼六友《ヨドムトモ》
 昔人二《ムカシノヒトニ》 亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》【一云將v會跡母戸八】
 
【譯】樂浪の志賀の大きな灣は、よし水が淀んでいるにしても、昔の大津の宮時代の人には、二度とあうことはあるまい。
(169)【釋】左散難弥乃志我能大和太 ササナミノシガノオホワダ。樂浪の志賀の大灣。ワダは、灣曲せる水域。曲灣。大津灣をいう。
 一云比良乃 アルハイフ、ヒラノ。本文の志我の別傳である。一云は或云に同じ。比良は、琵琶湖の西岸の地名であるが、比良の大わだと呼ぶには適しない。これも本文の方がよい。
 與杼六友 ヨドムトモ。ヨドムは、水の停滯して流通せざるをいう、集中しばしば不通の字を用いている。トモは假設條件法を示す助詞。たとえ淀んでいるにしても。このトモは、事實を認めつつ假定であらわす語法とする佐伯梅友氏の説がよい。
 昔人二 ムカシノヒトニ。大津の宮の時代の人に。
 亦母相目八毛 マタモアハメヤモ。ヤが反語の助詞。また逢うことがあろうか、否、そのような事は無いの意。
 一云將會跡母戸八 アルハイフ、アハムトモヘヤ。本文の亦母相目八毛の別傳。モヘは、動詞思フの已然形。オが省路されている。ヤは反語の助詞。アハメヤとアハムトモヘヤと、どう違うかというに、アハメヤはこれから先逢うことはあるまいの意。アハムトモヘヤは、これから先逢うだろうとは、今思わないの意。たとえば、忘レメヤは、將來も忘れないだろう。忘ルレヤは、不定時で今を主としていう。これらの例によつて、相違する所を知るべきである。
【評語】淀んでいるが、それはそれとしても、故人にはまたとあうまい。昔の榮華をこの地に見ることはできまいというのである。水を湛えて洋々たる琵琶湖の大觀に面して詠んだ歌であることを忘れてはならない。
 
高市古人、感2傷近江舊堵1作歌 或書云高市連黒人
 
(170)高市《たけち》の古人《ふるひと》の、近江の舊き堵《みやこ》を感傷して作れる歌【或る書にいふ、高市の連黒人】
 
【釋】高市古人 タケチノフルヒト。この人は他に所見無く、或る書にいう如く、高市の連黒人の誤りで、古人とあるは、歌詞の初句から誤つたものであろうといわれている。卷の九、一七一八の歌の前行には、高市歌一首とあり、かような形の資料を採り入れて、この歌の題詞の如きができたのであろう。
 近江舊堵 アフミノフルキミヤコ。大津の宮をいう。堵は、垣の義の字、轉じて都と通用している。
 或書云 アルフミニイフ。他の資料によつて作者の別傳を註している。その何の書であるかは知られていない。
 高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。高市氏は、天つ彦根の命の子孫。もと縣主の姓であつたが、天武天皇の十二年に連の姓を賜わつた。黒人は、大寶二年の太上天皇の參河の國への行幸に際して歌を傳え(卷l、五八)、また持統太上天皇の吉野の宮への行幸にも歌を傳えた。(卷一、七〇)その他、攝津、尾張、近江、越中等に旋行した時の歌を殘している。作品は短歌のみであるが、自然に接觸すること深く、よく獨自の歌境をなしている。また妻との贈答の歌もある。
 
32 古《ふ》りにし 人に我あれや、
 樂浪の 放《ふる》き都《みやこ》を 見れば悲しき。
 
 古《フリニシ》 人尓和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》
 樂浪乃《ササナミノ》 故京乎《フルキミヤコヲ》 見者悲寸《ミレバカナシキ》
 
【譯】自分は古くなつた人でもないのに、この樂浪の古い都を見ると悲しくなる。
【釋】古人尓和禮有哉 フリニシヒトニワレアレヤ。イニシヘノヒトニワレアレヤ(類)、フルヒトニワレアルラメヤ(西)、フルヒナニワレハアレバヤ(代初)、イニシヘノヒトニワレアルヤ(僻)、フリニシヒトニワレアレヤ(新訓)。フリニシのニは完了の助動詞で、強意の用をしている。古びてしまつたの意で、次の句の(171)人を修飾する句。この句、イニシヘノとも讀まれているが、フリニシと讀むのは、「古之《フリニシ》 嫗爾爲而也《オミナニシテヤ》 如v此許《カクバカリ》 戀爾將v沈《コヒニシヅマム》 如2手童兒1《タワラハノゴト》」(卷二、一二九)、「古《フリニシ》 人乃令v食有《ヒトノヲサスル》 吉備能酒《キビノサケ》」(卷四、五五四)の如き、イニシヘノと讀むに適しない例があるからである。フリニシの假字書きの例としては、「大原乃《オホハラノ》 古爾之郷爾《フリニシサトニ》」(卷二、一〇三)、「香具山乃《カグヤマノ》 故去之里乎《フリニシサトヲ》」(卷三、三三四)の如きものがある。古リニシ人は、時代を經過した舊人の意である。ヒトニワレアレヤは、何々の人であろうかの意。初句を受けて、自分は既に古び去つた人であるからかの意を成している。アレヤは、既出、「白水郎有哉《アマナレヤ》」(卷一、二三)の例に同じ。ヤは係助詞、下の見レバ悲シキに懸かる。
 樂浪乃故京乎 ササナミノフルキミヤコヲ。大津の古き都をの意。
 見者悲寸 ミレバカナシキ。二句のアレヤを受けて結んでいる。
【評語】近江の舊都の地に到つて、悲哀の感の禁ずること能わざるは、自分が舊人である故かと歌つている。自己を顧みている所に、この歌の特色がある。同じ舊都を見ても、人麻呂は歴史の跡をしのび、黒人は自家の上を反省する。そこに兩者の相違が見出される。人麻呂の歌が萬人に理解せられ愛好せられると共に、黒人には、個性の表現があつて、現代人の指向する所に適うものがある。
 
33 樂浪《ささなみ》の 國つ御神《みかみ》の うらさびて
 荒《あ》れたる京《みやこ》、
 見《み》れば悲《かな》しも。
 
 樂浪乃《ササナミノ》 國都美神乃《クニツミカミノ》 浦佐備而《ウラサビテ》
 荒有京《アレタルミヤコ》
 見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
【譯】近江の樂浪の地を守護する國の神の心が樂まなくなつて、それにより荒れはてた都を見れば悲しいことである。
(172)【釋】樂浪乃國都美神乃 ササナミノクニツミカミノ。クニツミカミは、國土の神靈。上のミは美稱。國つ神に同じ。天つ神に對して、國土に土著している神をいう。
 浦佐備而 ウラサビテ。ウラは、心の上にいう詞。表面に現れないことに用いる。ウラ樂シ、ウラ悲シなどいう。サビは荒涼として樂しまない意の動詞。「浦佐夫流《ウヲサブル》 情佐麻禰之《ココロサマネシ》」(卷一、八二)ともあり、上二段活である。樂浪の國の心が樂まず荒れた都と續く。
 荒有京 アレタルミヤコ。荒廢した帝都。
 見者悲毛 ミレバカナシモ。前の歌は、二句に係助詞ヤがあつたから、見レバ悲シキと結んだが、この歌にはさような特殊係助詞が無いから、悲シモと結んでいる。モは感動の助詞。
【評語】この歌は、荒廢した都を見て、そこから國土の神の心の荒れたことを感じている。眼前に國土の神を祭つた社があり、それが何となく荒涼たる樣に見えるにしても、思想的には、國土の神靈を感じている所に意義がある。荒廢している状態の敍述に特色のある歌である。神社の荒れている實況とする説もあるが、國ツミ神ノウラサビテといういい方は、そうは解し難い。
 
幸2于紀伊國1時、川島皇子御作歌 或云山上巨憶良作。
 
紀伊の國に幸《い》でましし時、川島《かはしま》の皇子《みこ》の作りませる御歌。【或るはいふ、山上巨憶良の作れる。】
 
【釋】幸于紀伊國時 キノクニニイデマシシトキ。歌の左註に日本紀を引いて、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸2紀伊國1也とある。この事、今の日本書紀には、朱鳥は元年のみで、その翌年からは年號無く、その四年九月の事としている。
 川島皇子 カハシマノミコ。天智天皇の第二の皇子。持統天皇の五年九月薨じた。年三十五(六五七−六九(173)一)。
 天武天皇の十年三月に、諸人に命じて帝紀及び上古の諸事を撰録せしめた時には、諸人の名の第一に擧げられ、また懷風藻に詩を傳えているなど、文學の人であつたことを語る。懷風藻には傳記もあり、それには、大津の皇子と親交があつて、しかも大津の皇子の叛を朝廷に告げたのは、河島の皇子だつたという。よつていまだ爭友の益を盡さずと論じている。
 或云山上臣憶良作 アルハイフ、ヤマノウヘノオミオクラノツクレル。作者に關する別傳である。この或云は、卷の九、一七一六の歌によるものと認められる。そこにはこの歌を載せて、題詞に山上歌一首とある。なお歌經標式には角の沙彌の歌としている。かように作者に異傳のあるのは、この歌が廣く傳唱されたことを語つている。
 
34 白浪の 濱松が枝《え》の 手向草《たむけぐさ》、
 幾代までにか 年《とし》の經《へ》ぬらむ。
  一は云ふ 年の經にけむ。
 
 白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》 手向草《タムケグサ》
 幾代左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》
  一云 年者經尓計武
 
【譯】白濱のうち寄する濱の松が枝にかけた、手向の祭の幣《ぬさ》どもは、幾代までの久しい年を經ていることであろう。
【釋】白浪乃 シラナミノ。
   シラナミノ(類)
   ――――――――――
   白神乃《シラカミノ》(考)
   白良乃《シララノ》(考)
   白紙乃《シラカミノ》(燈)
(174)   磐白乃《イハシロノ》(墨)
 白浪のうち寄するという意で、印象的な云い方である。萬葉考には白神、又は白良《しらら》の誤りとして、地名としているが、誤りとするには及ばない。
 濱松之枝乃 ハママツガエノ。濱邊なる松の枝のの意。次句の手向草の懸かつている場處を説明している。この濱は、紀伊の國の海濱であろうが、何處とも知られない。
 手向草 タムケゲサ。タムケは、行路にあつて、無事であることを願つて神を祭ること。天神を招請して、邪惡の神を拂うのが原義で、ムケは征服の義。コトムケのムケと同語であろう。タは接頭語、手の意がある。それから轉じて、道路の惡神に、幣帛を捧げて、災禍を免れようとする思想に移つた。そこで手向として幣帛を獻ずる意になるのである。クサは料の義。タムケゲサは、手向の祭の材料。幣帛をいうので、實質としては、布、木綿、絲、紙等が數えられる。それらのものが、古くなつて松が枝に懸かつているのを見て、いつの代からの物かと疑うのが、この歌の意である。
 幾代左右二賀 イクヨマデニカ。いくばくの代までにかの意で、下の年ノ經ヌラムに對して係りになつている。カは疑問の係助詞。左右をマデと讀むのは、左石の手の義で、一方の手を片手といい、兩手をマデというからである。集中、左右の字面は多く、また左石手、二手、諸手などとも書いている。なおこの種の字面をマデと讀むに至つたことについては、石山寺縁起に一つの説話を載せている。源の順が萬葉集の歌に訓を下した時に、左石の字に至つて行きつまつた。そこで石山寺の觀音に參籠し、その訓を得ることを祈願した。參籠を終つて下向の日、大津で、馬方が片手で馬に荷を附けていたのを、荷主が罵つて、「までにて附けよ」と言つたので、左右をマデと讀むべきことを悟つたというのである。これは勿論一つの傳説に過ぎないが、古人が、萬葉集の訓讀事業について、興味をもつて語り傳えたことを示すものである。
(174) 年乃經去良武 トシノヘヌラム。年ノは主語。ヘは經過する意の動詞。ヌは完了の助動詞、ラムは現在推量の助動詞で、現在、年が經ているだろうと推量している。上に疑問の辭があるので、年の經過したことを、幾代までにかと凝つていることが知られる。しかしこれは、年の經たことを凝つているのでは無い。その經過の世代の數を疑つているのである。
 一云年者經尓計武 アルハイフ、トシハヘニケム。卷の九の歌詞によつている。第五句の別傳である。ニは完了の助動詞、ケムは過去推量の助動詞。既に幾代かを經過したことであろうの意。
【評語】持統天皇の御事蹟としてしばしは諸國に行幸または御幸あらせられたことが傳えられている。大和の國内では吉野の離宮には度々行幸された。その他では、四年九月の紀伊への行幸、六年三月の伊勢への行幸、大寶元年九月の紀伊への御幸などが傳えられている。かような行幸の度毎に、大宮人は供奉して歌を詠んだ。それは作歌修業に取つての絶好の道場となつたのである。
 この歌は、初二句の簡潔な云い方が、紀州海岸の特色をよく云い得ている。白波のうち寄せる濱邊の松が枝、それは行く人毎に、手向の祭をして行つた處である。手向の行事の無くなつた今日では、感懷も薄くなつたが、古人は、そこに追憶の盡きないものがあつたであろう。旅人の何人も感ずる心を歌い得たものといえる。
【參考】別傳。
   山上歌一首
  白那彌之《シラナミノ》 濱松之木乃《ハママツノキノ》 手酬草《タムケグサ》 幾世左右二箇《イクヨマデニカ》 年薄經濫《トシハヘヌラム》
    右一首、或云河島皇子御作歌(卷九、一七一六)
   如2角沙彌記濱哥1曰
  旨羅那美能一句 婆麻々都我延能二句 他牟氣倶佐三句 伊倶與麻弖爾可四句 等旨能倍爾計牟五句(歌經標(176)式)
 
日本紀曰、先島四年庚寅秋九月 天皇幸2紀伊國1也。
 
日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊の國に幸《い》でましたまひきといへり。
 
【釋】朱鳥四年 アカミドリノヨトセ。題詞のもとに記した通り、今の日本書紀では、無年號の四年になつている。日本書紀、天武天皇紀、朱鳥元年七月の條に、「戊午(二十二日)、改v元曰2朱鳥元年1【朱鳥此云2阿※[言+可]美苔利1】仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。この朱鳥のことは、扶桑路記に、「十五年、大倭國進2赤雉1、仍七月改爲2朱鳥元年1」とある。
 
越2勢能山1時、阿閉皇女御作歌
 
勢《せ》の山を越えましし時、阿閉《あべ》の皇女《ひめみこ》の作りませる御歌
 
【釋】越勢能山時 セノヤマヲコエマシシトキ。勢能山は、和歌山縣伊都郡背山村にあり、紀の川の右岸にある。大和の國から紀伊の國にはいつての通路に當る。セの音は、男性を意味するので、しばしばそれに關して歌が詠まれており、また紀の川を隔てた對岸に、妹山を想定するようにもなつた。阿閉の皇女(後の元明天皇)がまだ帝位につかれなかつた前に、紀伊の國へ行かれた時、その途上、勢の山を越えられて詠まれた歌。この御旅行は、持統天皇四年九月の行幸に從われたものなるべく、皇女の夫君草壁の皇太子は、その前年四月に薨ぜられている。故に山に託して夫君を慕われる哀悼を寫されたものと見られる。
 阿閉皇女 アベノヒメミコ。元明天皇。天智天皇の第四女にまします。草壁の皇太子の妃となり、文武天皇を生み、慶雲四年文武天皇の崩御された後を承けて、帝位におつきになつた。和銅三年三月、始めて平城に都(177)を遷し、ここに七代の帝都をお開きになつた。靈龜元年讓位、養老五年、平城宮に崩ぜられた。壽六十一。
 
35 これやこの、
 倭《やまと》にしては わが戀ふる
 紀路にありといふ 名に負ふ勢の山
 
 此也是能《コレヤコノ》
 倭尓四手者《ヤマトニシテハ》 我戀流《ワガコフル》
 木路尓《キヂニ》有云《アリトイフ・アリトフ》 名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》
 
【譯】これがまあ、大和の國に在つて自分の戀い慕つている、夫《せ》という名を持つた、紀伊の國へ行く路にありという、あの勢《せ》の山であるのだ。
【釋】此也是能 コレヤコノ。或る事物を指して、これがかの何々なるかと指示する語法。ヤは、感動の係助詞で、最後の名詞の下に、これを受けて結ぶ助動詞の省略された形である。これがか、この何々はの意である。本集には「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海孃子《あまをとめ》ども」(卷十五、三六三八)がある。
 倭尓四手者 ヤマトニシテハ。大和にありては、大和にありし時は。
 我戀流 ワガコフル。第五句のセを修飾する連體句。四句の紀路ニアリトイフは、名ニ負フと共に、この句と竝んで勢の山を修飾している。「わが戀ふる勢の山」、「紀路にありといふ勢の山」、「名に負ふ勢の山」の三文を、一文に要約した云い方である。
 木路尓有云 キヂニアリトイフ。キチニアリテフ(類)、キチニアリトイフ(西)、キチニアリチフ(僻)、キチニアリトフ(考)。キヂは、紀路。紀伊の國の國府に行く路である。元來、何路というのは、その土地に行く路をいうので、その土地なる道路の義では無い。たとえば、大和と九州とのあいだを通ずる同一の道路でも、九州から大和に向かう時は大和路であり、逆に大和から九州に向かう時は筑紫路である。「大和路の吉備の兒島を過ぎて行かは筑紫の兒島思ほえむかも」(卷六、九六七)。これは筑紫で詠んだ歌である。「筑紫路の可太《かだ》の(178)大島しましくも見ねば戀しき妹をおきて來ぬ」(卷十五、三六三四)。これは周防の國で詠んだ歌である。後世は、道路を、地圖の上などに見るように、概念的に取り扱つて、何の地の道路として解釋するけれども、古人は、自分の立脚點から他の地點に通ずる用として道路を見る。わが前に横たわる道路として見るので、何の地に行く路を何路というのである。それで、紀路は、紀伊の國の國府に行く路である。嚴密にいう時は、勢の山は紀伊の國の堺内であるけれども、大和から紀伊の國の中心的地方へ行く途に當つているので、かくいうのである。トイフは、トフともチフとも讀まれる。チフというのは中世以後の語である。紀伊の國にありと人のいう所のの意。
 名二負勢能山 ナニオフセノヤマ。前にもいう如く、大和にしては我が戀ふる勢の山、紀路にありという勢の山、名に負う勢の山というべきを、各句を受けて、ここに至つて、結ぶのである。名ニ負フは、名に背負い持つている義。セは男子の稱である。そのわが戀う夫という名を持つている山の義である。
【評語】夫の君の薨去の後、たまたま夫《せ》と名づけられた山に接して、無量の感慨を寄せられた歌である。勢の山の修飾句が、三個も重なつているのは、その山に對するさまざまの思いを一擧に言い盡そうとする氣もちをあらわしている。詠嘆の氣に滿ちた歌である。
 山の名をセというので、それを男子の稱に思いよせて趣向を立てているが、この外、この山については、こういう取り扱い方をした歌が多く存している。今その一二を擧げて見よう。
   丹比の眞人笠麻呂の、紀伊の國に往き、勢の山を越えし時に作れる歌一首
  栲領巾《たくひれ》の懸けまく欲しき妹が名をこの勢の山に懸けばいかにあらむ(卷三、二八五)
   春日の藏首老のすなはち和ふる歌一首
  よろしなへわが夫の君が負ひ來にしこの勢の山を妹とは呼はじ(同、二八六)
(179)遂には、川の北岸に勢の山があるので、對岸の山を妹の山と名づけるに至つた。「流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のあなう世の中」(古今和歌集)など、その地形をよく説明しているが、妹山は既に萬葉中にも見えている。
  勢の山に直《ただ》に對《むか》へる妹の山事|聽《ゆる》せやも打橋わたす(卷七、一一九三)
  紀の國の濱に寄るといふ鰒玉《あはびだま》拾はむと云ひて、妹の山勢の山越えて行きし君(下略、卷十三、三三一八)
 
幸2于吉野宮1之時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
吉野の宮に幸《い》でましし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】幸于吉野宮之時 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。この題詞は、以下の長歌二篇(それぞれ反歌一首を含む)に係るものである。持統天皇は、吉野の宮を御愛好になり、その行幸は、日本書紀に傳えるだけでも三十度に及んでいる。そのうちのいずれの時とも知られない。またこの長歌二篇が、同時の作か別時の作かも知られない。人麻呂は妻に死別した時、石見の國から上京する時など、一つの題下に、しばしは二篇の長歌を作つている。その豐富な思想と詞藻とから考えても、一つの機會に、二篇の長歌を作ることもあり得るのである。
 
36  やすみしし わが大王《おほきみ》の
 聞《きこ》しめす 天《あめ》の下に、
 國はしも 多《さは》にあれども、
 山川の 清き河内《かふち》と、
 御心を 吉野の國の
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 所v聞食《キコシメス》 天下尓《アメノシタニ》
 國者思毛《クニハシモ》 澤二雖v有《サハニアレドモ》
 山川之《ヤマカハノ》 清河内跡《キヨキカフチト》
 御心乎《ミコロヲ》 吉野乃國之《ヨシノノクニノ》
 
 
(180) 花散らふ 秋津の野邊に、
 宮柱 太敷《ふとし》きませば、
 ももしきの 大宮人は、
 船|竝《な》めて 朝川渡り、
 舟競《ふなぎほ》ひ、夕河渡る。」
 この川の 絶ゆることなく
 この山の  いや高知らす、
 水《みな》ぎらふ 瀧《たぎ》の宮處《みやこ》は、
 見れど飽《あ》かぬかも。」
 
 花散相《ハナチラフ》 秋津乃野邊尓《アキヅノノベニ》
 宮柱《ミヤバシラ》 太敷座波《フトシキマセバ》
 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》
 船竝※[氏/一]《フネナメテ》 旦川渡《アサカハワタリ》
 舟競《フナギホヒ》 夕河渡《ユフカハワタル》
 此川乃《コノカハノ》 絶事奈久《タユルコトナク》
 此山乃《コノヤマノ》 弥高思良珠《イヤタカシラス》
 水激《ミナギラフ》 瀧之宮子波《タギノミヤコハ》
 見禮跡不v飽可問《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君の御統治遊ばされる天の下に、國は多くありますが、山や川の清き河内であるとして、吉野の國の秋津の野邊に、立派な宮殿をお作りになりますから、お仕え申す人々も、船を竝べては朝川を渡り、舟を競つては、夕川を渡ります。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く御座遊ばされる、水の激する宮處は、見れど飽きぬことであります。
【構成】この歌は、二段に分かつて解釋すべきである。第一段、舟競ヒ夕河渡ルまで。事實を敍する。以下第二段、第一段の事實を根據として作者の感想を述べる。表面吉野の離宮の景勝を稱えることになつているが、内意はその宮の永久に立ち榮えるだろうということを慶賀している。
【釋】八隅知之吾大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。既出。この歌では持統天皇をさす。所聞食に對して主(181)格となつている。
 所聞食 キヨシメス。キコシヲスとも讀まれている。本集における假字書きの例には、キコシメスに、「波乃海《ナニハノウミ》 於之弖流宮爾《オシテルミヤニ》 伎許之賣須奈倍《キコシメスナベ》」(卷二十、四三六一)があり、キコシヲスに、「企許斯遠周《キコシヲス》 久爾能麻保良敍《クニノマホラゾ》」(卷五、八〇〇)、「伎己之乎須《キコシヲス》 久爾熊麻保良爾《クニノマホラニ》」(卷十八、四〇八九)、「伎己之乎須《キコシヲス》 四方乃久爾欲里《ヨモノクニヨリ》」(卷二十、四三六〇)がある。かようにいずれも例がある上に、食の字はメスともヲスとも讀める字であるから訓法を決定し難いが、類似の内容を盛つた字面に所知食があり、これはシラシメスであつて、シラシヲスとは讀めないものであるから、それによつてキコシメスと讀むべきである。キコシは、動詞聞クの敬語。メスは敬語の助動詞である。天下の有樣をお聞きになるの義から、統治あらせられるの意になる。次句の天下に對して、連體形となつている。
 天下尓 アメノシタニ。既出。
 國者思毛 クニハシモ。このクニは地方の國の義。各地の謂である。シモは張意の助詞。
 澤二雖有 サハニアレドモ。サハは多數の意。數多くあるけれども。以上、澤山にあるけれどもと言つて、以下とくにその中の一つをあげる形式で、長歌にしばしば見られる表現樣式である。三二二、三八二、四〇〇〇など。
 山川之 ヤマカハノ。山と川との。
(182) 清河内跡 キヨキカフチト。カフチはカハウチの約言。アハウミをアフミという類である。河内は、川を中心とした一帶の土地をいう。古人の言語は、概念的に使用せず、發言者の視聽する所に隨つて使用するのであつて、この河内の語も、そのように解するのを本義とする。川邊に立つて見られる範圍を河内というので、川、兩岸、および眺望に入る所の山までを含むのである。ここでは吉野川を中心とした一帶をいう。流域、溪谷などの語に近いが、そういう概念的な云い方では無い。國名となつた河内も、大和川を中心とした地名であり、その他、現に地名として殘つている諸國の河内の地勢を見れば、この語の持つ意味がわかるであろう。「山川ノ清キ河内」の語は、かくしてよく理解される。川の曲つた處とする從來の解は、正しくない。「三吉野乃《ミヨシノノ》 多藝都河内之《タギツカフチノ》 大宮所《オホミヤドコロ》」(卷六、九二一)、「阿之我利能《アシガリノ》 刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》 伊豆流湯能《イヅルユノ》」(卷十四、三三六八)の河内の如きもこれによつてよく理解される。但しそれはどこまでも川を中心にした語であり、また慣用の久しきに及んで、川中の如き用例をも生じていることは、注意されねばならない。トは、トシテの意。山や川の清らかな河内として。
 御心乎 ミココロヲ。枕詞。ヲは感動の助詞。御心は佳しの意に、吉野を修飾する。「味酒を三輪の祝《はふり》」(卷四、七一二)、「御佩《みはか》しを劍の池」(卷十三、三二八九)というが如きヲの用法である。この枕詞は、他に用例を見ない。人麻呂の創始であろうか。
 吉野乃國之 ヨシノノクニノ、クニは一地方の稱。泊瀬の國、葛城の國などという。
 花散相 ハナチラフ。チラフは、動詞散ルの連績動作をあらわす。次句に對する連體形の句。花の續いて散り亂れるをいう。この句は、この歌中において、季節を描いている唯一の句であつて、これによつてこの歌の作られた時節を示している。
 秋津乃野邊尓 アキヅノノベニ。秋津は、吉野の離宮のあつた處の地名。「三芳野之《ミヨシノノ》 蜻蛉乃宮者《アキヅノミヤハ》」(卷六、(183)(九〇七)、三芳野之《ミヨシノノ》 秋津乃川之《アキツノカハノ》」(同、九一一)、「秋津野爾《アキヅノニ》 朝居雲之《アサヰルクモノ》」(卷七、一四〇六)など見えている。今、宮瀧附近の吉野川岸に秋戸岸の名が殘つているという。地名の起原については、古事記下卷の雄略天皇記に、吉野に幸せられた時に、虻《あぶ》が御腕を食つたのを、蜻蛉が來てその虻を食つたので、御製の歌があり、その時からその野を名づけて阿岐豆野というと傳えている。
 宮柱大敷座波 ミヤバシラフトシキマセバ。フトは、シクの壯大なのを形容する。シクは、平面を領有する意の動詞。フトシクは、宮柱を堂々と建てる義で、宮殿を建立すること。マセは、敬語の助動詞。「眞弓乃岡爾《マユミノヲカニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキマシ》」(卷二、一六七)など使用されている。古事記上卷に、「於2底津石根1宮柱|布刀斯理《フトシリ》、於2高天原1氷椽多迦斯理《ヒキタカシリ》」などあるによつて、フトシクとフトシルと同語とする説があるが、シクとシルとは違うのである。宮柱については、太敷クとも太知ルともいうが、高天ノ原ニ千木高シクとは云わないのを以つても、兩語の同じくないことを知るべきである。シクは、敷、布などの文字の意にちかく、平面を領有することであり。シルは、知の意で、廣く領有する意になるのである。以上條件法を成し、以下それに對する結語である。
 百磯城乃大宮人者 モモシキノオホミヤビトは。既出。以下の文に對する主格である。
 船竝※[氏/一]旦川渡 フネナメテアサカハワタリ。離宮に奉仕するために、大宮人は、朝は舟を竝べて、吉野川を渡ることを敍している。フネナメテは、舟を多く竝べてで、多數の人の出仕する有樣をいう。アサカハは、朝の川。、「未v渡《イマダワタラヌ》 朝川渡《アサカハワタル》」(卷二、一一六)などある。
 舟競夕河渡 フナギホヒユフカハワタル。船の進行を競つて夕の川を渡るの意。舟競は、「布奈藝保布《フナギホフ》 保利江乃可波乃《ホリエノカハノ》」(卷二十、四四六二)の用例がある。上の船竝メテ云々の句と對句をなし、大宮人の主格を、兩岐に受けて結んでいる。以上第一段。吉野の宮の造營と廷臣の奉仕とを説いている。
(184) 此川乃絶事奈久 コノカハノタユルコトナク。上の朝川夕河の二句を受けて、コノ河ノと起し、これを譬喩に使つている。この川の水の流れて止まないように、絶える事無しにの意で、絶ユルコト無クイヤ高知ラスと續く語脈である。
 弥高思良珠水激瀧之宮子波 イヤタカシラスミナギラフタギノミヤコハ。
   イヤタカシラスミツタヽク(古葉)
   イヤタカシラスミヅハシルタギノミヤコハ(新訓)
   ――――――――――
   彌高良思珠水激瀧之宮子波《イヤタカカラシタマミヅノタキノミヤコハ。》(西)
   彌高良之珠水激《イヤタカカラシタマミヅノ》(細)
   彌高有之珠水激《イヤタカカラシイハハシル》(考)
   彌高加良之珠水激《イヤタカカラシイハハシル》(考)
   彌高良之隕水激《イヤタカカラシオチタギツ》(古義)
 思良珠は、元暦校本等による。流布本には思良を良之に作り、珠を下の句に附けて讀んでいるが、それでは意を成さない。珠をスと讀むは、「波太須珠寸《ハダススキ》」(卷八、十六三七)があり、地名の珠洲がある。タカシラスは山を受けて、高く立派に御座遊ばされるの意で、連體言である。この句は、遙に山川ノ清キ河内を受けて、上の此川乃云々の句と對句をなしているが、文脈は、絶ユルコト無クイヤ高シラスと績いて、次の瀧ノ宮處を修飾する。この山の高きが如くと、高を起している。イヤ高シラスは、いよいよ高大に御領有あらせられるの意。水激は、ミヅハシルとも、ミヅタギツとも讀まれるが、私注に、字鏡集に激にミナギルの訓があるによつてミナギラフと讀んだのがよかろう。水が霧る。水けむりが立つ意で、次のタギを修飾する。水の奔流するをいう。タギは、水の激しく流れる處、ミヤコは、宮室のある地。
 見禮跡不飽可問 ミレドアカヌカモ。どれほど見ても飽きないことであるの意。以上第二段。作者の感想を述べて一首を結んでいる。
(185)【評語】この歌は、初めに諸國の多い中に、特によい勝地として吉野川の流域を選擇し、その地に宮作りし、その川に大宮人の賑える有樣を敍逃し、これを前提として、その川のように、その山のようにと、雙頭に祝意を述べ、そのような勝地の宮室は、見れども飽きないことであると感激を敍している。徹頭徹尾、ほめ詞に終止したところ、この歌の特色ともいうべく、わずかに作者の感情を吐露した末の一句は、常套の成句であつて、特殊性は發揮していない。もつとも、この見レド飽カヌカモは、人麻呂の創始した句であるかも知れないが、あまりに模倣が多くなつている。吉野離宮の景勝をほめるという點からは、十分に、成功していると云えるであろう。
【參考】類句、見れど飽かぬかも。
  霞うつ安良禮《あられ》松原住吉の弟日孃子《おとひをとめ》と見れど飽かぬかも(卷一、六五)
  はだ薄久米の若子《わくご》がいましける三穗の石室《いはや》は見れど飽かぬかも(卷三、三〇七)
  (上略)駿河なる不盡《ふじ》の高嶺は見れど飽かぬかも(同、三一九)
  山高み白木綿《しらゆふ》花に落ちたぎつ激流《たぎ》の河内は見れど飽かぬかも(卷六、九〇九)
  神からか見がほしからむ。み吉野の激流の河内は見れど飽かぬかも(同、九一〇)
  (上略)御食《みけ》向ふ味原《あぢふ》の宮は見れど飽かぬかも(同、一〇六二)
  若狹なる三方の海の濱清みい往き還らひ見れど飽かぬかも(卷七、一一七七)
  吾妹子が業《なり》と作れる秋の田の早穗《わさほ》の※[草冠/縵]《かづら》見れど飽かぬかも(卷八、一六二五)
  百傳ふ八十の島廻《しまみ》を榜ぎ來れど粟の小島し見れど飽かぬかも(卷九、一七一一)
  古の賢《さか》しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも(同、一七二五)
  山高み白木綿花《しらゆふばな》に落ち激《たぎ》つ夏實の河門《かはと》見れど飽かぬかも(同、一七三六)
(186)  ももしきの大宮人の※[草冠/縵]《かづら》けるしだり柳は見れど飽かぬかも(卷十、一八五二)
  秋田刈る假廬の宿《やどり》にほふまで咲ける秋はぎ見れど飽かぬかも(同、二一〇〇)
  玉梓《たまづさ》の君が使のた折りけるこの秋はぎは見れど飽かぬかも(同、二一一一)
  白露を玉になしたる九月《ながつき》の有明の月夜《つくよ》見れど飽かぬかも(同、二二二九)
  あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(卷十五、三六〇二)
  大宮の内にも外《と》にも光るまで降らす白雪見れど飽かぬかも(卷十七、三九二六)
  うるはしみわが思《も》ふ君はなでしこが花に擬《なぞ》へて見れど飽かぬかも(卷二十、四四五一)
  秋風の吹き扱《こ》き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも(同、四四五三)
 
反歌
 
37 見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑《とこなめ》の、
 絶ゆることなく また還り見む。
 
 雖v見飽奴《ミレドアカヌ》 吉野乃河之《ヨシノノカハノ》 常滑乃《トコナメノ》
 絶事無久《タユルコトナク》 復遠見牟《マタカヘリミム》
 
【譯】見れども飽きない吉野の川の、なめらかな岩床のように、永久に絶える事なくまた立ち歸り見たいことであります。
【釋】雖見飽奴 ミレドアカヌ。長歌の末句の見レド飽カヌカモを取つて、反歌を起している。連體形で、次の句を修飾している。
 常滑乃 トコナメノ。トコナメは、從來、常に水に濕つて、苔など生え、常になめらかな處と解していた。井上通泰氏の萬葉葉新考の説に、頂の平な岩の列なつているものと云つている。同書に引いた柳田國男氏の説(187)に、トコナメは、天然にも人工にも、村境などに、神を祭る用の壇に磐石の竝べたのをいうとある。他の用語例に、「妹が門入り泉川の常滑にみ雪殘れり。いまだ冬かも」(卷九、一六九五)、「こもりくの豐泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑の恐《かしこ》き道ぞ。戀ふらくはゆめ」(卷十一、二五一一)の例がある。この歌および卷の十一の歌に、いずれも常滑の文字を使用している所を見れば、本集においては常になめらかなるものの義に使用されていたと解される。また山田孝雄博士の説に、中世の作庭の術語に、地中にさし出したる巨石を常滑という。これは古語の殘つたものであろうかとされている。澤瀉久孝博士の常滑考(萬葉古徑二)には、常滑のメと、床竝のメと、音韻の違うことを指摘し、これはどうしても滑の義であるとし、岩石の水苔などが生えてすべり易いものだとされている。その説く所詳細である。以上、目前の景物を敍して、絶ユルコトナクの序としたのである。吉野川の岸邊の大磐石を取つて、その恆久性により、絶えることのないようにの譬喩とした。
 絶事無久 タユルコトナク。常滑の如く絶ゆること無くと起している。下のマタ還リ見ムに對する副詞句。この句は、長歌の中の句を取り、その意を更に明確にしているものである。
 復還見牟 マタカヘリミム。またもこの他に來て、この勝景を見ようとの意である。
【評語】長歌の詞句を使つて、それと密接な關係を保つている。反歌の形態として原形的であり、長歌と不可分な性質をよく表示するものである。この關係は、次の長歌と反歌とにおいても保たれている。人麻呂の作品の音樂的な性格を語るものである。
【參考】類句、絶ゆることなくまたかへり見む。
  み吉野の秋津の川の萬代に絶ゆることなくまたかへり見む(卷六、九一一)
  卷向《まきむく》の病足《あなし》の川ゆ往く水の絶ゆることなくまたかへり見む(卷九、一一〇〇)
(188)  皀莢《かはらふぢ》に延ひおほどれる糞葛《くそかづら》絶ゆることなく宮仕せむ(卷十六、三八五五)
  ものゝふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつゝ見む(卷十八、四一〇〇)
 
38 やすみしし わが大王、
 神《かむ》ながら 神さびせすと、
 芳野川 激《たぎ》つ河内《かふち》に
 高殿を 高知りまして、
 登り立ち 國兄を爲《せ》せば、
 疊《たたな》はる 青垣山、
 山神《やまつみ》の 奉《まつ》る御調《みつき》と
 春べは 花かざし持ち、
 秋立ては 黄葉《もみち》かざせり。【一はいふ、もみち葉かざし。】
 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川の神も、
 大御食《おほみけ》に 仕へ奉《まつ》ると、
 上《かみ》つ瀬に 鵜川を立ち、
 下《しも》つ瀬に 小網《さで》さし渡す。」
 山川も 寄りて奉《まつ》れる
 神の御代かも。」
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》
 吉野川《ヨシノガハ》 多藝津河内尓《タギツカフチニ》
 高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》
 上立《ノボリタチ》 國見乎爲勢婆《クニミヲセセバ》
 疊有《タタナハル》 青垣山《アヲカキヤマ》
 山神乃《ヤマツミノ》 奉御調等《マツルミツキト》
 春部者《ハルベハ》 花插頭持《ハナカザシモチ》
 秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミチカザセリ》【一云 黄葉如射之】
 逝副《ユキソフ》 川之神母《カハノカミモ》
 大御食尓《オホミケニ》 仕奉等《ツカヘマツルト》
 上瀬尓《カミツセニ》 鵜川乎立《ウカハヲタチ》
 下瀬尓《シモツセニ》 小網刺渡《サデサシワタス》
 山川母《ヤマカハモ》 依※[氏/一]奉流《ヨリテマツレル》
 神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
 
(189)【譯】わが大君は、神であるままに、貴い行動をされると、芳野川の激流の峽谷に、高殿を高くお立てになつて、それに登り立ち國見を遊ばされると、疊まつている青い垣の山は、その山の神の奉る貢として、春の頃は花を插頭にし、秋が來れは、紅葉を插頭にしている。添つている吉野川の神も、御食膳にお仕え申し上げようと、上の方の瀬では鵜飼をし、下の方の瀬では、小網をさし渡して魚を取つております。山や川も寄り來つて、お仕え申し上げる神の御代であります。
【構成】第一段、下ツ瀬ニ小網サシ渡スまで。天皇が吉野の離宮の高閣に上つて御覽になれば山川の景勝はかくの如しと敍している。以下第二段、第一段の事實に基づいて作者の感想を述べる。この二段構成の樣式は前の長歌と同じである。
【釋】安見知之吾大王 ヤスミシシワガオホキミ。既出。この歌では持統天皇をさす。
 神長柄 カムナガラ。假字書きの例に、「可武奈可良《カムナガラ》 可武佐備伊麻須《カムサビイマス》」(卷五、八一三)などあり、表意文字としては、「神隨《カムナガラ》」(卷一、五〇等)、「神在隨《カムナガラ》」(卷十三、三二五三)とも書いている。日本書紀孝徳天皇紀には、惟神とあり、また隨在天神ともある、その惟神、隨在天神をもカムナガラと讀んでいる。この語と同一の意味を有すと考えられる語にカムカラがあつて、「神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》」(卷二、二二〇)、「見禮等母安可受《ミレドモアカズ》 加武賀良奈良之《カムカラナラシ》(卷十七、四〇〇一)など使用されている。また「蜻島《アキツシマ》 倭之國者《ヤマトノクニハ》 神柄跡《カムカラト》 言擧不v爲國《コトアゲセヌクニ》(卷十三、三二五〇)に對して、別傳として擧げられた人麻呂歌集の歌には「葦原《アシハラノ》 水穗國者《ミヅホノクニハ》 神在隨《カムナガラ》 事擧不v爲國《コトアゲセヌクニ》」(卷十三、三二五三)とある。この神カラは、國カラ、山カラ、川カラ、オノヅカラ等と同樣の語構成を有するものと見られ、そのカラは、故の義であると考えられる。これに準じて、カムナガラのカラも故の義と見るべく、ナは接續の助詞と解すべきである。かくて「皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》」(卷二、一九九)、「山隨《ヤマナガラ》 如v此毛現《カクモウツシク》 海隨《ウミナガラ》 然眞有目《シカマコトナラメ》」(卷十三、三三三二)の皇子隨、山隨、海隨の隨もナガラとして、同樣の語と見るべ(190)く、その他の動詞に附くナガラも、同樣に考えられる。ここにおいて、「諾己曾《ウベシコソ》 吾大王者《ワガオホキミハ》 君之隨《キミナガラ》 所v聞賜而《キコシタマヒテ》(卷六、一〇五〇)の君之隨の如きも、君ナガラと讀んで、この類の語構成を有するものと考えられる。そしで神ナガラの語は、神の故、神の故に、神にましますが故に、神意のままに等の内容を有することが知られる。ここは、神にましますがままにと解すべく、神の思想の轉化して來たことを見るべきである。この句は、久の句の副詞句となつている。
 神佐備世須登 カムサビセスト。カムサビは、假字書きの例には」「可武佐備伊麻須《カムサビイマス》」(卷五、八一一、「可牟佐飛仁家理《カムサビニリ》」(同、八六七)などある。上二段動詞の名詞形。このサビは、體言についてその性質を發揮するをいう時に使用される。孃子《をとめ》サビ、男サビ、丈夫《ますらを》サビ、良人《うまびと》サピ、翁サビ等の用例がある。神サビは、神異である性質を發揮するをいう。普通でない行爲をすること。「乎止米止毛《ヲトメドモ》 乎止米佐比須止《ヲトメサビスト》 可良多萬乎《カラタマヲ》 多毛止爾萬伎弖《タモトニマキテ》 乎止女佐比須毛《ヲトメサビスモ》」(琴歌譜)、「麻周羅遠乃《マスラヲノ》 遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》 都流伎多智《ツルギタチ》 許志爾刀利波枳《コシニトリハキ》」(卷五、八〇四)のヲトメサビ、ヲトコサビなどについてその用法を知るべきである。セスは、神サビを受けて、それをすることをいう。動詞爲に、敬語の助動詞スの接績したもので、その終止形。この語は、セサ、セシ、セス、セセと活用するが、セス以外は用例が極めてすくない。セサの例、「安左乎良乎《アサヲラヲ》 達家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》 宇
 
《ウマズトモアスキセサメヤイザセオヲトコニ》」(卷十四、三四八四)この第三四句は、「績《う》ますとも明日著せさめや」である。セシの例、「伊許藝都追《イコギツツ》 國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》」(卷十九、四二五四)、セスの例、「神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》(卷一、四五)、「
 
クサマクラタビヤドリセスイニシヘオモヒテ(同)、セセの例は、この歌の、「國見乎爲勢婆」がそ】れである。神サビセストのトは、とて、としての意。下の離宮を御造營になり、上り立つて國見をされることの理由を説明している。
 多藝澤河内尓 タギツカフチニ。タギツは、「瀧乃河内」(卷六、九一〇)ともいうよりして、タギを名詞、(191)ツを接續の助詞と見られる。また、「明日香川《アスカガハ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 瀧津湍音乎《タギツセノトヲ》」(卷十、一八七八)、「雨零者《アメフレバ》 湍都山川《タギツヤマカハ》 於v石觸《イハニフレ》」(同、二三〇八)の如き用例があつて、これらのタギツは動詞と見るべきであるから、タギツ河内のタギツも動詞と見ることもできる。ここは水の激流する意に、タギを體言と見るべきだろう。河内は既出。この句は、離宮御造營の場處を指元している。
 高殿乎 タカドノヲ。タカドノは高閣をいう。日本靈異記の訓釋に、「楼閣、多加度野」、倭名類聚鈔に、「樓、太賀度能」とある。
 高知座而 タカシリマシテ。高殿ヲを受けて、高知リマシテという。空に高き宮殿を高く御占據遊ばされて。高は知る有樣の高大なのをいう。シルは、領知する、占有する。以上二句、離宮を壯大に御造營あらせられての意である。
 上立 ノボリタチ。その高殿に上り立つてである。舒明天皇の香具山の國見の御製の歌にあつた句。
 國見乎爲勢婆 クニミヲセセバ。
   ――――――――――
   國見乎爲波《クニミヲスレバ》(西)
   國見乎爲波《クニミヲセレバ》(※[手偏+君])
   國見之爲波《クニミシセレバ》(墨)
   國見勢爲波《クニミセスレバ》(古義)
 クニミは既出。高處において、國土の風景を觀望すること。セセバは、動詞爲の敬語法、爲スの已然形に、助詞バが附いたものである。原文、もと國見乎爲波とあつて、これをクニミヲスレバと讀んでいたのであるが、然る時は敬意を失して、天皇の行動を敍するにふさわしくない。作者の行動とする時は、高殿ヲ高知リマシテと天皇の事に敍して來た上の句を受けて、中途で唐突に主格が變ることになつて不都合である。古寫本を見る(192)と、冷泉本に爲の下に勢がある。元暦校本には爲の下に、※[(生+丸)/云]がある。この字は藝と勢との中間の字である。類聚古集等には、爲の下に藝がある。藝では訓法に困るから、冷泉本によることとした。元暦校本の字も、勢の誤りとも見られよう。セセバは他に用例は無いが、あるべき語法である。國見をなされれば。以下その國見の結果について述べる。
 疊有 タタナハル。古事記中卷に「多々那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》」とあり、本集にも、タタナヅクの例がある。ここに疊有とあり、古くタタナハルと讀んでいたが、古くは他にこの語の用例が無いとて、諸説に疊著の誤として、タタナヅクと讀ませた。しかし中世には髪の重なつているのをタタナハルといい、類聚名義抄には委をタダナハルと訓み、その委は積る意であるから、ここももとのままにタタナハルと讀むべきものであろう。疊の動詞は、後にはタタムとマ行に活用するが、「君我由久《キミガユク》 道乃奈我※[氏/一]乎《ミチノナガテヲ》 久里多多禰《クリタタネ》」(卷十五、三七二四)の例もあつて、古くはナ行に活用したもののようである。古くナ行に活用した動詞が、後にマ行に變わつた例は他にもある。語の意味は、疊まり重なつている意で、ここでは山岳の重疊をいう。なおタタナハルは、中世の物語の類には、多く見えている。「御ぐし、たたなはれたるいとめでたし」(宇津保物語、藏開上)、「みづら、かたはらにたゝなはりまるがし、かきいでたまへれば」(濱松中納言)、「髪のうちたたなはりて、ゆらゝかなる」(枕草子)。
 青垣山 アヲカキヤマ。青い墻壁をなしている山。古事記中卷に、「多々那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》」、播磨國風土記に「倭者青垣、々山投坐、市邊之天皇」の用例があり、青垣のみで、山の意を成すものである。この句、下の文に對して主格を成している。
 山神乃 ヤマツミノ。古事記上卷に、山の神、名は大山津見の神というとある。山の神靈の謂である。ツミは、海神をワタツミという。そのツミに同じ。
(193) 奉御調等 マツルミツキト。マツルは、奉獻の意。假字書きの例に、「萬調《ヨロヅツキ》 麻都流都可佐等《マツルツカサト》」(卷十八、四一二二)などある。ミツキは、人民より土宜を獻ずるをいう。ミは接頭語、穀物以外の國土の産物を貢するを調という。トはトシテの意。ここは山に花黄葉の飾れるを、山の神靈の奉る御調であると見立てたのである。
 春部者 ハルベハ。ベは方の義、ほど、頃。春の頃は。「春部者《ハルベハ》 花折插頭《ハナヲリカザシ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉插頭《モミヂバカザシ》」(卷二、一九六)などの用例がある。
 花插頭持 ハナカザシモチ。カザシは髪插の義。その動詞としての用法である。花を頭插として持ち。古代、時の花を頭插にする風習があり、これを頭插といい、本集にもその用例が多い。春の山に花が咲くのを、擬人法により、山の神靈が花を頭插にすると敍している。これが山の神の御調であるとするのである。
 秋立者 アキタテバ。タテは、出發する意の動詞タツの已然形。タツは起つ、發するの意で、その事の始り、進行につくをいう。行路に臨むをミチダチ、海路に上るをフナダチなどという。そのタチもこれである。春立ツ、秋立ツというは、その義から出て、春になる、秋になるの意になる。
 黄葉頭刺理 モミチカザセリ。モミチ、既出。カザセリは、上にいう動詞カザスに助動詞リの接續したもの。句意は上の花插頭特に準じて知るべきである。上の春ベハ花カザシ持チに對して、この二句は對句を成している。前の山神の奉る御調としての句を對句に受けている。
 一云黄葉加射之 アルハイフ、モミチバカザシ。本文の黄葉頭刺理の別傳で、これは、中止形になつている。モミチバの假字書きには、「毛美知婆能《モミチバノ》 知良布山邊由《チラフヤマベユ》」(卷十五、三七〇四)、「毛美知婆波《モミチバハ》 伊麻波宇都呂布《イマハウツロフ》」(同、三七二二)があり、また毛美知葉とも書いている(卷十五、三六九三、三七〇〇)のを見ると、モミチは單に、黄變するにいう語と思われる。なおいずれも知を使つているのによれは、もと清音であつたと見られる。
(194)  逝副川之神母 ユキソフカハノカミモ。この句、從來遊副川乃神母とあつて、諸説のあつたところである。吉野山中にユフ川という川があるともいわれていた。しかし元暦校本には、遊を逝に作つているから、これによつて、改むべきである。宮殿の前を流れる吉野川を、逝キ副フ川といつている。その川の神も云々と、上の山神云々と、對している。川の神は川の神靈をいう。
 大御食尓 オホミケニ。ケは食物。オホミはその美稱。オホミも元來形容詞から出た動詞の古い連體形であろう。假字書きの例に「於保美氣爾《オホミケニ》 都加倍麻都流等《ツカヘマツルト》」(卷二十、四三六〇)がある。
 仕奉等 ツカヘマツルト。奉仕するとして。川の神の奉仕をいう。語例は前項に擧げてある。
 上瀬尓 カミツセニ。上流の方の瀬に。瀬は水の淺く騷いで流れるところ。
 鵜川乎立 ウカハヲタチ。鵜を使用して魚を漁するを鵜川という。後の鵜飼に同じ。タチは、鵜川を催すをいう。「字奈比河波《ウナヒカハ》 伎欲吉勢其等爾《キヨキセゴトニ》 宇加波多知《ウカハタチ》」(卷十七、三九九一)、「夜蘇登毛乃乎波《ヤソトモノヲハ》 宇加波多知家里《ウカハタチケリ》(同、四〇二三)、「和我勢故波《ワガセコハ》 宇可波多多佐禰《ウカハタタサネ》」(卷十九、四一九〇)などの用語例があつて、この場合のタツが四段活であることが知られる。この立ツは他動詞で、ここに鵜川を催して行う意味が確められる。
 下瀬尓 シモツセニ。下流の方の瀬に。
 小網刺渡 サデサシワタス。サデは小さい網。倭名類聚鈔に「文選注云、※[糸+麗]【所買反、師説佐天】網如2箕形1、狹v後廣v前者也」とあり、本集にも「左手蝿師子之《サデハヘシコノ》 夢二四所v見《イメニシミユル》」(卷四、六六二)、「三川之《ミツカハノ》 淵瀬物不v落《フチセモオチズ》 左提刺爾《サデサスニ》 衣手潮《コロモデヌレヌ》 干兒波無爾《ホスコハナシニ》」(卷九、一七一七)などある。今も方言に殘つている語。サシは小網を河中にさし入れる行動。ワタスは、小網をして河を渡らせる義。サシワタスで小網を川に入れて漁獵をする意となる。ここにて段落となる。上ツ瀬ニ鵜川ヲ立チの句に對して、下ツ瀬ニ小網サシ渡スと對句になつている。勿論、上流や下流で、あるいは鵜川を行い、あるいは小網を渡しているということを對句表現に依つて分かつて言つたまで(195)である。ただ文章上の技術でかようにいう。上流でも下流でも、漁獵をしているのである。鵜川を立ち、小網さし渡すは、もとより人のすることであるのを、それが川の神の勤仕であると説いたのは、川の神が人をして漁獵せしめ、魚を得しめる意であつて、すべて神意に出でたものと解するのである。以上第一段、事實を敍述している。
 山川母 ヤマカハモ。山も川もで、第一段の山の神と川の神との行爲に關する敍述を受けて總括している。
 依※[氏/一]奉流 ヨリテマツレル。ヨリテタテマツル(元赭)、ヨリテマツレル(元赭)、ヨリテマツル(神)、ヨリテツカフル(西)、ヨリテツカヘル(考)。山の神も川の神も寄り來つて獻上物をする義。ヤツレルは、上の奉ル御調トのマツルに同じで、獻つているの意である。從來ツカフルと讀んでいるが、奉をツカフと讀むべき例が他に無い。また一首のうち、同一の字を別樣に讀むことは、なるべく避けた方がよい。
 神乃御代鴨 カミノミヨカモ。この御代は、あたかも神の御代の如きであると感嘆して文を終つている。カモは感動の助詞。天皇の御代は、神の御代では無い。しかるに帝徳の宏大なことは、さながら神の御代のようであるというのを、文章上、譬喩表現を超越して、何は何なりというあらわし方をした。
【評語】この歌は、吉野の宮の勝景に筆を借りて、帝徳の宏大なことを敍している。對句を重ね用い、堂々として敍述して來るところ、いかにも力強いところがある。ただ、春部ハ、秋立テバと、春秋を對句に用いて、作者現在の季節をあきらかにすることを逸している。頌徳の賦として、名篇の一たるには違いはないが、やはり國民を代表して歌つているような、類型的のところがある。しかも凡小の作品に比して.山の神や川の神も寄つて奉仕するという規模の大きいところに、人麻呂の特色が認められる。
 
反歌
 
(196)39 山川も 寄りて奉《まつ》れる 神《かむ》ながら
 たぎつ河内《かふち》に 船出《ふなで》せすかも。 
 
 山川毛《ヤマカハモ》 因而奉流《ヨリテマツレル》 神長柄《カムナガラ》
 多藝津河内尓《タギツカフチニ》 船出《フナデ》爲《セス・スル》加母《カモ》
 
【譯】山の神も川の神も、慕い寄つて奉仕をする、神にましますがままに、激流の河中に船出をなされることであるなあ。
【釋】山川毛因而奉流 ヤマカハモヨリテマツレル。前の歌の末を受けている。山の神も川の神も寄り來つて奉仕する神ながらと、連體法で續くところである。
 神長柄 カムナガラ。長歌にある句。神にましますが故に。
 多藝津河内尓 タギツカフチニ。この句も長歌にある句。ここは狹く川中にの義に使つているが、やはり高殿に立つて御覽になるその視野の中にあることを敍している。
 船出爲加母 フナデセスカモ。フナテセムカモ(元)、フナテスルカモ(元朱)、フナテセシカモ(神)、フナデセスカモ(考)。前の三六の長歌に、モモシキノ大宮人は船竝メテ朝川渡リ舟競ヒ夕川渡ルの文意が、ここに出ていて、宮殿にお仕えする人たちが、神意を受けて、激流ではあるが船出をすると感歎したとも見られる。しかし船出セスカモと、敬意を含めて讀み、天皇の御行動とする説の方がよいようである。神ナガラは、天皇の性質をいう句であるから、それを受けては、天皇の行動とするのがもつともである。船出スルカモの訓でも、天皇の行動と解することもできる。
【評語】この反歌も、長歌の末を受けて歌つている。長歌には山川の奉仕を説き、それを受けて川中に船を浮べられること説いて、全體の構想を完成ている。高殿から御覽になつた吉野を中心としての大觀は、ここに至つて中心點をその中の一點に移した。長歌の概念的なのに比して描寫であるのが、長歌の缺陷を補つて(197)いる。
 
右日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸2吉野宮1、八月、幸2吉野宮1、四年庚寅二月、幸2吉野宮1、五月、幸2吉野宮1、五年辛卯正月、幸2吉野宮1、四月、幸2吉野宮1者、未2詳知1何月從駕作歌。
 
右は、日本紀に曰はく、三年己丑の正月、天皇吉野の宮に幸《い》でましたまひき。八月、吉野の宮に幸でましたまひき。四年庚寅の二月、吉野の宮に幸でましたまひき。五月、吉野の宮に幸でましたまひき。五年辛卯の正月、吉野の宮に幸でましたまひき。四月、吉野の宮に幸でましたまひきといへれば、いまだ詳に知らず、いづれの月|從駕《おほみとも》にして作れる歌なるかを。
 
【釋】右日本紀曰 ミギハニホヌギニイハク。以下日本書紀によつて、持統天皇の吉野の宮への行幸の數次にわたることを記し、この歌の作がそのいずれの度であるかを知らない旨を述べている。但し日本書紀によれば天皇の行幸は三十餘度に上つており、ここにはその一端を擧げたに過ぎない。
 
 者 トイヘレバ。テヘレバと讀む説があるが、古語でないことは、既に記した。
 從駕 オホミトモニシテ。駕は車駕の義。直接に天皇をいうを憚つて、その車乘をいうのである。唐制、天子の行を駕というとある。
 
幸2于伊勢國1時、留v京、柿本朝臣人麻呂作歌
 
伊勢の國に幸《い》でましし時、京に留まりて、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】幸于伊勢國時 イセノクニニイデマシシトキ。持統天皇の六年三月六日、天皇伊勢に幸し、二十日還御(198)された。この時、人麻呂の妻は、天皇に隨從して伊勢に赴き、人麻呂は京に留まり、行幸の地を思いやつてこの歌を詠んだと推考される。三首連作として解すべきである。なおこの伊勢の國に幸でましし時の句は、下の石上の大臣の歌にまで係かるのである。
 
40 嗚呼見《あみ》の浦《うら》に 船乘《ふなのり》すらむ
 孃子《をとめ》らが
 殊裳《たまも》の裾に 潮滿つらむか。
 
 嗚呼見乃浦尓《アミノウラニ》 船乘爲良武《フナノリスラム》
 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》
 殊裳乃須十二《タマモノスソニ》 四寶三都良武香《シホミツラムカ》
 
【釋】嗚呼見《あみ》の浦に、船に乘つているであろう孃子の、美しい裳の裾には、今ごろは潮が滿ちているであろうか。
【評】嗚呼見乃浦尓 アミノウラニ。この歌を卷の十五に載せたのには、初句を、「安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》」とし、左註に「柿本朝臣人麻呂歌曰安美能宇良」云々と記している。アゴは志摩の國の安虞であつて、嗚呼見とあるは、嗚呼見の誤であろうという説がある。見と兒とはいかにも似た字であるから、或るいは誤る事もあり得よう。しかしアゴが正しいにしても、卷の十五の左註にもアミとあるから、この卷の一のは、古くからアミとなつていたものであろうという萬葉集講義の説に從つて、もとのままにしておく。熟田津ニ船乘セムト(卷一、八)の例の如く、嗚呼見の浦にと船乘していると思われる地點を指示している。
 船乘爲良武 フナノリスラム。船乘は既出。航海しようとして乘船すること。スは動詞爲。ラムは推量の助動詞の連體形で、第三句に續く。船乘をしているであろうの意。
 ※[女+感]嬬等之 ヲトメラガ。※[女+感]嬬の字は集中に多い。※[女+感]の字は字書に無く、萬葉集攷證に、感嬬と書くべきを、連字偏傍を増す習いによつて感にも女偏をつけたのであると云つている。すべて三音に相當する處に用いてあ(199)るので、ヲトメと讀むことが妥當と考えられる。卷の十五の別傳にも乎等女とあり、これについては別に左註を加えていないこともこの訓を證するに足りる。用例には、「※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 珠篋有《タマクシゲナル》 玉櫛乃《タマクシノ》」(卷四、五二二)、「桃花《モモノハナ》 下照道爾《シタテルミチニ》 出立※[女+感]嬬《イデタツヲトメ》」(卷十九、四一三九)などある。等の字は、ただ一つのみにあらざることを表示する文字であつて、國語に訓讀するに當つては、ラ、タチ、ドモなどが當てられる。この歌の場合は、卷の十五の別傳に照らしてラと讀むべきことが推考される。ラは、助詞として他の助詞に接續して使用されるものと、接尾語として體言に接續して使用されるものがあるが、今の場合は、その後者である。その接續する體言は多種であるが、その中にはただ一個のみであることの確實なるものも存する。「今日良毛加《ケフラモカ》 鹿乃伏良武《シカノフスヲム》」(卷十六、三八八四)、「此夜等者《コノヨラハ》 沙夜深去良之《サヨフケヌラシ》」(卷十、二二二四)の如き、今日、此夜はただ一個のみの存在であるのに、接尾語ラがつけられている。人倫につけられる場合も同樣であつて、唯一人の場合でも、妹ラ、子ラ、妻ラなどいう。「見渡爾《ミワタシニ》 妹等者立志《モラハタタシ》 是方爾《コノカタニ》 吾者立而《ワレハタチテ》」(卷十三、三二九九)、「奈用竹乃《ナヨクケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》」(卷二、二一七)これらの妹ラ、子ラは唯一人の存在であることのあきらかなものである。ヲトメラの場合にあつては、少女一般をさすものと、特定の少女をさす場合とがあるが、複數に相違無いものは、かえつて見出されない。この歌の場合は、作者が行幸に供奉した※[女+感]嬬の一群を思つているか、または特定の人を思つているかが問題となるが、第三首に至つて妹の語を使用しているのによれは、それと關係あるものと見て、※[女+感]嬬のうちの或る一人を思つていると見るべきである。しかしそれを表示するにヲトメの語を使用したのは、客觀的な云い(200)方であつて、思つている人の特性をこれによつて表示しようとしたのである。それに意味の無い接尾語としてラが添加されたものであつて、これによつて、行幸に供奉した※[女+感]嬬たちの多數を想像するのは誤りである。大野ラ、夜ラなどの語によつて、ラの用法をよく見て置くことを要する。
 珠裳乃須十二 タマモノスソニ。裳は、腰部につける衣服である。珠はこれの美しきをほめていう。裾は衣類の下部をいう。
 四寶三都良武香 シホミツラムカ。潮が滿ちているであろうか。潮が滿ちて裳裾を濡らすであろうかというのである。
【評語】京にあつて、行幸にお供をした女官の有樣を想像して詠んでいる。二つのラムを取り除けば、かなりはつきりした描寫となるのは、作者が海邊の旅行を體驗していることを語る。婦人の衣服の下部が海水に濡れるをいうは、多少感覺的な氣もちがあろう。卷の十五の別傳は天平八年の遣新羅使の一行が、船中でこの歌を吟唱したのを傳えたものであるが、特に第四句を、赤裳の裾にしたのは、一層この感が強い。
【參考】別傳。
 安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》 フナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ
    柿本朝臣人麻呂歌曰 安美能宇良《アミノウラ》 又曰 多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》(卷十五、三六一〇)
 
41 釧《くしろ》著《つ》く 手節《たふし》の埼《さき》に、
 今日もかも 大宮人の
 玉藻刈るらむ。
 
 釼著《クシロツク》 手節乃埼二《タフシノサキニ》
 今日毛可母《ケフモカモ》  大宮人之《オホミヤビトノ》
 玉藻苅良武《タマモカルラム》
 
【譯】志摩の國の手節の埼に、今日は、大宮人が、玉藻を刈つているだろうか。
(201)【釋】釼著 クシロツク。
   タチハキノ(西)
   クシロツク(美)
   ――――――――――
   釧著《クシロツク》(僻)
   鐶著《タマキツク》(僻)
   釵卷《クシロマク》(古義)
 釼は釧の異體字である。わが國の古書、多くこの字をクシロに使用している。これは元來釵の異體字であつて、これをクシロに通用したものらしい。古く出土品に銅や石の釧があり、古語に「佐久久斯呂伊須受能宮《サククシロイスズノミヤ》」(古事記上卷)あり、また同書に「女鳥王所v纏2御手1之玉釧」があつて、古く釧の使用されたことが知られる。本集には、「吾妹兒者《ワギモコハ》 久志呂爾有奈武《クシロニアラナム》 左手乃《ヒダリテノ》 吾奧手爾《ワガオクノテニ》 纏而去麻師乎《マキテイナマシヲ》」(卷九、一七六六)、「玉釼《タマクシロ》 卷宿妹《マキネシイモモ》」(卷十二、二八六五)がある。ここに釧を手につけるということから手節の埼のタの枕詞として使用されている。しかしそれは全然歌の内容と關係のないものではなくして、歌中に描寫されている大宮人の装身具として釧が取りあげられたのである。釧をつけることは、わが國の古風俗であつたであろうが、當時大陸風俗の影響を受けて、宮廷奉仕の女官たちが、釧をつけていたのであろう。作者は、その思う大宮人の一人を、この句によつて描寫し、かつこれを利用して枕詞としたものである。
 手節乃埼二 タフシノサキニ。タフシは今、答志の字を當てている。ここには釧著クの句を受けて手節の字を使つている。答志は島であつて、その岬角を想像している。
 今日毛可母 ケフモカモ。今日シモというが如く、モを強意に使用している。カモは疑問の係助詞で、五句の玉藻刈ルラムに懸かつている。分解すれば、カは疑問、モは感動で、カだけでも使用される。
 大宮人之 オホミヤビトノ。大宮人、既出。男子をも女子をもいい、此處は前の歌の※[女+感]嬬を、別の方面から描いている。「黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも」(卷七、一二一八)など、女子について、(202)大宮人という例である。この句は、次の句に對して主格を成している。
 玉藻苅良武 タマモカルラム。玉藻刈ルは既出。海藻を刈ることは、海人の女子の業とされているので、海人の業をする意味に、その代表作業として擧げている。大宮人が海人などのわざをしているであろうというのである。ラムは、推量の助動詞。
【評語】行幸に御供した大宮人の一人を想像している。その人は釧をつけた新風装の佳人であり、その人の海に遊ぶ状態を玉藻刈ルラムと推量している。美しい想像を描いている歌として見るべきものがある。
 
42 潮騷《しほさゐ》に 伊良處《いらご》の島邊《しまべ》 榜《こ》ぐ船に
 妹乘るらむか。
 荒き島廻《しまみ》を。
 
 潮左爲二《シホサヰニ》 五十等兒乃島邊《イラゴノシマベ》 榜船荷《コグフネニ》
 妹乘良六鹿《イモノルラムカ》
 荒島廻乎《アラキシマミヲ》
 
【譯】潮が騷ぐのに、伊良處の島邊を榜ぐ船に、わが思う人も乘つているであろうか。荒い島であるものを。
【釋】潮左爲二 シホサヰニ。シホサヰは、海水の立ち騷いでいるもの。潮流の衝突、または暗礁等があつて、ざわざわしているをいう。その潮の騷いでいる處にの意。「牛窓之《ウシマドノ》 浪乃鹽左猪《ナミノシホサヰ》 島響《シマトヨミ》」(卷十一、二七三一)。
 五十等兒乃島邊 イラゴノシマベ。伊良處の島、既出。五十を古語にイという。「五十日太《イカダ》」(筏、卷一、五〇)など、イの假字に多く用いられている。シマベは島のほとり。次の句の榜ぐ船の場所を指示している。
 榜船荷 コグフネニ。榜は、字書に進v船也とあり、動詞に使つて、船を漕ぎ進めるをいう。次句の乘ルを修飾する句。
 妹乘良六鹿 イモノルラムカ。イモは、女子に對する愛稱。一般の女子に對して妹の語を使用する例もあるが、多く對稱として使用し、獨語性の歌語にても、或る特定の一人をさしていうものが多い。ここも人麻呂の(203)想つている或一人をさしていると見るべきである。ラムカは、推量してこれを疑つている。
 荒島廻乎 アラキシマミヲ。ミは接尾語で、地文上の名辭に接續して、浦ミ、磯ミ、道ノ隈ミなどとなる。このミは、それらの地が灣曲せる地形であることをあらわす。その曲つた處の意ではなくして、それが曲つている性質のものであることを示すのである。これらのミをあらわすにしばしば使用される廻は、流布本には多く回に作つているが、古寫本ではすべて廻である。ヲは感動の助詞であるが、荒い島であるよ、それだのにの意を含むものとして解せられる。
【評語】第一首に※[女+感]嬬ラといい、第二首に大宮人と云つていたものが、ここに至つて、はつきり妹と稱している。わが愛人が荒海に舟を出しているであろうかと心もとなく思つているのである。三首を併せてその内容を觀るべきである。この愛人は、持統天皇に仕えた女官で、人麻呂の妻となつたが、人麻呂に先んじて死んだ人と考えられる。三首ともラムとカとを使用しており、推量と疑問の内容であるが、その想像が具體的であるのは、人については作者のよく親しんでいる人であり、地については作者の曾遊の地であることを思わしめる。
 美しい想像の歌として味わうべきである。日本書紀によれば、天皇歸京の後、挾※[木+少]《かじとり》(舟こぐ人)八人に、今年の調役を免したとあつて、天皇が行幸先で乘船されたことを示しており、そのような豫定がなされていたのだろう。
 
當麻眞人麻呂妻作歌
 
當麻の眞人麻呂が妻の作れる歌
 
【釋】當麻眞人麻呂 タギマノマヒトマロ。傳未詳。この歌は、卷の四にも出て、その題詞には、「幸2伊勢國1時當麻麻呂大夫妻作歌一首」(卷四、五一一)とある。當麻氏は、用明天皇の皇子麻呂子の王の子孫で、初(204)め公の姓であつたが、天武天皇の十三年に眞人の姓を賜わつた。ここには幸伊勢國時とは無いが、これは上の柿本の人麻呂の歌の題詞にあるのを受けているのである。その行幸に際して、當麻の麻呂は供奉し、妻は京に留まつてこの歌を詠んだのである。
 
43 わが夫子《せこ》は 何處《いづく》行《ゆ》くらむ。
 沖《おき》つ藻の 名張《なばり》の山を
 今日か越ゆらむ。
 
 吾勢枯波《ワガセコハ》 何所行良武《イヅクユクラム》
 巳津物《オキツモノ》 隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》
 今日香越等六《ケフカコユラム》
 
【譯】わが夫の君は、何處を旅行しているでしょう。あの伊賀の國の名張の山を今日越えていることでしょうか。
【釋】吾勢枯波 ワガセコハ。ワガセコ、既出。次の句に對して主格をなしている。
 何所行良武 イヅクユクラム。今、何處を旅行しているのだろうと推量している。ここにて段落。
 巳津物 オキツモノ。巳の字は起の通用字として、その訓オキを取つて假字としている。沖の藻のの意で、沖の海藻が海水に隱れるというより、隱れるの古語ナバリと同音のナバリの枕詞となつている。
 隱乃山乎 ナバリノヤマヲ。ナバリは、伊賀の國の地名。普通に名張の字を當てるが、沖ツ藻ノの枕詞を冠している關係から、ここには隱の字を使用している。古語に、隱れることをナバルという。ナバルの語は、ヨナバリの地名を、吉隱とも書いており、また「忍照八《オシテルヤ》 難波乃小江爾《ナニハノヲエニ》 廬作《イホツクリ》 難麻理弖居《ナマリテヲル》 葦河爾乎《アシカニヲ》」(卷十六、三八八六)のナマリテも、ナバリテに同じく、隱れての義である。その名張の山は、大和と伊勢との通路に當る。
 今日香越等六 ケフカコユラム。今日か越えているならむと推量している。
(205)【評語】この歌、自問自答の形を採つて、旅に出ている夫の行動をかようにもあろうかと推量する心を描いている。その往路か歸路かは、詞句の上に出ていないが、これは勿論歸途の時分で、今日あたりは名張の山を越えて大和へ近づいているだろうかと待ちかねる心を詠んでいるのである。二句と五句とはラムを用いて、韻のようになつているのは、二句と五句とに同句を用いる古體から出發したものである。
【參考】別傳
   幸2伊勢國1時、當麻麻呂大夫妻作歌一首
  吾背子者《ワガセコハ》 何處將v行《イヅクユクラム》 巳津物《オキツモノ》 隱之山乎《ナバリノヤマヲ》 今日歟超良武《ケフカコユラム》(卷四、五一一)
 
石上大臣、從駕作歌
 
石上の大臣の從駕にして作れる歌
 
【釋】石上大臣 イソノカミノオホマヘツギミ。石上氏は饒速日の命の子孫、物部氏の支族で、天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつて物部の朝臣といい、その後、石上氏に改めたものである。持統天皇の行幸に從つたのは、石上の麻呂なるべく、麻呂は慶雲元年に右大臣、和銅元年に左大臣となつたので、前に廻らして大臣と書いたのであろう。養老元年(四一七)三月三日薨じた。
 從駕 オホミトモニシテ。既出。
 
44 吾妹子《わぎもこ》を 去來見《いざみ》の山を 高みかも、
 大和の見えぬ。
 國遠みかも。
 
 吾妹子乎《ワギモコヲ》 去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》 高三香裳《タカミカモ》
 日本能不v所v見《ヤマトノミエヌ》
 國遠見可聞《クニトホミカモ》
 
(206)【譯】わが妻を、さあ見たいと思うが、國境の去來見の山が高い故か、大和が見えない。はたまた國が遠い故なのだろうか。
【釋】吾妹子乎 ワギモコヲ。ワガイモコを約してワギモコという。ワガセコが男子に對する敬愛の呼稱であるのに對して、これは女子に對する敬愛の呼稱である。吾妹子をさあ見ようという意にイザミに冠している。枕詞ではあるが、一首の内容に深い關係のある詞である。
 去來見乃山乎 イザミノヤマヲ。山の名と、いざ見とを懸け詞にしている。この山は、宮内黙藏先生の伊勢名勝志に、大和と伊勢とのあいだの高見山の一名としている。
 高三香裳 タカミカモ。山を高みかも大和の見えぬという文脈で、山が高い故か、故郷が見えないの意。カモは疑問の係助詞で、下の大和の見えぬに懸かつている。
 日本能不所見 ヤマトノミエヌ。日本の字を使つているが、大和の國である。日本の字を使うようになつたのは、大陸との交通が行われて、國書に使つたのが初めであろう。上のカを受けて、ヌは打消の助動詞の連體形で止めている。ここで段落である。
 國遠見可聞 クニトホミカモ。山ヲ高ミを受けて、いな國ヲ遠ミカと顧みて云つたのである。このカモは疑問の係助詞であるが、この形のままでも文を終結することができる。「春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなく。いと若みかも」(卷四、七八六)、「ほととぎす鳴く音はるけし。里遠みかも」(卷十七、三九八八)などある。何々の故であるかの意であるが、下に受ける語を備えていないものである。
【評語】山を高みか、國を遠みかと、幼く疑つている點に興味がある。小高い處に立ち登つて故郷の方を見たことでもあろうか。
【參考】類型。
(207) 河の瀬のたぎつを見れば玉もかも散り亂れたる。川の常かも(卷九、一六八五)
 玉藻刈る井手のしがらみ薄みかも戀のよどめる。わが心かも(卷十一、二七二一)
 
右日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王等1、爲2留守官1。於v是、中納言三輪朝臣高市麻呂、脱2其冠位フ2上於朝1、重諌曰、農作之前、車駕未v可2以動1。辛未、天皇不v從v諫、遂幸2伊勢1。五月乙丑朔庚午、御2阿胡行宮1。
 
右は、日本紀に曰はく、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰の曰、淨廣肆廣瀬の王等を留守の官としき。ここに中納言|三輪《みわ》の朝臣《あそみ》高市麻呂《たけちまろ》、その冠位を脱《ぬ》ぎて朝にフ上《ささ》げ、諫を重ねて曰《まを》さく、農作の前、車駕いまだ動きたまふべからずとまをす。辛未の日、天皇諌に從はずして遂に伊勢に幸でましたまふ。五月乙丑の朔にして庚午の日、阿胡の行宮《かりみや》に御《おはしま》しきといへり。
【釋】右曰本紀曰。以下日本書紀に依つて伊勢の行幸を記している。終りまで日本書紀の文である。
 朱鳥六年壬辰 アカミドリノムトセミヅノエタツ。今の日本書紀には朱鳥六年無く無年號になつている。
 淨廣肆 キヨキヒロキヨツノクラヰ。天武天皇の十四年に制定された位階の名で、諸王以上の位に「明位二階、淨位四階、毎v階有2大廣1、併十二階」とある。その最下級である。
 廣瀬王 ヒロセノオホキミ。系譜未詳。小治田の廣瀬の王(卷八、一四六八)として歌がある。養老六年正月、正四位の下で卒した。
 留守官 ルスノツカサ。行幸の跡を守る役目の官。
 三輪朝臣高市麻呂 ミワノアソミタケチマロ。三輪氏は大國主の命の後、大神《おおみわ》氏ともいう。天武天皇の十三(208)年に朝臣の姓を賜はる。懷風藻に漢詩の作を留めている。この集には確實な作歌は無いが、大神の大夫の長門の守に任けられし時の歌のうち一首(卷九、一七七〇)は、この人の作であるかもしれない。歌經標式には、次の一首を載せている。
  白雲のたなびく山は見れど飽かぬかも。鶴《たづ》ならば朝飛び越えて夕《ゆふべ》來ましを
 脱其冠位 ソノカガフリヲヌギテ。當時は、冠に依つて位を授けたので、これを辭するに脱の字を使用したのである。下のフ上もこの意味で、位冠を捧持したのである。
 農作之前 ナリハヒノサキ。日本書紀には前を節に作つている。時は三月で、まさに農耕の事のいそがしくなる季節であるをいう。
 五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1 サツキノキノトウシノツキタチニシテカノエウマノヒ、アゴノカリミヤニオハシマシキ。六年三月の行幸は、三月二十日に遷幸になつたので、ここに五月に阿胡の行宮に御したというのは、萬葉集の編者が、日本書紀を讀み誤つたのである。これは五月の條に、三月の行幸の事に關する記事があるのを、直に五月の事としたのである。その文は、「五月乙丑朔庚午、御2阿胡行宮1時、進v贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等兄弟三戸、復2十年調役雜徭1、復免2挾※[木+少]八人今年調役1。」とある。阿胡の行宮は、人麻呂の歌に見える安虞の地における行宮である。
 
輕皇子、宿2于安騎野1時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
輕の皇子の安騎の野に宿りたまひし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】輕皇子 カルノミコ。續日本紀に「珂瑠皇子」とある。天武天皇の皇孫、草壁の皇太子の第二子である。持統天皇の十一年二月、皇太子となり、その八月、受禅して即位した。これを文武天皇と申す。御製の歌は、(209)本集には、「見吉野乃《ミヨシノノ》 山下風乃《ヤマノアラシノ》」(卷一、七四)の歌の左註に「或云天皇御製歌」とあるだけであるが、懷風藻には、御製の詩數篇を留めている。
 宿于安騎野時 アキノノニヤドリタマヒシトキ。安騎野は、奈良縣宇陀郡の地名。延喜式に阿紀神社あり、その神社は、今、松山町附近の迫間村にある。その附近の野をいうのであろう。此處に宿られたのは、歌意に依るに、草壁の皇太子の薨後のことであり、その薨去は持統天皇の三年四月であるから、その以後、御即位以前のある年の冬であることが知られる。その時に人麻呂が御供して詠んだ歌で、長歌と反歌四首とから成つている。この野には、皇子の父君なる、今は亡き草壁の皇太子がかつて狩獵にお出になつたことがあるので、全篇の主想は、草壁の皇太子を慕い奉ることに懸かつている。
 
45 やすみしし わが大王《おほきみ》
 高照らす 日の皇子《みこ》、
 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと、
 太數《ふとし》かす 京《みやこ》を置きて、
 こもりくの 泊瀬《はつせ》の山は、
 眞木《まき》立つ 荒山道を、
 石《いは》が根《ね》 禁樹《さへき》おしなべ
 坂鳥の 朝越えまして、
 玉かぎる 夕さり來れば、
(210) み雪降る 阿騎《あき》の大野に
 旗薄《はたすすき》 小竹《しの》をおし靡《な》べ、
 草枕 旅宿《たびやどり》せす。
 古《いにしへ》念《おも》ひて。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》
 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》
 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山者《ハツセノヤマハ》
 眞木立《マキタツ》 荒山道乎《アラヤマミチヲ》
 石根《イハガネ》 禁樹押靡《サヘキオシナベ》
 坂鳥乃《サカドリノ》 朝越座而《アサコエマシテ》
 玉限《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》
 三雪落《ミユキフル》 阿騎乃大野尓《アキノオホノニ》
 旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》
 草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》
 古昔念而《イニシヘオモヒテ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君、照り輝く日の皇子樣は、神にましますままに貴い御行動を遊ばされるとして、お住みになつている都を出て、かの泊瀬の山は、木立の繁り立つた荒い山道であるのに、岩や、塞いでいる樹を押し伏せて、朝お越えになり、夕方になれば、雪の降る阿騎の大野に、ススキやシノを押し伏せて、旅の宿りをなさいます。昔の事をお思いになつて。
【構成】この歌は、全篇一文であつて、別に段落は無い。
【釋】八隅知之吾大王 ヤスミシシワガオホキミ。既出。ここは輕の皇子をいう。元來天皇についていう語と考えられるが、皇子に對しては、集中、高市の皇子、新田部の皇子、弓削の皇子について云つている。
 高照日之皇子 タカテラスヒノミコ。タカクテル(元赭)、タカテラス(仙)、タカヒカル(代精)。古事記には、倭建の命に對して、「多迦比迦流《タカヒカル》 比能美古《ヒノミコ》 夜須美斯志《ヤスミシシ》 和賀意冨岐美《ワガオホキミ》」(中卷)とある。タカテラスは、このタカヒカルに同じく、高照らすの義で日の修飾語である。高は形容詞、照らす有樣の高大なのをいう。これを天の義とする説のあるは誤である。もし天の義とするならば、高知るに對する太敷くの太を何と解するかというに、これを事物とすることは出來ないのである。ヒノミコは、天つ日のようにある義。日によつて皇子をたたえる。日の御門《みかど》、日の御調《みつき》などの用例である。ヤスミシシワガ大君とこの高照ラス日ノ御子とは、同一の方をいう。ヤスミシシワガ大君である日の御子の意である。この歌では輕の皇子をさし奉つている。以上、(211)全篇の主格。
 神長柄神佐備世須登 カムナガラカムサビセスト。既出。以下の御行動に關する總括的な説明である。
 太敷爲 フトシカス。既出の宮柱太敷キマセバ(卷一、三六)の句で、大敷クを説明した。シカスはシクの敬語法。壯大に御占據になる義。連體形として次の句を修飾している。
 京乎置而 ミヤコヲオキテ。都をさし置いて。この京は、明日香の淨御原の宮か、藤原の宮か不明。
 隱口乃 コモリクノ。泊瀬に冠する枕詞。古事記下卷に「許母理久能《コモリクノ》 波都世能夜肺能《ハツセノヤマノ》」とあり、本集には假字書きに己母理久乃があり、その他、コモリクに、隱口、隱久、隱來、隱國等の文字を當てている。語義については、大和國風土記の逸文に、「長谷郷、古老傳云、此地兩山澗水相來而谷間甚長、故云2隱國長谷1也」とあり、こもれる國の義と解せられる。クは國、處の義。なおこもり國の語は、皇大神宮儀式帳に「許母理國、志多備乃國」とある。外に、泊瀬は、墳墓の地で、人の隱れる處であるからいうとする説があるが、信じがたい。
 泊瀬山者 ハツセノヤマハ。ハツセは、今の初瀬町を中心とする一帶の地域の稱。相當廣範圍にわたつている。この句は、主格であつて、下の荒山道ヲまでに懸かつている。
 眞木立 マキタツ。眞木は、樹木を稱美していう語。立派な木。たとえば松杉檜などのような堂々たる風格の樹木。その木の立てる意で、次の句を修飾する。
 荒山道乎 アラヤマミチヲ。アラは、粗野未開の意をあらわす形容詞。ここは山道の荊棘に蔽われ、熟路となつていないのをいう。ヲは、何々なるが、然るにの意の助詞。
 石根 イハガネ。地に固著せる岩。ガ、助詞。ネは、地中に根據あるを示す語。ガネで接尾語となつている。ネは別語だが、雁ガネの語など合わせ見るべきである。岩が根を張るということ、「石床《いはどこ》の根|延《は》へる門」(卷十(212)三、三三二九)などの云い方がある。
 禁樹押靡 サヘキオシナベ。
   フセキオシナミ(西)
   サヘキオシナベ(若沖)
   ――――――――――
   楚樹押靡《シモトオシナベ》(考)
   禁杖押靡《シモトオシナベ》(古義)
   繁樹押靡《シゲキオシナベ》(古義)
 考に、禁樹を楚樹の誤りとしてシモトと讀んでいるが、楚樹をシモトと讀むべき證も無い。禁の字は、本集に「往時禁八《ユクトキサヘヤ》」(卷十二、三〇〇六)などサヘの音に當てているものがあるので、今しばらく原文のままに、禁樹をサヘキと讀むこととし、障害をする樹木の謂とする。オシナベは押し伏せての意で、籠モヨ(卷一、一)の歌のオシナベテとは違う。この用例には、「不欲見野乃《イナミノノ》 淺茅押靡《アサヂオシナベ》 左宿夜之《サネシヨノ》」(卷六、九四〇)、「賣比能野能《メヒノノノ》 須々吉於之奈倍《ススキオシナベ》 布流由伎爾《フルユキニ》」(卷十七、四〇一六)など多い。この句のオシ靡ベは、石が根禁樹の兩方を處置する。
 坂鳥乃 サカドリノ。山を越える鳥の義で、次句の枕詞となつている。渡り鳥の朝早く山を越える習いのあるをいう。
 朝越座而 アサコエマシテ。皇子の一行の行動である。泊瀬の山は荒い山道なるが石が根禁樹を押し伏せて朝越えたまうと續く文脈である。
 玉限 タマカギル。タマキハル(元赭)、カギロヒノ(考「玉蜻の誤りとする」、攷證等)の諸説があるが、鹿持雅澄、木村正辭によつて、タマカギルに決定した。假字書きの例に、「多萬可妓留《タマカギル》 波呂可爾美縁弖《ハロカニミエテ》」(日本靈異記)、「朝影爾《アサカゲニ》 吾身成《ワガミハナリヌ》 玉垣入《タマカギル》 風所v見《ホノカニミニテ》 去子故爾《イニシコユヱニ》」(卷十一、二三九四)があり、この朝影の歌を「朝影爾《アサカゲニ》 吾身者成奴《ワガミハナリヌ》 玉蜻《タマカギル》 髣髴所v見而《ホノカニミニテ》 往之兒故爾《イニシコユヱニ》」(卷十二、三〇八五)とも書いている。その他、珠蜻、玉(213)蜻※[虫+廷]とも書いている。この枕詞、夕、ほのか、はろか、石垣淵等を修飾するによれば、玉の微妙なる光彩を發つをいうと思われる。當時の玉は、普通貝や石を材料とするものであるから、光り輝くとまでは行かぬらしい。陽炎《かぎろひ》、蜻蛉《かぎろひ》などのカギロヒは、このカギルと同語から出たものなるべく、それらも、ほのかに發する意の名稱と思われる。玉かぎる岩垣淵などの句を作つては、しばしば序詞として使用されている。「珠蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキブチノ》 隱耳《コモリノミ》 戀管在爾《コヒツツアルニ》」(卷二、二〇七)。
 夕去來者 ユフサリクレバ。夕方になれは。サリクレバは、既出、「春去來者《ハルサリクレバ》」(卷一、一六)の條に説明した。朝に泊瀬山を越えて、夕方になつて阿騎の大野に旋宿りをされるよしである。
 三雪落 ミユキフル。ミは美稱の接頭語。當時、冬の頃であつたので、この句を使用している。季節を語る句。
 阿騎乃大野尓 アキノオホノニ。阿騎の野の廣大な感じをあらわしている。
 旗須爲寸 ハタススキ。旗の如く靡いているススキ。積に出たススキである。次の句の小竹と竝べてある。なお集中「皮爲酢寸《ハダススキ》」(卷十、二二八三等)、「波太須酒伎《ハダススキ》」(卷十四、三五〇六等)など、濁音のダを用いているものは、別語と見るべきであろう。
 四能乎押靡 シノヲオシナベ。シノは小竹。但しノは怒の類の字を使用すべきに、能を用いているのは違例である。オシナベは、禁樹押靡のオシナベに同じ。旗すすきや小竹をおし伏せての意である。
 草枕 既出。
 多日夜取世須 タビヤドリセス。旋宿りをされる。セスは動詞爲の敬語法、既出。この句は終止形。
 古昔念而 イニシヘオモヒテ。上の旅宿リセスの理由を説明している。ここにイニシヘというのは、草壁の皇太子の上にいうので、わずかに數年前の事である。
(214)【評語】この長歌は、輕の皇子が、宇陀野においでになることを敍述する部分が發達している。全篇敍事から成つている。最後にただ一句、古思ヒテと、感慨の中心をあきらかにしたのは、一語の力を強くする上に相當效果がある。これは一篇の主題ともいうべきであるが、しかし單に古思ヒテだけでは、漠然として、故の草壁の皇太子の御上を思う心があらわれない。この主題は、反歌に至つてあきらかにされるが、作者が對手としている輕の皇子には、この意があきらかであり、從つてその句の效果をお收めになるであろう。讀者を制限した文藝、少數を目的とした文藝、そういう性質が、古い文學には多量にあつて、これもその一つであることが、自然こういう形を取つてあらわれたのである。歌中「み雪降る」、「旗薄」と、冬季の風物を用いたのは空氣を描く上に有效である。
 
短歌
 
【釋】短歌 タニカ。以下四首に題している。この四首は、前の長歌の反歌であるが、ここに短歌と題したのは、その詩形によるものである。下、五三、一九七、二〇〇、二〇八、二一一、二一四、二一八、二三一等の前にも短歌とある。
 
46 阿騎《あき》の野に 宿る旅人、
 うち靡き 寐《い》も宿《ぬ》らめやも。
 古《いにしへ》おもふに
 
 阿騎乃野尓《アキノノニ》 宿旅人《ヤトルタビビト》
 打靡《ウチナビキ》 寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》
 古部念尓《イニシヘオモフニ》
 
【譯】阿騎の野に宿《やどり》をする旅人は、打ち臥して、眠つていないことでありましょう。昔の事を思うので。
【釋】阿騎乃野尓 アキノノニ。原文もと阿騎乃尓とある。野は怒の類の音であるが、長歌に小竹を四能と書(215)いているから、ここも乃を野の假字に用いたものかも知れない。今は神田本に野の字あるにより、かつは諸家の論に從つて野の字を補つておく。
 宿旅人 ヤドルタビビト。皇子を始め一行の人々を旅人と云つている。
 打靡 ウチナビキ。横臥して眠る有樣を、ウチ靡キと形容したのである。ウチは接頭語、強めるために使われている。
 寐毛宿良目八方 イモヌラメヤモ。イは睡眠の名詞。ヌは、寐る意の動詞。ラメは助動詞ラムの已然形。ヌラメヤモは眠つていようや眠つていないの意で、反語になる。ヤが反語の助詞。一行の人々の眠られないのを推量している句。
 古部念尓 イニシヘオモフニ。長歌の末の、古思ヒテを受けて、往事を思うにと、睡眠しかねる理由を説明する句である。
【評語】反歌の第一首として、まず長歌との連繋を密接にしている。長歌の末の、旋宿リセス、古思ヒテとあるを受け、更に睡眠をしがたいことを敍して、一段と主題に立ち入つている。長歌の敍事中心に事を運んで來たのに對して、總括的な内容を盛つた一首である。
 
47 眞草《まくさ》刈る 荒野《あらの》にはあれど、
 黄葉《もみちば》の 過ぎにし君《きみ》が
 形見とぞ來《こ》し。
 
 眞草苅《マクサカル》 荒野者雖v有《アラノニハアレド》
 葉《モミチバノ》 過去君之《スギニシキミガ》
 形見跡曾來師《カタミトゾコシ》
 
【譯】草を刈り取るような荒野でありますが、ここは、かの黄葉の散りゆくようにお亡くなりなさつた方の形見の地として來たことであります。
(216)【釋】眞草苅 マクサカル。眞草は、立派な草らしい草というほどの意味の語で、眞木と同樣の云い方である。ススキ、カヤなどの堂々たる草。さような草を刈る荒野というのは、實際假屋を作るために草を刈るので、その目前の車實を使つたのである。
 荒野者雖有 アラノニハアレド。荒野は、人が手を入れることもなしに、自然のままに任せてある野。阿騎の野の荒涼たる風光をあらわしている。原文、荒野者雖有とあるので、諸家多くニを讀み添えて、アラノニハアレドと讀んでいる。この讀み添える例は集中に多い。上に「夷者雖v有」(卷一、二九)をヒナニハアレドと讀んだ例がある。
 葉 モミチバノ。原文、葉一字のみである。萬葉代匠記の説に、黄の字を脱したので、モミチバノと讀むべく、過ギニシの枕詞であると見えている。しかしもと黄葉とあつたかは問題であつて、黄の字のある傳本は無いのであるから、黄の字を補わないでおく。集中の文字使い、かならずしも讀むべくあるようにのみは書いていない。訓の一部分のみの文字表元は勿論多く、その中には暗示的な書き方もあつて、これらを誤脱とは定めがたいのである。この句、次の句の枕詞になつているが、その時しも黄葉の散り敷く頃であつたので、これが使用されたのである。
 過去君之 スギニシキミガ。スギニシは、過ぎ去つてしまつたの意で、死んだことをいう。「黄葉乃《モミチバノ》 過伊去等《スギテイユクト》」(卷二、二〇七)、「道爾布斯弖夜《ミチニフ7シテヤ》 伊能知周疑南《イノチスギナム》」(卷五、八八六)などの用例がある。君は草壁の皇太子。
 形見跡曾來師 カタミトゾコシ。カタミは記念物、遣物。この地を記念の地として來たの意。
【評語】前の歌を受けて、阿騎の野に來た理由を説いている。一歩ずつ主題に近づいて行く構成が看取される。「潮氣《しほけ》立つ荒磯《ありそ》にはあれど往く水のすぎにし妹が形見とぞ來し」(卷九、一七九七)は、同型の歌である。
 
(217)48 東《ひむがし》の 野《の》にかぎろひの 立つ見えて
 かへり見すれば 月|傾《かたぶ》きぬ。
 
 東《ヒムカシノ》 野炎《ノニカギロヒノ》 立所見而《タツミエテ》
 反見爲者《カヘリミスレバ》 月西渡《ツキカタブキヌ》
 
【譯】東方の野には、陽炎の立つのが見えて、西方を見ると、月が傾いて山にはいろうとしている。
【釋】東 ヒムカシノ。ヒムカシは東方をいう。日に向かう方の義。東に對して西をニシというは、日の去にし方の義なるべく、そのシは、東のシに通ずるものと考えられる。古事記中卷に、東方に向かつて戰うことについて、「吾者、爲2日神之御子1、向v日而故不v良」とある。筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(古事記上卷)という日向も、東方の義から出た地名である。本集では、「日向爾《ヒムカシニ》 行靡闕矣《ユキナムミヤヲ》」(卷十三、三二四二)の日向など、東方の義に使用されていると考えられる。
 野炎 ノニカギロヒノ。カギロヒは、水蒸氣のちらちらするをいう。朝東方に日が昇ろうとして明るくなつた野の末に、陽炎の動くのが見えるのである。火※[陷の旁+炎]の義とする説もあるが、同じ人麻呂の作品に、「蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラノニ》」(卷二、二一〇)という荒野の敍述があり、陽炎の義とするを可とする。このカギロヒノは、次の句の立ツに對して主格となつている。
 立所見而 タツミエテ。陽炎の立つのが見えて。所は被役の用法。
 反見爲者 カヘリミスレバ、。カヘリミは、後をふり返つて見ること。それをすればの意で、西の方を顧みればになる。
 月西渡 ツキカタブキヌ。西渡をカタブキヌと讀むのは、義訓である。月のまさにはいろうとするのを敍している。
【評語】この一群の歌の構成は、ここに至つて方向を轉じて原野の景を敍している。眠られなかつた一夜は明(218)けて、人々は曉の大觀に立つた。その雄大な情景は、巧みにこの一首に盛られており、また全體の一角としてすこぶる意義の多い位置を占めている。朝の荒野の宿の情景が巧みに描かれている歌である。
  菜の花や月は東に日は西に   蕪 村
この句は、夕方の景であるが、東西の景を一句のうちに入れたところが、趣を同じゆうしている。
 この歌、初二句はわずかに三字を以つて書いてある。字數のすくないという點は、人麻呂集の書き方と共通している。一群のこの歌が人麻呂集から出たものであるかも知れない。上三句は、古くは、アヅマノノケブリノタテルトコロミテと讀まれていた。これを「東の野にかぎろひの立つ見えて」と讀み改めたのは、萬葉考で、まことに名訓というべきである。
 
49 日竝《ひな》みし 皇子《みこ》の尊《みこと》の
 馬《うま》竝《な》めて 御獵《みかり》立たしし
 時し來向《きむ》かふ。
 
 日雙斯《ヒナミシ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》
 馬副而《ウマナメテ》 御※[獣偏+葛]立師斯《ミカリタタシシ》
 時志來向《トキシキムカフ》
【譯】日竝みし皇子樣が、馬を竝べて、遊獵においでになつた、その時節は、今來つたことであります。
【釋】日雙期皇子命乃 ヒナミシミコノミコトノ。ヒナミセシ(元)、ヒナラヒシ(古葉)、ヒニナヘシ(神)、ヒナメセシ(西)、ヒナラメシ(菅)、ヒナメシ(代初)、ヒナメシノ(僻)。ヒナミシミコノミコトは、草壁の皇太子。他の記載では、本集卷の二に「日竝皇子」とあり、續曰本紀卷の一に「日竝知皇子」とあり、粟原寺の鑪盤の銘に、「日竝御宇東宮」とある。天つ日に竝んで天を統治せられる意で、日の竝びてあるの義と思われる。狩谷※[木+夜]齋の古京遺文に、日竝御宇をヒナミシとよんでいるによる。皇太子であつた草壁の皇太子を稱美していう語で、謚號であるかもしれない。ミコトは尊稱、既出(卷一、二九)この句は主格で、御獵立タシシま(219)でに懸かる。
 馬副而 ウマナメテ。既出(卷一、四)。副の字を書いたのは、主なるものに副えての字義から、馬を竝べる意をあらわしたのであろう。
 御※[獣偏+葛]立師斯 ミカリタタシシ。タタシシは既出(卷一、三)。タタシは、立ツの敬語法。下のシは助動詞。狩獵にお立ちになつたの意の連體句。
 時志來向 トキシキムカフ。志は元暦校本による。諸本みな者である。歌意はいずれでも通ずるが、シと強く指摘する方が、歌としてすぐれているので、孤立した異文ではあるが、これを採つた。キムカフは來つて相對する義で、今や皇子の獵にお立ちになつた、その時節になつたというのである。亡き皇子の遺跡に來て、正に時を同じくした感慨を述べている。「春過而《ハルスギテ》 夏來向者《ナツキムカヘバ》」(卷十九、四一八〇)などの用例がある。〔寫眞版注、元暦校本 四八の歌と四九の歌とを續け書きにしている。四九の歌には訓が附してない。時志來向の文字に注意。〕
【評語】この長歌と反歌とは、輕の皇子の阿騎野においでになつて、亡き父皇子の御上を忍ばれることを骨子としている。最後の一首に至つて、日竝みし皇子の尊と御名をあきらかにしてあるのも、全體として統一のある手段である。反歌四首もそれぞれ事を敍し、景を述べ、または感慨を録しているのも、變化があつてよい。日竝みし皇子の命の薨去の際の舍人の挽歌の一に、
(220)  褻衣《けごろも》を時片|設《ま》けていでましし宇陀の大野は思ほえむかも(卷二、一九一)
というのがある。あたかもこの作の伏線となつているかの如き觀がある。人麻呂は、草壁の皇太子の殯宮に奉仕しており、今その遺子である輕の皇子の出遊に御供して無量の感慨があり、ここにこの作を成したので、その代表作の一である。
 
藤原宮之※[人偏+殳]民作歌
 
【釋】藤原宮 フヂハラノミヤ。既出。持統天皇の六年五月より御造營あり、八年十二月に遷居された。耳梨山を背後にした景勝の地で、今日發掘作業が行われ、その規模のすこぶる雄大であつたことが知られる。
 ※[人偏+殳]民 エニタツタミ。※[人偏+殳]は、役に同じ。當時の民、一年に十日間勞役に奉仕するをいう。ここは藤原の宮御造營のために、役に出で立つた民の義である。その民の作つた歌としてあるが、歌の實際を見るに、役民の勞働を見て、ある人の作つた歌で、組織の整美なのを見れば、相當の有識者の作と推察される。その人の名は不明である。柿本の人麻呂の作であろうとする説もあり、それは詞句、思想などによるので、若干の理由のあることであるが、まだ決定するに至らない。
 
50 やすみしし わが大王《おほきみ》、
 高照らす 日の皇子《みこ》、
 荒細《あらたへ》の 藤原が上《うへ》に、
 食《を》す國《くに》を 見したまはむと、
 大宮《おほみや》は 高知らさむと
(221) 神《かむ》ながら 念ほすなへに、
 天地も 寄りてあれこそ、
 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の國の
 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の
 眞木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》を、
 もののふの 八十氏河《やそうぢがは》に
 玉藻なす 浮べ流せれ。」
 そを取《と》ると さはく御《み》民も、
 家忘れ 身もたな知らに、
 鴨じもの 水に浮きゐて、
 わが作る 日の御門に
 知らぬ國 寄り巨勢道《こせぢ》ゆ、
 わが國は 常世《とこよ》にならむ、
 圖負《ふみお》へる 神《くす》しき龜も
 新代《あらたよ》と 泉の河に
 持ち越《こ》せる 眞木《まぎ》の嬬手《つまで》を、
 百《もも》足らず 筏《いかだ》に作り 
(222) 泝《のぼ》すらむ 勤《いそ》はく見れば、
  神《かむ》ながらならし。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 高照《タカテラス》 日乃皇子《ヒノミコ》
 荒妙乃《アラタヘノ》 藤原我宇倍尓《フヂハラガウヘニ》
 食國乎《ヲスクニヲ》 賣之賜牟登《メシタマハムト》
 都宮者《オホミヤハ》 高所v知武等《タカシラサムト》
 神長柄《カムナガラ》 所v念奈戸二《オモホスナヘニ》
 天地毛《アメツチモ》 縁而有許曾《ヨリテアレコソ》
 磐走《イハバシル》 淡海乃國之《アフミノクニノ》
 衣手能《コロモデノ》 田上山之《タナカミヤマノ》
 眞木佐苦《マキサク》 檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》
 物乃布能《モノノフノ》 八十氏河尓《ヤソウヂガハニ》
 玉藻成《タマモナス》 浮倍流禮《ウカベナガセレ》
 其乎取登《ソヲトルト》 散和久御民毛《サワクミタミモ》
 家忘《イヘワスレ》 身毛多奈不v知《ミモタナシラニ》
 鴨自物《カモジモノ》 水尓浮居而《ミヅニウキヰテ》
 吾作《ワガツクル》 日之御門尓《ヒノミカドニ》
 不v知國《シラヌクニ》 依巨勢道從《ヨリコセヂユ》
 我國者《ワガクニハ》 常世尓成牟《トコヨニナラム》
 圖負留《フミオヘル》 神龜毛《クスシキカメモ》
 新代登《アラタヨト》 泉乃河尓《イヅミノカハニ》
 持越流《モチコセル》 眞木乃都麻手平《マキノツマデヲ》
 百不v足《モモタラズ》 五十日太尓作《イカダニツクリ》
 泝須良牟《ノボスラム》 伊蘇波久見者《イソハクミレバ》
 神隨尓有之《カムナガラナラシ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君は、藤原の他に天下を知ろしめし、宮殿はお建てになろうと、神にましますがままにお考えになると共に、天地もお助け申しあげて、近江の國の田上山の、りつぱな檜の用材を宇治川に浮べ流します。それを陸上すると騷ぐ人民も、家を忘れ、身も悉く知らずに、水に浮いていて、(我等の作るりつぱな宮殿には知らぬ國も寄つて來いと思うが、その巨勢路から、わが國は常世になるであろう、甲に圖を負うた不思議な龜も、新しい世と祝つて出て來る。)その泉の川に運び越した、良い木の用材を、筏に作つて、上流へとのぼらせるのであろう、勤勞しているのを見ると、これは神樣の故であるらしい。
【構成】二段から成つている。第一段、玉藻ナス浮ベ流セレまで。藤原の宮造營の企圖から、用材のことに及んでいる。コソを含む獨立文をもつて、前提法をなしている。以下第二段、主として人民の勞役について敍し、最後に作者の感想を添えている。そのあいだ、序詞を以つて御代を賀している。かように二段にはなつているが、第一段から第二段へと、事件の敍述が進行するのであつて、照應等の構成によるものでは無い。
【釋】八隅知之吾大王高照日乃皇子 ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ。既出。この歌では持統天皇。主格句。
 荒妙乃 アラタヘノ。タへは既出。「白妙能《シロタヘノ》」(卷一、二八)。アラタヘへは、手ざわりの荒い織布で、藤の皮の繊維で織つたものをいい、藤の枕詞になる。延喜式大嘗祭式に「麁妙服【神語所謂阿良多倍是也】」、古語拾遺に、織布の註に「古語阿良多倍」とある。
 藤原我宇倍尓 フヂハラガウヘニ。藤原は地名。次の歌には藤井ガ原とある。ガはノに同じく、接續の助(223)詞として使用され、その下方のものが上方のものに所屬することを示す語であるが、ノに比しては、熟語として慣用される語に多く使用される。ガの方が、いわゆるくだけた言葉なのであろう。ウヘは、上の義。原、野などにしばしば使用される。その地上にの意味である。「妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿將v鳴山曾《シカナカムヤマゾ》 高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》」(卷一、八四)、「多可麻刀能《タカマトノ》 秋野乃宇倍能《アキノノウヘノ》 安佐疑里爾《アサギリニ》」(卷二十、四三一九)など、その用例である。
  食國乎 ヲスタニヲ。ヲスクニは、知ろしめす國土。ヲスは食するの敬語で、國土の産物を召しあがる義から、その國土をヲスクニというと思われる。「須賣呂伎熊《スメロキノ》 乎須久爾奈禮婆《ヲスクニナレバ》」(卷十七、四〇〇六)などの用例がある。
 賣之賜牟登 メシタマハムト。メシは、動詞見ルの未然形に、敬語の助動詞スの接續したミスの音の轉じたものである。見の字を使用した例には、藤原の宮の御井の歌に、「見之賜者《メシタマヘバ》」(卷一、五二)とある。また假字書きの例には、「賣之多麻比《メシタマヒ》 安伎良米多麻比《アキラメタマヒ》」(卷二十、四三六〇)、「於保吉美能《オホキミノ》 賣之思野邊爾波《メシシノベニハ》」(同、四五〇九)などある。
 都宮者 オホミヤハ。考にはミアラカハと讀んでいる。ミアラカは、御在處の義で、古語拾遺に、瑞殿の字に註して「古語、美豆能美阿良可」、延喜式、大殿祭祝詞に、「御殿、古語云2阿良可1」、本集に「御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》」(卷二、(224)一六七)とある。またオホミヤは、大御屋の義で、本集に「美與之努能《ミヨシノノ》 許乃於保美夜爾《コノオホミヤニ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 賣之多麻布良之《メシタマフラシ》」(卷十八、四〇九八)とあり、その外、大宮と書いた例は多數ある。そのいずれを採るべきかというに、ミアラカについては、上記、御在香ヲ高知リマシテの用例のあるのは有力であるが、歌詞中にはこの語はただこの一例があるのみであり、一方、都宮と書いた字面も顧慮して、なおオホミヤと讀むべきである。ハは、ヲバの意に使用されている。
 高所知武等 タカシラサムト。タカシラスは既出(卷一、三六)。以上都宮ハ高知ラサムトは、食ス國ヲメシタマハムトに對して、對句を成し、共に竝んで下の思ホスナヘニに懸かつている。
 神長柄 カムナガラ。既出。
 所念奈戸二 オモホスナヘニ。この所の字の用法は、シラスを所知と書く時の所の用法に同じく、敬意をあらわすために使用せられているが、これはもと、何々する所のの、所の用法から出たのであろう。オモホスは、動詞思フの敬語オモハスの音の轉じたもの、キカス(聞かす)がキコス、シラス(知らす)がシロスになる類である。お思いになる。ナヘは、同時の意で、語義は、竝べであるというが、未詳。ナヘニの上の事と下の事とが同時に共に行われるを示す。たとえは、「鶯の音《おと》聞くなへに梅の花|吾家《わぎへ》の苑《その》に咲きて散る見ゆ」(卷五、八四一)は、鶯の音を聞くと、梅の花の散るが見えると、同時に行われるを示す。この歌では、天皇のおぼしめしと同時に、天地の神が寄つて、用材を宇治川に流すのである。
 天地毛縁而有許曾 アメツチモヨリテアレコソ。アメツチは、天地の神靈。その寄りてあるというのは、既出の吉野の宮の歌(卷一 三八)の山川も寄りて奉るというに同じく、心を寄せてあるの意である。アレコソは、「古昔毛《イニシヘモ》 然爾有許曾《シカニアレコソ》」(卷一、一三)のナレコソの語法に同じく、あればこその意である。このコソは係助詞で、下の浮ベ流セレに懸かる。
(225) 磐走淡海乃國之 イハバシルアフミノクニノ。既出(卷一、二九)。以下、天地モ寄リテアレコソの具體的事實を描く。
 衣手能 コロモデノ。コロモデは既出(卷一、五)。この句は枕詞。手に續く。
 田上山之 タナカミヤマノ。田上山は、滋賀縣栗太郡にある山の名。當時森林地帶で良材を産出したものと思われる。正倉院文書に、田上山工作所の名が見え、奈良時代に製材所が置かれてあつた。
 眞木佐苦 マキサク。眞木は既出。立派な木の意。サクは、拆クの意とする説と、幸《さ》クの意とする説とがある。しかしこの語は、「麻紀佐久《マキサク》 比能美加度《ヒノミカド》」(古事記一〇一)、「奔紀佐倶《マキサク》 避能伊陀圖塢《ヒノイタドヲ》」(日本書紀九六、繼體天皇紀)の如き例もあつて、ヒの一音に懸かるものであるから、このヒを檜と解するにおいては、眞木拆く檜と續くとする説は、意味の上からの難點がある。一方、幸ク説は、幸クという動詞の例證は無いが、花の咲くは、その語から出たものとも考えられる。また、日本書紀の訓註に、「幸魂、此云2佐枳彌多摩1」とあつて、幸の意のサキの語のあつたことが知られ、本集にも、「佐久安禮天《サクアレテ》 伊比之氣等婆是《イヒシケトバゼ》」(卷二十、四三四六)の例があつて、副詞幸クの存在したことが知られる。動詞榮ユも、この動詞幸クを根幹とするものであろう。花が咲く、物を裂くなどの動詞サクも、同じ祖語から分化して來たものであろう。「あぢかまの潟に左久奈美」(卷十四、三五五一)のサクは、波についていい、咲くと裂くとに通じるもののあることを語つている。よつてこの句は、眞木幸クの義で、立派な木として榮えるヒノキの意味に、ヒ(檜)の枕詞となつているのであろう。
 檜乃嬬手乎 ヒノツマデヲ。下文には眞木乃都麻手乎とある。ツマは、※[木+瓜]の字の義で、※[木+俊の旁]角のある材木をいう。嬬は借字である。手は、材木には普通枝があるので、附けていうのであろう。檜の嬬手は、檜の製材の義である。
(226) 物乃布能八十氏河尓 モノノフノヤソウヂガハニ。モノノフは、物の部の義で、モノはその掌つて奉仕するものを代名詞ふうに言いあらわした語。古くは文武官のすべてを稱し、その數の多きより、八十の語を引き出すに使う。「物部乃《モノノフノ》 八十乃心叫《ヤソノココロヲ》」(卷十三、三二七六)、「物部能《モノノフノ》 八十※[女+感]嬬等之《ヤソヲトメラガ》」(卷十九、四一四三)など、八十の枕詞としてモノノフノの語が使用されている。この歌にあつては、物の部は、多數の氏あるにより、物の部の八十氏というとすべく、これによつて、宇治川を引き出している。序詞として物の部の八十が使用されているとすべきである。その用例には、「物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木爾《アジロギニ》」(卷三、二六四)、「物部乃《モノノフノ》 八十氏川之《ヤソウヂガハノ》 急瀬」《ハヤキセニ》(卷十一、二七一四)などある。氏河は、普通に宇治川と書かれる川で、琵琶湖から發して山城の國を流れて他の川と合して淀川となる。その上流は、田上山の附近を流れるので、製材をこの川に流し下すのである。
 玉藻成 タマモナス。玉藻、ナス、共に既出。次の句の浮ブの枕詞。藻のようにの意。
 浮倍流禮 ウカベナガセレ。上のアレコソを受けて、已然形で結んでいる。天地の神靂の力によつて、田上山の製材を宇治川に浮べ流しているというのである。以上第一段、天地の奉仕を説く。
 其乎取登 ソヲトルト。以下第二段にはいつて、人民の奉仕を説く。上にいう宇治川に浮べ流した材木を受けてソと云つている。其をソとのみ云う例は、「比登豆麻等《ヒトツマト》 安是可曾乎伊波牟」《アゼカソヲイハム》(卷十四、三四七二)など多い。
 佐和久御民毛 サワクミタミモ。サワクは、川に流して來た材木を取りあげるとてざわめく意である。この語は、今日の騷ぐであるが、集中の用字例、假字書きのものに、左和寸、左和伎、佐和伎、佐和吉、佐和久、散和久、散和口、※[馬+聚]祁などあり、キ、ク、ケにいずれも清音の字を使つているので、古くはこれらが清音であつたことが知られる。御民は、皇民の義に、民の語に接頭語ミを附して使用している。
(227) 家忘 イヘワスレ。わが家の事を忘れて。
 身毛多奈不知 ミモタナシラニ。ミモタナシラズ(元赭)。タナは、「身者田菜不v知《ミハタナシラズ》」(卷九、一七三九)、「身乎田名知而《ミヲタナシリテ》」(同、一八〇七)、「事者棚知《コトハタナシレ》」(卷十三、三二七九)、「許等波多奈由比《コトハタナユヒ》」(卷十七、三九七三)などの用例におけるタナと同じく、すべて、全くなどの意をあらわす接頭語で、タナ引ク、タナ曇ル、タナ霧《ギ》ラフのタナも同語であろう。シラニは既出(卷一、五)。上の家忘レの句と竝んで、下の水ニ浮キ居テに懸かつている。
 鴨自物 カモジモノ。ジモノは、犬ジモノ、鳥ジモノ、鵜ジモノなどの語例におけるが如く、何々の如きものの意に使用される。このジは、體言に接續して、これを形容詞とする性能を有する語で、ジモノの場合は、古い形容詞の活用の如く、ジを以つて連體形となつているものである。また「之寄島能《シキシマノ》 人者和禮自久《ヒトハワレジク》 伊波比※[氏/一]麻多牟《イハヒテマタム》」(卷十九、四二八〇)の我ジク、「此家自【久母】藤原乃卿【乎波】(續日本紀、第二五詔)の家ジクの如く、ジクの形を採つているものも同語であろう。さて鴨ジモノは、鴨の如き物の意で、次句の水ニ浮キ居テに懸かる枕詞である。
 水尓浮居而 ミヅニウキヰテ。宇治川の水に浮んでの意で、材木を取りあげるさまをいう。
 吾作 ワガツクル。我等の造營するの意で、連體形の句。以下、新世トまでの九句は、插入句で、泉ノ河を引き出すための序詞である。その九句の中にも、またこの句から「知らぬ國寄り」までは、巨勢の序詞となつている。その部分は、二重に序詞になつているのである。
 日之御門尓 ヒノミカドニ。古事記下卷、雄略天皇記に「麻紀佐久《マキサク》 比能美加度《ヒノミカド》」(一〇一)とある。日は日輪の義。天皇の宮殿を稱えてヒノミカドという。ミカドは、御門の義であるが、轉じて宮殿の義となり、また朝廷、政府、國家の義となり、また轉じて天皇の義となる。ここは宮殿、朝廷の義。元來この語は、外部か(228)ら皇居を仰ぎ見ていう語で、視聽する所から發する語であつたが、概念の發達により、多種の用法を派生したものである。
 不知國 シラヌクニ。まだ知識に入り來ない國の意。
 依巨勢道從 ヨリコセヂヨリ。コセは地名。今の奈良縣南葛城郡古瀬村の地である。その地名の巨勢を引き出すために、知ラヌ國寄リコセと言い懸けたのである。ヨリコセは、寄リコセで、寄り來よと希望する語法。コセは、希望の助動詞コスの命令形。寄つてほしい。「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》 妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》」(卷九、一六七九)、「許余比太爾《コヨヒタニ》 都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》」(卷十四、三四五四)などのコセの用法に同じ。從は、ユともヨリとも讀まれる。集中の例、一音に讀むべき處にも二音に讀むべき處にも、いずれも多く使用されている。今、七音の句であるから二音に讀むこととする。巨勢に行く道から龜が出るとする文脈である。 我國者 ワガクニハ。この日本の國は。
 常世尓成牟 トコヨニナラム。トコヨは、常世の文字の通り、恒久不變の世界をいう。古事記にしばしば見えており、一の理想郷である。古人がかような國を想像し、これを求めていたことは、常陸國風土記に、常陸の國を稱えて、「いはゆる常世の國とはこれか」と言つているのに依つても知られる。後、神仙思想が入り來るに及んで、神仙の住む世界、仙郷の意に使用されるに至つた。「吾妹兒者《ワギモコハ》 常世國爾《トコヨノクニニ》 住家良思《スミケラシ》 昔見從《ムカシミシヨリ》 變若益爾家利《ヲチマシニケリ》」(卷四、六五〇)、「伎彌乎麻都《キミヲマツ》 麻都良乃于良能《マツラノウラノ》 越等賣良波《ヲトメラハ》 等己與能久爾能《トコヨノクニノ》 阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》」(卷五、八六五)の常世など、その用例である。さて、ワガ國ハ常世ニナラムは、插入句で、巨勢道ヨリ圖負ヘル神シキ龜モ新世ト出ヅの事實を批評している。
 圖負留神龜毛 フミオヘルクスシキカメモ。神龜は、漢籍の洛書の故事による。尚書洪範九疇の孔安國の註に「洛書者、禹治v水時、神龜負v文而出、列2於背1、有v數至v九、禹遂因而第v之、以成2九類1」とある。圖は(229)河圖の類で、天子受命の徴であるという。龜の甲に圖ある不思議の龜である。延喜式の祥瑞のうちに、神龜を大瑞としており、その出るを以つて吉祥とした。當時、巨勢道から、かような龜が出たのであろう。年號の靈龜、神龜、寶龜なども、龜の祥瑞の出現によつて改元されたものである。神は、アヤシとも讀む。クスシの例は「許己乎之母《ココヲシモ》 安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》」(卷十八、四一二五)がある。
 新代登 アラタヨト。古く新の意をアラタという。可惜の患にはアタラである。アラタヨは、新時代の義。龜が新時代として出でたというのである。以上、次の泉(出ヅに懸けてある)の序になつているが、この序を以つて御世を賀する意をあらわしている。而してその序の中に「わが作る日の御門に知らぬ國寄り」はまた巨勢の序をなし、「わが國は常世にならむ」は插入の一文である。今これを書き下せば、〔鴨じもの水に浮き居て『「わが作る日の御門に知らぬ國寄り(來せ)」巨勢路ゆ「わが國は常世にならむ」圖負へる神しき龜も、新代と(出づ)』泉の川に〕となる。
 泉乃河尓 イヅミノカハニ。今の木津川。伊賀の國より發し、山城の國を經て淀川に入る。鴨ジモノ水ニ浮キ居テ泉ノ河ニ持チ越セル眞木ノ嬬手と續く文脈である。宇治川から材木を取りあげて、陸路を經て遠からぬ泉川に持ち來り、今度はそれを筏に組んで溯上させる。それを奈良山に近き地點で揚陸し、奈良山を經て、藤原の宮の造營地に運搬するのである。
 持越流 モチコセル。宇治川から泉川に持ち越したの意。
 眞木乃都麻手乎 マキノツマデヲ。上の眞木サク檜ノ嬬手を約していう。
 百不足 モモタラズ。百に足りない意で、ここは、次の五十の枕詞になつている。「百不v足《モモタラズ》 八十隅坂爾《ヤソスミサカニ》」(卷三、四二七)などの用例がある。
 五十日太尓作 イカダニツクリ。イカダは筏。今度は泉川を溯上させるので、筏に編むのである。
(230) 拆須良牟 ノボスラム。ノボスは溯上させる、のぼらせる。ラムは推量の助動詞。終止形。
 伊蘇波久見者 イソハクミレバ。伊呂波字類抄では、爭競角を、いずれもイソフと讀んでいる。このイソフのイソは、イソグ、イソガシ、イソシ等のイソと同語と見られ、競爭する意の動詞と考えられる。イソハクは、その體言形で、競爭することの義になる。作者が川邊に立つて、筏に作る人民の爭い勵むのを見るのである。
 神隨尓有之 カムナガラナラシ。上の神ナガラ思ホスナヘニを、遙に受けて一首を結んでいる。これが神ながらであると思われるの意。ナラシは、ニアラシの約言。
【評語】藤原の宮の造營につき、天地の感動し、人々の働く状を寫して、人天合一の盛代を祝している。相當手腕ある人の作品であろう。途中に長大の序詞を插入しているので、解釋上疑惑を生じやすく、また敍述の率直を缺く恨みがある。しかしこれによつて御世を賀ぐのは、一の企畫であつて、そこに外來の知識を盛り込んでいるのは、作者の階級を思わしめるものがある。とにかく堂々たる風格の作品ということができる。
 
右日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸2藤原宮地1。八年甲午春正月、幸2藤原宮1冬十二月庚戌朔乙卯、遷2居藤原宮1。
 
右は、日本紀に曰はく、朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原の宮地に幸《い》でましたまひき。八年甲午の春正月、藤原の宮に幸でましたまひき。冬十二月庚戌の朔乙卯の日、藤原の宮に遷り居たまひきといへり。
【釋】朱鳥七年癸巳 アカミドリナナトセミヅノトミノトシ。しばしばいうように、今の日本書紀には朱鳥七年は無く、無年號の七年になつている。
 八年甲午 ヤトセノキノエウマノトシ。同じく無年號の八年である。
 
(231)從2明日香宮1、遷2藤原宮1之後、志貴皇子御作歌
 
明日香《あすか》の宮より、藤原《ふぢはら》の宮に遷《うつ》りましし後、志貴《しき》の皇子《みこ》の作りませる御歌
 
【釋】從明日香宮 アスカノミヤヨリ。明日香の淨御原の宮から。
 遷藤原宮之後 フヂハラノミヤニウツリマシシノチ。諸本に遷の下に居の字があるが、元暦校本に無いのがよい。
 志貴皇子 シキノミコ。天智天皇の皇子、光仁天皇の御父。この系統は、代々歌をよくした。當時、シキノミコと稱せられた方が、天智天皇の皇子にも天武天皇の皇子にもあつたと傳えられている。まず天智天皇の皇子については、日本書紀、天智天皇の七年三月の條、立后の事を記すに附して「又有2越道君伊羅都賣1、生2施基皇子1」とあり、天武天皇の皇子については、日本書紀、天武天皇の二年正月の條、立后の事を記すに附して、「次宍人臣大麻呂女|※[木+疑]《かぢ》姫娘、生2二男二女1。其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基皇女1」とある。以下日本書紀および續日本紀におけるシキノミコに關する記事を拾えは、次の如くで、
ある。
 一、日本書紀
  天武天皇八年五月庚辰朔乙酉
  天皇詔2皇后及草壁皇子尊大津皇子高市皇子河島皇子忍壁皇子芝基皇子1曰、云々。
  朱鳥元年八月己巳朔癸未
   芝基皇子磯城皇子各加2二百戸1。
  持統天皇三年六月壬午朔癸未
(232)  以2皇子施基1(中略)拜d撰2善言1司u
 二、續日本紀
  大寶三年九月辛卯
   賜2四品志紀親王近江國銭穴1。
  同冬十月丁卯
   四品志紀親王、爲2造御竃長官1。
  慶零元年正月丁酉
   二品長親王舍人親王穂積親王三品刑部親王益2封各二百戸1。三品新田部親王四品志紀親王各一首戸。
  慶雲四年六月壬午
   以2三品志紀親王(中略)等1、供2奉殯宮事1。
 これに次いで寶龜二年八月に志貴の親王薨去の記事がある。以上のうち、文字の同一なのをまとめれば、日本書紀の記事について、天武天皇紀に、皇子出生の條、竝に朱鳥元年八月の條に「磯城皇子」とあるを、同一人と見るが至當であり、よつて、天智天皇紀の皇子出生の條に、「施基皇子」、天武天皇八年五月、朱鳥元年八月の條に、「芝基皇子」、持統天皇三年六月の條に「皇子施基」とあるをまた同一人と見るを至當とする。而して磯城は訓讀文字であり、施基、芝基は字音假字である。また續日本紀においては、「志紀親王」「志貴親王」の文字が使用せられ、その位階も順次昇進しており、これも同一人であると考えられ、その薨去の條には天智天皇の皇子であることが明記されている。これによれは、天武天皇の皇子に磯城の皇子がいましたとしても、その事蹟として見るぺきは、朱鳥元年八月の條のみであつて、しかも朱鳥元年八月加封の際は、天武天皇八年五月の條に擧げられている六皇子にそれぞれ加封があつたもので、その以外のはただこの磯城の皇子のみであ(233)るから、この記事は、何かの混雜があるものと思われる。その他の記事はすべて天智天皇の皇子の志貴の皇子に關するものと考えられる。さて萬葉集には八出しているが、うち、「志貴皇子」とあるもの、七、「志貴親王」とあるもの一で、シキの音には、みな志貴の文字が使用せられている。これまた同一人と見る外無く、その場合、文字使用の上からしても、天智天皇の皇子とするのが順當である。なおこの皇子の薨去の年月についても問題があるが、これについては、これに關する歌(卷二、二三〇)の條に記すこととする。ここの歌は、都うつしの後、たまたま舊都に來て詠まれたのであろう。
 
51 釆女《うねめ》の 袖吹きかへす 明日香《あすか》風、
 都《みやこ》を遠み いたづらに吹く。
 
 ※[女+采]女乃《ウネメノ》 袖吹反《ソデフキカヘス》 明日香風《アスカカゼ》
 京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》 無用尓布久《イタヅラニフク》
 
【譯】この地に都のあつた時分は、采女の袖を吹いた飛鳥の地の風が、都が遠くなつたので、采女の袖を吹くこともなく、むだに吹いている。
【釋】※[女+采]女乃 ウネメノ。采女は、諸國の郡の少領(副郡長に當る)以上の姉妹子女の容姿端正なものを貢せしめて、供御に使うもの。日本書紀允恭天皇の紀四十二年十一月の條に「冬十一月、新羅弔使等、喪禮既※[門/癸]而還之、爰新羅人恒愛2京城傍耳成山畝傍山1、則到2琴引坂1、顧之曰、宇泥※[口+羊]巴椰、彌彌巴椰。是未v習2風俗之言語1、故訛2畝傍山1謂2字泥※[口+羊]1、訛2耳成山1謂2彌彌1耳。時倭飼部從2新羅人1、聞2是辭1而疑之、以爲新羅人通2釆女1耳。乃返之、啓2于大泊瀬皇子1。皇子則悉禁2固新羅使者1而推間。時新羅使者啓之曰、無v犯2采女1。唯愛2京傍之兩山1而言耳。則知2虚言1皆原之」とあり、これによつて采女をウネメと言つたことが知られる。ウネメの語義は未詳であるが、元來天皇に奉仕する女性を地方から貢進する儀があり、後成文化するに及んで、釆(234)女の文字が當てられるに至つたものと考えられる。采女の文字は後漢に始まると傳えられる。わが國においては、日本書紀孝徳天皇紀に「凡采女者、貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1」とあり、その性質が知られる。原文※[女+采]女とあるは、采女と書くべきを、采に女扁をつけたものである。この※[女+采]の文字は、佛教の經典にしばしば見える字で、金光明最勝王經にも見える。宮女の意の字である。本集卷の四に駿河の※[女+采]女とあり、古事記、正倉院文書等にも見えている。この句は領格で、采女の袖と、次句に續く。
 袖吹反 ソデフキカヘス。次の明日香風の修飾句。袖を吹き反すのを習性としている意である。
 明日香風 アスカカゼ。飛鳥の地を吹く風。佐保風、泊瀬風等の例がある。明日香は地名、飛鳥に同じ。飛ぶ鳥のアスカというより、飛鳥と書いてアスカと讀ませるのは、春日のカスガというより、カスガの地名に春日と書くと同樣である。
 京都乎遠見 ミヤコヲトホミ。藤原の京に遷都して、この明日香の里は京都に遠くなつたのでの意。心ヲ痛ミ、山ヲ茂ミなどと同樣の語法。
 無用尓布久 イタヅラニフク。イタヅラニは、何の用にも立たずに。むだに。美人の袖を吹き飜すことも無いので、むだに吹いているの意である。
【評語】舊都の荒れたのを悼んだ歌は多いが、これは采女などの徘徊することもなくなつて、ただ風のみ昔のままに吹いていると歌つている。大津の宮を悼んだ歌には、壬申の年の悲劇を悲しむ情が強いが、飛鳥の京の棄てられたのは、藤原に新造の大宮ができたためで、悲痛な哀傷の情を伴なわない。この歌の、悼みながら明るい歌である所以である。詞句の美しい歌である。
 
藤原宮御井歌
 
(235)〔釋〕藤原宮御井歌 フヂハラノミヤノミヰノウタ。井は、飲料に供すべき清水を湛えてある處で、川にも池にもいい、また堀井、筒井など、今日いう井戸の類をもいう。古人は、井については深い信仰を有し、神靈の宿る處と考えていた。井のある處に宮殿は造營せられ、村邑は發達する。神話、傳説は、井に關して語り傳えられ、物語、歌謡は、水汲みに集まる人々に依つて傳えられた。ここにいう藤原の宮の御井は、歌詞によるに、埴安の池の一角であつて、すぐれた景勝のもとに、清らかな水を湛えていたのでる。これを他に求める説のあるのは不可である。この歌も、左註にもあるように、作者未詳であるが、藤原の宮の役民の歌と同じく、相當手腕のある有識階級者の作と考えられる。
 
52 やすみしし わご大王
 高照らす 日の皇子、
 荒細《あらたへ》の 藤井が原に
 大御門《おほみかど》 始めたまひて、
 埴安《はにやす》の 堤の上に
 あり立たし 見《め》したまへば、
 大和の 青香具山は、
 日の經《たて》の 大御門に
 春山と 繁《しみ》さびたてり。
 畝火《うねび》の この瑞山《みづやま》は、
(236) 日《ひ》の緯《よこ》の 大御門に、
 瑞山と 山さびいます。
 耳高の 青菅山《あをすがやま》は、
 背面《そとも》の 大御門に、
 宜《よろ》しなへ 神《かむ》さび立てり。
 名ぐはし 吉野の山は、
 影面《かげとも》の 大御門ゆ
 雲居にぞ 遠くありける。」
 高知るや 天の御蔭《みかげ》、
 天知るや 日《ひ》の御影《みかげ》の
 水こそは 常にあらめ。
 御井の清水。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王《ワゴホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 麁妙乃《アラタヘノ》 藤井我原尓《フヂヰガハラニ》
 大御門《オホミカド》 始賜而《ハジメタマヒテ》
 埴安乃《ハニヤスノ》 堤上尓《ツツミノウヘニ》
 在立之《アリタタシ》 見之賜者《メシタマヘバ》
 日本乃《ヤマトノ》 青香具山者《アヲカグヤマハ》
 日經乃《ヒニタテノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 春山跡《ハルヤマト》 之美佐備立有《シミサビタテリ》
 畝火乃《ウネビノ》 此美豆山者《コノミヅヤマハ》
 日緯能《ヒノヨコノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 弥豆山跡《ミヅヤマト》 山佐備伊座《ヤマサビイマス》
 耳高之《ミミタカノ》 青菅山者《アヲスガヤマハ》
 背友乃《ソトモノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 宜名倍《ヨロシナヘ》 神佐備立有《カムサビタテリ》
 名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシノノヤマハ》
 影友乃《カゲトモノ》 大御門從《オホミカドユ》
 雲居尓曾《クモヰニゾ》 遠久有家留《トホクアリケル》
 高知也《タカシルヤ》 天之御蔭《アメノミカゲ》
 天知也《アマシルヤ》 日之御影乃《ヒノミカゲノ》
 水許曾婆《ミヅコソハ》 常爾有米《ツネニアラメ》
 御井之清水《ミヰノシミヅ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君は、藤井が原に、大宮をお始めになつて、埴安の池の堤の上に、お立ちになつて御覽になれば、天の香具山は、東方の御門に、春の山と木立が繁く森々として立つている。畝傍の瑞々しい山は、西方の御門に、瑞山と、山の威徳を備えて立つている。耳高の山スゲの青い山は、北方の御門に、よろしくも、神のけはいに立つている。名のよい吉野の山は、南方の御門から天の一方に遠くあつた。この立派な宮殿の水こそは永久にあるであろう。この御井の清水は。
(237)【構成】埴安の池の堤の上に立つて、天皇の御覽になつた光景を描く形で歌つている。この點、三八の吉野の宮の歌と同じ構想である。以下その光景を東西南北の四方に分けて、對句の樣式を以つて敍している。第一段、遠クアリケルまで、井を圍む四方の山々を敍し、以下第二段で、總括的に御井を稱えている。布置整然たる作品である。
【釋】八隅知之和期大王高照日之皇子 ヤスミシシワゴオホキミタカテラスヒノミコ。既出。但しこの歌では、和期大王と書いてある。これは本來ワガオホキミであるが、歌われる時にガとオとが結合して、ゴーと聞えるのを、そのままに寫したものであるが、漢字による音韻表示では、ゴーという表示が困難であるから、かような文字表示となつたものである。それ故に厳密にいえば、ガがゴに轉じたものでは無い。ガとオとが結合してゴーとなつたものである。かような書き方は古事記日本書紀には無く、續日本紀、聖武天皇の御製に「夜須美斯志《ヤスミシシ》 和己於保支美波《ワゴホキミハ》」とある。本集には「和期於保伎美《ワゴオホキミ》 余思努乃美夜乎《ヨシノノミヤヲ》 安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》《卷十八、四〇九九》のほか、和基大王一、都期大王六、和期大皇二、吾期大王一である。ただしこれを以つて、この歌が歌われたとする證明にはならない。ただこの句が、歌われた歌から來ていることを語るだけである。ワガオホキミと書いたものは、その歴史的表記法で、讀む時には、ワゴーホキミと讀んだのだろう。於によつてオの長音を表記する例は、琴歌譜の譜中に見られる。主格句。持統天皇をさす。
(237nに略図有り、三山、藤原の宮、吉野山などを描いて、明日香川が畝火山と香具山の中間やや畝火山よりから點線を派出して香具山西北麓の埴安の池につながつている。「點線は當時の明日香川想定圖」の説明有り。)
(238) 麁妙乃 アラタヘノ。既出(卷一、五〇)。枕詞。
 藤井我原尓 フヂヰガハラニ。藤原の地をここには藤井が原と言つている。御井の歌であるからこの名を併用したのであろう。
 大御門 オホミカド。オホは雄大性を稱美する形容詞。ミカドは既出(卷一、五〇)。ここは宮殿の意。
 始賜而 ハジメタマヒテ。御創始になつて。
 埴安乃 ハニヤスノ。香具山の西麓の地名。當特大きな池があつた。山常庭(卷一、二)の歌參照。
 堤上尓 ツツミノウヘニ。ツツミは、水を包んでいる土地。ここには池の語は省略されているが、埴安の池の堤である。ツツミは、人工によるものでなくてもいう。
 在立之 アリタタシ。アリは存在を意味する動詞で、接頭語として他の動詞に冠して使用されている。本集には、アリ通フ、アリ去ル、アリタモトホル、アリ慰ム、アリ隻《な》ム、アリ待ツ、アリ廻《めぐ》ル、アリ渡ルなどの用例がある。タタシは、立ツの敬語法。お立ちになつて。
 見之賜者 メシタマヘバ。メシは、既出(卷一、五〇)。見ルの敬語法。ここは御覽になるの意に使用している。この語、古くはミスと云つたものなるべく、常陸國風土記に「和乎彌佐婆志理之《ワヲミサバシリシ》」がある。本集には敬語法のミスの假字書きは無く、メスの假字書きは、「美與之努《ミヨシノノ》能 許乃於保美夜爾《コノオホミヤニ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 賣之多麻布良之《メシタマフラシ》(卷十八、四〇九八)などあるが、いずれも卷の十八以後のみであるから、古くはミスと言つたかも知れない。以上前提句で、以下の御覽になつた結果の敍敍を起している。
 日本乃 ヤマトノ 日本の字は既出(卷一、四四)。ヤマトは、もと大和の國の東方山嶽地方をいう。ここはその狹義の用法であつて、香具山の所在を示している。
 青香具山者 アヲカグヤマハ。アヲは文字通り青の義。形容詞で、香具山の青々と茂つているのを稱えて(239)いる。
 日經乃 ヒノタテノ。この次に日の緯の語が出てくる。漢籍の周禮の天官の疏に、「南北の道」、謂2之經1、東西之道、謂2之緯1、」とある。然るに、日本では、太陽の通路を標準にして縦横を定める。日本書紀の成務天皇の卷に、「因以2東西1爲2日縱1南北爲2日横1山陽曰2影面1山陰曰2背面1」とある。經は縱で、緯は横だから、漢籍と日本とでは、經緯が逆になつている。また高橋氏文の佚文に、「日竪日横陰面背面乃諸國人乎割移天」とある。この文では、日竪日横を、東と西との意に使つているようである。今のこの歌の日の經も、實際の地形上、東方をさすものであるから、高橋氏文のと、同じ使いざまと見える。
 大御門尓 オホミカドニ。ここのミカドは、宮殿の御門をいう。
 春山跡 ハルヤマト。春山として。
 之美佐備立有 シミサビタテリ。シミは、繁茂の意の古語。「烏梅乃花《ウメノハナ》 美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》 安里登母也《アリトモヤ》」(卷十七、三九〇二)の用例がある。この語の重語と考えられるものに、シミミがある。サビは既出(卷一、三八)。サビは體言について動詞とするもので、その體言の性能を發揮するをいう。神サブ、男サブ、孃子《をとめ》サブ、丈夫《ますらを》サブなど例がある。この歌にも山サビの例がある。森々として繁茂の状態で立つている意。 畝火乃此美豆山者 ウネビノコノミヅヤマハ。コノは畝火山を指摘している。ミヅは、生々として嘉氣あるをいう。瑞穂、瑞枝、瑞籬な(240)ど、多く植物性の物に附していうが、また、瑞寶、瑞玉盞などともいう。ここは山の生々としているのを稱えていう。
 日緯熊 ヒノヨコノ。ヒノヌキノ(元墨)、ヒノヨコノ(考)。日の經の條にいう如く、西方をいう。
 弥豆山跡 ミヅヤマト。ミヅヤマは、上の美豆山とあるに同じ。瑞山として。
 山佐備伊座 ヤマサビイマス。山としての性能を發揮している意。イマスは、存在を意味する敬語の動詞。
 耳高之 ミミタカノ。
   ミミタカノ (元朱)
   ――――――――――
   耳爲之《ミミナシノ》(考)
   耳無之《ミミナシノ》(古義)
 高は爲の字の誤で、ミミナシノと讃み、耳梨山をいうといわれている。いかにも山は耳梨に相違ないが、ミミナシの語意は、平野の中に耳のような形を成している山の意であるとすれは、これをミミタカと言わないとも限らない。しいて文字を改めるには及ばない。耳高の語は、出雲の國造の神賀詞に、馬について「振立【流】耳【能】彌高【爾】」と見えている。耳梨山の山名は、日本書紀には耳成、耳梨の字を使用し、本集では耳梨、無耳の字を使用している。多分耳成が正字で耳を成している義であろう。そうすれは耳高も縁の無い語では無くなる。
 青菅山者 アヲスガヤマハ。アヲは、青香具山の青に同じ。スガはヤマスゲで、熟語となる時にスガの形を取る。「阿多良須賀波良《アタラスガハラ》」(古事記六五)などある。青々として山菅の生えている山はの意。
 背友乃 ソトモノ。日の經の條に擧げた成務紀の文に山陽を影面《かげとも》といい、山陰を背面【そとも】というとある。山を中心として、日の當る方が南面で影面といい、日の當らない北方を背面という。ソトモはソツオモで、背の方の面の義である。それで、山を中心としないでも北方を背面といい、南方を影面というのである。背友の友は借字、トモの音をあらわすだけである。
(241) 宜名倍 ヨロシナヘ。よい具合に。好都合にの意の副詞。ナヘは、既出の思ホスナヘニのナヘと同じであろう。「之可禮許曾《シカレコソ》 神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》 與呂之奈倍《ヨロシナヘ》 此橘乎《コノタチバナヲ》 等伎自久能《トキジクノ》 可久能木實等《カクノコノミト》 名附家良之母《ナヅケケラシモ》」(卷十八、四一一一)、「宜名倍《ヨロシナヘ》 吾背乃君之《ワガセノキミガ》 負來爾之《オヒキニシ》」(卷三、二八六)など使用例がある。
 神佐備立有 カムサビタテリ。カムサブは既出(卷一、三八)。耳梨山が神山として立つている意である。山に神さぴというは、富士山、立山、生駒山など、例が多い。
 名細 ナグハシ。クハシは、精妙なる意の形容詞。クハシ女《め》、クハシ矛《ほこ》などいう。ここは名のりつぱなの意。「名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミネノシマノ》」(卷二、二二〇)、「名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》」(卷三、三〇三)。形容詞は、古くは、シの形を以つて連體形としたので、この句は、次の句に對する連體形の句である。
 影友乃 カゲトモノ。背面の條にいう如く、南方をいう。カゲツオモの約で、日の當る方の面である。カゲは光をいう。
 大御門從 オホミカドユ。前の三山は近い山だから大御門にといい、吉野は遠いからユを用いて、分けてある。南方の大御門を通しての意。
 雲居尓曾 クモヰニゾ。ヰは接尾語。動かない雲を雲居という。遠方の意。
 遠久有家留 トホクアリケル。上のゾを受けて連體形で結んでいる。以上第一段。
 高知也 タカシルヤ。タカシルは既出。建築物の高く聳え立つ意をあらわす。ヤは拍子詞で、感動の助詞の一種。「おしてるや難波」「天なるや月日の如く」 の如く連體法につく。「石見のや高角山」の如き例のヤも同樣である。かようなヤは、歌われる場合に添えて歌うので、文筆に記録する場合には、多く省略される。それが文筆作品になるに及んで、五音七音に一句の音數を整理するために、助詞として登場したのである。高知ル天ノ御蔭の意に、次の句に續く。天を修飾する。
(242) 天之御蔭 アメノミカゲ。天から隱れるところの義で、宮殿をいう。祈年祭の祝詞に、「皇神《すめがみ》の敷《し》き坐《ま》す下つ磐板《いはね》に、宮柱|大《ふと》知り立て、高天《たかま》の原に千木《ちぎ》高知りて、皇御孫《すめみま》の命《みこと》の瑞《みづ》の御舍《みあらか》を仕へ奉りて、天の御蔭日の御蔭と隱り坐して」云々とある。
 天知也 アマシルヤ。天知ルは、高く聳える形容。次句の修飾句。ヤは高知也の條參照。
 日之御影乃 ヒノミカゲノ。日から隱れる處の宮殿の意。天之御蔭の條參照。
 水許曾婆 ミヅコソハ。御井の水、すなわち埴安の池の水を提示している。この宮殿の井の水はと、コソを以つて強く提示している。
 常尓有米 ツネニアラメ。
   ツネニアルラメ(神)     
   トキハニアラメ(神朱)
   トコシヘナラメ(考)
   ツネニアラメ(※[手偏+君])
   ――――――――――
   常磐爾有米《トキハニアラメ》(古義)
 水の恒久にあるべきことを云つて、この宮の久しく榮えることを祝つている。メはムのコソを受けた終止法である。
 御井之清水 ミヰノシミヅ。最後に、更に御井の清水を擧げて、一篇を統制している。
【評語】 この歌は、一篇の構成が整美を盡している。今その句法を表示すれは次の通りである。ミヰノシミヅハ(僻)、ミヰノマシミヅ(考)などの訓があるが、しいて七音にしないでもよい。
(前提部)やすみししわご大王、高照らす日の皇子、荒栲の藤井が原に、大御門始めたまひて、埴安の堤の上に、あり立たし見したまへば、
(243)(敍述部)〔四行の上に括弧〕
  大和の青香具山は、日の經の大御門に、春山と繁さびたてり。
  畝火のこの瑞山は、日の緯の大御門に、瑞山と山さびいます。
  耳高の青菅山は、背面の大御門に、よろしなへ神さび立てり。
  名ぐはし吉野の山は、影友の大御門ゆ、雲居にぞ遠くありける。
(感想部)高知るや天の御蔭
     天知るや日の語影(二行に括弧)の水こそは常にあらめ、御井の清水。
 一篇の結構、實に雄大に堂々としている。漢籍の賦の影響を受けて、宮殿の景勝をほめたものと思われるが、四方の山の美を稱えて、その中の水に云い來つたところは、大手腕である。三方に近い山をいい、最後に南方吉野の遠山を點出し來つたのも、活力がある。この歌、藤原の宮の四山の美を描くのに、作者が見る所と云わずに、天皇が御覽になれは云々と云つているのは、一つの手段であつて、人麻呂の吉野の宮での歌の一つにもこれが出ている。山の如き自然物がその性を盡して、奉仕する意味で、歌として荘重を加える所以である。
 
短歌
 
【釋】短歌。右の藤原の御井の歌の反歌である。
 
53藤原の  大宮|仕《つか》へ、
 生《あ》れ着くや  孃子《をとめ》が伴《とも》は、
(244) ともしきろかも。
 
 藤原之《フヂハラノ》 大宮都加倍《オホミヤツカヘ》
 安禮衝哉《アレツクヤ》  處女之友者《ヲトメガトモハ》
 乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》
 
【譯】藤原の宮の宮仕えに、生れてくる孃子の人々はうらやましいことである。
【釋】大宮都加倍 オホミヤツカヘ。藤原の宮に奉仕すること。名詞の句であつて、主題を提示している。「内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤツカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》(卷十三、三二三四)の用例がある。
 安禮衝哉 アレツクヤ。
   アレツケヤ(神) 
   アレツクヤ(古義)
   アレツガム (美)
   ――――――――――
   安禮衝武《アレツガム》(僻)
哉を武の誤とし、また原文のままに、共にアレツガムと讀む説があるが非である。哉をムと讀むことが無理であることは、既に「吾代毛所v知哉《ワガヨモシルヤ》」(卷一、一〇)の項に説明した。また衝の字は清音のツクであり、これを繼グの義に用いたとするも無理である。このままにアレツクヤと讀むべきである。アレツクは、「八千年爾《ヤチトセニ》 安禮衝之乍《アレツカシツヅ》 天下《アメノシタ》 所v知食跡《シラシメサムト》」(卷六、一〇五三)の用例があり、生れ著くの義で、この世に生まれ到る意と解せられる。ヤは感動の助詞。上記の「吾代毛所知哉」の句のヤに同じ。この句は、連體形の句で、次の處女ガ友を修飾する。
 處女之友者 ヲトメガトモハ。トモは、人々の意。多數の人をいう。マスラヲノ伴、佞人ノ伴などの用例がある
 乏吉呂賀聞 トモシキロカモ。諸本に乏吉召賀聞に作つているが、田中道麻呂の説に乏吉呂賀聞の誤とするによる。但し召は元暦校本等には呂に作つている。トモシはうらやましい意の形容詞。ロは意味無しに使(245)われる接尾辭である。微能佐加理※[田+比]登《ミノサカリビト》 登母志岐呂加母《トモシキロカモ》」(古事記九六)、「多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカム》」(卷五、八一三)などの用例がある。
【評語】宮仕の人々のふるまいをうらやましいものと見ている。宮仕えのために生まれ來る孃子の伴というのは、主として諸國から上つて來る釆女たちをさしているのであろう。長歌では主として藤原の宮の自然美を描いたから反歌ではこれを補つて、人間の美を描くのである。
【參考】井を詠んだ歌の數首。
  山の邊《べ》の御井《みゐ》を見がてり神風《かむかぜ》の伊勢孃子《いせをとめ》どもあひ見つるかも(卷一、八一)
  落ち激《たぎ》つ走井《はしりゐ》の水の清くあれば廢《す》てては吾は去《ゆ》きがてぬかも(卷七、一一二七)
  馬酔木《あしび》なす榮えし君が掛《ほ》りし井の石井《いはゐ》の水は飲めど飽かぬかも(同、一一二八)
  春霞井の上《へ》ゆ直《ただ》に道はあれど君に逢はむとたもとほり來《く》も(同、一二五六)
  葛飾《かつしか》の眞間《まま》の井を見れば立ちならし水汲ましけむ手兒奈《てこな》し思ほゆ(卷九、一八〇八)
  山の邊の五十師《いし》の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(卷十三、三二三五)
  鈴が音《ね》の驛馬驛家《はゆまうまや》の包井《つつみゐ》の水を賜へな妹が直《ただ》手よ(卷十四、三四三九)
  もののふの八十孃子等《やそをとめら》が汲《く》み亂《まが》ふ寺井の上《うへ》の堅香子《かたかご》の花(卷十九、四一四三)
 
右歌、作者未v詳
 
右の歌は、作者いまだ詳ならず
【釋】右歌 ミギノウタ。前の藤原の宮の御井の歌の長歌、および短歌をさして、その作者の知られないことを註している。
 
(246)大寶元年辛丑秋九月、太上天皇、幸2于紀伊國1時歌
 
大寶元年辛丑の秋九月、太上天皇の、紀伊の國に幸《い》でましし時の歌
 
【釋】大寶元年 ダイホウノハジメノトシ。文武天皇の五年三月、元を立てて大寶という。これより前にも年號を立てたことはあつたが、しばしは中斷せられて無年號の年もあつた。大寶より後は、引き續いて年號を定められ、無年號の年は無くなつた。これから下は、文武天皇の御代の歌と推考される。元來本卷には、何々宮御宇天皇代の標目を掲げて歌を記載する例であつたが、ここに至つて年號を以つてこれに代えている。またこれから以下、多く左註によつて作者を記しているのも、前の記載法と相違する所である。思うにこれよりして別の資料によるものがあるのであろう。以下或る本の歌を加えれば三首の題である。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。御孫なる文武天皇に讓位して、太上天皇としてましました。太上天皇は、漢土で皇帝の父を太上皇というに始まる。正倉院文書に帝上天皇と書いたもの(天平勝寶九歳五月二日生江臣家道女等貢經文)があつて、字音でも讀んだことが推知される。
 幸于紀伊國時歌 キノクニニイデマシシトキノウタ。この時のこと、續日本紀には、大寶元年九月十八日の條に、「天皇幸2紀伊國1、」十月八日「車駕至2武漏温泉1、」十九日「車駕自2紀伊1至」とあつて文武天皇の行幸を傳えている。この時の歌は、卷の二、卷の九にも載せているが、卷の九には「大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇、幸2紀伊國1時歌」と題し、持統太上天皇、文武天皇御同列での行幸および御幸であつたことが知られる。
 
54 巨勢山《こせやま》の  つらつら椿、
(247) つらつらに 見つつ思《しの》はな
 巨勢《こせ》の春野を。
 
 巨勢山乃《コセヤマノ》 列々椿《ツラツラツバキ》
 都良々々尓《ツラツラニ》 見乍思奈《ミツツシノハナ》
 許湍乃春野乎《コセノハルノヲ》
 
【譯】巨勢山の竝んで生えているツバキ、よく見ながら思い見たいものです。巨勢の春野のありさまを。
【釋】巨勢山之 コセヤマノ。巨勢は既出(卷一、五〇)。奈良縣南葛城郡の地名。藤原の京から紀伊の國に赴く通路に當る。
 列々椿 ツラツラツバキ。ツラツラは、列なつていることをいう語であるが、同時に、ツバキの葉の光澤があつて光つていることにも懸けていうと思われる。ツバキの語も光澤のある葉の樹の義であつて、ツラにもさような意味があるものであろう。以上二句、この歌の中心を成す句であるが、これを序に利用して、次のツラツラニを引き出すに役立てている。
 都良々々尓 ツラツラニ。心をこめて十分に視る有樣にいう副詞。新撰字鏡に、「※[目+鳥]、熟視也、豆良々々彌留」とあり、本集に、「
アシヒキノヤツヲノツバキツラツラニミトモアカメヤウヱテケルキミ」(卷二十、四四八一)とある。
 見乍思奈 ミツツシノハナ。ミツツオモフナ(元)、ミツツオモハナ(攷證)、ミツツシヌバナ(古義)。オモフナのナは、感動の助詞であつて、「阿斯用由久那《アシヨユクナ》」(古事記三六)、「吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》」(卷十四、三三六二)の如き用例があるが、多くは助動詞ムに接續して、戀ヒムナの如き形を採つており、動詞にただちに接續する例は、右に擧げた以外には見當らない。この訓による時は、現にツバキを見つつ、春野の景色を愛賞することであるの意になる。またシノハナの訓につけば、ナは希望の助詞となり、思慕したいものだの意味になる。これによれは旅行の出發に當つて、巨勢の野を通過することを豫定して詠んだことになる。ナを感動の助詞とす(248)ることは、この集の用例が稀少であるから、今シノハナとするによる。思は、オモフともシノフとも讀まれるが、春野を愛賞し思慕する意については、シノフと讀む方が適切である。
 許湍乃春野乎 コセノハルノヲ。コセは、初句の巨勢に同じ。四句のシノフの目的格としてこの句を置いている。短歌の末句が、何々ヲで留まる場合、そのヲは、古くは感動の助詞として使用されるのが通例であるが、この歌に至つては、目的格を示す助詞としての性格が濃厚となり、しかも一面には、なお感動の意の殘つていることが看取される。過渡的な使用法というべきである。
【評語】同音韻を利用した詞句のなめらかさは、全くすばらしい。躍動的な快調子が漲つている。秋の歌であつて、春にあこがれを感じている。あかるい内容の歌である。九月の御幸の歌であつて、しかも歌中春季に係けているので、ここの題詞を誤りとする説もある。しかしこのままでよく理解されるのである。
 
右一首、坂門人足
 
【釋】坂門人足 サカトノヒトタリ。傳記未詳。饒速日の命の天降の時に從い降つた神の子孫であるという。「うましものいづく飽かじを尺度等《さかとら》が角のふくれにしぐひあひにけむ」(卷十六、三八二一)という兒部《こべ》の女王の歌の尺度も、同氏であろう。
 
55 朝裳《あさも》よし 紀人《きびと》ともしも。
 亦打山《まつちやま》  行來《ゆきく》と見らむ
 紀人ともしも。
 
 朝毛吉《アサモヨシ》 木人乏母《キビトトモシモ》
 亦打山《マツチヤマ》 行來跡見良武《ユキクトミラム》
 樹人友師母《キビトトモシモ》
 
【譯】 この紀伊の國の人はうらやましいなあ、亦打山を行く時にも見、來る時にも見ているだろうが、この紀(249)伊の國の人はうらやましいなあ。
【釋】朝毛吉 アサモヨシ。集中、麻毛吉一、麻裳吉一、朝毛吉二、朝裳吉二の例がある。アサモは、アサに朝の字を書いたものは、朝、裳を着るということに興味をもつているだろう。また麻の字をあてたものは、材料について感じているだろう。ヨシは、青丹吉(卷一、一七)の條に説いたように、語原は感動の助詞であり、轉じて、佳良の意味の形容詞として考えられるに至つたものであろう。アサ裳、それを著るという意味に、キの枕詞となる。
 木人乏母 キビトトモシモ。キビトは紀の國の人。難波人、宇治人、東人、阿陀人、須磨人、奈良人、飛驛人などいう例である。トモシはうらやましい意の形容詞。モは感動の助詞。句切。以上第一段。
 亦打山 マツチヤマ。亦打は、マタウチを約めてマツチの音をあらわしている。大和から紀伊にはいるところの吉野川の右岸にある。眞土山とも書く。この山を越えて、紀伊の國の國府の方へ行くのである。句意は、眞土山をと、ヲを添えて解すべきである。
 行來跡見良武 ユキクトミラム。ユキクは、行くと來ると。往復の意。トは行くとして來るとしての意。「葦屋之《アシノヤノ》 宇奈比處女之《ウナヒヲトメノ》 奧槨乎《オクツキヲ》 往來跡見者《ユキクトミレバ》 哭耳之所v泣《ネノミシナカユ》」(卷九、一八二〇)の用例がある。ミラムは、ラムは助動詞、後の語法ではミルラムというべきを、この集では、一段活の動詞に限り、ミラムの如くいうのである。「比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムムマツラノ》」(卷五、八六二)などの用例がある。往來共に見るであろうの意で、次の句に懸かる連體形の句。以上ミラムに關する説明は、普通の説によつたのであるが、これにはなお問題が存するのである。「白菅乃《シラスゲノ》 眞野之榛原《マノノハリハラ》 往左來左《ユクサクサ》 君社見良目《キミコソミラメ》 眞野乃榛原《マノノハリハラ》」(卷三・二八一)。これは高市の黒人の妻の歌であるが、夫の黒人が京に上るのに對して、往還の路すがらに君こそは見らめというので、このミラメは、あきらかに將來を推量している。この、「往くさ來さ君こそ見らめ」は、「往來と見らむ」と同樣(250)の意を有するものと考えられる時に、「往來と見らむ」の解は、考え直されねばならない。「石見乃海《イハミノウミ》 角乃浦廻乎《ツノノウラミヲ》 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無等《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》」(卷二、一三一)。この例のミラメのように、かならずしも現在の人の心を推量しているはかりではなく、不定時についても、その時の現在の推量をあらわすのである。もちろん一方には、現在の時についてもいう。「比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムマツラノ》 多麻志末乎《タマシマヲ》 美受弖夜和禮波《ミズテヤワレハ》 故飛都々遠良武《コヒツツヲラム》」(卷五、八六二)、「麻都良河波《マツラガハ》 多麻斯麻能有良爾《タマシマノウラニ》 和可由都流《ワカユツル》 伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》 比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》」(同、八六三)、「鹽早三《シホハヤミ》 礒廻荷居者《イソミニヲレバ》 入潮爲《アサリスル》 海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》 多比由久和禮乎《タビユクワレヲ》」(卷七、一二三四)、「之路多倍能《シロタヘノ》 藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》 射射里須流《イザリスル》 安麻等也見良武《アマトヤミラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》」(卷十五、三六〇七)。これらは普通のラムの用法によつて解釋し得るものである。ミラムは、古い語法の殘存するものであつて、ラムの古い意義が、見られるのであろうと考えられる。それは現在の時に限るものでもないということである。
 樹人友師母 キビトトモシモ。第二句を更に繰り返して一首を終つている。
【評語】この歌は、二句と五句とに同一の句を繰り返している。これは古代の歌いものとしての短歌が、二句と五句とを句切とすることから來ているもので、音樂的な遺風を感じさせるものである。文筆作品時代にはいつては、二句切が無くなるのと、同音を重ねることの意義が薄弱になるのとで、この形は衰亡する。この集でも古い部分に比較的多いのは、その故である。なお二句と五句とに類形の句を用いたものは更にすくない。
【參考】二句と五句とに同一の句を重ねる歌。
  大和邊に往くは誰が夫《つま》。隱水《こもりづ》の下よ延へつつ往くは誰が夫《つま》(古事記五七)
  多遲比野に寢むと知りせは防壁《たつごも》も持ち來ましもの。寢むと知りせば(同七六)
  うるはしとさ寢しさ寢てば刈薦の亂れば亂れ。さ寢しさ寢てば(同八一)
  朝じもの御木《みけ》のさを橋、前つ君い渡らすも。御木のさを橋(日本書紀二四)
(251)  ぬば玉の甲斐の黒駒、鞍着せば命死なまし。甲斐の黒駒(同八一)
  枚方《ひらかた》ゆ笛吹き上《のぼ》る。近江のや毛野《けな》の若子い笛吹き上る(同九八)
  道の邊のはりとくぬ木としなめくもいふなるかもよ。はりとくぬ木と(琴歌譜)
  孃子ども孃子さびすも。唐玉を手本に纏きて孃子さびすも(本朝月令。琴歌譜には第二句を、「孃子さびすと」としている。)
  吾はもや安見兒得たり。皆人の得がてにすとふ安見兒得たり(卷二、九五)
  あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ。山のしづくに(同、一〇七)
  櫻田へ鶴《たづ》鳴きわたる。年魚市《あゆち》潟潮干にけらし。鶴鳴きわたる(卷三、二七一)
  白菅の眞野の榛原《はりはら》。行くさ來さ君こそ見らめ。眞野の榛原(同、二八一)
  大野山覇立ち渡る。わが嘆く息嘯《おきそ》の風に霧立ち渡る(卷五、七九九)
  梅の花今盛りなり。思ふとちかざしにしてな。今盛りなり(同、八二〇)
  豐國の香春《かはる》は我家《わぎへ》。紐の兒にい交《つが》り居れば香春は我家(卷九、一七六七)
  天の川|棚橋《たなはし》渡せ。織女《たなばた》のい渡らさむに棚橋渡せ(卷十、二〇八一)
  秋はぎに置ける白露。朝な朝な珠としぞ見る。おける白露(同、二一六八)
  人妻にいふは誰が言。さ衣のこの紐とけといふは誰が言(卷十一、二八六六)
  葛飾の眞間の手兒奈を眞《まこと》かもわれによすとふ。眞間の手兒奈を(卷十四、三三八四)
  庭に立つ麻手小衾。今夜だに夫《つま》よし來せね。麻手小衾(同、三四五四)
  明日香川塞くと知りせばあまた夜も率《ゐ》寐て來ましを。塞くと知りせば(同、三五四五)
  天にはも五百《いほ》つ綱|延《は》ふ。萬代に國知らさむと五百つ綱延ふ(卷十九、四二七四)
 
(252)右一首、調首淡海
 
【釋】調首淡海 ツキノオビトアフミ。壬申の年の天武天皇の擧兵に當り、初めから從つた二十餘人のうちの一人で、その時のこの人の日記が調連淡海の記として釋日本紀に引用されている。初め首の姓で、後に連の姓となつた。和銅二年に從五位の下を授けられた。應神天皇の御代に歸化した百濟の努理の使主《おみ》の子孫である。
 
或本歌
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。上の坂門の人足の歌と、詞句の類似が多いので、別の資料にあつた歌を載せたのである。その本の何であるかは知られない。なおこれは大寶元年九月の行幸の題には關係しない。
 
56 河|上《かみ》の つらつら椿、
 つらつらに 見れども飽《あ》かず。
 巨勢《こせ》の春野《はるの》は。
 
 河上乃《カハカミノ》 列々椿《ツラツラツバキ》
 都良々々尓《ツラツラニ》 雖v見安可受《ミレドモアカズ》
 巨勢能春野者《コセノハルノハ》
 
【譯》巨勢山につらなり生えている椿を、十分によく見るけれども飽きないことだ。この巨勢の春野は。
【釋】河上乃 カハカミノ。既出(卷一、二二)。
 巨勢能春野者 コセノハルノハ。第四句に對して、主格を提示している。
【評語】この歌は、前の坂門の人足の歌と詞句が類似しているので、萬葉集の編者が、特に附載したものである。いつ作られたものであるかは、わからないが、たがいに關係のある歌と考えられる。しかし歌の内容は、彼とは全く別個の獨立した歌として存立し得られる。この歌は、巨勢の春野に、現に對しており、前の歌は、(253)巨勢の春野に當面していないと見られることは、自然この歌の表現の方が、すなおになつた。それでむしろこの歌の方が本歌であるように思われる。「つら/\椿つら/\に」の句の如きは、「大君は神にしませば」の句などと同樣、いわゆる名句であつて、誰かが歌い出すと、他の人がこれを襲用して、時に應じた替歌を作るのである。これは歌が、古くは歌いものとしての傳來を有しているので、民衆の共有物としての性格があり、まだ個人の創作とする意識が發達していなかつたためである。
 
右一首、春日藏首老
 
【釋】春日藏首老 カスガノクラビトオユ。もと僧で辨基と稱した。學術あるによつて、大寶元年特に還俗して姓名を賜い、官吏に登用された。本集になお作歌があり、懷風藻に詩を傳えている。この時代、僧中出身の名家には、山田の史三方、吉田の連宜等があり、後に出る。
 
二年壬寅、太上天皇、幸2于參河國1時歌
 
二年壬寅、太上天皇の、參河《みかは》の國に幸でましし時の歌
 
【釋】二年壬寅 フタトセミヅノエトラノトシ。大寶二年。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。
 幸于參河國時歌 ミカハノクニニイデマシシトキノウタ。續日本紀によると、大寶二年十月十日、參河の國に幸すとあり、十一月、尾張、美濃、伊勢、伊賀の諸國を經て、二十五日にお還りになつた。以上は、「大夫之《マスラヲノ》」(卷一、六一)に至るまで五首の題である。歌の作者については、初めの二首は、左註に記事があり、後の三首は、歌の前に題している。これはそれぞれ別種の資料を受け入れているからであろう。
 
(254)57 引馬野《ひくまの》に にほふ榛原《はりはら》、
 入《い》り亂《みだ》れ 衣《ころも》にほはせ。
 旅のしるしに。
 
 引馬野尓《ヒクマノニ》 仁保布榛原《ニホフハリハラ》
 入亂《イリミダレ》 衣尓保波勢《コロモニホハセ》
 多鼻能知師尓《タビノシルシニ》
 
【譯】引馬野に、ハギの花が咲き盛つている原に、入り亂れて、衣をハギの花の色に染めておいでなさい。旅行の記念として。
【釋】引馬野尓 ヒクマノニ。ヒクマノは、靜岡縣濱名郡、濱松市の北方に、今、曳馬村の名が殘つている。十六夜日記に「こよひはひくまのしゆくといふ所にとどまる。ここのおほかたの名をば濱松とぞいひし」と見える。この地は遠江の國なので、參河の國に幸せられた時の歌に、この地のあるのは不審として、久松博士は、愛知縣寶飯郡御津町字御馬下佐脇附近をこれに擬している。しかしこの歌は、出發に際して、御供に立つ人に贈つた内容であつて、當時、濱名湖のある遠江の國まで幸せられる計畫があつたものとも考えられる。敢えて不審とするに及ばない。
 仁保布榛原 ニホフハリハラ。ニホフハキハラ(元朱)、ニホフハリハラ(略、枝直)。ニホフは、花色の映發するをいう。ハリハラはハギ原である。ハンノ木の原の説があるが、この歌では、特にハギ原で無くては、歌意を成さない。ハギをハリということは、既に記した(卷一、一九)ニホフハリ原にの意味であるが、歌の中心としてハリ原を提示している。
 入亂 イリミダレ。イリミダレ(元墨)、イリミダリ(考)。動詞亂ルは、下二段活であるが、古くは四段に活用したと解せられている。本集には四段活の明證は無い。ここは自動詞として下二段活のままでよい。ハギ原の中に分け入つて徘徊する意である。
(255) 衣尓保波勢 コロモニホハセ。ニホハセは、におわしめる意の命令形。ハギの花を染料として衣服を染めよの意であるが、歌意としては、ハギの咲き亂れている野に分け入つて、そのハギの花の色が衣服に染みつくまでにせよの意である。紅葉の山に分け入れば、その紅葉の色に衣服が染まるかのように歌つている類である。「草枕旅行く人も往き觸れはにほひぬべくも咲けるはぎかも」(卷八、一五三二)とある歌意である。また黄葉については、「わが夫子が白栲ごろも行き觸ればにはひぬべくももみつ山かも」(卷十、二一九二)などある。當時の人々が、無色の衣を著しているので、はぎ原や紅葉の中を分けて行くと、一層その色に染まりそうに感ずるのである。
 多鼻能知師尓 タビノシルシニ。シルシは、記念。旅行したかいに、旅行の記念にの意。上の句意を限定している。
【評語】この歌の時節については、古來種々の説があるが、それは、作者も御幸の御供をして、引馬野にて作つたとするから、問題になつて、ハギの無い時だとの説も出る。御幸には留守をしていたので、御供に行く人に與えた作であるから、多分、ハギの花咲く頃に御幸が決定し、供奉の人々も定められた準備時代の作であろう。作者は、引馬野の秋をよく知つていて、この歌を成したと思われる。その地での作ではないが、白衣の人人の、ハギ原の中に入り亂れる美しい旅の風情が思いやられる。
 
右一首、長忌寸奧麻呂
 
【釋】長忌寸奧麻呂 ナガノイミキオキマロ。奧麻呂は、意吉麻呂とも書く。この人も傳が詳でないが、大寶二年の持統天皇の參河の國への行幸に、歌を詠んでいるから、まず高市の黒人と同時にいた人とされる。この人の作品は、短歌のみで、その作品は行幸の御供に從つた明るい作品のほかに、多數の物を題として一首の中(256)に詠み、また變わつた題材を取り扱うなど、遊戯的な方面にもその才を伸ばしている。この時代の歌にこのような一面のあつたこと、また見過せないところである。
 
58 何所《いづく》にか 船泊《ふなはて》すらむ。
 安禮《あれ》の埼 こぎ廻《た》み行きし
 棚無《たなな》し小舟《をぶね》。
 
 何所尓可《イヅクニカ》 船泊爲良武《フナハテスラム》
 安禮乃埼《アレノサキ》 榜多味行之《コギタミユキシ》
 棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
【譯】何處に船泊りをすることだろうか。安禮の埼を漕ぎ廻つて行つた、横板も無いようなあの小さな舟は。
【釋】何所尓可 イヅクニカ。カは疑問の係助詞。次の句に懸かる。
 船泊爲良武 フナハテスラム。フナハテは、船の碇泊すること。ハツは終るの意の動詞の名詞形である。スラムは、動詞|爲《す》に助動詞ラムの接績した、その終止形。今は何處に船を停めることであろうかと、見えなくなつた船について推量し、時に拘わらずにその動作を推量している。
 安禮乃埼 アレノサキ。所在未詳。遠江の新居の埼であろうともいうが、臆説に過ぎない。サキは埼が正しい。流布本に崎に作るのは誤りである。
 榜多味行之 コギタミユキシ。タミは、迂廻する意の動詞。類聚名義抄に、迂廻にタミメクレルの訓がある。木集では、「礒前《イソノサキ》 榜手廻行者《コギタミユケバ》」(卷三、二七三)など、手廻の字をタミに當てて書いている。シは時の助動詞で、過去のことであるを示す。次の句に對する連體形の句。
 棚無小舟 タナナシヲブネ。タナは、横たえた板の義、ここはフナダナに同じ。フナダナは、新撰字鏡、類聚名義抄に舷の字に訓し、倭名類聚鈔に、※[木+世]の字に訓している。舷の上に、舷を丈夫にし、舟人の通行にも便するように附けた板。それも無いようなちいさな舟を、棚無し小舟という。安禮の埼を漕いで廻つて行つた舟、(257)實際に棚の無いことまで見屆けていうのではない。ただ粗末なちいさな舟という心を十分にあらわそうがために、具體的に、棚無シ小舟というのである。
【評語】旅の夕暮の歌である。暮れない前に、安禮の埼で見た光景を想起し、その行く先を案じている。しかしそれは表面にあらわれた所であつて、眞實は、作者自身の旅情が詠まれている。棚無し小舟の泊てる處を案じた裏には、御幸の御供とはいえ、自分たちの旅情が、ひしと迫つている。旅の日暮の心細さを、景物に託して歌つたもので、表面に露骨にいわないところに、かえつて無限の哀情がある。
【參考】同語、棚無し小舟。
  四極《しはつ》山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隱る棚無し小舟(卷三、二七二)
  海孃子《あまをとめ》棚無し小舟漕ぎ出《づ》らし。旅のやどりに※[楫+戈]の音《と》聞ゆ(卷六、九三〇)
 
右一首、高市連黒人
 
【釋】高市連黒人 タケチノムラジクロヒl。既出(卷一、三二題詞)。
 
譽謝女王作歌
 
【釋】譽謝女王 ヨサノオホキミ。系譜未詳。屬日本紀、慶雲三年の條に「六月癸西朔丙申、從四位下與謝女王卒」とある。この歌、大寶二年の御幸の時に、夫君を思つて詠まれたと見られるが、その夫君の何方であるかも不明である。作者はこの時京に留まつて、御幸に供奉した夫君を思つて詠まれたのであろう。しかし歌の表では、作者が供奉したとも見られる。
 
(258)59 ながらふる 妻吹く風の 寒き夜《よ》に、
 わが夫《せ》の君は ひとりか寐《ぬ》らむ。
 
 流經《ナガラフル》 妻吹風之《ツマフクカゼノ》 寒夜尓《サムキヨニ》
 吾勢能君者《ワガセノキミハ》 獨香宿良武《ヒトリカヌラム》
 
【譯】この世に生きながらえている妻を吹く風の寒い晩に、夫の君はひとりお寐《やす》みなされることでありましようか。
【釋】流經 ナガラフル。ナガレフル(檜)。動詞流ルをハ行下二段に再活用せしめた語で、もとの動詞の連續する意味をあらわす。その用法には、一、形體ある物の流れ行く。雨、雪、花など。「天之四具禮能《アメノシグレノ》 流相見者《ナガラフミレバ》」(卷一、八二)、「沫雪香《アワユキカ》 薄太禮爾零登《ハダレニフルト》 見左右二《ミルマデニ》 流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物之花其毛《ナニノハナゾモ》」(卷八、一四二〇)、「櫻花《サクラバナ》 散流歴《チリナガラフル》」(卷十、》八六六)。二、時間を經過する。「至v今爾《イママデニ》 流經者《ナガラヘヌルハ》 妹爾相曾《イモニアハムトゾ》」(卷八、一六六二)、「於v君合常《キミニアハムト》 流經度《ナガラヘワタル》」(卷十、二三四五)、「月日《ツキヒハ》 攝友久《カハレドモヒサニ》 流經《ナガラフル》 三諸之山《ミモロノヤマノ》 礪津宮地《トツミヤドコロ》」(卷十三、三二三〇、「俗中波《ヨノナカハ》 常無毛能等《ツネナキモノト》 語續《カタリツギ》 奈我良倍伎多禮《ナガラヘキタレ》」(卷十九、四一六〇)。そこでこの歌のナガラフが、そのいずれであるかであるが、語を隔てて風を修飾すると見る説もある。直接に妻を修飾すると見て不可解ならばそれもやむを得ないが、流らえる妻でも意味を成すのであるから、そのように解するのが順當である。すなわち時を過している妻の意になる。待ちあぐねている情を寫していると見られるのである。
 妻吹風之 ツマフクカゼノ。雪吹風之《ユキフクカゼノ》(略、久老)。ツマは、代匠記に衣のつまなりといい、荒木田久老は、妻を雪の誤りとしている。これは文字通り配偶者の意に解すべきで、作者自身をいうのである。
 寒夜尓 サムキヨニ。この御幸は、十一月にわたつているので、この句となつている。
 吾勢能君者 ワガセノキミハ。夫君をさしている。次の句の主格をなす句。
 獨香宿良武 ヒトリカヌラム。カは疑問の係助詞。ヌは動詞。ラムは推量の助動詞。お一人でか寐たまうな(259)らむと推量している。
【評語】初二句は御自身の上を客觀的に敍せられている。それは寒い夜風のもとに孤影悄然たる作者を描寫する句として效果的である。その自分を吹く風の寒い晩に、わが君もまた獨寐をするだろうか。さぞお寒いことであろうと推量している。寒き夜の一語が中心をなしている歌である。
 
長皇子御歌
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。續日本紀、靈龜元年(七一五)六月の條に「甲寅、二品長親王薨、天武天皇第四之皇子也」とある。前の歌と同じ御幸の時に、長の皇子が、御供に從つたある婦人を思つて詠まれた歌で、皇子は、その時京に留まられたと見られる。
 
60 暮《よひ》に逢ひて 朝《あした》面無《おもな》み、
 名張《なばり》にか 日《け》長く妹が 廬《いほり》せりけむ。
 
 暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面無美《アシタオモナミ》
 隱尓加《ナバリニカ》 氣長妹之《ケナガクイモガ》 廬利爲里計武《イホリセリケム》
 
【譯】昨夜は逢つて、今朝ははずかしさに隱れようとする。(その隱れることは、古語でナバルというが)あの名張山の邊に、幾日も幾日もわが思う妻は、廬していたのだろうか。
【釋】暮相而朝南無美 ヨヒニアヒテアシタオモナミ。この二句は、名張というための序詞である。ヨヒは前夜。夜、男に逢つて、朝ははずかしいので隱れるというのでナバリに懸かる。面無ミは、顔が無さにで、はずかしさにの意となる。
 隱尓加 ナバリニカ。ナバリは既出(卷一、四三)。古語に隱れるをナバルというので、伊賀の國の名張の地名に懸けている。名張は、伊勢と大和との通路に當る。カは疑問の係助詞。五句の廬セリケムに懸かつてい(260)る。
 氣長妹之 ケナガクイモガ。ケナガキイモガ(元朱)、ケナガクイモガ(神)。ケは、ある時間の長さをいう。ケナガクは、衣通の王の歌に、「岐美加由岐《キミガユキ》 氣那賀久那理奴《ケナガクナリヌ》」(古事記八九)・「枳美可由伎《キミガユキ》 氣那我久奈理奴《ケナガクナリヌ》」(卷五、八六七)など使用している。時の長くある意である。ケナガキと讀んで妹を修飾するとする説があり、「等之乃古非《トシノコヒ》 氣奈我使古良河《ケナガキコラガ》 都麻度比能欲曾《ツマドヒノヨゾ》」(卷十八、四一二七)など使用されているが、それは兒ら自身の戀う時の久しいのをいうので、此處には適わない。ここは、ケナガクと讀んで、五句を修飾する副詞とすべきである。妹は、作者の思つている女性をいう。その妹が、時長く廬していたであろうというのである。
 廬利爲里計武 イホリセリケム。イホリは、假屋を作つて宿ること。セリはしてあるをいう。ケムは過去推量の助動詞。御幸に從つた妹が歸つて來た時の歌とする萬葉集精考(菊池壽人氏)の説がよい。
【評語】暮ニ逢ヒテ朝面無ミは、序であるが、名張を引き出す句として、非常に巧みな句というべきである。妹を思う歌であるから、この句がある。それから轉じて、主題にはいつて、待ち切れなかつた情を歌つているはずであるが、この序が巧みすぎるので、幾分餘裕が感じられる。もつともこの序詞は、やはり何人かが云い出すと皆が感心して襲用しているほどの句であつて、他にも用いられている。
 暮《よひ》に逢ひて朝《あした》面無《おもな》み名張野のはぎは散りにき黄葉はや繼げ(卷八、一五三六)
 
舍人娘子、從駕作歌
 
舍人の娘子の、從駕《おほみとも》にして作れる歌
 
【釋】舍人娘子 トネリノヲトメ。舍人は氏であろう。この氏は、新撰姓氏録に、百濟の國の人利加志貴王の(261)後であるとしている。娘子は、若い女をいう。イラツメと讀むべしという説があるが、やはりヲトメと讀むがよい。イラツメは、身分のよい婦人にいう語であつて、この集の娘子は、イラツメと呼ばれるほどの身分でない人が多く、この舍人の娘子も、さして身分のよい人とも思われない。何々の娘子とあるは、すべて若い女性をいう。舍人の娘子は、卷の二に舍人の皇子と歌を贈答している。
 從駕 オホミトモニシテ。既出(卷一、三九左註)。この歌まで、大寶二年の御幸の時の作である。
 
61 丈夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手插《たばさ》み
 立《た》ち向ひ 射る圓形《まとかた》は、
 見るに清《さや》けし、
 
 大夫之《マスラヲノ》 得物矢手插《サツヤタバサミ》
 立向《タチムカヒ》 射流圓方波《イルマトカタハ》
 見尓清潔之《ミルニサヤケシ》
 
【譯】勇士が狩矢を腋ばさんで、立ち向つて的を射る、その圓方の浦は、見るに清らかである。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出(卷一、五)。立派な男子。
 得物矢手插 サツヤタバサミ。サツヤは、動物に對してこれを支配する靈威の力をサチという。そのサチのある矢。サツ弓、サツ雄、サツ人などの用例がある。タは接頭語。威力ある矢をさしはさんで。
 立向 タチムカヒ。立ち向かつて射ると、次の句に續く。
 射流圓方波 イルマトカタハ。初句の丈夫ノからこの句の射ルまで、圓(的)というための序である。圓方は伊勢の國の浦の名。延喜式神名帳に、伊勢國多氣郡に、服部麻刀方神社がある。その地であろうという。今は海岸ではなくなつている。伊勢國風土記の逸文(參考欄參照)に、當時(奈良時代初めか)既に江湖となつたと見えている。圓方の名は圓形の灣であるからいう。
 見尓清潔之 ミルニサヤケシ。サヤケシは、清明にあるをいう。本集には、山川の景にこの語を使うことが(262)多い。「河見者《カハミレバ》 左夜氣久清之《サヤケクキヨシ》(卷十三、三二三四)など。
【評語】この歌は序歌としてよくできている。主たる内容は、圓方の浦は清らかであるというに過ぎない。そのマトというために、長い序を持つて來たので、その序の内容、武士が矢をさしはさんで的に立ち向かうという、いかにも颯爽たる氣分で、主たる内容の印象を助けている。内容とは無關係であつて、しかも序と主文との氣分に共通の點がある。後の連歌、俳譜の興味は、これらの序歌の味から發育したもので、單に形を變えたものに過ぎないと考えられる。
【參考】別傳。
  的形浦者、此浦地形似v的。故爲v名也。【今已跡絶成2江湖1也。】。天皇行2幸濱邊1、歌曰、麻須良遠能 佐都夜多波佐美 牟加比多知 伊流夜麻度加多 波麻乃佐夜氣佐(伊勢國風土記【萬葉集註釋所引】))
 
三野連名闕、入唐時、春日藏首老作歌
 
三野《みの》の連《むらじ》【名闕けたり、】入唐の時、春日《かすが》の藏首老《くらびとおゆ》の作れる歌
 
【釋】三野連名關 ミノノムラジ、ナカケタリ。單に三野の連とのみで、その名が傳わらないというのである。萬葉集編纂の當時、その資料としたものに、名を傳えていなかつたものと見える。しかし萬葉集の西本願寺本等の胥入に、「國史云、大寶元年正月、遣唐使民部卿粟田眞人朝臣已下百六十人乘2船五隻1、小商監從七位下中宮小進美奴連岡麻呂」とあり、また明治五年に奈良縣平群郡からこの人の墓誌が掘り出され、それにも大寶元年五月唐に使したこと、神龜五年十月六十七で死んだことが見えている。三野の連は、この美努の連に同じく、新撰姓氏録に、角凝魂《つのごりむすび》の神の後と傳えている。その美努の連岡麻呂が唐に遣された時に、春日の老の作つた歌で、岡麻呂の作ではなく、また他にも岡麻呂の作歌は、傳わらない。
(263) 入唐時 ニフタウノトキ。遣唐使の一人として唐に赴いた時の意。入唐とは、唐を主としていう云い方で、日本からいえば、當を失している。元來、漢文の書き方は、大陸から來た人が教え、自分の方を中心として教えたので、かような書き方を生じて、怪しまなかつたのである。日本から公式に、中國に便を遣されたのは、推古天皇の十五年に、小野の妹子を隋に遣されたのが初めである。その後、囘を重ねて使を出發せしめ、平安朝に至つて寛平年間に菅原の道眞の建議によつて廢せられるまで、引き續き行われた。かの地は、初めは隋の朝であつたが、まもなく唐の朝となつたので、これを遣唐使と稱する。文武天皇の大寶元年の發遣以來、奈良朝盛期の遣唐は最大規模に行われた。遣唐使の目的は、かの土の文化をわが朝に移入することであり、留學生僧侶等を從わしめたのもこれがためである。かくて歸朝したものは重く用いられるのを常とした。しかし、萬里の波濤を凌いで行くこととて、途中に困難が多く、愉快な旅でないことは無論である。萬葉集としては、遣唐關係では、行を送る歌が大部分を占めている。ここに入唐の時とあるのは、文武天皇の大寶年間の時のことである。大寶元年に出發することになつて筑紫に赴いたが、風波のために後れて、二年六月にその地を出發して唐に渡つた。
 春日藏首老 カスガノクラビトオユ。既出(卷一、五六)。美努の岡麻呂に贈つて、その行途の無事にして早く還らむことを歌つている。
 
62 在根《ありね》よし 對馬《つしま》の渡《わたり》、
 海《わた》なかに 幣《ぬさ》取り向けて、
 早《はや》還《かへ》り來《こ》ね
 
 在根良《アリネヨシ》 對馬乃渡《ツシマノワタリ》
 渡中尓《ワタナカニ》 幣取向而《ヌサトリムケテ》
 早還許年《ハヤカヘリコネ》
 
【譯】山の姿のよいかの對馬の海峽の海の途中で、幣を神に奉つて祭をして、早く還つていらつしやい。
(264)【釋】 在根良 アリネヨシ。
   アリネヨシ(類)
   アリネラ(札)
   アラネヨシ(美、秋成)
   ――――――――――
   百船能《モモフネノ》(考)
   百都舟《モモツネ》(考)
   布根竟《フネハツル》(玉、大平)
   大夫根之《オホフネノ》(古義)
 青丹吉、朝毛吉などと同型の枕詞である。アリネは攷證には荒根の義といい、その他、誤字説もあるが從いがたい。アリは、「阿理袁《アリヲ》」(古事記九九)のアリに同じく、そこに存在する意をあらわす語なるべく、ネは、嶺の義とすべきである。對馬はうち見た島山の姿の宜しき島とて、この枕詞を生じたのであろう。
 對馬乃渡 ツシマノワタリ。對馬は、古事記上卷に津島とあり、舟|著《つ》きの島の義である。對馬の文字は、日本書紀に見え、また、古く漢籍の魏志倭人傳に見えている。日本から大陸に渡る交通の要衝に當つていることは、いうまでもない。ワタリは、河でも海でも渡るべき處にいう。野山にも渡るべき地形にはワタリという。「見度《ミワタセバ》 近渡乎《チカキワタリヲ》 廻《タモトホリ》 今哉來座《イマヤキマスト》 戀居《コヒツツゾヲル》」(卷十一、二三七九)の渡は、陸上にいうと解せられる。「大舟之《オホフネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》」(卷一、一三五)の渡も普通名詞とすべきである。ここの對馬の渡は、勿論海上で、對馬に渡るべき海上をいう。大陸に赴く途中、風波の烈しい處として知られているので、これを擧げて、無事に通過することを願つている。
 渡中尓 ワタナカニ。ワタは、渡に同じ。古語に、海洋をワタというのは、渡るべきものであるからいうのであろう。對馬に渡る海上においての意。ワタリワタナカニと、ワタの音を重ねて、調子をなめらかにしている。
 幣取向而 ヌサトリムケテ。ヌサは、手向の祭に使用する布麻絲絹紙の類をいう。トリムケテは、それを神(265)に手向けての意。旅行の途上、手向の祭をして、無事を願つたことは、「白浪乃《シラナミノ》」(卷一、三四)の歌で説明した。ここは海上で手向の祭を行うことをいう。
 早還詐年 ハヤカヘリコネ。コネは來ねで、來よと希望する語法。
【評語】當時、旅行の困難な時代にあつて、殊に大陸へ渡るのは、非常な冒險であつた。その中にも、海の荒いので有名な朝鮮海峽で、神を祭つて無事に行つていらつしやいと歌つたのである。旅に行く人を送るに、かように祭をするようにと心づけた歌はいくつもある。送別の一の儀禮のようにもなつている。初句の枕詞も、對馬の印象を描くに役立つものである。二三句の續きは、ワタリワタナカニと同音を利用しており、この歌そのものは、序歌では無いが、いくらか序歌的な氣分を感じさせる。
 
山上巨憶良、在2大唐1時、憶2本郷1作歌
 
山上《やまのうへ》の臣《おみ》憶良《おくら》の、大唐にありし時、本郷を憶ひて作れる歌
 
【釋】山上臣憶良 ヤマノウヘノオミオクラ。既出。
 在大唐時 モロコシニアリシトキ。前と同じく文武天皇の大寶元年に、憶良は遣唐少録となつて、大使粟田の眞人に從つて唐に渡り、翌々年慶雲元年六月に歸朝した。その唐にあるあいだに詠んだ作である。大唐と書いたのは、尊んで書いたので、大陸崇拜の思想があらわれている。大唐はモロコシと讀むが、集中にモロコシと讀むべき明證は存しない。
 本郷 モトツクニ。本居である郷土をいう。ここは、大陸から日本をさしていう。
 
63 いざ子ども はやく日本《やまと》へ。
(266) 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の濱松、待ち戀ひぬらむ。
 
 去來子等《イザコドモ》 早日本邊《ハヤクヤマトヘ》
 大伴乃《オホトモノ》 御津乃濱松《ミツノハママツ》 待戀奴良武《マチコヒヌラム》
 
【譯】さあ人々よ、早く日本へ歸りましよう。大伴の御津の濱邊の松も待ち戀うていることでしょう。
【釋】去來子等 イザコドモ。去來をイザと讀むのは、この字に移動をうながす意味の用法があるからであろう。イザは誘いかけた詞。子は若いもの、または部下に對して、親しみいう詞、ドモは等の意。ここでは舟子從人等を總括していう。
 早日本邊 ハヤクヤマトヘ。ハヤヒノモトヘ(元)、ハヤクヤマトヘ(類墨)、ハヤモヤマトヘ(略)、ハヤヤマトベニ(古義)。日本は、枕詞の場合には、ヒノモトと讀むが、地名としてはヤマトである。この句で一段落となる。下に詞を省略してある云い方である。
 大伴乃 オホトモノ。オホトモは地名。集中、御津に冠するもの多く、また、「大伴乃《オホトモノ》 高師能濱《タカシノハマ》」(卷一、六六)とも見えており、大阪灣に面する一帶の總名であつたようである。この地名は大伴氏の本居であるので、出たものなるべく、日本書紀欽明天皇紀には、「大伴金村大連、居2住吉宅1、稱v疾而不v朝」とある。河内の國の伴林は、その名を殘しているものであろう。
 御津乃濱松 ミツノハママツ。御津は、難波の御津で、ミは津に對して敬意をもつてつける。今の大阪の邊にあつたと考えられる。遣唐使の船もその地から船出をするので、忘れがたいその地の濱松を擧げて、次の句の主格としたものである。
 待戀奴良武 マチコヒヌラム 四句の松を受けて、マチコフと起している。ヌラムは確にそうであろうと推量する語法。
(267)【評語】船出をした地の濱松を擧げて、それに對する戀情を、逆に松が待ち戀うているだろうと歌つている。故郷戀しい心が巧みに描かれている。集中の歌は四千五百餘首に及び遣唐使遣新羅使に關する歌もすくなくないが、しかも海外にあつて作つた歌は、これ一つである。そういう點で、後に安倍の仲麻呂が、明州で月を見て作つたと傳える、「あをうなはらふり放《さ》け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と共に、珍しい作品と稱すべきである。
【參考】同句、いざ子ども。
  いざ子ども大和へ早く白管の眞野の榛原手折りて行かむ(卷三、二八〇)
  (上略)いざ子どもあへて榜ぎ出む。海上《には》もしづけし(同、三八八)
  いざ子ども香椎の滷に白栲《しろたへ》の袖さへ沾《ぬ》れて朝菜採みてむ(卷六、九五七)
  白露を取らば消ぬべし。いざ子ども露にきほひてはぎの遊せむ(卷十、二一七三)
  いざ子どもたはわざなせそ。天地の固めし國ぞ。大和島根は(卷二十、四四八七)
   御津の濱松待ち戀ひぬらむ。
  ぬばたまの夜明しも船は榜ぎ行かな。御津の濱松待ち戀ひぬらむ(卷十五、三七二一)
 
慶雲三年丙午、幸2于難波宮1時、志貴皇子御作歌
 
慶雲三年丙午、難波の宮に幸でましし時、志貴《しき》の皇子の作りませる御歌
 
【釋】慶雲三年丙午 キヤウウニノミトセヒノエウマノトシ。慶雲は、文武天皇の年號。この年九月二十五日、難波の宮に幸せられ、十月十二日に還幸せられた。
 幸于難波宮時 ナニハノミヤニイデマシシトキ。難波には、古くは仁徳天皇、孝徳天皇の皇居もあつた。こ(268)こは離宮である。これは以下二首の題詞である。
 
志貴皇子 シキノミコ。既出。
 
64 葦邊《あしべ》ゆく 鴨の羽交《はがひ》に 霜|零《ふ》りて
 寒き夕《ゆふべ》は、
 倭《やまと》し念ほゆ。
 
 葦邊行《アシベユク》 鴨之羽我比尓《カモノハガヒニ》 霜零而《シモフリテ》
 寒暮夕《サムキユフベハ》
 倭之所v念《ヤマトシオモホ》
 
【譯】 葦邊を行く鴨の羽交に霜が降つて、寒い夕べは、大和のわが家のことが思われる。
【釋】 葦邊行 アシベユク。アシベは、アシの生えている岸邊。この句は、寫實ではない、鴨の棲息状態を描いて鴨を説明している。更にこれを約言すればアシガモの語となる。
 鴨之羽我比尓 カモノハガヒニ。ハガヒは、羽の重なり合う義で、鳥の翼の疊まれているをいう。鴨の羽交は、部分を擧げて全體の印象をあきらかにするもので、鴨に霜が降るというべきを、鴨の羽交に霜が降ると云つたのである。
 霜零而 シモフリテ。以上、次句の寒き夕べの有樣を具體的に描寫している。
 寒暮夕 サムキユフベハ。暮夕は、同義の字を重ねている。この句、寒い夕べにはの意である。
 倭之所念 ヤマトシオモホユ。倭は、元暦校本等による。仙覺本には和に作つている。ヤマトに和の字を使用するのは、古事記にも本集にも、例はあるが、古くは倭の字を使うのが通例である。この句のヤマトは、帝都を中心として云つている。シは強意の助詞。
【評語】海邊の寒夜の情景に筆を起して、故郷を思う心を適切にあらわしている。鴨の羽交に霜が降るとは、その動物を憐む心から出發して、自己の旅情を顧みているのである。寒夜の景況を、具體的に描寫し、霜のふ(269)る場處を、葦邊行ク鴨ノ羽交ニとまでこまかく指定しているのが、極めて效果的である。家郷を思う歌も多いが、代表的なすぐれた歌である。
 鴨に霜の降ることによつて寒夜の情を寫している歌には、高橋蟲麻呂歌集から出た歌に、
  埼玉《さきたま》の小埼の沼に鴨ぞ翼《はね》きる。おのが尾に零り置ける霜を拂ふとにあらし(卷九、一七四四)
がある。
 
長皇子御歌
 
【釋】 長皇子 ナガノミコ。既出。
 
65 霰うつ 安良禮《あられ》松原、
 住吉《すみのえ》の 弟日孃子《おとひをとめ》と
 見れど飽かぬかも。
 
 霰打《アラレウツ》 安良禮松原《アラレマツバラ》
 住吉乃《スミノエノ》 弟日娘與《オトヒヲトメト》
 見禮常不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】 霞のはらはらと打ちつけるこの安良禮松原よ、住吉の弟日孃子と共に見ていても、飽きることを知らないことだなあ。
【釋】 霰打 アラレウツ。ミゾレフリ(元朱)、ミゾレフル(京赭)、アラレフル(仙)、アラレウツ(代初)、アラレウチ(古義)。文字通りアラレウツと讀む。霰の強くたばしる有樣が描かれている。古事記下卷に、「佐佐波爾《ササハニ》 宇都夜阿良禮能《ウツヤアラレノ》」(八〇)とある。次の句に對する連體句。
 安良禮松原 アラレマツバラ。萬葉集古義に、新撰姓氏録攝津國諸蕃の荒荒公、日本紀略の「延喜三年癸丑五月十九日、授2攝津國荒荒神從五位下1」などの證を擧げて、アララの地名あることをいい、それが轉じてア(270)ラレとも言つたものとしている。そのアララは、もと松のまばらに立つているより出た名であろう。
 住吉乃 スミノエノ。この地名、本集に、須美乃延、須癸乃江など書かれている。今、大阪市の一部になつている。
 弟日娘與 オトヒヲトメト。オトヒは、オトヒメ(弟姫)のオトヒと同じで、若い人の意であろう。實名ではないようである。肥前國風土記に、「大伴狹手彦連、即娉2篠原村弟日姫子1成v婚」とある。トは、弟日娘子と共にの意に解するを順當とする。あられ松原と弟日娘と二つ竝べての意とする説は、無理で、さようにしないでも解せられる。
 見禮常不飽香聞 ミレドアカヌカモ。既出(卷一、三六)。
【評語】霰うつ安良禮松原は、聞くからに清らかな松原の情景である。アラレを重ねたのも、調子を快調にしている。その松原を、孃子と共に見ていると、何時までも飽きないという、松原を讃した歌である。しかし、内意は、孃子とともに見ているから、飽きないので、内容の中心は、この方にあるのである。すぐれた歌である。
 
太上天皇、幸2于難波宮1時歌
 
太上天皇の、難波の宮に幸でましし時の歌
 
【釋】太上天皇、持統天皇。
 幸于難波宮時歌 ナニハノミヤニイデマシシトキノウタ。持統天皇が、太上天皇として難波の宮に行幸のあつたことは傳わらない。持統天皇は、大寶二年十二月に崩御されたので、慶雲三年の難波の宮の行幸の時の歌の次にこれを載せているのは、順序について疑問がある。この時の歌は、前の歌とは別の資料から出ていると(271)見られるので、事實は大寶二年よりも前の事と考えられている。この題詞は、以下四首に懸かつている。
 
66 大伴の 高師《たかし》の濱の 松が根を、
 枕《まくら》に寐《ぬ》れど 家し偲《しの》はゆ。
 
 大伴乃《オホトモノ》 高師能濱乃《タカシノハマノ》 松之根乎《マツガネヲ》
 枕宿杼《マクラニヌレド》 家之所v偲由《イヘシシノハユ》
 
【譯】大伴の高師の濱の松の根を枕として寐るけれども、わが家が戀い慕われる。
【釋】大伴乃 オホトモノ。既出(卷一、六三)。
 高師能濱乃 タカシノハマノ。高師の濱は、大阪府泉北郡の地名。和泉の國に屬している。日本書紀には高脚の海がある。
 松之根乎 マツガネヲ。次句にこれを枕とすることが見え、ここは松樹の根と解すべきである。
 枕宿杼 マクラニヌレド。
   マクラニヌレド(元)
   マクラニネヌト(仙)
   マクラニヌルトモ(代初)
   マキテシヌレド(考)
   マキテサヌレド(燈)
   マキテイヌレド(燈)
   マクラキヌレド(講義)
   ――――――――――
   枕宿夜《マキテヌルヨハ》(玉)
 枕の字を、どのように讀むかに問題が存するのである。枕の字を、動詞マク、及びマクラクに當てて讀むことは、例もあり、以上の訓は、いずれも可能とされる。そこでいずれがもつとも妥當であるかというに、まず(272)マクラクの語は、名詞マクラを活用したものと見るべく、その用例は、天平以後のみであつて、古い語と見られず、この歌に適當であるとは言いがたい。マキテシと讀むのは、テシを讀み添えるものであつて、枕の一字に對しては、他の讀み方があれば避くべきである。マクラと讀む例はもつとも多く、ニを讀み添えるだけで濟み、訓法としてもおだやかである。松が根を枕として寐れどの意である。ドはドモの意であるが、このドは、何々の事ではあるが、それはそれとしての意をあらわすものである。たとえは「小竹《ささ》の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ。別れ來ぬれば」(卷二、一三三)の如き、小竹の葉は騷いでいる。それとは別にの意を、ドモであらわしている。かような意味の用法におけるドである。
 家之所偲由 イヘシシノハユ。家はわが家。シは助詞。所偲に由を書き添えたのは、讀み方を確にするためである。わが家が思い慕われるの意。
【評語】松が根を枕として寐るという所に、海濱に旅寐する風情がよくあらわれている。しかもそういう風雅も家郷戀しさの念を如何ともすることができない。そこにまたこの歌の風情が生ずるのである。
 
右一首、置始東人
 
【釋】置始東人 オキソメノアヅマビト。傳未詳。
 
67 旅《タビ》にして 物戀《モノコホ》しきに、
 鶴《たづ》が音《ネ》も 聞えざりせば
 戀《こ》ひて死《し》なまし。
 
 旅尓之而《タビニシテ》 物戀之《モノコホシ》□
 □鳴毛《ネモ》 不v所v聞有世者《キコエザリセバ》
 孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》
 
【譯】旅に出て、何となく家戀しさに堪えないのに、もしも鶴の鳴く聲も聞えなかつたら、戀い死にに死ぬこ(273)とだろう。
【釋】旅尓之而 タビニシテ。ニシテは助詞。旅にありての意。
 物戀之※[長方形]鳴毛 モノコホシ※[長方形]ネモ。大矢本系統の本には、物戀之伎乃鳴事毛とし、モノコヒシキノナクコトモと訓し、諸説おおむねこれに從つている。しかしこの字面は、諸種の傳來を集めたもので、伎乃、および事の字は古い傳來には無く、闕脱してあつたものと認められる。すなわち西本願寺本には、本文は、物戀鳴毛とあつて、その戀鳴の中間の右に之の字、左に伎乃の字を補い書き、頭書には別筆で、「伎乃多本無v之。但法性寺殿御自筆本有v之」とある。また鳴毛の中間の左に「事、六條本有之」とある。元暦校本、類聚古集等には、本文を、物戀之鳴毛とし、元暦校本には、右に伎および朱で事を補つている。これらを綜合して考えるに、この句は、古來脱落があつて、數字を失つたものと認められる。これを補うのに多種の本から集め來ることは宜しくない。よつて今本文は、元暦校本の傳來のままにしておく。そのいかなる字が脱落しているかというに、これを推定することは困難であるが、「客爲而《タビニシテ》 物戀敷爾《モノコホシキニ》」(卷三、二七〇)などの例があつて、物戀シキニとあつたのであろうかとは考えられる。しかしこれに鳥の鴫を懸けて言つたというが、そうい(274)う例は他に見えない。その下の字は、鳴の字が、これも集中に例のあるように、ネと讀まれるので、その上に鶴、もしくは雁の如き鳥名を脱したとも見られ、これを聞いて慰むという歌意よりして、しばらく鶴の字脱として、鶴《タヅ》ガ音《ネ》モの訓を想定し得られる。以上はもとより臆説であつて、ただちに定訓とはしがたいが、今これを參考までに掲げておく、物戀シとは、何事となしに戀しい状態である。
 不所聞有世者 キコエザリセバ。これは音聲本位の訓法であつて、文字としては、キコユズアリセバである。聞えなかつたならばという假設法。
 孤悲而死萬思 コヒテシナマシ。マシは、不可能であることのわかつているむだな希望、または假設の推量で、實際に反することを想像していう助動詞。ここは假設の推量。もし何々であつたならば、戀をして死んだであろう。しかし死ななかつたの意である。旅の寂しい心を、せめて鳥の聲にまぎれている意。
【評語】この歌は問題の歌である。從來の、物戀しきに鴫を懸けたという解は首肯できないが、さりとてそれに代るべき名解も無い。なお他の歌には、鶴が音の聞えるために旅情を増すという内容のものがある。ここにも右の假訓が落ちつかない理由がある。
 
右一首、高安大島
 
【釋】高安大島 タカヤスノオホシマ。傳未詳。目録には作者未詳歌とある。
 
68 大伴の 御津《みつ》の濱なる 忘《わす》れ貝《がひ》、
 家なる妹を 忘れて念《おも》へや。
 
 大伴乃《オホトモノ》 美津能濱《ミツノハマ》尓有《ナル・ニアル》 忘貝《ワスレガヒ》
 家《イヘ》尓有《ナル・ニアル》妹乎《イモヲ》 忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
【譯】この大伴の御津の濱にある貝は、忘れ貝という名だが、さて家に殘して來た妻は、忘れることはできな(275)いなあ。
【釋】大伴乃美津能濱尓有 オホトモノミツノハマナル。大伴の美津の濱は既出(卷一、六三)。尓有は、尓は表音文字、有は表意文字であるから、ニアルとすべきであるが、音聲としてはナルである。かなをつけるに當つて、歴史的に書くか、表音式によるかの違いである。次句に對する連體句。
 忘貝 ワスレガヒ。貝の主が、忘れ去つたもぬけの貝がらをいうのだろう。「和須禮我比《ワスレガヒ》 與世伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》オキツシラナミ
」(卷十五、三六二九)の如き、その意である。また「
ワスレガヒヒリヘドイモハ」(卷十二、三一七五)ともいう。「海處女《アマヲトメ》 潜取云《カツギトルトイフ》 忘貝《ワスレガヒ》」(卷十二、三〇八四)の例があつて、海中にはいつて取ると歌つているが、これは京人が貝がらについて歌つたもので、かならずしも實際では無いだろう。今忘れ貝という貝は、ハマグリに似て、穀は白く、縱に紫褐色の條斑及び横にこまかい斑がある。かような特殊の貝をいうとするが、歌の意は、そのような特殊の貝ではないようである。貝の名を忘れ貝というが、その名に反して忘れることはできないの意を歌つている。なおこの類の語には、忘れ草がある。
 家尓有妹乎 イヘナルイモヲ。家にある妻をの意である。
 忘而念哉 ワスレテオモヘヤ。ワスレテオモフは、思い忘れるの意であつて、忘れてまた思うの謂ではない。ヤは反語。「將v會跡母戸八《アハムトモヘヤ》」(卷一、三一)の條に説明した。思い忘れることが無いの意である。
【評語】目前に横たわる貝を見て旅情を述べている。忘れ貝の名に寄せて、名に實の伴なわないことを歌つている。名に實の伴なわないことをいうのは常套手段であつて、忘れ草、名草山などに寄せて、しばしば歌つている。歌の趣からも、忘れ貝を一種の貝とするよりも、貝のぬしの忘れて行つた貝として見る方が、興が深い。
【參考】わすれ貝。
  わが夫子に戀ふれば苦し。暇あらは拾ひて行かむ。戀わすれ貝(卷六、九六四、大伴坂上の郎女)
(276)  暇あらば拾ひに往かむ。住吉の岸に寄るといふ戀わすれ貝(卷七、一一四七)
  住吉に往くといふ道に昨日見し戀わすれ貝言にしありけり(同、一一四九)
  手に取るがからに忘ると海人の云ひし戀わすれ貝言にしありけり(同、一一九七)
  木の國の飽等《あくら》の濱のわすれ貝我は忘れじ。年は經ぬとも(卷十一、二七九五)
  海處女潜き取るといふわすれ貝代にも忘れじ。妹が姿は(卷十二、三〇八四)
  若の浦に袖さへ沾れてわすれ貝拾へど妹は忘らえなくに(同、三−七五)
  秋さらばわが船泊てむ。わすれ貝寄せ來て置けれ。沖つ白波(卷十五、三六二九)
  わが袖は手本《たもと》とほりて沾れぬとも戀わすれ貝取らずは行かじ(同、三七一一)
 
右一首、身入部王
 
【釋】身入部王 ムトベノオホキミ。系譜未詳。續日本紀に六人部の王とある人と同人とすれば、和銅三年正月に從四位の下、その後順次昇進して天平元年正月に正四位の上となつて卒している。藤原武智麻呂傳に、當時の風流の侍從をあげた中に六人部の王がある。
 
69 草枕 旅行く君と 知らませば、
 岸の埴生《はにふ》に にほはさましを。
 
 草枕《クサマクラ》 客去君跡《タビユクキミト》 知麻世波《シラマセバ》
 崖之埴布尓《キシノハニフニ》 仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》
 
【譯】草の枕の旅をなさる御方と存じておりましたなら、岸邊の埴生で、お召しものをお染め致しましたでしようものを。
【釋】草枕 クサマクラ。既出。枕詞。
(277) 客去君跡 タビユクキミト。左註に依るに、君は長の皇子をさす。
 知麻世波 シラマセバ。マセは假設推量の助動詞マシの未然形で、この句は、もし知つておつたならばの意をあらわす。これを受けて、下に多くマシを以つて受けている「可久婆可里《カクバカリ》 古非牟等可禰弖《コヒムトカネテ》 之良末世婆《シラマセバ》 伊毛乎婆美受曾《イモヲバミズゾ》 安流倍久安里家留《アルベクアリケル》」(卷十五・三七三九)。これは下にマシで受けない例である。
 崖之埴布尓 キシノハニフニ。ハニフは、埴のある地。ハニは土。「白浪の千重に來寄する住吉の岸の黄土《はにふ》ににほひて行かな」(卷六、九三二)など、住吉の岸の埴生は、衣を染めることに關して歌われている。フは、通例植物の生地にいう例である。茅生、萱生など。崖は、山の邊際でキシである。
 仁寶播散麻思乎 ニホハサマシヲ。ニホハサは、ニホハスの未然形。色に染めるをいう。マシは不可能の希望の助動詞。ヲは感動の助詞。色に染めたかつたものを、知らなかつたので染めなかつたの意。
【評語】深く思い入つたというほどの歌ではない。孃子の口をついて出たような、なめらかさのある歌で、歌いものとして口馴れた歌を歌つたまでのようである。
 
右一首、清江娘子、進2長皇子1 姓氏未v詳
 
右の一首は、清江《すみのえ》の娘子《をとめ》の、長の皇子に進《たてまつ》れる。【姓氏いまだ詳ならず。】
 
【釋】清江娘子 スミノエノヲトメ。スミノエは地名と考えられる。住吉に同じであろう。この娘子はいかなる人とも知られない。前の長の皇子の御歌に見える住吉の弟日娘と同人であるかも知れない。その身分は、多分遊行女婦ででもあろう。
 進 タテマツレル。獻上した意。
 
(278)太上天皇、幸2于吉野宮1時、高市連黒人作歌
 
太上天皇の、吉野の宮に幸《い》でましし時、高市の連黒人の作れる歌
 
【釋】太上天皇。持統天皇。
 幸于吉野宮時。持統太上天皇の吉野の宮に御幸ありし時。何年の事とも傳えない。
 高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。既出。
 
70 倭には 嶋きてか來《く》らむ。
 呼子鳥《よぶこどり》、
 象《きさ》の中山 呼びぞ越ゆなる。
 
 倭尓者《ヤマトニハ》 鳴而歟來良武《ナキテカクラム》
 呼兒鳥《ヨブコドリ》
 象乃中山《キサノナカヤマ》 呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》
 
【譯】都の方では、ちようどこの喚子鳥が、鳴いて來ていることであろうか。今この吉野山中では、象の中山を鳴きながら都の方へ飛んで行くのだ。
【釋】倭尓者 ヤマトニハ。ヤトlは、大和の國の中央部、すなわち藤原の都の地方を指す。
 鳴而歟來良武 ナキテカクラム。カは疑問の係助詞。ラムは推量の助動詞。句切。都の方を思いやつているので、吉野の方から鳴きつつ來るだろうかと推量している。
 呼兒鳥 ヨブコドリ。人を呼ぶ鳥の義で、兒は愛稱である。その鳴く聲が人を呼ぶようなので、この名があるのであろう。これによつて何の鳥であるかを定むべきである。集中では三月から五月にわたつて歌に詠まれている。萬葉考には、かつこう鳥のことだという。その鳥の鳴く聲が、あたかも人を呼ぶように聞えるので、呼子鳥に當てられている。歌には常に、寂しがつて人を呼ぶという所から思いを起して、戀の歌に用いられて(279)いる。
 象乃中山 キサノナカヤマ。吉野の離宮の址と考えられる宮瀧の地の南方に聳える山。象は、倭名類聚鈔に、和名岐佐とある。象はわが國にはいないが、經典その他で、この巨獣のことを知り、大宮人などが、キサの地名にこの巨獣の字を當てたのであろう。この山を詠んだ歌には、「三吉野乃《ミヨシノノ》 象山際乃《キサヤマノマノ》 木末爾波《コヌレニハ》 幾許毛散和口《ココダモサワク》 鳥之聲可聞《トリノコヱカモ》」(卷六、九二四)がある。中山は、山中を、山を主にしていう。他に、象の小川とも云つている。
 呼曾越奈流 ヨビゾコユナル。呼ビ越ユナリの意で、ゾは強意のために入れただけ。しかしこれを受けて連體形のナルで結んでいる。
【評語】作者は吉野山中に來て、家郷なる藤原のあたりを戀しく思つている。それで、彼方にいる人は、この呼子鳥を、聞いているだろうかの情を下に托している。表面に妻を思うと露骨にいわない所に、深い趣が存する。吉野山中を鳴き渡る鳥によつて家郷を思いやつた歌である。
【參考】同句、大和には鳴きてか來らむ。
  大和には鳴きてか來らむ。霍公鳥《ほととぎす》汝《な》が鳴く毎に亡き人念ほゆ(卷十、一九五六)
    よぶこどり。
  神奈備《かむなび》の石瀬《いはせ》の社《もり》の喚子島いたくな鳴きそ。わが戀まさる(卷八、一四一九、鏡の王女)
  よのつねに聞くは苦しき喚子鳥聲なつかしき時にはなりぬ(同、一四四七、大伴坂上の郎女)
  瀧の上の三船の山ゆ秋津邊に來鳴きわたるは誰喚子島(卷九、一七一三)
  わが夫子を莫越《なこせ》の山の喚子鳥君喚びかへせ。夜の更けぬとに(卷十、一八二二)
  春日なる羽買の山ゆ佐保の内へ鳴き往くなるは誰喚子鳥(同、一八二七)
(280)  答へぬにな呼びとよめそ。喚子鳥佐保の山邊をのぼりくだりに(卷十、一八二八)
  朝霧にしののに沾れて喚子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(同、一八三一)
  朝霞八重山越えて喚子鳥鳴きや汝が來る。宿もあらなくに(同、一九四一)
 
大行天皇、幸2于難波宮1時歌
 
大行天皇の難波の宮に幸《い》でましし時の歌
 
【釋】大行天皇 サキノスメラミコト。文武天皇。漢籍にて、皇帝の崩じてまだ謚號をたてまつらない以前を、大行皇帝という。史記の服虔の註に「天子死未v有v謚曰2大行1」とある。逝きて反らざるゆえに、大行というのである。しかるにわが國では、謚號を上つた後でも、先帝の御事を大行天皇という。天平勝寶八歳六月二十一日の東大寺獻物帳に、「藤原宮御宇太上天皇」の次に、「藤原宮御宇大行天皇」とあり、また「大行天皇即位之時、便獻2大行天皇1、崩時亦賜2大臣1」とあり、これらの大行天皇はいずれも文武天皇をさしている。また天平二年十一月に記した、美努連岡萬の基志には、「藤原宮御宇大行天皇御世、大寶元年歳次辛丑五月」また「平城宮治天下大行天皇御世靈龜二年」とも記され、ここには、文武天皇、および元正天皇のことをさしている。それ故に、今、この題詞に大行天皇とあるは、まだ謚號を上らぬ以前に書かれたとする説は成立しないのである。
 幸于難波宮時歌 ナニハノミヤニイデマシシトキノウタ。續日本紀に、文武天皇の難波の宮への行幸を傳えたのは、無年號の三年正月と慶雲三年九月との兩度であつて、これはそのいずれの度であるかをあきらかにしない。慶雲三年のは、上に載せてあるが、これは記載書式を異にしているので、別の資料から出たものと考えられる。萬葉集編纂當時、既に年代をあきらかにしなかつたものであろう。
 
(281)71 倭|戀《こ》ひ 寐《い》の宿《ぬ》らえぬに、
 情《こころ》なく この渚埼廻《すさきみ》に
 鶴《たづ》鳴くべしや。
 
 倭戀《ヤマトコヒ》 寐之不v所v宿尓《イノネラエヌニ》
 情無《ココロナク》 比渚埼未尓《コノスサキミニ》
 多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》
 
【譯】大和を思つて、眠られないのに、心無しにも、この渚の岬の邊で、鶴が鳴くべきではないのだ。
【釋】倭戀 ヤマトコヒ。このヤマトは、藤原の京を含む大和の國の中心地方をいう。
 寐之不所宿尓 イノネラエヌニ。イは睡眠の名詞。ネラエヌは、眠られないの意。所の字は被役の用法。
 情無 ココロナク 既出(卷一、一七)無情に、同情心無く、つれなく。
 此渚埼未尓 コノスサキミニ。未は、元暦校本等による。仙覺本系統の本にはこの字が無い。スサキは、沙洲の先端。ミは接尾語。地形の名詞に附してその灣曲せるを示す。
 多津鳴倍思哉 タヅナクベシヤ。タヅは鶴。多豆、多頭と書いたものが多數であつて、ツは濁音であることが知られる。倭名類聚鈔に、「鶴、四聲字苑云、鶴 何各反、都流。 似v鵠、長喙高脚。唐韵云、※[零+鳥] 音零、揚氏漢語抄云、太豆。 」とある。鶴類の總稱である。集中、表音文字としては、「伊勢處女等《イセヲトメドモ》 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》」(卷一、八一)等、助動詞のツルに鶴の字を當てているものが多數であるが、歌詞には、假字書きにしたものにツルは無く、タヅは多數である。これを以つて見れば、タヅは上品の語であり、ツルはやや新しい口語ふうの語であつたのであろう。ベシヤは既出(卷一、一七)。ベシは適當をあらわす助動詞、ヤは反語の助詞、鶴の鳴くのは不適當である。鳴くべきではないの意。
【評語】家郷を思つて戀々として眠りをなしかねている時に、海濱の洲先の方に鶴の鳴く聲が聞える。夜沈々として鶴唳を聞く旅情を歌つている。鶴に呼びかけているような語氣が感じられるのは、旅人としての寂寥の(282)心を、この生物に寄せているからである。
 
右一首、忍坂部乙麻呂
 
【釋】忍坂部乙麻呂 オサカベノオトマロ。傳未詳。オサカベは日本書紀には、忍壁、押坂部、刑部等の文字を當てている。
 
72  玉藻刈る 奧《おき》へ は榜《こ》がじ。
 敷栲《しきたへ》の 枕せし邊人《つま》 忘れかねつも。
 
 玉藻苅《タマモカル》 奧敝波不v榜《オキヘハコガジ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 枕《マクラ》之邊人《セシツマ・ノベノヒト》 忘可祢津藻《ワスレカネツモ》
 
【譯】玉藻を刈るような沖の方は舟を漕ぐまい。かの枕を共にした妻が忘れ難いことだ。
【釋】玉藻苅 タマモカル。既出(卷一、四一)。沖の方の情景を描いている。實際に玉藻を刈つていてもいないでも、そんなことはどうでもよい。
 奧敝波不榜 オキヘハコガジ。ヘは、助詞と見る説と、邊の意の名詞と見る説とがある。しかし沖邊を於伎敝、於枳敝、於吉敝と書いた例があり、沖の方とする説(澤瀉博士)がよいのだろう。
 敷妙乃 シキタヘノ。シキタヘは、織布の一種。シキは繁蜜の義で、繊目のこまかなのをいう。また年々隨筆(石原正明)には、下に敷く織物なればいうとある。枕詞。袖、衣、枕等に冠する。
 枕之邊人 マクラセシツマ。人は元暦校本等多數の本にあり、ただ細井本のみに無い。五句に忘れかねるというより見ても、この字ある方が、人を目標とすることがあきらかになつて可である。さて種々の訓が考えられる。枕を名詞に讀むか動詞に讀むか。之を字音假字としてシと讀むか助詞ノを表示するとするか。邊人を文字に即して讀むか義を取つて讀むか等の諸問題があり、これらは相互に關連する所であつて、いまだ定訓を得(283)がたい。今案ずるに、邊人は、周邊の人の義によつてツマと讀まれるので、枕之をその修飾語としてマクラセシと讀む。また文字どおりについて讀めば、マクラノベノヒトであるが、八字であることが、この場合、難點である。
 忘可祢津藻 ワスレカネツモ。カネは不得の意の動詞であるが、助動詞として使用されている。下二段活。モは感動の助詞。
【評語】この歌は古本によつて人の字を補うことによつて確に生きて來る。「枕のあたり」というような漠然たる云い方より一歩進めて、しつかりと忘れかねる對象を明元し得るからである。妻に別れて海上を行く心が、感情をこめて歌われている。
 
右一首、式部卿藤原宇合
 
【釋】式部卿 ノリノツカサノカミ。藤原の宇合が式部卿に補せられた年代はあきらかで無いが、文武天皇の御代より後であることは否めない。ここにはそれを前に溯らして書いている。
 藤原宇合 フヂハラノウマカヒ。藤原の不比等の第三子で、正三位式部卿に至り、天平九年八月に薨じた(六九四−七三七)。懷風藻に年四十四と傳え詩六首を留めている。宇合は漢詩を善くし、諸人の作と違つて大陸かぶれのした思想を詠んでいる。尊卑分脈に集二卷ありとあるは、詩文の集であろうが今傳わらない。常陸國風土記の文章が、華麗な漢文でできているのも、彼が常陸の守時代にできた故であろうといわれている。この人の名、續日本紀には、はじめ馬養とあり、宇合とするは、その反名で、ウマカヒのウとカヒとをこの字であらわしたのである。合は字音カフであるのを轉じてカヒに當てたのである。大伴の旅人の名を淡等と書く類である。この人、天平九年に年四十四で薨じたとすれば、慶雲三年の頃は、十四歳のはずであつて、この歌(284)の作者として不適當である。ここの官氏名は、後人の記入であるのかも知れない。目録には作主未詳とある。目録を作つた時には、この官氏名は、無かつたもののようである。
 
長皇子御歌
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。既出(卷一、六〇)。
 
76 吾妹子《わぎもこ》を はやみ濱風《はまかぜ》、
 倭なる 吾《われ》待つ椿
 吹かざるな、ゆめ。
 
 吾妹子乎《ワギモコヲ》 早見濱風《ハヤミハマカゼ》
 倭有《ヤマトナル》 吾松椿《ワレマツツバキ》
 不v吹有勿勤《フカザルナユメ》
 
【譯】わが妻を早く見たいと思う、その早く吹く濱邊の風よ、大和の國に置いて來た、わたしを待つているあのツバキさんを、おとずれて吹いてくださいよ。きつと。
【釋】吾妹子乎 ワギモコヲ。枕詞。吾妹子を早く見たいという意味に、早見に懸かる。但し作者に妻を早く見たいと思う心があつて、この枕詞となつたのである。「吾妹子をいざ見の山」(卷一、四四)の用法に同じ。ワギモコの解も同項に記した。
 早見濱風 ハヤミハマカゼ。吾妹子を早く見たいということと、早い濱風ということとを兼ねて云つている。ハヤミは、淨み原、赤み鳥などの例と同じく、連體形である。風についていうは、勁風の意である。
 倭有 ヤマトナル。大和にあるの意。家郷にあることを意味している。
 吾松椿 ワレマツツバキ。ツバキは、作者の妻、すなわち歌中の吾妹子を、美しい譬喩であらわしたもの。松は、待ツの借字、ツバキに譬えたので、特にこの字を使つた。待ツの語から、樹木の松を連想して、このツ(285)バキの語を引き出している。古人はツバキを愛し、集中にもしばしばこれを詠んでいる。「しが下に生ひ立てる、葉廣ゆつ眞椿、しが花の照りいまし、しが葉の廣りいますは、大君ろかも」(古事記五八)は、ツバキを以つて天皇の昏喩としている。「わが門の片山椿まこと汝《なれ》わが手觸れなな土に落ちもかも」(卷二十、四四一八)も、愛人をツバキに譬えている。ツパキの下に、助詞ヲを補つて解すべき句。
 不吹有勿動 フカザルナユメ。吹かずにあるな、決しての意。故郷の妻戀しさに、今自分の吹かれている濱邊の風に、故郷の妻のもとにも吹いて行つてくれと、嘱望するのである。ユメは、動詞忌ムの命令形を語原とし、慣用語として、努めて、決して等の意をあらわす。日本書紀に努力、本集に謹、勤の字をユメと讀んでいる。
【評語】自分を吹く風が、妹にも觸れよというが如き思想は、例歌もある。例えは「わが袖に降りつる雪も流れゆきて妹が手本にい行き觸れぬか」(卷十、二三二〇)など。この歌の興味は、妻をツバキと云い放つた處にあろう。ここに意外感があり、目ざましさを覺えるのである。しかし、ツバキは古人の愛した植物で、ツバキに依つて思いを愛人に寄せている歌は、古事記以來、しばしば見受ける所であつて、そういう古歌の知識があらわれたものともいわれよう。
 
大行天皇、幸2于吉野宮1時歌
 
大行天皇の、吉野の宮に幸でましし時の歌
 
【釋】幸于吉野宮時歌 ヨシノノミヤニイデマシシトキノウタ。續日本紀に、大寶二年七月の吉野の離宮への行幸を傳えているが、その時の事であるか否かをあきらかにしない、以下二首の題詞である。
 
(286)74 み吉野《よしの》の 山の下風《あらし》の 寒けくに、
 はたや今夜《こよひ》も わがひとり寐む。
 
 見吉野乃《ミヨシノノ》 山下風之《ヤマノアラシノ》 寒久尓《サムケクニ》
 爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》 我獨宿牟《ワガヒトリネム》
 
【譯】吉野の山の風が寒く吹くのに、今夜も、わたしは獨寐をすることだろうかなあ。
【釋】見吉野乃 ミヨシノノ。既出(卷一、二五)。見は借字、訓を借りてミの音を寫す。
 山下風之 ヤマノアラシノ。ヤマシタカゼノ(類)、ヤマノアラシノ(僻)。下風をアラシと讀むのは、「左夜深跡《サヨフクト》 阿下乃吹者《アラシノフケバ》」(卷十三、三二八一)の如く阿下と書いた例があるので、確められる。山から吹きおろす風が荒いので、下風と書くのであろう。アラシは、荒い風の義。
 寒久尓 サムケクニ。サムケクは、寒くあることの義の名詞。形容詞寒シのケ活用に、名詞を作るクが接續したもの。長ケク、戀シケクなどと同じ語法である。寒くあることなるにの意で、下の獨寐を修飾する。
 爲當也今夜毛 ハタヤコヨヒモ。爲當は、漢文に使用される熟字で、日本書紀欽明天皇十六年二月の條にも「於v是許勢臣、問2王子惠1曰、爲當欲v留2此間1、爲當欲v向2本郷1」など使用されている。これは國語のハタに相當するのであるが、ハタは、マタに近く更に感動の意の強いものである。「痩々母《ヤスヤスモ》 生有者將v在乎《イケラバアヲムヲ》 波多也波多《ハタヤハタ》 武奈伎乎漁取跡《ムナギヲトルト》 河爾流勿《カハニナガルナ》」(卷十六、三八五四)など使用例がある。ヤは感動の係助詞。下の獨寐に懸かつている。この句のハタヤは、それにしてもやつぱりなあの意味を有するのであろう。
 我獨宿牟 ワガヒトリネム。上のヤを受けて、獨寐をすることよと嘆いている。但し獨寐をすることは決定的であり、これを疑つてはいない。
【評語】何等人目をひくほどのことは無いが、すらすらと隙なくできている。歌に慣れた人の作のようであるが、この形のものが、歌われて流傳していて、固有名詞などを變えてこの歌となつたのだろう。
 
(287)右一首、或云、天皇御製歌
 
【釋】或云天皇御製歌 アルハイフ、スメラミコトノオホミウタ。右の歌は、作者を記さないが、ここに別傳として、天皇の御製であるという。天皇は文武天皇である。しかし歌の内容を按ずるに、ワガ獨ネムとあつて、天皇の御製としてふさわしくない歌であるから、多分行幸に御供した臣下の作であろう。文武天皇。既出。天武天皇の皇孫、草壁の皇太子の皇子。少名は珂瑠《かる》の皇子。御祖母持統天皇の讓位を受けて即位せられ、慶雲四年六月十五日崩御、寶算二十五。懷風藻に御製の詩を留められている。歌は、この或ルハイフの一首のほかには傳わらない。
 
75 宇治間山《うぢまやま》 朝風さむし。
 旅にして 衣《ころも》借《か》すべき
 妹もあらなくに。
 
 宇治間山《ウヂマヤマ》 朝風寒之《アサカゼサムシ》
 旅尓師手《タビニシテ》 衣應v借《コロモカスベキ》
 妹毛有勿久尓《イモモアラナクニ》
 
【譯】宇治間山には朝風が寒く吹いている。自分は旅先のことであつて、衣を貸してくれるような妻も無いことである。
【釋】宇治間山 ウヂマヤマ。飛鳥地方から吉野の上市に越える途中の山であるという。
 朝風寒之 アサカゼサムシ。句切。
 旅尓師手 タビニシテ。ニシテは助詞。旅にありて。
 衣應借 コロモカスベキ。集中、借の字は、カルともカスとも讀んでいる。「妹立待而《イモタチマチテ》 宿將v借鴨《ヤドカサムカモ》」(卷七、一二四二)、「獨去兒爾《ヒトリユクコニ》 屋戸借申尾《ヤドカサマシヲ》」(卷九、一七四三)など、借の字をカスに當てている例である。衣を貸し(288)てくれるべきの意。當時は、男女の衣服の制、殊に下著は同樣であつたと見え、しばしは貸借することを歌つている。「秋風の寒き朝明を佐農の岡超ゆらむ公に衣借さましを」(卷三、三六一)などある。
 妹毛有勿久尓 イモモアラナクニ。妹は妻、愛人。アラナクは、あらぬことの意。クは助詞で、動詞、助動詞、形容詞に接續して、それらを體言化する用をする。ニは感動の助詞であるが、輕く添えている。妻も無きことよと嘆じている。
【評語】衣服に寄せて妻を戀う心情を歌つている。山風の寒い朝の旅心が、よく描かれている。平凡な内容の歌であるが、實情はあらわれている。
 
右一首、長屋王
 
【釋】長屋王 ナガヤノオホキミ。天武天皇の孫、高市の皇子の子である。聖武天皇の御代に正二位左大臣に至つたが、天平元年二月私に左道を學び國家を傾けんとすと讒する者があつて遂に自盡を命ぜられた。その室吉備の内親王、男、膳夫《かしわで》の王、桑田の王、葛木《かづらき》の王、鈎取《かぎとり》の王等も同じくみずから縊れた。長屋の王の年は、懷風藻に詩を傳え、年五十四とも四十六とも傳えている。その宅を作寶樓と稱し、賓客を迎えて詩文の會を催したことなどの事蹟がある。
 
和銅元年戊申、天皇御製歌
 
【釋】和銅元年戊申 ワドウノハジメノトシツチノエサルノトシ。元明天皇の御世、慶雲五年正月、武藏の國から銅を獻つたので、元號を改めて和銅といつた。
 天皇。元明天皇。天智天皇の皇女、御名は阿閉の皇女。草壁の皇太子の妃、文武天皇の御母。文武天皇の崩(289)後、即位された。靈龜元年九月讓位、養老五年十二月崩ず、壽六十一。天皇は慶雲四年に帝位につかれたので、和銅元年はその翌年である。しかるにあたかも蝦夷が叛いたので、和銅二年三月に征討軍を出した。前年にその兵を練る物聲をお聞きになつて、御代の初に事あるを歎かせられた御製である。
 
76 丈夫《ますらを》の 鞆《とも》の音《おと》すなり。
 もののふの 大臣《おほまへつぎみ》 楯《たて》立《た》つらしも。
 大夫之《マスラヲノ》 鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》
 物部乃《モノノフノ》 大臣《オホマヘツギミ》 楯立良思母《タテタツラシモ》
 
【譯】勇士たちが矢を放つ音がする。軍部の大臣が楯を立てて練兵をしていることと見える。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出。勇氣あり思慮ある男兒の稱。
 鞆乃音爲奈利 トモノオトスナリ。鞆は國字。獣革にて袋の形に作り、中には獣毛など(290)を入れる。これを左の手腕に附けて、矢を射る時、弓弦が反つてこれに當るようにする。その弓弦の當つた音が、鞆の音である。スナリは爲《す》の強い語法である。この句で一段落、勇士が矢を放つ音がすると、事實を敍したのである。
 物部乃 モノノフノ。モノノベノ(類)、モノノフノ(元)。モノノフは既出(卷一、五〇)。ここは主として武官をいう。
 大臣 オホマヘツギミ。大前つ君の義。廷臣をマヘツギミという。その大官をいう。以上二句、武官の大臣の義で、將軍をいう。
 楯立良思母 タテタツラシモ。楯は立てて敵の矢を防ぐにより名づく。ラシは事實にもとづく推定の助動詞。モは感動の助詞。楯立ツラシモは、軍備を整えていることと思われるよしである。
【評語】この歌、表面には別に感情をあらわす語が見えない。將軍が武備を整えているというだけで、むしろいさましい語氣である。かように感情を表面に露出しないのは、古歌の趣で、力強い朴直な線が、ここから生まれるのである。楯立ツは、タ行音を重ねて、音聲上からも強い言い方で、内容にふさわしい表現である。
 
御名部皇女、奉v和御歌
 
【釋】御名部皇女 ミナベノヒメミコ。天智天皇の皇女。元明天皇の同母の御姉。
 奉和 コタヘマツレル。前記の元明天皇の御製の歌に對して唱和し奉つたのである。
 
77 わが大君《おほきみ》 ものな念ほし。
 皇神《すめがみ》の 嗣《つ》ぎて賜《たま》へる
(291) 吾《われ》無《な》けなくに
 
 吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》
 須賣神乃《スメガミノ》 嗣而賜流《ツギテタマヘル》
 吾莫勿久尓《ワレナケナクニ》
 
【譯】わが大君は、物をお案じなさいますな。天の神樣が天皇のさしそえとして、この世にお下しになつたわたくしという者もございます。
【釋】吾大王 ワガオホキミ。御名部の皇女から天皇を指し奉つている。
 物莫御念 モノナオモホシ。モノは、代名詞ふうに或る事の意をいう語。ナは、勿かれの意の助詞。動詞がこれを受けて連用形を取り、その動作を禁止する意味になる。その下に更に助詞ソの接續するを通例とするが、古くはその無いものもある。これはその無い例で、「安禮奈之等《アレナシト》 奈和備和我勢故《ナワビワガセコ》」(卷十七、三九九七)などの例がある。オモホシは、お思いになる。すなわち、物をお考えになりますな、御心配あそばしますなの意になる。モノ、ナオモホシと解するのが原形であるが、ナは、その上に他語がくる場合は、その方に接著する性質があつて、モノナ、オモホシのように切るようになる。前の歌に、天皇の練兵の物音を聞いて、御胸を悩ませたまう意、ここにあきらかとなる。ここにて一段落。
 須賣神乃 スメガミノ。スメは統御する意で、神の範圍を限定するもの。スメガミは統治者たる神、すなわち皇祖神をいう。轉じては、ただ神の尊稱としても使用される。「ちはやぶる金のみ埼を過ぎぬとも吾は忘れじ。牡鹿《しか》の須賣神」(卷七、一二三〇)の如きは、轉用の例である。
 嗣而賜流 ツギテタマヘル。天皇の副人《そえびと》として、補佐すべくこの世に下し賜わつたの意で、賜フの主格は皇神である。天皇に續いて皇神の下し賜えるの義である。神田本、金澤文庫本には、嗣を副に作つており、これによれば、ソヘテタマヘルで、解釋は一層やすらかである。古寫本では、嗣と副とは、しばしば混同しているので、いずれが是なるかを定め疑い。
(292) 吾莫勿久尓 ワレナケナクニ。ナケもナクも打消の無で、打消が二重になるので、あることになる。ナケのケは、形容詞の古い活用形で、普通に用言の未然形と稱するものに相當する。助詞バの受けた形、無ケバ、助動詞ムの受けた形、無ケムなどの用例がある。ナクは否定の助動詞ヌに事の意のクがついたのである。ニは助詞で、言意を丁寧にするだけの用である。假字書きの例には「タビトイヘバコトニゾヤスキスクナクモ
 
伊母爾戀都都《イモニコヒツツ》 須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》」(卷十五、三七四三)などがある。
【評語】強い語法を用いて、天皇の御憂鬱をお慰め申し上げている。しかし類型の歌があり、かような形の古歌が歌い傳えられていたようである。
【參考】類型。
  わが夫子《せこ》は物なおもほし。事しあらば火にも水にも吾無けなくに(卷四、五〇六)
 
和銅三年庚戌春二月、從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時、御輿停2長屋原1廻2望古郷1御作歌 一書云、太上天皇御製
 
和銅三年庚戌の春二月、藤原の宮より寧樂《なら》の宮に遷《うつ》りましし時、御輿を長屋《ながや》の原《はら》に停《とど》めて、古郷《ふるさと》を廻望《かへりみ》たまひて作りませる御歌【一書にいふ、太上天皇の御製】
 
【釋】和銅三年庚戌春二月 ワドウノミトセ、カノエイヌノハルキサラギ。平城の京は、和銅元年に造營を始められ、その三年三月十日、始めて都を平城に遷した。この題詞は、この歌の作られた年月について記している。
 寧樂宮 ナラノミヤ。ナラは地名で、もと平坦を意味する。平城の字面は、これに依るが、ここには、好字を選んで寧樂の字を用いてある。これは當時、廣く行われた字面である。今の奈良市の西方に、宮址がある。
(293) 御輿 ミコシ。輿は乘輿。この歌の作者の乘物である。
 長屋原 ナガヤノハラ。所在未詳。藤原の京と平城の京との中間にあるべきは勿論である。今の朝和村永原であるという説がある。
 廻望 カヘリミタマヒテ。藤原の京の方を顧望したまうのである。西本願寺本等には、廻を※[しんにょう+向]に作つている。※[しんにょう+向]はハロカニである。
 古郷 フルサト。歌詞によるに、今は舊都となつた明日香の里をいうであろう。
 御作歌 ツクリマセルミウタ。集中、いかなる作者について、この字を用いているかというに、川島の皇子、阿閉の皇女、志貴の皇子、磐姫の皇后、大伯の皇女、大津の皇子、但馬の皇女、倭の大后、高市の皇子、穗積の皇子、聖徳太子、藤原の大后についてである。これに依れば、皇后、皇子、皇女に限られ、ここにこの歌の作者の範圍も、これらのうちであることが知られる。しかしここにはそのいずれの御方とも指定されていないのは、遺脱であるが、もとからかくの如き形になつていたものであろう。
 一書云 アルフミニイフ。作者に關する別傳であるが、何の書とも知られない。
 太上天皇。和銅三年には、太上天皇はおられない。歌詞に明日香の里ヲ置キテ去ナバとあるにより、明日香の京から遷居の歌とすれば、その時の天皇で、後に太上天皇と仰がれた持統天皇の御事になる。また題詞によつて平城の京に還居された時の御方とすれば、後に太上天皇と仰がれた元明天皇の御事になる。漠然たる書き方で、いずれの方とも決定しがたい。
 
78 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の里を
 置きて去《い》なば、
(294) 君が邊《あたり》は 見えずかもあらむ。
 【一は云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ。】
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香能里乎《アスカノサトヲ》
 置而伊奈婆《オキテイナバ》
 君之當者《キミガアタリハ》 不v所v見香聞安良武《ミエズカモアラム》
 【一云、君之當乎不v見而香毛安良牟】
 
【譯】あの明日香の里をさし置いて、寧樂の宮に遷り行つたならば、わたしのなつかしくお慕い申し上げている君のあたりも、見えなくなることであろうか。
【釋】飛鳥 トブトリノ。枕詞。明日香に冠する。日本書紀、天武天皇の朱鳥元年七月の條に、「改v元曰2朱鳥元年1【朱鳥、此云2阿※[言+可]美苔利1】仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。これは朱鳥の祥瑞によつて宮號に飛鳥を冠せられたものであり、ここに飛ぶ鳥の明日香ということが始まつたと考えられる。後、慣用するに及んで直にアスカに、飛鳥の文字を使用し、本集古事記等にもこれを見るに至つた。東大寺要録に載せた天平勝寶四年四月十日に元興寺の僧の獻つた歌には、「度布夜度利《トブヤトリ》 阿須加乃天良乃《アスカノテラノ》 宇太々天萬都留《ウタタテマツル》」とある。
 明日香能里乎 アスカノサトヲ。明日香は、奈良縣高市郡飛鳥村附近一帶の總名。大體香具山の西南に當る。ここにいう明日香の里は、それを總括的にいうと思われる。これを明日香の淨御原の宮とすれば、明日香から藤原に宮遷りされた時の歌とも解せられ、題詞に信をおくとすれば、明日香と藤原とは隣近の地であるから、明日香の地を顧望せられていうとも解せられる。美夫君志、講義の説の如く、後者に解するを順當とする。
 置而伊奈婆 オキテイナバ。オキテは、「倭乎置而《ヤマトヲオキテ》」(卷一、二九)、「京乎置而《ミヤコヲオキテ》」(同、四五)のオキテに同じく、さしおいて、うち捨てての意。イナバ、往なば。
 君之當者 キミガアタリハ。君のいる邊はの意。君は何人をさすか不明であるが、明日香の里に住む人をさしていると解せられる。
 不所見香聞安良武 ミエズカモアラム。カモは疑問の係助詞。分けていえば、カは疑問、モは感動。「置目(295)もや淡海の置目明日よりはみ山がくりて美延受加母阿良牟《ミエズカモアラム》」(古事記一一三)。
 一云君之當乎不見而香毛安良牟 アルハイフ、キミガアタリヲミズテカモアラム。この一云は、多分題詞の一書云と同じもので、太上天皇御製とある資料によつて、この歌詞の別傳をも記したのであろう。本文の歌詞は、君があたりを主格として敍し、この別傳は、作者自身を主格として敍している點に相違がある。
【評語】作者は不明であるが、多分女性の作と考えられる。住み馴れた土地に愛惜を感じて、低徊去り難い心がよくあらわれている。顧望の情をつくした歌というべきである。
 
或本、從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌
 
或る本、藤原の京より寧樂の宮に遷りし時の歌
 
【釋】或本 アルマキ。上記の歌に對して、同じ時の歌として、別の資料にあつた歌を掲げている。特に或本と記したのは、既に本文の記事があつて、後にこれを加えたことを語る。第一次的な編纂の場合ならば、或本とことわる必要が無い。
 
79 天皇《おほきみ》の 御命《みこと》かしこみ、
 柔《にき》びにし 家をはなち
 こもりくの 泊瀬《はつせ》の川に
 ※[木+共]《おほき》浮けて わがゆく河の、
 川隈《かはくま》の 八十隈《やそくま》おちず、
 萬度《よろづたび》、顧みしつつ
(296) 玉桙《たまほこ》の 道行き暮らし、
 あをによし 奈良《なら》の京《みやこ》の、
 佐保川に い行き到りて、
 わが宿《ね》たる 衣《ころも》の上《うへ》ゆ、
 朝月夜《あさづくよ》 さやかに見れば、
 栲《たへ》の穗《ほ》に 夜《よる》の霜降り、
 磐床《いはどこ》と 川の水|凝《こ》り、
 冷《さむ》き夜を 息《やす》むことなく
 通ひつつ 作れる家に、
 千代まで 來ませ大君よ。
 吾も通はむ。」
 
 天皇乃《オホキミノ》 御命畏美《ミコトカシコミ》
 柔備尓之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲハナチ》
 隱國乃《コモリクノ》 泊瀬乃川尓《ハツセノカハニ》
 ※[木+共]浮而《オホキウケテ》 吾行河乃《ワガユクカハノ》
 川隈之《カハクマノ》 八十阿不v落《ヤソクマオチズ》
 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲乍《カヘリミシツツ》
 玉桙乃《タマホコノ》 道行晩《ミチユキクラシ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》
 佐保川尓《サホガハニ》 伊去至而《イユキイタリテ》
 我宿有《ワガネタル》 衣乃上從《コロモノウヘユ》
 朝月夜《アサヅクヨ》 清尓見者《サヤカニミレバ》
 栲乃穗尓《タヘノホニ》 夜之霜落《ヨルノシモフリ》
 磐床等《イハドコト》 川之水凝《カハノミヅコリ》
 冷夜乎《サムキヨヲ》 息言無久《ヤスムコトナク》
 通乍《カヨヒツツ》 作家尓《ツクレルイヘニ》
 千代二手《チヨマデ》 來座多公與《キマセオホキミヨ》
 吾毛通武《ワレモカヨハム》
 
【譯】天皇の仰せを恐れ懼《かしこ》み、馴れ親しんでいた家を解いて、かの泊瀬の川に材木を浮べて、わたしの行く川の、數多い曲り角毎に、何度も顧みながら一日中道を行き暮らして、奈良の都の佐保川に行き至つて、野宿をした衣の上に、明け方の月がさやかに照り渡れば、眞白な霜が降つて、岩床のように川の水が氷つて、寒い晩でも休むことなく通いながら作つた家には、千代までもおいでなさいませ、大君よ。わたくしも通おうと思つております。
【釋】天皇乃御命畏美 オホキミノミコトカシコミ。天皇は、皇祖をも含めて絶括的の場合にはスメロキとい(297)い、現在の天皇の場合にはオホキミという。集中の例、ミコトカシコミの場合には、現在についてオホキミという例である。假字書きの例に、「於保伎美乃《オホキミノ》 美己等可思古美《ミコトカシコミ》 可奈之伊毛我《カナシイモガ》 多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》 欲太知伎努可母《ヨダチキノカモ》」(卷十四、三四八〇)、「憶保枳美能《オホキミノ》 彌許等可之古美《ミコトカシコミ》 安之比奇能《アシヒキノ》 夜麻野佐波良受《ヤマノサハラズ》 安麻射可流《アマザカル》 比奈毛乎佐牟流《ヒナモヲサムル》」(卷十七、三九七三)などある。ミコトは勅命。カシコミは、動詞カシコムの活用形。恐悚する状態にある意である。ミコトカシコミは、月清ミ、山深ミなどの語法に同じく、勅命の畏さに、仰せ言に恐懼して。この句、集中用例多く、二十二例を數える。馴れた家を捨てて新しい京に邸宅を構築する原因を説く副詞句となる。
 柔備尓之 ニキビニシ。柔は柔和の義で、剛(アラ)に對して古語のニキに相當する。ニキは、和柔の意の語。ニキビはその動詞の連用形。ニシは助動詞。和み賑いてありし意の連體形の句。假字書きの例に、「白妙之《シロタヘノ》 手本矣別《タモトヲワカレ》 丹杵火爾之《ニキヒニシ》 家從裳出而《イヘユモイデテ》」(卷三、四八一)などある。
 家乎擇 イヘヲハナチ。
   イヘヲエラビテ(神)
   イヘヲワカレテ(攷)
   イヘヲオキテ(講義)
   ――――――――――
   家乎釋《イヘヲオキテ》(僻)
   家毛放《イヘヲモサカリ》(考)
   家乎釋《イヘヲオキ》(古義)
   家乎放《イヘヲサカリ》(古義)
(298)右にあげたように諸説がある。柔ビニシ家に對して、離れ、または捨てる意であるべきは勿論と思われる。擇は、選擇の義の字で、良いものを取つて惡いものを捨てる意がある。類聚名義抄に、エラブ、ハナツの兩訓があり、また同書に、捨、舍、廢、釋、放、毀等にハナツの訓がある。今、これによつて、イヘヲハナチと讀み、家を解體する意とする。これは下の※[木+共]浮而の訓と關連するものである。その條參照。
 隱國乃 コモリクノ。既出(卷一、四五)枕詞。隱國と書いているのは、この語の正字であろう。
 泊瀬乃川尓 ハツセノカハニ。泊瀬川は、泊瀬の山間から出で、西北流して佐保川等と合して大和川となる。その川の流下する勢いを利用したと見られる。
 ※[木+共]浮而 オホキウケテ。※[木+共]は、類聚古集、神田本に拱に作るによる。元暦校本はこの部分を傳えない。拱は、手をこまぬく意の字で、ここには適わない。古寫本に木扁を常に手扁に作るにより、※[木+共]の字と定める。※[木+共]は、柱の上方の木で、棟木を受ける材の字であるが、新撰字鏡には、材大者也とあつて、家屋構成の巨材をいうものと思われる。今、奈良に遷都されたに伴なつて、そこに家屋を新築するのであるが、藤原の京の家が不用になるので、それを解體してその巨材を水運を利して運ぶものと解せられる。續日本紀天平十五年十二月の條に(299)は、「初壞2平城大極殿并歩廊1、遷2造於恭仁宮1」とあり、宮殿でも舊材を遷し作るので、一般の家では、勿論この事が行われたであろう。また泊瀬川から水運を利して奈良に運ぶのに、舟では困難であるが、材木を引いて行く分には可能である。この歌の家は、どのくらいのものかわからないが、相當の邸宅であつたのだろうし、また家財なども、つけているだろう。仙覺本に※[舟+共]に作るのは、※[木+共]の字義を理解し得ないで何人かが改めたものであろう。ウケは浮クの下二段活。他動詞として使用される。浮かべてである。藤原の京から水運を利用して、家屋の用材を運ぶ趣である。
 吾行河乃 ワガユクカハノ。河は泊瀬の川をいう。
 川隈之 カハクマノ。上に道の隈の語があつた(卷一、一七)。川隈は、川の曲つて生ずる隅をいう。
 八十阿不落 ヤソクマオチズ。ヤソクマは、多數の隈。多くの隈毎にの意。「此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 萬段《《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》」(卷二、一三一)なと使用している。
 萬段 ヨロヅタビ。多くの度數の意。「與呂頭多妣《ヨロヅタビ》 可弊里見之都追《カヘリミシツツ》」(卷二十、四四〇八)。
 玉桙乃 タマホコノ。枕詞。道を修飾する。假字書きの例に、「多麻保許能《タマホコノ》 道乎多騰保美《ミチヲタドホミ》」(卷十七、三九五七)などある。假字書き以外にはタマホコに玉桙、珠桙、玉戈の字を使つているので、これらがこの語の正字で、立派な桙の義と解せられる。その道に懸かる所以はあきらかでないが、この詞の修飾する道の語は、チに中心思想があつて、ミは美稱の接頭語と解せられ、そのチは、靈威の意の語から出るとすれば、玉桙にチを感じて、枕詞となつたものだろう。古代の桙は、ちいさい幡を附けるための鈎《ち》があるので、道のチに懸かるとする説は信じがたい。
 通行晩 ミチユキクラシ。日暮に至るまで道を行く意で、川に沿つて行くのである。
 楢乃京師乃 ナラノミヤコノ。楢は借字、平城に同じ。
(300) 佐保川尓 サホガハニ。佐保川は、平城の京を流れ南下して泊瀬川に合流する。水量すくなく當時にても舟運の便があつたとは考えられないが、浮べた物を引くことは、或る地點までは可能だろう。
 伊去至而 イユキイタリテ。上のイは接頭語。行き到つての意。
 我宿有 ワガネタル。既に夜にはいつて川邊に寐たのである。その場處は、陸上かどこか不明である。
 衣乃上從 コロモノウヘユ。屋根無き處に寐るので、横たわれる作者の衣服の上を通してといつている。衣の上ゆ見ればと下の句に懸かる。
 朝月夜 アサヅクヨ。朝の月。ヨは接尾語。月は夜の物であるから附ける。月を月夜ということは、上にも例があり(卷一、一五)、また「去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》 雖v照《テラセドモ》」(卷二、二一一)などある。
 清尓見者 サヤカニミレバ。朝月のもとに明白に見れば。サヤカは明白の意。この見た結果が、次の夜ノ霜フリと川ノ水凝りになるのである。
 〓乃穗尓 タヘノホニ。〓はコウゾで、その皮の繊維の純白なのを特色とする。ホは物のすぐれたのをいう。紅色を丹の穗という類に、純白色をタヘノホという。「
ウチヒサスミヤノトネリモタヘノホニアサギヌケルハ」(卷十三、三三二四)の雪穗も、タヘノホニと讀む。この句は次の夜ノ霜フリに懸かつている。栲は別字、樹名オウチのことである。
 夜之霜落 ヨルノシモフリ。夜のほどに降る霜なので、夜の霜という。
 磐床等 イハドコト。イハドコは、岩石の地に固定して床を成しているもの。トはトシテの意。次の水の凝る状態を説明している。
 川之水凝 カハノミヅコリ。
   カハノコホリテ(僻)
(301)   カハノミヅコリ(燈)
   ――――――――――
   川之氷凝《カハノヒコゴリ》(考)
   川之氷凝《カハノヒコリテ》(西)
   川之氷凝《カハノヒコホリ》(檜)
 神田本等には、水を氷に作つている。凝は凝固で、國語のコルに當るが、上の磐床トを受けており、磐床と凝るの意であるから、水でも氷でも通ずるとせねばならない。氷とするに依らばヒと讀むべく、凝をコリと讀めば、この句六音の句となり、七音とするにはテを讀み添えねばならない。これにより傳本の確なるに依つて水とするに從う。以上、〓ノ穗ニ夜ノ霜フリに對して、磐床ト川ノ水凝リの句が對句を成している。
 冷夜乎 サムキヨヲ。サユルヨヲ(西)。上の數句の敍述に依り、寒キと讀むことが適切である。
 息言無久 ヤスムコトナク。イコフコトナク(僻)。息は憩に通じて使用されるが、集中イコフの假字書きは無い。休息すること無くの意である。
 通乍 カヨヒツツ。藤原の京から此處に通いつつである。しばしば來たことを云している。
 作家尓 ツクレルイヘニ。上の句を受けて、辛苦して作つた家にの意。新しい京に、住宅を經營するのである。
 千代二手 チヨマデ。二手は、左石の手で、マテと讀むのは、眞手の義である。「幾代左右二賀」(卷一、三四)の條參照。
 來座多公與 キマセオホキミヨ。與は、表意文字としてはトと讀まれ、字音假字としてはヨと讀まれる。ここはいずれにても意を成す所である。但し次の、吾モ通ハムの句に對しては、千代マデ來マセ多公ヨを命令文として見ることが自然である。多公は大君の意で、皇族のある方をさすものと思われる。千代マデ來マセは、永久に來たまえの意。その大君に對して歌つている。
 吾毛通武 ワレモカヨハム。吾も大君と共にこの家に通おうの意。自分の作つた家に客を迎えようとしてい(302)る。
【評語】遷都に伴なつて、新しい京に住宅を作る辛苦と、樂しい希望とが歌われている。歌として珍しい資料を取り扱つており、敍述されている辛吉そのものに對する興味もあるが、たどたどしい所があり、歌作に慣れない人の歌のようである。その家が、どういう家か、十分にわからないので、終りの部分の意が明白にされないのは遺憾であるが、作者は、これでよしとしたのであろう。大君のために別宅でも移したのだろうか。
 
反歌
 
80 あをによし 寧樂《なら》の家には
 萬代に 吾も通はむ。
 忘ると念《おも》ふな。
 
 青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃家尓者《ナラノイヘニハ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 吾母將v通《ワレモカヨハム》
 忘跡念勿《ワスルトオモフナ》
 
【譯】美しい寧樂の京なる家には、萬代までに、わたしも通おうと思います。わたしが忘れるとはお思いくださいますな。
【釋】寧樂乃家尓者 ナラノイヘニハ。長歌を受けて、今造つたこの平城の新宅にはの意。
 萬代尓 ヨロヅヨニ。長歌に千代マデと云つたのを受けて、語を變えている。千代でも萬代でも、内容は同じで、多くの世代をいう。多分、、千代の語が先にでき、更に強調する意味に萬代の語ができたのであろう。
 吾母將通 ワレモカヨハム。長歌の末句を使用している。句切。
 忘跡念勿 ワスルトオモフナ。わがこの家に通うことを忘るとは思うな。かならず吾も通おうの意。ナは禁止の助詞。「人事《ヒトゴトヲ》 茂君《シゲミトキミニ》 玉梓之《タマヅサノ》 使不v遣《ツカヒモヤラズ》 忘跡思名《ワスルトオモフナ》」(卷十一、二五八六)。
(303)【評語】長歌の内容を受けて、この家に變ることなく來り通おうとする心を歌つている。よい歌とも考えられないが、一往よく纏まつている。
 
右歌、作主未v詳
 
【右歌】 ミギノウタ。右の長歌と反歌とをさしている。
 作主未詳 ツクリヌシイマダツマビラカナラズ。右の歌の作者があきらかでないという、編者の註である。この歌の作者は、皇族の家臣で、その邸宅を作るに從つていた者ででもあろうか。
 
和銅五年壬子夏四月、遣2長田王于伊勢齋宮1時、山邊御井作歌
 
和銅五年壬子の夏四月、長田の王を伊勢の齋《いつき》の宮に遣しし時、山邊の御井にて作れる歌
 
【釋】長田王 ナガタノオホキミ。續日本紀、和銅四年四月、從五位の上から正五位の下を授けられ、以下歴任して天平九年六月に至つて「散位正四位下長田王卒」とある方と、同じく天平十二年十月、從四位の下長田の王に從四位の上を授くとある方とがあり、三代實録、貞觀元年十月二十三日の條に、「尚侍從三位廣井女王薨。廣井者、二品長親王之後也。曾祖二世從四位上長田王、祖從五位上廣川王、父從五位上雄河王」とある長田の王は長の親王の御子であるが、位階から云えば、天平十二年の記事に見える方らしい。ここの長田の王は、そのいずれであるかを詳にしない。
 伊勢齋宮 イセノイツキノミヤ。皇大神宮に奉仕する内親王の宮殿をいう。また「渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤユ》 神風爾《カミカゼニ》 伊吹或之《イフキマドハシ》」(卷二、一九九)とある齋の宮は、皇大神宮そのものをさしている。ここは内親王の宮殿の方である。そこに朝命を以つて遣されたものと見られる。〔次改行せよ〕
(304) 山邊御井 ヤマノペノミヰ。玉勝間に、三重縣鈴鹿郡の山邊であるといい、講義に、御鎭座本紀に豐受の大神の伊勢に遷りましし時の順路をいう中に「次山邊行宮御一宿【今號壹志郡新家村是也】」とあるを引いて壹志郡新家村であるとしている。卷の十三の歌に「山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃原爾《イシノハラニ》 内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤヅカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》 目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》」(三二三四)、また、「山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃御井者《イシノミヰハ》 自然《オノヅカラ》 成錦乎《ナレルニシキヲ》 張流山可母《ハレルヤマカモ》」(同、三二三五)とあつて、大宮のあつたことが知られ、また五十師の御井の名でも傳えられているものと同處であろう。その地に離宮、行宮などがあつて、その井を御井と言つたのであろう。
 
81 山邊《やまのべ》の 御井《みゐ》を見がてり、
 神風《かむかぜ》の 伊勢孃子《いせをとめ》ども
 相見《あひみ》つるかも。
 
 山邊乃《ヤマノベノ》 御井乎見我弖利《ミヰヲミガテリ》
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢處女等《イセヲトメドモ》
 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
 
【譯】山邊の御井を見るついでに、おりよくも伊勢の國の孃子たちに出逢つたことだつた。
【釋】山邊乃御井乎見我弖利 ヤマノベノミヰヲミガテリ。山邊の御井は、題詞參照。山邊は、固有名詞となつているであろうが、その地勢は、用語通り、山のほとりなのであろう。ガテリは、加えての意を示す助詞で、傍《かたわら》の語意に近い。この語の上にある部分を主とし、それに加えてこうもしたということを、その下方に敍述する。ガテラともいう。いずれが原形であるかはあきらかでないが、使用の年代はガテラの方が新しい。例は參考の欄に出す。
 神風乃 カムカゼノ。古い枕詞で、伊勢に冠する。「加牟加是能《カムカゼノ》 伊勢能宇美能《イセノウミノ》」(古事記一四)、「伽牟伽筮能《カムカゼノ》 伊齊能于瀰能《イセノウミノ》」(日本書紀八)、など使用されている。伊勢を修飾するについては、冠辭考に、神風の吹息の義で、イの一音に懸かるとしている。しかし、伊勢の國號は、大和の國よりして背の國とするにあるべく、(305)イは輕く添えた語であるようであるから、それに懸かるというに無理があり、またこの枕詞が、他のイに始まる語に懸かつた例を見ないのも、吹息説は、不安定である。この語は、日本書紀神功皇后紀の神語に「神風伊勢國之、百傳度逢縣之、折鈴五十鈴宮所居神」とあり、古い神語にしばしば使用されており、祭祀の詞から出たものであることを思わしめる。なお伊勢國風土記の逸文(萬葉集註釋所引)に、神武天皇御東征のみぎり、天の日別の命をして伊勢の國を平治せしめた所、伊勢津彦が國土を天孫に獻じ、大風を起して東方に去つたことをいい、古語に「神風の伊勢の國は常世の浪の寄する國なり」とは、この謂なりと傳えている。
 伊勢處女等 イセヲトメドモ。地名に處女の語を接續せしめて、その地の處女であることをあらわす例は、泊瀬處女、常陸處女、出雲處女など例が多い。ドモは多數の意をあらわす。井に水を汲むのは若い女の業とされていた。「葛飾の眞間の井を見れば立ち平《なら》し水汲ましけむ手兒名《てこな》し思はゆ」(卷九、一八〇八)、「もののふの八十※[女+感]嬬等《やそをとめら》が汲みまがふ寺井の上の堅香子《かたかご》の花」(卷十九、四一四三)など見える。御井とあるによれば、齋宮の仕女でもあるべきであるが、それに限定すべきでもない。
 相見鶴鴨 アヒミツルカモ。動詞に冠するアヒは、雙方がその動作をする意をあらわす。アヒ思フ、アヒ語ル等である。ここは作者が伊勢處女を見たことに感興を催しているのは勿論であるが、その伊勢處女も自分を認めたことを含んでいる。
【評語】御井のほとりで、美しい伊勢の孃子どもに逢つた。旅先での愉快な出來事である。孃子に對する興味を中心として歌つている。この御井に水を汲みに集まる孃子たちの明るい美しさを讃えている。道具のよく備つている歌である。
【參考】山邊の五十師《いし》の御井。
  やすみししわご大君、高照らす日の御子の、聞し食《め》す御食《みけ》つ國、神風の伊勢の國は、國見ればしも、山見(306)れば高く貴し、河見ればさやけく清し、水門なす海も廣し、見渡しの島も名高し、ここをしもま細《ぐは》しみかも、かけまくもあやに畏《かしこ》き、山邊の五十師《いし》の原に、うち日さす大宮仕へ、朝日なすまぐはしも、夕日なすうらぐはしも、春山のしなひ榮えて、秋山の色なつかしき、ももしきの大宮人は、天地日月と共に、萬代にもが(卷十三、三二三四)
   反歌
  山邊の五十師の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(同、三二三五)
    がてり・がてら。
  雨ふらずとの曇る夜の濡れしかど戀ひつつ居りき。君待ちがてり(卷三、三七〇)
  わが舟は奧ゆな離《さか》り。迎へ舟片待ちがてり浦ゆ榜ぎ會はむ(卷七、一二〇〇)
  梅の花咲き散る園に吾行かむ。君が使を片待ちがてり(卷十、一九〇〇。【卷十八、四〇四一に重出、末句を可多麻知我底良としている。】)
  能登の海に釣する海人のいざり火の光にい往け。月待ちがてり(卷十二、三一六九)
  秋の田の穩向見がてりわが夫子がふさ手折りける女郎花かも(卷十七、三九四三)
  吾妹子が形見がてらと、紅の八人《やしほ》に染めて(卷十九、四一五六)
 
82 うらさぶる 情《こころ》さまねし。
 ひさかたの 天《あめ》の時雨《しぐれ》の
 流らふ見れば。
 
 浦佐夫流《ウラサブル》 情佐麻祢之《ココロサマネシ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天之四具禮能《アメノシグレノ》
 流相見者《ナガラフミレバ》
 
【譯】荒涼たる心で一杯である。おりしも大空から時雨の雨が流れ降るのに逢つて。
【釋】浦佐夫流 ウラサブル。心の樂しまない意味の動詞。既出、「浦佐備而《ウラサビテ》 荒有京《アレタルミヤコ》」(卷一、三三)のウラ(307)サビの連體形。
 情佐麻祢之 ココロサマネシ。祢は、諸本に弥とあるが、弥では意を成し難いので、代匠記の説に依つて、稱の誤りとする。サマネシのサは接頭語、マネシは度數多く、その事のみあるの意を示す形容詞。サマネシの用例は、「見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》 孤悲思家牟可母《コヒシケムカモ》」(卷十七、三九九五)、「月可佐禰《ツキカサネ》 美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》」(卷十八、四一一六)などあり、マネシは「眞根久往者《マネクユカバ》 人應v知見《ヒトシリヌベミ》」(卷二、二〇七)、「可良奴日麻禰久《カラヌヒマネク》 都奇曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》」(卷十七、四〇一二)などある。アマネシもこれと語原を同じくしている。うらさぶる心が一杯に行きわたつているの意。句切。
 久堅乃 ヒサカタノ。古い枕詞で、天に懸かる。「比佐迦多能《ヒサカタノ》 阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》」(古事記二八)など使用されている。語義は諸説があり、冠辭考には、※[誇の旁+包]形の義といい、久老は日のさす方の義としている。ノを助詞とするに異説は無かるべく、ヒサカタについては、集中、字音假字以外には、久方、久堅の字を使用している。これに依れば、ヒサに久遠の意を感じていたとすべきである。形容詞ヒサシは、時間の經過すること多きをいう。カタは不明というほかは無いが、やはり形容詞カタシであるかも知れない。天の悠久性を感じていう詞とする平凡な見方が穩當なのであろう。カタが、もし方角の意であるとすれば、日のさす方か。
 天之四具禮能 アメノシグレノ。アメノは、時雨が天から降るものであるからいう。「久堅乃《ヒサカタノ》 天露霜《アメノツユジモ》 置二家里《オキニケリ》」(卷四、六五一)などの例がある。シグレは、倭名類聚鈔に、※[雨/衆]雨に當て、本集では暮秋の頃に降る雨に言つている。しかるに題詞には夏四月とあつて、この詞に合わない。興に乘じて他の歌を吟詠したのであろうとされる所以である。
 流相見者 ナガラフミレバ。ナガラフは、流ルの連續状態をあらわす語。既出(卷一、五九)。ここは時雨の降る状を言つている。ナガラフは終止形である。流れること、それを見ればの意で、上のウラサブル情サマネ(308)シの條件法になる句である。
【評語】旅に出て憂鬱な心で一杯であると、まず心中を敍して、その動機を下の句で更にこまかに敍している。ヒサカタノ天ノ時雨は、いかにも大空はるかな所から降つて來る雨の感じをよく出して、荒涼たる旅情を一層深く感じさせる。よい歌である。
 
83 海《わた》の底 沖つ白浪 立田山
 いつか越えなむ。
 妹があたり見《み》む。
 
 海底《ワタノソコ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 立田山《タツタヤマ》
 何時鹿越奈武《イツカコエナム》
 妹之當見武《イモガアタリミム》
 
【譯】今自分の船は、遠く海上に出ているが、その海の沖邊では白波が立ち騷いでいる。白波の立つというのに縁のある、あの難波から大和へ越えて行く立田山を、はたしていつになつたら越えて行つて、妻のいる邊を見ることができるだろうか。
【釋】海底 ワタノソコ。オキに懸かる枕詞で、「和多能曾許《ワタノソコ》 意枳都布可延乃《オキツフカエノ》」(卷五、八一三)、「綿之底《ワタノソコ》 奧己具舟乎《オキゴゲフネヲ》」(卷七、一二二三)など使用されている。オキに懸かるについては、ソコに海中の深處をいうのみでなく、水上遙なる處をもいう意ありとする説もあるが、むしろオキの方に深處をもいう意があるので、この語を冠するとすべきである。「海底《ワタノソコ》 奧乎深目手《オキヲフカメテ》」(卷四、六七六)、「海底《ワタノソコ》 奧在玉乎《オキナルタマヲ》」(卷七、一三二七)など、その用例に乏しくない。ここは、海上の意であるから、枕詞からいえば、轉接の類である。以上の二句は、立ツというための序詞。左註にもあるように、海上で歌つた歌なので、海の縁を以つて序としたのであろう。
 立田山 タツタヤマ。生駒山脈中、大和川の北岸に近い山。大和から難波の御津に通う要路となつていた。(309)從つて西方から來る者もこの山を越えて大和にはいるのである。
 何時鹿越奈武 イツカコエナム。カは疑問の係助詞。ナムは、豫想をあらわす助動詞。分けていえばナは完了、ムが豫想である。句切。
 妹之當見武 イモガアタリミム。イモガアタリは、わが妻の家の邊。上に「君があたり」の句(卷一、七八)があつた。「秋山に落つる黄葉しましくはな散り亂れそ。妹があたり見む」(卷二、一三七)。
【評語】船の廻りに立つ波を使つて序としている。まずそれを呼びかけて、これを序に轉用したのである。海上の旅情のよく出ている歌である。左註に山邊の御井の邊で作つたらしくないという。いかにももつともである。當時吟誦した古歌かというが、多分その通りであろう。
【參考】類句。
  風吹けば沖つ白波立田山夜半にや君がひとり越ゆらむ(古今和歌集、伊勢物語)
  風吹けば雲の蓋《きぬがさ》立田山いとにほはせる朝顔の花(歌經標式)
 
右二首、今案不v似2御井所1v作、若疑當時誦之古歌歟。
 
右の二首は、今案ふるに、御井にして作れるに似ず。けだし疑はくは、當時誦めりし古歌か。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。編者の考えをいう。
 若凝 ケダシウタガハクハ。若は、モシともケダシとも讀まれるが、集中の例では、二音に相當する處に使用したものは、「君之往《キミガユキ》 若久爾有婆《モシヒサナラバ》」(卷十九、四二三八)の例があるのみで、これはモシとも讀まるべく、しかもモシの語例も外には見當らない。これに反してケダシは用例多く、また若を三音に當てて書いているものも、「松陰爾《マツカゲニ》 出曾見鶴《イデテゾミツル》 若君香跡《ケダシキミカト》」(卷十一、二六五三)、「若雲《ケダシクモ》 君不2來益1者《キミキマサズハ》 應2辛苦1《クルシカルベシ》」(卷十二、二九(310)二九)、「若人見而《ケダシヒトミテ》 解披見鴨《トキアケミムカモ》」(卷十六、三八六八)などある。依つてケダシと讀むのが順當であろう。疑は、ハ行四段の活用であるから、その未然形を受けてクが接續して、ウタガハクとなる。
 誦之 ヨメリシ。誦は、暗誦、また吟誦の義の字で、ここは節を附けて吟誦した意であろう。
 古歌 フルウタ。これより前に作り傳えられた歌を、總じて古歌という。興に乘じて古歌を吟誦した例は、卷の十五、三五七八の題詞に、「當所誦詠之古歌」、卷の十八、四〇三二の題詞に、「爰作新歌、并便誦古詠」など見える。
 
寧樂宮
 
長皇子與2志貴皇子1、於2佐紀宮1倶宴歌
 
寧樂の宮、長の皇子と志貴の皇子と、佐紀《さき》の宮《みや》にて供に宴《うたげ》せる歌
 
【釋】寧樂宮 ナラノミヤ。これは時代の標示であるから、上の和銅三年の題詞の前にあるべしとする説がある。それにしても寧樂宮とのみあるは略書であつて、前に例が無い。前半の編者と人を異にしているのであろうか。
 佐紀宮 サキノミヤ。佐紀は、奈良縣の北端、生駒郡に屬している。そこに別邸などがあつたのであろう。
 
84 秋さらば 今も見る如《ごと》、
 妻ごひに 鹿《か》鳴《な》かむ山ぞ。
 高野原《たかのはら》の上《うへ》。
 
 秋去者《アキサラバ》 今毛見如《イマモミルゴト》
 妻戀尓《ツマゴヒニ》 鹿將v鳴山曾《カナカムヤマゾ》
 高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》
 
【譯】秋になつたならば、今も見るように、妻を戀い慕つて、鹿の鳴く山であろう、この高野原の上は。
【釋】秋去者 アキサラバ。サルは既出(卷一、一六)。秋にならば。 今毛見如 イマモミルゴト。目前にあるようにの意であるから、次の句の内容が、目前にあることになる。「於母布度知《オモフドチ》 可久思安蘇婆牟《カクシアソバム》 異麻母見流其等《イマモミルゴト》」(卷十七、三九九一)、「和期大皇波《ワゴオホキミハ》 伊麻毛見流其等《イマモミルゴト》」(卷十八、四〇六三)、「都禰爾伊麻佐禰《ヅネニイマサネ》 伊麻母美流其等《イマモミルゴト》」(卷二十、四四九八)などある。
 嬬戀尓 ツマゴヒニ。妻に戀うためにの意。
 鹿將鳴山曾 カナカムヤマゾ。鹿は、シカと讀むのが通例であるか、「妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》」(卷八、一六〇〇)、「妻戀爾《ヅマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》」(同、一六〇二)など、妻戀ニを受けては、カナクという例であるから、ここもカと讀むべきだろう。鹿をカの一言に讀むと思われるのは、以上のほかには、「秋※[草冠/互]子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》」(卷九、一七九〇)があるだけである。初句の秋サラバを受けて、鹿の鳴かむ山ぞと言つている。ゾは、名詞を強く指示する助詞。句切。
 高野原之宇倍 タカノハラノウヘ。高野原は、佐紀の地勢をいう。ウヘは野原についてしばしばいう。前にも「藤原が上に」(卷一、五〇)とある。
【評語】この歌は、初句に秋サラバとあつて、現に秋でないことが知られるのに、二句以下に、今も見る如くに鹿の鳴くべき山だと歌つているので、不審とされ、誤字説なども出ている。歌詞によるに、妻戀に鹿の鳴くことを今も見るというのであつて、宴席にさような作り物か繪畫などがあつたとすべきである。宴席に作り物などをすることは、卷の六、一〇一六の左註に、歌を白紙に書いて屋壁に懸け、卷の十九、四二三一の題詞に、「于v時積v雪彫2成重巖之起1、奇巧綵2發草樹之花1」など例がある。かような飾物に屬目して思いを自然の秋に寄せたのであろう。敍述がやや説明的であるが、高原の秋景色を思わしめるものがある。酒宴即興の歌としては、上乘の作とすべきであろう。澤瀉博士の説に、歌の作られた時が秋で、今も見るように、また秋になつ(312)たらの意とする。これは情趣を得た解のようである。
 
  右一首、長皇子
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。前の歌の作者を註したのであるが、題詞には、長の皇子と志貴の皇子と宴を倶にされたと見え、目録には、元暦校本等にこの次に「志貴皇子御歌」の一行があるによれば、もと志貴の皇子の御歌のあつたのが遣落したのでもあろう。
 
萬葉集卷第一            2009.4.24(金)午前9時30分、入力終了
 
 
(313)萬葉集卷第二
 
(315) 萬葉集卷第二
 
 卷の二は、卷の一と共に集中において一團をなしていると考えられている。それは、卷の一は雜歌、卷の二は相聞と挽歌とであつて、部類の點において一往纏まつていることと、またこの二卷は、何々天皇代の標目を掲げて、その下に歌を記載していることとによる。しかし萬葉集は一の原形から成長して現在の形に到達したものと考えられるので、上記の解釋は、二卷の或る部分において考えられることであつて、現在の形においてこの二卷全部が特別に纏められたとは考えられない。
 歌數は次表の通りである。
        長歌    短歌    合計
  相聞     三    五三    五六
  挽歌    一六    七八    九四
  計     一九   一三一   −五〇
 歌の番號は、八五番から二三四番に至り、この卷は或本歌まで番號に入れてあるから、歌の實敷とよく一致する。
 作品の時代は、相聞は仁徳天皇の御代から柿本の人麻呂の妻の歌に及び、挽歌は齊明天皇の御代から奈良時代の靈龜元年(七一五)九月志貴の親王の薨去の時の歌に及んでいる。結局仁徳天皇の時代から元明天皇の時代に至つており、その仁徳天皇の時代の歌は集中最古の歌ということになるが、それがはたしてその時代のも(316)のであるか否かは問題の存する所である。
 作品としては特に柿本の人麻呂の諸作が目立つている。高市の皇子の殯宮の時の作は、集中第一の長篇で雄渾無比の名作であり、その他、石見の國から妻に別れて上京する時の歌、皇子皇女の殯宮の歌など、傑作に富んでいる。その他では大伯《おおく》の皇女の御歌も短歌ではあるが名品である。
 文字は、表意文字に表音文字を交え用い、かなり複雜で、資料の多種であつたことを思わしめる。傳本としては、仙覺本系統の諸本以外には、元暦校本が一部を傳え、金澤本が小部分あり、天治本は斷簡があるに過ぎない。神田本は全卷あり、類聚古集、古葉略類聚鈔は、例に依つて相當數の歌を傳えている。仙覺本系統では、西本願寺本、細井本、大矢本、京都大學本等が、いずれも全卷を傳えている。
 
相聞
 
【釋】相聞 サウモニ。雜歌、挽歌と共に、本集の三大部門の一である。この字面は、漢文から來ている。文選、曹子建與2呉季重1書に、口授不v悉、往來數相聞とあり、註に聞問也とある、状況を問う意であり、その他漢籍に用例がある。たがいに交通して親愛の情を通ずる意に用いられる。木集では、この卷、及び卷の四、八、九、十、十一、十二、十三、十四の各卷にこの部門を立て、卷の十一、十二、十四では、相聞往來歌と稱している。文中では、卷の四の七二七の歌の題詞の下に、「離2絶數年1復會相聞往來」など見えている。この部門の歌は、男女間の情を歌つたものが多數であるが、中には朋友關係、兄弟關係、親族關係等の場合の作もあり、元來男女關係には限らぬ性質のものである。これは歌謠が古く懸け合わせたものから出發し、それが文字を得るに及んで、文筆によつて贈答するに至つたものであるが、本集にあつても、かならずしも文筆によつたものには限られない。この部門を立てて歌を分類することは、當時の歌の作られる實際に照らして適當であ(317)ると考えられるが、本集では別に問答歌の目を立てている卷もあり、それとの關係は、明瞭に區別されない。相聞の歌は、その性質上、對手を豫想して作られるので、その内容は概して單純であつて種類がすくない。そうして修辭の上に特に技巧の用いられることが多く、譬喩や序詞なども巧妙にかつ多量に使用される。またその用語は、主として會話性言語によつているが、柿本の人麻呂の妻に別れて上京する時の作品の如きは、獨語的な作といえる。この部類は、萬葉集以前、既に柿本朝臣人麻呂歌集あたりに使用されていたようである。それは、卷の十一における柿本朝臣人麻呂歌集の所出の歌の調査によれは、その歌の分類および排列法は、人麻呂歌集から受け繼いでいるものと考えられ、そこには相聞往來の歌を、正述心緒と寄物陳思とに分け、その寄物陳思の歌は、寄託した事物について秩序ある排列がなされているが、それは原典たる人麻呂歌集から持ち越したものと考えられる。然らばその分類および排列の大綱である相聞往來という部門もまた同じく人麻呂歌集から持ち越したものと考えられるからである。相(318)聞は、考にアヒギコエ、古義にシタシミウタと訓したが、今日では字音で讀む説が有力になつている。田邊正男氏の説に、相はngの音の字であるから、サガモニと讀むべきだという。サガミ(相摸)、サガラカ(相樂)などの例によるものである。前ページの寫眞は、金澤本萬葉集の目録から本文に移る所で、初め二行は目録の終りである。このように目録からすぐ本文に續いて書かれているのは、もと卷物の形であつたものから來ているものと見られる。
 
難波高津宮御宇天皇代 【大鷦鷯天皇謚曰2仁徳天皇1】
 
【釋】難波高津宮御宇天皇代 ナニハノタカツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。仁徳天皇の元年正月、難波に都し、これを高津の宮と言つた。今の大阪市、大阪城の南方東高津のあたりであろうという。當時海岸であり、角麻呂の歌、「ひさかたの天の探女《さぐめ》が石船《いはふね》の泊《は》てし高津は淺《あ》せにけるかも」(卷三、二九二)の歌によつて、奈良時代に既に陸地となりつつあつたことが知られる。かようにこの標目は、仁徳天皇の御代を標記したもので、そのもとに仁徳天皇の皇后なる磐の姫の皇后の御歌四首、および附載の歌二首を收めている。
 大鷦鷯天皇 オホサザキノスメラミコト。仁徳天皇の御事。日本書紀に大鷦鷯の尊、古事記に大雀の命とある。御名の由來については、日本書紀仁徳天皇元年正月の條に、「初天皇生日、木菟入2于産殿1。明旦譽田天皇喚2大臣武内宿禰1語之曰、是何瑞也。大臣對言、吉祥也。復當2昨日臣妻産時1、鷦鷯入2于産屋1、是亦異焉。爰天皇曰、今朕之子與2大臣之子1同曰共産、竝有v瑞、是天之表焉。以爲取2其烏名1各相易名v子、爲2後葉之契1也。則取2鷦鷯名1以名2太子1曰2大鷦鷯皇子1、取2木菟名1號2大臣之子1曰2木菟宿禰1、是平群臣之始祖也」とある。鷦鷯は小鳥、ミソサザイである。
(319) 謚曰仁徳天皇 オクリナシテニトクテニワウトマヲス。仁徳天皇とは漢風の謚號である。萬葉集において漢風の謚號の記事のあるのに不思議の無いことは、既に卷の一において述べた所である。
 
磐姫皇后、思2天皇1御作歌四首
 
【釋】磐姫皇后 イハノヒメノオホギサキ。仁徳天皇の皇后。古事記に「葛城之曾都※[田+比]古之女、石之日賣命」(下卷)とある。葛城の曾都※[田+比]古は、日本書紀に葛城の襲津彦とあり、武内の宿禰の子である。履中天皇、反正天皇、允恭天皇等の御母であり、天皇に先だつて崩御された。古事記および日本書紀に、天皇とのあいだに相聞の御歌を中心とする歌物語を傳えている。皇后は、天皇の嫡妻で、國語にオホギサキという。古事記に皇后を大后と書いてあるのはこの故である。その御歌は、卷の四の卷初にある「難波天皇妹、奉d上在2山跡1皇兄u御歌一首」(四八四)と共に、本集における最古の作とされている。しかし實際、これが最古の作と見られるかというと、疑問である。これらの歌は、歌體は短歌形體で、整備された段階に到達しており、仁徳天皇時代の歌謠として記紀に記載されているものと比較して見ても、多くはそれよりも後のものと見なされる。また用語も同じく後の品らしく至つて平明である。今日においては、この題詞のままに、傳説的な歌謠として取り扱われなければならない。それにしても萬葉集中では、古い時代の作に屬するものである。
 思天皇御作歌 スメラミコトヲシノヒマシテツクリマセルミウタ。歌詞によるに、天皇の行幸の御留守に當つて詠まれた歌である。いかなる場合の歌とも知られない。
 
85 君が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ。
 山尋《やまたづ》ね 迎へか行かむ。
(320) 待ちにか待たむ。
 
 君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》
 山多都祢《ヤマタヅネ》 迎加將v行《ムカヘカユカム》
待尓可將v待《マチニカマタム》
 
【譯】わが君がお出ましになつて、時久しくなりました。山を尋ねてお迎えに行きましようか。または待つておりましようか。
【釋】君之行 キミガユキ。君は天皇。ユキは、行くことの意で、體言になつている。どこかに行幸になつたものと思われる。
 氣長成奴 ケナガクナリヌ。ケは時間である。ケナガクは、「氣長妹之」(卷一、六〇)など、既に出ている。句切。「枳美可由伎《キミガユキ》 氣那我久奈理奴《ケナガクナリス》」(卷五、八六七)はここと同文である。この句、おいでになつてから、日數を歴た心をあらわしている。
 山多都祢 ヤマタヅネ。山を尋ねて行つて。古事記の同歌には「夜麻多豆能」と書いている。歌い傳えているうちに別傳を生じたものと見るべきである。
 迎加將行 ムカヘカユカム。迎えにか行こうの意。句切。
 待尓可將待 マチニカマタム。上の迎ヘカ行カムの句と對句をなし、迎えに行こうか待ちに待とうかと動搖する心を描いている。
【評語】二句および四句で切れて、三段になつているのは、古歌として正格の形である。初めに君が行幸されてから、やや日數を重ねたという事實を述べて、それから、戀しさに堪えやらぬ焦慮が歌われている。迎えに行こうか、それとも待つていようかという、途方にくれ、考えに惑う婦人の氣もちがよく出ている。
 この歌は古事記にも出ている。その古事記の歌は、下に出ているが、允恭天皇の皇子の木梨の輕の太子の跡を、衣通《そとおし》の王が戀慕に堪えずして、追つてお出でになつた時の御歌としており、三句以下が違つて、「君が行け(321)長くなりぬ。山たづの迎へを行かむ。待つには待たじ」となつてゐる。迎ヘヲ行カムというのは、強い意志のあらわれている句で、是非迎えに行こうと決意されたことをあらわしている。そうして、次の句は、待つていられないという意味を元している。かように、詞句は、似ているけれども、衣通の王の御歌の方は、非常に強い意氣込みが出ている。これに對して、皇后の御歌の方は、どうしたらよかろうかという、いても立つてもいられない氣もちが歌われている。
 
右一首歌、山上憶良臣類聚歌林載焉
 
【釋】山上憶良臣類聚歌林載焉 ヤマノウヘノオクラノオミノルズカリニニノセタリ。山上の憶良も類聚歌林も、卷の一に出ている。類聚歌林によつて採録したかどうかはわからないが、類聚歌林の所傳が、この本文の通りであつたことは、下に古事記の文を引いて、その左註に、古事記と類聚歌林と説く所同じからず、歌主も亦異なりと言つており、その類聚歌林の所傳とは、この本文をさすものであることによつて推知される。作者等について類聚歌林の所傳が相違しているとせば、ここにその相違を擧げるはずであるが、それが無いのを見れば、同一であつたと見なされる。
 
86 かくばかり 戀ひつつあらずは、
 高山の 磐根《いはね》し枕《ま》きて
 死なましものを。
 
 如v此許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》
 死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》
 
【譯】これほどまでに、戀をしていないで、いつそ死んでしまつたろうものを。
【釋】如此許 カクバカリ。戀している程度を、かほどまでにと言つている。
(322) 戀乍不有者 コヒツツアラズハ。打消の助動詞ズに、語勢の助詞ハの接續したものとされている。戀いつつあらずにと同じで、戀をしていないでこのままという意に譯されている。「後れ居て戀ひつゝあらずは紀の國の妹背の山にあらましものを」(卷四、五四四)の如き類歌があり、この集では、常に出る語法である。
 高山之磐根四卷手 タカヤマノイハネシマキテ。死んで高山の墓に横たわるという意味をあらわす。磐を枕にして寐るということから、死んで葬られることをいうのである。磐根のネは接尾語。シは強意の助詞。マキテは、枕とする意。
 死奈麻死物乎 シナマシモノヲ。死んでしまつた方がよかつたと、殘念がる意味である。
【評語】君が遠く旅にお出になつてから、ひとり後に殘つて、戀にのみ日を過している。しかしもう堪えきれない。こんな苦しい戀をしているくらいなら、むしろ死んだ方がましだつたという、戀の苦しみを詠まれている。死ぬことを敍して、高山の磐根を枕くというのは、具體的ないい方で、歌の内容がはつきりと出てくる。作者が死というものを、正面に考えていることを示している。死の實感のあらわれる句である。石田の王の卒去の時の歌に、「高山の石穗《イハホ》の上に君が臥《こや》せる」(卷三、四二一)とあるも、同樣の表現である。マシの語は、不可能であることを知つている希望を表示する語で、作者は生きているのだが、死んだ方がましだという氣もち。しかし死ぬにも死ねない氣もちをこの語であらわしている。ここにも戀に迷う苦しみが見えるところである。
 
87 ありつつも 君をば待たむ。
 うち靡く わが黒髪に
 霜の置くまでに。
 
 在管裳《アリツツモ》 君乎者將v待《キミヲバマタム》
 打靡《ウチナビク》 吾黒髪尓《ワガクロカミニ》
 霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》
 
(323)【譯】やはりいくら苦しくても、このままでお待ち申し上げましよう。なよなよとしたわたしの黒髪に霜が置くまでも。
 
【釋】在管裳 アリツツモ。このままにありつつの意。生きながらえてである。
 君乎者將待 キミヲバマダム。句切。
 打靡 ウチナビク。黒髪の形容で、髪のなよなよと、風に靡くが如くにある状態をいう。作者が婦人であり、美しい髪をもつている御方であることが知られる。
 霜乃置萬代日 シモノオクマデニ。黒髪に霜が置くというのは、實際に夜遲く戸外に、寒夜をお待ち申しあげているので、霜が降るというのである。後世の歌ならば、白髪になるというだけに解いてよいのであるが、古歌では、寛際に霜が置くと見る方がよい。
【評語】上謁の、君が行け長くなりぬの歌では、お迎えに行こうか、はたまたお待ちしようかという迷う心が歌われていたが、この歌では、一途に變わる心なく、お待ち申し上げようとする情が歌われている。夕べになれば、今やお歸りになるかと、戸外に出ては、お待ち申し上げる。いつしか夜も更けて、うち靡くわが黒髪に大空から霜が冷く降りついてくる。それほどまでにもして、お待ち申し上げようとするひたすらな心が歌われている。類歌としては、「君待つと庭のみ居ればうち靡くわが黒髪に霜ぞ置きにける」(卷十二、三〇四四)がある。解釋上參考とするに足りよう。
 
88 秋の田の 穗の上に霧らふ 朝霞、
 何方《いづへ》の方に わが戀ひやまむ。
 
 秋田之《アキノタノ》 穗上尓霧相《ホノヘニキラフ》 朝霞《アサガスミ》
 何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》 我戀將v息《ワガコヒヤマム》
【譯】秋の田の稻標の上に立ちこめている朝霞。ああどちらの方に行つたらわたしは戀がやむでしょう。
(324)【釋】秋田之 アキノタノ。秋のみのつた水田のである。
 穗上尓霧相 ホノヘニキラフ。ホは稻の穗。その上に立ち籠めている。キラフは、動詞霧《き》ルに、助動詞フが接續して、その連續せる動作を描く。水蒸氣が籠つている意である。「打靡春去來者《ウチナビクハルサリクレバ》 然爲蟹《シカスガニ》 天雲霧相《アマグモキラヒ》 雪者零管《ユキハフリツツ》」(卷十、一八三二)、「奈良山乃《ナラヤマノ》 峯尚霧合《ミネナホキラフ》」(同、二三一六)など、使用されている。ここは連體形で、次の朝霞を修飾する。
 朝霞 アサガスミ。朝の霞で、以上霞を説明しこれを呼びかけている。霞は、後には春のものと定まつたが、この集では秋にも霞という。「朝霞《アサガスミ》 鹿火屋之下爾《カビヤガシタニ》 鳴蝦《ナクカハヅ》」(卷十、二二六五)など詠まれている。以上秋の田の上に、一面に水蒸氣が立ちこめていることを敍し、さてどちらがどちらともわからない意を寓して次の句を引き出している。
 何時邊乃方二 イヅヘノカタニ。イヅヘは、どちらの方。イヅはイヅカタなどのイヅ。もとイツ(何時)と同語だろうが、ここは何時の字を借りているのだろう。へによつて方向を示すようである。へは方の意。「霍《ホト》
トギスイヅヘノヤマヲナキカコユラム
」(卷十九、四一九五)の例がある。どちらの方にで、いかにしてかの意をあらわす。
 我戀將息 ワガコヒヤマム。何方に向かつて行つたら、わが戀がやむだろうか、その方角を知らないことである。
【評語】君をお待ちして、遂に君の來ぬ空しい夜は、ほのぼのと明け渡つた。ずうつと見渡されるはずの門田には、おりしも秋の末で、稻の穗が熟して、波をうつている。その一望の田の上には、すつかり霧がかかり、今朝はほのぐらいまでに感じられる。どちらがどちらとも知られずに、行き迷うほどである。自分の戀もまたかようなものである。途方にくれ、どういうようにしたら、どちらの方に行つたら自分の戀がやむだろうか、(325)この苦しい戀が。初三句に景を敍し、それから抒情に移つて行くあたり、説明に落ちないでよく妙趣を發揮している。以上四首、講義には一團の歌として見るべしと説いている。そう見ると、この歌の如き、一層よく生きて來るようである。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。前出八七番の在管裳の歌の類歌として、參考に掲げてある歌である。前の歌を本文として、これを別の本から採録した意味で、或る本の歌と稱している。その或る本というのは、左註によれは古歌集であることが知られる。萬葉集で古歌集というのは一の定まつた集をいう。何人の集録とも知られないが、大體奈良時代初期の作品が收められてある。卷の九の古集中出とあるも、同じく古歌集の謂のようであるが、その歌には題詞のあるものがある。上代の書は卷物であつて、棒状を成しているから本という。
 
89 居|明《あ》かして 君をは待たむ。
 ぬばたまの わが黒髪に
 霜は降るとも。
 
 居明而《ヰアカシテ》 君乎者將v待《キミヲバマタム》
 奴婆珠乃《ヌバタマノ》 吾黒髪尓《ワガクロカミニ》
 霜者零騰文《シモハフルトモ》
 
【譯】ここに、いたままで夜を明かして、わが君をお待ち申しましよう。わたしの黒い髪によし霜は降るとも。
【釋】居明而 ヰアカシテ。いたままに夜をあかして。徹夜して。代匠記に「乎里安加之母《ヲリアカシモ》 許余比波能麻牟《コヨヒハノマム》」(卷十八、四〇六八)を證として、ヲリアカシテと讀むべきかと言つているが、「橘之《タチバナノ》 花乎居合v散《ハナヲヰチラシ》」(卷九、一七五五)など、居散ラシのような語もあるから、ヰアカシテでよいであろう。
(326) 君乎者將待 キミヲバマタム。句切。
 奴婆珠乃 ヌバタマノ。ヌバタマは、アヤメ科の宿根草本ヒオウギの實をいう。その實を愛玩したのである。集中、夜干玉、野干玉、烏玉、黒玉などの字をあてている。その實は、黒いので、黒、夜などの枕詞になる。本草に射干とあり射の音ヤなので、通じて野干、夜干と書く。この枕詞、古事記八千矛の神の相聞歌中に見え、古い枕詞である。
 霜者零騰文 シモハフルトモ。家の外に出て君の來るのを待つているので、黒髪によし霜が降るともというのである。髪が白髪になることも含んでいるとも取られるが、この場合は、そう取らぬ方がよさそうである。八七參照。
【評語】この歌は待つている有樣を説明しているところに特色がある。また黒髪に特に枕詞を冠したのも印象的であつて、霜は降ルトモとよく對照している。この場合、率直に實際の霜の降ることを言つていると見るべきである。これを白髪になるまでと解すると、技巧におちて、かえつてしんみりした味が失われる。
 
右一首、古歌集中出
 
【釋】古歌集中出 コカシフノウチニイヅ。古歌集のことは上記或本歌曰の項參照。なお古歌集の名は、このほか、卷の七、九、十一等に見え、出と書いているのはいずれもその集から歌を採録していることを示す。卷の七、九にある古集の名も、同じものをさすであろう。
 
古事記曰、輕太子※[(女/女)+干]2輕太郎女1、故其太子流2於伊豫湯1也。此時、衣通王、不v堪2戀慕1而追往時歌曰
 
(327)古事記に曰はく、輕の太子、輕の太郎女《おほいらつめ》に※[(女/女)+干]《たは》けぬ。故《かれ》その太子は伊豫の湯に流されき。この時|衣通《そとほし》の王、戀慕に堪へずして追ひ往く時の歌に曰はく、
 
【釋】古事記曰 コジキニイハク。以下、「君之行」(八五)の歌の參考として、萬葉集の編者が古事記の文および歌を掲げたものである。その文は節略し、歌も文字を書き改めてある。
 輕太子 カルノヒツギノミコ。允恭天皇の皇太子木梨の輕の皇子である。御母は忍坂の大中つ比倍の命である。
 輕太郎女 カルノオホイラツメ。古事記に「輕太郎女、亦名衣通郎女、御名所3以負2衣通王1者、其身之光自v衣通出也」(下卷)とある。輕の太子の同母妹。
 伊豫湯 イヨノユ。伊豫の温泉で、今の松山市の道後温泉である。有名な温泉で、單に伊豫の湯というのはこのほかには無い。
 衣通王 ソトホシノオホキミ。輕の太郎女の別名。前掲古事記の文參照。衣通は、古今和歌集の序文には、「そとほりひめ」とある。日本書紀には、允恭天皇の皇后忍坂の大中つ姫の命の妹の藤原の郎姫《いらつめ》を衣通の郎姫というとする。この方のことを、古事記に、藤原の琴節の郎女と書いている。その琴節は、コトフシと讀まれるが、これは、ソトホシを訛つたものだろうという。よつて今、ソトホシとする。身の光が衣服を通すというのは、美人の表現で、傳説上の美人として語られていたのである。竹取物語のかぐや姫は、この傳説の系統をひく。
 
90 君が行《ユキ》 け長《ナガ》くなりぬ。
 山たづの 迎へを行かむ。
(328) 待つには待たじ。
   ここに山|多豆《たづ》といへるは、今《いま》の造木なり。
 
 君之行《キミガユキ》 氣長久成奴《ケナガクナリヌ》
 山多豆乃《ヤマタヅノ》 迎乎將v往《ムカヘヲユカム》
 待尓者不v待《マツニハマタジ》
   此云2山多豆1者是今造木者也
 
【譯】君がお出ましになつて、時久しくなりました。山タヅのようにお迎えに參りましよう。お待ちはしておりますまい。
【釋】君之行氣長久成奴 キミガユキケナガクナリヌ。以上は、八五の歌と同じである。
 山多豆乃 ヤマタヅノ。枕詞で、迎えに係かると見られるが、意味には諸説がある。註に「此云2山多豆1者、是今造木者也」と記しているが、これは古事記にもある註である。しかし折角の説明だが、その造木のいかなるものであるかがあきらかでないので、説明にならない。新撰字鏡には造木に女貞と註している。女貞は、モクセイ科の常緑木で、タマツバキ、ネズミモチなどいう植物である。また山※[金+斤]ノで斧の類であるといい、加納諸平はミヤツコギで今のニワトコであると言つている。これは倭名類聚鈔に、「接骨木、和名美夜都古木」とある等、諸書にその名が見えている。ニワトコは、スイカズラ科の落葉灌木で、枝葉が相對して出るので、向きあうことから迎フの枕詞としたものだと言われている。本集に「山多頭能《ヤマタヅノ》 迎參出六《ムカヘマヰデム》」(卷六、九七一)の用例がある。
 迎乎將往 ムカヘヲユカム。ヲは感動の助詞で、強意の性能を有する。「
イマナルホドハタノシクヲアラナ」(卷三、三四九)、「保等登藝須 《ホトトギス》 許々爾知可久乎《ココニチカクヲ》 伎奈伎弖余《キナキテヨ》」(卷二十、四四八三)等の用例がある。かならず迎えに行こうといぅ強い語氣である。
 侍尓者不待 マツニハマタジ。上の迎ヘヲ行カムの意を、別の方面から敍している。マタジは、否定の意志をあらわしている。
(329) 此云山多豆者是今造木者也 ココニヤマタヅトイヘルハイマノミヤツコギナリ。歌中の山多豆を説明している註で、古事記の文章のままである。
【評語】前の磐の姫の皇后の御歌として擧げられた歌の、懊悩の氣もちの濃いのに對して、これははなはだしく強い意志が表示されている。いずれが原形であるかはわからないが、傳來のあいだに氣分の轉換する所を味わうべきである。
【參考】古事記原文。
   故後亦不v堪2戀慕1而、追往時歌曰、
  岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士此云2山多豆1者是今造木者也(古事記下卷)
 
右一首歌、古事記與2類聚歌林1所v説不v同。歌主亦異焉
 
右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説く所同じからず。歌の主また異なり。
 
【釋】右一首歌 ミギノヒトツノウタハ。九〇の君之行の歌を受けているが、遠く八五の君之行の歌をこれと同歌と見て併わせ言つている。この歌が、古事記と類聚歌林とで、作歌事情や、作者が相違していることを説いている。類聚歌林の所説というのは、八五の方の傳來をいう。
 
因※[手偏+僉]2日本紀1曰、難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇語2皇后1納2八田皇女1將v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2於皇后1云云。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行紀伊國1、到2熊野岬1、取2其(330)處之御綱葉1而還。於v是天皇、伺2皇后不1v在、而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟1聞3天皇合2八田皇女1大恨之云々。
 
因りて日本紀を※[手偏+僉]《かむか》ふるに曰はく、難波の高津の宮に天の下知らしめしし大鷦鷯《おほさざき》の天皇の二十二年の春正月、天皇皇后に語りて、八田《やた》の皇女を納《い》れて妃とせむとしたまふ。時に皇后|聽《う年なる》さず。ここに天皇歌もちて皇后に乞ひたまひき云々。三十年の秋九月乙卯の朔乙丑の日、皇后紀伊の國に遊行《いでま》して熊野の岬に到り、其處《そこ》の御綱葉《みつながしは》を取りて還りたまふ。ここに天皇、皇后のいまきざるを伺ひて、八田の皇女に嬰《あ》ひて宮の中に納《い》れたまひき。時に皇后難波の濟《わたり》に到りて、天皇、八田の皇女を合《め》しつと聞きて、いたく恨みたまひき云々といへり。
 
【釋】因※[手偏+僉]日本紀曰 ヨリテニホニギヲカムガフルニイハク。古事記と類聚歌林とが所傳を異にするので、これを判斷するために日本書紀を※[手偏+僉]したのである。以下日本書紀の文は、仁徳天皇紀と允恭天皇紀とにわたつている。上に掲げたのは、その仁徳天皇紀の文で、これを簡略にして引用している。
 八田皇女 ヤタノヒメミコ。應神天皇の皇女。仁徳天皇の異母妹。
 皇后 オホギサキ。磐の姫の皇后。
 不聽 ウナヅルサズ。日本書紀の古訓に、ウナヅルサズとある。ウナヅキ許サズの義で、承知しなかつたの意。
 御鋼葉 ミツナガシハ。延喜式に三津野柏、皇大神宮儀式帳に、御角柏とある。葉が三尖形を成しているので、三角柏の義であろう。神事に際して酒などを盛るに使用する。カエデ科の常緑喬木カクレミノの葉だという。
 
(331)亦曰、遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨輕皇子爲2太子1。容姿佳麗、見者自感。同母妹輕太娘皇女亦艶妙也云々。遂竊通、乃悒懷少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作v氷。天皇異之、卜2其所由1。卜者曰、有2内亂1蓋親々相※[(女/女)+干]乎云々。仍移2太娘皇女於伊與1者、今案2二代二時1、不v見2此歌1也。
 
また曰はく、遠《とほ》つ飛鳥《あすか》の宮に天の下知らしめしし雄朝嬬稚子《をあさづまわくご》の宿稱《すくね》の天皇の二十三年の春正月甲午の朔にして庚子の日、木梨《きなし》の輕《かる》の皇子を太子としたまひき。容姿佳麗にして見る者おのづから愛《め》づ。同母妹《いろも》輕の太娘《おほいらつめ》の皇女、また艶妙《かほよ》し云々。遂に竊に通ひ、すなはち悒懷少しく息《や》みぬ。二十四年の夏六月、御羮《おもの》の汁凝りて氷と作《な》れり。天皇|異《あや》しみてその故を卜《うらな》はす。卜ふ者曰はく、内の亂あり。けだし親親相|※[(女/女)+干]《たは》くるかといへり云々。よりて太娘の皇女を伊與に移しきといへれば、今二つの代二つの時を案ふるに、この歌を見ざるなり。
 
【釋】亦曰 マタイハク。この下、日本書紀允恭天皇紀の文を要約している。
 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇 トホツアスカノミヤニアメノシタシラシメシシヲアサヅマワクゴノスクネノスメラミコト。允恭天皇。
 伊與 イヨ。伊豫に同じ。今の愛媛縣。伊豫の温泉の地であろう。ここまで日本書紀の引用である。
 二代二時 フタツノヨフタツノトキ。仁徳天皇の代と允恭天皇の代と、二代のそれぞれの時の意。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇謚曰2天智天皇1
 
(332)【釋】近江大津宮御宇天皇代 アフミノオホツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。卷の一に出ている。天智天皇の御代。
 天命開別天皇 アメノミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇。
 
天皇、賜2鏡王女1御歌一首
 
天皇の、鏡の王女に賜へる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天智天皇。
 鏡王女 カガミノヒメミコ。藤原の鎌足の妻となり、天武天皇の十二年七月薨じた。威奈の鏡の公の女で、額田の王の姉と推定される。額田の王(卷の一、七題詞)參照。
 御歌 オホミウタ。御製歌とあるべきであるが、御歌とあるは、資料のままであろう。この卷、一〇三の題詞にも例があを。次の鏡の王女の歌によれは、多分天皇は近江の國にましまして、大和の國に歸ろうとする鏡の王女に賜わつたものと考えられる。
 
91 妹が家も 繼ぎて見ましを。
 大和なる 大島の嶺《ね》に
 家もあらましを。
   【一は云ふ、妹があたり繼ぎても見むに。一は云ふ、家居らましを】
 
 妹之家毛《イモガイヘモ》 繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》
 山跡有《ヤマトナル》 大島嶺尓《オホシマノネニ》
 家母宥猿尾《イヘモアラマシヲ》
  【一云、妹之當繼而毛見武尓・一云、家居麻之乎】
 
【譯】あなたの家も續いて見たいものだが、あの大和の國の大島の嶺に、わたしの家があつたらよかつたろうに。
(333)【釋】妹之家毛 イモガイヘモ。妹は、女子に對する愛稱であつて、ここでは鏡の王女をさして呼ばれる。この語はいかなる關係においても同等以下の女性ならば使用される。これによつて天皇と鏡の王女とのあいだに戀愛關係ありとするのは誤りである。
 繼而見麻思乎 ツギテミマシヲ。ツギテは、引き續いてで、絶えずの意になる。ミマシヲは、不可能の希望の語法で、見たいものだがの意を成す。句切。
 山跡有 ヤマトナル。次の句の大島の嶺の所在を説明する。これによつて、天皇が大和以外にましましたことが知られる。
 大島嶺尓 オホシマノネニ。大和の國の中であろうが所在不明である。日本後紀大同三年九月の條に、平城天皇が神泉苑に幸し、平群《へぐり》の朝臣|賀是麻呂《かぜまろ》に勅して歌を作らしめたが、その歌は「伊賀爾布久《イカニフク》 賀是爾阿禮婆可《カゼニアレバカ》 於保志萬乃《オホシマノ》 乎波奈能須惠乎《ヲバナノスヱヲ》 布岐牟須悲太留《フキムスビタル》」という。この平群氏の本居は、大和の國の平群郡の地であるべきであつて、その歌中の於保志萬も同地なるべく、從つて大島の嶺も同じく平群郡だろうと言われている。
 家母有猿島 イヘモアラマシヲ。この家は、作者目身の家である。大島の嶺に自分の家もあつたら妹の家が續けて見られるだろうにというのである。
 妹之當繼而毛見武爾 イモガアタリツギテモミムニ。初二句の別傳である。これによれば、二句で文が切れない。五句に作者の家もというのだから、初句は妹があたりの方がよい。
 家居麻之乎 イヘヲラマシヲ。五句の別傳である。これは作者自身が家居していたいの意で、イヘヲルで家居するの意味になる。上の初二句の別傳と同じ一首であろう。これによれば、「妹があたり繼ぎても見むに大和なる大島の嶺に家居らましを」となる。
 
(334)【評語】二段から成つており、なつかしさのあまりに、王女が大和に歸つても、その住む家を見たいという御心を繰り返されている。情味の溢れた御製である。大和ナル大島ノ嶺と場所を指定したのが、歌意をはつきりさせていてよい。
 
鏡王女、奉v和2御歌1一首
 
鏡の王女の、御歌に和へまつれる一首
 
【釋】奉和御歌 オホミウタニコタヘマツレル。御歌は、天皇の御製歌をいう。但し他の例によるに、和者の作の意として御の字が無く和シマツレル歌と讀まれる例であるが、ここはもとの資料からあつたものであろう。本集では、王、女王の作には御歌とは云わない例である。
 
92 秋山の 樹《こ》の下がくり 逝《ゆ》く水の、
 われこそ益さめ。
 御念《おも》ほすよりは。
 
 秋山之《アキヤマノ》 樹下隱《コノシタガクリ》 逝水乃《ユクミヅノ》、
 吾許會益目《ワレコソマサメ》
 御念從者《オモホスヨリハ》
 
【譯】秋山の樹の下がくれに行く水のように、私こそ益つて居りましよう。御心よりは。
【釋】樹下隱 コノシタガクリ。動詞隱ルは、古く四段活であつたので、カクリという。樹の下に隱れてで、次の句の逝く水を説明している。
 逝水乃 ユクミヅノ。以上三句は序詞で、次の句の益すを起している。逝く水のように益さるというのである。
 御念從者 オモホスヨリは。ミオモヒヨリハ(元)、オモホスヨリハ(元御本)、オモホサムヨハ(古義)。(335)御念は、オモホスともミオモヒとも讀まれるが。「吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》」(卷一、七七)、「平城京乎《ナラノミヤコヲ》 御念八君《オモホスヤキミ》」(卷三、三三〇)などの例は、まさしく御念をオモホシ、オモホスに當てていると見られるから、證のある方についてオモホスと讀む。ヨリハは、比較を示してそれよりもの意をあらわしている。「賢跡《サカシミト》 物言從者《モノイフヨリハ》」(卷三、三四一)の如き用法である。
【評語】上三句は、益スというための序であるが、天皇御製が大島の嶺を云われているので、それに引かれて、その住むべき里の景を敍し、それを以つて序としているのである。前の歌に記したように、吾コソ益サメというのは、別かれて後に物思いが益すだろうというのである。この歌は、主文としては下二句だけであつて、陛下のお思い遊ばすよりは、わたしの方が思いまさるでしようというだけの内容であるが、序の美しさによつてもつている歌ということができよう。秋山ノ樹ノ下ガクリ逝クというのは、單に水の説明だけで、益スということには關係のないのも、古歌らしい歌いぶりであり、理くつのついていないのがよい。
 
内大臣藤原卿、婚2鏡王女1時、鏡王女、贈2内大臣1歌一首
 
内の大臣藤原の卿の、鏡の王女を娉《つまど》ひし時に、鏡の王女の、内の大臣に贈れる歌一首。
 
【釋】内大臣 ウチノオホオミ。既出(卷一、一六題詞)。宮廷に動仕する臣下の棟梁。
 藤原卿 フヂハラノマヘツギミ。藤原の鎌足。卿の字は、大臣か、三位以上に使う例であるが、本集では、大納言中納言にも使うことがある。
 娉鏡王女時 カガミノヒメミコヲツマドヒシトキニ。娉は禮を以つて妻となることを請う義。鏡の王女は、鎌足の正夫人と傳えられている。
 
(336)93  玉匣《たまくしげ》 覆《おほ》ふを易み、明《あ》けて行かば
 君が名はあれど
 わが名し惜しも。
 
 玉匣《タマクシゲ》 覆乎安美《オホフヲヤスミ》 開而行者《アケテユカバ》
 君名者雖v有《キミガナハアレド》
 吾名之惜裳《ワガナシヲシモ》
 
【譯】玉匣の蓋を蔽うのはたやすいが、その蓋をあけるというように、夜が明けてから出て行つたら、あなたの名はさておいて、わたくしの名が惜しいことです。
【釋】玉匣覆乎安美 タマクシゲオホフヲヤスミ。明ケテと言うがための序である。玉匣は、婦人の大事にしている手箱で、蓋を覆うものであるから、フタ、開クなどの枕詞にしばしば使われている。この歌では、玉匣に蓋をするのはたやすくしてという意から、明クにかかつている。
 開而行者 アケテユカバ。アケテは、玉匣のふたをあけることと、夜が明けることとをかけ詞にしている。鎌足が來て泊つて、夜が明けてから出て行つたらばの意である。
 君名者雖有 キミガナハアレド。君は鎌足をいう。鎌足が來て泊つたら、さぞ二人のうわさが立つであろう。その際、君の名の立つのはともかくもとしての意である。アレドは、それはあるがの意。
 吾名之惜裳 ワガナシヲシモ。シは強意の助詞。わが名の立つことが惜しいの意。
【評語】鎌足が王女のもとを訪れて婚姻を申し入れたのであるが、夜が明けて出て行つたら、二人の名が立つので、それが憚られるという歌である。この歌は、あなたの名はどうでもよいが、自分の名の立つのが惜しいと歌つている點が他の普通の歌と違うところで、この自己中心的な言い方がおもしろいのである。この君と我とが入れ違つているとして直す説もあるが、それでは全く平凡に落ちてしまうのである。あなたの名の事もあるけれども、自分の名の立つのが、何とも迷惑であると歌つているところに、率直な心があらわれている。鎌(337)足は既に、大臣として地位もあり、相當の年齡にも達していたものであろう。この歌と反對に歌つているものに、「わが名はも千名《ちな》の五百名《いほな》に立ちぬとも君が名立たば惜しみこそ泣け」(卷四、七三一、大伴坂上の大孃)がある。
 
内大臣藤原卿、報2贈鏡王女1歌一首
 
内の大臣藤原の卿の、鏡の王女に報《こた》へ贈れる歌一首
 
【釋】報贈 コタヘオクレル。前掲の鏡の王女の歌に對して、鎌足の答え贈つた歌である。
 
94 玉くしげ 見む圓山《まとやま》の さな葛《かづら》、
 さ寐《ね》ずは遂に ありかつましじ。
  或る本の歌に曰はく、玉くしげ三室戸山の。
 
 玉匣《タマクシゲ》 將v見圓山乃《ミムマトヤマノ》 佐名葛《サナカヅラ》
 佐不v寐者遂尓《サネズハツヒニ》 有勝麻之自《アリカツマシジ》
  或本歌曰、玉匣三室戸山乃
 
【譯】玉匣のように、見ようとする圓山のさな葛のように、寐ないでは結局あり得られまい。
【釋】玉匣 タマクシゲ。鏡の王女の歌詞を取つて答歌を起しているが、ここでは玉匣を譬喩として見ムを起している。玉匣の身からミの音に冠するという説は、見は甲類のミであつて、音が違うからよくない。
 將見圓山乃 ミムマトヤマノ。ミムロノヤマノ(童)。ミムロノヤマノと讀むのは、將見圓をミムマロとし、ムマを約めてムとするのであろうが無理である。文字通りならばミムマトヤマノと讀むほかは無い。別傳に三室戸山乃とあるによれば、ミムロトヤマノとあつたものを誤傳したのだろうか。ミムロトヤマは、神殿のある山の義であり、各地に同名の山があつて、そのいずれであるかは決定し難いが、鏡の王女の家が平群郡であるとすれば、そこから見える三輪山だろう。
(338) 狹名葛 サナカヅラ。サネカヅラともいう。モクレン科の蔓性植物。南五味子の字を當てる。ビナンカズラという。以上三句は、次句のサネを引き出すための序詞となつている。
 佐不寐者遂尓 サネズハツヒニ。サは接頭語。鏡の王女の歌に、夜を明かして行くことを拒否されたので、それに對して、寐ずしてはと言つている。ツヒニははてはの意で、次の句を修飾する。
 有勝麻之自 アリカツマシジ。古く、アリカテマシモ、アリカテマシヲなど讀まれていたが、橋本進吉博士の説により、アリカツマシジと讀み改められた。アリは、存在の意の動詞。カツは、可能の意の助動詞。「多誤辭珥固佐摩《タゴシニコサバ》 固辭介※[氏/一]務介茂《コシカテムカモ》」(日本書紀一九、崇神天皇紀)の例の如く、カテムの形があり、下二段活と推考される。マシジは打消の推量の助動詞で、後にマジとなつた語である。假字書きの例には「阿良多麻能《アラタマノ》 伎倍乃波也之爾《キベノハヤシニ》 奈乎多※[氏/一]天《ナヲタテテ》 由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》 移乎佐伎太多尼《イヲサキダタネ》」(卷十四、三三五三)の如きがある。「豫屡麻志士枳《ヨルマシジキ》 箇破能區莽愚莽《カハノクマグマ》」(日本書紀五六、仁徳天皇紀)の例の如く、マシジキの形も傳えられている。
 玉匣三室戸山乃 タマクシゲミムロトヤマノ。初二句の別傳である。
【評語】あなたは夜が明けてから出て行つてはいけないと言われるが、自分の氣もちとしては、どうしても泊らないでは行くわけに行かないのであるという情を述べている。序詞がかなり調子に乘つている感があつて、全體として熱情の歌であるべきであつて、しかも、それほどに響いていない。序詞から主文に續くつづき方が同音の法によつているためでもあろう。畢竟作者が、理智の人であることを、反映していると見られるのである。
 
内大臣藤原卿、娶2采女安見兒1時、作歌一首
 
内の大臣藤原の卿の采女安見兒《うねめやすみこ》に娶《あ》ひし時に作れる歌一首
 
(339)【釋】娶采女安見兒時 ウネメヤスミコニアヒシトキニ。采女は、卷の一、五一參照。その出身の國名または郡名を冠して呼ばれるのが通例で、駿河の采女、三重の采女などのように呼ばれる。ここに安見兒とあるのは、その名であるが、この采女の出身の郷土は知られない。采女は、天皇に側近奉仕する職にあり、これと通ずるが如きは嚴に禁止される。しかるにここに鎌足が采女安見兒を得たというのは、特に勅旨を以つて賜わつたものと推考され、この歌は、多分その席上で歌つたものと考えられる。
 
95 吾はもや 安見兒《やすみこ》得《え》たり。
 皆人の 得《え》がてにすとふ
 安見兒得たり。
 
 吾者毛也《ワハモヤ》 安見兒得有《ヤスミコエタリ》
 皆人乃《ミナヒトノ》 得難尓爲云《エガテニストフ》
 安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》
 
【譯】自分はあの安見兒を得た。皆が得がたいといつている、あの安見兒を得たことだ。
【釋】吾者毛也 ワハモヤ。モヤは感動の助詞で、吾はというに同じ、古事記上卷、須勢理※[田+比]賣の歌に、「阿波母與《アハモヨ》 賣爾斯阿禮婆《メニシアレバ》」(三)とあるが、モヨもモヤに同じである。モヤの例は、古事記下卷、顯宗天皇記に、「意岐米母夜《オキメモヤ》 阿布美能淤岐米《アフミノオキメ》」(一一三)とあり、この初句は、置目という名の老媼を呼びかけたもので、置目もやと言い、この同じ句を、日本書紀には「於岐毎慕與」と傳えている。「籠毛與」(卷一、一)參照。
 安見兒得有 ヤスミコユタリ。安見兒は采女の名である。ヤスミは形容詞の古い連體形で、後のヤスキ兒というに同じである。清ミ原《はら》、赤ミ鳥《とり》、高ミ座《くら》等、皆同法である。兒は親愛の情を含んでいう。得タリは、わが物とした意である。句切。
 皆人乃 ミナヒトノ。皆の人の。集中、人皆とも皆人とも用いている。
 得難尓爲云 エガテニストフ。得難いものにするという。ガテニは、ガテは勝つ、堪う、能くする等の意、(340)ニは打消の助動詞で、得ガテニは、得ることのできない意の副詞句である。ガテはもと清音であるが、連濁で濁音に轉じ、また難しの語根と混雜して考えられ、ニが否定の意を忘れるようになつた。これは打消の助動詞ニが古語になつて、特殊の熟語にのみ殘るようになり、一方助詞のニが發達して、副詞を作る場合にしばしば使用されるに至つたからである。それで文字としても、ここに見るように難尓のような字面を見るに至つたのである。ガテニは、集中、「宇具比須能《ウグヒスノ》 麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》 宇米我波奈《ウメガハナ》」(卷五、八四五)、「加波度爾波《カハトニハ》 阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》 吉美麻知我弖爾《キミマチガテニ》」(同、八五九)の如く、假字書きの例があつて、ガテニと讀むことに定められている。これによれは、ガテは下二段活と見るべきであるが、古くは四段活であつたかとも思われる。それは古事記中卷に、「宇倍那宇倍那《ウベナウベナ》 岐美麻知賀多爾《キミマチガタニ》 和賀祁勢流《ワガケセル》 意須比嚢須蘇爾《オスヒノスソニ》」(二九)の如く、ガタニの形があり、本集にも、「吾者干可太奴《ワレハカレガタヌ》 相日待爾《アハムヒマツニ》」(卷十、二〇三)、「玉垂之《タマダレノ》 小簀之垂簾乎《ヲスノタレスヲ》 往褐《ユキガチニ》 寐者不v眠友《イハナサズトモ》 君者通速爲《キミハカヨハセ》」(卷十一、二五五六)の如く、ガタヌ、ガチニの例がある。ガチニは、ガツの名詞形に助詞ニの添つたものと見るのである。この句は、連體句で、次の句の安見兒を修飾している。難は、カタシに慣用される字であるから、この句も、エガタニであるかも知れないが、今しばらく舊訓のままとする。勝の字をあてたものも同樣である。
 安見兒衣多利 ヤスミコエタリ。第二句と同じ句を繰り返している。
【評語】この歌、二句と五句とに同一の句を重ねて、安見兒を得た滿足の情をあらわしている。二句と五句とに同一の句を用いるのは、記紀の歌には多いことであるが、この集には、あまり見受けない。短歌が古く二句と五句とで切れたことを、よくあらわすものとして意義がある。これは歌いものから來た形であり、鎌足が特に采女安見兒を得て、得意になつて歌いあげた状況が髣髴として浮んで來る。なお二句と五句とに同句を繰り返す歌の例は、卷の一の五五の條に掲げた。
 
(341)久米禅師、娉2石川郎女1時歌五首
 
久米の然師の、石川の郎女を娉《つまど》ひし時の歌五首
 
【釋】久米禅師 クメノゼシ。傳未詳。久米は氏であろう。禅師は、名か、法師の義か不明である。卷の五、八二一の歌の下の註文に、笠の沙彌とあるは、滿誓のことで、笠氏の沙彌の義であるから、久米氏の禅師ということもあり得るのである。
 娉石川郎女時 イシカハノイラツメヲツマドヒシトキニ。石川の郎女は傳未詳。郎女は、日本書紀景行天皇紀に、「郎姫、此云2異羅菟※[口+羊]《イラツメ》1」とあるに準じてイラツメと讀む。イラは、イロハ(母)、イロセ(兄弟)などのイロと同語なのであろう。ツは助詞、メは女性の意。婦人の尊稱と考えられ、男子に對しては郎子《いらつこ》の語が存している。
 
 
96 み薦《こも》刈る 信濃《しなの》の眞弓 わが引かば、
 うま人《びと》さびて 否《いな》と言はむかも。禅師
 
 水薦苅《ミコモカル》 信濃乃眞弓《シナノノマユミ》 吾引者《ワガヒカバ》
 宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》 不欲常將v言可聞《イナトイハムカモ》禅師
 
【譯】水邊のコモを刈る信濃の國から出た弓を引くように、わたしが引いたならば、お上品ぶつていやですというでしようね。
【釋】水薦苅 ミコモカル。ミクサカル(仙覺)、ミスズカル(童蒙抄)の諸訓がある。考に薦の字は※[草冠/焉]の誤りであるという説があるが、誤字説は採用し得ない。薦は本集普通コモと讀む字であり、從つて此處もミコモカルと讀むべきである。信濃の枕詞であつて、同時にその地の實際を語る句になつている。
 信濃乃眞弓 シナノノマユミ。マユミは木の名、ニシキギの屬であるが、この樹は弓を作るに適している。(342)その眞弓を以つて弓の代表としたのである。信濃は弓を多く産した國で、梓弓を貢したことが國史等に見えている。此處に信濃の眞弓を提出しているのは、弓の産地として代表的な地方であり、またその國の弓が實際作者の附近にあつたものでもあろう。
 吾引者 ワガヒカバ。弓を引くことから引き起している。これに自分の方へ靡き寄れと誘うことを懸けている。以上、弓を引くように、あなたを誘つたらと譬喩に言つている。
 宇眞人佐備而 ウマビトサビテ。ウマビトは、身分のよい人をいう。サビは神サブ、男サブ等の語のサブと同じく、そのものの性能を發揮することをいう。ウマビトサビは貴人としての性質をあらわす意である。われわれが申し入れても、貴人としての立場においてことわるだろうという意味になる。
 不欲常將言可聞 イナトイハムカモ。申し入れるのをいやというであろうかの意。
【評語】相聞の歌として、溌剌たる才氣の感じられる巧みな歌であるが、譬喩による序を使用しただけに、し(343)んみりした情味は出ていない。
 
97 み薦《こも》刈《か》る 信濃の眞弓 引かずして
 あなさるわざを 知《し》ると言はなくに。  郎女
 
 三薦苅《ミコモカル》 信濃乃眞弓《シナノノマユミ》 不v引爲而《ヒカズシテ》
 強佐留行事乎《アナサルワザヲ》 知跡言莫君二《シルトイハナクニ》  郎女
 
【譯】水邊のコモを刈る信濃の眞弓をお引きにもならないで、まあそんなしわざを私は存じませんよ。
【釋】三薦苅信濃乃眞弓 ミコモカルシナノノマユミ。前の歌の句を取つている。弓を提示した句。
 不引爲而 ヒカズシテ。引きもしないで、以上、弓を引きもしないでで、自分を妻にと申し入れもなくての意の譬喩になる。
 強佐留行事乎 アナサルワザヲ。
   シヒサルワサヲ(元)
   ――――――――――
   強作留行事乎《シヒサルワサヲ》(西)
   弦作留行事乎《ツルハグルワザヲ》(代初)
   弦作留行事乎《ヲツクルワザヲ》(童)
   弦作留行事乎《ヲハグルワザヲ》(考)
 弦作留行事乎とする系統の説には、弓を引かないで弦を附けるという矛盾がある。また古く強佐留行事乎に作つているによれは、弦作留行事乎とするために二字直さなくてはならない。よつて原文のままに讀むべきである。佐留行事を、サルワザと讀むとすれば、強は、それを限定している副詞なるべく、副詞とすれば、古語拾遺に、強女を於須女と訓しているのによつて、オソ(鈍)とも讀まれるが、オスメのオスとオソと、はたして同語であるかは不安である。よつて今、類聚名義抄、強にアナガチニの訓のあるのによつて、アナとする。
(344)アナガチニは、しいて、おしての意で、副詞アナを基礎としてできているのだろう。アナは驚嘆の意をあらわす。ああ、引きもしないできような業を我は知るとは言わないの意になる。
 知跡言莫君二 シルトイハナクニ。イハナクニは言わないことの義。ニは感動の助詞。
【評語】以上二首、信濃の眞弓を材料として、譬喩として問答を交わしている。前の歌に女の心を見透したようなところがあり、、後の歌にも巧みに言い返した口調がある。巧みなやり取りだが、これもまた譬喩に囚われている。すべりがよいのも、かえつて口先だけのやりとりのような感を與える原因になる。
 
98 梓弓 引かはまにまに よらめども、
 後の心を 知りがてぬかも。 郎女
 
 梓弓《アヅサユミ》 引者隨意《ヒカバマニマニ》 依目友《ヨラメドモ》
 後心乎《ノチノココロヲ》 知勝奴鴨《シリガテヌカモ》 郎女
 
【譯】梓弓を引くようにお引きになるならば、お心通りになりましようけれども、將來の心を知りかねることでございます。
【釋】》梓弓 アヅサユミ。引クの枕詞。前から信濃の眞弓を材料にして歌つているので、重ねてこの句を出している。
 引者隨意 ヒカバマニマニ。男が女を誘うことを引クと言つている。弓を引くように男が自分を引くならばその心のままにの意。
 依目友 ヨラメドモ。依らむなれども、御意に從いましようけれどもの意。
 後心乎 ノチノココロヲ。後は將來をいう。今は君の心に從うべきも、君の將來の心を知らずというのである。
 知勝奴鴨 シリガテヌカモ。ガテヌはできないことをあらわす。知ることが、できないことだというのであ(345)る。但し、勝は普通四段活の動詞に使われる字であるから、この文字からは、シリガタヌカモと讀むべきではないかと思われることは、「得難爾爲云《エガテニストフ》」(卷二、九五)の條に説いた通りであるが、これもしばらく舊訓による。
【評語】女に、男の言に應じたいが、將來を危む心があり、それがこの歌となつている。これは平常に見られる心であり、それが歌を事務的なものにしているのは、やむを得ないところである。
 
99 梓弓 弦緒《つらを》とり著《は》け 引く人は、
 後《のち》の心を 知る人ぞ引く。 禅師
 梓弓《アヅサユミ》 都良弦取波氣《ツラヲトリハケ》 引人者《ヒクヒトハ》
 後心乎《ノチノココロヲ》 知人曾引《シルヒトゾヒク》 禅師
【譯】梓弓に弦を取りつけて引く人は、將來の心を知る人が引くのですよ。
【釋】梓弓 アヅサユミ。この歌では單に枕詞でなく、歌全體に關する譬喩として使つている。
 都良弦取波氣 ツラヲトリハケ。ツラヲは弦緒で、弓弦の緒である。トリハケは、弓に弦をつけることを言う。トリは接頭語。
 引人者 ヒクヒトは。自分のことを言つている。
 後心乎知人曾引 ノチノココロヲシルヒトゾヒク。他の人にあらず、將來を知る人が引くというのである。
【評語】前の歌に後の心を知りかねると言つたので、それを辯解している。譬喩に弓を使つたのは前からの縁であるが、すこしそれにこだわり過ぎたような感がある。
 以上は弓を引くということを譬喩に使つているが、かような譬喩は、他にも見えている。すなわち次の如くである。
  陸奧《みちのく》の吾田多良《あだたら》眞弓|絃《つる》はけて引かばか人の吾《わ》を言成さむ(卷七、一三二九)
(346)  梓弓引きみゆるべみ來ずは來ず來ばぞそをなぞ來ずは來ば其《そ》を(卷十一、二六四〇)
  梓弓|弓束《ゆづか》卷き易《か》へ中見さし更に引くとも君がまにまに(同、二八三〇)
 
100 東人《あづまびと》の 荷前《のさき》の篋《はこ》の 荷の緒《を》にも、
 妹が心に 乘りにけるかも。 禅師
 
 東人之《アヅマビトノ》 荷向篋乃《ノサキノハコノ》 荷之緒尓毛《ニノヲニモ》
 妹《イモガ・イモハ》情尓《ココロニ》 乘尓家留香聞《ノリニケルカモ》 禅師
 
【譯】東人の貢物を入れた箱の荷の緒のようにも、わたしはあなたの心に乘つたことです。
【釋】東人之 アヅマビトノ。東人は、東國の人のこと。特に遠い處から馬に貢物の荷をつけて來る人の感じがある。
 荷向篋乃 ノサキノハコノ。荷前《のさき》は、馬や船に積んだ荷物の先に乘せるものの義で、貢物のお初穗をいう。祈年祭の祝詞に「荷前は皇大神《すめおほかみ》の御前に、横山の如うち積み置きて、殘りをば平けく聞しめさむ」などある。荷前の箱は、荷前の貢物を納めて運送して來る箱をいう。
 荷之緒尓毛 ニノヲニモ。荷前の荷物を馬に附ける荷の緒で、箱に乘るので、妹が心に乘るの序になつている。
 妹情尓乘尓家留香聞 イモガココロニノリニケルカモ。妹情尓の句は、イモガココロニ(元)、イモハココロニ(考)の兩訓がある。心ニノルは、心に思う對象となることをいうので、殊に思われるということが、普通でないとして、妹が自分の心に乘つた意として、イモハココロニの訓が行われている。この二句はこのほかになお五首に使われているが、イモガココロニの部分の文字は、殊心四例、妹情一例で、いずれも助詞を補讀しなくてはならない。助詞ハは、補讀を要する場合がすくなく、妹心、妹情とある文字は、漢文ふうには、妹が心、妹の心、と解するのが普通であるから、今、イモがココロニとする。心ニ乘ルは、心に思われる、心に(347)問題になるの意。「あぜせろと心に乘りて」(卷十四、三五一七)は、どうしようとてか、氣にかかつてくらいの意である。妹が自分の心に乘るというので、心に思われることをいう。相手が自分の心に乘るというので、全面的に思うことをあらわした句である。イモガココロニと讀めば、妹に思われることを誇る意味になる。
【評語】序歌であるが、この二人の間に東人の荷前の箱は何か縁故があるであろう。前に信濃の眞弓といい、今また東人の荷前といい、東國に縁故のあるものと考えられる。妹ガ心ニ乘リニケルカモは、しばしば用いられる句で、譬喩を變えては詠まれている。一種の名句で、妹にとやかく思われ、問題にされることを滿足している句として、流行したのであろう。人麻呂歌集にもあり、どれが本歌であるかわからない。
【參考】心に乘る。
  ももしきの大宮人は多かれど心に乘りて思ほゆる妹(卷四、六九一)
  春されはしだり柳のとををにも妹が心に乘りにけるかも(卷十、一八九六)
  宇治川の瀬々の敷浪しくしくに妹が心に乘りにけるかも(卷十一、二四二七)
  大船に葦荷刈り積みしみみにも妹が心に乘りにけるかも(同、二七四八)
  漁する海人の楫の音ゆくらかに妹が心に乘りにけるかも(卷十二、三一七四)
  (上略)思ひ妻心に乘りて、高山の嶺のたをりに(下略)(卷十三、三二七八)
  白雲の絶えにし妹をあぜせろと心に乘りてここば悲しけ(卷十四、三五一七)
 
大伴宿称、娉2巨勢郎女1時歌一首【大伴宿称、諱曰2安麻呂1也。難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子、平城朝任2大納言兼大將軍1薨也。】
 
大伴の宿祢の、巨勢の郎女を娉《つまど》ひし時の歌一首【大伴の宿禰は、諱を安麻呂と曰ふ。難波の朝の右の大臣大柴大伴の長徳の卿の第六子にして、平城の朝に、大納言兼大將軍に任けられて薨りき。】
 
【釋】大伴宿祢 オホトモノスクネ。下の註にあるように、大伴の安麻呂である。安麻呂は長徳の第六子で、(348)大納言兼大將軍に至り、和銅七年五月に薨じた。旅人の父である。 巨勢郎女 コセノイラツメ。次の歌の題詞の註に「即近江朝大納言巨勢人卿之女也」とある。巨勢の人(日本書紀に巨勢の比等)の女である。下文一二六の歌の題詞の下の註に、大伴の田主の母は巨勢の郎女であると見えている。旅人の母については所傳が無いが、やはり巨勢の郎女であるかも知れない。
 難波朝 ナニハノミカドノ。孝徳天皇の御代をいう。天皇は難波の長柄の豐崎の宮においでになつた。
 大紫 ダイシ。位冠の名。孝徳天皇大化五年の制によれば、織、繍、紫、錦、山、乙、建の七種があつて、それぞれ大小の二階があり、そのうち錦山乙の三種には、またそれぞれ上中下があつて、併わせて十九階になつている。大紫は上から五番目の位である。
 大伴長徳卿 オホトモノナガトコノマヘツギミ。咋子《くいこ》の子、字を馬飼という。
 平城朝 ナラノミカドニ。平城の朝廷で、元明天皇以下七代の御代の謂であるが、ここは元明天皇の御代である。
 
101 玉葛《たまかづら》 實《み》ならぬ樹には
 ちはやぶる 神ぞ著《つ》くといふ。
 成《な》らぬ 樹ごとに
 
 玉葛《タマカヅラ》 實不v成樹尓波《ミナラヌキニハ》
 千磐破《チハヤブル》 神曾著《カミゾツク》常云《トイフ・トフ》
 不v成樹別尓《ナラヌキゴトニ》
 
【譯】實の成らない樹には、おそろしい神がつくということです。實の成らない樹毎に。
【釋】玉葛 タマカヅラ。枕詞。玉は美稱であるが、玉葛という以上は玉のような實が成る葛とするのが妥當である。そこで次の句のミ一字に懸るのである。
 實不成樹尓波 ミナラヌキニハ。實の成らない樹にはで、男に嫁せぬ女に譬えている。「山菅乃《ヤマスゲノ》 實不v成事(349)乎《ミナラヌコトヲ》」(卷四、五六四)く これは眞實の無いことをである。
 千磐破 チハヤブル。枕詞。日本書紀に、殘賊強暴をチハヤブルと訓している。猛威をふるう義であつて、神を恐怖する意から出た語である。この歌でも、神を恐るべきものとして、この詞を冠していると見られる。しかし、後には、ただ機械的に神を修飾する語になつている。本集では、知波夜夫流、知波夜布留、千羽八振、千早振、千速振、千石破、千葉破、千磐破、血速舊など書いている。ほかにチハヤビトの語もあつて、チハヤで一つの思想をあらわし、チは靈威、ハヤは勇猛の意の語で、ブルは、その性質のあらわれる意に動詞化するものと思われる。それを、チハに千石、ヤブルに破の字をあてた系統の字面は、たくさんの岩石を破壞するといぅ字面に興味を感じて通用語原となつているのだろう。なお卷の二、一九九など枕詞でない用法もある。
 神曾著常云 カミゾツクトイフ。實の成らない樹には恐るべき神がつきものするの義である。トイフは、トフともいう。この句で文が切れる。
 不成樹別尓 ナラヌキゴトニ。實の成らぬ樹毎にというべきを、繰り返して言うので實を略している。
【評語】實の成らない樹には神の降りつくという信仰があつた。それで相手に向かつて男と結婚しないような女には恐ろしい神樣がつくぞと言つておどかしている。譬喩の歌であるが變つた材料を用いているところがおもしろいのである。最後の句に、成らない樹にはかならずの意を含めているのも力強い表現である。實の成るということに戀の成るという意をかけて言う例は多い。
 
巨勢郎女、報贈歌一首 即近江朝大納言巨勢人卿之女也
 
巨勢の郎女の、報へ贈れる歌一首【すなはち近江の朝の大納言巨勢の人の卿の女なり。】
 
(350)【釋】巨勢郎女 コセノイラツメ。前の歌の題詞に見えている。
 報贈歌 コタヘオクレルウタ。大伴の安麻呂の歌に應じて贈つたのである。
 近江朝 アフミノミカドノ。天智天皇の御代をいう。
 巨勢人 コセノヒト。名は、日本書紀に比等ともある。大納言に至り、壬申の乳に、配流せられた。
 
102 玉葛 花のみ咲きて 成らざるは
 誰《た》が戀ならめ。
 わが戀《こ》ひ念《も》ふを。
 
 玉葛《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成有者《ナラザルハ》
 誰戀尓有目《タガコヒナラメ》
 吾孤悲念乎《ワガコヒモフヲ・ワハコヒオモフヲ》
 
【譯】玉葛のように花ばかり咲いて實の成らないのは、どなたの戀でもありません、あなたの戀です。わたくしは戀しく思つておりますのに。
【釋】玉葛 タマカヅラ。ここでも枕詞に使つている。但しその實の成らないのを取り立てて言つている。
 花耳開而 ハナノミサキテ。先方が言のみ巧みであることを諷している。
 不成有者 ナラザルハ。實の成らないのと戀の實意の無いのとをかけている。
 誰戀尓有目 タガコヒナラメ。コソが無くても誰がという語に對してメと結んで反語になる。誰の戀でもない。あなたの戀だ。「不v所v見十方《ミエズズトモ》 熟不v戀有米《タレコヒザラメ》」(卷三、三九三)などの例がある。
 吾孤悲念乎 ワガコヒモフヲ。轉じて自分のことを歌つている。ヲは感動の助詞で、それだのにの意を寓している。孤悲の文字は、字音假字であるが、集中戀の語の表示に慣用されている。吾は、ワハとも讀まれるが、ハに當る字がないからワガとする。
【評語】前の歌に對して同じ玉葛を使つて答としている。内容をあらわすのに一杯であつて情趣には乏しい歌(351)である。答歌の常としてやむを得ないところであろう。すべて贈答の歌は贈る歌の方が自由に題材を選擇することができるので、有利な事情に立つている。
 
明日香清御原宮御宇天皇代【天渟中原營眞人天皇謚曰2天武天皇1。】
 
【釋】明日香清御原宮御宇天皇 アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。既出(卷一、二二題詞)。天武天皇の御代。
  天渟中原營眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。天武天皇。
 
天皇、賜2藤原夫人1御歌一首
 
天皇の、藤原の夫人に賜へる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天武天皇。
 藤原夫人 フヂハラノオホトジ。夫人は、令制に「妃二員、夫人三員、嬪四員」とあつて、後宮に奉仕する職である。字音ではブニンと讀む。オホトジと讀むのは、卷の八、藤原の夫人(一四六五題)の自註に、大原の大刀自というとあるによる。刀自は主婦の稱。藤原の夫人は、日本書紀天武天皇紀に、「夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1、次夫人氷上娘弟五首重娘生2新田部皇子1」とあり、いずれも藤原の鎌足の女である。そのいずれかというに、卷の八夏の雜歌に、藤原の夫人に註して、「明日香清御原宮御宇天皇之夫人也。字曰2大原大刀自1。即新田部皇子之母也」とあり、新田部の皇子の母なる五百重娘を大原の大刀自と稱しているので、その方であろうと考えられる。
 
(352)103 わが里に 大雪降れり。
 大原の 古りにし里に
 降らまくは後。
 
 吾里尓《ワガサトニ》 大雪落有《オホユキフレリ》
 大原乃《オホハラノ》 古尓之郷尓《フリニシサトニ》
 落卷者後《フラマクハノチ》
 
【譯】わたしの住んでいる里には、大雪が降つている。あなたの住んでいる、大原の古くなつた里に、降ろうとするのはこれから後ですよ。
【釋】吾里尓 ワガサトニ。ワガサトは、皇居である明日香の清御原の地をさして仰せられている。
 大雪落有 オホユキフレリ。句切。
 大原乃 オホハラノ。大原は、奈良縣高市郡飛鳥村小原のうちで、今も大原の字が殘つているところ。ここは、鎌足の生地で、その邸址がある。そこに住まれて居つたのであろう。
 古尓之郷尓 フリニシサトニ。フリニシサトは、人の住むこともすくなくなつて荒廢した里をいう。「鶉鳴《ウヅラナク》 故郷從《フリニシサトユ》 念友《オモヘドモ》」(卷四、七七五)、「人毛無《ヒトモナキ》 古郷爾《フリニシサトニ》 有人乎《アルヒトヲ》」(卷十一、二五六〇)など使用されている。ここは夫人の住んでいる里に對してたわむれに惡口を言われたのである。(353)「大原《オホハラノ》 古郷《フリニシサトニ》 妹置《イモヲオキテ》 吾稻金津《ワレイネカネツ》 夢所v見乞《イメニミエコソ》」(卷十一、二五八七)
 落卷者後 フラマクハノチ。フラマクは、降らむこと。雪の降ることは後であろうの意。
【評語】雪を賞美して、たわむれにそちらにはまだ降るまいと仰せられている。大雪、大原とオホの音を重ね、また降レリ、古リニシ、降ラマクとフルの音を重ねて、これによつて歌品をあかるくしている。吟誦のあいだから生まれ出た形態の作であつて、よく内容と表現とが一致している。天皇の御製には、「よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ」(卷一、二七)の如きもあつて、それも同音の重疊の點に特色を有している。
 
藤原夫人、奉v和歌一首
 
藤原の夫人の、和へまつれる歌一首
 
【釋】奉和歌 コタヘマツレルウタ。天皇の賜える歌に對して唱和した歌である。
 
104 わが岡の ※[靈の巫が龍]神《おかみ》に言ひて
部剛が 即即製雲蒜
 降らしむる、
 雪の推《くだけ》し、其處《そこ》に散りけむ。
 
 吾岡之《ワガヲカノ》 於可美尓言而《オカミニイヒテ》
 令v落《フラシムル・フラシメシ》
 雪之推之《ユキノクダケシ》 彼所尓塵家武《ソコニチリケム》
 
【譯】わたくしの住んでいる岡の、水を司る神に申し附けて、降らせます雪の、推《くだ》けたのが、貴方樣の里に散つたことでございましよう。
【釋】吾岡之 ワガヲカノ。わが岡は夫人の住んでいる大原の里をいう。この地は丘陵の地形である。
 於可美尓言而 オカミニイヒテ。 オカミは、日本書紀卷の一伊弉諾の尊が火神を斬る條に「從2劍頭1垂血、(354)激越爲v神、號曰2闇※[靈の巫が龍]《クラヲカミ》1」とあり、その自註に、「※[靈の巫が龍]、此云2於箇美1、音力丁反」とある。この字は、龍神の義である。なお古事記に闇淤加美《くらおかみ》の神があり、豐後國風土記には蛇※[靈の巫が龍]とあつて、於箇美《オカミ》と註している。國語のオカミも、蛇體の神であつて、水を掌り、雨雪をも掌ると信じられていたのであろう。オカミは低級の神で、岡の地主神ぐらいの感であつたと思われる。水の神であるから、その神に申して、雪を降らしめるというのである。
 令落 フラシムル。シムルは使役の助動詞、連體形。フラシメシとも讀まれているが、明日香と大原とは近接地で、雪は今降りつつあるのだろう。
 雪之推之 ユキノクダケシ。クダケは破片の意の體言。シは強意の助詞。
 彼所尓塵家武 ソコニチリケム。ソコは清御原の宮をさす。大雪降レリと仰せられたが、それはこちらで降らせる雪の破片が散つたのでしようというのである。
【評語】天皇の賜歌に對して反撥的に歌つている。これは相聞の歌が、歌の懸け合いから發達したものであつて、才を爭う氣分が傳わつたものである。そこに贈答問答の歌のおもしろさがある。しかしやはり贈つた歌の方が、歌境を選定する自由があり、歌品も大きくすぐれている。答歌は、その與えられた範圍内で詠むので、才氣のほどは窺われるが、理くつつぽくなつているのはやむを得ない所である。
 
藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代【天皇謚曰2持統天皇1、元年丁亥十一年讓2位輕太子1尊號曰2太上天皇1也。】
 
藤原の宮に天の下知らしめしし高天の原廣野姫の天皇の代【天皇謚を持統天皇と曰《まを》す。元年は丁亥にして十一年に位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇と曰す。】
 
【釋】藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代 フヂハラノミヤニアメノシタシラシメシシタカマノハラヒロノヒメノスメラミコトノミヨ。高天の原廣野姫の天皇は、既出(卷一、二八題詞)。持統天皇の國風の謚號である。宮號(355)御宇の下に御稱號を加えるのは、これも卷の一、二二の歌の前に、「明日香清御原宮天武天皇代」の如き形があり、ここは更に御宇の二字が加わつている。これは違例ではあるが、文證の無いものではなく、統制の完全でない萬葉集としては、これを誤りとするわけにはゆかない。
 輕太子 カルノヒツギノミコ。天武天皇の皇孫、草壁の皇子の御子。後に文武天皇と申す。
 
大津皇子、竊下2於伊勢神宮1、上來時、大伯皇女御作歌二首
 
大津《おほつ》の皇子《みこ》の、竊に伊勢の神宮に下《くだ》りて、上り來ましし時、大伯《おほく》の皇女《ひめみこ》の作りませる歌二首
 
【釋】大津皇子 オホツノミコ。天智天皇の皇女の太田の皇女と鵜野の讃良《さらら》の皇女とは、竝に天武天皇の後宮にはいつた。鵜野の讃良の皇女は皇后に立ち、天皇の崩後、帝位につかれた。すなわち持統天皇である。太田の皇女は、大伯の皇女と大津の皇子とを生まれたが、早く亡くなられた。朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩じて、大津の皇子は、竊に姉の大伯の皇女が齋宮として赴いておられた伊勢の神宮に下つたが、京に歸ると、十月三日謀反の罪によつて殺された。時に年二十四。妃山邊の皇女、被髪徒跣して難に赴いて殉死した。皇子は文武の才幹があり、この集に作歌があるほか、懷風藻に詩を留めているが、刑戮にあつて死せられたのは惜しむべきである。
 伊勢神宮 イセノカムミヤ。三重縣伊勢市に鎭座する皇大神宮。
 大伯皇女 オホクノヒメミコ。天武天皇の皇女。また大來の皇女とも書く。日本書紀齊明天皇紀に「七年春正月丁酉朔、甲辰、御船到2於大伯海1時、大田姫皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大伯皇女1」とある。この大伯は、岡山縣の邑久《おおく》である。皇女は、天武天皇の二年に十四歳で、伊勢の皇大神宮に奉仕する齊宮となり、翌年十月伊勢に下り、持統天皇の朱鳥元年十一月に解任して京に還つた。この歌は、伊勢にあつて弟の大津の皇子の京(356)に還るのを見送つて詠まれた歌である。
 
105 わが夫子《せこ》を 大和へ遣《や》ると、
 さ夜《よ》更《ふ》けて
 曉《あかとき》露に わが立ち濡《ぬ》れし。
 
 吾勢枯乎《ワガセコヲ》 倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》
 佐夜深而《サヨフケテ》
 鷄鳴露尓《アカトキツユニ》 吾立所v霑之《ワガタチヌレシ》
 
【譯】わたくしの弟を京へ歸し遣るとして、夜が更けて明るくなろうとする頃の露に、わたくしは立つていて濡れたことです。
【釋】吾勢枯乎 ワガセコヲ。セは男子に對して親しみいう語。コは親愛をあらわす語。ここは、弟に對して用いられている。
 倭邊遣登 ヤマトヘヤルト。ヤマトは、京のある大和の國。ヤルは、自分のものを放して出し遣る意。トは、としての意。
 佐夜深而 サヨフケテ。サは接頭語。フケテは深くして。夜の深きうちに伊勢を出發されるのである。立チ濡レシを修飾している。
 鷄鳴露尓 アカトキツユニ。アカトキは明時の義で、夜の明けゆく頃をいう。鷄鳴は、漢籍にて未明の時をいう語。それを借りてアカトキに當てている。ここはアカトキツユを一の熟語としている。「高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋芽子《ノベノアキハギ》 比日之《コノゴロノ》 曉露爾《アカトキツユニ》 開兼可聞《サキニケムカモ》」(卷八、一六〇五)など使用されている。
 吾立所霑之 ワガタチヌレシ。上に、ゾヤカ等の係助詞無くして連體形に留めることは、古歌に往々にして見られるところである。これは、立ち霑れしことぞのような意味であつて、しかも既にそのようにいう必要の無い場合に使用される。「阿斯波良能《アシハラノ》 志祁去岐袁夜邇《シケコキヲヤニ》 須賀多々美《スガタタミ》 伊夜佐夜斯岐立《イヤサヤシキテ》 和賀布多理泥斯《ワガフタリネシ》」(古(357)事記中卷)、「大船之《オホフネノ》 津守之占爾《ツモリノウラニ》 將v告登波《ノラムトハ》 益爲爾知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》」(卷二、一〇九)など、この語法である。
【評語】弟を思われる眞の情がよく描出されている。集中、人を待つて露に濡れたという歌は多いが、見送つて濡れたことを歌つたものは稀である。夜深く皇子の出發されるのが、世に隱れるためであり、別れては再會を期しがたい危さが、この歌の生命となつたものである。
 
106 二人行けど
 行き過ぎがたき 秋山を、
 いかにか君が ひとり越ゆらむ。
 
 二人行杼《フタリユケド》
 去過難寸《ユキスギガタキ》 秋山乎《アキヤマヲ》、
 如何君之《イカニカキミガ》 獨《ヒトリ》越武《コユラム・コエナム》。
 
【譯】二人で行つてもさびしくて行き過ぎかねる秋山を、弟は、どのようにして越えていることでしょう。
【釋】二人行杼 フタリユケド。二人して行けどもの意で、過去の體驗を擧げていう所である。この二人は、一人に對していうので、かならずしも二の實敷に拘泥すべきでないのは勿論である。
 去過難寸 ユキスギガタキ。秋山の荒涼として越えるのが、おそろしいのをいう。
 如何君之 イカニカキミガ。イカニカは、大津の皇子の越える状態を、どのようにかと疑つている。君は大津の皇子。
 獨越武 ヒトリコユラム。ヒニトリコユラム(舊訓)として現在の山行の状を推量する意に讀む説と、ヒトリコエナムと、これから越えようとする樣を思いやる意に讀む説(考)とある。前の歌に、弟の皇子の出發を見送つて、影が見えなくなるまでも立ちつくして、曉の露に濡れたとあるに、時間の經過があり、今これに依つて、コユラムとする。
(358)【評語】皇女の御身として、秋山のものおそろしさをいたく感じておられる。それを最愛の弟が、いかにして獨り越えておられるかと案じて詠まれた御歌である。情味のこもつた歌というべきである。この二首、連作として、并せて讀むと、相互におのずから關連する所があつて、一層感銘を深くする。
 
大津皇子、贈2石川郎女1御歌一首
 
大津の皇子の、石川の郎女に贈れる御歌一首
 
【釋】石川郎女 イシカハノイラツメ。傳未詳。既出九六の題詞にある久米の禅師の歌を贈つた石川の郎女とは別人であろうか。下の、一〇九、一二九の石川の女郎とは同人なるべく、さすれば、一一〇、一二六等の石川の女郎とも同人であろうと考えられる。
 
107 あしひきの 山の雫に、
 妹待つと、吾《われ》立ち沾《ぬ》れぬ。
 山の雫に。
 足日木乃《アシヒキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 妹待跡《イモマツト》 吾立所v沾《ワレタチヌレヌ》
 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 
【譯】この山の樹々のしずくに、あなたを待つとしてわたしは立ち濡れた。この山の樹々のしずくに。
【釋】足日木乃 アシヒキノ。古事記、日本書紀にも見える枕詞で、山に冠して使われているが、語義は不明である。文字は、古事記に、阿志比紀能、日本書紀に、阿資臂紀能、脚日木、萬葉集に、アシヒキについて、安之比奇、安之比紀、安志比寄、安志比紀、安思比奇、安思必寄、阿之比奇、足日木、足比木、足比奇、足檜木、足氷木、足引、足曳、足檜、足病、惡氷木、蘆檜木、葦引の字を使つている。ヒはいずれも甲類の清音、キは、紀、木、奇、寄は乙類、引、曳、病の場合のキは、四段動詞引クの連用形と見られるから甲類である。(359)ノは、助詞として誤りなかるべく、キは古きについて乙類とすれば、木、城などの語が當てられる。しかし城の字を使つたものはないから、やはり木として解すべきだろうか。アシは足か。ヒは、足を用言化する語尾か、不明である。後に足引とする通用語原意識を生じたようである。
 山之四付二 ヤマノシヅクニ。樹々から滴り落ちる露である。
 妹待跡 イモマツト。イモは石川の郎女をさす。トは、としての意。
 吾立所沾 ワレタチヌレヌ。句切。
 山之四附二 ヤマノシヅクニ。二句を繰り返している。
【評語】郎女の來るのを待つて、山の樹々の雫に濡れたというだけの歌であるが、初句に枕詞を使つて、大きく言つて來ている。いかにも、しつとり濡れた氣分が出ている。五句に、上の句を繰り返しているのも確である。枕詞を使つているが、しかも隙間のない歌ということができよう。
 
石川郎女、奉v和歌一首
 
石川の郎女の、和へまつれる歌一首
 
108 吾《わ》を待つと 君が沾《ぬ》れけむ
 あしひきの 山の雫に、
 ならましものを。
 
 吾乎待跡《ワヲマツト》 君之沾計武《キミガヌレケム》
 足日木能《アシヒキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 成益物乎《ナラマシモノヲ》
 
【譯】皇子樣は、わたくしをお待ちくださるとて山の樹々の雫にお濡れになつたそうですが、わたくしは、その樹々の雫になりたいものでございます。
(360)【釋】君之沾計武 キミガヌレケム。ケムは過去推量の助動詞のその連體形。
 成益物乎 ナラマシモノヲ。なりたいが、なり得ない心である。
【評語】内容はやはり簡單であるが、平易に敍して自分の思う心をあらわしている。平易で趣のある歌というべきである。
 
大津皇子、竊婚2石川女郎1時、津守連通、占2露其事1、皇子御作歌一首
 v
 
大津の皇子の、竊に石川の女郎に婚《あ》ひし時に、津守《つもり》の連《むらじ》通《とほる》、その事を占《うら》へ露《あらは》ししかば、皇子の作りませる御歌一首 【いまだ詳ならず。】
 
【釋】竊婚石川女郎時 ミソカニイシカハノヲミナニアヒシトキニ。石川の女郎は、前二首の石川の郎女と同人であろう。竊婚は、その婚すべくもなかつた人であることを語る。いかなる境遇にあつたとも知られない。
 津守連通 ツモリノムラジトホル。陰陽道をもつて知られた人である。養老五年正月には陰陽の道によつて賞賜を受け、七年正月には從五位の上を授けられている。藤原の武智麻呂の傳に、當時の人物を列記した中に、陰陽には津守の連通とある。陰陽道は、陰陽の二氣のありさまをしらべる學問で、これによつて事象の眞相を知り、併わせて將來の動きを豫測しようとする。そこで、占いがおもな職掌になる。新撰姓氏録に、津守氏は、天の香《かぐ》山の命の後であるというが、天の香山の命は、占いの神である。
 占露 ウラヘアラハシシカバ。皇子の密婚のことを、占いあらわしたのである。
 未詳 イマダツマビラカナラズ。何が明白でないというのかわからない。竊婚云々の事情であろうか。
 
(361)109 大|船《ぶね》の 津守の占《うら》に 告《の》らむとは、
 正《まさ》しに知りて わが二人|宿《ね》し。
 
 大船之《オホブネノ》 津守之占尓《ツモリノウラニ》 將v告登波《ノラムトハ》
 益爲尓知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》
 
【譯】大きい船の泊る、その津守の占ないに出ようとは、まさしく知つてわたしは二人で寢たのだ。
【釋】大船之 オホブネノ。津守の枕詞であるが、この句があつて全體の調子を巧みに救つている。内容がかなりきわどいことであるに係わらず、歌らしさを與える所以である。
 津守之占尓 ツモリノウラニ。津守の通の占にの意。この占は、多分龜甲を燒く占法であろう。津守氏の祖神と傳えられる天の香山の命は、卜庭《うらば》の神とされている。
 將告登波 ノラムトハ。占に出ることをノルという。告はツゲとも讀めるが、「夕卜爾毛《ユフケニモ》 占爾毛告有《ウラニモノレル》 今夜谷《コヨヒダニ》 不v來君乎《キマサヌキミヲ》 何時將v待《イツトカマタム》」(卷十一、二六一三)の歌の告有は、ノレルと讀むべく、占については、ノルというもののようである。但し嘉暦傳承本には、この告有を吉有に作つているが、ノレルの方が諧調である。津守の通の占法により、我等二人の關係があらわれようとはの意。日本書紀允恭天皇の二十四年六月の條に、「夏六月、御膳羮汁凝以作v氷。天皇異之、卜2其所由1。卜者曰、有2内亂1、蓋親々相※[(女/女)+干]乎」とあり、この時にもかような類の事でもあつたのであろう。
 益爲尓知而 マサシニシソテ。マサシニは、正にの意の副詞であろう。シは、タタシ(縱)、ヨコシ(横)、ヒムカシ(東)などのシで、方向の意をあらわす語であろうか。その他諸説があるが從いがたい。占いに出ることは、あらかじめ知つていてである。
 我二人宿之 ワガフタリネシ。ゾヤカの係助詞無くして、ネシと連體形に留めている。上記「吾立所v霑之《ワガタチヌレシ》」(卷二、一〇五)參照。
(362)【評語】人に知られて驚くような戀では無いという、強い意志があらわれている。大膽不敵の歌で、才氣の溢れるばかりな、人を人とも思わない所の性格がよく窺われる。終りを善くしなかつた所以もこの邊にもとづくものがあるのであろう。
 
日竝皇子尊、贈2賜石川女郎1御歌一首女郎字曰2大名兒1
 
日竝みし皇子の尊の、石川の女郎に贈り賜へる御歌一首 【女郎、字を大名兒と曰へり。】
 
【釋】日竝皇子尊 ヒナミシミコノミコトノ。既出「曰雙斯《ヒナミシ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》」(卷一、四九)。天武天皇の皇子、草壁の皇子。天武天皇の十年二月、皇太子となり、持統天皇の三年四月薨じた。
 石川女郎 イシカハノヲミナ。前に出た大津の皇子の相聞の歌の對手の石川の郎女と同人であろうと考えられる。但し彼には郎女とも女郎ともあつて、これには女郎とある。本集では郎女と女郎とは書き分けている。大伴の坂上の郎女、巨勢の郎女、藤原の郎女は、すべて郎女であり、安倍の女郎、石川の賀係の女郎、大神の女郎、笠の女郎、紀の女郎、紀の少鹿の女郎、久米の女郎、中臣の女郎、平群氏の女郎は、すべて女郎である。ただ大伴の郎女に別に大伴の女郎があり、石川の郎女に別に石川の女郎がある。大伴の郎女については、大伴の旅人の妻は大伴の郎女であるが、卷の四の五一九の歌の題詞には大伴の女郎があり、これに註して「今城王之母也。今城王後賜2大原眞人氏1也」とある。これは大伴の郎女とは、別人のようである。さて郎女と書いてあるのは、身分のよい人に敬意を表して書いているようで、イラツメと讀むのが妥當と考えられる。これに對して女郎の文字は、女子であることを示すだけで、別にたいして敬意を拂つてはいないようである。その用法を見ると、「右四月五日、從2留女之女郎1所v送也」(卷十九、四一八四左註)、「右爲v贈2留女之女郎1所v誂2家婦1作也。女郎者即大伴家持之妹」(同、四一九八左註)とあるは、いずれも大伴の家持の妹であり、その文は(363)家持の手記を資料としていると考えられる。かくの如く、郎女と女郎とには區別があり、郎女をイラツメと讀むべくば、女郎はこれと區別して讀むことを要する。依つて今ヲミナの訓を定めた次第である。但しこの石川の女郎の場合は、石川の都女と同人とすれば、特別の例として、資料のままに掲記したためにかような形を採るに至つたものであろう。
 女郎字曰大名兒也 ヲミナ、ナヲオホナコトイヘリ。字は世に稱する所の名である。歌詞に、大名兒とあるので、この註を加えて誤解無きを期したのであろう。
 
110 大名兒《おほなこ》、
 彼方野邊《をちかたのべ》に 刈る草の、
 束《つか》の間《あひだ》も
 われ忘れめや。
 
 大名兒《オホナコ》
 彼方野邊尓《ヲチカタノベニ》 刈草乃《カルクサノ》
 束之間毛《ツカノアヒダモ》 吾忘目八《ワレワスレメヤ》
 
【譯】大名兒よ、川むこうの野邊で刈る草のように、つかのまもわたしは忘れはしないぞ。
【釋】大名兒 オホナコ。オホナコガ(元)、オホナコヲ(仙)、オホナコ(代精)。女郎の名をさして大名兒よと呼びかける語法である。
 彼方野邊尓苅草乃 ヲチカタノベニカルクサノ。ツカと言わんがための序である。ヲチカタは、延喜式神名に彼方にヲチカタと訓している。長谷川源司君の説(青垣)に、地名だろうとする説がある。地名として知られているのは、京都府久世郡宇治にあつて、宇治の彼方神社がある。この他は、宇治川の右岸で、大和の方から行くと宇治川の對岸になる。日本書紀神功皇后紀に、武内の宿禰が山背から宇治川の北岸に陣したのに對して、忍熊の王の軍の熊の凝《こり》が歌つた歌に「彼方のあらら松原、松原に渡り行きて」云々と歌つたのは、川を渡つて川向こうに行こうとする意であるが、この彼方は、宇治の彼方とされている。また大阪府南河内郡に彼方(364)の地があり、これは石川の右岸で、國府の方から行けは、川の對岸である。本集においては「こもりくの泊瀬の川の、乎知可多に妹らは立たし、この方に吾は立ちて」(卷十三、三二九九或本)は、あきらかに川の對岸であり、「今だにもにほひに行かな、越方人に」(卷十、二〇一四)は、七夕の歌であつて、ヲチカタ人は、對岸の人をさしている。「彼方の二綾裏沓」(卷十六、三七九一)は地名とも解せられるが、「彼方の赤土《はにふ》の小屋に小雨ふり袖さへ濡れぬ。身にそへ、吾妹」(卷十一、二六八三)は、地名とも解しにくい。元來この語は、ヲチとカタとに分解され、ヲチは、遠稱の指示代名詞とされるが、コチ、アチ、ソチなどは、コレ、ソレ、アレなどともなるのに、ヲチは、ヲレともいわないから、別系統の語と見られる。川の對岸をヲチカタというより見れば、ヲチは、多分もとに返る意の動詞ヲツの連用形だろう。川を渡つて戻つてくべき所、すなわちヲチカタであつて、地名の意味もここに出るもののようである。諸國に多い地名のヲチ(越智)も同樣の地形から出るもののようである。この歌の彼方野邊も、宇治あたりの地名を出すというのは、唐突であるから、普通名詞として、川向こうの野邊とすべきである。その野邊で刈る草ので、その草の束とつづく。
 束之間毛 ツカノアヒダモ。ごくわずかのま。古代の寸法を計る單位に、尋《ひろ》と束《つか》とがある。ヒロは、人が左右に手をひろげただけの寸法で、大きな間隔を計る單位として用い、ツカは、人がつかんだ幅を言うので、短いものを計る單位に用いる。
【評語】大名兒と呼びかけて、途中に序の詞を入れた行き方が、歌の調子を整えて、趣深くしている。但し、途中に序を入れたために、巧みになり過ぎて、切に思うという感じはやや遠くなつている。
 
幸2于吉野宮1時、弓削皇子、贈2與額田王1歌一首
 
吉野の宮に幸《い》でましし時、弓削《ゆげ》の皇子の、額田《ぬかだ》の王に贈與《おく》りたまへる歌一首
(365)【釋】幸于吉野宮時 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。持統天皇の吉野の宮への行幸は數十囘あり、そのいずれの時なるかを知らない。但し歌中にホトトギスが詠まれており、初夏の頃であつたことが知られる。
 弓削皇子 ユゲノミコ。天武天皇の第六皇子。文武天皇の三年七月薨。
 額田王 ヌカダノオホキミ。卷の一以來作歌の見えた方。この三首が、その名の見える最後である。この女王は、天武天皇に召された方であるから、弓削の皇子は、それを思つて歌を贈與されたのである。
 
111 古《いにしへ》に 戀《こ》ふる鳥かも、
 弓弦葉《ゆづるは》の 御井の上より
 鳴きわたり行く。
 
 古尓《イニシヘニ》 戀流鳥鴨《コフルトリカモ》
 弓弦葉乃《ユヅルハノ》 三井能上從《ミヰノウヘヨリ》
  鳴濟遊久《ナキワタリユク》
 
【譯】昔を慕つている鳥でしようか、この吉野山中の弓弦葉の御井の上を通つて鳥が鳴いて渡つて行く。
【釋】古尓 イニシヘニ。イニシヘは、この歌を贈る先方の額田の王の往時で、かつてこの吉野に來た時の事を想起している。本集では、動詞戀フは、助詞ニを受けるのが常型であり、ここもニを受けている。戀フの動作の目標をこれによつて表示するのである。
 戀流鳥鴨 コフルトリカモ。鳥は、何の鳥とも説明されていない。次の歌にいう所が當つているとすればホトトギスである。鳥の鳴き渡るのを、古に戀うて鳴くかと推量している。カモは感動の助詞であるが、係りにもなつている。
 弓弦葉乃三井能上從 ユヅルハノミヰノウヘヨリ。ユヅルハは、タカトウダイ科の常緑喬木。今普通にユズリハという。ミヰは井を稱えていう。御井の義。井そのものの靈威を感じていう。ユズリハの木のある御井で、吉野の宮の用水を湛えているのであろう。その御井の上を通つて鳥が鳴いて行くのである。
(366) 鳴濟遊久 ナキワタリユク。鳴いて飛んで行くのである。
【評語】古ニ戀フル鳥カと感嘆し、三句以下、その鳥の鳴いてゆくことを具體的に描いている。よい歌である。昔、額田の王は、天武天皇との關係も淺からず、この吉野の宮などにもしばしばお出でになつたのであろう。弓削の皇子は、今、この他に遊んで、靜に老いを養つている額田の王を思つて、鳥が昔に戀うて鳴いて渡つているのであろうかと歌つて贈られた。情を鳥に託して歌つているが、勿論、昔を思い出しておられるのは弓削の皇子である。それを鳥に託して歌われたのである。
 
額田王、奉v和歌一首2倭京1進入
 
額田の王の、和へまつれる歌一首【倭の京より進《たてまつ》れる】
【釋】奉和歌 コタヘマツレルウタ。前掲の弓削の皇子の御歌に對して唱和應答した歌である。
 從倭京進入 ヤマトノミヤコヨリタテマツレル。持統天皇の八年十二月に、明日香の清御原の宮から藤原の宮に遷居されたので、この歌は、その前後、いずれであるか不明である。よつて額田の王が、當時大和の京に居られたことは知られるが、それが何の地であつたかは不明である。大津の皇子、草壁の皇子關係の歌に次いで配列されているによれば、まだ明日香の清御原の宮に皇居のあつた頃とも考えられる。進入は、進上の意の敬語である。
 
112 古《いにしへ》に 戀《こ》ふらむ鳥《とり》は、ほととぎす、
 けだしや鳴きし。
 わが念《おも》へる如《ごと》。
 
 古尓戀良武鳥者《イニシヘニコフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》、
 蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》
 吾念流碁騰《ワガオモヘルゴト》
 
(367)【譯】昔を慕つているでしようその鳥は、ホトトギスでしよう。きつとわたくしと同じ心で鳴いたことでございましよう。わたくしが昔を戀しく思つておりますように。
【釋】古尓戀良武鳥者 イニシヘニコフラムトリハ。弓削の皇子の、古ニ戀フル鳥カモの句を受けている。その古に戀うているでしょう鳥はの意に主格を提示している。
 霍公鳥 ホトトギス。霍公鳥の字面は漢籍から來ているであろうが、まだその用例を見出さない。本集では、ホトトギスにこれを使用しているが、霍氏鳥とも書いている(卷十九、四一八二、元暦校本)があるによれば、霍公は人名であつて、霍は姓であろう。霍は鳥の羽音を示す字であるから、それを姓に擬したものか。この句は、初二句に對して述語となり、同時に四五句に對して主語となつている。ホトトギスにしての如き意になつている。
 蓋哉鳴之 ケダシヤナキシ。益哉鳴之《マシテヤナキシ》(元)。ケダシは、推量の意の副詞。恐らくは、多分。ヤは疑問の係助詞で、これを受けてナキシと結んでいる。
 吾念流碁騰 ワガオモヘルゴト。吾戀流其騰《ワガコフルゴト》(西)。上の鳴キシの語に對して、副詞句としてこれを説明している。けだしわが思つている如く鳴いたのだろうの意である。自分は古に戀うている。鳥も多分その如くに鳴いたのであろうというのである。
【評語】複雜な内容を、よく一首に纏めている。それだけに文章構成も複雜であり、曲折混雜が感じられる。これはこの歌が、文筆に依つて作られた智的成立に依るためであつて、自由にのびのびとした所が感じられな(368)いのもこのためである。既に情熱の方面を失い、理智の方面のみ殘つた才媛の晩年としての額田の王を、ここに見るのである。
 
從2吉野1、折2取蘿生松柯1遣時、額田王奉入歌一首
 
吉野より、蘿《こけ》生《む》せる松が柯《え》を折り取りて、遣しし時に、額田の王の奉入《たてまつ》れる歌一首
 
【釋】蘿生松柯 コケムセルマツガエヲ。蘿は、倭名類聚鈔に、「松蘿、一名女蘿【和名萬豆乃古介、一名佐流乎加世】」とある。今もサルオガセといい、地衣類松蘿屬に屬し、松その他の樹枝に懸かつて長く垂れる植物である。そのついている松の枝である。加は枝に同じ。
 遣時 ツカハシシトキニ。何人が遣したとも記されていないが、前の續きで、多分弓削の皇子が遣されたのであろうか。持統天皇とする見方もある。
 奉入歌 タテマツレルウタ。奉入は進上の意の敬語である。
 
113 み吉野《よしの》の 玉松が枝《え》は
 愛《は》しきかも 君が御言《みこと》を
 持ちて通はく。
 
 三吉野乃《ミヨシノノ》 玉松之枝者《タママツガエハ》
 波思吉香聞《ハシキカモ》 君之御言乎《キミガミコトヲ》
 持而加欲波久《モチテカヨハク》
 
【譯】吉野山の美しい松の枝は、おなつかしい君の御言葉を持つて、通うことでございます。
【釋】三吉野乃 ミヨシノノ。贈られた松が枝の産地を説明している。
 玉松之枝者 タママツガエハ。タマは美稱。松が枝をほめていう。
 波思吉香聞 ハシキカモ。ハシキは、愛すべくある意の形容詞。「波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》」(卷三、四七四)、「波之伎(369)和我勢枯《ハシキワガセコ》」(卷十九、四一八九)など用例は多い。この句は、ここで切つて、上の玉松が枝を敍述するものとも解せられるが、「波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》」(卷三、四七九)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》」(卷十七、四〇〇三)などのように、次の句を修飾する用法があるので、ここも三句切とするよりは、次の君の御言を修飾するものと見るべきだろう。この場合、カモは、愛しきことよ、君の御言という意に、感動を表示する。獨立文として修蝕句となつている。
 君之御言乎 キミガミコトヲ。キミは、この松が枝を贈つた人。ミコトは文字通り御言葉である。
 持而加欲波久 モチテカヨハク。カヨハクは、通うことの意。松が枝が御言を持つて通うとなすのである。
【評語】上古まだ文字の無かつた時代には、使者を遣わすに、草木の枝などを持たせて遣わした。使者は、その持參した物に寄せて口上を述べたので、これが寄物陳思、乃至序詞、枕詞の起原になるのである。後世になつて文を通わすようになつても、これを草木の枝につけることが殘り、漸次手紙の方が圭になつても、正月の懸想文などは花の枝につけたのであつた。今、吉野から玉松の枝が君の御言を持つて通つたというのは、その枝に御言が寄せられて來たことをいぅ。文が松が枝につけられてあつたという解釋は、かならずしも誤りではないが、松が枝をほめた本意はそこには無い。
 
但馬皇女、在2高市皇子宮1時、思2穗積皇子1御作歌一首
 
但馬の皇女の、高市の皇子の宮に在《いま》しし時に、穗積の皇子を思《しの》ひて作りませる御歌一首
 
【釋】但馬皇女 タヂマノヒメミコノ。天武天皇の皇女、母は藤原の鎌足の女|氷上《ひかみ》の娘《いらつめ》。和銅元年六月薨。
 在高市皇子宮時 タケチノミコノミヤニイマシシトキニ。高市の皇子は、天武天皇の皇子。御母は、胸形《むなかた》の君徳善が女尼子の娘。持統天皇の四年に太政大臣となり、十年七月に薨じた。但馬の皇女がその宮にあつたの(370)は、妃としてであつたと考えられる。當時異母の兄妹の婚姻は、普通に行われた。
 思穗積皇子 ホヅミノミコヲシノヒテ。穗積の皇子も天武天皇の皇子。母は蘇我の赤兄の女|大〓《おほの》の娘。靈龜元年七月に薨じた。
 
114 秋の田の 穗向《ほむき》のよりの 異縁《ことよ》りに 
 君によりなな。
 言痛《こちた》かりとも。
 
 秋田之《アキノタノ》 標向乃所縁《ホムキノヨリノ》 異所縁《コトヨリニ》
 君尓因奈名《キミニヨリナナ》
 事痛有登母《コチタカリトモ》
 
【譯】秋の田では、稻の穗が一方を向いて寄つている。その中で違う方へ寄るように、わたしも寄りたいと思う。よし人の口が繁くあつても。
【釋】標向乃所縁 ホムキノヨリノ。ホムケノヨスル(元)、ホムキノヨレル(代精)。ホムキは、稻穗が實つて一方に向くこと。所縁は、次句に異所縁とあり、その所縁と同語に讀みたい所である。從來ヨレルと讀んでいたが、それでは次句の讀み方と協調しない。依つて今ヨリノと讀み、次句の所縁をヨリニと讀む。以上二句は、次の句の異所縁を引き起すための序である。
 異所縁 コトヨリニ。カタヨリニ(元)、コトヨリシ(童)。この歌と類似の字面を有する歌に、「秋田之《アキノタノ》 穗向之所依《ホムムキノヨリノ》 片縁《カタヨリニ》 吾者物念《ワレハモノオモフ》 都禮無物乎《ヅレナキモノヲ》」(卷十、二二四七)があり、そこでは第三句をカタヨリニと讀んで、片寄りにの義に解している。その歌は、カタヨリニでよく通るが、この歌はカタヨリニではなく、また、異の字をカタと讀むべくもない。ここは、別の方に寄る意であるから、文字通りコトヨリニと讀む。以上、譬喩。
 君尓因奈名 キミニヨリナナ。キミは穗積の皇子をさす。上のナは、完了の助動詞ヌの未然形であるが、か(371)ような場合は、意味を強くするために用いられており、下のナは、時分がこうしたいという希望をあらわす助詞。自分が君に寄りたいという意味の句である。「和禮左倍爾《ワレサヘニ》 伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》 多可禰等毛比※[氏/一]《タカネトモヒテ》」(卷十四、三五一四)の
は別であつて
用例がある。但し、「禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》(卷十四、三四〇八)の如く、動詞の未然形を受けるナナは別であつて禁止希望になる。混同しないことを要する。句切。
 事痛有登母 コチタカリトモ。コトイタクアリトモの約言。事痛は、「人事乎《ヒトゴトヲ》 繁美許知多美《シゲミコチタミ》」(卷二、一一六)のように、假字書きの例もあつて、コチタクと讀まれている。コチタクは、コチタシの副詞形。この語は、事痛(一三四三、二五三五)、言痛(五三八、二五三五、二八九五)、辭痛(七四八)の如く、コトに當る部分に事の字を使つたものと、言、辭の字を使つたものとがある。しかし事痛の例でも「言故《ワレユヱニ》 人爾事痛《ヒトニコチタク》 所云物乎《イハレシモノヲ》」(卷十一、二五三五)の如く、言語に關して使われているものがあるから、文字に拘泥するわけにゆかない。イタシは、ひどくあるをいう。人の言葉がうるさくあつても。
【評語】ひたすらに寄りたいと思う心を、おりしも秋の稻の熟する頃なので、穗向キノ寄りの句を構えて序詞とした。下三句は、相當露骨に歌つているが、それが上二句の序詞で緩和されている。ひたぶるな心を言い出すためには、序を用いることが、なかなかに有效であることが知られる。
 
勅2穗積皇子1、遣2近江志賀山寺1時、但馬皇女御作歌一首
 
穗積の皇子に勅《みことのり》して、近江の志賀の山寺に遣しし時に、但馬の皇女の作りませる御歌一首
【釋】近江志賀山寺 アフミノシガノヤマデラ。天智天皇の建立で、本名を崇福寺といい、後、園城寺に合せた。
 
(372)115 後《おく》れゐて 戀ひつつあらずは
 追《お》ひ及《し》かむ。
 道の隈廻《くまみ》に 標《しめ》結《ゆ》へわが夫。
 
 遺居而《オクレヰテ》 戀管不v有者《コヒツツアラズハ》
 追及武《オヒシカム》
 道之阿廻尓《ミチノクマミニ》標結吾勢《シメユヘワガセ》
 
【譯】後に殘つて戀をしていないで、後を追つて追いつきたいものです。どうか、道の曲り角に印をつけておいて下さい。
【釋】遣居而戀管不有者 オクレヰテコヒツツアラズハ。オクレヰテは、人の旅行などに出たあとに殘りいるをいう。「於久禮居而《オクレヰテ》 吾波哉將v戀《ワレハヤコヒム》」(卷九、一七七二)などある。アラズハは、あらずしての意。「如此許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアヲズハ》」(卷二、八六)參照。
 追及武 オヒシカム。後を追つてその人のもとに至ろう。追いつこうの意。句切。
 道之阿廻尓 ミチノクマミニ。クマミは、曲り角。ミは地形語につける接尾語。「道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》」(卷五、八八六)。
 標結吾勢 シメユヘワガセ。標繩を結えの意。ここはしるしをつけよである。ワガセは、穗積の皇子をさしていう。
【評語】跡を慕つて追つて行こうという強い意志が歌われている。想において、既出の迎へヲ行カムの歌(卷二、九〇)に類し、強い意志の表現においても、またそれに匹敵している。
 
但馬皇女、在2高市皇子宮1時、竊接2穗積皇子1、事既形而御作歌一首
 
但馬の皇女の、高市の皇子の宮に在《いま》しし時に、竊に穗積の皇子に接《まじは》り、事既に形《あらは》れ作りませる御歌一首
 
(373)【釋】但馬皇女在高市皇子宮時 タヂマノヒメミコノタケチノミコノミヤニイマシシトキニ。既出(卷二、一一四)參照。
 竊接 ミソカニマジハリ。接は説文に交也とある。交接の義である。
 既形而 スデニアラハレテ。形の字は、形にあらわれるをいう。露顯するのである。
 
116 人言《ヒトゴト》を しげみ言痛《こちた》み、
 おのが世に いまだ渡らぬ
 朝川渡る。
 
 人事乎繁美許知痛美《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》
 己世尓《オノガヨニ》 未v渡《イマダワタラヌ》
 朝川渡《アサカハワタル》
 
【譯】人がさまざまにうるさいことを言うので、そのために、わたしの生涯にまだ渡つたことのない、朝の川渡りをすることです。
【釋】人事乎繁美許知痛美 ヒトゴトヲシゲミコチタミ。ヒトゴトは、人の言。皇女たちの關係についていうこと。シゲミコチタミは、人言が繁く、また言がひどくしてで、熟語句として慣用されている。コチタミはコトイタミの約言。「ヒトゴトヲシゲミコチタミワギモコニイニシツキヨリイマダアハヌカモ」(卷十二、二八九五)など用例がある。以上二句は、下三句の事實に對する理由として擧げられている。
 己世尓 オノガヨニ。ヨは生涯。自分の世にの義で、皇女の經驗をいう。
 未渡朝川渡 イマダワタラヌアサカハワタル。事の現れたのに依つて、朝川を渡ることがあつたのだろう。
【評語】穗積の皇子との仲のために、かような事をも敢えてするという強い心の出ている歌。イマダ渡ラヌ朝川渡ルと、わたるの語を重ね、具體的に敍したのが強い心を表現している。この皇女の御歌は、いずれも強い表現の歌で、作者が情の人であつたことを語つている。
 
(374)舍人皇子御歌一首
 
舍人の皇子の御歌一首
 
【釋】舍人皇子 トネリノミコ。天武天皇の第三皇子。御母は新田部の皇女。養老四年知太政官事、同年日本書紀を撰進し、天平七年十一月薨じた。養老四年に、日本紀三十卷を奏上した人として知られている。
 御歌 ミウタ。他の例は、御作歌とある。ここに作の字の無いのは、資料のままであろう。卷の九、一七〇六の前行にも舍人皇子御歌一首とある。何人に與えたとも題していないが、次の歌によつて舍人の娘子を目標として詠まれていることが知られる。
 
117 丈夫《ますらを》や 片戀せむと、嘆けども、
 醜《しこ》の丈夫《ますらを》 なほ戀ひにけり。
 
 大夫哉片戀將爲跡《マスラヲヤカタコヒセムト》 嘆友《ナゲケドモ》
 鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
【譯】丈夫は片戀などはしないものである、と歎くけれども、しかし、このみにくい丈夫は、やはり戀をしたことだ。
【釋】大夫哉片戀將爲跡 マスラヲヤカタコヒセムト。マスラヲは既にしばしば出た。りつぱな男兒の稱。ヤは疑問の係助詞で、反語に使われている。カタコヒは、こちらでのみ戀をする一方的な物思い。男兒は片戀をしないものとの意。
 。ナゲケは、長嘆息をする意の動詞。
 鬼乃益卜雄 シコノマスラヲ。初句のマスラヲを受けている自嘲の語。シコは、「宇禮多伎也《ウレタキヤ》 志許霍公鳥《シコホトトギス》」(卷八、一五〇七)、「慨哉《ウレタキヤ》 四去霍公鳥《シコホトトギス》」(卷十、一九五一)、「意冨伎美乃《オホキミノ》 之許乃美多弖等《シコノミタテト》」(卷二十、四三(375)七三)など見え、これらは嘲罵、もしくは自嘲の語として使用されている。その語義は、日本書紀卷の一、泉津醜女の自註に「醜女、此云2志許賣1」とあり、醜をシコに當てているが、この字は説文に「可v惡也」、玉篇に「貌惡也」とあつて、好ましからざるものをいう字である。鬼の字を當てるのは、醜女を黄泉の鬼とするに出たものなるべく、本集になお「萱草《ワスレグサ》 吾下紐爾《ワガシタヒモニ》 著有跡《ツケタレド》 鬼乃志許草《シコノシコグサ》 事二思安利家理《コトニシアリケリ》」(卷四、七二七)、「萱草《ワスレグサ》 垣毛繁森《カキモシシミミニ》 雖2殖有1《ウヱタレド》 鬼之志許草《シコノシコグサ》 猶戀爾家利《ナホコヒニケリ》」(卷十二、三〇六二)などある。シコノマスラヲとは、自分は丈夫であると思えども、この良からざる丈夫の意である。
 ナホは、それでもやはりの意。
【評語】男子の情熱をあらわした歌として、強い風格をもつている。丈夫は片戀をしないということは、他にも歌われていて、當時の人の修養の一則となつていた。みずから丈夫をもつて任ずることは、この集の男子の自信を高めている。それは知つているけれども、なおやむを得ないというところに熱情が示されるのである。
 
舍人娘子、奉v和歌一首
 
舍人の娘子の、和へまつれる歌一首
 
【釋】舍人娘子 トネリノヲトメ。既出(卷一、六一)。舍人は氏の名であつて、舍人氏の娘子の意と見られる。舍人の皇子の名が、乳母の氏を負うておられるとすれば、その乳母方の娘子であろう。
 
118 歎きつつ 丈夫《ますらをのこ》の 戀ふれこそ、
 わが結ふ髪の 漬《ひ》ぢてぬれけれ。
歎管《ナゲキツツ》 丈夫之《マスラヲノコノ》 戀禮許曾《コフレコソ》
 吾結髪乃《ワガユフカミノ》 漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》
 
【譯】丈夫が嘆息しながら戀をしているので、わたくしの結つてある髪がずるずると落ちかかるのでございま(376)しよう。
【釋】嘆管 ナゲキツツ。三句の戀フレコソを修飾している。
 大夫之戀禮許曾 マスラヲノコノコフレコソ。
   マスラヲノコノコフレコソ(西)
   ――――――――――
   大夫之戀亂許曾《マスラヲノカクコフレコソ》(元)
   大夫之戀亂許曾《マスラヲノコヒミダレコソ》(神)
   大夫之戀亂許曾《マスラヲガコヒミダレコソ》(童)
大夫は通例マスラヲと讀んでいるが、ここは音數の都合上、マスラヲノコと讀む。その例には、「念度知《オモフドチ》 大夫能《マスラヲノコノ》 許乃久禮《コノクレノ》 繁思乎《シゲキオモヒヲ》」(卷十九、四一八七)の如きがあり、また、「古之《イニシヘノ》 益荒丁子《マスラヲノコノ》 各競《アヒキホヒ》 妻問爲祁牟《ツマドヒシケム》」(卷九、一八〇一)の歌の益荒丁子もマスラヲノコノと讀むべきものと考えられる。この歌では舍人の皇子をさしている。コフレコソは、已然條件法で、戀フレバコソに同じ。
 吾結髪乃 ワガユフカミノ。
   ワカユフカミノ(元)
   ――――――――――
   吾髪結乃《ワガモトユヒノ》(京赭)
結髪は、元暦校本による。他本多く髪結であつてワガモトユヒノと讀む説が廣く行われている。モトユヒは、髪を結う絲をいう。皇大神宮儀式帳には、「紫本結糸」「紫御本結糸」など見え、また「御加美結紫八條 長條別三尺」とも見えているが、ヒヂテヌルとあるのは、髪であつて、モトユヒでは無い。
 漬而奴禮計禮 ヒヂテヌレケレ。上のコソを受けてケレと已然形で結んでいる。ヒヂテは濡れて。ヌレは、結つた髪のぬるぬるとさがるのをいう。水に濡れることではない。「多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》 妹之髪《イモガカミ》」(卷二、一二三)、「伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》」(卷十四、三三七八)、「伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可波奴禮都追《ヒカバヌレツツ》」(同、三四一六)など使用されている。
(377)【評語】男に思われると、わが身にその反應のあらわれるとする思想が歌われている。唱和の歌であるだけに、理窟つぽさのあるのはやむを得ないが、髪のずるずるさがるにつけて詠んでいるのが、情趣をなしている。
 
弓削皇子、思2紀皇女1御歌四首
 
弓削の皇子の、紀の皇女をしのひませる御歌四首
 
【釋】紀皇女 キノヒメミコ。天武天皇の皇女。御母は穗積の皇子に同じく蘇我の赤兄の女である。卷の十二、三〇九八の歌の左註に、高安の王と通じたことが見えている。
 
119 芳野川《よしのがは》 行《ゆ》く瀬《せ》の早《はや》み、
 しましくも 不通《よど》むことなく
 在《あ》りこせぬかも。
 
 芳野河《ヨシノガハ》 逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》
 須臾毛《シマシクモ》 不v通事無《ヨドムコトナク》
 有巨勢濃香問《アリコセヌカモ》
 
【譯】この吉野川の流れ行く瀬の早いこと、そのように、わたしたちの仲もすこしも停滞することなくあつてほしいものだ。
【釋】逝瀬之早見 ユクセノハヤミ。ハヤミは、早いことの意の體言。瀬ヲ早ミのような形は普通であるが、かように助詞ノを受けて體言となる形もある。「夏野之《ナツノノノ》 繁見丹開有《シゲミニサケル》 姫由理乃《ヒメユリノ》」(卷八、一五〇〇)、「波流乃野能《ハルノノノ》 之氣美登妣久久《シゲミトビクク》 鶯《ウグヒスノ》 音太爾伎加受《コエダニキカズ》」(卷十七、三九六九)のシゲミの如きはこれである。以上二句、第三四句の、シマシクモヨドムコトナクを引き出すための序詞として用いられている。
 須臾毛 シマシクモ。文字通り寸時もである。
 不通事無 ヨドムコトナク。ヨドムは通じない、停滞する意の動詞。ここは兩者間の交通の杜絶することな(378)くの意の句である。
 有巨勢濃香聞 アリコセヌカモ。コセは、助動詞コスの未然形。アリコスは、あつてくれるの意。ヌは打消の助動詞。カモは感動の助詞。ヌカモで、ないかなあ、あつてほしいことだの希望の意になる。「吾背子者《ワガセコハ》 千年五百歳《チトセイホトセ》 有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》」(卷六、一〇二五)。コセの例には、「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》 妻常言長柄《ヅマトイヒナガラ》」(卷九、一六七九)などある。
【評語】初二句は、實景であるが、それを序に使つている。川瀕の早いことから續いて、ヨドムコトナクを引き起しているので、景から情に移る工合がよく出ている。
 
120 吾妹子《わぎもこ》に 戀《こ》ひつつあらずは、
 秋《あき》はぎの 咲《さ》きて散《ち》りぬる
 花《はな》ならましを。
 
 吾妹兒尓《ワギモコニ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 秋※[草冠/互]之《アキハギノ》 咲而散去流《サキテチリヌル》
 花《ハナ》尓有《ナラ・ニアラ》猿尾《マシヲ》
 
【譯】あなたに戀をしていないで、あの秋ハギのように咲いて、やがて散つてしまう花であろうものを。
【釋】戀乍不有者 コヒツツアラズハ。戀をしていないで。「如此許 《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》」(卷二、八六)參照。
 秋※[草冠/互]之 アキハギノ。本集では、多く芽子、もしくは芽の字を、ハギに當てて書いている。これは類聚名義抄に「〓、音護、ハギ」とある。〓は※[草冠/互]に同じであるが、字體が似ているので、芽に誤つたのであろう。この歌については、元暦校本、金澤本にも、芽に作つているが、神田本などには別のところに〓に作つている卷もある。圖は卷の十の一部である。また本草にいう牙子に艸冠を加えたものであろうともいう。牙子は、本草和名に、和名宇末都奈岐とある。その葉は三葉一※[草冠/帝]であるので、ハギにこの字を借りたのだとする。今本書では、※[草冠/互]とする説による。
(379) 咲而散去流花尓有猿尾 サキテチリヌルハナナラマシヲ。咲いてまもなく散つた花でありたいものだの意。
【評語】秋萩のもろく散り亂れる姿を眼前に見て、物思いのあまり、その花のように散つてしまつたら物思いも無いだろうというのである。もろくしてしかも美しく散り亂れる花に比している點に趣がある。「長き夜を君に戀ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを」(卷十、二二八二)は同じ趣を詠んだ歌である。
 
121 夕さらば 潮《しほ》滿ち來なむ。
 住吉《すみのえ》の 淺鹿《あさか》の浦に 玉藻刈りてな。
 
 暮去者《ユフサラバ》 鹽滿來奈武《シホミチキナム》
 住吉乃《スミノエノ》 淺鹿乃浦尓《アサカノウラニ》 玉藻苅手名《タマモカリテナ》
 
【譯】夕碁になつたら潮が滿ちて來るだろう。この住吉の淺鹿の浦で今のうちに玉藻を刈りたいものだ。
【釋】暮去者ユフサラバ。夕方にならば。
 鹽滿來奈武 シホミチキナム。シホは潮。潮の滿ちくることを豫想している。句切。
(380) 住吉乃淺鹿乃浦尓 スミノエノアサカノウラニ。淺鹿の浦は、住吉神社の南方を淺香という、その地の浦。何かの縁故のある地であるか不明であるが、次の歌にも大船ノ泊ツルトマリが詠まれているので、その地で詠まれたものかも知れない。
 玉藻苅手名 タマモカリテナ。テは助動詞ツの未然形。ナは希望の助詞。藻を刈りたいものだの意。
【評語】全體が譬喩から成つている。玉藻を刈るといぅところに、先方の女性を手に入れる意味がかくされている。二句の來ナムは、連體句として、下に續くとも見られ、語法上からは、それも成立するのであるが、歌意の上からいえば、二句で切つた方がよく、形も古い姿とすべきであろう。
 
122 大船《おほぶね》の 泊《は》つる泊《とまり》の たゆたひに、 物念《ものおも》ひ痩《や》せぬ。
 人《ひと》の兒《こ》ゆゑに。
 
 大船之《オホブネノ》 泊流登麻里能《ハツルトマリノ》 絶多日二《タユタヒニ》
 物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》
 人能兒故尓《ヒトノコユヱニ》
 
【譯】大船が港に碇泊して、なおたゆたつているように、どうしたらよいか迷つて、物思いに痩せた。それもあの子のゆえに。
【釋】大船之泊流登麻里能。 オホブネノハツルトマリノ。ハツルは、航海を終る義で、碇泊するをいう。トマリは、船の碇泊する處。大船の碇泊するは、進むでもなく、波のままに落ちつかないものであるからいう。
 絶多日二 タユタヒニ。タユタヒは、猶豫動搖する意の動詞タユタフの名詞形。「常不v止《ツネヤマズ》 通之君我《カヨヒシキミガ》 使不v來《ツカヒコズ》 今者不v相跡《イマハアハジト》 絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》」(卷四・五四二)、「垣穗成《カキホナス》 人辭聞而《ヒトゴトキキテ》 我背子之《ワガセコガ》 情多由多比《ココロタユタヒ》 不v合頃日《アハヌコノゴロ》」(同、七一三)など見えている。以上譬喩で、物思ヒヤセヌを修飾している。
 物念痩奴 モノオモヒヤセヌ。物思いによつて痩せた由である。句切。
(381)人能兒故尓 ヒトノコユヱニ。ヒトノコは、人である子で、人の愛稱。愛人をいう。妹というよりは、客觀性の強い語である。ユヱは理由禰據の意。それであるのにの意を下に含んでいう。「海原乃《ウナハラノ》 路爾乘哉《ミチニノレレヤ》 吾戀居《ワガコヒヲラム》 大舟之《オホブネノ》 由多爾將v有《ユタニアルラム》 人兒由惠爾《ヒトノコユユニ》」(卷十一、二三六七)、「珍海《チヌノウミノ》 濱邊小松《ハマベノコマツ》 根深《ネフカメテ》 吾戀度《ワガコヒワタル》 人子※[女+后]《ヒトノコユヱニ》」(同、二四八六)、「足檜之《アシヒキノ》 山川水之《ヤマカハミヅノ》 音不v出《オトニイデズ》 人之子※[女+后]《ヒトノコユヱニ》 戀渡青頭鷄《コヒワタルカモ》」(卷十二、三〇一七)。
【評語】この四首の歌は、いずれも詞が整つて美しい歌である。これを連作と見る説もあるが、第一首に芳野川を詠み、第三、四首に海邊を詠んでいて、作者自身に連作の意志は無かつたものというべきである。
 
三方沙弥、娶2園臣生羽之女1、未v經2幾時1、臥v病作歌三首
 
三方《みかた》の沙弥《さみ》の、園《その》の臣《おみ》生羽《いくは》の女に娶《あ》ひて、いまだ幾時《いくだ》も經ず、病に臥して作れる歌三首
 
【釋】三方沙弥 ミカタノサミ。傳未詳。諸書に多く、もと僧侶で新羅に留學し、後還俗した山田の史御形のこととしているが、その證は無い。講義には、續日本紀、天平十九年十月の條に見える御方の大野、延暦三年正月の條に見える三方の宿禰廣名という人名をあげて、御方氏、また三方氏のあつたことを述べ、それらの氏の沙彌たりし人ならむとしている。沙彌は、佛法の戒を受けて修行のまだ熟しない比丘の稱で、在家のまま持戒している者などをいぅ。卷の五に滿誓を笠の沙彌と言つているによれは、三方を氏とする説は妥當である。
 園臣生羽之女 ソノノオミイクハノムスメ。傳未詳。園の臣は、孝靈天皇の皇子稚武彦の命の後である。
 三首 ミツ。歌の下に作者の名あり、うち一首は娘子の作である。
 
123 たけばぬれ たかねば長き
 妹が髪、
(382) この頃見ぬに 掻《カ》き入《れ》つらむか。
    三方の沙彌
 
 多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》
 妹之髪《イモガカミ》
 比來不v見尓《コノゴロミヌニ》 掻入津良武香《カキレツラムカ》
   三方沙弥
 
【譯】束ね上げればぬるぬるして、束ね上げなければ長0いあなたの髪は、この頃見ないのだが、掻き入れてあるだろうか。
【釋】多氣婆奴禮 タケバヌレ。タクは、「小放《をはなり》に髪たくまでに」(卷九、一八〇九)、「振分《ふりわけ》の髪を短み青草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ」(卷十一、二五四〇)の如き用例がある。「孃子等《をとめら》が織る機の上を眞櫛もちかかげたく島浪の間ゆ見ゆ」(卷七、一二三三)も動詞タクと島の名タクとを懸け詞にしている。つかねる意である。(タグと濁るは別語である。)ヌレは、ぬらぬらとすべる意で、上の、「漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》」(卷二、一一八)の項に例を出しておいたが、なお髪については、「ぬばたまのわが黒髪を引きぬらし亂れて更に戀ひわたるかも」(卷十一、二六一〇)の用例がある。タケバヌレは、束ね上げれば、ぬるぬると垂れさがる意で、髪の豐富なことを描いている。
 多香根者長寸 タカネバナガキ。タカネバは、束ねなければの意。束ねないで置けば。長く垂れていれば。
 妹之髪 イモガカミ。愛人の髪を呼びあげている。
 比來不見尓 コノゴロミヌニ。比來は、漢文でこの頃の意の熟字。病氣となつてこの頃は見ないのに。男子が、その妻を訪う風習を語つて、病氣の時は行かれないので會わないのである。
 掻入津良武香 カキレツラムカ。カキレは掻キ入レで、コキイレ(扱き入れ)を、コキレという類である。「蘇泥尓毛古伎禮《ソデニモコキレ》」(卷十八、四一一一)。亂れほつれている髪を、櫛を以つて掻き入れておさめてあるだろうかの意。ツは、完了の助動詞。カは疑問の助詞。この句、從來諸説があり、誤字説もあるが、このままでよく(383)わかる。
 三方沙弥 ミカタノサミ。作者の名を註している。三方の沙彌の贈つた歌である。
【評語】髪によつて愛人を描いており、これに依つて美しい歌を成している。感覺的な歌であつて、相聞の歌として言辭を弄するだけのものでない點がよい。
 
124 人は皆 今は長しと たけと言へど、
 君が見し髪 亂れたりとも。娘子
 
 人者皆《ヒトハミナ》 今波長跡《イマハナガシト》 多計登雖言《タケトイヘド》
 君之見師髪《キミガミシカミ》 亂有等母《ミダレタリトモ》娘子
 
【譯】人は皆、今は髪が長くなつたから束ね上げよといいますが、君が見し髪は、亂れてあつても、そのままにしておきます。
【釋】人者皆 ヒトハミナ。仙覺本系統には、人皆者に作つている。人皆とある方が普通であるが、古本のままでもさしつかえない所である。
 今波長跡 イマハナガシト。今は長しといえどと續く語法である。
 多計登雖言 タケトイヘド。タケは束ねる意の動詞タクの命令形。前の歌のタケバヌレを受けている。イヘドは、今は長シト、タケトの兩方を受けている。女兒が成長して髪が長くなると、幼時垂髪であつた髪を束ね上げるので、このようにいつている。
 君之見師髪 キミガミシカミ。かつて君が見しわが髪である。
 亂有等母 ミダレタリトモ。亂れてあつても、そのままにして、姿容を變えない意である。この下に詞句を省略した語法。
 娘子 ヲトメ。作者の名を註している。三方の沙彌の贈歌に對して答えた歌である。
(384)【評語】詞句を省略して十分に言い切らない語法で、餘情を含んでいるの女子の歌として優婉な氣分が釀し出されている。贈歌の力に壓倒されない、實によいやりとりである。この三方の沙彌とその妻との、髪を題材とした問答は、婚後まだ幾日をも經ない心がよく出ている。伊勢物語の筒井筒の條は、これとやや事情は異なるが、髪を材料として相思の男女が詠みかわした歌には、共通の感情が含まれている。次に參考として掲げておく。
【參考】伊勢物語。
  昔田舍わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりけれは、男も女もはぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ひ、女もこの男をこそと思ひつゝ、親のあはすることも聞かでなむありける。さてこのとなりの男のもとよりかくなむ。
  筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな。いも見ざるまに。
  女かへし
  くらべこしふり分け髪も肩すぎぬ。君ならずして誰かあぐべき。
 かくいひいひて、つひに本意《ほい》のごとくあひにけり。
 
125 橘の 蔭踏む路《みち》の 八衢《やちまた》に
 ものをぞ念ふ。
 妹に逢はずて。三方の沙彌
 
 橘之《タチバナノ》 蔭履路乃《カゲフムミチノ》 八衢尓《ヤチマタニ》
 物乎曾念《モノヲゾオモフ》
 妹尓不相而《イモニアハズテ》三方沙弥
 
【譯】橘の蔭を踏む道の、四方に通じるように、いろいろに心を悩ますことだ。わが妻に逢わないので。
【釋】橘之 タチバナノ。橘は、垂仁天皇の勅に依つて、田道間守が常世の國から持つて來た樹と傳えられて(385)いる。その果實は、香氣高く、他の果實の無い冬季に熟するので、「時じくの香《かく》の木の實」と稱して愛賞されていた。
 蔭履路乃 カゲフムミチノ。當時、京城の市邊の道路には、菓樹を植えたので、橘も、街路樹として植えられたと考えられる。日本書紀雄略天皇紀に見える「餌香市邊橘本」とあるのもそれであろう。類聚三代格に載せた天平寶字七年の乾政官符に、「右東大寺普照法師奉状稱、道路百姓來去不v絶、樹在2其傍1、足v息2疲乏1。夏則就v蔭避v熱、飢則摘v子※[口+敢]v之。伏願城外道路兩邊、栽2種菓子樹木1者、奉v勅依v奏」とあるは、これを城外にも及ぼしたものである。ここに、橘ノ蔭フム道というのも、このような街路樹のもとをいうものと見られる。
 。ヤは數の多いのをいうので、かならずしも八個に限るわけではない。チマタは道岐の義。ヤチマタは道路の多數にわかれる處をいう。古事記上卷に、天之八衢とあり、道饗祭の祝詞に、八衢比古、八衢比賣とある。八衢ニ物思フとは、樣々に物を思うことを、譬喩に依つて表現したものである。この句まで譬喩。上の橘ノ蔭フム路ノを受け、同時に、わが物思いの、幾樣にも分れ行くことを敍している。
 物乎曾念 モノヲゾオモフ。娘子を戀うて物思いをする意。句切。
 妹尓不相而 イモニアハズテ。病のために訪い得ないのである。上の物ヲゾ念フの理由を説明している。
 三方沙弥 ミカタノサミ。作者の名を註したものである。
【評語】譬喩の美しい歌。主たる内容は、妹に逢わないで千々に物が思われるというにある。橘の蔭ふむ路は、妹がり行く戀の通い路として、ふさわしい美しい句である。この歌は、參考の欄に記すように、吟誦されても傳えられた。いかにも美しい歌だからである。なおこの作者の歌としては、雪の歌(卷十九、四二二七)も、變つた形の歌で、同じく吟誦されている。
(386)【參考】別傳。
  橘の本に道踏み八衢に物をぞ念ふ。人に知らえず。
  右の一首は、右大辨高橋の安麻呂の卿《まへつぎみ》語りていはく、故《もと》の豐島《としま》の采女が作れるといふ。但《ただ》し或る本にいはく、三方の沙彌の、妻|苑《その》の臣《おみ》に戀ひて作れる歌なりといふ。然らば、豐島の采女、當時《そのかみ》、その所にてこの歌を口吟《くちずさ》めるか。(卷六、一〇二七)
 
石川女郎、贈2大伴宿祢田主1歌一首【即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢朝臣1也。】
 
石川の女郎の、大伴の宿禰田主に贈れる歌一首【すなはち佐保の大納言大伴の卿の第二子なり。母を巨勢の朝臣といへり。】
 
【釋】石川女郎 イシカハノヲミナ。傳未詳。下一二九の歌の題詞にも石川の女郎があり、それと同人でないともいえないが、何とも知られない。作歌事情は左註に詳である。
 大伴宿禰田主 オホトモノスクネタヌシ。下の註に依れば、佐保の大納言、すなわち大伴の安麻呂の第二子で、母を巨勢の朝臣というとある。巨勢の朝臣は、玉葛(卷二、一〇二)の歌の作者である。田主は他に所見が無い。若くして死んだのであろう。
 
126 遊士《みやびを》と 吾は聞けるを、
屋士《やど》借さず 吾を還せり。
おその風流士《みやびを》。
 
 遊士跡《ミヤビヲト》 吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》
 屋戸不v借《ヤドカサズ》 吾乎還利《ワレヲカヘセリ》
 於曾能風流士《オソノミヤビヲ》
 
【譯】文雅な方と聞いていましたが、宿を借さないでわたくしを還しました。にぶい文雅人ですね。
【釋】遊士跡 ミヤビヲト。遊士は、五句の風流士と同語なるべく、共にミヤビヲと讀まれる。ミヤビの語は、(387)「烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊米爾加多良久《イメニカタラク》 美也備多流《ミヤビタル》 波奈等阿例母布《ハナトアレモフ》 左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》」(卷五、八五二)の如く、動詞に使用した例がある。これは宮の語に、接尾語ビが附隨したもので、宮廷ふうを意味するものである。かような語構成には、都ビ、鄙ビ、神ビ等がある。ミヤビヲは、宮廷ふうの男子の謂で、雅事を解する人の意に使用されている。遊士の文字は、實生活以上の餘裕ある男子の義である。
 吾者聞流乎 ワレハキケルヲ。田主を雅事を解する人として聞いていたがの意。ヲは、しかるにの意を寓している。
 屋戸不借 ヤドカサズ。ヤドはここでは宿處の意に使用されている。借は貸と同樣に使用されている。ヤドは、本來家の戸口の義であつて、屋内の人からいえば、出入口であり屋外でもある。それを屋外からいうと、それを通して人の居住するところの家屋の意にもなる。ヤドに草木を植えるともいうし、ヤド貸すともいう次第である。
 吾乎還利 ワレヲカヘセリ。宿を貸さないで、自分を還した。句切。
 於曾能風流士 オソノミヤビヲ。オソは、遲しのオソに同じく、愚鈍なのをいう。「常世邊《トコヨベニ》 可v住物乎《スムベキモノヲ》 劔刀《ツルギタチ》 己之行柄《ヲノガワザカヲ》 於曾也是君《オソヤコノキミ》」(卷九、一七四一)とあるオソも同語である。風流は、漢文に使用される熟字であるが、ここでは文雅の意に使用されている。集中の用例、「足引乃《アシヒキノ》 山二四居者《ヤマニシヲレバ》 風流無三《ミヤビナミ》 吾爲類和射乎《ワガスルワザヲ》 害目賜名《トガメタマフナ》」(卷四、七二一)があり、同じくミヤビと讀まれる。文章では、この歌の左註にもあり、また、「海原之《ウナハラノ》 遠渡乎《トホキワタリヲ》 遊士之《ミヤビヲノ》 遊乎將v見登《ミヤビヲミムト》 莫津左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》」(卷六、一〇一六)の左註に、「右一首、書2白紙1懸2著屋壁1也。題云、蓬莱仙媛所v化〓※[草冠/縵]、爲2風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉」とある。これらに依つてその意を知るべきである。この一句、上四句を受けて總括的に批判を下している。
【評語】風流人という、實生活を離れた生活樣式の求められていたことが示されている。その規格にはまらな(388)い人だといぅことを罵倒した、それだけの歌である。
 
   大伴田主、字曰2仲郎1。容姿佳艶、風流秀絶、見人聞者、靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1、自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書、未v逢2良信1。爰作2方便1、而似2賤嫗1、己提2堝子1而到2寢側1、哽音〓足、叩v戸諮曰、東隣貧女、將v取v火來矣。於v是仲郎、暗裏非v識2冒隱之形1、慮外不v堪2拘接之計1、任v念取v火、就v跡歸去也。明後、女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈謔戯焉。
 
   大伴の田主、字《あざな》を仲郎といへり。容姿《かほ》佳艶《よ》くして、風流《みやび》秀絶《すぐ》れたり。見る人聞く者、歎息せずといふことなし。時に石川の女郎といふ者あり。みづから雙栖の感を成し、恒に獨守の難きを悲しむ。意に書を寄せむと欲《おも》ひて、いまだ良信に逢はず。ここに方便《たばかり》をなして、賤しき嫗に似せて、おのれ堝子《なべ》を提げて、寢側に到り、哽音〓足して戸を叩きて諮ひて曰はく、東隣の貧女、火を取らむとして來れりといふ。ここに仲郎、暗き裏《うち》に冒隱の形を知らず、慮の外《ほか》に拘接の計に堪《あ》へず。念《おもひ》のまにまに火を取り跡に就き歸り去にき。明けて後、女郎既に自媒の愧づべきを恥ぢ、また心契の果さざるを恨む。因りてこの歌を作り、以ちて贈り謔戯としき。
 
【譯】大伴の田虫は字を仲郎と言つた。姿が美しくして風流なことが勝れている。見る人も聞く者も歎息しない者は無かつた。時に石川の女郎という者があつて、自然に戀愛の情を起し、しかも常にひとりいる心に堪えかねていた。心に手紙を贈ろうと思つてもまだ良い便りに逢わなかつた。そこで計略をめぐらして、賤しい老婆の眞似をして、自分から火入れを提げて田主の寢屋のあたりに行き、喉聲で拔き足して戸を叩いて語つて言(389)うには、東隣の貧しい女が火を取ろうと思つて來ましたと言つた。そこで田主が暗い中で變装している形を知らないで、それを引き留めることは思いもよらず、思う通りに火を取つて、來た道から歸つて行つた。夜が明けてから後、女郎は既に自分から仲立したことを恥じ思い、しかも心に願つたことが果さなかつたことを恨んで、そこでこの歌を作つて、贈り戯れたということである。
【釋】字曰仲郎 アザナヲチユウラウトイヘリ。字は、名の義を取つてつけるのが本義であり、一般の稱呼にこれを用いた。當時わが國でもこれに模して、文字を知る者のうちにこれをつけることが行われたのである。本集では、卷の三、二七八の左註に「右今案、石川朝臣君子、號曰2少郎子1也」とあるのも、字であろう。仲郎は田主が第二子であるゆえに選んでいる。訓讀してはナカツコと讀まれるが、漢風に擬したのであるから、多分音讀したのであろう。
 容姿佳艶 カホヨクシテ。容姿は、容貌姿態で、表にあらわれたところをいう。佳艶は、美なるをいう。
 風流秀絶 ミヤビスグレタリ。容姿佳艶に對して對句を成していると見られる。風流は風格の意に解せられる。秀絶は他に比類無くすぐれているをいう。
 雙栖之感 ナラビスムコトノオモヒ。雙栖は夫婦として住むこと。感は思いである。夫婦である思い。
 獨守之難 ヒトリマモルコトノカタキ。ひとり空牀を守ることの苦しみをいう。
 未逢良信 イマダヨキツカヒニアハズ。信は使者をいう。
 爰作方便 ココニタバカリヲナシ。方便は佛教語。巧みに諸法を用い、機に臨んで物を利するをいう。
 似賤嫗 イヤシキオミナニニセテ。嫗は老女をいぅ。卑賤の老嫗に扮装して。
 己提堝子 オノレナベヲヒサゲテ。堝子は土の鍋である。倭名類聚鈔瓦器類に、「辨色立成云堝【古禾反、奈閉。今案金謂2之鍋1、瓦謂2之堝1、字或相通。】」とある。ここは火を入れる料にこれを持つたのである。
(390) 哽音〓足 ノドヨヒシジマヒ。哽音は聲のからまるのをいう。老女の聲に似せていうのである。〓足は足の進まないのをいう。老女の足もとのおぼつかないのに似せたのである。
 諮曰 トヒテイハク。諮は、玉篇に「謀也、問也」とある。ここは問い求める意である。
 將取火來矣 ヒヲトラムトシテキタレリ。火を作ることの困難な當時にあつては、火の既にある處について火を乞うのである。
 暗裏 クラキウチニ。暗黒の中にである。
 冒隱之形 カクレタルカタチ。冒は、玉篇に「覆也」とある。物に隱れた姿である。
 拘接之計 マジラヒノハカリゴト。拘接は關係し交接すること。引き留めて夫婦の交りをする計略をいう。
 任念 オモヒノマニマニ。思う通りに、思いのままに。
 就跡歸去也 アトニツキテカヘリイニキ。跡は、歩みのあとをいう。來た跡につきてで、もと來た通りに歸つて行つた。
 恥自媒之可愧 ミヅカラナカダチスルコトノハヅベキヲハヂ。男女が夫婦となるは、媒介する者があつて行うを禮とするに、今みずから進んでこれをすることの恥ずべきを知つて。
 復恨心契之弗果 マタチギリノハタサザルコトヲウラミ。しかも一方、心に期せしことのはたし得なかつたことを遺憾として。
 謔戯焉 タハブレトシキ。謔は、新撰字鏡に「太波夫留」と註している。謔戯二字で熟字を成している。
 
大伴宿祢田主、報贈歌一首
 
大伴の宿祢田主の報《こた》へ贈れる歌一首
 
(391)【釋】 報贈歌 コタヘへオクレルウタ。石川の女郎の贈つた歌に答え贈つた歌である。
 
127 遊士《みやびを》に 吾はありけり。
 屋戸《やど》かさず 還《かへ》ししわれぞ、
 風流士《みやびを》にはある。
 
 遊士尓吾者有家里《ミヤビヲニワレハアリケリ》
 屋戸不v借《ヤドカサズ》 令v還吾曾《カヘシシワレゾ》
 風流士者有《ミヤビヲニハアル》
 
【譯】私は文雅人だつたのですよ。宿を貸さないで還したわたしこそは文雅人ですよ。
【釋】遊士尓吾者有家里 ミヤビヲニワレハアリケリ。石川の女郎の、遊士ト吾ハ聞ケルヲの句を受けている。この句は、わたしこそは眞のミヤビヲだの意に言つている。
 屋戸不借 ヤドカサズ。石川の女郎の歌の句を受けている。次の還シシを修飾する。
 令還吾曾 カヘシシワレゾ。還したわたしこそは、ゾは係助詞。
 風流士者有 ミヤビヲニハアル。これも眞の風流人であるといつている。ゾを受けて、連體形で留めている。
【評語】女から贈つた歌の形を利用して、詞を入れ替えて詠んでいる。自分が風流人であることを主張するに急で、餘裕が見受けられない。返歌としてはやむを得ないであろう。
 
同石川女郎、吏贈2大伴田主中郎1歌一首
 
同じ石川の女郎の更に大伴の田主中郎に贈れる歌一首
 
【釋】同 オヤジ。この語、本集ではオヤジともオナジとも書いてある。オヤジの用例には「麻乎其母能《マヲゴモノ》 於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》 和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》」(卷十四、三四六四)、「妹毛吾毛《イモモワレモ》 許己呂波於夜自《ココロハオヤジ》」(卷十七、三九七八)、毛等母延毛《モトモエモ》 於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》」(同・四〇〇六)、「京師乎母《ミヤコヲモ》 此間毛於夜自等《ココモオヤジト》」(卷十九・四一五四)があり、(392)オナジの用例には、「於奈自許等《オナジコト》 於久禮弖乎禮杼《オクレテヲレド》」(卷十五、三七七三)、「都奇見禮婆《ツキミレバ》 於奈自久爾奈里《オナジクニナリ》」(卷十八、四〇七三)、「都奇見禮婆《ツキミレバ》 於奈自伎左刀乎《オナジキサトヲ》」(同、四〇七六)とある。日本書紀天智天皇紀には、「陀麻爾農矩騰岐《タマニヌクトキ》 於野兒弘爾農倶《オヤジヲニヌク》」とあつて、もとオヤジと言つたものが、後オナジに轉じたものであろう。ここに同とあるは、この石川の女郎が前の兩者の相聞の主と同人であることを意味する。
 中郎。前の文に仲郎とあるに同じ。
 
128 わが聞きし 耳によく似る、
 葦《あし》の若末《うれ》の 足ひくわが夫《せ》、
 努《つと》めたぶべし。
 
 吾聞之《ワガキキシ》 耳尓好似《ミミニヨクニル》
 葦若末乃《アシノウレノ》 足痛吾勢《アシヒクワガセ》
 勤多扶倍思《ツトメタブベシ》
 
【譯】わたしの聞いた通り、アシの若葉のような足の病氣に悩んでいる貴方は、どうかよく御養生ください。
【釋】吾聞之耳尓好似 ワガキキシミミニヨクニル。ミミは耳で、自分の聞いたことをいう。ミミニヨクニルは、聞いた通り、聞くが如くにの意。「言云者《コトニイヘバ》 三々二田八酢四《ミミニタヤスシ》」(卷十一、二五八一)のミミも聞くことの意に使用されている。この句、終止形とする説もあるが連體形とするを可とする。
 葦若末乃 アシノウレノ。枕詞。ウレは、者い伸びた先をいう。ヒシノウレ、ハギノウレなどいう。同音によつて、次の句の足に懸かつている。若末の文字は、この語の意をよくあらわしている。これは「暮去者《ユフサレバ》 小松之若末爾《コマツガウレニ》」(卷十、一九三七)にも使用されている。
 足痛吾勢 アシヒクワガセ。足痛は諸訓のある所である。字に即して讀むものに、アシイタ(古點)、アシナヘ(考)、アシイタム(岡本保孝)があり、義讀するものに、アナヘク(仙覺)、アシヒク(京都大學本代赭)、アナヤム(古義)がある。集中「足疾乃《アシヒキノ》 山寸隔而《ヤマキヘナリテ》 不v遠國《トホカラナクニ》」(卷四、六七〇)、「足病之《アシヒキノ》 山海石榴開《ヤマツバキサク》 八岑(393)越《ヤツヲコエ》 (卷七、一二六二)の如く、足疾、足病をアシヒキと讀ましめている例があり、この歌の左註にも足疾とあるによつて、今アシヒクと讀む。足の病である。ワガセは、田主をさしている。
 勤多扶倍思 ツトメタブベシ。ツトメは療養に努める義。タブベシはタマフペシと同じく、タブは先方に對する敬語。そうなされるがよいの意味。養生に努められるがよいでしょう。
【評語》讀み方に問題はあるが、輕い氣もちで病を問うた心はわかる。アシノウレノの枕詞が多少揶揄的な氣分があつておもしろい。耳ニヨク似ルというのは、當時言い慣れた語であろうが、變わつた言い方である。
 
右依2中郎足疾1、贈2此歌1問訊也
 
右は中郎の足の疾に依り、この歌を贈りて問訊《とぶら》へるなり。
 
【釋】足疾 アシノヤマヒ。ここは體言である。どのような病か知らないが、田主はまだ若かつたようであるから、脚氣などであろう。
 問訊也 トブラヘルナリ。訊も問う義の字である。見舞の歌である。
【評語】この物語は、實話というよりもむしろ一箇の作り物語であるようだ。文章も事實を説明する以上に、文を飾つて書いている。歌の贈答ぐらいはあつたかも知れないが、事件はすこし奇拔すぎる。また大伴の田主は他に所見が無い。或いは旅人の假名であるかも知れない。
 
大津皇子宮侍石川女郎、贈2大伴宿祢宿奈麻呂1歌一首
                【女郎字曰2山田郎女1也。宿奈麻呂宿祢者大納言兼大將軍卿之第三子也】
 
(394)大津の皇子の宮の侍《まかたち》、石川の女郎の、大伴の宿祢|宿奈麻呂《すくなまろ》に贈れる歌一首
                【女郎、字を山田の郎女と曰へり。宿奈麻呂の宿禰は、大納言兼大將軍の卿の第三子なり】
【釋】大津皇子 オホツノミコ。元暦校本に、津の右に朱で、「伴一本」とあり、西本願寺等の仙覺本は伴に作つている。大伴の皇子とすれば、天智天皇の皇子の大友の皇子(弘文天皇)のことになる。石川の女郎は既に相當の年のようであるから、弘文天皇の侍女であつたということもあり得ないことではないが、今は元暦校本の本文によつて津とするによる。
 宮侍 ミヤノマカタチ。侍は侍女の義。大津の皇子の宮の女房である。
 石川女郎 イシカハノヲミナ。題下の註に依れば、字を山田の郎女といつたという。山田は地名で、飛鳥の山田であろう。前の一〇七の題詞の石川の郎女と同人とすれば、この註は前のところにあつて然るべきが如何。また大伴の田主に歌を贈つた石川の女郎と同人であるか否かも知られない。この歌を贈つた時、既に相當の年配に達していたようである。
 大伴宿祢宿奈麻呂 オホトモノスクネスクナマロ。註にあるように大伴の安麻呂の第三子である。この人、養老三年七月に、安藝周防の按察使に任ぜられ、神龜元年二月には從四位の下に敍せられている。歿年未詳。
 
129 古《ふ》りにし 嫗《おみな》にしてや、
 かくばかり 戀に沈まむ。
 手童《たわらは》の如。
  一は云ふ、戀をだに忍びかねてむ、手童《たわらは》の如
 
 古之《フリニシ》 嫗尓爲而也《オミナニシテヤ》
 如此許《カクバカリ》 戀尓將v沈《コヒニシヅマム》
 如2手童兒1《タワラハノゴト》
  一云、戀乎太尓忍金手武 多和良波乃如
 
【譯】年を取つた女なのだのに、これほどまでに子どものように戀に沈むことでしようか。
 
(395)【釋】古之 フリニシ。古くなつた意味で、年を經た由である。オミナの語が既に老女であるが、それに更にこの句を冠して古びはててしまつた由をあらわしている。
 嫗尓爲而也 オミナニシテヤ。自分は老女であるのにそれにしてもかの義で、ヤは疑問の係助詞。こんな老女であるのにそれでも戀をするのかとみずから怪しんでいる。もつとも古リニシ嫗というのは、どれほどの年齡をさしているかは分からない。やや盛りを過ぎた頃の年輩であろう。
 如此許 カクバカリ。現在の状態をさしてカクといい、それほどにの意をあらわしている。
 戀尓將沈 コヒニシヅマム。戀の思いに沈むことよの意。ヤを受けて結んでいる。句切。
 如手童兒 タワラハノゴト。タは接頭語。タワラはは幼童。ここは若い女をさして言つているであろう。年端も行かない女ならは戀に沈むのももつともであるが、自分のような年輩の女で、なおかつ戀に沈むものかというのである。
 戀乎太尓忍金手武 コヒヲダニシノビカネテム。戀だけも堪えることができないでいるだろうの意。シノビは耐える意。
 多和良波乃如 タワラハノゴト。これは本文と同一である。
【評語】盛り過ぎた女の、少女のような物思いに沈むのをみずから歎いた歌として、上二句の仰山な物言いがよくきいている。勿論本氣で歌つているのではないだろう。あまり趣のない歌である。
【参考】類想。
  あづきなく何の狂言《たはごと》、今更に小童言《わらはごと》する。老人にして(巻十一、二五八二)
 
長皇子、與2皇弟1御歌一首
 
(396)長の皇子の皇弟に與へたまへる御歌一首
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。既出(卷一、六〇)。天武天皇の皇子。
 與皇弟歌 スメイロセニアタヘタマフウタ。皇弟は何人か不明。日本書紀天武天皇紀に、「妃大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1」とあり、同母弟ならは弓削の皇子である。
 
130 丹生《にふ》の河 瀬《せ》は渡《わた》らずて
 ゆくゆくと 戀痛《こひた》し、吾弟《わおと》、
 いで通《かよ》ひ來《こ》ね。
 
 丹生乃河《ニフノカハ》 瀬者不渡而《セハワタラズテ》
 由久遊久登《ユクユクト》 戀痛吾弟《コヒタシワオト》
 乞通來祢《イデカヨヒコネ》
 
【譯】丹生の河の瀬を渡らないで、わたしの心は落ちつかず、戀がひどい。弟よ。さあ通つておいでなさい。
【釋】丹生乃河 ニフノカハ。吉野川の上流、丹生の地を流れる時の稱。
 瀬者不渡而 セハワタラズテ。瀬をば渡らないで。以上その地にいて實際にその川を渡らないことをいい、戀痛シの理由状態になるが、同時に次句のユクユクトを引き起す序になつている。
 由久遊久登 ユクユクト。他に用例は無いが、「大船乃《オホフネノ》 由久良由久良爾《ユクラユクラニ》 思多呉非爾《シタゴヒニ》 伊都可聞許武等《イツカモコムト》」(卷十七、三九六二)などの、ユクラユクラニと同語であろうと言われている。それによれば、大船の波のまにまに動搖するように、心の落ちつかず定まらないことをいう副詞と考えられる。
 戀痛吾弟 コヒタシワオト。コヒタシは、コヒイタシの約、戀のはなはだしいのをいう形容詞。「凡有者《オホナラバ》 左毛右毛將v爲乎《カモカモセムヲ》 恐跡《カシコミト》 振痛袖乎《フリタキソデヲ》 忍而有香聞《シノビテアルカモ》」(卷六、九六五)。この歌の振痛シと同樣の語構成と見られる。イタシは詰つてタシと聞えるのだろう。その終止形。コヒタキとして連體形ともされる。ワオトは、皇帝を呼び懸けている。
(397)乞通來祢 イデカヨヒコネ。乞はイデともコチとも讀まれ、いずれにても通ずる所である。イデは、さあと誘う語。「伊田何《イデイカニ》 極太甚《ココダハナハダ》」(卷十一、二四〇〇)など使われている。「壓乞、此云2異提1」(允恭天皇紀)とあつて、強く乞う意である。コチは此方の義で、こちらへ通つていらつしやいの意。コネは動詞來に、希望の助詞ネの接續したもの。
【評語》實際を描いて序に應用した所が、巧みである。言葉の表示する内容の種類が多く、すこしごたごたして感じられる。「丹生の河瀬は渡らずて」「ゆくゆくと戀痛し」「吾弟いで通ひ來ね」とすくなくも三部にわたることが一首に含められているのである。
 
柿本朝臣人麻呂、從2石見國1別v妻上來時歌一首并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、石見の國より妻を別かれて上り來し時の歌一首【短歌并はせたり】
 
【釋】從石見國 イハミノクニヨリ。人麻呂が石見の國にあつたのは、多分國司として掾《じよう》、目《さかん》、史生《しぞう》などの地位にあつたものなるべく、その晩年のことと見られる。
 別妻上來時歌 ツマヲワカレテノボリコシトキノウタ。動詞別カルは、その動作の目標となるものについては、助詞ヲを以つて受ける慣である。「久夜之久妹乎《タヤシクイモヲ》 和可禮伎爾家利《ワカレキニケリ》」(卷十五、三五九四)、「多良知禰乃《タラチネノ》 波々乎和加例弖《ハハヲワケレテ》」(卷二十、四三四八)の如くである。「父母爾《チチハハニ》 啓別而《マヲシワカレテ》」(卷十九、四二一一)の例は、助詞ニを受けているが、これは、啓が受けているのである。この妻は、人麻呂の後妻であるが、人麻呂の死んだ時に歌を詠んだ依羅《よさみ》の娘子であろう。その人は國府から一里餘を隔てた角《つの》の里におり、人麻呂は、その地に通つたものと考えられる。妻と別かれて上京したとあるは、轉任では無く、朝集使などになつて上京したものであろう。朝集使は、朝集帳をもつて諸國から庶政を報告する使で、畿内は十月二日に、地方は十一月一日に奉る。(398)石見の國から輸税の時の行程は、延喜式によるに、上廿九日下十五日であるから、十月の初めに石見の國を發したであろう。
 并短歌 ミジカウタアハセタリ。長歌に反歌がつけられてある場合に、卷の一では、長歌の題詞には何とも記さないであるが、この卷以下は、みな并短歌とことわつてある。并は、併合の意の字で、竝とは別。長歌に短歌が合わせてある意である。代匠記に菅原家ではアハセタリと讀むそうだという。今これによる。ナラビニと讀むのは非。寛永本に竝に作るのも誤りである。
 
131 石見《いはみ》の海 角《つの》の浦廻《うらみ》を
 浦なしと 人こそ見らめ。
 潟《かた》なしと【一は云ふ。礒無しと。】 人こそ見らめ。
 よしゑやし 浦は無くとも、
 よしゑやし 潟は【一は云ふ。礒は。】無くとも、
 鯨魚取《いさなと》り、海邊《うみべ》をさして、
 渡津《わたづ》の 荒礒《ありそ》の上《うへ》に、
 か青なる 玉藻奧《おき》つ藻、
 朝羽振《あさはふ》る 風こそ寄らめ。
 夕羽振る 浪こそ來寄れ。
 浪の共《むた》 か寄りかく寄り
(399) 玉藻なす 寄り宿し妹を、【一は云ふ、はしきよし妹が手本を。】
 露霜《つゆじも》の 置《お》きてし來《く》れば、
 この道の 八十隈毎《やそくまごと》に
 萬《よろづ》たび 顧みすれど、
 いや遠に 里は放《さか》りぬ。
 いや高に 山も越え來ぬ。
 夏草の 思ひ萎《しな》えて
 思《しの》ふらむ 妹が門見む。
 靡けこの山。
 
石見乃海《イハミノウミ》 角乃浦廻乎《ツノノウラミヲ》
浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》
滷無等《カタナシト》【一云、磯無登】 人社見良目《ヒトコソミラメ》
能咲八師 ヨシヱヤシ浦者無友 ウラハナクトモ
縱畫屋師《ヨシヱヤシ》 滷者《カタハ》【一云、礒者】 無鞆《ナクトモ》
鯨魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》
和多豆乃《ワタヅノ》 荒礒乃上尓《アリソノウヘニ》
香青生《カアヲナル》 玉藻息津藻《タマモオキツモ》
朝羽振《アサハフル》 風社依米《カゼコソヨラメ》
夕羽振《ユフハフル》 浪社來縁《ナミコソキヨレ》
浪之共《ナミノムタ》 彼縁此依《カヨリカクヨリ》
玉藻成《タマモナス》 依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》【一云、波之伎余思妹之手本乎】
露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》
此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》
萬段《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》
彌遠尓《イヤトホニ》 里者放奴《サトハサカリヌ》
益高尓《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》
夏草之《ナツクサノ》 念思奈要而《オモヒシナエテ》
志怒布良武《シノフラム》 妹之門將v見《イモガカドミム》
靡此山《ナビケコノヤマ》
 
【譯】石見の海の角の浦を、浦は無いと人は見もしよう。潟は無いと人は見もしよう。よし浦は無くとも、よし潟は無くとも、クジラを取る海邊をさして、渡海をする津の荒礒の上に、まつ青《さお》な玉藻や沖つ藻に、朝吹く風が吹き寄ろう。夕方に寄せる浪がうち寄せよう。浪と共に、あちらへ寄りこちらへ寄り、玉藻のように寄り添つて寐たわが妻を、露霜のようにうち置いて來ると、この邊の多い曲り角毎に、何遍も何遍も顧みるけれども、段々遠く里は離れた。いよいよ高く山も越えて來た。思いしおれて思つているであろうわが妻の門を見ようと思う。この山よ、たいらになれ。
【構成】この歌は、三段四節から成つている。
 第一段 石見の海岸の描寫「夕はふる浪こそ來寄れ」まで。
  第一節 石見の海の總敍。「滷無しと人こそ見らめ」まで。
 
(400)大治本斷簡〔写真省略〕
大治四年(一一二九)二月二十六日に書寫されたと傳える本の斷簡である。右端の片假字は、前の歌の訓の上半である。左三行は、長歌の訓の一部で、そのころ既にこの歌に訓のつけられていたことが知られる。なを同種の巻の十三の奧には天治元年(一一二四)の年號があるので天治本とも呼ばれている。
 
  第二節 海岸の特色。「夕はふる浪こそ來寄れ」まで。
 第二段 作者の行動の敍述。「いや高に山も越え來ぬ」まで。
 第三段 作者の希望の敍述。「なびけこの山」まで。
【釋】石見乃海 イハミノウミ。石見の國の海を擧げて、次の句に
冠している。石見の語義は、石の多い海の義かも知れないが、既に地名となつているので、重ねていうこと淡海の海の如き例による。
 角乃浦廻乎 ツノノウラミヲ。角は地名。反歌に高角山とある角、一三八の歌に角の里とある。みな同地で(401)ある。島根縣那賀郡津農町附近の稱である。妻の住んでいる地であるから、この地を擧げて、その風土の説明をしようとするのである。ウラミのミは接尾語。地形をいう語に附して、その地形の彎曲せるものなることをあらわす。ヲは、下の見ラメの處置格を示す。ウラは彎入せる水面をいう。
 浦無等人社見良目 ウラナシトヒトコソミラメ。社をコソと讀むのは、神社に對しては願望をするので、願望のコソに當て、轉じて係助詞にも使用するに至つたものとされている。ミラメは、「行來跡見良武《ユキクトミラム》」(巻一、五五)參照。動詞見ルに、推量の助動詞ラムの接續したものである。ラムは動詞の終止形を受けるのを通例とするが、古くは上一段動詞に限り、ミラムの如き形を取るのである。その意は、世人は、浦無しと見もしようというにある。不定時の現在推量である。
 滷無等人社見良目 カタナシトヒトコソミラメ。カタは水中の渚、潮干ればあらわれるような處。但し日本海方面では、八郎潟、象潟など、海に續いている湖をカタといぅ。ここもその意であろうとする説もある。以上、角ノ浦ミには、實際浦や滷の見るべきものが無いことを、對句で言つている。角ノ浦ミというのは、浦があるようにも取れるが、それは大局についていい、浦無シ滷無シの方は、部分的について言つているらしい。以上第一段の第一節、まず石見の海岸の大勢を敍している。
 一云磯無登 アルハイフ、イソナシト。イソは石の累積せる處。滷無等の別傳である。
 能咲八師 ヨシヱヤシ。ヨシは許容の意で、たとい何々であつてもの意をあらわす。よしやというに同じ。ヱおよびヤシは、共に感動の助詞。ヤシは、ハシキヤシなどのヤシに同じ。ヨシの例は、「雪寒三《ユキサムミ》 咲者不v開《サキニハサカズ》 梅花《ウメノハナ》 縦比來者《ヨシコノゴロハ》 然而毛有金《シカモアルガネ》」(卷十、二三二九)、ヨシヱの例は、「足千根乃《タラチネノ》 母爾不v所v知《ハハニシラエズ》 吾持留《ワガモテル》 心者吉惠《ココロハヨシヱ》 君之隨意《キミガマニマニ》」(卷十一、二五三七)、ヨシヱヤシの例は「爭者《アラソヘバ》 神毛惡爲《カミモニクマス》 縱咲八師《ヨシヱヤシ》 世副流君之《ヨソフルキミガ》 惡有莫君爾《ニクカラナクニ》」(同、二六五九)など。
(402) 浦者無友 ウラハナクトモ。假設前提法で、よし浦は無いとしてもの意。
 縱畫屋師滷者無鞆 ヨシヱヤシカタハナクトモ。上の二句に對して對句を成している。講義にここで段落であるように説いているのは誤りである。
 一云礒者 アルハイフ、イソハ。滷者に對する別傳である。この別傳は、上の一云礒無登とある別傳と同一の傳來であることが知られる。この傳來には、共に滷に代うるに礒とあつたので、照應をしている。かように一首の中には、同一の傳來による別傳が記入されているので、それらの一を採つて本文を改めるが如きことは、避けねばならぬことである。
 鯨魚取 イサナトリ。枕詞。鯨魚を取る義で、海に冠する。クジラをイサナということは、壹岐國風土記の逸文に「鯨伏、昔者鮨鰐追v鯨、鯨走來隱伏、故云2鯨伏1。鰐竝鯨竝化2爲石1、相去一里。俗云v鯨爲2伊佐1」(萬葉集註釋所引)とある。「異舍灘等利《イサナトリ》 宇瀰能波麻毛能《ウミノハマモノ》」(日本書紀允恭天皇紀)。
 海邊乎指而 ウミベヲサシテ。ウミベは海岸。海岸を目ざして海藻を寄せると、下文に續く。
 和多豆乃 ワタヅノ。ワタヅは渡津で、航海する船の發著地である。或る本の歌(一三八)のこの句に相當する處には、柔田津乃とあるので、ここをもニキタヅノと讀む説(仙)があるが、その方はよい傳來でないから、これを證としないがよい。
 荒礒乃上尓 アリソノウヘニ。アリソは、アライソの約言。荒い礒で、浪や岩が大きく、豪壯の感を與える礒をいう。ウヘは、その上であるが、荒礒にというに同じ。
 香青生 カアヲナル。カは接頭語。色については、「蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》」(卷十六、三七九一)の例がある。次の句を修飾している。
 玉藻息津藻 タマモオキツモ。玉藻と沖の藻であるが、同物を語を變えて言つた。この句は、玉藻沖つ藻を(403)呼びあげている。さてそれに風や浪が寄るというのである。
 朝羽振 アサハフル。ハフルは、鳥の羽を振つて飛ぶ意。後の夕羽振流とあるを、ユフハフルと讀むのに照らして、アサハフルと讀んでいる。鳥の羽ぶきのように風の吹くを譬えたのである。類聚名義抄に、※[者/羽]にハフルの訓がある。この字は飛びのぼる意の字。
 風社依米 カゼコソヨラメ。依米は、略解にヨセメと讀んでいる。依をヨスと讀むことは、「奧波《オキツナミ》 依流荒礒之《ヨスルアリソノ》 名告藻者《ナノリソハ》」(卷七、一三九五)、「汝乎曾母《ナレヲゾモ》 吾丹依云《ワレニヨストフ》 吾叫毛曾《ワレヲモゾ》 汝丹依云《ナレニヨストフ》」(卷十三、三三〇五)等、例が多い。ここはヨセメでよく通ずるが、動詞寄スは、下二段活であるから、下の浪社來縁の句については、ナミコソキヨスレと言わなければならず、それは極めて不調であつて、あり得べくも思われない。これは、上の玉藻沖つ藻の句は、玉藻沖つ藻を呼び懸けたもので、強いて言えば、玉藻沖つ藻あり、それに風や浪が寄るというのであろう。實際に歌い上げる場合には、そのあいだに若干の詞句が挿入されるから、格別不合理を感じないであろう。但し四段活の例もある。「妹慮豫嗣爾《メロヨシニ》」(日本書紀三)、「都麻余之許西禰《ヅマヨシコセネ》」(卷十四、三四五四)などそれで、人麻呂歌集所出の、「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》」(卷九、一六七九)も、上記の例によつてツマヨシコセネと讀まれるから、人麻呂の作品に、四段活に使われていたとしても不思議はない。ただ下のカヨリカクヨリに對しては、やはりヨラメとあるべきだろう。
 夕羽振流浪社來緑 ユフハフルナミコソキヨレ。上の朝羽振風社依米に對して對句を成している。これも上の句と同樣に解すべきである。朝風、夕浪と分けて詠んでいるが、これも、ただ朝夕に風や浪が寄るというべきを、格調上分けたまでである。段落で、以上、第一段の第二節。目前の景によつて想を構えて、以下の、浪ノ共、玉藻ナスの二句を起す序としている。
 浪之共 ナミノムタ。ムタは共の意の古語で、助詞ノもしくはガを受ける。「可是能牟多《カゼノムタ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》」(404)(卷十五、三六六一)の例がある。上の風コソ寄ラメの句を受けている。
 彼縁此依 カヨリカクヨリ。カヨリカクヨル(古義)。カもカクも、それとさす體言である。カモカクモ、カニモカクニモ、カ行キカク行キなど、用例が廣い。ここは、あのようにもこのようにも寄るの意。下の寄リ宿シを修飾する。カヨリカクヨルと讀むのは、ただちに次の玉藻を修飾するとするのであるが、調子の上からは、カヨリカクヨリがすぐれている。
 玉藻成 タマモナス。玉藻のようにある。上の玉藻沖ツ藻の句と照應している。
 依宿之妹乎 ヨリネシイモヲ。寄り添い寢た妻をである。妹は女子の愛稱。妻というと客觀性が強くなるが、妹というと、三人稱に使用されても、その人を思う情味が感じられる。
 一云波之伎余思妹之手本乎 アルハイフ、ハシキヨシイモガタモトヲ。上の玉藻ナス寄リ宿シ妹ヲの句に對する別傳であるが、これでは、上の浪ノムタカ寄リカク寄リの句に、接續しない。本文の方が可である。ハシキヨシは、ハシキヤシともいう。ハシキは愛すべくある意の形容詞。ヤシは感動の助詞。タモトは手の上部、腕。
 露霜乃 ツユジモノ。枕詞。置クに冠する。ツユジモは、露と霜とであるとする見解と、一種のものであるとする見解とがあるが、これはたとえば、山川の如き語について、山と川とも、また、山中の川とも解せられるようなもので、兩立し得る解である。ここは十月のはじめごろとする季節によつて、ツユジモとし、露からなかば、霜になつたものとすべきだろう。「烏玉之《ヌバタマノ》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 落名積《フリナヅム》 天之露霜《アメノツユジモ》 取者消乍《トレバケニツツ》(卷七、一一一六)、「夢戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》 秋※[草冠/互]子者《アキハギハ》 露霜寒《ツユジモサムミ》 盛須凝由君《サカリスギユク》」(卷八、一六〇〇)の如き例は、この用法である。
 置而之來者 オキテシクレバ。妹を置いて來ればで、シは強意の助詞。
(405) 此道乃八十隈毎 コノミチノヤソクマゴトニ。今通行している道路なので、この道という。八十隈は、多數の曲りかどの隅。山路であつて、隈が多いのである。
 萬段顧爲騰 ヨロヅタビカヘリミスレド。ヨロヅタビは度數の多いことをいう。
 弥遠尓里者放奴 イヤトホニサトハサカリヌ。イヤトホニは、いよいよ遠くの意の副詞句。サトは、別れて來た妻の住んでいる里である。サカリは離れる意の動詞。句切。
 益高尓山毛越來奴 イヤタカニヤマモコエキヌ。上のイヤ遠ニ里ハサカリヌの句と對句を成している。いよいよ高く山も越えて來たの意で、句切。以上第二段。作者が山路につき、妻の住む里から、遠ざかつたことを敍している。「道前《チノクマ》 八十阿毎《ヤソクマゴトニ》 嗟乍《ナゲキツツ》 吾過往者《ワガスギユケバ》 爾遠丹《イヤトホニ》 里離來奴《サトサカリキヌ》 禰高二《イヤタカニ》 山文越來奴《ヤマモコエキヌ》」(卷十三、三二四〇)の如き類型の句がある。
 夏草之 ナツクサノ。枕詞。夏の草は、日に萎えるものであるから、次のシナエテに冠する。
 念思奈要而 オモヒシナエテ。シナエテは、なえなえとしての意。「於v君戀《キミニコヒ》 之奈要浦觸《シナエウラブレ》」(卷十、二二九八)等の例に依り、シナユの語があることが知られる。下二段活。
 志怒布良武 シノフラム。このシノフは、思慕する意に使用されている。別かれた後の妻の樣子を想像している句で、連體形である。布は、シノフの清音であつたことを語る。
 妹之門將見 イモガカドミム。妻が家の門を見ようの意。句切。
 靡此山 ナビケコノヤマ。邪魔になるこの山に對して、靡き伏せと命じている。この山が無くば、妹の門が見えるだろうというのである。勿論それは構想であつて、山が無くても遠く來たので見えるわけは無いのだがそれを山に對してたいらになれと言う所に、妻を思う情があらわれている。「惡木山《アシキヤマ》 木末悉《コヌレコトゴト》 明日從者《アスヨリハ》 靡有社《ナビキタリコソ》 妹之當將v見《イモガアタリミム》」(卷十二、三一五五)の歌は、類想の歌である。「靡得《ナビケト》 人雖v跡《ヒトハフメドモ》 如此依等《カクヨレト》 人雖v衝《ヒトハツケドモ》 (406)無v意《ココロナキ》 山之《ヤマノ》 奧礒山三野之山《オキソヤマミノノヤマ》」(卷十三、三二四二)の歌は山を邪魔にしている。以上第三段、作者の希望を述べて力強く結んでいる。
【評語】前半に何か事を敍して、それを譬喩として、中心内容に移る手段は、古事記あたりの古歌謠に常に見られるところであるが、この歌は、その形を受けている。はじめに石見の海の状況を敍したのは、山路を分け行くことに對して無關係のようであるが、これは角の里から、妻に別かれて山にさしかかり、そこから石見の海岸線が見渡される。その縁によつてこれを敍したので、間接ではあるが身邊の敍景になるのである。その矚目の物に筆を起して、カヨリカクヨリ靡キ寐シ妹を起す序としている。主題は最後の一句、靡ケコノ山にあるであろうが、そこに至るまでに、敍述を十分に盡して、準備を重ねている。これによつて、最後の一句が力強くなるのである。
 
反歌二首
 
132 石見《いはみ》のや 高角《たかつの》山の 木《こ》の間《ま》より、
 わが振る袖を 妹見つらむか。
 
 石見乃也《イハミノヤ》 高角山之《タカツノヤマノ》 木際從《コノマヨリ》
 我振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹見都良武香《イモミツラムカ》
 
【譯】石見の國の高角山の木の間から、わたしの振る袖を、わが妻は見ただろうか。
【釋】石見乃也 イハミノヤ。ヤは、感動の助詞であつて、意味にあつては、石見の高角山というに同じ。このヤの助詞ノに接續する例は、「阿符美能野《アフミノヤ》 ※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》」(日本書紀九八、繼體天皇紀)の例がある。本集には、動詞助動詞の連體形に按績する例は多いが、助詞ノに接續する例は、「淡海之哉《アフミノヤ》 八橋乃小竹乎《ヤバセノシノヲ》」(卷七、−三五〇)の例があるだけである。「美奈刀能《ミナトノ》 安之我奈可那流《アシガナカナル》 多麻古須氣《タマコスゲ》」(卷十四、三四四五)の初(407)句、美奈刀能の下に、仙覺本には也の字があるが、元暦校本等には無い。元來このヤは、歌いあげる時に、詞句の末につける感動の語から來たもので、琴歌譜の語中の歌詞を見ると、多數使用されており、しかもそれが別に歌詞として整理される場合には、大抵省路されて記録されない。ところが一句の音節數が固定するに及んで、五音もしくは七音の數に合わせるために、これが記録される場合を生ずる。この石見ノヤの如きもその一例であつて、歌われる歌に存する特有のものが、文筆作品としての記録形態を完成するために、使用されたものである。助詞ノに接續する場合は、その遊離性が強いために、廣く行われるに至らなかつたものであろう。なお、「吾はもや」のヤの如きも、同樣の經路により、發達したものと考えられる。萬葉後期においては、熟語的に使用されるもの以外には、かような形はほとんど行われなくなつた。
 高角山之 タカツノヤマノ。高角山は、角の里から上京の途上にある山で、角の地の山であるから角山といい、これに形容詞高を添えて高角山という。
 木際從 コノマヨリ。樹の間を通して、樹間から。木ノ間ヨリワガ振ル袖と次句に續くのであつて、見ツラムカに續くのではない。
 我振袖乎 ワガフルソデヲ。袖を振るは、合圖をするためであつて、この場合は、別れを惜しむために振る。袖は、手の部分を蔽うものであるから、畢竟手を振ることである。集中例は多い。別れに際して振ることをいうものに、「倭道者《ヤマトヂハ》 雲隱有《クモガクリタリ》 雖v然《シカレドモ》 余振袖乎《ワガフルソデヲ》 無禮登母布奈《ナメシトモフナ》」(卷六、九六六)、「汝戀《ナガコフル》 妹命者《イモノミコトハ》 飽足爾《アクマデニ》 袖振所v見都《ソデフルミエツ》 及2雲隱《クモガクルマデ》1」(卷十、二〇〇九)などがある。
 妹見都良武香 イモミツラムカ。カは疑問の助詞。妹見ツを推量し、これを疑問としている法である。わが妻は見たであろうかと推量している。妹が木の間より見つらむかの意であるとする説は非である。語句の順序から見ても、それは穩當でない。
(408)【評語】道を行き進み、山を登りつつ、顧みがちに袖を振つた。山が邪魔になり、道の隈が重なつても、見えないと知りながら、妹を思つて袖を振つた心である。石見の國府から、實際袖を振るのが見える位置に、高角山を求めるのは間違いである。
 
133 小竹《ささ》の葉《は》は み山もさやに 騷《さや》げども
 われは妹おもふ。
 別れ來ぬれば。
 
 小竹之葉者《ササノハハ》 三山毛清尓《ミヤマモサヤニ》 亂友《サヤゲドモ》
 吾者妹思《ワレハイモオモフ》
 別來禮婆《ワカレキヌレバ》
 
【譯】小竹《ささ》の葉は、山もさやさやと風に騷ぐけれども、自分はただわが妻を思う。別れ來たのであるから。
【釋】小竹之葉者 ササノハハ。ササガハハ(代)。小竹は、ササともシノとも讀むが、この歌では、ササと讀むがよい。小竹《ささ》、サヤニ、騷《さや》ゲドモと、サを頭韻としたために、全山ささと鳴る感じが出るのである。古事記上卷自註に、「訓2小竹1云2佐々1」とある。「佐左賀波乃《ササガハノ》 佐也久志毛用爾《サヤクシモヨニ》 奈々弁加流《ナナヘカル》 去呂毛爾麻世流《コロモニマセル》 古侶賀波太波毛《コロガハダハモ》」(卷二十、四四三一)。
 三山毛清尓 ミヤマモサヤニ。ミは接頭語。山を賞美して、山の山たる所をあらわす。いかにも山だという氣分でいる。サヤニは、音や色が他に紛れない状態をいう副詞。ここに清爾の字を當て、他にも多く清の字を當てているのは、サヤが清明の意であるに由るものであろう。ここでは、次の句の騷ぐ状態を、ミ山モサヤニと限定指向している。山もさやかに騷ぐというのである。「足引之《アシヒキノ》 御山毛清《ミヤマモサヤニ》 落多藝都《オチタギツ》 芳野河之《ヨシノノカハノ》」(卷六、九二〇)の、ミ山モサヤニと同樣の用法である。
 亂友 サヤゲドモ。ミダレドモ(舊訓)、マガヘドモ(代匠記一説、攷證)、サヤゲドモ(檜嬬手)等の諸訓がある。サヤゲドモと讀むのは、「佐左賀波乃《ササガハノ》 佐也久志毛用爾《サヤクシモヨニ》」(卷二十、四四三一)とある例による。この(409)語は日本書紀神武天皇紀に「聞喧擾之響焉、此云2左揶霓利那離《サヤゲリナリ》1」とあり、本集に「葦邊在《アシベナル》 荻之葉左夜藝《ヲギノハサヤギ》」(卷十、二一三四)とあつて、喧擾の聲を立てるをいう。ドモは逆態前提法を示す助詞であるが、ここでは、小竹の葉は騷ぐけれども、それには拘わらずにの如き意味を成している。「タカシマノアトカハナミハサワケドモワレハ
家思《イヘオモフ》 宿加奈之彌《ヤドリカナシミ》」(卷九、一六九〇)の騷ケドモは、これと同樣の用法であり、一首の形も似ている歌である。
 吾者妹思 ワレハイモオモフ。初句の小竹の葉に對し、吾ハと時に提示している。句切。
 別來禮婆 ワカレキヌレバ。上の吾ハ妹思フの理由を説明している。
【評語】滿山の小竹が秋風に鳴る中を、妻に別れて行く氣分がよく描かれている。諸種の訓法があるが、サを頭韻とする訓がすぐれているようだ。高宕な風格の出ている作品である。
 
或本反歌曰
 
或る本の反歌に曰はく
 
【釋】或本反歌 アルマキノヘニカ。或る本には、次の歌が反歌として傳えられているというのであるが、これは、石見ノヤの歌に代わるものである。この或る本というのは、いかなるものとも記されていないが、多分本文の歌中に一云とあるものと同一の傳來であつて、その一云の歌詞を本文とするものに、この反歌が添えられてあつたのであろう。
 
134 石見なる 高角山《たかつのやま》の 木の間ゆも
 わが袖振るを 妹見けむかも
 
 
 石見《イハミ》尓有《ナル・ニアル》 高角山乃《タカツノヤマノ》 木間從文《コノマユモ》
 吾袂振乎《ワガソデフルヲ》
 妹見監鴨《イモミケムカモ》
 
(410)【譯】石見の國なる高角山の木の間を通して私が袖を振るのを、わが妻は見たであろうか。
【釋】石見尓有 イハミナル。尓有の漢字を假字に飜す時にはニアルであるが、音聲としてはナルである。次の高角山の所在を示している。しかし石見ナルという言い方は説明的で、石見ノヤの句に比して、石見に對して親しみを持つていない。後人の吟誦のあいだに轉訛したものであろう。
 木間從文 コノマユモ。モは感動をあらわす助詞で、木の間を通してというに同じ。
 吾袂振乎 ワガソデフルヲ。これは動作が主になつている。
 妹見監鴨 イモミケムカモ。後になつてはたして見たであろうかと推量する語法を使つている。
【評語】後人傳承のあいだに轉訛を生じた歌と思われる。本文の歌に及ばない所以である。
 
135 つのさはふ 石見の海の
 言《こと》さへく 韓《から》の埼なる
 海石《いくり》にぞ 深海松《ふかみる》生《お》ふる。
 荒礒《ありそ》にぞ 玉藻《たまも》は生ふる。」
 玉藻なす 靡き寐《ね》し兒を
 深海松の 深めて思へど、
 さ宿《ね》し夜は いくだもあらず、
 延《は》ふ蔦《つた》の 別れし來《く》れば
 肝《きも》向ふ 心を痛み、
(411) 思ひつつ 顧みすれど、
 大舟の 渡《わた》りの山の
 黄葉《もみちば》の 散りのまがひに
 妹が袖 さやにも見ず。
 嬬隱《つまごも》る 屋上《やかみ》の 【一は云ふ、室上《むろかみ》山の、】 山の
 雲間より 渡らふ月の
 惜しけども 隱《かく》らひ來れば、
 天《あま》づたふ 入日さしぬれ、
 丈夫《ますらを》と 念へる吾も、
 敷細《しきたへ》の 衣《ころも》の袖は、
 通りて濡《ぬ》れぬ。」
 
 角障經《ツノサハフ》 石見之海乃《イハミノウミノ》
 言佐敝久《コトサヘク》 辛乃埼有《カラノサキナル》
 伊久里尓曾《イクリニゾ》 深海松生流《フカミルオフル》
 荒礒尓曾《アリソニゾ》 玉藻者生流《タマモハオフル》
 玉藻成《タマモナス》 靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》
 深海松乃《フカミルノ》 深目手思騰《フカメテオモヘド》
 左宿夜者《サネシヨハ》 幾毛不v有《イクダモアラズ》
 延都多乃《ハフツタノ》 別之來者《ワカレシクレバ》
 肝向《キモムカフ》 心乎痛《ココロヲイタミ》
 念乍《オモヒツツ》 顧爲騰《カヘリミスレド》
 大舟之《オホブネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》
 黄葉乃《モミチバノ》 散之亂尓《チリノマガヒニ》
 妹袖《イモガソデ》 清尓毛不v見《サヤニモミズ》
 妻隱有《ツマゴモル》 屋上乃《ヤカミノ》【一云、室上山】山乃《ヤマノ》
 自2雲間《クモマヨリ》1 渡相月乃《ワタラフツキノ》
 雖v惜《ヲシケドモ》 隱比來者《カクラヒクレバ》
 天傳《アマヅタフ》 入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》
 大夫跡《マスラヲト》 念有吾毛《オモヘルワレモ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 衣袖者《コロモノソデハ》
 通而沾奴《トホリテヌレヌ》
 
【譯】この石見の海の韓の埼なる、海中の石に深海松は生えている。玉藻は生えている。その玉藻のように、寄り添つて寢た妻を、深海松のように、深い心から思うけれども、寢た晩は何ほどもなく、這うツタのように別れて來れば、心が痛さに、思いつつ顧みするけれども、目の前の山の黄葉が散り亂れるので、妻の袖をはつきりとも見ない。妻のこもるといぅ屋上の山の雲間から、大空を渡り行く月のように、惜しいけれども、隱れて行けば、今日も夕方になつて、夕日がさしたから、立派な男と思つている自分も、衣の袖は、涙に裏まで濡れ通つた。
(412)【構成】二段から成つている。荒礒ニゾ玉藻ハ生フルまで第一段。旅行している石見の海の風物を敍述する。以下終りまで第二段、妻に別れて上京する作者の行動について敍述する。この歌には、特に主觀を敍する部分は無い。
【釋】角障經 ツノサハフ。枕詞。石に冠する。日本書紀に、「菟恕瑳破赴《ツノサハフ》 以破能臂謎餓《イハノヒメガ》」(五八、仁徳天皇紀)、「都奴婆播符《ツヌサハフ》 以簸例能伊開能《イハレノイケノ》」(九七、繼體天皇紀)などあり、古い枕詞であることが知られる。語義は、冠辭考に、ツヌサはツナで、ツタの這うであるといい、荒木田久老はツヌはツタで、サハフはサハハフの約言であると云つている。しかしツヌサの語は無く、またサハハフの説も首肯されない。この枕詞は、集中五出しているが、いずれも角障經の文字を使用しており、他に明解が無いとせば、この字面は相當考慮されて然るべきである。すなわちツノは角であり、突出部を意味するものなるべく、サハフは、障ハフで、障フの連續状態をあらわすものと解される。角が障害になる義で、石を修飾説明する枕詞になつているのであろう。
 言佐敝久 コトサヘク。枕詞。下に、「言左敝久《コトサヘク》 百濟之原從《クダラノハラユ》」(卷二、一九九)とあり、韓、百濟の枕詞となつている。コトは言語の義であり、サヘクは、從來騷ぐと同じで、言語の騷々しい意とされていた。しかしサヘクがサワクと同語であるといぅ證明は無い。むしろ、障フと關係あるものと見るべく、言語の通じない意を以つて、韓、百濟に冠するものと見るべきである。
 辛乃埼有 カラノサキナル。島根縣邇摩郡宅野村の海上に辛島があり、それに對する海濱の岬角であろうという。
 伊久里尓曾 イクリニゾ。イクリは、海中の岩礁をいう。「由良熊斗能《ユラノトノ》 斗那賀能《トナカノ》 伊久理爾《イクリニ》 布禮多都《フレタツ》 那豆能紀能《ナヅノキノ》 佐夜佐夜《サヤサヤ》」(古事記七五)、「淡路乃《アハヂノ》 野島之海子乃《ノジマノアマノ》 海底《ワタノソコ》 奧津伊久利二《オキツイクリニ》 鰒珠《アハビタマ》 左盤爾潜出《サハニカヅキデ》」(卷六、九三三)など使用されている。「曉之《アカトキノ》 寐覺爾聞者《ネザメニキケバ》 海石之《イクリノ》 鹽干乃共《シホヒノムタ》」(卷六、一〇六二)の海石も(413)イクリと讀むべきであろう。海中の暗礁をいうとする説があるが、暗礁に限定しないでもよいのだろう。
 深海松生流 フカミルオフル。ミルは海松。倭名類聚鈔海菜類に「水松状如v松而無v葉【和名美流】楊氏漢語抄云海松【和名上同俗用之】」とある。海中の深い處に生えるもので、深海松という。句切。下の深海松ノ深メテの句を引き起すためにこの句を出している。
 荒礒尓曾玉藻者生流 アリソニゾタマモハオフル。上の海石ニゾ深海松生フルの句と對句を成し、次の玉藻ナスを引き起す準備をしている。以上第一段、石見の海の風物を敍して、第二段を引き出す序としている。
 玉藻成 タマモナス。枕詞。靡クに冠する。上の玉藻ハ生フルの句を受けている。
 靡寐之兒乎 ナビキネシコヲ。ナビキは、妻の樣子を説明している。コは愛稱。妻のこと。
 深海松乃 フカミルノ。枕詞。深メテに冠している。上の深海松生フルの句を受けている。
 深目手思騰 フカメテオモヘド。心を深めて、心の底から思うけれども。
 左宿夜者 サネシヨハ。サは接頭語。
 幾毛不有 イクダモアラズ。イクダは幾何の意。「佐禰斯欲能《サネシヨノ》 伊久陀母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》」(卷五、八〇四)、「左尼始而《サネソメテ》 何太毛不v在者《イクダモアラネバ》」(卷十、二〇二三)などある。また「年月毛《トシツキモ》 伊久良母阿良奴爾《イクラモアラヌニ》」(卷十七、三九六二)
の如くイクラともいう。ここは古きに從つてイクダと讀む。ココダの如きも、本集ではココダであるが、後にはココラになつている。結婚して久しくないのであろう。
 延都多乃 ハフツタノ。枕詞。ツタの枝の分岐するより別レの枕詞となる。
 別之來者 ワカレシクレバ。シは強意の助詞。
 肝向 キモムカフ。枕詞。古人は精神は腹中にあると信じていた。人の腹中には臓腑が澤山あつて相對している。臓腑はすべてキモだから、肝向フ心と續くのである。
(414) 心乎痛 ココロヲイタミ。心が痛くして。心が悩ましくて。
 念乍顧爲騰 オモヒツツカヘリミスレド。妻を思いつつ顧みるけれども。
 大舟之 オホブネノ。枕詞。大船で渡るということから、渡りに冠する。
 渡乃山之 ワタリノヤマノ。ワタリは、此處から向こうへ渡れる處をいう。「見度《ミワタセバ》 近渡乎《チカキワタリヲ》 廻《タモトホリ》 今哉來座《イマヤキマスト》 戀居《コヒツツゾヲル》」(卷十、二三七九)。渡りの山は、わが前に立つている山をいう。山の名とするは誤りである。
 黄葉乃散之亂尓 モミチバノチリノマガヒニ。チリノミタレニ(温)。散り亂れることをチリマガフという。マガフは、他物と紛れる意に使つているが、區別がつかないので、亂れるの意になるのだろう。「毛美知葉能《モミチバノ》 知里熊麻河比波《チリノマガヒハ》」(卷十五、三七〇〇)、「春花乃《ハルバナノ》 知里能麻可比爾《チリノマガヒニ》」(卷十七、三九六三)などある。「秋※[草冠/互]之《アキハギノ》 落乃亂爾《チリノマガヒニ》 呼立而《ヨビタテテ》」(卷八、一五五〇)は、ここと同樣の用字法である。この句は實景で、おりしも秋から冬へかけての頃であつたことを語つている。
 妹袖清尓毛不見 イモガソデサヤニモミズ。散り亂れる黄葉に紛れて、妻の袖を明瞭にも見ずの意で、下の惜シケドモ隱ラヒ來レバの句に接續する。
 嬬隱有 ツマゴモル。枕詞。妻の籠るの意に屋に冠する。「妻隱《ツマゴモル》 矢野神山《ヤノノカミヤマ》」(卷十、二一七八)。
 屋上乃山乃 ヤカミノヤマノ。島根縣那賀郡淺利村附近の高仙《タカセン》山のことであるという。因幡の八上郡の山ともいうが、因幡と石見とのあいだには出雲の國があるので、遠すぎよう。
 一云室上山 アルハイフ、ムロカミヤマノ。屋上乃山乃の句の別傳であろうが、その山は所在未詳である。
 自雲間渡相月乃 クモマヨリワタラフツキノ。ワタラフは、渡ルの續いて行われるをいう。雲のあいだを渡る月で、たちまち隱れて見えなくなるので、次の惜シケドモ隱ラヒ來レバを引き起している。これは實景ではなかろう。以上、嬬ゴモル以下この句まで序詞。
(415) 雖惜隱比來者 ヲシケドモカクラヒクレバ。上の、思ヒツツ顧ミスレド、妹ガ袖サヤニモ見ズを受けて、妻のあたりは惜しいが隱れて來るのでと續けている。
 天傳 アマヅタフ。枕詞。天空を傳う意で日に冠する。假字書きの例は無く、皆、天傳と書いている。「天傳《アマヅタフ》 日笠浦《ヒガサノウラニ》 波立見《ナミタテリミユ》」(卷七、一一七八)。
 入日刺奴禮 イリヒサシヌレ。入日がさしたからという意の條件法である。日が暮れて、入日のさしわたる頃となつたから。「あしひきの山邊をさして、夕闇と隱りましぬれ、言はむ術せむ術知らに」(下略)(卷三、四六〇)、「ひさかたの天知らしぬれ、こいまろびひづち泣けども爲《せ》む術《すべ》も無し」(同、四七五)など、この語法である。バを補つて、入日さしぬれば、知らしぬればというように解してよい。
 大夫跡念有吾毛 マスラヲトオモヘルワレモ。既出(卷一、五)。立派な男兒と思つている自分も。當時の自負をあらわしていを句。マスラヲトオモヘルワレ、五、七一九、九六八、二五八四。マスラヲトオモヒシワレ、二八七五。
 敷妙乃 シキタヘノ。枕詞。既出。
 衣袖者 コロモノソデハ。衣服の袖は。
 通而沾奴 トホリテヌレヌ。涙のために、裏まで通つて濡れたの意。「吾衣袖裳《ワガコロモデモ》 通手沾沼《トホリテヌレヌ》」(卷十三、三二五八)、「和我袖波 《ワサソデハ》 多毛登等保里弖《タモトトホリチ》 奴禮奴等母《ヌレヌトモ》」(卷十五、三七一一)など類句がある。
【評語】この長歌は、前の靡ケコノ山の長歌と構成を等しくしている。すなわち、行路の屬目である石見の海の風物に筆を起して、さてそれを序として、玉藻ナス、深海松ノの兩句を呼び、ここに本題にはいつて、妻との別れの情を敍している。前の歌の結句のような強さは見られないが、旅情の敍述は、この方が詳審である。同じ題材、同じ構造のもとに、全く別箇の長歌を成したことは、作者の手腕によるものであろう。前の歌と同(416)時の作であるか否かは不明であるが、人麻呂は、吉野の宮に幸でましし時、妻の死りし時など、同題のもとに、しばしば二篇の長歌を留めているから、ここでも、同時に二篇の長歌を作つたとも考えられる。
 
反歌二首
 
136 青駒《あをごま》の 足掻《あがき》を速《はや》み、
 雲居にぞ 妹があたりを
 過ぎて來にける。
    一は云ふ、あたりは隱り來にける
 
 青駒之《アヲゴマノ》 足掻乎速《アガキヲハヤミ》
 雲居曾《クモヰニゾ》 妹之當乎《イモガアタリヲ》
 過而來計類《スギテキニケル》
    一云、當者隱來計留
 
【譯】わたしの乘つている青駒の歩みの速さに、雲のように遠く、わが妻の家のあたりを、過ぎて來てしまつた。
【釋】青駒之 アヲゴマノ。アヲゴマは、倭名類聚鈔に※[馬+總の旁]を釋して、漢語抄に※[馬+總の旁]青馬也とあるを引き、青白雜毛馬也とあるから、青と白とまじつた毛の馬をいう。白馬節會をアヲウマノセチヱというのは、平安時代以後のことであるが、その白馬も、本來は純白の馬ではなくて、青白い馬を見たものであろう。コマはもと小馬の義だが、コは愛稱の接頭語となつて、ちいさい意は無い。
 足掻乎速 アガキヲハヤミ。アガキは、馬の足の運びをいう。それが速くして。「赤駒之《アカゴマノ》 足我枳速者《アガキハヤケバ》 雲居爾毛《クモヰニモ》 隱往序《カクリユカムゾ》 袖巻吾妹《ソデマケワギモ》」(巻十一、二五一〇)。
 雲居曾 クモヰニゾ。クモヰ、天空遠き處の雲。ヰは接尾語。遠くの空に、遠方にの意。
 妹之當乎 イモガアタリヲ。妻の住む家の附近を。
(417) 過而來計類 スギテキニケル。ゾを受けて、連體形で結んでいる。
 一云當者隱來計留 アルハイフ、アタリハカクリキニケル。本文の四句の後半からの別傳である。これに依れば、妹があたりは、雲居に隱れて來たということになる。
【評語】長歌の隱ラヒ來レバを受けて、別の方面から説明している。長歌の意を補足するものというべきである。長歌には、悲痛の感情を露骨にあらわしているが、これは單に事を敍するだけなのが、反歌として賢明な行き方で、これによつて感慨がいつそう高められる。「遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く到らむ。歩め黒駒」(巻七、一二七一、人麻呂集)は、これと反對に妹の家に近づくことを歌つている。いずれも馬上の陳思である。
 
137 秋山に 落つる黄葉《もみちば》
 須臾《しましく》は な散り亂《まが》ひそ。
 妹があたり見む。
    一は云ふ、散りな亂れそ
 
 秋山尓《アキヤマニ》 落黄葉《オツルモミチバ》
 須臾者《シマラクハ》 勿散《ナチリ》亂《マガヒ・ミダレ》曾《ソ 》
 妹之當將v見《イモガアタリミム》
    一云、知里勿亂曾
【譯】秋山に落ちる黄葉よ、暫くは散り亂れることなかれ。わが妻の家の邊を見よう。
【釋】秋山尓落黄葉 アキヤマニオツルモミチバ。黄葉の散るをオツということは、「和我世故我《ワガセコガ》 之米家牟毛美知《シメケムモミチ》 都知爾於知米也毛《ツチニオチメヤモ》」(巻十九、四二二三)など例がある。この句、黄葉を呼び懸けている。古義には落をチラフと讀んでいるが、ここはフに相當する字が無いから、オツルとする。地上に落下する意である。
 須臾者 シマシクハ。シマシクは、文字通り寸時である。ちよつとの間は。
 勿散亂曾 ナチリマガヒソ。ナは禁止の意の助詞。亂は、ミダレとも讀まれるが、この歌は長歌の句によつ(418)ていると見られるので、そのチリノマガヒニを受けてナチリマガヒソと讀む。ソは助詞。句切。
 妹之當將見 イモガアタリミム。妹が家のあたりを見ようの意。獨立文。
 一云知里勿亂曾 アルハイフ、チリナミダレソ。かようにナを動詞のあいだに入れていうこともあつたのである。この場合、ナは、散りの方に密接していると見られる。「須與者《シマシクハ》 落莫亂會《チリナミダレソ》」(卷九、一七四七)は、これと同句である。
【評語】この反歌は、前の長歌の、黄葉ノ散リノマガヒニの句と、妹ガアタリの句とを取つて、これを主題として、一首を構成している。情意なき黄葉に對して、心ある動作をするよう命じたのは、作者の構想である。妹を見ようと思う心の切なのが、ここに及んでいるのである。挽歌の「秋山の木の葉を茂み」も、黄葉の散亂するために亡き妻が求められない意に歌つており、これと共通するものがある。その間あまり年月を隔てていないのだろう。以上の歌は、旅中の獨語の作で、相聞の部に收めてあるけれども、妻のもとに贈つたものではないようだ。
 
或本歌一首 并2短歌1
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。前出の一三一の歌の別傳である。その歌は、本文中にも詞句の別傳を傳えていたから、併わせて三種の傳來があることになる。これは前掲の歌と、詞句の相違が相當に多いので、別掲したのであろう。
 
138 石見《いはみ》の海《うみ》 津の浦を無み、
 浦無しと 人こそ見らめ。
(419) 潟無しと 人こそ見らめ。」
 よしゑやし 浦は無くとも、
 よしゑやし  潟は無くとも
 勇魚取《いさなと》り 海邊《うみべ》を指《さ》して
 柔田津《にきたづ》の 荒磯《ありそ》の上《うへ》に、
 か青なる 玉藻|奧《おき》つ藻《も》、
 明《あ》けくれば 浪《なみ》こそ來寄《きよ》れ。
 夕されば 風こそ來寄れ。
 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄り
 玉藻《たまも》なす 靡き吾が宿《ね》し、
 敷細《しきたへ》の 妹が手本《たもと》を、
 露霜の 置きてし來れば、
 この道の 八十隈毎《やそくまごと》に
 萬度《よろづたび》 かへりみすれど、
 いや遠に 里|放《さか》り來《き》ぬ。
 いや高に 山も越え來ぬ。」
 はしきやし わが嬬《つま》の兒《こ》が
(420) 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひ萎《しな》えて
 嘆《なげ》くらむ 角《つの》の里《さと》見《み》む。
 靡《なび》け、この山《やま》。
 
 石見之海《イハミノウミ》 津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》
 浦無跡《ウラナミト》 人社見良米《ヒトコソミラメ》
 滷無跡《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》
 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者雖v無《ウラハナクトモ》
 縱惠夜思《ヨシヱヤシ》 滷者雖v無《カタハナクトモ》
 勇魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》
 柔田津乃《ニキタヅノ》 荒磯之上尓《アリソノウヘニ》
 蚊青生《カアヲナル》 玉藻息都藻《タマモオキツモ》
 明來者《アケクレバ》 浪己曾來依《ナミコソキヨレ》
 夕去者《ユフサレバ》 風己曾來依《カゼコソキヨレ》
 浪之共《ナミノムタ》 彼依此依《カヨリカクヨリ》
 玉藻成《タマモナス》 靡吾宿之《ナビキワガネシ》
 敷妙之《シキタヘノ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》
 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》
 此道之《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》
 萬段《ヨロヅタビ》 顧雖v爲《カヘリミスレド》
 弥遠尓《イヤトホニ》 里放來奴《サトサカリキヌ》
 益高尓《イヤタカニ》 山毛超來奴《ヤマモコエキヌ》
 早敷屋師《ハシキヤシ》 吾嬬乃兒我《ワガツマノコガ》
 夏草乃《ナツクサノ》 思志萎而《オモヒシナエテ》
 將v嘆《ナゲクラム》 角里將v見《ツノノサトミム》
 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
【譯】石見の海には津の浦が無く、それを浦が無いと人が見もしよう。潟が無いと人が見もしよう。よしや浦が無くとも、よしや潟が無くとも、海岸を指して柔田津の荒磯の上にまつ青な美しい沖の藻よ、夜が明けて來れば浪が來寄せる。夕べになれば風が來寄せる。その浪と共にあちらに寄りこちらに寄り玉藻のように靡いて私の寢たやわらかい妻の腕を、露霜のように置いて來れば、この道の數々の曲り角毎に何遍でも振り返つて見るけれども、いよいよ遠く里は離れて來た。いよいよ高く山も越えて來た。いとしのわが妻が夏草のように思いにうち萎れて嘆いているであろう角の里を見よう。たいらになれ、この山よ。
【構成】段落は、前の一三一の歌と同樣である。「夕されば風こそ來寄れ」まで第一段、石見の海岸の風物を敍す。うち、「滷無しと人こそ見らめ」まで第一節、總敍。以下第二節、特性を敍する。「いや高に山も越え來ぬ」まで第二段、作者の行動を敍する。以下終まで第三段、希望を敍して結んでいる。
【釋】津乃浦乎無美 ツノウラヲナミ。前出の歌には角乃浦廻乎とあり、その方がよく通る。これはそれを訛傳したのであろう。これでは下の句との按續がわるい。これを誤字ありとする説があるが、かような形において傳えられたものと解すべきである。
 柔田津乃 ニキタヅノ。前の歌では和多豆乃とあつた。此處に柔田津とあるのに依れば地名とすべきであろう。かの和多豆をもニキタヅと讀めというのは、この字面に依つているのである。しかし恐らくはもと和多豆乃とあつたものをニキタヅと讀み誤つて、この字面を生じたものであろう。
(421) 明來者浪己曾來依 アケクレバナミコソキヨレ。前の歌には、朝羽振風社依米とあつて、朝羽振は風を修飾していた。この傳來では、夜が明けて來ればと敍している。また浪が先になつている。
 夕去者風己曾來依 ユフサレバカゼコソキヨレ。これも前の歌には、夕羽振流浪社來縁となつていた。
 靡吾宿之 ナビキワガネシ。前の歌では、依宿之妹乎となつており、玉藻ナスは、妻の修飾になつていた。この傳來では、作者自身が靡いて寢たと言つている。しかし男子が靡キ宿シというのはおかしいことであり、また玉藻のように靡くということは、人麻呂の歌には常に婦人の上にいうことであつて、自分が靡いて寢たというのはまさしく傳え誤つたものと認められる。また下の句に對して靡キ吾ガ寢シ妹ガ手本ヲではよく續かないのである。
 敷妙之妹之手本乎 シキタヘノイモガタモトヲ。この句は、前の歌には相當する句が無く、以上の四句を併せて玉藻成依宿之妹乎になつているのである。前の歌の歌詞中の一云に、波之伎余思妹之手本乎とあるは、この或る本の傳來と關係があるのであろう。
 里放來奴 サトサカリキヌ。前の歌には、里者放奴とあり、これもその方がよい。
 早敷屋師吾嬬乃兒我 ハシキヤシワガツマノコガ。前の歌には、この句が無い。この或る本の傳來では、下が角ノ里見ムとあるので、この句のあるを要する。ハシキヤシは、愛すべきの意で、ヤシは感動の助詞。ツマノコは妻をいう。コは愛稱。「波之吉余之《ハシキヨシ》 曾能都末能古等《ソノツマノコト》 安沙余比爾《アサヨヒニ》 惠美々惠末須毛《ヱミミヱマズモ》」(卷十八、四一〇六)、「佐穗度《サホワタリ》 吾家之上二《ワギヘノウヘニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 音夏可思吉《コヱナツカシキ》 愛妻之兒《ハシキツマノコ》」(卷四、六六三)など、用例がある。
 將嘆 ナゲクラム。前の歌には、志恕布良武とあつた。シノフは内面的であり、ナゲクは外形にあらわれている。いずれでもよいが、シノフの方が奧行が深い。
 角里將見 ツノノサトミム。前の歌には、妹之門將見とあつた。この歌では、上の、ハシキヤシワガ妻ノ兒(422)ガの句があるから、角の里と言つている。これも妹ガ門の方が、欲する所が集中されていてよい。
【評語】以上註釋の欄に記したように、前の歌の方がおおむね正説と認められる。傳承のあいだに訛傳を生じたものであろう。しかしこれに依つて、この歌が當時の人々のあいだに愛誦されたことが知られる。
 
反歌一首
 
139 石見《いはみ》の海 打歌《うつた》の山《やま》の 木《こ》の際《ま》より。
 わが振る袖を 妹見つらむか。
 
 石見之海《イハミノウミ》 打歌山乃《ウツタノヤマノ》 木際從《コノマヨリ》
 吾振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹將v見香《イモミツラムカ》
 
【譯】石見の海の打歌の山の木のあいだからわたしの振る袖を妹は見たであろうか。
【釋】石見之海 イハミノウミ。次の打歌山の所在を示している。しかし長歌の方は角ノ浦ミであるから石見の海と言つてよいのだが、打歌の山の所在を石見の海というのは無理である。
 打歌山乃 ウツタノヤマノ。地名であろうが所在未詳。しかし前出の高角山の誤傳と認められる。これも高角山とあつた高を打歌と書いたのから誤つたものであろう。
【評語】この歌も前出の一三二の歌の別傳である。しかし初句二句はあきらかに誤傳であることを語つている。それにしてもこの歌も、一三二、一三四、及びこの一三九の如く數種の傳來を有しているのは、廣く愛誦されて居たことを語るものとして注意される。他人の歌を集める歌集の編集も行われていたであろう。
 
右、歌體雖v同、句々相替、因v此重載。
 
右は、歌の體同じといへども、句々相替れり。これに因りて重ねて載す。
 
(423)【釋】右 ミギハ。一三八、一三九の二首を指している。それを載せるについての説明である。
 歌體 ウタノカタチ。體は、形體の意であろう。歌經標式には歌體三ありとして、求韵、査體、雜體の三を擧げている。
 
柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子、與2人麻呂1相別歌一首
 
柿木の朝臣人麻呂が妻の依羅の娘子の、人麻呂と相別るる歌一首
 
【釋】柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子 カキノモトノアソミヒトマロガメノヨサミノヲトメ。依羅は氏であろう。配偶者があつても、娘子の文字を使用することは、「娘子臥聞2夫君之歌1」(卷十六、三八〇五題詞)、「時有2娘子1、夫君見v棄、改2適他氏1也」(同、三八一五左註)など例が多い。若い婦人というだけで結婚していると結婚していないとに關しない。この人は、後に、「柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作歌二首」(卷二、二二四題詞)とあつて、人麻呂の死んだ時に、歌を詠んでいるから、その後妻であることはあきらかである。石見の國にいた娘子で、人麻呂が上京に際して別れを悲しんで歌を詠んだのも、この人に對してであろう。その他いかなる人とも知られないが、京より伴ない下つたという徴證も無く、部内の娘子を娶つたのでもあろうかと考えられる。
 
140 な念《おも》ひと 君は言《い》へども、
 逢はむ時 いつと知りてか、
 わが戀ひざらむ。
 
 勿念跡《ナオモヒト》 君者雖v言《キミハイヘドモ》
 相時《アハムトキ》 何時跡知而加《イツトシリテカ》
 吾不v戀有牟《ワガコヒザラム》
 
【譯】もの思いをするなと貴方はおつしやるが、お目にかかる時を何時と知つてかわたしが戀をしないでおら(424)れましよう。
【釋】勿念跡 ナオモヒト。ナが禁止の副詞。下に助詞ソが無くていうのは、古い形である。「木間從《コノマヨリ》 出來月爾《イデクルツキニ》 雲莫棚引《クモナタナビキ》」(卷七、一〇八五)、「比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》 安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》」(卷十四、三五〇一)。
 相時 アハムトキ。別れに臨んで詠んでいるので、やがてまた逢うだろう時と言つている。
 何時跡知而加 イツトシリテカ。カは疑問の係助詞。
 吾不戀有牟 ワガコヒザラム。わたしが戀いずにいようの義で、上のイツト知リテカを受けるので反語になる。逢う時を何時と知つたならば戀をしないでもいられよう、しかし逢う時を知らないので戀をしている意である。
【評語】今別れてまた逢う時のはかりがたいのを歎いている。初二句が説明に傾いているのは、歌がらを平板にしている。若い人であつたのだろう。
 
挽歌
 
【釋】挽歌 メニカ。雜歌、相聞に對する部類の一つで、人の死を傷む歌をいい、後世の歌集における哀傷歌に相當する。この名目は、漢籍に出ている。晉書の樂志に、「挽歌、出2于漢武帝役氏之勞1、歌聲哀切、遂以爲2送終之禮1。」崔豹の古今注に「薤露蒿里、竝喪歌也。出2田横門人1。横自殺、門人傷之、爲2之悲歌1言、人命如3薤上之露易2※[日+希]滅1也。亦謂、人死魂魄歸2乎蒿里1。故有2二章1。至2孝武時1、李延年乃分爲2二曲1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽v柩者歌1v之、世呼爲2挽歌1。」すなわち、挽歌は、柩車を挽く時の歌の義である。わが國にても遂葬の時に歌を歌つたことは、古事記中卷に、倭建《やまとたける》の命の妃の歌を録して、「是四歌者、皆歌2其御葬1也。故至v今、其歌者、歌2天皇之大御葬1也」とある。本集においては、これを廣義に取り、ただに送葬(425)の時の歌のみならず、傷亡の歌は勿論、その後の追悼の歌に及び、またまさに死のうとする時の歌をも含めている。挽歌は、訓讀すればカナシミウタであろうが、音讀すれば、呉音に依らばメンカであるが、普通にバンカと讀んでいる。この卷のほかに、部類の標目としては、卷の三、七、九、十三、十四の諸卷に見えている。この標目も、多分柿本朝臣人麻呂歌集から出たものなるべく、人麻呂の作において、挽歌は格別に發達している。本集における部類の標目に、賀歌が無くして挽歌があるのも、さような特殊の關係から來ているものなるべく、當時の歌の分類の標目としてその必要が感じられたのであろう。
 
後岡本宮御宇天皇代【天豐財重日足姫天皇讓v位後即後岡本宮】
 
後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の代【天豐財重日足姫の天皇、位を讓りたまひし後、すなはち後の岡本の宮なり。】
 
【釋】後岡本宮御宇天皇代 ノチノヲカモトノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。既出(卷一、八標目)。齊明天皇の御代。以下その御代の歌を收めるのであるが、それは有間の皇子の歌だけで、長の意吉麻呂以下の歌は、後の時代の作を便宜附收している。
 天豐財重日足姫天皇 アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト。齊明天皇。
 讓位後即後岡本宮 ミクラヰヲユヅリタマヒシノチスナハチノチノヲカモトノミヤナリ。この天皇は重祚されたのであつて、一旦讓位の後、再度即位したまいしが後の岡本の宮なりという意味に書かなければならないのであるが、この文ではそうは解せられず、讓位の後、前帝としてましましたのが後の岡本の宮であるというように解せられるのは不備である。卷の一の後の岡本の宮の御代の標目の下には、「位後即後岡本宮」とあり、仙覺本には、この即の下にも位の字がある。
 
(426)有間皇子、自傷結2松枝1歌二首
 
有間の皇子の、みづから傷みて松が枝を結ぶ歌二首
 
【釋】有間皇子 アリマノミコ。孝徳天皇の皇子。孝徳天皇が崩じて齊明天皇重祚されるに及んで、その三年九月に、紀伊の國の牟婁の湯に往き、國の體勢を觀、わずかにその地を觀るに病おのずから瘉えたと申したので、天皇悦んでその地を見ようとし、四年十月、紀の温湯に行幸あり、十一月、有間の皇子に謀反の企圖ありと聞いて召し寄せ、皇太子(天智天皇)みずから問われた。皇子は行宮を出て京に上る途上、藤白の坂において縊り殺された。日本書紀によるに、有間の皇子は、十一月九日に捕えられて紀伊の國に送られ、皇太子の尋問を經て十五日に殺された。京から行宮まで、普通五六日の日程である。
 自傷結松枝歌 ミヅカライタミテマツガエヲムスブウタ。皇子が召されて牟婁の行宮に行く途上、磐白の地で詠んだ歌である。自傷とあるのは、この行、生還を期しがたい事情にあつたので、みずから哀傷されたのをいう。松が枝を結ぶことについては、古人は、結ぶことに信仰を有していたことが根柢になつている。そのことは、既に、「磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》」(卷一、一〇)の條に記した所である。松が枝を結ぶのは、まじないで、壽命を結び留めまた無事にその處に立ち還ろうとする心である。物を結ぶことは、わが魂を結び留めるという意味であつて、後にまた、結んだものにめぐりあう事ができるとしていた。これが松が枝を結ぶ、草を結ぶ、衣の紐を結ぶ、菅の根を結ぶ等の行事となつて(427)あらわれている。中にも行人が松の枝や草葉を結ぶのは、これより先に旅行してもまた此處に無事に立ち歸るという意味があり、みずから祝うまじないである。有間の皇子に限らず何人でもする風習である。後世結び松をもつて不吉な事のように感じているのは、有間の皇子の故事があるからであつて、松を結ぶというその事自身には、さような不吉な内容は全然無く、松の木の性質上、むしろ將來を祝う氣もちがあることは、例歌に依つて知られる所である。
 
141 磐白《イハシロ》の 濱松が枝《え》を 引き結び、
 ま幸《さき》くあらば、またかへりみむ。
 
 磐白乃《イハシロノ》 濱松之枝乎《ハママツガエヲ》 引結《ヒキムスビ》
 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦還見武《マタカヘリミム》
 
【譯】紀伊の國の磐白の濱邊にある松の枝を引き結んで、幸であつたならば、またここに立ち歸り見よう。
【釋】磐白乃 イハシロノ。磐白は既出(卷一、一〇)。和歌山縣日高郡の海岸の地名で、牟婁の温泉に赴く途中にある。
 濱松之枝乎 ハママツガエヲ。濱邊の松が枝をで、前にも、「白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》」(卷一、三四)の例がある。
 引結 ヒキムスビ。松が枝を結ぶのであるから、その若い枝を結んだに相違なく、一四六の歌には、子松ガウレとある。一本の枝を輪に結ぶのか、二本の枝を合わせて結ぶのか不明である。また繩か緒の如き他物を以つて結ぶかとも考えられるが、衣の紐や草の葉などは、それ自身を結ぶものであろう。
 眞幸有者 マサキクアラバ。マは接頭語。サキクは、幸運にある意の形容詞。「吾命之《ワガイノチシ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦毛將v見《マタモミム》 志賀乃大津爾《シガノオホツニ》 縁流白浪《ヨスルシラナミ》」(卷三、二八八)など使用され、また好去の文字をもマサキクと讀んでいる。「好去而《マサキクテ》 亦還見六《マタカヘリミム》 大夫乃《マスラヲノ》 手二卷持在《テニマキモテル》 鞆之浦廻乎《トモノウラミヲ》」(卷七、一一八三)。
(428) 亦還見武 マタカヘリミム。またこの結べる松を還り來て見むの意。「
イモガカドユキスギカネテクサムスブカゼフキトクナ
又將v顧《マタカヘリミム》」(卷十二、三〇五六)とあるのは、草を結んだのについて、マタ顧ミムと言つている。
【評語】この歌は、紀伊の牟婁《むろ》の行宮への途上での作であるが、歌意は、みずから祝つて詠んでいる。しかし皇子は、もとよりその不幸な運命を豫感されていたので、おのずから底に潜む哀情が痛切に響いているのである。不幸にして有間の皇子は、その歸途に殺された。その殺されたのは藤白で、藤白は磐白よりも京に近い處であるから、磐白の結び松の處までは、ともかく無事に歸り得たのである。または歸途の作であろうか。後人の哀悼歌は、いずれも、またこの結び松を見なかつたように詠んでいる。この歌、死生のあいだに臨んで、しかも、よく落ち著いている。哀情が潜むように感じられるのは、皇子の不運な運命を、先に承知していて讀むから、そう思われるのであろう。題詞というものは、一個の全作品の一部をなすもので、切り離しがたいものである。
【參考】松が枝を結ぶ。草を結ぶ(卷一、一〇參照)。
  たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(卷六、一〇四三)
  八千胤種《やちぐさ》の花はうつろふ常磐《ときは》なる松の小枝《さえだ》を我は結ばな(卷二十、四五〇一)
 
142 家にあれば 笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を、
 草枕 旅にしあれば 椎《しひ》の葉に盛る。
 
 家有者《イヘニアレバ》 笥尓盛飯乎《ケニモルイヒヲ》
 草枕《クサマクラ》 旅尓之有者《タビニシアレバ》 椎之葉尓盛《シヒノ》《ハニモル》
 
【譯】家にいる時には器に盛つて食う飯を、旅のことであるから、シイの葉を重ねて、それに盛つて食うことである。
【釋】家有者 イヘニアレバ。家にいる時にはの意。既定の事實として已然形による。
(429) 笥尓盛飯乎 ケニモルイヒヲ。笥は、玉篇に「笥、盛v飯方器也」とあり、倭名類聚鈔に、「禮記注云笥【思吏反和名介】盛v食器也」とある。笥に盛るを習とする飯をの意。當時の飯は、米を甑《こしき》に入れて蒸したものである。
 草枕旅尓之有者 クサマクラタビニシアレバ。シは強意の助詞。
 椎之葉尓盛 シヒノハニモル。シイの葉を重ねて飯を盛るというので、旅中、事に簡なる樣子である。
【評語】單なる旅の歌であるが、縁によつて併わせ掲げたものと見える。不自由がちな旅の生活をよく敍している。草枕の枕詞も非常によく利いている。シイの葉に盛るというのは、印象的な句であるが、ここでは路傍の樹葉を取つて飯を盛つたのであつて、實際のシイの葉であつてもなくてもどうでもよい。それを具體的にシイの葉と指摘したのが利いたのである。
【參考】植物の葉に飲食を盛る。
  すめろきの遠御代御代はい敷き折り酒飲むといふぞこの厚朴《ほほがしは》(卷十九、四二〇五)
 
長忌寸意吉麻呂、見2結松1哀咽歌二首
 
長《なが》の忌寸意吉麻呂《いみきおきまろ》の、結び松を見て哀咽《あいえつ》せる歌二首
 
【釋】長忌寸意吉麻呂 ナガノイミキオキマロ。既出(卷一、五七)。卷の一には、名を奧麻呂としているが同人である。卷の一には大寶二年の歌があり、文武天皇時代の人である。即興の作に長じ、特殊の題材を歌にする手腕をもつている。この歌は何時の作であるか不明であるが、大寶元年の紀伊の國の行幸の時と假定すれば、有間の皇子の死後、四十三年後の作である。
 見結松 ムスビマツヲミテ。當時、有間の皇子の結んだ松樹が現存していたものと見える。多分枝が結ばれたままに成長し、これは有間の皇子が結んだのだという傳説を生じたのであろう。事實としては、有間の皇子(430)は、歸途此處を通過され、藤白の坂で殺されたのだから、多分結びを解いて無事を祝われたであろう。
 哀咽歌 アイエツセルウタ。咽は、咽喉がつまつて聲の出ない状をいう動詞。訓讀では、カナシミムセブウタと讀む。
 
143 磐代《いはしろ》の 崖《きし》の松が枝《え》、
 結びけむ 人《ひと》は還《かへ》りて
 また見けむかも。
 
 磐代乃《イハシロノ》 崖之松枝《キシノマツガエ》
 將v結《ムスビケム》 人者反而《ヒトハカヘリテ》
 復將v見鴨《マタミケムカモ》
 
【譯】磐白の岡の松が枝を結んだ方は、無事に立ち歸つて、また見たことであろうか。
【釋】崖之松枝 キシノマツガエ。崖は、諸本に岸に作つている。崖は、元暦校本等による。崖は高地の端で切り取つたような地形をいう。肥前國風土記の古寫本等にこの字を岸の意味に用いている。
 將結 ムスビケム。ケムは過去推量の助動詞。その連體形。
 人者反而 ヒトハカヘリテ。ヒトは有間の皇子。カヘリテは、行宮に行つての歸りである。
 復將見鴨 マタミケムカモ。上の結ビケムを受けているので、將見をミケムと讀む。カモは疑問と感動の助詞。
【評語】この歌は、はたして結び松に驗あつて、有間の皇子がまた見たであろうかどうかということを、疑つている語調であるが、裏面には、二度と見ることを得なかつたことを思つてこれを悼んでいるものである。それを疑問の語であらわしたところに、無限の哀愁が生ずる。
 
144 磐白の 野中に立てる 結《むす》び松《まつ》、
(431) 情も解けず いにしへ念ほゆ。
     いまだ詳ならず
 磐代之《イハシロノ》 野中尓立有《ノナカニタテル》 結松《ムスビマツ》
 情毛不v解《ココロモトケズ》 古所v念《イニシヘオモホユ》
     未v詳
 
【譯】磐白の野中に立つている結び松、見るわが心も悲しく昔の事が思われる。
【釋】野中尓立有 ノナカニタテル。磐白の濱松が枝といい、崖の松が枝といい、今またここに野中に立てると言つているが、この結び松のある處は、磐白の坂から海濱に出た處なるべく、多少うち開いた地形なので、野中ともいぅのであろう。
 結松 ムスビマツ。これによれは、結び松と稱して名木となつていたのであろう。それを呼びあげた語法。
 情毛不解 ココロモトケズ。松も結ばれたままであり、わが心も解けずにで、心の快活でないのをいう。
 古所念 イニシヘオモホユ。有間の皇子の時代が思われるよしである。
 未詳 イマダツマビラカナラズ。何が未詳なのであるかあきらかでない。事によると、この一首は、長の意吉麻呂の作ということに、疑問が存したのであろうか。
【評語】結ビ松心モ解ケズと、心も結ばれていることを語つているのは、巧みであるが、同時に時代の降つて來たことを思わせる。結び松が、枝を結ばれたままに育つていることを語つている。
 
山上臣憶良追和歌一首
 
山上の臣憶良の、追ひて和ふる歌一首
 
【釋】山上臣憶良 ヤマノウヘノオミオクラ。既出。
 追和歌 オヒテコタフルウタ。後に唱和した歌。和歌は、前に歌があつて、それに對して唱和する歌である。(432)ここでは、内容から考えて、長の意吉麻呂の歌に唱和したものと見られる。
 
145 かけるなす あり通《がよ》ひつつ
 見らめども、
 人こそ知らね、松は知るらむ。
 
 鳥翔成《カケルナス》 有我欲比管《アリガヨヒツツ》
 見良目杼母《ミラメドモ》
 人社不v知《ヒトコソシラネ》 松者知良武《マツハシルラム》
 
【譯】皇子の御魂は、鳥の飛ぶように、消えないで通いつつこの松を見ておいでになるでしようが、人は知らないでも、松は知つておりましよう。
【釋】鳥翔成 カケルナス。トリハナス(舊訓)、アスカナシ(童)、ツバサナス(考)、カケルナス(攷)、等の諸訓がある。翔は鳥の飛ぶをいい、ナスは、のようにあるの意であるから、鳥の飛ぶように靈魂が飛翔しての意と解すべきであるのに、ツバサは鳥の飛ぶ道具であつて飛ぶことでないから、ツバサナスアリガヨヒツツでは、意を成さない。いま攷證に、鳥翔をカケルとするによる。カケルは、鳥の飛ぶにいう語で、「二上《フタカミノ》 山登《ヤマト》
ビコエテクモガクリカケリイニキト」(卷十七、四〇一一)は、鷹についていい、その他、翔の字をカケルと讀んでいる例は多い。また動詞にナスの接續する例は、「木都能余須奈須《コツノヨスナス》」(卷十四、三五四八)、「衣爾著成《キヌニツクナス》」(卷一、一九)がある。ヨスは、古くは四段活であろうから、その連體形にナスが接續したことになる。鳥の飛ぶようにある意で、次の句を修飾する。
 有我欲比管 アリガヨヒツツ。アリは他の動詞と熟して、存在しつつ、生存しつつの意をあらわす。有り經ル、有リ慰ムなどの例である。繼績して通う意になる。
 見良目杼母 ミラメドモ。動詞見ルは、古くはミから助動詞ラムに接續した。卷の一、五五參照。ラメドモは、推量の助動詞ラムの逆態條件法である。次の二句を修飾する。
(433)人社不知 ヒトコソシラネ。「人こそ……松は……」という語法に、人は知らないだろうが、しかし松はという意味が生じてくる。知ラネのネは、打消の助動詞がコソを承けた結びである。
 松者知良武 マツハシルラム。ラムは推量の助動詞。松の心を推量している。
【評語】人間は肉體と靈魂とから成り立つて、死はその分離であると古人は考えていた。だから死んでも靈魂は亡びないと思つていたのである。それを人間は知らないが、松のような草木非情の者が、却つて靈界に通ずるとしている。作者の山上の憶良は、佛教を信じていたと思われるが、この歌については、その影響があるかどうかは疑問である。佛教思想に關係なしにでも解けるのである。憶良壯年の作であろう。現地に臨まないで、他の人の作を見て詠んだのかもしれない。
 
右件歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、准2擬歌意1、故以載2挽歌類1焉。
 
(434)右の件の歌等は、柩を挽く時に作れるにあらざれども、歌の意に准擬《なぞ》へて、故《かれ》挽歌の類に載す。
 
【釋】右件歌等 ミギノクダリノウタドモハ。紙上、これより右に記した歌を指すのであるが、ここでは有間の皇子の歌からをいうのであろう。
 雖不挽柩之時所作 ヒツギヲヒクトキニツクレルニアラザレドモ。挽歌は、柩車を挽く時の歌であるが、右に掲げた歌は、さような送葬の時の作でないけれどもの意。中にも家ニアレバの歌の如きは、純然たる旅の歌である。
 准擬 ナゾヘテ。純粹の挽歌ではないが、歌の内容によつて挽歌に準ずるというのである。
 故以載挽歌類焉 カレメニカノタグヒニノス。以上、葬式の時の歌ではないが、歌の内容から推して、挽歌の類に入れたという、編者の注意書きである。挽歌とは、輓歌ともいい、柩車を引く時の歌の意であるが、廣く哀傷の歌の意に用いられているから特にここにことわるまでも無いことである。この左註は後人の書き入れだという説もあるが、むしろかなり古い編次の時にはいつたものと見たいと思う。
 
大寶元年辛丑、幸2于紀伊國1時、見2結松1歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集中出也
 
大寶元年辛丑、紀伊《き》の國に幸でましし時、結び松を見る歌一首 【柿本の朝臣人麻呂の歌の集の中に出づ。】
 
【釋】大寶元年辛丑 ダイホウノハジメノトシカノトウシノトシ。文武天皇の御代。この年九月十八日、天皇紀伊の國に幸し、十月十九日、紀伊から遷幸された。この時の歌は、卷の一に「大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌」(五四題詞)、卷の九に「大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首」(一六六七題詞)として載せ、持統太上天皇の御幸もあつたことを傳えている。
 見結松歌 ムスビマツヲミルウタ。有間の皇子の結ばれたという傳説のある松を見て詠んだ歌である。
(435) 柿本朝臣人麻呂歌集中出也 カキノモトノアソミヒトマロノウタノシフノナカニイヅ。次の歌が人麻呂歌集から出たとするのである。人麻呂歌集からは、集中、多數の歌を載せ、その名は、この外に、卷の三、七、九、十、十一、十二、十三、十四の諸卷に見えている。人麻呂歌集は、人麻呂自身の作を中心とし、他人の作をも收載していると考えられるが、婦人の作と見なすべきものの如き特殊の事情あるもの以外、大體人麻呂の作と認めてよいようである。
 
146 後《のち》見むと 君が結べる
 磐白《いはしろ》の 小松《こまつ》が末《うれ》を
 また見けむかも。
 
 後將見跡《ノチミムト》 君之結有《キミガムスベル》
 磐代乃《イハシロノ》 子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》
 又將v見香聞《マタミケムカモ》
 
【譯】後に見ようと祝いこめて、皇子の結ばれた、この磐白の岡の小松の枝先を、また御覽になつたことだろうか。
【釋】後將見跡 ノチミムト。彼方に旅行して、後また歸り來たつてこの松を見ようとである。
 君之結有 キミガムスベル。君は有間の皇子をさす。ムスベルは連體形。
 子松之宇禮乎 コマツガウレヲ。有間の皇子が松を結ばれた齊明天皇の四年から、大寶元年までには四十三年を經ている。それでかなり大きな松をも小松と云つたであろうとされている。「わが命を長門の島の小松原幾代を經てか神《かむ》さびわたる」(卷十五、三六二一)、「君に戀ひいたも術《すべ》無み平《なら》山の小松がもとに立ち嘆くかも」(卷四、五九三)の如きもあつて、松には隨分大樹老樹もあるから、それらに對して、比較的ちいさいのを小松とも云つたものであろう。コは愛稱であるが、ちいさい感じは含まれている。ウレは、木草の若く伸びた枝先をいう。樹の最高處はウレであるのが普通だがかならずしもそうばかりではない。この歌のウレも松の枝の(436)伸びたところで、高處ではない。木ヌレというは木のウレの義である。その他、ハギのウレ、ヒシのウレ等が用いられている。
 又將見香聞 マタミケムカモ。ケムは過去の推量の助動詞で、有間の皇子の御行動を推量している。カモは、疑問を含んだ感動の助詞である。
【評語】長の忌寸意吉麻呂以下の歌は、いずれも藤原時代の歌と思われるが、その頃には、この磐白の岡に結び松という一本の名松ができていたのであろう。松を結ぶのは、有間の皇子特別の事でなく、行路の人が常にすることである。
 前に右件の歌等云々の左註があつて、その後にこの人麻呂歌集の歌が載つているので、この歌が、前の左註よりは後に入れられたものであろうということが考えられる。しかしそれもあまり後のことではあるまい。やはり萬葉集の結集時代のある時であつたのであろう。萬葉考は、前の意吉麻呂の第一首の歌の唱え誤りであるとしてこの歌を削り去つているが、それは武斷に過ぎる。
 
近江大津宮御宇天皇代 【天命開別天皇謚曰2天智天皇1。】
 
近江の大津の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【天命開別の天皇、謚して天智天皇と曰す。】
 
【釋】近江大津宮御宇天皇代 アフミノオホツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ 天智天皇の御代。以下、その御代の歌を載せているが、天皇崩後の歌をも收めている。
 天命開別天皇 アメミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇。
 
天皇聖躬不豫之時、大后奉御歌一首
 
(437)天皇、聖躬《おほみ》不豫《やくさ》みたまひし時、大后《おほぎさき》の奉れる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天智天皇。
 聖窮不豫之時 オホミミヤクサミタマヒシトキ。聖躬は、天皇の大御身をいう。不豫は、不安の意で、御病氣をいう。ヤクサミは、古訓である。天皇は、その十年八、九月の頃に御病にかかり、十二月三日に崩ぜられた。
 大后 オホギサキ。天智天皇の皇后。大后は皇后の義であつて、皇太后の義ではない。皇后は倭姫《やまとひめ》と申し、天皇の庶兄古人大兄の御女である。
 
147 天《あま》の原 ふり放《さ》け見れば、
 大王《おほきみ》の 御壽《みいのち》は長く 天足《あまた》らしたり。
 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》
 大王乃《オホキミノ》 御壽者長久《ミイノチハ》 天足有《ナガクアマタラシタリ》
 
【譯】天上を仰いで見ると、陛下の御壽命は、永久に天に充滿しております。
【釋】天原 アマノハラ。廣い天の義。ハラは、廣くたいらなところをいう。これは天空をいうのであつて、古人は靈界として天空を信じ、そこに天皇の御壽命の保有されてあることを言おうとして、この句を起したのである。
 振放見者 フリサケミレバ。フリは他の動詞に冠して、勢いよくする意味を加えている。放クは距離を作ることで、フリサケミルは遠方を見るに用いる。天上、または山、海などを見る場合に用いる。
 大王乃 オホキミノ。オホキミは、天皇をいう。
 御壽者長久天足有 ミイノチハナガクアマタラシタリ。天皇の御壽命は、あの廣い天に一杯に滿ちている。長久であつて、いつを限りとも知れぬと祝いこめて歌われている。タラシは足ルの敬語法。充滿している意。(438)ナガクは御壽命だから長くと用いたので、天足ラスに對しては、適切に限定していない。
【評語】天を信ずる人々に取つては、人命を支配するものは天であるとした。それで天を仰いで、御壽命の充滿していることを感じて、御病の平癒を期待されたのである。平癒を祈願して神を祭つた際に詠まれたもののようで、祝の心に詠まれている。しかし本集には結果よりして、これを挽歌の類に收めたのである。
【參考】同句、天の原ふりさけ見れば。
  天の原振り放け見れは白眞弓張りて懸けたり。夜路は吉けむ(卷三、二八九)
  (上略)天の原ふり放け見れば、渡る日の影も陰らひ、照る月の光も見えず(下略)(同、三一七)
  天の原ふり放け見れば天の川霧立ち渡る。君は來ぬらし(卷十、二〇六八)
  わが夫子《せこ》は待てど來まきず、天の原ふり放け見れば、ぬばたまの夜も更けにけり(下略)(卷十三、三二八〇)
  天の原ふり放け見れば夜ぞ更けにける。よしゑやし獨|寐《ぬ》る夜は明けば明けぬとも(卷十五、三六六二)
  (上略)天の原ふり放け見れば、照る月も盈※[日/仄]《みちかけ》しけり(卷十九、四一六〇)
 
一書曰、近江天皇聖體不豫、御病急時、大后奉獻御歌一首
 
一書に曰はく、近江の天皇聖體不豫みたまひ、御病|急《すみやか》なりし時、大后の奉獻《たてまつ》れる御歌一首
 
【釋】一書曰 アルフミニイハク。前の歌と同じ事情のもとに詠まれた歌を、一書によつて記載したのである。その一書は、何の書であるか知りがたいが、用字法から見ても別の資料であることが知られる。なおこの題詞を、次の歌に懸かるものにあらずとし、誤脱などがあつたとする説があるが、それは誤りで、まさしく、この一事曰は、次の歌に懸かるものである。
 近江天皇 アフミノスメラミコト。天智天皇。卷の四、四八八の題詞にも見えている。
(439) 聖體不豫 オホミミヤクサミタマヒ。聖體は聖躬に同じ。
 御病急時 ミヤマヒスミヤカナリシトキ。御危急の状態にましました時。
 
148 青旗《あをはた》の 木旗《こはた》の上を 通《かよ》ふとは、 目には見れども ただに會はぬかも。
 
 青旗乃木旗能上乎《アヲハタノコハタノウヘヲ》 賀欲布跡羽《カヨフトハ》
 目尓者雖v視《メニハミレドモ》 直尓不v相香裳《タダニアハヌカモ》
 
【譯】青い旗の旗の上を、御魂は通うとは、目には見るけれども、直接に玉體を、拜することができないことか。
【釋】青旗乃木旗能上乎 アヲハタノコハタノウヘヲ。アヲハタは、白い旗であるとする説と、實際に青い旗であるとする説とある。白とするのは、白雲をアヲグモといい、青雲の白肩の津という例もあるといつている。青とするのは青馬、青雲も、やはり青い馬、青い雲であるという。この御歌は、御病急なりし時の御歌で、大葬の用意をなすべきではないが、麻の旗を立てたのを、青みを帶びているのでアヲハタというのだろう。青旗の例は、他に「青旗の葛城山」(卷四、五〇九)、「青幡の忍坂の山」(卷十三、三三三一)がある。木旗は、木につけるハタの義で、旗に同じ。元來ハタは、織物の稱で、普通は衣服の材料であるから、木につけるハタであることを示すためにコハタという。「許久波母知《コクハモチ》 宇知斯淤富泥《ウチシオホネ》」(古事記六二)コクハは、木鍬で、木の柄をつけた鍬である。地名説もあるが、地理的にも無理である。青旗の木旗とは、重語で、生く日の足る日の如く、青旗である木旗をいう。御病の急なのを留めようとして、旗を立てて祭をされたものと考えられる。
 賀欲布跡羽 カヨフトハ。古人は、人は肉體と靈魂とより成り、死はその分離であると考えていた。それゆえ天皇の御魂が、玉體から離れて、庭上の青旗の邊を通われることを信じている。
 目尓者雖視 メニハミレドモ。靈魂の遊行は目には見えないはずであるけれども、旗の動きによつて靈魂の(440)遊行を目に見るのである。また實際信仰上からは、目に見えるとも信じられよう。
 直尓不相香裳 タダニアハヌカモ。直接生けるこの世の御姿に接することができないのかと歎かれたのである。
【評語】御病急にして、御魂は、今や庭上の旗のほとりを通過せられていることが感じられている。今一目お見あげ申したい意味が痛切に歌われている。既出の鳥翔ナス云々の歌(卷二、一四五)と共に、靈魂の不滅の信仰を證するよい歌である。
 
天皇崩後之時、倭大后御作歌一首
 
天皇の崩りたまひし後の時、倭の大后の作りませる御歌一首
 
【釋】天皇崩後之時 スメラミコノカムアガリタマヒシノチノトキ。天智天皇の崩ぜられた後。
 倭大后 ヤマトノオホギサキ。倭姫の皇后。
 
149 人はよし 思ひ止《や》むとも、
 玉※[草冠/縵]《たまかづら》 影《かげ》に見えつつ 忘らえぬかも。
 
 人者縱《ヒトハヨシ》 念息登母《オモヒヤムトモ》
 玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》 影尓所v見乍《カゲニミエツツ》 不v所v忘鴨《ワスラエヌカモ》
 
【譯】ほかの人はよし思いやむにしても、わたしだけは、この玉※[草冠/縵]のように面影に見えて忘れられないことです。
【釋】人者縱 ヒトハヨシ。ヒトは、一般の人をさす。ヨシは、よし何々するともの意に、次の句に懸かる、
 念息登母 オモヒヤムトモ 思わなくなつても。思うことが止んでも。この句の下に、吾はの意の句を省略している。
(441)
武天皇の崩御せられた際に「以2華※[草冠/縵]1進2于殯宮1此曰2御蔭1」とあつて、華※[草冠/縵]を殯宮に獻ることがある。この華※[草冠/縵]は美しい※[草冠/縵]の義と思われ、それを御蔭と言つたことが知られるので、この歌にいう玉※[草冠/縵]もそれを言つたものであろう。さてカゲの枕詞として使われている。以上大體講義の説による。
 影尓所見乍 カゲニミエツツ。カゲは面影で、その人のあらずして姿の見えるのを言う。
 不所忘鴨 ワスラエヌカモ。忘られぬかもに同じ。忘れられないの意である。
【評語】外の人が忘れ去つても、自分だけは忘れられない心を歌つている。玉※[草冠/縵]影ニ見エツツの句が、殯宮の物を材料とした美しい句でありながら、巧みに情景を描いている。
 
天皇崩時、婦人作歌一首 姓氏未v詳
 
天皇の崩りたまひし時、婦人の作れる歌一首【姓氏いまだ審ならず。】
 
【釋】天皇崩時 スメラミコトノカムアガリタマヒシトキニ。天智天皇の崩じたまいし時。
 婦人 ヲミナメ。宮人であろうが、下の註の如く、何人とも知られないが、後宮に仕える女子であろう。卷の十六、三八三五の左註には、新田部の親王の家の婦人のことが記されている。
 
150 うつせみし 神にあへねば、
 離《さか》り居て 朝嘆く君、
 放《さか》り居て わが戀ふる君、
 玉ならば 手に卷き持ちて、
(442) 衣《きぬ》ならば ぬぐ時もなく、
 わが戀ふる 君ぞ、昨《きぞ》の夜
 夢《いめ》に見えつる。
 
 空蝉師《ウツセミシ》 神尓不v勝者《カミニアヘネバ》
 離居而《サカリヰテ》 朝嘆君《アサナゲクキミ》
 放居而《サカリヰテ》 吾戀君《ワガコフルキミ》
 玉有者《タマナラバ》 手尓卷持而《テニマキモチテ》
 衣有者《キヌナラバ》 脱時毛無《ヌクトキモナク》
 吾戀《ワガコフル》 君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》
 夢所v見鶴《イメニミエツル》
 
【譯】この生けるわたくしが身は、神樣にお仕え申しあげることができませんから、離れていて、朝も歎いておりまする君。離れていてわたくしの戀う君。もしこれが玉であるならは手に卷いて持つて、もし衣であるならばぬぐ時もなく、そのように身につけて、すこしの隙もなく、わたくしのお慕い申しあげる君が、昨夜は夢に見えました。
【構成】全篇一文。ワガ戀フル君まで、亡くなられた君を提示し、以下、その君が夢に見えたことを述べる。
【釋】空蝉師神尓不勝者 ウツセミシカミニアヘネバ。ウツセミは、既出(卷一、一三)。普通に、現し身の義として解せられているが、身の意のミと、蝉のミとは、音韻が違うとされ、現し身の義とはしがたいとされている。空蝉の字は、音韻をあらわすだけの假字である。シは強意の助詞。アヘネバは、堪えねばに同じ。貴人の靈魂は、天に上つて神と成られる。自分はこの土の人で、神樣に直接奉仕するに堪えないの思想を歌つている。
 離居而 サカリヰテ。ハナレヰテ(神)。下の放居而と共に、いずれもサカリヰテともハナレヰテとも讀まれる。しかし離のハナレと讀むべきは、集中「玉之裏《タマノウラ》 離小島《ハナレコジマノ》 夢石見《イメニシミユル》」(卷七、一二〇二)の一例のみであるから、サカリヰテと讀むこととする。天皇の神靈より遠ざかりいての意である。
 朝嘆君 アサナゲクキミ。朝は、この歌の詠まれた時を示す。キミは、ナゲクの目的であつて、君のことを嘆く意である。
(443)放居而 サカリヰテ。ハナレヰテ(神)と上のサカリヰテに對して、語を變えて讀む説もある。しかし同一の句を繰り返すのが古歌の風格である。
 吾戀君 ワガコフルキミ。以上二句は、離リ居テ朝嘆ク君の句と對句を成している。共に呼びあげて堤示する句。
 玉有者 タマナラバ。上の君の語を受けて、その君が、もし玉であるならばという譬喩である。
 手尓卷持而 テニマキモチテ。玉ならば緒に貫いて手に卷き持ちての意。
 衣有者脱時毛無 キヌナラバヌグトキモナク。キヌは、同じく君を受けている。この二句は、玉ナラバ手ニ卷キ持チチの句と對句を成している。
 吾戀 ワガコフル。ワガコヒム(玉)。現在も未來も含んでいるのだから、不定時がよい。
 君曾伎賊乃夜 キミゾキゾノヨ。上のゾ、係助詞。キゾノヨは、昨夜であるが、いま朝に明けたその夜をいう。「孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》 伎曾母許余比毛《キゾモコヨヒモ》」(卷十四、三五〇五)など、しばしは今夜と對して用いている。
 夢所見鶴 イメニミエツル。夢は古語にイメという。イは眠りで、メは見ることであると解せられている。假字書きのものは、伊米など多數で、ユメと書いたものはない。ツルは、ゾを受けて連體形で結んでいる。鶴は歌詞ではタヅであるが、假字としては、ツルの音を表示するに使用され、口語でツルと言つたと考えられている。
【評語】この歌は、神に對する畏敬の念が強くあらわれており、みだりに人の近づけないものと考えたことがよくわかる。初めの數句に、この歌の興味がある。前の歌と同じようにまた對句の疊出に依つて、哀情の去りがたい心を敍したあたりを、よく味わうべきである。
 
(444)天皇大殯之時歌二首
 
天皇の大殯の時の歌二首
 
【釋】天皇大殯之時歌 スメラミコトノオホアラキノトキノウタ。天智天皇の大葬の時の歌である。殯は、人の死してまだ葬らない前に行う祭をいう。説文に、「死在v棺、將v遷2葬柩1、賓2遇之1」とある。アラキは新城の義で、葬殿をいう。日本書紀に、天智天皇の十年十二月の條に「癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、癸酉殯2于新宮1」とある。歌の作者は、各歌の下に記している。
 
151 かからむの 懷《こころ》知りせば、
 大御船 泊《は》てし泊《とまり》に
 標繩《しめ》結《ゆ》はましを。 額田の王
 
 如是有乃懷知勢婆《カカラムノココロシリセバ》
 大御船《オホミフネ》 泊之登萬里人《ハテシトマリニ》
 標結麻思乎《シメユハマシヲ》 額田王
 
【譯】こういう心になると思い知つておつたならば、大御船の泊つた船著き場に標繩を結つて置きましたものを。
【釋】如是有乃懷知勢婆 カカラムノココロシリセバ。
   カカラムトオモヒシリセバ(金)
   ――――――――――
   如是有乃豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(西)
   如是有刀豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(代)
   如是有登豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(童)
   如是有及豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(童)
乃は、諸本みな同じで異博は無い。依つてこれを刀の誤として、初句をカカラムトと讀む説が有力である。(445)しかし刀はトの甲類の字で、これを助詞トに使用した例は無い。さりとて童蒙抄のように、登の誤りとするも從いがたい。そこで原形のままにカカラムノと讀むことが、はたして成立し得ないかが考慮される。次に懷は、仙覺本系統には豫であるが、豫は、初句を古くカカラムトと讀むことに引かれた字面とも考えられ、古本系統の懷を否定すべき材料は無い。懷の字義は、思であり、安であるが、類聚名義抄に、多數の訓を載せて、その最初に、ココロとある。そこで次に、カカラムノココロシリセバの訓が、成立すべきかどうかである。助詞ノが助動詞ムを受けた例は、「丹波道之《タニハヂノ》 大江乃山之《オホエノヤマノ》 眞玉葛《マタマヅラ》 絶牟乃心《タエムノココロ》 我不v思《ワガオオモハナクニ》」(卷十二、三〇七一)、「多爾世婆美《タニセバミ》 彌年爾波比多流《ミネニハヒタル》 多麻可豆良《タマカヅラ》 多延武能己許呂《タエムノココロ》 和我母波奈久爾《ワガオモハナクニ》」(卷十四、三五〇七)があり、語法として、例のあることが確められる。このタエムノココロは、絶えようとする心の意と推考されるから、これに準ずれば、カカラムノココロは、かようにあろうとする心の意となり、この歌の場合は、天皇の大殯にいて哀傷しようとする心と解せられる。なお懷は、集中の歌中には「垂乳爲《タラチシ》 母所v懷《ハハニウダカエ》」(卷十六、三九七一)の例があるだけのようであるが、それは、こことは用法が違つている。シリセバのセは、時の助動詞キの未然形。
 大御船 オホミフネ。天皇の御船である。
 泊之登萬里人 ハテシトマリニ。天皇の大御船の碇泊した船著き場にである。
 標結麻思乎 シメユハマシヲ。標を結うは、繩を張つて病魔等の入り來ないようにすること、そのようにもしたならば御病にかからせられることが無かつたであろうが、そうしなかつたので殘念であるよしである。
 額田王 ヌカタノオホキミ。作者の名を記したのである。額田の王は既出。
【評語】歌詞によると、大御船の碇泊した處に標を張つたらよかつたものをと言つている。これによれば、多分船に召して湖上を遊覽されることなどがあつて、還幸の後に御病を得られたものであるようである。災禍を(446)なす魔物が湖上から大御船の後を慕つて襲つて來たように考えて歌つている。手ぬかりをしたことを殘念に思う氣持がよく出ている。
 
152 やすみしし わご大王《おほきみ》の 大御船《おはみふね》
 待ちか戀ふらむ。
 志賀の辛埼。 舍人の吉年
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾期大王乃《ワゴオホキミノ》 大御船《オホミフネ》
 待可將v戀《マチカコフラム》
 四賀乃辛埼《シガノカラサキ》 舍人吉年
 
【譯】わが天皇陛下の大御船を待ち慕つていることであろう。志賀の辛埼は。
【釋】八隅知之 ヤスミシシ。既出(卷一、三)。枕詞。
 吾期大王乃 ワゴオホキミノ。既出(卷一、五二)。ワガ大君というべきであるが、歌いものに歌われる時に聞えを音聲のままに字を書いたものである。
 待可將戀 マチカコフラム。マチカコヒナム(西)。待つてか戀い慕つているであろうの義。
 志賀乃辛埼 シガノカラサキ。既出(卷一、三〇)。琵琶湖に臨んだ風光明媚の地。辛埼が心があつて待つているように歌つている。
 舍人吉年 トネリエトシ。作者であるが、傳未詳。田部の忌寸櫟子と贈答している歌(卷四、四九二)によれば婦人であろうか。舍人は氏であろう。吉年は何と讀むべきか不明。エトシか、ヨシトシか。
【評語】此處にも、志賀の辛埼に大御船を寄せることが、歌われている。しばしば船を出して、この地を遊覽されることがあつたのであろう。風光昔ながらにして、人はもはや、訪れることもなくなつた悲しみを寫している。
 
(447)大后歌一首
 
【釋】大后御歌 オホギサキノミウタ。倭姫の皇后の御歌で、天智天皇崩後の御作である。
 
153 鯨魚《イサナ》取り 淡海《あふみ》の海を、
 沖放《おきさ》けて 榜《こ》ぎくる船、
 邊つきて 榜ぎくる船、
 沖つ櫂《かい》 いたくな撥《は》ねそ。
 邊つ櫂 いたくな撥ねそ。」
 若草の 妻の 思ふ鳥立つ。」
 
 鯨魚取《イサナトリ》 淡海乃海乎《アフミノウミヲ》
 奧放而《オキサケテ》 榜來船《コギクルフネ》
 邊附而《ヘツキテ》 榜來船《コギクルフネ》
 奧津加伊《オキツカイ》 痛勿波祢曾《イタクナハネソ》
 邊津加伊《ヘツカイ》 痛莫波祢曾《イタクナハネソ》
 若草乃《ワカクサノ》 嬬之《ツマノ》 念鳥立《オモフトリタツ》
 
【譯】近江の湖上を、沖の方に離れて榜ぐ船よ、岸邊に近くついて榜ぐ船よ。沖の方で水を打つ櫂、岸の方で水を打つ櫂を、強く撥ねないようにしてください。若草のような妻のわたくしの愛する鳥が、驚いて立ちます。
【構成】第一段、邊ツ櫂イタクナハネソまで、湖上の船を歌う。以下第二段、鳥によせて思いを述べる。
【釋】鯨魚取 イサナトリ。既出(卷二、一三一)。琵琶湖は、淡水湖で、鯨はいないが、大きな湖水なので、慣用句として次句の海に冠して使用されている。
 淡海乃海乎 アフミノウミヲ。琵琶湖をで、大津の宮から望見されたのである。
 奧放而 オキサケテ。沖の方に離れてで、下の榜ぎ來るを修飾している。
 榜來船 コギクルフネ。榜は、船を進める意の字。
(448) 邊附而 ヘツキテ。岸邊について。
 榜來船 コギクルフネ。以上二句は、奧サケテ榜ギ來ル船の句と對句をなし、湖上を漕ぐ船を呼びあげて提示している。以下その船に對して希望を述べられる形で進行する。
 奧津加伊 オキツカイ。上の沖サケテ榜ギ來ル船について、沖ツ櫂と言つている。ツは接綾の助詞。カイは櫂で、船を進める具。倭名類聚鈔に「釋名云、在v旁撥v水曰v櫂【直教反、字亦作v棹、楊氏漢語抄云加伊】櫂2於水中1且進櫂也」とある。オキツカイは沖行く船の櫂である。
 痛勿波祢曾 イタクナハネソ。イタクは、甚しく。ナは禁止の助詞。ハネは、動詞撥ヌの連用形。
 邊津加伊痛莫波祢曾 ヘツカイイタクナハネソ。上の邊ツキテ榜ギ來ル船を受けている。以上二句、沖ツ櫂イタクナ撥ネソの句と對句を成している。
 若草乃 ワカクサノ。枕詞。やわらかい意に、ツマ(配遇者)に冠する。
 嬬之 ツマノ。ツマは配偶者。嬬の字は、婦人をいう。皇后である作者自身を客觀的に敍している。但し夫の意で、天皇をいうとする説もある。男子の配偶者の意に、嬬の字を使つた例は、「若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》」(卷二、二一七)の如きがある。
 念鳥立 オモフトリタツ。作者は、亡き天皇の遣愛の鳥として、湖上に浮ぶ鳥に、親しみを寄せている。その鳥の驚き立つのを恐れる心である。それは結局、作者自身を驚かすことをあらわす。
【評語】遺愛の物について、哀情を述べるのは、古い挽歌の常である。この歌にしても、もし作られた時の事情が知られなかつたなら、挽歌とも取られないかも知れない。悲しいといわず、歎くといわず、別るといわず、涙といわない。ただ湖上の鳥を驚かさないようにと歌われた、そこに盡《つき》せぬ涙が感じられる。歌がらも、對句を以つて敍述し來つて、これを五三七と止めたところ、整齊な古長歌の風格を存している。一事を語を換えて(449)云つたような對句は、對句として初期のもので、特に纏綿たる情緒を訴えるに適している。この歌の對句の如き、この感じのよく現われているものである。
 
石川夫人歌一首
 
【釋】石川夫人 イシカハノオホトジ。天智天皇の後宮には、四嬪のうちに、蘇我の山田の石川麻呂の女なる遠智娘、姪娘の二人があるが、父の名によつて石川の夫人と言つたとも考えられない。夫人というは、嬪より上で、臣下から後宮に入る者の最上の稱號である。
 
154 ささなみの 大山守《おほやまもり》は、
 誰《た》がためか 山に標繩《しめ》結《ゆ》ふ。
 君もあらなくに。
 
 神樂浪乃《ササナミノ》 大山守者《オホヤマモリハ》
 爲v誰可《タガタメカ》 山尓標結《ヤマニシメユフ》
 君毛不v有國《キミモアラナクニ》
 
【譯】樂狼の大山の番人は誰のために山に標を結つているのか、君もおいでにならないのに。
【釋】神樂浪乃 ササナミノ。ササナミは、既出(卷一、二九)。近江の國南方一帶の地名。
 大山守者 オホヤマモリハ。宮城のある山の番人の義で、大山守という。雜人を入らしめないために番人を置くのである。
 爲誰可 タガタメカ。今は君もましまさぬのに誰のためにかの意。
 山尓標結 ヤマニシメユフ。標繩を張つて人を入らしめないようにすることをいう。句切。
 君毛不有國 キミモアラナクニ。キミモマサナクニ(類)。わが君も既に崩御されて、主君もないことであるのにの義。
(450)【評語】君は既に崩御されたのに、大山守はなおありし日の如くに宮城の山を守つている。それを憐れむ形で、悲哀の情を歌つている。すべてがありし日のままに殘つているのが、悲しみを誘うのである。
 
從2山科御陵1退散之時、額田王作歌一首
 
山科の御陵より退散《あらけまか》りし時に、額田の王の作れる歌一首
 
【釋】從山科御陵 ヤマシナノミハカヨリ。山科の御陵は、天智天皇の山陵をいう。歌詞に山科の鏡の山といい、今、京都市東山區に入る。御陵は、ミササギともいうが、歌中には、ミハカと讀むように見える。
 退散之時 アラケマカリシトキニ。御陵に奉仕することを終わつて退出した時である。
 
155 やすみしし わご大君の
 かしこきや 御陵《みはか》つかふる
 山科《しな》の 鏡の山に、
 夜《よる》はも 夜のことごと、
 晝はも 日のことごと、
 哭《ね》のみを 泣きつつありてや、
 ももしきの 大宮人は、
 行き別かれなむ。
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》
 恐也《カシコキヤ》 御陵奉仕流《ミハカツカフル》
 山科乃《ヤマシナノ》 鏡山尓《カガミノヤマニ》
 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》
 畫者母《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》
 哭耳呼《ネノミヲ》 泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》
 百磯城乃《モモシキノ》大宮人者《オホミヤビトハ》
 去別南《ユキワカレナム》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君の、恐れ多い御陵を奉仕する山科の鏡の山に、夜は夜どおし、晝は一日中、(451)泣いてばかりいてか大宮の人々は行き別れることでしよう。
【釋】八隅知之吾期大王之 ヤスミシシワゴオホキミノ。既出(卷一、五二)。
 恐也 カシコキヤ。ヤは用言の連體形に附く感動の助詞。かしこき御墓と續く語法である。カシコキは恐縮に堪えない。おそれおおい。
 御陵奉仕流 ミハカツカフル。御陵に奉仕する義。
 山科乃鏡山尓 ヤマシナノカガミノヤマニ。京都市東山區の地で、もと鏡の山と言つた。
 夜者毛 ヨルハモ。モは感動の助詞で、夜はということを感動的に述べている。
 夜之盡 ヨノコトゴト。コトゴトは悉くで夜の悉くである。一夜中の意。
 畫者母日之盡 ヒルハモヒノコトゴト。晝は晝中。上の夜ハモ夜ノコトゴトと對句になつている。
 哭耳呼 ネノミヲ。ネは泣く聲をいう。聲を出してのみ泣くというのであるが、哭泣ク、哭ニ泣ク、哭ノミ泣ク等、皆熟語句で、ただ泣くことをいう。ここでは外のことはせずに泣いてばかりの義に使つている。
 泣乍在而哉 ナキツツアリテヤ。ヤは疑問の係助詞。かように泣いてか大宮人は去き別れることであろうと言つている。
 百礒城乃大宮人者 モモシキノオホミヤビトハ。既出。
 去別南 ユキワカレナム。おのおの退出して別れるのだろうと名殘を惜しんでいる。
【評語】大宮人が御陵に奉仕しつつただ晝も夜も泣いてばかりいて、しかも時日が過ぎ去るままに別るべき時期の來たことを歌つている。御陵の地を説明し來つて、これを「夜はも夜のことごと畫はも日のことごと」と對句で受けた歌い方は古風な歌いものの調子をよく出している。單純な内容だけにかえつて悲哀の情が強く響いている。
 
(452)明日香清御原宮御宇天皇代 【天渟中原瀛眞人天皇謚曰2天武天皇1。】
 
明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【天の渟中原瀛の眞人の天皇。謚して天武天皇と曰す。】
 
【釋】明日香清原宮御宇天皇代 アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラノミコトノミヨ。天武天皇の御代。その御代の歌を載せているが、崩後八年九月九日の天皇の御ための御齋會の夜の歌をも收めていること、前例の如くである。
 天渟中原瀛眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。天武天皇。
 
十市皇女薨時、高市皇子尊御作歌三首
 
十市《とをち》の皇女の薨《かむさ》りたまひし時、高市《たけち》の皇子の尊の作りませる御歌三首
 
【釋】十市皇女 トヲチノヒメミコ。天武天皇の皇女。御母は額田の王。弘文天皇の妃として葛野の王を生んだ。壬申の亂後、大和に歸つて居られたが、天武天皇の七年四月に薨じた。既出(巻一、二二左註)。
 薨時 カムサリタマヒシトキニ。天武天皇の七年、天神地祇を祭ろうとして、齋宮を倉梯《くらはし》の河上に立てた。四月朔日に、天皇、その齋宮に幸しようとして日を占《うら》なうに、七日が占に合《かな》つた。その日朝早く、行列が既に整い、今や宮を出でようとした時に當つて、十市の皇女は、俄に病が起つて宮中に薨じた。これによつて行幸を止め、ついに神祇をお祭りにならなかつた。この神祇を祭ろうとされたのは、壬申の亂に勝つたお禮の意味であろうという。この時に當つて十市の皇女の急な薨去に會したのは深い意味があろぅと云われている。
 高市皇子尊 タケチノミコノミコト。既出(卷一、一一四)。十市の皇女の異母の兄弟であるが、それ以上の事情は知られない。持統天皇の三年四月、皇太子草壁の皇子薨じ、その後、高市の皇子が儲位にましました(453)ものと見えて、後の皇子の尊という。本集題詞左註において、皇子の尊と記しているのは、「日竝皇子尊」(草壁の皇子)とこの皇子とだけである。
 
156 こ三諸の 神の神杉、
 去年《こぞ》のみを 夢《いめ》には見つつ
 いねぬ夜ぞ多き。
 
 三諸之《ミモロノ》 神之神須疑《カミノカムスギ》
 己具耳矣《コゾノミヲ》 自得見監乍《イメニハミツツ》
 共不v寝夜敍多《イネヌヨゾオホキ》
 
【譯】三諸山の神木の杉のように、去年ばかりを夢には見ながら近づくことができないで、ねない夜が多いことだ。
【釋】三諸之神之神須凝 ミモロノカミノカムスギ。ミモロは、神のよりつくところ。假字書きのものには、「美母呂」(古事記六一、九三、九五)、「三毛侶」(巻七、一〇九三)とあり、ミは甲類、ロは乙類の音である。ミは敬稱の接頭語であろうが、モロは不明である。從來ムロ(室)に同じとされていたが、室は、紀伊の國の地名に、牟漏、牟婁を室とも書き、樹名に、牟漏を室とも書いているのによれば、ロは甲類と見られ、三諸山を、三室山ともいうようであるが、語としては別語であろう。ミモロは、山名にもいい、山に関しては、「三諸著《ミモロツク》 鹿脊山《カセヤマ》」(巻六、一〇五九)、「三諸就《ミモロツク》 三輪山《ミワヤマ》」(巻七、一〇九五)ともいい、神ナビノ三諸ノ山(三二二七、三二二八)とも、三諸ノ神ナビ山(三二四、一七六一、三二六八)ともいう。「春日野爾《カスガノニ》 伊都久三諸乃《イツクミモロノ》 梅花《ウメノハナ》」(巻十九、四二四一)によれば神社形態であるようにも解せられ、「祝部等之《ハフリラガ》 齋三諸乃《イハフミモロノ》 犬馬鏡《マソカガミ》」(卷十二、二九八一)、木綿懸而《ユフカケテ》 祭三諸乃《マツルミモロノ》 神佐備而《カムサビテ》」(巻七、一三七七)も同じく神職の祭祀行爲の造作物と解せられる。鏡をかけ木綿をかけるのは、大小にもよらないが、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》」(巻三、四二〇)とあるのは、形状が限定されよう。屋戸は、枕邊に對して、家の出入口と解せられ、三(454)諸は、そこに立てられる工作物であつたことが知られる。神社と譯せられそうでもあるが、しかしたとえば、春日の三諸というように、地名、神名に助詞ノをつけてすぐ接續することはない。音韻からすれば、「神籬、此云2比莽呂岐1」(日本書紀、崇神天皇紀)のモロと一致する。これは、「立2磯堅城神籬1」とあるもので、樹木を材料とする工作物であるように考えられる。それならば、山や森にいい、また屋戸に立てるというにもふさわしいものである。今のこの歌では、三諸の神とつづくので、特定の神境をいうようである。そこの御神木の杉をいうのであろう。この時行おうとされた祭典の場所と關係があるかどうか、不明である。
 已具耳矣自得見監乍共 古くから難讀の句として、まだ明解を得ない。この歌、仙覺の新點の歌であつて、仙覺は、イクニヲシトミケムツヽトモとしたが、それでは意を成さない。管見には、スグニヲシトミケムツヽトモ。代匠記には、イクニヲシトミケムツヽムタ。またイクニヲシミミツヽトモニ。その他の諸家、多く誤字ありとして字を改めている。今、その、二三を擧げれば、
  童蒙抄  已冥耳笑自得見監乍共《イメニノミミエケムナガラモ》
  考    已免乃美耳得見管本名《イメノミニミエツツモトナ》
  檜嬬手  已具耳之日影見盈乍《スギシヨリカゲニミエツツ》
  古義   如是耳荷有得之監乍《カクノミニアリトシミツツ》
  美夫君志 已目耳矣自將見監爲共《イメニヲシミムトスレドモ》
  新考   已賣耳多耳將見念共《イメニダニミムトモヘドモ》
 次に臆説に過ぎないが私案を記す。具は、集中、其を誤つたと見られるものが往々にある。「具穗船乃」(卷十、二〇八九)、「本葉裳具世丹」(同)、「眞福在與具」(卷十三、三二五四)など。依つてここも其の誤りとし、已其耳矣をコゾノミヲと讀む。去年のみをの意である。これは音韻も一致する。次に自得見を、文字どおり、(455)おのずから見ることを得る意として、夢の義とする。助詞ニハを讀み添え、監乍を、ミツツと讀み、共は、五句につけてこれをイネヌヨゾオホキとする。歌意は、三諸の神の神杉は、目には見るけれども近づきかねる意の譬喩とし、去年の事のみは夢に見えるけれども、共に寐ない夜が多く續くの意とする。もとよりこれを以つて原歌に復るとする自信は無く、ただかく讀めば、一首の歌となるという程度である。以下二首の歌意によるに、この程度の事情は、あり得たであろう。
 
157 神《かむ》山の 山邊眞蘇木綿《やまべまそゆふ》 短木綿《みじかゆふ》、
 かくのみからに 長くと思ひき。
 
 神山之《カムヤマノ》 山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》 短木綿《ミジカユフ》
 如此耳故尓《カクノミカラニ》 長等思伎《ナガクトオモヒキ》
 
【譯】神を祭る場《にわ》の、山邊に懸けてある、麻の木綿《ゆう》は短い木綿であつた。こんなことであるはかりだのに、長くあれかしと願つたことであつた。
【釋】神山之 カムヤマノ。舊訓ミワヤマノとあるが、この山は、三輪山には限らないのであるから、カムヤマノと讀むべきである、何處の神山とも指定されない。
 山邊眞蘇木綿 ヤマベマソユフ。マは接頭語、ソはアサヲ(麻苧)の約言と見られる。「眞佐麻乎《ヒタサヲヲ》 裳者織服而《モニハオリキテ》」(卷九、一八〇七)の佐麻もそれである。麻で作つた苧の謂である。ユフは、豐後國風土記、速見郡の條に、「柚富郷、此郷之中、栲樹多生。常取2栲皮1以造2木綿1、因曰2柚冨郷1」とある。コウゾの皮の晒したものであるが、アサによるものを含んでいうと解せられる。神事に使用するアサを、ここでは擧げている。
 短木綿 ミジカユフ。木綿は、長いのも短いのもあるが、その短いのを取り出したのは、皇女の命の短いのを言おうとしてである。眞蘇木綿は、重ね言葉で、眞蘇木綿である短木綿の意で、譬喩に引かれている。
 如此耳故尓 カクノミカラニ。舊訓カクノミユヱニとあるが、ユヱは、助詞ガを受ける以外は、他の助詞を(456)受ける例が無い。カラは、「伴之伎與之《ハシキヨシ》 加久乃未可良爾《カクノミカラニ》」(卷五、七九六)の例がある。二人の中は短かつたのを、カクノミと言つている。
 長等思伎 ナガクトオモヒキ。上の短木綿を受けて皇女の御命の短かつたものを、長くあれかしと願つたことであつたの意。
【評語】神事を以つて序としているのは、神を祭る用意をして、まさに行幸になろうとした時に、皇女が薨じたからその神祭の頼み難くあつたことを諷している。二句三句の續き方など、調子のすぐれている歌である。
 
158 款冬《ヤマブキ》の 立ち儀《よそ》ひたる 山清水、 
 汲《く》みに行かめど 道の知らなく。
 
 山振之《ヤマブキノ》 立儀足《タチヨソヒタル》 山清水《ヤマシミヅ》
 酌尓雖v行《クミニユカメド》 道之白鳴《ミチノシラナク》
 
【譯】款冬の花の飾つている山の清水を、汲みに行きたいけれども、道を知らないことだ。
【釋】山振之 ヤマブキノ。振は、後にフルというが、古語ではフクという。古事記上卷に、「爾拔d所2御佩1之十拳劍u而、於2後手1布伎都々逃來」とある。ヤマブキは、植物の名。本集では假字書きのものの外に、山吹とも山振とも書いている。皇女の薨去は、四月であるから、實際にヤマブキが咲いていたのである。
 立儀足 タチヨソヒタル。タチは接頭語として添えられている。ヨソヒは、装フで、装飾している意。ヤマブキの花の咲きにおつているをいう。
 山清水 ヤマシミヅ。以上三句、皇女の御墓の邊の描寫であるが、ヤマブキの花は黄色なので、その花の咲いている泉とは、黄泉の譯であるという。黄泉は、漢文で人の死んでから行く地下の國である。さような意を寓しているとも解せられる。
 酌尓雖行 クミニユカメド。メドは、推量の助動詞ムの已然形に、助詞ドの添つた逆態條件法である。
(457) 道之白鳴 ミチノシラナク。シラナクは、知らぬことの意。
【評語】黄泉を譯して、ヤマブキノ立チ儀ヒタル山清水といつたのは巧みで、殊に春おかくれになつた皇女の御墓にふさわしいあらわし方である。死者に逢おうと願つて、しかもその行く處を訪い得ないという思想は、柿本の人麻呂の、「秋山の黄葉を茂みまどひぬる妹を求めむ山道知らずも」(卷二、二〇八)にも歌われており、いずれもその墓所に行く道を知らないという形であらわされている。
 
紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1。
 
紀に曰はく、七年戊寅の夏四月丁亥の朔にして癸巳の日、十市の皇女、卒然《にはか》に病發りて、宮の中に薨《かむさ》り給ひきといへり。
 
【釋】紀曰 キニイハク。紀は、日本書紀をいぅ。その卷の二十九、天武天皇の七年の條に次の文があり、それを摘記したのである。「是春、將v祠2天神地祇1、而天下悉祓禊之、竪2齋宮於倉梯河上1。夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1、卜之、癸巳食v卜。仍取2平且時1、警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1。由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣。」これによれば倉梯河のほとりに齋宮を建て、天皇これに幸して親祭しようとし、行幸の出發する時に當つて、十市の皇女が急病で薨去され、ついに祭を行わなかつたのである。
 丁亥朔癸巳 ヒノトヰノツキタチニシテミヅノトミノヒ。七日。
 
天皇崩之時、大后御作歌一首
 
天皇の崩りたまひし時、大后の作りませる御歌
 
(458)【釋】天皇崩之時 スメラミコトノカムサリタマヒシトキ。天武天皇の崩御の時である。天皇は、朱鳥元年九月九日崩ぜられた。
 大后 オホギサキ。天武天皇の皇后。天智天皇の皇女で、初めの名は、鵜野の讃良《さらら》の皇女。後、即位されて持統天皇と申す。
 
159 やすみしし わが大王の、
 夕されば 見《め》したまふらし、
 明けくれば 問ひたまふらし、
 神岳《かむをか》の 山の黄葉《もみち》を、
 今日もかも 問ひたまはまし。
 明日もかも 見《め》したまはまし。」
 その山を 振り放《さ》け見つつ
 夕されは あやに悲しみ、
 明けくれば うらさび暮《くら》し、
 荒細《あらたへ》の 衣《ころも》の袖は、
 乾《ふ》る時もなし。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 我《ワガ・ワゴ》大王之《オホキミノ》
 暮去者《ユフサレバ》 召賜良之《メシタマフラシ》
 明來者《アケクレバ》 間賜良志《トヒタマフラシ》
 神岳乃《カムヲカノ》 山之黄葉乎《ヤマノモミチヲ》
 今日毛鴨《ケフモカモ》 問給麻思《トヒタマハマシ》
 明日毛鴨《アスモカモ》 召賜萬旨《メシタマハマシ》
 其山乎《ソノヤマヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》
 暮去者《ユフサレバ》 綾哀《アヤニカナシミ》
 明來者《アケクレバ》 裏佐備晩《ウラサビクラシ》
 荒妙乃《アラタヘノ》 衣之袖者《コロモノソデハ》
 乾時文無《フルトキモナシ》
 
【譯】天下を知ろしめす大君の、夕になれば御覽遊ばされ、夜が明けてくればお尋ねになると思われる、あの神岳の山の黄葉を、今日はお尋ねになるだろうか。明日は御覽になるだろうか。果してそうであろうか。その(459)山をながめやりながら、夕べになると誠に悲しくなり、夜が明けて來れば、心が慰まずに日を暮らし、荒い喪服の袖は、涙でかわく時もない。
【構成】二段から成つている。明日モカモ見シタマハマシまで第一段、神岳の山の黄葉を材料として、亡き天皇について想像を廻らしている。以下第二段、轉じて作者自身の行動について敍している。
【釋】八隅知之我大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。既出。ここでは天武天皇についていう。
 暮去者召賜良之 ユフサレバメシタマフラシ。メシは、見ルの敬語ミスの連用形ミシの轉音。ラシは根據ある推量の助動詞で、ここにこれを用いたのは、天皇なおいますが如き感じをあらわすためである。この句は、下の問ヒタマフラシの句と共に、連體形の句として、神岳の山の黄葉を修飾する。
 明來者問賜良之 アケクレバトヒタマフラシ。上の暮サレバ召シタマフラシの句と對句を成して、次の神岳を修飾している。句切ではない。
 神岳之 カムヲカノ。神岳は、明日香の清御原の宮から眺められる山と推定される。「登2神岳1山部宿禰赤人作歌」(卷三、三二四)と同地なるべく「勢能山爾《セノヤマニ》 黄葉常敷《モミヂツネシク》 神岳之《カムヲカノ》 山黄葉者《ヤマモミヂハ》 今日散濫《ケフカチルラム》」(卷九、一六七六)とある神岳も、同地であろう。その山は、日本紀略天長六年三月の條に「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷2同郡同郷鳥形山1、依2神託宣1也」とあつて、飛鳥神社の舊鎭座地で、飛鳥の甘南備と呼ばれた山である。
 山之黄葉乎 ヤマノモミチヲ。天武天皇の崩御されたのは、九月九日であり、山の黄葉するにまの無い頃であり、その後その色づくに伴なつてこの歌が詠まれている。
 今日毛鴨問給麻思 ケフモカモトヒタマハマシ。ケフモのモは強意。カモは疑問の係助詞。御在世にましまさば、今日はかお尋ねになるのであろうの意。句切。
(460) 明日毛鴨召賜萬旨 アスモカモメシタマハマシ。上の今日モカモ問ヒタマハマシの句と對句を成している。句切。以上第一段。神岳の山の黄葉に寄せて、亡き天皇の御上を想像している。
 其山乎 ソノヤマヲ。その山は神岳をいう。
 振放見乍 フリサケミツツ。既出(卷二、一四七)。
 暮去者綾哀 ユフサレバアヤニカナシミ。アヤニは、驚嘆する意の副詞。感動詞のアヤが、副詞となつたもの。
 明來者裏佐備晩 アケクレバウラサビクラシ。ウラサビは、上二段動詞で、心の樂まずあるをいう。ウラサビクラシは、鬱々として日を暮すをいう。
 荒妙乃 アラタヘノ。アラタヘは既出。フジの皮で織つた粗野の織物。喪中なので、荒栲の衣を召されている、その描寫である。ここは枕詞ではない。
 衣之袖者 コロモノソデハ。御衣の袖はの意。
 乾時文無 フルトキモナシ。動詞乾ルは、もと上一段動詞とされていたが、近年、橋本博士によつて古くは上二段に活用していたことが證明された。それは本集に「吾屋戸之《ワガヤドノ》 草佐倍思《タササヘオモヒ》 浦乾來《ウラブレニケリ》」(卷十一、二四六五}の如く、乾をフレの假字として使用していると見られるもののあること、また日本書紀景行天皇紀に、人名の市乾鹿文に註して、「乾、此云v賦」とあることなどによるものである。この句は、涙のために、衣の袖のかわく時無きことを敍せられている。
【評語】この歌は、山の黄葉を中心として、天皇を思う情を述べられたもの。初めに、夕サレバ、明ケ來レバと、對句に起し、後にまたこれを受けて、完整した形を留めている。中間の、今日モカモ問ヒタマハマシ、明日モカモ見シタマハマシと、深い疑惑の情に迷つていることを示して、なおいますか、はたしていまさぬかと(461)思う情をあらわしている。この歌も對句の重疊に依つて纏綿たる情があらわされている點に深く注意すべきである。
 
一書曰、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首
 
一書に曰はく、天皇の崩りましし時に、太上天皇の御製の歌二首
 
【釋】一書曰 アルフミニイハク。同じ作歌事情にある歌を一書によつて擧げたのである。歌は全然別なのであるから、一書曰とするにも及ばないのであるが、一次の編纂の後に加えられたので、かような形を呈するに至つたのであろう。一書は何の書か不明である。
 
 天皇崩之時 スメラミコトノカムサリマシシトキニ。天武天皇の崩御の時。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。後に太上天皇にましましたのを、前に及ぼして書いている。
 
160 燃ゆる火も 取りて裹《つつ》みて
 嚢《ふくろ》には 入ると言はずや。
 面知《おもし》らなくも。
 
 燃火物《モユルヒモ》 取而裹而《トリテツツミテ》
 福路庭《フクロニハ》 入澄不v言八《イルトイハズヤ》
 面智男雲《オモシラナクモ・モシルトイハナクモ》
 
【譯】燃える火も、取つて包んで、嚢には入れるというではないか。わかりかねることです。
【釋】燃火物 モユルヒモ。モユルヒは、火の特性を説明している。ただ火もでよいのだが、モユルを冠するので、その状態が描寫されている。
 取而裹而 トリテツツミテ。火を取つて包んでで、できかねることをいう。
 福賂庭 フクロニハ。フクロは嚢。物を入れるために作つたもの。福路の二字は字音假字として使用されて(462)いる。
 入澄不言八面智男雲 イルトイハズヤオモシラナクモ。
   イルナイハズヤモチヲノコクモ (西)
          オモシルナクモ (管)
   イルテウコトハオモシロナクモ (童)
   ――――――――――
   面智男雲《オモシルナクモ》 (代初)
   入登不言八面知白男雲《イルトフコトヤモチシラナクモ》(童)
   入騰不言八面知曰男雲《イルトイハズヤモシルトイハナクモ》(考)
   入登不言八面知日雲《イルトイハズヤアハンヒナクモ》(檜)
 澄は、トの假字に用いた例を見ない。古葉略類聚鈔には、この歌を重出しているが、そのいずれにも登に作つている。イルトイハズヤは、嚢には入れるといぅではないかの意で、句切。以上は火のようなものも、包んで嚢に入れるそうだの意で、不可能と思われることでもできるの譬喩に言つているらしい。次に五句は、考には、面を上の句につけ、智を知曰の誤として、シルトイハナクモと讀んでいる。これによれば、知るとは言わないことだの意になり、火でも嚢にはいるというのに、君の崩御のことは、了解に苦しむの意となる。原文のままならば、オモシラナクモと讀むほかは無い。オモシルは、集中、「如v神《カミノゴト》 所v聞瀧之《キコユルタキノ》 白浪乃《シラナミノ》 面知君之《オモシルキミガ》 不v所v見比日《ミエヌコノゴロ》」(卷十二、三〇一五)、「
ミヅグキノヲカノクズハヲフキカヘシオモシルコラガミエヌコロカモ」(同、三〇六八)の用例があり、知り合いの意に使用されている。それでオモシラナクモは、親しみの無いことだ、了解し得ないことだの意になるのであろう。
【評語】上四句は、出來にくいことを言つているようで、興味をひく詞句であるが、五句に難關があり、十分に鑑賞されないのは惜しむべきである。
 
161 北山に たなびく雲の 青雲の
(463) 星|離《さか》り行き 月を離りて。
 
向南山《キタヤマニ》 陳雲之《タナビククモノ》 青雲之《アヲグモノ》
星離去《ホシサカリユキ》 月矣離而《ツキヲサカリテ》
 
【譯】北山に續いている雲の青雲が、星を離れ行き、月をも離れて、大空に向かうことである。
【釋】向南山 キタヤマニ。向南山は、義を以つて北山に當てる。天武天皇の明日香の眞神が原の山陵は、南面しており、南方からこれを見そなわして詠まれたのであろう。
 陳雲之 タナビククモノ。陳は細井本に陣に作つている。陳陣は、もと同字であつて、義においては同じである。陳は玉篇に「列也、布也」とあるに依つて、雲についていうので、タナビクと讀むが、ツラナルとも讀まれる。意は御陵の山にたなびいている雲である。
 青雲之 アヲグモノ。アヲグモは、青天をいう。「
アヲグモノタナビクハミシラクモノオリヰムカブスカギリ」(祈年祭祝詞)、「
シラクモノタナビククニノアヲグモノムカブスクニノ」(卷十三、三三二九)、「
アヲグモノタナビクヒラコサメソボフル」(卷十六、三八八三)などがある。たなびく雲の青雲とは疊語で、同じ雲である。青雲ノ、下の句に對して主格を成している。
 星離去月矣離而 ホシサカリユキツキヲサカリテ。
   ホシサリユクツキヲハナレテ(神)
   ――――――――――
   星離去月乎離而《ホシサカリユクツキヲハナレテ》(類)
   星離去月牟離而《ホシワカレユキツキモワカレテ》(西)
   星離去月牟離而《ホシハナレユキツキモハナレテ》(童)
   星離去月牟離而《ホシサカリユキツキモサカリテ》(玉)
   日毛離去月毛離而《ヒモサカリユキツキモサカリテ》(新考)
星を離れてゆき、月を離れてというは、竝立の云い方で、星や月を離れてということになる。意は、青雲が(464)星や月を離れて天空高く昇るというので、天皇の神靈についていうのであろう。但し訓解ともに諸説が多いのは、結局一通りでは解釋に苦しむからである。星を日毛の誤とする新考の説は、通りがよい。
【評梧】この歌、以上の如く解しておいたが、これも難解の歌で、正しい解釋を知らない。大陸思想の影響を容れているともいわれるが、それも確でない。
 
天皇崩之後、八年九月九日、奉爲御齋會之夜、夢裏習賜御歌一首
                       古歌集中出
 
天皇の崩《かむさ》りましし後、八年の九月九日に、奉爲《おほみため》にせし御齋會の夜に、夢の裏に習ひたまへる御歌一首
                     【古歌集の中に出づ。】
 
【釋】天皇崩之後 スメラミコトノカムサリタマヒシノチ。天武天皇の崩後。
 八年九月九日 ヤトセノナガツキノココノカ。天武天皇は朱鳥元年の九月九日に崩御されたので、八年は、八年を經過したものとすれは、持統天皇の八年であり、九月九日はその御忌日である。
 奉爲 オホミタメニセシ。奉爲は、漢籍から來た字面で、奉は敬意をあらわす。二字オホミタメと讀み、ニセシを讀み添える。天武天皇御冥福の御爲にの意である。
 御齋會之歌 オホミヲガミノヨ。齋を設けて佛事を修するを齋會という。天武天皇の御冥福に資せんがために行われた御齋會の夜である。御齋會は、ゴサイヱともいう。
 夢裏習賜御歌 イメノウチニナラヒタマヘルミウタ。習は、しばしば繰り返すをいう。夢の中にして自然に得させたまう御歌の義。この歌、作者を傳えないのは、夢中に得られた歌だからであつて、その夢の主は、持統太上天皇にましますであろう。御製といわないのは、夢裡に得られたからであつて、神佛のお告げというが(465)如き信仰があるからである。夢のうちに歌をよむことは、本集では、「荒城田乃《アラキダノ》 子師田乃稻乎《シシダノイネヲ》」(卷十七、三八四八)の歌の左註に「右歌一首、忌部黒麻呂、夢裏作2此戀歌1、贈v友、覺而令2誦習1如v前」とある。
 
162 明日香の 清御原《きよみはら》の宮に
 天の下 知らしめしし
 やすみしし わが大王
 高照らす 日の皇子、
 いかさまに 念ほしめせか、
 神風の 伊勢の國は、
 奧《おき》つ藻も 靡《な》みたる波に、
 潮氣《しほけ》のみ 香《かを》れる國に、
 味凝《うまごり》 あやにともしき
 高照らす日の皇子。
 
 明日香能《アスカノ》 清御原乃宮尓《キヨミハラノミヤニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食之《シラシメシシ》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾《ワガ・ワゴ》大王《オホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 何方尓《イカサマニ》 所v念食可《オモホシメセカ》
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國者《イセノクニハ》
 奧津藻毛《オキツモモ》 靡足波尓《ナミタルナミニ》
 潮氣能味《シホケノミ》 香乎禮流國尓《カヲレルクニニ》
 味凝《ウマコリ・アジコリ》 文尓乏寸《アヤニトモシキ》
 高照《タカテラス》 日之御子《ヒノミコ》
 
【譯】明日香の清御原の宮で天下を知ろしめした、八方を知ろしめすわが大君、照り輝く日の御子樣は、どのように思しめされてか、神風の吹く伊勢の國は、沖の海藻も靡いている波に、潮の香の立ち昇る國に、まことに貴い照り輝く日の御子樣。
【構成】別に段落は無い。
(466)【釋】明日香能清御原乃宮尓 アスカノキヨミハラノミヤニ。天武天皇の皇居である。宮號によつて、その天皇をさす所をあきらかにするは古文の例である。
 天下所知食之 アメノシタシラシメシシ。下のシは時の助動詞キの連體形。
 八隅知之吾大王高照日之皇子 ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ。ヒノミコは、既出。貴い御子の義に、日ノを冠するのだろう。「高光《タカヒカル》 日御朝庭《ヒノミカド》」(卷五、八九四)、「日之御調等《ヒノミツキト》」(卷六、九三三)。ここは天武天皇。以上天武天皇を呼び懸けている。
 何方尓所念食可 イカサマニオモホシメセカ。近江の荒都を過ぎし時の歌(卷一、二九)に「何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》」とある。オモホシメセカは、オモホシメセバカの意で、疑問の條件法であるが、獨立句として插入されていて、結びが無い。意外の事だという感じをあらわすに使用する常用の句である。
 伊勢能國者 イセノクニハ。下の句に對する主格の提示。
 奧津藻毛 オキツモモ。海上の藻も。
 靡足波尓 ナミタルナミニ。舊訓ナビキシナミニと讀んでいるが、足を助動詞シに當てた例は、他に無い。助詞シに當てた例も無い。「級照《シナテル》 片足羽河之《カタシハガハノ》」(卷九、一七四二)、「日倉足者《ヒグラシハ》 時常雖v鳴《トキトナケドモ》」(卷十、一九八二)の例は、上の音がア段の音で、アシのアを吸收したものと見られる。靡をナミと讀むのは、「旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》」(卷一、四五)の如く、押靡と書いた例多く、それはオシナベと讀んでおり、下二段活と見られるが、四段活用としては「麻都能氣乃《マツノケノ》 奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》 伊波妣等乃《イハビトノ》 和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》 多々理之母己呂《タタリシモコロ》」(卷二十、四三七五)があり、この奈美多流は、普通に竝みたるの義として、解せられているが、歌意よりすれば、靡みたると解するを可とするようである。また足は、助動詞タルに使用することは多く、上の一五八にも使用している。歌意よりしても過去のこととするは無理であるから、かたがたナミタルナミニと讀むべきであつて、海(467)上の藻の靡いている波にの意とすべきであろう。この句の意は、靡みたる波にてありの意で、下の鹽氣ノミカヲレルの句と對している。
 鹽氣能味 シホケノミ。シホケは、潮の氣で、潮の發する氣をいう。ノミは、それの特にはなはだしく、他物無き状をいう。「鹽氣立《シホケタツ》 荒礒丹者雖v在《アリソニハアレド》 往水之《ユクミヅノ》 過去妹之《スギニシイモガ》 方見等曾來《カタミトゾコシ》」(卷九、一七九七)。
 香乎禮流國尓 カヲレルクニニ。カヲレルは、霧霞などの立ち煙るをいう。日本書紀神代の上に「伊弉諾尊曰我所v生之國、唯有2朝霧1而、薫滿之哉」とある。その國に、日の皇子はとつづく語法。
 味凝 ウマコリ。枕詞、ウマキオリの約言で、上等の織物の義に、アヤ(綾)に懸かるのであろうとされているが、ウマオリ、ウマシオリならばともかく、ウマキオリの形が、古くあるようには思えない。「味凍《ウマコリ》 綾丹乏敷《アヤニトモシク》」(卷六、九一三)とも書かれていて、共にアヂコリとも讀まれる。倭名類聚鈔に、凝海藻にコルモハの訓があり、凝結のために使う海藻だろうから、ニコゴリのような食物があつて、それをウマコリと言い、驚嘆のアヤに冠したのだろう。もしくはコリは凍結で、アヂコリと讀んで、たくさんの氷の意か。
 文尓乏寸 アヤニトモシキ。アヤニは驚嘆すべくある意の副詞。トモシキは、ここは賞美すべく慕わしい意に使用されている。
 高照日之御子 タカテラスヒノミコ。上に提示した句を繰り返して結んでいる。
【評語】夢裡の歌であつて、言い足らない詞句のあるのはやむを得ない所である。沖ツ藻モ靡ミタル波ニ、また鹽氣ノミカヲレル國ニと言つて、その歸結をつけずに轉じているが如きはそれである。また歌いものとして傳えられていた歌の成句を使用することの多いのも、夢裡の歌である特色を備えている。これによつて内容が一層神秘になつている。高照ラス日ノ御子と伊勢の國との關係は明瞭でないが、天武天皇の神靈が伊勢の國に赴かれるように解せられ、その伊勢の國を稱える詞句に重點が置かれている。古事記の序文に、天武天皇の擧(468)兵について、夢ノ歌ヲ聞キテ業ヲ纂ガムコトヲ想ホシとあり、前兆として夢の歌があつたと見られ、その歌は不明であるが、この歌に関係があるかも知れない。また作者は、天武天皇の擧兵の際、共に伊勢に赴かれた。そういうことも自然関係して來ているであろう。なお人が死んで、その靈が伊勢に赴くことは、後世の俚謠にその證があり、當時もそういう信仰があつたかも知れない。
 
藤原宮御宇天皇代
讓2位輕太子1尊號曰2太上天皇1。
 
藤原の宮の天の下知らしめしし天皇の代 【高天の原廣野姫の天皇、天皇の元年は丁亥の年にして、十一年、位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇と曰す。】
 
(469)【釋】藤原宮御宇天皇代 フヂハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。藤原の宮は、持統天皇文武天皇二代の宮室であるが、下の註は持統天皇のみを擧げている。實際は、二代にわたつて歌を載せており、終りの部分は寧樂の宮にはいつているものもあるかも知れない。
 高天原廣野姫天皇 タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト。持統天皇。以下の文は、巻の一、二八の歌の前にも、大同小異の文が載せてある。
 
大津皇子薨之後、大來皇女、從2伊勢齋宮1上v京之時、御作歌二首
 
大津の皇子の薨《かむさ》りたまひし後に、大來の皇女の、伊勢の齋の宮より京に上りたまひし時に、作りませる御歌二首
 
【釋】大津皇子薨之後 オホツノミコノカムサリタマヒシノチニ。大津の皇子のことは、既出(巻二、一〇五)。その薨去に関することもそこに記した。
 大來皇女 オホクノヒメミコ。大伯の皇女に同じ。既出(卷二、一〇五)。大津の皇子の同母の姉。
 從伊勢齋宮上京之時 イセノイツキノミヤヨリミヤコニノボリタマヒシトキニ。伊勢の齋の宮は、皇大神宮に奉仕する皇女の宮殿をいう。三重縣多氣郡櫛田村にあつた。大來の皇女は、朱鳥元年十一月十六日に、伊勢の齋の宮から還京された。大津の皇子の死んだ十月三日から四十日ばかり後である。その頃に詠まれた歌である。
 
163 神風《かむかぜ》の 伊勢の國にも あらましを。
 いかにか來《き》けむ。
(470) 君もあらなくに。
 
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國尓母《イセノクニニモ》 有益乎《アラマシヲ》
 奈何可來計武《イカニカキケム》
 君毛不v有尓《キミモアラナクニ》
 
【譯】伊勢の國におつたらよかつたものを。何しに來たことだろう。君もおいでにならないのに。
【釋】神風乃 カムカゼノ。枕詞。既出。
 伊勢能國尓母 イセノクニニモ。作者の齋宮の皇女としてましました伊勢の國のことを述べられている。その國から上京されたのである。
 有益乎 アラマシヲ。マシは不可能の希望であるから、皇女は都に上られたが、伊勢の國にあつたならという意をあらわしている。ヲは感動の助詞。句切。
 奈何可來計武 イカニカキケム。ナニニカキケム(舊訓)、ナニシカキケム(金)。歌經標式にも次の歌の同句にナニニカキケムとあるが、集中、奈何は多くイカニと讀むべき處に使用し、ナニと讀むべき例を見ない。「栲領巾乃《タクヒレノ》 懸卷欲寸《カケマクホシキ》 妹名乎《イモガナヲ》 此勢能山爾《コノセノヤマニ》 懸者奈何將v有《カケバイカニアラム》」(卷三、二八五)の類である。ケムは、過去推量の助動詞。上り來た心を、自分ながら、いかにしてか來たことぞ、と悔いる心である。句切。
 君毛不有尓 キミモアラナクニ。君は大津の皇子。アラナクはあらぬこと、ニは助詞。
【評語】はるばると伊勢から上京したが愛弟の既に死んでいるくやしさがえがかれている。何だつて來たのだろうと悔む心が痛切に感じられる。この歌は、連作の第一首として、次の歌を呼び起す含みを存して、總括的に歌つているが、悲痛の情はよく出ている。
 
164 見まく欲《ほ》り わがする君も
 あらなくに。
(471) いかにか來けむ
 馬疲らしに。
 
 欲v見《ミマクホリ》 吾爲君毛《ワガスルキミモ》
 不v有尓《アラナクニ》
 奈何可來計武《イカニカキケム》
 馬疲尓《ウマツカラシニ》
 
【譯】見たいと思う君も、おいでにならないのに、何しに來たことでしょう。馬を疲れさせるだけだのに。
【釋】欲見ミマクホリ。ミマクは、見むことの意の體言、ホリは欲する意の動詞。假字書きの例に、「見麻久保里《ミマクホリ》 念間爾《オモフアヒダニ》」(卷十《ミマクホリ》七、三九五七)、「見麻久保里《ミマクホリ》 於毛比之奈倍爾《オモヒシナヘニ》」(卷十八、四一二〇)がある。同型の語例には、「奈久許惠乎《ナクコエヲ》 伎可麻久保理登《キカマクホリト》」(卷十九、四二〇九)がある。
 吾爲君毛 ワガスルキミモ。わが見まく欲りする君もの意であるが、句の都合に依つてかように置かれている。
 奈何可來計武 イカニカキケム。前の歌と同じ位置に置いてある。句切。
 馬疲尓 ウマツカラシニ。舊訓ウマツカラシニとあり、玉の小琴にウマツカルルニと讀み改めた。これは歌經標式に、宇麻都可羅旨尓とあるによつて、ウマツカラシニと讀むべきである。馬を疲らせることなるにの意である。齋宮の下向上京は、後世は輿に依られたが、當時は、馬上であつたのであろう。日本書紀、天武天皇の擧兵のために伊勢に赴かれた時の記事に「是(472)日、發途入2東國1。事急不v待v駕而行之。※[脩の月が黒]遇2縣犬養連大伴鞍馬1、因以御駕。乃皇后載v輿從之」とあり、また「到2川曲坂下1而日暮也。以2皇后疲1之、暫留v輿而息」ともあり、この後の文は、鈴鹿の山道を越えられた際の記事である。輿によられたとしても、下司竝に荷駄に多數の馬を使用したであろう。
【評語】この二首は、皇女が、弟の身の上を氣遣るつて京に上つたが、その效《かい》の無かつたことを歌われている。連作であつて、同じ型を用いて、層を重ねて意味を強調して行く形になつている。殊にこの歌に、皇女御自身の疲勞を歌わないで、馬の上を憐まれているのは、皇女の御作としてふさわしい表現である。
【參考】別傳。
  如d大柄(伯)内親王至v自2齋宮1戀2大津親王1歌u曰、
 
 美麻倶保利《ミマクホリ》一句 和我母不岐美母《ワガモフキミモ》二句 阿羅那倶尓《アラナクニ》三句 那尓々可岐計牟《ナニニカキケム》四句 宇麻都可羅旨尓《ウマツカラシニ》五句。
 
移2葬大津皇子屍於葛城二上山1之時、大來皇女、哀傷御作歌二首
 
大津の皇子の屍《かばね》を、葛城《かづらき》の二上山に移《うつ》し葬《はふ》りし時に、大伯《おほく》の皇女の、哀傷して作りませる御歌二首
 
【釋】移葬大津皇子屍於葛城二上山之時 オホツノミコノカバネヲカヅラキノフタガミヤマニウツシハフリシトキニ。移葬は、屍柩を殯所から墓所に移し葬るをいう。假寧令の集解に、改葬を釋して「釋云、改2埋舊屍1。古記曰、改葬謂殯2埋舊屍柩1改移之類」とある。これによれば、一旦葬つたものを移葬するのではないが、ここにいう所と違うだろう。屍は、日本靈異記訓釋に「屍骸、二合死ニカバネ」(中卷一條)とあるが、本集に三音に當てて書いている。葛城の二上山は、葛城山中の二上山で、大阪府と奈良縣との堺、大和川の南方にあり、二峰から成つている山である。その峰に近い處に大津の皇子の基と傳えるものがある。
 
(473)165 うつそみの 人なる吾や、
 明日よりは
 二上山《ふたがみやま》を兄弟《いろせ》とわが見む。
 
 宇都曾見乃《ウツソミノ》 人尓有吾哉《ヒトナルワレヤ》
 從明日者《アスヨリハ》
 二上山乎《フタガミヤマヲ》 弟世登吾將見《イロセトワガミム》
 
【譯】生きているこの自分は、明日からは、あの二上山をわが親しい弟と見るのだろうか。
【釋】宇都曾見乃 ウツソミノ。ウツソミは、ウツセミに同じ。もしこの語義が、ウツシオミの義であるならば、この方が原形ということになる。集中の用例は、「天地之《アメツチノ》 初時從《ハジメノトキユ》 宇都曾美能《ウツソミノ》 八十伴男者《ヤソトモノヲハ》」(卷十九、四二一四)の一例が大伴の家持の作である以外は、柿本の人麻呂の作品中に見られる。ここでは、この世の人である意に、次句の人を修飾している。
 人尓有吾哉 ヒトナルワレヤ。ナルは、歴史的にはニアルである。ヤは疑問の係助詞。
 從明日者 アスヨリハ。今日二上山に移葬したので、明日以後のことを言つている。
 弟世登吾將見 イロセトワガミム。イロセは、同母の兄弟をいう語。古事記上卷、須佐《すさ》の男《お》の神の詞に、「吾者、天照大御神之伊呂勢者也」、中卷、神武天皇記に 「其伊呂兄五瀬命」とある。イロ(474)は、肉親を意味し、この語を使用した熟語には、イロハ(母)、イロネ(姉)、イロモ(妹)等がある。セは、男性の稱である。上のもを受けて結んでいる句。
【評語】この歌は生ける身にして、かの山をわが弟と見ようか。さりとて山は物言わずつれないものをの意が含まれている。ウツソミノ人ナル吾の句には、生ける人としての自覺がよくあらわれている。何故皇子の屍を葛城の二上山の如き高處に葬つたかというに、その説明は無いが、皇子の神靈を畏怖したのではないかとも考えられる。高貴の人を高い山に葬ることは例があるが、それもその神靈を尊んでの事であつて、刑死した皇子に對しても特にそぅいう思想を生ずるに至つたのであろう。
【參考】同句、うつせみの人なる吾。
  (上略)うつせみの人なる我や、何すとか一日一夜も、離《さか》り居て嘆き戀ふらむ(下略)(卷八、一六二九)
  (上略)うつせみの世の人吾も、此處をしもあやに奇《くす》しみ(下略)(卷十八、四一二五)
 
166 礒《いそ》の上《ウヘ》に 生ふる馬醉木《アシビ》を
 手折《たを》らめど、
 見すべき君が ありといはなくに。
 
 礒之於尓《イソノウヘニ》 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》
 手折目杼《タヲラメド》
 令v視倍吉君之《ミスベキキミガ》 在常不v言尓《アリトイハナクニ》
 
【譯】礒の上に生えているアシビを手折りもしようが、お目に懸くべき君が、この世にあると誰もいう人が無いことです。
【釋】礒之於尓 イソノウヘニ。イソは石の群りある處。ウヘは、その處。野の上などと同じ言い方で、礒ニ生フルアシビでよいのだが、所在を明確にするために、礒の上と言つている。
 生流馬醉木乎 オフルアシビヲ。アシビは、今いうアセボであるといぅ。アセボは、シヤクナゲ科アセボ屬(475)の常緑灌木で、春の初めに白い房形の垂り花をつける。清楚な、どちらかというと寂しい氣味の花である。馬の毒で馬は食わないので馬醉木という。これをアシビと讀むのは、「安志妣《あしび》なす樂えし君」(卷七、一一二八)等があつて、安志妣すなわち馬醉木であるとするのであるが、「池水に影さへ見えて咲きにほふ安之婢の花」(卷二十、四五一二)、「礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける安之婢」(同、四五一三)の如く華やかなものとして、適切な歌もあつて、今日いうアセボでは適しない點がある。また早春の花とする證明もない。そこで美夫君志にはボケのこととしている。まず馬醉木とアシビと同物か異物かが問題になり、次にそれがいずれにしても今日の何に相當するかが問題になる。馬醉木の字面は、馬の醉うことを意味するであろうが、これによれば赤い花であるかも知れない。アセボは毒のある植物であるが、馬はこれを喰わないから、これによつて馬が醉うとする從來の解釋は成立しない。毒の有無には拘わらなくてよいのである。しかし今明解を得ないから、訓は從來のものによる。
 手折目杼 タヲラメド。タは接頭語。メドは、助動詞ムと、助詞ドと結合して、逆態條件法を作つている。手折りもしようがの意。
 令視倍吉君之 ミスベキキミガ。ミスは、使役の語法。見しむべき。お見せすべき。君は大津の皇子。
 在常不言尓 アリトイハナクニ。イハナクは、言わないこと、ニは助詞。誰も、君がありとは言わないことだの意。
【評語】花または自然の景色などを、人に見せたいという内容の(476)歌は多いが、これほどに緊張した歌はすくない。事情が事情だからでもあるが、やはり作者の人がらに依る所が多い。この歌は、初二句の具體的な指摘が、非常に役立つている。
 
右一首、今案、不v似2移葬之歌1。蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時、路上見v花、感傷哀咽作2此歌1乎。
 
右の一首は、今案ふるに、葬を移す歌に似ず。けだし凝はくは、伊勢の神宮より京に還りし時、路上に花を見て、感傷|哀咽《あいえつ》して、この歌を作りませるか。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。以下、編者の意見である。しかし、移葬の時が、たまたまアシビの花咲く頃であつて、それを眺めて詠まれたものとして、何の不都合も無い。アシビが何の木であるにしても、卷の八には春の部に入り、卷の十三にはツバキと組み合わされていて春咲く花木と考えられ、皇女の上京は、十一月であるから、季節から言つても、上京の時の作とは考えられない。
 
日竝皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
日竝みし皇子の尊の殯《あらき》の宮の時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】日竝皇子尊 ヒナミシミコノミコト。既出(卷二、一一〇)。天武天皇の皇子、御母は皇后(持統天皇)。天武天皇の十年、皇太子となり、持統天皇の三年四月、薨去、御年二十八。
 殯宮之時 アラキノミヤノトキ。人の死してまだ葬らない前に祭を行うを殯という。殯宮は、その祭を行う宮殿。皇子の御墓所は、奈良縣高市郡の眞弓の岡にあり、そこにまず宮殿を新設して殯を行われたのである。しかし本集では、墓前の祭をも殯というらしい。作者柿本の人麻呂は、皇子の生前、舍人として奉仕し、殯宮(477)にも奉仕してこの歌を作つたと考えられる。
 
167 天地の 初めの時、
 ひさかたの 天《あま》の河原に、
 八百萬《やほよろづ》 千萬神《ちよろづがみ》の、
 神集《かむつど》ひ 集《つど》ひいまして、
 神分《かむわか》ち 分ちし時に、
 天照らす  日女《ひるめ》の命《みこと》、【一は云ふ、さしのぼる日女の命。】
 天をば 知らしめせと、
 葦原の 瑞穗の國を、
 天地の 寄り合ひの極《きは》み、
 知らしめす 神の命《みこと》と、
 天雲《あまぐも》の 八重かき別きて、【一は云ふ、天雲の八重雲別きて。】
 神下《かむくだ》し 坐《いま》せまつりし
 高照らす 日の皇子《みこ》は、
 飛ぶ鳥の 淨《きよ》みの宮に
 神《かむ》ながら 太敷《ふとし》きまして、
 天皇《すめろき》の 敷きます國と、
(478) 天の原 石門《いはと》を開き
 神上《かむあが》り 上り坐《いま》しぬ。」【一は云ふ、神登りいましにしかば。】
 わが大王 皇子の命の、
 天の下 知らしめしせば、
 春花の 貴からむと、
 望月《もちづき》の 滿《たた》はしけむと、
 天の下【一は云ふ、食す國の。】四方《よも》の人の、
 大船の 思ひ憑《たの》みて、
 天《あま》つ水 仰ぎて待つに、
 いかさまに 念ほしめせか、
 由縁《つれ》もなき 眞弓《まゆみ》の岡に、
 宮柱 太敷きまし、
 御殿《みあらか》を 高知りまして、
 明言《あさごと》に 御言《みこと》問はさず、
 日月《ひつき》の 數多《まね》くなりぬれ、
 そこ故に 皇子の宮人
 行く方知らずも。」【一は云ふ、さす竹の皇子の宮人、行く方知らにす。】
 
 天地之《アメツチノ》 初時《ハジメノトキ》
 久堅之《ヒサカタノ》 天河原尓《アマノガハラニ》
 八百萬《ヤホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅガミノ》
 神集《カムツドヒ》 集座而《ツドヒイマシテ》
 神分《カムワカチ》 分之時尓《ワカチシトキニ》
 天照《アマテラス》 日女之命《ヒルメノミコト》【一云指上日女之命】
 天乎婆《アメヲバ》 所v知食登《シラシメセト》
 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》
 天地之《アメツチノ》 依相之極《ヨリアヒノキハミ》
 所v知行《シラシメス》 神之命等《カミノミコトト》
 天雲之《アマグモノ》 八重掻別而《ヤヘカキワキテ》【一云天雲之八重雲別而】
 神下《カムクダシ》 座奉之《イマセマツリシ》
 高照《タカテラス》 日之皇子波《ヒノミコハ》
 飛鳥之《トブトリノ》 淨之宮尓《キヨミノミヤニ》
 神隨《カムナガラ》 太布座而《フトシキマシテ》
 天皇之《スメロキノ》 敷座國等《シキマスクニト》
 天原《アマノハラ》 石門乎開《イハトヲヒラキ》
 神上《カムアガリ》 上座奴《アガリイマシヌ》【一云、神登座尓之可婆】
 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》
 天下《アメノシタ》 所v知食世者《シラシメシセバ》
 春花之《ハルバナノ》 貴在等《タフトカラムト》
 望月乃《モチツキノ》 滿波之計武跡《タタハシケムト》
 天下《アメノシタ》【一云、食國】 四方之人乃《ヨモノヒトノ》
 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》
 天水《アマツミヅ》 仰而待尓《アフギテマツニ》
 何方尓《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》
 由縁母無《ツレモナキ》 眞弓乃岡尓《マユミノヲカニ》
 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキマシ》
 御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》
 明言尓《アサゴトニ》 御言不2御問1《ミコトトハサズ》
 日月之《ヒツキノ》 數多成塗《マネクナリヌレ》
 其故《ソコユヱニ》 皇子之宮人《ミコノミヤビト》
 行方不v知毛《ユクヘ》《シラズ》《モ》【一云、刺竹之皇子宮人歸途不知尓爲】
 
(479)【譯】天地の開け始めたときに、高天の原の天の河原に、多數の神樣がお集まりになつて、方々の世界を分けた時に、天照らす大神は高天の原をば知ろしめせと定め、また葦原の瑞穗の國をば、天地が依り合つている限り永久に知ろしめす神樣として、天雲の八重を掻き分けてお下し申した輝く日の皇子樣は、飛ぶ鳥の淨みの宮に神にましますがままに御座遊ばされて、その後御歴代の天皇のまします國として、天の原の岩戸を押し開いてお登りになりました。かくてわが大君と仰ぐ皇子樣が、天下を御統治遊ばされましたなら、春の花のように貴いことでありましょうと、また秋の滿月のように滿ち足りてあるでしょうと、天下の四方の人々が大船のように頼みに思つて、天から降る雨露を仰ぐように仰いで待つていましたところ、どのようにお思いになつてか、縁故も無い眞弓の岡に宮柱をお建て遊ばされ、御殿を御建造遊ばされて、朝の御言葉をお下しにならず、過ぎ行く月日も多くなつて行きましたので、それゆえにわが皇子の宮の人々は、何とも途方に暮れていることであります。
【構成】この歌は二段から成つている。初めから「神上り上り坐しぬ」まで第一段、天地開闢以來の事から敍し、天武天皇の上までを敍している。わが大君以下第二段、ここに草壁の皇子の薨去せられ御墓の前に殯宮を造つて、お祭り申し上げることを敍している。第二段に中心があり、第一段は準備的敍述である。
【釋】天地之初時 アメツチノハジメノトキ。アメツチは、天と地で、世界、宇宙の意をあらわす。元來アメに對しては、クニの語が對語として使用されていた。クニは、人文的な意味において地上をいう語であるが、大陸から天地の熟字が渡來するに及んで、物質的な意味に、アメツチの譯語が採擇された。その初めの時とは、宇宙の始期をいい、古事記の天地初發の時というのと同じである。
 天河原尓 アマノガハラニ。アマノガハラは、天上にあるという川の河原。古事記に安の河原という。
 八百萬千萬神之 ヤホヨロヅチヨロヅガミノ。ヤホヨロヅもチヨロヅも、極めて多數の義にいい、疊語を以(480)つて表現している。「五百萬《イホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅガミノ》」(卷十三、三二二七)というも同じである。
 神集集座而 カムツドヒツドヒイマシテ。神の動作を述べる動詞に、カムの語をつけていうことは、續いて神分チ分チシ時ともいい、「神留坐」(祈年祭祝詞)、「神問【志爾】問志賜、神拂掃賜【比※[氏/一]】(大祓の詞)など用例が多い。カムツドヒイマスとは、神の集合される意であつて、「是以、八百萬神、於2天安之河原1、神集々而【訓v集云2都度比1】」(古事記上卷)とあると同意である。
 神分分之時尓 カムワカチワカチシトキニ。カムハカリハカリシトキニ(舊訓)、カンクハリクハリシトキニ(童)、カムアガチアガチシトキニ(古義)等の諸訓がある。カムワカチワカチシトキニは、代匠記の一説である。分をハカルと讀むのは、議するの意によるものであるが、分をハカルと讀むのは無理であつて、ワカツと讀むことの正常なのに及ばない。ワカツとは、神々をそれぞれの國土に配分して領知せしめる義であつて、天地の初めに、かようなことがなされたことは、古事記日本書紀の記事には見えないが、古くはさような神話もあつたことと考えられる。その例證としては、日本書紀、垂仁天皇紀、一云に、「是時、倭大神、著2穂積臣遠祖大水口宿禰1而誨之曰、太初之時、期曰、天照大神、悉治2天原1、皇御孫尊、專治2葦原中國之八十魂神1、我親治2大地官1者、言已訖焉」とある。これは倭の大神の託宣の詞であるが、その内容は、よくこの人麻呂の歌にいう所と一致する。かような神話があつて、託宣の詞ともなつたものなるべく、この神話は、古事記日本書紀の結成に當つては、異端として削り去られたのであろぅ。柿本氏は、倭の大神を祭る大和神社の鎭座する處から遠くない地に住み、かような神話を傳えて、この歌ともなつたのであろう。この歌は、古事記日本書紀の成立以前に作られたので、かような傳えによつたと見るべく、すべて文字に表示されていることに基いて訓詁はなさるべきである。すなわち神々が天の河原に集合されて、領知すべき世界を分かつた時に、天照らす大神には高天の原、皇御孫の尊には葦原の水穗の國を配當されたというのである。
(481) 天照日女之命 アマテラスヒルメノミコト。天照らす大神に同じ。日本書紀神代の上に、「於v是共生2日神1、號2大日〓貴1【大日〓貴、此云2於保比屡※[口+羊]能武智1】」とあり、その一書に「天照天日〓尊」とある。日の女神の義である。
 一云指上 アルハイフ、サシノボル。サシノボルは枕詞。日に冠する。
 天乎婆所知食登 アメヲバシラシメセト。天照らす大神に、天を統治したまえと定められたの意。トは、上文を受けて、文を中止し、またの意に次の文につづく。
 葦原乃水穗之國乎 アシハラノミヅホノクニヲ。以下別の事になるから、句の上に、マタの如き語を補つて解すべきである。葦原の水穗の國は日本の別名で、古事記日本書紀にもしばしば見えている。古事記天孫降臨の段には「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」とあり、日本書紀神代の下には、これを漢譯して「葦原千五百秋之瑞穗國」とある。葦原とは、アシの自生している原野をいい、やがて開發して豐穣な美田とすべき素質の地であることを表示する。千秋の長五百秋、もしくは千五百秋とは、永久の年數をいい、秋とは穀物の成熟する季節であつて、これを以つて年の意味を表示する。水穗もしくは瑞穗とは、生々たる穀物の穗であり、それはイネを代表としてアワその他の穀物をも含んでいう。永久に穀物の生々として成熟する國の義である。これに葦原ノを冠するのは、葦原の地で永久に穀物の成熟する國の意である。それを略して葦原の水穗の國というのである。契沖の萬葉代匠記には、「舊事記ヲ初テ及ヒ此集ニ至ルマテ、只、葦原瑞穗國ト云ヒ、此集第二ニハ、人麿歌ニ、葦原トモ云ハスシテ、水穗國トノミモヨマレタレハ、稻穗ニハアラス」とて、古く稻の穗について稱美する詞とされているのを否定し、葦原を美《ホ》めたので、アシの穗の瑞穗の國であるとしている。しかしなお穀物の穗についていうとすべきである。これは日本の國土をいい、その國土を知ろしめすために、天孫が降下されるとする思想である。
 天地之依相之極 アメツチノヨリアヒノキハミ。永久の意味を、具體的にあらわしていることは、「天地乃(482)依會限《アメツチノヨリアヒノカギリ》 萬世丹《ヨロヅヨニ》 榮將v往迹《サカエユカムト》」(卷六、一〇四七)、「天地之《アメツチノ》 依相極《ヨリアヒノキハミ》 玉緒之《タマノヲノ》 不v絶常念《タエジトオモフ》 妹之當見津《イモガアタリミツ》」(卷十一、二七八七)などの例に徴してもあきらかである。語義については、一旦分かれた天地が、遠く久しい世のはてにふたたび合體しよう時までと解せられている。この語の參考としては、「轉雲乃《アマグモノ》 曾久敝能極《ソクヘノキハミ》(卷三、四二〇)の語があるが、これは天雲の退く方を限界とする意に解せられ、これに準じて考えるとすれば、天地の寄り合いを限界とする意に解すべきである。これを將來天地の寄り合うのを限界とする意に解しようとするは無理である。天地がたがいに寄り合つて、宇宙を構成している、その寄り合いの解けないあいだはの意とすべきである。
 所知行 シラシメス。この行の字の用法は古事記に、看行(中卷)、見行(下卷)、續日本紀に、所見行、所知行須などある例であつて、おこなう意に添えるといわれている。御統治になる意に、次の句の神の命を修飾する。
 神之命等 カミノミコトト。ミコトは尊稱。神樣として。
 天雲之八重掻別而 アマグモノヤヘカキワキテ。高天の原から葦原の水穗の國にお降りになる状を説く。ヤヘは、天の雲の幾重ともなくかさなつているをいう。「押2分天之八重多那雲1而、伊都能知和岐知和岐弖、於2天津橋1、早岐士麻理蘇理多々斯弖、天2降坐于筑紫日向高千穗之久士布流多氣1」(古事記上卷)。「且排2分天八重雲1、稜威之道別道別而、天2降於日向襲之高千構峯1矣」(日本書紀、神代下)など傳えている。
 天雲之八重雲別而 アマグモノヤヘグモワキテ。本文の句と同じ意味を、語を變えて傳えている。
 神下座奉之 カムクダシイマセマツリシ。神々が、天孫をお降し申しての意。イマセは、敬語の使役法で、そうおさせ申すの意になる。高天の原からこの國に下したというのは、歴史的にいえば、天孫瓊々杵の尊であるが、下の句にこれを受けて、飛ブ鳥ノ淨ミノ宮ニ神ナガラ太敷キマシとあるによれば、その宮にましました(483)方、すなわち天武天皇(もしくは日竝みし皇子の尊)ということになる。この國に御出現御降誕になつたことを、天から降られたという思想で表現しているのである。以上葦原ノ水穗ノ國からこの句まで、次の高照ラス日ノ皇子の修飾句になつている。
 高照日之皇子波 タカテラスヒノミコハ。この句は、天照ラス日女ノ命の句と竝んで、上の神分チ分チシ時ニを受けており、その意味でいえば、天孫の意になるが、それは思想としてであつて、實際的には、次の飛ぶ鳥の淨みの宮にいました方をさしている。文章の上からいえば、時代錯誤が行われている。
 飛鳥之淨之宮尓 トブトリノキヨミノミヤニ。トブトリノキヨミノミヤは、天武天皇の宮室である明日香の淨御原の宮である。日本書紀、天武天皇紀に、朱鳥元年七月の條に、「戊午、改v元曰2朱鳥元年1、仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。飛ぶ鳥の明日香といつた、その飛鳥の字を用いてただちにアスカの地名にも當て、本集にもアスカと讀むべきものがあるが、このあたりの歌中にはアスカの地名には、常に明日香とのみ書いているから、澤瀉博士の説によつて、トブトリノと讀むがよかろう。キヨミは淨み原のキヨミで體言になる。
 神隨 カムナガラ。既出(卷一、三八)。神なるがゆえに。
 太布座而 フトシキマシテ。既出(卷一、三六)。フトは雄大性を示す接頭語。シキは占有、領有の意の動詞。かく飛ぶ鳥の淨みの宮を御占有になるという敍述は、天武天皇の御事をいうと考えられる。この歌の主たる日竝みし皇子の歌について述べようとして、まず先帝の御上を敍したものである。但し卷の一、輕の皇子が安騎の野に出遊された時の歌に、太敷カス都ヲ置キとあるは、輕の皇子の事であるから、ここの太敷キマシテも、日竝みし皇子の尊に關することとしても解せられる。
 天皇之 スメロキノ。この天皇の語は、汎稱として使用せられ、主として、前の代の天皇をいう。
 敷座國等 シキマスクニト。領有せられる國として。クニは、高天の原をいう。トは、としての意。天皇は、(484)統治の事終れば、天に還りたまうという思想である。
 天原石門乎開 アマノハライハトヲヒラキ。イハトは、堅固な門の義。イハは、岩石の義であるが、堅固の意に使われる。磐船などの例である。高天の原の入口に門戸ありとする思想である。日本書紀卷の二、神代の下、天孫降臨の章の第四の一書に、「引2開天磐戸1、排2分天八重雲1以奉v降之」とあるは、降下の記事であるが、磐戸を引きあけて降したとある。これは、墳墓の入口に岩を立てる風習と結合して、石門を開いて墳墓に入ることを、石門を開いて天に上るという形で表現するようになつたのである。そうして高天の原の入口に石門ありとする思想を生じたと見られる。
 神上上座奴 カムアガリアガリイマシヌ。神としての行動なので、神あがりという。アガリは天に昇る意。以上第一段、皇子の薨去のことを言おうとして、まず神話時代から説き起し、天武天皇の崩御にまで及んでいる。
 神登座尓之可婆 カムノボリイマシニシカバ。この別傳によれば、段落とならずに、以下の文に繼續することになる。この別傳では、上の高照らす日の皇子を以つて、日竝みし皇子の尊の事とする解釋は成立しない。これに依つても、第一段は、天武天皇の事を敍したとするを正解とすべきことが知られよう。
 吾王皇子之命乃 ワガオホキミミコノミコトノ。ワガオホキミは、皇子の命を修飾する。わが大君にまします皇子の命の意である。この皇子の命は、日竝みし皇子の尊をさす。
 天下所知食世者 アメノシタシラシメシセバ。天下を統治せられるとせばの意の假設條件法。皇子は皇太子であり、朱鳥元年九月天武天皇の崩御後即位せらるべきであつたが、その後四年目の四月に薨去されたのである。
 春花之 ハルバナノ。枕詞。譬喩によつて貴カラムを修飾している。春の花のように貴くあるだろうの意で(486)ある。
 貴在等 タフトカラムト。天皇として仰ぐことが貴いだろうとの意で、下の思ヒ憑ミテに續く。
 望月乃 モチヅキノ。枕詞。十五夜の滿月のようにの意に、譬喩として、次の滿ハシに冠する。
 滿波之計武跡 タタハシケムト。タタハシは、滿ち足りてある意の形容詞で、動詞湛フから轉成したものである。靈異記に、偉にタタハシクの訓詁があり、本集に、「十五月之《モチヅキノ》 多田波思家武登《タタハシケムト》」(卷十三、三三二四)の用例がある。タタハシケまでが形容詞で、シケは形容詞の活用形である。ムは助動詞。以上二句は、春花ノ貴カラムトの句と對句を成して、下の思ヒ憑ムに接續している。
 食國 ヲスクニノ。上の天ノ下の別傳である。御領土の意。本文の天ノ下の方が大きい。
 四方之人乃 ヨモノヒトノ。天下の諸方の人の意。
 大船之 オホブネノ。枕詞。大船は、安心せられ頼みになるので、憑ムに冠する。
 思憑而 オモヒタノミテ。心に信頼し思つて。
 天水 アマツミヅ。枕詞。天の水の義で、雨雪露の類をいい、その天から降るものなのにつけて、譬喩として仰グに冠する。「彌騰里兒能《ミドリゴノ》 知許布我其等久《チコフガゴトク》 安麻都美豆《アマツミヅ》 安布藝弖曾麻都《アフギテゾマヅ》」(卷十八、四一二二)。
 仰而待尓 アフギテマツニ。御即位になることを仰いで待つ所にの意。事實としては、天武天皇の崩後、適當の時期に、この皇子が即位せらるべきに定まつておつた。それが急速に運ばないで、母君なる皇后(持統天皇)が政務を見られたのは、大津の皇子の謀反があり、その他にも異腹の皇兄があつて、皇子の急速な即位を不便とする情勢にあつたものと考えられる。
 何万尓御念食可 イカサマニオモホシメセカ。既出(卷一、二九、卷二、一六二)。副詞句であるが、獨立句としての性質を感じて使用されたらしい。この句は、下の明言ニ御言問ハサズまでに懸かる。
(486) 由縁母無 ツレモナキ。下に「所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》」(卷二、一八七)とあり、假字書きには、「都禮毛奈吉《ツレモナキ》 佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》」(卷三、四六〇)、「津禮毛無《ツレモナキ》 城上宮爾《キノヘノミヤニ》」(卷十三、三三二六)などある。ツレは、由縁、所由の文字通り、縁故、關係の義で、縁の無い、ゆかりの無いの意に、次の句の眞弓ノ岡を修飾する。由縁は、字に即してはヨシと讀まれる。
 眞弓乃岡尓 マユミノヲカニ。眞弓の岡は、奈良縣高市郡越智岡にあり、そこに皇子の墓が築かれているのであるが、この歌によれは、まずその地に殯宮が設けられたのである。
 宮柱太布座 ミヤバシラフトシキマシ。宮柱太シクとは、宮殿建造を壯大にするの意の熟語句。卷の一、三六參照。みずから宮殿を營まれる意に、敬語の助動詞マシを使用している。
 御在香乎 ミアラカヲ。ミアラカは、御在處の意で、宮殿をいう。ここは殯宮のこと。
 高知座而 タカシリマシテ。タカシリは、宮殿の高大を稱える動詞。宮殿を高々と御造營になる意である。この二句、上の宮柱太シキマシの句と對句になつている。
 明言尓 アサゴトニ。
   アサゴトニ(神)
   アラゴトニ(新考)
   ――――――――――
   明暮爾《アケクレニ》(童)
 明の字を朝の意に使つたのは、下に、「明者《アシタハ》」(卷二、二一七)の例がある。よつてこのままでアサゴトニと讀む。朝毎にの意であるとする説があるが、次に「御言不2御問1《ミコトトハサズ》」の句があるよりしてみれば、毎の意とせずして、言辭の義と解するを妥當とする。また原文のままにアカゴトニと讀むことも考えられる。アカは、曉《あかとき》、明星などのアカと同じく、明るい意であるが、明言と熟しては、明白な言語の意になるであろう。ニは、明言の性質にての意。しかし今、例のあるによることとする。
(487)御言不御問 ミコトトハサズ。御言を仰せられずの意。次の日月ノマネクナリヌレを修飾している。以上下のマネクナリヌレと共に上のオモホシメセカを受けている。
 日月之 ヒツキノ。この日月は、時間の上にいう日月である。
 數多成塗 マネクナリヌレ。マネクは度數の多いことをいう。ナリヌレは、ナリヌレバの意の條件法。段落ではない。
 其故 ソコヱニ。ソコは、その點の意に、上の句を受けている。「所虚故《ソコヱニ》 名具鮫兼天《ナグサメカネテ》」(卷二、一九四)などある。
 皇子之宮人 ミコノミヤビト。皇子の宮殿に奉仕していた人々。
 行方不知毛 ユクヘシラズモ。ユクヘは、行くべき方。それを知らないは、途方に暮れる意である。この種の用例としては、「埴安乃《ハニヤスノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》 去方乎不v知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》」(卷二、二〇一)などある。「物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木爾《アジロギニ》 不知代經浪乃《イサヨフナミノ》 去邊白不母《ユクヘシラズモ》」(卷三、二六四)の用例などは、これと違う用法で、形あるものについて言つている。モは感動の助詞。以上第二段、皇子の薨去を敍し、奉仕した人々の上に及んでいる。
 刺竹 サスタケノ。枕詞。宮、大宮に冠するが、その所以をあきらかにしない。假字書きのものの一例を除いては、皆サスタケに刺竹の文字を使用しているのは、その字義を感じて使用していたのであろう。以下は、本文のソコユヱニ以下の別傳である。「佐須陀氣能《サスダケノ》 枳瀰波夜那祇《キミハヤナキ》」(日本書紀一〇四)の例は、聖徳太子の御歌と傳えるもので、君を修飾しているが、これを本義とすれば、ここも皇子、もしくは宮人に冠するものであろう。語意は、立ツ竹ノで、貴人の姿を竹にたとえるのだろうか。竹を貴人の譬喩に使うことは、ナヨ竹のトヲヨル皇子、ナヨ竹ノカグヤ姫などの例がある。
(488) 歸邊不知尓爲 ユクヘシラニス。ニは、打消の助動詞ヌの連用形であるが、この形で副詞を構成している。「得難爾爲云《エガテニストフ》」(卷二、九五)などと同樣、動詞|爲《す》がこれを受けている。
【評語】この歌は、神話時代から説き來つて雄大を極めている。人麻呂が皇子の薨去を悼む歌は、古代から説き起すを常としているが、これもその一である。これはこの皇子が皇太子として帝位に上るべき御方であつただけに、高天の原からお降りになつたお方である義をあきらかにしようとして、古來の傳えを歌つたものである。しかし先帝天武天皇が高天の原からお降りになつたことを説くあたりは、時代の混亂があり、詞句表現が不備であつて、豫備知識無しには思想を完全に解し得ないだろう。人がこの皇子に期待することが多かつたのに、これに添わなかつた有樣はよく描かれている。結末は、皇子の宮人の途方に暮れることを概括的に敍しており、作者としての感想は、むしろ反歌において現わされているのである。
 
反歌二首
 
168 ひさかたの 天《あめ》見るごとく
 仰ぎ見し
 皇子《みこ》の御門《みかど》の 荒れまく惜しも。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》
 仰見之《アフギミシ》
 皇子乃御門之《ミコノミカドノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
【譯】かの大空を見るように仰いで見たわが皇子の御殿の、荒れようとするのが擁念である。
【釋】天見如久 アメミルゴトク。天を見るようにの意に、次の句を修飾している。
 仰見之 アフギミシ。連體形の句で、次の句に接續している。宮殿の高大なのを感じさせている。
 皇子乃御門之 ミコノミカドノ。ミカドは、宮殿の御門であり、これを以つて宮殿を象徴代表している。
(489)荒卷惜毛 アレマクヲシモ。アレマクは荒れむこと。皇子ましまさずして、その宮殿の荒廢するを惜しんでいる。
【評語】長歌の、天ツ水仰ギテ待ツニを受けて、しかも、御門を仰ぎ見る意に轉用している。その宮殿は、下の舍人等の歌には、橘ノ島ノ宮と歌つている。それらの舍人等の作の中にも、同じ思想の歌があつて、その宮殿に奉仕した人々の悲哀をよく語つている。
 
169 茜《あかね》さす 日は照らせれど、
 ぬばたまの 夜《よ》渡る月の
 隱《かく》らく惜しも。
 
 茜刺《アカネサス》 日者雖2照有1《ヒハテラセレド》
 鳥玉之《ヌバタマノ》 夜渡月之《ヨワタルツキノ》
 隱良久悟毛《カクラクヲシモ》
 
【譯】赤々と日は照らしているけれども、暗い夜を渡る月の隱れることが殘念である。
【釋】茜刺 アカネサス。既出(卷一、二〇)。枕詞。ここは赤色を帶びる意に日に冠している。
 日者雖照有 ヒハテラセレド。日は照り渡つているが。逆態條件法。
 烏玉之 ヌバタマノ。既出(卷二、八九)。枕詞。
 夜渡月之 ヨワタルツキノ。ワタルは經過するをいう。夜空を渡る月の意で、月は皇子を譬えている。
 隱良久惜毛 カクラクヲシモ。カクラクは隱れること。皇子の薨去を、月の隱れることに譬えている。前の歌の末句と同形を用いている。
【評語】譬喩の形式に依つて、皇子の薨去を、お悼み申し上げている。内容の思想的な點に特色のある作品である。日竝みし皇子の尊の御稱號は、天皇の御もとにあつて皇太子としてましましたことを、日に竝んでおいでになる御方といぅ意味に申し上げたので薨後の謚號のようである。この歌でも「日は照らせれど」で、天皇(490)の嚴としてましますことを述べ、これに對して月とも仰がれる皇子のお隱れになつたことを悼んでいる。その譬喩は適切であるが、一面、日は照つているが、月の隱れるのが惜しいという、實際に起らないことを譬喩とした點には、無理がある。
 
或本、以2件歌1、爲2後皇子尊殯宮之時歌反1也。
 
或る本に、件の歌を、後の皇子の尊の殯の宮の時の歌の反とせり。
 
【釋】或本 アルマキニ。右の歌の性質に關する別傳であるが、いかなる書とも知られない。
 以件歌 クダリノウタヲ。右の茜サスの歌をいぅ。
 後皇子尊 ノチノミコノミコト。高市の皇子。草壁の皇子に對して後の皇子の尊という。
 歌反 ウタノカヘシ。反歌に同じと見られるが、歌の反歌の略稱であるか、または國語にカヘシと言つたかは不明である。
 
或本歌一首
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。上の日竝みし皇子の尊の殯宮の時に柿本の朝臣人麻呂の作れる歌という題詞を受けて、別の書から、同じ作歌事情のもとにある歌を録したと認められる。或る本にこれを前の長歌の反歌として載せている意味であるか否か不明である。またその或る本のいかなる書であるかも知られない。
 
170 島の宮 勾《まがり》の池の 放ち鳥、
 人目に戀ひて 池に潜《かづ》かず。
 
 島宮《シマノミヤ》 勾乃池之《マガリノイケノ》 放鳥《ハナチドリ》
 人目尓戀而《ヒトメニコヒテ》 池尓不v潜《イケニカヅカズ》
 
(491)【譯】島の宮の勾の池の放し飼いにしてある鳥は、人目を戀しがつて、池に潜《くぐ》らない。
【釋】島宮 シマノミヤ。皇子の宮殿である。下に「橘之《タチバナノ》 島宮爾波《シマノミヤニハ》](巻二、一七九)とある。橘は、今、奈良縣高市郡、飛鳥川の左岸にある地で、その地に皇子の宮殿が造營されたのであろう。シマは、庭園、林泉の義で、島の宮は、庭園を作り成した宮殿の義である。
 勾乃池之 マガリノイケノ。マガリノイケは、池の形のまがつているによつていう。まがつている形の餅をマガリということを經由している譬喩だろう。島の宮の御池である。
 放鳥 ハナチドリ。放し飼いにしてある鳥で、池ニ潜カズともあり、水鳥であることが知られる。
 人目尓戀而 ヒトメニコヒテ。皇子の薨去により、人氣うとくなつたので、鳥もさびしげにある意である。
 池尓不潜 イケニカヅカズ。鳥も水に潜らず、悄然としてあるをいう。
【評語】皇子無き跡の宮殿の寂寥を描いている。悲哀を露骨に言わないで、よくその情を寫している。下の、「島の宮池の上なる放ち鳥」(卷二、一七二)の歌と、同じ題材により、しかもこの方が趣が深い。
 
皇子尊宮舍人等、慟傷作歌二十三首
 
皇子の尊の宮の舍人等の、慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首
 
【釋】 皇子尊宮舍人等 ミコノミコトノミヤノトネリラ。ミコノミコトは、日竝みし皇子の尊をいう。この前に柿本の人麻呂の皇子を悼んだ長歌とその反歌とがあつて、その題詞に、日竝みし皇子の尊と御名をあらわしてあるので、ここに單に皇子の尊とのみ書いたのである。その日竝みし皇子の薨逝を悼み悲しんで詠んだ歌である。舍人は、職名で、護衛、雜仕、宿直等に當る。東宮には六百人の舍人が置かれた。當時の制、官仕しようとする者を、まず舍人としたので、その位置は低いが、有爲の青年もこれにはいつている。柿本の人麻呂の(492)如きも、この皇子の舍人であつたように考えられる。その作歌二十三首は、一人の作か、多數の人の作か、不明である。人麻呂も加わつているかも知れず、全部人麻呂の作とする説もあるが、それも確認しがたい。
 
171 高光る わが日の皇子《みこ》の
 萬代に 國知らさまし
 島の宮はも。
 
 高光《タカヒカル》 我日皇子乃《ワガヒノミコノ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 國所v知麻之《クニシラサマシ》
 島宮波毛《シマノミヤハモ》
 
【譯】日のように輝く御子なる、わが皇子樣の、萬世に國家を、御統治遊ばすべきであつた、この島の宮はなあ。
【釋】 高光 タカヒカル。枕詞。高大に照り輝く意に、日に冠する。古事記中卷に、「多迦比迦流《タカヒカル》 比能美古《ヒノミコ》」(二九)とあるを初めとし、古歌に例證があり、歌いものから來た語であることが知られる。
 我日皇子乃 ワガヒノミコノ。親愛の意を以つてワガに冠する。ヒノミコは、日のような尊い御子の意に、日竝みし皇子の尊をさす。
 萬代尓國所知麻之 ヨロヅヨニクニシラサマシ。マシは不可能の希望をいうので、萬代に國を領すべきであつたが、事實そうではなかつたことをあらわす。この句は下に續く蓮體法である。
 島宮波毛 シマノミヤハモ。島の宮は、前の歌參照。ハモは、提示し感歎する意の助詞。別けていえは、ハは提示、モは感動。ハで言い出して、モで感動をあらわした言い方で、感迫つて言うに堪えず、言うに及ばない時に使用される。古事記中卷、弟橘比賣の命の歌に、「さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(二五)などある。
【評語】上の方を雄大に敍し、末句に至つて、それを逆轉急折する表現法である。上の方が雄大であればある(493)ほど效果が多い。下の、「天地と共に終へむと思ひつつ」の歌(卷二、一七六)の如きも、同型の歌である。この歌、マシの一語を除けば、祝賀の意となり、千代かけて君の國家を統治せらるべき宮をほめる意となる。その然らざる所以は、實にマシにそうあるべくしてあり得なかつたの意があるからである。マシはみだりに祝賀の歌に使うべからざる所以である。賀茂の眞淵の新築を成つて詠んだ歌に「飛騨匠《ひだたくみ》ほめて作れる眞木柱たてし心は動かざらまし」というのがあるが、この歌など、マシの用法を誤つたもので、動かないことを望むが、動いてしまつたの意になるのである。
 
172 島の宮 上の池なる 放《はな》ち鳥、
 荒《あら》びな行きそ 君|坐《ま》さずとも。
 
 島宮《シマノミヤ》 上池有《ウヘノイケナル》 放鳥《ハナチドリ》
 荒備勿行《アラビナユキソ》 君不v坐十方《キミマサズト》
 
【譯】島の宮の上の池に飼つてある放ち鳥よ、荒び行くな。よし君がおいでならなくても。
【釋】上池有 ウヘノイケナル。上にも下にも池があつて、段々に水が流れ下るのであろう。萬葉考は、池の上なるの誤りとし、現に神田本に「池上有」に作つているが、訂正するにも及ぶまい。一七〇の歌に勾の池とあるも、この池であろう。 放鳥 ハナチドリ。既出(卷二、一七〇)。
 荒備勿行 アラビナユキソ。ナは禁止の助詞。君無くとも、すさび行くなかれの意。
 君不座十方 キミマサズトモ。君は日竝みし皇子の尊。
【評語】遺愛の鳥に、思いを寄せている。倭姫の皇后の御歌、「若草の嬬の念ふ鳥立つ」の歌とも通う所のある歌である。上掲の島ノ宮勾ノ池ノ放チ鳥の歌と、同人の作とも見れば見られる歌である。
【參考】類想。
(494)  御立せし島をも家と住む鳥も荒びな行きそ。年かはるまで(卷二、一八〇)
 
173 高光る わが日の皇子《みこ》の 坐《イマ》しせば、
 島の御門《みかど》は 荒《あ》れざらましを。
 
 高光《タカヒカル》 吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》 伊座世者《イマシセバ》
 島御門者《シマノミカドハ》 不v荒有益乎《アレザラマシヲ》
 
【譯】日のように光り輝く、わが皇子樣が、おいで遊ばされたなら、この島の宮殿は、荒れなかつたろうものを。
【釋】高光吾日皇子乃 タカヒカルワガヒノミコノ。一七一參照。
 伊座世者 イマシセバ。イマシは、動詞イマスの體言形。座はマスとも讀むので、特に伊の字を書き添えたのであろう。
 島御門者 シマノミカドハ。ミカドは宮殿。シマノミカドは、島の宮に同じ。音數の關係で島の御門といつている。
 不荒有益乎 アレザラマシヲ。ヲは感動の助詞。荒れなかつたろうものを。
【評語】高光ルワガ日ノ御子の語は、歌いものから來た熟語であるが、しかし、これに依つて皇子の高大性がよく表現せられ、この歌の如きにおいて、特にそれが有力に響いている。もし君がいましたらというはかない希望の云い方は、挽歌に常に見られる所であるが、この歌では、類型的な感じを抱かせないのは、他の詞句が多く具體的に敍述しているからである。島ノ御門の語も、高光ルワガ日ノ御子の語に對應して一首の内容を壯大にしている。
 
174 外《ヨソ》に見し 眞弓の岡も
(495) 君|坐《ま》せば、
 常《とこ》つ御《み》門《かど》と 侍宿《とのゐ》するかも。
 
 外尓見之《ヨソニミシ》檀乃岡毛《マユミノヲカモ》
 君座者《キミマセバ》
 常都御門跡《トコツミカドト》 侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》
 
【譯】今までは外《よそ》に見ておつた、この眞弓《まゆみ》の岡も、わが皇子の殯宮となつたので、宿直をすることである。
【釋】外尓見之 ヨソニミシ。從來、關係無き地として見ていたの意。
 檀乃岡毛 マユミノヲカモ。マユミは、樹名。マユミノヲカは、眞弓の岡に同じ。御墓所であるが、この歌では、まだ殯宮が置かれてあつて、それについて歌つているのであろう。
 君座者 キミマセバ。亡き皇子を、いますが如くに取り扱つている。
 常都御門跡 トコツミカドト。トコは、恒久不變の意。ツは助詞。トコツミカドは、永久の宮殿。下のトは、としての意。御墓所に殯宮を作るので、常ツ御門という。
 侍宿爲鴨 トノヰスルカモ。侍宿は、漢文から來た熟字で、宮殿に宿泊して非常に備えるをいう。舍人たちは、今はこの殯宮に侍宿するのである。
【評語】亡き人の生前と變わつた生活をするようになつたことを歌つている。これも挽歌の一格であつて、他にも例が多い。この一連の中にも、一七五、一七九、一九三の如きは、この種の歌である。從來何のゆかりも無かつた眞弓の岡が、今は君の御座所となり、そこに宿直するという、舍人としての深い感慨が歌われている。
 
175 夢《いめ》にだに 見ざりしものを、
 おほほしく 宮|出《で》もするか。
 佐日《さひ》の隈廻《くまみ》を。
 
 夢尓谷《イメニダニ》 不v見在之物乎《ミザリシモノヲ》
 鬱悒《オホホシク》 宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》
 佐日之隈廻乎《サヒノクマミヲ》
 
(496)【譯】夢にも思わなかつたものを、鬱々として、出仕をすることだなあ。この佐日の曲り道を。
【釋】夢尓谷 イメニダニ。ダニは、他はおいてこれだけもの意をあらわす助詞。現實はいうまでもなく、夢にもの意。
 不見在之物乎 ミザリシモノヲ。かように檜隈を通つて出勤するとは、夢にも見なかつたの意で、意外の心をあらわしている。
 鬱悒 オホホシク。假字書きの例には、於保保思久、於煩保之久、意保々斯久、大欲寸など書いてある。これによれば、清音に讀むべきことが知られる。煩は、韻鏡外轉第二十二合、脣濁に屬しているが、また字書に符袁切ともあつて、清音にも通じたのである。集中、能煩流、保呂煩散牟など濁音に用い、また於煩呂加爾など清音にも用いている。表意文字として鬱悒は、漢文から來た文字であり、また鬱、不明、不清などの文字に、この語を當てて訓としている。語義は、オホオホシの約言なるべく、明白でない意から、心中の鬱々として晴れがたきをいう。「アマヲトメイザリタクヒノオホホシクツノノマツバラオモホユルカモ
 
」(巻十七、三八九九)の如きは、ぼんやりと見えるのを形容している。心情に関しては心中の鬱々として晴れ難く慰め難きをいう。「多良知子能《タラチシノ》 波々何目美受提《ハハガメミズテ》 意保々斯久《オホホシク》 伊豆知武伎提可《イヅチムキテカ》 阿我和可留良武《アガワカルラム》」(巻五、八八七)の如きその用例で、ここもそれに同じである。
 宮出毛爲鹿 ミヤデモスルカ。ミヤデは、宮中に出ること、出動。「左夫流兒爾《サブルコニ》
サドハスキミガミヤデ
 
之理夫利《シリブリ》」(巻十八、四一〇八)の例は、宮出の後姿を、ミヤデシリブリと言つている。カは感動の助詞。句切。
 佐日之隈廻乎 サヒノクマミヲ。サは接頭語で、日の隈は地名である。意は、檜の生い茂つている山の曲つた隈をいうのであろう。突出した地形が埼であるに對して、入り込んだ地形が隈である。ミはその彎曲してい(497)ることを示す接尾語。この地、普通に檜隈と書く。奈良縣高市郡眞弓村の南方の地名。「佐檜乃熊《サヒノクマ》 檜隈川之《ヒノクマガハノ》 瀬乎早《セヲハヤミ》」(卷七、一一〇九)「佐檜隈《サヒノクマ》 檜隈河爾《ヒノクマガハニ》 駐v馬《ウマトドメ》」(巻十二、三〇九七)など詠まれている。眞弓の岡に赴くに通過した地である。
【評語】ここにも皇子の薨去によつて、意外のことをするようになつたことが敍せられている。孤影悄然として眞弓の岡に通う作者の姿が、よく描き出されている。
 
176 天地と 共に終《を》へむと 念《おも》ひつつ
 仕へまつりし 情《こころ》違《たが》ひぬ。
 
 天地與《アメツチト》 共將終登《トモニヲヘムト》 念乍《オモヒツツ》
 奉仕之《ツカヘマツリシ》 情違奴《ココロタガヒヌ》
 
【譯】天地のある間、これと共に終始しようと思いながら、お仕え申し上げていた心が違つてしまつた。
【釋】天地與共將終登 アメツチトトモニヲヘムト。ヲヘムは、動詞ヲフに將來をいう助動詞ムの添つたもの。天地が無くばやむを得ない。天地のあるあいだはこれと共に終ろうの意で、永久の意味を、具體的な想像によづてあらわしている。天地は變わらないものとする前提のもとに立つている思想である。
 奉仕之 ツカヘマツリシ。皇子に奉仕した意で、連體形。
 情違奴 ココロタガヒヌ。思うところに違つたの意である。
【評語】これも一氣に永久奉仕の信念を描き、最後に至つてそれが期待にはずれたことを述べている。天地と共に終ろうと思いつつ仕え奉つたというのが、いかにも大きな言い方である。
 
177 朝日照る 佐太《さだ》の岡邊に
 群《む》れゐつつ、
 わが哭《な》く涙 やむ時もなし。
 
 朝日弖流《アサヒテル》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》
 群居乍《ムレヰツツ》
 吾等哭涙《ワガナクナミタ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
(498)【譯】日の照る佐太の岡のほとりに、群がつていて、吾等の泣く涙は、やむ時も無い。
【釋】朝日弖流 アサヒテル。實景を敍した句で、次の佐太の岡邊を修飾している。
 佐太乃岡邊尓 サダノヲカベニ。佐太の岡は、眞弓の岡に隣接しており、そこに奉仕の舍人等の控所があつたものと考えられる。下の一八七、一九二にもこの岡の名が見えている。
 群居乍 ムレヰツツ。殯宮奉仕の舍人等が群がつているのである。
 吾等哭涙 ワガナクナミタ。上の群レヰツツを受けて、ワガと言つている。ワガに吾等の字をあててある。訓讀では、吾でも吾等でも變りは無いが、上に群レヰツツとあるので、原文に吾等と用いたものである。吾等をワガと讀むものは、他にも例がある。そして事實は複數の吾であることを語つている。「野島我埼爾《ノジマガサキニ》 伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》」(卷三、二五〇)、「何野邊爾《イヅレノノベニ》 廬將v爲吾等者《イホリセムワレ》」(卷六、一〇一七)、「水名沫如《ミナワノゴトシ》 世人吾等者《ヨノヒトワレハ》」(卷七、一二六九)。涙は、古事記に那美多、日本書紀に那彌多とあり、いずれもタは清音である。本集では、那美多(卷五、七九八)、奈美太(卷二十、四三九八、四四〇八)とある。
 息時毛無 ヤムトキモナシ。悲涙の絶えず流れるをいう。
【評語】朝日の光のもとに、白い喪服を著た多勢の壯士の泣くのは、悲壯である。夜の勤番を終えてか、または、これからの奉仕かは記述されていないが、多數の壯士が、ここに集合して、そのどの人も慟哭している。東宮の舍人は、有爲の青年が多くはいつていると考えられるが、それらの群衆慟哭を描いた、珍しい作品である。
 
178 御立《みたち》せし 島を見る時、
 行潦《にはたづみ》 流るる涙 止《と》めぞかねつる。
 
 御立爲《ミタチセシ》 島乎見時《シマヲミルトキ》
 庭多泉《ニハタヅミ》 流涙《ナガルルナミタ》 止曾金鶴《トメゾカネツル》
 
(499)【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園を見る時、流れる涙は止めがたい。
【釋】御立爲 ミタチセシ。この句は、下の一八〇、一八一にもあり、同一の字面を使用し、一八八には、御立之と書いている。ミタチセシは舊訓であるが、ミタタシシ(考)、ミタタシノ(講義)等の諸訓がある。ミタタシシのタタシシは、用言であるから、それに接頭語ミの附著することなく成立しない。ミタタシノは、「御執乃《ミトラシノ》 梓弓能《アヅサユミノ》」(卷一、三)の例もあるが、それは現在の性質をいうのであつて、ここに過去の事實をいうに合わない。よつて舊訓をよしとする。ミタチは、ミユキ(行幸、御幸)と同一組織の語であつて、本集には、「舶騰毛爾《フナトモニ》 御立座而《ミタチイマシテ》」(卷十九、四二四五)があり、それも、ミタチイマシテと讀まれる。また垂仁天皇の山陵を、古事記に、菅原の御立野の中にありとし、高市の皇子の御墓の所在を三立の岡といい、播摩國風土記に「御立阜、品太天皇登2於此阜1覽v國。故曰2御立岡1」、古事記下卷、仁徳天皇記に「爾天皇、御2立其大后所v坐殿戸1」とあるなどミタチと讀まれる例が多く、この語の存在し使用されたことが證明される。皇子の生前、お立ちになつた島の意に、次の句の島を修飾する。
 島乎見時 シマヲミルトキ。シマは、林泉庭園の義。いわゆる島の宮と呼ばれる宮殿の島である。
 庭多泉 ニハタヅミ。枕詞。流れるに冠する。倭名類聚砂に、「唐韻云、潦、和名爾波大豆美、雨水也」とあり、本集に「甚多毛《ハナハダモ》 不v零雨故《フラヌアメユヱ》 庭立水《ニハタヅミ》 大莫逝《イタクナユキソ》 人之應v知《ヒトノシルベク》」(卷七、一三七〇)、「爾波多豆美《ニハタヅミ》 流※[さんずい+帝]等騰未可禰都母《ナガルルナミダトドミカネツモ》」(卷十九、四一六〇)など使用せられている。雨が降つて急に出る水であるが、語義については、ニハを、俄の義とする説と、前庭の義とする説とがある。いずれとも決しかねるが、庭の字を書いているのは、そういぅ語原意識があつたとも取れる。タツミのタツは、ユフダチ(夕立)のタツと關係あるべく、古義に、夕立などの際に庭に水の流れるのを、タツミガハシルという方言があると言つている。
 流涙 ナガルルナミタ。慟哭して落ちる涙であるが、自動的に流れるように敍している。
(500) 止曾金鶴 トメゾカネツル。トメは、停止する意の動詞の連用形。ゾは係助詞。カネは得ざる意の動詞。ゾを受けてツルと結んでいる。トドメカネツともいうべきを、中間にゾを入れていう例は、「奈麻強爾《ナマジヒニ》 常念弊利《ツネニオモヘリ》 在曾金津流《アリゾカネツル》」(卷四、六一三)の如きがあり、他の助詞を入れるものには、「君之使乎《キミガツカヒヲ》 待八兼手六《マチヤカネテム》」(同、六一九)の如きがある。
【評語】前の歌の、ワガ泣ク涙止ム時モ無シの率直雄勁なのにくらべて、流ルル涙止メゾカネツルには、曲折があり、止めようとしても止まらないさまが寫されている。ニハタヅミの語は、枕詞ではあるが、多く出る水の語義から、涙の多量であることを描くに役立つている。これは個人の立場で詠んだ歌である。
 
179 橘の 島の宮には 飽《ア》かねかも、
 佐太《さだ》の岡邊に 侍宿《とのゐ》しに行く。
 
 橘之《タチバナノ》 島宮尓者《シマノミヤニハ》 不v飽鴨《アカネカモ》
 佐田乃岡邊尓《サダノヲカベニ》 侍宿爲尓往《トノヰシニユク》
 
【譯】橘の島の宮には飽きないのに、佐太の岡邊に侍宿しに往くことであるか。
【釋】橘之 タチバナノ。橘は地名、島の宮の所在地奈良縣高市郡飛鳥の地で飛鳥川の左岸に當る。その川を隔てた對岸の島莊村が、島の宮の舊址に擬せられているが、その邊を含めて橘と言つたか、または島の宮の舊址を他に求むべきかは、問題とされる。日本書紀推古天皇紀に、蘇我の馬子について、「家2於飛鳥河之傍1、庭中開2小池1、仍興2小島於池中1、故時人曰2島大臣1」とあり、飛鳥川の水を利用して池を作つたことが傳えられている。今の島の宮が、その蘇我の馬子の邸地であつたか否かは不明であるが、池の造られたのは、やはり飛鳥川の水が利用されたのであろう。然らば飛鳥川に接して構成されたものなるべく、その河邊を橘と稱したことが推考される。
 不飽鴨 アカネカモ。アカネは、飽き足らない、不十分の意。ネは打消の助動詞ヌの已然形。アカネバカの(501)意で、カモは疑問の係助詞。ネバに、已然順態條件法のと、逆態條件法にヌニの意に解すべきがある如く、このネバは、ヌニと解すべき方である。すなわち飽きないのにかと譯すべきである。飽きないのに侍宿しに行くことかの意。島の宮での奉仕は滿足しないのにか。
 佐田乃岡邊尓 サダノヲカベニ。既出(卷二、一七七)。そこに舍人等の奉仕すべき宿舍があつたようである。
 侍宿爲尓往 トノヰシニユク。トノヰは既出(卷二、一七四)。そのために行くのである。
【評語】これも薨後意外の勤仕をする意味が歌われている。橘は地名であるが、この語を冠して島の宮の印象を深くしている。その美しい宮殿を捨てて何の希望も無い佐太の岡に侍宿しに行く寂寥感が歌われている。
 
180 御立《みたち》せし 島をも家と 住む鳥も、
 荒《あら》びな行きそ。
 年|易《かは》るまで。
 
 御立爲之《ミタチセシ》 島乎母家跡《シマヲモイヘト》 住鳥毛《スムトリモ》
 荒備勿行《アラビナユキソ》
 年替左右《トシカハルマデ》
 
【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園を、わが家として住む鳥も、野性に歸つて行くな、年が變わるまでも。
【釋】御立爲之 ミタチセシ。既出(卷二、一七八)。
 島乎母家跡住鳥毛 シマヲモイヘトスムトリモ。この宮の林泉をも、おのが家として住む鳥もで一七二の歌にあつた放ち鳥の水鳥をいう。
 荒備勿行 アラビナユキソ。既出(卷二、一七二)。
 年替左石 トシカハルマデ。トシカハルは、翌年になるをいう。左石をマデと讀むのは、左右手の義である。既出(卷一、三四)。
(502)【評語】遺愛の鳥につけて思いを述べている。一七二と類想の歌。ありし日の姿のままにその鳥を眺めて、亡き君を思おうとする心が歌われている。
 
181 御立《みたち》せし 島の荒礒《ありそ》を 今見れば、
 生《お》ひざりし草 生ひにけるかも。
 
【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園の荒い岩組を、今見れば、御在世の時には生えなかつた草も、長く生えたことだなあ。
【釋】御立爲之 ミタチセシ。既出(巻二、一七八)。
 島之荒礒乎 シマノアリソヲ。シマは庭園林泉の義。アリソはアライソの約で、イソは、岩石の重なりあつている處。アラはその形容で、けわしい氣分に用いる。荒礒は、後には海についた處にのみ用いちれているが、古くは庭園にも、川などにも用いる例である。
 今見者 イマミレバ。眞弓の岡の方へ行つており、しばらく見なかつたことが、この句であらわされている。
 不生有之草 オヒザリシクサ。以前御在世の時は、草なども生えなかつたものであるがの意に、生ヒザリシ草といつている。
 生尓來鴨 オヒニケルカモ。今は既に生えていることを歎息している。
【評語】四五句に、オヒを重ねて用いたのは、感慨の調子を深くするに足りる。從來生えなかつた草が生えたといつてはいるが、それは畢竟氣分の問題で、目前に生えている草に荒涼の氣を感じたのである。皇子の薨去には關係無く、草は生えるのであるが、それを今は荒涼たるものに感ずるので、荒涼たるは、自然にあらずして、作者の心に發する所である。「はしきかも皇子の命のあり通ひ見しじ活道の路は荒れにけり」(卷三、四七(503)九)の歌の如きも同樣に、君去つて山路の荒れたのを歎じている。人の死後に、すべてが變わつて感じられる心が歌われている。
 
182 鳥〓《トクラ》立て 飼ひし雁の兒、
 巣立ちなば、
 眞弓の岡に 飛び歸り來《こ》ね。
 
 鳥〓立《トクラタテ》 飼之雁乃兒《カヒシカリノコ》
 栖立去者《スダチナバ》
 檀岡尓《マユミノヲカニ》 飛反來年《トビカヘリコネ》
 
【譯】鳥小舍を立てて、飼ひ育てたカリが、巣立つて飛べるようになつたならば、御墓所の檀の岡に飛んで來るがよい。
【釋】鳥〓立 トクラタテ。〓は、美夫君志に栖の俗字としている。しかし下に栖の字が使われているから、別字とするのがおだやかである。トクラは、倭名類聚鈔に、「孫※[立心偏+面]切韻云、穿v垣栖v鷄曰v塒。音時、和名止久良」とある。鳥を据えておく所で、鳥座すなわち、鳥の居場所の義である。集中「枕附《マクラツク》 都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》 鳥座由比《トクラユヒ》 須恵※[氏/一]曾我飼《スヱテゾワガカフ》 眞白部乃多可《マシラフノタカ》」(巻十八、四一五四)とある。タテは、それを設ける意。
 飼之雁乃兒 カヒシカリノコ。カリノコは雁で、コは愛稱であるが、カリを育てるということ、無いでもあるまい。カリというのも水鳥の汎稱で、生育して放ち鳥にするものと解せられる。枕の草子にカリノコというのは、アヒルのことというが、ここでは、カモ、オシドリなどだろう。代匠記には、鷹の古字に雁があつて、雁の字と極めてよく似ているとて、※[麻垂/雁の中]《たか》の誤りとしている。鳥座を立てて鷹を飼うことは、前項の巻の十七の例にもあり、狩獵に用いるためとしてあり得ることである。
 栖立去者 スダチナバ。鳥の雛が、巣から飛べるようになるのを、巣立つという。生長して自分で飛べるようになつたならば。
(504) 檀岡尓 マユミノヲカニ。皇子の御墓所なる眞弓の岡に。
 飛反來年 トビカヘリコネ。トビカヘリは、飛びひるがえる義で、飛翔するに同じ。コネは、動詞來に、希望の助詞ネの接續したもの。
【評語】これも遣愛の鳥について歌つている。鳥に對して歌つている形を採つているのは、古歌にしばしば見る所で、自然に寄せる歌人の心のあらわれである。
 
183 わが御門《みかど》、
 千代とことばに 榮えむと、
 念《おも》ひてありし 吾《われ》し悲しも。
 
 吾御門《ワガミカド》
 千代常登婆尓《チヨトコトバニ》 將v榮等《サカエムト》
 念而有之《オモヒテアリシ》 吾志悲毛《ワレシカナシモ》
 
【譯】このわたしのお仕え申しあげる御殿は、永久に榮えるであろうと思つていた、そのわたしは悲しいことだ。
【釋】吾御門 ワガミカド。ワガは、親愛の意の表示として冠している。わが國などいう場合のワガに同じ用法である。ミカドは宮殿をいう。島の宮をさしていう。
 千代常登婆尓 チヨトコトバニ。チヨは千代で、永い年月をいう。トコトバは、舊説にトコツイハの約でトコトハとハを清音に讀むべく、トコは常久の意、イハは磐石であるといつている。しかし然らば、トコチはというべきに常登婆と書き、佛足跡歌碑にも、止己止婆と書いてあるから、この説は疑わしく、れを濁音に讀むべきである。語の意味が、常久であることは變わらない。
 將榮等念而有之 サカエムトオモヒテアリシ。皇子が生存しておいで遊ばされたらば、自然この宮殿も榮えるので、そうあるであろうと、將來の榮華を期待している意で、連體形の句である。トは、初句から榮エムま(505)でを受けている。
吾志悲毛 ワレシカナシモ。上のシは強意の助詞。期待にそむいて、皇子が薨去されたので、みずから悲しむ意である。モは感動の助詞。
【評語】これも上から大きく敍し、最後に逆折する表現法の歌である。初句は、二三句に對する主格であるが、まず提示して全體の主題であることを示している。みずから顧みて心中を敍している。
 
184 東《ひむかし》の 激流《たぎ》御門に 候《さもら》へど、
 昨日も今日も 召すことも無し。
 
 東乃《ヒムカシノ》 多藝能御門尓《タギノミカドニ》 雖伺侍《サモラヘド》
 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 召言無毛《メスコトモナシ》
 
【譯】東方の水の落ちる處にある御門に、伺候しているけれども、昨日も今日も、お召しになることがない。
【釋】東乃 ヒムカシノ。ヒムカシは、日に向かう方の義で、東方の意。
 多藝能御門尓 タギノミカドニ。タギは、水の激し流れるところ。今いう直角的に落下する水の謂ではない。ミカドは、この歌では御門で、門を守つている意である。この御門は、島の宮の御門で、池の水などの近く流れ落ちる處にある門である。この水は、多分飛鳥川の方へ落ちるものなるべく、これに依つて、島の宮が、飛鳥川の西岸にあつたことが考えられる。
 雖伺侍 サモラヘド。伺候して待つているけれども。サモラフは、動詞守ルの連續状態を示すモラフに、接頭語サが附いたのである。その動詞守ルは、元來、目で注意する、注視するの意の語であり、そこに注意し緊張して伺候する本意が存している。
 昨日毛今日毛召言毛無 キノフモケフモメスコトモナシ。生前はお召しになることも多かつたが、薨去の後は、毎日何等のお召しもない物足りなさが敍せられている。
(506)【評語】舍人としての奉仕が、初三句に具體的に描かれているのがよい。四五句は、皇子が薨去されて、自然御用無く、手持無沙汰に寂寥の念を禁じ得ない状を寫している。直接に皇子の薨去をいわず、自己の悲哀を語らず、ただ身上を敍述したのみで、しかも悲哀をよく表出している。
【参考】類想。
  はしきやし榮えし君の坐《いま》しせば昨日も今日も吾《わ》を召さましを(巻三、四五四)
 
185 水|傳《つた》ふ 礒の浦廻《うらみ》の 石躑躅《いはつつじ》、
 茂《も》く咲く道を またも見むかも。
 
 水傳《ミヅツタフ》 礒乃浦廻乃《イソノウラミノ》 石上乍自《イハツツジ》
 木丘開道乎《モクサクミチヲ》 又將v見鴨《マタモミムカモ》
 
【譯】水邊の岩の多い浦めぐりの石《いわ》ツツジ、茂く咲く道をまた見ることもあろうか。
【釋】水傳 ミヅツタフ。水に沿う意で、次の礒の説明修飾の句。水邊の意。
 礒乃浦廻乃 イソノウラミノ。池について、石の多い浦をさしている。ミは接尾語。
 石上乍白 イハツツジ。倭名類聚鈔に、「陶隱居曰、羊躑躅 擲直二音以波都々之」と見えている。石上の二字をイハに當てている。
 木丘開道乎 モクサクミチヲ。コクサクミチヲ(拾)、森閑道乎《シジニサクミチヲ》(考)。モクは茂くの意の形容詞。日本書紀神代の上に、扶疏にシキモシ、應神天皇紀に、芳草※[草冠/會]蔚にモクシゲシの古訓があつて、モシという形容詞のあつたことが知られる。ここは花の繁く咲く形容に使用されている。
 又將見鴨 マタモミムカモ。マタミナムカモ(考)。またも見ようか、疑わしいの意。
【評語】皇子薨去の後は、この宮に來ることもなくなるから、二度と見る機會もあるであろうかと疑つている。ツツジの花の盛りに、島の宮に別れを告げる寂しい心が味わわれる。
 
(507)186 一日《ひとひ》には 千遍《ちたび》參入《まゐ》りし
 東の 大き御門《みかど》を 入りがてぬかも。
 
 一日者《ヒトヒニハ》 千遍參入之《チタビマヰリシ》
 東乃《ヒムカシノ》 大寸御門乎《オホキミカドヲ》 入不v勝鴨《イリガテヌカモ》
 
【譯】かつては一日に千度も參入した、東方の大きい御門を入るに堪えないことである。
【釋】一日者 ヒトヒニハ。皇子生前のある一日には。
 千遍參入之 チタビマヰリシ。チタビは、度數の多いのをいう。マヰリは、マヰイリの約言。宮門に入るをいう。御用によつて、出入をするので、自然數多く參入した意である。
 大寸御門乎 オホキミカドヲ。タキノミカドヲ(西)。註疏にオホキミカドニと讀んだのがよい。オホキは、大きい意の形容詞。ミカドは、宮門をいう。タギノミカドヲと讀む説があるが、それには寸の下に字を補わねばならない。前にタギノ御門はあつたが、この歌では、門を入るという所に主題があるから、大きい門と視覺に訴えた方がよいのである。但しその門は、前の、タギノ御門と同じ門である。
 入不勝鴨 イリガテヌカモ。ガテヌは、可能の意の助動詞カツに、打消の助動詞ヌの接續したもの。入ることができないなあ、入るに堪えないなあの意。ガテヌの假字書きの例には、「比等國爾《ヒトクニニ》 須疑加弖奴可母《スギガテヌカモ》 意夜能目遠保利《オヤメヲホリノ》」(巻五、八八五)、道乃長道波《ミチノナガヂハ》 由佳加弖奴加毛《ユキガテヌカモ》」(巻二十、四三四一)などある。
【評語】同じ東の御門にしても、伺候していて昨日も今日も召すこともなしという時には、水聲の耳につくことを歌つて、激流の御門といい、今その門前に來て逡巡することを敍しては、大き御門と歌つている。自然にして最適切なる語が選定されている點に注意すべきである。
 
187 由縁《つれ》も無き 佐太《さだ》の岡邊に
(508) 反《かへ》り居ば、
 島の御階《みはし》に 誰《たれ》か住まはむ。
 
 所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》
 反居者《カヘリヰバ》
 島御橋尓《シマノミハシニ》 誰加住※[人偏+舞]無《タレカスマハム》
 
【譯】何の縁故もない佐太の岡のほとりに、移りいたならば、かのお庭の御階《みはし》には、誰が住むだろうか。
【釋】所由無 ツレモナキ。縁故、由縁の無い。もと無かつたのであつて、今は墓所となつているのであるが、概括的に由縁モ無キといつたのである。この句もヨシモナキと讀むべきか。
 反居者 カヘリヰバ。カヘリは、本來おるべき處に移るをいう。今は御墓の邊をわが勤め處とすれば、そこに移りいるならばとである。今たまたま島の宮に來て詠んでいる立場である。
 島御橋尓 シマノミハシニ。シマは庭園で、島の宮の庭園をいう。ミハシはミは接頭語。ハシは階段の意で、御殿から、庭上におりる階段のもとに、舍人は伺候していたのであるが、今吾等がかく墓所に移つたならば、何人がその階段に伺候するであろうかの意である。
 誰加住※[人偏+舞]無 タレカスマハム。住※[人偏+舞]は、二字でスマハの音を表示している。スマハムは、佳ムの連続状態を示す住マフの未然形に助動詞ムの接續したもの。誰が住むならむか、誰も住む人はあるまいの意。
【評語】これも島の宮に別れを惜しみ、その人無き宮殿として荒れることを悲しんでいる。舍人として感慨無量の所である。
 
188 たな曇り 日の入りぬれば、
 御立《みたち》せし 島におり居て
 嘆きつるかも。
 
 旦覆《タナグモリ》 日之入去者《ヒノイリヌレバ》
 御立之《ミタチセシ》 島尓下座而《シマニオリヰテ》
 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
(509)【譯】空一面にかき曇つて、日が隱れたから、生前お立ち遊ばされた庭園に立つて、嘆息をしたことである。
【釋】旦覆 タナグモリ。童蒙抄には、アサグモリと讀み、美夫君志には、タナグモリと讀んでいる。旦は字書 n の韻だからナとなるのである。日の入るということ、朝とするよりタナの方が適している。覆は、蔽う意の字であるので、クモリに使用している。タナグモリは、一面に曇ること。
 日之入去者 ヒノイリヌレバ。ヒノイリユケバ(西)。日の雲に隱れた意に、皇子の薨去をたとえている。但し同時に、今この宮殿に來た時の實景でもあるであろう。すなわち實景を敍して譬喩としたと見るべきである。
 御立之 ミタチセシ。前に御立爲之とあつたのと同じく、ミタチセシと讀むべきである。ミタタシノではない。
 島尓下座而 シマニオリヰテ。庭園におり立つて。
 嘆鶴鴨 ナゲキツルカモ。嘆息をしたことであるよの意。ナゲクは長い息をつくこと。ツルカモに鶴鴨の字をあてている。
【評語】實景を敍して譬喩とし、巧みに嘆クの伏線としている。舊殿の林泉に立つて、亡き君を慕う情がよく描かれている。内容の豊富な作である。
 
189 朝日照る 島の御門《みかど》に
 おほほしく 人音《ひとおと》もせねば、
 まうら悲《がな》しも。
 
 旦日照《アサヒテル》 島乃御門尓《シマノミカドニ》
 鬱悒《オホホシク》 人音毛不v爲者《ヒトオトモセネバ》
 眞浦悲毛《マウラガナシモ》
 
【譯】朝日の照り渡る島の御殿に、鬱々として、人の物音もしないから、悲しいことである。
(510)【釋】旦日照 アサヒテル。實景である。
 島乃御門尓 シマノミカドニ。一七三の島の御門と同じく、島の宮をいう。このミカドは宮殿の意である。
 鬱悒 オホホシク。既出(巻二、一七五)。
 人音毛不爲者 ヒトオトモセネバ。ヒトオトは、人の發する音聲。物の音など。しんとして人の住むようすが無いのである。人がいないのではない。いても悲しみにとざされて何等の物音も立てないのである。
 眞浦悲毛 マウラガナシモ。マは、完全性をあらわす接頭語。ウラは表面にあらわれない心中のことをいうに使う。表に出ては泣きもしないけれども、心中の悲哀に打たれたことを示している。
【評語】大きな宮殿の中に、朝日が照り渡つて、人音もしない寂しさを歌つている、。朝日の照るは、實景であろうが、悲哀感を大きくするのに役立つものである。男性的な悲哀がよく描寫されている。末句の、マウラ悲シモと言い切つたのも強い言い方である。
 
190 眞木柱《まきばしら》 太《ふと》き心は ありしかど、
 このわが心 しづめかねつも。
 
 眞木柱《マキバシラ》 太心者《フトキココロハ》 有之香杼《アリシカド》
 此吾心《コノワガココロ》 鎭目金津毛《シヅメカネツモ》
 
【譯】この眞木柱のような、ふといしつかりした心があつたのだが、今は、このわが心をしずめかねたことだ。
【釋】眞木柱 マキバシラ。枕詞。マキは、立派な木。その柱で、太キを修飾する。皇子の宮殿にあつて、目前にふとい宮柱を見、これを採つて枕詞に利用している。それゆえにただ次の句を引き起す任務のみでなく、一方には、敍述の性格をも有している。
 太心者 フトキココロは。フトキココロは、物に動かされないしつかりした心である。集中、他に用例を見ない。
(511) 有之香杼 アリシカド。かつてはあつたけれども。
 此吾心 コノワガココロ。上の太キ心を受けて、その立派な心であつたわが心と、強く指摘している。
 鎭目金津毛 シヅメカネツモ。鎭靜することができなかつた。皇子の薨去にあつて、心の動揺するのを抑制し得なかつたの意である。
【評語】男子としては、物に動ぜぬ、驚かない心、悲喜を表面に出さない心、そういう心をよしとしていたことが知られる。その心が、情に負けて亂れることを敍した點に、悲涙がある。宮殿にあつて眞木柱を眼前に見、それをただちに枕詞として使用して歌を起しているのは、巧みであり、效果的である。
 
191 褻衣《けごろも》を 時片設《ときかたま》けて 幸《い》でましし
 宇陀《うだ》の大野《おほの》は
 思ほえむかも。
 
 毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》 春冬片設而《トキカタマケテ》 幸之《イデマシシ》
 宇陀乃大野者《ウダノオホノハ》
 所v念武鴨《オモホエムカモ》
 
【譯】狩獵の時節を待つて、おいでになつた、あの宇陀の大野は思われることであろうなあ。
【釋】毛許呂裳遠 ケゴロモヲ。枕詞。語義は、ケゴロモを毛衣の義とし、獣皮で製した衣服であろうとされている。しかしそれはカハゴロモの語があり、ケゴロモとはいわない。これは、褻衣で、著古した衣服をいうものと思われる。この語は、本集には無いが、神樂歌の弓立の歌に、「すめ神はよき日祭れば明日よりはあけの衣をけごろもにせむ」、賀茂保憲女集に「ふるさとへ秋はかへりぬ。ぬさひける山の錦をけごろもにして」などある。さて著古した衣を解くというので、次句のトキに冠する。「橡之《ツルバミノ》 衣解洗《キヌトキアラヒ》 又打山《マツチヤマ》」(巻十二、三〇〇九)、「由布佐禮婆《ユフサレバ》 安伎可是左牟思《アキカゼサムシ》 和伎母故我《ワギモコガ》 等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》 由伎弖波也伎牟《ユキテハヤキム》」(巻十五、三六六六)など、古衣を解く意の歌がある。
(512) 春冬片設而 トキカタマケテ。
   ハルフユカケテ(神)
   ハルフユマケテ(西)
   ハルフユカタマケテ(代)
   ――――――――――
   春冬取設而《ハルフユトリマケテ》(考)
   春片設而《ハルカタマケテ》(新考)
 片設而を、カタマケテと讀むべしとせば、春冬の二字には二音が配當される。よつてその一字が傍書から誤つてはいつたのだとする説もあるが、それは證の無いことである。よつてここには二字を合わせてトキと讀む。時節の意である。春冬の二字を書いたのは、生前の御事蹟について述べているのであるから、實際、春季および冬季に宇陀の野に出遊せられたことがあつて、それを想起しているのであろう。カタマケテは、時に關する語に附して使用せられ、その意は、攷證に、方儲にてその時を待ち設けたのであるといい、新考には、自動詞で、近づいてという意であろうと言つている。集中の例、「秋田《アキノタノ》 吾苅婆可能《ワガカリバカノ》 過去者《スギヌレバ》 雁之喧所v聞《カリガネキコユ》 冬片設而《フユカタマケテ》」(巻十、二一三三)などは、自動詞としても聞えるが、この歌の如きは、春冬をいかに讀むとも、近づきての意としては解し難い。やはり待ち設ける意とするを可とする。なお時片設クの例には「鶯之《ウグヒスノ》 木傳梅乃《コヅタフウメノ》 移者《ウツロヘバ》 櫻花之《サクラノハナノ》 時片設奴《トキカタマケヌ》」(巻十、一八五四)がある。
 幸之 イデマシシ。出遊されたことをいう。下のシは時の助動詞。この出遊は、狩獵の目的であろう。
 宇陀乃大野者 ウダノオホノは。宇陀ノ大野は、奈良縣宇陀郡大野で、卷の一に輕の皇子の出遊された安騎野なども、その一部である。何の年に出遊されたかは不明である。
 所念武鴨 オモホエムカモ。動詞オモホユの未然形に助動詞ムと感動の助詞カモとが接續している。思われるだろうなあ。
【評語】後はたして日竝みし皇子の御子である輕の皇子(文武天皇)が宇陀の大野の一部の安騷野に宿られる(513)ことがあり、柿本の人麻呂がそこで往時を追憶して歌を詠んでいる。その中の一首、「日竝みし皇子の尊《みこと》の馬竝めて御獵《みかり》立たしし時し來向かふ」(卷一、四九)は、直接にこの歌と照應するものである。人麻呂は、この日竝みし皇子の尊の出遊にも隨行していたのであろう。またこの事は、この一連が、人麻呂の作であろうとする説の一の根據にもなるものである。
 
192 朝日照る 佐太の岡邊に 鳴く鳥の、
 夜鳴《よなき》かはらふ。
 この年ごろを。
 
 朝日照《アサヒテル》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》 鳴島之《ナクトリノ》
 夜嶋變布《ヨナキカハラフ》
 此年己呂乎《コノトシゴロヲ》
 
【譯】朝日の照る佐太の岡のほとりに鳴く鳥の、夜鳴く聲が變わつている。この年頃を。
【釋】鳴島之 ナクトリノ。次の句に對して主格になつている。朝鳴く鳥で、小鳥の類である。ここまでを序詞と見る説は誤りである。
 夜鳴變布 ヨナキカハラフ。その鳥が、夜は鳴き聲が變わるというのである。カハラフは、動詞變ルの連續状態をあらわす語。朝日のもとに鳴く鳥が、夜は聲を變えて鳴くことを敍している。皇子の御墓となつたので、その隣の佐太の岡でも、鳥が夜になると、悲しい聲で鳴くの意。句切。
 此年己呂乎 コノトシゴロヲ。コロは、時のあいだをいう。コノゴロの語が數日をいうに徴すれば、トシゴロは數年の意になるが、實際には、翌年にかけてもいうので、ここも翌年にわたつてである。ヲは、なるものをの意の格助詞である。
【評語】夜間、御墓所に詰めていると、天地の寂寞たる中に、鳥の聲のみ、悲しげに鳴くのが聞える。その鳥は勿論悲しくて鳴くのではないが、聞く人の心が悲痛に沈んでいるので、鳥の聲までも悲しく聞える。朝鳴く(514)鳥とは鳥が違うのであるが、それを鳥も夜になると一層悲しげに鳴くという所に、歌人の心がある。鳥の聲に悲しみがあるのではなくて、聞く人の心に悲しみがあるのである。
 
193 畑子《はたこ》らが 夜晝《よるひる》といはず 行く路《みち》を、
 われはことごと 宮道《みやぢ》にぞする。
 
 八多籠良我《ハタコラガ》 夜畫登不云《ヨルヒルトイハズ》 行路乎《ユクミチヲ》
 吾者皆悉《ワレハコトゴト》 宮道敍爲《ミヤヂニゾスル》
 
【譯】農夫等が、夜とも畫ともいわず、行く路であつたものを、今は自分が全く出仕する道とする。
【釋】八多籠良我 ハタコラガ。從來ヤタコラガと讀まれ、ヤタコは、ヤツコの轉で、ヤツコは、家つ子の義で、家に屬する人の意から、奴婢の意に轉じたと考えられていた。しかしヤツコをヤタコというとするのは難點である。またハタゴラガと讀み、ハタゴは旅籠で、旅行用の食物などを運ぶ籠だともいうが、これは二句への續きがわるい。今橋本四郎氏の説(萬葉)によつて、ハタコラガと讀み、ハタコは畑子で、はたけにはたらく人、農夫の意であるとするによる。ラは、接尾語。
 夜畫登不云 ヨルヒルトイハズ。夜となく晝となく。晝夜を分たず。次の句の行クを修飾している。
 行路乎 ユクミチヲ。行く道なるをの意で、通行すべしとも思わなかつた道路の意である。「夢にだに見ざりしものをおほほしく宮出もするか。さ檜の隈みを」(巻二、一七五)の歌と、同様の思想を歌つている。
 吾者皆悉 ワレハコトゴト。コトゴトは、文字通り皆悉。悉皆で、體言の形を採つているが、次の句に對して副詞となつている。このコトゴトは、「月累《ツキカサネ》 憂吟比《ウレヘサマヨヒ》 許等許等波《コトコトハ》 斯奈奈等思騰《シナナトオモヘド》」(巻五、八九七)の例は助詞ハを伴なつているが、下の詞句を限定する點においては同じである。講義に、我等悉くがの意としているのは誤りである。
 宮道敍爲 ミヤヂニゾスル。ミヤデは、宮に行く道。ここは、御墓所の傍の勤仕の屋所を、宮といつて、出(515)勤の道というほどに用いている。
【評語】この歌、皇子の薨去によつて、思いもしなかつたことをするようになつたことを述べている。農夫の通常通行する道を宮路にするというので、非常の状態をえがく。以上日竝みし皇子を悼んだ舍人等の歌は、中には意味に疑問のあるのもあるが、大體においては、よくそろつた歌である。内容の傾向は、遣物について思いをやるものと、薨去によつて從來思わなかつた變わつた生活をすることを敍したものとがある。而して長い別れとなつてまた見るを得ないという意味のものがないのは、作者が臣下である關係から、親しくいうことを憚つたのでもあろう。一面に、古の挽歌に、そういう意味のものの無いことも考えられる。死によつて、人格の消滅しないことを信ずるに由るものであろう。
 
右日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未、薨。
 
右は、日本紀に曰はく、三年己丑の夏四月癸未の朔にして乙未の日、薨りましき。
 
【釋】右日本紀曰 ミギハニホニギニイハク。以下日本書紀持統天皇紀の文を要約して記している。日本書紀の原文は、「夏四月癸未朔」とありて、他の記事があり、次に、「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」とある。乙未は十三日である。
 
柿本朝臣人麻呂、獻2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌一首 并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、泊瀬部《はつせべ》の皇女《ひめみこ》、忍坂部《おさかべ》の皇子《みこ》に獻《たてまつ》れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】泊瀬部皇女 ハツセベノヒメミコ。天武天皇の皇女。日本書紀、天武天皇紀下に「次宍人臣大麻呂女※[木+疑]媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基皇女1」とあるに(516)よれば、忍壁の皇子の妹であるが如くであるが、この題詞に「泊瀬部皇女忍坂部皇子」と序したのは、皇女の方が御姉であるのであろうか。この皇女は天平十三年三月に薨じた。歌は傳わらない。左註の或る本に、河島の皇子の薨去に際して泊瀬部の皇女に獻つたとあるによれば、河島の皇子の妃であつたのであろう。この題詞にはいかなる時に獻つたとも記されていないが、これも、左註の或る本にいうように、河島の皇子の薨去の時の歌と見るべきであろう。
 忍坂部皇子 オサカベノミコ。本集、また日本書紀に、忍壁の皇子とも記し、続日本紀に刑部の親王とあるも同人である。泊瀬部の皇女と同母の所生である。天武天皇の十年三月、勅して帝紀および上古の諸事を記し定めしめられた人々の中に入り、後、律令の撰定にも参加された。慶雲二年五月に薨じた。この歌が、河島の皇子の薨去の際の歌とすれば、どのような關係で、この皇子の名がここに記されているか不明であるが、特に親密の關係があつて、その葬事に關與されたものかも知れない。
 
194 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の河の
 上《かみ》つ瀬に 生ふる玉藻は、
 下《しも》つ瀬に 流れ觸らふ。」
 玉藻なす か寄りかく寄り
 靡かひし 嬬《つま》の命《みこと》の
 たたなづく 柔膚《にきはだ》すらを、
 劍刀《つるぎたち》 身に副《そ》へ寐《ね》ねば、
 ぬばたまの 夜床《よどこ》も荒るらむ。」【一は云ふ、荒れなむ。】
(517) そこ故に 慰めかねて 
 けだしくも 逢ふやと念ひて、【一は云ふ、公も逢へやと。】
 玉垂《たまだれ》の 越智《をち》の大野の
 朝露に 玉藻はひづち、
 夕霧に 衣《ころも》は濡《ぬ》れて、
 草枕 旅宿《たびね》かもする。
 逢はぬ君ゆゑ。」
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》
 上瀬尓《カミツセニ》 生玉藻者《オフルタマモハ》
 下瀬尓《シモツセニ》 流觸經《ナガレフラフ》
 玉藻成《タマモナス》 彼依此依《カヨリカクヨリ》
 靡相之《ナビカヒシ》 嬬乃命乃《ツマノミコトノ》
 多田名附《タタナヅク》 柔膚尚乎《ニキハダスラヲ》
 釼刀《ツルギタチ》 於v身副不v寐者《ミニソヘネネバ》
 鳥玉乃《ヌバタマノ》 夜床母荒艮無《ヨドコモアルラム》【一云、阿禮奈牟】
 所虚故《ソコユヱニ》 名具鮫兼天《ナグサメカネテ》
 氣田敷藻《ケダシクモ》 相屋常念而《アフヤトオモヒテ》【一云、公毛相哉登】
 玉垂乃《タマダレノ》 越乃大野之《ヲチノオホノノ》
 且露尓《アサツユニ》 玉裳者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》
 夕霧尓《ユフギリニ》 衣者沾而《コロモハヌレテ》
 草枕《クサマクラ》 旅宿鴨爲留《タビネカモスル》
 不v相君故《アハヌキミユヱ》
 
【譯】飛ぶ鳥の明日香川の上流の瀬に生えている玉藻は、下流の瀬に流れて觸れています。亡くなられた皇子様は、その玉藻のように、寄り添つて寝た妻の君の、丸まつている柔膚すらを、身に副えて寝ないのでありますから、暗い夜の床も荒れているのでありましよう。それゆえにあなたはお氣を安めかねて、もしや逢うこともありましようかと、越智《をち》の大野の、朝露に美しい裳は濡れ、夕霧に衣は濡れて、逢わない君ゆえに、草の枕の旅寝をなさいますことか。
【構成】三段から成つている。下ツ瀬ニ流レ觸ラフまで第一段、明日香川の水草を敍して次の段の伏線とする。ヌバ玉ノ夜床モ荒ルラムまで第二段、妃を殘して薨逝した人の上を想像している。以下終りまで第三段、殘された妃の悲痛を敍している。
【釋】飛鳥 トブトリノ。既出(巻一、七八)。枕詞、明日香に冠する。明日香の清御原の上を瑞鳥の飛翔したことがあつて、稱呼として明日香に冠するに至つたものである。
 明日香乃河之 アスカノカハノ。アスカノカハは、飛鳥川のこと。鷹取山から發して、明日香の地を流れ、(518)廣瀬川、初瀬川、佐保川、生駒川などと合して大和川となる。當時の流域は、今日とは變わつていたようであるが、上流ではほぼ同じだろう。
 上瀬尓 カミツセニ。上方の瀬に。
 生玉藻者 オフルタマモは。タマモは、藻の美稱。水草の類をいう。
 下瀬尓 シモツセニ。下方の瀬に。
 流觸經 ナガレフラフ。フラフは、觸ルの連續的状態をあらわす語。下つ瀬に玉藻がかかつて搖れている有樣である。「本都延能《ホツエノ》 延能宇良婆波《エノウラバハ》 那加都延爾《ナカツエニ》 淤知布良婆閇《オチフラバヘ》」(古事記一〇一)によれは、ナガレフラバヘか。ここで段落で、ここまでは、下の玉藻ナスを起す序となつている。何故に、明日香川について言い出したかは不明であるが、泊瀬部の皇女の居處、すなわち、河島の皇子の宮殿がその川のほとりにあつたのであろう。
 玉藻成 タマモナス。枕詞。次句の寄りの語を修飾している。
 彼依此依 カヨリカクヨリ。既出(卷二、一三一)。あち寄りこち寄りして。次句の靡カヒシを修飾する。
 靡相之 ナビカヒシ。水草の波に靡くように、また草木の風に靡くように、やわらかに寄り臥すをいう。ナビカフは靡クの連續動作をあらわす動詞の連用形。シは時の助動詞の連體形。
 嬬乃命乃 ツマノミコトノ。ツマノミコトは、この歌を獻つた皇女をいう。命ノは所有格である。以上、既出の「浪のむたか寄りかく寄り、玉藻なす寄り寐し妹を」(卷二、一三一)と同樣の敍述である。
 多田名附 タタナヅク。疊まりつく意で、青垣山の修飾にも用いられる。身を折り屈めてある意。本集に、「立名附《タタナヅタ》 青垣隱《アヲガキゴモリ》」(卷六、九二三)、「立名附《タタナヅク》 青垣山之《アヲガキヤマノ》」(卷十二、三一八七)、古事記に、「多多那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》 夜麻碁母禮流《ヤマゴモレル》 夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》」(三一)など用例がある。この語は、青垣(山)の説明修蝕の語と(519)して、歌いものに使用されていたのを、人體の説明に應用したのであろう。
 柔膚尚乎 ニキハダスラヲ。柔軟なる膚、それすらもで、それだけでもの意。
 劍刀 ツルギタチ。太刀は身より放さぬもの故に、身ニ副フの枕詞とする。
 於身副不寐者 ミニソヘネネバ。皇子は薨去されて、妻の柔膚をも身に副えては寐ず、ただひとり御墓の中に寐るよしである。
 烏玉乃 ヌバタマノ。既出。枕詞。
 夜床母荒良無 ヨドコモアルラム。薨去した皇子の柩中の寢床を推量して、妻を伴なわないから、荒涼としているだろうの意。ここで段落で、ここまで亡くなつた皇子の現在を推量している。
 一云阿禮奈牟 アルハイフ、アレナム。上のアルラムの別傳で、荒れるだろうと推量している。本文のアルラムの方がよい。
 所虚故 ソコユヱニ。それゆえに、ソコはその事、その處と、體言に指示する詞。上の推量の敍述を受けている。
 名具鮫兼天 ナグサメカネテ。以下三句は、仙覺本に名具鮫兼天氣留敷藻相屋常念而とあつて、ナゲサメテケルシキモアフヤドトオモヒテと讀んでいた。今荒木田久老の説により、古寫本を援引して、魚を兼とし、留を田とするによる。この句は皇女の御心に安んじ得ずしての意。
 氣田敷藻 ケダシクモ。ケダシクは、ケダシの體言形で、副詞の用をなす。推し量り見ることの意の語であるが、ここでは、もしやの意が強い。「氣太之久毛《ケダシクモ》 安布許等安里也等《アフコトアリヤト》」(卷十七、四〇一一)などの用例がある。
 相屋常念而 アフヤトオモヒテ。君に逢うこともあろうかと思つて。皇女の心中を敍している。
(520) 公毛相哉登 キミモアヘヤト。キミは、亡き皇子。公も逢うかとしての意。
 玉垂乃 タマダレノ。枕詞。クマダレは、玉を緒に貫いて垂れるのをいう。簾は、玉を緒に貫いて下げるので、簾に冠する。ここは緒の意に、次句のヲの音に冠している。
 越乃大野之 ヲチノオホノノ。越は字音でヲチの音をあらわしている。ヲチは地名。左註に越智野とある。奈良縣高市郡越智岡村附近。そこに河島の皇子の御墓が設けられるのであろう。但しこの歌の作られた當時は、その地に殯宮が設けられてあつたのであろう。
 旦露尓 アサツユニ。下の夕霧にと共に、朝夕の露や霧に濡れることを分ち敍したまでであるが、玉裳はヒヅチとあるは、露に縁がある。
 玉裳者※[泥/土]打 タマモハヒヅチ。タマモは、裳の美稱。裳は婦人の下半身に纏う衣裳。ヒヅチは、水に濡れる意の動詞。
 夕霧尓衣者沾而 ユフギリニコロモハヌレテ。上の朝露ニ王裳はヒヅチの句と對句を成している。コロモは裳に對しては、上半身を蔽う衣裳をいう。下半身に纏う裳には露といい、衣には霧と言つている。
 草枕 クサマクラ。枕詞。
 旅宿鴨爲留 タビネカモスル。カモは、疑問の係助詞であるが、感動の意が強くなつている、旅寝をすることかまあというほどの意。ここは皇女が亡き夫君を求めて、旅寝をされることを敍している。事實としては、夫君の御墓のほとりに假舍を作つて、お仕えなされることを、あたかも、夫君を尋ね求められるように歌うのである。
 不相君故 アハヌキミユヱ。上の、ケダシクモ會フヤト念ヒテを受けて、しかも遂にめぐり逢わない君ゆえにと、−結、例によつて力強い句である。
(521)【評語】この歌は、夫を失つた皇女に獻つた歌として、その亡くなられた皇子の荒涼たる現状を推量するに美しい詞を連ねている。明日香川の玉藻の序も、人麻呂の作の通例のことではあるが、婦人を敍する起句として適切である。最後の段で、送葬に立たれた皇女の、露霧に濡れることを云つて、喪中の情を表出している。夫を失つた方として、この歌を讀まれた時には、定めて涙を新にせられたことであウたろう。
 
反歌一首
 
195 敷細《しきたへ》の 袖|交《カ》へし君、
 玉垂《たまだれ》の 越智野《をちの》過ぎ行《ゆ》く。
 またも逢はめやも。【一は云ふ、をち野に過ぎぬ。】。
 
 敷妙乃《シキタヘノ》 袖易之君《ソデカヘシキミ》
 玉垂之《タマダレノ》 越野過去《ヲチノスギユク》
 亦毛將v相八方《マタモアハメヤモ》【一云ふ、乎知野尓過奴】
 
【譯】生前袖を交して親まれた君は、越智野に過ぎ行かれました。またもお目にかかれましようか。お逢いすることはできますまい。
【釋】敷妙乃 シキタヘノ。既出。目のこまかい織物の義で、袖、衣、枕等の枕詞。
 袖易之君 ソデカヘシキミ。袖をかわして諸寢をした君。皇女に代つて詠んでいる語法である。男女が、袖をたがいにかえて寢ることは、「白細之《シロタヘノ》 袖指可倍※[氏/一]《ソデサシカヘテ》 靡寐《ナビキヌル》 吾黒髪乃《ワガクロカミノ》」(巻三、四八一)・「白細乃《シロタヘノ》 袖指代而《ソデサシカヘテ》 佐寐之夜也《サネシヨヤ》 常爾有家類《ヅネニアリケル》」(巻八、一六二九)など、しばしば詠まれている。
 玉垂之 タマダレノ。枕詞。長歌の中に見える句。
 越野過去 ヲチノスギユク。越智野に葬つたことを、越智野を過ぎて、何方へか行くように歌つている。句切。
(522) 亦毛將相八方 マタモアハメヤモ。ヤモは反語の助詞。またと逢おうや、逢わないの意。
 乎知野尓過奴 ヲチノニスギヌ。第四句の別傳である。越智野において、過ぎたの意。これも本文の方がよい。
【評語】皇女に代わつて詠んでいる。特に越智野に衣装もそぼぬれて君を求める心が寫されているのがよい。
 
右或本日、葬2河島皇子越智野1之時、獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀云、朱鳥五年辛卯、秋九月己巳朔丁丑、淨大参皇子川島薨。
 
右は或る本に曰はく、河島の皇子を越智野に葬りし時、泊瀬部の皇女に獻りし歌なりといへり。日本紀に云はく、朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔にして丁丑の日、淨大參皇子川島薨りましきといへり。
【釋】或本 アルマキ。何の書とも知られないが、歌詞中の別傳と同じものとすれば、よい傳來ではない。
 河島皇子 カハシマノミコ 天智天皇の皇子。天武天皇の十年三月、帝紀および上古の諸事を記し定めしめ給うた人々のうちの首席であつた。懷風藻に漢詩があり、小傳がある。
 朱鳥五年 アカミドリノイツトセ。日本書紀には持統天皇の五年とし、朱鳥元年からは六年に當る。
 淨大參 キヨキオホキミツノクラヰ。位階の名稱。
 
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
明日香の皇女の木※[瓦+缶]《きのへ》の殯の宮の時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】明日香皇女 アスカノヒメミコ。天智天皇の皇女、御母は阿部の倉橋麻呂の女橘姫。文武天皇の四年四月に薨去されたのであつて、この歌以下は、文武天皇の御代の作に係かる。
(523) 木※[瓦+缶]殯宮 キノヘノアラキノミヤ。木※[瓦+缶]は地名。下の、「高市皇子尊城上殯宮之時」(卷二、一九九)とある城上と同地。奈良麻北葛城郡|馬見《まみ》村の地という。殯宮は既出(卷二、一六七題詞)。城上が皇女の墓所であり、そこに殯宮が設けられたのである。
 
196 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の河の
 上《かみ》つ瀬に 石橋《いははし》渡し、【一は云ふ、石竝。】
 下《しも》つ瀬に 打橋《うちはし》渡す。」
 石橋に【一は云ふ、石竝。】 生ひ靡ける
 玉藻もぞ 絶ゆれば生《お》ふる。
 打橋に 生ひををれる
 川藻もぞ 枯るれば生《は》ゆる。」
 何しかも わが王《おほきみ》の、
 立たせば 玉藻のもころ、
 臥《こや》せば 川藻の如く
 靡かひし 宜《よろ》しき君の、
 朝宮を 忘れたまふや。
 夕宮を 背《そむ》きたまふや。」
 うつそみと 念ひし時、
(524) 春べは 花折りかざし、
 秋立てば 黄葉《もみちば》かざし、
 敷細《しきたへ》の 袖|携《たづさ》はり、
 鏡なす 見れども飽かに、
 望月《もちづき》の いやめづらしみ、
 念ほしし 君と時々、
 いでまして 遊び賜ひし、
 御食向《みけむか》ふ 城上《きのへ》の宮を、
 常宮《とこみや》と 定め賜ひて、
 あぢさはふ 目言《めごと》も絶えぬ。」
 然れかも【一は云ふ、そこをしも。】 あやに悲しみ、
 ぬえ鳥の 片戀づま【一は云ふ、しつつ。】
 朝鳥の【一は云ふ、朝霧の】 通はす君が、
 夏草の 念ひ萎《しな》えて、
 夕星《ゆふづつ》の かゆきかく行き、
 大船の たゆたふ見れば、
 慰もる 情《こころ》もあらず。」
(525)そこ故に 術《すべ》知らましや
 音《おと》のみも 名のみも絶えず、
 天地の いや遠長く
 思《しの》ひ行かむ み名に懸《カ》かせる
 明日香河、萬代までに、
 愛《は》しきやし わが王の
 形見かここを。」
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》
 上瀬《カミツセニ》 石橋渡《イシハシワタシ》【一云、石浪】
 下瀬《シモツセニ》 打橋渡《ウチハシワタス》
 石橋《イハハシニ》【一云、石浪】 生靡留《オヒナビケル》
 玉藻毛敍《タマモモゾ》 絶者生流《タユレバオフル》
 打橋《ウチハシニ》 生乎爲禮流《オヒヲヲレル》
 川藻毛敍《カハモモゾ》 干者波由流《カルレバハユル》
 何然毛《ナニシカモ》 吾王能《ワガオホキミノ》
 立者《タタセバ》 玉藻之母許呂《タマモノモコロ》
 臥者《コヤセバ》 川藻之如久《カハモノゴトク》
 靡相之《ナビカヒシ》 宜君之《ヨロシキキミノ》
 朝宮乎《アサミヤヲ》 忘賜哉《ワスレタマフヤ》
 夕宮乎《ユフミヤヲ》 背賜哉《ソムキタマフヤ》
 宇都曾臣跡《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキ》
 春部者《ハルベハ》 花折插頭《ハナヲリカザシ》
 秋立者《アキタテバ》 黄葉插頭《モミチバカザシ》
 敷妙之《シキタヘノ》 袖携《ソデタヅサハリ》
 鏡成《カガミナス》 雖v見不v厭《ミレドモアカニ》
 三五月之《モチヅキノ》 益目頬染《イヤメヅラシミ》
 所v念之《オモホシシ》 君與時々《キミトトキドキ》
 幸而《イデマシテ》 遊賜之《アソビタマヒシ》
 御食向《ミケムカフ》 木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》
 常宮跡《トコミヤト》 定賜《サダメタマヒテ》
 味澤相《アヂサハフ》 目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》
 然有鴨《シカレカモ》【一云、所己乎之毛】 綾尓憐《アヤニカナシミ》
 宿兄鳥之《ヌエドリノ》 片戀嬬《カタコヒヅマ》【一云、爲乍】
 朝鳥《アサドリノ》【一云、朝霧】 往來爲君之《カヨハスキミガ》
 夏草乃《ナツクサノ》 念之萎而《オモヒシナエテ》
 夕星之《ユフヅツノ》 彼往此往《カユキカクユキ》
 大船《オホブネノ》 猶預不定見者《タユタフミレバ》
 遣悶流《ナグサモル》 情毛不v《ココロモアラズ》
 其故《ソコユエニ》 爲便知之也《スベシラマシヤ》
 音耳母《オトノミモ》 名耳毛不v絶《ナノミモタエズ》
 天地之《アメツチノ》 弥遠長久《イヤトホナガク》
 思將v往《シノヒユカム》 御名尓懸世流《ミナニカカセル》
 明日香河《アスカガハ》 及2萬代1《ヨロヅヨマデニ》
 早布屋師《ハシキヤシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》
 形見河此焉《カタミカココヲ》
 
【譯】飛ぶ鳥の明日香川の上流の瀬に石橋を渡し、下流の瀬に打橋を渡してあります。その石橋に生えて靡いている玉藻も、水に取り去られるとまた生えます。打橋に生えてしなつている川藻も、枯れればまた生えます。何とてわが皇女樣の、お立ちになれは玉藻のように、お休みになれば川藻のように、お靡きになつた、よろしい方の朝宮をお忘れなさいますか。夕宮をお背《そむ》きになりますか。生ける人と思いました時に、春の頃は花を折つて髪に指し、秋になれば黄葉を髪に插し、やわらかい袖を連ねて、鏡のように見れども飽きず、滿月のようにますます愛すべくお思いになつた方と、おりにふれておいで遊ばされて、お遊びになつた城上の宮を、永久の御殿とお定めになつて、まのあたり物言われることも絶えました。そうですからか、誠に悲しく、ぬえ鳥《どり》のように片戀をしつつお通いになる方が、夏草のように思いになえなえと、夕べの星のようにあちら行きこちら行き、大船のようにたゆたつておられるのを見ますと、慰まれる心もございません。それ故に手段を知らないことはありません。音ばかりも、名ばかりも絶えずに、天地と共に、いよいよ遠く長く、お慕い申しあぐべき御名前にお懸けになつている、この明日香川は、萬代までに、愛するわが皇女樣の形見でありますなあ、比處(526)は。
【構成】この歌は五段から成つている。川藻モゾ枯ルレバ生ユルまで第一段、全體の總敍として明日香川について敍し次の段の準備としている。夕宮ヲ背キタマフヤまで第二段、皇女の薨去を敍す。アヂサハフ目言モ絶エヌまで第三段、生前の追憶から引き続いて殯宮に入られたことを敍する。慰モル心モアラズまで第四段、殘つた君の悲痛を見て慰める術も無いことを述べる。以下終りまで第五段、皇女を永く慕うべきことを敍している。
【釋】飛鳥明日香乃河之 トブトリノアスカノカハノ。一九四の歌に見えている。
 上瀬 カミツセニ。同前。
 石橋渡 イハハシワタシ。イハハシは、川中に、石を竝べ置いて、それを踏み石として渡るものをいう。後世いう石で作つた橋のような立派なものではない。その石橋を川中に入れることを渡すという。「直不v來《タダニコズ》 自v此巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石椅跡《イハハシフミ》 名積序吾來《ナヅミゾワガクル》 戀天窮見《コヒテスベナミ》」(巻十三、三二五七)の石椅も同語である。
 一云石浪 アルハイフ、イハナミ。イハナミは石竝び、石橋に同じ。浪の字を書いたのは借字である。「安麻能河波《アマノカハ》 伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》 都藝弖見牟可母《ツギテミムカモ》」(巻二十・四三一〇)の例は、イシナミとあるが、ここは石橋の別傳であるからなおイハナミと讀むべきであろう。
(527) 内橋渡 ウチハシワタス。ウチハシは、板を兩岸のあいだに懸け渡した橋を言う。日本書紀神代の下に「於2天安河1、亦造2打橋1」、本集に「千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河門乃《サホノカハトノ》 瀬乎廣彌《セヲヒオロミ》 打橋渡須《ウチハシワタス》 奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》」」(巻四・五二八)、「機《ハタモノノ》 ※[足+搨の旁]木持往而《フミキモチユキテ》 天漢《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタス》 公之來爲《キミガコムタメ》」(竿、二〇六二)などある。句切。以上第−段の第一節で、まず明日香川の上流下流の事を述べ、次の第二節の準備としている。
 生靡留 オヒナビケル。生えて水のまにまに靡いている。川中の蹈石に生えているのである。
 玉藻毛敍 タマモモゾ。下の川藻モゾと對して、玉藻も川藻もの意である。ゾは係助詞。
 絶者生流 タユレバオフル。水勢に搖れて斷ち流されれば、また後より生える。上のゾを受けて生フルと結んでいる。段落。藻はまた生えるが、人は逝きて歸らないという心を含めている。
 生乎爲禮流 オヒヲヲレル。乎爲禮流をヲヲレルと讀むことは、「山邊爾波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》」(卷三、四七五)、「春山之《ハルヤマノ》 開乃乎爲里爾《サキノヲヲリニ》」(巻八、一四二一)、「開乎爲流《サキヲヲレル》 櫻花者《サクラノハナハ》」(巻九、一七四七)「開乎爲流《サキヲヲル》 櫻花乎《サクラノハナヲ》」(同、−七五二)等の例に依つて確められるが、爲をヲと讀むことについては、まだ明解を得ない。誤字説もあるが従い難く、また萬葉集字音辨證には、爲にヲの音ありとしている。この語に限つて爲の字を使用するのは、慣用に依るものであろう。ヲヲルは枝などのたわむことで、花咲キヲヲルなどいう。ここは、それに助動詞リの接續したもので、川藻の水に搖れてたわんだように見えるのをいう。
 川藻宅敍 カハモモゾ。カハモは、上の玉藻を語を代えて言つている。
 干者波由流 カルレバハユル。枯れればまた生える。上の川藻モゾのゾを受けて生ユルという。生ユルの原文波由流と書いてあるのは、假字づかいを證するものである。ここにも人生無常の意が寓せられているのであろう。以上第一段の第二節、石橋に生ヒ靡ケル玉藻モゾ絶ユレバ生フルと、打橋ニ生ヒヲヲレル川藻モゾ枯ルレバ生ユルとは、對句をなし、明日香川の水草について敍している。この一段は、次の段を引き起す序として(528)構成されている。
 何然毛 ナニシカモ。シは、強意の助詞。何とてかの意で、下の忘レタマフヤ、背キタマフヤに懸つている。カモは係助詞。
 吾王能 ワガオホキミノ。ワガ大君は、皇女を指している。以下、靡カヒシまで皇女に關する敍述である。
 立者 タタセバ。タチタレバ(神)、タタセレバ(代精)、タタスレバ(考)、タタセバ(略)。皇女の行動である。タタセバと讀めば、敬語になる。下の臥者をコヤセバと讀むとすると、これも動詞コユ(倒れる)の敬語になるから、對句としてタタセバがよいのであろう。以下靡カヒシまで、皇女の柔軟な姿體を藻に譬えて敍している。
 玉藻之母許呂 タマモノモコロ。上の玉藻モゾの句を受けている。仙覺本には、以下二句、玉藻之如許呂臥者となつて、玉藻ノ如クコロブセバと讀んでいた。然るに橋本進吉博士の説として、コロブスという動詞は他に自伏とある字を讀んでいるだけで、假字書きの證が無く、金澤本には如を母としているので、今の如く讀み改められたものである。(山田孝雄博士も同説を發表された。)モコロは、如しといぅ意味の古語で、この集にも、「於吉爾須毛《オキニスモ》 乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》」(巻十四、三五二七)、「伊波妣等乃《イハビトノ》 和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》 多々理之母己呂《タタリシモコロ》」(巻二十、四三七五)、またそのような男という場合に、「母許呂乎」というのもある。
 臥者 コヤセバ。横たわれば。フセバとも讀まれるが、フスは、下向きになることをいうので、ここには適しない。
 川藻之如久 カハモノゴトク。上の川藻モゾの句を受けている。以上二句は、立タセバ玉藻ノモコロの句と對句を成して、次の句の靡カヒシを修飾している。
 靡相之 ナビカヒシ。ナビカヒは、靡くの連續状態をいう動詞。玉藻のように、川藻のように靡カヒシと續(529)く。靡き寄り寢たの意である。
 宜君之 ヨロシキキミノ。ヨロシは足り備つていることの形容。君は皇女の配偶者をいう。その夫君は誰方か不明である。その君の朝宮夕宮と續く語法である。
 朝宮乎 アサミヤヲ。下の夕宮と共に、例の一事を朝夕に分けて敍する法。朝宮夕宮の語は、宮殿の朝夕の生活を想像させる。
 忘賜哉 ワスレタマフヤ。上の何シカモを受けて、お忘れになるのかと結ぶ。ヤは添えていう感動の助詞で、無くて意は通ずるところである。下同じ。句切。
 夕宮乎背賜哉 ユフミヤヲソムキタマフヤ。上の朝宮云々の句と對句を成している。ここで段落である。以上皇女の薨去されたことを、詰問するように敍している。
 宇都曾臣跡念之時 ウツソミトオモヒシトキ。ウツソミは既出(巻二、一六五)。ウツソミトオモヒシトキは、現實の人と思つた時で、皇女の御生前をいう。この句は、孰語句で、生前の意に使用される。「打蝉等《ウツセミト》 念之時爾《オモヒシトキニ》 【一云、宇都曾臣等念之】」(卷二、二一〇)。以下生前の追憶に入る。
 春部者 ハルベハ。ベはその方向をいう。春の頃は。
 花折插頭 ハナヲリカザシ。花を折つて插頭にし。カザシは既出(卷一、三八)。髪に插して飾りとすること。
 秋立者 アキタテバ。秋になることを秋立つという。このタツは始まる意の動詞である。秋になれば。
 黄葉插頭 モミチバカザシ。既出、「秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミチカザセリ》」(卷一、三八)。以上二句、春ベハ花折リカザシと對句になつている。
 敷妙之 シキタヘノ。枕詞。
(530) 袖携 ソデタヅサハリ。タヅサハリは、携えある状をいう動詞。袖を列ねて。
 鏡成 カガミナス。枕詞。鏡のようにの意に、見るに冠する。
 雖見不厭 ミレドモアカニ。ミレドモアカズ(西)。アカニは飽きないで。ニは打消。知ラニのニに同じ。
 三五月之 モチヅキノ。三五は十五の意に書いている。十五夜の月で、モチヅキと讀む。枕詞。滿月の賞美すべくあるより、メヅラシに冠する。
 益目頬染 イヤメヅラシミ。イヤは、一層。メヅラシは愛すべくあるをいう。珍奇ではない。愛しみ思うで、いよいよ愛すべく思われたという意。染の字は、シミの音をあらわすために借りている。
 所念之 オモホシシ。皇女のお思い遊ばされた。連體形。
 君與時々 キミトトキドキ。キミトヨリヨリ(代初書入)。君は皇女の夫君をいう。鏡のように見ても飽かずいよいよ愛しみ思われた君と、皇女から見た夫君を敍している。時々はおりにふれ時につけて。
 幸而 イデマシテ。おいで遊ばされて。
 遊賜之 アソビタマヒシ。遊覽遊ばされた意で、連體形。枕詞を隔てて木※[瓦+缶]を修飾する。
 御食向 ミケムカフ。御食物として供える酒の意に、キの枕詞としている。
 木※[瓦+缶]之宮乎 キノヘノミヤヲ。生前に遊覽されたこの木※[瓦+缶]の宮を。題詞の解にいうように、城上と書くも同じ。皇女の御墓が、この他に設けられたのである。
 常宮跡定賜 トコミヤトサダメタマヒテ。トコミヤは永久の御殿の意で、御墓所をいう。但し御墓所に限らず、宮殿を稱えてもいう。「朝毛吉《アサモヲシ》 木上宮乎《キノヘノミヤヲ》 常宮等《トコミヤト》 高之奉而《タカクシマツリテ》」(巻二、一九九)の例は墓所であるが、「安見知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》 常宮等《トコミヤト》 仕奉流《ツカヘマツレル》 左日鹿野由《サヒカノユ》」(巻六、九一七)の例は、離宮である。永久の宮殿とお定めになつて、御墓所をお占めになつて。薨去された方御自身に御選定遊ばされたように敍しているのは、(531)貴人は自葬するとする思想からである。
 味澤相 アヂサハフ。枕詞。語義未詳。冠辭考に、アヂは味鳧で水禽の名、サハフは多經で、多く群居し、群《メ》に懸かるというが信じかねる。鹿持雅澄は、ウマサハフと讀んで、味のよい粟田《あはふ》の義で群生《むらはえ》に懸かると云つているが、これも信じられない。集中五處に出で、皆文字を味澤相と書いてある。うち四つはメに懸かり、一つは夜晝知ラズに懸かつている。アヂは、多數にあることをいう語で、アヂサヰなど、植物にもいう。よつて多數の植物の多く生えているところの義で、メ(芽)に冠するか。
 目辭毛絶奴 メゴトモタエヌ。メゴトはまのあたり逢つて物いうこと。「海山毛《ウミヤマモ》 隔莫國《ヘダタラナクニ》 奈何鴨《イカニカモ》 目言乎谷裳《メゴトヲダニモ》 幾許乏寸《ココダトモシキ》」(巻四、六八九)、「東細布《ヨコグモノ》 從v空延越《ソラユヒキコシ》 遠見社《トホミコソ》 目言疎良米《メコトウトカラメ》 絶跡間也《タユトヘダツヤ》」(卷十一、二六四七)など使用されている。以上第三段、皇女生前の御事蹟から起して、ふたたび薨去に及び、殯宮に鎭まりましたことまでを敍している。
 然有鴨 シカレカモ。シカアレカモで、然あればにやの意。カモは係助詞。上の敍述を受けて、下の、アヤニ悲シミに懸かる。
 所己乎之毛 ソコヲシモ。ソコは上を受けている。シモは強意の助詞。
 綾尓憐 アヤニカナシミ。アヤニは、驚歎の意をあらわす副詞。この句は、下の通ハス君の心中の描寫で、これによつて、お通いになるのを修飾する。
 宿兄鳥之 ヌエドリノ。枕詞。ヌエドリは、既出(巻一、五)。梟など夜鳴く鳥をいうが、普通にはトラツグミであるという。啼き聲がうめくようであるから、ノドヨヒ、ウラ泣クの枕詞とし、その鳴く心を求めて片戀の枕詞としている。
 片戀嬬 カタコヒヅマ。カタコヒは、一方からのみの戀をいう。今皇女は薨去して、殘された夫君のみ戀を(632)している故に、片戀という。ツマは配偶者で、嬬の字を使用したのは婦人の意であるが、ここは男性で、皇女の夫君をいう。片戀をしている夫君で、下の通ハス君と、語を變えて言つている。
 一云爲乍 アルハイフ、シツツ。上の片戀ヅマの句が、別傳には、片戀シツツとあるというのである。これは通ハス君の敍述である。
 朝鳥 アサドリノ。朝、鳥は往來する故に通フの枕詞とする。
 一云朝霧 アルハイフ、アサギリノ。上の朝鳥の別傳である。これも枕詞。朝霧が通うとは、霧の動態を描いて巧みな句である。
 往來爲君之 カヨハスキミガ。通ハスは、お通いになる、皇女の殯宮へお通いになる意。君は、片戀ヅマ、すなわち夫君をさす。
 夏草乃念之萎而 ナツクサノオモヒシナエテ。既出(巻二、一三一)。
 夕星之 ユフヅツノ。枕詞。ユフヅツは、金星をいう。倭名類聚鈔に「兼名苑云、大白星、一名長庚【此間云2由布都々1。】暮見2於西方1、爲2長庚1耳」とある。この星は、朝夕について、人の世界から見る位置を異にするより、カ行キカク行キの枕詞とする。本集には、「夕星乃《ユフヅツノ》 由布弊爾奈禮婆《ユフベニナレバ》」(巻五、九〇四)、「夕星毛《ユフヅツモ》 往來天道《カヨフアマヂヲ》」(巻十・二〇一〇)の用例があるが、巻の十のは、枕詞ではない。
 彼往此往 カユキカクユキ。カ寄リカク寄リの類で、あちらに行き、こちらに行き、一定の方向の無いのにいい、次のタユタフを修飾する。
 大船 オホブネノ。枕詞。ここでは、船が浪のままに動搖して安定しないので、タユタフに冠している。
 猶預不定見者 タユタフミレバ。タユタフは、猶豫してしかとおちつかないのをいう。ためらう、やすらう等の意がある。ここは夫君の爲《せ》む術を知らずに、迷われるをいう。見レバは作者人麻呂の見ること。
(533) 遣悶流 ナグサモル。遣悶は義を以つて書いている。此の句、夫君の心を慰めるの意とすれば、ナグサムルであるが、次句以下、自身について言つていると見られるので、自動詞として、ナグサモルとする。「名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアリヤト》」(巻四、五〇九)。
 情毛不在 ココロモアラズ。夫君の悲しみの餘り、事も手につかない、で猶豫しておられるを見れば、我等も慰める心もないというのである。以上第四段。殘された夫君が殯宮に通われることを敍し、作者として何と慰むべき法もないことを敍している。
 其故 ソコユエニ。既出(巻二、一六七)。上を受けてソコという。
 爲便知之也 スベシラマシヤ。
   スヘモシラシヤ(西)
   スベモシラジヤ(代)
   スベシラマシヤ(考)
   ――――――――――
   セムスベシラニ(玉)
   爲便知良爾《セムスベシラニ》(槍)
 知之也は、文字表示が不完全で、讀み方が問題になる。シラマシヤと讀むのは、考の説である。これと同形かと思われるものに、「沼名河之《ヌナカハノ》 底奈流玉《ソコナルタマ》 求而《モトメテ》 得之玉可毛《エマシタマカモ》 拾而《ヒリヒテ》 得之玉可毛《エマシタマカモ》」(巻十三、三二四七)があり、その得之も、エマシと讀むべきかと考えられる。マシヤの例は、「惜v不v登2筑波山1歌一首 筑波根爾《ヅクハネニ》 吾行利世波《ワガユケリセバ》 霍公鳥《ホトトギス》 山妣兒令v響《ヤマビコトヨメ》 鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》」(巻八、一四九七)がある。このナカマシヤは、不可能希望の助動詞マシに反語の助詞ヤが接線したものであつて、アラメヤなどの形のものから類推すれば、反語のヤはマシの不可能の要素を否定して可能の意を示すものと考えられる。筑波山にわたしが行つたとしたなら、ホトトギスはきつと鳴いたろうの意になる。今、シラマシヤをこれに準じて考えれば、知つていたらなあの否定でよく知つているの意になる。すなわち、次の句以下のことが、そのスベに相當するものである。以上二句、獨(534)立文で、以下の準備となる。
 吾耳母名耳毛不絶 オトノミモナノミモタエズ。オトは皇女の御上につきて言うことを聞くをいい、ナは皇女の御名をいう。正身はいまさずとも、せめて音ばかり名ばかりも絶えずに、慕い行こうと續く。
 天地之弥遠長久 アメツチノイヤトホナガク。天地の如くいよいよ遠く良くで、永久にの意。副詞句として挿入されている。參考として、「天地與《アメツチト》 彌遠長爾《イヤトホナガニ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 如此毛欲得跡《カクシモガモト》」(卷三、四七八)の如き表現がある。
 思將往 シノヒユカム。このシノヒは、思慕する意に使用している。さてこの句は、終止としても解せられるが、五七調の正格からいえば、連體形であつて、次の句の御名を修飾するものと見るべきである。
 御名尓懸世流ミナニカカセル。カカセルは、動詞懸クの敬語カカスに、助動詞リの連體形の添つたもの。明日香の皇女と申すより、明日香をさしてかくいう。皇女の御名前にお懸けになつている。
 明日香河 アスカガハ。迄に冒頭の明日香の河に應じている。
 及萬代 ヨロヅヨマデニ。萬代までに、この川を形見かの文脈である。
 早布屋師 ハシキヤシ。親愛の状態にある意の形容詞ハシキに、感動の助詞ヤシの接續したもの。既出のハシキヨシ(卷二、一三一)に同じ。ハシキわが大君と續く意である。
 吾王乃 ワガオホキミノ。ワガオホキミは明日香の皇女をさす。
 形見河此焉 カタミカココヲ。形見であることかなと嘆息したのである。ココヲは、更に川を指示して意を強める。明日香川を、皇女の御形見としてお慕い申し上げようとである。以上第五段、作者の感想を敍している。
【評語】皇女の薨逝を悼んで、御名に因んだ明日香川の藻を以つて筆を起している。このこといかにも皇女の(535)婦人としての姿容を髣髴せしめる敍述である。高市の皇子の殯宮の歌に戰闘を敍した作者は、この歌について皇女と夫君との交渉を細述している。全篇美しい詞句が多くて、まことに皇女を悼んだ歌として適切に感じられる。この歌は、前出の、泊瀬部の皇女と忍坂部の皇子とに獻る歌(卷二、一九四)と、同樣の構成を有している。まず明日香川についてその水草を敍し、これを以つてそれぞれ婦人の姿體を形容するに用立て、次に君の薨去を敍し、殘された方の上に及んでいる。そうしてこの歌は、更に作者の感想を添えている。後の作だけに、この歌の方が一層複雜に巧妙に出來ているが、熱情においては、前の歌の方に一日の長がある。比較してその相似と相違とを味わうべきである。
 
短歌二首
 
197 明日香《あすか》川 しがらみ渡し
 塞《せ》かませば、
 流るる水も  長閑《のど》にかあらまし。
   一は云ふ、水のよどにかあらまし。
 
 明日香川《アスカガハ》 四我良美渡之《シガラミワタシ》
 塞益者《セカマセバ》
 進留水母《ナガルルミヅモ》
 能杼尓賀有萬志《ノドニカアラマシ》
   一云、水乃與杼尓加有益
 
【譯】明日香川に柵を懸け渡して、水を堰いたなら、流れる水も、平穩にあるでありましようものを。
【釋】明日香川 アスカガハ。長歌に、全篇の構想として、明日香川について記述しているのを受ける。
 四我良美渡之 シガラミワタシ。シガラミは、水中に柵を設けて、流れ來る水を支えて深くし、または塵芥などを堰き留めるもの。語義は、シは不明であるが、カラミは、動詞カラムと推定される。それを川中に渡しての意。「明日香川《アスカガハ》 湍瀬爾玉藻者《セゼニタマモハ》 雖2生有1《オヒタレド》 四賀良美有者《シガラミアレバ》 靡不v相《ナビキアハナクニ》」(卷七、一三八〇)。また動詞として(536)は、「※[草冠/互]乃枝乎《ハギノエヲ》 石辛見散之《シガラミチラシ》 狹男壯鹿者《サヲシカハ》 妻呼令v動《ツマヨビトヨメ》」(卷六、一〇四七)がある。
 塞益者 セカマセバ。セカは、動詞塞クの未然形。流れる水を抑え止める意である。マセバは、マシの末然條件法(卷一、六九)。塞きもしたならば。實際は塞かなかつたのであるが、もし塞き得たとしたらの意。
 進留水母 ナガルルミヅモ。進をナガルと讀むのは、水の進むは流れるのであるからである。
 能杼尓賀有萬思 ノドニカアラマシ。ノドは、のどか、平穩。カは疑問の係助詞。アラマシは、不可能希望の語法。
 水乃與杼尓加有益 ミヅノヨドニカアラマシ。本文第四句の水モノドニカ、以下の別傳である。ヨドは、よどみ、水の停滯するところ。この別傳、ヨドは、川淀であるから、流れる水が淀であるだろうというのは、意を成さない。
【評語】長歌を受けて、明日香川を以つて譬喩を構成している。長歌に附隨する歌として、その意を見るべき作である。
 
198 明日香川
 明日《アス》だに【一は云ふ、さへ。】見むと 念《おも》へやも、【一は云ふ、念へかも。】 
 わが大君《おほきみ》の み名忘れせぬ。
   一は云ふ、御名忘らえぬ。
 
 明日香川《アスカガハ》
 明日谷《アスダニ》【一云、左倍】 將v見等《ミムト》 念八方《オモヘヤモ》【一云、念香毛】
 吾王《ワガオホキミノ》 御名忘世奴《ミナワスレセヌ》
    一云、御名不v所v志
 
【譯】この明日香川というように、明日だけでも見ましようとは思つていますからでしょうか、わが皇女樣の御名前を忘れないことでございます。
【釋】明日香川 アスカガハ。これも長歌の句を受けている。この歌の主題の明日香川を提示して、ここは單(537)に枕詞としている。そうして同音を利用して次のアスを起している。
明日谷將見等 アスダニミムト。遠き將來は知らず、せめて明日だけでも見ようと。ミムトは、明日香の皇女を見ようとである。
 一云左倍 アルハイフ、サヘ。第二句のダニの別傳で、それには、アスサヘミムトとあるというのである。アスサヘは、今日はもとより、明日までもの意で、本文の意味とは相違する。
 念八方 オモヘヤモ。ヤモは疑問の係助詞。明日だけでもと思つているのだろうか、そうではないのだがの意。ヤモは、もと終助詞として、「等虚辭陪邇《トコシヘニ》 枳彌母阿閇椰毛《キミモアヘヤモ》 異舍儺等利《イサナトリ》 宇彌能波摩毛能《ウミノハマモノ》 余留等枳等枳弘《ヨルトキドキヲ》」(日本書紀六八)のように、文末に使用されていたが、ついで條件法を生じたと解せられる。本集では「※[火三つ]干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 沾衣乎《ヌレギヌヲ》 家者夜良奈《イヘニハヤラナ》 ※[覊の馬が奇]印《タビノシルシニ》」(卷九、一六八八)、「※[火三つ]干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 家人《イヘビトノ》 春雨須良乎《ハルサメスラヲ》 間使爾爲《マヅカヒニスル》」(同、一六九八)の二例は、いずれも人麻呂集所出の歌で、同じく「名木河作歌」の題があつて、多分同一人同時の作と考えられるものである。しかもここには同一の「あぶりほす人もあれやも」の句が使われているが、その前者は、それで一文を成し、後者は、條件法として、次の三句でこれを受けて結んでいる。ここにこの條件法成立の經過が見られる。そうして更に「勢能山爾《セノヤマニ》 直向《タダニムカヘル》 妹之山《イモノヤマ》 事聽屋毛《コトユルセヤモ》 打橋渡《ウチハシワタス》」(卷七、一一九三)になると、反語の意でなくして、單なる疑問の條件法になつている。この明日香川の歌のこの句の別傳として「一云念香毛」とあるのも、既に反語としての用法を忘れるに至つて、たやすく歌い代えられたものであろう。ヤモは、助詞ヤに、感動の助詞モの接續したものと解せられるから、以上の經過は、ヤを單用するものにあつても、ほぼ同樣であろう。
 一云念香毛 アルハイフ、オモヘカモ。上の第三句の別傳である。前項參照。
 吾王 ワガオホキミノ。ワガオホキミは、皇女をさす。
(538) 御名忘世奴ミナワスレセヌ。上の念ヘヤモのヤを受けて、忘レセヌと連體形に結んでいる。
 御名不所忘 ミナワスラエヌ。第五句の別傳である。忘レセヌの方は、自然に忘れることがないの意であり、これはどうしても忘れられないの意である。以上一首のうちに一云が三個あり、これを同一の別傳から來たものとすれば、「明日香川明日さへ見むと念へかもわが大君の御名忘らえぬ」となる。
【評語】これも明日香川に寄せて、皇女の御名の忘れ難いことを歌つている。長歌の末尾を特に受けて結んだ構成である。この長歌竝に短歌は、終始明日香川を使つて思を述べており、その構想は巧みであるが、ややこれに拘泥し過ぎる感がある。この點、巧思に墮したものともいえよう。
 
高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
高市の皇子の尊の城上《きのへ》の殯の宮の時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】高市皇子尊 タケチノミコノミコト。既出(卷二、一一四)。天武天皇の皇子。草壁の皇太子の薨後を受けて後の皇子の尊とも呼ばれる。持統天皇の四年七月、太政大臣となり、十年七月十日、薨去された。天武天皇の諸皇子のうちでは、皇長子と考えられるが、生母の身分が低く、ただちに皇太子とはなれなかつた。持統天皇の十年七月後、間も無い頃の作であろうから、順序からいえば、明日香の皇女の殯宮の作より前にあるべきである。
 
城上 キノヘ。既出の木※[瓦+缶](卷二、一九六)と同地。
 
199 かけまくも ゆゝしきかも。【一は云ふ、ゆゆしけれども。】
 言はまくも あやに畏《かしこ》き
(539) 明日香の 眞神《まがみ》が原に
 ひさかたの 天《あま》つ御門《みかど》を
 かしこくも 定めたまひて、
 神《かむ》さぶと 磐《いは》がくります
 やすみしし わが大王《おほきみ》の
 きこしめす 背面《そとも》の國の
 眞木《まき》立つ 不破《ふは》山越えて
 高麗劍《こまつるぎ》 和※[斬/足]《わざみ》が原の
 行宮《かりみや》に 天降《あも》りいまして、
 天の下 治めたまひ【一は云ふ、拂ひたまひて。】
 食《を》す國《くに》を 定めたまふと
 鶏《とり》が鳴く 吾妻《あづま》の國の
 御車士《みいくさ》を 召《め》したまひて
 ちはやぶる 人を和《やは》せと、
 服從《まつろ》はぬ 國を治めと、【一は云ふ、拂へと。】
 皇子《みこ》ながら 任《ま》け賜へば、
 大御身《おほみみ》に 大刀《たち》取《と》り佩《は》かし、
(540) 大御手《おほみて》に 弓取り持たし、
 御車士《みいくさ》を 率《あとも》ひたまひ、
 齊《ととの》ふる 鼓の音《おと》は、
 雷《かづち》の 聲と聞くまで、
 吹き響《な》せる 小角《くだ》の音も、【一は云ふ、笛の音は。】
 敵《あた》みたる 虎か吼《ほ》ゆると
 諸人《もろびと》の おびゆるまでに、【一は云ふ、聞きまどふまで。】
 捧《ささ》げたる 幡《はた》の靡《なび》きは、
 冬ごもり 春さり來れば、
 野ごとに 著きてある火の【一は云ふ、冬ごもり春野燒く火の。】
 風の共《むた》 靡かふ如く、
 取り持《も》てる 弓弭《ゆはず》の騷《さわき》、
 み雪降る 冬の林に【一は云ふ、木綿の林。】
 飄風《つむじ》かも い卷き渡ると
 思ふまで 聞《きき》の恐《かしこ》く、【一は云ふ、諸人の見まどふまでに。】
 引き放つ 箭の繁《しげ》けく、
 大雪の 亂れて來《きた》れ、【一は云ふ、霰なすそちよりくれば。】
(541) まつろはず 立ち向ひしも、
 露霜の 消《け》なば消ぬべく、
 去《ゆ》く鳥の 競《あらそ》ふ間《はし》に、
  一は云ふ、朝霜の消《け》なば消ぬとふに、うつせみと爭ふはしに。
 渡會《わたらひ》の 齋《いつき》の宮《みや》ゆ
 神風に い吹き惑《まど》はし、
 天雲を 日の目も見せず
 常闇《とこやみ》に 覆《おほ》ひたまひて、
 定めてし 瑞穗の國を
 神《かむ》ながら 太敷き坐《ま》して、
 やすみしし わが大王《おほきみ》の、
 天の下 申《まを》したまへば、
 萬代に 然しもあらむと、【一は云ふ、かくもあらむと。】
 木綿花《ゆふはな》の 榮ゆる時に、
 わが大王《おほきみ》 皇子《みこ》の御門を【一は云ふ、さす竹の皇子の御門を。】
 神宮に 装《よそ》ひまつりて、
 つかはしし 御門の人も、
(542) 白細《しろたへ》の 麻衣《あさごろも》著《き》、
 埴安《はにやす》の 御門の原に
 茜《あかね》さす 日のことごと、
 鹿《しし》じもの い匍《は》ひ伏しつつ、
 ぬばたまの 夕《ゆふべ》になれば、
 大殿を ふり放《さ》け見つつ、
 鶉《うづら》なす い匍ひもとほり
 侍《さもら》へど 侍ひ得ねば、
 春鳥の さまよひぬれば、
 嘆《なげ》きも いまだ過ぎぬに、
 憶《おもひ》も いまだ盡きねば、
 言《こと》さへく 百濟《くだら》の原ゆ
 神葬《かむはふ》り 葬りいまして、
 朝裳《あさも》よし 城上《きのへ》の宮を
 常宮《とこみや》と 高くし奉りて、
 神ながら 鎭《しづ》まりましぬ。」
 然れども わが大王の、
(543) 萬代と 念ほしめして
 作らしし 香具山の宮、
 萬代に過ぎむと念へや。
 天の如 ふり放《さ》け見つつ、
 玉襷《たまだすき》 かけて思《しの》はむ。
 恐《かしこ》かれども。」
 
 挂文《カケマクモ》 忌之伎鴨《ユユシキカモ》
 言久母《イハマクモ》 綾尓畏伎《アヤニカシコキ》
 明日香乃《アスカノ》 眞神之原尓《マガミガハラニ》
 久堅能《ヒサカタノ》 天都御門乎《アマツミカドヲ》
 懼母《カシコクモ》 定賜而《サダメタマヒテ》
 神佐扶跡《カムサブト》 磐隱座《イハガクリマス》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 所v聞見爲《キコシメス》 背友乃國之《ソトモノクニノ》
 眞木立《マキタツ》 不破山越而《フハヤマコエテ》
 狛劍《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》
 行宮尓《カリミヤニ》 安母理座而《アモリイマシテ》
 天下《アメノシタ》 治賜《オサメタマヒ》【一云、掃賜而】
 食國乎《ヲスクニヲ》 定賜等《サダメタマフト》
 鷄之鳴《トリガナク》 吾妻乃國之《アヅマノクニノ》
 御軍士乎《ミイクサヲ》 喚賜而《メシタマヒテ》
 千磐破《チハヤブル》 人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》
 不2奉仕1《マツロハヌ》 國乎治跡《クニヲヲサメト》【一云、掃部等】
 皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》
 大御身尓《オホミミニ》 大刀取帶之《タチトリハカシ》
 大御手尓《オホミテニ》 弓取持之《ユミトリモタシ》
 御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》
 齊流《トトノフル》 鼓之音者《ツヅミノオトハ》
 雷之《イカヅチノ》 聲登聞麻低《コヱトキクマデ》
 吹響流《フキナセル》 小角乃音母《クダノオトモ》【一云、笛乃音波】
 敵見有《アタミタル》 虎可叫吼登《トラカホユルト》
 諸人之《モロビトノ》 ※[立心偏+力三つ]流麻低尓《オビユルマデニ》【一云、聞或麻泥】
 指擧有《ササゲタル》 幡之靡者《ハタノナビキハ》
 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》
 野毎《ノゴトニ》 著而有火之《ツキテアルヒノ》【一云、冬木成春野燒火乃】
 風之共《カゼノムタ》 靡如久《ナビカフゴトク》
 取持流《トリモテル》 弓波受乃驟《ユハズノサワキ》
 三雪落《ミユキフル》 冬乃林尓《フユノハヤシニ》【一云、由布乃林】
 飄可母《ツムジカモ》 伊卷渡等《イマキワタルト》
 念麻低《オモフマデ》 聞之恐久《キキノカシコク》【一云、諸人見或麻低爾】
 引放《ヒキハナツ》 箭之繁計久《ヤノシゲケク》
 大雪乃《オホユキノ》 亂而來禮《ミダレテキタレ》【一云、霰成曾知余里久禮婆】
 不2奉仕1《マツロハズ》 立向之毛《タチムカヒシモ》
 露霜之《ツユジモノ》 消者消倍久《ケナバケヌベク》
 去鳥乃《ユクトリノ》 相競端尓《アラソフハシニ》
    一云、朝霜之消者消言尓、打蝉等安良蘇布波之尓
 渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤニ》
 神風尓《カムカゼニ》 伊吹或之《イフキマドハシ》
 天雲乎《アマグモヲ》 日之目毛不v令v見《ヒノメモミセズ》
 常闇尓《トコヤミニ》 覆賜而《オホヒタマヒテ》
 定之《サダメテシ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》
 神隨《カムナガラ》 太敷座而《フトシキマシテ》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 天下《アメノシタ》 申賜者《マヲシタマヘバ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 然之毛將v有登《シカシモアラムト》【一云、如是毛安良無等】
 木綿花乃《ユフバナノ》 榮時尓《サカユルトキニ》
 吾大王《ワガオホキミ》 皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》【一云、刺竹皇子御門乎】
 神宮尓《カムミヤニ》 装束奉而《ヨソヒマツリテ》
 遣使《ツカハシシ》 御門之人毛《ミカドノヒトモ》
 白妙乃《シロタヘノ》 麻衣著《アサゴロモキ》
 埴安乃《ハニヤスノ》 御門之原尓《ミカドノハラニ》
 赤根刺《アカネサス》 日之盡《ヒノコトゴト》
 鹿自物《シシジモノ》 伊波比伏管《イハヒフシツツ》
 烏玉能《ヌバタマノ》 暮尓至者《ユフベニナレバ》
 大殿乎《オホトノヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》
 鶉成《ウヅラナス》 伊波比廻《イハヒモトホリ》
 雖2侍候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》
 春鳥之《ハルトリノ》 佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》
 嘆毛《ナゲキモ》 未v過尓《イマダスギヌニ》
 憶毛《オモヒモ》 未不v盡者《イマダツキネバ》
 言左敝久《コトサヘク》 百濟之原從《クダラノハラユ》
 神葬《カムハフリ》 葬伊座而《ハフリイマシテ》
 朝毛吉《アサモヨシ》 木上宮乎《キノヘノミヤヲ》
 常宮等《トコミヤト》 高之奉而《タカクシマツリテ》
 神隨《カムナガラ》 安定座奴《シヅマリマシヌ》
 雖v然《シカレドモ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 萬代跡《ヨロヅヨト》 所v念食而《オモホシメシテ》
 作良志之《ツクラシシ》 香來山之宮《カグヤマノミヤ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》
 天之如《アメノゴト》 振放見乍《フリサケミツツ》
 玉手次《タマダスキ》 懸而將v偲《カケテシノハム》
 恐有騰文《カシコカレドモ》
 
【譯】言に出して云うのは憚られることであります。申そうにも誠に恐れ多い、明日香の眞神の原に壯大な宮殿をお定めになつて、神樣となられるとして、磐戸の中にお隱れになつた、わが天武天皇の、治められる北方の國の、美濃の國の木の茂り立つ不破山を越えて、和※[斬/足]《わざみ》が原の行宮にお下《くだ》りになつて、天下を治め、領國をお定めになると、東方の國の軍卒をお召しになり、亂暴な人を平和にせよ、服從せぬ國を治めよと、高市の皇子に、皇子にましますが故に任命されましたから、皇子は、御身に太刀をお佩きになり、御手に弓をお持ちになり、軍卒を率《ひき》いたまい、調子を正す太鼓の音は、雷の音と聞くまで、吹き立てる小角《くだ》の笛の音も、敵對した虎が吼えるのかと、衆人の恐怖するまでに、捧げた幡の靡きは、冬が終つて春になつて來ると、野毎についている火が、風と共に靡くように、持つている弓弭の騷ぐ音は、雪の降る冬の林に、飄風《つむじかぜ》が卷き渡るかと思うまで、聞くもおそろしく、引き放つ矢の繁きことは、大雪のように亂れて來れば、服從しないで立ち向かつた者も、露霜のように、今にも消えそうにして、行く鳥のように先を爭つているおりに、伊勢の神宮から、神風が吹き惑わし、日の光も見せず天雲を以つて、眞闇に覆いなされて、平定されたこの日本の國を、神樣にあるままに、領有遊ばされて、わが高市の皇子の、天下の政をお執りになるから、萬代までも、この通りにあろうと、作り(544)花のように榮える時に、思いもかけず、わが皇子の宮殿を、祭りの場と装飾し奉つて、お使いになつていた宮の人も、白い麻衣を著て、埴安の御殿の原に、終日、鹿猪のように匍い伏しつつ、夕方になれは、大殿を仰ぎ見ながら鶉のように葡ひ彷徨して、伺候しているけれども、それにも堪えかねて、嘆きの聲が出されるから、嘆きもまだ過ぎず、思いもまだ盡きないのに、百濟《くだら》の原から、葬り申し上げて、城上《きのへ》の宮を、永久の宮とお定め申し上げて、神樣としてお成りになりました。しかしながら、わが皇子樣の、萬代にもとお思いになつてお作りになつた、香具山の宮は、萬代に棄てて行こうと思いましようや。天のように仰ぎ見つつ心にかけてお慕い申しあげましよう。恐れ多いことではありますけれども。
【構成】この歌は、二段から成つている。初めから終りに近い常宮ト高クシ奉リテ神ナガラ鎭マリマシヌまで第一段。先帝天武天皇の御事蹟から説き起して、皇子の御事蹟に入り、更にその薨去して殯宮に鎭まるまでに及んでいる。これは事實を敍述する部分であるが、特にそれが長大に發達して重要な記事となつている。以下終りまで第二段、故宮について作者の感想を敍している。主觀を敍する部分である。第一段、百三十六句、第二段、十三句、以つてその構成を見るべきである。
【釋】挂文 カケマクモ。以下、皇子ナガラ任ケ賜ヘバまでは、皇子の御父にまします天武天皇の御事蹟を敍す。その天武天皇の御事を言おうとして、恐懼に堪えない意を、以下の四句であらわしている。カケマクは、懸けむことの意で、體言である。この語は、心に懸ける、言語に懸けるの兩方面がある。元來どちらも含んでいようが、ここは言葉に懸ける方が主になつている。神や貴人のことを、たやすく、口に懸け心に懸けることを忌み憚る心である。
 忌之伎鴨 ユユシキカモ。ユユシは、忌むべくある意の形容詞。カモは感動の助詞。憚られることであるかなの意。以上一文を成しており、次の、言ハマクモアヤニ畏キと對句になつて、下文に續いている。對句の前(545)半は、終止形で切り、後半が連體形になつて、後の文に接續するもので、「鳴かざりし鳥も來鳴きぬ。咲かざりし花も咲けれど」(卷一、一六)などと同型である。この形式の對句は、古體の歌に多く、後衰える。
 由遊志計禮杼母 ユユシケレドモ。ユユシキカモの句の別傳で、これによれば、文は切れない。この歌には、歌詞中に別傳を多く有しているが、これらは、同一の別傳から來ているのであろう。
 言久母 イハマクモ。イハマクは、言わむことの義。
 綾尓畏伎 アヤニカシコキ。以上、句を隔てて、ワガ大君を修飾している。「挂卷母《カケマクモ》 綾爾恐之《アヤニカシコシ》 言卷毛《イハマクモ》 齋忌志伎可物《ユユシキカモ》」(卷三、四七五)。
 明日香乃眞神之原尓 アスカノマガミガハラニ。明日香の眞神が原は、大口の眞神が原ともいう。マガミノハラとも讀まれるが、下に、ワザミガ原とある。大口ノを冠した場合、ガの方が調子がよい。マガミはオオカミ。日本書紀欽明天皇紀に、狼について貴神《カシコキカミ》と稱
している。「大口能《オホクチノ》 眞神之原爾《マガミガハラニ》 零雪者《フルユキハ》 甚莫零《イタクナフリソ》 家母不v有國《イヘモアラナクニ》」(卷八、十六三六)、「三諸之《ミモロノ》 神奈備山從《カムナビヤマユ》 登能陰《トノグモリ》 雨者落來奴《アメハフリキヌ》 雨霧相《アマギラヒ》 風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》 大口乃《オホクチノ》 眞神之原從《マガミガハラユ》 思管《シノヒツツ》 還爾之人《カヘリニシヒト》 家爾到伎也《イヘニイタリキヤ》」(卷十三、三二六八)と詠まれている地で、三諸の神奈備山との關係が見えるが、その三諸の神奈備山は、明日香の神奈備山で、もと飛鳥神社の鎭座していた舊地である。また日本書紀、崇峻天皇の紀の、元年の條に、(546)「壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1、始作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1」とある。その法興寺は飛鳥寺ともいい、今の安居院の地である。安居院は、高市郡飛鳥の南にあるから、その邊が眞神が原ということになる。天武天皇の山陵は、檜隈の大内の陵といい、高市村野口にあり、安居院からは、飛鳥川を隔てて東南十町ほどの處にある。その山陵へは、眞神が原を通過して行くので、ここに眞神ガ原ニ云々と擧げたのであろう。天ツ御門ヲ定メタマヒテ神サブト磐ガクリマスという敍述は、山陵に鎭まりますこととする以外の解は成立しない。
 久堅能 ヒサカタノ。枕詞。
 天都御門乎 アマツミカドヲ。アマツは、天上の義で、天武天皇の神としての宮殿の意に、冠している。ミカドは宮殿、宮室。神としての御座所をの意。天つ宮といぅも同義で、弓削の皇子の薨去した時の歌に「久堅乃《ヒサカタノ》 天宮爾《アマツミヤニ》 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》」(卷二、二〇四)の例がある。また天の御門ともいい、「可之故伎也《カシコキヤ》 安米乃美加度乎《アメノミカドヲ》 可氣都禮婆《カケツレバ》 禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》 安佐欲比爾之弖《アサヨヒニシテ》」(卷二十、四四八〇)の例があつて、これも天武天皇の山陵を指している。
 懼母定賜而 カシコクモサダメタマヒテ。カシコクモは、定メタマヒテの限定詞。恐れ多くも。御陵を眞神が原に、天皇御自身にお定めになつたように敍している。
 神佐扶跡 カムサブト。カムサブは既出(卷一、三八)。神樣としての行爲を遊ばされると。
 磐隱座 イハガクリマス。陵墓は、石を以つて構築し、入口には、石戸を立てるので、その中に隱れたまうの義である。連體形の句。明日香の以下、次のワガ大君の修飾句として、山陵に鎭まりたまうことを敍している。
 八隅却之吾大王乃 ヤスミシシワガオホキミノ。ワガオホキミは、天武天皇を指し奉る。下の任ケタマヘバ(547)までに對する主格となつている。
 所聞見爲 キコシメス。キコシはお聞きになるの義、メスは敬語の助動詞。統治したまうの意になる。シラシメスに同じ。次の背友の國の修飾句である。
 背友乃國之 ソトモノクニノ。ソトモは、既出(卷一、五二)。背つ面の義で、北方をいう。ソトモノクニは、下の不破山を説明しており、美濃の國である。
 眞木立 マキタツ。既出(卷一、四五)。立派な木の立つ意に、不破山を修飾する。
 不破山越而 フハヤマコエテ。以下壬申の年の亂に關する記事に入る。不破山は、岐阜縣不破郡の山で、不破の關のある處を越えてである。事實は伊勢の國から美濃に入られたのであるが、ここは不破山のあなたにの意にかように言つている。
 狛釼 コマツルギ。枕詞。高麗の釼の義で、高麗ふうの釼は、柄頭に輪があるから、ワの枕詞となる。代匠記にいう。「コマは、高麗ナリ。高麗ノ釼ニハ柄頭ニ環ヲ著ルカ。環ノ類ヲワトイヘバ、ワト云詞マウケムトテカクハツツクルニヤ。戰國策云、軍之所v出矛戟折鐶鉉絶【鐶刀鐶。補云、鉉※[金+兆]、本作v弦。】古樂府云、藁砧今何在【藁砧調之※[石+夫]假※[石+夫]爲v夫】山上更有v山【山上山意出也。】何曰大刀頭【釼柄頭有v鐶假v鐶以爲v還。】破鏡飛上v天【破鏡初月也。状如2鏡片1。】」。
 和射見我原乃 ワザミガハラノ。美濃の國であろうが、所在未詳である。今の青野が原附近であろうという。日本書紀天武天皇紀に、「天皇於v茲、行宮興2野上1而居焉。(中略)戊子、天皇往2於和※[斬/足]1※[手偏+僉]2※[手偏+交]軍事1而還」とある、和※[斬/足]はこの和射見に同じ。
 行宮尓 カリミヤニ。行宮の文字は、漢文から來た文字で文選に見える。
 安母理座而 アモリイマシテ。アモリはアマオリの約。天から降ること。ここでは都から地方に行かれたことを敍している。イマシテは敬語。
(548) 天下治賜 アメノシタヲサメタマヒ。ヲサメは、あるべき形に整えるをいう。統治する義。
 掃賜而 ハラヒタマヒテ。本文の治賜の別傳である。下の國平治跡の別傳にも掃部等とあり、この別傳は、治を掃としている。ハラフは、邪惡を除去する意である。ここには、天下を拂除して定めたまうと續く意であろうが、助詞テを使用しているのは、上に天降り坐してとあるにかさなり、調子が整わない。
 食國乎定賜等 ヲスクニヲサダメタマフト。ヲスクニは既出(卷一、五〇)。御領國。サダメは平定するの意。
 鷄之鳴 トリガナク。枕詞。東國《あづま》に冠する。アの音に冠する枕詞には、「しなが鳥、安房」(卷九、一七三八)があり、シナガ鳥は、尻長鳥でニワトリのこととされ、アに績くのは、その鳴聲によるものとされる。「飛ぶ鳥の、アスカ」は、別の説明がなされているが、鳴聲にも關係があるかもしれない。ここのトリは、鷄の字が書かれて、ニワトリと推考されるので、鳴聲によつてアの音に冠するのだろう。
 吾妻乃國之 アヅマノクニノ。日本武の尊が、その妃弟橘姫を思つて、碓氷の坂の上で、吾妻《あづま》ハヤと仰せられてから、東方の諸國をアヅマというとする地名起原傳説がある。ツマが、單行、または熟語の一部として、地名となつているものは諸國に多く、殊に、上妻《かみづま》、下妻《しもづま》のような地名の多いことを見ても、ツマは、地形語で、別廓をなしている地をさすようである。屋内でも隅のところを、ツマという方言が殘つている。アは、アチ(彼方)のアで、遠方のツマの義であろう。しかるに、人間の配偶者をツマというよりして、妻の字をあて、また地名起原説話をも生じたのであろう。この時は、東海東山の兵士を召されたので、吾妻の國の御軍士といとう。
 御軍士乎 ミイクサヲ。イクサは軍卒をいう。戰をイクサというは後のことである。
 喚賜而 メシタマヒテ。東海東山の軍卒を召集したまいて。
(549)千破磐 チハヤブル。この語は、チ、ハヤ、ブルの三部に分解することができる。チは、靈威の義の語で、ィチシロシ、ウチハヤシなどのイチ、ウチも同語であろう。ハヤは、勇猛果敢の意の體言で、建速須佐の男の命、隼人などのハヤに同じ。ブルは體言について、これを動詞に轉成する性質の語である。「知波夜比登《チハヤビト》 宇遲能和多理爾《ウヂノワタリニ》」(古事記五二)、「千早人《チハヤビト》 氏川浪乎《ウヂガハナミヲ》 清可毛《キヨミカモ》」(卷七、一一三九)などのチハヤビトのチハヤは、この語のチハヤに同じくして、その語は、勇猛な人の意に使用される。「如此《カク》、宇治方夜伎時《ウチハヤキトキニ》 身命《ミイノチヲ》 不v惜之天《ヲシマズシテ》」(續日本紀宣命)のウチハヤキ時は、同じく世情の險惡な時の意に使用している。また、「御心《ミココロ》 一速《イチハヤヒ》 給波志止※[氏/一]《タマハジトシテ》」(鎭火祭祝詞)にイチハヤビとあつて、この語が上二段に使用され、荒ブなどと同樣の語構成であることが知られる。さてこの語は、強く暴い意味の語で、常には神の枕詞に用いられるが、ここでは、強暴な人の意に、チハヤブル人と稱している。これはこの語の本義による用法で、古事記上卷に「道速振荒振國神」とあると同じく、日本書紀神代の下に「殘賊強暴横惡之神」に訓して、チハヤブルアラブルカミとしているのも同義である。これが畏怖すべき神の意から進んで神の枕詞として常用されるに及んでは、その神威の烈しい意が發達して、貴い神の意にまで展開した。ここを初めとして、本集には千磐破の文字を使用しているのは、借字であるが、その猛威を感じている表現である。
 人乎和爲跡 ヒトヲヤハセト。ヤハセは、ヤハスの命令形。和スは平和にする、穩にするの意味の動詞。天武天皇が高市の皇子に向かつて、亂暴な人を平げよと命ぜられるのである。マツロハヌ國ヲ治メトと竝んで、下の任ケ給ヘバに懸かる。ヤハスの語は、「言直、【古語云夜波志】座※[氏/一]」(延喜式大殿祭祝詞)、「知波夜夫流《チハヤブル》 神乎許等牟氣《カミヲコトムケ》 麻都呂倍奴《マツロハヌ》 比等乎母夜波之《ヒトヲモヤハシ》」(卷二十、四四六五)などの用例がある。
 不奉仕 マツロハヌ。マツロフは、奉仕し服從する意の動詞で、その打消の形である。「東方十二道之荒夫流神及摩都樓波奴人等」(古事記景行天蓋)、「大君爾《オホキミニ》 麻都呂布物能等《マツロフモノト》」(卷十八、四〇九四)など用例があ(550)る。マツロフは、日本書紀に「波賦武志謀《ハフムシモ》 飫〓枳瀰※[人偏+爾]麼都羅符《オホキミニマツラフ》」(七五)の如く、マツラフと書かれたものがあり、マツル(奉)の連續動作を表示するマツラフから轉じたもののようである。
 國乎治跡 クニヲヲサメト。ヲサムは、乱れたものを整理する義で、國を秩序正しくするをいう。ヲサメはその命令法。この句も人ヲ和セトの句と共に、皇子に命ぜられるのである。
 掃部等 ハラヘト。上の句の治跡の別傳である。
 皇子隨 ミコナガラ。ナガラは、のゆえにの意。神ながら(巻一、三八)參照。ミコナガラは、皇子なるから、皇子にいますままに。皇子を征討の大將軍とするは古風である。
 任賜者 マケタマヘバ。ヨサシタマヘバ(代初書入)、マケタマヘバ(攷)、「仕奉太政官之政【乎波】誰任【之加母】罷伊麻」(續日本紀宣命)の例によれば、任をヨサシと讀むべきが如くであるが、ヨサスは、寄スの敬語であつて、「吾孫將v知食國天下與佐麻爾麻爾《ワガミマノシラサムヲスクニアメノシタトヨサシマツリシマニマニ》」(續日本紀宣命)、「皇神等依【左志】奉奧津御年《スメガミタチノヨサシマツラムオキツミトシヲ》a(延喜式祈年祭祝詞)などの如く、事物を寄せる意に使用されるのが本義であるから、ここには適當でない。依つて攷證にマケタマヘバと讀んだのに依るべきである。「大王之《オホキミノ》 任乃隨意《マケノマニマニ》」(巻三、三六九)に相當する句を「安麻射加流《アマザカル》 比奈乎佐米爾等《ヒナヲサメニト》 大王能《オホキミノ》 麻氣乃麻爾末爾《マケノマニマニ》」(巻十七、三九五七)、「大王能《オホキミノ》 麻氣能麻爾麻爾《マケノマニマニ》」(同、三九六二)など多くマケノマニマニと書いている。語原は不明であるが、任ずる、用意するの意のマクの他動詞であるようで、委任する意に使用されている。以上、天武天皇の御事蹟を歌つて、以下の皇子の御事蹟に移る準備としている。
 大御身尓 オホミミニ。オホミは稱美の詞、皇子の御身に。以下は高市の皇子が任を受けての行動を敍するのであるから、ここで主格が變更する。よつて、この句の上に、高市の皇子はの意味の句を置くべきであるが、元來この歌は、皇子の殯宮で歌われた歌で、その事をいう必要が無いので、これを省略している。
(551) 大刀取帶之 タチトリハカシ。タチトリオバシ(考)。トリは添えて調子を張る詞。ハカシは佩クの敬語の中止形。太刀を腰にお帶びになつて。
 大御手尓 オホミテニ。皇子の御手に。
 弓取持之 ユミトリモタシ。モタシは持ツの敬語の中止形。以上二句、大御身ニ大刀トリ帶カシの句と對句になつている。
 安騰毛比賜 アトモヒタマヒ。アトモフは誘い率いる義。「足利思代《アトモヒテ》 榜行舟薄《コギユクフネハ》」(卷九、一七一八)、「三船子呼《ミフナコヲ》 阿騰母比立而《アトモヒタテテ》 喚立而《ヨビタテテ》 三船出者《ミフネイデナバ》」(同、一七八〇)、「阿麻夫禰爾《アマブネニ》 麻可治加伊奴吉《マカヂカイヌキ》 之路多倍能《シロタヘノ》 蘇泥布里可邊之《ソデフリカヘシ》 阿登毛比弖《アトモヒテ》 和賀己藝由氣婆《ワガコギユケバ》」(卷十七、三九九三)、「安佐奈藝爾《アサナギニ》 可故等登能倍《カコトトノヘ》 由布思保爾《ユフシホニ》 可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》 安騰母比弖《アトモヒテ》 許藝由久伎美波《コギユクキミハ》」(卷二十、四三三一)等のアトモヒは、皆この語である。但し、「璞《アラタマノ》 年之經往者《トシソヘユケバ》 阿跡念登《アトモフト》 夜渡吾乎《ヨワタルワレヲ》 問人哉誰《トフヒトヤタレ》」(卷十、二一四〇)、「安杼毛敝可《アドモヘカ》 阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》 由豆流波乃《ユヅルハノ》 布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》 可是布可受可母《カゼフカズカモ》」(卷十四、三五七二)のアトモフ、アドモヘは別語で、何ト思フの義であるから、混同してはならない。以上、大御身ニ以下この句まで、皇子の直接の行動を敍している。
 齊流 トトノフル。整理する。軍隊の進退を正しくする意である。「網引爲跡《アビキスト》 網子調流《アゴトトノフル》 海人之呼聲《アマノヨビゴヱ》」(卷三、二三八)は、網子の進退を整理するのである。太鼓を以つて軍隊の動作を規定するので、連體形である。以下、皇子の軍隊の威力のことについて述べる。そのうち、諸人ノオビユルマデニの句は、軍樂について述べている。
 鼓之著者 ツヅミノオトハ。ツヅミは軍鼓で今の太鼓である。軍陣に鼓を用いたことは、軍防令に、「凡軍團、各置2鼓二面大角二口小角四口1」、また、「凡私家、不v得v有2鼓鉦弩牟※[矛+肖]具装大角小角及軍幡1。但樂鼓不(552)v在2禁限1」とある。
 雷之聲登聞麻低 イカヅチノコヱトキクマデ。イカヅチは、倭名類聚鈔に、雷公に註して、「和名奈流加美、一名以加豆知」とあり、佛足跡歌碑に、「伊加豆知乃《イカヅチノ》 比加利乃期止岐《ヒカリノゴトキ》」とある。軍鼓の音は、雷の鳴る音と聞えるまでで、その聲のおびただしいのをいう。
 吹響流 フキナセル。フキトヨムル(新訓)。日本書紀に、笛について「肝企儺須《フキナス》 美母慮我紆陪※[人偏+爾]《ミモロガウヘニ》」(九七)とあり、響は、本集にも、「足引之《アシヒキノ》 山河之瀬之《ヤマガハノセノ》 響苗爾《ナルナヘニ》」(卷九、一〇八八)など、ナルと讀んでいる。よつてフキナセルと讀む。また集中「霍公鳥《ホトトギス》 鳴響奈流《ナキトヨムナル》 聲之遙佐《コヱノハロケサ》」(卷八、一四九四)、「山妣姑乃《ヤマビコノ》 相響左右《アヒトヨムマデ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》」(同、一六〇二)等、多く使用され、これらは「保等登藝須《ホトトギス》 毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》 伎奈吉等余牟流《キナキトヨムル》」(卷十五、三七八〇)、「安之比奇能《アシヒキノ》 山妣故等余米《ヤマヒコトヨメ》 佐乎思賀奈君母《サヲシカナクモ》」(卷十五、三六八〇)等の、トヨムル、トヨメに相當するものと考えられる。トヨムは、響き渡る意の動詞で、下二段活である。
 小角乃音母 クダノオトモ。クダは軍陣に用いる笛の名。前に掲げた軍防令の文の中に、大角小角と見える。倭名類聚紗に、「楊氏漢語抄云、大角【波良乃布江】小角【久太能布江】」。獣角を笛としたことから起つて、獣角の形に摸して作つた笛。歌のことであるから、小角を擧げて大角を略したものである。
 笛乃音波 フエノオトハ。小角ノ音モの別傳である。小角ということ、耳馴れぬので、笛と傳えたものと見える。笛というも、軍樂の吹奏樂器のことで、大角小角に同じ。
 敵見有 アタミタル。アタミは、敵對する意の動詞で、新撰字鏡に、怏に阿大牟の訓がある。動詞アタムの連用形に助動詞タリの連體形がついたので、敵對するの意。怒つて反抗の意を示していることとする。また字について、敵見タルとし、敵を見たとも解せられる。
 虎可叶吼登 トラカホユルト。カは、疑問の係助詞。虎がか、吠えるのはの意。倭名類聚鈔に、吠に註して、(553)保由とし、犬の鳴聲なりとしているが、しかし犬の鳴くをいう動詞である。
 諸人之※[立心偏+協の旁]流麻低尓 モロヒトノオビユルマデニ。※[立心偏+協の旁]は、脅に同じ。新撰字鏡に「※[立心偏+協の旁]【今作脅、虚業反怯也於比也須】」とあり、日本靈異記上卷の訓註に「脅オヒユ」とある。驚いて精神を失うをいう。以上、諸人の恐怖するまでに軍樂の奏されるをいう。
 聞或麻泥 キキマドフマデ。脅ユルマデニの別傳である。
 指擧有 ササゲタル。サシアゲタルの約言で、旗を高く擧げること。佛足跡歌碑に「乃知乃保止氣爾《ノチノホトケニ》 由豆利麻都良牟《ユヅリマツラム》 佐々義麻宇佐牟《ササゲマウサム》」とある。以下風ノムタ靡カフ如クまで皇子の軍隊の旗旒について敍している。
 幡之靡者 ハタノナビキハ。ハタは軍用の幢で、幡を多く立て、敵を恐れさせるのである。その風に靡くことの意。これを野を燒く火※[火+餡の旁]に譬えているところを見ると、赤旗であつたろうという(萬葉集攷證)。古事記の序文に、「絳旗耀v兵」とあるも、天武天皇の軍について敍しているのであるが、その絳旗も紅旗である。
 冬木成春去來者 フユゴモリハルサリクレバ。既出(卷一、一六)。
 野毎著而有火之 ノゴトニツキテアルヒノ。野はおおむね春の初めに燒くものであるから、春サリ來レバを受けている。「立向《タチムカフ》 高圓山爾《タカマトヤマニ》 春野燒《ハルノヤク》 野火登見左右《ノビトミルマデ》 燎火乎《モユルヒヲ》」(卷二、二三〇)、「冬隱《フユゴモリ》 春乃大野乎《ハルノオホノヲ》 燒人者《ヤクヒトハ》 燒不v足香文《ヤキタラネカモ》 吾情熾《ワガココロヤク》航c卷七、二二三六)などある。
 冬木成春野燒火乃 フユゴモリハルノヤクヒノ。上の冬ゴモリ春サリ來レバ野ゴトニ著キテアル火ノの四句の別傳であつて、これによれば二句すくなくなる。しかしフユゴモリは、その語義から見ても、春になることの枕詞であつて、直に春野に冠するのは轉用である。これから見ても、本文の方がよい。
 風之共 カゼノムタ。ムタは共にの意の古語。體言であつて、副詞を構成する。野火が風と共に靡くよしである。
(554) 靡如久 ナビカフゴトク。ナヒクカコトク(神)、ナビケルゴトク(考)。野火が、風のまにまに横に流れるようにの意。この下に、あり、見ゆる等の意の語が省略されている。
 取持流 トリモテル。持つている。モテルは持ちあるの義。以下大雪ノ亂レテ來タレまで、皇子の軍隊の弓矢に就いて敍している。
 弓波受乃驟 ユハズノサワキ。既出。「御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈利《オトスナリ》」(卷一、三)は、矢を射る時に、弓の弦の鳴るを歌つていると解せられる。ここもそれに準じて、大勢の軍卒が矢を射るので、その弓の中弭が大きな音を立てると解すべきである。ユハズは、その本末の弦と合う處をいうが、ここでは中間の矢と合う處をいうであろう。サワキは、形および音聲の雜然たるをいう。
 三雪落 ミユキフル。ミは接頭語。冬の景をあらわすために置いた句。
 冬乃林尓 フユノハヤシニ。ハヤシは樹林の義。
 由布乃林 ユフノハヤシニ。冬ノ林ニの句の別傳である。雪の積つた林を、木綿で作つた林と譬喩したのであろう。ユフはコウゾの皮の繊維をさらしたもの。白色を以つて知られている。木綿を雪の譬喩に用いたのは巧みすぎる。本文の素朴に及ばない所である。
 飄可母伊卷渡等 ツムジカモイマキワタルト。ツムジは急に強く吹く風。旋風。カモは係助詞。下のイ卷キ渡ルに懸かる。イは接頭語。飄風が吹き卷いて渡ることかと思うまでという文脈。
 念麻低聞之恐久 オモフマデキキノカシコク。弓弭の騷ぎを飄風の吹き渡るかと思うほどに、聞くことのおそろしくあることの意。
 諸人見或麻低尓 モロヒトノミマドフマデニ。上の念フマデ聞キノカシコクの別傳である。しかし弓弭云々は物音についていうのであるから、見マドフは適しない。またこれによれは、前の諸人ノ聞キマドフマデと對(555)句になつている。
 引放箭之繁計久 ヒキハナツヤノシゲケク。弓弦を引いて放つ矢が數多く飛び來ることをいう。シゲケクは、體言で、繁くあることの意。形容詞に、體言を作る助詞クの接續したもの。副詞ではない。
 大雪乃 オホユキノ。譬喩で、大雪の如くの意である。
 亂而來禮 ミダレテキタレ。キタレは、條件法であつて、ここで段落になるのではなく、下文に對して、大雪のように矢が亂れて來るからの意となる。集中、例の多いことであるが、たとえば、「天づたふ入日さしぬれ、ますらをと思へる吾も」(卷二、一三五)の如きがある。以上皇子の軍隊の威武を敍し、これに對して、以下敵方の樣子の敍述に移る。
 霰成曾知余里久禮婆 アラレナスソチヨリクレバ。本文の、大雪ノ亂レテ來タレの別傳である。アラレナスは枕詞。霞のようにの意。箭の繁くあることを霞に譬えたのは適切である。この枕詞は、意を以つてソチヨリ來レバに冠するのであろう。ソチは其方の義であろうが、集中他に用例を見ない。彼方の意に使用して、霰のように、あちらから來ればとしたのであろう。これも本文の方を可とする。
 不奉仕立向之毛 マツロハズタチムカヒシモ。以下敵方、すなわち近江の朝廷方の樣子である。タチムカヒシモは、立ち向かつた者もの意。
 露霜之 ツユジモノ。既出(卷二、一三一)。枕詞。露から霜に置きかわる頃の消え易い霜のようにの意に、消ユに冠する。
 消者消倍久 ケナバケヌベク。消えなば消えぬべくで、消えるなら消えもしようとの意に、命の消え易いのをいう慣用句。「朝霜《アサジモノ》 消々《ケナバケヌベク》 念乍《オモヒツツ》 何此夜《イカニコノヨヲ》 明鴨《アカシナムカモ》」(卷十一、二四五八)、「朝露之《アサヅユノ》 消者可v消《ケナバケヌベク》 戀久毛《コヒシクモ》 知久毛相《シルクモアヘル》 隱都麻鴨《コモリヅマカモ》」(卷十三、三二六六)の用例があり、その變化した形に、「零雪乃《フルユキノ》 消者消香二《ケナバケヌカニ》 戀云吾(556)妹《コフトフワギモ》」(卷四、六二四)、「降露乃《オクツユノ》 消者雖v消《ケナバケヌトモ》 色出目八方《イロニデメヤモ》」(卷八、一五九五)がある。これらはいずれも、露霜雪の如き、消え易いものを枕詞として冠している。
 去鳥乃 ユクトリノ。枕詞。空飛ぶ鳥は、先を爭うように見えるので、爭フに冠している。
 相競端尓 アラソフハシニ。空行く鳥のように、先を爭つて、消えようとしている時にの意。消えるように爭う意である。ハシは、間《あいだ》で、消えを爭つているあいだにの意。ハシは、中途で、進行の中間であることをいうのだろう。端のハシと同語か。「波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》 安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》」(卷十四、三四〇八)
 朝霜之消者消言尓打蝉等安良蘇布波之尓 アサジモノケナバケヌトフニウツセミトアラソフハシニ。本文の露霜ノ以下の四句の別傳である。アサジモノは枕詞。ケナバケヌトフニは、消えるなら消えるというにの意に、爭フに懸かるのであろうか。ウツセミトは、うつせみの如きはかないものとしての意であろうか。難解の詞句の多い別傳で、よい傳來とは思われない。
 渡會乃齋宮從 ワタラヒノイツキノミヤユ。度會は伊勢の國の皮會郡、皇大神宮の鎭座せる地。イツキノミヤは、天照らす大神を齋き奉れる宮の義で、齋の内親王の宮を齋の宮ということとは別である。ユは、其處より此方に通じて。伊勢の神宮から。
 神風尓 カムカゼニ。神明の吹かせる風を神風という。伊勢の神宮から吹き起した風に。
 伊吹或之 イフキマドハシ。イは接頭語。敵軍を吹き惑わすのである。
 天雲乎日之自毛不令見常闇尓覆賜而 アマグモヲヒノメモミセズトコヤミニオホヒタマヒテ。アマグモは、天の雲。ヒノメは、日の面。天雲を以つて、日の光も見せずに常闇に覆われたよしである。トコヤミは永久の闇。皇子の軍の勢力によつて天日をも覆つての意である。壬申の亂の戰中、急に暴風吹き來つて、叢雲忽に起り、天日をも蔽ひ隱した事實があつたのであろう。雲を以つて天日を隱すということ、正義の軍の敍述として(557)は適切でない。天日を以つて弘文天皇に譬え、雲霞にも譬えつべき不義の戰を起してこれに打ち捷つた意を寓するものとも、言わばいうべきものであるが、個人としてのわたくしの追憶でなく、皇子の殯宮で歌われたものとしては、そのような意に解することはできない。
 定之 サダメテシ。上の食ス國ヲ定メタマフトと同じ意に、國を安定されたことをいう。
 水穂之國乎 ミヅホノクニヲ。ミヅホノクニは既出(卷二、一六七)。日本國を葦原の瑞穂の國というその略號である。ミヅは生々としてある意の稱美の詞。ホは物の秀でたのをいう。禾本に就いては、花果の稱である。
 神隨太敷座而 カムナガラフトシキマシテ。既出。この成句は上の一六七の歌にも見えている。フトシクは、見事に壯大に御占據遊ばされる意。天武天皇の御事をいうとも取れるが、やはり高市の皇子の御事として見るべきであろう。皇子にフトシクの語を使用することは、「神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》」(卷一、四五)の例がある。
 八隅知之吾大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。ワガオホキミは、高市の皇子をさす。この句は、天の下申すの主格になつている。
 天下申賜者 アメノシタマヲシタマヘバ。アメノシタマヲスは、熟語句で、天皇に對して天下の事を奏上する意から、政治を執るの意に使用せられ、大臣、大納言級の人に使用する。高市の皇子は、太政大臣であつたから、この句が使用される。「余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 伊麻志多麻比提《イマシタマヒテ》 阿米能志多《アメノシタ》 麻乎志多麻波禰《マヲシタマハネ》 美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》」(卷五、八七九)、「神奈我良《カムナガラ》 愛能盛爾《メデノサカリニ》 天下《アメノシタ》 奏多麻比志《マヲシタマヒシ》 家子等《イヘノコト》 撰多麻比天《エラビタマヒテ》」(同、八九四)。
 然之毛將有登 シカシモアラムト。下のシは張意の助詞。然もあらむと、その通りにあろうと。
 如是毛安良無等 カクモアラムト。然しもあらむとの別傳である。これは調子が落ちつかない。本文の八音(558)に強くいうのに及ばない。
 木綿花乃 ユフバナノ。枕詞。木綿で作つた花。造り花。木綿は、木の皮の繊維をさらしたもの。川や海の白く立つ波をよく木綿花に譬えている。「山高三《ヤマタカミ》 白木綿花《シラユフバナニ》 落多藝追《オチタギツ》 瀧之河内者《タキノカフチハ》 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》」(卷六、九〇九)、「泊瀬女《ハツセメノ》 造木綿花《ツクルユフバナ》 三吉野《ミヨシノノ》 瀧乃水沫《タギノミナワニ》 開來受屋《サキニケラズヤ》」(同、九一二)。この句、譬喩として榮ユルに冠している。
 榮時尓 サカユルトキニ。皇子の御勢いの榮える時にの意であるが、この下、思いもよらないの意を含めている。ここまでは、皇子生前の御事蹟を敍している。この下にゆくりなく薨去された旨を補つて解すべきである。
 吾王皇子之御門乎 ワガオホキミミコノミカドヲ。わが大君なる皇子と續く。ミカドは宮殿。
 刺竹皇子御門乎 サスタケノミコノミカドヲ。ワガ大君皇子ノ御門ヲの句の別傳である。サスタケノは既出(卷二、一六七)。枕詞。語義未詳であるが、刺す竹の語意を感じていたらしい。宮に冠する。ここではミカドに冠している。
 神宮尓 カムミヤニ。カムミヤは、神靈を祭る宮殿をいう。皇子の薨去に依り、その宮殿を殯宮とするのである。
 装束奉而 ヨソヒマツリテ。神宮として装備し奉つて。
 遣使 ツカハシシ。ツカハシは、使うの敬語の連用形。使役せられる。下のシは過去をあらわす助動詞の連體形。皇子のお使いになつた。
 御門之人毛 ミカドノヒトモ。御殿に使われていた人も。
 白妙乃麻衣著 シロタヘノアサゴロモキ。シロタヘは白い織物の義であるが、ここではただ白色の意に用い(559)ている。白妙の雪などいう時の用法に同じである。白衣を著るは、神に仕える人の服装で、清淨を貴ぶからである。アサゴロモは麻で織つた衣。天平十六年に、安積の皇子の薨去された時の大伴の家持の歌中にも、「白細爾《シロタヘニ》 舍人装束而《トネリヨソヒテ》 和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》」(卷三、四七五)とある。
 埴安乃御門之原尓 ハニヤスノミカドノハラニ。埴安は香具山のふもとで、皇子の御殿のあつた處。下に香具山の宮とある。ミカドは御門宮殿をいう語であるが、ここは、御門前の原の意に使用しているのであろう。その原にいて大殿をふりさけ見ると歌つている。
 赤根刺 アカネサス。既出(卷一、二〇)。枕詞。日は赤いので枕詞としてこれを冠している。
 日之盡 ヒノコトゴト。既出(卷二、一五五)。一日中、終日。
 鹿自物 シシジモノ。シシは、獣肉の義から、肉を食料とする獣、鹿猪の類をいう。ジモノは、既出、「鴨自物《カモジモノ》」(卷一、五〇)。ジは體言について、これを形容詞風にする性質の語。鹿猪は、膝を折つて坐するので、次の句の枕詞とする。
 伊波比伏管 イハヒフシツツ。イは接頭語。匍匐し平伏しつつ。下のイ這ヒモトホリの句に續いて、サモラヘドサモラヒ得ネバを修飾している。
 烏玉能 ヌバタマノ。既出。
 暮尓至者 ユフベニナレバ。夕方になれば。この二句は、アカネサス日ノコトゴトの句と對句になつているが、事實としては、日ノコトゴトイ這ヒ伏シツツから進行して行く敍述である。
 大殿乎振放見乍 オホトノヲフリサケミツツ。フリサケミルは既出(卷二、一四七)。天や山のような遠方または高いところを見るにいう。目を放つて遠く見る義。ここでは皇子の宮殿の高壯なことを表わして、この句を用いている。
(560) 鶉成 ウヅラナス。枕詞。鶉は、一處を徘徊するようにあるので、鶉のようにの意に、イ這ヒモトホリに冠している。
 伊波比廻 イハヒモトホリ。イは接頭語。モトホリは徘徊低徊する。
 雖侍候 サモラヘド。既出「雖2伺侍1《サモラヘド》」(卷二、一八四)。伺候し侍坐し居れども。動詞|守《モ》ルの連續的動作をあらわすモラフに接頭語サのついたのがサモラフである。これが轉じてサムラフになり、サムラヒ(侍者、武士)の語が出來、又サウラフ(候ふ)の語となる。次の句が假字書きの例になる。
 佐母良比不得者 サモラヒエネバ。悲痛の餘、侍候するにも堪えかねて。
 春鳥之 ハルトリノ。枕詞。新撰字鏡に※[春+鳥]をウグヒスと讀んでいるによれは、ウゲヒスノとも讀むべきもののようであるが、サマヨフの枕詞となつているのであるから、春の鳥一般の習性としてハルトリノと文字通り讀む説による。
 佐麻欲比奴禮者 サマヨヒヌレバ。サマヨフは、新撰字鏡に※[口+屎]を釋して、「許伊反、出v氣息v心也、坤吟也、惠奈久、又佐萬與不、又奈介久」、呻を釋して、「舒神反、吟也、歎也、佐萬與不、又奈介久」とある。息を出して呻吟する意で、悲歎のあまり、呻吟されるのである。サ迷フ、彷徨するの意ではない。木集では、迷うを、マドフと言つている。「春鳥乃《ハルトリノ》 己惠乃佐麻欲比《コヱノサマヨヒ》 之路多倍乃《シロタヘノ》 蘇※[泥/土]奈伎奴良之《ソデナキヌラシ》」(卷二十、四四〇八)。
 嘆毛未過尓 ナゲキモイマダスギヌニ。ナゲキは、ナガイキで、長い息をする、溜息をつくこと。その嘆きもまだ過ぎやらぬに。
 憶毛未不盡者 オモヒモイマダツキネバ。このネバは、ずしての如き意味で、ヌニというに近く、次の句に對する理由根據の義は稀薄になる。「奉v見而《ミマツリテ》 未時太尓《イマダトキダニ》 不v更者《カハラネバ》 如2年月1《トシツキノゴト》 所v念君《オモホユルキミ》」(卷四、五七九)など用例が多くある。用言の已然形は、已然の語意に拘泥すべきでなくむしろ既定というほどの意になるので、(561)この種の用法がなされるのである。
 言左徹久 コトサヘク。既出(卷二、一三五)。枕詞。言語の通じない意に、ここは百濟に冠する。
 百濟原從 クダラノハラユ。百濟の原は、奈良縣北葛城部百濟村の地。「
百濟野乃《クダラノノ》 、※[草冠/互]古枝爾《ハギノフルエニ》 待v春跡《ハルマツト》 居之鶯《ヲリシウグヒス》 鳴爾鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》」(卷八、一四三一)の百濟野も同じ。皇子の御殿のある香具山と殯宮の城上とを繋ぐ線上、城上に近い處にある。ユは、を通つて。
 神葬葬伊座而 カムハワリハワリイマシテ。貴人の薨去を、神になると考えたので、神の行動に準じて神葬りと云つたのである。神の集まることを神集ヒ、神の相談するを神謀リというように、神の葬《はふ》りという意に神葬りといつたのである。ハフリは、放り遣る義で、生ける時の家から野山に出すことをいう。しかしその語義は忘れられて、みずから鎭まりたまう意に、イマシテの敬語を附している。
 朝毛吉 アサモヨシ。既出(卷一、五五)。朝の裳の意で、キに冠するのであろう。
 木上宮乎 キノヘノミヤヲ。キノヘは、題詞に城上とあるに同じ。御墓もその地の三立の岡である。
 常宮等 トコミヤト。トコミヤは、永久の宮殿。常宮としての意。「常都御門跡《トコツミカドト》」(卷二、一七四)。
 高之奉而 タカクシマツリテ。
   タカクマツリテ(神)
   タカクシタテテ(西)
   タカクシマツリテ(私考)
   タカシリタテテ(攷)
   ――――――――――
   高之奉而《タカクシタテテ》(童)
   高知座而《タカシリマシテ》(考)
   定奉而《サダメマツリテ》(玉)
 この句の讀み方には諸説があるが、誤字説は採用しかねるとして、この文のままでは、タカクマツリテ、タカクシマツリテの二訓が考慮の價値がある。之は措辭として、直接に訓を當てないでもよい場合は、古事記日(562)本書紀には例の多いことであるが、本集には明確な例が無い。之を讀むとすれは、この場合、字音假字としてシと讀むほかはない。よつてタカクシマツリテと讀むべきである。そのシの性質は、講義の説の如くサ行變格の動詞とすることは無理で、強意の助詞と見るべきものである。形容詞の副詞形に、強意の助詞シの添つた例は、「爲部母奈久《スベモナク》 寒之安禮婆《サムクシアレバ》」(卷五、八九二)、「氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》 古非爾家流可母《コヒニケルカモ》」(卷十五、三六六八)など多くある。マツリテは奉仕して。常宮として高壯に奉仕しての意と解せられる。
 神隨安定座奴 カムナガラシヅマリマシヌ。神にいます故に鎭座ましました。皇子みずから鎭まります意に歌つている。以上第一段、事實を敍述している。先帝天武天皇の御事から説き起し、皇子の御事蹟に及び、城上の宮に鎭まりますに至つて止めている。堂々たる敍事の詞章である。以下これを受けて、主として作者の主觀を述べる。
 雖然 シカレドモ。以上皇子の事蹟を敍逃し來つたのを受けて、ここに一轉語を下して、作者の感慨を述べるのである。
 吾大王之 ワガオホキミノ。ワガオホキミは、高市の皇子。
 萬代跡所念食而 ヨロヅヨトオモホシメシテ。永久に住もうと思しめされて。
 作良志之 ツクラシシ。御造営になつた。
 香來山之宮 カゲヤマノミヤ。皇子の宮殿。上に埴安の御門の原にとあり、また反歌に埴安の池を歌つているので、香具山のふもと、埴安もしくはその附近にあつたことが知られる。
 萬代尓過牟登念哉 ヨロヅヨニスギムトオモヘヤ。スギムは、徒に過ぎむの意。思ヘヤは、ヤは反語、思おうや、思わないの意。「將v會跡母戸八《アハムトモヘヤ》」(卷一、三一)參照。久しき代までもいたずらに過ぎ去るべしとは思わないの意。句切。
(563) 天之如振放見乍 アメノゴトフリサケミツツ。この皇子の宮を形見として、大空の如くふり仰ぎ見つつ。
 玉手次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。手次を懸ける意に、次句の懸ケテに冠している。
 懸而將偲 カケテシノハム。心に懸けてお慕い申し上げよう。句切。
 恐有騰文 カシコカレドモ。われらが心にかけることは、おそろしいことであれどもの意。神靈を恐れる心持である。上の懸ケテ偲ハムの内容を限定している條件法の句。以上第二段、作者の中心に就いて敍している。
【評語】以上一百四十九句、萬葉集中第一の長い歌である。壬申の亂の描寫にその大部分を費し、期待にそむいて薨去に接したことを次に述べ、最後に十三句を以つて作者の感慨を敍している。秩序整然として、長くして紊れない。人麻呂の作品として恥じないものである。部分的の缺點はやむを得ないが、天雲を以つて日を蔽つて天下を定めたという譬喩は、この歌の疵であろう。しかし戰闘の記事の詳細にして巧妙なのは、殊にこの歌の光を増す所以である。敍事の部分が發達しているので敍事詩と見る説もあるが、それは正しくない。全體としては皇子の薨去を悼む敍情が中心である。なおかような殯宮の歌は、靈前において實際に誦詠されたものと考えられる。それでその神靈の御事蹟に關して頌する意味に敍事がされるのである。主格の省略されることなども、神靈に對していう所に理由が存するのであろう。
 
短歌二首
 
200 ひさかたの 天《あま》知らしぬる
 君ゆゑに、
 日月《ひつき》も知らに 戀ひわたるかも。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 天《アマ・アメ》所v知流《シラシヌル》
 君故尓《キミユヱニ》
 日月毛不v知《ヒツキモシラニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
(564)【譯】神となつて天をお治めになつた君であるものを、日月の過ぎるのも知らないで、戀いつつ過すことであります。
【釋】久堅之 ヒサカタノ。枕詞。既出。
 天所知流 アマシラシヌル。歴史的にいえばアメシラスであろうが、アマテラスなど他の語例によるに熟語としてアマシラスであろう。おかくれになることを、神となつて天を領せられるように云つている。シラシは知ルの敬語の連用形。統治する、領有する意。「和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天所知奴禮《アマシラシヌレ》 展轉《コイマロビ》 ※[泥/土]打雖v泣《ヒヅチナケドモ》 將v爲須便毛奈思《セムスベモナシ》」(卷三、四七五)、「吾王《ワガオホキミ》 天所v知牟登《アマシラサムト》 不v思者《オモハネバ》」(同、四七六)。これらの例は、大伴の家持の作で、人麻呂のこの歌から詞句を得ているらしい。
 君故尓 キミユヱニ。君は高市の皇子。その君の事によつての意。
 日月毛不知 ヒツキモシラニ。日や月の過ぎることも知らずに、ニは、打消の助動詞。
 戀渡鴨 コヒワタルカモ。コヒは、亡き君に對する思慕の意の動詞。ワタルは、時を經過する、世を渡る、日を渡る等の義で、戀いつつ月日を過ぎゆくことかなと嘆息したのである。
【評語】長歌の敍事的なのに對して、主觀的に述べている。壯大な詞句が選まれているのは、皇子の薨去を悼む挽歌としてふさわしい。
 
201 埴安《はにやす》の 池の堤《つつみ》の 隱沼《こもりぬ》の、 行《ゆ》く方《へ》を知らに 舍人《とねり》は惑《まど》ふ。
 
 埴安乃《ハニヤスニ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》
 去方乎不v知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》
 
【譯】埴安の池の堤のこもつている沼の水のように、どうしてよいかわからないで、舍人は迷つております。
【釋】埴安乃池之堤之 ハニヤスノイケノツツミノ。皇子の香具山の宮の地にある景物を取つて歌を起してい(565)る。ツツミは、水を包んである土。埴安の池は今殘つていないが、香具山の西北のふもとにあつたと推定される。
 隱沼乃 コモリヌノ。コモリヌは土などに圍まれて、水の流れて出る口の見えない沼をいう。以上、行ク方ヲ知ラニというための序で、この歌は序歌である。隱沼の用例には、「隱沼《コモリヌノ》 從v裏戀者《シタユコフレバ》 無v乏《スベヲナミ》」(卷十一、二四四一)、「許母利奴能《コモリヌノ》 之多由孤悲安麻里《シタユコヒアマリ》 志良奈美能《シラナミノ》 伊知之路久伊泥奴《イチシロクイデヌ》 比登乃師流倍久《ヒトノシルベク》」(卷十七、三九三五)などある。
 去方乎不知 ユクヘヲシラニ。「行方不v知毛《ユタヘシラズモ》」(卷二、一六七)參照。行く方、爲《せ》む術を知らずにの意から、どうしてよいかわからないで、途方に暮れての意になる。
 舍人者迷惑 トリネハマドフ。集中、迷または感をマドフと讀んでいる。迷惑と續け書いたのは、他には無い。皇子にお仕え申し上げていた舍人等は、惑うことである。
【評語】人麻呂も舍人の一人としてお仕えしていたものと思われる。それによつて、長歌の末の感慨の部分も生きてくるし、この反歌の末句、舍人は惑フの句も、自分等の心もちに關することとして見るがよい。多くの舍人等の心を代表する氣持で、人麻呂は皇子の殯宮に歌つているものと見るべきである。
 
或書反歌一首
 
【釋】或書反歌一首 アルフミノヘニカヒトツ。或る書には、次の歌を、反歌として載せているというのである。或る書とはいかなる書であるか不明であるが、左註には、類聚歌林には、作者に關して別傳のあることを記しているから、類聚歌林でないことは知られる。
 
(566)202 哭澤《なきさは》の 神社《もり》に神酒《みわ》すゑ
 祷《こ》ひ祈《の》めど、
 わが大王《おほきみ》は 高日知らしぬ。
 
 哭澤之《ナキサハノ》 神社尓三輪須惠《モリニミワスヱ》
 雖2祷祈1《コヒノメド》
 我王者《ワガオホキミハ》 高日所v知奴《タカヒシラシヌ》
 
【譯】泣澤の神社に御酒の甕を据えてお祈りをしたけれども、わが皇子樣は、天にお上りになつてしまいました。
【釋】哭澤之神社尓三輪須惠 ナキサハノモリニミワスヱ。哭澤の神社は、古事記上卷に「故爾伊耶那岐命詔之、愛我那邇妹命乎、謂d易2子之一木1乎u、乃葡2匐御枕万1、匍2匐御足方1而、哭時、於2御涙1所v成神、坐2香山之畝尾木本1、名泣澤女神」とあつて、伊弉諾の尊の御涙によつて成れる泣澤女の神を祭つた處である。ナキサハというのは、水音のする澤の義であろう。この神社は、香具山の西麓の小高い處にあり、森林を本體とし、拜殿のみあつて本殿は無く、北方は一段低くなつて、當時の埴安の池の一部をなしていると推定される。この神は埴安の池の水神で、その水源の地に祭られ、涙によつて成つたという傳説を有しているのである。神社をモリと讀むのは、森林を神座として崇敬するにもとづく。森林に標して、神の處とし、從つて神社のもととなつたのである。ミワは神酒。「土佐國風土記云、神河、訓2三輪川1、源出2北山之中1、屆2于伊豫國1。水清、故爲2大神1釀v洒也、用2此河水1、故爲2河名1也」(萬葉集註釋所引)。ミワスヱとは、神酒を釀した甕を据える意で神に酒を獻つて祈祷をしようとするのである。「五十串立《イクシタテ》 神酒座奉《ミワスヱマツル》 神主部之《カムヌシノ》 雲聚玉蔭《ウズノラマカゲ》 見者乏文《ミレバトモシモ》」(卷十三、三二二九)。
 雖祷祈 コヒノメド。イノレドモ(金)、コヒノメド(玉)、ノマメドモ(古義)。イノレドモについては、古語のイノルは、神をイノルという語法であるから、ここに適しない。助けていえば、神社に神酒すえ、神を(567)イノレドというべきを、神ヲの處置格を省略したものと見るべきである。コヒノムは熟語で用例が多い。これは本來、神ニとニを受くべき語法のもので、「刀奈美夜麻《トナミヤマ》 多牟氣能可昧爾《タムケノカミニ》 奴佐麻都里《ヌサマツリ》 安我許比能麻久《アガコヒノマク》」(卷十七、四〇〇八)、「知波夜夫流《チハヤブル》 神社爾《カミノヤシロニ》 ※[氏/一]流鏡《テルカガミ》 之都爾等里蘇倍《シツニトリソヘ》 己比能美底《コヒノミテ》 安我麻都等吉爾《アガマツトキニ》」(同、四〇一一)の如き、この歌とほぼ同じ形式のもとに用いた例がある。コヒノムは神徳の發揮を願う意味の語である。分けていえば、コフは神の出現を乞う意、ノムは稽首禮拜する意であろう。
 我王者 ワガオホキミは。ワガオホキミは高市の皇子。
 高日所知奴 タカヒシラシヌ。タカヒは、日の美稱。日を知らすというは、前出の天知ラスと同じ思想で、貴人の薨去をいう。
【評語】四五句の言い方は大きいが、初三句の敍述は、左註にいうように、檜隈の女王の御歌とするに適している。反歌としても、長歌と關係が薄く、むしろ獨立の作として見るべき性質の歌である。
 
右一首、類聚歌林曰、檜隈女王、怨2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1云、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
 
右の一首は、類聚歌林に曰はく、檜隈の女王の、泣澤の神社を怨むる歌なりといへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申の秋七月辛丑の朔にして庚戌の日、後の皇子の尊薨りましきといへり。
 
【釋】檜隈女王 ヒノクマノオホキミ。父祖は知られない。天平九年に從四位の上に敍せられた方で、多分高市の皇子の妃であろう。
 十年 トトセ。持統天皇の十年である。
 辛丑朔庚戌 カノトウシノツキタチニシテカノエイヌノヒ。七月十日。
(568) 後皇子尊 ノチノミコノミコト。高市の皇子のこと。
 
但馬皇女薨後、穗積皇子、冬日雪落、遙望2御墓1、悲傷流涕御作歌一首
 
但馬の皇女薨りたまひし後に、穗積の皇子の、冬の日雪|落《ふ》るに、遙に御墓を望み悲傷流涕して作りませる御歌一首
 
【釋】但馬皇女薨後 タヂマノヒメミコノカムサリタマヒシノチニ。但馬の皇女と穗積の皇子との關係は、既出一一四の歌の題詞のもとに記した。但馬の皇女は、和銅元年六月十五日に薨去した。
 御墓 ミハカ。但馬の皇女の御墓は、歌詞によつて、吉隱の猪養の岡にあつたことが知られる。吉隱は、奈良縣磯城郡にあり、今は初瀬町に屬している。
 
203 零《ふ》る雪は あはにな降りそ。
 吉隱《よなばり》の 猪養《ゐかひ》の岡の 塞《サハリ》せまくに。
 零雪者《フルユキハ》 安播尓勿落《アハニナフリソ》
 吉隱之《ヨナバリノ》 猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》 塞爲卷尓《サハリセマクニ》
 
【譯】降る雪は多く降るな。皇女の御墓のある、吉隱《よなばり》の猪養の岡のさまたげをするだろう。
【釋】零雪者安播尓勿落 フルユキハアハニナフリソ。アハは未詳である。近江美濃飛驛越後などにて、雪崩のことをアワというそうであるが、この歌には適しない。ナ降リソは、ナに勿かれの意がある。雪は多量に降るなの意であることは察せられる。雪に對して言い懸けている語法。句切。
 吉隱之猪養乃岡之 ヨナバリノヰカヒノヲカノ。吉隱の猪養の岡は、皇女の御墓のあつた處と考えられる。今何處の地點とも知られない。ヰは家猪で、豚をいう。猪養部にちなんだ地名であろう。
(569) 塞爲卷尓 サハリセマクニ。
   セキニセマクニ(類)
   セキニナラマクニ(童)
   セキナラマクニ(考)
   セキナサマクニ(古義)
   セキトナラマクニ(新考)
   セキタラマクニ(定本)
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   寒有卷爾《サムカラマクニ》(檜)
 檜嬬手に、塞爲を寒有の誤とし、サムカラマクニと讀んでいるのは、皇女の御墓に對する愛情が描かれる。金澤本にも墓を寒に作つている。サムカラマクニは、寒くあろうよの意である。しかしそれは、爲を有の誤りとしなければならない。原文のままで訓を下すとすれば、爲は、集中動詞ナスに當てて使用した例はなく、動詞助動詞においては、ス(その活用を含む)に使用したものが普通で、その外には、ナリに使用したかと思われる「朝霧《アサギリノ》 髣髴爲乍《オホニナリツツ》」(卷三、四八一)の如きがある。よつてここも、爲卷爾をセマクニと讀むのが順當であるが、そうすれば塞を三音に讀まねはならない。塞は、名詞セキ、動詞セクに讀むのが通例であるが、ここでは助詞を添えては適當でないので、類聚名義抄に、塞にフサク、ヘダツ等の訓がある中から選擇するとせば、ヘダテと讀むほかはあるまい。遙に御墓を望んで詠まれた歌だから、セキよりもヘダテの方が適當であるともいえよう。しかしその訓にも無理があつて決定し得ない。爲をナリと讀む例につけば、セキナラマクニと讀めるが、この場合のナラは、助動詞で、爲の訓としては不適當である。また爲をタリと讀むことは、確證が無く、わずかに、「其枕《ソノマクラニハ》 苔《コケ》生負爲」(卷十一、二五一六)があるが、この歌の訓は、問題があつて證據にはならない。墓は、ふさがり、へだての意の字であつて、本集では、「跡座浪之《トヰナミノ》 塞|道麻《ミチヲ》」(卷十三、三三三五)、「風吹(570)者《カゼフケバ》 浪之《ナミノ》塞 海道者不v行《ウミヂハユカジ》」(卷十三、三三三八)の塞は、サハレルと讀むぺく、これによつて、ここは三音にサハリと讀み、じやまになるものの義とすべく、この句は、サハリセマクニとして、じやまをするだろうにの意と解せられる。
【評語】但馬の皇女は、はじめ高市の皇子の宮にあつて、既に穗積の皇子との關係を生じ、面倒な事もあつたようである。卷の二にある「但馬の皇女、高市の皇子の宮にいましし時、穗積の皇子を思ひて作りませる歌」、「穗積の皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣しし時、但馬の皇女の作りませる歌」、「但馬の皇女、高市の皇子の宮にいましし時、竊《しの》びて穗積の皇子に接り給ひし事|露《あらは》れて後に作りませる歌」等の題詞が、これを語つている。この歌、生けるが如く御墓に對して、雪のふさぐことの無いようにと思いやつている。哀情の切な歌である。
 
弓削皇子薨時、置始東人作歌一首 并2短歌1
 
弓削の皇子の薨りましし時、置始の東人の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】弓削皇子 ユゲノミコ。既出(卷二、一一一)。天武天皇の皇子、文武天皇の三年七月二十一日薨じた。
 置始東人 オキソメアヅマビト。既出(卷一、六六)。傳未詳。
 
204 やすみしし わが大王、
 高光る 日の皇子《みこ》、
 ひさかたの 天つ宮に
 神ながら 神といませば、
(571)そこをしも あやにかしこみ、
 晝はも 日のことごと
 夜はも 夜のことごと、
 臥《ふ》し居《ゐ》嘆けど 飽き足らぬかも。
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾《ワガ・ワゴ》王《オホキミ》
 高光《タカヒカル》日之皇子《ヒノミコ》
 久堅乃《ヒサカタノ》天宮尓《アマツミヤニ》
 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》
 其乎霜《ソコヲシモ》 文尓恐美《アヤニカシコミ》
 晝波毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》
 夜羽毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》
 臥居雖v嘆《フシヰナゲケド》 飽不v足香裳《アキタラヌカモ》
 
【譯】御威光あまねきわが日の皇子樣は、かの天上の御殿に、神にましますがままに神樣としておいでになるので、晝間は一日中、夜は夜通し、臥したり坐つたりして嘆くけれどもまだ嘆き足らないことである。
【構成】段落は無く、全篇一文から成つている。
【釋】安見知之吾王高光日之皇子 ヤスミシシワガオホキミタカヒカルヒノミコ。既出。ここでは弓削の皇子を指している。この句は元來天皇の事にいう句であつたと思われるが、轉じて皇子の上にもいうようになり、その例もかれこれ見えている。
 久堅乃 ヒサカタノ。枕詞。
 天宮尓 アマツミヤニ。既出の、「天都御門」(卷二、一九九)と同意の語で、天上の宮殿をいい、薨去して昇天せられたとする思想をあらわしている。
 神隨神等座者 カムナガラカミトイマセバ。貴人は死んで神となるとする思想に基づいて、神であるがゆえに神としてましますのでの意を歌つている。
 其乎霜 ソコヲシモ。ソコは、上の敍述を受けて指示している。シモは強く指示する助詞。
 文尓恐美 アヤニカシコミ。誠に恐縮に思つて。
 畫波毛日之盡夜羽毛夜之盡 ヒルハモヒノコトゴトヨルハモヨノコトゴト。既出(卷二、一五五)。畫間は(572)一日、夜は終夜。
 臥居雖嘆 フシヰナゲケド。臥したり居たりして嘆くけれども。
 飽不足香裳 アキタラヌカモ。十分滿足しない事かな。嘆くことに飽き足りないの意で、嘆かないようになりたいの希望を含んでいる。
【評語】大部分が、歌いものから來た成句でできている。他人の錦衣を借著して盛装したような歌である。
 
反歌一首
 
205 王《おほきみ》は 神にしませば、
 天雲《あまぐも》の 五百重《いほへ》が下《した》に
 隱《かく》りたまひぬ。
 
 王者《オホキミハ》 神西座者《カミニシマセバ》
 天雲之《アマグモノ》 五百重之下尓《イホヘガシタニ
 隱賜奴《カクリタマヒヌ》
 
【譯】皇子榛は神樣だから、天の雲の幾重にもかさなつている下にお隱れになつた。
【釋】王者神西座者 オホキミハカミニシマセバ。オホキミは、天皇をいうが、ここでは弓削の皇子をさしている。シは強意の助詞。この句も成句として古歌から來ているものと考えられる。文獻的には、本集に壬申の年の平定後の歌(卷十九、四二六〇、四二六一)とあるのが古い。この句は、普通、大君の神性を讃嘆する意に使用されるが、ここに薨去した皇子の上にいうのは、轉用であろう。その薨去によつて、神にいますとする思想を表現している。なお現在の方についていう場合は、卷三、二三五の歌に見えている。
 天雲之五百重之下尓 アマグモノイホヘガシタニ。イホヘは、無數にかさなつていること。五百重浪などという。雲のかさなり合つている下というので、雲中の意にいう。人の死を雲隱るといふことも前に出た。
(573) 隱賜奴 カクリタマヒヌ。雲中に隱れるといふ形で薨去したことを敍している。
【評語】これも古歌の成句を使つている。單に詞句を見れば、堂々たる風格の歌であるが、作者の悲痛にはすこしも觸れていない。
【參考】大君は神にし坐せば。
  大君は神にし坐せば天雲の雷の上に廬するかも(卷三、二三五)
  大君は神にし坐せば雲隱るいかづち山に宮敷きいます(同、或本)
  大君は神にし坐せば眞木の立つ荒山中に海をなすかも(同、二四一)
  大君は神にし坐せば赤駒のはらばふ田ゐを都となしつ(卷十九、四二六〇)
  大君は神にし坐せば水鳥のすだく水沼《みぬま》を都となしつ(同、四二六一)
 
又短歌一首
 
【釋】又短歌一首 マタミジカウタヒトツ。前と同じく、弓削の皇子の薨去の時に置始東人が、前の歌とは別にこの短歌一首を詠んだというのである。
 
206 樂浪の 志賀さざれ波、
 しくしくに 常にと君が
 念《おも》はせりける。
 
 神樂浪之《ササナミノ》 志賀左射禮浪《シガサザレナミ》
 敷布尓《シクシクニ》 常丹跡君之《ツネニトキミガ》
 所v念有計類《オモホセリケル》
 
【譯】樂浪の志賀のさざ波のように、重ね重ね常にありたいと君は思つておいでであつた。
【釋】神樂浪之 ササナミノ。ササナミは既出(卷一、三〇)。地名で、志賀に冠している。神樂浪と書いた(574)のは、この地名に樂浪の字を當てる根據を示している。「神樂聲浪乃《ササナミノ》」(卷七、一三九八)と書いた例もある。
 志賀左射禮浪 シガサザレナミ。志賀は、樂浪の地の一部の名。琵琶湖南岸の地名。その地のさざれ浪で、琵琶湖の波をいう。サザレナミはちいさい波。以上、波が次々に寄せるの意に、重ね重ねの意なるシクシクに對する序詞となつている。
 敷布尓 シクシクニ。シクはかさなる意の動詞。重ね重ねの意の副詞を作つている。
 常丹跡君之 ツネニトキミガ。ツネニトは、永久に不變にとの意。キミは弓削の皇子。命の恒久ならむことを、君がの意。
 所念有計類 オモホセリケル。平常思つて居られたの意。
【評語】弓削の皇子は、生前常に壽命の永久を念として居られたらしい。天武天皇の第六皇子として文武天皇の三年に薨去されたのは、長壽とは見られず、事によると病身であつたのかも知れない。この歌、歌は平凡であるが、何故に樂浪の志賀サザレ浪を以つて序としたのか、その關係は不明である。皇子には、吉野で無常を歎かれた歌(卷三、二四二)があるが、志賀に關してもさような歌があつたのであろう。
 
柿本朝臣人麻呂、妻死之後、泣血哀慟作歌二首 并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、妻の死りし後、泣血哀慟して作れる歌二首【短歌并はせたり。】
 
【釋】妻死之後 メノミマカリシノチ。人麻呂に先立つて死んだその妻は、歌詞によるに、輕の里を本居としていたことはあきらかである。この人は、持統天皇に奉仕し、その行幸御幸にも御供し、才媛で、歌をもよくした人であつたようである。その死んだのは、藤原の宮の時代であろうか。歌中に、羽貝の山に、妻を求めて彷徨する旨があり、その山は、春日にあるのであるが、どういう縁故で、その山が歌われているのか不明であ(573)る。
 泣血哀慟作歌二首 キフケチアイドウシテツクレルウタフタツ。泣血は、詩經小雅、雨無正の章に「鼠思泣血」とあり、その意は、韓非子卞和篇に、「和乃抱2其璞1而哭2於楚山之下1、三日三夜、泣盡而繼v之以v血」とあるように、涙が盡きて血の出る悲しみである。二首は、長歌二首をいう。これについて別の妻の死んだ時とする説もあるが、同時の歌と見て支障はない。
 
207 天飛ぶや 輕《かる》の路は、
 吾妹子が 里にしあれば、
 ねもころに 見まく欲《ほ》しけど、
 止まず行かば 人目を多み、
 まねく行かば 人知りぬべみ、
 さね葛《かづら》 後も逢はむと、
 大船の 思ひ憑《たの》みて、
 玉かぎる 磐垣《いはがき》淵の
 隱《こも》りのみ 戀ひつつあるに、
 渡る日の 暮れ去《ゆ》くが如、
 照る月の 雲隱《くもがく》る如、
 沖つ藻の 靡《なび》きし妹は、
(576) 黄葉《もみちは》の 過ぎてい去《ゆ》くと、
 玉|梓《づさ》の 使の言へば、
 梓弓 聲《おと》に聞きて、【一は云ふ、聲のみ聞きて。】
 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに、
 聲《おと》のみを 聞きてあり得ねば、
 わが戀ふる 千重の一重も
 慰もる 情《こころ》もありやと、
 吾妹子が やまず出で見し
 輕の市に わが立ち聞けば、
 玉襷《たまだすき》 畝火《うねび》の山に
 鳴く鳥の 音《こゑ》も聞えず、
 玉|桙《ほこ》の 道行く人も
 一人だに 似るが行かねば、
 すべをなみ 妹が名|喚《よ》びて、
 袖ぞ振りつる。【或る本に、名のみを聞きてあり得ねばといへる句あり。
 
 天飛也《アマトブヤ》 輕路者《カルノミチハ》
 吾妹兒之《ワギモコガ》 里尓思有者《サトニシアレバ》
 懃《ネモコロニ》 欲v見騰《ミマクホシケド》
 不v已行者《ヤマズユカバ》 人目乎多見《ヒトメヲオホミ》
 眞根久往者《マネクユカバ》 人應v知見《ヒトシリヌベミ》
 狹根葛《サネカヅラ》 後毛將v相等《ノチモアハムト》
 大船之《オホフネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》
 玉蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキブチノ》
 隱耳《コモリノミ》 戀管在尓《コヒツツアルニ》
 度日乃《ワタルヒノ》 晩去之如《クレユクガゴト》
 照月乃《テルツキノ》 雲隱如《クモガクルゴト》
 奧津藻之《オキツモノ》 名延之妹者《ナビキシイモハ》
 黄葉乃《モミチバノ》 過伊去等《スギテイユクト》
 玉梓之《タマヅサノ》 使乃言者《ツカヒノイヘバ》
 梓弓《アヅサユミ》 聲尓聞而《オトニキキテ》【一云、聲耳聞而】
 將v言爲便《イハムスベ》 世武爲便不v知尓《セムスベシラニ》
 聲耳乎《オトノミヲ》 聞而有不v得者《キキテアリエネバ》
 吾戀《ワガコフル》 千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》
 遣悶流《ナグサモル》 情毛有八等《ココロモアリヤト》
 吾妹子之《ワギモコガ》 不v止出見之《ヤマズイデミシ》
 輕市尓《カルノイチニ》 吾立聞者《ワガタチキケバ》
 玉手次《タマダスキ》 畝火乃山尓《ウネビノヤマニ》
 喧鳥之《ナクトリノ》 音母不v所v聞《コヱモキコエズ》
 玉桙《タマホコノ》 道行人毛《ミチユクヒトモ》
 獨谷《ヒトリダニ》 似之不v去者《ニルガユカネバ》
 爲便乎無見《スベヲナミ》 妹之名喚而《イモガナヨビテ》
 袖曾振鶴《ソデゾフリツル》【或本有d謂2之名耳聞而有不v得者1句u】
 
【譯】輕の路は、わが妻の里であるから、心から見たいと思うけれども、やまずに行つたなら人目が多いために、度多く行つたなら人が知るであろうから、さね葛のように後にも逢おうと大船のように思い頼んで、玉の(577)光のさす岩垣淵のように、忍んでのみ戀うているに、空渡る日の暮れるように、照る月の雲に隱れる如く、水中の藻のように靡き寄つた妻は、黄葉のように死んで行くと、使がいうから、梓弓の音のように耳にばかり聞いて、いう術もする術も知らないで、耳にばかり聞いてあることができないから、自分の戀う千が一も、慰まれる心もあろうかと、わが妻の始終出て見た輕の市に、立ち出でて開けば、かの畝火の山に鳴く鳥の聲も聞えず、道を行く人も、一人ばかりも似ている者がないので、爲方《しかた》が無さに、妻の名を喚んで袖を振つたことである。
【構成】段落は無く、全篇一文から成つている。
【釋】天飛也 アマトブヤ。枕詞。ヤは感動の助詞。天を飛ぶ雁の意に、次句の輕に冠している。この句は元來、「阿麻陀牟《アマダム》 加流乃袁登賣《カルノヲトメ》」(古事記八四)の如く、四音の句であつたものが、歌の記録時代にはいつて、感動のヤを添えて五吾に調整されたものである。古事記にはアマダムと記されているが、これはアマトブと同語で、歌いものから來た枕詞であることを語つている。
 輕路者 カルノミチハ。輕は、奈良縣高市郡、畝傍山の東南の地である。下にユカバとあり、道路を通うことが重要な内容になつているので、ミチの語を以つて提示している。
 吾妹兒之里尓思有者 ワギモコガサトニシアレバ。ワギモコは女子の愛稱、ここでは亡き妻である。サトは人の住む家の集團であるが、ここで吾妹子の里と言つたのは、その妻の本居で、その妻は多分輕氏であつたのであろう。出でて持統天皇に仕え、いつのころからか、多分輕の里にいて、そこで死んだのであろう。
 懃 ネモコロニ。ネモコロは、今のネンゴロの古語であるが、本集では、假字書きのものの外には、懃、慇懃、懃懇、惻隱の字が、ネモコロ、もしくはネモコロニと讀むべきものとされている。その意は、委曲、丁寧、懇切 心から等の意で、用例によつて多少の相違がある。ここは心からの意である。
(578) 欲見騰 ミマクホシケド。ミマクは見むこと、ホシケドは、欲しい意の形容詞ホシケに、助詞ドの接續したもの。見たいと思うけれどもの意。同樣の語例には、「多摩枳波流《タマキハル》 伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》 世武周弊母奈斯《セムスベモナシ》」(卷五、八〇四)などある。
 不已行者人目乎多見 ヤマズユカバヒトメヲオホミ。絶えず行つたら人目が多くして。作者は、宮中もしくは皇子の宮殿などに宿泊しているものと考えられるので、人目を憚るように歌つているのであろう。藤原の宮からとすれは、輕のいずれの邊かは不明であるが、約一里ほどあるであろう。
 眞根久往者人應知見 マネクユカバヒトシリヌベミ。マネクは度數多く。上のヤマズ行カバ人目ヲ多ミの句と對句となつている。
 狹根葛 サネカヅラ。「狹名葛」(卷二、九四)に同じ。枕詞。蔓草の名、ビナンカズラ。蔓の這い別れてまた會うゆえに、後逢フの枕詞とする。
 後毛將相等 ノチモアハムト。人目を憚つて、後日にも逢おうとして。
 大船之思憑而 オホブネノオモヒタノミテ。既出(卷二、一六七)。心に頼みを懸けて。
 玉蜻 クマカギル。既出(卷一、四五)。玉の光を發する意に、夕、ほのか等に冠するが、ここでは磐垣淵に冠しているのは、その微光を發するよりいうのであろう。磐垣淵に續く例は、「眞祖鏡《マソカガミ》 雖v見言哉《ミトモイハメヤ》 玉限《タマカギル》 石垣淵乃《イハガキブチノ》 隱而在※[女+麗]《コモリタルツマ》」(卷十一、二五〇九)、「玉蜻《タマカギル》 石垣淵之《イハガキブチノ》 隱庭《コモリニハ》 伏以死《フシテシヌトモ》 汝名羽不v謂《ナガナハノラジ》」(同、二七〇〇)がある。玉蜻と書いたのは、蜻(トンボ)をカギロヒというので、カギルの音を表示する爲に借りたのである。舊訓カケロヒノと讀み、考にカギロヒノと讀んでいたが、鹿持雅澄に至つて玉蜻考を著して、タマカギルと讀むべしとした。
 磐垣淵之 イハガキブチノ。イハガキブチは、岩で圍まれた淵をいう。以上二句は、次のコモリと言うため(579)の序詞で、磐垣淵は、水の流れ出る處が知れないから、コモリを引き出すに使用される。前項に擧げた例もコモリの序として使用されている。
 隱耳戀管在尓 コモリノミコヒツツアルニ。表に出さず、心中でのみ戀いつつあるに。
 度日乃 ワタルヒノ。天空を通過する日か。
 晩去之如 クレユクガゴト。クレヌルガゴト(考)。天を通る太陽の暮れ行くように。妻の死んだことに對する譬喩である。
 照月乃雲隱如 テルツキノクモガクルゴト。渡ル日ノ暮レユクガ如の句と對句として、妻の死の譬喩となつている。
 奧津藻之 オキツモノ。枕詞。海上の藻のようにの意に、靡キシに冠する。海藻を以つて婦人の姿體を描く人麻呂の修辭の特色が、ここにも出ている。
 名延之妹者 ナビキシイモハ。ナビキシは、妻の姿態についていう。なよよかに寄り添つた意である。イモは婦人の愛稱。
 黄葉乃 モミチバノ。枕詞。黄葉は散り過ぐるので、過グの語に冠する。この句は、この歌中において唯一の季節語であるが、反歌にも、二首とも黄葉を歌い、殊にその第二首において黄葉と共に散つたと歌つているによれば、妻の死は、黄葉の散る頃であつて、この句が選定されたと考えられる。
 過伊去等 スギテイユクト。スギテイニキト(攷)。スギテは、この世を通過する意に死ぬことをいう。イユクは、妻がみずから行くとする現わし方である。イは接頭語。伊去はイニキとも讀まれているが、この字面からすればイユクと讀むのが順當である。
 玉梓之 タマヅサノ。枕詞。タマヅサは、假字書きものの二例(卷十七、三九五七、三九七三)を除いては、(580)すべて玉梓と書いている。梓はアヅサで、そのアがタマに結合して、タマヅサと讀まれる。タマは、他語に冠する場合は、美稱と、靈魂の義と、珠玉の義とがあるが、ここはそのどれであろうか。珠玉の義ではないらしい。アヅサは樹名。アヅサユミ(卷一、三)參照。タマが樹名に冠するは、「玉松が枝」(卷二、一一三)があり、これは美稱である。枕詞としては、使に冠するもの多く、その他では、「玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》」(卷三、四二〇)、「玉梓乃《タマヅサノ》 事太爾不v告《コトダニツゲズ》」(同、四四五)、「玉梓能《タマヅサノ》 妹者珠氈《イモハタマカモ》(卷七、一四一五)、「玉梓之《タマヅサノ》 妹者花可毛《イモハハナカモ》」(同・一四一六)が異例である。語義については、古くは使者が梓の木に玉をつけたのを携えたのであろうといい(玉の小琴)、また丈部が梓の杖を携えたからであると言つている(講義)が、それでは玉梓の妹という績き方は、説明できない。何か特殊の風習があつたのであろうが、今これをあきらかにするを得ない。代匠記に、玉梓は梓弓のことであるとし、これについて、粂川定一氏は、弓のツカ(束)から使につづくのだろうとしている。梓は、金澤本、類聚古集には、桙に作つており、これの外の例も、古寫本に、桙に作るものがあつて、これによれば、タマホコノで、突くから、ツカヒに冠するとしてよく通ずる。但し「多麻豆佐能《タマヅサノ》 使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》」(卷十七、三九五七)、「多麻豆佐能《タマヅサノ》 都可比多要米也《ツカヒタエメヤ》」(同、三九七三)の例があつて、假字書きにしているのでただちに玉桙の誤りとするわけにゆかない。
 使乃言者 ツカヒノイヘバ。ツカヒは動詞使フの名詞形。使用人の義であるが、普通使用人を使者に使うので、多くその意に使用される。妻の死んだことを使がいうのである。今日の常識から言えば、夫が妻の死ぬ時に居合わせないというのは不可解のように感じられるが、當時の夫婦關係は、女は自家にあり、男がこれに通う場合が多く、かような事情も生じたのであろう。人麻呂の場合は、その旅中に起つたこととも考えられる。後に人麻呂が石見の國で死に臨んだ時にも、その國の人と考えられる妻は、居合わさず、人麻呂は、自分の死ぬのを妻は知らずに待つているだろうと歌つて死んだ。
(581) 梓弓 アヅサユミ。枕詞。梓の木で作つた弓。弓を引けば音がするから、聲の枕詞とする。
 聲尓聞而 オトニキキテ。使のいう言葉で聞いて。
 聲耳聞而 オトノミキキテ。聲ニ聞キテの句の別傳であるが、下に聲ノミヲ聞キテアリ得ネバの句があり、それと重複してよくない。
 將言爲便世武爲便不知尓 イハムスベセムスベシラニ。スベは、手段、方法。ニは打消の助動詞。不知でシラニと讀まれるが、誤讀を避けるために特に尓の字を添えている。言うべき手段も爲すべき手段も知らずで、途方に暮れる意の副詞になつている。熟語句として集中に用例が多い。
 聲耳乎聞而有不得者 オトノミヲキキテアリエネバ。人の云うことのみを聞いただけでは、いることができないから。
 吾戀千重之一隔毛 ワガコフルチヘノヒトヘモ。ワガコヒノチヘノヒトヘモ(神)、ワガコフルチヘノヒトヘモ(考)。これも慣用句である。自分の戀の幾重とも重なれる中の一重も、千が一も。「吾戀流《ワガコフル》 千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》 名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアリヤト》」(卷四、五〇九)、「吾戀之《ワガコヒノ》 千重之一重裳《チヘノヒトヘモ》 名具佐米七國《ナグサメナクニ》」(卷六、九六三)、「名草山《ナグサヤマ》 事西在來《コトニシアリケリ》 吾戀千重一重《ワガコフルチヘノヒトヘモ》 名草目名國《ナグサメナクニ》」(卷七、一二一三)、「吾戀流《ワガコフル 》 千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》 人不v令v知《ヒトシレズ》 本名也戀牟《モトナヤコヒム》」(卷十三、三二七二)。ワガコフルとも、ワガコヒノともいうことが知られる。ここはノに當る字が無いので、ワガコフルと讀む。
 遣悶流 ナゲサモル。既出(卷二、一九六)。オモヒヤル(西)と讀む説もあるが、前項の例、千重ノ一重モの句を受けては、皆ナグサムの語を以つてしているのは、慣用があるであろう。この語の連體形、集中の例は、奈具佐牟流、奈具佐牟留、奈具佐無流、那具左牟流、名草武類等、ナゲサムルとするものと、名草漏の如くナゲサモルとするものとがあり、なお名草溢はナグサフルとも讀まれる。ナグサモルは自動、自分の心がな(582)ぐさまれる意。
 情毛有八等 ココロモアリヤト。ヤは疑問の終助詞。みずから慰める心もあるかと。
 不止出見之 ヤマズイデミシ。ヤマズは絶えず、始終。生前わが妻の常に出で見たの意で、次の輕の市を修飾する。
 輕市尓 カルノイチニ。輕の地に開かれる市に。市は物を賣買するところで、古の市は、日を定めて諸方から人が集まつて、開くのである。日本書紀天武天皇十年十月の條に「唯親王以下及群卿、皆居2于輕市1、而※[手偏+僉]2校装束鞍馬1」。
 吾立聞者 ワガタチキケバ。輕の市に立ち出でて聞けば。
 玉手次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。玉は美稱。頸《うなじ》に懸けるものであるから、畝火の枕詞とする。
 畝火乃山尓 ウネビノヤマニ。輕の地から畝火山は近く仰がれる。
 喧鳥之音母不所聞 ナクトリノコヱモキコエズ。鳥が鳴かないのではなく、鳴く鳥の聲も耳に入らぬので、かように敍している9
 玉桙 タマホコノ。玉は美《ほ》める辭。桙は突く用の武器。桙の身というより道の枕詞とするという。しからばミと續くものもあり得べきに、常にミチに冠し、また身のミと道のミとは音聲が違う。これは桙の靈威の意にチに冠するのだろう。道そのものを靈威ありとした。この枕詞は、「遠有跡《トホクアレド》 公衣戀流《キミニゾコフル》 玉桙乃《タマホコノ》 里人皆爾《サトビトミナニ》 吾戀八方《ワレコヒメヤモ》」(卷十一、二五九八)を例外として、他はすべてミチに冠している。
 獨谷似之不去者 ヒトリダニニルガユカネバ。ヒトリダニニテシユカネハ(神朱)。一人だけもわが妻に似たのが行かないから。「河風《カハカゼノ》 寒長谷乎《サムキハツセヲ》 歎乍《ナゲキツツ》 公之阿流久爾《キミガアルクニ》 似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》」(卷三、四二五)は、これと同樣(583)思想である。
 爲便乎無見 スベヲナミ。手段無くして。
 妹之名喚而袖曾振鶴 イモガナヨビテソデゾフリツル。不在の人の名を呼ぶのは、その人の生死に拘わらず大事とされていた。死者の名を呼べば、その靈が黄泉の國から來るが、魔物が附隨して來ると恐れていたのである。しかしここでは戀しさに堪えやらずして遂にその名を呼んだのである。袖を振るのは、吾ここにありと注意を求めるためで、集中に例が多い。
 或本有謂之名耳聞而有不得者句 アルマキニナノミヲキキテアリエネバトイヘルクアリ。或る本に名ノミヲ云々の句があるというのであるが、この句は、スベヲ無ミの句の下にあつたものと見られる。これも蛇足で本文に無い方がよい。
【評語】特に終りの方が良い。生前十分に逢わなかつた妻の幻影を追つて、畝火山を仰ぎ、輕の市に立ちさまようあたり、悲痛の心がよく出ている。
 
短歌二首
 
208 秋山の 黄葉《もみち》を茂み 迷《まど》ひぬる
 を求めむ 山道《ぢ》知らずも。【一は云ふ、路知らずして】
 
 秋山之《アキヤマノ》 黄葉乎茂《モミチヲシゲミ》 迷流《マドヒヌル》
 妹乎將v求《イモヲモトメム》 山道不v知母《ヤマヂシラズモ》【一云、路不v知而】
 
【譯】秋山の黄葉の茂きがために、道を迷つて、歸つて來ない妻を求めようとするが、山道を知らないことである。
【釋】秋山之黄葉乎茂 アキヤマノモミチヲシゲミ。秋山の黄葉が多くして。次のマドヒヌルの理由を示す句。(584)茂くして妹を求めむ山道を知らずというのではない。
 迷流 マドヒヌル。黄葉のために道に迷つて歸られないとするのである。以上、次の妹の語を修飾する。
 殊乎將求 イモヲモトメム。イモは妻をいう。連體形の句。
 山道不知母 ヤマヂシラズモ。妻を求むべき山道を知らないの意。モは感動の助詞。
 路不知而 ミチシラズシテ。第五句の別傳である。これは下に省略のある云い方であるが、調子もわるく拙い傳來である。
【評語】黄葉の散り亂れる中に、道を失つて歸つて來られないのであろうと歌つている。亡き人がみずから山路にはいつたとする思想のもとに、もしや山中に迷つているのではないかと思う人情を言い得ている。求めようとして遂に求められない人が描かれている。
 
209 黄葉《もみちば》の 落《ち》り去《ゆ》くなへに
 玉|梓《づさ》の 使を見れば、
 逢ひし日念《おも》ほゆ。
 
 黄葉之《モミチバノ》 落去奈倍尓《チリユクナヘニ》
 玉梓之《タマヅサノ》 使乎見者《ツカヒヲミレバ》
 相日所v念《アヒシヒオモホユ》
 
【譯】黄葉の散つて行く、そのおりしも、使の來るのを見ると、生前逢つた日のことが思われる。
【釋】黄葉之落去奈倍尓 モミチバノチリユクナヘニ。モミチバノチリヌルナヘニ(代初書入)。ナヘニは、上の詞句と下の詞句と共に行われるをあらわす。黄葉の散り行くそれと共に使の來るのを見ればの意。
 使乎見者 ツカヒヲミレバ。妻の家から來た使を見れば。妻の死を告げにきた使を見ると。
 相日所念 アヒシヒオモホユ。生前妻と逢つた日のことが思われる。
【評語】生前の追憶を歌つている。長歌に、使が來て妻の死を報じたことを歌つているのを受けて、別の方面(585)から歌つている。この反歌二首、黄葉を歌材として、よく長歌の内容を補足している。但し長歌には、妻の幻影を追つて輕の市を徘徊することが主になり、これは更に前に溯つて、使の來た時の感情を敍している。時處があちこちして一に集中していないのは缺點である。
 
210 うつせみと 念ひし時に、【一は云ふ、うつそみと思ひし。】
 取り持ちて わが二人見し
 走出《はしりで》の 堤に立てる
 槻《つき》の木の こちごちの枝《え》の
 春の葉の 茂きが如く、
 念へりし 妹にはあれど、
 憑めりし 兒らにはあれど、
 世の中を 背《そむ》きし得ねば、
 かぎろひの 燃る荒野に
 白|細《たへ》の 天領巾隱《あまひれがく》り、
 鳥じもの 朝立ちいまして、
 入日なす 隱りにしかば、
 吾妹子が 形身に置ける
 若兒《みどりこ》の 乞ひ泣く毎に、
(586) 取り與ふ 物し無ければ、
 鳥穗《とりほ》じもの 腋挾み持ち、
 吾妹子と 二人わが宿《ね》し
 枕づく 嬬星《つまや》の内に、
 晝はも うらさび暮し、
 夜《よる》はも 息づき明し、
 嘆けども せむすべ知らに、
 戀ふれども 逢ふ因《よし》を無み、
 大鳥の 羽貝《はがひ》の山に
 わが戀ふる 妹は坐《いま》すと 人の言へば、
 石根《いはね》さくみて なづみ來《こ》し、
 吉《よ》けくもぞなき。
 うつせみと 念ひし妹が、
 玉かぎる ほのかにだにも
 見えぬ思へば。
 
 打蝉等《ウツセミト》 念之時尓《オモヒシトキニ》【一云、宇都曾臣等念之】
 取持而《トリモチテ》 吾二人見之《ワガフタリミシ》
 ※[走+多]出之《ハシリデノ》 堤尓立有《ツツミニタテル》
 槻木之《ツキノキノ》 己知碁知乃枝之《コチゴチノエノ》
 春葉之《ハルノハノ》 茂之如久《シゲキガゴトク》
 念有之《オモヘリシ》 妹者雖v有《イモニハアレド》
 憑有之《タノメリシ》 兒等尓者雖v有《コラニハアレド》
 世間乎《ヨノナカヲ》 背之不v得者《ソムキシエネバ》
 蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野尓《モユルアラノニ》
 白妙之《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》
 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》
 入日成《イリヒナス》 隱去之鹿齒《カクリニシカバ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 形見尓置有《カタミニオケル》
 若兒乃《ミドリコノ》 乞泣毎《コヒナクゴトニ》
 取與《トリアタフ》 物之無者《モノシナケレバ》
 鳥穗自物《トリホジモノ》 腋挾持《ワキバサミモチ》
 吾妹子與《ワギモコト》 二人吾宿之《フタリワガネシ》
 枕付《マクラヅク》 嬬屋之内尓《ツマヤノウチニ》
 晝羽裳《ヒルハモ》 浦不樂晩之《ウラサビクラシ》
 夜者裳《ヨルハモ》 氣衝明之《イキヅキアカシ》
 嘆友《ナゲケドモ》 世武爲便不v知尓《セムスベシラニ》
 戀友《コフレドモ》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》
 大鳥乃《オホトリノ》 羽貝乃山尓《ハガヒノヤマニ》
 吾戀流《ワガコフル》 妹者伊座等《イモハイマスト》 人云者《ヒトノイヘバ》
 石根左久見手《イハネサクミテ》 名積來之《テナヅミコシ》
 吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》
 打蝉跡《ウツセミト》 念之妹之《オモヒシイモガ》
 珠蜻《タマカギル》 髣髴谷裳《ホノカニダニモ》
 不v見思者《ミエヌオモヘバ》
 
【譯】生ける人と思つていた時に、連れ立つて我等二人の見た、突き出ている堤に立つている、槻《つき》の木の、あちらこちらの枝の、春の葉の茂きが如くに、茂く思つて居つた妻ではあるが、頼みとして居た妻ではあるが、(587)世の中の習いを背くことができないから、陽炎の立つ荒野に、領巾《ひれ》のような白い雲に隱れて、鳥のように朝立ちをして、入日のように隱れてしまつたから、わが妻の形見に置いた若い兒の乳を乞うて泣く毎に、與うべき物がないから、鳥が穗をくわえているように、腋に挾んで、わが妻と二人して寢た、寢室の内に、晝は鬱々として暮らし、夜は太息をついて明かし、嘆けども、すべき手段を知らず、戀うけれども逢う方法が無さに、かの羽貝の山に、自分の戀うる妻はいると、人が言うので、石根を踏み割つて困難して來たが、別によいこともない。生ける人と思つた妻が、ほのかにも見えないのを思えば。
【構成】段落は無く、全篇一文でできている。
【釋】打蝉等念之時尓 ウツセミトオモヒシトキニ。ウツセミトオモヒシトキは、熟語句で、生前の意になる。この世に生きている人と思つていた時の意である。
 字都曾臣等念之 ウツソミトオモヒシ。本文のウツセミトオモヒシの別傳である。ただウツセミがウツソミに變つているだけである。この語のことは前に記した。ウツソミの方が原形であるかも知れない。臣の字を書いたのはオミの音に借りたのであるが、そのオは上のソの音に吸收されている。なおこの歌には、この別傳だけを記すに留めているが、これは下に或本歌曰として全部擧げてあるもの(卷二、二一三)によつて記したもので、兩者の相違が相當に多いので、詞句のあいだに別傳を記しかけて、一句だけでそれをやめて、後に別提することにしたものであろう。
 取持而吾二人見之 トリモチテワガフタリミシ。下の槻ノ木ノコチゴチノ枝に懸かるので、二人して槻の枝を取り持つて見たのである。但し或る本には携手吾二見之とあり、それは、二人が連れ立ち伴つての意になる。歌意から言えばその別傳の方がよいようである。
 ※[走+多]出之 ハシリデノ。※[走+多]は廣韻に、「俗趨字」と註している。日本書紀雄略天皇紀には、「擧暮利矩能《コモリクノ》 播都(583)制能野麼播《ハツセノヤマハ》 伊底柁智能《イデタチノ》 與慮斯企野麼《ヨロシキヤマ》 和斯里底能《ワシリデノ》 與慮斯企夜麼能《ヨロシキヤマノ》 據暮利矩能《コモリクノ》 播都制能夜麻播《ハツセノヤマハ》」」(七七)とあり、本集に「隱來之《コモリクノ》 長谷之山《ハツセノヤマ》 青幡之《アヲハタノ》 忍坂山者《オサカノヤマハ》 走出之《ハシリデノ》 宜山之《ヨロシキヤマノ》 出立之《イデタチノ》 妙山敍《クハシキヤマゾ》」(卷十三、三三三一)とある。ハシリデは、山の姿の走り出たようにあるということで、イデタチと對語になつていることに依つても知られる。これを、門口から走り出た處に近くあるとするのは誤りである。
 堤尓立有 ツツミニタテル。ツツミは水を包んでいる土地をいうが、何處の堤であるか不明である。藤原の京で詠んだとすれは、埴安の池の堤でもあり得るが、それはわからない。
 槻木之 ツキノキノ。ツキは、欅に似た落葉喬木。
 己知碁知乃枝之 コチゴチノエノ。コチは此方で、同語を重ねて、あちらこちらの意をあらわしている。嘗時まだアチの語が成立していなかつたのである。古事記に「久佐加辨能《クサカベノ》 許知能夜麻登《コチノヤマト》 多多美許母《タタミコモ》 幣具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》 許知碁知能《コチゴチノ》 夜麻能賀比爾《ヤマノカヒニ》」(九二、雄略天皇記)。本集に「奈麻余美乃《ナマヨミノ》 甲斐乃國《カヒノクニ》 打縁流《ウチヨスル》 駿河能國與《スルガノクニト》 己知其智乃《コチゴチノ》 國之三中從《クニノミナカユ》」(卷三、三一九)など使用されている。
 春葉之茂之如久 ハルノハノシゲキガゴトク。以上、繁くあることの譬喩に歌い起している。ここに春の葉を出したのは、追憶のことであるから、作歌の時節に、關係無くてよいのであるが、反歌に、去年見テシ秋ノ月夜ハの句があつて、實際、妻の死んだ翌年の春になつて詠んだので、自然この句が成されたものと考えられる。
 念有之妹者雖有 オモヘリシイモニハアレド。繁く思つていた妻ではあるが。
 憑有之兒等尓者雖有 タノメリシコラニハアレド。タノメリシは、妻として頼み思つていた意。コラは妻をいう。複數ではない。「兒等之家道《コラガイヘヂ》 差間遠焉《ヤヤマドホキヲ》」(卷三、三〇二)など用例は多い。以上二句、上の、念ヘリシ妹ニハアレドと對句を成している。妹すなわち兒ラである。
(589) 世間乎背之不得者 ヨノナカヲソムキシエネバ。ヨノナカは、ここでは世の中の通例をいう。人生無常の世間の道を背くことができないから。シは強意の助詞。
 蜻火之 カギロヒノ。カギロヒは陽炎をいう。しずかに暖かい日光のもとに、地上の水分が上昇し、その先にある風物が動搖して見える現象をいう。ここは實際である。
 燎流荒野尓 モユルアラノニ。モユルは、カギロヒの立つをいう。アラノは曠野で、妻の葬列の行つた處。
 白妙之天領巾隱 シロタヘノアマヒレガクリ。ヒレは、婦人の服飾で、肩から掛ける白い織物をいう。倭名類聚鈔に、「領巾【日本紀私記云比禮】婦人項上飾也」とある。天領巾は、天の領巾の義で、雲霧の類を領巾に譬えたのである。「秋風《アキカゼノ》 吹漂蕩《フキタダヨハス》 白雲者《シラクモハ》 織女之《タナバタツメノ》 天津領巾毳《アマツヒレカモ》」(巻十、二〇四一)の天つ領巾は、白雲を歌つている。ここの句は、白い雲に隱れての意であるが、妻の火葬の煙に思い寄せているようで、火葬の煙と共に去つたというとも解せられる。なおヒレの咒力の方面については、松浦の佐用媛の物語(卷五、八七一前行文)參照。
 鳥自物 トリジモノ。枕詞。鳥のように。
 朝立伊麻之弖 アサタチイマシテ。イマスは行クの敬語。尼理願の死を悼む歌にも「佐保河乎《サホカハヲ》 朝河渡《アサカハワタリ》 春日野乎《カスガノヲ》 背向爾見乍《ソガヒニミツツ》 足氷木乃《アシヒキノ》 山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》 晩闇跡《ユフヤミト》 隱益去禮《カクリマシヌレ》」(卷三、四六〇)とあつて、葬儀は、實際に、朝その家を出たものと考えられる。
 入日成 イリヒナス。枕詞。入日のように。朝、家を出た葬儀が、夜に至つて火葬を終るのでこの句がある。
 隱去之鹿齒 カクリニシカバ。この世から隱れたから。以上の敍述は、死者みずから家を出て隱れたように敍している。
 吾妹子之形見尓置 ワギモコガカタミニオケル。わが妻の形見として殘しておいた。
(590) 若兒乃 ミドリコノ。ワカキコノ(古書)。別掲の或本歌(卷二、二一三)には「緑兒之」とある。倭名類聚鈔に、孩に註して「辨色立成云、嬰兒、美都利古、始生小兒也」とあり、本集に「緑子之《ミドリコノ》 若子蚊見庭《ワクゴガミニハ》」(卷十六、三七九一)などある。幼兒を何故ミドリコというかは不明であるが、看護することをトリミルというので、同樣の意にミトリというのでもあろうか。漢語の緑兒の直譯であるかもしれない。若兒は、ワカキコとも讀まれる字面である。人麻呂の死んだ妻が、子を殘したことが知られる。
 乞泣毎 コヒナクゴトニ。幼兒が食物を乞うて泣く度に。
 取與物之無者 トリアタフモノシナケレバ。アタフは古く四段に活用している。與えるべき物がないから。
 鳥穂自物 トリホジモノ。
   トリホシモ(神)
   トリシモノ(拾)
   トボシモノ(童)
   ――――――――――
   烏穂自物《ヲホジモノ》(代精)
   烏徳自物《ヲトコジモノ》(考)
 この儘ではトリホジモノと讀むほかはない。ジモノは犬ジモノ、鳥ジモノなどの例で、の如くの意であるとして、穗や花を嘴に挾んでいる鳥の圖案を思つて、鳥の持てる穂のようにして、下の腋挾ミ持チに懸かるものと見るべきである。解を誤字説に求めるとすれば、別傳の或る本の歌には、「男自物腋挾持」(卷二、二一三)とあるので、萬葉考はこれによつて烏徳自物の誤とし、ヲトコジモノと讀み、爾來多くこの説に從つている。この場合のジモノは、犬ジモノや、鳥ジモノのジモノとは意味が違つて、デアルノニの意に解する。男子であるものをの意となつて、枕詞ではなくなる。「腋挾《ワキバサム》 兒乃泣毎《コノナクゴトニ》 雄自毛能《ヲノコジモノ》 負見抱見《オヒミウダキミ》」(卷三、四八一)、「小豆鳴《アヅキナク》 男士物屋《ヲノコジモノヤ》 戀乍將v居《コヒツツヲラム》」(卷十一、二五八〇)。
 腋挾持 ワキバサミモチ。子を脇に抱えて持つ意。かかえるように抱《いだ》く。古語拾遺に「天照らす大神、吾勝《あかつ》(591)の尊《みこと》を育《ひた》し、特に甚《いた》く鍾愛《めぐ》みたまひ、常に腋の下に懷きたまひ、稱へて腋子と曰ふ」とある。  吾妹子與二人吾宿之 ワギモコトフタリワガネジ。妻と二人で宿た意に、下の嬬屋を修飾する。
 枕付 マクラヅク。枕詞。枕の置かれてある意に、嬬屋を説明修飾する「摩久良豆久《マクラヅク》 都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》 於母保由倍斯母《モホユベシモ》」(卷五、七九五)、「枕附《マクラヅク》 都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》 鳥座由比《トクラユヒ》 須惠※[氏/一]曾我飼《スヱテゾワガカフ》 眞白部乃多可《マシラフノタカ》」(卷十九・四一五四)。
 嬬屋之内尓 ツマヤノウチニ。ツマヤは、對の屋の義。附屬の小室をいう。多く妻の居室として使用されていたので、妻の屋の語意を感じていたのであろう。前項に擧げた、卷の十九の例では、家持が鷹部屋にしている。
 浦不樂晩之 ウラサビクラシ。既出(卷二、一五九)。ウラは心裏の義。サビは不樂の文字の示すように、憂鬱に沈みいること。クラシは、日を暮らすことで、終日鬱々として夕に至るのである。
 氣衝明之 イキヅキアカシ。イキヅキは嘆息をすること。愁の止み難く眠り難くして、息をついて天明に至る。以上二句、晝はウラサビクラシと對句になつている。
 世武爲便不知尓 セムスベシラニ。既出(卷二、二〇七)。爲さむ手段をも知らず。何とも致し方無く。
 戀友相因乎無見 コフレドモアフヨシヲナミ。戀うけれども逢うわけが無くして。以上二句、嘆ケドモ爲ムスベ知ラニと對句になつている。
 大鳥乃 オホトリノ。枕詞。大鳥の羽がいの意に羽貝の山に冠する。
 羽貝乃山尓 ハガヒノヤマニ。「春日有《カスガナル》 羽買之山從《ハガヒノヤマユ》 狹帆之内敝《サホノウチヘ》 鳴往成者《ナキユクナルハ》 孰喚子鳥《タレヨブコトリ》」(卷十、一八二七)の羽買の山と同山と考えられ、依つて春日にあることが知られる。以下妻をその山に求める由に歌つているが、その關係は不明である。甚所説があるが、反歌に、引手ノ山ニ妹ヲ置キテとあり、引手の山との關係が問題に(592)なる。或る本の歌には、その求める妻が灰である由に歌つているから、もしそれをこの歌の原形とすれば、火葬地であつたのであろう。妻の死が、既に奈良時代にはいつているのであろうか。
 吾戀流 ワガコフル。妹を修飾している。
 妹者伊座等 イモハイマスト。イマスは、いる意の敬語。
 人云者 ヒトノイヘバ。他の人がいぅので。
 石根左久見手 イハネサクミテ。イハネは、岩石、ネは接尾語。サクミテは、「磐根木根履佐久彌 弖 《イハネキネフミサクミテ》」(延喜式祈年祭祝詞)。「五百隔山《イホヘヤマ》 伊去割見《イユキサクミ》」(卷六、九七一)などの用例があり、山や岩石、木の根などを踏破する意に使用されている。サクは、花の開く、物を裂くなど、裂開する意があるから、そのようにするをサクムというのであろう。卷の六の例に割見と書いているのは、サクに割くの意味が感じられているのであろう。さすれば岩を踏み開く意に解せられる。
 名積來之 ナヅミコシ。ナヅミは、艱難勞苦する意の動詞。コシは連體形で、難儀をして來たがしかしの如き意となる。
 吉雲曾無寸 ヨケクモゾナキ。ヨケクは、形容詞ヨシのヨケの形にコトの意のクの接續した體言で、よい事、よい點などの意になる。ヨケクの例は、「安志家口毛《アシケクモ》 與家久母見武登《ヨケクモミムト》」(卷五、九〇四)、「余家久波奈之爾《ヨケクハナシニ》」(同)などである。ゾを受けてナキと結んでいる。句切。
 打蝉跡念之妹之 ウツセミトオモヒシイモガ。生きていると思つた妻が。遙に冒頭の、うつせみと念ひし時にの句と呼應している。
 珠蜻 タマカギル。既出(卷二、二〇八)。枕詞。ここではホノカに冠している。
 髣髴谷裳不見思者 ホノカニダニモミエヌオモヘバ。明白になどとは勿論、ぼんやりとだけも見えないのを(593)思えば。上の、吉ケクモゾ無キを修飾限定している。
【評語】生前の事から筆を起してその死に及び、また前の歌と同じく、その跡を求めて山路に徘徊することを歌つている。槻の枝の思い出を譬喩に使用して來たのは巧みといえよう。今は亡き妻の形見である幼兒を抱き、ひとり空閨に困惑するあたりもよく描かれている。さて眠りをなし難い夜は明けて、羽買の山に亡き妻を求める敍述も悲痛である。最後の、妻を求め得ない敍述は、概念的ですこし物足りなさが感じられ、他の作におけるが如き力強さが見られない。
 
短歌二首
 
211 去年《こぞ》見てし 秋の月夜《つくよ》は
 照らせども、
 相見し妹は いや年さかる。
 
 去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》
 雖v照《テラセドモ》
 相見之妹者《アヒミシイモハ》 弥年放《イヤトシサカル》
 
【譯】去年妻と共に見た秋の月夜は、照らしているが、共に見たわが妻は、いよいよ時を隔ててゆく。
【釋】去年見而之 コゾミテシ。コゾは昨年をいう。「許序能秋《コゾノアキ》 安比見之末爾末《アヒミシマニマ》」(卷十八、四一一七)はその假字書きの例である。シは時の助動詞の連體形。
 秋乃月夜者 アキノツクヨハ。ツクヨは、ここでは月に重點があり、ヨは接尾語として使用されている。
 雖照 テラセドモ。テラセレド(考)。月は今年も照らしているけれども。字面からすれば、テラセレドの訓は採り難い。
 相見之妹者 アヒミシイモハ。その月を共に見た妻は。
(594) 弥年放 イヤトシサカル。いよいよ年が經過する。サカルは離れる意で、年サカルは、年を隔てる意である。妻が死んでから、年が變つたことをいう。
【評語】人は死し去つて、ただ舊物のみ存している。この感慨は、どのような人にも存し、いかなる物につけても云われることであるが、殊に月に對して故人を思うことは、漢詩や和歌に例が多い。日や星に對していうことなく、月のみにこの事あるは、月の光は、人の感傷を誘うところが多いからであろう。
 
212 衾道《ふすまぢ》を 引手《ひきて》の山に 妹を置きて、
 山路を行けば 生《い》けりともなし。
 
 衾道乎《フスマヂヲ》 引手乃山尓《ヒキテノヤマニ》 妹乎置而《イモヲオキテ》
 山徑往者《ヤマヂヲユケバ》 生跡毛無《イケリトモナシ》
 
【譯】衾道にある引手の山に妻を葬つて、山路を行けば、自分は生きて居るようにも思われない。
【釋】衾道乎 フスマヂヲ。フスマは地名であろうが所在未詳である。フスマヂは、衾の地に行く道。ヲは感動の助詞で、「味酒呼《ウマザケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)のヲの類である。攷證には、フスマは大きな被服の義で、夜寢るに夜具とするものである。ヂは道を書いたのは借字で、手の意で、今いう羽織のチの如く、衾に手がかりに絲紐布の類をつけておいたのであつて、それを引くより、引手の枕詞としたものであろうというが、ヂの解が無理で採用し難い。
 引手乃山尓 ヒキテノヤマニ。ヒキテノヤマは、所在未詳。大和志に、中村の東に在る龍王山であるとしている。この山は、山邊郡朝和村にある山であるが、その地は、人麻呂の妻のかつて住んでいたと思われる卷向山の麓に近く、柿本氏の本居と考えられる櫟本の南一里ほどの地である。その山に妻を葬つたとすることも有り得ないことでもない。
 妹乎置而 イモヲオキテ。妻を葬つたことをいう。
(595) 山徑往者 ヤマヂヲユケバ。このヤマヂは、長歌を受けて、羽買の山の山路を言つている。
 生跡毛無 イケリトモナシ。卷の十九に、「伊家流等毛奈之」(四一七〇)と假字書きにしたのがあるので、ここもイケルトモナシと讀むべく、さて生ける利も無しの義であるという説がある。しかし集中十數個の例は、トに利をあてたもの一も無く、皆假字の用法と見えるから、十九の例は、連體形の下に語を略したものとして、ここはイケリトモナシと讀み、リを助動詞、トを助詞と見るがよい。自分は、生きているとも無い。生きているようにもない。心を空に悲しみに閉されている。なお下の或本歌「生刀毛無」(卷二、二一五)參照。
【評語】地理の上に問題は殘るが、それは解釋上のことであつて、歌としては、悲しみに沈んで山路を彷徨する情がよく描かれている。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。前の歌の別傳であるが、この傳來は長歌一首反歌三首から成り、その全部を掲げている。前にも記したように、一々の詞句について相違を記すには、相當に相違が多くしてそれに堪えられなかつたのであろう。この或る本のいかなるものであるかは知られない。
 
213 うつそみと 念ひし時に
 携はり わが二人見し、
 出で立ちの 百足《ももだ》る槻《つき》の木、
 こちごちに 枝《えだ》させる如、
 春の葉の 茂きが如、
(596) 念へりし 妹にはあれど、
 恃《たの》めりし 姉《なね》にはあれど、
 世の中を 背《そむ》きし得ねば、
 かぎろひの 燃ゆる荒野に
 白細《しろたへ》の 天領巾隱《あまひれがく》り、
 鳥じもの 朝立ちい行きて、
 入日なす 隱りにしかば、
 吾妹子が 形見に置ける
 緑兒《みどりこ》の 乞ひ泣く毎に、
 取り委《まか》す 物しなければ、
 男じもの 腋挾《わきばさ》み持ち、
 吾妹子と 二人わが宿《ね》し
 枕づく 嬬屋《つまや》の内に、
 晝は うらさび暮らし、
 夜《よる》は 息衝《いきづ》き明かし、
 嘆けども せむすべ知らに、
 戀ふれども 逢ふ縁《よし》を無み、
(597) 大鳥の 羽易《はがひ》の山に
 汝《な》が戀ふるゝ 妹は坐《いま》すと
 人の云へば、石根《いはね》さくみて なづみ來し、
 好《よ》けくもぞ無き。
 うつそみと 念ひし妹が
 灰にて坐せば。
 
 宇都曾臣等《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキニ》
 携手《タヅサハリ》 吾二見之《ワガフタリミシ》
 出立《イデタチノ》 百足槻木《モモダルツキノキ》
 虚知期知尓《コチゴチニ》 枝刺有如《エダサセルゴト》
 春葉《ハルノハノ》 茂如《シゲキガゴト》
 念有之《オモヘリシ》 妹庭雖v在《イモニハアレド》
 恃有之《タノメリシ》 姉庭雖v有《ナネニハアレド》
 世中《ヨノナカヲ》 背不v得者《ソムキシネネバ》
 香切火之《カギロヒノ》 燎流荒野尓《モユルアラノニ》
 白栲《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》
 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊行而《アサタチイユキテ》
 入日成《イリヒナス》 隱西加婆《カクリニシカバ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 形見尓置有《カタミニオケル》
 緑兒之《ミドリコノ》 乞哭別《コヒナクゴトニ》
 取委《トリマカス》 物之無者《モノシナケレバ》
 男自物《ヲノコジモノ》 腋挾持《ワキバサミモチ》
 吾妹子與《ワギモコト》 二吾宿之《フタリワガネシ》
 枕附《マクラヅク》 嬬屋内尓《ツマヤノウチニ》
 日者《ヒルハ》 浦不怜晩之《ウラサビクラシ》
 夜者《ヨルハ》 息衝明之《イキヅキアカシ》
 雖v嘆《ナゲケドモ》 爲便不v知《セムスベシラニ》
 雖v戀《コフレドモ》 相縁無《アフヨシヲナミ》
 大鳥《オホトリノ》 羽易山尓《ハガヒノヤマニ》
 汝戀《ナガコフル》 妹座等《イモハイマスト》
 人云者《ヒトノイヘバ》 石根割見而《イハネサクミテ》 奈積來之《ナヅミコシ》
 好雲敍無《ヨケクモゾナキ》
 字都曾臣《ウツソミト》 念之妹我《オモヒシイモガ》
 灰而座者《ハヒニテマセバ》
 
【構成】本文の歌と同じく、全篇一文である。
【釋】宇都曾臣等念之時 ウツソミトオモヒシトキニ。二一〇の歌參照。助詞ニに當る字は無いが、この歌は、助詞に當る字を略することが多く、かつ前の歌にもトキニとあるから補つて讀む。
 携手 タヅサハリ。テタヅサヒ(代初書入)、タヅサハリ(攷)、テタヅサヘ(札)。妻と手を携えて。妻と共に。「萬世《ヨロヅヨニ》 携手居而《タヅサハリヰテ》」(卷十、二〇二四人麻呂集)。
 出立 イデタチノ。本文にはハシリデノとあつた。イデタチノの例もその條に掲げた。山の出で立てる状であるのをいうが、ここでは槻の木について言つている。
 百足槻木 モモダルツキノキ。モモダルは、枝の繁つて充足している形容。「爾比那閇夜爾《ニヒナヘヤニ》 淤斐陀弖流《オヒダテル》 毛々陀流《モモエダル》 都紀賀延波《ツキガエハ》」(古事記一〇一)。木について足るというは、「東《ヒムカシノ》 市之殖木乃《イチノウエキノ》 木足左右《コタルマデ》」(卷三、三一〇)とも使用している。但し仙覺本には、この句、「百枝槻木」とあり、モモエツキノキと讀んでおり、それでも意味は通じる。「百枝槐社」(出雲國風土記、出雲郡)。
 虚知期知尓枝刺有如 コチゴチニエダサセルゴト。あちこちに枝を張つているように。次の春ノ葉ノ茂キカ(598)如と竝んで、譬喩をなしている。
 恃有之姉庭雖有 タノメリシナネニハアレド。ナネは、婦人の愛稱。仙覺本には、やはり妹に作つている。「如是許《カクバカリ》 名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》 夢爾所v見家留《イメニミエケル》」(卷四、七二四)。この卷の四のナネは、大伴坂上の郎女が、その女に對して使用している。
 取委 トリマカス。本文の歌には取與とある。このマカスは四段活であつて、連體形である。
 男自物 ヲノコジモノ。本文の歌には、鳥穗自物とある。ヲノコジモの例竝びに解は、その條に記した。
 灰而座者 ハヒニテマセバ。灰にているというのは、火葬して灰となつてあつたのをいう。火葬は、天武天皇の四年三月に、道昭和尚を粟原に火葬したに始まるという。妻を火葬した地を訪れた意であつて、妻の骨灰がその時にあつたかどうかという論のあるのは、無用の論である。【評語】大體本文の歌に同じであるが、末に至つて灰ニテマセバというのが異なつている。この方が痛切であるが、いずれが原形であるかは分き難い。反歌によれば、この方が傳誦を經たものであろうか。
 
短歌二一首
 
214 去年《こぞ》見てし 秋の月夜《ツクヨ》は 渡れども、
 相見し妹は いや年さかる。
 
 去年見而之《コゾミテシ》 秋月夜者《アキノツクヨハ》 雖v渡《ワタレドモ》
 相見之妹者《アヒミシイモハ》 益年離《イヤトシサカル》
 
【釋】雖度 ワタレドモ。空を通過するけれども、前には、照ラセドモとあつた。その方が感慨が深い。
 
215 衾路《ふすまぢ》を 引出の山に 妹を置きて、
(599) 山路|念《おも》ふに 生《い》けるともなし。
 
 衾路《フスマヂヲ》 引出山《ヒキデノヤマニ》 妹置《イモヲオキテ》
 山路念迩《ヤマヂオモフニ》 生刀毛無《イケルトモナシ》
 
【釋】山路念迩 ヤマヂオモフニ。前の歌には、山道ヲ行ケバとあつて、長歌とよく呼應していた。これでは長歌と別々になる。また羽買の山が引手の山であるならば、別名を使用しないで、ここも、大鳥の羽買の山に妹を置きてとあるべきである。この傳來は、吟誦の間に誤を生じたのであろう。
 生刀毛無 イケルトモナシ。イケリトモナシ(類)、イケルトモナシ(代)。上掲の歌の、「生跡毛無」(二一三)の句に相當する句であるが、刀はトの甲類の字であつて、助詞とは解せられず、これは利の義で、利心、すなわちはたらく心とすべきである。この二種は、集中に兩用されており、この種の例には「念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケルトモナシ》」(卷二、二二七)、「吾情利乃《ワガココロドノ》 生戸裳名寸《イケルトトナキ》」(卷十一、二五二五)の如きは、これである。また「夷爾之乎禮婆《ヒナニシヲレバ》 伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》」(卷十九、四一七〇)の如きは、この雨者の混雜があるものと見られる。
 
216  家に來て わが屋を見れば、
 玉床《たまどこ》の 外に向きけり。
 妹が木枕《こまくら》。 
 
 家來而《イヘニキテ》 吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》
 玉床之《タマドコノ》 外向來《ホカニムキケリ》
 妹木枕《イモガコマクラ》
 
【譯】歸つて來てわが家を見ると、妻の寢ていた床の外に向いていた。わが妻の木枕は。
【釋】家來而 イヘニキテ。イヘはわが家で、歸つて來てというに同じ。
 吾屋乎見者 ワガヤヲミレバ。初句に、家ニ來テといい、重ねてワガ家というのは重複である。
 玉床之 タマドコノ。タマドコは、床の美稱。寢處である。「明日從者《アスヨリハ》 吾玉床乎《ワガタマドコヲ》 打拂《ウチハラヒ》 公常不v宿《キミトハネズテ》 孤可
母寐《ヒトリカモネム》」{卷十、二〇五〇)。靈床で、靈位を祭つた床であるとする説があるが採用しがたい。
 外向來 ホカニムキケリ。床の外方に枕が向いていたの意。床の主なる妻無くして、枕の位置の亂れている(600)のである。
 妹木枕 イモガコマクラ。コマクラは、木で作つた枕。「黄楊枕《ツゲマクラ》(卷十一、二五〇三)とも見える。
【評語】葬儀から歸つて來て詠んだような作であつて、これも長歌の内容と合わない。初二句にも重複弛緩が見られる。他の挽歌が、傳誦の間に結び著いたのであろう。
 
吉備津采女死時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
吉備の津の采女の死りし時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】吉備津采女死時 キビノツノウネメノミマカリシトキニ。采女は既出(卷一、五一)。諸國から、郡の少領以上の子女の容貌端正なものを貢せしめるもので、出身の國名郡名を冠して呼ぶ習いである。それで、吉備の津は、講義の説に、備中の都宇郡で、もと津とのみ云つたのであろうという。「美濃津子娘」(日本書紀、持統天皇紀)。いかなる人とも知られないが、歌詞によれば、夫があり、反歌によれば近江の志我に縁があるようである。その死んだのも、何時の頃とも知られない。
 
217 秋山の したぶる妹
 なよ竹の とをよる子らは、
 いかさまに 念ひ居《を》れか、
 栲紲《たくなは》の 長き命を
 露こそは 朝《あした》に置きて
 夕《ゆふべ》は 消ゆといへ、
(601) 霧こそは 夕に立ちて
 朝は 失《う》すと言へ、
 梓弓 音聞くわれも
 髣髴《ほの》に見し 事悔しきを、
 敷細《しきたへ》の 手枕《たまくら》纏《ま》きて
 劍刀《つるぎたち》 身に副へ寐《ね》けむ
 若草の その夫《つま》の子は、
 さぶしみか 念ひて寐《ぬ》らむ。
 悔しみか 念ひ戀ふらむ。
 時ならず 過ぎにし子らが、
 朝露の如。
 夕霧の如。
 
 秋山《アキヤマノ》 下部留妹《シタブルイモ》
 奈用竹乃《ナヨタケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》
 何方尓《イカサマニ》 念居可《オモヒヲレカ》
 栲紲之《タクナハノ》 長命乎《ナガキイノチヲ》
 露己曾婆《ツユコソハ》 朝尓置而《アシタニオキテ》
 夕者《ユフベハ》 消等言《キユトイヘ》
 霧己曾婆《キリコソハ》 夕立而《ユフベニタチテ》
 明者《アシタハ》 矢等言《ウストイヘ》
 梓弓《アヅサユミ》 音聞吾母《オトキクワレモ》
 髣髴見之《ホノニミシ》 事悔敷乎《コトクヤシキヲ》
 布栲乃《シキタヘノ》 手纏枕而《タマクラマキテ》
 釼刀《ツルギタチ》 身二副寐價牟《ミニソヘネケム》
 若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》
 不怜弥可《サブシミカ》 念而寐良武《オモヒテヌラム》
 悔弥可《クヤシミカ》 念戀良武《オモヒコフラム》
 時不v在《トキナラズ》 過去子等我《スギニシコラガ》
 朝露乃如也《アサヅユノゴト》
 夕霧乃如也《ユフギリノゴト》
 
【譯】秋山の紅葉のような紅顔の孃子、なよなよした竹のようにしなやかなあの娘は、何と思つてか、栲繩のような長い命を、それは露こそは朝に置いて夕べには消えるという、霧こそは夕べに立つて朝には失せるというが、梓弓のようにその死んだことを人づてに聞くわたしも、生前ほのかに見たことが殘念であるのを、柔かな手枕を身に纏いて、釼太刀のように自分が身に副えて寢たでしようその夫の人は、鬱々として思い寢ていることであろう。殘念がつてか思い慕つていることであろう。その時にあらずして死んで行つてしまつた人であ(602)つた。本當に朝露のように、夕霧のように。
【構成】別に段落というべきものは無いが、單に文章として終止形を取つているものがある。消ユトイヘ、失ストイヘ、念ヒテ寐ラム、念ヒ戀フラムは、いずれも終止形の句である。
【釋】秋山 アキヤマノ。枕詞。次の句の下ぶるの主體を示す意味に冠している。
 下部留妹 シタブルイモ。シタヘルイモ(神)。シタブルは、紅色を呈する意の動詞・上二段活。「秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》」(古事記中卷)、「金山《アキヤマノ》 舌日下《シタビガシタニ》 鳴鳥《ナクトリノ》 音谷聞《コヱダニキカバ》 何嘆《ナニカナゲカム》」(卷十、二二三九)のシタビは、その名詞形である。語義は、下葉がまず色づくので、下に動詞に轉成する接尾語ブが接續すること、荒ビ等の例に同じであろう。「鶯乃《ウグヒスノ》 來鳴春部者《キナクハルベハ》 巖者《イハホニハ》 山下耀《ヤマシタヒカリ》 錦成《ニシキナス》 花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》」(卷六、一〇五三)の如き例があつて、山下の語が、既に紅葉を意味する如くであり、また春にもいうことが知られる。そこで、シタブルイモで、紅顔の女子をあらわすことになる。、
 奈用竹乃 ナヨタケノ。枕詞。なよなよと撓う竹の意に、トヲヨルに冠する。「名湯竹乃《ナユタケノ》 十縁皇子《トヲヨルミコ》」(卷三、四二〇)のナユタケノも同じ。
 騰遠依子等者 トラヨルコラハ。トヲヨルは、トヲヲに撓み寄る意で、その采女の姿態を描寫している。前項の例の外に、「安治村《アヂムラノ》 十依海《トヲヨルウミニ》 船浮《フネウケテ》(卷七、一二九九)がある。これは味鴨の群が弧形を成して寄る海の意に解せられる。コラは、その人の愛稱。秋山ノシタブル妹、すなわちトヲヨル子ラで、以下の二句を以つて、主格を提示している。
 何方尓念居可 イカサマニオモヒヲレカ。既出の、「何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》」(卷一、二九)の句の類で、どのように思い居ればかの意。カは疑問の係助詞であるが、この二句は挿入句の如き取り扱いを受けて、その結びが明白にされていない。これは他の同種の類句においても同樣である。
(603) 栲紲之 タクナハノ。枕詞、栲で作つた繩のようにの意に、譬喩として長きに冠する。タクはコウゾの樹。その繊維で作つた繩である。
 長命乎 ナガキイノチヲ。長い壽命であるのを、しかるにの意。この下に、句を隔てて、時ナラズ過ギニシに接續するもので、その中間の句は、插入文であると見る説があるが、梓弓音聞ク吾モホノニ見シ事悔シキヲの句があつて、既にその死を受けているのであるから、さように見るのは無理である。この句を受けて、朝露、夕霧の句があり、それで死去を暗示しているのであろうが、表現が不十分であるというべきである。
 露己曾婆朝尓置而夕者消等言 ツユコソハアシタニオキテユフベハキユトイヘ。露の朝に置いて夕方に消えるものであることを説いて、無常の譬喩としている插入文である。露コソのコソは係助詞であつて、已然形を以つて受けるはずであり、露コソ消ユレと言わねばならぬのであるが、かような場合には、習慣上、言フの方を已然形にして結んでいる。「相而後社《アヒテノチコソ》 悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》」(卷四、六七四)、「秋芽子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》 一子二《ヒトリゴニ》 子持有跡五十戸《コモテリトイヘ》」(卷九、一七九〇)の如き、その例である。
 霧己曾婆夕立而明者矢等言 キリコソハユフベニタチテアシタハウストイヘ。上の露の文と對句をしている。文の組織も同樣で、ただ用語に相違があるだけである。この句の下に、時ならずして死んだ意味の詞句があつて然るべきであるが、それが無いのは、傳來の間に遺失したものか、または不用意にして落したものか、不明である。
 梓弓 アヅサユミ。枕詞。
 音聞吾母 オトキクワレモ。采女の死んだということを、人の話によつて聞いたのである。
 髣髴見之事悔敷乎 ホノニミシコトクヤシキヲ。オホニミシコトクヤシキヲ(考)。ホノニは、ほのかにある意の副詞であるが、ここでは、しかとも見なかつたことをいう。生前にほのかにのみ見たのを殘念とするの(604)である。オホニミシと讀むのは、「於保爾見敷者《オホニミシクハ》(卷二、二一九)の例によるものであるが、髣髴は、多くホノ、ホノカに當てて書かれている。
 布栲乃 シキタヘノ。枕詞。枕に冠する。
 手枕纏而 タマクラマキテ。その女子の手を枕として身に纏つて。
 釼刀 ツルギタチ。既出(卷二、一九四)。枕詞。釼は、身に帶びるものであるから、身ニ副フの枕詞としている。
 身二副寐價牟 ミニソヘネケム。その采女を妻として身に副えて寐たであろうの意で、下の嬬の子に冠する修飾句。
 若草 ワカクサノ。枕詞。柔いものであるので、ツマに冠する。
 其嬬子者 ソノツマノコハ。嬬は妻の義であるが、ここでは夫である。コは愛稱で、ツマノコで夫のことになる。采女は、夫を有せざるはずであるのに、ここにその夫のことを詠んでいるのは、前の采女であつて、その任を離れて後婚姻したものと推考される。
 不怜弥可 サブシミカ。サブシは、樂しまない意の形容詞。カは疑問の係助詞。鬱々としてか。
 念而寐良武 オモヒテヌラム。ラムは推量の助動詞の終止形。
 悔弥可念戀良武 クヤシミカオモヒコフラム。上のサブシミカ念ヒテ寐ラムと對句になつている。これも句切。
 時不在過去子等我 トキナラズスギニシコラガ。トキナラズは、死ぬべき時ならずして。采女が年若くして死んだのであろう。スギニシは、この世を經過したの意で、死んだことをいう。コラは采女をいう。ガは主格を示す助詞。丈部の龍麻呂が自殺した時に大伴の三中の詠んだ歌に「鬱瞻乃《ウツセミノ》 惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》 露霜《ツユジモノ》 置而往監《オキテユキケム》 時(605)爾不v在之天《トキニアラズシテ》」(卷三、四四三)とあるはここと似ている。それでこの采女の死をも自殺かとする説があるが、その證は無い。
 朝露乃如也 アサツユノゴト。也は、焉などと同じく、ただ添えて書いたのみで、讀まない。集中「細谷川之《ホソタニガハノ》 音之清也《オトノサヤケサ》」(卷七、一一〇二)、「春菜採兒乎《ハルナツムコヲ》 見之悲也《ミルガカナシサ》(卷八、一四四二)、「隱野乃《ナバリノノ》 芽子者散去寸《ハギハチリニキ》 黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》」(同、一五三六)などの例がある。この句は、時ナラズ過ギニシ子ラガ朝露の如くにありの意で、遙に上の露こそは云々の句を受けている。句切。
 夕霧乃如也 ユフギリノゴト。朝露ノ如と泣んで、對句となつて、上の時ナラズ過ギニシ子ラガの句を受けて結んでいる。これも、霧コソは云々の句を受けている。
【評語】全體の構成は、露と霧とを材料として、これにはかなさを思い寄せて詠み成して、その譬喩は、よく全體の空氣を統制している。最初の婦人の美を描いた句も、非常に印象的で、いかにもその采女の美しい人であつたことを描き出している。内容としては、婦人の死を悼む挽歌の常として、ここにも殘された夫の上を思つて一首を結んでいる。對句の使いざまが目立つて調子を整えている歌である。しかし中途に脱漏かと思われる表現の不完全な點のあるのは惜しいことである。反歌によれば、人麻呂の近江時代の作らしく、比較的初期に屬する作品であろう。
 
短歌二首
 
218 樂浪《ささなみ》の 志我津《しがつ》の子らが 【一は云ふ、志我の津の子が。】 罷道《まかりぢ》の
 川瀬の道を 見ればさぶしも。
 
 樂浪之《ササナミノ》 志我津子等何《シガツノコラガ》 【一云、志我乃津之子我】 罷道之《マカリヂノ》
 川瀬道《カハセノミチヲ》 見者不怜毛《ミレバサブシモ》
 
(606)【譯】樂浪の志我津の采女の死んで行く道なる川瀬の道を見れば悲しいことである。
【釋】樂浪之志我津子等何 ササナミノシガツノコラガ。樂浪の志我津は地名で、近江の國の志賀の大津である。此處で問題になるのは、題には吉備の津の采女とあることであつて、題と一致しないことであるが、作者人麻呂が近江の國にいた時分に、その地で詠んだ歌であつて、吉備の津はその生國をいい、志我津ノ子ラは生前に住んでいた處をさすのであろう。
 志我乃津之子我 シガノツノコガ。第二句の別傳である。志我津というよりも、志我の津という方が無理が無い。
 罷道之 マカリヂノ。マカルは退出するをいう動詞で、ここでは、この世から退き去る意に、死んで行く道をマカリヂと言つている。この語は、續日本紀藤原永手の死を悼む宣命に、「美麻之大臣乃罷道宇之呂輕」と見えている。
 川瀬道 カハセノミチヲ。川瀬を通る道をの意で、死んだ采女の送葬の道が、實際に川瀬の道を通つたのであろう。
 見者不怜毛 ミレバサブシモ。見れば鬱々として慰まないよしである。
【評語】格別のことは無いが、よく纏まつている。初二句の固有名詞は、その人を知つている人に取つては意味があろうが、後の讀者としては興味がすくなく、むしろ具體的にその人を描寫することが望ましかつた。
 
219 天數《あまかぞ》ふ 凡津《おほしつ》の子が 逢ひし日に
 おほに見しくは、
 今ぞ悔《くや》しき。
 
 天數《アマカゾフ》 凡津子之《オホシツノコガ》 相日《アヒシヒニ》
 於保尓見敷者《オホニミシクハ》
 今敍悔《イマゾクヤシキ》
 
(607)【譯】この凡津の子が、生前逢つた日になおざりに見たことは、今になつて殘念なことだ。
【釋】天數 アマカゾフ。枕詞。天は廣大であるので、天を數えるの意に、オホに冠するのであろうか。他に用例を見ないが、類似したものには、「可伎加蘇布《カキカゾフ》 敷多我美夜麻爾《フタガミヤマニ》」(卷十七、四〇〇六)があり、下二段活と考えられるカゾフが、この形で枕詞となつていることが知られる。用言の終止形で結んだ文が、他に對して修飾句となる例である。
 凡津子之 オホシツノコガ。
   オフシツノコガ(西)
   オヨソツノコガ(代精)
   オホツノコガ(童)
   オホシツノコガ(攷)
   ――――――――――
   凡津子等之《オホツノコラガ(考)
 凡津は、オホツと讀むべきであるが、それでは音が足りず調子が整わない。凡は、凡河内の直などの場合にオホシと讀むが、そのオホは、大の義で、すべての意に河内に冠しているのだろう。日本書紀宣化天皇の卷には、大河内稚子媛の人名があり、この大河内もオホシカフチと讀むべきである。依つて今攷證に依つてオホシツノコガと讀む。オホシツは、大津に同じ。近江の大津である。前の歌の志我津の子を、語を變えて云つている。
 相日 アヒシヒニ。生前出逢つた時に。
 於保尓見敷者 オホニミシクハ。舊訓オホニミシカバで、異説は無い。敷の字は、動詞としては、「珠敷益乎《タマシカマシヲ》」(卷六、二〇一三)などの如く、シカと讀ませている字であるから、これを以つて助動詞キの已然形シカに當てたとしてシカと讀むことはできる。しかし用言の未然形を音聲とする訓假字は、あるにしてもすくなく、(608)また敷をシカに當てた例は、「湯々敷有跡《ユユシカラムト》」(卷六、九四八)の如き一例があるだけである。そうして一方には、シクの音聲に當てたと見られる例は相當に多い。「今敷者《イマシクハ》 見目屋跡念之《ミメヤトオモヒシ》(卷七、一一〇三)、「彌常敷爾《イヤトコシクニ》 吾反將v見《ワレカヘリミム》」(同、一一三三)の如きは、その例である。ここもシクの音聲に當てたものとしてオホニミシクハと讀むを順當とする。ミシクは見し事の意で、クは、用言に接續して體言を作る助詞である。時の助動詞キに接しては、シクの形を作る。「馬立而《ウマタテテ》 玉拾之久《タマヒリヒシク》」(卷七、一一五三)、「背向爾宿之久《ソガヒニネシク》 今思悔裳《イマシクタシモ》(同・一四一二)、「來之久毛知久《コシクモシルク》 相流君可聞《アヘルキミカモ》」(卷八、一五七七)などはその例である。
 今敍悔 イマゾクヤシキ。その死に接しておろそかに見たことを殘念とするのである。
【評語】長歌の、ホノニ見シ事悔シキヲの句意を、一首に纏めている。長歌と呼應しているだけで、特に補足するだけの内容はない。
 
讃岐狹岑島、視2石中死人1、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
讃岐の狹岑の島に、石中の死れる人を見て、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】讃岐狹岑島 サヌキノサミネノシマニ。狹岑の島は、香川縣仲多度郡に屬する鹽飽諸島中の沙彌島である。人麻呂は、讃岐の國の中の湊から出航して、風波に遭つてこの島に船がかりしてこの歌を詠んだ。その島は、坂出町の海上にあり、海路上京の途中にある。歌の中にも狹岑の島とあり、反歌には佐美の山とあるから、サミネは、佐美の嶺の義であろう。
 
220 玉藻よし 讃岐の國は、
 國《くに》からか 見れども飽かぬ。
(609) 神《かむ》からか ここだ貴き。」
 天地 日月とともに
 滿《た》りゆかむ 神の御面《みおも》と
 繼ぎ來《きた》る 中の水門《みなと》ゆ、
 船浮けて わが榜《こ》ぎ來れば、
 時つ風 雲居に吹くに、
 沖見れば とゐ浪立ち、
 邊《へ》見れば 白浪さわく。」
 鯨魚《いさな》取り 海を恐《かしこ》み
 行く船の 楫《かぢ》引きをりて、
 をちこちの 島は多けど、
 名ぐはし 狹岑の島の
 荒礒面《ありそも》に 廬《いほ》りて見れば、
 浪の音《と》の 繁き濱邊を
 敷細《しきたへ》の 枕にして
 荒床《あらどこ》に こい臥す君が、
 家知らば 行きても告げむ。
(610)妻知らば 來も問はましを。
玉|桙《ほこ》の 道だに知らず、
 鬱悒《おほほ》しく 待ちか戀ふらむ。
 愛《は》しき妻らは。」
 
 玉藻吉《タマモヨシ》 讃岐國者《サヌキノクニハ》
 國柄加《クニカラカ》 雖v見不v飽《ミレドモアカヌ》
 神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》
 天地《アメツチ》 日月與共《ヒツキトトモニ》
 滿將v行《タリユカム》 神乃御面跡《カミノミオモト》
 次來《ツギキタル》 中乃水門從《ナカノミナトユ》
 船浮而《フネウケテ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》
 時風《トキツカゼ》 雲居尓吹尓《クモヰニフクニ》
 奧見者《オキミレバ》 跡位浪立《トヰナミタチ》
 邊見者《ヘミレバ》 白浪散動《シラナミサワク》
 鯨魚取《イサナトリ》 海乎恐《ウミヲカシコミ》
 行船乃《ユクフネノ》 梶引折而《カヂヒキヲリテ》
 彼此之《ヲチコチノ》 島者雖v多《シマハオホケド》
 名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミネノシマノ》
 荒礒面尓《アリソモニ》 廬作而見者《イホリテミレバ》
 浪音乃《ナミノトノ》 茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 枕尓爲而《マクラニシテ》
 荒床《アラドコニ》 自伏君之《コイフスキミガ》
 家知者《イヘシラバ》 往而毛將v告《ユキテモツゲム》
 妻知者《ツマシラバ》 來毛問益乎《キモトハマシヲ》
 玉桙之《タマホコノ》 道太尓不v知《ミチダニシラズ》
 鬱悒久《オホホシク》 待加戀良武《マチカコフラム》
 愛伎妻等者《ハシキツマラハ》
 
【譯】玉藻の打ち寄せる讃岐の國は、國の良いゆえか見ても飽きないことである。その國の神ゆえか、非常に尊いことである。天地日月のあらむ限り幾久しく榮え行くべき靈ある國の表面として、繼ぎ來たつた中の水門の中から、船を浮べてわたしが榜いで來ると、時を得て吹く風が大空に吹き渡れば、沖を見るに騷ぐ波が立ち、岸邊を見れば白浪が亂れている。荒海のおそろしさに行く船の楫を曲げて、あちこちに島は多いけれども名前の立派な狹岑の島の荒礒に廬りをして見れば、浪の音の繁き濱邊を親しむべき枕として、荒い床にころび臥す君の家を知つていたなら、行つても告げようものを。妻が知つたなら來ても尋ねるであろうものを。來ようとする道をも知らずに、鬱々として待ちてか戀い慕つているであろう。そのいとしい妻は。
【構成】三段に分けて考えられる。ココダ貴キまで第一段、讃岐の國について概説して、總序としている。白浪サワクまで第二段、船を出して風波に逢うことを敍する。以下第三段、狹岑の島に船を寄せて石中の死人を見、その家に殘した妻の上を推量して終つている。
【釋】玉藻吉 タマモヨシ。枕詞。玉藻は、既出、藻の美稀。ヨシは、「青丹吉《アヲニヨシ》」(卷一、七)參照。もと感動の助詞で、後に、形容詞ヨシの意識に移つたと考えられる。海上を描寫して讃岐の國に冠する。讃岐の國の海上を歌う作であるので、特にこの句を構成したものである。
 讃岐國者 サヌキノクニハ。讃岐の國は、四國の北部に位置し今香川縣となつている。
(611) 國柄加 クニカラカ、カラは故の意の體言。カは疑問の係助詞。國土の故か。下の神からかと對を成して、古歌謡から來ている。「正月元日余美歌、蘇良美豆《ソラミツ》 夜萬止乃久爾波《ヤマトノクニハ》 可无可良可《カムカラカ》 阿利可保之支《アリガホシキ》 久爾可良可《クニカラカ》 須美可保之支《スミガホシキ》 阿利可保之支《アリガホシキ》 久爾波《クニハ》 阿伎豆之萬《アキツシマ》 也萬止《ヤマト》」(琴歌譜)、「三芳野之《ミヨシノノ》 蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》 神柄香《カムカラカ》 貴將v有《タフトカルラム》 國柄鹿《クニカラカ》 見欲將v有《ミガホシカラム》」(卷六、九〇七)。
 雖見不飽 ミレドモアカヌ。上のカを受けて結んでいる。句切。以上二句、讃岐の國の形體の方面の美を稱えている。
 神柄加 カムカラカ。神靈の故にか。國土そのものを神靈として感じている思想である。
 幾許貴寸 ココダタフトキ。ココダは許多の義に使用されている。假字書きの例には「許々陀母麻我不《ココダモマガフ》 烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》」(卷五、八四四)などある。タフトキは上のカを受けて連體形で結んでいる。この二句、讃岐の國の靈的な方面について述べ、上の國からか見れども飽かぬと竝んで、讃岐の國を説明している。以上第一段、讃岐の國のよい國であることを説く。
 天地日月與共 アメツチヒツキトトモニ。天地日月は、永久不變の存在として擧げられており、それらと共にで、永久にの意を現わしている。「天地之《アメツチノ》 遠我如《トホキガゴト》 日月之《ヒツキノ》 長我如《ナガキガゴト》」(卷六、九三三)、「天地《アメツチ》與2日月1共《ヒツキトトモニ》 萬代爾母我《ヨロヅヨニモガ》」(卷十三、三二三四)、「天地《アメツチ》 日月等登聞仁《ヒツキトトモニ》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 記續牟曾《シルシツガムゾ》」(卷十九、四二五四)など、この用法である。
 滿將行 タリユカム。充足して行くべき。連體形の句で、次の神のみ面を修飾する。
 神乃御面跡 カミノミオモト。カミノミオモは、讃岐の國の神靈の御顔の義で、海上から眺めた讃岐の國の姿をいう。古事記上卷、大八島出現の段に、四國の出現を語つて、「次生2伊豫之二名嶋1、此嶋者、身一而有2面四1。毎v面有v名。故伊豫國謂2愛比賣1、讃岐國謂2飯依比古1、粟國謂2大宜都比賣1、土左國謂2建依別1」とある。(612)トは、としての意。國土の神靈を信ずる思想から、出來ている句である。
 次來 ツギキタル。昔から續いて來たの意で、連體形。
 中乃水門從 ナカノミナトユ。ナカノミナトは、香川縣仲多度郡の中津であろうという。昔は那珂郡に屬していた。ミナトは、文字通り水門で、海上から陸地へ入り込む門戸、港口、河口、江口などの謂である。神の御面として續き來た中の水門というので、海上から眺めた體勢で歌つていることが確められる。ユは、そこを通つて。
 船浮而 フネウケテ。ウケテは、下二段活用の浮クに、助詞テの接續したもの。浮かしめて、船を出したこと。
 吾榜來者 ワガコギクレバ。自分の乘つた船が榜いで來れば。以上讃岐の國から出航したことをいう。
 時風 トキツカゼ。ツは助詞。吹くべき時に當つて吹く風。「時風《トキツカゼ》 應v吹成奴《フクベクナリヌ》 香椎滷《カシヒガタ》 潮干※[さんずい+内]爾《シホヒノウラニ》 玉藻苅而名《タマモカリテナ》」(卷六、九五八)の歌は、時つ風の吹くべきを豫想している。「時風《トキツカゼ》 吹麻久不v知《フカマクシラニ》 阿胡乃海之《アゴノウミノ》 朝明之潮爾《アサケノシホニ》 玉藻苅奈《タマモカリテナ》(卷七、一一五七)の歌は、朝であるが、時つ風が吹くかも知れないと歌つている。處により風の吹く時間は一定しているので、その時に吹く風をいう。
 雲居尓吹尓 クモヰニフクニ。クモヰは、動かない雲をいうが、ここでは遠い天空の意に使用している。
 奧見者 オキミレバ。オキは、岸から遠い海上。
 跡位波立 トヰナミタチ。アトヰナミタチ(神)、アトクラナミタチ(代初)、シキナミタチ(考)。トヰナミは、「惶八《カシコキヤ》 神之渡者《カミノワタリハ》 吹風母《フクカゼモ》 和者不v吹《ノドニハフカズ》 立浪母《タツナミモ》 疎不v立《オホニハタタズ》 跡座浪之《トヰナミノ》 塞道麻《サハレルミチヲ》」(卷十三、三三三五)ともあり、風が強く吹くに連れて立つ浪であることが知られる。トヰは、トヲ(撓)の語と關係あるべく、大きく盛りあがる浪をトヰナミというのであろう。古事記中卷、伊須氣余理比賣の命の御歌「宇泥備夜麻《ウネビヤマ》 比流波久(613)毛登葦《ヒルハクモトヰ》 由布佐禮婆《ユフサレバ》 加是布加牟登曾《カゼフカムトゾ》 許能波佐夜牙流《コノハサヤゲル》」(二二)のトヰは、その動詞形で、クモトヰは、雲が動いていることをいうのであろう。この解に依つて、風雲の急を告げる意味に、歌われているこの歌の内容が、明瞭にされる。從來の解のように、雲がいるよしでは、語法上の説明成立せず、歌意も不徹底になるのである。
 邊見者 ヘミレバ。へは、岸に近い處をいう。
 白浪散動 シラナミサワク。散動の文字は、「御獵人《ミカリビト》 得物矢手挾《サツヤタバサミ》 散動而有所v見《サワキタリミユ》」(卷六、九二七)、「鮪釣等《シビツルト》 海人船散動《アマフネサワキ》 鹽燒等《シホヤクト》 人曾左波爾有《ヒトゾサハニアル》」(同、九三八)とあり、いずれも視覺に訴える場合に使用されている。これをサワクと讀むのは、サワクの語が、音のみならず、形についてもいう語であるからである。以上第二段、船を榜ぎ出して、風波に遭うことを述べている。
 鯨魚取 イサナトリ。既出(卷二、一三一)。枕詞、海に冠する。
 海乎恐 ウミヲカシコミ。海がおそろしくして。
 行船乃梶引折而 ユクフネノカヂヒキヲリテ。カヂは、本集では、船を進行させる具の名として使用される。ヒキヲリは、引きたわませる意で、これによつて船の航路を曲げての意である。「大船爾《オホブネニ》 末加伊之自奴伎《マカイシジヌキ》 安佐奈藝爾《アサナギニ》 可故等登能倍《カコトトノヘ》 由布思保爾《ユフシホニ》 可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》 安騰母比弖《アトモヒテ》 許藝由久伎美《コギユクキミハ》」(卷二十、四三三一)に同語が使用されている。
 彼此之島者雖多 ヲチコチノシマハオホケド。ヲチコチは、あちらこちら。航路上に島の多い中に、狹岑の島に船を寄せる由を述べている。
 名細之 ナグハシ。クハシは精妙なる意の形容詞。讀立文で、次の詞句を修飾する。狹岑の島の名のよいことを稱えている。「名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシノノヤマハ》」(卷一、五二)、「名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》」(卷二、三〇三)と使用されて(614)いる。
 狹岑之島乃 サミネノシマノ。題詞にいう狹岑の島である。
 荒礒面尓 アリソモニ。アリソモは、文字通り荒礒の面で、海に面せる方である。
 廬作而見者 イホリテミレバ。イホリツクリテミレバ(矢)、イホリシテミレバ(細)、イホリテミレバ(代初書入)。イホリは、廬入りで、イホに入る、イホリをする意の動詞。荒礒の面に、借廬を作つて、さて見れば。
 浪音乃茂濱邊乎 ナミノトノシゲキハマベヲ。浪の音の茂くうち寄せる濱邊を。
 敷妙乃 シキタヘノ。枕詞。
 枕尓爲而 マクラニシテ。マクラニナシテ(西)。濱邊を枕とする意。爲は、動詞ナスに當てた確な例が無い。
 荒床 アラドコニ。アラドコは、荒らかな床の義で、礒をいう。その荒床に寄リ伏ス君と續く。舊訓アラトコトと讀んでいる。その訓によれば、荒床としての意になるが、それならば、何を荒床としたかの、何をに相當する句があるべきである。上の茂キ濱邊ヲの句は、枕にしてで收まつているので、ここは考に、アラドコニと讀んだのがよい。
 自伏君之 コイフスキミガ。コロフスキミガ(西)、ヨリフスキミガ(拾)、コヒフスキミガ(新考)。ヨリフスは、床に寄りて伏すの意とするのであるが、ヨリ(自)のヨは乙類、ヨリ(寄)のヨは甲類で、音聲が違う。よつてコロフスとすべしとする。(大野晋氏。)自伏は、死者が自分から横たわる意に書いたものとして、意を以つてコイフスと讀む。キミは死者をいう。死んでいるのであるが、寢ているというように歌つている。
コイは、ころぶ意の動詞コユの連用形である。コイフスは、「等計自母能《トケジモノ》 宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》」(卷五、八八六)(615)など數出している。
 家知者往而毛將告 イヘシラバユキテモツゲム。死人の家を、もし知つていたら、行つて告げてやろう。句切。
 妻知者來毛問益乎 ツマシラバキモトハマシヲ。夫がここに臥していると、その妻が知つたならば、來ても問うであろう。然るにの意。句切。上の家知ラバ云々と對句になつているが、家知ラバは家を知らばであり、妻知らばは、妻が知らばで、語法は別である。
 道太尓不知 ミチダニシラズ。妻は、此處に來るべき道をだに知らずに。主格は最後に置かれている。
 待加戀良武 マチカコフラム。カは疑問の係助詞。待ちてか、戀い居るならむ。句切。
 愛伎妻等者 ハシキツマラハ。ハシキは、愛すべくある意の形容詞。ラは接尾語。ツマラは複數ではない。この句、上の玉桙ノ以下の主格として提示されている。
【評語】讃岐の國の貴い國であることから説き起しているのは、雄大な構成であるが、石中の死人を悼む歌としては、必要でなく、ただ序としての意味を有するだけである。作者が荒い海上に船を浮かべて來た由來を説くものとしては意義があろう。かくて風波の荒いのに遇つて狹岑の島にこれを免れるあたりは、その島の死人を見る用意として十分力を盡くして敍述されている。家知ラバ、妻知ラバの對句が、一は作者自身のことを言い、一は死人の妻のことを言うのは、すこしく讀者を惑わしめるものがある。かような對句の使い方は、古歌には常に見る所であるが、ここで急に歌われている對象が變化した點は唐突である。妻知ラバ以下反歌の第一首に至るまで、死人の妻を中心にして歌つている。この部分がこの歌の中心的内容をなすものである。この場合、作者も自分の妻を故郷に置いて來ていることを思い、またこの風波に遇つて、或るいは自分もこの死人と同じ運命に置かれたかも知れないことを思つている。そこにこの歌の意義が存するのである。
 
(616)反歌二首
221 妻もあらは 採みて食《た》げまし。
 佐美《さみ》の山 野《の》の上のうはぎ
 過ぎにけらずや。
 妻毛有者《ツマモアラバ》 採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》
 作美乃山《サミノヤマ》 野上乃字波凝《ノノウヘノウハギ》
 過去計良受也《スギニケラズヤ》
 
【譯】もし妻がいるならば、摘んでさし上げたでありましようものを。そうは無くて、この作美の山の野邊のウハギはむだに時節を過してしまつたではないか。
【釋】妻毛有者 ツマモアラバ。このアラバは、この處にあらばの意。この死人の妻が、ここに居たならば。
 採而多宜麻之 ツミテタゲマシ。タゲは、手擧の義で、食物としてさしあげる意であろうが、轉じてただ食するだけの意味にも使用された。「伊波能杯※[人偏+爾]《イハノヘニ》 古佐屡渠梅野倶《コサルコメヤク》 渠梅多※[人偏+爾]母《コメダニモ》 多礙底騰褒※[口+羅]栖《タゲテトホラセ》 歌麻之々能鳥膩《カマシシノヲヂ》(日本書紀、皇極天皇の御紀)、「伊我留我乃《イカルガノ》 止美能井乃美豆《トミノヰノミヅ》 伊加奈久爾《イカナクニ》 多義※[氏/一]麻之母乃《タゲテマシモノ》 止美乃井能美豆《トミノヰノミヅ》」(上宮聖徳法王帝説)。これらのタグは、さしあげる意に使用されている。然るに「左奈都良能《サナツラノ》 乎可爾安波麻伎《ヲカニアハマキ》 可奈之伎我《カナシキガ》 古麻波多具等毛《コマハタグトモ》 和波素登毛波自《ワハソトモハジ》」(卷十四、三四五一)の例は、駒ハタグトモとあり、單に食する意に使用されている。ここはなお古意で、妻があらば、採んでさしあげたであろうものをの意。句切。この死人は、溺死したものではなく、狹岑の島に漂著して、餓死したものと判斷されたのであろう。
 作美乃山 サミノヤマ。狹岑の島の山をいう。
 野上乃字波凝 ノノウヘノウハギ。野の上は、野の面をいう。「藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》」(卷一、五〇)參照。ウハギ(617)は、本草和名に「薺蒿菜、和名於波岐」とあり、倭名類聚鈔に、「薺菜、和名於八木」とあるもので、ヨメナである。當時も勿論、食料としたものと考えられる。「春日野爾《カスガノニ》 煙立所v見《ケブリタツミユ》 ※[女+感]嬬等四《ヲトメラシ》 春野之菟芽子《ハルノノウハギ》 採而煮良思文《ツミテニラシモ》」(卷十、一八七九)。
 過去計良受也 スギニケラズヤ。度合を過ぎてしまつたではないかの意。食うべき時が過ぎて堅くなつたのをいう。ケラズは過去の助動詞ケリの未然形に、打消の助動詞ズが附いたものである。ヤは反語。
【評語】長歌の末の部分を受けて詠みなしている。長歌から切り離しても、獨立して生命を有している。死人を哀み、その邊に日の光を浴びて伸び過ぎている嫁菜の姿に、感慨を催した状が能く出ている。
 
222 沖《おき》つ波 來《き》よる荒礒《ありそ》を
 敷妙《しきたへ》の 枕とまきて 寐《な》せる君かも。
 
 奧波《オキツナミ》 來依荒礒乎《キヨルアリソヲ》
 色妙乃《シキタヘノ》 枕等卷而《マクラトマキテ》 奈世流君香聞《ナセルキミカモ》
 
【譯】沖邊の浪の來り寄する荒礒を、親むべき枕と身に纏いて寐て居られる君だな。
【釋】奧波來依荒礒乎 オキツナミキヨルアリソヲ。平凡な敍述であるが、死人の臥している荒礒を描いている。
 色妙乃 シキタヘノ。枕詞。色は字音を使用している。
 枕等卷而 マクラトマキテ。トは、としての意。マキテは身に卷いてで、枕としてである。
 奈世流君香聞 ナセルキミカモ。ナセルは、動詞寐に、敬語の助動詞スが接續して、ナスが出來、それに、存在の助動詞リが接續した、その連體形である。ナスは、「毛毛那賀邇《モモナガニ》 伊波那佐牟遠《イハナサムヲ》」(古事記上卷)、「和我比良可武爾《ワガヒラカムニ》 伊利伎弖奈佐禰《イリキテナサネ》」(卷十四、三四六七)、「吾乎麻都等《アヲマツト》 奈須良牟妹乎《ナスラムイモヲ》 安比※[氏/一]早見牟《アヒテハヤミム》」(卷十七、三九七八)などある。ここに奈世流と假字書きにしたのは、この語の文獻として貴重である。
(618)【評語】長歌の、浪ノ音ノ茂キ濱邊ヲ、シキタヘノ枕ニシテ、荒床トコヤセル君のあたりを採つて、一首に纏めている。すべてみずからしたように歌つているのは、靈の存在を信じていた當時の思想の、自然な表現である。全體の構成としては、反歌の第一首に特殊の場面を描き、その第二首に總括的な敍述をして結んでいる。練達堅固の手法である。
 
柿本朝臣人麻呂、在2石見國1臨v死時、自傷作歌一首
 
柿本の朝臣人麻呂の、石見の國にありて死なむとせし時に、みづから傷《いた》みて作れる歌一首
 
【釋】在石見國 イハミノクニニアリテ。石見の國は、山陰道の西方、日本海に面し、今、出雲の國と共に島根縣となつている。人麻呂が石見の國にあつたのは、その國の役人としてであつたろうが、石見の國は中國であるから、たとい守であつても、六位である。しかし恐らくは、その以下であつたろう。
 臨死時 シナムトセシトキニ。死と書くのは、六位以下の人に對する文字で、五位以上には卒、三位以上には薨と書くのである。これによつて人麻呂が低い官位に終つたことが知られる。死ぬべくなつた時に、自分で傷んで詠んだ歌。多分この時に死んだのであろうが、それは何時であつたか知られない。ここに藤原の宮時代の最後に載せてあるに依れば、藤原の宮時代の終りごろと見るべきであるが、その作品中の地名に、春日なる羽貝の山があり、その歌集中にも春日野その他があり、地名に近江の文字が使用されているなど、奈良時代に懸かつているのではないかの疑問もあつて、まだ決定するに至らない。
 
223 鴨山の 磐根《いはね》し纏《ま》ける 吾をかも
 知らにと妹が 待ちつつあらむ
 
 鴨山之《カモヤマノ》 磐根之卷有《イハネシマケル》 吾乎鴨《ワレヲカモ》
 不v知等妹之《シラニトイモガ》 待乍將v有《マチツツアラム》
 
【譯】鴨山の磐を枕に横たわつている私をか、知らずにわが妻は待つているだろう。
【釋】鴨山之 カモヤマノ。鴨山は、人麻呂の墓所となるべき處と推定されるが、所在未詳である。岡熊臣の柿本人麻呂事蹟考辨に、石見の國美濃郡高津浦の沖にある鴨島であるとするが、その地は國府の所在より西南十里の遠隔地であり、その根據は、その高津を以つて人麻呂の作中の高角山と同地とする誤解から出ているので、誤りであることあきらかである。藤井宗雄の石見國名跡考には、那賀都濱田町の舊城山の龜山とし、大日本地名辭典には、那賀郡|神村《かむら》の山としているが、いずれも根據ある説ではない。斎藤茂吉博士は、邑智郡濱原村の龜であるとしているが、これも根據の無い説である。とにかく石見の國にあつて、國府の附近に求むべく、人麻呂も死ねば其處に葬られるに定まつていた地と考えられる。當時の國府は、今の濱田市附近にあつたのだから、鴨山もその附近であるはずである。下の丹比の眞人が、人麻呂に代つて詠んだ歌に、荒浪ニ寄リ來ル珠ヲ枕ニ置キとあるを、その儘に墓所の説明とすべしとすれば、海岸の地と見るべきである。但し丹比の眞人が、都にいて追和したとすれば、その地の實状にうといこともあり得るので、確證とはしがたい。
 磐根之卷有 イハネシマケル。イハネは、岩に同じ。ネは、地中に根據あるを現わす接尾語。シは助詞。マケルは、手を廻らして卷き抱えるようにすること。生ける身ならば妻を纏くべきに、磐根を纏けるというところに、死を現わしている。死んで墓中にある意の熟語句。「如比許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》 死奈死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》」(卷二、八六)。
 吾乎鴨 ワレヲカモ。カモは疑問の係助詞。分けていえば、カは疑問、モは感動。我をか待ちつつあらむの意に五句に懸かる。
 不知跡妹之 シラニトイモガ。シラニは、その下に、アリ、爲等の動詞の省略された語法。トは、上の詞句を受ける助詞で、トシテの意を現わす。「宇迦々波久《ウカガハク》 斯良爾等《シラニト》 美麻紀伊理毘古波夜《ミマキイリビコハヤ》」(古事記中卷)、「多豆(620)佐波里《タヅサハリ》 和可禮加弖爾等《ワカレガテニト》 比伎等騰米《ヒキトドメ》 之多比之毛能乎《シタヒシモノヲ》」(卷二十、四四〇八)。妹は、人麻呂の妻。かつて石見の國から京に上る時に、高角山で歌つた歌の妻であつて、國府からやや離れた處に居て、死期に接しなかつたのであろう。次の歌主、依羅の娘子であろう。 待乍將有 マチツツアラム。人麻呂の訪い來るを待ちつつあらむと推量している。
【評語】人麻呂が、石見の國の何處で死んだかは明記は無いが、多分國府の地であつたものと思われる。そこからさして遠隔の地でもない角の里にいたはずの妻が、その夫の死をも知らずに待つているだろうというのは、前に、人麻呂がその妻の死を悼んだ歌の條にも記したように、當時の婚姻の風習によるものである。妻は、その家に留まり、訪い來る夫を待つているのであつて、その訪い來る男が一定しているという點において夫妻關係が成立しているのである。この歌などによつて、人麻呂が國府の地を離れて死んだとするのは、僻説である。上は草壁の皇子、高市の皇子の尊貴より、下は路傍の人に至るまで、數多くの人の死を傷んで、挽歌の名篇を殘した作者も、かくしてみずから弔うに至つたのである。おしなべてすべて死んだであろう萬葉歌人のうち、人麻呂、旅人、憶良のように、その死について何か傳えられているものは、殊に悼ましい。赤人、蟲麻呂のように、いつ死んだとも知られずに、美しい歌のみを留めている人は、仙人のようにも思われる。憶良が病氣に苦しむのは、釋迦が涅槃を示し、維摩が病床に就くようなもので、歌を殘すための方便に、大慈悲を垂れたものとも考えられるが、歌聖人麻呂が、病にかかるのは、人間苦の味が悲痛に感じられる。しかしこの死の歌によつて、人間としての人麻呂は完成されたとも云い得よう。
 
柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作歌二首
 
柿本の朝臣人麻呂の死《みまか》りし時に、妻の依羅《よさみ》の娘子の作れる歌二首
 
(621)【釋】死時 ミマカリシトキニ。前の歌にも記したように、何時死んだとも知られない。前の歌を詠んで間も無くのことであつたろう。
 妻依羅娘子 メノヨサミノヲトメ。前に、人麻呂が石見の國から妻に別れて上り來る時の歌を載せ、それに續いて、柿本の朝臣人麻呂が、妻の依羅の娘子の人麻呂とあい別れる歌を載せている。これによつてこの妻が石見の國の角の里にいた人であつたことはあきらかである。この人が京にいたとする説(考など)は誤りである。
 
224 今日今日《けふけふ》と わが待つ君は、
 石川の 貝に【一は云ふ、谷に。】交《まじ》りて
 ありといはずやも。
 
 且今日々々々《ケフケフト》 吾待君者《ワガマツキミハ》
 石水之《イシカハノ》 貝尓《カヒニ》【一云谷尓】 交而《マジリテ》
 有登不v言八方《アリトイハズヤモ》
 
【譯】今日は今日はと、わたくしの待つている方は、石川の貝の中に交つているというではありませんか。
【釋】且今日々々々 ケフケフト。一日一日を徒に待ち盡くす口調である。その氣分を表現して且今日且今日と、且の字を入れて書いている。これと同じ字面は、「且今日且今日《ケフケフト》 吾待君之《ワガマツキミガ》 船出爲等霜《フナデスラシモ》(卷九、一七六
五)、「出去者《イデテイナバ》 天飛雁之《アマトブカリノ》 可v泣美《ナキヌベミ》 且今日且今日云二《ケフケフトイフニ》 年曾經去家類《トシゾヘニケル》」(卷十、二二六六)がある。
 吾待君者 ワガマツキミハ。キミは人麻呂を指す。
 石水之 イシカハノ。水をカハと讀むのは、集中、「此水之湍爾《コノカハノセニ》」(卷七、一一一〇)などある。石川は、石見の國にあり鴨山を廻つている川で多分火葬地であろう。
 貝尓交而 カヒニマジリテ。石川のほとりに葬つたので、貝ニ交リテというのである。
 一云谷尓 アルハイフ、タニニ。上の貝にの別傳である。谷に交るということ、意を成さず。貝ニ交リテの(622)眞實なのに及ばない。
 有登不言八方 アリトイハズヤモ。ヤモは、反語の助詞。反語のヤと感動のモとが結合したもの。ありといわないてあろうか、ありと人がいうの意。「隱口乃《コモリクノ》 泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》 手二纏在《テニマケル》 王者亂而《タマハミダレテ》 有不v言八方《アリトイハズヤモ》」(卷三・四二四)。
【評語】待つていた夫は遂に來らず、しかも世界を異にして石川の貝に交つているという、悲痛の情を披瀝している。石川のほとりで火葬にしたのを、貝ニ交ルで表現しているのかも知れない。次の歌にも雲立チ渡レとあるのは、それを語つているようだ。
 
225 直《ただ》に逢《あ》ふは 逢ひかつましじ。
 石川に 雲立ち渡れ。
 見つつ偲《しの》はむ。
 
 直相者《タダニアフハ》 相不勝《アヒカツマシジ》
 石川尓《イシカハニ》 雲立渡禮《クモタチワタレ》
 見乍將偲《ミツツシノハム》
 
【譯】直接にお目に懸かることは出來ますまい。せめて石川に雲も立ち渡つたならば、君とも見つつお慕い申しましよう。
【釋】直相者 タダニアフハ。タタニア<ハ(金)、タダノアヒハ(玉)。タダは直接の意。直接に逢うことは。玉の小琴に、タダノアヒハの訓を出しているが、タダは、そのまま他語に冠し、またはタダニの形を採つており、助詞ノを伴なつた例は一も無い。よつてタダニアフハと讀むべきである。
 。この訓は新考による。カツマシジは既出(卷二、九四)。逢い得まいの意。句切。
 石川尓雲立渡禮 イシカハニクモタチワタレ。君がありという石川に、雲よ、立ち渡れの意。石川は火葬の地であつたであろう。火葬の煙を雲に見立てたことは、卷の三の四二八、四四四等、例が多い。句切。
(623) 見乍將偲 ミツツシノハム。その雲を見て、形見とも見て、思い起そうの意。
【評語】この世でじかに逢うことは、遂に斷念せざるを得なくなつた。しかもせめて石川に立つ雲を見て、君を偲ぼうという、慰め切れない心持である。二首とも、すぐれた歌ではないが、地方に居住する娘子として、相當の才氣のあつたことが知られる。この歌によつても、依羅の娘子が、石川から立つ雲を見得られる地に住んでいたことがわかる。
 
丹比眞人【名闕】擬2柿本朝臣人麻呂之意2報歌一首
 
丹比《たぢひ》の眞人《まひと》の【名闕けたり】柿本の朝臣人麻呂の意《こころ》に擬《よそ》へて報《こた》ふる歌一首
 
【釋】丹比眞人名闕 タヂヒノマヒトノ、ナカケタリ。丹比は氏、眞人は姓《かばね》。註して名闕けたりとあつて、その名を傳えない。石見の國府にいた國司の一人ででもあろうか。丹比の眞人とあるもの、ほかに卷の八、一六〇九、卷の九の一七二六があり、丹比の大夫とあるもの、卷の十五の三六二五、三六二六がある。
 擬柿本朝臣人麻呂之意報歌 カキノモトノアソミヒトマロノココロニヨソヘテコタフルウタ。前掲の依羅の娘子の歌に對して、死んだ人麻呂の心中に擬して應答した歌。
 
226 荒浪に 寄りくるまを 枕に置き、
 吾ここにありと 誰《たれ》か告げけむ。
 
 荒浪尓《アラナミニ》 縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》 枕尓置《マクラニオキ》
 吾此間有跡《ワレココニアリト》 誰將v告《タレカツゲケム》
 
【譯】荒い浪に寄つて來る玉を頭の方に置いて、自分は此處に寐ていると、誰か妹に告げたのだろうか。
【釋】荒浪尓縁來玉乎 アラナミニヨリクルタマヲ。石川の地が海岸近いことが知られる。玉が寄つて來るというのは、玉の材料なる貝や石が寄ることである。
(624) 枕尓置 マクラニオキ。マクラは、枕頭、頭の方という意。「父母波《チチハハハ》 枕乃可多爾《マクラノカタニ》 妻子等母波《メコドモハ》 足乃方爾《アトノカタニ》 圍居而《カクミヰテ》 憂吟《ウレヘサマヨヒ》」(卷五、八九二)のマクラで、アト(足邊)と對立する。「まくらよりあとより戀の迫め來ればせむ方なみぞ床中に居る」(古今和歌集)。人麻呂の墓が、海岸にあつたことが證明される。
 吾此間有跡 ワレココニアリト。ワレは人麻呂に代つて言つている。ココは墓所。
 誰將告 タレカツゲケム。文字表示は十分でないが、意を以つて讀む。カは疑問の係助詞。ケムは過去を推量する助動詞。
【評語】依羅の娘子の、石川ノ貝ニ交リテアリトイハズヤモという歌の意に和したので、人麻呂がこの石川の浪のよする地に埋められたと誰が告げたであろうかといぶかつている。これによれはやはりかくし妻であつたので、臨終にも立ち合うべくも無かつた娘子であろう。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。いかなる本とも知られないが、或る本に次の歌が載せてあるというのである。やはり人麻呂の死に關する歌として傳えたのであろう。なお左註にこれを載せた理由に就いて記している。
 
227 天離《あまざか》る 夷《ひな》の荒野に 君を置きて、
 念《おも》ひつつあれば 生《い》けるともなし。
 
 天離《アマザカル》 夷之荒野尓《ヒナノアラノニ》 君乎置而《キミヲオキテ》
 念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケルトモナシ》
 
【譯】この片いなかの荒野に、君を置いて念つていると、わたくしは生きている心もございません。
【釋】天離 アマザカル。既出(卷一、二九)。枕詞。天のような遠隔の地という意に、ヒナに冠する。
(625) 夷之荒野尓 ヒナノアラノニ。ヒナは既出(卷一、二九)。地方、田舍。アラノは、曠野。
 君乎置而 キミヲオキテ。埋葬したことをいう。
 念乍有者 オモヒツツアレバ。君のことを思いつつ居れば。
 生刀毛無 イケルトモナシ。既出(卷二、二一五)。生きている心利も無い。
【評語】既出の、「衾路を引手の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし」(卷二、二一二)と同じ構成の歌である。人麻呂の妻か、友人か親しいあいだにあつた人の作であろうが、天ザカル夷ノ荒野ニというは、京に居た人の歌のように考えられる。
 
右一首歌、作者未v詳。但古本、以2此歌1載2於此次1也。
 
右の一首の歌は、作者いまだ詳ならず。但し古本、この歌をこの次《つぎて》に載せたり。
 
【釋】古本 フルキマキ。編纂に際して資料とした文獻であろうが、如何なる書とも知られない。その古本に、この歌をこの順序に載せてあるというのである。
 
寧樂宮
 
【釋】寧樂宮 ナラノミヤ。以下、寧樂に都のあつた時代の歌という意に標示してある。卷の一の八四の歌の題詞の前にも、同樣の標示がある。この以前は、何々宮御宇天皇と標し、ここに至つてただ寧樂宮とのみ漂しているのは、例に違うのである。しかし既に、藤原宮御宇天皇代の標目の條にもいう如く、藤原の宮の御宇の天皇も二代あり、しばらくその一を擧げているが、寧樂の宮も數代に亙り、寧樂宮御宇天皇ということが、意を成さぬためであつたのであろう。また萬葉集の編纂は、一次に成つたものでもなく、後の編者が、以下寧(626)樂の京にあつた時代の歌なのに氣づいてこの標示をしたものとも考えられる。以下は、年代を掲記しているので、ここにこの標目をおいたのだろう。
 
和銅四年歳次2辛亥1、河邊宮人、姫島松原見2孃子屍1悲嘆作歌二首
 
和銅四年|歳《ほし》の辛亥《かのとゐ》に次《やど》れる年、河邊《かはべ》の宮人《みやびと》の、姫島の松原に孃子の屍を見て悲嘆して作れる歌二首
 
【釋】 和銅四年歳次辛亥 ワドウノヨトセ、ホシノカノトヰニヤドレルトシ。これと同樣の題詞は、卷の三の四三四の歌の前行にもあつて、それには、「和銅四年辛亥、河邊宮人、見2姫島松原美人屍1、哀慟作歌四首」とある。しかもこの題は、卷の二も卷の三も、歌意に合わない。卷の二の第一首はともかくも、第二首は、沈んだ女子の屍を見るだろうことはつらいというので、美人の屍を見るというに合わない。卷の三のは、これも第一首はともかくも、第二第三第四の三首は、全く別の事を歌つている。よつてこれらの題に誤りがあるのであろうという説があるが、しかしこれは、一の物語中の歌と認むべきであつて、その意味で見ればよくわかるのである。姫島の松原は、傳説のある地であり、河邊の宮人も假託の人と見られるのである。その物語の筋は不明であるが、ある娘子の水死を語るものと考えられる。當時娘子の水死を語る物語は多數あつて、葦の屋の菟原娘子、勝鹿の眞間の娘子、蔓兒等の物語となつて殘つている。それらと同樣のものであつたであろう。和銅四年というのも假託の年か、またはこの物語の作られた年か、この物語の種となつた事實のあつた年かも不明である。
 河邊宮人 カハベノミヤビト。人名説があるが、そうではなく、河邊の宮に奉仕する人の意であろう。河邊の宮は、日本書紀、孝徳天皇紀に、「倭飛鳥河邊行宮」とあり、これは齊明天皇紀に、「飛鳥川原宮」とあると同處である。卷の三の第四首に、淨の川とあるは、飛鳥川なるべく、この河邊の宮人は、その飛鳥の河邊の宮(627)の人であることが推定される。孝徳天皇は、難波の長柄の豐碕の宮にましまし、飛鳥の河邊の宮を行宮とされたのであるが、齊明天皇は、その飛鳥の川原の宮にましました。これは物語中の人物として河邊の宮人の名に假託したものであろう。
 姫島松原 ヒメシマノマツバラニ。姫島の松原は、攝津國風土記に、「比賣島松原、古輕島豐阿岐羅宮御宇天皇世、新羅國有2女神1、遁2去夫1來、暫住2筑紫國伊波比乃比賣島1、乃曰、此島者、猶不2是遠1、若居2此島1、男神尋來、乃更遷來遂停2此島1。故取2本所v住之地名1、以爲2島號1」(萬葉集註釋所引)とある。この風土記の説話は、古事記應神天皇記にある天の日矛の説話と同じ事であろう。その地は現在の大阪市のうちであろうが、いずれの邊であるかについては、諸説があつて決定しない。
 見孃子屍 ヲトメノカバネヲミテ。歌意にはこの題意に合わないもののあること前述の通りである。物語の中心となる所を擧げたか、または第一首のみに係かるか、いずれかであろう。
 
228 妹が名は 千代に流れむ。
 姫島の 子松《こまつ》が末《うれ》に 蘿《こけ》生《む》すまでに。
 
 妹之名者《イモガナハ》 千代尓將流《チヨニナガレム》
 姫島之《ヒメシマノ》 子松之末尓《コマツガウレニ》 蘿生萬代尓《コケムスマデニ》l
 
【譯】この孃子の名は千代までも傳わるであろう。姫島の小松の枝先に苔が生えるまでにも。
【釋】妹之名者 イモガナハ。死んだ娘子の名はである。イモは、その娘子に對して親愛の情を以つて呼んでいる。
 千代尓將流 チヨニナガレム。千代かけて長く傳わるであろうの意。歌經標式にもナガレムと讀んでいる。句切。
 姫島之、ヒメシマノ。題詞にある姫島である。
(628) 子松之末尓 コマツガウレニ。コマツガウレは既出(卷二、一四六)。コマツは、松の愛稱。ウレは、若い枝先。
 蘿生萬代尓 コケムスマデニ。コケは、「蘿生松柯」(卷二、一一三題詞)參照。コケは松の枝に懸かれる植物の類で、サルオガセ等をいう。その生い茂るまでにで、年數の長いことをあらわしている。姫島ノ以下三句は、第二句の千代に流れむの説明である。この位の長い時代までにの意。
【評語】孃子の屍を見て、その場處の姫島の小松を材料として歌つている。その人の死を憫み、その物語に、長く傳わるべき性質のあることを歌つている。物語が亡びたので、歌の感じがすこしく淺くなつているのはやむを得ない。歌經標式に、角の沙彌の作とするを信ずべしとせば、この物語の作者になるのだろう。
【參考】別傳。
   如2角沙彌美人名譽歌1曰。
  伊母我那婆《イモガナハ》一句 知與爾那我禮牟《チヨニナガレム》二句 比賣旨麻爾《ヒメシマニ》三句 古麻都我延陀能《コマツガエダノ》四句 己氣牟須麻弖爾《コケムスマデニ》五句
 
229 難波潟《なにはがた》 潮干《しほひ》なありそね。
 沈みにし 妹《いも》が光儀《すがた》を
 見まく苦しも。
 
 難波方《ナニハガタ》 鹽干勿有曾祢《シホヒナアリソネ》
 沈之《シヅミニシ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
 見卷苫流思母《ミマククルシモ》
 
【譯】この難波潟には潮が干ないでほしい。沈んでしまつたあの孃子の姿を見るのがつらいから。
【釋】難波方 ナニハガタ。カタは淺渚で、潮が滿てば隱れ、潮がひれば現われる程度の地形。淀河の河口なる難波の海の性質をよく言い得ていると共に、この歌の意にも適合している。
 鹽干勿有曾稱 シホヒナアリソネ。ナは禁止の助詞。潮干ることなかれ。句切。
(629) 沈之 シヅミニシ。海に沈んだ。その沈んだ事情は説明されていないが、入水自殺であろう。
 妹之光儀乎 イモガスガタヲ。光儀は、漢文に用いられている熟字で、光景容儀の義である。本集では多數使用せられ、いずれもスガタの訓が當てられている。
 見卷苦流思母 ミマククルシモ。ミマクは見むこと。モは感動の助詞。見むことの苦しさを言つている。
【評語】この歌は、美人の屍を見ての作ではなく、水にはいつたのを悲しんでの作意である。孃子の入水死のことは、實際にもしばしばあつたと見えて、いくつかの歌物語が傳えられている。葦の屋の菟原《うない》娘子、勝鹿の眞間の娘子、鬘兒《かずらこ》などそうであり、人麻呂の歌にも水死した娘子を詠んだものがある。これらの悲しい事件を取り扱つて美しい歌物語を作ることは、當時の文雅人のあいだに往々にして行われたのであろう。ここにもその一つを見ることができるのである。ただ歌のみを留めて物語の失われたのは、その孃子の死を一層美化するものがある。從來の誤傳説を破つて、新しい立場において鑑賞すべき作品である。
【參考】同題。
  和銅四年辛亥、河邊の宮人の、姫島の松原に美人の屍を見て哀慟《かな》しみて作れる歌四首
  風早《かざはや》の美保《みほ》の浦廻の白つつじ見れどもさぶし亡き人念へば 或るは云ふ、見れば悲しも亡き人思ふに(卷三、四三四)
  みつ/\し久米の若子がい觸れけむ礒《いそ》の草根の枯れまく惜しも(同、四三五)
  人言の繁きこの頃玉ならば手に纏き持ちて戀ひずあらましを(同、四三六)
  妹も吾も清みの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ(同、四三七)
 
靈龜元年歳次2乙卯1秋九月、志貴親王薨時作歌一首 并2短歌1
 
(630)靈龜元年|歳《ほし》の乙卯《きのとう》に次《やど》れる年の秋|九月《ながつき》、志貴《しき》の親王《みこ》の薨りたまひし時に、作れる歌一首【短歌并せたり。】
 
【釋】靈龜元年歳次乙卯 レイキノハジメノトシ、ホシノキノトウニヤドレルトシ。この年九月二日、元正天皇即位して和銅八年を靈龜と改元した。
 志貴親王薨時 シキノミコノカムサリタマヒシトキニ。續日本紀には、靈龜二年八月の條に、「甲寅《(十一日)》、二品志貴親王薨。遣2從四位下六人部王、正五位下縣犬養宿禰筑紫1、監2護喪事1。親王、天智天皇第七之皇子也。寶龜元年、追奪稱d御2春日宮1天皇u」とあり、この題詞に、靈龜元年九月とあると、年月に相違がある。これについて、攷證には、靈龜元年九月が實際の薨去の年月であるが、この時は元正天皇即位の時であるので、憚つてその薨奏を翌年にしたのであろうという。しかし一年も後に延期し、薨去の年月をも變更することは、考えられない事實である。また古義は、代匠記の説を受けて、この題詞の志貴の親王は、天武天皇の皇子の磯城の皇子で、その薨去は、續日本紀に遺脱したのであろうという。この同名異人説については、卷の一に既に記した。(五一題詞)。天武天皇の皇子に磯城の皇子があるというのは何かの誤りであろう。よつてこの題詞の志貴の親王を以つて、天武天皇の皇子であるとは考えられないことになる。元來この歌は、左註にもあるように、笠の朝臣金村の歌集を出所とするものであるが、金村の歌集は、歌の製作年月を掲記する特色を有している。これは作者金村の律氣な性質から來ているものと推察されるのであるが、この題詞の年月も、同じくその歌集から來ているのであろう。しかしまた萬葉集の編者がこれを採録するに當つて一年の誤解を生じなかつたとも斷言し難い。續日本紀寶龜二年五月の條に「甲寅、始設2由原天皇八月九日忌齋於川原寺1」とあつて、續日本紀の記事と日は違うが、忌月が八月であることは決定的である。萬葉集に九月とあるは、歌詞に依るに葬儀の月であつたのであろう。
 なおここに親王とあるは、大寶令繼嗣令に「凡皇兄弟皇子、皆爲2親王1」とあるによるものなるべく、本集(631)では多く皇子の文字を使用し「安積親王」「舍人親王」「新田部親王」「穩積親王」などに親王の文字を使用している。
 
230 梓弓 手に取り持ちて
 丈夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手插《たばさ》み
 立ち向かふ 高圓《たかまと》山に、
 春野燒く  野火と見るまで、
 燎《も》ゆる火を いかにと問へば、
 玉|桙《ほこ》の 道|來《く》る人の
 泣く涙 ※[雨/脉]※[雨/沐]《こさめ》に降り、
 白|細《たへ》の 衣《ころも》濕《ひづ》ちて、
 立ち留《と》まり 吾に語らく、
 何しかも もとな言ふ。
 聞けば 哭《ね》のみし泣かゆ。
 語れば 心ぞ痛き。
 天皇《すめろき》の 神の御子《みこ》の
 御駕《いでまし》の 手火《たび》の光ぞ、
 幾許《ここだ》照りたる。」
 
 梓弓《アヅサユミ》 手取持而《テニトリモチテ》
 大夫之《マスラヲノ》 得物矢手挾《サツヤタバサミ》
 立向《タチムカフ》 高圓山尓《タカマトヤマニ》
 春野燒《ハルノヤク》 野火登見左右《ノビトミルマデ》
 燎火乎《モユルヒヲ》 何如問者《イカニトトヘバ》
 玉桙之《タマホコノ》 道來人乃《ミチクルヒトノ》
 泣涙《ナクナミダ》 ※[雨/脉]※[雨/沐]《コサメ・ヒサメ》尓落《ニフリ》
 白妙之《シロタヘノ》 衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》
 立留《タチトマリ》 吾尓語久《ワレニカタラク》
 何鴨《ナニシカモ》 本名言《モトナイフ》
 聞者《キケバ》 泣耳師所v哭《ネノミシナカユ》
 語者《カタレバ》 心會痛《ココロゾイタキ》
 天皇之《スメロキノ》 神之御子之《カミノミコノ》
 御駕之《イデマシノ》 手火之光曾《タビノヒカリゾ》
 幾許照而有《ココダテリタル》
 
(632)【譯】梓弓を手に持つて、勇士が獵の矢を手はさんで立ち向かう、その高圓山に、春の日の野を燒いていると見るまでに火が見えるのは、、どうした事かと問えば、道來る人が、泣く涙が雨のように落ちて白い著物もしぼるばかりなのをおさえて立ち留まつて、わたしに語ることには、何だつてほんとにそんなふうに言うのですか、開けば泣かれてしかたがありません。お話をすれば心が痛い。あれはおかくれになつた皇子樣の御葬送のお供にたくたいまつの光の澤山に照つているのですよ。
【構成】段落は無く、全篇一文でできている。高圓山に火の見えるのを、道行く人に問うたところ、道ゆく人の答えるには云々という構成を持つているので、何シカモ以下末までが、すべて道ゆく人の答になつている。解釋上注意を要する所である。
【釋】梓弓手取持而 アヅサユミテニトリモチテ。丈夫が、梓弓を手に取り持ち、得物矢を手挾んで立ち向かうという意味で、句の都合上、主格たる丈夫より前に置かれている。以下立チ向カフまで、マトの序詞になつている。
 大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出。立チ向カフに對する主格句。
 得物矢手挾 サツヤタバサミ。既出(卷一、六一)。サツヤは、鳥獣を支配する靈力のある矢。
 立向 タチムカフ。初句からこの句までは、序詞で、次の句のマト(的)に懸る。
 高圓山尓 タカマトヤマニ。高圓山は、奈良市の東、春日山の南にある山。志貴の皇子の御墓は、奈良縣添上郡田原村にあり、田原の西陵と稱せられる。皇子の御邸の春日から、その墓所をさして、葬列は高圓山の中腹をめぐつて行くのである。
 春野燒野火登見左右 ハルノヤクノビトミルマデ。葬列の火の譬喩。夜に入つて通過されると見える。
 燎火乎 モユルヒヲ。モユルヒは、葬列の火である。但し何の火かあきらかでないよしに詠んでいる。
(633)何如問者 イカニトトヘバ。道行く人に對して設問したことになつている。
 玉桙之 タマホコノ。枕詞。道に冠する。
 這來人乃 ミチクルヒトノ。かなた高圓山の方から來る人の意。
 泣涙※[雨/脉]※[雨/沐]尓落 ナクナミダコサメニフリ。※[雨/脉]※[雨/沐]は、漢文からの熟字で、詩經文選等に見え、小雨の義で、本集には「吾妹子之《ワギモコガ》 赤裳裙之《アカモノスソノ》 將2染※[泥/土]1《シミヒヂム》 今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾《ケフノコサメニ》 吾共所v沾名《ワレサヘヌレナ》」(卷七、一〇九〇)、「彼方之《ヲチカタノ》 赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》 ※[雨/脉]※[雨/沐]零《コサメフリ》 床共所v沾《トコサヘヌレヌ》 於v身副我妹《ミニソヘワギモ》」(卷十一、二六八三)とも使用されている。また※[雨/沐]一字のみでは、「伊夜彦《イヤヒコ》 於能禮神佐備《オノレカムサビ》 青雲乃《アヲグモノ》 田名引日良《タナビクヒラニ》 ※[雨/沐]曾保零《コサメソホフル》」(卷十六、三八八三)とある。これらはいずれもコサメと訓し小雨の義である。但し、字義はそうであつても、この歌や、二六八三の歌などでは、大雨の義に誤用したかとも見られる。そう見ればヒサメと讀むべきである。「文字集路云、霈。大雨也。日本紀私記云、大雨【比佐女】」(倭名累聚鈔)ここでは泣く涙が雨の如くに降りの義で、譬喩である。
 白妙之衣※[泥/土]漬而 シロタヘノコロモヒヅチテ。シロタヘは白色の織物であるが、ここも實寫と見える。葬儀に關係する人を描いている。ヒヅチテは、水にびたびたになるをいい、ここは涙のために、衣服も濡れるので、上の泣ク涙小雨ニ降リを受けている。
 立留 タチトマリ。上の、道來る人の動作である。
 吾尓語久 ワレニカタラク。カタラクは、語ることの意。上の、イカニト問ヘバを受けている。
 何鴨本名言 ナニシカモモトナイフ。イツシカモモトノナトヒテ(西)、ナニシカモモトナイヒツル(考)、ナニシカモモトナイヘル(玉)、ナニシカモモトナイフ(新考)。以下終りまで、道來る人の言として、火光の説明に借りて皇子の葬儀のことを説く。心ゾ痛キまで六句、二句ずつでおのおの一文を成している。シは強意の助詞。カモは疑問の係助詞。イフがこれを受ける。モトナは、根據無く、わけも無く、よしなく、みだりに(634)などの意の副詞で、何とてよしなく尋ねたまうぞの意(母等奈考山田孝雄氏)、とされていたが、モトナは、この意では解し切れないものがある。「オモヒツツヌレバカモトナヌバタマノヒトヨモオチズイメニ
 
之見由流《シミユル》」(卷十五、三七三八)、「水咫衝石《ミヲツクシ》 心盡而《ココロツクシテ》 念鴨《オモヘカモ》 此間毛本名《ココニモモトナ》 夢西所v見《イメニシミユル》」(卷十二、三一六二)などのように、よしなくというような消極的な氣分でなく、積極的な氣もちをモトナと批評しているものがある。すべての例を集めて考えるに、モトは、根本、根幹の意。ナは、無ではなく、語勢の助詞であるようであつて、使用された場所によつて、切に、切實に、心からとも、またよしなくとも釋すべきものと推考される。ここは、何シカモ言フの意を、ほんとに困つたことだぐらいに強調する。句切。
 聞者泣耳師所哭 キケバネノミシナカユ。この事に關して言うを聞けは泣かれるばかりである。キケバは、問を起されたのに對していう。ネノミシナカユは、熟語句、泣かれてしかたがないの意で、集中用例が多い。句切。
 語者心曾痛寸 カタレバココロゾイタキ。これについて語れば、心が悲まれる。上の、聞ケパ音ノミシ泣カユの句と對句を成しているが、句形が變わつていて形式的でないのがよい。句切。
 天皇之 スメロキノ。スメロキは、天皇の汎稱で、ここは前代の天皇、天智天皇をさす。
 神之御子之 カミノミコノ。カミノミコは、薨去に依つて神となつた御子の義で、志貴の皇子のこと。
 御駕之 イデマシノ。駕は乘り物の義で、イデマシは、葬儀の行をいうい
 手火之光曾 タビノヒカリゾ。タビは、日本書紀神代の上に「秉炬、此云2多妣1」とある。手に持つ火の義で葬列の人の炬火である。ゾは係助詞。
 幾許照而有 ココダテリタル。ココダは許多。上の、高圓山に燃ゆる火に不審を起して問うさまに構想したのを受けて、これを説明している。
(635)【評語】高圓山の火を見て問を起し、これに答えるさまを以つてした全體の構成は、よく效果を收めていを。答の部分に、何シカモ以下短文を重ねて急迫した感情を描き、これを受けて送葬の火であることをあきらかにした手段も非凡といえる。人麻呂の敍事詩風なすぐれた挽歌以外に、別の境地をひらいた作というべきである。
 
短歌二首
 
231 高圓《たかまと》の 野邊の秋はぎ、
 いたづらに 咲きか散るらむ。
 見る人無しに。
 
 高圓之《タカマトノ》 野邊秋※[草冠/互]子《ノベノアキハギ》
 徒《イタヅラニ》 開香將v散《サキカチルラム》
 見人無尓《ミルヒトナシニ》
 
【譯】今は皇子もおいでにならないので、高圓山の野邊に咲きほこる秋ハギの花も、見て愛する人もなくて、いたずらに散つてしまうのであろうか。
【釋】高圓之野邊秋※[草冠/互]子 タカマトノノベノアキハギ。長歌の高圓山を受けているが、ここではおりからの風物としてこれを出している。
 徒 イタヅラニ。無用に、かいも無くの意の副詞。
 開香將散 サキカチルラム。カは係助詞。咲くことをしてか今は散るならむの意。「和我夜度乃《ワガヤドノ》 波奈多知婆奈波《ハナタチバナハ》 伊多都良爾《イタヅラニ》 知利可須具良牟《チリカスグラム》 見流比等奈思爾《ミルヒトナシニ》」(卷十五、三七七九)などと同樣の語法である。句切。
 見人無尓 ミルヒトナシニ。ミルヒトは、皇子をさす。愛賞する人無しにの意。
【評語】君無くしては、自然の存在も意義のないことが歌われている。長歌の内容とは別の方面が歌われてい(636)るのは、一手段である。
 
232 御笠山 野邊《のべ》行く道は、
 許多《こきだく》も 繁く荒れたるか。
 久《ひさ》にあらなくに。
 
 御笠山《ミカサヤマ》 野邊往道者《ノベユクミチハ》
 己伎太雲《コキダクモ》 繁荒有可《シゲクアレタルカ》
 久尓《ヒサニ》有《アラ・ナラ》勿國《ナクニ》
 
【譯】春日の御笠山を行く野邊の道は人も通らないので、日數も多く經つていないのに、非常に草繁り荒れている事であるよ。
【釋】御笠山 ミカサヤマ。春日神社の背後の山で、高圓山の北に當る。志貴の皇子は、後の謚號を、春日の宮の天皇と申し、宮殿が春日にあつたと推考されるので、附近の御笠山が堤示されたのであろう。
 野邊往道者 ノベユクミチハ。御笠山の在る野邊を行く道で、皇子の生前御通行になつた道をいう。
 己伎太雲 コキダクモ。コキダクは、許多の意のコキダに、體言であることを示すクが接續したもの。更に助詞モが接續して副詞となつている。雲は訓クモに借りている。コキダの例は、本集に他にはない。
 繁荒有可 シゲクアレタルカ。シジニアレタルカ(略)、シゲリアレタルカ(新考)。シゲクは、草の繁茂せる状をいう。カは感動の助詞。草繁くして荒廢したることよの意。句切。
 久尓有勿國 ヒサニアラナクニ。ヒサは久しき時。久しい時ではないのだ。皇子の生前の時からまだ久しくたたないのだ。薨後、送葬の頃になつて詠んだ歌であることが知られる。
【評語】これも長歌と別の方面について歌い、前の歌と同じ思想を詠んでいる。皇子の御在世と薨去とによつて、野邊ゆく道の變化を説いているが、それはただ主觀上の問題であつて、荒廢を感じているのは、作者の心のことである。皇子無くして山野も荒廢して感じられる由を詠んでいる。
 
(637)右歌、笠朝臣金村歌集出
 
右の歌は、笠の朝臣金村の歌の集に出づ。
 
【釋】右歌 ミギノウタハ。前出の靈龜元年云々の題下の長歌一首短歌二首をさす。
 
 笠朝臣金村歌集出 カサノアソミカナムラノウタノシフニイヅ。笠の朝臣金村の歌集は、この外、卷の三、六、九にも見え、萬葉集の編者は、その集から歌を採録している。その集の歌は、おおむね金村の作と見てよく、ただ贈答の場合などは、他人の作をも記載していると認められる。また本集中、題詞に笠の朝臣金村の作と記したものも、おおむねその歌集から採録したものの如くである。この事は、柿本の人麻呂の場合などに準じても考えられることである。その集には天平五年の作まであり、ここにその集の歌を載せているのは、勿論その後の探録であつて、ここにも本卷も數次の編に成つていることが考えられる。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。以下二首が、前掲の二三一、二三二の歌に似ているので、或る本によつて摘記している。その或る本というのがいかなる書であるかは不明である。また次の二首が、同じく志貴の皇子の薨去の時の作としていたかどうかも不明であるが、別の時の作とするならば、その旨を註記したであろう。同じ時の作としているか、または作歌事情に關して説明が無いかであろう。
 
233 高圓の 野邊《のべ》の秋はぎ な散りそね。
 君が形見に 見つつ偲《しぬ》はむ。
 
 高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋※[草冠/互]子《ノベノアキハギ》 勿散祢《ナチリソネ》
 君之形見尓《キミガカタミニ》 見管思奴播武《ミツツシヌハム》
 
(638)【譯】高圓の野邊の秋ハギよ、散つてはいけない。君の形見として見つつお慕い申しあげよう。
【釋】勿散祢 ナチリソネ。ナは禁止の助詞。句切。
 君之形見尓 キミガカタミニ。君の形見として。記念の遣物として。
 見管思奴播武 ミツツシヌハム。シヌハムは、思慕しよう。シノフのシの下の菅は、怒の類の文字を以つて表示すべき音韻であるのに、ここに奴を使用したのは違例である。これは時代がやや後れてこれを記載したためででもあろう。
【評語】二三一の歌の參考として掲げた歌であるが、三句以下の相違は相當に多く、別の歌として見るべきである。遣物に對して、變化しないようにと希望した歌は多く、内容は常套であるが、哀情は描かれているようである。
 
234 三笠山 野邊ゆ行く道、
 許多《こきだくも》も 荒れにけるかも。
 久にあらなくに。
 
 三笠山《ミカサヤマ》 野邊從遊久道《ノベユユクミチ》
 己伎太久母《コキダクモ》 荒尓計類鴨《アレニケルカモ》
 久尓有名國《ヒサニアラナクニ》
 
【譯】三笠山の野邊を通つて行く道は荒れたことだなあ。久しくは無いのだが。
【釋】三笠山 ミカサヤマ。御笠山に同じ。三の義はなく、ミは美稱である。
 野邊從遊久道 ノベユユクミチ。ノベユは、野邊を經過して。
 己伎太久母 コキダクモ。卷二、二三二參照。
 荒尓計類鴨 アレニケルカモ。荒れてしまつたことを歎いている。句切。
(639) 久尓有名國 ヒサニアラナクニ。卷二、二三二參照。
【評語】二三二の歌の別傳で、二句と四句とに相違がある。野邊ユ行ク道の句は、三笠山を目標として野邊を通つて行く道の説明がよく出ている。四句も詠嘆の氣分が強く感じられる。
 
萬葉集卷第二
         〔2009年9月29日(火)午後4時20分、巻二入力終了〕
 
増訂萬葉集全註釋 四 卷の三、479頁、480円、角川書店、1957.2.0(1958.3.20.2p)
 
〔目次省略〕
 
萬葉集卷第三
 
(17) 卷の一と二とが、何天皇の代という標示をかかげ、また年號を立てて、雜歌、相聞、挽歌の三類の歌を集め、一往の體制を完成しているのに對して、卷の三以下は年號を立てることはあるが、御宇の標示なく、ただほぼ時代の古いものから順次に歌を掲載している。そうして卷の三に雜歌、譬喩歌、挽歌、卷の四に相聞の類を立て、この二卷で、またほぼ體制を完成している。御宇の標目を立てなかつたのは、何の御代の歌とすべきか明瞭でないものが多かつたからであろう。卷の三の卷頭の歌の如きも、天皇御遊雷岳之時云々の題詞があるが、いずれの天皇の御事蹟とも明確に指示しがたいのは、資料のままで、時代を判斷することが困難であつたのだろう。
 卷の三の歌は、國歌大觀の番號によれば、二三五から四八三までであるが、ほかに或本歌、一本歌の完全なもので番號のないのが三首あつて、歌數は合わせて二百五十二首である(一首の全き形を備えないものは數に入れない)。その類別による計數は次の通りである。
  雜歌   長歌一四  短歌一四四
  譬喩歌        短歌 二五
  挽歌   長歌 九  短歌 六〇
  合計     二三    二二九
 歌の時代は、挽歌の初めにある聖徳太子の御歌がもつとも古いが、そのような古い歌はその一首だけで、他(18)は持統天皇の御代以後の歌であり、奈良時代の歌が大多數を占めている。一番新しい歌と見られるのは、挽歌の最後にある、七月二十日の作という高橋某の歌であるが、しかしその年は、天平十六年であるか否か、明白でない點もあるので、これを除外すれば、その前にある大伴の家持の天平十六年三月の歌が、明白なものの最後になる。
 文字使用法は、表意文字を主とし、これに交えるに、特殊の語や助詞、助動詞などに當てて表音文字を使用している。その表音文字は、字音假字が多く、訓假字は主として慣用のものを使用している。わりあいに文字を惜しまずに丁寧に書いているが、それでも難讀のものがあり、それらは、おもにすくない文字で書かれたものであつて、それは資料のままにその書き方を傳えているようである。
 この卷は、仙覺本系統以外の傳本が極めてすくない。元暦校本は全くなく、わずかに金澤本が小部分を存しているに過ぎない。そのほかには、神田本と細井本の一部とがある。細井本は普通の卷の三のほかに、また卷の四の後半の代わりにこの卷の三の三三七の青山之嶺乃白雲の歌以後を收め、その部分は、仙覺本系統以外に屬する。今これを細井本の二種と稱する。類聚古集と古葉略類聚鈔とは、例によつて若干の歌を載せ、貴重な校勘資料となつている。
 有名な作家には、柿本の人麻呂、大伴の旅人、山部の赤人などがあり、大伴の坂上の郎女、大伴の家持も擡頭して來た。無名作家にも相當の名作を傳えたものがあるが、一方に平凡な類型的な歌もようやく多くなつている。わずかに一角に口誦文藝たる歌謠の面影を存しているだけで、大體は既に文筆作品の世界となつている。
 
雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。クサグサノウタ。既に卷の一の卷頭の雜歌の項に述べたように、相聞、挽歌等の他の部(19)類に入らない歌を集めている。この卷には譬喩歌の類も立ててあるので、その類も雜歌には入れないことと思われる。この雜歌の一行の存否については、これをもたない傳來はないが、これは、この卷が古本系統の本を傳えないために、最古の姿と思われるものが窺われない。文獻的にはこの一行を否定すべき根據をもたないのである。
 
天皇、御2遊雷岳1之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
天皇の雷《いかづち》の岳《をか》に御遊《い》でましし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首。
 
【釋】天皇 スメラミコト。何天皇の代という標記がないから、いずれの御方とも定めがたい。ただ柿本の人麻呂の作であることと、配列の順序とによつて推測を下すまでである。人麻呂の作品中、時代のあきらかなものは、持統天皇の御代以後であり、人麻呂歌集の作中では、天武天皇の八年の作と推考されるもの(卷十、二〇三三)がもつとも古い。配列の順序からいえば、ほぼ時代順になつていると考えられる雜歌の最初にあつて、長の意吉麻呂等の歌の前に置かれている。これらの事情を綜合すれば、天武天皇または持統天皇の御事とすべきである。持統天皇の御事とする説は、次の歌の天皇が、志斐の嫗との問答であるから持統天皇であるとすることが考慮に入れられるが、それは確説とはしがたく、要するに未詳とするほかはない。歌の内容からすれば、むしろ天武天皇の御事とすべきが如くである。いずれにしても、明日香の宮に皇居のあつた時代のことであろう。
 御遊雷岳之時 イカヅチノヲカニイデマシシトキ。御遊は、天皇の行幸であるから御の字を附ける。遊は遊幸の義。行幸と同じに讀んでよい。雷岳は、歌詞に「雷之上爾」とあり、左註の歌に「伊加土山爾」とあつて、雷をイカヅチと讀むべく、岳は、岳本天皇など、この字の使用例によつて、ヲカと讀むべきである。日本書紀(20)雄略天皇七年七月の紀に「天皇、小子部《ちひさこべ》の※[虫+果]贏《すがる》に詔して曰はく、朕《われ》三諸《みもろ》の岳《をか》の神の形を見まく欲《おも》ふ。【或るは云ふ、この山の神を大物主の神となせり。或るは云ふ、菟田の墨坂の神なり】」とて、これを捕えしめたが、その威あるをもつて岳に放たしめ、よつて改めて名を賜わつて雷《いかづち》としたとある。この記事における三諸の岳は、三輪山と解せられるようであるが、この説話は、日本靈異記にも載せていて、その記事によれば、雄略天皇の朝、小子部の栖輕(※[虫+果]贏に同じ。字が違うだけである)に命じて雷を捕えしめたので、栖輕が宮から退出して、額《ぬか》に緋《あけ》の※[草冠/縵]《かづら》を著《つ》け、赤い幡桙《はたほこ》をフ《ささ》げ、馬に乘つて、阿部の山田の道を通つて輕《かる》の諸越《もろこし》の衢《ちまた》に至つたが、雷は、豐浦寺《とよらでら》と飯岡《いひをか》とのあいだに落ちた。その落ちた處を、今雷の岡と呼び、それは古京の小治田《をはりだ》の宮の北にあるとしている。これは雷の岳の所在を語るものとして有力な資料である。この岡は、奈良縣高市郡飛鳥村にあり、飛鳥川の東岸の小丘である。歌詞に廬するとあり、家屋があつたことと思われるが、離宮であるか否かを詳にしない。イカヅチのイカは、イカメシのイカに同じく、嚴威を意味し、ツチは、迦具士《かぐつち》、野椎《のづち》などのツチに同じく、神靈を意味する。よつて雷電を尊んでイカヅチという。
 
235 皇《おほきみ》は 神にしませば、
 天雲《あまぐも》の雷《いかづち》の上に
 廬《いほり》するかも。
 
 皇者《オホキミハ》 神二四座者《カミニシマセバ》
 天雲之《アマグモノ》 雷之上尓《イカヅチノウヘニ》
 廬爲流鴨《イホリスルカモ》
 
【譯】わが大君は神樣でおいでになるので、大空の雲の中なる雷の上に廬を遊ばされることである。
【釋】皇者神二四座者 オホキミハカミニシマセバ。既出(卷二、二〇五)。天皇は、本質的に神ではないが、それを超越してただちに神であると感ずる思想を表示する。シは強意の助詞。異常な内容を語る條件法の句。
 天雲之 アマグモノ。アマグモは、天空における雲の謂であつて、雲を生態的に言つている。次句の雷に對(21)する修飾句。
 雷之上尓 イカヅチノウヘニ。事實は、雷の岡の上にであるが、その雷の岡を、ここでは實物の雷に取りなしている。
 廬爲流鴨 イホリスルカモ。イホリセルカモ(槻)。イホリスルは、假屋を作つて入る意。イホリセルカモ、イホラセルカモ等の讀み方もあるが、イホリスルカモが、字についた順當な讀み方で、しいて異を求めるに及ばない。天皇の御行動であるが、歌中では敬語を附けない言い方もあり、その方が率直感を現わすのである。「大君は神にし坐《ま》せば赤駒《あかごま》のはらばふ田居《たゐ》を都となしつ」(卷十九、四二六〇)等、敬語を使つていない。
【評語】大君は神ニシマセバの句の下には、普通の人のなし得ないことをなされる意味のことを述べるのが通例である。この歌では、雷の岳という名の岡に行幸せられたことを、その雷の名からして、仰山に雷の上に廬をなされると歌つた所が、大げさな感じを與えるのである。勿論それは言語上の遊戯感が強くあるけれども、驚いたように一氣に歌い下した所に力強さのほどが窺われる。しかもその岡は雷神の落ちた處であつて、その神靈が宿つていると信じられているのであるから、その上に廬をすることは、異常の威力でなければならない。大君ハ神ニシマセバの句は、既に壬申の年の平定の後の歌として二首まで傳えられており、人麻呂の創始とは云いがたく、歌いあげられる歌の名句として流傳した句と推測される。その句を使用して、即座に帝徳讃嘆の意を歌つたものなるべく、歌いものふうの性格の存する歌である。
 
右或本云、獻2忍壁皇子1也。其歌曰、
 
王《オホキミハ》 神座者《カミニシマセバ》 雲隱《クモガクル》 伊加土山尓《イカヅチヤマニ》 宮敷座《ミヤシキイマス》
 
右は或る本にいふ、忍壁の皇子に獻れるなりといへり。その歌に曰はく、
 
(22)王は 神にし坐せば、雲隱る 伊加土山に 宮敷きいます。
 
【釋】或本云 アルマキニイフ。別の資料によつて、類似の歌詞より成る歌を註している。或る本と稱する中には、柿本朝臣人麻呂歌集をも含んでいることは、この下の「三吉野之《ミヨシノノ》」(卷三、二四四)の歌によつても證せられる。ここに獻忍壁皇子とあるのは、人麻呂歌集所出の「常之倍爾《トコシヘニ》」(卷九、一六八二)の歌にも同例があり、またこの歌がすくない字數で書かれていることは、人麻呂歌集の用字法と一致している。以上の諸點からいえば、ここに或る本というのは、柿本朝臣人麻呂歌集のことであろうかとも考えられる。
 忍壁皇子 オサカベノミコ。天武天皇の皇子。慶雲二年五月薨去であるから、その以前の作歌である。
 王神座者 オホキミハカミニシマセバ。上の本文の歌に照らして、讀み方は決定的であるが、これによれば、助詞ハ、ニ、シを讀み添えることになり、字數のすくない歌を讀む上の一指針を與える。
 雪隱 クモガクル。舊訓クモガクレ、童蒙抄にクモガクリ、槻落葉にクモガクルと讀んでいる。動詞隱ルは、古くは四段活であつたから、中止形クモガクリ、連體形クモガクルである。クモガクリと讀めば、五句の宮敷キイマスに懸かることになり、忍壁の皇子の行爲になつて、皇子の薨去を意味する。薨去を雲隱ルというは、「百傳《ももづた》ふ磐余《いはれ》の池に鳴く鴨《かも》を今日のみ見てや雪隱りなむ」(卷三、四一六)は大津の皇子の御歌で、御自身の死のうとすることを、雲隱リナムという。また「大君の命かしこみ大荒城《おほあらき》の時にはあらねど雲隱ります」(卷三、四四一)は、長屋の王の薨去を歌つている。これによれは、忍壁の皇子が薨去せられて、伊加土山に御墓を作られたことを歌つたことになる。又皇子の親しい方の薨去された時に、皇子に獻つた歌とも解せられるが、伊加土山に墓所を設けると見るべき點は同一である。然るに伊加土山は、木文の雷の岡と同處と見るべく、さような雷の神靈があると信じられている處に墓を築くことはあり得ない。このゆえに、クモガクルと讀んで、次の句の伊加土に對する修飾句とすべきである。これは本文における天雲ノ雷というと同樣の形態で、この點か(23)らも適當と考えられる。
 伊加土山尓 イカヅチヤマニ。他に聞えた山なく、木文題詞の雷の岡と同じ山と考えられる。本文には雷として取り扱つているが、ここには山名を出しており、壯大感において劣り、眞實感において勝つている。
 宮敷座 ミヤシキイマス。シキは、平面を占據するにいう動詞。イマスは御座あるの意。宮殿を構築されるをいう。
【評語】本文の歌に比して、率直に云つている點に落ちつきがある。この歌の方が原形で、後にこれを歌い改めて彼の天雲ノ雷ノ上ニの壯大な句を得たように見られる。そうとすれば彼の歌の方がこれよりも後ということになるが、これは推測に過ぎないことはいうまでもない。
 
天皇、賜2志斐嫗1御歌一首
 
天皇の、志斐の嫗《おみな》に賜へる御歌一首。
 
【釋】天皇 この天皇もいずれの御方か不明である。前の歌の天皇と同じ方であるか否かも決せられない。從來多く持統天皇の御事と解しているのは、事が志斐の嫗との問答であるからであるが、老女と問答されたから女帝であるとはいえない。次の長の意吉麻呂は、大寶二年の持統太上天皇の參河行幸の時の歌を傳えており、その頃の人と知られるが、それによれば、溯れば天武天皇、それから持統天皇、降れば文武天皇の三代のうちであろう。
 志斐嫗 シヒノオミナ。次の歌の題詞の下に「嫗名未詳」とあり、名が未詳であるとすれば、志斐は氏か稱號(地名、通稱など)かであるが、まず氏であろう。氏とすれば、當時、志斐を氏とするものに、中臣の志斐の連と阿部の志斐の連とがある。中臣の志斐の連は、元明天皇の和銅二年の賜姓であるから、それを溯らせて(24)ここに記したとは考えられない。阿部の志斐の連は、大彦の命の後であるが、その氏名について、新撰姓氏録に、「阿部の名代、天武天皇の御世、楊花を獻る。勅したまはく、何の花ぞ。名代奏して曰はく、辛夷花《こぶし》なり。群臣奏して曰はく、こは楊花なり。名代なほ強《し》ひて辛夷花と奏す。因りて阿部の志斐の連を賜ひき」と見える。ヤナギの花を獻じてしいてコブシの花と奏したので志斐の氏を賜わつたというは、志斐の嫗の強語と縁故があるかも知れない。嫗はオミナ。老女の義である。
 御歌 オホミウタ。天皇の御製であるから、御歌とあるは、例に違う。しかし古事記などには御歌とあり、これも資料のままを踏襲したものであろう。誤りとするに至らない。
 
236 否といへど 強《し》ふる志斐のが 強語《しひがたり》、
 このごろ聞かずて われ戀ひにけり。
 
 不v聽跡雖v云《イナトイヘド》 強流志斐能我《シフルシヒノガ》 強語《シヒガタリ》
 此者不v聞而《コノゴロキカズテ》 朕戀尓家里《ワレコヒニケリ》
 
【譯】否というのに、無理に強いる話をする志斐のが、強い話を、このごろは聞かないので、聞きたく思うようになつた。
【釋】不聽跡雖云 イナトイヘド。聽は聽許の義。不聽で、欲しない意をあらわす。志斐の嫗の強語を聞くことを欲しないというのである。イナは、集中、多く不欲の字を書いているが、ここはとくに不聽の字を用いたのだろう。
 強流志斐能我 シフルシヒノガ。シフルは、上二段活の動詞強フの連體形。強要する意である。次の句の強語を修飾する語。シヒノは、志斐は氏の名。ノは、附け添えた接尾語。親愛の意をあらわす。「夫《せ》なのが袖もさやに振らしつ」(卷十四、三四〇二)、「妹《いも》のらに物云はず來にて思ひかねつも」(同、三五二八)等がある。この語あるいは俗語であろう。なお「級離《しなざか》る越の君らと」(卷十八、四〇七一)も、通行本には吉美能登となつ(25)ているが、この能は古本に良とある方がよいので、この語の證にはならない。
 強語 シヒガタリ。他の欲すると否とに拘らず、強いてする物語。この嫗が話ずきで話をしてやまないのをいう。その強語の内容は不明である。傳承した古い物語とも解し得るが、それには限定されない。語の字は、本集ではコトとも讀むが、多くはカタリと讀んでいる。若干の内容を有する言語の意に使用されている。
 比者不聞而 コノゴロキカズテ。コノゴロは、集中、比者、比日と書く。比に此の字を用いる本もあり、ここもそうであるが、これは誤りで、皆古本によつて修正される。
 朕戀尓家里 ワレコヒニケリ。朕の字は、漢土では古く一般の第一人稱に用いられていたが、秦の始皇帝に至つて、皇帝の自稱と定め、爾來それによつている。志斐の嫗の物語を聽かないこと久しくして、それを戀しく思うとの御心を述べられている。
【評語】この歌の二三句は、シを頭韻としている。シは發音しにくい音であるから、わずかに三箇であるが、強い效果を生じている。志斐の嫗に對して輕く揶揄される御心が、頭韻を利用してよく表現されている。頭韻の例は卷の一、二七の歌の條參照。
 
志斐嫗奉v和歌一首 嫗名未v詳
 
志斐の嫗の和《こた》へ奉れる歌一首 【嫗の名はいまだ詳ならず。】
 
【釋】奉和歌 コタヘマツレルウタ。既出(卷一、七七)。天皇に對して敬意を表して奉和と書いている。和は唱和の義。
 嫗名未詳 オミナノナハイマダツマビラカナラズ。萬葉集の編者の加えた註記であろう。
 
(26)237 否《いな》といへど
 語れ語れと 詔《の》らせこそ、
 志斐いは奏《まを》せ。
 強語《しひがたり》と詔《の》る。
 
 不v聽雖v謂《イナトイヘド》
 話禮話禮常《カタレカタレト》 詔許曾《ノラセコソ》
 志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》
 強話登《シヒガタリト》言《ノル・イフ》
 
【譯】申し上げませんというのに、語れ語れと仰せになればこそ、この志斐は申し上げるのでございます。しかるに強語《しいがたり》と仰せになるのは、さかさまでございます。
【釋】不敢雖謂 イナトイヘド。敢は神田本による。他本は聽に作つている。不聽でも訓に變化はないが、ここのイナは、承諾しないではなく、進んで事をしない義であつ(27)て、不敢とある方が、よくその意にかなう。前の御歌の初めを取つている。贈られた歌の詞句を取り用いるのは、返し歌の原則である。しかし意味は違つて、申し上げまいと申せどの意になつている。
 話禮話禮常 カタレカタレト。カタレは話をせよの意。重ねたのは、強《し》いる意をあらわしている。天皇こそお強い遊ばすの意を含めている。
 詔許曾 ノラセコソ。ノラセは、動詞ノルの敬語ノラスの活用で、コソを伴なつて條件法になる。詔らせばこその意。仰せになればこそ。但し、バを略したものではない。便宜上バを補つて解するまでである。「然爾有許曾《シカナレコソ》」(卷一、一三)の條參照。
 志斐伊波奏 シヒイハマヲセ。志斐は作者の氏。イは助詞で語勢でつける。本集における例を擧げると、「紀《き》の關守《せきもり》い留《とど》めなむかも」(卷四、五四五)、「後れたる菟原壯士《うなひをとこ》い、天仰ぎ叫びおらび」(卷九、一八〇九)、「過ぎにし戀《こひ》い亂れこむかも」(卷十二、二九二七)、「家なる妹いおほほしみせむ」(同、三一六一)、「わが戀ふる公《きみ》いかならず逢はざらめやも」(卷十三、三二八七)、「母い守れども魂《たま》ぞ會ひにける」(卷十四、三三九三)。なお、イをもつて主格を示す助詞と見る説があるが、次の如き用例のあるによれば、語勢によつてつける助詞で、主格につくことが多いものとすべきである。「玉緒乃《タマノヲノ》 不v絶射妹跡《タエジイイモト》 結而石《ムスビテシ》 事者不v果《コトハハタサズ》」(卷三、四八一)。マヲセは、コソを受けて、已然形で止めている。マヲスは、下位の者から言上するにいう。句切。
 強話登言 シヒガタリトノル。前の歌の三句を受けている。言は、天皇の仰せとする意によつてノルと讀むが、イフとも讀まれる。澤瀉博士にイフと讀むべしとする説がある(萬葉)。それにはノルが、かならずしも敬語ではないことを論じている。
【評語】お互にそちらが強いるのであると云いあつた、仲のよい戯《ざ》れ言である。志斐の嫗の歌は、強いて歌にした傾きがあつて、多少窮屈なところがあるのは、返歌としてやむを得まい。
 
      (28)長忌寸意吉麻呂、應v詔歌一首
 
長の忌寸意吉麻呂の、詔に應ふる歌一首。
 
【釋】長忌寸意吉麻呂 ナガノイミキオキマロ。既出(卷一、五七)。藤原の宮時代の人。即興の歌をよくした人。この人の名は、卷の一(五七)、また下(卷三、二六五)、卷の十六(三八二四左註)には、奧麻呂と書いている。姓名を書くに當つて、古人は、文字に拘泥しなかつた。かような例は數多くある。
 應詔歌 ミコトノリニコタフルウタ。應詔は、海犬養宿禰岡麻呂應詔歌一首(卷六、九九六)以下十數出している。天皇の詔命に應答する意である。その場合に、多數の人が歌を詠んでいるのは、歌を作れとの詔命であるが、然らざる君命に對しても、即興の歌をもつて御答え申しあげることはあつたのである。長の意吉麻呂は、大寶年間の作歌を傳えている人であるが、この詔は、文武天皇の詔であるか否かをあきらかにしない。歌意によるに、海濱の離宮での作のようであり、文武天皇慶雲三年の難波の宮への行幸の時とする説があるが、決定しがたいことである。何天皇の御世にもせよ、海濱の離宮で海濱の物聲について御下問があつたのに對して、意吉麻呂が即興の作をもつて御答え申しあげたものと解せられる。類聚古集、西本願寺本等、詔の上に一字分の空白のあるのは、闕字《けつじ》の禮である。
 
238 大宮の 内まで聞ゆ。
 網引《あびき》すと
 網子《あご》ととのふる 海人《あま》の呼|聲《ごゑ》。
 
 大宮之《オホミヤノ》 内二手所v聞《ウチマデキコユ》
 網引爲跡《アビキスト》
網子調流《アゴトトノフル》 海人之呼聲《アマノヨビゴヱ》
 
【譯】網引きをするとて、網ひく人どもを整えている、海人の呼ぶ聲が、大宮のうちまで聞えます。
(29)【釋】大宮之 オホミヤノ。オホミヤは、皇居の義であり、この場合、全一首の内容から推して、海濱の宮殿であることが知られ、當時は大和の國に帝都のあつた時代であるから、離宮または行宮であることが推測される。
 内二手所聞 ウチマデキコユ。二手をマデと讀むことについては、「幾代左石二賀《イクヨマデニカ》」(卷一、三四)の條に記した。二手の字面も、既に「千代二手《チヨマデ》」(卷一、七九)の句に見えている。二手は左右の手で、眞手《マデ》の義から、助詞のマデをあらわすために借りたのである。句切。
 網引爲跡 アビキスト。アビキは網を引くこと。今日の地曳網《ぢびきあみ》の漁法と同じであろう。綱引きをするとて。
 網子調流 アゴトトノフル。アゴは網を引く人。トトノフルは、調整する。網引く人を適當に指揮する意。
 海人之呼聲 アマノヨビゴヱ。網子を整えるために發する海人の發聲。指導の位置に立つ者の發聲である。綱引きをするとて網子を調整する漁人の呼聲である。體言の文。大宮の内まで聞えると上に述べたことの説明。
【評語】早曉と思われる海濱の離宮の光景が、髣髴《ほうふつ》として浮んで來る。意吉麻呂作品中の傑作であろう。大伴の家持に「朝|床《どこ》に聞けばはろけし、射水《いみづ》川朝|榜《こ》ぎしつつ唱《うた》ふ船人」(卷十九、四一五〇)があるが、規模は、はるかにこの歌に及ばない。詔に應じて即座に詠んだ歌と認められる。アの頭韻が全體の空氣を明るくしている。
 
右一首
 
【釋】右一首 ミギノヒトツ。本集には、しばしば左註において、作者、作歌事情、出處、別傳等に關して記事を成していることは、既に多數の例の出たことである。ここも何かそのような記事があるべきであつて、しかもいまだその記事を作るに至らずしてやんだものと思われる。ほかに、題詞がなくして作歌事情などの相違する場合に、統計的に右何首と書くこともあるが、此處は前後も題詞があつて、他の歌との紛れはないのであ(30)るから、そういう意味での右一首ではないであろう。
 
長皇子、遊2※[獣偏+葛]路池1之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
長《なが》の皇子《みこ》の、獵路《かりぢ》の池に遊《い》でましし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。既出(卷一、六〇)。天武天皇の皇子。靈龜元年六月薨。
 遊 イデマシシ。出で遊ぶ意。この下に獵の字を脱すとする説(槻落葉)があるが、なくて意を成す所である。歌詞によれば、狩獵にお出ましになつたのである。
 ※[獣偏+葛]路池 カリヂノイケ。奈良縣磯城郡の南端、多武《たむ》の峯の山中なる鹿路《ろくろ》の地であるという。歌詞には獵路の小野とある。
 
239 やすみしし わが大王《おほきみ》
 高光る わが日の皇子の、
 馬|竝《な》めて み獵《かり》立たせる
 弱薦《わかごも》を 獵路《かりぢ》の小野に、
 鹿猪《しし》こそは い匍《は》ひ拜《をろが》め。
 鶉《うづら》こそ い匍《は》ひもとほれ。」
 猪鹿《しし》じもの い匍《は》ひ拜《をろが》み、
 鶉なす い匍ひもとほり、
 かしこみと 仕へ奉《まつ》りて、
(31) ひさかたの 天《あめ》見るごとく、
 まそ鏡 仰ぎて見れど、
 春草の いやめづらしき
 わが大王かも。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 高光《タカヒカル》 吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》
 馬竝而《ウマナメテ》 三獵立流《ミカリタタセル》
 弱薦乎《ワカゴモヲ》 獵路乃小野尓《カリヂノヲヌニ》
 十六社者《シシコソハ》 伊波比拜目《イハヒヲロガメ》
 鶉已曾《ウヅラコソ》 伊波比廻禮《イハヒモトホレ》
 四時自物《シシジモノ》 伊波比拜《イハヒヲロガミ》
 鶉成《ウヅラナス》 伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》
 恐等《カシコミト》 仕奉而《ツカヘマツリテ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》
 眞十鏡《マソカガミ》 仰而雖v見《アフギテミレド》
 春草之《ハルクサノ》 益目頬四寸《イヤメヅラシキ》
 吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》
 
【譯】いとも尊いわが大君、輝く日の皇子樣が、馬を列ねて御狩にお立ち遊ばされる、若いコモの青々とした獵路《かりじ》の小野に、猪鹿は這つてお辭儀をし、鶉は這い廻つております。その猪鹿のように這つてお辭儀をし、鶉のように這つて廻り、謹み畏まつてお仕え申し上げて、あの廣々とした大空を見るように、澄んだ鏡を見るように仰いで見ても、若草のように一層めで奉るべきわが大君樣でいらつしやいます。
【構成】二段から成つている。第一段、鶉コソイ匍ヒモトホレまで。皇子の出獵のことから起して獵路の小野の状況を敍する。以下第二段、第一段の敍述を利用して皇子の仰ぐべきことを述べる。主眼は第二段にあり、第一段は敍述と第二段の準備をする任務を持つている。同じ作者の石見の國から上つて來る時の歌(卷二、一三一)などと同じ組織である。
【釋】八隅知之吾大王 ヤスミシシワガオホキミ。既出(卷一、三)。ここでは長の皇子を指す。
 高光吾日乃皇子乃 タカヒカルワガヒノミコノ。既出(卷二、一七一)。日ノ皇子は、上のワガ大王の語に同じく、長の皇子を指す。ワガは親しみの意をもつて添えている。下のノは、主格をあらわし、馬竝メテミ獵立タセルに對している。
 馬竝而 ウマナメテ。既出(卷一、四)。
 三※[獣偏+葛]立流 ミカリタタセル。ミカリタタスは、「御獵立師斯《ミカリタタシシ》」(卷一、四九)の句で説明した。タタセルは、(32)立ツの敬語法タタスに助動詞リの接續したその連體形で、下の獵路ノ小野に懸かる。
 弱薦乎 ワカゴモヲ。枕詞であつて插入句である。若いコモを刈る義で、獵路に懸かつている。獵路の池の邊に生えているコモを材料として使つているが、この句と下の春草ノの二句は、季節のものを用いたのであり、この御狩が春のころであつた事を語るもののようである。
 ※[獣偏+葛]路乃小野尓 カリヂノヲノニ。題詞には、獵路の池とあるが、ここには狩獵の場處という處から小野と言つている。ヲは美稱。小野は、大野に對する語ではあるが、狹小の野とは限らない。
 十六社者 シシコソハ。シシは肉の義の語で、轉じて肉の食える獣をいひ、集中、鹿猪の字を當てている。十六は、算術の九九に四四十六というよりして、シシの音聲をあらわすために借りて書いている。「朝獵爾《アサカリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》」(卷六、九二六)、「所v射十六乃《イユシシノ》 意矣痛《ココロヲイタミ》」(卷九、一八〇四)ともあり、その他、「二二火四吾妹《シナムヨワギモ》」(卷十三、三二九八)、「不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》」(卷十一、二七一〇)、「八十一里喚※[奚+隹]《ククリツツ》 叉物逢登曰《マタモアフトイヘ》」(卷十三、三三三〇)など、いずれも九九を應用した書き方である。社をコソに當てているのは、社には所願するから、希望のコソから轉じて係助詞にも使用するに至つたものである。
 伊波比拜目 イハヒヲロガメ。イは接頭語、ヲロガメは、動詞ヲロガムの已然形。上のコソを受けて已然形で結んでいる。ヲロガムは、「烏呂餓瀰弖《ヲロガミテ》 菟伽倍摩都羅武《ツカヘマツラム》」(日本書紀一〇二)とあり、禮拜の意の動詞である。鹿猪の有樣を頭を下げて禮拜しているようにと言つたのであつて、皇子に對して鹿猪までも敬意を表しているの意を、下に寓している。下の猪鹿ジモノイ匐ヒ拜ミの句を引き出す役をなしている。
 鶉己曾 ウヅラコソ。上の鹿猪に對して鳥類の代表として鶉を出している。下には「朝獵爾《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》 暮獵爾《ユフカリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》」(卷三、四七八)とあつて、鹿猪と鶉雉とを對せしめている。このコソも係助詞である。
 伊波比廻禮 イハヒモトホレ。同じくイは接頭語。モトホレは徘徊する意味の動詞で、コソを受けて終止法(33)となつている。これも下の鶉ナスイ匐ヒモトホリを引き出している句である。以上第一段。
 四時自物 シシジモノ。ジモノは、既出。「鴨自物《カモジモノ》」(卷一、五〇)參照。鹿猪たる物のようにの意の枕詞。
 伊波比拜 イハヒヲロガミ。以上二句、上の鹿猪コソハイ匐ヒ拜メの句を受けている。
 鶉成 ウヅラナス。ナスは既出。「玉藻成《タマモナス》」(卷一、五〇)參照。鶉のようにの意の枕詞。
 伊波比毛等保理 イハヒモトホリ。以上二句、上の鶉コソイ匐ヒモトホレの句を受けている。
 恐等 カシコミト。謹み畏まつての意味である。カシコミは、形容詞カシコシのミ活で、山ヲ高ミなどの如く、「−ヲ−ミ」の形の、−ミの部分と同じ形である。わが大君の畏さゆえにとの如き語感がある。トは、引用文を受ける助詞。
 仕奉而 ツカヘマツリテ。人麻呂等の皇子に仕え奉りての意で、下の仰ギテ見レドに續く文脈である。
 久堅乃 ヒサカタノ。既出(卷一、八二)。枕詞。
 天見如久 アメミルゴトク。天を仰ぎて見るが如く。皇子を天に譬えた言い方である。「天之如《アメノゴト》 振放見乍《フリサケミツツ》」(卷二、一九九)。
 眞十鏡 マソカガミ。集中、字音假字で書いたものに、末蘇可我彌、麻蘇可我美があり、その他、麻蘇鏡、眞素鏡、眞祖鏡、眞十鏡、眞鏡、清鏡、白銅鏡、銅鏡、喚犬追馬鏡、犬馬鏡などの字面をマソカガミと讀んでいる。語義については、「眞墨乃鏡《マスミノカガミ》」(卷十六、三八八五)、「眞十見鏡《マソミカガミ》」(卷十三、三三一四)があつて、マソミ鏡の路であり、マソミは、眞澄みの義であると考えられる。鏡を見るというところから、見ルの枕詞になる。
 仰而雖見 アフギテミレド。天見る如く皇子を仰ぎて見れどの意。
 春草之 ハルクサノ。メヅラシに懸かる枕詞。これも季節語を使用している。
 益目頬四寸 イヤメヅラシキ。イヤは、愈の義。いよいよまさつて、メヅラシは、愛《め》づべくある意の形容詞。(34)「伊夜米豆良之岐《イヤメヅラシキ》 烏梅能波奈加母《ウメノハナカモ》」(卷五、八二八)などの用例がある。
 吾於冨吉美可聞 ワガオホキミカモ。皇子を讃嘆して一首を結んでいる。ワガは親愛の意をあらわしている。カモは感動の助詞。
【評語】この歌はまず皇子の狩におでましになつた事を敍し、次にその狩場の光景を敍し、もつて畏み畏みもお仕え申し上げてその尊容を仰ぐ旨を詠んでいる。狩場の即興の歌として、鹿猪や鶉等を材料として侍臣の奉仕している状をよく描きなしている。一二の枕詞で季節の感じを出している點は、矚目の物を利用するものとして注意すべきである。
 
反歌一首
 
240 ひさかたの 天《あま》行く月を 網《あみ》に刺し、
 わが大王《おほきみ》は 蓋《きぬがさ》にせり。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 天歸月乎《アマユクツキヲ》 網尓刺《アミニサシ》
 我大王者《ワガオホキミハ》 蓋尓爲有《キヌガサニセリ》
 
【譯】かの大空を行く月を網に刺し取つて、わが皇子樣は衣笠とされておいでになる。
【釋】天歸月乎 アマユクツキヲ。アメユクツキヲ(西)。天空を渡り行く月をの意。歸の字は往の義によつている。この歌、歌經標式に載せて、この句を「阿麻由倶都紀呼《アマユクツキヲ》」としている。アマトブ(天飛ぶ)の例によつて、アマユクと讀むべきである。天に動詞が接續する場合に、各語が獨立語としての意識が強い時には、天をアメと讀むこと、たとえば天知ラスの如きであり、反對に成語として慣用される場合には、天をアマと讀む。
 網尓刺 アミニサシ。萬葉考に、網は綱の誤りであるといつて、ツナニサシと讀んでいる。しかし古本には一つも綱としている本はない。また古寫本では普通、網は〓、綱は〓と書くので、極めて誤りやすい文字では(35)ない。攷證の説により、歌經標式を參考として本のままにあるべきである。網をかけることを網さすというのは、「ほととぎす夜聲なつかし網刺《あみさ》さば花は過ぐとも離《か》れずか鳴かむ」(卷十七、三九一七)、「二上《ふたがみ》の彼面此面《をてもこのも》に網さして吾が待つ鷹を夢《いめ》に告げつも」(同、四〇一三)等見えている。ここは大空を渡る月を網で刺し取る意で、月に網をかけたというのである。
 我大王者 ワガオホキミハ。長歌の末句を受けている。長の皇子をさしていること勿論である。
 蓋尓爲有 キヌガサニセリ。歌經標式によつてキヌガサニセリと讀む。キヌガサは衣笠の義。倭名類聚鈔に、寶蓋を岐沼加散《キヌカサ》と訓し、また「兼名苑(ノ)注(ニ)云(フ)、蓋、岐沼加散《キヌカサ》。黄帝征(チシ)2※[山/ノ/虫]尤(ヲ)1時、當(リテ)2帝(ノ)頭上(ニ)1有(リ)2五色(ノ)雲1、因(リテ)2其(ノ)形(ニ)1所v造(レル)也」とある。織物にて製し、柄を附けて、貴人の後よりさし掛ける傘である。皇子の行くままに動く月を衣笠に見立(36)てている。セリはしている意。皇子の御行動について敍述した句。
【評語】獵に日が暮れて、君の行かれる處、何處にても月の伴なう状を敍して壯大である。月に網を掛けて衣笠にしたというのは、衣笠の織物であること、網などが用いられていることに深い聯想がある。ヒサカタノという枕詞も、大空を渡る月の廣大な姿をよくあらわしている。壯大の氣を有する歌というべきである。
【參考】別傳、歌經標式。
   如d柿本若子賦2長親王1哥u曰
  比佐可他能《ヒサカタノ》一句 阿麻由倶都紀呼《アマユクツキヲ》二句 阿美爾佐旨《アミニサシ》三句 和我於保岐美婆《ワガオホキミハ》四句 岐努何佐爾是利《キヌガサニセリ》五句
 
或本反歌一首
 
【釋】或本反歌一首 アルマキノヘニカヒトツ。或る本には、前の長歌の反歌として、次の歌がつけられているというのである。この或る本が何であるか、またその性質等は、不明である。また前のヒサカタノ云々の歌の代わりにこれがあるのか、ヒサカタノの歌と竝んでこれが反歌とされているのかも不明である。
 
241 皇《おほきみ》は 神にしませば、
 眞木の立つ 荒山中に
 海なすかも。
 
 皇者《オホキミハ》 神尓之坐者《カミニシマセバ》
 眞木之立《マキノタツ》 荒山中尓《アラヤマナカニ》
 海成可聞《ウミヲナスカモ》
 
【譯】皇子樣は神樣でおいでになるのでか、見事な木の立つ荒い山中に海をお作りになることですなあ。
【釋】皇者神尓之坐者 オホキミハカミニシマセバ。既出(卷二、二〇五)。
 眞木乃立 マキノタツ。既出(卷一、四五)。ここには助詞ノを入れて、五音の句に調整している。
(37) 荒山中尓 アヲヤマナカニ。人氣《ひとけ》のまばらな山中に。
 海成可聞 ウミヲナスカモ。ウミナセルカモ(攷)。海は獵路の池をいう。ナスは作り成すの意。
【評語】皇子の威光によつて、かような山中にも海を見ると歌つている。そこに皇子の異常な威光に對する讃嘆がある。しかしその海の存在が、皇子の威光によるとなすことには、不自然な感じがあり、衣笠ニセリの歌の壯大に及ばないのである。あるいは、反歌としてまずこの歌を得、これに不滿足を感じて、後に衣笠ニセリの歌を得たのででもあろうか。
 
弓削皇子、遊2吉野1時御歌一首
 
【釋】弓削皇子 ユゲノミコ。既出(卷二、一一一)。文武天皇の三年七月に薨じたから、その前の歌であることあきらかである。
 吉野 ヨシノ。歌意によるに、ここにいう所が吉野の離宮附近の地であることが知られる。
 
242 瀧《たぎ》の上の 三船の山に 居る雲の、
 常にあらむと わが念はなくに。
 
 瀧上之《タギノウヘノ》 三船乃山尓《ミフネノヤマニ》 居雲乃《ヰルクモノ》
 常將v有等《ツネニアラムト》 和我不v念久尓《ワガモハナクニ》
 
【譯】激流の上に臨んでいる三船の山に懸かつている雲のように、何時までも生きていようとはわたしは思わないことだ。
【釋】瀧上之 タギノウヘノ。タギは既出(卷一、三六)。激流の義。吉野の離宮のある地の激流をいう。タギノウヘノは、その激流に臨んでいる意である。
 三船乃山尓 ミフネノヤマニ。ミは接頭語。船形をしている山。「瀧《たぎ》の上の御舟《みふね》の山に、水枝《みづえ》さし繁《しじ》に生ひ(38)たる、栂《とが》の樹のいやつぎつぎに」(卷六、九〇七)など詠まれ、吉野の離宮の地から、目立つて仰がれる山であることが知られる。
 居雲乃 ヰルクモノ。山に懸かつている雲をいう。ヰルは停止している意。以上三句は眼前の光景を敍して、次句を引き起す序としている。の如くの語が省かれている形である。
 常將有等 ツネニアラムト。ツネは恒久不變の意。山にいる雲は、變化極りないもので恒久性のものでない。雲と同樣に常久であろうとは思わないと、次句に續く。
 和我不念久尓 ワガオモハナクニ。オモハナクは、思わないことの意。ニは輕く添えた感動の助詞。この句は、下の二四四の歌を初め、多數使用されており、熟語句のようになつて慣用されている。
【評語】山に立つ雲を望み見れば、たちまちにして變化して止まるところを知らない。その雲の變幻極まりないのを見て、人生をこれになぞらえている。眼前の風光を見て思いを寄せたところに生命がある。佛教の無常觀は、當時知識として行き渡つており、そこでこの山中の光景に對して轉變を感じられたものであろう。この皇子が、無常を感じておられたことは、置始《おきそめ》の東人《あずまひと》の歌(卷二、二〇六)にも見えている。短命であつたようだから、病身でおいでになつたのかもしれない。
 
春日王、奉v和歌一首
 
【釋】春日王 カスガノオホキミ。この前後、春日の王と呼ばれる方が數人ある。一は、日本書紀に、持統天皇の三年四月に薨じた方があるが、時代が上り過ぎているので、關係はない。二は、績日本紀に文武天皇三年六月に淨大肆をもつて薨じた方があるが、これは時代が合う。三は、續日本紀、天平十七年四月に、散位正四位の下をもつて卒した方があり、卷の四、天平頃の歌の序列の中にある「春日王歌一首」に自註として「志貴(ノ)(39)皇子之子、母(ヲ)曰(ヘリ)2多紀(ノ)皇女(ト)1也」(六六九)とあるは、多分この方であろうと考えられる。さすれば、ここの春日の王と卷の四のとは別の方ということになり、ここの春日の王の系統は、不明になる。
 
243 王《おほきみ》は 千歳《ちとせ》にまさむ。
 白雲も
 三船の山に 絶ゆる日あらめや。
 
 王者《オホキミハ》 千歳爾麻佐武《チトセニマサム》
 白雲毛《シラクモモ》
 三船乃山尓《ミフネノヤマニ》 絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》
 
【譯】皇子樣は永久においでになるでございましよう。白雲も三船の山に絶える日はありますまい。
【釋】王者 オホキミハ。弓削の皇子を指している。
 千歳二麻佐武 チトセニマサム。マサムは坐さむに同じ。坐スは、在りの敬意を含んでいる動詞。前の歌の常にあらむとは思はずとあるのを受けて慰めている。句切。
 白雲毛 シラクモモ。以下、前の歌の語を受けている。モは、初句の王ハに對して、これもの意に使用されている。
 絶日愛良米也 タユルヒアラメヤ。ヤは反語の助詞。白雲も恒久に、三舟の山に絶える日はあるまいの意。
【評語】前の歌に對して、君はさように山の雲の無常をお感じになられるが、しかしあなたは千歳に坐しますであろう。かの山の雲も絶える日はないであろうと言つている。王ハと決定的に言い、白雲モとこれを證明するかのように歌つている。よく纏まつている歌である。しかし一首の姿としては、前の歌の一氣に歌いなしたのに及ばないであろう。
 
或本歌一首
 
(40)【釋】或本歌 アルマキノウタ。左註によつて、この或る本は、柿本の朝臣人麻呂歌集であることが知られる。一往、或る形の成立の後、或る人が、人麻呂集をもつてこの記事を作つたと考えられる。いうまでもなく、二四二の弓削の皇子の歌に對して、詞句の類似があるによつて參考として掲げたのである。
 
244 み吉野《よしの》の 三船の山に 立つ雲の、
 常にあらむと わが思はなくに。
 
 三吉野之《ミヨシノノ》 御船乃山尓《ミフネノヤマニ》 立雲之《タツクモノ》
 常將v在跡《ツネニアラムト》 我思莫苦二《ワガオモハナクニ》
 
【譯】御船乃山尓 ミフネノヤマニ。美稱の接頭語ミを、ここには御の字で表示している。
 立雲之 タツクモノ。雲についてタツというは、起る意で、涌き登る氣味を語る。「八雲《やくも》たつ出雲八重垣《イヅモヤヘガキ》」(古事記一)など。以上三句、眼前の光景を敍して四句以下の序としたことは、本文の歌に同じ。
 常將在跡我思莫苦二 ツネニアラムトワガオモハナクニ。本文の四五句に同じく、ただ文字を異にしているばかりである。
【評語】本文の歌とほとんど同じで、かような歌が傳誦されていたことを語つている。居る雲の方が、無常觀に對しては密接な關係に立つが、立つ雲の方は、雲の動態を寫して、眼前の光景が躍如としている。歌としては、立つ雲の方がすぐれている。
 
右一首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
右の一首は、柿本の朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
【釋】柿本朝臣人麻呂之歌集 カキノモトノアソミヒトマロノウタノシフ。既出(卷二、一四六)。右の歌が、人麻呂の作であるかどうかはわからないが、人麻呂集にも、作者に關する記事はなかつたのだろう。
 
(41)長田王、被v遣2筑紫1、渡2水島1之時歌二首
 
長田の王の、筑紫に遣はされて、水島に渡りし時の歌二首。
 
【釋】長田王 ナガタノオホキミ。既出(卷一、八一題詞)。
 被遣筑紫 ツクシニツカハサレテ。筑紫は、九州北方をいう。筑紫に遣はされるとは、太宰府に赴く場合が多いと考えられるが、あながちそれとも決しがたい。ここは大宰府の役人が接待している趣であつて、多分大宰府に遣はされたのであろう。被遣は、被役の動詞は、古くはヤ行に活用するようであるが、この語については「唐能《モロコシノ》 遠境爾《トホキサカヒニ》 都加播佐禮《ツカハサレ》 麻加利伊麻勢《マカリイマセ》」(卷五、八九四)の如き假字書きの例があるので、ツカハサレテと讀む。
 渡水島之時 ミヅシマニワタリシトキ。水島は、日本書紀、景行天皇紀、十八年四月の條に「海路より葦北《あしきた》の小島に泊《は》てて進食《みをし》す。時に山部の阿弭古《あびこ》が祖《おや》小左《をひだり》を召して冷水《さむきみもひ》を進《たてまつ》らしむ。たまたまこの時島中に水無し。所爲《せむすべ》を知らず。すなはち仰ぎて天神地祇に祈るに、たちまち、寒泉《しみづ》崖《がけ》の傍より涌き出づ。すなはち酌みて獻りき。故《かれ》、その島に號《なづ》けて水島といふ。その泉、なほ今に水島の崖にあり」(もと漢文)。これは諸國にある清泉説話の一種で、清泉の由來を、貴人・高僧・英雄・佳人等に附託するものであるが、かような清泉の涌出する島が、古くから知られていたのである。その水島は、今|八代《やつしろ》郡に屬する周圍五六間の小島がそれであるという。そこはもと葦北郡に屬していたのであろう。但し水島に渡るということ、さような小島を目標とすることに疑問がある。また日本書紀の文によるに、葦北の小島に泊《は》つとあり、その小島が水島であるようである。さすればもつと大きい他の島に求むべきであるかも知れない。
 
(42)245 聞くがごと まこと貴《たふと》く、
 奇《くす》しくも 神《かむ》さび居《を》るか。
 これの水島。
 
 如v聞《キクガゴト》 眞貴久《マコトタフトク》
 奇母《クスシクモ》 神左備居賀《カムサビヲルカ》
 許禮能水島《コレノミヅシマ》
 
【譯】聞いた通り、ほんとうに貴く不思議にも神々しいことだ。この水島は。
【釋】如聞 キクガゴト。キキシゴト(類)、キクガゴト(代精)。聞くことは過去のことであるから、キキシゴトと過去に讀むべしとする説がある。しかし聞いて現に承知していることであり、過去を表示する語に相當する文字もないのであるから、不定時に讀んでよい。「墓上之《ツカノウヘノ》 木枝靡有《コノエナビケリ》 如v聞《キクガゴト》 陳奴壯士爾之《チヌヲトコニシ》 依家良信母《ヨリニケラシモ》」(卷九、一八一一)。ゴトは、そのようにある意を表わす體言が原形で、形容詞類似の形を採つて活用もする。これを形容詞の語幹として説明するのは、本末を失した言い方である。
 眞貴久 マコトタフトク。マコトは眞寶の意を有する副詞。「たらちねの母を別れてまことわれ旅の借廬《かりほ》に安く寐むかも」(卷二十、四三四八)。
 奇母 クスシクモ。アヤシクモ(類)、クスシクモ(略)。クスシは、靈妙不思講の意の形容詞。延喜式|大殿祭《おおとのほがい》の祝詞、寄護言の自註に「古語(ニ)云(フ)2久須志伊波比許登《クスシイハヒコトト》1」とある。
 神左備居賀 カムサビヲルカ。カムサビは既出(卷一、三八)。神としての性能を發揮するをいう。ここでは水島が神聖神秘にあるをいう。カは感動の助詞。居ることかなの意。
 許禮能水島 コレノミヅシマ。コレノは、コノに同じく、更に感嘆の調子の多いことを覺えるのは、これと指摘する意が強いからであろう。「草枕旅の丸寐《まるね》の紐《ひも》絶《た》えば吾《あ》が手と附《つ》けろこれの針《はる》持《も》し」(卷二十、四四二〇)。
【評語】水島を擧げて讃嘆する意が強く出ている。貴ク奇シクと形容詞を二つ重ねて、神さび居る状態を説明(43)しているのも有力に聞える。自然の神秘に感動した心がよく描かれている。
 
246 葦北《あしきた》の 野坂の浦ゆ 船出《ふなで》して、
 水島に行かむ。
 波立つなゆめ。
 
 葦北乃《アシキタノ》 野坂乃浦從《ノサカノウラユ》 船出爲而《フナデシテ》
 水島尓將v去《ミヅシマニユカム》
 波立莫動《ナミタツナユメ》
 
【譯】葦北の野坂の浦から船出して、水島に行こうとするのである。どうか波よ立つな。
【釋】葦北乃野坂乃浦從 アシキタノノサカノウラユ。葦北の野坂の浦は、今、熊本縣葦北郡の田浦《たのうら》であるという。葦北は大地名、葦北なる野坂の浦の意である。ユは既出(卷一、二九)。ここは野坂の浦の中を通つての意である。
 水島尓將去 ミヅシマニユカム。水島に向つて航海しようの意。句切。
 浪立莫勤 ナミタツナユメ。下のナは禁止の助詞。ユメは勤めよ、努力せよの意に、勤の字を書いている。既出(卷一、七三)。
【評語】前の歌は、水島を見て感嘆したのであるが、この歌は、いよいよ船出して水島に行こうとした時の歌で、順序からいえばこの方が先であろう。但しこれには石川某の和した歌があるので、この順序に配列したのであろうか。内容は格別の事はない。ただ感じのよい地名を使つて、その情趣を出している。何という事なしに、その時の氣分は窺われる。
 
石川大夫、和歌一首 名闕
 
石川の大夫の、和《こた》ふる歌一首 名闕けたり。
 
(44)【釋】石川大夫 イシカハノマヘツギミ。下に名闕とあり、誰であるかを詳にしない。左註には、宮麻呂か吉美侯かと言つている。大夫は、本集の例、四位・五位の人に敬意を表していう。多分大宰府の役人であろう。
 
247 奧《おき》つ浪 邊《へ》浪立つとも、
 わが夫子《せこ》が 御船《みふね》の泊《とまり》、
 浪立ためやも。
 
 奧浪《オキツナミ》 邊波雖v立《ヘナミタツトモ》
 和我世故我《ワガセコガ》 三船乃登麻里《ミフネノトマリ》
 瀾立目八方《ナミタタメヤモ》
 
【譯】沖の浪や岸邊の浪が立つても、あなたのお船の停る處には、浪は立たないでしよう。
【釋】奧浪 オキツナミ。オキは、岸邊より遠い處。ツは體言を連結する助詞で、ノに近いが、その方向を指示する意が濃厚である。「奧津白浪《オキツシラナミ》」(卷一、八三)。
 邊波雖立 ヘナミタツトモ。奧ツ波に對しては邊ツ波と言いたい處であるが、音數の關係でヘナミという。岸邊の波である。「一(ハ)云(フ)、奧津浪《オキツナミ》 邊浪布敷《ヘナミシクシク》 縁來登母《ヨリクトモ》」(卷七、一二〇六)などその例である。タツトモは、假設條件法。
 和我世故我 ワガセコガ。ワガセコは、長田の王に對していう。男子間に言つている。
 三船乃登麻里 ミフネノトマリ。ミは美稱の接頭語。トマリは停泊する處。留まる處の義である。
 瀾立目八方 ナミタタメヤモ。ヤは反語の助詞。波の立つことがあろうかの意。
【評語】航海しようとする人に對する平凡な贈歌である。波の語を三度出しているのは、出船に際して波に關心をもつて歌われたことを語るものであろう。
 
右今案、從四位下石川宮麻呂朝臣、慶雲年中任2大貳1。又正五位(45)下石川朝臣吉美侯、神龜年中任2小貳1。不v知3兩人誰作2此歌1焉。
 
右は今案ふるに、從四位の下石川の宮麻呂の朝臣、慶雲年中に大貳に任《ま》けらる。また正五位の下石川の朝臣吉美侯、神龜年中に少貳に任けらる。兩人誰かこの歌を作れるを知らず。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。以下、題詞に石川の大夫とある人の何人であるかを考證している。
 石川宮麻呂朝臣 イシカハノミヤマロノアソミ。名の下に朝臣の姓を書いたのは、四位の人に對する敬意の表示である。下の石川の朝臣吉美侯の姓氏名の書き方と對比される。續日本紀によるに、宮麻呂は、慶雲二年十一月、大貳に任ぜられ、和銅元年三月、右大辨に轉じ、和銅六年十二月、從三位をもつて薨じている。
 大貳 オホキスケ。大宰府の第二等の官名。次官。平安時代には音讀していた。
 石川朝臣吉美侯 イシカハノアソミキミコ。本集竝に續日本紀に、石川の朝臣君子とある人。少貳に任ぜられたことは、他に見えない。
 小貳 スナキスケ。大宰府の第三等官。小少は古く通用している。
 不知兩人誰作此歌焉 フタリノヒトタレカコノウタヲツクレルヲシラズ。宮麻呂か吉美侯か、兩人の中、いずれがこの歌の作者であるかを知らないというのである。但しこの卷における長田の王の歌の配列の位置、また卷の一に和銅三年の長田の王の歌を載せていることから推して、和銅元年まで大宰の大貳であつたという宮麻呂の方がその人らしいと思われる。
 
又長田王作歌一首
 
【釋】又長田王作歌 マタナガタノオホキミノツクレルウタ。前に水島に渡つた時の歌があつて、それに對し(46)てここに又といつている。これも同じ旅行の作と見られる。
 
248 隼人《はやひと》の 薩摩の迫門《せと》を
 雲居《くもゐ》なす 遠くもわれは
 今日見つるかも。
 
 隼人乃《ハヤヒトノ》 薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》
 雲居奈須《クモヰナス》 遠毛吾者《トホクモワレハ》
 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
【譯】遠い薩摩の海峽を、今日こそは天の一方はるかな處に眺めやつた事である。
【釋】隼人乃 ハヤヒトノ。九州南方、隼人の住んでいる地方を、ハヤヒトと稱したことは、續日本紀大寶二年の條に、唱更國司の語が見え、これをハヤヒトの國司と讀んでいることによつて證せられる。唱更と書いたのは、夜を守る人の義によるのだろう。本集には「隼人乃《ハヤヒトノ》 湍門乃磐母《セトノイハホモ》(卷六、九六〇)とあり、隼人が地名であることが確かめられる。隼人は、勇猛な人の意味で、昔九州の南方、薩摩大隅の方面に繁殖していた人々をいう。その人々の住んでいる土地という意味で、地名に使われている。蕃人の住むという感じに近いものがあつて、遠い世界の氣持をあらわしている。
 薩麻乃迫門乎 サツマノセトヲ。サツマは地名。セトは、水の塞《せ》かれるところの義で、海峽をいう。この迫門は、鹿兒島縣|出水《いずみ》郡、九州の本土と長島とのあいだの海峽で、今、黒瀬戸《くろせと》という。前項に擧げた隼人の迫門の巖の例歌は、大伴の旅人の作であるが、同じくこの迫門を詠んでいる。
 雲居奈須 クモヰナス。雲居は動かない雲で、遠方の意。ナスは、何々の如くにあるという語。
 遠毛吾者 トホクモワレは。作者は、この迫門を遠望したのである。
 今日見鶴鴨 ケフミツルカモ。今日しも見たの意で、今日は相當に意味を持つている。
【評語】いまだ文化に浴する事の淺い地方を、此處に來つて遠望した。わが國の王土のはてを遠望したという(47)感じを出している歌である。自分も隨分遠くまで來たものだ。あすここそは、隼人の住むという薩摩の迫門だな、という心のあらわれている歌である。
 
柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首
 
柿本の朝臣人麻呂の羈旅の歌八首。
 
【釋】羈旅歌 タビノウタ。羈旅は、漢文に使用する熟字で、旅行に同じ。古本では※[羈の馬が奇]羈通用している。卷の七には羈旅作、羈旅歌があり、卷の十二に羈旅發思歌があり、それらの中には小項目として擧げられているものもある。ここには柿本の人麻呂の作歌八首を載せている。この八首に詠まれている地名を擧げると、三津の埼、敏馬《みぬめ》、野島が埼、藤江の浦、稻日野《いなひの》、可古の島、明石の門、飼飯《けひ》の海であつて、飼飯の海には問題があるが、他は全部大阪灣から瀬戸内海での地名であり、飼飯の海も、多分淡路島の津名の郡の地名であろうから、これも同樣に考えられる。人麻呂には、別に海路を北九州に下る歌があり、また讃岐の國から船出をして狹岑《さみね》の島に船がかりをする歌がある。この羈旅の歌八首が、そのいずれかの海路の往復の作であるか否かは不明であるが、一度の往復の作としてもさしつかえはなく、また播磨の國以西の地名がなく、かつ淡路島の飼飯の海をも系統の中に入れるとすれば、むしろ四國への海路往還の旅の作と見るべきである。人麻呂の生涯を、在京時代と地方時代とに分けられるならば、配列の順序からいえば、地方時代の初期に屬するとも見られる。但し卷の二における讃岐の國の狹岑の島での作は、石見の國で死のうとした時の歌の直前にあるから、配列の順序を資料としては、この作歌の時期は、まだ明瞭にするを得ないことに屬する。
 
249 三津《みつ》の埼 浪をかしこみ、
(48) 隱江《こもりえ》の 舟人《ふなびと》公《きみ》が
 宣《の》りぬ、島べに。
 
 三津埼《ミツノサキ》 波矣恐《ナミヲカシコミ》
 隱江乃《コモリエノ》 舟公《フナビトキミガ》
 宣奴島尓《ノリヌシマベニ》
 
【譯】三津の埼の浪がおそろしくして、かくれた江の船人である君は、無事を祈つた。島のあたりで。
【釋】三津埼 ミツノサキ。ミツは難波の御津。既出(卷一、六三)。その地の岬角《こうかく》。大阪灣に流入する淀川の河口で、奔流する水の急なことによつて知られており、そこで次の句が生まれる。
 浪矣恐 ミヲカシコミ。何ヲ何ミの形。浪がおそろしいので。
 隱江乃 コモリエノ。コモリエは、入り込んだ入江の義。
 舟公宣奴島尓 フナビトキミガノリヌシマベニ。この歌の四五句に相當する部分と考えられるが、まだ定訓を得ない。この歌は、仙覺新點の歌であるが、仙覺は、これをフネコクキミカユクカノシマニと訓じた。その後諸説が出たが、今、校本萬葉集によつてこれを述べれば、代匠記初稿本に、舟公をフナキミと訓じ、公の下脱字あるかとし、また、奴島をヌジマとも訓じた。童蒙抄に、公は泊の誤り、宣は宿の誤り、訓フネコキトメテヤトレとした。考に、舟令寄敏馬埼爾の誤りとし、訓フネハヨセナムミヌメノサキニとした。玉の小琴に、舟八毛何時寄奴島爾の誤りとし、訓フネハモイツカヨセムヌジマニとした。槻落葉に、宣は不通の誤り、島の下埼の字脱とし、訓フネハモユカズヌシマノサキニとした。攷證に、もとのままで訓フネコグキミガノルカヌシマニとした。檜嬬手《ひのつまで》に、舟八也何時泊奴島爾の誤りとし、訓フネハヤイツカハテムヌシマニとした。古義に、舟寄金津奴島埼爾の誤りとし、訓フネヨセカネツヌシマノサキニとした。略解補正に、訓フネコクキミハカヨフとした。以上の中、多くの誤字説のある中に、攷證や略解補正が誤字説を採らなかつた見識は多とするに足りる。さりとて原文のままで明解を得る見こみもない。舟公は、諸説多くフネコグキミと讀み、これに助詞ハ(49)またはガを添えているが、さような讀み方は不可能ではない。宣は海事に關しては、「海神《ワタツミノ》 持在白玉《モテルシラタマ》 見欲《ミマクホリ》 千遍告《チタビゾノリシ》 潜爲海子《カヅキスルアマ》」(卷七、一三〇二)、「底清《ソコキヨミ》 沈有玉乎《シヅケルタマヲ》 欲v見《ミマクホリ》 千遍曾告之《チタビゾノリシ》 潜爲白水郎《カヅキスルアマ》」(同、一三一八)の如き歌があり、それらの告とこの歌の宣とを同語と見る場合に、ノルの訓が浮かびあがる。奴はヌの音の字だから、宣奴をもつてノリヌと讀むことはできる。奴島をノシマ、またはヌシマと讀む説は、淡路の野島に思い寄せての訓と見られるが、野島の野の音韻は、奴の字で表示される音韻とは違うので、この點に不安定があり、また三津の埼と野島との關係も、地理上離れ過ぎている。古葉略類聚鈔に、奴の上に美の字があるが、美奴島爾では意をなさず、島を馬の誤りとすればミヌメニであるが、それも地理的に離れている。今、舟公を、訓を補つてフナビトキミガと讀む。さて宣奴島尓は何とも讀みがたいが、宣奴をノリヌとし島にべを讀み添えて、島尓をシマベニとする。以上、本文および訓の檢討を試みたまでであつて、要するに未詳の句とするほかはない。
【評語】前述の如く、四五句が難解であつて、從つて評語を下すべき餘地がない。
 
250 玉藻苅る 敏馬《みぬめ》を過ぎて、
 夏草の 野島《のじま》が埼に
 船近づきぬ。
 
 玉藻苅《タマモカル》 敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》
 夏草之《ナツクサノ》 野島之埼尓《ノジマガサキニ》
 船近著奴《フネチカヅキヌ》
 
【譯】珠藻を刈る敏馬の埼を通つて、我等の舟は夏草の青々としている、淡路の野島が埼に近づいた。
【釋】珠藻苅 タマモカル。タマモは美しい藻。海邊の習いとして、玉藻を刈りなどするより、敏馬に冠したのである。寶際その時に、海人が作業をしていても、いないでも、海邊の感じをあらわすためにいうまでである。この句で、敏馬の地の、むしろ女性的な、明媚ともいうべき風光が描かれている。
(50) 敏馬乎過 ミヌメヲスギテ。敏馬は地名。大阪灣に臨んだところで、今の神戸市の東方である。その突角を過ぎてとは、舟で通過するのである。
 夏草之 ナツクサノ。實景と見るべきである。この一句は、一首全體をあかるく印象を鮮明にする效果を有している。「那都久佐能《ナツクサノ》 阿比泥能波麻能《アヒネノハマノ》 加岐加比爾《カキカヒニ》 阿斯布麻須那《アシフマスナ》 阿加斯弖杼冨禮《アカシテトホレ》」(古事記八八)の歌において、夏草の萎《ナ》ユということから、寐《ネ》に懸かるというので、人麻呂の歌におけるこの句を、同じく野島の野《ノ》の一音に懸かる枕詞と見る説がある。人麻呂がかような古歌に通じており、そのような典故のある古詞が念頭に浮かぶことはあり得ることであるが、その用法に至つては、新しい意義をもつて活用したとすべきである。
 野島之埼尓 ノジマガサキニ。野島は、淡路島の北端の地名。その地の岬角にである。左註の一本に野島我埼爾とあり、ノジマガサキニと讀んでいたことが知られる。
 舟近著奴 フネチカヅキヌ。舟は、作者人麻呂の乘船。大阪灣を航行して、淡路島の一角に作者の舟の近づいたことを敍している。
【評語】作者の乘つている舟が、敏馬の埼を通り過ぎて、野島が埼に近づいたという、ただそれだけである。それを、玉藻刈ルという美しい句をもつて、敏馬を修飾し、夏草ノという印象的な句をもつて、野島が埼を修蝕し、よつて一首の光彩としている。一首の主題は、舟近ヅキヌにあるが、生き生きした力を與えるのは、夏草の一句にあろう。
 
一本云、處女乎過而《ヲトメヲスギテ》 夏草乃《ナツクサノ》 野島我埼尓《ノジマガサキニ》 伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》
 
一本に云ふ、處女《をとめ》を過ぎて 夏草の 野島が埼に いほりす、われは。
 
【釋】一本云 アルマキニイフ。天平八年の遣新羅使の一行は、興に乘じて船中で古歌を吟誦したが、その中(51)には、この人麻呂の※[羈の馬が奇]旅の歌八首のうち四首まではいつている。同一の航路の歌なので、特に興を感じたのであろう。それらは、卷の十五に記載されているが、その卷の十五の所傳によつて、本文の詞句と相違する所を、ここに註記したのである。また卷の十五の方にも、この卷の三の所載によつて詞句の相違を註記している。他卷の記事を一本として取り扱つたものである。以下、その卷の十五の記事は、參考の欄に載せる。
 處女乎過而 ヲトメヲスギテ。ヲトメは、本文には敏馬とある。敏馬は、敏馬の浦ともいい、海に面した地名であつて、その方が歌として適切である。それを處女に代えたのは、故意であるか、記憶の不正確からであるか不明である。處女は、菟名負《うなひ》處女の塚のあることから起つた地名であろう。その塚のある地を海上から望見して、かつての旅行を想起して、この名に代えたとも考えられる。
 伊保里爲吾等者 イホリスワレハ。この句によれば、作者は、今野島が埼に廬してこの歌を成したことになる。玉藻刈る處女を過ぎたことが、四五句の敍述から全く離れてしまつた觀がある。原作の、動態を描いて、一首が渾然として纏まつているのに遠く及ばないところである。
【參考】別傳。
   當v所誦詠古歌
  多麻藻可流《タマモカル》 乎等女乎須凝弖《ヲトメヲスギテ》 奈都久佐能《ナツクサノ》 野島我左吉爾《ノジマガサキニ》 伊保里須和禮波《イホリスワレハ》
   柿本朝臣人麻呂歌曰、敏爲乎須凝弖《ミヌメヲスギテ》。又曰、布禰知可豆伎奴《フネチカヅキヌ》(卷十五、三六〇六)
 
251 淡路《あはぢ》の 野《の》島が埼の 濱風に、
 妹が結びし 紐吹きかへる。
 
 粟路之《アハヂノ》 野島之前乃《ノジマガサキノ》 濱風尓《ハマカゼニ》
 妹之結《イモガムスビシ》 紐吹《ヒモフキ》返《カヘル・カヘス》
 
【譯】淡路の野島が埼の濱風に、家で妹が結んだ衣の紐が吹きひるがえつている。
(52)【釋】粟路之 アハヂノ。アハヂは淡路に同じ。この地名は、日本書紀に、伊弉諾《いざなぎ》の尊、伊弉冉《いざなみ》の尊が、大八島を生み成される時に、この島をもつて胞《え》となしたこと、御心に悦びざる所なれは、吾耻《あはぢ》と稱したという地名起原説話を載せているが、それはただ興味本位の説に過ぎないであろう。ここに粟路と記しているのは、恐らくはその本義であろうか。古事記に粟の國を大宜都比賣《おほげつひめ》というとあり、阿波の國の名は、粟の國の義であると考えられる。その粟への通路であるから、粟路の名が出たのであろう。四音の一句。
 濱風尓 ハマカゼニ。ハマカゼは、濱邊の風。この歌の作られた時間は夕方であると思われるから、海上から吹く風である。
 妹之結 イモガムスビシ。イモは妻をいう。その妻の結びし紐と、次の句を修飾する。「神佐夫等《カムサブト》 不許者不v有《イナニハアラズ》 秋草乃《アキクサノ》 結之紐乎《ムスビシヒモヲ》 解者悲哭《トクハカナシモ》」(卷八、一六一二)、「菅根《スガノネノ》 惻隱君《ネモコロキミガ》 結爲《ムスビテシ》 我紐緒《ワガヒモノヲヲ》 解人不v有《トクヒトハアラジ》」(卷十一、二四七三)、「二爲而《フタリシテ》 結之紐乎《ムスビシヒモヲ》 一爲而《ヒトリシテ》 吾者解不v見《ワレハトキミジ》 直相及者《タダニアフマデハ》」(卷十二、二九一九)等、ムスビシヒモといい、「兒良我牟須敝流《コラガムスベル》 比毛等久奈由米《ヒモトクナユメ》」(卷二十、四三二四)には、ムスぺルヒモと言つている。ここは過去の追憶を主としていうのである。ムスブということについて、古人は信仰的な思想を持つていた。それは靈魂を結びこめることであり、ここに結んだ人と結ばれた物との再會が約束される。草を結ぶことについては、「岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》」(卷一、一〇)の歌において記し、松が枝を結ぶことについては、「磐白乃《イハシロノ》 濱松之枝乎《ハママヅガエヲ》 引結《ヒキムスビ》」(卷二、一四一)の歌において記した。男女の會合においては、妻が夫の衣の紐を結ぶ。そこに再會を約する誓が立てられる。これは旅人が松が枝を結び、草の葉を結ぶのと、同じ信仰から出ている。
 ※[糸+刃]吹返 ヒモフキカヘル。※[糸+刃]は、集中ヒモの場合に、諸寫本多くこの字を使つている。尼寅の反ヂンで、紐とは別字である。類聚名義抄にも、※[糸+刃]にヒモの訓がある。以下釋には紐の字を使うこととする。ヒモは衣の紐である。往時、衣服の左石の褄を合わせるために紐をもつてしたのである。歌に詠まれるのは、下衣の紐も多(53)いが、ここは濱風に吹き返されるので上衣の紐である。この紐を主語と見る時は、吹返をフキカヘルと讀むべく、客語と見ればフキカヘスと讀むが、この場合、主語として、ワレはの如き句の省略されたものと見るのである。濱風に吾は衣の紐を吹きかえすとするのである。「采女《うねめ》の袖吹き反《かへ》す明日香風都を遠みいたづらに吹く」(卷一、五一)の歌では、反の字をカヘスと讀んでいる。ここは濱風ニを受けていくるのであるからカヘルの方が順當であろう。
【評語】しずかな大阪灣を航して、海上の第一日は、夕方に至つて淡路島に近づいた。一行は舟を停めて、一夜の假泊をする。とうとうなつかしい家を離れて、遙かな行程に上つた感が深く、おりしも吹き寄せる濱邊の風に旅衣の紐が吹き返るのも、旅情を催す種である。その紐こそは、家を出る時に、再會を約して妻の結んだ紐である。海路第一日の夕方の旅情が、ゆたかな詞藻によつて歌われている。この歌、家なる妹を忘れない。しかも表面に出して、家なる妹し忘れかねつもというふうにいわないで、ただその人の結んだ紐の風にひるがえることを云つている。情趣の盡きない所以である。藤原の定家の
  旅人の袖吹きかへす秋風に夕日さびしき山のかけはし(新古今集)
は有名な歌であるが、枯渇した寂しさであり、この歌のゆたかな旅情には遠く及ばない。
【參考】紐を結ぶ。
  我が紐を妹が手もちて結八《ゆふや》川またかへり見む。萬代までに(卷七、一一一四)
  妹が紐|結八川内《ゆふやかふち》を古の人さへ見きとここを誰知る(同、一一一五)
  神さぶと否《いな》にはあらず。秋草の結びし紐を解くは悲しも(卷八、一六一二)
  吾妹子が結《ゆ》ひてし紐を解かめやも。絶えば絶ゆとも直《ただ》にあふまでに(卷九、一七八九)
  妹が紐解くと結びて立田山今こそ黄葉《もみち》始めてありけれ(卷十、二二一一)
(54)  愛《うつく》しと思へりけらし。な忘れと結びし紐の解くらく念へば(卷十一、二五五八)
  結《ゆ》ひし紐解かむ日遠み敷栲《しきたへ》のわが木枕《こまくら》は蘿《こけ》生《む》しにけり(同、二六三〇)
  二人して結びし紐を一人して吾は解き見じ。直にあふまでは(卷十二、二九一九)
  海石榴市《つばいち》の八十の衢《ちまた》に立ち平《なら》し結びし紐を解かまく惜しも(同、二九五一)
  高麗錦《こまにしき》紐の結びも解きさけず、齋《いは》ひて待てど驗無きかも(同、二九七五)
  京邊《みやこべ》に君は去《い》にしを誰解けかわが紐の緒の結ぶ手|懈《う》きも(同、三一八三)
  會津嶺《あひづね》の國をさ遠みあはなはば忍びにせもと紐結ばさね(卷十四、三四二六)
  筑紫なるにほふ兒ゆゑに陸奧《みちのく》の可刀利《かとり》娘子の結ひし紐解く(同、三四二七)
  旅にても喪《も》無く早|來《こ》と我妹子が結びし紐は褻《な》れにけるかも(卷十五、三七一七)
  天ざかる鄙《ひな》に月經ぬ。然れども結《ゆ》ひてし紐を解きもあけなくに(卷十七、三九四八)
  家にして結ひてし紐を解きさけず思ふ心は誰か知らむも(同、三九五〇)
  初秋風涼しきゆふべ解かむとぞ紐は結びし。妹に會はむため(卷二十、四三〇六)
  海原を遠く渡りて年|經《ふ》とも兒らが結べる紐解くなゆめ(同、四三三四)
  家《いは》の妹ろ吾《わ》を慕《しの》ふらし。ま結《ゆす》ひに結《ゆす》ひし紐の解くらく思《も》へば(同、四四二七)
 
252 あらたへの 藤江の浦に 鱸《すずき》釣《つ》る
 白水郎《あま》とか見らむ。
 旅行く吾を。
 
 荒栲《アラタヘノ》 藤江之浦尓《フヂエノウラニ》 鈴寸釣《スズキツル》
 白水郎跡香將v《アマトカミラム》 旅去吾乎《タビユクワレヲ》
 
【譯】この藤江の浦にスズキを釣る漁夫と見るであろうか、旅をしているわたしなのに。
(55)【釋】荒梓 アラタヘノ。既出(卷一、五〇)。枕詞。藤を修飾する。
 藤江之浦尓 フヂエノウラニ。藤江の浦は、兵庫縣明石郡の地名。今の明石市の西にその名が殘つている。
 
山部の赤人の歌に「荒妙《アラタヘノ》 藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》 鮪釣等《シビツルト》 海人船散動《アマフネサワキ》」(卷六、九三八)とあり、その反歌に「奧浪《オキツナミ》 邊波安実《ヘツナミヤスミ》 射去爲登《イザリスト》 藤江乃浦爾《フヂエノウラニ》 船曾動流《フネゾサワケル》」(同、九三九)とあるによれば、また藤井の浦とも云つたことが知られる。
 鈴寸釣 スズキツル。スズキは魚名、硬骨類。鱸。今もスズキと言つている。次句の白水郎の修飾句。この魚は、夏季に川に入り、秋になつて海に出る。
 白水郎跡香將見 アマトカミラム。白水郎は既出(卷一、二三)。カは疑問の係助詞。ミラムは、ミは動詞見ルの活用形。ラムは推量の助動詞。後の文法では、ラムは、動詞の終止形(ラ行變格は連體形)に接續するのであるから、ミルラムというべきであるが、古くは上一段動詞は、連用形にラムが接續している。「春野之菟芽子《ハルノノウハギ》 採而煮良思文《ツミテニラシモ》」(卷十、一八七九)の煮良思も、ニラシであるらしい。さてミラムの例は、「比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムマツラノ》 多麻志末乎《タマシマヲ》」(卷五、八六二)、「「和可由都流《ワカユツル》 伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》 比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》」(同、八六三)などある。句切。
 旅去吾乎 タビユクワレヲ。旅をして行く吾なるものを。ヲは助詞。何々なるが、しかるにの意に使用されている。
【評語】 スズキは、秋季に海に出るので、おりしも波間に躍る魚を見て、鱸釣ルの一句を成している。白水郎の修飾句であるが、海上の光景をよく描いている。玉藻刈ルの女性的なのに比して、男子の漁業を敍して活氣がある。旅行をすることについては、公人としての自負があり、しかも他人がそれを知らないで漁夫と見ているであろうという所には、寂寥感が潜んでいる。
(56)【參考】類想。
  網引する海人《あま》とや見らむ。飽《あく》の浦の清き荒磯《ありそ》を見に來し吾を(卷七、一一八七、人麻呂集)
  濱清み礒にわが居れば見る人は漁人《あま》とか見らむ。釣もせなくに(同、一二〇四)
  潮早み礒廻《いそみ》に居ればあさりする海人《あま》とや見らむ。旅行く吾を(同、一二三四)
  藤波を假廬《かりほ》に作り灣廻《うらみ》する人とは知らに海人《あま》とか見らむ(卷十九、四二〇二)
 
一本云、白栲乃《シロタヘノ》 藤江能浦尓《フヂエノウラニ》 伊射利爲流《イザリスル》
 
一本に云ふ、白栲の 藤江の浦に いざりする。
 
【釋】一本云 アルマキニイフ。前と同じく、卷の十五によつて初句の相違を註している。なお第四句にも相違があるが、ここには擧げていない。
 白栲乃 シロタヘノ。荒栲は、藤の皮の繊維で織るから藤の枕詞になるのであるが、白栲はアサ、コウゾを材料とするのであるから、藤の枕詞にはならない。記憶の粗漏というべきである。
 伊射利爲流 イザリスル。イザリは漁業。「伊射理須流《イザリスル》 安麻能乎等女波《アマノヲトメハ》」(卷十五、三六二七)などの用例がある。
【參考】別傳。
  之路多倍能《シロタヘノ》 藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻等也見良武《アマトヤミラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》
   柿本朝臣人麻呂歌曰、安良多倍乃《アラタヘノ》、又曰、須受吉都流 《スズキツル》 安麻登香見良武《アマトカミラム》(卷十五、三六〇七)
 
253 稻日野《いなびの》も 行き過ぎがてに 思へれば、
(57) 心|戀《こほ》しき 可古《かこ》の島見ゆ。
 
 稻日野毛《イナビノモ》 去過難尓《ユキスギガテニ》 思有者《オモヘレバ》
 心戀敷《ココロコホシキ》 可古能島所v見《カコノシマミユ》
 
【譯】稻日野も行き過ぎ得ないで、思つていると、心に戀しい可古の島が見える。
【釋】稻日野毛 イナビノモ。イナビノは、兵庫縣印南郡地方の野。但し事實上もつと廣範圍にいうと考えられる。下の可古ノ島見ユの項參照。イナビは、古くから印南の字が慣用され、本集、日本書紀、播磨國風土記にも、それが使用されている。ミビ音通で、イナビともいい、古事記中卷に「針間之伊那※[田+比]《ハリマノイナビ》」とあるのも、これである。稻日の字面も、「稻日都麻《イナビヅマ》 浦箕乎過而《ウラミヲスギテ》」(卷四、五〇九)に使用されている。
 去過難尓 ユキスギガテニ。ガテニは既出(卷二、九五)。動詞に可能の意の助動詞カテ、および打消の助動詞ニが接續して、副詞句を構成する。何々するのが困難であることを意味する。ガテニは、一の熟語となつて、できない、できずにの意をもつて使用されている。ここでは、家郷を思い戀々として慰まず、船の進行がもどかしくはかどらないのを、行き過ぎることが困難であるとしたのである。
 思有者 オモヘレバ。思ヘリの已然條件法。思つて居れば。家郷を戀しく思いいるのである。
 心戀敷 ココロコホシキ。コホシは、思慕される状態をいう形容詞。「枳瀰我梅能《キミガメノ》 姑褒之枳※[舟+可]羅爾《コホシキカラニ》」(日本書紀一二〇)、「毛々等利能《モモトリノ》 己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》」(卷五、八三四)等の例があり、また卷の十五以下には、「安可等伎能《アカトキノ》 伊敝胡悲之伎爾《イヘゴヒシキニ》」(卷十五、三六四一)、「古非之久伎美我《コヒシクキミガ》 於毛保要婆《オモホエバ》」(卷十七、三九二八)等、コヒシとも書いている。これは古くコホシであり、後コヒシに轉じたものと考えられる。心戀シキは、心の何物かを要求する状態にあるをいう。稻日野も通過しがたいまでに思いおれば、早く見たいと願つている加古の島が見えると、次の句を修飾する。
 可古能島所見 カコノシマミユ。カコは、兵庫縣加古郡の名に殘つている。加古郡は、印南郡の東にあるの(58)で、稻日野を通過して可古の島が見えるというこの歌は、西方から上京して來る時の歌と解せられている。しかし古くは、印南の名は廣範圍にわたつていたとおぼしく、本集に「稻見野能《イナミノノ》 大海乃原笶《オホウミノハラノ》 荒妙《アラタヘノ》 藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》」(卷六、九三八) とある藤井の浦は、藤江の浦と同處で、稻日野に面しているが如く、「伊奈美嬬《イナミヅマ》 辛荷乃島之《カラニノシマノ》」(同、九四二)によれば、伊奈美嬬、すなわち辛荷の島であるようである。これらによれば、稻日野を通過して可古の島を見るのは、かならずしも東上の途とは決定しがたく、從つて可古の島も、印南郡より東方に求めるに及ばない。加古郡より西、印南、揖保《いぼ》の海上にある諸島も、これに擬せられる。但しシマは、四面水に圍まれた陸地に限らず、水に面せる美土を、水上から眺めていう語であるから、加古の地を海上より見て、可古の島と言つたと解してよいのであり、加古川の河口の地もかように呼ばれるであろう。行き過ぎがたく感ずるのは、地理上よりすればむしろ明石郡あたりの海上なるべく、主觀的の立場からいへば、京に上る途上とすることも考えられる。いずれにしても可古の島の見えたことが、旅中の憂悶を破る事件として、歌の主眼となつている。
【評語】表現が不十分の感があつて、明快な印象を與えない。心戀シキの一句に、作者の意圖するところが十分にあらわれていないのである。從つて結句の可古ノ島見ユが、強く浮び出して來ないのが遺憾である。實際地理上の解釋も明瞭にならないが、これは作者の責任でないにしても、歌を理解する上に障害となつている。
 
一云、湖見《ミナトミユ》
 
【釋】一云 アルハイフ。これは、本文の末句の別傳と考えられるが、それは何によつたものか詳でない。卷の十五にもこの歌は吟誦された中に入つていない。
 湖見 ミナトミユ。本文第五句を、この別傳には可古能湖見とあつたのであろう。湖は、説文解字に大(ナル)坡《ツツミ》(59)也とあり、水を圍む土である。「吾舟者《ウガフネハ》 明石之湖爾《アカシノミナトニ》 榜泊牟《コギハテム》」(卷七、一二二九)、「吾船者《ワガフネハ》 枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》 榜將v泊《コギハテム》」(卷三、二七四)の例はミナトに當てて書いているようである。よつて今ミナトと讀む。水門の義である。カコノミナトは、日本書紀應神天皇紀に「ここに天皇、西を望《みそな》はすに、數十の麋鹿《おほしか》海に浮きて來り、便ち播磨の鹿子《かこ》の水門《みなと》に入る」とあり、これは加古川の河口をいうであろう。
 
254 ともしびの 明石大門《あかしおほと》に 入らむ日や、
 榜《こ》ぎ別れなむ。
 家のあたり見ず。
 
 留火之《トモシビノ》 明大門尓《アカシオホトニ》 入日哉《イラムヒヤ》
 榜將v別《コギワカレナム》
 家當不v見《イヘノアタリミズ》
 
【譯】かの明石海峽に榜ぎ進む日には、家のあたりも見ずに榜ぎ別れることでもあろう。
【釋】留火之 トモシビノ。枕詞。燭火のあかるいというところから、次句の明石を修飾する。淡路島のほとりに舟を泊めて、明石海峽にはいろうとする前夜、かなたを望み見れば、漁火が點々として闇を照らしている。その眼前の事物によつて句を起している。
 明大門尓 アカシオホトニ。アカシは、兵庫縣の明石。その明石の海峽に。オホトは、兩方から陸地の出ていて、人家の門戸の如き形を成せる地形。そのあいだを狹いと感ずればセト(迫門)といい、廣いと感ずればオホト(大門)という。狹いも廣いもその人の感じで、定まつた語ではない。だから中世以後は、明石の迫門《せと》とも云つている。トに關しては、この外に、島門《しまと》、鳴門《なると》、水門《みなと》、小門《をと》等の語がある。
 入日哉 イラムヒヤ。かの海峽に漕ぎ入らむ日にや。ヤは疑問の係助詞。次句に懸かつている。
 榜將別 コギワカレナム。家郷のあたりのある島山と漕ぎ別れるであろう。ナムは將來を豫想する助動詞。分ければナとムになる。句切。
(60) 家當不見 イヘノアタリミズ。海上から見る大和の山々。そのあたりにわが家もあるので、家のあたりと言つている。わが家のあたりの島山も見ずにと、上の漕ギ別レナムの句の内容を説明している句。「ぬばたまの夜渡る月は早も出でぬかも。海原の八十島《やそしま》の上ゆ妹があたり見む」(卷十五、三六五一)。
【評語】この歌、まだ明石海峽にはいらない前の作である。難波津を出帆して海路第一日の夜は、淡路島の島陰に宿るであろう。前途を望み見れば明石の海峽が大きな口をあけてわが船を呑もうとしているようである。その海峽の彼方には、はてしも知らぬ大海が續いている。おりしも海人の漁火が波間に隱見するので、感慨を起して、ともし火の句は成り、この一首が作り成された。無量の感慨を盛つた作である。
 
255 天《あま》ざかる 夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ 戀ひ來《く》れば、
 明石の門《と》より 大和島見ゆ。
 
 天離《アマザカル》 夷之長道從《ヒナノナガヂユ》 戀來者《コヒクレバ》
 自2明門1《アカシノトヨリ》 倭島所v見《ヤマトシマミユ》
 
【譯】地方からの長い道中のあいだを、戀い思つて來れば、今こそ、明石の海峽のあいだから、大和の山々が見える。
【釋】天離 アマザカル。既出(卷一、二九)。枕詞。天のように離れている意に、夷を修飾する。
 夷之長道從 ヒナノナガヂユ。ヒナは地方。邊鄙の地。その長い道中のあいだを通じて。
 戀來者 コヒクレバ。わが家のある大和の山々を戀しく思つて來ればの意。
 自明門 アカシノトヨリ。明石海峽の間から。この歌では明石大門、と言わないのは、その海峽の雄大性を描く必要がないからである。
 倭島所見 ヤマトシマミユ。ヤマトシマは、海上より望み見た大和の山々をいう。寶際に、明石海峽のあいだから大和河内の國境をなす山々、南から數えて、金剛、葛城、二上《ふたかみ》、信貴《しぎ》、生駒《いこま》の連嶺が見える。そのなつ(61)かしい山容は、わが家のあるあたりの山である。シマは水に臨んだ美土の謂である。この大和島を、淡路島の北端にある小島とする説は、僻説であつて、それでは歌が死んでしまうのである。次の歌の大和島は、みな大和の山々である。「名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隱りぬ。大和島根は」(卷三、三〇三)、「海原の沖邊にともしいざる火は明《あか》してともせ。大和島見む」(卷十五、三六四八)。但し、轉じて日本の國をいうこともある。次の歌の如きはその例である。「いざ子どもたはわざなせそ。天地の固めし國ぞ大和島根は」(卷二十、四四八七)。また大和の國をいうこともある。
【評語】永い永い地方の生活をして、上京して來た時、懷しい家郷の山々が、いよいよ海の上に浮かんで見えて來た喜びである。今日太平洋を歸り來る人の、遙かに富士の嶺を望み見た喜びにもたとえられよう。しかも音信の便のなかつた上代には、京と地方との距離は、それにも増して遠かつたのである。
 
一本云、家門《ヤドノ・イヘノ》當所v見《アタリミユ》
 
一本に云ふ、家門のあたり見ゆ。
 
【釋】一本云 アルマキニイフ。これも卷の十五にある吟誦歌によつて詞句の相違を記している。なお第二句にも相違がある。
 家門當所見 ヤドノアタリミユ。ヤドは家の戸口が本義であろうが、轉じて、わが家の意味になる。この歌では、宿のあたりでは、視野が接近して狹くなる。大和島見ユの壯大に遠く及ばない。但し卷の十五には、伊敝乃安多里見由とある。それを誤記したものであろう。またヤドを家門と書く例はないから、家門の二字でイヘノと讀むかもしれない。
【參考】別傳。
(62)  安麻射可流《アマザカル》 比奈乃奈我道乎《ヒナノナガヂヲ》 孤悲久禮婆《コヒクレバ》 安可思能門欲里《アカシノトヨリ》 伊敝乃安多里見由《イヘノアタリミユ》
   柿本朝臣人麻呂歌曰、夜麻等思麻見由《ヤマトシマミユ》(卷十五、三六〇八)
 
256 飼飯《けひ》の海の 海上《には》好くあらし。
 苅薦《かりごも》の 亂れ出づ見ゆ。
 海人《あま》の釣船《つりぶね》。
 
 飼飯海乃《ケヒノウミノ》 庭好有之《ニハヨクアラシ》
 苅薦乃《カリゴモノ》 亂出所v見《ミダレイヅミユ》
 海人釣船《アマノツリブネ》
 
【譯】飼飯の海の海上はおだやかだと見える。刈つた薦のように海人の釣舟の亂れて出るのが見える。
【釋】飼飯海乃 ケヒノウミノ。ケヒは諸國に同名の地があるが、兵庫縣津名郡、淡路島の西海岸にある地とするのが、前の詩歌の地名との關係から見て自然であろう。これによれは、讃岐の國への往還の途上の作とされる。
 庭好有之 ニハヨクアラシ。ニハは、わが前の廣場をいう。古語は話者の立場から使うものであつて、自然、わが前に展開される廣場をいうことになる。そこで地上でも海上でも、たいらな面をいう。庭園の義に使うのは、人家の前には、農作物を取り入れなどする必要から、廣い平地を置き、自然その一隅に樹などを植えもしたことから生じたことである。ここでは海面をいう。ニハヨクは、海面に風波のないこと。アラシはアルラシで、推定の辭。段落である。
 苅薦乃 カリゴモノ。枕詞。刈り取つたコモの亂れることから、亂ルを修飾する。刈つたコモは亂れやすくもあろうが、これを編んで蓆《むしろ》にする料なので、亂れて迷惑をする經驗から生まれた語であろう。
 亂出所見 ミダレイヅミユ。亂レ出ヅは終止形である。見ユは用言の終止形を受けて、以上のことが見えるという。中世以後の作では、擬古の作を除いては、見ユを用いないで、景物の敍述に筆を止める。見ユは、自(63)然が、作者たる吾に交渉する經路であるが、これを省いて、客觀的に自然を敍することになるのである。かような「見ゆ」の用例は、參考の欄に擧げたが、ここには假字書きの例を擧げる。「思路多倍乃《シロタヘノ》 許呂母能素低乎《コロモノソデヲ》 麻久良我欲《マクラガヨ》 安麻許伎久見由《アマコギクミユ》 奈美多都奈由米《ナミタツナユメ》」(卷十四、三四四九)、「和多都美能《ワタツミノ》 於伎津之良奈美《オキツシラナミ》 多知久艮思《タチクラシ》 安麻乎等女等母《アマヲトメドモ》 思麻我久流見由《シマガクルミユ》」(卷十五、三五九七)。句切。
 海人釣船 アマノツリブネ。海上に海人の釣船の多く散在している意で、亂レ出ヅの主格。
【評語】作者は、船を礒邊に留めて、寢ての翌朝この歌を詠んだ。今日は海上もおだやからしい。快い航海を續けて行くことが出來るという氣特が溢れている。
 
一本云、
 
武庫乃海能《ムコノウミノ》 尓波好有之《ニハヨクアラシ》 伊射里爲流《イザリスル》 海部乃釣船《アマノツリブネ》 浪上從所v見《ナミノウヘユミユ》
 
一本に云ふ、
 
武庫《むこ》の海の 海上《には》好《よ》くあらし。漁《いざり》する 海人《あま》の釣船《つりぶね》、浪の上《うへ》ゆ見ゆ。
 
【譯】武庫の海の海上は穩やかであると見える。漁りをする漁夫の釣船が、浪の上を通して見える。
【釋】一本云 アルマキニイフ。卷の十五に載せた歌によつて記している。詞句の相違が相當に多いので、一首全體を載せている。以下諸本に混雜がある。今、西本願寺本を代表として擧げると、次のとおりである。
  武庫乃海舳尓波有之伊射里爲流海部乃釣舩浪上從所見
 舳は類聚古集等に舶になつている方がわかりよいが、それでも舶尓波有之は意をなさない。神田本には次のように四行に書いている。
(64)  一本云武庫乃舟尓波有之伊射
  一本云武庫乃海納尓時好有之伊射里爲流
  皇爲流海都乃釣舩浪上從所見
  海部乃釣舩浪上從所見又本説也
この文字の切り方を見るに、第三行は第一行に續き、第四行は第二行に續いていると見られる。卷の十五に、初二句を「武庫能宇美能尓波余久安良之」としているのによつて考える時は、神田本の第二行第四行の文が、誤字とおぼしきものはあるが、正傳に近いと見るべきである。
 武庫乃海能 ムコノウミノ。諸本に能を船に作るのは誤りである。ムコノウミノの句に、武庫乃海と、上のノに字を當てながら下のノに字を當てないのは違例である。今、神田本による。武庫は、神戸と大阪との中間の地名。本文には飼飯の海とあるが、卷の十五においては、遣新羅使の一行が、自分たちの通過する地名に改めて吟誦したのであろう。
 海部乃釣船 アマノツリブネ。海部は漁業をする部族。古事記應神天皇の御記に「この御世に、海部《あまべ》、山部《やまべ》、山守部《やまもりべ》、伊勢部《いせべ》を定めたまひき」とある。
 浪上從所見 ナミノウヘユミユ。波上を通して見えるの意。
【評語】本文の歌を歌いくずしている。二句の海上ヨクアラシの根據としては、刈薦ノ亂レ出ヅ見ユがよいのであつて、波の上を通して海人の釣船が見えるでは、海上の穩かなことを證明するに足りない。初二句と三四五句とが別になつてしまうのである。
【参考】別傳。
  武庫能宇美能《ムコノウミノ》 爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻能都里船《アマノツリブネ》 奈美能宇倍由見由《ナミノウヘユミユ》
(65)  柿本朝臣人麻呂歌曰 氣比乃宇美能《ケヒノウミノ》。又曰 可里許毛能《カリコモノ》 美太禮弖出見由《ミダレテイヅミユ》 安麻能都里船《アマノツリブネ》(卷十五、三六〇九)
   類句、用言の終止形を受ける「見ゆ」
  旅にして物|戀《こほ》しきに「山下《やました》の赤《あけ》のそは船《ぶね》沖に榜《こ》ぐ」見ゆ(巻三、二七〇)
  「み吉野の高城《たかぎ》の山に白雲は行き憚りてたな引けり」見ゆ(同、三五三)
  鶯の吾《おと》聞くなへに「梅の花|吾家《わぎへ》の園に咲きて散る」見ゆ(巻五、八四一)
  海孃子《あまをとめ》玉求むらし。「沖つ浪|恐《かしこ》き海に船出せり」見ゆ(巻六、一〇〇三)
  御饌《みけ》つ國|志摩《しま》の海人《あま》ならし。「眞熊野《まくまの》の小船に乘りて沖邊榜ぐ」見ゆ(同、一〇三三)
  「天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隱る」見ゆ(巻七、一〇六八)
  難波潟|潮干《しほひ》に立ちて見わたせば「淡路の島に鶴《たづ》渡る」見ゆ(同、一一六〇)
  年魚市潟《あゆちがた》潮干にけらし。「知多《ちた》の浦に朝榜ぐ船も沖に寄る」見ゆ(同、一一六三)
  印南野《いなみの》は行き過ぎぬらし。「天づたふ日笠《ひがさ》の浦に浪立てり」見ゆ(同、一一七八)
  海人小胎《あまをぶね》帆かも張れると見るまでに「鞆《とも》の浦廻《うらみ》に浪立てり」見ゆ(同、一一八二)
  藻刈《もかり》船沖榜ぎ來らし。「妹が島|形見《かたみ》の浦に鶴《たづ》翔《かけ》る」見ゆ(同、一一九九)
  礒に立ち沖邊を見れば海藻刈《めかり》船|海人《あま》榜ぎ出《づ》らし。「鴨|翔《かけ》る」見ゆ(同、一二二七)
  「朝づく日向かひの山に月立てり」見ゆ。遠妻《とほづま》を持ちたる人や見つつ偲《しの》はむ(同、一二九四)
  「春日野に時雨降る」見ゆ。明日よりは黄葉《もみち》かざさむ。高圓《たかまと》の山(巻八、一五七一)
  さ夜中と夜は深《ふ》けぬらし。「雁が吾《ね》の聞ゆる空ゆ月渡る」見ゆ(巻九、一七〇一)
  樂浪《ささなみ》の比良《ひら》山風の湖《うみ》吹けば「釣する海人《あま》の袂《そで》かへる」見ゆ(同、一七一五)
(66)  「朝霧にしののに濡れて喚子鳥三船の山ゆ鳴き渡る」見ゆ(巻十、一八三一)
  「春日野に煙立つ」見ゆ。孃子等《をとめら》し春野《はるの》の菟※[草がんむり/互]子《うはぎ》採《つ》みて煮《に》らしも(同、一八七九)
  「天の海に月の船浮け桂※[楫+戈]《かつらかぢ》懸《か》けて榜ぐ」見ゆ。月人|壯子《をとこ》(同、二二二三)
  「しろたへの衣の袖をまくらがよ海人《あま》榜ぎ來」見ゆ。浪立つなゆめ(巻十四、三四四九)
  わたつみの沖つ白濱立ち來らし。「海人孃子《あまをとめ》ども島隱る」見ゆ(巻十五、三五九七)
  「柄臼《かるうす》は田廬《たぶせ》のもとにわが夫子《せこ》はにふぶに笑みて立ちませり」見ゆ(巻十六、三八一七)
  わが夫子《せこ》を我《あ》が松原よ見渡せば「海孃子《あまをとめ》ども玉藻刈る」見ゆ(巻十七、三八九〇)
  東《あゆ》の風いたく吹くらし。「奈呉《なご》の海人《あま》の釣する小舟榜ぎ隱る」見ゆ(同、四〇一七)
  十月《かむなづき》時雨の常か「わが夫子《せこ》が屋戸《やど》の黄葉《もみちば》散りぬべし」見ゆ(巻十九、四二五九)
 
鴨君足人、香具山歌一首 并2短歌1
 
鴨の君足人の、香具山の歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】鴨君足人 カモノキミタルヒト。傳未詳。鴨氏は、彦坐《ひこいます》の命の後。君は、かばね。天平寶字三年に君の字を公に改めた。今藤原の宮の址の發掘されているのは、奈良縣高市郡|鴨公《かもきみ》村の地内、鴨公小學校およびその南方であつて、その地は、この鴨氏の本居であつたと考えられる。多分藤原の宮の遷都當時にもその他に住んでおつて、その舊都となつてさびれ行くのに、悲哀の感を催して、この作となつたのであろう。
 香具山歌 カグヤマノウタ。香具山そのものを詠んだのではなくして、左註にあるように、藤原の宮から寧樂へ遷都された後、その附近の荒れて行くのを悼んだ歌である。なお香具山は、藤原の宮址から數町の近距離にあり、その麓にあつてこの歌に詠まれている埴安《はにやす》の池は、藤原の宮の御井としても、歌に詠まれそいる(巻(67)一、五二參照)。
 
257 天降《あも》りつく 天の香具山、
 霞立つ 春に至れば、
 松風に 池浪立ちて、
 櫻花 木《こ》の闇《くれ》茂《しげ》に
 沖邊《おきべ》には 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ、
 邊つ方《べ》に あぢむらさわき、
 ももしきの 大宮人の
 退《まか》り出《で》て 遊ぶ船には、
 楫《かぢ》棹《さを》も 無くてさぶしも
 榜ぐ人なしに。
 
 天降付《アモリツク》 天之芳來山《アメノカグヤマ》
 霞立《カスミタツ》 春尓至婆《ハルニイタレバ》
 松風尓《マツカゼニ》 池浪立而《イケナミタチテ》
 櫻花《サクラバナ》 木晩茂尓《コノクレシゲニ》
 奧邊波《オキベニハ》 鴨妻喚《カモツマヨバヒ》
 邊津方尓《ヘツベニ》 味村左和伎《アヂムラサワキ》
 百磯城之《モモシキノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》
 退出而《マカリデテ》 遊船尓波《アソブフネニハ》
 梶棹尾《カヂサヲモ》 無而不v毛《ナクテサブシモ》
 己具人奈四二《コグヒトナシニ》
 
【譯】天から降つたという天の香具山、霞の立つ春になると、松の風に池の浪が立つて、櫻の花が木暗く一杯に咲き、沖の方では鴨が妻を呼んでおり、岸邊の方では味鴨が騷ぎ、宮廷に仕える人の退出して遊ぶ船には、櫂や棹がなくてさびしいことだ。漕ぐ人がなくて。
【構成】全篇一文から成つていて、段落はない。
【釋】天降付 アモリツク。アモリは、天から降るをいう。アマオリの約言。語例は、「狛釼《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》 行宮爾《カリミヤニ》 安母理座而《アモリマシテ》」(卷二、一九九)、「伊許藝都追《イコゴツツ》 國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》 安母里麻之《アモリマシ》 掃平《ハラヒコトムケ》」(巻十九、四二五四)(68)などある。アモリツクは、天から降下して著到した意。伊豫國風土記の逸文(釋日本紀所引)に、「倭《やまと》なる天の加具山《かぐやま》、天より天降《あも》りし時に、二つに分かれて、片端《かたはし》をば倭の國に天降《あまくだ》し、片端をば、この土《くに》に天降しき。因《かれ》、天山《あめやま》といふ本なり」とあつて、香具山が天から降りついた山であるという傳説のあつたことが知られる。なお下の神乃香山《カミノカグヤマ》(巻三、二六〇)の條参照。次の句の芳來山に對して連體形を採つている。
 天之芳來山 アメノカグヤマ。芳は、香氣であり、訓カを使用している。「天芳山《アメノカグヤマ》」(巻十、一八一二)とも書いている。以上二句、まず香具山を提示している。以下その山の説明になるのであるが、中心を埴安の池の説明に置いている。
 霞立 カスミタツ。枕詞。春の説明をしている。「可須美多都《カスミタツ》 春初乎《ハルノハジメヲ》」(巻二十、四三〇〇)。
 春尓至婆 ハルニイタレバ。その季節になること。「露霜乃《ツユジモノ》 安伎爾伊多禮波《アキニイタレバ》」(巻十七、四〇一一)、「美由伎布流《ミユキフル》 冬爾伊多禮婆《フユニイタレバ》」(巻十八、四一一一)の如き例があり、春ニイタレバと讀んでよい。
 松風尓 マツカゼニ。松を吹く風に。
 池浪立而 イケナミタチチ。池は埴安の池をいう。松吹く風のために池の浪が立つのである。
 木乃晩茂尓 コノクレシゲニ。コノクレは、木の葉が茂つて暗くなること。シゲニは、茂くして。木の晩茂にありの意。「多胡乃佐伎《タゴノサキ》 許能久禮之氣爾《コノクレシゲニ》 保登等藝須《ホトトギス》 伎奈伎等余米婆《キナキトヨメバ》 波太古非米夜母《ハダコヒメヤモ》」(巻十八、四〇五一)。ここは櫻花の咲き滿ちたために、木暗く茂くある意である。
 奧邊波 オキベニハ。邊は、字音を取つてヘニの音をあらわしている。ニハは助詞。「葦邊波《アシベニハ》 鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》」(巻三、三五二)、「圓方之《マトカタノ》 湊之渚鳥《ミナトノスドリ》 浪立也《ナミタテヤ》 妻唱立而《ツマヨビタテテ》 邊近著毛《ヘニチカヅクモ》」(巻七、一一六二)、「足氷木乃《アシヒキノ》 清山邊《キヨキヤマベニ》 蒔散漆《マケバチリスル》」(同、一四一五)の如き例における邊の字は、いずれもヘニの音をあらわしていると考えられる。
 鴨妻喚 カモツマヨバヒ。カモメヨバヒテ(西)、カモノツマヨビ(西)、カモツマヨバヒ(代精)。鳥が妻を(69)喚ぶことは、集中例が多い。前項の一一六二の歌もそれであり、その他「都麻欲夫等《ツマヨブト》 須騰埋浪佐和久《スドリハサワク》」(巻十七、四〇〇六)、「奈呉乃江爾《ナゴノエニ》 都麻欲妣可波之《ツマヨビカハシ》 多豆左波爾奈久《タヅサハニナク》」(同、四〇一八)などがある。ヨバヒは、呼ぶの連續動作をあらわす語法。
 邊津方尓 ヘツベニ。埴安の池の岸邊の方には。
 味村左和伎 アヂムラサワキ。アデは小鴨の類。群棲するのでアヂムラという。その群れ飛ぶ有樣を、サワキという。「山羽爾《ヤマノハニ》 味村驂《アヂムラサワキ》 去奈禮騰《ユクナレド》」(巻四、四八六)、「奈藝左爾波《ナギサニハ》 安遲牟良佐和伎《アヂムラサワキ》」(巻十七、三九九一)。以上二句、上の沖邊ニハ鴨妻喚バヒの句に對して對句となつている。
 百磯城之大宮人乃 モモシキノオホミヤビトノ。既出(巻一、二九、三〇)。ここには藤原の宮に奉仕する人人をいう。
 退出而 マカリデテ。藤原の宮から退出して。「百師木之《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 退出而《マカリデテ》 遊今夜之《アソブコヨヒノ》 月清左《ツキノサヤケサ》」(巻七、一〇七六)。
 遊船尓波 アソブフネニハ。船は、池上にある船をいう。
 梶棹毛 カヂサヲモ。カヂは、船を漕ぎ進める具で、今の櫂の大形のもの。サヲは棹。
 無而不樂毛 ナクテサブシモ。サブシは心の樂しくないのをいう形容詞。この歌のサブシは寂寥に近いことが注意される。句切。
 己具人奈四二 コグヒトナシニ。池上の船のむだにあることを説明している。
【評語】都が遠く遷り去つて、埴安の池に遊ぶ大宮人もない寂しさを敍している。一往事を敍して感慨の足りないのは、作者が作歌に慣れていないことを語つている。
 
(70)反歌二首
 
258 人|榜《こ》がず あらくも著《しる》し。
 潜《かづき》する 鴛鴦《をし》と高部《たかべ》と、
 船の上に住む。
 
 人不v榜《ヒトコガズ》 有雲知之《アラクモシルシ》
 潜爲《カヅキスル》 鴦與高部共《ヲシトタカベト》
 船上住《フネノヘニスム》
 
【譯】人の榜がないであることも知れる。水に潜る鴛鴦と高部とが船の上に住んでいる。
【釋】人不榜 ヒトコガズ。長歌の大宮人云々の句を受けているが、ここには廣く一般的に人をさしていう。次のアラクを修飾する。
 有雲知之 アラクモシルシ。雲の字は、クモの音を表示するために使用されている。アラクは、あること(71)の意。クはコトの意。シルシは、明瞭である意の形容詞。句切。
 潜爲 カヅキスル。カヅキは、水に潜入すること。水鳥の習性を説明する修飾句。
 鴦與高部共 ヲシトタカベト。ヲシは、本草和名に「鴛鴦、和名|乎之《ヲシ》」とあり、タカベは、倭名類聚鈔に「爾雅(ノ)集注(ニ)云(フ)、※[爾+鳥] 音彌一音施、漢語抄云、多加閉。一(ノ)名(ハ)沈鳥、貌似(テ)v鴨(ニ)而小(ク)、背(ノ)上(ニ)有(リ)v文」とある。いずれも水鳥である。二つのトは、竝立格を示す助詞。 船上住 フネノウヘニスム。人氣がないので、水鳥が船の上に棲息するよしである。
【評語】短歌であるだけによく纏まつている。上二句はすこし説明的である。人氣疎くなつた池上の光景は、三句以下によく描かれている。漠然と水鳥と言わないで、美しい鴛鴦や高部を出したのは、效果が多い。
 
259 何時《いつ》の間《ま》も 神《かむ》さびけるか。
 香具山の 鉾椙《ほこすぎ》が本《もと》に 
 薛《こけ》生《む》すまでに。
 
 何時問毛《イツノマモ》 神左備祁留鹿《カムサビケルカ》
 香山之《カグヤマノ》 鉾椙之本尓《ホコスギガモトニ》
 薛生左右二《コケムスマデニ》
 
【譯】何時の間に神々しくなつたのだろう。香具山の鉾の形の杉に薛《こけ》が生えるまでになつて。
【釋】何時間毛 イツノマモ。イツノマニモの意。次の句の疑問の助詞カと併わせて、何時の間にであろうかの意を成している。
 神左備祁留鹿 カムサビケルカ。カムサビは動詞で、助動詞ケルが接續している。カは疑問の助詞であるが、多分に詠嘆の要素を含んでいる。句切。
 香山之 カグヤマノ。香はg音を含む字であるから、一字でカグの吾を表示している。
 鉾椙之本尓 ホコスギガモトニ。椙は杉樹の意に用いられる。ホコスギは、杉の性質として、直幹であつて(72)鉾《ほこ》に類しているのでいう。モトは樹木の下部である。
 薛生左右二 コケムスマデニ。薛は、類聚名義抄にコケの訓がある。
【評語】香具山の杉の樹立、物古りて久しき時を經過したことを語つている。前の歌と同様、初二句は概觀し、三句以下具體的に敍している。
 
或本歌云
 
【釋】或本歌云 アルマキノウタニイフ。木文の歌の別傳を記載している。その或る本の何であるかは不明である。
 
260 天降《あも》りつく 神の香具山、
 うち靡く 春さり來れば、
 櫻花 木《こ》の闇《くれ》茂《しげ》に、
 松風に 池浪立ち、
 邊《へ》つべには あぢむらさわき、
 沖邊《おきべ》には 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばふ。」
 ももしきの 大宮人の
 退《まか》り出《で》て 榜《こ》ぎける舟は、
 棹《さを》楫《かぢ》も 無くてさぶしも。
(73) 榜《こ》がむと思へど。
 
 天降就《アモリツク》 神乃香山《カミノカグヤマ》
 打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》
 櫻花《サクラバナ》 木晩《コノクレ》茂《シゲニ。シゲミ》
 松風丹《マツカゼニ》 池浪《イケナミ》※[風+火三つ]《タチ・サワギ》
 邊津返者《ヘツベニハ》 阿遲村《アヂムラ》動《サワキ・トヨミ》
 奧邊者《オキベニハ》 鴨妻喚《カモツマヨバフ》
 百式乃《モモシキノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》
 去出《マカリイデテ》 榜來舟者《コギケルフネハ》
 竿梶母《サヲカヂモ》 無而佐夫之毛《ナクテサブシモ》
 榜與雖v思《コガムトモヘド》
 
【譯】天から降りついた神樣の香具山、草木の靡く春になれは、櫻の花が木も暗く茂く咲いて、松吹く風に池の波が立ち、岸邊の方では味鴨が騷ぎ、沖の方では鴨が妻を呼んでいる。大宮づかえをする人の退出して漕いだ船には、棹や楫もなくてさびしい。漕ごうと思うのだが。
【構成】第一段、鴨妻喚バフまで。池の大體について敍述する。以下第二段、棄てられた船を中心として敍述している。
【釋】天降就 アモリツク。二五七の天降付の句に同じ。この句は、普通次句の香具山を修飾すると説かれているが、次句の神に懸かると見ることもできる。一般に山には神靈があり、その神靈は天から降下するとすることが考えられる。神の天降は、改めて説くまでもないが、山に關しては、「三諸著《ミモロツク》 鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》」(卷六、一〇五九)、「三諸就《ミモロツク》 三輪山見者《ミワヤマミレバ》」(卷七、一〇九五)などあり、そのミモロツクは、神座の降りつく義であり、結局神の降りつくことを意味すると考えられる。
 神乃香山 カミノカゲヤマ。天の香具山と云わないで、特に神ノを冠しているのは、前項にいうような意味があるであろう。山の神性をいう句。
 打靡 ウチナビク。枕詞。ウチは接頭語。春は草木の生い出て靡くより、春の枕詞となる。「有知奈※[田+比]久《ウチナビク》 波流能也奈宜等《ハルノヤナギト》」(卷五、八二六)、「宇知奈妣久《ウチナビク》 春初波《ハルノハジメハ》」(巻二十、四三六〇)など。
 春去來者 ハルサリクレバ。既出(卷一、一六)。春になれば。
 木暗茂 コノクレシゲニ。助詞ニに相當する文字はないが、本文の歌と同じと見て、コノクレシゲニと讀む。文字については、コノクレシゲミとも讀まれる。
(74) 池浪※[風+火三つ] イケナミタチ。※[風+火三つ]は暴風をいう字である。池の浪に暴い風が渡るという意味に、本文の歌詞を參考としてイケナミタチと讀む。
 邊都遍者 ヘツベニハ。遍は、字音によつてヘニの音を表示している。
 阿遲村動 アヂムラサワキ。動は、サワクともトヨムとも讀まれる。サワクは、音聲のみならず形體の上にもいい、トヨムは音響の上にいう。味鴨については、「奈藝左爾波《ナギサニハ》 安遲牟良佐和伎《アチムラサワキ》」(卷十七、三九九一)など、常にサワキと言つている。トヨムは、動物の聲にもいうが、鹿、雁、ホトトギスなど、聲が大きく、またはするどいものにいう。
 去出 マカリデテ。本文の歌詞により、意をもつてマカリデテと讀む。朝廷を退出しての意。
 榜來舟者 コギケルフネハ。コギクルフネハ(神)、コギコシフネハ(西)、コギケルフネハ(童)。本文には、遊ブ船ニハとあり、不定時に述べているが、ここには過去の事としている。内容からいえば、この方が順當である。
【評語】本文に立てた歌よりも、この方がよく整つている。二段に切つてあるのが、この所傳の特質であり、これによつて調子も引き立ち、引き締つて来る。内容も二段に切つた方がよい。作者については、何とも記していないが、それには別傳がなかつたのかも知れない。
 
右今案、遷2都寧樂1之後、怜v舊作2此歌1歟
 
右は今案ふるに、都を寧樂に遷しし後、舊りにしを怜《あはれ》みて、この歌を作れるか。
 
【釋】右今案 ミギハイマカムガフルニ。前の二五七以下の歌四首に關している。歌の内容によつて、寧樂遷都以後の作と見たのはもつともである。
(75) 怜舊 フリニシヲアハレミテ。怜は、好愛の情を動かすをいう。ここは感傷しての意に使用している。舊は、古くなつたことをいう。
 
柿本朝臣人麻呂、獻2新田部皇子1歌一首 并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、新田部《にひたべ》の皇子《みこ》に獻《たてまつ》れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】獻新田部皇子歌 ニヒタベノミコニタテマツレルウタ。獻――皇子歌という題詞の形、またこの歌がすくない字數で書かれていることも、人麻呂歌集の特色であつて、これが人麻呂歌集を資料としているとも考えられる基礎になる。新田部の皇子は、天武天皇の第七皇子、天平七年九月薨ず。卷の十六に、勝間田《かつまだ》の池に出遊した時の婦人の歌を傳えている。皇子の作品はない。
 
261 やすみしし わが大王
 高ひかる 日の皇子、
 しげりいます 大殿の上に、
 ひさかたの 天傳ひ來る
 白雪《ゆき》じもの 往きかよひつつ、
 いや常世《とこよ》まで。
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾《ワガ・ワゴ》大王《オホキミ》
 高《タカ》輝《ヒカル・テラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 茂座《シゲリイマス》 大殿於《オホトノノウヘニ》
 久方《ヒサカタノ》 天傳來《アマヅタヒクル》
 白雪仕物《ユキジモノ》 往來乍《ユキカヨヒツツ》
 益及2常世1《イヤトコトマデ》
 
【譯】いと尊きわが大君、輝く日の皇子樣、御座遊ばされる御殿の上に、遙かな大空から傳い來る白雪のように、往きかよいつつ何時の世までもましませ。
(76)【構成】全篇一章。
【釋】八隅知之吾大王高輝日之皇子 ヤスミシシワガオホキミタカヒカルヒノミコ。高輝は、神田本にタカテル、西本願寺本にタカテラス、代初書入にタカヒカルとある。輝は、類聚名義抄にヒカルの訓があるにより、高輝をタカヒカルと讀む。以上の句、ここでは新田部の皇子をさす。次の句に對して主格であるが、これを提示して威徳を仰ぐ格である。
 茂座 シゲリイマス。シケクマス(舊訓)、シキマセル(代)、サカエマス(童)、シキマス(略)等の諸訓がある。古事記上卷に、「次に左の手に成りませる神の名は志藝山津見《しぎやまつみ》の神【志藝の二字は音をもちてす】」とあつて、この志藝は繁茂の義なるべく、この志藝はシギで、シゲシ(茂し)の語幹をなすものと考えられる。しかしこれによつて茂をシキと讀み、動詞敷クの義とすることには疑問がある。貴人のいます有樣を修飾する語例には「斯賀波那能《シガハナノ》 弖理伊麻斯《テリイマシ》 芝賀波能《シガハノ》 比呂理伊麻須波《ヒロリイマスハ》 淤富岐美呂迦母《オホキミロカモ》」(古事記五八)の如く、テリイマス、ヒロリイマスがあり、これに準じて、さかんにいます意に、シゲリイマスといつたのだろう。連體句。
 大殿於 オホトノノウヘニ。於の字は、上に同じく用いられる。「濱松之於《ハママツノウヘニ》 雲棚引《クモトタナビク》」(卷三、四四四)などの用例があり、山上の憶良を續日本紀には山於の憶良と書いている。大殿は皇子の宮殿をいう。
 天傳來 アマヅタヒクル。天空を傳うことを天傳フという。
 白雪仕物 ユキジモノ。ジモノは既出(卷一、五〇)。何々のような物の義で、多く枕詞を構成する。以上實景を敍してこの句となり、次の往來乍の句のユキを引き出す序としている。
 往來乍 ユキカヨヒツツ。往來の二字を、義をもつてユキカヨヒと讀む。皇子がこの宮殿に往來しつつの義である。
 益及常世 イヤトコヨマデ。イヤは、いよいよの義に他語に冠していい、「枝爾霜雖v降《エダニシモフレド》 益常葉之樹《イヤトコハノキ》」(卷(77)六、一〇〇九)、「奈弖之故我《ナヂシコガ》 伊夜波都波奈爾《イヤハツハナニ》」(卷二十、四四四三)など、名詞に接續して使用されてもいる。常世は、既出(卷一、五〇)。永久不變の世界をいう。いや常世までましますの如き意である。いつまでも永久までにもの意である。
【評語】長歌としては短い形を採つているが、雪によつて永く往來しようとする意を引き出し、この宮殿の永く榮えむことを賀している。多分即興の作なるべく、簡潔に意をつくしているのは、作者としては晩年圓熟の境に入つていることが思われる。これが奈良時代に入つての作なるべきことは、次の歌において述べる。
 
反歌一首
 
262 矣駒山《いこまやま》 木立《こだち》も見えず 落《ふ》り亂《まが》ひ、
 雪の騷《さわ》ける 朝《あした》樂《たの》しも。
 
 矣駒山《イコマヤマ》 木立不v見《コダチモミエズ》 落《フリ》亂《マガヒ・ミダレ》
 雲驟《ユキノサワケル》 朝樂毛《アシタタノシモ》
 
【譯】矣駒山の木立も見えずに降り亂れて、雪の騷いでいる朝は愉快でございます。
【釋】矣駒山 イコマヤマ。諸本には多く矢釣山となつている。矢釣ならば奈良縣高市郡飛鳥村である。しかし細井本に矢を矣とし、また類聚古集、細井本等に釣を駒としている。奈良の西なる唐招提寺《とうしようだいじ》の戒院は、新田部《にいたべ》の親王の舊宅を施して寺としたものであるといわれており、その宮殿で矣駒山を望み見て詠んだ歌と考えられるので、今、古本の傳來を尊重して矣駒山とする。矣駒山は、多く生駒山の文字を使用し、大和河内の國境をなす山(標高六四二メートル)である。
 木立不見 コダチモミエズ。次の落亂を修飾している。雪が降りしきるので、木立も見えない意である。
 落亂 フリマガヒ。亂は、マガフともミダレとも讀まれる。「秋山尓《アキヤマニ》 落黄葉《オツルモミチバ》 須臾者《シマシクハ》 勿散亂曾《ナチリマガヒソ》 妹之當(78)將v見《イモガアタリミム》」(卷二、一三七)の歌で、チリマガフの訓を取つたのであるから、それに準じてフリマガヒとし、中止句とする。木立も見えないまでに雪のふり混亂する意である。
 雪驟 ユキノサワケル。驟は類聚古集による。この句、舊訓ユキノウサキマと讀んでいるのは、雪驢とあるによるものであろうか。現に神田本には雪驢に作つている。仙覺本には雪驪に作り、ユキモハタラニとしている。しかし雪驢や雪驪では、意を成しかねるのであつて、雪驟に作るによるほかはないのである。講義がこれによつて、ユキニウクツクと讀んだのは、耳馴れない古語を※[手偏+僉]出したものというべきである。驟は、馬の疾歩するをいう字であるが、集中「佐保川爾《サホガハニ》 小驟千鳥《サバシルチドリ》」(卷七、一一二四)とあるものを除けは、すべてサワクと讀んで通ずるものである。その一二を擧げれば「取持流《トリモテル》 弓波受乃驟《ユハズノサワキ》」(卷二、一九九)、「夕霧丹《ユフギリニ》 河津者驟《カハヅハサハク》」(卷三、三二四)、「高島之《タカシマノ》 阿渡川波者《アトカハナミハ》 驟鞆《サワケドモ》」(卷九、一六九〇)、「※[手偏+求]手折《フサタヲリ》 多武山霧《タムノヤマギリ》 茂鴨《シゲミカモ》 細川瀬《ホソカハノセニ》 波驟祁留《ナミノサワケル》」(同、一七〇四)。サワクは、普通物音の亂れてあるにいうが、波のサワクは、視覺をも併わせているのであつて、雪のサワクということも、無理ではないと考えられる。この句を、ユキノサワケルとして次句の朝の修飾句とする時は、極めて自然に解釋される。
 朝樂毛 アシタタノシモ。マヰテクラクモ(舊訓)、マヰリクラクモ(考)、マヰリタヌシモ(槻)等の諸訓があるが、四句をユキノサワケルと讀む以上、アシタタノシモと讀んで、よく通ずるのである。
【評語】この歌は問題の多い歌であるが、この訓の如く讀めば、非常にすぐれた歌であることが見出される。長歌では、はるかな大空から皇子の宮殿の上に降りかかり來る雪を材料として、皇子の永久に榮えたまうべき状を敍し、反歌では轉じて山の木立も見えず降り亂れて舞い騷げる朝の樂しさを敍している。朝樂シモの句中には、この皇子の御殿にいる事を喜びとする趣が示されている。長歌と相待つて降り亂れる雪のおもしろさを十分に描き出している。各種の説もあるが、歌の生命はかように讀むことによつてはじめて發挿されるのであ(79)る。
 
從2近江國1上來時、刑部垂麻呂作歌一首
 
近江の國より上り來し時、刑部の垂麻呂の作れる歌一首。
 
【釋】從近江國上來時 アフミノクニヨリノポリコシトキ。次の歌にも同じ句が見え、この句と作者の名との位置が、これとは反對になつている。次の題詞の形が普通で、この方が違例であるが、集中の題詞の書式は、かならずしも統一されていない。歌詞によるに、何かの任にあつて、日限のある旅行をしたものと考えられる。ノボルは、帝都のある大和の國へ行くをいう。
 刑部垂麻呂 オサカベノタリマロ。傳未詳。卷一、七一の作者に忍坂部の乙麻呂という人があつた。刑部、また忍坂部とも書き、同氏である。
 
263 馬ないたく 打ちてな行きそ。
 け竝《なら》べて 見てもわが行く
 志賀《しが》にあらなくに。
 
 馬莫疾《ウマナイタク》 打莫行《ウチテナユキソ》
 氣竝而《ケナラベテ》 見弖毛和我歸《ミテモワガユク》
 志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》
 
【譯】馬をつよく打つて行くな。時間をかけて見て行く、志賀ではないのだ。
【釋】馬莫疾 ウマナイタク。
   ウマナイタク(仙覺)
   ウマナトク(代初書入)
ナは、禁止の助詞と見られるが、次の句にも、ナがあるので問題になる。用言の上に置かれる禁止の助詞ナ(80)は、その用言に密接して置かれるが、その上に體言のある場合には、語勢上はその體言に接續して發聲されるようである。たとえば「吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》」(卷一、七七)の場合は、モノ、ナオモホシではなくて、モノナ、オモホシと、ナの下にちいさい呼吸があると解せられる。この歌の場合は、馬と、イタク打チテと重ねて置かれたので、馬の方にも、ナを附けたものであろう。疾は、禁止のナを修飾する場合は、イタクが多く使用されているから、ここもイタクでよいであろうが、トクとも讀まれる。講義は、集中に形容詞トシの例なしとしているが、「黒玉之《ヌバタマノ》 夜去來者《ヨルサリクレバ》 卷向之《マキムクノ》 川音高之母《カハトタカシモ》 荒足鴨疾《アラシカモトキ》」(卷七、一一〇一)の疾の字の如き、トキと讀むことが自然である。
 打莫行 ウチテナユキソ。ナは禁止の助詞。動詞の上方にあるものは、その動詞の下に、助詞ソを附するを通例とし、また助詞ソのない場合もある。ここは音數の都合上、ソを讀み添える。馬を急ぎ打つて行くことなかれの意。句切。
 氣竝而 ケナラベテ。ケは時間。「氣長妹久《ケナガクイモガ》」(卷一、六〇)、「孤悲之家久《コヒシケク》 氣乃奈我家牟曾《ケノナガケムゾ》」(卷十七、四〇〇六)なせ用例がある。ケナラベテは時を竝べて。幾日も。ケを來經《キヘ》の約言とする説は當らない。二日、三日などいう時のカの、獨立語としての形であろう。
 見弖毛和我歸 ミテモワガユク。次句の志賀に懸かる修飾句。
 志賀尓安良七國 シガニアラナクニ。シガは、近江の國南方の地名。アラナクニは、あらぬことの意。上の時を竝べて見て行くを否定している。
【評語】公務を帶びて往來するものは、その遠近によつて日限が定められていた。この作者は、その制限のもとに旅行しており、せめて今日だけでも琵琶湖の佳景を樂しみたいと思う心を詠んでいる。第二句は、從者などに對して言い懸ける形を採つている。自然を愛する心から、この歌を成している。
 
(81)柿本朝臣人麻呂、從2近江國1上來時、至2宇治河邊1作歌一首
 
柿本の朝臣人麻呂の、近江の國より上り來し時、宇治河の邊に至りて作れる歌一首。
 
【釋】從近江國上來時 前の歌の題詞に同じ。人麻呂が近江の國にあつたことは、既に卷の一、二九の歌に見え、下の二六六の歌にも見える。地方官としてか、その他の役目でかはわからないが、公務を帶びて行つたものと考えられる。
 至宇治河邊 ウヂガハノベニイタリテ。宇治河は、琵琶湖から流出する瀬田川の下流、山城の國の宇治のあたりを流れるをいう。大和と近江との通路に當つている。人麻呂歌集から出た卷の九の一六九九、一七〇〇の二首の題詞にも、宇治河作歌二首とある。
 
264 もののふの 八十氏河《やそうぢがは》の 網代木《あじろぎ》に、
 いさよふ波の 行《ゆ》く方《へ》知らずも。
 
 物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木尓《アジロギニ》
 不知代經浪乃《イサヨフナミノ》 去邊白不母《ユクヘシラズモ》
 
【譯】この宇治川の、網代《あじろ》の料の木に流れ來て躊躇する波の、行く先を知らないことだ。
【釋】物乃部能八十氏河乃 モノノフノヤソウヂガハノ。モノノフノヤソウヂガハは、既出(卷一、五〇)。モノノフは文武の官人。その多數の氏の義により、モノノフノヤソをもつて宇治川の序詞とする。
 阿白木尓 アジロギニ。アジロは、普通、網代の字を當てる。川中に網の形に木竹を編んで立て、その下に簀《す》を當てて魚を捕える漁法。宇治川では、氷魚《ひお》、鮎などを漁する。アジロギは、その網代の料の木材。
 不知代經浪乃 イサヨフナミノ。イサヨフは、猶豫躊躇する意。集中、伊佐欲比、射左欲比、伊佐夜歴、伊佐欲布など書いているので、サの清音であることが知られる。網代木のもとに漂いためらう浪である。
(82) 去邊白不母 ユクヘシラズモ。ユクヘは、行く方。不の字は、助動詞ズに當てていると考えられるが、多くは漢文ふうに動詞の上に書くのに、ここに白不と書いたのは珍しい。この二字で、知ラズの語をあらわしている。モは感動の助詞。この句、上(卷二、一六七)にも出ている。また次の如きも波について語つている。「大伴の三津の濱邊をうちさらし寄り來る波の行く方知らずも」(卷七、一一五一)。
【評語】この歌、人麻呂が川中の波を見て、あとからあとから流れ来て、流れ去つて行く方を知らないのに興を催して、童心に詠んだ作か、または何等かの寓意のある作かということが問題になる。寓意といえば、無常を喩えたものとされる。人麻呂集所出の歌に「卷向《まきむく》の山邊とよみて行く水の水沫《みなわ》の如し、世の人|吾等《われ》は」(卷七、一二六九)の如きもあつて、人麻呂の作品にも、大陸傳來の無常思想が入つていないとはいわれない。無常を詠んだとすれば、沙彌滿誓《さきみまんぜい》の「世の中を何に譬《たと》へむ。朝びらき榜ぎにし船の跡無きが如」(卷三、三五一)の露骨なのに比して、これは含蓄の多い歌い方である。モノノフノ八十氏の序は、宇治河の急流に對して連想のある語であろうが、無常觀を内容とするものとすれば、不似合な詞である。當時人麻呂が無常を感ずべき境涯にいたかということは、下の「淡海の海夕浪千鳥」(二六六)の歌で述べることとする。また人麻呂の作品には、「そこ故に皇子《みこ》の宮人、行く方《ヘ》知らずも」(巻二、一六七)、「埴安《はにやす》の池の堤の隱沼《こもりぬ》の行く方を知らに舍人《とねり》はまとふ」(同、二〇一)の如く、行ク方知ラズの句を、どうしてよいかわからない意に使つている。これによれば、この歌も、イサヨフ浪ノまでは、實景に即した序詞で、悲歎に暮れる心をこれによつて描いたものと解せられる。その意を解せずして雜歌に收めたものと思われるが、しかし前掲の「大伴の三津の濱邊を」の歌もあることとて、今しばらく舊解を存しておく。
 
長忌寸奧麻呂歌一首
 
(83)265 苦しくも 零《ふ》り來る雨か。
 神《みわ》が埼 狹野《さの》のわたりに
 家もあらなくに。
 
 苦毛《クルシクモ》 零來雨可《フリクルアメカ》
 神之埼《ミワガサキ》 狹野乃渡尓《サノノワタリニ》
 家裳不v有國《イヘモアラナクニ》
 
【譯】困つたことに降つて來る雨だな。神《みわ》が埼の佐野の渡りには、家もないのだ。
【釋】苦毛 クルシクモ。クルシは、困苦の状態にいう形容詞。「須敝毛奈久《スベモナク》 久流思伎多婢毛《クルシキタビモ》 許等爾麻左米也母《コトニマサメヤモ》」(卷十五、三七六三)など使用されている。
 零來雨可 フリクルアメカ。カは感動の助詞。カモというに同じ。句切。
 神之埼 ミワガサキ。神は、ミワともカミとも讀む。ミワと讀むのは、大和の大神神社の大神をオホミワと讀み、氏の大神を大三輪とも書く。また土佐國風土記の逸文(萬葉集註釋所引)に「神河、訓(ム)2三輪川(ト)1」とあることによつて證せられる。またカミとも讀まれることは、集中「大埼乃《オホサキノ》 神乃小濱者《カミノヲバマハ》 雖v小《チサケドモ》」(卷六、一〇二三)、「恐耶《カシコキヤ》 神之三坂爾《カミノミサカニ》」(卷九、一八〇〇)、「恐耶《カシコキヤ》 神之渡乃《カミノワタリノ》 敷浪乃《シキナミノ》 寄濱部丹《ヨスルハマベニ》」(卷十三、三三三九)等、地形語に冠せる神之の字は、いずれもカミノと讀むを至當とし、神のいる義に使用されると考えられる。今の歌の場合は、兩樣に讀まれるが、ミワガサキという地名があるというによつて、ミワガサキとして、次句の狹野の渡に固有名詞を冠して、兩者の關係ある地勢にあることを示したものとする。またこの歌は、神のあることには關係のない歌である。但し類似の文字を有する「神前《ミワガサキ》 荒石毛不v所v見《アリハモミエズ》 浪立奴《ナミタチヌ》 從2何處1將v行《イヅクユユカム》 與奇道者無荷《ヨキヂハナシニ》」(卷七、一二二六)の場合は、神のある埼の義とも解せられる。さてこの神が埼は何處であるかというに、大和説と紀伊説とがある。大和ならば、三輪山のあたりとするのであるが、狹野の渡りについては證明がない。紀伊には、今新宮市に三輪崎があり、その隣に佐野という地もある。すこしく南方に過ぎ、當時(84)に旅行する機會のすくない地と思われるが、意吉麻呂がその地に旅行しなかつたという反證はない。
 狹野乃渡尓 サノノワタリニ。狹野は、上記の佐野で、日本書紀、神武天皇紀に「遂に狹野《さの》を越えて、熊野の神の邑《むら》に到ります」とある地であろう。ワタリは、河海の渡るべき場處をいうが、野山についてもいう。陸では、向こうに見渡される處をいう。「大舟の渡《わたり》の山」(卷二、一三五)、「見渡せば近き渡りをたもとほり今や來ますと戀ひつつぞ居る」(卷十一、二三七九)などの例である。ここはいずれにも解せられる。
 家裳不有國 イヘモアラナクニ。アラナクニはあらぬことの意。雨を避くべき家もないのである。「大口能《オホクチノ》 眞神之原爾《マガミガハラニ》 零雪者《フルユキハ》 甚莫零《イタクナフリソ》 家母不v有國《イヘモアラナクニ》」(卷八、一六三六)の歌は、雪について言つている。
【評語】古人の衣服は、植物性であつて、雨に對して反撥力がないので、雨に逢うことを非常に苦しく感じている。雨ヅツミ、雨ザハリなど雨に關していい、濡れた衣服を厭う歌の多いのはこのゆえである。旅中に雨に逢つて困苦しながらこの歌を口ずさんだ作者の生活は味わうべきものがある。歌を樂しむ日本の人々のゆたかな心が窺われる。
 この歌は、藤原の定家の
  駒とめて袖うちはらふ影もなし。佐野のわたりの雪のゆふぐれ(新古今集)
の本歌として有名である。意吉麻呂の作には、實際行路に雨に逢つた困惑があらわれているが、定家のは、さして雪に困つているとも見えない。袖ウチハラフ影などという、やさしいことを云つたためであろう。なお、源の實朝に次の如き一首がある。
  涙こそゆくへも知らね。みわの埼|狹野《さの》のわたりの雨のゆふぐれ(金槐集)
 
柿本朝臣人麻呂歌一首
 
(85)266 淡海の海 夕浪千鳥、
 汝が鳴けば、
 心もしのに いにしへ思ほゆ。
 
 淡海乃海《アフミノウミ》 夕浪千鳥《ユフナミチドリ》
 汝鳴者《ナガナケバ》
 情毛思努尓《ココロモシノニ》 古所v念《イニシヘオモホユ》
 
【譯】琵琶湖上の夕の浪に飛ぶ千鳥よ、そなたが鳴くと、心もなえなえと、亡びはてた大津の宮時代の事が思われる。
【釋】淡海乃海 アフミノウミ。アフミは、文字通り淡海の義で、海の語を含んではいるが、固有名詞となつているので、更にノウミを添えて、その地の湖水、すなわち琵琶湖を表示する。この句は淡海の海のというほどの意味であるが、下のノを省くことによつて、呼格として感動の情を強くする效果を生じている。
 夕浪千鳥 ユフナミチドリ。夕の浪に群れ飛ぶ千鳥というべきを、助詞や動詞を省き、體言を積み重ねている。「濱松之枝《ハママツガエ》」(卷一、三四)、「山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》」(卷二、一五七)、「片山雉《カタヤマキギシ》」(卷十二、三二一〇)などの類はあるが、かように大膽にしかも美しい句を造り成した例はない。チドリは、水邊に群棲する習性を有する一種の鳥をいう。集中、多數の鳥の義にも使用せられるが、ここは特殊の鳥である。この句は、そ(86)の千鳥に呼び懸けた語法。
 汝鳴者 ナガナケバ。ナは第二人稱で、千鳥に對していう。
 情毛思努尓 ココロモシノニ。シノは、萎《シナ》ユの語根と同語。熟語句で、心もなえなえと、心も萎《しお》れるまでにの意を成す。周例は、參考の欄參照。
 古所念 イニシヘオモホユ。イニシヘは、去《い》にし方《へ》の義の語で、遠い古昔の意にも、またわずかに數年前のことにもいう。「古家丹《イニシヘニ》 妹等吾見《イモトワガミシ》 黒玉之《ヌバタマノ》 久漏牛方乎《クロウシガタヲ》 見佐府下《ミレバサブシモ》」(卷九、一七九八、人麻呂集所出)の如きは、自身の過去をいつた例である。人麻呂には、近江の荒れた都を悲傷した歌(卷一、二九)があり、高市の古人《ふるひと》および黒人にも近江の舊都の歌(卷一、三二・三三、卷三、三〇五)があるので、ここのイニシヘオモホユをもつて、近江時代の興亡を追憶したものとするのである。また人麻呂の近江の國から上り來る時の歌(卷三、二六四)には無常觀が詠まれているとして、近江の國に在任の時代に、大和において妻を失い、そのありし日を思つて詠んだかとも考えられる。
【評語】初二句は體言を積み重ねて、情景を描寫している。短小の形式に、多くの内容を盛る有力な手段である。千鳥の聲を聞いて、人麻呂の感慨は、古代の興亡に赴いている。民族の過去を追うところに、彼の歌の民衆的な氣分が充ちている。初二句の大膽な造句は美しいが、圖案的だともいえる。それを受けて汝ガ鳴ケバと千鳥に歌いかけた所に生氣が生じる。千鳥を親しいものとして取り扱つた所にまなぶべきものがある。旅にあつて千鳥のような生物にも呼びかけたい寂寥の感が感じられる。
【参考】換骨奪胎。
  飫宇《おう》の海の河原の千鳥|汝《な》が鳴けばわが佐保《さほ》河の思ほゆらくに(門部の王、卷三、三七一)
    類句、心もしのに。
(87)  夕月夜《ゆふづくよ》心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀《こほろぎ》鳴くも(卷八、一五五二)
  海原の沖つ繩海苔《なはのり》うち靡《なび》き心もしのに思ほゆるかも(卷十二 二七七九)
  (上略)刈薦《かりごも》の心もしのに人知れずもとなぞ戀ふる。氣《いき》の緒《を》にして(卷十三、三二五五)
  あらたまの年かへるまであひ見ねは心もしのに思ほゆるかも(卷十七、三九七九)
  (上略)うちなびく心もしのに其《そこ》をしもうら戀しみと(下略、同、三九九三)
  (上略)雲居《くもゐ》なす心もしのに、立つ霧の思ひすぐさず、ゆく水の音もさやけく、萬代に云ひ繼ぎ行かむ。川し絶えずは(同、四〇〇三)
  夜ぐたちに寐ざめて居れば川瀬|尋《と》め心もしのに鳴く千鳥かも(卷十九、四一四六)
  梅の花|香《か》をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ(卷二十、四五〇〇)
 
志貴皇子御歌一首
 
【釋】志貴皇子 シキノミコ。既出(卷一、五一)。
 
267 むささびは 木末《こぬれ》求むと、
 あしひきの 山の獵夫《さつを》に
 あひにけるかも。
 
 卑佐佐婢波《ムササビハ》 木末求跡《コヌレモトムト》
 足日木乃《アシヒキノ》 山能佐都雄尓《ヤマノサツヲニ》
 相尓來鴨《アヒニケルカモ》
 
【譯】ムササビは、木の若い枝先に餌を得ようとして、かえつて山の獵師に會つてしまつたなあ。
【釋】牟佐々婢波 ムササビハ。ムササビは、森林の中に住む獣類の一で、前肢と後肢との間に皮膜があつて翼の如き用をなし、樹間を飛び渡ることができる。ムササビはこの歌の主格であるが、これをもつて、ある憐(88)むべき者を暗示したと思われる。
 木末求跡 コヌレモトムト。コヌレは、木ノウレの約で、ウレは若く伸びた部分をいう。「※[草がんむり/互]子《はぎ》のうれ」(卷十、二一〇九)、「菱《ひし》のうれ」(卷十六、三八七六)などともいう。生長しつつある樹木について、その若い枝先をいうわけで、樹の末梢には限らない。木末求ムとは、ムササビが木末に餌として小鳥などを求める意である。ムササビは肉食動物で、小鳥や小獣を襲うものである。この歌では、木末をもつて若い婦人の家の譬喩とし、あるムササビの如き者が、盲動せずにおればよいものを、なまなか木末などに食を得ようとしての意に解せられる。もともと暗喩の歌のようであり、譬えている内容は不明であるが、あるいは他の政治上の動作を諷刺したものであるかも知れない。
 足日木乃 アシヒキノ。既出(卷二、一〇七)。山に冠する枕詞。原義未詳。本集には、アシヒキを、足日木、足氷木、足檜木、足檜、蘆檜木、足引、足疾、足病、足曳、惡氷木、その他假字書きにしている。これらの字面に頼つて説を立てるものも多い。大體ヒキを樹木とするか、曳引の意とするかの二つに分かれる。前説ではアシの解に骨が折れる。後説では、山が裾を引いている形體上から冠すという説と、足の病氣で跛足である意で、病のヤマに懸かるという説とある。ヒは清音である。
 山能佐都雄尓 ヤマノサツヲニ。サツヲは獵師。サツは、既出の得物矢《さつや》(卷一、六一)のサツに同じく、動物を支配する威力をサチといい、その他語に接して熟語を作る形である。ヲは男子。サツヒト(獵人)の語も(89)ある。「山邊爾《ヤマノベニ》 射去薩雄者《イユクサツヲハ》 雖2大有1《オホカレド》 山爾文野爾文《ヤマニモノニモ》 沙小壯鹿鳴母《サヲシカナクモ》」(卷十、二一四七)、「山邊庭《ヤマベニハ》 薩雄乃爾良比《サツヲノネラヒ》 恐跡《カシコケド》 小壯鹿鳴成《ヲジカナクナリ》 妻之眼乎欲焉《ツマノメヲホリ》」(同、二一四九)。
 相尓來鴨 アヒニケルカモ。ニケルは助動詞。この句、感動深く言いあらわす語法で、逢つたことを強く表現している。
【評語】雜歌の中に部類されているが、譬喩の氣分が濃厚に感じられる。それは五句の大がかりに感動した云い方などが、それを助けている。もし寓意のある歌とすれば、他人の上を諷したのは本集としては珍しい。その寓意の内容が、婦人に關することにせよ.政治その他に關することにせよ、ムササビに譬えているのは、或る人を憐みかつ嘲る意味のものとして解せられる。しかし單純にムササビの獵人に狩せられたことを燐んだ歌であるかも知れない。
 
長屋王故郷歌一首
 
【釋】長屋王 ナガヤノオホキミ。既出(卷一、七五)。天武天皇の皇孫、高市の皇子の子。天平元年自殺。
 故郷歌 フルサトノウタ。フルサトは、古き都をいう。左註には、明日香から藤原に遷都の後の作かとしている。明日香の里をさして故郷といつていることはあきらかである。
 
268 わが夫子が 古家《ふるへ》の里の 明日香《あすか》には、
 千鳥鳴くなり。
 島待ちかねて。
 
 吾吉子我《ワガセコガ》 古家乃里之《フルヘノサトノ》 明日香庭《アスカニハ》
 乳鳥鳴成《チドリナクナリ》 島待不v得而《シママチカネテ》
 
【譯】あなたの舊宅のある里の明日香では千鳥が鳴いております。あなたがお歸りになつて庭園を作るのを待(90)ちかねて。
【釋】吾背子我 ワガセコガ。ワガセコは、男子に對していうが、その何人をさすか、あきらかでない。
 古家乃里之 フルヘノサトノ。フルヘは、文字通り古い家の義。住み馴れた家で、その家のある里、すなわち明日香の里をいう。「人事乎《ヒトゴトヲ》 繁跡君乎《シゲミトキミヲ》 鶉鳴《ウヅラナク》 人之古家爾《ヒトノフルヘニ》 相語而遣都《カタラヒテヤリツ》」(巻十一、二七九九)。
 明日香庭 アスカニハ。ニハは助詞。明日香の里では。
 乳鳥鳴成 チドリナクナリ。チドリは千鳥。水邊に群棲する鳥で、明日香川にしばしは詠まれている。ナリは、動詞の終止形に接續して強く指示する助動詞。この語の本義は、推定ではない。
 島待不得而 シママチカネテ。
   シママチカネテ(類)
   シママツカネニ(西)
   ――――――――――
   君待不得而《キミマチカネテ》(考)
   師待不得而《キミマチカネテ》(攷)
 句意やや解しがたいので、考には島を君の誤りとしている。しかし講義のいうように島のままで解せられないわけでもない。シマは、林泉、庭園の義のある語で、君が舊宅に歸つて庭園を經營するのを、千鳥は待ちかねて鳴いているというのであろう。この句、第四句の内容を制限し説明している。
【評語】詞句が十分に内容を表現し得ない傾向がある。誤字説のある所以である。作者の享年、績日本紀に四十六歳とし、懷風藻に五十四歳としているが、いずれにしても明日香から藤原に遷都された頃は、若年であり、歌作に練達していなかつたので、かような作を留めたのであろう。作歌の時代は、もつと後であるかもしれないが。
 
右今案、從2明日香1遷2藤原宮1之後、作2此歌1歟。
 
(91)右は、今案ふるに、明日香より藤原の宮に遷りましし後、この歌を作れるか。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。萬葉集の編者の見解である。
 
阿倍女郎屋部坂歌一首
 
阿倍の女郎の、屋部坂の歌一首。
 
【釋】阿倍女郎 アベノヲミナ。阿倍氏は、孝元天皇の皇子|大彦《おおひこ》の命の後、また安倍とも書く。阿倍の女郎は、集中、卷の四にその名が見えて、歌がある。卷の八には、大伴の家持が久邇の京から歌を贈つており(一六三一)、時代が下るので、別人であろうとされる。同人ならば老境に入つてのことである。女郎は、既出(卷二、一〇九)。女子に對する稱號である。
 屋部坂 ヤベサカ。日本後紀、大同元年三月、桓武天皇崩御の條に、天皇龍潜の日の童謠として、「於保美野邇《オホミヤニ》 多太仁武賀倍流《タダニムカヘル》 野倍能佐賀《ヤベノサカ》 伊太久那布美蘇《イタクナフミソ》 都知仁波阿利登毛《ツチニハアリトモ》」の歌を載せている。この大宮ニ直ニ向カヘル野倍ノ坂が、ここにいう屋部坂であろうとされている。一方、三代實録、元慶四年十月の條には、「天武天皇、高市の郡夜部村に遷し立てて、號《なづ》けて高市《たけち》の大官寺といひ、封七百戸を施入したまふ」とあつて、その高市の大官寺は、高市郡飛鳥村の地にあつたので、かの童謠にいう大宮は、藤原の宮であり、それに直ニ向カヘル野倍ノ坂は、この飛鳥村の夜部であろうとされている。
 
269 人見ずは わが袖もちて 隱さむを、
 燒けつつかあらむ。
 著《き》せずて來にけり。
 
 人不v見者《ヒトミズハ》 我袖用手《ワガソデモチテ》 將v隱乎《カクサムヲ》
 所v燒乍可將v有《ヤケツツカアラム》
 不v服而來々《キセズテキニケリ》
 
(92)【譯】人が見ないなら、わたしの袖で隱しましようものを、燒けていることでしよう。著せないで來てしまつた。
【釋】人不見者 ヒトミズハ。ヒトミズハ(類)、シノビニハ(西)、シヌビナバ(考)。仙覺は義訓を下してシノビニハと讀んだが、さように讀むべき必要を見ない。文字通りに讀んで、人が見て居らぬならばと解すべきである。
 我袖用手 ワガソデモチテ。ソデは衣服の手を蔽う部分をいう。
 將隱乎 カクサムヲ。屋部坂を隣んで、袖をもつて隱そうというのは、下句によるに、山が燒けているのに同情したのである。ヲは、何々なるがしかるにの意の用法。
 所燒乍可將有 ヤケツツカアラム。モエツツカアラム(槻)。屋部坂の歌であるから、山が燒けつつあるならむの意に解すべきである。所は被役の用法で、燒かれる意である。所燒乍をモエツツとし、胸の思いの燃えることとする説は、かえつて歌を難解に導くものである。カは疑問の係助詞。句切。
 不服而來々 キセズテキニケリ。
   キズテキニケリ(類)
   キテキザリケリ(童)
   キモセザリケリ(童)
   ――――――――――
   不服而坐來《キズテヲリケリ》(考)
   不服而座來《キズテマシケリ》(槻)
   不服而有來《キズテアリケリ》(檜)
 衣服を著せないで來てしまつたという意で、隱すべき袖のある衣服を著せなかつた意である。著セズという場合には、令の字を書く例であつて、不服のままでキセズと讀むのは異例であるが、歌意を按ずるに、かように讀む以外はなかろう。使役の字を使わないで使役に言つている例には、「妹名根之《イモナネガ》 作服異六《ツクリキセケム》」(卷九、一八〇〇)の如きがある。
(93)【評語】第四句まではよくわかるが、第五句が文字表示不十分で、訓讀に不安の感のあるを免れがたい。類想のない特殊の歌のようでありながら、鑑賞が行き屆き得ないのは惜しいことである。
 
高市連黒人羈旅歌八首
 
高市の連黒人の、※[羈の馬が奇]旅の歌八首。
 
【釋】高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。既出(卷一、三二)。長の意吉麻呂と時代を等しくした、すぐれた歌人である。
 
羈旅歌八首 タビノウタヤツ。既出(卷三、二四九)。この八首は、櫻田、年魚市潟、四極山、笠縫の島、近江の海、枚《ひら》の湖、高島の勝野の原、三河の二見、山背の高《たか》等の地名を含んでおり、これらの地名は、數地方にわたると見られるので、自然一度の旅行の作でないことが知られる。そのうち近江の國の地名を含む歌が三首あるのは、或るいは同一の旅行の作ででもあろう。
 
270 旅にして 惣|戀《こほ》しきに、
 山下《やました》の 赤《あけ》のそほ船《ぶね》
 沖に榜《こ》ぐ見ゆ。
 
 客爲而《タビニシテ》 物戀敷尓《モノコホシキニ》
 山下《ヤマシタノ》 赤乃曾保船《アケノソホブネ》
 奧榜所v見《オキニコグミユ》
 
【譯】旅にあつて何かにつけて戀しく思われるのに、おりしも沖の方を、赤く塗つた大きな役所の船の漕いで行くのが見える。
【釋】客爲而物戀敷尓 タビニシテモノコホシキニ。既出(巻一、六七)。タビニシテは、旅先にありての意。モノは、ある物の意をあらわす。何につけても、何とはなしにの意。モノ悲シ、モノ寂シなど、すずろに萬物(94)につけて悲しく、またはさびしく思われるのである。モノ戀シもその類で、旅に出ているので、心情慰めがたく、ただ人戀しく家戀しく思われるのである。コホシは古い形。「君が目の枯〓之伎《コホシキ》からに」(日本書紀一二〇)。
 山下 ヤマシタノ。枕詞。赤を修飾する(宣長の説)。語意はなお未詳のところがある。宣長は朝備《あしたび》で、秋山の紅葉を、朝空の赤きに譬えたのであると云つている。語例を求めれば、古事記に「秋山|下氷壯夫《したびをとこ》」があり、本集には「秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》(卷二、二一七)、「鶯の來鳴く春べは、巖は山下|耀《ひか》り、錦成《にしきな》す花咲きををり」(卷六、一〇五三)、「秋山の舌日《したび》が下に鳴く鳥」(卷十、二二三九)、「あしひきの山下光る黄葉《もみちば》の」(卷十五、三七〇〇)等がある。以上の例を見るに、卷の十の舌日と書いたのは借字であろうが、その他にすべて下の字を書いたのは、やはりこの字固有の意義を含むものと見てよいであろう。以上のほかに、「山下とよみ」「山下|羅《ひかげ》」「山下|影日賣《かげひめ》」の如き山の下方と解すべき例もあつて、區別する必要がないのかも知れぬ。すなわち山の下の方は、黄葉の色も美しく殘るので、赤の枕詞としたものであろう。シタビのビは、方、邊の意で濱備《ほまび》の例がある。しかし「秋山の下部留妹《したぶるいも》」のシタブルを、その活用とせねばならぬが、本來體言から出發した語であるべきことだけは見當がつく。なお後考を要する語である。山の下方で、アケノソホ船の位置を示すとする説もあるが、それでは、五句の沖ニ榜グとの關係が解決しがたい。山下であり、かつ沖であるという二重の存在は無理である。
 赤乃曾保船 アケノソホブネ。アケは、赤の名詞形で、高についてタケ、深についてフケという類である。ソホは赤い染料の土。「眞金吹《まがねふ》く丹生《にふ》の眞赭土《まそほ》の色に出て」(卷十四、三五六〇)。ソホ船は、赤く塗つた船で、「そほ船の艫《とも》にも舳《へ》にも」(卷十、二〇八九)ともあつて、ソホ船だけで、赤く塗つた船をあらわしている。これにアケノを冠したのは、赤い色の印象を強くするために添えたのである。赤く塗るのは、魔よけの意味から出ており、當時官船を赤く塗つた。普通の船に比して、大きく、整つた感じを含んでいる。これについては、(95)「沖ゆくや赤ら小船《をぶね》に裹《つと》やらば」(卷十六、三八六八)とあり、この赤ら小船は、官船を詠んでいる。なお「引き登る赤《あけ》のそほ船、そほ船に綱《つな》取り繋《か》け」(卷十三、三三〇〇)、そのほか「さ丹塗《にぬり》の小船」などの語がある。
 奧榜所見 オキニコグミユ。オキニコグは、沖の方にて漕いでいる意で、終止形。それが見えるというのである。見ユ(卷三、二五六)參照。
【評語】赤ノソホ船は美しい語である。その語の表現するところは官船であつて、自然官人も乘つているであろう。都から來た船か、都へ行く船か、この歌では説明していないが、作者の旅情に刺戟を與えて、悠々と沖を榜いでいる。作者は岸邊を通行しているか、客館にいるかであろうが、ここに旅寢して、物戀しさに堪えやらぬ人があるとも、知らず顔に、官船が榜いでいる。目前の景を敍して、深い旅情を寫している。沖邊に官船の行くのを見ると、大和が思われるというのは、常套な手法であるが、沖ニ榜グ見ユと留めたところにいいしれぬ深さが感じられる。描寫のたしかなことは、この作者の有する特色である。
 
271 櫻田へ 鶴《たづ》鳴きわたる。
 年魚市潟《あゆちがた》 潮《しほ》干《ひ》にけらし。
 鶴《たづ》鳴きわたる
 
 櫻田部《サクラダヘ》 鶴鳴渡《タヅナキワタル》
 年魚市方《アユチガタ》 鹽干二家良進《シホヒニケラシ》
 鶴鳴渡《タヅナキワタル》
 
【譯】櫻田へ鶴が鳴いて渡る。年魚市潟の潮が干たそうな。鶴が鳴いて渡る。
【釋】櫻田部 サクラダヘ。櫻田は、年魚市潟に臨んでいる一の地名。倭名類聚鈔に、尾張の國愛智郡|作良《さくら》とある。今、愛知縣愛知郡に屬している。その地の田であろうという。しかしここでは、櫻田が地名で、田のことは歌の内容には關係はない。
 鶴鳴渡 タヅナキワタル。鶴は歌語にはタヅという。潮の干た方へ鳴いて渡るので、餌を求めて移動するの(96)である。句切。
 年魚市方 アユチガタ。年魚市は地名。この地のこと、日本書紀に、「尾張國吾湯市村《ヲハリノクニノアユチノムラ》」(卷一)、「尾張國年魚市郡熱田社《ヲハリノクニノアユチノコホリノアツタノヤシロ》」(卷七)とある。その地の潟である。今日の名古屋灣、熱田《あつた》附近の海をいう。往時は、海がもつと入り込んでいたといわれる。カタは、海中の淺い洲をいう。潮干れば現われ、潮滿てば隱れるほどの地形。「年魚市潟《あゆちがた》潮干にけらし。知多《ちた》の浦に朝榜ぐ船も沖に寄る見ゆ」(卷七、一一六三)。
 鹽干二家良之 シホヒニケラシ。シホは潮汐。ニケラシは、助動詞。ニは強意に使用する完了の助動詞。ケラシは、ケルラシの約言とされているが、このケは、おそらくは、ケム、ケリのケで、ケルラシを經ていないのだろう。ケルラシの文獻のないことが、このような考えかたを證するようである。潮が乾たらしいと確かな推量を下している。
【評語】櫻田も年魚市潟も美しい地名である。この用語の美しさが、前の歌におけると同樣に、この歌の美しさを助けている。また二句と五句とに同じ句を用いたのも音樂的である。この形の歌は、卷の一、五五に出しておいた。この歌は、二句、四句、五句の三段に切れ、短い文の連續から成つているので、齒切れがよい。内容は、かの赤人の「若の浦に潮滿ち來れば潟《かた》を無《な》み葦邊をさして鶴《たづ》鳴き渡る」(卷六、九一九)の反對に、潮の干たのを歌つている。潮の淺い處に餌を求めて渡る鶴の習性をよく描いている。
 
272 四極山《しはつやま》 うち越え見れば、
 笠縫の 島|榜《こ》ぎかくる。
 棚無し小船《をぶね》。
 
 四極山《シハツヤマ》 打越見者《ウチコエミレバ》
 笠縫之《カサヌヒノ》 島榜隱《シマコギカクル》
 棚無小船《タナナシヲブネ》
 
【譯】四極《しはつ》山を越えて見ると、笠縫の島を榜ぎ隱れるちいさい舟が見える。
(97)【釋】四極山 シハツヤマ。攝津の國とも參河の國ともいう。日本書紀の雄略天皇の卷に「呉《くれ》の客の道のために、磯齒津路《しはつぢ》を通じ、呉坂《くれさか》と名づく」とあり、本集にも「茅渟《ちぬ》みより雨ぞ降り來る、四八津《しはつ》の海人《あま》網手綱《あみたづな》乾《ほ》せり、濡れあへむかも」(卷六、九九九)があるによれば、攝津の國であり、その地の山とされる。また參河の國とするのは、倭名類聚鈔に、參河の國|幡豆《はづ》郡磯伯、之波止《しはと》とあつて、伯は泊の誤りであろうとする。しかし笠縫の島は、難波に縁があり、攝津の國とすべきが如くである。
 打越見者 ウチコエミレバ。ウチは接頭語として使用された動詞。意味はない。
 笠縫之島榜隱 カサヌヒノシマコギカクル。笠經の島は、延喜式の内匠寮の式に、「御輿《みこし》の中子《なかご》の菅蓋《すげがさ》一具菅の骨并はせて料材は、攝津の國より笠縫氏參來て作る」とあるにより、攝津の國に笠縫氏があつて、その本居で、昔その名の島があつたとしている。難波は菅の産地として知られ、本集にも難波菅笠など見えている。菅で笠を作ることを笠を縫うという。「眞野《まの》の池の小菅《こすげ》を笠に繼《つ》がずして」(卷十一、二七七二)など見えている。その島に榜ぎ隱れる船を詠んでいるので、コギカクルは終止形で、ここで文が切れる。
 棚無小船 タナナシヲブネ。既出(卷一、五八)。それも黒人の歌であつた。※[木+世]《ふなだな》のないような小さな舟。粗末な舟である。島榜ギ隱ルの主格を提示する。
【評語】極めて靜かな海上を望見した歌である。縫經の島というは、結局菅の生えているような低い島を感じさせる。その島に榜ぎ隱れる棚なし小舟という、粗末な舟を點出して風光を生かして來る。勿論その舟に棚のありなしを見究めたわけではない。ただ粗末な小舟の感じを、この語で表現したのである。これがしはつ山ぶりとして歌いものに殘つたのは、平安時代人の靜寂な好みに合うものがあつたためであろう。また難波あたりのあそびめが唱い傳えたのかも知れない。
【參考】別傳、しはつ山ぶり。
(98)  しはつ山うち出て見れば笠ゆひの島こぎかくるたななし小舟(古今和歌集、卷二十)
 
273 礒の崎 榜《こ》ぎ廻《た》み行けば、
 近江《あふみ》の海 八十《やそ》の湊に
 鵠《たづ》多《さは》に鳴く。
 
 礒前《イソノサキ》 榜手廻行者《コギタミユケバ》
 近江海《アフミノミ》 八十之湊尓《ヤソノミナトニ》
 鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》
 
【譯】礒の岬を傍いで廻つて行くと、琵琶湖の方々の湊に鶴がたくさんに鳴いている。
【釋】礒前 イソノサキ。イソは、石の多い處をいう。「礒の上に生ふる馬酔木《あしび》を手折《たを》らめど」(卷二、一六六)など、もとかならずしも水邊に限らなかつたようであるが、後、主として水邊群石の地にいうようになつた。サキは岬角、突出せる地形。ここは埼であり礒である地形をいう。
 榜手廻行者 コギタミユケバ。タミは、めぐる、迂廻する。この句で、作者の船の、外海へと礒の岬角を廻つて移動して行くことを敍している。
 近江海 アフミノウミ。既出(卷三、二六六)。琵琶湖のこと。近江の文字は、奈良時代の初めに、地名に好字を當てるに及んで使用したもの。本來、近江の海の礒の埼を漕いで廻つて行けばと、歌全體を總括すべき句であるが、内容上八十の湊の近くに附けておく必要があるので、此處に入れたのである。これによつて、礒の埼を栲ぎ廻み行つた結果として、以下の句によつて表示される景が展開したことを示すのである。
 八十之湊尓 ヤソノミナトニ。ヤソは多數をいう。八十の實敷には拘泥しない。ミナトは、元來水門の義で、兩方から陸地が出て、門戸のような形をしているところをいう。河口、江口、灣口などの謂である。そういう水門の中は舟泊に適するので、水上からいう語として、ミナトを港灣の意とするのである。湊は輻湊の義の字であるが、船の集まる處として、ミナトの語に當てている。琵琶湖には、さような水門が多いというところか(99)ら、この句が生まれている。なお「近江之海《アフミノウミ》 湘者八十《ミナトハヤソチ》 何爾加《イヅクニカ》 君之舟泊《キミガフネハテ》 草結兼《クサムスビケム》」(卷七、一一六九)、「近江之海《アフミノウミ》 泊八十有《トマリヤソアリ》 八十島之《ヤソシマノ》 島之埼耶伎《シマノサキザキ》」(卷十三、三二三九)などの例がある。この八十の湊を、特定の地名とする解があるが僻説である。
 鵠佐波二鳴 タヅサハニナク。鵠は、本來鶴とは違う鳥であるが、上代には、ツルをも、クグイをも、コウノトリをも通じて、タヅと呼んだのである。足の長い大きな水禽の総名と心得てよい。多に鳴くのは、たくさんいて鳴くことである。事實としては、かならずしも鶴に限らぬのであるが、その多種の水禽の代表として形の大きな鶴を點出したので、貴が生きている。同じ水鳥でも、ここでは、千鳥しば鳴くの如きでは、歌がらが非常にちいさくなるのである。
【評語】礒の突角を漕いで廻つて行くにつれて、眼界が開けて、湖上の大觀が視野にはいつて來た景が、巧みに描かれている。殊に八十の湊とあちこちの水門が見え、それに鶴のような大きな鳥が澤山いて鳴いていることを云つている。讀んでいて胸も開けるような大景が歌われている。同じ作者に「住吉《すみのえ》の榎名津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ出づる船人《ふなびと》」(卷三、二八三)というのがあつて、これも大阪灣の眺望の大景を詠んでいるが、この近江の海の歌の方が、作者の位置の動くにつれて、景の開けることが歌われ、かつそれに鶴を配したのが動的で、いかにもおもしろい。
 
274 わが船は 比良の水門《みなと》に 榜《こ》ぎ泊《は》てむ。
 沖へな放《さか》り さ夜《よ》更《ふ》けにけり。
 
 吾船者《ワガフネハ》 枚乃湖尓《ヒラノミナトニ》 榜將v泊《コギハテム》
 奧部莫避《オキヘナサカリ》
 左夜深去來《サヨフケニケリ》
 
【譯】わたしの乘つている舟は、枚《ひら》の水門に榜いで留りましよう。沖へ行かないようにしてください。夜も更(100)けました。
【釋】吾船者 ワガフネは。作者は、湖上を舟行している。わが船は、自分の乘つている船をいう。
 枚乃湖尓 ヒラノミナトニ。ヒラは普通比良と書く。比良は、近江の國の滋賀郡の地名。琵琶湖の西岸に當る。今山に比良の名を留めている。その地の水門にである。滋賀郡の木戸の灣、大谷川、比良川の河口などをいうのであろう。
 榜將泊 コギハテム。ハテムは、動詞ハツの未然形に助動詞ムの接續したものである。ハツは、終る、泊る、停るの意。句切。
 奧部莫避 オキヘナサカリ。ナは、なかれの意の助詞。サカリは離るの意の連用形。船人に命じた云い方である。句切。
 左夜深去來 サヨフケニケリ。サは接頭語。フケは、夜の深くなる意。ニケリは助動詞。夜が深くなつてしまつたの意。
【評語】舟行の人は、夕方になると、船を岸邊に停めて假泊する。今や日が暮れて、水上は漸く闇黒に包まれて行く。船人はむしろ平氣で豫定の地へ船を進めているが、舟客は旅の心ぼそさが募るばかりである。そこで船人に告げて早く船を岸邊に寄せさせようとする。その旅情がこの歌を成している。短文を重ねて、船人に命ずる氣分をよく出している。
【參考】類歌。
  わが船は明石の湖《みと》に榜《こ》ぎ泊《は》てむ。沖へな放《さか》り。さ夜|更《ふ》けにけり(卷七、一二二九)
   類想。
  夏麻《なつそ》引《ひ》く海上潟《うなかみがた》の沖つ洲《す》に船は留めむ。さ夜更けにけり(巻十四、三三四八)
 
(101)275 何處《いづく》にか われは宿らむ。
 高島の 勝野《かちの》の原に
 この日暮れなば。
 
 何處《イヅクニカ》 吾將v宿《ワレハヤドラム》
 高島乃《タカシマノ》 勝野原尓《カチノノハラニ》
 此日暮去者《コノヒクレナバ》
 
【譯】どこに自分は宿ろうか。高島の勝野の原に、この日が暮れたならば。
【釋】何處 イヅクニカ。イヅクニ(槻)、イヅクニカ(略)。ニカは助詞。文字はないが、讀み添えている。
 吾將宿 ワレハヤドラム。旅の宿りをしようの意。假廬を作ることにも、民家に宿を借りることにも、また野宿をすることにもいう。ここはいずれであるかわからない。三句以下の内容によれは、山野に假寐をする意であるようだ。
 高島乃勝野原尓 タカシマノカチノノハラニ。高島の勝野は、琵琶湖の西岸の地名。比良より北方である。高島は大地名。そのうちの勝野の原である。當時この地方は、樹海ともいうべき状態であつたらしい。行けども行けどもはてのない感じが、この地名で出ているであろう。
 此日暮去者 コノヒクレナバ。コノヒは、今日の日を指示している。そのまだ暮れやらぬ日について、この句を成している。未然の條件法で、初二句の内容の理由を語つている。
【評語】當代の旅行は、後世に比して困難が多かつたが、宿處の乏しいのは、その最とすべきものであろう。旅に行き暮れて宿を求めがたい心細さは、けだし今日の人の想像以上のものがあつたであろう。
【参考】類想。
  しなが鳥|猪名野《ゐなの》を來れは有間山夕霧立ちぬ。宿《やどり》は無くて(卷七、一一四〇)
 
(102)276 妹も吾も 一つなれかも、
 三河なる 二見の道ゆ
 別れかねつる。
 
 妹母吾母《イモモワレモ》 一有加母《ヒトツナレカモ》
 三河有《ミカハナル》 二見自v道《フタミノミチユ》
 別不v勝鶴《ワカレカネツル》
 
【譯】あなたもわたしも一身であればか、この三河の二見の道から別れかねたことだ。
【釋】妹母我母 イモモワレモ。題詞はないが、歌意から見て、作者が、その妻に對して與えた歌であることが知られる。ここに妹というは、その妻である。
 一有加母 ヒトツナレカモ。兩人でありながら、一體であるかと疑つている。ナレカモは、已然條件法。ナレバカの意。カモは疑問の係助詞で、五句に對して懸かつている。
 三河有 ミカハナル。三河は、次句の二見に冠する地名として、國名とすべきであろう。「三川之《ミツカハノ》 淵瀬物不v落《フチセモオチズ》 左提刺爾《サデサスニ》 衣手潮《コロモデヌレヌ》 干兒波無爾《ホスコハナシニ》」(卷九、一七一七)の三河は、河川の名と考えられるが、それでは二見に冠するに不似合である。
 二見自道 フタミノミチユ。二見は地名であろうが、所在未詳。ミチユは、二見の道を通つての意。
 別不勝鶴 ワカレカネツル。カネは、できにくい意の助動詞。ツルは、完了の助動詞。上の係助詞カモを受けて、連體形をもつて結んでいる。
【評語】多分地方官として任地にあり、公務を帶びて旅行をするので妻と別れることがあつたのであろう。次の歌によれは、妻も別れて旅行をするようである。ある處まで送つて來たものであろう。次の一本の歌は、この歌に對する妻の答歌と見られる。この歌は、一つ、三河、二見と數字を重ねて縁語としている。妻に與える歌であるので、輕い諧謔の氣もちをこれで表現している。自然觀照にすぐれている作家として知られるこの人(103)に、かような技巧的な歌のあるのは愉快である。またこの時代に、かような歌があるのは、長《なが》の意吉麻呂《おきまろ》の奇巧の歌と併わせて、歌の歴史の上からも興味のあることである。日本の歌の、あかるい好笑的な方向を受け繼ぐものとして注意される作である。趣は變わるが、數字を多く詠み入れた歌としては「一二の目のみにあらず、五六三四さへありけり。雙六《すぐろく》の采《さえ》」(卷十六、三八二七)や、また歌の内容ではないが、文字に數字を多く使用して書いた「言云者《コトニイヘバ》 三々二田八酢四《ミミニタヤスシ》 小九毛《スクナクモ》 心中二《ココロノウチニ》 我念勿奈九二《ワガオモハナクニ》」(卷十一、二五八一)、また望月《もちづき》を三五月と書き、ククリを八十一里と書いたものと併わせて、數字に對する古人の興味が窺われる。
 
一本云、
 
水河乃《ミカハノ》 二見之自v道《フタミノミチユ》 別者《ワカレナバ》 吾勢毛吾文《ワガセモワレモ》 獨可文將v去《ヒトリカモユカム》
 
一本に云ふ、
 
三河の 二見の道ゆ 別れなは、わが夫《せ》も吾《われ》も 獨かも行かむ。
 
【譯】三河の二見の道を通つて別れましたならば、あなたもわたくしも、ひとりでか行くでございましよう。
【釋】一本云 アルマキニイフ。一本は、他の資料を指すことと思われるが、歌の内容から見れば、前の歌に對する黒人の妻の答歌である。別の資料には、この歌を載せており、それによつてこれを補つたものであろう。
水河乃二見之自道 ミカハノフタミノミチユ。前の歌の初二句を採つている。答歌の常型である。
 吾勢毛吾文 ワガセモワレモ。前の歌の妹モ吾モを、形を變えて出している。
 獨可文將去 ヒトリカモユカム。前の歌の一ツナレカモを受けている。カモは、疑問の係助詞。ひとりになつてか行くであろうと推量している。
(104)【評語】前の歌を受けてやはり、三河、二見、一人ということを興味の中心としている。しかし前の歌には獨創があり、これはそれを受けているのはやむを得ない。黒人の妻は、傳記未詳である。黒人は、その妻を任地に伴なつていたであろう。「吾妹子に猪名野《ゐなの》は見せつ」(卷三、二七九)、「いざ子ども大和へ早く」(同、二八〇)の答歌など、その趣である。
 
277 疾《と》く來ても 見てましものを。
 山城の 高の槻村《つきむら》
 散りにけるかも。
 
 速來而母《トクキテモ》 見手益物乎《ミテマシモノヲ》
 山背《ヤマシロノ》 高槻村《タカノツキムラ》
 散去奚留鴨《チリニケルカモ》
 
【譯】早く來て見たらよかつたものを。山城の國の高の地の槻の木の群は、皆葉が散つてしまつたことだ。
【釋】速來而母 トクキテモ。トクは、早く、これより前に。
 見手益物乎 ミテマシモノヲ。テは完了の助動詞から出て、強意に使用される。マシは不可能の希望の助動詞。その連體形で、モノに接續している。モノヲは、何々である、しかるにの意をあらわしている。
 山背 ヤマシロノ。山背は國名。次句に冠している。ここにこの語を冠したのは、他國から越えて來たことを示すもので、差別性を語つている。
 高槻村 タカノツキムラ。タカは、生田耕一氏の説によつて、地名とすべきである。その地は山城の國、綴喜《つづき》郡の多賀《たか》郷の地であるとされている。從來、山城の高槻の村として地名としていた。また木立の高い槻の群とも解せられるが、なお地名とするがおだやかであろう。槻は、欅《けやき》の一種であるが、本集の用語は、總稱にいうのであつて、狹義の槻に限定されない。槻も黄葉すれば美しい。殊に高大な木の群立であるから、その黄葉も美しかつたであろう。
(105) 散去奚留鴨 チリニケルカモ。散つたことを感嘆した云い方。
【評語】早く來て見たかつたものをというのは、滿地に錦を敷いた黄葉に感嘆したのである。旅行く人としても、自然を愛することを忘れなかつた。その精神生活は、味わうべきものがある。
 
石川少郎歌一首
 
【釋】石川少郎 イシカハノセウラウ。左註にあるように、石川の君子であろう。君子は、既出(二四七左註)。神龜年間に大宰の少貳となつているから、その縁でこの志可の海人の歌を作つたのであろう。少郎は、左註に、君子は號を少郎子と云つたとある。ここに號というのはいかなる性質のものとも知られないが、唐風の號の謂であるかとも見られる。それならば字音に讀んでよいであろう。訓讀ならば、ヲトコかワクゴかであるが、果していずれであるかを知らない。
 
278 志可《しか》の海人《あま》は、
 軍布《め》刈り鹽燒き 暇《いとま》無《な》み
 櫛梳《くしげ》の小櫛《をぐし》 取りも見なくに。
 
 然之海人者《シカノアマハ》
 軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》 無v暇《イトマナミ》
 髪梳乃少櫛《クシゲノヲグシ》 取毛不v見久尓《トリモミナクニ》
 
【譯】志可の島の海人は、海藻を刈つたり鹽を燒いたりして暇がないので、櫛笥の中の櫛を手に取つて見ないことだ。
【釋】然之海人者 シカノアマは。シカは地名。複岡縣、博多灣の灣頭にある志可の地と考えられる。この地は、北九州方面に旅行する人の詠にしばしばはいつている。舟行の人の定まつて船がかりをする處であるからであろう。アマは、漁業をする人であるが、この歌では、その女子を指している。
(106) 軍布苅鹽燒 メカリシホヤキ。メカリとシホヤキと二つを擧げて、海人の業の代表としている。軍布は、海藻をいうと思われるが、軍布と書く所以はわからない。代匠記に、軍は昆に通じて昆布かといい、攷證に、軍は葷に通じ臭菜の義としている。布は、和布《にぎめ》、荒布《あらめ》など、海藻類に使用する字である。布の連想があつて、幅のある海藻の謂である。軍布をメと讀むのは、他の文字の讀法が、カリシホヤキと讀むほかはないので、この字に對して、ただ一音が當てられてメと讀むほかはないことが知られる。メカリは、若布を刈るをいい、玉藻刈るなどの語で、多く表現されている。鹽燒くは、既出(卷一、五)。
 無暇 イトマナミ。イトマは間暇。暇がなくして。
 髪梳乃少櫛 クシゲノヲグシ。カミケツリノヲクシ(類)、ツゲノヲグシヲ(西)、クシケノヲゲシ(細)、クシノヲグシ(代匠記)、ユスルノヲゲシ(田中道麿)、カミスキノヲグシ(新訓)、ケヅリノヲグシ(講義)等の諸訓がある。髪梳は、髪を梳る義で、小l櫛を修飾している。今義をもつてクシゲと讀むによる。櫛笥の義である。クシラノヲグシと讀むのは、仙覺の新點であるが、その根據とするところは、大隅國風土記の逸文(萬葉集註釋所引)に「大隅の郡|串卜《くしら》の郷、昔《むかし》國造らしし神、使者《つかひ》を勒《うなが》してこの村に遣はし、消息《ありかた》を見しめたまひしに、使者報道して髪梳《くしら》の神ありとまをししかば、髪梳の村と謂ふべしとのりたまひき。因りて久四良《くしら》の郷と曰へり。【髪梳は、隼人の俗語に、久四良、今改めて串卜の郷といへり。】」とあるによつて、ここに隼人の俗語に、髪梳をクシラというとするのである。かような隼人の俗語が、この歌に使用されているとするは、疑問である。また奈良縣南葛城郡葛城山の東麓大正村に字|櫛羅《くしら》があり、櫛羅神社もあるが、このクシラは、櫛卜でクシによる占いの義であろう。講義にケヅリノヲグシと讀んでいるのは、倭名類聚鈔などの古い辭書に、梳にケヅルの訓があるによる。但しケヅリというは、けずつた物をいうが如く、けずることをいうとすることは、まだ文證を得ない。句意は、頭髪を梳くに使用する櫛で、ヲは美稱の接頭語である。
(107) 取毛不見久爾 トリモミナクニ。トリは、手にすること。ミナクニは、見ないことの意。櫛を手にしないのは、容《かたち》づくらぬことをいう。
【評語】志可の海人の孃子が勞働に從事して、容姿を繕《つくろ》わぬことを詠んでいる。たまたま海人を見てかような歌を詠んだか、また海人に代わつて、自分が容づくらぬことを辯解したものとも取れる。非常に調子のよい歌である。二句から三句にかかる邊に滑らかな移りが感じられる。詞句の音韻も調子がよい。
 
右今案、石川朝臣君子、號曰2少都子1也。
 
右は、今案ふるに、石川の朝臣君子、號《な》を少都子と曰へり。
 
【釋】右今案 ミギハイマカムガフルニ。題詞の石川の少郎とあるについての編者の考證である。資料としたものに石川の少郎とあつたことが知られる。
 
高市連黒人歌二首
 
279 吾妹子に 猪名野は見せつ。
 名次《なすき》山 角の松原
 いつか示さむ。
 
 吾妹兒二《ワギモコニ》 猪名野者令v見都《ヰナノヌハミセツ》
 名次山《ナスキヤマ》 角松原《ツノノマツバラ》
 何時可將v示《イツカシメサム》
 
【譯】あなたに猪名野は見せた。名次山や角の松原は、何時見せられるだろう。
【釋】吾妹兒二 ワギモコニ。妻に對して歌つていると考えられるので、ここにワギモコというは、妻をさしていることが知られる。
(108) 猪名野者令見都 ヰナノハミセツ。猪名野は、今兵庫縣川邊郡に屬し、伊丹市の西に稻見の名を留めている。往時大原野であつたと思われる。「志長鳥《シナガドリ》 居名野乎來者《ヰナノヲクレバ》 有間山《アリマヤマ》 夕霧立《ユフギリタチヌ》 宿者無而《ヤドリハナクテ》」(卷七、一一四〇)の歌は有間山への途中であつたことを語つている。ミセツは見しめたの意。ミセは使役の他動詞。「吾欲之《ワガホリシ》 野島波見世追《ノジマハミセツ》」(卷一、一二)のミセツに同じ。妻を伴なつて猪名野に到つたことが知られる。句切。
 名次山 ナスキヤマ。延喜式神名に攝津の國武庫郡に名次《なすき》神社があり、今、廣田神社の攝杜《せつしや》として廣田神社の西にありという。その神社の所在の丘をいうのであろう。また住吉大社神代記には「明石郡|魚次《なすき》濱一處」とあり、その記事によるに、藤江の濱のことである。歌意からいえば、この方が當つているようである。
 角松原 ツノノマツバラ。所在未詳。兵庫縣西宮市今津町附近の津門《つと》であろうという説があるが、從いがたい。しかし名次山附近の海岸または川岸などに求むべきであろう。以上二句は竝立格で、好風景の地として擧げられたものであろう。
 何時可將示 イツカシメサム。いずれの時か妻を同伴して見せることが出來るだろうというのである。
【評語】猪名野まで妻を伴なつて行つたらしい。それは前の事か今の事かわからないが、名次山、角の松原には伴なう機會を得ないことを遺憾としている。情熱の歌ではないが、人生の同伴たる妻に對する愛情の窺われる歌である。
 
280 いざ兒《こ》ども 大和へ早く、
 白菅《しらすげ》の 眞野《まの》の榛原《はりはら》
 手折《たを》りて行かむ。
 
 去來兒等《イザコドモ》 倭部早《ヤマトヘハヤク》
 白菅乃《シラスゲノ》 眞野乃榛原《マノノハリハラ》
 手折而將v歸《タヲリテユカム》
 
【譯】さあ皆の衆、大和へ早く行こうよ。白菅の生えている眞野のハギ原のハギの花を手折つて行こうよ。
(109)【釋】去來兒等 イザコドモ。既出(卷一、六三)。イザは人を誘う詞。コドモは、部下從人等をいう。
 倭部早 ヤマトヘハヤク。ヤマトは大和の國。ハヤクの下に行かむの語が省略されている。五句に續けないで、此處で句切と見るべきである。
 白菅乃 シラスゲノ。シラスゲは地名説もあるが、植物と見るべきである。白菅はカヤツリグサ科の草本植物で、水邊濕地に自生し、高さ一尺ぐらいで莖葉柔軟である。その白菅の生える意に、次の句に懸かる。「白菅の眞野の榛原《はりはら》心ゆも思はぬ吾し衣に摺《す》りつ」(卷七、一三五四)、また「眞野の池の小菅を笠に繼《つ》がずして」(卷十一、二七七二)とあるも白菅であろう。
 眞野乃榛原 マノノハリハラ。眞野は、諸國に同名の地があるが、前の歌に攝津の國の地名が詠まれており、それと關聯あるものとせば、その國の西邊、今神戸市長田區に眞野町の名が殘つて居る地であろう。その地にはもと池もあつたといわれ、眞野の池と詠まれている例歌にもよく適う。この歌は、その眞野より西方で詠まれたことになる。榛原は既出(卷一、五七)。ハリハラと讀み、ハギの原と解すべきである。ハンノ木では手折リテ行カムが情趣を成さない。
 手折而將歸 タヲリテユカム。榛原を受けているが、眞野のハギ原で、ハギの花を手折つて行こうの意である。
【評語】時しも秋を迎えて、戀しい大和へ、樂しい旅に出で立とうとする心が詠まれている。この歌にも白菅の眞野の榛原という美しい地名があり、その名によつて、その他の好風光が思い出されている。
 
黒人妻答歌一首
 
【釋】黒人妻 クロヒトガメノ。黒人の妻は、いかなる人とも知られない。夫に伴なつてその任地にあつたと(110)考えられるだけである。
 
281 白菅の 眞野《まの》の榛原、
 往《ゆ》くさ來《く》さ 君こそ見らめ。
 眞野の榛原
 
 白管乃《シラスゲノ》 眞野之榛原《マノノハリハラ》
 往左來左《ユクサクサ》 君社見良目《キミコソミラメ》
 眞野之榛原《マノノハリハラ》
 
【譯】白菅の生えている眞野のはぎ原は、行く途にも歸る途にも、あなたが御覽になることでしよう。あの眞野のはぎ原は。
【釋】白菅乃眞野之榛原 シラスゲノマノノハリハラ。黒人の歌の句を取つている。その野に呼びかけた語法である。
 往左來左 ユクサクサ。假字書きの例には、「由久左久佐《ユクサクサ》 都々牟許等奈久《ツツムコトナク》 布禰波波夜家無《フネハハヤケム》」(卷二十、四五一四)がある。このサは、サマ(方向)の義であり、「往方毛來方毛《ユクサモクサモ》 舶之早兼《フネノハヤケム》(卷九、一七八四)は、サに方の字を當てている。ユクサは行く方向、クサは來る方向で、それぞれの途中の意をあらわし、ほかにカヘルサ(歸途)も同樣の語構成である。このサは、體言の性質を有する接尾語であるから、その上にある動詞は、連體形であるべきであり、クサの場合、動詞來がクの形において連體形を取つていることが注意される。これは「美豆久白玉《ミヅクシラタマ》 等里弖久麻弖爾《トリテクマデニ》」(卷二十、四三四〇)、「阿例波伊波々牟《アレハイハハム》 加倍理久麻泥爾《カヘリクマデニ》」(同、四三五〇)の如く、助詞マデに接續する場合にもあらわれている。しかも一方、「可是能牟多《カゼノムタ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》」(卷十五、三六六一)の如く、クルの形を連體形としているものもあるのである。動詞來が、連體形として、ク、クルの二形を有していることは、同じく終止形としても、ク、クルの二形を有していることを併わせて考えるべき問題で、この語の活用が動搖していたことを示している。
(111) 君社見良目 キミコソミラメ。キミは黒人をさし、それを特に提示するために、コソを使用し、コソに對して、ミラメと結んでいる。ラメは推量の助動詞。動詞見ルが助動詞ラムに接續する場合は、ミラムの形を取る(卷一、五五)。ところで、問題になるのは、この歌におけるラムの用法である。ラムは、現在の状態を推量する語として解せられているが、それによると、この句の意は、君こそ見ているであろうの意となり、黒人が旅行に出た後に、この歌が詠まれたことになる。しかし三句の行クサ來サの意を按ずるに、それは往と還とにわたつているのであつて、現在推量では、その兩方のいずれに懸かるかがあきらかにされない。行く道にも還る道にも見ているであろうでは、意を成さぬのである。黒人の歌は、その出發に際して歌われたものと見られ、この歌は、それに對して、同じく出發の前に詠まれたものとすれば、ここにラムの用法の再考が要求される。ここは從來の諸解釋が、無反省に解釋していたように、往還の度に見るでありましようと解するのが、やはり正しいのであろう。これによれば、「眞土山|往來《ゆきく》と見らむ紀人《きびと》ともしも」(卷一、五五)も、往來トの句があるので、同樣に解すべきが如くである。すなわち不定時において、その現在を想像する用法である。これはラムの本義に關する注意すべき用例というべきである。
【評語】黒人の妻は、大和からは眞野の榛原よりも遠い處にいたと解せられる。三河ノ二見ノ道ユ別レナバの作者と同一人と考えるのが順當であり、相當の才人であつたらしい。二句と五句とに同形の句を用い、歌いものとしての性格を有している歌である。
 
春日藏首老歌一首
 
【釋】春日藏首老 カスガノクラビトオユ。既出(卷一、五六)。この歌は、大和で詠まれている。
 
(112)282 つのさはふ 磐余《いはれ》も過ぎず。
 泊瀬山《はつせやま》 いつかも越えむ。
 夜《よ》は更《ふ》けにつつ。
 
 角障經《ツノサハフ》 石村毛不v過《イハレモスギズ》
 泊瀬山《ハツセヤマ》 何時毛將v超《イツカモコエム》
 夜者深去通都《ヨハフケニツツ》
 
【譯】まだ磐余も過ぎていない。泊瀬山を何時か越えられよう。夜はふけて行つたのに。
【釋】角障經 ツノサハフ。既出(卷二、一三五)。枕詞。次句のイハに懸かる。
 石村毛不過 イハレモスギズ。イハレは地名、磐余とも書く。村は古語にフレというより、この地名に石村の字を當てる。その地は、香具山の東、山間から泊瀬川の流れ出たあたりにかけていうらしい。この句、まだその地を通過しないことを述べている。句切。
 泊瀬山 ハツセヤマ。泊瀬川に沿つて上る道から東方に見える一帶の山をいう。卷の二 四五の歌にも、泊瀬山を越えて宇陀《うだ》に到ることが詠まれていた。
 何時毛將超 イツカモコエム。何時越えるのだろうかと凝つている。道のはかどらない氣もちをあらわしている。句切。
 夜者深去通都 ヨハフケニツツ。フケは、夜の深くなるをいう動詞。ニは助動詞で、強意に使用されている。ツツは進行を示す助詞。
【評語】泊瀬山を越えて行こうとする作者が、夜すでに遲くなつているのに、まだ磐余の地をも過ぎない焦燥の氣分を詠んでいる。三段に切つて短い文を重ねた言い方も、よくその焦躁の表現を助けている。
 
高市連黒人歌一首
 
283 住吉《すみのえ》の 得名津《えなつ》に立ちて 見渡せば、
 武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ 出づる船人。
 
 墨吉乃《スミノエノ》 得名津尓立而《エナツニタチテ》 見渡者《ミワタセバ》
 六兒乃泊從《ムコノトマリユ》 出流船人《イヅルフナビト》
 
【譯】住吉の得名津に立つて見渡すと、武庫の泊から船に乘つて出る人が見える。
【釋】墨吉乃 スミノエノ。墨吉は、住吉に同じ。
 得名津尓立而 エナツニタチテ。得名津は、堺市の北、住吉に近い處と言われる。當時海岸であつたであろう。その津に立つたのである。
 見渡者 ミワタセバ。海上を見渡したのである。
  六兒乃泊從 ムコノトマリユ。ムコは武庫。講義の説に、武庫川の河口とするのがよいであろう。住吉から海上三里ほどという。トマリは、船の碇泊する處。ユは、そこの中からの意を表示する。
 出流船人 イヅルフナビト。船の出るのが見えるのであるが、特に船人と言つたのは、その船中の人まで指示のできることを示している。
【評語】大阪灣頭の大觀が敍せられている。船が出るといわず、船人が出るといつたのは、描寫が精細な所以である。例によつて、作者の位置が明示されている。
 
春日藏首老歌一首
 
284 燒津邊《やきつべ》に わが行きしかば、
 駿河なる 阿倍《あべ》の市道《いちぢ》に
 逢ひし兒《こ》らはも。
 
 燒津邊《ヤキツベニ》 吾去鹿齒《ワガユキシカバ》
 駿河奈流《スルガナル》 阿倍乃市道尓《アベノイチヂニ》
 相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》
 
(114)【譯】燒津の邊に自分が行つたからして、駿河なる阿部の市に行く道に出會つた孃子は、思い出される。
【釋】燒津邊 ヤキツベニ。燒津は、三四句に駿河ナル阿倍ノ市道とあり、駿河の國の燒津と考えられる。日本書紀に、日本武の尊が、駿河の國において賊徒をお討ちになる際に、野を燒かれたので、燒津というとする地名起原説話が傳えられている。今、燒津《やいず》の名が殘つている。邊は、字音を取つてヘニと讀む。ニに當る文字を略したのではない。ヘは方向を意味することから、附近をいうようになつたのであろう。
 吾去鹿齒 ワガユキシカバ。シカは、時の助動詞キの已然形。わたしが行つたのでの意。
 駿河奈流 スルガナル。駿河の國名。ナルはニアルの約言。阿倍の市の所在を示す句。
 阿倍乃市道尓 アベノイチヂニ。阿倍は、今、郡名川名などに殘つている。市《いち》は、日を定めて人々が集まつて、交易賣買をすることをいい、やがてその場處をいう。場處の意の方が先かもしれない。今の靜岡市のあたりは、もと國の役所の所在地であつたので、その邊に市が立つたのであろう。さすれば、燒津の北方約三里に當る。市道は、市に行く道路である。
 相之兒等羽裳 アヒシコラハモ。コは若い人などに對し親愛の情をもつていう語。ラは接尾語。複數には限らず、その周圍を含んでいると思われるが、複數でもあり得る。ここもとくに目立つ一人をいうのだろう。このコラは、歌意よりして娘子と推量される。ハモは、感動の助詞。
【評語】旅先で娘子にあうことが、旅の寂寥感を紛らしてくれる。それに歌詞には露骨に出ていないが、輕い心おどりがあるのである。駿河ナルと國名を冠したのは、作者が遠く他國からこの國に入り來つたことを語る。その國の人ならば、國名を冠するに及ばぬのである。今日しも市の定日で、その娘子は著飾つていたであろう。他國から來て土地の娘子を見た喜びが感じられる。
  山の邊《べ》の御井《みゐ》を見がてり神風《かむかぜ》の伊勢娘子《いせをとめ》どもあひ見つるかも(卷一、八一)
(113)の歌は、同じ趣を詠んでいる。旅人が、娘子に逢うことに感激を覺える氣もちに、通じているものがある。
 
丹比眞人笠麻呂、往2紀伊國1超2勢能山1時作歌一首
 
丹比の眞人笠麻呂の、紀伊の國に往きて、勢の山を超えし時に作れる歌一首。
 
【釋】丹比眞人笠麻呂 タヂヒノマヒトカサマロ。傳未詳。卷の四に筑紫の國に下つた時の長歌(五〇九)があり、その地に赴いたことのあるのが、知られるだけである。
 
285 栲領巾《たくひれ》の 懸けまく欲《ほ》しき 妹が名を、
 この勢の山に 懸けばいかにあらむ。
 
 栲領巾乃《タクヒレノ》 懸卷欲寸《カケマクホシキ》 妹名乎《イモガナヲ》
 此勢能山尓《コノセノヤマニ》 懸者奈何將v有《カケバイカニアラム》
 
【譯】白い領巾を頭に懸けるように、言葉に懸けたいと思う妻の名を、この勢の山に懸けたらどうだろうか。
【釋】栲領巾乃 タクヒレノ。タクは栲。その繊維で織つた領巾《ひれ》が、タクヒレである。領巾は、頸から懸ける白布。女子の服飾である。この句は枕詞。領巾を懸けると續く。
 懸卷欲寸 カケマクホシキ。カケマクは、かけむことの義。懸けるは、心に懸けると、言葉に懸けるとあるが、ここは言葉に懸けむことの意である。次の句に對する修飾句。
 殊名乎 イモガナヲ。妹は、女子に對する愛稱。ここは妻である。下句、および次の答歌によるに、妹という語をの意に解せられる。
 此勢能山尓 コノセノヤマニ。勢能山は、既出(卷一、三五)。紀の川の右岸にあり、大和から紀伊の國に入り、その國府に赴く途上に越える山である。山名のセは、男子に對する愛稱なので、そのセの語をイモの語に代えたらというのである。但し初めから男子の山の義で附けられた名であるか否かは不明である。
(116) 懸者奈何將有 カケバイカニアラム。カケバは言葉に懸けるの未然條件法。妹という語を、この勢の山に懸けたら、どうであろうの意。
【評語】勢の山の名に寄せて、思いつきを詠んだ歌である。次の作者も同行していたらしく、旅中の即興作というべきである。
 
一云、可倍波伊香尓安良牟《カヘバイカニアラム》
 
一はいふ、代《力》へばいかにあらむ。
 
【釋】可倍波伊香尓安良牟 カヘバイカニアラム。上のカケバイカニアラムの句の換句である。カヘバは、代えたらばで、勢の山の名を、妹山と代えたら如何というのである。二句に、懸ケマク欲シキの句があり、本文の懸ケバは、それに照應しているのであつて、本文の方がすぐれている。それを歌い傳えてこの別傳を生じたものであろう。
 
春日蔵首老、即和歌一首
 
春日の藏首老の、すなはち和《こた》ふる歌一首。
 
【釋】即和歌 スナハチコタフルウタ。このスナハチは、即時の意で、前の歌に對して、即時に唱和した歌であり、この作者の同行していたことを語つている。歌中の、コノ勢ノ山の句も、これを證している。
 
286 宜《よろ》しなへ わが夫《せ》の君が 負《お》ひ來《き》にし、
 この勢の山を 妹とは喚《よ》ばじ。
 
 宜奈倍《ヨロシナヘ》 吾背乃君之《ワガセノキミガ》 負來尓之《オヒキニシ》
 此勢能山乎《コノセノヤマヲ》 妹者不v喚《イモトハヨバジ》
 
(117)【譯】あなたがよい都合に名として持つている、この勢の山を、妹とは呼びますまい。
【釋】宜奈倍 ヨロシナヘ。既出(巻一、五二)。ヨロシとナヘとの結合した熱語句と見られる。よい具合に、都合よく、ちようどよくの意で、三句の負ヒ來ニシに懸かる副詞句。
 吾勢乃君之 ワガセノキミガ。セは男子の愛稱。ワガは、親愛の意をもつて冠している。ワガセノキミは笠麻呂をいう。次の句に對する主格句。
 負來尓之 オヒキニシ。名として負つて來たの意で、次句のセを修飾する。
 此勢能山乎 コノセノヤマヲ。前の歌の語を取つている。セという名の山をいうべきを、略してかように言つている。
 妹者不喚 イモトハヨバジ。前の歌を受けて、せつかく勢の山というのを、今更妹の山とはいいますまいの意である。
【評語】紀の川を隔てて、對岸に、妹山と呼ぶ山ができたのは、勢の山に對しての名であるが、この歌によれば、この時はまだ妹山の名がなかつたのであろう。この歌は理くつをいつているだけで、時の興を助ける以上、何の味もない歌である。
 
幸2志賀1時、石上卿作歌一首 名闕
 
志賀に幸でましし時に、石上の卿の作れる歌一首 名闕けたり。
 
【釋】幸志賀時 シガニイデマシシトキニ。志賀は、近江の國の地名で、しばしば出た。その地に行幸のあつた時というのは、次の二八七、二八八の二首に懸かるのであるが、その左註に行幸の年月を詳にせずとあつて、何時の行幸の時とも傳えていない。しかしこの歌は、藤原時代の終りから奈良時代の初めにかけての歌と見て、(118)この處に置かれたのであろう。その頃の志賀への行幸としては、大寶二年十月の持統太上天皇の參河の國への御幸、養老元年九月の元正天皇の美濃の國への行幸があり、その途次、いずれも近江の國を通過されたはずである。そのいずれかであろうと考えられる。
 石上卿 イソノカミノマヘツギミ。題下の註に名闕とあつて、誰であるかをあきらかにしていない。本集において卿の字は、四位以上の人に使うのであるが、當時、石上氏で卿と呼はるべき人に、次の三人がある。
  石上麻呂   養老元年三月薨
  石上豐庭   養老二年五月卒
  石上乙麻呂  天平勝寶二年九月薨
 この人々の薨卒の年代をもつて考えるに、大寶二年の御幸ならば麻呂、養老元年の行幸ならば豐庭、乙麻呂のうちである。しかるに、麻呂は養老元年三月に薨じているのであるから、養老元年九月の行幸の際には、その子乙麻呂は喪中にあり、行幸に從わないはずである。そうすればここに石上の卿とあるのは、麻呂、豐庭のうちとすべく、麻呂は左大臣にもなつて卷の一に作歌あり、豐庭は作歌を傳えないので、いずれかといえば、麻呂らしくもある。
 名闕 ナカケタリ。上の石上の卿とのみ傳えて、名の傳わらないのを斷つたのである。もと敬意を表して名を書かなかつたものであろう。
 
287 此處《ここ》にして 家やもいづく。
 白雲の たなびく山を
 越えて來にけり。
 
 此間爲而《ココニシテ》 家八方何處《イヘヤモイヅク》
 白雲乃《シラクモノ》 棚引山乎《タナビクヤマヲ》
 超而來二家里《コエテキニケリ》
 
(119)【譯】この處で、わが家は何處だろう。白い雲のたなびいている山を越えて來たなあ。
【釋】此間爲而 ココニシテ。シテは、助詞になるが、この句に爲而の文字を使つているのは、語原意識が殘つていることを示している。この處での意である。「大御語爲而《オホミコトトシテ》」(天平十九年法隆寺縁起)。
 家八方何處 イヘヤモイヅク。イヘは、わが家。大和の國の家である。ヤモは疑問の係助詞。イヅクナラムなどいうべき意の體言止め。句切。
 白雲乃 シラクモノ。次句の棚引に對して主格をなしている。
 棚引山乎 タナビクヤマヲ。タナビクは、棚のように引いている義である。集中、ヒクに引、曳の字を當てているものが多く、また、ダナ曇ルの如き類型の語があるので、タナにヒクの接續して熟語となつたものであることが知られる。ナビクに接頭語タの接續したものではない。たなびく山の語で、高い山の意を現している。
 超而來二家里 コエテキニケリ。ケリは時の助動詞であるが、感動を含んでいる。
【評語】初二句で切れ、續いて白雲ノと起して來て、高い山を越えて来たことを歌つている。遠く旅に出て家郷を望み見て詠んだ歌で、調子の高く、感慨の深い歌である。大伴の旅人の、比處《ここ》にありて筑紫や何處《いづく》、白雲のたなびく山の方にしあるらし(卷四、五七四)の歌は、類型の歌であるが、それは都のわが家に歸つて、旅にあつて過した方を望み見ている。この歌の方が感が深いのは、五句の越エテ來ニケリの句が、詠嘆を久しくする氣分があるからである。
 
穂積朝臣老歌一首
 
【釋】穗積朝臣老 ホヅミノアソミオユ。前の幸2志賀1時の句は、この題詞にまで冠している。穗積の老は、續日本紀の大寶三年の條に、正八位の上として山陽道に遣はされたことが見える。天平六年正月、乘輿を指斥(120)するに座して斬刑に處せられたのを、皇太子の奏によつて、死一等を降して佐渡に流された。天平十二年六月の大赦によつて入京し、また官仕した。天平勝寶元年八月二十六日子の刻に卒したことが、古寫の維摩詰經《ゆいまきつぎよう》の奧書によつて知られる。
 
288 わが命《いのち》し 眞幸《まさき》くあらば またも見む。
 志賀の大津に 寄する白浪。
 
 吾命之《ワガイノチシ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦毛將v見《マタモミム》
 志賀乃大津尓《シガノオホツニ》 縁流白浪《ヨスルシラナミ》
夕月月
 
【譯】わたしの命が無事だつたならば、またこの志賀の大津にうち寄せる白浪を見ることだろう。
【釋】吾命之 ワガイノチシ。シは張意の助詞。次の句に對する主格句。
 眞幸有者 マサキクアラバ。この句、既出(卷二、一四一)。サキクに接頭語マの接した形容詞。サキクは、榮えてある有樣を形容する。幸福であるならば。ここには、命の完全にあらむことを想像している。
 亦毛將見 マタモミム。ふたたび此處に來て見ようの意。句切。
 志賀乃大津尓 シガノオホツニ。志賀の大津は地名であるが、元来大津は、大きな船著きの義であり、地形によつて名となつたものであつて、此處には、その本義たる地形が感じられている。
 縁流白浪 ヨスルシラナミ。琵彗湖畔にうち寄せる白浪に呼びかけている。
【評語】志賀の大津に打ち寄せる白浪の美しさ、それをまた見ることもあろうかと歌つている。三句で一度切れて、その目的物を四五句で敍述し、名詞止めにした行き方は、特に感慨を深からしめる敍述である。その白浪に對して非常に感じている趣があらわれている。この作者はかつて罪があり、越前に流されているので、この歌の内容から推しても、その流罪の途上で詠んだものであろうといわれているが、石上の卿の歌と竝んでいるのであり、流罪の時の詠とするのは臆測に止まるものというべきである。
 
右今案、不v審2幸行年月1
 
右は今案ふるに、幸行の年月を審にせず。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。萬葉集の編者の意見である。
 不審幸行年月 イデマシノトシツキヲツマビラカニセズ。幸行は、行幸に同じく天子の出行をいう。古事記にも例が多い。前の歌の題詞、幸志賀時の説明である。
 
間人宿祢大浦、初月歌二首
 
間人の宿禰大浦の、初月の歌二首。
 
【釋】間人宿祢大浦 ハシヒトノスクネオホウラ。傳未詳。間人の宿禰は、新撰姓氏録に、仲哀天皇の皇子譽屋別《ほむやわけ》の命の後と見える。
 初月 ミカヅキ。初月は、月の初めの月をいう。古くこれをミカヅキと訓しているのは、卷の六に、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)初月(ノ)歌一首の題下に「月立而《ツキタチテ》 直三日月之《タダミカヅキノ》 眉根掻《マヨネカキ》 氣長戀之《ケナガクコヒシ》 君爾相有鴨《キミニアヘルカモ》」(九九三)の歌があつて三日月と詠んでいるによるのであろう。しかし初月は、三日月には限らず、またこの歌詞の白眞弓張リテ懸ケタリというは、三日月よりは更に月齡の多い望《もち》以前の月をいう意と見えるが、慣用によづてミカヅキというのだろう。むしろユフヅキと讀むべきかとも思われる。ユフヅキは、朝月に對して初夜に照る月をいう。「由布豆久欲《ユフヅクヨ》 可氣多知與里安比《カゲタチヨリアヒ》 安麻能我波《アマノガハ》 許具布奈妣等乎《コグフナビトヲ》 見流我等母之佐《ミルガトモシサ》」(卷十五、三六五八)の例があつて、七日の月を詠んでいる。
 
(122)289 《あま》天の原 ふりさけ見れば、
 白眞弓《しらまゆみ》 張りて懸けたり。
 夜路《よみち》は吉《よ》けむ。
 
 天原《アマノハラ》 振離見者《フリサケミレバ》
 白眞弓《シラマユミ》 張而懸有《ハリテカケタリ》
 夜路者將v吉《ヨミチハヨケム》
 
【譯】大空を仰ぎ見れば、月は、白い眞弓を張つて懸けたようだ。夜路は良いだろう。
【釋】天原振離見者 アマノハラフリサケミレバ。既出(卷二、一四七)。アマノハラは、天空。廣々とした天をいう。フリサケミレバは、遠望すれば、目を放つて見れば。
 白眞弓 シラマユミ。檀の材で作つた弓を眞弓といい、その材は白いので、他の材で作つた弓に對比して白眞弓という。「白檀弓《シラマユミ》 靱取負而《ユキトリオヒテ》」(卷九、一八〇九)、「白檀《シラマユミ》 挽而隱在《ヒキテカクセリ》 月人壯子《ツクヒトヲトコ》」(卷十、二〇五一)などの例がある。二〇五一の例は七夕の歌で、七日の月を詠んでいる。
 張而縣有 ハリテカケタリ。弓の弦を引いて空に懸けてあるの意で、月を譬喩によつて表現している。ここに弓を張つて懸けたというので、三日月よりも後の月であるべきことが推量され、また次句の夜路は吉ケムもこれを證している。句切。
 夜路者將吉 ヨミチハヨケム。ヨミチは、夜間の行路、ヨケムは、形容詞ヨケに助動詞ムの接續した形である。ヨカラムの約言とするは誤りである。「阿箇悟馬能《アカゴマノ》 以喩企波々箇屡《イユキハバカル》 麻矩儒播羅《マクズハラ》 奈爾能都底擧騰《ナニノツテゴト》多※[手偏+施の旁]尼之曳鷄武《タダニシエケム》」(日本書紀一二八)とある歌を、本集では「赤駒之《アカゴマノ》 射去羽計《イユキハバカル》 眞田葛原《マクズハラ》 何傳言《ナニノツテゴト》 直將v吉《タダニシエケム》」(卷十二、三〇六九)と書いている。形容詞ヨシを古くはエシと言つたので、これはエケムの形が出ている。
【評語】夜行をしようとして天空を仰ぎ、弦月の光を見た初二句も大きく、また月をいわないで、白眞弓を張リテ懸ケタリと敍したのも、壯快な調である。
 
(123)290 倉橋の 山を高みか、
 夜《よ》ごもりに 出で來《く》る月の
 光ともしき。
 
 椋橋乃《クラハシノ》 山乎高可《ヤマヲタカミカ》
 夜隱爾《ヨゴモリニ》 出來月乃《イデクルツキノ》
 光乏寸《ヒカリトモシキ》
 
【譯】倉橋の山が高いのでか、夜遲く出て來る月の光がすくないことだ。
【釋】椋橋乃 クラハシノ。椋橋は、奈良縣磯城郡に、今、倉橋の名が殘つている。その東方にある音羽《おとは》山あたりを椋橋の山というのであろう。椋の字は樹名に使用し、普通ムクと讀んでいる。これをクラと讀むのは、「暮去者《ユフサレバ》 小倉乃山爾《ヲグラノヤマニ》」(卷八、一五一一)の歌を「暮去者《ユフサレバ》 小椋山爾《ヲグラノヤマニ》」(卷九、一六六四)と書き、「倉橋部女王」(卷三、四四一)を「椋橋部女王」(卷八、一六一三左註)と書いているなど、證が多い。これについては、日本靈異記に直椋家長公とあるについて、狩谷※[木+夜]齋の攷證に「谷川氏曰はく、椋、倉と同訓、字書いまだその義を得ず。説文、廩の圓を京といふ、けだしこれに據るなり。按ずるに京の倉たる、京都の字と混ず。故に木傍を加へて、分かつなり」とある。地名にはクラの語を有するもの多く、このクラも、それと共に谿谷の義なるべく、ハシは階梯の義で、段になつている意であろう。
 山乎高可 ヤマヲタカミカ。山ヲ高ミは、山が高くして、カは疑問の係助詞。五句に懸かる。
 夜隱尓 ヨゴモリニ。ヨゴモリは、夜の深くある頃をいう。宵からいえば、夜の遲くなつた頃であり、曉からいえば、夜のまだ深く殘つている頃をいう。この語は、集中「倉橋之《クラハシノ》 山乎高歟《ヤマヲタカミカ》 夜※[穴/牛]爾《ヨゴモリニ》 出來月之《イデクルツキノ》 片待難《カタマチガタキ》(卷九、一七六三)、「許能久禮罷《コノクレヤミ》 四月之立者《ウヅキシタテバ》 欲其母理爾《ヨゴモリニ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》」(卷十九、四一六六)があり、卷の九のは、この歌とほとんど同じである。そのほか、動詞としては、「戀々而《コヒコヒテ》 相有物乎《アヒタルモノヲ》 月四有者《ツキシアレバ》 夜波隱良武《ヨハコモルラム》 須臾羽蟻待《シマシハアリマテ》」(卷四、六六七)の用例がある。後の歌ではあるが、この語の意味をよく示しているものに(124)「しののめにあしたの原を分け行けばまだ夜ごもれるこゝちこそすれ」(重之集)がある。「夜をこめて」という表現は、他動詞としての用法であつて、夜深きうちからの意である。なお類語に、冬ゴモリ、月《ツ》ゴモリがある。
 出來月乃 イデクルツキノ。夜深くして山から出て来る月の意で、次の句に對して主格句となつている。
 光乏寸 ヒカリトモシキ。このトモシは、乏少の意で、上の、山ヲ高ミカを受けて、光のすくないことを敍している。係助詞カを受けて、連體形をもつて結んでいる。
【評語】この歌、從來正解を得ないで、諸説紛々としていた。初月の歌二首の題詞をも疑い、下弦の月かとするに至つている。しかし題詞のままに解するのを順當とすべく、その月は上弦の月でも、月齡の多くなつた頃の月で、倉橋山が高いゆえに、夜深くして出て來るのである。倉橋の山の近くにあつて、月が出てもあたりのあかるくならないのを詠んだ歌である。月に關心を持つた生活が傳えられているが、前の天ノ原フリサケ見レバの歌には及ばない。
【参考】別傳。
   沙彌の女王の歌一首
  倉橋の山を高みか夜ごもりに出で来る月の片待ち難き
    右の一首は、間人の宿禰大浦の歌の中に既に見えたり。但し末の一句あひ換り、また作れる歌に兩の主ありて、正しく指し敢へず。因りて累ね載す。(卷九、一七六三)
 
小田事、勢能山歌一首
 
【釋】小田事 ヲダノツカフ。傳未詳。事の讀み方もあきらかでない。古今六帖に、この歌を載せて作者を(125)「をだのことぬし」としているが、その根據を知らない。類聚名義抄に、事に、コト、ワザ、ツカフ、コトヽス、ツカマツル、サシハサム、アツマルの訓がある。
 勢能山 セノヤマ。紀伊の國の勢の山である。
 
291 眞木の葉の 撓《しな》ふ勢の山、
 偲《しの》はずて わが越えゆけば、
 木《こ》の葉知りけむ。
 
 眞木葉乃《マキノハノ》 之奈布勢能山《シナフセノヤマ》
 之奴波受而《シノハズテ》 吾超去者《ワガコエユケバ》
 木葉知家武《コノハシリケム》
 
【譯】木の葉の撓つている勢の山、わたしがもの思いをしないで越えて行くので、木の葉が知つたのだろう。
【釋】眞木葉乃 マキノハノ。マキは、松杉檜などの堂々たる樹木をいう。
 之奈布勢能山 シナフセノヤマ。シナフは、撓み繁つているをいう。「春山之《ハルヤマノ》 四名比盛而《シナヒサカエテ》」(卷十三、三二三四)は、花葉の繁つて撓むをいい、「多知之奈布《タチシナフ》 伎美我須我多乎《キミガスガタヲ》」(卷二十、四四四一)、「秋※[草がんむり/互]子之《アキハギノ》 四搓二將v有《シナヒニアラム》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》」(卷十、二二八四)は、男女の容儀のしなやかなのを言つている。これらによれば、勢の山の眞木の葉の、繁茂して撓つているのをいうと解せられる。この句は呼格。その山をわが越え行けばの意にはなるが、語格としては、勢の山に呼びかけたのである。
 之努波受而 シノハズテ。上のシナフを受けて、同音聲に起している。シノフは、思慕する意の動詞。堪え忍ぶ意のシノブは、別語で、ノおよびフの音韻が別とされる。そこでこの句は、もの思いをしないでの意となり、作者があかるい氣もちで旅行していることを語るものとされる。
 吾超去者 ワガコエユケバ。勢の山を越えて行けばであるが、どちらに向かつてであるかは不明である。多分家に向かつているのだろう。
(126) 木葉知家武 コノハシリケム。眞木の葉のしなうのを見れば、わが物思いをしないでいるのを、木の葉が知つたのであろうの意。
【評語】眞木の葉のしなつているのを見て、あかるい氣もちになつている。木の葉もわが心を知つたのであろうの意であるが、歌としては感情が十分にあらわれていない。この歌の解には諸説があるが、今、講義のシナフの解によつた。但し勢の山の格の解は、講義の説と違う。
 
角麻呂歌四首
 
【釋】角麻呂 ツノノマロ。傳未詳。角は氏、麻呂は名である。角氏は、古事記中卷に、木の角の宿禰は都奴の臣の祖なりとある。代匠記には、〓の兄麻呂の誤りとしているが、臆説に過ぎない。正倉院文書に、寫經生の※[角+碌の旁]の惠万呂を、角の惠万呂とも書いているから、ロクであるかも知れない。また角万呂の名も見えるが、これは別人であろう。この四首は、いずれも難波あたりの歌と見られ、同じ行の作と考えられる。
 
292 ひさかたの 天《あま》の探女《さぐめ》が 石船《いはふね》の 泊《は》てし高津《たかつ》は、
 淺《あ》せにけるかも。
 
 久方乃《ヒサカタノ》 天之探女之《アマノサグメガ》 石船乃《イハフネノ》
 泊師高津者《ハテシタカツハ》
 淺尓家留香裳《アセニケルカモ》
 
【譯】遠い天から來た天の探女の石棺の碇泊したこの難波の高津は、すつかり淺せはててしまつたなあ。
【釋】久方乃 ヒサカタノ。既出。枕詞。この句で遠い天から天の探女が降りて來たことを感じさせている。
 天之探女之 アマノサグメガ。日本書紀卷の二に「その雉《きぎし》飛び降りて、天稚彦《あめわかひこ》が門前《かど》に植《た》てる湯津杜木《ゆつかつら》の杪《すゑ》に止まる時、天《あま》の探女《さぐめ》見て天稚彦にいひて曰はく、奇《あや》しき鳥來て杜の杪に居り」とあり、その註に「天探女、(127)此をは阿摩能左愚謎《あまのさぐめ》と曰ふ」とある。古事記には天佐具賣《あまのさぐめ》とある。また倭名類聚鈔神靈類に「日本紀私記云、天(ノ)探女 阿萬乃佐久女《アマノサクメ》、俗(ニ)云(フ)2安萬佐久女《アマサクメト》1」とある。これらによらば、アマノサグメと讀むべきである。天が助詞ノを伴なう場合は、アメノ、アマノの兩樣の假字書きがあり、熟語としては、アマノとしていると考えられる。ここはアマノと傳えているのである。天の探女は、神話では天孫降臨にさき立つて、天から降つて來た天若日子《あめわかひこ》に附いて來た神と傳えられている。天若日子が大國主の命の女の下照比賣《したてるひめ》を妻として、天下平定の功を奏しなかつたので、雉子を遣して詰問せしめたのを、探女が天若日子に勸めて射殺させたと傳えている。探女は事の吉凶を探る女の義で、鳥の鳴聲や夢等を判斷して、その吉凶を説く女である。事の眞相を探る女という意味であろう。一種の巫女《ふじよ》で、往時その靈力が信じられていたものと考えられる。そういう女は不思誘な力を持つているので、天から降つて來た者という傳説を生ずるのである。
 石船乃 イハフネノ。日本書紀卷の二に「嘗天《むかし》神の子ましまして、天の磐船に乘りて天より降り止まる。號を櫛玉饒速日《くしたまにぎはやひ》の命と曰ふ」、本集に「蜻島《アキヅシマ》 山跡國乎《ヤマトノクニヲ》 天雲爾《アマグモニ》 磐船浮《イハフネウカベ》 等母爾倍爾《トモニヘニ》 眞可伊繁貫《マカイシジヌキ》 伊許藝都追《イコギツツ》 國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》 安母里麻之《アモリマシ》 掃平《ハラヒコトムケ》」(卷十九、四二五四)とあり、天から降る神の乘物と傳えられる。イハは堅固の意に冠している。岩戸、岩|座《くら》など、同樣の用法である。
 泊師高津者 ハテシタカツは。ハテシは、碇泊した意。高津は地名、難波の高津で、今大阪市に屬している。もと地形から出た名稱なるべく、高臺で、ただちに津をなしていたものと考えられる。昔大阪灣は更に灣入しており、漸次陸地となつて行つたのであるが、この歌の作られた當時、既に淺くなつていたのであろう。
 淺尓家留香裳 アセニケルカモ。淺の字は、動詞として使用されていると見られる。これを下二段動詞と見て、アセと讀んでいる。色の薄くなるをアスという。それと同語で、ここは海の淺くなるをいうのであろう。但し古くは、下二段活の文獻はなく、「阿佐受袁勢《アサズヲセ》 佐佐《ササ》」(古事記四〇)、「安禮乎多能米弖《アレヲタノメテ》 安佐麻之物能乎《アサマシモノヲ》」(128)(卷十四、三四二九)など、四段活と見られる例がある。これによらば、この句も、アシニケルカモであろうが、耳慣れないので、アセニケルカモの訓を存しておく。高津の海が淺くなつて、たとえは洲なども露出するに至つたのであろう。
【評語】天の探女は傳説中の人物であるが、そのする業は、當時までも殘つていて、これを繼承する巫女があつたらしい。此處には角の麻呂の歌によつて、その神秘な傳説が歌われている。その傳説を使つて、昔と今と土地の變化した状を描いた。初句の枕詞も神秘な感じを出すために役立つている。一氣に歌い下した調子が内容に一致して、神秘な世界に人を誘つて行く。
【參考】天の探女。
 かれここに天照らす大御神、高御産巣日《たかみむすび》の神、また諸の神たちに問ひたまひしく、「天若日子、久しく復奏《かへりごと》まをさず、またいづれの神を遣はしてか、天若日子が久しく留まれる所由《よし》を問はしめむ」と問ひたまひき。ここに諸の神たち、また思金《おもひかね》の神白さく、「雉《きぎし》名《な》鳴女《なきめ》を遣はしてむ」とまをす時に、詔りたまひしく、「汝《いまし》行きて天若日子に問はむ状《きま》は、汝を葦原の中つ國に遣はせる所以《ゆゑ》は、その國の荒ぶる神どもを言趣《ことむ》け平《やは》せとなり。何ぞは八年になるまで、復奏《かへりごと》まをさざると問へ」とのりたまひき。かれここに鳴女《なきめ》、天より降《お》り到《つ》きて、天若日子が門なる湯津楓《ゆつかつら》の上に居て、委曲《まつぶさ》に天つ神の詔命《おほみこと》のごとのりき。ここに天《あま》の佐具賣《さぐめ》、この鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて、「この鳥は鳴く音《こゑ》甚《いと》惡し。かれ射《い》たまはね」といひ進めけれは、すなはち天若日子、天つ神の賜へりし天の波士弓《はじゆみ》天の加久矢《かくや》をもちて、その雉を射殺しつ。ここにその矢、雉の胸より通りて、逆《さかさま》に射上げられて、天の安の河の河原にまします天照らす大御神|高木《たかぎ》の神の御所《みもと》に逮《いた》りき。この高木の神は、高御産巣日《たかみむすび》の神のまたの名なり。(古事記上卷)
 
(129)293 鹽《しほ》干の 三津の海女《あまめ》の、
 くぐつ持ち 玉藻苅るらむ。
 いざ行きて見む。
 
 鹽干乃《シホヒノ》 三津之海女乃《ミツノアマノ》
 久具都持《クグツモチ》 玉藻將v苅《タマモカルラム》
 率行見《イザユキテミム》
 
【譯】潮の干ている三津の海女が、籠を持つて海藻を刈つているだろう。さあ行つて見よう。
【釋】盟干乃 シホヒノ。シホカレノ(類)、シホヒノ(代初)。シホヒは、潮の干てあるを名詞に言つている。「難波潟|鹽干《しほひ》に出でて玉藻刈る海處女《あまをとめ》ども汝《な》が名|告《の》らさね」(卷九、一七二六)も名詞として使用している。次の三津を修飾している。四音の句。
 三津之海女乃 ミツノアマメノ。ミツノアマメノ(西)、ミツノアマノ(古義)。三津は、難波の御津。アマは、海女とある如く、海人の女子。アマは、男女ともにいう語であるが、ここには女子をいうので、特に海女の文字を使用している。アマは男女に共通していう語であるから、その女子をアマメというのであろう。以上二句、次の二句に對する主格句。
 久具都持 クグツモチ。クグツは、和歌童蒙抄に「くぐつはかたみをいふ也」とあり、そのカタミは籠である。袖中抄には「顯昭云、くぐつとは、わらにてふくろのやうにあみたるものなり。それに藻などをもいるなり」とある。またうつぼ物語には「きぬあやをいとのくぐつに入れて」とある。講義には「こは恐らくは、クグといふ草(海濱に生ずるカヤツリグサ科の植物にして今もクグといひ、それにて繩をつくりてクグナハといふ。この草の名は新撰字鏡にも和名鈔にも見ゆ)の繩にて編みつくれる籠の如きものにして、童蒙抄に「かたみ」といへるは、そをつくる材料は違へど、形と用とを同じくせるよりの名にて、顯昭がわらにてつくるといへるはその材料をくはしく知らざりしか、若くは當時藁にてつくれるものもありしならむ」と言つている。こ(130)れはクグガヤツリのことである。ここは採取した藻を入れるために、クグツを持つので、「籠もよ み籠持ちふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜採ます兒」(卷一、一)と同樣の言い方である。
 玉藻將苅 タマモカルラム。玉藻刈ルは、しばしば出た。海人の女子の業として知られている。ここは潮干の海岸に出て海藻を刈るのであるが、刈ルは、廣く採取するをいうのである。ラムは推量の助動詞。將の字は、しばしばラムと讀まるべき處に使用されている。句切。
 率行見 イザユキテミム。率は、日本書紀崇神天皇紀に、その翠《いざ》川の宮について、「率川、此(ヲバ)云(フ)2伊社箇波《イザカハト》1」とある。イザナフの意に使用せられ、人を誘う辭としてイザの語にこれを當てたのであろう。海女の玉藻を刈つているのを、行つて見ようというのである。
【評語】藻刈り鹽燒く海人の女子に心をひかれて歌つていることは「玉藻刈る海處女《あまをとめ》ども見に行かむ船※[楫+戈]《ふなかぢ》もがも。浪高くとも」(卷六、九三六)などがあり、海のない大和の國の人々の、海に對する特殊の關心が窺われる。初句が字足らずと推量されることは、不確實ではあるが、もし然りとせば、歌いものの風格を存しているであろう。
 
294 風を疾《いた》み 奧《おき》つ白浪 高からし。
 海人《あま》の釣船 濱に歸りぬ。
 
 風乎疾《カゼヲイタミ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 高有之《タカカラシ》
 海人釣船《アマノツリブネ》 濱眷奴《ハマニカヘリヌ》
 
【譯】風がひどいので沖の白波は高いようだ。海人の釣船が、濱邊に歸つた。
【釋】風乎疾 カゼヲイタミ。疾は、講義には、ハヤミと讀むのがよいとしている。字書に、速也、急也とある字で、本集に「宇良未欲里《ウラミヨリ》 許藝許之布禰乎《コギコシフネヲ》 風波夜美《カゼハヤミ》 於伎都英宇良爾《オキツミウラニ》 夜杼里須流可毛《ヤドリスルカモ》(卷十五、三六四六)とある。風が速くしての意である。しかし「風緒痛《カゼヲイタミ》 甚振浪能《イタブルナミノ》」(卷十一、二七三六)の風緒痛は、カゼ(131)ヲイタミであつて、カゼヲハヤミとは讀まれない。また假字書きにも「可是乎伊多美《カゼヲイタミ》 都奈波多由登毛《ツナハタユトモ》」(卷十四、三三八〇)の例があり、「安由乎伊多美可聞《アユヲイタミカモ》」(卷十八、四〇九三)もこれに準ずるもので、しかも一方にこれによつて「安由乎疾美《アユヲイタミ》」(卷十九、四二一三)も、アユヲイタミと讀むべきである。よつてここもカゼヲイタミと讀むべきものと推考される。イタミは、はなはだしくある意で、風の強烈であるのをいう。
 奧津白浪 オキツシラナミ。沖の方の白波である。
 高有之 タカカラシ。タカクアルラシの約言。下の四五句を根據として、推量を下している。風が強くて浪の立つのが高いのであろうというのである。句切。
 海人釣船 アマノツリブネ。海人の乘つて釣する船である。
 濱眷奴 ハマニカヘリヌ。眷は、眷顧と熟して使用される字で、顧みる義があるによつてカヘリと讀まれている。
【評語】海濱の光景を敍して、淡々たる中に風趣がある。風の吹き出して來た動的な情景が描寫されている。
 
295 住吉《すみのえ》の 野木の松原、
 遠つ神 わが王《おほきみ》の
 幸行處《いでましどころ》。
 
 清江乃《スミノエノ》 野木笶松原《ノギノマツバラ》
 遠神《トホツカミ》 我王之《ワガオホキミノ》
 幸行處《イデマシドコロ》
 
【譯】住吉の、野の木立である松原、此處は、昔の神樣の天皇の行幸された處だ。
【釋】清江乃 スミノエノ。スミノエは、大阪市の住吉。清江と書いた例は、卷の一、六九の左註に、清江の娘子とある。
 野木笶松原 ノギノマツバラ。野は、神田本によつて加えた。もと木笶松原とあるについて、キシノマツバ(132)ラと讀んでいた。しかし集中、笶は、假字としては「見芳野乃《ミヨシノノ》 飽津之小野笶《アキツノヲノノ》 野上者《ノノヘニハ》 跡見居置而《トミスヱオキテ》」(卷六、九二六)など、すべてノの音を寫すに使用されている。また攷證には「又考ふるに、笶は和名抄に夜と訓て矢の俗字にて、矢は皆篠を以て製する事、本集七【三十四丁】に八橋乃小竹乎不造矢而云々などあるが如くなれば、その意もて笶をしのゝ假名に用ひしにもあるべし」と云つているが、笶の訓シノのノは、古代假字遣いの怒の類の音であつて、助詞ノの音とは相違する。既に笶をノと讀むべしとせば、木の上に野の字のある神田本によるを妥當とする。野木の語は、「吉名張乃《ヨナバリノ》 野木爾零覆《ノギニフリオホフ》 白雪乃《シラユキノ》」(卷十、二三三九)がある。野生の樹の意。この句、野木の松原を提示している。
 遠神 トホツカミ。既出(卷一、五)。昔の時代の神である意に、わが大君を修飾する。
 我王之 ワガオホキミノ。ここは前代の天皇をいう。ワガは親しみの情をもつて冠している。事實としては、持統天皇、文武天皇あたりを思つているのだろう。
 幸行處 イデマシドコロ。かつて行幸のあつた處であるの意。下にナリの如き語が略されている。
【評語】これも淡々たる敍述のうちに、住吉の松原の佳景を稱えている。以上この人の作四首、いずれも傑作とは言いがたいが、平凡なうちに、よく情趣を得ている。
 
田口益人大夫、任2上野國1時、至2駿河淨見埼1作歌二首
 
田口《たぐち》の益人《ますひと》の大夫《まへつぎみ》の、上野《かみつけの》の國に任《ま》けられし時、駿河の淨見《きよみ》の埼に至りて作れる歌二首。
 
【釋】田口益人大夫 タグチノマスヒトノマヘツギミ。續日本紀によるに、田口の益人は、和銅元年三月に上野の守に任ぜられ、翌二年十一月に右兵衛の率《かみ》に轉じている。題詞によるに、その任ぜられた時に詠んだ歌である。新撰姓氏録に、田口の朝臣は、武内の宿禰の子孫、推古天皇の世に、大和の國高市郡の田口村に家し、(133)よつて田口を氏とするとある。大夫は、四位五位の人にいう文字。
 上野國 カミツケノノクニ。國とのみあるが、國司である。司を補うに及ばない。國司は、國の役人。守介|掾《じよう》目《さかん》の總稱であるが、田口の益人は、そのうち守に任ぜられたこと、前項の通りである。
 駿河淨見埼 スルガノキヨミノサキ。靜岡縣|庵原《いばら》郡|興津《おきつ》町附近の突出地の名。今、清見寺《せいけんじ》の寺名を留めている。陸路、その地を通過したものと解せられる。東山道の國に赴任するのだが、東海道を通つている。
 
296 廬原《いほはら》の 清見の埼の 三保の浦の
 寛《ゆた》けき見つつ もの思ひもなし。
 
 廬原乃《イホハラノ》 淨見乃埼乃《キヨミノサキノ》 見穗之浦乃《ミホノウラノ》
 寛見乍《ユタケキミツツ》 物念毛奈信《モノオモヒモナシ》
 
【譯】廬原の清見の埼から見た三保の浦の、ゆつたりとしたのを見ながら物思いもないことである。
【釋】廬原乃淨見乃埼乃見穗之浦乃 イホハラノキヨミノサキノミホノウラノ。廬原は郡名。今、庵原の字を用い、イハラと呼んでいる。作者は、淨見の埼にあつて、そこから眺めた三保の浦を詠んでいる。廬原の淨見の埼における三保の浦の義である。三保の浦は、突出している三保の松原の抱いている入海をいう。ある地點から見た地名の表現に、「水尾崎《ミヲガサキ》 眞長乃浦乎《マナガノウラヲ》 又顧津《マタカヘリミツ》」(卷九、一七三三)の如きがあり、これも、水尾が埼から眞長の浦を見た意である。
 寛見乍 ユタケキミツツ。海の廣々としているのを、ユタケキという。形容詞ユタケシの名詞形である。海上の寛々として迫らない状である。「海原乃《ウナハラノ》 由多氣伎見都々《ユタケキミツツ》 安之我知流《アシガチル》 奈爾渡爾等之波《ナニハニトシハ》 倍奴倍久於毛保由《ヘヌベクオモホユ》」(卷二十、四三六二)などある。
 物念毛奈信 モノオモヒモナシ。海上の大景を見ては物思いもないの意である。
【評語】駿河の國廬原郡にある淨見の埼から見た三保の浦の意で、作者が淨見の埼にあつて眺めた地を呼びあ(134)げている。地名の原形的な呼び方である。助詞を重ねて初句から三句まで歌い下しているが、この地名を重ねて來た調子も、この場合に適して、作者の見る角度をあきらかにして行く。かような海上のゆたかな景に對して、一切の煩悶をも忘れる氣持が尊いのである。
 
297 晝見れど 飽かぬ田兒の浦
 大王の 命かしこみ、
 夜見つるかも。
 
 晝見騰《ヒルミレド》 不v飽田兒浦《アカヌタゴノウラ》
 大王之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》
 夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》
 
【譯】晝見ても飽きない田兒の浦を、大君の仰せ言を承わつて急いで行くので、夜見たことである。
【釋】晝見騰不飽田見浦 ヒルミレドアカヌタゴノウラ。田兒の浦の絶景は、白晝に見ても飽きることなきを、の意。國司の任地に往復するには、その遠近によつて日限が定められている。延喜式によれば、京都(山城の平安京)から上野の國まで、下り十四日、上り二十九日と定められてある。この日程は東山道の行程であるが、今は平易について海道を通つている。上りは貢物を運ぶために日數を要するのである。題詞によるに、今は任地に赴くのであり、淨見の埼を過ぎて夜に入つたのであろう。田兒の浦は、山部の赤人の作によるに富士山の見える處に求めらるべきであるが、續日本紀天平勝寶二年三月の條に「駿河の國の守從五位の下|楢原《ならはら》の造《みやつこ》東人《あづまひと》等、部内の廬原の郡|多胡《たご》の浦の濱に黄金を獲て、練金一分沙金一分を獻りぬ」とあり、廬原郡のうちであつたことが知られる。興津《おきつ》町より東方の海上を廣くいうなるべく、國府(靜岡市)を發して蒲原《かんばら》に入る頃既に夜になつていたのであろう。途中でたとえば雨などにあつて日數を費すと、夜行もしなければならなくなる。この句、田兒の浦をという内容であるが、語氣は例によつて、田兒の浦に呼び懸けている。
 大王之命恐 オホキミノミコトカシコミ。オホキミは天皇、ミコトは御言の義、命令、詔勅。カシコミは、(135)畏さに、畏くしての意。ミコトカシコミは、山ヲ茂ミと同じ格で、助詞ヲのない例である。天皇の仰せの尊さにの意。ここは特別の命令ではないが、法令に規定されている所を尊重していう。この句は、副詞句として慣用され、集中、この例を初めとして二十三出している。假字書きの例には、「於保伎美能《オホキミノ》 美許等可之故美《ミコトカシコミ》 於保夫禰能《オホブネノ》 由伎能麻爾末爾《ユキノマニマニ》 夜杼里須流可母《ヤドリスルカモ》」(卷十五、三六四四)などある。
 夜見鶴鴨 ヨルミツルカモ。夜に入つて田兒の浦を見たことを言つている。
【評語】作者は、今通過する田兒の浦の風光を知り、その羽衣傳説なども十分に知つているようである。それを夜中に經過する物足りなさが詠まれている。歌としては格別の事はないが、特殊の場合の歌で、既出の「馬ないたく打ちてな行きそ。け竝《なら》べて見てもわが行く志賀《しが》にあらなくに」(卷三、二六三)と趣は異なるが、同樣の事情のもとに詠まれている。
【參考】羽衣傳説。
 風土記を案《かんが》ふるに、古老傳へて言はく、昔、神女あり。天より降り來りて、羽衣を松が枝に曝《きら》しき。漁人、拾ひ得て見るに、その輕く軟きこと言ふべからず。いはゆる六銖《しゆ》の衣か、織女が機中の物か。神女乞ひしかども漁人與へざりき。神女、天に上らむとすれども羽衣なし。ここに、遂に漁人と夫婦となりき。蓋し已《や》むを得ざるなり。その後、一旦《あるひ》、女羽衣を取り、雲に乘りて去り、その漁人も登仙《とうせん》したりといふ。(本朝神社考)
 
辨基歌一首
 
【釋】辨基 ベニキ。左註にいうように、春日の老の法師の時の名であろう。春日の老は既出(卷一、五六)。續日本紀によれば、春日の老は、僧名を辨紀と云つた。大寶元年三月、還俗《げんぞく》せしめ、代わりに一人を度《ど》し、姓を春日の藏首、名を老と賜わり、位を授け、官に就《つ》かしめたとある。藏首の姓を賜わつたのは、算數が上手だ(136)つたので、出納記帳をつかさどらしめたのだろう。懷風藻にその詩一首を傳えている。藤原の宮の時代(持統文武兩天皇の御代)に、僧侶の中に材能ある人を發見すると、これを還俗せしめて役人に登用し、代わりに他の人を僧としたことがしばしば行われた。これは國家の政治を重視し、僧侶は佛の給仕人であるとしたことをあらわすものである。集中の作家として、春日の藏首老、山田の史三方、吉田《よしだ》の連|宜《よろし》等は、この時代の僧中出身の士である。
 
298 眞土《まつち》山 夕越え行きて、
 廬前《いほざき》の 角太河原《すみだがはら》に
 ひとりかも寐《ね》む。
 
 亦打山《マツチヤマ》 暮越行而《ユフコエユキテ》
 廬前乃《イホザキノ》 角太河原爾《スミダガハラニ》
 獨可毛將v宿《ヒトリカモネム》
 
【譯】眞土山を夕暮に越えて行つて、廬前の角太河原に、今夜はひとり寐ることであろうか。
【釋】亦打山 マツチヤマ。既出(卷一、五五)。大和の國から紀伊の國へ行く途上にある山で、吉野川の紀伊の國にはいつたところの右岸にある。亦打山、又打山、信士山などと書く。亦打は、マタウチの約言マツチで、借字である。卷の一にも亦打山と書いてあつた。
 暮越行而 ユフコエユキテ。夕方に眞土山を越えて行つてである。
 廬前乃 イホザキノ。廬前は、地名であろうが、所在未詳である。眞土山および角太河原が紀伊の國なるべきにより、これも同地であろうとされる。
 角大河原尓 スミダガハラニ。大和の國から紀伊の國にはいつて間もなく、今、橋本市に隅田《すだ》がある。紀の川の、その地を過ぎるあたりの河原を、角大河原と言つているのであろう。カハラは、川邊の原である。このガを助詞とする説があるが、原文に河の字を用いてあるによるべきものと思われる。また契沖は駿河としてい(137)るが、これは當らない。
 獨可毛將宿 ヒトリカモネム。ひとりでか寐ることであろうと推量している。カモは疑問の係助詞。その上のヒトリを疑つている。
【評語】僧侶として、旅行しているので、妻もなく寐ることを歌つている。眞土山を越えつつ、夕暮の色の迫つて來る寂しさが痛切に感じられて、前を案じてこの歌となつている。古人の旅行には困難が多く、殊に宿泊についてもつとも苦念の聲をなしている。前に出した「いづくにか吾は宿らむ。高島の勝野の原にこの日暮れなば」(卷三、二七五)といい、「しなが鳥|猪名野《ゐなの》を來れば有間山夕霧立ちぬ宿《やどり》は無くて」(卷七・一一四〇)の如き、皆同歎の聲である。
【參考】類句、ひとりかもねむ。
  春日山霞たなびき情《こころ》ぐく照れる月夜にひとりかも寐む (卷四、七三五)
  沫雪《あわゆき》の庭に零《ふ》り敷《し》き寒き夜を手枕|纏《ま》かずひとりかも寐む (卷八、一六六三)
  わが戀ふる妹は逢はさず。玉の浦に衣片敷きひとりかも寐む (卷九、一六九二)
  玉くしげ明けまく惜しきあたら夜を衣手《ころもで》離《か》れてひとりかも寐む (同、一六九三)
  明日よりはわが玉床《たまどこ》を打ち弗ひ君と宿《ね》ずしてひとりかも寐む (卷十、二〇五〇)
  あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長永《ながなが》し夜をひとりかも寐む (卷十一、二八〇二或本歌)
  衣手にあらしの吹きて寒き夜を君來まさずはひとりかも寐む (卷十三、三二八二)
  (上略)別れにし妹が著せてし馴れ衣袖片數きてひとりかも寐む (卷十五、三六二五)
 
右或云、辨基者、春日藏首老之法師名也。
 
(138)右は或るは云ふ、辨基は、春日の藏首老の法師の名なりといへり。
【釋】右或云 ミギハアルハイフ。作者の辨基について或る人の説を擧げている。
 法師名 ホフシノナ。法師としての名の意。還俗しなかつた前の名である。
 
大納言大伴卿歌一首 未v詐
 
【釋】大納言大伴卿 オホキモノマヲシノツカサ、オホトモノマヘツギミ。大納言は太政官の次官、天皇に侍從し、庶政に參畫し、大臣あらざる時は、代わつて政事を奏する官。大伴氏で大納言であつたものは、望陀《まくた》、御行、安麻呂、旅人がある。澤瀉久孝博士の説に、この卷の歌の配列の順序から見て、旅人以前とし、大伴の安麻呂であろうとしている。安麻呂は、既出(卷二、一〇一)。長徳の第六子、文武天皇の慶雲二年に大納言兼大宰の帥となり、和銅七年五月、正三位大納言兼大將軍をもつて薨じ、從二位を贈られた。旅人の父である。大納言であるので、敬意を表して卿と記してある。
 未詳 イマダツマビラカナラズ。上の大納言大伴の卿の、何人であるか未詳であるとしたのである。
 
299 奧山の 菅《すが》の葉|凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪の、
 消《け》なば惜しけむ。
 雨な零《ふ》りそね。
 
 奧山之《オクヤマノ》 菅葉凌《スガノハシノギ》 零雪乃《フルユキノ》
 消者將v惜《ケナバヲシケム》
 雨莫零行年《アメナフリソネ》
 
【譯】深い山の菅の葉を壓して降る雪が、消えたら惜しいだろう。雨よ降らないでくれ。
【釋】奧山之 オクヤマノ。深い山の奧ので、次の菅の葉の所在を示す。
 菅葉凌 スガノハシノギ。本集でスゲというのは、葉の長い草の總稱である。用途からいえば、笠、ムシロ、(139)マクラなどにするもので、カヤツリグサ科のカサスゲは、その代表とされる。この類の根は、塊莖《かいけい》で、しばしば長しと歌われるのに合わない。しかし山に生えているものをヤマスゲとはいうであろう。一方、「妹爲《イモガタメ》 菅實採《スガノミトリニ》 行吾《ユクワレヲ》」(卷七、一二五〇)など、實を愛用するものは、ユリ科のジヤノヒゲの類で、その紫色球形の異實を愛する。これは、本草和名に「麥門冬 和名|也末須介《ヤマスゲ》」とあり、倭名類聚鈔にも「麥門冬 和名|也末須介《ヤマスゲ》」とある。これも根は鱗莖《りんけい》である。根の長いのを愛するものは、また別で、アヤメ科などの種類であろう。シノグは、「高山之《タカヤマノ》 菅葉之努藝《スガノハシノギ》 零雪之《フルユキノ》 消跡可v曰毛《ケヌトイフベシモ》 戀乃繁鷄鳩《コヒノシゲケク》」(卷八、一六五五)、「伊波世野爾《イハセノニ》 秋芽子之努藝《アキハギシノギ》 馬竝《ウマナメテ》 始鷹獵太爾《ハツトガリダニ》 不v爲哉將v別《セズヤワカレム》」(卷十九、四二四九)など假字書きがあり、その他、凌の字をシノギと讀んでいる。凌は凌駕で、雪についていうのは、雪が植物などを押し伏せての意と解せられる。この句、次の雪の降る有樣を説明している。
 消者將惜 ケナバヲシケム。動詞消は、假宇書きの例としては、「宇梅能半奈《ウメノハナ》 半也久奈知利曾《ハヤクナチリソ》 由吉波氣奴等勿《ユキハケヌトモ》」(卷五、八四九)の如く、ケの形のものがあり、ほかに「小竹葉爾《ササノハニ》 薄太禮零覆《ハダレフリオホヒ》 消名羽鴨《ケナバカモ》 將v忘云者《ワスレムトイヘバ》 益所v念《マシテオモホユ》」(卷十、二三三七)の如き、消名羽をケナバと讀むべしと推考されるものがある。これによつて消者をケナバと讀んでいる。このケは、キエの約言と解せられているが、はたして然りや否やは不明である。「多知夜麻乃《タチヤマノ》 由吉之久良之毛《ユキシクラシモ》」(卷十七、四〇二四)は、「立山の雪し消らしも」であるとする説があり、もし然りとせば、この動詞に、ケ、クの二活用形が證明されることになるが、これは疑問である。なお假字書きの例はないが、消をキユ、キエ、消流をキユルと讀んでいるものが存している。ケナバのナは、完了の助動詞であるが、強意に用いられており、この句は、未然條件法になつている。ヲシケムは、形容詞惜シの活用形ヲシケに、助動詞ムの接續したもの。句切。
 雨莫零行年 アメナフリソネ。代匠記に、行年は去年の義でコソの借字としているが、禁止のナを受けて願(140)望のコソを使用した例はない。宣長の説に、行年を所年の誤りとしソネと讀んでいる。かような行年の字面は、このほかに四出している。「風莫吹行年《カゼナフキソネ》」(卷七、一三一九)、「言勿絶行年《コトナタエソネ》」(同、一三六三)、「雨莫零行年《アメナフリソネ》」(卷十、一九七〇)、「犬莫吠行年《イスナホエソネ》」(卷十三、三二七八)がそれである。これらの行年を、すべて所年の誤りとするのは首肯されない。禁止のナを受けてソネという例は、「都奈波多由登毛《ツナハタユトモ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》」(卷十四、三三八〇)など假字書きの例があり、行年をソネと讀む理由は不明であるが、なおソネと讀むによるべきである。このソネは助詞で、上の雪ナフリの内容を更に懇請するような氣分を有している。
【評語】奧山の菅の葉に降り積む雪のおもしろさを愛している。これも格別の歌ではないが、自然を愛する氣もちには、純粹のものが感じられる。しいて風流ぶつて雪を賞したものではないようである。
 
長屋王、駐2馬寧樂山1作歌二首
 
長屋《ながや》の王《おほきみ》の、馬を寧樂山《ならやま》に駐《とど》めて作れる歌二首。
 
【釋】長屋王 ナガヤノオホキミ。既出(卷一、七五)。高市の皇子の子、天平元年歿。
 寧樂山 ナラヤマ。既出(卷一、一七)。大和の國から山城の國に赴くに當つて越える低い連山。
 
300 佐保過ぎて 寧樂《なら》の手祭《たむけ》に 置く幣《ぬさ》は、
 妹を目|離《か》れず 相見しめとぞ。
 
 佐保過而《サホスギテ》 寧樂乃手祭尓《ナラノタムケニ》 置幣者《オクヌサハ》
 妹乎目不v離《イモヲメカレズ》 相見染跡衣《アヒミシメトゾ》
 
【譯】佐保を過ぎて、寧樂山の高い處に置く幣は、わが妻を目を放たずに、見せよとて置くのである。
【釋】佐保過而 サホスギテ。佐保は地名。古の平城《なら》の都から、佐保を通つて寧樂山にさしかかるのである。今の歌姫越えである。
(141) 寧樂乃手祭尓 ナラノタムケニ。寧樂山の手向の祭をする場處での意。手向の祭をする場處は一定している。山越えではその道の高い處であることもあり、山腹であることもある。タムケは、旅人が災禍を免れるために道路の神を祭ることをいい、ここではそれより轉じて手向の祭をする處をいう。峠は手向の轉であるという説があるが、今では別の語で「たわ越え」の約言とされている。手向の祭をする場處の意に用いたものでは、「畏《かしこ》みと告《の》らずありしをみ越路のたむけに立ちて妹が名|告《の》りつ」(卷十五、三七三〇)などある。
 置幣者 オクヌサハ。ヌサは既出(卷一、六二)。麻、布、絲、絹、または紙の切つたものなどで、手向の祭をする時に用いるものである。手向の場《にわ》に置くから、置く幣という。幣を置く意は、もとは旅行の吉凶を占い、惡氣を拂うためであつたろうと思われるが、後には道路の神に獻上する物の意に轉化している。
 妹乎目不離 イモヲメカレズ。妹は親愛の婦人をいう。カレズは目の離れることなく。妻を目の離れることなくの意。次の句に對して修飾している。句切ではない。
 相見染跡衣 アヒミシメトゾ。アヒは相互的の意に接頭語となつている。逢うではない。シメは使役の助動詞の命令形。ゾは指定の助詞。幣を置く理由を説明している句。「奈泥(142)之故我《ナデシコガ》 波奈乃佐可里爾《ハナノサカリニ》 阿比見之米等曾《アヒミシメトゾ》」(卷十七、四〇〇八)。
【評語】道路の惡神を鎭めて手向の祭をするのは、わが家に置いて來た妻に再會を期するためである。佐保過ギテと初句を置いたのは、簡單ではあるが、道行の氣分が描かれている。山上の風懷を敍した歌である。
【參考】類想。
  玉久世の清き河原に身禊《みそぎ》して齋《いは》ふ命も妹がためこそ (卷十一、二四〇三)
 
301 磐《いは》が根の 凝《こご》しき山を 越えかねて、
 哭《ね》には泣くとも 色に出でめやも。
 
 磐金之《イハガネノ》 凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》 超不v勝而《コエカネテ》
 哭者泣友《ネニハナクトモ》 色尓將v出八方《イロニイデメヤモ》
 
【譯】巖石の峨々たる山を越えかねて、泣くようなことがあつても、顔色には出しますまい。
【釋】磐金之 イハガネノ。岩が根のの意で、金は借字。イハは、岩石、ガ、助詞。ネは地に占據しているものにいう。この場合、ガネは接尾語になる。垣根、草根、木根などいう。岩、垣というに同じく、ただその物の性質が、地に根據を占めていることをあらわすに過ぎない。磐が根は、磐根というに同じ。
 凝敷山乎 コゴシキヤマヲ。コゴシは、凝り固まつている状態をいう形容詞。
 超不勝而 コエカネテ。カネは得ざる意。動詞にも助動詞にも使う。越えることができないで。
 哭者泣友 ネニハナクトモ。ネは泣く聲の名詞、ナクは泣く意の動詞である。哭ニ泣クとは、たとえば眠《イ》ヲ眠《ヌ》ルという如く、一つのことを重ねていうのである。さて元來哭ニ泣クとは、聲に出して泣く意であるが、かく熟語となつて後に、原意を失つて、ただ泣くことを廣く意味するに至つた。この句では、よしや泣くともの意で、下の色ニ出デメヤモによれば、むしろ心中に泣くほどの意に用いている。
 色尓將出八方 イロニイデメヤモ。イロは顔色。イロニイヅは、表面にあらわれるをいう。ヤモは反語の助(143)詞。顔色に出そうや、出すまいの意。
【評語】この歌は、かなり嶮しい山を越える時の歌として適切である。寧樂山はむしろ平易な山と思われるが、その山を越える時に、興に乘じてこの歌を詠まれたので、初三句は戀の譬喩に用いられたのであろう。
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
【釋】中納言安倍廣庭卿 ナカノモノマヲシノツカサ、アベノヒロニハノマヘツギミ。中納言は令外《りようげ》の官で、大納言の下にある。安倍の廣庭は御主人《みうし》の子、神龜四年に中納言となり、天平四年二月、中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事をもつて薨じた。
 
302 兒《こ》らが家道《いへぢ》 やや間遠《まどほ》きを、
 ぬばたまの 夜《よ》渡る月に
 競《きほ》ひあへむかも。
 
 兒等之家道《コラガイヘヂ》 差間遠焉《ヤヤマドホキヲ》
 野干子乃《ヌバタマノ》 夜渡月尓《ヨワタルツキニ》
 競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》
 
【譯】あの子の家へ行く道はかなり距離があるが、夜空を渡る月に競爭することが出來るだろうか。
【釋】兒等之家道 コラガイヘヂ。コラは、親愛の意をあらわしていうが、一人の愛人をさしていい、ラは接尾語で、複數ではない。イヘヂは、家に至る道路である。
 差間遠焉 ヤヤマドホキヲ。
   ヤヤマドホキヲ(西)
   ヤヤアヒダトホシ(新訓)
   ――――――――――
   差母遠烏《ヤヤモトホキヲ》(槻)
ヤヤは、他と比較していう語。「裏儲《ウラマケテ》 吾爲裁者《ワガタメタタバ》 差大裁《ヤヤオホニタテ》」(卷七、一二七八)とある。マドホキは、間隔の(144)あつて、程遠きをいう。焉は、古寫本に〓と書く。烏をも、焉をもかような字形に書く。烏は、字音假字としては「烏梅能波奈《ウメノハナ》」(卷五、八一六)等の如く、ウの音を寫すに使用されているので、此處には不適當である。焉は、文の結辞として訓ヲが當てられ、轉じて他の助詞にも使用される。「甚毛《ハナハダモ》 夜深勿行《ヨフケテナユキ》 道邊之《ミチノベノ》 湯小竹之於爾《ユザサガウヘニ》 霜降夜焉《シモノフルヨヲ》」(卷十、二三三六)の如きは、ヲの訓を寫すに使用されている例である。よつてここも焉の字の異體とし、ヲと讀むべきである。なお焉は、文末の辭として、訓に關せずに置かれている例もあり、それによらば、この句、ヤヤアヒダトホシと讀んで句切とすべきであるが、歌詞からいえば、なお下に續くを可とするようである。相當に間遠くあるがの意。
 野干子乃 ヌバタマノ。枕詞。夜に懸かる。ヌバタマは、カラスオウギの實で、その草の名を射干と書くより、音通で、野干とも夜干とも書く。子は實の義。野干の實の意である。野干子と書いた唯一の例である。
 夜渡月尓 ヨワタルツキニ。ワタルは、甲の點から乙の點に移動するをいう。夜空を渡り行く月にの意。
 競敢六鴨 キホヒアヘムカモ。キホヒは、競爭する意。アヘムは、できるだろう。アヘは動詞アフの未然形。うち勝つ、できるの意。カモは、疑問の助詞であるが、感動の意を含んでいる。
【評語】愛人の家に赴こうとして、天空に月を眺めて、月光のあるうちに行くことができるだろうかと歌つている。急いで行く氣持があらわれている。
 
柿本朝臣人麻呂、下2筑紫國1時 海路作歌二首
 
柿本の朝臣人麻呂の、筑紫の國に下《くだ》りし時、海路にて作れる歌二首。
 
【釋】下筑紫國時 ツクシノクニニクダリシトキ。筑紫の國は、九州の北部、筑前筑後地方の古名。人麻呂が瀬戸内海を航海した時の歌は前に出たが、筑紫に下つたことは他に所見がない。
 
(145)303 名ぐはしき 印南《いなみ》の海の 沖《おき》つ浪、
 千重に隱《かく》りぬ。
 大和島根は。
 
 名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》 奧津浪《オキツナミ》
 千重尓隱奴《チヘニカクリヌ》
 山跡島根者《ヤマトシマネハ》
 
【譯】名のりつぱな稻見の海の沖の方に立つ浪よ、家郷の大和の山々は、幾重もの浪のあなたに隱れた。
【釋】名細寸 ナゲハシキ。クハシは、精妙なるの意の形容詞で、佳人をクハシメといい、また花グハシなどの語もある。ナグハシは、名の精巧なる、名のりつぱな。集中、他に名グハシ吉野、名グハシ狹岑ノ島の例がある。名グハシキと、キを備えたのはこの歌のみである。たとえば、ウツシという形容詞を「宇都志意美《ウツシオミ》」(古書記下卷)とも「宇都志伎青人草《ウツシキアヲヒトグサ》」(同上卷)ともいう例であるが、シの形をもつて連體形を作る方が古い。
 稻見乃海之 イナミノウミノ。稻見は、播磨の國の地名、印南に同じ。その地の海ので、次の句に懸かる。
 奧津浪 オキツナミ。沖の方の浪に呼び懸けている。
 千重尓隱奴 チヘニカクリヌ。浪の重なり立つのを、千重にと形容している。隱ルは、古く四段活用であつたので、カクリヌと讀む。句切。
 山跡島根者 ヤマトシマネハ。ヤマトシマネは、ヤマトシマに同じ。海上より望見する大和の山々をいう。葛城、生駒の連嶺である。ネは接尾語。その山々が地中に根據を有することをあらわす。草根といつて、地中に梶を張つている草をいうに同じ。「天ざかる鄙《ひな》の長路《ながぢ》ゆ戀ひ來れは明石の門《と》より大和島見ゆ」(卷三、二五五)の歌の大和島に同じ。その歌は、西方より東上し、今この歌は東方より西下するのである。上の千重ニ隱リヌの主格句である。
【評語】家郷の山々を顧みがちに航行して來た。しかも今や印南の海の千重に立つ浪のために、その山々も隱(146)れてしまつた。沖つ浪と呼びかけて詠嘆の意をあらわし、大和島根はその浪の千重の底に隱れたと歌つている感慨のよくあらわれている名作である。
 
304 大君《おほきみ》の 遠《とほ》の御門《みかど》と あり通《がよ》ふ
 島門《しまと》を見れば、
 神代《かみよ》し念《おも》ほゆ。
 
 大王之《オホキミノ》 遠乃朝庭跡《トホノミカドト》 蟻通《アリガヨフ》
 島門乎見者《シマトヲミレバ》 神代之所v念《カミヨシオモホユ》
 
【譯】わが天皇陛下の御門として、人々のありつつ通行する、島の海峽を見ると、これを作つた神代の事が思われる。
【釋】大王之遠乃朝庭跡 オホキミノトホノミカドト。オホキミは、天皇。ミカドは、御門を本義とし、轉じて、宮殿、朝廷、政府、國家等の意に使用される。これに、トホノという限定詞をつけたのは、その所在が中央より遠いことを示す。ここにはミカドに朝庭の字を當ててあり、これによれは、トホノミカドは、遠方の朝廷、すなわち地方廳の義となる。しかし、遠ノミカドトアリ通フ島門の語、および海路にて作れるという題詞によれば、本義通り遠方の御門の義に解すべきものと思われる。トは、としての意。なお下の島門の解を參照されたい。
 蟻通 アリガヨフ。アリは接頭語。アリ立タシ、アリ待ツなど例がある。存在する意で、ありつつ通う義である。連體形の句。
 島門乎見者 シマトヲミレバ。シマトは、島のあいだの海峽をいう。但し島はかならずしも島嶼でなくて、水に面している地形ならばよいのであつて、實際としては、半島などでもあり得るのである。その島門を、大君の遠方の御門と見立てたのである。大君の遠方の御門として人々の通う島の海峽を見ればの意である。
(147) 神代之所念 カミヨシオモホユ。カミヨは既出(卷一、一三)。神々の活動された時代。シは強意の助詞。オモホユは思われるの意。神代にもかくの如くであつたろうと、その神代のことが思われるの意である。
【評語】雄大な想像力があらわれている。神代のままを人の世に見出す、この作者の思想が窺われる。
【參考】遠のみかど。
  大君の遠のみかどと、しらぬひ筑紫の國に、泣く子なす慕ひ來まして(下略、卷五、七九四)
  食國《をすくに》の遠のみかどに、汝等《いましら》しかく罷《まか》りなば、平《たひら》けくわれは遊ばむ(下略、卷六、九七三)
  大君の遠のみかどと思へれど日《け》長くしあれは戀ひにけるかも(卷十五、三六六八)
  すめろきの遠のみかどと、韓國《からくに》に渡るわが夫《せ》は(下略、卷十五、三六八八)
  大君の遠のみかどぞ、み雪降る越《こし》と名に負《お》へる、天ざかる鄙《ひな》にしあれば(下略、卷十七、四〇一一)
  大君の遠のみかどと、任《ま》き給ふ官《つかさ》のまにま、み雪ふる越《こし》に下《くだ》り來(下略、卷十八、四一一三)
  すめろきの遠のみかどと、しらぬひ筑紫の國は、賊《あた》守る押への城《き》ぞと(下略、卷二十、四三三一)
 
高市連黒人、近江舊都歌一首
 
【釋】近江舊都 アフミノフルキミヤコ。天智天皇の近江の大津の宮をいう。黒人の近江の舊都の歌については、卷の一に「高市古人(ノ)感2傷(シテ)近江(ノ)舊(キ)堵(ヲ)1作(レル)歌二首」(三二、三三)があつて、その題下に「或(ル)書(ニ)云(フ)、高市(ノ)連黒人」とある。それと關係のあるものであろう。
 
305 かく故《ゆゑ》に 見じといふものを、
 樂浪《ささなみ》の 舊《ふる》き都を
(148) 見せつつ、もとな。
 
 如v是故尓《カクユヱニ》 不v見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》
 樂浪乃《ササナミノ》 舊都乎《フルキミヤコヲ》
 令v見乍本名《ミセツツモトナ》
 
【譯】これゆえに見まいというものを、樂浪の古い都をわたくしに見せてくだすつて、ほんとに悲しいことです。
【釋】如是故尓 カクユヱニ。カクは、このようにの意で、副詞として取り扱われるが、カクノ如など、體言としての使用もあり、それでユヱに接續する。カクノ如の例は、「加久能碁登《カクノゴト》 那爾於波牟登《ナニオハムト》」(古事記九八)などあり、クに體言を構成する要素があるものと考えられる。次の句のイフモノヲを限定している。この舊都を見て悲しい心になつたのをさして、如是といつている。
 不見跡云物乎 ミジトイフモノヲ。ミジだけがトの受ける詞になつている。悲しい心に浸されることが豫想されたので、舊都を訪れることを一往拒絶したものと見える。
 樂浪乃 ササナミノ。ササナミは既出(卷一、二九)。近江の國南部の地名。
 舊都乎 フルキミヤコヲ。フルキミヤコは、大津の宮をいう。
 令見乍本名 ミセツツモトナ。セは、使役の助動詞。ある人が作者を誘つて見せたことが知られる。モトナは、せつに、切實に、よしなく等の語意の副詞。「何鴨《ナニシカモ》 本名言《モトナイフ》」(卷二、二三〇)參照。ここは、たいへんにの意。見せてくれてしかたがないことだ。
【評語】理くつつぽいのは、同行の人に與えて、一拶を試みたからであろう。人に誘われたところを見ると、國の役人としてではなく、使者として下つているようである。モトナは、本集における特殊の用語であるが、用例のうち、次に助詞ツツに關するもののみをあげる。
【參考】類句、――つつもとな。
(149)  さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわび居《を》る時に鳴きつつもとな (卷四、六一八)
  朝戸あけて物思ふ時に白露の置ける秋|※[草がんむり/互]子《はぎ》見えつつもとな (卷八、一五七九)
  春されは妻を求むと鶯の木末《こぬれ》を傳ひ鳴きつつもとな (卷十、一八二六)
  黙然《もだ》もあらむ時も鳴かなむ。茅蜩《ひぐらし》の物思ふ時に鳴きつつもとな (同、一九六四)
 心 無き秋の月夜《つくよ》の物思ふと寢《い》の宿《ね》らえぬに照りつつもとな (同、二二二六)
  咲けりとも知らずしあらば黙然《もだ》もあらむ。この秋※[草がんむり/互]子《あきはぎ》を見せつつもとな (同、二二九三)
  蟋蟀《こほろぎ》のわが床《とこ》の隔《へ》に鳴きつつもとな、起き居つつ君に戀ふるに寐《い》ねがてなくに (同、二三一〇)
  今更に君が手枕|纏《ま》き宿《ね》めや。わが紐の緒の解けつつもとな (卷十一、二六一一)
  葦邊行く鴨の羽音の聲《おと》のみに聞きつつもとな戀ひわたるかも (卷十二、三〇九〇)
  咲けりとも知らずしあらば黙然《もだ》もあらむ。この山吹を見せつつもとな (卷十七、三九七六)
  ほととぎすなほも鳴かなむ。もとつ人かけつつもとな吾《あ》を哭《ね》し泣くも (卷二十、四四三七)
   類句、もとな――つつ。
  暫時《しまらく》は宿《ね》つつもあらむを、夢《いめ》のみにもとな見えつつ吾《あ》を哭《ね》し泣くる (卷十四、三四七一)
  松の花|花數《はなかず》にしも我《わ》が夫子《せこ》が思へらなくにもとな咲きつつ (卷十七、三九四二)
  (上略)面影にもとな見えつつ、かく戀ひば老いづく我《あ》が身|蓋《けだ》し堪《あ》へむかも(卷十九、四二二〇)
 
右歌、或本曰、小辨作也。未v審2此小辨者1也
 
右の歌は、或る本に曰はく小辨が作れるなりといへり。いまだこの小辨といふ者を審にせず。
 
【釋】或本曰 アルマキニイハク。本文の歌とは、別の資料である所の或る本によつて、この記事を作つてい(150)るが、それが何であるかは不明である。但し下の小辨作とある、その小辨というのは、特殊の書き方であるが、卷の九、一七三四にも小辨歌一首という題詞があり、それはその題詞の書法からして、前後の歌と共に、一團として一の資料から來ているものであろうと考えられる。よつてここの或る本というのも、さような資料をさすものと考えられる。
 小辨 セウベニ。何人であるか不明であり、讀み方もわからない。左少辨右少辨の少辨の意か、または僧名ででもあるか、それも不明である。
 
幸2伊勢國1之時、安貴王作歌一首
 
伊勢の國に幸でましし時、安貴の王の作れる歌一首。
 
【釋】幸伊勢國之時 イセノクニニイデマシシトキ。藤原時代から奈良時代に懸けて、伊勢の國に、行幸御幸のあつたのは、持統天皇の六年の行幸、大寶二年の持統太上天皇の參河の國への御幸、養老二年の美濃の國への行幸、天平十二年の行幸等が數えられる。歌の配列の順序を見ると、人麻呂黒人の作に續いているによれば、大寶二年の度とすべきであるが、養老二年の度と考えられぬこともない。
 安貴王 アキノオホキミ。皇胤紹運録《こういんしょううんろく》に「天智天皇−施基皇子−春日王−安貴王−市原王−春原五百枝」とあり、本集に「市原(ノ)王(ノ)宴(ニ)祷(ク)2父(ノ)安貴(ノ)王(ヲ)1歌一首」の題詞(卷六、九八八)があつて、市原の王の父君であつたことが知られる。春日の王は、同名異人もあるが、本集卷の四、六六九の題詞「春曰(ノ)王(ノ)歌一首」とある自註に「志貴(ノ)皇子之子、母(ヲ)曰(ヘリ)2多紀(ノ)皇女(ト)1也」とあるによれば、皇胤紹運録の記事は信ずべきが如くである。績日本紀、天平十七年正月、從五位の下阿貴の王に從五位の上を授くとあるは、この王であろう。本集卷の四、六四三の題詞に「紀(ノ)女郎(ノ)怨恨(ノ)歌三首」とある自註に「鹿人(ノ)大夫之女、名(ヲ)曰(ヘリ)2小鹿(ト)1也、安貴(ノ)王之妻也」とあり、また同卷(151)五三五の左註に、因幡の八上の采女を娶つたとも傳えている。
 
306 伊勢の海の 奧《おき》つ白浪 花にもが。
 包みて妹が 家づとにせむ。
 
 伊勢海之《イセノウミノ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 花尓欲得《ハナニモガ》
 裹而妹之《ツツミテイモガ》 家裹爲《イヘヅトニセム》
 
【譯】この伊勢の海の奧つ白浪の美しさよ。これが手に取る事のできる花であつたらよいが。そしたらばこれを包み持つて、わが妻のもとへ家づととして、持つて行つてやりたいものである。
【釋】花尓欲得 ハナニモガ。ガが願望の助詞で、ここで句切である。花にもあれと願う意である。「石竹之《ナデシコノ》 其花爾毛我《ソノハナニモガ》 朝旦《アサナアサナ》 手取持而《テニトリモチテ》 不v戀日將v無《コヒヌヒナケム》」(卷三、四〇八)などあり、欲得の字面は、「霍公鳥《ホトトギス》 汝始音者《ナガハツコヱハ》 於v吾欲得《ワレニモガ》 五月之珠爾《サツキノタマニ》 交而將v貫《マジヘテヌカム》」(卷十、一九三九)など例が多く、モガ、モガモなどの訓が當てられている。
 裹而妹之家裹爲 ツツミテイモガイヘヅトニセム。イモガイヘヅトは、妹のためにの家裹である。イヘヅトは、家に持參する包物の義。みやげ物。品物を包むのでツトという。「伊敝豆刀爾《イヘヅトニ》 可比乎比里布等《カヒヲヒリフト》」(卷十五、三七〇九)などある。
【評語】花ニモガと、三句で切れており、また包ミテで切らないで、妹ガ家裹の語が中途で切れ四五句に跨つている。かように調子がくずれて來たのは、時代の降つたことを思わしめる。歌いものから傳えて來た調子を忘れたのである。ひとり家を離れて、おもしろい處に遊び、そこの珍しい風物をおみやげに持つて行きたいという、旅人としては常に詠まれる内容であるが、初めに、伊勢ノ海ノ奧ツ白浪と呼びあげて、花ニモガと希望をあらわし、轉じて希望をあきらかにした順序は、隙間のない表現である。〔次改行せよ〕
 
(152)博通法師、往2紀伊國1見2三穗石室1作歌三首
 
博通法師の、紀伊の國に往きて、三穗の石室を見て作れる歌三首。
 
【釋】博通法師 ハクツウホワシ。傳未詳。博通という名の僧である。
 三穗石室 ミホノイハヤ。三穗は、和歌山縣日高郡三尾村。イハヤは石窟。今も御坊市より西、日の御崎に行く途中に一大岩窟があるそうである。倭名類聚紗居宅類に「説文(ニ)云(フ)、窟和名、伊波夜《イハヤ》 土(ノ)屋也。一(ニ)云(フ)、掘(リテ)v地(ヲ)作(ル)v之(ヲ)」とある。
 
307 はだ薄《すすき》 久米の若子《わくご》が 坐《いま》しける 【一は云ふ、けむ】
 三穗の石室《いはや》は
 見れど飽かぬかも。 【一は云ふ、あれにけるかも。】
 
 皮爲酢寸《ハダススキ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》 伊座家留《イマシケル》【一云、家牟】
 三穗乃石室者《ミホノイハヤハ》 
 雖v見不v飽鴨《ミレドアカヌカモ》 【一云、安禮尓家留可毛】
 
【譯】昔久米の若子の居られた、はだ薄の生えている三穗の石室は、どれほど見ても飽きないなあ。
【釋】皮爲酢寸 ハダススキ。この語、日本書紀神功皇后の卷に「幡荻穗出吾也《ハタススキホニデシワレナリ》」、出雲國風土記に「波多須須支穗振別而《ハタススキホフリワケテ》」、本集に「旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎推靡《シノヲオシナベ》」(卷一、四五)、「旗荒《ハタススキ》 本葉裳具世丹《モトハモソヨニ》」(卷十、二〇八九)があり、ハタススキとタを清音に讀むべきが如く、旗の如く靡くススキの義と解せられる。しかるに一方、皮は膚に同じく、ハダとタを濁音にいう語であり、本集中、ここと同一の文字を使用したものに、「吾妹兒爾《ワギモコニ》 相坂山之《アフサカヤマノ》 皮爲酢寸《ハダススキ》 穗庭開不v出《ホニハサキイデズ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》」(卷十、二二八三)、「皮爲酢寸《ハダススキ》 穗庭開不v出《ホニハサキイデヌ》 戀乎吾爲《コヒヲワガスル》」(同、二三一一)がある。その他、「波太須珠寸《ハダススキ》 尾花逆葺《ヲバナサカフキ》(卷八、一六三七)、「波太須酒伎《ハダススキ》 穗爾弖之伎美我《ホニデシキミガ》」(卷十四、(153)三五〇六)、「波太須酒伎《ハダススキ》 宇良野乃夜麻爾《ウラノノヤマニ》」(同、三五六五)、「波太須酒吉《ハダススキ》 穗出秋乃《ホニヅルアキノ》」(卷十七、三九五七)等は、いずれもタに濁音の字を使つている。これらによれは、ハダススキと讀むべきが如くである。太の字は清音の處にも使つているが、濁音と見るのが順當である。多く穗ニ出ヅに冠しているので、ススキの穗がまだあらわれないで皮を被つているについていい、また尾花と竝べているのであろう。さて上記の諸例のうち、枕詞として使用されたものは、穗に懸かつているので、この歌においても、句を隔てて三穗に懸かるものと見られる。ハダは表皮、ススキは、手ざわりのするどい感じの草の義であろう。それで穗のまだ出ないで、はらんでいるススキにいうと見える。それは目前にハダススキを見、それを呼び懸けて初句を起し、句を隔てて枕詞に利用したものと見るべきである。
 久米能若子我 クメノワクゴガ。クメは氏の名か否か不明である。ワクゴは、「思寐能和倶吾《シビノワクゴ》」(日本書紀九五)、「※[立心偏+豈]那能倭倶吾《ケナノワクゴ》」(同九八)、「等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》」(卷十四、三四五九)等があり、日本書紀顯宗天皇の卷には、天皇の更《また》の名、來目《くめ》の稚子《わくご》とある。若い人の義であろうが、歌經標式には、柿本の人麻呂を、柿本の若子と記している。さて久米の若子は、顯宗天皇の御事だろうとする説(古事記傳)があり、この地方にも顯宗天皇の新室賞《にいむろほぎ》の傳説と類似の傳説があつたかも知れない。また久米の仙人などかという説(代匠記)もある。要するに傳説中の人物で、顯宗天皇のこととする傳來もあるのだろうが、今は不明というほかはない。
 伊座家留 イマシケル。居られたの意を、過去の事實として表現している。
 一云家牟 アルハイフ、ケム。本文のイマシケルの句が、別傳にはイマシケムとあつたというのである。ケムは過去推量の助動詞。ケルと同樣に、次の句に對する修飾句。以上二句、次の三穗の石室を説明している。
 三穗乃石室者 ミホノイハヤハ。題詞のもとに説明した。
 雖見不飽鴨 ミレドアカヌカモ。既出(卷一、三六)。本集の慣用句の一。見ても飽くことなしの意。稱美の(154)詞。
 一云安禮尓家留可毛 アルハイフ、アレニケルカモ。別傳には、荒廢してしまつたとしているのである。本文の意と異なる。この一云は、三句の一云家牟とあつた別傳と同じ傳えで、三句にイマシケムとある方は、五句アレニケルカモとあつたのであろう。
【評語】以下三首は、連作として見るべきものである。この歌は、まず總論的な性質を有する。初句に、目前の風物について、ハダ薄と敍したのは、石室を詠歎した歌として效果が多い。連作の一としては、まず見レド飽カヌカモと稱美した方がよい。次の歌にケルが使用されているので、三句も本文のケルの方がよい。
【參考】久米の若子。
   和銅四年辛亥、河邊《かはべ》の宮人《みやひと》の、姫島《ひめじま》の松原の美人の屍を見て哀慟して作れる歌
  みつみつし久米の若子《わくご》がい觸《ふ》れけむ礒の草根の枯れまく惜しも(卷四、四三五)
 
308 常磐《ときは》なす 石室《いはや》は今も ありけれど、
 住みける人ぞ 常なかりける。
 
 常磐成《トキハナス》 石室者今毛《イハヤハイマモ》 安里家禮騰《アリケレド》
 住家類人曾《スミケルヒトゾ》 常無里家留《ツネナカリケル》
 
【譯】變らぬ岩を成して石窟は今もあるけれども、住んでいた人は、永久ではなかつた。
【釋】常磐成 トキハナス。トキハはトコイハで、恒久不變の磐石。ナスは何々を成しての意。恒久の岩石を成しての意で、石室を修飾する。「等伎波奈周《トキハナス》 迦久斯母何母等《カクシモガモト》 意母閉騰母《オモヘドモ》」(卷五、八〇五)などの用例がある。
 石室者今毛安里家禮騰 イハヤハイマモアリケレド。三穗の石室の今なお存していることを敍して、下句の伏線としている。
(155) 住家類人曾 スミケルヒトゾ。この石室に住んでおつた人で、久米の若子をいう。
 常無里家留 ツネナカリケル。常なしは、佛教の無常觀をいう。それを過去の事實としてケルを使用している。「うつせみの代は常なしと知るものを秋風寒み偲《しの》ひつるかも」(卷三、四六五)など、無常思想を詠んだ例は多い。上のゾを受けて連體形で結んでいる。
【評語】第一首における石室の提示を受けて、石室は昔ながらにして、人の常なきを詠じている。常に見られる思想であるが、率直に敍して理くつにならぬ點を取るべきである。
 
309 石室戸《いはやど》に 立てる松の樹、
 汝《な》を見れば、
 昔の人を 相見るごとし。
 
 石室戸尓《イハヤドニ》 立在松樹《タテルマツノキ》
 汝乎見者《ナヲミレバ》
 昔人乎《ムカシノヒトヲ》 相見如之《アヒミルゴトシ》
 
【譯】石窟の入口に立つている松の樹よ、お前を見ると、昔の久米の若子を見るようだ。
【釋】石室戸尓 イハヤドニ。トは門戸で、イハヤドは、石窟の入口である。次の句の立テル松ノ樹の所在を、示している。
 立在松樹 タテルマツノキ。松の樹を提示し、これを呼びあげている。
 汝乎見者 ナヲミレバ。松の樹を呼んで汝としている。人間ならざる者に汝ということ、上(卷三、二六六)に見えた。親しみをあらわしたいい方である。
 昔人乎 ムカシノヒトヲ。久米の若子を指して昔の人といつている。
 相見如之 アヒミルゴトシ。アヒは接頭語であるが、ほとんど意味を感じていない。ゴトシは、ゴトの形でも終止するが、シを添えて形容詞類似形をとり、ゴトシともいう。「年月波《トシツキハ》 奈何流々其等斯《ナガルルゴトシ》」(卷五、八〇四)(156)は、その假字書きの例である。
【評語】第三首に至つて、松の樹を敍して、古人を思う情をあきらかにしている。以上三首、提示、感慨、追憶の三部から成り、整然たる體制を成している。連作としてよく味わうべきである。ただ作者は、久米の若子について知るところがあり、その事を敍していないので、今人はそれを知ることが出來ない。理解に缺けるところのあるのは已むを得ない。
【參考】類想――松を見て人を思う。
  松の樹《け》の竝《な》みたる見れば家人《いはびと》のわれを見送ると立たりしもころ (卷二十、四三七五、下野の國の防人物部の眞島《ましま》)
 
門部王、詠2束市之樹1作歌一首 後賜2姓大原眞人氏1也
 
門部《かどべ》の王《おほきみ》の、東《ひむかし》の市の樹を詠《なが》めて作れる歌一首【後、姓大原の眞人の氏を賜へり。】
 
【釋】門部王 カドベノオホキミ。題下の註によれば、後に大原の眞人の氏を賜わつて、大原の眞人門部と稱したという。同樣の註は、卷の六、一〇一三の左註にも見える。本集には「出雲(ノ)守門部(ノ)王」(卷三、三七一題詞)、「彈正(ノ)尹門部(ノ)王」(卷六、一〇一三題詞)とあつて、出雲の守、彈正の尹であつたことが知られる。ところで今續日本紀について、門部王および大原の眞人門部に關する記事を拾うと、次の通りである。
  和銅三年正月 无位門部の王に從五位の下を授く。
    六年正月 无位門部の王に從四位の下を授く。
  養老元年正月 從五位の下門部の王に從五位の上を授く。
    三年七月 伊勢の國の守門部の王に伊賀志摩二國を管せしむ。
(157)  五年正月 正五位の下を授く。
  神龜元年二月 正五位の上を授く。
    五年五月 從四位の下を授く。
  天平三年正月 從四位の上を授く。
     十二月 この頃、治部の卿從四位の上。
    六年二月 この頃從四位の下。天平六年の聖武天皇勅旨寫經御願文には、「寫經司治部卿從四位上門部王」。
   九年十二月 從四位の下門部の王を右京の大夫とす。
   十四年四月 從四位の下大原の眞人門部に從四位の上を授く。
   十七年四月 大藏の卿從四位の上大原の眞人門部卒す。
これによれば、從四位の下、從四位の上を授けられたこと、各二出し、二人の門部の王があつたようでもある。しかし、和銅六年に无位から從四位の下を授けられたというも不審である。よつて續日本紀における位階の記事には、何等かの誤謬ありとすべく、門部の王に同名異人ありとすること、まだ定説としがたい。大原の眞人の氏を賜わつたことは、天平九年から十四年の間なるべく、高安の王に大原の眞人を賜わつたのは、天平十一年四月であるから、多分同時であつたろう。系統については、新撰姓氏録に、大原の眞人は、敏達天皇の孫百濟の王より出るとある。
 詠東市之樹作歌 ヒムカシノイチノキヲナガメテツクレルウタ。東の市は、平城の京に東西の市があつた、その東方の市で、今の奈良市|辰市《たつのいち》がその遺跡であろうといわれる。道路には當時果樹を植えたので、市にも植えたのであろう。詠は、字鏡集、伊呂波字類抄にナガムの訓がある。或る事物を見てこれを歌に作る意である。(158)詠――歌の例は、集中「詠(メル)2故(ノ)大政大臣藤原(ノ)家之山池(ヲ)1歌」(卷三、三七八題詞)、「詠(メテ)2思泥(ノ)埼(ヲ)1作(レル)歌」(卷六、一〇三一左註)などある。
 
310 ひむかしの 市の植木の 木足《こだ》るまで
 逢はず久しみ、うべ戀ひにけり。
 
 東《ヒムカシノ》 市之殖木乃《イチノウヱキノ》 木足左右《コダルマデ》
  不v相久美《アハズヒサシミ》 宇倍戀尓家利《ウベコヒニケリ》
 
【譯】東の市にある植木の繁茂するまで、逢わないで久しくなつたので、まことに戀をしたことである。
【釋】東市之殖木乃 ヒムカシノイチノウヱキノ。東の市は、題詞の條參照。ウヱキは、移し植えた樹木。「わが屋戸の植木《うゑき》橘、花に散る時をまだしみ、來鳴かなくそこは怨《うら》みず」(卷十九、四二〇七)。殖は、本集では、植に通じて移植の義に常に使用している。
 木足左右 コダルマデ。コダルは、代匠記に木垂る義としているによれば、足の字はタルの訓を借りたのである。しかし枝が垂るとはいうが、樹木について木が垂るとはいうべくもない。「百足《モモタル》 槻木《ツキノキ》」(巻二、二一三)とあるが如く、樹木の枝葉の充足している意で、足を正字とすべきである。「多伎木許流《タキギコル》 可麻久良夜麻能《カマクラヤマノ》 許太流木乎《コダルキヲ》 麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》 古非都追夜安良牟《コヒツツヤアラム》」(卷十四、三四三三)の例がある。植木は、移植と共に一時衰えるものであるが、それが恢復して繁茂するまでの意で、永い時間の經過をあらわしている。
 不相久美 アハズヒサシミ。逢わないで久しくしての意。次の句に對する副詞句。
 宇倍戀尓家利 ウベコヒニケリ。西本願寺本等には、宇倍の下に吾の字があるが、今、神田本、類聚古集によつて、これを除く。ウベは肯定する意の副詞。「今造《イマツクル》 久邇乃王都者《クニノミヤコハ》 山河之《ヤマカハノ》 清見者《サヤケキミレバ》 宇倍所v知良之《ウベシラスラシ》」(巻六、一〇三七)など使用されて居り、また助詞モを添えて、ウベモともいつている。
【評語】久しい時間を描くのに、特殊の物を持ち來つた所に特色がある。街路樹の下に立つて詠んだ歌で、都(159)會生活に觸れている。
【参考】西の市の歌。
  西の市にただ一人出て眼竝《めなら》べず買へりし絹の商《あき》じこりかも(卷七、一二六四)
 
※[木+安]作村主益人、從2豐前國1上v京時作歌一首
 
※[木+安]作の村主益人の、豐前の國より京に上る時の歌一首。
 
【釋】※[木+安]作村主益人 クラツクリノスグリマスヒト。卷の六、一〇〇四の左註に、内匠寮の大|屬《さかん》であつたことが知られるほかは、傳未詳である。※[木+安]は、木製の鞍をいう字。※[木+安]作の村主は、坂上系圖に引いた新撰姓氏録に、後漢の靈帝の後であるという。
 豐前國 トヨノミチノクチノクニ。豐國を分かつて前後の二國とした、その前の國である。
 上京時 ミヤコニノボルトキ。いかなる時に上京したのかわからない。歌詞に特に豐國の國名を擧げているによれば、やはり大和人で任に豐前の國にあつたものであろうか。
 
311 梓弓 引き豐國《とよくに》の 鏡山、
 見ず久ならば 戀《こほ》しけむかも。
 
 梓弓《アヅサユミ》 引豐國之《ヒキトヨクニノ》 鏡山《カガミヤマ》
 不v見久有者《ミズヒサナラバ》 戀敷牟鴨《コホシケムカモ》
 
【譯】梓弓を引き響《とよ》める、その豐國の鏡山は、見ないで久しくなつたなら、戀しいだろうなあ。
【釋】梓弓引豐國之 アヅサユミヒキトヨクニノ。梓弓を引き響《とよ》めるということから、豐國を引き出していると解せられる。梓弓引キまでは、序詞である。このような序詞の續き方に「光神《ヒカルカミ》 鳴渡多※[女+感]嬬《ナリハタヲトメ》」(卷十九、四二三六)の例がある。豐國は、豐前、豐後のまだ分かれなかつた以前の國名である。
(160) 鏡山 カガミヤマ。福岡縣田川郡にある山の名。その山を呼びあげている。
 不見久有者 ミズヒサナラバ。見ずして久しくあらば。「奈加奈可爾《ナカナカニ》 之奈婆夜須家牟《シナバヤスケム》 伎美我目乎《キミガメヲ》 美受比佐奈良婆《ミズヒサナラバ》 須敝奈可流倍思《スベナカルベシ》」(卷十七、三九三四)など例がある。
 戀敷牟鴨 コホシケムカモ。敷は、シケの音に借りている。コホシケは、形容詞の活用形。それに助動詞ムが接續している。カモは詠歎の助詞。
【評語】鏡の山を眺めて詠んでいる。その地から他に轉任して去る時の歌のようである。その山を朝夕に眺めて暮らした日頃が思い出されている。
 
式部卿藤原宇合卿、被v使v改2造難波堵1之時作歌一首
 
式部の卿藤原の宇合の卿の、難波の堵《みやこ》を改め造らしめられし時に作れる歌一首。
 
【釋】式部卿藤原宇合卿 ノリノツカサノカミ、フヂハラノウマカヒノマヘツギミ。式部の卿藤原の宇合は既出。不比等の第三子。神龜元年、式部卿となり、天平九年薨ず。卿は宇合に對して敬意を表して使用している。
 被使改造難波堵之時 ナニハノミヤコヲアラタメツクラシメラレシトキ。難波の堵は、孝徳天皇の難波の長柄の豐前の宮が、その後離宮の地となつていた處であろう。それを改造したことについては、神龜三年十月、式部卿從三位藤原宇合を知造難波宮事《ちぞうなにわぐうじ》としたことが見える。天平四年三月に至つて、「知造難波宮事藤原宇合已下仕丁已上に物を賜ふこと差あり」というのは、その事のほぼ成就したのを賞せられたものと見える。この歌は、その成就した頃の作であろう。堵は都に通じて用いられる。既出(卷一、三二題詞)。改造は、從來あつたものを更に規模を新たにしたものと見られる。
 
(161)312 昔こそ 難波田舍《なにはゐなか》と 言はれけめ。
 今は京《みやこ》引《ひ》き 都びにけり。
 
 昔者社《ムカシコソ》 難波居中跡《ナニハヰナカト》 所v言奚米《イハレケメ》
 今者京引《イマハミヤコヒキ》 都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》
 
【譯】昔こそは、難波田舍といわれたであろう。今は京を引いて來て、都らしくなつた。
【釋】昔者社 ムカシコソ。昔者は、漢文に使用せられる熟字。社をコソに當てること、既出(卷二、一三一)。この集でムカシというのは、遠い往時にもいい、自身の過去にもいう。ここは作者の經過している往時をいうであろう。コソは係助詞。
 難波居中跡 ナニハヰナカト。ヰナカは、今昔物語集卷二十七、於2播磨(ノ)國印南野(ニ)1殺(ス)2野猪(ヲ)1語第三十六に田居中《たゐなか》の語があり、その上略とする説があるが、田居のヰは接尾語であるから、それだけが殘つたとすることはできない。居之所の義とするは首肯できるが、それは宮または宮處に對して、それに出仕する大宮人が家居する處をいつたのであろう。倭名類聚鈔に「田舍人、楊氏漢語抄(ニ)云(フ)、田舍兒 偉那迦比斗《ヰナカヒト》」とあり、田舍の字が當てられるのも、鄙住みの家居をいうゆえに、選擇された文字なのであろう。ここには邊鄙の地の意に使用されている。往時は、難波田舍と目されていたとするのである。
 所言奚米 イハレケメ。ケメは、過去推量の助動詞。コソを受けて已然形で結んでいる。ここでは言われた内容について推量している。句切であるが、係助詞コソなしに已然形を用いている文は前提文になるものが多く、これもそれである。
 今者京引 イマハミヤコヒキ。今者は、漢文に現時をいう熟字であり、上の昔者に對して使用されているともいえるが、集中の例、今者は、すべてイマハと讀むべきであり、殊に今を提示して昔者と區別したとも見られるので、イマハと讀むがよいであろう。ミヤコヒキは、京を引き移す義で、「思へりし大宮すらを、恃《たの》めりし(162)奈良の京《みやこ》を、新世《あらたよ》の事にしあれば、大君の引《ひ》きのまにまに、春花のうつろひ易《か》はり」(卷六、一〇四七)にも遷都の意にヒキの語を使用している。ここは遷都ではないが、引き移す意である。
 都備仁鷄里 ミヤコビニケリ。ミヤコビは、京めいた、京の形を備えたの意の動詞。ビは體言を動詞化する
イソノカミルノカムスギカムビニシワレヤサラサラコヒニアヒニケル
もので、「石上《》 振乃神杉《》 神備西《》 吾八更更《》 戀爾相爾家留《》」(卷十、一九二七)には神ビと使用されている。その他、宮ビは用例が多いが、古くは他の活用形を見ない。京ふうになつたの意。
【評語】難波田舍ト言ハレケメと都ビニケリとを對比している。難波の都を作る長官としての得意の状が見える作である。
 
土理宣令歌一首
 
【釋】土理宣令 トリノセニリヤウ。卷の八、一四七〇の題詞には刀理の宣令とある。續日本紀に、養老五年正月、從七位の下刀利の宣令等をして退朝の後、東宮に侍せしむ。懷風藻に、正六位の上伊豫の椽刀利の宣令年五十九として詩二首があり、經國集に刀利宣令對策文二首がある。系統未詳であるが、歸化人系統らしい氏名である。
 
313 み吉野《よしの》の 瀧《たぎ》の白浪、
 知らねども 語りし繼げば、
 いにしへ念《おも》ほゆ。
 
 見吉野之《ミヨシノノ》 瀧乃白浪《タギノシラナミ》
 雖v不v知《シラネドモ》 語之告者《カタリシツゲバ》
 古所v念《イニシヘオモホユ》
 
【譯】この吉野の激流の白浪は、昔の事は知らないが、語り傳えたので、その昔の事が思われる。
【釋】見吉野之瀧乃白浪 ミヨシノノタギノシラナミ。タギノは、白浪の所在を示す。タギツ白浪ともいう。(163)瀧の白浪を呼びあげて、次の句のシラを引き出す序詞としている。
 雖不知 シラネドモ。何を知らないとも説明していないが、四五句より推すに、古の事であり、この勝地における昔物語をいうと考えられる。理くつからいえば語り繼いで知つているのだが、自分の經歴以前の事でよく知らないというのであろう。
 語之告者 カタリシツゲバ。カタリの内容は、やはり古の事である。シは強意の助詞。告は借字、繼ゲバで、語り繼げばの意。告の字を繼の義に借り用いた例には、「語告《カタリツギ》 言繼將v往《イヒツギユカム》 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》」(卷三、三一七)、「人知爾來《ヒトシリニケリ》 告思者《ツギテシオモヘバ》」(卷十、二〇〇二)がある。
 古所念 イニシヘオモホユ。ここに古というは、何時の頃のことか不明である。
【評語】勝地について、その歴史に興味を感じて歌つている。勝地の勝地たる所以は、その物質的條件のみに留まらないとするのである。
  古《いにしへ》への事は知らぬを、われ見ても久しくなりぬ。天《あめ》の香久山(卷七、一〇九六)
 香具山にも古い物語がある。その物語の内容は知らないが、物語のあるということだけは知つている。そうして眺めた山の姿に、神秘性を感じている。それと同じ心が、ここにも歌われているのである。
 
波多朝臣小足歌一首
 
【釋】波多朝臣小足 ハタノアソミヲタリ。傳未詳。波多の朝臣は武内の宿禰の後である。
 
314 さざれ波 礒巨勢道《いそこせぢ》なる 能登湍河《のとせがは》、
 音のさやけさ。
(164) たぎつ瀬ごとに。
 
 小浪《サザレナミ》 礒越道有《イソコセヂナル》 能登湍河《ノトセガハ》
 音之清佐《オトノサヤケサ》
 多藝通瀬毎尓《タギツセゴトニ》
 
【譯】さざれ浪が礒を越す、その巨勢路にある能登湍川の音のさやけさよ。水の激しく流れる瀬の何處でもそうである。
【釋】小浪礒越道有 サザレナミイソコセヂナル。サザレナミは、小さい浪。「神樂浪之《ササナミノ》 志賀左射禮浪《シガサザレナミ》(卷二、二〇六)など使用されている。サザレナミイソは、小さい浪が礒を越す能登湍川の實景をもつて、地名の巨勢を引き出す序詞としている。コセは、普通巨勢と書く。奈良縣南葛城郡の地名。既出(卷一、五〇)。大和から紀伊に赴く通路に當るので、しばしば歌詠にあらわれている。コセヂは、巨勢に赴く道。以上二句、能登湍川の所在を示す。
 能登湍河 ノトセガハ。今所在が知られない。巨勢に赴く道路には、蘇我川の上流を通るものが多く、その川あたりに求めらるべきであろう。この川については、今一首「高湍《こせ》にある能登瀬の河の後もあはむ。妹にはわれは今にあらずとも」(卷十二、三〇一八)がある。この句、能登湍河を提示している。
 音之清左 オトノサヤケサ。サヤケサは、形容詞サヤケシの語幹に接尾語サを添えて、これを體言としたもの。これをもつて文を終結する語法である。本集中、サヤケは、假字書きのもののほかに、清の字を當て、その他、清潔、淨、明、亮等の文字もまたこの語に當てているようであり、これらをもつて、その意を知るべきである。音聲のみならず、視る所についても使用されている。句切。
 多藝通瀬毎尓 タギツセゴトニ。能登湍河の激流の瀬ごとに音のさやけさよと、上の句を補う語意である。タギツセは、激流の瀬。セは淺く騷ぎ流れる處。
【評語】古人は川瀬の音を愛して、これをサヤカの語をもつて表現した。「いざ率去《いざ》川の音のさやけさ」(卷七、(165)一一一二)など、その例ははなはだ多い。この歌も同じく、川音の清いのを詠んでいる。どの瀬もどの瀬もというので、その川について旅行している趣が知られる。その川音の敍述を、序であらわしているのも巧みである。川音の美を愛して、これを、サヤカの語で現した人生は、その語の通り清らかな人生であつたといえる。
 
暮春之月、幸2芳野離宮1時、中納言大伴卿、奉v勅作歌一首 并2短歌1、未v逕2奏上1歌
 
暮春の月、芳野の離宮に幸しし時、中納言大伴の卿の、勅を奉《うけたまは》りて作れる歌一首【短歌并はせたり。いまだ2奏上を經ざる歌なり。】
 
【釋】暮春之月 クレノハルノツキ。暮春は、三月のこと。字音で讀んでいたかも知れない。竹取の翁の歌(卷十六、三七九一)の序文には、季春之月とある。何年のこととも知られないが、神龜元年三月、芳野行幸のこと傳えられ、その頃、大伴の旅人は中納言であつたから、その年であるかも知れない。
 芳野離宮 ヨシノノトツミヤ。トツミヤは、外つ宮の義。「月日《ツキヒハ》 攝友久《カハレドモヒサニ》 流經《ナガラフル》 三諸之山《ミモロノヤマノ》 礪津宮地《トツミヤドコロ》」(卷十三、三二三一)。
 中納言大伴卿 ナカノモノマヲシノツカサ、オホトモノマヘツギミ。大伴の旅人と解せられる。旅人は、安麻呂の子、養老二年三月に中納言に任じ、神龜五年のころ、大宰の帥となつて赴任し、天平二年十月ごろ、兼大納言となり、十二月上京、翌三年七月薨じた。懷風藻に詩一首を傳え、年六十七とある。大伴氏は天の忍日《おしひ》の命の子孫、代々軍事をもつて仕え、大族であつた。旅人も大將軍として邊征に從事したことがある。作品は長歌はこの一首のみで、他は短歌である。作風清雅で誦すべきものが多い。漢詩文にも通じ、老莊思想の影響が見受けられる。
 未逕奏上歌 イタダマヲシアゲルコトヲヲヘザルウタナリ。逕は、經に通じて使用されている。勅命によつて作つたが、いまだ奏上せずして止んだ由である。この文によるに、恐らくは作者自身の手記を資料としてい(166)るのであろう。
 
315 み吉野の 吉野の宮は、
 山からし 貴くあらし。
 川からし さやけくあらし。」
 天地と 長く久しく、
 萬代に 變はらずあらむ、
 いでましの宮。」
 
 見吉野之《ミヨシノノ》 芳野乃宮者《ヨシノノミヤハ》
 山可良志《ヤマカラシ》 貴有師《タフトクアラシ》
 水可良思《カハカラシ》 清有師《サヤケクアラシ》
 天地與《アメツチト》 長久《ナガクヒサシク》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 不v改將有《カハラズアラム》
 行幸之宮《イデマシノミヤ》
 
【譯】吉野にある吉野の離宮は、山のゆえに貴くあるのであろう。川のゆえに清らかであるのであろう。天地と共に永久に、萬世に變わらないであろう、行幸の宮である。
【構成】第一段、清ケクアラシまで。吉野の宮の状態を敍している。以下第二段、祝意を表して離宮を説明している。
【釋】見吉野之芳野乃宮者 ミヨシノノヨシノノミヤハ。上の見吉野は所在を示し、下の芳野ノ宮は宮號であるが、同語を重ねて調子を整えている。「ま蘇我《そが》よ、蘇我の子らは」(日本書紀一〇三)など、同語を重ねるいい方に類している。             、
 山可良志 ヤマカラシ。カラは故、シは強意の助詞。山のゆえにの意。「玉藻よし讃岐《さぬき》の國は、國からか見れども飽かぬ、神からかここだ貴き」(卷二、二二〇) のカラの用法に同じ。
 貴有師 タフトクアラシ。タフトカルラシ(西)、タフトクアラシ (代精)。アラシはアルラシの約言。吉野の宮の尊貴である理由を推量している。句切。
(167) 水可良思 カハカラシ。カハに水の字を使用しているのは、山水の字を分かつて使用したのである。上にも「石水」(卷二、二二四)の文字をイシカハと讀むのがあつた。カラシは、山カラシのカラシに同じ。
 清有師 サヤケクアラシ。川の状態をサヤケクと形容している。アラシは上に同じ。句切で、以上二句は、上の「山からし貴くあらし」に對して對句をなしている。以上第一段。
 天地與 アメツチト。トは、と共にの意。「天地とあひ榮えむと大宮を仕へまつれば貴くうれしき」(卷十九、四二七三)、「天地と久しきまでに萬代に仕へまつらむ黒酒《くろき》白酒《しろき》を」(同、四二七五)。
 長久 。ナガクとヒサシクと。永久の意味を語を變え重ねて言つている。
 萬代尓 ヨロヅヨニ。ヨロヅヨは、永代の意に使用されていること、他の例に同じてある。
 不改將有 カハラズアラム。現状のままにあるだろうの意。連體形の句。
 行幸之宮 イデマシノミヤ。天皇行幸の離宮であることをあきらかにして終つている。
【評語】極めて短い歌であり、敍述も概念的で特色に乏しい。儀禮的な歌に過ぎない。
 
反歌
 
316 昔見し 象《きさ》の小河《をがは》を 今見れば、
 いよよ清《さや》けく なりにけるかも。
 
 昔見之《ムカシミシ》 象乃小河乎《キサノヲガハヲ》 今見者《イマミレバ》
 弥清《イヨヨサヤケク》 成尓來鴨《ナリニケルカモ》
 
【譯】昔見た象の小河を今見れば、いよいよ清らかになつたことである。
【釋】昔見之 ムカシミシ。何時の事か知れないが、曾遊を思い起している。
 象乃小河乎 キサノヲガハヲ。吉野に象の山のあることは、卷の一、六などに見えるが、象の字に拘泥すれ(168)ば、山名がもとであり、その附近の川を象の小川といつたことになる。しかしキサの地名がもとからあつて、それに後になつて象の字を當てたのだろう。吉野川の一支流と考えられる。
 今見者 イマミレバ。初句の昔見シに對している。
 弥清 イヨヨサヤケク。昔に對して今は一層さやかにある由である。サヤケクは、形容詞サヤケシの副詞形。
 成尓來鴨 ナリニケルカモ。なつたことを詠嘆して結んでいる。
【評語】風光のいよいよ新たなるを覺える由を敍している。長歌に比すれば、象の小河と一處に集中した點に、特色が認められる。しかし象の小川の描寫のないのは惜しい。
 
山部宿祢赤人、望2不盡山1歌一首 并2短歌1
 
山部の宿禰赤人の、不盡《ふじ》の山を望める歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】山部宿祢赤人 ヤマベノスクネアカヒト。神龜から天平にかけて、行幸に供奉して歌を詠んでおり、その最終のものとしては、天平八年の吉野の離宮での作が傳えられている。そのほか、地方での作として、東方は葛飾の眞間の娘子の墓、不盡の山を詠み、西方は、伊豫の温泉を詠んでおり、その地に旅行したことが知られる。官位を傳えないので、低い地位であつたと考えられる。山部氏は、播磨の國で、顯宗仁賢兩天皇を見出し奉つた伊與部《いよべ》の小楯の子孫で、もと連姓であつたが、天武天皇の十三年に宿禰の姓を賜わつた。
 望不盡山歌 フジノヤマヲノゾメルウタ。不盡山は富士山に同じ。不盡は字音假字であるが、本卷の次の歌にも、また卷の十四にも使用され、慣用の文字であつたことが知られる。それゆえに不盡の字義を感じて使用したと考えられ、多分その煙が盡きない意に使用したものであつて、これに關聯ある漢文の竹取の翁の説話などから來ているのであろう。なお望不盡山の下に、通例、作歌とあるべきであるが、ここには作の字がない。(169)初めからなかつたものであろう。
 
317 天地の 分かれし時ゆ
 神さびて 高く貴き、
 駿河なる 布士《ふじ》の高嶺《たかね》を、
 天の原 ふり放《さ》け見れば、
 渡る日の 影も隱《かく》らひ、
 照る月の 光も見えず、
 白雲も い行き憚《はばか》り、
 時じくぞ 雪は降りける。」
 語り繼ぎ 言ひ繼ぎ行かむ
 不盡の高嶺は。」
 
 天地之《アメツチノ》 分時從《ワカレシトキユ》
 神左備手《カムサビテ》 高貴寸《タカクタフトキ》
 駿河有《スルガナル》 布士能高嶺乎《フジノタカネヲ》
 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》
 度日之《ワタルヒノ》 陰毛隱比《カゲモカクラヒ》
 照月乃《テルツキノ》 光毛不v見《ヒカリモミエズ》
 白雲母《シラクモモ》 伊去波伐加利《イユキハバカリ》
 時自久曾《トキジクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》
 語告《カタリツギ》 言繼將v往《イヒツギユカム》
 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》
 
【譯】天地の分かれた時からこの方、神威を發揮して高く貴い、駿河なる富士の高嶺を、天上はるかに仰ぎ見れば、渡る日の影も隱れ、照る月の光も見えない。白雲も行くに躊躇し、時節ならずして雪が降つている。次次に語り傳えて行こうよ、この富士の高嶺は。
【構成】第一段、時ジクゾ雪ハ降リケルまで、事實を敍述する。以下第二段、感想を述べる。多くの歌に見出される二段構成である。
【釋】天地之分時從 アメツチノワカレシトキユ。昔天地は渾沌としておつたが、そのすめるものは上つて天(170)となり、濁れるものは下つて地となつたという天地開闢説によつている。この思想は、日本書紀に見えているが、歌では、人麻呂歌集所出の歌に、「天地等《アメツチト》 別之時從《ワカレシトキユ》 自※[女+麗]《オノガツマ》 然敍手而在《シカゾテニアル》 金待吾者《アキマツワレハ》」(卷十、二〇〇五)とある。元來、天と地と對立する思想は外來思想らしく、わが國では、古くは天を人文的存在と考えて、これに對するにクニ(國)の語をもつてした。これによれば、天地の別かれたということも、大陸の宇宙創生説話にもとづくものであろう。ユは、その時から引き續いてこちらへの意で、ここでは、時間的にいつている。天と地との別かれた時以來の意で、神サビテ高ク貴キまでに懸かる。
 神左備手 カムサビテ。富士山が、神としての性能を發揮しているをいう。神靈のある所として感じられるのである。カムサビは、既出(卷一、三八)。
 高貴寸 タカクタフトキ。タカクは、山の雲際にそびえているのをいうが、同時に崇高の義をも含んでいる。元來形容詞タカシには、實際に高くある意と、崇敬すべくある意とを含んでおり、後にはこの二義が分化をとげて使用されるが、古意は、その二義を併わせていうのである。タフトキは、尊貴である性質をいう。形容詞タフトシは、フトシ(太)に接頭語タの添つたのを語原とするのであろう。この句、下の富士ノ高嶺を修飾する。
 駿河有 スルガナル。富士山の所在を説明している。作者が他國の人であるから、この國名を冠して説明する。
 布士能高嶺乎 フジノタカネヲ。富士山を取り上げている。天ノ原フリサケ見レバに對する處置格である。
 天原振放見者 アマノハラフリサケミレバ。既出(卷二、一四七)。ここは富士山を天際に望見すれはの意。
 度日之 ワタルヒノ。ワタルは、天空を移動するをいう。空わたる太陽の意。
 陰毛隱比 カゲモカクラヒ。カゲモカクロヒ(西)、カゲモカクラヒ(總索引)。カゲは光“カクラヒは、隱(171)ルの連續して行われるにいう語。山高くして日光もこれに隱れる由である。
 照月乃 テルツキノ。照り輝く月のである。
 光毛不見 ヒカリモミエズ。山高くして照る月の光も隱れて見えないのである。句切。以上二句、渡ル日ノ影モ隱ラヒに對して對句をなしている。
 白雲母伊去波伐加利 シラクモモイユキハバカリ。イは接頭語。ハバカリは、躊躇逡巡する意。山高くして雲も行くことをためらうのである。
 時自久曾 トキジクゾ。トキジは、既出(卷一、二六)。その時節ならざるをいう。トキジクは、その副詞形。ゾは係助詞。
 雪者落家留 ユキハフリケル。ゾに對して、連體形ケルをもつて結んでいる。以上第一段。
 語告 カタリツギ。語り繼ぎの意であるが、告は、通告の義の文字であつて、これに當てられる國語ツグは下二段活であるから、ツギの活用形はないのであるが、ここにツギ(繼續)の音をあらわすに借りたのは、異例とされる。告を繼續の意に借り用いたのは、このほかに「語之告者《カタリシヅゲバ》」(卷三、三一三)、「乏嬬《トモシヅマ》 人知爾來《ヒトシリニケリ》 告思者《ヅギテシオモヘバ》」(卷十、二〇〇二)、「里人毛《サトビトモ》 語告我禰《カタリツグガネ》」(卷十二、二八七三)があり、卷の十の例は、ここと同じく、告をツギと讀んでいる。これは、語り繼ぐの語に語告と書いたのが移つて、カタリツギの場合にも及んだのだとされているが、かような文字の用法はほかにない。これはツグの語が、元來、言語をもつて他に傳繼する意であつて、それが後に分化をとげ、通告する意の方は下二段活用となり、繼續する意の方は四段活用となつたものと見るべきである。それは告グは、ある内容を言語をもつて他に傳繼する意に使用されて、發音する意の言フと區別せられ、繼グは、言ヒ繼グ、語リ繼グ、聞キ繼グなど、言語關係の語と熟して使用されることが多いことによつて推考される。そこでカタリツグの意は、言語をもつて傳繼するにあつて、ツグの古意には言語(172)をもつてする意があるから、告の字を使用したものと考えられる。
 言繼將往 イヒツギユカム。イヒツギも、言語をもつて傳繼する意である。ユカムは、その引き續いて行おうとする意を示す。次々にと言語をもつて現在の人にも後の世の人にも傳え行こうというのである。句切。
 不盡能高嶺者 フジノタカネハ。最後に語り繼ギ言ヒ繼ギ行カムの主格を提示して終つている。富士の高嶺をばの意であるが、提示の意を強く示すために、ハを使用している。
【評語】この赤人の富士山の歌は、有名な作品であるが、いかにもその名聲にそむかない。天地ノ分カレシ時と、天地開闢の時から説き來つたのも、富士山のような偉大なものを歌うに適している。かように歴史的に敍し來るのは、赤人の特色なる追憶の表現の一樣式であつて、この場合にも、富士山の崇高な性質を説明するに極めて有效である。第二段の感想も、これに應じて時間的に述べている。また富士の特質を記すに、日月と雲雪をもつてしたのも、適切である。形はさして長大ではないが、よくこの高山の實相を説いており、精神的な名作ということが出來る。
 
反歌
 
318 田兒《たご》の浦ゆ うち出でて見れば、
 眞白《ましろ》にぞ
 不盡の高嶺に 雪は零《ふ》りける。
 
 田兒之浦從《タゴノウラユ》 打出而見者《ウチイデテミレバ》
 眞白衣《マシロニゾ》
 不盡能高嶺尓《フジノタカネニ》 雪波零家留《ユキハフリケル》
 
【譯】田兒の浦の中を、うち出でて見れば、眞白く、富士の高嶺に雪は降つてあつた。
【釋】田兒之浦從 タゴノウラユ。田兒の浦は既出(卷三、二九七)。それには晝見レド飽カヌ田兒ノ浦と詠ま(173)れて、勝景の地であることが知られる。これは興津《おきつ》町より東の海面であつて、富士山を主題とした大景が眺められる。ウラの語は、水面をいうが、ここでは海濱である。ユは、その處からこちらへという意であるから、次句にうち出でてとあつても、田兒の浦から、他に離れ去るのではない。なお田兒の浦で、眺望のきく廣場に出るのである。長歌では、ユを時間的に使つているが、ここでは空間的に使つている。田兒の浦の中をの意である。このユは、「おしてる難波の埼よ、いで立ちてわが國見れば」(古事記五四)のヨの用法に同じ。
 打出而見者 ウチイデテミレバ。ウチイヅは、ウチは接頭語。イヅに中心の意味がある。廣々とした處に出るにいう。「相坂《あふさか》をうち出でて見れば淡海《あふみ》の海|白木綿《しらゆふ》花に波立ちわたる」(卷十三、三二三八)の歌は、相坂山から湖畔に出ることを歌つている。湖畔に打出の濱の名を留めているのも、山中から開いた處に出た意である。
 眞白衣 マシロニゾ。マシロは、「麻之路能鷹乎《マシロノタカヲ》」(卷十九、四一五五)の例がある。ゾは係助詞。
 雪波零家留 ユキハフリケル。ゾに對して、連體形をもつて結んでいる。富士の高嶺に、既に雪の降つてあることを敍している。雪を戴く富士山が描かれている。
【評語】田兒の浦の海濱から、富士山を仰ぎ見た旅人の嘆美の聲である。長歌に、概論的に富士の高大美を説いて、反歌には、作者の位置をあきらかにして、人間との交渉を説明しかつ富士山を描寫したのも、常套手段ではあるが、整つた形である。小倉百人一首に「田兒の浦にうち出でて見ればしろたへの富士の高嶺に雪は降りつつ」としたのは、平安時代に於ける誤讀である。殊にフリツツはわるい。今降つているのでは白雪を戴いた妙峰の姿は、描かれず、雲中に隱れて見えないことになる。
 
詠2不盡山1歌一首 并2短歌1
 
不盡の山を詠める歌一首【短歌并はせたり。】
 
(174)【釋】詠不盡山歌 フジノヤマヲヨメルウタ。前に山部の赤人の不盡の山を望める歌を載せた縁で、これを載せたのであろう。作者未詳である。目録には、題下に註して「笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌(ノ)中(ニ)之出(ヅ)」とあるが、その根據を知らない。また金村の作とも思われない。三二一の歌の左註により、高橋の蟲麻呂の作とする説もあるが、それも首肯されない。
 
319 なまよみの 甲斐の國、
 うち寄する 駿河の國と、
 こちごちの 國のみ中ゆ
 出で立てる 不盡《ふじ》の高嶺は、
 天雲も い行き憚《はばか》り、
 飛《と》ぶ鳥も 翔《と》びも上《のぼ》らず。
 燎《も》ゆる火を 雪もち消《け》ち、
 降る雪を 火もち消《け》ちつつ、
 言ひもかね 名つけも知らず、
 靈《くす》しくも 坐《いま》す神かも。」
 石花《せ》の海と 名づけてあるも、
 その山の 包める海ぞ。
 不盡《ふじ》河と 人の渡るも
(175) その山の 水のたぎちぞ。
 日《ひ》の本《もと》の 大和の國の
 鎭《しづめ》とも 坐す神かも。
 寶とも 成れる山かも。」
 駿河なる 不盡の高峯《たかね》は、
 見れど飽かぬかも。
 
 奈麻余美乃《ナマヨミノ》 甲斐乃國《カヒノクニ》
 打縁流《ウチヨスル》 駿河能國與《スルガノクニト》
 己知其智乃《コチゴチノ》 國之三中從《クニノミナカユ》
 出立有《イデタテル》 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》
 天雲毛《アマグモモ》 伊去波伐加利《イユキハバカリ》
 飛鳥毛《トブトリモ》 翔毛不v上《トビモノボラズ》
 燎火乎《モユルヒヲ》 雪以滅《ユキモテケチ》
 落雪乎《フルユキヲ》 火用消通都《ヒモチケチツツ》
 言不v得《イヒモカネ》 名《ナヅケモ》不v知《シラズ・シラニ》
 靈母《クスシクモ》 座神香聞《イマスカミカモ》
 石花海跡《セノウミト》 名付而有毛《ナヅケテアルモ》
 彼山之《ソノヤマノ》 堤有海曾《ツツメルウミゾ》
 不盡河跡《フジガハト》 人乃渡毛《ヒトノワタルモ》
 其山之《ソノヤマノ》 水之當焉《ミヅノタギチゾ》
 日本乃《ヒノモトノ》 山跡國乃《ヤマトノクニノ》
 鎭十方《シヅメトモ》 座祇可聞《イマスカミカモ》
 寶十方《タカラトモ》 成有山可聞《ナレルヤマカモ》
 駿河有《スルガナル》 不盡能高峯者《フジノタカネハ》
 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】甲斐の國や駿河の國の、あちこちの國の眞中から、出で立つている富士の高嶺は、空ゆく雲も行くをはばかり、飛ぶ鳥も飛びあがらない。噴火の火を雪で消し、降る雪をその火で消して、言うことも名づけることも知らず、靈妙にまします神である。石花《せ》の海と名づけてあるのも、その山の包んでいる湖水である。富士川といつて人の渡るのも、その山の水の流れである。この日本の國の、鎭護ともまします神である。寶とも成つている山である。駿河にある富士の高嶺は、見ても飽きないなあ。
【構成】初めから出デ立テル不盡ノ高嶺はまでは、提示部であり、以下靈シクモ座ス神カモまでその提示部を受けて説明している。以上第一段。更に、寶トモ成レル山カモまで、重ねてその提示部を説明している。以上第二段。第一段、第二段併わせて富士山を敍述しこれを讃嘆する。以下第三段、富士山を見ても飽きないことを述べて總括をなしている。
【釋】奈麻余美乃 ナマヨミノ。枕詞であろうが、語義未詳である。諸説があるが信頼すべきものを見ない。強いて釋すれば、同音韻の古語を當て試みる外はないであろう。すなわち、ナマは、本集に「奈麻強《ナマシヒニ》 常念弊利《ツネニオモヘリ》」(卷四、六一三)、古事記に「ここにややにその御琴を取り依せて、那摩那摩邇《なまなまに》控《ひ》き坐す」(中卷仲哀天皇の
(176)
 前田家一本〔写真略〕
 この本は、題詞などを書き改めた本で、資料としての價値は減少している。ここに作者の名を笠朝臣金村としたのも、本集の目録のこの歌の條に、笠朝臣金村歌中之出とあるによつて書き加えたものと考えられる。前田家藏。
 
卷)により、よく熟せざる意に解せられる。ヨミは佳良の義でもあろうか。ノは助詞。それで熟せざる好味の意で、貝と同一音の北方の國を説明しているのであろうか。それにしても牽強附會たるを免れまい。
 甲斐乃國 カヒノクニ。甲斐は、字音假字である。語義は、峽《かひ》の國の義であろう。
 打縁流 ウチヨスル。枕詞、駿河を修飾する。この國は海に面しており、中央との交通路は、海濱によつているので、浪のうち寄する義を取つているのであろう。
 駿河能國與 スルガノクニト。與は、字の義によつて、トと讀まれている。甲斐の國と駿河の國とを竝立し(177)て、トで受けている。
 己知其智乃 コチゴチノ。既出(卷二、二一〇)。此方此方のの義で、あちこちのという意に同じ。ここでは、甲斐と駿河とをさしている。
 國之三中從 クニノミナカユ。ミは接頭語。ミナカは眞中に同じ。ユは、其處からで、ここは空間的に使用されている。富士山が國境線上、空中に聳起していることを描いている。
 出立有 イデタテル。あちこちの國の中から、空中に向かつて立つていることを敍している。以上、初句からこの句まで、次の不盡の高嶺の修飾句である。
 不盡能高嶺者 フジノタカネハ。出デ立テルまでの諸句を受けて、文主を提示している。この句に對して、靈シクモ坐ス神カモで形式的に一旦終結し、別にこれを受けて、鎭トモ坐ス神カモ、寶トモ成レル山カモで雙脚に結んでいる。
 天雲毛伊去波伐加利 アマグモモイユキハバカリ。上の赤人の歌に白雲モイ行キ憚リとある。いずれかがもとで、高山を敍する名句であるので、他がこれを受けているのであろう。
 飛鳥母翔毛不上 トブトリモトビモノボラズ。上をトブ鳥といつてあるので、翔をトビと讀む。山高くして、空行く鳥も怖れて飛び上らないよしである。句切。
 燎火乎 モユルヒヲ。當時、富士山が噴火していたことは、本集に「妹が名もわが名も立たば惜しみこそ富士の高嶺《たかね》の燃えつつわたれ」(卷十一、二六九七)の歌があり、國史の類に天應元年、延暦十九年等の爆發を傳えている。その噴火を、ここにモユルといつている。
 雪以滅 ユキモチケチ。動詞モツの中止形には、モチとモテとの兩形がある。モチは、「籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》」(卷一、一)、「夜保許毛知《ヤホコモチ》 麻爲泥許之《マヰデコシ》」(卷十八、四一一一)、「投矢毛知《ナグヤモチ》 千尋射和多之《チヒロイワタシ》」(卷十九、四一六(178)四)、「伊斯都都伊母知《イシツツイモチ》 宇知弖斯夜麻牟《ウチテシヤマム》」(古事記一一)、「許久波母知《コクハモチ》 宇知斯淤冨泥《ウチシオホネ》」(同・六二)等多數の例があり、またモテは、「奈爾毛能母弖加《ナニモノモテカ》 伊能知都我麻之《イノチツガマシ》」(卷十五、三七三三)、「宇萬爾布都麻爾《ウマニフツマニ》 於保世母天《オホセモテ》 故事部爾夜良波《コシベニヤラバ》」(卷十八、四〇八一)の例がある。このモチは四段活と見られる。モテは例もすくなくかつ新しいのであつて、おくれて成立した形と見られるのであるが、モツル、モツレの如き形を見ないのであるから、下二段活用と見るよりも、むしろモチテの約言と見るべきである。
 落雪乎火用消通都 フルユキヲヒモチケチツツ。上の燎ユル火ヲ雪モチ消チに對して對句を成している。火は、噴火である。
 言不得 イヒモカネ。イヒモカネ(代初)、イヒモエズ(略)。不得は、カネともエズとも讀まれる。カネと讀むべき例は、「乘西情《ノリニシココロ》 忘不v得裳《ワスレカネツモ》」(卷七、一三九九)、「歩吾來《カチユワガクル》 汝念不v得《ナヲオモヒカネ》」(卷十一、二四二五)などあり、またエズと讀むべき例は、「雖2侍候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》」(卷二、一九九)、「留不v得《トドメエヌ》 壽爾之在者《イノチニシアレバ》」(卷三、四六一)などある。今の場合はいずれにも讀み得るのであり、助詞モを受けるものも、「多弖麻都流《タテマヅル》 御調寶波《ミツキタカラハ》 可蘇倍衣受《カゾヘエズ》 都久之毛可禰都《ツクシモカネツ》」(卷十八、四〇九四)、「冬夜之《フユノヨノ》 明毛不v得呼《アカシモエヌヲ》」(卷九、一七八七) の如く、兩方の例があつて、決定は困難であるが、今假字書きの證のあるに任せ、また舊訓により、カネと讀むこととする。いかにいつてよいか、いうことが困難である意である。
 名不知 ナヅケモシラニ。ナヅケモシラズ(代初)、ナヅケモシラニ(略)。下文に、「言毛不得《イヒモカネ》 名付毛不v知《ナヅケモシラズ》」(卷三、四六六)とあるにより、名をナヅケと讀むべく、不知は、シラニとも讀まれるが、シラニは多く熟語句に使用されているので、ここは假字書きの例の多いのに任せて、シラズと讀む。上の言ヒモカネに對して對句をなし、下文に對して副詞句をなしている。いかに名づくべきか、それを知らない意である。
 靈母 クスシクモ。アヤシクモ(西)、クスシクモ(槻)。クスシは、靈妙神秘である意をあらわす形容詞。(179)山の神靈をクスシと形容し、次の句のイマスに對して副詞句となつている。
 座神香聞 イマスカミカモ。富士山を神と稱えている。山そのものを神と感ずる思想である。以上第一段、富士山の高大性を敍述している。
 石花海跡 セノウミト。石花は、海底動物。古くセといい、今セイ、またカメノテという。倭名類聚鈔に「厖蹄子《バウテイシ》、崔禹《サイウ》食經(ニ)云(フ)、厖蹄子、勢《セ》。貌似(テ)2犬(ノ)蹄(ニ)1、而附(キテ)v石(ニ)生(ズル)者也。兼名苑(ノ)注(ニ)云(フ)、石花、二三月(ニ)皆舒(ベ)2紫(ノ)花(ヲ)1、附(キテ)v石(ニ)而生(ズ)。故(ニ)以(テ)名(ヅク)v之(ヲ)」とある。色葉字類抄にも「厖蹄子セイ石花同」とある。セノウミは、富士山北の湖水をいう。三代實録、貞觀六年六月十七日の條に「甲斐の國言す、駿河の國の富士の大山、忽暴火ありて崗巒を燒き碎き草木焦燒す。土|※[金+樂]《と》け石流れて、八代の郡の本栖《もとす》また※[賤の旁+立刀]《せ》兩つの水海を埋む」。また貞觀七年十二月九日の條に「駿河の國の富士の大山、西の峯忽燒火あり、巖を燒き碎く(中略)。然れども異火の變、今にいまだ止まず。使者をして檢察せしむるに、※[賤の旁+立刀]《せ》の海を埋むこと、千許町なり」とある※[賤の旁+立刀]の海が、ここのセノウミとされる。今日山北の湖水は、東から、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖といい、その西湖と精進湖とは、もと一湖であつたのが、噴出物によつて兩分されたものといわれる。
 名付而有毛 ナヅケテアルモ。セノウミと名づけてある湖水もの意。
 彼山之 ソノヤマノ。富士山のの意。
 堤有海曾 ツツメルウミゾ。ツツメルは、土をもつて水を圍んでいる意。富士山が、山麓の湖水を包有しているとしている。句切。
 不盡河跡 フジガハト。富士川は、釜無《かまなし》川、笛吹川等を集めて南下して海に入るが、富士山とは直接の關係はない。しかしその下流からは富士山を望み見るので、この稱があり、この歌にもその山より流下するように歌つたのであろう。東海道を旅行して富士山を眺めて、この句をなしただろう。
(180) 人乃渡毛 ヒトノワタルモ。ワタルは渡河するをいう。東海道における富士川について述べている。
 其山之 ソノヤマノ。富士山の。
 水乃當焉 ミヅノダギチゾ。當は、ngの音を有する字で、タギの音をあらわす假字として常に用いられている。「當麻《タギマ》」(古事記中卷)、「布當乃宮《フタギノミヤ》」(卷六、一〇五〇)などその例である。ここは、この字によつてタギの音を表わし、チに當る字はないが、タギチと讀むべきが如くである。かように字音假字をもつて或る語を表示するに當り、その音韻の一部分に相當する文字を缺く例は、「飫海乃《オウノウミノ》 河原之乳鳥《カハラノチドリ》」(卷三、三七一)の如きがある。オウという海の名であるが、そのオに當る飫の字だけあつて、ウに當る字を省略してある。焉は、文末に置く字であり、その意味でここに書かれている。ゾに相當する文字ではないが、文意を按じてゾと讀むのである。このゾは終助詞。句切。以上、セノ海ト云々と、不盡川ト云々とをもつて對句をなしている。この部分は、獨立せる二個の文として、富士山の雄大な地理を敍している。
 日本之 ヒノモトノ。本集では日本の字を、多くヤマトと讀むのであるが、ここでは次に山跡國乃とあるに冠しているので、文字通りヒノモトと讀まれる。枕詞で、次の句の山跡を説明している。日の本つ國の義とされる。續日本後紀にある興福寺の僧の長歌にも「日本乃《ヒノモトノ》 野馬臺乃國遠《ヤマトノクニヲ》」とある。
 山跡國乃 ヤマトノクニノ。このヤマトは、大きく、日本の國という意味に使用されている。
 鎭十方 シヅメトモ。シヅメは、國の鎭護の義である。山をもつて國の鎭とする思想は、漢文にもある。
 座祇可聞 イマスカミカモ。祇は地祇の義の字。句切。
 寶十方 タカラトモ。この句も、上の日ノ本ノ大和ノ國ノの句を受けている。富士山をもつて國の寶とするのである。
 成有山可聞 ナレルヤマカモ。ナレルは、寶として出現せるの意である。寶と化したの意のナルではない。句切。日ノ本ノ大和ノ國ノを受けて、鎭トモ坐ス神カモと寶トモ成レル山カモとが、二本の脚をなして結んでいる。形式からいえば、鎭トモ坐ス神カモの句を、形を變えて繰り返したとも見られる。以上第二段で、富士山の山容を述べ、その性質を論じている。
 駿河有不盡能高峯者 スルガナルフジノタカネハ。提示部にある不盡ノ高嶺はの句を、多數の句を隔てて繰り返している。これは、この歌の主題であるので、終に臨んでふたたびこれを出して、結語の意を強くするのである。駿河ナルと冠しているのは、作者が駿河方面からこの山を見ているためである。
 雖見不飽香聞 ミレドアカヌカモ。卷の一、三六以來しばしば出ている句。本集獨得の讃嘆の句である。
【評語】赤人の不盡山の歌が、歴史的時間的に述べられているのに對して、この歌は、地理的空間的に敍している點に特色がある。その山の神秘にして雄大な性質は、流暢整備の句法によつて、十分に表現されている。噴火と降雪との相剋を敍したのも壯大であり、國の鎭、國の寶と觀た思想も雄偉である。日本の國民の、この山に對する感想は、これらの句によくつくされている。修辭の上からは、對句が多く使用されているのが目立つて巧みであり、主題の重出も有力である。今、この歌の構成を表示すれば、次の通りである。
 
なまよみの甲斐の國〜國のみ中ゆ出で立る  以上主題の修飾句
不盡の高嶺は 主題提示
天雲もい行き憚り〜   以下第一の敍述
石花の湖と名づけてある〜 以下第二の敍述
日の本の大和の〜  以下第三の敍述
不盡の高嶺は見れど飽かぬかも。 主題の再出
    〔入力者注、対句の組み方が複雑なので省略して、五つの注記のみ示した。〕
 
(182)反歌
 
320 不盡の嶺に 零《ふ》りおく雪は、
 六月《みなづき》の 十五《もち》日に消《け》ぬれば
 その夜零りけり。
 
 不盡嶺尓《フジノネニ》 零置雪者《フリオクユキハ》
 六月《ミナヅキノ》 十五日消者《モチニケヌレバ》
 其夜布里家利《ソノヨフリケリ》
 
【譯】富士山に降つてある雪は、六月の十五日に消えれば、その夜またも降ることだ。
【釋】不盡嶺尓 フジノネニ。ネは山の高い部分をいうこと、この歌では重要である。
 零置雪者 フリオクユキハ。フリオケルユキハ(類)、フリオクユキは(京)。講義に、置はオケルとも讀んでいるが、置の下に、在、有、流等の字がないから、この卷の例に任せて、オクと讀むがよいといつている。降り積む雪はの意である。
 六月十五日消者 ミナヅキノモチニケヌレバ。陰暦四五六の三月を夏とするが、事實は六月が極暑である。「六月《みなづき》の土さへ裂《さ》けて照る日にも」(卷十、一九九五)の歌も、六月を極暑の月としている。その十五日というので、一年中の極熱の日の意をあらわす。仙覺の萬葉集註釋に「富士ノ山ニハ雪ノフリツモリテアルガ、六月十五日ニソノ雪ノキエテ、子ノ時ヨリシモニハ又フリカハルト、駿河國風土記ニ見エタリト云ヘリ」とある。
 其夜布里家利 ソノヨフリケリ。十五日の夜にまた雪の降ることをいう。
【評語】一年中消えないというよりも、極熱の一日には消えるが、その夜には降るといういい方の方が效果的である。但しそういうことは、風土記にも見えるというから、その國でそういうのであろう。この無名氏の不盡山を詠める一篇は、傑作であるが、赤人の作と比較するに、赤人の作には天ノ原フリサケ見レバの敍述があ(183)り、またその反歌には具體的な敍述があつて、全體を生かしているが、この無名氏の作は、すべて一般的な敍述であつて、具體的な敍述は、わずかに、見レド飽カヌカモの一句に過ぎず、それも常套手段であつて特色がない。不朽の傑作で、よくこの神山の特質を描き、思想的方面にもわたつてはいるが、生氣を感ずる點においては、赤人の作を上位に置かざるを得ないのである。歌は生きた人間の生活記録であつて、地理風土の説明ではないことを銘記すべきである。富士山についても、下の世界から仰ぎ見て詠むのが本道であり、上から概念的に敍述すべきものではない。この歌は、漢文の賦の影響を受けて、かような整備した概念的な作を成すに至つたのであろう。
 
321 不盡の嶺を 高みかしこみ、
 天雲も
 い行き憚り たなびくものを。
 
 布士能嶺乎《フジノネヲ》 高見恐見《タカミカシコミ》
 天雲毛《アマグモモ》
 伊去羽斤《イユキハバカリ》 田菜引物緒《タナビクモノヲ》
 
【譯】富士山が高く恐るべくあるので、天ゆく雲も、行くのを躊躇してたなびいている。
【釋】布士能嶺乎高見恐見 フジノネヲタカミカシコミ。タカミとカシコミとは、共に不盡ノ嶺ヲを受けている。高く且つ恐るべくあるので。
 田奈引物緒 タナビクモノヲ。タナビクは既出(卷三、二八七)。引クに接頭語タナの冠したものと解せられる。モノヲは、詠嘆の語法。ヲは感動の助詞。
【評語】左註にあるように、類をもつて載せた歌であり、もと長歌の反歌であつたものを、これだけ離して出したようである。これでは大體の敍述に止まり、蟲麻呂の特色があらわれていない。
 
(184)右一首、高橋連蟲麻呂之歌中出焉。以v類載v此。
 
右の一首は、高橋の連蟲麻呂の歌の中に出でたり。類をもちて此に載す。
 
【釋】右一首 ミギノヒトツハ。本集の例、右一首とあるは、その接せる一首のみをさすのであつて、數首をさす場合は、右何首と指定する。ここに右の一首とあるは、布土能嶺乎の一首をさすことはあきらかであり、從つて、高橋の連蟲麻呂の歌中から出たというも、その一首をいうのである。
 高橋連蟲麻呂之歌中出焉 タカハシノムラジムシマロノウタノナカニイデタリ。これに類似の文は、卷の八、
 
「石五首、高橋連蟲麻呂之歌集中出」(同、一八一一左註)。これによれば、高橋連蟲麻呂之歌集という歌の集録のあつたことが知られる。ここと卷の八とには集の字はないが、同物をさすものと見てよかろう。その集録から出た歌は、作者の名を記さないが、すべて蟲麻呂の作と認められる。布士能嶺乎の歌が、その集録の中に出ているという意である。高橋の蟲麻呂は、その作品によつて、奈良時代の初めに常陸の國に官仕していたものと推測され、天平四年に藤原の宇合が西海道の節度使となつた時には、京にいたものと考えられる。正倉院文書(大日本古文書八ノ一五四)に次のような文書がある。
  秦調曰佐酒入 年三五 山背國葛野郡橋頭里戸主秦調曰佐堅万呂戸口
   淨行一十五年
    天平十四年十二月十三日少初位上高橋虫麿貢
 これは、高橋の蟲麻呂という人が、東大寺に、佛道を修行した人を貢した文書である。この文には姓《かばね》が書い(185)てないが、姓を書かないことは、大伴の家持その他にも常に見られるところであり、また名を虫麿と書いているが、古人は文字には拘泥しなかつたから、蟲麻呂に同じと見てよい。高橋の蟲麻呂の作品は、天平四年のものが知られており、天平十四年は、その十年後であるから、年代においてもさしつかえはない。同名異人ということもあり得るが、現在のところ別人とすべき理由はなく、位の低いこと、相當のくらしをしていたらしいことは、同人らしい材料である。この文書をもし歌人の高橋の蟲麻呂のものとすれば、その乏しい傳記資料に新しいものを加えることになる。天平十四年に少初位の上であつたというから、常陸の國の役人としても史生であつたのだろう。殊にその自筆の書状が傳わつたことになつて、彼のような大歌人の筆跡を見ることもできようというものである。その筆蹟が寫眞になる日を待つている。
 以類載此 タグヒヲモチテコヽニノス。同じく富士山の歌であるから、ここに載せるとの意であるが、その歌詞に、天雲モイ行キ憚リの句があるので、特に載せたのであろう。
【參考】富士山を詠める歌。
  吾妹子に逢ふよしを無み駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ(卷十一、二六九五)
  妹が名も我が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燒《も》えつつ渡れ
   或る歌に曰はく、君が名も妾《わ》が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燒えつつも居れ(同、二六九七)
  天の原富士の柴山|木《こ》の暗《くれ》の時|移《ゆつ》りなば逢はずかもあらむ(卷十四、三三五五)
  富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がりとへば日《け》に及《よ》ばず來ぬ(同、三三五六)
  霞ゐる富士の山傍《やまび》にわが來なば何方《いづち》向きてか妹が嘆かむ(同、三三五七)
  さ寢《ぬ》らくは玉の緒ばかり戀ふらくは富士の高嶺の鳴澤《なるさは》の如
   一本の歌に曰はく、逢へらくは玉の緒しけや戀ふらくは富士の高嶺に降る雪|如《な》すも(同、三三五八)
 
(186)山部宿祢赤人、至2伊豫温泉1作歌一首 并2短歌1
 
山部の宿禰赤人の、伊豫の温泉に至りて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】至伊豫温泉 イヨノユニイタリテ。伊豫の温泉は、既出(卷一、六左註)。今の松山市道後の温泉である。この温泉は、神代に始まり、景行天皇以降齊明天皇に至るまで、行幸五度に及んだことは、伊豫國風土記に見える。その文は參考の欄に載せた。この歌は、これらの行幸のことを追慕しているが、特に齊明天皇の御事蹟を中心にして歌つている。至は、赤人がこの地に旅行したことを語る。
 
322 皇神祖《すめろき》の 神の命《みこと》の
 敷きます 國のことごと、
 湯はしも 多《さは》にあれども、
 島山の 宜しき國と、
 凝《こご》しかも 伊豫の高嶺の
 射狹庭《いさには》の 岡に立ちて、
 うち思《しの》ひ 辭思《ことしの》ひせし
 み湯の上の 樹群《こむら》を見れば、
 おみの木も 生《お》ひ繼ぎにけり。
 鳴く鳥の 聲も變らず。」
(187) 遠き代に 神《かむ》さびゆかむ
 行幸處《いでましどころ》。」
 
 皇神祖之《スメロキノ》 神乃御言乃《カミノミコトノ》
 敷座《シキマス》 國之盡《クニノコトゴト》
 湯者霜《ユハシモ》 左波尓雖v在《サハニアレドモ》
 島山之《シマヤマノ》 宜國跡《ヨロシキクニト》
 極此疑《コゴシカモ》 伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》
 射狹庭乃《イサニハノ》 岡尓立而《ヲカニタチテ》
 敲思《ウチシノヒ》 辭思爲師《コトシノヒセシ》
 三湯之上乃《ミユノウヘノ》 樹村乎見者《コムラヲミレバ》
 臣木毛《オミノキモ》 生繼尓家里《オヒツギニケリ》
 鳴鳥之《ナクトリノ》 音毛不v更《コヱモカハラズ》
 遐代尓《トホキヨニ》 神左備將v往《カムサビユカム》
 行幸處《イデマシドコロ》
 
【譯】昔の天皇の知ろしめす國の悉くに、温泉はたくさんあるけれども、中にも島山のよろしい國と、嶮岨な伊豫の高嶺の射狹庭の岡に立つて、おほめになつた温泉のほとりの樹林を見れば、樅の木も昔のように生え繼いでいる。鳴く鳥の聲も昔に變わらない。末長き世に貴くあるであろう、この行幸の處は。
【構成】第一段、鳴ク鳥ノ聲モ變ラズまで。敍述する。以下第二段、推量を述べた總括的な記事で終つている。
【釋】皇神祖之神乃御言乃 スメロキノカミノミコトノ。皇神祖をスメロキと讀むことは、「須賣呂伎能《スメロキノ》 可未能美許登能《カミノミコトノ》」(卷十八、四〇八九)、「須賣呂伎能《スメロキノ》 神乃美許等能《カミノミコトノ》」(同、四〇九四)等の證がある。スメロキは、天皇の汎稱。現在の天皇をも含んでいうが、ここは神の命という限定があつて、過去の天皇に限られる。カミノミコトは、神にまします御方。ミコトは御言が本義で敬稱になり、尊、命の字が當てられる。既出「天皇之《スメロキノ》 神之御言能《カミノミコトノ》」(卷一、二九)。この句は、次の敷キマスに對して主格となつている。
 敷座 シキマス。シキは占據を意味する動詞。マスは敬語の助動詞。
 國之盡 クニノコトゴト。「日のことごと」「夜のことごと」などと同樣のいい方で、國のすべてをいう。
 湯者霜 ユハシモ。ユは温泉をいう。わが國には温泉多く、古來これを靈異あるものとして信仰的に見ている。シモは強意の助詞。
 左波尓雖在 サハニアレドモ。サハは多數をいう。「天下爾《アメノシタニ》 國者思毛《クニハシモ》 澤二雖v有《サハニアレドモ》」(卷一、三六)、「天下《アメノシタ》 八島之中爾《ヤシマノウチニ》 國者霜《クニハシモ》 多雖v有《オホクアレドモ》 里者霜《サトハシモ》 澤爾雖v有《サハニアレドモ》」(卷六、一〇五〇)など、例が多い。温泉は多數にあるが、その中でもの意に、サハニアレドモといい、下文のミ湯を起している。
(188) 島山之宜國跡 シマヤマノヨロシキクニト。シマヤマは、島である山の義で、島は山を限定している。そのシマは、水に臨んだ美しい土地を、水上の方面から眺めていう。島山は、さような性質の山である。「島山乎《シマヤマヲ》 射往廻流《イユキモトホル》 河副乃《カハゾヒノ》 丘邊道從《ヲカベノミチユ》 昨日己曾《キノフコソ》 吾超來牡鹿《ワガコエコシカ》」(卷九、一七五一)、「淡海《アフミノウミ》 奧島山《オキツシマヤマ》」(卷十一、二四三九)、「淡海之海《アフミノウミ》 奧津島山《オキツシマヤマ》」(同、二七二八)、「登夫佐多※[氏/一]《トブサタテ》 船木伎流等伊布《フナギキルトイフ》 能登乃島山《ノトノシマヤマ》」(卷十七、四〇二六)、「島山爾《シマヤマニ》 安可流橘《アカルタチバナ》 宇受爾指《ウズニサシ》」(卷十九、四二六六)、「島山爾《シマヤマニ》 照在橘《テレルタチバナ》 宇受爾左之《ウズニサシ》」(同、四二七六)等の用例、皆そうであり、その他、安倍島山、玉津島山、深津島山等、すべてこれに準じて解すべきである。ここでは、海上から眺めた島山の姿のよい國としての義で、海上から見た伊豫の國をいう。
 極此疑 コゴシカモ。
   コゴシキ(細)
   コゴシカモ(考)
   ――――――――――
   極此凝《コゴシキ》(西)
 疑は、西本願寺本には凝に作り、神田本には敷に作つている。疑は細井本の字面である。凝では訓を下しがたく、敷ならはこの句、コゴシキと讀まれるが、疑のままで意をなす處である。疑は「押照《オシテル》 難波穿江之《ナニハホリエノ》 葦邊者《アシベニハ》 鴈宿有凝《カリネタルカモ》 霜乃零爾《シモノフラクニ》」(卷十、二一三五)の如く、カモと讀まれる例があり、また疑意をカモに當てた例もある。コゴシは既出(卷三、三〇一)。凝り固まつている状態をいう形容詞。嶮岨の意になる。極此は、字音をもつてコゴシに當てている。形容詞が、シの活用形から助詞カモに接續する例は、「久夜斯可母《クヤシカモ》 可久斯良摩世婆《カクシラマセバ》」(卷五、七九七)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》」(卷十七、四〇〇三)などがある。これは、こごしき事かなと詠嘆したのである。
 伊豫能高嶺乃 イヨノタカネノ。イヨノタカネは、石槌山をいう。四國第一の高山で、一九二一メートルあり、殊に内海方面より望み見た形が雄偉である。山腹以上は巖石|※[山+爭]※[山+榮]《そうこう》として、コゴシカモというにふさわしい(189)山容を成している。
 射狹庭乃岡尓立而 イサニハノヲカニタチテ。射狹庭の岡は、伊豫國風土記に「湯の岡の側に碑文を立つ。その碑文を立てし處を伊社邇波《いさには》の岡といへり。伊社邇波と名づくる所以は、當士の諸人等、その碑文を見まく欲りして、いざなひ來る。因《かれ》、伊社邇波といひ來れり」とある伊社邇波の岡に同じ。イサニハの語義は、古事記中卷、神功皇后の神がかりの條にある沙庭《さには》に等しく、神を申し下す神聖なる場處の義であろうという。道後の地は石槌山から遠く、從つてこの岡も直接連繋はないが、大局より觀て、伊豫の高嶺の伊狹庭の岡といういい方をしたのだろう。その岡は、道後温泉の附近であろう。立而は、神田本、西本願寺本等による。細井本には立之而に作つている。立而は、タチテと讀み、作者自身の行動と解すべく、下の見者に接續する語氣である。また立之而は、タタシテと讀み、敬語法であつて、往時行幸のあつた天皇の御行動となり、下のウチ思ヒ辭思ヒセシに接續する。いずれにしても意をなすが、ここに作者の行動を敍したとする方が、下文の見レバが突然でなくてよいのである。上の極此疑には、細井本を採つて、神田本、西本願寺本をしりぞけ、これは神田本、西本願寺本を採つて細井本をしりぞけることには、矛盾が(190)あるが、上は神田本と西本願寺本とが一致しないし、ここは一致しているのであるから、今、立而とするによることとする。
 敲思辭思爲師 ウチシノヒコトシノヒセシ。敲は、諸本みな歌に作つている。訓は、歌思を、管見にウタオモヒ、考にウタシヌビと讀んでいる。この地で歌を詠まれたことは、卷の一に引いてある類聚歌林の文によつても知られるが、歌を思うということは、集中に例がなく不安定である。他の例を檢するに、「月立之《ツキ々チシ》 日欲里《ヒヨリ》 乎伎都追《ヲキツツ》 敲自努比《ウチシノヒ》 麻泥騰伎奈可奴《マテドキナカヌ》 霍公鳥可母《ホトトギスカモ》」(卷十九、四一九六)の敲を、元暦校本、類聚古集には歌に作つている。よつて思うに、ここの歌の字も、敲の誤りとすべきが如くである。今これによつて敲とし、敲思の二字を、かの卷の十九の例に任せて、ウチシノヒと讀むこととする。ウチは接頭語、シノヒは、思慕追憶することの意である。辭思爲師は、コトシノハシシとも讀まれる。しかし爲師と書いてある爲を訓假字としてシと讀むことには難點がある。今「御立爲之《ミタチセシ》」卷二、一七八、一八〇、一八一)をミタチセシと讀む例に準じて、コトシノヒセシと讀む。これはかつて行幸ありし天皇の御行動であり、この訓は敬語にはならないが、天皇の御行動を敍するに敬語をもつてしないこともあるのは、「天雲之《アマグモノ》 雷之上爾《イカヅチノウヘニ》 廬爲流鴨《イホリスルカモ》」(卷三、二三五)の如きがあり、皇女の上には「草枕《クサマクラ》 旅宿鴨爲留《タビネカモスル》」(卷二、一九四)の如きがあつて、敢えて異とするに足りない。コトシノヒも他に用例がないが、言語をもつて思慕追憶されることと解せられる。これはとくに、齊明天皇の御事蹟をいうものとされる。この二句は、次句のミ湯ノ上ノ樹群を修飾している。
 三湯之上乃 ミユノウヘノ。ミは美稱。ミユは温泉。ウヘは、温泉の上に蔽いかぶきつている樹林についてその位置をいう。
 樹村乎見者 コムラヲミレバ。コムラは、樹木の群の意。倭名類聚鈔、木具類に「纂要(ニ)云(フ)、兩(ノ)樹枝相交(ハレル)陰下(ヲ)曰(フ)v※[木+越](ト) 音越、禹月(ノ)反、和名|古無良《コムラ》」とある。これによれば、コムラは、樹枝の下陰をいうようであるが、ここは樹(191)林そのものをさす。この句は、勿論作者の行動であつて、上の射狹庭ノ岡ニ立チテを受けている。
 臣木毛生繼尓家里 オミノキモオヒツギニケリ。オミノキは、伊豫國風土記に「岡本天皇また皇后の二躯をもちて一度となす。時に大殿戸に椹《むく》と臣木《おみのき》とあり。その木に鵤《いかるが》と比米《ひめ》の鳥と集止《とま》れり。天皇この鳥のために、枝に穗等を繋けて養ひたまひき」(萬葉集註釋所引)とある。その臣木をさすのであるが、それは今の何の樹に當るかは不明である。代匠記にはモミであるとしている。その當時の樹は枯損して他の樹が生え代わつたというのである。天武天皇の十三年十月に大地震があつて、温泉も埋もれて湧出しなくなつたというので、轉變の樣が推知される。この句、句切であるが、中止の氣味に下文に接している。
 鳴鳥之音毛不更 ナクトリノコヱモカハラズ。前項に引いた風土記の文にある鵤《いかるが》と比米《ひめ》とをさしている。鳥の聲も昔に變わらず聞えるというのである。上の臣ノ木モ云々と對句をなし、ミ湯ノ上ノ樹群ヲ見レバを受けて、文を結んでいる。句切。以上第一段。事實を敍述している。
 遐代尓 トホキヨニ。トホキヨは、過去にも將來にも、現在より遠隔なる時代をいう。ここは將來のはるかな時代をいう。「永代爾《ナガキヨニ》 標將v爲跡《シルシニセムト》 遐代爾《トホキヨニ》 語將v繼常《カタリツガムト》」(卷九、一八〇九)の例は同じく、將來の意に使用している。
 神左備將往 カムサビユカム。神性を發揚し行くだろうの意で、次句に對して連體形となつている。
 行幸處 イデマシドコロ。代々の天皇の行幸ありし(192)處の意であるが、上文に照らすに、主として齊明天皇の御事蹟を思つている。
【評語】この歌にも、事物に對して時間的に觀る作者の特性があらわれている。同人の富士山の歌と比較して、その一致せる所に注意すべきである。すなわち過去の事實を囘顧し、將來に期しているのであつて、全く同一手段に出ている。詞句も美しくよく、整備されている。殊に樹木と鳥聲との現状を描寫した句は、美しくかつ效果が多い。これも赤人の名作の一である。
【參考】
 伊豫國風土記に曰はく、湯の郡、大穴持《おほなもち》の命、悔い恥ぢたまひて、宿奈※[田+比]古那《すくなびこな》の命を活かさまく欲《おもほ》して、大分《おほきた》と速見《はやみ》との湯を、下樋《したび》より持ち度《わた》り來て、宿奈※[田+比]古奈の命に漬浴《あ》むししかは、しまらくありて活きて起ち居たまひき。しかして詠《なが》めしたまひて「ましましも寢たるかも」と宣《の》りたまひて、踐《ふ》み健《たけ》びし跡處《あとどころ》、今も湯の中の石の上にあり。おそ湯の貴く奇《く》しきは、神世の時のみにはあらず、今の世にも、疹痾《やまひ》に染《そ》める萬生《ひとびと》、病を除《いや》し身を存《いか》す要藥《くすり》とす。天皇等、湯に幸行《みゆき》して降り坐すこと五度なり。大帶日子《おほたらしひこ》の天皇と大后|八坂入姫《やさかいりひめ》の命と二躯《ふたはしら》を一度とし、帶中日子《たらしなかひこ》の天皇と大后|息長帶姫《おきながたらしひめ》の命と二躯を一度とし、上の宮の聖徳の皇子を一度とす。また高麗《こま》の惠總僧《ゑそうほふし》、葛城《かづらき》の臣《おみ》等|侍《さもら》ひき。時に、湯の岡の側《かたはら》に碑文《いしぶみ》を立てて記しつらく、「法興の六年十月|歳《ほし》は丙辰にあり。わが法王大王、惠總法師また葛城の臣と、夷與《いよ》の村に逍遥したまひ、正しく神井を觀て世の妙驗を歎じ、意《こころ》を敍《の》べまくして、いささか碑文一首を作りたまふ。惟ふに、それ日月は上に照りて私せず、神井は下に出でて給《あた》へずといふことなし。萬機|所以《このゆゑ》に妙應し、百姓所以に潜扇す。かく、照給して偏私なし。何ぞ壽國に異ならむ。華臺に隨ひて開合し、神井に沐して疹《やまひ》を癒《いや》す。※[言+巨]《なに》ぞ落花の池に升《のぼ》りて化溺せざらむ。山岳の巖※[山+咢]を窺ひ望みて、反りては子平のよく往くことを冀《ねが》ふ。椿樹は相|※[まだれ/陰]《しげ》りて穹窿し、實に五百の張蓋を想ふ。臨朝《あした》に鳥啼きて戯れ※[口+峠の旁]《さへづ》る、何ぞ亂音の耳に※[耳+舌]《かしま》しきを曉《さと》らむ。丹花葉を卷《かさ》ねて映照し、玉菓|葩《はな》に彌《み》ちて井に垂る。その下(193)を經過して優遊すべし。あに、洪灌霄庭を悟らむや。意と才と拙くして實《まこと》に七歩に慚《は》づ。後定の君子、幸に〓咲《しせう》することなかれ」といへり。岡本の天皇と皇后と二躯を一度とし、後の岡本の天皇、近江の大津の宮に天の下知らしめしし天皇、淨御原の宮に天の下知らしめしし天皇三躯を一度とす。こを幸行《いでま》せること五度といふなり。(釋日本紀、もと漢文)
 伊豫國風土記に云はく(中略)、湯の岡の傍に碑文を立つ。その碑文を立てし處を、伊社邇波《いさには》の岡と謂《い》ふ。所を伊社邇波と名づくる由《ゆゑ》は、その土《くに》の諸人《ひとびと》、其の碑文を見むと欲《おも》ひて、いざなひ來《け》り。因《よ》りて伊社邇波《いさには》と謂《い》ふ本《もと》なり、云々。岡本の天皇、また皇后二躯を一度とす。時に大|殿戸《とのど》に椹《むく》と臣の木とあり。その木にいかるがとひめの鳥と集止《とま》れり。天皇、この鳥のために、枝に穗等をかけて養《か》ひたまひき。(萬葉集註釋、もと漢文。中略の部分は、前掲の釋日本紀に引いた文の一部分に同じ。)
 
反歌
 
323 ももしきの 大宮人の、
 飽田津《にぎたづ》に 船乘《ふなのり》しけむ
 年の知らなく。
 
 百式紀乃《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》
 飽田津尓《ニギタヅニ》 船乘將v爲《フナノリシケム》
 年之不v知久《トシノシラナク》
 
【譯】朝廷の臣下等が、この飽田津に船に乘つたであろう年は、いつの昔か知らぬことである。
【釋】百式紀乃 モモシキノ。既出(卷一、二九)。式は字音シキであるが、その下に更に紀の字を添えて讀み方をあきらかにしている。枕詞。多くの建造物の義と解され、大宮に冠せられる。
 大宮人之 オホミヤビトノ。長歌にいう行幸に供奉した宮廷奉仕の人々をさしている。三四句に對する主格(194)句。
 飽田津尓 ニギタヅニ。飽田津は、既出(卷一、八)の熟田津と同地と解せられる。伊豫の温泉附近にあつた般若《はんにや》の津である。古書に、ニギの語に饒の字を多く當てて居り、その意からして、ここには飽の字を當てたのであろう。
 船乘將爲 フナノリシケム。フナノリは、乘船航海の意。將爲は、ここでは過去推量の歌意よりしてシケムと讀む。次の句に對する連體句である。
 年之不知久 トシノシラナク。トシノは、シラナクに對して、領格をなしている。シラナクは、知らぬことの意で、體言になつている。年の不明よというが如き語氣である。かような語法は、「山振之《ヤマブキノ》 立儀足《タチヨソヒタル》 山清水《ヤマシミヅ》 酌爾雖v行《クミニユカメド》 道之白鳴《ミチノシラナク》」(卷二、一五八)などある。
【評語】隨分遠い昔だという感を、その年を知らないことであらわしている。孰田津に船乘したということについては、額田の王の「熟田津に船乘せむと」(卷一、八)の歌あたりを思つているらしい。仙覺の萬葉集註釋には、「伊豫風土記云、後岡本天皇御歌曰、美枳多頭爾、波弖丁美禮婆云々」と見え、それらの歌の作り出す華やかな追憶が、この歌の背景となつている。
 
登2神岳1、山部宿祢赤人作歌一首 并2短歌1
 
神岳に登りて、山部宿禰赤人の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】登神岳 カムヲカニノボリテ。神岳は、既出(卷二、一五九)。歌意によつて、明日香にある岡なることは確かである。岡の上からは、明日香川を展望すべく、また一五九の歌によれば、淨御原の宮から近く見える山で、「その山をふり放《さ》け見つつ」とあつて、相當の山であることが知られる。またその名によつて、神を祭つ(195)た岡であると考えられ、今の雷の岡の西方の山だろうという。なおこの山については、歌詞の解中にも記事がある。神の語は、熟語としては神風《かむかぜ》、神名備《かむなび》等、カムとなるから、ここもカムヲカと讀むべきであろう。その岡に登つて、明日香の古帝京を展望して詠んだ歌である。
 
324 三諸《みもろ》の 神名備《かむなび》山に
 五百枝《いほえ》さし 繁《しじ》に生ひたる
 つがの木の いやつぎつぎに、
 玉葛《たまかづら》 絶ゆることなく、
 ありつつも 止まず通はむ
 明日香の 舊き京師《みやこ》は、
 山高み 河とほしろし。
 春の日は 山し見が欲《ほ》し。
 秋の夜は 河し清《さや》けし。
 朝雲に 鶴《たつ》は亂れ
 夕霧に 河蝦《かはづ》はさわく。」
 見るごとに 哭《ね》のみし泣かゆ。
 古思へば。」
 
 三諸乃《ミモロノ》 神名備山尓《カムナビヤマニ》
 五百枝刺《イホエサシ》 繋生有《シジニオヒタル》
 都賀乃樹乃《ツガノキノ》 弥繼嗣尓《イヤツギツギニ》
 玉葛《タマカヅラ》 絶事無《タユルコトナク》
 在管裳《アリツツモ》 不v止將v通《ヤマズカヨハム》
 明日香能《アスカノ》 舊京師者《フルキミヤコハ》
 山高三《ヤマタカミ》 河登保志呂之《カハトホシロシ》
 春日者《ハルノヒハ》 山四見容之《ヤマシミガホシ》
 秋夜者《アキノヨハ》 河四清之《カハシサヤケシ》
 旦雲二《アサグモニ》 多頭羽亂《タヅハミダレ》
 夕霧丹《ユフギリニ》 河津者驟《カハヅハサワク》
 毎v見《ミルゴトニ》 哭耳所v泣《ネノミシナカユ》
 古思者《イニシヘオモヘバ》
 
【譯】この三諸の神奈備山に、多くの枝を出して繁つている栂の樹の名のように、いよいよ次々に絶えること(196)なく世にありつつ、やまず通うへき、飛鳥の古い都は、山が高くして河が大きく流れている。春の日は山が見るに好ましく、秋の夜は河がさやかな吾を立てる。朝の雲に鶴は亂れ、夕の霧に河蝦《かわず》は騷ぎ立てる。見るごとに、古のことが思われて泣かれることだ。
【構成】第一段、夕霧ニ河蝦ハ騷クまで。明日香ノ舊キ京師ハまでは提示部、以下はこれを受けて、敍述している。そのあと第二段、感慨を述べている。
【釋】三諸乃神名備山尓 ミモロノカムナビヤマニ。三諸の神名備山は、題に神岳とあると同山であることは明白である。ミモロは、ミムロともいい、御室の義で、神の居處をいうと解されているがこれは疑わしい。ミモロは、古事記に「実母呂」(六一、九三、九五)と書き、本集に「三毛侶」(卷七、一〇九三)と書くなど、そのロは乙類の音であるに對して、ミムロは、古事記に「淤冨牟盧夜」(一一)、日本書紀に「於朋務露夜」とあるなど、そのロは甲類である。しかし今日では、これに代わるべき明解はない。ミモロは、十九例あり、うち三毛侶二例、三諸十六例、御諸一例であつて、他に見諸戸山と書いたもの一例がある。ミモロの例の中には、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクラベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》」(卷三、四二〇)、「木綿懸而《ユフカケテ》 祭三諸乃《マツルミモロノ》 神佐備而《カムサビテ》」(卷七、一三七七)、「祝部等之《ハフリラガ》 齋三諸乃《イハフミモロノ》 犬馬鏡《マソカガミ》」(卷十二、二九八一)、「春日野爾《カスガノニ》 伊都久三諸乃《イツクミモロノ》 梅花《ウメノハナ》」(卷十九、四二四一)の如き、この語の解釋に資すべき例も含んでいる。この語が神座を意味することは疑いもないが、どのような形のものであるかはわからない。カムナビは、神座である山や森をいう。出雲の國造の神賀詞に、「おのが命の和魂を、八咫《やた》の鏡に取り託《つ》けて、倭《やまと》の大物圭|櫛※[瓦+肆の左]玉《くしみかたま》の命と名を稱へて、大御和《おほみわ》の神奈備《かむなび》に坐せ、己が命の御子|阿遲須伎高孫根《あぢすきたかひこね》の命の御魂を、葛木《かづらき》の鴨の神名備に坐せ、事代主の命の御魂を、字奈堤《うなて》に坐せ、賀夜奈流美《かやなるみ》の命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫《すめみま》の命の近き守り神と貢りり置きて」云々と見える。三諸の神奈備山は、三諸である所の神奈備山の意と解せられ、神奈備の三諸の山という逆な言い方もある(卷十三、(197)三二二七)。その山もこの三諸の神奈備山と同じ山であることは、その歌中には「神奈備の三諸の神の帶にせる明日香の川」とあつて、明日香川との關係を語ることによつて推定される。またその歌詞に「釼大刀齋《つるぎたちいは》ひまつれる神にし坐せば」とあり、その反歌には「神奈備の三諸の山に齋《いは》ふ杉」「み幣取り三輪すゑ祭る神主の」といつて、神社鎭座の山であつたことが知られる。これがやがて明日香の神名備であつて、古く飛鳥神社の鎭座しておつた山であろうと考えられる。飛鳥神社は、後に今の位置に移したものである。
 五百枝刺 イホエサシ。イホは多數の義。熟語として、五百夜、五百歳、五百|機《はた》などの例がある。イホエは、多數の枝である。「あしひきのこの片山の、もむ楡《にれ》を五百枝|剥《は》ぎ垂《た》り」(卷十六、三八八六)。サシは、枝の張つているをいう。「虚知期知爾《コチゴチニ》 枝刺有如《エダサセルゴト》」(卷二、二一三)、「水枝指《ミズエサシ》 四時爾生有《シジニオヒタル》」(卷六、九〇七)など用例がある。
 繁生有 シジニオヒタル。シジは、密接して繁くあること。樹枝の密生のさまをいう。「大船に眞※[楫+戈]《まかぢ》しじ貫き」(卷三、三六八等多數)、「竹珠《たかだま》をしじに貫《ぬ》き垂《た》り」(卷三、三七九)、「ももしきの大宮人も、をちこちにしじにしあれば」(卷六、九二〇)など使用されている。
 都賀乃樹乃 ツガノキノ。ツガノキは、今もツガという。「刀我乃樹《トガノキ》」(卷六、九〇七)とも書いている。以上、今登つている神奈備山の風物を敍して、次のイヤツギツギニの序詞としたもので、「瀧《たぎ》の上の三船の山に、水枝さししじに生ひたる、刀我《とが》の樹のいやつぎつぎに、萬代にかくし知らさむ、み吉野の蜻蛉《あきつ》の宮は」(卷六、九〇七)と全く同じ手段である。
 弥繼嗣尓 イヤツギツギニ。既出(卷一、二九)。いよいよ次々にで、下の止マズ通ハムを修飾する。
 在管裳 アリツツモ。我、この世に存命しつつもの意。
 不止將通 ヤマズカヨハム。ヤマズは、絶えることなく、引き續きの意。カヨハムは、此處に通つて來よう(198)の意。連體の句で、明日香ノ古キ都を修飾する。
 明日香能舊京師者 アスカノフルキミヤコは。明日香の地は、遠く允恭天皇以來、度々帝都となつたが、ここでは作者は、主として天武天皇の明日香の淨御原《きよみはら》の宮を追憶していると考えられる。この歌の作られた時代は、奈良時代なるべく、それで明日香の里を古き都といつている。以上提示部で、山上から眺めた明日香の古帝京を示している。以下は、この提示された主格の説明である。
 山高三 ヤマタカミ。山が高くして。明日香の古き都の風光を、山と川とに分けて敍述する、その山の方面である。この山は、次に「春の日は山し見がほし」とある山であるから、神岳から眺められる周圍の山である。倉梯《くらはし》、多武、高取の連山が、東から南に懸けて、明日香の地を圍繞している。
 河登保志呂之 カハトホシロシ。河は、明日香川をいう。トホシロシについては、橋本進吉博士の「とほしろし考」(奈良文化第十七號、また萬葉集論考所收)に詳細な説がある。この語の文獻としては、日本書紀卷の二「集2大小之魚1」の大の訓にトヲシロキとあり、應永年間の書寫の日本紀私記に「大小之|止乎之呂久知比左岐《トヲシロクチヒサキ》」とある。石山寺所藏大唐西域記の長寛元年の訓點に「人骸偉大」に訓してホネトヲシロシとある。これによつて、偉大なりの意とすべく、またロの音韻表示に呂の文字を使用しており、白のロは漏の類であるから、古代假字遣法の見地から、トホシロシは遠白シの義ではないとされる。これに對して、山田孝雄博士の「萬菓集講義」は、古代におけるロの音韻表示に二種の別を認めずとして、これを否定している。今日からいえば、ロの音その他ある種の音に、古代において二種の別があつたということは、否足しがたいのであるから、橋本博士の説に從うべく、山田博士の擧げた二種の文字の混用は、別の方面すなわち時代の降下による混亂として解決されねばならない。山高ミ河トホシロシの二句は、明日香ノ古キ都ハを受けて、まずこれを總括説明している。これより以下河蝦ハサワクまで、更にその山と河とを具體的に細分して説明している。
(199) 春日者山四見容之 ハルノヒハヤマシミガホシ。ヤマシのシは、強意の助詞。ミガホシは、見ガ欲シで、見ることの望ましい意。容は、容顔の義をもつて、カホの音に當てている。この語、「和賀美賀本斯久邇波《ワガミガホシクニハ》」(古事記五九)の例あり、また本集に「幾許毛《ココダクモ》 開有可毛《サキニタルカモ》 見我欲左右二《ミガホシマデニ》」(卷十、二三二七)など、ミに見、ホシに欲の字を、多く使用しているので、その語義が知られる。なお本集にアリガホシ、琴歌語にスミガホシがあつて、同樣の語構成を有している。
 秋夜者河四清之 アキノヨハカハシサヤケシ。カハシのシは、強意の助詞。サヤケシは、清明にある意の形容詞で、河については、その形勢にも吾聲にもいう。上の春ノ日ハ山シ見ガホシに對して對句をなしている。
 旦雲二 アサグモニ。朝は、山に雲の湧くこと多く、またその雲には特色がある。その雲を描いている。
 多頭羽亂 タヅハミダレ。タヅは鶴の類の總稱である。朝の雲に點じて鶴の亂れ飛んでいる樣である。この朝雲ニ鶴ハ亂レの句は、天空を仰いで言つていて、これは山そのものの性質ではないが、河に對しては、山に代わるものである。
 夕霧丹 ユフギリニ。夕方は、河から霧の湧くことが多い。それで河の特色を描くためにこの句をなしている。
 河津者驟 カハヅハサワク。カハヅは、「詠蝦」(卷十、二一六一題詞)の如く、蝦と書いたもの、「不v所v念《オモホエズ》 來座君乎《キマシシキミヲ》 佐保川乃《サホガハノ》 河蝦不v令v聞《カハヅキカセズ》 還都流香聞《カヘシツルカモ》」(卷六、一〇〇四)の如く、河蝦と書いたものがある。集中、河についてその鳴くことをいい、また夕暮、夜にかけて鳴くことを歌つており、卷の十には秋に部類している。今のカジカをいうと思われるが、「朝霞|鹿火屋《かひや》が下に鳴く蝦《かはづ》」(卷十、二二六五)の如く、かならずしもカジカに限らず、他の蛙類にわたつているものもあるであろう。しかし名義よりいえば、河津に棲むものの義があると考えられる。サワクは、その衆口をもつて鳴き立てるをいう。この夕霧ニ河蝦ハサワクの句は、勿論河につ(200)いていい、上の朝雲ニ鶴ハ亂レの句に對して對句をなしている。春ノ日ハ以下は提示部を受け、かつ山高ミ河トホシロシの意を四個の對句をもつて、具體的に敍述している。以上第一段、事實を敍述する。
 毎見 ミルゴトニ。神奈備山から展望するたびにの意で、度々此處に來たことを語つている。朝雲夕霧の句は、これから出ているのであろう。
 哭耳所泣 ネノミシナカユ。この句、既出(卷二、二三〇)。そこには、「泣耳師所哭」と哭泣の字が、こことは反對になつている。假字書きの例は集中に多い。ネは哭泣の體言。シは強意の助詞。泣くことのみ泣かれるの意。
 古思者 イニシヘオモヘバ。ここに古というは、明日香に帝都のあつた時代をいう。
【評語】この歌も、赤人の追憶思想が中心になつている。但しここには歴史的敍述なく、美しい詞句をもつて、舊都の風光を描いている。神奈備山の茂樹から説き起した手段は、この作者の獨創ではないであろうが、やはり有效である。山高ミ河トホシロシ以下三個の對句をもつて、眼前に展開する古帝京の描寫をしたのは、形態の上からも整齊の美があり、詞句そのものも華麗である。朝雲夕霧の對句は、水分の多い風土の美を巧みに寫している。ただ春の日をもつて秋の夜に對したのは、内容の集中を妨げ、概念的に説明した弊に陷つているが、上に、アリツツモ止マズ通ハムといひ、下に見ルゴトニ哭ノミシ泣カユと歌つているによれば、一度のみならず、この山に登つているので、自然この敍述が出たのであろう。人麻呂の近江の舊都の歌のような哀痛の情には缺けるが、それは明日香の里が歴史の上の悲哀事なく、ただ置き忘られた地というだけのさびしさであるからであろう。しかも人ことごとく去つて、風物の往時に變わらないところ、この詩人の哀情を促すに足るものがあつたのである。山川秀美の勝景は、時を經て變易しないが、人はそこに歴史を築き、またみずからそれを消して行くのである。
 
(201)反歌
 
325 明日香《あすか》河 川淀さらず 立つ霧の、
 思ひ過ぐべき 戀にあらなくに。
 
 明日香河《アスカガハ》 川余藤不v去《カハヨドサラズ》  立霧乃《タツキリノ》
 念應v過《オモヒスグベキ》 孤悲尓不v有國《コヒニアラナクニ》
 
【譯】飛鳥川の、川淀のどこにも立つ霧のように、わたしの心から過ぎ去つて行く戀ではないことである。
【釋】明日香河 アスカガハ。神奈備山からの展望のうち、中心をなす明日香川に呼び掛けている。この川があつて、神奈備山から見た明日香の里の風光は生きるのである。
 川余藤不去 カハヨドサラズ。カハヨドは、河水の流れることの緩なる處である。水の淀む處の義。サラズは、毎にの意で、「鹿脊之山《カセノヤマ》 樹立矣繁三《コダチヲシゲミ》 朝不v去《アササラズ》 寸鳴響爲《キナキトヨモス》 鶯之音《ウグヒスノコヱ》」(卷六、一〇五七)、「三空往《ミソラユク》 月讀壯士《ツクヨミヲトコ》 夕不v去《ユフサラズ》 目庭雖v見《メニハミレドモ》 因縁毛無《ヨルヨシモナシ》」(卷七、一三七二)等、この意のサラズである。何故にサラズが、毎にの意となるかというに、たとえば、寐ル夜オチズが、どの寐る夜もかかさずの意から、寐る夜毎にの義をなすように、どの川淀も離れ去ることなくのような意から、熟語となつて毎にの意を成すのであろう。明日香川のどの川淀でもの意で、次の句の立ツに對して副詞句をなしている。
 立霧乃 タツキリノ。川から立ち昇る霧を描いて、以上三句をもつて、次の句を引き出す序詞としている。
 念應過 オモヒスグベキ。下に「石上《イソノカミ》 振乃山有《フルノヤマナル》 杉村乃《スギムラノ》 思過倍吉《オモヒスグベキ》 君爾有名國《キミニアラナクニ》」(卷三、四二二)の例があり、杉村ノまでが序となつて、思ヒスグベキを引き起しているが、それはスギに懸かつていることはあきらかである。ここもこれに準じて、立ツ霧ノは、この句のスグを引き起していると見られる。オモヒスグは思慮の通過する義であつて、思わなくなる意である。この語は「神南備《カムナビノ》 神依板爾《カミヨリイタニ》 爲杉乃《スルスギノ》 念母不v過《オモヒモスギズ》 戀之茂(202)爾《コヒノシゲキニ》」(卷九、一七七三)の如く、オモヒとスギとのあいだに、助詞モの插入されている例があり、この歌においても、念應過と、念と過との間に、ベキに相當する字を置いているので、オモヒスギという熟語が成立しているものとは見られない。しかしオモヒスギズの如き場合は、オモヒは體言であるが、オモヒスグベキの場合は、オモヒは動詞であるから、やがてオモヒスグの如き熟語の成立に近づいているものというべきである。
 孤悲尓不有國 コヒニアラナクニ。コヒは、普通に戀の字の當てられる語であるが、ここは古帝京の盛時に對する思慕の情と解せられる。長歌の見ル毎ニ哭ノミシ泣カユを受けて、その悲哀の情を、思い失うべき哀情でないといつている。
【評語】この歌は、序歌であるが、眼前の景を描いているので、印象が稀薄にならない。川淀サラズ立ツ霧ノの句も、高處から見下した光景を敍して妙である。長歌に春秋、朝夕に對して敍し來つたもの、ここに夕霧が主題であることをあきらかにしている。
 
門部王、在2難波1見2漁父燭光1作歌一首 後賜2姓大原眞人氏1也
 
門部の王の、難波にありて、漁父の燭光を見て作れる歌一首【後、姓大原の眞人の氏を賜へり。】。
 
【釋】門部主 カドベノオホキミ。既出(卷三、三一〇)。
 漁父燭光 アマノトモシビ。漁父は、漁人の長の義で、漢文に使用される。倭名類聚鈔に「漁父、楚辭(ニ)云(フ)、漁父皷(シテ)v※[木+曳](ヲ)而去(ル)」とあり、無良岐美《ムラキミ》の訓を傳えている。しかしここは漁人と同じと見てアマと讀まれる。燭光は、「鈴寸取《スズキトル》 海部之燭火《アマノトモシビ》 外谷《ヨソニダニ》 不v見人故《ミヌヒトユヱニ》 戀比日《コフルコノゴロ》」(卷十一、二七四四)とある燭火と同じ意と見て、トモシビと讀まれる。漁火の意である。
 
(203) 326 見渡せば 明石の浦に 燒《た》ける火の、
 秀《ほ》にぞ出でぬる。
 妹に戀ふらく。
 
 見渡者《ミワタセバ》 明石之浦尓《アカシノウラニ》 燒火乃《タケルヒノ》
 保尓會出流《ホニゾイデヌル》
 妹尓戀久《イモニコフラク》
 
【譯】難波から見渡すと、明石の浦の方に、漁夫のともす漁火が見えるが、あのようにかの君に戀うことは色にあらわれたことだ。
【釋】見渡者 ミワタセバ。難波から、海上を通じて見渡したことを敍している。
 明石之浦尓 アカシノウラニ。明石は、兵庫縣の明石である。ウラは、潜入せる水面をいうが、ここは明石の海上である。
 燒火乃 タケルヒノ。タケルヒノ(類)、トモスヒノ(管)。燒は燃燒の義をもつてタケルと讀む。この火は、漁火である。「海未通女《アマヲトメ》 伊射里多久火能《イザリタクヒノ》」(卷十七、三八九九)。以上、實景を敍して、次の句を引き起す序詞としている。
 保尓曾出流 ホニゾイデヌル。ホは事物について、その秀起せる部分をいう。稻の穗、ほのほ(炎)、船の帆など、皆同じ。イデヌルは、ヌに當る文字はないが、意をもつて添えて讀む。火の色に出ていることをいい、わが戀の表面に現われたことを敍している。そのあらわれた内容は、五句に述べている。
 妹尓戀久 イモニコフラク。コフラクは、戀うことの意。クは、用言に接續して、その事の意をなす語。戀フは、助詞ニを受けるので、妹にといつている。妻に戀うことの意である。
【評語】都を離れて難波の邊に旅寐を重ねて、わが家戀しさの情の募つて來るのを、實景に託して歌つた。日も夕暮の海濱に、遠い海上の漁火を望み見た旅情が掬せられる。
 
(204)或娘子等、贈2裹乾鰒1、戯請2通觀僧之咒願1時、通觀作歌一首
 
或る娘子《をとめ》等の、裹《つつ》める乾鰒を贈りて、戯《たはむれ》に通觀僧の咒願《かじり》を請ひし時に、通觀の作れる歌一首。
 
【釋】或娘子等 アルヲトメラノ。いかなる娘子とも知られない。
 裹乾鰒 ツツメルホシアハビヲ。ツツメルは、物に包んだ、裹にしたの意。ホシアハビは乾した鰒。鰒の肉の乾したもので、貴重な食料である。倭名類聚鈔に「四聲字苑(ニ)云(フ)、鰒、魚(ノ)名、似(テ)v蛤(ニ)偏(ニ)著(ク)v石(ニ)、肉乾(シテ)可(シ)v食(フ)。出(ヅ)2青州(ノ)海中(ニ)1矣。本草(ニ)云(フ)、鮑、一(ノ)名(ハ)鰒、鮑音(ハ)抱、阿波比《アハビ》。」とある。
 通觀僧之咒顧 ツグワニホフシノカジリ。通觀は、傳未詳。咒願は、念佛誦經し法語をとなえて利益を願求すること。ここは戯ニ請フとあり、また歌意より推すに、乾した鰒を贈つて、咒願によつてこれを活かすことを請うたものと見られる。
 
327 海若《わたつみ》の 奧《おき》に持ち行きて 放つとも、
 うれむぞこれが 死《し》に還《かへ》り生《い》かむ。
 
 海若之《ワタツミノ》 奧尓持行而《オキニモチユキテ》 雖v放《ハナツトモ》
 宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》 將2死還生1《シニカヘリイカム》
 
【譯】大海の沖の方へ持つて行つて放つても、これが生き返るということは決してないのです。
【釋】海若之 ワタツミノ。ワタツミは海神の義から、轉じて海洋の意に使用する。海若の文字も海神の義である。
 奧尓持行而 オキニモチユキテ。この乾鰒を、海上の沖に持つて行つての意。
 雖放 ハナツトモ。水中に放しやつてもの意。
 宇禮牟曾此之 ウレムゾコレガ。ウレムゾは、このほかに「平山《ナラヤマノ》 子松末《コマツガウレノ》 有廉敍波《ウレムゾハ》 我思妹《ワガオモフイモニ》 不v相止者《アハズヤミナム》」(205)(卷十一、二四八七)の用例があるだけで、從つて語義なども不明であるが、大體、いかんぞ、なんぞ等の語意のあるものと考えられている。ゾは多分助詞であろう。コレは乾鰒をさしている。
 將死還生 シニカヘリイカム。上のウレムゾを受けて、決して生きかえらないと反語の意になる。なお「千《チ》遍曾吾者《タビゾワレハ》死變益《シニカヘラマシ》」(卷四、六〇三)、「我身千遍《ワガミハチタビ》 死反《シニカヘラマシ》」(卷十一、二三九〇)の例によれば、死んで生き返ることをシニカヘルというから、ここもシニカヘリイカムの訓が考えられる。なお義をもつてヨミガヘリナムと讀むのは、ヨミは、死者の行く世界であり、そこに往つて歸つて來ることをヨミガヘルという。蘇生するの意である。
【評語】當時、佛徒のあいだに地獄歸りの説話の行われていたことは、日本靈異記などによつて推察されるところである。この通觀法師も、そんな話をしたことであろう。また當時の僧侶が呪願などをしていたことが知られておもしろい。歌はただ詞を歌にしたというまでであるが、ウレムゾコレガなどいうところは、當時としても四角ばつたいい方なのであろうと思う。そんなところに僧侶の歌らしいところかあるのであろう。
 
大宰少貳小野老朝臣歌一首
 
大宰の少式小野の老の朝臣の歌一首。
 
【釋】大宰少式 オホキミコトモチノツカサノスナキスケ。大宰府の官吏中、第二番目の役名である。
 小野老朝臣 ヲノノオユノアソミ。小野の老は、續日本紀によるに、養老三年正月、正六位の下から從五位の下に進み、同四年十月に右少辨、天平元年三月、從五位の上、同三年正月に正五位の下、五年三月に正五位の上、六年正月に從四位の下、九年六月に大宰の大貳從四位の下小野の朝臣老卒すとある。正倉院文書正集第十七卷所收の天平十年の駿河國正税帳に「依(リテ)v病(ニ)下(ル)2下野(ノ)國那須(ノ)湯(ニ)1、從四位(ノ)下小野(ノ)朝臣【上一口從十二口】六郡別(ニ)一日(ノ)食、爲(ス)2(206)單※[(さんずい+ヒ)/木]拾捌日(ト)1【上六口從七十二口】」とあり、同じく正集第三十五卷所收の同年の周防國正税帳に「(七月)廿四日下傳使【大宰故大貳從四位下小野朝臣骨送使對馬嶋史生從八位下白氏子虫將從三人合四人四日食稻五束二把酒三升二合鹽三合二勺】」とある。これらの正税帳は、天平十年のものであるから、その記事は天平九年の事に係かると見られるが、その年に小野の老は大宰の大貳であつて、病のために下野の國の那須の湯に行き、どこで死んだかわからないが、白骨と化して、その七月に周防の國を西下した。多分大宰府に赴いたのであろう。これは續日本紀に、天平九年六月に卒したというに合うのである。橋本進吉博士は、南京遺芳解説において、この正税帳によつて、小野の老の卒去を天平十年とし、續日本紀の記事と一年の差違のあることを述べられたが、これは十年の正税帳の記事であるから、その前年の事に係かるとする説を是とするのである。なお小野の老の、大宰の少貳になつた年は傳えていないが、天平二年正月の梅花の宴の歌には、小貳小野の大夫とあつて、當時少貳で(207)あつたことが知られる。小野の老の朝臣という書き方は、四位の人に對する書法であるが、それは嚴密に行われていないらしく、四位になつてからこの題詞が書かれたとは斷定されない。
 
328 あをによし 寧樂《なら》の京師《みやこ》は、
 咲く花の 薫《にほ》ふがごとく 今盛りなり。
 
 青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》
 咲花乃《サクハナノ》 薫如《ニホフガゴトク》 今盛有《イマサカリナリ》
 
【譯】美しい寧樂の都は、咲く花の華やかなように今さかんである。
【釋】青丹吉 アヲニヨシ。既出。寧樂の枕詞。語義不明であるが、この語を使用することによつて、寧樂の都の美しさを表示するものと考えられる。
 寧樂乃京師者 ナラノミヤコハ。元明天皇の和銅三年に、大和の國の北部の地に都を遷されたのが、寧樂の都である。この歌の主題として、その都を擧げている。寧樂は、佳字を選んだもので、平城、奈良などとも書いている。
 咲花乃 サクハナノ。花は、植物の花の汎稱であるが、ただ花とのみいう場合に、その觀念の中心をなすものは、櫻の花である。「うち靡く春さりぬれば、山邊には花咲きををり」(卷三、四七五)、「あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬる如きわが大君かも」(同、四七七)の花の如き、いずれも櫻の花と解すべく、「能登《のと》河の水底《みなそこ》さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも」(卷十、一八六一)の如きも、花の語はないが、なお櫻の花である。今ここに咲く花というも、その中心思想をなすものは、櫻の花と解される。
 薫如 ニホフガゴトク。ここは色を主としてニホフという。ニホフは、色の發するをいう。以上二句、譬喩で、副詞句となつている。
 今盛有 イマサカリナリ。今、寧樂の都の繁華全盛のよしを敍している。慣用句として、しばしば使用され(208)ている。
【評語】元明天皇が、和銅三年三月、始めて都を大和の國の平城《なら》の地にお遷しになつてから、聖武天皇の天平十二年十二月に、山城の國の恭仁《くに》に遷都されたが、同十六年にまた寧樂を都とされて、桓武天皇の御代に至るまで、七代七十五年間の都であつた。聖武天皇の御代の初めは、この都の榮え極まつた時代と思われる。都會生活の形象と情趣とは、ここに發育をとげた。その時代の帝都の榮華を、歌いつくした一首である。わずかに三十一字であるが、寧樂の都の榮えを歌いつくしている。咲ク花ノニホフガ如シといつた譬喩も、極めて適切であるし、今盛リナリと結んだ五句も、直説法を用いて、力張い。都會をほめた歌として、古今この歌に匹敵するものを見ない。
【參考】類句、今盛りなり。
  梅の花今盛りなり。思ふどち插頭《かざし》にしてな。今盛りなり(卷五、八二〇)
  梅の花今盛りなり。百鳥《ももとり》の聲の戀しき春來るらし(同、八三四)
  雪の色をうばひて咲ける梅の花今盛りなり。見む人もがも(同、八五〇)
  茅花《ちばな》拔《ぬ》く津茅が原のつぼ菫《すみれ》今盛りなり。わが戀ふらくは(卷八、一四四九)
  わが夫子《せこ》にわが戀ふらくは奧山の馬醉木《あしび》の花の今盛りなり(卷十、一九〇三)
  沙額田《さぬかだ》の野邊の秋《あき》はぎ時しあれは今盛りなり。折りてかざさむ(同、二一〇六)
  櫻花今盛りなり。難波の海おし照る宮に聞しめすなへ(卷二十、四三六一)
 
防人司佑大伴四綱歌二首
 
【釋】防人司佑 サキモリノツカサノスケ。大宰府に屬する防人司という官署の役人。防人司は、防人に關す(209)ることをつがさどる。佑は、その正に次ぐ役の名。
 大伴四綱 オホトモノヨツナ。この人、このほかに卷の四、八に作歌があるだけで、傳記未詳である。ただ天平十年四月のものと推定される上階官人歴名(大日本古文書二十四、七四)に、大和の國の少|椽《じよう》であつたことが見えている。
 
329 やすみしし わが大君《おほきみ》の 敷きませる
 國の中には 京師《みやこ》し念《おも》ほゆ。
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 敷座在《シキマセル》
 國中者《クニノウチニハ》 京師所v念《ミヤコシオモホユ》
 
【譯】わが天皇陛下の御統治になつている地方の中では、とくに都が思われることだ。
【釋】安見知之吾王乃 ヤスミシシワガオホキミノ。既出。ここは天皇をいう。
 敷座在 シキマセル。御領有になつているの意。
 國中者 クニノウチニハ。國の多くある、その中ではの意。クニはここでは分國、地方の意に使つている。
 京師所念 ミヤコシオモホユ。ミヤコの語には、京をも京師をも當てているが、オモホユの接續する假字書きの例には「鳴蝉乃《ナクセミノ》 許惠乎之伎氣婆《コヱヲシキケバ》 京師之於毛保由《ミヤコシオモホユ》」(卷十五、三六一七)、「許具布禰能《コグフネノ》 可治等流間奈久《カヂトルマナク》 京師之於母保由《ミヤコシオモホユ》」(卷十七、四〇二七)の如く、助詞シを有しているので、ここも京師をミヤコシと讀むがよい。この京師は、寧樂の都である。
【評語】理においては、王土は邊陲《へんすい》の地であつても、樂しい土地であるべきであるが、しかも情においては、京師の戀しいことを歌つている。交通の不便な時代に、遠く地方官として出ている人の僞らない感情である。
 
330 藤根の 花は盛りに なりにけり。
(210) 平城《なら》の京を 思ほすや、君。
 
 藤浪之《フヂナミノ》 花者盛尓《ハナハサカリニ》 成來《ナリニケリ》
 平城京乎《ナラノミヤコヲ》 御念八君《オモホスヤキミ》
 
【譯】藤の花は今は盛りになりました。あなたはあの平城の京をお思いになるでしようね。
【釋】藤浪之 フヂナミノ。フヂナミは、假字書きにしたもの以外に、藤浪と書いたもの十例である。冠辭考に藤竝、藤波など書いているというが、さような例はない。また冠辭考に、藤靡の義で、藤はしない靡くものだからいうとあるが、浪の字を多く使用しているによれは、すくなくも波濤を感じていたものと考えられる。その廣く枝葉の伸びたものに風の渡る時、波濤を思わせるものがあるので、この名を生じたのであろう。
 花者盛尓成來 ハナハサカリニナリニケリ。來は、動詞ケに助動詞リの接續したケリの形をもつて、助動詞ケリに當てた訓假字として使用されている。その上のニは讀み添える。このことは既に上(卷三、二六九)に出た。藤の花の盛期になつたことを敍している。句切。
 平城京乎 ナラノミヤコヲ。上來しばしば見えた寧樂の都に、ここは平城の字を使用している。この字は當時正式に使用された字で、續日本紀、和銅三年三月の條にも「始(メテ)遷(ス)2都(ヲ)于平城(ニ)1」とある。元來ナラの地名は、平坦を意味するので、その帝都を平城と稱したのであろう。山については、平山の字が見えている。
 御念八君 オモホスヤキミ。御念は先方の思念なので御の字を附ける。既出(卷一、二九)。他には「御覧」(卷六、九三八)、「御食」(卷八、一四六〇)などの用字例がある。ヤは、疑問の助詞で、設問の形を採つている。キミは、この歌を贈つた相手をいう。その相手は誰であるかわからない。次に續いて大伴の旅人の平城の京に關する作があり、旅人をさすかも知れないが、旅人の作中には、これに應じた歌と見るべきものはない。
【評語】平城の京を思う縁として、藤の花の盛りになつたことを敍している點がすぐれている。平城の京は藤の花の多い地であつた。今多分筑紫にいてその地の藤の花につけて、都を思うだろうと尋ねているのである。(211)上三句をもつて十分に藤の花の盛りを詠じ、これを基礎として平城ノ京ヲと起している。三句と四句との連絡が唐突のようであるが、それだけにかえつて詠嘆の氣分が強いのである。
 
帥大伴卿歌五首
 
【釋】帥大伴脚 カミノオホトモノマヘツギミ。帥は大宰の帥。ソチともいうは、古く大宰率の文字を使用した時代の稱が殘つたのである。大宰府の長官で、九州および壹岐、對馬の二島を總管する。大伴の卿は大伴の旅人。三位以上に對し敬意を表して卿という。旅人は既出(卷三、三一五)。旅人が大宰の帥になつたことは、續日本紀には傳えないが、本集によるに、神龜五年ごろに大宰の帥として任地に赴いたものとおぼしく、天平二年十一月に大納言兼大宰の帥となつて、その十二月に歸京の途についた。ここの五首は、筑紫にあつて大和の國を思慕する作で、前掲の小野の老、大伴の四綱の歌と關係があるらしく、同時の作であるかも知れない。
 
331 わが盛り また變若《を》ちめやも。
 ほとほとに
 寧樂《なら》の京《みやこ》を 見ずかなりなむ。
 
 吾盛《ワガサカリ》 復將v變八方《マタヲチメヤモ》
 殆《ホトホトニ》
 寧樂京乎《ナラノミヤコヲ》 不v見歟將v成《ミズカナリナム》
 
【譯】自分はもう若がえることはあるまい。ほとんど奈良の都を見ないでしまうだろうか。
【釋】吾盛 ワガサカリ。サカリは、ここでは人としての盛時で、元氣旺盛の時代をいう。
 復將變八方 マタヲチメヤモ。下に「和我佐可理《ワガサカリ》 伊多久々多知奴《イタククタチヌ》 久毛爾得夫《クモニトブ》 久須利波武等母《クスリハムトモ》 麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》」(卷五、八四七)の歌があり、ここと同句が使用されている。ヲチは動詞、上二段の未然形である。もとに返るの意から、若きに返る、若がえるの意に使用される。變の字は、變若の意に書いたので、「吾妹兒者《ワギモコハ》 (212)常世國爾《トコヨノクニニ》 住家良思《スミケラシ》 昔見從《ムカシミシヨリ》 變若益爾家利《ヲチマシニケリ》」(卷四、六五〇)、「從v古《イニシヘユ》 人之言來流《ヒトノイヒケル》 老人之《オイビトノ》 變若云水曾《ヲツトイフミヅゾ》 名爾負瀧之瀬《ナニオフタギノセ》」(卷六、一〇三四)、「石綱乃《イハツナノ》 又變若反《マタヲチカヘリ》 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良乃都乎《ナラノミヤコヲ》 又將v見鴨《マタミナムカモ》」(同、一〇四六)など、變若の文字を使用し、「吾手本《ワガタモト》 將v卷跡念牟《マカムトオモハム》 大夫者《マスラヲハ》 變水定《ヲチミヅサダメ》 白髪生二有《シラガオヒニタリ》」(卷四、六二七)、「白髪生流《シラガオフル》 事者不v念《》 變水者《コトハオモハズヲチミヅハ》 鹿煮藻闕二毛 《カニモカクニモ》 求而將v行《モトメテユカム》」(同、六二八)などは、變だけを使用している。ヤは反語。句意は、二度と若がえることはないの意。句切。
 殆 ホトホトニ。ホトホトは、ホトンドの原形。今一歩で、ある事になろうとするをあらわす副詞。集中、ホトホト、ホトホトシクの形があるが、ここは助詞ニを添えて讀む。「可敝里家流《カヘリケル》 比等伎多禮里等《ヒトキタレリト》 伊比之可婆《イヒシカバ》 保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》 君香登於毛比弖《キミカトオモヒテ》」(卷十五、三七七二)、「三幣帛取《ミヌサトル》 神之祝我《カミノハフリガ》 鎭齋杉原《イハフスギハラ》 燎木伐《タキギコリ》 殆之國《ホトホトシクニ》 手斧所v取奴《テヲノトラエヌ》」(卷七、一四〇三)。
 寧樂京乎 ナラノミヤコヲ。思慕の中心を描いている。
 不見歟將成 ミズカナリナム。カは疑問の係助詞。上のホトホトニを受けて、ほとんど見ないでしまうだろうの意をあらわす。ナリナムは、そうなつてしまうだろう。
【評語】地方にあつて京師を慕う情が、切實に歌われている。作者は、大宰府にあつて、京師から同伴した妻を喪つた。この歌は、その後に詠まれたものなるべく、京師思慕の情の、やみがたいものが存するのである。初二句には、大陸から入り來たつた不老不死の仙藥を求める思想が影響しているようである。奈良時代の初期は、大陸の神仙思想を受け入れて、不老不死の靈藥が、何處かにあるように思われた時代であつた。その靈藥を服用すれば、若がえり得るように思つていたが、天平期に入るに及んで、人々は失望せねばならなくなつた。この歌にも、自然にその影がさしているのである。
 
(213)332 わが命も 常にあらぬか。
 昔見し 象《きさ》の小河《をがは》を
 行きて見むため。
 
 吾命毛《ワガイノチモ》 常有奴可《ツネニアラヌカ》
 昔見之《ムカシミシ》 象小河乎《キサノヲガハヲ》
 行見爲《ユキテミムタメ》
 
【譯】わたしの壽命も、永久にないかなあ。昔見たあの象の小河を行つて見るために。
【釋】吾命毛 ワガイノチモ。イノチは、生命、壽命である。
 常有奴可 ツネニアラヌカ。ツネは、恒久、永久。ヌは打消の助動詞。カは疑問の助詞で、ヌカは、打消の疑問であるが、反語となつて、希望の意になる。ないか、あつて欲しいの意。「ひさかたの雨も降らぬか」(卷四、五二〇)、「黒馬《くろま》の來る夜は年にもあらぬか」(同、五二五)など用例が多く、またモを添えて、ヌカモともいう。永久にないかなあ、あつて欲しいの意である。句切。
 昔見之 ムカシミシ。往時かつて見たの意で、次の句の象ノ小河を修飾する。上出の、暮春の月、吉野の離宮に幸しし時に、中納言大伴の卿の、勅を奉りて作れる歌の反歌「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよさやけくなりにけるかも」(卷三、三一六)の歌にも、既に昔見シ象ノ小河とあり、それらの數度の遊覽を同想している。
 象小河乎 キサノヲガハヲ。吉野山中の小川をさしている。
 行見爲 ユキテミムタメ。タメは、目的を示すに使用する語。以上三句は、初二句のワガ命モ常ニアラヌカの目的を語つている。
【評語】吉野の勝景は、常に胸臆を離れず、しかも身は既に老境に入つて、再遊期しがたきが如くである。特に象の小河を點出したのは、かの暮春の月の遊覽の歌が、なつかしい思出の中心となつているからである。
 
(214)333 淺茅原《あさぢはら》
 つばらつばらに もの念へば、
 故《ふ》りにし郷《さと》し 念ほゆるかも。
 
 淺茅原《アサヂハラ》
 曲曲二《ツバラツバラニ》 物念者《モノオモヘバ》
 故郷之《フリニシサトシ》 所v念可聞《オモホユルカモ》
 
【譯】淺茅原という言のように、つばらかに物を思えば、あの住み古した里が思われることである。
【釋】淺茅原 アサヂハラ。茅草は、丈が低いので、アサヂといい、その原をアサヂハラという。淺は深草に對する語で、草の丈の低いのをいう。茅花をツバナという如く、この句、アサツバラといつたのだろう。次の句のツバラと音が接近しているので懸かつている枕詞。「飛ぶ鶴のたづたづしかも」(卷十一、二四九〇)などいう類である。
 曲曲二 ツバラツバラニ。曲は、委曲の意。つまびらかに、詳細に。それからそれへと、物思の至らぬくまなきをいうために、副詞として使用している。「安佐妣良伎《アサビラキ》 伊里江許具奈流《イリエコグナル》 可治能於登乃《カヂノオトノ》 都波良都波良爾《ッバラツバラニ》 吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》」(卷十八、四〇六五)。
 物念者 モノオモヘバ。何となしに。さまざまに物を思えばの意。
 故郷之 フリニシサトシ。フリニシサトは、住み古した里で、次の歌の故リニシ里と同じく、少年時代の故郷をいう。香具山のほとりに大伴氏の舊邸があつて、その所在地をさしていると思われる。下のシは張意の助詞。
 所念可聞 オモホユルカモ。思われることかなと詠嘆している。
【評語】淺茅原は、枕詞であるが、自然、故郷の風物の一として、思慕の中心となつているのであろう。それから二句のツバラツバラに續くのは、同音を利用しているので、歌が輕快になり、あかるくはなるが、沈痛で(215)あり得ない。しかしこの調子のよさが、旅人の特色で、そこに上品な歌風が生まれるのである。
 
334 萱草《わすれぐさ》 わが紐に著《つ》く。
 香具山の 故《ふ》りにし里を
 忘れぬがため。
 
 萱草《ワスレグサ》 吾※[糸+刃]二付《ワガヒモニツク》
 香具山乃《カグヤマノ》 故去之里乎《フリニシサトヲ》
 不v忘之爲《ワスレヌガタメ》
 
【譯】忘草を、わたしの著物の紐につける。香具山の住み古した郷里を忘れないので。
【釋】萱草 ワスレグサ。ユリ科の植物の名、カンゾウ。倭名類聚鈔に「兼名宛(ニ)云(フ)、萱草、一名忘憂 萱音喧、漢語抄云和須禮久佐《ワスレグサ》、俗(ニ)云(フ)如(シ)2環藻二音1」とあり、※[(禾+尤)/山]康《けいこう》の養生論に「合歡|※[益+蜀]《ノゾキ》v念(ヲ)、萱草忘(ル)v憂(ヲ)、愚智(ノ)所2共(ニ)知(ル)1也」とある。憂いを忘れしめる草というので、わすれ草の名が出たものと解せられる。
 吾※[糸+刃]二付 ワガヒモニツク。紐は、本卷二五一參照。ヒモは、衣服の紐であるが、上衣の紐か袴の紐か、ここには明示されていない。「萱草《ワスレグサ》 吾下紐爾《ワガシタヒモニ》 著有跡《ツケタレド》 鬼乃志許草《シコノシコグサ》 事二思安利家理《コトニシアリケリ》」(卷四、七二七)の歌は、萱草を下紐につけるとある。忘草を身邊につけることによつて、憂いを忘れようとするのである。句切。
 香具山乃 カグヤマノ。大和の天の香具山で、次の故リニシ里の所在を示す。明日香時代、藤原時代に、大伴氏の舊宅が、香具山のほとりにあつたのであろう。
 故去之里乎 フリニシサトヲ。フリニシサトは、住(216)み古した里。住人なども多く離散して荒廢に近い里である。
 不忘之爲 ワスレヌガタメ。ワスレヌは、忘れないの意の體言の法。自分は忘れない、それゆえにの意の句である。忘れないがゆえに、それを忘れたいと思つて忘草を衣の紐につけるというのである。
【評語】忘草は、本來漢土の忘憂の説から出たものであるが、これを忘草と呼ぶのは、忘貝と同樣の稱呼であり、これによつて憂愁を忘れ得るとしたのである。この草を衣服につけることは、漢土には所見はないが、茱※[草がんむり/臾]《ぐみ》を摘み、蘭を佩びることはあり、これもそれに準じて、さような風習があつたものとも考えられる。忘草を衣袴の紐につけて、かえつて香具山の古りにし郷を思う情の切なるを歌つている。ゆたかな詩情の世界である。
 
335 わが行《ゆ》きは 久にはあらじ。
 夢《いめ》の囘淵《わだ》
 瀬にはならずて 淵にあらむも。
 
 吾行者《ワガユキハ》 久者不v有《ヒサニハアラジ》
 夢乃和太《イメノワダ》
 湍者不v成而《セニハナラズテ》 淵有毛《フチニアラムモ》
 
【譯】わたしの行くのは、久しいことではないだろう。あの夢のわだは、瀬にならないで、淵のままであるだろう。
【釋】吾行者 ワガユキハ。ユキは體言で、行くことである。「和我由伎乃《ワガユキノ》 伊伎都久之可婆《イキツクシカバ》」(卷二十、四四二一)など、使用されている。
 久者不有 ヒサニハアラジ。ヒサは、久しいことで、ここは將來についていう。永い將來ではあるまいの意。
 夢乃和犬 イメノワダ。夢は、本集では、伊米、伊目、伊昧など書いており、イメといつていた。ワダは、地形の名、曲灣、曲淵の義。「志賀の大わだ」(卷一、三一)の名稱がある。夢ノワダは、吉野の勝地で、吉野川の一部分の名と解せられる。懷風藻、吉田の宜の從2駕吉野宮1の詩に「今日夢(ノ)淵(ノ)上 遣響千年(ニ)流(ル)」の句があ(217)り、吉野の宮附近の地であつたことが知られる。どうしてこのような名がつけられたかはわからないが、萬葉人の詩想を語るものとして扱われる。
 湍者不成而 セニハナラズテ。セは、水の淺く流れる處。夢ノワダは、淵であるが、それが瀬にならないでというのである。
 淵有毛 フチニアラムモ。
   フチトアリトモ(西)
   フチニテアルモ(童)
   フチニテアレモ(槻)
   フチニアルカモ(略)
   フチニテアルカモ(攷)
   フチニシアラモ(新訓)
   フチニテアラモ(總索引)
   ――――――――――
   淵有也毛《フチニアレヤモ》(代精)
   淵有毳《フチニアレカモ》(槻、魚彦)
   淵有也毛《フチニテアレヤモ》(檜)
   淵有乞《フチニアリコソ》(古義、大神景井)
 字數すくなく書いてあるので、定訓を得難く、古來數種の訓がある。歌意を按ずるに、久しからずして見るべき夢のわだの有樣を想像するにあるので、文字に即してフチニアラムモと讀むべきである。助動詞ムに感動の助詞モの接續した例は、「玉櫛乃《タマグシノ》 神家武毛《クスバシケムモ》 妹爾阿波受有者《イモニアハズアレバ》」(卷四、五二二)、「夜麻爾可禰牟毛《ヤマニカネムモ》 夜杼里波奈之爾《ヤドリハナシニ》」(卷十四、三四四二)、「念意緒《オモフココロヲ》 多禮賀思良牟母《タレカシラムモ》」(卷十七、三九五〇)などある。淵のままにてあるだろうと推量している。
【評語】作者は、當時既に年六十を越えていたらしい。老境に入つて、曾遊の地を思い、行くこと久しきにあらじと焦慮の心を描いている。この作者は、天平二年の終りに大和の國に歸つたが、吉野へは行くことなく、(218)夢のわだの勝景は、ふたたびこの人を迎えなかつたようである。
 
沙弥滿誓、詠v綿歌一首 造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也
 
沙彌滿誓の、綿を詠める歌一首【造筑紫觀音寺別當、俗の姓は笠の朝臣麻呂なり。】
 
【釋】沙弥滿誓 サミマニゼイ。沙彌は、梵語の音譯であつて、出家して十戒を受けた男子の、修行のまだ熱しない者の稱である。滿誓は、在俗の時の名を笠の朝臣麻呂という。續日本紀によれば、慶雲元年正月に從五位の下となり、慶雲三年、美濃の守となる。和銅元年にも美濃の守となる記事がある。政務上の都合で重任したものかも知れない。同二年、その政績をほめて、田十町、穀二百|斛《こく》、衣一|襲《かさね》を賜わつた。七年二月、木曾路を通じた功をもつて、封七十戸、田六町を賜わつた。靈龜元年、兼尾張の守となつた。養老三年、按察使を置かれるに當り、尾張、參河、信濃三國を管せしめられた。四年、右大辨となり、五年、太上天皇(元正)のために出家入道することを請うて許され、滿誓と稱した。養老七年二月の條には「僧滿誓【俗の名從四位の上に笠の朝臣麻呂】に勅して、筑紫觀世音寺を造らしむ」とある。觀世音寺は、天智天皇の勅願であるが、久しくして成らなかつたのを、この人を簡拔してその功をとげしめたのである。滿誓、在俗の時は吏材(219)があつて、政績を擧げていたので、しばしば褒賞重用されたことがある。美濃の國多度山の美泉に、養老の靈氣ありとして、天皇の行幸を仰ぎ、遂に養老と改元するに至つたのも、その美濃の守時代であつた。かくて觀世音寺にあつた時に、大伴の旅人は大宰の帥として赴任し、歌道の交わりをもなした。
 詠綿歌 ワタヲヨメルウタ。この綿は、歌中に筑紫の綿とあるものであるが、これについては、木綿説と繭綿説とがある。しかし木綿は、延暦十八年七月に、參河の國に漂著した昆崙《こんろん》人の船中にあつた種をもととして各地に種耕せしめたといい、また當時大宰府から繭綿を貢上した徴證があるので、繭綿とするによるべきである。作者が、大宰府にあつて、その綿を見て詠んだ歌である。
 造筑紫觀音寺別當 ザウツクシクワニオニジノカミ。沙彌滿誓の項參照。觀音寺は、觀世音寺の略稱。別當は長官である。
 
336 しらぬひ 筑紫の綿は、
 身につけて いまだは著《き》ねど、
 暖《あたたか》に見ゆ。
 
 白縫《シラヌヒ》 筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》
 身著而《ミニツケテ》 未者伎祢杼《イマダハキネド》
 暖所v見《アタタカニミユ》
 
【譯】この九州産の綿は、まだ身につけて著て見ないが、暖かそうに見える。
【釋】白縫 シラヌヒ。用例として「斯良農比《シラヌヒ》 筑紫國爾《ツクシ/クニニ》」(卷五、七九四)、「之良奴日《シラヌヒ》 筑紫國波《ツクシノクニハ》」(卷二十、四三三一)とあり、シラヌヒと四音に讀むべきである。筑紫の國に冠する枕詞と解せられる。語義は、知らぬ火の義で、日本書紀の景行天皇紀に、主知らぬ火を見て、御船を寄せた地を火の國というとの記事があり、それから起るという。しかし上代の假字遣の法において、本集に使用されている比日の類は、火の假字と違うとされ、今日では、知らぬ火とする説は認められていない。之良奴日と書いた字面に意味ありとせば、之良奴の(220)三字は字音假字、日は訓讀であつて、之良奴と日との二部分からなると見るべく、その場合、ヌは打消の助動詞である可能性が多い。然らば、知らぬ日の義とすべきか。ここに白縫と書いたのは、綿の縁で、選まれた文字であろう。
 筑紫乃綿者 ツクシノワタハ。筑紫は筑前、筑後二國の古名であり、また九州の總名にも使用する。ここは總名の方である。九州が綿の産地であつたことは、續日本紀、神護景雲三年三月の條に「毎年大宰府の綿廿萬屯を運びもちて京庫に輸《いた》す」とあるによつても知られる。
 身著而 ミニツケテ。綿は、身體に接著するものであるからいう。
 未者伎祢杼 イマダハキネド。イマダは、「吾屋戸之《ワガヤドノ》 若木乃梅毛《ワカキノウメモ》 未含有《イマダフフメリ》」(卷四、七九二)の如く、打消でなく受ける例もあるが、大多數は打消で受けている。ここも打消の助動詞ネで受けている。
 暖所見 アタタカニミユ。この綿を身につけたらあたたかそうに見えるというのである。
【評語】視覺に映じた綿を詠んで、よくその特質を描いている。攷證に「一首の意、明らかなれど、この歌譬喩の歌にて、滿誓、女など見られて、たはぶれに詠れたるにて、この綿を積かさねなどしたるが暖げに見ゆるを、女をよそへられたるにもあるべし」といつている。滿誓は、造筑紫觀世音寺別當となつてから、その寺の賤女赤須に通じて子を生ませたことが傳えられ、また戀の歌もあるところを見ると、この説もあながちに否定はできない。その解によれは、巧みに譬喩を使用したといえる。その子を生ませたことに關する資料は、參考の欄に載せておく。
【參考】滿誓の子孫に關する太政官の處分。
  (貞觀八年三月)四日庚辰、大宰府|解《げ》していはく、觀音寺の講師傳燈大法師位性忠申牒していはく、寺の家人《けにん》清貞貞雄宗主等三人は、從五位の下笠の朝臣麻呂の五代の孫なり。麻呂は、天平年中造寺使とな(221)る。麻呂寺の家女赤須に通じて清貞等を生む。すなはち母に隨ひて家人となる。清貞の祖父夏麻呂、太政官また大宰府に向ひて、しきりに披訴を經れども、いまだ裁許を蒙らず。夏麻呂死去し、清貞等の愁ひなほいまだ止むことあらずといへり。寺家覆察するに、事虚妄にあらず。望み請はくは格の旨に准據し、良に從ひて筑後の國竹野の郡に貫附せむと申す。太政官處分して、請に依れといへり。(三代實録)
 
山上憶良臣、罷v宴歌一首
 
山上の憶良の臣の、宴を罷る歌一首。
 
【釋】山上憶良臣 ヤマノウヘノオクラノオミ。山上の憶良の臣という書き方は、四位の人に對する書式であるが、五位のはずである憶良に對して、敬意を表してかように書いたのであろう。
 罷宴歌 ウタゲヲマカルウタ。マカルは、退出する意。この語が、助詞ヲを受けることは、「如v是許《カクバカリ》 難御門乎《カタキミカドヲ》 退出米也母《マカリデメヤモ》」(卷十一、二五六八)の例證がある。憶良は、天平二年ごろまで、筑前の守であり、この歌の前後、大宰府關係の歌であるから、これもその地の宴で詠んだ歌であろう。その宴を、中途に退出しようとして歌つた歌と解せられる。
 
337 憶良らは 今は罷らむ。
 子哭くらむ。
 それその母も 吾《わ》を待つらむぞ。
 
 憶良等者《オクララハ》 今者將v罷《イマハマカラム》
 子將v哭《コナクラム》
 其彼母毛《ソレソノハハモ》 吾乎將v待曾《ワヲマツラムゾ・ワレヲマタムゾ》
 
【譯】わたくし山上憶良は、今は退出いたしましよう。宅では子が泣いておりましよう。そもそも、その子の母親も、わたくしを待つておりましよう。
(222)【釋】憶良等者 オクララは。作者自身、名を稱している。ラは、複數ではなく、ただ漠然としてその方面をさす接尾語。「奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 久路加美之伎弖《クロカミシキテ》 奈我伎氣遠《ナガキケヲ》 麻知可母戀牟《マチカモコヒム》 波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》」(卷二十、四三三一)の例における都麻良のラの用法に同じ。
 今者將罷 イマハマカラム。マカラムは、動詞マカルに助動詞ムの接續した形。マカルは退去する、退出する意。宴の中途で、今はもうお先に失禮いたしましようというので、ここで句切である。
 子將哭 コナクラム。自分の子が家庭で待つているでしようと推量する意。この一句も句切である。なお上の罷ラムは、動詞罷ルに、助動詞ムがついたもの。これは動詞泣クに、助動詞ラムがついたもの。上は意志をあらわし、これは推量をあらわす。形は似ているが、構成を異にしている。
 其彼母毛 ソレソノハハモ。ソノカノハハモ(西)、ソモソノハハモ(槻)。古葉略類聚鈔に、其子母毛とあつて、ソノコノハハモと讀んである。今は「筑波根爾《ツクハネニ》 吾行利世波《ワガユケリセバ》 霍公鳥《ホトトギス》 山妣兒令v響《ヤマビコトヨメ》 鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》」(卷八、一四九七)の歌に、其をソレと讀んでいるのに合わせて、其をソレと讀み、また集中彼はすべてソノと讀んでいるので、ソレソノハハモと讀む説による。ソレは副詞として、調子を強めるために添える詞。その母は、上の子哭クラムを受けて、その子の母をいう。
 吾乎將待曾 ワヲマツラムゾ。ワレヲマタムゾ(西)、ワヲマツラムゾ(槻)。ラムは推量の助動詞。ゾは終助詞で、強く指定している。ワレヲマタムゾの訓も心を引かれるが、上の將哭をナクラムと讀む上は、將待も、やはりマツラムと讀まれる。
【評語】 ラ行音を多く使用し、また短文を重ねてラムが脚韻のようになつている。聲調のよく整つた歌である。憶良は、宴會の席から退出する時に、この歌を高吟して座興を催したのであろう。歌の内容は、彼が社會人であつたと共に、家庭人でもあつたことを語つており、よく情を盡くして、名作たるを失わない。但し彼が天平(223)三年に書いた沈痾自哀文には、その年に七十四歳であつたというから、この歌がもし旅人の大宰の帥時代の作であるとすれば、既に七十を越していたことになり、歌詞に子哭クラムというに合わない。そこで自哀文における年齡を誤りとする説も出るのであるが、それは證明のないことである。この歌は、もつと以前の作であつたとするか、または歌中の子が孫であるとするかに解決を求むべきであろう。そうすれば、その子の母というのは、彼の妻ではなくして、孫の母になり、歌の気分がまた別のものになる。妻といわないで、その子の母と
 
古葉略類聚鈔
 古葉略類聚鈔は、萬葉集の歌を改めて分類して編纂した書で、中臣の祐定が撰したものと推定され、もと十二卷あつたと考えられるが、今は五卷だけを存している。建長二年書寫の奧書がある。
 
(224)いつたのには意味があろう。その邊に問題は殘るが、歌の中心をなすところの家庭愛そのものには變化はない。
 
大宰帥大伴卿、讃v酒歌十三首
 
大宰の帥大伴の卿の、酒を讃むる歌十三首。
 
【釋】大宰帥 オホキミコトモチノカミ。大宰府の長官である。大伴の旅人が大宰の帥となつたのは何年かわからない。その大宰府に赴いたのは神龜五年なるべく、天平二年まで三年間その地にあつた。
 大伴卿 オホトモノマヘツギミ。大伴の旅人。
 讃酒歌 サケヲホムルウタ。酒徳を讃嘆した歌である。この十三首、連作をもつて見るべきであるが、全體としての組織はない。ただ第一首は總括的な意味があり、また直接酒に觸れていない作もあつて、彼此あい待つて一の内容を構成するが如き意味はある。また一の内容を種々に試みたかと思われる點もある。旅人は、神龜五年任地に下つて間もなく妻を喪い、その憂悶のあいだに、この作をなしたと考えられる。
 
338 驗《しるし》なき 物を念はずは、
 一抔《ひとつき》の 濁れる酒を
 飲むべくあるらし。
 
 驗無《シルシナキ》 物乎不v念者《モノヲオモハズハ》
 一坏乃《ヒトツキノ》 濁酒乎《ニゴレルサケヲ》
 可v飲有良師《ノムベクアルラシ》
 
【譯】效《かい》のない物思いをせずに、一杯の濁れる酒を飲むべきであろう。
【釋】驗無物乎不念者 シルシナキモノヲオモハズハ。シルシは、效果、かい。もと動詞シルスの名詞形から出たものと考えられ、顯し著ける意から、效果の義を生じたのであろう。驗ありとも、驗なしとも使う。「橘を屋前《には》に植ゑ生《おほ》し立ちて居て後に悔ゆとも驗《しるし》あらめやも」(卷四、四一〇)、「御民《みたみ》われ生《い》ける驗あり」(巻六、(225)九九六)は驗のある方の例であり、「驗なき戀をもするか」(卷十一、二五九九)、「立ち歸り泣けどもわれは驗なみ思ひわぶれて寢る夜しぞ多き」(卷十五、三七五九)は驗のない方の例である。この歌では、形は驗なき物と續いているが、物を思つてもその效果がないという意味である。ズハは既出(卷二、八六)。物を思わないでの意。ハは輕く添えた助詞。
 一坏乃 ヒトツキノ。坏は、土器の酒盃。それに一もりの意である。
 濁酒乎 ニゴレルサケヲ。ニゴレルサケは、清澄でない酒をいう。清酒に比して下級の酒である。
 可飲有良師 ノムベクアルラシ。ラシは、推量の助動詞であるが、ここなどは、ナリといつてもよいほどのものを、ラシというのは強いていい切らないまでの語氣である。飲む方がよさそうだぐらいの意と解される。
【評語】古事記、日本書紀に傳えられている酒の歌が、愉快な内容の歌であるのは、酒宴の席上で歌われるものであるからである。それらに比べると、この酒を讃むる歌は、沈痛な氣の潜んでいるのを否みがたい。それはこの作者が知識人であつて、酒に對する批判的な態度が出ている文筆的作品であると共に、彼がこの作をなすに至つた大きな衝動として、妻を喪つた孤獨の生活が指摘されるからである。この意をもつて、この一聯の歌を見なければならない。作者が、驗なき物を思はむよりはといつたのも、亡き妻を戀う心をいうものであろう。悶々の情を酒に慰めようとする、この高貴な一老人の哀憐すべき生活が描き出されている。理性に敗れて、自棄に導かれつつある思想の徑路を考えると、この以下の歌も、あながちに單なる享樂主義をもつて評すべきでない。
【参考】酒の古歌(一部)
  この御酒《みき》はわが御酒ならず、酒《くし》の神《かみ》常世《とこよ》にいます、石《いは》立たす少御神《すくなみかみ》の、神|祷《ほ》き祷《ほ》きくるほし、豐祷き祷きもとほし、まつり來し御酒ぞ、あさず飲《を》せ、ささ(古事記四〇)
(226)  この御酒《みき》を釀《か》みけむ人は、その鼓《つづみ》臼に立てて、歌ひつつ釀《か》みけれかも、舞ひつつ釀みけれかも、この御酒の、あやにうた樂し、ささ(同四一)
  白擣《かし》の生《ふ》に横臼《よくす》を作り、横臼に釀《か》みし大御酒、うまらに聞《き》こしもち飲《を》せ、まろが父《ち》(同四九)
  須須許里《すすこり》が釀《か》みし御酒にわれ醉ひにけり、事|和酒《なぐし》咲酒《ゑぐし》にわれ醉ひにけり(同五〇)
  この御酒《みき》はわが御酒ならず、大和なす大物主《おほものぬし》の、釀みし御酒、幾久幾久《いくひさいくひさ》(日本書紀一五)  梅の花夢に語らくみやびたる花と吾《あれ》思《も》ふ酒に浮かべこそ(卷五、八五二)
  燒大刀の稜《かど》うち放ちますらをのほく豐御酒《とよみき》にわれ醉ひにけり(卷六、九八九)
  官《つかさ》にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも。散りこすなゆめ(卷八、一六五七)
 中臣のふと祝詞言《のりとごと》いひ祓《はら》へあがふ命も誰がために汝《なれ》(酒を造る歌、卷十七、四〇三一)
  すめろきの遠御代御代はい布《し》き折り酒《さけ》飲むといふぞこのほほがしは (卷十九、四二〇五)
  天地と久しきまでに萬代に仕へまつらむ。黒酒《くろき》白酒《しろき》を(同、四二七五)
 
339 酒の名を 聖《ひじり》と負《おほ》せし、
 古《いにしへ》の 大き聖の
 言《こと》のよろしさ。
 
 酒名乎《サケノナヲ》 聖跡負師《ヒジリトオホセシ》
 古昔《イニシヘノ》 大聖之《オホキヒジリノ》
 言乃宜左《コトノヨロシサ》
 
【譯】酒の名を聖人と名づけた、古の大聖人の言葉のよろしいことである。
【釋】酒名乎聖跡負師 サケノナヲヒジリトオホセシ。魏志の徐※[しんにょう+貌]《じよばく》傳に「魏の國初に、※[しんにょう+貌]《ばく》、尚書郎《しやうしよらう》となる。時に禁酒を科す。しかるに※[しんにょう+貌]私かに飲んで沈醉するに至れり。校事趙達、問ふに曹事をもつてせしに、※[しんにょう+貌]曰はく、聖人に中《あ》てらると曰へり。達、これを太祖に白《まを》す。太祖甚怒る、渡遼《とれう》將軍|鮮于輔《せんうほ》進んで曰はく、平日醉客、酒(227)の清めるを謂ひて聖人となし、濁《にご》れるを賢人となす。※[しんにょう+貌]性修慎、偶《たまたま》醉言すらくのみと。竟《つひ》に坐して刑を免るるを得たり」とあるによる。酒を稱して聖人といつたの意。
 古昔大聖之 イニシヘノオホキヒジリノ。初二句を受けて古昔の大聖といつているので、徐※[しんにょう+貌]をさすが如くである。他にかような言をなした大聖人のあることは知られない。
 言乃宜左 コトノヨロシサ。言の宜しきことよの意。ヨロシサは、形容詞ヨロシに、助詞サが接續して體言を作る。「妹らを見らむ人のともしさ」(卷五、八六三)など、例が多い語法である。
【評語】以下漢土の故事を引くこと多く、作者が知識人であつたことを語つている。この歌の如き、その知識に溺れた傾向が濃厚である。
 
340 いにしへの 七《なな》の賢《さか》しき 人|等《ども》も、
 欲《ほ》りせしものは、酒にしあるらし。
 
 古之《イニシヘノ》 七賢《ナナノサカシキ》 人等毛《ヒトドモモ》
 欲爲物者《ホリセシモノハ》 酒西有良師《サケニシアルラシ》
 
【譯】昔在つたといふ、七人の賢人等も、欲しがつたものは、酒であつたと思われる。
【釋】古之七賢人等毛 イニシヘノナナノサカシキヒトドモモ。古の七の賢しき人どもは、晉の竹林の七賢をいう。世説に「陳留の阮籍《げん叶き》、※[言+焦]《せう》國の※[稽の旨が山]康《けいかう》、河内の山濤《さんたう》三人、年皆相比し、康年少くしてこれに亞《つ》げり。この契に預る者、沛《はい》國の劉伶《りうれい》、陳留の阮咸《げんかん》、河内の向秀《しやうしう》、琅邪《らうや》の王戎《わうじゆう》なり。七人竹林の下に集り、意を肆《ほしいまま》にして酣暢《かんちやう》す。故に世に竹林の七賢と謂ふ」とある。この七人は、琴詩酒を携へて竹林に集まり、清談を事としたということである。
 欲爲物者 ホリセシモノハ。ホリスルモノは(西)、ホリセシモノは(槻)。竹林の七賢は、物欲を有していないが、ただ酒のみを欲したという。上に古ノ七ノ賢シキ人といつているから、ホリセシと過去に讀むがよい(228)であろう。
 酒西有良師 サケニシアルラシ。上のシは、強意の助詞。酒であると見えるぐらいの意である。
【評語】前の歌と竝んで、古人を引合に出している。清談虚無の徒の行蹟が、興味をもつて迎えられている。
 
341 賢《さか》しみと 物いふよりは、
 酒飲みて 醉哭《ゑひなき》するし まさりたるらし。
 
 賢跡《サカシミト》 物言從者《モノイフヨリハ》
 酒飲而《サケノミテ》 醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》
 益有良之《マサリタルラシ》
 
【譯】賢がつて物をいうよりは、酒を飲んで、醉い泣きするが、勝《まさ》つていると思われる。
【釋】賢跡 サカシミト。賢明であるとしての意。みずから賢しとしてである。「多麻豆左能《タマヅサノ》 使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》 宇禮之美登《ウレシミト》 安我麻知刀敷爾《アガマチトフニ》」(卷十七、三九五七)のウレシミトと同樣の語法である。
 物言從者 モノイフヨリハ。このヨリは、比較をあらわす。物を言うよりは、何々がまさつていると五句に續く。
 酒飲而醉哭爲師 サケノミテヱヒナキスルシ。ヱヒナキは、醉つて泣くこと。シは強意の助詞。次の句に對して主格をなしている句。
 益有良之 マサリタルラシ。まさつているようだと推量している。
【評語】醉哭の語は、下の三四七、三五〇の歌にも見え、この一聯の歌中の主要な位置を占めている。亡妻を忘れようとして忘れられず、醉中にも泣くのであつて、いたずらに泣くのではない意を酌むべきである。なまなかに悟つたようなことをいうよりも、酒に醉つて泣く方がましだというところに、悲痛な感情が宿つている。
 
(229)342 言はむすべ せむすべ知らに
 極《きは》まりて 貴《たふと》きものは
 酒にしあるらし。
 
 將v言爲便《イハムスベ》 將v爲便不v知《セムスベシラニ》
 極《キハマリテ》 貴物者《タフトキモノハ》
 酒西有良之《サケニシアルラシ》
 
【譯】言いようもなく、しようもないまでに、極めて貴いものは、酒であると思われる。
【釋】將言爲便將爲便不知 イハムスベセムスベシラニ。既出(卷二、二〇七)。スベは、手段、方法。言うすべもするすべも知らないでの意の副詞句。言語手段を絶した意の慣用句である。將爲便は、爲の字が一字略されている。言語以上、方法以上の。シラニのニは、打消の助動詞ヌの一活用。これは、中世以後行われなくなる。
 極貴物者 キハマリテタフトキモノハ。キハマリテは極限の意で、これ以上ないのをいう。
 酒西有良之 サケニシアルラシ。三四〇の歌に見えている句。
【評語】この歌は、抽象的に酒の貴いことを敍している。上述の如く、言ハムスベセムスベ知ラニは、慣用された句であるが、その用例は皆長歌であつて、このように短歌に用いられたのは、これのみであつて珍しいものである。
 
343 なかなかに 人とあらずは
 酒壺《さかつぼ》に なりにてしかも、
 酒に染《し》みなむ。
 
 中々尓《ナカナカニ》 人跡不v有者《ヒトトアラズハ》
 酒壺二《サカツボニ》 成而師鴨《ナリニテシカモ》
 酒二染甞《サケニシミナム》
 
【譯】なまじいに人とあらずに、むしろ酒壺になりたいものである。そうもしたら酒に染《し》みることであろう。
(230)【釋】中々尓 ナカナカニ。このナカは、中途半端の意で、なまなかにの意になる。ナカナカニで起してズハで受けた例、「なかなかに君に戀ひずは枚《ひら》の浦の白水郎《あま》ならましを玉藻刈りつつ」(卷十一、二七四三)、「なかなかに人とあらずは桑子《くはこ》にもならましものを玉の緒ばかり」(卷十二、三〇八六)など使用されている。
 人跡不有者 ヒトトアラズハ。人とあらずしての意。人とあるは、人間となつてあるの意である。前掲の「驗無き物を思はずは」(三三八)と同じ語法である。
 酒壺二成而師鴨 サカツボニナリニテシカモ。サカツボニナリテシカモ(槻)。シカは願望の助詞で、サカツボニナリニテを希望している。モは感動を添える助詞。シカは清音である。これを願望の助詞ガと混同してカを濁音とするのは誤りである。「山之末爾《ヤマノハニ》 射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》 外爾見而思香《ヨソニミテシカ》」(卷三、三九三)、「多都能馬母《タツノマモ》 伊麻勿愛弖之可《イマモエテシカ》 阿遠爾與志《アヲニヨシ》 奈良乃美夜古爾《ナラノミヤコニ》 由吉帝己牟丹米《ユキテコムタメ》」(卷五、八〇六)など、用例は多い。この語は、元來助動詞シに助詞カが接續して成つたものであつて、用例は終止が多いが、カおよびカモの性質上、係助詞にもなりうるものである。「安麻等夫夜《アマトブヤ》 可里乎都可比爾《カリヲツカヒニ》 衣弖之可母《エテシカモ》 奈良能彌夜古爾《ナラノミヤコニ》 許登都礙夜良武《コトツゲヤラム》」(卷十五、三六七六)の例の如き、雁を使に得ることが條件になつて、四句を修飾している。よつてここも、この句で切らないで、條件法として、シカモを係助詞として見るべきである。この酒壺になりたいということは、中國三國時代の呉の鄭泉《ていせん》の故事によつている。講義に※[王+周]玉集《ちようぎよくしゆう》を引いて、「鄭泉、字は文淵、陳郡の人なり。孫權の時、大中大夫となる。性たる、酒を好む。すなはち嘆きて曰はく、願はくは三百の※[百+升]船を得て、酒をその中に滿し、四時の甘※[食+肴]《かんかう》を兩頭安に置き、升升傍にあり、隨ひて減ずれば隨ひて益し、方に一生を足すべきのみと。死に臨みし日、その子に勅して曰はく、我死なば、窯の側に埋むべし。數百年の後、化して土と成り、覬取《きしゆ》して酒瓶とならば、心願を獲たりと。呉書に出づ」とある。
 酒二染甞 サケニシミナム。酒にしみつくだろうの意。甞は訓を借りている。
(231)【評語】酒壺になつても、愁いを忘れようとする、作者の心には、實に哀れむべきものがあろう。都を離れて遠地にいる不平か。それもあろう。しかしそのもつとも大きい原因としては、やはり亡妻を戀う情が、殊に他に慰めるすべもない邊地にいる身の上に、ひしと迫つている。それを紛らそうとしての享樂沙汰であろう。
 
344 あな醜《みにく》、
 賢《さか》しらをすと 酒飲まぬ
 人をよく見れば、
 猿にかも似る。
 
 痛醜《アナミニク》
 賢良乎爲跡《サカシラヲスト》 酒不v飲《サケノマヌ》
 人乎熟見者《ヒトヲヨクミレバ》
 猿二鴨似《サルニカモニル》
 
【譯】ああ醜いことである。賢人ぶつて酒を飲まぬ人をよく見れば、猿に似ていることだ。
【釋】痛醜 アナミニク。痛は、痛切、痛恨など、熟字となる字で、甚しの義によつて、アナの語を寫している。「痛足河《アナシガハ》 河浪立奴《カハナミタチヌ》」(卷七、一〇八七)など、アナの音に借りている。アナは、甚の意の副詞。古語拾遺に「事之甚(ダ)切(ナル)、皆稱(フ)2阿那《アナト》1」とある。ミニクは、醜惡の意。日本書紀卷の三神武天皇紀の訓註に「大醜、此(ヲバ)云(フ)2鞅奈彌邇句《アナミニクト》1」とある。この句は、第二句以下の内容を總括批評している。
 賢良乎爲跡 サカシラヲスト。サカシラは、賢しげにあるをいう。三五〇の歌にも使用されている。形容詞に接尾語ラの接續した形で、「小金門爾《ヲカナドニ》 物悲良爾《モノカナシラニ》 念有之《オモヘリシ》 吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》」(卷四、七二三)の如く、モノガナシラなどの用例がある。賢明の樣をするとて。
 酒不飲 サケノマヌ。連體の句。
 人乎熱見者 ヒトヲヨクミレバ。ヒトヲヨクミバ(代初)、ヒトヲヨクミレバ(略)。熟見は、つらつら見る意で、義をもつてヨクミルと讀んでいる。「朝戸出乃《アサトデノ》 君之儀乎《キミガスガタヲ》 曲不v見而《ヨクミズテ》」(卷十、一九二五)の歌に使用(232)している曲の字は、やはり委曲の義をもつて、ヨクに當てている。ヒトヲヨクミバと讀むとすれば、五句はサルニカモニムとなるのだが、ヨクミレバと決定的にいう方がよい。
 猿二鴨似 サルニカモニル。サルニカモニル(類)、サルニカモニム(代初)。カモは疑問の係助詞。猿にか似ているの意。何かに似ている、ああ猿にかなという語氣。
【評語】公平に見たところ、酒を飲む人の方が、猿に近いようではある。しかし當時作者の近くに、賢人ぶつて酒を飲まない人で、猿に似た人がいて、それを暗にさしていると見るとおもしろい。
 
345 價《あたひ》無《な》き 寶といふとも、
 一抔《ひとつき》の 濁れる酒に
 あにまさめやも。
 
 價無《アタヒナキ》 寶跡言十方《タカラトイフトモ》
 一杯乃《ヒトツキノ》 濁酒尓《ニゴレルサケニ》
 豈益目八方《アニマサメヤモ》
 
【譯】價の知られない寶と云つても、一杯の濁れる酒に益すものはあるまい。
【釋】價無寶跡言十方 アタヒナキタカラトイフトモ。アタヒは、價値。匹敵相當するものの義である。價無きは、價格に律せられないもので、無價値のものか、または價値莫大で評價し得ないものをいう。價無き寶は、價格を超越して、その測りがたく無限の價ある寶をいう。法華經、大般若經等に佛法を譬えて無價寶珠という。それによつたものであろう。イフトモは、假に價無き寶があるとしてもの意。
 一杯乃濁酒尓 ヒトツキノニゴレルサケニ。前出。
 豈益目八方 アニマサメヤモ。アニは、何ぞ、どうしてか等の意の副詞。下に反語または打消をもつて結ぶ。すぐ次の歌にもあり、その他「わが戀にあに益さらじか」(卷四、五九六)、「豈《あに》くやしづしそのかほよきに」(卷十四、三四一一)、「豈《あに》もあらぬおのが身のから」(卷十六、三七九九)、「圍《かく》み屋《や》たりは豈《あに》よくもあらず」(233)(日本書紀四九)などある。マサメヤモは反語法であつて、益さろうや益さりはせまいの義である。「多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》 許登爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》 須敝毛奈久《スベモナク》 久流思伎多婢毛《クルシキタビモ》 許等爾麻左米也母《コトニマサメヤモ》」(卷十五、三七六三)の如き用例があり、これ以上はあるまいの意に使用されている。
【評語】無價寶珠といえども、一杯の濁酒に及《し》かずと歌つているのは、暗に佛教を蔑視している。後出の作と共に、この作者の思想の、文學的であつたことを窺うに足りるものがある。
 
346 夜《よる》光《ひか》る 玉といふとも、
 酒飲みて 情《こころ》を遣《や》るに
 あに若《し》かめやも。
 
 夜光《ヨルヒカル》 玉跡言十方《タマトイフトモ》
 酒飲而《サケノミテ》 情乎遣尓《ココロヲヤルニ》
 豈若目八方《アニシカメヤモ》
 
【譯】夜光る玉というとも、酒を飲んで思いを放ちやるに及ぶものではない。
【釋】夜光玉跡言十方 ヨルヒカルタマトイフトモ。漢土に珠玉の優れたるものをいう。史記に「隋公祝元暢、因りて齊《せい》に之《ゆ》くに、道の上《ほとり》に一の蛇の死なむとするを見、遂に水を洒《そそ》ぎ神藥を摩傅して去りぬ。忽一夜、中庭に皎然《かうぜん》として光あり、意《こころ》に賊ありと謂《おも》ひ、遂に劍を案じて視るに、すなはち一の蛇の珠を※[口+卸]《ふふ》みて地に在りて往くを見る。故に、前の蛇の感報なることを知りぬ。珠の光、能く夜を照らすをもちての故に、夜光と曰ふ」、述異記に「南海に珠あり、すなはち鯨目《けいもく》なり。夜もつて鑒《み》つべし、これを夜光と謂ふ」とあり、また戰國策にも「張儀、秦の爲に從を破して連横し、楚王に説く。楚王、使百乘をして駭※[奚+隹]《がいけい》の犀《さい》、夜光の璧《たま》を秦王に獻ぜしむ」とある。
 酒飲而情乎遣尓 サケノミテココロヲヤルニ。情を遣るは、思いを遣ると同じで、心を放ち棄て去つて、物思いを忘れる義である。「忘哉《ワスルヤト》 語《モノガタリシテ》 意遣《ココロヤリ》 雖v過不v過《スグセドスギズ》 猶戀《ナホコヒニケリ》」(卷十二、二八四五)。
(234) 豈若目八方 アニシカメヤモ。シクは及ぶ意。及ぶものはあるまいの義である。通行本には豈若目八目とあつて、下に小字に一云八方とある。しかし、目をモと讀むことはほかに例がないのであるから、類聚古集等に八方に作り、かつ一云八方のないのを可とするのである。
【評語】前の無價寶珠の歌と竝んで一對をなし、知識を基礎とする作品であることを語つている。それで理くつつぽくなつているのはやむを得ぬところである。しかし作者が酒に遊ぶのは畢竟憂鬱を紛らそうためであること、この歌の情ヲ遣ルニアニ若カメヤモの句にもあらわれている。
 
347 世のなかの 遊びの道に
 すずしきは、
 醉哭《ゑひなき》するに あるべくあるらし。
 
 世間之《ヨノナカノ》 遊道尓《アソビノミチニ》
 冷者《スズシキハ》
 醉泣爲尓《ヱヒナキスルニ》 可v有良師《アルベクアルラシ》
 
【譯】世間の遊興の道の中にも、心のすがすがしいものは、酒に醉つて泣くことであろう。
【釋】世間之 ヨノナカノ。ヨノナカは、人間の生活する世界をいう。
 遊道尓 アソビノミチニ。アソビは、歌舞音樂文事など、すべての遊樂をいう。ミチは、事または業を、抽象的にいう語で、もとわが國にない言い方であつたが、漢語の道が入り來たつてから、その意味に使用するようになつたのである。「世間乃道《ヨノナカノミチ》」(卷五、八九二)、「伎欲吉曾能美知《キヨキソノミチ》」(卷二十、四四六九)などは、この意の用例である。アソビノミチは、遊藝道というが如き意で、ここには、すべての意味に使用している。
 冷者 スズシキハ。この二字、古來難訓とされたところである。舊訓にマシラハヽ、代匠記にオカシキハ、童蒙抄にスサメルハ、考にサブシクハ、玉の小琴に怜者の誤りとしてタヌシキは、古義に洽者の誤りとしてアマネキハと讀んでいる。これらの諸訓、いずれも無理か、または不通であつて落ちつかない。「萬葉集難語難(235)訓攷」(生田耕一氏)に、スズシキハと讀み、平安時代の歌文の例を引いて荒涼たるはの意に解している。講義には、生田氏の訓を採り、漢語の冷の字義によるものとして、漢籍を證として、心情の清々《すがすが》しく和《なご》やかなるさまをいうとしている。あそびの道の中において冷しきは醉哭にありとなすのである。今しばらくこの説による。
 醉泣爲尓 ヱヒナキスルニ。醉哭することにの意。
 可有良師 アルベクアルラシ。有の下に今一つ有の字があつて然るべきであるが略したのであろう。あるべきであると思われるの意。
【評語】三四一の賢シミトの歌と同じような表現である。この一連のうち、四句に「醉哭するに」を用いた歌が三首あるが、三首とも第五句の相違していることが注意される。
 
348 この代《よ》にし 樂《たの》しくあらば、
 來《こ》む生《よ》には
 蟲に鳥にも 吾はなりなむ。
 
 今代尓之《コノヨニシ》 樂有者《タノシクアラバ》
 來生者《コムヨニハ》
 蟲尓鳥尓毛《ムシニトリニモ》 吾羽成奈武《ワレハナリナム》
 
【譯】この今の世に樂しくあるならば、次の世では蟲にでも鳥にでも自分はなるであろう。
【釋】今代尓之 コノヨニシ。今代は、今夜を、コヨヒ、今身をコノミと讀むに合わせてコノヨと讀む。下の來生に對する語である。但しイマノヨとも讀まれている。佛説によつて、生々流轉して生まれかわり死にかわつてゆくとすることから、この今の生命を、この代と稱している。シは、強意の助詞。
 樂有者 タノシクアラバ。この歌には、酒に關する語がないが、この句によつて飲酒の快樂を暗示している。
 來生者 コムヨニハ。コムヨは佛説にいう死んで後に生まれる生命である。來生は、未來の生の義である。
 蟲尓鳥尓毛 ムシニトリニモ。この代でよいことをすれば次の世で善く生まれつき、この世でわるいことを(236)すれば、次の世は畜生道にも落ちる。その畜生の道に落ちてもの意で、蟲と鳥とを持つて來ている。蟲にも鳥にもの義であるが、上のモを攝して、下のモに含ませているのは、音數上の制限によるものである。「門爾屋戸爾毛《カドニヤドニモ》 珠敷益乎《タマシカマシヲ》」(卷六、一〇一三)の如き用例がある。
 吾羽成奈武 ワレハナリナム。吾は蟲にも鳥にもなりなむの意。句の都合から、主格をこの句に持ち來たつている。
【評語】この歌には佛説の因果應報の教を取り扱つている。しかしそれは知識としてであつて、作者はむしろ自棄の態度をもつてこれに對している。作者の教養時代が、老莊思想崇信の時であつたに根ざすものか。彼の精神上の不幸は佛教をもつて救うことができなかつたのであろう。しかもこの歌には、彼がこれに對して無關心であり得なかつたことをあらわしている。以下二首は、直接酒に關してはいないが、連作の一として、酒に樂しもうとする内容上、ここに列記したものであろう。
 
349 生《う》まるれば 遂にも死ぬる
 ものにあれば、
 今なる間《ほど》は 樂《たの》しくをあらな。
 
 生者《ウマルレバ》 遂毛死《ツヒニモシヌル》
 物尓有者《モノニアレバ》
 今在間者《イマナルホドハ》 樂乎有名《タノシクヲアラナ》
 
【譯】生まれれば、ついにも死ぬものであるから、今の世の間は、樂しくありたいものである。
【釋】生者 ウマルレバ。イケルヒト(累)、イケルモノ(童)、ウマルレバ(略)。大涅槃經に見える「生者必滅 會者定離」の句によつて詠んでいると思われるから、ウマルレバを可とするであろう。
 遂毛死物尓有者 ツヒニモシヌルモノニアレバ。初句を受けて、生者必滅の理を説いている。大伴の坂上の郎女の、尼理願の死を悼む歌に「生者《ウマルレバ》 死云事爾《シヌトイフコトニ》 不v免《マヌカレ又》 物爾之有者《モノニシアレバ》」(卷三、四六〇)ともある。
(237) 今在間者 イマナルホドハ。底本等、今の下に、生の字がある。舊訓これによつてコノヨナルマハと讀み、槻落葉またイマイケルマハと讀んでいる。今、神田本、類聚古集によつて生の字を除く。古本の形と思われるからである。間を二音の語に當てるのは、前項に引いた歌にも「草枕《クサマクラ》 客有間爾《タビナルホドニ》」(卷三、四六〇)とあり、その他にも例が多い。今の世にあるあいだはの意。
 樂乎有名 タノシクヲアラナ。ヲは感動の助詞。なくても意は通ずる。「保等登藝須《ホトトギス》 許々爾知可久乎《ココニチカクヲ》 伎奈伎弖余《キナキテヨ》」(卷十九、四四三八)などの用法である。アラナは、自分がありたいと希望する語法。
【評語】前の歌と共に、この歌にも酒に關する語がない。そうして佛説の知識を運用して、今生の快樂を求めている。知識者の歌の特性を發揮している。
 
350 黙然《もだ》居《を》りて 賢《さか》しらするは、
 酒飲みて 醉泣《ゑひなき》するに なほ及《し》かずけり。
 
 黙然居而《モダヲリテ》 賢良爲者《サカシラスルハ》
 飲v酒而《サケノミテ》 醉泣爲尓《ヱヒナキスルニ》
 尚不v如來《ナホシカズケリ》
 
【譯】じつとしていて、利巧ぶつているよりは、酒を飲んで醉泣するに、やはり及ばないことであつた。
【釋】黙然居而 モダヲリテ。モダは、止黙の義であるが、何もせずにあることにいう。ここは副詞として、すましこんでいることをいうのであろう。
 賢良爲者 サカシラスルハ。サカシラは、上の三四四の歌に出た。ここは賢しげをするはの意である。
 飲酒而醉泣爲尓 サケノミテヱヒナキスルニ。上の三四一の歌に出ている。
 尚不如來 ナホシカズケリ。ズケリは古い語法で、中世以後にはない。なお及ばぬことであつたの意。同じ作者の歌に「隼人《はやひと》の追門《せと》の巖《いはは》も鮎走る吉野の瀧になほ及《し》かずけり」(卷六、九六〇)などある。
(238)【評語】以上十三首、とりどりに酒を讃めているが、老妻との死別の悲しみを、酒に紛らしている心情は見のがしてはならない。それが底を流れて個々の歌の基調をなしているのである。また多く知識的に詠まれているのは、彼の教養から來るものであり、經史の知識、老莊思想、佛説にわたつているのは、その時代の思潮を語るものがある。知識者が知識によつて安心を得ず、わずかに醉哭することによつて、痛心の事を紛らそうとした心の記録と見るべき作品である。作者を目して、單なる享樂主義者とするは、當らぬことである。
 
沙弥滿誓歌一首
 
351 世間《よのなか》を 何に譬へむ。
 朝びらき 榜《こ》ぎ去《い》にし船の
 跡なきがごと。
 
 世間乎《ヨノナカヲ》 何物尓將v譬《ナニニタトヘム》
 旦開《アサビラキ》 榜去師船之《コギイニシフネノ》
 跡無如《アトナキガゴト》
 
【譯】この世の中を何に譬えよう。たとえば朝船出をして榜いで行つた船の跡のないようなものだ。
【釋】世間乎何物尓將譬 ヨノナカヲナニニタトヘム。ナニは、意を取つて何物と書いてある。「流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物之花其毛《ナニノハナゾモ》」(卷八、一四二〇)、「何物乎鴨《ナニヲカモ》 不v云言此跡《イハズイヒシト》 吾將v竊食《ワガヌスマハム》」(卷十一、二五七三)など使用されている。この二句、設問であり、これに應じて三句以下が詠まれている。すなわち自問自答の形になつている。
 旦開 アサビラキ。碇泊した船が、朝になつて漕ぎ出すをいう。「安佐妣良伎《アサビラキ》 許藝弖天久禮婆《コギデテクレバ》 牟故能宇良能《ムコノウラノ》 之保非能可多爾《シホヒノカタニ》 多豆我許惠須毛《タヅガコエスモ》」(卷十五、三五九五)、「珠洲能宇美爾《ススノウミニ》 安佐妣良伎之弖《アサビラキシテ》 許藝久禮婆《コギクレバ》」(卷十七、四〇二九)などの用例がある。體言として、次の句を修飾する。朝びらきをしての意である。
 榜去師船之 コギイニシフネノ。コギイニシは、漕いで去つた意で、シは過去の助動詞。
(239) 跡無如 アトナキガゴト。アトナキガゴト(類)、アトナキゴトシ(槻)。ゴトは、終止形としては、ゴトともゴトシともいう。ゴトの場合は體言で、ゴトアリの意と解せられるが、本來體言であつて、終止にも使用されるものである。「古爾《イニシヘニ》 戀良武鳥者《コフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》 蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》 吾念流碁騰貴《ワガオモヘルゴト》」(卷二、一一二)の如く、逆に下方に置くものからして、終止をなすものに進んだようである。終止形の例としては、「佐奴良久波《サヌラクハ》 多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》 古布良久波《コフラクハ》 布自能多可禰乃《フジノタカネノ》 奈流佐波能其登《ナルサハノゴト》」(卷十四、三三五八)の如きがある。またゴトシの例には、既出「相見如之《アヒミルゴトシ》」(卷三、三〇九)がある。
【評語】無常を詠じた歌として、古來有名である。どのような時に作られたものとも知られないが、あるいは妻を失つた大伴の旅人に贈つたものででもあろう。萬葉集に始めて訓點を附けた源順の歌集に、「應和元年七月十一日に、よつなる女子をうしなひて、同年の八月六日に又いつゝなるをのこごを失ひて、無常の思ひ事にふれておこる。かなしびの涙かわかず、古萬葉集の中に、沙彌滿誓がよめる歌の中に、世の中を何にたとへむといへることをとりて、かしらにおきてよめる歌十首」を載せている。今その第一首を載せよう。
  世の中を何にたとへむ、あかねさす朝日まつ間の萩の上の露
【參考】無常の歌(一部)
  うつせみの世は常無しと知るものを秋風寒みしのひつるかも(卷三、四六五)
  世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(卷五、七九三)
  (上略)丈夫《ますらを》の壯士《をとこ》さびすと、劔大刀腰に取り佩《は》き、獵弓《さつゆみ》を手握《たにぎ》り持ちて、赤駒に倭文鞍《しつくら》うち置き、はひ乘りて遊びあるきし、世の中や常にありける(下略、卷五、八〇四)
  世の中を常なきものと今ぞ知る。奈良の都のうつろふ見れば(卷六、一〇四五)
  卷向の山邊とよみて行く水の水沫《みなわ》の如し。世の人われは(卷七、一二六九)
(240)  こもりくの泊瀬《はつせ》の山に照る月は盈※[日/仄]《みちかけ》しけり。人の常無き(同、一二七〇)
  水の上に數書く如きわが命を妹にあはむとうけひつるかも(卷十一、二四三三)
  生死《しやうじ》の二つの海を厭《いと》はしみ潮干の山をしのひつるかも(卷十六、三八四九)
  いさなとり海や死《しに》する山や死する。死ぬれこそ海は潮|乾《ひ》て山は枯すれ(同、三八五二)
  世の中は數なきものか。春花の散りのまがひに死ぬべき思へば(卷十七、三九六三)
  うつせみは數なき身なり。山河の清《さや》けき見つつ道を尋ねな(卷二十、四四六八)
   世間の常無きを悲しむ歌一首【短歌并はせたり。】
  天地の遠き始よ、世の中は常無きものと、語り續ぎ流らへ來れ、天の原ふりさけ見れば、照る月も盈※[日/仄]《みちかけ》しけり、あしひきの山の木ぬれも、春されば花咲きにほひ、秋づけは露霜負ひて、風まじり黄葉《もみち》散りけり、うつせみもかくのみならし、紅の色もうつろひ、ぬばたまの黒髪變はり、朝のゑみ暮《ゆふべ》かはらひ、吹く風の見えぬが如く、逝《ゆ》く水の留らぬ如く、常も無くうつろふ見れば、にはたづみ流るる涙、留めかねつも
  言《こと》問《と》はぬ木すら春咲き秋づけば黄葉《もみち》散らくは常を無みこそ 一は云ふ、常無けむとぞ
  うつせみの常無き見れば世の中に情《こころ》つけずて念ふ日ぞ多き 一は云ふ、嘆く日ぞ多き(卷十九、四一六〇−四一六二)
 
若湯座王歌一首
 
【釋】若湯座王 ワカユヱノオホキミ。傳未詳。若湯座は、古事記中卷に「御母《みおも》を取り、大湯坐《おほゆゑ》、若湯坐《わかゆゑ》を定めて、日足《ひた》しまつるべし」とあり、兒に湯を浴《あ》びせる職の人をいい、後、氏の名となつた。この王、その氏人を乳人《ちひと》として人となつたのであろう。
 
(241)352 葦邊《あしべ》には 鶴《たづ》が音《ね》鳴きて
 湖風《みなとかぜ》 寒く吹くらむ
 津乎《つを》の埼はも。
 
 葦邊波《アシベニハ》 鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》
 湖風《ミナトカゼ》 寒吹良武《サムクフクラム》
 津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》
 
【譯】津乎の埼では、葦邊では鶴が鳴いており、海の入口の風が寒く吹いているのであろうなあ。
【釋】葦邊波 アシベニハ。邊は、ヘニの假字に使つている。アシベは、岸近い處をいう。
 鶴之哭鳴而 タヅガネナキテ。タヅガネは、鶴の鳴聲の義であるが、雁をカリガネというように、鶴そのものをいう。これは鶴や雁などは、鳴くものであるから、ガネ(之鳴)を接尾語として使用するのである。たとえば、巖石をイハガネというが如き語法である。但し鶴をかようにいう場合は、その語義上、鳴くことをいう場合に多く使用される。また鶴の鳴聲の意に使用される例もある。「多頭我鳴乃《タヅガネノ》 今朝鳴奈倍爾《ケサナクナヘニ》」(卷十、二一三八)、「春霞《ハルガスミ》 之麻米爾多知弖《シマメニタチテ》 多頭我禰乃《タヅガネノ》 悲鳴婆《カナシミナケバ》」(卷二十、四三九八)の如きは、鶴の意に使用している。
 湖風 ミナトカゼ。湖の字をミナトに當てることは、既に「一云、湖見《ミナトミユ》」(卷三、二五三)に見えている。ミナトは、水門。水上から陸地に入り込む門戸である。ミナトカゼは、その地の風で、水上から吹き來る風である。
 寒吹良武 サムクフクラム。ラムは推量の語であるが、初句から寒ク吹クまでを推量し、次の句に對して連體形をなしている。
 津乎能埼羽毛 ツヲノサキハモ。津乎の埼は所在未詳。仙覺は、伊豫の國野間の郡にありといつている。ハモは、事物を提示してそれを詠嘆する助詞。
【評語】津乎の埼を想像して詠んだ歌である。如何に荒涼たる風物である事かと、歎息されている。あるいは(242)作者は女王で、思う人の旅行している土地を詠まれたのであるかも知れない。
 
釋通觀歌一首
 
【釋】釋通觀 サカノツグワニ。釋は、悉達太子の出家した後の稱號を漢語に釋迦という。その釋の字を取つて、佛徒が姓の如くに使用する。通觀は、既出(卷三、三二七)。
 
353 み吉野の 高城《たかき》の山に
 白雲は
 行きはばかりて たなびけり、見ゆ。
 
 見吉野之《ミヨシノノ》 高城乃山尓《タカキノヤマニ》
 白雲者《シラクモハ》
 行憚而《ユキハバカリテ》 棚引所v見《タナビケリミユ》
 
【譯】吉野の高城の山に、白雲は行くのをためらつて棚引いているのが見える。
【釋】見吉野之高城乃山尓 ミヨシノノタカキノヤマニ。高城の山は、吉野山中の高峯であろうが、今いずれの山か不明である。大和志に、山中の東方の山であるという。
 白雲者行憚而 シラクモハユキハバカリテ。高山に對して、雲の行くを憚ることは、山部の赤人の不盡山の歌などに見えている。
 棚引所見 タナビケリミユ。見ユは、動詞助動詞の終止形を受けることは、既に上に記した(卷三、二五六)。
【評語】高城の山を望見して詠んだ歌で、作者の創意のすくない歌である。單純な内容であるだけに、清素の氣を感じる。
 
日置少老歌一首
 
(243)【釋】日置少老 ヘキノヲオユ。傳未詳。日置氏は、古事記中卷に「この大山守の命は、土形《ひぢかた》の君、幣岐《へき》の君、榛原《はりはら》の君等が祖なり」とある。少老は、スクナオユとも讀まれるが、名としては、それでは落ちつかない。ヲオユと讀む方がよい。
 
354 繩《なは》の浦に 鹽燒く煙、
 夕されば
 行き過ぎかねて 山に棚引く。
 
 繩乃浦尓《ナハノウラニ》 鹽燒火氣《シホヤクケブリ》
 夕去者《ユフサレバ》
 行過不v得而《ユキスギカネテ》 山尓棚引《ヤマニタナビク》
 
【譯】繩の浦で鹽を燒いている煙が、夕方になれば、遠くへ散り行くことができずに出に棚引いている。
【釋】繩乃浦尓 ナハノウラニ。繩の浦は、兵庫縣赤樺郡の那波《なは》の江であろうという。また平安時代の歌いものに、ナハノ海、ナハノツブラ江などあると同地で、難波の浦であろうというが、しかし本集にも他の古典にも、難波をナハといつたと見るべき證明はない。
 鹽燒火氣 シホヤクケブリ。鹽を採取するために海藻を燒く煙である。ケブリに火氣の字を當てるのは、講義に、河野多麻氏の説として、説文に「煙、火氣也」とあるによるとしている。
 夕去者 ユフサレバ。夕になれば。
 行過不得而 ユキスギカネテ。行き過ぎて去ることを得ないでの意。不得は、既出(卷三、三一九)。
 山尓棚引 ヤマニタナビク。煙が、山に懸かつて横に引いているよしである。
【評語】内海の夕凪ぎが、よく描かれている。作者はその地に晝間からいたのであるが、夕方になつて、鹽燒く煙が失せないで、山に懸かつて見えるのである。平易な敍述のうちに海岸の夕方の景色が描かれている。
 
(244)生石村主眞人歌一首
 
【釋】生石村主眞人 オヒシノスグリマヒト。傳未詳。村主は姓、眞人は名である。續日本紀、天平勝寶二年正月の條に、正六位の上大石の村主眞人に外の從五位の下を授くとあると同人であろう。「意斐志爾《オヒシニ》」(古事記一四)とあるオヒシは、大石とも生石とも解せられるが、これによつてこの生石をオヒシと讀むことにする。
 
355 大汝《おほなむち》 少彦名《すくなびこな》の いましけむ、
 志都《しつ》の石室《いはや》は 幾代經にけむ。
 
 大汝《オホナムチ》 小彦名乃《スクナビコナノ》 將v座《イマシケム》
 志都乃石室者《シツノイハヤハ》 幾代將v經《イクヨヘニケム》
 
【譯】大汝の命と少彦名の命とのおいでになつた、この志都の石室は、幾代經たことだろう。
【釋】大汝 オホナムチ。古事記に大穴牢遲神、日本書紀に大己貴神とあり、日本書紀の訓註に、「大己貴、此《コヲバ》云(フ)2於褒婀娜武智《オホアナムチト》1」とあつて、もとオホアナムチといつた。しかしこれは歴史的かなづかいで、音聲としては、重母音を約してオホナムチと云つたのだろう。これは表音かなづかいになる。本集には「於保奈牟知《オホナムチ》 須久奈比古奈野《スクナヒコナノ》 神代欲里《カミヨヨリ》」(卷十七、四一〇六)、古語拾遺に「大己貴神 古語於保那武智神」、新撰姓氏録に「大奈牟智神」とあつて、音聲にはオホナムチといつたと考えられる。名義は、オホは偉大性をあらわす形容詞、ナは尊稱の代名詞、ムチは敬語である。大國主の神の別名と傳えられ、天の下を造つた神として尊崇された。
 小彦名乃 スクナビコナノ。古事記に少名※[田+比]古那神とある。小少は、古く通じて使用され、類聚名義抄には、小にもスクナシの訓がある。スクナは次位、ヒコは男性、ナは尊稱と解せられる。この神は矮小であるが、智惠多く、快活であり、海を渡つて來たり海を渡つて去つた。大己貴の神と力を協わせて、天下を經營したと傳えられ、二神の事蹟は、古事記、日本書紀、風土記等に多く傳えられている。それで諸國に、この二神に關す(245)る傳説を多く存し、この歌の志都の石室も、そのような傳説地の一であると考えられる。
 將座 イマシケム。過去のことを推量するので、將の字をケムと讀む。連體形の句。
 志都乃石室者 シツノイハヤハ。志都は、多分地名であろう。本居宣長の玉勝間に「石見國|邑知《おほち》郡岩屋村といふに、いと大きなる岩屋あり、里人しつ岩屋といふ。出雲備後のさかひに近きところにて、濱田より廿里あまり東の方いと山深き所にて、濱田の主の領《しら》す地なり。此岩屋、高さ卅五六間もある大岩屋なり。又その近きほとりにも大きなるちひさき岩屋あまた有、いにしへ大穴牟遲少彦名二神のかくれ給ひし岩屋也とむかしより里人語りつたへたり。さていにしへはやがて此岩屋を祭りしに、中ごろよりその外に別に社をたてゝ祭る。志津權現と申すとぞ。此事かの國の小篠の御野がもとより、ただにかの里人に逢てくはしくとひきゝつる也とていひおこせたるなり」とあるものが候補地として知られている。
 幾代將經 イクヨヘニケム。將經の訓については、ヘヌラム(舊訓)とヘニケム(槻落葉)と兩説がある。文證としては「幾世左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》 一云、年者經爾計武」(卷一、三四)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》 多末伎波流《タマキハル》 伊久代經爾家牟《イクヨヘニケム》」(卷十七、四〇〇三)の兩證があつて、いずれにも讀み得て意をなすのであるが、既に三句の將座をイマシケムと讀む以上は、同樣の用字法であるからここもヘニケムと讀む方が順當である。現に見ている事物についても、その過去を推量してケムを用いることは、上の例によつて、まさしく證せられるところである。
【評語】古人は、石窟について、神の住宅であるとする信仰を有していた。それは上に出た三穗の石室の歌にも窺われる。この歌は、そういう信仰の世界から生まれた歌として、簡單な表現ではあるが趣の深いものがある。
 
(246)上古麻呂歌一首
 
【釋】上古麻呂 カミノコマロ。傳未詳。新撰姓氏録によれば、上氏に數系あるが、上の村主は、魏の武帝の男陳思王曹植の後、上の勝は、百濟の國の人多利須須の後、上の曰佐は、百濟の國の人久爾能古の使主の後であり、いずれも蕃別である。この古麻呂は、いずれであるか不明である。
 
356 今日もかも、明日香の河の、
 夕さらず 河蝦《かはづ》なく瀬の、
 さやけかるらむ。
 
 今日可聞《ケフモカモ》  明日香河乃《アスカノカハノ》
 夕不v離《ユフサラズ》 川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》
 清有良武《サヤケカルラム》
 
【譯】今日はなあ、あの明日香川の夕方ごとに河蝦の鳴く瀬は、すがすがしくあるだろう。
【釋】今日可聞 ケフモカモ。モに當る字はないが讀み添える。モは強意。カモは疑問の係助詞で、遙かに五句のサヤケカルラムに懸かる。今日はか、何々だろうの意である。それと同時に、次句の明日の語を引き出す役を演じている。
 明日香河乃 アスカノカハノ。明日香河で、四句の河蝦鳴ク瀬に對して領格をなしている。
 夕不離 ユフサラズ。サラズは既出(卷三、三二五)。夕方毎にの意。これを夕べになるの意のユフサルと混同するのは誤りである。
 川津鳴瀬之 カハヅナクセノ。カハヅは河蝦。川に住む蛙類。
 清有良武 サヤケカルラム。川瀬の音のさやかであろうと推量している。
【評語】明日香川の河蝦鳴く瀬のさやけさを推量している。川瀬の音を愛した心が歌われているが、歌として(247)は初句と二句とのかかり方の技巧に興味があつたのであろう。この初二句は、興に乘じているが、かえつて歌そのものを不純ならしめている。この點、次の別傳の方がすなおでよい。
 
或本歌發句云、明日香川《アスカガハ》 今毛可毛等奈《イマモカモトナ》
 
或る本の歌の發句に云ふ、明日香川 今もかもとな。
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。別の資料によつて記していると見られるが、そのいかなるものであるかは知られない。またそれにも作者を同人としているか否かも不明である。
 發句云 ハジメノクニイフ。發句は、歌の初めの方の句をいう。ここでは初二句を言つている。卷の八に「官爾毛《ツカサニモ》 縱賜有《ユルシタマヘリ》 今夜耳《コヨヒノミ》 將v飲酒可毛《ノマムサケカモ》 散許須奈由米《チリコスナユメ》」(一六五七)の歌を載せ、その左註に「右(ハ)酒(ハ)者、官禁制(シテ)※[人偏+稱の旁](ハク)、京中(ノ)閭里、不(レ)v得2集宴(スルコトヲ)1、但親々一二飲樂(スルハ)聽許(ストイヘレバ)者、縁(リテ)v此(ニ)和(フル)人作(レリ)2此(ノ)發(ノ)句(ヲ)1焉」など使用されている。萬葉集において、句の意識の存在することを證するものである。
 明日香川今毛可毛等奈 アスカガハイマモカモトナ。初二句の別傳である。モトナは、既出(卷二、二三〇)。ここでは、ほんとにというくらいに、調子に乘つて插入するだけで、内容を強めるために使用される。
 
山部宿祢赤人歌六首
 
【釋】山部宿祢赤人歌六首 ヤマベノスクネアカヒトノウタムツ。六首とも※[羈の馬が奇]旅の作と見られるが、地名は四個あり、うち二つは大阪灣地方であるが、いずれも同時の旅の作であるかどうかをあきらかにしがたい。
 
357 繩の浦ゆ 背向《そがひ》に見ゆる
(248) 奧《おき》つ島
 榜《こ》ぎ廻《み》る舟は 釣《つり》をすらしも。
 
 繩浦從《ナハノウラユ》 背向尓所v見《ソガヒニミユル》
 奧島《オキツシマ》
 榜廻舟者《コギミルフネハ》 釣爲良下《ツリヲスラシモ》
 
【譯】繩の浦を通して横の方斜に見える奧つ島よ、その島を榜ぎ廻つて行く舟は、釣をしているようだ。
【釋】繩浦從 ナハノウラユ。繩ノ浦は既出(卷三、三五四)。兵庫縣の那波の浦という。ユは、それを通しての意。繩の浦の海上を通じての意である。
 背向尓所見 ソガヒニミユル。ソガヒは、背向の字が當てられ、また「吾背子乎《ワガセコヲ》 何處行目跡《イヅクユカメト》 辟竹之《サキタケノ》 背向爾宿之久《ソガヒニネシク》 今思悔裳《イマシクヤシモ》」(卷七、一四一二)の如き用例もあつて、背後の意と解せられる。しかしソガヒに見るという用法が多く、全然背後を見るわけには行かないので、ふり返つて見るぐらいの方向に、この語を使用しているようである。繩の浦から後方に見えるの意で、正面でないことを示すものと解される。同じ作者の歌に「左日鹿野由《サヒガノユ》 背匕爾所v見《ソガヒニミユル》 奧島《オキツシマ》 清波瀲爾《キヨキナギサニ》」(卷六、九一七)の用例がある。
 奧島 オキツシマ。沖の方の島。固有名詞ではない。その島を提示し呼び懸けている。
 榜廻舟者 コギミルフネハ。コギタムフネハ(西)。コギミルは、有坂秀世博士(國語音韻史の研究)による。「宇知徴流《ウチミル》 斯麻能佐岐邪岐《シマノサキザキ》 加岐微流《カキミル》 伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチズ》」(古事記六)の微が、乙類のミであるから、甲類のミであるべき見の義とすることができないので、別語として廻るの義とするのである。榜ぎ廻る意。「安禮乃埼《アレノサキ》 榜多味行之《コギタミユキシ》 棚無小舟《タナナシヲブネ》」(卷一、五八)、「礒前《イソノサキ》 榜手廻行者《コギタミユケバ》」(卷三、二七三)などの例によつて、コギタムと讀むことも考えられるが、廻る意のタムは、「許伎多武流《コギタムル》 浦乃盡《ウラノコトゴト》」(卷六、九四二)の如く、連體形はタムルであるから、ここもコギタムルと讀まねはならなくなり、それでは調子がわるくなる。
 釣爲良下 ツリヲスラシモ。玉の小琴にツリセスラシモ、古義にツリシスラシモと讀んでいるが、舊訓のま(249)まに讀むのが順當であろう。推量の助動詞ラシに、感動の助詞モが接續している。
【評語】繩の浦の海上の風光がよく描かれている。初めに繩の浦から見える奧つ島を呼び起し、また殊に、榜ギ廻ル舟ハ釣ヲスラシモの動的描寫によつて、全景が活きている。よく纏まつている作品である。
 
358 武庫《むこ》の浦を 榜《こ》ぎ廻《み》る小舟《をぶね》。
 粟島を 背向《そがひ》に見つつ
 ともしき小舟。
 
 武庫涌乎《ムコノウラヲ》 榜轉小舟《コギミルヲブネ》
 粟島矣《アハシマヲ》 背尓見乍《ソガヒニミツツ》
 乏小舟《トモシキヲブネ》
 
【譯】武庫の浦を榜ぎ廻る小舟よ、粟島を後方に見つつ、うらやましい小舟よ。
【釋】武庫浦乎 ムコノウラヲ。武庫の浦は、攝津の武庫川の河口の海上である。
 榜轉小舟 コギミルヲブネ。轉は、歎囘の意で使つている。コギミルは、前の歌に出ている。句切。
 粟島矣 アハシマヲ。粟島は、今日のいずれの島であるかあきらかでないとされていた。古事記下卷に、仁徳天皇の難波を出ての御製に「阿波志麻《アハシマ》 淤能碁呂志摩《オノゴロシマ》 阿遲麻佐能《アヂマサノ》 志痲母美由《シマモミユ》」(五四)とあり、大阪灣から見える位置にあることはあきらかである。本集では丹比の笠麻呂の筑紫の國に下つた時の作歌に、「天さがる夷《ひな》の國邊に、直向《ただむ》かふ淡路を過ぎ、粟島を背向《そがひ》に見つつ、朝なぎに水手《かこ》の聲よび、夕なぎに梶の音しつつ、浪の上をい行きさぐくみ、磐《いは》の間をい行きもとほり、稻日都麻《いなびづま》浦みを過ぎて、鳥じものなづさひ行けば、家の島荒礒の上に、うち靡きしじに生ひたる、なのり藻《そ》がなどかも妹に、告《の》らず來にけむ」(卷四、五〇九)とあり、淡路島、粟島、稻日都麻、家の島の順になつている。この稻日都麻は、問題があるが、だいたい加古川の河口とされ、家の島は、今の家島であるとすれば、粟島は、その間に求められねばならない。また「粟島に榜ぎ渡らむと思へども明石の門浪《となみ》いまだ騷けり」(卷七、一二〇七)の歌によれは、明石海峽を渡つて行くべき處にな(250)つている。しかしこれを今日の地理に照らすに、その島に當るべき地を見ない。難波で詠まれた歌に「眉《まよ》の如雲居に見ゆる阿波の山懸けて榜ぐ舟|泊《とまり》知らずも」(卷六、九九八)の歌における阿波の山は、四國のうちの阿波のことと考えられるが、それと今の歌とを併わせ見るに、共通する所があり、粟島の名も、四國の阿波の方面をいうと思われる。武庫の浦は、大阪灣に面した處であり、その浦を榜ぎ廻る小舟の背景としての粟島は、大阪灣頭に求むべく、しかもまた一方には、淡路島を過ぎてから粟島が歌われている。阿波の國は、古事記に大宜都比賣《おおげつひめ》の名によつて呼ばれ、古く粟の耕作地として傳えられていた。それを島というのは、水上から見た大和の山々を大和島といい、九州北部を筑紫の島というが如きもので、水上から見た四國を粟島といつたと考えられる。九州について筑紫の島というように、四國には他に伊豫の二名の島の名があるが、東部については、粟島の名が、實にそれに該當するものと考えられるのである。かように解釋すれば、この歌における粟島の位置も明瞭になり、歌の内容も活きて來るのである。
 乏小舟 トモシキヲブネ。トモシは、うらやましい意。わが舟とは反對に、都の方をさして上るのがうらやましいのである。
【評語】佳景にうかぶ小舟をうらやんでいる。二句と五句とに小舟を配して、對句としているのは、その小舟に集中する心をよくあらわしている。粟島を背景として、武庫の浦を轉囘している小舟が、いきいきとして描かれている。作者は、四國に向かつて航行しているのであろう。そこで四國を背後に見る小舟がうらやましいのである。
 
359 阿倍の島
 鵜の住む石《いは》に 寄する浪、
(251) 間《ま》なくこのごろ 大和し念《おも》ほゆ。
 
 阿倍乃島《アベノシマ》
 宇乃住石尓《ウノスムイハニ》 依浪《ヨスルナミ》
 間無比來《マナクコノゴロ》 日本師所v念《ヤマトシオモホユ》
 
【譯】阿倍の島の鵜の住む岩に寄せる浪、そのようにひまもなくこのごろは大和が思われる。
【釋】阿倍乃島 アベノシマ。所在未詳。攝津の國とする説のあるのは、前の歌に引かれての説であるが、根據はない。
 宇乃住石尓 ウノスムイハニ。ウは鳥名、鵜で、水邊に住み、魚を捕食する。石は、從來イソと讀んでいるが、イハと讀むべきである。イソは、本集中多く礒の字を當てているので、特に石の字を當てているのは、岩石の義によるとすべきである。正倉院文書に、許知荒石《こちのありは》という人の名を安利芳と書いたものがあり、アリハ(荒石)の語があり、石をイハと讀んだことが知られる。その他、地名のイハレに石村の字を當てているなど、石の字を、イハと讀むのは自然である。鵜の住む岩は、荒い海濱を想像せしめる。大阪灣附近の地ではなさそうである。
 依浪 ヨスルナミ。依は、集中、ヨスルと讀む例も多い。以上三句、海岸の岩に寄る浪を呼びあげて、次の句を引き起す序としている。
 間無比來 マナクコノゴロ。寄する浪のひまなきが如く、ひまもなくである。比來は熟字で、比者とも書いている。
 日本師所念 ヤマトシオモホユ。ヤマトは、大和の國で、家郷の方である。シは強意の助詞。
【評語】この歌は、目に觸れる光景を敍して序としている。鵜の住む岩に寄する浪の句は、いかにも荒海の礒を描寫して、望郷の句の序とするに足りる。大和が思われるという歌は多いが、この歌などはその中でも上乘の作であろう。
 
(252)360 潮《しほ》干《ひ》なば 玉藻刈り藏《をさ》め。
 家の妹が 濱《はま》づと乞はば、
 何を示さむ。
 
 鹽于去者《シホヒナバ》 玉藻苅藏《タマモカリヲサメ》
 家妹之《イヘノイモガ》 濱裹乞者《ハマヅトコハバ》
 何矣示《ナニヲシメサム》
 
【譯】潮が干たならば、玉藻を刈りておさめよ。家にある妻が、濱の土産を乞うたならば何を示そうか。
【釋】鹽干去者 シホヒナバ。シホは、潮水。
 玉藻苅藏 タマモカリヲサメ。美しい藻を刈りて納めおけよの意。命令法で二句切である。玉藻は美しいから土産にしようの意であるが、當時食用にも供したもので、ここもその意味である。
 家妹之 イヘノイモガ。家にある愛人で、妻をいう。
 濱裹乞者 ハマヅトコハバ。ハマヅトは、濱からの裹で、海岸のみやげである。
 何矣示 ナニヲシメサム。何を濱裹として示そうの意。
【評語】海濱に旅して、何か妻のために求めたいと思う心を描いている。しかもほかに何物もなく、せめて玉藻を濱裹にしようと歌つている。その命令の相手は、下人であろうが、歌としては、自己に命じている氣もちである。「伊勢の海の沖つ白浪花にもが裹《つつ》みて妹が家裹《いへづと》にせむ」(卷三、三〇六)の歌と通ずる所が多い。
 
361 秋風の 寒き朝明《あさけ》を、
 佐農《さぬ》の岡 越ゆらむ公に
 衣《きぬ》貸《か》さましを。
 
 秋風乃《アキカゼノ》 寒朝開乎《サムキアサケヲ》
 佐農能岡《サヌノヲカ》 將v超公尓《コユラムキミニ》
 衣借益矣《キヌカサマシヲ》
 
【譯】秋風の寒い朝明けに、佐農の岡を越えているのであろう君に、衣を貸してやりましようものを。
(253)【釋】秋風乃寒朝開乎 アキカゼノサムキアサケヲ。秋風の寒く吹く朝あけをで、アサケは、假字書きには、安佐氣とあり、表意文字としては、朝明、旦開、旦明と書かれている。夜の明けて朝になりつつある頃をいう。時間をあらわす語につけていうヲは、その時間の全體にわたつていい、かつその時なるをの如き意を含んでいる。
 佐農能岡 サヌノヲカ。所在未詳。既出の「神之埼《ミワガサキ》 狹野乃渡爾《サノノワタリニ》」(卷三、二六五)とある狹野と同地であろうというが、不明。
 將超公尓 コユラムキミニ。將超は、コエナムとも讀まれる。第五句に衣貸サマシヲとあるのは衣を貸さなかつたことになるのであるから、現に越えているのを推量しているとするを可とするであろう。コエナムとすれば、これから越えようとする君の意になり、衣を貸すこともできるので、五句との關係が都合がわるい。ここに公とあるから赤人の妻の作であるとする説もあるが、男子どうし、朋友關係で公ということは普通であつて、これだけでは赤人の作であることを否定し得ない。
 衣借益矣 キヌカサマシヲ。衣を貸してやろうものをで、マシは、假説であるから、貸さなかつたことになる。ヲは感動の助詞。
【評語】往時は、夫婦間たがいに衣服を貸し合つた。しかしここはむしろ男子どうしの交遊と見る方がよい。作者自身も、旅にあつて秋の朝寒の身に迫るのを感じて、この歌をなしたのである。第四句を、越エナム公ニと讀んで、衣服を貸したいが、旅先で貸すべき衣服がなくて、殘念だの意にも解せられる。
 
362 みさごゐる 礒《いそ》みに生《お》ふる
 名乘藻《なのりそ》の、
(254)名は告《の》らしてよ。
 親は知るとも。
 
 美砂居《ミサゴヰル》 石轉尓生《イソミニオフル》
 名乘藻乃《ナノリソノ》
 名者告志弖余《ナハノラシテヨ》
 親者知友《オヤハシルトモ》
 
【譯】雎鳩のいる礒ほとりに生えている名乘藻の、そのように名はお名のりなさい。たとえ親は知るとても。
【釋】美沙居 ミサゴヰル。ミサゴは、猛禽類の一種、背は褐色で腹は白い。水邊にいて魚を捕らえて食う。荒礒の懸崖などに巣を作つているので、これで荒礒の敍述としている。
 石轉尓生 イソミニオフル。イソミは、礒で、ミは灣曲せる地形であることを示す接尾語。次の句に對する連體形の句。
 名乘藻乃 ナノリソノ。ナノリソは海藻の名。倭名類聚鈔に「本朝式(ニ)云(フ)、莫鳴菜|奈乃利曾《ナノリソ》、漢語抄(ニ)云(フ)、神馬藻、今按(ニ)本文未詳、但神馬莫(カレ)v騎(ル)義也」とあり、日本書紀允恭天皇紀に「時の人濱藻《はまも》を號けて奈能利曾毛《ナノリソモ》と謂ふ」とある。今のホンダワラであるという。以上三句、海岸の品物を敍して、次句の序詞としている。
 名者告志弖余 ナハノラシテヨ。ノラシは、告ルの敬語法。テヨは希望の助詞。語義をいえば、テは時の助動詞ツの命令形、ヨは助詞。句切で、相手に名を告れと希望している。
 親者知友 オヤハシルトモ。名を名告るために事情を相手の親が知るとしてもの意。
【評語】名告藻の名告ると績くのは、常用手段である。※[羈の馬が奇]旅の作とすれば、荒い海岸などで娘子を見て歌いかけたものであろうか。
 
或本歌曰
 
或る本の歌に曰はく
 
(25)363 みさごゐる 荒礒《ありそ》に生ふる 名乘藻《なのりそ》の、
 よし名は告《の》らせ。親は知るとも。
 親は知るとも。
 
 美沙居《ミサゴヰル》 荒磯尓生《アリソニオフル》 名乘藻乃《ナノリソノ》
 吉名者告世《ヨシナハノラセ》 父母者知友《オヤハシルトモ》
 父母者知友《オヤハシルトモ》
 
【譯】ミサゴのいる荒礒に生えている名乘藻の、そのようによし名はお名のりなさい。親は知るとても。
【釋】荒磯尓生 アリソニオフル。荒礒は、假字書きのものに、安里蘇、安利蘇、有礒、在衣等と書いているから、アリソと讀むべきである。荒涼たる礒である。
 吉名者告世 ヨシナハノラセ。吉は、諸本に告に作つており、これによつてナノリハツケヨ(西)、ナノリハノラセ(新訓)とも讀まれているが、ナノリを告名と書いたとすることには無理がある。これは吉の字を、初畫を増強して告の如く書いたものと考えられ、ヨシと讀むべきものと考えられる。ヨシは、放任の義で、他に對して許容する意である。よろしいなどの意に當る。
 
笠朝臣金村、鹽津山作歌二首
 
【釋】笠朝臣金村 カサノアソミカナムラ。既出(卷二、二三二左註)。この人の歌、題詞にその作歌とあるものと、註に笠朝臣金村歌集中出とあるものがあり、ここは題詞にあるものの初出である。その年代のあきらかなものは、靈龜元年九月から天平五年閏三月に至つている。
 鹽津山 シホツヤマ。鹽津は、滋賀縣伊香郡の地名で、琵琶湖の最北端にある。湖上を水路によつてこの地に來たり、それから山を越えて越前の敦賀に出る。作者が、この道を通つて詠んだ歌で、次の角鹿の津で乘船の時の作も、この時の詠と考えられる。
 
(256)364 丈夫《ますらを》の
 弓上《ゆずゑ》振《ふ》り起《おこ》し 射つる夫を、
 後《のち》見む人は、語り繼ぐがね。
 
 大夫之《マスラヲノ》
 弓上振起《ユズヱフリオコシ》 射都流失乎《イツルヤヲ》
 後將v見人者《ノチミムヒトハ》 語繼金《カタリツグガネ》
 
【譯】勇士が弓末を振り起して射た矢を、後に見る人は語り繼ぐことであろう。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは、既出(卷一、五)。
 弓上振起 ユズヱフリオコシ。弓上は、弓の上方であるが、義をもつてユズヱと讀む。振リ起シは、勢よく弓を立てることの形容。振起をフリタテと讀む説もある。古事記に「弓腹振立《ユハラフリタテ》」とあるによるのであるが、今は本集に「梓弓《アヅサユミ》 須惠布理於許之《スヱフリオコシ》」(卷十九、四一六四)とあるによる。
 射都流矢乎 イツルヤヲ。次句の見ムに對して處置格になつている。
 後將見人者 ノチミムヒトハ。ノチは、將來をいう。
 語繼金 カタリツグガネ。カタリツグは既出(卷三、三一七)。次々に語り傳える意。ガネは、將來しかあるべきを豫想し希望する意の助詞。「余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 伊比都具可禰等《イヒヅグガネト》」(卷五、八一三)、「大夫者《マスラヲハ》 名乎之立倍之《ナヲシタヅぺシ》 後代爾《ノチノヨニ》 聞繼人毛《キキツグヒトモ》 可多里都具我禰《カタリヅグガネ》」(卷十九、四一六五)などの例によつて、その意を知るべきである。后《キサキ》ガネ、聟《ムコ》ガネ、ミ襲衣《オスヒ》ガネ等のガネも、もと同語であろうが、體言に附くものは、候補者、材料等の意になつている。
【評語】前代の英雄または巨人などの矢を放つた跡の殘つているのを見て詠んだ歌である。作者の一行が、矢を射たのかもしれない。古義に「古、たけき男は、道路の大木などに矢を射入れて、弓勢を末代の者に示しけるなるべし。中昔に崇徳天皇白川殿を落させ賜ふときに、八郎爲朝上矢の鏑《かぶら》筋をとりて、末代の者に弓勢の(257)ほどを示さむとて、寶莊職院の門の柱に射留め置きし事あり。此類なり。又建久四年、曾我兄弟、親の敵を討たむ爲に富士の狩倉へ行くとて、箱根路の湯本の矢立の杉に矢を射立て置きし事もあり。近く寶暦九年の比、日向國の杣にて伐り出せる杉の大木を船につみ運びて、備前國岡山府にて、船材に割きけるに鏃《やじり》三枚木中より出でけりと備前の國人土肥經平が春湊浪話に記せり。これも昔健士の射入れたるなるべし」。講義に曾我物語の記事を掲げ、なお諸國に矢立《やたて》の杉などあることをいい、「これは、ある特定の由來あるに止まらず、古くは旅行するものが、その旅中の安全を請ひ、又は卜するが爲に、山路などにかかる際、ある著しき杉などの樹に矢を射立つることのありしならむ」といつている。
 
365 鹽津山 うち越え行けば、
 わが乘れる 馬ぞつまづく。
 家戀ふらしも。
 
 鹽津山《シホツヤマ》 打越去者《ウチコエユケバ》
 我乘有《ワガノレル》 馬曾爪突《ウマゾツマヅク》
 家戀良霜《イヘコフラシモ》
 
【譯】鹽津山を越えて行けば、わが乘れる駒が躓く。彼も家を戀うているものと思わレる。
【釋】打越去者 ウチコエユケバ。ウツ、カク、トル、ヒク、アフ等、他の動詞の上について熟語をなすものは、上の動詞の意味は薄められて、下の動詞の意味を強めるだけの作用をするに過ぎない。ウチ消ス、ウチ見ル、カキ結ブ、カキ連ヌ、トリ置ク、トリマカナフ等の例である。
 馬曾爪突 ウマゾツマヅク。ツマヅクは、足を路面にひつ懸けることである。歩行に蹉躓《さち》するのは、物を思うしるしである。ここで句切である。
 家戀良霜 イヘコフラシモ。霜は、シモの音に借りている。ラシは、推量の助動詞。モは、感動の助詞。馬も家を慕つていると見えると、馬の爪突いた事實にもとづいて、その心中を推量している。馬の心を推して、(258)實は作者自身の家に對する戀を歌つたものであると解せられる。文章からいえば上記の如く解するのが順當であるが、家人が戀うれば、馬がつまずくという諺があつたのであろうとする説もあり、これも一理のあることで、「衣手乃《コロモデノ》 名木之川邊乎《ナギノカハベヲ》 春雨《ハルサメニ》 吾立沾等《ワレタチヌルト》 家念良武可《イヘオモフラムカ》」(卷九、一六九六)の如き歌があり、この歌の第五句は、家では思つているだろうかの意であることはあきらかである。これと參考欄に擧げた、卷の七の一一九一、卷の十一の二四二一の歌とを併わせ考えれば、家戀フラシモの句は、家では戀うているだろうの意とも解せられるのである。今は文章の上からする前の解によつた。
【評語】作者は多分北に向かつて馬を進めているのであろう。その馬に託して旅愁が歌われている。その心を乘せて、馬も山路に悩んでいるのであろう。これもよい歌である。
【參考】類想。
  妹が門《かど》出入《いでいり》の河の瀬を速み吾が馬|爪《つま》づく。家思ふらしも(卷七、一一九一)
  白栲ににほふ眞土《まつち》の山川にわが馬なづむ。家戀ふらしも(同、一一九二)
  木幡路《こはたぢ》は石《いは》踏む山のなくもがも。わが待つ君が馬爪づくを(卷十一、二四二一)
 
角鹿津乘v船時、笠朝臣金村作歌一首 并2短歌1
 
角鹿の津にして船に乘りし時に、笠の朝臣金村の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
《釋》角鹿津乘船時 ツノガノツニシテフネニノリシトキニ。角鹿の津は、今の敦賀港である。日本書紀垂仁天皇紀に、「一書に云ふ、御間城《みまき》の天皇の世に、額《ぬか》に角《つの》有《お》ひたる人、一の船に乘りて越《こし》の國の笥飯《けひ》の浦に泊《は》つ。故《かれ》其處を號《なづ》けて角鹿といふ」とある。その津から乘船して北陸のいずれかの國に赴いたのであろう。角鹿は、古事記には都奴賀とあり、ツヌガであつたが、本集では、角を都努とも書いている。「多久都怒能《タクツノノ》」(卷二十、(259)四四〇八)、「都努乃松原《ツノノマヅバラ》」(卷十七、三八九九)の都怒、都努の語に相當するものを角とも書いている。
 
366 越《こし》の海の 角鹿《つのが》の濱ゆ、
 大船に 眞楫《まかぢ》貫《ぬ》き下《おろ》し、
 いさなとり 海路《うみぢ》に出でて、
 喘《あへ》きつつ わが榜《こ》ぎ行けば、
 丈夫《ますらを》の 手結《たゆひ》が浦に
 海未通女《あまをとめ》 鹽燒くけぶり、
 草枕 旅にしあれば、
 ひとりして 見る驗《しるし》無み、
 海神《わたつみ》の 手に卷かしたる、
 玉襷《たまだすき》 懸けて思《しの》ひつ。
 大和島根を。
 
 越海之《コシノウミノ》 角鹿乃濱從《ツノガノハマユ》
 大舟尓《オホブネニ》 眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》
 勇魚取《イサナトリ》 海路尓出而《ウミヂニイデテ》
 阿倍寸管《アヘキツツ》 我榜行者《ワガコギユケバ》
 大夫乃《マスラヲノ》 手結我浦尓《タユヒガウラニ》
 海未通女《アマヲトメ》 鹽燒炎《シホヤクケブリ》
 草枕《クサマクラ》 客之有者《タビニシアレバ》
 獨爲而《ヒトリシテ》 見知師無美《ミルシルシナミ》
 綿津海乃《ワタツミノ》 手二卷四而有《テニマカシタル》
 珠手次《タマダスキ》 懸而之努櫃《カケテシノヒツ》
 日本島根乎《ヤマトシマネヲ》
 
【譯】越の海の角鹿の濱から、大船に櫓櫂を十分に取りつけて、鯨を捕る海路に出て、息を切らして漕いで行くと、手結が浦に海人の娘子の鹽を燒く煙が立つているが、旅のことであるから、ひとりで見て效《かい》がなく、海神の御手に纏いている珠をつけた襷《たすき》を懸けることのように、心に懸けて思慕したことである。かの大和の國土を。
【構成】全篇一段。
(260)【釋】越海之 コシノウミノ。越は、北陸の總稱。古事記に高志の國、日本書紀に越の洲とある。越の海は、日本海をいう。
 角鹿乃濱從 ツノガノハマユ。ユはそこを通つての意に使つている。
 眞梶貫下 マカヂヌキオロシ。マは接頭語。完全性をあらわす。カヂは船漕ぐ道具、艪櫂の類。マカヂは、船の兩舷の櫓擢。ヌキオロシは、船に取りつける意。
 勇魚取 イサナトリ。海に冠する枕詞。勇の字はイサの音に借りているが、クジラについて勇ましい魚の意を感じこの字を使つたのだろう。
 海路尓出而 ウミヂニイデテ。ウミヂは海上の航路。
 阿倍寸管 アハキツツ。ア八キは、呼吸をいそがしくする。息を切らすの意。次の句の、榜ぎ行く状態を説明しているが、船人の骨を折つて漕ぐ状である。喘キツツワガ榜ギ行ケバとあつても、作者自身があえぐのではない。
 大夫乃 マスラヲノ。枕詞として使用されている。大夫が手結をするということから、地名の手結を修飾している。
 手結我浦尓 タユヒガウラニ。手結ガ浦は、福井縣敦賀郡東浦村|田結《たゆう》の水面。延喜式神名に越前國敦賀郡に田結神社がある。敦賀の北方近い處である。タユヒは、足結に準じて考えれば、男子が活動を便利にするために、衣類の袖を結ぶことと思われ、それでマスラヲノの枕詞を附するのであろう。
 海未通女 アマヲトメ。未通女は、若い女の意に使用している。
 鹽燒炎 シホヤクケブリ。既出(卷三、三五四)。炎は煙炎の義によつて、ケブリと讀む。
 草枕客之有者 クサマクラタビニシアレバ。既出(卷一、五)。海路ではあるが、草枕の枕詞を使用している。
(261) 獨爲而 ヒトリシテ。妻と共にでないのをヒトリといつている。船中、他に人なき次第ではない。
 見知師無美 ミルシルシナミ。シルシは、效果。見る驗がないので。「驗無《シルシナキ》」(卷三、三三八)參照。
 綿津海乃 ワタツミノ。ワタツミは海神。既出(卷一、一五)。轉じて海洋の義にいうが、ここは海神である。但し海そのものの神靈を感じていう。
 手二卷四而有 テニマカシタル。マカシは、纏クの敬語法。海神が、手に珠を纏いて持つているとするのである。海底に眞珠などのよい珠があるのを、海神の手纏の珠とするのである。「海神《ワタツミノ》 手纏持在《テニマキモテル》 玉故《タマユヱニ》 石浦廻《イソノウラミニ》 潜爲鴨《カヅキスルカモ》」(卷七、一三一〇一)、「和多都美能《ワタツミノ》 多麻伎能多麻乎《タマキノタマヲ》 伊敝都刀爾《イヘヅトニ》 伊毛爾也良牟等《イモニヤラムト》」(卷十五、三六二七)など見えている。以上二句、字句の珠手次の珠の序詞であるが、海路のことゆえ、特にこの序を作つている。
 珠手次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。美しい手次で、次句の懸ケテに冠する。
 縣而之努櫃 カケテシノヒツ。既出(卷一、六)。懸ケテは、心に懸けて。シノヒツは思慕したの意。
 日本島根乎 ヤマトシマネヲ。ヤマトシマネは、内海方面から大和の國を見ていうのが普通であるが、ここでは海上から大和の國の方を望見して、思想的にいつている。原義から離れた用法である。その地が見える次第ではない。この句は、上の懸ケテシノヒツの處置絡となつている。
【評語】秩序よく整備され、一往思うところをつくしているが、それだけで、生氣に乏しい。それは説明にもつぱらであつて、感激の描寫がないからである。先人によつて既に開かれた道を無意味に踏襲するばかりだからである。
 
反歌
 
(262)367 越《こし》の海の 手結《たゆひ》が浦を、
 旅にして 見ればともしみ、
 大和|思《しの》ひつ。
 
 越海乃《コシノウミノ》 手結之浦矣《タユヒガウラヲ》
 客爲而《タビニシテ》 見者乏見《ミレバトモシミ》
 日本思櫃《ヤマトシノヒツ》
 
【譯】越の海の手結が浦を、旅にあつて見ればよい處なので、大和を思つたことだ。
【釋】見者乏見 ミレバトモシミ。このトモシは、賞美すべくある意。
【評語】勝景を見て、家に在る人と共に見たいと思うと歌つているが、四五句の關係は、いい足らないものがある。長歌の内容を要約しただけの反歌である。
 
石上大夫歌一首
 
【釋】石上大夫 イソノカミノマヘツギミ。誰であるか不明であるが、左註によれは、石上の乙麻呂であろうという。この歌は、笠の朝臣金村の歌集から出た歌なので、原本に、かように書いてあつたのであろう。乙麻呂は、石上の麻呂の子、續日本紀によるに、神龜元年二月、正六位の下から從五位の下に進み、天平四年正月、從四位の下左大辨、天平十一年三月、久米の若賣《わかめ》に通じたことによつて土佐の國に流され、天平十三年ごろ大赦によつて歸京したものとおぼしく、同十五年五月、從四位の上、十六年西海道の巡察使、十八年四月、常陸の守正四位の下、九月、右大辨、二十年二月、從三位、天平勝寶元年七月、中納言に任ぜられ、二年九月に薨じた。懷風藻に詩があり、土佐の國に配流せられていた時の詩を集めた※[行の中に含]悲藻《かんひそう》二卷があつたと傳えている。左註にいう越前の守に任ぜられたことは他書に傳えないが、越前の國でこの歌を詠み、笠の金村と唱和したものと考えられる。大夫は既出。五位六位ほどの人に對する敬稱。
 
(263)368 大船に 眞楫《まかぢ》繋貫《しじぬ》き、
 大王《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ、
 礒廻《いそみ》するかも。
 
 大船二《オホブネニ》 眞梶繋貫《マカヂシジヌキ》
 大王之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》
 礒廻爲鴨《イソミスルカモ》
 
【譯】大船に、櫓櫂を十分に取り附けて、大君の仰せのかしこさに礒めぐりをすることだ。
【釋】眞梶繁貫 マカヂシジヌキ。「於保夫禰爾《オホブネニ》 麻可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》」(卷十五、三六一一)、「於保夫禰爾《オホブネニ》 眞可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》」(同、三六二七)、「志富夫禰爾《シホブネニ》 麻可知之自奴伎《マカヂシジヌキ》」(卷二十、四三六八)の例により、マカヂシジヌキと讀む。マカヂは、前の歌にあるに同じ。シジヌキは、密に船に取りつけて。ヌクは、船にカヂをとりつけるさまが、舟の内外に貫徹するのでいう。
 大王之御命恐 オホキミノミコトカシコミ。既出(卷一、七九)。勅命の畏さにの意。
 礒廻爲鴨 イソミスルカモ。イソメグルカモ(類)、アサリスルカモ(西)、イソミスルカモ(童)、イサリスルカモ(考)。礒廻は、集中普通に地形をいう語に使用されているが、ここは、舟行の義に使用されていると解せられる。この意味における用法には、「鹽干者《シホフレバ》 共滷爾出《トモニカタニイデ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》 音遠放《コヱトホザカル》 礒廻爲等霜《イソミスラシモ》」(卷七、一一六四)がある。そのほか、類似の字面には、島廻、灣廻があり、「玉藻苅《タマモカル》 辛荷乃島爾《カラニノシマニ》 島廻爲流《シマミスル》 水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》 家不v念有六《》イヘオモハザラム」(卷六、九四三)、「島廻爲等《シマミスト》 礒爾見之花《イソニミシハナ》 風吹而《カゼフキテ》 波者雖v縁《ナミハヨルトモ》 不v取不v止《トラズハヤマジ》」(卷七、一一一七)、「灣廻爲流《ウラミスル》 人等波不》v知爾《ヒトトハシラニ》」(卷十九、四二〇二)の用例がある。これらの語は、いずれも動詞|爲《す》が接績しており、ある行動であることがあきらかである。迂廻することをタムといい、そのタは接頭語と見られるから、ミに迂廻の義があるものと見られる。地形をいう場合のミもこれと同語と考えられる。上に擧げた卷の七の歌と類似の句を、また「朝入爲等《アサリスト》 礒爾吾見之《イソニワガミシ》 莫告藻乎《ナノリソヲ》 誰島之《イヅレノシマノ》 白水郎可將v苅《アマカカルラム》」(卷七、一一六七)とも書(264)いており、ここにはかの島廻に相當する語を朝入と書いている。その朝入は、アサリと讀むべく、なお、「阿佐里須流《アサリスル》 阿末能古等母等《アマノコドモト》 比得波伊倍騰《ヒトハイヘド》」(卷五、八五三)、「朝入爲流《アサリスル》 海未通女等之《アマヲトメラガ》 袖通《ソデトホリ》 沾西衣《ヌレニシコロモ》 雖v干跡不v乾《ホセドカワカズ》」(卷七、一一八六)、「黒牛乃海《クロウシノウミ》 紅丹穗經《クレナヰニホフ》 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人四《オホミヤビトシ》 朝入爲良霜《アサリスラシモ》」(同、一二一八)など使用されている。この歌の礒廻も、これらの灣廻、島廻と共に、アサリと讀むべきであるともされている。この歌では、國司として舟行することを、イソミスルといつている。
【評語】大船を艤装して北海を航行することが歌われている。第四句までは堂々たる格調であつて、五句に至つて島廻の語を使つて具體的に敍しているのもよい。「大船に眞梶しじぬき」「大君の命かしこみ」など、慣用句を多く使用しているのは、類型的なのを免れない。
 
右今案、石上朝臣乙麻呂、任2越前國守1。蓋此大夫歟。
 
右は、今案ふるに、石上の朝臣乙麻呂、越前の國の守に任《ま》けらえき。けだしこの大夫か。
 
【釋】右今案 ミギハイマカムガフルニ。題詞の石上の大夫とあるに對する萬葉集の編者の私案である。
 越前國守 コシノミチノクチノクニノカミ。乙麻呂が越前の守に任命されたことは、他に傳わらない。
 
和歌一首
 
【釋】和歌 コタフルウタ。前の石上の大夫の歌に唱和した歌。左註に笠の朝臣金村の歌の中に出づとあるによれバ、金村の作であろう。
 
369 もののふの 臣《おみ》の壯士《をとこ》は、
(265) 大王《おほきみ》の 任《ま》けのまにまに
 聞くといふものぞ。
 
 物部乃《モノノフノ》臣之壯士者《オミノヲトコハ》
 大王之《オホキミノ》 任乃隨意《マケノマニマニ》
 聞跡云物曾《キクトイフモノゾ》
 
【譯】官仕の臣下の壯士は、大君の仰せのままに從うということです。
【釋】物部乃 モノノフノ。モノノフは、既出(卷一、五〇)。文武の官僚の意。
 臣之壯士者 オミノヲトコハ。臣下である壯士は。
 任乃隨意 マケノマニマニ。ヨサシノママニ(西)、マケノマニマニ(代初書入)。マケは、ある事をゆだね任すをいう。任命のままに。「大王能《オホキミノ》、麻氣乃麻爾末爾《マケノマニマニ》」(卷十七、三九五七)等、用例が多い。マケは、他に對して寄託する義である。下二段活の動詞|任《マ》クの連用形。
 聞跡云物曾 キクトイフモノゾ。キクは聽從の義に使用している。初句から聞クまでを、トで受けている。世間で、かようにいつていることだの意。
【評語】前の歌が、石上の大夫の北國に國守たることをみずから隣れむ意であるとすれば、この歌は、それを慰めたことになる。また前の歌がこの作者に同情しているとすれば、これは自慰の情を述べたと見られる。臣道の倫理を説いたような歌で、抽象的であるだけに風趣に乏しい。
 
右作者未v審。但笠朝臣金村之歌中出也。
 
右は作者いまだ審ならず。但し笠の朝臣金村の歌の中に出づ。
 
【釋】笠朝臣金村之歌中出也 カサノアソミカナムラノウタノナカニイヅ。これによつて笠の金村の名における歌の集録のあつたことが知られる。笠の朝臣金村の歌中とあるは、卷の六、九にもあり、笠の朝臣金村の歌(266)集とあるは、卷の二にある。特に指定のないのは、金村の作歌と見られるものであり、題詞に笠朝臣金村作歌とあるものも、その集録から採取したものと考えられる。それは、題詞に金村作歌とあるものと、歌中また歌集に出づとあるものとの、書式用字法の研究により、推考されるところである。
 
安倍廣庭卿歌一首
 
【釋】安倍廣庭卿 アベノヒロニハノマヘツギミ。既出(卷三、三〇二)。
 
370 雨|零《ふ》らず との曇《ぐも》る夜の うるほへど、
 戀ひつつをりき。
 君待ちがてり。
 
 雨不v零《アメフラズ》 殿雲流夜之《トノグモルヨノ》 潤濕跡《ウルホヘド》
 戀乍居寸《コヒツツヲリキ》
 君待香光《キミマチガテリ》
 
【譯】雨が降らないですつかり曇つている夜で、じめじめしていましたけれども、戀しておりました。あなたを待つ一方には。
【釋】雨不零 アメフラズ。言葉の通り雨が降らないで。次の句を修飾している。
 殿雲流夜之 トノグモルヨノ。トノゲモルは、タナグモルともいう。すつかりかき曇る意。「等乃具母利《トノグモリ》 安米能布流日乎《アメノフルヒヲ》」(卷十七、四〇一一)、「許能見油流《コノミユル》 安麻能之良久母《アマノシラクモ》 和多都美能《ワタツミノ》 於枳都美夜敝爾《オキツミヤベニ》 多知和多里《タチワタリ》 等能具毛利安比弖《トノグモリアヒテ》 安米母多麻波禰《アメモタマハネ》」(卷十八、四二一二)、「許能美由流《コノミユル》 久毛保妣許里弖《クモホビコリテ》 等能具毛理《トノグモリ》 安米毛布良奴可《アメモフラヌカ》 己許呂太良比爾《ココロダラヒニ》」(同、四一二三)など見えている。この句は、次の句の理由として曇つた夜であつての意と解せられる。
 潤濕跡 ウルホヘド。疑問の句であつて、諸訓がある。誤字説は別として、このままでは、舊訓にヌレヒテト、(267)代匠記にヌレヒツト、童蒙抄にシメジメトかとある。潤は、「未通女等《ヲトメラガ》 赤裳下《アカモノスソノ》 閏將v往見《ヌレユカムミム》」(卷七、一二七四)の歌に閏をヌレと讀んでおり、潤閏は同字であるからこれもヌレと讀むべきである。濕は、「浪爾所v濕《ナミニヌレ》」(卷一、二四)の如く、これもヌレと讀んでいる。濕をヒヅと讀む説が多いが、ヒヅは水に浸る意の語であるから、濕には適わない。さて潤濕は、同意の字を重ねて意をあらわすもので、本卷にも集聚(四七八)などの例がある。また跡を助詞ドに當てることは集中例多く、助動詞を讀み添えることも「石根蹈《イハネフミ》 夜道不v行《ヨミチユカジト》 念跡《オモヘレド》 妹依者《イモニヨリテハ》 忍金津毛《シノヒカネツモ》」(卷十一、二五九〇)の如き、念跡をオモヘレドと讀んでいる如きがある。類聚名義抄には、潤、濕ともにウルフと訓しているので、今ウルホヘドと讀む。くもつた夜の濕氣の多いことをいうのだろう。
 戀乍居寸 コヒツツヲリキ。この戀は、五句の待つ君に對する戀で、男子どうしの戀であろう。句切。
 君待香光 キミマチガテリ。ガテリは既出(卷一、八一)。かたわらの意の語で、君を待ちながらと解すべきである。上四句に對する副詞句である。
【評語】第三句が疑問の句であつて、歌意明解を缺く。こんなしめつぽい夜であつても、君がおいでになるだろうかと待つていたというのだろう。その來た人に與えた歌のようである。
 
出雲守門部王、思v京歌一首 後賜2大原眞人氏1也
 
出雲の守門部の王の、京を思《しの》ふ歌一首【後、大原の眞人の氏を賜へり。】
 
【釋】出雲守門部王 イヅモノカミカドベノオホキミ。既出(卷三、三一〇)。この人、出雲の守に任ぜられたことは、他書に見えない。
 思京歌 ミヤコヲシノフウタ。京は、歌詞に佐保川の思われることをいつているによつても、平城の京であることが確かめられる。出雲の任地にあつて詠んだ歌である。
 
(268)371 飫宇《おう》の海の 河原の千鳥、
 汝《な》が鳴けば、
 わが佐保河の 念《おも》ほゆらくに。
 
 飫海乃《オウノウミノ》 河原之乳鳥《カハラノチドリ》
 汝鳴者《ナガナケバ》
 吾佐保河乃《ワガサホガハノ》 所v念國《オモホユラクニ》
 
【譯】飫宇の海の河原の千鳥よ、お前が鳴けば、わたしの故郷の佐保川が思われることである。
【釋】飫海乃 オウノウミノ。飫は、オの音に當る字で、ウに當る字がないが、出雲の國の意宇《おう》郡の海であろう。同じ作者の作に「飫宇能海之《オウノウミノ》 鹽干乃鹵之《シホヒノカタノ》」(卷四、五三六)と書いたものがあり、ここには、ウに當る字を省略したものと解せられる。當時の國府は意宇郡にあり、その郡は今の八束《やつか》郡と能義《のぎ》郡とに當り、國府は今の中の湖に面した地とされているから、飫宇の海というのは、今の中の湖と解せられる。萬葉集攷證には、飫を食の過多なる義に取つてオホと讀み、出雲の椽《じよう》安宿《あすかべ》の奈杼麻呂《などまろ》の歌「大君の命かしこみ於保乃宇良《おほのうら》を背向《そがひ》に見つつ都へのぼる」(卷二十、四四七二)の於保の浦と同地としているが、なお意宇の海とすべきである。
 河原之乳鳥 カハラノチドリ。飫宇の海の河原というのは、海に注ぐ河口の河原である。チドリは千鳥。水邊に群棲する鳥。その鳥に呼びかけている。
 汝鳴者 ナガナケバ。千鳥に對して汝と呼んでいる。上の二六六の歌にも出ている句。
 吾佐保河乃 ワガサホガハノ。佐保川は、平城の京を流れる川の名。それに親しみを感じてワガと冠している。佐保川に千鳥を詠み合わせた歌は多い。
 所念國 オモホユラクニ。念われることだの意。クはコトの意。ニは助詞。
【評語】旅に出て孤獨の感に堪えかねて河原の千鳥に呼びかけている。既出の「淡海乃海《アフミノウミ》 夕浪千鳥《ユフナミチドリ》」(卷三、二六六)の歌と、同巧の作というべきである。この歌も初二句を名詞で連ねて、呼びかける氣分を濃厚にして(269)いる。望郷の作は多いが、中にも孤獨感がよくあらわれ、故郷のなつかしさも見えるすぐれた作である。
 
山部宿祢赤人、登2春日野1作歌一首 并2短歌1
 
山部の宿禰赤人の、春日野に登りて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】登春日野 カスガノニノボリテ。春日野は、平城京東方の原野をいう。この歌によれは、主として三笠山が詠まれており、ここに登とあるは、その山に登つたことと考えられる。さすれば、その山をも含めて春日野といつたのであろう。
 
372 春日《はるひ》を 春日《かすが》の山の
 高座《たかくら》の  三笠の山に、
 朝さらず 雲居たな引き、
 容鳥《かほどり》の 間《ま》なく數《しば》鳴く。」
 雲居なす 心いさよひ、
 その鳥の 片戀のみに、
 畫はも 日のことごと、
 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと、
 立ちて居て 念ひぞわがする。
 逢はぬ兒ゆゑに。」
 
 春日乎《ハルヒヲ》 春日山乃《カスガノヤマノ》
 高座之《タカクラノ》 御笠乃山尓《ミカサノヤマニ》
 朝不v離《アササラズ》 雲居多奈引《クモヰタナヒキ》
 容鳥能《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》
 雲居奈須《クモヰナス》 心射左欲比《ココロイサヨヒ》
 其鳥乃《ソノトリノ》 片戀耳二《カタコヒノミニ》
 畫者毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》
 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》
 立而居而《タチテヰテ》 念會吾爲流《オモヒゾワガスル》
 不v相兒故荷《アハヌコユヱニ》
 
(270)【譯】春の日の霞んでいる春日山中の高い位置にある三笠の山に、朝毎に雲が懸かつて棚引き、容鳥は間斷なくしきりに鳴いている。その雲のように心が落ちつかず、その鳥のように片戀ばかりに、晝間は一日中、夜は一夜中、立つたり居たりして物思いをわたしはする。逢わないあの子ゆえに。
【構成】第一段、容鳥ノ間ナク數鳴クまで。三笠の山の光景を敍し、第二段の詞句を引き出す。以下第二段、第一段の敍述を使つて詞句を起し、日夜物思いをすることを述べている。
【釋】春日乎 ハルヒヲ。枕詞。春の日が霞むというので、春日《かすが》に懸かる。日本書紀には「播屡比能《ハルヒノ》 箇須我嗚須擬《カスガヲスギ》」(九四)、「播屡比能《ハルヒノ》 ※[加/可]須我能倶※[人偏+爾]※[人偏+爾]《カスガノクニニ》」(九六)とある。ここにハルヒヲとあるヲは、感動の助詞で、春日を呼びかける意味に使用されている。「味酒呼《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)とも「味酒之《ウマサケノ》 三毛侶乃山爾《ミモロノヤマニ》」(卷十一、二五一二)ともいう類である。この句は枕詞ではあるが、時あたかも春であつて、この枕詞を置いたと見るべきである。春でもないのにかような枕詞を使用したとすれば、一首の統制を妨害する。作歌に習熟していると考えられるこの人は、さような愚を敢えてしないであろう。歌中の容鳥の語も、時の春であつたことを語つている。
 春日山乃 カスガノヤマノ。春日は、平城東方の總稱で、その東方の山彙を春日山という。日本書紀開化天皇紀に「春日、此《コヲバ》云(フ)2箇酒鵞《カスガト》1」とある。枕詞に「春日《はるひ》の」というよりして、春日の字を當てるに至つたもので、飛ブ鳥ノ明日香というよりして、アスカに飛鳥の文字を當てるに至つたと同樣である。
 高座之 タカクラノ。反歌には、高※[木+安]之と書いてある。このほかに使用例はない。國語のクラは、座席、鞍、倉庫、溪谷等の數義があるが、そのうちのいずれであろうか。從來タカクラをもつて高御座の義とし、高御座の御蓋の意に枕詞となつていると解していたのは、高座の文字によるものであろう。しかし高御座をタカクラという例なく、ここにそれを使用するのも突然の感がなきを得ない。言葉通り、春日山中において高い位置を(271)占める三笠の山の意に解して然るべきであろう。
 御笠乃山尓 ミカサノヤマニ。春日神社の東方の山をいう。今いう若草山のことではない。ミは接頭語、美稱。三の意ではない。
 朝不離 アササラズ。朝ごとに。「川余藤不v去《カハヨドサラズ》」(卷三、三二五)參照。
 雲居多奈引 クモヰタナヒキ。ヰは、接尾語としても使用されるが、ここは動詞として使用され、雲が動かずに懸かつているをいう。
 容鳥能 カホドリノ。容鳥は、問題の鳥で、今日の何鳥に當るかあきらかでない。賀茂の眞淵は、かつほう鳥という鳥で、その聲がカホウカホウと聞えるからいうとしている。これは、今日カツコウという鳥のことであるが、これは推論である。この鳥名、集中になお、「炎乃《カギロヒノ》 春爾之成者《ハルニシナレバ》 春日山《カスガヤマ》 御笠之野邊爾《ミカサノノベニ》 櫻花《サクラバナ》 木晩
※[穴/牛]《コノクレガクリ》 貌鳥者《カホドリハ》 間無數鳴《マナクシバナク》」(卷六、一〇四七)、「朝井代爾《アサヰデニ》 木鳴※[日/木]鳥《キナクカホドリ》 汝谷文《ナレダニモ》 君丹戀八《キミニコフレヤ》 時不v終鳴《トキヲヘズナク》(卷十、一八二三)、「容鳥之《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》 春野之《ハルノノノ》 草根乃繁《クサネノシゲキ》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》」(同、一八九八)、「夜麻備爾波《ヤマビニハ》 佐久良婆奈知利《サクラバナチリ》 可保等利能《カホドリノ》 麻奈久之婆奈久《マナクシバナグ》」(卷十七、三九七三)の例がある。これらの例によれば、春鳴く鳥であり、山邊にも水邊にも歌われている。多く容鳥、貌鳥の字が使われているのは、カホに容貌の義を感じていたと見るべく、これを鳥名の語義とすれば、視覺よりの名と考えられ、美しい鳥が想像される。これに類する語に、カホバナ(容花、貌花)があり、それと合わせ考えて、美しい鳥の義とすべきだろう。
 間無數鳴 マナクシバナク。マナクは間斷なく、シバナクは、しきりに鳴くの意。容鳥の間なくしば鳴くことは、前に掲げた例に見えている。以上第一段で、三笠山の情景を敍しており、第二段の、雲居ナス、ソノ鳥ノを引き出す役目をしている。
 雲居奈須 クモヰナス。このヰは接尾語で、クモヰは、動かない雲をいうが、ここではただ雲の意になる。(272)ナスは、その如くの意。第一段の、雲居タナビキの句を受けている。次の句の枕詞。
 心射左欲比 ココロイサヨヒ。イサヨヒは、躊躇し逡巡する意。心がいさようは、心の定著しない意で、おちつかないのである。
 其鳥乃 ソノトリノ。上の容鳥を受けている。次の句の枕詞。
 片戀耳二 カタコヒノミニ。カタコヒは、一方的にする戀をいう。鳥の鳴くを、片戀に鳴くと解している。
 晝者毛日之盡夜者毛夜之盡 ヒルハモヒノコトゴトヨルハモヨノコトゴト。既出(卷二、一五五)。晝間は一日のことごとく、夜間は一夜のことごとくの意で、日夜とも始終である。
 立而居而 タチテヰテ。立つて、またいてで、ここは立つてもいてもの意。
 念曾吾爲流 オモヒゾワガスル。思いをわたしがするの意で、句切。この思いは、上の片戀を受けて、片戀ゆえに思いをするよしである。
 不相兒故荷 アハヌコユヱニ。アハヌは、逢わない。コは愛人をいう。その人に對して片戀をしているのである。この句は、上のオモヒゾワガスルの内容を説明している。
【評語】第一段の三笠山の春の敍述は、あい變わらず美しい。それから第二段を引き出す手段は、常型であるが巧みである。第一段の春の野の敍述と、第二段の日夜を片戀に明かし暮らすということとは、矛盾感がありしつくりと落ちつかない。傑作ではないが、清楚な小品である。
 
反歌
 
373 高※[木+安]《たかくら》の 三笠の山に 鳴く鳥の、
(273) 止《や》めば繼がるる 戀《こひ》もするかも。 
 
 高※[木+安]之《タカクラノ》 三笠乃山尓《ミカサノヤマニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》
 止者繼流《ヤメバツガルル》 戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》
 
【譯】高い處にある三笠の山に鳴く鳥のように、やめばまた繼がれる戀もすることだ。
【釋】高※[木+安]之三笠乃山尓鳴鳥之 タカクラノミカサノヤマニナクトリノ。以上三句、次の句を引き出す序詞。
 止者繼流 ヤメバツガルル。鳥の鳴くことがやめば、また自然に鳴き繼がれて間がないということから、わが戀もかくの如しの意に詠んでいる。連體形の句。
 戀哭爲鴨 コヒモスルカモ。哭をモと讀むことは、「在※[日/木]石《アリガホシ》 住吉里乃《スミヨシサトノ》 荒樂苦惜哭《アルラクヲシモ》」(卷六、一〇五九)、「奧浪《オキツナミ》 驂乎聞者《サワクヲキケバ》 數悲哭《アマタカナシモ》」(卷七、一一八四)などの例がある。何故に哭がその音を表示するかはあきらかでないが、喪には哭するものであるから、哭をもつて喪の意を表わしたと言われている。説文には、喪をもつて哭と亡との會意の字としているのによれば、古く哭の形をもつて、喪の意に使用したものであろう。
【評語】長歌の形體と内容とを要約した歌で、特に鳥に集中している。序詞も器用に使われている。「君が著る三笠の山に居る雲の立てば繼がるる戀もするかも」(卷十一、二六七五)の歌は、この歌の鳥を雲に代えているが、同巧の類歌というべきである。
 
石上乙麻呂朝臣歌一首
 
374 雨|零《ふ》らば 蓋《き》むと念《おも》へる 笠の山、
 人にな蓋《き》しめ
 霑《ぬ》れはひづとも。
 
 雨零者《アメフラバ》 將v蓋跡念有《キムトオモヘル》 笠乃山《カサノヤマ》
 人尓莫令v蓋《ヒトニナキシメ》
 霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》
 
【譯】雨が降つたら著ようと思つている笠の山を、ほかの人には著せるな。びつしより濡れても。
(274)【釋】雨零者 アメフラバ。次の句のキムに對する未然の條件法になつている。
 將蓋跡念有 キムトオモヘル。わが著ようと思つているの意で、以上二句、次の句の笠を説明している。
 笠乃山 カサノヤマ。三笠の山をいう。講義には、式上郡(今磯城郡に屬する)の笠村の山であろうという。
 人尓莫令蓋 ヒトニナキシメ。ヒトは、他の人をいう。キシメは、連用形。上のナを受けて、著せるなの意になる。句切。
 霑者漬跡裳 ヌレハヒヅトモ。ヌレハヒヅは、濡れて水びたりになる意である。よし他の人は濡れて水びたりになつても、この笠を著せるなの歌意である。
【評語】背の山という山名が、男性の山の義と同音であるよりして、常にそれに思い寄せて歌つているように、笠の山の名によつて、興を催して詠んでいる。笠の山を眺めて詠んだ歌と思われる。歌としては、山名に拘泥しているだけに、格別の事はない。
 
湯原王、芳野作歌一首
 
湯原の王の、芳野にて作れる歌一首。
【釋】湯原王 ユハラノオホキミ。日本後紀、延暦二十四年十一月、大納言正三位兼彈正尹|壹志濃《いちしの》の王の薨去の時の記事に、田原の天皇の孫、湯原の親王の第二子とある。田原の天皇は、天智天皇の皇子志貴の皇子である。湯原の王は、何時世を去られたか未詳である。作歌は、短歌ばかり十七首傳わつている。その歌の製作時代もあきらかでないが、大體天平時代の歌の中にはいつている。その歌品は、集中でも新しい方面を代表しており、清新の氣に滿ちているので注意される。
 
(275_)375 吉野《よしの》なる 夏實《なつみ》の川の 川淀に
 鴨ぞ鳴くなる。
 山かげにして。
 
 吉野尓有《ヨシノナル》 夏實之河乃《ナツミノカハノ》 川余杼尓《カハヨドニ》
 鴨曾鳴成《カモゾナクナル》
 山影尓之弖《ヤマカゲニシテ》
 
【譯】吉野なる夏實の川の、川の淀みに鴨が鳴いている。ちようど山陰であつて。
【釋》吉野尓有夏實之河乃 ヨシノナルナツミノカハノ。爾有は、爾は表音文字、有は表意文字であるから、歴史的かなづかいとしてはニアルと書く。約してナルという。夏實は、吉野山中の地名。宮瀧の上流中莊《なかしよう》村の地に、今、菜摘《なつみ》の名が殘つている。夏實の川は、吉野川の、その地を通過する邊をいう。
 川余杼尓 カハヨドニ。カハヨドは既出(卷三、三二五)。川の淀みで、水の停滞している處である。
 鴨曾鳴成 カモゾナクナル。ナルは、指定の助動詞。ゾを受けて連體形をもつて結んでいる。
 山影尓之弖 ヤマカゲニシテ。鴨の鳴く處を指示している。ヤマカゲは山の陰で、山のために日光が遮られて陰になつている場處である。
【評語】しずかな山中の情景を寫した、よい歌である。吉野川の山陰の淵に鴨が鳴いている。それだけであるが、いかにも物靜けさを見透した歌である。そうしてこの歌の表現技術が、直敍法によらずして、第四句で切り、第五句は囘顧の手段に出たのは、集中でも新しい時代の作者としての特色がある。
 
湯原王、宴席歌二首
 
【釋】宴席歌 ウタゲノウタ。當時、宴席では、興に乘じて歌が吟誦された。そういう意味の歌である。
 
(276)376 蜻蛉羽《あきづば》の 袖振る妹を、
 珠匣《たまくしげ》 奧に念《おも》ふを
 見たまへ。吾君《わぎみ》。
 
 秋津羽之《アキヅバノ》 袖振妹乎《ソデフルイモヲ》
 珠匣《タマクシゲ》 奧尓念乎《オクニオモフヲ》
 見賜吾君《ミタマヘワギミ》
 
【譯】美しい娘子が薄物の袖を翻して舞つている。自分はその娘子を心から思うのであるが、その事を君は知つていられるか。
【釋】秋津羽之 アキヅバノ。アキヅバは、トンボの羽で、ここでは薄い透き通つた衣服の袖をいおうとしてこの句を起している。次の句の袖を説明する句。「秋都葉爾《アキツバニ》 々寶敝流衣《ニホヘルコロモ》 吾者不v服《ワレハキジ》 於v君奉者《キミニマツラバ》 夜毛著金《ヨルモキルガネ》(卷十、二三〇四)の歌の、秋都葉ニニホヘル衣は、ニホヘルの語が受けており、かつ秋の部にはいつていることを思えば、このアキヅバと違うもので、秋の黄葉の色のような美しい衣服をいうのであろう。
 袖振妹乎 ソデフルイモヲ。ソデは、衣服の、手を蔽つている部分をいう。手よりも長目になつている。袖振ルは、ここでは舞をすることと解せられる。妹は、婦人に對する愛稱。ここでは宴席に侍した女をいう。
(277) 珠匣 タマクシゲ。枕詞。美しい匣。匣の中の意に、次の奧に懸かる。女子について歌うので、特にこの枕詞を使用している。珠匣は、婦人が物を秘藏する箱で、しばしば呪禁の意のある靈物を藏している。
 奧尓念乎 オクニオモフヲ。オクは心の底深い處をいう。心に深く思うをの意。「長門有《ナガトナル》 奧津借島《オキツカリシマ》 奧眞經而《オクマヘテ》 吾念君者《ワガオモフキミハ》 千歳爾母我毛《チトセニモガモ》」(卷六、一〇二四)の歌の、奧マヘテワガ念フというは、この奧ニ念フと同じ意である。
 見賜吾君 ミタマヘワギミ。ミタマヘは、わが心中を見たまえの意。ワギミは、わが君の義で、ワガは親愛の情をもつて冠している。宴席に同座する人をいう。
【評語】宴席に舞う娘子を見て、興に乘じて詠んでいる。秋津羽ノ袖フル妹、珠匣など、美しい語を使用しているのが、歌意にふさわしい。
 
377 青山の 嶺の白雲、
 朝にけに 常に見れども
 めづらし。吾君《わぎみ》。
 
 青山之《アヲヤマノ》 嶺乃白雲《ミネノシラクモ》
 朝尓食尓《アサニケニ》 恒見杼毛《ツネニミレドモ》
 目頬四吾君《メヅラシワギミ》
 
【譯】青々とした山に白雲のたなびいている景色を常に見ていても飽きないように、朝夕に常に見ても、飽く事なく、愛すべきあなただ。
【釋】青山之嶺乃白雲 アヲヤマノミネノシラクモ。アヲヤマは、山には普通に草木が茂つていて青く見えるからいう。馬を赤駒という類で、ただ山の意と心得てよいが、青山の語を使うことによつて、その山が印象的に感じられる。ミネは、山の高い處。ミネノシラクモは、嶺に懸かつている雲である。次の朝ニケニを引き出す序詞になつている。
(278)〔細井本の写真有り〕
細井本萬葉集の卷の四の歌は、久堅乃の歌で終つて、その次に卷の三のこの歌以下を書いている。この卷の三の部分は、古本の系統である。細井本二種、もしくは細二種として本卷の資料にしてあるのは、この以下の部分である。
 
 朝尓食尓 アサニケニ。食の字は、訓を借りてケの音を表示している。ケは、ケ長シなどのケと同じで、時の意の語である。來經の約言とすることは、證明のないことである。この句は、朝に時にで、始終の意の副詞。このケニは、日ニケニのケニとは別。日ニケニは、日ニ異ニで、そのケは甲類、時の意のケは乙類の音である。
 恒見杼毛 ツネニミレドモ。ツネニは、絶えずの意。
 目頬四吾君 メヅラシワギミ。メヅラシは、賞すべくある意の形容詞。珍奇の意ではない。終止形。ワギミ(279)は、前の歌と同じく宴席に同座せる人をいう。
【評語】譬喩を用いているが、歌全體が暗喩になつていないで、初二句だけが譬喩の句になつており、その如くにの意で下句に續いている。青山の嶺の白雲と大きく出て、吾君を常に見ても飽きないという、自然を人事に應用したところに趣がある。青山の嶺の白雲は、美しく色彩の鮮明な句である。
 
山部宿祢赤人、詠2故太政大臣藤原家之山地1歌一首
 
山部の宿禰赤人の、故《もと》の太政大臣藤原の家の山の池を詠める歌一首。
 
【釋】詠故太政大臣藤原家之山池歌 モトノオホキオホマヘツギミフヂハラノイヘノヤマノイケヲヨメルウタ。故は、物故の義で、死者に冠して使用する。ここに特にこの字を使用したのは、資料から來ているのであろう。太政大臣藤原の家は、藤原の不比等。不比等は、鎌足の第二子、慶雲五年に右大臣となり、養老四年八月に薨、十月に正一位太政大臣を贈られた。されば贈太政大臣と書くべきであるが、本集、また續日本紀、懷風藻にも、贈の字を附けないで書かれている。家は、その家の義。山池は熟字で、ここは不比等の邸宅の庭の池をいう。山を配した池であつたであろう。
 
378 昔者《いにしへ》の 舊き堤は、
 年深み、
 池の渚《なぎさ》に 水草《みくさ》生《お》ひにけり。
 
 昔者之《イニシヘノ》 舊堤者《フルキツツミハ》
 年深《トシフカミ》
 池之瀲尓《イケノナギサニ》 水草生尓家里《ミクサオヒニケリ》
 
【譯】昔の古い堤は、年が多く積つたために、池の渚に水草が生い茂つた。
【釋】昔者之 イニシヘノ。昔者は熟字で、古昔の意に使用されている。ここでは不比等の生前をいう。
(280) 舊堤者 フルキツツミハ。ツツミは、水を包む土木をいう。多分、土を盛《も》つて池堤を造つたのであろう。その古びたのを擧げている。
 年深 トシフカミ。年が經過したことを、年深シという。「根毛許呂爾《ネモコロニ》 君之聞四手《キミガキコシテ》 年深《トシフカク》 長四云者《ナガクシイヘバ》」(卷四、六一九)、「一松《ヒトツマツ》 幾代可歴流《イクヨカヘヌル》 吹風乃《フクカゼノ》 聲之清者《コエノキヨキハ》 年深香聞《トシフカミカモ》」(卷六、一〇四二)、「根乎延而《ネヲハヘテ》 年深有《トシフカカラシ》 神左備爾家里《カムサビニケリ》」(卷十九、四一五九)等の用例がある。
 池之瀲尓 イケノナギサニ。ナギサは、浪の寄する水邊をいう。
 水草生尓家里 ミクサオヒニケリ。ミクサは文字通り水草である。ニケリは詠嘆の語法。
【評語】その人のさかんな時代には、草も生えないが、その人が亡くなつて、庭園の荒れたことを、水草生ヒニケリの一句にあらわし、故人を思う情を寄せている。赤人は、不比等の恩顧を蒙つたことがあつて、その徳を追憶しているのであろう。「み立《たち》せし島の荒橘《ありそ》を今見れば生《お》ひざりし草生ひにけるかも」(卷二、一八一)の歌は、草壁の皇子の薨後、その宮の舍人《とねり》の詠んだ歌であるが、この歌と同巧である。その歌は、表面から説明して歌つているが、赤人のこの歌は、感情の表出がすくなく、内に藏しているところが多い。よく味わえば、かえつて感銘する所が深い。
 
大伴坂上郎女、祭v神歌一首 并2短歌1
 
大伴の坂上の郎女の、神に祭る歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】大伴坂上部女 オホトモノサカノウヘノイラツメ。卷の四、五二八の歌の左註に「右、郎女は、佐保の大納言の卿の女なり。初め一品穗積の皇子に嫁《ゆ》き、寵《うつく》しまるること儔《たぐひ》なかりき。皇子薨りたまひし後、藤原の麻呂の大夫、この郎女を娉《つまど》へり。郎女は、坂上の里に家せり。よりて族氏《やから》號《なづ》けて坂上の郎女といへり」とある。(281)佐保の大約言の卿は、大伴の安麻呂で、その女であつて、旅人の妹に當る。母は石川の内命婦である。坂上の里にいたので、坂上の郎女という。坂上は、奈良縣生駒郡|三郷《みさと》村立野の東北の地、今、坂上《さかね》という。郎女は、女子の敬稱。日本書紀、景行天皇紀に「稻日推郎姫《イナビノワカイラツメ》、郎姫、此《コヲバ》云《イフ》2異羅菟※[口+羊]《イラツメト》1」とある。はじめ穗積の皇子に嫁し、寵せられることたぐいがなかつたが、皇子の薨じた後、藤原の麻呂が娉《つまど》うた。麻呂は不比等の子である。坂上の郎女には、大伴の坂上の大孃等の女があり、その坂上の大孃は、後に家持の妻となつたが、この人は大伴の宿奈麻呂の女であるというから、坂上の郎女は、宿奈麻呂とも婚したこととなる。天平の初めには、旅人に從つて、大宰府にあり、天平二年に歸京して後は、佐保の宅等にあつて晩年を送つたものとおぼしく、天平勝寶二年に、その女坂上の大孃に與えた歌を最後として、その後の消息を傳えない。坂上の郎女は、婦人の身をもつて神龜天平間の男子のあいだに伍して遜色のない歌を詠んでいる。短歌に巧みな婦人は、ほかにも見受けるが、坂上の部女は、長歌をもよくし數篇の作を留めている。その作品といい閲歴といい、才色兼備をもつて評するにふさわしい人である。古の額田の王と併わせて、萬葉を代表すべき女流歌人とすべきである。
 祭神歌 カミニマツルウタ。左註によれば天平五年十一月に、大伴氏の氏神を祭つた時の歌ということである。大伴氏の神は、その祖先神と信じられている天の忍日《おしひ》の命で、神武天皇の御東征に從つた道の臣の命も祭られているであろうし、ほかにも大伴氏の守護神が配祀されているであろう。藤原氏の例によれは、その祖先神たる天の兒屋の命、比賣神のほかに、經津主《ふつぬし》の命、建甕槌《たけみかづち》の命が氏神として祭られている。氏神は、その氏の本據とする地に、神社として定祀せられ、その處において祭祀が行われ、また邸宅内においても祭られた。大伴氏の神社は、古くは河内の國にあり、今の伴林《ばんばやし》神社がその社であるとされている。この歌は、そのいずれで作られたかは不明であるが、歌詞に、祭神を招請する意があり、邸宅における祭であるかと思われる。祭は、マツルと讀む。マツルは、物を捧げて奉仕する意の語で、神に對して、物をマツルという。よつてここも神ニ(282)マツル歌と讀む。神に奉仕する意である。
 
379 ひさかたの 天の原より
 生《あ》れ來《き》たる 神の命《みこと》。
 奧山の 賢木《さかき》の枝に、
 白香《しらか》著《つ》け 木綿《ゆふ》とりつけて、
 齋戸《いはひべ》を 忌《いは》ひ穿《ほ》り居《す》ゑ、
 竹玉《たかだま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り、
 鹿猪《しし》じもの 膝折り伏せ、
 手弱女《たわやめ》の 襲衣《おすひ》取り懸け、
 かくだにも われは祈《こ》ひなむ。
 君に逢はぬかも。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 天原從《アマノハラヨリ》
 生來《アレキタル》 神之命《カミノミコト》
 奧山乃《オクヤマノ》 賢木之枝尓《サカキノエダニ》
 白香付《シラカツケ》 木緜取付而《ユフトリツケテ》
 齋戸乎《イハヒベヲ》 忌穿居《イハヒホリスヱ》
 竹玉乎《タカダマヲ》 繁尓貫垂《シジニヌキタリ》
 十六自物《シシジモノ》 膝折伏《ヒザヲリフセ》
 手弱女之《タワヤメノ》 押日取懸《オスヒトリカケ》
 如v此谷裳《カクダニモ》 吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》
 君尓不v相可聞《キミニアハヌカモ》
 
【譯】天から御出現になる神樣よ。奧山の榊の枝に白香や木綿を取り付けて、齋戸を地上に据え立て、竹玉を繁く貫き垂れ、獣のように膝を折り伏せ、婦人の襲衣を懸けて、かようにもわたくしは祈りましよう。それでも君にあわないのでございましょうか。
【構成】別に段落と見るべきものはない。初めに神を呼び、それに對して祭祀を行うことを敍し、最後の一句に祈願の主旨をあらわしている。
【釋】久堅之 ヒサカタノ。枕詞。天に懸かる。
(283) 天原從 アマノハラヨリ。從は、ユとも讀まれるが、「阿米欲里由吉能《アメyリユキノ》 那何列久流加母《ナガレクルカモ》」(卷五・八二二)の如く、ヨリは、ある地點からの動作をいう場合に、多く使用されているので、今ヨリとするによる。アマノハラは、廣い性質を有する天を表示する語。高天の原ともいう。實物の天をいい、またそれが神の常在の世界であるとする思想的解釋を含めていう。ここはその思想的解釋の濃厚な用法で、今は神の常在の世界として擧げている。
 生來 アレキタル。アレは、出現するの意の動詞。出生の意に使うのは、神秘を感じていうのである。「橿原乃《カシハラノ》 日知之御世從《ヒジリノミヨユ》 阿禮座師《アレマシシ》 神之盡《カミノコトゴト》」(卷一、二九)、「阿禮將v座《アレマサム》 御子之嗣繼《ミコノツギツギ》」(卷六、一〇四七)など使用されている。この句は、次の句に對する連體形の句で、天の原より生れ來たる神の命というが、すなわち大伴の氏神のことで、今の祭の場に招請した神をいう。これらの神は、高天の原におられるが、今そこから降つて、この祭の場に出現する意に、アレキタルというのである。これを、祖神の天の忍日の命が、高天の原から降下した事蹟と解する説があるが、それならば、過去の形をもつていわねばならぬのである。
 神之命 カミノミコト。既出(卷一、二九)。ミコトは尊稱。今この祭の場に招請した大伴の氏神をいい、それを呼び懸けている。
 奧山乃賢木之枝尓 オクヤマノサカキノエダニ。サカキは、神事に使用する樹で、賢は借字、榮樹の義であろう。古事記上卷、岩屋戸の段に、天の香具山の五百箇の眞賢木を根こじにこじてとある。何の樹であるかについては、「龍眼木、佐賀岐《サカキ》」(倭名類聚鈔、祭祀具類)、「日本紀私記云、天(ノ)香山之|眞坂樹《マサカキ》、佐加木《サカキ》、漢語抄、榊(ノ)字本朝式(ニハ)用(ヰル)2賢木(ノ)二字(ヲ)1、本草(ニ)云(フ)、龍眼、一名益智、佐賀岐乃美《サカキノミ》」(同、木類)、「龍眼、和名、佐加岐乃美《サカキノミ》」(本草和名)とあるが、今の何の樹であるかを知りがたい。久老は、シキミであるという。今、神事に使用する樹は、地方によつて相違があつて一定しない。古語にも、ユツ眞椿、ユツ杜樹《かつら》の語があり、神聖なる樹とするものは、か(284)ならずしも一定していなかつた。しかし繁茂した常緑木とすることは一定であり、それを神聖視して、神靈の宿る處と考えていた。ここに奧山のと説明しているのは、それが人間の汚濁に觸れないものであるとする意である。
 白香付 シラカツケ。神事關係のシラカは、このほかに、「白香付《シラカツク》 木綿者花物《ユフハハナモノ》 事社者《コトコソハ》 何時之眞枝毛《イツノマエダモツネ》 常不v所v忘《ツネワスラエネ》」(卷十二、二九九六)、「四舶《ヨツノフネ》 早還來等《ハヤカヘリコト》 白香著《シラカツケ》 朕裳裙爾《ワガモノスソニ》 鎭而將v待《イハヒテマタム》」(卷十九、四二六五)があり、いずれも白香の文字を使用している。これについては、仙覺が「白香は、シラカミノ四手也。コレスナハチシラニギテナルベシ」と釋してから、白紙とすることには異説を見ない。しかし紙はカミであつて、カとのみは言わない。紙は、外來文化の産物であつて、古代の祭祀には使用されるはずがなく、幣にもはじめアサ、コウゾの類が使用され、後に至つて紙が交え用いられるに至つた。紙を一定の形に切つてさげるのは、アサ、コウゾなどの形に模してさげるのであつて、紙が、アサ、コウゾよりも安價になつてからの事である。大祓の詞には、天つ菅麻《すがそ》を八針に取りさくことがあり、アサ、コウゾの類を細く裂いて白髪のようにして神事に使用したと考えられる。白髪と同語で、神事に使用するものを白香と書いたのであろう。
 木綿取付而 ユフトリツケテ。木綿《ゆふ》は、アサ、コウゾの皮のさらしたもの。主としてコウゾをいうが、アサをも含んで言われる。白香と木綿とは、同物であるが、白香は細く裂いたもの、木綿は、裂くにも至らないものであろう。賢木の枝に木綿の類を取り付けることは、その神性を増すためと考えられる。古事記岩屋戸の段に、賢木《さかき》に白丹寸手《しらにぎて》青丹寸手《あをにぎて》を取りつけるとあるに同じである。
 齋戸乎 イハヒベヲ。イハヒベは、集中、伊波比倍、以波比弊、齋戸、齋忌戸、忌戸の文字が使用されている。齋をイハヒと讀むは、日本書紀卷の二の訓註に「齋主、此《コヲバ》云(フ)2伊幡※[田+比]《イハヒト》1」また「顯齋、此(ヲバ)云(フ)2于圖詩怡破※[田+比]《ウヅシイハヒト》1」とあり、齋戸をイハヒベと讀むことには、異議はない。これを齋瓮《いはひべ》とすることは、仙覺の萬葉集註釋に「イハ(285)ヒヘヲイハヒホリスヱトは、御酒ヲ釀瓶也」とあるよりして、定説になつてゐる。しかし本集には、べに戸の字を當てており、瓶もしくは類似の意の字を當てたものは一もない。齋戸のいかなるものであるかを考察すべき資料としては、本集にしばしは齋戸ヲイハヒホリスヱの句があり、地を掘つて据えるものであることが知られる。その場處は、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクラベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》」(卷三、四二〇)、「伊波比倍須惠郡《イハヒベスヱツ》 安我登許能敝爾《アガトコノベニ》」(卷十七、三九二七)、「伊波比倍乎《イハヒベヲ》 等許敝爾須惠弖《トコベニスヱテ》」(卷二十、四三三一)の例によつて、枕邊、床邊であつたことが知られる。また「齋戸爾《イハヒベニ》 木綿取四手而《ユフトリシデテ》」(卷九、一七九〇)の例によつて、木綿を垂れることが知られる。もしイハヒベが酒瓶であつて、地を掘つて据えたとしたならば、これに若干の長さを有する木綿を垂れることは不可能である。「於保伎美能《オホキミノ》 美許等爾作例波《ミコトニサレバ》 知々波々乎《チチハハヲ》 以波比弊等於枳弖《イハヒベトオキテ》 麻爲弖枳爾之乎《マヰテキニシヲ》」(卷二十、四三九三)の歌は、解釋上問題もあるが、父母をイハヒベとして置いて來たというなるべく、この場合も齋瓮と解することは、情において無理がある。かくの如く、イハヒベは、齋瓮と解すべき根據としては、日本書紀崇神天皇紀に忌瓮の字があり、イハヒベと讀まれているのがあるのによるものである。いまこれに代わるべき解があるかというに、延喜式に、鎭2御魂齋戸1祭などの如く、齋戸の文字が使用されている。これは、一の神座であつて、神靈の宿る所であり、宮中の齋院にこれを置く。神靈の宿る所の義によつて、戸の字を使用しているのであろう。元來イハヒは、一の神事であつて、神を祭り、その威力によつて穢惡の起らないようにするをいう。そこで、イハヒベは、神聖なる神座の意になるのである。その構造等については不明であるが、奧山ノ賢木ノ枝ニ白香付ケ木綿取リ付ケテを、齋戸ヲイハヒ掘リスヱの準備工作とすれば、地を掘つて、その賢木の枝を立てることをするとも思われ、かの齋戸ニ木綿取リ垂デテというのも、結局、賢木の枝に木綿をつけるをいうとも考えられる。それは單に賢木のみでなく、鏡なども使用されるであろうが、賢木を立てることは、重要な位置を占め、更に木綿、竹玉などを垂れる等の工作がなされるのであろう。
(286) 忌穿居 イハヒホリスヱ。前項に説いたように、齋戸を掘り据えるのであり、それはイハヒの行事として清らかにしてするので、特にイハヒホリスヱという。例も前項に出した。
 竹玉乎 タカダマヲ。仙覺の萬葉集註釋に「竹玉乎繁爾貫垂トハ、陰陽家ニ、祭ノ次第ヲトヒ侍シカバ、祭詞中に、異國ヨリナラヒツタエタル祭モアリ、我朝ニ、モトヨリマツリキタル作法モアリ。タカタマト云ヘルハ、我朝ノ祭中ニ、昔ハ、竹ヲ玉ノヤウニキサミテ、神供ノ中ニ懸莊レルコトアリトナム申ス。サテソレヲハ、タカタマト云ケルカ、タケタマト云ケルカト問ヒ侍リシカハ、タカタマト云ト申侍リシナリ」とある。正倉院文書に、天平十年に、正税をもつて、白玉、紺玉、縹《はなだ》玉、緑玉、赤玉、赤|勾《まが》玉、丸玉、竹玉、勾縹玉を買つたことが見え、竹玉二枚の値が、稻三把四分であつたと傳えている。この竹玉は、竹のような形の玉と考えられる。もと神事に、竹を切つて玉として使用することがあり、後その形の玉をもいうようになつたのであろう。竹は神秘な植物として考えられていたので、これを切つて管玉としたものと思われる。
 繁尓貫垂 シジニヌキタリ。竹玉を緒に貫いて密に垂れるので、これは齋戸に垂れるものと推考される。以上、祭場の施設について敍している。
 十六自物 シシジモノ。既出(卷三、二三九)。十六をシシと讀むことも、同じ歌に見えている。枕詞。鹿猪のような物の意。次の句の膝を折り伏せる状を説明している。
 膝折伏 ヒザヲリフセ。神前に跪坐《きざ》禮拜をする状である。
 手弱女之 タワヤメノ。タワヤメは、本集に「多和也女能《タワヤメノ》 於毛比美太禮弖《オモヒミダレテ》」(卷十五、三七五三)など、タワヤメといつている。柔軟なる女性の義。この句は、われは手弱女なるが、手弱女としてなどの意で、次の句の主格句である。
 押日取懸 オスヒトリカケ。オスヒは、古事記上卷に「多知賀遠母《タチガヲモ》 伊麻陀登加受弖《イマダトカズテ》 淤須比遠母《オスヒヲモ》 伊麻陀(287)登加泥婆《イマダトカネバ》」(二)、中卷に「那賀祁勢流《ナガケセル》 意須比能須蘇爾《オスヒノスソニ》 都紀多知邇祁理《ツキタチニケリ》」(二八)、「和賀祁勢流《ワガケセル》 意須比能須蘇爾《オスヒノスソニ》 都紀多多那牟余《ツキタタナムヨ》」(二九)とあり、皇太神宮儀式帳に「帛|御意須比《ミオスヒ》八端【長各二丈五尺弘二幅】」とある。上に著るものの意で、旅行または神事に際し、衣服の上に被る衣裳であるが、その製法は知られない。
 如此谷裳 カクダニモ。ダニは、他事はおいてもこれだけはの意をあらわす助詞。上を受けて、かようにだけもというのは、心の中に切願するをばおいて、形だけでもかくの如しというのである。
 吾者祈奈牟 ワレハコヒナム。反歌には、吾波乞嘗と書いてある。コヒは、祈願の意の動詞。ナムは、ノム(祈)であるともいうが、ノムをナムという例證はない。やはり助動詞として解すべきである。すなわち、われはかくの如く祈願をしよう。君ニアハヌカモとの意とすべきである。
 君尓不相可聞 キミニアハヌカモ。舊訓、キミニアハジカモとあるが、槻落葉にキミニアハヌカモと讀んだのがよい。この句、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 開秋芽子《サケルアキハギ》 散過而《チリスギテ》 實成及丹《ミニナルマデニ》 於v君不v相鴨《キミニアハヌカモ》」(卷十、二二八六)の如き例がある。君は誰をさすか、知られない。アハヌカモは、逢わないかなあ、逢いたいものだの意で、希望をあらわす語法。
【評語】初めに、祭神を呼び懸けた手段はよい。それからの祭祀の敍述は、類型的で、この作者の創作ではない。終りに希望を述べているのが、この歌の主題であるが、前に何の用意もなく、突然たるを免れない。
 
反歌
 
380 木綿疊《ゆふだたみ》 手に取り持ちて、
 かくだにも 吾は祈《こ》ひなむ。
(288) 君に逢はぬかも。
 
 木綿疊《ユフダタミ》 手取持而《テニトリモチテ》
 如v此谷母《カクダニモ》 吾波乞甞《ワレハコヒナム》
 君尓不v相鴨《キミニアハヌカモ》
 
【譯】木綿疊を手に取り持つて、かようにもわたくしは祈りましよう。それでも君に逢うことができませんでしようか。
【釋】木綿疊 ユフダタミ。木綿で作つた疊。タタミは、疊まれるものをいう。木綿を編んで疊としたものと解せられる。「木綿裹《ユフヅツミ》【一云疊】白月山之《シラツキヤマノ》 佐奈葛《サナカヅラ》」(卷十二、三〇七三)の例によれば、白いものであることが知られる。
 手取持而 テニトリモチテ。木綿疊を手に持つて神を祭るのである。神事には、種々の物を手に持つことが傳えられている。古事記に小竹葉、本集に鏡、菅などある。手に織物を持つことは、「一手《ひとて》には木綿《ゆふ》取り持ち、一手には和粗布《にぎたへ》奉《まつ》り、平けく眞幸《まきき》く坐《ま》せと、天地の神社《かみ》を乞《こ》ひ祷《の》み」(卷三、四四三)などある。
 如此谷母吾波乞甞君尓不相鴨 カクダニモワレハコヒナムキミニアハヌカモ。長歌の末三句を繰り返している。
【評語】初二句は、長歌に漏れたことを敍し、下三句は、長歌の末を繰り返している。長歌と密接な關係にある歌である。この神に祭る歌は、當時の神祭の状態が詳述されている點で注意される。祭るのは、普通に婦人の任務とされていたので、集中特に婦人の作が多い。
 
右歌者、以2天平五年冬十一月1、供2祭大伴氏神1之時、聊作2此歌1、故曰2祭v神歌1。
 
右の歌は、天平五年の冬十二月をもちて、大伴の氏の神に供《つか》へ祭りし時、聊《いささか》この歌を作りき。故《かれ》神に祭る歌といふ。
 
(289)【釋】右歌者 ミギノウタハ。以下、祭神歌の製作に關する記事であるが、その年月を明記し、また御の字のあることなどが注意される。これは作者、またはその親近の者の記録が材料となつているであろう。元來この卷は、作歌年代のあきらかでない歌を集めるのが建前であると認められるのに、この歌以後、往々にして年月の明記のあるものを載せたのは、第二次の増編によるものと考えられる。
 冬十一月 フユシモツキ。諸氏の氏神の祭は、年二囘、春は二月または四月、冬は十一月に行われる。この時期は、耕作の始終と關係があると考えられる。十一月は、新嘗祭の行われる月で、この氏神の祭にも、新穀を供進するものであろう。民間に於ける新嘗の祭と見てよい。
 供祭大伴氏神之時 オホトモノウヂノカミニツカヘマツリシトキ。大伴の氏神は、題詞のもとに記した。供祭は、祭祀を奉仕するをいう。
【參考】祭祀行爲の敍述ある歌。
  (上略)天雲の退方《そくへ》の極、天地の至れるまでに、杖つきも突《つ》かずも行きて、夕占《ゆふけ》問ひ石卜《いしうら》もちて、わが屋戸《やど》に御諸《みもろ》を立てて、枕邊に齋戸《いはひべ》をすゑ、竹玉を間《ま》なく貫《ぬ》き垂り、木綿《ゆふ》たすき臂《かひな》に懸けて、天なるささらの小野の、七相管《ななふすげ》手に取り持ちて、ひさかたの天の河原に、出で立ちて禊《みそ》ぎてましを(下略、卷三、四二〇)
  (上略)たらちねの母の命は、齋忌戸《いはひべ》を前にすゑ置きて、一手には木綿《ゆふ》取り持ち、一手には和紬布《にぎたへ》奉《まつ》り、平けくま幸《きき》くませと、天地の神を乞ひ祷《の》み(下略、同、四四三)
  (上略)せむすべのたどきを知らに、しろたへのたすきを懸け、まそ鏡手にとり持ちて、天つ神仰ぎ乞ひ祷《の》み、國つ神伏して額《ぬか》づき、かからずもかかりも、神のまにまにと、立ちあざりわが乞《こ》ひ祷《の》めど(下略、卷五、九〇四)
  秋はぎを妻どふ鹿《カ》こそ、獨子《ひとりご》に子もてりといへ、鹿兒《かこ》じものわが獨子の、草枕旅にし行けば、竹玉をしじ(290)に貫《ぬ》き垂り、齋戸《いはひべ》に木綿とり垂《し》でて、いはひつつわが思ふ吾子《あこ》、ま幸《きき》くありこそ(卷九、一七九〇)
  菅《すが》の根のねもころごろに、わが念へる妹によりては、言《こと》の禁《いみ》も無くありこそと、齋戸《いはひべ》をいはひ掘りすゑ、竹玉を間《ま》なく貫《ぬ》き垂《た》り、天地の神祇《かみ》をぞわが祈《こ》ふ、いたも術《すべ》なみ(卷十三、三二八四)
  玉だすき懸けぬ時なく、わが念へる君によりては、倭文幣《しづぬさ》を手に取り持ちて、竹玉《たかだま》をしじに貫き垂り、天地の神をぞわが乞ふ、いたも術《すべ》なみ(同、三二八六)
  大船の思ひたのみて、さなかづらいや遠長く、わが念へる君によりては、言の故も無くありこそと、木綿《ゆふ》だすき肩に取り懸け、忌戸《いはひべ》をいはひほりすゑ、天地の神祇《かみ》にぞわが祈《の》む、いたもすべ無み(同、三二八八)
  草枕旅ゆく君を幸くあれと齋戸すゑつ我《あ》が床《とこ》の邊《べ》に(卷十七、三九二七)
  (上略)言はむすべ爲むすべ知らに、木綿だすき肩に取り懸け、倭文幣《しづぬさ》を手に取り持ちて、な離《さ》けそとわれは祷《の》めども(下略、卷十九、四二三六)
 
筑紫娘子、贈2行旅1歌一首 娘子字曰2兒島1
 
筑紫の娘子の、行旅に贈れる歌一首【娘子、字を兒島といふ。】
 
【釋】筑紫娘子 ツクシノヲトメ。筑紫の國の娘子の義。下に字《な》を兒島というとあり、卷の六に、大伴の旅人が大納言となつて、京に上ろうとした時に送つた遊行女婦の、名を兒島というのがある。その人である。
 行旅 タビビト。誰とも知られない。多分京から下つた官人であろう。
 
381 家思ふと こころ進むな。
 風守《かざまも》り 好《よ》くしていませ。
(291) 荒し。その路《みち》。
 
 思v家登《イヘオモフト》 情進莫《ココロススムナ》
 風候《カゼマモリ》 好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》
 荒其路《アラシソノミチ》
 
【譯】わが家を思うとて、お急ぎなさいますな。風のもようをよく見ていらつしやい。荒いその道ですから。
【釋】思家登 イヘオモフト。家は、その旅人の自宅をいう。トは、としての意。
 情進莫 ココロススムナ。サカシラスルナ(代初)、サカシラナセソ(考)。ココロススムは、心の急ぎ、はやるをいう。ナは禁止の助詞。情進は、「オホキミノツカハサナクニココロスシニユキシアラヲラオキニソデフル」
(卷十六、三八六〇)の使用例がある。句切。
 風候 カゼマモリ。風の樣子を見守ること。當時の航行は、帆もしくは艪櫂によつたので、風の順逆が、重要な條件になる。
 好爲而伊麻世 ヨクシテイマセ。風見を十分にして行けの意。イマセは、行けの意の敬語法。句切。
 荒其路 アラシソノミチ。アラキソノミチとも讀まれる。しかしアラシと切つた方が、歌意が荒いことに集中されてよい。アラキでは、單にその道の説明になるのである。このミチは、海路をいう。
【評語】三段に短文を重ねたのは、切實感を與える。行旅の人に贈る類型的な内容であるが、三句以下、具體的にいつているのがよい。「周防《すは》にある磐國《いはくに》山を越えむ日は手向《たむけ》よくせよ、荒しその道」(卷四、五六七)の歌は、陸路について歌つているが、同樣の内容の歌である。
 
登2筑波岳1、丹比眞人國人作歌一首 并2短歌1
 
筑波岳に登りて、丹比の眞人國人の作れる歌【短歌并はせたり。】
 
【釋】登筑波岳 ツクハヤマニノボリテ。筑波山は、茨城縣にある著名な山で、標高八七六メートルある。筑(292)波とあるもののほかに、都久波(古事記二六、本集卷十四、卷二十)、築羽(卷三)、菟玖波(日本書紀二五)と書いており、今は、ツクバといつているが、上代にはツクハであつたと推考される。男女の雙峰を有し、平野に臨んでいる山であつて、常陸國風土記には、登攀する者の多いことを記し、この集にも登山の歌が數首ある。
 丹比眞人國人 タヂヒノマヒトクニヒト。續日本紀によれは、天平八年正月、正六位の上より從五位の下に進み、十年閏七月に民部の少輔、天平勝寶三年正月に從四位の下、天平實字二年六月に攝津の大夫となり、七月には、遠江の守として伊豆の國に配流されたことが見えている。常陸の國に赴いたことは、他書に傳わらない。
 
382 鷄《とり》が鳴く 東《あづま》の國に
 高山は 多《さは》にあれども、
 明《あき》つ神《かみ》の 貴《たふと》き山の
 竝《な》み立ちの 見が欲《ほ》し山と、
 神代より 人の言ひつぎ
 國見する 筑波《つくは》の山を、
 冬ごもり 時じき時と
 見ずて行かば まして戀《こほ》しみ、
 雪|消《げ》する 山道すらを、
(293) なづみぞわが來《け》る。
 
 ※[奚+隹]之鳴《トリガナク》 東國尓《アヅマノクニニ》
 高山者《タカヤマハ》 左波尓雖v有《サハニアレドモ》
 明神之《アキツカミノ》 貴山乃《タフトキヤマノ》
 儕立乃《ナミタチノ》 見※[日/木]石山跡《ミガホシヤマト》
 神代從《カミヨヨリ》 人之言嗣《ヒトノイヒツギ》
 國見爲《クニミスル》 築羽乃山矣《ツクハノヤマヲ》
 冬木成《フユゴモリ》 時敷時跡《トキジキトキト》
 不v見而往者《ミズテユカバ》 益而戀石見《マシテコホシミ》
 雪消爲《ユキゲスル》 山道尚矣《ヤマミチスラヲ》
 名積敍吾來煎《ナヅミゾワガケル》
 
【譯】鷄の鳴く東方の國に、高い山はたくさんあるが、神樣として貴い山で、竝び立つさまの眺めたい山と、神代から人の言い傳えて、國土を見る筑波山を、今はまだ冬の中で、登山の時期ではないとして、見ないで行つたら、一そう戀しいので、雪消のする山道だのに、骨をおつて來ることだ。
【構成】別に段落はない。國見スルまでは、筑波山を説明している。以下その山に登ることを敍している。
【釋】※[奚+隹]之鳴 トリガナク。既出(卷二、一九九)。枕詞。東の國を修飾する。
 東國尓 アヅマノクニニ。既出(卷二、一九九)。東方の諸國をアヅマというは、日本武の尊の「吾妻《あづま》はや」と仰せられたによるとする地名起原説話がある。
 高山者佐波尓雖有 タカヤマハサハニアレドモ。サハは多數。「國者思毛《クニハシモ》 澤二雖v有《サハニアレドモ》」(卷一、三六)、「湯者霜《ユハシモ》 左波爾雖v在《サハニアレドモ》」(卷三、三二二)など、多數あることをいつて、その中でもと主題を引き出す手段は多い。
 明神之 アキツカミノ。
   アキツカミノ(西)
   ――――――――――
   朋神之《トモガミノ》(童)
   朋神之《フタガミノ》(考)
 アキツカミは、現實に見られる神をいう。天皇の性質を説明する常用語であるが、ここでは神靈の實在の形體としての山を説明している。童蒙抄に、明を朋の誤りとしてトモガミノと訓し、考もこれによつてフタガミノと訓しており、後これに從う説も多いが、定説とはしがたい。
 貴山乃 タフトキヤマノ。貴い山の見ガホシ山の意に接續する。貴い山で、見ガホシ山であるの意である。
 儕立乃 ナミタチノ。ナミタチは、竝立の意。筑波山は、二峰竝立の山容であるのでいう。
(294) 見※[日/木]石山跡 ミガホシヤマト。ミガホシは、既出(卷三、三二四)。見ることの望ましい意の形容詞。※[日/木]は、音カウであり。何故カホの音に當てられるか不明である。果に作つている本も多いが、それにしてもカホに當てられる理由は不明である。ミガホシの形で連體形をとつている。見ることの望ましい山としての意。トは、明ツ神ノ以下を受けている。
 神代從人之言嗣 カミヨヨリヒトノイヒツギ。神代から人々が、明ツ神ノ貴キ山ノ竝ミ立チノ見ガホシ山と言い繼いでいる由である。
 國見爲 クニミスル。クニミは、既出(卷一、二)。國土を視察すること。人々が國見をする風習になつている由で、以上筑波の山の説明である。
 築羽乃山矣 ツクハノヤマヲ。下の見ズテ行カバの句に接續する。
 冬木成 フユゴモリ。冬の終頃の季節をいう語。枕詞としての用例は、前に出た(卷一、一六)。語意はその條参照。ここは實際の季節をいう。冬の内の意である。
 時敷時跡 トキジキトキト。トキジは既出(卷一、六)。その時節でない意の語で、形容詞類似の活用をする。登山すべき時にあらずとしての意。以上二句、諸家に誤脱等の説があるのは、詞句の正解を得ないためである。
 不見而往者 ミズテユカバ。上の筑波の山を受けて、登山に適せずとして見ずて行かばの意である。
 益而戀石見 マシテコホシミ。マシテは、現在にも益して。コホシミは、形容詞。戀しくして。
 雪消爲 ユキゲスル。まだ冬なので、雪消のするという。
 山道尚矣 ヤマミチスラヲ。スラは、雪解する山道だけを擧げていう語法で、これにより他を推察せしめる。
 名積敍吾來煎 ナヅミゾワガケル。
   ――――――――――
   名積敍吾來前一《ナヅミゾワガクルニ》(西)
(295)   名積敍吾來竝二《ナヅミゾワガコシ》(代精)
   名積敍吾來竝二《ナヅミゾワレコシ》 (童)
 ナヅミは、難澁、困難の意。動詞の名詞形。煎は、神田本に竝に作り、西本願寺本等に「前一」に作つているのにより、意をもつて改める。訓イルの上略である。煎を訓假字として使用した例は「津煎裳無《ツレモナキ》」(卷十三、三三四一)などある。竝二とするのは、二を竝べた意で、四の義として、シの音を表示したとしているのである。ケルは、動詞來に助動詞リの接続したもの、ゾを受けて連體形で留めている。ケルの訓は、反歌にケルを來有と書くによるもので、澤瀉博士の訓である。
【評語】筑波山の説明に多少の特色があるが、敍事に專であつて、佳品とは云いがたい。雪消の山道を敢えて登る部分を、もつと具體的に敍すべきであつた。
 
反歌
 
383 筑波嶺《つくはね》を
 よそのみ見つつ ありかねて、
 雪消《ゆきげ》の道を なづみ來《け》るかも。
 
 筑波根矣《ツクハネヲ》
 ※[廿+廿]耳見乍《ヨソノミミツツ》 有金手《アリカネテ》
 雪消乃道矣《ユキゲノミチヲ》 名積來有鴨《ナヅミケルカモ》
 
【譯】筑波山を、よそ事にばかり見てはあり得ないので、雪消の道を骨を折つて來ることだ。
【釋】築羽根矣 ツクハネヲ。ツクハネは、筑波山に同じ。「相模禰《サガムネ》」(卷十四、三三六二)、「伊香保禰《イカホネ》」(同、三四二一)などの例がある。
 ※[廿+廿]耳見乍 ヨソノミミツツ。ヨソは、自分に關係のない外事の意。※[廿+廿]は、四十の義であるが、十のソは、甲(296)類である。ほかの場所の意のヨソのソは乙類の音であるのに、ここに甲類のソを使つたのは假字ちがいである。
 有金手 アリカネテ。カネは、困難の意。
 雪消乃道矣 ユキゲノミチヲ。長歌の、雪消スル山道スラヲの句を、要約して言つている。
 名積來有鴨 ナヅミケルカモ。ケルは、來有の文字通り、キアリの約言と見るべく、難儀して來た意である。
【評語】長歌の後半部の意を要約している。説明的な歌である。
【參考】一 筑波山を詠んだ歌は多數であるから、歌の所在卷數、および番號のみを載せる。
 卷の八、一四九七
 卷の九、一七一二、一七五三、一七五四、一七五七、一七五八、一七五九、一七六〇
 卷の十四、三三五〇、三三五一、三三八八、三三八九、三三九〇、三三九一、三三九二、三三九三、三三九四、三三九五、三三九六
 卷の二十、四三六七、四三六九、四三七一
 二 福慈筑波の傳説。
  古老の曰はく、昔、祖《みおや》の神の尊、諸神《もろがみ》の處に巡り行《い》でまししに、駿河の國の福慈《ふじ》の岳《やま》に到りたまひて、卒《にはか》に日の暮に遇ひ、寓宿《やどり》を請《こ》ひ欲《ね》ぎたまひき。この時、福慈《ふじ》の神、答へて申さく、「新粟《わせ》の初嘗《にひなめ》して、家内《やぬち》諱忌《ものいみ》せり。今日の間は、冀《ねが》はくは許しあへじ」と申しき。ここに、祖の神の尊恨み泣きて罵告《の》りたまはく「汝《いまし》が親を何《な》ぞは宿さまく欲りせぬ。汝が居《す》める山は、生涯《いのち》の極《きはみ》、冬も夏も雪霜ふり、冷寒|重襲《かさな》り、人民《ひと》も登らず、飲食《をしもの》も奠《まつ》る者|無《な》けむ」と宣りたまひき。更に筑波《つくは》の岳に登りて、また容止《やどり》を請ひたまひき。この時、筑波の神答へて申さく「今夜は新粟嘗《にひなめ》すれども、敢へて尊旨《みこと》に違ひ奉らじ」と申しき。ここに飲食を設《ま》け、敬拜《をろが》み祗承《つか》へ奉りき。ここに祖の神の尊、歡然《よろこ》びて歌ひたまひしく、
(297)                      (下段は原文)
  愛《は》しきかも、わが胤《みこ》。      愛乎我胤
  巍《たか》きかも、神宮。           巍哉神宮
  天地の竝齊《むた》、             天地竝齊
  日月の共同《むた》、             日月共同
  人民《たみくさ》集《つど》ひ賀《ことほ》ぎ、 人民集賀
  飲食《みきみけ》富豐《ゆたか》に       飲食富豐
  代のことごと、                代代無v絶
  日に日に彌《いや》榮えむ。          日日彌榮
  千秋萬歳《ちよよろづよ》に、         千秋萬歳
  遊樂《たのしみ》窮《きはま》らじ。      遊樂不v窮
 と宣りたまひき。ここをもちて、福慈《ふじ》の岳《やま》は常に雪ふりて、登臨《のぼ》ることを得ず。その筑波の岳は、往き集ひ歌ひ舞ひ、飲み喫《く》ひすること、今に至るまで絶えざるなり。(常陸國風土記、もと漢文)
 
山部宿祢赤人歌一首
 
384 わが屋戸《やど》に 韓藍《からあゐ》蒔《ま》き生《おほ》し
 枯れぬれど、
 懲《こ》りずて亦も 蒔かむとぞ念ふ。
 
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》
 雖v干《カレヌレド》
 不v懲而亦毛《コリステマタモ》 將v蒔登曾念《マカムトゾオモフ》
 
(298)【譯】わたしの宿に韓藍を蒔いて生《はや》して、枯れたけれども懲りないでまたも蒔こうと思う。
【釋】吾屋戸尓 ワガヤドニ。ヤドは、文字通り家屋の戸が本義である。話者は、それに對してヤドの語を使用するので、屋内にいる時に家屋の戸口の意になるが、屋前の意にもなり、戸外にある時に住宅の意になる。ここは屋前の意に使つている。
 韓藍種生之 カラアヰマキオホシ。カラアヰは本草和名に「鷄冠草、和名|加良阿爲《カラアヰ》」とあり、今のケイトウである。種は、西本願寺本等に※[草がんむり/(禾+魚)]に作つているが、※[草がんむり/(禾+魚)]では意をなしかねるので、類聚古集等に種に作るによる。五句に「將蒔登曾念」とあり、それに照應するものとして、種生之をマキオホシと讀む。種は、下にも「春日野爾《カスガノニ》 粟種有世伐《アハマケリセバ》」(卷三、四〇五)とあり、種有をマケリと讀んでいる。韓藍を蒔いて生育させたのである。
 雖干 カレヌレド。干は、ここでは枯損の意のカレに使用している。
 不懲而亦毛 コリズテマタモ。枯れたけれども、それには懲りないで、またもの意。
 將蒔登曾念 マカムトゾオモフ。また種を蒔こうと思うの意。
【評語】何か寓意がありそうであるとの説が多いが、この卷には、譬喩歌の項目が別に立てられているので、編纂の當時、雜歌として解せられていたことは確かである。カラアイは、その花の汁を染料にするために栽培したもので、その苗の育たなかつたのを恨んだ歌と、單純に解しても、若干の興味は懸けられる。
(299)最古の短歌筆蹟
正倉院文書中、韓藍の花を詠んだ短歌の書かれている一葉で、短歌として現存せる最古の墨蹟である。筆者は誰ともわからないが、正倉院文書をしらべれば、わかりそうである。小野の國堅あたりかもしれない。
 
仙柘枝歌三首
 
【釋】仙柘枝歌 ヤマヒメツミノエノウタ。仙は、次の歌の左註に、柘の枝の仙媛とあり、仙媛の義と見られる。從來ヤマビトと讀まれているが、仙媛であるからヤマヒメと讀むべきである。柘は樹名、新撰字鏡に「豆美乃木《ツミノキ》」とし、倭名類聚鈔に「豆美《ツミ》」とある。クワの類である。これについて脇屋眞一君の來書に、
  昨日は、母校の恩師(蠶絲學擔當)を訪ね、數年ぶりにいろいろな教へを受けることができましたが、その中で、柘のことについて、學名はCudrania triloba, Hance といひ、和名はハリクワ。原産地は、支那、印度。日本への渡來時期は不詳であるが、昔の養蠶に用ゐたものは、あるいは柘であつたかも知れない。桑科の喬木で、樹高五〜七米に達し、節毎に鋭刺があるのでハリクワといふ。葉は全縁、無毛で厚くグミ(300)の葉に似て大なるもの、あるいは、柿の葉に似て、小なるもの、といへる。葉の先端が三裂することが往々にしてある爲、學名を triloba といふ。賈思※[刀三つ+思]の著した、齊民要術といふ本に記事がある。云々とのことでした。柘蠶《シヤサン》といふ蠶は好食するが、普通の蠶はあまり食べないさうですが、これを食べさせると、絲質を向上させる由でございます。齊民要術といふ本を持ちませんので、これ以上のことはわかりません。なほ、森林家必携といふ本を見ますと、ハリグワと掲出し、別名をドシヤ、學名を C、tricuspidata, Bureau. としてをり、植栽と話してゐるのは、野生なしといふ意味と解せられます。これには中華原産としてあります。
 仙覺の萬葉集註釋に、ツミは、トゲのあるクワであるとするのは、これに合うようである。柘枝は、下に引く屬日本後紀の長歌に、柘之枝とあるによつて、ツミノエと讀む。この柘の枝の仙媛に關する説話は、古く吉野川の附近に傳えられたと見られるのであるが、今はその纏まつた説話を傳えない。ただ萬葉集のこの三首の歌、續日本後紀の長歌、および懷風藻の詩句によつて、その大體が推測されるだけである。績日本後紀のは、仁明天皇の嘉祥二年三月に、興福寺の大法師等が、天皇の四十の寶算を賀し奉るとて、佛像、陀經尼を奉り、これに作り物と長歌とを添えて奉つたのであるが、その作り物のことを敍して「吉野(ノ)女、眇《ハルカニ》通(ヒテ)2上天(ニ)1而來(リ)且去(ル)等(ノ)像」とあり、長歌の中には「然禮度毛《シカレドモ》 世之理《ヨノコトワリト》 歡之《ヨロコビシ》 春介利《ハルニアリケリ》 何志弖《イカニシテ》 帝之御世《ミカドノミヨヲ》 萬代《ヨロヅヨニ》 重《カサネカザリテ》 奉 v令v榮《サカエシメタテマツラムト》 柘之枝《ツミノエノ》 由求禮波《ヨシモトムレバ》 佛許曾《ホトケコソ》 願成志多倍《ネガヒナシタベ》 聖而已《ヒジリノミ》 驗伊萬世《シルシハイマセ》」、また、「三吉野《ミヨシノニ》 有熊志禰《アリシクマシネ》 天女《アマヲトメ》(301) 來通《キタリカヨヒテ》 其後《ソノノチハ》 蒙v譴《セメカガフリテ》 ※[田+比]禮衣《ヒレゴロモ》 著爾支度云《キテトビニキトイフ》 是亦《コレモマタ》 此之嶋根《コレノシマネノ》 人爾詐曾《ヒトニコソ》 有岐度那禮《アリキトイフナレ》」とある。これによれば、吉野におつた熊志禰《くましね》という者のもとに、天女が來通つたが、後には譴《とがめ》を蒙つて、※[田+比]禮《ひれ》衣を著て飛び去つたというのである。萬葉集の歌によれば、吉野人|味稻《うましね》が、簗《やな》を打つて魚を漁しておつた處に、柘の枝が流れ下り、それを取り上げたように解せられる。この味稻が續日本後紀にいう熊志禰であり、懷風藻に美稻《うましね》とある人である。そうして柘の枝の仙媛というによれば、持ち歸つた柘の枝が、女に化して味稻と通じたものなるべく、それは、天女が柘の枝に化して流れ下つたとすべきである。なおこの説話に關係ありと見られる懷風藻の詩句を擧げれは、紀の男人の「遊(ブ)2吉野川(ニ)1」の詩に「萬丈(ノ)崇巖削(リ)成(シテ)秀(デ)千尋(ノ)素濤逆折(シテ)流(ル) 欲(ス)v訪(ハムト)鍾池越潭(ノ)跡 留連(ス)美稻逢(フ)v槎(ニ)洲」、丹※[土+穉の旁]《たじひ》の廣成の「遊(ブ)2吉野川(ニ)1」の詩に「栖(ミ)2心(ヲ)佳野(ノ)域(ニ)1 尋(ネ)2問(フ)美稻(ノ)津(ヲ)1」、同人の「吉野之作」の詩に「鍾池越潭豈凡類(ナラムヤ) 美稻逢v仙(ニ)月冰(ノ)洲」、藤原の史《ふひと》(不比等)の「遊(ブ)2吉野(ニ)1」の詩に「漆姫控(キテ)v鶴(ヲ)擧(リ) 柘媛接(リテ)v魚(ニ)通(フ)」、高向の諸足の「從2駕(ス)吉野(ノ)宮(ニ)1」の詩に「在昔釣魚(ノ)》士 方今留(ムル)v鳳(ヲ)公 彈(ジテ)v琴(ヲ)與v仙戯(レ)投(ジテ)v江(ニ)將《ト》v神通(フ) 柘(ノ)歌泛(ビ)2寒渚(ニ)1 霞景飄(ル)2秋風(ニ)1 誰(カ)謂(フ)姑射(ノ)嶺 駐(メテ)v蹕(ヲ)望(ム)2仙宮(ヲ)1」、中臣の人足の「遊(ブ)2吉野宮(ニ)1」の詩に「一朝(ニ)逢(フ)2柘民(ニ)1 風波|轉《ウタテ》入(ル)v曲(ニ)」等がある。これらは多少違つた傳えを詠んだものもあるであろう。この説話は、神婚説話の一種であつて、浦島説話と三輪山説話との連鎖をなす中間的存在として、重要な位置を占めている。ここに仙柘枝歌三首と題したのは、その柘の枝の仙媛の物語に關する歌三首の謂である。
 
385 霰|零《ふ》り 吉志美《きしみ》が嶽《たけ》を
 嶮《さか》しみと、
 草取り放《はな》ち、 妹が手を取る。
 
 霰零《アラレフリ》 吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》
 險跡《サカシミト》
 草取〓奈知《クサトリハナチ》 妹手乎取《イモガテヲトル》
 
【譯】霰が降つてきしむ、その吉志美が嶽が嶮岨なので、つかんだ草を放して、妻の手を取ることだ。
(302)【釋】霰零 アラレフリ。枕詞。霰が降つてきしむというので、吉志美に懸かるとされている。なお霰が降つてかしましいというので、鹿島にも冠せられている。
 吉志美我高嶺乎 キシミガタケヲ。吉志美が嶽は、吉野山中の一嶺と考えられるが、今のいずれであるかあきらかでない。タケは、高くあるものの義から、高嶺を讀んでいる。
 險跡 サカシミト。嶽ヲ險シミの形で、高嶺が嶮しくしての意になる。
 草取〓奈知 クサトリハナチ。
   クサトリハナチ(定本)
   ――――――――――
   草取可奈和《クサトルカナワ》(細一種)
   草取可奈和《クサトルカナヤ》(矢)
   草取可奈和《クサトリカナヤ》(玉)
   草取可禰手《クサトリカネテ》(槻)
 神田本には、草取可奈知に作つている。集中の例を按ずるに、ハと讀むべき處に、可を用いた例として、「之可夫可比《シハブカヒ》」(卷五、八九二)の如きがある。この上の可は〓の誤りかと推測されるので、今〓に作つて、この句をクサトリハナチと讀む。トリは接頭語で、下の動詞の意を強調する。手にした草を放しての意。〓を字音假字として使用した例には「不v思人〓《オモハズヒトハ》 雖v有《アラメドモ》」(卷十三、三二五六)がある。この字は、不可の意の字で、音ハである。
 妹手乎取 イモガテヲトル。イモは、ここでは、同行した女子をいう。愛人というほどの意である。
【評語】この歌は、民謠として流布していたらしく、類歌が傳えられている。妹と呼ばれる人と共に山に登るという特殊な内容は、山中において催される歌垣などの場處での發生であることを語つている。
【參考】一 別傳。
(303)  此の歌、肥前國風土記に見えたり。杵島《きしま》郡、縣の南二里に一の孤山あり。坤《ひつじさる》より艮《うしとら》を指して三峰あひ連る。是の名を杵島と曰ふ。坤なるは比古《ひこ》神と曰ひ、中なるは比賣《ひめ》神と曰ひ、艮なるは御子神と曰ふ。【一の名は軍神、ウゴクときは兵興る。】郷閭の士女、酒を提げ琴を抱き、歳毎の春秋、手を携へて登り望み、樂飲し歌舞し、曲盡きて歸る。歌詞に曰はく、霰降る杵島が嶽を嶮《さか》しみと草取りかねて妹が手を取る【是は杵島曲なり。】(萬葉集註釋)
 二 類歌。
  梯立《はしだて》の倉梯《くらはし》山を嶮しみと岩かきかねてわが手取らすも(古事記七〇)
 
右一首、或云、吉野人味稻、與2柘枝仙媛1歌也。但見2柘枝傳1、無v有2此歌1。
 
右の一首は、或るは云ふ、吉野人味稻の、柘の枝の仙媛に與へし歌なりといへり。但し柘枝傳を見るに、この歌あることなし。
 
【釋】或云 アルハイフ。何によつているか、また何人の言であるか、不明である。下の與柘枝仙媛歌也までをさしている。
 吉野人味稻 ヨシノビトウマシネ。柘の枝の説話中の人物。味稻は、懷風藻に美稻、續日本後紀に熊志禰とあり、ウマシネと讀まれる。語義は、神事にそなえる神聖な稻の義である。吉野川で簗《やな》を打つており、漁者と解せられ、この點、海幸山幸の説話、浦島の説話の男主人公と共通するものがある。
 與柘枝仙媛歌 ツミノエノヤマヒメニアタヘシウタ。柘の枝の仙媛は、柘の枝に化した仙女の義。この説話は、元來わが國の古傳説が、外來の神仙思想を取り入れて神仙譚化したものと考えられる。もと天女というが如き思想であつたものが、仙女として取り扱われるに至つたものであろう。吉野人味稻が、その柘の枝の仙媛(304)に與えた歌であると、或る人がいうのである。
 柘枝傳 サシデニ。柘の枝の説話を取り扱つた文章、または書籍の名であろうが、他に何の文獻もないので、一切不明である。その柘枝傳を見るに、この歌がないというのである。丹後國風土記の逸文には、伊預部《いよべ》の馬養《うまかひ》に、浦島の説話を書いた文がありといい、その風土記自身も、その説話を取り扱つて歌物語を構成している。奈良時代初期前後の文人が、在來の説話を素材としてかような神仙譚を作り成したものは、相當の數に上るべく、柘枝傳もそのようなものの一つであつたであろう。しかしその柘枝傳に、この歌がないにしても、他の傳えには、民謠として傳えられたこの歌を取り入れたものがあつたのであろう。
 
386 この暮《ゆふべ》
 柘《つみ》のさ枝の 流れ來《こ》ば、
 簗《やな》は打たずて 取らずかもあらむ。
 
 此暮《コノユフベ》
 柘之左枝乃《ツミノサエダノ》 流來者《ナガレコバ》
  者不v打而《ヤナハウタズテ》 不v取香聞將v有《トラズカモアラム》
 
【譯】 この夕方、柘の小枝が流れて來たら、簗《やな》は打たないで、取らないでかあるだろう。
【釋】此暮 コノユフベ。この歌の詠まれた時が夕暮であるので、かくいうが、柘の枝の説話に、柘の枝の流れ來たのも、夕暮であつたのであろう。
 柘之左枝乃 ツミノサエダノ。サは接頭語。本義は狹小であろうが、愛稱としてつける。サ霧、サ夜など。「明來者《アケクレバ》 柘之左枝爾《ツミノサエダニ》 暮去者《ユフサレバ》 小松之若末爾《コマヅガウレニ》」(卷十、一九三七)の例は、同じく柘の左枝と言つている。
 流來者 ナガレコバ。假設條件法。
 ※[木+梁]者不打而 ヤナハウタズテ。ヤナは、日本書紀神武天皇紀に「梁、此《コヲバ》云《イフ》2椰奈《ヤナト》1」とあり、倭名類聚鈔に「毛詩(ニ)云(フ)、梁、音良、夜奈《ヤナ》、魚(ノ)梁也」とある。木材を使用するので、※[木+梁]の字を使用する。今日でも行われる漁法(305)で、著者は、長野縣伊那で、天龍川に施設したものを見た。川中に杭を打ち、たいらに簀《す》を張つて、河水はすべてその箕の上に流れ落ち、共に流れ下る魚だけがその箕の上に殘るようにしたてたものであつて、落點を漁していた。杭を打つので、簗を打つという。簗を打つて置かないでの意。
 不取香聞將有 トラズカモアラム。流れ下る柘の枝を取らないでかあらむの意。カモは疑問の係助詞。
【評語】仙媛の化した柘の枝の流下するを、取らないであろうかという、假設の歌である。ある夕つ方、河を眺めてこの古説話を想い起して詠んだ歌である。吉野での作であろう。その説話に寄せた好奇の心が窺われる。五句は、運命に左右される所を感じている。次の歌は、桑の枝の流れることを歌つており、川のほとりには、この種の説話が傳わつていたもののようである。「つのさはふ磐《いは》の姫が、おほろかに聞《きこ》さぬうら桑の木。よるましじき川のくまぐま、よろぼひゆくかも。うら桑の木」(日本書紀五六)。
 
右一首
 
【釋】右一首 ミギノヒトツ。前の歌の作歌事情などについて説明するはずであつたのであろうが、その記事を作るに至らずしてやんだものである。何人か吉野川に遊んで、古説話を想つて詠んだ歌と解せられる。細井本(第一種)にこの下に「此下無v詞、諸本同」とあるは、後人の書入れである。
 
387 古に 簗《やな》打つ人の なかりせば、
 此間《ここ》もあらまし 柘の枝はも。
 
 古尓《イニシヘニ》 ※[木+梁]打人乃《ヤナウツヒトノ》 無有世伐《ナカリセバ》
 此間毛有益《ココモアラマシ》 柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》
 
【譯】昔、簗を打つ人がなかつたら、今ここにもあつたろう柘の枝がなあ。
【釋】古尓 イニシヘニ。昔の柘の枝の説話の事件のあつた時代をイニシヘといつている。勿論、何時の時代(306)とも知られない。
 ※[木+梁]打人乃 ヤナウツヒトノ。簗を施設する人ので、吉野人味稻をいう。
 無有世伐 ナカリセバ。なかつたならばの假設條件法。
 此間毛有益 ココモアラマシ。此間は、場處についていう。この處の意である。ココニモと讀むと、他の處にもこの處にもの意になつて不可である。アラマシは、不可能の希望で、あつたらなあの意。これは連體形で、次の句に續く。マシの連體形の例は、「高光《タカヒカル》 我日皇子乃《ワガヒノミコノ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所v知麻之《クニシラサマシ》 島宮波母《シマノミヤハモ》」(卷二、一七一)、「馬名目而《ウマナメテ》 往益里乎《ユカマシサトヲ》」(卷六、九四八)などある。
 柘之枝羽裳 ツミノエダハモ。ハモは、或る事物を提示して感嘆する意を表示する助詞。ハの下に省略のある感じで、含蓄を深くする。
【評語】昔の人が簗を打つて、柘の枝を取り上げたので、今はなくなつたのを惜しむ心である。これもその仙女に好奇心を寄せている。前の歌に對する唱和の作のように考えられる。
 
右一首、若宮年魚麻呂作
 
【釋】若宮年魚麻呂 ワカミヤノアユマロ。傳未詳。作歌はこの一首のみであるが、誦した歌というのには、次の羈旅の歌があり、卷の八の櫻花の歌がある。多分歌手として知られた人であつて、それらの歌を吟誦したのであろう。柘の枝の説話の如きをも語り傳えたのかも知れない。
 
羈旅歌一首 并2短歌1
 
羈旅の歌一首【短歌并はせたり。】
 
(307)【釋】羈旅歌 タビノウタ。旅中で作つた歌の由である。歌詞によるに、淡路島の北部の海岸で作つたらしい。
 
388 海若《わたつみ》は 靈《くす》しきものか。
 淡路島 中に立て置きて、
 白浪を 伊與《いよ》に廻《めぐ》らし、
 座待月《ゐまちづき》 明石《あかし》の門《と》ゆは、
 夕されば 汐を滿たしめ、
 明けされば 潮《しほ》を干《ひ》しむ。」
 潮騷《しほさゐ》の 浪を恐《かしこ》み
 淡路島 礒隱《いそがく》りゐて、
 何時《いつ》しかも この夜の明けむと、
 さもらふに 寐《い》の宿《ね》がてねば、
 瀧《たぎ》の上の 淺野の雉《きぎし》
 明けぬとし 立ち響《とよ》むらし。」
 いざ兒《こ》ども 敢《あ》へて榜《こ》ぎ出《で》む。
 にはも靜けし。」
 
 海若者《ワタツミハ》 靈寸《クスシキ・アヤシキ》物香《モノカ》
 淡路島《アハヂシマ》 中尓立置而《ナカニタテオキテ》
 白浪乎《シラナミヲ》 伊與尓《イヨニ》廻之《メグラシ・モトホシ》
 座待月《ヰマチヅキ》 開乃門從者《アカシノトユハ》
 暮去者《ユフサレバ》 鹽乎令v滿《シホヲミタシメ》
 明去者《アケサレバ》 鹽乎令v干《シホヲヒシム》
 鹽左爲能《シホサヰノ》 浪乎恐美《ナミヲカシコミ》
 淡路島《アハヂシマ》 礒隱居而《イソガクリヰテ》
 何時鴨《イツシカモ》 此夜乃將v明跡《コノヨノアケムト》
 待從尓《サモラフニ》 寢乃不v勝v宿者《イノネガテネバ》
 瀧上乃《タギノウヘノ》 淺野之雉《アサノノキギシ》
 開去歳《アケヌトシ》 立《タチ》動《トヨム・サワク》良之《ラシ》
 率兒等《イザコドモ》 安倍而榜出牟《アヘテコギデム》
 尓波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》
 
【譯】海の神は神秘なものだ。淡路島を中に立てておいて、白浪を伊豫に廻し、座待《いまち》月の光さす明石の海峽か(308)らは、夕方になれは汐を滿たしめ、夜が明けて來れば潮を干させる。その潮の騷ぐ處の浪が恐しいので、淡路島の礒に隱れていて、何時になつたらこの夜が明けるだろうと、見守つておれば眠りをしかねるのに、瀧のほとりの淺い野の雉が、夜が明けたと鳴くようだ。さあ皆の者、進んで榜ぎ出そう。海上もしずかだ。
【構成】三段から成つている。明ケサレバ潮ヲ干シムまで第一段、海の神秘を説き、殊に明石海峽の潮流を語る地理的總説の部分である。明ケヌトシ立チ響ムラシまで第二段。淡路島の礒に隱れて夜明けを待つたことを敍している。作者の行動の敍述である。以下第三段、これからの行動について述べる。
【釋】海若者 ワタツミハ。海若は、漢文で海神の義である。ワタツミは海の神、古事記に綿津見の神と記し、また海洋の義にもいうが、ここは海の神性についていう。
 靈寸物香 クスシキモノカ。クスシは、神秘靈妙の意の形容詞。カは感動の助詞。以上二句で一文を成している。以下の明ケサレバ潮ヲ干シムまでに對する總評である。
 淡路島中尓立置而 アハヂシマナカニタテオキテ。ナカは、中央、中心の意。この一節は、海を主として地理的に、瀬戸内海東部の形勢を敍しているので、まずここに淡路島を中に立て置いてというのである。以下、潮ヲ干シムまで、主格は海神である。
 伊與尓廻之 イヨニメグラシ。イヨニメグラシ(西)、イヨニモトホシ(槻)。メグルは、周廻する意の動詞。同じく海神が白浪を伊豫に周廻させの意。遠く伊豫を點出したのは、内海の大觀を敍するためであるが、この作者が伊豫の方面から船を榜ぎ出して來たので、自然この地名が擧げられたのであろう。但し、古事記には、四國を伊與の二名《ふたな》の島というので、四國の代表名としての意もあると見られる。
 座待月 ヰマテヅキ。枕詞。寐ずして坐して待つ月の意で、十七夜以後の月にいう。その月はあかるいので、明石の枕詞となつている。
(309) 開乃門從者 アカシノトユハ。アカシノトは明石の海峽。開の字は、アカシの音をあらわすのに借用している。ユは、そこを通しての意を示す。
 暮去者鹽乎令滿 ユフサレバシホヲミタシメ。シホは海水。明石の海峽を通じて海水を滿たしめるの意で、同じく海神が、さようにさせるとしている。
 明去者鹽乎令干 アケサレバシホヲヒシム。上の夕サレバ汐ヲ滿タシメに對して對句をなしている。夜があけてくれば潮を干しめるの意。但し夕と夜明けとに分けていつているのは、單に對句表現であつて、夕方は滿潮、朝は干潮に限つている次第ではない。瀬戸内海の潮流は、外洋の滿潮時に紀伊水道から入り、明石海峽を西方に向かつて流れ、干潮時にそれと逆に明石海峽を東方に向かつて流れる。その潮流の盛んな時には、相當に急調で、當時の船舶にとつては、航行に大きな影響を與えるものである。一般的状勢を語つてはいるが、小船航行の經驗あるものにして、始めていい得るところである。ここまで第一段で、すべて海神を主格として、その行動を敍している趣に、内海の地理を説いている。
 鹽左爲能 シホサヰノ。シホサヰは海水の騷ぎ。第一段に、明石海峽の潮流が、滿干によつて變化することを説いたのを受けて、この句を起しており、第二段の敍述の位置は、明石海峽に近い淡路島の海岸であることが知られる。以下作者自身の行動の敍述である。
 浪乎恐美 ナミヲカシコミ。浪は潮騷による浪であるが、實際は、やや風波が強かつたらしい。浪がおそろしくして。
 礒隱居而 イソガクリヰテ。礒は淡路島の礒で、その礒に船を寄せて、風波の難を避けていてである。
 何時鴨 イツシカモ。シは強意の助詞、カモは疑問の係助詞で、明ケムに懸かる。何時か何々であろうの意になるが、何時か何時かと待つ意が強くなる。
(310) 此夜乃將明跡 コノヨノアケムト。ここに礒がかりをしたのが夜であることがあきらかにされる。夜間は航行を中止して礒邊に假泊するのである。
 待從尓 サモラフニ。
   マツヨリニ(西)
   マツカラニ(代初)
   マツママニ(考)
   ――――――――――
   侍從爾《サフラフニ》(細二種)
   待候爾《マチマツニ》(玉)
   待候爾《サモラフニ》(玉)
   侍候爾《サモラフニ》(槻)
   待候爾《マモラフニ》(※[手偏+君])
 細井本に、待を侍に作つているのは、原形であるかも知れないが、他本の支持はない。これはもと侍從爾とあつたものを、從の字の形に惹かれて、上の侍の字を待に作るに至つたものと見るべきである。かような例は、感嬬と書くべくして※[女+感]嬬と書き、俳諧と書くべくして誹諧と書くが如き類である。侍從は侍候する意で、サモラフと讀む。「雖2侍候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》」(卷二、一九九)などの例がある。句の意は、風波の成行を注意しているにの意である。
 寐乃不勝宿者 イノネガテネバ。イは睡眠、ネはその動詞。ガテネは困難なるをいう語。眠りがなしがたいのにの意。このネバは、ヌニというに同じ意になる。
 瀧上乃 タギノウヘノ。タギは激流。溪谷の上方の意である。
 淺野之雉 アサノノキギシ。淡路島の北端から二里ばかりの地に淺野の地名があるが、ここは普通名詞として、その野の状をいうと見るがよい。草の淺く生えた野である。雉は、古語にキギシという。その鳥の鳴聲によつて名となつたものであろう。
(311) 開去歳 アケヌトシ。トは文詞を受ける助詞。シは強意の助詞。キジは夜明けに鳴く習性を有しているので、時にこの句がある。
 立動良之 タチトヨムラシ。動は、サワクともトヨムとも讀まれている。サワクとトヨムとの相違については、集中、騷、驟、諷、散動、※[足+參]の如き字をサワキと讀み、響の字をトヨムと讀んでいる。これによれば、サワクは、音響と形状とについていい、トヨムは音響のみについていうと解せられる。キジについては、いずれにもいい得るが、「阿遠夜麻爾《アヲヤマニ》 奴延波那伎《ヌエハナキ》 佐恕都登里《サノツトリ》 岐藝斯波登與牟《キギシハトヨム》」(古事記二)、「※[人偏+爾]播都等利《ニハツトリ》 柯稽※[白+番]儺倶《カケハナク》 恕都等利《ノツトリ》 枳蟻矢播等金武《キギシハトヨム》」(日本書紀九六)の例に、キギシハトヨムとあるにより、ここもタチトヨムラシと讀む。鳴聲、羽ばたきなどを併わせいうと見られる。ラシは、その物音を立てる理由を、夜が明けたと騷ぐのだろうと推量している。以上第二段。風波を避けて淡路島の礒邊に船がかりし、夜明けを迎えたことを敍している。
 率兒等 イザコドモ。イザは誘う語。コドモは船人たちをいう。呼び懸けている語法である。
 安倍而榜出牟 アヘテコギデム。アヘテは、押しての意。困難をもおかしてする氣持である。進んで榜ぎ出そうとするのである。句切。
 尓波母之頭氣師 ニハモシヅケシ。ニハは海上。礒邊から見た海上がしずかであると敍している。「飼飯海乃《ケヒノウミノ》」(卷三、二五六)の歌參照。以上第三段、船人に呼び懸けて、出帆の決意を語つている。
【評語】相當の長篇であるが、整然として歌われ、詞句も弛緩していない。まず海神の神秘を稱え、地理的構成を敍したあたり、堂々たる風格である。これによつて規模を大ならしめている。それから自身の敍述に入つて、假泊して夜明けを待つ有樣を敍し、最後に出航の決意を語つて、海上のしずかなよしを歌い、全體を結んでいるが、連絡もあり、照應もあつて、名作とするに足りる。
 
(312)反歌
 
389 島傳ひ
 敏馬《みぬめ》の埼を 榜《こ》ぎ廻《み》れば、
 大和|戀《こほ》しく 鶴《たづ》さはに鳴く。
 
 島傳《シマヅタヒ》
 敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》 許藝廻者《コギミレバ》
 日本戀久《ヤマトコホシク》 鶴左波尓鳴《タヅサハニナク》
 
【譯】島づたいして敏馬の埼を榜いで廻つて行けば、大和が戀しく鶴がたくさん鳴いている。
【釋】島傳 シマヅタヒ。島づたいしての意で、下の榜ギ廻レバを修飾する。ここにシマというのは、敏馬の埼附近の、海に面した地をいう。このシマを島嶼だとし、この附近に島嶼なしなどいう解は誤りである。「二梶貫《マカヂヌキ》 礒榜廻乍《イソコギミツツ》 島傳《シマヅタヒ》 雖v見不v飽《ミレドモアカズ》 三吉野乃《ミヨシノノ》 瀧動々《タギモトドロニ》 落白浪《オツルシラナミ》」(卷十三、三二三二)の例における島傳は、ここと同じく水に臨める山に添い行く意である。そのほか、「宇都久之氣《ウツクシケ》 麻古我弖波奈利《マコガテハナリ》 之末豆多比由久《シマヅタヒユク》」(卷二十、四四一四)など用いられている。
 敏馬乃埼乎 ミヌメノサキヲ。敏馬の埼は、今の神戸の東部附近の岬角である。
 許藝廻者 コギミレバは。榜いで廻れば。ミレバは、迂廻して行けばの意。「榜廻舟者《コギミルフネハ》」(卷三、三五七)參照。
 日本戀久 ヤマトコホシク。ヤマトは大和の國をいう。次の句の、鶴の鳴くわけを説明している。「榜手廻行者《コギタミユケバ》」(卷三、二七三)參照。
 鶴左波尓鳴 タヅサハニナク。サハニは、鶴の多數なのをいう。「鵠左波二鳴《タヅサハニナク》」(卷三、二七三)參照。鶴も大和を戀しく思つて鳴いていると歌つている。
【評語】長歌を受けて、淡路島を出航して進行した結果を歌つている。長歌の内容から前進しているので、か(313)ような反歌の歌い方は、たとえば、輕の皇子の安騎野に出遊せられた時の柿本の人麻呂の作歌(卷一、四五−四九)にも見られる。鶴が大和戀しく鳴いているというのは、作者の情を、鳥に托しているのであつて、景中に情を托したいい方である。これも佳作とするに足りる。
 
右歌、若宮年魚麻呂誦之。但未v審2作者1
 
右の歌は、若宮の年魚麻呂|誦《よ》めり。但しいまだ作者を審にせず。
 
【釋】誦之 ヨメリ。誦は、吟誦の意にも、暗誦の意にも使用される字であるが、ここは吟誦の意である。集中、宴席などで誦することがしばしば傳えられ、その方法は不明であるが、相當の技術を要したものであろう。これが古くから歌いものとして歌われた歌との關係は、未詳であるが、それとは違つた特別の吟誦法であつたのではないかと考えられる。
 未審作者 イマダヨミビトヲツマビラカニセズ。萬葉集の編者が、上の※[羈の馬が奇]旅の歌の作者の未詳なのを註記したのである。上の若宮年魚麻呂誦之の筆者と同人であるとすれば、多分大伴の家持であろう。
 
譬喩歌
 
【釋】譬喩歌 ヒユカ。譬喩を主なる表現方法とする歌の謂で、この卷には、短歌のみ二十五首を收めている。一首全體が譬喩になつているものが多いが、一部に本意の露出しているものも若干ある。譬喩に用いた材料としては、植物が斷然多く十四首に上り、内容としては、おおむね男女間の戀情を歌つたものと推考される。贈答相聞の歌である旨を題したもの十一首あり、この點では、大體相聞の歌の一分野であることが知られる。卷の一二の兩卷には、譬喩をその主成分とする歌もありながら、譬喩歌の項目を立てずに、雜歌、相聞、挽歌の(314)三類としているのに、ここに至つてこの項目を立てたのは、編纂の方針の相違を示すものであり、從つて編纂者の相違ということも考慮される。なおこの卷以外に、譬喩歌の項目を立てたのは、卷の七、十一、十三、十四の諸卷であり、卷の十には、春の雜歌、夏の雜歌、秋の相聞に、それぞれ譬喩歌を附收している。元來譬喩歌は、修辭の上から立てた分類であつて、雜歌、相聞、挽歌等と、分類上の性質を異にするものであるが、歌の修辭としてこれが目立つところから、立てられたのであろう。譬喩は、本意を露出することに躊躇もしくは困難を感ずる時に、使用されるものであつて、これによつて婉曲なる表現を得、もしくは理解を容易ならしめ得るのである。現代の作歌道では、これを作爲的であるとして忌避するのであるが、それは相聞贈答の用途がすくなくなつたためであつて、相聞贈答のさかんに行われた上代にあつては、これが有力な表現方法であつたのである。古事記日本書紀の歌謠にあつては、譬喩を用いたものが、とくに多數である。
 
紀皇女御歌一首
 
【釋】紀皇女 キノヒメミコ。天武天皇の皇女、穗積の皇子の御妹。「於能禮故《オノレユヱ》 所v罵而居者《ノラエテヲレバ》 ※[馬+總の旁]馬之《アヲウマノ》 面高夫駄爾《オモタカブダニ》 乘而應v來哉《ノリテクべシヤ》」(卷十二、三〇九八)の左註に「右の一首は、平群《へぐり》の文屋《ふみや》の朝臣益人傳へ云ふ、昔聞きしくは、紀の皇女の竊に高安の王に嫁《とつ》ぎて、嘖めらえし時に、この歌を作りたまひき。但し高安の王は、左降して伊與《いよ》の國の守《かみ》に任《ま》けらえきといへり」とあり、この歌も、その當時の作であろうかという。續日本紀、養老三年七月の條に「伊豫(ノ)國(ノ)守從五位(ノ)上高安(ノ)王」とあるから、その前の事になる。
 
390 輕《かる》の池の ※[さんずい+内]《うら》み往き轉《み》る 鴨すらに、
 玉藻の上に ひとり宿《ね》なくに。
 
 輕池之《カルノイケノ》 ※[さんずい+内]廻往轉留《ウラミユキミル》 鴨尚尓《カモスラニ》
 玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》 獨宿名久二《ヒトリネナクニ》
 
(315)【譯】輕の池の浦を行きめぐる鴨でも、美しい藻の上に、ひとりでは寐ないのです。
【釋】輕池之 カルノイケノ。輕は奈良縣高市郡畝傍町東南方の地名。輕の池は、應神天皇の十一年にこれを作らしめられたが、今、大輕の地に現存している。當時皇女の居處が、その附近にあつたのであろう。
 ※[さんずい+内]廻往轉留 ウラミユキミル。
   イリエメグレル(西)
   ウラミユキメグル(定本)
   ――――――――――
   納廻往轉留《イリエメグレル》(類)
   納囘往轉留《イリエユキメグル》(代初)
   納囘往轉留《ウラワユキメグル》(代初書入)
   ※[さんずい+内]囘往轉留《ウラワユキメグル》(考)
   ※[さんずい+内]囘往轉留《ウラミユキメグル》(考)
   納囘往轉留《ウラミユキタムル》(槻)
   ※[さんずい+内]囘往轉留《ウラミモトホル》(槻)
   ※[さんずい+内]囘往轉留《ウラマユキメグル》(攷)
 ※[さんずい+内]は、水の隈曲《わいきよく》をいう字で、國語のウラに當る。ミは接尾語。ウラの彎曲せる地形であることを示す。ユキミルは有坂秀世博士の説による。「榜廻舟者《コギミルフネハ》」(卷三、三五七)參照。
 鴨尚尓 カモスラニ。スラは、一を擧げて他を類推させる助詞。スラニの用例、「加苦思※[氏/一]也《カクシテヤ》 安良志乎須良爾《アラシヲスラニ》奈氣枳布勢良武《ナゲキフセラム》」(卷十七、三九六二)。鴨ですらかくの如し、いわんや人はの如き意を寓している。
 玉藻乃於丹 タマモノウヘニ。於は上と同じくウヘの語に當てて使用されている。玉藻は、藻の美稱。
 獨宿名久二 ヒトリネナクニ。ネナクは、寐ぬことの意。ニは助詞。輕く添えている。
【評語】切な物思いを鴨に寄せて歌つている。直接に思う所を述べては露骨に過ぎ、粗野に陷るのを、譬喩を(316)使つて詠み出したところに、間接的な效果を生じて來る。鴨が玉藻の上に獨寐をしないということは、結局作者自身のことについて述べているので、獨寐を欲しない意であるが、それが露骨にならないところがよいのである。譬喩歌として代表的な作品ということができよう。
 
造筑紫觀世音寺別當沙弥滿誓歌一首
 
【釋】造筑紫觀世音寺別當沙弥滿誓 ザウツクシクワニゼオニジノカミサミマニゼイ。既出(卷三、三三六)。
 
391 鳥總《トブサ》立て 足柄山に 船木《ふなぎ》伐《き》り、
 樹に伐り行きつ。
 あたら船材《ふなぎ》を。
 
 鳥總立《トブサタテ》 足柄山尓《アシガラヤマニ》 船木伐《フナギキリ》
 樹尓伐歸都《キニキリユキツ》
 安多良船材乎《アタラフナギヲ》
 
【譯】樹の葉先を立てて、足柄山に船材を伐る。そのように材木として伐つて行つた。惜しい船材であつた。
【釋】鳥總立 トブサタテ。「登夫佐多※[氏/一]《トブサタテ》 船木伎流等伊布《フナギキルトイフ》 能登乃島山《ノトノシマヤマ》」(卷十七、四〇二六)の「登夫佐多※[氏/一]《トブサタテ》」と同語と認められる。トブサは數説あるが、顯昭の袖中抄に、木の末をいうとする説が有力である。字鏡集に、朶にトフサの訓があり、朶は、枝葉の茂つている樹梢をいう。「わが思ふ都の花のとふさゆゑ君もしづえのしづ心あらじ」(後拾遺集卷十三、大中臣の輔親)、「卯の花も神のひもろぎかけてけりとふさもたわにゆふかけて見ゆ」(堀川百首、源の俊頼)のトフサも、この意である。この句は、樹木を伐つて、その伐り跡に樹梢の枝葉を伐つて插す風習があるにより、第三句の、船木伐リの説明となつていると解せられている。これは山の神に奉る意味のもので、延喜式の大殿祭の祝詞に「今奥山大峽小峽《イマオクヤマノオホカヒヲカヒニタテルキヲ》、齋部齋斧以《イムベノイムヲノヲモチ》、伐採※[氏/一]《キリトリテ》、本末乎波山神※[氏/一]《モトスヱヲバヤマノカミニマツリテ》、中間持出來※[氏/一]《ナカホドヲモチデキテ》」とあるのも、この意であるとされる。以上は講義の説く所によつたのである(317)が、今日ではこの説が穩當とされる。ほかには、トブサを斧の義とする説があり、樹を伐る時に、斧を立てる風習があるといつている。
 足柄山尓 アシガラヤマニ。足柄山は、神奈川縣と靜岡縣との縣境の山で、古くから船材の産地として知られていた。この歌では、ただ船材の産地として擧げられただけで、特別の關係があるのではなかろう。
 船木伐 フナギキリ。フナギは、船材。當時、船材としては巨樹を要したので、巨樹を伐る意になる。
 樹尓伐歸都 キニキリユキツ。キニは、船材としての意。樹木を船材として伐つて行つたの意。句切。
 安多良船材乎 アタラフナギヲ。アタラは、惜しいの意の語で、副詞である。「阿多良須賀波良《アタラスガハラ》」(古事記六五)、「安多良佐可里乎《アタラサカリヲ》 須具之弖牟登香《スグシテムトカ》」(卷二十、四三一八)などの用例がある。ヲは感動の助詞で、フナギヲは、船材なるかなの如き意である。氣分としては、上の敍述を顧みる意があるが、船材を伐り行きつとして片づけるのは不可である。まだ古いヲの用法が殘つていると見るべきである。
【評語】寓意はあきらかで、ある女を船材の樹木に比したと見られる。作者が僧侶であるから、かような戀の歌があるべきでないとして、在俗の時の作であろうともいい、また戀の歌ではないとして解釋する説(代匠記)もあるが、それは當つていないであろう。滿誓が觀世音寺に住してから、寺に屬する女子に通じたことは、三三六の歌の條に記した。この歌はその事件と關係があるかないかは知れないが、この人に戀の歌があつたとして何の不思議もない。また沙彌の語は、在家のままで剃髪している人にもいうのであつて、戒律嚴重の僧とは違う所がある。形だけは佛徒の姿をし誦經などを事としても、生活その他は一般人とあまり相違しなかつたのであろう。靈異記には、出家をして、一方には妻子をもち、家事をいとなんでいた生活を語つているものがある。これは特殊のことではない。後世の書であるが、元亨釋書に「國俗、不v全(クセ)2梵儀(ヲ)1、有(ル)2妻子1者(ノ)在(ルヲ)v家(ニ)、稱(ス)2沙彌(ト)1」とある。歌の調子は、歌いものふうなところがあり、詠嘆これを久しうしたという氣分が出ている。(318)ひそかに目がけていた女を、人が手をつけてしまつた。既に老境にはいつていたであろう作者の、それを見せつけられた氣特が歌われていると見られる。
 
大宰大監大伴宿祢百代梅歌一首
 
【釋】大宰大監 オホキミコトモチノオホキマツリゴトビト。大宰府の官名で、上から、帥、大貳、小貳、大監、小監、大典、小典の順になつている。大監は、職員令に、府内を糺判し、文案を審署し、非違を察することを掌るとある。
 大伴宿祢百代 オホトモノスクネモモヨ。系統不明。天平二年頃に大宰の大監であつた。續日本紀には、大伴の宿禰百世とあり、天平十年閏七月に、外從五位の下をもつて兵部の少輔となり、十三年八月に美作の守、十五年十二月に、筑紫鎭西府の副將軍、十八年四月に從五位の下、九月に豐前の守、十九年正月に正五位の下となつている。
 
392 ぬばたまの その夜《よ》の梅を、
 た忘れて 折らず來にけり。
 思ひしものを。
 
 烏珠之《ヌバタマノ》 其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》
 手忘而《タワスレテ》 不v折來家里《ヲラズキニケリ》
 思之物乎《オモヒシモノヲ》
 
【譯】あの晩の梅を、忘れて折らないで來てしまつた。思つていたのだが。
【釋】烏珠之 ヌバタマノ。既出(卷二、一六九)。枕詞。ヌバタマはカラスオウギ草の實。黒いので、黒、夜の枕詞になつている。ここは夜に懸かつている。
 其夜乃梅乎 ソノヨノウメヲ。ソノヨは、特に指示する夜で、宴會などの事があつたのであろう。梅は、そ(319)の宴席などに侍した女をいう。
 手忘而 タワスレテ。タは接頸語。タが動詞に接續するものには、タヲル、タモトホル等がある。
 不折來家里 ヲラズキニケリ。梅を折らずに來たというので、かの女子を手に入れなかつたことを寓している。句切。
 思之物乎 オモヒシモノヲ。ヲは感動の助詞。上の敍述を顧みる氣特がある。折ろうと思つていたのだがの意。
【評語】その夜に見た女子を、手に入れなかつたことを後になつて殘念がつている。忘れて折らなかつたというのだから、一時的な興味だつたのであろう。格別の歌ではない。
 
滿誓沙弥月歌一首
 
393 見えずとも 誰《たれ》戀ひざらめ。
 山の末《は》に いさよふ月を
 よそに見てしか。
 
 不v所v見十方《ミエズトモ》 孰不v戀有米《タレコヒザラメ》
 山之末尓《ヤマノハニ》 射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》
 外見而思香《ヨソニミテシカ》
 
【譯】見えないでも誰も戀いずにはいられない。山の端にためらつている月を、よそながらも見たいものだ。
【釋】不所見十方 ミエズトモ。まだ山を出ないで、視界にはいらない月を、よし見えないでもの意で、トモは雖である。
 孰不戀有米 タレコヒザラメ。タレの如き疑問の語を受けて、已然形をもつて結んで、反語になる。誰か戀せぬ者あらんやの意である。月は見えないでも戀せずにはいられないの意で、ある女子を月に比している。この語法には「玉葛《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成有者《ナラザルハ》 誰戀爾有目《タガコヒニアラメ》 吾孤悲念乎《ワガコヒオモフヲ》」(卷二、一〇二)の如き例がある。
(320) 山之末尓 ヤマノハニ。ヤマノハは、山の端で、ここは月の出る處をいう。「山之葉爾《ヤマノハニ》 不知世經月乃《イサヨフツキノ》」(卷六、一〇〇八)、「山乃波爾《ヤマノハニ》 月可多夫氣婆《ヅキカタブケバ》」(卷十五、三六二三)など、この意である。
 射狹夜歴月乎 イサヨフツキヲ。イサヨフは躊躇徘徊する意。出ようとしてためらつている月をの意。十六夜の月を、イサヨヒノ月というは、出る時間がやや遲いからいうのである。
 外見而思香 ヨソニミテシカ。ヨソニは、よそながらの意。ミテシカは、見たい意の希望の語法。シカが希望の助詞。シは時の助動詞キの連體形、カは疑問の助詞であろうが、熟語となつて、希望の意を生ずる。「眞ソカガミミシカトオモフイモモアハヌカモ
 
」(卷十一、二三六六)の如きは、動詞に直にシカが接續している。しかしテシカの例の方が多い。テシカの例には、「多都能馬母《タツノマモ》 伊麻勿愛弖之可《イマモエテシカ》」(卷五、八〇六)、「霍公鳥《ホトトギス》 無流國爾毛《ナカルクニニモ》 去而師香《ユキテシカ》」(卷八、一四六七)等がある。このシカは清音で、このカを、希望の助詞ガ(モガなどのガ)とするのは、語原的には同じであるかもしれないが、分化をとげたものとしては別である。
【評語】作者の前にあらわれようとしている女子を思つて詠んでいる。話に聞いているその女子の美しさにあこがれている氣持である。
 
余明軍歌一首
 
【釋】余明軍 ヨノマウグニ。人名。余は、百濟王族の氏で、同氏の中には、百濟氏となつたものもある。但し西本願寺本等には、金に作つているが、金氏は新羅王族の氏である。明軍は、大伴の旅人の薨去の時の歌(卷三、四五八)の左註に資人とあり、大伴の旅人の資人であつた。
 
394 標《しめ》結《ゆ》ひて わが定めてし、
(321) 住吉《すみのえ》の 濱の小松は、
 後もわが松。
 
 印結而《シメユヒテ》 我定義之《ワガサダメテシ》
 住吉乃《スミノエノ》 濱乃小松者《ハマノコマツハ》
 後毛吾松《ノチモワガマツ》
 
【譯】標繩を結んで、わたしのきめておいた住吉の濱の小松は、將來もわたしの松だ。
【釋】印結而 シメユヒテ。シメユフは既出(卷二、一五四)。占有のしるしの繩を結う意。自分のものとするしるしを附けること。
 我定義之 ワガサゲメテシ。わが定めておいたの意で、連體形。義之をテシと讀むのは、玉の小琴に、王羲之の羲之を誤つたもので、王羲之は書道の聖だから、手師《てし》の義によつてテシに當てたのであつて、「結大王《ムスビテシ》 白玉之緒《シラケマノヲ》」(卷七、一三二一)の如き大王の文字をテシに當てたのも、王羲之のことであるとしている。この説は確説として從うべきであるが、羲之とあつたのを誤つたものか、もとから義之と書かれていたものかは不明である。
 住吉乃濱乃小松者 スミノエノハマノコマツハ。ある女子を小松に譬えている。この住吉も、この内(322)容に直接關係のない地名であつて、松の多くある地として擧げられたのであろう。
 後毛吾松 ノチモワガマツ。ノチは、後來の時、將來である。將來もわが物であるの意を寓している。
【評語】譬喩の意はあきらかである。住吉の濱の小松は、その地の娘子などについて歌つているかも知れないが、多分、小松の名所として取り上げられているのであろう。白浪のうち寄せる愛すべき濱邊の小松の意が示されている。前の足柄山などと共に、作者に直接關係のない地名が、詠み入れられたものとすれば、後世の歌に、名所を詠み込むことの先蹤をなすものである。ある事物の名所としての歌枕の成立が指摘される。
 
笠女郎、贈2大伴宿祢家持1歌三首
 
笠の女郎の、大伴の宿禰家持に贈れる歌三首。
 
【釋】笠女郎 カサノヲミナ。笠氏の女子であるが、系譜未詳。笠の金村の歌が本集にはいつているのによれば、金村の縁者であるかもしれない。金村には女子があつたようだ。この歌のほかに、卷の四に二十四首、卷の八に二首あり、いずれも大伴の家持に贈つた歌であつて、兩者間の關係が窺われる。
 大伴宿祢家持 オホトモノスクネヤカモチ。家持は、本集に關係の深い人であるが、その名の出たのはこれを初見とする。その傳記については、下の作歌(四〇三)の條に記すこととする。笠の女郎は、家持の身邊近くにもおり、また別れても住んでいたようである。
 
395 託馬野《たくまの》に 生《お》ふる紫草《むらさき》
 衣《きぬ》に染《し》め、
 いまだ著ずして 色に出でにけり。
 
 託馬野尓《タクマノニ》 生流紫《オフルムラサキ》
 衣尓染《キヌニシメ》
 未v服而《イマダキズシテ》 色尓出來《イロニイデニケリ》
 
(323)【譯〜託馬野に生えている紫は、衣服に染めつけて、まだ著ないのに、人に知られてしまつた。
【釋】託馬野尓 タクマノニ。託馬野は、從來ツクマノと讀み、近江の筑摩の地としていたが、講義には、地名に訓を使用せずとして、音によつて、タクマ、またはタカマであり、肥後の國の託麻《たくま》郡だろうとしている。託は、類聚名義抄にツクの訓があり、また地名に訓を使用することは、蒲生野等の例も多くあり、ツクマでも成立しない次第ではないが、馬は、但馬、對馬など、字音をもつてマの音韻を表示するに使用される字であるから、託も字音假字とするを可とするであろう。よつて今、講義の説によることとする。
 生流紫 オフルムラサキ。ムラサキは、柴草。その根より紫色の染料を作る。野生もあり栽培もする。オフルというと、野生のようであるが、決定はしかねる。柴草に呼びかけている語氣である。
 衣尓染 キヌニシメ。紫を衣に染めての意。深く思い入つたことを譬えている。
 未服而 イマダキズシテ。思い入つた人をまだわが物としないことを譬えている。
 色尓出來 イロニイデニケリ。色に出るは、あらわれる、人に知られることをいう。ここでは、紫で衣を染めることの縁語として、この語が選ばれている。
【評語】イマダ著ズシテまでが譬喩で、五句は譬喩を脱している。この點、前の數首と違う所がある。色に出るは、染色の縁語であるが、衣ニ染メとは、矛盾が感じられ、鑑賞を妨げるものがある。色ニ出ニケリは、常用される句であるが、この歌では、染色を譬喩としているだけに、あまりに縁が深くて、類型的な感が強い。(324)しかし、初二句は美しい句で、紫草に呼びかけているのも感じがよい。紫は、當時高貴な染料として寵用された。それを譬喩に使つたのは、相手が貴公子だからであつて、それがこの歌の空氣を花やかなものにしている。
 
396 陸奧《みちのく》の 眞野《まの》の草原《かやはら》 遠けども、
 面影にして 見ゆといふものを。
 
 陸奧之《ミチノクノ》 眞野乃草原《マノノカヤハラ》 雖v遠《トホケドモ》
 面影爲而《オモカゲニシテ》 所v見云物乎《ミユトイフモノヲ》
 
【譯】はるかな道の涯《はて》の眞野の草原は遠いけれども、それでも面影に立つて見えるということです。
【釋】陸奧之 ミチノクノ。ミチノクは、道路の奧の義で、東山道の最奧の國である。後、磐城、岩代、陸前、陸中、陸奧の諸國に分かたれた。
 眞野乃草原 マノノカヤハラ。眞野は、今福島縣相馬郡眞野村附近の地である。カヤは、家根に葺く料の草をいう。古くからカヤハラと讀みなれている。以上二句、遠方の地の意に掲げている。
 雖遠 トホケドモ。トホケは、形容詞の活用形。それに助詞ドモが接續している。遠いけれどもの意。眞野の草原は遠いけれどもの意に、君と我とのあいだは遠いけれどもの意をかねていう。
 面影爲而 オモカゲニシテ。オモカゲは、眼前にその實物なくして見える幻像をいう。「暮去者《ユフサレバ》 物念益《モノオモヒマサル》 見之人乃《ミシヒトノ》 言問爲形《コトトフスガタ》 面景爲而《オモカゲニシテ》」(卷四、六〇二)、「夜之穗杼呂《ヨノホドロ》 吾出而來者《ワガイデテクレバ》 吾妹子之《ワギモコガ》 念有四九四《オモヘリシクシ》 面影二三湯《オモカゲニミユ》」(同、七五四)、「燈之《トモシビノ》 陰爾蚊峨欲布《カゲニカガヨフ》 虚蝉之《ウツセミノ》 妹蛾咲状思《イモガヱマヒシ》 面影爾所v見《オモカゲニミユ》」(卷十一、二六四二)など用例の多い語である。ニシテは、としての意に使用されている。
 所見云物乎 ミユトイフモノヲ。トは、初句から、この句のミユまでを受けている。世間ではいう、世の人人はいうの意である。モノヲは、ものだが、それでの意。モノヲには二樣あり、ものだの意に肯定するものと、(325)ものだがしかしの意に反撥するものとがある。「布士能嶺乎《フジノネヲ》 高見恐見《タカミカシコミ》 天雲毛《アマグモモ》伊去羽斤《イユキハバカリ》 田菜引物緒《タナビクモノヲ》(卷三、三二一)は、前者の例であり、「烏珠之《ヌバタマノ》 其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》 手忘而《タワスレテ》 不v折來家里《ヲラズキニケリ》 思之物乎《オモヒシモノヲ》」(同、三九二)は、後者の例である。ここはそのいずれであるかというに、後者としては、面影にも見えないということになつて、不似合であるから、前者の意に解すべきである。遠いけれども、君の姿が面影に見えるという意になる。
【評語】この場合、陸奧の眞野の草原は、ただ遠い地名であるというだけに持ち出されたものであろう。これに託して、よし遠くにおつても面影は通つて見えるものであるという意味を歌つている。譬喩歌として、美しい詞の中に、何か奧深いものを感じさせる。作者は、恐らくは遠く隔つておつて、人の思つてくれないことを恨んでいるようである。思うならばどれほど遠くとも面影に立つて見えるはずだの意味を託しているのであろう。美しい詞の奧にひそむ情趣を愛すべきである。詞の魅力を感じさせる歌である。
 
397 奧山の 磐本管《いはもとすげ》を
 根深めて 結びしこころ
 忘れかねつも。
 
 奧山之《オクヤマノ》 磐本管乎《イハモトスゲヲ》
 根深目手《ネフカメテ》 結之情《ムスビシココロ》
 忘不v得裳《ワスレカネツモ》
 
【譯】奧山の巖のもとの菅の根を深い心の底から約束した心は、忘れかねます。
【釋】奧山之磐本管乎 オクヤマノイハモトスゲヲ。奧山の巖のもとに生えている菅をで、スゲは山菅(ジヤノヒゲ)の類である。菅を結ぶと、第四句に懸かる。
 根深目手 ネフカメテ。根深くして。フカメテは、深い状態になつての意。「海底《ワタノソコ》 奧乎深目手《オキヲフカメテ》 吾念有《ワガオモヘル》」(卷四、六七六)、「深海松之《フカミルノ》 深目思子等遠《フカメシコラヲ》」(卷十三、三三〇二)、「猪名川之《ヰナガハノ》 奧乎深目而《オキヲフカメテ》 吾念有來《ワガオモヘリケル》」(卷十六、三八〇四)などの例がある。心の底からである。
(326) 結之情 ムスビシココロ。ムスビは契約する意。「玉緒乃《タマノヲノ》 不v絶射妹跡《タエジイイモト》 結而石《ムスビテシ》 事者不v果《コトハハタサズ》」(卷三、四八一)の結など、この例である。第二句の菅を受けるのであるが、菅を結ぶことは、「足引《アシヒキノ》 名負山菅《ナニオフヤマスゲ》 押伏《オシフセテ》 君結《キミシムスババ》 不v相有哉《アハザラメヤモ》」(卷十一、二四七七)などの例がある。
 忘不得裳 ワスレカネツモ。モは感動の助詞。
【評語】山菅が、しばしば根について歌われているのは、特にそれをもてあそぶ風習があつたのであろう。この歌は、菅を結ぶことと、心から契ることとを第四句に懸けて、その句以下は、本意を露出している。この三首、事情は、それぞれ相違しており、一時一處の作ではないようである。卷の四には、一時の作ではないと斷つて、この作者の歌二十四首を載せているが、そういう中から譬喩の歌として拔き出されたものらしい。
 
藤原朝臣八束梅歌二首 八束、後名眞楯、房前第二子。
 
藤原の朝臣八束の梅の歌二首【八束は、後の名は眞楯、房前の第二の子なり。】
 
【釋】藤原朝臣八束 フヂハラノアソミヤツカ。八束は、房前の第三子、一時、從兄惠美の押勝のために忌まれ、病と稱して家居したが、後ふたたび出仕し、天平寶字四年には、從三位に敍せられ、名を眞楯と賜わつた。天平神護二年、大納言兼式部の卿となり、三月薨じた。時に年五十二。この集には、八束の名のみ見えている。
 房前第二子 フササキノダイニノコナリ。房前の子は、鳥養、永手、眞楯、清河等があつて、續日本紀によれば、眞楯は天平神護二年(七六六)薨、年五十二、永手は寶龜二年(七七一)薨、年五十八であるから、永手の方が一年先に生まれたことになり、永手が第二子、眞楯が第三子であるとするのが正しいことになる。
 
398 妹が家に 咲きたる梅の、
(327) 何時《いつ》も何時《いつ》も
 なりなむ時に 事は定めむ。
 
 妹家尓《イモガイヘニ》 開有梅之《サキタルウメノ》
 何時毛々々々《イツモイツモ》
 將v成時尓《ナリナムトキニ》 事者將v定《コトハサダメム》
 
【譯】あなたの家に咲いた梅の花が、何時にても實になる時に、事は定めましよう。
【釋】妹家尓 イモガイヘニ。妹家は、「伊母我陛邇《イモガヘニ》 由岐可母不流登《ユキカモフルト》 彌流麻提爾《ミルマデニ》」(卷五、八四四)、「伊毛我敝爾《イモガヘニ》 伊都可伊多良武《イツカイタラム》」(卷十四、三四四一)などの例によれば、イモガヘと讀むべく、また「遊吉須宜可提奴《ユキスギガテヌ》 伊毛我伊敝乃安多里《イモガイヘノアタリ》」(卷十四、三四二三)、「安我毛布紀毛我《アガモフイモガ》 伊敝乃安多里可聞《イヘノアタリカモ》」(同、三五四二)の如く、イモガイヘとする例もある。訓としては、イモガイヘの略せざるによるべく、音聲に發する場合には、イモガヘとのみ聞えることもあるのである。妹は愛人をいう。その人に與えた歌と考えられる。
 開有梅之 サキタルウメノ。第三句を隔てて第四句に接續する。
 何時毛々々々 イツモイツモ。何時にてもの意を、同語を重ねて強調している。「河上乃《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時々々《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》」(卷四・四九〇、「道邊乃《ミチノベノ》 五柴原能《イツシバハラノ》 何時毛々々々《イツモイツモ》 人之將v縱《ヒトノユルサム》 言乎思將v待《コトヲシマタム》」(卷十一、二七七〇)など、使用されている。
 將成時尓 ナリナムトキニ。ナリナムは、梅の結實しようとするをいう。これは兩者の關係の成立を譬えていう。
 事者將定 コトハサダメム。事は夫婦の約束をいう。永き契りを結ぼうというのである。
【評語】梅は、早春に開花し、かつ清楚可憐な感じを伴なうものであるから、若い娘子の春を知る頃に譬える傾向がある。この歌の相手、妹と呼ばれる人も、そういう人らしい。この歌の内容には、貴族的な思いあがつた所があり、誠意を強いる冷やかさが感じられる。
 
(328)399 妹が家に 咲きたる花の 梅の花、
 實にしなりなば かもかくもせむ。
 
 妹家尓《イモガイヘニ》 開有花之《サキタルハナノ》 梅花《ウメノハナ》
 實之成名者《ミニシナリナバ》 左右將v爲《カモカクモセム》
 
【譯】あなたの家に咲いた梅の花が、實になつたなら、どのようにもしましよう。
【釋】開有花之梅花 サキタルハナノウメノハナ。咲いた花である梅の花の意で、花の語を重ねて、強く指示している。
 實之成名者 ミニシナリナバ。シは張意の助詞。關係の成就を結實に譬えている。
 左右將爲 カモカクモセム。カモカクモは、「可毛可久母《カモカクモ》 伎美我麻爾末爾《キミガマニマニ》」(卷十四、三三七七)などあり、とにもかくにも、どのようにもの意である。左右の字は、左石の兩樣の義に使用したものなるべく、類聚名義抄には、トニカクニの訓がある。
【評語】前の歌の内容を、詞を變えて歌つたような歌である。第二三句に、花の語を重ねたのは、相當に效果を持つているが、やはり相手を見下した態度があるのは、不愉快である。
 
大伴宿祢駿河麻呂梅歌一首
 
【釋】大伴宿祢駿河麻呂 オホトモノスクネスルガマロ。卷の四、六四九の歌の左註に、「右、坂上の郎女は、佐保の大納言の卿の女なり。駿河麻呂はこの高市の大卿の孫なり。兩卿は兄弟の家、女孫姑姪の族なれば、これをもちて歌を題し、送答し、起居を相問へり」とある。その佐保の大納言は安麻呂であるが、高市の大卿は、誰であるかあきらかでないが御行であるかもしれない。古寫本の書き入れに、道足の子とするものがあるが、道足は馬來田《まくた》の子で、馬來田は安麻呂の兄弟ではないから、卷の四の左註に一致しない。駿河麻呂は、天平十(329)五年五月に從五位の下、十八年九月に越前の守となつたが、天平寶字元年八月、廢立を圖つたという件に坐して罪せられ、後復活して、寶龜二年十一月、從四位の下、三年九月、陸奥の按察使となり正四位の下を授けられ、四年八月、陸奧の國の鎭守將軍、六年九月、參議、十一月、叛賊を討治歸服させた功勞によつて、正四位の上勲三等を授けられ、七年七月、薨じて從三位を贈られ、※[糸+施の旁]三十疋、布一百端を賜わつた。駿河麻呂は、大伴の坂上の家の二孃、すなわち宿奈麻呂の女を妻としたと考えられ、この歌も、それに關するものと見られている。
 
400 梅の花 咲きて散りぬと
 人は云へど、
 わが標《しめ》結《ゆ》ひし 枝ならめやも。
 
 梅花《ウメノハナ》 開而落去登《サキテチリヌト》
 人者雖v云《ヒトハイヘド》
 吾標結之《ワガシメユヒシ》 枝將v有八方《エダナラメヤモ》
 
【譯】梅の花は、咲いて散つたと人がいうけれども、わたしの印をつけた枝ではないだろう。
【釋】開而落去登 サキテチリヌト。梅の花が咲いてから散つたというので、わが思う人が、既に他人の有となつたことを寓している。
 人者雖云 ヒトハイヘド。人は、世人ぐらいの意味に使つている。
 吾標結之 ワガシメユヒシ。シメユフは、標繩を結ぶで、占有の意を表示するをいう。作者の約束したことを譬えている。
 枝將有八方 エダナラメヤモ。ヤモは反語の助詞。枝は、思う人を寓意している。
【評語】わが思う子が、他人の有になつたと聞いて、それを眞實かと危んでいる。「瞿麥《なでしこ》は咲きて散りぬと人は言へどわが標《し》めし野の花にあらめやも」(卷八、一五一〇)は、大伴の家持が紀の女郎に贈つた歌であるが、(330)この歌に學んでいるらしい。
 
大伴坂上郎女、宴2親族1之日吟歌一首
 
大伴の坂上の郎女の、親族と宴せし日に吟へる歌一首。
 
【釋】宴親族之日 ウカラトウタゲセシヒニ。親族は、日本書紀に「不負於族、此《コヲバ》云《イフ》2宇我邏磨概茸《ウカラマケジト》1」とあり、ウカラの訓が當てられる。宴をウタゲというは、ウチアゲの約言とされる。卷の八、一六五六にも、坂上の郎女が親族と宴する歌があつて、それにも梅花が詠まれているから、同時の作であるかも知れない。
 吟歌 ウタヘルウタ。吟は、新撰字鏡に「語也、呻也、嘆也、歌也」とある。その歌也の意である。當時歌を吟誦したことは、前に記した。卷の十六、三八二〇の左註には「右(ノ)歌二首、小鯛(ノ)》王宴居之日、取(ル)v琴(ヲ)登時《ソノトキ》必(ズ)先(ヅ)吟2詠《ウタヘリ》此(ノ)歌(ヲ)1也」など見えている。
 
401 山守《ヤマモリ》の ありける知らに、
 その山に  標《しめ》結《ゆ》ひ立てて、
 結《ゆひ》の辱《はぢ》しつ。
 
 山守之《ヤマモリノ》 有家留不v知尓《アリケルシラニ》
 其山尓《ソノヤマニ》 標結立而《シメユヒタテテ》
 結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》
 
【譯】山番のあつたのを知らずに、その山に標繩を結い立てて、恥をかきました。
【釋】山守之 ヤマモリノ。ヤマモリは、山の番人。みだりに人の入るを禁ずるために置かれる者。
 有家留不知尓 アリケルシラニ。ありけることを知らずの意。ニは打消の助動詞。不知だけでシラニと讀まれるのであるが、讀み方を確かにするために爾の字を添えてある。「世武爲便不v知爾《セムスベシラニ》」(卷三 二〇七)などの例がある。
(331) 其山尓 ソノヤマニ。その山は、初句を受けて、山守のあるその山の意である。
 標結立而 シメユヒタテテ。標繩を結ひ立てて。しるしを附けて。タテは、特にその事をする意に使用する。言い立てるなどの立てに同じ。「大伴乃《オホトモノ》 等保追可牟於夜能《トホツカムオヤノ》 於久都奇波《オクツキハ》 之流久之米多弖《シルクシメタテ》 比等能之流倍久《ヒトノシルベク》」(卷十八、四〇九六)のシメタテも、占有のしるしを強くせよの意である。
 結之辱爲都 ユヒノハヂシツ。結う事の恥辱、それをしたの意。ハヂは恥辱。日本書紀卷の一に、淡路の島名を説明して、吾恥《あはぢ》の義とする地名起原説話を傳えている。「辱尾忍《ハヂヲシノビ》 辱尾黙《ハヂヲモダシテ》 無v事《コトモナク》 物不v言先丹《モノイハヌサキニ》 我者將v依《ワレハヨリナム》」(卷十六、三七九五)と使用している。
【評語】次の答歌その他の事情を綜合するに、駿河麻呂に、既に配偶者のあつたことを知らないで、わが女を與えようとして恥を見たというのであろう。よく意を寓し得た歌とはいえるが、それだけに、詩趣に乏しいのはやむを得ない。
 
大伴宿祢駿河麻呂、即和歌一首
 
【釋】即和歌 スナハチコタフルウタ。既出(卷一、一七)。唱和した歌。坂上の郎女の吟誦した歌に應じて、これも吟誦したものであろう。
 
402 山主《やまぬし》は けだしありとも、
 吾妹子が 結《ゆ》ひてむ標《しめ》を
 人|解《と》かめやも。
 
 山《ヤマ》主《ヌシ・モリ》者《ハ》 蓋雖v有《ケダシアリトモ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 將v結標乎《ユヒテムシメヲ》
 人將v解八方《ヒトトカメヤモ》
 
【譯】山の主は、恐らくはあるとしても、あなたが結ぶでしょう標繩を、人は解きはしないでしょう。
(332)【釋】山主者 ヤマヌシハ。ヤマヌシは、文字による。坂上の郎女の歌に山守とあるのに應じた歌であるから、ヤマモリと讀んでもよいであろう。
 蓋雖有 ケダシアリトモ。ケダシは、もし、恐らく等の意の副詞。ここは兩樣に解せられるが、蓋の字を使用しているから、恐らくはの意に解すべきであろう。恐らく約束した人があるとしてもの意で、この場合、語を濁しているようである。ケダシの用例のうちでは、この種の方が多い。「古爾《イニシヘニ》 戀良武鳥者《コフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》 蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》 吾念流碁騰《ワガオモヘルゴト》」(卷二、一一二)など、この例である。またもしの意に解するとならば、もしあつたとしてもの意で、山守のある云々は訛傳だとするのである。
 吾妹子之 ワギモコガ。ワギモコは、坂上の郎女をさしていう。駿河麻呂と坂上の郎女とは、親族關係があり、特に親しかつたので、この語をもつて呼んでいる。六四八の歌にも、駿河麻呂は、坂上の郎女に對して吾妹といつている。
 將結標乎 ユヒテムシメヲ。ユヒテムシメヲは舊訓であるが、童蒙抄以下多くユヒケムシメヲとしている。前の歌によるに、まだ標を結わぬ前と解すべきであるから、ユヒテムとするによるべきである。
 人將解八方 ヒトトカメヤモ。人は他の人。ヤモは反語。
【評語】坂上の郎女の意に應ずる心をあきらかにしている。恐らくは既に約束した人があり、しかも更に坂上の郎女の女子を得ようとしているらしい。これも達意の歌であつて、興趣に缺けている憾みがある。
 
大伴宿祢家持、贈2同坂上之大孃1歌一首
 
大伴の宿禰家持の、同じ坂上の大孃に贈れる歌一首。
 
【釋】大伴宿祢家持 オホトモノスクネヤカモチ。大伴の家持は、安麻呂の孫、旅人の子である。はじめ安積《あさか》(333)の親王の内舍人として身を起し、天平十八年六月には越中の守となつて任地に赴き、天平勝寶三年七月には少納言に轉じて歸京し、天平寶字元年の橘の奈良麻呂の亂に、大伴氏の人々多く連坐したにも拘わらず、かえつて榮任に就いた。これは彼と惠美の押勝との姻戚關係に基づくものと見られるが、天平寶字の末に押勝がようやく勢威を失うに當り、家持まず左遷されて薩摩の守となり、光仁天皇が即位されてからは、官位も次第に進んで從三位參議左大辨兼春宮の大夫に至つたが、延暦元年、氷上《ひがみ》の川繼の叛に坐するをもつて官位を除かれた。幸に同年五月に赦されて原官に復し、更に進んで中納言兼春宮の大夫持節征夷將軍となつて、延暦四年八月に薨じた。しかも彼が長逝していまだ葬られず、二十餘日の時、大伴の繼人、竹良等は、長岡の新造宮の處において中納言藤原の種繼を射殺した。繼人、竹良等は次いで誅せられ、事家持に關するとして彼は官位を奪われ、實は皇太子|早良《さわら》の親王の意に出たものであるとして、やがて早良の親王も廢せられるに至つた。以上略記した彼の經歴を見るに、亡び行く名族の最後の一人として、踏み留まろうとして、留まり得なかつた趣が見える。萬葉集の歌は、天平寶字三年正月、すなわち家持が因幡の守となつた翌年(334)の、國の廳での宴の歌に止まつている。その後の彼の作品は、殘つていないので、萬葉集に載つているのが、彼の作品として殘つている全部である。彼の作品は、初期のものは模倣の分子に富んでいる習作であつて、文學としての價値に乏しい。越中から都に歸つて後の短歌の作には、ようやくその特殊の境地を開いたものが見受けられる。清らかな、しかしさびしい味を出して來たのである。平板から歩み進んで、ある深さに到達した。好んで長歌をも作つているが、長歌は長大の作もあるが、類型的で、熱に缺けているのは遺憾である。彼の歌は、父の旅人、姑の坂上の郎女の感化によるものであろう。先人として柿本の人麻呂、山上の憶良の作品に傾倒していて、題材、手法、詞句の各方面にわたつて、多くの影響を受けている。
 贈同坂上之大孃歌 オナジサカノウヘノオホヲトメニオクレルウタ。同は、大伴に同じの意。坂上家は、奈良縣生駒郡立野の東北なる坂上の里にある家で、大伴の宿奈麻呂の妻なる坂上の郎女の家である。坂上の大孃は、坂上の郎女の女、父は宿奈麻呂で、後、家持の妻となつた。大孃は、オホイラツメと讀む説があるが、母の郎女をイラツメという以上は、オホイラツメと讀んでは、それよりも長上の意に解せられるから、多分そうはいわなかつたであろう。よつてオホヲトメと讀む。
 
403 朝にけに 見まく欲《ほ》りする その玉を、
 いかにすれかも 手ゆ離《か》れざらむ。
 
 朝尓食尓《アサニケニ》 欲v見《ミマクホリスル》 其玉乎《ソノタマヲ》
 如何爲鴨《イカニスレカモ》 從v手不v離有牟《テユカレザラム》
 
【譯】朝から一日中、見たいと思うその玉を、どうしたならば、手から離れないでいられるだろう。
【釋】朝尓食尓 アサニケニ。既出(卷三、三七七)。ケは時の意。食の字は訓を借りている。朝にも時にもで、朝を初めとし何の時でも。
 欲見 ミマクホリスル。見むことを欲するの意。
(335) 其玉乎 ソノタマヲ。愛人なる坂上の大孃を玉に譬えている。
 如何爲鴨 イカニスレカモ。類聚古集以下、イカニシテカモと讀んでいる。カモは、疑問の係助詞。どのようにしてかの義とされる。同句は、「大船乃《オホブネノ》 絶多經海爾《タユタフウミニ》 重石下《イカリオロシ》 何如爲鴨《イカニスレカモ》 吾戀將v止《ワガコヒヤマム》」(卷十一、二七三八)にも見えている。爲の字を使つてシテの語を表示する場合は、多く爲而と書いているが、爲の一字だけで而を添えない例も、數個ある。「身祓爲《ミソギシテ》 齋命《イハフイノチモ》 妹爲《イモガタメコソ》」(卷十一、二四〇三)、「人皆《ヒトミナノ》 如v去見耶《ユクゴトミメヤ》 手不v纏爲《テニマカズシテ》」(卷十二、二八四三)、「照日《テルヒニモ》 乾哉吾袖《ヒメヤワガソデ》 於v妹不v相爲《イモニアハズシテ》」(同、二八五七)、「手向爲《タムケシテ》 吾越往者《ワガコエユケバ》」(卷十三、三二四〇)は、その例である。それでイカニシテカモの訓は成立するのであるが、新訓としてイカニスレカモの訓も成立するのではないだろうか。スレは已然形であるが、イカニ、カモの如き疑問の辭を伴なうことによつて、假設法を構成して、どのようにしたならの意を表示するのだろう。たとえば「水鳥二四毛有我《ウニシモアレヤ》 家不v念有六《イヘオモハザラム》(卷六、九四三)は、作者が鵜でないことは明白であるが、鵜であつたとしたら、家を思わないだろうかの意を表示している。「妹與吾《イモトワレ》 何事在曾《ナニゴトアレゾ》 紐不v解在牟《ヒモトカザラム》」(卷十、二〇三六)は、何事があつたらの假設の意を、ナニゴトアレゾで表示している。
 從手不離有年 テユカレザラム。テユは、手から。カレザラムは、離れずにあらむで、上のカモを受けて反語になつている。
【評語】玉は、しばしば愛人の譬喩に使用されている。この歌もそれで、しかもその玉の説明も平凡である。年代は不明であるが、家持初期の作である。
 
娘子、報2佐伯宿祢赤麻呂贈歌1一首
 
娘子の、佐伯の宿禰赤麻呂の贈れる歌に報ふる一首。
 
(336)【釋】娘子 ヲトメ。何人とも知られない。卷の四、六二七に同じく佐伯の赤麻呂と歌を贈つている娘子と同人であろう。
 報佐伯宿祢赤麻呂贈歌 サヘキノスクネアカマロノオクレルウタニコタフル。佐伯の宿禰赤麻呂は、傳未詳。この歌より先に、赤麻呂の贈つた歌があつたはずであるが、それは傳わらない。その歌には、春日野の神社のことが詠まれていたのであろう。それに應じて、娘子の詠んだ歌である。
 
404 ちはやぶる 神の社し なかりせば、
 春日《かすが》の野邊《のべ》に 粟蒔かましを。
 
 千磐破《チハヤブル》 神之社四《カミノヤシロシ》 無有世伐《ナカリセバ》
 春日之野邊《カスガノノベニ》 粟種益乎《アハマカマシヲ》
 
【譯】威力の強い神の社がなかつたら、春日の野邊に粟を蒔きましようものを。
【釋】千磐破 チハヤブル。既出(卷二、一〇一)。枕詞。神に冠する。語義は、猛威ある義で、ブルは荒ブルのブルと同じく、體言を動詞化する接尾語。ここに千磐破と書いているのは借字であるが、他にも使用されており、この語の内容から選ばれた字面であろう。
 神之社四 カミノヤシロシ。ヤシロは、家代の義で、家屋のあるべき土地をいう。神靈の宿る地。下のシは強意の助詞。今の春日神社は、稱徳天皇の神護景雲二年に勸請されたと傳えているが、本集卷の十九、天平勝寶三年の歌に「春日(ニテ)祭(リシ)v神(ヲ)之日(ニ)、藤原(ノ)大后(ノ)御作歌一首」(四二四〇)があり、續いて藤原の清河の歌として「春日野にいつく三諸《みもろ》の」(四二四一)の歌を傳えており、當時既に藤原氏の氏神がまつられていたことと考えられる。さすれば、ここに神の社というのも、同じく春日神社の前身とも見ることができる。
 無有世伐 ナカリセバ。ナクアリセバの約言で、打消假設の條件法。事實既に社のあつたことを語つている。セは、時の助動詞キの未然形とされる。
(337) 春日之野邊 カスガノノベニ。邊は、字音假字として、ヘニの二音を表示している。神の社の所在を語つている。
 粟種益乎 アハマカマシヲ。アハは、穀物の粟であるが、逢うと同音であるので、それを懸けている。粟蒔クで、逢うことの素を作るの意を寓している。マシヲは、そうしたろうものを、しかししないの意をあらわしている。
【評語】神を、おそろしいものとし、その社があるので、逢うことの憚られる由に歌つている。思想上、注意される歌である。粟を蒔くは譬喩であるが、同音を利用することに譬喩の根據を置いている點が特異である。
 
佐伯宿祢赤麻呂、更贈歌一首
 
【釋】更贈歌 サラニオクレルウタ。前に赤麻呂から贈つた歌があつて、ここにまた更に贈つたので、更贈歌という。
 
405 春日野《かすがの》に 粟蒔けりせば、
 鹿待《ししま》ちに 繼ぎて行かましを。
 社しうらめし。
 
 春日野尓《カスガノニ》 粟種有世伐《アハマケリセバ》
 待v鹿尓《シシマチニ》 繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》
 社師怨焉《ヤシロシウラメシ》
 
【譯】春日野に粟が蒔いてあつたら、鹿を狩しに續いて行きましようものを。神社のあるのは殘念です。
【釋】春日野尓粟種有世伐 カスガノニアハマケリセバ。前の娘子の歌の、春日ノ野邊ニ粟蒔カマシヲを受けて、もし春日野に粟を蒔いてあつたとしたらの意に、假設している。
 待鹿尓 シシマチニ。諸説があるが、今、古義の訓による。鹿猪の類をシシというは、肉を食料にする獣の(338)稱である。シシマチの語は、「足病之《アシヒキノ》 山海石榴開《ヤマツバキサク》 八岑越《ヤツヲコエ》 鹿待君之《シシマツキミガ》 伊波比嬬可聞《イハヒヅマカモ》」(卷七、一二六二)、「白栲《シロタヘノ》 袖纏上《ソデマキアゲテ》 宍待我背《シシマヅワガセ》」(同、一二九二)など見えている。粟を食いに來る鹿を待つことで、これを獵しようとである。
 繼而行益乎 ツギテユカマシヲ。ツギテは引き續いて。マシヲは假設の語法。
 社師怨焉 ヤシロシウラメシ。
   ヤシロシウラメシ(槻)
   ――――――――――
   社師留焉《モリシトドメバ》(類)
   社師留烏《ヤシロハシルヲ》(西)
   社師留烏《モリハシルカラ》(童)
   社師留烏《ヤシロシシルヲ》(考)
   社師留烏《ヤシロシトムルヲ》(略)
   社師留戸母《ヤシロシルトモ》(玉)
   社師有侶《ヤシロシアリトモ》(古義)
   社師留焉《ヤシロシトドムル》(攷)
 社シ留ムルは、繼ぎて行くことを社が禁止するの意となすべきであろうが、既に粟を蒔いたのではないのだから、社が留めるは意をなさない。神田本によつて社師怨焉としウラメシとするによるべきである。その意はあきらかである。
【評語】娘子が逢おうとしないのを怨んでいる。譬喩が複雜であり、對手の歌に應じて作歌しているので窮屈になつて、暢達の氣を缺くものがある。鹿待ちの如き材料を使つたのは、おもしろいが、それが活用されていないのは惜しむべきである。
 
(339)娘子、復報歌一首
 
【釋】復報歌 マタコタフルウタ。前の報フル歌についで、赤麻呂の贈歌に對してまた返答をしたので、マタ報フル歌という。
 
406 わが祭る 神にはあらず。
 丈夫《ますらを》に 認《つな》げる神ぞ、
 よく祀《まつ》るべき。
 
 吾祭《ワガマツル》 神者不v有《カミニハアラズ》
 大夫尓《マスラヲニ》 認有神曾《ツナゲルカミゾ》
 好《ヨク》應v祀《マツルベキ・マツルベシ》
 
【譯】わたくしの祭つている神樣ではございません。あなたに關係のある神樣です。よくお祭りになつたらいいでしよう。
【釋】吾祭神者不有 ワガマツルカミニハアラズ。赤麻呂が、社シウラメシといつたのを受けて、その神を説明している。君がうらむところの神は、自分の祭るところにはあらずといつている。句切。
 大夫尓 マスラヲニ。マスラヲは、赤麻呂をいう。
 認有神曾 ツナゲルカミゾ。ツナゲルカミゾ(考)、シメタルカミゾ(槻)、ツキタルカミゾ(古義)。諸説があり、特に認の字の訓が問題になるが、この字は、本集には、他に「所v射鹿乎《イユシシヲ》 認河邊之《ツナグカハベノ》 和草《ニコクサノ》 身若可倍爾《ミワカキガヘニ》 佐宿之兒等波母《サネシコラハモ》」(卷十六、三八七四)とあるのみであつて、その認がツナグと讀むべきであることは、この字の訓を定める上に有力な資料である。すなわちこれによつて、考にツナゲルカミゾと讀んだのが妥當とされる。但しその解としては、考に「つなぎとゞめて離れぬ神有といへり」とあるは、適解とは思われない。ツナグは、連絡、連係の意の動詞であるから、丈夫に關係ある神と釋すべく、佐伯氏は武士の家であり、春日野に祭れる(340)神が、武威ある神として信仰されていたことについていうのであろう。ゾは、從來係助詞として説かれていた。これは提示句であつて、句切の語氣になるものであるが、次の句に對しては、係助詞となる。すなわち、君に關係ある神ですぞの意である。「玉梓之《タマヅサノ》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 待之夜乃《マチシヨノ》 名凝其今毛《ナゴリゾイマモ》 不v宿夜乃大寸《イネヌヨノオホキ》」(卷十二、二九四五)。
 好應祀 ヨクマツルベキ。ヨクマツルベキ(類)、ヨクマツルベシ (考)。第四句のゾを終助詞として句切とすれば、この句は、これのみで獨立文となる。祭祀をよくせよの意。
【評語】赤麻呂の歌を受けて、その神を説明している。どうも娘子の方が、口達者のようだ。しかしやはり獨立した歌としての興趣はすくない。
 
大伴宿祢駿河麻呂、娉2同坂上家之二孃1歌一首
 
大伴の宿禰駿河麻呂の、同じ坂上の家の二孃を娉《つまど》へる歌一首。
 
【釋】娉同坂上家之二孃歌 オヤジサカノウヘノイヘノオトヲトメヲツマドヘルウタ。坂上家の二孃は、大伴の坂上の家の第二孃で、坂上の大孃の妹、同母の所生と考えられる。娉はツマドフ。婚を求める意である。
 
407 春霞 春日《かすが》の里の 殖子水葱《うゑこなぎ》、
 苗なりといひし、
 柄《え》はさしにけむ。
 
 春霞《ハルガスミ》 春日里之《カスガノサトノ》 殖子水葱《ウヱコナギ》
 苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》
 柄者指尓家牟《エハサシニケム》
 
【譯】春霞のかかつている春日の里の植えたコナギは、苗だといつたが、柄がのびたであろう。
【釋】春霞 ハルガスミ。枕詞。霞むということから春日に冠する。しかしこの歌の季節を描寫しているもの(341)で、これによつて春日の里の情景が想見される。
 春日里之 カスガノサトノ。春日は、平城の京の東方の地名。當時、坂上家の二孃が、その地にいたのであろう。
 殖子水葱 ウヱコナギ。ウヱは、植竹、植木橘などいうと同じく、人爲をもつて植えたものであることを示す語。コナギは、ナギの愛稱で、コは愛稱。別にコナギという種類の植物があるわけではない。ミズアオイ科の一年生草本。葉柄が長い。食用植物。本草和名に「薊菜、一名水葱、和名|奈岐《ナギ》」、倭名類聚鈔藻類に「水葱、奈岐《ナギ》」とある。
 苗有跡云師 ナヘナリトイヒシ。苗なりと云いしがの意。二孃のまだ幼少であつたことをいう。
 柄者指尓家牟 エハサシニケム。エは柄、ナギは葉柄が長いので、その葉柄の出るをいう。サシは、水枝サシなどあり、柄を張るをいう。
【評語】初三句の提示部は、相當美しく、娘子の家のあたりを思わせるものがある。四五句は、やや窮屈な感じである。ナギは、唐突に持ち出されたものでなく、前にどちらからかこれに寄せていう所があつたのであろう。
 
大伴宿祢家持、贈2同坂上家之大孃1歌一首
 
(342)大伴の宿禰家持の、同じ坂上の家の大孃に贈れる歌一首。
 
【釋】大伴宿祢家持贈同坂上家之大孃歌 オホトモノスクネヤカモチノオナジサカノウヘノオホヲトメニオクレルウタ。上、四〇三に全く同文の題詞が出ている。
 
408 石竹《なでしこ》の その花にもが。
 朝なさな 手に取り持ちて
 戀ひぬ日無けむ。
 
 石竹之《ナデシコノ》 其花尓毛我《ソノハナニモガ》
 朝旦《アサナサナ》 手取持而《テニトリモチテ》
 不v戀日將v無《コヒヌヒナケム》
 
【譯】瞿麥の花でもありたいものだ。そうしたら毎朝手に持つて愛さない日はないだろう。
【釋】石竹之 ナデシコノ。石竹は瞿麥に同じく、漢文でもこの字を使用している。
 其花尓毛我 ソノハナニモガ。瞿麥の花を特に指定して、その花といつている。ガは願望の助詞。その花にもありたしの意。句切。
 朝旦 アサナサナ。ナは、體言について、副詞を作る助語。同語を重ねることによつて、その意を強くし、決定しての意をあらわす。諾ナ諾ナ、朝ナ夕ナなどの用例がある。ここは朝ナを重ねることによつて、毎朝の意となる。假字書きの例には「奈泥之故我《ナデシコガ》 波奈爾毛我母奈《ハナニモガモナ》 安佐奈々々見牟《アサナサナミム》」(卷十七、四〇一〇)、「阿佐奈佐奈《アサナサナ》 安我流比婆理爾《アガルヒバリニ》 奈里弖之可《ナサテシカ》」(卷二十、四四三三)があり、アサナサナとなつているのは、下のアが、上のナに吸收されたのである。歴史的にはアサナアサナであり、これを音聲に換算する時にアサナサナと聞えるのである。ナは、ニの轉音であるとする説があるが、「朝魚夕菜爾《アサナユフナニ》」(卷十一、二七九八)の如く、アサナユフナニとする例があるのを見れば、ニの轉音とはしがたい。
 手取持而 テニトリモチテ。手中に把持しての意。
(343) 不戀日將無 コヒヌヒナケム。この戀フは、思慕する意ではなくして、愛賞する意に使用されている。この頃の用例として、講義に擧げたものは、「櫻花《サクラバナ》 時者雖v不v過《トキハスギネド》 見人之《ミルヒトノ》 戀盛常《コヒノサカリト》 今之將v落《イマシチルラム》」(卷十、一八五五)、「朝露爾《アサツユニ》 仁保敝流花乎《ニホヘルハナヲ》 毎v見《ミルゴトニ》 念者不v止《オモヒハヤマズ》 戀志繁母《コヒシシゲシモ》」(卷十九、四一八五)、「鳴鳥能《ナクトリノ》 許惠乃孤悲思吉《コヱノコヒシキ》 登岐波伎爾家里《トキハキニケリ》」(卷十七、三九八七)等である。ナケムは、なからむの意。戀をせぬ日はないだろう。愛賞しない日はないだろうの意である。
【評語】愛人を花に譬えることからして、既に類型的である。これも家持の初期の作として、特色のない歌である。花であつたらというところに譬喩があり、その點、他の譬喩歌と相違するものがある。
 
大伴宿祢駿河麻呂歌一首
 
409 一日《ひとひ》には
 千重《ちへ》浪|頻《しき》に 思へども、
 何《な》ぞその玉の 手に卷きがたき。
 
 一日尓波《ヒトヒニハ》
 千重浪敷尓《チヘナミシキニ》 雖v念《オモヘドモ》
 奈何其玉之《ナゾソノタマノ》 手二卷難寸《テニマキガタキ》
 
【譯】一日の間には、千重に寄せる波のように、重ね重ね思うけれども、どうしてその玉が手に卷きがたいのだろう。
【釋】一日尓波 ヒトヒニハ。ある一日にはの意。
 千重浪敷尓 チヘナミシキニ。チヘナミは、幾重にもかさなり寄る波。シキニを修飾している。千重浪のようにシキニである。シキは、かさなる意の動詞から出た名詞、ニは助詞で、シキニで、重ね重ねの意の副詞になり、次の句を修飾している。
(344) 雖念 オモヘドモ。次の句によつて、玉を思う意であることが知られる。玉すなわち愛人である。
 奈何其玉之 ナゾソノタマノ。ナゾは何ぞに同じ。その玉は、愛人を譬えていう。坂上家の二孃であろう。講義には、二句の千重浪の縁語に玉といつているとしている。
 手二卷難寸 テニマキガタキ。玉を手に卷くを習いとするので、手に入れがたいことを譬えいう。上のナゾに對して連體形をもつて留めている。
【評語】愛人を玉に譬えることも、古人として常用の手段である。もつとも平凡な譬喩で、歌としても格別の作ではない。
 
大伴坂上郎女、橘歌一首
 
【釋】橘歌 タチバナノウタ。タチバナは、垂仁天皇の御代に、田道間守《たじまもり》が常世の國から將來したと傳え、舶載の樹として、庭園にも街路にも植えて愛賞した。この歌は、作者が、その女を人に許すについて、これを最前に育てた橘に譬えている。
 
410 橘を 屋前《には》に植ゑ生《おほ》し、
 立ちて居て 後《のち》に悔ゆとも
 驗《しるし》あらめやも。
 
 橘乎《タチバナヲ》 屋前尓殖生《ニハニウヱオホシ》
 立而居而《タチテヰテ》 後雖v悔《ノチニクユトモ》
 驗將v有八方《シルシアラメヤモ》
 
【譯】橘を屋前に植え生してからは、立つたりいたりして、後悔してもかいのないことです。
【釋】橘乎 タチバナヲ。題詞の條にいう如く、おのが女をタチバナに譬えていると見られる。
 屋前尓殖生 ニハニウヱオホシ。ヤドニウエオホシ(類)、ニハニウヱオホシ(攷)。屋前は、倭名類聚鈔に(345)「考聲切韻(ニ)云(フ)、庭定丁(ノ)反、和名、爾波《ニハ》屋(ノ)前也」とあるによつて・ニハと讀む。ニハは、わが前にある廣場の謂で、海上にもいう。屋前をニハと讀むことは攷證の説である。その他舊訓多くヤドと讀んでいるが、ヤドは屋戸の義であつて、屋戸にも木草を植えたことが歌われている。しかし「我屋戸前乃《ワガニハノ》 花橘爾《ハナタチバナニ》 霍公鳥《ホトトギス》 今社鳴米《イマコソナカメ》 友爾相流時《トモニアヘルトキ》」(卷八、一四八一)の如く、屋戸前と書かれた例があり、これは屋戸の前の義であつて、屋戸と屋前とに相違のあることを語つている。假字でニハと書いた例も若干あり、庭の字を使用したものは多數である。ウヱオホシは、植え生しで、移植するをいう。この庭は、相手の家の庭で、わが女子を人に與えて、その家の人とすることを譬えていう。
 立而居而 タチテヰテ。立つて、またいてで、立つてもいてもの意。以下は作者の心境をいう。
 後雖悔 ノチニクユトモ。人に與えて後にそれを悔いてもである。
 驗將有八方 シルシアラメヤモ。そのかいがあろうや、ないの意。
【評語】最愛の娘を人に與えようとする母親の不安が歌われている。タチバナは、愛賞されていた花で、多分自分の女を、相手がタチバナに譬えることがあつてこの歌となつたのだろう。元來タチバナの名は、大刀花で、トゲのあることから出た名であろうから、その意をもつて、謙遜して人に與えた歌であるかもしれない。同じこの作者の「玉主《たまぬし》に玉は授けてかつがつも枕と吾はいざ二人寐む」(卷四、六五二)の歌は、娘を人に與えた後のさびしさが歌われているとされているが、これのみならず、この人の母性愛は、しばしば歌われている。危虞不安の氣持がよく歌われている。橘は郎女の屋前に實際にあつたのだろう。
 
和歌一首
 
【釋】和歌 コタフルウタ。前の大伴の坂上の郎女の歌に唱和した歌であるが、何人の作とも傳えない。坂上(346)の郎女の女子を娶つた人としては、大伴の家持と駿河麻呂との二人が擧げられるが、二人のうちとしては駿河麻呂であろう。それは歌中にある吾妹子の語は、坂上の郎女をさすものと考えられるが、家持は坂上の郎女を姑として尊重して吾妹子とは呼ばない。駿河麻呂は、歌中においてしばしば吾妹子と呼んでいる(卷三、四〇二、卷四、六四八)。これによつて駿河麻呂の作と推定すべく、坂上家の二孃を娶ることに關する歌と考えられる。駿河麻呂の年齡は、坂上の郎女に匹敵していたのであろう。
 
411 吾妹子が 屋前《には》の橘、
 いと近く、植ゑてしからに
 成らずは止《や》まじ。
 
 吾妹兒之《ワギモコガ》 屋前之橘《ニハノタチバナ》
 甚近《イトチカク》 殖而師故二《ウヱテシカラニ》
 不v成者不v止《ナラズハヤマジ》
 
【譯】あなたのお庭の橘は、極めて近く植えた以上は、實がならないではおきません。
【釋】吾妹兒之 ワギモコガ。ワギモコは、坂上の郎女をさしていう。
 屋前之橘 ニハノタチバナ。坂上の郎女の庭前の橘で、それをわが庭に移し植えることに譬えている。橘は、坂上家の二孃をいう。この句は、坂上の郎女の歌の詞によつて歌つている。
 甚近 イトチカク。わが身に近くで、わが家の庭に移植するについていう。
 殖而師故二 ウヱテシカラニ。植えたそれゆえにの意。植えたので、植えたからぐらいの意になる。カラニは、それにもとづくことをいう。故の字を、カラと讀むべき例になる。
 不成者不止 ナラズハヤマジ。橘の結實することに、夫婦關係の完成を懸けてナルといつている。成し遂げないではおかないの意。
【評語】新しい妻の母親の不安に對して夫婦關係の完遂を誓約して慰めている。五句は強いいい方であるが、(347)慣用句としてしばしはあらわれており、類型的な句である。
 
市原王歌一首
 
【釋】市原王 イチハラノオホキミ。既出の春日の王(卷三、二四三)の孫、安貴の王(同・三〇六)の子。天平の頃、寫經司の舍人となり、後、玄蕃の頭となり、天平勝寶元年四月に、東大寺大佛造營の功によつて從五位の上を、同二年十二月には同じ功によつて正五位の下を授けられ、天平寶字七年正月、攝津の大夫、同四月、造東大寺長官に任ぜられた。室能登の内親王とのあいだに、五百井の女王、五百枝の王の二子がある。本集には、父安貴の王を祷ぐ歌、獨子を悲しむ歌などがあり、よいお人柄であつた。正倉院文書のうちには、自筆の書状などを傳え、また歌林七卷を書寫せしめられたことが傳えられている。
 
〔写真有り、その説明〕市原の王の書状
市原の王の自筆の書状で、紙背に天平二十一年三月の文があつて、それより前のものである。口状のようなもので正式の書状ではない。
 
(348)412 頂《いなだき》に 著統《きす》める玉は
 二つ無し。
 かにもかくにも 君がまにまに。
 
 伊奈太吉尓《イナダキニ》 伎須賣流玉者《キスメルタマハ》
 無v二《フタツナシ》
 此方彼方毛《カニモカクニモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
 
【譯】頭上に大切に藏している玉は二つはない。そのように、いかようにもひたすらにあなたの仰せられる通りであります。
【釋】伊奈太吉尓 イナダキニ。イナダキは、イタダキに同じとされている。別にそういう證明はないが、ナの音とダの音とは、古く通用することが多いから、さようにもいえるであろう。頂上の意。
 伎須賣流玉者 キスメルタマハ。キスメルは、標註播磨國風土記の賀毛郡の條に「伎須美《きすみ》野、右、伎須美野と號《なづ》くるは、品太《ほむだ》の天皇の世に、大伴の連等、此の處を請ひし時、國造黒田別を喚《め》して地《くに》の状《かたち》を問ひたまひき。爾《その》時《とき》對へて曰はく、衣を縫ひて櫃《き》の底に藏《きす》みしが如し。故《かれ》伎須美野といふ」(もと漢文)の本文についてこの歌を擧げ、「今據(リテ)2風土記(ニ)1考(フルニ)v之(ヲ)、伎須美《キスミ》之言(ハ)藏也。倭姫(ノ)世記(ニ)有(リ)2國太摩伎志賣留國《クニタマキシメルクニ》之語1、亦與2伎須美(ト)1同言(ナリ)」とある。これによつて、藏せるの意とすべきである。頂ニキスメルは、佛説にいう所の髪中の明珠をもつて佛法を譬えいうによるものであろう。「阿母刀自母《アモトジモ》 多麻爾母賀母夜《タマニモガモヤ》 伊多太伎弖《イタダキテ》 美都良乃奈可爾《ミヅラノナカニ》 阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》」(卷二十、四三七七)の歌にいう所も、また同じ趣である。
 無二 フタツナシ。唯一不二であるの意の句切。
 此方彼方毛 カニモカクニモ。コナタカナタモ(西)、カニモカクニモ(玉)。「處女墓《ヲトメヅカ》 中爾造置《ナカニツクリオキ》 壯士墓《ヲトコヅカ》 此方彼方二《コナタカナタニ》 造置有《ツクリオケル》 故縁聞而《ユヱヨシキキテ》」(卷九、一八〇九)の例があり、此方彼方の字面は、コナタカナタとも讀まれるが、歌意を按ずるに、いかようにもの意であるから、カニモカクニモの方が適當である。
(349) 君之隨意 キミガマニマニ。君は誰をさすか不明である。マニマニは、集中、「末支太末不《マキタマフ》 官乃末爾末《ツカサノマニマ》」(卷十八、四一一三)の如く、マニマの例があるによれば、マニマに助詞ニの添つたものであろう。しかし慣用の上から、マニの連語のように感じられている。
【評語】思う人を、髪中の明珠に譬え、自分は、そのただ一つの明珠の意のままであるよしを歌つている。上三句に、ただ一つの玉を頂いている事をいい、その玉のように、君をのみ大切に頂いているというふうに歌つている。譬喩を用いている歌であるが、下二句は本心をそのままにいう。いかにも、ただ一人の方を大切に思うというに、適した譬喩である。
 
大網公人主、宴吟歌一首
 
大網の公人主の、宴に吟へる歌一首。
 
【釋】大網公人主 オホアミノキミヒトヌシ。傳未詳。大網の公は、崇神天皇の皇子|豐城入彦《とよきいりひこ》の命の後である。
 宴吟歌 ウタゲニウタヘルウタ。宴席で吟誦した歌で、自作であるか否か不明である。
 
413 須磨の海人《あま》の 鹽燒衣《しほやきぎぬ》の 藤服《ふぢごろも》、
 ま遠《どほ》にしあれは  いまだ著穢《きな》れず。
 
 須麻乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》 藤服《フヂゴロモ》
 間遠之有者《マドホニシアレバ》 未2著穢1《イマダキナレズ》
 
【譯】須磨の海人が、鹽を燒く著物の藤の織物は、織目が粗いので、まだ著よごしをしないことだ。
【釋】須麻乃海人之 スマノアマノ。須麻は、神戸市の西部、淡路島に面せる海岸の地。その地の海人は、古くから鹽を燒くを業として知られていた。
 鹽燒衣乃 シホヤキギヌノ。シホヤキギヌは、鹽を燒く時に著る衣で、鹽氣のため、また火を焚くために、(350)特によごれることが激しい。「爲間乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》 奈禮名者香《ナレナバカ》 一日母君乎《ヒトヒモキミヲ》 吾而將v念《ワスレテオモハム》」(卷六、九四七)など歌われている。ノは、鹽燒衣であるの意に次の句に續く。
 藤服 フヂゴロモ。フヂの繊維で織つた衣。粗末な織物である。フヂは花の美しい藤に限らず、蔓性植物を廣くいう。
 間遠之有者 マドホニシアレバ。藤の織物は、粗末で、織目が荒いので、間遠といつている。同時にこの語には、逢うことの間隔あるを含めている。シは強意の助詞。逢うこと稀なればの意である。
 未著穢 イマダキナレズ。衣服を著用して汚垢のために穢れるのをキナルという。ナレギヌ、キナレノコロモなどいう。ここはまだ著古さないのである。
【評語】調子よく巧みに譬喩を使用している。四五句は、逢うこと稀にして愛人と馴れるに至らないことを歌つているが、間遠、著穢レズなどは、藤ゴロモの縁で使用しているのであつて、織目があらいから著穢れないという理くつではない。どこまでも譬喩に即して解すると誤解を生じるのである。古歌を吟誦したのであろうという説があるが、そういうことも考えられる歌である。
 
大伴宿祢家持歌一首
 
414 あしひきの 岩根|凝《こご》しみ、
 菅《すが》の根を 引かば難《かた》みと、
 標《しめ》のみぞ結ふ。
 
 足日木能《アシヒキノ》 石根許其思美《イハネコゴシミ》
 菅根乎《スガノネヲ》 引者難三等《ヒカバカタミト》
 標耳曾結焉《シメノミゾユフ》
 
【譯】山の岩が嶮しくて、山菅の根を引くのは困難なので、繩を張つておくだけにする。
(351)【釋】足日木能 アシヒキノ。山の枕詞であるが、ここはこれを山の意に代用している。「足引乃《アシヒキノ》 許乃間立八十一《コノマタチクク》 霍公鳥《ホトトギス》」(卷八、一四九五)、「足檜乃《アシヒキノ》 下風吹夜者《アラシフクヨハ》」(卷十一、二六七九)、「安之比奇能《アシヒキノ》 乎※[氏/一]母許乃毛爾《ヲテモコノモニ》」(卷十七、四〇一一)など、この用法である。
 石根許其思美 イハネコゴシミ。イハネは、岩に同じ。ネは接尾語。コゴシミは、凝つているのでの意。
 菅根乎 スガノネヲ。スガノネは、山菅の根である。
 引者難三等 ヒカバカタミト。菅の根を引くは、これを採取するをいう。「石二生《イハニオフル》 菅根取而《スガノネトリテ》 之努布草《シノフグサ》 解除而益乎《ハラヘテマシヲ》」(卷六、九四八)というによれは、何かまじない事に使用したらしい。菅の根の長いということは多く歌われており、人生に親しいものがあつたのである。ここは、引いて採取するのが困難であるとしての意。
 標耳曾結焉 シメノミゾユフ。標を結うは、占有の意を表示する。取ることができなくて占有の意だけをあらわしておくというのである。
【評語】いかなる事情のもとに詠まれたか不明であるが、ある女を手に入れようとして、困難な事情があり、わがものと定めておくだけに留める意味に歌つている。やや複雜な内容を、よく譬喩をもつて描いている。
 
挽歌
 
【釋】挽歌 メニカ。柩車を引く時の歌であるが、本集では廣く人の死を哀悼する歌の意に使用している。既に卷の二に見え、また卷の五、七、九、十五等にも見えている。
 
上宮聖徳皇子、出2遊竹原井1之時、見2寵田山死人1、悲傷御作歌一首 【小墾田宮御宇天皇代。墾田宮御宇者、豐御食炊屋姫天皇也。諱額田、謚推古。】
 
(352)上の宮の聖徳の太子の、竹原《たかはら》の井《ゐ》に出遊《いでま》しし時に龍田山《たつたやま》の死人を見て悲《かな》しみて作りませる御歌一首【小墾田の宮に天の下知らしめしし天皇の代。墾田の宮に天の下知らしめししは、豐御食飲屋姫の天皇なり。諱は額田、謚は推古と申す。】
 
【釋】上宮聖徳皇子 ウヘノミヤノシヤウトコノミコ。用明天皇の皇子で、推古天皇の御代に攝政となられた。上の宮というのは、日本書紀に「父の天皇|愛《め》でて、宮南《おほみや》の上殿《かむつみや》に居《はべ》らしむ。故《かれ》その名を稱《たた》へて上《うへ》の宮《みや》の厩戸《うまやど》の豐聽耳《とよとみみ》の太子と謂ふ」とあり、また「この皇子、初め上の宮にましましき。後に斑鳩《いかるが》に移りたまふ」とある。聖徳というは、謚號《しごう》であろう。
 竹原井 タカハラノヰ。大阪府中河内郡柏原町高井田の地で、奈良時代には行宮があつた。大和川の沿岸にあり、大和から河内に越える道に當る。その地は大和川に面しているので、今の龜が瀬の清流をいうのだろう。
 龍田山 タツタヤマ。大和の國から河内に越える通路に當る山。この時、皇子は何處にましましたか不明であるが、斑鳩にましましたのででもあろう。
 死人 ミマカリシヒト。路上に死んだ者をいう。歌詞によるに、旅に出て死んだのである。
 小墾田宮御宇天皇代 ヲハリダノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。推古天皇の御代をい(353)い、聖徳太子の時代を註したものと見られる。小墾田は、奈良縣高市部、飛鳥の地である。下文に、墾田とあるは、小の字を脱したのだろう。
 諱額田謚推古 タダノミナハヌカダ、オクリナハスヰコ。諱は、實名。日本書紀、推古天皇の卷に「幼(キトキ)曰(フ)2額田部(ノ)皇女(ト)1」とある。
 
415 家にあらば 妹が手|纏《ま》かむ。
 草枕 旅に臥《こや》せる
 この旅人《たびと》あはれ。
 
 家有者《イヘニアラバ》 妹之手將v纏《イモガテマカム》
 草枕《クサマクラ》 客尓臥有《タビニコヤセル》
 此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》
 
【譯】家にあつたならば、妻の手を枕としようものを。旅に出て臥しているこの旅人は、氣の毒なことである。
【釋】家有者 イヘニアラバ。この旅人が、もしその家にあらばの意である。
 妹之手將纏 イモガテマカム。イモは、その妻をいう。日本書紀の仁賢天皇の卷の本註に、「古老《いにしへ》兄弟長幼と言はず、女は男を以ちて兄《せ》と稱《い》ひ、男は女をもちて妹《いも》と稱ふ」とあるが、兄弟に限らず、また男でも女でも、相手が男なら兄《せ》といい、女なら妹《いも》といつたものである。この歌で妹というは、臥している旅人の妻をいう。纏クは、妻の手をもつて枕とする、身に纏くこと。句切。
 客尓臥有 タビニコヤセル。旅にして臥しているの意。連體形の句。
 此旅人※[立心偏+可]怜 コノタビトアハレ。この旅人は、死者を指していう。タビビトを約めてタビトという。※[立心偏+可]怜は本來可怜と書くべきを、下の字の扁が上にも及んだものである。感動をあらわす字で、ほめるのが本意であるから、アハレ、オモシロシ、ウマシなどと讀んでいる。日本書紀にこの歌を載せて、ソノ旅人アハレ(阿波禮)とあるのでここでもアハレと讀んでいる。アハレは感動の聲である。
(354)【評語】この歌は諸書に見えているが、日本書紀に載つているのが、そのもとであろう。それは二段から成る一種の歌體であつたものを、この集には短歌の形として傳えたのである。短歌形式が歌體の大部分を占めるようになつてから、かく形を變えるに至つたものであろう。昔の旅行が困難であつて、しばしば行路に死ぬ者があつたことは、かの十人行けば五人は留めたという類の傳説が諸國にあり、また本集中にも行路の死人を悼んだ歌を留めているのでも知られる。聖徳太子のこの御歌は、一切の衆生を憐みたまう博愛の心がよく窺われる。
【參考】(一)片岡山の歌。
(推古天皇二十一年の冬十二月)庚午の朔《つきたち》の日、皇太子片岡に遊行したまひき。時に飢《う》ゑたるもの、道の垂《ほとり》に臥《こや》せり。よりて姓名を問はせども言《まを》さず。皇太子視たまひて飲食を與へ、すなはち衣裳を脱ぎて、飢ゑたるものに覆《おほ》ひて安《やす》らに臥《こや》せと宣《の》りたまひき。歌よみしたまひしく、
  しなてる片岡山に、飯《いひ》に飢《ゑ》て臥《こや》せる、その旅人《たびと》あはれ。親《おや》無しに汝《なれ》成《な》りけめや、さすたけの君はや無き。飯《いひ》に飢《ゑ》て臥《こや》せる、その旅人《たびと》あはれ(日本書紀一〇四)
(二)山路に死人を悼む。
   柿本の朝臣人麻呂の、香具山の屍を見て、悲慟しみて作れる歌一首。
  草枕旅の宿《やどり》に誰が夫《つま》か國忘れたる。家待たまくに(卷三、四二六)
   足柄の坂を過ぎて、死《みまか》りし人を見て作れる歌一首。
  小垣内《をかきつ》の 麻を引き干《ほ》し 妹なねが 作り著《き》せけむ 白たへの 紐をも解かず 一重|結《ゆ》ふ 帶を三重結ひ 苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 國に罷《まか》りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東《あづま》の國の 恐《かしこ》きや神の御坂《みさか》に 和靈《にきたま》の 衣《ころも》寒らに ぬばたまの 髪は亂れて 國問へど 國をも告《の》らず 家問へど 家をも言はず 丈夫の 行きの進《すす》みに 此處《ここ》に臥《こや》せる(卷九、一八〇〇)
 
(355)大津皇子、被v死之時、磐余池般、流涕御作歌一首。
 
大津の皇子の、被死《みまか》らしめらえし時に、磐余《いはれ》の池の般《つつみ》にして、流涕《かな》しみて作りませる御歌一首。
 
【釋】大津皇子 オホツノミコ。既出(卷二、一〇五)。天武天皇の皇子。天皇の崩後、謀反の罪によつて死を賜わつた。朱鳥元年九月九日天皇崩じ、十月三日に死んだ。
 被死之時 ミマカラシメラエシトキニ。日本書紀には賜死とあり、ミマカラシムと訓している。死を命ぜられたのである。
 磐余池般 イハレノイケノツツミニシテ。磐余の池は、履中天皇の二年十一月に作られた池で、奈良縣磯城郡のうちであろうが、今所在未詳である。般は、代匠記に、史記封禅書に「鴻漸(ス)2于般(ニ)1 漢書音義(ニ)曰(フ)、般(ハ)水涯(ノ)堆也」とあるを引いている。堤の義である。目録には陂とある。日本書紀によれば、皇子の邸は譯語田《おさだ》にあり、この池は、その邸に近かつたのであろう。
 流涕 カナシミテ。泣くことであるが、意をとつてカナシミテと讀む。
 
416 百傳《ももづた》ふ 磐余《いはれ》の池に 鳴く鴨を
 今日のみ見てや、雲|隱《がく》りなむ。
 
 百傳《モモヅタフ》 磐余池尓《イハレノイケニ》 鳴鴨乎《ナクカモヲ》
 今日耳見哉《ケフノミミテヤ》 雲隱去牟《クモガクリナム》
 
【譯】あの磐余の池に鳴く鴨を、親しく見るのは今日だけで、自分は死んで行くのであろうか。
【釋】百傳 モモヅタフ。枕詞。八十《やそ》、五十《いそ》、三十《みそ》等を修飾するのは、百になる途中の意である。その五十をイというより、地名の磐余のイに懸かるのである。
 磐余池尓 イハレノイケニ。題詞の條參照。
(356) 鳴鴨乎 ナクカモヲ。皇子の死は、陰暦十月三日であるから、當時既に鴨が下りていたのである。
 今日耳見哉 ケフノミミテヤ。ヤは、疑問の係助詞。鴨を見るのも今日ばかりかと凝つている。
 雲隱去年 クモガクリナム。貴人は死して天に上ると信じられていた。ナムは、動詞の連用形について、將來にいう助動詞。去ナムを語原としている。死の意味の雲隱るの例「大君は神にし坐《ま》せば天雲の五百重《いほへ》が下《した》に隱《かく》りたまひぬ」(卷二、二〇五)、「大君の命《みこと》かしこみ大殯《おほあらき》の時にはあらねど雲隱ります」(卷三、四四一)、「留め得ぬ命《いのち》にしあれば敷栲《しきたへ》の家ゆは出でて雲隱りにき」(同、四六一)。
【評語】死に臨んで、從容として池上に鳴く鴨に別れを惜しんでいる。古人の、自然を愛する情、至れるものがあるというべきである。現存せる最古の詩集である懷風藻に、大津の皇子の臨終の詩一絶を載せている。詩歌をよくした才人であつたが、終りをよくしなかつたのは惜しむべきである。ただ姉に大伯《おおく》の皇女があり、皇子に關して哀絶の詞を傳え、妃に山邊の皇女があり、被髪徒跣して死に殉じたという。純情の人々に圍まれていたのはせめてもの幸福であつた。
【參考】(一)大津の皇子の最後。
  (朱鳥元年十月)庚午(三日)、皇子大津を譯語田《をさだ》の舍に賜死《みまか》らしむ。時に年廿四。妃の皇女山邊、髪《みぐし》を被《くだ》し徒跣《すあし》にして、奔赴《ゆ》きて殉《ともにし》ぬ。見る者皆|歔欷《なげ》く。皇子大津は、天の淳中原瀛《ぬなはらおき》の眞人の天皇の第三子なり。容止墻岸《みかほたかくさかしく》、音辭《みことば》俊れ朗かなり。天命開別《あめのみことひらかすわけ》の天皇のために愛《めぐ》まれたまふ。長となるに及びて辨《わいわい》しくて才學《かど》有り、尤も文筆を愛む。詩賦の興、大津より始まれり。(日本書紀持統天皇紀)
(二)五言、臨終一絶。
 金烏臨(ミ)2西舍(ニ)1 鼓聲催(ス)2短命(ヲ)1 泉路無(シ)2賓主1 此(ノ)夕離(レテ)v家(ヲ)向(フ)(懷風藻)
 
(357)右、藤原宮朱鳥元年冬十月
 
【釋】藤原宮朱鳥元年 フヂハラノミヤノアカミドリハジメノトシ。朱鳥元年は、天武天皇の治世の最後の年であり、持統天皇の治世の最初の年である。藤原の宮は、持統天皇の八年に遷都された地であつて、當時はまだ明日香の淨御原《きよみはら》の宮の時代であるが、持統天皇の朱鳥元年の意味に、ここに藤原の宮と冠したのであろう。
 
河内王、葬2豐前國鏡山1之時、手持女王作歌三首
 
河内の王を、豐前の國の鏡の山に葬りし時に、手持《たもち》の女王の作れる歌三首。
 
【釋】河内王 カフチノオホキミ。系統未詳。持統天皇の三年閏八月に淨廣肆河内の王を筑紫の大宰の帥とすること見え、同八年四月には、淨大肆を筑紫の大宰の率河内の王に贈り賻物《はふりもの》を賜うことが見えているから、その頃に薨去したものと考えられる。
 豐前國鏡山 トヨノミチノクチノクニノカガミノヤマ。既出(卷三、三一一)。河内の王の墓は、今もその山の西に存している。
 手持女王 タモチノオホキミ。系統未詳。河内の王の室であろう。この歌三首は、連作であつて、三首をもつて一の内容を構成する。
 
(358)417 大王《おほきみ》の 親魄《むつたま》合《あ》へや、
 豐國《とよくに》の 鏡の山を
 宮と定むる。
 
 王之《オホキミノ》 親魄相哉《ムツタマアヘヤ》
 豐國乃《トヨクニノ》 鏡山乎《カガミノヤマヲ》
 宮登定流《ミヤトサダムル》
 
【譯】河内の王の御心にかなつてか、豐國の鏡の山を御墓とお定めになることです。
【釋】王之 オホキミノ。オホキミは、天皇また皇子、王にもいう。ここは河内の王をさす。
 親魄相哉 ムツタマアヘヤ。ムツタマは、河内の王の靈魂をいう。ムツは、親睦の意にタマに冠している。延喜式祝詞に「皇親神魯岐神魯美之命《スメムツカムロキカムロミノミコト》」「皇睦神漏岐命神漏彌命《スメムツカムロキノミコトカムロミノミコト》」などある皇親また皇睦をスメムツ、またはスメラガムツと讀んでいる。魄は、説文に「陰神也」とあるが、靈魂と同義に使用していると見られる。ムツタマは、親しみ睦ばれる御魂の意。アヘヤは、合ヘバニヤの意の前提條件法で、ヤは疑問の係助詞である。タマアフということ、熟語として、心が合う、心に協う、氣に入る、よしとする意を成す。「靈合者《タマアヘバ》 相宿物乎《アヒネムモノヲ》 小山田之《ヲヤマダノ》 鹿猪田禁如《シシダモルゴト》 母之守爲裳《ハハシモラスモ》」(卷十二、三〇〇〇)、「玉相者《タマアハバ》 君來益八跡《キミキマスヤト》 吾嗟《ワガナゲク》 八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》」(卷十三、三二七六)、「波播已毛禮杼母《ハハイモレドモ》 多麻曾阿比爾家留《タマゾアヒニケル》」(卷十四、三三九三)など用例がある。
 宮登定流 ミヤトサダムル。鏡の山を御墓として鎭まりましたことを、王の心から選定したというように敍している。「あさもよし城上《きのへ》の宮を、常宮《とこみや》と高くし奉りて」(卷二、一九九)の例がある。上のヤを受けて、連體形で結んでいる。
【評語】連作の第一首として、まず墓所の選定を歌つている。疑問の條件法によつて、どうしてこのような處を宮とされるかの語氣が感じられる。
 
(359)418 豐國の 鏡の山の 石戸《いはと》立て
 隱《こも》りにけらし。
 待てど來《き》まさず。
 
 豐國乃《トヨクニノ》 鏡山之《カガミノヤマノ》 石戸立《イハトタテ》
 隱尓計良思《コモリニケラシ》
 雖v待不2來座1《マテドキマサズ》
 
【譯】豐前の國の鏡の山に、御墓づくりをし、その入口に石戸を立て、お籠り遊はされたそうな。待つていてもおいでがない。
【釋】石戸立 イハトタテ。上代の墳墓は、中央に棺を置く室があり、それから道が出てその入口に岩石を立ててある。その入口の岩石を岩戸という。墳墓の入口に岩戸を立てる意である。勿論葬儀に從事する人が立てるのであるが、それを王自身が岩戸を立てて隱れると敍している。
 隱尓計良思 コモリニケラシ。墳墓にこもつたと見えると、推量の語で歌つている。句切。
 雖待不來座 マテドキマサズ。王を待つてもおいでにならないの意である。
【評語】第一首を受けて、待てども來ぬ理由を推量している。順序のよい進行ぶりである。
 
419 石戸《いはと》破《わ》る 手刀《たぢから》もがも。
 手弱《たよわ》き 女《をみな》にしあれば
 術《すべ》の知らなく。
 
 石戸破《イハトワル》 手力毛欲得《タヂカラモガモ》
 手弱寸《タヨワキ》 女有者《ヲミナニシアレバ》
 爲便乃不v知苦《スベノシラナク》
 
【譯】御墓の石戸を打ち破る力も欲しいなあ。わたしは弱々しい女子のことだから、せむすべを知らないことです。
【釋】石戸破 イハトワル。前の歌の石戸を受けて、それを破ることを歌つている。連體形の句。
(360) 手力毛欲得 タヂカラモガモ。タデカラは、手の力、腕力。ガは願望の助詞。欲得は、意をもつて書いている。ここではガモに當るように見えるが、「花爾欲得《ハナニモガ》」(卷三、三〇六)の例では、モガに當り、「令v服兒欲得《キセムコモガモ》」(卷七、一三四四)の例では、モガモに當つている。この句は、手力が欲しいことだの意で、假字書きの例には「乎里※[氏/一]加射佐武《ヲリテカザサム》 多治可良毛我母《タヂカラモガモ》」(卷十七、三九六五)がある。句切。
 手弱寸 タヨワキ。タは接頭語。四音の句で、連體形である。
 女有者 ヲミナニシアレバ。ヲミナは、若い女の謂であつたが、ここでは女性の汎稱になつている。シは強意の助詞。メニシアレバと讀む説は、「阿波母與《アハモヨ》 賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》」(古事記六)によるものである。
 爲便乃不知苦 スベノシラナク。スベは手段、方法。シラナクは、知らぬことの意の體言。
【評語】初二句、非常に力強い。死し去つた人を呼び迎えるために、かの墓所の石戸をも打ち破りたく思う情をあらわしている。三句の字足らずも、珍しいものであるが、かえつて力が強い。死の前に力のない人間の身の弱さを歌つている。一首としても立派な歌であるが、前から漸次急迫して行くところを味わうべきである。この力強い一首をもつて、この連作の結末としているのは、もつとも效果的な行き方である。
 
石田王卒之時、丹生王作歌一首 并2短歌1
 
石田の王の卒りし時に、丹生の王の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】石田王 イハタノオホキミ。傳未詳。歌詞によるに男王なるべく、また次に養老七年二月に卒した山前の王作の挽歌があるから、その以前に卒去されたものと考えられる。山前の王は、忍壁の皇子の子であるから、山前の王の弟であるかもしれない。
 卒之時 ミマカリシトキニ。卒は、五位以上および皇親の死に使用する文字である。
(361) 丹生王 ニフノオホキミ。傳未詳。歌詞に、みずから祭祀を行うが如き記事があるによれば女王なるべく、卷の四、卷の八に丹生の女王とあると同人かと考えられる。女王を王とのみ書くことは、額田の王以下、例があり、古事記にもその例がすくなくない。
 
420 なゆ竹の とをよる皇子《みこ》、
 さにつらふ わが大王は、
 こもりくの 泊瀬《はつせ》の山に
 神《かむ》さびに 齋《いつ》き坐《いま》すと、
 玉|梓《づさ》の 人ぞ言ひつる。
 妖言《およづれ》か わが聞きつる。
 狂言《たはごと》か わが聞きつるも。」
 天地に 悔しき事の
 世間《よのなか》の 悔しきことは、
 天雲の 遠隔《そくへ》の極《きは》み、
 天地の 至れるまでに、
 杖|策《つ》きも 衝《つ》かずも行きて、
 夕占《ゆふけ》問ひ 石占《いしうら》もちて、
 わが屋戸《やど》に 御諸《みもろ》を立てて、
(362)枕邊に 齋戸《イハヒベ》を居《す》ゑ、
 竹玉《たかだま》を 間《ま》なく貫《ぬ》き垂《た》り、
 木綿襷《ゆふだすき》 臂《かひな》に懸けて 、
 天なる 左佐羅《ささら》の小野の
 七符菅《ななふすげ》 手に取り持ちて、
 ひさかたの 天の川原に
 出で立ちて 禊《みそ》ぎてましを、
 高山の 巖《いはほ》の上に
 坐《いま》せつるかも。」
 
 名湯竹乃《ナユタケノ》 十縁皇子《トヲヨルミコ》
 狹丹頬相《サニツラフ》 吾大王者《ワガオホキミハ》
 隱久乃《コモリクノ》 始瀬乃山尓《ハツセノヤマニ》
 神左備尓《カムサビニ》 伊都伎座等《イツキイマスト》
 玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》
 於余頭禮可《オヨヅレカ》 吾聞都流《ワガキキツル》
 狂言加《タハゴトカ》 我聞都流母《ワガキキツルモ》
 天地尓《アメツチニ》 悔事乃《クヤシキコトノ》
 世間乃《ヨノナカノ》 悔言者《クヤシキコトハ》
 天雲乃《アマグモノ》 曾久敝能極《ソクヘノキハミ》
 天地乃《アメツチノ》 至流左右二《イタレルマデニ》
 枚策毛《ツヱツキモ》 不v衝毛去而《ツカズモユキテ》
 夕衢占問《ユフケトヒ》 石卜以而《イシウラモチテ》
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》
 枕邊尓《マクラベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》
 竹玉乎《タカダマヲ》 無v間貫垂《マナクヌキタリ》
 木綿手次《ユフダスキ》 可此奈尓懸而《カヒナニカケテ》
 天有《アメナル》 左佐羅能小野之《ササラノヲノノ》
 七相菅《ナナフスゲ》 手取持而《テニトリモチテ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天川原尓《アマノカハラニ》
 出立而《イデタチテ》 潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》
 高山乃《タカヤマノ》 石穗乃上尓《イハホノウヘニ》
 伊座都流香物《イマセツルカモ》
 
【譯】しなしなとした竹のように撓み寄る皇子樣、紅顔のわが大君。あの泊瀬《はつせ》の山に神としてお祭り申しあげていると、人々がいいました。それは人惑わしの言葉でしようか、わたしは聞きました。ふざけた言葉でしようか、わたしは聞きました。この天地のあいだに悔しい事の限りは、大空の雲の遠くさがつている極み、天地の續いている處まで、杖をついたりつかなかつたりして行つて、夕占などをして、わたしの屋戸に祭壇を設けて、枕邊に神座をすえ、竹の玉をいつぱいに貫いてさげ、木綿《ゆう》の襷を腕にかけて、天にあるという左佐羅《ささら》の野の長い菅を手に取り持つて、天の川原に出で立つて禊《みそぎ》をしましようものを、そうしなかつたばかりに、高山の巖の上にわが君をお住ませ申してしまつた。
【構成】この歌は、二段になつている。狂言カワガ聞キツルモまで第一段、王の訃を人が告げ、自分がそれを(363)聞いた感想を述べている。以下第二段、祭や、禊をしなかつたために死なせたことを歌つている。
【釋】名湯竹乃 ナユタケノ。吉備津《きびつ》の采女《うねめ》の死んだ時の挽歌に、「奈用竹乃《ナヨケケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》」(卷二、二一七)とある。なよなよとした竹の義で、譬喩になつている。
 十縁皇子 トヲヨルミコ。トヲヨルは、撓寄るの義で、しなやかに寄りそう意。「安治村《アヂムラノ》 十依海《トヲヨルウミ》」(卷七、一二九九)。この敍述は、次の句のサ丹ツラフワガ大王の句と共に、女子の説明として適當なようであるが、しかし石田の王は、次の山前の王の作の挽歌、ならびにその左註によるに、男王のようである。これは少年であつたので、このような敍述となつたのだろう。石田の王と丹生の王との關係は、夫婦關係と見るべき何等の證明もないから、あるいは兄弟關係、母子關係であつて、丹生の王が母姉であるかも知れない。それでかような敍述があるものとも考えられる。
 狹丹頬相 サニツラフ。サは接頭語、ニは、やや黄を含んだあかるい赤色をいう名詞。ツラフは、「引豆良比《ヒコヅラヒ》 有雙雖v爲《アリナミスレド》 曰豆良賓《イヒヅラヒ》 有雙雖v爲《アリナミスレド》」(卷十三、三三〇〇)のヒコヅラヒ、イヒヅラヒのヅラヒに同じく、ある事の連續して行われる意の動詞を作る接尾語とされている。次の句に對して修飾語となつている。サニツラフワガ大王とは、紅顔の王子というが如く、その血色の美しいのを稱えている。「左丹頬經《サニツラフ》 妹乎念登《イモヲオモフト》」(卷十、一九一一)の例は、女子についていい、「左耳通良布《サニツラフ》 君之三言等《キミガミコトト》」(卷十六、三八一一)、「散追良布《サニツラフ》 君爾依而曾《キミニヨリテゾ》」(三八一三)の例は男子について言つている。その他、「狹丹頬相《サニツラフ》 紐解不v離《ヒモトキサケズ》」(卷四、五〇九)、「左丹頬合《サニツラフ》 紐開不v離《ヒモアケサケズ》」(卷十二・三一四四)は紐を修飾し、「狹丹頬歴《サニツラフ》 黄葉散乍《モミヂチリツツ》」(卷六、一〇五三)は黄葉を修飾している。
 吾大王者 ワガオホキミハ。オホキミは、石田の王をいう。ナユ竹ノトヲヨル皇子、すなわちサニツラフワガ大王で、姿體と容顔の兩方面からこの王を敍述している。
(361) 隱久乃 コモリクノ。既出(卷一、四五)。枕詞。初瀬に冠する。隱れた國の義であろう。
 始瀬乃山尓 ハツセノヤマニ。この王の墓所の所在をいうが、今いずれの地とも知られない。
 神佐備尓 カムサビニ。カムサビは、神としての性質をあらわすことの意の體言。神性をあらわす事にの意の句。
 伊都伎坐等 イツキイマスト。祭り申すとの意で、下のイヒツルに接續する。イツキは、大切に祭る意の助詞。イマスはいられる意の敬語。助動詞。
 玉梓乃 タマヅサノ。既出(卷二、二〇七)。枕詞。使者に冠するが、ここは使者を略して人に懸かつている。
 人曾言鶴 ヒトゾイヒツル。人は、王の訃報を告げた使の者をいう。
 於余頭禮可吾聞都流 オヨヅレカワガキキツル。オヨヅレは、日本書紀、天智天皇紀に妖僞、天武天皇紀に妖言を、いずれもオヨヅレと讀んでいる。人まどわしの作り言の義であろう。假字書きの例には、「於與豆禮加母《オヨヅレカモ》、多波許止乎加母《タハコトヲカモ》」(績日本紀、寶龜二年二月、藤原永手の薨去の時の宣命)、「於與豆禮加毛《オヨヅレカモ》、年高多流麻之奴止《トシタカクナリタルワレヲオキテマカリマシヌト》」(同天應元年二月能登の内親王の薨去の時の宣命)、「於餘豆禮能《オヨヅレノ》 多波許登等可毛《タハコトトカモ》」(卷十七、三九五七)などある。またこの文と類似しているものには、「枉言哉《タハゴトヤ》 人之云都流ヒトノイヒツル》 逆言乎《オヨヅレヲ》 人之告都流《ヒトノツゲツル》」(卷十九、四二一四)がある。この二句は、獨立の一文を成し、カが係助詞で、ツルで結んでいる。
 狂言加我聞都流母 タハゴトカワガキキツルモ。狂言は、神田本等による。西本願寺本等には枉言に作つている。この字面は、集中數出しており、その多くに異傳が存する。今それを表示すると次の通りである。
卷數  番號 枉言(【枉語を含む以下同じ】) ※[手偏+王]言 狂言  その他
卷三、四二〇 西本願寺本          大矢本      神田本 類聚古集「柱」
(365)〔省略〕
(366) かように諸種の傳來があり、區々であつて、歸趨するところを知らない。殊に卷の七の例は、すべて狂言に作り、卷の十一の例は、すべて枉言または※[手偏+王]言に作つている。狂言と枉言とは字形が似ているので、どちらかであつたかも知れず、いずれか一が誤傳であるとすれば、從來の諸説のいう如く、狂言とするを穩當とする。それは、この歌の反歌「逆言之《オヨヅレノ》 狂言等可聞《タハゴトトカモ》 高山之《タカヤマノ》 石穗乃上爾《イハホノウヘニ》 君之臥有《キミガコヤセル》」(卷三、四二一)は、長歌の句を多く取つているので、問題の字面も、長歌の字面と同一なるべく、しかもその歌は、卷の七の「狂語香《タハゴトカ》 逆言哉《オヲヅレゴトカ》 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山爾《ハツセノヤマニ》 庵爲云《イホリストイフ》」(卷七、一四〇八)と類型の歌である。また卷の十一の「小豆奈九《アヅキナク》 何狂言《ナニノタハゴト》 (367)今更《イマサラニ》 小童言爲流《ワラハゴトスル》 老人二四手《オイビトニシテ》」(卷十一、二五八二)の例は、すべて枉語、※[手偏+王]語に作つている例であるが、この歌の内容は、マガゴトでは意をなさない。よつて今、狂言に作るにより、タハゴトと讀むによる。タハゴトは、「於餘豆禮能《オヨヅレノ》 多波許登等可毛《タハコトトカモ》」(卷十七・三九五七)の例がある。タハは、タハワザなどの用例もあり、タハブルのタハと同語で、妄誕の言語の義と解せられる。なお枉言に作るによらば、枉は字書に邪曲也とあり、延喜式御門祭の祝詞に「天麻我都比云神言武惡事《アメノマガツヒトイフカミノイハムマガゴトニ》」とある惡事の自註に「古語(ニ)云(フ)2麻我許登《マガゴトト》1」とあるによつて、マガゴトと讀むぺく、災禍を招く言語の意に解するのである。この二句は、上の妖言カワガ聞キツルの句と對句をなし、ただ感動の助詞モを添えて形を變えている。連體形に感動の助詞モの接續する例は、「奈曾許己波《ナゾココバ》 伊能禰良要奴毛《イノネラエヌモ》」(卷十五、三六八四)。ここまで第一段。王の訃報を敍し、これを妖言か狂言かと疑つている。
 天地尓悔事乃 アメツチニクヤシキコトノ。この天地間におけるくやしい事にしての意。最大級に悔しい事をいう。
 世間乃悔言者 ヨノナカノクヤシキコトハ。天地にくやしい事であつて、世の中でのくやしい事はの意で、上の句と併わせて、最大級にくやしい事を擧げている。
 天雲乃曾久敝納極 アマグモノソクヘノキハミ。ソクヘは、退ク方の義で、天なる雲の彼方に退きいる終局をいう。かなた雲際の終りまでで、地上の極地をいう。ソキヘともいう。「天雲能《アマグモノ》 曾伎敝能伎波美《ソキヘノキハミ》」(卷十九、四二四七)。この句以下、ミソギテマシヲまで、くやしい事の説明で、かようにしなかつたのが殘念だというのである。
 天地乃至流左右二 アメツチノイタレルマデニ。天地の際限までもの意で、上の天雲ノ退ク方ノ極ミの句と共に、何處までもの意を強調する。
(368) 杖策毛 ツヱツキモ。杖を突いてもの意。枚も策も、ツヱともツキとも讀まれる字である。次の句のユキテに接續する。
 不衝毛去而 ツカズモユキテ。ツカズモは、枚を突かずしてもで、上に遠距離のことを述べ、いかようにしても行《い》つての意である。以上、石占モチテまでに懸かる。
 夕衝占問 ユフケトヒ。ユフケは、文字通り夕方に衢に出て卜占をするをいう。夕占をすることは、「玉桙之《タマホコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 夕卜乎《ユフウラヲ》 吾問之可婆《ワガトヒシカバ》 夕卜之《ユフウラノ》 吾爾告良久《ワレニツグラク》」(卷十三、三三一八)の例があり、これは、夕卜をユフウラと讀んでいるが、同じ事であると考えられる。ユフケの語は、「可度爾多知《カドニタチ》 由布氣刀比都追《ユフケトヒツツ》」(卷十七、三九七八)など見えている。その方法は、道行く人の言語を聞いて、これによつて判斷をするのである。卜占をすることを、ウラドフ、ウラヲトフというは、靈界の眞意を問訊する意である。
 石卜以而 イシウラモチテ。石は重量のあるものであるが、これを擧げ試みて、案外輕く感ずるか否かによつて、吉凶を判斷したものと考えられる。日本書紀景行天皇紀に、天皇、碩田《おはきた》の國(豐後)に至りたまい、柏峽《かしはを》の大野において、土蜘蛛を討ち得むとならば、柏の葉の如く輕く揚がれと、その野の大石を蹶《ふ》みしに、石は柏の葉の如く輕く揚がつたということが見える。石の輕く擧がるをもつて吉とするのである。モチテは、石占をもつて判斷する由であるが、判斷する意の語は略されている。いかなる遠隔の地までも行つて、夕占や石占を行い、これによつて、災禍の起るべき所以を知ろうとするのである。次の句以下、その災禍の起るべき所以を除去しようとする行事を敍する。
 吾屋戸尓 ワガヤドニ。ヤドは、家の戸口で、屋外と書いたものに同じと見られる。ここでは家屋の外部をいう。家の出入口であろう。
 御諸乎立而 ミモロヲタテテ。ミモロは既出(卷三、三二四)。神座。ここは、御諸を立てる場處を、わが屋(369)戸と説明しているのが注意される。
 枕邊尓 マクラベニ。齋戸をすえる場處を示している。この枕邊は、作者の就寢する枕頭とすべきである。「伊波比倍須惠都《イハヒベスヱツ》 安我登許能敝爾《アガトコノベニ》」(卷十七、三九二七)、「伊波比倍乎《イハヒベヲ》 等許敝爾須惠弖《トコベニスヱテ》」(卷二十、四三三一)の如く、床邊にすえる例があるのであるから、この枕邊も床邊に準じて考うべきである。
 齋戸乎居 イハヒベヲスヱ。既出(卷三、三七九)。神靈の宿るべき處を地をほつてすえるのである。
 竹玉乎無間貫垂 タカダマヲマナクヌキタリ。既出(卷三、三七九)。マナクは、間隔なくで、竹玉を垂れる程度を説明している。以上ワガ屋戸ニ以下、祭壇の用意である。
 木綿手次 ユフダスキ。木綿で作つた手次。神事を行うに當つては、手次を懸ける。古事記上卷、石屋戸の段に、宇受賣の命が、天の香具山のヒカゲカヅラを手次にするよしが見えている。
 可比奈尓懸而 カヒナニカケテ。カヒナは、新撰字鏡に、肱に註して「臂也、丁也、肩也、可比奈《カヒナ》」とある。
 天有左佐羅能小野之 アメナルササラノヲノノ。ササラノヲノは、天上にあると考えられた野の名。「天爾有哉《アメニアルヤ》 神樂良能小野爾《ササラノヲノニ》 茅草苅《チガヤカリ》」(卷十六、三八八七)とも見えている。「山葉《ヤマノハノ》 左佐良榎壯子《ササレヲトコ》 天原《アマノハラ》 門度光《トワタルヒカリ》 見艮久之好藻《ミラクシヨシモ》」(卷六、九八三)の歌の左註に「右の一首の歌は、或るは云はく、月の別《また》の名を佐散良衣壯士《ささらえをとこ》と曰ふといふ。この辭に縁《よ》りて此の歌を作りき」とあり、そのササラも同語であろう。ここに天上の野を持ち出したのは、神事に使用する菅の産地の神聖なわけを言おうとしてである。
 七相菅 ナナフスゲ。諸説があるが、七節もある疊を織り得べき長い菅のことであろうという。神事には、植物性のものを手にして執行するを常としている。
 手取持而 テニトリモチテ。七相菅を手に持つて。
 久堅乃 ヒサカタノ。枕詞。
(370) 天川原尓 アマノカハラニ。アマノカハラは、天上にあるという川原。何處かの川に出てみそぎをすべきであるが、ここは想像をめぐらしているので、神聖な川原の意に、天の川原を取り上げている。
 出立而 イデタチテ。家を發して他處に赴くをいう。
 潔身而麻之乎 ミソギテマシヲ。ミソギは、水で滌いで心身を清淨にする神道行事をいう。「君爾因《キミニヨリ》 言之繁乎《コトノシゲキヲ》 古郷之《フルサトノ》 明日香河爾《アスカノカハニ》 潔身爲爾去《ミソギシニユク》 一尾云、龍田超《タツタコエ》 三津之濱邊爾《ミツノハマベニ》 潔身四二由久《ミソギシニユク》」(卷四、六二六)、「玉久世《タマクセノ》 清川原《キヨキカハラニ》 身祓爲《ミソギシテ》 齋命《イハフイノチハ》 妹爲《イモガタメコソ》」(卷十一、二四〇三)など用例あり、潔身、身祓など書かれているので、身を滌ぐ義であると推定される。マシヲは不可能希望の語法で、そうしなかつたのをくやむ意がある。禊によつて來ようとする災禍を拂わないで殘念だつたというのである。以上、天地ニ悔シキ事ノ、世ノ中ノ悔シキ事を受けて、そうしなかつたのをくやんでいる。なお、天地ニ悔シキ事ノ世ノ中ニ悔シキ事は、高山ノ巖ノ上ニ坐セツルカモの意であるとする説があるが、そうではない。占いをし、祭をし、それから河原に出て禊をすることをしなかつたのが殘念だとするのである。
 高山乃石穗乃上尓 タカヤマノイハホノウヘニ。泊瀬ノ山ニ神サビニ齋キ坐スを受けている。高山の墓所に鎭まり坐す意を述べるのである。イハホは巖石、ホは接尾語、巖石の突出せるものをいう。
 伊座都類香物 イマセツルカモ。イマスは、坐すの敬語。居させたことであるの意。墓所に葬つたことを、その君をいさせたことだという形であらわしている。以上第三段、神事によつて災禍の來ようとするのを拂うことを怠つて、王の死を致したことを歎いている。
【評語】内容から見て、いかにも女性の作らしく、女性の中では母の歌らしい。表現としては、第一段の終りに懸けて、同形の句を繰り返したのが、有效に響いている。また悔しきことの句を重ねるなど、同形の句を繰り返して感情の強い表出に成功している。くやしい事の描寫も具體的なところがよい。
 
(371)反歌
 
421 逆言《およづれ》の 狂言《たはごと》とかも、
 高山の 巖の上に
 君が臥《こや》せる。
 
 逆言之《オヨヅレノ》 狂言等可聞《タハゴトトカモ》
 高山之《タカヤマノ》 石穗乃上尓《イハホノウヘニ》
 君之臥有《キミガコヤセル》
 
【譯】それは妖言の狂言であるか、君はかの高山の巖の上に臥しておいでになるという。
【釋】逆言之 オヨヅレノ。長歌の用語を採つて詠んでいると見られるので、逆言をオヨヅレと讀む。妖言に同じである。ノは、逆言であるとの意。
 狂言等可聞 タハゴトトカモ。狂言は、長歌の條參照。トカモは、としてかの意で、カモは疑問の係助詞。
 高山之石穗乃上尓 タカヤマノイハホノウヘニ。この句は、長歌の句を使用している。
 君之臥有 キミガコヤセル。石田の王の、山上の墓所に臥せるをいう。カモを受けて連體形で結んでいる。
【評語】長歌の意を要約し、その詞句を多く使用して詠んでいる。類型的な思想および形體であるだけによく纏まつている。
 
422 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の山なる 杉|群《むら》の、 思ひ過ぐべき 君にあらなくに。
 
 石上《イソノカミ》 振乃山有《フルノヤマナル》 杉村乃《スギムラノ》
 思遇倍吉《オモヒスグベキ》 君尓有名國《キミニアラナクニ》
 
【譯】石の上の布留の山にある杉の群のように、吾が心の中から過ぎ去るべき君ではない事である。
【釋】石上 イソノカミ。地名。奈良縣天理市の東方。石上の郷の中に布留の地がある。
(372) 振乃山有 フルノヤマナル。フルは、地名。普通布留の字を當てている。石上の郷の中にある地名。延喜式神名帳に、大和の國山邊の郡に「石上坐布留御魂《いそのかみにますふるのみたま》神社」があり、今、石上神宮と稱している。その布留の地の山なるの意である。この神社の杉は著名であつて、「石上《イソノカミ》 振乃神杉《フルノカムスギ》」(卷十、一九二七)、「石上《イソノカミ》 振神杉《フルノカムスギ》」(卷十一、二四一七)など歌われている。それでこの地名を出したのであろう。また石田の王、もしくは丹生の王に關係のある地名であるかも知れない。
 杉村乃 スギムラノ。スギムラは、杉の群。以上三句は、序詞で、次句の過グベキを引き出すために置かれている。
 思過倍吉 オモヒスグベキ。既出(卷三、三二五)。思い通過すべきで、心からなくなるべきの意である。
 君尓有名國 キミニアラナクニ。君は石田の王をさす。君ではないことだの意。
【評語】前の歌とは別の方面から敍して、長歌の意味を補充している。石上布留の山は、何等か關係のある山であるかも知れないが、反歌としては突然である。また調子がなめらかなので、悲痛の情をうすくしている。
 
同石田王卒之時、山前王哀傷作歌一首
 
同じ石田の王の卒《みまか》りし時に、山前の王の哀傷して作れる歌一首。
 
【釋】同 オヤジ。前の歌と同じ場合なので、同と題してある。
(372) 山前王 ヤマクマノオホキミ。續日本紀天平寶字五年三月、茅原の王を多〓《たね》が島に流した時の記事に、「茅原(ノ)王(ハ)者、三品忍壁(ノ)親王之孫、從四位(ノ)下山前(ノ)王之男(ナリ)」とあり、山前の王は、天武天皇の孫で、忍壁の皇子の子であることが知られる。慶雲二年十二月に无位より從四位の下を授けられ、養老七年十二月に卒した。懷風藻には、從四位の下刑部の卿山前の王として五言の詩一首を載せている。
 
423 つのさはふ 磐余《いはれ》の道を、
 朝さらず 行きけむ人の、
 念ひつつ 通ひけまくは、
 ほととぎす 鳴く五月《さつき》には、
 あやめ草 花たちはなを
 玉に貫《ぬ》き【一は云ふ、貫き交へ、】 ※[草冠/縵]《かづら》にせむと、
 九月《たがつき》の 時雨の時は、
 黄葉《もみちば》を 折り插頭《かざ》さむと、
 延《は》ふ葛《くず》の いや遠永く【一は云ふ、葛の根のいや遠永に、】
 萬世に 絶えじと念ひて、【一は云ふ、大船の念ひたのみて、】
 通ひけむ 君をは明日《あす》ゆ【一は云ふ、君を明日ゆは、】
 外《よそ》にかも見む。
 
 角障經《ツノサハフ》 石村之道乎《イハレノミチヲ》
 朝不v離《アササラズ》 將v歸人乃《ユキケムヒトノ》
 念乍《オモヒツツ》 通計萬四波《カヨヒケマクハ》
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴五月者《ナクサツキニハ》
 菖蒲《アヤメグサ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》
 玉尓貫《タマニヌキ》【一云、貫交】 ※[草冠/縵]尓將v爲登《カヅラニセムト》
 九月能《ナガツキノ》 四具禮能時者《シグレノトキハ》
 黄葉乎《モミチバヲ》 折插頭跡《ヲリカザサムト》
 延葛乃《ハフクズノ》 彌遠永《イヤトホナガク》【一云、田葛根乃 彌遠長尓】
 萬世尓《ヨロヅヨニ》 不v絶等念而《タエジトオモヒテ》【一云、大船 之念憑而】
 將v通《カヨヒケム》 君乎婆明日從《キミヲバアスユ》【一云、君乎從2明日1香】
 外尓可聞見牟《ヨソニカモミム》
 
【譯】この磐余の道を朝毎に行かれた、かの石田の王の、此處をお通いになりながら思われた事は、ホトトギ(374)スの來て鳴く五月のころは、菖蒲や、花橘等を玉として緒に貫いて※[草冠/縵]《かずら》にしようと思い、九月の時雨の降る頃は、黄葉を折つて插頭にしようと思い、何時の世までも永久にやめまいと思つて、通われたのであるが、その君を明日からは、この世のよそに見る事であろうか。
【構成】全篇一文であつて、段落はない。
【釋】角障經 ツノサハフ。既出(卷二、一三五)。枕詞。角がさまたげとなる意で、岩に冠する。
 石村之道乎 イハレノミチヲ。イハレは地名、既出(卷三、二八二)。泊瀬溪谷の入口に近い地名である。石田の王は、その道を朝毎に通われたというのは、その邊に邸宅があつて、藤原の宮にでも通われたのであろう。
 朝不離 アササラズ。既出(卷三、三七二)。朝毎に。
 將歸人乃 ユキケムヒトノ。ヒトは、石田の王をさす。
 念乍 オモヒツツ。下に掲げる※[草冠/縵]ニセムト、折リ插頭サムト、絶エジトの三項を念いつつの意になつている。
 通計萬口波 カヨヒケマクハ。通つたであろうことはの意。マクは、ムコトの意。次の敍述の内容を念いつつ通つたであろうとする。
 霍公鳥 ホトトギス。集中多くこの文字を使用している。
 鳴五月者 ナクサツキニハ。霍公鳥は、五月に鳴くものとされている。
 菖蒲花橘乎 アヤメグサハナタチバナヲ。菖蒲と橘の花とをの意である。菖蒲は、五月の節に使用する香草の名であるが、本集卷の十八あたりに、安夜女具佐の文字を慣用しているによれば、アヤメは漢女の義なるべく、その花の美しいのから出たものと思われる。よつて花アヤメのことだろう。
 玉尓貫 タマニヌキ。玉として緒に貫いて。
 一云貫交 アルハイフ、ヌキマジヘ。この歌には、一云が四個に及んであるが、それらの一云とあるものは、(375)同一の別傳の詞句であろうと考えられる。その出所は不明であるが、左註に或云柿本朝臣人麻呂作とあるによれば、人麻呂作とする別傳であつたようである。概して一云の方が意もよく通つて佳である。ヌキマジヘは、菖蒲や橘の花を交えて緒に貫いての意。
 ※[草冠/縵]尓將爲登 カヅラニセムト。菖蒲や橘の花を緒に貫いて、※[草冠/縵]にしようと思つての意で、遙かに下のオモヒテに接續する。※[草冠/縵]は、植物を輪にして飾りとして頭髪の上に戴くもので、五月五日の節には、菖蒲を※[草冠/縵]にして頭髪の飾りとしたものである。續日本紀、天平十九年五月の條に「太上天皇詔して曰はく、昔者《むかし》五日の節には、常に菖蒲《あやめ》を用ゐて※[草冠/縵]《かづら》と爲す。比來《このどろ》已に此の事を停《や》めぬ。今よりして後、菖蒲《あやめ》の鬘に非ざる者をば、宮中に入るる事なかれ」とあり、本集に「安夜女具佐《アヤメグサ》 波奈多知婆奈爾《ハナタチバナニ》 奴吉麻自倍《ヌキマジヘ》 可頭良爾世餘等《カヅラニセヨト》」(卷十八、四一〇一)など見えている。
 九月能四具禮能時者 ナガツキノシグレノトキハ。シグレは、秋冬の交に空かき曇つて降る雨であるが、本集では常に秋季にいつている。九月は晩秋で、しぐれの雨の降る時節としている。
 黄葉乎折插頭跡 モミチバヲヲリカザサムト。上の※[草冠/縵]ニセムトの句に對して、ムに當る字はないが、讀み添える。五月と九月とに對句に作つているが、句數は不同である。この句は、同じく下のオモヒテに接續する。
 延葛乃 ハフクズノ。枕詞。クズは蔓草であつて長いから、次の永久に冠する。
 弥遠永 イヤトホナガク。イヤは一層。トホナガクは、永久、永遠に。
 一云田葛根乃弥遠長尓 アルハイフ、クズノネノイヤトホナガニ。クズは古く栽培もしたので、田葛の字を使用するに至つたのだろうという。その根は長いものであるから、同じく長久の枕詞とする。
 萬世尓不絶等念而 ヨロヅヨニタエジトオモヒテ。※[草冠/縵]にせむと思い、折り插頭さむと思い、かくて萬世に絶えじと思つてと、オモヒテがすべてを收束している。
(376) 一云大舟之念憑而 アルハイフ、オホブネノオモヒタノミテ。既出(卷二、一六七)。大舟ノは枕詞。大きい船は、頼みになるので、憑ミテに冠する。萬世ニ絶エジト念ヒテの別傳である。
 將通 カヨヒケム。遥かに上の通ヒケマクハに應じている。連體形の句。
 君乎婆明日從 キミヲバアスユ。石田の王をば明日より先はの意。
 一云君乎從明日者 アルハイフ、キミヲアスユは。上の君ヲバ明日ユの別傳である。者は、西本願寺本等には香に作つている。次の句にカがあるのであるから、この句はカでない方がよい。
 外尓可聞見牟 ヨソニカモミム。カモは疑問の係助詞。わが世のよそにか見むの意。
【評語】美しい想像が中心になつている。しかし特に石田の王の特色があらわれているわけではない。どういう御方とも知られないが、いずれの歌にも男女関係に及んだものがなく、また官位も傳わらないところを見ると、比較的年少の御方であつたらしい。そうとすれば、この歌の※[草冠/縵]や插頭の敍述も、一層似つかわしいものというべきである。
 
右一首、或云、柿本朝臣人麻呂作
 
【釋】或云 アルハイフ。どういう材料であつたか不明である。從つて人麻呂の作であるとすることの當否もわからない。作柄からいつても、それを否定するだけの材料もない。人麻呂が、山前の王に代わつて作ることもないとはいえない。
 
或本反歌二首
 
【釋】或本反歌二首 アルマキノヘニカフタツ。前の長歌は、反歌を伴なわないものであつたが、或る本には、(377)その反歌として以下二首の歌を添えてあるというのである。その或る本のいかなるものであるかは不明である。人麻呂の作とする傳えであるかもしれない。
 
424 隱口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》をとめが 手に纏《ま》ける 玉は亂れて ありといはずやも。
 
 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》 手二纏在《テニマケル》
 玉者亂而《タマハミダレテ》 有不v言八方《アリトイハズヤモ》
 
【譯】かの泊瀬娘子の手に纏いていた玉は、緒が切れて亂れてあるというではないか。
【釋】隱口乃 コモリクノ。既出。枕詞。泊瀬に冠する。
 泊瀬越女我 ハツセヲトメガ。越は、字音ヲツであるが、これを借りて、ヲトに當てている。泊瀬の地の娘子で、地名を冠していう例は多い。左註によれば、紀の皇女の薨去の時の歌とする説明もあるのだから、この娘子は、かならずしも亡き石田の王の愛人とするに至らない。
 手二纏在 テニマケル。當時、女子は、玉を緒に貫いて手に卷いて飾りとしていた。その手に纏ける玉をいう。
 玉者亂而 タマハミダレテ。亂ルは、自動詞の時は、下二段活用であつたと考えられる。玉の緒が切れて玉の散亂する由で、娘子の思つていた方の死を譬えている。
 有不言八方 アリトイハズヤモ。あると人がいうではないか。アリは、上を受けて、亂れてありの意。ヤモは反語。「且今日々々々《ケフケフト》 吾待君者《ワガマツキミハ》 石水之《イシカハノ》 貝爾交而《カヒニマジリテ》 有登不v言八方《アリトイハズヤモ》」(巻二、二二四)などある。
【評語】思う方の死なれたのを、娘子の手に纏ける玉が亂れていたと、人が語つたというあらわし方をしている。非常に綺麗に、如何にも相愛の人の死を悼むにふさわしい歌である。「彦星の頭插《かざし》の玉の妻戀に亂れにけらし。この川の瀬に」(巻九、一六八六)の歌は、挽歌ではないが、かざしの玉の亂れたことを譬喩に使つている。
 
(378)425 河風の 寒き長谷《はつせ》を
 歎きつつ 君が歩《ある》くに
 似る人も 逢《あ》へや。
 
 河風《カハカゼノ》 寒長谷乎《サムキハツセヲ》
 歎乍《ナゲキツツ》 公之阿流久尓《キミガアルクニ》
 似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》
 
【譯】河風の寒く吹く長谷の道を、悲歎に暮れながら君が行かれるのに似た人も逢わないなあ。
【釋】河風 カハカゼノ。泊瀬川の河風である。
 寒長谷乎 サムキハツセヲ。長谷は泊瀬に同じ。泊瀬は、長い溪谷であるので、長谷の字を使用する。
 歎乍 ナゲキツツ。亡くなられた石田の王の通行される状を説明している。
 公之阿流久尓 キミガアルクニ。キミは石田の王をいう。公の字は、男性に使用する。但し左註の或云によれば、紀の皇女のことになる。アルクは、歩行する。今も使用している語。集中「阿迦胡麻爾《アカゴマニ》 志都久良字知意伎《シヅクラウチオキ》 波比能利堤《ハヒノリテ》 阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》」(卷五、八〇四)など使用している。
 似人母逢耶 ニルヒトモアヘヤ。ヤは反語の助詞で、已然形に附して、その反對の意をあらわす。似る人も逢わないの意。「將v會跡母戸八《アハムトモヘヤ》」(卷一、三一)、「袖振川之《ソデフルカハノ》 將v絶跡念倍也《タエムトオモヘヤ》」(卷十二、三〇二二)など、用例も多い。
【評語】亡くなつた君がさびしそうな形で、川風の寒き泊瀬を通つておられる。そう見えるような人も逢えかしという、情のよく通つている歌である。よい歌である。
 
右二首者、或云、紀皇女薨後、山前王、代2石田王1作之也
 
右の二首は、或るはいふ、紀の皇女の薨りましし後に、山前の王の、石田の王に代はりて作れるなり(379)といへり。
 
【釋】紀皇女 キノヒメミコ。既出(卷二、一一九)。天武天皇の皇女、歿年未詳。
 代石田王 イハタノオホキミニカハリテ。これによれば代作である。集中にも人に代わつて詠んだ例はすくなくない。卷の四、五八六には、坂上の郎女が、弟稻公に代わつて歌を詠み、卷の十九には、大伴の家持が、妻に代わつて歌を詠んでいる。また代作というのでなくして、その人のために代わつて情を述べた歌も多い。これも、その類であろう。紀の皇女の歿年は不明であるが、奈良時代になつてからであろうと考えられるので、その薨後に、石田の王に代わつて作つたというのは、不審である。
 
柿本朝臣人麻呂、見2香具山屍1、悲慟作歌一首
 
柿本の朝臣人麻呂の、香具山の屍を見て悲慟《かな》しみて作れる歌一首。
 
【釋】見香具山屍 カグヤマノカバネヲミテ。歌詞によるに、旅に出て、香具山のほとりに倒れて死んでいた屍體を見たのである。
 悲慟 カナシミテ。既出(卷三、四一五)。
 
426 草枕 旅の宿《やどり》に、
 誰《た》が夫《つま》か 國忘れたる。
 家持たまくに。
 
 草枕《クサマクラ》 羈宿尓《タビノヤドリニ》
 誰嬬可《タガツマカ》 國忘有《クニワスレタル》
 家待莫國《イヘマタマクニ》
 
【譯】草の枕の旅中の宿に、誰の配偶者《つれあい》であろうか、國を忘れている。家では待つているだろうに。
【釋】羈宿尓 タビノヤドリニ。旅中の宿舍にての意であるが、ここではその人の倒れている香具山の山野を(380)いう。
 誰嬬可 タガツマカ。ツマは男子にも女子にもいう。配偶者の意。嬬の字は妻妾の義の字であるが、旅に死んでいるのだからここは夫であろう。嬬の字の用例中、男子の配偶者をいうと見られる例は多い。女子でも旅行をしない限りはなく、香具山は、藤原の京の近くであるから、女子でないとも限らず、文字通りに解せられるものは、それによるのが解釋の正道であるが、しばらく普通の説に從つておく。カは疑問の係助詞。誰の妻かと疑つている。
 國忘有 クニワスレタル。ここに臥せるは、國を忘れたためであるとしている。上のカを受けてタルと結んでいる。句切。
 家待眞國 イヘマタマクニ。家にては待たむことよの意。單に家とのみいつて、家がの意を示す例は、「衣手乃《コロモデノ》 名木之川邊乎《ナギノカハベヲ》 春雨《ハルサメニ》 吾立沾等《ワレタチヌルト》 家念良武可《イヘオモフラムカ》」(卷九、一六九六)の如きがある。
【評語】人麻呂の作品としては、特にすぐれたものではない。當時旅先で死んでも、家郷との連絡の法がなくして、家郷では知らないでいる場合が多いのであろう。既出の聖徳太子の御詠にも、さような旨が窺われる。
 
田口廣麻呂死之時、刑部垂麻呂作歌一首
 
【釋】田口廣麻呂 タグチノヒロマロ。傳未詳。續日本紀、慶雲二年十二月の條に、從五位の下に敍せられた田口の朝臣廣麻呂があるが、その人だろう。資料に具書してなかつたのだろう。
 刑部垂麻呂 オサカベノタリマロ。既出(卷三、二六三)。
 
427 百足《ももた》らず 八十隅坂《やそすみさか》に 手向《たむけ》せば、
(381) 過ぎにし人に 蓋《けだ》し逢はむかも。
 
 百不v足《モモタラズ》 八十隅坂尓《ヤソスミサカニ》 手向爲者《タムケセバ》
 過去人尓《スギニシヒトニ》 蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》
 
【譯】あの墨坂で、手向の祭をしたならば、死んでしまつた人に恐らく逢うことが出來るのだろうか。
【釋】百不足 モモタラズ。既出(卷一、五〇)。枕詞。百に足らぬ意で、八十、五十の枕詞になつている。
 八十隅坂尓 ヤソスミサカニ。この訓は舊訓であるが、攷證は、ヤソクマサカニと讀んでいる。隅は、スミともクマとも讀まれる文字であるが、本集では、クマと讀むべき例はない。「往隱《ユキカクル》 島乃埼々《シマノサキザキ》 隅毛不v置《クマモオカズ》 憶曾吾來《オモヒゾワガクル》」(卷六、九四二)の隅は、クマと讀むべきが如くであるが、それも、元暦校本、神田本、西本願寺本には隈に作つており、それを可とするであろう。集中、ヤソクマの語があり、古事記上卷に、大國主の神の語中、百《もも》足らず八十〓手《やそくまで》の語があるによつて、ヤソクマということは考えられるが、ヤソクマサカを攷證に黄泉平坂《よもつひらさか》のこととするは無理である。講義には國境の坂とするが、それならばスミサカの平易なのに及ばない。古事記中卷崇神天皇記に、墨坂と大坂との神に、赤色黒色の楯《たて》矛《ほこ》を奉ることが見えているが、この二つの坂は、大和の國の中心地にはいろうとする東西の要衝に當り、その坂の神に武器を奉つたのは、これによつて邪惡の神の入り來たるを防ごうとする思想にもとづく。これすなわち手向の祭であつて、ここには歌詞の制約の上から、その一方を擧げたものであろう。すなわちスミサカは宇陀の墨坂で、大和の中心地より東方の坂路である。百足ラズ八十までが序詞で、それから多數の隅の意に墨坂に接續するものと考えられる。「もののふの八十氏川」(卷一、五〇)。
 手向爲者 タムケセバ。タムケは既出(卷一、三四)。道路において祭祀を行い、荒ぶる神の暴威を拂おうとする行事である。これによつて邪惡の神を退け得たならば、死者も蘇生するだろうとするのである。
 過去人尓 スギニシヒトニ。スギニシは、この世から經過し去つた意で、死んだことをいう。ここは田口の(382)廣麻呂をいう。
 蓋相牟鴨 ケダシアハムカモ。もし逢うことを得むかの意。カモは、感動の助詞であるが、ケダシを受けて、疑問の原意が相當に強く出ている。
【評語】死に對する思想の一端が窺われる。神に取り去られるとする考え方で、荒ぶる神の暴威を信ずることを中心としている。もしやとする思想が歌われている。
 
土形娘子、火2葬泊瀬山1時、柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
土形の娘子を、泊瀬山に火葬りし時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首。
 
【釋】土形娘子 ヒヂカタノヲトメ。土形氏の娘子であろうが、いかなる人とも知られない。土形氏は、應神天皇の皇子大山守の命の子孫に土形の君がある。
 火葬 ヤキハフリ。これは講義の訓であるが、字音で稱したものかも知れない。わが國における火葬は、文武天皇の四年三月に、僧道照を火葬したに始まるという。
 
428 隱口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山の 山の際《ま》に
 いさよふ雲は 妹にかもあらむ。
 
 隱口能《コモリクノ》 泊瀬山之《ハツセノヤマノ》 山際尓《ヤマノマニ》
 伊佐夜歴雲者《イサヨフクモハ》 妹鴨有牟《イモニカモアラム》
 
【譯】隱れ國の泊瀬の山の山の間に、漂つている雲は、あの子でかあるのだろう。
【釋】山際尓 ヤマノマニ。ヤマノマは、山と山との間。
 伊佐夜歴雲者 イサヨフクモハ。イサヨフは、躊躇しためらう意の動詞。雲が山の間を離れかねて消えやらずにいるをいう。その雲を、火葬の煙の立ち昇つたものと見たのである。
(383) 妹鴨有牟 イモニカモアラム。イモは、女子に對していう愛稱であるが、三人稱に使用するのは、愛情を表現するためである。カモは疑問の係助詞。
【評語】その娘子が一片の煙と化したことについて感慨の情を表わしている。常時火葬が珍しかつたので、特にこの歌を成したのであろう。集中、火葬を詠んだ歌も多少あるが、多く煙を雲によそえているのは、自然の感じから來ているものである。
【參考】類歌。
  こもりくの泊瀬の山に霞立ちたなびく雲は妹にかもあらむ(卷七、一四〇七)
 
溺死出雲娘子、火2葬吉野1時、柿本朝臣人麻呂作歌二首
 
溺れ死にし出雲の娘子を、吉野に火葬《はふ》りし時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌二首。
 
【釋】溺死出雲娘子 オボレシニシイヅモノヲトメヲ。出雲は、地名か氏名かあきらかでない。出雲氏は、天の菩比《ほひ》の神の子孫として知られている。いかなる人とも知られないし、溺死した子細も不明であるが、歌詞によれば、吉野川に溺死したものであつて、吉野の宮に奉仕していた際のことであろう。
 
429 山の際《ま》ゆ 出雲《いづも》の兒《こ》らは 霧なれや、
 吉野の山の 嶺に棚引く。
 
 山際從《ヤマノマユ》 出雲兒等者《イヅモノコラハ》 霧有哉《キリナレヤ》
 吉野山《ヨシヌノヤマノ》 嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》
 
【譯】山の間から出る雲のように、あの出雲の娘子は霧だからか、吉野の山の嶺に棚引いている。
【釋】山際從 ヤマノマユ。枕詞。山の間からの意で、出雲に冠している。出雲は、文字通り出る雲の意が感じられていたことは、その意味に説く地名起原説話もあり、また常に出雲の字が當てられていることによつて(384)も察知される。また山のあいだから雲の立ち出ることは、自然に親しんで生活していた當時の人々の熟知するところであるから、この枕詞は、出雲まで懸かつていると見るがよい。山のあいだから出るとだけでは、歌の情趣が成立しない。
 出雲兒等者 イヅモノコラハ。コは愛稱。ラは接尾語で、複數を意味しない。「兒等之家道《コラガイヘヂ》」(卷三、三〇二)參照。
 霧有哉 キリナレヤ。ナレヤは、ナレパニヤの意で、ヤは疑問の係助詞。疑問條件法をなす句。集中「白水郎有哉《アマナレヤ》 射等龍荷四間乃《イラゴガシマノ》 珠藻苅麻須《タマモカリマス》」(卷一、二三)以下、例の多い語法である。火葬の煙を霧かと疑つている。
 嶺霏※[雨/微] ミネニタナビク。三句を受けて、霧だからか嶺にたなびくと結んでいる。霏※[雨/微]をタナビクと讀むことについては、講義に説があるから、參考の欄に摘記する。
【評語】前の歌と同樣に、火葬の煙を霧かと疑つている。前の歌にあつては、五句に愛情が窺われたが、この歌では、火葬そのものの興味が中心になつているように感じられる。あまりに客觀性が強いためである。
【參考】霏※[雨/微]の訓について。
  「霏※[雨/微]」の字は、その本義による時は、「霏」は説文に「雨雪貌」といひ、「※[雨/微]」は集韻に「小雨也」とある如く、雨などの降るにいふものなるが、ここはその原義にては通ぜざるに似たり。原義のまゝにては、この二字を、「タナビク」とよむことは首肯せらるべきにあらぬに諸家多くこれを看過せり。ひとり攷證は説をなして「義訓也」といひたれど、その理由をいはず。文選なる謝靈運の石壁精舍還湖中の詩に「雲霞收夕霏」の注に「善曰、霏雲飛貌」といひ「濟曰、霏曰氣也」といひたれば、説文の意より離れて「たなびく」とよみうべき意あり。然るに「※[雨/微]」は集韻(宋)に見えて、後世の造字なるが如く、その本字は微なりといへり。その微字(385)は説文に小雨也とあり。されど「霏※[雨/微]」と熟せる例は本集以外には未だ見ざる所なり。よりて思ふに、これは或は「霏微」といふ熟字に基づくにあらざるか。「霏微」の字面は杜甫の詩(曲江對酒)に「水晶宮殿轉霏微」徐鉉の詩に「江證齊色霧霏微」など見え、分類に「霏微、烟霧※[白/ハ]」、注に「霏微者煙霧蔽之則不明矣」と見ゆ。六朝頃の例は未だ見出てず。されど、なほ六朝頃に行はれしを本邦にも用ゐしことならむか。而して本來下字は「微」字なるを上字に傚ひて雨を冠し、「※[雨/微]」とせしにあらざるか。若しこの事ありしものとせば、「霏」は上の文選の例によるべく、「微」はその雲霧のさまをいふ爲に添へしものならむ。かくて二字にてたなびくの訓も生ぜしか。類聚名義抄には「霏※[雨/微]」に「タナビク」の訓あり。これを以て見れば、萬葉集以外にもこの熟字を用ゐたるもの存したりしならむ。(「萬葉集講義」卷第三、八二三頁)
 
430 八雲《やくも》さす 出雲の子らが 黒髪は、
 吉野の川の 奧《おき》になづさふ。
 
 八雲刺《ヤクモサス》 出雲子等《イヅモノコラガ》 黒髪者《クロカミハ》
 吉野川《ヨシノノカハノ》 奧名豆颯《オキニナヅサフ》
 
【譯】山の雲が立ち昇る、その出雲の娘子の黒髪は、吉野川の沖で、水にもまれている。
【釋】八雲刺 ヤクモサス。枕詞。ヤクモタツに同じ。日本書紀、崇神天皇紀にある「揶句毛多菟《ヤクモタツ》 伊頭毛多鷄流蛾《ウヅモタケルガ》 波鷄流多知《ハケルタチ》」(二〇)の歌を、古事記、景行天皇記に載せて、「夜都米佐須《ヤツメサス》 伊豆毛多祁流賀《イヅモタケルガ》 波祁流多知《ハケルタチ》」(二四)としている。そのヤツメサスは、ヤクモタツの訛傳であろうと云われる。本集では、普通にウチヒサスと書かれている枕詞を「打久津《ウチヒサツ》」(卷十三、三二九五)とも書いている。音聲としてタツともサスとも動搖するのであろう。多くの雲の涌き立つ意で、出雲の地名の意味を説明している。
 奧名豆颯 オキニナヅサフ。オキは、岸から遠い處をいう。颯は、入聲合韻の字で、音蘇合(ノ)切であるので、サフの音に借りている。ナヅサフは、ナヅサヒ、ナヅサフの形において、集中十三出しているが、いずれも假(386)字書きであり、そのほかに表意文字を使用したものでこの語が當てられると見られるものは、「足沾」(卷十一、二四九二)がそれかともされている。この語は表音文字ではあらわしにくい意を有するものと考えられる。それらの用例は、すべて水に關して使用されており、水の表面につかる、水面をわける等の意味なるが如く、ナヅム(難澁する、困難する)の語と關係ありと見て、水の抵抗を排除する意があるのであろう。また、「由良能斗能《ユラノトノ》 斗那賀能《トナカノ》 伊久理爾布禮多都《イクリニフレタツ》 那豆能紀能《ナヅノキノ》 佐夜佐夜《サヤサヤ》」(古事記七五)の那豆能紀も、これと關係ある語とすれば、水につかりもまれる意が一層明白になる。次にこの語の使用の例二三を擧げる。「鳥自物《トリジモノ》 魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》」(卷四、五〇九)、「遊士之《ミヤビヲノ》 遊乎將v見登《ミヤビヲミムト》 莫都左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》」(卷六、一〇一六)、「暇有者《イトマアラバ》 魚津柴比渡《ナヅサヒワタリ》 向峯之《ムカツヲノ》 櫻花毛《サクラノハナモ》 折末思物緒《ヲラマシモノヲ》」(卷九、一七五〇)。
【評語】この歌も客觀性が強くして、娘子の死を傷む意が薄くなつている。順序から云えは、前の歌よりも前にあるべきだが、別に連作というわけでもなかろうから、順序はどちらでもよい。しかし前の歌が山について歌い、この歌が川について歌つているのは、意識して作られたのであろう。
 
過2勝鹿眞間娘子墓1時、山部宿祢赤人作歌一首【并2短歌1、東俗語云、可豆思賀能麻末乃弖胡】
 
勝鹿の眞間の娘子の墓を過ぎし時に、山部の宿禰赤人の作れる歌一首【短歌并はせたり。東の俗の語に云はく、かづしかのままのてご。】
 
【釋】過勝鹿眞間娘子墓時 カツシカノママノヲトメノハカヲスギシトキニ。勝鹿は、下總の國葛鹿郡の地名。ここに勝鹿、歌中また卷の九に勝牡鹿(一八〇七)と書き、その他「可都思加」(卷十四、三三八四)とも書いているので、カツシカと讀むべく、なお「可豆思加」(卷十四、三三四九)、「可豆思賀」(同、三三八五)とも書いているによれば、カヅシカとも發音されたようである。眞間は、その郡内の地名。今、江戸川沿岸にその名を殘している。往時は、海岸であつたと見え、歌にはその趣に歌つている。ママは、全國方言辭典に(一)(387)堤などのくずれた所。(二)えぐれてくぼんでいる所。(三)崖、がけ。(四)土堤、どて。(五)急傾斜地。(六)草などの生えている畦畔。(七)石垣の諸解があつて、關東では(三)(四)の解によつて使われている。今、國府臺《こうのだい》丘陵の傾斜地が、その地に擬せられているのは、だいたいこれに合う。ママノヲトメは、その地の娘子の意で、歌中には、眞間の手兒名と書いている。作者赤人は、その地に赴き、親しく娘子の墓を見て、この歌を詠んだので、不盡の山を望む歌も、多分その同じ旅行の作であろう。なお「詠(メル)2勝鹿(ノ)眞間(ノ)娘子(ヲ)1歌」(卷九、一八〇七、一八〇八)は、高橋連蟲麻呂歌集の歌であるが、同じく、この娘子を取り扱つている。また卷の十四にも、これに關する歌がある。それらを綜合するに、この娘子は、漁村の女子で、美しかつたので人々にいい騷がれたが、結局、入水して死んだものと考えられる。
 東俗語云可豆思賀能麻末乃弖胡 アヅマノヨノヒトノコトニイハク、カヅシカノママノテゴ。この文は、諸本にあり、類聚古集にもあつて、文献上、もとからあつたものと見られる。歌中に「越(ノ)俗語東風(ヲ)、謂(ヘリ)2之安由乃可是(ト)1也」(卷十七、四〇一七)の如き註を加えた例もあり、それは作者の自註であろうが、ここは編者の註であろう。但しその編者と、卷の十七の作者(大伴の家持)との關係は、また別途の問題となる。弖胡は、歌詞には、手兒名とあり、その手兒と同語で、ナは愛稱の接尾語である。テゴについては、「比等未奈乃《ヒトミナノ》 許等波多由登毛《コトハタユトモ》 波爾思奈能《ハニシナノ》 伊思井乃手兒我《イシヰノテゴガ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》」(卷十四、三三九八)の如き用例もある。手兒の字面は、その語義を表示するものとすれば、古事記に技藝ある人を手人というに照らして、技塾ある兒とすべく、テは手の意の接頭語と解せられる。上代において機織等の技藝ある娘子を尊重したことは、タナバタツメなどの語感によつても知られるところである。テゴは、かような語義から轉じて、娘子の愛稱となつたものと考えられる。眞間の手兒奈の時代については、歌中に、古昔の事としているが、いつごろの世の人とも知られない。その事蹟に關して傳説があつたのだろう。かくて平安時代に入つて、「まろがをぢにて治部の卿なる人のてこ、(388)兵部の少輔かたちいとよく」(落窪物語卷二)、「みつぎいとてこらが布をさらせると見えしは花のさかりなりけり」(好忠集)の如き用例を見るに至つた。
 
431 古《いにしへ》に ありけむ人の、
 倭文幡《しづはた》の 帶解き交《か》へて、
 廬屋《ふせや》立て 妻問《つまどひ》しけむ、
 葛飾《かつしか》の 眞間《まま》の手兒名《てごな》が
 奧津城《おくつき》を 此處《ここ》とは聞けど、
 眞木《まき》の葉や 茂くあるらむ。
 松が根や 遠く久しき。」
 言《こと》のみも 名のみも、吾は、
 忘らゆましじ。」
 
 古昔《イニシヘニ》 有家武人之《アリケムヒトノ》
 倭文幡乃《シヅハタノ》 帶解替而《オビトキカヘテ》
 廬屋立《フセヤタテ》 妻問爲家武《ツマドヒシケム》
 勝壯鹿乃《カツシカノ》 眞間之手兒名之《ママノテコナガ》
 奧槨乎《オクツキヲ》 此間登波聞杼《ココトハキケド》
 眞木葉哉《マキノハヤ》 茂有良武《シゲクアルラム》
 松之根也《マツガネヤ》 遠久寸《トホクヒサシキ》
 言耳毛《コトノミモ》 名耳母吾者《ナノミモワレハ》
 不v所v忘《ワスラエナクニ》
 
【譯】古にいつたという人が、倭文幡の帶に解きあらためて小舍を立てて婚姻の申込をしたという、葛飾の眞間の手兒名の、墓所を此處とは聞くけれども、眞木の葉などが茂つたのであろう、松の木が遠く久しい代を經たためであろう。この物語だけも、娘子の名だけも、わたしは忘られまい。
【構成】二段になつている。松ガ根ヤ遠ク久シキまで第一段、娘子の墓を尋ねて、その久しい時を經たことを敍している。以下第二段、その人が忘れがたいと感想を述べている。
【釋】古昔有家武人之 イニシヘニアリケムヒトノ。昔、この眞間の娘子に妻問をしたという人を點出してい(389)る。倭文幡ノ帶解キ替ヘテ廬屋立テ妻問シケムまでに懸かる主格である。
 倭文幡乃 シヅハタノ。シヅは、日本書紀神代下の自註に「倭文神、此《コヲバ》云《イフ》2斯圖梨能俄未《シヅリノカミト》1」、天武天皇紀に「倭文、此《コヲバ》云《イフ》2之頭於利《シヅオリト》1」とある。倭の文の義で、本邦固有の文樣を織り出したものである。シヅハタは、その倭文の織物の意で、この句は、次の帶の材料を説明している。「去家之《イニシヘノ》 倭文旗帶乎《シヅハタオビヲ》 結垂《ムスビタレ》」(卷十一、二六二八)の歌に倭文旗とあるも同じ。
 帶解替而 オビトキカヘテ。古びた帶を解いて、倭文幡の帶に解き替えてで、文字通りに解せられる。
 廬屋立 フセヤタテ。フセヤは、伏せたような家屋。陋屋であるが、ここではただ小舍ぐらいに解せられる。婚姻をするために新たに家を建てるのである。以上三句は、妻問をするための準備である。
 妻問爲家武 ツマドヒシケム。ツマドヒは、婚姻を申し入れること。妻として問い寄る意である。上の古ニアリケム人を受けて、シケムといつている。連體形の句。
 勝壯鹿乃眞間之手兒名之 カツシカノママノテゴナガ。題詞の條參照。テゴナは、人名ではなく、娘子の義である。ナは親愛の意を表する接尾語。「字倍兒奈波《ウベコナハ》 和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》」(卷十四、三四七六)、「和努等里都伎弖《ワノトリツキテ》 伊比之古奈波毛《イヒシコナハモ》」(卷二十、四三五八)など、兒ナの用例がある。
 奧榔乎 オクツキヲ。槨は、棺を蔽うものの義であるが、奥槨の二字をもつて墳墓の意をあらわしている。オクツキ、奧つ城の義で、キは建造物、オクは深奧の意をあらわし、ツは助詞である。オクツキは、集中、奧城、奧津城、奧墓等の文字を使用している。
 此間登波聞杼 ココトハキケド。此處が墳墓の地であるとは聞けどの意で、そのさだかでないことをいおうとして、キケドといつている。
 眞木葉哉 マキノハヤ。マキは樹木をほめていう。ヤは疑問の係助詞。
(390) 茂有良武 シゲクアルラム。シゲクアルラム(西)、シゲリタルラム(略)、シゲミタルラム(古義)。現にその處を見ておりながら、疑問推量の語法を用いているのは、手兒名が死んで墓に葬つてから、時久しくなつて眞木の葉などが茂つたのであろうかというのである。墓所がただ樹叢になつていたのであろう。句切。
 松之根也遠久寸 マツガネヤトホクヒサシキ。マツガネは、松が根の義であるが、そのガネは、接尾語として根を張つていることをいうだけで、松の木をいう。イハガネ(岩が根)の例に同じ。「神左備而《カムサビテ》 巖爾生《イハホニオフル》 松根之《マツガネノ》 君心者《キミガココロハ》 忘不v得毛《ワスレカネツモ》」(卷十二、三〇四七)のマツガネもこれに同じ用法である。ヤは疑問の係助詞。トホクヒサシキは、時間の經過の多いことをいう。かの手兒名の時代から、久しい時を經過して松の木も長大になつたのであろうといい、結局墓所のしかとしないことを語つているようである。この二句、上の眞木ノ葉ヤ茂リタルラムに對して對句になつている。以上第一段。眞間の手兒名の墓を訪れて、その久しき時を經て、眞木の葉が茂り、松の木の古くなつたことを敍している。
 言耳毛 コトノミモ。コトは、手兒名の事跡をいい傳える言語。ノミは特にその言を指定する意味に添えている。モは竝立の意。
 名耳母吾者 ナノミモワレハ。ナは、手兒名の名のこと。ノミモは、前項に同じ。
 不可忘 ワスラユマシジ。可は、神田本、類聚古葉等による。西本願寺本、細井本二種等には所に作り、舊訓は、ワスラレナクニとし、考にワスラエナクニとしている。可に作るによれば、ワスラエナクニとは讀まれない。本集中、不可の字面は、「首代爾母《モモヨニモ》 不v可v易《カハルマシジキ》 大宮處《オホミヤドコロ》」(卷六、一〇五三)、「埋木之《ウモレギノ》 不v可v顯《アラハルマシジキ》 事爾不v有君《コトニアラナクニ》」(卷七、一三八五)等の用例があり、不可の文字の意を國語に求めれば、マシジの語が相當すると考えられる。忘れることはあり得ない、あるまいの意である。
【評語】赤人の眞間の手兒名の歌は、墓所を見たのを基礎として、墓所の敍述は精細であるが、手兒名の身上(391)については、ただ反歌に玉藻刈リケムといつて、その働く女であることを示しただけである。云い寄つた人についても、一般的で、特に手兒名の美を歌つていない。手兒名の物語を誰でもが知つているものとしての前提の上に立つているので、みずから傳説の語り手であろうとする蟲麻呂の態度と相違を來している。ここにも赤人の時間的に物を考える特色が出て、墓所の久しい時を經たことをいい、また第二段は、富士山の歌の末段と同樣の思想が窺われる。
 
反歌
 
432 われも見つ。人にも告げむ。
 葛飾の 眞間の手兒名が
 奧津城處《おくつきどころ》。
 
 吾毛見都《ワレモミツ》 人尓毛將v告《ヒトニモツゲム》
 勝壯鹿之《カツシカノ》 間々能手兒名之《ママノテゴナガ》
 奧津城處《オクツキドコロ》
 
【譯】わたしも見た、人にも告げましよう。葛飾の眞間の手兒名の墓のある處です。
【釋】吾毛見都 ワレモミツ。ワレモは、下のヒトニモに對して、自分もまたの意を述べている。句切。
 人尓毛將告 ヒトニモツゲム。初句に對して對句をなしている。句切。次句以下、ミツとツゲムとの内容を語つている。
 奧津城處 オクツキドコロ。墳墓の處の意。
【評語】よく纏まつている。初句二句に短文を重ね、三句以下、その内容を示して、よく諧調の歌をなしている。しかしその墓所の特色が具體的に擧げられていないのは弱點である。
 
(392)433 葛飾の 眞問の入江に うち靡く
 玉藻刈りけむ 手兒名し念ほゆ。
 
 勝壯鹿乃《カツシカノ》 眞々乃入江尓《ママノイリエニ》 打靡《ウチナビク》
 玉藻苅兼《タマモカリケム》 手兒名志所v念《テゴナシオモホユ》
 
【譯】葛飾の眞間の入江に靡いている玉藻を刈つたであろう、あの手兒名のことが思われる。
【釋】眞々乃入江尓 ママノイリエニ。眞々は、眞間に同じ。イリエは、海河などから陸地に入り込んでいる部分をいう。蟲麻呂の手兒名の歌の歌詞には、浪ノ音ノ騷ク湊ノ奧津城の語があつて、當時眞間の邊まで海であつたと考えられる。
 打靡 ウチナビク。次句の玉藻の状態を説明している。
 玉藻苅兼 タマモカリケム。玉藻刈ルは、既に數出した。海人の女子の業である。ケムは過去推量の助動詞。連體形の句。
 手兒名志所念 テゴナシオモホユ。シは強意の助詞。
【評語】とにかくここに至つて手兒名がわずかに説明されている。海人の女子としての手兒名が描かれたのである。手兒名のことを、既知の事實として、歴史的追憶に浸つている赤人の風格が、この作品のすべてにわたつてよくあらわれている。
 
和銅四年辛亥、河邊宮人、見2姫島松原美人屍1、哀慟作歌四首
 
和銅の四年辛亥の歳、河邊の宮人の、姫島の松原の美人の屍を見て、哀慟《かな》しみて作れる歌四首。
 
【釋】和銅四年辛亥 ワドウノヨトセカノトヰノトシ。この題詞、卷の二に「和銅四年歳次2辛亥1、河邊(ノ)宮人(ノ)、姫島(ノ)松原(ニ)、見(テ)2孃子(ノ)屍(ヲ)1悲歎(ミテ)作(レル)歌二首」(二二八、二二九)として出ている。
(393) 河邊宮人 カハベノミヤビト。氏名ではない。河邊の宮に仕える人の義である。これは創作と考えられるから、その河邊の宮というも何處ということはないが、日本書紀孝徳天皇紀に「倭飛鳥河邊行宮《ヤマトノアスカノカハベノカリミヤ》」があり、これは飛鳥の川原の宮のことであつて、これを意味しているらしい。
 見姫島松原美人屍 ヒメジマノマツバラノヲトメノカバネヲミテ。姫島の松原は、攝津の國で、今の大阪市のうちとされるが、今の何處であるかは、諸説があつて一定しない。ここに美人の屍を見てと題し、しかも歌詞が、それに關係のないことが問題とされているが、これは、一の物語中の歌の摘録であつて、その物語の中心として、姫島の松原における美人の屍體が存するものと見るべきである。その物語の筋は不明であるが、ある娘子の水死を中心としているものなるべく、他にも眞間の娘子、菟原《うなひ》娘子、鬘兒《かづらこ》の説話など、娘子の水死を傳える説話は多く數えられ、それらと共通する所があるものの如くである。
 
434 風速《かざはや》の 美保《みほ》の浦《うら》みの 躑躅《しらつつじ》、
 見れども不怜《きぶ》し。
 亡《な》き人思へば。
 
 加麻※[白+番]夜能《カザハヤノ》 美保乃浦廻之《ミホノウラミノ》 白管仕《シラツツジ》
 見十方不v怜《ミレドモサブシ》
 無人念者《ナキヒトオモヘバ》
 
【譯】風速の美保の浦の白躑躅は、見ても樂しくない。亡き人を思うので。
【釋】加麻※[白+番]夜能 カザハヤノ。麻は、上下みな字音假字と見られる中に介在して、これをも字音で讀むとすれば、カマハヤノとなり、意義をなさぬようである。「風早之《カザハヤノ》 三穗乃浦廻乎《ミホノウラミヲ》 榜舟之《コグフネノ》」(卷七、一二二八)の例に照らして、カザハヤノと讀むべしとすれば、麻を誤字とするか、または訓アサの上略とするかのほかはない。またカザハヤノにしても、その解釋には問題があつて決定しがたい。今、風速の浦(卷十五、三六一五)の地名があるによつて、地名とする説による。それも何處であるか不明であるが、これについては、次の句の(394)項に述べる。
 美保乃浦廻之 ミホノウラミノ。美保は、地名であろうが、請國に同名の地が多い。次の歌に久米の若子があるので、「皮爲酢寸《ハダススキ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》 伊座家留《イマシケル》 三穗乃岩室者《ミホノイハヤハ》 雖v見不v飽鴨《ミレドアカヌカモ》」(卷三、三〇七)の三穗と同地とすれば、和歌山縣日高郡である。その地に風速の地名はないが、海岸地で風の強い處であるから、その句を冠したとも考えられる。ウラミのミは接尾語。浦の地形の彎曲性であることを示す。
 白管仕 シラツツジ。白色の躑躅である。「細比禮乃《タクヒレノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 白管自《シラツツジ》」(卷九、一六九四)、「姫部思《ヲミナヘシ》 咲野爾生《サキノニオフル》 白管自《シラツヅジ》」(卷十、一九〇五)など詠まれている。
 見十方不怜 ミレドモサブシ。サブシは、樂しからぬ意の形容詞。不怜のほかに、不樂の字をサブシと讀んでいるので、その意を知るべきである。句切。
 無人念者 ナキヒトオモヘバ。ナキヒトは、死んだ人の意であるが、物語中の娘子をいうのであろう。四句の意を説明している。
【評語】物語中の歌と考えられるが、物語中の人物の歌であるか、時の人もしくは後の人の歌の形を採つているものか不明である。物語中の人物とすれば、娘子と交りのあつた男子の作として、その意味で解すべきであろう。白躑躅に對する觀賞が出ており、文雅の士の作品であることが確かめられる。
 
或云、見者悲霜《ミレバカナシモ》 無人思丹《ナキヒトオモフニ》
 
或るは云ふ、見れば悲しも 無き人思ふに。
 
【釋】或云見者悲霜無人思丹 アルハイフミレバカナシモナキヒトオモフニ。別傳であるが、いかなる資料によつたものか不明である。本文の四五句の別傳であるが、意はあまり變わつていない。
 
(395)435 みつみつし 久米の若子《わくご》が
い觸《ふ》れけむ
 礒の草根の 枯れまく惜しも。
 
 見津見津四《ミツミツシ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》
 伊觸家武《イフレケム》
 礒之草根乃《イソノクサネノ》 干卷惜裳《カレマクヲシモ》
 
【譯】威勢のよい久米氏、その久米の若人の觸れたであろう礒の草の枯れるのは惜しいなあ。
【釋】見津見津四 ミツミツシ。枕詞。古事記中卷に「美都美都斯《ミツミツシ》 久米能古賀《クメノコガ》」(一一)等、數出しており、日本書紀にも出ている。本集にはこれ一つである。ミツは、稜威をイツというと關係ある語と認められ、それを重ねて形容詞としたもので、シの形で連體形をなし、枕詞となつたものである。威勢のよい意で、久米ノ若子を修飾している。
 久米能若子我 クメノワクゴガ。久米の若子は、本卷三〇七の歌に見えているものと同人であろう。久米氏の若人で、傳説中の人物と考えられる。それが多分この物語に主役として語られていたのであろう。
 伊觸家武 イフレケム。イは接頭語。フレは、觸ルの活用で、「伎美我手敷禮受《キミガテフレズ》」(卷十七、三九六八)など、集中多く下二段に活用している(澤瀉博士の説)。四段活として使用された例には「伊蘇爾布理《イソニフリ》 宇乃波良和多流《ウノハラワタル》」(卷二十、四三二八)がある。また「霍公鳥《ホトトギス》 鳴羽觸爾毛《ナクハブリニモ》」(卷十九、四一九三)の羽觸の如きは、ハブレではなさそうであり、古くは四段に活用していたものだろう。ケムは過去推量の助動詞で、その連體形。
 礒之草根乃 イソノクサネノ。クサネは、草をいう。ネは接尾語。
 干卷惜裳 カレマクヲシモ。枯れむことの惜しさよ。モは感動の助詞。
【評語】草のような、年を越さないものについて、手を觸れたあとをなつかしがつているのは、その人が去つてまだいくばくもない事情にあることを語る。この久米の若子が、物語中の人物として登場し、この歌の作者(396)は、時の人の如き立場にあつて、これを詠んでいるものと考えられる。礒邊の草について、人を思う、そこに風情の感じられる歌である。
 
436 人言《ひとごと》の 繁きこの頃、
 玉ならば
 手に卷き持ちて 戀ひずあらましを。
 
 人言之《ヒトゴトノ》 繁比日《シゲキコノゴロ》
 玉有者《タマナラバ》
 手尓卷以而《テニマキモチテ》 不v戀有益雄《コヒズアラマシヲ》
 
【譯】人の口のうるさいこの頃は、玉であつたなら手に卷いていて戀いないであろうものを。
【釋】人言之 ヒトゴトノ。人の言語の。ヒトは、周圍の人々をいう。
 繁比日 シゲキコノゴロ。シゲキは、言葉の多くしてうるさいのをいう。この頃、二人の間が、人の噂に上つて問題にされている由で、集中多く詠まれている事である。
 玉有者 タマナラバ。わが思う人が玉であつたならというのである。その人は男子とも女子ともないが、人を玉に譬えることも、男女ともに例がある。
 手尓卷以而 テニマキモチテ。手に卷いて持つてで、わが身を離さずにの意になる。
 不戀有益雄 コヒズアラマシヲ。マシヲは假設推量。戀いずにありたいものを、そうでなくて殘念だの意になる。
【評語】類型的な内容であり、表現も平凡である。民間に流布していた歌が、物語中に取り上げられたような性質が見える。男子の歌にも女子の歌にも融通するのも、そういう民話の性質に適うものである。
 
437 妹もわれも
(397) 清《きよみ》の河《かは》の 河|岸《ぎし》の、
 妹が悔ゆべき 心は持たじ。
 
 妹毛吾毛《イモモワレモ》
 清之河乃《キヨミノカハノ》 河岸之《カハギシノ》
 妹我可v悔《イモガクユベキ》 心者不v持《ココロハモタジ》
 
【譯】あなたもわたしもきよらかで、清の河の河岸のように、あなたが悔いるような心は持つていない。
【釋】妹毛吾毛 イモモワレモ。イモは、相手の女をさすことは、いうまでもないが、その妹に與えた歌か、獨語的に詠まれた歌かは不明である。妹の本義からいえば、その愛人に與えた歌と見るのを順當とする。この句は、二人とも清しの意に、次の句の枕詞になつていると見るべきである。
 清之河乃 キヨミノカハノ。キヨミノカハは、明日香の清御原の宮を、「飛鳥之《トブトリノ》 淨之宮《キヨミノミヤ》」(卷二、一六七)というよりして、キヨミを地名と見、その地の川、すなわち明日香川の一部の名稱と考えられる。これを出したのは、この物語がその地に關係あるものであり、題詞の河邊の宮人が、明日香の川原の宮人であることも確かめられる。
 河岸之 カハギシノ。明日香川の川岸ので、以上三句は、川岸の崩《ク》ユということから、次句の悔ユベキを引き起す序になつている。「可麻久良乃《カマクラノ》 美胡之能佐吉能《ミゴシノサキノ》 伊波久叡乃《イハクエノ》 伎美我久由倍伎《キミガクユベキ》 己許呂波母多自《ココロハモタジ》」(卷十四、三三六五)の歌も、三句まで序で、クユベキを引き起している點は同樣である。
 妹我可悔 イモガクユベキ。相手の女子が悔いるようなの意。自分と契りを結んだことを悔いとするようなの意に、次の句を修飾する。
 心者不持 ココロハモタジ。ココロは、作者の心であつて、信頼に値せぬ心は持たないというにある。このジは、強く否定する語氣である。
【評語】これも物語中の歌としてふさわしい内容の歌である。上に擧げた卷の十四の鎌倉の見越の埼の歌と、(398)形が似ており、これも民謠性の歌であつたものと推察される。
 
右案2年紀并所處乃娘子屍作v歌人名1、已見v上也。但歌辭相違、是非難v別。困以累2載於茲次1焉。
 
右は、年紀并はせて所處、また娘子の屍、歌を作りし人の名を案ふるに、已に上に見えたり。但し歌の辭相違ひ、是非《よきあしき》別き離し。因りてこの次に累ね載す。
 
【釋】右案年紀并所處乃娘子屍作歌人名 ミギハトシナミアハセテトコロマタヲトメノカバネウタヲツクリシヒトノナヲカムガフルニ。以下の文は、編者の註であつて、以上四首の題詞と同じ内容の題詞が、既に卷の二に見えていることについて説明を加えたのである。年紀は、和銅四年云々の年紀をいう。所處は、姫島の松原。娘子の屍は、題詞には、美人の屍とある。作歌の人名は、河邊の宮人とあるという。これを氏名と誤解していたらしい。乃は代匠記に及の誤りとしているが、上を承ける辭であるからこのままでよい。
 已見上也 スデニカミニミエタリ。同じ内容の題詞が、卷の二の二二八の前に出ているのをいう。
 歌辭相違 ウタノコトアヒタガヒ。卷の二とここのと、歌詞の相違せるをいう。
 是非離別 ヨキアシキワキガタシ。卷の二とここのと、いずれが可なるを知らずというのである。編者も既にこれらの歌の性質について無知であつたらしく、それは資料とする所が、現に見るが如きものになつていたためであると考えられる。
 因以累載於茲次焉 ヨリテコノツギテニカサネノス。よつてこの順序に重ねて載せるというのである。以上、編者の注意であつて、後の誤解を避けるために、これを記しつけたものである。現行の萬葉集の原形において、既にこの記事があつたものと見るべく、これを後人の書き入れとするは誤りである。
 
(399)神龜五年戊辰、大宰帥大伴卿、思2戀故人1歌三首
 
神龜の五年戊辰の歳、大宰の帥大伴の卿の、故《もと》つ人を思戀《しの》ふ歌三首。
 
【釋】神龜五年戊辰、シニキノイツトセツチノエタツノトシ。以下三首の製作の年紀であるが、事實は初めの一首だけで、後の二首は天平二年の作である。
 大宰帥大伴榔 オホキミコトモチノカミオホトモノマヘツギミ。大伴の旅人。旅人は、大宰の帥として、赴任してから、その行に從つて來た妻は九州について間もなく死去した。これは神龜五年の夏の頃のことと思われる。これがために、九州における旅人の生活は、一層さびしいものになり、常に妻を慕い、故郷を戀い、また酒を愛するようになつた。以下の歌は、その妻が死んでからの作である。旅人の妻は、やはり大伴氏であるが、誰人の女とも知られない。「神龜五年戊辰、大宰(ノ)帥大伴卿之妻、大伴(ノ)郎女、遇(ヒテ)v病(ニ)長逝(セリ)焉」(卷八、一四七二左註)。
 思戀故人歌 モトツヒトヲシノフウタ。故人は、死去した人。ここは旅人の妻大伴の郎女。
 
438 愛《うつく》しき 人の纏《ま》きてし
 敷栲《しきたへ》の わが手枕を、
 纏《ま》く人あらめや。
 
 愛《ウツクシキ》 人之纏而師《ヒトノマキテシ》
 敷細之《シキタヘノ》 吾手枕乎《ワガタマクラヲ》
 纏人將v有哉《マクヒトアラメヤ》
 
【譯】わたしの愛する人の卷いた、わたしの手枕を、また卷いて寢る人はあろうや、もうないことである。
【釋】愛 ウツクシキ。ウツクシは、愛すべくある意の形容詞。「妻子美禮婆《メコミレバ》 米具斯宇都久志《メグシウツクシ》」(卷五、八〇〇)など使用されている。次句の人を修飾する。
(400) 人之纏而師 ヒトノマキテシ。ヒトは、亡き妻をいう。マキテシは、身に纏いたの意で、次句の手枕を修飾している。
 敷細之 シキタヘノ。枕詞。枕、袖に冠する。シキタヘは、織目の繁き織物の義から出て、ここでは枕詞として手枕に冠している。
 吾手枕乎 ワガタマクラヲ。タマクラは、タは接頭語。枕のこと。枕の愛稱。
 纏人將有哉 マクヒトアラメヤ。妻が死んで後、また他に纏く人はないの意。ヤは反語の助詞。
【評語】故人を思慕する歌ではあるが、作者自身の寂寥感が主になつている。この年、旅人は、年六十四と傳える。閨中の孤情、描き出して、その老齡を忘れるものがある。
 
右一首、別去而經2數旬1作歌
 
右の一首は、別れ去《い》にて數旬を經て作れる歌。
 
【釋】經數旬 トヲカアマリヲヘテ。旬は十日をいう。妻が死んで、數十日を經て作つた歌というのである。
 
439 還《かへ》るべく 時は成りけり。
 京師《みやこ》にて
 誰《た》が手本をか わが枕かむ。
 
 應v還《カヘルベク》 時者成來《トキハナリケリ》
 京師尓而《ミヤコニテ》
 誰手本乎可《タガタモトヲカ》 吾將v枕《ワガマクラカム》
 
【譯】時は今や京に歸るべき時になつた。しかし妻のない自分は、京において、誰人の腕を、枕とすることだろうか。
【釋】應還 カヘルベク。京に還るべくなつたの意。大宰府の任が終つて、歸京すべき時機の到達したことを(401)いう。天平二年十月に、大納言に任ぜられた當時の作であろう。
 時者成來 トキハナリケリ。時は、還るべくなつたの意。句切。
 京師尓而 ミヤコニテ。京において。京に還つてから。
 誰手本乎可 タガタモトヲカ。タモトは、手の本。手の上膊、腕。妻なくして、何人の腕をかの意。
 吾將枕 ワガマクラカム。名詞マクラを動詞としマクラクとし、その未然形に、助動詞ムが接續してマクラカムとなる。誰の腕をか枕とせむの意である。
【評語】旅人は、大宰府にあつて、京を戀しく思つていたのであるが、今やその久戀の京に還るべき時節が來た。しかもその地において、共に棲むべき妻をもたないさびしさは、思いやつても身にせまるものがある。ここにも旅人は、妻のない自己の寂寥を思つているのである。
 
440 京師《みやこ》なる荒れたる家に ひとり宿《ね》ば、
 旅に益《ま》さりて 苦しかるべし。
 
 在2京師1《ミヤコナル》 荒有家尓《アレタルイヘニ》 一宿者《ヒトリネバ》
 益v旅而《タビニマサリテ》 可2辛苦1《クルシカルベシ》
 
【譯】京にある荒れた家に歸つて、ただひとり寐るならば、旅よりも一層まさつて、心が苦しいことであろう。
【釋】在京師荒有家尓 ミヤコナルアレタルイヘニ。大伴氏は、平城の京に邸宅を有していた。吉田《きだ》の宜の歌に「奈良路なる山齋《しま》の木立も神さびにけり」(卷五、八六七)とあるは、旅人の邸を詠んだものであつて、奈良路にその邸があつたことが知られる。大伴の坂上の郎女の歌に見える佐保にあつた大伴氏の家というのが、それであろう。この邸は、旅人は妻と共に經營し、大宰府に赴くに當つては、殘して行つたので、京なる荒れたる家といつている。
 一宿者 ヒトリネバ。妻なくしてひとり寐ることとならば。
(402) 益旅而 タビニマサリテ。旅中にして亡き妻を思つて苦しいよりもまさつての意。
 可辛苦 クルシカルベシ。歸京しての生活の苦しさを想像している。
【評語】亡妻を慕う情を中心とした旅の心境は、同情される。いずれも殘される自分の寂寥、つまらなさを主として歌つているのは、貴族らしいわがままな點があつておもしろい。彼の性格として、自己中心の生活を要求する心があらわれているのである。歸京の後の苦しさを想像しているのが悲痛である。下の「人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(卷三、四五一)の歌は、これと照應するものである。
 
右二首、臨v近2向v京之時1作歌
 
右の二首は、京に向ふ時に近づくに臨みて作れる歌。
 
【釋】臨近向京之時 ミヤコニムカフトキニチカヅクニノゾミテ。天平二年十月に、大納言に任ぜられて上京すべき時の近づくに當つての意。これによつてその頃の作であることが知られる。これを神龜五年の題下に收めたのは、前の歌によつて、年紀を記し、同じ作歌事情の歌をこれに附收したためであろう。
 
神色六年己巳、左大臣長屋王、賜死之後、倉橋部女王作歌一首
 
神龜の六年己巳の歳、左大臣長屋の王の、賜死《みまか》らしめらえし後に、倉橋部の女王の作れる歌一首。
 
【釋】神龜六年己巳 シニキノムトセツチノトミノトシ。この年八月に改元して天平元年となつた年。長屋の王の賜死は二月であつたので、神龜六年と題している。
 左大臣長屋王 ヒダリノオホマヘツギミナガヤノオホキミノ。天武天皇の孫、高市の皇子の子。天平元年二月、讒にあつて自盡し、妃吉備の内親王以下王子等、その難に殉じた。
(403) 倉橋部女王 クラハシベノオホキミ。傳未詳。卷の八、一六一三の歌の左註に見える椋橋部の女王と同人であろう。
 
441 大君《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み、
 大殯《おほあらき》の 時にはあらねど
 雲がくります。
 
 大皇之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》
 大荒城乃《オホアラキノ》 時尓波不v有跡《トキニハアラネド》
 雲隱座《クモガクリマス》
 
【譯】天皇の詔の恐れ多さに、死ぬべき時ではないが、わが長屋の王はおかくれになることです。
【釋】大皇之命恐 オホキミノミコトカシコミ。既出(卷一、七九)。慣用句。天皇の勅命のかしこさに。死を命ぜられたことをいう。
 大荒城乃時尓波不有跡 オホアラキノトキニハアラネド。オホは美稱。アラキは新墓の意である。大殯ノ時ニハアラネドというは、新しく御墓づかえすべき時ではないがで、自然に壽命盡きて死ぬべき時ではないのにの意をあらわしている。オホアラキは「如v是爲哉《カクシテヤ》 猶八戍牛鳴《ナホヤマモラム》 大荒木之《オホアラキノ》 浮田之社之《ウキタノモリノ》 標爾不v有爾《シノニアラナクニ》」(卷十一、二八三九)の用例がある。
 雲隱座 クモガクリマス。クモガクルは既出(卷三、四一六)。人の死を天上に昇る形であらわしている。マスは敬語。
【評語】ただ事を敍しただけで、特殊性がない。作者が歌に慣れない人であることを語るものであろう。
 
悲2傷膳部王1歌一首
 
【釋】膳部主 カシハデノオホキミ。長屋の王の子で、母は吉備の内親王である。天平元年二月、長屋の王の(404)賜死の時に、自盡した。續日本紀に、長屋の王の室吉備の内親王、男膳夫の王、桑田の王、葛木の王、鈎取の王等も目縊《じい》したとある、その膳夫の王のことである。
 
442 世間《よのなか》は 空《むな》しきものと あらむとぞ、
 この照る月は 滿《み》ち闕《か》けしける。
 
 世間者《ヨノナカハ》 空物跡《ムナシキモノト》 將v有登曾《アラムトゾ》
 此照月者《コノテルツキハ》 滿闕爲家流《ミチカケシケル》
 
【譯】世の中は空しいものであることを示すために、この照る月は、滿ち闕けしたことである。
【釋】世間者 ヨノナカハ。ヨノナカは、人間世界の意。人生に同じ。滿誓の歌(卷三、三五一)の世間に同じである。
 空物跡 ムナシキモノト。空虚のものとして。世間の常なきをいう。「余能奈可波《ヨノナカハ》 牟奈之伎母乃等《ムナシキモノト》 志流等伎子《シルトキシ》 伊與余麻須萬須《イヨヨマスマス》 加奈之可利家理《カナシカリケリ》」(卷五、七九三)。
 將有登曾 アラムトゾ。空しいものなることを現ぜむとしての意。アラムは、その如くにてあらむの意に使用されている。ゾは、係助詞。
 此照月者滿闕爲家流 コノテルツキハミチカケシケル。月の滿ち闕けることは、世間の無常を現ぜむとしてであるとしている。
【評語】月の滿ち闕けすることは、不安定の表現としてふさわしい譬喩である。集中にも同樣の思想を歌つたものとして、「こもりくの泊瀬の山に照る月は滿ち闕《か》けしけり人の常なき」(卷七、一二七〇)、「天の原ふりさけ見れば照る月も滿ち闕けしけり」(卷十九、四一六〇、悲2世問無常1歌)など見えている。無常の概念を歌つた歌であつて、歌としては感激に乏しい。
 
(405)右一首、作者未v詳
 
【釋】作者未詳 ツクリヒトイマダツマビラカナラズ。同時に多數の人の死んだ中に、特に膳部の王を悲傷しているのは、その王に關係のある人であろうが、今にしていかなる人とも知りがたい。
 
天平元年己巳、攝津國班田史生丈部龍麻呂、自經死之時、判官大伴宿祢三中作歌一首 并2短歌1
 
天平の元年己巳の歳、攝津の國の田を班《わ》かつ史生丈部の龍麻呂のみづから經《わな》ぎ死にし時に、判官大伴の宿禰三中の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】天平元年己巳 テニピヤウノハジメノトシツチノトミノトシ。神龜六年八月に改元して天平元年とした。前の事件と同年である。
 攝津國班田史生 ツノクニノタヲワカツフミヒト。攝津の國は、もと津の國といい、攝津の國の文字を使用するに至つても、なおもとの稱を用いている。攝津の國の文字は、既に日本書紀にも見えている。班田は、令制によつて、人民に口分田《くぶんでん》を班かち給するをいう。畿内には班田使をもつてこれに當らしめるので、班田の史生は、その班田使の史生である。史生は、文書を掌る人で書記に當る。
 丈部龍麻呂 ハセツカベノタツマロ。傳未詳。
 自經死之時 ミヅカラワナギシニシトキ。經は縊に同じ。何故に自殺したかは不明である。
 判官 マツリゴトビト。班田使の第三等の官名。事務を處理する重い任務の職。史生の上官である。
 大伴宿称三中 オホトモノスクネミナカ。系譜未詳。天平八年に遣新羅使の副使となり、天平十五年六月に(406)兵部の少輔、十六年九月に山陽道の巡察使、十七年六月に大宰の少貳、十八年四月に長門の守、十九年三月に刑部省の大判事に任ぜられている。本集卷の十五の前半は、天平八年の遣新羅使一行の歌の記録であるが、それは副使であつた三中の手記になるものと考えられる。
 
443 天雲の 向伏《むかぶ》す國の
 武士《もののふ》と 云はゆる人は、
 皇祖《すめろき》の 神の御門《みかど》に
 外の重《へ》に 立ち候《さもら》ひ、
 内の重に 仕へ奉《まつ》り、
 玉葛《たまかづら》 いや遠長く、
 祖《おや》の名も 繼ぎゆくものと、
 母父《おもちち》に 妻に子《こ》どもに
 語らひて 立ちにし日より、
 たらちねの 母の命《みこと》は、
 齋戸《いはひべ》を 前に坐《す》ゑ置きて、
 一手《かたて》には 木綿《ゆふ》取り持ち、
 一手には 和細布《にきたへ》奉《まつ》り、
 平《たひら》けく ま幸《さき》く坐《ま》せと、
(407) 天地の 神祇《かみ》を乞《こ》ひ祷《の》み、
 如何《いか》ならむ 歳月日にか、
 茵花《つつじばな》 にほへる公《きみ》が、
 引く網《あみ》の なづさひ來むと、
 立ちてゐて 待ちけむ人は、
 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み、
 おし光《て》る 難波の國に、
 あらたまの 年經るまでに
 白細《しろたへ》の 衣《ころも》も干《ほ》さず、
 朝夕《あさよひ》に ありつる君は、
 いかさまに 念ひ坐《ま》せか、
 うつせみの 惜しきこの世を、
 露霜《つゆじも》の 置きて往きけむ。
 時にあらずして。
 
 天雲之《アマグモノ》 向伏國《ムカブスクニノ》
 武士登《モノノフト》 所v云人者《イハユルヒトハ》
 皇祖《スメロキノ》 神之御門尓《カミノミカドニ》
 外重尓《トノヘニ》 立侯《タチサモラヒ》
 内重尓《ウチノヘニ》 仕奉《ツカヘマツリ》
 玉葛《タマカヅラ》 彌遠長《イヤトホナガク》
 祖名文《オヤノナモ》 繼往物與《ツギユクモノト》
 母父尓《オモチチニ》 妻尓子等尓《ツマニコドモニ》
 語而《カタラヒテ》 立西日從《タチニシヒヨリ》
 帶乳根乃《タラチネノ》 母命者《ハハノミコトハ》
 齋忌戸乎《イハヒベヲ》 前座置而《マヘニスヱオキテ》
 一手者《カタテニハ》 木綿取持《ユフトリモチ》
 一手者《カタテニハ》 和細布奉《ニキタヘマツリ》
 平《タヒラケク》 間幸座與《マサキクマセト》
 天地乃《アメツチノ》 神祇乞祷《カミヲコヒノミ》
 何在《イカナラム》 歳月日香《トシツキヒニカ》
 茵花《ツツジバナ》 香君之《ニホヘルキミガ》
 牛留鳥《ヒクアミノ》 名津匝來與《ナヅサヒコムト》
 立居而《タチテヰテ》 待監人者《マチケムヒトハ》
 王之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》
 押光《オシテル》 難波國尓《ナニハノクニニ》
 荒玉之《アラタマノ》 年經左右二《トシフルマデニ》
 白栲《シロタヘノ》 衣不v干《コロモモホサズ》
 朝夕《アサヨヒニ》 在鶴公者《アリツルキミハ》
 何方尓《イカサマニ》 念座可《オモヒマセカ》
 鬱蝉乃《ウツセミノ》 惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》
 露霜《ツユジモノ》 置而往監《オキテユキケム》
 時尓不v在之天《トキナラズシテ》
 
【譯】天の雲がかなたに伏している遠い國の武士と言われる人は、皇祖の神樣の御門に、外の垣に伺候し、内の垣に奉仕して、玉葛のようにいよいよ末永く、祖先の名を繼ぎ行くものと、兩親にも妻子にも話をして立ち出た日から、育てた母君は、齋戸を前に据えておいて、片手には木綿を持ち、片手には和細布をささげ、平安(408)に幸にいませと、天地の神に祈願をして、どういう年月日にか、ツツジの花のように美しい君が、引く網のように苦勞して來るだろうと、立つてもいても待つていた人は、天皇の勅命をかしこみ、海のかがやく難波の國に、あらたまり行く年を經るまでに、白い布の衣服を乾さずに、朝晩にあつた君は、どう思われてか、惜しいこの世を、露霜のように置いて行つたのでしよう、死ぬべき時ではなくして。
【構成】段落はない。初めに丈部の龍麻呂の出發を語り、次に母が祭をして待つことを敍し、終りにその時ならずして死んだことを敍している。
【釋】天雲之向伏國 アマグモノムカブスクニノ。空行く雲の、はるか彼方に、此方を向いて伏せる國のの義で、地上のはるかな國までもの意になる。延喜式祈年祭の祝詞に「白雲墮坐向伏限《シラクモノオリヰムカブスカギリ》」の句から出た句で、本集にも「阿麻久毛能《アマクモノ》 牟迦夫周伎波美《ムカブスキハミ》」(卷五、八〇〇)、「青雲之《アヲグモノ》 向伏國乃《ムカブスクニノ》」(卷十三、三三二九)の用例がある。
 武士登 モノノフト。モノノフは、文武官の絶稱であるが、ここでは武士に當てている。丈部の龍麻呂その人が、兵士として出て來た人であつたからであろう。
 所云人者 イハユルヒトハ。イハレシヒトハ(西)、イハルルヒトハ(細二種)。所は、被役の意をあらわす字。世上でいう意である。このヒトは、すべての人にわたつていうのであるから、イハユルと不定形に讀むがよい。
 皇祖神之御門尓 スメロキノカミノミカドニ。スメロキは、天皇の概念をいう語であるが、ここには神の御門とあるので、文字通り皇祖と解すべきである。ミカドは宮殿の意。皇祖である神を祭つた宮殿で、宮廷内の神殿をいう。これを天皇の宮廷と解していたのは、語義上無理であつて、それでは、神の御門が解釋されない。同じ字面は「皇祖乃《スメロキノ》 神御門乎《カミノミカドヲ》 懼見等《カシコミト》 侍從時爾《サモラフトキニ》 相流公鴨《アヘルキミカモ》」(卷十一、二五〇八)があり、それと同意であ(409)る。神の御門の語は、古事記中卷に「參2入(リテ)伊勢(ノ)大御神宮(ニ)1、拜(ム)2神(ノ)朝庭(ヲ)1」(景行天皇の卷)とある、神の朝庭と同語であつて、神を祭つた宮殿をいうのである。
 外重尓 トノヘニ。ヘは、隔てで、塀垣壁の如きをいう。トノヘは、外圍の垣壁で、外門のある處に伺候するをいうためにこれを擧げている。
 立候 タチサモラヒ。タチは接頭語。伺候する。
 内重尓 ウチノヘニ。ウチノヘは、内部の垣壁で、中門のある處に伺候するをいうためにこれを擧げている。「海若《ワタツミノ》 神之宮乃《カミノミヤノ》 内隔之《ウチノヘノ》 細有殿爾《タヘナルトノニ》」(卷九、一七四〇)の用例がある。
 仕奉 ツカヘマツリ。以上二句、外(ノ)重ニ立チ候ヒに對して對句をなしている。外の重、また内の重に、あるいは伺候し、あるいは奉仕するという意を、句を切つて敍述したまでで、外の重内の重について任務が異なるわけではない。
 玉葛 タマカヅラ。枕詞。カヅラの美稱で、カヅラは長いものであるから、絶えることなく、また遠長くなどに冠している。
 弥遠長 イヤトホナガク。時間のいよいよ永く久しきに及ぶを形容している。永久にの意。
 祖名文 オヤノナモ。オヤは、兩親ばかりでなく、祖先をもいう。
 繼往物與 ツギユクモノト。祖先以來の名を繼いで、これを汚さずに繼ぎゆくものとしての意。「人子者《ヒトノコハ》 祖名不v絶《オヤノナタタズ》 大君爾《オホキミニ》 麻都呂布物能等《マツロフモノト》」(卷十八、四〇九四)など、人の子として父祖の名を繼承して行くべきを歌つている。初句の天雲ノ向伏ス國ノ以下、この句の繼ギユクモノまでを、助詞トで受けて、下に續く文脈である。遠方の國の武士といわれる人は、神殿を護衛して先祖以來の名を繼承するものであるとしての意である。この挽歌に歌われている主人公丈部の龍麻呂は、地方から兵士として召された人であるので、その武士た(410)る性質を、以上、龍麻呂の語を借りて説明している。
 母父尓妻尓子等尓 オモチチニツマニコドモニ。オモは母をいう。日本書紀神武天皇紀に「初め孔舍衛《くさゑ》の戰に、人有り、大樹に隱れて難を免るることを得たり。よりてその樹を指して曰はく、恩母の如し。時の人因りてその地を號《なづ》けて母木《おもき》の邑《むら》といふ。今、飫悶廼奇《おものき》と云ふは訛れるなり」(もと漢文)とある。オモチチの語は、本集に「伊波布伊能知波《イハフイノチハ》意毛知々我多米《オモチチガタメ》」(卷二十、四四〇二)とある。母父の文字も卷の十三に見えている。母父に、妻に、子どもには、竝立の格で、家族の者たちの意にこれを擧げている。
 語而 カタラヒテ。祖ノ名モ繼ギユクモノト語ラヒテと續く文脈である。
 立西日從 タチニシヒヨリ。タチニシは、家郷を出立したことをいう。
 帶乳根乃 タラチネノ。母の枕詞として知られている。帶をタラに當てているのは、古事記の序文に「亦於2姓日下1、謂2玖沙※[言+可]1、於2名帶字1、謂2多羅斯1、如v是之類、隨v本不v改」とあつて、古くから帶の字をタラシと讀んでいた。そのシを略して、タラの音に當てたのである。この句、集中では、このほか、多良知禰乃、多良知禰能、垂乳根乃、垂乳根之、足千根、足千根乃、足千根之、足乳根乃、足乳根之、帶乳根笶、足常等の字を使用して居り、これらは、タラチネノと讀まれるが、なお「多羅知斯夜《タラチシヤ》 波々何手波奈例《ハハガテハナレ》」(卷五、八八六)、「多良知子能《タラチシノ》 波々何目美受提《ハハガメミズテ》」(同、八八七)、「垂乳爲《タラチシ》 母所v懷《ハハニウダカエ》」(卷十六、三七九一)の諸例があつて、これらは、タラチシヤ、タラチシノ、タラチシの形において、母の語に冠している。そのタラチシヤについては、ヤは、感動の助詞と認められるから、タラチシの形で、母の語を修飾する語であつたと考えられ、その語はまた、播磨國風土記の新室の詠辭に「多良知志《タラチシ》 吉備鐵《キビノマガネノ》 狹※[務/金]持《サクハモチ》」ともあつて、ここには吉備の鐵に冠している。この多良知志は、吉備の鐵を賞美している句と考えられるものであつて、古代語において、タ行サ行相通すること多きにより、多分タラシシの轉で、足らししの義であろうかと考えられる。すなわち足ルの使役の語タラ(411)シ(充足せしめる)に、時の助動詞シの接續したものと見るのである。子を育てることをヒタスというのは、日本書紀に、養の日などにヒタスの訓があるが、これも日足スの義であつて、日を充足する意であろうか。萬葉集には「何時可聞《イツシカモ》 日足座而《ヒタラシマシテ》」(卷十三、三三二四)の例があつて、日足を生育するの義に書いて、ヒタラシもしくはヒタシの語にあてていると見られる。かくて、タラシシ、タラチシ、タラチシヤから、タラチシノを生じ、別に轉じてタラチネの語を生じたものと見られ、ネは、「如v是許《カクバカリ》 名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》」(卷四、七二四)、「妹名根之《イモナネガ》 作服異六《ツクリキセケム》」(卷九、一八〇〇)のナネ、イモナネのネに同じく、婦人に對する親愛の意の接尾語と考えられる。かくてタラチネノは、育て上げた御方なるの義において、母の枕詞となつているのであろう。
 母命者 ハハノミコトハ。ミコトは尊稱。以下、母が留守宅で、旅行者の無事を祈つて祭をすることを敍している。
 齋忌戸乎 イハヒベヲ。既出、齋戸とあるに同じ(卷三、三七九)。
 前坐置而 マヘニスヱオキテ。齋戸については、イハヒホリスヱの句をもつて受けるものが多く、ここにスヱオキテとあるも、その意と解せられる。マヘニは、母親が、その前にである。
 一手者 カタテニハ。ヒトテニハ(西)、カタテニハ(細二種)。一手は、片方の手の義をもつてカタテと讀む。マテ(二手)に對する語である。
 木綿取持 ユフトリモチ。一方の手には木綿を持ち。木綿は、コウゾ、アサの繊維。植物性の物を持つて祭事を行うのが通例である。
 一手者和細布奉 カタテニハニキタヘマツリ。ニキタヘは、柔い布繊物。マツリは、神に奉る意である。以上、二つの一手ニハ云々の句をもつて對句をなしている。
 平 タヒラケク。わが子平安にとの意。
(412) 間幸座與 マサキクマセト。マサキクは、無事に榮えてある意の形容詞。マセは、居るの敬語で、その命令形。
 天地乃神社乞祷 アメツチノカミヲコヒノミ。天地の神を招請して祈願をする意。アメツチノカミは、天つ神と、國つ神とであるが、多くの神々の意になる。「安米都知乃《アメツチノ》 可未乎許比能美《カミヲコヒノミ》」(卷二十、四四九九)。
 何在歳月日香 イカナラムトシツキヒニカ。如何ならむ時にかの意。どのような年月または日にかの意に、トシツキヒといつている。下のナヅサヒコムに接續する。
 茵花 ツツジバナ。本草和名に「茵芋、和名|爾都々之《ニツツジ》、一名|乎加都々之《ヲカツツジ》」とあつて、ここでは茵をツツジにあてている。次の句のニホヘルの枕詞。「茵花《ツツジバナ》 香未通女《ニホエヲトメ》」(卷十三、三三〇五)ともある。茵は、敷物の一種をいう字であるが、ツツジに借用したものであろう。
 香君之 ニホヘルキミガ。ニホヘルは、色のうつくしきをいう。キミは、龍麻呂をいう。
 牛留鳥 ヒクアミノ。
   ヒクアミノ(西)
   クルトリノ(細二種)
   クロトリノ(補)
   ――――――――――
   牽留鳥《ヒクアミノ》(考)
   爾富鳥《ニホトリリノ》(槻)
「中々二《ナカナカニ》 君二不v者《キミニコヒズハ》  留牛浦乃《ナハノウラノ》 海部爾有益男《アマナラマシヲ》 玉藻苅々《タマモカルカル》」(卷十一、二七四三或本歌)の留牛馬浦をナハノウラと讀まれるに照らして、留鳥をアミと讀むべく、牛は、義をもつてヒクと讀むべきである。留鳥の字を用いてはいるが、意は漁業の網で、ヒクアミノは、曳く網のの意をもつて、次の句のナヅサヒの枕詞になつている。
 名豆匝來與 ナヅサヒコムト。匝は入聲合韻の字で、字音をもつて、サヒの音を表示している。ナヅサヒは(413)既出(卷三、四三〇)。水面に浸つてその抵抗を排する意の動詞で、船、鳥、網などが、水の抵抗を排除するに使う。ここでは、引く網のように勞を費して來むとの意で、骨をおつて來る、困難に堪えて來るだろうとの意に用いている。
 立居而 タチテヰテ。立ちて待ち、いて待ちの意で、次の句に懸かる。立つてもいてもである。
 待監人者 マチケムヒトハ。ヒトは龍麻呂をさす。その人も死んで、待つていたことは、既に過去の事となつたので、ケムを使用している。
 王之命恐 オホキミノミコトカシコミ。天皇の勅命をかしこみ承つて。
 押光 オシテル。枕詞。難波に冠する。語義については、「我屋戸爾《ワガヤドニ》 月押照有《ツキオシテレリ》」(卷八、一四八〇)、「春日山《カスガヤマ》 押而照有《オシテラセル》 此月者《コノツキハ》」(卷七、一〇七四)の如き例があつて、月光についていつているので、オシテルも、光の照る義と解すぺく、オシは強意の接頭語と見るべきである。難波に冠するについては、「直超乃《タダゴエノ》 此徑爾弖師《コノミチニテシ》 押照哉《オシテルヤ》 難波乃海跡《ナニハノウミト》 名附家良思蒙《ナヅケケラシモ》」(卷六、九七七)の歌があり、これは草香山(生駒山)を越えて詠んだ作であつて、その徑において、おしてる難波と名づけたのだろうといつている。これによれば、草香山から難波の海を見下して、その日に輝いているのを見て、おしてる難波と稱したとすべく、もしこれが本義でないとすれば、當時既に本義が忘れられて、かような解が試みられたとすべきである。この枕詞は、古く「淤志弖流夜《オシテルヤ》 那邇波能佐岐用《ナニハノサキヨ》」(古事記五四)、「於辭※[氏/一]屡《オシテル》 那珥破能瑳耆能《ナニハノサキノ》」(日本書紀四八)の例もあり、歌いものから來た枕詞であることが知られる。
 難波國尓 ナニハノクニニ。クニは一地方をいう。日本書紀神武天皇紀にも浪速の國といい、古く難波地方の稱として使用された。龍麻呂は、班田の史生として、難波の地方に下つていたので、その地名を擧げている。
 荒玉之 アラタマノ。枕詞。年に冠している。この文字のほか、安良多末乃、安良多未能、安良多麻乃、安(414)良多麻餞、阿良多麻能、荒玉、荒玉乃、荒玉能、荒玉之、荒珠、荒珠乃、荒環能、麁玉、璞、璞之、未玉之等の文字を使用している。以上のうち表音文字を使用したと認められるものを除いては、いずれもまだ琢磨しない珠玉の義を有しており、それが語義であると考えられる。倭名類聚鈔にも、璞に阿良太萬《アラタマ》の訓がある。これをトシに冠するについては、砥《と》の義にトの一音に懸かるとされている。これも古く古事記にも見えている。
 年經左右二 トシフルマデニ。トシフルは、年を經過する意であるが、單に翌年になるだけにもいう。すくなくも翌年にわたつたのであろう。永い時間を經るまでにの意。
 白栲 シロタヘノ。タヘはコウゾの皮の繊維で織つた布。しかし材料にかかわらず、白い織物をシロタヘという。實際、麻織物をもシロタヘという。ここは龍麻呂の常用の衣の説明である。當時、身分の低い人は、多く染色しない衣服をつけておつた。その敍述である。
 衣不干 コロモモホサズ。コロモカハカズ(西)、コロモモホサズ(槻)、コロモデホサズ(新考)。汗ばみ穢れた衣服を乾すこともなくで、多忙であつた説明である。同時に、他郷に出て、衣類を管理する妻もなく、孤棲した生活を送つたことも考えられよう。
 朝夕在鶴公者 アサヨヒニアリツルキミハ。衣服を乾すこともなく、朝から晩まで、その穢れた衣服でいた君はの意。
 何方尓念座可 イカサマニオモヒマセカ。どのように思つておられたかの意。マセカは、イマセバカの意の條件法で、カは疑問の係助詞。「何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》」(卷一、二九、卷二、一六七)と同樣の語法で、插入句。
 鬱蝉乃 ウツセミノ。鬱は字音、蝉は訓で、共に假字である。命、世などの枕詞。ここは世に冠している。語義は、現し身のであるとされているが、上代假字遣法において、蝉のミは甲類、身のミは乙類で、音が違う。「空蝉之《ウウセミノ》」(卷一、二四)參照。
(415) 惜此世乎 ヲシキコノヨヲ。下の置キテに接續する句。
 露霜 ツユジモノ。既出(卷二、一三一)。枕詞。置キテに冠する。ツユジモは、露から霜にふりかわる頃のとけやすい霜。
 置而往監 オキテユキケム。この世を置いて行つたのだろうと推量している。上のイカサマニ念ヒマセカを受けて結んでいる。句切。
 時尓不在之天 トキニアラズシテ。死ぬべき時にあらずしての意で、上の文を補足している。この句で、自殺の意をあらわしている。
【評語】文筆作品として長大な形に發達した長歌は、平凡な内容を長々と敍述する弊に陷り、活氣を失うに至つた。この作の如きも既にそういう傾向にあるものである。一往事情を敍してはいるが、感激が足りないで、締りがない。いたずらに形式を追う者の弊に墮したのである。
 
反歌
 
444 昨日こそ 公《きみ》はありしか。
 思はぬに
 濱松が上に 雲に棚引く。
 
 昨日社《キノフコソ》 公者在然《キミハアリシカ》
 不v思尓《オモハヌニ》
 濱松之於《ハママツガウヘニ》 雲棚引《クモニタナビク》
 
【譯】昨日こそ公はおられた。意外にも濱松の上に雲としてたなびいている。
【釋】昨日社公者在然 キノフコソキミハアリシカ。係助詞コソに對して、時の助動詞キの已然形シカと結んでいる。前日までその人の存在したことをいつている。句切で、前提をなしている。
(416) 不思尓 オモハヌニ。思わぬことに。意外にも。
 濱松之於 ハママツガウヘニ。難波で死去したので、濱松は實景である。於は上の意を有する字。
 雲棚引 クモニタナビク。雲となつて棚引くの意。「卷而寐之《マキテネシ》 妹之手本者《イモガタモトハ》 雲爾多奈妣久《クモニタナビク》」(卷十九、四二三六)の例がある。火葬の煙が、松の上に棚引いているのを、雲としてと稱している。
【評語】四五句の描寫が、具體的でよい。濱邊の松のもとで火葬をする有樣が哀れである。全體としてすこし堅い感じを與えるのは、上三句が事を述べるに急であつて、描寫に及ばないゆえであろう。
 
445 いつしかと 待つらむ妹に、
 玉|梓《づさ》の 言《こと》だに告げず 往《い》にし公かも。
 
 何時然跡《イツシカト》 待牟妹尓《マツラムイモニ》
 玉梓乃《タマヅサノ》 事太尓不v告《コトダニツゲズ》 往公鴨《イニシキミカモ》
 
【譯】何時かと待つているでしよう妻に、言つてだけもしないで死んでしまつた公だ。
【釋】何時然跡 イツシカト。シは強意の助詞であるが、これを入れると、何時であるか早く早くとその時を待つ氣持が強くなる。
 待牟妹尓 マツラムイモニ。イモは、婦人の愛稱。ツマというよりも情愛が浮かび出る。長歌では主として母の待つことを歌い、この反歌では妻を出しているのは、照應がない。
 玉梓乃 タマヅサノ。使者に冠する枕詞であるが、ここでは轉じて、ただちに使者の意に使用している。既出、「玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》」(卷三、四二〇)と同樣の用法である。
 事太尓不告 コトダニツゲズ。コトは言辭である。言をだに告げないでの意。次の句を修飾している。終止ではない。
 往公鴨 イニシキミカモ。イニシは、死去した意。カモは感動の助詞。
(417)【評語】家郷の妻のことを歌つているのは、長歌に漏らしたことを補う意であるかも知れないが、突然であつて、長歌との連絡がない。内容も平凡である。
 
天平二年庚午冬十二月、大宰帥大伴卿、向v京上道之時作歌五首
 
天平の二年庚午の冬十二月、大宰の帥大伴の卿の、京に向きて上道《みちだち》せし時に作れる歌五首。
 
【釋】天平二年庚午冬十二月 テニピヤウノフタトセカノエウマノフユシハス。大伴の旅人は、この年十月に、大納言に任ぜられ、十二月に大宰府を出發して京に向かつた。その途上である。
 向京上道之時 ミヤコニムキテミチダチセシトキニ。上道は、出發して行程につくをいう。以下の五首は、旅人が京に歸る途上、風物なお往路の如くにして、しかも伴なつて下つた妻を任地に失つてひとり歸る寂寥を歌つている。すなわち遺物なお存して、人はいない悲哀を題材としたものである。旅人は海路によつて上京している。
 
446 吾妹子が 見し鞆《とも》の浦の ※[木+聖]《むろ》の木は、 常世《とこよ》にあれど、 見し人ぞ無き。
 
 吾妹子之《ワギモコガ》 見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》 天木香樹者《ムロノキハ》
 常世有跡《トコヨニアレド》 見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》
 
【譯】わが妻の見た鞆の浦の※[木+聖]の木は、永久に變わらずあるけれど、これを見た人は今はこの世にいないのである。
【釋】吾妹子之 ワギモコガ。吾妹子は、亡き妻をいう。作者は、かつてその人と同伴して九州に下つたのである。
 見師鞆浦之 ミシトモノウラノ。見シは、次の句のムロノ木に接續する。鞆の浦は、廣島縣沼隈郡鞆町の海(418)灣で圓形の灣であるから、鞆の浦の名を得たものと思われる。風光絶佳の地として知られ、内海航行の要津をなしている。
 天木香樹者 ムロノキハ。天木香樹は、次の二首の歌の室木と同じく、ムロノキと讀まれる。天木香の文字は、卷の十六にも「詠2玉掃鎌天木香棗1歌」の題詞があつて「玉掃《タマハハキ》 苅來鎌麻呂《カリコカママロ》 室乃樹與《ムロノキト》 棗本《ナツメガモトヲ》 可吉將v掃爲《カキハカムタメ》」(三八三〇)の歌があり、それにも室乃樹と記されている。この樹は、本草和名に「赤※[木+聖]、一名※[木+聖]乳 木中(ノ)脂也 和名|牟呂乃岐《ムロノキ》」とあり、新撰字鏡に「※[木+聖]、川夜奈支《カハヤナギ》、又|牟呂乃木《ムロノキ》也」また「〓〓、二字|牟呂乃木《ムロノキ》、※[木+香] 上(ニ)同(ジ)、又|加豆良《カヅヲ》」とある。このムロノ木は、今、トシヨウ、またネズミサシという樹で、わが國の山野に自生し、檜に似て葉が杉のようであり樹心に香氣ある脂がある樹とされ、また海岸に白生するハイネズをもいうとされる。ここのは、そのハイネズの方であろうという。古くは、樹名は、その種の樹を總稱していうので、ムロというのも、葉が杉のようであつて柔軟な樹を組稱していうと考えられる。鞆の浦の礒には、ムロの老樹があつて、航行者の注意をひいたとおぼしく、集中、この歌のほかにもこれを詠んだ歌がある。よほどの巨樹であつたものと見える。
 常世有跡 トコヨニアレド。常世は既出(卷一、五〇)。永久不變の世界の謂であるが、ここでは、永久の意に使用されている、ムロノ木は、變わらずにあれどもである。
(419) 見之人曾奈吉 ミシヒトゾナキ。見シ人は、亡き妻をいう。
【評語】風物は昔ながらにして、人は既に去つてこの世にない感慨を歌つている。よく見られる思想であるが、鞆の浦のムロノ木を出したところに特色がある。なおそのムロノ木の措寫があれはよかつたと思う。以下三首、同じ題材を取り扱つている。多少連絡があるものと見られる。
【參考】礒の※[木+聖]の樹を詠んだ歌。
  離《はな》れ礒《そ》に立てる※[木+聖]《むろ》の木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも(卷十五、三六〇〇)
  しましくもひとりあり得るものにあれや島の※[木+聖]の木離れてあるらむ(同、三六〇一)
  礒の上に立てる※[木+聖]の木心いたく何に深めて思ひ始めけむ(卷十一、二四八八)
 
447 鞆の浦の 礒の※[木+聖]の木、
 見む毎《ごと》に、
 相見し妹は 忘らえめやも。
 
 鞆浦之《トモノウラノ》 礒之室木《イソノムロノキ》
 將v見毎《ミムゴトニ》
 相見之妹者《アヒミシイモハ》 將v所v忘八方《ワスラエメヤモ》
 
【譯】鞆の浦の礒のむろの木を見る毎に、共に見た妻は、忘れることが出來ないだろう。
【釋】將見毎 ミムゴトニ。見むたびにで、見む時にはきまつての意をあらわしている。
(420) 相見之妹者 アヒミシイモハ。アヒミシは、普通、自分と妹とあうにいうが、ここは、妹と共に、このムロノ木を見し意に使用している。
 將所忘八方 ワスラエメヤモ。所は被役の意をあらわしている。ヤモは反語。忘れられようや、忘れられないの意。
【評語】これもゆかりの物に寄せて、亡き妻を憶つている。亡き妻の忘れがたい情は、よく寫されている。
 
448 磯の上《うへ》に 根蔓《ねば》ふ※[木+聖]の木、
 見し人を いづらと問はば
 語り告げむか。
 
 礒上丹《イソノウヘニ》 根蔓室木《ネバフムロノキ》
 見之人乎《ミシヒトヲ》 何在登問者《イヅラトトハバ》
 語將v告可《カタリツゲムカ》
 
【譯】礒の上に根を張つているむろの木は、かつて見た人を、何處にいるかと問うたならば、語り告げるであろうか。
【釋】根蔓室木 ネバフムロノキ。ネバフは、根が延びる意で、根を長く張つているをいう。この句は、語ルの主格。「礒上之《イソノウヘノ》 都萬麻乎見者《ツママヲミレバ》 根乎延而《ネヲハヘテ》 年深有之《トシフカカラシ》 神左備爾家里《カムサビニケリ》」(卷十九、四一五九)。
 見之人乎 ミシヒトヲ。前々歌、および前歌のミシを受けている。旅人の亡き妻。
 何在登問者 イヅラトトハバ。イヅコトトハバ(西)、イカナリトトハバ(矢)、イヅラトトハバ(考)。イヅラは何處にあるの意の語。本集に「伊敝妣等乃《イヘビトノ》 伊豆良等和禮乎《イヅラトワレヲ》 等婆波伊可爾伊波牟《トハバイカニイハム》」(卷十五、三六八九)
の例がある。トフは作者がムロノ木に問うのである。
 語將告可 カタリツゲムカ。ムロノ木は、我に語り告げるだろうかの意。カは疑問の助詞。
【評語】「鳥翔《かける》なすありがよひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」(卷二、一四五)の歌は、有間の皇(421)子の靈の通うことを、松は知つているだろうと歌つている。同樣に、ここでは、ムロの木が、わが亡き妻の所在を知つているだろうというのである。草木非情の者が、かえつて靈界の事に通じているとする。天地の何處かの隈にわが妻を見出そうとする心が歌われている。根バフムロノ木の句は、主格ではあるが、それを呼びかけている語氣が、多量に感じられる。蔽い切れない寂寥感を、せめてそれに紛らそうとする氣もちである。講義には、ムロノ木が何在と問わば、吾は語り告げむかの意としているが、蓋し誤りであつて、作者は、妻の所在を求める意とすべきである。
 
右三首、過2鞆浦1日作歌
 
右の三首は、鞆の浦を過ぎし日に作れる歌。
 
【釋】過鞆浦日 トモノウラヲスギシヒニ。海路上京の途上、舟を鞆の浦に進めた日に詠んだことを註している。
 
449 妹と來《こ》し 敏馬《みぬめ》の埼を、
 還《かへ》るさに ひとりして見れば、
 涕《なみだ》ぐましも。
 
 與v妹來之《イモトコシ》 敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》
 還左尓《カヘルサニ》 獨而見者《ヒトリシテミレバ》
 涕具末之毛《ナミダグマシモ》
 
【譯】妻と共に來た敏馬の埼を、歸り途にひとりして見れば、涙が催される。
【釋】與妹來之 イモトコシ。亡き妻と共に來た意で、連體形の句。旅人は妻と共に、海路九州に赴いたのである。その追憶を語つている。
 敏馬能埼乎 ミヌメノサキヲ。敏馬の埼は、神戸市東方の岬角。
(422) 還左尓 カヘルサニ。カヘルサは、歸る方で、歸途である。「可敝流散爾《カヘルサニ》 伊母爾見勢武爾《イモニミセムニ》」(卷十五、三六一四)など例がある。サは、往クサ、來サなどのサに同じく、方向を示す語。
 獨而見者 ヒトリシテミレバ。今は妻なくしてひとりして見ればの意。
 涕具末之毛 ナミダグマシモ。ナミダグムという動詞を、形容詞に轉成してナミダグマシという。涙の含まれ催されてある樣である。「阿賀勢能岐美波《アガセノキミハ》 那美多具麻志母《ナミダグマシモ》(古事記六三)、「和餓齊烏瀰例麼《ワガセヲミレバ》 那瀰多愚摩辭母《ナミダグマシモ》」(日本書紀五五)の例があるが、本集には例はない。
【評語】二人行つて一人歸る悲哀が、よく描かれている。船は故郷に近づきつつ、見る物につけて、無限の感慨が涌くのを如何ともしがたく、この數首の歌をなしている。
 
450 往《ゆ》くさには 二人わが見しこの埼を、
 ひとり過ぐれば こころ悲しも。
 
 去左尓波《ユクサニハ》 二吾見之《フタリワガミシ》 此埼乎《コノサキヲ》
 獨過者《ヒトリスグレバ》 情悲裳《ココロカナシモ》
 
【譯】行く際には、妻と二人で自分の見たこの敏馬の埼を、今ひとりして過ぎれば、心が悲しいことである。
【釋】去左尓波 ユクサニハ。ユクサは、カヘルサと同樣の語構成を有し、行く途の意をあらわす。往路である。
 二吾見之 フタリワガミシ。妻と二人で見たの意。フタリは、「吾背兒與《ワガセコト》 二有見麻世波《フタリミマセバ》」(卷八、一六五八)と書いた例があり、その有は、リの假字に借りたとすべきであるが、結局は、二有が語義であろうと考えられる。
 此埼乎 コノサキヲ。コノサキは、敏馬の埼をいう。
 獨過者 ヒトリスグレバ。獨行して通過すれば。
(423) 情悲裳 ココロカナシモ。モは感動の助詞。心悲しさよとである。
【評語】前の歌と同じ内容を、詞句を變えて歌つたまでの歌である。この敏馬の埼の二首は、連作ではなく、一首だけでは心が足らず、重ねてまた歌い試みたようである。五句の情悲シモは、概念的であるが、一ハ云フの方は、眺めることもなし得ない悲しさがよく出ていて情が深い。
 
一云、見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》
 
一は云ふ、見もさかず來ぬ。
 
【釋】一云見毛左可受伎濃 アルハイフミモサカズキヌ。本文第五句の別傳であるが、いかなる材料によつたか、あきらかでない。恐らくは、作者が兩案を存したのであろうか。サカズは、離けずで、ミモサカズは、眺めやらず、見ることなしの意。離クは、普通下二段であるが、ここにサカズとあるのは、やはりもと四段に活用したことを語つている。
 
右二首、過2敏馬埼1日作歌
 
【釋】過敏馬埼日 ミヌメノサキヲスギシヒニ。船は、敏馬の埼にさしかかつた。故郷に近づくにつれて感慨いよいよ無限なものがあつて、この歌を詠んでいる。
 
還2入故郷家1即作歌三首
 
【釋】還入故郷家 フルサトノイヘニカヘリイリテ。フルサトノイヘは、寧樂の舊宅をいう。故郷は、もと住んでおつた里の義に使用している。長途の旅を終つて、住み古した家に還り入つて作つた歌であつて、作者は、(424)いうまでもなく大伴の旅人である。
 
451 人もなき 空《むな》しき家は、
 草枕 旅にまさりて
 苦しかりけり。
 
 人毛奈吉《ヒトモナキ》 空家者《ムナシキイヘハ》
 草枕《クサマクラ》 旅尓益而《タビニマサリテ》
 辛苦有家里《クルシカリケリ》
 
【譯】人もないからつぽの家は、草の枕の旅より一層苦しいものであつた。
【釋】人毛奈吉空家者 ヒトモナキムナシキイヘハ。留守にして人のいないからつぽの家はである。寧樂の都に住み捨てておいた家である。
 旅尓益而 タビニマサリテ。旅の苦しさに増さつて。旅の苦しさは、故郷の戀しさ等、心情を悩ます一切の苦勞をいう。
 辛苦有家里 クルシカリケリ。家に還つて辛苦を味わつたので、苦しかつたといつている。
【評語】京に歸ろうとして詠んだ、「京都《みやこ》なる荒れたる家にひとり宿《ね》ば旅にまさりて苦しかるべし」(四四〇)の歌に照應する作である。人モナキと空シキとは、同意の語を重ねて、妻なき空虚の思いを描いている。周圍の人々はあつても、妻のいないさびしさが、苦しさの中心となつているので、この敍述が重要になつて來る。三句の枕詞もよく利いており、その以下の詠嘆も有效である。
 
452 妹として 二人作りし わが山齋《しま》は、
 木高《こだか》く繁く なりにけるかも。
 
 與v妹爲而《イモトシテ》 二作之《フタリツクリシ》 吾山齋者《ワガシマハ》
 木高繋《コダカクシゲク》 成家留鴨《ナリニケルカモ》
 
【譯】わが妻と二人で作つたわが庭園は、木も高く茂くなつたことである。
(425)【釋】與妹爲而 イモトシテ。イモは旅人の亡き妻をいう。妹と共にしての意。
 二作之 フタリツクリシ。妹と共に二人で作つたの意。旅人の家は、奈良の都作りと共に、その附近に移し作られたものと思われるから、ちようど旅人とその妻と二人で、相談して經營したものであろう。
 吾山齋者 ワガシマハ。山齋は、庭園をいう。齋は、韻會に「燕居之室也」とあつて屋舍の義であり、書齋などもその義で使用され、山齋は、山林の屋舍の義であるが、本集では「屬2目(シテ)山齋(ニ)1作(レル)歌」(卷二十、四五一一題詞)など、使用されている。この山齋は、中臣の清麻呂の邸の山齋であるが、賓客の一人なる御方の王の歌に、「乎之能須牟《ヲシノスム》 伎美我許乃之麻《キミガコノシマ》 家布美禮婆《ケフミレバ》 安之婢乃波奈毛《アシビノハナモ》 左伎爾家流可母《サキニケルカモ》」(卷二十、四五一一)とあつて、山齋をシマと讀むべきことが確かめられる。シマは、元來、水に臨んだ美しい土地をいう語であり、よつて庭園林泉の意にも使用するのである。
 木高繁成家留鴨 コダカクシゲクナリニケルカモ。コダカクは、樹木の生長した有樣を敍している。數年間任地にあつたあいだに、樹木の生い繁つたことを詠嘆している。
【評語】旅人の邸宅については、吉田の宜の「君が行き日《け》長くなりぬ。奈良路なる山齋《しま》の木立も神さびにけり」(卷五、八六七)などもあつて、やはり任中に樹木の生長したことを歌つている。當時の大族の主人であるから、宏壯な林泉を構えていたものであろう。
 
453 吾妹子が 植ゑし梅の樹
 見る毎《ごと》に、
 こころ咽《む》せつつ 涕《ナミダ》し流る。
 
 吾妹子之《ワギモコガ》 殖之梅樹《ウエシウメノキ》
 毎v見《ミルゴトニ》
 情咽都追《ココロムセツツ》 涕之流《ナミダシナガル》
 
【譯】わが妻の植えた梅の樹を見る毎に、情がむせんで涙が流れる。
(426)【釋】殖之梅樹 ウヱシウメノキ。妻の植えた梅の樹の意。當時梅を愛賞したので、特に移植したのであろう。
 情咽都追 ココロムセツツ。咽は音エツ、聲の塞《つま》るをいう。情が迫つて聲の出ないのをいう。
 涕之流 ナミダシナガル。シは張意の助詞。
【評語】妻の遺愛の樹に想いを寄せている。その人去つて、風物ひとり存している悲しみは、ここにも歌われている。
【參考】土佐日記は、紀の貫之が、土佐守の任が終つて、京に歸る時の紀行文であるが、貫之も、伴ない下つた女の兒を、任地に失つている。今その故郷の家に歸り入つた際の文を記す。
  家に至りて門に入るに、月あかければいとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれ破れたる。家に預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。(中略)さて池めいてくぼまり水づける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに千年や過ぎにけむ、片枝は無くなりにけり。今生ひたるぞまじれる。大方の皆荒れにたれば哀《あはれ》とぞ人々いふ。思ひ出でぬことなく、思ひ戀しきがうちに、此の家にて生《うま》れし女子《をんなご》の、もろともに歸らねば、いかがは悲しき。舟人も皆子|抱《だ》かりてのゝしる。かゝるうちになほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人々いへりける歌。
  生《うま》れしも歸らぬものを吾が宿に小松のあるを見るが悲しさ
とぞいへる。なほ飽かずやあらむ、又かくなむ。
  見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別せましや
 
天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿薨之時歌六首
 
天平の三年辛未の秋七月、大納言大伴の卿の薨りし時の歌六首。
 
(427)【釋】天平三年辛未秋七月 テニピヤウノミトセカノトヒツジノアキフミツキ。大伴の旅人の薨去の日については、續日本紀、天平三年の條に「秋七月辛未、大納言從二位大伴の宿禰旅人薨りぬ。難波の朝の右大臣大紫長徳が孫、大納言贈從二位安麻呂の第一の子なり」とある。七月の辛未は二十五日である。懷風藻に、年六十七とあるは、享年と見られる。その薨じた時の歌六首であるが、資人余の明軍の歌五首と、縣の犬養の宿禰人上の歌一首とである。
 
454 はしきやし 榮えし君の 坐《いま》しせば、
 昨曰《きのふ》も今日も 吾《わ》を召さましを。
 
 愛八師《ハシキヤシ》 榮之君乃《サカエシキミノ》 伊座勢婆《イマシセバ》
 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 吾乎召麻之乎《ワヲメサマシヲ》
 
【譯】親愛なる榮えたわが君がおいでになつたならば、昨日も今日もわたくしをお召しになつたろうものを、今はお召しになることもない。
【釋】愛八師 ハシキヤシ。形容詞ハシキに、感動の助詞ヤシの接續したもので、ハシキヨシ、ハシケヤシとあるも同語である。元來ハシキ何々と、連體形の句として、その修飾すべき語に冠するものであるが、慣用されては、獨立句として、讃嘆の意を表示するに至るものである。そこで自然、ある詞句を隔てて、その修飾すべき語をいう場合も多くなる。ここの例も、そういう形を採つて、榮エシを隔てて君を修飾している。ハシキ君と續くべき語法ではあるが、愛しきかな、榮えし君が云々の語氣になつているのである。「波之吉也思《ハシキヤシ》 吾家乃毛桃《ワギヘノケモモ》 本繁《モトシゲク》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成在目八方《ナラズアラメヤモ》」(卷七、一三五八)、「波之寸八師《ハシキヤシ》 志賀在戀爾毛《シカアルコヒニモ》 有之鴨《アリシカモ》 君所v遺而《キミニオクレテ》 戀敷念者《コホシキオモヘバ》」(卷十二、三一四〇)の如き、かような用法の例である。
 榮之君乃 サカエシキミノ。君は大伴の旅人をさす。世に榮えた君がの意である。「安志妣成《アシビナス》 榮之君之《サカエシキミガ》 穿之井之《ホリシヰノ》 石井之水者《イハヰノミヅハ》 雖v飲不v飽鴨《ノメドアカヌカモ》」(卷七、一一二八)の用例がある。
(428) 伊座勢婆 イマシセバ。イマシは存在の意の動詞の體言法。セは動詞|爲《す》の未然形。おられたならばの意の條件法。
 吾乎召麻之乎 ワヲメサマシヲ。マシヲは、不可能の希望で、そうしたかつたのに、できなかつたの意。
【評語】あらわし方は素朴であるが、それだけに平凡で、何等の味もない歌である。この作者が、歌に練達した人でないことを語るものであろう。
【參考】類想。
  東《ひむかし》の激流《たぎ》の御門《みかど》にさもらへど昨日も今日も召すこともなし(卷二、一八四)
 
455 かくのみに ありけるものを、
 はぎが花 咲きてありやと
 問ひし君はも。
 
 如v是耳《カクノミニ》 有家類物乎《アリケルモノヲ》
 〓子花《ハギガハナ》 咲而有哉跡《サキテアリヤト》
 問之君波母《トヒシキミハモ》
 
【譯】かようにあつたものを、ハギの花は咲いているかとお尋ねになつた君は、ああ。
【釋】如是耳 カクノミニ。旅人の死んだことを指してカクといつている。かような事ばかりでの意。
 有家類物乎 アリケルモノヲ。あつたものを、然るにの意の句。
 〓子花 ハギガハナ。〓子は既出(卷二、一二〇)。ハギの花である。
 咲而有哉跡 サキテアリヤト。ヤは疑問の助詞。
 問之君波母 トヒシキミハモ。君は旅人をいう。ハモは、詠嘆の助詞。君はといつて、感動の助詞モでこれを受けて、言おうと欲して情の迫つた意をあらわしている。
【評語】旅人は、天平二年の十二月に大宰府を發して上京したが、三年の夏には、既に病床の人となり、その(429)少壯時代を過した明日香の故郷を慕いながら死んで行つた。奈良時代前期までの代表的歌人で、死去の年月のあきらかなのは、この人のみである。旅人が死ぬ年の秋に作つた歌に「さすすみの栗栖《くるす》の小野のはぎが花散らむ時にし往きて手向けむ」(卷六、九七〇)というのがある。ハギの花の散る頃にもならば、故郷の栗栖の小野にも行つて見ようと心構えしながら、その秋七月に、自分の方が脆くも死んでしまつた。明軍がハギガ花咲キテアリヤト問ヒシ君というに合わせて、ハギを愛したことが知られる。ウメを愛し、またハギを愛した風流な生涯は、ここに終つたのである。この明軍の歌は、そのハギを愛したことを材料として詠んでいる。五首のうちで、もつとも情趣に滿ちた作である。
 
456 君に戀ひ いたもすべ無み、
 蘆鶴《あしたづ》の 哭《ね》のみし泣かゆ。
 朝夕《あさよひ》にして。
 
 君尓戀《キミニコヒ》 痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》
 蘆鶴之《アシタヅノ》 哭耳所v泣《ネノミシナカユ》
 朝夕四天《アサヨヒニシテ》
 
【譯】君に戀うて、大變に術なく、蘆中にいる鶴のように、泣きにのみ泣かれる。朝も夕方も。
【釋】君尓戀 キミニコヒ。君は旅人をさす。コヒは、死者に對する思慕である。集中、動詞戀フは、助詞ニを受けるのを通例とする。これは、ある方向に對して、戀フの動作が行われる意味である。
 痛毛爲便奈美 イタモスベナミ。イタは、甚大の意の體言。スベは手段、方法。はなはだ手段なくして。
 蘆鶴之 アシタヅノ。タヅは、蘆の中に棲息するを習いとするので、アシタヅという。蘆鴨、蘆蟹の類で、別に一種の鶴があるわけではない。この語によつて、鶴の棲息状態が想像される。この句は、譬喩として次の句を引き出す枕詞になつている。
 哭耳所泣 ネノミシナカユ。既出(卷二、二三〇)。シは強意の助詞。泣かれてしかたがない意の慣用句。句(430)切。
 朝夕四天 アサヨヒニシテ。シテは、ありて、おいての意。朝に夕に泣かれる由である。朝に夕にで、結局、始終の意になる。
【評語】思慕の情を述べている。蘆鶴の譬喩を用いたほかに、特色のない歌である。初二句は、「君に戀ひいたもすべなみ奈良山の小松がもとに立ち嘆くかも」(卷四、五九三)の如き歌があり、類型的な句であつて、通行の歌詞を流用したものであろう。
 
457 遠長く 仕へむものと 念《おも》へりし
 君|坐《いま》さねば、
 心神《こころど》もなし。
 
 遠長《トホナガク》 將v仕物常《ツカヘムモノト》 念有之《オモヘリシ》
 君不v座者《キミイマサネバ》
 心神毛奈思《ココロドモナシ》
 
【譯】永久にお仕えしようと思つていた君がいられないので、精神もないことだ。
【釋】遠長 トホナガク。時間についていうので、長い時間の形容になる。
 將仕物常 ツカヘムモノト。君に奉仕しようものと。
 念有之 オモヘリシ。オモヘリに、助動詞シの接續したもの。作者が思つていたのである。
 君不座者 キミイマサネバ。君は旅人をいう。仕ヘムトワガ思ヘリシ君の意で、君が思つていたのでないことは勿論である。
 心神毛奈思 ココロドモナシ。心神の文字は、「山菅之《ヤマスゲノ》 不v止而公乎《ヤマズテキミヲ》 念可母《オモヘカモ》 吾心神之《ワガココロドノ》 頃者名寸《コノゴロハナキ》」(卷十二、三〇五五)ともあり、いずれも形容詞無しによつて説明されている。これは「伊泥多々武《イデタタム》 知加良乎奈美等《チカラヲナミト》 許母里爲弖《コモリヰテ》 伎彌爾故布流爾《キミニコフルニ》 許己呂度母奈思《ココロドモナシ》」(卷十七、三九七二)、「一眠《ヒトリヌル》 夜算跡《ヨヲカゾヘムト》 雖v思《オモヘドモ》 戀茂二《コヒノシゲキニ》 (431)情利文梨《ココロドモナシ》」(卷十三、三二七五)の例によつて、ココロドと讀まれる。集中、ココロドの語は、以上のほかに、情利、情度、情神等の文字が、これに當てて考えられている。この語は體言であつて、多くはなしの語によつて説明されているが、「比者之《コノゴロノ》 吾情利乃《ワガココロドノ》 生戸裳名寸《イケルトモナキ》」(卷十一、二五二五)、「吾情度乃《ワガココロドノ》 奈具流日毛無《ナグルヒモナシ》」(卷十九、四一七三)の例は、他語をもつて説明している。その語原は不明であるが、情利の文字を使用したものがあり、また、和《な》グの語をもつて説明しているものがあるによれば、トの音に、利《と》しの意を感じて使用しているものもあつたようである。一般には文字通り、心神、情神の意に解すべく、この句としても、情神を失つたとすべきである。
【評語】永久の奉仕の目標とした人を失つた、落膽の心が描かれている。「天地と共に竟《を》へむと思ひつつ仕へ奉りし心違ひぬ」(卷二、一七六)の歌に比して、感激が弱く、表現がたどたどしい。遠く及ばない作である。
 
458 若子《みどりご》の 匍匐徘徊《はひたもとほ》り、
 朝|夕《よひ》に 哭《ね》のみぞわが泣く。
 君なしにして。
 
 若子乃《ミドリゴノ》 匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》
 朝夕《アサヨヒニ》 哭耳曾吾泣《ネノミゾワガナク》
 君無二四天《キミナシニシテ》
 
【譯】幼兒のように這い廻つて、朝晩泣いてばかりいます。君がいないので。
【釋】若子乃 ミドリゴノ。ミドリゴは既出(卷二、二一〇)。幼兒をいう。この句は、次の句のハヒに對して、譬喩による枕詞になつている。
 匍匐多毛登保里 ハヒタモトホリ。既出「十六社者《シシコソハ》 伊波比拝目《イハヒヲロガメ》 鶉己曾《ウヅラコソ》 伊波比廻禮《イハヒモトホレ》 四時自物《シシジモノ》 伊波比拜《イハヒヲロガミ》 鶉成《ウヅラナス》 伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》」(卷三、二三九)の例は、ヲロガムと、ハヒモトホルとが對になつており、このハヒモトホルが、匍匐の禮をいうと解せられる。この歌のハヒタモトホリも、同義なるべく、ハヒは文字通り(432)匍匐、タモトホリは、タは接頭語で、徘徊する意と見られる。旅人の靈前において匍匐跪坐して禮拜を行うことを敍しているのであろう。
 朝夕 アサヨヒニ。朝に夕にで、常にの意になる。
 哭耳曾吾泣 ネノミゾワガナク。泣きに泣いて、他事なしの意。句切。
 君無二四天 キトナシニシテ。君は旅人。旅人なくして。
【評語】旅人死後の状を描いている。表現が露骨なので、餘情に乏しいのは、やむを得ないところである。
 
右五首、資人余明軍、不v勝2犬馬之慕1、心中感緒作歌
 
右の五首は、資人余の明軍が、犬馬の慕《しのひ》に勝《あ》へず、心の中に感緒《かな》しびて作れる歌。
 
【釋】資人 ツカヒビト。高位もしくは顯職にある人に對して、護衛駈使のために朝廷より賜わる者。位について賜うを位分の資人といい、職について賜うを職分の資人という。職分の資人は、太政大臣に三百人、左右大臣に二百人、大納言に一百人で、旅人は大納言としての職分の資人、一百人、從二位としての位分の資人八十人を賜わつたはずである。資人は、六位以下の子および庶人の文武の才に堪えた者を採る。
 余明軍 ヨノマウグニ。既出(卷三、三九四)。ここにも神田本等に余に作り、西本願寺本等に金に作つている。
 不勝犬馬之慕 イヌウマノシノヒニアヘズ。犬馬の慕は、犬馬が主人を慕うの意で、臣從が主人を慕うことを、謙遜していう。文選に「不v勝《ヘ》2犬馬戀(フル)v主(ヲ)之情(ニ)1」(曹子建上2責v躬應v詔詩1表)とある。アヘズは、それに堪えずの意。作者の文をもととして書いた註の文であろう。
 心中感緒 ココロノウチニカナシビテ。感緒は、感情の緒の如く續くをいい、心緒、戀緒、悲緒などと同樣(433)の造字例である。元來體言であろうが、ここには動詞として使用されている。
 
459 見れど飽かず いましし君が、
 黄葉《もみちば》の 移りい行けば、
 悲しくもあるか。
 
 見禮杼不v飽《ミレドアカズ》 伊座之君我《イマシシキミガ》
 黄葉乃《モミチバノ》 移伊去者《ウツリイユケバ》
 悲喪有香《カナシクモアルカ》
 
【譯】見ても飽きることなくおいでになつた君が、黄葉のように移り行つたので、悲しいことです。
【釋】見禮杼不飽 ミレドアカズ。次の句のイマシシを限定する修飾句。集中、事物を讃嘆するに、しばしば用いられる語。
 伊座之君我 イマシシキミガ。イマシシは、動詞イマスに、助動詞シが接續している。
 黄葉乃 モミチバノ。譬喩による枕詞で、ウツリに冠している。
 移伊去者 クツリイユケバ。ウツリは、この世から移り去る意。イは接頭語。死去したことをいう。
 悲喪有香 カナシクモアルカ。下のカは、感動の助詞。悲しくあるなあの意。
【評語】説明的な歌で、感興に乏しい。黄葉を使つたのは、氣が利いているが、時節は七月で、黄葉の時期でなく、突然であり、形式を追つてこれを使用したに過ぎない。儀禮的な作品に過ぎないからであろう。
 
右一首、勅2内禮正縣犬養宿祢人上1、使v檢2護卿病1。而醫藥無v驗、逝水不v留。因v斯悲慟、即作2此歌1。
 
右の一首は、内禮正|縣《あがた》の犬養《いぬかひ》の宿禰《すくね》人上《ひとかみ》に勅して、卿の病を※[手偏+僉]護せしむ。しかも醫藥は驗なく、逝く水は留まらず。これに因りて悲慟《かな》しみてすなはち此の歌を作れり。
 
(434)【釋】内禮正 ウチノヰヤノカミ。中務省の被管なる内禮司の長官。正六位の上相當の官。内禮司は、宮中の禮儀、及び非違を※[手偏+僉]察することを掌る役所。
 縣犬養宿祢人上 アガタノイヌカヒノスクネヒトカミ。傳未詳。
 使檢護卿病 マヘツギミノヤマヒヲケミゴセシム。醫疾令の逸文に、五位以上の病患には、奏上して醫藥を賜う規定がある。これによつて、旅人に對しても、醫藥を賜い、この人をして、その事を檢※[手偏+交]し看護せしめられたのであろう。
 逝水不留 ユクミヅハトドマラズ。水の流れ去つて停止しないことをもつて、人の死をあらわしている。漢籍に出典がある。
 
七年乙亥、大伴坂上郎女、悲2嘆尼理願死去1作歌一首 并2短歌1
 
七年乙亥、大伴の坂上の郎女の、尼理願の死去《みまか》れるを悲しみ嘆きて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】七年乙亥 ナナトセキノトヰノトシ。前に續いて天平七年である。
 尼理願 アマリグワニ。新羅の國から來た尼僧で、この歌の左註に記事のあるほか、その傳は知られない。卷の八に「尼、頭の句を作り、并はせて大伴の宿禰家持の、尼に誂らへらえて末の句等を續ぎて和ふる歌一首」(一六三五)とある尼は、一首の歌を纏め得なかつたことに照らしても、この尼であるかも知れない。
 
460 たくづのの 新羅《しらぎ》の國ゆ
 人言を よしと聞《きこ》して、
 問ひ放《さ》くる 親族《うから》兄弟《はらから》
(435) 無き國に 渡り來まして、
 大皇《おほきみ》の 敷《し》き坐《ま》す國に、
 うち日さす 京《みやこ》しみみに
 里家は 多《さは》にあれども、
 いかさまに 念ひけめかも、
 つれもなき 佐保の山邊に
 哭く兒《こ》なす 慕ひ來まして、
 敷細《しきたへ》の 宅《いへ》をも造り、
 あらたまの 年の緒長く
 住まひつつ 坐ししものを、
 生《うま》るれば 死ぬとふことに
 免《まぬか》れぬ ものにしあれば、
 憑《たの》めりし 人の盡《ことごと》
 草枕 旅なるほどに、
 佐保河を 朝川渡り、
 春日野を 背向《そがひ》に見つつ、
 あしひきの 山邊を指《さ》して、
(436)晩闇《ゆふやみ》と 隱《かく》りましぬれ、
 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに、
 徘徊《たもとほ》り ただひとりして、
 白細《しろたへ》の 衣手|干《ほ》さず
 嘆きつつ わが泣く涙、
 有間山 雲居棚引き
 雨に降《ふ》りきや。
 
 栲角乃《タクヅノノ》 新羅國從《シラギノクニユ》
 人事乎《ヒトゴトヲ》 吉跡所v聞而《ヨシトキコシテ》
 問放流《トヒサクル》 親族兄弟《ウカラハラカラ》
 無國尓《ナキクニニ》 渡來座而《ワタリキマシテ》
 太皇之《オホキミノ》 敷座國尓《シキマスクニニ》
 内日指《ウチヒサス》 京思美彌尓《ミヤコシミミニ》
 里家者《サトイヘハ》 左波尓雖v在《サハニアレドモ》
 何方尓《イカサマニ》 念鷄目鴨《オモヒケメカモ》
 都禮毛奈吉《ツレモナキ》 佐保乃山邊尓《サホノヤマベニ》
 哭兒成《ナクコナス》 慕來座而《シタヒキマシテ》
 布細乃《シキタヘノ》 宅乎毛造《イヘヲモツクリ》
 荒玉乃《アラタマノ》 年緒長久《トシノヲナガク》
 住乍《スマヒツツ》 座之物乎《イマシシモノヲ》
 生者《ウマルレバ》 死云事尓《シヌトフコトニ》
 不v免《マヌカレヌ》 物尓之有者《モノニシアレバ》
 憑有之《タノメリシ》 人乃盡《ヒトノコトゴト》
 草枕《クサマクラ》 客有間尓《タビナルホドニ》
 佐保河乎《サホガハヲ》 朝川渡《アサカハワタリ》
 春日野乎《カスガノヲ》 背向尓見乍《ソガヒニミツツ》
 足氷木乃《アシヒキノ》 山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》
 晩闇跡《ユフヤミト》 隱益去禮《カクリマシヌレ》
 將v言爲便《イハムスベ》 將v須敝不v知尓《セムスベシラニ》
 徘徊《タモトホリ》 直獨而《タダヒトリシテ》
 白細之《シロタヘノ》 衣袖不v干《コロモデホサズ》
 嘆乍《ナゲキツツ》 吾泣涙《ワガナクナミダ》
 有間山《アリマヤマ》 雲居輕引《クモヰタナビキ》
 雨尓零寸八《アメニフリキヤ》
 
【譯】かの新羅の國から、人のいう言をよいとお聞きになつて、相談をする親族兄弟もない國に渡つておいでになつて、天皇の統治する國に、花やかな京いつぱいに、里家はたくさんにあるけれども、何と思つたのであろうか、縁もない佐保の山邊に、泣く兒のように慕つておいでになつて、住みよい家をも作り、年月永く住んでおいでになつたものを、生まれれば死ぬという事に免れないものであるから、頼みにした人がすべて、草の枕の旅であるあいだに、佐保川を朝川渡りし、春日野をうしろに見つつ、山邊をさして、夕方の闇のうちに隱れてしまつたので、言おうにもしようにも途方に暮れて、あちこちまごついて、ただひとりで、白い織物の袖も乾かずに、嘆きながらわたくしの泣く涙で、有間山に雲がたなびき、雨と降つたでしょうか。
【構成】全篇一文で段落はない。曉闇ト隱リマシヌレまでは、尼の經歴から死までを敍し、それを前提として、以下作者自身の悲嘆を敍している。
【釋】拷角乃 タクヅノノ。枕詞、新羅に冠する。タクはコウゾ。ツノは綱。タクヅノは、コウゾの繊維の綱で、白いので、シラに懸かる。本集に「多久頭努能《タクヅノノ》 之良比氣乃宇倍由《シラヒゲノウヘユ》」(卷二十、四四〇八)、古事記上卷に(437)「多久豆怒能《タクヅノノ》 斯路岐多陀牟岐《シロキタダムキ》」(四)とある。なお、栲衾、栲領巾ノの枕詞もあつて、いずれも白に懸かつている。
 新羅國從 シラギノクニユ。朝鮮半島においては、近江朝時代頃に、新羅の勢力が強大となり、これを統一した。その國からの意で、下の渡リ來マシテに接續する。
 人事乎吉跡所聞而 ヒトゴトヲヨシトキコシテ。ヒトゴトは、人のいう言。キコシテは、聞きての敬語法。聞クの敬語は、原形はキカスで、轉じてキコスとなつた。キカスは古事記にあるが、本集には、假字書きの例は、すべてキコスである。日本の國は佛法崇信の國で、僧尼を優遇しているというような人の言をよしと聞いたのであろう。
 問放流 トヒサクル。見サク、語リサクなどと同樣の語構成で、問いやるの意である。本集に「石木乎母《イハキヲモ》 刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》」(卷五、七九四)、續日本紀に「朕大臣《アガオホオミ》、誰爾加毛《タレニカモ》、我語佐氣《アガカタラヒサケム》、孰爾加毛《タレニカモ》、我問佐氣牟止《アガトヒサケムト》」とある。これを、言問して憂いを放ちやる意とするのは、無理である。
 親族兄弟 ウカラハラカラ。親族と兄弟とで、すべて一族關係にある人をいう。
 大皇之 オホキミノ。大皇は、天皇に同じ。
 敷座國尓 シキマスクニニ。シキは、平面を占有するにいう動詞。マスは、イマスに同じ。敬語の助動詞。
 内日指 ウチヒサス。假字書きの例には、宇知比左須、宇知比左受、宇知日佐須などある。枕詞。宮、京などに冠する。ヒは日輪、サスは射すの義と解せられるが、ウチについては、本集の字面に見るも、打、撃の字と、内の字との兩系統がある。打、撃の義とすれは、打日ということは意義をなさず、またヒサスに接頭語として附著したとするも異樣の語法である。そうかといつて、内日の義とするも落ちつかない。ウチハヤシなどのウチと同語で、ウチヒは、威力ある日輪の義か。さてその日の光のさす義で、天皇の稜威のかがやく意に、(438)宮、京を修飾するのであろう。中については、宮に懸かるのを本義とし、轉じて京にも懸かるに至つたと見るぺく、その花やかに榮えている有樣を稱えた句と考えられる。
 京思美弥尓 ミヤコシミミニ。シミミは、繁茂の意の體言シミを重ねた語で、シミミニは、いつぱいにある意の形容。
 里家者左波尓雖在 サトイヘハサハニアレドモ。里は、五十戸を一里とするが、ここは屋戸の多數の意に使用している。サハニアレドモは、慣用句で、多數の中から特に一を抽出する場合の條件前提として愛用されている。
 何方尓念鷄目鴨 イカサマニオモヒケメカモ。カモは疑問の係助詞。尼理願が、何と思つたことかと推量している。この係りは、泣ク兒ナス慕ヒ來マシテに懸かつているが、獨立句としての性質が多くなつている。
 都禮毛奈吉 ツレモナキ。既出(卷二、一六七)。由縁、縁故もないの意。
 佐保乃山邊尓 サホノヤマベニ。佐保は、平城の京東方の地名。大伴氏の邸宅が、その地にあつたことは、他の歌にも見えている。大伴の安麻呂を佐保の大納言というよりすれば、當時から此處におつたものと見える。
 哭兒成 ナクコナス。枕詞。泣く兒のように。
 慕來座而 シタヒキマシテ。マシは、敬語の助動詞。
 布細乃 シキタヘノ。既出(卷一、七二)。枕詞。袖、枕等に冠する。ここでは宅に冠している。シキタヘは、柔かい布なので、馴れ親しまれる家の義で、修飾するのであろう。「柔備爾之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲハナチ》」(卷一、七九)と同樣のあらわし方である。
 宅乎毛造 イヘヲモツクリ。大伴氏の邸内に、この尼の住む家を作つたのである。
 荒玉乃 アラタマノ。枕詞。年に冠する。
(439) 年緒長久 トシノヲナガク。ヲは、長く續く性質のものにいう語。玉ノ緒、氣ノ緒などいう。年は、續くものであるから、年の緒という。左註に、この尼が來てから、既に數紀を經たりとあり、數十年を經過したことと思われる。
 住乍座之物乎 スマヒツツイマシシモノヲ。モノヲは、何々である、しかるにの語氣がある。切れないで、敍述の進行をする。
 生者死云事尓 ウマルレバシヌトフコトニ。生者必滅の理法によつて歌つている。「生者《ウマルレバ》 逐毛死《ツヒニモシヌル》」(卷三、三四九)參照。
 不免物尓之有者 マヌカレヌモノニシアレバ。人としてその理法に免れ得ぬものだから。
 憑有之人乃盡 タノメリシヒトノコトゴト。尼の頼つていた人の全部。坂上の郎女の母なる大伴の大家などをいう。
 客有間尓 タビナルホドニ。タビニアルマニ(西)、タビナルマニ(考)、タビナルホドニ(略)。有間の温泉に行つていたあいだのことである。
 佐保河乎朝河渡 サホガハヲアサカハワタリ。佐保の地内を流れる佐保川を、朝に川渡りして。以下、葬儀の敍述である。朝、佐保川を渡つて、春日の山邊に赴いたのである。
 春日野乎背向尓見乍 カスガノヲソガヒニミツツ。春日野を背後に見なして、山邊の方に赴くのである。ソガヒニミツツは既出(卷三、三五七)。
 足氷木乃 アシヒキノ。枕詞、山に冠する。
 山邊乎指而 ヤマベヲサシテ。何處に葬つたか不明であるが、東方の山邊に向かつたらしい。
 晩闇跡 ユフヤミト。ユフヤミは、月のない夕方をいう。トは、と共にの意。朝、佐保川を渡つて、山邊に(440_)至つて、夕方になつて火葬したので、この句があるものと考えられる。晩闇の如くとする解は、無理であろう。
 隱益去禮 カクリマシヌレ。カクリは、この世から隱れ去る意。ヌレは、已然條件法で、ヌレバと、バを補つて解すべきである。句切ではない。
 將言爲便將爲須敝不知尓 イハムスベセムスベシラニ。既出(卷二、二〇七)。慣用句で、言うべき手段もなすべき手段も知らず。何ともしかたがなくして、途方に暮れての意。
 徘徊 タモトホリ。葬儀のために徘徊奔走するをいう。
 直獨而 タダヒトリシテ。一家中のおもなものは、旅行して、坂上の郎女ただひとり、事に當つたのをいう。
 白細之衣袖不干 シロタヘノコロモデホサズ。シロタヘノコロモは、實際の描寫と考えられる。高市の皇子の薨去に際して、舍人等が白栲の麻衣を著た(卷二、一九九)によれば、尼の死去に際して、特に白い衣を著たのであろう。ホサズは、下の嘆キツツワガ泣クに懸かる。涙に濡れたのを乾さずの意。
 嘆乍吾泣涙 ナゲキツツワガナクナミダ。ナゲキは、長歎息する意の動詞。歎息をしつつ泣く涙である。
 有間山 アリマヤマ。神戸市の有間温泉地の山。母の石川の大家等が、有間の温泉に行つたので、その地の山を出している。
 雲居輕引 クモヰタナビキ。クモヰは雲に同じ。ヰは接尾語。輕引は、「春霞《ハルガスミ》 輕引時二《タナビクトキニ》 事之通者《コトノカヨヘバ》」(卷四、七八九)以下數出している。この字面は、漢籍から來ているものであろう。雲は輕くたなびくものであるから使用されると思われる。涙が、雲と棚引いての意。
 雨尓零寸八 アメニフリキヤ。雨として降りしかという意で、ヤは疑問の助詞。
【評語】長篇であるが、敍事が冗長で生氣がなく、感激に乏しい。わずかに部分的に、女の歌らしいこまかな點があり、それが親しさを示している。例えば、問ヒサクル親族兄弟無キ國とか、泣ク兒ナス慕ヒ來マシテと(441)かいう句には、それが感じられる。葬儀の描寫もよい。最後の、わが涙が有間山に雲とたなびいて雨として降つたかという構想もよい。これがあつて、さすがに終りがよくなつている。生マルレバ死ヌトイフコトニの一節は、尼の死ではあるが、理くつつぽくて無い方がよくなる。とにかく婦人としてこれだけの大作をまとめた力量は、認められねばならない。また當時の世相を語るものとしては、歸化尼僧の一生を傳え、その方面に相當に意義がある。
 
反歌
 
461 留め得ぬ 壽《いのち》にしあれば、
 しきたへ の 家ゆは出でて
 雲隱りにき。
 
 留不v得《トドメエヌ》 壽尓之在者《イノチニシアレバ》
 敷細乃《シキタヘノ》 家從者出而《イヘユハイデテ》
 雲隱去寸《クモガクリニキ》
 
【譯】留めることの出來ない壽命ですから、住み馴れた家から出て天に登りました。
【釋】留不得 トドメエヌ。引き留めることの出來ない意で、次句の壽を修飾する。
 壽尓之在者 イノチニシアレバ。シは強意の助詞。既定の事實として説明している。
 敷細乃 シキタヘノ。枕詞。長歌の、シキタヘノ家ヲモ作りの句を受けている。なごやかな住みよい意に、家に冠している。
 家從者出而 イヘユハイデテ。家から出て。葬儀の家から出たことをいう。
 雲隱去寸 クモガクリニキ。人の死するを雲ガクルという。天上の雲に隱れる意で、既に前に出た。
【評語】初二句は、やはり理くつが出ている。三四句は、長歌を受けているが、枕詞を使つて馴れ住んだ家を(442)描いている。なおこの歌のみのことではないが、死人を人が葬るといわないで、死者がみずからこの世を去るというふうに歌つている。これは神靈の存在を信じた當時の思想から出ており、表現としても事務的でなくてよい。本人が、みずから住み馴れた家を出て行く。そういう感じを與えるのであつて、そこに抗し得ない運命が描かれ、靈に對する敬意も感じられる。
 
右、新羅國尼、名曰2理願1也。遠感2王徳1、歸2化聖朝1。於v時寄2住大納言大將軍大伴卿家1、既逕2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1、忽沈2運病1、既趣2泉界1。於v是大家石川命婦、依2餌藥事1、往2有間温泉1、而不v會2此喪1。但郎女獨留、葬2送屍柩1既訖。仍作2此歌1贈2入温泉1。
 
右は、新羅の國の尼、名を理願といへり。遠く王徳に感けて聖朝に歸化《まゐ》けり。時に大納言大將軍大伴の卿の家に寄住し、既に數紀を經たり。ここに天平七年乙亥をもちて、急に運病に沈み、はやく泉の界に赴く。ここに大家石川の命婦、餌藥の事によりて有間の温泉に往きて、喪に會はず、ただ郎女ひとり留まりて屍柩を葬り送ること既に訖りぬ。よりてこの歌を作りて温泉に贈り入れき。
 
【釋】遠感王徳 トホクオホキミノミウツクシビニカマケテ。新羅の國にあつて、遙かにわが天皇の御徳に感じて。
 歸化聖朝 ミカドニマヰケリ。歸化は、徳化に歸服してその國の人となるをいう。
 大納言大將軍大伴卿家 オホキモノマヲシノツカサ、オホキイクサノキミ、オホトモノマヘツギミノイヘ。大伴安麻呂の家。安麻呂は、和銅七年五月に薨じているから、その前から來ていたのであろう。
 既逕數紀焉 スデニアマタノトシヲヘタリ。逕は經に同じ。數紀は、十二年を一紀とするので、數十年の意(443)である。
 運病 ヤマヒ。連命を決する病の義か。
 泉界 ヨミノサカヒ。泉は黄泉、界は、その境界。死者の行く世界。
 大家 オホトジ。婦人の尊稱。タイコと讀むのは、中世の讀みくせだろう。
 石川命婦 イシカハノヒメトネ。婦人で、五位以上を帶びる者を内命婦といい、五位以上の者の妻を外命婦という。卷の四、大伴坂上の郎女の歌二首(六六六、六六七)の左註に「大伴(ノ)坂上(ノ)郎女之母石川(ノ)内命婦」とあり、坂上の郎女の母で、内命婦であつた石川氏の婦人であつたことが知られる。
 依餌藥事 ニヤクノコトニヨリテ。餌藥は、藥を服すること。病氣療養の爲に。
 有間温泉 アリマノユ。神戸市兵庫區有馬の地の温泉。古くから知られて、舒明天皇などの行幸もあつた。
 贈入温泉 ユニオクリイレキ。温泉に在る母のもとに贈つたの意。
 
十一年己卯夏六月、大伴宿祢家持、悲2傷亡妾1作歌一首
 
十一年己卯の夏六月、大伴の宿禰家持の、亡《す》ぎにし妾《をみなめ》を悲傷《かな》しみて作れる歌一首。
 
【釋】十一年己卯夏六月 トヲマリヒトトセツチノトウノナツミナツキ。前に續いて天平十一年である。
 亡妻 スギニシヲミナメ。妾は、傍妻をいう。倭名類聚鈔に「和名、乎無奈女《ヲムナメ》」とある。ここに死んだというその人は、どういう人とも知られないが、四六七の歌によれは、子を生んだことが知られる。
 
462 今よりは 秋風寒く 吹きなむを
 いかにかひとり 長き夜《よ》を宿《ね》む。
 
 從v今者《イマヨリハ》 秋風寒《アキカゼサムク》 將v吹焉《フキナムヲ》
 如何獨《イカニカヒトリ》 長夜乎將v宿《ナガキヨヲネム》
 
(444)【譯】今からは秋風が寒く吹くだろうが、どのようにしてわたしはひとりで、この長い夜を寐よう。
【釋】從今者 イマヨリハ。妾の死んだのが六月で、すぐ七月から秋に入るから、今からはといつている。
 將吹焉 フキナムヲ。焉は、ヲの假字に使つている。吹くだろう、然るにの意。
 如何獨 イカニカヒトリ。次の書特の歌によるに、以下家持自身の上を歌つている。よつてこのヒトリも、作者目身のことである。共に寐る人もなくて寂しいとの意である。
 長夜乎將宿 ナガキヨヲネム。秋の夜は長いのを、半夜に夢さめて寂しいだろうの意である。
【評語】平凡な表現であるが、さすがにさびしい氣もちは歌われている。三句までの思想は、類型的であり、文雅ふうな考え方であるが、この歌では、相當に有效に響いている。
 
弟大伴宿祢書持、即和歌一首
 
【釋】弟大伴宿称書持 オトトオホトモノスクネフミモチ。家持の弟であるから、旅人の子に當る。天平十八年九月二十五日に、家持は、この人の死を、越中において聞いて歌を詠んでいるからその月の十日前後に死んだのだろう。性質として、花樹花草を好んで、多く前庭にこれを植えたよしが、その歌に見えている。歌はうまくないが、愛好していたようである。
 
463 長き夜《よ》を ひとりや宿《ね》むと
 君がいへば、
 過ぎにし人の 念ほゆらくに。
 
 長夜乎《ナガキヨヲ》 獨哉將v宿跡《ヒトリヤネムト》
 君之云者《キミガイヘバ》
 過去人之《スギニシヒトノ》 所v念久尓《オモホユラクニ》
 
【譯】長い夜を、ひとりでか寐ようとあなたがいうので、亡くなつた人が思われることです。
(445)【釋】長夜乎獨哉將宿跡 ナガキヨヲヒトリヤネムト。家持の歌の、イカニカヒトリ長キ夜ヲ寐ムの句によつて詠んでいる。但しすこし語を變えて、ひとりでか寐ようとしている。
 君之云者 キミガイヘバ。君は家持をさす。
 過去人之 スギニシヒトノ。スギニシは死んでこの世を過ぎ去つたの意。
 所念久尓 オモホユヲクニ。思われることよの意。
【評語】格別の事はなく、すなおな歌である。書特の作は、多くたどたどしさがあるが、これにはそういう弊はない。すなおなだけに、無事な作というべきである。
 
又家持、見2砌上瞿麥花1作歌一首
 
また家持の、砌の上の瞿麥の花を見て作れる歌一首。
 
【釋】又 マタ。上の亡妾を悲傷して作れる歌を受けて、同じ事情のもとに詠まれた歌であることを示している。
 砌上瞿麥花 ミギリノウヘノナデシコノハナヲ。砌は、階甃の義の字で、軒下に敷く石だたみである。倭名類聚鈔に「兼名苑(ニ)云(フ)、砌、千計(ノ)切、訓|美岐利《ミギリ》、階(ノ)砌也」とある。階前の砌のほとりの瞿麥花である。瞿麥はナデシコ。今のカワラナデシコである。
 
464 秋さらば 見つつ思《しの》へと
 妹が植ゑし
 屋前《には》の 石竹《なでしこ》 咲きにけるかも。
 
 秋去者《アキサラバ》 見乍思跡《ミツツシノヘト》
 妹之殖之《イモガウヱシ》
 屋前乃石竹《ニハノナデシコ》 開家流香聞《サキニケルカモ》
 
(446)【譯】秋になつたら、見て愛玩してくださいと、かの女の植えた庭前の瞿麥は、咲いたことだ。
【釋】秋去者 アキサラバ。秋になつたならば。
 見乍思跡 ミツツシノヘト。シノヘは、賞美せよ、愛賞せよの意に使つている。トは、秋さらばからシノヘまでを、受けている。
 妹之殖之 イモガウヱシ。妹は、亡妾をさす。
 屋前乃石竹 ニハノナデシコ。屋前は既出(卷三、四一〇)。石竹は既出(卷三、四〇八)。庭前の瞿麥である。
 開家流香聞 サキニケルカモ。花の咲いたことを感歎している。
【評語】淡々たる敍述であるが、悲歎の語が露出していないので、趣がある。題材を亡き人の追憶に取つているのは、自然である。
 
移v朔而後、悲2嘆秋風1、家持作歌一首
 
朔《つき》移りて後に、秋風に悲嘆《かな》しみて家持の作れる歌。
 
【釋】移朔而後 ツキウツリテノチニ。朔は月初で、それを移すとは、翌月になるをいう。六月に妾を亡い、七月にはいつて詠んだ歌である。
 
465 うつせみの 代は常なしと
 知るものを、
 秋風寒み 思《しの》ひつるかも。
 
 虚蝉之《ウツセミノ》 代者無v常跡《ヨハツネナシト》
 知物乎《シルモノヲ》
 秋風寒《アキカゼサムミ》 思努妣都流可聞《シノヒツルカモ》
 
(447)【譯】現實のこの世は無常だとは知つているが、しかし秋の風が寒いので、亡き人を思つたことだ。
【釋】虚蝉之 ウツセミノ。枕詞。ここでは世に冠している。世に對する説明をしている枕詞である。
 代者無常跡 ヨハツネナシト。佛説にいう無常觀によつている。
 知物乎 シルモノヲ。知つているがしかしの意。
 秋風寒 アキカゼサムミ。秋風が寒くして。
 思努妣都流可聞 シノヒツルカモ。シノヒは、思慕の意に使用されている。その人を思つて、その美點を思う意に、賞美する意と共通するものがあるのであろう。妣は、濁音の字であるが、通用したのであろう。
【評語】道理においては知つているが、感情はそれに伴なわないことを歌つている。理くつの出ている點があきたらない。平凡な作である。
 
又家持作歌一首 并2短歌1
 
466 わが庭前《には》に 花ぞ咲きたる。
 そを見れど 情《こころ》も行かず。」
 愛《は》しきやし 妹がありせば、
 み鴨なす 二人雙《なら》び居
 手折《たを》りても 見せましものを、
 うつせみの 借れる身なれば、
 露霜《つゆじも》の 消《け》ぬるが如く
(448)あしひきの 山道《やまぢ》を指して、
 入日なす 隱りにしかば、
 其《そこ》思ふに 胸こそ痛き。」
 言ひもかね 名づけも知らに、
 跡もなき 世間《よのなか》にあれば、
 爲《せ》むすべもなし。」
 
 吾屋前尓《ワガニハニ》 花曾咲有《ハナゾサキタル》
 其乎見杼《ソヲミレド》 情毛不v行《ココロモユカズ》
 愛八師《ハシキヤシ》 妹之有世婆《イモガアリセバ》
 水鴨成《ミカモナス》 二人雙居《フタリナラビヰ》
 手折而毛《タヲリテモ》 令v見麻思物乎《ミセマシモノヲ》
 打蝉乃《ウツセミノ》 借有身在者《カレルミナレバ》
 露霜乃《ツユジモノ》 消去之如久《ケヌルガゴトク》
 足日木乃《アシヒキノ》 山道乎指而《ヤマヂヲサシテ》
 入日成《イリヒナス》 隱去可婆《カクリニシカバ》
 曾許念尓《ソコモフニ》 ※[匈/月]己所痛《ムネコソイタメ》
 言毛不v得《イヒモカネ》 名付毛不v知《ナヅケモシラニ》
 跡無《アトモナキ》 世間尓有者《ヨノナカニアレバ》
 將v爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》
 
【譯】わたしの庭前に花が咲いた。それを見ても滿足しない。愛すべきかの女が居つたなら、鴨のように二人竝んでいて、手折つても見せたろうものを、借りている身體だから、露霜の消えたように、山道をさして入日のように隱れてしまつたから、それを思うと胸が痛い。言うことも出來ず、名づけることも知らず、跡もない世間のこととて、爲すべき方がない。
【構成】三段になつている。情モ行カズまで第一段、花を見ても慰まないことを敍している。ソコ思フニ胸コソ痛キまで第二段、死を悼んでいる。以下第三段、この世の常法として致し方なしの意を述べている。
【釋】吾庭前尓花曾咲有 ワガニハニハナゾサキタル。秋になつてナデシコなどの草花の咲いたことを敍している。句切。
 其乎見杼情毛不行 ソヲミレドココロモユカズ。その花を見れども心も慰まない由である。ユカズは、心ののびのびとならないのをいい、慰まない、滿足しないことを述べている。以上第一段。
 愛八師 ハシキヤシ。既出(卷三、四五四)。ここでは直接妹を修飾している。愛すべきの意。
 妹之有世婆 イモガアリセバ。妹は亡妻をいう。その人が死なずして、ここにありせばの意。
(449) 水鴨成 ミカモナス。ミカモは、文字通り水に居る鴨。ナスは、の如くの意。鴨は常に雌雄伴なつているので、二人雙ビ居の枕詞となつている。
 二人雙居 フタリナラビヰ。妹と自分と二人竝んでいてである。
 手折而毛令見麻思物乎 タヲリテモミセマシモノヲ。咲いた花を折つても見せたろうものを。マシモノヲは、そうもしたろうものを、しかるにの意。
 打蝉乃 ウツセミノ。枕詞として借れる身を説明している。枕詞でないとする説もあるが、元來この語は、本來の語義を失つて使用されているので、慣用句と見るべく、從つて語義は、直接に感じていないと解すべきである。
 借有身在者 カレルミナレバ。この肉身は虚假であつて、眞實の體にあらずとする佛説によつている。假の身であつて、永久性のないものとしている。
 露霜乃消去之如久 ツユジモノケヌルガゴトク。譬喩の句で、露霜の消えゆくが如くの意である、露霜は消えやすいものであるから、譬喩に使つている。
 山道乎指而 ヤマヂヲサシテ。亡き人の葬儀が、山道をさして行つたことを敍している。
 入日成 イリヒナス。入日のようにの意で、枕詞になつている。
 隱去可婆 カクリニシカバ。山道に隱れ去つたからで、死去し葬送したことをいう。
 曾許念尓 ソコモフニ。上の葬送を受けてソコと指示している。ソコは、ソレに同じ。
 ※[匈/月]己所痛 ムネコソイタキ。胸が痛い。悲痛おく方なき敍述である。「安我牟禰伊多之《アガムネイタシ》 古非能之氣吉爾《コヒノシゲキニ》」(卷十五、三七六七)などの例がある。形容詞は、古くはコソを受けて、キの形で結んでいた。「野乎比呂美《ノヲヒロミ》 久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》」(卷十七、四〇一一)の類である。以上第二段、妾を失つたことを述べている。
(450) 言毛不得名付毛不知 イヒモカネナヅケモシラニ。富士山の歌(卷三、三一九)に見えている句。この句は、ここには適しているとも思われない。先行の歌の成句を取つて用いたためであろう。言うこともできず、名づけることも知らずの意で、次の跡モナキ世間ニアレバを修飾している。
 跡無世間尓有者 アトモナキヨノナカニアレバ。何も殘らない世間だからの意。無常觀から出ている。
 將爲須辨毛奈思 セムスベモナシ。なすべき手段もなしの意。しばしば出ている熟語句。
【評語】初めの、花の咲いたことから敍した起りはよい。それから愛惜に入るのも順序だが、第三段に入つて、概念的に事を敍して行つたのが失敗になつている。先行の歌の成句を多く使用したのも、歌が浮薄になり、弱くなつている原因である。
 
反歌
 
467 時はしも いつもあらむを、
 こころ哀《いた》く いゆく吾味《わぎも》か。
 若子《みどりご》を置きて。
 
 時者霜《トキハシモ》 何時毛將v有乎《イツモアラムヲ》
 情哀《ココロイタク》 伊去吾妹可《イユクワギモカ》
 若子乎置而《ミドリゴヲオキテ》
 
【譯】死ぬ時はいくらもあろうのに、悲しくも死んで行くお前だな、若い子を置いて。
 
【釋】時者霜 トキハシモ。シモは強意のために添えた助詞。
 何時毛將有乎 イツモアラムヲ。何時の時でもあろう、しかるにの意。死ぬべき時は、他にもあろうものをである。
 情哀 ココロイタク。長歌の、胸コソ痛キの意に同じく、ただそれを副詞句の形にしている。心痛きことに(451)も去つたの意である。
 伊去吾妹可 イユクワギモカ。吾妹は、その人に對していう語であるが、ここには第三者に使つている。親愛の情の汲まれる語である。カは感動の助詞。
 若子乎置而 ミドリゴヲオキテ。ワカキコヲオキテ(類)、ミドリゴヲオキテ(西)、ワクゴヲオキテ(玉)。上のイ行ク吾妹カの句を修飾している。この人は子を生んで、それがまだ幼かつたのである。
【評語】時もあろうのにという氣もちは、意外な事に接して常に起る所である。死ぬべき時というもないはずであるが、若くして死んだ人に對しては、かような心が感じられる。「出でて行かむ時しはあらむをことさらに妻戀しつつ立ちて行くべしや」(卷四、五八五)の歌は、大伴の坂上の郎女の歌であるが、多分大伴の家持に與えた歌らしい。それを受けているかどうかわからないし、また事情も相違するが、共通したところはある。「何しかも時しはあらむを」(卷十七、三九五七、卷十九、四二一四)というのも、同じく人の死に際して、意外の時にの意をあらわしている句である。この歌、若子を出したのが特に目に立つ。しかし家持は、實際に幼兒を抱えて困る身分でなかつたので、あまりその方の描寫がないのであろう。
 
468 出でて行く 道知らませば、
 あらかじめ
 妹を留めむ 關も置かましを。
 
 出行《イデテユク》 道知未世波《ミチシラマセバ》
 豫《アラカジメ》
 妹乎將v留《イモヲトドメム》 塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》
 
【譯】出て行く道を知つていたならば、前からかの女を留める關も置いたろうものを。
【釋】出行道知末世波 イデヲユクミチシラマセバ。かの女子の、この家を出て行く道を知つておつたら。イデテユクは、死に赴くことを、その人の出て行くという形であらわしている。マセバは、助動詞マシの未然條(452)件法で、知つていたかつたが、事實知らなかつたと、不可能であつたことを希望する。
 豫 アラカジメ。前からかねての意の副詞。假字書きの例はない。類聚名義抄には、預にアラカジメの訓がある。この語義は、アラクハジメで、あることの始めの意であろう。
 妹乎將留 イモヲトドメム。その人を留むべきの意で、連體形の句。
 塞毛置末思乎 セキモオカマシヲ。セキは、關所で、道行く人を塞き留める所である。當時は道路の要衝に關を置いて、通行人を※[手偏+僉]察し、手形のなき者の通行を禁止した。
【評語】 マセバの前提のもとに、マシヲと結ぶ形は、類型的な表現法で、卷の一、六九以下例が多い。すべて假設していう言い方である。それゆえに悔いる意の表現に適している。これもそれが用いられている。關を置いて大切なものを留めようという思想は、「ぬばたまの夜渡る月を留めむに西の山邊に關もあらぬかも」(卷七、一〇七七)の歌があり、これは月を留めたいと言つている。「燒大刀を利波《となみ》の關に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ」(卷十八、四〇八五)の歌は、同じく家持の作で、僧の平榮の京に上るを惜しんでいる。
 
469 妹が見し 屋前《には》に花咲き
 時は經《へ》ぬ。
 わが泣く涙 いまだ干なくに。
 
 妹之見師《イモガミシ》 屋前尓花咲《ニハニハナサキ》
 時者經去《トキハヘヌ》
 吾泣涙《ワガナクナミダ》 未v干尓《イマダヒナクニ》
 
【譯】かの女の見た庭前に花が咲いて、時はたつた。わたしの泣く涙はまだ乾かないことだ。
【釋】妹之見師屋前尓花咲 イモガミシニハニハナサキ。その女子の生前に見た庭上には、秋が來て花が咲いた。次の句の時は經ぬに對する修蝕句で、別状はない。
 時者經去 トキハヘヌ。死んだのは六月であつたが、既に月も變わつた。句切。
(453) 吾泣涙 ワガナクナミダ。これも別状のない句である。
 未干尓 イマダヒナクニ。ナクはヌコトの意。ニは助詞。
【評語】花は咲いて時は經過したけれども、涙はまだ乾かない。この庭上も、亡き人のかつて見し處かと思えば、また新たなる愁いに鎖される。忘れがたい悲哀が描かれている。反歌第三首、ここに至つて長歌の最初の句を受けて結んでいる。さすがにその構成には見るべきものがある。
 
悲緒未v息、更作歌五首
 
悲緒いまだ息まず、更に作れる歌五首。
 
【釋】悲緒未息 カナシミイマダヤマズ。悲緒は、感緒、戀緒などと同じく、悲哀の緒の如く續くをいう。
 更作歌 サラニツクレルウタ。前出のものに加えて、更に作つた歌である。
 
470 かくのみに ありけるものを、
 妹もわれも
 千歳の如く 憑《たの》みたりける。
 
 如v是耳《カクノミニ》 有家留物乎《アリケルモノヲ》
 妹毛吾毛《イモモワレモ》
 如2千歳1《チトセノゴトク》 憑有來《タノミタリケル》
 
【譯】こんな事であつたものを、かの女もわたしも千年も生きられるように頼みに思つたことだつた。
【釋】如是耳有家留物乎 カクノミニアルケルモノヲ。既出(卷三、四五五)。妾の死んだことをかくのみと言つている。こんな事だつたのに、しかるにの意。
 如千歳 チトセノゴトク。千年も生きられるかのように。永い年月をかけての意。
 憑有來 タノミタリケル。頼みに思つていたことだつた。信頼しておつた。ゾ、ヤ、カの如き特殊の係助詞(454)なくして、連體形で結ぶことは、極めて稀であるが、「宇良賣之久《ウラメシク》 伎美波母安流加《キミハモアルカ》 夜度乃烏梅能《ヤドノウメノ》 知利須具流麻※[泥/土]《チリスグルマデ》 美之米受安利家流《ミシメズアリケル》」(卷二十、四四九六)の如き例が、なくもない。これは、見しめずありけることよ
の意になる。今ここもこれに倣つて、タノミタリケルと讀んでいる。
【評語】千歳の契りも、結局はかなかつたことを敍している。これも平語で格別の事はない。
 
471 家|離《さか》り 坐《いま》す吾妹《わぎも》を 停《とど》めかね、
 山隱しつれ、 情神《こころど》もなし。
 
 離v家《イヘサカリ》 伊麻須吾味乎《イマスワギモヲ》 停不得《トドメカネ》
 山隱都禮《ヤマガクシツレ》 情神毛奈思《ココロドモナシ》
 
【譯】家を離れて亡くなつたかの女を停め得ないで、埋葬したので、しつかりした心もなくなつた。
【釋】離家伊麻須吾妹乎 イヘサカリイマスワギモヲ。家を離れていますで、死して葬儀するをいう。ワギモは、亡き妾をいうこと前に同じ。
 停不得 トドメカネ。トドメカネ(類)、トドミカネ(玉)。動詞留ムは、普通下二段活で、本集にもその例證があるが、一方トドミカネの形もある。「等伎能佐迦利乎《トキノサカリヲ》 等々尾迦禰《トドミカネ》 周具斯野利都禮《スグシヤリツレ》」(卷五、八〇四)、「由久布禰遠《ユクフネヲ》 布利等騰尾加禰《フリトドミカネ》」(同、八七五)などこれである。これはトドミの形のみ殘つているが、古くは四段活であつたものの如くである。意は留め得ずしてに同じ。
 山隱都禮 ヤマガクシツレ。ヤマガクスは、山邊に送葬したことをいう。上に吾妹をとあるので、山隱シツレと讀む。ツレは、ツレバの意の已然條件法である。この語法は、長歌には多く見られるが、短歌の例は、これのみである。句切ではない。
 情神毛奈思 ココロドモナシ。既出(卷三、四五七)の心神モナシに同じ。
【評語】留め得なかつた痛惜が、十分に表出されていない憾みがある。やはり情神モナシと言つたような類型(455)的なあらわし方が難をなしている。
 
472 世間《よのなか》し 常《つね》かくのみと かつ知れど、
 痛き情《こころ》は 忍《しの》びかねつも。
 
 世間之《ヨノナカシ》 常如v此耳跡《ツネカクノミト》 可都知跡《カツシレド》
 痛情者《イタキコロハ》 不v忍都毛《シノビカネツモ》
 
【譯】世間の通例は、かような事だと、一方では知つているが、悲しい心は堪えられないことだ。
【釋】世間之 ヨノナカシ。ヨノナカノ(類)、ヨノナカシ(略)。シは強意の助詞。世間を強く指定している。
 常如此耳跡 ツネカクノミト。ツネは、通常、通例の意。世の中は、通例かくの如しとの意。カクは、妾の死んだことをいう。
 可都知跡 カツシレド。カツは、一方では、一面では。傍の意。「秋風之《アキカゼノ》 寒比日《サムキコノゴロ》 下爾將v服《シタニキム》 妹之形見跡《イモガカタミト》 可都毛思努播武《カツモシノハム》(卷八、一六二六)の如く使用されている。
 痛情者 イタキココロハ。イタキは、心の打撃を受けた状態。悲痛の心はの意。
 不忍都毛 シノビカネツモ。シノビは、忍耐の意。不忍は、義によつて、シノビカネと讀む。得の字を略した書き方である。
【評語】概念的な物の言い方をしている。女々しい歌である。「うつせみの世は常無しと知るものを」(四六五)の歌の内容を、別の方面から敍したような歌である。
 
473 佐保山に 棚引く霞 見るごとに、
 妹を思ひ出《で》 泣かぬ日は無し。
 
 佐保山尓《サホヤマニ》 多奈引霞《タナビクカスミ》 毎v見《ミルゴトニ》
 妹乎思出《イモヲオモヒデ》 不v泣日者無《ナカヌヒハナシ》
 
【譯】佐保山にたなびいている霞を見る毎に、かの女を思い出して泣かない日はない。
(456)【釋】佐保山尓多奈引霞 サホヤマニタナビクカスミ。次の歌によれば、佐保山は、その女人の墓所のある山。家持の家は佐保にあつて、その眺められる位置にあつたのであろう。この霞は、秋にして詠んでいる。
 妹乎思出 イモヲオモヒデ。亡き人を思い出して。
 不泣日者無 ナカヌヒハナシ。毎日泣いている由である。
【評語】その山の霞を詠んでいるのは、具體的でよい。三句以下は、平語であつて、興趣が少ない。
 
474 昔こそ 外《よそ》にも見しか。
 吾妹子が 奧津城《おくつき》と念へば、
 愛《は》しき佐保山。
 
 昔許曾《ムカシコソ》 外尓毛見之加《ヨソニモミシカ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 奧槨常念者《オクツキトオモヘバ》
 波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》
 
【譯】以前はよそにも見ていた。今はかの女の墓所と思えば、愛すべき佐保山である。
【釋】昔許曾 ムカシコソ。このムカシは、自分の經歴の上にいう。以前というほどの意である。
 外尓毛見之加 ヨソニモミシカ。自分に何のかかわりもないものに見ていた。シカは、時の助動詞キの已然形。コソに對して結となつている。
 奥槨常念者 オクツキトオモヘバ。オクツキは、墳墓をいう。
 波之吉佐寶山 ハシキサホヤマ。愛すべき佐保山であるの意。佐寶は、懷風藻に作寶とあり、好字を選んでいる。
【評語】從來縁故のなかつた地が、愛人の墳墓の地となつたので、特別のなつかしさを生じたことを詠んでいる。「よそに見し眞弓の岡も君坐せば常《とこ》つ御門と侍宿《とのゐ》するかも」(卷二、一七四)と同樣の心境である。率直に歌つた點に、多少の愛すべきふしがないでもないが、説明に過ぎているのはあきたらぬところである。
 
(457)十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舍人大伴宿祢家持作歌六首
十六年甲申の春二月、安積の皇子の薨りましし時、内の舍人大伴の宿禰家持の作れる歌六首。
 
【釋】十六年甲申春二月 トヲマリムトセ、キノエサルノハルキサラギ。前に續いて、天平十六年である。續日本紀によれば、安積の親王の薨去したのは、天平十六年閏正月十三日のことになつている。ここに二月とあるは、薨去の月でなくして、初三首の詠まれた二月三日を意味するのであろう。そうとすれば、六首とあるは、三月の作歌をも含むことになるが、これは初めの作歌の月によつて年月を掲げたので、前に旅人の上京の時の歌詞にもその例がある。このような書き方は、家持自身の文でないことを思わせる。
 安積皇子 アサカノミコ。聖武天皇の皇子、御母は夫人正三位縣の犬養の宿禰廣刀自である。天平十六年閏正月十一日、天皇、難波の宮に幸し、この日、安積の親王、脚病によつて櫻井の頓宮《かりみや》から還り、十三日に薨じた。御年十七。藤原氏の所生でなかつたので、皇太子に立たれなかつた。
 内舍人 ウチノトネリ。宮中に在つて、側近奉仕警衛するを任とする。
 
475 かけまくも あやにかしこし。
 言はまくも ゆゆしきかも。
 わが王《おほきみ》 皇子の命《みこと》、
 萬代に 食《め》したまはまし
 大日本《おほやまと》 久邇《くに》の京《みやこ》は、
 うち靡く 春さりぬれば、
(458) 山邊には 花咲き撓《をを》り、
 河瀬には 年魚子《あゆこ》さ走り、
 いや日《ひ》けに 榮ゆる時に、
 逆言《およづれ》の 狂言《たはごと》とかも、
 白細《しろたへ》に 舍人|装《よそ》ひて、
 和豆香《わづか》山 御輿《みこし》立たして、
 ひさかたの 天知らしぬれ、
 展轉《こいまろ》び 沾《ひづ》ち泣けども、
 せむすべもなし。
 
 掛卷母《カケマクモ》 綾尓爾恐之《アヤニカシコシ》
 言卷毛《イハマクモ》 齋忌志伎可物《ユユシキカモ》
 吾王《ワガオホキミ》 御子乃命《ミコノミコト》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 食賜麻思《メシタマハマシ》
 大日本《オホヤマト》 久邇乃京者《クニノミヤコハ》
 打靡《ウチナビク》 春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》
 山邊尓波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》
 河湍尓波《カハセニハ》 年魚小狹走《アユコサバシリ》
 彌日異《イヤヒケニ》 榮時尓《サカユルトキニ》
 逆言之《オヨヅレノ》 狂言登加聞《タハゴトトカモ》
 白細尓《シロタヘニ》 舍人装束而《トネリヨソヒテ》
 和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天所v知奴禮《アメシラシヌレ》
 展轉《コイマロビ》 ※[泥/土]打雖v泣《ヒヅチナケドモ》
 將v爲須便毛奈思《セムスベモナシ》
 
 
【譯】口の端に懸けむことも恐れ多い。言おうことも憚りがある。わが大君なる皇子樣の、永久に知ろしめすべきであつた日本の國の久邇の京は、草木も靡く春になれば、山邊には花が咲きたわみ、河瀬には鮎が走つて、日にまし榮える時に、まよわしのたわぶれであるか、白い衣に舍人は装束し、和豆香《わずか》山に御輿がお立ちになつて、天にお昇りになつたので、ころび廻り泣き濡れるけれども、どうしようもない。
【構成】段落はないが、初めの四句は總序として獨立文をなし、言うも憚られることを敍している。以下皇子の薨去と展轉し慟哭することを敍している。
【釋】挂卷母綾尓恐之 カケマクモアヤニカシコシ。カケマクは、口に懸けむこと。アヤニは、誠にの意の副詞。貴い方の御上を、口に懸けて述べるのも恐れ多いとするのである。句切。
 言卷毛齋忌志伎可物 イハマクモユユシキカモ 言語に言わむことも憚りあるかな。ユユシは、忌むべくあ(459)る意の形容詞。前の二句に對して對句をなしている。句切。以上の歌い起しは、高市の皇子の薨去の際の柿本の人麻呂の長歌の冒頭、「かけまくもゆゆしきかも、言はまくもあやに畏き」(卷二、一九九)の句などを受けている。
 吾王御子乃命 ワガオホキミミコノミコト。わが大君にまします皇子の命の意。ミコトは尊稱。次の、萬代ニ食シタマハマシの主格であるが、皇子に呼び懸ける氣持に歌つている。
 萬代尓 ヨロヅヨニ。永久に。
 食賜麻思 メシタマハマシ。メシは、御覽になるの義から、知ろしめすの意になつている。マシ、不可能の希望の助動詞、知ろしめすべかりし意をあらわしている。このマシは連體形であつて、次の久邇の都に接續する。「萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所v知麻之《クニシラサマシ》 島宮波母《シマノミヤハモ》」(卷二、一七一)
 大日本 オホヤマト。日本の國の意に、久邇の京に冠している。オホは、ヤマトの美稱として、接頭語となつている。續日本紀に大養徳恭仁の大宮というと見える。大日本久邇の大宮に同じである。
 久邇乃京者 クニノミヤコハ。久邇の京は、京都府相樂郡木津町の地にあつて、山城の國に屬する地。天平十二年二月に急に遷都され、この歌の當時帝都であつた。天平十六年二月に難波に遷都されたので、この後間もなく遷られたことになる。
 打靡 ウチナビク。枕詞。草木の靡く意で、春の枕詞になる。ウチは、強意の接頭語。
 春去奴禮婆 ハルサリヌレバ。ハルサリは、春になる。春になつたのでの意。二月の作であるから、かように述べている。
 花咲乎爲里 ハナサキヲヲリ。ヲヲリは、既出、「打橋《ウチハシニ》 生乎爲禮流《オヒヲヲレル》川藻毛敍《カハモモゾ》」(卷二、一九六)の如く、撓む意の動詞。花が咲き滿ちて枝がたわむのである。爲の字がヲと讀まれる理由は見出せないが、以上のほか、(460)「春山之《ハルヤマノ》 開乃乎爲里爾《サキノヲヲリニ》」(卷八、一四二一)など、三箇所に使用されている、特殊の用字法が一定している語である。
 年魚小狹走 アユコサバシリ。アユコは點の愛稱。コは接尾語。「波流佐禮婆《ハルサレバ》 和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》 加波度爾波《カハトニハ》 阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》 吉美麻和我※[人偏+弖]爾《キミマチガテニ》」(卷五、八五九)などの例がある。サは接頭語。鮎の勢いよく泳いでいることを敍している。以上、山邊ニハ云々、河瀬ニハ云々と、對句をなして、久邇の春の美觀を敍している。
 弥日異 イヤヒケニ。イヤヒニケニというに同じ。ケは時の意。いよいよ日毎に。
 逆言之狂言登加聞 オヨヅレノタハゴトトカモ。既出(卷三、四二一)。カモは疑問の係助詞で、下の天知ラシヌレまでに懸かつている。
 白細尓舍人装束而 シロタヘニトネリヨソヒテ。舍人が白衣に装いての意。皇子の薨去に遭い、その神祭に奉仕する爲に白衣に装うのである。
 和豆香山 ワヅカヤマ。久邇の京の東北にある山。そこに御葬送のことが行われたのである。
 御輿立之而 ミコシタタシテ。ミコシは、舁く乘物。タタシテは、立ちての敬語法。皇子の葬送をいうのであるが、皇子みずからお立ちになつたように敍している。
 天所知奴禮 アメシラシヌレ。アメシラシは、天を知ろしめすの意で、薨去して昇天されるをいう。「ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに戀ひわたるかも」(卷二、二〇〇)の歌は、高市の皇子の薨去を歌つているが、その歌あたりから來ているであろう。ヌレは、已然形の條件法。天知らしぬればの意になる。
 展轉 コイマロビ。展轉は、詩經周南關雎の詩に「悠(ナル)哉悠(ナル)哉、輾轉反側(ス)」とある輾轉に同じく、反轉し倒れ伏する意の文字である。コイは、上二段活用の動詞コユの連用形。ここは悲痛のあまり、ころげ廻るをいう。「等許爾許伊布之《トコニコイフシ》」(卷十七、三九六二)。
(461) ※[泥/土]打雖泣 ヒヅチナケドモ。ヒヅチは、濡れる意の動詞。涙に泣き濡れるのである。
 將爲須便毛奈思 セムスベモナシ。何とも爲方なしの意の慣用句。
【評語】柿本人麻呂の高市の皇子の薨去の時の歌などを參考として作つている。よく纏まつているが、先行の歌の成句を多く使用しているので、作りものの感がある。ほとんど毎句、出典が指摘されるのは、作者の名譽ではない。今この歌の詞句について、先行の歌と思われるものから、同一もしくは類似の詞句を擧げて見よう。この歌を上段に擧げる。下段は、先行の歌の詞句である。 
  かけまくあやに畏し    かけまくもゆゆしきかも
  言はまくもゆゆしきかも  言はまくもあやに畏き(卷二、一九九)
  わが大君皇子の命     わが大君皇子の命の (同、一六七)
  萬代に食し賜はまし    萬代に國知らさまし(同、一七一)
  大日本久邇の京は     山城の久邇の京は(卷十七、三九〇七)
  うち靡く春さりぬれば   うち靡く春さりくれば(卷三、二六〇)
  山邊には花咲きををり   春されば花咲きををり(卷十七、三九〇七)
  河瀬には年魚子さ走り   河門には年魚子さ走る(卷五、八五九)
  いや日けに榮ゆる時に   木綿花の榮ゆる時に(卷二、一九九)
  逆言の狂言とかも     逆言の狂言とかも(卷三、四二一)
  白栲に舍人装ひて     白栲の麻衣著て(卷二、一九九)
  和豆香山御輿立たして   
  ひさかたの天知らしぬれ  ひさかたの天知らしぬる(卷二、二〇〇)
(462)  こいまろびひづち泣けども こいまろびひづち泣けども(卷十三、三三二六)
  せむすべもなし      せむすべもなし(卷五、八〇四)
 
反歌
 
476 わが王《おほきみ》 天《あめ》知らさむと 思はねば、
 凡《おほ》にぞ見ける 和豆香杣山《わづかそまやま》。
 
 吾王《ワガオホキミ》 天所v知牟登《アメシラサムト》 不v思者《オモハネバ》
 於保尓曾見谿流《オホニゾミケル》 和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》
 
【譯】わが大君は昇天されようとは思わなかつたので、なおざりに見ていた、この和豆香の杣山は。
【釋】天所知牟登 アメシラサムト。長歌の句を採つている。天を領有されようとはの意。薨去されようとは。
 於保尓曾見谿流 オホニゾミケル。オホほ、おおよそ、なおざりの意。氣にも留めずに見ていた意である。
オホニミルは、既出、「天數《アマカゾフ》 凡津子之《オホシツノコガ》 相日《アヒシヒニ》 於保爾見敷者《オホニミシクハ》 今叙悔《イマゾクヤシキ》」(卷二、二一九)。終止形の句。
 和豆香杣山 ワヅカソマヤマ。長歌にあつた和豆香山である。杣山は、木材を伐り出す山。
【評語】天知ラサムと和豆香杣山との關係が突然である。その山が、御葬送に際して由縁を生じたことを敍すべきであつた。これも人麻呂の凡ニ見シクハの歌の影響を受けているらしい。
 
477 あしひきの 山さへ光り 咲く花の
 散りぬる如き わが王《おほきみ》かも。
 
 足檜木乃《アシヒキノ》 山左倍光《ヤマサヘヒカリ》 咲花乃《サクハナノ》
 散去如寸《チリヌルゴトキ》 吾王香聞《ワガオホキミカモ》
 
【譯】山までも光つて咲く花の散つたような皇子樣だなあ。
【釋】山左倍光 ヤマサヘヒカリ。花のかがやきによつて山までも光るというので、次の咲ク花の修飾句にな(463)つている。
 咲花乃 サクハナノ。花は櫻花をいう。
 散去如寸 チリヌルゴトキ。散去は、チリニシとも讀まれるが、ここは過去に讀まない方が、目に見る感が深い。
【評語】御年十七歳で薨去された皇子を悼んで、山も照りかがやいて咲く花の散るのに譬えている。絢爛の中に無限の哀愁を宿した歌で、家持の作中でも屈指の名品である。譬喩が成功したのは、その敍述が具體的で、しかもその目的とぴつたり一致したからである。花を譬喩に用いた歌には、小野の老の「あをによし寧樂の都は」の歌もあるが、それにも劣らない作品である。
 
右三首、二月三日作歌
 
【釋】二月三日 キサラギノミカ。天平十六年の二月三日で、薨去の翌月に當る。
 
478 かけまくも あやにかしこし。
 わが王 皇子の命、
 もののふの 八十件《やそとも》の男を
 召し集《つど》へ 率《あとも》ひ賜ひ、
 朝獵に 鹿猪《しし》踐《ふ》み起し、
 暮《ゆふ》獵に 鶉雉《とり》履み立て、
 大御爲《おほみま》の 口|抑《お》し駐《とど》め、
(464)御心を見《め》し明らめし
 活道山《いくぢやま》 木立の繁《しげ》に、
 咲く花も 移ろひにけり。」
 世の中は かくのみならし。
 丈夫《ますらを》の 心振り起し、
 劔刀《つるぎたち》 腰に取り佩《は》き、
 梓弓 靱《ゆき》取り負ひて、
 天地と いや遠長に
 萬代に かくしもがもと、
 憑《たの》めりし 皇子の御門の
 五月蠅《さばへ》なす 騷く舍人《とねり》は、
 白細《しろたへ》に 服《ころも》取り著《き》て、
 常なりし咲《ゑま》ひふるまひ、
 いや日《ひ》けに 變らふ見れば、
 悲しきろかも。」
 
 掛卷毛《カケマクモ》 文尓恐之《アヤニカシコシ》
 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命《ミコノミコト》
 物乃負能《モノノフノ》 八十伴男乎《ヤソトモノヲヲ》
 召集《メシツドヘ》 聚率比賜比《アトモヒタマヒ》
 朝獵尓《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》
 暮獵尓《ユフカリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》
 大御馬之《オホミマノ》 口押駐《クチオシトドメ》
 御心乎《ミココロヲ》 見爲明米之《メシアキラメシ》
 活道山《イクヂヤマ》 木立之繁尓《コダチノシゲニ》
 咲花毛《サクハナモ》 移尓家里《ウツロヒニケリ》
 世間者《ヨノナカハ》 如v此耳奈良之《カクノミナラシ》
 大夫之《マスラヲノ》 心振起《ココロフリオコシ》
 劔刀《ツルギダチ》 腰尓取佩《コシニトリハキ》
 梓弓《アヅサユミ》 靱取負而《ユギトリオヒテ》
 天地與《アメツチト》 彌遠長尓《イヤトホナガニ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 如v此毛欲得跡《カクシモガモト》
 憑有之《タノメリシ》 皇子之御門乃《ミコノミカドノ》
 五月蠅成《サバヘナス》 驟騷舍人者《サワクトネリハ》
 白栲尓《シロタヘニ》 服取着而《コロモトリキテ》
 常有之《ツネナリシ》 咲比振麻比《ヱマヒフルマヒ》
 彌日異《イヤヒケニ》 更經見者《カハラフミレバ》
 悲呂可毛《カナシキロカモ》
 
【譯】口の端に懸けようも誠に恐れ多い。わが大君なる皇子樣、お仕えする多くの人々を召し集め、御引率になり、朝獵に鹿や猪を踐み起し、夕獵に鶉や雉を踏み立て、御馬の轡を抑えて、御心に御賞美になつた活道山(465)は、木立も繁く咲く花も衰えてしまつた。世の中はかような事であるらしい。男兒の心を振り起し劍大刀を腰に佩び、梓弓と靱とを背負つて、天地と共にいよいよ永久に、萬代にかようにありたいと頼みにしていた皇子の御殿の、夏の蠅のように騷ぐ舍人は、白い衣服を著て、平常の華やぎやふるまいが、日毎に變わるのを見ると、悲しいなあ。
【構成】二段から成つていると見られる。咲ク花モ移ロヒニケリまで第一段。皇子の生前、狩獵にお出ましになつたことを敍し、その薨去に及んでいる。そのうち最初の、カケマクモアヤニ畏シは獨立文である。以下第二段、御殿にお仕えしていた舍人たちの生活が、前に變わつたことを敍して、悲しみの情を述べて終る。やはりそのうち初めの二句、世ノ中ハカクノミナラシは獨立文である。
【釋】挂卷毛文尓恐之 カケマクモアヤニカシコシ。既出安積の皇子薨去の第一の長歌(卷三、四七五)の冒頁と全く同一の文である。獨立文で、これら皇子の御上をいおうとして、言い起した句。
 吾王皇子之命 ワガオホキミコノミコト。この句も第一の長歌にあつた。次の句以下に對して意は主格であるが、まず皇子を呼びかけている。
 物乃負能、モノノフノ。モノノフは、文武の官僚をいう。ここは主として武士である。
 八十伴男乎 ヤソトモノヲヲ。ヤソは數の多いことを示す。トモノヲは、古事記上卷に伴緒と書き、トモは人々、ヲは緒のように續くものをいい、部隊、部族をいうと解せられる。本集では、假等書きのもののほか、伴緒とある一例(卷六、一〇四七)を除いては、伴雄、伴男、友能壯、友之雄の文字を用い、ヲに男子の意を感じていたと思われる。しかし男子の意が語原でないことは、古事記の五伴の緒の中には、伊斯許理度賣、宇受賣の如き女神があつて、女子をも古くは含んでいたものと解せられる。古事記傳には、部族の長としているが、長であるという文證はない。ここは集團を成して朝廷に奉仕する多くの男子をいう。
(466) 召集聚 メシツドヘ。召し集められる意。
 率比賜比 アトモヒタマヒ。アトモヒは、引率し誘う意の動詞。「御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》」(卷二、一九九)。
 朝※[獣偏+葛]尓鹿猪踐起 アサカリニシシフミオコシ。シシは、食うべき獣肉をいい、そのおもなものについて鹿猪の文字を使用している。以下四句は「朝獵爾《アサカリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》 夕狩爾《ユフカリニ》 十里〓立《トリフミタテ》」(卷六、九二六) の例があり、それらを受けているらしい。
 暮※[獣偏+葛]尓鶉雉履立 ユフカリニトリフミタテ。獵の獲物の鳥として、おもなものについて鶉雉の文字を使用している。
 大御馬之 オホミマノ。オホミは、皇子に對する尊稱として、冠している。
 口抑留 クチオシトドメ。馬の口を抑えて、進行を止める意で、中止形。「馬之歩《ウマノアユミ》 押止駐余《オサヘトドメヨ》 住吉之《スミノエノ》 岸乃黄土《キシノハニフニ》 爾保比而將v去《ニホヒテユカム》」(卷六、一〇〇二)。
 御心乎 ミココロヲ。次の句の明ラメシの客語となつている。
 見爲明米之 メシアキラメシ。メシは、見るの敬語。メシテ御心ヲアキラメシというべきを、句の都合で、かように言つている。メシアキラメと續く例は、「加久之許曾《カクシコソ》 賣之安伎良米晩《メシアキラメメ》 阿伎多都其等爾《アキタヅゴトニ》」(卷二十、四四八五)、御心を明らめるということは、「美知能久之《ミチノクノ》 小田在山爾《ヲダナルヤマニ》 金有等《クガネアリト》 麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》 御心乎《ミココロヲ》 安吉良米多麻比《アキラメタマヒ》」(卷十八、四〇九四)。アキラメシは、御心を明朗愉快にされたの意。
 活道山 イクヂヤマ。久邇の京附近の山であろうが、今所在を知らない。
 木立之繁尓 コダチノシゲニ。コダチノシミニ(神)、コダチノシジニ(西)、コダチノシゲニ(細二種)。木立の繁茂にで、咲く花を修飾する。花が密に咲いたのである。
 咲花毛 サクハナモ。花は、前の歌の花に同じく、櫻花である。
(467) 移尓家里 ウツロヒニケリ。ウツロフは、盛りの過ぎたのをいう。散つたのである。花の散つたことをもつて、皇子の薨去に譬えている。以上第一段。生前狩獵に出で立たれて眺めやられた山の花も散つたというのである。
 世間者如此耳奈良之 ヨノナカハカクノミナラシ。上を受けて、世の中は、こんなことだつたと詠嘆している。ナラシはニアルラシで、かようにあると見えるの意。「世間波《ヨノナカハ》 迦久乃尾奈良志《カクノミナヲシ》」(卷五、八八六)の例がある。世の中は無常であると嘆ずるのである。獨立文。
 大夫之心振起 マスラヲノココロフリオコシ。男兒としての心を振り起し。丈夫として皇子に奉仕する心を發起して。以下その具體的説明になる。
 劔刀腰尓取佩 ツルギタチコシニトリハキ。劔刀を腰に佩いて。トリは接頭語。
 梓弓靱取負而 アヅサユミユキトリオヒテ。梓弓と靱とを背負つてのように見えるが、句の都合によつてこうなつたので、梓弓を手に持ち、靱を背負うてである。靱は、獣革で作り矢を入れて背負う武具。
 天地與弥遠長尓 アメツチトイヤトホナガニ。天地と共にいよいよ永久に。上のトは、と共にの意。
 萬代尓如此毛欲得跡 ヨロヅヨニカクシモガモト。シは強意の助詞。これに當る文字はないが、例によつて讀み添える。ガは願望の助詞。かくもあれと欲するのである。奉仕することの永久であることを願つている。「豫呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 ※[言+可]勾志茂餓茂《カクシモガモ》」(日本書紀一〇二)。
 憑有之 タノメリシ。頼みにしていた。
 皇子乃御門乃 ミコノミカドノ。ミカドは、宮門によつて、その宮殿を表示する語。皇子の宮殿であるが、舍人は宮門に奉仕するのであるから、特に御門の語が生きて來る。
 五月蠅成 サバヘナス。夏五月の蠅のようにで、枕詞として、騷クに冠する。サは五月をサツキというサに(468)同じ。語義は未詳であるが、稻苗と關係があるらしく、それから夏の意に導かれるらしい。
 聚驂舍人者 サワクトネリは。サワクは、舍人が多く集つて物音多く動作も繁くあるをいう。
 白栲尓服取著而 シロタヘニコロモトリキテ。薨去にあつて祭事をするので、特に白色の衣服に集うのである。高市の皇子の殯宮の歌(卷二、一九九)にも舍人が白栲の麻衣を服ることが詠まれている。
 常有之 ツネナリシ。平常であつたの意で、連體形の句。
 咲比振麻比 ヱマヒフルマヒ。ヱマヒは笑顔で愉快な状態。フルマヒは擧動、動作。
 弥日異 イヤヒケニ。いよいよ日毎に。
 更經見者 カハラフミレバ。カハラフは、引き繼いて變わつている意。變わることを見ればの意。
 悲呂可聞 カナシキロカモ。ロは接尾語、「處女之友者《ヲトメガトモハ》 乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》」(卷一、五三)などの用例がある。
【評語】第一段の狩獵の敍述から花の散つたことをもつて皇子の薨去を描いているのは巧みである。前の二月三日に作つた歌のうち、アシヒキノ山サヘ光りの歌が、作者も得意で、重ねて語を變えてその譬喩を使つたらしい。第二段の構成も、第一段と同樣に出來ている。すべて前の長歌よりは良く出來ていると云えよう。
 
反歌
 
479 愛《は》しきかも、皇子《みこ》の命《みこと》の、
 あり通《がよ》ひ 見《め》しし活道《いくぢ》の
 路《みち》は荒れにけり。
 
 波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》
 安里我欲比《アリガヨヒ》 見之活道乃《メシシイクヂノ》
 路波荒尓鷄里《ミチハアレニケリ》
 
【譯】なつかしい皇子樣の通いつつ御覽になつた活道の路は、荒れてしまつたなあ。
(469)【釋】波之吉可聞 ハシキカモ。カモは、感動の助詞で、親愛すべきかなの意の獨立文になるが、それは皇子の命を讃嘆するものであつて、結局、愛《は》しき皇子の命というに同じになる。獨立文をもつて修飾句とする。それは、ハシキヤシなどの句から、かような形を生ずるに至つたのであろう。類似の語形には、「極此疑《コゴシカモ》 伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》 射狹庭乃《イサニハノ》 岡爾立而《ヲカニタチテ》」(卷三・三二二)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》 多末伎波流《タマキハル》 伊久代經爾家牟《イクヨヘニケム》」(卷十七、四〇〇三)の如きがある。
 皇子之命乃 ミコノミコトノ。安積の皇子の。
 安里我欲比 アリガヨヒ。アリは存在の意の接頸語。繼續する意に使用される。往來されての意。
 見之活道乃 メシシイクヂノ。長歌の、見シ明メシ活道山の句によつている。メシシは、御覽になつたの意で、下のシは、時の助動詞の連體形。
 路波荒尓鷄里 ミチハアレニケリ。皇子なくして荒涼を感じたのである。
【評語】志貴の皇子の薨去の時の歌に、「三笠山野邊ゆゆく道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに」(卷二、二三四)というのがあり、似ている歌である。皇子いまさずして道が荒廢するという理くつはないのであつて、荒れたと觀ずるのは、ただ作者自身の心よりほかにはない。すべてのものの荒廢を感ずるところに、頼む所を失つた張合のない生活が描かれる。
 
480 大伴の 名に負《お》ふ靱《ゆき》帶《お》びて、
 萬代に 憑《たの》みし心、
 何處《いづく》か 寄せむ。)
 
 大伴之《オホトモノ》 名負靱帶而《ナニオフユキオビテ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 憑之心《タノミシココロ》
 何所可將v寄《イヅクカヨセム》
 
【譯】大伴の名に持つている靱を身に帶びて、萬代にと頼みにした心を、今は何處に寄せよう。
(470)【釋】大伴之 オホトモノ。大伴は、作者の氏であるが、これは本來多數の人を意味する。この家は、祖先の天の忍日の命以來、多人數の部族として奉仕し來つたのである。
 名負靱帶而 ナニオフユキオビテ。ナニオフは、名として負い持ちている意。大伴氏が、靱負の名を有していたことは、新撰姓氏録に「初め天孫彦火の瓊々杵の尊の神駕の降りますとき、天の押日の命、大來目部、御前に立たして、日向の高千穗の峯に降ります。然る後大來目部をもちて天の靱負部となす。天の靱負の號《な》ここより起れり」とある。オビテは、身に帶することをいう。靱は背に負うものであるが、上にオフの語があるので、これを避けたものと思われる。、
 萬代尓憑之心 ヨロヅヨニタノミシココロ。長歌に、萬代ニカクシモガモト憑メリシ云々とあるを受けている。永久に奉仕しようと頼みにした心である。
 何所可將寄 イヅクカヨセム。その頼みにした心を、今は何處を頼みとして寄せようとである。
【評語】ひたすらに思い込んだ心の目標のなくなつた落膽が歌われている。大伴氏の自負のほども窺われて、よい作ということが出來る。「靱懸《ゆきか》くる伴の緒廣き大伴に國榮えむと月は照るらし」(卷七、一〇八六)の壯大には及ばないが、調子も力強く、内容も舍人の失望を歌つたものとして、よく纏まつている。
 
右三首、三月二十四日作歌
 
【釋】題詞には二月とあるが、これは月を踰えて三月になつて作つたのである。これらの作歌月日の明記されているのは、作者の手記に出たことを證している。
 
悲2傷死妻1作歌一首 并2短歌1
 
(471)死《す》ぎにし妻を悲傷《かな》しみて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】悲傷死妻 スギニシメヲカナシミテ。妻の死を悼んで詠んだ歌で、作者は高橋の朝臣某であることが、左註によつて知られる。この死妻の下に、西本願寺本等には、高橋朝臣の四字があるが、類聚古集、細井本二種には、その四字がないから、古くはなかつたものと考えられる。なお神田本にはこの一行がなくして、どちらの傳來であるとも知られない。左註に七月二十日とあり、前からの續きでは天平十六年の七月の作のようであるが、歌中に、山城の相樂《さがらか》山に葬つたよしにいい、久邇の京時代のことと思われる。天平十六年二月に難波を皇都と定められたが、その月から翌年五月まで天皇は紫香樂《しがらき》の宮にましました。紫香樂は、近江の國に屬し、久邇の京より更に山を分けてはいつた所である。この歌の作者は、車膳の男子といい、側近に侍していたと思われるから、天平十六年七月に久邇の京にいたとは決しかねる。よつて、作歌年代はまだ決定し得ないのである。
 
481 白細の 袖さし交《か》へて
 靡き寐《ぬ》る わが黒髪の
 ま白髪《しらか》に 成らむ極《きは》み、
 新世《あらたよ》に 共にあらむと、
 玉の緒の 絶えじい妹と、
 結びてし 言は果さず、
 思へりし 心は遂げず、
 白細の 手本《たもと》を別かれ
(472) 和《にき》びにし 家ゆも出でて、
 緑子の 泣くをも置きて、
 朝霧の 髣髴《おほ》になりつつ、
 山城《やましろ》の 相樂山《さがらかやま》の
 山の際《ま》に 往き過ぎぬれば、
 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに、
 吾妹子と さ宿《ね》し妻屋に
 朝《あした》には 出で立ち思《しの》ひ、
 夕《ゆふべ》には 入り居嘆かひ、
 腋挾《わきばさ》む 兒の泣く毎に、
 男じもの 負ひみ抱《うだ》きみ、
 朝鳥の 音《ね》のみ哭《な》きつつ、
 戀ふれども 効《しるし》を無みと、
 言問はぬ ものにはあれど、
 吾妹子が 入りにし山を、
 所縁《よすが》とぞ念ふ。
 
 白細之《シロタヘノ》 袖指可倍弖《ソデサシカヘテ》
 靡寢《ナビキヌル》 吾黒髪乃《ワガクロカミノ》
 眞白髪尓《マシラカニ》 成極《ナラムキハミ》
 新世尓《アラタヨニ》 共將v有跡《トモニアラムト》
 玉緒乃《タマノヲノ》 不v絶射妹跡《タエジイイモト》
 結而石《ムスビテシ》 事者不v果《コトハハタサズ》
 思有之《オモヘリシ》 心者不v遂《ココロハトゲズ》
 白妙之《シロタヘノ》 手本矣別《タモトヲワカレ》
 丹杵火尓之《ニキビニシ》 家從裳出而《イヘユモイデテ》
 緑兒乃《ミドリゴノ》 哭乎毛置而《ナクヲモオキテ》
 朝霧《アサギリノ》 髣髴爲乍《ホノニナリツツ》
 山代乃《ヤマシロノ》 相樂山乃《サガラカヤマノ》
 山際《ヤマノマニ》 往過奴禮婆《ユキスギヌレバ》
 將v云爲便《イハムスベ》 將v爲便不v知《セムスベシラニ》
 吾妹子跡《ワギモコト》 左宿之妻屋尓《サネシツマヤニ》
 朝庭《アシタニハ》 出立偲《イデタチシノヒ》
 夕尓波《ユフベニハ》 入居嘆合《イリヰナゲカヒ》
 腋挾《ワキバサム》 兒乃泣母《コノナクゴトニ》
 雄自毛能《ヲノコジモノ》 負見抱見《オヒミウダキミ》
 朝鳥之《アサドリノ》 啼耳哭管《ネノミナキツツ》
 雖v戀《コフレドモ》 効矣無跡《シルシヲナミト》
 辭不v問《コトトハヌ》 物尓波在跡《モノニハアレド》
 吾妹子之《ワギモコガ》 入尓之山乎《イリニシヤマヲ》
 因鹿跡叙念《ヨスガトゾオモフ》
 
【譯】白い衣服の袖をさしかわして、靡いて寢るわたしの黒髪が、眞白になつてしまうまでも、新しい時代に、(473)共にいようと言い、玉の緒のように切れない、わが妻よと、約束した事は果さず、思つていた心は成しとげず、白い衣服を著た手を別れて、馴れ住んでいた家からも出て、幼兒の泣くのも捨てて、朝霧のようにぼうつとなつて、山城の相樂山の山のあいだに行き過ぎてしまつたので、何とも云いようなく、わが妻と寐た對の屋に、朝になると立ち出でて思い、夕方になると、入りいて嘆き、腋に挾む子の泣く毎に、男のように背負つたり抱いたりして朝鳥のように泣いてばかりいて、戀うけれどもそのかいがないので、口をきかないものではあるけれども、わが妻のはいつた山を、そのゆかりと思うことだ。
【構成】段落はなく、全篇一文で成つている。初めに、夫婦の契りを交わしたことを述べ、次に妻の死を歌い、終りに思慕の情を述べている。
【釋】白細之袖指可倍弖 シロタヘノソデサシカヘテ。白い織物の袖をさし交えてで、サシは接頭語。共に寢るので、お互に袖をかわすのである。シロタヘは、實際に白い衣服を著ていたのである。
 靡寐 ナビキヌル。ナビキネシ(西)。なよなよと靡いて寢るで、次句の黒髪の形容である。ナビキネシと讀んで、妻が自分に靡いて寢たとする解があるが、それでは、次のわが黒髪の句に績かない。「うち靡くわが黒髪に霜のおくまでに」(卷二、八七)、「夜干玉之《ヌバタマノ》 妹之黒髪《イモガクロカミ》 今夜毛加《コヨヒモカ》 吾無床爾《ワレナキトコニ》 靡而宿良武《ナビケテヌラム》」(卷十一、二五六四)などがある。
 吾黒髪乃 ワガクロカミノ。このワガは、作者の自稱と見るべきである。
 眞白髪尓 マシラカニ。マは接頭語。白髪は、致證に、「延喜式に多志良加といふ器を手白髪とも書たれば、かは清てよむべし」と言つている。マシラカは、純白の髪の義。
 成極 ナラムキハミ。白髪になるのを極限としての意。キハミは、それを最後の處とする意。
 新世尓 アラタヨニ。アラタヨは、新しくなる世界で、新時代。次々に新たになつてゆく世界。(卷一、五(474)〇參照。)
 共將有跡 トモニアラムト。夫と共にあらむとの意。初句から共にあらむまでをトで受けている。以上、作者の約束の言と解すぺく、このトを受けて、結ビテシ言ハ果サズと續くのである。
 玉緒乃 タマノヲノ。タマノヲは、玉を緒に貫いたものをいう。この句は、枕詞で、譬喩として絶エジに懸かつている。玉の緒は人命をもいい、さように解せられないこともないが、それでは、下のノの解が無理である。
 不絶射妹跡 タエジイイモト。タエジヤイモト(西)、タエジイイモト(玉)。タエジは、夫婦間の關係についていう。射は問題の字であるが、字音假字として、不絶射をタエザルとも讀まれるが、それでは妹に接續して解釋が困難であり、やはりイと讀むほかはあるまいと思われる。そうしてこのイは、語勢の助詞と見られるのであるが、元來イは、體言、もしくは用言の連體形に接續するもので、かような用法は特殊の例ではない。西大寺本金光明最勝王經の古點に「寒きい時に」と讀まれているのは、形容詞の連體形に接續した例である。「志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》」(卷三、二三七)參照。妹は、婦人の愛稱。玉ノ緒ノ絶エジイ妹までを、トで受けて、やはり結ビテシに續く。これも作者たる男子高橋某の言である。まず新世の誓いを擧げ、次に生命の句を擧げて、その雙方を受けて、結ビテシ言ハ果サズと續くのである。
 結而石事者不果 ムスビテシコトハハタサズ。ムスビは契約をいう。たがいに約束した言を果さずとである。
 思有之心者不遂 オモヘリシココロハトゲズ。言のみならず、心に思つていたこともなしとげずの意で、切らずに、次の死去の敍述に對して修飾するものと見る。結ビテシ言ハ果サズの句と對句を成し、間接に夫妻の言を受けている。
 白妙之 シロタヘノ。白い織物の義で、實際に著ていた衣服であるが、それが次の手本の説明になつている。(475)白い衣服を著ている手本の意である。
 手本矣別 タモトヲワカレ。タモトは腕。ワカレは助詞ヲを受ける。「久夜之久妹乎《クヤシクイモヲ》 和可禮伎爾家利《ワカレキニケリ》」(卷十五、三五九四)、「多良知禰乃《タラチネノ》 波々乎和加例弖《ハハヲワカレテ》」(卷二十、四三四八)などの例がある。但しここの用法は、少し相違があつて、手本を別つてというほどの意に解せられる。妻が、その手本を別ち去つてというのである。
 丹杵火尓之 ニキビニシ。柔びにしの意で、馴れ柔らいでいた家の意になる。「柔備爾之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲハナチ》」(卷一、七九)と同意の句である。
 家從裳出而 イヘユモイデテ。家からも出て。和らぎ睦びてあるのに、そこからもの意である。
 緑兒乃 ミドリゴノ。ミドリゴは既出(卷二、二一三)。嬰兒をいう。緑兒の譯語であろう。
 哭乎毛置而 ナクヲモオキテ。オキテ。オキテは、さし置いて。うち捨てての意。
 朝霧 アサギリノ。枕詞で、次の句のオホに冠するが、既出の尼理願の死を悼む歌によれば、葬儀は朝家を出ると思われるから、特に朝霧と言つたのであろう。
 髣髴爲乍 オホニナリツツ。ホノメカシツツ(西)、ホノカニシツツ(細二種)、ホノカニナリツツ(童)、ホノニナリツツ(考)、オホニナリツツ(玉)。オホニは、明瞭ならざる形容。ぼんやりと、ぼうつと。朝霧を受けて、霧の中の風物のように、さだかになくなるのをいう。
 山代乃相樂山乃 ヤマシロノサガラカヤマノ。京都府相樂郡の山である。何處とも知られないが特にそういう名の山があるわけではあるまい。その地の山を漠然と言つているであろう。久邇の京も相樂郡にあるので、その京の時代の事と推定される。
 山際往過奴禮婆 ヤマノマニユキスギヌレバ。妻の屍柩が、その山間に行き過ぎたから。
 將云爲便將爲便不知 イハムスベセムスベシラニ。しばしば出た慣用句。將爲便は、爲の字を一字省略して(476)いる。
 左宿之妻屋尓 サネシツマヤニ。サは接頭語。ツマヤは既出(卷二、二一〇)。對の屋で、主屋に對して、左右に出ている家屋。妻の住む室。
 朝庭出立偲 アシタニハイデタチシノヒ。その妻屋に、朝には出て立つて妻を思慕する由である。朝夕にかくかくするを、朝には夕にはと對句に分けていうので、勿論朝に限つて出で立ちしのぶのではないが、朝は、寢處から出るので、特にこの句が選擇されている。
 夕尓波入居嘆會 ユフベニハイリヰナゲカヒ。夕暮にはその妻屋に入りいて嘆息をしの意。これも夕方に限つたわけではないが、日の暮には、室内に入るので、この句が選擇されている。
 腋挾 ワキバサム。腕で腋に抱える意。「若兒乃《ミドリゴノ》 乞泣毎《コヒナクゴトニ》 取與《トリアタハウ》 物之無者《モノシナケレバ》 鳥穗自物《トリホジモノ》 脇挾持《ワキバサミモチ》」(卷二、二一〇)。次の句の兒の説明の句。
 兒乃泣毎 コノナクゴトニ。兒の泣く度にの意。
 雄自毛能 ヲノコジモノ。男子は、物を負うゆえに、負フに冠している。このジモノは、男子たる者の意になつているが如く、自分は男子であるが、その男子たる者としての意に解せられる。この點、「鴨自物《カモジモノ》 水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》」(卷一、五〇)、「伊奴時母能《イヌジモノ》 道爾布斯弖夜《ミチニフシテヤ》」(卷五、八八六)など、その物にあらずして譬喩にいう場合と相違しているようである。
 負見抱見 オヒミウダキミ。負うたり抱いたりして。負いもし抱きもする意で、「咲見慍見《ヱミミイカリミ》 著四紐解《ツケシヒモトク》」(卷十一、二六二七)、「梓弓《アヅサユミ》 引見弛見《ヒキミユルベミ》」(同、二六四〇)などの用例があり、後世、雨について降りみ降らずみというも同樣の語法である。
 朝鳥之 アサドリノ。朝の鳥で、よく鳴くものゆえ、音ニナクの枕詞としている。
(477) 啼耳哭管 ネノミナキツツ。聲にばかり泣いて。泣くことを強調して、ネナク、ネニナク、ネノミナクなどいう。
 雖戀 コフレドモ。亡き妻に對して戀うけれども。
 效矣無跡 シルシヲナミト。その效がなくしてと。このトは、トシテの意。作者の行爲の理由を説明している。
 辭不問 コトトハヌ。物を言わない。
 入尓之山乎 イリニシヤマヲ。亡き妻の葬儀の入つた山をであるが、妻その人が、みずからはいつたように言つている。
 因鹿跡敍念 ヨスガトゾオモフ。ヨスガは、縁故、寄るべ。妻の縁あるものとなつかしく思うのである。
【評語】亡き妻の遺した兒を持ち扱つている點が中心となつている作で、困つている有樣がよく描かれている。全體としては、重複の個所もあり冗長の感もある。人麻呂の、妻に死なれて詠んだ歌の影響を受けているようである。末尾は平凡だが、初めの夫婦の誓言のあたりは、よく詠まれていて、それが全部にわたつてよい空氣を作つている。
 
反歌
 
482 うつせみの 世の事にあれば、
 外《よそ》に見し 山をや今は
 所縁《よすが》と思はむ。
 
 打背見乃《ウツセミノ》 世之事尓在者《ヨノコトニアレバ》
 外尓見之《ヨソニミシ》 山矣耶今者《ヤマヲヤイマハ》
 因香跡思波牟《ヨスガトオモハム》
 
(478)【譯】現實の世の事だから、外處に見た山をか、今は縁故のものと思おう。
【釋】打背見乃 ウツセミノ。現實の義で、世の性質を説明する枕詞になつている。
 世之事尓在者 ヨノコトニアレバ。この世の事だから。死ぬのは世間の常だからの意。
 外尓見之 ヨソニミシ。既出。
 山矣耶今者 ヤマヲヤイマハ。ヤは疑問の係助詞。山ヲヤ所縁ト思ハムと續く。この山は、亡き妻の葬儀のはいつた相樂山である。
 因香跡思波牟 ヨスガトオモハム。縁故のものと思おうの意。
【評語】長歌の末尾を受けて、やや語を變えて作つている。その山を、せめてゆかりの地と見る心があわれである。
 
483 朝鳥の 音のみし泣かむ。
 吾妹子に
 今また更に 逢ふよしを無み。
 
 朝鳥之《アサドリノ》 啼耳鳴六《ネノミシナカム》
 吾妹子尓《ワギモコニ》
 今亦更《イママタサラニ》 逢因矣無《アフヨシヲナミ》
 
【譯】朝鳥のように泣いてばかりいよう。わが妻に今はもう逢うわけがないので。
【釋】朝鳥之 アサドリノ。枕詞。長歌に出ている句。
 啼耳鳴六 ネノミシナカム。ネノミヤナカム(類)、ネノミシナカム(古義)。泣きにばかり泣こうの意。句切。
 今亦更 イママタサラニ。今はまた、ふたたびの意。
 逢因矣無 アフヨシヲナミ。逢う子細がなくして。ヨシは、理由。「戀友《コフレドモ》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》」(卷二、二一〇)。
(479)【評語】これも長歌の末尾に近くある句を受けている。思想の順序からいえば、この方が反歌の第一で、ウツセミの歌が第二に置かれる方が、整つて來る。しかしこの亂れた形もまた一案であろうか。
 
右三首、七月廿日、高橋朝臣作歌也。名字未v審、但云2奉膳之男子1焉。
右の三首は、七月廿日、高橋の朝臣の作れる歌なり。名字いまだ審ならず。但し奉膳の男子といへり。
 
【釋】七月廿日 フミヅキノハツカ。前からの續きによれば、天平十六年であるべきだが、そうともきめられないことは題詞のもとに記した。
 高橋朝臣 タカハシノアソミ。孝元天皇の皇子大彦の命の子孫である。ここに名字いまだ審ならずとあるように、何という人か知られない。高橋の連蟲麻呂とは別系である。
 奉膳 カシハデノカミ。宮内省の内膳司の長官。高橋の朝臣は、代々御膳に奉仕するを職とした。
 
萬葉集卷第三
 
 
〔目次省略〕
(21)萬葉集卷第四
 
 この卷は、三の卷と合わせて一團をなすもので、三の卷には、雜歌、譬喩歌、挽歌を收め、この卷には、歌の多い相聞の部を收めている。作品の年代も、大體三の卷と同じ頃に終つており、文字使用法も共通している。卷頭の難波天皇の妹とある歌が、一番古いとされたらしい。編者はこれを仁徳天皇時代の歌と解して卷頭に置いたのであろうが、それには疑問があるから、その題詞のもとに述べる。以下ほぼ年代を逐つて配列してあると見られるから、もつとも新しいものは、卷末の歌であるかも知れないが、それは年代が不明である。それよりも前に久邇の京時代の歌があり、よつて三の卷と同じく天平十六年ごろに及んでいるのであろう。地理的には、初めに大和中心に集録され、次に大宰府中心に大伴の旅人の大宰の帥時代の歌が集録され、その後ふたたび大和をおもな地方とし、大伴の家持を中心とする集録に終つている。
 歌數は三百九首あり、内長歌七首、旋頭歌一首で、他は皆短歌である。その大部分は、作者を記してあり、ただ後人の追同の歌一首、作者不審の歌一首、娘子、童女とのみあるもの數首がある。作歌事情を記しているものも相當にある。
 傳本としては、仙覺本以外の系統として、現存せる最古の寫本なる桂本が主として後半部を存し、元暦校本も不完全ではあるが殘つている。ほかに細井本の古い部分が前半を有し、神田本もあり、これに類聚古集、古葉略類聚鈔を加えると、比較的に揃つている方である。
 
(22)相聞
 
【釋】相聞 サウモニ。雜歌、挽歌と竝んで、いわゆる萬葉集の三大部門の一である。既に卷の二に出で、意義等は、そこに註した。この卷のは、特に譬喩歌を除去した殘部と解せられる。また實際に贈答したものでなく、獨語的に詠まれた歌を含んでいるようである。
 
難波天皇妹、奉d上在2山跡1皇兄u御歌一首
 
難波《なには》の天皇《すめらみこと》の妹《いろと》の、大和にいます皇兄《いろせ》に奉り上ぐる御歌一首。
 
【釋】難波天皇妹 ナニハノスメラミコトノイロトノ。難波の天皇は、難波の地に都された天皇の意で、下文に、岳本の天皇、近江の天皇などあると同樣の言い方である。さて難波の地に都された天皇としては、難波の高津の宮にましました仁徳天皇、難波の長柄《ながら》の豐崎《とよさき》の宮にましました孝徳天皇があり、そのいずれであるかが問題である。仁徳天皇とするのは、この次に岳本の天皇(舒明天皇もしくは齊明天皇)の御歌があり、それより以前なるべきこと、また卷の二の卷頭に、難波高津宮御宇天皇代の標目があつて、磐の姫の皇后の御歌が載せられていることなどによるものである。また孝徳天皇とすることは、木集卷の二、「大伴(ノ)宿禰(ノ)娉(ヒシ)2巨勢(ノ)郎女(ヲ)1時(ノ)歌一首」(一〇一題詞)の次行の註の中に「難波(ノ)朝(ノ)右(ノ)大臣大紫大伴長徳(ノ)卿」の句があつて、その難波朝は、孝徳天皇の御代をいうのであり、また正倉院文書にも孝徳天皇の朝廷を、「難波朝廷」と書いているのによるものである。常陸國風土記、香島郡の鹿嶋神宮の條に、「神戸六十五烟、もと八戸、難波の天皇の世、五十戸を加へ奉る」云々とある難波天皇も、多分孝徳天皇の御事であろう。資料から見ても、この卷頭數首は、多分同一の資料に出たものとおぼしく、時代のほぼ一致する孝徳天皇と解するを妥當とする。但し萬葉集の編者は、仁徳天皇の御事と解して、岳本の天皇の御製よりも前に置いたのであろう。妹は、皇兄に奉るとあるによれば、皇妹の義であろうか。歌の内容から言えば、夫婦關係にあつた方であろうが、まだいずれの御方ということを知らない。當時、難波にあつてこの歌を詠まれたのであろう。
奉上在山跡皇兄御歌 ヤマトニイマススメイロセニタテマツリアグルミウタ。皇兄は、上文から推せば、難波の天皇の御事である。もし孝徳天皇とすれば、大化元年十二月に難波の長柄の豐碕に遷都したまい、その後、大和に行幸されたことは傳わらない。奉上は、二字を合わせてタテマツレルと讀んでもよいが、正倉院文書續修別集第四十八卷に收めた萬葉假字文(「南京遺文」所收)に「布多止己呂乃己乃己呂乃美毛止乃加多知《フタトコロノコノコロノミモトノカタチ》、支々多末マ爾多轉万都利阿久《キキタマヘニタテマツリアク》」とあるから、タテマツリアグと讀むべきであろう。何處からともないが、多分難波から奉られたものであろう。
 
(24)484 一日《ひとひ》こそ 人も待ち吉《え》き。
 長きけを かく待たるれば
 ありかつましじ。
 
 一日社《ヒトヒコソ》 人母待吉《ヒトモマチヨキ》
 長氣乎《ナガキケヲ》 如此所v待者《カクマタルレバ》
 有不v得v勝《アリカツマシジ》
 
【譯】人を待つのも、一日ぐらいはよいものです。しかしこんなに長いあいだを待たされると、生きていられようとは思いません。
【釋】一日社人母待吉 ヒトヒコソヒトモマチヨキ。一日は或る一日の意で、ここでは短い時間の意に使用されている。吉は、仙覺本系統には告に作つている。これは吾の初畫を誇張して書くことから生じた誤りである。「師吉名倍手《シキナベテ》」(卷一、一)參照。係助詞コソを受けて、形容詞は、通例キの形をもつて結ぶ。「阿喩擧曾播《アユコソハ》 施麻倍母曳岐《シマベモエキ》」(日本書紀、一二六)、「己妻許増《オノガツマコソ》 常目頬次吉《ツネメヅラシキ》」(卷十一、二六五一)、「最今社《モトモイマコソ》 戀者爲便無寸《コヒハスベナキ》」(同、二七八一)、「野乎比呂美《ノヲヒロミ》 久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》」(卷十七、四〇一一)の如き、その例である。但し、シをもつて結ぶものも「古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》 安路許曾要志母《アロコソエシモ》」(卷十四、三五〇九)の如きがあり、動搖していた跡が見られるが、これは東歌でもあるから、通例によつて、マチヨキと讀むべきである。一日ぐらいは、待つのも容易の意で、段落であるが、係助詞コソを含む文章は、前提となつて、然るにの如き感情をもつて、次の文を引き起す任務を有する場合が多い。これは助詞コソが、多くの中から一を指摘する性質があるので、かような作用をするのである。この歌においても、三句以下を起す前提となつている。
 長氣乎 ナガキケヲ。ケは、或る時間の長さをいう。「朝にけに」などいう場合は、一日よりも短いが、ここは一日よりも長い。長キケの例は「奈我伎氣遠《ナガキケヲ》 麻知可母戀牟《マチカモコヒム》」(卷二十、四三三一)などある。このケを、來經《キヘ》の約言とする説のあるのは首肯されない。
(25) 如此所待者 カタマタルレバ。
   カクシマタレバ(元)
   カクマタルレバ(西)
   カクマタユレバ(定本)
   ――――――――――
   如此耳待者《カクノミマテバ》(玉)
   如此耳待者《カクノミマタバ》(新訓)
 カクは、現在の状況を指示している。所の字は、集中、動詞に附屬して使用されるものに、受身の意を表示するものと、下の動詞の内容を提示するために使用されるものとがあり、ここは受身の用法と見るほかはない。この場合、その動詞の活用は、ラ行下二段とヤ行下二段とがあり、見ユ、聞ユ、燃ユ、思ホユのような特定のもの以外は、ラ行に讀む例證のあるに準じて、待タルと讀むべきであろう。この訓は舊訓で、他に、玉の小琴に所を耳の誤りとしてカクノミマテパ、また所を可の誤りとしてカクマツベクバかとしているが、從うことはできない。
 有不得勝 アリカツマシジ。元暦校本等に勝を騰に作つているが、騰では、訓法に苦しむから、仙覺本系統に勝に作るによるほかはない。さて勝の字のあるによつて、不得をマシジに當ててアリカツマシジと讀む。不得をマシジと讀む例は、他にはないが、字義から言つて當らぬわけではない。アリカツマシジの例は、「佐不v寐者遂爾《サネズハツヒニ》 有勝麻之自《アリカツマシジ》」(卷二、九四)以下數個の例がある。あり得まいの意である。
【評語】二段から成つており、怨言を述べて、よくその意を致している。描寫がないので、抽象的に敍し、迫力に缺ける所がある。古い調子の歌であるが、仁徳天皇の時代というような古さはない。歌から言つても、やはり孝徳天皇の時代とするのが適當であろう。この卷頭の數首が、婦人の作であるのは、偶然ではあろうが、相聞の歌が、男女交通の具として使用されたことによるものとして注意される。
 
(26)崗本天皇御製一首 并2短歌1
 
岡本《をかもと》の天皇《すめらみこと》の御製一首。【短歌并はせたり。】
 
【釋】崗本天皇 ヲカモトノスメラミコト。反歌の左註にもあるように、高市の岡本の宮の天皇(舒明天皇)か、後の岡本の宮の天皇(齊明天皇)か、さす所があきらかでない。ただ歌詞に、ワガ戀フル君ニシアラネバ云々の句があり、反歌も同樣に歌つているので、婦人の作として、齊明天皇と推考される。齊明天皇は、その二年に飛鳥の岡本の地に宮室を起して、これにましました。よつてその御代を舒明天皇の御代と區別して、後の岡本の宮の御代という。卷の八、一五一一の題詞にも、「崗本天皇御製歌一首」とある。この歌は、いかなる事情の時に詠まれたとも説明されていないが、歌意は君を戀うにあり、人多ニ滿チテハ行ケドワガ戀フル君でないといい、しかも何ら待つ意に及んでいないのは、舒明天皇の崩後に、これを思慕されたものと推測される。しかしそれならば挽歌の部に收むべきを、相聞に入れてあるのは、集の編者もそこに思い及ばなかつたのであろう。
 御製 オホミウタ。御製歌と書くのが正しいのであるが、次にその歌が擧げられているので、ここには御製とのみ題してある。御製とのみ書く例も「一書云、太上天皇御製」(卷一、七七左註)等、數例がある。題詞としては珍しいが、既に「崗本天皇」の如きも略書であり、これらの書法は、資料のままによつたのであろう。
 
485 神代より 生《あ》れ繼ぎ來《く》れば、
 人さはに 國には滿ちて、
 あぢ群《むら》の かよひは行けど、
(27) わが戀ふる 君にしあらねば、
 晝は 日の暮るるまで、
 夜《よる》は 夜《よ》の明くるきはみ、
 思ひつつ 寐宿《いね》がてにと、
 明かしつらくも。
 長きこの夜を。
 
 神代從《カミヨヨリ》 生繼來者《アレツギクレバ》
 人多《ヒトサハニ》 國尓波滿而《クニニハミチテ》
 味村乃《アヂムラノ》 去來者行跡《カヨヒハユケド》
 吾戀流《ワガコフル》 君尓之不v有者《キミニシアラネバ》
 晝波《ヒルハ》 日乃久流麻弖《ヒノクルルマデ》
 夜者《ヨルハ》 夜之明流寸食《ヨノアクルキハミ》
 念乍《オモヒツツ》 寢宿難尓登《イネガテニト》
 阿可思通良久茂《アカシツラクモ》
 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》
 
【譯】神代以來生れ繼いで來るので、人が多く國内に滿ちて、味鳧《あじかも》のように往來しているけれども、わたしの戀い慕う君ではないので、晝は一日中、夜は夜の明けるまで、思いながら眠りをしかねて明かしたことだ。長いこの夜なのだが。
【構成】別に、段落はなく、一文で出來ている。
【釋】神代從 カミヨヨリ。神々の時代の義で、遠い古代の意である。この句は、さような古代以來の意で、集中用例が多い。
 生繼來者 アレツギクレバ。アレは生れる意であるが、アラハルルの語幹をなすもので、神秘に出現する意がある。アレツゲは、出現が繼續する意である。ここは人間が、神代以來次々に出現し續いて來た意を言つている。
 人多國尓波滿而 ヒトサハニクニニハミチテ。クニは、天に對して下の世界、人間の住む處をいう。
 味村乃 アヂムラノ。枕詞。アヂは、游禽類。鴨に似て小さく、群棲するので、アヂムラという。「阿遲乃須牟《アヂノスム》 須沙能伊利江乃《スサノイリエノ》」(卷十四、三五四七)の如く、アヂとのみもいうが、「邊津方爾《ヘツベニ》 味村左和伎《アヂムラサワキ》」(卷三、(28)二五七)の如く、アヂムラと使用する方が多い。ここは譬喩としての枕詞の用法であるが、反歌に實景として描寫しているのを見れば、目前の風物をもつて枕詞としたものとすべきである。
 去來者行跡 カヨヒハユケド。サリキハユケド(元赭)、イザトハユケド(西)、サハギハユケド(拾)、カヨヒハユケド(玉)、ユキキハユケド(新訓)。次點の歌であるが、もとサリキハユケドとあつたのを、仙覺は、イザトハユケドに改めた。去來は「岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》」(卷一、一〇)の如く、イザと讀む熟字であるが、ここはイザでは適しない。アヂムラの語を受けては、サワキというのが通例であつて、拾穗抄にサハギハユケドの訓がある。反歌にも騷の字が使用してあり、去來の義をもつて、サワキハユケドと讀むことも考えられる。しかし集中「城國爾《キノクニニ》 不v止將2往來1《ヤマズカヨハム》」(卷九、一六七九)の如く、往來をカヨフと讀んでいるから、それに準じてカヨヒハユケドの訓を採ることとする。人々が多く往來して賑やかなのをいう。
 吾戀流 ワガコフル。次の句の君の修飾句。
 君尓之不有者 キミニシアラネバ。君は、舒明天皇をいうと考えられる。シは強意の助詞。
 晝波日乃久流留麻弖 ヒルハヒノクルルマデ。ヒルは、日中のあかるいあいだをいう。ヒも同じく日中をいうが、もと太陽の義である。そのくらくなるまでという。
 夜者夜之明流寸食 ヨルハヨノアクルキハミ。上の晝は日ノクルルマデの句と對句を成し、それと同樣の言い方をしている。キハミは極限で、夜の明けるをはてとしての意。「夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 晝者母《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》」(卷二、一五五)などと同じ意の句である。
 念乍 オモヒツツ。君を思いつつ。
 寐宿難尓登 イネガテニト。
   イモネガテニト(西)
(29)   イネガテニト(新考)
   ――――――――――
   寐宿難爾死弖《イネガテニシテ》(考)
   寐宿難爾管《イネガテニツツ》(略)
   寐宿難爾乃三《イネガテニノミ》(古義)
 原文のままに、イモネガテニト、またはイネガテニトと讀むのが妥當である。ガテヌは、他の例「如v吾歟《ワガゴトカ》 妹爾戀乍《イモニコヒツツ》 寐不v勝家牟《イネガテズケム》」(卷四、四九七)の如く、イネの形に接續するものが多く、またここはモに當る文字がないから、イネガテニトと讀むべきであろう。イは、睡眠の意の體言。ネは、その動詞で、熟語としてイヌの語を構成する。ガテニは助動詞。得ざる意。「皆人乃《ミナヒトノ》 得難爾爲云《エガテニストフ》 安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》」(卷二、九五)など、既に出ている。ニは打消の助動詞で、ナニヌネと四段に活用したものと思われ、ニは、その連用形であるべきだが、トがこれを受けているのは、格助詞ニの如き性質を有している。
 阿可思通良久茂 アカシツラクモ。上に晝と夜とが對句になつていたが、この句は、その夜の方を受けている。夜は夜ノ明クルキハミの句は、下に接續して進行したのである。ツラクはツルコト。モは感動の助詞。夜を明かしたことだの意。
 長此夜乎 ナガキコノヨヲ。上の句の夜を説明している。長いこの夜なるものをの意。味カモのいる頃で、冬であろう。
【評語】神代から説き起したのは、理くつつぽく感じさせるが、この世に人の多いことをいうには、それも必要かも知れない。しかしそれがために、全體の空氣が情熱的でなくなつていることは否めない。味村の一句を除いては、特殊の敍述のないのも、弱點である。この長歌の結末は、五七七七の句で結んである。これも古長歌に往々見るところで、額田の王の春秋の優劣を判ずる歌、「青きをば置きてぞ歎く。そこしうらめし秋山、吾は」(卷一、一六)の如き、その一例である。
【參考】類型。
(30)  敷島の 日本《やまと》の國に 人《ひと》多《さは》に 滿ちてあれとも 藤浪の 思ひ纏《まつ》はり 若草の 思ひつきにし 君が目に 戀ひや明《あ》かさむ 長きこの夜を(卷十三、三二四八)
 
反歌
 
486 山の端《は》に 鰺鳧群《あぢむら》騷き 行くなれど、
 われはさぶしゑ。
 君にしあらねば。
 
 山羽尓《ヤマノハニ》 味村驂《アヂムラサワキ》 去奈禮騰《ユクナレド》
 吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》
 君四不v在者《キミニシアラネバ》
 
【譯】山の端に、味鳧の群鳥が騷いで行くけれども、わが思う君ではないから、わたしは樂しまないのだ。
【釋】山羽尓 ヤマノハニ。ヤマノハは、山の端の方をいう。山ノ端ニイサヨフ月などの用例で、そのさすところを知るべきである。
 味村驂 アヂムラサワキ。長歌の味村の句を受けているが、これは實景である。
 去奈禮騰 ユクナレド。ナレは指定の助動詞。行くのだが。
 吾者左夫思惠 ワレハサブシヱ。サブシは、鬱々として樂しまない意の形容詞。假字書きの例には「竿梶母《サヲカヂモ》 無而佐夫之毛《ナクテサブシモ》」(卷三、二六〇)などあり、表意文字としては、不樂、不怜をサブシと讀んでいる。ヱは、感動の助詞。「愛倶流之衛《アクルシエ》」(日本書紀一二六)、「余能奈可波《ヨノナカハ》 古飛斯宜志惠夜《コヒシゲシヱヤ》」(卷五、八一九)、「吾持留《ワガモテル》 心者吉惠《ココロハヨシヱ》 君之隨意《キミガマニマニ》」(卷十一、二五三七)、「安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》 許登之許受登母《コトシコズトモ》」(卷十四、三四〇六)などの用例がある。ヨシヱヤシ、アナニヱヤなどのヱもこれである。
 君二四不在者 キミニシアラネバ。長歌の句を受けている。
(31)【評語】長歌の味郡の語を更に點出して、風景を見ても慰まない心を叙している。君ニシアラネバも長歌に用いた句である。ただ長歌では、人が多く往來するがわが思う君ではないと言い、この歌では、味群を用いながら用法の異なつている點は注意すべきである。長歌に比して、具體的に光景を敍しているので、よい歌となり、長歌もこの反歌を得て生きて來る。但し長歌では夜間の歌の如くであり、ここには山の端の味群を敍しているので、時間の矛盾があるのは、不統一の感がある。
 
487 淡海路《あふみぢ》の 鳥籠《とこ》の山なる 不知哉川《いさやがは》、
 日《け》のころごろは 戀ひつつもあらむ。
 
 淡海路乃《アフミヂノ》 鳥籠之山有《トコノヤマナル》 不知哉川《イサヤガハ》
 氣乃己呂其侶波《ケノコロゴロハ》 戀乍裳將v有《コヒツツモアラム》
 
【譯】淡海の國に往く道の鳥籠の山にある不知哉川よ、その名のように、さあこの長い月日を、戀いつつ居ることでしようか。
【釋】淡海路乃 アフミヂノ。アフミヂは、近江に向つて行く道であるが、ここでは作者は大和にあつて、遠く近江の國の地名を歌うので、この語を使用している。なお下の地名の條に述べる。
 鳥籠之山有不知哉川 トコノヤマナルイサヤガハ。「狗上之《イヌガミノ》 鳥籠山爾有《トコノヤマニアル》 不知也河《イサヤガハ》」(卷十一、二七一〇)の歌によつて、滋賀縣犬上郡であることが知られる。鳥籠の山は、阪田郡との郡境にある正法寺山だという。不知哉川は、その山から出る川であるが、その川の名のイサヤが、さあどうかとためらう意の語と同じ音韻なので、その意にこの川を呼び起したのである。以上三句は、イサヤというだけの意味を表示する。これは當時の歌いものなどに歌われていた句をそのままに使用したので、淡海路の語も冠せられたままに來ているのであろう。
 氣乃己呂其侶波 ケノコロゴロハ。ケは時。前出長きけのケに同じ。コロゴロは、コロを重ねている。コロ(32)は比で、この頃であるが、日ごろ、月ごろ、年ごろなどいい、ここはその語を重ねることによつて長い月日をあらわしている。年々、月々などいう言い方に準じてその意を知るべきである。ネモコロをネモコロゴロというのも、ことばは違うが、コロを重ねることによつて、その意を強くするものである。
 戀乍裳將有 コヒツツモアラム。戀をしつつもあるだろうの意。
【評語】非常に調子のよいなめらかさがあるのは、歌いものから來ているからであろう。三句までの序に地名を擧げて、その地名によつて、或る意味を表示する方法は巧みであつて、下に「眞野之浦乃《マノノウラノ》 與騰乃繼橋《ヨドノツギハシ》 情由毛《ココロユモ》 思哉妹之《オモヘヤイモガ》 伊目爾之所v見《イメニシミユル》」(卷四、四九〇)など、これと同じ方法である。齊明天皇の御製は、集中には、確實なものはないが、日本書紀には、皇孫建の王の薨去を悼まれた挽歌があり、やはり歌いものふうの歌で、しかも沈痛な作を留めている。次にこれを載せておく。
【參考】齊明天皇の御製。
  今城《いまき》なる小丘《をむれ》が上に雲だにもしるくし立たば何か歎かむ(一一六)
  射《い》ゆ鹿《しし》を繋《つな》ぐ川邊の若草の若くありきとわが思はなくに(一一七)
  飛鳥《あすか》川|水霧《みなぎら》ひつつ行く水の間《あひだ》も無くも思ほゆるかも(一一八)
  山越えて海渡るともおもしろき今城《いまき》の中《うち》は忘らゆましじ(一一九)
  水門《みなと》の潮《うしほ》のくだり海《うな》くだりうしろも暗《くれ》に置きてか行かむ(一二〇)
  うつくしきあが若き子を置きてか行かむ(一二一)
 
右今案、高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝、各有v異焉。但稱2崗本天皇1、未v審2其指1。
 
(33)右は今案ふるに、高市の岡本の宮、後の岡本の宮、二代二帝、各異なり。但し岡本の天皇といへる、いまだその指すところを審にせず。
 
【釋】右今案 ミギハイマカムガフルニ。以下は、題詞の條に述べたように、ただ岡本の天皇とのみあるは、高市の岡本の宮の天皇(舒明天皇)か、後の岡本の宮の天皇(齊明天皇)か、その指す所をあきらかにしないという、編者の注意である。
 
額田王、思2近江天皇1作歌一首
 
額田《ぬかだ》の王《おはきみ》の、近江《あふみ》の天皇《すめらみこと》を思《しの》ひまつりて作れる歌一首。
 
【釋】額田王 ヌカダノオホキミ。卷の一以下數出している。初め、天武天皇の皇子時代に召されて十市の皇女を生み、後、天智天皇の近江の大津の宮に召されたと考えられる。この歌はその頃の作であろう。
 思近江天皇 アフミノスメラミコトヲシノヒマツリテ。近江の大津の宮にましました天皇、すなわち天智天皇である。思は、シノフともオモフとも讀まれる。今思慕の義によつてシノフと讀む。
 
488 君待つと わが戀ひ居《を》れば、
 わが屋戸《やど》の 簾《すだれ》うごかし、
 秋の風吹く。
 
 君待登《キミマツト》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》
 我屋戸之《ワガヤドノ》 簾動之《スダレウゴカシ》
 秋風吹《アキノカゼフク》
 
【譯】君のお出でを待つと、戀しておりますと、わたくしの家の戸口の簾を動かして秋風が吹いています。
【釋】君待登 キミマツト。君は天智天皇。トは、トシテの意。
 吾戀居者 ワガコヒヲレバ。戀をしつつおれば。
(34) 我屋戸之 ワガヤドノ。ヤドは、家の戸口である。それに對してこの語が使用されるので、話者が屋内におれば、それを通じて屋外をもいい、屋外におれば、それを通じて屋内をもいうことになる。この歌では、戸口そのものをさしていう。そこに簾があるのである。
 簾動之 スダレウゴカシ。スダレは、簀垂れの義で、竹などで作つた簀を垂れる意である。「玉垂之《タマダレノ》 小簀之垂簾乎《ヲスノタレスヲ》 往褐《ユキガテニ》」(卷十一、二五五六)の如く、タレスともいう。ウゴカシは動クの使役法。動かして。
 秋風吹 アキノカゼフク。卷の八に重出したのに、秋之風吹とあるによつて、アキノカゼフクと讀む。
【評語】君を待てども君は來まさず、戸口のすだれの動くのをそれかと見れば、君ではなくて、いたずらに秋風が吹いて來たのであつた。そのさびしい失望の境地がよく描かれている。今日から見て極めて平易な語句で歌われていることも、偶然ではあろうが、すなおな純な氣特を感じさせる。千三百年に近い年數を經過したとも思われないほどの平易な歌である。以下二首は、卷の八の秋の相聞の初めに、やはりこの順序どおりに竝んで重出している。同一の資料から出たものを誤つて重ねて載せたのであろう。次に原文のままにこれを載せておく。
【參考】重出。
   額田王、思2近江天皇1作歌一首
  君待跡《キミマツト》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 我屋戸乃《ワガヤドノ》 簾令v動《スダレウゴカシ》 秋之風吹《アキノカゼフク》(卷八、一六〇六)
   鏡王女作歌一首
  風乎谷《カゼヲダニ》 戀者乏《コフルハトモシ》 風乎谷《カゼヲダニ》 將v來常思待者《コムトシマタバ》 何如將v嘆《ナニカナゲカム》(同、一六〇七)
 
鏡王女作歌一首
 
(35)鏡《かがみ》の王女《おほきみ》の作れる歌一首。
 
【釋】鏡王女 カガミノオホキミ。既出(卷二、九一)。藤原の鎌足の妻で、額田の王の姉と推定される。いかなる場合の歌とも記されていないが、卷の八にも、ここと同樣に額田の王の君待ツトの歌の次に竝べ擧げられていること、および歌意からして、額田の王の歌に應じて詠まれたもののようである。そうしてその時は、夫の鎌足の薨後であつたのであろう。鎌足は、天智天皇の八年十月十六日に薨じたから、その後の作と考えられる。
 
489 風をだに 戀ふるはともし。
 風をだに 來《こ》むとし待たば、
 何《なに》か嘆かむ。
 
 風乎太尓《カゼヲダニ》 戀流波乏之《コフルハトモシ》
 風小谷《カゼヲダニ》 將v來登時待者《コムトシマタバ》
 何香將v嘆《ナニカナゲカム》
 
【譯】風だけでも待ち戀うのはうらやましい。風だけでも來るだろうと待つならば、何も歎くことはないのだ。
【釋】風乎太尓 カゼヲダニ。ダニは、他の事は置いて、これだけはの意をあらわす助詞。動詞戀フは、助詞ニを受けるものであるが、この歌にあつては、第三句に、風ヲダニと重ね置く關係上、ヲを使用している。ニは方向を指示し、ヲは問題にする氣もちである。
 戀流波乏之 コフルハトモシ。トモシは、うらやましい。これは、前の額田の王の歌の秋ノ風吹クの句を受けて、それをうらやましいと言つているらしい。句切。
 風小谷 カゼヲダニ。初句と同じ句を操り返している。
 將來登時待者 コムトシマタバ。シは強意の助詞。
 何香將嘆 ナニカナゲカム。何をか嘆かむや、嘆くことはないの意に、上の條件法を受けている。風の如き(36)ものでも待つことが出來るならば嘆くことはないのだが、自分には、その風だけも待つことが惠まれないの意である。前に參考として掲げた齊明天皇の御製の歌中にもある句。そのほか、「眞直之有者《マナホニシアラバ》 何如將v嘆《ナニカナゲカム》」(卷七、一三九三)、「音谷聞《コヱダニキカバ》 何嘆《ナニカナゲカム》」(卷十、二二三九)、「人二《ヒトフタリ》 有年念者《アリトシオモハバ》 難可將v嗟《ナニカナゲカム》」(卷十三、三二四九)など使用されている。
【評語】一句と三句とに風をだにの句を用いて、姿を整えている。この形の歌の珍しいのは歌い方に根據をもたぬことを示している。二句で切れるのは、短歌の正格である。風よりも頼みがたい、人の世の無常を怨んでいる心がよくあらわれている。前の歌には人を待つて人の來なかつた寂寥が歌われているが、この歌になると、人を待つことだになし得ない絶望の悲痛の境地が歌われている。この内容からして、前の歌と關係のあること、および鎌足の薨後の作であることが確かめられる。
 
吹※[草がんむり/欠]刀自歌二首
 
吹※[草がんむり/欠]の刀自の歌二首。
 
【釋】吹※[草がんむり/欠]刀自 フブキノトジ。既出(卷一、二二)。卷の一の左註にも未詳とあるように、傳記の知られない人である。卷の一の歌は、天武天皇の御代の作である。ここの歌二首は、初めのは或る女子に贈り、次のは或る男子に贈つている。それがどういう人であり、またどういう關係にあるか、一切わからない。
 
490 眞野《まの》の浦の 淀の經橋《つぎはし》、
 情《こころ》ゆも 思へや、妹が
 夢《いめ》にし見ゆる。
 
 眞野之浦乃《マノノウラノ》 與騰乃經橋《ヨドノツギハシ》
 情由毛《ココロユモ》 思哉妹之《オモヘヤイモガ》
 伊目尓之所v見《イメニシミユル》
 
(37)【譯】眞野の浦淀の經橋のように、あなたが續けて心から思つているからか、わたしの夢に見えることです。
【釋】眞野之浦乃 マノノウラノ。眞野は諸國にあるが、これは多分今の神戸市内になつている眞野であろう、卷の三の二八〇にも見えている。その地もしくはその地よりも先に、妹と呼ばれる人がいたのであろう。「眞野浦之《マノノウラノ》 小管乃笠乎《コスゲノカサヲ》」(卷十一、二七七一)、「眞野池之《マノノイケノ》 小管乎笠爾《コスゲヲカサニ》」(同、二七七二)と續いて、問答とも見られる歌があり、浦とも池とも呼ばれる水面のあつたことが推考される。
 與騰乃繼橋 ヨドノツギハシ。ヨドは、水の停滞する處で、かの池とも呼ばれる水面の淀みである。ツギハシは、途中で板を繼いで渡した橋。水幅が廣くて、一枚の板ではまに合わない場合である。「安能於登世受《アノオトセズ》 由可牟古馬母我《ユカムコマモガ》 可都思加乃《カツシカノ》 麻末乃都藝波思《ママノヅギハシ》 夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》」(卷十四、三三八七)の用例がある。以上二句は譬喩で、上の不知哉川の歌のように、これをもつて、繼ぎての意をあらわすに用いている。
 情由毛思哉妹之 ココロユモオモヘヤイモガ。ココロユモは、心の中から、心の中を通してで、心から思うをいう。オモヘヤは、思うの已然形に疑問の係助詞ヤの接續したもの。ここは相手が心から思うゆえかの意になる。自分のこととしても解せられるが、ヤの語意からすれば、疑意が強いので、やはり相手のことであろう。イモは、婦人の愛稱で、この作者が、或る女性をさして妹と呼んでいる。婦人が他の婦人を妹と呼ぶことは多く例があり、これだけで、作者が男子であるとするのは誤りである。
 伊目尓之所見 イメニシミユル。イメは夢で、眠つていて見るからいうとされている。シは強意の助詞。上の係助詞ヤを受けてミユルと連體形をもつて結んでいる。妹が思うからか夢に見えるの意である。
【評語】眞野の浦は、作者たちに縁のある地名であろう。もしくは淀の繼橋まで、歌いものなどにあつて口馴れている句であるかも知れない。これをまず歌いあげたのは、體あるものを擧げて視覺を刺戟するものとして有效である。思えば夢に見えるとする、夢に對する信仰的な思想があつて、後半が出來ている。上二句と三句(38)以下との關係が、微妙に接續している歌である。次の歌によると、この歌は、ある男子の贈歌であるかもしれない。
 
491 河上《かはかみ》の いつ藻の花の
 何時《いつ》も何時《いつ》も 來《き》ませ、わが夫子、
 時じけめやも。
 
 河上乃《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》
 何時々々《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》
 時自異目八方《トキジケメヤモ》
 
【譯】河上に咲いている伊都藻の花のように、何時でもいらつしやい。あなた。來るべき時ではないということはございません。
【釋】河上乃 カハカミノ。カハノウヘノ(元)、カハカミノ(西)、カハノヘノ(改)。カハカミは、河の上流をいう。
 伊都藻之花乃 イツモノハナノ。イツモは、水草をいう。仙覺は嚴藻《イツモ》の義であるといい、眞淵は五百津藻《イホツモ》の略であるという。五百津を略してイツとはいわない。やはりさかんに茂つている藻の義とすべきである。この句は、次のイツの何時を引き出す序となつているが、參考としては、「道邊乃《ミチノベノ》 五柴原能《イツシバハラノ》 何時毛々々々《イツモイヅモ》 人之將v縱《ヒトノユルサム》 言乎思將v待《コトヲシマタム》」(卷十一、二七七〇)がある。このイツシバも、「美母呂能《ミモロノ》 伊都加斯賀母登《イツカシガモト》 賀斯賀母登《カシガモト》」(古事記九三)のイツカシと同樣の語構成とすれば、結局、仙覺の釋に近く、こんもりとした藻ということになるのであろう。ここの藻は、川藻であるから顯花植物を含むものとして、その花を取りあげている。以上二句。次句の序としている。
 何時々々 イツモイツモ。何時にてもの意を強調するために、同語を重ねている。「和加々都乃《ワガカヅノ》 以都母等夜奈枳《イヅモトヤナギ》 以都母々々々《イツモイツモ》 於母加古比須々《オモガコヒスス》 奈理麻之都之母《ナリマシツシモ》」(卷二十、四三八六)は、その假字書きの例である。
(39) 來益我背子 キマセワガセコ。マセは敬語の助動詞の命令形。ワガセコは、男子の愛稱であるが、何人に對しているとも知られない。
 時自異目八方 トキジケメヤモ。トキジは、その時にあらざる意をあらわし、形容詞に類した活用を有する特殊語で、既に卷の一、二六、卷の三、三八二等に出ている。ここはトキジケまでが、その語の活用形で、これも形容詞と同じく、未然形としてのこの形を有し、それに助動詞ムの已然形メ、更に反語の助詞ヤモが接續したものである。そこで、その時にあらずということなしの意をあらわしている。
【評語】これも調子のよい歌である。すべて同音聲を利用する技巧は、歌いものから來るのであつて、何か原據となつた歌謠がありそうに思われる。なおこの歌は、卷の十にも重出しているが、それには作者を記さず、春の相聞の問答の歌の答になつている。今次にその問答の雙方を出す。その文字使用法も、ここと大分同じ文字が使用されているのは、同一の資料から出たものであるかも知れない。
【參考】重出。
   問答
  梓弓《アヅサユミ》 引津邊有《ヒキツノベナル》 莫告藻之《ナノリソノ》 花咲及二《ハナサクマデニ》 不v會君毳《アハヌキミカモ》(卷十、一九三〇)
  川上之《カハカミノ》 伊都藻之花之《イツモノハナノ》 何時々々《イツモイツモ》 來座我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》(同、一九三一)
 
田部忌寸櫟子、任2大宰1時歌四首
 
田部の忌寸礫子の、大宰に任《ま》けられし時の歌四首。
 
【釋】田部忌寸櫟子 タベノイミキイチヒ。傳記未詳。最初の歌の作者舍人の吉年によつて、ほぼその時代が推測されるだけである。田部の忌寸は、後漢の靈帝の子孫と傳える。櫟子は、倭名類聚鈔果〓部に「櫟子、崔
 
(40)桂本斷簡〔写真省略〕
 桂本は、卷の四の後半が一卷として存在しているほかに、斷片となつて諸家に藏せられている。これはその斷片の一つである。作者の名を歌の下に小字で書いた原形が注意される。
 
禹食經(ニ)云(フ)、櫟子 上音歴、伊知比《イチヒ》 相似(テ)2於椎子(ヨリ)1者也」とある。今のドングリである。
 任大宰時歌 オホキミコトモチニマケラレシトキノウタ。大宰府の官人に任ぜられた時の歌の意であるが、何の官であるかはわからない。その時の歌で、初めの一首は舍人の吉年の作である。
 
492 衣手《ころもで》に 取りとどこほり
 哭《な》く兒にも、
 益《まさ》れるわれを 置きていかにせむ。
               舍人の吉年。
 
 衣手尓《コロモデニ》 取等騰己保里《トリトドコホリ》
 哭兒尓毛《ナクコニモ》
 益有吾乎《マサレルワレヲ》 置而如何將v爲《オキテイカニセム》
               舍人吉年
 
【譯】著物に取りすがつて泣く子ども以上に悲しがつているわたしを置いて、どうしたらよいのでしよう。
【釋】衣手尓 コロモデニ。コロモデはコロモに同じ。デは接尾語。
(41) 取等騰己保里 トリトドコホリ。トリは手に持つをいう。トドコホリは、取りすがつて抑え留めるをいう。「群島乃《ムラトリノ》 伊※[泥/土]多知加弖爾《イデタチガチニ》 等騰己保里《トドコホリ》 可敝里美之都々《カヘリミシツツ》」(卷二十、四三九八)の例があり、そこにもここと全く同じ文字が使用されているのは、この歌の文字によつたのであろう。以上二句は、次の哭く状態を説明している。
 哭兒尓毛 ナクコニモ。コは、幼兒をいう。母にすがつて泣く子にもの意である。
 益有吾乎 マサレルワレヲ。泣く兒にもまさつて悲しむ自分をの意。
 置而如何將爲 オキテイカニセム。さし置いて自分は如何にともすべき方がないの意。セムは、集中、イカニワレセムの句多く、自身の上にいう熟語句と考えられる。イカニセムの例も、「本名如此耳《モトナカクノミ》 戀者奈何將v爲《コヒバイカニセム》」(卷四、五八六)など多くある。
 舍人吉年 トネリノヨシトシ。天智天皇の大殯の時の歌(卷二、一五二)の下にも見え、それによつて、この歌の時代も、天智天皇、天武天皇の頃であることが知られる。次の歌によれば婦人であろう。なお卷の二のもここも題詞に名を擧げないで、歌詞の下に註しているのは、同一の資料から出たことを思わせる。
【評語】泣く兒の説明を具體的にしているのは有效である。作者は、田部の櫟子の妻であろうが、まだ若い人のようである。
 
493 置きて行かば 妹戀ひむかも。
 敷細《しきたへ》の 黒髪|布《し》きて
 長きこの夜を。 田部の忌寸櫟子。
 
 置而行者《オキテイカバ》
 妹將v戀可聞《イモコヒムカモ》
 敷細乃《シキタヘノ》 黒髪布而《クロカミシキテ》
 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》 田部忌寸櫟子
 
【譯】置いて行つたら、あなたは慕うだろうなあ。やわらかい黒髪を敷いて、この長い夜なのに。
(42)【釋】置而行者妹將戀可聞 オキテユカバイモコヒムカモ。前の舍人の吉年の歌を受けている。妹は吉年をさす。句切。
 敷細乃 シキタヘノ。枕詞。既にしばしば出ている。通例、袖、枕等に冠するのは、その物の材料を説明するものである。それより轉じて、手枕、手本に冠するのは、それらが敷栲《しきたえ》をまとつているからであろう。更に敷栲の家(卷三、四六〇)というのは、敷栲がやわらかく膚ざわりのよい物であるので、その性質から轉用したものと考えられる。今ここに黒髪敷キテに冠せられているのも、黒髪とのあいだに連想があり、同時に敷栲の衣を敷くことも、その用法の背景となつているものと考えられる。
 黒髪布而 クロカミシキテ。婦人の寢る時には、自然頭髪が敷かれる状態にあるのでいう。「夜干玉之《ヌバタマノ》 黒髪色天《クロカミシキテ》 長夜叫《ナガキヨヲ》 手枕之上爾《タマクラノウヘニ》 妹待覽蚊《イモマツラムカ》」(卷十一、二六三一)、「野干玉 《ヌバタマノ》 黒髪布而《クロカミシキテ》 人寐《ヒトノヌル》 味眠不v睡而《ウマイハネズテ》」(卷十三、三二七四)など歌われている。この句は、上の妹戀ヒムカモの句を修飾している。
 長此夜乎 ナガキコノヨヲ。この歌の贈答された時が秋冬の頃なので、コノヨと言つている。ヲは、なるものをの意。
 田部忌寸櫟子 タベノイミキイチヒ。以下三首の作者の名を註している。
【評語】置いて行く妻の夜の姿を描いている。敷栲ノ黒髪敷キテの句が、特に感覺的で、印象を強くしている。これがあるので、初二句の概念的な言い方が生きて來る。敷栲ノの用法は、理くつから言えば無理である。しかもその無理な形態において情熱が描寫される。古歌の理くつなしによい所以である。
 
494 吾妹子《わぎもこ》を 相知らしめし 人をこそ、
 戀のまされば 恨しみ念《おも》へ。
 
 吾味兒矣《ワギモコヲ》 相令v知《アヒシラシメシ》 人乎許曾《ヒトヲコソ》
 戀之益者《コヒノマサレバ》 恨三念《ウラメシミオモヘ》
(43)【譯】あなたをわたしに紹介した人を、戀が募《つの》るので恨めしく思うのです。
【釋】吾妹兒矣 ワギモコヲ。舍人の吉年をいう。
 相令知 アヒシラシメシ。アヒシラシメシ(元)、アヒシラセケム(西)、アヒシラセタル(童)。妻と自分とをたがいに知らしめた。媒介をした意である。
 人乎許曾 ヒトヲコソ。妻である舍人の吉年を自分に知るようにさせた人。媒介した人。コソは係助詞。
 戀之益者 コヒノマサレバ。插入の條件法で、主文は、人ヲ恨メシミ思フと續く。
 恨三念 ウラメシミオモヘ。第三句を受けて、人ヲウラメシミと續くので、人が恨めしいの意になる。コソを受けて、オモへと已然形に結ぶ。
【評語】戀がまさるので、却つて媒介した人を恨む。なまじ逢わなかつた方がよかつたという、かような心を詠んだ歌は多い。「中々にいかに知りけむわが山に燃ゆる煙のよそに見ましを」(卷十二、三〇三三)など、その一例である。
 
495 朝日影 にほへる山に 照る月の、
 厭《あ》かざる君を 山|越《ごし》に置きて。
 
 朝日影《アサヒカゲ》 余保敝流山尓《ニホヘルヤマニ》 照月乃《テルツキノ》
 不v※[厭の雁だれなし]君乎《アカザルキミヲ》 山越尓置手《ヤマゴシニオキテ》
 
【譯】朝日の光の華やかな山に照る月のように、飽きもしないあなたを、山の向こうに置いて、わたしは旅に出かけるのだ。
【釋】朝日影尓保敝流山尓 アサヒカゲニホヘルヤマニ。アサヒカゲは、朝日の光。ニホヘルは、花やかに色にあらわれるをいう。朝日が出ようとして山や山の端の雲などの染まつたのをいう。
 照月乃 テルツキノ。夜が明けて殘つた月である。以上序で、譬喩によつて、飽カザルを引き出している。
(44) 不※[厭のがんだれなし]君乎 アカザルキミヲ。厭は飽の意。キミは妻をいう。婦人に對して君ということは、大伴の家持が紀の女郎に贈つた歌に「打妙爾《ウツタヘニ》 前垣乃酢堅《マガキノスガタ》 欲v見《ミマクホリ》 將v行常云哉《ユカムトイヘヤ》 君乎見爾許曾《キミヲミニコソ》」(卷四、七七八)の如きがあるが、例はすくない。
 山越尓置手 ヤマゴシニオキテ。山のあなたに置いてで、この下に、吾は旅に行くとか、物思うだろうとかの意を省略している。
【評語】上三句の序は、極めて花やかで、朝日の光のもとに薄れ行く月光を描いているが、朝日影と照る月とには矛盾があり、故意にかような手段を用いたかとも考えられる。末句は中止した形に終つているのは、含みを感じさせる。
 
柿本朝臣人麻呂歌四首
 
【釋】柿本朝臣人麻呂歌四首 カキノモトノアソミヒトマロノウタヨツ。柿本の人麻呂は、卷の一以來しばしば出ている。この歌は、人麻呂が紀伊の國に旅行した際の作と考えられる。人麻呂が紀伊の國に行つたのは、二囘以上であり、その一囘は大寶元年十月の行幸の時であつた。その時は、まだ妻が死んでいなかつたようであつて、この歌は妻に贈つた歌であるから、その時の作であるかも知れない。四首のうち、前二首は人麻呂の作であるが、後二首は、妻の答えた歌であつて人麻呂の作ではない。この事については、なお、下の歌の條下に記す。
 
496 み熊野《くまの》の 浦の濱木綿《はまゆふ》、
 百重《ももへ》なす 心は念へど、
(45) 直《ただ》に逢はぬかも。
 
 三熊野之《ミクマノノ》 浦乃濱木綿《ウラノハマユフ》
 百重成《モモヘナス》 心者離v念《ココロハオモヘド》
 直不v相鴨《タダニアハヌカモ》
 
【譯】熊野の浦に生えている濱木綿の葉がかさなり合つているように、幾重にもかさなつている心は思うけれども、じかに逢わないことです。
【釋】三熊野之 ミクマノノ。ミは接頭語。熊野は紀伊の國の南方の地名。み吉野というに同じ語法である。
 浦乃濱木綿 ウラノハマユフ。ハマユフは、ヒガンバナ科の多年生草木。一名ハマオモト。葉がオモトのように重なつているので、この名がある。夏季、花莖を抽き出して、純白のほそい六瓣の花が叢《むら》がり咲く。その花が、コウゾの繊維を晒した木綿《ゆう》に類似しているのでハマユフという。元來熱帶植物であるが、その種子が漂著して、わが國南方の海岸に自生したのであり、熊野地方の特有とも見られるに至つた。以上二句、次の百重ナスの序となつている。これはその葉が百重にかさなるからである。
 百重成 モモヘナス。次の句の心を敍述説明している。心の種々の活動をするのを形容するのである。「吾戀者《ワガコヒハ》 夜晝不v別《ヨルヒルワカズ》 百重成《モモヘナス》 情之念者《ココロシオモヘバ》 甚爲便無《イタモスベナシ》」(卷十二、二九〇二)。
 心者雖念 ココロハオモヘド。心には思うけれども。
 直不相鴨 タダニアハヌカモ。タダニは、直接。じかに逢わないことだと嘆いている。
【評語】熊野に旅して、その海岸に咲いているハマユフを採つて、それに附けて贈つた歌である。恐らくは(46)人麻呂の妻も同じ行幸に持統太上天皇に供奉しており、やや離れていたのであろう。ありふれた内容を、序によつて清新に感じさせようとした歌である。後世の文學にしばしば見えるところの「み熊野の浦の濱木綿」の語は、この歌から出ている。集中、濱木綿を詠んだ歌は、この一首のみである。
【參考】類句、直にあはぬかも。
  青旗の木旗の上を通ふとは目には見れども直にあはぬかも(卷二、一四八)
  安太《あだ》人の魚梁《やな》うち渡す瀬をはやみ心は思へど直《ただ》にあはぬかも(卷十一、二六九九)
 
497 古《いにしへ》に ありけむ人も、
 わが如《ごと》か、
 妹に戀ひつつ 宿《い》ねがてずけむ。
 
 古尓《イニシヘニ》 有兼人毛《アリケムヒトモ》
 如v吾歟《ワガゴトカ》
 妹尓戀乍《イモニコヒツツ》 宿不v勝家牟《イネガテズケム》
 
【譯】昔居たという人も、自分のように、妻に戀いつつ、眠りかねたことであろうか。
【釋】古尓有兼人毛 イニシヘニアリケムヒトモ。作者と同じ境遇に置かれた古人を想像している。イニシヘは、去にし方の義であるが、本集では自分の經歴についても言つている。「古家丹《イニシヘニ》 妹等吾見《イモトワガミシ》 黒玉之《ヌバタマノ》 久漏牛方乎《クロウシガタヲ》 見佐府下《ミレバサブシモ》」(卷九、一七九八)の如き、その例である。ここに古ニアリケム人というのは、漠然と前代の人をさしているか、その人とさすのがあるかは不明であるが、答の歌から言えば、後者らしくも思われる。
 如吾歟 ワガゴトカ。わが如くにかで、カは疑問の係助詞。その上の詞句の内容について疑つている。
 妹尓戀乍 イモニコヒツツ。戀フは、人に關する語を受ける場合は助詞ニによつて受ける例である。
 宿不勝家牟 イネガテズケム。上の「寐宿難爾登《イネガテニト》」(四八五)參照。イは睡眠。ネはその動詞。熟してイヌとして使用されている。ズは打消。ケムは過去推量の助動詞。上のカを受けて結んでいる。
(47)【評語】この歌、前にもいうように、旅中展轉して眠りがたく、この地に旅した古人を思うて一首をなしたと見るべきものであるが、しかしもとより古人を材料として作者の思いを述べたもので、古人はただ道具に使われただけである。しかもその古人は、相手の女の前の男であつたかもしれない。
【參考】一、類型。
  いにしへにありけむ人もわが如か三輪の檜原《ひばら》に插頭《かざし》折りけむ(卷七、一一一八人麻呂集)
 二、類句、古にありけむ人。
  古にありけむ人の、倭文幡《しつはた》の帶解き替へて、庵屋《ふせや》立て妻どひしけむ、勝壯鹿《かつしか》の眞間の手兒名が(下略、卷三、四三一)
  古にありけむ人の覓《もと》めつつ衣に摺りけむ眞野の榛原(卷七、一一六六)
 
498 今のみの わざにはあらず。
 古《いにしへ》の 人ぞ益《まさ》りて
 哭《ね》にさへ泣きし。
 
 今耳之《イマノミノ》 行事庭不v有《ワザニハアラズ》
 古《イニシヘノ》 人曾益而《ヒトゾマサリテ》
 哭左倍鳴四《ネニサヘナキシ》
 
【譯】今のみの事ではありません。昔の人は、あなたにもまさつて、聲に出して泣いたことです。
【釋】今耳之行事庭不有 イマノミノワザニハアラズ。かく戀いつつ、眠りをしかねるのは、今のみの事ではない。ワザは、しわざ、行爲。句切。
 古人曾益而 イニシヘノヒトゾマサリテ。古人は今にも益さつて。この句、前の歌を受けていると見られるが、その古の人というは、特定の人をさすかどうかは問題である。下文に作者の知つている事のように歌つているのは、昔なじみの人を、イニシヘ人と言つたとも考えられる。
(48) 哭左倍鳴四 ネニサヘナキシ。ネは泣くことの名詞で、ナクはその動詞である。あたかもイ(睡眠)とヌル(睡る)との關係に似ている。イヲヌルに對してネニナク、イヌルに對してネナクという。(イヌルのイは接頭語とも取れる)。聲に出してさえ泣いたことである。上の人ゾのゾを受けて、泣キシという。シは過去をあらわす助動詞。
【評語】以下二首の歌は、前二首の歌に對する妻女の返歌である。人麻呂とその妻と歌を贈答したことは別に例がある。人麻呂歌集の中にも、女子の作と見えるのがあるので問題となつている。この歌の意、君は戀をしつつ寢かねたというが、それは今のみの事でなく、古人は君にも益さつて音にも出して泣いたと答え言うのである。前の歌に古ニアリケムというのを受けて、同語をもつて返したのである。人麻呂の作として作者自身が古人の方が増つているというのでは、意味をなさない。なおこれによつて題詞に人麻呂作歌とあるものの中に、婦人の作がはいつていることが知られ、人麻呂歌集との性質上のこの相違點がなくなるのである。
 
499 百重《ももへ》にも 來及《きし》かぬかもと
 念《おも》へかも、
 公《きみ》が使の 見れど飽かざらむ。
 
 百重二物《モモヘニモ》 來及毳常《キシカヌカモト》
 念鴨《オモヘカモ》
 公之便乃《キミガツカヒノ》 雖v見不v飽有武《ミレドアカザラム》
 
【譯】度重ねても來續けと思えはでしようか、君の使が見れども飽きないのでしよう。
【釋】百重二物 モモヘニモ。幾重にも、重ね重ね。使の來る状態を百重にもあれと希望するのである。
 來及毳常 キシカヌカモト。キオヨベカモト(元)、キシケカモト(代精)、キカヨヘカモト(改)、シキシケガモト(考)、キタリシケカモト(玉)、キシカヌカモト(古義)。かように諸訓があるが、古義の訓がよい。シクはあとから續き至る意。追ヒ及《し》ク、イヤ及《し》キ鳴クなどいう。來及カヌカは、來續かないか、續けよの意。モ(49)は感動の助詞。毳は、毛の席で和名カモというので、借り用いた字。原文、來及毳常とあり、ヌに當る字がなくてキシカヌカモトと讀むのは例が多い。「青角髪《アヲミヅラ》 依網原《ヨサミノハラニ》 人相鴨《ヒトモアハヌカモ》」(卷七、一二八七)、「霍公鳥《ホトトギス》 雖v聞不v飽《キケドモアカズ》 又鳴鴨《マタナカヌカモ》」(卷十、一九五三)、「霍公鳥《ホトトギス》 來居裳鳴香《キヰモナカヌカ》」(同、一九五四)、「我告來《ワレニツゲコム》 人來鴨《ヒトモコヌカモ》」(卷十一、二三八四)、「今日《ケフノヒノ》 如2千歳1《チトセノゴトク》 有與鴨《アリコセヌカモ》」(同、二三八七)、「如是爲乍《カクシツツ》 吾待印《ワガマツシルシ》 有鴨《アラヌカモ》」(同、二五八五)、「物念此夕《モノオモフコヨヒ》 急明鴨」《ハヤモアケヌカモ》(同、二五九三)等の例がある。以上のうち、三例は、人麻呂集所出の歌である。人麻呂集は、文字を少なくして書いているので、かようなヌをも儉約したのであろうが、今の百重ニモの歌も或るいは人麻呂集から出ているのであろう。
 念鴨 オモヘカモ。カモは疑問の係助詞。思えばかの意。
 公之使乃 キミガツカヒノ。キミは男子にも女子にも使うが、原文に公と書いているのは、男子をさすことを示す。
 雖見不飽有武 ミレドアカザラム。君の使を何ほど見ても飽きないであろうことは、わが心に、君が使の百重にも來繼がぬかと思えばであろうかの意である。
【評語】前の歌の評語に記したように、この歌も、人麻呂の歌に對する女の返歌と見るべきである。人麻呂が旅先から、濱木綿につけて二首の歌を贈つた。それに對して女が答歌をしたのである。前の歌は、古ニアリケム人その歌に對し、この歌は、百重ナスの歌に對し、それぞれ贈られた歌の詞を取つて返している。この妻は才媛であつたと考えられる。前の歌で、一往、古の人の方が烈しく戀をしたと人麻呂の言を仰えておいて、この歌では君の便がもつと來ればよいと歌つている。緩急自由な點が、注意をひく。これをすべて人麻呂の作としては、意をなさぬのみでなく、歌の生命をも感得することができなくなるのである。
 
(50)碁檀越、往2伊勢國1時、留妻作歌一首
 
碁の檀越の、伊勢の國に往きし時に、留まれる妻の作れる歌一首。
 
【釋】碁檀越 ゴノタニオチ。傳未詳。碁は氏、檀越は名であろうか。卷の九、一七三二の題詞に、碁師とある。但しそれは基師に作つている本もあり、その方がよいようだ。
 往伊勢國時 イセノクニニユキシトキニ。何時何事のために行つたとも知られない。
 留妻 トドマレルメノ。大和に留まつていたのであろう。この妻なる人も何人とも知られない。
 
500 神《かむ》風の 伊勢の濱|荻《をぎ》 折り伏せて
 旅|宿《ね》やすらむ。
 荒き濱邊に。
 
 神風之《カムカゼノ》 伊勢乃濱荻《イセノハマヲギ》 折伏《ヲリフセテ》
 客宿也將v爲《タビネヤスラム》
 荒濱邊尓《アラキハマベニ》
 
【譯】神風の吹く伊勢の海岸の荻を折り伏せて、旅宿をしていることでしよう。あの荒い濱邊で。
【釋】神風之 カムカゼノ。既出(卷一、八一)。枕詞。ここでは、旅行地の風に心を寄せて、この句を利かせている。
 伊勢乃濱荻 イセノハマヲギ。伊勢の國の濱邊に生えている荻。荒涼たる海岸を描いている。攷證にいう。「長明無名抄云、萬葉のいせの濱をぎとよめるは、荻にはあらず。葦をかの國には濱荻とはいひならはせり云云などあるよりこのかた、蘆を伊勢にて、はま荻といふことと心得るは誤り也。これ、長明のころより、ふと出來たる俗説なり。大治三年九月住吉社歌合に、兼昌入道、よさのうらに一むら立る濱荻のまたたぐひなき戀もする哉。神祇伯顯仲判歌に、汀なるしほあしにまがふ濱荻はよしとぞ見ゆるよさのうら人云々など、鹽蘆に(51)まがへる濱荻は、蘆の如く見ゆるよしよまれたるにても、この大治のころまでは、一物とはせざりしをしるべし。さればたゞ濱に生たる荻を濱荻とはいふなり。これ濱の松をはまゝつといへる類也」。
 折伏 ヲリフセテ。濱邊に寢るので、自然荻を折り伏せもするのである。以上客宿りをする状態を推量して説明している。
 客宿也將爲 タビネヤスラム。タビネは、旅にありて宿ること。ヤは疑問の係助詞。句切。
【評語】旅に出た夫の宿る樣を推量しているが、それが具體的に描かれているので、すぐれた歌となつている。濱邊の荒涼たる光景がよく描かれている。末句に、荒キ濱邊ニと補足した言い方も、集中點をあきらかにして效果的である。
 
柿本朝臣人麻呂歌三首
 
【釋】柿本朝臣人麻呂歌三首 カキノモトノアソミヒトマロノウタミツ。柿本の人麻呂がその妻に與えた歌三首である。どのような時の歌とも知られないが、内容から推測するに同時の作ではないであろう。
 
501 孃子等《をとめら》が 袖|布留《ふる》山の 瑞籬《みづがき》の、
 久しき時ゆ 思ひき、吾は。
 
 未通女等之《ヲトメラガ》 袖振山乃《ソデフルヤマノ》 水垣之《ミヅガキノ》
 久時從《ヒサシキトキユ》 憶寸吾者《オモヒキワレハ》
 
【譯】孃子等が袖を振るという、その布留の御社の神垣のように、久しい時のあいだ、わたしは思つておりました。
【釋】未通女等之 ヲトメラガ。未通女は、未婚者の義であるが、ヲトメの語は、婚姻の有無を問題としていない。このラは、多數を意識していない。
(52) 袖振山乃 ソデフルヤマノ。孃子らが袖を振ると言い、さて布留山の序としている。布留山は大和の國山邊郡|石《いそ》の上の布留《ふる》の御魂《みたま》の神社で、今、石上神宮という。柿本氏の本居に近いところである。こういう序の形で、布留に續けたのは、「登能雲入《トノグモリ》 雨零川《アメフルカハ》」(卷十二、三〇一二)、「石上《イソノカミ》 袖振川《ソデフルカハ》」(同、三〇一三)などの例がある。孃子が袖をふるのは、手を振ることであり、合圖のために、また舞う時などにする。ここは神樂を舞うことを考えているのであろう。
 水垣之 ミヅガキノ。ミヅガキは、生々とした若さを持つ垣で、樹木の垣をいう。以上三句は、次の久しと言うための序である。神宮は、遠い古代から鎭座しているので、久しを引き起している。
 久時從 ヒサシキトキユ。永い間。ユは、その間を通してで、久しい間じゆうの意である。「天離《アマザカル》 夷之長道從《ヒナノナガヂユ》 戀來者《コヒクレバ》」(卷三、二五五)などのユの用法に同じ。
 憶寸吾者 オモヒキワレハ。吾ハ思ヒキの意であるが、主語を文末に置いてある。
【評語】上三句は序であるが、その中にもまた序を含んでいて、二重になつている。このような技法は、藤原の宮の役民の歌(卷一、五〇)などにも見える。まず孃子らが袖をふると花やかなことを述べ、轉じて布留の社の久しくして神秘なことをいい、再轉して主題を敍している。相聞の歌として、技巧によつて相手の心を引こうとしている。巧妙をつくした歌というべきである。この歌、卷の十一に出て、それには、初句、孃子ラヲ、五句、思ヒケリ吾ハとしている。孃子ラヲは、孃子に對して袖を振るの意とすれば、それも一手段であるが、もし孃子ラヲ思ヒケリと續く文脈であるとすれば、中間に長い句をおいたのが手段である。
【參考】一、別傳。
  處女等乎《ヲトメラヲ》 袖振山《ソデフルヤマノ》 水垣《ミヅガキノ》 久時由《ヒサシキトキユ》 念來吾等者《オモヒケリワレハ》(卷十一、二四一五)
 二、類句。
(53)  ※[木+若]垣《ミヅガキノ》の久しき時ゆ戀すればわが帶|緩《ゆる》ぶ朝夕ごとに(卷十三、三二六二)
 
502 夏野《なつの》行く 牡鹿《をじか》の角《つの》の、
 束《つか》の間《ま》も、
 妹が心を 忘れて念《おも》へや。
 
 夏野去《ナツノユク》 小壯鹿之角乃《ヲジカノツノノ》
 束間毛《ツカノマモ》
 妹之心乎《イモガココロヲ》 忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
【譯】夏野を行く牡鹿の角の短い、そのちよつとのあいだも、妹の心を忘れましようや、忘れはしません。
【釋】夏野去小壯鹿之角乃 ナツノユクヲジカノツノノ。以上束の間というための序。鹿の角は、夏の初めに落ちて、その生い代わつたのがまだ短いので、束の間にかけていう。
 束間毛 ツカノマモ。ツカは古代の寸法の單位で、物の長さを計るに、手指にて握つて計つたによつていう。七束、八束、九束、十束など、相當の長さにいう。マはあいだで、ツカノマは極めて短い時間をいう。
 妹之心乎 イモガココロヲ。妻の、自分に對する心をで、それはもちろん好意である。
 忘而念哉 ワスレテオモヘヤ。忘レテ思フは、忘れ去ることをいう。思フは、忘れるが心理現象だから、添えていう。「一日母君乎《ヒトヒモキミヲ》 忘而將念《ワスレテオモハム》」(卷六、九四七)。オモヘヤは已然形に反語のヤの添つたもので、思おうや思わないの意となる。忘レテ思ヘヤは、忘れようや忘れはしないである。今忘れていない意である。忘レテヤというと、これから先將來かけて忘れない意になるが、ここには將來を意味する助動詞ムのないことに注意すべきである。「萬代爾《ヨロヅヨニ》 過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》」(卷二、一九九)、「片絲爾雖有《カタイトニアレド》 將絶跡念也《タエムトオモヘヤ》」(卷七、一三一六)など、思ヘヤの用例である。變わつた形では「伎美波和須良酒《キミハワスラス》 和禮和須流禮夜《ワレワスルレヤ》」(卷十四 三四九八)の如きがある。
【評語】夏の野を走る壯鹿の輕快な姿を描いて序としている。相聞の歌における常用手段として、序の用法がいかにもあざやかである。
 
(54)503 珠衣《たまぎぬ》の さゐさゐしづみ、
 家の妹に もの言はず來て
 思ひかねつも。
 
 珠衣乃《タマギヌノ》 狹藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》
 家妹尓《イヘノイモニ》 物不v語來而《モノイハズキテ》
 思金津裳《オモヒカネツモ》
 
【譯】美しい衣裳のさわさわと衣摺れの音もしなくなつて、家の妻に物を言わないで來て、思いに堪えないことである。
【釋】珠衣乃 タマギヌノ。舊訓タマギヌノであつたが、萬葉考以來、多くは、卷の十四の別傳に、安利伎奴乃とあるによつて、アリギヌノと讀んでいた。しかし珠衣をアリギヌと讀むべき筋はないから、太居宣長の「玉勝間」に從つて、タマギヌノと讀む。玉は玉裳と同じく、美《ほ》めていう詞。美《ほ》めているのであるから、妻の衣裳についていうことはあきらかで、從つて次の句も妻の行動である。
 狹藍左謂沈 サヰサヰシヅミ。サヰサヰは、潮騷《しほさゐ》などのサヰと同語であろうが、ここでは疑聲音として使用されている。このサヰが、動詞となつてサワクができたものと考えられる。ちようど、「由良能斗能《ユラノトノ》 斗那賀能伊久理爾《トナカノイクリニ》 布禮多都《フレタツ》 那豆能紀能《ナヅノキノ》 佐夜佐夜《サヤサヤ》」(古事記七五)のサヤサヤが、動詞サヤグを構成すると同樣であろう。シヅミは動詞で、珠衣の發するサヰサヰの音が靜まつての意と解せられる。
 家妹尓 イヘノイモニ。イヘノイモは妻をいう。同棲していたらしい。
 物不語來而 モノイハズキテ。物をいわないで來て。慰めるすべもなく別れて來て。
 思金津裳 オモヒカネツモ。カネは得ざる意であるが、ここは思いに耐え得ずの意となる。「遊布麻夜萬《ユフマヤマ》 可久禮之伎美乎《カクレシキミヲ》 於母比可禰都母《オモヒカネツモ》」(卷十四、三四七五)の如きこれである。
【評語】多分作者は旅などに出たのであろう。そうして門出の樣を追憶しているが、妻の状態を美しい語を使(55)つて印象的に描寫しているのがよい。この歌は別傳として東歌の中にもはいつているが、偶然でないような氣がする。それは東國の歌にしばしば見られる鋭い描寫がされているのである。
【參考】一、別傳。
  安利伎奴乃《アリギヌノ》 佐惠々々之豆美《サヱサヱシヅミ》 伊敝能伊母爾《イヘノイモニ》 毛乃伊波受伎爾弖《モノイハズキニテ》 於毛比具流之母《オモヒグルシモ》  柿本朝臣人麻呂歌集中出 見v上已訖也。(卷十四、三四八一)
 二、類句。
  水鳥の立たむよそひに妹のらに物言はず來にて思ひかねつも(卷十四、三五二八)
  水鳥の立ちのいそぎに父母に物言はず來にて今ぞ悔しき(卷二十、四三三七)
 
柿本朝臣人麻呂妻歌一首
 
【譯】柿本朝臣人麻呂妻 カキノモトノアソミヒトマロガメ。人麻呂の妻のことは、卷の二の、石見の國より妻に別れて上京する時の歌妻の死にし後の歌などにおいて述べた。前後あつた中に、ここのは、その前の妻で、この卷に既に見えた人麻呂の作品に詠まれている人と考えられる。この人は、多分大和の輕の地の出身であろう。持統天皇に仕えた才人で、人麻呂よりも先に死んだ。この歌の作られた事情は記されていないが、歌意から考えると、持統天皇の東方の國への行幸に御供して詠んだものであろう。それは持統天皇の六年三月の伊勢の國への行幸の時のことか、大寶二年の參河の國へ幸せられた時のことか、不明である。
 
504 君が家に われ住坂《すみざか》の 家道《いへぢ》をも
 われは忘れじ。
(56) 命死なずは。
 
 君家尓《キミガイヘニ》 吾住坂乃《ワレスミサカノ》 家道乎毛《イヘヂヲモ》
 吾者不v忘《ワレハワスレジ》
 命不v死者《イノチシナズハ》
 
【譯】あなたのお家にわたくしは住みつきますが、その墨坂を通つて家に歸る路をば、わたくしは決して忘れません、死なない限りは。
【釋】君家尓吾住坂乃 キミガイヘニワレスミサカノ。キミガイヘニワレスミサカノ(元)、キミガイヘニワガスムサカノ(金)、キミガイヘニワガスミサカノ(類)。君ガ家ニ吾までは、住というための序である。當時この人は、人麻呂の家にいたか、またはまもなく住むことになつていたのであろう。住坂は、奈良縣宇陀郡の地名で、藤原の京から東方に當り、歸路の要衝に當る。神武天皇の大和平定の時に、賊が炭火を置いたという傳説地である。
 家道乎毛 イヘヂヲモ。イヘヂは、自分のいる處から、家に向かつて行く道をいう。この家は、上の君ガ家を受けて、人麻呂の家である。
 吾者不忘 ワレハワスレジ。下に命死ナズハの未然條件法があるから、それを受けて、忘レジと讀む。句切。
 命不死者 イノチシナズハ。上の吾は忘レジに對して條件法となつている。命のある限りは。
【評語】旅先から人麻呂に贈つた歌と解せられる。從來の註釋は、人麻呂の妻の境涯について知る所が乏しかつたので、この歌を誤解していた。實際の事情を序に利用している。才氣があつて、しかも落ちついたよい歌である。相當の年輩に達した、理性の發達した人であつたことが推測される。
 
安倍女郎歌二首
 
【釋】安倍女郎 アベノヲミナ。卷の三、二六九の題詞、また下にも見える阿倍の女郎と同人か。氏名の文字(57)は、種々の文字を當てて書いておつて、かならずしも一定していなかつた。同人とすれば下に中臣の東人と贈答した歌があり、この歌もその人に對して歌つているであろう。
 
505 今更に 何をか念《おも》はむ。
 うち靡く こころは君に
 縁りにしものを。
 
 今更《イマサラニ》 何乎可將v念《ナニヲカオモハム》
 打靡《ウチナビク》 情者君尓《ココロハキミニ》
 縁尓之物乎《ヨリニシモノヲ》
 
【譯】今更何も思うことはございません。風のまにまに動くやわらかい心は、あなたに寄つてしまいましたものを。
【釋】今更何乎可將念 イマサラニナニヲカオモハム。今特に何も思うことはないの意。句切。
 打靡 ウチナビク。ウチナビキとも讀まれているが、「宇知奈妣久 《ウチナビク》 許己呂毛之努爾《ココロモシノニ》」(卷十七、三九九三)の例によつて、ウチナビクと讀む。心の柔軟性を説明した句で、風などのために靡くようなやわらかい心の意である。次句の情を修飾している。
 情者君尓縁尓之物乎 ココロハキミニヨリニシモノヲ。心が君に傾注して、君をのみ思うに至つたことをいう。モノヲは、ものだがの意。
【評語】純粹な心をもつて君を思う情をよく表現している。一見平凡なようで、しかも味のある歌である。
 
506 わが夫子《せこ》は 物《もの》なおもほし。
 事《こと》しあらば、
 火《ひ》にも水《みづ》にも 我《われ》なけなくに。
 
 吾背子波《ワガセコハ》 物莫念《モノナオモホシ》
 事之有者《コトシアラバ》
 火尓毛水尓毛《ヒニモミヅニモ》 吾莫七國《ワレナケナクニ》
 
(58)【譯】あなた樣は御心配遊ばしますな。もし事件がありましたならは、火にもせよ、水にもせよ、わたくしという者がございます。
【釋】吾背子波 ワガセコハ。ワガセコは、作者の夫であろう。後出の阿倍の女郎と同人とすれば中臣の東人か。
 物莫念 モノナオモホシ。モノは、或る事を漠然とさす。ナは禁止の助詞。オモホシは思うの敬語法の連用形。物思うことなかれの意。句切。
 事之有者 コトシアラバ。コトは事件。シは助詞。何か事があつたら。困難な事件の發生が豫想されているらしい。
 火尓毛水尓毛 ヒニモミヅニモ。困難な事件の譬喩として火と水とを擧げている。火の場合でも水の場合でもの意。
 吾莫七國 ワレナケナクニ。既出。「吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》」(卷一、七七)參照。形容詞無シの活用形ナケに、無いことの意のナクが按續したもの。打消が二重になつて、有ることを強調する。
【評語】君と共にならば水火を辭せずという強い意志が歌われている。集中でも婦人の歌として稀に見る強さである。なお婦人の歌としては、君がためには刀刃をも辭せずという歌もある。
  劔刀|諸刃《もろは》の利《と》きに足踏みて死《しに》にし死なむ公に依りては(卷十一、二四九八、人麻呂集)
  劔刀諸刃の上に行き觸れて死にかも死なむ戀ひつつあらずは(同、二六三六)
【參考】一、類型。
  わが大君物な念ほし、皇神《すめがみ》の繼《つ》ぎてたまへるわれ無けなくに(卷一、七七)
 二、類想。
(59)  事しあらば小泊瀬《をはつせ》山の石城《いはき》にも籠《こも》らば共にな思ひわが夫(卷十六、三八〇六)
  言痛《こちた》けば小泊瀬山の石城にも率《ゐ》て籠らむ、な戀ひそ我妹(常陸國風土記)
 
駿河※[女+采]女歌一首
 
【釋】駿河※[女+采]女 スルガノウネメ。駿河の國から來た采女であろう。卷の八にも歌があるほか、傳記未詳。※[女+采]女の字面は既出(卷一、五一)。
 
507 敷細《しきたへ》の 枕ゆくくる 涙にぞ
 浮宿《うきね》をしける。
 戀の繁きに。
 
 敷細乃《シキタヘノ》 枕從久々流《マクラユククル》 涙二曾《ナミダニゾ》
 浮宿乎思家類《ウキネヲシケル》
 戀乃繁尓《コヒノシゲキニ》
 
【譯】柔らかい枕から漏れる涙の中に浮宿をしました。戀の繁くあるために。
【釋】敷細乃 シキタヘノ。既出。枕詞。
 枕從久々流 マクラユククル。ククルは、漏れ出る意。「集(マル)2御刀之手上《ミハカシノタガミニ》1血、自《ヨリ》2手俣《タナマタ》1漏出《クキイデ》、所v成《ナリマセル》神(ノ)名訓(ミテ)v漏(ヲ)云(フ)2久伎《クキト》1」(古事記上卷)、「、自《ヨリ》2手俣《タナマタ》1久岐斯子也《クキシコナリ》」(同)などあり、また本集に「波流乃野能《ハルノノノ》 之氣美登妣久々《シゲミトビクク》 鶯《ウグヒスノ》 音太爾伎加受《コヱダニキカズ》」(卷十七、三九六九)とある四段活用の動詞ククをもととして、ラ行に活用したもので、これも四段に活用したようであるが、これは水についてのみ使つている。なお「伊波具久留《イハグクル》 水都爾母我毛與《ミヅニモガモヨ》」(卷十四、三五五四)の例もある。枕を通つて漏れ出るの意で、次句の涙を修飾している。
 涙二曾 ナミダニゾ。ゾは係助詞。
 浮宿乎思家類 ウキネヲシケル。水鳥などの水に浮いたまま寢るのをウキネという。そのように涙が多量で、(60)その上に浮宿をしたというのである。ゾを受けて、ケルと結んでいる。句切、「吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀爾可有牟《コフレニカアラム》 奥爾住《オキニスム》 鴨之浮宿之《カモノウキネノ》 安雲無《ヤスケクモナシ》」(卷十一、二八〇六)。
 戀乃繁尓 コヒノシゲキニ。戀が多量であるためにの意。シゲキは、戀の引き續いてある形容である。
【評語】涙が多くてその中に浮宿をしたというのは、誇張であつて、浮華な表現である。かような誇張は、歌の墮落である。涙のために枕が濡れる、黒髪が濡れるの程度に歌うべきであつた。
 
三方沙弥歌一首
 
【釋】三方沙弥 ミカタノサミ。既出(卷二、一二三)。卷の二では、園の生羽の女を娶つて歌を詠んでいる。これも同じ人に對してであろうか。
 
508 衣手《ころもで》の 別く今夜《こよひ》より、
 妹も吾も いたく戀ひむな。      
 逢ふよしを無み。
 
 衣手乃《コロモデノ》 別今夜從《ワクコヨヒヨリ》
 妹毛吾母《イモモワレモ》 甚戀名《イタクコヒムナ》
 相因乎奈美《アフヨシヲナミ》
 
【譯】袖を分つて別れる今夜から、あなたもわたしも、ひどく戀うことだろう。逢うすべがなくして。
【釋】衣手乃別今夜從 コロモデノワクコヨヒヨリ。コロモデノワカルルヨヨリ(桂)、コロモデヲワクコヨヒヨリ(元墨)、コロモデノワクコヨヒヨリ(西)、コロモデノワカルコヨヒユ(代精)、コロモデノワカレシヨヨリ(改)。衣服が別れるということで、二人の別れることをあらわしている。ワクは、通例區別する意に使用されているが、「都由思母能《ツユシモノ》 奴禮弖和伎奈婆《ヌレテワキナバ》 汝者故布婆曾母《ナハコフバソモ》」(卷十四、三三八二)の如き用例もあり、このワキナバは、我來なばの義とする説もあるが、それは無理で、なおワクに別れるの用法ありとすべきである。(61)衣が別れる今夜から以後はの意。
 妹毛吾母 イモモワレモ。妻と自分とを竝べ擧げている。
 甚戀名 イタクコヒムナ。ナは感動の終助詞。「蘇良波由賀受《ソラハユカズ》 阿斯用由久那《アシヨユクナ》」(古事記三六)、「家爾之弖《イヘニシテ》 吾者將v戀名《ワレハコヒムナ》」(卷七、一一七九)、「留居而《トマリヰテ》 吾者將v戀奈《ワレハコヒムナ》 不v見久有者《ミズヒサナラバ》」(卷九、一七八五)などの用例がある。句切。
 相因乎奈美 アフヨシヲナミ。逢う方法がなくて。ヨシは、素因、所由。逢うを得る因縁である。
【評語】別れの歌として通常の内容を盛つている。表現にも格別のことはない。
 
丹比眞人笠麻呂、下2筑紫國1時作歌一首 并2短歌1
 
丹比の眞人笠麻呂の、筑紫の國に下りし時に作れる歌一首。【短歌并はせたり。】
 
【釋】丹比眞人笠麻呂 タヂヒノマヒトカサマロ。既出(卷三、二八五)。傳未詳。筑紫の國に下つた時の事情も不明である。海路、筑紫に赴いている。
 
509 臣《おみ》の女《め》の 匣《くしげ》に乘れる
 鏡なす 御津《みつ》の濱邊に、
 さにつらふ 紐解き離《さ》けず
 吾妹子に 戀ひつつをれば、
 明闇《あけぐれ》の 朝霧|隱《がく》り
(62) 鳴く鶴《たづ》の 哭《ね》のみし泣かゆ。」
 わが戀ふる 千重の一重も
 慰《なぐさ》もる 情《こころ》もありやと、
 家のあたり わが立ちみれば、
 青旗《あをはた》の 葛城《かづらき》山に
 棚引ける 白雲隱る。」
 天《あま》さがる 夷《ひな》の國邊に
 直《ただ》向かふ 淡路を過ぎ、
 粟島を 背向《そがひ》に見つつ、
 朝なぎに 水手《かこ》の聲|喚《よ》び、
 夕なぎに 楫《かぢ》の音しつつ、
 浪の上を い行きさぐくみ、
 磐《いは》の間《ま》を い往き廻《もとほ》り、
 稻日都麻《いなびつま》 浦《うら》みを過ぎて、
 鳥じもの なづさひ行けば、
 家の島 荒礒《ありそ》の上に
 うち靡き 繁《しじ》に生ひたる
(63) 莫告藻《なのりそ》が、何《な》どかも妹に
 告《の》らず來にけむ。」
 
 臣女乃《オミノメノ》 匣尓乘有《クシゲニノレル》
 鏡成《カガミナス》 見津乃濱邊尓《ミツノハマベニ》
 狹丹頬相《サニツラフ》 紐解不v離《ヒモトキサケズ》
 吾妹兒尓《ワギモコニ》 戀乍居者《コヒツツヲレバ》
 明晩乃《アケグレノ》 旦霧隱《アサギリガクリ》
 鳴多頭乃《ナクタヅノ》 哭耳之所v哭《ネノミシナカユ》
 吾戀流《ワガコフル》 千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》
 名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアリヤト》
 家當《イヘノアタリ》 吾立見者《ワガタチミレバ》
 青※[弓+其]乃《アヲハタノ》 葛木山尓《カヅラキヤマニ》
 多奈引流《タナビケル》 白雲隱《シラクモガクル》
 天佐我留《アマサガル》 夷乃國邊尓《ヒナノクニベニ》
 直向《タダムカフ》 淡路乎過《アハヂヲスギ》
 粟島乎《アハシマヲ》 背尓見管《ソガヒニミツツ》
 朝名寸二《アサナギニ》 水手之音喚《カコノコヱヨビ》
 暮名寸二《ユフナギニ》 梶之聲爲乍《カヂノオトシツツ》
 浪上乎《ナミノウヘヲ》 五十行左具久美《イユキサグクミ》
 磐間乎《イハノマヲ》 射往廻《イユキモトホリ》
 稻日都麻《イナビツマ》 浦箕乎過而《ウラミヲスギテ》
 鳥自物《トリジモノ》 魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》
 家乃島《イヘノシマ》 荒礒之宇倍尓《アリソノウヘニ》
 打靡《ウチナビキ》 四時二生有《シジニオヒタル》
 莫告我《ナノリソガ》 奈騰可聞妹尓《ナドカモイモニ》
 不v告來二計謀《ノラズキニケム》
 
【譯】貴婦人の串箱に乘つている鏡を見る。その御津の濱邊に、紅の紐も解き放さないで、わが妻に戀をしつつおれば、夜が明けてもくらい朝霧の中に籠つて鳴く鶴のように、泣かれることだ。わたしの戀の千分の一でも、慰められる氣もちもあるかと、大和の家の邊を、立ち出でて見れば、青い旗のような葛城山に棚引く白雲に隱れて見えない。遠い天のかなたの田舍の國に向かつて、前面に横たわつている淡路島を過ぎ、粟島を背後にして、朝の凪ぎに船人が聲を出して呼び、夕の凪ぎに船漕ぐ櫂の吾がしつつ、浪の上を骨を折つて行き、岩の間を行き廻つて、稻日都麻の浦を過ぎて、水鳥のように水上を分けて行けば、家の島の荒礒の上に、靡いていつぱいに生えている莫告藻のように、どうして妻に言わないで來たことだつたろう。
【構成】三段になつている。哭ノミシ泣カユまで第一段、難波にいて妻を思つていることを敍している。白雲隱ルまで第二段、難波から大和の家の方を望み見ることを敍している。以下第三段、海上を進行して順次家島に到り、その場の莫告藻によつて、妻に別れを告げないで來たことを囘顧している。
【釋】臣女乃 オミノメノ。
   オフトメノ(神)
   マウトメノ(西)
   マヲトメノ(代精)
   オミノメノ(童)
   タヲヤメノ(略)
(64)   ミヤビメノ(路)
   タワヤメノ(新考野雁)
   ――――――――――
   少女乃《ヲトメノ》(玉)
   姫乃《タヲヤメノ》(略)
 
 諸訓が多く、誤字説もある。記紀の歌謡には、「美那曾々久《ミナソソク》 淤美能袁登賣《オミノヲトメ》」(古事記一〇四)、「瀰儺曾虚赴《ミナソコフ》 於瀰能烏苔※[口+羊]烏《オミノヲトメヲ》」(日本書紀四四)の如く、オミノヲトメ(臣の孃子)の語があり、「淤美能古《オミノコ》」(古事記一〇八)、「飫瀰能古《オミノコ》」(日本書紀八八、九〇の如く、オミノコ(臣の子)の語もある。本集にも「物部乃《モノノフノ》 臣之壯士者《オミノヲトコハ》」(卷三、三六九)の如き句もある。これらの語は、それぞれ大宮人の女子もしくは男子をいうものであつて、敬意をも感じている語である。よつてこの臣女も、童蒙抄の訓のように、文字のまま、オミノメと呼んで、十分な生活をしている女子の意に解すべきである。
 匣尓乘有 クシゲニノレル。クシゲは、櫛笥で、櫛などを入れる箱である。鏡をその上に乘せたものと見える。以上、次の鏡の修飾句である。
 鏡成 カガミナス。鏡のようなの意。以上三句、次の見津の序であるが、この句だけを切り離せば、枕詞になる。畢竟、序と枕詞とは同じ性質のものであつて、ただ序は音數が不定であり、枕詞は、五音節標準のものについていうことになる。
 見津乃濱邊尓 ミツノハマベニ。ミツは、難波の御津で、そこから出航するので、作者は、その地にいた時のことを敍述している。
 狹丹頬相 サニツラフ。既出(卷三、四二〇)。そこにも全然同じ文字が使用されているのは、連絡のあることを思わしめる。紅色に出る意で、ここは衣の紐が赤いのである。
 ※[糸+刃]解不離 ヒモトキサケズ。ヒモは衣の紐をいう。紐を解き放たずで、旅中、衣服を脱がず、くつろがずにいる状をいう。紐解くことは、女子と交ることをも意味するので、その事もなく、妻に戀う由である。
(65)吾妹兒尓戀乍居者 ワギモコニコヒツツヲレバ。ワギモコは、妻をいうと思われるが、その人は大和にいたようである。
 明晩乃 アケグレノ。アケグレは、夜が明けてなおくらいのをいう。「明闇之《アケグレノ》 朝霧隱《アサギリガクリ》」(卷十、二一二九)。拾遺集雜上に「左大將濟時、あさぼらけひぐらしのこゑ聞ゆなりこやあけぐれと人はいふらむ。」顯昭の註に、「あけぐれとは、あかつきにあけぬるやうにて、又くらくなるをいふなり」。
 旦霧隱 アサギリガクリ。朝霧に隱れて。次の句の修飾句。
 鳴多頭乃 ナクタヅノ。タヅは鶴に同じ。以上三句、實景を敍して、これを譬喩に轉用している。鳴く鶴の如くの意。
 哭耳之所哭 ネノミシナカユ。既出(卷三、三二四)。泣かれるよりほかの事なしの意の慣用句。以上第一段。難波にいて、別れて來た妻を思つて戀しさに泣かれることを敍している。
 吾戀流千重乃一隔母 ワガコフルチヘノヒトヘモ。既出(卷二、二〇七)。戀や思いの繁くあるのを、幾重にも思うという表現がある。「奧藻《オキツモヲ》 隱障浪《カクサフナミノ》 五百重浪《イホヘナミ》 千重敷々《チヘシクシクニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》」(卷十一、二四三七)の如き、これである。その千重のうちの一重もという言い方。千が一も。
 名草漏 ナグサモル。「草枕《クサマクラ》 客之憂乎《タビノウレヘヲ》 名草漏《ナグサモル》 事毛有哉跡《コトモアリヤト》」(卷九、一七五七)の例もある。ナグサモルは、四段活のナグサムと共に自動詞。慰まれる意である。別に「奈具佐牟流《ナグサムル》 許々呂波阿良麻志《ココロハアラマシ》」(卷五、八八九)の如く、ナグサムルの例もあつて、それは他動詞である。
 家當 イヘノアタリ。大和なるわが家の方を。
 吾立見者 ワガタチミレバ。難波にあつて大和の方を望み見れば。タチは、よく見るために立ちあがつて、立ち出でての意。
(66) 青旗乃 アヲハタノ。枕詞。「青幡之《アヲハタノ》 忍坂山者《オサカノヤマハ》」(卷十三、三三三一)ともあり、青い旗の靡いているのに山を譬えたのであろう。
 葛木山尓 カヅラキヤマニ。大和河内の國境を成す連山、大和川より南方を總稱して葛木山という。難波から家のあたりを望み見て、葛木山に棚引いている雲に隱れているというのは、藤原の京時代の歌であるのであろう。卷の三には、この作者の歌に對して、春日の老が和歌を詠んでいるのも、時代が矛盾しない。
 多奈引流白雲隱 タナビケルシラクモガクル。葛木山に棚引いている白雲に隱れて、家のあたりが見えない意。句切。以上第二段、難波にいて家郷の天を望見した状を敍し、家の方が見えないで、旅情も慰むる由もないことを敍している。
 天佐我留 アマサガル。枕詞。ヒナ(鄙)に冠する枕詞には、アマザカルがあり、假字書きの例も多いが、それらは、安麻射可流、安麻射加流、安萬射可流、阿麻射可流、阿麻社迦留と書き、射、社など、サに濁音の字を當てている。然るにここに佐我留と書いているのは、サガルと讀むべきが如く、天離、天疏の如く書いたものによる語義との不一致が感じられる。これによつて誤字説をも生じている。しかし、日本書紀神代の下には、「阿磨佐箇屡」とあり、歌いものから來たこの語を、天のさがつている意に解して天佐我留と書いたのであろう。「父母毛《チチハハモ》 表者奈佐我利《ウヘハナサガリ》」(卷五、九〇四)のサガリも、離るの義と解せられる。なおサガルは、本集では「吉野乃山爾《ヨシノノヤマニ》 氷魚曾懸有《ヒヲゾサガレル》 懸看反(シテ)云2佐我禮流《サガレル》1」(卷十六、三八三九)の如く、垂下する意に使用している。
 夷乃國邊尓 ヒナノクニベニ。地方の國の方にで、作者の行こうとする筑紫の方をさしている。この下に、向かつての如き語が省略されている。
 直向 タダムカフ。難波に對して直接向き合つている意に淡路を修飾する。「可良久爾々《カラクニニ》 和多理由加武等《ワタリユカムト》(67) 多太牟可布《タダムカフ》 美奴面乎左指天《ミヌメヲサシテ》(卷十五、三六二七)。
 淡路乎過 アハヂヲスギ。明石海峽を通過することをいう。淡路を通り過ぎて。
 粟島乎背尓見管 アハシマヲソガヒニミツツ。既出「粟島矣《アハシマヲ》 背爾見乍《ソガヒニミツツ》」(卷三、三五八)參照。粟島は大阪灣から見え、またここでは明石海峽を過ぎてから見えることが歌われている。四國を、阿波の方面から呼ぶ名とすべきである。ソガヒニミツツは、背後に見なして。
 朝名寸二水手之音喚 アサナギニカコノコヱヨビ。アサナギは、朝、風落ち波靜まるをいう。カコは揖取る人。船漕ぐ人が聲を擧げて、他の船などに向かつて呼ぶのである。
 暮名寸二梶之聲爲乍 ユフナギニカヂノオトシツツ。夕方の凪に、船漕ぐ※[舟+虜]の音がしつつ。上の朝なぎ云々の句と對句になつて、船の進行を敍している。
 浪上乎五十行左具久美 ナミノウヘヲイユキサグクミ。イは接頭語。サグクミは、サクミと同語とされているが、サクミは、「石根左久見手《イハネサクミテ》」(卷二、二一〇)、「石根割見而《イハネサクミテ》」(同、二一四)・「五百隔山《イホヘヤマ》 伊去割見《イユキサクミ》」(卷六、九七一)、「山河乎《ヤマカハヲ》 伊波禰左久見弖《イハネサクミテ》」(卷二十、四四六五)の如く、山、石根についていい、サグクミは、「奈美乃間乎《ナミノマヲ》 伊由伎佐具久美《イユキサグクミ》」(卷二十、四三三一)の如く、波についていうから、よしそのサクは裂く、咲くの意となる語であるとしても、一往別語として取り扱うべきである。語義は未詳であるが、浪の間の語を受けているによれば、おし分ける意であろうか。探るの語と關係があるかもしれない。
 磐間乎射往廻 イハノマヲイユキモトホリ。磐の間を行き廻つてで、巖礁などを迂廻して行くをいう。上の浪の上を云々と對句になつている。
 稻日都麻 イナビツマ。播磨國風土記印南郡の條に、郡の南の海中に小島があつて名を南※[田+比]都麻というのは、景行天皇が印南の別孃を娶《め》しに行幸せられた時に、別孃がその島に隱れたからいうのだとある。けだし隱妻《なみづま》の(68)義である。そのナビヅマと同語とする。集中、「淡路乃《アハヂノ》 野島毛過《ノジマモスギ》 伊奈美嬬《イナミヅマ》 辛荷乃島之《カラニノシマノ》」(卷六、九四二)、「印南都麻《イナミヅマ》 之良奈美多加彌《シラナミタカミ》」(卷十五、三五九六)とあるイナミツマも同じである。マは、山、島、沼、濱、隈など、地形語に使用されるので、古くツマという地形語があつて、朝妻、吾妻などの地名に含まれるツマも同語であつたのだろう。その地は、加古川の川口で、後に陸地となつた高砂の地であろうという。
 浦箕乎過而 ウラミヲスギテ。ウラミは、浦に同じ。ミは接尾語。稻日都麻のある浦である。
 鳥自物 トリジモノ。枕詞。水鳥のような物の意。
 魚津左比去者 ナヅサヒユケバ。ナヅサヒは既出。水面を分けて行く意。
 家乃島 イヘノシマ。兵庫縣飾磨郡に屬する海上の群島。
 荒磯之宇倍尓 家の島の荒礒の上にの意。
 打靡 ウチナビキ。莫告藻の生えている状態を説明している。
 四時二生有 シジニオヒタル。シジニは、繁茂してある状を説明する副詞。家ノ島以下この句まで、次の莫告藻の修飾句である。但しナノリソは海底に生えるもので、荒礒の上に繁に生いたるでは、事實と相違するが、これは荒礒の上に、うち寄せられ、または繁茂している海藻の類を、何によらず總稱したものと見るべきである。
 莫告我 ナノリソガ。ナノリソは既出(卷三、三六二)。ホンダワラのこと。ナノリソというので、常に名を告るの關係に使用されている。家の島以下この句まで下の告ラズに對して、見た所をもつて序としている。
 奈騰可聞妹尓不告來二計謀 ナドカモイモニノラズキニケム。ナドカモは、何とかで、カモは疑問の係助詞。ノラズは、旅に出ることを告げないで。妹と呼ばれる人が、自分の家におり、それを訪れて旅に出ることを告げる暇がなかつたのであろう。
(69)【評語】相當に長い歌であるが、旅に出て妻を思ふ情が一貫しており、よく纏まつている。ただ難波にいた時の部分と、海上における部分との二部に分れており、中心が二つになつているのは缺點である。難波の方が單に出發點としてだけでなく、獨立した内容を持つており、二部間における連絡が不十分である。後半における道行の敍述は、記紀の歌謠にも往々にしてあり、本集にも卷の十三、三二三〇などに見られる形で、長歌の一表現法であり、後世の道行文の先蹤を成すものとして注意される。
 
反歌
 
510 白細の 袖解き更《か》へて、
 還《かへ》り來《こ》む 月日を數《よ》みて
 往《ゆ》きて來《こ》ましを。
 
 白細乃《シロタヘノ》 袖解更而《ソデトキカヘテ》
 還來武《カヘリコム》 月日乎數而《ツキヒヲヨミテ》
 往而來猿尾《ユキテコマシヲ》
 
【譯】白い衣の袖を解いて著換えて歸つて來る月日を數えて、筑紫に行つて來ようものを。
【釋】白細乃袖解吏而 シロタヘノソデトキカヘテ。白い織物の衣服を著換えて。ソデは袖であるが、ここは衣服の代表としている。トキカヘテは、舊衣の紐を解いて、別の衣に著換えてである。妻のもとに行つてさつぱりした衣服に著換えてで、次の句を修飾する。
 還來武 カヘリコム。筑紫に行つて、また此處に歸つて來ようの意で、連體形の句。
 月日乎敷而 ツキヒヲヨミテ。筑紫に往來するための月日を計算して。
 往而來猿尾 ユキテコマシヲ。猿はマシの假字に使つている。猿は集中の歌には詠まれず、假字にのみ使用されている。日本書紀には、小猿《こざる》米燒クの歌詞がある。マシヲは、そうしたかつたの意で、そうしようものを、(70)然るにの意で、しなかつたことになる。
【評語】白細の袖解き換えてと具體的に歸途の姿を歌つている點が特別の描寫というべきである。この人は、妻に別れてから、相當に長くなつているのであろう。著衣の垢づいているのを氣にしてこの句を成したものと思われる。
 
幸2伊勢國1時、當麻麻呂大夫妻作歌一首
 
伊勢の國に幸《い》でましし時に、當麻の麻呂の大夫が妻の作れる歌一首。
 
511 わが夫子は 何處《いづく》行くらむ。
 奧《おき》つ藻の 名張の山を
 今日か越ゆらむ。
 
 吾背子者《ワガセコハ》 何處將v行《イヅクユクラム》
 巳津物《オキツモノ》 隱之山乎《ナバリノヤマヲ》
 今日歟超良武《ケフカコユラム》
 
【釋】卷の一、四三の歌の重出である。その條參照。
 
草孃歌一首
 
【釋】草孃 カヤノヲトメ。
   クサノイラツメ(攷)
   ウカレメ(古義)
   カヤノヲトメ(札、師説)
   カヤノイラツメ(補)
   ――――――――――
   草香孃《クサカイラツメ》(考)
 
(71)傳未詳。訓も不明であるが、日本書紀に、吉備の國の岐屋《かや》の采女《うねめ》(舒明天皇元年正月)があり、蚊屋は郡名である。草もカヤと讀んで、同じく郡名であるかもしれない。またクサと讀んで、草莽《そうもう》を意味するか、不明とするほかはない。
 
512 秋の田の 穗田の刈《かり》ばか
 か縁《よ》り合はば
 そこもか人の 吾《わ》を言《こと》なさむ。
 
 秋田之《アキノタノ》 穗田乃苅婆加《ホダノカリバカ》
 香縁相者《カヨリアハバ》
 彼所毛加人之《ソコモカヒトノ》 吾乎事將v成《ワヲコトナサム》
 
【譯】秋の田の穗に出た田の刈り場處のように、寄り合つたなら、それを人が、とやかく私の事をいうことでしよう。
【釋】秋田之穗田乃苅婆加 アキノタノホダノカリバカ。ホダは、穗の出た田をいう。カリバカは、本居宣長の説に、「刈はかとは、田を植るにも刈にも、其外にも、一はか二はかなどいふ事あり。男女相まじはりて、そのはかをわけて、植も刈もする也。かよりあふとは、その(72)一はかのうちのものは、よりあひならびて物する故に、かくつゞけいへり。はかの事は、今の世にもいふことにて、たとへば、一つ田を三つにわけて、−はか、二はか、三はかと立て、一はかより植はじめ刈はじめて、二はか三はかと植をはり刈をはる事也」。刈り取る範圍、區域をいい、はかどる、はかが行くなどのハカも、このハカに同じであろう。「秋田《アキノタノ》 吾苅婆可能《ワガカリバカノ》 過去者《スギヌレバ》 雁之喧所v聞《カリガネキコユ》 冬方設而《フユカタマケテ》」(卷十、二一三三)、「天爾有哉《アメニアルヤ》 神樂良能小野爾《ササラノヲノニ》 茅草苅《チガヤカリ》 々々婆可爾《カヤカリバカニ》 鶉乎立毛《ウヅラヲタツモ》」(卷十六、三八八七)の用例がある。以上次句の序になつている。刈り頃の稻は、穗が寄り合うから寄り合うを引き出している。
 香縁相者 カヨリアハバ。カは接頭語。ヨリアフは、男女たがいに許しあうをいう。
 彼所毛加人之 ソコモカヒトノ。ソコはその事。上の寄り合うことをさしてソコと言つている。カは疑問の係助詞。ヒトは世人。周圍の人々。
 吾乎事將成 ワヲコトナサム。自分について言を成すであろう。とやかくうわさをするであろうの意。
【評語】調子のよい、歌いものふうの歌である。二三句の續きがらは、極めてなめらかである。四句に短句を重ねて文を成しているのも、齒切れのよさを感じさせるものがある。
 
志貴皇子御歌一首
 
【釋】志貴皇子 シキノミコ。既出。卷一、五一參照。
 
513 大原の この市柴原《いちしば》の、
 何時《いつ》しかと わが念ふ妹に
 今夜《こよひ》逢へるかも。
 
 大原之《オホハラノ》 此市柴原乃《コノイチシバノ》
 何時鹿跡《イツシカト》 吾念妹尓《ワガオモフイモニ》
 今夜相有香裳《コヨヒアヘルカモ》
(73)【譯】大原のこのイチシバのように、いつになつたらと思つていたあの子に、今夜こそは逢つたのだ。
【釋】大原之 オホハラノ。大原は、既出(卷二、一〇三)、奈良縣高市郡。
 此市柴原乃 コノイチシバノ。桂本、元暦校本等に原の字があるが、讀むと音數が多くなりすぎる。イチシバは、茂つた樹叢をいう。イツシバともいう。「天霧之《アマギラシ》 雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》 灼然《イチジロク》 此五柴爾《コノイツシバニ》 零卷乎將v見《フラマクヲミム》」(卷八、一六四三)、「道邊乃《ミチノベノ》 五柴原能《イツシバハラノ》 何時毛々々々《イツモイツモ》 人之將v縱《ヒトノユルサム》 言乎思將v待《コトヲシマタム》」(卷十一、二七七〇)などの例がある。以上二句は序で、同じ音韻から次の句を引き出している。
 何時鹿跡 イツシカト。何時かを強調して、早く早くとの意を示している。
 吾念殊尓 ワガオモフイモニ。何時しか逢おうとわが思う妹にの意。
 今夜相有香裳 コヨヒアヘルカモ。現に今夜逢つたことを喜んでいる。
【評語】同音を利用した調子の良さが中心となつて、宿望の婦人に逢つた喜びが敍せられている。宴席などで吟誦された歌であろう。大原は、その地で詠まれたものであろうか。
 
阿倍女郎歌一首
 
【釋】阿倍女郎 アベノヲミナ。木卷五〇五、五〇六の作者安倍の女郎と同人であろう。またその相手の男は、次の歌の題詞に見える中臣の東人であろう。
 
514 わが夫子が 著《け》せる衣《ころも》の 針目落ちず
 入りにけらしも。
 わが情《こころ》さへ。
 
 吾背子之《ワガセコガ》 葢世流衣之《ケセルコロモノ》 針目不v落《ハリメオチズ》
 入令家良之《イリニケラシモ》
 我情副《ワガココロサヘ》
 
(74)【譯】あなたの召していらつしやる著物の針目ごとに、はいつたようでございます。わたくしの心までも。
【釋】吾背子之 ワガセコガ。ワガセコは、作者が熱愛を捧げている人で、多分中臣の東人であろう。
 葢世流衣之 ケセルコロモノ。葢は、「雨零者《アメフラバ》 將v蓋跡念有《キムトオモヘル》 笠乃山《カサノヤマ》 人爾莫令v蓋《ヒトニナキシメ》 霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》」(卷三、三七四)の如く、笠を著用する意に使用している例があり、そこでもキルの語に當てられていると考えられる。ここは衣服のことであるが、さような用法から轉用したものであろう。世流を字音假字として、蓋世流をケセルと讀むのは、「那賀祁勢流《ナガケセル》 意須比能須蘇爾《オスヒノスソニ》 都紀多知邇祁理《ツキタチニケリ》」(古事記二九)とあるによる。著ルの敬語ケスに、助動詞リの連體形の接續したもの。著ておいでになるの意となる。
 針目不落 ハリメオチズ。ハリメは縫目に同じ。オチズは悉皆の意。どの縫目にも。
 入尓家良之 イリニケラシモ。
   イリニケラシナ(元)
   イリニケラシモ(類)
   イリニケラシ(新校)
   ――――――――――
   入爾家良之奈《イリニケラシナ》(代初)
 モに當る字はないが、添えて讀む。入つたと思われるの意。句切。
 我情副 ワガココロサヘ。自分の心までも。この衣服は、作者が縫つて贈つたものであろう。それでその縫目ごとに、自分の心までもはいつたというのである。
【評語】作者の心が、いかに先方の男を思つているかを、切實に表現している。心をこめて縫つた著物であり、自分の心が相手の男でいつぱいになつている情を、これによつて歌つている。
 
中臣朝臣東人、贈2阿倍女郎1歌一首
 
(75)中臣の朝臣東人の、阿倍の女郎に贈れる歌一首。
 
【釋】中臣朝臣東人 ナカトミノアソミアヅマビト。中臣の意美麻呂の一男、母は藤原の鎌足の女|斗賣《とめ》の娘《いらつめ》。天平五年三月に從四位の下に進んだことまで、續日本紀に見えて、以後見えない。
 
515 ひとり宿《ね》て 絶えにし紐を
 ゆゝゆしみと、
 爲《せ》むすべ知らに、哭《ね》のみしぞ泣く。
 
 獨宿而《ヒトリネテ》 絶西※[糸+刃]緒《タエニシヒモヲ》
 忌見跡《ユユシミト》
 世武爲便不v知《セムスベシラニ》 哭耳之曾泣《ネノミシゾナク》
 
《譯》獨りで宿《ね》て、切れてしまつた衣の紐が忌《いま》わしさに、爲方《しかた》がないので、泣いてはかりいる。
《釋》獨宿而 ヒトリネテ。阿倍の女郎に別れて拘り宿てで、旅か、もしくは自分の家などでの場合である。
 絶西※[糸+刃]緒忌見跡 タエニシヒモヲユユシミト。ヒモは衣の紐で、紐を忌々しみは、紐が忌々しさにの意。衣の紐の切れたのを、切れる前兆かのように忌み嫌うのである。
 世武爲便不知 セムスベシラニ。既出。慣用句。途方に暮れて。
 哭耳之曾泣 ネノミシゾナク。外に事がなく、ただ泣きにばかり泣く意。
【評語】衣の紐の切れたのを氣にしている。別れに臨んで妻の結んだ紐でもあり、獨りしてつける由もないわびしさもある。めめしい内容とも言えるが、當時としては、かような事が大きな問題であつたのであろう。疑えば、緑の切れたことを寓意して贈つたとも解せられる。別れてから衣の紐の切れたのを忌んで泣いてばかりいるという内容には、そのような氣分もあるし、答の歌に、丈夫な絲で附けておいたらよかつたろうにというのも、そのような感がないでもない。
 
(76)阿倍女郎答歌一首
 
516 わが持《も》てる
 三相《みつあひ》に搓《よ》れる 絲もちて、
 附けてましもの。
 今ぞ晦《くや》しき。
 
 吾以在《ワガモテル》
 三相二搓流《ミツアヒニヨレル》 絲用而《イトモチテ》
 附手益物《ツケテマシモノ》
 今曾悔寸《イマゾクヤシキ》
 
【譯】わたくしの持つております、みこよりの絲で附けましたらよかつたでしように、殘念なことでした。
【釋】吾以在 ワガモテル。わたしの持つている。下の絲を修飾する。
 三相二搓流 ミツアヒニヨレル。三本の絲を合わせてよつたの意で、丈夫な絲である。日本書紀孝徳天皇の卷に「譬(ヘバ)如(シ)2三絞之綱(ノ)1」とあるも、みつあいの綱である。搓は、新撰字鏡に與留《ヨル》と訓んでいる。
 絲用而 イトモチテ。絲をもつて。
 附手益物 ツケテマシモノ。東人が切れたという紐を、丈夫な絲で附けておいたろうものをの意。句切。
 今曾悔寸 イマゾクヤシキ。後悔の意である。
【評語】東人の歌を受けて、よく情をつくしている。女らしさのよくあらわれた作である。
 
大納言兼2大將軍1大伴卿歌一首
 
【釋】大納言兼大將軍大伴卿 オホキモノマヲシノツカサニシテオホキイクサノキミヲカネタルオホトモノマヘツギミ。大伴の安麻呂。既出(卷二、一〇一)。大伴長徳の第六子。和銅七年五月薨じた。誰に對して歌つて(77)いるとも知られないが、石川の郎女、巨勢の郎女と夫婦關係のあつたことが傳えられている人である。
 
517 神樹《かむき》にも 手は觸るといふを、
 うつたへに
 人妻といへば 觸れぬものかも。
 
 神樹尓毛《カムキニモ》 手者觸云乎《テハフルトイフヲ》
 打細丹《ウツタヘニ》
 人妻跡云者《ヒトヅマトイヘバ》 不v觸物可聞《フレヌモノカモ》
 
【譯】神樣の木にも手を觸れるというものを、特別に、人妻といえば觸れないものなのか。
【釋】神樹尓毛 カムキニモ。サカキニモ(金)、カミキニモ(略、宣長)、カムキニモ(古義)。カムキは、神樣の樹木、御神木で、神聖なものとされていた。「味酒呼《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》 忌杉《イハフスギ》 手觸之罪歟《テフレシツミカ》 君二遇難寸《キミニアヒガタキ》」(卷四、七一二)、「三幣帛取《ミヌサトル》 神之祝我《ミワノハフリガ》 鎭齋杉原《イハフスギハラ》 燎木伐《タキギコリ》 殆之國《ホトホトシクニ》 手斧所v取奴《タヲノトラエヌ》」(卷七、一四〇三)など詠まれて、神職が神樹を大切にしたことが知られる。
 手者觸云乎 テハフルトイフヲ。神樹に手を觸れることは、罪過とされているが、それでも觸れることもあり得るの意。ヲは、然るにの意をもつて、接續の助詞として使用されている。
 打細丹 ウツタヘニ。ことさら、特別になどという意の副詞。下の四五の句を修飾している。「打妙爾《ウツタヘニ》 前垣乃酢堅《マガキノスガタ》 欲v見《ミマクホリ》 將v行常云哉《ユカムトイヘヤ》 君乎見爾許曾《キミヲミニコソ》」(卷四、七七八)、「打細爾《ウツタヘニ》 鳥者雖v不v喫《トリハハマネド》 繩延《シメハヘテ》 守卷欲寸《モラマクホシキ》 梅花鴨《ウメノハナカモ》」(卷十、一八五八)などの用例がある。
 人妻跡云者 ヒトヅマトイヘバ。ヒトヅマは他人の妻。集中用例は多い。
 不觸物可聞 フレヌモノカモ。手を觸れないものであるかと嘆息している。カモは感動の助詞。「天雲乃《アマグモノ》 遠隔乃極《ソクヘノキハミ》 遠鷄跡裳《トホケドモ》 情志行者《ココロシユケバ》 戀流物可聞《コフルモノカモ》」(卷四、五五三)の如き用例がある。
【評語】人妻に對しては、嚴格な倫理觀が存在していた。それだけに人妻ということを氣にして歌にも詠んで(78)いる。この歌、神樹でも手を觸れることがあるのに、人妻といえば、絶對のものであるかと嘆息している。その烈しい悩みがよく描かれている。
 
石川郎女歌一首 即佐保大伴大家也
 
【釋】石川郎女 イシカハノイラツメ。既出、卷の三、四六〇左註。大伴の安麻呂の妻、大伴の坂上の郎女の母。内命婦であり、名を邑婆という。この歌、多分安麻呂に贈つたのであろう。
 即佐保大伴大家也 スナハチサホノオホトモノオホトジナリ。石川の郎女は、大伴氏の佐保の家に住んでいた。大家は、婦人の尊稱。この註は、大伴氏の一族の者の記したことを語つている。
 
518 春日野の 山邊の道を
 恐《おそり》無く 通ひし君が
 見えぬ頃かも。
 
 春日野之《カスガノノ》 山邊道乎《ヤマベノミチヲ》
 於曾理無《オソリナク》 通之君我《カヨヒシキミガ》
 不v所v見許呂香裳《ミエヌコロカモ》
 
【譯】春日野の山ぞひの道をも、恐れげもなく通われたあなたの、お見えにならない日が續いて行きます。
【釋】春日野之山邊道乎 カスガノノヤマベノミチヲ。春日野の山に寄つた道で、作者の家に來る道である。それを作者は、寂しい道として取りあげている。
 於曾理無 オソリナク。仙覺本系流には與曾理無になつている。與曾理ならば、所寄で、何もたよる所がなくの意になり、それでも意味は通る。オソリは恐怖。戀ゆえに恐れもなく通つて來た君がの意で、當時普通に、男子の方から女子の許に通つた習俗を語つている。
 通之君我不所見許呂香裳 カヨヒシキミガミエヌコロカモ。熱心に通つた人が、しばらく中絶していること(79)を叙している。
【評語】春日野の山邊の道は、物さびしい氣分をあらわしている。その道をも恐れげもなく通つて來た君が、どうした事か、この頃は見えないという意の歌で、あれほど親しかつたものをと、危み疑う氣分が出ている。女子をおのが家に迎えないで、男子の方から訪問する婚姻制度の時代にあつては、最初に男子を選擇する權は女子にあるが、さて通つて來るとなると、男子の足がおりにふれてはとだえもするし、他の方面に向かうことがないともいえない。そこに女子としての苦勞が存するのである。この歌もそういう苦勞を根柢としながら、それをまだ表面に出さずに危む程度に留めて、以前はあんなに熱心であつたがと顧みて敍述している點に上品さがある。そのかよつた時の描寫が、具體的に出ているのも、效果的である。
 
大伴女郎歌一首 今城王之母也。今城王後賜2大原眞人氏1也
 
大伴の女郎の歌一首【今城の王の母なり。今城の王は、後に大原の眞人の氏を賜へり。】
 
【釋】大伴女郎 オホトモノヲミナ。註の記事のほか傳未詳。大伴の旅人の妻の大伴の郎女と同人か否かもあきらかでないが、同人らしくもある。
 今城王之母也今城王後賜大原眞人氏也 イマキノオホキミノハハナリ。イマキノオホキミハノチニオホハラノマヒトノウヂヲタマヘリ。今城の王は系統未詳。寶龜三年九月に駿河の守になつたことまで續日本紀に見えている。本集には大原の眞人今城の名で、卷の八、二十に歌が載つている。天平十一年四月に、高安の王に大原の眞人を賜わつたことが傳えられ、多分その時に共に大原の眞人を賜わつたものであろうか。しかし高安との關係は不明である。
 
(80)519 雨障《あまざは》り 常|爲《す》る君は、
 ひさかたの 昨夜《きそのよ》の雨に
 懲りにけむかも。
 
 雨障《アマザハリ》 常爲公者《ツネスルキミハ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 昨夜雨尓《キソノヨノアメニ》
 將v懲鴨《コリニケムカモ》
 
【譯】雨のためにいつもお悩みになるあなたは、ゆうべ降つた雨に懲りたでしようね。
【釋】雨障 アマザハリ。アマサハリ(元)、アマツツミ(管)。諸説に雨のゆえに閉じ籠ることだとしており、訓も次の歌に兩乍見とあるによつてアマヅツミとする説もある。しかしサハリは「眞幸而《マサキクテ》 伊毛我伊波伴伐《イモガイハハバ》 於伎都奈美《オキツナミ》 知敝爾多都等母《チヘニタツトモ》 佐波里安良米也母《サハリアラメヤモ》」(卷十五、三五八三)の如く、故障、障害であるから、雨による障害、風を引いたりすることと解すべきである。「此間在而《ココニアリテ》 春日也何處《カスガヤイヅク》 雨障《アマザハリ》 出而不v行者《イデテユカネバ》 戀乎曾乎流《コヒツツゾヲル》」(卷八、一五七〇)。
 常爲公者 ツネスルキミハ。ツネは、平常、常時で、いつも。常に雨障爲る公はの意。
 久堅乃 ヒサカタノ。枕詞。天に懸かることから轉用して雨に冠している。
 昨夜雨尓 キソノヨノアメニ。ヨムベノアメニ(類)、ヨフベノアメニ(西)、キノフノアメニ(拾)、キソノヨサメニ(童)、キソノアメニ(古義)、キソノヨノアメニ(新考)。キソノヨは、昨曰の夜、前夜である。ユフベは、夕方の意で、そのまま昨夜の意には使わない。前夜ならばキノフノエフベであるから、ここには適しない。
 將懲鴨 コリニケムカモ。昨夜、雨に逢つて懲りたろうと推量している。
【評語】男の體質をよく知つていて、それを氣にかけている。昨夜來て雨に濡れたので、今夜はそれに懲りて來ないのだろうとするさびしい氣特で詠んでいる。三句の枕詞はよく利いていない。もつと實質のある句の方(81)がよかつたであろう。
 
後人追同歌一首
 
後の人の追ひて同《こた》ふる歌一首。
 
【釋】後人 ノチノヒトノ。誰とも知らない。大伴の女郎の歌にある男が、あとになつて詠んだか。前の大伴の女郎の歌が、前の男に對する作であつたとすれば、後の男であろうか。またはそういう關係のない人が、興によつて詠んだものか、一切不明である。
 追同歌 オヒテコタフルウタ。同は共鳴の意に使用されている。後になつて、大伴の女郎の歌の意と同じ意を詠んでいる。この點、追和歌の答える意のあると相違する。
 
520 ひさかたの 雨も零らぬか。
 雨《あま》づつみ
 君に副《たぐ》ひて この日暮らさむ。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 雨毛落粳《アメモフラヌカ》
 雨乍見《アマヅツミ》
 於v君副而《キミニタグヒテ》 此日令v晩《コノヒクラサム》
 
【譯】空から雨も降らないかなあ。雨ごもりをして、あなたに寄り添つて今日は暮らそうに。
【釋】久堅乃 ヒサカタノ。前の歌の句を受けている。
 雨毛落粳 アメモフラヌカ。粳は、米の一種であるが、糠と通じてヌカの假字に使用されている。ヌは打消の助動詞。カは疑問の助詞であるが、ヌカと熟して、降らないか、降つて欲しいと希望の語法となる。口語の、降らないかなあの意に同じ。句切。
 雨乍見 アマヅツミ。ツツミは慎み籠ること。雨を忌んで籠る意。「笠無登《カサナミト》 人爾者言手《ヒトニハイヒテ》 雨乍見《アマヅツミ》 留之君(82)我《トマリシキミガ》 容儀志所v念《スガタシオモホユ》」(卷十一、二六八四)。
 於君副而 キミニタグヒテ。作者は大伴の女郎の心になつて詠んでいるとすれば、キミは、相手の男である。タグヒテは、寄り添つて、一緒に。
 此日令晩 コノヒクラサム。この一日を暮らそうの意。
【評語】愛人とともにいようとする心が歌われている。雨の降るのを難儀とするのは、當時の衣服が、雨に堪えないからであつて、濡れることを極度に嫌つたのである。それが雨ザハリ、雨ヅツミ、の如き特殊語の發生の素因となつている。
 
藤原宇合大夫、遷v任上v京時、常陸娘子贈歌一首
 
藤原の宇合《うまかひ》の大夫の、任を遷されて京に上りし時に、常陸《ひたち》の娘子《をとめ》の贈れる歌一首。
 
【釋】藤原宇合大夫 フヂハラノウマカヒノマヘツギミ。既出(卷一、七二)。續日本紀に、養老三年七月、常陸の國の守正五位の上藤原の朝臣宇合をして、安房、上總、下總、三國を管せしむとあり、五位であるから大夫と書いている。その任の果てた時の歌である。
 常陸娘子 ヒタチノヲトメ。常陸の國にいた娘子であるが、如何なる人とも知られない。遊行女婦の類であろうともいう。
 
521 庭に立つ 麻手刈り干《ま》し、
 
 布|曝《さら》す 東女《あづまをみな》を
 忘れたまふな。
 
 庭立《ニハニタツ》 麻手苅干《アサデカリホシ》
 布暴《ヌノサラス》 東女乎《アヅマヲミナヲ》
 忘賜名《ワスレタマフナ》
 
(83)【譯】庭に立つている麻を刈り干したり布を曝したりする東國の女をお忘れ遊ばしますな。
【釋】庭立 ニハニタツ。ニハニタツ(元)、ニハニタチ(略)。ニハは屋前をいう。次の句の麻の修飾句。
 麻手苅干 アサデカリホシ。
   アサデカリホシ(元)
   ――――――――――
   麻乎苅干《アサヲカリホシ》(類)
 テは、接尾語。「爾波爾多都《ニハニタヅ》 安佐提古大須麻《アサテコブスマ》」(卷十四、三四五四)。麻を刈つて干しで、下の東女を修飾している。
 布暴 ヌノサラス。仙覺本系統には布慕に作りシキシノフと讀んでいるが、シキシノフの語はなく、元暦校本に布暴に作るによるべきである。暴は曝に同じく、日にさらすをいう。上の庭ニ立ツ麻手刈リ干シの句と竝んで、東女を修飾している。
 東女乎 アヅマヲミナヲ。アヅマヲミナは、東國の女の意。田舍女のような語感があるのであろう。
 忘賜名 ワスレタマフナ。ナは、禁止の助詞。
【評語】麻を刈り干し布曝すのは、麻を刈つて干したり布を曝して白くしたりする勞働を歌つている。東國のさる勞役に服している女子を忘れたまうなという意である。この娘子は誰人とも知れないが、宇合が常陸の守の任にあつた時代に、任國で親しくなつた人であろう。遠別離、また會い難い別れの情を、この一首に留めている。田舍者という意味を初二三句の敍述であらわしている。もとより本當(84)にそのような業をしていたわけではない。たとえば葛飾の眞間の手兒名の漁村生活をあらわすために、玉藻刈ルと冠するが如き類である。田舍娘というより、麻を刈つたり布をさらしたりする女という方が、はつきりしてくるのである。
 
京職藤原大夫、贈2大伴郎女1歌三首 卿諱曰2麻呂1也
 
京職の藤原の大夫の、大伴の郎女に贈れる歌三首。【卿は諱を麻呂といふ。】
 
【釋】京職藤原大夫 ミサトヅカサノフヂハラノマヘツギミ。京職は、京の役所で、左石の兩京職がある。藤原の大夫は、藤原の麻呂、不比等の第四子で、養老五年六月、左右京の大夫となり、天平三年八月參議、九年七月薨じて、太政大臣を贈られた。ここに大夫と書いたのは、左右の京職の長官を、左京の大夫、右京の大夫というからである。
 大伴郎女 オホトモノイラツメ。五二八の歌の左註によれば、大伴の坂上の郎女である。既出、卷の三、三七九參照。
 卿諱曰麻呂也 マヘツギミハイミナヲマロトイフ。大夫は、五位以上の人に對する稱であるが、題詞に藤原の大夫と書いたのは、官名を書いたので、特に敬意を表して名を書かなかつたと見える。ここに卿とあるは、三位以上、及び參議に對する書法に則つたので、後に書いたのであろう。イミナは實名。
 
522 娘子らが 殊匣《たまくしげ》なる 玉櫛の
 くすばしけむも。
 妹に逢はずあれば。
 
 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 珠篋有《タマクシゲナル》 玉櫛乃《タマクシノ》
 神家武毛《クスバシケムモ》
 妹尓阿波受有者《イモニアハズアレバ》
 
(85)【譯】娘さんの美しい櫛箱の中にある櫛のようにあなたは神々しいことでしよう。あなたに逢わないでいるので。
【釋】※[女+感]嬬等之 ヲトメラガ。※[女+感]嬬は既出(卷一、四〇)。ここにいうヲトメは、一般の娘子をいうが、心には、相手の女を中心として考えている。
 珠篋有 タマクシゲナル。タマクシゲは、クシゲの美稱。篋は、竹製の箱をいう字。古代竹を神秘な植物として、竹で作つた器物を神聖なものとした。クシゲは、女子が咒禁のために使用するのが原意であるので、ここでは特にその神秘性を示すために、この字を使つている。但し「或本歌曰 玉匣《タマクシゲ》 三室戸山乃《ミムロトヤマノ》」(卷二、九四)の匣も、元暦校本には篋になつている。
 玉櫛乃 タマクシノ。タマクシは、櫛の美稱。櫛はもと魔よけの信仰から出たものであるが、後、單に装飾品となり、美しい装飾あるものを使用するに至つた。以上三句、次句の序で、譬喩によつている。
 神家武毛 クスバシケムモ。
   メヅラシケムモ(元)
   カミサビケムモ(代初)
   タマシヒケムモ(古義)
   カムサビケムモ(新訓)
   ――――――――――
   神家武毳《メヅラシケムモ》(童)
 家は、ケの乙類の音の字であるから、形容詞の未然形ケを表示するものとして、類聚名義抄、神にクスハシの訓があるにより・クスバシケムモとする。クスバシは、集中「古爾《イニシヘニ》 有家流和射乃《アリケルワザノ》 久須婆之伎《クスバシキ》 事跡言繼《コトトイヒツギ》」(卷十九、四二一一)の如き用例があつて、神異にして貴い意の形容詞と解せられる。クスバシケまでがその活用形で、それに助動詞ム、および助詞モが接續したのである。相手の女子を、神異に貴くあるならむの意。(86)句切。
 妹尓阿波受有者 イモニアハズアレバ。しばらく逢うことがなくて、途絶えた状態である。
【評語】美しい序を使用し、その連想によつて、相手が自分を寄せつけないような氣分でいるだろうと推量している。氣を引いて見た歌である。しばらく逢わなかつたので、思いあがつているだろうなあという氣持がよく出ている。
 
523 よくわたる 人は年にも
 ありといふを
 何時《いつ》の間《あひだ》ぞも、わが戀ひにける。
 
 好渡《ヨクワタル》 人者年母《ヒトハトシニモ》
 有云乎《アリトイフヲ》
 何時《イツノ》間《ホド・アヒダ》曾毛《ゾモ》 吾戀尓來《ワガコヒニケル》
 
【譯】よく辛抱する人は、一年でも辛抱するというが、わたしは逢つたばかりなのに、いつのまに戀しくなつたのだろう。
【釋】好渡 ヨクワタル。ワタルは時間を經る。生活する意。良く世渡りする人、良い生き方をする人の意に、次句の人を修飾する。
 人者年母有云乎 ヒトハトシニモアリトイフヲ。トシニアリとは、一年中においてということで、一年でも逢わないでいられる意。トイフヲは、ということだ、然るにの意。「等之爾安里弖《トシニアリテ》 比等欲伊母爾安布《ヒトヨイモニアフ》 比故保思母《ヒコホシモ》」(卷十五、三六五七)。
 何時間曾毛 イツノホドゾモ。イツノマニゾモ(元)、イツノホドゾモ(代精)、イツノアヒダゾモ(總索引)、逢つてからまもないのに、その何時のまにの意。ゾは係助詞。句切ではない。
 吾戀尓來 ワガコヒニケル。ゾを受けて、ケルと結ぶ。わたしは戀をしたことだ。
(87)【評語】逢つたばかりなのに、もう戀しくなつたといふ心を歌つている。自分の特別な戀の心を強調して、言い方に特色のあることは認められるが、内容はわざとらしい。
【參考】類歌。
  年わたるまでにも人はありといふを何時の間ぞもわが戀ひにける(卷十三、三二六四)
 
524 むし被《ぶすま》 なごやが下《した》に 臥《ふ》せれども 
妹とし宿《ね》ねば 肌し寒しも。
 
 蒸被《ムシブスマ》 奈胡也我下丹《ナゴヤガシタニ》 雖v臥《フセレドモ》
 與v妹不v宿者《イモトシネネバ》 肌之寒霜《ハダシサムシモ》
 
【譯】苧麻の衾の柔い下に臥ているが、あなたと寢ないので、膚寒いことだ。
【釋】蒸被 ムシブスマ。ムシは、蒸の字をあててあるによれは、熱氣でむす意で、あたたかいことを意味するのだろう。またイラクサ科の植物で、マオの異名ともいう。苧麻《からむし》。その繊維で織つて作つた衾が、ムシブスマ。フスマは寢具。「牟斯夫須麻《ムシブスマ》 爾古夜賀斯多爾《ニコヤガシタニ》」(古事記三)のような古歌の句から來た句。
 奈胡也我下丹 ナゴヤガシタニ。ナゴヤは、和やかで、柔らかく膚ざわりのよいのをいう。
 雖臥 フセレドモ。フセレドモ(元)、フシタレド(童)、コヤセレド(略、眞淵)。臥しているがの意。
 與妹不宿者 イモトシネネバ。シは張意の助詞。
 肌之寒霜 ハダシサムシモ。上のシは強意の助詞。
【評語】古歌の詞を使用して獨寢のさびしさを描いている。肉感的な内容であるが、古風な詞を使つて上品にしている。一手段である。
 
大伴郎女和歌四首
 
(88)【釋】大伴郎女 オホトモノイラツメ。左註に記してあるによれば、大伴の坂上の郎女である。前掲の藤原の麻呂の歌に和したものであるが、その關係も左註にあきらかである。
 
525 佐保河の 小石《こいし》踐《ふ》み渡り、
 ぬばたまの 黒馬《くろま》の來る夜《よ》は、
 年にもあらぬか。
 
 狹穗河乃《サホガハノ》 小石踐渡《コイシフミワタリ》
 夜干玉之《ヌバタマノ》 黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》
 年尓母有粳《トシニモアラヌカ》
 
【譯】佐保河の小石を踏んで渡つて、あの眞黒な馬の來る夜は、一年のうちにもありたいものでございます。
【釋】狹穗河乃 サホガハノ。狹穗河は佐保川に同じ。奈良市の北、佐保の地を流れる川。大伴氏の家は佐保にあつて、この川を渡つて來る位置にあつたと考えられる。卷の三の尼理願の死を悼む坂上の郎女の歌に、尼の屍柩《しきゆう》が大伴氏の家から出て、佐保川を渡つて春日野に赴くように言つているから、佐保川の右岸にあつたものと推考される。
 小石踐渡 コイシフミワタリ。サザレフミワタリ(西)、サザレシフミワタリ(代精)、コイシフミワタリ(補)。小石はサザレとも讀んでいるが、「佐射禮伊思《サザレイシ》」(卷十四、三五四二)、「左射禮思《サザレシ》」(同、三四〇〇)とあつて、サザレとのみはなく、またサザレナミの語も同斷である。よつてサザレとはちいさいことを意味(89)するものと考えられる。
 夜干玉之 ヌバタマノ。枕詞。夜干と書いたのは野干と同音だからであろう。
 黒馬之來夜者 クロマノクルヨハ。コマノクルヨハ(元)、クロマノクルヨハ(代初)、クロマノクヨハ(古義)。クロマは、黒馬。相手の乘つて來る馬をいう。動詞來は、クサ(來方)の如く、クを連體形とするものもあるが、通例はクルを連體形としている。
 年尓母有粳 トシニモアラヌカ。一年に一度もないかの意。ヌカは、雨も降らぬかのヌカに同じく、希望の意となる。
【評語】麻呂のヨク渡ル人ハの歌に答えた歌。馬に乘つて來る男の樣が描かれている。小石踐ミ渡りも具體的な行き方であり、黒馬ノ來ル夜も、同音を利用した調子のよさがあるとともに、印象的な巧みな句である。ヌバ玉の枕詞も、ここではよく利いている。次に擧げた歌から來ているのであろうが、よい歌である。
【參考】類歌。
  川の瀬の石踐みわたりぬば玉の黒馬の來る夜は常にあらぬかも(卷十三、三三一三)
 
526 千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ浪 
 止《や》む時も無し。  
 わが戀ふらくは。
 
 千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河瀬之《サホノカハセノ》 小浪《サザレナミ》
 止時毛無《ヤムトキモナシ》
 吾戀者《ワガコフラクハ》
 
【譯】千鳥の鳴く佐保の河瀬の小さい浪のように、止む時もございません。わたくしの戀うる事は。
【釋】千鳥鳴 チドリナク。佐保川の敍述である。
 佐保乃河瀬之小浪 サホノカハセノサザレナミ。佐保川の瀬に起るちいさい浪。以上、止ム時無シの序にな(90)つている。
 止時毛無 ヤムトキモナシ。五句のワガ戀フラクはを受けて、これを説明している。句切。
 吾戀者 ワガコフラクハ。コフラクは戀う事。倒置法で、四句に對して主格となつている。
【評語】平凡な内容および表現で、調子の良さで持つている。三句までは、平凡だが、描寫になつている。
【參考】類句。わが戀ふらくは止む時も無し。
  阿胡の海の荒礒の上のさざれ浪わが戀ふらくは止む時も無し(卷十三、三二四四)
  白たへの袖を觸れてよわが夫子にわが戀ふらくは止む時も無し(卷十一、二六一二)
  (上略)※[手偏+邑]《く》む人の間無きが如、飲む人の時じきが如、吾妹子にわが戀ふらくは止む時も無し(卷十三、三二六〇)
 
527 來《こ》むといふも 來《こ》ぬ時あるを、
 來《こ》じといふを 來《こ》むとは待たじ。
 來《こ》じといふものを。
 
 將v來云毛《コムトイフモ》 不v來時有乎《コヌトキアルヲ》
 不v來云乎《コジトイフヲ》 將v來常者不v待《コムトハマタジ》
 不v來云物乎《コジトイフモノヲ》
 
【譯】來ようと云つても來ない時があるのに、來ないというのを、來るだろうと待ちは致しません。來ないというものを。
【釋】將來云毛不來時有乎 コムトイフモコヌトキアルヲ。先方の男が來ようと言つても、それでも來ない時がある、然るにの意。
 不來云乎將來常者不待 コジトイフヲコムトハマタジ。先方の男が、來ないというのを、來るだろうとは待たないの意。
(91) 不來云物乎 コジトイフモノヲ。來ないというのを、然るにの意。三句の内容を、語をやや變えて繰り返している。
【評語】來の語を各句の頭に置いて詠んでいる。才氣の現れた歌だが、遊戯的であることは免れない。しかし相聞の歌としては、かような性質の歌が效果的なのだろう。かような形の歌は、歌いものから來るもので、紙上に書くに及んでは、その威力を失うのである。
【參考】來を句頭に置いた歌。
  梓弓引きみゆるべみ來ずは來ず來ばぞそをなぞ來ずは來ばそを(卷十一、二六四〇)
 
528 千鳥鳴く 佐保の河門の 瀬を廣み、
 打橋渡す。
 汝が來《く》と念へば。
 
 千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河門乃《サホノカハトノ》 瀬乎廣弥《セヲヒロミ》
 打橋渡須《ウチハシワタス》
 奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》
 
【譯】千鳥の鳴く佐保川の兩岸の出た處の瀬が廣いので、うち掛けた橋を渡しました。あなたがお出でになると思いましたので。
【釋】千鳥鳴 チドリナク。佐保川の敍述。
 佐保乃河門乃 サホノカハトノ。佐保川の河門の。カハトは、川渡りをする場所。門のような感じを與える處。大伴の旅人の歌に、「春されは吾家《わぎへ》の里の河門には鮎子さばしる君待ちがてに」(卷五、八五九)というのがあり、これは松浦の玉島川に就いて歌つているのだが、佐保の自邸を思い浮かべたものとも解せられる。大伴氏の邸宅は、佐保の河門を前にして作られてあつたのだろう。
 瀬乎廣弥 セヲヒロミ。川の瀬が廣くして。次の打橋渡スの理由を示している。
(92) 打橋渡須 ウチハシワタス。ウチハシは、既出(卷二、一九六)。板をうち渡した橋。句切。
 奈我來跡念者 ナガクトオモヘバ。あなたが來ると思うのでの意で、第四句を説明している。
【評語】七夕の歌に、「機《はたもと》の〓木《ふみき》もち行きて天の川打橋渡す公《きみ》が來むため」(卷十、二〇六二)という歌があるが、坂上の郎女の歌の粉本になつているかも知れない。大伴氏の邸宅の特色をよく描いている歌である。
 
右郎女者、佐保大納言卿之女也。初縁2一品穗積皇子1、被v寵無v儔。而皇子薨之後時、藤原麻呂大夫、娉2之郎女1焉。郎女家2於坂上里1。仍族氏號曰2坂上郎女1也。
 
右は部女は、佐保の大納言の卿の女なり。初、一品穗積の皇子に嫁《とつ》き、寵せらるること儔《たぐひ》なかりき。皇子|薨《かむさ》りましし後、藤原の麻呂の大夫、この郎女を娉《つまど》へり。郎女は坂上の里に家《す》めり。よりて族氏號けて坂上の郎女と曰ふ。
 
【釋】右郎女者 ミギハイラツメハ。以下坂上の郎女の説明である。大伴氏の事情に通じている人の筆である。
 佐保大納言 サホノオホキモノマヲシノツカサ。大伴の安麻呂。
 一品穗積皇子 ヒトツノシナホヅミノミコ。一品は令の制に、親王に賜わる最上級の位。四品まである。穗積の親王は既出(卷二、一一五)。天武天皇の皇子。靈龜元年正月、一品を授けられ、同年七月薨じた。
 坂上里 サカノウヘノサト。奈良縣生駒郡立野の東北にある。
 族氏 ヤカラ 一族の者。大伴家の者。
 號曰坂上郎女也 ナヅケテサカノウヘノイラツメトイフ。その住んでいる地名によつて他と区別して呼ぶので、他の地に移つてももとの名で呼ぶのである。
 
(93)又大伴坂上部女歌一首
 
【釋】又大伴坂上郎女歌一首 マタオホトモノサカノウヘノイラツメノウタヒトツ。前掲の歌作を受けて又と書いている。作歌事情は、前と同一か否か不明である。この歌は旋頭歌である。旋頭歌は、五七七の三句から成る片歌二聯から成立するが、これはもと三句の歌を繰り返して歌うことから起り、また或る一人が前三句を歌い、他の一人がこれに和して後三句を歌う問答體があつて、それを後にすべてを一人で歌うようになつたものである。古事記日本書紀にも既に見受けるが、藤原の宮の時代にさかんになつたと見えて、集中では、その過半は、柿本の人麻呂の歌集の所出である。奈良時代に入ると、既に衰えて、當代の詞人、稀にこれを作るものがあるに過ぎなかつた。この歌體は、前後の二聯に分かれるので、各聯に切つて解すべく、旋頭歌の名義も、この歌體によつて名づけられている。
 
529 佐保河の 岸のつかさの
 柴な刈りそね。
 ありつつも 春し來らば
 立ち隱るがね。
 
 佐保河乃《サホガハノ》 涯之官能 キシノツカサノ
 少歴木莫苅焉《シバナカリソネ》
 在乍毛《アリツツモ》 張之來者《ハルシキタラバ》
 立隱金《タチカクルガネ》
 
【譯】佐保川の岸の高い處の木の枝は刈らないでください。かようにして春が來たら、それに隱れましようから。
【釋】涯之官能 キシノツカサノ。涯は水際をいう字。官は訓假字。ツカサは、高い處。周圍を支配するが如き状態にある地勢をいう。市のつかさ、野づかさ、野山づかさの語がある。「夜麻登能《ヤマトノ》 許能多氣知爾《コノタケチニ》 古陀加(94)流《コダカル》 伊知能都加佐《イチノツカサ》」(古事記一〇一)、「野豆可佐爾《ノヅカサニ》 今者鳴良武《イマハナクラム》 宇具比須乃許惠《ウグヒスノコヱ》」(卷十七、三九一五)、「多可麻刀能《タカマトノ》 宮乃須蘇未乃《ミヤノスソミノ》 努都加佐爾《ノヅカサニ》」(卷二十、四三一六)、「高松《タカマツノ》 野山司之《ノヤマツカサノ》 色付見者《イロヅクミレバ》」(卷十、二二〇三)。佐保川の岸の高い處の意である。
 少歴木莫苅焉 シバナカリソネ。
   ワカクヌギナカリソ(元)
   シバナカリソ(西)
   ヲクヌギナカリソ(代精)
   シバナカリソネ(考)
   ――――――――――
   小歴木莫苅烏《シバナカリソネ》(古義)
 歴木は、古事記下卷、日本書紀景行天皇の卷などに見えている。新撰字鏡に、「※[木+歴]、櫟、久奴木、又久比是」とある。ここに少歴木と書いたのは、實際ちいさい歴木などであつたのであろう。シバは灌木などの樹叢をいうから、義をもつて當てたのである。焉は助辭で、漢文ふうに書き添えたまでで訓には關係しない。以上第一段。句切。
 在乍毛 アリツツモ。引き續いている意。
 張之來者 ハルシキタラバ。張は、ハルの音に借りて書いたまでであるが、春の語原の、ハルは、草木の芽のふくらむことであるから、全然縁のないわけでもない。シは強意の助詞。「自2神代1《カミヨヨリ》 春者張乍《ハルハハリツツ》 秋者散來《アキハチリケリ》」(卷九、一七〇七)。
 立隱金 タチカクルガネ。ガネは既出(卷三、三六四)。將來を豫想する助詞。岸の小歴木を隱れる場處としようの意。
【評語】春になつたら、佐保川の岸の高みにある小歴木の蔭に隱れようというのは、君が目をはぐらかすため(95)に隱れようというのか、または君と共に隱れようとする遊びか、それはわからない。佐保の家から見える岸邊の小歴木に對して、感興を起した輕い意味の歌と思われるが、相聞の部に收めてあるのは、何等か、愛人との關係が存するものと見るべきである。人麻呂集所出の旋頭歌に、三句に何な刈りそねと置いた歌が三首もあり、それらを手本にして作つたのであろうが、そのような歌詞に引かれての文學遊戯であるかもしれない。しかし婦人として旋頭歌の作を成しているのは、この人の才氣を語るものがある。
【參考】類句、――な刈りそね。
  住吉の出見の濱の柴な刈りそね、未通女らが赤裳の裾の潤《ぬ》れて往かむ見む(卷七、一二七四)
  池の邊の小槻がもとの小竹《しの》な刈りそね、そをだに君が形見に見つつしのはむ(同、一二七六)
  天なる曰賣《ひめ》菅原の草な刈りそね。みなの綿か黒き髪に芥《あくた》し附くも(同、一二七七)
  君に似る草と見るよりわが標めし野山の淺茅人な刈りそね(同、一三四七)
 
天皇、賜2海上女王1御歌一首 寧樂宮即位天皇也
 
天皇の、海上《うなかみ》の女王《おほきみ》に賜へる御歌一首。【寧樂の宮に即位《あめのしたし》らしめしし天皇なり。】
 
【釋】天皇 スメラミコト。下の註に、「寧樂宮即位天皇也」とある。奈良の宮に天の下を知ろしめした天皇は七帝であるが、男性としては聖武天皇、淳仁天皇、光仁天皇であり、ここは聖武天皇である。
 海上女王 ウナカミノオホキミ。次の歌の題詞の下に、「志貴皇子之女也」とある。續日本紀に、養老七年正月に從四位の下を授けられ、神龜元年二月四日に天皇即位、その六日に、從四位の下海上の女王に從三位を授けられたことが見えている。
 御歌 ミウタ。御製歌とあるべきだが、天皇の御歌とのみある例も、卷二、九一の題詞に「天皇賜2鏡王女1(96)御歌一首」とあり、その他にもあつて、誤脱ではない。
 
530 赤駒の 越ゆる馬柵《うませ》の、
 緘《しめ》結《ゆ》ひし 妹が情《こころ》は、
 疑ひも無し。
 
 赤駒之《アカゴマノ》 越馬柵乃《コユルウマセノ》
 緘結師《シメユヒシ》 妹情者《イモガココロハ》
 疑毛奈思《ウタガヒモナシ》
 
【譯】赤駒の越える馬柵の結び堅めてあるように、堅く契りを交わした、そなたの心は疑いもない。
【釋】赤駒之 アカゴマノ。馬は多くは赤褐色であるので、アカゴマという。これによつて馬の概念が明瞭にされる。
 越馬柵乃 コユルウマセノ。ウマセは、馬塞で、馬柵の文字はよく當つている。柵は、木の垣。馬が出ないように柵を結つておくので、以上二句は、次の緘結フの序となつている。「宇麻勢胡之《ウマセゴシ》 牟佐波武古麻能《ムギハムコマノ》」(卷十四、三五三七)。
 緘結師 シメユヒシ。緘は封であるが、ここでは標繩の意に使用している。すなわち標繩を張つて、占有したの意で、次の句を修飾している。
 妹情者疑毛奈思 イモガココロハウタガヒモナシ。妹の心を信じて疑わないの意を、妹が心を主格として言いあらわしている。
【評語】左註には擬古の作かと言つている。内容と表現とよく一致して、信頼する心を表示している。序歌であるが、四五句の云い方が率直で力強い。
【參考】類句、妹が心は疑ひも無し。
  大海の底を深めて結びてし妹が心は疑ひも無し(卷十二、三〇二八)
 
(97)  右今案、此歌擬古之作也。但以2時當1、便賜2斯歌1歟。
 
右は今案ふるに、この歌は擬古の作なり。但し時の當れるを以ちて、すなはちこの歌を賜へるか。
 
【釋】擬古之作 ギコノサク。擬古の作の意は、古歌に摸して新作することであるが、ここでは、古歌を、いささか時に遇うように修正されたことをいうのであろう。さて當時、便宜に任せてこの歌を賜わつたのだろうと言つている。この歌の原歌と見るべき古歌は傳わつていない。
 以時當 トキノアタレルヲモチテ。その時の事情が、よく該當したのでの意。
 
海上王、奉v和歌一首 志貴皇子之女也
 
海上の王の、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首。【志貴皇子の女なり。】
 
【釋】海上王 ウナカミノオホキミ。前の歌の題詞に出ている海上の女王に同じ。ここに海上の王とあるは、桂本、元暦校本等の古寫本によつたので、仙覺本には海上の女王とある。女王をも單に王と稱したことは、古くは例のあることで、額田の王などこれである。されば、却つて統一のない方が原形であるであろう。續日本紀にも、海上の王とある。
 奉和歌 コタヘマツレルウタ。前掲の聖武天皇の御製に唱和し奉つた歌。
 志貴皇子 シキノミコ。既出。
 
531 梓弓 爪引《つまひ》く夜音《よと》の 遠音《とほと》にも、
 君が御幸《みゆき》を 聞《き》かくしよしも。
 
 梓弓《アヅサユミ》 爪引夜音之《ツマヒクヨトノ》 遠音尓毛《トホトニモ》
 君之御幸乎《キミガミユキヲ》 聞之好毛《キカクシヨシモ》
 
(98)【譯】梓弓の弦を爪で引く夜の音のように、遠い吾にでも、陛下の御幸を聞くことは、よろしうございます。
【釋】梓弓爪引夜音之 アヅサユミツマヒクヨトノ。以上遠音というための序である。梓弓は、梓の材で作つた弓であるが、ここでは弓の一種を言つて、その全般を代表せしめている。爪引くは、弓の弦を手にて引いて弦音を立てること。夜音は夜の音である。こは、衛士どもが夜の陣にて弓を引いて弦打の音を立てることをいい、さてそは遠方なれは、その音の遙かなるによつて遠音の序としたのである。「梓弓爪引く夜音の遠音にも聞けば悲み」(卷十九、四二一四)の例があるが、それはこの歌によつて作つたのであろう。
 遠音尓毛 トホトニモ。トホトは、遠き音で、遠方の音聲である。
 君之御幸乎 キミガミユキヲ。
   キミガミユキヲ(桂)
   ――――――――――
   君之御事乎《キミガミコトヲ》(考)
 天皇の行幸で、他所においでになるのを、同じ宮中で、遠方に聞かれるのである。萬葉考に御幸は御事の誤りで、キミガミコトヲで、天皇の御事をの意であるとしている。それも分りが早いが、原文のままで意を成す上は、これを改訂すべきでない。
 聞之好毛 キカクシヨシモ。キカクは聞くこと。上のシは強意の助詞。モは感動の助詞。遠き音にても、天皇の行幸を聞くことは好ましいことでありますの意。
【評語】作者は宮中にあつて、夜ごとに聞く警衛の武士の弦打ちの音をもつて序とし、ひたすらに頼り切つている心を寫している。柔婉の情に富む佳作である。
 
大伴宿奈麻呂宿祢歌二首 佐保大納言卿之第三子也
 
【釋】大伴宿奈麻呂宿祢 オホトモノスクナマロノスクネ。既出(卷二、一二九)。下註に佐保の大納言の卿の(99)第三子とある。佐保の大納言は、安麻呂。第三子というは、旅人、田主、宿奈麻呂の順であろう。宿禰の姓を名の下に書いたのは、四位の人に對する書法である。
 
532 うち日さす 宮に行く兒を
 まがなしみ、
 留《と》むれば苦し。
 遣《や》ればすべなし。
 
 打日指《ウチヒサス》 宮尓行兒乎《ミヤニユクコヲ》
 眞悲見《マガナシミ》
 留者苦《トムレバクルシ》
 聽去者爲便無《ヤレバスベナシ》
 
【譯】輝かしい宮中に行く兒がかわいいので、留めるのは苦しいし、出して遣れば、何とも法がない。
【釋】打日指 ウチヒサス。既出(卷三、四六〇)。
 宮尓行兒乎 ミヤニユクコヲ。ミヤは、宮中、宮廷。宮に行くは、勤めに出る意。コは女子であろうが、何人とも知られない。
 眞悲見 マガナシミ。マは接頭語。カナシは愛せられる意の形容詞。兒ヲマ悲シミは、月ヲ清ミなどと同じ語法。その兒がいとしくしての意。
 留者苦 トムレバクルシ。クルシは、心苦しい意。引き留めれば、苦痛に感じられる。句切。
 聽去者爲便無 ヤレバスベナシ。出して遣れば、何とも致し方なく寂しいのである。
【評語】煩悶に堪えない心がよくあらわれている。四五句を對句をもつて構成しているのも、どちらにすればよいか、兩途に迷う心情をあらわすに適している。手にしようとした珠が、みすみす遠ざかつてゆくのを歌つた、あわれな歌である。
 
(100)533 難波潟 潮干の浪凝《なごり》、
 飽くまでに 人の見る兒を
 吾しともしも。
 
 難波方《ナニハガタ》 鹽干之名凝《シホヒノナゴリ》
 飽左右二《アクマデニ》 人之見兒乎《ヒトノミルコヲ》
 吾四乏毛《ワレシトモシモ》
 
【譯】難波潟の潮の干た跡のおもしろさよ。それを飽くまでも見るように人のよく見る兒を、わたしは見ることができない。
【釋】難波方 ナニハガタ。難波の淺い洲で、方は借字。
 鹽干之名凝 シホヒノナゴリ。ナゴリは、波殘で、波の形いた跡に殘るもの。潮のひたあと。以上序で、そのおもしろさに、次の飽クマデニ見ルを引き出している。アクタ(芥)のアクをかけているかもしれない。「難波方《ナニハガタ》 潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》 委曲見《ツバラニミム》 在v家妹之《イヘナルイモガ》 待將v問多米《マチトハムタメ》」(卷六、九七六)。
 飽左右二人之見兒乎 アクマデニヒトノミルコトヲ。見飽きるまで、他の人の十分に見る兒をで、この兒は、前の歌の、宮に行く兒のことと解せられる。
 吾四乏毛 ワレシトモシモ。上のシは、強意の助詞。トモシはすくない意の形容詞であるが、ほとんど見るを得ない意である。
【評語】序を使用して巧みに出來ているが、これも人をわが手から離してやる悲しさがよくあらわれている。この序には何か縁があるかもしれないが、よくあたらない感じもあり、序を使つたために浮薄に流れた氣もする。前の歌と連作をなしている。
 
安貴王歌一首 并2短歌1
 
(101)【釋】安貴王 アキノオホキミ。既出(卷三、三〇六)。志貴の皇子の孫、春日の王の子。子に市原の王がある。作歌の事情は、左註に記されている。因幡の國の八上郡から出た采女と通じたので、その采女が本國に歸されたのを思つて詠んだ歌である。
 
534 遠嬬《とほづま》の 此間《ここ》にあらねば、
 玉|桙《ほこ》の 道をた遠み、
 
 思ふそら 安けなくに、
 嘆くそら 安からぬものを。」
 み空行く 雲にもがも。
 高飛ぶ 鳥にもがも。
 明日行きて 妹に言《こと》問《と》ひ、
 わがために 妹も事無く、
 妹がため 吾も事無く、
 今も見る如 副《たぐ》ひてもがも。」
 
 遠嬬《トホヅマノ》 此間不v在者《ココニアラネバ》
 玉桙之《タマホコノ》 道乎多遠見《ミチヲタトホミ》
 思空《オモフソラ》 安莫國《ヤスケナクニ》
 嘆虚《ナゲクソラ》 不v安物乎《ヤスカラヌモノヲ》
 水空往《ミソラユク》 雲尓毛欲成《クモニモガモ》
 高飛《タカトブ》 鳥尓毛欲成《トリニモガモ》
 明日去而《アスユキテ》 於v妹言問《イモニコトドヒ》
 爲v吾《ワガタメニ》 妹毛事無《イモモコトナク》
 爲v妹《イモガタメ》 吾毛事無久《ワレモコトナク》
 今裳見如《イマモミルゴト》 副而毛欲得《タグヒテモガモ》
 
【譯】遠い國にいる愛人がここにいないので、その國へ行くべき道が遠くして、もの思う心が安らかでない。嘆く心も安らかでないのだ。かの大空を自由に飛ぶ雲にもなりたいものだ。天高く飛ぶ鳥にもなりたいものだ。雲や鳥であつたなら、明日行つてかの人に物語をし、自分のためにその人の罪せられるようなこともなく、またその人のために、自分がどうという事もなく、今目前に見るように連れ添つていたいものである。
(102)【構成】嘆クソラ安カラヌモノヲまで第一段、遠人を思つて落ち著かない心を敍している。以下第二段、雲や鳥になつて、その人のもとに行きたい心を歌つている。
 
【釋】遠嬬 トホヅマノ。トホヅマは、遠方にいる妻。「朝月日《アサヅクヒ》 向山《ムカヒノヤマニ》 月立所v見《ツキタテリミユ》 遠妻《トホヅマヲ》 持在人《モチタルヒトヤ》 看乍偲《ミツツシノハム》」(卷七、一二九四)、「吾遠嬬之《ワガトホヅマノ》 事曾不v通《コトゾカヨハヌ》(卷八、一五二一)など使用例がある。
 此間不在者 ココニアラネバ。本郷に追放されてここにいないのをいう。
 玉桙之 タマホコノ。枕詞。
 道乎多遠見 ミチヲタトホミ。タは接頭語。道が遠くして。
 思空 オモフソラ。思う心。ソラは空虚の義で、思フ嘆クなどは、實體がないのでいうらしい。「故敷流曾良《コフルソラ》 夜須久之安良禰波《ヤスクシアラネバ》」(卷十八、四一一六)の如く戀フルソラともいう。
 安莫國 ヤスケナクニ。ヤスカラナクニ(西)、ヤスケナクニ(新訓)。ヤスケは、形容詞の未然形。ナクニはないことだ。「奈氣久蘇良《ナゲクソラ》 夜須家奈久爾《ヤスケナタニ》」(卷十七、三九六九)など用例がある。句切。
 嘆虚不安物乎 ナゲクソラヤスカラヌモノヲ。上の思フソラ云々と對句になつている。以上四句は、多少變化はあるが、慣用句としてしばしば使用される。ここで句切であるか否かについては、兩樣の解があるが、集中、モノヲで終つている歌も多いことであり、また以下は話頭を改めているから、句切と見るを可とする。「布土能嶺乎《フジノネヲ》 高見恐見《タカミカシコミ》 天雲毛《アマグモモ》 伊去羽斤《イユキハバカリ》 田菜引物緒《タナビクモノヲ》」(卷三、三二一)以上第一段、愛人の遠く去つて、これを思つて心の落ちつかないことを敍している。
 水空往 ミソラユク。ミは接頭語。次の句の雲を修飾する。
 雲尓毛欲成 クモニモガモ。ガは希望の助詞。雲にてもありたいと希望している。句切。
 高飛 タカトブ。次の句の鳥を修飾する。
(103) 鳥尓毛欲成 トリニモガモ。以上二句、ミ空行ク云々の句と對句になつている。句切。
 明日去而於妹言問 アスユキテイモニコトドヒ。明日行キテは、明日にも行つてで、遠國に行く心をあらわしている。コトドヒは、物を言いかける意。
 爲吾妹毛事無 ワガタメニイモモコトナク。對手の因幡の八上の采女は、この作者のゆえに追放されたので、特にこの句を成している。ワガタメニは、自分の事故に。コトナクは、何の變つた事もなく。
 爲妹吾毛事無久 イモガタメワレモコトナク。上のワガタメニ云々と對句になつている。
 今裳見如 イマモミルゴト。今目前に物を見るが如くの意。「秋去者《アキサラバ》 今毛見如《イマモミルゴト》 妻戀爾《ヅマゴヒニ》 鹿將v鳴山曾《カナカムヤマゾ》 高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》」(卷一、八四)の句意である。
 副而毛欲得 タグヒテモガモ。これもガが希望の助詞で、副つてもいたいものだの意である。
【評語】雲や鳥になつて、遠くにいる愛人のもとに行きたいという歌は、他にも類が多い。この歌も格別の内容はないが、多く對句を用いて纏綿たる情緒をあらわしている。殊に世に許されない中であるので、憂悶の情が一層切な次第である。
 
反歌
 
535 敷細の 手枕《たまくら》纏《ま》かず、
 間《あひだ》置きて年ぞ經《へ》にける。
 逢はなく念へば。
 
 敷細乃《シキタヘノ》 手枕不v纏《タマクラマカズ》
 間置而《アヒダオキテ》 年曾經來《トシゾヘニケル》
 不v相念者《アハナクオモヘバ》
 
【譯】なつかしい愛人の手枕を纏く事もなく、隔つたままで年が經つた事である。逢わない事を念えばずいぶ(104)ん久しい時を過ごしたものだ。
【釋】敷細乃 シキタヘノ。既出、枕詞。
 手枕不纏 タマクラマカズ。妻の手を枕として身に副へないで。句切ではなく、副詞句になつている。
 間置而 アヒダオキテ。間隔を置いて。時間がたつて。
 年曾經來 トシゾヘニケル。年を經過したことであるが、翌年になる程度でも年を經ると言つているから、どの程度に經過したかはわからない。「久左麻久良《クサマクラ》 多婢爾比左之久《タビニヒサシク》 安良米也等《アラメヤト》 伊毛爾伊比之乎《イモニイヒシヲ》 等之倍奴良久《トシノヘヌラク》」(卷十五、三七一九)。これは天平八年に出發した遣新羅使が、翌九年に播磨の國まで歸つて來て詠んだ歌で、翌年になつたことを、年ノ經ヌラクと言つている。句切。
 不相念者 アハナクオモヘバ。逢わないことを思えばで、上の年ゾ經ニケルの内容を説明している。
【評語】長歌の方は、その愛人のもとにどのようにでもして、行つて逢いたいという情を寫し、この方は、顧みて、逢わなくなつてから久しくなつたという言い方をしている。兩面から一事を敍する言い方で、長歌の歌いもらした方面を補つている。
 
右、安貴王、娶2因幡八上采女1、係念極甚、愛情尤盛。於v時勅斷2不敬之罪1、退2却本郷1焉。于v是王意悼怛、聊作2此歌1也。
 
右は、安貴の王、因幡の八上の采女を娶りて、係念極めて甚しく、愛情もとも盛なり。時に勅して不敬の罪に斷り、本郷に退却せしむ。ここに王の意、悼怛していささかこの歌を作れり。
 
【釋】因幡八上采女 イナバノヤガミノウネメ。采女は、出身の國名または郡名を冠して呼ぶので、この采女は、因幡の國の八上の郡から出たことが知られる。
(105) 係念 ケイネム。思いをかけること。
 不敬之罪 フキヤウノツミ。采女の素行の治まらないのを責めたので、この罪は采女だけに懸かつて、その郷里へ放逐されたのである。
 本郷 モトツクニ。采女の出身の郷士。
 悼怛 タウダチ。悼は傷、怛は悲で、悲傷に同じ。
 
門郡王戀歌一首
 
【釋】門部王 カドベノオホキミ。既出(卷三、三一〇)。
 戀歌 コフルウタ。かような題詞は、すくないがないこともない、
しかし特例というべきである。作歌事情については、左註にその記事がある。出雲の守として任地にあつた時の出來事で、歌詞によれは、遷任または、その他の用件で、京に上ろうとする際の作と推測される。
 
536 飫宇《おう》の海の 潮干の潟の、
 片念《かたもひ》に 思ひや行かむ。
 道の長|道《て》を。
 
 飫宇能海之《オウノウミノ》 鹽干乃滷之《シホヒノカタノ》
 片念尓《カタモヒニ》 思哉將v去《オモヒヤユカム》
 道之永手呼《ミチノナガテヲ》
 
【譯】飫宇の海の潮干の滷のように、片思いに思つてか行くことだろう。長い道中だが。
【釋】飫宇能海之 オウノウミノ。飫宇の海は既出(卷三、三七一)。島根縣の中の海。
 鹽干乃滷之 シホヒノカタノ。潮が乾て露出する洲の意。以上序で、同音を利用して、次の句の片念を起している。
(106) 片念尓 カタモヒニ。カタモヒは、先方は思わないのに、こちらだけが一方的に思うこと。片戀と同樣の語構成である。そなたは思ひもしないだろうがという氣分で使つている。
 思哉將去 オモヒヤユカム。ヤは疑問の係助詞。思つてか行こうの意。句切。
 道之永手呼 ミチノナガテヲ。ナガテは、長い道の義とされているが、かならず道の長手と言い、單獨には使用されなし。テはウナテ(溝)、ナハテ(繩手、畷)のテと同じく、通路の意であろう。この句は、道の長いのを思つてか行こうの意であるが、ヲには、なるものをの意があつて、終りに置いたので、單に倒置法とのみいうべきではない。
【評語】目前の景物を敍して、これを序とする手法は、しばしば用いられる所であるが、かような同音を利用するものに至つては、やや輕浮に陷る弊がなしとしない。題材のわりに沈痛味において缺ける所以である。
 
右、門部王、任2出雲守1時、娶2部内娘子1地。未v有2幾時1、既絶2往來1、累v月之後、更起2愛心1、仍作2此歌1、贈2致娘子1。
 
右は、門部の王、出雲の守に任けられし時、部内の娘子を娶れり。いまだ幾時《いくばく》ならずして、既に往來を絶つ。月を累ねたる後、更に愛《うつく》しむ心を起し、よりてこの歌を作りて娘子に贈り致しき。
 
【釋】任出雲守時 イヅモノカミニマケラレシトキ。門部の王が出雲の守に任ぜられた年代は、不明である。養老三年七月に、按察使に任ぜられ、伊賀、志摩の二國を管せしめられているによれは、その以前かという。ここに任ぜられし時とあるは、任にあつた時の意である。
 部内娘子 ブナイノヲトメ。部内は、所管の内の意の法制語で、ここでは出雲の國の内である。いかなる娘子とも知られない。
 
(107)高田女王、贈2今城王1歌六首
 
【釋】高田女王 タカタノオホキミ。卷の八、一四四四の題詞に「高田女王歌一首高安之女也」とある。高安は初め、高安の王といい、天平十一年四月に大原の眞人高安と稱した人で、その人の女である。ここに女王とあるのは天平十一年四月以前の歌であろう。
 今城主 イマキノオホキミ。系譜未詳。本卷五一九の歌の作者大伴の女郎を、その題詞の下に註して、今城の王の母なりとある。後、大原の眞人今城と稱して作歌を殘している。集中には今城の王の名における作歌はない。
 
537 言《こと》清《きよ》く いたもな言ひそ。
 一日だに
 君伊之哭者 痛寸取物。
 
 事清《コトキヨク》 甚毛莫言《イタモナイヒソ》
 一日太尓《ヒトヒダニ》
 君伊之哭者《キミイシナクバ》 痛寸取物《イタキトリモノ》
 
【譯】ひどくさつぱりしたことをおつしやいますな。一日だけでも(以下缺く)。
【釋】事清 コトキヨク。言を清く。さつぱりした言葉、りつぱな言葉をいうこと。
 甚毛莫言 イタモナイヒソ。イタクモイフナ(元)、イタクモイハジ(西)、イトモナイヒソ(考)、イタモナイヒソ(新訓)。イタモは、甚しくも、そうひどくりつぱな口をおききなさるなの意。句切。
 一日太尓 ヒトヒダニ。一日だけでも。
 君伊之哭者痛寸取物。
   キミニシナカハイタ□トリモノ(元赭)
(108)   キミイシナクハイタキキスソモ(西)
   ――――――――――
   君伊去坐者痛寸取物《キミイニマサバイタキキズゾモ》(考)
   君伊之哭者偲不敢物《キミイシナクバシヌビアヘヌモノ》(古義)
   君伊之哭者有不敢物《キミイシナクバアリアヘヌモノ》(新考)
 桂本には、伊の字なく空白になつており、物を勿に作つているが、それでも意は通じない。その他諸説があるが、いずれも從うわけに行かない。者の字の普通の用法から言えば、その字までで第四句となり、たぶん條件法となるものの如く、以下第五句となるのであろう。
【評語】今城の王から何か言われたのに對して、そのように言葉の上ではさつぱりした事を仰せられますなという歌で、下の三句には多分、そうは言われますまいというような意味があるものと思われる。何ともわからない歌であるから致し方がない。
 
538 他辭《ひとごと》を 繁み言痛《こちた》み 逢はざりき。
 心ある如《ごと》 な思ひ、わが夫子。
 
 他辭乎《ヒトゴトヲ》 繁言痛《シゲミコチタミ》 不v相有寸《アハザリキ》
 心在如《ココロアルゴト》 莫思吾背子《ナオモヒワガセコ》
 
【譯】人の言うことが事繁くひどかつたので逢わなかつたのです。別の心があるようにお思い下さいますな、あなた。
【釋】他辭乎繁言痛 ヒトゴトヲシゲミコチタミ。既出(卷二、一一六)。慣用句で、人の口がうるさいのでの意。
 不相有寸 アハザリキ。句切。明瞭に三句切になつている。
 心在如 ココロアルゴト。深い心があるように。
 莫思吾背子 ナオモヒワガセコ。ナオモヒで思うなかれの意になる。自分に心があつて逢わなかつたように、思つてくださるなの意。
(109)【後記】別義があるわけではないが、他人の言葉がうるさいので逢わなかつたまでであるという辯解である。他人の言がうるさいという慣用句のあるのは、當時の男女のあいだの婚姻の風習が、男子が通う所から人目につきやすく、自然人々が如何に世人の噂を氣に病んでいたかをあらわすものである。
 
539 わが夫子《せこ》し 遂《と》げむといはば、
 人言《ひとごと》は 繁くありとも
 出でて逢はましを。
 
 吾背子師《ワガセコシ》 遂常云者《トゲムトイハバ》
 人事者《ヒトゴトハ》 繁有登毛《シゲクアリトモ》
 出而相麻志乎《イデテアハマシヲ》
 
【譯】貴方の方で添い遂げるといわれるならば、よし人言はうるさくても、出て逢いましたものを。
【釋】吾背子師 ワガセコシ。シは張意の助詞。
 遂常云者 トゲムトイハバ。トゲムは、遂行しよう。ここは男女の關係についていう。
 人事者 ヒトゴトハ。人言は、人の言うことは。
 繁有登毛 シゲクアリトモ。事多くあつても。
 出而相麻志乎 イデテアハマシヲ。實際逢わなかつたのである。逢いもしましたろうものをの意。
【評語】あなたの方で添い遂げるといわれるならばというのは、やはり今城の王の贈られた歌を下に思つているものと見える。男子の決心さえあれば、人の口の端をも押し切つて行こうとする婦人の強い意氣が見える。前の歌に引き續いて、連作中の一首として味わうべき歌である。
 
540 わが夫子に または逢はじかと
 思へばか、
(110) 今朝の別れの すべなかりつる。
 
 吾背子尓《ワガセコニ》 復者不v相香常《マタハアハジカト》
 思墓《オモヘバカ》
 今朝別之《ケサノワカレノ》 爲便無有都流《スベナカリツル》
 
【譯】あなたにまたと逢わないだろうと思いましたゆえか、今朝の別れが術ないことでございました。
【釋】復者不相香常 マタハアハジカト。マタハは、重ねては。ジは打消の推量。カは疑問の終助詞。重ねて逢うこともないだろうかと。
 思墓 オモヘバカ。カは疑問の係助詞。古くは、念ヘカモと言つたのだが、ここにこの語形の出ていることは注意すべきである。
 今朝別之 ケサノワカレノ。今朝別れて後にこの歌を贈つたのである。
 爲便無有都流 スベナカリツル。致し方がなかつた。三句のカを受けて、ツルと結んでいる。
【後記】これは逢われた後の歌である。今別れてはたしてまた逢ふ事が出來るかどうかと思うので、別に臨んで何とも別れがたかつた情を述べている。當時の婚姻風習として、男子の方から女子の許を訪れるので、かような歌が詠まれるのである。平易に敍して、しかも趣の深い歌である。
 
541 この世《よ》には 人言《ひとごと》繁し。
 來《こ》む生《よ》にも 逢はむ、わが夫子。
 今ならずとも。
 
 現世尓波《コノヨニハ》 人事繁《ヒトゴトシゲシ》
 來生尓毛《コムヨニモ》 將v相吾背子《アハムワガセコ》
 今不v有十方《イマナラズトモ》
 
【譯】今の世ではよし人言がうるさくして、逢う事がかなわずとも、生まれ變わつての次の世界ではお逢い致しましよう。今でなくとも。
【釋】現世尓波 コノヨニハ。現世は、佛教語で、現在の世界をいう。
(111) 人言繁 ヒトゴトシゲシ。句切。
 來生尓毛 コムヨニモ。來生は、將來生れ變つて來る世界。未來の生命。初句の現世に對比して言つている。
 將相吾背子 アハムワガセコ。アハムで切れる。ワガセコは呼びかけている。
 今不有十方 イマナラズトモ。現世では逢いがたいことを繰り返して、今でなくても來生で逢おうの意をあきらかにしている。
【評語】二世を契る思想ともいう事が出來よう。現世來世という佛教の知識が浸潤して來たことが思われる。これについては、大伴の旅人の酒を讃むる歌の中にも、「この世にし樂しくあらは來む生には蟲に鳥にもわれはなりなむ」(卷三、三四八)という歌がある。佛教の影響を受けた點は同樣だが、旅人の歌が反撥的なのに反して、これは女性の作であるだけに思想的に從順になつており、早くも現世を逃避して未來を求めようとする氣もちがあらわれている。
 
542 常|止《や》まず 通《かよ》ひし君が使|來《こ》ず。
 今は逢はじと たゆたひぬらし。
 
 常不v止《ツネヤマズ》 通之君我《カヨヒシキミガ》 使不v來《ツカヒコズ》
 今者不v相跡《イマハアハジト》 絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》
 
【譯】今までは絶えず通つて來たあなたのお使いが、來ないのを見ると、もう今は逢うまいとして、躊躇していられるのでございましょう。
【釋】常不止通之君我使不來 ツネヤマズカヨヒシキミガツカヒコズ。常止マズ通ヒシの句を君にかかるものと見れば、君が始終來た事になるが、この歌では、使いの來る來ないのを問題にしているのであるから、使いにかかるものと見てよいであろう。句切。これも三句切である。
 今者不相跡 イマハアハジト。もう今は逢わないとて。今は逢ハジは、相手の心を忖度している。
(112) 絶多比奴良思 タユタヒヌラシ。タユタヒは躊躇逡巡する意。これも君の心を推量している。
【評語】始終來ていた使の來なくなつたことに對する疑惑の情が歌われている。たよる所なく君の使いを待つ女心がよくあらわれている。以上高田の女王の歌六首、いずれも人言に氣がねをし、また君の心を危む情が溢れている。當時の女子の境遇が察せられる。
 
神龜元年甲子冬十月、幸2紀伊國1之時、爲v贈2從駕人1所v誂2娘子1作歌一首 井2短歌1
                     笠朝臣金村
 
神龜元年甲子の冬十月、紀伊の國に幸《い》でましし時に、從駕の人に贈らむがために、娘子に誂へらえて作れる歌一首。【短歌井はせたり。】                    笠の朝臣金村
 
【釋】神龜元年甲子冬十月幸紀伊國之時 ジニキノハジメノトシキノエネノフユカムナヅキ、キノクニニイデマシシトキニ。續日本紀によれば「神龜元年十月五日、天皇、紀伊の國に幸す。七日、行きて紀伊の國の那賀の郡玉垣の勾《まがり》の頓宮に至る。九日、海部の郡の玉津島の頓宮に至り、留りたまうこと十有餘日なり。十二日、離宮を岡の東に造る。十六日、詔したまふことに、山に登り海を望むに、この間の風光もとも好し。遠行を勞せずして遊覽するに足れり。故《かれ》、弱《わか》の濱の名を改めて、明光の浦とせよ云々。二十一日、行きて和泉の國の明石の頓宮に還り至る。二十三日、車駕、紀伊の國より至る」とある。この時の歌は、卷の六、九一七以下にもあり、山部の赤人の供奉《ぐぶ》したことが知られる。
 從駕人 オホミトモノヒト。行幸に供奉した或る人。誰とも知られない。
 所誂娘子作歌 ヲトメニアトラヘラエテツクレルウタ。娘子は誰であるかわからない。もし作者の女か妹ででもあるとすれば、笠の女郎で、從駕の人は、大伴の家持であるかも知れない。大和に留まつていた娘子に頼(113)まれて作つた歌であるから、作者の身邊の人であるに違いない。誂は、日本書紀古寫本の訓にアトラフとある。類聚名義抄にはアツラフとあり、攷證も平安時代の文獻によつてアツラフとしている。所誂は、依頼されて、注文されて。代作である。代作は、集中、大伴の坂上の郡女が、弟稻公に代わつて作つた歌(卷四、五八六)、大伴の家持が、大伴の坂上の大孃に代わつて作つた歌(卷十九、四一六九)などがある。このほかに、それと記されていないものがなお若干あるであろう。
l 笠朝臣金村 カサノアソミカナムラ。既出(卷二、二三三、卷三、三六四)。題詞の文中に書かないで、下方に別出したのは違例である。仙覺本には題詞中にはいつているが、古本にはこの位置にある。次の神龜二年云云の題詞も、かような形になつているのを見ると、これが原形であろう。かような形は、卷の五、八八四の前行題詞にもある。この作者の歌は、別に笠朝臣金村歌集から出たものがあり、共におおむね作歌の年月を明記するのを特色としているのを見れば、もと同一の資料から出たものと推測される。これも多分、笠朝臣金村歌集から出たもので、そのためにかような違例の形を見るに至つたのであろう。
 
543 天皇《おほきみ》の 行幸《みゆき》のまにま、
 部部《もののふ》の 八十伴《やそとも》の雄と
 出で行きし 愛《うつく》し夫《づま》は、
 天翔《あまと》ぶや 輕《かる》の路より
 玉襷《たまだすき》 畝火を見つつ
 麻裳《あさも》よし 紀路《きぢ》に入り立ち、
(114) 眞土山 越ゆらむ君は、
 黄葉《もみちば》の 散り飛ぶ見つつ、
 親《むつま》しみ 吾《われ》は念はず、
 草枕 旅をよろしと、
 思ひつつ 公《きみ》はあらむと、
 あそそには かつは知れども、
 しかすがに 黙然《もだ》得《え》あらねば、
 わが夫子が 行《ゆき》のまにまに、
 追はむとは 千遍《ちたび》念へど、
 手弱女《たわやめ》の わが身にし、あれば、
 道守《みちもり》の 問はむ答を
 言ひ遣《や》らむ すべを知らにと、
 立ちて躓《つまづ》く。
 
 天皇之《オホキミノ》 行幸乃隨意《ミユキノマニマ》
 物部乃《モノノフノ》 八十件雄與《ヤソトモノヲト》
 出去之《イデユキシ》 愛夫者《ウツクシヅマハ》
 天翔哉《アマトブヤ》 輕路從《カルノミチヨリ》
 玉田次《タマダスキ》 畝火乎見管《ウネビヲミツツ》
 麻裳吉《アサモヨシ》 木道尓入立《キヂニイリタチ》
 眞土山《マツチヤマ》 越良武公者《コユラムキミハ》
 黄葉乃《モミチバノ》 散飛見乍《チリトブミツツ》
 親《ムツマシミ》 吾者不v念《ワレハオモハズ》
 草枕《クサマクラ》 客乎便宜常《タビヲヨロシト》
 思乍《オモヒツツ》 公將v有跡《キミハアラムト》
 安蘇々二破《アソソニハ》 且者雖v知《カツハシレドモ》
 之加須我仁《シカスガニ》 黙然得不v在者《モダエアラネバ》
 吾背子之《ワガセコガ》 往乃萬々《ユキノマニマニ》
 將v追跡者《オハムトハ》 千遍雖v念《チタビオモヘド》
 手弱女《タワヤメノ》 吾身之有者《ワガミニシアレバ》
 道守之《ミチモリノ》 將v問答乎《トハムコタヘヲ》
 言將v遣《イヒヤラム》 爲便乎不v知跡《スベヲシラニト》
 立而爪衝《タチテツマヅク》
 
【譯】陛下の行幸に從つて、武士の多くの人々と共に出て行かれた、最愛のあなたは、輕の路を通り、美しい畝火山を見ながら、麻の裳を著るという、その紀伊の國の道に入り立つて、眞土山をお越えになつておいでになるでしようあなたは、黄葉の散り飛ぶを見ながら、わたくしをば親しくも思わず、草の枕の旅はよいものだと、思いながらあなたはあるでしようと、うすうすには知つておりますけれども、さすがに黙つてもおられま(115)せんので、あなたの行つたように跡を追いましようと何遍か思いますが、か弱い女のわたくしの事ですから、道の番人の問うでしよう答を、何と言つてよいか、その法を知らないで、立つて行きかねます。
【構成】段落はなく、一文で出來ている。
【釋】天皇之行幸乃隨意 オホキミノミユキノマニマ。行幸は、イデマシとも讀まれるが、音數から言えば、ここはミユキと讀む方が都合がよい。この歌は、おおむね五七の音數が整つている。ミユキの例は、「左右《カニカクニ》 君之三行者《キミガミユキハ》今西應v有《イマニシアルベシ》」(卷九、一七四九)がある。マニマは、そのまにまに、それに隨つての意。集中、隨意、任意などの字がこの訓に當てられている。天皇の行幸のままにの意。攷證に、續日本紀、天平寶字八年九月の宣命に、「己 可 欲末 仁 行 止 念 天《オノガホシキマニオコナハムトオモヒテ》」とあるのを擧げて、イデマシノマニと讀んでいるが、續日本紀のこの文は、諸本には末仁末仁とあるので、證にならない。
 物部乃八十伴雄與 モノノフノヤソトモノヲト。モノノフノヤソトモノヲは、既出(卷三、四七八)。武士の多くの人々。トは、と共に。歌われている夫は、その八十伴の雄の一人である。
 出去之愛夫者 イデユキシウツクシヅマハ。家を出て行つた愛すべき夫は。ウツクシは、形容詞の古い連體形。以下、公ハアラムまでに對する主格。
 天翔哉 アマトブヤ。既出(卷二、二〇七)。枕詞。天を飛ぶ雁の意に、カル(輕)に懸かつている。ヤは、感動の助詞。
 輕路從 カルノミチヨリ。輕は、奈良縣高市郡、畝火山の南方の地。その路を通つて。
 玉田次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。美しいたすき。
 畝火乎見管 ウネビヲミツツ。畝火は畝火山。輕の路から近く仰がれる。
 麻裳吉 アサモヨシ。既出(卷一、五五)。枕詞。著に懸かる。麻裳吉と書いたのは、これ一つである。
(116) 木道尓入立 キヂニイリタチ。キヂは、紀伊の國に行く道。大和から紀伊の國の道に入り立つて。
 眞土山 マツチヤマ。既出(卷一、五五)。大和と紀伊の國境をなしている山。
 越良武公者 コユラムキミハ。越えているだろうと推量している。ラムは連體形。上の愛シ夫を受けて、公は同じ人をさしている。
 黄葉乃散飛見乍 モミチバノチリトブミツツ。十月の行幸なので、この敍述がされている。眞土山の風景である。
 親 ムツマシミ。
   シタシクモ(神)
   ムツマシキ(西)
   シタシケク(古義)
   ムツマシク(新考)
   ムツマシミ(定本)
   ――――――――――
   親々《シタシクモ》(元賭)
   親々《ニキビニシ》(總索引)
 親愛なものとしての意。類聚名義抄、親にムツマシの訓がある。「泥斯久袁斯敍母《ネシクヲシゾモ》 宇流波志美於母布《ウルハシミオモフ》」(古事記四七)、「宇流波之美《ウルハシミ》 安我毛布伎美波《アガモフキミハ》」(卷二十、四四五一)の例によつて、ムツマシミと讀む。
 吾者不念 ワレハオモハズ。ワレハオモハズ(神)、ワレヲバモハズ(考)、ワヲバオモハズ(玉)。ワレハは我をばの意。わたしをば愛すべきものとも思わずにの意。
 草枕 クサマクラ。枕詞。
 客乎便宜跡 タビヲヨロシト。眞土山の秋の風景を見て、旅をよしとしての意。
 思乍公將有跡 オモヒツツキミハアラムト。上の愛シ夫は、および越ユラム公ハを受けて、また公はと言つ(117)ている。アラムまで、愛シ夫の敍述部であり、從つて初句からアラムまでを、トで受けて、以下作者の敍述に移る。
 安蘇々二波 アソソニハ。他の文獻に出ない語なので、本當には分らないが、淺々にはの意かとされている。
 且者雖知 カツハシレドモ。一方ではさようには知つているけれども。
 之加須我仁 シカスガニ。然爲《しかす》がにで、さようにするが、しかしの意の副詞。さすがに一方には。しかしながら。「風交《カゼマジリ》 雪者零乍《ユキハフリツツ》 然爲蟹《シカスガニ》 霞田菜引《カスミタナビキ》 春去爾來《ハルサリニケリ》」(卷十、一八三六)など、用例が多い。
 黙然得不在者 モダエアラネバ。モダは黙つていること。じつとしてもいられないので。
 吾背子之往乃萬々 ワガセコガユキノマニマニ。あなたの行つた通りに、萬は字音を借りてマニの音を寫している。マニマニは、上の行幸のまにまの、マニマに同じ、マという語に助詞ニが附著してマニマとなり、またそのマニを重ねてマニマニとも言つたのであろう。
 將追跡者 オハムトハ。夫の跡を追おうとは。
 千遍雖念 チタビオモヘド。チタビは、度數の多いこと。
 手弱女 クワヤメノ。タワヤメは、既出(卷三、三七九)。弱々しい女。
 吾身之有者 ワガミニシアレバ。シは強意の助詞。
 道守之 ミチモリノ。ミチモリは、道路を守る人。關守に同じく、反歌には、紀の關守とある。道路を守つて、みだりに人の通行を許さないのである。
 將問答乎 トハムコタヘヲ。問われるのに對して返答を。
 言將遣爲便乎不知跡 イヒヤラムスベヲシラニト。言いやるべき手段を知らずとして。
 立而爪衝 タチテツマヅク。出かけようとして立つて、またためらうの意。ツマヅクは、進行し得ないで停(118)止する状態をあらわしている。躊躇する心である。
【評語】長々と敍してあるが、緊張に缺けている。愛シ夫ハ、越ユラム公ハ、公ハアラムトの如く、主語を重ねたり、畝火ヲ見ツツ、散リ飛ブ見ツツ、思ヒツツの如き同じ形の句を重ねて、煩雜の感を増している。女子に代わつて詠んだまでで、何等の生命のない歌である。末を、立チテ爪ヅクと留めたあたり、多少の效果はある。一體に長歌は、組織力を必要とするのであるが、その方面が整然と現われていないので、ごたごたした歌になつてしまつた。眞土山の黄葉を見て旅の氣分を味わつているだろうという邊を中心に構成すれば、よかつたのだろう。
 
反歌
 
544 後《おく》れ居て 戀ひつつあらずは、
 紀《き》の國の 妹背の山に
 あらましものを。
 
 後居而《オクレヰテ》戀乍不有者《コヒツツアラズハ》
 木國乃《キノクニノ》 妹背乃山尓《イモセノヤマニ》
 有益物乎 アラマシモノヲ
 
【譯】あとに殘つていて戀をしていないで、紀伊の國の妹背の山であつたらよかつたでしように。
【釋】後居而戀乍不有者 オクレヰテコヒツツアラズハ。既出(卷二、一一五)。歌いものから來た慣用句らしい。あとに殘つていて戀をしていないで、それよりはの意。ハは、感動の助詞として輕く添えたものとされている。
 木國乃 キノクニノ。妹背の山の所在を説明する。
 妹背乃山尓 イモセノヤマニ。和歌山縣伊都郡の西端に、紀の川を挾んで、その右岸に背の山があり、左岸(119)に妹の山がある。それを併わせて妹背の山という。夫婦の山の意である。集中、別々にも詠み、また併わせても詠んでいる。その地勢を證すべき歌には、「勢能山爾《セノヤマニ》 直向《タダニムカヘル》 妹之山《イモノヤマ》 事聽屋毛《コトユルセヤモ》 打橋渡《ウチハシワタス》」(卷七、一一九三) の如きがある。
 有益物乎 アラマシモノヲ。あつたらよかつた、しかるにの意。
【評語】型にはまつた歌であるが、妹背の山だつたら竝んでいられたろうにというのは、一手段と言える。
 
545 わが夫子が 跡ふみ求め
 追ひ行かば、
 紀の關守い  
 留《とど》めなむかも。
 
 吾背子之《ワガセコガ》 跡履求《アトフミモトメ》
 追去者《オヒユカバ》
 木乃關守伊《キノセキモリイ》
 將v留鴨《トドメナムカモ》
 
【譯】あなたの足跡を踏み求めて追つて行きましたら、紀伊の國の關守が留めるでしようね。
【釋】吾背子之跡履求 ワガセコガアトフミモトメ。愛人の行つた足跡を踏み求めて。足跡をさがして。
 追去者 オヒユカバ。あとを追つて行つたら。
 木乃關守伊 キノセキモリイ。キノセキモリは、紀伊の國の關の番人であるが、その關の所在は不明である。男の通つて行つた跡を求めて追い行くというのであり、その男は行幸に從つて眞土山を越えて行つたのだから、その路線の上に求むべきである。イは助詞とも接尾語とも見られる。卷三、二三七參照。
 將留鴨 トドメナムカモ。留めるだろうと推量している。
【評語】長歌の末尾の意を取つて歌つている。短歌だけによく纏まつている。初二句に、男の行つた足跡を踏み求めてと、突つ込んで敍述したのは強い言い方で、全體の效果をよく助けている。
 
(120)二年乙丑春三月、幸2三香原離宮1之時、得2娘子1作歌一首 并2短歌1                   笠朝臣金村
 
二年乙丑の春三月、三香の原の離宮に幸《い》でましし時に、娘子を得て作れる歌一首【短歌并はせたり。】笠の朝臣金村
 
【釋】二年乙丑 フタトセキノトウシ。前を受けて神龜二年である。
 幸三香原離宮之時 ミカノハラノトツミヤニイデマシシトキニ。三香の原の離宮は京都府相樂郡加茂町、木津川の右岸にあつた離宮で、後、恭仁の京となつた地である。神龜四年五月にこの離宮に幸せられたことが傳えられるが、神龜二年の行事の事は傳えられない。
 得娘子 ヲトメヲエテ。娘子は、いかなる人とも知られない。土地の女であろう。
 
546 三香《みか》の原 旅のやどりに、
 玉|桙《ほこ》の 道の行合《ゆきあひ》に、
 天雲の 外《よそ》のみ見つつ、
 言問はむ 縁《よし》の無ければ、
 情《こころ》のみ 咽《む》せつつあるに、
 天地の 神祇《かみ》辭《こと》依《よ》せて、
 敷細の 衣手《ころもで》易《か》へて
 自妻《おのづま》と 憑《たの》める今夜《こよひ》、
(121) 秋の夜の 百夜の長さ
 ありこせぬかも。
 
 三香乃原《ミカノハラ》 客之屋取尓《タビノヤドリニ》
 珠桙乃《タマホコノ》 道能去相尓《ミチノユキアヒニ》
 天雲之《アマグモノ》 外耳見管《ヨソノミミツツ》
 言將v問《コトハム》 縁乃無者《ヨシノナケレバ》
 情耳《ココロノミ》 咽乍有尓《ムセツツアルニ》
 天地《アメツチノ》 神祇辭因而《カミコトヨセテ》
 敷細乃《シキタヘノ》 衣手易而《コロモデカヘテ》
 自妻跡《オノヅマト》 憑有今夜《タノメルコヨヒ》
 秋夜之《アキノヨノ》 百夜乃長《モモヨノナガサ》
 有與宿鴨《アリコセヌカモ》
 
【譯】三香の原の旅の宿りに、道路で行き合つて、空飛ぶ雲のようによそにばかり見ながら、物を言いかけるたよりがないので、心にばかり泣いていたところ、天地の神がお寄せになつて、やわらかい著物を著代えて、自分の妻と頼みにした今夜は、秋の夜の百夜もの長さが、あつてほしいことだ。
【構成】段落はなく、一文で出來ている。
【釋】三香乃原客之屋取尓 ミカノハラタビノヤドリニ。三香の原における旅の宿りにの意。その地の人の家にはいつたのであろう。この句は、総括的に、この歌の全部の上に懸かつている。
 珠桙乃 タマホコノ。枕詞。
 道能去相尓 ミチノユキアヒニ。ユキアヒは、途中で往き合うことで、また往き合う場處の意にも使用される。「※[女+感]嬬等《ヲトメラニ》 行相乃速稻乎《ユキアヒノワセヲ》」(卷十、二一一七)の如きは、往き合う處の意である。この句は、道の往き合いに、よそに見たの意に、下の句を修飾する。ちよつと見ると、客ノ宿リニの句と、對句になつているように見えるが、そうではなく、そう見えるのは、詞句が不注意に使われているからである。
 天雲之 アマグモノ。枕詞。天の雲のようにの意で、次の句に冠する。
 外耳見管 ヨソノミミツツ。關係のないよその事とばかり見て。
 言將問縁乃無者 コトトハムヨシノナケレバ。物を言い寄るべき緑故がないので。
 情耳咽乍有尓 ココロノミムセツツアルニ。ムセツツは、聲がつまつて出ないのをいう。戀のために泣かれて聲が出ず、心中でばかりむせて泣いているのに。
(122) 天地神祇辭因而 アメツチノカミコトヨセテ。コトヨセテは、言葉で寄せてで、ここは媒介しての意になる。「天地能《アメツチノ》 可未許等余勢天《カミコトヨセテ》 春花能《ハルバナノ》 佐可里裳安良牟等《サカリモアラムト》 末多之家牟《マタシケム》 等吉能沙加利曾《トキノサカリゾ》」(卷十八、四一〇六)は、天地の神の言葉を寄せることによつて榮えもあるだろうの意で、媒介ではない。天地の神の神助によつての意である。「里人之《サトビトノ》 言縁妻乎《コトヨセヅマヲ》」(卷十一、二五六二)は、里人の媒介した妻である。
 敷細乃 シキタヘノ。枕詞。
 衣手易而 コロモデカヘテ。衣服をとりかわして。衣を敷いて共に寢るをいう。
 自妻跡憑有今夜 オノヅマトタノメルコヨヒ。オノヅマは、自分の妻、わが妻。「於能豆麻乎《オノヅマヲ》 比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》」(卷十四、三五七一)。タノメルは、頼みにしている。
 秋夜之百夜乃長 アキノヨノモモヨノナガサ。秋の夜は長いとされている。その長い秋の夜の百夜もの長さ。百夜は、多くの。
 有與宿鴨 アリコセヌカモ。コセは助動詞。語義は來スであろう。口語くれるの如き意で、與の字、乞の字などを書く。ヌカモは、ないかなあと希望する語法。コセに與の字を當てた例、「今咲有如《イマサケルゴト》 有與奴香聞《アリコセヌカモ》」(卷十、一九七三)、「今日《ケフノヒノ》 如2千歳1《チトセノゴトク》 有與鴨《アリコセヌカモ》」(卷十一、二三八七)。與をコスに當てた例もある。
【評語】旅の宿りに娘子を得た喜びを歌つているが、熱情がない。修辭も蕪雜である。同じ形の詞句を重ねて、調子の如何、誤解のおそれなどを顧みない。この作者の弱點をさらけ出している。
 
反歌
 
547 天雲《あまぐも》の よそに見しより、
(123) 吾妹子に
 心も身さへ 縁《よ》りにしものを。
 
 天雲之《アマグモノ》 外從見《ヨソニミシヨリ》
 吾妹兒尓《ワギモコニ》
 心毛身副《ココロモミサヘ》 縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》
 
【譯】空飛ぶ雲のように、外に見てから、あなたに心も身も寄つてしまつたものです。
【釋】天雲之外從見 アマグモノヨソニミシヨリ。長歌の句を取つている。
 心毛身副 ココロモミサヘ。心も、また身までもの意。心身共に。副は、字義を取つて、サヘに當てている。
 縁西鬼尾 ヨリニシモノヲ。すつかり寄り添つてしまつたの意。鬼は、あやしいもの、正體のわからないものを、古語にモノというので借りている字。モノヲは、この歌では、ものだが、到頭妻としたの意を含んでいる。
【評語】長歌の句を取つているが、よく纏まつている。四句の心も身さへの句は、どぎまぎしたような言い方だが、かえつて情意を示す效果を生じている。
 
548 今夜《こよひ》の 早く明くれば、
 すべを無み、
秋の百夜《ももよ》を 願ひつるかも。
 
 今夜之《コヨヒノ》 早開者《ハヤクアクレバ》
 爲便乎無三《スベヲナミ》
 秋百夜乎《アキノモモヨヲ》 願鶴鴨《ネガヒツルカモ》
 
【譯】この夜が早く明けるので、法がなさに、秋の幾夜もの長さを願つたことだつた。
【釋】今夜之 コヨヒノ。コヨヒノヤ(桂)、コノヨラノ(西)、コヨヒノ(代精)、イマノヨノ(童)。今の夜をさしていう、今夜は、コヨヒと讀むのが適當であるが、初句に今夜之、今夜乃と書いた例がなお「今夜乃《コヨヒノ》 於保束無荷《オホツカナキニ》」(卷十、一九五二)、「今夜乃《コヨヒノ》 曉降《アカトキクダチ》」(同、二二六九)、「今夜之《コヨヒノ》 在開月夜《アリアケヅクヨ》」(卷十一、二六七一)(124)などあり、或るいは、すべてコノヨラノと讀むべきであるかも知れない。
 早開者 ハヤクアクレバ。既に明けていると見て、ハヤクアクレバと讀む。
 爲便乎無三 スベヲナミ。手段、方法がなくして。
 秋百夜乎願鶴鴨 アキノモモヨヲネガヒツルカモ。長い秋の夜の百夜もを願つたことだ。
【評語】長歌の末を取つて詠んでいる。一夜の歡樂の既に終つて、その名殘が惜しまれている。
 
五年戊辰、大宰少貳石川足人朝臣遷任、餞2于筑前國蘆城驛家1歌三首
 
五年戊辰、大宰の少貳石川の足人の朝臣の遷任《うつ》れるに、筑前の國の蘆城の驛家に餞せる歌三首。
 
【釋】五年戊辰 イツトセツチノエタツ。前をうけて神龜五年である。
 大宰少貳石川足人朝臣遷任 オホキミコトモチノスナキスケイシカハノタルヒトノアソミノウツレルニ。大宰の少貳は大宰府の第三等の官。石川足人は、和銅四年四月に從五位の下、神龜元年二月に從五位の上を授けられたことが知られ、卷の六には大宰の帥大伴の旅人と贈答した歌が傳えられている。
 餞于筑前國蘆城驛家歌 ツクシノミチノクチノクニノアシキノウマヤニウマノハナムケセルウタ。蘆城の驛家は、福岡縣筑紫郡御笠村で、大宰府の東南方約一里の地である。驛家は、公用の往來のために、馬を飼養せしめ置く處で、主要道路に置かれてある。行人は此處で馬を乘り繼ぐので、自然旅館の如きものとなつた。天平二年に大伴の旅人が上京する時にも、蘆城の驛家で餞しているので(本卷、五六八)、わざわざ行つて送別の宴を開いたものと解せられる。その驛家は、料理がうまいとか、景色がよいとか、よい女がいるとか、何か引きつける理由があつたのだろう。餞は、行を送るために宴を設けるをいう。ウマノハナムケとは、乘馬の鼻を(125)向ける義で、馬の食物を贈る意の謙遜からいうのであろう。さてこの題下の歌三首は、左註にある通り、作者未詳の歌である。なおこれから以下、大伴の旅人の大宰の帥時代になるので、旅人もしくはその周圍の人の筆録が材料となつていると考えられる。
 
549 天地の 神も助けよ。
 草枕 旅ゆく君が
 家に至るまで。
 
 天地之《アメツチノ》 神毛助與《カミモタスケヨ》
 草枕《クサマクラ》 羈行君之《タビユクキミガ》
 至v家左右《イヘニイタルマデ》
 
【譯】天地の神も助けてください。草の枕の旅に行くあなたが、家に至るまでは。
【釋】天地之神毛助與 アメツチノカミモタスケヨ。天地の神も保護して無事にあるようにしてくださいの意。句切。
 草枕 クサマクラ。枕詞。石川の足人は多分海路を取つて上京するだろうが、慣用によつて、この句を使用している。
 羈行君之 タビユクキミガ。旅行に出かける君がで、君は石川の足人。
 至家左石 イヘニイタルマデ。イヘは、石川の足人の家。大和にあつたのであろう。
【評語】二句を命令形で言い切つたのは力強い。上品な歌である。
 
550 大船の 念ひ憑《たの》みし 君が去《い》なば、
吾は戀ひむな。
直《ただ》に逢ふまでに。
 
 大船之《オホブネノ》 念憑師《オモヒタノミシ》 君之去者《キミガイナバ》
 吾者將v戀名《ワレハコヒムナ》
 直相左右二《タダニアフマデニ》
 
(126)【譯】大船のように心から頼みにしていたあなたが去つたら、わたしは慕うことでしょう。まのあたり逢うまでは。
【釋】大船之 オホブネノ。既出(卷二、一六七)。枕詞。譬喩として念ヒ憑ムに冠する。
 念憑師 オモヒタノミシ。心にたよりに思つていた。次句の君の修飾句。
 君之去者 キミガイナバ。イナバは、去つたならば。
 吾者將戀名 ワレハコヒムナ。ナは感動の助詞。句切。
 直相左石二 タダニアブマデニ。タダニアフは、直接逢う。マデニは、それまでの間。
【評語】平凡な歌である。大船ノ念ヒ憑ミシ君というのに、多少の敍述性は認められる。作者未詳であるが、思いたのむというによれば、長官である大伴の旅人の作か。
 
551 大和路《やまとぢ》の 島の浦みに 寄する浪、
 間《あひだ》も無けむ。
 わが戀ひまくは。
 
 山跡道之《ヤマトヂノ》 島乃浦廻尓《シマノウラミニ》 縁浪《ヨスルナミ》
 間無牟《アヒダモナケム》
 吾戀卷者《ワガコヒマクハ》
 
【譯】大和へ行く道の島の浦に寄せる浪、そのように間隔のないことでしよう。わたしの慕うでしようことは。
【釋】山跡道之 ヤマトヂノ。ヤマトヂは、大和へ行く道。足人の行こうとする道を擧げている。
 島乃浦廻尓縁浪 シマノウラミニヨスルナミ。ウラミは浦に同じ。ミは接尾語。以上は足人の行路の風物を敍して、次の間モ無ケムの序としている。
 間無牟 アヒダモナケム。アヒダは間隔。ナケムは、形容詞無ケに、助動詞ムの接續したもの。絶えまとてもないだろうの意。句切。
(127) 吾戀卷者 ワガコヒマクハ。コヒマクハは、戀いむこと。第四句に對する主格句。
【評語】足人の行路を推量して、これを序に應用したのは巧みである。二三句の敍述もよい。しかし浪から、隙無ク思フを引き出すのは、類型的な表現で、例も多く、取り立てていうに足りない。三首とも總括すれば、送別に際しての儀禮的性質が濃厚である。
 
右三首、作者未詳
 
右の三首は、作者いまだ詳ならず。
 
【釋】作者未詳 ツクリヌシイマダアキラカナラズ。旅人か誰かの筆録によつたのであろうが、作者の名を落したのである。聞き傳えたものでなく、紙に書いたものが殘つていたのであろう。
 
大伴宿祢三依歌一首
 
【釋】大伴宿祢三依 オホトモノスクネミヨリ。續日本紀に、大伴の宿禰御依とあり、天平二十年二月に正六位の上から從五位の下となり、爾後、主税の頭、參河の守、仁部の少輔、遠江の守、義部の大輔、出雲の守を經て、寶龜五年五月散位從四位の下をもつて卒している。この人は、神龜天平の間に筑紫にいたという證明はない。
 
552 わが君は
 わけをば死ねと 念《おも》へかも、
 逢ふ夜蓬はぬ夜《よ》 二走《ふたはし》るらむ。
 
 吾君者《ワガキミハ》
 和氣乎波死常《ワケヲバシネト》 念可毛《オモヘカモ》
 相夜不v相夜《アフヨアハヌヨ》 二走良武《フタハシルラム》
 
(128)【譯】わが君樣は、奴をば死んでしまえと思つてか、逢う晩と逢わない晩とを、おまぜなさるのだろう。
【釋】吾君者 ワガキミハ。キミの語は、本義は、主君に對していう語であり、ここにわが君というのは、戯れの氣もちをもつて特に敬意を拂つている言い方である。なお次の句の解を參照すべきである。
 和氣乎波死常 ワケヲバシネト。ワケの用例は、「黒樹取《クロキトリ》 草毛苅乍《クサモカリツツ》 仕目利《ツカヘメド》 勤和氣登《イソシキワケト》 將v譽十方不v有《ホメムトモアラズ》」(卷四、七八〇)、「戯奴《ワケ》 變云2和氣1 之爲《ガタメ》 吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》 春野爾《ハルノノニ》 拔流茅花曾《ヌケルチバナゾ》 御食而肥座《ヲシテコエマセ》」(卷八、一四六〇)、「晝者咲《ヒルハサキ》 夜者戀宿《ヨルハコヒヌル》 合歡木花《ネブノハナ》 君耳將v見哉《キミノミミメヤ》 和氣佐倍爾見代《ワケサヘニミヨ》」(同、一四六一)、「吾君爾《ワガキミニ》 戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》 給有《タバリタル》 茅花乎雖v喫《チバナヲハメド》 彌痩爾夜須《イヤヤセニヤス》」(同、一四六二)が全部である。これによつて、君に對する語であること、戯奴の字の當てられることが知られる。戯奴の字は、眞實の奴ではないが、戯れに奴とするの意であつて、この語が戯れの奴の義を有するものでないことはもちろんである。これによれば、ワケの語は、奴に對していう二人稱の語であることが推定される。語原は別《わけ》で、若者の謂いか。よつて初句に特に、わが君の語を使用したのであろう。なおこれらの語例の作者は、一四六〇、一四六一は紀の女郎、七八〇、一四六二は、大伴の家持である。ワケヲバシネトは、奴をば死ねとの意になる。奴婢は、當時卑賤の階級の者として勞働に使用されていた。
 念可毛 オモヘカモ。この語法は、既出(卷二、一九八)。カモは、疑問の係助詞で、條件法になる。
 相夜不相夜 アフヨアハヌヨ。逢う夜と違わない夜と。集中、この句は他にない。
 二走良武 フタハシルラム。
   ヨマゼナルラム(桂)
   フタユクナラム(西)
   フタユキヌラム(考)
(129)   フタツユクラム(古義)
   フタハシルラム(新訓)
   ――――――――――
   二去良武《ナラビユクラム》(新考)
 フタハシルは、兩者|雙《なら》び走る意。この語も他に見えないが、類似の語に二行くがあつて、「空蝉乃《ウヅセミノ》 代也毛二行《ヨヤモフタユク》」(卷四、七三三)、「安我己許呂《アガココロ》 布多由久奈母等《フタユクナモト》」(卷十四、三五二六)の如く使用されている。その語と同意義のようであるが、二走るの方が、烏兎《うと》匆々として過ぎ去る感が強い。ラムは、上のカモを受けて、先方の心事を推量している。
【評語】ともすれば平凡に墮しやすい相聞の歌中にあつて、よく特色を發揮し、事實と心中とを併せ敍して、絶好の詞章を成している。怨んでめめしからず、諧謔的な言辭のうちに、心情を述べている。
【參考】奴婢に關する歌。
 一、奴婢を詠める。
  住の江の小田を刈らす子奴かも無き。奴あれど妹がみために私田《わたくしだ》刈る(卷七、一二七五)
  香《こり》塗れる塔にな寄りそ、川隈の屎鮒《くそぶな》食《は》めるいたき女《め》奴(卷十六、三八二八)
  はしだての熊來酒屋にま罵《ぬ》らる奴わし、誘《さす》ひ立て率《ゐ》て來なましを、ま罵らる奴わし(同、三八七九)
 二、譬喩
  面忘れだにも得すやと手握《たにぎ》りて打てども懲りず戀といふ奴(卷十一、二五七四)
  丈夫の聰き心も今は無し、戀の奴に吾は死ぬべし(卷十二、二九〇七)
  家にありし櫃に※[金+巣]《くぎ》さしをさめてし戀の奴のつかみかかりて(卷十六、三八一六)
 三、自卑
  (上略)老いたる奴吾が身一つに七重花咲く(下略)(卷十六、三八八五)
(130)  天ざかる鄙の奴(?)に天人しかく戀すらは生けるしるしあり(卷十八、四〇八二)
  縱《たた》さにもかにも横さも奴とぞわれはありける主《ぬし》の殿戸に(同、四一三二)
 四、戯稱
  わが君は戯奴《わけ》をば死ねと思へかも會ふ夜會はぬ夜二走るらむ(卷四、五五二)
  黒木とり草も刈りつつ仕へめど勤《いそ》しき戯奴《わけ》とほめむともあらず(同、七八〇)
  戯奴がためわが手もすまに春の野に拔ける茅花ぞ食《を》して肥えませ(卷八、一四六〇)
  晝は咲き夜は戀ひ寢《ぬ》る合歡《ねむ》の花君のみ見めや戯奴《わけ》さへに見よ(同、一四六一)
  わが君に戯奴《わけ》は戀ふらし賜ひたる茅花を喫《く》へどいや痩せに痩す(同、一四六二)
  松反《まつかへ》りしひてあれやは三栗の中ゆ上り來ぬ麻呂といふ奴(卷九、一七八三)
 五、奴婢の詠める(存凝)
  おし照る難波を過ぎて、うち靡く草香の山を、夕暮に吾が越え來れば、山も狹《せ》に咲ける馬醉木《あしぴ》の、惡《あ》しからぬ君を何時《いつ》しか往きてはや見む。
   右の一首は作者|微《いや》しきに依りて名字を顯さず(卷八、一四二八)
  稻|舂《つ》けば※[軍+皮]《かか》る吾《あ》が手を今夜《こよひ》もか殿の稚子《わくご》が取りて嘆かむ(卷十四、三四五九)
 
丹生女王、贈2大宰帥大伴卿1歌二首
 
【釋】丹生女王 ニフノオホキミ。既出(卷三、四二〇)。大和にいて、筑紫の大伴の旅人に贈つた歌である。旅人とのあいだは、どういう關係にあつたかわからない。夫婦關係とも限らないようである。卷の八、一六一〇にも旅人に贈つた歌がある。
 
(131)553 天雲の 遠隔《そくへ》の極《きは》み 遠けども
 情《こころ》し行けば 戀ふるものかも。
 
 天雲乃《アマグモノ》 遠隔乃極《ソクヘノキハミ》 遠鷄跡裳《トホケドモ》
 情志行者《ココロシユケバ》 戀流物可聞《コフルモノカモ》
 
【譯】あなたのいる邊は、大空の雲の退き去つているはてであつて、非常に遠いけれども、情は自由に通うので、遠いながらに戀をしている事ですよ。
【釋】天雲乃遠隔乃極 アマグモノソクヘノキハミ。既出。同じ作者の歌に、「天雲乃《アマグモノ》 曾久敝能極《ソクヘノキハミ》(卷三、四二〇)とある。天の雲の退く方の極限の意で、非常な遠方をいう。「天雲乃《アマグモノ》 退部乃限《ソクヘノカギリ》(卷九、一八〇一)、「天雲能《アマグモノ》 曾伎敝能伎波美《ソキヘノキハミ》」(卷十九、四二四七)ともある。
 遠鷄跡裳 トホケドモ。遠けれどもの意であるが、レを省いたものではなく、むしろこれが原形であると考えられる。形容詞のケの活用形は、動詞の未然形と同樣に使用されるが、またかように、已然形と同樣にも使用される。それは元來形容詞は、その性能は、事物の形態を敍述するにあるので、未然も已然もあるべきはずのものではない。だからケを未然形というも已然形というも正確な言い方ではなく、ある種の語に對しては、この形で接續するというまでである。
 情志行者 ココロシユケバ。シは強意の助詞。心がそちらに行くのでの意。
 戀流物可聞 コフルモノカモ。戀うものであるよと詠嘆した語法。
【評語】遠隔の地にいる人を戀うのは、そちらに心が行くからだとしている。心を信じた決定的な言い方がよく出ている。初三句の遠隔の地の説明は、類型的なのであろうが、感じはよくわかる。そうしてそれが全體に對してよく利いている。
 
(132)554 古《ふ》りにし 人の食《た》ばする 吉備《きび》の酒
 病めばすべなし
 貫簀《ぬきす》賜《たば》らむ。
 
 古《フリニシ》 人乃令v食有《ヒトノタバスル》 吉備能酒《キビノサケ》
 痛者爲便無《ヤメバスベナシ》
 貫簀賜牟《ヌキスタバラム》
 
【譯】老《おい》ぼれた貴方から贈つて下さつた吉備の地の御酒を飲みました所、體が病めて致し方がありません。どうか貫簀を贈つて頂きたいものです。
【釋】古人乃令食有 フリニシヒトノタバスル。
   イニシヘノヒトノノマセル(桂)
   イニシヘノヒトノヲサセル(玉)
   フリニシヒトノタバセル(古義)
   フリニシヒトノヲサセル(新訓)
   フルビトノタバラシメタル(金田一博士)
   ――――――――――
   古人乃令飲有《イニシヘノヒトノノマセル》(代初)
 フリニシヒトは、古くなつてしまつた人。年老いて時代に後れた人の意。「古人爾和禮有哉《フリニシヒトニワレアレヤ》 樂浪乃《ササナミノ》 故京乎《フルキミヤコヲ》 見者悲寸《ミレバカナシキ》」(卷一、三二)などある。ここは旅人をさしていう。タバスルは、令食有を義讀したもの。難訓の語で、定訓ともしがたいが、しばらくこれにあてておく。食せしめたの意。旅人から次に見える吉備の酒を贈つたのであろう。
 吉備能酒 キビノサケ。吉備の國から産した酒。西行の途中、吉備の國で名産の酒でも入手して贈つたのであろう。
 病者爲便無 ヤメバスベナシ。その酒を飲んで悩まれるので、何とも法がないの意。句切。
(133) 貫簀賜牟 ヌキスタバラム。ヌキスは、簀を編んで盥の上にかけて、水を使う時に水の散らないようにするための品である。延喜式、齋宮寮に、「手洗一口、※[木+泉]一合、貫簀一枚」、伊勢物語に「女の手あらふところに、ぬきすをうちやりて、たらひのかげに見えけるを」などある。タバラムは、賜ハラムに同じ。酒に惡醉して吐氣を催したので、貫簀をいただきたいの意。
【評語】旅人から酒を贈つたのに對して、戯れて詠んでいるが、才氣の溢れている作である。この人ももう相當の年輩に達しているだろう。石田の王の卒した時にも挽歌を詠んでいるが、それは藤原の宮時代のことと思われるから、それからすくなくとも二十年は經過している。
 
大宰帥大伴卿、贈3大貳丹比縣守卿遷2任民部卿1歌一首
 
大宰の帥大伴の卿の、大貳丹比の縣守の卿の民部の卿に遷任《うつ》れるに贈れる歌一首。
 
【釋】大貳丹比縣守卿 オホキスケタヂヒノアガタモリノマヘツギミ。大貳は大宰の大貳で、大宰府の第二等の官。丹比の縣守は、續日本紀に慶雲二年以後見えている。靈龜二年八月遣唐押使となり、養老二年十二月唐より歸り、天平元年二月、大宰の大貳正四位の上をもつて、かりに參議となり、九年六月、中納言正三位をもつて薨じた。左大臣丹比の島の子である。作歌は傳わらない。丹比氏は、火明の命の子孫と傳える。
 
555 君がため 釀《か》みし待酒《まちざけ》、
 やすの野に 獨りや飲まむ。
 友無しにして。
 
 爲v君《キミガタメ》 釀之待酒《カミシマチザケ》
 安野尓《ヤスノノニ》 獨哉將v飲《ヒトリヤノマム》
 友無二思手《トモナシニシテ》
 
【譯】あなたをお待ちしてかもした酒を、安の野で、わたしは獨りでか飲むことだろう。友人も無しに。
(134)【釋】爲君釀之待酒 キミガタメカミシマチザケ。釀は、新撰字鏡に、「釀、造酒也。佐介加无《サケカム》」とある。酒を造るをいう。待酒は、人を待つて釀《かも》した酒。古事記中卷に、「於v是還(リ)上(リ)坐(ス)時、其(ノ)御祖|息長帶日賣《オキナガタラシヒメ》命、釀(ミテ)2待洒(ヲ)1以(テ)獻(リキ)」とある。ここに丹比の縣守の來るのを酒をかもして待つたのである。當時縣守は、多分上京しており、歸任すべき豫定であつたのが、他に遷任することになつたのであろう。
 安野尓 ヤスノノニ。安の野は、筑前の國夜須郡の野、今福岡縣朝倉郡になつている。大宰府の東南三里餘の地。特にこの地を擧げたのは、縣守の上京の際に、この地に餞したことなどあつて、縣守の記憶にある地名なのであろう。
 獨哉將飲 ヒトリヤノマム。ヤは疑問の係助詞。句切。
 友無二思手 トモナシニシテ。友無くしての意に、第四句を説明している。
【評語】友を待つてかもした酒を、その人來らずして獨り飲む寂寥感が描かれている。もとより縣守のために特に酒を釀さしめたわけでもあるまいが、共に飲もうと思つていたことはあるのだろう。ひとり殘されたさびしい作者の姿が浮かび出している。
 
賀茂女王、贈2大伴宿祢三依1歌一首 故左大臣長屋王之女也
 
賀茂の女王の、大伴の宿禰三依に贈れる歌一首。【故の左の大臣長屋の王の女なり。】
 
【釋】賀茂女王 カモノオホキミ。卷の八、一六一三の題詞の下には、「長屋(ノ)王之女、母(ヲ)曰(フ)2阿倍朝臣(ト)1也」とある。そのほか、傳記は知られない。
 故左大臣長屋王之女也 モトノヒダリノオホマヘツギミナガヤノオホキミノムスメナリ。長屋の王は既出。天平元年二月、讒言に遭つて死んだ。ここに故と書いているのは、その死を、あまり古い時と感じない頃の書(135)き方である。これは、かような話の書かれた時代を推測する一の材料である。
 
556 筑紫船 いまだも來ねば、
 あらかじめ
 荒ぶる君を 見るが悲しさ。
 
 筑紫船《ツクシブネ》 未毛不v來者《イマダモコネバ》
 豫《アラカジメ》
 荒振公乎《アラブルキミヲ》 見之悲左《ミルガカナシサ》
 
【譯】荒い男を乘せて來る九州からの船はまだ來ないのに、その前から荒つぽいあなたを見るのは悲しいことです。
【釋】筑紫船 ツクシブネ。筑紫は、北九州の稱であるが、ここでは漠然と、九州をさしているであろう。その九州から來る船を、筑紫船と言つている。熊野船、松浦船などいう類であるが、それらは、その地方からの特殊の船についていい、ここは九州から來る船のすべてにわたつて言つている。こちらから行つた船の歸つて來る場合をも含んでいる言い方である。九州からの船には隼人たちが乘つて來るので、荒つぽい男の乘つて來る船の意に使つている。
 未毛不來者 イマダモコネバ。未の字は、打消の意を含んでいるが、その意をあきらかにするために不の字を補い加えている。ネバは、ヌニの意に使用されている。
 豫 アラカジメ。前から、事前に。
 荒振公乎 アラブルキミヲ。アラブルは、荒い行爲をする。疏《うと》ブル、チハヤブルなどと同じ構成を有する語。古典には多く荒ぶる神の形を取つてあらわれている。公は三依をさす。その人を戯れに、荒ブル公と言つたのである。
 見之悲左 ミルガカナシサ。カナシサは、形容詞悲シを體言化している。見ることが悲しいことの意。「立(136)浪之《タツナミノ》 將v依思有《ヨラムトオモヘル》 礒之清左《イソノサヤケサ》」(卷七、一二〇一)など同じ語法である。
【評語】九州から荒くれ男の乘つている船が來たとも聞かないのに、あなたのような荒つぽい男を見るのはおそろしいと揶揄している。思い切つた言い方をした所が生命で、相聞の作としては、これこそ荒ぶる歌ともいうべきだろう。この卷などを讀んでいると、だんだん神經が麻痺して鈍くなるが、こういう歌があるので救われ、目ざましくも感じさせてくれる。
 
土師宿祢水道、從2筑紫1上v京海路作歌二首
 
土師の宿禰水道の、筑紫より京に上る海路にて作れる歌二首。
 
【釋】土師宿祢水道 ハジノスクネミミチ。傳未詳。卷の五の大伴の旅人の邸の梅花の宴の歌に、土師の宿禰御道として歌があり、また卷の十六、三八四五の左註に「右(ノ)歌(ハ)者、傳(ヘ)云(フ)、有(リ)2大舍人土師宿禰水道1、字(ヲ)曰(フ)2志婢麻呂(ト)1也。於v時(ニ)大舍人巨勢朝臣豐人、字(ヲ)曰(ヘル)2正月麻呂(ト)1、與2巨勢斐太朝臣1名字忘之也。島村大夫之男也。兩人并(セテ)此彼貌黒色焉(ナリ)。於v是(ニ)、土師宿禰水道、作(リテ)2斯歌(ヲ)1嗤咲(ヒキ)者、而(シテ)巨勢朝臣豐人聞(キテ)v之(ヲ)、即(チ)作(リテ)2和(フル)歌(ヲ)1酬(イ)咲(ヒキ)也」とあり、その豐人の歌に、「駒造る土師《はじ》の志婢麻呂《しびまろ》白くあれば」と言つているのを見ると、色の白かつたことが知られる。筑紫に行つたのは何のためであるか知らない。梅花の歌三十二首の終りに近く、官名もなく名を列しているのを見れば、身分が低く、おそらくは年も若かつたのであろう。土師の宿禰は、野見の宿禰の子孫である。
 
557 大船を 榜ぎの進みに、磐《いは》に觸れ、
 覆《かへ》らば覆れ。
 妹に依りては。
 
 大船乎《オホフネヲ》 榜乃進尓《コギノススミニ》 磐尓觸《イハニフレ》
 覆者覆《カヘラバカヘレ》
 妹尓因而者《イモニヨリテハ》
 
(137)【譯】大船を榜いで進み行くに、磐に觸れて顛覆したとてもそれまでであるよ。妻に早く逢おうとして航海しているのだから。
【釋】大船乎榜乃進尓 オホブネヲコギノススミニ。大船を榜いで進むままに。ススミは、勢いに乘つて事をするにいう。「益荒夫乃《マスラヲノ》 去能進爾《ユキノススミニ》 此間偃有《ココニコヤセル》」(卷九、一八〇〇)。
 磐尓觸 イハニフレ。海上の岩石に觸れて。フレは、觸ルの下二段活による。中止形。
 覆者覆 カヘラバカヘレ。覆るならば覆れ。覆るならばそれも致し方がないの意。覆は、うら返す意の字。「覆(シテ)2其(ノ)所v乘(レリシ)之船(ヲ)1而坐(シキ)之」(播磨國風土記)。句切。
 妹尓因而者 イモニヨリテハ。妹の事によつては。妹のためならば。「今時者四《イマシハシ》 名之惜雲《ナノヲシケクモ》 吾者無《ワレハナシ》 妹丹因者《イモニヨリテハ》 千遍立十方《チタビタツトモ》」(卷四、七三二)、「石根蹈《イハネフミ》 夜道不v行《ヨミチユカジト》 念跡《オモヘレド》 妹依者《イモニヨリテハ》 忍金津毛《シノビカネツモ》」(卷十一、二五九〇)、「吾念有《ワガオモヘル》 妹爾縁而者《イモニヨリテハ》 言之禁毛《コトノイミモ》 無在乞常《ナクアリコソト》」(卷十三、三二八四)。
【評語】磐ニ觸レ覆ラバ覆レは、内容も調子も共に強い句である。妻に逢いたい一心に、風波をおかしてこいで行く心がよく描かれている。
 
558 ちはやぶる 神の社に わが掛けし
 幣《ぬさ》は賜《たば》らむ。
 妹に逢はなくに。
 
 千磐破《チハヤブル》 神之社尓《カミノヤシロニ》 我挂師《ワガカケシ》
 幣者將v賜《ヌサハタバラム》
 妹尓不v相國《イモニアハナクニ》
 
【譯】會おうと思つて、神の社に幣を掛けてお願いしたことでしたが、その幣は返していただきたい。妹に逢わないことであります。
【釋】千磐破 チハヤブル。既出(卷二、一〇一)。枕詞。神威のはげしい方面を敍述して、神に冠する。
(138) 神之社尓 カミノヤシロニ。カミノヤシロは既出(卷三、四〇四)。
 我挂師幣者將賜 ワガカケシヌサハタバラム。ヌサは、神を祭る時に奉る布麻絲の類をいう。集中、幣マツルとも幣ヲ置クともいう。懸けるというのは、神樹などに懸けるのが原形で、それが殘つたのである。磐代の濱松が枝の手向草というのも、濱松が枝に懸けた幣をいう、その幣を賜らむというのは、願が達せられないので、返してくださいというのである。句切。
 妹尓不相國 イモニアハナクニ。妹に逢わないことだ。下のニは、感動の助詞。
【評語】題に海路にて作れるとあるによれば、途中風波の難に逢つて、ほとんど妹に逢うことも出來ないように思われたのであろう。船を出す時には、神を祭つて航海の無事を祈る。その際の奉幣を返して貰いたいというらしい。ここにもこの人の強い物言いが窺われる。
 
大宰大監大伴宿祢百代戀歌四首
 
【釋】大宰大監大伴宿祢百代 オホキミコトモチノオホキマツリゴトビト、オホトモノスクネモモヨ。既出(卷三、三九二)。この戀の相手は誰であるかわからないが、次にある大伴の坂上の郎女の歌は、この百代の歌に答えたようであり、そうとすれば、坂上の郎女に對して歌つたことになる。本心からか戯れか、それもわからない。
 
559 事も無く 生《い》き來《こ》しものを、
 老次《おいなみ》に
 かかる戀にも 吾は遇へるかも。
 
 事毛無《コトモナク》 生來之物乎《イキコシモノヲ》
 老奈美尓《オイナミニ》
 如是戀乎毛《カカルコヒニモ》 吾者遇流香聞《ワレハアヘルカモ》
 
(139)【譯】何事もなくくらして來たものを、老境にはいつてから、こんな戀にもわたしは逢つたことだつた。
【釋】事毛無 コトモナク。コトは事件。何事も無く。無事に。
 生來之物乎 イキコシモノヲ。
   アリコシモノヲ(桂)
   アレコシモノヲ(代初)
   オヒコシモノヲ(新訓)
   ――――――――――
   在來之物乎《アレコシモノヲ》(童)
   在來之物乎《アリコシモノヲ》(玉)
 オヒコシモノヲとも讀まれているが、オフ(生)は、植物、白髪などの生えるのをいう語で、人の生い立つには言わない。わずかに「櫻麻之《サクラアサノ》 麻原之下草《ヲフノシタクサ》 早生者《ハヤクオヒバ》 妹之下紐《イモガシタヒモ》 不v解有申尾《トカザラマシヲ》」(卷十二、三〇四九)の例があるだけで、それも生まれる意に使つたものである。よつてイキコシモノヲの訓による。無事に今まで生きて來たのだが、しかるにの意。
 老奈美尓 オイナミニ。オイナミは、他に用例を見ない。山次《やまなみ》、河次《かはなみ》などの語意に準じて考えれば、老の状態か。
 如是戀乎毛 カカルコヒニモ。乎は、于と同樣に使用される字で、ここもニの假字に用いたのであろう。作者の今陷つている戀を、かかる戀と言つている。
 吾者遇流香聞 ワレハアヘルカモ。わたしは逢つたことだ。多少大げさな言い方である。
【評語】無事に實直に半生を過して來た人が、老境に入つて、身も心もあられないようなひたすらな戀に逢つた境地が歌われている。ほんとに思い入つた熱烈な情が窺われる。この戀の歌四首のうち、これだけが類歌がないが、はたして作者の創作かどうかは問題とされよう。
 
(140)560 戀ひ死なむ 時は何せむ。
 生《い》ける日の ためこそ妹を
 見まく欲《ほ》りすれ。
 
 孤悲死牟《コヒシナム》 時者何爲牟《トキハナニセム》
 生日之《イケルヒノ》 爲社妹乎《タメコソイモヲ》
 欲v見爲禮《ミマクホリスレ》
 
【譯】戀をして死んでしまつてからは何ともしかたがない。生きている日のためにこそ、あなたを見たく思うのです。
【釋】孤悲死牟時者何爲牟 コヒシナムトキハナニセム。コヒシナムは、戀のためにやつれて死ぬをいう。ナニセムは、何にかせむ、どうも致し方がないの意。「銀母《シロガネモ》 金母玉母《クガネモタマモ》 奈爾世武爾《ナニセムニ》」(卷五、八〇三)の如き用例がある。死んでからではしかたがないの意。句切。
 生日之 イケルヒノ。生きている日の。
 爲社妹乎 タメコソイモヲ。爲にこそ。イモは相手の婦人。
 欲見爲禮 ミマクホリスレ。ミマクは見むこと、上のコソを受けてスレと結んでいる。
【評語】卷の十一にほとんど同じ歌がある。いずれを先とも知られないが、他の歌も類歌のあるのを見ると、これも歌われていた歌を利用したものであろう。歌としては、いかにもよく言い得ているが、味のない、露骨な歌だ。
【參考】類歌。
  戀ひ死なむ後は何せむわが命生ける日にこそ見まくほりすれ(卷十一、二五九二)
 
561 念《おも》はぬを 思ふといはば、
(141) 大野《おほの》なる 三笠の社《もり》の
 神し知らさむ。
 
 不v念乎《オモハヌヲ》 思常云者《オモフトイハバ》
 大野有《オホノナル》 三笠社之《ミカサノモリノ》
 神思知三《カミシシラサム》
 
【譯】思つていないのを思うと言つたら、大野にある三笠の神社の神樣の罰が當るでしょう。
【釋】不念乎思常云者 オモハヌヲオモフトイハバ。眞實思つてもいないのに、僞つて思うと言つたなら。
 大野有三笠社之 オホノナルミカサノモリノ。福岡縣筑紫郡大野町にある神社。日本書紀神功皇后の卷に「皇后、熊襲を撃たむと欲して、橿日《かしひ》の宮より松峽《まつを》の宮に遷りたまひき。時に飄風《つむじかぜ》忽に起りて、御笠風に墮《おと》さえき。かれ時の人其處に號けて御笠といふ」(もと漢文)とある。神社にはモリとヤシロとの二種があつて、本葉にはモリの方が多く使用されている。これは森林をもつて神の座所とする思想によるものである。
 神思知三 カミシシラサム。三は、字音をもつてサムの音をあらわしている。上のシは、強意の助詞。シラサムは、知ラサムで、お知りになるだろうの意であるが、統治することをシラスといい、神が御支配なさるだろうの義で、正しくない者には罰を與えるの意味を含んでいる。
【評語】類歌の多い歌で、作者の獨創は認められない。ただ固有名詞を入れ代えるだけで、いくらでも應用の利く歌として通(142)用していた。それだけにその内容は、人々の言おうとする所に一致したものであつたであろう。神樣は正邪を見通して、その正しくないものを罰するとする思想が中心になつている。
【參考】類歌。
  思はぬを思ふといはば天地の神も知らさむ邑禮左變(卷四、六五五)
  思はぬを思ふといはば眞鳥住む卯名手《うなて》の社《もり》の神し知らさむ(卷十二、三一〇〇)
 
 562 暇無く 人の眉根を
 いたづらに 掻《か》かしめにつつ、
 逢はぬ妹かも。
 
 無v暇《イトマナク》 人之眉根乎《ヒトノマヨネヲ》
 徒《イタヅラニ》 令v掻乍《カカシメニツツ》
 不v相妹可聞《アハヌイモカモ》
 
【譯】人の眉を、ひまもなくむだに掻かせておきながら、逢わない方だなあ。
【釋】無暇 イトマナク。間隔無く、ひききりなしに。掻カシメニツツに懸かる。
 人之眉根乎 ヒトノマヨネヲ。ヒトは、自分のことを、總括的な言い方であらわしている。眉は、古事記に「麻用賀岐《マヨガキ》」(四三)、日本書紀に「※[目+碌の旁]、此(ヲ)云(フ)2麻用弭枳《マヨビキト》1」(仲哀天皇の卷)、本集に「麻欲婢吉能《マヨビキノ》」(卷十四、三五三一)とあり、古くはマヨと言つた。但し倭名類聚鈔には萬由《マユ》とある。ネは接尾語。眉は生えているものであるからいう。眉の根ではない。
 徒 イタヅラニ。無用に。效果無く。
 令掻乍 カカシメニツツ。ニに當る字がないが、補つて讀む。ニツツの例。「烏珠之《ヌバタマノ》 夜者開爾乍《ヨハアケニツツ》」(卷十、二〇七六)、自分をして掻かしめて。眉のかゆいのは人の來る前兆であるとする俗信がある。これについて詠まれた歌も多い。參考欄參照。
(143) 不相妹可聞 アハヌイモカモ。逢わない妹であるかなと詠嘆している。
【評語】これも歌い傳えられた歌であつて、それをすこし變えているだけである。すべてこの人の戀、まじめなものとは思われない。眉を掻いて人を待つところに女らしさがあり、ある種の世相を連想せしめる。上品なものではなく、その女の姿態を寫したと思われるものを使つたので、歌としてはよい歌とは言いがたい。
【參考】一、類歌。
  いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめつつもあはぬ人かも(卷十二、二九〇三)
 二、眉を掻く。
  月立ちてただ三日月の眉根掻きけ長く戀ひし君にあへるかも(卷六、九九三)
  眉根掻き鼻ひ紐解け待つらむか何時かも見むと思へる吾を(卷十一、二四〇八)
  めづらしき君を見むとぞ左手の弓執る方の眉根掻きつれ(同、二五七五)
  眉根掻き下いぶかしみ思へるにいにしへ人をあひ見つるかも(同、二六一四)
  眉根掻き誰をか見むと思ひつつけ長く戀ひし妹にあへるかも(同、同或る本)
  眉根掻き下いぶかしみ思へりし妹がすがたを今日見つるかも(同、同一書)
  今日なれば鼻し鼻しひ眉かゆみ思ひしことは君にしありけり(同、二八〇九)
 
大伴坂上郎女歌二首
 
【釋】大伴坂上郎女歌 オホトモノサカノウヘノイラツメノウタ。大伴の旅人が大宰の帥であつた時代に、この人が筑紫にあつたことは卷の六の天平二年の歌中に「冬十一月、大伴坂上(ノ)郎女(ノ)、發(チテ)2帥(ノ)家(ヲ)1上道(シテ)、超(エシ)2筑前(ノ)國宗形郡名兒山(ヲ)1之時作(レル)歌一首」(卷六、九六三題詞)などあるので證明される。何時下つたか不明であるが、旅人(144)の妻が死んでから家事を見るために下つたのでもあろうか。旅人に取つては異母妹だから、妻としても不都合はない。初め、穗積の親王に愛せられたが、穗積の親王は、靈龜元年七月に薨去し、それから天平二年まで十六年を經過しているから、既に三十歳を越えていたであろう。この二首は、誰とも記されてはいないが、内容から見て、前掲の大伴の百代の歌に和したものと推測される。
 
563 黒髪に 白《しろ》髪交り 老ゆるまで、
 かかる戀には いまだ逢はなくに。
 
 黒髪二《クロカミニ》 白髪交《シロカミマジリ》 至耆《オユルマデ》
 如是有戀庭《カカルコヒニハ》 未相尓《イマダアハナクニ》
 
【譯】黒髪に白髪が交るほど年を取りましたが、かような戀に逢つたことはありません。
【釋】黒髪二白髪交 クロカミニシロカミマジリ。白髪の字は、三音の處にも四音の處にも使用している。ここは黒髪に對する語であり、「布流由吉乃《フルユキノ》 之路髪麻泥爾《シロカミマデニ》」(卷十七、三九二二)の例によつて、シロカミと讀む。黒髪の中に白髪の交つているのを見る初老の敍述である。
 至耆 オユルマデ。オユルマデ(代精)、オユマデニ(古義)。耆は六十をいう。ここはそれほどではなく、ただ年老の意に使用している。
 如是有戀庭 カカルコヒニハ。今相手から言い寄られた戀にはである。
 未相尓 イマダアハナクニ。まだあわないことだ。
【評語】坂上の郎女は、當時既に頭髪に幾筋かの白髪を見る年頃であつたのであろう。いわゆる二毛の歎を感ずるに至つて、かような戀に出遭つたことを歌つてある。相手の戀が、よほど特殊のものであつたのであろう。この人の經歴から見ても、ずいぶん人に愛せられて來ている。穗積の親王、藤原の麻呂、大伴の宿奈麻呂、それらの人の戀は、熱烈なものがあつたであろうが、そういう戀愛を經過しているこの人にも、今度の戀愛事件(145)は、變わつたものであつた。その驚きがよく表現されている。
 
564 山|菅《すげ》の 實《み》成《な》らぬことを
 われに依せ 言はれし君は、
 誰とか宿《ぬ》らむ。
 
 山菅之《ヤマスゲノ》 實不v成事乎《ミナラヌコトヲ》
 吾尓所v依《ワレニヨセ》 言禮師君者《イハレシキミハ》
 與v執可宿良牟《タレトカヌラム》
 
【譯】山菅のように實の無い事を、わたしゆえに評判されたあなたは、どなたと寢るのでしよう。
【釋】山菅之 ヤマスゲノ。ヤマスゲは、ジヤノヒゲで、暗紫色の實がなる。それで次の句の實だけに冠する枕詞となつている。本草和名、「麥門冬、和名|也末須介《ヤマスゲ》」。
 實不成事乎 ミナラヌコトヲ。實のならないことをいうのは、眞寶でないことをいう。
 吾尓所依 ワレニヨセ。自分のことゆえに。所は、依る所の意で使用されている。
 言禮師君者 イハレシキミハ。人にとやかくと言われたあなたは。
 與孰可宿良牟 タレトカヌラム。カは疑問の係助詞。實際はどなたと宿ていることでしょうの意。人の口にはわたしとわけがあるように言われても、事實は誰とであろうかの意である。
【評語】百代への和歌とすると、何か人に言い騷がれたことでもあるのだろうか。要するに體よく百代の戀をしりぞけている。その手段としては、さすがに巧みであるといえる。
 
賀茂女王歌一首
 
565 大伴の みつとは言はじ。
(146) あかねさし 照れる月《つく》夜に
 直《ただ》に逢《あ》へりとも。
 
 大伴乃《オホトモノ》 見津跡者不v云《ミツトハイハジ》
 赤根指《アカネサシ》 照有月夜尓《テレルツクヨニ》
 直相在登聞《タダニアヘリトモ》
 
【譯】大伴の三津というように見たとは申しますまい。よし照り渡つた月明の夜にまのあたり逢つたとしても、それは内緒のことです。
【釋】大伴乃 オホトモノ。大阪灣に面した一帶の地名で、次の句のミツに冠している。大伴氏の領地であつたので大伴という。この歌では大伴の御津を、見ツに懸けて言つている。
 見津跡者不云 ミツトハイハジ。ミツは、御津に見ツを懸けている。見たとは言わないの意。句切。
 赤根指 アカネサシ。枕詞。茜色を帶びているの意で、照レルに冠している。「赤根佐須《アカネサス》」(卷十六、三八五七)、「安可禰左須《アカネサス》」(卷二十、四四五五)など、假字書きの例は、アカネサスとしてあるが、ここは照レルという用言を修飾するので、アカネサシと讀んでいる。かような續き方の例としては、「赤根刺《アカネサシ》 所v光月夜邇《テレルツクヨニ》 人見點鴨《ヒトミテムカモ》」(卷十一、二三五三)がある。
 照有月夜尓 テレルツクヨニ。明々たる月の夜に。
 直相在登聞 タダニアヘリトモ。直接逢つたとしても。
【評語】初二句は、氣の利いた言い方であるが、ここに大伴の地名を出したのも、相手が大伴氏だからであろう。三四句は、美しい句だが、前掲人麻呂集所出の例があり、この作者の創意ではあるまい。月明の夜に人に逢つて、しかもそれを人に語らないという意を詠んだ歌である。
 
大宰大監大伴宿祢百代等、贈2驛使1歌二首
 
(147)大宰の大監大伴の宿禰百代等の驛使《はゆまづかひ》に贈れる歌二首。
 
【釋】大宰大監大伴宿祢百代等 オホキミコトモチノオホキスケオホトモノスクネモモヨラ。犬宰の大監大伴の宿禰百代は既出。等は、ここでは、その他にも人のあることを意味する。歌の作者としては、百代と山口の若麻呂とが擧げられている。
 贈驛使歌 ハユマヅカヒニオクレルウタ。驛使は、驛馬を使用して旅行する政府の使者。驛は既出。重要なる道路に、交通に便するために飼育せしめてある馬。この時の作歌事情は、左註にあきらかである。今これを意譯すると、天平二年の六月に、大宰の帥大伴の旅人が、脚に瘡を生じて苦しんだので、驛使を上京せしめて、庶弟稻公、姪《おい》胡麻呂に會つて遺言したいと請うたので、その兩人に勅して、行つて旅人の病を看させた。そうして數十日を經て幸いに平復することを得たので、稻公等は、大宰府を發して上京しようとした。よつて大監大伴の百代、少典山口の若麻呂、旅人の子家持等が、稻公等を送つて夷守《ひなもり》の驛家に到り、酒宴を張つて別れを悲しんで、作つた歌である。すなわち驛使というは、稻公等を指すのである。
 
566 草枕 旅行く君を 愛《うつく》しみ
 副《たぐ》ひてぞ來《こ》し。
 志可《しか》の濱邊《》を。
 
 草枕《クサマクラ》 羈行君乎《タビユクキミヲ》 愛見《ウツクシミ》
 副而曾來四《タグヒテゾコシ》
 鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》
 
【譯】草の枕の旅においでになる君がいとしさ故に、御一緒に參りました。この志可《しか》の濱邊を。
【釋》草枕 クサマクラ。枕詞。
 羈行君乎愛見 ウツクシミ。キミヲは、君が愛すべくあるので。
 副而曾來四 タグヒテゾコシ。タグヒテは、同道して。ゾに對してコシと結んでいる。句切。
(148) 鹿乃濱邊乎 シカノハマベヲ。鹿は借字。シカは筑前の國の海岸で、志可の島といい、博多灣の入口の地。大宰府から、一日の行程を送つて共に來たのである。ヲは感動の助詞。
【評語】淡々として行動を敍して、しかも味を見せている。老熟の作であるが、類想の歌は見出される。
【參考】類歌。
  草枕旅行く君を荒津まで送りぞ來つる。飽き足らねこそ(卷十二、三二一六)
 
右一首、大監大伴宿祢百代
 
567 周防《すは》にある 磐國山を 超えむ日は、
 手向よくせよ。
 荒し、その道。
 
 周防在《スハウナル》 磐國山乎《イハクニヤマヲ》 將v超日者《コエムヒハ》
 手向好爲與《タムケヨクセヨ》
 荒其道《アラシソノミチ》
 
【譯】周防の國にある磐國山をお越えになる日は、手向の祭を、ていねいにしていらつしやい。それは荒つぽい道ですから。
【釋】周防在、スハニアル。スハウナル(桂)、スハニアル(和歌童蒙抄)、スハナル(總索引)。周防は周防の國である。日本書紀には周芳とあり、古くはスハという。次句の磐國山の所在を示す。
 磐國山乎 イハクニヤマヲ。磐國山は山口縣岩國市の西にある山。西方から岩國市に出るのに越える山。
 將超日者 コエムヒハ。歸京の途次、その山を越えむ日は。
 手向好爲與 タムケヨクセヨ。タムケは、既出(卷一、三四)。道路に神を祭つて、災禍のないように祈願する祭。その祭を慎んでていねいにせよの意。句切。
(149) 荒其通 アラシソノミチ。アラシソノミチ(桂)、アラキソノミチ(西)。昔、山野に荒ぶる神があり、道ゆく者を多く傷害すると信じられた。そういう状態を、ここに荒しと言つている。ソノミチは、磐國山を越える道をいう。
【評語】旅行く人に對して、懇切な注意を寄せている。作者がかつて磐國山を越えた體驗がもととなつてこの歌となつている。但し類想類型の歌があつて、この種の歌が、行旅の人のために用意され愛用されていたので、作者の創作の部分は、多くはないのである。
【參考】類想。
  家思ふと心すすむな風まもり好くしていませ荒しその道(卷三、三八一)
 
右一首、少典山口忌寸若麻呂
 
【釋】少典山口忌寸若麻呂 スナキフムヒトヤマグチノイミキワカマロ。少典は、大宰府の第七等の官。山口の若麻呂、傳未詳。天平二年正月の梅花の宴の歌中に、山氏の若麻呂と見える。
 
以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽生2瘡脚1、疾2苦枕席1。因v此馳v驛上奏、望請2庶弟稻公姪胡麻呂1、欲v語2遺言1者、勅2右兵庫助大伴宿祢稻公治部少丞大伴宿祢胡麻呂兩人1、給v驛發遣、令v省2卿病1。而逕2數旬1、幸得2平復1。于v時稻公等、以2病既療1、發v府上v京。於v是大監大伴宿祢百代、少典山口忌寸若麻呂、及卿男家持等、相2送驛使1、共到2夷守驛家1、聊飲悲v別、乃作2此歌1。
 
(150)さきに天平二年庚午の夏六月、帥大伴の卿、忽《たちまち》に瘡を脚に生して、枕席に疾苦す。これによりて驛を馳せて上奏し、望《ねが》はくは庶弟|稻公《いなぎみ》、姪|胡麻呂《こまろ》を請ひて、遺言を語らまく欲《おも》ふといへれば、右兵庫の助大伴の宿禰稻公、治部の少丞大伴の宿禰胡麻呂兩人に勅して、驛を給《た》びて發遣し、卿の病を省しめたまふ。而して數旬を經て、幸に平復することを得たり。時に稻公等、病の既に療《い》えたるを以ちて、府を發ちて京に上る。ここに大監大伴の宿禰百代、少典山口の忌寸麻呂、及び卿の男家持等、驛使を相送りて、共に夷守《ひなもり》の驛家に到り、いささか飲みて別れを悲しみ、すなはちこの歌を作りき。
 
【釋】忽生瘡脚 タチマチニカサヲアシニナシテ。瘡、倭名類聚鈔に加佐とある。できもの。
 庶弟稻公 ママオトイナギミ。庶弟は、大伴の旅人の腹違いの弟である。旅人には、弟として、田主、宿奈麻呂、稻公があり、妹として坂上の郎女のあることが知られている。坂上の郎女は、稻公のために田村の大孃に贈る歌を代作しているところを見ると、坂上の郎女と稻公とは、同腹とすべく、坂上の郎女の母は、石川の命婦であるから、稻公も同人の生んだ子と推測される。稻公は、天平寶字二年に大和の守となつている。
 姪胡麻呂 ヲヒコマロ。姪は兄の子をいう字であるが、兄弟の子に通じて使用し、また男女によらず使用している。胡麻呂は旅人の姪であるというがその父をあきらかにしない。當時稻公が、正六位の下相當の右兵庫の助であり、胡麻呂が、從六位の上相當の治部の少丞であつたのであるから、この兩人が父子關係であることはまずなかるべく、然らば田主か宿奈麻呂の子ということになるが、田去は續日本紀にその名が見えないから若死したものなるべく、胡麻呂の父としてあり得られるものは、宿奈麻呂だけになる。女系であれば格別、さもない限りは宿奈麻呂の子と推測される。宿奈麻呂が下向し得ない事情があつたので、その家を代表して胡麻呂が下つたのであろう。この人はこの時治部の少丞であり、正倉院文書によれば天平十年四月に兵部の大丞であつた。その後榮達したが、天平寶字元年七月、橘の奈良麻呂の亂に坐して獄中に死んだ。
(151) 給驛發遣 ウマヲタビテツカハシ。驛を給ぶは、驛馬を使用するを許して。
 發府 フヲタチテ。府は大宰府。
 卿與家持等 マヘツギミノヲノコゴヤカモチラ。家持の名の見えるうちで、年代のもつとも早い記事である。家持の歿した時の年齡を、大伴系圖の一種に六十八とあるによればこの時に年十三である。
 夷守驛家 ヒナモリノウマヤ。所在はたしかでないが、延喜式に筑前の國の驛馬の數を規定して「席打、夷守、美野各十五疋」とあり、席打は今の席内、美野は今の福岡で、夷守はその中間に當る。百代の歌に、志可の濱邊まで同道したとあつて、志可の島の方へ行く半島の根元の濱邊であつたものと推源される。ここまで送つて來て別の酒盃を擧げたのである。景行天皇紀に、十八年三月、始めて夷守に到るとある。
 
大宰帥大伴卿、被v任2大納言1、臨2入v京之時1、府官人等、餞2卿筑前國蘆城驛家1歌四首
 
大宰の帥大伴の卿、大納言に任けらえて京に入らむとする時に臨み、府の官人等、卿を筑前の國の蘆城《あしき》の驛家に餞せる歌四首。
 
【釋】被任大納言 オホキモノマヲシノツカサニマケラエテ。この事、續日本紀には見えない。公卿補任には天平二年十月一日大納言に任ずとある。卷の六に「右(ハ)、大宰(ノ)帥大伴卿、兼2任(シテ)大納言(ニ)1向(ヒテ)v京(ニ)上道(シキ)」(九六六左註)、卷の十七に、「天平二年庚午冬十一月、大宰(ノ)帥大伴卿、被(レ)v任(ゼ)2大納言(ニ)1、兼(ヌルコト)v帥(ヲ)如(シ)v舊(ノ)」(三八九〇題詞)。
 府官人等 フノツカサビトタチ。大宰府の役人たち。
 蘆城驛家 アシキノウマヤ。既出(卷四、五四九)。大宰府の東南に當る。これは出發したのを送つたのでなく、わざわざ送別の宴をこの驛家で催したのである。
 
(152)568 み埼《さき》みの 荒礒《ありそ》に寄する 五百重浪《いほへなみ》、
 立ちても居ても わが念へる君。
 
 三埼廻之《ミサキミノ》 荒礒尓縁《アリソニヨスル》 五百重浪《イホヘナミ》
 立毛居毛《タチテモヰテモ》 我念流吉美《ワガオモヘルキミ》
 
【譯】岬ほとりの荒磯に打ち寄せる重なり立つている浪のように、立つてもいても思われるあなたであります。
【釋】三埼廻之 ミサキミノ。上のミは接頭語。下のミは地文上の詞につく接尾語で、その彎曲性を示す。島廻《しまみ》、礒廻《いそみ》、浦廻《うらみ》などの例である。埼廻の語は、ほかに、「大和戀ひ寐《い》の寢《ね》らえぬに情《こころ》なくこの渚埼廻《すさきみ》に鶴《たづ》鳴くべしや」(卷一、七一)の例がある。
 荒礒尓縁 アリソニヨスル。次の五百重浪を修飾説明している。
 五百重浪 イホヘナミ。浪があとからあとからと重なり立つのをいう。五百は、數の多いことをあらわす。百重浪、千重浪などともいう。以上の三句は、立ちてもと言うための序であつて、この歌は序歌である。
 立毛居毛我念流吉美 タチテモヰテモワガオモヘルキミ。立つても思い、居ても思うの意で、常に念頭を離れない君というのである。
【評語】旅人のこれから行こうとする海路に材料を求めて詠んでいるが、類型的な歌で、内容も平凡である。
 
右一首、筑前橡門部連石足
 
【釋】筑前椽門部連石足 ツクシノミチノクチノクニノマツリゴトビト、カドベノムラジイソタリ。傳未詳。天平二年一月の梅花の宴の歌の中にも筑前の椽門氏の石足とある。門部の連は、牟須比の命の子孫と傳える。
 
569 唐《から》人の 衣《ころも》染《し》むといふ 紫の、
(153) こころに染《し》みて 念《おも》ほゆるかも。
 
 辛人之《カラヒトノ》 衣染云《コロモシムトイフ》 紫之《ムラサキノ》
 情尓染而《ココロニシミテ》 所v念鴨《オモホユルカモ》
 
【譯】大陸の人が衣を染めるという紫のように、心に染みてあなたのことが思われます。
【釋】辛人之 カラヒトノ。カラは、日本から大陸を併せいう總稱である。その人々は、當時文化も進んでいて、日本に對して工藝上の技術を傳えていた。下の紫の染料も、外國人の傳えた染法であつたのだろう。
 衣染云 コロモシムトイフ。衣服を染めるという義で、次の句の紫を修飾する。
 紫之 ムラサキノ。ムラサキは、紫草で、ここではそれから採取した染料である。以上は序で、譬喩によつて次の染みてを引き起している。
 情尓染而所念鴨 ココロニシミテオモホユルカモ。紫が衣を染めるように、自分の心に染みついて思われるの意。
【評語】大宰府は、大陸の文化を受け入れる門戸の地であり、自然それが序となつて使用されている。序だけで持つている歌である。
 
570 大和へに 君が立つ日の 近づけば、
 野に立つ鹿も 響《とよ》みてぞ鳴く。
 
 山跡邊《ヤマトヘニ》 君之立日乃《キミガタツヒノ》 近付者《チカヅケバ》 
 野立鹿毛《ノニタツシカモ》 動而曾鳴《トヨミテゾナク》
 
【譯】大和をさしてあなたのお立ちになる日が近づきますから、野に立つ鹿も音を立てて鳴いております。
【釋】山跡邊君之立日乃近付者 ヤマトヘニキミガタツヒノチカヅケバ。旅人が、大和へ向かつて出發する日の近づいたので。この句によつても、この蘆城の驛の餞が、出發の日のことでないことが證明される。ヤマトヘニは、大和の方向に。「夜麻登弊邇《ヤマトヘニ》 由玖波多賀都麻《ユクハタガツマ》」(古事記五七)。
(154) 動而曾鳴 トヨミテゾナク。物音を立てて鳴いている。
【評語】別れを惜しんで、野に立つ鹿も鳴いていると歌つている。おりからの風物によつて思いを敍べている。平易な内容であるのがよい。
 
右二首、大典麻田連陽春
 
【釋】大典麻田連陽春 オホキフムヒトアサダノムラジヤス。大典は、大宰府の第六等官。麻田の陽春は、舊姓は答本《たほ》、神龜元年五月に麻田の連を賜わつた。懷風藻に、「外(ノ)從五位(ノ)下石見(ノ)守麻田連陽春、年五十六」とある。
 
571 月夜《つくよ》よし。河音《かはと》清《さや》けし。
 いざここに
 行くも去《ゆ》かぬも 遊びて歸《ゆ》かむ。
 
 月夜吉《ツクヨヨシ》 河音清之《カハトサヤケシ》
 率此間《イザココニ》
 行毛不v去毛《ユクモユカヌモ》 遊而將v歸《アソビテユカム》
 
【譯】よい月夜だ。河の音もさやかだ。さあ此處に行く人も留まる人も、遊んで行きましよう。
【釋】月夜吉 ツクヨヨシ。月明の夜を賞している。句切。初句で切れる歌は、この集にはすくないが、ないことはない。「雨はふる。借廬は作る。いつの間に吾兒《あご》の潮干に玉は拾はむ」(卷七、一一五四)、「浪高し。いかに梶取《かぢとり》、水鳥の浮宿《うきね》やすべき。なはや棒榜ぐべき」(同、一二三五)など。
 河音清之 カハトサヤケシ。カハトは、川の流れの音。サヤケシは、その音の※[王+倉]々として愛すべきをいう。「天漢《アマノガハ》 河聲清之《カハオトサヤケシ》 牽牛之《ヒコボシノ》 秋滂船之《アキコグフネノ》 浪※[足+參]香《ナミノサワキカ》」(卷十、二〇四七)。句切。
 率此間 イザココニ。イザは人を誘う語。
(155) 行毛不去毛 ユクモユカヌモ。ユクモは、旅に行く者もで、旅人をはじめその一行の人々をいう。ユカヌモは、作者等、大宰府の地に留まる者。
 遊而將歸 アソビテユカム。アソビは、朝臣びで、大宮人ぶるをいう語と考えられる。音樂詩歌等、大宮人にふさわしいわざをするをいう。ここは歡を盡すというほどのこと。
【評語】初二句、その夜の風物を敍している。この良夜、この佳景にいて、行く者も留まる者も、情を盡して別れようとする風懷が描かれている。別れを惜しむことを露骨に言わない。送別の歌として異色ともいうべき佳作である。
 
右一首、防人佑大伴四綱
 
【釋】防人佑大伴四綱 サキモリノスケオホトモノヨツナ。既出(卷三、三二九)。
 
大宰帥大伴卿上v京之後、沙弥滿誓贈v卿歌二首
 
【釋】沙弥滿誓 サミマニゼイ。既出(卷三、三三六)。當時大宰府の觀世音寺におり、奈良の京なる大伴の旅人のもとに贈つた歌である。
 
572 まそ鏡 見飽かぬ君に 後《おく》れてや、
 旦夕《あしたゆふべ》に さびつつ居《を》らむ。
 
 眞十鏡《マソカガミ》 見不v飽君尓《ミアカヌキミニ》 所v贈哉《オクレテヤ》
 旦夕尓《アシタユフベニ》 左備乍將v居《サビツツヲラム》
 
【譯】鏡を見るように見飽きをしないあなたにお別れして、朝夕につけてさびしがつて居りましよう。
《釋》眞十鏡 マソカガミ。枕詞。鏡を見るの義から、見に懸かる。「眞墨乃鏡《マスミノカガミ》」(卷十六、三八八五)、「眞十(156)見鏡《マソミカガミ》」(卷十三、三三一四)の如く、マスミノカガミ、マソミカガミの語例があるによれば、マは接頭語、ソは明澄を意味するのであろう。眞十鏡と書いたものは各卷にわたつて十數例あり、慣用の文字であることが知られる。
 見不飽君尓 ミアカヌキミニ。見て飽くことのない君にで、君は旅人をさす。
 所贈哉 オクレテヤ。所は受身の意味に使い、贈は借字で、所贈の二字で、オクレの音を表示している。オクレテは、後れてで、後に殘されての意。ヤは、係助詞。感動をあらわす君のためにあとに殘されてなあの意となる。「白銅鏡《マソカガミ》 手二取持而《テニトリモチテ》 見常不v足《ミレドアカヌ》 君爾所v贈而《キミニオクレテ》 生跡文無《イケリトモナシ》」(卷十二、三一八五)。
 旦夕尓 アシタユフベニ。朝夕にで、始終、絶えずの意になる。
 左備乍將居 サビツツヲラム。サビは、ウラサビのサビに同じ。この語だけで獨立して使用されている例は、他にはない。樂しまない意の動詞。
【評語】心中を表白したというだけで、取り立てていうまでもない歌である。枕詞の使用も類型的である。
 
573 ぬばたまの 黒髪かはり 白《しら》けても、
 痛《いた》き戀には 遇《あ》ふ時ありけり。
 
 野干玉之《ヌバタマノ》 黒髪變《クロカミカハリ》 白髪手裳《シラケテモ》
 痛戀庭《イタキコヒニハ》 相時有來《アフトキアリケリ》
 
【譯】まつ黒な髪が變つて白髪になつても、つらい戀には逢う時がありました。
【釋》野干玉之 ヌバタマノ。枕詞。
 黒髪變 クロカミカハリ。カハリは變色して。
 白髪手裳 シラケテモ。シラケは、白くなる意の動詞。老境にはいつてもの意。
 痛戀庭 イタキコヒニハ。イタキコヒは、手ひどい戀、猛烈な戀。旅人を思うことを戀と言つている。
(157) 相時有來 アフトキアリケリ。逢う時のあることを詠嘆している。
【評語】この作者も、當時既に老年になつていたと推考される。そこでこの歌は、その眞意を歌つたことになるが、前に坂上の郎女の作にもやや似た歌があり、これも格別の特色は見出せない。二三句の續きかたもぎごちなく無理が感じられる。
 
大納言大伴卿和歌二首
 
【釋】和歌 コタフルウタ。大伴の旅人が、滿誓から贈られた歌に答えた歌。
 
574 此間《ここ》にありて 筑紫や何處《いづく》。
 白雲の 棚引く山の
 方にしあるらし。
 
 此間在而《ココニアリテ》 筑紫也何處《ツクシヤイヅク》
 白雲乃《シラクモノ》 棚引山之《タナビクヤマノ》
 方西有良思《カタニシアルラシ》
 
【譯】ここに居つて九州はどちらでしよう。白雲の棚引いている山の方であるのでしよう。
【釋】此間在而 ココニアリテ。この處にあつて。此處から。
 筑紫也何處 ツクシヤイヅク。筑紫は、北九州地方。滿誓のいる地である。ヤは感動提示の係助詞。筑紫や何處ならむの意。句切。
 白雲乃棚引山之 シラクモノタナビクヤマノ。白雲のタナビク山は、高い山の意。
 方西有良思 カタニシアルラシ。上のシは、強意の助詞。方にあると思われるの意。
【評語】自問自答の形を取つている。滿誓の住む筑紫の遙遠な地であることを歌つたものだが、その地は、作者がかつて住んでいて、その筑紫がどこかということに感慨をもつている。石上の卿の作が前にあるので、作(158)者の手がらにはならない。
【參考】類型。
  ここにして家やも何處。白雲のたなびく山を越えて來にけり(石上の卿、卷三、二八七)
 
575 草香江《くさかえ》の 入江に求食《あさ》る 蘆鶴の、
 あなたづたづし。
 友無しにして。
 
 草香江之《クサカエノ》 入江二求食《イリエニアサル》 蘆鶴乃《アシタヅノ》
 痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》
 友無二指天《トモナシニシテ》
 
【譯】草香江の入江で餌をあきる蘆鶴のように、大變たどたどしいことであります、友人がないので。
【釋】草香江之 クサカエノ。草香は、大阪府中河内郡、生駒山の西麓。當時は、大和川が河内の國にはいつてから北流していたので、この邊は沼澤の地が多かつた。後世、新大和川を通じて大和川を西流せしめたので乾いたのである。
 入江二求食 イリエニアサル。イリエは、入り込んでいる江。アサルは、文字通り食を求めている。以上次の蘆鶴の修飾句。
 蘆鶴乃 アシタヅノ。アシタヅは、葦鴨、聾蟹などと同樣の語で、葦の中に棲息しているタヅ。特殊のタヅではない。以上三句は序で、同音を利して次のタヅタヅシを引き起している。
 痛多豆多頭思 アナタヅタヅシ。アナは、驚嘆を表示する語。タヅタヅシは、たよりなく心ぼそい意の形容詞。「夕闇者《ユフヤミハ》 路多豆多頭四《ミチタヅタヅシ》」(卷四、七〇九)、「多都我奈伎《タヅガナキ》 安之敝乎左之弖《アシベヲサシテ》 等妣和多類《トビワタル》 安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》 比等里佐奴禮婆《ヒトリサヌレバ》」(卷十五、三六二六)、「奈都乃欲波《ナツノヨハ》 美知多豆多頭之《ミチタヅタヅシ》」(卷十八、四〇六二)などの用例がある。句切。
(159) 友無二指天 トモナシニシテ。友人無しで、滿誓と遠く別れたことをいう。
【評語】美しい序を使用しているが、同音を利用しているのは、よそよそしい。情熱の伴なわない作で、美しい詞だけの歌である。人麻呂集に類歌があつて、それを受けているようである。
【參考】類想。
  天雲に翼《はね》うちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しいまさねば(人麻呂集、卷十一、二四九〇)
 
大宰帥大伴卿上v京之後、筑後守葛井連大成、悲嘆作歌一首
 
大宰の帥大伴の卿の京に上りし後、筑後の守藤井の連大成の悲嘆《なげ》きて作れる歌一首。
 
【釋】筑後守葛井連大成 ツクシノミチノシリノクニノカミブヂヰノムラジオホナリ。葛井の大成は、續日本紀に、神龜五年五月に、正六位の上から外の從五位の下を授けられている。天平二年正月の梅花の宴には、筑後の守葛井大夫として歌を殘している。位階は、大廣の順位になるから、この人は葛井の廣成の兄だろうか。葛井氏は百濟人の子孫。もと白猪氏と稱した。
 
576 今よりは 城《き》の山道は さぶしけむ。
 わが通はむと 念ひしものを。 
 
 從v今者《イマヨリハ》 城山道者《キノヤマミチハ》 不樂牟《サブシケム》
 吾將v通常《ワガカヨハムト》 念之物乎《オモヒシモノヲ》
 
【譯】今からは、城の山道は樂しくないでしよう。わたくしが通おうと思つておりましたのに。
【釋】從今者 イマヨリハ。今から後は。
 城山道者 キノヤマミチハ。城の山は、福岡縣筑紫郡と佐賀縣|三養基《みやき》郡との堺にある山。天智天皇の四年に城を築かしめられた地であるという。筑後の國府から太宰府に通う路なので、この山道を擧げている。
(160) 不樂牟 サブシケム。サブシケは形容詞。愉快でない状態である。ムは助動詞。句切。三句切になつている。
 吾將通常 ワガカヨハムト。大宰府をさしてこの城の山道を通おうとの意。
 念之物乎 オモヒシモノヲ。思つたものだが、然るに今は君もいなくなつたの意。
【評語】平易な中によく失望の情を寫している。無事の作とすべきであろう。
 
大納言大伴卿、新袍贈2攝津大夫高安王1歌一首
 
大納言大伴の卿の、新《あらた》しき袍を、攝津の大夫高安の王に贈れる歌一首。
 
【釋】新袍 アラタシキウヘノキヌヲ。袍は、倭名類聚鈔に「袍、薄交(ノ)反、和名|宇倍乃岐沼《ウヘノキヌ》、一(ニ)云(フ)朝服」とあり、束帶の上著で、袷《あわせ》である。
 攝津大夫高安王 ツノカミタカヤスノオホキミ。攝津の大夫は、攝津職の長官。高安の王は、皇胤紹運録に、長の親王の孫、川内の王の子とある。攝津の大夫になつたことは傳わらない。天平十一年四月、上表して大原の眞人の姓を賜い、十四年十二月に卒した。旅人との關係は不明である。
 
577 わが衣《ころも》 人にな著せそ。
 網引《あびき》する 難波壯士《なにはをとこ》の
 手には觸るとも。
 
 吾衣《ワガコロモ》 人莫著曾《ヒトニナキセソ》
 網引爲《アビキスル》 難波壯士乃《ナニハヲトコノ》
 手尓者雖v觸《テニハフルトモ》
 
【譯】わたくしの贈物の著物を、人にお著せなさいますな。よし網を引く難波男の手に觸れるにしても。
【釋】吾衣 ワガコロモ。旅人から贈つた新しい袍のこと。
 人莫著曾 ヒトニナキセソ。ヒトは他人。他の人に著せるな。句切。
(161) 網引爲 アビキスル。アビキは、網を引くこと。難波おとこの生活を敍述している。
 難波壯士乃 ナニハヲトコノ。ナニハヲトコは、難波の地の男子。あづま壯士、智奴壯士などの類である。ここでは戯れに攝津の大夫である高安の王をいう。
 手介者雖觸 テニハフルトモ。よし難波壯士の手に觸れるにしてもの意。
【評語】衣服を高安の王に贈るに添えた歌である。親しさのあまり、輕く戯れている。從來の諸説、多く正解を得なかつたのは、この戯れの意を知らなかつたからである。
 
大伴宿祢三依悲v別歌一首
 
【釋】大伴宿祢三依 オホトモノスクネミヨリ。既出(卷四、五五二)。
 悲別歌 ワカレヲカナシメルウタ。地方官などになつて、わが家を離れるような事があつた時に詠んだ歌。下(卷四、六九〇)にもこの人の別れを悲しむ歌がある。
 
578 天地と 共に久しく 住まはむと、
 念《おも》ひてありし、家の庭はも。
 
 天地與《アメツチト》 共久《トモニヒサシク》 住波牟等《スマハムト》
 念而有師《オモヒテアリシ》 家之庭羽裳《イヘノニハハモ》
 
【譯】天地のあらん限り、永久に住もうと思つていた家の前庭なのだがなあ。
【釋】天地與共久 アメツチトトモニヒサシク。天地のなくなる時は格別、そのある限りは、それと共にで、限りなく永久にの意。「天地與《アメツチト》 共將v終登《トモニヲヘムト》」(卷二、一七六)、「天地與《アメツチト》 彌遠長爾《イヤトホナガニ》」(卷三、四七八)など、天地トと言つているが、また「阿米都知能《アメツチノ》 等母爾比佐斯久《トモニヒサシク》」(卷五、八一四)、「天地之《アメツチノ》 彌遠長久《イヤトホナガク》」(卷二、一九六)などの如く、天地のという例もある。
(162) 住波牟等 スマハムト。スマハムは住むの連續して行われるをいう動詞スマフに、助動詞ムが接續している。
 念而有師 オモヒテアリシ。思つていた意。次の句の家を修飾する。
 家之庭羽裳 イヘノニハハモ。ニハは屋前。わが家の庭先を見渡して別れを惜しんで歌つたのである。ハモは事物を提示して詠嘆する意に使用する助詞。
【評語】落ちついて住もうと思つていた家を離れねばならない氣もちは、よくわかる。庭先を見渡して詠んだ心は、菅原の道眞の「東風《こち》吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の歌に通ずるものがある。
 
余明軍、與2大伴宿祢家持1歌二首 明軍者、大納言卿之資人也
 
【釋】余明軍 ヨノミヤウグニ。既出(卷三、三九四)。大伴の旅人の資人。
 與大伴宿祢家持歌 オホトモノスクネヤカモチニアタフルウタ。人に贈與する歌は、常に贈と書いているのに、ここに與の字を使用しているのは、貰つた方の家持が書いたからであろう。
 
579 見まつりて
 いまだ時だに 更《かは》らねば、
 年月の如 念ほゆる君。
 
 奉v見而《ミマツリテ》
 未時太尓《イマダトキダニ》 不v更者《カハラネバ》
 如2年月1《トシツキノゴト》 所v念君《オモホユルキミ》
 
【譯】おあひしてから、まだ時も過ぎないのに、年月も經《た》つたように思われるあなたですね。
【釋】奉見而 ミマツリテ。マツリは敬語の助動詞。家持に對して敬意を表している。
 未時太尓不更者 イマダトキダニカハラネバ。まだ時間も移らないのに。ネバは、ヌニの意。
 如年月所念君 トシツキノゴトオモホユルキミ。年月を經たように思われる君であるよの意。ちよつとのあ(163)いだ見ないと、永い時間逢わないような氣がするというのである。
【評語】類想の多い歌で、凡作である。ちよつとでも逢わないと、逢いたくてたまらないの意を歌つているのは、男女關係の歌に多い言い方であるが、男子どうしでそれを歌つているのはめずらしい。
 
580 あしひきの 山に生ひたる
 菅《すが》の根の、
 ねもころ見まく ほしき君かも。
 
 足引乃《アシヒキノ》 山尓生有《ヤマニオヒタル》
 菅根乃《スガノネノ》
 懃見卷《ネモコロミマク》 欲君可聞《ホシキキミカモ》
 
【譯】あの山に生えている山菅の根のように、心から見たいと思うあなたです。
【釋】足引乃 アシヒキノ。枕詞。
 山尓生有菅根乃 ヤマニオヒタルスガノネノ。山に生えている山菅の根ので、ヤマスゲはジヤノヒゲ。以上序で、同音から次の句のネを引き起す。
 懃見卷欲君可聞 ネモコロミマクホシキキミカモ。ネモコロは、十分に、ていねいに、心から。ミマクは見むこと。十分に飽くまで見たいと思う君かなの意。
【評語】これも、菅ノ根ノネモコロと續く類型的な表現によつている。すなおな感じがあるのは、言い方が平易だからであるが、格別の作ではない。
 
大伴坂上家之大娘、報2贈大伴宿祢家持1歌四首
 
大伴の坂上の家の大孃の、大伴の宿禰家持に報へ贈れる歌四首。
 
【釋】大伴坂上家之大娘 オホトモノサカノウヘノイヘノオホヲトメ。
 
大伴の坂上の家は、坂上の郎女の家。(164)その大娘は、坂上の郎女が、大伴の宿奈麻呂とのあいだに生んだ娘で、この人は、後に大伴の家持の妻となつた。まだ妻とならない前の作であろうが、何時から妻となつたかは明瞭でない。大娘をよくオホイラツメと讀むが、母がイラツメで、娘がオホイラツメと呼ばれることはない。なお妹の二娘があるので大娘という。
 
581 生《い》きてあらば 見まくも知らに、
 何しかも
 死なむよ妹と 夢《いめ》に見えつる。
 
 生而有者《イキテアラバ》 見卷毛不v知《ミマクモシラニ》
 何如毛《ナニシカモ》
 將v死與味常《シナムヨイモト》 夢所v見鶴《イメニミエツル》
 
【譯】生きていたら、逢えるかも知れませんのに、何だつて、死にますよなどと、あなたが夢に見えたのでしよう。
【釋】生而有者見卷毛不知 イキテアラバミマクモシラニ。生きていたら、見むことも知らずに。見る機會があろうとも知らず。
 何如毛 ナニシカモ。シは張意の助詞。カモは疑問の係助詞で、五句の見エツルに懸かつている。何シカモ夢ニ見エツルと續く文脈である。
 將死與妹常 シナムヨイモト。シナムヨイモは、家持が、大娘の夢にあらわれて言つた言である。わたしはもう死にそうだ、わが愛人よとの意。
 夢所見鶴 イメニミエツル。家持が夢にあらわれたというのである。
【評語】相當複雜な内容を、よくこなしている。但し大娘は、母の坂上の郎女と同居していたはずで、その坂上の郎女は、弟の稻公のために相聞の歌を代作しており、また大娘は、後に家持の妻となつてからは、夫の家持に、母の郎女に贈る歌を代作させている。これによれば、その作と傳えるものは、母の代作が交つていると(165)見られてもしかたがない。家持が、これらの歌を貰つてうれしがつて、あとになつて母の代作だと聞いて、おやおやと思つたことだろう。
 
582 丈夫《ますらを》も かく戀ひけるを、
 手弱女《たわやめ》の 戀ふる情《こころ》に
 比《なら》べらめやも。
 
 大夫毛《マスラヲモ》 如v此戀家流乎《カクコヒケルヲ》
 幼婦之《タワヤメノ》 戀情尓《コフルココロニ》
 比有目八方《ナラベラメヤモ》
 
【譯】男でもかように戀をしましたとしても、女の戀う心にはくらべられますまい。
【釋】大夫毛如此戀家流乎 マスラヲモカクコヒケルヲ。堂々たる男子でも、かように戀をしたのを、しかもの意。家持の戀うさまをいい、作者自身の戀をいう前提とした。
 幼婦之 タワヤメノ。幼婦は、事實にもとづいて書いており、これをタワヤメと讀むのは、義をもつてである。作者自身のこと。
 戀情尓 コフルココロニ。君に戀う心に。
 比有目八方 ナラベラメヤモ。ナラベラメヤモ(桂)、クラベラメヤモ(童)、タグヒアラメヤモ(考)、タグヘラメヤモ(略)。タグヘラメヤモの訓が多く採用されているが、集中に、タグフは副う意に使用され、この比は比較對比の比であるから、適しない。ナゾフは比較の意があるが、下二段活であるから、ナゾヘラメヤモの語法はないし、意味からも成立しない。比の字義により、古訓によるべきである。比べられまいの意。
【評語】丈夫モカク戀ヒケルヲというので、家持から贈つた歌があつたのだとする説がある。そういう歌もあつたろうということを否定するのではないが、ここにカク戀ヒケルヲと言つているのは、前の夢の歌に、死ナムヨ妹とあらわれたというのをさすと見るべく、すなわち連作というべきである。先方に比して自分の戀の方(166)がまさつていることを述べた、相聞の歌の類型的な内容である。
 
583 つき草《くさ》の 變《うつろ》ひやすく 念へかも、
 わが念ふ人の 言《こと》も告げ來《こ》ぬ。
 
 月草之《ツキクサノ》 徙安久《ウツロヒヤスク》 念可母《オモヘカモ》
 我念人之《ワガオモフヒトノ》
 事毛告不來《コトモツゲコヌ》
 
【譯】月草染のように變色しやすく思つてか、わたくしの思う人のたよりもないことです。
【釋】月草之 ツキクサノ。枕詞。ツキクサは、ツユクサともいう。ツユクサ科の一年生草本。夏、藍色蛤貝形の可燐な花をつける。その花を集めて染料として衣料を染めるが、褪色しやすいので、ウツロヒヤスクに冠して枕詞とする。集中、鴨頭草とも書いている。
 徙安久 ウツロヒヤスク。ウツロヒは、變わる、色があせる。
 念可母 オモヘカモ。疑問條件法。
 我念人之 ワガオモフヒトノ、自分の思う人、家持が。
 事毛告不來 コトモツゲコヌ。言葉も告げて來ない。たよりもない。カモを受けてコヌと結ぶ。
【評語】手綺麗に出來ている。自分の心を危く思つてかと言い、二心なしということを蔭にしている。ツキクサの譬喩は美しい。
 
(167)584 春日《かすが》山 朝立つ雲の 居ぬ日無く
 見まくのほしき 君にもあるかも。
 
 春日山《カスガヤマ》 朝立雲之《アサタツクモノ》 不v居日無《ヰヌヒナク》
 見卷之欲寸《ミマクノホシキ》 君毛有鴨《キミニモアルカモ》
 
【譯】春日山に朝かかる雲の、かからない日がないように、いつも見ておりたいあなたです。
【釋】春日山 カスガヤマ。平城の京東方の山。
 朝立雲之 アサタツクモノ。朝涌き起る雲の。タツは、起る、涌き出る意。
 不居日無 ヰヌヒナク。雲が山にかかつていない日なく。以上三句、譬喩として、常にの意を表現している。
 見卷之欲寸 ミマクノホシキ。見むことの願わしい。
 君毛有鴨 キミニモアルカモ。君であることよ。
【評語】卷の六、天平五年の歌の中に「大伴坂上(ノ)郎女(ノ)、與(フル)d姪家持(ガ)從《ヨリ》2佐保1還c歸(ルニ)西(ノ)宅(ニ)u歌一首」(卷六、九七九)とあるによれば、坂上の郎女は、當時佐保に住んでいたようである。この春日山の歌の年代は不明だが、その頃とすれば、大娘も同處にいたものなるべく、その家からは、春日山がよく觀望されてこの歌となつたのであろう。朝ごとに見るその山の姿を材料として歌つている。單純な内容の歌だが、感じはわるくはない。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
585 出でて去《い》なむ 時しはあらむを、
 ことさらに
 妻戀《つまごひ》しつつ 立ちて去《い》ぬべしや。
 
 出而將v去《イデテイナム》 時之波將v有乎《トキシハアラムヲ》
 故《コトサラニ》
 妻戀爲乍《ツマゴヒシツツ》 立而可v去哉《タチテイヌベシヤ》
 
(168)【譯】出て行く時もあるだろうに、わざわざ妻戀をしながら立つて行く法はありません。
【釋】出而將去時之波將有乎 イデテイナムトキシハアラムヲ。イデテユカムトキシハアラムヲ(代精)。去は、イヌともユクとも讀まれる。五句の去と同訓に讀むべきであろう。シは強意の助詞。この家を出て行くのに、行くべき時もあるだろうに、しかるにの意。
 故 コトサラニ。特に、わざわざ。
 妻戀爲乍 ツマゴヒシツツ。ツマゴヒは、妻に戀うこと。「妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿將v鳴山曾《カナカムヤマゾ》」(卷一、八四)。
 立而可去哉 タチテイヌベシヤ。タチテユクベシヤ(元)。ヤは反語の助詞。立つて行くべきか、否そうではないの意。
【評語】歌の配列されている位置から言えば、作者自身に關する妻戀ではなくして、娘の婿に對して歌つているのであろう。戀しいが歸るというようなことを言つた男を、引き留めようとした母親の心なのであろう。情味もあり、強い口調もその人らしい。
 
大伴宿祢稻公、贈2田村大孃1歌一首 大伴宿奈麻呂卿之女也
 
大伴の宿禰稻公の、田村の大孃に贈れる歌一首。【大伴の宿奈麻呂の卿の女なり。】
【釋】大伴宿祢稻公 オホトモノスクネイナギミ。既出(卷四、五六七左註)。安麻呂の子、旅人の庶弟。
 田村大孃 タムラノオホヲトメ。小註にあるように大伴の宿奈麻呂の女で、坂上の大娘の異腹の姉に當る。(本卷、七五九左註參照)。田村の里にいたから、田村の大孃という。田村の里は、天理市の丹波市の西だろうという。
 
(169)586 相見ずは 戀ひざらましを。
 妹を見て
 もとなかくのみ 戀ひばいかにせむ。
 
 不2相見1者《アヒミズハ》 不v戀有益乎《コヒザラマシヲ》
 妹乎見而《イモヲミテ》
 本名如此耳《モトナカクノミ》 戀者奈何將v爲《コヒバイカニセム》
【譯】逢わなかつたら戀いなかつたろうのに、あなたを見て、よしなくこんなに戀うなら、何とも法がない。
【釋】不相見者不戀有益乎 アヒミズハコヒザラマシヲ。假説の前提である。逢わなかつたら戀をしなかつたろう、しかるにの意。
 妹乎見而 イモヲミテ。田村の大孃に逢つて。
 本名如此耳 モトナカクノミ。モトナは既出(卷二、二三〇)。ここは、よしなく、もとなくなどの語意。カクノミは、他事なくこれほどに。
 戀者奈何將爲 コヒバイカニセム。戀うをば何とも致し方なし。どうしようもないの意。
【評語】見てから後に戀が募るという類想の多い歌である。形式も類型的である。
 
右一首、姉坂上郎女作
 
【釋】姉坂上郎女作 アネサカノウヘノイラツメノツクレル。稻公の作としてあるが、實は姉の坂上の郎女が代作をしたというのである。相聞の歌が、社交の具として、殊に男女間の交通の必需品となつては、かような代作もしばしば行われたのであろう。これはたまたまその内情の傳えられたものである。坂上の郎女の方の記録によつたことが知られる。
 
(170)笠女郎、贈2大件宿祢家持1歌廿四首
 
【釋】笠女郎 カサノヲミナ。既出(卷三、三九五)。この二十四首は、一時に贈つたものでなくして、時々の作を集めたのであろう。
 
587 わが形見《かたみ》 見つつ偲《しの》はせ。
 あらたまの 年の緒長く
 吾も思《しの》はむ。
 
 吾形見《ワガカタミ》 見管之努波世《ミツツシノハセ》
 荒珠《アラタマノ》 年之緒長《トシノヲナガク》
 吾毛將v思《ワレモシノハム》
 
【譯】わたくしの形見の品を御覽になつて思い出してくださいませ。わたくしも年久しく思つておりましよう。
【釋】吾形見 ワガカタミ。カタミは、記念として贈る品。別れに臨んで、笠の女郎から衣服などを贈つたのであろう。
 見管之努波世 ミツツシノハセ。シノハセは、思慕する意の動詞シノフの敬語法の命令形。お思いください。句切。
 荒珠 アラタマノ。枕詞。
 年之緒長 トシノヲナガク。既出(卷三、四六〇)。年の續いて長くあるをいう。
 吾毛將思 ワレモシノハム。上のシノハセを受けて、吾もと言つている。
【評語】形見に寄せて歌つている。あきらめて別れるような口ぶりである。
 
588 白《シラ》鳥の 飛羽《とば》山松の、
(171) 待ちつつぞ わが戀ひわたる。
 この月頃を。
 
 白鳥能《シラトリノ》 飛羽山松之《トバヤママツノ》
 待乍曾《マチツツゾ》 吾戀度《ワガコヒワタル》
 此月比乎《コノツキゴロヲ》
 
【譯】白い鳥が飛ぶ、あの鳥羽山の松のように、待ちながらわたくしは戀いくらしております、この月頃を。
【釋】白鳥能 シラトリノ。枕詞。シラトリは、白い鳥で、サギ、クグヒなどをいう。特に一種の鳥をいうのではない。「白鳥《シラトリノ》 鷺坂山《サギサカヤマ》」(卷九、一六八七)。鳥の飛ぶという意に、次の句の飛羽山に冠する。
 飛羽山松之 トバヤママツノ。大和志に、「添上郡鳥羽山、奈良坂村北、鳥羽谷上方」とある。作者の家の近くにある山であろう。その山の松ので、以上次の待チというための序である。
 待乍曾吾戀度 マチツツゾワガコヒワタル。君を待ちながら戀をしているの意。句切。
 此月比乎 コノツキゴロヲ。ツキゴロは、幾月かにわたる意。
【評語】平凡な内容の歌であるが、序の用法が巧みに清新の氣を感じさせている。白鳥の枕詞もきれいである。松から待ツに懸ける手法は、常套的で、言い古されている。
 
589 衣手を 打廻《うつみ》の里に ある吾を
 知らずぞ人は 待てど來《こ》ずける。
 
 衣手乎《コロモデヲ》 打廻乃里尓《ウチミノサトニ》 有吾乎《アルワレヲ》
 不v知曾人者《シラズゾヒトハ》 待跡不v來家留《マテドコズケル》
 
【譯】著物を打ち柔らげる、その打廻の里にいるわたくしを、知らないであなたは待つても來ませんでした。
【釋】衣手乎打廻乃里尓 コロモデヲウチミノサトニ。
   コロモデヲウチワノサトニ(元)
   コロモデヲウチマノサトニ(攷)
(172)   コロモデヲウチミノサトニ(新考)
   コロモデヲウチタムノサトニ(新訓)
   ――――――――――
   衣手乎折廻里爾《コロモデヲヲリタムサトニ》(玉)
 コロモデヲは枕詞。衣服を打つ意に、ウチに冠する。ウチミは地名で、奈良縣の明日香川附近の里の名であろう。何かの縁で、作者はしばしその里にいたのだろう。「神名火《カムナビノ》 打廻前乃《ウチミノサキノ》」(卷十一、二七一五)。
 有吾乎 アルワレヲ。その里にいる自分なのを。
 不知曾人者 シラズゾヒトハ。ヒトは家持、第三者ふうに敍する手法である。家持は、ここにわたしがいると知らないで。
 待跡不來家留 マテドコズケル。ズ、ケル、助動詞。コズケルは古い語法で、後世ならばコザリケルというべきもの。上のゾを受けてケルと結んでいる。
【評語】ただ枕詞を使つたというだけで、これも平凡な内容である。知ラズゾと、待テドとのあいだには、矛盾があるが、待つていたが、君はわたしがここにいるとも知らないで來なかつたというのであろう。
 
590 あらたまの 年の經《へ》ぬれば、
 今しはと 
 勤《ゆ》めよ、わが夫子 わが名|告《の》らすな。
 
 荒玉《アラタマノ》 年之經去者《トシノヘヌレバ》
 今師波登《イマシハト》
 勤與吾背子《ユメヨワガセコ》 吾名告爲莫《ワガナノラスナ》
 
【譯】年が經つたので、もう今はと、氣をゆるめないで、どうかあなた、わたくしの名を人にお話しなさいますな。
【釋】荒玉 アラタマノ。枕詞。
 年之經去者 トシノヘヌレバ。トシノヘユケバ(元)、トシノヘヌレバ(考)。二人の關係が年が經過したの(173)で。
 今師波登 イマシハト。シは強意の助詞。今はと、今こそはとの意。二人の間も年が經つたので、もう人に話してもよいとの意。下に「今時者四《イマシハシ》」(卷四、七三二)ともある。
 勤與吾背子 ユメヨワガセコ。ユメヨは、ユメとのみもいう。齋メの義で、謹しめ、緊張せよの意になる。それから轉じて、決しての意にもなる。勤の字を使つているのは、努めて、氣を張つて、氣をつけての意味だからである。
 吾名告爲莫 ワガナノラスナ。二人のあいだを人に告げるなの意。
【評語】時を經ても人に知られることを憚つている。誰が通うということを伏せて置きたいのであろう。
 
591 わが念《おも》ひを 人に知るれや、 
 玉|匣《くしげ》 開き明けつと
 夢《いめ》にし見ゆる。
 
 吾念乎《ワガオモヒヲ》 人尓令知哉《ヒトニシルレヤ》
 玉匣《タマクシゲ》 開阿氣津跡《ヒラキアケツト》
 夢西所v見《イメニシミユル》
 
【譯】わたくしの戀の思いを人に知らせはしませんのに、玉櫛笥をあけたと夢に見ました。
【釋】吾念乎 ワガオモヒヲ。家持に對する思いを。
 人尓令知哉 ヒトニシルレヤ。ヒトニシラスヤ(元)、ヒトニシラセヤ(玉)、ヒトニシラスレヤ(新考)。この句は、五句の夢西所見に對して、已然條件法を成すものと見られる。令知は、知らしめる意の文字であるから、これを使役に讀まねばならないが、知ルの使役語知ラスは、四段活の文證なく、下二段に活用しているので、これによれば、新考の如く、令知哉をシラスレヤと讀むべきである。ところで脇屋眞一君の説に、動詞知ルは、下二段活用として、被動の意に使われているから、ここはその已然條件法として、令知哉をシルレヤと(174)讀むべきだという。これは「己我當乎《オノガアタリヲ》 人爾令v知管《ヒトニシレツツ》」(卷八、一四四六)、「人不v令v知《ヒトシレズ》 本名也戀牟《モトナヤコヒム》」(卷十三、三二七二)の例において、令知をシレと讀むことになつているのによる。已然形の用例は、他にないけれども、下二段活とすれば、その已然形はシルレと推考される。今この説による。わが思いを人に知らせたのか、そういうこともないのにの句意となる。知らせたこともない、それだのにの意。
 玉匣 タマクシゲ。既出(卷二、九三)。美しい櫛の箱。ここは枕詞ではない。
 開阿氣津跡 ヒラキアケツト。玉匣の蓋をあけたと。
 夢西所見 イメニシミユル。シは強意の助詞。
【評語】夢を信じ夢を氣にした婦人の生活が描かれている。思いを人に知らせたい氣特があつて、しかも知らせかねていた心である。
 
592 闇の夜に 鳴くなる鶴《たづ》の、
 外《よそ》のみに 聞きつつかあらむ。 
 逢ふとはなしに。
 
 闇夜尓《ヤミノヨニ》 鳴奈流鶴之《ナクナルタヅノ》 
 外耳《ヨソノミニ》 聞乍可將v有《キキツツカアラム》
 相跡羽奈之尓《アフトハナシニ》 
 
【譯】闇の夜に鳴いている鶴の聲のように、外にばかり聞いて居ることでしようか。逢うとはなくして。
【釋】闇夜尓鳴奈流鶴之 ヤミノヨニナクナルタヅノ。聲ばかりで眼には見えないという意味に、譬喩として次の外ノミニ聞クの序としている。
 外耳聞乍可將有 ヨソノミニキキツツカアラム。逢うことなく、よそにばかり君の噂を聞いていることだろうかの意。句切。
 相跡羽奈之尓 アフトハナシニ。逢うことはなしにで、三四句を限定説明する。
(175)【評語】集中、、鶴の聲を多く哀調を帶びるものとして歌つている。ここに歌われた闇夜に鳴く鶴も、そういう氣分を含んでいるのであろう。
 
593 君に戀ひ いたも術《すべ》なみ、
 平山《ならやま》の 小松が下《した》に
 立ち嘆くかも。
 
 君尓戀《キミニコヒ》 痛毛爲便無見《イタモスベナミ》
 楢山之《ナラヤマノ》小松下尓《コマツガシタニ》
 立嘆鴨《タチナゲクカモ》
 
【譯】あなたに戀をして、何とも致し方がないので、奈良山の小松の下に、立ち嘆くことでございます。
【釋】君尓戀 キミニコヒ。君に對して戀して。
 病毛爲便無見 イタモスベナミ。イタモは、甚しく、非常に、スベナミは、法なくして。
 楢山之 ナラヤマノ。楢は借字。奈良の京の北方の山。
 小松下尓 コマツガシタニ。コマツガシタニ(元)、コマツガモトニ(童)。コマツは松の愛稱。大松に對して、あまり大樹でない限り小松という。「わが命を長門の島の小松原幾代を經てか神さびわたる」(卷十五、三六二一)の如く、小松原に對して、幾代を經てかとも歌つており、小さい松というのではない。
 立嘆鴨 タチナゲクカモ。タチは、單なる接頭語でなく、實際立つて嘆いたものであるが、かように熟すると、立つの意は輕く、嘆くに重點が置かれる。
【評語】序や枕詞のようなものを使わずに、すなおに歌つているのがよい。思いあまつた姿がよく描かれている。
 
594 わが屋戸《やど》の 夕草陰《ゆふくさかげ》の 白露の、
(176) 消《け》ぬがにもとな 念《おも》ほゆるかも。
 
 吾屋戸之《ワガヤドノ》 暮草陰乃《ユフクサカゲノ》 白露之《シラツユノ》
 消蟹本名《ケヌガニモトナ》 所v念鴨《オモホユルカモ》
 
【譯】わたくしの家の夕方の草陰の白露のように、今にも消えそうに、せつに思われるのでございます。
【釋】吾屋戸之 ワガヤドノ。ヤドは、家屋の戸であるが、屋内からいうので、屋外の意になる。
 暮草陰乃 ユフクサカゲノ。暮草陰乃は、元暦校本、類聚古集による。金澤本、仙覺本には、暮陰草乃に作つている。「影草乃《カゲクサノ》 生有屋外之《オヒタルヤドノ》 暮陰爾《ユフカゲビ》 鳴蟋蟀者《ナクコホロギハ》 雖v聞不v足可聞《キケドアカヌカモ》」(卷十、二一五九)という歌があり、それでも通るが、古本の文字を尊重する意味で、今、元暦校本による。夕方の草陰の意。
 白露之 シラツユノ。以上、譬喩による序で、次の句の消ヌガニを引き起している。
 消蟹本名 ケヌガニモトナ。ケヌは消えたで、ヌは完了の助動詞であるが強意に使用される。ガニは、動詞、助動詞の終止形を受け(177)て、ばかりに、ほどにの意をあらわす助詞。將來を豫想し希望する助詞ガネと關係のある語であろう。「雁鳴寒カリガネサムシ》 霜毛置奴我二《シモモオキヌガニ》」(卷八、一五五六)、「那利奴賀爾《ナリヌガニ》 古呂波伊敝杼母《コロハイヘドモ》」(卷十四、三五四三)など使用されている。シカスガニのガニもこれであろう。「布流久左爾《フルクサニ》 仁比久佐麻自利《ニヒクサマジリ》 於非波於布流我爾《オヒバオフルガニ》」(卷十四、三四五二)は連體形に接續している。ケヌガニは、消えるばかりに。死にそうに、モトナは既出。切に。思ホユルカモを修飾して積極的である。
 所念鴨 オモホユルカモ。思われることだ。
【評語】白露の置く場所の敍述に特色があるだけで、白露を縁として今にも死にそうに思われるというのは、あまりにも類型的である。
【參考】類想。
  秋づけば尾花が上に置く露の消《け》ぬべくも吾は思ほゆるかも(卷八、一五六四)
  秋の田の穂の上に置ける白露の消《け》ぬべくも吾は思ほゆるかも(卷十、二二四六)
 
595 わが命の 全《また》けむかぎり 忘れめや、
 いや日にけには 念ひ益すとも。
 
 吾命之《ワガイノチノ》 將v全牟限《マタケムカギリ》 忘目八《ワスレメヤ》
 弥日異者《イヤヒニケニハ》 念益十方《オモヒマストモ》
 
【譯】わたくしの生命《いのち》のあらむ限り忘れないでしよう。いよいよ日ごとにことさらに思い増すと致しましても。
【釋】吾命之將全牟限 ワガイノチノマタケムカギリ。牟は、元暦校本による。將全でマタケムであるが、讀み方をたしかにするために牟を補書してある。但し仙覺本には牟を幸に作つている。マタケムは、マタケまで形容詞、ムは助動詞。「伊能知能《イノチノ》 麻多祁牟比登波《マタケムヒトハ》」(古事記三二)。わが命の全くあらむ限りはで、生きているあいだはの意。
(178) 忘目八 ワスレメヤ。ヤは反語。忘れようや、否。句切、三句切。
 弥日異者 イヤヒニケニハ。いよいよ日に特にで、一日ごと一時ごとにの意になる。
 念益十方 オモヒマストモ。思い増すとも、決して忘れはしないと、上の句の内容を限定している。
【評語】日ごと時ごとに思い益すことはあつても、生きている限りは、決して忘れはしないというのである。上三句の言い方が強く利いている。
【參考】類想。
  あはずして戀ひわたるとも忘れめやいや日にけには思ひ増すとも(卷十二、二八八二)
 
596 八百日《やほか》行く 濱の沙《まなご》も、
 わが戀に あに益《ま》さらじか。
 奧《おき》つ島守。
 
 八百日往《ヤホカユク》 濱之沙毛《ハマノマナゴモ》
 吾戀二《ワガコヒニ》 豈不v益歟《アニマサラジカ》
 奧島守《オキツツマモリ》
 
【諾】八百日も往く長い濱の沙の數も、わたくしの戀には、とても増さらないでしようね、沖の島の番兵さん。
【釋】八百日往 ヤホカユク。ヤホカは、八百日で、日數の極めて多いことをあらわしている。その日數を行く意で、濱の長いことを示す。
 濱之沙毛 ハマノマナゴモ。濱の沙は、數の極めて多い譬喩に使われている。それを更に、八百日間も行くで、極端に數の多いことを示す。
 吾戀二豈不益歟 ワガコヒニアニマサラジカ。自分の戀の繁きには、どうして増さりはしないだろう。アニは、何とて、何ぞの意。カは感動の助詞。句切。
 奧島守 オキツシマモリ。沖の島を守る兵士に呼びかけている。島守は防人に同じ。
(179)【評語】戀の繁きを歌つた歌は多いが、これは譬喩が警拔なのと、沖つ島守に呼びかけた言い方に特色があるので、注意されている。「いかに梶取」(卷七、一二三五)は、舟人に歌いかけた形になつているが、このように他に歌いかける形式は、しばしば使用されるところである。
 
597 うつせみの 人目を繁み、
 石走《いははし》る 間近《まぢか》き君に
 戀ひわたるかも。
 
 宇都蝉之《ウツセミノ》 人目乎繁見《ヒトメヲシゲミ》
 石走《イハバシル》 間近君尓《マヂカキキミニ》
 戀度可聞《コヒワタルカモ》
 
【譯】世間の人目が繁くして、間近にいるあなたに戀して日をくらしております。
《釋》宇都蝉之 ウツセミノ。既出(卷一、二四)。ここでは、この世の、世間の意に使用している。
 人目乎繁見 ヒトメヲシゲミ。人の見る目が繁くして。
 石走 イハバシル。イシハシル(元)、イハハシノ(桂)、イハハシル(京赭)。石走の字面は、集中十出しているが、いずれも五音の場處に使用せられ、しかもノに相當する文字を有するものは一もない。今イハバシルと讀み、枕詞とする。意は、石上を走り渡る意に、間に冠する。「石走《イハバシル》 間々生有《ママニオヒタル》 貌花乃《カホバナノ》」(卷十、二二八八)の用例がある。「年月毛《トシツキモ》 未v經爾《イマダヘナクニ》 明日香河《アスカガハ》 湍瀬由都之《セゼユワタシシ》 石走無《イハバシモナシ》」(卷七、一一二六)の例は、川を渡る便宜の爲に、川中に置いてある踏石をいう。
 間近君尓戀度可聞 マヂカキキミニコヒワタルカモ。近きあたりにいる君に戀をして日を經過することである。
【評語】同じ家か、同じ里か、その程度はわからないが、近くにいて逢うことの出來ないのを嘆いている。これも類想の多い歌である。
 
(180)598 戀にもぞ 人は死《しに》する。
 水無瀬河《みなせがは》 下ゆわれ痩す。
 月に日にけに。
 
 戀尓毛曾《コヒニモゾ》人者死爲《ヒトハシニスル》
 水無瀬河《ミナセガハ》下從吾痩《シタユワレヤス》
 月日異《ツキニヒニケニ》
 
【譯】戀のために人は死ぬものです。わたくしは水無し川のように、しんから痩せて行きます、月ごと日ごとに特別に。
【釋】戀尓毛管 コヒニモゾ。戀のために。ニモゾは助詞。ゾで強くなつている。ゾは係助詞。
 人者死爲 ヒトハシニスル。シニは體言で、シニスルは死を爲すの意。ゾを受けて、スルと結んでいる。「各寺師《オノガジシ》 人死爲良思《ヒトシニスラシ》」(卷十二、二九二八)、「鯨魚取《イサナトリ》 海哉死爲流《ウミヤシニスル》 山哉死爲流《ヤマヤシニスル》」(卷十六、三八五二)。以上概括的に述べている。句切。
 水無瀬河 ミナセガハ。卷の十一にも「水無瀬川」(二八一七)と書いている。瀬は借字で、水無し川の轉である。水のない川。水が河底の下を暗流する川。枕詞として、下ユに冠している。
 下從吾痩 シタユワレヤス。表面にあらわれずに、内部から戀のために痩せるの意。人に知られずに痩せて行くのである。句切。
 月日異 ツキニヒニケニ。一月ごとに、一日ごとに。ケニは、特に。「敷布二《シクシクニ》 若者戀益《ワレハコヒマサル》 月二日二異二《ツキニヒニケニ》」(卷四、六九八)、「如是耳《カクノミニ》 戀也度《コヒヤワタラム》 月日殊《ツキニヒニケニ》」(卷十一、二五九六)。
【評語】戀のために痩せるという歌は多いが、これは表現が變わつている。初めの概念的な言い方も類がすくないだけに支障にならないでいる。
 
(181) 599 朝霧の 鬱《おほ》に相見し 人ゆゑに、
 命死ぬべく 戀ひわたるかも。
 
 朝霧之《アサギリノ》 鬱相見之《オホニアヒミシ》 人故尓《ヒトユヱニ》
 命可v死《イノチシヌベク》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
【譯】朝霧のようにぼんやり見た人ゆえにか命も死にそうに戀いくらしております。
【釋】朝霧之 アサギリノ。枕詞。譬喩によつて、オホニに冠している。
 鬱相見之 オホニアヒミシ。オホニは、ぼんやりと、おぼろげに。「於保爾見敷者《オホニミシクハ》 今敍悔《イマゾクヤシキ》」(卷二、二一九)。
 人故尓 ヒトユヱニ。ヒトは家持。人のゆえに。
 命可死 イノチシヌベク。命が死ぬほどに、死にそうに。
【評語】まだ逢い始めた頃の歌らしい。すなおな平易な歌である。
 
600 伊勢の海の 礒もとどろに
 寄する浪、
 恐《かしこ》き人に 戀ひわたるかも。
 
 伊勢海之《イセノウミノ》 礒毛動尓《イソモトドロニ》
 因流浪《ヨスルナミ》
 恐人尓《カシコキヒトニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
【譯】伊勢の海の礒もとどろに鳴り響いて寄せる浪、そのような恐れ多い人に戀いくらしております。
【釋】伊勢海之礒毛動尓因流浪 イセノウミノイソモトドロニヨスルナミ。トドロニは、トドロという擬聲音の語を助詞ニで受けて、大きな響きを立てての意の副詞としている。以上次のカシコキを引き起すための序。
 恐人尓 カシコキヒトニ。カシコキは、恐るべき、恐れ多い。家持は名家なので、憚り貴ぶ氣持から、かしこき人と言つている。カシコシは、しばしば神を修飾しているが、カシコキ人と言つたのは、他にはない。
【評語】相聞の歌に浪を使用したのは多いが、この歌のようにカシコキを引き出したのはない。身分の相違を(182)越えて戀する心が歌われている。「思ひあまりいたもすべ無み玉だすき畝火の山に吾は標《しめ》結《ゆ》ふ」(卷七、一三三五)の歌の如き、同樣の境地にあつて詠んだ歌である。
 
601 情《こころ》ゆも われは念はざりき。
 山河も 隔たらなくに、
 かく戀ひむとは。
 
 從v情毛《ココロユモ》 吾者不v念寸《ワレハオモハザリキ》
 山河毛《ヤマカハモ》 隔莫國《ヘダタラナクニ》
 如是戀常羽《カクコヒムトハ》
 
【譯】心の底からわたくしは思いませんでした。山河も隔たつていないのに、このように戀いましようとは。
【釋】從情毛 ココロユモ。既出(卷四、四九〇)。ユは、中を通つての意の助詞なので、心中から、心の底からの意になる。
 吾者不念寸 ワレハオモハザリキ。ワレハオモハズ(元)、ワハモハザリキ(代初)、ワハオモハズキ(總索引)。ズケリの形に準ずれば、ズキも認められる。「麻迦受祁婆許曾《マカズケバコソ》」(古事記六二)の祁は、助動詞キの未然形とされる。しかし多くはザリキの形を採つているから、やはりワレハオモハザリキと讀むべきであろう。意外とする意に思わなかつたと言つている。句切。
 山河毛 ヤマカハモ。山も河も。
 隔莫國 ヘダタラナクニ。隔たらないことの意。通例、ナクニの如き形は句切となるが、ここは既に副詞句としての用法を生じている。
 如是戀常羽 カクコヒムトハ。今の戀の有樣を、かく戀うと言つている。
【評語】近くあつて戀うという内容の歌も多い。この歌は、意外である旨を強調しており、感動のよく出ているのがよい。
 
(183)602 夕されば もの念ひ益《まさ》る。
 見し人の 言問《ことと》ふすがた
 面影にして。
 
 暮去者《ユフサレバ》 物念益《モノオモヒマサル》
 見之人乃《ミシヒトノ》 言問爲形《コトトフスガタ》
 面景爲而《オモカゲニシテ》
 
【譯】夕方になると物思いがつのります。逢つた方の物をいうお姿が、目先にちらついて。
【釋】暮去者 ユフサレバ。夕方になれば。
 物念益 モノオモヒマサル。モノオモヒは戀の思いで體言。句切。
 見之人乃 ミシヒトノ。逢つた人、家持の。
 言問爲形 コトトフスガタ。コトトフは、物を言う。家持の物をいう有樣。
 面景爲而 オモカゲニシテ。オモカゲは、事物の實體が目前にないのに見えるのをいう。
【評語】逢つた人の姿が目先にちらついて忘れがたい情が歌われている。やはり關係のできた初期の作であろう。すなおな表現である。
 
603 念ふにし 死《しに》するものに
 あらませば、
 千遍《ちたび》ぞわれは 死《し》にかへらまし。
 
 念西《オモフニシ》 死爲物尓《シニスルモノニ》
 有麻世波《アラマセバ》
 千遍曾吾者《チタビゾワレハ》 死變益《シニカヘラマシ》
 
【譯】物思いのために死ぬものでありましたなら、わたくしは、千遍も死んで來ることでしよう。
【釋】念西 オモフニシ。シは強意の助詞。思うことにより、思うために、思うので。
 死爲物尓 シニスルモノニ。死をするもので。
(184) 有麻世波 アラマセバ。マセは推量の助動詞マシの未然形。あるとしたら。
 千遍曾吾者 チタビゾワレハ。チタビは度數の多いのをいう。
 死變益 シニカヘラマシ。變は反に通じて使用されている。「君喚變瀬《キミヨビカヘセ》 夜之不v深刀爾《ヨノフケヌトニ》」(卷十、一八二二)の變など、その例である。シニカヘリは、死んで歸る意。ヨミガヘルと同じ語構成である。本集には卷の十一の類歌のほかに用例を見ないが、平安時代には、多く見受ける。「しにかへり思ひそめにし世の中のあかぬことこそあはれなりけれ」(宇津保物語樓上)、「關うちこえて打出の濱にしにかへり到りたれば」(蜻蛉日記)。これらは死ぬほどの意に使われている。シニカヘラマシは、繰り返し死んだであろうにの意。
【評語】思い入つた樣が歌われているが、下記のように、人麻呂集に類歌があるので、手がらにならない。
【參考】類歌。
  戀するに死するものにあらませばわが身は千遍死にかへらまし(人麻呂集、卷十一、二三九〇)
 
604 劔大刀 身に取り副ふと 夢《イメ》に見つ。
 何のしるしぞも。
 君に逢はむため。
 
 劔大刀《ツルギタチ》 身尓取副常《ミニトリソフト》 夢見津《イメニミツ》
 何如之怪曾毛《ナニノシルシゾモ》
 君尓相爲《キミニアハムタメ》
 
【譯】劔大刀を身につけると夢に見ました。何のしるしでしようか。あなたに逢うためでしよう。
【釋】劔大刀身尓取副常 ツルギタチミニトリソフト。劔を身につけると、劔を帶びると。夢の内容である。
 夢見津 イメニミツ。句切。三句切。       、
 何如之怪曾毛 ナニノシルシゾモ。ナニノサトシゾ(元)、ナニノサガゾモ(考)、ナニノシルシゾモ(攷)。怪は、あやしと思う心をもつて書いている。攷證に、「如v此之夢《カカルユメハ》、是有2何表1也《コハナニノシルシニアラム》」(古事記中卷)とあるを擧げ(185)て、シルシと讀むべしと言つている。前兆である。句の意は、何の前兆であろうかの意で、自問の形であり、これに對して五句で自答している。句切。
 君尓相爲 キミニアハムタメ。夢の前兆に對する解釋である。
【評語】夢を信じ前兆を信ずることの多い婦人の生活が、よくあらわれている。この二十四首のうちにも、夢を説くこと既に三首に及んでいる。劔大刀は、男性的のものであるから、これを身につけるという點に、男子に逢う前兆を感じたのであろう。
 
605 天地の 神の理《ことわり》 なくばこそ
 わが念ふ君に 逢はず死《しに》せめ。
 天地之《アメツチノ》
 神理《カミノコトワリ》 無者社《ナクバコソ》
 吾念君尓《ワガオモフキミニ》 不v相死爲目《アハズシニセメ》
 
【譯】天地の神の道理がなかつたなら、わたくしの思うあなたに逢わないで死ぬことでしよう。
【釋】神理 カミノコトワリ。カミモコトワリ(元)、カミノコトワリ(金)、カミシコトワリ(考)、カミニコトワリ(新考)。神の道理。神は正義を行うとする思想から、神のあいだに存在するとする道徳律をいう。神明の道。
 無者社 ナクバコソ。無いなら、無いとしたら。
 吾念君尓不相死爲目 ワガオモフキミニアハズシニセメ。思う君に逢わないで死ぬだろう。コソを受けてセメと結んでいる。
【評語】中臣の宅守の作に類歌があり、それらの先後が問題になるが、多分ほかにこれらのもととなつた歌があつたのであろう。しかし神の理とまで思想を集結したのは、この歌の手がらのようで、神道思想の成立を見ることができる。
(186)【參考】類歌。
  天地の神無きものにあらばこそわが思ふ妹に逢はず死せめ(中臣宅守、卷十五、三七四〇)
 
606 われも念《おも》ふ。人もな忘れ。
 おほなわに
 浦吹く風の 止《や》む時なかれ。
 
 吾毛念《ワレモオモフ》 人毛莫忘《ヒトモナワスレ》
 多奈和丹《オホナワニ》
 浦吹風之《ウラフクカゼノ》 止時無有《ヤムトキナカレ》
 
【譯】わたくしも思います。あなたも忘れないでください。すべては、浦吹く風のようにやむ時なくありたいものです。
【釋】吾毛念 ワレモオモフ。句切。初句切で、第二句と對句風になつている。既出の、「月夜よし、川音さやけし」(卷四、五七一)などと同形である。
 人毛莫忘 ヒトモナワスレ。ヒトは家持をさす。人も忘れることなかれ。ナワスレの如き形の下に、多くソを添えているが、なくてもいう。句切。
 多奈和丹 オホナワニ。他に所見なく、意義不明である。代匠記に大繩という地名とし、玉の小琴に且爾氣丹の誤りとし、古義に有曾海乃の誤りとしている。この語の姉妹語かと思われるものに、アフサワニがあり、「棹四香能《サヲシカノ》 〓二貫置有《ハギニヌキオケル》 露之白珠《ツユノシラタマ》 相佐和仁《アフサワニ》 誰人可毛《タレノヒトカモ》 手爾將v卷知布《テニマカムチフ》」(卷八・一五四七)、「開木代《ヤマシロノ》 來背若子《クセノワクコガ》 欲云余《ホシトイフワレ》 相狹丸《アフサワニ》 吾欲云《ワレヲホシトイフ》 開木代來背《ヤマシロノクセ》」(卷十一、二三六二)の如く使用されている。これらの歌意を按ずるに、アフサワニは、輕々しく、出來心でなどの意を有するものとして、それはアフサが逢フサマで、出會いがしらにの語義から來るものと考えられる。然らば、このオホナワニも、オホナに主意があつて、ワニはそれを副詞化する性質のものとも見られよう。そのオホナは、歌意から考えれば、大方、大凡などのオホで、(187)總括する義なるべく、ナは助詞かと思われる。よつてしばらくすべての意に譯しておいたのである。
 浦吹風之 ウラフクカゼノ。譬喩で、次の句を起している。
 止時無有 ヤムトキナカレ。止む時なくあれの意。
【評語】初二句の疊みかけたものいいが、よく利いている。譬喩の使いかたもうまい。調子も整い、よい歌のようであるが、第三句が明解を得ないのは遺憾である。
 
607 皆人を 寢よとの鐘は 打ちつれど、
 君をし念《おも》へば いねがてぬかも。
 
 皆人乎《ミナヒトヲ》 宿與殿金者《ネヨトノカネハ》 打禮杼《ウチツレド》 
 君乎之念者《キミヲシオモヘバ》 寐不v勝鴨《イネガテヌカモ》
 
【譯】皆の人を寢よという鐘は、打つたけれど、あなたを思つていて、寢ることができませんでした。
【釋】皆人乎宿與殿金者 ミナヒトヲネヨトノカネハ。カネは鐘。鐘を打つて時刻を知らせた。日本書紀に、人定と書いてヰノトキと讀んでいる。これは亥の時の意で、この時刻に人皆寢靜まるからである。一晝夜を十二に分ち、夜半の零時を子の時とし、以下二時間ごとに、十二支の順に時を數える。亥の時は、今の午後十時に當る。延喜式に時鐘の數を現して、亥の時には、四つ打てとしてある。
 打禮杼 ウチツレド。
   ウツナレド(元)
   ウチヌレド(童)
   ウチツレド(新訓)
   ――――――――――
   打奈禮杼《ウツナレド》(略)
 亥の刻の鐘は打つたけれども。
 君乎之念者 キミヲシオモヘバ。シは強意の助詞。
(188) 寐不勝鴨 イネガテヌカモ。ガテヌは、不能の意、助動詞ガテとヌと接續したもの。
【評語】夜、君を思つて眠りをしかねるという歌は多いが、これは亥の時の時鐘を描いている點に特色がある。その具體的な敍述によつて、歌が生きている。
 
608 相念《おひおも》はぬ 人を思ふは、
 大寺の 餓鬼《がき》の後方《しりへ》に
 額《ぬか》づくが如。
 
 不2相念1《アヒオモハヌ》 人乎思者《ヒトヲオモフハ》
 大寺之《オホデラノ》 餓鬼之後尓《ガキノシリヘニ》
 額衝如《ヌカヅクガゴト》
 
【譯】思つてくれない人を思うのは、大寺の餓鬼の後方に行つて禮拜するようなものでございます。
【釋】不相念人乎思者 アヒオモハヌヒトヲオモフハ。アヒオモハヌは、おたがいに思わない。こちらでは思つていても、先方では思わないのをいう。先方では思わない人を思うのはの意。
 大寺之餓鬼之後尓 オホデラノガキノシリヘニ。オホデラは、大きい寺。テラは、歌經標式に「夜倶旨弖羅《ヤクシデラ》」(189)また「弖羅弖羅能《テラテラノ》 可禰母等與美努《カネモトヨミヌ》」とある。餓鬼は、佛教に、餓鬼道に墮ちた亡者をいう。常に饑渇《きかつ》に苦しんで、しかも飲食を得ることができない。この世に惡業を積めば、餓鬼道に墮ちるというので、その形を作つて、大寺の一部に据え置いたのであろう。「寺々の女餓鬼《めがき》申《まを》さく、大神《おほみわ》の男餓鬼《をがき》賜《たば》りてその子うまはむ」(卷十六、三八四〇)。
 額衝如 ヌカヅクガゴト。ヌカヅクガゴト(元)、ヌカヅクゴトシ(古義)。ヌカヅクは、額を突いて禮拜すること、餓鬼に禮拜しても效顯はないのである。しかもその後方に禮拜する如しというので、片思いの術なきことを嘆いている。ゴトは、文末をゴトともゴトシともして留めている。
【評語】譬喩が奇拔で、思い切つたことを言つている。これを受け取つた家持も、思わず破顔一笑せざるを得なかつたであろう。
 
609 情《こころ》ゆも われは念はざりき。
 また更に
 わが故郷に 還り來《こ》むとは。
 
 從v情毛《ココロユモ》 我者不v念寸《ワレハオモハザリキ》
 又更《マタサラニ》
 吾故郷尓《ワガフルサトニ》 將2還來1者《カヘリコムトハ》
 
【譯】心の底からわたくしは思いませんでした。また今更わたくしの故郷に歸つて來ましようとは。
【釋】從情毛我者不念寸 ココロユモワレハオモハザリキ。既出(卷四、六〇一)。
 又更 マタサラニ。また今更に。特に。
 吾故郷尓 ワガフルサトニ。フルサトは、集中多く古京の意にいうが、ここはもと住んでいた里、郷里の意に使用している。作者笠の女郎の郷里である。その地は何處かわからないが、笠という地名は、奈良縣にあつては、磯城郡にあり、石の上から初瀬町の北に行く途中で、藤原の不比等の創建という笠寺がある。
(190) 將還來者 カヘリコムトハ。歸り來ようとは思わなかつたの意に、上の句の内容を限定する。
【評語】どういう事情かわからないが、家持と遠ざかる運命が描かれ、それを露骨に言わないところに、深刻な意味が感じられる。以下二首は、別れてから贈つたものとの左註がある。
 
610 近くあらば 見ずともあるを、
 いや遠に 君が坐《いま》せば、
 ありかつましじ。
 
 近有者《チカクアラバ》 雖v不v見在乎《ミズトモアルヲ》
 弥遠《イヤトホニ》 君之伊座者《キミガイマセバ》
 有不v勝自《アリカツマシジ》
 
【譯】近いならば逢わないでもいられますが、あなたが一層遠くなつたので、あり得られません。
【釋】近有者雖不見在乎 チカクアラバミズトモアルヲ。近いなら逢わないでもいられるが、しかるにの意。
 弥遠 イヤトホニ。作者は故郷に還つたので、君がいよいよ遠くになつたから。イヤトホニは、今までよりは一層遠く。四句を修飾する。
 君之伊座者 キミガイマセバ。キミシイマシナバ(元)、キミイマシナバ(金)、キミガイマシナバ(西)、キミガイマセバ(代初)、キミガイマサバ(考)、キミノイマサバ(玉)。左註によれば、代匠記ふうに已然形に讀むがよい。
 有不勝自 アリカツマシジ。既出(卷二、九四)。あり得られまい。
【評語】近ければ近いで、何とかいうし、遠くなればまたあり得られないという。君を思う人のすべない心ではある。
 
右二首、相別後更來贈
 
(191)【釋】相別後更來贈 アヒワカレテノチニサラニキタリオクレル。雨者の關係は、遂げずして別れねばならなかつた。その別れて故郷に歸つてから贈つた歌だとの註で、家持の加えたものと推測される。
 
大伴宿祢家持和歌二首
 
【釋】大伴宿祢家持和歌 オホトモノスクネヤカモチノコタフルウタ。笠の女郎の歌に答えた歌であるが、歌意を按ずるに、別れてから後に贈つた二首の歌に和したものの如くである。
 
611 今更に 妹に逢はめやと 念《おも》へかも、
 幾許《ここだ》わが胸 鬱悒《おほほ》しからむ。
 
 今更《イマサラニ》 妹尓將相八跡《イモニアハメヤト》 念可聞《オモヘカモ》
 幾許我胸《ココダワガムネ》 鬱悒將有《オホホシカラム》
 
【譯】もう今はあなたに逢えないと思つているのではないのに、わたしの胸が非常にうつとうしくあるだろう。
【釋】今更妹尓將相八跡 イマサラニイモニアハメヤト。遠く別れたので、今はもう妹にあうことはないだろうと。
 念可聞 オモヘカモ。思えばにや。ヤモ、反語になる條件法の助詞。終助詞にもなるが、係助詞にもなる。「百代下《モモヨシモ》 千世下生《チヨシモイキテ》 在目八方《アラメヤモ》 吾念妹乎《ワガオモフイモヲ》 置嘆《オキテナゲカフ》」(卷十一、二六〇〇)。
 幾許我胸 ココダワガムネ。ココダは、多量の意の副詞。ここに五句を修飾している。
 鬱悒將有 オホホシカラム。イブカシカラム(元)、オホホシカラム(拾)、イブセク將有(代精)、イブセカルラム(童)。鬱悒は既出(卷二、一七五)。上の思うゆえかを受けて、うつとうしくあるだろうと推量している。
【評語】運命の命ずるままに一旦別れても、なお將來があるはずなのに、自分の胸のはれやらぬを如何ともし(192)がたい心である。
 
612 なかなかは 黙《もだ》もあらましを、
 何すとか 相見そめけむ。
 遂《と》げずあらくに。
 
 中々者《ナカナカハ》 黙毛有益呼《モダモアラマシヲ》
 何爲跡香《ナニストカ》 相見始兼《アヒミソメケム》
 不v遂尓《トゲズアラクニ》
 
【譯】かえつて黙つていたらよかつたろうに、何だつて逢い始めたのだつたろう。遂げないことだのに。
【釋】中々者 ナカナカハ。
   ナカナカニ(元)
   ナカナカハ(定本)
   ――――――――――
   中々爾(童)
   中々※[者/火](童)
 仙覺本に引いた六條本に者を爾とし、童蒙抄に爾または煮の誤りとしてから、諸説多くこれによつている。ナカナカニというのが普通ではあるが、ハによつて副詞を作ることも多いし、ニとあるべくしてはになつているものも「打栲者《ウツタヘハ》 經而織布《ヘテオルヌノ》」(卷十六、三七九一)の如きがある。また六條本も校勘資料としては、そう高い位置を占めるものでもない。よつて原文のままにあるべきである。中においては、かえつての意。
 黙毛有益呼 モダモアラマシヲ。言を懸けないで、黙然としていたらよかつたろうに、しかるにの意。
 何爲跡香 ナニストカ。何をするとてか。何とてか、何だつて。
 相見始兼 アヒミソメケム。逢い始めたのだろう。句切。
 不遂尓 トゲズアラクニ。
   トゲザラナクニ(元)
   トゲザラマクニ(拾)
(193)   トゲヌトナシニ(攷)
   トゲズアラクニ(定本)
   ――――――――――
   不遂莫《トゲザラヌカモ》(童)
   不遂等《トグトハナシニ》(考)
 舊訓トゲザラナクニとあるが、それでは打消が二つ重なるので、遂げたことになる。同じ作者の「毛等保登等藝須《モトホトギス》 不v鳴安良久爾《ナカズアラクニ》」(卷十七、三九一九)の例によつて、トゲズアラクニと讀むべきである。なお爾を等に作つている本があるので、それについての諸説もあるが、古本に爾とあるによるべきである。遂げないであることだのにの意で、やや副詞句ふうの氣を生じたのは、時代の變化である。
【評語】結局成し遂げないのだから、逢わない方がよかつたという、無責任な内容である。類歌を、時に適するように改作したものと思われる。
【參考】類歌。
  中々に黙もあらましを、あづきなくあひ見そめても我は戀ふるか(卷十二、二八九九)
 
山口女王、贈2大伴宿祢家持1歌五首
 
【釋】山口女王 ヤマグチノオホキミ。傳未詳。
 
613 物念ふと 人に見えじと、
 なまじひに 常に思へり。
 ありぞかねつる。
 
 物念跡《モノオモフト》 人尓不v所v見常《ヒトニミエジト》
 奈麻強尓《ナマジヒニ》 常念弊利《ツネニオモヘリ》
 在曾金津流《アリゾカネツル》
 
【譯】なまなかに人にものを思うとは見られないようにと思つているので、生きているそらもないことです。
【釋】物念跡人尓不所見常 モノオモフトヒトニミエジト。人には物思うとは見られまいの意。物思いを包む(194)心である。
 奈麻強尓 ナマジヒニ。ナマは未熟、中途なのにいう。シヒは文字通り強《し》うの義。なまなか、なまじつか。
 常念弊利 ツネニオモヘリ。常に念としている。句切。
 在曾金津流 アリゾカネツル。アリカネツに同じ。生きていがたい意。
【評語】君を思つているということを、人に隱そうとしているので苦しいという歌である。思うならば思うと、目由にあり得る世をうらやんでいる。思う所を眞直に陳べた歌である。
 
614 相念《あひおも》はぬ 人をやもとな、
 白細の 袖|漬《ひ》づまでに
 哭《ね》のみし泣くも。
 
 不2相念1《アヒオモハヌ》 人乎也本名《ヒトヲヤモトナ》
 白細之《シロタヘノ》 袖漬左右二《ソデヒヅマデニ》
 哭耳四泣裳《ネノミシナクモ》
 
【譯】思つてもくださらない方を思うのでか、何とも致し方なく、白い衣の袖がすつかり濡れるまでに泣かれることです。
【釋】不相念人乎也本名 アヒオモハヌヒトヲヤモトナ。先方では思わない人をかで、ヤは感動の係助詞。この結びは第五句である。人ヲは、人に對しての意。モトナは既出(卷二、二三〇參照)。
 白細之 シロタヘノ。白い織物の。袖の修飾句。
 袖漬左右二 ソデヒヅマデニ。ヒヅは濡れそぼつ。涙のために濡れるのである。
 哭耳四泣裳 ネノミシナクモ。ネノミシナクモ(西)、ネノミシナカモ(代精)。泣きにのみ泣くの意。泣裳は、代匠記以來ナカモと讀んでいるが、ナクモと讀んでさしつかえない。定本萬葉集にその説がある。
【評語】片戀に泣くことを歌うのは多いが、これは白細ノ袖ヒヅマデニと敍しているのが、その泣くさまを述(195)べるもので、特色があり、女らしさが感じられる。
 
615 わが夫子は 相念はずとも、
 敷細の 君が枕は
 夢《いめ》に見えこそ。
 
 吾背子者《ワガセコハ》 不2相念1跡裳《アホオモハズトモ》
 敷細乃《シキタヘノ》 君之枕者《キミガマクラハ》
 夢所v見乞《イメニミエコソ》
 
【譯】君は思つてくださらないでも、せめて君の枕だけは、夜の夢に見えてほしいことです。
【釋】吾背子者不相念跡裳 ワガセコハアヒオモハズトモ。君はよし自分を思わないでも。
 敷細乃 シキタヘノ。枕詞。枕に冠する。
 君之枕者 キミガマクラハ。君は上のわが夫子を語を換えて言つている。
 夢所見乞 イメニミエコソ。コソは願望の助詞。
【評語】せめて君が枕だけでも夢にあらわれよと願つている。せつない心である。
 
616 劔大刀 名の悟しけくも 吾は無し。
 君に逢はずて 年の經《へ》ぬれば。
 
 劔大刀《ツルギタチ》 名惜雲《ナノヲシケクモ》 吾者無《ワレハナシ》
 君尓不v相而《キミニアハズテ》 年之經去禮者《トシノヘヌレバ》
 
【譯】わたくしは、名前が惜しいとは思いません。あなたにお逢いしないで年がたつたのですから。
【釋】劔大刀 ツルギタチ。枕詞。良い劔には名があるので、名に冠するというが、譬喩で、名ノ惜シまでに懸かるのだろう。いつも名ノ惜シに冠している。
 名惜雲吾者無 ナノヲシケクモワレハナシ。ヲシケクは、惜しいこと。クは體言を作る助詞。わたしは名の惜しいこともないの意。句切、三句切。
(196) 君尓不相而年之經去禮者 キミニアハズテトシノヘヌレバ。上の三句に對する理由。
【評語】この集では、一年を經た程度でも、年を經たと言つている。逢わないでやや長い月日を經て思い亂れる心である。この歌の上三句は、當時の歌として歌い馴れている句であつて、ここにもそれを借り用いたのであろう。
【參考】類句。
  劔大刀名の惜しけくも我は無しこのごろの間の戀の繁きに(卷十二、二九八四)
  み空ゆく名の惜しけくも我は無し逢はぬ日あまた年の經ぬれば(同、二八七九)
 
617 蘆邊より 滿ち來《く》る潮の、
 いや益《まし》に 念《おも》へか君が
 忘れかねつる。
 
 從2蘆邊1《アシベヨリ》 滿來鹽乃《ミチクルシホノ》
 弥益荷《イヤマシニ》 念歟君之《オモヘカキミガ》
 忘金鶴《ワスレカネツル》
 
【譯】蘆の生えている岸邊を滿ちて來る潮のように、いよいよまさつて思うゆえか、あなたが忘れかねることです。
【釋】從蘆邊滿來鹽乃 アシベヨリミチクルシホノ。蘆の生えている中を滿ちて來る潮ので、次の句のイヤ増シニを引き起す序として使用されている。
 弥益荷 イヤマシニ。いよいよ増つて。
 念歟君之 オモヘカキミガ。オモヘカは、思えばかの意の疑問條件法。カは疑問の係助詞。キミガは、キミハ、キミノに同じで、君のことがの意。
 忘金鶴 ワスレカネツル。カネは得ざる意の助動詞。オモヘカのカを受けて、ツルと結んでいる。
(197)【評語】序の詞句も具體的で清新の氣がある。この作者は、傳未詳であるが、どの歌も概してすなおな歌いぶりであつて、まだ若い方であつたように思われる。
【參考】類句。
  水門《みなと》みに滿ち來る潮のいや増しに戀はまされど忘らえぬかも(卷十二、三一五九)
 
大神女郎、贈2大伴宿祢家持1歌一首
 
【釋】大神女郎 オホミワノヲミナ。傳未詳。
 
618 さ夜中に 友|喚《よ》ぶ千鳥、
 もの念ふと 侘《わ》び居《を》る時に
 鳴きつつもとな。
 
 狹夜中尓《サヨナカニ》 友喚千鳥《トモヨブチドリ》
 物念跡《モノオモフト》 和備居時二《ワビヲルトキニ》
 鳴乍本名《ナキツツモトナ》
 
【譯】夜中に友を呼ぶ千鳥よ。物を思つてわびしがつている時に鳴いてしかたのないことです。
【釋】狹夜中尓 サヨナカニ。サは接頭語。ヨナカは夜半。
 友喚千鳥 トモヨブチドリ。なかまを呼んで鳴いている千鳥で、その千鳥を呼びかけている。
 物念跡 モノオモフト。物を思うとて。
 和備居時二 ワビヲルトキニ。ワビは、致し方なく因る意の動詞。「故其日子遲神《カレソノヒコチヂカミ》、和備弖《ワビテ》」(古事記上卷)、「今者吾羽《イマハワレハ》 和備曾四二結類《ワビゾシニケル》」(卷四、六四四)など。
 鳴乍本名 ナキツツモトナ。鳴いてよしないことだ。−つつもとな、既出(卷三、三〇五)。
【評語】夜鳴く鳥の聲も一層哀情を誘うという、かような内容の歌もすくなくない。しかしこの歌としてはよ(198)く纏まつている。
 
大伴坂上郎女怨恨歌一首、并2短歌1
 
大伴の坂上の郎女の怨恨の歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】怨恨歌 ウラミノウタ。いかなる場合の歌とも知られない。この作者は、穗積の皇子、藤原の麻呂、大伴の宿奈麻呂等に嫁しているが、穗積の皇子には、薨去に逢つたので、捨てられたのではなかろうから、藤原の麻呂との關係であろうとされる。大伴の宿奈麻呂とのあいだには坂上の大娘等の子があるので、それでもないらしい。歌意からすれば、全く捨てられたものでなく、君の來るのを待つ心が強調されているものである。またかように自身の上のこととすれば、ここに家持等の相聞の歌の中に置かれているのは、順序を失したもので、もつと前に置かれねばならない。
 
619 おし照る 難波の菅《すげ》の、
 ねもころに 君が聞《きこ》して、
 年深く 長くし言へば、
 まそ鏡 麿《と》ぎし情《こころ》を
 縱《ゆる》してし その日の極《きは》み、
 浪の共《むた》 靡く玉藻の
 かにかくに 心は持たず、
(199) 大船の 憑《たの》める時に、
 ちはやぶる 神や離《さ》くらむ、
 うつせみの 人か禁《さ》ふらむ、
 通はしし 君も來《き》まさず
 玉|梓《づさ》の 使も見えず 成りぬれば、
 いたもすべなみ、
 ぬばたまの 夜《よる》はすがらに、
 赤らひく 日も暮るるまで、
 嘆けども 驗《しるし》を無み、
 念へども たづきを知らに、
 手弱女《たわやめ》と 言はくも著《しる》く
 手童《たわらは》の 哭《ね》のみ泣きつつ、
 徘徊《たもとほ》り 君が使を
 待ちやかねてむ。
 
 押照《オシテル》 難波乃菅之《ナニハノスゲノ》
 根毛許呂尓《ネモコロニ》 君之聞四手《キミガキコシテ》
 年深《トシフカク》 長四云者《ナガクシイヘバ》
 眞十鏡《マソカガミ》 磨師情乎《トギシココロヲ》
 縱手師《ユルシテシ》 其日之極《ソノヒノキハミ》
 浪之共《ナミノムタ》 靡珠藻乃《ナビクタマモノ》
 云々《カニカクニ》 意者不v持《ココロハモタズ》
 大船乃《オホブネノ》 憑有時丹《タノメルトキニ》
 千磐破《チハヤブル》 神哉將v離《カミヤサクラム》
 空蝉乃《ウツセミノ》 人歟禁良武《ヒトカサフラム》
 通爲《カヨハシシ》 君毛不2來座1《キミモキマサズ》
 玉梓之《タマヅサノ》 使母不v所v見《ツカヒモミエズ》 成奴禮婆《ナリヌレバ》
 痛毛爲便無三《イタモスベナミ》
 夜干玉乃《ヌバタノ》 夜者須我良尓《ヨルハスガラニ》
 赤羅引《アカラヒク》 日母至v闇《ヒモクルルマデ》
 雖v嘆《ナゲケドモ》 知師乎無三《シルシヲナミ》
 雖v念《オモヘドモ》 田付乎白二《タヅキヲシラニ》
 幼婦常《タワヤメト》 言雲知久《イハクモシルク》
 手小童之《タワラハノ》 哭耳泣管《ネノミナキツツ》
 俳※[人偏+回]《タモトホリ》 君之使乎《キミガツカヒヲ》
 待八兼手六《マチヤカネテム》
 
【譯】海の光る難波の地に生えている菅の根のように、ねんごろにあの方がおつしやつて、年を重ねて長くというので、鏡のように磨《と》ぎすました心を許したその日から始まつて、浪と共に靡く藻のような、ぐらつく心は持たず、大船のように頼みにしていた時に、威力のはげしい神樣があいだを分けたのでしようか、世の中の人(200)がさまたげたのでしようか、お通いになつた君もおいでなさらず、お使も見えなくなつたので、何とも法がなく、まつくらな夜は夜どおし、あかるい晝も暮れるまで、嘆くけれどかいがなく、思うけれども手段を知らないで、若い女と言うのも道理に、子どものように泣いてばかりいて、行つたり來たりして、君のお使を待つても來ないことでしようか。
【構成】別に段落はない。途中にしばしば終止形を取る句はあるが、それは挿入された文章で段落ではない。
【釋】押照 オシテル。既出(卷三、四四三)。枕詞。難波に冠する。
 難波乃菅之 ナニハノスゲノ。難波は菅の産地として知られている。以上二句は序で、菅の根ということから、次の句のネモコロのネを引き出す。但し菅の根と言われるのは、山菅(ジヤノヒゲ)の根であり、難波の菅は、山菅ではないが、轉用したのである。
 根毛許呂尓君之聞四手 ネモコロニキミガキコシテ。懇切にあの方が仰せられて。キコシテは、言われて。
 年深 トシフカク。年數を經る形容。既出(卷三、三七八)。
 長四云者 ナガクシイヘバ。シは強意の助詞。年深く長くは、將來永久に變わるまいの意。長クの下に省略された語がある。
 眞十鏡 マソカガミ。枕詞。當時の鏡は、金属の鏡なので磨グに冠している。
 磨師情乎 トギシココロヲ。トギシココロは、磨ぎすました心、錬磨した心で、物に摧けないしつかりした心。「眞十鏡《マソカガミ》 磨師心乎《トギシココロヲ》 縱者《ユルシテハ》 後爾雖v云《ノチニイフトモ》 驗將v在八方《シルシアラメヤモ》」(卷四、六七三)とあるのは、同じ作者の作である。
 縱手師 ユルシテシ。ユルシは、心を寛にして許容する意。下のシは時の助動詞。婚姻を申し入れた人に、承諾を與えた意。
 其日之極 ソノヒノキハミ。キハミは極限。ここはその日を限界として、それから後はの意。
(201) 浪之共靡珠藻乃 ナミノムタナビクタマモノ。浪と共に靡く珠藻のようにの意で、譬喩によつて次のカニカクニに冠する序としている。
 云々 カニカクニ。ああもこうもで、種々に迷う意の副詞。
 意者不持 ココロハモタズ。動搖する心は持たずで、下の憑メルに懸かる修飾句。
 大船乃 オホブネノ。既出(卷二、一六七)。枕詞。
 憑有時丹 タノメルトキニ。頼みにしていた時に。
 千磐破 チハヤブル。既出。枕詞。
 神哉將離 カミヤサクラム。カミヤワカレム(元)、カミヤカレナム(西)、カミヤカルラム(代初)、カミヤサクラム(代精)、カミヤサケケム(童)、カミヤカレケム(考)。神がか引き離したことであろう。ヤは疑問の係助詞。中を裂いたのは神なのかの意。以上二句、插入文。
 空蝉乃 ウツセミノ。既出、枕詞。
 人歟禁良武 ヒトカサフラム。ヒトカイムラム(西)、ヒトカサフラム(代初)。サフは妨げる、抑える。人がか妨げたのだろう。ラムは、妨げた理由を推量するために使用されている。この二句も插入文で、上のチハヤブル云々の句と對句をしている。
 通爲君毛不來座 カヨハシシキミモキマサズ。カヨハシは、通フの敬語法。その下のシは時の助動詞。お通いになつた君も來まきずで、下のナリヌレバに接續する。
 玉梓之 タマヅサノ。既出。枕詞。
 使母不所見 ツカヒモミエズ。以上二句、上の通ハシシ君モ來マサズの句と對句を成して、共に成リヌレバを修飾している。
(202) 成奴禮婆 ナリヌレバ。上の君モ來マサズ、および使モ見エズの句を受けている。この場合、見エズナリヌレバという接續は密接であり、これに比して、成リヌレバイタモスベ無ミの接續の方は餘裕があるので、七五調の如き觀を生ずるに至つた。長歌が、ひたすらに文筆上の作物となつて、純粹な五七調がくずれて行くのである。
 痛毛爲便無三 イタモスベナミ。イタモは、甚しく。何とも方法なく。
 夜干玉乃 ヌバタマノ。既出。枕詞。
 夜者須我良尓 ヨルハスガラニ。スガラは語義未詳であるが、夜の語と熟して、夜スガラ、夜モスガラとなり、終夜の意をあらわす。夜は夜どおしの意。「美夜比登能《ミヤヒトノ》 於保與須我良爾《オホヨスガラニ》」(古語拾遺)、「欲流波須我良爾《ヨルハスガラニ》 禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》」(卷十五、三七三二)など。「終日須加良爾《ヒルモスガラニ》」(續日本後紀嘉祥二年長歌)。これは晝について言つている。
 赤羅引 アカラヒク。枕詞。赤色を引いている。赤色を帶びている意であろう。日に冠している。「朱羅引《アカラヒク》 色妙子《シキタヘノコヲ》(卷十、一九九九)、「朱引《アカラヒク》 朝行公《アサユクキミヲ》」(卷十一、二三八九)、「朱引《アカラヒク》 秦不v經《ハダニモフレズ》」(同、二三九九)。以上三例とも人麻呂集所出の歌。神宮儀式帳に「明曳《アカラヒク》 御綱絲《ミツナイト》」とある明曳は、光澤のある意で、絹絲についていうのだろうとされる。
 日母至闇 ヒモクルルマデ。日も日暮になるまで、一日中。以上二句、上のヌバタマノ云々の句と對句になつて、終日終夜の意をあらわしている。
 雖嘆知師乎無三 ナゲケドモシルシヲナミ。嘆くけれども、そのかいがなく。シルシは效果、效驗。
 雖念田付乎白二 オモヘドモタヅキヲシラニ。思うけれども手段を知らず。タヅキは、タドキともいう。手段、方法、この二句、上の嘆ケドモ云々と對句になつている。
(203) 幼婦常言雲知久 タワヤメトイハクモシルク。幼婦の字は、既出(卷四、五八二)。イハクは、言うこと。シルクは、いちじるく。少女と人のいうのも道理での意。
 手小童之 タワラハノ。タは接頭語。小兒の意で、譬喩になつている。「如此許《カクバカリ》 戀爾將v沈《コヒニシヅマム》 如2手童兒1《タワラハノゴト》」(卷二、一二九)。
 哭耳泣管 ネノミナキツツ。泣きにのみ泣いて。
 俳※[人偏+回] タモトホリ。一處を行き來している意。
 君之使乎待八兼手六 キミガツカヒヲマチヤカネテム。あの方の使を待つてか、しかも待ち得ないことだろうの意。ヤは疑問の係助詞。待ちかねてむに、ヤが插入されたもの。
【評語】對句を多く使用し、枕詞なども多く、一體にごたごたしていて、怨恨の歌と題してあるほどの悲痛感が乏しい。幼婦ト言ハクモシルクとあるように、少女期の作なのであろう。
 
反歌
 
620 初めより 長くいひつつ 恃めずは、
 かかる念ひに 逢はましものか。
 
 從元《ハジメヨリ》 長謂管《ナガクイヒツツ》 不令恃者《タノメズハ》
 如v是念二《カカルオモヒニ》
 相益物歟《アハマシモノカ》
 
【譯】初めから何時までもと言つて頼《たよ》らせなかつたら、こんな思いに逢つたでしようか。
【釋】從元 ハジメヨリ。關係の生じた初めから。
 長謂管 ナガクイヒツツ。長く久しくと言つて。長歌の句を受けている。
 不令恃者 タノメズハ。恃ましめずば。たのみをかけさせないなら。
(204) 如是念二 カカルオモヒニ。君が使いを待ち得ないような物思いに。
 相益物歟 アハマシモノカ。マシは假設推量の助動詞であるから、アハマシで、あいもしたろうといい、それをモノカで反語の意に、そんなことはないと否定している。マシモノヲの例は多いが、マシモノカの例は、他にはない。獨得の句である。モノカは、「海若者《ワタツミハ》 靈寸物香《クスシキモノカ》」(卷三、三八八)の如く、ものだなあの意に使用されているが、反語としては、「保登等藝須《ホトトギス》 毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》 奈久倍吉毛能可《ナクベキモノカ》」(卷十五、三七八四)の如き例がある。
【評語】女の愚痴つぽさがいかにもよくあらわれている。五句など特色があつて、後悔した心持が描かれている。
 
西海道節度使判官佐伯宿祢東人妻、贈2夫君1歌一首
 
西海道の節度使の判官佐伯の宿祢東人が妻の、夫の君に贈れる歌一首。
 
【釋】西海道節度使判官 サイカイダウノセチドシノマツリゴトビト。續日本紀天平四年八月の條に、「丁亥、正三位藤原の朝臣房前を東海東山二道の節度使とし、從三位多治比の眞人縣守を山陰道の節度使とし、從三位藤原の朝臣宇合を西海道の節度使とす。道別に判官四人、主典四人、醫師一人、陰陽師一人」とあり、その丁酉に、西海道の節度使の判官佐伯の宿禰東人に從五位の下を授くとあり、東人は、このほかに見えない。節度使は唐制に摸したもので、軍旅の事をつかさどる使節である。
 佐伯宿祢東人妻 サヘキノスクネアヅマビトガメ。東人のことは前項に記した。佐伯の宿禰は、大伴氏の一族である。その妻は、傳未詳。
 
(205)621 間《あひだ》無《な》く 戀ふれにかあらむ。
 草枕 旅なる君が
 夢《いめ》にし見ゆる。
 
 無間《アヒダナク》 戀尓可有牟《コフレニカアラム》
 草枕《クサマクラ》 客有公之《タビナルキミガ》
 夢尓之所v見《イメニシミユル》
 
【譯】隙《ひま》もなく戀しているゆえでしようか、草の枕の旅にあるあなたが夢に見えます。
【釋】無間 アヒダナク。間隔なく。常に。
 戀尓可有牟 コフレニカアラム。コフレニカは疑問條件法で、戀フレバニカに同じ。但しバを省略したものでなく、この方が原形である。アラムはそれを受けている。アラムは、その状態にあることを示すだけで、格別の内容がない。コフレニカを受けて結んではいるものの、この形全體で、一の條件法を構成する。「吾妹見爾《ワギモコニ》 戀爾可有牟《コフレニカアラム》 奥爾住《オキニスム》 鴨之浮宿之《カモノウキネノ》 安雲無《ヤスケクモナシ》」(卷十一、二八〇六)、「伊弊婢等乃《イヘビトノ》 伊波倍爾可安良牟《イハヘニカアラム》 多比良氣久《タヒラケク》 布奈※[泥/土]波之奴等《フナデハシヌト》 於夜爾麻乎佐禰《オヤニマヲサネ》」(卷二十、四四〇九)。句切。
 草枕 クサマクラ。枕詞。
 客有公之 タビナルキミガ。旅に出ている君が。
 夢尓之所見 イメニシミユル。シは強意の助詞。所見をミユルと讀むのは、見えることだの意味である。カを受けたのではない。
【評語】釋して見れば平凡な内容だが、戀フレニカアラムのような耳馴れない句があるので、ちよつと幻惑される。東人が戀うているゆえかとする説があるが、和フル歌にも、ナ戀ヒソ吾妹とあり、作者自身が戀している意である。
 
(206)佐伯宿祢東人和歌一首
 
622 草枕 旅に久しく なりぬれば、
 汝《な》をこそ念《おも》へ。
 な戀ひそ吾妹《わぎも》。
 
 草枕《クサマクラ》 客尓久《タビニヒサシク》 成宿者《ナリヌレバ》
 汝乎社念《ナヲコソオモヘ》
 莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》
 
【譯】草の枕の旅に久しくなつたので、あなたを思つています。戀などなさるなよ。
【釋】客尓久成宿者 タビニヒサシクナリヌレバ。旅に出てから久しくなつたので。宿の字はヌレの假字に使用している。
 汝乎社念 ナヲコソオモヘ。あなたをこそ思つている。句切。
 莫戀吾妹 ナコヒソワギモ。妻が戀しく思つているというに答えている。
【評語】平易な歌である。思つているから安心せよの意に妻を慰めている。
 
池邊王、宴誦歌一首
 
【釋】池邊王 イケノベノオホキミ。續日本紀、延暦四年七月の條に「淡海の眞人三船卒す。三船は大友の親王の曾孫なり。祖は葛野の王正四位の上式部卿、父は池邊の王從五位の上内匠の頭なり」とある。大友の親王は、天智天皇の皇子の弘文天皇である。神龜四年正月、无位池邊の王に從五位の下を授け、天平九年十二月、内匠の頭とした。
 宴誦歌 ウタゲニウタヘルウタ。酒宴の席で吟誦した歌。古歌か新作か不明である。
 
(207) 623 松の葉に 月は移《ゆつ》りぬ。
 黄葉《もみちば》の 過ぎめや、君が
 逢はぬ夜多く。
 
 松之葉尓《マツノハニ》 月者由移去《ツキハユツリヌ》
 黄葉乃《モミチバノ》 過哉君之《スギメヤキミガ》
 不v相夜多焉《アハヌヨオホク》
 
【譯】今宴も更けて、月は松の木蔭にようやく移つて行つた。黄葉のように徒らに時節を過ごすべきではない。わたくしの思う君が逢わない夜が多くしては。
【釋】松之葉尓月者由移去 マツノハニツキハユツリヌ。由移は、ユツリと讀ませるために由の字を添えて書いている。移ルの古語で、「己能久禮能《コノクレノ》 等伎由都利奈波《トキユツリナバ》」(卷十四、三三五五)などと書いている。松の葉に月が移るということ、灯の影ほのかで、月光が松の葉の影を席上に印している。松の葉越しに移つて行つた有樣を描いて時刻の推移を寫している句である。句切。
 黄葉乃 モミチバノ。既出(卷一、四七)。枕詞。季節の物をもつて過ギメヤに冠している。
 過哉君之 スギメヤキミガ。スギヌヤキミガ(元)、スギメヤキミガ(矢)、スギシヤキミガ(古義)、スギキヤキミガ(補)。下から受けて、逢わないでは過ぎようやである。キミは、思う人であるが、友人でもあり得る。過哉をスギヌヤと讀む説があるが、よくない。
 不相夜多焉 アハヌヨオホク。アハヌヨオホク(元)、アハヌヨオホシ(神)、アハヌヨオホミ(玉)、アハヌヨオホキ(攷)。君がと共に、上の過ギメヤを修飾する。焉は措辭。
【評語】上二句の描寫は精細で、よく實景を寫している。これがあつて、三句の枕詞も生きて來る。君に逢わないでこの良夜を如何せむの氣分が歌われている。
 
(208)天皇、思2酒人女王1、御製歌一首 女王者、穗積皇子之孫女也
 
【釋】天皇 スメラミコト。この前後、天平年間の歌と見られるので、聖武天皇と見るべきである。
 酒人女王 サカヒトノオホキミ。下の註に穗積の皇子の孫女とある。父は不明。
 
624 道に逢ひて 咲《ゑ》まししからに
 零《ふ》る雪の 消《け》なば消《け》ぬがに
 戀《こ》ふといふ吾妹。
 
 
 道相而《ミチニアヒテ》 咲之柄尓《ヱマシシカラニ》
 零雪乃《フルユキノ》 消者消香二《ケナバケヌガニ》
 戀云《コフトイフ・コフトフ》 吾味《ワギモ》
 
【譯】道で出逢つて、にこやかにお笑いなされた、それだけだのに、降る雪のように今にも消えてしまいそうに、戀しく思うというのですね、あなたは。
【釋】咲之柄尓 ヱマシシカラニ。ヱミセシカラニ(元)、ヱマスガカラニ(代精)、ヱメリシカラニ(童)、ヱマシシカラニ(考)。ヱマシシは、咲《ゑ》ムの敬語法ヱマシに時の助動詞の接續したもの。カラは、故。理由を指示する助詞で、ここではそれだけだのにの意をあらわす。「路遠《ミチトホミ》 不v來常波知有《コジトハシレル》 物可良爾《モノカラニ》 然曾將v待《シカゾマツラム》 君之目乎保利《キミガメヲホリ》」(卷四、七六六)。道に逢つて、笑いかけられただけだと思つていたのに、それだのに死ぬほどの戀をしているとはの意になる。「道邊之《ミチノベノ》 草深由利乃《クサフカユリノ》 花咲爾《ハナヱミニ》 咲之柄二《ヱマシシカラニ》 妻常可v云也《ツマトイフベシヤ》」(卷七、一二五七)。それだけなのにの意にならないものもある。「君爾戀良久《キミニコフラク》 吾情柄《ワガココロカラ》」(卷十二、三〇二五)。
 零雪乃 フルユキノ。譬喩によつて、次の句の枕詞になつている。時節の句であろう。
 消者消香二 ケナバケヌガニ。ガニは既出(卷四、五九四)。消えるなら消えるばかりにで、今にも死にそうにの意となる。
(209) 戀云吾妹 コフトイフワギモ。戀うという吾妹よ。
【評語】酒人の女王の美しさが思いやられる。零る雪の譬喩も歌がらを美しくしている。五句に誤字ありとする説があるが、採るに及ばない。
 
高安王、裹鮒贈2娘子1歌一首 高安王者、後賜2姓大原眞人氏1
 
高安の王の、裹《つつ》める鮒を娘子に贈れる歌一首【高安王は、後、姓大原の眞人の氏を賜へり。】
 
【釋】高安王 タカヤスノオホキミ。既出(卷四、五七七)。
 裹鮒 ツツメルフナヲ。藁などで鮒を包んで、贈物にしたもの。
 娘子 ヲトメ。誰とも知られない。
 
625 奧方《おきべ》行き 邊《へ》に行き、今や
 妹がため わが漁《すなど》れる
 藻臥《もふ》し束鮒《つかふな》。
 
 奧弊往《オキベユキ》 邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》
 爲v妹《イモガタメ》 吾漁有《ワガスナドレル》
 藻臥束鮒《モフシツカフナ》
 
【譯】奥の方に行つたり、岸邊の方に行つたりして、今こそ、あなたのために隨分骨おつて取つて來た藻の中にいる鮒ですよ。
【釋】奥弊往邊去伊麻夜 オキベユキヘニユキイマヤ。オキベユキヘニユキは、水中をあちこちしての意で、骨を折つたことを感じさせている。イマヤは、今ヤで、ヤは感動の助詞。疑問ではない。今ヤの形は他に見えないが、ヤは「巨禮也己能《コレヤコノ》 名爾於布奈流門能《ナニオフナルトノ》」(卷十五、三六三八)のヤはそれである。この今ヤは、漁レルを修飾する。
(210) 爲妹 イモガタメ。漁るの目的を説く。
 吾漁有 ワガスナドレル。スナドルは、倭名類聚鈔「漁、音魚、説文(ニ)云(フ)、捕(ル)v魚(ヲ)也。訓|須奈度利《スナドリ》」とある。
 藻臥束鮒 モフシツカフナ。モフシは、藻に臥している意で、鮒の生態を描く。ツカは寸法の單位。一つかみ指四本の幅の長さ。ツカフナは、ちいさい鮒。體言で提示する語法の文。
【評語】贈りものに添えた歌で、鮒を説明しているだけであるが、初二句はわざと仰山な言い方をしている。五句の造句はおもしろい。
 
八代女王、獻2天皇1歌一首
 
【釋】八代女王 ヤシロノオホキミ。續日本紀、天平九年二月の條に、无位矢代の女王に正五位の下を授く、また天平寶字二年十二月の條に「從四位の下矢代の女王の位記を毀《やぶ》る。先帝に幸せられて志を改むるをもちてなり」とある女王であろう。その他、系譜等未詳。
 獻天皇歌 スメラミコトニタテマツレルウタ。天皇は聖武天皇。
 
626 君に因《よ》り 言《こと》のしげきを、
 古郷《ふるさと》の 明日香の河に
 禊《みそぎ》しに行く。
 
 君尓因《キミニヨリ》 言之繋乎《コトノシゲキヲ》
 古郷之《フルサトノ》 明日香乃河尓《アスカノカハニ》
 潔身爲尓去《ミソギシニユク》
 
【譯】陛下の事によつて、人のいう言がうるさくありますので、故郷の明日香の河に禊をしにまいります。
【釋】君尓因言之繁乎 キミニヨリコトノシゲキヲ。コトは人言。君との關係によつて、人の言が繁く煩わしくあるのを。
(211) 古郷之 フルサトノ。昔の都をいい、自分の住み古した郷をもいう。ここは奈良の都の時代で、古い都をいう意味にもとれるが、なお作者の舊宅のある邊とみるがよいであろう。
 潔身爲尓去 ミソギシニユク。ミソギは、身をそそぐ義。水の力によつて穢れを祓《はら》い捨てる行事。本來水につかつて行うのであるが、當時既に水邊に出て形ばかりのことを行つたのであろう。この歌では、世間の人のうるさいのを、禊によつて祓い捨てようとしている。
【評語】別傳があるのを見ると、樣々に歌い傳えられており、八代の女王も、それをもとに今の場合に當るように詠み代えられたのであろう。人言のうるさいのを、禊によつて拂うという所に趣がある。また詞句の續け方も隙間なくできている。一ハ云ハクの方ならば、難波の三津の邊に禊をしに行くことになつているが、歌としては、古郷の明日香の河の方が、神さびた趣があつてよい。ちようど明日香に赴かれることがあるので、かように詠まれたのであろう。古びた明日香河の邊に禊をしに行くということが、歌を活かしているのである。「戀せじとみたらし川にせしみそぎ神は受けずもなりにけるかも」(伊勢物語)。
 
一尾云、龍田超《タツタコエ》 三津之濱邊尓《ミツノハマベニ》 潔身四二由久《ミソギシニユク》
 
一の尾に云ふ、龍田超え 三津の濱邊に 潔身しに行く。
 
【譯】一尾云 マタノヲハリニイフ。前の歌の別傳で、尾とあるが三句以下の相違である。尾は、尾句の意で、「或本歌尾句云、白細之《シロタヘノ》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》 露曾置爾家留《ツユゾオキニケル》」(卷十二、三〇四四)、「尾句(ニ)不《ザル》v可(カラ)3重(ネテ)云(フ)2著冠之辭(ヲ)1哉《ヲヤ》」(卷十六、三八二二)など使用されている。
 龍田超三津之濱邊尓 タツタコテミツノハマベニ。奈良から龍田山を越えて、難波の御津の濱邊に出ての意。實際に難波までミソギをしに行くこともあつたのだろう。
 
(212)娘子、報2贈佐伯宿祢赤麻呂1歌一首
 
【釋】娘子報贈佐伯宿祢赤麻呂歌 ヲトメノサヘキノスクネアカマロニコタヘオクレルウタ。卷の三に、「娘子報2佐伯宿禰赤麻呂贈1歌一首」(四〇四)という題があり、以下贈答の歌三首を載せている。赤麻呂と娘子との贈答の一集團があつて、そのうちの譬喩歌を、卷の三に收めたのであろう。ここに報ヘ贈レルとあるは、この前に赤麻呂から贈つた歌があつたのだが、傳わらないのである。
 
627 わが手本 纏かむと念はむ 丈夫は、
 變水《をちみづ》定め。
 白髪生ひにたり。
 
 吾手本《ワガタモト》 將卷跡念牟《マカムトオモハム》 大夫者《マスラヲハ》
 變水定《ヲチミヅサダメ》
 白髪生二有《シラガオヒニタリ》
 
【譯】わたくしの腕を枕としようと思う殿方は、若がえりの水をお作り下さい。わたくしは白髪が生えております。 
【釋】吾手本 ワガタモト。タモトは、手のもと、腕。
 將卷跡念牟 マカムトオモハム。腕を身に卷こうと思おうで、次の句を修飾する。わたしを妻としようとするの意。
 大夫者 マスラヲハ。男子は。
 變水定 ヲチミヅサダメ。仙覺本には、戀水定に作り、ナミダニシヅミと訓してある。これによつて戀水を涙の戯書としていた。しかしそれでは意を成さぬので、元暦校本等に變水定とあるによるのである。ヲチは、もとに還る意の動詞で、若がえるの意に使用され、既出「復將v變八方《マタヲチメヤモ》」(卷三、三三一)に見えている。ヲチ(213)ミヅは、若がえる水で、不老不死の仙藥をいう。當時仙人思想の流入に伴なつて、仙藥の存在が話題に上つていたのである。「天橋も長くもがも。高山も高くもがも。月讀の持てるをち水、い取り來て公に奉《まつ》りて、をち得てしかも」(卷十三、三二四五)。アララギの萬葉集輪講のとき、折口信夫君がこの句に疑問をいだいて、わたしに相談し、わたしが資料を出して、折口君がヲチミヅの訓を得たのである。サダメは、その處方を定めよの意。命令法。次の歌に求とあるので、求の誤りとされているが、原形のままでもよい。句切。
 白髪生二有 シラガオヒニタリ。顧みて自分の上を説明し、その既に老境に入つたことを説いている。もちろんこれは假説で、戯れに言つていると見られる。
【評語】奇拔な著想の歌である。時代の思想を背景としているが、根本は、年を取りたくない女子の氣もちが基礎になつている。この歌、男子に對して難題を掛けている。自分に對して戀を求める人は、得がたき靈藥を求めて來るようにというのである。もちろん白髪が生えているというのは假(214)説である。あちらには不老不死の靈藥があるということであるが、そんな藥もあればよいという氣持をあらわしている。男子がヲチ水を女子に贈つて若がえらせたというような物語でもあるかもしれない。
 
佐伯宿祢赤麻呂和歌一首
 
628 白髪《しらが》生《お》ふる 事《こと》は念《おも》はず。
 變水《をちみづ》は
 かにもかくにも 求《もと》めて行《ゆ》かむ。
 
 白髪生流《シラガオフル》 事者不v念《コトハオモハズ》
 變水者《ヲチミヅハ》
 鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》 求而將v行《モトメテユカム》
 
【譯】白髪の生えていることは何とも思いません。しかし若がえりの藥は、どのようにでもして求めてまいりましよう。
【釋】白髪生流事者不念 シラガオフルコトハオモハズ。娘子の歌に、白髪生ヒニタリとあるを受けて、白髪の生えていることは何とも思わないというのである。オフルは、音節數の都合で不定形に言つているが、意味は、生ヒタルに同じである。
 變水者 ヲチミヅハ。諸本に戀水者とあり、ナミダヲバとしているが、それでは意を成さない。前の歌によつて變水者に作るがよい。若がえりの藥はの意。
 鹿煮藻闕二毛 カニモカクニモ。ああもこうも。いかようにもして。
 求而將行 モトメテユカム。ヲチ水を得て行こうの意。
【評語】ヲチ水を取りあげて歌いかけた娘子の方には、手段があり、これはそれを受けたまでである。せつかくのヲチ水に對して、何とか一ふしあるべきところであつた。
 
(215)大伴四綱宴席歌一首
 
【釋】大伴四綱 オホトモノヨツナ。既出(卷三、三二九)。
 宴席歌 ウタゲノウタ。酒宴の席上で詠んだ歌。歌意によると、待つている人が自分で來ないで、使いをよこしたので詠んだ歌である。多分その使いに持たせて、その人のもとに贈つたのであろう。
 
629 何すとか 使の來《き》つる。
 君をこそ
 かにもかくにも 待ちがてにすれ。
 
 奈何鹿《ナニストカ》 使之來流《ツカヒノキツル》
 君乎社《キミヲコソ》
 左右裳《カニモカクニモ》 待難爲禮《マチガテニスレ》
 
【譯】何だつて使いが來たのか。君をこそいかようにも待ちかねているのだ。
【釋】奈何鹿 ナニストカ。ナニシニカ(元)、ナニシカ(代精)、ナニストカ(考)。何爲とかで、どうしようとてかの意。既出「何爲跡香《ナニストカ》 相見始兼《アヒミソメケム》」(卷四、六一二)。
 使之來流 ツカヒノキツル。ツカヒは、從者。ここは使者。上の句を受けてツルと結んでいる。
 君乎社 キミヲコソ。キミは賓客、待つている人を指定している。
 左右裳 カニモカクニモ。どのようにも、いかようにもで、立つてもいてもなどと同じく、心からの意を示す。前の歌のカニモカクニモに同じく、とにかくではない。
 待難爲禮 マチガテニスレ。ガテニは、困難である意の助動詞。コソを受けてスレと結んでいる。待ちかねている意である。
【評語】平語を歌にしたまでだが、使いの來たことに對する不平の氣分はよく窺われる。輕い性質の即興詩で(216)ある。
 
佐伯宿祢赤麻呂歌一首
 
630 初花の 散るべきものを、
 人言《ひとごと》の 繁きによりて
 よどむ頃かも。
 
 初花之《ハツハナノ》 可v散物乎《チルベキモノヲ》
 人事乃《ヒトゴトノ》 繁尓因而《シゲキニヨリテ》
 止息比者鴨《ヨドムコロカモ》
 
【譯】始めて咲いた花が散りそうなのだが、人の口がうるさいので、と絶えている今日この頃だ。
【釋】初花之 ハツハナノ。ハツハナは、始めて咲く花。娘子の漸く年頃になつたのを初花に譬えている。
 可散物乎 チルベキモノヲ。その娘子が人の妻となるのを、散ルで表現している。人の妻となりそうなのだがの意。
 人事乃繁尓因而 ヒトゴトノシゲキニヨリテ。ヒトゴトは人言の意に使つているものが多く、ここもその意であろう。人の言の繁くあるために。人の口がうるさいので。
 止息比者鴨 ヨドムコロカモ。ヨドムは、停滞するをいう。コロは日頃。しばらく音信を絶つた日數があつたのを嘆息している。
【評語】初花は、前に贈答の歌の出ている娘子であろう。美しい詞を借りて、氣が氣でない情が寫されている。
 
湯原王贈2娘子1歌二首 志貴皇子之子也
 
【釋】湯原王 ユハラノオホキミ。既出(卷三、三七五)。以下十一首、娘子との贈答の歌である。その娘子は、(217)如何なる人とも知られない。
 
631 表邊《うはべ》なき ものかも、人は。
 然《しか》ばかり 遠き家路を
 還《かへ》す念へば。
 
 宇波弊無《ウハベナキ》 物可聞人者《モノカモヒトハ》
 然許《シカバカリ》 遠家路乎《トホキイヘヂヲ》
 令v還念者《カヘスオモヘバ》
 
【譯】あいそのない人ですね、あなたは。こんなに遠いわたしの宅への道を、泊らせもしないで還すというのは。
【釋】宇波弊無 ウハベナキ。ウハベは表邊で、表面をつくろうこと。そのないのは、あいそのない意。心中はともかく、表面だけでも自分の遠來に對して逢つて貰いたかつたという意味に恨んでいる。
 物可聞人者 モノカモヒトハ。カモは、詠嘆の助詞。モノカモはものだな。ヒトは相手の娘子をさす。人ハ表邊ナキモノカモの意で、この句で切るがよい。二句で切れる本格的な歌である。
 然許 シカバカリ。それほどに。これは遠キを修飾する。
 遠家路乎 トホキイヘヂヲ。イヘヂは、湯原の王の家への道。
 令還念者 カヘスオモヘバ。いたずらに還すことを思えば。宿泊させないで還したことを言つている。
【評語】十分な許諾を與えないで還したことを恨んでいる。それを上品に歌つているのは、さすがにこの作者である。初二句が密接に接續し、二句が途中で切れているのは、くずれた形である。大伴の家持の、「表邊《うはべ》なき妹にもあるかも。かくばかり人の心を盡す思へば」(卷四、六九二)は、この歌によつて作つている。
 
632 目には見て 手には取らえぬ
(218) 月のうちの 楓《かつら》の如き
 妹をいかにせむ。
 
 目二破見而《メニハミテ》 手二破不v所v取《テニハトラエヌ》
 月内之《ツキノウチノ》 楓如《カツラノゴトキ》
 妹乎奈何責《イモヲイカニセム》
 
【譯】目には見えてしかも手にすることのできない月の中のかつらのようなあなたを、わたしはどうしたらいいだろう。
【譯】目二破見而手二破不所取 メニハミテテニハトラエヌ。目では見るが手に取ることのできないの意で、月中の楓を修飾している。ヌは打消の助動詞。
 月内之楓如 ツキノウチノカツラノゴトキ。淮南子に「月中(ニ)有(リ)2桂樹1」、酉陽雜爼に「舊(ク)言(フ)、月中(ニ)有(リ)v桂、有(リ)2蟾※[虫+余]1。故(ニ)異書(ニ)言(フ)、月(ノ)桂高(サ)五百丈」などあつて、月の中に桂の樹があると傳えている。倭名類聚鈔には「楓、乎加豆良《ヲカツラ》、桂、女加豆良《メカツラ》」とあり、楓の字をカツラに當てている。今いうカツラは、カツラ科の落葉喬木で、山野に自生する。ここは中國の傳説によつて譬喩としている。
 妹乎奈何責 イモヲイカニセム。イモヲは、妹なるが。イカニセムは、どうしたものだろうかどうしようもないの意。
【評語】月の中には桂の木が生えているという。その月の世界は眼には見えるけれど、手に取ることができないので、これを逢うばかりで、わが物とすることのできない娘子にたとえている。わが思う婦人の得がたさが、月中のかつらのようであるというところに、その娘子の氣高くして美しい姿を寓している。譬喩でもつている歌である。
 
娘子報贈歌二首
 
(219)【釋】報贈歌 コタヘオクレルウタ。湯原の王の贈つた歌に對して、答え贈つた歌である。但し前の歌に對してでなく、關係の進行して後、湯原の王の旅に出ることのあつた時に、詠んだようである。
 
633 ここだくに 思ひけめかも、
 敷細の 枕|片去《かたさ》り
 夢に見えける。
 
 幾許《ココダクニ》 思異目鴨《オモヒケメカモ》
 敷細之《シキタヘノ》 枕片去《マクラカタサリ》
 夢所v見來《イメニミエケル》
 
【譯】たいへんにお思い遊ばされてか、やわらかい枕から假に離れて、夢に見えて來たことでございました。
【釋】幾許 ココダクニ。イクソバク(元)、イカバカリ(代精)、ココダクニ(古義)。舊訓イクソバクとあるが、集中イクソバクの語はない。幾何の字面は、量の疑問の意に使用されているかと見えるのは、「吾背見與《ワガセコト》 二有見麻世波《フタリミマセバ》 幾許《イクバクカ》 此零雪之《コノフルユキノ》 懽有麻思《ウレシカラマシ》」(卷八、一六五八)があるばかりで、他はすべて許多の意に使用している。ここも許多の意に取つてさしつかえないものであり、その場合、ココダクモ、ココダクニの二訓があつて、いずれも假字書きの例がある。ところでココダクモの例は、打消を伴なつているので、今は「許己太久爾《ココダクニ》 吉民我彌世武等《キミガミセムト》 和禮乎等登牟流《ワレヲトドムル》」(卷十八、四〇三六)とあるによつて、ココダクニとする。多量にの義で、非常に、たいへんにの意になる。
 思異目鴨 オモヒケメカモ。ケメは過去推量の助動詞。カモは疑問の係助詞。思つたことでしようかの意。
 枕片去 マクラカタサリ。カタサリは、なかば離れて。「奴婆玉乃《ヌバタマノ》 夜床加多古里《ヨドコカタコリ》 安佐禰我美《アサネガミ》 可伎母氣頭良受《カキモケヅラズ》」(卷十八、四一〇一)の加多古里は、加多左里の誤りとする説がある。カタは、片聞ク、片待ツ、片寄ルなど、全面的でない意に使用されるので、片去ルも、假に移動するの意になると考えられる。枕から動いて。相手の行動の敍述である。
(220) 夢所見來 イメニミエケル。諸本には、來の下に之がある。今、元暦校本による。上のカモを受けてケルと結んでいる。
【評語】人を思うと、その人の夢に見えるとする俗信がある。これもそれによつている。枕片去りが、特色のある句である。
 
634 家にして 見れど飽かぬを、
 草枕 旅にも妻と
 あるがともしさ。
 
 家二四手《イヘニシテ》 雖v見不v飽乎《ミレドアカヌヲ》
 草枕《クサマクラ》 客毛妻與《タビニモツマト》
 有之乏左《アルガトモシサ》
 
【譯】わたしは家にいてお見申しても飽きないのに、旅にお出ましになつて御夫人と連れ立つておいで遊ばすことが、何ともうらやましいことでございます。
【釋】家二四手雖見不飽乎 イヘニシテミレドアカヌヲ。わが君には、家にあつて見ても飽きないのに、しかるにの意で、この下に君はの如き語を補つて解すべきである。
 草枕 クサマクラ。枕詞。
 客毛妻與 タビニモツマト。湯原の王が、旅中他の妻(恐らくは正妻か)を伴なつておられるをいう。
 有之乏左 アルガトモシサ。トモシサは、うらやましさ。
【評語】運命に屈從する弱い魂が、せめてもの不平を歌つている。當時はかような境涯が常に用意されていたのであろう。この歌、解釋に諸説があるのは、この間の事情を理解しないためである。
 
湯原王亦贈歌二首
 
(221)635 草枕 旅には嬬《つま》は 率《ゐ》たれども、
 匣《くしげ》のうちの 珠《たま》をこそ念へ。
 
 草枕《クサマクラ》 客者嬬者《タビニハツマハ》 雖2率有1《ヰタレドモ》
 匣内之《クシゲノウチノ》 珠社所v念《タマヲコソオモヘ》
 
【譯】なるほど自分は、旅先に妻を伴なつているけれども自分の本心は、家に大事にして箱の中にしまつておいた珠を思うのです。
【釋】客者嬬者雖率有 タビニハツマハヰタレドモ。前の歌を受けて、夫人を同伴していることをいう。
 匣内之 クシゲノウチノ。櫛笥の内の。
 珠社所念 タマヲコソオモヘ。この娘子を珠に譬えている。
【評語】娘子を箱の中の珠に譬えている。それは、大切にしまつておく珠である。ただ事を敍して、意味の通ずるを主とされただけの歌である。
 
636 わが衣《ころも》 形見《かたみ》に奉《まつ》る。
 敷細の 枕を離《さ》けず
 纏《ま》きてさ宿《ね》ませ。
 
 余衣《ワガコロモ》 形見尓奉《カタミニマツル》
 布細之《シキタヘノ》 枕不v離《マクラヲサケズ》
 卷而左宿座《マキテサネマセ》
 
【譯】わたしの著物を形見にさしあげます。貴女の夜の枕を離さずに、これをまいておやすみなさい。
【釋】余衣形見尓奉 ワガコロモカタミニマツル。わたしの著物を形見としてあげます。句切。
 枕不離 マクラヲサケズ。マクラハナタズ(元)、マクラカラサズ(元赭)、マクラハナレズ(金)、マクラヲサケズ(代精)。次の歌の不離は、サケズのようなので、ここもサケズと讀むべきである。枕から離さずに。
 卷而左宿座 マキテサネマセ。身に卷いて。サは接頭語。
(222)【評語】男女がたがいに衣服を形見として贈る事は、集中にもしばしば詠まれている。肌につけたものとして、親しみの情をあらわすのにもつとも適しているからである。
 
娘子復報贈歌一首
 
637 わが夫子が 形見の衣、
 嬬問《つまどひ》に わが身は離《さ》けじ。
 言《こと》問《と》はずとも。
 
 吾背子之《ワガセコガ》 形見之衣《カタミノコロモ》
 嬬問尓《ツマドヒニ》 余身者不離《ワガミハサケジ》
 事不問友《コトトハズトモ》
 
【譯】あなたの形見にとくださいました著物は、婚姻のしるしとして、身から離しますまい、よしそれは物を言いませんでも。
【釋】吾背子之形見之衣 ワガセコガカタミノコロモ。湯原の王から贈られた衣服。
 嬬問尓 ツマドヒニ。ツマドヒは、求婚、婚姻の申し入れ。既出(卷三、四三一)。ここは女子に求めることのある場合の意に、聘財として使つている。
 余身者不離 ワガミハサケジ。わたしの身は離しますまい。句切。
 事不問友 コトトハズトモ。コトトフは物いう意。物を言わないでも。
【評語】心のない衣服ではあるが、婚姻のしるしとして身から離すまいというのであり、やはりその君の著馴れた衣に對する親しみの情を描いている。
 
湯原王亦贈歌一首
 
(223)638 ただ一夜 隔てしからに、
 あらたまの 月か經《へ》ぬると
 心はさはる。
 
 直一夜《タダヒトヨ》 隔之可良尓《ヘダテシカラニ》
 荒玉乃《アラタマノ》 月歟經去跡《ツキカヘヌルト》
 心《ココロハ》遮《サハル・サヘク》
 
【譯】逢つてからまだただ一夜隔てただけであるのに、すでに月が經つてしまつたほどに心はわずらつている。
【釋】直一夜隔之可良尓 タダヒトヨヘダテシカラニ。ただ一夜だけ間隔を置いたゆえに。一夜だけ逢わなかつたのである。
 荒玉乃 アラタマノ。枕詞。磨かない玉の義で、トシ(年、磨)に冠するが、轉じてここでは月に冠している。
 月歟經去跡 ツキカヘヌルト。カは疑問の係助詞。月をか經たとの意。
 心遮 ココロハサハル。
   オモホユルカモ(元)
   ココロサヘギル(考)
   ココロハマドフ(新訓)
   ココロハサヘク(金註釋初)
   ――――――――――
   心不遮《ココロハナガズ》(代初)
   心遮焉《ココロマドヒヌ》(古義)
   心迷《ココロマドヒヌ》(新考)
 舊訓オモホユルカモ。訓に諸説がある。同じ字面を使用したものには「虚蝉之《ウツセミノ》 常辭常《ツネノコトバト》 雖v念《オモヘドモ》 繼而之聞者《ツギテシキケバ》 心遮焉《ココロハサヘク》(卷十二、二九六一)があり、これを併わせ考えるに、遮は遮斷不通の義で、心が塞がる意に、この字が使用されていると思われる。遮は普通サヘギルと讀まれる字であるが、サヘギルは、他から遮斷するので、ここに適わない。類聚名義抄に、サハルの訓があるのは、妨げられる、障害されるの意であろう。今これによ(224)る。本書初版にサヘクと讀んだのは、集中、「言左敝久《コトサヘク》 辛乃埼有《カラノサキナル》」(卷二、一三五)、「言左敝久《コトサヘク》 百濟之原從《クダラノハラユ》」(同、一九九)のサヘクがあり、このサヘクは杜塞不通の意の語と見られるので、ここに適うとしたのである。適切の訓の發見されるまで、しばらくこれによる。
【評語】極めてありふれた内容の歌である。あらたまの月という言い方は、他にも例があつて、この作者に始まつたものでもないらしいが、枕詞が原義を忘れて轉々として行く跡が窺われる。
 
娘子復報贈歌一首
 
639 わが夫子が かく戀ふれこそ、
 ぬばたまの 夢《いめ》に見えつつ
 寐《い》ねらえずけれ。
 
 吾背子我《ワガセコガ》如是戀禮許曾《カクコフレコソ》
 夜干玉能《ヌバタマノ》夢所v見管《イメニミエツツ》
 寐不v所v宿家禮《イネラエズケレ》
 
【譯】あなたがかように戀をされるので、夜の夢に見えて寐られませぬことでございます。
【釋】如是戀禮許曾 カクコフレコソ。カク戀フレバコソで、條件法である。コソは係助詞。
 夜干玉能 ヌバタマノ。枕詞。黒に冠することから、夜に冠し、また轉じて夢に冠している。
 夢所見管 イメニミエツツ。湯原の王が夢にあらわれるのである。
 寐不所宿家禮 イネラエズケレ。イネラエズは、眠られないで。イが接頭語でなくして睡眠の義の語であることは、この寐と宿とが他の字をはさんで分けて書いてあることでも知られる。ケレは、コソの係に對して結んでいる。
【評語】先方の歌をすなおに受けて歌つている。感謝の氣持さへも窺われる。ここにも、ぬばたまの夢という(225)言い方があり、枕詞の轉用が行われている。
 
湯原王亦贈歌一首
 
640 愛《は》しけやし ま近《ぢか》き里を、
 雲居にや 戀ひつつ居《を》らむ。
 月も經なくに。
 
 波之家也思《ハシケヤシ》 不遠里乎《マヂカキサトヲ》
 雲居尓也《クモヰニヤ》 戀管將v居《コヒツツヲラム》
 月毛不v經國《ツキモヘナクニ》
 
【譯】親しむべき近い里なのだが、それを遠方のように思つて戀をしていなければならないのだろうか、逢つてからまだ月もたたないのに。
【釋】波之家也思 ハシケヤシ。元來形容詞ハシキに感動の助詞ヤシが接續し、そのキがケに轉じたもので、はしき何々と下に續く形の句であるが、轉じては、いとしいことよと、切れる氣分を生じている。「伴之伎與之《ハシキヨシ》 加久乃未可良爾《カクノミカラニ》」(卷五、七九六)、「波之異耶《ハシケヤシ》 如v此在家留可《カクアリケルカ》」(卷六、一〇五九)の如きは、かような用法であり、この歌においても、既にさような氣分になつていると見られるので、里についていうにしても、そのあいだに、マ近キの如き語が插入される餘地が存するのである。同じ湯原の王の作に「愛也思《ハシキヤシ》 不遠里乃《マヂカキサトノ》 君來跡《キミコムト》 大能備爾鴨《オホノビニカモ》 月之照有《ツキノテリタル》」(卷六、九八六)がある。
 不遠里乎 マヂカキサトヲ。不遠は、義をもつてマヂカキと訓している。サトは、娘子の住む里である。
 雲居尓也 クモヰニヤ。クモヰは雲居で、遠方の義にいう。ヤは疑問の係助詞。
 戀管將居 コヒツツヲラム。逢うことなくて居らむの意。句切。
 月毛不經國 ツキモヘナクニ。逢つてからまだ月をも經ないのであるのに。
(226)【評語】近くの里にいる娘子を、しばしばも訪れ得ないことを歌つている。しかし第五句は、取つて附けたような感がある。
 
娘子復報贈歌一首
 
641 絶《た》つといはば 侘《わび》しみせむと、
 燒大刀《やきたち》の へつかふことは
 幸《さき》くや、吾君《わぎみ》。
 
 絶常云者《タツトイハバ》 和備染責跡《ワビシミセムト》
 燒大刀乃《ヤキタチノ》 隔付經事者《ヘツカフコトハ》
 幸也吾君《サキクヤワギミ》
 
【譯】切れると言つたら悲しがるだろうと、鍛えた大刀が身に添うように、あたりのよい事をおつしやるのは、幸福でございましようか、あなた。
【釋】絶常云者 タツトイハバ。タユトイハバ(元赭)。諸説多くタユトイハバと讀んでいるが、タユは自動詞であつて、意を成さない。當然タツと讀まなければならない。「中々爾《ナカナカニ》 絶年云者《タツトシイハバ》 如v此許《カクバカリ》 氣緒爾四而《イキノヲニシテ》 吾將v戀八方《ワレコヒメヤモ》」(卷四、六八一)の絶も同樣である。
 和備染責跡 ワビシミセムト。ワビシミは、形容詞ワビシを動詞に轉成したものの名詞形、悲シミ、親シミなどと同じ構成である。鬱々とすること、樂しくないこと。セムトは爲ムト。悲しがろうと。つらがるだろうと。
 燒大刀乃 ヤキタチノ。枕詞。ヤキタチは、火力によつて鍛作した大刀。大刀は、身に佩びるものなので、ヘツカフに冠している。
 隔付經事者 ヘツカフコトハ。ヘツカフは、文字通り隔に付くで、近づいている意であろうが、ヘツラフの(227)ような意に使われているようだ。ツカフは附クの連續状態をあらわす。「殊放者《コトサケバ》 奧從酒嘗《オキユサケナム》 湊目《ミナトヨリ》 邊著經時爾《ヘツカフトキニ》 可v放鬼香《ヘツカフモノカ》(卷七、一四〇二)のヘツカフと同語と見られる。一邊に附くで、きげんを取るの意になる。この句の意は、情を曲げて自分に近づかれることはで、好言を寄せられたことを意味している。
 幸也吾君 サキクヤワギミ。
   ヨシヤワガキミ(元赭)
   ヨケクヤワギミ(考)
   サキクヤワギミ(定本)
   ――――――――――
   辛也《カラシヤ》吾君(略或る人)
   苛也吾君《カラシヤワギミ》(古義)
 略解に、或る人の説として幸也を辛也の誤りとしカラシヤと讀むに至つて諸説多くこれに從うものを生じた。也は、字音假字としてはヤであり、正用としては讀まないで決定の辭とする場合も多い。今これを疑問の助詞としてサキクアリヤの意とする。幸福でしようかの意である。ワギミはわが君に同じ。
【評語】先方から贈られた言をわざと本意ではないかのように歌つている。複雜な内容をよく一首の内に盛つて、しかも好感を失わないように詠んでいる。但し四五句の解、從來多く正説を得ないでおり、幸也の訓もなお後考に俟たねばならないものがあるのは遺憾である。
 
湯原王歌一首
 
642 吾妹子に 戀ひて亂《みだ》れり。
 蟠車《くるべき》に 懸《か》けて縁《よ》せこそ。
 われ戀ひそめつ。
 
 吾妹兒尓《ワギモコニ》 戀而亂在《コヒテミダレリ》
 久流部寸二《クルベキニ》 懸而縁與《カケテヨセコソ》
 余戀始《ワレコヒソメツ》
 
(228)【譯】あなたに戀をして心が亂れています。絲車に懸けてあなたの方にお寄せ下さい。わたしは戀を始めたのだ。
【釋】戀而亂在 コヒテミダレリ。
   コヒテミダレル(元)
   コヒテミダルル(西)
   コヒテミダレリ(代精)
   コヒテミダレバ(考)
   コヒミダレタリ(攷)
   ――――――――――
   戀而亂者《コヒテミダレバ》(略)
 愛人に戀をして心の亂れたことを述べている、古く四段活用であつたので、ミダレリという。句切。
 久流部寸二 クルベキニ。クルベキは、絲を操る道具。くるくるくるめくので、クルベキという。倭名類聚鈔に「反轉、久流閉枳《クルベキ》」とある。
 懸而操與 カケテヨセコソ。カケテシヨリヨ(神)、カケテシヨリト(西)、カケテシヨシト(矢)、カケテヨラント(代精)、カケテヨセムト(略)、カケテヨセコソ(定本)。絲車に絲を懸けるように、わたしの心を懸けてひき寄せよの意。コソは願望の助詞。與の字を使用したのは、「如v是爲乍《カクシツツ》 遊飲與《アソビノミコソ》」(卷六、九九五)以下、例が多い。句切。
 余戀始 ワレコヒソメツ。ワガコヒソメシ(元)。コヒソメツは、戀を始めたの意。初二句の説明である。
【評語】絲車は、女子の用具であるから、特に取り出している。かような普通に歌われないものを詠んだ所に特色がある。この歌も、訓詁に諸説があるのは、文字すくなく書かれているからである。
 
(229)紀女郎怨恨歌三首 鹿人大夫之女、名曰2小鹿1也。安貴王之妻也
 
紀の女郎の怨恨の歌三首【鹿人の大夫の女、名を小鹿と曰ふ。安貴の王の妻なり。】
 
【釋】紀女郎 キノヲミナ。傳未詳。下の註文によれば、紀の鹿人の女、安貴の王の妻で、名を小鹿というとある。卷の八には、紀の少鹿の女郎とある。紀の鹿人は、天平九年九月に、外の從五位の下、十二月に主殿の頭、十二年十一月に外の從五位の上、十四年八月に大炊の頭になつている。
 
643 世間《よのなか》の 女《をみな》にしあらば、
 わが渡る 痛背《あなせ》の河を
 渡りかねめや。
 
 世間之《ヨノナカノ》女尓思有者《ヲミナニシアラバ》
 吾渡《ワガワタル》 痛背乃河乎《アナセノカハヲ》
 渡金目八《ワタリカネメヤ》
 
【譯】世間の女だつたら、わたしの渡る痛背の川を渡りかねることはないでしよう。
【釋】世間之女尓思有者 ヨノナカノヲミナニシアラバ。世間普通の女だつたら。
 吾渡痛背乃河乎 ワガワタルアナセノカハヲ。アナセノカハは、卷向の穴師の川のことであろうという。この川は、集中數出している。相當の水量もあつたらしい。その川の名に寄せて寓意があるのだろう。アナは、感動の語、セは男性。そこでわが渡るあなせの川というのは、自分の當面している男性との問題ということになるのだろう。
 渡金目八 ワタリカネメヤ。渡り得ないことはあるまい。ヤは反語。やすやすと渡るだろう。
【評語】痛背の河を渡るということの意味が、はつきりしない。作者には、これでわかるわけがあつたのだろうが、今は致し方がない。獨りよがりの歌というべきだ。
 
(230)644 今はわれは 侘《わ》びぞしにける。
 氣《いき》の緒《を》に 念ひし君を
 縱《ゆる》さく思へば。
 
 今者吾羽《イマハワレハ》 和備曾四二結類《ワビゾシニケル》
 氣乃緒尓《イキノヲニ》 念師君乎《オモヒシキミヲ》
 縱左久思者《ユルサクオモヘバ》
 
【譯】もうわたくしは、がつかりしてしまいました。隙もなく思つていた方を手放すことを思うと。
【釋】今者吾羽 イマハワレハ。イマハは、もう今は。
 和備曾四二結類 ワビゾシニケル。ワビは鬱々として樂しくないこと。シニケルは、したことだ。句切。
 氣乃緒尓 イキノヲニ。イキノヲは、集中、假字書きのもののほかは、氣緒七、氣乃緒一、息緒一、生緒一である。さればイキに氣息の義を感じていたとすべきで、特別として、生を感じたものもあつたのである。生も氣も語原は同一で、生きること、すなわち氣息することであつたのだろう。ヲは引き續いてあることをあらわす語だから、イキノヲは呼吸の續いて行くことの意で、イキノヲニは、絶えず、常にの意になる。念フ、戀フ、歎ク、爲ルなどを修飾する。
 念師君乎 オモヒシキミヲ。從來思つていた君を。
 縱左久思者 ユルサクオモヘバ。ユルサクは、放しやること、手放すこと。
【評語】常に思つていた人と別れねばならなくなつた悲痛の境地が歌われている。初二句は、説明に過ぎて含蓄がない。
 
645 白細の 袖別るべき 日を近み、
 心に咽《むせ》ひ 哭《ね》のみし泣かゆ。
 
 白細乃《シロタヘノ》 袖可v別《ソデワカルベキ》 日乎近見《ヒヲチカミ》
 心尓咽飯《ココロニムセヒ》 哭耳四所v泣《ネノミシナカユ》
 
(231)【譯】白い衣の袖を別つべき日が近いので、心でむせて泣いてばかりおります。
【釋】白細乃 シロタヘノ。白い織物の。實寫。
 袖可別 ソデワカルベキ。袖が別るべきで、やがて別れようとする。
 日乎近見 ヒヲチカミ。日が近くして。日がせまつて。
 心尓咽飯 ココロニムセヒ。心中に涙にむせて。
 哭耳四所泣 ネノミシナカユ。既出(卷三、三二四)。慣用句で、泣きに泣かれる意である。
【評語】別離の日が近づいたので、泣いてばかりいるという平凡な内容を歌つている。白細ノ袖別ルベキという言い方は、類型的な表現であるが、白細の袖と説明したのが、やはり利いている。四五句は、冗漫なようだ。
 
大伴宿祢駿河麻呂歌一首
 
【釋】大伴宿祢駿河麻呂 オホトモノスクネスルガマロ。既出(卷三、四〇〇)。なおこの人のことは、下の六四九の歌の左註に見える。以下、大伴の坂上の郎女との相聞贈答である。
 
646 丈夫《ますらを》の 思ひ佗《わ》びつつ、
 度遍《たびまね》く 嘆く嘆《なげ》きを
 負はぬものかも。
 
 大夫之《マスラヲノ》 思和備乍《オモヒワビツツ》
 遍多《タビマネク》 嘆久嘆乎《ナゲクナゲキヲ》
 不v負物可聞《オハヌモノカモ》
 
【譯】男子が思い佗びながら、幾度となく嘆いているのに、あなたは感じないことであるかなあ。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは男兒。
 思和備乍 オモヒワビツツ。物思いに苦しんで。
(232) 遍多 タビマネク。度數多くで、始終の意になる。
 嘆久嘆乎 ナゲクナゲキヲ。ナゲクは長い息をつく意の動詞。ナゲキは、その名詞。嘆息する意である。
 不負物可聞 オハヌモノカモ。身に受けないものか、感じないものかで、カは疑問の終助詞であるが、モノカで反語になる。負うものだぞ、身に受けるものだぞの意。
【評語】男兒が思いあまつて嘆息するのを、感應しない筈はないという、力強い歌である。男兒の自負のほども窺われる。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
647 心には 忘るる日無く 念へども
 人の言こそ 繁く君にあれ。
 
 心者《ココロニハ》 忘日無久《ワスルルヒナク》 雖念《オモヘドモ》
 人之事社《ヒトノコトコソ》 繁君尓阿禮《シゲクキミニアレ》
 
【譯】心では忘れる日もなく思つていますが、あなたは人から、いろいろと言い騷がれる方でありますものを。
【釋】心者忘日無久雖念 ココロニハワスルルヒナクオモヘドモ。以上、作者自身の上を説明している。
 人之事社 ヒトノコトコソ。コトは言。他の人の言い寄る言葉が。
 繁君尓阿禮 シゲクキミニアレ。シゲキキミニアレ(元)、シゲクキミニアレ(定本)。人の言が繁く君の上にある意。コソを受けてアレと結んでいる。シゲキキミニアレとも讀まれ、語法上の説明もできるが、シゲクと讀んでおくのが順當である。
【評語】自分は思つているが、あなたこそ人々に思われているという、相聞の歌として極めて平凡な内容を歌つている。類歌もあり、多分それらを受けているのであろう。
(233)【參考】類歌。
  極《きは》まりてわれも逢はむと思へども人の言《こと》こそ繁く君にあれ(卷十二、三一一四)
 
大伴宿祢駿河麻呂歌一首
 
648 相見ずて け長くなりぬ。
 このごろは いかに好去《さき》くや。
 いふかし、吾妹《わぎも》。
 
 不2相見1而《アヒミズテ》 氣長久成奴《ケナガクナリヌ》
 比日者《コノゴロハ》 奈何好去哉《イカニサキクヤ》
 言借吾妹《イフカシワギモ》
 
【譯】お目に懸からないで時久しくなりました。このごろはどうお過ごしですか。お伺いします、あなた。
【釋】不相見而氣長久成奴 アヒミズテケナガクナリヌ。逢わないで時久しくなつた。句切。
 比日者 コノゴロハ。コノゴロは既出。この日頃。
 奈何好去哉 イカニサキクヤ。好去は、「好去而《マサキクテ》 亦遠見六《マタカヘリミム》 大夫乃《マスラヲノ》 手二卷持在《テニマキモテル》 鞆之浦廻乎《トモノウラミヲ》」(卷七、一一八三)、「忌日管《イハヒツツ》 吾思吾子《ワガオモフワガコ》 眞好去有欲得《マサキクアリコソ》」(卷九、一七九〇)、「好去而《マサキクテ》 安禮可敝里許牟《アレカヘリコム》」(卷十七、三九五七)、「好去而《マサキクテ》 早遠來等《ハヤカヘリコト》」(卷二十、四三九八)など使用されており、サキクもしくはマサキクと讀まれる。ヤは疑問の終助詞であるが、イカニを受けている例は「言告遣之《コトツゲヤリシ》 何如告寸八《イカニツゲキヤ》」(卷八、一五〇六)の如きがある。何と御無事ですかの意の句。句切。
 言借吾妹 イフカシワギモ。イフカシは不審である意。
【評語】これも起居を問うだけの意味の歌であつて、格別のものではない。ただ短文を重ねて調子を成している點が注意される。
 
(234)大伴坂上郎女歌一首
 
649 夏葛の 絶えぬ使の よどめれば、
 事しもある如 念ひつるかも。
 
 夏葛之《ナツクズノ》 不絶使乃《タエヌツカヒノ》 不通有者《ヨドメレバ》
 言下有如《コトシモアルゴト》 念鶴鴨《オモヒツルカモ》
 
【譯】夏の葛のように絶えない使がとだえたので、何か事でもあつたように思いましたことでした。
【釋】夏葛之 ナツクズノ。枕詞。夏の葛は、生い茂つて蔓が伸びているので、絶エズに冠する。
 不絶使乃 タエヌツカヒノ。絶えずに來る使がで、駿河麻呂からの使である。
 不通有者 ヨドメレバ。よどんでいるので。ヨドムは、停滞する意。
 言下有如 コトシモアルゴト。コトは事件、事情。シは強者の助詞。何か事でも起つたかとのように。
【評語】夏葛は、季節を語つているのであろう。わずかにこの語によつて、平語を免れている。
 
右、坂上郎女者、佐保大納言卿之女也。駿河麻呂、此高市大卿之孫也。兩卿兄弟之家、女孫姑姪之族。是以題v歌送答、相2問起居1。
 
右は、坂上の郎女は、佐保の大納言の卿の女なり。駿河麻呂はこれ高市の大卿の孫たり。兩卿は兄弟の家、女孫姑姪の族。ここを以ちて、歌を題し送答し、起居を相問ふ。
 
【釋】佐保大納言 サホノオホキモノマヲシノツカサ。大伴の安麻呂。
 高市大卿 タケチノオホキマヘツギミ。高市の地にいた大卿の義であろう。代匠記等に大伴の御行とする。兩卿兄弟の家、女孫姑姪の族とあるので、佐保の大納言と高市の大卿と兄弟であることはあきらかである。續(235)日本紀によれば、安麻呂は、長徳の第六子であるという。公卿補任には、御行は長徳の五男であるというが、御行、安麻呂以外にも兄弟のあつたことは推測される。そこで萬葉集講義(卷の三)には、高市の大卿をもつて御行と決定し得ずとしている。しかしまた長徳の諸子のうち、他の人々の名が聞えないのは、近江の朝廷に出仕して壬申の亂に失脚し、年少であつたと見られる御行、安麻呂のみが、大和にあつて天武天皇の軍に參したのだとも言える。なお壬申の亂に活躍した馬來田《まくた》、吹負《ふけひ》は、長徳の弟である。かように考えると、高市の大卿をもつて御行とすることも、あり得ないことでもないが、確證のないことであるから、未詳とするが穩當である。
 女孫姑姪之族 ニヨソニコテチノヤカラナリ。兄弟の女と孫とで、一代の差があるから、姑《おば》と姪《おい》とであるという。但しここに記されている外に、女系等の關係もあるかも知れないが、それは不明のことであるから、計算に入れない。
 
大伴宿祢三依、離復相歡歌一首
 
大伴の宿禰三依の、離れてまた相へるを歡《よろこ》ぶる歌一首。
 
【釋】大伴宿祢三依 オホトモノスクネミヨリ。既出(卷四、五五二)。
 離復相歡歌 ワカレテマタアヘルヲヨロコブルウタ。漢文に習熟しない人の書いた文であろう。別れてまた逢つたというは、誰とも知れないが、歌詞に吾妹子とあり、大伴の坂上の郎女であるように思える。郎女が筑紫から還つて來たのに逢つて歡んだのではなかろうか。
 
650 吾妹子は 常世《とこよ》の國に 住みけらし。
(236) 昔見しより をちましにけり。
 
 吾妹兒者《ワギモコハ》 常世國尓《トコヨノクニニ》 住家良思《スミケラシ》
 昔見從《ムカシミシヨリ》 變若益尓家利《ヲチマシニケリ》
 
【譯】あなたは仙人の國に住んでいたようだ。昔お目にかかつたより若がえられた。
【釋】吾妹兒者 ワギモコハ。吾妹兒は、夫婦關係でなくても使用されるので、いかなる人とも知られない。
 常世國尓 トコヨノクニニ。トコヨは既出(卷一、五〇)。常久不變の世界であるが、ここでは轉じて仙人の世界の意に使用されている。仙人は不老不死で、その國に行つたものは、いつまでも若くているとする。
 住家良思 スミケラシ。住みけるらしで、住んでいたと思われるの意。句切、三句切。
 昔見從 ムカシミシヨリ。昔逢つた時よりも。
 變岩易尓家利 ヲチマシニケリ。ヲチは既出(卷三、三三一)。もとに返る、若がえる。マシは敬語の助動詞。
【評語】平常の會話には、しばしば出る思想だが、常世の國を使つた表現法がおもしろい。仙人思想にかぶれていた時代の姿も出ているし、あい變らず若く見える人のさまもよく想像される。仙人の世界に行つた人の物語などの行われた時代の産物として、その國から還つた人に擬したのが、興味をひくのである。
 
大伴坂上郎女歌二首
 
651 ひさかたの 天《あめ》の露霜《つゆじも》 置きにけり。
 宅《いへ》なる人も 待ち戀ひぬらむ。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 天露霜《アメノツユジモ》置二家里 オキニケリ
 宅有人毛《イヘナルヒトモ》 待戀奴濫《マチコヒヌラム》
 
【譯】天から降る露霜が置いた寒い晩です。あなたのお宅の人も、待ち慕つているでございましよう。
【釋】久堅乃 ヒサカタノ。枕詞。
(237) 天露霜 アメノツユジモ。アメノは、露霜が天から降るものであるので冠している。天の時雨の類の言い方である。天の露霜の例は、「烏玉之《ヌバタマノ》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 落名積《フリナヅム》 天之露霜《アメノツユジモ》 取者消乍《トレバケニツツ》」(卷七、一一一六)・「行行《ユキユキテ》 不v相妹故《アハヌイモユヱ》 久方《ヒサカタノ》 天露霜《アメノツユジモニ》 沾在哉《ヌレニケルカモ》」(人麻呂集、卷十一、二三九五)。ツユジモは、既出(卷二、一三一)。
 置二家里 オキニケリ。句切、三句切。
 宅有人毛 イヘナルヒトモ。三句までの敍述を、作者自身の外出の描寫とすれば、このイヘは自宅であるが、事情不明で、何とも決定しかねる。
 待戀奴濫 マチコヒヌラム。濫は字音假字で、ラムの二音を表示している。ラムは、推量の助動詞。
【評語】上三句の大がかりな敍述は、いかにもはるかな天空から露霜の下り來ることを思わしめて有效である。作者創意の表現ではなかろうが、この場合によく適つている。この三句は、目前の實景を敍したものとして問題はないが、下の四五句が、作者自身、外出でもしていて、自分の家に殘して來た人を思つているか、または口譯欄に記したように、歌を贈つた先方の人の、家に殘した人が、待つているだろうと推量したかは、問題とすべきである。今、次の歌と連絡あるものと見て、坂上の郎女が、自分の女子を與えた男に對し、早くお歸りなさい、あなたの新妻なるわたくしの子も、あなたの家で待つているでありましようとの意をあらわした、母の心の歌として解しておいた。なお、次の歌の解を參照すべきである。
 
652 玉|主《ぬし》に 珠は授けて、
 かつがつも
 枕とわれは いざ二人|宿《ね》む。
 
 玉主尓《タマヌシニ》 珠者授而《タマハサヅケテ》
 勝且毛《カツガツモ》 
 枕與吾者《マクラトワレハ》 率二將v宿《イザフタリネム》
 
【譯】玉の持主に、珠は授けて、まあまあ、わたくしは枕と二人で寐ましようよ。
(238)【釋】玉主尓 タマヌシニ。タマヌシニ(神)、タマモリニ(矢)。玉主、玉の所有者。この歌では、坂上の郎女の、娘を與えた婿をさしている。「山主者《ヤマヌシハ》 蓋雖v有《ケダシアリトモ》」(卷三、四〇二)の山主も、ヤマモリとも讀まれている。
 珠者授而 タマハサヅケテ。娘を與えたことを、珠を與えたと、譬喩に敍している。
 勝且毛 カツガツモ。まずまず、まあまあ。「加都賀都母《カツガツモ》 伊夜佐岐陀弖流《イヤサキダテル》 延袁斯麻加牟《エヲシマカム》」(古事記一七)の用例がある。カツ(且)を重ねて、助詞モを添えたもの。
 枕與吾者率二將宿 マクラトワレハイザフタリネム。枕と自分と二人で寐ようの意。
【評語】永らく育て養い來つた娘を、嫁入らせた母親のさびしさがよく出ている。坂上の郎女の娘は、二人あつて、家持と駿河麻呂とに嫁している。この歌は、從來駿河麻呂に娘を與えた時の作としている。恐らくは家持に嫁せしめた時の作ではなかろうかと思われる。
 
大伴宿祢駿河麻呂歌三首
 
653 情《こころ》には 忘れぬものを、
 たまたまも
 見ぬ日さまねく 月ぞ經にける。
 
 情者《ココロニハ》 不忘物乎《ワスレヌモノヲ》
 儻《タマタマモ》
 不v見日數多《ミヌヒサマネク》 月曾經去來《ツキゾヘニケル》
 
【譯】心では忘れないのだが、偶然逢わない日が多く月が經《た》つてしまつた。
【釋】情者不忘物乎 ココロニハワスレヌモノヲ。心には忘れないのだが、しかるにの意。
 儻 タマタマモ。儻は、或然の辭で、モシに當る字であるが、類聚名義抄に、タマタマの訓があつて、偶然(239)の意にも使用されている。ここは偶然、ひよつとした都合での意。
 不見日數多月曾經去來 ミヌヒサマネクツキゾヘニケル。逢わない日が多くして月を經過した。逢わない日が重なつているあいだに月が變わつたのである。
【評語】相手に與えたともない、輕い氣もちの歌である。事に紛れて思いながらも訪れないでいたことをみずから顧みている。結局逢わないでもいられる戀ということになる。
 
654 相見ては 月も經なくに
 戀ふといへば、
 をそろとわれを 思ほさむかも。
 
 相見者《アヒミテハ》 月毛不v經尓《ツキモヘナクニ》
 戀云者《コフトイヘバ》
 乎曾呂登吾乎《ヲソロトワレヲ》 於毛保寒毳《オモホサムカモ》
 
【譯】逢つてから月も經たないのに、戀うているというと、わたしをかるがるしいとお考えになるだろうなあ。
【釋】相見者月毛不經尓 アヒミテハツキモヘナクニ。逢つてから後、月も變わらないのに。まだあまり時日が經過しないのに。
 戀云者 コフトイヘバ。戀しているといえば。
 乎曾呂登吾乎 ヲソロトワレヲ。ヲソロは、輕率、周章の意の語と推考される。奥儀抄以來、虚言の義として釋せられて來たが、それは誤りである。「咲花毛《サクハナモ》 乎曾呂波厭《ヲソロハウトシ》 奥手有《オクテナル》 長意爾《ナガキココロニ》 尚不v如家里《ナホシカズケリ》」(卷八、一五四八)の如きは、虚言では解し得ない。なお「可良須等布《カラストフ》 於保乎曾杼里能《オホヲソドリノ》」(卷十四、三五二一)のヲソも同語であろうから、ヲソに語義があり、ロは接尾語なのであろう。
 於毛保寒毳 オモホサムカモ。オモホスに助動詞ム、感動の助詞カモが接續している。お思いになるだろうなあ。
(240)【評語】ヲソロのような特殊の語を使用することによつて、若干の目新しさを感じさせている。それだけの歌である。
 
655 念はぬを 思ふといはば、
 天地の 神も知らさむ。
 邑《さと》の神さへ。
 
 不念乎《オモハヌヲ》 思常云者《オモフトイハバ》
 天地之《アメツチノ》 神祇毛知寒《カミモシラサム》
 邑禮左變《サトノカミサヘ》
 
【譯】思つてもいないのを思うと言つたら、天地の神もお咎めになるでしよう。村の神様もそうでしよう。
【釋】不念乎思常云者.オモハヌヲオモフトイハバ。既出(巻四、五六一)。
 天地之神祀毛知寒 アメツチノカミモシラサム。シラサムも前掲の五六一の歌に出た。知ろしめすだろうの意で、善惡を御覽になつて、僞を言つたら罰を與えるだろうとなる。句切。
 邑禮左變 サトノカミサヘ。
   サトレサカハリ(西)
   ――――――――――
 巴禮左變《トマレカクマレ》(童)
 哥飼名齋《ウタカフナユメ》(考)
 言借名齋《イフカルナユメ》(古義)
 悒慍爲奈《イフカシミスナ》(新考野雁)
 古来難訓とされ、諸説があるが、いまだ明解を得ない。今、邑禮を邑里の禮祭する所の義と見て、サトノカミとし、左變を字音假字とする。天地の神も知ろしめすだろう、里の神までも知ろしめすだろうの意とする。
【評語】類歌があり、それをもととして改作している歌である。
 
(241)大伴坂上部女歌六首
 
656 われのみぞ 君には戀ふる。
 わが夫子が 戀ふといふことは
 言《こと》の慰《なぐさ》ぞ。
 
 吾耳曾《ワレノミゾ》 君尓者戀流《キミニハコフル》
 吾背子之《ワガセコガ》 戀云事波《コフトイフコトハ》
 言乃名具左曾《コトノナグサゾ》
 
【譯】わたくしのみが、あなたに戀をするのです。あなたが戀をするというのは、言葉の遊びです。
【釋】吾耳曾君尓者戀流 ワレノミゾキミニハコフル。自分だけが、君に戀うのだ。戀をするのは自分ばかりだ。句切。
 戀云事波 コフトイフコトハ。戀うということは。トイフは、トフともいう。
 言乃名具左曾 コトノナグサゾ。ナグサは、慰め。コトノナグサは、言葉の遊び、氣休めの言葉。「黙然不v有跡《モダアラジト》 事之名種爾《コトノナグサニ》 云言乎《イフコトヲ》 聞知良久波《キキシレラクハ》 少可者有來《アシクハアリケリ》」(卷七、一二五八)。ゾは終助詞。
【評語】強い調子を張つた歌である。先方の言を抑えるような言い方がよい。
 
657 念はじと 言ひてしものを、
 翼酢色《はねずいろ》の 變《うつろ》ひやすき
 わが心かも。
 
 不念常《オモハジト》 曰手師物乎《イヒテシモノヲ》 
 翼酢色之《ハネズイロノ》 變安寸《ウツロヒヤスキ》
 吾意可聞《ワガココロカモ》
 
【譯】思わないと言つたものを、はねず色のようにほんに移り氣なわたしの心ではある。
【釋】不念常曰手師物乎 オモハジトイヒテシモノヲ。斷念したとは言つたが、しかるにの意。
(242) 翼酢色之 ハネズイロノ。ハネズは植物の名で、今ニワウメという。その花を集めて淡紅色の染料とする。仙覺の萬葉集註釋には「或云庭櫻、或云李花、或云木蓮花」とある。「夏まけて咲きたる翼酢《はねず》ひさかたの雨うちふらばうつろひなむか」(卷八、一四八五)の歌があつて夏の初に咲くことが知られ、「山振《やまぶき》のにほへる妹が翼酢色の赤裳のすがた夢《いめ》に見えつつ」(卷十一、二七八六)の歌があつて、この花の色が赤色系統の色であることが知られる。また卷の八の歌にもあるように變色し易いので、この歌では、この句をもつて、ウツロフに冠して枕詞としている。
 變安寸吾意可聞 ウツロヒヤスキワガココロカモ。ウツロヒは、變化する。ここでは變色する、褪色するの意に使用されている。ヤスキは易き。思わないと言つた心が變わあ易いと嘆かれるのである。
【評語】この歌では、氣を強く持つて思うまいとしていたものを、いつか君を思うようになつたことをみずから隣んでいる。翼酢色のは、この歌では枕詞ではあるが、一首の色を出すのに役立つている。これがなければ氣もちの直寫で、わけはわかるが、味のないものになる。それをこの一句で救つたのである。
 
658 念へども 驗《しるし》もなしと 知るものを、 
 いかに幾許《ここだく》 わが戀ひわたる。
 
 雖v念《オモヘドモ》 知僧裳無跡《シルシモナシト》 知物乎《シルモノヲ》
 奈何幾許《イカニココダク》 吾戀渡《ワガコヒワタル》
 
【譯】念つてもそのかいはないと知つているのに、どうしてこんなにわたしは戀をして暮しているのだろう。
【釋】雖念 オモヘドモ。過去の經驗によつて不定前提をなしている。
 知僧裳無跡知物乎 シルシモナシトシルモノヲ。僧は、師の義をもつてシの假字に使用している。訓假字である。シルシは效果。この二句。シルが頭韻になつている。
 奈何幾許 イカニココダク。イカニは以下の文意に對して疑問を感じている。ココダクは多量に。
(243) 吾戀渡 ワガコヒワタル。ワタルは時を經過する意。
【評語】自分の行動に疑問を插んでいる。自嘲ふうの氣分の感じられる歌である。情の赴くところは、理性も何ともすべからざることを歌つている。前の歌と同樣の境地であるが、前の方が詩的に表現され、これは索漠無味である。
【參考】類句、いかにここだくわが戀ひ渡る。
  倭文手纏《しつたまき》數にもあらぬわが身もちいかにここだくわが戀ひわたる(卷四、六七二)
 
659 あらかじめ 人|言《ごと》繋し。
 かくしあらば、
 しゑや、わが夫子 奧もいかにあらめ。
 
 豫《アラカジメ》 人事繁《ヒトゴトシゲシ》
 如v是有者《カクシアラバ》
 四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》 奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》
 
【譯】前から人の口がうるさいことです。こんなでしたら、あなた、ええ、將來もどんなでしよう。
【釋】豫人事繁 アラカジメヒトゴトシゲシ。まだ事が進行しないのに、もう人の言葉が繁くある。前からもううわさが立つている。句切。
 如是有者 カクシアラバ。上二句を受けてカクと言つている。
 四惠也吾背子 シヱヤワガセコ。シヱヤは、感動の副詞。第五句を修飾する。「春山之《ハルヤマノ》 馬醉花之《アシビノハナノ》 不v惡《アシカラヌ》 公爾波思惠也《キミニハシヱヤ》 所v因友好《ヨソルトモヨシ》」(卷十、一九二六)、「秋〓子《アキハギニ》 戀不v盡跡《コヒツクサジト》 雖v念《オモヘドモ》 思惠也安多良思《シヱヤアタラシ》 又將v相八方《マタアハメヤモ》」(同、二一二〇)、「奥山之《オクヤマノ》 眞木乃板戸乎《マキノイタドヲ》 押開《オシヒラキ》 四惠也出來根《シヱヤイデコネ》 後者何將v爲《ノチハナニセム》」(卷十一、二五一九)、「靈治波布神毛吾者《タマチハフカミモワレヲバ》 打棄乞《ウツテコソ》 四惠也壽之《シヱヤイノチノ》 〓無《ヲシケクモナシ》」(同、二六六一)、「我背子之《ワガセコガ》 將v來跡語之《コムトカタリシ》 夜者過去《ヨハスギヌ》 思咲八更々《シヱヤサラサラ》 思許理來目八面《シコリコメヤモ》」(卷十二、二八七〇)の如く使用せられている。これらの用例を見るに、もうあとはど(244)うともなれというような際に發せられるようである。シは何かわからないが、ヱヤは、アナニヱヤ、ヨシヱヤシ、「古飛斯宜志惠夜《コヒシゲシヱヤ》」(卷五、八一九)などのヱヤと同じであろう。
 奥裳何如荒海藻 オクモイカニアラメ。オクは將來。「多胡能伊利野乃《タゴノイリノノ》 於久母可奈思母《オクモカナシモ》」(卷十四、三四〇三)、「禰毛己呂爾《ネモコロニ》 於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》」(同、三四一〇)、「可久須酒曾《カクススゾ》 宿莫奈那里爾思《ネナナナリニシ》 於久乎可奴加奴《オクヲカヌカヌ》」(同、三四八七)など、東歌にはオクと言つているが、「猪名川之《ヰナガハノ》 奥乎深目而《オキヲフカメテ》 吾念有來《ワガオモヘリケル》」(卷十六、三八〇四)の如き、奥の字を使用したものに、オキと讀まれるものがある。海藻の字はメの假字に使用している。アラメは、イカニに對して已然形で結んでいる。一の格である。「誰戀爾有目《タガコヒニアラメ》」(卷二、一〇二)參照。將來如何にあろうかと推量している。
【評語】現在の状況にもとづいて、將來を推量している。人言を憚つた女心が窺われる。
 
660 汝《な》をと吾《わ》を 人ぞ離《さ》くなる。
 いで吾君《わぎみ》、
 人の中言《なかごと》 開きたつなゆめ。
 
 汝乎與吾乎《ナヲトワヲ》 人曾離奈流《ヒトゾサクナル》
 乞吾君《イデワギミ》
 人之中言《ヒトノナカゴト》 聞起名湯目《キキタツナユメ》
 
【譯】あなたとわたくしとを、人が中を裂きます。どうかあなた、人の中でいう言に耳をお貸しなさいますな。
【釋】汝乎與吾乎 ナヲトワヲ。汝と吾をであるが、ヲトは、汝トにヲが插入されたもののようで、ヲは格助詞でなく、感動の助詞であろう。トは、與の字が當てられているように、それとの意を示すものと考えられる。その用例は、「由古作枳爾《ユコサキニ》 奈美奈等惠良比《ナミナトヱラヒ》 志流敝爾波《シルベニハ》 古乎等都麻乎等《コヲトツマヲト》 於枳弖等母枳奴《オキテトモキヌ》」(卷二十、四三八五)がある。「有知奈※[田+比]久《ウチナビク》 波流能也奈宜等《ハルノヤナギト》 和我夜度能《ワガヤドノ》 烏梅能波奈遠等《ウメノハナヲト》 伊可爾可和可武《イカニカワカム》」(卷五、八二六)の例は、仙覺本には遠等を等遠に作つているのは、易きについたものであろう。これは、柳と梅をといか(245)にか分かむの意で、ここの用例に近い。
 人曾離奈流 ヒトゾサクナル。サクは、中を分ける。ナルは指定の助動詞。この語は、内容のやや明確を缺く場合に念を押す任務を有するものである。推定とするのは、この語の本義としては誤りである。句切。
 乞吾君 イデワギミ。イデは、人に乞う時に發する副詞。
 人之中言 ヒトノナカゴト。ナカゴトは中間にあつていう言。「蓋毛《ケダシクモ》 人之中言《ヒトノナカゴト》 聞可毛《キコセカモ》」(卷四、六八〇)の用例がある。
 聞起名湯目 キキタツナユメ。キキタツは、人の言を聞いて心をひかれるの意。聞き流すの反對である。ナは禁止。ユメは既出。決しての意に押えている。
【評語】人の言を氣に懸けるなという、女心の苦勞が歌われている。結局氣にしているのは、作者自身である。歌としては平語で格別のことはない。
 
661 戀ひ戀ひて 逢へる時だに、
 愛《うつく》しき 言《こと》盡《つく》してよ。
 長くと念はば。
 
 戀々而《コヒコヒテ》 相有時谷《アヘルトキダニ》
 愛寸《ウツクシキ》 言盡手四《コトツクシテヨ》
 長常念者《ナガクトオモハバ》
 
【譯】戀をして來て逢つた時だけでも、愛の言葉をおつしやつてください。末長くとお思いになるなら。
【釋】戀々而 コヒコヒテ。同じ動詞を重ねるのは、その引き續いて行われるをいう。コヒコヒテの句は、なお六六七、二九〇七に使用されている。
 相有時谷 アヘルトキダニ。他の時はともかく、逢つた時だけでも。
 愛寸 ウツクシキ。ウツクシキ(元)、ナツカシキ(代精)、ウルハシキ(代精)、オモハシキ(代精)。愛す(246)べくある意の形容詞には、ウツクシとウルハシとがあり、いずれも文獻がある。ウツクシは、「于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》」(日本書紀一一四)、「于都倶之枳《ウツクシキ》 阿餓倭柯枳古弘《アガワカキコヲ》」(同一二一)、「妻子美禮婆《メコミレバ》 米具斯宇都久志《メグシウヅクシ》」(卷五、八〇〇)など、他の上について形容するにいい、ウルハシは、「夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》」(古事記三一)、「宇流波志美意母布《ウルハシミオモフ》」(同四七)、「宇流波之等《ウルハシト》 安我毛布伊毛乎《アガモフイモヲ》」(卷十五、三七二九)など、他に對して起る自己の状態についていう。「宇流波之吉《ウルハシキ》 伎美我手奈禮能《キミガタナレノ》 許等爾之安流倍志《コトニシアルベシ》」(卷五、八一一)の如きは、他の人の上にいうが如くであるが、それも作者が、ウルハシと思う意を現わしているのであろう。かくしてここは舊訓のウツクシキが適切であると考えられる。
 事盡手四 コトツクシテヨ。コトは言、ツクシは、言を極める意。テヨは希望。言を極めよの意。句切。
 長常念者 ナガクトオモハバ。長く契りを繼續しようと思わば。
【評語】言葉のすくない男に對して、もつと言葉を盡してほしい心である。逢えば逢うで、やはり物さびしく慰めてもらいたい心が、この歌となつている。
 
市原王歌一首
 
【釋】市原王 イチハラノオホキミ。既出(卷三、四一二)。歌中の地名によるに、その地に旅して後の作と考えられる。天平十二年十月、伊勢行幸のことがあるが、その後間もない頃の作であろうか。
 
662 阿胡《あご》の山 五百重《いほへ》隱せる 佐堤《さで》の埼《さき》、
 小網《さで》延《は》へし子が 夢《イメ》にし見ゆる。
 
 網兒之山《アゴノヤマ》 五百重隱有《イホヘカクセル》 佐堤乃埼《サデノサキ》
 左手蠅師子之《サデハヘシコガ》 夢二四所見《イメニシミユル》
 
【譯】網兒の山が幾重にも隱している佐堤の埼で、小網を押して魚を捕つていた娘子が、夢に見えることだ。
(247)【釋】網兒之山 アゴノヤマ。三重縣志摩郡|英虞《あご》の地の山。後に英虞郡を置かれた地方の山と考えられる。
 五百重隱有 イホヘカクセル。英虞の山が幾重にも隱しているの意で、次の佐堤の埼を修飾する。
 佐堤乃埼 サデノサキ。英虞の山の隱しているというので、その山の彼方にあることが知られる。多分英虞の山よりも南方の岬であろう。以上三句、實際の地理について敍述し、そのサデの音を利用して、次の句のサデに對する序としている。
 左手蠅師子之 サデハヘシコガ。サデは既出(卷一、三八)。ちいさい網。蠅は假字、はへの音を表示している。ハヘシは、延ヘシで、小網を水中に渡したことと解せられる。コは愛稱。海人の娘子であろう。
 夢二四所見 イメニシミユル。かつてその地に見た子が夢に見えたのである。
【評語】旅の思い出であるが、地名を序に使つて、調子を取つた歌である。その人に對する興味が、夢になつてあらわれたのである。「波の上に浮|宿《ね》せし夜あどもへか心がなしく夢に見えつる」(卷十五、三六三九)も玉藻刈る娘子を夢に見た歌に和した歌で、同じ趣である。
 
安都宿祢年足歌一首
 
【釋】安都宿祢年足 アトノスクネトシタリ。傳未詳。養老三年五月、阿刀の連人足等に宿禰の姓を賜わつている。正倉院文書(大日本古文書二十五ノ一二四)に天平十七年四月廿六日附のこの人の自筆書状が、丹(塗料)をつつんだ包みの紙紐となつて存している。その文面は次の如くである。今、訓點を加える。
 荒田井《′》伊美吉乙麻呂
  右(ノ)人(ハ)、年足之近族(ナリ)。此(ニ)起(リ)2去年八月(ヨリ)1、祗2承(セリ)於寺頭(ニ)1。伏(シテ)乞(フ)昭(ニシ)状(ヲ)垂(レヨ)v恕(ヲ)。幸々甚々。謹状不宣。
   天平十七年四月廿六日        安都(ノ)年足謹状
 
(248)663 佐保渡り 吾家《わぎへ》の上に 鳴く鳥の、
 聲なつかしき 愛《は》しき妻の兒。
 
 佐穗度《サホワタリ》 吾家之上二《ワギヘノウヘニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》
 音夏可思吉《コヱナツカシキ》 愛妻之兒《ハシキツマノコ》
 
【譯】佐保の土地を渡つて、わが家の上で鳴く鳥の聲のように、聲のなつかしい最愛のわが妻だ。
【釋】佐穗度 サホワタリ。佐保は地名。その他の空を渡つてで、鳴ク鳥を修飾する。佐保は川を中心としているが、ここは川に限らない。
 吾家之上二 ワギヘノウヘニ。わが家の上空において。
 鳴鳥之 ナクトリノ。以上、實況を敍して、序としている。
 音夏可思吉 コヱナツカシキ。ナツカシは、馴著《なつ》かしで、馴れ親しむぺくある状態をいう形容詞。
 愛妻之兒 ハシキツマノコ。ツマノコは、妻をいう。コは愛稱。「若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》」(卷二、二一七)など使用されている。
【評語】序の使いざまが、實景として、巧みに使用されている。それとしるき妻の聲を歌つた愛すべき作品である。作者の家は、佐保にあつて、そこに妻と同棲していたものと考えられる。前掲の正倉院文書のこの人の書状も、佐保に家のあつたことを語るもののようである。鳥は霍公鳥のような、鳴き渡る習性を右する鳥である。
 
大伴宿祢像見歌一首
 
【釋】大伴宿祢像見 オホトモノスクネカタミ。系統未詳。正倉院文書によつて、天平勝寶二年四月に正六位の上で攝津職の少進であつたことが知られる。また續日本紀によれば天平寶字八年十月に從五位の下、神護景(249)雲三年三月に左の大舍人の助、寶龜三年正月に從五位の上になつている。
 
664 石《いそ》の上《かみ》 ふるとも雨に 降らめや。
 妹に逢はむと 言ひてしものを。
 
 石上《イソノカミ》 零十方雨二《フルトモアメニ》 將關哉《サハラメヤ》
 妹似相武登《イモニアハムト》 言義之鬼尾《イヒテシモノヲ》
 
【譯】石の上で雨が降つても、それには邪魔されないぞ。あの子に逢おうと言つたんだから。
【釋】石上 イソノカミ。枕詞。地名で、その地に布留の社があるので、轉じて降ルに冠している。これはただ枕詞として慣用されたものを使用したのか、または作者に縁故のある地名、たとえば通行しているとか、妻の住處だとかいう性質の地名であるかはわからない。
 零十方雨二 フルトモアメニ。フルに地名の布留を懸けている。
 將關哉 サハラメヤ。サハラは、障ルの未然形。接觸して妨害される意。「足千根乃《タラチネノ》 母爾障良婆《ハハニサハラバ》 無用《イタヅラニ》 伊麻思毛吾毛《イマシモワレモ》 事應v成《コトヤナルベキ》」(卷十一、二五一七)、「他言者《ヒトゴトハ》 眞言痛《マコトコチタク》 成友《ナリヌトモ》 彼所將v障《ソコニサハラム》 吾爾不v有國《ワレニアラナクニ》」(卷十二、二八八六)。句切、三句切。
 妹似相武登 イモニアハムト。妻のもとを訪れようと約束した。
 言義之鬼尾 イヒテシモノヲ。義之は既出(卷三、三九四)。鬼をモノと讀むことも既に出た。妖物の義でモノの音に借りている。このモノヲは、ものなるが故にの意になつている。
【評語】生《き》一本の武人かたぎともいうべき歌である。當時の人は、雨に濡れることを嫌つた。それにも邪魔されないというのは、相當の決意になるのである。
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
 
(250)【釋】安倍朝臣蟲麻呂 アベノアソミムシマロ。父祖は知られないが、母は安曇《あずみ》の外命婦で、大伴の坂上の郎女の母の石川の内命婦と同居し、姉妹同樣の親しさであつたという。續日本紀に、天平九年九月に外の從五位の下を授けられ、その後、皇后の宮の少進、中務の少輔、播磨の守、紫微《しび》の大忠等を經て、天平勝寶四年三月、中務の大輔從四位の下をもつて卒している。
 
665 向ひ坐《ゐ》て 見れども飽かぬ
 吾妹子に、
 立ち離《わか》れ行かむ たづき知らずも。
 
 向座而《ムカヒヰテ》 雖v見不v飽《ミレドモアカヌ》
 吾妹子二《ワギモコニ》
 立離往六《タチワカレユカム》 田付不v知毛《タヅキシラズモ》
 
【譯】逢つていて見ていても飽きないあなたに、別れて行くべき法はありませんね。
【釋】向座而 ムカヒヰテ。相對坐して。
 雖見不飽 ミレドモアカヌ。見ても飽きない。修飾句。
 吾妹子二 ワギモコニ。六六七の歌の左註によるに、ワギモコは、大伴の坂上の郎女である。
 立離往六 タチワカレユカム。立ち別れて行くべき。修飾句。
 田付不知毛 タヅキシラズモ。タヅキは、手著、手段。モは感動の助詞。
【評語】よく情を述べているが、平語に近い。別れ去ろうとして詠んだ歌である。
 
大伴坂上郎女歌二首
 
666 あひ見ぬは
(251) ここだ久にも あらなくに、
 幾許《ここだく》われは 戀ひつつもあるか。
 
不2相見1者《アヒミヌハ》
幾久毛《ココダヒサニモ》 不v有國《アラナクニ》
幾許吾者《ココダクワレハ》 戀乍裳荒鹿《コヒツツモアルカ》
 
【譯】お目にかからないのは、非常に久しい間でもないのですのに、たいへんにわたくしは戀いつつあることです。
【釋】不相見者 アヒミヌハ。あい見ぬことはの意。義をもつて、アハナクハとも讀まれる。「不合者《アハナクハ》」(卷十、二〇三八)。
 幾久毛 ココダヒサニモ。イクヒササニモ(桂)、イクヒサシサモ(西)、イクヒサシクハ(拾)、イクバクヒサモ(略)。略解のイクバクヒサモの訓が普通に行われているが、奈良時代イクバクの語のあつたという證明がない。しかし假りにその語があつたとしても、ヒサについては、常にヒサニと言つて、ヒサモとは言わない。また四句の幾許はココダクと讀むべきが如くである等の理由によつて、ココダヒサニモと讀む。ココダは副詞として、動詞、形容詞を修飾している。ここはヒサニアルを修飾すると見られる。「己許太可奈之伎《ココダカナシキ》」(卷十四、三三七三)。たいへん久しくもないのにの意。
 幾許吾者 ココダクワレハ。ココダクは、ココダに助詞クが接續したもの。副詞。
 戀乍裳荒鹿 コヒツツモアルカ。アルカは、詠嘆の語法。
【評語】蟲麻呂の歌に答えている。歌としては平語に近い。
 
667 戀ひ戀ひて 逢ひたるものを、
 月しあれば 夜はこもるらむ。
(252) 須臾《しまし》はあり待て。
 
 戀々而《コヒコヒテ》 相有物乎《アヒタルモノヲ》
 月四有者《ツキシアレバ》 夜波隱良武《ヨハコモルラム》
 須臾羽蟻待《シマシハアリマテ》
 
【譯】戀をして來て逢つたのですのに、月のあるのを見れば、まだ夜のうちでしよう。もうちよつとお待ちなさい。
【釋】戀々而 コヒコヒテ。既出(卷四、六六一)。
 相有物乎 アヒタルモノヲ。逢つたものであるゆえに。この形は、前にもあつたが、モノヲが、既に、ものであるからの意に變わつている。
 月四有者 ツキシアレバ。シは強意の助詞。月はまだ殘つているから。
 夜波隱良武 ヨハコモルラム。夜がこもるということ、既出、「夜隱爾《ヨゴモリニ》」(卷三、二九〇)參照。動詞としては、集中他に見えない。夜のうちなのだろう、夜が殘つているのだろうの意。句切。
 須臾羽蟻待 シマシハアリマテ。シマシは瞬時、ちよつとのま。アリマテは、そのまま待つていよの意。
【評語】左註によると、夫婦關係でもなさそうだが、この歌だけ切り離して見ると、そういう關係のもとに詠まれたように取れる。戀ということ、今日の人の解釋よりも、もつと自由に使われていたのである。蟲麻呂が夜遊びに來たのを、引き留めただけの作なのであろう。
 
右、大伴坂上郎女之母、石川内命婦、與2安倍朝臣蟲滿之母安曇外命婦1同v居、姉妹同v氣之親焉。縁v此郎女蟲滿、相見不v踈、相談既密、聊作2戯歌1以爲2問答1也。
 
右は、大伴の坂上の郎女の母石川の内命婦と、安倍の朝臣|蟲滿《むしまろ》の母|安曇《あづみ》の外命婦と、居を同《とも》にして姉(253)妹氣を同じくする親しみあり。これによりて郎女と蟲滿と、相見ること疎からず、相談《かたら》ふこと既に密《こまやか》なり。いささか戯れの歌を作りて問答をなせり。
 
【釋】石川内命婦 イシカハノヒメトネ。既出(卷三、四六一左註)。
 安倍朝臣蟲滿 アベノアソミムシマロ。蟲滿は蟲麻呂に同じ。滿はマの音を寫したものである。
 安曇外命婦 アヅミノヒメトネ。傳未詳。外命婦は、五位以上の人の妻をいう。
 姉妹同氣之親焉 シマイキヲオナジクスルシタシミアリ。姉妹と同樣、氣の合つた親密の中である。同氣は、易經乾の卦に、「同氣相求」とある。
 相談既密 カタラフコトスデニコマヤカナリ。密は親密の義。
 戯歌 タハブレノウタ。夫婦關係あるかの如く詠んでいるので、戯歌という。
 
厚見王歌一首
 
【釋】厚見王 アツミノオホキミ。系統未詳。續日木紀に、天平勝寶元年四月、无位をもつて從五位の下を授けられ、七年十一月、少納言で、伊勢の大神宮の奉幣使となり、天平寶字元年五月に從五位の上を授けられた。
 
668 朝に日《ひ》に 色づく山の 白雲の、
 思ひ過ぐべき 君にあらなくに。
 
 朝尓日尓《アサニヒニ》 色付山乃《イロヅクヤマノ》 白雲之《シラクモノ》
 可2思過1《オモヒスグベキ》 君尓不v有國《キミニアラナクニ》
 
【譯】朝見れば色づき、今見ればまた色づいている山に、白雲がかかつている。その雲はやがて過ぎて去り行くであろうが、自分のかの人を想うことは、わが心を通り過ぎるようなはかない思いではないのだ。
【釋】朝尓日尓 アサニヒニ。朝に色づき日に色づくので、朝ごと日ごとに一層の意。
(254) 色付山乃 イロヅクヤマノ。イロヅクは、秋の黄葉するをいう。 白雲之 シラクモノ。以上序詞。雲が過ぎるというので、過グを引き起している。
 可思過 オモヒスグベキ。わが心の中を通過し去るべき。卷三、三二五參照。
【評語】上三句は、ただ思い過ぐべきの序に用いられているだけである。しかし季節の物を用いて、美しい現し方をしている。歌の内容はごく單純で、いかにしてもわが心を離れ得ないというに過ぎない。序の美巧で持つている歌というべきである。
 
春日王歌一首 志貴皇子之子、母曰2多紀皇女1也
 
【釋】春日王 カスガノオホキミ。既出(卷三、二四三)。註に志貴の皇子の子、母を多紀の皇女というとある。多紀の皇女は、天武天皇の皇女、日本書紀に託基の皇女とある。磯城の皇子の同母妹であるので、この點から見ても春日の王の父なる志貴の皇子は、天智天皇の皇子であることがあきらかである。
 
669 あしひきの 山橘の 色に出でよ。
 語らひ繼《つ》ぎて 逢ふこともあらむ。
 
 足引之《アシヒキノ》 山橘乃《ヤマタチバナノ》 色丹出與《イロニイデヨ》
 語言繼而《カタラヒツギテ》 相事毛將v有《アフコトモアラム》
 
【譯】山橘の實のようにはつきりあらわしたらどうだ。そうしたら話をしあつて逢う機會もできるだろうよ。
【釋】山橘乃 ヤマタチバナノ。ヤマタチバナは、今のヤブコウジで、ヤブコウジ科の常緑小灌木。その赤い實を愛したものである。以上二句、序詞。
 色丹出與 イロニイデヨ。表面にあらわせの意。仙覺本系統等、多く與を而に作るのは誤りである。
 語言繼而 カタラヒツギテ。話し合い續けて、おたがいに話を續けて。
(255) 相事毛將有 アフコトモアラム。下に隱していては、人目もあり、逢うこともできないが、表面の事實とすれば、結局逢うこともあるだろうの意。
【評語】他の普通の相聞の歌と違つて、作者が相手を見下している歌い方である。上から一氣に命令法で強く言い切つている。この歌、從來は三句を、色に出でてと讀んで、いろいろと解釋をして居つたが、それではわからない歌である。今日では古寫本によつて、色に出でよと讀み改めているのである。
 
湯原王歌一首
 
670 月讀《つくよみ》の 光に來ませ。
 あしひきの 山き隔《へな》りて
 遠からなくに。
 
 月讀之《ツクヨミノ》 光二來益《ヒカリニキマセ》
 足疾乃《アシヒキノ》山寸隔而《ヤマキヘナリテ》
 不v遠國《トホカラナクニ》
 
【譯】月の光に乘じていらつしやい。山を隔てていて遠いというのではありません。
【釋】月讀之 ツクヨミノ。ツクヨミは月をいう。古事記に月讀の命、日本書紀に月讀の尊、月夜見の尊、月弓の尊とあり、ヨミの語義を、讀の字に即して考えれば、月齡もしくは暦月を數える義と解せられる。
 光二來益 ヒカリニキマセ。月光をたよりに來たまえ。マセは命令形。句切。
(256) 足疾乃 アシヒキノ。足疾は足を引いて歩むので、アシヒキに當てている。
 山寸隔而 ヤマキヘナリテ。キヘナリは、ヘナリだけ分離しても使用される。これは重成《へな》るであろうが、キは不明である。用例としては「安之比紀能《アシヒキノ》 夜麻伎敝奈里※[氏/一]《ヤマキヘナリテ》 多麻保許乃《タマホコノ》 美知能等保家婆《ミチノトホケバ》」(卷十七、三九六九)、「安之比奇能《アシヒキノ》 夜麻伎弊奈里※[氏/一]《ヤマキヘナリテ》 等保家騰母《トホケドモ》」(同、三九八一)があり、これらによれば、來の義であるが如くである。然らばキヘナルは山を越え來て隔たつているの意になる。
 不遠國 トホカラナクニ。ナクは、上の山キヘナリテまでを打ち消している。
【評語】月光に乘じて來よという輕快な誘いの歌である。良夜に友を待つ心が歌われている。
 
和歌一首 不v審2作者1
 
【釋】和歌 コタフルウタ。前の湯原の王の歌に答えたのであつて、作者は知られない。なおこの贈答は、男子どうしの相聞と見るべきであつて、その意によつて解すべきである。
 
671 月讀の 光は清く 照れれども、
 惑《まど》へる情《こころ》 念《おも》ひあへなくに。
 
 月讀之《ツクヨミノ》 光者清《ヒカリハキヨク》 雖2照有1《テレレドモ・テラセレドモ》
 惑情《マドヘルココロ・マドフココロハ》 不v堪v念《オモヒアヘナクニ》
 
【譯】月の光は清く照しておりますが、迷う心は物思いに堪えられません。
【釋】月讀之光者清雖照有 ツクヨミノヒカリハキヨクテレレドモ。照有のような文字表現の場合は、テレリと讀むべきであるから、それに雖を加えて、テレレドモと讀む。照つているけれども。「比奈爾毛月波《ヒナニモツキハ》 弖禮々杼母《テレレドモ》」(卷十五、三六九八)。湯原の王の歌を受けて、月光の清く照せることを敍し、これを逆態條件法として、下の句を引き出している。
(257) 惑情 マドヘルココロ。戀のために理性を失つた心である。
 不堪念 オモヒアヘナクニ。タヘズオモホユ(桂)、タヘジトゾオモフ(考)。これらの訓は、行くに堪えずの意と思われるが、表現が不足である。よつて「奥山之《オクヤマノ》 磐爾蘿生《イハニコケムシ》 恐毛《カシコクモ》 間賜鴨《トヒタマフカモ》 念不v堪國《オモヒアヘナクニ》」(卷六、九六二)の例によつて、オモヒアヘナクニと讀む。月光の清明なるに拘わらず、惑える心は、思いに堪えないの意とするのである。惑亂して思うことを得ないの意である。君がもとに行くまでの思いをなし得ないのである。
【評語】巧みな謝絶の歌である。先方の歌の詞に即應して、思い亂れる心を述べ、しかも結局先方の意に副わなかつたのである。良夜は遂にこの佳客を迎え得なかつた。
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
 
672 倭文手纏《しつたまき》 數《かず》にもあらぬ 壽《いのち》もち
 いかに幾許《ここだく》 わが戀ひわたる。
 
 倭文手纏《シツタマキ》 數二毛不v有《カズニモアラヌ》 壽持《イノチモチ》
 奈何幾許《イカニココダク》 吾戀渡《ワガコヒワタル》
 
【譯】倭文の手纏のような物の數でもない壽命を持つて、何と非常にわたしが戀をすることだろう。
【釋】倭文手纏 シツタマキ。シツは既出。日本固有の織模樣のある織物。タマキは腕卷。倭文は良い織物であつたが、大陸ふうの新しい織物が興るに及んで、古風なものとされるに至つた。「古昔《イニシヘニ》 有家武人之《アリケムヒトノ》 倭文幡乃《シツハタノ》 帶解替而《オビトキカヘテ》」(卷三、四三一)、「去家之《イニシヘノ》 倭文旗帶乎《シツハタオビヲ》」(卷十一、二六二八)など、古きについて歌われる所以である。同時に手纏も古風な服飾となつて、倭文の手纏が賤しい者の風俗となつたので、いやし、數にもあらぬに冠する枕詞となつた。
 數二毛不有 カズニモアラヌ。物の數ともないの意で、ここははかないの意に使用されている。「倭文手纏(258)數母不v在《シツタマキカズニモアラヌ》 身爾波在等《ミニハアレド》」(卷五、九〇三)。
 壽持 イノチモチ。上を受けて、幾ばくも無き壽命を持つてと言つている。
 奈何幾許吾戀渡 イカニココダクワガコヒワタル。既出(卷四、六五八)。
【評語】無常の人生をもつて戀することを歌つているが、深い内省はなく、ただ詞句の表面のみのことになつている。これも大伴の坂上の郎女との贈答の歌であろう。
 
大伴坂上郎女歌二首
 
673 まそ鏡《かがみ》 磨《と》ぎし心を 縦《ゆる》しては、
 後にいふとも 驗《しるし》あらめやも。
 
 眞十鏡《マソカガミ》 磨師心乎《トギシココロヲ》 從者《ユルシテハ》
 後尓雖v云《ノチニイフトモ》 驗將v在八方《シルシアラメヤモ》
 
【譯】澄んだ鏡のように磨いた心を許したら、あとでとやかく言つてもかいのないことです。
【釋】眞十鏡磨師心乎 マソカガミトギシココロヲ。既出(卷四、六一九)。
 縱者 ユルシテハ。氣を許したら、承諾したら。
 後尓雖云 ノチニイフトモ。あとになつてこんなはずではないと言つても。
 驗將在八方 シルシアラメヤモ。驗があろうか。そのかいが無いだろうの意。
【評語】既出の怨恨歌(六一九)の思想を、未然に歌つているような歌である。しかし怨恨歌よりはあとで、もう苦しい經險も積んで來て、この歌となつているのであろう。
 
674 眞玉つく 彼此《をちこち》かねて 言《こと》はいへど、
(259) 逢ひて後こそ 悔にはありと言《い》へ。
 
 眞玉付《マタマツク》 彼此兼手《ヲチコチカネテ》 言齒五十戸常《コトハイヘド》
 相而後社《アヒテノチコソ》 悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》
 
【譯】將來のことや今のことを兼ねて、いうことは言つても、逢つてから後悔をするということです。
【釋】眞玉付 マタマツク。枕詞。玉を附ける緒の義に、次の句のヲを冠している。
 彼此兼手 ヲチコチカネテ。ヲチコチはあちらこちらで、轉じて將來と現在との意となり、カネテで、その兩方を併わせての意をあらわしている。「眞玉就《マタマツク》 越乞兼而《ヲチコチカネテ》 結鶴《ムスビツル》 言下紐之《ワガシタヒモノ》 所v解日有米也《トクルヒアラメヤ》」(卷十二、二九七三)。またヲチを將來の意に使用した例には、「眞珠服《マタマツク》 遠兼《ヲチヲシカネテ》 念《オモフニゾ》 一重衣《ヒトヘゴロモヲ》 一人服寐《ヒトリキテヌル》」(卷十一、二八五三)、「多麻久之氣《タマクシゲ》 安氣弖乎知欲利《アケテヲチヨリ》 須辨奈可流倍思《スベナカルベシ》」(卷十五、三七二六)。
 言齒五十戸常 コトハイヘド。イヒハイヘド(桂)、コトハイヘド(考)。先方の人が言はいうけれども。五十はイの訓假字。
 相而後社悔二破有跡五十戸 アヒテノチコソクイニハアリトイヘ。逢ヒテ後コソを受けて、悔ニハ有と結んでいるはずであるから、有は已然形に讀まねばならないのであるが、下に五十戸とあつて、これをイヘと讀むので、コソの結びをこれに護讓つて有は終止形に讀まれる。これは語勢から來るもので、語法上の破格になる。イヘは、人々がいうので、その主格は省略されている。かような例は、「秋〓子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》 一子二《ヒトリゴニ》 子持有跡五十戸《コモテリトイヘ》」(卷九、一七九〇)の如きがあつて、これも語法から言えば、一人子ニ子持テレトイフとせねばならぬところであるが、それでは調を成さぬので、語法を超越するのである。クイニアリは、悔の状態にありの義で悔いることをいう。
【評語】男子の甘言を危ぶむ心が歌われている。これもつらい經驗を經て生まれた歌ということができよう。ようやく年たけたこの作者の用心ぶかい心が窺われる。
 
(260)中臣女郎、贈2大伴宿祢家持1歌五首
 
【釋】中臣女郎 ナカトミノヲミナ。傳未詳。
 
675 女郎花 咲く澤《さは》に生ふる 花かつみ
 かつても知らぬ 戀もするかも。
 
 娘子部四《ヲミナヘシ》 咲《サク・サキ》澤二生流《サハニオフル》 花勝見《ハナカツミ》
 都毛不v知《カツテモシラヌ》 戀裳楷香聞《コヒモスルカモ》
 
【譯】女郎花の咲く澤に生えている花かつみのように、かつて知らない戀もすることです。
【釋】娘子部四 ヲミナヘシ。枕詞。オミナエシ科の多年生草本。次句の咲くの主語。
 咲澤二生流 サクサハニオフル。オミナエシの咲く澤に生えているで、次の花カツミを修飾する。代匠記に咲をサキと讀んで、奈良の都の北の佐紀の地とする。これに類する文字表示には、「姫押《ヲミナヘシ》生澤邊之《イフルサハベノ》 眞田葛原《マクヅハラ》」(卷七、一三四六)、「姫部思《ヲミナヘシ》 咲野爾生《サクノニオフル》 白管自《シラツツジ》」(卷十、一九〇五)、「佳人部爲《ヲミナヘシ》 咲野之〓子爾《サクノノハギニ》」(同、二一〇七)、「垣津旗《カキツバタ》 開沼之菅乎《サクヌノスゲヲ》」(卷十一、二八一八)、「垣津旗《カキツバタ》 開澤生《サクサハニオフル》 菅根之《スガノネノ》」(卷十二、三〇五二)等があり、その咲、開、生をいずれもサキと讀むべしとする。しかし生澤邊の如きは、オフルサハベと讀むべきが順當であり、また花の咲くのサキのキは甲類、地名の佐紀のキは乙類であつて一致しないから、開、咲をそれぞれサクと讀むべきであろう。しかし枕詞のアシヒキノのキは乙類であるのに、しばしば足引と書かれている。また佐紀には山があり池もあるが、澤、沼は文獻がない。
 花勝見 ハナカツミ。野生の花菖蒲の一種。白井光太郎氏は、日光で赤沼アヤメと稱する植物であるとされている。以上三句は序で、同音によつて、次の句のカツを起している。
 都毛不知 カツテモシラヌ。都は、すべての意の字、ここでは上を受けてカツテと讀む。一向に知らない意(261)で、次の句を修飾りる。
 戀裳楷香聞 コヒモスルカモ。楷は借字、するの義。
【評語】序の用法に特色がある。女郎花は秋咲くもの、花カツミは初夏に咲くもので、季節の矛盾があり、それを故意に犯している。「女郎花咲く野に生ふる白|躑躅《つつじ》知らぬこともち言はれしわが夫」(卷十、一九〇五)の如き、この種の手法の好例であつて、この中臣の女郎の歌も、これらの前行のものを受けているのであろう。序歌は、序詞のいう所と、それから引き起される所と、内容上の一致のないのが通例であり、そこに生ずる惑亂の美が意味を有するものであるが、この序の如きは、それを二重にしているものである。そこに相聞の歌としての效果が期せられている。「娘子らが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき吾は」(卷四、五〇一)の如きも形態は同じであるが、矛盾性は強くあらわれていない。
 
676 海《わた》の底 奧《おき》を深めて わが念へる
 君には逢はむ。
 年は經ぬとも。
 
 海底《ワタノソコ》 奧乎深目手《オキヲフカメテ》 吾念有《ワガオモヘル》
 君二波將v相《キミニハアハム》
 年者經十方《トシハヘヌトモ》
 
【譯】海底のように深く深くわたくしの思つているあなたにお逢いしましよう。よし年がたつても。
【釋】海底奧乎深目手 ワタノソコオキヲフカメテ。譬喩によつて、心の底から、心に深くの意をあらわしている。海の底をまず提示し、これを説明して、沖は底深くしてと言つている。奥は沖、澳に同じ。オキヲフカメテは、沖深くして。
 吾念有君二波將相 ワガオモヘルキミニハアハム。句切。
 年者經十方 トシハヘヌトモ。上の句を限定している。
(262)【評語】これも前行の歌があつて、それによつて歌を成しているであろう。類型的な歌である。
【參考】類句、海の底奥を深めて。
  海の底奥を深めて生ふる藻のもとも今こそ戀はすぺ無き(卷十一、二七八一)
 
677 春日山 朝|居《ゐ》る雲の
 おほほしく、
 知らぬ人にも 戀ふるものかも。
 
 春日山《カスガヤマ》 朝居雲乃《アサヰルクモノ》
 鬱《オホホシク》
 不v知人尓毛《シラヌヒトニモ》 戀物香聞《コフルモノカモ》
 
【譯】春日山に朝かかつている雲のように、ぼうつとして、よく知らない人にも戀をすることです。
【釋】春日山朝居雲乃 カスガヤマアサヰルクモノ。以上序で、雲がかかつてはつきりしない意に、次のオホホシクに冠している。
 鬱 オホホシク。既出。心の鬱々として晴れない形容。
 不知人尓毛 シラヌヒトニモ。家持にまだ逢つたことがないので、知ラヌ人と言つている。
 戀物香聞 コフルモノカモ。戀うものであるなあと詠嘆している。
【評語】これも序を使つている。目前の光景を敍したのであろうが、雲を序に使用することは類型的である。知らない人にも戀うものよというのは、特殊の事情というべきで、多分家持の申し入れに答えたのであろう。
 
678 直《ただ》に逢ひて 見てばのみこそ、
 たまきはる 命に向かふ
 わが戀|止《や》まめ。
 
 直相而《タダニアヒテ》 見而者耳社《ミテバノミコソ》
 靈剋《タマキハル》 命向《イノチニムカフ》
 吾戀止眼《ワガコヒヤマメ》
 
(263)【譯】直接お目に懸かつたなら、命がけのわたくしの戀が止むことでありましよう。
【釋】直相而見而者耳社 タダニアヒテミテバノミコソ。直接に逢つて見たら、それに限つて。ノミコソは、それに限る。そのほかにはない意を強調している。
 靈剋 タマキハル。既出(卷一、四)。枕詞。魂の極まる義という。
 命向 イノチニムカフ。命に匹敵する。命がけの。
 吾戀止眼 ワガコヒヤマメ。コヒは名詞。戀も止むならむの意。コソを受けて結んでいる。
【評語】これは他の歌にくらべて、率直に強く歌われている。しかしこれも類歌があつて、創意の分量は多くないようである。
【參考】類句、命に向かふわが戀止まめ。
  外目《よそめ》にも君が光儀《すがた》を見てばこそ命に向かふわが戀止まめ(卷十二、二八八三、一云)
 
679 不欲《いな》といはば 強《し》ひめや、わが夫。
 菅《すが》の根の 思ひ亂れて
 戀ひつつもあらむ。
 
 不欲常云者《イナトイハバ》 將強哉吾背《シヒメヤワガセ》
 菅根之《スガノネノ》 念亂而《オモヒミダレテ》
 戀管母將v有《コヒツツモアラム》
 
【譯】いやとおつしやるなら無理にとは申しません。菅の根のように思い亂れて戀いつつもおりましよう。
【釋】不欲常云者將強哉吾背 イナトイハバシヒメヤワガセ。不欲は義をもつてイナに當てている。シヒメヤは、強《し》いようや否|強《し》いはしないで、終止。
 菅根之 スガノネノ。枕詞。菅の根は「山爾生有《ヤマニオヒタル》菅根乃《スガノネノ》」(卷四、五八〇)、「高山乃《タカヤマノ》 伊波保爾於布流《イハホニオフル》 須我乃根能《スガノネノ》」(卷二十、四四五四)など、山菅の根を歌つている。ネモコロ、ナガキなどに冠していて、亂ルに冠(264)したものは他にない。
 念亂而戀管母將有 オモヒミダレテコヒツツモアラム。千々に思い亂れて戀しつついようの意を述べている。
【評語】消極的に弱い女心が描かれている。思い亂れる風情は、かえつて強い詞の歌よりも深く汲み取られる。
 
大伴宿祢家持、與2交遊1別歌三首
 
【釋】與交遊別歌 トモトワカルルウタ。交遊は、友人をいう。交りの中絶したことを歎く歌で、別れに際して詠んだものではない。目録には、別の字の下に久の字があるが、目録をもつて本文を正すに至らない。
 
680 蓋《けだ》しくも 人の中言《ナカゴト》 聞こせかも、
 幾許《ここだく》待てど 君ががまさぬ。
 
 蓋毛《ケダシクモ》 人之中言《ヒトノナカゴト》 聞可毛《キコセカモ》
 幾許雖待《ココダクマテド》 君之不來益《キミガキマサヌ》
 
【譯】多分人があいだでいう言をお聞きになつてか、たいへんお待ちしているのに、あなたはおいでになりません。
【釋】蓋毛 ケダシクモ。既出(卷二、一九四)。恐らく、多分、推量するに。三句を修飾する。
 人之中言 ヒトノナカゴト。既出(卷四、六六〇)。他人の、中間にあつていう言。
 聞可毛 キコセカモ。キコセは、聞くの敬語の已然形。カモは疑問の係助詞。聞こせばかの意の條件法。
 幾許雖待 ココダクマテド。ココダクは、たいへんに、非常に。
 君之不來益 キミガキマサヌ。第三句のカモを受けて結んでいる。
【評語】平語に近い歌で、格別の作ではない。坂上の郎女の、人の中言の歌によつて作つたものであろう。
 
(265)681 なかなかに 絶つとしいはば、
 かくばかり
 氣《いき》の緒にして われ戀ひめやも。
 
 中々尓《ナカナカニ》 絶年云者《タツトシイハバ》
 如此許《カクバカリ》
 氣緒尓四而《イキノヲニシテ》 吾將v戀八方《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】かえつて切れると言うなら、これほどに絶えず戀うことはないでしょう。
【釋】中々尓 ナカナカニ。既出(卷三、三四三)。
 絶年云者 タツトシイハバ。交りを絶つというならば。タツ、六四一參照。
 如此許 カクバカリ。下文、息の緒にして戀うことをさしている。
 氣緒尓四而 イキノヲニシテ。イキノヲ、既出(卷四、六四四)。次の戀フの修飾句。
 吾將戀八方 ワレコヒメヤモ。反語。
【評語】既出の歌との前後は問題になるが、それらの句を取り集めて作つたような歌だ。習作時代の家持の作には、そういう性質が多いので、これもさように見られても致し方がない。
 
682 念ふらむ 人にあらなくに、
 ねもころに
 情《こころ》盡《つく》して 戀ふる吾かも。
 
 將v念《オモフラム》 人尓有莫國《ヒトニアラナクニ》
 懃《ネモコロニ》
 情盡而《ココロツクシテ》 戀流吾毳《コフルワレカモ》
 
【譯】思つておいでになる人ではないのに、しみじみと心を盡して戀するわたしですよ。
【釋】將念人尓有莫國 オモフラムヒトニアラナクニ。ヒトは先方の友をいう。念つているだろう人ではないのだのに。
(266) 懃 ネモコロニ。十分に、懇切に。
 情盡而 ココロツクシテ。心のあらん限りを盡して。
 戀流吾毳 コフルワレカモ。戀う我であるなあ。
【評語】みずから省みて嘆息している。先方では思わないのに、こちらだけは思うという類型的な歌である。
 
大伴坂上郎女歌七首
 
683 謂ふ言《こと》の 恐《かしこ》き國ぞ。
 紅《くれなゐ》の 色にな出でそ。
 念ひ死ぬとも。
 
 謂言之《イフコトノ》 恐國曾《カシコキクニゾ》
 紅之《クレナヰノ》 色莫出曾《イロニナイデソ》
 念死友《オモヒシヌトモ》
 
【譯】人のいう言のおそろしい國ですよ。紅花のようには面にお出しなさいますな。思い死にに死んでも。
【釋】謂言之恐國曾 イフコトノカシコキクニゾ。イフコトは、人のいう言、世間の口。そのおそろしい世の中です。句切。
 紅之 クレナヰノ。クレナヰは、キク科の二年生草木、その花から紅花の染料を採る。ここは枕詞として色ニ出ヅに冠している。
 色莫出曾 イロニナイデソ。表面に出すな。人に知られるな。句切。
 念死友 オモヒシヌトモ。物思いのためによし死んでも。
【評語】強氣の歌である。初二句の大きな言い方が效果をあらわしている。紅ノの枕詞も、一首の色づけとしてよく利いている。
 
(267)684 今はわれは 死なむよ、わが夫。
 生けりとも
 吾に縁《よ》るべしと 言ふといはなくに。
 
 今者吾波《イマハワレハ》 將v死與吾背《シナムヨワガセ》
 生十方《イケリトモ》
 吾二可縁跡《ワレニヨルベシト》 言跡云莫苦荷《イフトイハナクニ》
 
【譯】もうわたくしは死んでしまいますよ。あなた。生きていても、あなたがわたくしに連れ添うとおつしやるとは誰もいいません。
【釋】今者吾波將死與吾背 イマハワレハシナムヨワガセ。總括的に、今は死あるのみの意を、まずあきらかにしている。句切。
 生十方 イケリトモ。假設條件法。
 吾二可縁跡 ワレニヨルベシト。ヨルは、親しみ寄る、夫婦となる意。君が自分に寄るべしと。
 言跡云莫苦荷 イフトイハナクニ。上のイフトは、君がいうと。下のイハナクニは、世人が誰も言わないことだの意。
【評語】死の通告だが、五句のイフを重ねたあたりに調子が出ている。しかし初二句は類歌が多く、それらを受けている。
【參考】類句、今は吾は死なむよ。
  今は吾は死なむよ吾妹。逢はずして思ひわたれば安けくも無し(卷十二、二八六九)
  今は吾は死なむよわが夫。戀すれば一日一夜も安けくも無し(同、二九三六)
  よしゑやし死なむよ吾妹。生けりともかくのみこそわが戀ひわたりなめ(卷十三、三二九八)
 
(268)685 人言《ひとごと》を 繁みや君が、
 二鞘《ふたさや》の 家を隔てて
 戀ひつつ座《を》らむ。
 
 人事《ヒトゴトヲ》 繁哉君之《シゲミヤキミガ》
 二鞘之《フタサヤノ》 家乎隔而《イヘヲヘダテテ》
 戀乍將v座《コヒツツヲラム》
 
【譯】人の口がうるさくてか、あなたは、二本の鞘に入れた刀のように、家を隔てて戀をしていらつしやるのでしよう。
【釋】人事繁哉君之 ヒトゴトヲシゲミヤキミガ。ヒトゴトヲシゲミは、人の言が繁くして。ヤは疑問の係助詞。キミガは主格。仙覺本には、君之を君乎に作つているが、これによれば、三句以下作者自身の事になり、人言ヲ繁ミヤの疑問が浮いて來る。
 二鞘之 フタサヤノ。枕詞。フタサヤは、一の鞘に二本の刀を入れるをいうとされるが、フタサヤという言い方は、二個の鞘をいうと見るべきである。日本書紀に七枝刀を、ナナツサヤノタチというに準ずれば、一本の刀に二つ鞘を使用するものの如く、よつて隔テテに冠するのであろう。
 家乎隔而 イヘヲヘダテテ。別の家にあつて。
 戀乍將座 コヒツツヲラム。コヒツツヲラム(桂)、コヒツツマサム(新訓)。將座は、マサムとも讀まれるが、特に敬語を使用しない方が通例である。
【評語】先方の行動に、多少※[者/火]え切らないもののあることが感じられるのであろう。家を隔てて戀していると思われる君の心を推量している。
 
686 この頃に 千歳や往《ゆ》きも 過ぎぬると、
(269) われや然《しか》念ふ。
 見まく欲《ほ》りかも。
 
 比者《コノゴロニ》 千歳八往裳《チトセヤユキモ》 過與《スギヌルト》
 吾哉然念《ワレヤシカオモフ》
 欲v見鴨《ミマクホリカモ》
 
【譯】この頃に千年も經つたかと、わたくしがそう思うのでしようか。逢いたいと思うゆえでしようか。
【釋】比者 コノゴロニ。コノゴロニ(桂)、コノゴロハ(元赭)。比者二字で、コノゴロと讀み、助詞ニを讀み添える。「比者之《コノゴロノ》 五更露爾《アカトキツユニ》」(卷十、二二一三)など使用されている。
 千歳八往裳過與 チトセヤユキモスギヌルト。永い時間がたつたかと。ヤは疑問の係助詞。
 吾哉然念 ワレヤシカオモフ。シカは、上の三句の内容をさす。ヤは疑問の係助詞。句切。
 欲見鴨 ミマクホリカモ。ミマホシミカモ(桂)、ミマクホリカモ(西)、ミマクホレカモ(略)。見まく欲りするからかで、カモは疑問の係助詞。逢いたいと思うので時間が長く感じられたのかの意。「山を高みかも」(卷一、四四)などと似た語形で、副詞句の獨立文。
【評語】逢いたいと思つて暮らす時間の長さを歌つている。「あひ見ては千歳や去ぬる。否をかも我や然思ふ。公待ちがてに」(卷十一、二五三九)の歌は、詞句に類似があるが、よしそれから出たとしても、構成を變えて獨立性を與えている。五句の顧みた言い方も巧みである。
 
687 愛《うつく》しと わが念ふこころ、
 速《はや》河の 塞《せ》けど塞《せ》けども
 なほや崩《く》えなむ。
 
 愛常《ウツクシト》 吾念情《ワガオモフココロ》
 速河之《ハヤカハノ》 雖v塞々友《セケドセケドモ》
 猶哉將v崩《ナホヤクエナム》
 
【譯】お慕わしいとわたくしの思います心は、速河のように塞《せ》いても塞いてもやはり決潰するのでございまし(270)よう。
【釋】愛常 ウツクシト。ウツクシは既出(卷四、六六一)。先方の状態の愛すべくあるにいう。
 吾念情 ワガオモフココロ。主格の提示句。
 速河之 ハヤカハノ。以下譬喩で表現している。ハヤカハは、水流の急な川。その川の如くの意。
 雖塞々友 セケドセケドモ。セクトセクトモ(桂)、セクトモセクトモ(代初)、セキトセクトモ(考)、セキハセクトモ(古義)。これは塞けども塞けどもの意である。
 猶哉將崩 ナホヤクエナム。ヤは疑問の係助詞。クエは崩壞する。岸が崩壞して水が奔流するだろうの意に、心の状態を喩えている。
【評語】抑止し得ない熱情を歌つているが、譬喩の表現に今一段の工夫が欲しかつた。うまく行けば、もつと力強い歌になつたろう。
 
688 青山を 横切る雲の、
 いちしろく われと咲《ゑ》まして
 人に知らゆな。
 
 青山乎《アヲヤマヲ》 横〓雲之《ヨコギルクモノ》
 灼然《イチシロク》 吾共咲爲而《ワレトヱマシテ》
 人二所v知名《ヒトニシラユナ》
 
【譯】青山を横切る雲のように、はつきりと、わたしと顔を見合わせてほほえまれて、人に知られなさいますな。
【釋】青山乎横〓雲之 アヲヤマヲヨコギルクモノ。〓は殺に同じ。キルの音に借りている。青山を横斷する雲ので、次のイチシロクの序となつている。「青山の嶺の白雲朝にけに常に見れどもめづらし我君」(卷三、三七七)と同樣の趣向である。
(271) 灼然 イチシロク。日本靈異記下卷訓釋に、灼然、移知シルクとある。本集では、「市白霜《イチシロクシモ》 吾戀目八面《ワレコヒメヤモ》」(卷十、二二五五)など、イチシロクとしている。はつきり、明瞭に。
 吾共咲爲而 ワレトヱマシテ。ヱマシは、ヱムの敬語法。吾共とあるので、わたし(作者)と共に顔を見合わせて笑うのであることがわかる。
 人二所知名 ヒトニシラユナ。シラユは受身の語法。ナは、禁止の助詞。
【評語】印象のあざやかな序を使つて、イチシロクを生かしている。既に關係の成立した後の作である。類歌は、次に掲げる。
【參考】類句、我とゑまして人に知らゆな。
  蘆垣の中のにこ草にこよかに我とゑまして人に知らゆな(卷十一、二七六二)
 
689 海山《ウミヤマ》も 隔たらなくに、
 何しかも
 目言《めごと》をだにも 幾許《ここだ》乏しき。
 
 海山毛《ウミヤマモ》 隔莫國《ヘダタラナクニ》
 奈何鴨《ナニシカモ》
 目言乎谷裳《メゴトヲダニモ》 幾許乏寸《ココダトモシキ》
 
【譯】海や山も隔つていないのに、どうしてお目にかかることだけでも、たいへんすくないのでしよう。
【釋】海山毛隔莫國 ウミヤマモヘダタラナクニ。中に海山を隔ててあるわけではないのに。
 奈何鴨 ナニシカモ。シは強意の助詞。カモは疑問の係助詞。
 目言乎谷裳 メゴトヲダニモ。メゴトは、逢つて話をすること。ダニモは、それだけでも。
 幾許乏寸 ココダトモシキ。ココダは、はなはだ。トモシキはすくないこと。カモを受けて結んでいる。
【評語】距離を隔てているわけでもないのに、どうして逢うこともすくないのかと怨んでいる。平凡な作であ(272)る。
 
大伴宿祢三依、悲v別歌一首
 
690 照らす日を 闇に見なして 哭《な》く涙、
 は衣《ころも》 ぬらしつ。
 干《ほ》す人無しに。
 
 照日乎《テラスヒヲ》 闇尓見成而《ヤミニミナシテ》 哭涙《ナクナミダ》
 衣沾津《コロモヌラシツ》
 干人無二《ホスヒトナシニ》
 
【譯】照らす日も闇のように見なして泣く涙が、著物を濡らした。干す人はなくして。
【釋】昭日乎 テラスヒヲ。テレルヒヲ(元)、テラスヒヲ(古義)。テラスの語は慣用されて、照の一字で表示されているであろう。
 闇尓見成而 ヤミニミナシテ。涙で目がふさがつて、照り渡つている日も闇のように見えるのである。以上二句、泣クの修飾句。
 衣沾津 コロモヌラシツ。涙で衣服を濡らした。句切。
 干人無二 ホスヒトナシニ。別れたので衣服を干す人がなくして。
【評語】泣く有様が誇張して歌われている。旅に出たか、または何かの事情かで、妻に別れて詠んだ歌。しかし仰山で、しみじみと別れの悲しみが出ていない。
 
大伴宿祢家持、贈2娘子1歌二首
 
【釋】贈娘子歌 ヲトメニオクレルウタ。どのような娘子とも知られないが、歌詞によるに、大宮人の一人で(273)あつたらしい。
 
691 ももしきの 大宮人は 多かれど、
 情《こころ》に乘りて 念ほゆる妹。
 
 百礒城之《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 雖2多有1《オホカレド》
 情尓乘而《ココロニノリテ》 所v念妹《オモホユルイモ》
 
【譯】宮仕えをする人は多いけれども、わたしの心を占めて思われるあなたです。
【釋】百礒城之大宮人者 モモシキノオホミヤビトは。既出(卷三、三二三)。
 雖多有 オホカレド。多くあれども。
 情尓乘而所念妹 ココロニノリテオモホユルイモ。ココロニノリは既出(卷二、一〇〇)。心を占有して、心に乘りかかつて。心いつぱいに思われる妹よ。
【評語】多數ある中にただ一つを擧げる表現法は、長歌に多いが、この歌はそれを短歌に應用している。心ニ乘リテは慣用句で、前行の歌を受けている。
 
692 表邊《うはべ》なき 妹にもあるかも。
 かくばかり
 人の情《こころ》を つくす念へば。
 
 得羽重無《ウハベナキ》 妹二毛有鴨《イモニモアルカモ》
 如v此許《カクバカリ》
 人情乎《ヒトノココロヲ》 令v盡念者《ツクスオモヘバ》
 
【譯】うわべをつくらないあなたですね。これほどまで人の心を盡《つく》させることを思うと。
【釋】得羽重無 ウハベナキ。既出(卷四、六三一)。表面のない、あいそのない。
 妹二毛有鴨 イモニモアルカモ。妹であることかな。句切。
 人情乎令盡念者 ヒトノココロヲツクスオモヘバ。ヒトは作者自身。ツクスは盡させる。
(274)【評語】既出の湯原の王の歌によつて作つている。模倣作である。
大伴宿祢千室歌一首 未v詳
 
【釋】大伴宿祢千室 オホトモノスクネチムロ。卷の二十に、天平勝寶六年正月四日の作歌の中に、左兵衛の督大伴の宿禰千室とあるほか、傳未詳。下文の未詳とあるは、當時既にこの人のことがあきらかでなかつたのであろう。
 
693 かくのみに 戀ひやわたらむ。
 秋津野に 棚引く雲の
 過ぐとは無しに。
 
 如v此耳《カクノミニ》 戀哉將v度《コヒヤワタラム》
 秋津野尓《アキヅノニ》 多奈引雲能《タナビククモノ》
 過跡者無二《スグトハナシニ》
 
【譯】こんなふうに戀をしてか暮すことだろう。秋津野に棚引く雲のように過ぎ去ることなしに。
【釋】如此耳戀哉將度 カクノミニコヒヤワタラム。かようにのみして、戀いつつか日を過ごすことだろう。
 秋津野尓 アキヅノニ。アキヅノは、吉野の地名。多分吉野で詠んだので、その地名が出ているのだろう。
 多奈引雲能 タナビククモノ。以上二句は、序で、遇グを引き起している。
 過跡者無二 スグトハナシニ。スグは、心中を通過して戀のなくなること。
【評語】實景に即して歌つている點がよい。これによつて多少歌がしんみりしてぐる。
 
廣河女王歌二首 穗積皇子之孫女、上道王之女也
 
【釋】廣河女王 ヒロカハノオホキミ。下の註に、穗積の皇子の孫女、上道の王の女なりとあり、續日本紀に、(275)天平寶字七年正月、無位廣河の王に從五位の下を授くとあるほか、未詳。
 
694 戀草を
 力車に 七車
 積みて戀ふらく。
 わが心から。
 
 戀草呼《コヒグサヲ》
 力車二《チカラグルマニ》 七草《ナナクルマ》
 積而戀良苦《ツミテコフラク》
 吾心柄《ワガココロカラ》
 
【譯】戀という草を、租税の車に七車も積んで戀をすることは、わたくしの心からです。
【釋】戀草呼 コヒグサヲ。コヒグサは、戀を草に喩えている。但しわすれ草、目ざまし草などいうのは、その材料の意にクサの語を使つているが、これは、戀そのものを草に喩えていうのである。
 力車二 チカラグルマニ。チカラは租税の義で、租税を運ぶ車である。
 七草 ナナクルマ。車數の多いことをいう。
 積而戀良苦 ツミテコフラク。コフラクは戀うこと。
 吾心柄 ワガココロカラ。カラは、故にの意の助詞。自分の心ゆえに。
【評語】奇拔な表現である。力車に七車の重ね言葉も調子がよい。戀の重荷に苦しむ情が、滑稽味を帶びて歌われている。力車を、租稻の車と解することによつて寓意が生きる。
 
695 戀は今は あらじとわれは
 念へるを、
 何處《いづく》の戀ぞ。
(276) つかみかかれる。
 
 戀者今葉《コヒハイマハ》 不v有常吾羽《アラジトワレハ》
 念乎《オモヘルヲ》
 何處戀其《イヅクノコヒゾ》
 附見繋有《ツカミカカレル》
 
【譯】もうわたしは戀はしまいと思つているのに、どういう戀だろう、わたしにつかみかかつて來たのは。
【釋】戀者今葉不有常吾羽念乎 コヒハイマハアラジトワレハオモヘルヲ。自分は、戀は終りにしたと思つているのに、しかるに。
 何處戀其 イヅクノコヒゾ。何處から來た戀か。ゾは終助詞。句切。
 附見繋有 ツカミカカレル。自分につかみ懸かつて壓倒しようとしている。つかみかかれるはの意に、第四句を説明している。
【評語】仰山な言い方が特色をなしている。作者の才氣も窺われるが、もう年輩になつて、戀もしつくして來られたのであろう。祖父の穗積の皇子の歌に、「家にありし櫃《ひつ》に※[金+巣]《かぎ》さし藏《をさ》めてし戀の奴のつかみかかりて」(卷十六、三八一六)というのがあるのは、この歌のもとになつているのだろう。
 
石川朝臣廣成歌一首 後賜2姓高圓朝臣氏1也
 
【釋】石川朝臣廣成 イシカハノアソミヒロナリ。續日本紀に、天平寶字二年八月に從五位の下、四年二月に姓高圓の朝臣を賜い文部の少輔となり、五年五月以後、高圓の朝臣廣世の名をもつて、攝津の亮、尾張の守、山背の守、播磨の守、周防の守、伊豫の守を歴任し、寶龜元年十月、正五位の下に敍せられたことまで見えている。新撰姓氏録には「高圓朝臣、出(ヅ)v自(リ)2正五位(ノ)下高圓(ノ)朝臣廣世1也。元就(キテ)2母(ノ)氏(ニ)1、爲(ス)2石川(ノ)朝臣(ト)1」と見えている。
 
696 家人に 戀ひ過ぎめやも。
(277) 河蝦《かはづ》鳴く 泉の里に
 年の歴《へ》ぬれば。
 
 家人尓《イヘビトニ》 戀過目八方《コヒスギメヤモ》
 川津鳴《カハヅナク》 泉之里尓《イヅミノサトニ》
 年之歴去者《トシノヘヌレバ》
 
【譯】家の人を思うことは、はてしもない。河蝦の鳴く泉の里に年がたつたので。
【釋】家人尓 イヘビトニ。イヘビトは、わが家に殘して來た人。「家人《イヘビトノ》使在之《ツカヒナルラシ》」(卷九、一六九七)、「伊敝妣等波《イヘビトハ》 可敝里波也許等《カヘリハヤコト》」(卷十五、三六三六)等、使用例が多く、妻に限定されないが、その中心は妻にあるが如くである。ニは戀フに對している。
 戀過目八方 コヒスギメヤモ。コヒスギは、戀の通過してなくなる意。そのようなことはないと反語になる句。句切。
 川津鳴 カハヅナク。カハヅは川に棲む蛙。
 泉之里尓 イヅミノサトニ。イヅミは、泉川(今の木津川)に臨んだ一地點。泉の杣とも呼ばれ、また泉川の水運の便もあるので、そのための用務で滯在したのであろう。
 年之歴去者 トシノヘヌレバ。年が經過した。翌年にわたつたのをいう。
【評語】旅に久しくして、家人に對する戀のやむ時のないのを歌つている。その構想には、理智的な運びがあり、それはこの人の、吏務の人であることを語る。經歴を見てもこの事がよく知られる。河蝦鳴クの一句は、泉の里の風趣を描いて有效である。
 
大伴宿祢像見歌三首
 
697 わが聞《きき》に 繋《か》けてな言ひそ。
(278) 刈薦《かりごも》の 亂れて念ふ
 君が正香《ただか》ぞ。
 
 吾聞尓《ワガキキニ》 繋莫言《カケテナイヒソ》
 苅薦之《カリゴモノ》 亂而念《ミダレテオモフ》
 君之直香曾《キミガタダカゾ》
 
【譯】わたしの耳に入るようにおつしやるな、刈つた薦のように亂れて思うあなたの正體です。
【釋】吾聞尓繋莫言 ワガキキニカケテナイヒソ。キキニカケテとは、聞くことに關してで、耳に入るように。わたしに聞えるようにいうなの意。句切。
 苅薦之 カリゴモノ。既出(卷三、二五六)。枕詞。
 亂而念 ミダレテオモフ。わが心亂れて思う。次句の修飾句。
 君之直香曾 キミガタダカゾ。タダは直接、カはアリカ、スミカなどのカで、タダカはまさしき存在をいう。よつて正香とも書いている。君のまさしき有樣。ゾは終助詞。
【評語】思い入つた樣は窺われる。初二句は、第三者に對して言つているとも取れるが、なお直接先方の言に對して言つているのであろう。
 
698 春日野に 朝ゐる雲の、
 しくしくに われは戀ひまさる。
 月に日にけに。
 
 春日野尓《カスガノニ》 朝居雲之《アサヰルクモノ》
 敷布二《シクシクニ》 吾者戀益《ワレハコヒマサル》
 月二日二異二《ツキニヒニケニ》
 
【譯】春日野に朝いる雲のように重ね重ねわたしは戀いまさります。月ごとに日ごとに特別に。
【釋】春日野尓朝居雲之 カスガノニアサヰルクモノ。以上シクシクニと言うための序。春日野は、春日山を含む一帶をいう。
(279) 敷布二 シクシクニ。シクは重なる意の動詞。シクシクニで、重ね重ねの意の副詞を作る。
 吾者戀益 ワレハコヒマサル。ワレハコヒマス(元)、アハコヒマサル(古義)。自分は戀い増さる。句切。
 月二日二異二 ツキニヒニケニ。既出。時ごとにの意を、同形の語を重ねて強調している。
【評語】目前の景を敍して序としている。しかし雲を譬喩に使うのは、ありふれているし、歌の内容も極めて平凡である。
 
699 一瀬《ひとせ》には 千遍《ちたび》障《さは》らひ
 逝《ゆ》く水の、
 後《のち》にも逢はむ。
 今にあらずとも。
 
 一瀬二波《ヒトセニハ》 千遍障良比《チタビサハラヒ》
 逝水之《ユクミヅノ》
 後毛將v相《ノチニモアハム》
 今尓不v有十方《イマニアラズトモ》
 
【譯】一つの瀬に千遍もぶつかつて行く水のように、後でも逢いましよう、よし今でなくても。
【釋】一瀬二波 ヒトセニハ。一つの瀬で。
 千遍障良比 チタビサハラヒ。サハラヒは、さわる、妨げられる。何遍でもあちこちに觸れぶつかつて。
 逝水之 ユクミヅノ。以上三句、譬喩による序として、次の後ニモ逢ハムを引き起している。
 後毛將相 ノチニモアハム。水が岩にせかれて割れても、また合うように、今逢いかねても將來にも逢おうの意。句切。
 今尓不有十方 イマニアラズトモ。よし今のことでなくても。
【評語】類想の多い歌である。行く水の別れてもまた逢うことに著目している歌も多い。
 
          (280)【參考】類想。
  鴨川の後湍《のちせ》しづけみ後も逢はむ。妹には吾は今にあらずとも(卷十一、二四三一)
  高湍《こせ》にある能登湍《のとせ》の川の後も逢はむ。妹には吾は今にあらずとも(卷十二、三〇一八)
 
大伴宿祢家持、到2娘子之門1作歌一首
 
【釋】到娘子之門作歌 ヲトメガカドニイタリテツクレルウタ。娘子は、いかなる人とも知られない。人を迎える遊行女婦の類ででもあつたのであろうか。
 
700 かくしてや なほや退《まか》らむ。
 近からぬ 道の間《あひだ》を
 なづみ參來《まゐき》て。
 
 如此爲而哉《カクシテヤ》 猶八將退《ナホヤマカラム》
 不v近《チカカラヌ》 道之間乎《ミチノアヒダヲ》
 煩參來而《ナヅミマヰキテ》
 
【譯】こんなふうにやつて來てか、やはり歸りましようか。近くない道のあいだを骨を折つて來て。
【釋】如此爲而哉猶八將退 カクシテヤナホヤマカラム。二つのヤは、共に疑問の係助詞。ナホヤは熟語句となつて、やはりねえの如き意味をあらわす。句切。
 不近道之間乎 チカカラヌミチノアヒダヲ。近くない道の距離を。
 煩參來而 ナヅミマヰキテ。ナヅミは骨を折つて、難澁して。
【評語】むだにやつて來て、目的を達しないで歸る不平が歌われている。下三句に骨を折つてやつて來たむねが敍せられている。カクシテヤナホヤ――ムというのは、一つの型で、多分歌いものとして行われていたのであろう。
(281)【參考】類想。かくしてやなほや――む。
  かくしてやなほや老いなむ。み雪降る大荒木野の小竹にあらなくに(卷七、一三四九)
  かくしてやなほや守らむ。大荒木の浮田の社《もり》の標にあらなくに(卷十二、二八三九)
 
河内百枝娘子、贈2大伴宿祢家持1歌二首
 
【釋】河内百枝娘子 カフチノモモエノヲトメ。傳未詳。河内は國名か、百枝は名か、すべて不明である。
 
701 はつはつに 人を相見て、
 いかならむ、いづれの日にか
 また外《よそ》に見む。
 
 波都波都尓《ハツハツニ》 人乎相見而《ヒトヲアヒミテ》
 何將有《イカナラム》 何日二箇《イヅレノヒニカ》
 又外二將v見《マタヨソニミム》
 
【譯】ほんとにちよつとだけあなたを見て、どのような何時の日にか、またよそながら見ることでしよう。
【釋】波都波都尓 ハツハツニ。わずかの意の語を重ねて副詞とした。わずかを古くハツカという。そのハツに同じ語である。集中、端々、小端などに、この語を當てて讀んでいる。
 人乎相見而 ヒトヲアヒミテ。ヒトは家持。それを客觀的に敍している。
 何將有何日二箇 イカナラムイヅレノヒニカ。同意語を重ねて、その日の稀有であるべきを暗示している。ほんとうにどういう日にかの意。カは疑問の係助詞。
 又外二將見 マタヨソニミム。またよそながらも見よう。
【評語】再會を期しがたい運命をみずから隣んでいる。この作者も遊行女婦の類か。さすれば河内は國名であろう。
 
(282)702 ぬばたまの、その夜の月夜《つくよ》、
 今日までに われは忘れず。
 問《ま》なくし念へば。
 
 夜干玉之《ヌバタマノ》 其夜乃月夜《ソノヨノツクヨ》
 至2于今日1《ケフマデニ》 吾者不v忘《ワレハワスレズ》
 無v間苦思念者《マナクシオモヘバ》
 
【譯】あの晩の月は、今日までもわたくしは忘れません。ひまなく思つて居りますので。
【釋】其夜乃月夜 ソノヨノツクヨ。ソノヨは、逢つた夜。ツクヨは、月に主想がある。ヨは接尾語。
 至于今日吾者不忘 ケフマデニワレハワスレズ。それからずつと今日まで忘れない。句切。
 無間苦思念者 マナクシオモヘバ。マナクは、間斷なく。シは強意の助詞。
【評語】その夜の月を忘れないということ、風情ある言い方である。その月が永く思い出となつているのである。
 
巫部麻蘇娘子歌二首
 
【釋】巫部麻蘇娘子 カムナギベノマソノヲトメ。傳未詳。巫部は氏、麻蘇は名であろう。卷の八に家持がこの人の歌に和している。
 
703 わが夫子を 相見しその日、
 今日までに、
 わが衣手は ふる時も無し。
 
 吾背子乎《ワガセコヲ》 相見之其日《アヒミシソノヒ》
 至2于今日1《ケフマデニ》
 吾衣手者《ワガコロモデハ》 乾時毛奈志《フルトキモナシ》
 
【譯】あなたにお目にかかつたその日から今日まで、わたくしの著物は、涙のために乾《かわ》く時もございません。
(283)【釋】吾背子乎 ワガセコヲ。家持をさしているようである。
 相見之其日 アヒミシソノヒ。逢つた日を擧げて、その日からの意をあらわしている。
 吾衣手者 ワガコロモデハ。コロモデは衣服に同じ。
 乾時毛奈志 フルトキモナシ。動詞乾ルは、古くは上二段に活用していた。日本書紀景行天皇の卷に、市乾鹿文という人名に註して「乾、此(ヲ)云(フ)v賦《フト》」とあり、本集に「草佐倍思《クササヘオモヒ》 浦乾來《ウラブレニケリ》」(卷十一、二四六五)の如く乾をフレの假字に使用している。よつてその連體形をフルとする。涙のために乾く時もないの意。
【評語】第二句は、表現が不十分であるが、かえつてその日が強調されて感じられる。四五句は平凡である。
 
704 栲繩《たくなは》の 永き命を 欲《ほ》りしくは、
 絶えずて人を 見まく欲《ほ》りこそ。
 
 栲繩之《タクナハノ》 永命乎《ナガキイノチヲ》 欲苦波《ホリシクハ》
 不v絶而人乎《タエズテヒトヲ》 欲v見社《ミマクホリコソ》
 
【譯】栲繩のような長い命を願うのは、絶えずあなたに逢いたいと思えばです。
【釋】栲繩之 タクナハノ。既出(卷二、二一七)。枕詞。コウゾで作つた繩のような。
 永命乎 ナガキイノチヲ。永い壽命を。
 欲苦波 ホリシクハ。ホシケクは(西)、ホリシクハ(新校)。シは、時の助動詞。欲したことはの意になる。ホシケクはと讀むと、ホシケは形容詞になるが、形容詞が助詞ヲを受ける例がないので、新校の訓による。
 不絶而人乎 タエズテヒトヲ。タエズテは、間斷なくして。ヒトは思う人。
 欲見社 ミマクホリコソ。見たいと欲すればこその意で、下にアレの如き語が省略されている。コソは係助詞。副詞句。「欲v見鴨《ミマクホリカモ》」(六八六)參照。
【評語】戀の順調な進行が歌われている。君に逢わむがために永い命を欲する心は憐れである。
 
(284)大伴宿祢家持、贈2童女1歌一首
 
【釋】贈童女歌 ヲトメニオクレルウタ。童女は、「如此許《カクバカリ》 戀爾將v沈《コヒニシヅマム》 如2手童兒1《タワラハノゴト》 一云、戀乎太爾《コヒヲダニ》 忍金手武《シノビカネテム》 多和良波乃如《タワラハノゴト》」(卷二・一二九)、「老人毛《オヒビトモ》 女童兒毛《ヲミナワラハモ》」(卷十八、四〇九四)などあるによれば、ワラハと讀むべきか。古事記上卷に、「老夫與2老女1《オキナトオミナト》二人在(リテ)而、童女《ヲトメヲ》置(キテ)v中(ニ)而泣(ク)」とあり、語を代えて八稚女《ヤヲトメ》ともある。これによればヲトメである。また日本書紀雄略天皇の卷には、童女君に訓してヲムナキミとある。娘子より若い人をいうと見られるが、歌を詠んでいるから、十五六歳以上であろう。どういう人とも知られない。
 
705 葉根※[草冠/縵]《じゃねかづら》 今する妹を 夢《いめ》に見て、
 情《こころ》のうちに 戀ひわたるかも。
 
 葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》
 今爲昧乎《イマスルイモヲ》 夢見而《イメニミテ》
 情内二《ココロノウチニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
 
【譯】葉根※[草冠/縵]を今しているお前を夢に見て、心の中で戀い暮しているよ。
【釋】葉根※[草冠/縵] ハネカヅラ。仙覺の萬葉集註釋に花カヅラとしているが、花をハネというべくもない。攷證に羽根カヅラで、鳥の羽に似た飾りを附けるという。これは菖蒲カヅラのことで、菖蒲の葉や根を輪に作つて鬘として、五月五日ににこれを戴くをいう。それで、今するというのである。なおこの語は「波禰※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹乎《イマスルイモヲ》 浦若三《ウラワカミ》 去來率去河之《イザイザガハノ》 音之清左《オトノサヤケサ》」(卷七、一一一二)、「波禰※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹之《イマスルイモガ》 浦若見《ウラワカミ》 咲見慍見《ヱミミイカリミ》 著四紐解《ツケシヒモトク》」(卷十一、二六二七)の用例があり、皆うら若しと言つている。續日本紀天平十九年五月五日、「是(ノ)日、太上天皇詔(シ)曰《タマハク》、昔者五日之節(ニ)常(ニ)用(ヰテ)2菖蒲(ヲ)1爲(シキ)v縵(ト)。比來已(ニ)停(ム)2此(ノ)事(ヲ)1。從v今而後、非(ル)2菖蒲(ノ)縵(ニ)1者、勿(レ)v入(ル)2宮中(ニ)1」とある。
 今爲妹乎 イマスルイモヲ。イマスルは、平常の服飾でないことを語つている。
【評語】初二句は、先行の歌から來ている。夢に葉根※[草冠/縵]をしている童女を見たのは美しいが、下句は平凡であ(285)り、心ノ中ニ戀ヒ渡ルとは、冗長でもある。深い心のない歌のようである。葉根※[草冠/縵]をしている童女の美しい姿が想像されるだけである。
 
童女來報歌一首
 
【釋】來報歌 キタリコタフルウタ。家持關係の歌の集録は、家持の手記によると考えられるが、ここに來報とあるのも、家持を中心とした書き方で、手記の文のままであると見るべきである。なおこの卷の末、七九一の歌の前にも「藤原朝臣久須麻呂來(リ)報(フル)歌二首」とある。
 
706 葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今する妹は 無かりしを、
 いづれの妹ぞ。
 幾許《ここだ》戀ひたる。
 
 葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹者《イマスルイモハ》 無四呼《ナカリシヲ》
 何妹其《イヅレノイモゾ》
 幾許戀多類《ココダコヒタル》
 
【譯】葉根※[草冠/縵]を今している女はございませんでしたが、どちらの方かしら、たいへんお慕いになりましたのは。
【釋】葉根※[草冠/縵]今爲妹者 ハネカヅライマスルイモハ。贈られた歌の語を使用している。イモは、ここでは女子ぐらいの意に使用されている。
 無四呼 ナカリシヲ。作者は葉根※[草冠/縵]をしていなかつたのである。
 何妹其 イヅレノイモゾ。イカナルイモゾ(桂)、イヅレノイモゾ(攷)。どの女子でしようか。ゾは終助詞。句切。
 幾許戀多類 ココダコヒタル。君が多量に戀いたるはの意で、四句を説明する。
【評語】詞句がたどたどしいのは、作者が年少であるからであろう。わたくしは葉根※[草冠/縵]をしておりません、お(286)門違いでしようという歌であるが、とにかくそれだけの意味が通じてはいる。
 
粟田女娘子、贈2大伴宿祢家持1歌二首
 
粟田女の娘子の、大伴の宿禰に贈れる歌二首。
 
【釋】粟田女娘子 アハタメノヲトメ。傳未詳。アハタメは名と考えられる。
 
707 思ひ遣《や》る 術《すべ》の知らねば
 片※[土+完]《かたもひ》の 底にぞわれは
 戀ひなりにける。【土※[土+完]の中に注せり。】
 
 思遣《オモヒヤル》 爲便乃不知者《スベノシラネバ》
 片※[土+完]之《カタモヒノ》 底曾吾者《ソコニゾワレハ》
 戀成尓家類《コヒナリニケル》 注2土※[土+完]之中1
 
【譯】思いを晴らす法を存じませんので、わたくしはこの片※[土+完]のように、片思いの底に落ちてしまいました。
【釋】思遣 オモヒヤル。思い去る。思いを向こうへやつてなくすのである。思いをやるのでなく思い遣るという言い方である。
 爲便乃不知者 スベノシラネバ。手段がわからないので。
 片※[土+完]之 カタモヒノ。カタモヒは、ふたのない椀。※[土+完]は※[土+宛]に同じく、土製の椀。それに同音によつて片思いを懸けている。
 底曾吾者 ソコニゾワレハ。片※[土+完]の底というのは、歌の下の注に「土※[土+完]の中に注せり」とあるように、この歌を片※[土+完]の底に書いたので、それをさすのであり、同時に、片思いの底というので、全く片思いの境遇に落ちたことをあらわしている。ゾは係助詞。
 戀成尓家類 コヒナリニケル。戀をしてそれになつたということ。ここでは、片※[土+完]の底になつたというので(287)ある。
 注土※[土+完]之中 ハニモヒノナカニシルセリ。この歌を土製の片※[土+完]の中に記したという説明で、筆録者の註である。これは後人には理解しがたかつたと見えて、諸本に誤字が多い。圖は神田本で、これも誤寫している。仙覺本は、全くこの註を削つた。
【評語】片※[土+完]と片思いとの同音を利用した歌に過ぎないが、これを士※[土+完]の中に記するに至つて、相聞の歌としての目的は達し得たのであろう。才氣の溢れた歌であるが、作爲の色が濃い。
 
708 またも逢はむ 因《よし》もあらぬか。
 白細《しろたへ》の わが衣手に
 齋《いは》ひ留めむ。
 
 復毛將v相《マタモアハム》 因毛有奴可《ヨシモアラヌカ》
 白細之《シロタヘノ》 我衣手二《ワガコロモデニ》
 齋留目六《イハヒトドメム》
 
(288)【譯】またも逢うよしもございませんでしようか。わたくしの白い袖に、齋い留めておきましよう。
【釋】復毛將相因毛有奴可 マタモアハムヨシモアラヌカ。ふたたび逢うべき因縁もないか。ヌカは希望の意になる。句切。
 白細之我衣手二 シロタヘノワガコロモデニ。白い布の衣に。
 齋留目六 イハヒトドメム。イハヒは、神を祭つて邪氣に犯されないようにする行事。ここは動詞として、再會を衣服に齋い留めようというのである。衣服によつて齋いをすることは、「白栲のあが衣手を取り持ちていはへわが夫子ただに逢ふまでに」(卷十五、三七七八)など歌われている。
【評語】白栲の衣に再會を齋い留めようという、信仰に生きた生活が歌われている。特殊な事柄を歌つて、平凡を免れている。
 
豐前國娘子大宅女歌一首 未v審2姓氏1
 
【釋】豐前國娘子大宅女 トヨノミチノクチノクニノヲトメオホヤケメ。傳未詳。大宅女は名である。卷の六にもこの人の月の歌(九八四)があつて「娘子字(ヲ)曰(フ)2大宅(ト)1、姓氏未(ダ)v詳(ナラズ)也」とある。どういう縁で、この人の作が此處に採録されたかも不明である。
 
709 夕闇は 路《みち》たづたづし。
 月待ちて 行《ゆ》かせ、わが夫子、
 その間《ま》にも見む。
 
 夕闇者《ユフヤミハ》 路多豆多頭四《ミチタヅタヅシ》
 待v月而《ツキマチテ》 行吾背子《ユカセワガセコ》
 其間尓母將v見《ソノマニモミム》
 
【譯】夕闇は道があぶのうございます。月を待つていらつしやい、あなた。そのあいだにも見ておりましよう。
(289)【釋】夕闇者 ユフヤミハ。ユフヤミは月のまだ出ない初夜のくらいのをいう。
 路多豆多頭四 ミチタヅタヅシ。タヅタヅシは、手探りである意の形容詞で、おぼつかない意。句切。
 待月而 ツキマチテ。桂本には月待而に作つている。
 行吾背子 ユカセワガセコ。イマセワガセコ(桂)、ユカムワガセコ(元赭)、ユカセワガセコ(代初)。月の出を待つておいでなさい。ユカセは、行クの敬語の命令形。句切。
 其間尓母將見 ソノマニモミム。別れを惜しむ情が見えている。
【評語】月光をたよりにしていた生活が窺われ、それが自然に趣を成している。この作者は、遊行女婦であろうと思われ、この歌も、職業的な感じである。
 
安都扉娘子歌一首
 
【釋】安都扉娘子 アトノトビラノヲトメ。傳未詳。安都は氏、扉は名であろう。略解に、安都扉をアツミと讀んでいるが、恐らくは非であろう。
 
710 み空行く 月の光に、
 ただ一目 あひ見し人の、
 夢《いめ》にし見ゆる。、
 
 三空去《ミソラユク》 月之光二《ツキノヒカリニ》
 直一目《タダヒトメ》 相三師人之《アヒミシヒトノ》
 夢西所v見《イメニシミユル》
 
【譯】大空を行く月の光に、ただ一目見た方が、夢に見えました。
【釋】三空去 ミソラユク。ミは接頭語。月の修飾句。
 直一目相三師人之 タダヒトメアヒミシヒトノ。ただ一目だけ見た人が。
(290) 夢西所見 イメニシミユル。連體形で留めたのは、下に體言を略した氣分である。
【評語】月光のもとにただ一目見た人の忘れがたく、夢にあらわれたことを述べている。美しい幻想の歌である。
 
丹波大女娘子歌三首
 
【釋】丹波大女娘子 タニハノオホメノヲトメ。傳未詳。丹波は姓もあるが、多分國名であろう。大女は名。
 
711 鴨島の 遊ぶこの池に
 木の葉落ちて 浮かべる心、
 わが念はなくに。
 
 鴨鳥之《カモトリノ》 遊此池尓《アソブコノイケニ》
 木葉落而《コノハオチテ》 浮心《ウカベルココロ》
 吾不v念國《ワガオモハナクニ》
 
【譯】鴨の遊んでいるこの池に木の葉が落ちて浮いている。そんな浮いた心をわたくしは持つておりません。
【釋】鴨鳥之遊此池尓木葉落而 カモトリノアソブコノイケニコノハオチテ。以上三句、浮カブというための序である。この池と指摘しているのは、目前にある池を詠んだためであろう。鴨鳥は鴨のこと。ヲシをヲシドリというが如き言い方である。
 浮心 ウカベルココロ。落ちつかない心。移り氣な心。
 吾不念國 ワガオモハナクニ。わたしは思わぬことです。
【評語】實景を描いたと思われる三句までの序が印象的でよい。字あまりも有效である。内容は單純だが、序で持つている歌である。
 
(291)712 味酒《うまさけ》を 三輪《みわ》の祝《はふり》が 忌《いは》ふ杉、
 手《て》觸《ふ》れし罪か、
 君に遇ひがたき。
 
 味酒呼《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》 忌杉《イハフスギ》
 手觸之罪歟《テフレシツミカ》
 君二遇難寸《キミニアヒガタキ》
 
【譯】よい酒を釀す三輪の神職が大切にしている杉に手を觸れた罰でしようか。あなたに逢うことができないのは。
【釋】味酒呼 ウマサケヲ。日本書紀崇神天皇の卷に「宇摩佐開《ウマサケ》 彌和能等能能《ミワノトノノ》」とあり、本集にも「味酒《ウマサケ》 三輪乃山《ミワノヤマ》」(卷一、一七)とあつて、もと四音の枕詞であつたが、後、助詞を添えて五音にいうようになつた。ヲは感動の助詞。この種のヲを伴なう枕詞の例。「御心乎《ミココロヲ》 吉野乃國之《ヨシノノクニノ》」(卷一、三六)。よい酒、その三輪と續く。ミワは神酒の義。「味酒之《ウマサケノ》 三毛侶乃山爾《ミモロノヤマニ》」(卷十一、二五一二)の如く、ウマサケノともいう。
 三輪之祝我 ミワノハフリガ。三輪は、奈良縣磯城郡|大神《おおみわ》神社。ハフリは、不淨を祓う者の義で、神職一般をいう。
 忌杉 イハフスギ。大切に守つている御神木の杉。「神名備能《カムナビノ》 三諸之山丹《ミモロノヤマニ》 隱藏杉《イハフスギ》」(卷十三、三二二八)とあるのは、明日香の神南備であるが、同じく杉を詠んでいる。
 手觸之罪歟 テフレツツミカ。神木には手を觸れないということは、「神樹爾毛《カムキニモ》 手者觸云乎《テハフルトイフヲ》」(卷四、五一七)參照。カは終助詞。句切。
 君二遇難寸 キミニアヒガタキ。この下、體言を省いた氣分である。上の、「いづくの戀ぞつかみかかれる」(卷四、六九五)と同じ語法である。
【評語】かつてたまたま御神木に手を觸れたことのあるのを思い起して氣にしているのであろう。信仰生活が(292)基調になつているところに、篤實性があるが、四句は露骨に過ぎる。
 
713 垣《かき》ほなす 人言《ひとごと》聞きて、
 わが夫子が
 情《こころ》たゆたひ 逢はぬこの頃。
 
 垣穗成《カキホナス》 人辭聞而《ヒトゴトキキテ》
 吾背子之《ワガセコガ》
 情多由多比《ココロタユタヒ》 不v合頃者《アハヌコノゴロ》
 
【譯】隔てをする人の言葉を聞いて、あなたは心がためらつて逢わない日が續きます。
【釋】垣穗成 カキホナス。ホは接尾語。垣の突出性のあることをあらわす。岩ホのホに同じ。カキホは障壁を成す垣。カキホナスは、その垣のようなの意に、次の人言を修飾する。
 人辭聞而 ヒトゴトキキテ。他人の言語を聞いて。
 情多由多比 ココロタユタヒ。タユタヒは、猶豫逡巡する意。
 不合頃者 アハヌコノゴロ。頃者は、比者に同じ。頃は時の久しくないのをいい、數日を頃者という。
【評語】類型的な内容で、他人の言辭を氣にしている。前の二首にくらべて特色がすくない。
 
大伴宿祢家持、贈2娘子1歌七首
 
714 情《こころ》には 思ひわたれど、
 縁《よし》を無《な》み
 外《よそ》のみにして 嘆《なげ》きぞわがする。
 
 情尓者《ココロニハ》 思渡跡《オモヒワタレド》
 緑乎無三《ヨシヲナミ》
 外耳爲而《ヨソノミニシテ》 嘆曾吾爲《ナゲキゾワガスル》
 
【譯】心では思つて過ごしているのだが、便宜がないのでよそにばかりして嘆息している。
(293)【釋】情尓者思渡跡 ココロニハオモヒワタレド。ワタレドは、時を經過すれども。心中では思つているのだが。
 縁乎無三 ヨシヲナミ。ヨシは縁故、因縁。手のつけどころがなくて。
 外耳爲而 ヨソノミニシテ。關係ないものとして。
 嘆曾吾爲 ナゲキゾワガスル。嘆き、それを自分がするの意。
【評語】言い寄るべき縁故がなくして、よそにしていることを嘆いている。平語に近い作である。
 
715 千鳥鳴く 佐保の河門《かはと》の 清き瀬を、
 馬うち渡し 何時《いつ》か通はむ。
 
 千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河門之《サホノカハトノ》 清瀬乎《キヨキセヲ》
 馬打和多思《ウマウチワタシ》 何時將v通《イツカカヨハム》
 
【譯】千鳥の鳴く佐保川の岸のわたり場所の清らかな瀬を、馬を渡らせて何時になつたら通うことだろう。
【釋】千鳥鳴佐保乃河門之 チドリナクサホノカハトノ。既出(卷四、五二八)。カハトは、河川の門戸の如き地形を成している處で、川わたりをするところ。
 清瀬乎 キヨキセヲ。河水の清らかに音を立てて流れる處を。
 馬打和多思 ウマウチワタシ。馬で川を渡して。ウチは動詞に附く接頭語。
 何時將通 イツカカヨハム。かの人のもとにいつの時にか通うこととなるだろう。
【評語】大伴の坂上の郎女の、「千鳥鳴く佐保の河門《かはと》の浦を廣み打橋わたす汝《な》が來と思へば」(卷四、五二八)の歌によつて作り、ただ作者自身が馬に乘つて通うことに變えている。これだけ讀めば、貴族的な上品な歌である。
 
(294)716 夜晝《よるひる》と いふ別《わき》知らに
 わが戀ふる こころはけだし
 夢《いめ》に見えきや。
 
 夜畫《ヨルヒルト》 云別不v知《イフワキシラニ》
 吾戀《ワガコフル》 情蓋《ココロハケダシ》
 夢所v見寸八《イメニミエキヤ》
 
【譯】夜晝といふ區別も知らないでわたしの戀ふる心は、もしや夢に見えたでしようか。
【釋】夜晝云別不知 ヨルヒルトイフワキシラニ。晝夜の區別もなく。次の句を修飾する。
 情蓋 ココロハケダシ。ケダシは推量する意の副詞。
 夢所見寸八 イメニミエキヤ。夢に見えたか。ヤは疑問の助詞。
【評語】思えば夢に見えるとする。晝夜の區別も知らずに戀う心の、先方の夢に通じたかを問うている。一往思う心を通じ得た歌である。
 
717 つれも無く あるらむ人を、
 片念《かたもひ》に われは念へば、
 わびしくもあるか。
 
 都禮毛無《ツレモナク》 將有人乎《アルラムヒトヲ》
 獨念尓《カタモヒニ》 吾念者《ワレハオモヘバ》
 惑毛安流香《ワビシクモアルカ》
 
【譯】思つてもいないだろう人を、片思いにわたしは思うので、困つたことだ。
【釋】都禮毛無將有人乎 ツレモナクアルラムヒトヲ。ツレは關係の意だが、ツレモナクはここでは、後のツレナシに近く、自分に關心なくつれなくてあるだろう人である。
 獨念尓吾念者 カタモヒニワレハオモヘバ。獨念は、義をもつて書いている。カタモヒニは、わが思う條件を指定している。
(295) 惑毛安流香 ワビシクモアルカ。神田本に惑を或に作つているのは、原形であろう。或は惑に通じ使用される。惑は迷惑の義で、迷い亂れるをいう。惑人(卷九、一八〇一)、惑者(卷十、二三〇二)などをワビビトと讀んでいる。これによれば、代匠記にワビシと讀んだのは理由のないことではない。鬱々として心の晴れやらぬ形容である。アルカはあるかなの意。
【評語】片思いのわびしさを詠んだもので、格別のことはない。平凡の作である。
 
718 念はぬに 妹が笑《ゑま》ひを 夢《いめ》に見て、
 心のうちに 燃えつつぞ居《を》る。
 
 不v念尓《オモハヌニ》 妹之咲※[人偏+舞]乎《イモガヱマヒヲ》 夢見而《イメニミテ》
 心中二《ココロノウチニ》 燎管曾呼留《モエツツゾヲル》
 
【譯】思いがけなくあなたの笑顔を夢に見て、心の中は燃えるばかりです。
【釋】不念尓 オモハヌニ。思のほかに、思いがけず。
 妹之咲※[人偏+舞]乎 イモガヱマヒヲ。ヱマヒは、笑ムの連續状態を示す名詞。「うつせみの妹がゑまひし面影に見ゆ」(卷十一、二六四二)など使用例がある。
 燎管曾呼留 モエツツゾヲル。心の強く熱中するをモユという。「妹が名もわが名も立たば惜しみこそ不盡《ふじ》の高嶺の燃えつつ渡れ」(卷十一、二六九七)、「君が名もわが名も立たば惜しみこそ不盡の高嶺の燎《も》えつつも居れ」(同、或歌)など歌われており、ここもそれらから句を作つているであろう。
【評語】絶好の歌境を得ているが、下句が説明になつてしまつているのは惜しい。他の歌の成句が先入となつて、自由な表現が制限されたのであろう。
 
719 丈夫《ますらを》と 念へるわれを、
(296) かくばかり
 羸《みつ》れに羸《みつ》れ 片念《かたもひ》を爲《せ》む。
 
 大夫跡《マスラヲト》 念流吾乎《オモヘルワレヲ》
 如v此許《カクバカリ》
 三禮二見津禮《ミツレニミツレ》 片念男責《カタモヒヲセム》
 
【譯】りつぱな男と思つているわたしだのに、こんなにやつれにやつれて片思いをすることか。
【釋】大夫跡念流吾乎 マスラヲトオモヘルワレヲ。男子の自負をあらわした句。ヲは然るにの意に使用されている。
 三禮二見津禮 ミツレニミツレ。日本書紀の古寫本に、羸にミツレと訓してある。ミツレは、やつれる意。「香細寸《カグハシキ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 玉貫《タマニヌキ》 將v送妹者《オクラムイモハ》 三禮而毛有香《ミツレテモアルカ》」(卷十、一九六七)とも使用されている。
 片念男責 カタモヒヲセム。男は助詞ヲに借り、責は爲ムに借りて書いている。
【評語】丈夫は片戀などはしないものとされている。それをかほどにやつれてまで片思いをすることだと嘆いている。初二句の大きな歌い起しに對して、末句が伸び伸びしていない。「丈夫と念へる吾をかくばかり戀せしむるはあしくはありけり」(卷十一、二五八四)あたりから來ている作であろう。
 
720 村肝《むらぎも》の 情《こころ》摧《くだ》けて、
 かくばかり わが戀ふらくを、
  知らずかあるらむ。
 
 村肝之《ムラギモノ》 情摧而《コヽコロクダケテ》
 如v此許《カクバカリ》 余戀良苦乎《ワガコフラクヲ》
 不v知香安壽良武《シラズカアルラム》
 
【譯】心もくたくたになつてこれほどにわたしの戀をするのを知らないでかいるだろう。
【釋】村肝之 ムラギモノ。既出(卷一、五)。枕詞。
 情摧而 コヽコロクダケテ。心情が破碎してで、堅固でない、しかとした心のないことをあらわす。「わが胸(291)はわれて摧《くだ》けて利《と》心も無し」(卷十二、二八九四)などの用例がある。
 余戀良苦乎 ワガコフラクヲ。コフラクは、戀うこと。
 不知香安類良武 シラズカアルラム。カは疑問の係助詞。知らないでかあるだろう。
【評語】自分の思いが先方に通じないでいるのだろうかと危んでいる。これも平凡な表現である。
 
獻2天皇1歌一首 大伴坂上郎女、在2佐保宅1作之
 
【釋】獻天皇歌 スメラミコトニタテマツレルウタ。この卷の歌の序列によるに、この歌は、天平年間、大伴の旅人の歸京の後、久邇の京以前の歌と考えられる。よつて天皇は、聖武天皇であろう。題下の註によれば、作者は大伴の坂上の郎女で、佐保の宅で作つたという。何か獻上物などに添えて奉つた歌なのであろう。佐保の宅は、大伴氏の邸である。
 
721 あしひきの 山にし居《を》れば、
 風流《みやび》なみ わがする事《わざ》を
 咎《とが》めたまふな。
 
 足引乃《アシヒキノ》 山二四居者《ヤマニシヲレバ》
 風流無三《ミヤビナミ》 吾爲類和射乎《ワガスルワザヲ》
 害目賜名《トガメタマフナ》
 
【譯】山に住んでおりますので、わたくしの風雅なことがなく致します事をお答め遊ばしますな。
【釋】山二四居者 ヤマニシヲレバ。平城京に對して佐保は山の手になり、山に近いので、かように言つている。
 風流無三 ミヤビナミ。ミヤビは既出(卷二、一二六)。大宮ぶり。風雅。次のスルを修飾する。
 吾爲類和射乎 ワガスルワザヲ。何をしたかわからない。行幸をお迎えして接待したか、獻上物をしたかで(298)あろう。
 害目賜名 トガメタマフナ。粗野なのを咎めたまうなで、ナが禁止の助詞。
【評語】達意の歌である。初二句にやや風情があるが、下句が露骨で、うちこわしている。歌がらは、物に添えて奉つた歌のようである。
 
大伴宿祢家持歌一首
 
722 かくばかり 戀ひつつあらずは
 石木《いはき》にも ならましものを。
 物思はずして。
 
 如v是許《カクバカリ》戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 石木二毛《イハキニモ》 成益物乎《ナラマシモノヲ》
 物不v思四手《モノオモハズシテ》
 
【譯】これほどに戀をしていないで、石や木にもなつたらよかつた、物を思わないで。
【釋】如是許戀乍不有者 カクバカリコヒツツアラズハ。既出(卷二、八六)。
 石木二毛成益物乎 イハキニモナラマシモノヲ。石や木にもなつたろうものを。「伊波紀欲利《イハキヨリ》 奈利提志比等迦《ナリテシヒトカ》」(卷五、八〇〇)。句切。
 物不思四手 モノオモハズシテ。石木ニモナラマシモノヲの内容を説明している。
【評語】類型的な歌であり、思想も憶良の作の影響を受けている。型によつて作つた歌というほかはない。
 
大伴坂上郎女、從2跡見庄1賜2留v宅女子大孃1歌一首 并2短歌1
 
大伴の坂上の郎女の、跡見《とみ》の庄《たどころ》より、宅に留まれる女子の大孃に賜へる歌一首。【短歌并はせたり。】
 
(299)【釋】從跡見庄 トミノタドコロヨリ。跡見は、奈良縣磯城郡、櫻井町の東方の地である。卷の八にも同じ作者の跡見の庄の歌がある。また同じく卷の八、大伴の宿禰稻公の跡見の庄とも見え、それをその歌中にも古郷と言つていることなどを併わせ考えると、郎女と稻公の兄弟のもとに住んでいた地であることが知られる。この庄は、大伴氏の祖先から累代の領地だろう。庄は莊に同じ。田處の義で、領地である。なおこの歌は、大孃の贈つた歌に答えたものである。
 
723 常《つね》をにと わが行かなくに、
 小金門《をかなど》に もの悲しらに
 念へりし わが兒の刀自《とじ》を、
 ぬばたまの 夜晝《よるひる》といはず
 念ふにし わが身は痩せぬ。
 嘆くにし 袖さへぬれぬ。」
 かくばかり もとなし戀ひば、
 古郷《ふるさと》に この月頃も
 ありかつましじ。」
 
 常呼二跡《ツネヲニト》 吾行莫國《ワガユカナクニ》
 小金門尓《ヲカナドニ》 物悲良尓《モノカナシラニ》
 念有之《オモヘリシ》 吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》
 野干玉之《ヌバタマノ》 夜晝跡不v言《ヨルヒルトイハズ》
 念二思《オモフニシ》 吾身者痩奴《ワガミハヤセヌ》
 嘆丹師《ナゲクニシ》 袖左倍沾奴《ソデサヘヌレヌ》
 如v是許《カクバカリ》 本名四戀者《モトナシコヒバ》
 古郷尓《フルサトニ》 此月期呂毛《コノツキゴロモ》
 有勝益士《アリカツマシジ》
 
【譯】行ききりにはわたくしは行きませんのに、門のほとりに、物悲しそうに思つていた、わが子の奧樣を、夜晝といわず思うので、わたくしは痩せました。嘆くので袖さえも濡れました。このようにあなたにたいへんに戀をしているならば、故郷にこの月頃もおることはできますまい。
(300)【構成】袖サヘヌレヌまで第一段。大孃を思うことを述べる。以下第二段、古郷にありかねることを述べる。
【釋】常呼二跡 ツネヲニト。
   トコヲニト(元)
   トコヨニト(西)
   ツネヲニト(定本)
   ――――――――――
   常與二跡《トコヨニト》(考)
 このヲは、感動の助詞で、常を、常ニトというべきを感動的に言つたものである。既出「汝乎與吾乎《ナヲトワヲ》」(卷四、六六〇)の上のヲの如き用法である。諸説があるが、呼はもとよりヨと讀むべくもないし、誤字とするも當らない。
 吾行莫國 ワガユカナクニ。このナクニも、行かないことだのにの如き意をなしている。
 小金門尓 ヲカナドニ。ヲは接頭語。カナドは、カド(門)に同じ。金は堅い意につける。古事記(八二)に「加那斗加宜《カナトカゲ》」(金門蔭)。本集にも「可奈刀田乎《カナトダヲ》」(卷十四、三五六一)など見えている。
 物悲良尓 モノカナシラニ。形容詞に接尾語ラが接續すると、そのようすの義になる。「賢良乎爲跡《サカシラヲスト》」(卷三、三四四)の類である。
 吾兒乃刀自緒 ワガコノトジヲ。トジは既出。主婦の稱である。ここでは大孃をさしている。
 夜晝跡不言 ヨルヒルトイハズ。夜となく晝となく。次の句の修飾句。
 吾身者痩奴 ワガミハヤセヌ。句切。
 嘆丹師袖左倍沾奴 ナゲクニシソデサヘヌレヌ。上の念フニシ云々の句と對句になつている。句切。
 本名四戀者 モトナシコヒバ。モトナは既出(卷二、二三〇)。ここは、何ともしかたなくの意の副詞。シは張意の助詞。
(301) 古郷尓 フルサトニ。跡見の地をいう。もと住んでいた地と思われる。
 有勝益士 アリカツマシジ。既出(卷四、四八四)。あるに堪えまいの意。
【評語】子を思う情がよく出ている。郎女との別れを惜しんで門口に悲しそうにしていた大孃の姿がちらついて、晝夜となく戀うので痩せたことを敍し、さていつまでも留まつていられないことを述べて終つている。溢れるばかりの愛情が示されている。坂上の郎女の長歌の作品中、しばしば見られる弛緩の弊もなく、よく引き締まつており、第一の佳作とすべきである。
 
反歌
 
724 朝髪の 念ひ亂れて、
 かくばかり なねが戀ふれぞ、
 夢《いめ》に見えける。
 
 朝髪之《アサガミノ》 念亂而《オモヒミダレテ》
 如v是許《カクバカリ》 名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》
 夢尓所v見家留《イメニミエケル》
 
【譯】朝の髪のように思い亂れて、これほどまでにあなたが戀しがるので、夢に見えましたよ。
【釋】朝髪之 アサガミノ。枕詞。朝の寢起きの髪は亂れているので、亂ルに冠する。この枕詞は、他に使用例なく、ここでは大孃の姿を想像して使用したものである。
 念亂而 オモヒミダレテ。大孃が、自分を戀しく思い亂れて。
 如是許 カクバカリ。次の戀フレゾを修飾している。これも大孃の有樣である。
 名姉之戀曾 ナネガコフレゾ。ナは汝、ネは親愛の意をあらわす接尾語。古事記中卷に、神沼河耳《かむぬなかわみみ》の命が、その兄|神八井耳《かむやいみみ》の命に對して、那泥汝命《ナネナガミコト》と言つているのによれば、男女にかかわらない。ここでは大孃を指す。(302)コフレゾは、戀フレバゾで、ゾは係助詞。
 夢尓所見家留 イメニミエケル。ゾを受けてケルと結んでいる。
【評語】戀い思うことのゆえに夢に見えたことを歌つている。類想の多い内容ではあるが、朝髪の枕詞も、この場合適切で、大孃の戀う状態を描いており、ナネの如き語も特殊の親愛の情を與えている。長歌の別の方面を描いたもので、よく長歌の内容を補つている。情味の感じられるよい歌である。
 
右歌、報2賜大孃進歌1也
 
右の歌は、大孃の進《たてまつ》れる歌に報へ賜へるなり。
 
【釋】大孃進歌 オホヲトメノタテマツレルウタ。この大孃から贈つた歌は、今傳わらない。當時大孃は、既に家持の妻となつていたのであろう。
 
獻2天皇1歌二首 大伴坂上郎女、在2春日里1作也
 
天皇に獻れる歌二首。【大伴の坂上の郎女、春日の里にありて作れり。】
 
【釋】獻天皇歌 スメラミコトニタテマツレルウタ。天皇は七二一の天皇と同じく聖武天皇。題下の註に、大伴の坂上の郎女が春日の里で作つたとある。春日は佐保川の東方にあり、大伴氏の邸宅があつたものと察せられる。卷の三に、大伴の駿河麻呂が坂上の家の二孃を娉《つまど》う歌に、「春霞《ハルガスミ》 春日里之《カスガノサトノ》 殖子水葱《ウヱコナギ》」(四〇七)と詠んでいるのは、この縁であろう。
 
725 鳰鳥《にほどり》の 潜《かづ》く池水、
(303) こころあらば、
 君にわが戀ふる 情《こころ》示さね。
 
 二寶鳥乃《ニホドリノ》 潜池水《カヅクイケミヅ》
  情有者《ココロアラバ》
 君尓吾戀《キミニワガコフル》 情示左祢《ココロシメサネ》
 
【譯】鳰鳥の潜る池水よ、心がありますならば、わたくしの、陛下をお慕いする心をあらわしてください。
【釋】二寶鳥乃 ニホドリノ。ニホドリは、游禽類の水鳥、カイツブリ。
 潜池水 カヅクイケミヅ。カヅクは水中にくぐるをいう。次の歌によるに、この池は、宮中の池をいうもののようである。
 情有者 ココロアラバ。心なき池水に對して、假設していう。
 君尓吾戀 キミニワガコフル。キミは天皇。
 情示左祢 ココロシメサネ。ネは願望の助詞。
【評語】池水によつて、深く思うことを託しているようである。ちようど冬の頃で、ニホ鳥が取りあげられたのであろう。
 
726 外《よそ》に居て 戀ひつつあらずは、
 君が家の 池に住むといふ
 鴨にあらましを。
 
 外居而《ヨソニヰテ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 君之家乃《キミガイヘノ》 池尓住云《イケニスムトイフ》
 鴨二有益雄《カモニアラマシヲ》
 
【譯】よそにいて戀をしておりませんで、宮中の池に住むという鴨でありたいものでございます。
【釋】外居而戀乍不有者 ヨソニヰテコヒツツアラズハ。「かくばかり戀ひつつあらずは」(卷二、八六)、「おくれ居て戀ひつつあらずは」(同、一一五)などと同形の句である。
(304) 君之家乃 キミガイヘノ。大宮をさして、君が家ということ、いかにも親しい語氣である。
 池尓住云 イケニスムトイフ。トイフは、目前の景ではないので、この語を使つている。
 鴨二有益雄 カモニアラマシヲ。鴨でありたいが、しかしの語氣。
【評語】類歌の多い形式の歌である。非常に馴れ馴れしい歌であるが、どういう關係にあつたものかは不明である。光明皇太后の宣命にも、大伴の宿禰はわが族にもありと仰せられている。また坂上の郎女の母の石川の内命婦は、久しく宮中に仕えていたから、それらの關係か何かで特に親しみ奉つていたと見える。
 
大伴宿祢家持、贈2坂上家大孃1歌二首 離絶數年復會相聞往來
 
大伴の宿禰家持の、坂上の家の大孃に贈れる歌二首。【離り絶ゆること數年にして、また會ひて相聞往來せり。】
 
【釋】離絶數年復會相聞往來 サカリダユルコトアマタトシニシテマタアヒテサウモニワウライセリ。離絶數年というのは、どういう事情であるかわからないが、幼時は共におり、年頃になるに及んで、住居を別にしたのでもあろうか。相聞は、書信を通じて起居を問うことで、卷の二の卷頭に出ている。相聞往來の文字は、卷の十一、十二に見える。
 
727 萱草《わすれぐさ》 わが下紐に 着けたれど、
 醜《しこ》の醜草《しこぐさ》 言《こと》にしありけり。
 
 萱草《ワスレグサ》 吾下紐尓《ワガシタヒモニ》 著有跡《ツケタレド》
 鬼乃志許草《シコノシコグサ》 事二思安利家理《コトニシアリケリ》
 
【譯】れ草をわたしの著物の下紐につけたけれど、いやな草のやつ、忘れ草という名前ばかりだつた。
【釋】萱草 ワスレグサ。既出(卷三、三三四)。
 吾下紐尓 ワガシタヒモニ。シタヒモは、袴の紐。上衣の下に當るからいう。
(305) 著有跡 ツケタレド。萱草を下紐につけるのである。
 鬼乃志許草 シコノシコグサ。鬼は、醜の省畫という。シコは既出(卷二、一一七)。みにくい意から事物を惡くいうに使う。シコノシコグサは、シコを重ねて萱草を罵倒している。
 事二思安利家理 コトニシアリケリ。コトは言。忘れ草という名のみで、その實の伴なわない由を言つている。
【評語】大伴の旅人の、「忘れ草わが紐につく。香具山のふりにし郷を忘れぬがため」(卷三、三三四)によつて構想し、「忘れ草垣もしみみに植ゑたれど鬼《しこ》のしこ草なほ戀ひにけり」(卷十二、三〇六二)を形體として作つている。言ニシアリケリも慣用句である。何等の新味を有せぬ歌である。
 
728 人もなき 國もあらぬか。
 吾妹子と 携《たづさ》ひ行きて
 副《たく》ひて居らむ。
 
 人毛無《ヒトモナキ》 國母有粳《クニモアラヌカ》
 吾妹兒與《ワギモコト》 携行而《タヅサヒユキテ》
 副而將v座《タグヒテヲラム》
 
【譯】人の居ない國がないかなあ、あなたと一緒に行つて連れ添つていようよ。
【釋】人毛無國母有粳 ヒトモナキクニモアラヌカ。人のうるさいことを暗に示している。アラヌカは願望の語法。句切。
 携行而 タヅサヒユキテ。手を取り合つて行つて。同行して。
 副而將居 タグヒテヲラム。連れ添つていよう。
【評語】他に人のいない國を求めるほどの急迫した事情でもないようだが、歌では遊戯的に二人の關係を他人が壓迫でもするかのように歌つてみるのである。一通り整つている歌である。
 
(306)大伴坂上大孃、贈2大伴宿祢家持1歌三首
 
729 玉ならば 手にも卷かむを、
 うつせみの 世の人なれば、
 手に卷きがたし。
 
 玉有者《タマナラバ》 手二母將卷乎《テニモマカムヲ》
 鬱瞻乃《ウツセミノ》 世人有者《ヨノヒトナレバ》
 手二卷難石《テニマキガタシ》
 
【譯】玉だつたら手にも纏きましようが、この世の人ですから、手にも纏きかねます。
【釋】玉有者手二母將卷乎 タマナラバテニモマカムヲ。君がもし玉であつたら、緒につらぬいて手の玉ともしようを、しかるにの意。
 鬱瞻乃 ウツセミノ。枕詞。鬱瞻は字音假字で、各二音を表示している。
 世人有者手二卷難石 ヨノヒトナレバテニマキガタシ。人間だから手に卷きがたいというのである。
【評語】思う人を身ぢかに置いて離したくないというのだが、理くつつぽく幼稚な表現である。
 
730 逢はむ夜《よ》は いつもあらむを、
 何すとか
 その夕《よひ》逢ひて 言の繁きも。
 
 將相夜者《アハムヨハ》 何時將有乎《イツモアラムヲ》
 何如爲常香《ナニストカ》
 彼夕相而《ソノヨヒアヒテ》 事之繁裳《コトノシゲキモ》
【譯】逢うべき夜はいくらもありましようのに、何としてかあの晩に逢つて人の口がうるさいことでございます。
【釋】將相夜者何時將有乎 アハムヨハイツモアラムヲ。何時でも逢う夜はあろうのに、しかるにの意。「出(307)でて去なむ時しはあらむをことさらに妻戀しつつ立ちて去《い》ぬべしや」(卷四、五八五)の如き心である。
 何如爲常香 ナニストカ。何すとかで、何としたことか。
 事之繁裳 コトノシゲキモ。コトノシゲキモ(西)、コトノシゲシモ(考)。かの人目の多い晩に逢つて、人言の繁きよの意。コトは人言。三句を受けて、シゲキと結んでいる。モは感動の助詞。
【評語】人目の繁くある夜に逢つたことを悔んでいるが、これも戀の遊戯で、それほど困つているのではなかろう。初二句は、やはり理くつつぽい。
 
731 わが名はも、
 千名《ちな》の五百名《いほな》に 立ちぬとも、
 君が名立たば 惜しみこそ泣け。
 
 吾名者毛《ワガナハモ》
 千名之五百名尓《チナノイホナニ》 雖v立《タチヌトモ》
 君之名立者《キミガナタタバ》 惜社泣《ヲシミコソナケ》
 
【譯】わたくしの名は、どのようにたくさんに立つてもかまいませんが、あなたの名が立つので惜しんで泣いて居ります。
【釋】吾名者毛 ワガナハモ。モは感動の助詞。
 千名之五百名尓 チナノイホナニ。チナもイホナも、多數の名の義で、これを重ねて最大多數の意をあらわしている。古事記上卷に、豐葦原の千秋の長五百秋の瑞穗の國といい、本集に、「百重《ももへ》浪千重浪に重《し》き」(卷十三、三二五三)という類である。多くの名が立つとは名をあげて多くうわさされるをいう。
 雖立 タチヌトモ。假設條件法。それは致し方なしの意を省いている。
 君之名立者 キミガナタタバ。キミガナタタバ(元)、キミガナタテバ(童)。どちらにも讀まれるが、上のタチヌトモの假設を受けては、タタバの方が順當であり、次の和する歌にも、立ツトモと假設に歌つている。
(308)【評語】鏡の王女の、「君が名はあれどわが名し惜しも」(卷二、九三)の自己中心なのとは反對に、これは君が名の立つのを惜しんでいる。初二句の表現に特色がある歌である。
 
又大伴宿祢家持和歌三首
 
732 今しはし
 名の惜しけくも われは無し。
 妹によりては 千遍《ちたび》立つとも。
 
 今時者四《イマシハシ》
 名之惜雲《ナノヲシケクモ》 吾者無《ワレハナシ》
 妹丹因者《イモニヨリテハ》 千遍立十方《チタビタツトモ》
 
【譯】もう今は名の惜しいこともありません、あなたのことで千遍も立つても。
【釋】今時者四 イマシハシ。シは二つとも強意の助詞。「今師波登《イマシハト》」(卷四、五九〇)參照。
 名之惜雲吾者無 ナノヲシケクモワレハナシ。ヲシケクは惜しいこと。慣用句で用例が多い。六一六、參照。句切、三句切。
 妹丹因者 イモニヨリテハ。妹の事のために。
 千遍立十方 チタビタツトモ。チタビは度數の多いのをいう。
【評語】ワガ名ハモの歌を受けて答えている。末句を下部省略の法によつているのは弱い。相聞の歌に、まずしたたかな調子を嫌うようになつて行つたものらしい。
 
 733 うつせみの 世やも二行《ふたゆ》く。
 何すとか
(309) 妹に逢はずて、わがひとり宿《ね》む。
 
 空蝉乃《ウツセミノ》 代也毛二行《ヨヤモフタユク》
 何爲跡鹿《ナニストカ》
 妹尓不v相而《イモニアハズテ》 吾獨將v宿《ワガヒトリネム》
 
【譯】この人生は二つとあるものではない。それだからどうしてかあなたに逢わないで、わたしが獨り寢をしよう。
【釋】空蝉乃 ウツセミノ。枕詞だが、この句で現在の世の意味を感じさせている。
 世也毛二行 ヨヤモフタユク。ヤモは反語。フタユクは、兩方に行く。「沼二つ通《かよ》は鳥が栖《す》あが心二行くなもとなよもはりそね」(卷十四、三五二六)、「み谷二渡らす」(古事記七)というのも兩頭に行く義で、同樣である。代が二行くというのは、現實の世以外にも、他に進行する世があるの謂いで、この歌ではそれを否定している。「世の中はまこと二代は行かざらし過ぎにし妹に逢はなく念へば」(卷七、一四一〇)とあるは、これと同想である。句切。
 何爲跡鹿 ナニストカ。既出。
 妹尓不相而吾獨將宿 イモニアハズテワガヒトリネム。何ストカを受けて、ひとり寐る法は無いの意となつている。
【評語】初二句の起しは意味があるが、四五句は安價すぎる。一つの詞句にたよつて歌を作る傾向があり、結局それが借物になつてしまうのである。これは何ストカソノ夕アヒテの歌を受けて返しているのであろう。
 
734 わが念《おも》ひ、
 かくてあらずは 玉にもが。
 まことも妹が 手に纏《ま》かれむを。
 
 吾念《ワガオモヒ》
 如v此而不v有者《カクテアラズハ》 玉二毛我《タマニモガ》
 眞毛妹之《マコトモイモガ》 手二所v纏乎《テニマカレムヲ》
 
(310)【譯】わたしの思いは、こんなふうであるよりは玉だつたらよい。そうしたらほんとうにあなたの手に纏かれるだろうに。
【釋】吾念如此而不有者 ワガオモヒカクテアラズハ。こんなふうに物思いをしていないで。アラズハは、あらずしてそうしての意。
 玉二毛我 タマニモガ。ガが願望の助詞。句切。
 眞毛妹之手二所纏乎 マコトモイモガテニマカレムヲ。マコトモは、眞實にも、ほんとに。ヲは感動の助詞。しかるにの意を含む。
【評語】玉ナラバ手ニモ纏カムヲの歌を受けて返している。先方の歌に應じただけで、何の特色もない。
 
同坂上大旗、贈2家持1歌一首
 
735 春日山 霞たなびき、
 情《こころ》ぐく 照れる月夜《つくよ》に
 獨りかも寐む。
 
 春日山《カスガヤマ》 霞多奈引《カスミタナビキ》
 情具久《ココログク》 照月夜尓《テレルツクヨニ》
 獨鴨念《ヒトリカモネム》
 
【譯】春日山に霞がたなびいて、うつとうしく照つている月夜にひとりでか寐ることでしよう。
【釋】春日山霞多奈引 カスガヤマカスミタナビキ。見渡した目前の風景を敍している。
 情具久 ココログク。「相見婆《アヒミレバ》 登許波都波奈爾《トコハツハナニ》 情具久《ココログシ》 眼具之毛奈之爾《メグシモナシニ》」(卷十七、三九七八)の如き用例があつて、グシは、メグシのグシと同じと見られる。而してメグシが、眼のうるむような形容とすれば、ココログシは、心のくぐもつてある形容という解釋は、ほぼ當つているのであろう。「心ぐくおもほゆるかも。(311)春霞たなびく時に言の通へば」(卷四、七八九)、「心ぐきものにぞありける。春霞たなびく時に戀の繁きは」(卷八、一四五〇)の如き、いずれも春霞のたなびく時に關して使用されている。心のうつとうしく晴れ晴れとしない状態の形容と考えられる。ここは月の照れる状態を主觀的に説明している。
 照月夜尓獨鴨念 テレルツクヨニヒトリカモネム。君を迎え得ないさびしさを詠んでいる。念は字音假字。
【評語】情と景とを併わせ得た作である。大孃の作中めずらしく詩趣を得ている。坂上の郎女の作に前掲の「心ぐきものにぞありける」があるのを見ると、事によると代作してやつたのであろう。この作者は、どうも母親ほどの歌才がないようである。
 
又家持、和2坂上大孃1歌一首
 
736 月夜《つくよ》には 門《かど》に出で立ち、
 夕占《ゆふけ》問ひ 足卜《あしうら》をぞせし。
 行かまくを欲《ほ》り。
 
 月夜尓波《ツクヨニハ》 門尓出立《カドニイデタチ》
 夕占問《ユフケトヒ》 足卜乎曾爲之《アシウラヲゾセシ》
 行乎欲焉《ユカマクヲホリ》
 
【譯】月夜には門口に出て、夕占を問い、足占をしました、行きたいと思つて。
【釋】月夜尓波門尓出立 ツクヨニハカドニイデタチ。以下の句の準備として、月に乘じて門に出ることを敍している。
 夕占問 ユフケトヒ。既出(卷三、四二〇)。夕暮に道路に出て道行く人の言辭を聞いて判斷するをいう。
 足卜乎曾爲之 アシウラヲゾセシ。日本書紀卷の二に、火酢芹《ほすせり》の命の水に溺れ苦しむ状を演ずる處に、「初(メ)潮|漬《ツク》v足(ニ)時(ニハ)則爲(ス)2足占《アシウラヲ》1」とあり、足を擧げて歩む状をするをいうと思われる。本集には、「月夜好《ツクヨヨミ》 門爾出立《カドニイデタチ》 足(312)占爲而《アウラシテ》 往時禁八《ユクトキサヘヤ》 妹二不v相有《イモニアハザラム》」(卷十二、三〇〇六)とある。目標までの歩數の奇數か偶數かによつて、事の成る成らないを判斷する占法とされている。句切。
 行乎欲焉 ユカマクヲホリ。ヲは感動の助詞。焉は措辭として書かれている。
【評語】これも前行の歌の影響を受けているであろうが、とにかくよい題材を得ている。月下に愛人を訪れようとして足占をするということそのものが、既に詩情を得ている。但し五句は露骨で安價である。率直はよいが、他に何とか言えそうなものだ。
 
同大孃、贈2家持1歌二首
 
737 かにかくに 人はいふとも、
 若狹道《わかさぢ》の 後瀬《のちせ》の山の、
 後も念はむ君。
 
 云々《カニカクニ》 人者雖v云《ヒトハイフトモ》
 若狹道乃《ワカサヂノ》 後瀬山之《ノチセノヤマノ》
 後毛將v念君《ノチモオモハムキミ》
 
【譯】とやかくと人は言つても、若狹に行く道にある後瀬山のように、後も思いましよう、あなた。
【釋】云々 カニカクニ。既出(卷四、六一九)。
 人者雖云 ヒトハイフトモ。人言が繁くあつても。
 若狹道乃 ワカサヂノ。若狹の國府へ行く途中の。若狹の國府は、福井縣|遠敷《おにふ》郡今冨村にあつた。
 後瀬山之 ノチセノヤマノ。福井縣小濱市の南方にある。以上二句は、同音によつてノチを言うための序である。
 後毛將念君 ノチモオモハムキミ。念は、諸本に同じであるが、家持の返歌に、言ノミヲ後モ逢ハムと言つ(313)ているから、代匠記に合の誤りとし、考に會の誤りとしているのが、然るべきことのようである。
【評語】若狹道の後瀬の山は、作者たちに何等の關係なく、ただノチの語を引き出すために使用されたようである。歌人が知らない地名を詠むこと、かような歌枕に端を發している。この序を除いては、單純で類型的な内容である。
 
738 世間《よのなか》し
 苦しきものに ありけらし。
 戀に堪《あ》へずて 死ぬべき念へば。
 
 世間之《ヨノナカシ》
 苦物尓《クルシキモノニ》 有家良之《アリケラシ》
 戀二不v勝而《コヒニアヘズテ》 可v死念者《シヌベキオモヘバ》
 
【譯】世の中は苦しいものであつたようです。思いに堪えないで死にそうなのを思いますと。
【釋】世間之 ヨノナカシ。ヨノナカノ(桂)、ヨノナカシ(攷)。この世間を強く指示している。このヨノナカは、人生というほどの意に使用されている。
 苦物尓有家良之 クルシキモノニアリケラシ。世間を説明している。之は、元暦校本による。仙覺本には久に作り、アリケラクとしている。ケラクは、ケルコト。クは體言を構成するが、そのまま文の終末となることが多い。この場合、省略部のあることは感じられないで、「何々ですこと」の如き語氣をなすと見るのである。しかしケラシの方が順當に解せられる。句切、三句切。
 戀二不勝而 コヒニアヘズテ。以下苦しいことの説明である。アヘズテは、うち勝ち得ずして。
 可死念者 シヌベキオモヘバ。シヌベクオモヘバ(桂)、シヌベキオモヘバ(代初)、シヌベクモフハ(考)。死ぬべきを思えば。
【評語】しみじみと思い入つたさまが窺われる。深いためいきが聞えるようである。凡作ではない。
 
(314)又家持、和2坂上大孃1歌二首
 
739 後瀬山、
 後も逢はむと 念《おも》へこそ、
 死ぬべきものを 今日までも生《い》けれ。
 
 後湍山《ノチセヤマ》
 後毛將v相常《ノチモアハムト》 念社《オモヘコソ》
 可死物乎《シヌベキモノヲ》 至2今日1毛生有《ケフマデモイケレ》
 
【譯】後湍山のように、後も逢おうと思えばこそ、死ぬはずなのを、今日までも生きています。
【釋】後湍山 ノチセヤマ。枕詞。大孃の歌の語を受けている。次の句の後に冠している。
 後毛將相常念社 ノチモアハムトオモヘコソ。ノチモは後にも、オモヘコソは、思えばこそ。コソは係助詞。
 可死物乎 シヌベキモノヲ。戀のために死にそうであるのを。
 至今日毛生有 ケフマデモイケレ。コソに對してイケレと結んでいる。
【評語】調子のよい歌だが、それだけに、死生の問題をとらえておりながら、迫力に乏しい。もつともこれはこの人の作の通弊でもあつて、この歌に限つたことではない。
 
740 言《こと》のみを 後も逢はむと、
 懃《ねもころ》に われを憑《たの》めて
 逢はざらむかも。
 
 事耳乎《コトノミヲ》 後毛相跡《ノチモアハムト》
 懃《ネモコロニ》 吾乎令v憑而《ワレヲタノメテ》
 不相可聞《アハザラムカモ》
 
【譯】言葉ばかり後にも逢おうと、深くわたしを信頼させておいて、逢わないのでしようね。
【釋】事耳乎 コトノミヲ。言葉でばかり。大孃の歌の文句をさすものと解せられる。
(315) 後毛相跡 ノチモアハムト。後瀬ノ山ノ後モ逢ハム君の歌をさすが如くである。
 懃 ネモコロニ。ねんごろにの原形であることは、既述の通りであるが、この語は、見ル、思フ、戀フ等、主として自身の動作を限定する副詞であり、十分に行き屆いての意を成している。よつてここも憑みに思わしめた状態が十分であることをあらわすものとして解すべきである。
 吾乎令憑而 ワレヲタノメテ。タノメテは憑ましめて。
 不相可聞 アハザラムカモ。先方の上を推定している。
【評語】相手のいうことが、實行を伴なわないものだろうと疑つている。相聞の歌によくある内容で、男らしさがない。
 
更大伴宿祢家持、贈2坂上大孃1歌十五首
 
【釋】更大伴宿祢家持贈坂上大孃歌 サラニオホトモノスクネヤカモチノサカノウヘノオホヲトメニオクレルウタ。前の和歌二首とは別なので更と書いている。またこの十五首は、歌詞によるに事情を異にするのがあつて、一時に贈つたものではないようである。
 
741 夢《いめ》の逢《あひ》は 苦しかりけ。。
 覺《おどろ》きて かき探れども、
 手にも觸れねば。
 
 夢之相者《イメノアヒハ》 苦有家里《クルシカリケリ》
 覺而《オドロキテ》 掻探友《カキサグレドモ》
 手二毛不v所v觸者《テニモフレネバ》
 
【譯】夢で逢うことは苦しいことだ。目が覺めて探つて見ても、手にも觸れないので。
【釋】夢之相者 イメノアヒハ。夢中の逢うことは。實際に逢うことをタダニアフというに對している。
(316) 苦有家里 クルシカリケリ。夢のあいを説明している。句切。
 覺而 オドロキテ。目がさめて。日本書紀垂仁天皇の卷に、寤をオドロクと訓している。
 掻探友 カキサグレドモ。カキは接頭語。
 手二毛不所觸者 テニモフレネバ。觸ルは、自動詞として下二段に活用し、所の字は、その意を表示している。
【評語】代匠記に、遊仙窟の「少時|坐睡《マドロメバ》、則夢(ニ)見(ル)2十娘(ヲ)1、驚覺《オドロキ》攪《サグルニ》v之、忽然空(シ)v手(ニ)、心中(ニ)悵怏(シ)、復(タ)何(カ)可(キ)v論(フ)、余|因(リテ)乃詠(ジテ)曰(ク)、夢中疑(フ)2是實(ヲ)1、覺(メテ)後忽非(ズ)v眞(ニ)」とあるによつて作つていると言つている。下にも遊仙窟の文によつたかと思われるものがあつて、當つているようである。なお類想の歌としては、「愛《うつく》しと思ふ吾妹を夢に見て起きて探るに無きがさぶしさ」(卷十二、二九一四)があるが、表現は家持の方が感動的でよい。遊仙窟は、唐代の小説で、張文成というもの、使を河源に奉じ、迷つて仙窟に入り、十娘、五嫂の兩仙女の歡待を受けたことを敍したもので、はやく本朝に入り、日本文學の上に多大の刺戟を與えたものである。萬葉では、家持の歌のほかにも、山上の憶良の、沈痾自哀文中にもその句を引用し、大伴の旅人の遊於松浦河序も、その影響を受けたものと認められる。
 
742 一重《ひとへ》のみ 妹が結ばむ 帶をすら、
 三重結ぶべく わが身はなりぬ。
 
 一重耳《ヒトヘノミ》 妹之將結《イモガムスバム》 帶乎尚《オビヲスラ》
 三重可v結《ミヘムスブベク》 吾身者成《ワガミハナリヌ》
 
【譯】あなたが一重だけ結ぶ帶でも、わたしは三重に結ぶほど痩せてしまつた。
【釋】一重耳 ヒトヘノミ。一まわりだけ。
 妹之將結帶乎尚 イモガムスバムオビヲスラ。妹の結ぶ帶をもなお。
(317) 三重可結吾身者成 ミヘムスブベクワガミハナリヌ。たいへん痩せてしまつたことをいう。
【評語】この歌も、遊仙窟に「比目絶(チ)v對(ヲ)、雙鳧失(フ)レ伴(ヲ)、日々衣寛(ニ)、朝々帶緩(ブ)」、文選の古詩に「相去(ル)日已(ニ)遠(シ) 衣帶日已(ニ)緩(シ)」などあるによつたものであろうという。類想の多い歌で、先行の歌からも學んでいるであろう。
【參考】類想。
  (上略)白|細《たへ》の紐をも解かず、一|重《へ》結《ゆ》ふ帶を三重結ひ、苦しきに仕へ奉りて(下略、卷九、一八〇〇)
  ※[木+若]《みづ》垣の久しき時ゆ戀すればわが帶緩ぶ。朝夕ごとに(卷十三、三二六二)
  二つ無き戀をしすれば常の帶を三重結ぶべくわが身は成りぬ(同、三二七三)
 
743 わが戀は、
 千引《ちひき》の石《いは》を 七《なな》はかり
 頸《くび》に繋《か》けむも、
 神の諸伏《もろふし》。
 
 吾戀者《ワガコヒハ》
 千引乃石乎《チヒキノイハヲ》 七許《ナナハカリ》
 頸二將v繋母《クビニカケムモ》
 神之諸伏《カミノモロフシ》
 
【譯】わたしの戀は、千人引きの石を七つばかり、首に懸けようとも、神樣の御心まかせです。
【釋】吾戀者 ワガコヒハ。自分の戀を提示して、以下その説明をしている。
 千引乃石乎 チヒキノイハヲ。チヒキノイハは大きな石で、千人で引くような石。古事記上卷に「爾千引石《ココニチヒキノイハヲ》、引2塞其《ヒキサヘテ》黄泉比良坂《ヨモツヒラサカニ》1」、「千引石《チヒキノイハヲ》、フ2手末1而來云《タナスヱニササゲキテイハク》」、日本書紀に「千人所(ノ)v引(ク)磐石」などあり、また五百引の石の語もある。
 七許 ナナハカリ。七つばかりだが、七は大數をいうので、七個に限るわけではない。
 頸二將繋母 クビニカケムモ。第五句が不明なので、この句が、句切になるか否かあきらかでない。それに(318)よつてその性質も變わつてくる。
 神之諸伏 カミノモロフシ。未詳の句。諸説があるが當つていると思われない。古義には、諸伏を隨似の誤りとして、マニマニと讀んでいる。集中、一伏三起、三向一伏など書いているのは、四木の遊戯から來たものであるが、諸伏とあるのは、事によると四木みな伏してあるをいうかも知れないが、それにしても訓義共に不明である。
【評語】重い石を頭に懸けるほどの難行だというらしい。力車に七車あたりから得ているものがあるかも知れないが、目先は變わつている。五句が不明なので、何とも言いにくいが、滑稽的に戀の苦行を取り扱つているのであろう。初句にわが戀はと提示して、二句以下それを説明する歌は、後世には多いが、この集にはその純粹なものは見かけない。その點、新しい行き方のものだと言える。
【参考】初句、わが戀は。
  わが戀は慰めかねつ。まけ長く夢に見えずて年の經ぬれば(卷十一、二八一四)
  わが戀は夜晝わかず百重なす情《こころ》し念へばいたもすべ無し(卷十二、二九〇二)
 
744 暮《ゆふ》さらば、
 屋戸《やど》開《あ》け設《ま》けて われ待たむ。
 夢《いめ》に相見に 來《こ》むといふ人を。
 
 暮去者《ユフサラバ》
 屋戸開設而《ヤドアケマケテ》 吾將v待《ワレマタム》
 夢尓相見二《イメニアヒミニ》 將v來云比登乎《コムトイフヒトヲ》
 
【譯】夕方になつたら、戸をあけて待つていよう。夢に逢いに來ようという人を。
【釋】屋戸開設而 ヤドアケマケテ。ヤドは家の戸で、「誰ぞこの屋の戸おそぶる」(卷十四、三四六〇)のヤノトと同じ意味の使い方である。マケテは設けて、用意して。「夏儲而《ナヅマケテ》 開有波禰受《サキタルハネズ》」(卷八、一四八五)など(319)のマケテに同じ。
 吾將待 ワレマタム。句切、三句切。
 夢尓相見二將來云比登乎 イメニアヒミニコムトイフヒトヲ。大孃から贈つた歌があつたのであろうが、傳わらない。
【評語】これも遊仙窟の「今宵莫(レ)v閉(スコト)v戸(ヲ)、夢(ノ)裏(ニ)向(ハン)2渠《キミガ》邊(ニ)1」とあるによつたと言われている。「人の見て言とがめせぬ夢に吾今夜至らむ屋戸|閉《さ》すなゆめ」(卷十二、二九一二)という歌があつて、そんなのに對しているような歌である。どちらかと言えば女の立場で歌つている。
 
745 朝|夕《よひ》に 見む時さへや、
 吾妹子が 見とも見ぬ如《ごと》
 なほ戀しけむ。
 
 朝夕二《アサヨヒニ》 將見時左倍也《ミムトキサヘヤ》
 吾妹之《ワギモコガ》 雖見如不見《ミトモミヌゴト》
 由戀四家武《ナホコホシケム》
 
【譯】朝夕に見るようになつても、あなたは、見ても見ないようにやはり戀しいだろう。
【釋】朝夕二將見時左倍也 アサヨヒニミムトキサヘヤ。同棲を豫想している言い方である。ヤは疑問の係助詞。
 吾妹之 ワギモコガ。五句の主格になつている。
 雖見如不見 ミトモミヌゴト。よし見ても見ないように。
 由戀四家武 ナホコホシケム。由は猶に同じく使用されているが、本集にはかような用法はこれだけである。コホシケムは、形容詞コホシケに助動詞ムの接續したもの。
【評語】將來を豫想して詠んでいる。見るを重ねて特殊の句を作つたのが得意なのだろうが、效果はすくない。
 
(320)746 生《い》ける世に われはいまだ見ず。
 言《こと》絶えて かく※[立心偏+可]怜《おもしろ》く 縫へる嚢《ふくろ》は。
 
 生有代尓《イケルヨニ》 吾者未見《ワレハイマダミズ》
 事絶而《コトタエテ》 如是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》 縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》
 
【譯】この世でわたしはまだ知らない。何とも言いようもなく、こんなにりつぱに縫つた嚢は始めてだ。
【釋】生有代尓吾者未見 イケルヨニワレハイマダミズ。イケルヨは、この生きている世界の意であるが、佛教思想がはいつているらしい。この世の中でわたしはまだ見たことがない。句切。
 事絶而 コトタエテ。言語を絶して。言い得ないまでに。
 如是※[立心偏+可]怜 カクオモシロク。※[立心偏+可]怜は、アハレともウマシとも讀まれるが、ここはオモシロクが適している。オモシロシは、新撰字鏡に「※[言+慈]、市貴(ノ)反、※[立心偏+可]怜也。心樂(シキ)也、於毛志呂志《オモシロシ》」とあつて、心のたのしいのをいう。「耶麻古曳底《ヤマコエテ》 于瀰倭※[手偏+施の旁]留騰母《ウミワタルトモ》 於母之樓枳《オモシロキ》 伊麻紀能禹智播《イマキノウチハ》 倭須羅〓麻自珥《ワスラユマシジ》」(日本書紀齊明天皇の卷)、「珠匣《タマクシゲ》 見諸戸山矣《ミモロトヤマヲ》 行之鹿齒《ユキシカバ》 面白四手《オモシロクシテ》 古昔所v念《イニシヘオモホユ》」(卷七、一二四〇)など使用されている。
 縫流嚢者 ヌヘルフクロハ。嚢は、集中、針嚢、すり嚢など見えている。旅行などに嚢を使用したことは、古事記上卷に「於2大穴牟遲《オホナムチノ》神(ニ)1負(ハセ)v※[代/巾]《フクロヲ》、爲(テ)2從者《トモビトト》1率(テ)往(ク)」、同中卷に「亦賜(ヒテ)2御嚢(ヲ)1而、詔(タマフ)d有(ラバ)2急《トミノ》事1、解(ケト)c茲嚢口《コノフクロヲ》u」など見えている。ここは美しく縫つた嚢で、腰に佩びなどする程度のちいさい嚢であろう。
【評語】大孃から手ずから縫つた嚢を贈つたのに對えた歌である。初二句の言い方などが仰山で、お禮の意を盡し得ている。
 
747 吾妹子が 形見《かたみ》の衣《ころも》 下に着て
 直《ただ》に逢ふまでは われ脱がめやも。
 
 吾味兒之《ワギモコガ》 形見乃服《カタミノコロモ》 下著而《シタニキテ》
 直相左右者《タダニアフマデハ》 吾將v脱八方《ワレヌガメヤモ》
 
(321)【譯】 あなたの形見の著物は、下に著てまのあたり逢うまでわたしはぬぎませんよ。
【釋】吾妹兒之形見乃服 ワギモコガカタミノコロモ。カタミは、その人の表示の意味をもつてする贈物をいう。卷の十六に「寵薄(レタル)之後、還(シ)2賜(リキ)寄物《カタミヲ》1【俗云2可多美1】」(三八〇九左註)とある。男女間において特に衣服が贈られるのは、身につける物であるからであろう。
 下著而 シタニキテ。膚近く著た意。
 直相左右者吾將脱八方 タダニアフマデハワレヌガメヤモ。男女再會するまで衣服をぬがないことは、しばしば歌われている。女の結んだ紐を解かないという形で、信實を守ることが説かれている。ここは形見の衣服をぬがないことによつて、その人を忘れない意を寓している。
【評語】男女の衣服の製法は、あまり變らなかつたと見えて、下著などは共通しても著られたのであろう。類想もあり、歌としては、一通りの作である。なお上に「わが夫子が形見の衣」(卷四、六三七)の歌もある。
【參考】類句、吾妹子が形見の衣。
  通るべく雨はな降りそ。吾妹子が形見の衣われ下に著《け》り(卷七、一〇九一)
  吾妹子が形見の衣無かりせば何物もてか命つがまし(卷十五、三七三三)
 
748 戀ひ死なむ 其《そこ》も同《おや》じぞ。
 何せむに、
 人目|他言《ひとごと》 辭痛《こちた》みわがせむ。
 
 戀死六《コヒシナム》 其毛同曾《ソコモオヤジゾ》
 奈何爲二《ナニセムニ》
 人目他言《ヒトメヒトゴト》 辭痛吾將v爲《コチタミワガセム》
 
【譯】戀死をするのも同じ事だ。何のために、人目や人のいう事をうるさがろう。
【釋】戀死六 コヒシナム。連體形で、次の句のソコを修飾する。
(322) 其毛同曾 ソコモオヤジゾ。ソコは初句の戀ヒ死ナムを受けている。本集にはソレの假字書きの例なく、代名詞としてはソコが使用されている。同は、オナジ、オヤジの兩訓があり、いずれも假字書きがある。ゾは終助詞。句切。
 奈何爲二 ナニセムニ。副詞句として他の敍述を限定するものと、この句自身叙述句となるものとがある。ここは前者で「何爲牟爾《ナニセムニ》 吾乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》」(卷十六、三八八六)の用法はこれである。
 人目他言 ヒトメヒトゴト。人目と人言と。第三者の見る所や、いう所。
 辭痛吾將爲 コチタミワガセム。コチタミは言痛みで、言語による打撃であり、煩わされることである。この句は、上の、何セムニを受けて反語になる。
【評語】戀死をするより、むしろ人目人言の中に突進しようという。珍しく男性的な意氣を見せている。元來家持と大孃との關係は、女の母親も承知していることだし、そう人言を憚るべき性質のものではなく、ただこういう歌を贈答して、相聞の遊戯に耽つていたものと見られるので、これらがその本音とすべきものなのであろう。
 
749 夢《いめ》にだに 見えばこそあらめ。
 かくばかり 見えずてあるは
 戀ひて死ねとか。
 
 夢二谷《イメニダニ》 所v見者社有《ミエバコソアラメ》
 如v此許《カクバカリ》 不v所v見有者《ミエズテアルハ》
 戀而死跡香《コヒテシネトカ》
 
【譯】夢にだけでも見えるならがまんもするが、このように見えないでいるのは、戀い死にをせよということか。
【釋】夢二谷所見者社有 イメニダニミエバコソアラメ。大孃が夢に見えるならで、アラメは、ともかくもあ(323)らめの意を示している。以上は三句以下に對する前提になつている。
 不所見有者 ミエズテアルハ。ミエズテアルハ(桂)、ミエズテアレバ(童)、ミエズシアルハ(略)。テに當る文字はないが讀み添えている。上を受けて、大孃が夢に見えないでいるのはの意。
 戀而死跡香 コヒテシネトカ。シネトカは、死ねとかだろうの意。
【評語】大孃の夢に見えないことを恨んでいる。これも相聞の遊戯的なものである。戀い死にを言うほど切迫した事情のものとは見えない。
 
750 念ひ絶え 侘《わ》びにしものを、
 なかなかに
 何か苦しく 相見|始《そ》めけむ。
 
 念絶《オモヒタエ》 和備西物尾《ワビニシモノヲ》 
 中々荷《ナカナカニ》 
 奈何辛苦《ナニカクルシク》 相見始兼《アヒミソメケム》 
 
【譯】思い絶えてうつうつとしておりましたものを、なまなかにどうして苦しく逢い始めたのでしよう。
【釋】念絶和備西物尾 オモヒタエワビニシモノヲ。一時關係の中絶していたことをいう。モノヲは、それだのにの意。
 中々荷 ナカナカニ。かえつて、なまなか。
 奈何辛苦相見始兼 ナニカクルシクアヒミソメケム。ナニカは、アヒミソメケムまでに懸かる。再會をするようになつて、かえつて苦しくなつたことをいう。
【評語】一時中絶していたあいだを囘顧して、むしろ心安かつたという。「中々に見ざりしよりはあひ見ては戀しき心まして思ほゆ」(人麻呂集、卷十一、二三九二)等、類想の多い歌である。
 
(324)751 相見ては 幾日《いくか》も經ぬを、
 幾許《ここだく》も
 狂ひに狂ひ 念ほゆるかも。
 
 相見而者《アヒミテハ》 幾日毛不v經乎《イクカモヘヌヲ》
 幾許毛《ココダクモ》
 久流比尓久流必《クルヒニクルヒ》 所v念鴨《オモホユルカモ》
 
【譯】逢つてから幾日もたたないのに、非常に狂いに狂つて思われることです。
【釋】相見而者幾日毛不經乎 アヒミテハイクカモヘヌヲ。逢つてからは幾日をも經過しない、然るに。
 幾許毛 ココダクモ。幾許は分量の不定を示す字であるが、ここはその意になつている。
 久流比尓久流必 クルヒニクルヒ。「三禮二見澤禮《ミツレニミツレ》」(卷四、七一九)と同じく、同語を重ねて、そのはなはだしくあるを示す句。七一九の例も家持の作である。
【評語】類型的な内容だが、狂ヒニ狂ヒなどの句で、わずかに生命を保つている。
 
752 かくばかり 面影のみに 思ほえば、
 いかにかもせむ 人目繁くて。 
 
 如v是許《カクバカリ》 面影耳《オモカゲノミニ》 所念者《オモホエバ》
 何如將v爲《イカニカモセム》 人目繁而《ヒトメシゲクテ》
 
【譯】こんなに面影にばかり見えて思われたらどうしよう。人目は繁くて逢われないのに。
【釋】面影耳所念者 オモカゲノミニオモホエバ。オモカゲは實物がなくて目先にちらついているもの。面影にばかり見えて自分が思うことなら。オモホエバ、自分の心に思われるのなら。思ホユの未然條件法。
 何如將爲 イカニカモセム。カモに當る文字はないが、義をもつて讀み添える。句切。
 人目繋而 ヒトメシゲクテ。現在の状況を説明している句。初句に返るとする解釋は誤りである。第四句の(325)理由説明になつている。
【評語】二三句の續きも不十分だし、全體としても言葉が足りない。しかもそれを補うだけの情熱も見られない。
 
753 あひ見ては
 しましく戀は 和《な》ぎむかと
 念へど、いよよ 戀ひまさりけり。
 
 相見者《アヒミテハ》
 須臾戀者《シマシクコヒハ》 奈木六香登《ナギムカト》
 雖v念弥《オモヘドイヨヨ》 戀益來《コヒマサリケリ》
 
【譯】逢つたならちよつとは戀も安まるかと思つたが、一層戀が増ることだつた。
【釋》須臾戀者 シマシクコヒハ。シマシクは、次のナギムカを修飾している。
 奈木六香登 ナギムカト。ナギは、靜まる、和ぐ意の動詞。上二段活。「其故爾《ソコユヱニ》 情奈具夜登《ココロナグヤト》」(卷八、一六二九)、「相見等《アヒミムト》 念之情《オモヒシココロ》 今曾水葱少熱《イマゾナギヌル》」(卷十一、二五七九)など使用されている。
 雖念弥 オモヘドイヨヨ。オモヘドは、思つていたがで、已然の條件法。イヨヨは、イヨイヨに同じ。一層の意。五句を修飾する。「伊與余麻須萬須《イヨヨマスマス》 加奈之可利家理《カナシカリケリ》」(卷五、七九三)。
【評語】これも逢つてから戀が一層募つたことを歌つている。狂いに狂いというほどの強烈な句もない。平語風な歌である。
 
754 夜《よ》のほどろ わが出《い》でて來れば、
 吾妹子が 念へりしくし
 面影に見ゆ。
 
 夜之穗杼呂《ヨノホドロ》 吾出而來者《ワガイデテクレバ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 念有四九四《オモヘリシクシ》
 面影二三湯《オモカゲニミユ》
 
(326)【譯】夜の明けないうちに出て來たので、あなたの思つていたさまが、面影に見えます。
【釋】夜之穗杼呂 ヨノホドロ。未明をいうのであろう。この次の歌にもあり、「秋の日の穗《ほ》田を雁が音|闇《くらやみ》に夜のほどろにも鳴き渡るかも」(卷八、一五三九)がある。語義はあきらかでない。ホド(程)に接尾語ロがついたのだともいい、また、「沫雪のほどろほどろに零《ふ》り敷けば奈良の都し思ほゆるかも」(卷八、一六三九)のホドロも、同語で、ハダラに通ずるという説もあるが、いずれもまだ定説としがたい。
 吾出而來者 ワガイデテクレバ。大孃のもとから出て來るのである。
 念有四九四 オモヘリシクシ。オモヘリシクは、思いありしこと、物思い居りしことの意。上のシは、時の助動詞、クは、その體言法。その下のシは、強意の助詞。オモヘリシクの例は、「物負之《モノノフノ》 八十伴緒乃《ヤソトモノヲノ》 打經而《ウチハヘテ》 思う煎敷者《オモヘリシクハ》」(卷六、一〇四七)がある。なおかようなシクの例は、「すみのえの名兒《なご》の濱邊に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず」(卷七、一一五三)、「わが夫子《せこ》を何處《いづく》行かめとさき竹の背向《そがひ》に寢しく今し悔しも」(同、一四一二)、「秋の野の尾花が末《うれ》をおしなべて來《こ》しくもしるく違へる君かも」(卷八、一五七七)などある。
【評語】ある日の趣を、平敍して、作者の感想を加えないのがよい。夜のほどろは、語義未詳の語だが、音聲の上からやわらかい氣分を與えている。
 
755 夜のほどろ 出でつつ來らく、
 度《たび》まねく なれば、わが胸
 截《た》ち燒くが如。
 
 夜之穗杼呂《ヨノホドロ》 出都追來良久《イデツツクラク》
 遍多數《タビマネク》 成者吾胸《ナレバワガムネ》
 截燒如《タチヤクガゴト》
 
【譯】夜の明けないうちに出て來ることが、たびたび重なつたので、わたしの胸は切つて燒くようです。
【釋】出都追來良久 イデツツクラク。動詞來ルは、假字書きにクルとしたのが多い。クラクは、來ること。
(327) 遍多數成者吾胸 タビマネクナレバワガムネ。ナレバワガムネは、句の途中で大きく息をついている。
 截燒如 タチヤクガゴト。キリヤクガゴト(桂)、タチヤクゴトシ(新考)、タチヤクガゴト(定本)。切りまた燒く如くである。
【評語】前の歌と連作になつている。この歌も遊仙窟の「未(ダ)2曾(テ)飲(マ)1v炭(ヲ)、腹熱如(シ)v燒(ク)、不v憶(ハ)v呑(ムヲ)v刃(ヲ)、腸穿(ツコト)似(タリ)v割(クニ)」とあるによつたものと言われている。以上十五首、すぐれた歌はすくないが、數多く作つているうちに、だんだん特色のある歌が出て來ることが注意される。強いて求めて苦心するうちに、新しい境地が開かれるのである。
 
大伴田村家之大孃、贈2妹坂上大孃1歌四首
 
大伴の田村の家の大孃の、妹坂上の大孃に贈れる歌四首。
 
【釋】大伴田村家之大孃 オホトモノタムラノイヘノオホヲトメ。七五九の歌の左註にあるように、大伴の宿奈麻呂の女で、坂上の大孃の異母の姉である。宿奈麻呂が田村の里におり、同地におつたので田村の大孃といい、四首の内容によるに、多分正妻の所生であつたのであろう。田村は、天理市|丹波市《たんばいち》の西の田村であろうという。新撰姓氏録左京皇別、吉田の連の條に「家2居奈良京田村里河1」とあり、七五七の歌にも里近くありと歌つているので、坂上の大孃が佐保にいたとすれば、山邊郡では遠すぎ、奈良の京附近に田村の地が求められねばならない。なお卷の八にも、この作者が坂上の大孃に贈つた歌がある。
 
756 よそに居て 戀ふるは苦し。
 吾妹子を 繼《つ》ぎて相見む 事計《ことはかり》せよ。
 
 外居而《ヨソニヰテ》 戀者苦《コフルハクルシ》
 吾妹子乎《ワギモコヲ》 次相見六《ツギテアヒミム》
 事計爲與《コトハカリセヨ》
 
(328)【譯】よそにいて戀うるのは苦しうございます。あなたを始終見るように計らつてください。
【釋】外居而戀者苦 ヨソニヰテコフルハクルシ。別處にいて戀い思う状を述べている。句切。
 吾妹子乎 ワギモコヲ。姉妹關係で、ワギモコと言つている。
 次相見六 ツギテアヒミム。ツギテは繼續して。連體形の句。
 事討爲與 コトハカリセヨ。コトハカリは、計畫、思案。「常如v是《ツネカクシ》 戀者辛苦《コフルハクルシ》 暫毛《シマシクモ》 心安目六《ココロヤスメム》 事計爲與《コトハカリセヨ》」(卷十二、二九〇八)。
【評語】姉妹ではあるが、母を異にするので、それぞれその母について別居している。よく情を盡している歌である。
 
757 遠くあらば 侘《わ》びてもあらむを、
 里近く ありと聞きつつ、
 見ぬが術《すべ》なさ。
 
 遠有者《トホクアラバ》 和備而毛有乎《ワビテモアラムヲ》
 里近《サトチカク》 有常聞乍《アリトキキツツ》
 不v見之爲便奈沙《ミヌガスベナサ》
 
【譯】遠いのならつらく思つても居りましようのに、里が近くおいでになると聞きながら、お逢いできないのは、由ないことでございます。
【釋】遠有者和備而毛有乎 トホクアラバワビテモアラムヲ。遠い場合を假設している。ワビテモは、困つても、苦しんでも、アラムヲは、そのままにもあるべきだが、しかるにの意。
 里近有常聞乍 サトチカクアリトキキツツ。坂上の大孃が近い里に住んでいると聞いて。
 不見之爲便奈沙 ミヌガスベナサ。形容詞の用法中、何ガを受けて何サという一の型になる。既出、「旅にも妻とあるがともしさ」(卷四、六三四)など。見ないことが術なさよ。
(329)【評語】これもよく言おうとする所を盡している。作者はもう相當の年配らしい。
 
758 白雲の 棚引く山の、
 高高に わが念ふ妹を
 見むよしもがも。
 
 白雲之《シラクモノ》 多奈引山之《タナビクヤマノ》
 高々二《タカダカニ》 吾念妹乎《ワガオモフイモヲ》
 將v見因我母《ミムヨシモガモ》
 
【譯】白雲のたなびいている山のように、高く伸びあがつてわたしの思つているあなたを、見る法があればよい。
【釋】白雲之多奈引山之 シラクモノタナビクヤマノ。以上二句、高々ニと言うための序である。
 高々二 タカダカニ。ナホナホニ、ハロバロニ、ウラウラニなどと同樣、同語を重ねてこれに助詞ニが接續して副詞を作つたもの。その意味は、これを構成する語の意味を基礎として成立する。すなわち、高やかにある意の副詞であつて、常に動詞待ツを修飾するのは、高やかに伸びあがつて待つ意である。ここは待ち思う意を寓して思フを修飾している。「高山に高部さ渡り高々にわが待つ公を待ちいでむかも」(卷十一、二八〇四)、「石の上《かみ》布留《ふる》の高橋高々に妹が待つらむ夜ぞふけにける」(卷十二、二九九七)などの用例がある。「もちの日に出でにし月の高々に君をいませて何をか思はむ」(卷十二、三〇〇五)の例は、君に待たせては自分は思うことがないの意で、この語自身が、待つ有樣をいうようになつている。この三〇〇五の歌は從來正解を得ないでいた。
 吾念妹乎 ワガオモフイモヲ。妹は大孃。
 將見因我母 ミムヨシモガモ。ヨシは因縁、子細。
【評語】序は平凡だが、美しく、三句以下も眞心が現れている。
 
(330)759 いかならむ 時にか妹を、
 葎生《むぐらふ》の きたなき屋戸に
 入りいませなむ。
 
 何《イカナラム》 時尓加妹乎《トキニカイモヲ》
 牟具良布能《ムグラフノ》 稼屋戸尓《キタナキヤドニ》
 入將v座《イリイマセナム》
 
【譯】どのような日にか、あなたを、ムグラの生えているきたない家にお入れ申しましよう。
【釋】何時尓加妹乎 イカナラムトキニカイモヲ。イカナラムトキニカは、句を隔てて入リ坐セナムに懸かつている。
 牟具良布能 ムグラフノ。ムグラは、クワ科の多年生草本、カナムゲラ。蔓莖を有して他物に纏繞する。ムグラフは、葎の生えている庭で、雜草の生い茂つて荒れた處の意を示す。
 穢屋戸尓 キタナキヤドニ。ケガシキヤドニ(桂)、アレタルヤドニ(童)、キクナキヤドニ(考)、イヤシキヤドニ(略)。日本書紀卷の一に「不須也凶目汚穢、此(ヲ)云(フ)2伊儺之居梅枳枳多難枳《イナシコメキキタナキニ》1」、古事記上卷に、「伊那志許米志許米岐穢國《イナシコメシコメキキタナキクニ》」とある。穢雜な宿で、自分の家を謙遜していう。
 入將座 イリイマセナム。イマセナムは、座させむの意。
【評語】事情があつて、坂上の大孃をわが家に迎え入れることのできないのを嘆いている。ムグラ生ノは謙遜に過ぎて眞實性がない。もつと事實に即してその家を描寫すべきであつた。
 
(331)右、田村大孃、坂上大孃、竝是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1、號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者、母居2坂上里1、仍曰2坂上大孃1。于v時姉妹諮問、以v歌贈答。
 
右は、田村の大孃と坂上の大孃と、竝にこれ右の大辨大伴の宿奈麻呂《すくなまろ》の卿の女なり。卿は田村の里に居り、號を田村の大孃と曰へり。但し妹坂上の大孃は、母は坂上の里に居り、仍《よ》りて坂上の大孃と曰へり。時に姉妹諮問ふに、歌を以ちて贈答す。
 
【釋】卿居田村里號曰田村大孃 マヘツギミハタムラノサトニヲリ、ナヲタムラノオホヲトメトイヘリ。大伴の宿奈麻呂は、田村の里に住んでいたので、その大孃は田村の大孃と言つた。表現が不完全なのである。母は不明。
 母居坂上里 ハハハサカノウヘノサトニヲリ。母は大伴の坂上の郎女。宿奈麻呂との關係は、傍妻であつたらしい。
 諮問 トブラフニ。諮問は漢籍に見える熟字。後漢書に「朝廷毎(ニ)v有(ル)v疑v政(ニ)、輙驛使諮問(ス)」などある。
 
大伴坂上郎女、從2竹田庄1贈2女子大孃1歌二首
 
【釋】從竹田庄 タケダノタドコロヨリ。竹田の庄は、奈良縣磯城郡耳成村東竹田の地である。日本書紀神武天皇の卷に、皇軍の踏み詰《たけ》びし地を猛田《たけだ》というとあるは、この地である。跡見の庄は、神武天皇が鵄《とび》の瑞を得られた地であつて、これらの神武天皇の事蹟の地に、大伴氏の領地があつたと考えられるのは、その祖道の臣の命の功績によるものであろう。
(332) 女子大孃 ムスメノオホヲトメ。坂上の大孃。
 
760 うち渡す 竹田の原に 鳴く鶴《たづ》の、
 間無く時無し。
 吾が戀ふらくは。
 
 打渡《ウチワタス》 竹田之原尓《タケダノハラニ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》
 間無時無《マナクトキナシ》
 吾戀良久波《ワガコフラクハ》
 
【譯】ずうつと見渡される竹田の原に鳴く鶴のように、ひまもなくいつという時もありませんよ。わたしの戀しく思うことは。
【釋】打渡 ウチワタス。ウチは接頭語。ワタスは眺め渡されるをいう。眼前に展開して見られる意である。
 竹田之原尓 タケダノハラニ。竹田の庄の平野をいう。
 鳴鶴之 ナクタヅノ。以上三句は、鶴の聲の間斷なしの意に、次の句を引き起す序となつている。
 間無時無 マナクトキナシ。マナシトキナシ(桂)、マナクトキナシ(西)。マナクは間隔なく。トキナシはきまつて鳴く時なしで、やはり間斷なしの意になる。句切。
 吾戀良久波 ワガコブラクハ。コフラクは、戀うこと。第四句に對する主格の句。
【評語】類歌もあり、平凡な内容であるが、目前の景を使用して序とし、間無シ時無シと言ひ切つたあたり、よい姿をしている。
【参考】類句。五句わが戀ふらくは。
  茅《ち》花拔く淺茅が原の壺《つぼ》すみれ今盛なり。わが戀ふらくは(卷八、一四四九)
  隱處《こもりど》の澤泉なる岩根ゆも通りて思ふ。わが戀ふらくは(卷十一、二四四三)
  白まなご三津の黄土《はにふ》の色に出でて云はなくのみぞ。わが戀ふらくは(同、二七二五)
(333)  みさごゐる沖の荒礒に寄する浪行く方も知らず。わが戀ふらくは(同、二七三九)
  眞菅よし宗我《そが》の河原に鳴く千鳥間無しわが夫子。わが戀ふらくは(卷十二、三〇八七)
  戀衣著ならの山に鳴く鳥の間無く時無し。わが戀ふらくは(同、三〇八八)
  衣手の眞若の浦のまなごぢの間無く時なし。わが戀ふらくは(同、三一六八)
  春日野の淺茅が原におくれ居て時ぞとも無し。わが戀ふらくは(同、三一九六)
  眞金ふく丹生の眞朱《まそほ》の色に出て言はなくのみぞ。わが戀ふらくは(卷十四、三五六〇)
  あらき田の鹿猪《しし》田の稻を倉に積みてあなひねひねし。わが戀ふらくは(卷十六、三八四八)
 
761 早河の 瀬に居《ゐ》る鳥の、
 緑《よし》を無《な》み 念ひてありし
 わが兒はもあはれ。
 
 早河之《ハヤカハノ》 湍尓居鳥之《セニヰルトリノ》
 縁乎奈弥《ヨシヲナミ》 念而有師《オモヒテアリシ》
 吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》
 
【譯】流れの早い河の濱にいる鳥のように、たよりなく思つていたわたしの子どもは、かわいそうです。
【釋】早河之湍尓居鳥之 ハヤカハノセニヰルトリノ。急流の瀬にいる鳥ので、序となつて、次の句を引き起している。
 縁乎奈弥 ヨシヲナミ。より所なく、たよりなく。次の句を修飾する。
 念而有師 オモヒテアリシ。別れた時の姿を想起している。
 吾兒羽裳※[立心偏+可]怜 ワガコハモアハレ。ハモは提示感動の意をあらわす助詞。終助詞として使用される。※[立心偏+可]怜は、感に堪えた意の字であるが、ここではあわれむ意に使用している。「旅に臥《こや》せるこの旅人あはれ」(卷三、四一五)の如き用法である。
(334)【評語】前の歌と併わせて見るべき歌である。前の歌には作者自身の上を敍し、よつて自分の現にいる竹田の原の景を序に使用している。轉じてこの歌では、思う子の上を述べ、よつてその序も、その子のいる佐保川の早湍を思つていると考えられる。その序は、いかにも母に別れてたよりなく思つている娘の有樣を描くにふさわしい。母親としての愛情のよく歌われている作品である。
 
紀女郎、贈2大伴宿祢家持1歌二首 女郎名曰2小鹿1也
 
【釋】紀女郎 キノヲミナ。本卷六四三の題詞の下に「鹿人(ノ)大夫之女、名(ヲ)曰(フ)2小鹿(ト)1也。安貴(ノ)王之妻也」とある。安貴の王は、その歿年をあきらかにしないが、續日本紀には天平十七年に從五位の上になつたことまで見えている。それで紀の女郎の年齡を推測するのは困難であり、また家持との關係と、安貴の王との關係との先後も知られない。家持との相聞の歌は、天平時代、久邇の京への遷都にかけて行われたもののようである。
 
762 神《かむ》さぶと 不欲《いな》にはあらず。
 ややおほや。
 かくして後に さぶしけむかも。
 
 神左夫跡《カムサブト》 不欲者不v有《イナニハアラズ》
 八也多八《ヤヤオホヤ》
 如v是爲而後二《カクシテノチニ》 佐夫之家牟可聞《サブシケムカモ》
 
【譯】神様ぶつていやというのではありません。ただ多分こんなふうにして、あとでつらいことになるでしようか。
【釋】神左夫跡 カムサブト。カムサブは、既出(卷一、三八)。神としての性能を發揮する。神聖にある。トは、として。
 不欲者不有 イナニハアラズ。拒絶するのではない。句切。
(335) 八也多八 ヤヤオホヤ。ヤヤオホハ(西)、ヤヤオホヤ(管)。ヤヤオホクヤ(代初書入)。ヤヤは比較差を示す副詞。オホは多量の義の名詞。下のヤは疑問の係助詞で、やや多くやの意になる。これは、猶ヤ、モトナヤなどと同樣の用法で、四五句の内容に對して、副詞句として限定する任務を有している。
 如是爲而後二 カクシテノチニ。カクシテは、相聞往來し關係をつけることをいう。
 佐夫之家牟可聞 サブシケムカモ。サブシケまで形容詞。鬱々として樂しまない状をいう。
【評語】作者は自制する餘裕を有している。一往逡巡しているのは、ひたすらな物おじする心からでなく、一身の利害をも考慮するまでになつているのであろう。石川の賀係《かけ》の女郎の歌に、「神さぶといなにはあらず。秋草の結びし紐を解くは悲しも」(卷八、一六一二)の作があり、この歌との先後は不明であるが、多分かような初二句は、前から傳えられていたのであろう。
 
763 玉の緒を 沫緒に搓《よ》りて 結べれば、
 ありて後にも 逢はざらめやも。
 
 玉緒乎《タマノヲヲ》 沫緒二搓而《アワヲニヨリテ》 結有者《ムスベレバ》
 在手後二毛《アリテノチニモ》 不v相在目八方《アハザラメヤモ》
 
【譯】玉の緒を沫緒に搓つて結んでおきましたので、これから先も逢わないことはございませんでしよう。
【釋】玉緒乎 タマノヲヲ。タマノヲは、玉を緒につらぬいたもの。この玉の緒は、装飾として手に纏くのが普通である。
 沫緒二搓而結有者 アワヲニヨリテムスベレバ。アワヲニヨリテムスベラバ(桂)、アワヲニヨリテムスベレバ(代初)。玉の緒をよりて沫緒に結ぶというべきであろう。アワヲは緒の結び方であろうが不明。アワの語義よりすれば、大きな輪の集まつた形に結ぶのであろうか。「春くれば瀧のしら糸いかなれや結べどもなほあわに見ゆらむ」(拾遺集、貫之)、「薄氷あわに結べる紐なればかざる日影にゆるぶばかりぞ」(枕の草子)など(336)詠まれている。絹を結ぶことは、再會を期するまじないであることは、草を結ぶ、松を結ぶなどで、既に出ている。ここも玉の緒を結ぶことによつて再會を期しているのである。
 在手後二毛 アリテノチニモ。生きながらえて後にも。
 不相在目八毛 アハザラメヤモ。ヤモは反語。逢わないことはないだろう。
【評語】はかない手すさびに運命の開けることを期する女心が歌われている。上三句に特殊の言い方をしたのがよいのである。
 
大伴宿祢家持和歌一首
 
764 百年に 老舌《おいじた》出でて よよむとも、
 吾は厭はじ。
 戀は益すとも。
 
 百年尓《モモトセニ》 老舌出而《オイジタイデテ》 與余牟友《ヨヨムトモ》
 吾者不v※[厭のがんだれなし]《ワレハイトハジ》
 戀者益友《コヒハマストモ》
 
【譯】百年もたつて年を取つて舌が廻らなくなつてからだが曲つても、わたしは嫌いませんよ。戀は増すことがあつても。
【釋】百年尓 モモトセニ。モモトセは、年數の多い意。人生の最大限とされるので使用している。
 老舌出而 オイジタイデテ。オイジタは、他に用例はないが、老者の舌であろう。それが出るとは、齒が拔け口にしまりがなくなつて、舌が見えるようなものをいうか。
 與余牟友 ヨヨムトモ。ヨヨムは彌勒上生經賛の古點に、※[しんにょう+委]※[しんにょう+施の旁]にヨヨミと訓し、また類聚名義抄、斜にヨヨミとある。曲折する意にいうらしい(萬葉集大成)。以上相手の状態を假設している。
(337) 吾者不※[厭のがんだれなし] ワレハイトハジ。句切。
 戀者益友 コヒハマストモ。第四句の内容を限定説明している。
【評語】神サブト云々の歌に對して答えている。既出の「白髪生ふる事は思はず」(卷四、六二八)と通ずる所があるが、これは將來にかけていう所に相違がある。老年の姿を具體的に描いているのが特色である。戯咲《ぎしよう》歌ふうに、思い切つて老衰したふうを描いているところに特色があるが、それだけに熱中した戀とは思われない。この兩者の關係は、餘裕のある遊びであるのだろう。
 
在2久迩京1思d留2寧樂宅1坂上大孃u、大伴宿祢家持作歌一首
 
久邇の京にありて、寧樂の宅に留まれる坂上の大孃を思ひて、大伴の宿祢家持の作れる歌一首。
 
【釋】在久迩京 クニノミヤコニアリテ。天平十二年十二月、山城の恭仁に行幸して都とされ、十六年二月、また難波の京に遷られた。そのあいだであるが、まだ家族を奈良に留めておいた頃のことである。
 寧樂宅 ナラノイヘ。奈良の京の家で、佐保の邸宅をいう。
 
765 一隔山《ひとへやま》 隔《へな》れるものを、
 月夜《つくよ》よみ
 門に出で立ち 妹か待つらむ。
 
 一隔山《ヒトヘヤマ》 重成物乎《ヘナレルモノヲ》
 月夜好見《ツクヨヨミ》
 門尓出立《カドニイデタチ》 妹可將v待《イモカマツラム》
 
【譯】一重の山が隔たつているのに、月がよいので、門口に出で立つて、わが妻は待つているだろうか。
【釋】一隔山 ヒトヘヤマ。一脈の山。久邇の京と奈良の京とは、奈良山の一帶を隔てているのでいう。
 重成物乎 ヘナレルモノヲ。カサナルモノヲ(桂)、ヘナレルモノヲ(略)。ヘナルは隔てになつているをい(338)う。モノヲは、しかるにの語氣。
 門尓出立 カドニイデタチ。カドは家の門邊。
 妹可將待 イモカマツラム。カは疑問の係助詞。妹がか、待つているだろうの意。
【評語】高丘の河内の、「故郷は遠くもあらず。一重《ひとへ》山越ゆるがからに思ひぞわがせし」(卷六、一〇三八)の歌は、やはり久邇の京の歌であるが、家持の歌は、これらを受けているらしい。
 
藤原郎女、聞之即和歌一首
 
藤原の郎女の、聞きてすなはち和ふる歌一首。
 
【釋】藤原郎女 フヂハラノイラツメ。傳未詳。久邇の京にいて、家持の歌を聞いて同情して詠んだのである。相當の年輩の人であつたのであろう。
 
766 路《みち》遠み、
 來じとは知れる ものからに、
 然《しか》ぞ待つらむ。
 君が目を欲《ほ》り。
 
 路遠《ミチトホミ》
 不v來常波知有《コジトハシレル》 物可良尓《モノカラニ》
 然曾將v待《シカゾマツラム》
 君之目乎保利《キミガメヲホリ》
 
【譯】道が遠いので、來ないとは知つておりながらも、そのように待つているでしよう。あなたに逢いたきゆえに。
【釋】路遠 ミチトホミ。久邇の京からの道路が遠くして。
 不來常波知有物可良尓 コジトハシレルモノカラニ。モノカラは、ものながらの意。「見渡者《ミワタセバ》 近物可良《チカキモノカラ》
(339)石隱《イハガクリ》 加我欲布珠乎《カガヨフタマヲ》 不v取不v已《トラズハヤマジ》」(卷六、九五一)、「玉葛《タマカツラ》 不v絶物可良《タエヌモノカラ》 佐宿者《サヌラクハ》 年之度爾《トシノワタリニ》 直一夜耳《タヾヒトヨノミ》」(卷十、二〇七八)など使用されている。
 然曾將待 シカゾマツラム。シカゾは、家持の歌を受けている。句切。
 君之目乎保利 キミガメヲホリ。メは面會、逢うこと。「枳瀰我梅能《キミガメノ》 姑〓之枳※[舟+可]羅爾《コホシキカラニ》 婆底底威底《ハテテヰテ》 ※[舟+可]矩野姑悲武謀《カクヤコヒムモ》 枳瀰我梅弘報梨《キミガメヲホリ》」(日本書紀一二三)などの例によるに、メは目の義から顔貌の意になつているのであろう。「意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》」(卷五、八八五)、「妻之眼乎欲焉《ツマノメヲホリ》」(卷十、二一四九)、「妹之目乎欲《イモガメヲホリ》」(卷十三、三二三七)など使用されている。
【評語】知レルモノカラニは、接續している語であるのに、二三句に跨つているのは、もう二句で切れる氣分を感じなくなつているためである。(六三一參照)。よく意を通じているが、趣はない。
 
大伴宿祢家持、更贈2大孃1歌二首
 
767 都路《みやこぢ》を 遠《とほ》みや妹《いも》が、
 この頃《ごろ》は、
 うけひて宿《ぬ》れど 夢《いめ》に見《み》えこぬ。
 
 都路乎《ミヤコヂヲ》 遠哉妹之《トホミヤイモガ》
 比來者《コノゴロハ》
 得飼飯而雖v宿《ウケヒテヌレド》 夢尓不2所v見來1《イメニミエコヌ》
 
【譯】都に來る路が遠くてか、この頃は、心に誓つて寢ても、あなたは夢に見えて來ませんね。
【釋】都路乎遠哉妹之 ミヤコヂヲトホミヤイモガ。ミヤコヂは、久邇の京に來る路。ヤは疑問の係助詞。
 比來者 コノゴロハ。比來は、比日と同じく使われている。
 得飼飯而雖宿 ウケヒテヌレド。ウケヒは、潔齋して神意を伺う行事で、古事記、日本書紀に、これに關す(340)る説話が多くある。日本書紀神代の上に「誓約之中、此(ヲ)云(フ)2宇氣譬能美難箇《ウケヒノミナカト》1」とある。誓約の字を當てるのは、かならず神意を得ようと誓うからである。その神意のあらわれる方法には種々あるが、夢がしばしば使用される。特に齋戒して寢て夢を見ようとするのである。奈良時代になつては、宗教的な意味はおとろえて、夢に愛人を見ようと心ざして寢るなどの意になつている。
 夢尓不所見來 イメニミエコヌ。上の遠ミヤを受けて結んでいる。
【評語】ウケヒを取り扱つたのは特色があるが、これも人麻呂集あたりの歌から來ているものと考えられる。類歌があつて、獨創は見出されない。
【参考】うけひ。
  水の上に數書く如きわが命を妹に逢はむとうけひつるかも(人麻呂集、卷十一、二四三三)
  さねかづら後もあはむと夢のみにうけひぞわたる年は經につつ(同、同、二四七九)
  あひ思はず公はあるらしぬばたまの夢にも見えずうけひて宿《ぬ》れど(同、二五八九)
 
768 今しらす 久邇《くに》の京に、
 妹に逢はず 久しくなりぬ。
 行きてはや見な。
 
 今所v知《イマシラス》 久迩乃京尓《クニノミヤコニ》
 妹二不v相《イモニアハズ》 久成《ヒサシクナリヌ》
 行而早見奈《ユキテハヤミナ》
 
【譯】今知ろしめす久邇の都で、あなたに逢わないで久しくなりました。行つて早く逢いたいものです。
【釋】今所知 イマシラス。イマは、新たに、久邇の京を都とされたことをいう。
 久成 ヒサシクナリヌ。幾月か經過したのであろう。句切。
 行而早見奈 ユキテハヤミナ。ユキテは、大孃の留まつている奈良の京へ行つて。ミナは願望の語法。
(341)【評語】平語的な歌で、何の特色も見出されない。強いて言えば、今知ラスが、久邇の京を説明する句として、目立つ程度である。
 
大伴宿祢家持、報2贈紀女郎1歌一首
 
769 ひさかたの 雨の降る日を、
 ただひとり 山邊に居《を》れば
 鬱《いぶせ》かりけり。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 雨之落日乎《アメノフルヒヲ》
 直獨《タダヒトリ》 山邊尓居者《ヤマベニヲレバ》
 鬱有來《イブセカリケリ》
 
【譯】大空から雨の降る日を、ただひとりで山邊にいると、うつとうしいことだつた。
【釋】久堅之 ヒサカタノ。天に冠する枕詞を、轉用して雨に冠している。
 直獨 タダヒトリ。言葉通りの一人ではなく、相手と一緒にいない意味の獨りである。妻を伴なつていないことをいうらしい。
 山邊尓居者 ヤマベニヲレバ。久邇の京では、土地が狹隘で自然山が近いのでいう。その京での作と考えられる。
 鬱有來 イブセカリケリ。イブセシは、うつとうしく晴々としない意。「垂乳根之《タラチネノ》 母我養蠶乃《ハハガカフコノ》 眉隱《マユゴモリ》 馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イブセクモアルカ》 異母二不v相而《イモニアハズテ》」(卷十二、二九九一)の例は、戯書によつて書いているので知られている。
【評語】初句の枕詞は、旅人が空を仰いで降る雨を歌う場合などには適しているが、かようなじめじめとした家居の歌には不適當である。これを除いては、雨中閑居、しかも住宅などもまだ十分に整つていない新京の情(342)を、相當によく描いている。しんみりした感じの出ている歌である。
 
大伴宿祢家持、從2久迩京1贈2坂上大孃1歌五首
 
770 人眼《ひとめ》多み 逢はなくのみぞ。
 情《こころ》さへ
 妹を忘れて わが念はなくに。
 
 人眼多見《ヒトメオホミ》 不v相耳曾《アハナクノミゾ》
 情左倍《ココロサヘ》
 妹乎忘而《イモヲワスレテ》 吾念莫國《ワガオモハナクニ》
 
【譯】人眼が多いので逢わないだけですよ。心までもあなたを忘れてはおりません。
【釋】不相耳曾 アハナクノミゾ。アハザルノミゾ(桂)、アハナクノミゾ(古義)。奈良の京にいる大孃のもとを訪れるのに、久邇の京から人目が多くて、逢いに行けない由である。「助詞ノミは、多くは直接に體言を受ける例で、ここは、逢ハナクを體言として受けている。ゾは終助詞。句切。
 情左倍 ココロサヘ。事情の許さないことによつて逢わないばかりで、その上に情までもの意で、この方は否定している。
 妹乎忘而吾念莫國 イモヲワスレテワガオモハナクニ。忘れることをワスレテオモフという。その否定で、忘れないに同じ。
【評語】逢わないことを辯解しただけの歌だ。人目が多いということは、逢えない理由としては、もつとも常套手段であつた。
 
771 僞《いつはり》も 似つきてぞする。
(343) 顯《うつ》しくも
 まこと吾妹子 われに戀ひめや。
 
 僞毛《イツハリモ》 似付而曾爲流《ニツキテゾスル》
 打布裳《ウツシクモ》
 眞吾妹兒《マコトワギモコ》 吾尓戀目八《ワレニコヒメヤ》
 
【譯】うそもありそうなことをいうものです。實際にあなたがわたしを戀うということはないでしよう。
【釋】僞毛似付而曾爲流 イツハリモニツキテゾスル。イツハリは、眞實でないこと。ニツキテは、眞實に似せて。句切。
 打布裳 ウツシクモ。打布は假字。ウツシクは形容詞。日本書紀神代の上に「顯見蒼生、此(ヲ)云(フ)2宇都志枳阿
烏比等久佐《ウツシキアヲヒトクサト》1」とある。「宇都志伎青人草《ウツシキアヲヒトクサ》」(古事記上卷)。續日本紀和銅元年正月の宣命に「天坐神地坐祇 乃 相于豆奈 比 奉《アメニマスカミツチニマスカミノアヒウヅナヒマツリ》、福 波倍 奉事 爾 依而《サキハヘマツルコトニヨリテ》、顯 久 出 多留 寶 爾 在 羅之《ウツシクイデケルタカラニアルラシ》」など使用されている。現實にある、現前の。
 眞吾妹兒 マコトワギモコ。マコトは、副詞で、眞實實際の意を現す。
 吾尓戀目八 ワレニコヒメヤ。ヤは反語。
【評語】古歌によつて作られた相聞の遊びの歌で、大孃から贈つた歌があつて、それに答えたものと見える。獨創性はないが、歌としてはおもしろくできている。
【參考】類句、僞も似つきてぞする。
  僞も似つきてぞする何時よりか見ぬ人|戀《こひ》に人の死せし(卷十一、二五七二)
 
772 夢《いめ》にだに 見えむとわれは
 ほどけども、
 逢はずし思へば うべ見えざらむ。
 
 夢尓谷《イメニダニ》 將v所v見常吾者《ミエムトワレハ》
 保杼毛友《ホドケドモ》
 不v相志思者《アハズシオモヘバ》 諾不v所v見有武《ウベミエザラム》
 
(344)【譯】夢にだけでも見えるだろうと思い廻らすが、逢わないで思うので、見えないのももつともだ。
【釋】夢尓谷將所見常吾者 イメニダニミエムトワレハ。ミエムは、見ユに助動詞ムが接續している。受身の言い方である。作者は、大孃を夢にだけでも見えるだろうと思つている。
 保杼毛友 ホドケドモ。ホドケは、動詞と見られ、語構成の上からホドコス(施)の原形なる自動詞と考えられる。ホドコスは、有形無形に施與する意であるが、ホドクは、もつと廣義で、心の、到る、及ぶの意であろう。代匠記に、三義あるべしとして擧げた、その一つに、ほとばしるなりとし、その三つに、日本書紀に火熱をほとぼるとせるに寄せたのは、いずれも誤りで、その第二に擧げた説が是である。曰はく「二ツニハ、日本紀ニ、流、被、連、延、此字、皆ホトコルトヨメリ。同ジクホトコルトヨム中ニ、是ハ水火ナドノヒロゴリテ、引テ外ヘモ及ブ意ナレバ、イカデ君ガ夢ニナリトモ入テ見エムト思ヒヤリテ、心ヲソコニ及ボセドモト云ヘルナルベシ。施ヲホドコスト訓ズルモ、カノ流被ナドノ和訓ト、本はヒトツナルベシ。獨、水ニ漬レル物ノ液《ホトブ》ト云モカヨフベシ」とある。但し見エムの解は、作者自身が夢に見ようとする意であり、ホトブも別であると思われる。攷證に擧げた續古今集、釋教、權大納言教家、「うしとても思ひほどけば夢の世をいとふは人のさめぬなりけり」の歌のホドケは同語である。
 不相志思者 アハズシオモヘバ。舊訓アヒシオモハネバとあるは誤りである。シは強意の助詞、逢わずに思えばである。
 諾不所見有武 ウベミエザラム。ウベは既出(卷三、三一〇)。認定する意の副詞。
【評語】殊更に思い設けて作つたような跡の見える歌である。これも相聞の遊びであろう。
 
773 言《こと》問《と》はぬ 木すら紫陽花《あぢさゐ》、
(345) 諸弟等《もろとら》が 練《ねり》の村戸《むらと》に、
 詐《あざむ》かえけり。
 
 事不v問《コトトハヌ》 木尚味狹藍《キスラアヂサヰ》
 諸弟等之《モロトラガ》 練乃村戸二《ネリノムラトニ》
 所v詐來《アザムカエケリ》
 
【譯】物を言わない木にもアジサイがある。お前さん方の上手な口前にだまされましたよ。
【釋】事不問木尚味狹藍 コトトハヌキスラアヂサヰ。味狹藍は、ユキノシタ科の落葉灌木。紫陽花。「安治左爲能《アヂサヰノ》 夜敝佐久其等久《ヤヘサクゴトク》」(卷二十、四四四八)。花色變わりやすく、初め、紫青色で、後、紅紫色に變化する。物を言わない木にもアジサイのような變わりやすいものがある意で、人言の信じがたいことを説いている。諺として行われていたのであろう。譬喩として提示されている。句切。
 諸弟等之 モロトラガ。諸説があり、弟を茅に作つている本もある。日本書紀に栗田の諸姉という人があり、それに準じて、文字通り諸弟で、モロトと讀むのであろう。大孃をさすことはもちろんだが、その周圍をも併わせいうか。
 練乃村戸二 ネリノムラトニ。この句も未詳とされている。ネリは練ることであり、やわらかにさわりよくするをいう。ムラトは、ムラは群なるべく、トは、次の歌、またこの歌の初二句によるに言語の謂いであつて、ネリノムラトは、當りよく練られた多くの言葉の意と解せられる。倭名類聚抄、腎に无良度《ムラト》の訓があり、谷川士清は當聚處の義だと言つている。
 所詐來 アザムカエケリ。アザムカエは、詐クの受身。
【評語】難解とされていた歌であるが、意味の通らぬものでもない。アジサイを提示して、言語の恃みがたいのを説いたのは巧みであると言える。情熱はないが、一往の手段は認められる。なお市原の王の獨子を悲しむ歌に、「言とはぬ木すら妹と兄《せ》ありといふをただ獨子にあるが苦しさ」(卷六、一〇〇七)の歌があり、天平八(346)年の作とされているから、これより前の作になる。
 
774 百千遍《ももちたび》 戀ふといふとも、
 諸弟等《もろとら》が 練《ねり》の言葉は
 吾が信《たの》まじ。
 
 百千遍《モモチタビ》 戀跡云友《コフトイフトモ》
 諸弟等之《モロトラガ》 練乃言羽者《ネリノコトバハ》
 吾波不v信《ワレハタノマジ》
 
【譯】何百遍戀うと言つても、お前さん方の上手な言葉は、わたしは信じませんよ。
【釋】百千遍 モモチタビ。度數の極度に多いのをいう。
 諸弟等之 モロトラガ。前の歌に同じ。
 練乃言羽者 ネリノコトバハ。當りのよい言葉は。コトバの假字書きの例は、集中ここだけである。但し「伊比之氣等婆是《イヒシケトバゼ》」(卷二十、四三四六)の氣等婆は、仙覺本には古度婆とある。
 吾波不信 ワレハタノマジ。タノマジは、信用しない。
【評語】前の歌と連作關係にあり、この方がわかりがよい。それだけに露骨で、歌としては前の方がおもしろい。
 
大伴宿祢家持、贈2紀女郎1歌一首
 
775 うづら鳴く 故《ふ》りにし郷《さと》ゆ
 念へども、
 何ぞも妹に 逢ふ縁《よし》も無き。
 
 鶉鳴《ウヅラナク》 故郷從《フリニシサトユ》
 念友《オモヘドモ》
 何如裳妹尓《ナニゾモイモニ》 相縁毛無寸《アフヨシモナキ》
 
(347)【譯】ウズラの鳴くふるびた郷以來ずつと思つていますが、どうしてあなたに逢う法がないのでしよう。
【釋】鶉鳴 ウヅラナク。ウズラは、草深い處に住むので、舊都の説明として、この句を冠している。「鶉鳴《ウヅラナク》 古郷之《フリニシサトノ》 秋芽子乎《アキハギヲ》」(卷八、一五五八)など詠んでいる。
 故郷從 フリニシサトユ。フリニシサトは、奈良の京をいう。久邇に都が遷つて古くなつた意である。ユは、それから以來。今は古りにし郷であるが、それは現在についていうので、奈良の京にいた時からの意である。
 何如裳妹尓 ナニゾモイモニ。ゾモは係助詞。
 相縁毛無寸 アフヨシモナキ。何ゾモを受けて結んでいる。
【評語】秋の頃の歌であろう。鶉鳴クで、多少の風情を描いているだけで、他は平語に近い。久邇の京になつていくばくもない頃の作であろう。紀の女郎が、久邇の京に引き越して來たので、この上三句があるのであろう。
 
紀女郎、報2贈家持1歌一首
 
776 言出《ことで》しは 誰《た》が言《こと》にあるか。
 小山田《をやまだ》の 苗代《なはしろ》水の
 中淀にして。
 
 事出之者《コトデシハ》 誰言尓有鹿《タガコトニアルカ》
 小山田之《ヲヤマダノ》 苗代水乃《ナハシロミヅノ》
 中與杼尓四手《ナカヨドニシテ》
 
【譯】言に出たのは、誰の言でしよう。山田の苗代水のように、中でとまつていて。
【釋】事出之者 コトデシハ。先に言い出したのは。
 誰言尓有鹿 タガコトニアルカ。カは反語になり、誰の言でもない、あなたからだの意となる。この下にし(348)かるにの如き意を藏している。句切。
 小山田之苗代水乃 ヲヤマダノナハシロミヅノ。ヲは接頭語。この二句は譬喩で、山田の苗代にそそぎ入る水が、そこで停滯するようにの意で、次の中淀の序となる。
 中與杼尓四手 ナカヨドニシテ。ナカヨドは中途で停滯すること。兩者の關係の中止状態にあつたのをいう。
【評語】するどく責任を問うているが、序をつかつて寄せ附けないといふほどでもない餘裕を與えている。
 
大伴宿祢家持、更贈2紀女郎1歌五首
 
777 吾妹子が 屋戸《やど》の籬《まがき》を
 見に行かば、
 けだし門より 返しなむかも。
 
 吾妹子之《ワギモコガ》 屋戸乃籬乎《ヤドノマガキヲ》
 見尓往者《ミニユカバ》
 蓋從v門《ケダシカドヨリ》 將2返却1可聞《カヘシナムカモ》
 
【譯】あなたの宿の籬を見に行つたら、多分門口から還らせるだろうなあ。
【釋】吾妹子之屋戸乃籬乎 ワギモコガヤドノマガキヲ。籬は枝つきの竹の垣。マガキは、攷證にいう、倭名類聚紗に「籬、音離、(中略)和名|末加岐《マカキ》、一(ニ)云(フ)末世《マセ》」とあり、末世は馬柵であるから、マガキは馬垣の意で、馬を放牧したことが多いので、マセもマガキも、馬をさえぎるための料であるという。紀の女郎の家の垣をである。
 將返却可聞 カヘシナムカモ。カヘシテムカモ(桂)、カヘシナムカモ(略)。家内へ入れないで歸らせるだろうかの意。
【評語】以下は、紀の女郎が、久邇の京で家を經營しているのに贈つた歌と考えられる。まがきを見に行くと(349)いうのが、具體的でよい。
 
778 うつたへに 籬の姿 見まく欲《ほ》り、
 行かむといへや。
 君を見にこそ。
 
 打妙尓《ウツタヘニ》 前垣乃酢堅《マガキノスガタ》 欲v見《ミマクホリ》
 將v行常云哉《ユカムトイヘヤ》
 君乎見尓許曾《キミヲミニコソ》
 
【譯】殊更に籬の姿を見たいと思つて行こうといいますか。あなたを見にですよ。
【釋】打妙尓 ウツタヘニ。ことさら、特に。
 前垣乃酢堅 マガキノスガタ。前垣は、屋戸前の垣の義をもつて書いている。スガタは形態。
 欲見 ミマクホリ。見むことを欲して。
 將行常云哉 ユカムトイヘヤ。ヤは反語の助詞。アハムト思ヘヤの類。句切。
 君乎見尓許曾 キミヲミニコソ。キミは紀の女郎だが、家の主人の意に使用している。コソは係助詞。下略の語法。
【評語】前の歌と連作になつている。率直に言つていて、趣を失わない。この作者の相聞の歌も、ようやく手に入つて來た感がある。
 
779 板蓋《いたぶき》の 黒木の屋根は、
 山近し、
 明日《あすのひ》取りて 持ち參り來む。
 
 板蓋之《イタブキノ》 黒木乃屋根者《クロキノヤネハ》
 山近之《ヤマチカシ》
 明日取而《アスノヒトリテ》 持將2參來1《モチマヰリコム》
 
【譯】板葺の黒木の屋根は、山が近いのですから、あした取つて持つて參りましよう。
(350)【釋】板蓋之 イタブキノ。イタブキは、板をもつて葺くこと。「十寸板持《ソキイタモチ》 蓋流板目乃《フケルイタメノ》 不v合相者《アハナハバ》」(卷十一、二六五〇)とある。續日本紀、神龜元年十一月甲子の太政官の奏に、「其(ノ)板屋草舍(ハ)、中古(ノ)遺制、難(ク)v營(シ)易(ク)v破(レ)、空(ク)殫《ツクス》2民(ノ)財(ヲ)1請(フ)仰(ギテ)2有司(ニ)1、令2五位已上及衆人(ノ)堪(ヘタル)v營(ニ)者(ヲシテ)1、構2立(テ)瓦舍(ヲ)1、塗(リテ)爲(ム)u2赤白(ト)1」とあつて、當時板茸は、普通であつたことが知られる。
 黒木乃屋根者 クロキノヤネハ。クロキは、皮つきのままの木材。ヤネは、屋蓋をいう。ネは接尾語。
 山近之 ヤマチカシ。獨立文の插入文で、下四五句の根據を語つている。
 明日取而 アスノヒトリテ。明日黒木を取つて。
 持將參來 モチマヰリコム。持つてあなたの所に參り來ましよう。
【評語】三句の插入文が、巧みに久邇の京の地勢を語つている。家屋の造營に手傳いをしようという輕い氣持がよくあらわれている。
 
780 黒《くろ》樹取り 草も刈りつつ 仕《つか》へめど、
 勤《いそ》しき汝《わけ》と 譽《ほ》めむともあらず。
    一は云ふ、仕ふとも。
 
 黒樹取《クロキトリ》 草毛苅乍《クサモカリツツ》 仕目利《ツカヘメド》
 勤和氣登《イソシキワケト》 將v譽十方不v有《ホメムトモアラズ》
    一云、仕登母
 
【譯】黒木を取つたり草も刈つたりしてお仕えしましようが、働きものだとお讃めになりそうもありませんね。
【釋】黒樹取 クロキトリ。前の歌の黒木を取りて云々を受けている。
 草毛苅乍 クサモカリツツ。クサは、建築材料の草である。草葺の草を想像もしていようし、また葺草でなくても壁の材料にもした。「新室《ニヒムロノ》 壁草苅邇《カベクサカリニ》」(卷十一、二三五一)など歌われている。
 仕目利 ツカヘメド。お仕えしようけれども。
(351) 勤和氣登 イソシキワケト。勤をイソシと讀むのは、續日本紀、天平勝寶二年三月の條に「駿河(ノ)國守從五位(ノ)下檜原(ノ)造東人等、於(テ)2部内廬原(ノ)郡多胡(ノ)浦(ノ)濱(ニ)1、獲(テ)2黄金(ヲ)1獻(ズ)之。【練金一分沙金一分】於(テ)v是(ニ)東人等、賜(フ)2勤《イソシ》臣姓(ヲ)1」とあり、同五月の條に「伊蘇志《イソシノ》臣東人之親族卅四人、賜2姓伊蘇志(ノ)臣(ノ)族(ヲ)1」とある。勤勉である状の形容詞。ワケは既出(卷四、五五二)。奴を呼ぶ語。
 將譽十方不有 ホメムトモアラズ。働きがいのないことを言つている。
 一云仕登母 アルハイフ、ツカフトモ。第三句の別傳であるが、作者が兩案を存したものであろうか。
【評語】前の歌と連作になつている。ワケの語は、先行の歌にあつたのから來ており、それを中心にして構成された歌である。誠實を致してもそのかいがないの意を、輕快に取り扱つている。
 
781 ぬばたまの 昨夜《きそ》は還《かへ》しつ。
 今夜《こよひ》さへ われを還すな。
 路《みち》の長|手《て》を。
 
 野干玉能《ヌバタマノ》 昨夜者令還《キソハカヘシツ》
 今夜左倍《コヨヒサヘ》 吾乎還莫《ワレヲカヘスナ》
 路之長手呼《ミチノナガテヲ》
 
【譯】まつくらな昨晩はむだに歸らせた。今夜までもわたしを歸らせるな、長い途中なのに。
【釋】野干玉能 ヌバタマノ。枕詞だが、くらい意味を感じさせる。
 昨夜者令還 キソハカヘシツ。ヨムベハカヘル(桂)、ヨフベハカヘス(代初)、キソハカヘセリ(代精)、キソノヨハカヘス(代精)、ヨベハカヘシツ(略)、キソハカヘシツ(古義)。昨夜をキソと讀むのは、「孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》 伎曾母許余比毛《キソモコヨヒモ》」(卷十四、三五〇五)などあるによる。カヘシツは、いたずらに歸らしめたの意。句切。
 今夜左倍吾乎還莫 コヨヒサヘワレヲカヘスナ。今夜までもわたしをむだに歸らせるな。
(352) 路之長手呼 ミチノナガテヲ。既出(卷四、五三六)。ナガテは長い路。長い道中なるものを歸すなの意。
【評語】歸すというのは、寢を共にしないで歸すことらしい。女子は男子を待ち受けて待遇するが、もちろん心身を許さない場合もあるのである。男子も行つただけでわざと歸る事もあるのだから、この歌なども、まつ正直に受け入れるべきものとも限らない。(六三一參照)
 
紀女郎、裹物贈v友歌一首 女郎、名曰2小鹿1也
 
紀の女郎の、裹める物を友に贈れる歌一首。【女郎、名を小鹿といへり。】
 
【釋】裹物贈友歌 ツツメルモノヲトモニオクレルウタ。日本ふうにくずれた書き方である。ツツメルモノは、おみやげ。歌詞によれば、海濱からのみやげらしい。友は女の友だちで誰かわからない。
 
782 風高く 邊《へ》には吹けども、
 妹がため
 袖さへぬれて 刈れる玉藻ぞ
 
 風高《カゼタカク》 邊者雖吹《ヘニハフケドモ》
 爲v妹《イモガタメ》
 袖左倍所v沾而《ソデサヘヌレテ》 苅流玉藻焉《カレルタマモゾ》
 
【譯】風が高く岸邊には吹くけれども、あなたのために、袖までも濡れて刈つた海藻ですよ。
【釋】風高 カゼタカク。大空から吹いて來る風の義であるが、結局風の強い意になる。
 邊者雖吹 ヘニハフケドモ。へは海岸、岸邊。
 爲妹 イモガタメ。女の友に對してイモと言つている。
 袖左倍所沾而 ソデサヘヌレテ。浪のために袖も濡れて。
 苅流玉藻焉 カレルタマモゾ。カレルは、採取した程度。タマモは、藻を譽めていう。食料のための海藻と(353)推量される。
【評語】贈物に歌を添える習慣があつたようである。高安の王の裹《つつ》める鮒を贈つた歌(卷四、六二五)と形が似ていて、これは平凡だ。初二句は、海岸の風の氣分を出している。
 
大伴宿祢家持、贈2娘子1歌三首
 
783 前《さき》つ年の 先つ年より 今年まで、
 戀ふれど何《な》ぞも 妹に逢ひがたき。
 
 前年之《サキツトシノ》 先年從《サキツトシヨリ》 至2今年1《コトシマデ》
 戀跡奈何毛《コフレドナゾモ》 妹尓相難《イモニアヒガタキ》
 
【譯】昨年の昨年から今年まで戀していますが、どうしてあなたに逢えないのでしよう。
【釋】前年之 サキツトシノ。ヲトトシノ(桂)。前年は、諸訓ヲトトシと讀んでいるが、普通昨年の意に使用される字で、これをヲトトシ(一昨年)とする根據はない。ここは昨年である。前年の先年で、始めて一昨年になる。
 先年從 サキツトシヨリ。先年は、前年を文字を變えただけである。
 戀跡奈何毛 コフレドナゾモ。ナゾは何ぞで、それに感動の助詞モが接續している。
 妹尓相難 イモニアヒガタキ。ナゾモを受けて結んでいる。
【評語】一昨日も昨日も今日もというような言い方の歌から考えついて、この初三句ができたのだろう。同語、同系の語を重ねて、興としているだけの歌である。
 
784 現《うつつ》には 更にも得《え》言はじ。
(354) 夢《いめ》にだに、
 妹が手本を 纏き宿《ぬ》とし見ば。
 
 打乍二波《ウツツニハ》 更毛不2得言1《サラニモエイハジ》
 夢谷《イメニダニ》
 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 纏宿常思見者《マキヌトシミバ》
 
【譯】現實にとは改めて言い得ません。夢にだけでも、あなたの腕を纏いて宿たと見たらそれで滿足です。
【釋】打乍二波 ウツツニハ。打乍は、ウツツツのツ一音をあまして讀むように書いている。現實の意で、夢に對する語である。
 更毛不得言 サラニモエイハジ。サラニモは、改めて、特別に。エイハジは、言い得ないだろう。夢で滿足を得たら、更に現實で要求し得ない意。句切。
 夢谷 イメニダニ。以下、初二句に對する條件を説く。現前に對して夢を語る。
 妹之手本乎 イモガタモトヲ。タモトは腕。
 纏宿常思見者 マキヌトシミバ。マキヌは手本を纏いて宿る。シは強意の助詞。
【評語】夢にだけでも見たら滿足しようというのは、先方に自分を思うことを要求している。それほど思いつめた心ではなさそうだ。
 
785 わが屋戸《やど》の 草の上白く 置く露の
 壽《いのち》も惜《を》しからず。
 妹に逢はざれば。
 
 吾屋戸之《ワガヤドノ》 草上白久《クサノウヘシロク》 置露乃《オクツユノ》
 壽母不v有v惜《イノチモヲシカラズ》
 妹尓不v相有者《イモニアハザレバ》
 
【譯】わたしの屋戸の草の上に白く置く露のような命も惜しくはありません。あなたに逢わないので。
【釋】吾屋戸之 ワガヤドノ。ヤドは家の戸であるが、その家の住人としてここは屋前をいう。
(355) 草上白久置露乃 クサノウヘシロクオクツユノ。以上三句、譬喩によつて命を説明している。これは佛教思想から來たもので、命を露の如くはかないものとするのであるが、この歌としては、命を説明するだけであつて、妹に逢わないので、命の存在が一層心ぼそい感を帶びている。
 壽母不有惜 イノチモヲシカラズ。命のある效なしの意。句切。
 妹尓不相有者 イモニアハザレバ。第四句に對する條件である。
【評語】命を露や霜に比することは珍しくない。これによつて、この歌ではあわれつぽさが感じられるとすれば、無意義でもあるまい。妹に逢わない心ぼそさは、相當に出ている。
 
大伴宿祢家持、報2贈藤原朝臣久須麻呂1歌三首
 
【釋】藤原朝臣久須麻呂 フヂハラノアソミクスマロ。藤原の仲麻呂(惠美《えみ》の押勝)の第二子。官位の昇進すみやかで、天平寶字二年八月、正六位の下から從五位の下に、三年五月に美濃の守、六月に從四位の下、五年正月に大和の守、六年十二月に參議、七年四月に兼丹波の守、左右京の尹もとの如くであつた。八年九月、惠美の押勝の逆謀もれた際、坂上の刈田麻呂等のために射殺された。ここは、久須麻呂から歌を贈つたのに對して家持が報えたのであるが、久須麻呂の贈歌は傳わらない。以下家持と久須麻呂との贈答については、三通りの解がある。久須麻呂の家に女子があるのに、家持が戀したのだとする説が一つ、これは代匠記、考、略解、古義、新考等の説である。久須麻呂が美少年であるによつて贈つたとする男色説が二つ、これは代匠記の一説と童蒙抄と口譯との説である。以上の二説では、以下の歌が自然に完全に説明し得ないので、家持方の女子に久須麻呂から言い寄つたのだとする第三の説がよい。これは萬葉集攷證の説である。それでこの歌では、久須麻呂の來意を尚早の意をもつて辭している。しかしやがて年頃にもならば許そうとの意は、下の歌に見え、遂(356)にその縁は結ばれたと見えて、卷の十九に至つて、久須麻呂を聟と稱している。(以上の考證は、小者「上代國文學の研究」一六七頁以下に記してある。)かくて家持は、押勝と姻戚となり、橘の奈良麻呂の事件に連座しないで、かえつて後に押勝の失脚に伴なつて左遷されるに至つた。
 
786 春の雨は いや頻《しき》降《ふ》るに、
 梅の花 いまだ咲かなく。
 いと若みかも。
 
 春之雨者《ハルノアメハ》 弥布落尓《イヤシキフルニ》
 梅花《ウメノハナ》 未v咲久《イマダサカナク》
 伊等若美可聞《イトワカミカ》《カ》《モ》
 
【譯】春の雨はいよいよ降りしきりますのに、梅の花はまだ咲かないことです。たいへん若いからでしよう。
【釋】春之雨者弥布落尓 ハルノアメハイヤシキフルニ。イヤシキフルは、いよいよ重ねて降る。久須麻呂の言い寄ることが重ね重ねあるを譬えいう。
 梅花 ウメノハナ。家持方の女子。娘か妹かわからない。
 未咲久 イマダサカナク。サカナクは、咲かないこと。ここで句切と見るべきである。
 伊等若美可聞 イトワカミカモ。咲かない理由を推量している。「國遠見可聞《クニトホミカモ》」(卷一、四四)と同じ語法。カモは疑問の助詞で、これで文を結んでいる。
【評語】譬喩の歌であつて、事實に即しない點のあるのはやむを得ない。梅が若樹でまだ咲くに至らないというのは、結局女子が若くて、まだ貴意に應じられないということになる。その意味は通じ得ている。なお春雨は實景でもあり、梅の花は久須麻呂の歌に歌われていたのであろう。
 
787 夢《いめ》の如《ごと》 念ほゆるかも。
(357) 愛《は》しきやし 君が使の
 まねく通へば。
 
 如v夢《イメノゴト》 所v念鴨《オモホユルカモ》
 愛八師《ハシキヤシ》 君之使乃《キミガツカヒノ》
 麻祢久通者《マネクカヨヘバ》
 
【譯】敬愛すべき君が度々通いますのは、夢のように思われます。
【釋】如夢所念鴨 イメノゴトオモホユルカモ。意外の事に思う由である。その子細は、三句以下に述べられている。
 愛八師 ハシキヤシ。既出(卷二、二二八)。次句の君を修銑している。
 君之使乃 キミガツカヒノ。君は久須麻呂をさす。
 麻祢久通者 マネクカヨヘバ。マネクは度數多く。
【評語】久須麻呂の使の度々通うのを意外としているのは、その目的とする女子の、あまりにも若いためであろう。女子の保護者としての立場で歌つているので、ただ意を通ずるだけなのはやむを得ない所である。
 
788 うら若み 花咲きがたき 梅を植ゑて、
 人の言《こと》繋み 念ひぞわが爲《す》る。
 
 浦若見《ウラワカミ》 花咲難寸《ハナサキガタキ》 梅乎殖而《ウメヲウヱテ》 
 人之事重三《ヒトノコトシゲミ》 念曾吾爲類《オモヒゾワガスル》
 
【譯】枝先が若くて、花の咲きかねる梅を植えて、人の言葉の繁さに、物思いを致しております。
【釋】浦若見 ウラワカミ。ウラは、獨立名詞としてはウレという。藤のうら葉などいう時のウラである。「夕去《ユフサレバ》 野邊秋芽子《ノベノアキハギ》 末若《ウラワカミ》 露枯《ツユニシカレテ》 金待難《アキマチガタシ》」(卷十、二〇九五)とも書いている。枝先が若くして、伸びた芽が固まらないので。
 花咲難寸梅乎殖而 ハナサキガタキウメヲウヱテ。梅は女子を譬えている。まだ年頃に達せぬ女子を持つて。
 人之事重三 ヒトノコトシゲミ。久須麻呂からの言葉が繁くして。
(358)念曾吾爲類 オモヒゾワガスル。思案に暮れる由である。
【評語】久須麻呂の申し入れに接して動搖する心が歌われている。以上三首、連作として思う所を述べている。
 
又家持、贈2藤原朝臣久須麻呂1歌二首
 
789 情《こころ》ぐく 念ほゆるかも。
 春霞 たなびく時に、
 言《こと》の通へば。
 
 情八十一《ココログク》 所念可聞《オモホユルカモ》
 春霞《ハルガスミ》 輕引時二《タナビクトキニ》
 事之通者《コトノカヨヘバ》
 
【譯】心にかかつて思われることです。春霞のたなびく時に、あなたのお言葉が來ますので。
【釋】情八十一 ココログク。八十一は、九九の意で、ククの音を表示している。この語は既出(卷四、七三五)。うつとうしく晴々しない意。ここは思いが去らないのを形容している。
 所念可聞 オモホユルカモ。物思いがなされることである。句切。
 春霞輕引時二 ハルガスミタナビクトキニ。實際の季節を描いている。
 事之通者 コトノカヨヘバ。久須麻呂の使が通うので。
【評語】坂上の郎女あたりの歌を作り直している。この歌だけで言えば、相手の熱心に當惑し、しかも惡く思つていない事情は、よく描かれている。
 
790 春風の 聲《おと》にし出《い》でなば、
 ありさりて
(359) 今ならずとも 君がまにまに。
 
 春風之《ハルカゼノ》 聲尓四出名者《オトニシイデナバ》
 有去而《アリサリテ》
 不v有v今友《イマナラズトモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
 
【譯】春風が音を立てて吹くようになりましたら、よし今でなくてもあなたのおぼしめしに應じましよう。
【釋】春風之聲尓四出名者 ハルカゼノオトニシイデナバ。シは強意の助詞。まだ春風も十分に吹かないが、やがて十分に吹くようになつたらで、女子の生長して人竝になつたらの意を寓している。
 有去而 アリサリテ。ながらえ行きて。「木綿疊《ユフダタミ》 田上山之《タナカミヤマノ》 狹名葛《サナカヅラ》 在去之毛《アリサリテシモ》 今不v有十方《イマナラズトモ》」(卷十二、三〇七〇)、「阿里佐利底《アリサリテ》 能知毛相牟等《ノチモアハムト》 於母倍許曾《オモヘコソ》」(卷十七、三九三三)など使用されている。
 不有今友 イマナラズトモ。將來を假設している。
 君之隨意 キミガマニマニ。ここに至つて將來に對する應諾の意を示している。
【評語】春風の譬喩は、季節のものであるが、すこし無理のようだ。意味はよく通じている。
 
藤原朝臣久須麻呂、來報歌二首
 
791 奧山の 磐蔭《いはかげ》に生《お》ふる 菅《すが》の根の、
ねもころ吾も 相念《あひおも》はざれや。
 
 奧山之《オクヤマノ》 磐影尓生流《イハカゲニオフル》 菅根乃《スガノネノ》
 懃吾毛《ネモコロワレモ》 不2相念1有哉《アヒオモハザレヤ》
 
【譯】奥山の磐の蔭に生えている山菅の根のように、心からわたくしも思わないではおりません。
【釋】奥山之磐影尓生流 オクヤマノイハカゲニオフル。イハカゲは、岩石の陰のところ。「奥山之《オクヤマノ》 磐本管乎《イハモトスゲヲ》」(卷三、三九七)參照。
 菅根乃 スガノネノ。スガは山菅をいう。以上三句、次のネを引き出すための序で、菅の根のねもころと續(360)くのは、常套手段である。
 懃吾毛不相念有哉 ネモコロワレモアヒオモハザレヤ。ネモコロは、十分に、行き屆かない所なくの意の副詞。ヤは反語。
【評語】類型的な表現である。四五句は、申し入れた側としては冷淡な氣がする。作者が若いからであろう。
 
792 春雨を 待つとにしあらし。
 わが屋戸《やど》の 若木の梅も
 いまだ含《ふふ》めり。
 
 春雨乎《ハルサメヲ》 待常二師有四《マツトニシアラシ》
 吾屋戸之《ワガヤドノ》 若木乃梅毛《ワカギノウメモ》
 未含有《イマダフフメリ》
 
【譯】春雨を待つというのでしよう、わたくしの家の若木の梅もまだ莟《つぼ》んでおります。
【釋】春雨乎待常二師有四 ハルサメヲマツトニシアラシ。上のシは強意の助詞。時節の到るのを待つ心である。句切。
 吾屋戸之若木乃梅毛 ワガヤドノワカギノウメモ。實際の梅をいうが如くであるが、やはり若い女子のいることを寓意しているとも取られる。
 未含有 イマダフフメリ。フフメリは、つぼんでいる。「佐久良婆奈《サクラバナ》 伊麻太敷布賣利《イマダフフメリ》」(卷十八、四〇七七)などあり、含むことをフフムという。
【評語】家持の若木の梅の歌に和したのであるが、久須麻呂方にも若い女子のあることを告げて、家持に誘いをかけているらしく、實景だけではなさそうである。これも押勝の策謀の一端とも取れないこともない。
 
萬葉集卷第四  〔2011年2月10日(木)午前10時25分終了、卷五以降の再開は未定〕
 
(361)萬葉集卷第五
 
(363)萬葉集卷第五
 
 卷の一、二の二卷、卷の三、四の二卷が、それぞれ一往纏まつた形を成しているのに對して、卷の五は、特殊の一卷と言える。それは内容、部類、文字、編纂法等にわたつて、他卷と相違するものがあるからである。
 この卷には、長歌十首、短歌百四首、合計百十四首が收められているが、それらの歌は、題詞以外、漢文の序を有するもの、もしくは漢文の中に插入されて存在するものが多く、また歌を含まない漢文も存在している。本文の初めに、雜歌と標目が掲記されているが、歌の中には、純粹な挽歌もあり、男子どうしではあるが、相聞の歌もある。古本系統の本と考えられる神田本、および細井本には、この雜歌の一行がない。春日本萬葉集の本文の初めの部分は、本文が削り取られてその上に裏打ちされたものが存しているが、その削り取られた痕を※[手偏+僉]するに、同じくこの雜歌の標目がないようであつて、これは目録の初めに雜歌とあるものが、後に本文にはいつたかの疑問が存する。
 歌が多く漢文のあいだに介在して纏まつた形で編せられていること、また一字一音式の用字法が大部分であること、作者によつて用字法に特色が存すること等は、それぞれ使用された資料の原形に近いことが考えられる。そこで編纂法としては、資料を消化して使用することすくなく、むしろ原形のままに切り繼ぎしたのだろうということを想像させる。當時の書簡の樣式を具備したものが存在しているなど、これを證するに足りる。若干の編者の整理改定があるだろうが、根幹としては、切り繼ぎによる成立が考えられるのである。
 この卷の編者としては、山上の憶良の擬せられる説もあるが、それは單に憶良の作品が多く、また無記名の(364)ものを憶良の作だろうとする假説から出たものである。いかにも無記名のものに憶良の作もあるようだが、むしろ大伴の旅人その他の人の作と見るべきものもあつて、憶良を編者とする説は首肯されない。誰と指名することは困難であるが、やはり大伴家の方面に、編者を求めねばなるまい。この卷の資料は、旅人およびその系統において入手せらるべき性質のものが、大部分を占めている。
 時代は卷頭の神龜五年六月二十三日附の大伴の旅人の文章が、纏まつたものとしては古いが、憶良の作中に、去る神龜二年作るとあるものがあり、また作つた年月を明記しないものの中にはそれより古いものもあるかも知れない。降つては天平五年六月三日作と記されている「老身重病經年辛苦及思兒等歌」がもつとも新しい。卷末の「戀男子名古日歌」は、憶良の作とすればそれよりも前だろうが、最後に記し添えてある一
首は、それとの前後が不(365)明である。
 この卷には、古本系統のよい傳本がない。わずかに細井本の第二種と神田本とがあるばかりである。それに例によつて類聚古集と古葉略類聚鈔とがあるが、それも長歌および漢文は傳えていないものが多い。
 作家は、大伴の旅人と山上の憶良とが主要な位置を占めている。殊に憶良の如きは、この卷を失つたら、歌人としての名聲を失うだろう。憶良の貧窮問答の歌、子等を思う歌、惑へる情を反さしむる歌、旅人の松浦河に遊ぶ序、旅人等の梅花の歌などは、この卷の代表的名作である。大體大伴の旅人の大宰の帥時代に起つて、その歸京後に續くもので、おもな作品の年代は、わずかに六年間に過ぎない。
 
雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。卷の一、三等に見えて説明した。この卷に於ける性質については、卷頭の解説に記した。寫眞を掲げた細井本にこの一行がなく、目録からすぐ續いて本文に移つているのは、卷子本の形を傳えたもので、古い形であろう。
 
大宰帥大伴卿、報2凶問1歌一首
 
【釋】大宰帥大伴卿 オホキミコトモチノカミオホトモノマヘツギミ。大伴の旅人。
 報凶問歌 キヨウモニニコタフルウタ。凶問は、凶事に關する弔問。旅人は、神龜五年の夏、妻を伴なつて任地の筑紫に下り、まもなく妻を失つた。卷の八、一四七二の歌の左註に、「神龜五年戊辰、大宰(ノ)帥大伴(ノ)卿之妻大伴(ノ)郎女、遇(ヒテ)v病(ニ)長逝(セリ)焉」とある。歌一首とあるが、本文は歌入りの書簡であつて、それにこの題詞は整理者が附したのである。「萬葉集雜攷」(井上通泰)に、凶問は凶聞で、凶事のしらせであるとし、小島憲之氏もこれに(366)賛して更に例證をあげている。しかしこの題詞に「凶問ニ報フル」とあり、凶事のしらせとすれば、文中の兩君から來たと推考されるが、「兩の君の大きなる助けに依りて傾ける命わずかに繼ぐのみ」という文意は、すこしも凶事のしらせの意に觸れていない。これも漢文の出典に拘泥することのできない例である。
 
 禍故重疊、凶問累集。永懷2崩v心之悲1、獨流2斷v腸之泣1。但依2兩君大助1、傾命纔繼耳。【筆不v盡v言、古今所v歎。】
 
 禍故|重《し》疊《かさな》り、凶問|累《しきり》に集まる。永《とこしへ》に心を崩す悲しみを懷き、獨腸を斷つ泣《なみだ》を流す。但《ただ》兩《ふたり》の君の大きなる助けに依りて傾ける命纔に繼ぐのみ。【筆の言を盡さざるは、古今の歎く所なり。】
 
【譯】災難が重なり、お見舞が集まりました。いつまでも心のくずれるような悲しみを懷き、ひとりで腸も切れるばかりの涙を流しております。ただお二人の大きな助力によつて、年を取つた命がやつと續くばかりです。筆では言葉をつくし得ないのは、昔も今も歎くところであります。
【釋】禍故 クワコ。文選司馬相如諫v獵書に、「禍故(ハ)多(ク)藏(シ)2於隱微(ニ)1、發(ル)2於人(ノ)所(ニ)1v忽(ニスル)者也」などあり、災禍である。ここは妻を失つたことをいう。
 重疊 シキカサナリ。妻を喪つたほかにも、凶事があつたのであろうが、不明である。
 永懷崩心之悲 トコシヘニココロヲクヅスカナシミヲウダキ。永久に心をくずすばかりの悲しみを抱いて。
 獨流斷腸之泣 ヒトリハラワタヲタツナミタヲナガス。妻に死別した悲哀なので獨りという。斷腸は崩心に對し、心肝に徹するばかりの悲痛の形容である。泣は、ここでは名詞として涙の義に使用されている。ナミタ(涙)のタは、古くは清音である。
 兩君 フタリノキミ。誰であるか知られない。この文章にあまり美稱の類を使用していないところを見ると、(367)部下のうちで世話をした人をいうのであろう。
 傾命 カタムケルイノチ。老年の壽命。旅人は當時六十四歳であつた。
 纔繼耳 ワヅカニツグノミ。生命が絶えないで生きて行くだけです。
 筆不盡言古今所歎 フミテノコトヲツクサザルハイニシヘイマノナゲクトコロナリ。筆は、正倉院文書(大日本古文書十)に、賀茂の筆という人名を、賀茂の書手とも書いているので、フミテと讀んだことが知れる。フデはフミテの轉である。易上繋辭に、「書(ハ)不《ズ》v盡(サ)v言(ヲ)、言(ハ)不《ズ》v盡(サ)v意(ヲ)」とある。文章では、口でいうように書けないのは、古今の人の歎くところだというのである。
 
793 世の中は 空しきものと
 知る時し、
 いよよますます 悲しかりけり。
 
 余能奈可波《ヨノナカハ》 牟奈之伎母乃等《ムナシキモノト》
 志流等伎子《シルトキシ》
 伊與余麻須萬須《イヨヨマスマスス》 加奈之可利家理《カナシカリケリ》
 
【譯】世の中は空しいものだと知る時に、いよいよますます悲しいことでした。
【釋】余能奈可波牟奈之伎母乃等 ヨノナカハムナシキモノト。世間は無常であると。「世間者《ヨノナカハ》 空物跡《ムナシキモノト》 將v有登曾《アラムトゾ》 此照月者《コノテルツキハ》 滿闕爲家流《ミチカケシケル》(卷三、四四二)。
 志流等伎子 シルトキシ。下のシは、強意の助詞。
 伊與余麻須萬須 イヨヨマスマス。イヨヨは、イヨイヨに同じ。イヨイヨもマスマスも、同樣の意を有する語で、これを重ねて一層の意を強くしている。
【評語】宗教心のうすい旅人も、妻の死という現實に接しては、しみじみと佛教の無常觀が、強く壓しているのを覺える。それを率直に受け入れている表現が、すなおでよい。
 
(368)神龜五年六月廿三日
 
【釋】神龜五年六月廿三日 ジニキノイツトセミナツキハツカアマリミカ。以上一團の歌文の日づけである。妻を失つたのは四月であろうか。その後、ここに至つてこの文を作つて何人かに與えたのである。これが、この卷にはいつている經路を考えるに、これを受けた人が編入する場合、自分で書き殘しておく場合、この文の草案が殘つて、大伴家の書類などの編入した場合、または家持などが、あとで集めた場合などが考えられる。古人は、書簡を書くのに、じかに書かないで、草案を作つたものである。かような旅人の書簡も、その草案が大伴家に殘つたのであろう。高松宮家本袖中抄の紙背には、法印定爲の自筆書状の草案があつて、中には同文のもの數通が存しているのもいくつかある。
 
盖聞、四生起滅、方2夢皆空1、三界漂流、喩2環不1v息。所以、維摩大士、在2乎方丈1、有v懐2染疾之患1、釋迦能仁、坐2於雙林1、無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1。故知、二聖至極、不v能拂2力負之尋至1、三千世界、誰能逃2黒闇之捜來1。二鼠競爭、而度v目之鳥且飛、四蛇爭侵、而過v隙之駒夕走。嗟乎痛哉、紅顏共2三從1長逝、素質與2四徳1永滅。何圖、偕老違2於要期1、獨飛生2於半路1。蘭室屏風徒張、斷v腸之哀彌痛、枕頭明鏡空懸、染v※[竹/均]之涙逾落。泉門一掩、無v由2再見1。嗚呼哀哉。
 
おほむね聞かくは、四生の起滅することは、夢《いめ》の皆空しきに比《なら》ひ、三界の漂ひ流《めぐ》ることは、環の息まざるに喩ふ。この所以《ゆゑ》に、維歴大士は方丈にありて、疾に染む患を懷くことあり、釋迦能仁は雙林に坐《いま》して(369)泥※[さんずい+亘]《ないをに》の苦しみを免るることなしといへり。故《かれ》知りぬ、二聖の至極なるも、力負の尋ね至るを拂ふこと能はず、三千の世界、誰か能く黒闇の捜《あなぐ》り來るを逃れむ。二つの鼠、競ひ走りて、目を度る鳥、且《あした》に飛び、四つの蛇、爭ひ侵して、隙を過ぐる駒、夕に走る。ああ痛ましきかも、紅顔は三從と長《とこしへ》に逝き、素質は四徳と永《とこしへ》に滅ぶ。何ぞ圖らめや、偕老は要期に違ひ、獨飛、半路に生きむとは。蘭室の屏風は徒に張りて、腸を斷つ哀《かな》しみいよいよ痛く、枕頭の明鏡は空しく懸かりて、※[竹/均]《たけ》を染むる涙いよいよ落つ。泉の門一たび掩ひてまた見るに由なし。ああ袁しきかも。
 
【譯】聞いておりますことは、生物の生死は、夢の空しいようなものであり、靈魂の漂い廻《めぐ》ることは、環がまわつて止まないようであつて、この故に維摩大士は狹い室においでになつて御病氣におかかりになり、お釋迦樣は、沙羅雙樹のもとに坐して、死の苦しみをお免れなさらないということであります。そこで承知いたしました。この二人の聖人も、死神の尋ねて來るのを追い拂うことができません。宇宙のあいだに誰がよく黒い魔の捜索して來るのを逃れましよう。晝と夜とは先を爭つて進行して、一瞬にして時は過ぎ、身體を組織する要素はたがいに闘つて、一生涯はすぐに去ります。まことにいたましいことです。美しいお顔は、婦人の身と共に永久になくなり、純粹な性質は、女性の徳と共に滅び去りました。年を取つても一緒にと言つたことが約束に違い、ひとり殘つて半生を送ろうとは思いも寄りませんでした。寢室の屏風はむだに張つて、腸もちぎれる哀しみは一層ひどく、枕もとの鏡は空しく懸かつて、竹の皮を染めるような涙はいよいよ落ちます。墓の門が一度掩えば二度と逢うことができません。まことに悲しいことです。
【釋】以下七九九の歌の左註「神龜五年七月二十一日筑前(ノ)國(ノ)守山上(ノ)憶良上(ル)」まで、一團を成している。題詞はない。大伴の旅人の妻の死を悼んで、山上の憶良の作つて贈つたものである。憶良自身の妻の死を悼んだとする説があるが、憶良の妻がその頃に死んだという徴證のないこと、左註の年月の下に憶良上とあること、文章(370)歌詞の中に敬語を多く使用していること等の理由により、旅人の妻の死を悼んだものと解すべきである。
 蓋聞 オホムネキカクハ。蓋は、發語の辭。大體、大樣の義であるから、オヨソの訓などが適當であると思われるが、今、類聚名義抄にオホムネの訓のあるによる。
 四生起滅 シサウノキメツスルコトハ。四生は、倶舍考分別世品に、「有情類、卵生胎生濕生化生、是(ヲ)名(ケテ)爲(ス)2四生(ト)1」とある。一切の生物の義である。起減は生死に同じ。
 方夢皆空 イメノミナムナシキニナラヒ。方は、比類の義をもつて使用している。類聚名義抄に、ナラフ、タクラブの訓があるが、仙覺本にナラヒテと訓しているので、ナラヒの訓を採る。夢の空しいようであるの意。
 三界漂流 サムガイノタダヨヒメグルコトハ。三界は、欲界色界無色界をいう。人間世界および一切の想像上の世界を併わせいう。生物はこれらの世界を轉々として漂流するとする。
 喩環不息 マガリダマノヤマザルニタトフ。環は、輪のような形をしている玉で、端がないので、その轉々として廻るのに喩える。
 維摩大士 ヰマダイシハ。維摩詰所説經にある維摩詰。釋迦と同時代に毘耶離城にいた長者で、方丈の室にあつて疾病を現じたことは、その經に見えている。大士は敬稱。
 方丈 ハウヂヤウ。四方一丈の室の義。後、寺院の正寢をいう。
 釋迦能仁 サカノウニ。能仁は釋迦の語の漢譯。ここには敬語として使用されている。
 雙林 ソウリニ。釋迦の死歿したという沙羅雙樹の林。
 泥※[さんずい+亘] ナイヲニ。涅槃《ねはん》の訛りという。梵語、寂滅の義で、死亡をいう。無免泥※[さんずい+亘]之苦まで、蓋聞の内容であるから、トイヘリを添えてこれを結ぶ。
 二聖至極 ニサウノシゴクナルモ。維摩詰と釋迦との二聖人の、徳の至り極まれるもの。
(371) 力負之尋至 リキフノトメイタルヲ。莊子大宗師篇に「夫(レ)藏(シ)2舟(ヲ)於壑(ニ)1、藏(ス)2山(ヲ)於澤(ニ)1、謂(フ)2之(ヲ)固(ト)1矣、然(シテ)而夜半有(ル)v力者負(ヒテ)v之(ヲ)而走(ル)、昧者不(ル)v知(ラ)也」とある。これは生死の遁れられないのを譬えいう。力ありて負い行く者の尋ね至るの意で、死の襲い來るをいう。
 三千世界 サムゼニノセカイ。三千大千世界の略で、一切の世界の意。一の日月があり、一の須彌山がある世界の一千を一小千世界とし、その小千世界の一千を一中千世界とし、その中千世界の一千を大千世界とし、その三千を、三千大千世界とする。
 黒闇之捜來 コクアニノアナグリキタルヲ。涅槃經聖行品に「復(タ)於2門外(ニ)1、更(ニ)見(ル)2一女(ヲ)1、其(ノ)形醜陋、衣裳弊壞、多(シ)2諸(ノ)垢膩1、皮膚〓裂(ス)、其色艾白(ナリ)、見已(リテ)問(ヒテ)言(ク)、汝(ノ)字何等(ゾ)、繋2屬(スル)誰(ガ)家(ニ)1、女人答(ヘテ)言(ク)、我《ガ》字黒闇(ナリ)」とある。本卷、山上の憶良の悲(シミ)2歎(ク)俗道假合(ハ)即離(レ)易(ク)v去(リ)難(キヲ)1v留(リ)詩一首并序に、「内教(ニ)曰(ク)、不(バ)v欲(セ)2黒闇之後(ニ)來(ルヲ)1、莫(シ)v入(ルコト)2徳天之先(ニ)至(ルニ)1」の自註に「徳天(ハ)者生也、黒闇(ハ)者死也」とある。死の捜索し來る意である。
 二鼠競走 フタツノネズミキホヒハシリテ。佛説譬喩經に「乃往(ニシ)過去於2無量劫時(ニ)1、有(リ)2一人1、遊(ビ)2於曠野(ニ)1、爲(リ)2惡象(ノ)所(ト)1v逐(フ)、怖(レ)走(ルモ)無(シ)v依(ル)、見(ルニ)2一(ノ)空井(ヲ)1、傍(ニ)有(リ)2樹根1、即尋(ネ)2根下(ヲ)1潜(ム)v身(ヲ)、井(ノ)中(ニ)有(リ)2黒白二鼠1、互(ニ)齧(ム)2樹根(ヲ)1、於2井(ノ)四邊(ニ)1、有(リ)2四(ノ)毒蛇1、欲(ス)v齧(マムト)2其(ノ)人(ヲ)1。(中略)黒白二鼠(ハ)、以(テ)喩(ヘ)2晝夜(ヲ)1、齧(ムハ)2樹(ノ)根(ヲ)1者、喩(ヘ)2念々滅(ブルヲ)1、其(ノ)四毒蛇(ハ)、喩(フ)2於四大(ヲ)1」とある。二鼠の競い走るは、晝夜のすみやかに進行するを譬えていう。
 度目之鳥旦飛 メヲワタルトリアシタニトビ。時の經過の早いのを、鳥が目前を飛び渡ることの早いのに譬えている。旦は文章の飾りで、下の夕に對している。
 四蛇爭侵 ヨツノヘミアラソヒヲカシテ。四蛇は、二鼠の條に見える四毒蛇で、地水火風の四大をいう。四大は萬物組織の要素で、これによつて身體を成し、またこれがために侵されるとするのである。
 過隙之駒夕走 ヒマヲスグルコマユフベニハシル。史記留侯世家に「人生一世(ノ)間、如(シ)2白駒(ノ)過(グルガ)1v隙(ヲ)」などあり、(372)時の過ぎることの速かなのを、駒が隙を過ぐるに譬えいう。以上第一段、總論として人生の無常にして時の急速に經過するをいう。
 嗟呼痛哉 アアイタマシキカモ。以下、女子の死去を敍するに當つて、まず總括として哀痛の情を示し、文末の鳴呼哀哉と對應する。
 紅顔 クレナヰノカホバセ。婦人の華やかな顔貌をたたえる。
 三從 サムソウ。禮記郊特牲篇に「婦人(ニ)有(リ)2三從之義1、無(シ)2專用之道1、故(ニ)未(ダ)v嫁(セ)從(ヒ)v父(ニ)、既(ニ)嫁(シテ)從(ヒ)v夫(ニ)、夫死(シテ)從(フ)v子(ニ)」などある。婦人の道をいう。
 素質 シロキスガタ。紅顔に對して、婦人の白い姿容をいう。
 四徳 シトク。禮記昏義篇に、「婦人先(ダツ)v嫁(スルニ)三月、教(フルニ)以(テス)2婦徳婦言婦容婦功(ヲ)1」とある。婦人の道徳。
 何圖 ナニゾハカラメヤ。思いがけなかつた。豫期しなかつた。
 偕老 イモセ。詩經撃鼓に、「執(リ)2子之手(ヲ)1、與v子(ト)偕(ニ)老(ユ)」とある。共に老いる義で、夫婦關係をいう。
 要期 チギリ。契約、誓約。
 獨飛 トクヒ。鳥の獨り飛ぶに譬えて、夫婦の死別をいう。
 生於半路 ナカバノミチニイカムトハ。半路は、途中をいう。生涯のなかば生きようとは。
 蘭室 ラニシツ。香氣のよい室の義で、婦人の閨屋をいう。憶良目身の家の閨房ではこの語は使えない。
 屏風 ヘイフウ。風を遮るために立てる具。その人なくして立てるので、いたずらに張るという。
 枕頭明鏡 マクラノカガミ。女子の装身の用具の意に鏡を提示し、しかも主なくして空しく懸かつていることを敍している。
 染※[竹/均]之涙 タケヲシムルナミダ。博物志に、「舜南巡(リテ)不v返(ラ)、葬(ル)2蒼梧之野(ニ)1、舜(ノ)二女蛾皇女英、追(ヒテ)v之(ヲ)不v及(バ)、(373)至(ル)2洞庭之山(ニ)1、涙下(リテ)染(メ)v竹(ヲ)即斑(ナリ)」とある。※[竹/均]は竹の青皮。竹の皮をも染めるばかりの涙の義。
 泉門 ヨミトノカド。死者の行く地下の門戸。墳墓の入口。地下の國をヨミノクニといい、黄泉と書く。ヨミトは、黄泉の國の處。
 
 愛河波浪已先滅、  苦海煩悩亦無v結、
 從來厭2離此穢土1、 本願託2生彼淨刹1。
 
 愛《うつく》しみの河の波浪はすでにまづ滅び、苦しみの海の煩悩《わづらひ》もまた結ぼるることなし。
 從來《もとより》この穢土《ゑど》を厭離《おむり》す。本願《ねが》はくは生をかの淨き刹《くに》に託《よ》せむ。
 
【譯】愛の河の波は既に消え、苦の海の悩みも結ぶことがない。もとからこのきたない世界を厭つていた。心からの願いで、あの淨らかな處に生れたいと思います。
【釋】愛河波浪已先滅 ウツクシミノカハノナミハスデニマヅホロビ。七言四句の詩で、滅結刹と仄韻を踏んでいる。これはその初句である。愛河は、愛を河に譬えていう。相は溺れるものであるからだという。その河の波浪が滅んだというのは、死んで、愛の滅んだ意である。
 苦海煩悩亦無結 クルシミノウミノワヅラヒモマタムスボルルコトナシ。苦海は世間の苦しみを海に譬える。煩悩は、わずらい、悩み。死によつて愛も消滅したので、この世の悩みもまた生じない意である。死を契機として佛道に入る意を語るので、以上は、第三句以後に轉じて佛果を得むとすることを説く、その前提とする。
 從來厭離此穢土 モトヨリコノキタナキクニヲオムリス。從來は前から。穢土は人間世界。前からこの人生を厭い捨てる心を持つていた。
 本願託生彼淨刹 ネガハクハイノチヲソノキヨキクニニヨセム。本願は、根本的に願望する所。託は寄託。(374)刹は國土。淨刹は淨土に同じ。どうかその生をかの淨土に寄せたいと思う。ここは死んだ人が淨土に生まれるのを願うことを、その人の身になつて詠んでいる。
【評語】初句に夫婦の別れを述べているだけで、全體としては、淨土に生まれかわることを願つて慰めの詞としているものである。
 
日本挽歌一首
 
【釋】日本挽歌 ヤマトノメニカ。前の漢詩文に對して國語の挽歌の意で、作者みずから題したもの。
 
794 大王《おほきみ》の 遠の朝廷《みかど》と、
 しらぬひ 筑紫の國に
 泣く子なす 慕ひ來まして、
 息だにも いまだ休めず、
 年月も いまだあらねば、
 心ゆも 思はぬ間《あひだ》に
 うち靡き 臥《こや》しぬれ、
 言はむすべ 爲《せ》むすべしらに、
 石木《いはき》をも 問ひさけ知らず、
 家ならば 形體《かたち》はあらむを、
(375) 恨《うらめ》しき 妹の命《みこと》の、
 吾《あれ》をばも いかにせよとか、
 鳰鳥《にほどり》の 二人竝び居
 語らひし 心|背《そむ》きて、
 家ざかりいます。
 
 大王能《オホキミノ》 等保乃朝庭等《トホノミカドト》
 斯良農比《シラヌヒ》 筑紫國尓《ツクシノクニニ》
 泣子那須《ナクコナス》 斯多比枳摩斯提《シタヒキマシテ》
 伊企陀尓母《イキダニモ》 伊摩陀夜周米受《イマダヤスメズ》
 年月母《トシツキモ》 伊摩他阿良祢婆《イマダアラネバ》
 許々呂由母《ココロユモ》 於母波奴阿比陀尓《オモハヌアヒダニ》
 宇知那※[田+比]枳《ウチナビキ》 許夜斯努禮《コヤシヌレ》
 伊波牟須弊《イハムスベ》 世武須弊斯良尓《セムスベシラニ》
 石木乎母《イハキヲモ》 刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》
 伊弊那良婆《イヘナラバ》 迦多知波阿良牟乎《カタチハアラムヲ》
 宇良賣斯企《ウラメシキ》 伊毛乃美許等能《イモノミコトノ》
 阿禮乎婆母《アレヲバモ》 伊可尓世與等可《イカニセヨトカ》
 尓保鳥能《ニホドリノ》 布多利那良※[田+比]爲《フタリナラビヰ》
 加多良比斯《カタラヒシ》 許々呂曾牟企弖《ココロソムキテ》
 伊弊社可利伊摩須《イヘザカリイマス》
 
【譯】天皇の遠方の政廳として、この筑紫の地に泣く子のように跡を慕つておいでになつて、息だけもまだ休めず、年月もまだたたないのに、心から思いがけず、横たわつておしまいになつたので、何と言つてよいか法もなく、石や木をも物を言いかけることも知らず、家ならば形はあるだろうのに、恨めしいわが妻が、わたしをどうせよとてか、鳩鳥のように二人竝んでいて物語をした心にそむいて、家を捨てておいでになる。
【構成】段落はなく、全篇一文でできている。ウチ靡キ臥シヌレまでは、前提文で、妻の死をいい、以下それに對して思慕の情を述べている。
【釋】大王能等保乃朝庭等 オホキミノトホノミカドト。既出(卷三、三〇四)。ミカドの本義は御門であるが、ここでは轉用して朝廷の義と見てもよい。遠方の朝廷、すなわち地方廳で、その所管の土地として、ここでは次の筑紫の國をさす。トはとして。
 斯良農比 シラヌヒ。既出(卷三、三三六)。枕詞。筑紫に冠する。
 筑紫國尓 ツクシノクニニ。筑紫は九州の北方の地名。ここは筑前の國で、大宰府をさす。
 泣子那須 ナクコナス。既出(卷三、四六〇)。枕詞。慕フに冠する。
 斯多比枳摩斯提 シタヒキマシテ。この歌に詠まれている主人公の女性を、大伴の旅人の妻と見るべきこと(376)は、前述の通りであるが、旅人の妻は、旅人に伴なわれて大宰府に上つた。それをここには言つていると見られる。マシは敬語の助動詞。敬語は、慣用によつて尊敬の意をうすくするものであつて、自家の妻に使用しないでもなく、柿本の人麻呂の亡き妻を悼む歌にも「鳥自物《トリジモノ》 朝立伊麻之弖《アサダチイマシテ》」(卷二、二一〇)の如く使用されているから、これのみをもつて決定することは困難であるが、なお敬語を使用していることは、一往考慮の中に入れておくべきである。そうしてこの歌には、下文にも、妹ノ命、家ザカリイマスの如き句があつて、それらと併わせて、敬語が多量に使用されていることが知られるのである。
 伊企陀尓母伊摩陀夜周米受 イキダニモイマダヤスメズ。息だけもまだ休めず。
 年月母伊摩他阿良祢婆 トシツキモイマダアラネバ。亡妻が跡を慕つて來て年月もまだたたないのに。ネバはヌニの意。
 許々呂由母於母波奴阿比陀尓 ココロユモオモハヌアヒダニ。ココロユモは、既出(卷四、四九〇)。心の底から。思いがけず、意表外にも。
 宇知那※[田+比]枳 ウチナビキ。次の臥す有樣の形容。
 許夜斯努禮 コヤシヌレ。條件法で、臥しぬればの意になる。この句で死んだことをあらわす。この歌は、文筆作品であるが、かような短句を使用して音調の平凡を打開している。音韻の違う努がヌに使用されている。
 伊波牟須弊世武須弊斯良尓 イハムスベセムスベシラニ。慣用句で、何とも致し方を知らずの意。打消の助動詞は、多くズを使用しているにかかわらず、ここは慣用によつてニが殘つている。
 石木乎母刀比佐氣斯良受 イハキヲモトヒサケシラズ。ヲについては、間投助詞とする説と、ニ對シテの意であるとする説がある。元來ニを使用すべき場合に、ヲを使用する格があり、それはヲの意義のうち、然るにの語氣を有する性格から來るものである。例を擧げれば「風乎太爾《カゼヲダニ》 戀流波乏之《コフルハトモシ》(卷四、四八九)、「宇奈波良(377)能《ウナハラノ》 意吉由久布禰遠《オキユクフネヲ》 可弊禮等加《カヘレトカ》 比禮布良斯家武《ヒレフラシケム》 麻都良佐欲比賣《マヅヲサヨヒメ》」(卷五、八七四)の如きこれであつて、風、そんなものでも戀をするのはうらやましい。海上の沖を行く船、それだのに歸れと領巾を振るの意味をあらわすのである。ここも石木、そんなものにも問い放け知らずの意と解せられる。トヒサケは、既出(卷三、四六〇)、問い寄する意。シラズも諸説があるが、トヒサケを知らず。問い寄ることも知らず、途方に暮れる意である。せめて石木の如きにも、いかにすべきかを問えばよいのに、それも知らずの意である。
 伊弊那良婆迦多知波阿良牟乎 イヘナラバカタチハアラムヲ。家に形骸なきことを、ヲで表示している。
 宇良賣斯企 ウラメシキ。恨むべき状態にある意の形容詞。
 伊毛乃美許等能 イモノミコトノ。ミコトは尊稱。自分の妻に對してミコトの語を使用した例は、大伴の家持の歌に「波之吉餘之《ハシキヨシ》 都麻乃美許登乃《ツマノミコトノ》」(卷十八、四一〇一)がある。
 阿禮乎婆母伊可尓世與等可 アレヲバモイカニセヨトカ。諸書に問題にされていないが、我をいかにせよでは、普通でない。いかに爲むと言わねばならぬ所である。これも上の、石木をもの例と同じく、我にというべきを、ヲを使用したのであつて、我なるを、それをの意をもつて解すべきである。
 尓保鳥能 ニホドリノ。枕詞。ニホドリ既出(卷四、七二五)。かいつぶり。水鳥の習性から二人竝ビ居に冠する。
 布多利那良※[田+比]爲 フタリナラビヰ。夫婦竝んで。
 加多良比斯許々呂曾牟企弖 カタラヒシココロソムキテ。カタラヒは語ルの連續を示す語。相談し物語した心に反して。永久に共にと約束した言に背いて。
 伊弊社可利伊摩須 イヘザカリイマス。家を離れるを熟語としてイヘザカリとしている。イマスは、敬語。後に大伴の家持は、亡妻に對して、この句を使つて、「離v家《イヘザカリ》 伊麻須吾妹乎《イマスワギモヲ》 停不v得《トドミカネ》」(卷三・四七一)と詠(378)んでいる。これによれば、妻に對して敬語を使うのは、普通であつたらしい。
【評語】佛教思想を中心としている漢詩文に對して、この歌および反歌に、全然佛教思想のないことは、注意すべきである。結局憶良は、佛教に對して知識人たるにとどまり、信者ではなかつた。この歌は、散漫で、妻の死に對する悲哀感が高調に達していない。途中に短句を插んだのは效果的であるが、全體としては平凡な調子に墮している。
 
反歌
 
795 家に行きて いかにか吾《あ》がせむ。
 枕づく 嬬屋《つまや》さぶしく
 念ほゆべしも。
 
 伊弊尓由伎弖《イヘニユキテ》 伊可余可阿我世武《イカニカアガセム》
 摩久良豆久《マクラヅク》 都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》
 於母保由倍斯母《オモホユベシモ》
 
【譯】家に行つてわたしはどうしよう。枕の置いてある寢室がつまらなく思われるだろうなあ。
【釋】伊弊尓由伎弖伊可余可阿我世武 イヘニユキテイカニカアガセム。作者は、亡き妻を送葬して野外にあつて詠んだようになつている。家に歸つても何をする氣もない心である。句切。
 摩久良豆久 マクラヅク。既出(卷二、二一〇)。説明による枕詞。枕の置かれてある意を、熟語としてマクラヅクと言つている。「伊敝都久良之母《イヘヅクラシモ》」(卷十五、三七二〇)の家ヅクと同じ語構成である。
 都摩夜佐夫斯久 ツマヤサブシク。ツマヤは既出(卷二、二一〇)。本屋に對する附屬の室。妻の住んでいる家。サブシクは、樂しくない状態。
 於母保由倍斯母 オモホユベシモ。下のモは感動の助詞。
(379)【評語】妻を失つて張合いのなくなつた心が詠まれている。居るべき處に妻を見出し得ない物足りなさが豫想されている。實際に野外で詠んだものではなく、想像して詠んでいる。
 
796 愛《は》しきよし、
 かくのみからに
 慕ひ來《こ》し、妹が心の
 術《すべ》もすべなさ。
 
 伴之伎與之《ハシキヨシ》
 加久乃未可良尓《カクノミカラニ》
 之多比己之《シタヒコシ》 伊毛我己許呂乃《イモガココロノ》
 須別毛須別那左《スベモスベナサ》
 
【譯】愛すべきだ。こんな事だのに慕つて來た妻の心は、何ともいたし方もない。
【釋】伴之伎與之 ハシキヨシ。形容詞ハシキに感動の助詞ヨシが接續したもので、ハシケヤシと同じだが、獨立句として感動の情をあらわすように慣用されている。この事は既に「波之家也思《ハシケヤシ》 不近里乎《マチカキサトヲ》」(卷四、六四〇)の條で述べた。ここも句を隔てて妹に懸かるとも見られるが、語感から言えば獨立句で、妻の心に對する感情を表出したものとすべきである。
 加久乃未可良尓 カクノミカラニ。カラは故、所以。
 之多比己之伊毛我己許呂乃 シタヒコシイモガココロノ。自分に好意を持つた妻の心を描いている。
 須別毛須別那左 スベモスベナサ。スベナサを強調するために同語を重ねている。「縁浪《ヨスルナミ》 縱毛依十方《ヨシモヨストモ》 憎不v有君《ニクカラナクニ》」(卷十一、二七二九)など、同語を重ねて強調した例である。
【評語】あとを慕つて來て、しかもまもなく死んだ妻を歌つて、よく悲痛の情を寫している。すべて詠嘆風の語氣でできていることも、この場合效果が多い。
 
(380)797 悔しかも。
 かく知らませば、
 あをによし 國内《くぬち》ことごと
 見せましものを。
 
 久夜斯可母《クヤシカモ》
 可久斯良摩世婆《カクシラマセバ》
 阿乎尓與斯《アヲニヨシ》 久奴知許等其等《クヌチコトゴト》
 美世摩斯母乃乎《ミセマシモノヲ》
 
【譯】殘念だつた。こうと知つたら、この美しい國の中をすつかり見せてやつたものを。
【釋】久夜斯可母 クヤシカモ。悔しい意で、獨立文と見られる。ここでは二句以下の全體に對する感想と見るべきである。かような語法については、「極此疑《コゴシカモ》」(卷三、三二二)の條に記した。
 可久斯良摩世婆 カクシラマセバ。カクは妻の死をいう。マセバは、助動詞マシの未然條件法。
 阿乎尓與斯 アヲニヨシ。枕詞で、既出であるが、通例、奈良に冠するのに、ここに國内の語に冠しているのは特例である。語義未詳の語であつて、何ともいたし方がないが、稱美する語感があつて、國内に冠しているのであろう。
 久奴知許等其等 クヌチコトゴト。クヌチは國内、クニウチの約言である。ここは大宰府の管内をいう。コトゴトは悉皆。
 美世摩斯母乃乎 ミセマシモノヲ。マセバの條件法に對して結んでいる。ヲは、しかるにの語氣。
【評語】これも詠嘆の語氣が強く出て、殘念の氣持ちがいかにもと感じられる。初句に、悔シカモと置いた表現は、前の歌の表現と似た點があり、新しい歌い方である。
 
798 妹が見し 棟《あふち》の花は
(381) 散りぬべし。
 わが泣く涙 いまだ干《ひ》なくに。
 
 伊毛何美斯《イモガミシ》阿布知乃波那波《アフチノハナハ》
 知利奴倍斯《チリヌベシ》
 和何那久那美多《ワガナクナミダ》 伊摩陀飛那久尓《イマダヒナクニ》
 
【譯】妻の見たオウチの花は散つてしまうだろう。わたしの泣く涙はまだ干ないのだ。
【釋】伊毛何美斯 イモガミシ。亡き妻の生前に見た意で、追憶を述べている。
 阿布知乃波那波知利奴倍斯 アフチノハナハチリヌベシ。アフチは、倭名類聚紗に「楝、和名|安不知《アフチ》」とある。オウチ科の落葉喬木。普通センダン(栴檀)という。陽暦五月ごろ淡紫色の花を聞く。旅人の妻の九州に下つた時期については、卷の八に卯ノ花ノ共ニヤ來シト問ハマシモノヲとあり、到著の後、まもなく死亡したと考えられるので、ここに妹ガ見シ楝ノ花とあるのは、よく時節が合う。この歌はその花の散るべき頃に詠んだ形になつている。句切、三句切。
 和何那久那美多伊摩陀飛那久尓 ワガナクナミタイマダヒナクニ。妻を失つた悲涙がまだかわかない由である。
【評語】オウチの花によつて亡き人を追憶している。この花は、その人の住んでいた家に咲いていたのであろう。その特殊の花を提示したところに意味がある。四五句は平凡だが、時間の經過を敍する意向があり、よく三句までの内容に、深い感激を與えるに役立つている。
 
(382)799 大野山《おほのやま》
 霧立ちわたる。
 わが嘆く
 息嘯《おきそ》の風に、
 霧立ちわたる。
 
 大野山《オホノヤマ》
 紀利多知和多流《キリタチワタル》
 和何那宜久《ワガナゲク》
 於伎蘇乃可是尓《オキソノカゼニ》
 紀利多知和多流《キリタチワタル》
 
【譯】大野山に霧が立ち渡つている。わたしの嘆息する息の風で、霧が立ち渡つている。
【釋】大野山 オホノヤマ。福岡縣大宰府の背後の山。
 紀利多知和多流 キリタチワタル。霧が起つて移動する意。山に霧が動いている。句切。
 和何那宜久於伎蘇乃可是尓 ワガナゲクオキソノカゼニ。オキソは息嘯の義かという。息を吹くこと。自分の嘆息する息で生ずる風で。
 紀利多知和多流 キリタチワタル。二句をそのまま繰り返している。
【評語】息を吐くと霧が立つので、大野山に立つ霧は、自分の嘆息の息で立つたものかと歌つている。「君が行く海邊の宿に霧立たば我《あ》が立ち嘆く息と知りませ」(卷十五、二五八〇)の如(383)きも、同趣の歌である。大宰府から大野山を望見してこの歌を成したのであろう。調子の張つた強い歌であり、二句と五句とに同句を重ねたのも、その調子を助けている。
 
神龜五年七月廿一日、筑前國守山上憶良上
 
【釋】神龜五年七月廿一日 ジニキノイツトセフミヅキノハツカアマリヒトヒ。以上の漢詩文および日本挽歌を呈上した日づけである。但し作歌の内容は、これよりも先、旅人の妻の死んだ頃に溯つて詠んだようになつている。旅人の妻の死の直後に詠まなかつたのは、作者が公用の使で上京していたからであろう。大伴家に傳わつた資料を、そのまま繼ぎ合わせたものであろう。
 
令v反2或情1歌一首 并v序
 
惑《まど》へる情を反さしむる歌一首。【序并はせたり。】
 
【釋】令反或情歌 マドヘルココロヲカヘサシムルウタ。或は惑に通じて使用されている。惑える情を有する者に教えて、これを正しきに反さしめる歌の意で、その事情は、序にあきらかである。この歌以下、八〇五の左註の、神龜五年七月云々の行まで一團であつて、その左註の説明に入るべきものである。これらの歌の題は、作者みずから附したものであろう。
并序 ツギテノフミアハセタリ。歌に對して、漢文の序を有することを註記している。歌一首とあるは、長歌の謂いであるから、短歌オヨピ序并ハセタリとあるべきであるが、便宜その短歌のことに及ばなかつたものである。代匠記に「序トハ孔安國尚書序ニ云ハク、序者所3以序2作者之意1。文選註ニ、濟曰、序舒也、舒2其物理1。菅家ニハ序アハセタリトヨミ、江家ニハナラビニ序トヨムトカヤ」とある。集中の用例、并は併合の義に(384)使用して、竝立の義に使用しない。
 
 或有v人、知v敬2父母1、忘2於侍養1、不v顧2妻子1、輕2於脱※[尸/徙]1。自稱2倍俗先生1。意氣雖v揚2青雲之上1、身體猶在2塵俗之中1。未v驗2修行得道之聖1、蓋是亡2命山澤1之民。所以指2示三綱1、更開2五教1、遺之以v歌。令v反2其或1。歌曰、
 或るは人あり、父母を敬《ゐやま》ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱※[尸/徙]よりも輕みせり、みづから倍俗先生《はいぞくせにさう》と稱《なの》る。意氣は青雲の上に揚れども、身體はなほ塵俗の中にあり、いまだ修行《おこな》ひて道を得たる聖たる驗《しるし》あらず、けだしこれ山澤に亡命する民ならむ。この所以《ゆゑ》に三綱を指示し、更に五教を開き、遺《おく》るに歌を以ちてして、その惑を反さしむ。歌に曰はく、
 
【譯】かような人がある。それは父母を敬うことは知つているが、お仕えして養うことを忘れ、妻子を顧みないで、ぬげたはき物よりも輕んじている。自分で世間とは違う先生だと稱している。意氣は天の上に揚つているけれども、身體はやはり塵の世の中にある。まだ修行して道を得た聖人だという證據もない。恐らくは山野に流浪する民であろう。このゆえに人間の關係を示し、人たる道を教えて、贈るに歌をもつてしてその惑いを思い反らせる。その歌は次の通りである。
【構成】初めに惑える情の者のあるを説いている。山澤に亡命する民ならむまで、それである。以下これに道を説き歌を贈ることをいう。
【釋】或有人 アルハヒトアリ。或いは、かような場合もあるの意をあらわす。その人と名を擧げないで、或る一人を提示している。
 知敬父母忘於侍養 チチハハヲヰヤマフコトヲシレドモツカフルコトヲワスレ。父母に對して敬意は有して(385)いるが、實際上に侍座し養育することを忘れたのである。
 輕於脱※[尸/徙] ヌゲタルクツヨリモカロミセリ。脱※[尸/徙]は、ぬげた履きもの。淮南子に「堯年衰(ヘ)志憫(ナリ)、擧(ゲテ)2天下(ヲ)1而傳(フ)2之(ヲ)舜(ニ)1、猶(シ)2※[谷+おおざと](シテ)而脱(スルガ)1v蹤」、史記孝武本紀に「天子曰(ク)、嗟乎《アア》吾払誠(ニ)得(バ)v如(クナルヲ)2黄帝(ノ)1、吾視(ルコト)v去(ルヲ)2妻子(ヲ)1、如v脱(スル)v蹤(ヲ)」。※[尸/徙]は蹤に同じく履である。
 倍俗先生 ハイゾクセニサウ。倍は神田本による。諸本多く畏に作り、代匠記に異の誤りかとしている。倍は背に同じ。倍俗は、世間にそむく意。淮南子《えなんじ》に、「單豹倍(シ)v世(ニ)離(ル)v俗(ヲ)」とある。先生は道を知る者、學者の稱。
 意氣 ココロザシ。志に同じ。
 雖揚青雲之上 アヲグモノウヘニアガレドモ。青雲の上は天上をいう。この倍俗先生と稱する者は、歌詞によるに、父母妻子を捨てて天に上ろうとする者であつて、道術を學び仙人となつて昇天しようとする者と解せられる。そこでその志望するところを述べてこの句がある。立身出世しようとする心を、青雲の志というが、その連想もあるようだが、ここは天に昇ろうとする心だろう。
 未驗修行得道之聖 イマダオコナヒテミチヲエタルヒジリタルシルシアラズ。修行得道は佛教語であるが、まだ佛道を得た聖人との證もないの意に書いている。
 亡命山澤之民 ヤマサハニナヲウシナヘルタミナリ。亡命は、史記張耳列傳に「張耳嘗(テ)亡命(シテ)游(ブ)2外黄(ニ)1」などあり、亡は無、命は名で、戸籍を削除されて山野に逃匿《とうとく》する民である。浮浪人。
 三綱 ミツノツナ。白虎通に、「三綱(トハ)者何(ノ)謂(ゾ)也、謂(フ)2君臣父子夫婦(ヲ)1也。君(ハ)爲(リ)2臣之綱1、父(ハ)爲(リ)2子之綱1、夫(ハ)爲(リ)2婦之綱1。」君臣父子夫婦の關係をいう。
 五教 イツツノヲシヘ。左傳に「布(ク)2五教(ヲ)於四方(ニ)1、父(ハ)義、母(ハ)慈、兄(ハ)友、弟(ハ)恭、子(ハ)孝、是(レ)布(ク)2五常之教(ヲ)1也」とある。憶良の悲2歎俗道假合即離易v去難1v留詩の序中、「前(ニ)張(ル)2三綱五教(ヲ)1」に註して、「謂(ハ)、父(ハ)義母(ハ)慈兄は(ハ)友弟(ハ)順子(ハ)(386)孝」とある。
 遺之以歌 オクルニウタヲモチテシテ。遺は贈に同じ。
 
800 父母を 見れば尊し。
 妻子《めこ》見れば めぐし愛《うつく》し。
 世の中は かくぞ道理《ことわり》、
 黐鳥《もちどり》の かからはしもよ。
 行《ゆ》く方《へ》知らねば。」
 穿沓《うけぐつ》を 脱《ぬ》ぎ棄《つ》る如く、
 踏《ふ》み脱《ぬ》ぎて 行くちふ人は、
 石木《いはき》より 成りてし人か。
 汝《な》が名|告《の》らさね。」
 天へ行かば 汝《な》がまにまに。
 地《つち》ならば 大王《おほきみ》います。
 この照らす 日月の下《した》は、
 天雲の 向伏《むかぶ》す極《きは》み、
 谷蟆《たにぐく》の さ渡る極み、           
(387) 聞《きこ》しをす 國のまほらぞ。
 かにかくに 欲しきまにまに、
 しかにはあらじか。」
 
 父母乎《チチハハヲ》 美禮婆多布斗斯《ミレバタフトシ》
 妻子美禮婆《メコミレバ》 米具斯宇都久志《メグシウツクシ》
 余能奈迦波《ヨノナカハ》 加久敍許等和理《カクゾコトワリ》
 母智騰利乃《モチドリノ》 可可良波志母與《カカラハシモヨ》
 由久弊斯良祢婆《ユクヘシラネバ》
 宇既具都遠《ウケグツヲ》 奴伎都流其等久《ヌギツルゴトク》
 布美奴伎提《フミヌギテ》 由久智布比等波《ユクチフヒトハ》
 伊波紀欲利《イハキヨリ》 奈利提志比等迦《ナリテシヒトカ》
 奈何名能良佐祢《ナガナノラサネ》
 阿米弊由迦婆《アメヘユカバ》 奈何麻尓麻尓《ナガマニマニ》
 都智奈良婆《ツチナラバ》 大王伊摩周《オホキミイマス》
 許能提羅周《コノテラス》 日月能斯多波《ヒツキノシタハ》
 阿麻久毛能《アマクモノ》 牟迦夫周伎波美《ムカブスキハミ》
 多尓具久能《タニグクノ》 佐和多流伎波美《サワタルキハミ》
 企許斯遠周《キコシヲス》 久尓能麻保良敍《クニノマホラゾ》
 可尓迦久尓《カニカクニ》 保志伎麻尓麻尓《ホシキマニマニ》
 斯可尓波阿羅慈迦《シカニハアラジカ》
 
【譯】父母を見れば貴く、妻子を見ればかわいく思われる。世の中はこれが道理だ。黐《もち》にかかつた鳥のように繋がつているものだ。離れて行く方を知らないのだから。然るにこわれたはきものを脱ぎ棄てるように、これらを踏み脱いで行くという人は、石木から出來た人間であるか。お前の名をお名のりなさい。天へ行くならお前の隨意にするがよい。この地上では、天子樣がおいでになる。この照つている日月の下は、天の雲が彼方で伏しているはてまで、蟇の渡つている限りは、御統治になる國土の粹なのだ。いかようとも欲する通りと、そういうことではないのだ。
【構成】三段から成つている。各段いずれも五七の句を重ねて五七七と留める長歌の定型になつている。行ク方知ラネバまで第一段、人倫の大道を説く。汝ガ名告ラサネまで第二段、惑える情の者を提示する。以下第三段、正しく生きる道を教える。
【釋】父母乎美禮婆多布斗斯 チチハハヲミレバタフトシ。獨立文で、父母に對する人情を説いている。父母妻子に對する敬愛の情を説くことは、憶良の作に常に見るところで、その純粹な倫理思想を見ることができる。句切。
 妻子美禮婆米具斯宇都久志 メコミレバメグシウツクシ。これも獨立文で、上の父母ヲ見レバの二句と對句になつている。妻子は、集中二音の場處に當てて書かれており、メコと假字書きにした例はないが、類聚名義抄には、妻の字にメの訓がある。メコの語は、妻子の文字の直譯であろう。メグシは、既出のココログシと同(388)じ語構成で、眼の曇つてある状態をいい、哀憐の情のために眼のうるむ意であろう。集中、「今日耳者《ケフノミハ》 目串毛勿見《メグシモナミソ》」(卷九、一七五九)、「相見婆《アヒミレバ》 登許波都波奈爾《トコハツハナニ》 情具之《ココログシ》 眼具之毛奈之爾《メグシモナシニ》」(卷十七、三九七八)など、用例がある。この卷の十七の例は、眼がはつきりしない意に使われている。ウツクシは、愛すべくある意の形容詞、句切。以上、父母妻子に對する通常の人情を説いている。この下に拾穗抄には「遁路得奴親族兄弟《ノガロエヌウカラハラカラ》、遁路得奴老見幼見《ノガロエヌオイミイトケミ》、朋友乃言問交《トモガキノコトトヒカハシ》」の數句があつて、後にもこれに從つている本もあるが、これは藤原|惺窩《せいか》かと考えられる近世の一學者が、私に補つたもので、古くはないのである。
 余能奈迦波加久敍許等和理 ヨノナカハカクゾコトワリ。獨立文で、體言で文を留めている。上記父母妻子に對する人情を受けて、これを總括している。
 母智騰利乃 モチドリノ。枕詞。倭名類聚鈔に「黐、毛知《モチ》、所2以(テ)黐(スル)1v鳥(ヲ)也」とある。黐に懸かつた鳥のようにの意で、次の句に冠する。
 可可良波志母與 カカラハシモヨ。形容詞カカラハシに、感動の助詞モヨの接續したもの。カカラハシは、動詞懸カルの連續動作をあらわすカカラフから形容詞に轉成したもので、動詞タタフから形容詞タタハシ、動詞マギラフから形容詞マギラハシができる類である。懸かつてある状態をいう。分離することのできない状態にある意。モヨは、籠モヨのモヨに同じ。「斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》」(卷十四、三四二一)。句切。
 由久弊斯良祢婆 ユクヘシラネバ。ユクヘは行く方で、行くべき方向の意。人情の世界を離れて去るべき方がないからで、上のカカラハシモヨを修飾する。句切。以上第一段で人倫の大道を説く。
 宇既具都遠 ウケグツヲ。ウケグツは、穴のあいたうつろな沓。古事記天の岩戸の段に「於《ニ》2天之|石屋戸《イハヤド》1、伏2※[さんずい+于]氣1而《ウケフセテ》」、日本書紀同段に「覆槽置、此(ヲ)云(フ)2于該布西《ウケフセト》1」、古語拾遺に「覆誓槽、古語宇氣布禰《ウケフネ》」とあり、中の空虚な器をウケという。そこではき古して穴のあいたはきものをウケグツという。クツは履きものだが、藁、(389)草など材料の何によらずいう。ウケグツをヌグは、序文の脱※[尸/徙]に相當する。
 奴伎都流其等久 ヌギツルゴトク。ヌギツルは脱ぎ棄つるである。日本書紀神代上に、「吹棄、此(ヲ)云(フ)2浮枳宇郡屡《フキウツルト》1」とあり、古事記上卷に「敝都那美《ヘツナミ》 曾邇奴岐宇弖《ソニヌギウテ》」(五)とある。棄つるを、古くウツという。
 布美奴伎提 フミヌギテ。踏み脱ぎて。弊履を脱ぐ状をもつて、父母妻子を捨てることをいう。
 由久智布比等波 ユクチフヒトハ。チフは、トイフに同じ。トイフの略言の假字書きは、集中、チフ、トフ兩用している。ここはチフと假字書きにした例である。ここは、行くと稱している人の意に言つている。
 伊波紀欲利 イハキヨリ。ヨリは、石木よりしての意。石木をもととして。
 奈利提志比等迦 ナリテシヒトカ。提は清音、テは完了の助動詞。成りし人かの意。テを出の義とする説のあるのは誤り。木石によつてできた人かというのは、人情を解しない人を、疑い罵つている。句切。
 奈何名能良佐祢 ナガナノラサネ。ナガナは汝が名。ノラサネは既出(卷一、一)。名を名のれの意。この句は獨立文で、惑える者に對して何者なるかの意をあらわしている。句切。以上第二段で、惑える情の者を提示し詰問している。
 阿米弊由迦婆奈何麻尓麻尓 アメヘユカバナガマニマニ。かの惑える者は、仙人になつて天に昇ろうというのだから、一旦これを許してこの句を成している。マニマニは、隨意の意。獨立文。句切。
 都智奈良婆大王伊摩周 ツチナラバオホキミイマス。上の天ナラバ云々の文と對している。地上は嚴として天皇のいます意を述べているのは、地上は隨意に人倫の道を離れることを免《ゆる》さない義である。古語に天に對する語は、クニであつたが、ここにツチというは珍しく、多分漢語の天地の語が入り來つてから生じた思想であろう。クニが人文的に地上をいうに對して、ツチは物質的に天に對している。この二句、獨立文で、句切。
 許能提羅周日月能斯多波 コノテラスヒツキノシタハ。以下地上の説明である。テラスは照らしめる意で、(390)日月の修飾句。日月の下は、地上。
 阿麻久毛能牟迦夫周伎波美 アマクモノムカブスキハミ。既出、「天雲之《アマグモノ》 向伏國之《ムカブスクニノ》」(卷三、四四三)參照。祈年祭の祝詞に「白雲能《シラクモノ》、墮坐向伏限《ナリヰムカブスカギリ》」とあり、雲の向かい伏している限りの義で、地上のはてまでの意をあらわす。
 多尓具久能佐和多流伎波美 タニグクノサワタルキハミ。タニグクは、古事記上卷、少彦名の神の出現の條に多邇具久とあり、木集に「山彦乃《ヤマビコノ》 將v應極《コタヘムキハミ》 谷潜乃《タニグクノ》 狹渡極《サハタルキハミ》」(卷六、九七一)、祈年祭の祝詞に「谷蟆狹渡極《タニグクノサワタルキハミ》」などあり、ヒキガエルのことである。現代でも方言にタンガクなどいう。谷潜の字が當ててあるので、谷くぐりの義であろうという。古語に潜ることをククという。サワタルは、サは接頭語。ワタルは移動する意。ヒキガエルの渡り行く限りの意で、水澤のはてまでの意になる。以上天雲ノ以下、成句の對句として、水陸のはてまでもの意に使用される。
 企許斯遠周 キコシヲス。既出(卷一、三六)。統治し領有される意。
 久尓能麻保良敍 クニノマホラゾ。クニノマホラは、日本書紀、景行天皇の卷に「夜摩苫波《ヤマトハ》 區珥能摩保邏摩《クニノマホラマ》」(二二)とある。本集には「言借石《イフカリシ》 國之眞保良乎《クニノマホラヲ》 委細爾《ツバラカニ》 示賜者《シメシタマヘバ》」(卷九、一七五三)、「須賣呂伎能《スメロキノ》 可未能美許登能《カミノミコトノ》」(卷十八、四〇八九)など見えている。ホが秀れたるものの義で、マは美稱の接頭語、ラは接尾語である。ゾは指定の終助詞。國土の秀絶なる處であるぞの意。句切。以上この國の性質を敍して、不道徳なる者の存在を許さない意を示すのである。
 可尓迦久尓保志伎麻尓麻尓 カニカクニホシキマニマニ。かようにもあのようにも、いかようとも欲する通り。任意の意を提示して、次の句でこれを否定する。
 斯可尓波阿羅慈迦 シカニハアラジカ。シカは、上のカニカクニ欲シキマニマニをさしている。カは感動の(391)助詞。この句は「安乎爾與之《アヲニヨシ》 奈良爾安流伊毛我《ナラニアルイモガ》 多可々々爾《タカダカニ》 麻都良牟許己呂《マツラムココロ》 之可爾波安良司可《シカニハアラジカ》」(卷十八、四一〇七)にも使用されており、それは、この憶良の作から借用していると考えられるが、そのシカは、長歌の内容を受けているので、然にはあらじと言つたのである。
【評語】この歌の作られた當時は、大陸の仙人思想の流入した時代であつて、その弊を受けることがはなはだしく、指導的位置に立つ者としては、これを看過するを得ないで、この歌となつたものである。憶良の社會教育家としての地位は、これによつて確認される。この國土に、不道徳者の存在を許さないとする道徳的氣魄は十分に描出されている。奇數句形式の三段から成る構成は、歌いものを受けているのであるが、長歌の定型の平凡化を避けるものとして效果が多い。憶良は、これを貧窮問答の歌にも使用してよくその效果を收めているが、この形式が廣く行われるに至らないで、長歌の道が散漫に墮したのは惜しいことであつた。第一段等、特に短い獨立文を多く使用しているのも、調子を強く張るにあずかつている。集中の名作の一とすべきである。
 
反歌
 
801 ひさかたの 天道《あまぢ》は遠し。
 なほなほに
 家に歸りて 業《なり》を爲《し》まさに。
 
 比佐迦多能《ヒサカタノ》 阿麻遲波等保斯《アマヂハトホシ》
 奈保々々尓《ナホナホニ》
 伊弊尓可弊利提《イヘニカヘリテ》 奈利乎斯麻佐尓《ナリヲシマサニ》
 
【譯】天に行く路は遠い。すなおに家に歸つて生業に從事しなさい。
【釋】比佐迦多能 ヒサカタノ。枕詞。
 阿麻遲波等保斯 アマヂハトホシ。天路は、天へ行く路。「多太爾率去弖《タダニヰユキテ》 阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》」(卷五、九〇六)。(392)句切。
 奈保々々尓 ナホナホニ。ナホは直の意で、同語を重ねて副詞を作つている。タカダカニの類である。すなおに。「波布久受能《ハフクズノ》 比可波與利己禰《ヒカバヨリコネ》 思多奈保那保爾《シタナホナホニ》」(卷十四、三三六四或本)。
 奈利乎斯麻佐尓 ナリヲシマサニ。ナリは、物生りの義から、農業をいい、轉じて一切の生業、職業をいう。シマサニは、シマサネに同じく、ニはネの轉音と見られる。かようなニの存在は、「細比禮乃《タクヒレノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 白管自《シラツツジ》 吾爾尼保波尼《ワレニニホハニ》 妹爾示《イモニシメサム》」(卷九、一六九四)の歌に、尼保波尼とある、上の尼はまさしくニの音をあらわしたものだから、下の尼もニと読むべきだろうとされている。シマサは、シは爲、マサはマスの未然形。
【評語】長歌に、天へゆかば汝がまにまにと一旦許容したから、それを遮つて天に行くことは、路の遠くして不可能であるを示し、すぐに家に還つて生業に就くべきを教えている。懇切をつくした歌で、長歌の一面を補いみたしている。
 
思2子等1歌一首 并v序
 
【釋】思子等歌 コドモヲシノフウタ。この題も、作者自身に附した題であろう。歌詞によるに、旅にあつて家に殘した子を思う歌と解せられる。
 
釋迦如來、金口正説、等思2衆生1、如2羅※[目+候]羅1。又説、愛無v過v子。至極大聖、尚有2愛v子之心1。況乎世間蒼生、誰不v愛v子乎。
 
釋迦如來、金口《こむく》に正しく説《と》きたまはく、衆生を等しなみに思ふこと、※[目+候]羅《らごら》の如しといへり。また説きたまはく、愛《いつく》しみは子に過ぎたるは無しといへり。至極の大き聖すら、なほ子を愛《うつく》しむ心あり。況《ま》して世間(393)の蒼生《あをひとくさ》、誰か子を愛しまざらめや。
 
【譯】お釋迦樣が、お口ずからまさに仰せられたことは、すべての生命のある者を同じように思うことは、わが一子羅※[目+候]羅のようであると仰せられた。また仰せられたことは、愛は子に過ぎたものはないと仰せられた。この上もない大聖人でさえ、子を愛する心がある。まして世間の人として、誰が子を愛せぬ者があろう。
【構成】初めに釋迦の語二條を擧げて證文とし、以下それにもとづいて子を愛する所以を説いている。
【釋】釋迦如來 サカニヨライ。如來は佛の敬稱。金剛般若經に「無(ク)v所2從(ヒ)來(ル)1、亦無(シ)v所v去(ル)、故(ニ)名(ク)2如來(ト)1」とある。どこから來たともなく、また去るともないから、如來というとするのである。
 金口 コムク。如來は金身だから、その口を金口という。美稱である。
 等思衆生 イノチアルモノヲヒトシナミニオモフコト。衆生は、佛教語で、あらゆる生物、あらゆる人類をいう。すべての生物を、皆同樣に思うの意。
 如羅※[目+候]羅 ラゴラノゴトシトイヘリ。羅※[目+候]羅は、釋迦在俗の時の子。トイフは、上の説キタマハクを受けて補い讀む。
 愛無過子 イツクシミハコニスギタルハナシトイヘリ。最勝王經に「普(ク)觀2衆生(ヲ)1、変無(キコト)2偏黨1、如(シ)2羅※[目+候]羅《ラゴラノ》1、愛無(シ)v過(グル)v子(ニ)、誰(カ)不(ラメヤ)v愛(シマ)v子(ヲ)乎」とある。これを分かつて二條とし、また筆者の言ともしたようである。トイヘリは、前項に同じく、マタ説キタマハクを受ける。
 至極大聖 シゴクノオホキヒジリスラ。釋迦をさす。
 世間蒼生 ヨノナカノアヲヒトクサ。蒼生は、人間の多いのを草木の繁茂せるに譬えいう。日本書紀にアヲヒトクサと訓じ、古事記に青人草とある。
 
(394)802 瓜|食《は》めば 子|等《ども》思ほゆ。
 栗|食《は》めば 況《ま》して思《しぬ》はゆ。
 何處《いづく》より 來《きた》りしものぞ。
 眼交《まなかひ》に もとな懸《かか》りて、
 安眠《やすい》し寐《な》さぬ。
 
 宇利波米婆《ウリハメバ》 胡藤母意母保由《コドモオモホユ》
 久利波米婆《クリハメバ》 麻斯提斯農波由《マシテシヌハユ》
 伊豆久欲利《イヅクヨリ》 枳多利斯物能曾《キタリシモノゾ》
 麻奈迦比尓《マナカヒニ》 母等奈可可利提《モトナカカリテ》
 夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》
 
【譯】瓜を食うと子どもが思われる。栗を食うと一層戀しい。何處から來たものだろう。眼先にひたとかかつて、安眠しないのだ。
【構成】短文を重ねて組織してある。別に段落として指定するほどのものはない。
【釋】宇利波米婆胡藤母意母保由 ウリハメバコドモオモホユ。ウリは甜瓜《まくわうり》である。瓜や栗は子どもの好むものであるから、これを食うことによつて思い出している。ハメバは、食めば。ハムは噛むに同じ。コドモは、作者目身の子たち。獨立文で、句切。
 久利波米婆麻斯提農波由 クリハメバマシテシヌハユ。クリは栗。マシテは、瓜を食うにも増してで、一層。シヌハユのヌは、ノの甲類の字を書くべきであるのに、農の字を書いたのは特例である。獨立文で瓜はメバ云云の文と對をなしている。句切。
 伊豆久欲利枳多利斯物能曾 イヅクヨリキタリシモノゾ。どのような因縁によつて、わが子として生まれ來たものぞの意とする説があるが、下の眼交に懸かるを説明するものと見て、遠く別れて來た子が、いかにしてわが眼前にあるかの意に解すべきである。獨立文、句切。
 麻奈迦比尓 マナカヒニ。マナカヒは、眼のカヒで、カヒは、山カヒ、羽カヒなどのカヒに同じく、中間の(395)交叉した場所をいうのであろう。兩眼の視線の交錯する處。
 母等奈可可利提 モトナカカリテ。モトナは既出。カカリテは懸かりて。切に懸かつて。
 夜周伊斯奈佐農 ヤスイシナサヌ。ヤスイは安眠、シは強意の助詞。ナサヌは、寢るの敬語ナスに、打消の助動詞ヌの接續したものとされている。このナスは、「遠登賣能《ヲトメノ》 那須夜伊多斗遠《ナスヤイタドヲ》」(古事記二)、「可度爾多知《カドニタチ》 由布氣刀比都追《ユフケトヒツツ》 吾乎麻都等《アヲマツト》 奈須良牟妹乎《ナスラムイモヲ》 安比底早見牟《アヒテハヤミム》」(卷十七、三九七八)など使用されている。子どものことに敬語を使うのは、おかしいようであるが、敬語は慣用上、尊敬の意識なしに使用されるので、ここにも使用されたのであろう。しかし考えて見れば、子どもの動作に敬語を使うのは、何と言つても變である。それでナサヌは、成サヌで、安眠をしない、子どもが安らかに眠らないの義とすべきだろう。
【評語】短文を重ねて引き繁つた歌である。長歌としては短いが、内容も簡單なので、かえつて調和が取れている。瓜、栗の對句も具體的で力強く、それを受けて子どもの動態を描いたのもよい。
 
反歌
 
803 銀《しろがね》も金《くがね》も玉も
 何せむに。
 まされる寶 子に如《し》かめやも。
 
 銀母《シロガネモ》 金母玉母《クガネモタマモ》
 奈尓世武尓《ナニセムニ》
 麻佐禮留多可良《マサレルタカラ》 古尓斯迦米夜母《コニシカメヤモ》
 
【譯】白銀も黄金も珠玉も何にしようぞ。これらにまさつた寶は、子に及ぶものはあるまい。
【釋】銀母金母玉母 シロガネモクガネモタマモ。寶を列擧している。銀は、本草和名に、「銀屑、一名白銀、和名之呂加禰」とある。金は、本草和名等コガネとあるが、本集に「久我禰可毛《クガネカモ》 多之氣久安良牟等《タシケクアラムト》」(卷十八、(396)四〇九四)とあるによつてクガネと讀むべきである。以上は、世間の寶とするものを擧げたのであるが、同じ作者の作と認められる、男子名ハ古日ニ戀フル歌に「世人之《ヨノヒトノ》 貴慕《タフトミネガフ》 七種之《ナナクサノ》 寶毛《タカラモ》 我波何爲《ワレハナニセム》(卷五、九〇四)とあるによれば、佛説にいう七種の寶のうち、數種を擧げてこれを代表させたものである。
 奈尓世武尓 ナニセムニ。副詞句として下に續くものと、終止となるものとがあることは既に記した。(卷四、七四八)。ここは終止で、何にかせむの意。下のニは感動の助詞。句切。
 麻佐禮留多可良 マサレルタカラ。上の金銀珠玉等を受けていう。それらが殊寶であるからいうので、子に冠すると見るのは誤りである。
 古尓斯迦米夜母 コニシカメヤモ。シカメは、及《し》かむ。ヤは反語。
【評語】有名な歌で、よく子の貴いものであることを道破している。金銀珠玉を提示したのは、手段であるが、これがために理窟つぽくなり、長歌の瓜食メバ云々の純粹なのに及ばない。
 
哀2世間難1v住歌一首 并v序
 
世間の住《とど》まり難きを哀しめる歌一首。【序并はせたり。】
 
【釋】哀世間無住歌 ヨノナカノトドマリガタキヲカナシメルウタ。佛教にいう無常思想を主題とした歌で、その趣旨は、序文にあきらかである。文中二毛ノ歎ヲ撥フとあるが、作者目身の上をいうと見るべき特色なく、一般的に老いの來ることを嘆じているらしい。これも作者自身に附した題であろう。
 
易v集難v排、八大辛苦、難v遂易v盡、百年賞樂。古人所v歎、今亦及v之。所以因、作2一章之歌1、以撥2二毛之歎1。其歌曰、
 
(397)集まり易く排ひ難きは、八大の辛苦にして、遂げ難く盡し易きは、百年の賞樂なり。古の人の歎きし所、今亦これに及《し》けり。この所以《ゆゑ》に因りて一章の歌を作りて、二毛の歎きを撥《はら》ふ。その歌に曰はく、
 
【譯】集まりやすくして排いがたいのは八大の辛苦であり、遂げがたくして盡しやすいのは百年の樂しみである。これは古人の歎じたところだが、今もまたこの事に及んでいる。そこで一つの歌を作つて老境にはいろうとする歎きを撥うのである。その歌は次の通りである。
【釋】八大辛苦 ハチダイノシニク。代匠記に、生、老、病、死、愛別離、怨憎會、求不得、五陰盛といい、攷證に、佛説五王經にいう、生苦、老苦、病苦、死苦、恩愛別苦、所求不得苦、怨憎會苦、憂悲悩苦の八苦を擧げている。佛説であることには相違はない。
 百年賞樂 モモトセノタノシミ。百年は、人間の壽命の最大限。賞樂は、貿心樂事で、愉樂。
 二毛之歎 フタツノケノナゲキ。禮記の註に「二毛、鬢髪斑白」、文選秋興賦に、「晋十有四年、余春秋三十有二、始(メテ)見(ル)2二毛(ヲ)1」などあり、黒髪に白髪が交つた歎きをいう。老境の悲哀である。
 
804 世間《よのなか》の すべなきものは、
 年月は 流るる如し。
 取り續き 追ひ來《く》るものは、
 百種《ももくさ》に 迫《せ》め寄り來《きた》る。」
 娘子等《をとめら》が 娘子《をとめ》さびすと、
 唐玉《からたま》を 手本《たもと》に纏《ま》かし、
  【或るはこの句あり、曰はく、白細の袖ふりかはし、くれなゐの赤裳裾引き。】
(398) 同輩兒《よちこ》らと 手《て》携《たづさ》はりて、
 遊びけむ 時の盛りを
 留《とど》みかね 過《すぐ》し遣《や》りつれ、
 蜷《みな》の腸《わた》 か黒き髪に
 何時《いつ》の間《ま》か 霜の降りけむ。
 紅の【一は云ふ、丹の穂なす。】 面《おもて》の上に
 何處《いづく》ゆか 皺《しわ》が來《き》たりし。
   【一は云ふ、常なりしゑまひ眉引き、咲く花のうつろひにけり。世の中はかくのみならし。】
 丈夫《ますらを》の 壯士《をとこ》さびすと、
 劔大刀《つるぎたち》 腰に取り佩《は》き
 獵弓《さつゆみ》を 手握《たにぎ》り持ちて、
 赤駒に 倭文《しつ》鞍うち置き
 匍《は》ひ乘りて 遊び歩《ある》きし
 世間《よのなか》や 常にありける。」
 娘子《をとめ》らが さ寐《な》す板戸を
 おし開き いたどりよりて、
 眞玉手の 玉手さし交《か》へ
(399) さ寐《ね》し夜の いくだもあらねば、
 手束杖《たつかづゑ》 腰に束《たが》ねて、
 か行けば 人に厭はえ、
 かく行けば 人に惡《にく》まえ、
 およしをは かくのみならし。
 たまきはる 命惜しけど、
 せむすべも無し。」
 
 世間能《ヨノナカノ》 周弊奈伎物能波《スベナキモノハ》
 年月波《トシツキハ》 奈何流々其等斯《ナガルルゴトシ》
 等利都々伎《トリツヅキ》 意比久留母能波《オヒクルモノハ》
 毛々久佐尓《モモクサニ》 勢米余利伎多流《セメヨリキタル》
 遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》 遠等※[口+羊]佐備周等《ヲトメサビスト》
 可羅多麻乎《カラタマヲ》 多母等尓麻可志《タモトニマカシ》
  【或有2此句1云、之路多倍乃 袖布利可伴之 久禮奈爲乃 阿可毛須蘇※[田+比]伎】
 余知古良等《ヨチコラト》 手多豆佐波利提《テタヅサハリテ》
 阿蘇比家武《アソビケム》 等伎能佐迦利乎《トキノサカリヲ》
 等々尾迦祢《トドミカネ》 周具斯野利都禮《スグシヤリツレ》
 美奈乃和多《ミナノワタ》 迦具漏伎可美尓《カグロキカミニ》
 伊都乃麻可《イツノマカ》 斯毛乃布利家武《シモノフリケム》
 久禮奈爲能《クレナヰノ》【一云、尓能保奈須】 意母提乃宇倍尓《オモテノウヘニ》
 伊豆久由可《イヅクユカ》 斯和何伎多利斯《シワガキタリシ》
    【一云、都祢奈利之 惠麻比麻欲※[田+比]伎 散久件奈能 宇都呂比尓家里 余乃奈可伴 可久乃未奈良之】
 麻周羅遠乃《マスラヲノ》 遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》
 都流伎多智《ツルギタチ》 許志尓刀利波枳《コシニトリハキ》
 佐都由美乎《サツユミヲ》 多尓伎利物知提《タニギリモチテ》
 阿迦胡麻尓《アカゴマニ》 志都久良字如意伎《シツクラウチオキ》
 波比能利提《ハヒノリテ》 阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》
 余乃奈迦野《ヨノナカヤ》 都祢尓阿利家留《ツネニアリケル》
 遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》 佐那周伊多斗乎《サナスイタドヲ》
 意斯比良伎《オシヒラキ》 伊多度利與利提《イタドリヨリテ》
 麻多麻提乃《マタマデノ》 多麻提佐斯迦閉《タマデサシカヘ》
 佐祢斯欲能《サネシヨノ》 伊久陀母阿羅祢婆《イクダモアラネバ》
 多都可豆慧《タツカヅヱ》 許志尓多何祢提《コシニタガネテ》
 可由既婆《カユケバ》 比等尓伊等波延《ヒトニイトハエ》
 可久由既婆《カクユケバ》 比等尓迩久麻延《ヒトニニクマエ》
 意余斯遠波《オヨシヲハ》 迦久能尾奈良志《カクノミナラシ》
 多摩枳波流《タマキハル》 伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》
 世武周弊母奈斯《セムスベモナシ》
 
【譯】世の中のいたし方のないことは、年月は流れるようである。引き續いて追いかけて來るものは、いくらでも攻めて來る。娘たちが娘ぶつて、よい玉を腕に卷いて、友だちと手を携えて遊んだであろう若ざかりを、止めかねて過ごし去つてしまえば、蜷の腸のような、まつ黒な髪にいつのまに霜が降つたのだろう。紅色の顔の上に、どこから皺が寄つて來たのか。勇士が男子のふるまいをするとて、劔を腰に帶び、獵の弓を手に持つて、赤馬に織物の鞍を置いて遊んであるいた世の中が、はたして永久だつたか。娘たちの寢ている家の戸をおし開いて尋ね寄つて、美しい手をかわして寢た夜が何ほどもないのに、握りぶとの杖を腰にあてがつて、あちらに行けば人に嫌われ、こちらに來れば人に憎まれ、大凡はこんなふうだろう。この命が惜しいけれどもいたし方がない。
【構成】三段に分けて解釋することができる。百種ニ責メ寄リ來ルまで第一段、總論の部であつて、歳月逝いて止まず、諸苦の襲來することを述べる。世間ヤ常ニアリケルまで第二段、二部に分かれ、前半は女子、後半は男子について、盛年いくばくもなくして老いの至ることを述べる。以下第三段、少女のもとを訪れて婚姻し(400)た男の、いくばくもなく年老いて、人に厭われながらも命の惜しいことを敍して終つている。
【釋】世間能周弊奈伎物能波 ヨノナカノスベナキモノハ。世間のいたし方ないのを、以下の説明に對してまず提示している。結末の爲ムスベモ無シの句と、はるかに對應する。
 年月波奈何流々其等斯 トシツキハナガルルゴトシ。時間の經過のすみやかなのを、水の流れるに譬える。句切。
 等利都々伎意比久留母能波 トリツヅキオヒクルモノハ。トリツヅキは、引き續きに同じ。トリは接頭語。人生の上に引き續いて追い來るものはの意。
 毛々久佐尓勢米余利伎多流 モモクサニセメヨリキタル。モモクサは百種、種類の多いこと。セメヨリキタルは迫り來る意。キタルは、假字書きになつており、この語のラ行變格でないことが確かめられる。これは來到ルの約で四段活であろう。序文の八大辛苦の集まり易いというを歌つている。以上第一段。第二段以下、これを受けて具體的敍述にはいるのだが、主として老苦について歌うのである。
 遠等※[口+羊]良何遠等※[口+羊]佐備周等 ヲトメラガヲトメサビスト。以下女子について述べる。ヲトメサビは、下のヲトコサビと同樣、娘子としての行動をすることをいう。以下の句は、古歌による。「乎止米止毛《ヲトメドモ》 乎止女佐比須止《ヲトメサビスト》 可良多萬乎《カラタマヲ》 多毛止爾萬伎弖《タモトニマキテ》 乎止女佐比須毛《ヲトメサビスモ》」(琴歌譜)。
 可羅多麻乎 カラタマヲ。カラタマは唐玉で、舶來の玉、上等の玉である。
 多母等尓麻可志 タモトニマカシ。タモトは手本。手のもとの方。マカシは、纏クの敬語。
 或有此句云 アルハコノクアリイハク。この間に、或る傳えには以下小字で書かれている句があるというのである。以下の註記と共に、多分、萬葉集の編者が、他の所傳によつてこれを註記したものであろう。これは作者自身の別案で、初稿にはこれらがあつたのを、神龜五年七月二十一日の撰定においては削除したのであろ(401)う。あつてもさしつかえはないが、必要の句でもなし、ない方が簡潔でよい。
 之路多倍乃袖布利可伴之 シロタヘノソデフリカハシ。フリカハシは、袖を振り交錯する意で、袖をかわすは、男女の交通にいうが、ここは袖を動かす意であろう。
 久禮奈爲乃阿可毛須蘇※[田+比]伎 クレナヰノアカモスソビキ。娘子が赤い裳裾を引くことをいい、集中しばしば見える。上の白タヘノ袖の句と對句になり、特に色彩が目立つが、飾りに過ぎている感は免れない。
 余知子良等 ヨチコラト。ヨチは「許乃河伯爾《コノカハニ》 安佐菜安良布兒《アサナアラフコ》 奈禮毛安禮毛《ナレモアレモ》 余知乎曾母弖流《ヨチヲゾモテル》 伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》」(卷十四、三四四〇)、「丹因《ニホヒヨル》 子等何四千庭《コラガヨチニハ》 三名之綿《ミナノワタ》 蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》」(卷十六、三七九一)など使用されている。その意義については、「鑽髪乃《キルカミノ》 吾同子叫過《ヨチコヲスギ》」(卷十三、三三〇七)の句を、同じ歌の別傳と考えられる人麻呂歌集に「斬髪《キルカミノ》 與知子乎過《ヨチコヲスグリ》」(同、三三〇九)とあるので、同じ年頃の子をいうと考えられる。
 手多豆佐波利提 テタヅサハリテ。手を携えての自動的な言い方。
 阿蘇比家武等伎能佐迦利乎 アソビケムトキノサカリヲ。ケムで過去推量の意をあきらかにしている。トキノサカリは、盛時、壯年の時。
 等々尾迦祢 トドミカネ。トドミは、留ムを四段活として使用している。留め得ずして。
 周具斯野利都禮 スグシヤリツレ。已然條件法。
 美奈乃和多 ミナノワタ。代匠記に「和名集ニ云ハク、本朝式云、年魚氷頭、背腸【】」とあり、鮭の腸だとする。しかし本集に「蜷腸《ミナノワタ》 香黒髪丹《カグロキカミニ》」(卷十三、三二九五)とあつて、蜷という貝の腸の義であろうという。黒いので、黒に冠する。
 迦具漏伎可美尓 カグロキカミニ。前に引いた卷の十六の例には、カグロシカミとある。形容詞の連體形は、シの方が古く、後にキがこれに代わつた。カは接頭語。
(402) 伊都乃麻可斯毛乃布利家武 イツノマカシモノフリケム。何時しか白髪を交えるに至つたことを、霜の降つたことであらわしている。句切。この集中では、白髪を霜にたとえたのは、この一例のみである。これは漢文の影響を受けているのだろう。
 久禮奈爲能意母提乃字倍尓 クレナヰノオモテノウヘニ。ミナノワタ云々の文と竝んで、對をなして、上の過グシヤリツレを受けている。
 一云尓能保奈須 アルハイフ、ニノホナス。久禮奈爲能の別傳であるが、前の註記に、クレナヰノ赤裳裾引キの句ありとした、その句があれば、クレナヰの句が重復するから、その句のある傳來では、ニノホナスになつていたのであろう。ニは丹色、ホは秀、紅の色濃くという意。
 伊豆久由可斯和何伎多利斯 イヅクユカシワガキタリシ。イヅクユカは、どちらの方からか。シワガキタリシは、皺掻キ垂リシとも解せられるが、何の字は、この歌では、可迦に對して「許志爾多何禰弖」、反歌に「迦久斯母何母等」の如く使われ、多何禰弖は清音とも取れるが、反歌のは濁音に使つていると見られるから、皺ガ來タリシの意とすべきだろう。何處から皺が來たかの意。句切。以上、女子の上を敍している。
 一云都祢奈利之惠麻比麻欲※[田+比]伎 アルハイフ、ツネナリシヱマヒマヨビキ。どの句からの別傳か、不明である。六句あるが、同數の句の別傳とすれば、何時ノ間カからとなつて妥當でない。ミナノワタからか、またはクレナヰノからかのいずれかであろうか。紅ノの句からでもあろうか。またはこれらの句が餘分に描入されていたものであるかも知れない。この六句は、安積の皇子薨去の時の大伴の家持の歌(卷三、四七八)に使用されているので、家持と關係の深いことが知られる。ツネナリシヱマヒマヨビキは、平常の顔色容貌の意。ヱマヒは、咲《え》める状態。マヨビキは、日本書紀、仲哀天皇の卷に「譬(ヘバ)如(ク)2美女之〓《ヲトメノマヨヒキノ》1、有(リ)2向津國《ムカツクニ》1」に註して、「〓、此(ヲ)云(フ)2麻用弭枳《マヨビキト》1」とある。黛をもつて描いた眉をいう。これで娘子の容顔を想像せしめる。
(403) 散久伴奈能 サクハナノ。枕詞。譬喩による。
 宇都呂比尓家里 ウツロヒニケリ。衰えた由である。句切。
 余乃奈可伴可久乃未奈良之 ヨノナカハカクノミナラシ。總評的に感慨を歌つている。獨立文、句切。
 麻周羅遠乃遠刀古佐備周等 マスラヲノヲトコサビスト。上の娘子ラガ娘子サビスト云々の句と對して、以下男子のことを敍する。
 都流伎多智許志尓刀利波枳 ツルギタチコシニトリハキ。以下武装を敍する。トリは接頭語。
 佐都由美乎 サツユミヲ。サツは、鳥獣を交配する威力。「得物矢手插《サツヤタバサミ》」(香卷一、六一)參照。サツユミは狩獵に使用する弓の義で、威力ある弓をいう。
 多尓伎利物知提 タニギリモチテ。獵弓を手に携えて。
 阿迦胡麻尓 アカゴマニ。アカゴマは、馬は赤褐色を普通とするのでいう。
 志都久良宇知意伎 シツクラウチオキ。シツクラは、下鞍で、皮などで作つて鞍の下にあてるもの。シツは下の意で、下枝などいう。ウチは接頭語。
 波比能利提 ハヒノリテ。馬に乘るさまを説明している。うち乘りてでもよいのだが、上にうち置きとあるので、この語を使用したのだろう。
 阿蘇比阿留伎斯 アソビアルキシ。アソビは、本來みやびやかな事をするをいうのだが、ここでは狩獵遊山等をいうのであろう。修飾句。
 余乃奈迦野都祢尓阿利家留 ヨノナカヤツネニアリケル。ヤは疑問の係助詞で、反語になる。ヤは、その上にある語の内容を疑うのを原形とするが、ここでは、世の中であるか、常にあるものはの意から、轉じて、世の中がはたして常であつたかの意になる。句切。以上第二段で、少壯の男女も、いつまでもその盛りを持續す(404)るを得ない旨を歌つている。
 遠等※[口+羊]良何佐那周伊多斗乎 ヲトメラガサナスイタドヲ。サナスは、サ寢スで、サは接頭語。ナスは寢ルの敬語。例は、子等ヲ思フ歌の條にある。以下別に一男子を點出している。
 意斯比良伎伊多度利與利提 オシヒラキイタドリヨリテ。イは接頭語。タドリは辿る。娘子のもとを尋ね寄る意。
 麻多麻提乃多麻提佐斯迦閉 マタマデノタマデサシカヘ。上のマは美稱の接頭語。タマデは玉手、娘子の手の美稱。同語を重ねて玉手の意義を強調している。サシカヘは、たがいに交して。「麻多麻傳《マタマデ》 多麻傳佐斯麻岐《タマデサシマキ》」(古事記四)、「眞玉手乃《マタマデノ》 玉手指更《タマデサシカヘ》 餘宿毛《アマタイモ》 寐而師可聞《ネテシカモ》」(卷八、一五二〇)。この卷の八の例は、同じ作者の歌である。
 佐祢斯欲能伊久陀母阿羅祢婆 サネシヨノイクダモアラネバ。サは接頭語。イクダは幾許。ネバはヌニの意。
 多都可豆慧 タツカヅヱ。タは手、ツカは一つかみ。握りかげんの杖。「手束弓」(卷十九、四二五七)もある。
 許志尓多何祢提 コシニタガネテ。タガネは束ねる。結ぶの意の語。ここは枚を腰にあてがつてである。「多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》」(卷二、一二三)。
 可由既婆比等尓伊等波延 カユケバヒトニイトハエ。カユケバ、カクユケバと分けて對句を成している。カ行キカク行キなどの、カ、カクで、指示の代名詞である。ああ行けば、かく行けばの意。西本願寺本の別筆書入に、「可久由既婆比等爾伊等波延、諸本皆以如v比、二條院御本流、可由既婆比等爾伊等波延、義理尤相叶殊勝々々」とある。現在の本では、神田本、細井本など可由既婆になつている。イトハエは、厭われの意。
 可久由既婆比等尓迩久麻延 カクユケバヒトニニクマエ。カ行ケバ云々と對句になつている。ニクマエは憎(405)まれ。
 意余斯遠波 オヨシヲハ。他に用例なき特殊の句。從つて語義未詳である。強いて言えば、オヨソ(凡)の語と關係があるか。然らばオヨシは形容詞で、ヲは感動の助詞か。
 迦久能尾奈良思 カクノミナラシ。世間の常の無いことはかくの如しと批判している。句切。
 多摩枳波流 タマキハル。枕詞。
 伊能知遠志家騰 イノチヲシケド。ヲシケドは、形容詞ヲシケに助詞ドの接續したもの。
 世武周弊母奈斯 セムスベモナシ。初二句を受けて結んでいる。以上第三段、老境にはいつて人に嫌われることを敍している。
【評語】繰り返し少壯幾何もなくして衰老に至ることを説いている。各節よくその意を述べ得ているが、同樣のことが躁り返されて冗長の感があり、また終りの一段にも作者自身の姿が出ていないので、概念的になり、強い感銘を與えない。新しい宗教思想を主題として長歌で表現したというまでである。老境に入つて嫌厭されることを歌つても、竹取の翁の歌の方が、自己囘顧という一貫性があるので、生き生きとしたところを持つている。比較してその趣を知るべきである。
 
反歌
 
805 常磐《ときは》なす かくしもがもと
 念へども、
 世の事なれば 留《とど》みかねつも。
 
 等伎波奈周《トキハナス》 迦久斯母何母等《カクシモガモト》
 意母閉騰母《オモヘドモ》
 余能許等奈禮婆《ヨノコトナレバ》 等登尾可祢都母《トドミカネツモ》
 
(406)【譯】磐のように變わらずにありたいと思うが、世の中の事だから留めかねたことだ。
【釋】等伎波奈周 トキハナス。既出(卷三、三〇八)。永久の岩石のように。
 迦久斯母何母等意母閉騰母 カクシモガモトオモヘドモ。シは強意の助詞。ガは願望の助詞。
 余能許等奈禮婆 ヨノコトナレバ。世間一般の事だから。
 等登尾可祢都母 トドミカネツモ。長歌の時ノ盛リヲ留ミカネを受けている。
【評語】長歌の要旨を短歌に纏めただけである。すべて概念的に歌つていて、感激がない。
 
神龜五年七月廿一日、於2嘉摩郡1撰定、筑前國守山上憶良
 
【釋】神龜五年七月廿一日 ジニキノイツトセフミヅキノハツカアマリヒトヒ。上の惑ヘル情ヲ反サシムル歌以下に關するものと考えられる。この年月日は、日本挽歌の左註の年月日と同日であり、多分これも大伴の旅人に贈つたものであろう。この年月日は、惑ヘル情ヲ反サシムル歌以下の製作の日を示すものではなく、以前に製作したものを、この日に整理したことを示すものであろう。
 於嘉摩郡撰定 カマノコホリニオキテツクリサダム。嘉摩郡は筑前の國に屬し、明治時代に穗波郡と合わせて嘉穗郡となつた。その郡の役所で、部内を巡行して、たまたまこの郡にあつてこれを撰定したものである。撰定の意義については、前項に記した。この一團も大伴家にあつて、そのまま繼ぎ合わされたものであろう。
 
伏辱2來害1、具承2芳旨1。忽成2隔v漢之戀1、復傷2抱v梁之意1。唯羨去留無v恙、遂待v披v雲耳。
 
伏して來書を辱くし、具《つぶさ》に芳旨を承《う》く。忽ちに漢を隔つる戀を成し、また梁を抱く意を傷む。ただ羨《ねが》はく(407)は、去留|恙《つつみ》無く、遂に雲を披《ひら》くことを待たむのみ。
 
【譯】伏してお手紙を頂き、くわしく仰せの旨を承りました。忽ちに牽牛織女のような戀を感じ、またおいでになるのをいたずらにお待ち受けして心を傷《いた》めております。ただどうか御起居御無事で、遂にお目に懸かるのを待つばかりでございます。
【釋】この文は書簡であるが、京人某から大伴の旅人へ贈つたものとする説(代匠記、略解、古義等)と大伴の旅人から京人某へ贈つたものとする説(攷置、全釋等)とがある。この書簡の文章は返書であるから、もし旅人の書とする時は、更にこの前に京人からの書があつたはずであり、しかも歌によれば、また更にこの後にも京人からの書があつたことになる。これは普通の交遊事情から見てかなり特殊の場合である。然らば、どうしてこの文の次に旅人の歌二首が載つているかとならば、それは京人の書簡の餘白に、旅人または大伴家側の人が、旅人の歌を書き込んで置いたものと考えられる。旅人の書に對する京人某の返書と見るを至當とする。その人は誰であるか不明である。書簡としては、年月日および署名を逸している。
 伏辱來者 フシテミフミヲカタジケナクシ。來書は、大伴の旅人から贈つた書簡。
 具承芳旨 ツブサニカグハシキココロヲウク。芳旨は、旅人からの書簡の内容。
 忽成隔漢之戀 タチマチニアマノガハヲヘダツルコヒヲナシ。漢は天漢、天の河。隔漢之戀は、牽牛織女が天漢を隔てて戀をするをいう。京と筑紫とで、海山を隔てて戀うによそえる。忽ニは、旅人からの書を受けて忽ちこの想をなしたことをいう。
 復傷抱梁之意 マタハシバシラヲウダクココロヲイタム。抱梁は、莊子盗跖篇に「尾生與2女子(ト)1、期(ル)2於梁下(ニ)1、女子不v來(ラ)、水至(レドモ)不v去(ラ)、抱(キテ)2梁柱(ヲ)1而死(ス)」とあるによる。旅人の來るのを待つて、しかも旅人の來らず、いたずらに心をやぶることを述べている。
(408) 唯羨去留無恙 タダネガハクハユクモトマルモツツミナク。羨は冀望の意。去留は、去ると留まるとで、行動をいう。無恙は、障害なく、忌むべきことなく。
 遂待披雲耳 ツヒニクモヲヒラクヲマタムノミ。披雲は、中論に「文王遇(フ)2姜公(ト)於渭陽(ニ)1、灼然如三披《トシテシキ》レ雪見l《ヲルか》白(トシテ)如(シ)3披(キ)v雲(ヲ)見(ルガ)2白日(ヲ)1」とあるによる。人に逢うことを尊んでいう。面會の機を待つばかりの意。
 
歌詞兩首【大宰帥大伴卿】
 
【釋】歌詞兩首 ウタフタツ。この二首は下註の如く旅人の作で、傍人などが旅人の歌を註記して置いたものと考えられる。
 
806 龍《たつ》の馬も 今も得てしか。
 あをによし 奈良の都に
 行きて來《こ》むため。
 
 多都能馬母《タツノマモ》 伊麻勿愛弖之可《イマモエテシカ》
 阿遠尓與志《アヲニヨシ》 奈良乃美夜古尓《ナラノミヤコニ》
 由吉帝己牟丹米《ユキテコムタメ》
 
【譯】龍馬が今も得たいものです。美しい奈良の都に行つて來るために。
【釋】多都能馬母 タツノマモ。この歌中、馬の字だけが、正用である。タツノマは、龍馬。駿馬である。爾雅釋畜に「馬(ノ)高(サ)八尺(ナルヲ)爲(ス)v龍(ト)」、書經孔傳に「龍馬出(ヅ)v河(ヲ)」とある。
 伊麻勿愛弖之可 イマモエテシカ。昔出たという龍馬も、今も得たいの意。シカは願望の助詞。句切。
 阿遠尓與志 アヲニヨシ。枕詞。
 奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米 ナラノミヤコニユキテコムタメ。龍馬を得ようとする目的を敍している。
【評語】思う處に行つて來たいという類型的な内容の歌である。ただ龍馬を點出しただけが特殊で、當時の新(409)しがりのあらわれである。
 
807 現《うつつ》には 逢ふよしも無し。
 ぬばたまの 夜《よる》の夢《いめ》にを
 繼《つ》ぎて見えこそ。
 
 宇豆都仁波《ウヅツニハ》 安布余志勿奈子《アフヨシモナシ》
 奴婆多麻能《ヌバタマノ》 用流能伊昧仁越《ヨルノイメニヲ》
 都伎提美延許曾《ツギテミエコソ》
 
【譯】現實では逢う由がありません。夜見る夢に續けて見えてください。
【釋】宇豆都仁波 ウヅツニハ。ウヅツは、「宇都追」(卷十七、三九七八)、「打乍」(卷四、七八四)、「得管」(卷十二、二八八〇)、「卯管」(卷十三、三二八〇)と書いてあり、上のツも清音と解せられ、ここに豆を使用しているものは、特例である。現實。夢幻に對している。
 安布余志勿奈子 アフヨシモナシ。句切。
 奴婆多麻能 ヌバタマノ。枕詞。
 用流能伊昧仁越 ヨルノイメニヲ。ヲは、感動の助詞。
 都伎提美延許曾 ツギテミエコソ。ツギテは、繼續して。コソは願望の助詞。
【評語】これも平凡な類型的な内容である。次に類歌を擧げておくが、但しその先後のほどはわからない。
【參考】類歌。
 うつせみの人目繁けばぬばたまの夜の夢にをつぎて見えこそ(卷十二、三一〇八)
 
答歌二首
 
【釋】答歌 コタフルウタ。京人某の答歌で前の書簡の文章に續くものである。
 
(410)808 龍《たつ》の馬《ま》を 吾《あれ》は求めむ。
 あをによし 奈良の都に
 來《こ》む人のたに。
 
 多都乃麻乎《タツノマヲ》 阿禮波毛等米牟《アレハモトメム》
 阿遠尓興志《アヲニヨシ》 余良乃美夜古迩《ナラノミヤコニ》
 許牟比等乃多仁《コムヒトノタニ》
 
【譯】龍馬をわたくしは授しましよう。この美しい奈良の都に來る人のために。
【釋】多都乃麻乎阿禮波毛等米牟 タツノマヲアレハモトメム。旅人の贈歌に即して答えている。句切。
 許牟比等乃多仁 コムヒトノタニ。コムヒトは旅人をさす。タはタメ(爲)に同じ。續日本紀、天平勝寶元年四月の宣命に、「種々法中爾波《クサグサノノリノナカニハ》佛|大御言國家護我多仁波勝在聞召《ノオホミコトシミカドマモルガタニハスグレタリトキコシメシテ》」、佛足跡歌碑の歌に「比止乃微波《ヒトノミハ》 衣賀多久阿禮婆《エガタクアレバ》 乃利乃多能《ノリノタノ》 與須賀止奈禮利《ヨスガトナレリ》」とある。
【評語】旅人の歌に應じて作つているだけで、儀禮的な歌である。いわゆる鸚鵡がえしの歌というべきである。
 
809 直《ただ》に逢はず あらくも多く、
 敷紬の 枕|離《さ》らずて
 夢《いめ》にし見えむ。
 
 多陀尓阿波須《タダニアハズ》 阿良久毛於保久《アラクモオホク》
 志岐多閉乃《シキタヘノ》 麻久良佐良受提《マクラサラズテ》
 伊米尓之美延牟《イメニシミエム》
 
【譯】じかにお目に懸からないで久しくなりました。やわらかい枕を離れずに夢にお見え申しましよう。
【釋】多陀尓阿波須阿良久毛於保久 タダニアハズアラクモオホク。須は、ズの音に使用している。アラクはあること。オホクは逢わないことが多いの意で、久しくなつたのをいう。「鹽滿者《シホミテバ》 入流礒之《イリヌルイソノ》 草有哉《クサナレヤ》 見良久少《ミラクスクナク》 戀艮久乃大寸《コフラクノオホキ》」(卷七、一三九四)など、やや似た言い方である。
 志岐多閉乃 シキタヘノ。枕詞。
(411) 麻久良佐良受提 マクラサラズテ。枕を離れずして、旅人の枕もとに常に。
 伊米尓之美延牟 イメニシミエム。シは強意の助詞。
【評語】旅人の、現ニハの歌を受けて返している。文章を成しているだけで、特色のない歌である。要するにこの二首、儀禮的な返しに過ぎない。
 
大伴淡等謹状
 
【釋】大伴淡等 オホトモノタビト。この行以下、謹通中衛高明閣下謹空の行まで一團で、これは完全な書状の體裁を成している。淡等は旅人の反名で、そのタとトとを取つて書いたもの。たとえば藤原の馬飼が宇合の字を使用するが如きである。東大寺獻物帳に「槻御弓六張 一張長六尺六寸六分、纏樺籐、末曲、紫皮纏弓把、黄紬袋緋裏、大伴淡等」(大日本古文書四ノ一四七)とあるは、旅人から獻上した弓であろう。當時の書簡は、最初に氏名を記すのを通例とする。
 謹状 ツツシニテフミス。謹啓などとも書く。藤原の房前に對して日本琴一面を贈るに附した書状である。
 
梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝
 
【釋】梧桐日本琴一面 キリノヤマトゴトヒトツ。梧桐はゴマノハグサ科の落葉喬木。倭名類聚鈔に、「梧桐、陶隱居曰(ク)、桐(ニ)有(リ)2四種1、青桐、梧桐、崗桐、椅桐 岐利《キリ》」。梧桐は普通アオギリに當てるが、ここは夏日紫色の花を開く方のキリである。日本琴は、同じく倭名類聚紗に「體似(テ)v筝(ニ)而短小、有(リ)2六絃1、俗(ニ)用(ヰル)2倭琴(ノ)二字(ヲ)1、夜萬止古止《ヤマトゴト》」とある。長さ六尺前後、横六寸、日本固有の琴の發達したもので、もと七絃八絃等、絃數も一定していなかつたが、後六絃に一定した。卷の七、一三二八の題詞にも「詠2日本琴1」とあるが、卷の十六、三八五〇の(412)歌の左註には「倭琴」とある。一面は、琴の數え方である。「如v調(ベタル)2八絃琴(ヲ)1、所v治《シラシ》2賜(ヘ)天下(ヲ)1」(古事記下卷)。「七つ緒の八つ緒の琴を調べたる如や」(東遊)。琴歌譜の譜は、六絃の琴である。
 對馬結石山孫枝 ツシマノユフシヤマノヒコエナリ。結石山は、對馬の北島の北部にある山という。孫枝は本幹の側から出た枝をいう。文選※[禾+(尤/山)]康の琴賦に「乃斷(リ)2孫枝(ヲ)1、准2量(ス)所(ヲ)1v任(ズル)、至人※[手偏+慮](ブ)v思(ヲ)、制(シテ)爲(ス)2雅琴(ト)1」とある。キリは、本生の幹を切り、その後から出たものを良材とする。山地に自生するものは、木質が緻密で佳良である。
 
此琴、夢化2娘子1曰、余託2根遙島之崇巒1、※[日+希]2幹九陽之休光1。長帶2烟霞1、逍2遥山川之阿1、遠望2風波1、出2入鴈木之間1。唯恐3百年之後、空朽2溝壑1、偶遭2良匠1、〓爲2小琴1、不v顧2質麁音少1、恒希2君子左琴1。即歌曰。
 
この琴、夢に娘子《をとめ》に化《な》りて曰はく、余《われ》根を遠島の崇き巒に託《よ》せ、幹《から》を九陽の休《よ》き光に※[日+希]《ほ》す。長く煙霞を帶びて山川の阿《くま》に逍遥《あそ》び、遠く風波を望みて、雁と木との間にいで入りき。唯、百年の後、空しく溝壑《たに》に朽ちなむことを恐れしに、たまたま良き匠《たくみ》に遭ひて、〓《かざ》りて小琴に爲《つく》らる。質の麁く音の少しきを顧みず、恒に君子《うまびと》の左の琴とあらむことを希ふといへり。すなはち歌ひて曰はく。
 
【譯】この琴が、夢に娘子になつて曰いますには、わたくしは根を遠い島の高い山に生じ、幹を太陽の良い光にさらしました。長いあいだ、雲霞が懸かつて山川の隅に遊んでおり、遠くに海上の風波を望み見て、役に立つ立たないのあいだにありました。ただ久しい後に、空しく谷間に朽ち去るだろうということを恐れていましたところ、偶然上手な細工人に逢つて、飾つてちいさな琴に作られました。質が荒く、音が低いのを顧みず、いつも貴い方のおそばの琴になりたいと願つておりますと申しました。そこで、歌つて曰いますには。
(413)【釋】此琴夢化娘子曰 コノコトイメニヲトメニナリテイハク。琴を人に贈るにつけての一場の構想で、その琴が娘子に化して夢にあらわれて物を言い、また歌つたというのである。
 余託根遠島之崇巒 ワレネヲトホキシマノタカキミネニヨセ。余は一人稱、集中歌詞に、ワレの語に當てていると考えられる。遊仙窟にはヤツガリと訓している。遠島之崇巒は、對馬島の結石山をいう。※[禾+(尤/山)]康の琴賦に「惟椅桐之所v生(ズル)今、託(ス)2峻嶽之崇岡(ニ)1」とあるによつて書いている。
 ※[日+希]幹九陽之休光 カラヲアマツヒノヨキヒカリニホス。※[日+希]は日に乾す。かわかす。九陽は太陽をいう。九は陽數で、つけていう。休は美の意。琴賦に「含(ミ)2天地之醇和(ヲ)1兮、吸(フ)2日月之休光(ヲ)1、鬱紛々(トシテ)以(テ)獨(リ)茂(リ)兮、飛(バシム)2英〓(ヲ)於昊蒼(ニ)1、夕(ニ)納(メ)2景(ヲ)于虞淵(ニ)1兮、且(ツ)※[日+希](ス)2幹(ヲ)於九陽(ニ)1。」
 長帶烟霞 ナガクカスミヲオビテ。長は多年。烟霞は山氣。
 逍遥山川之阿 ヤマカハノクマニアソビ。阿は隈。物の隅のところ。逍遥は楚辭の註に「逍遥、遊戯也」とある。
 遠望風波 トホクカゼナミヲノゾミテ。海島の高山にあつて、海上の風波を遠望する意。
 出入鴈木之間 カリトキトノアヒダニイデイリキ。莊子山木篇に、「莊子行(キテ)2於山中(ニ)1、見(ル)2大木(ノ)枝葉盛(ニ)茂(ルヲ)1、伐(ル)v木(ヲ)者止(マリ)2其旁(ニ)1、舍(テテ)不v取(ラ)也。問2其(ノ)故(ヲ)1、曰、無v所v可(キ)v用(フ)。莊子曰(ク)、此(ノ)木以(テ)2不材(ヲ)1得v終(フルヲ)2其(ノ)天年(ヲ)1。夫子出(デ)2於山(ヨリ)1、舍(ル)2於故人之家(ニ)1、故人喜(ビテ)命(ジ)2豎子(ニ)1、殺(シテ)v雁(ヲ)而烹(ル)v之(ヲ)。豎子請(ヒテ)曰(ク)、其(ノ)一能(ク)鳴(キ)、其(ノ)一不v能(ハ)v鳴(ク)、請(フ)奚(レヲ)殺(サム)、主人曰(ク)、殺(セ)2不(ル)v能(ハ)v鳴(ク)者(ヲ)1。明日弟子問(ヒテ)2於莊子(ニ)1曰(ク)、咋日山中之木、以(テ)2不材(ヲ)1得(タリ)v終(フルヲ)2其(ノ)天年(ヲ)1、今主人之雁、以(テ)2不材(ヲ)1死(ス)、先生將2何(ノ)處(ヲ)1。莊子笑(ヒテ)曰(ク)、周將(ム)v處(ラ)d夫材(ト)與2不材(ト)1之間(ニ)u。」用と不用とのあいだにあるをいい、莊子の思想も得た意である。
 空朽溝壑 ムナシクタニニクチナムコトヲ。溝壑は深い谷。
(414) 偶遭良匠 タマタマヨキタクミニアヒテ。良匠は上手な細工人。ここは琴の製作者である。
 ※[昔+立刀]爲小琴 カザリテヲゴトニツクラル。※[昔+立刀]は細井本による。他本多く削である。※[昔+立刀]は、金を塗つて飾る義。東大寺獻物帳に「銀平文琴一張。」小琴は謙遜していう。
 恒希君子左琴 ツネニウマビトノヒダリノコトトアラムコトヲネガフ。古列女傳に、「左琴右書、樂亦在(リ)2其(ノ)中(ニ)1矣」とある。座傍の琴の意。
 即歌曰 スナハチウタヒテイハク。琴の娘子が歌つたというのである。
 
810 いかにあらむ 日の時にかも
 聲知らむ 人の膝《ひざ》の上《へ》
 わが枕《まくら》かむ。
 
 伊可尓安良武《イカニアラム》 日能等伎尓可母《ヒノトキニカモ》
 許惠之良武《コエシラム》 比等能比射乃倍《ヒトノヒザノヘ》
 和我麻久良可武《ワガマクラカム》
 
【譯】わたくしは、どういう時にか、音樂のわかる人の膝の上にあることでございましよう。
【釋】伊可尓安良武日能等伎尓可母 イカニアラムヒノトキニカモ。カモは疑問の係助詞。「何日之時可毛吾妹子之裳引之容儀朝爾食爾將見《イカナラムヒノトキニカモワギモコガモヒキノスガタアサニケニミム》」(卷十二、二八九七)。
 許惠之良武 コヱシラム。音樂を解する。次の句の修飾句。列子に、「伯牙善(ク)鼓(シ)v琴(ヲ)、鍾子期善(ク)聽(ク)」とあるによる。
 比等能比射乃倍 ヒトノヒザノヘ。やまと琴は、膝の上に載せて彈ずるものであるから、膝の上を枕くという。「寄2日本琴1 伏v膝《ヒザニフス》 玉之小琴之《タマノヲゴトノ》 事無者《コトナクハ》 甚幾許《ハナハダココダ》 吾將v戀也毛《ワレコヒメヤモ》」(卷七、二二二八)。
 和我麻久良可武 ワガマクラカム。マクラカムは、マクラ(枕)を動詞にしたものの未然形に、助動詞ムの接續したもの。
(415)【評語】琴の娘子の歌に託して、巧みに言を成している。旅人の小説的構想を見るべきである。歌は、意を通ずるのが主になつて、會話的な内容をもち、獨立作品としては格別のものでない。
 
僕報詩詠曰
 
【釋】僕報詩詠曰 ヤツガレコタフルウタニイハク。夢中に答歌を爲したというのである。詩詠は、歌をいう。歌を詩ということは、集中往々にしてある。たとえば八五四の前行に、答詩曰とある。また作ることを詠ということも八一五の前文に「宜(シ)d賦(シ)2園(ノ)梅(ヲ)1聊(カ)成(ス)c短詠(ヲ)u」とある。
 
811 言問《コトト》はぬ 木にはありとも、
 うるはしき 君が手慣《たなれ》の
 琴にしあるべし。
 
 許等々波奴《コトトハヌ》 樹尓波安里等母《キニハアリトモ》
 字流波之吉《ウルハシキ》 伎美我手奈禮能《キミガタナレノ》
 許等尓之安流倍志《コトニシアルベシ》
 
【譯】物を言わない木ではあつても、りつぱなお方の手馴れの琴であるだろう。
【釋】許等々波奴樹尓波安里等母 コトトハヌキニハアリトモ。コトトハヌは、物をいわない。樹を修飾する。
 宇流波之吉 ウルハシキ。類聚名義抄に、ウルハシの訓を當ててある字は非常に多いが、その二三を拾つて見ると、妍、好、偉、儼、端、淑、飾、純、文、斐、鮮の如きがある。これらの文字の共通點を求めると、りつぱで文飾のあるをいうと思われる。
 伎美我手奈禮能 キミガタナレノ。タナレは、手馴れで、手にし慣れ親しむこと。
 許等尓之安流倍志 コトニシアルベシ。コトは琴。上のシは強意の助詞。
【評語】琴に對して、君子のもとに送るべきことを約している。達意の歌であるが、初二句は、房前に對して(416)多少謙遜の語氣がある。
 
琴娘子答曰、敬奉2徳音1、幸甚々々。片時覺、即感2於夢言1、慨然不v得2止黙1。故附2公使1、聊以進御耳。【謹状不v具。】
 
琴の娘子答へて曰はく、敬みて徳音を奉《うけたま》はりぬ。幸甚幸甚といへり。片時にして覺《おどろ》きて、すなはち夢の言に感《かま》け慨然きて止黙《もだ》をることを得ず。故《かれ》公使《おほやけづかひ》に附けて、いささか以ちて進御《たてまつ》るのみ。【謹みて状す。具はらず。】
 
【譯】琴の娘子が答えていいますには、謹んで仰せを承りました。ありがとうございますと言いました。片時で眼がさめ、夢の中の言葉に感じ、感激して黙つていることができませんので、役所の使に附けて進上いたします。【文言が整つておりません。】
【釋】敬奉徳音 ツツシミテヨキコヱヲウケタマハル。徳音は、旅人の言問ハヌ云々の歌をいう。詩經から出た語。
 幸甚々々 サキハヒハナハダシ。文選などに見える語。以上は娘子の言。
 片時覺 シマラクニシテオドロキテ。片時はわずかの時間。覺は目がさめる。
 慨然 ナゲキテ。歎息する形容。
 附公使 オホヤケヅカヒニツケテ。房前の返書によれば、大宰の大監が、役所の用務で上京するに託したのである。
 謹状不具 ツツシミテフミス、ソナハラズ。書簡の常型語。不具は、形態を具備しない意で、謙遜の語。
 
天平元年十月七日、附v使進上
 
(417)【釋】附使進上 ツカヒニツケテタテマツル。前記の如く、大宰の大監に附けて贈つたのである。
 
謹通、中衛高明閤下、謹空
 
【釋】謹通 ツツシミテカヨハス。この書簡を通ずる由である。
 中衛高明閤下 ナカノマモリノカウメイカフカ。中衛は、神龜五年八月、始めて中衛府を置いた。大同二年四月に、中衛府を右近衛とした。房前は當時中衛大將であつたのであろう。高明は、徳を稱していう尊稱。閤下は尊稱、閣下に同じ。謹空は、書簡の末を白く殘すを禮儀とし、尊んで空白にするよしである。
【評語】以上でこの書簡は終る。夢に琴の娘子があらわれたとする構想は、神仙譚の影響を受けており、一篇の小説的構成というべく、旅人の文才を窺うことができる。
 
跪承2芳音1、嘉懽交深。乃知、龍門之恩、復厚2蓬身之七1、戀望殊念、常心百倍。謹和2白雲之什1、以奏2野鄙之歌1、房前謹状。
 
跪きて芳音を承り、嘉懽|交《こもごも》深し。すなはち知りぬ、龍門の恩、また蓬の身の上に厚きことを。戀ひ望む殊なる念、常の心に百倍せり。謹みて白雲の什に和《こた》へて、以ちて、野鄙の歌を奏《まを》す。房前《ふきさき》謹みて状す。
 
【譯】跪いて仰せを承りまして、喜びはまことに深いものがあります。よつてあなた樣の惠みは、この卑しい身の上に厚いことを承知いたしました。戀い望むところの特別の思いは、普通の心に百倍もしております。謹んで尊いお歌に答えて、賤しい歌を申しあげます。房前、謹んで手紙をさしあげます。
【釋】跪承芳書 ヒザマヅキテカグハシキコヱヲウケタマハル。以下謹通尊門記室の行まで、房前の書簡で、大伴の旅人が琴を贈つたのに對する禮状である。これも完全に書簡の全文を具えている。芳音は、旅人の書簡(418)をいう。
 嘉懽交深 ヨシミトヨロコビトコモゴモフカシ。嘉は善美であり、懽は悦である。コモゴモとは、嘉は文章を賞美し、懽はこれを受けた悦びで、よつてこもごも深しというのであろう。
 龍門之思 タツノカドノメグミ。後漢書季膺傳に「膺獨(リ)持(ツ)2風裁(ヲ)1、以(テ)2聲名(ヲ)1自(ラ)高(シトス)。土有(バ)d被(ルル)2其(ノ)容接1者u、名(ヅケテ)爲(ス)v登(ルト)2能門(ニ)1。」とある。龍門は、黄河の上流、絳州龍門縣に在る。水險にして、魚屬上ることを得ず、上り得れば龍となるという。ここは旅人を尊んでいう。小島憲之氏の説(「萬葉集大成」訓詁篇)に、文選の琴賦の李善註に「史記(ニ)曰(ク)、龍門(ニ)有(リ)2桐樹1、高(サ)百尺、無(ク)v枝堪(ヘタリ)v爲(ルニ)v琴(ヲ)」とあるを引いて、琴を贈つた恩の義とする。
 蓬身之上 ヨモギノミノウヘニ。蓬身は、自身の謙稱。
 戀望殊念 コヒノゾムコトナルオモヒ。旅人を思慕することが、特別なのをいう。
(419) 白雲之什 シラクモノウタ。旅人の歌を稱えていう。略解に、雲は雪の誤りなるべしという。白雪は文選、宋玉の對2楚王問1文に見えて古曲の名である。攷證は、穆天子傳に「天子觴(ス)2西王母(ヲ)于瑠池之上(ニ)1、西王母爲(ニ)2天子(ノ)1謠(ヒテ)曰(ク)、白雲在(リ)v天(ニ)、山陵自(ラ)出(ヅ)」とあるを擧げている。什は、詩は十篇ごとに卷を同じくするによりいう。
 房前謹状 フササキツツシミテフミス。房前は藤原不比等の第二子、天平九年四月、參議民部卿正三位をもつて薨じた。十月正一位左大臣を贈られ、天平寶字四年八月、太政大臣を贈られた。藤原北家の祖である。旅人との關係は不明である。
 
812 言《こと》問《と》はぬ 木にもありとも、
 わが兄子《せこ》が 手慣《たなれ》の御琴《みこと》、
 地《つち》に置かめやも。
 
 許等騰波奴《コトトハヌ》 紀尓茂安理等毛《キニモアリトモ》
 和何世古我《ワガセコガ》 多那禮乃美巨騰《タナレノミコト》 
 都地尓意加米移母《ツチニオカメヤモ》 
 
【譯】物をいわない木ではあつても、あなたの手馴らされたお琴は、地上には置きません。
【釋】許等騰波奴紀尓茂安理等毛 コトトハヌキニモアリトモ。旅人の夢中の歌の詞を採り、ただ木ニハを、木ニモと改めている。
 和何世古我 ワガセコガ。ワガセコは旅人をさしている。
 多那禮乃美巨騰 タナレノミコト。ミは美稱の接頭語、御に當る。
 都地尓意加米移母 ツチニオカメヤモ。移は、古音ヤであり、日本書紀欽明天皇の卷にも、宮家を、彌移居と書いている。「等己彌居加斯支移比彌乃彌己等」(法王帝説)。
【評語】旅人が、夢に琴の娘子があらわれたとしている構想に對し、何等觸れていないのは物足りない。ワガ夫子ガ手馴レノ御琴というのも、旅人の書簡と一致しない。儀禮的な返書および返歌であつて、冷淡な態度が(420)あらわれている。房前、この時に年四十九歳、年長と見られる旅人に對して禮を失し、文學の道においても一|籌《ちゆう》を輸している。旅人の贈物の目的が、轉任運動であつたとしても、技術的には手段があつたはずである。但し旅人の書簡が草稿に止まり、実際に送つたものが別にあつたのならやむを得ないが、そんなこともなかつたであろう。
 
十一月八日、附2還使大監1
 
【釋】附遣使大監 カヘルツカヒノオホキマツリゴトビトニツク。京から大宰府に還る使の大宰の大監に附けた。當時の大宰の大監は、大伴の百代。これは、大伴の百代が、あとで往復の書状をもらつて編集に加えたとする意味で、百代をこの卷の編集に關係があるとする説の一證とされる。
 
謹通、尊門 記室
 
【釋】尊門記室 タフトキミカドノフミヒト。尊門は先方を敬していう。記室は書記。以上房前の書状である。
 
筑前國怡土郡深江村子負原、臨v海丘上、有2二石1。大者、長一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩。小者、長一尺一寸、圍一尺八寸、重十六斤十兩。竝皆楕圓、状如2鷄子1。其美好者、不v可2勝論1。所v謂徑尺璧是也。【或云、此二石者、肥前國彼杵郡平敷之石。當v占而取之。】去2深江驛家1二十許里、近在2路頭1、公私往來、莫v不2下v馬跪拜1。古老相傳曰、往者息長足日女命、征2討新羅國1之時、用2茲兩石1、插2著御袖之中1、以爲2鎮懷1。【實是御裳中矣。】所以行人、敬2拜此石1。乃作v歌(421)曰。
 
筑前の國|怡土《いと》の郡深江の村の子負《こふ》の原、海に臨める丘の上に二つの石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、圍《かくみ》一尺八寸六分、重さ十八斤五兩、小きは長さ一尺一寸、圍一尺八寸、重さ十六斤十兩、竝に皆楕圓にして状鷄の子の如し。その美好《うるは》しきこと論《あげつら》ふに勝《あ》ふべからず、所謂經尺の璧なり。【或るは云じゃく、此の二つの石は、肥前の國彼杵の郡平敷の石占に當りて取るといふ。】深江の驛家を去ること二十許里、近く路頭に在り。公私の往來に、馬より下りて跪拜せずといふことなし。古老相傳へて曰はく、往昔《いにしへ》息長足日女《おきながたらしひめ》の命《みこと》、新羅の國を征討《ことむ》けましし時、この兩つの石を用《も》ちて、御袖の中に插《さしはさ》み著《つ》けて、鎭懷と爲したまひき。【實には御裳の中なり。】所以に行人此の石を敬拜すといへり。すなはち歌を作りて曰はく。
 
【譯】筑前の國怡土の郡深江の村の子負の原の、海に臨んだ丘の上に二つの石がある。大きいのは長さ一尺二寸六分、周圍が一尺八寸六分、重さが十八斤五兩、ちいさいのは長さ一尺一寸、周圍が一尺八寸、重さが十六斤十兩。兩方とも楕圓形で、形は鷄卵のようだ。その美しいことは何ともいえない。直徑一尺ある玉というのは、これをいうのだろう。(ある人がいうには、この二つの石は、肥前の國|彼杵《そのぎ》の郡の平敷の石で、占に當つてこれを取つたのだということだ)。深江の驛家を去ること二十里ばかり、道路に近くあるので、公用私用で往來する者は、馬から下りて跪いて拜せぬものはない。老人が傳えていうには、昔神功皇后が、新羅の國を討たれた時に、この二つの石を、御袖の中に插みつけて御心の鎭めとされた。(實は御裳の中なのだ。)それで旅人がこの石を尊敬禮拜するのだという。よつて歌を作つた。その歌は次の通りである。
【釋】この文詞および歌は、題もなく、また作者を傳えない。目録には「山上臣憶良詠(ム)2鎭懷石(ヲ)1一首并短歌」とあるが、目録は後人の作製するところだから、ただ參考とするに止まる。憶良の作としても、不都合は見出さ(422)れないというだけで、支持すべき證據もない。なお作者未詳の稿本があつて、繼ぎ入れられたものと見るべきである。題材である鎭懷石については、古事記、日本書紀にその記事があり「その御裳に纏かしし石は、筑紫の國の伊斗の村にあり」(古事記中卷)、「その石は今伊都の縣の道の邊にあり」(日本書紀神功皇后の卷)とあり、またこの文とほぼ同樣の記事は釋日本紀に引いた筑前國風土記、および筑紫風土記に出ている。その文は參考欄に載せる。
 筑前國怡士郡 ツクシノミチノクチノクニイトノコホリ。明治二十九年、志摩郡と合して糸島郡となつた。その南部の地である。
 深江村子負原 フカエノムラノコフノハラ。深江の村は今もその名を存している。福岡から唐津に赴く途中海に面した小驛である。子負の原は兒饗の原とも書く。深江驛の西に當る。
 重十八斤五兩 オモサジフハチコニゴリヤウ。二十四銖を一兩とし、十六兩を一斤とする。沈痾自哀文の自註に見える。一斤は約百八十匁。
 徑尺璧 サシワタシヒトサカノタマ。淮南子に「聖人不v貴(バ)2尺之璧(ヲ)1、而貴(ブ)2寸之陰(ヲ)1」などある。直徑一尺の玉。
 或云 アルハイハク。この註は、古老の傳聞を記してから後にあるべきだが、子負の原にあることを記したついでに、ここに插入したのであろう。
 肥前國彼杵郡平敷之石 ヒノミチノクチノクニソノギノコホリヒラシキノイシ。平敷は所在未詳。古事記傳に「或人の云、平敷といふは、今長崎に近き浦上村平野宿と云所にて、今も赤石白石の美しきが多く出るを、火打石にも又磨りて緒締と云ふものにもするなり」とある。
 當占而取之 ウラニアタリテトルトイフ。神功皇后が鎭懷とされるに當り、うらないをしてこの地の石を取(423)つた由である。トイフは、上の或云を受けて結ぶ。
 去深江驛家二十許里 フカエノウマヤヲサルコトハタチサトバカリ。一里は六町をいう。二十許里は百二十町ほどで、深江の西方とすると、肥前との國境附近の地となる。作者も實地を知らないでこの文を作つたので、傳聞の誤りか、誤解かがあるのであろう。今深江驛の西五町ほどに子負の原と稱する處があり、八幡宮が鎭座している。
 息長足日女命 オキナガタラシヒメノミコト。神功皇后。息長は、近江の國の地名、父の王を息長の宿禰の王と申す。
 爲鎭懷 ミココロノシヅメトシタマヒキ。古事記中卷に「故(レ)其(ノ)政未(ル)v竟(ヘ)之間、其(ノ)懷姙臨(ム)v産(ニ)、即爲(テ)v鎭(ハムト)2御腹(ヲ)1、取(リ)v石(ヲ)以(テ)纏(ク)2御腰之裳(ニ)1」とあり、この歌詞には、御心を鎭メタマフとある。石に寄せて御心の安泰を期せられたのである。
 實是御裳中矣 マコトニハミモノナカナリ。上文に御袖の中とある傳えに對して、實際を註している。古事記の傳えと一致する。
 
813 懸《か》けまくは あやに畏《かしこ》し。
 足日女《たらしひめ》 神の命《みこと》、
 韓《から》國を 向《む》け平《たひら》げて、
 御心《みころ》を 鎭めたまふと、
 い取らして 齋《いは》ひ給ひし、
 ま珠なす 二つの石を、
(424) 世の人に 示したまひて、
 萬代に 言ひ繼《つ》ぐがねと、
 海《わた》の底 沖《おき》つ深江の
 海上《うなかみ》の 子負《こふ》の原に、
 み手づから 置かしたまひて、
 神《かむ》ながら 神《かむ》さびいます
 奇魂《くしみたま》 今のをつづに
 尊きろかむ。
 
 可既麻久波《カケマクハ》 阿夜尓可斯故斯《アヤニカシコシ》
 多良志比※[口+羊]《タラシヒメ》 可尾能弥許等《カミノミコト》
 可良久尓遠《カラクニヲ》 武氣多比良宜弖《ムケタヒラゲテ》
 弥許々呂遠《ミココロヲ》 斯豆迷多麻布等《シヅメタマフト》
 伊刀良斯弖《イトラシテ》 伊波比多麻比斯《イハヒタマヒシ》
 麻多麻奈須《マタマナス》 布多都能伊斯乎《フタツノイシヲ》
 世人尓《ヨノヒトニ》 斯※[口+羊]斯多麻比弖《シメシタマヒテ》
 余呂豆余尓《ヨロヅヨニ》 伊比都具可祢等《イヒツグガネト》
 和多能曾許《ワタノソコ》 意枳都布可延乃《オキツフカエノ》
 宇奈可美乃《ウナカミノ》 故布乃波良尓《コフノハラニ》
 美弖豆可良《ミテヅカラ》 意可志多麻比弖《オカシタマヒテ》
 可武奈何良《カムナガラ》 可武佐備伊麻須《カムサビイマス》
 久志美多麻《クシミタマ》 伊麻能遠都豆尓《イマノヲツヅニ》
 多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカム》
 
【譯】申すも恐れ多いことである。神功皇后樣が、新羅を討ち平らげて、御心をお鎭め遊ばされると、お取りになつて齋《いわい》をされた、玉のような二つの石を、世間の人にお示しになり、永久に語り繼ぐようにと、海上に面している深江の村の子負の原に、お手づからお置き遊ばされて、神であるがままに鎭まります、靈妙の神靈は、この今の時代に尊いことである。
【構成】段落はない。神功皇后の御事蹟の敍述が大部分を占め、これによつて神さび坐す寄魂の貴いことを歌つて終つている。
【釋】可既麻久波阿夜尓可斯故斯 カケマクハアヤニカシコシ。獨立文で、次の二句を修飾する。神功皇后の御事蹟を述べようとして、まず恐懼の情をいう。句切。
 多良志比※[口+羊] タラシヒメ。息長足比賣。神功皇后。
 可尾能弥許等 カミノミコト。神の命。神にまします御方。
(425) 可良久尓遠 カラクニヲ。カラクニは、ここは新羅。
 武氣多比良宜弖 ムケタヒラゲテ。ムケは、平定するをいう。諸書の傳えは、新羅に渡ろうとして、懷姙を鎭めるために石を插みつけられたとしているが、この歌では、御歸還後に鎭懷をされたように解せられる。
 弥許々呂遠斯豆迷多麻布等 ミココロヲシヅメタマフト。石の呪力によつて、心の散動を防ぐ思想である。靈魂の安泰を玉によつて象徴するのと同じ思想と解せられる。トはトシテ。
 伊刀良斯弖 イトラシテ。イは接頭語。トラシは取るの敬語法。
 伊波比多麻比斯 イハヒタマヒシ。イハヒは、齋戒して災禍から免れる行事。
 麻多麻奈須 マタマナス。ま玉のような。石の修飾句。
 布多都能伊斯乎 フタツノイシヲ。主題の兩石で、序文中につまびらかにされている。
 世人尓斯※[口+羊]斯多麻比弖 ヨノヒトニシメシタマヒテ。下のミ手ヅカラ置カシタマヒテと竝んで、神サビイマスに懸かる。
 余呂豆余尓伊比都具可称等 ヨロヅヨニイヒツグガネト。既出。「語繼金《カタリツグガネ》」(卷三、三六四)參照。ガネは將來を豫想し希望する助詞。
 和多能曾許意枳都布可延乃 ワタノソコオキツフカエノ。ワタノソコは枕詞。既出(卷一、八三)。沖に冠する。沖ツまでは序詞で、深江を修飾する。
 宇奈可美乃 ウナカミノ。海上ノの義で、海に面した丘であることを語る。ウナカミは、海邊とも解せられるが、カハカミ(川上)の語と同じく、海の上方にある意を含んでいるであろう。
 故布乃波良尓 コフノハラニ。コフノハラは地名。序につまびらかである。
 美弖豆可良 ミテヅカラ。御手づからで、ヅカラは、ミヅカラ、オノヅカラなどのヅカラに同じ。ツは助詞、(426)カラは故の義であろう。
 意可志多麻比弖 オカシタマヒテ。オカシは置くの敬語法。以上神功皇后の御事蹟を敍す。
 可武奈何良可武佐備伊麻須 カムナガラカムサビイマス。既出。「神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》(卷一、三八)参照。神なるが故に神として性能を發挿される意。この句は次の奇魂の修飾句で、お手づからお置きになつて、そこで神さびいますの意である。この續きは、表現の不十分を感じさせる。以上すべてが奇魂を提示する準備となる。
 久志美多麻 クシミタマ。クシは形容詞奇しの連體形。ミタマは御魂で、石の神靈をいう。日本書紀神代の上に、「奇魂、此(ヲ)云(フ)2倶斯美※[手偏+施の旁]摩《クシミタマト》1」とある。
 伊麻能遠都豆尓 イマノヲツヅニ。ヲツヅは、從來、ウツツ(現)と同語とされていたが、集中の用例、このほかに「伊禰之弊由《イニシヘユ》 伊麻乃乎都豆爾《イマノヲツヅニ》」(卷十七、三九八五)、「伊爾之弊欲《イニシヘヨ》 伊麻乃乎追通爾《イマノヲツヅニ》」(卷十八・四〇九四)、「伊爾之敝欲《イニシヘヨ》 伊麻乃乎都頭爾《イマノヲツヅニ》」(卷十八、四一二二)とあつて、ヲツヅとあるもの多く、音頭の上からはウツツと同じとは見られない。これは「伊麻乃乎爾《イマノヲニ》 多要受伊比都部《タエズイヒツツ》」(卷二十、四三六〇)のイマノヲが、今ノ緒で、今の繼續性を緒にたとえた言い方であるのと同じく、ヲツヅのヲは緒の義、ツヅは、續クのツヅであろう。今のつづくことで、今の時代にの如き意をあらわすものと考えられる。
 多布刀伎呂可※[人偏+舞] タフトキロカム。ロは接尾語。「處女之友者《ヲトメガトモハ》 乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》」(卷一、五三)などの用例がある。カムはカモに同じ。從來カモと讀まれていたが、カムと讀む方が順當である。カムの例は「阿乎久牟乃《アヲクムノ》 等能妣久夜麻乎《トノビクヤマヲ》 古與弖伎怒加牟《コヨテキノカム》」(卷二十、四四〇三)がある。
【評語】敍事の部分が平板冗長で、感激に乏しく、しかもいたずらに敬語の多いのが目立つ。主題の提示に移る部分にも、表現不十分の點がある。
 
(427)814 天地の 共に久しく
 言ひ繼げと、
 この 奇魂《くしみたま》 しかしけらしも。
 
 阿米都知能《アメツチノ》 等母尓比佐斯久《トモニヒサシク》
 伊比都夏等《イヒツゲト》
 許能久斯美多麻《コノクシミタマ》 志可志家良斯母《シカシケラシモ》
 
【譯】天地のある限り、永久に言い繼げと、この略妙の神靈をお置きになつたのだろう。
【釋】反歌であるが、特に反歌とことわらない。かような例は、卷の十九あたりにすくなくない。
 阿米都知能等母尓比佐斯久 アメツチノトモニヒサシク。アメツチノトモニは、トモを同類の意の體言と見て、天地の一緒にという言い方である。「霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令v響《キナキトヨモス》 宇乃花能《ウノハナノ》 共也來之登《トモニヤコシト》 問麻思物乎《トハマシモノヲ》」(卷八、一四七二)の例がある。
 伊比都夏等 イヒツゲト。長歌の言ヒツグガネトを受けている。
 許能久斯美多麻 コノクシミタマ。長歌を受けて、二つの石をさしている。
 志可志家良斯母 シカシケラシモ。シカシは、敷クの敬語法。敷クは平面を領有することをいう。お置きになる。
【評語】長歌の一部を採つて歌つているが、敍事がないだけに、まとまりはよい。實地に臨んで歌つたのでないので、一體に描寫がないのは、印象の弱い所以である。
 
右事傳言、那珂郡伊知郷※[草がんむり/衣]島人建部牛麻呂是也
 
右の事傳へ言へるは、那珂の郡伊知の郷※[草がんむり/衣]島の人建部牛麻呂なり。
 
【釋】那珂郡伊知郷※[草がんむり/衣]島人 ナカノコホリイチノサトミノシマノヒト。那珂の郡は、明治二十九年に筑紫郡の(428)一部となつた。福岡市の南方の地である。伊知の郷※[草がんむり/衣]島は所在不明。
【參考】兒饗の石の傳説。
  「時にたまたま皇后《きさき》の開胎《うむかつき》にあたりき。皇后、石を取らして腰に插み祈《の》みたまひしく、事|竟《を》へて還《かへ》らむ日に、この土に産まむとのりたまひき。その石、今|伊覩《いと》の縣《あがた》の道の邊にあり。」(日本書紀神功皇后紀)
  「かれその政いまだ竟《を》へざるほどに、その懷姙産まむとしたまふ。すなはち、御腹を鎭《いは》ひたまはむとして、石を取らして御裳《みも》の腰に纏《ま》かしたまひて、竺紫《つくし》の國に渡りたまひき。御子はあれましき。かれその御子の生れましし地に、名づけて宇美《うみ》といふ。またその御裳に纏かしし石は、筑紫の國の伊斗《いと》の村にあり。」(古事記中卷)
  筑前國風土記に曰はく、怡土《いと》の郡|兒饗《こふ》の野、【郡の西にあり。】この野の西に白石|二顆《ふたつ》あり。【一顆は長さ一尺二寸、大さ一尺、重さ四十一斤。一顆は長さ一尺一寸、大さ一尺、重さ四十斤。】むかし氣長足姫《おきながたらしひめ》の尊、新羅《しらき》を征伐たむとおもほし、この村に到りまししに、御身|姙《はら》ませるが、忽《にはか》に誕生せむとす。その時、この二つの石を取りて御腰に插み、祈《の》みたまはく、朕、西の堺を定めむとおもひてこの野に來著《つ》きぬ。姙《はら》ませる皇子、もしこれ神にまさば、凱旋の後に、誕生《あ》れまさむがよけむとのりたまひき。遂に西の堺を定めて還《かへ》り來まして産みたまひき。いはゆる譽田《ほむだ》の天皇これなり。その石に號《なつ》けて、皇子産石《みこうみいし》といふ。今|訛《よこなま》りて兒饗《こふ》の石といふ。(釋日本紀十一)
  筑紫風土記に曰はく、逸都《いと》の縣《あがた》子饗《こふ》の原。石兩顆あり。一つは片長さ一尺二寸、周《めぐり》一尺八寸、一つは長さ一尺一寸、周一尺八寸。色白くしてすなはち圓きこと磨き成せるが如し。俗《よ》の傳へにいふ。息長足比賣《おきながたらしひめ》の命、新羅を伐《う》たむとおもほして軍を閲《み》たまふ際、懷娠ややに動く。時に兩つの石を取りて裙《も》の腰に插みつけたまひ、遂に新羅を襲《おそ》ひたまひき。凱旋の日、芋※[さんずい+眉]《うみ》野に至りたまひて、太子|誕《あ》生れましき。この因縁ありて芋※[さんずい+眉]《うみ》野といふ。【産をいひてうみとするは風俗の言詞のみ。】俗間の婦人、忽然娠動すれば、裙《も》の腰に石を插み、厭《まじ》なひて時を延(429)べしむ、けだしこれに由るか。(同前)。
  筑前風土記に、神功皇后、三韓に入らむとしたまふ。時既に産月に臨めり。皇后みづから祭主《いはひぬし》となりて祷《の》みたまはく、事竟へて還らむ日に、この土《くに》に産むべしとのりたまひき。時に月の神|誨《をし》へたまはく、この神石をもちて腹を撫づべしといふ。皇后すなはち神石によりて腹を撫づるに、心體忽に平安なりき。今その石、筑前の伊覩《いと》の縣の道の邊にあり。後|雷霹《かむとき》して、神石、三段となりき。(大宰管内志)。
 
梅花歌卅二首 并v序
 
【釋】梅花歌卅二首 ウメノハナノウタミソヂアマリフタツ。天平二年正月十三日の大伴の旅人の邸において梅花を賦した歌三十二首である。その事情は序文にくわしい。この題詞は、初めから附せられてあつたのであろう。なお三十二首のほかに、員外思2故郷1歌兩首、後追和梅歌四首が附屬している。
 
天平二年正月十三日、萃2于帥老之宅1、申2宴會1也。于v時初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移v雲、松掛v羅而傾v蓋、夕岫結v霧、鳥封v※[穀の左の禾が糸]而迷v林。庭舞2新蝶1、空歸2故鴈1。於v是蓋v天坐v地、促v膝飛v觴、忘v言2一室之裏1、開v衿2煙霞之外1。淡然自放、快然自足。若非2翰苑1、何以※[手偏+慮]v情。詩紀2落梅之篇1、古今夫何異矣。宜賦2園梅1、聊成2短詠1。
 
天平の二年正月十三日、帥の老《おきな》の宅《いへ》に萃《あつ》まるは、宴會を申《の》ぶるなり。時に初春のよき月にして、氣淑く風|和《なご》み、梅は披《ひら》く、鏡の前の粉、蘭《らに》は薫る、珮の後の香。加以《しかのみにあらず》曙の嶺に雲移り、松|羅《うすもの》を掛けて蓋《きぬがさ》を傾け、夕の岫《くき》に霧結び、鳥|※[穀の左の禾が糸]《となみ》に封《こ》められて林に迷ふ。庭には新《あらた》しき喋舞ひ、空には故《もと》つ雁歸る。ここに天を蓋《やね》に(430)し、地を座《しきゐ》にし、膝を促《ちかづ》け觴を飛ばす。一室の裏に言を忘れ、煙霞の外に衿《えり》を開き、淡然《あは》くしてみづから放《ほしきまま》に、快然《こころよ》くしてみづから足る。もし翰苑にあらずは、何を以ちてか情を※[手偏+慮]《の》べむ、詩に落梅の篇を紀《しる》せり。古と今とそれ何ぞ異ならめや。宜《うべ》園の梅を賦《よ》みていささか短詠を成せ。
【譯】天平二年正月十三日、大宰の帥の老人の家に集まつたのは、宴會を開くためである。時に初春のよい月で、氣はこころよく風はやわらかに、梅は鏡の前の白粉のように咲き、蘭は帶にさげた香のように薫つている。そればかりではなく、夜明けの嶺には雲が動いて、松は薄絹をかけて衣笠をさしかけたようであり、夕の山の石門では霧が生じて、鳥は網に圍まれたように林に迷つている。庭には新しい喋が舞い、空には去年來た雁が歸つて行く。そこで天を屋根とし地面を座席とし、膝を交えて酒盃を廻らし、室の中では言葉を忘れ、襟を開いて山氣を受けた。淡白な心になつて自由であり、愉快になつてみずから滿足している。もし文筆でなくんば、どうして心を述べよう。漢詩には落梅の篇を記している。昔と今と何の異なるところがあろう。この園の梅を詠んで、すこしく短歌を作るがよい。
【釋】この序の作者については、諸説がある。山上の憶良説(代匠記、略解、古義、佐佐木博士等)、大伴の旅人説(芳賀博士、澤瀉博士、全澤等)、旅人の周圍説等である。この中、憶良説は、根據が薄弱で、ただこの卷が憶良の集だろうというだけである。文體も、憶良の思想文章は理窟つぽく、かような華美な體がなく、全然相違している。旅人説としては、吉田の宜の旅人に贈つた手紙に、この序をほめていること、旅人には華美な文體のあること、序中旅人およびその邸宅について何等の讃辭のないこと等が證據として擧げられる。この日の賓客、もしくは旅人の周圍の者が作つたとすることも、如上の根據によつて否定される。旅人は、主賓七人の次に主人として歌を列ね、この日の主人であるから、他の人が序を作るならば、一言旅人のことに及ぶべきに、全然そのことがないのは、旅人の作とすべき有力な根據である。ここに歌を列ねている三十二人は、大宰(431)府の役人、その所在地なり筑前の國の役人の大部分、および大宰府所管の諸國の役人等で、異色の者としては、造觀世音寺別當の沙彌滿誓が加わつている。ほぼ官位の順であるが、最高の官位を有する旅人は、主賓と見るべき七名の後におり、滿誓も出家のゆえか七番目にいる。
 萃于帥老之宅 カミノオキナノイヘニアツマルハ。萃の老は大伴の旅人。宅はその官邸。萃は集と同じ。
 初春令月 ハツハルノヨキツキニシテ。正月であるから初春という。令は善の意。
 氣淑風和 ケハヒヨクカゼナゴヤカニシテ。氣は、性氣で、類聚名義抄にケハヒの訓がある。淑は、説文に清湛也とある。蘭亭記に「是日也、天朗氣清、惠風和暢」などある。
 梅披鏡前之粉 ウメハヒラクカガミノマヘノシロキモノ。粉は倭名類聚鈔に「文選好色賦(ニ)云(フ)、著(クレバ)v粉(ヲ)則大白、粉、之路岐毛能《シロキモノ》」とある。おしろいである。梅の開くことは、鏡の前の白粉の如しの意。當時、梅花は、その花の白いのを愛した。梅花を詠んだ歌は、集中多數であるが、香に及んでいるのはただ一首(卷二十、四五〇〇)のみである。この三十二首中にももとより香を詠んだものはない。
 蘭薫珮後之香 ラニハカヲルオビノシリヘノカ。蘭は、本草和名に、布知波加末とあるが、フデバカマは、集中秋の七草に詠まれており、ここは春であつて、かつ離騷に「※[糸+刀](ビ)2秋(ノ)蘭(ヲ)1以爲(ス)v佩(ト)」とあるによつたものであるから、フヂバカマとは別で、ラン科の香草をいうと解せられる。但しここに蘭を擧げたのは、梅に對して詞客の愛するものとしてであつて、當時實際にその花があつたかもしれないが、それは保證の限りではない。珮は佩に同じ、大帶。珮後の香とは、香木麝香の類を嚢に入れて腰に下げたもの。その香のように蘭が薫つているという文章である。
 加以 シカノミニアラズ。加之に同じ。その上に加うるに。
 曙嶺移雲 アケボノノミネニクモウツリ。ウツリは移動して。
(432) 松掛羅而傾蓋 マツウスモノヲカケテキヌガサヲカタブケ。嶺の松に雲が懸かつたのを、羅を掛けといい、その状を蓋を傾けると見立てた。キヌガサは既出(卷三、二四〇)。織物製長柄の傘。貴人にさし懸ける。
 夕岫結霧 ユフベノクキニキリムスビ。曙嶺に對して夕岫というが、文飾に過ぎない。岫は山の穴。石門。霧結びは、霧が生じて。
 鳥封※[穀の左の禾が糸]而迷林 トリトナミニコメラレテハヤシニマドフ。※[穀の左の禾が糸]は、こまかい紗。文選等に霧※[穀の左の禾が糸]の熟字がある。トナミと訓ずるのは、古寫本の訓である。鳥の網の義。鳥が霧中を飛ぶのを、※[穀の左の禾が糸]に封められてという。
 庭舞新蝶 ニハニハアラタシキテフマヒ。新蝶は、新たに生まれた蝶をいう。蝶は、倭名類聚鈔に和名なく、新選字鏡に加波比良古《カハヒラコ》とある。
 空歸故鴈 ソラニハモトツカリカヘル。故雁は、去年來た雁。以上その日の風景を敍している。
 蓋天坐地 アメヲヤネトシツチヲシキモノトシ。蓋は、上文に衣笠に當てていたが、ここは屋蓋の義で座席に對しているであろう。淮南子に「以(テ)v天(ヲ)爲(ス)v蓋(ト)」とある。
 促膝飛觴 ヒザヲチカヅケサカヅキヲトバス。促は近の義。飛觴は、李白の宴2桃李園1序に「開(キ)2瓊筵(ヲ)1以(テ)坐(シ)v花(ニ)、飛(バシテ)2羽觴(ヲ)1而醉(フ)v月(ニ)」とある。酒盃を速にめぐらすをいう。
 忘言一室之裏 ヒトマノウチニコトヲワスレ。忘言は、言をも忘れるばかりに興あるをいう。蘭亭記に「悟v言2一室之内1」とあるにより、忘言は晋書、莊子等によつている。
 開衿煙霞之外 カスミノホカニエリヲヒラキ。衣襟を寛にして、煙霞に向かう意。煙霞は山氣をいう。
 淡然自放 アハクシテミヅカラホシキママニシ。仙覺の萬葉集註釋に、「淡然トシテトハシヅカニシテト云也」とある。淡々としてみずから欲するままにして世欲を離脱するをいう。
 快然自足 ココロヨクシテミヅカラタル。愉快になつてみずから滿足するをいう。
(433) 若非翰苑何以※[手偏+慮]情 ケダシフミテノソノニアラズハナニヲモチテココロヲノベム。翰は筆である。翰苑は、翰林に同じく文筆の多いことをいう。
 詩紀落梅之篇 カラウタニチレルウメノフダヲシルセリ。落梅は、代匠記には、詩經の、「落有v梅」の篇を擧げているが、これは梅實である。またその一説に「古樂府の梅華落の曲か」とある。王臺新詠、梁の武帝の春歌に「蘭葉始(メテ)滿(チ)v地(ニ)、梅花已(ニ)落(ツ)v枝(ニ)、持(チテ)2此(ノ)可(キ)v憐(ム)意(ヲ)1、摘(ミテ)以(テ)寄(ル)2心知1」とある。
 宜賦園梅聊成短詠 ウベソノノウメヲヨミテイササカミジカウタヲナセ。賦は、その事を鋪陳するをいうが、ここは題材として歌を詠むをいう。短詠は短歌に同じ。
 
815 正月《むつき》立ち 春の來《きた》らば、
 かくしこそ
 梅を招《を》きつつ 樂《たの》しき竟《を》へめ。
              大貳紀の卿。
 
 武都紀多知《ムツキタチ》 波流能吉多良婆《ハルノキタラバ》
 可久斯許曾《カクシコソ》
 烏梅乎々岐都々《ウメヲヲキツツ》 多努之岐乎倍米《タノシキヲヘメ》                    大貳紀卿
 
【譯】正月になつて春が來たら、このように梅花を招いて樂しみを極めよう。
【釋】武都紀多知 ムツキタチ。ムツキは正月。ムは産むの義で、草木の生い出る義であろう。タチは、始まる意。この句は、次の句の内容を説明し修飾している。
 波流能吉多良婆 ハルノキタラバ。以上二句、暦によつて、知識的に春來ることを扱つている。
 可久斯許曾 カクシコソ。カクは現に梅花を招じて遊んでいることをいう。シは強意の助詞。コソは係助詞。
 烏梅乎々岐都々 ウメヲヲキツツ。岐は、神田本細井本による。仙覺本には利に作つている。これは梅を招きつつで、梅花を賓遇する意になる。「追(ヒテ)2和(フル)大宰之時(ノ)梅花(ニ)1新(シキ)歌六首」(卷十七、三九〇一題詞)は、この會の(434)梅花の歌に追和した新歌であるが、その第一首、「烏梅能芳奈《ウメノハナ》 君爾之安良禰婆《キミニシアラネバ》 遠久人毛奈之《ヲクヒトモナシ》」(卷十七、三九〇一)は、この歌に和したものと見られ、その遠久を、仙覺本には遠流に作つている。また大伴の家持の「追(ヒテ)2和(フル)筑紫(ノ)大宰之時(ノ)春(ノ)苑(ノ)梅(ノ)歌(ニ)1一首」(卷十九、四一七四)も、この歌に和したものであるが、それにも「梅花《ウメノハナ》 手折乎伎都追《タヲリヲキツツ》 遊爾可v有《アソブニアルベシ》」とある。かくの如く呼應するものがあり、原形は、乎岐、遠久であつたのを、この語を理解しない後人が、易きについて、折ルとしたのであろう。
 多努之岐乎倍米 タノシキヲヘメ。樂しきを終らむで、歡を盡くそうの意。「天地與《アメツチト》 共將v終登《トモニヲヘムト》 念乍《オモヒツツ》」(卷二、一七六)、「春裏《ハルノウチノ》 樂終者《タノシキヲヘハ》」(卷十九、四一七四)などある。コソを受けてヲヘメと結んでいる。
 大貳紀卿 オホキスケ、キノマヘツギミ。大貳は大宰の大貳。大宰府の第二位の官。紀の卿は何人か不明。(435)前著に紀の男人かとしたのであるが、男人は天平十年に大宰の大貳で卒しているから男人ではないらしい。大宰の大貳は、初め、正五位の相當官であり、後、從四位の下に改められた。卿の字は三位以上に使用する字であるが、特に敬意を表して使用している。紀の飯麻呂は、天平元年に從五位の下になつている。
【評語】この歌は、古歌「阿良多之支《アラタシキ》 止之乃波之女爾《トシノハジメニ》 可久之己曾《カクシコソ》 知止世乎可禰弖《チトセヲカネテ》 多乃之支乎倍女《タノシキヲヘメ》」(琴歌譜)を本歌として作られている。この本歌は、當時新年などに歌われていたものと考えられるので、紀の卿の歌も、席上で吟誦したのであろう。この梅花の歌は、すべて文筆作品と解せられるのであるが、實際各人がその作を吟誦したと見られるのであつて、それは各歌における歌いものとしての要素によつても知られ、また集中の宴飲の歌などによつても推測されるのである。
 
816 梅の花 今咲けるごと、
 散り過ぎず
 わが家《へ》の苑に ありこせぬかも。
              少貳小野の大夫。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊麻佐家留期等《イマサケルゴト》
 知利須義受《チリスギズ》
 和我覇能曾能尓《ワガヘノソノニ》 阿利己世奴加毛《アリコセヌカモ》
              小貳小野大夫
【譯】梅の花は今咲いているように、散つてしまわないでわたしの家の園にあつてくれないかなあ。
【釋】伊麻佐家留期等 イマサケルゴト。次の句を修飾する。
 知利須義受 チリスギズ。散つて盛りを終らないで、五句を修飾する。
 和我覇能曾能尓 ワガヘノソノニ。ヘは家。「伊母我陛爾《イモガヘニ》 由岐可母不流登《ユキカモフルト》」(卷五、八四四)など。イヘ(家)の上畧と解せられている。古くは家をヘとのみ言つた。ヨモツヘグヒ(食泉之竈)、ヘビト(※[にすい+食]封)などの語があり、そのヘに接頭語イが接續してイヘの語ができたとも言われるが、しかしそのヘは、音韻が別であ(436)る。わが家の苑は、自家の園である。
 阿利己世奴加毛 アリコセヌカモ。コセは助動詞。あり得る意。ヌカモは打消の疑問で希望になる。
 小貳小野大夫 スナキスケ、ヲノノマヘツギミ。大宰の少貳小野の老。後大貳になつて死んだ。既出(卷三、三二八)。小少は、通用している。
【評語】旅人の邸の梅花を、咲いているままに自分の園に貰いたいという蟲のいい歌だ。梅花の特色はなく、何にでも置き代えられる缺點がある。
 
817 梅の花 咲きたる苑の
 青柳は、 
 ※[草冠/縵]《かづら》にすべく なりにけらずや。
                少貳粟田の大夫。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 佐吉多留僧能々《サキタルソノノ》
 阿遠地疑波《アヲヤギハ》
 可豆良尓須倍久《カヅラニスベク》 奈利尓家良受夜《ナリニケラズヤ》
                小貳栗田大夫
 
【譯】梅の花の咲いている園の青柳は、※[草冠/縵]にできるようになつたではないか。
【釋】阿遠也凝波 アヲヤギハ。アヲヤギは、青柳の字が當てられる。倭名類聚鈔に「柳、兼名宛(ニ)云(フ)、柳、一名小楊|之太利夜奈岐《シダリヤナギ》」とあるもので、ヤナギ、またヤギとも稱したと考えられる。
 可豆良尓須倍久 カヅラニスベク。カヅラは既出(卷三、四二三)。※[草冠/縵]。柳條は柔軟なので、これを輪にして※[草冠/縵]にするに適している。
 奈利尓家良受夜 ナリニケラズヤ。ケラは、助動詞ケリの未然形。ヤは反語の助詞。柳の芽の出たことをいう。
 小貳粟田大夫 スナキスケ、アハタノマヘツギミ。誰であるか未詳。當時正五位の上であつた、粟田の人上(437)かという。しかし小野の老は當時從五位の上であつたはずであるから、人上ならば老の下席にあるべきでない。よつてなお未詳とすべきである。
【評語】これは梅よりも柳が主になつている。古人は、その物を詠み入れてあればよしとしたのであろう。柳を※[草冠/縵]にすることは、集中他にもあり、また春興というべきであつた。
 
818 春されば まづ咲く屋戸の
 梅の花、
 ひとり見つつや 春日暮らさむ。
              筑前の守山上の大夫。
 
 
 波流佐禮婆《ハルサレバ》 麻豆佐久耶登能《マヅサクヤドノ》
 烏梅能波奈《ウメノハナ》
 比等利美都々夜《ヒトリミツツヤ》 波流比久良佐武《ハルヒクラサム》
             筑前守山上大夫
 
【譯】春になればまず咲く前庭の梅花を、ひとりで見てか春の日を暮らすのだろう。
【釋】波流佐禮婆 ハルサレバ。春になれば。
 麻豆佐久耶登能 マヅサクヤドノ。春來つて梅花のさきがけて咲くを敍している。ヤドは屋戸。前庭。
 比等利美都々夜 ヒトリミツツヤ。ヤは疑問の係助詞。
 波流比久良佐武 ハルヒクラサム。春の佳日を暮らさむの意。ヤを受けて、暮らすのだろうかの意になる。
 筑前守山上大夫 ツクシノミチノクチノカミヤマノウヘノマヘツギミ。山上の憶良。
【評語】梅花を見ても、衆と共に樂しもうという憶良の廣い心があらわれている。よく纏まつている歌である。
 
819 世の中は 戀繁しゑや。
 かくしあらば、
(438) 梅の花にも 成らましものを。
              豐後守の大伴の大夫。
 
 余能奈可波《ヨノナカハ》 古飛斯宜志惠夜《コヒシゲシヱヤ》
 加久之阿良婆《カクシアラバ》
 烏梅能波奈尓母《ウメノハナニモ》 奈良麻之勿能怨《ナラマシモノヲ》
             豐後守大伴大夫
【譯】この世の中は戀がたくさんにあるものだ。こんなことなら梅の花にでもなつたらよかつたに。
【釋】古飛斯宜志惠夜 コヒシゲシヱヤ。戀繁シに、感動の助詞ヱヤが接續したもの。ヱは「吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》」(卷四、四八六)參照。戀繁、シヱヤとする攷證の説は容れられない。句切。
 加久之阿良婆 カクシアラバ。カクは、初二句を受けている。シは強意の助詞。
 奈良麻之勿能怨 ナラマシモノヲ。なつたろうものを、しかるにの意。
 豐後守大伴大夫 トヨノミチノシリノカミ、オホトモノマヘツギミ。大伴の大夫は何人か未詳。大伴の三依とする説があるが、三依は當時九州にあつたという證明なく、かつ天平二十年正月に、正六位の上から從五位の下になつている人であつて、豐後の守大伴の大夫とあるに適しない。
【評語】戀の繁きを遁れて、清逸なる梅花になりたいと歌つている。二句の表現が感激的であるが、これは歌いものから得來つた調子だと考えられる。ヱヤの如き助詞は、當時すでに古語となつていたであろう。何々になつたらという内容の歌は多いが、その中に比較的特色のある歌である。
 
820 梅の花 今盛りなり。
 思ふどち 頭插《かざし》にしてな。
 今盛りなり。  筑後の守葛井の大夫。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》
 意母布度知《オモフドチ》 加射之尓斯弖奈《カザシニシテナ》
 伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》  筑後守葛井大夫
 
【譯】梅の花は今盛りだ。思い合つている人たちで頭插にしよう。今盛りだ。
(439)【釋】伊麻佐可利奈理 イマサカリナリ。句切。
 意母布度知 オモフドチ。「鶉鳴《ウヅラナク》 古郷之《フリニシサトノ》 秋〓子乎《アキハギヲ》 思人共《オモフヒトドチ》 相見都流可聞《アヒミツルカモ》」(卷八、一五五八)の思人共をオモフヒトドチと讀むべしとすれば、ドチはドモと同じ意と考えられる。思う人たちの意であろう。
 加射之尓斯弖奈 カザシニシテナ。カザシは既出(卷一、三八)。髪插の義。シテナは、爲テナで、ナは自己の希望をあらわす助詞。句切。
 筑後守葛井大夫 ツクシノミチノシリノカミ、フヂヰノマヘツギミ。「大宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)上(リシ)v京(ニ)之後、筑後(ノ)守葛井連大成(ノ)悲歎(シミテ)作(レル)歌一首」(卷四、五七六題詞)とある人である。
【評語】二句と五句とに同句を使用している。これは歌いものから來ている表現法で、歌いあげて效果の多い形である。これも吟誦せられたことを語るものがある。内容は單純で、よく梅花を讃稱したあかるい歌である。
 
821 青柳《あをやなぎ》 梅との花を
 折りかざし、
 飲《の》みての後は 散りぬともよし。
             笠の沙彌。
 
 阿乎夜奈義《アヲヤナギ》 烏梅等能波奈乎《ウメトノハナヲ》
 遠理可射之《ヲリカザシ》
 能弥弖能々知波《ノミテノノチハ》 知利奴得母與斯《チリヌトモヨシ》
             笠沙弥
                
【譯】青柳と梅の花とを折つて頭插《かざし》にし、酒を飲んでの後は、散つてもよいのだ。
【釋】阿乎夜奈義 アヲヤナギ。前にアヲヤギとあつたのに同じ。
 烏梅等能波奈乎 ウメトノハナヲ。トは、附加を意味するために添えられた助詞で、この場合、柳の花と梅の花との意に解せられる。柳の花は、歌には詠まれていないが、文章には、「越中(ノ)風土、梅花柳絮、三月(ニ)初(メテ)咲(ク)耳《ノミ》」(卷十九、四二三八左註)とあつて、梅花と竝び擧げられている。
(440) 連理可射之 ヲリカザシ。折つて頭插《かざし》として。
 能弥弖能々知波 ノミテノノチハ。ノミテは、酒を飲んで。
 知利奴得母與斯 チリヌトモヨシ。散るともよし。放任する意である。
 笠沙弥 カサノサミ。滿誓のこと。もと笠の麻呂と言つたので、笠を冠している。
【評語】梅柳を賞して飲宴しおわれば、散るもまた可なりの意で、酒なくては梅柳も何ぞの意がある。散リヌトモヨシの句は、集中この歌ともに四出しているが、いずれも梅花の歌であり、歌いものにある句を承けているが如く、これも吟誦されたものと推量される。
【參考】類句、散りぬともよし。
  わが宿の梅咲きたりと告げやらば來といふに似たり。散りぬともよし(卷六、一〇一一)
  酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし(卷八、一六五六)
  來て見べき人もあらなくに我家なる梅の早花《はつはな》散りぬともよし(卷十、二三二八)
 
822 わが苑に 梅の花散る。
 ひさかたの 天より雪の
 流れ來るかも。 主人。
 
 和何則能尓《ワガソノニ》 宇米能波奈知流《ウメノハナチル》
 比佐可多能《ヒサカタノ》 阿米欲里由吉能《アメヨリユキノ》
 那何列久流加母《ナガレクルカモ》 主人
 
【譯】わたしの園に梅の花が散る。はるかな大空から雪が流れて來るのか。
【釋】和何則能尓宇米能波奈知流 ワガソノニウメノハナチル。わが園は、この邸宅の庭園。句切。
 那何列久流加母 ナガレクルカモ。カモは感動の助詞であるが、疑問の意を遺存している。
 主人 アロジ。大伴の旅人。アロジは「波之伎余之《ハシキヨシ》 家布饉安路自波《ケフノアロジハ》」(卷二十、四四九八)の用例がある。
(441)【評語】梅花を雪かと疑うのは、漢詩、和歌ともにあまりにも言い古されている。これも漢文學を受けているであろうが、初二句に事實を敍述し、三句以下率直に雪の流れ來るかと疑つた表現が、正直でよい。ヒサカタノ天ヨリの句は、この場合大きい感じを與えている。旅人らしい上品な、しかも堂々たる風格の作である。
 
823 梅の花 散《ち》らくは何處《いづく》。
 しかすがに
 この城《き》の山に 雪は降りつつ。
           大監伴氏百代。
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 知良久波伊豆久《チラクハイヅク》
 志可須我尓《シカスガニ》
 許能紀能夜麻尓《コノキノヤマニ》 由企波布理都々《ユキハフリツツ》
            大監伴氏百代
 
【譯】梅の花の散るのは何處だろう。それだのにこの城の山に雪が降つている。
【釋】知良久波伊豆久 チラクハイヅク。チラクは散ること。現に梅花の散るのを見て、そんな處もあるのかと自問的に疑つた言い方である。句切。
 志可須我尓 シカスガニ。既出(卷四、五四三)。然爲ガニで、そのようにあるほどにの意の副詞。
 許熊紀能夜麻尓 コノキノヤマニ。キノヤマは既出(卷四、五七六)。筑前、肥前の國境の山。
 由企波布理都々 ユキハフリツツ。現に雪の降つている由だが、山上に雪の殘つているのをいうのであろう。
 大監伴氏百代 オホキマツリゴトビト、トモウヂモモヨ。大伴の百代。既出。伴氏は、大伴氏の略稱。以下多く、漢風に擬して、氏の一字だけを取つて何氏と書いている。
【評語】雪を冬のものとし、梅花の散るを春のものとする觀念は、人々のあいだにようやく成立するに至つたが、自然はかならずしも人爲の規定どおりに行かない。その矛盾の感に歌材を求める歌も多く、これもその一つである。二句に疑問の意を述べているところに、その矛盾の感がよくあらわれている。
 
(442)824 梅の花 散らまく惜しみ、
 わが苑の 竹の林に
 鶯鳴くも。  少監阿氏奥島。
 
 烏梅乃波奈《ウメノハナ》 知良麻久怨之美《チラマクヲシミ》
 和我曾乃々《ワガソノノ》 多氣乃波也之尓《タケノハヤシニ》
 于具比須奈久母《ウグヒスナク》  小監阿氏奥島
 
【譯】梅花の散りそうなのを惜しんで、わたしの園の竹に鶯が鳴いている。
【釋】烏梅乃波奈知良麻久怨之美 ウメノハナチラマクヲシミ。鶯の鳴く理由を説明している。
 多氣乃波也之尓 タケノハヤシニ。竹についてハヤシという例は「御苑布能《ミソノフノ》 竹林爾《タケノハヤシニ》 鶯波《ウグヒスハ》 之波奈吉爾之乎《シバナキニシヲ》 雪波布利都々《ユキハフリツツ》」(卷十九、四二八六)の例がある。
 于具比須奈久母 ウグヒスナクモ。モは感動の助詞。
 小監阿氏奥島 スナキマツリゴトビト、アウヂオキシマ。小監は大宰の少監。阿氏は、氏の上一字を採つて阿氏と稱している。前の伴氏と同じく、唐人の氏の一字が多いのに模したものである。阿氏は、阿倍、阿蘇等多く、何氏であるかあきらかでない。奧島も從つて傳未詳。
【評語】作爲した歌で、器用にできている。題詠風な歌の詠み方が、ようやくあらわれて來たことが指摘される。
 
825 梅の花 咲きたる苑の
 青柳を、
 ※[草冠/縵]《かづら》にしつつ 遊び暮らさな。
             少監土氏百村。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 佐岐多流曾能々《サキタルソノノ》
 阿遠夜疑遠《アヲヤギヲ》
 加豆良尓志都々《カヅラニシツツ》 阿素※[田+比]久良佐奈《アソビクラサナ》
             小監土氏百村
 
(443)【譯】梅の花の咲いている園の青柳を、※[草冠/縵]にして遊び暮らそうよ。
【釋】加豆良尓志都々 カヅラニシツツ。青柳を※[草冠/縵]にすること、前にも出ている。
 阿素※[田+比]久良佐奈 アソビクラサナ。ナは自己に關する願望の助詞。
 小監土氏百村 スナキマツリゴトビト、ハニウヂモモムラ。土氏百村は、續日本紀、養老五年正月の條に、正七位の上土師の宿禰百村等に詔して、退朝の後、春宮に侍せしむとある人であろう。學藝の人と思われる。よつて土氏は土師氏の略と見られる。
【評語】これも梅花は從になつている。青柳を※[草冠/縵]にして梅花の苑に遊ぼうという、悠々たる春興が詠まれている。
 
826 うち靡く 春の柳と、
 わが屋戸の 梅の花をと、
 いかにか分《わ》かむ。  大典史氏大原
 
 有知奈※[田+比]久《ウチナビク》 波流能也奈宜等《ハルノヤナギト》
 和我夜度能《ワガヤドノ》 烏梅能波奈遠等《ウメノハナヲト》
 伊可尓可和可武《イカニカワカム》 大典史氏大原
 
【譯】風に靡く春の柳と、わたしの庭前の梅の花とは、どう優劣が分けられよう。
【釋》有知奈※[田+比]久 ウチナビク。枕詞。春は草木が靡くから、春を修飾する。この歌では、柳にまで、この句の説明が懸かつていると見られる。そうしてこれによつて柳の生態が描かれているようである。
 波流能也奈宜等 ハルノヤナギト。新葉の美しい柳が取り上げられている。トは竝立格を示す助詞。
 和我夜度能 ワガヤドノ。ヤドは屋戸で、ここは屋前、前庭。
 烏梅能波奈遠等 ウメノハナヲト。遠等は、仙覺本に等遠に作つているのは、平易についたものであろう。かようなヲトについては、「汝乎與吾乎《ナヲトワヲ》」(卷四、六六〇)において述べた。「志流敝爾波《シルベニハ》 古乎等都麻乎等《コヲトツマヲト》 (444)於枳弖等母枳奴《オキテトモキヌ》」(卷二十、四三八五)の如きも、その例である。
 伊可尓可和可武 イカニカワカム。ワカムは、判別しよう。「白露《シラツユト》 與2秋〓子1者《アキノハギトハ》 戀亂《コヒミダレ》 別事難《ワクコトカタキ》 吾情可聞《ワガココロカモ》」(卷十、二一七一)のワクはこれで、歌意もこの歌と同じである。
 大典史氏大原 オホキフミヒト、フヒトウヂオホハラ。大典は大宰の大典。史氏は史部であろう。大原は傳未詳。
【評語】梅と柳との優劣の定めかねることを歌つている。ただそれだけであるのは物足りない。
 
827 春されば 木末隱《こぬれがく》りて、
 鶯ぞ 鳴きていぬなる。
 梅が下枝《しつえ》に。 少典山氏若麻呂。
 
 波流佐禮婆《ハルサレバ》 許奴禮我久利弖《コヌレガクリテ》
 宇具比須曾《ウグヒスゾ》 奈岐弖伊奴奈流《ナキテイヌナル》
 烏梅我志豆延尓《ウメガシヅエニ》  小典山氏若麻呂
 
【譯】春になれば木の枝先に隱れて、鶯が鳴いて行くのだ。梅の下枝に移つて。
【釋】許奴禮我久利弖 コヌレガクリテ。コヌレは木のうれ。樹木の生長する枝先。その茂つた枝先に隱れて。「汗瑞能振《カゼノフク》 樹奴禮我之多爾《コヌレガシタニ》 鶯鳴母《ウグヒスナクモ》」(卷十三、三二二一)。利は、類聚古集、神田本には、禮に作り、細井本、また仙覺本は利である。動詞隱ルの連用形は、卷の十四に、カクリ、カクレの兩例があり、その他「往隱《ユキガクル》 島乃埼埼《シマノサキザキ》」(卷六、九四二)など、この語の連體形と思われるものを、三音相當のところに使つている。
 奈岐弖伊奴奈流 ナキテイヌナル。イヌナルは去ヌナル。ナルはその上の事實を決定する意の助詞。ゾを受けてナルと結んでいる。句切。
 烏梅我志豆延尓 ウメガシヅエニ。シヅエは下方の枝。鶯の行く先を指定している。
 小典山氏若麻呂 スナキフミヒト、ヤマウヂワカマロ。山氏若麻呂は、山口の若麻呂。既出(卷四、五六(445)七)。
【評語】二句と五句との敍述に混雜が感じられるが、しかしこの歌には描寫がある。他の歌の概念的なのにくらべて、しつかりと物を見ているのがよいところである。
 
828 人ごとに 折り頭插《かざ》しつつ
 遊べども、
 いやめづらしき 梅の花かも。
          大判事丹氏麻呂。
 
 比等期等尓《ヒトゴトニ》 乎理加射之都々《ヲリカザシツヽ》
 阿蘇倍等母《アソベドモ》
 伊夜米豆良之岐《イヤメヅラシキ》 烏梅能波奈加母《ウメノハナカモ》
                     大判事丹氏麻呂
【譯】どの人も折つて頭插《かざし》にして遊んでいるけれども、いよいよ愛すべき梅の花だなあ。
【釋】比等期等尓 ヒトゴトニ。一人一人、どの人も。
 伊夜米豆良之岐 イヤメヅラシキ。イヤは、いよいよ。メヅラシは賞美すべくある意。人ごとに頭插《かざし》にしても、なお飽くことがないの意である。
 大判事丹氏麻呂 オホキコトワカツヒト、タニウヂマロ。大判事は、大宰府の官人、司法官。丹氏は、丹比か丹波であろう。麻呂は傳未詳。
【評語】この席の人、皆梅花を折つて頭插《かざし》にしていたと見える。歌はすなおで、他奇のない表現である。
 
829 梅の花、咲きて散りなば、
 櫻花 繼ぎて咲くべく
 なりにてあらずや。  藥師張氏福子。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 佐企弖知理奈波《サキテチリナバ》
 佐久良婆那《サクラバナ》 都伎弖佐久倍久《ツギテサクベク》
 奈利尓弖阿良受也《ナリニテアラズヤ》  藥師張氏福子
 
(446)【譯】梅の花が咲いて散つたら、櫻の花が續いて咲きそうになつているではないか。
【釋】佐企弖知理奈波 サキテチリナバ。ナは完了の助動詞。
 都伎弖佐久倍久 ツギテサクベク。ツギテは梅花に繼ぎて。
 奈利尓弖阿良受也 ナリニテアラズヤ。ヤは反語。
 藥師張氏福子 クスリシ、チヤウウヂフクシ。藥師は、大宰府の醫師。醫療の事をつかさどる。張子は、このまま張一字の氏であろう。醫術は、大陸から渡來した學術なので、歸化人にこれをよくするものが多い。これも大陸系統の人と見える。よつて福子も字音に讀むべきである。藤原武智麻呂傳に、神龜年間の人材を記して、「方士、有(リ)2吉田(ノ)連宜、御立(ノ)連呉明、城上(ノ)連眞立、張福子等1」とある張福子は、この人であろう。
【評語】梅花に續いて櫻花が咲く。かくして春は十分に到るのであ。春を解説したような歌で、櫻花の方が主になつている。
 
830 萬世に 年は來經《きふ》とも、
 梅の花
 絶ゆることなく 咲き渡るべし。
              筑前の介佐氏子首。
 萬世尓《ヨロヅヨニ》 得之波岐布得母 トシハキフトモ
 烏梅能波奈《ウメノハナ》
 多由流己等奈久《タユルコトナク》 佐吉和多流倍子《サキワタルベシ》                                            筑前介佐氏子首
 
【譯】永久に年は來るとも、梅の花は絶えることなく咲いて行くだろう。
【釋】得之波岐布得母 トシハキフトモ。キフは來經で、來て經過するをいう。「年乎曾寸經《トシヲゾキフル》 事者不v絶而《コトハタエズテ》」(卷十二、三〇七四)など用例がある。
 佐吉和多流倍子 サキワタルベシ。サキワタルは、咲いて時を經過する。ベシは推量の助動詞。
(447) 筑前介佐氏子首 ツクシノミチノクチノスケ、サウヂコビト。筑前の介は、筑前の國の第二番目の官。佐氏は、佐伯か。子首は、傳未詳。日本書紀天武天皇の卷に、三輪の君子首、忌部の首子首などの名を子人とも書いているので、コビトと讀むべしとされている。
【評語】あまりに常識的な内容を歌つている。作歌に慣れない人であつたろう。
 
831 春なれば うべも咲きたる
 梅の花、
 君を思ふと、
 夜宿《よい》も寢《ね》なくに。 壹岐の守板氏安麻呂。
 
 波流奈例婆《ハルナレバ》 宇倍母佐枳多流《ウベモサキタル》
 烏梅能波奈《ウメノハナ》
 岐美乎於母布得《キミヲオモフト》
 用伊母祢奈久尓《ヨイモネナクニ》 壹岐守板氏安麻呂
 
【譯】春だから誠に咲いた梅の花よ。わたしはあなたを思つて、夜も安眠ができないのだ。
【釋】波流奈例婆 ハルナレバ。春にあればで、春であるから。
 宇倍母佐枳多流 ウベモサキタル。ウベは、いかにもとうべなう意の副詞、モは感動の助詞。春來つて、もつともにも咲いたの意。
 烏梅能波奈 ウメノハナ。梅花を呼びかけている。
 岐美乎於母布得 キミヲオモフト。キミは梅花をさしている。トはトシテ。
 用伊母祢奈久尓 ヨイモネナクニ。ヨイは、夜眼で、夜間の睡眠。夜もおちついて寢られない意。
 壹岐守板氏安麻呂 イキノカミ、イタウヂヤスマロ。板は、神田本に坂、西本願寺本に榎に作つている。何氏か定めがたい。從つて安麻呂も傳未詳。
【評語】梅花に精神を傾倒する意が歌われている。梅花を君というのは、それを愛するがあまりに出たことで、(448)かような類は、漢文學にも集中にも例が多い。
 
832 梅の花 折りてかざせる
 諸人《もろひと》は、
 今日の間《あひだ》は 樂しくあるべし。
                 神司荒氏稻布。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 乎利弖加射世留《ヲリテカザセル》
 母呂比得波《モロヒトハ》
 家布能阿比太波《ケフノアヒダハ》 多努斯久阿流倍斯《タノシクアルベシ》
               神司荒氏稻布
 
【譯】梅の花を折つて頭插《かざし》にしている人々は、今日一日は、樂しいことだろう。
【釋】乎利弖加射世留 ヲリテカザセル。カザセルは、動詞カザスに助動詞リの連體形が接續している。
 母呂比得波 モロヒトハ。モロヒトは、諸人。席上の人々。
 家布能阿比太波 ケフノアヒダハ。今日の一日のあいだは。
 多努斯久阿流倍斯 タノシクアルベシ。ベシは推量の助動詞。
 神司荒氏稻布 カムヅカサ、アラウヂイナシキ。神司は、大宰府の主神。神事をつかさどる。荒氏は、荒木田か。その他にもあるので定めかねる。稻布は傳未詳。
【評語】梅花を頭插《かざし》にしている人々の樂しそうな有樣が、推量の語法ではあるが、窺われる。
 
833 毎年《トシノハ》に 春の來《きた》らば、
 かくしこそ
 梅を頭插《かざ》して 樂しく飲《の》まめ。
            大令史野氏宿奈麻呂。
 
 得志能波尓《トシノハニ》 波流能伎多良婆《ハルノキタラバ》
 可久斯己曾《カクシコソ》
 烏梅乎加射之弖《ウメヲカザシテ》 多努志久能麻米《タノシクノマメ》
             大令史野氏宿奈麻呂
 
(449)【譯】毎年春が來たら、このように梅を頭插《かざし》にして樂しく酒を飲もう。
【釋】得志能波尓 トシノハニ。トシノハは、毎年の意。「毎年(ハ)、謂(フ)2之(ヲ)等之乃波《トシノハト》1」(卷十九、四一六八)とある。
 多努志久能麻米 タノシクノマメ。ノマメは、酒を飲もう。コソを受けて結んでいる。
 大令史野氏宿奈麻呂 オホキフミヒト、ノウヂスクナマロ。大令史は、大宰府の役人で、書記である。大典と同訓ではあるまいと思うが、今その別をあきらかにしない。野氏は、小野、大野等、野の字の附くもの多く、不明である。宿奈麻呂も傳未詳。
【評語】初めに出た紀の卿の歌と、構成を同じくしている。これも歌いものから來ていることが明白である。
 
834 梅の花 いま盛りなり。
 
 百島の 聲の戀《こほ》しき
 春|來《きた》るらし。少令史田氏肥人。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊麻佐加利奈利《イマサカリナリ》
 毛々等利能《モモトリノ》 己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》
 波流岐多流良斯《ハルキタルラシ》 小令史田氏肥人
 
【譯】梅の花は今盛りだ。多くの鳥の聲のなつかしい春が來たと思われる。
【釋】毛々等利能 モモトリノ。モモトリは百鳥で、諸種の鳥をいう。
 己惠能古保志枳 コヱノコホシキ。コホシキは戀シキで、百鳥の聲を聞くことが望ましい意である。
 波流岐多流良斯 ハルキタルラシ。初二句の事實にもとづく推量を敍している。
 小令史田氏肥人 スナキフミヒト、タウヂヒビト。田氏は、田口、田邊等諸氏があつて、決定しがたい。肥人は傳未詳。この名の訓には諸説があるが、「肥人《ヒビトノ》 額髪結在《ヌカガミユヘル》」(卷十一、二四九六)の肥人と共にヒビトと讀むこととする。説はその歌の條に記す。
(450)【評語】梅花の盛りである事實によつて、暦面の春の來たことを推量している。知識人のあいだに多い構想であるが、春の説明が具體的になつているのが、この歌の特色になつている。
 
835 春さらば 逢はむと思《も》ひし
 梅の花、
 今日の遊《あそ》びに あひ見つるかも。
                藥師高氏義通。         
 
 波流佐良婆《ハルサラバ》 阿波武等母比之《アハムトモヒシ》
 烏梅能波奈《ウメノハナ》
 家布能阿素※[田+比]尓《ケフノアソビニ》 阿比美都流可母《アヒミツルカモ》
 
              藥師高氏義通
 
【譯】春になつたら逢おうと思つた梅の花に、今日の遊びの席で逢つたことだつた。
【釋】阿波武等母比之 アハムトモヒシ。アハムは、梅花を人に擬していう。モヒシは、思ヒシ。集中、オモフ、モフ、兩用している。
 家布能阿素※[田+比]尓 ケフノアソビニ。アソビは、この梅花の雅宴をいう。文雅の行事の義である。
 阿比美都流可母 アヒミツルカモ。これも梅を人に擬して面接したと言つている。
 藥師高氏義通 クスリシ、コヴヂギツウ。藥師は既出。高氏は、高麗氏か。義通は傳未詳。
【評語】梅を擬人化した言い方が目立つが、歌は平凡で、感情に乏しい。
 
836 梅の花 手折《たを》り頭插《かざ》して
 遊べども、
 飽き足《だ》らぬ日は 今日にしありけり。
             陰陽師礒氏法麻呂。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 多乎利加射志弖《タヲリカザシテ》
 阿蘇倍等母《アソベドモ》
 阿岐太良奴比波《アキダラヌヒハ》 家布尓志阿利家利《ケフニシアリケリ》
             陰陽師礒氏法麻呂
 
(451)【譯】梅の花を手折つて頭插《かざし》にして遊ぶけれども、飽くことのない日は、今日であつた。
【釋】多乎利加射志弖 タヲリカザシテ。タヲリは折るに同じ。タは接頭語。
 阿岐太良奴比波 アキダラヌヒハ。アキダラヌは飽き足らぬで、熟語としてタが濁音になつている。
 家布尓志阿利家利 ケフニシアリケリ。シは強意の助詞。
 陰陽師礒氏法麻呂 ウラノシ、イソウヂノリマロ。陰陽師は、大宰府の役人で、卜筮をつかさどる。訓讀すればウラノシでもあろうか。音讀していたのであろう。礒氏は礒部か。法麻呂は傳未詳。
【評語】ここにも今日の雅會を謳歌する思想が歌われている。詠嘆の氣分のよく出ているのがとりえである。
 
837 春の野に 鳴くや鶯、
 なつけむと
 わが家《へ》の苑に 梅が花咲く。
             ※[竹/下]師志氏大道。
 
 波流能努尓《ハルノノニ》 奈久夜※[さんずい+于]隅比須 ナクヤクグヒス
 奈都氣牟得《ナツケムト》
 和何弊能曾能尓《ワガヘノソノニ》 ※[さんずい+于]米何波奈佐久《ウメガハナサク》
             ※[竹/下]師志氏大道
 
【譯】春の野に鳴く鶯を馴つけようと、わたしの家の苑で、梅の花が咲いた。
【釋】奈久夜※[さんずい+于]隅比須 ナクヤクグヒス。ヤは感動の助詞で、鳴く鶯に同じ。句の途中に、この種のヤのあるのは、「左乎思鹿能《サヲシカノ》 布須也久草無良《フスヤクサムラ》」(卷十四、三五三〇)の如きがある。
 奈都氣牟得 ナツケムト。ナツケムは、馴著けむで、手馴づけようとの意。
 ※[さんずい+于]米何波奈佐久 ウメガハナサク。普通梅の花というが、これと八四五とでは、ウメガハナと言つている。ウメノハナに比して、熟語的な氣分が強いのは、ガの性格によるものである。
 ※[竹/下]師志氏大道 カゾヘノシ、シウヂオホミチ。※[竹/下]師は、大宰府の役人で物數を算えることをつかさどる。志(452)氏は、志賀、志貴、志斐などであろう。大道は傳未詳。
【評語】作爲の歌であるが、思い設けた風情がある。初二句で一往切つて、鶯を感じているのがよい。
 
838 梅の花 散り亂《まが》ひたる
 岡|傍《び》には、 
 鶯鳴くも。
 春|片設《かたま》けて。 大隅目榎氏鉢麻呂。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 知利麻我比多流 チリマガヒタル
 乎加肥尓波《ヲカビニハ》
 宇具比須奈久母《ウグヒスナクモ》
 波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》 大隅目榎氏鉢麻呂
 
【譯】梅の花の散り亂れている岡邊では、鶯が鳴いている。春を待ち設けて。
【釋】知利麻我比多流 チリマガヒタル。マガヒは眩惑してそれと見定められない意。そこで、亂の字にマガフの訓が當てられる。梅花の散亂する意である。
 乎加肥尓波 ヲカビニハ。ビは邊、傍の意。
 宇具比須奈久母 ウグヒスナクモ。モは感動の助詞。句切。
 波流加多麻氣弖 ハルカタマケテ。春をひたすらに待ち設けて。
 大隅目榎氏鉢麻呂 オホスミノフミヒト、エウヂハチマロ。大隅目は、大隅の國の第四等官。榎氏は、榎本か榎井か。鉢麻呂は傳未詳。
【評語】この歌には描寫がある。それがこの歌を生命あるものにしている。鶯の方が主になつているが、そんなことは問題にならない。鶯と共に梅を愛する心がよく出ている。但し五句は説明し過ぎる。
 
839 春の野《の》に 霧立ち渡り、
(453) 降る雪と 人の見るまで
 梅の花散る。 筑前の目田氏眞上。
 
 波流能努尓《ハルノノニ》 紀理多知和多利《キリタチワタリ》
 布流由岐得《フルユキト》 比得能美流麻提《ヒトノミルマデ》
 烏梅能波奈知流《ウメノハナチル》 筑前目田氏眞上
 
【譯】春の野に霧が立ち渡つて、降る雪と人が見るまでに、梅の花が散ることだ。
【釋】波流能努尓紀理多知和多利 ハルノノニキリタチワタリ。以上の句は、降る雪を修飾するのか、五句の梅の花咲くを修飾するのか、兩樣の解が成立し得る。續きがらから言えば、多分前者なのであろう。春に霧をいう例は、「春山《ハルヤマノ》 霧或在《キリニマドヘル》 鴛《ウグヒスモ》」(卷十、一八九二)など多い。
筑前目田氏眞上 ツクシノミチノクチノフミヒト、タウヂマカミ。田氏は前出。眞上も傳未詳。
【評語】三句までは春雪を描いたものとして、特色があるべき筈だのに、それが生きていない。二句の置き方が無雜作で、降る雪としつくりしないからであろう。しかし霧に對する古今の理解の相違も、邪魔をしているのかも知れない。同じ構想でも旅人の歌の方が遙かによい。
 
840 春柳 ※[草冠/縵]《かづら》に折りし、
 梅の花 誰《たれ》か浮かべし。
 酒盃《さかづき》の上《へ》に。 壹岐の目村氏彼方。
 
 波流楊那宜《ハルヤナギ》 可豆良尓乎利志《カヅラニヲリシ》
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 多禮可有可倍志《タレカウカベシ》
 佐加豆岐能倍尓《サカヅキノヘニ》 壹岐目村氏彼方
 
【譯】わたしは春の柳を※[草冠/縵]に折つたが、梅の花を誰が浮かべたのか、この酒杯の上に。
【釋】波流楊那宜 ハルヤナギ。春の楊柳の義である。從來多く次の句に冠する枕詞としているが、これは第二句を連體句として第三句に續けて解したために生じた誤りであつて、これは第二句の目的格と見るべきである。なお第二句の解において説明する。
(454) 可豆良尓乎利志 カヅラニヲリシ。前項に記したように春の柳を※[草冠/縵]に折りしの意で、中止形の句切と解せられる。シは助動詞キの連體形であるが、ゾヤカの係なくしてシで終止する例は「山河爾《ヤマガハニ》 筌乎伏而《ウヘヲフセオキテ》 不v肯v盛《モリアヘズ》 年之八歳乎《トシノヤトセヲ》 吾竊※[人偏+舞]師《ワガヌスマヒシ》」(卷十一、二八三二)、「靈合者《タマアヘバ》 相宿物乎《アヒヌルモノヲ》 小山田之《ヲヤマダノ》 鹿猪田禁如《シシダモルゴト》 母之守爲裳《ハハシモラスモ》 一云|母之守之師《ハハガモラシシ》」(卷十二、三〇〇〇)の如きがある。しかしこの歌の場合は、全然終止しているのでなくして、※[草冠/縵]に折つた、そうしての如き意と解せられる。かような例としては、「春霞《ハルガスミ》 春日里之《カスガノサトノ》 殖子水葱《ウヱコナギ》 苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》 柄者指爾家牟《エハサシニケム》」(卷四、四〇七)の如きがあり、苗なりと言いしが、それはの意に解せられる。「立而居而《タチテヰテ》 待登待可禰《マテドマチカネ》 伊泥※[氏/一]來之《イデテコシ》 君爾於v是相《キミニココニアヒ》 插頭都流波疑《カザシツルハギ》」(卷十九、四二五三)の例も同じ。梅の花を頭插《カザシ》に折るとは普通いうが、特に※[草冠/縵]に折るとは變つており、しかもその※[草冠/縵]の枕詞として春柳の語を置いたと見ることは無理である。
 烏梅熊波奈多禮可有可倍志 ウメノハナタレカウカベシ。以下轉じて梅花のことを敍している。この二句、上の春柳云々の二句と對句になつている。何に浮かべたかは第五句で説明している。句切。
 佐加豆岐能倍尓 サカヅキノヘニ。ヘは上。酒杯に梅花を浮かべることは、この梅花の歌の追和の歌にもあり、また「酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし」(卷八、一六五六)の歌もある。酒杯に梅花を浮かべて飲む風流の遊びである。
 壹岐目村氏彼方 イキノフミヒト、ムラウヂヲチカタ。村氏は、村國か不明。彼方も傳未詳。
【評語】よい題材を取り扱つているが、表現は不完全のようである。それは語法が目馴れないというだけでなく、當時としてもやはり變つた言い方と言えるのであろう。しかし初二句と三四句との對句表現は、漢詩の五言の對句を誦するような味があつておもしろい。
 
(455)841 鶯の 聲《おと》聞くなへに、
 梅の花
 吾家《わぎへ》の苑に 咲きて散る見ゆ。
                 對馬目高氏老。
 
 于遇比須能《ウグヒスノ》 於登企久奈倍尓《オトキクナヘニ》
 烏梅能波奈《ウメノハナ》
 和企弊能曾能尓《ワギヘノソノニ》 佐伎弖知流美由《サキテチルミユ》
                 對馬目高氏老
 
【譯】鶯の聲を聞く折りしも、梅の花が、わたしの家の園で咲いて散つている。
【釋】於登企久奈倍尓 オトキクナヘニ。鳥の聲をオトということは、「保登等藝須《ホトトギス》 奈久於登波流氣之《ナクオトハルケシ》」(卷十七、三九八八)などある。ナヘニは、と同時にの意。
 和企弊能曾能尓 ワギヘノソノニ。ワギヘはわが家の約言。我が妹をワギモという例である。この一團の歌中、前にはワガヘとあつたが、兩用していたと見える。
 佐伎弖知流美由 サキテチルミユ。サキテチルは梅花開落の經過を語つている。ミユは、外界の事象の感受される經路を語るもので、この歌などでは輕く使用されている。
 對馬目高氏老 ツシマノフミヒト、コウヂオユ。高氏は前出。何氏かわからない。老も傳未詳。
【評語】梅に鶯を取り合わせているだけで、平凡な内容である。殊に三句以下極めて平凡なことを長々と敍述している。結句の、見ユも働きがない。もつと特殊な事であれば、見ユも生きて來たであろうが、梅花の散るのが見えるでは、弱々しい。
 
842 わが屋戸の 梅の下枝《しづえ》に
 遊びつつ、
(456) 鶯鳴くも。
 散らまく惜しみ。 薩摩の目高氏海人。
 
 和我夜度能《ワガヤドノ》 烏梅能之豆延尓《ウメノシヅエニ》
 阿蘇※[田+比]都々《アソビツツ》
 宇具比須奈久毛《ウグヒスナクモ》
 知良麻久乎之美《チラマクヲシミ》 薩摩目高氏海人
 
【譯】わたしの庭前の梅の下枝に遊びながら鶯が鳴いている。散るのを惜しんで。
【釋】烏梅能之豆延尓 ウメノシヅエニ。シヅエは下方の枝。
 阿蘇※[田+比]都々 アソビツツ。既出のアソブは、人間の行動の上に使用されていたが、ここには、鶯について使用されているのが注意される。ここでは興じているぐらいの意に使用されている。遊び戯れるという後世ふうの用法が既に發達しているようである。
 宇具比須奈久毛 ウゲヒスナクモ。モは感動の助詞。句切。
 知良麻久乎之美 チラマクヲシミ。四句の内容を説明している。
 薩摩目高氏海人 サツマノフミヒト、コウヂアマ。高氏は既出。海人は傳未詳。
【評語】これも平凡な内容だが、一通り纏まつている。やはり作り歌たる觀を免れない。
 
843 梅の花 折り頭插《かざ》しつつ、
 諸人《もろひと》の 遊ぶを見れば、
 都しぞ思《も》ふ。 土師氏御道。
 
 宇梅能波奈《ウメノハナ》 乎理加射之都々《ヲリカザシツツ》
 毛呂比登能《モロヒトノ》 阿蘇夫遠美禮婆《アソブヲミレバ》
 弥夜古之敍毛布《ミヤコシゾモフ》 土師氏御道
 
【譯】梅の花を折り頭插《かざ》しながら、人々の遊ぶのを見れば、奈良の都が思われる。
【釋】阿蘇夫遠美禮婆 アソブヲミレバ。アソブは風雅の事に興ずる意。
 弥夜古之敍毛布 ミヤコシゾモフ。衆人の遊ぶ状を見て、都の生活が連想されて、この句となつている。多(457)くは思ホユと受身の形で表現されているが、ここに思フと言つたのは特色である。シは強意の助詞。
 土師氏御道 ハニシウヂミミチ。既出(卷四、五五七)。以下官名を書かないのは、無官か、または極めて低い官であつたのであろう。また大伴氏に勤仕している人もあるかも知れない。
【評語】何かにつけて都が思い出されるのであろう。率直な表現だが、感銘はうすい。感激があらわれていないからである。
 
844 妹が家《へ》に 雪かも降ると
 見るまでに、
 許多《ここだ》も紛《まが》ふ 梅の花かも。
          小野氏國堅。   
 
 伊母我陛迩《イモガヘニ》 由岐可母不流登《ユキカモフルト》
 弥流麻提尓《ミルマデニ》
 許々陀母麻我不《ココダモマガフ》 烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》
           小野氏國堅
 
【譯】わが妻の家に、雪が降るかと見るまでに、非常にまぎらわしい梅の花だ。
【釋】伊母我陛迩 イモガヘニ。ヘは家。この句は、直接には第二句を修飾しているが、結局、歌全體の場處を指定している。
 由岐可母不流登 ユキカモフルト。カモは疑問の係助詞。雪か何かが降るとの句意。梅花の散るのを、説明する。
 許々陀母麻我不 ココダモマガフ。ココダは許多。ここは、まがう程度の多さをいう。マガフは、亂れる意に使つているが、ここは本義の見紛うの義であろう。かような用例は、「吾岳爾《ワガヲカニ》 盛開有《サカリニサケル》 梅花《ウメノハナ》 遣有雪乎《ノコレルユキヲ》 亂鶴鴨《マガヘツルカモ》」(卷八、一六四〇)の如きがある。この句は連體句。
 小野氏國堅 ヲノウヂクニガタ。この人は後に東大寺の寫經所の令史(書記の長)となつており、その關係(458)で、自筆の書状帳簿の類が、多量に正倉院文書中に殘つている。萬葉集の作者中、自筆の多數に殘つていることは、位置の低かつたにかかわらずこの人が第一である。大宰府にいた頃は、まだ若かつたのだろう。正倉院文書によれば寫經司等公文(大日本古文書二十四ノ六三)に「天平十年七月六日史生无位小野國方」とあり、當時まだ無位であつた。そうして寫經司啓(大日本古文書二十四ノ一二七)に「天平十二年四月十五日、史生大初位上小野朝臣國堅」とあつて、このあいだに大初位の上になつたこと、朝臣の姓であつたことが知られる。姓が書かれていないでも、ある例である。また天平十六年の頃には、近江の少椽であつた(大日本古文書二十四ノ二八八)。
【評語】梅花を雪に譬えているのは、類型的だが、妹が家にと、その場處を指定した處に、若さがある。
 
845 鶯の 待ちがてにせし
 梅が花、
 散らずありこそ。
 思ふ子がため。筑前の椽門氏右足。
 
 宇具比須能《ウグヒスノ》 麻知迦弖尓勢斯《マチガテニセシ》
 宇米我波奈《ウメガハナ》
 知良須阿利許曾《チラズアリコソ》
 意母故我多米布《オモフコガタメ》  筑前椽門氏石足
 
【譯】鶯が待ちかねていた梅の花は、散らないでありたいものだ。わたしの思う人のために。
【釋】麻知迦弖尓勢斯 マチガテニセシ。ガテニは既出。困難の意をあらわす助動詞。ここでは、待ちあぐんでいた意になる。
 知良須阿利許曾 チラズアリコソ。須は濁音ズの表示に使用されている。例の多い用法である。コソは願望の助詞。句切。
 意母布故我多米 オモフコガタメ。オモフコは愛人。その人に見せたいからの意。
(459) 筑前椽門氏石足 ツクシノミチノクチノマツリゴトビト、カドウヂイソタリ。筑前の椽は、筑前の國の第三等官。門氏石足は、既出。「筑前椽門部連石足」(卷四、五六八左註)とある人。この人は筑前の椽だから、官位から言えば、筑前の目田氏眞上などよりも上席にあるべきだが、ここに置かれているのは、この會の幹事のような役であつたか、または後れて來たかなどの理由があるのであろう。
【評語】鶯と思う子と、二元的になつているのが氣になる。せつかく咲いたものをの氣持のために、初二句が置かれていることはわかるが、すこしく説明に過ぎている。
 
846 霞立つ 長き春日を
 頭插《かざ》せれど、
 いやなつかしき 梅の花かも。
             小野氏淡理。
 
 可須美多都《カスミタツ》 那我岐波流卑乎《ナガキハルビヲ》
 可謝勢例杼《カザセレド》
 伊野那都可子岐《イヤナツカシキ》 烏梅能波那可毛《ウメノハナカモ》
             小野氏淡理
 
【譯】霞の立つ長い春の日を頭插《かざ》しているが、いよいよ愛すべき梅の花だ。
【釋】可須美多都 カスミタツ。枕詞だが、事實の説明にもなつている。
 那我岐波流卑乎 ナガキハルビヲ。ハルビは春の日。長いものとされている。
 可謝勢例杼 カザセレド。頭插《かざ》すに、助動詞リの已然形と助詞ドとが接續して逆態條件法をなしている。
 伊野那都可子岐 イヤナツカシキ。ナツカシキは、馴著かしきで、馴れ親しむべくある意の形容詞。
 小野氏淡理 ヲノウヂタリ。傳未詳。淡理は反名か。渤海國に行く大使として見えている小野の田守(卷二十、四五一四題)の名のタとリとを取つて書いたのかもしれない。田守は、天平十九年正月に正六位の上から從五位の下になつている人で、この梅花の宴の時代には七位ぐらいだつたのだろうか。すぐ前にいる門氏石足(460)は筑前の椽で、從七位の上相當の官であるから、その人と竝んで田守が世話人格であつたとすることもあり得ないではない。
【評語】前出の大判事丹氏麻呂の歌と同じ内容で、平凡の作である。以上三十二首、平凡の作が多いが、かように多人數が集まつて歌作したことは歌壇の盛事ともいうべく、大伴の旅人のような長官が上にいたから、かような雅會をも見たのである。
 
員外、思2故郷1歌兩首
 
【釋】員外 カズノホカノ。員外は、定數以外で、上の梅花の歌三十二首以外の歌であることを示す。
 思故郷歌兩首 フルサトヲシノフウタフタツ。故郷は、もと住んでいた里で、ここでは奈良の京をさしている。この二首は、作者の名を記さないが、確實に大伴の旅人の作と推考される。なお各首について述べる。
 
847 わが盛り いたくくたちぬ。
 雲に飛ぶ 藥はむとも、
 またをちめやも。
 
 和我佐可理《ワガサカリ》 伊多久々多知奴《イタククタチヌ》
 久毛尓得夫《クモニトブ》 久須利波武等母《クスリハムトモ》
  麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》
 
【譯】わたしのさかりはもう過ぎ去つた。雲中を飛ぶことのできる靈藥を飲んでも、もう若返らないだろう。
【釋】和我佐可理伊多久々多知奴 ワガサカリイタククタチヌ。サカリは盛時。この時に作者は六十歳を越えていると推考されるので、その壯年血氣の時代をいうと思われる。イタクははなはだ。クタチは、下降する意。夜の更けたのを、夜クタツという、そのクタツと同語であろう。句切。
 久毛尓得夫久須利波武等母 クモニトブクスリハムトモ。クモニトブクスリは、雲に飛ぶ藥で、天を飛行す(461)るを得る藥。神仙傳に「劉安は高帝の孫なり。淮南の王に封ず。儒術の方技を好む。八公あり、往き詣る。遂に丹經及び三十六の水銀等の方を授く。(中略)八公安に告げて曰はく、もちて去るべし。ここに安と山に登り、金を地に埋む。白日天に昇る。棄て置くところの藥鼎、鷄犬これを舐む。竝に輕擧することを得。鷄は雲中に鳴き、犬は天上に吠ゆ」(もと漢文)とある。仙術を學び仙藥を得て喫すれば、仙人となつて天上に昇るを得るとするのである。そうしてそれは不老不死の術であつて、若がえるのだとした。ハムトモは、食むともで、仙藥を喫うとも。
 麻多遠知米也母 マタヲチメヤモ。既出(卷三、三三一)。ヲチは、もとに返る。若返る。
【評語】故郷を思ふ歌と題してあるが、この歌にはその意味はなく、ただ老境にはいつたことを語るだけである。これは次の歌と併わせて連作の形を採つているのであつて、これはその前提と見るべきである。大伴の旅人の作に「わが盛りまたをちめやも。ほとほとに奈良の京を見ずかなりなむ」(卷三、三三一)というのがあるが、それと照らし合わせて、いかにも同人の作であることが推定される。旅人は老莊の思想に興味を持ち、仙人の話などもよく讀んでいたらしい。しかも今は老境にはいつて、氣力もようやく衰え、望郷の情に堪えないでこの作を成している。不老不死の知識的な據り所は崩壞した。そういう絶對の心境がよく描かれている。全身の境涯を背景として詠み出された歌で、悲痛な嗟嘆が表現されている。
 
848 雲に飛ぶ 藥はむよは、
 都見ば、
 いやしき吾《あ》が身 またをちぬべし。
 
 久毛尓得夫《クモニトブ》 久須利波牟用波《クスリハムヨハ》
 美也古弥婆《ミヤコミバ》
 伊夜之吉阿何微《イヤシキアガミ》 麻多越知奴倍之《マタヲチヌベシ》
 
【譯】雲中を飛行する藥を飲むよりは、都を見たならば、物の數でもないわたしの身も、また若がえるだろう。
(462)【釋】久毛尓得夫久須利波牟用波 クモニトブクスリハムヨハ。ヨハは、よりはに同じ。かように他に比較してそれよりはの意を現すヨの例には「與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》 伊麻許曾麻左禮《イマコソマサレ》」(卷十四、三四一七)の如きがある。
 美也古弥婆 ミヤコミバ。ミヤコは、奈良の京で、題詞にいう故郷に當る。
 伊夜之吉阿何微 イヤシキアガミ。イヤシキは卑賤の意で、「牟具良波布《ムグラハフ》 伊也之伎屋戸母《イヤシキヤドモ》」(卷十九、四二七〇)などの用例があり、類聚名義抄には、卑・賤・鄙・野などの字を、イヤシと訓している。この歌にこの語を使用したのは、梅花の宴で、梅花の歌のほかにこの歌を披露したので、謙退の意をもつてしているからであろう。
 麻多越知奴倍之 マタヲチヌベシ。前の歌にマタヲチメヤモと詠んだのを受けて、望郷の意を完くしている。
【評語】ここに至つて望郷の本旨はあきらかにされた。第一首と密接不離の關係にあり、同一の詞句も多く繰り返されている。知識者の失望を歌つているが、作り歌に墮せず、よくその心を披歴している。
 
後追和梅歌四首
 
【釋】後追和梅歌 ノチニオヒテコタフルウメノウタ。前掲の梅花の歌に對して、後になつて何人かが唱和して詠んだ歌で、作者は未詳である。この第三首と、大伴の旅人の「わが岡の秋〓子の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも」(卷八、一五四二)及び「わが岡に盛りに咲ける梅の花のこれる雪をまがへつるかも」(同、一六四〇)との類似から見れば、やはり旅人の作とすべきであるが、故郷を思う歌兩首に比して歌品は落ちる。なお梅花の宴の歌に追和した作には、卷の十七に大伴の書持の歌六首(三九〇一−三九〇六)、卷の十九に大伴の家持の歌一首(四一七四)がある。
 
(463)849 殘りたる 雪に交れる
 梅の花、
 早くな散りそ。
 雪は消《け》ぬとも。
 
 能許利多流《ノコリタル》 由棄仁末自例留《ユキニマジレル》
 宇梅能半奈《ウメノハナ》
 半也久奈知利曾《ハヤクナチリソ》
 由吉波氣奴等勿《ユキハケヌトモ》
 
【譯】殘つている雪に交つている梅の花は、早く散らないでくれ。よし雪が消えても。
【釋】能許利多流由棄仁末自例留 ノコリタルユキニマジレル。雪は降りやんだが、なお消えないで殘つている雪に交れるで、殘つた雪の中に梅花が咲いているのである。それをマジレルと表現したのは、雪と梅花と、交雜している状である。
 半也久奈知利曾 ハヤクナチリソ。梅花の久しく咲いていることを希望している。句切。
 由吉波氣奴等勿 ユキハケヌトモ。交つている雪の方は消えてもの意。
【評語】この四首は、特にいずれの歌に和するともなく梅を詠んでいる。この歌は、雪と梅とに對して、特に、梅花を愛する情を歌つている。説明の部分が多くして興趣に乏しい。
 
850 雪の色を 奪ひて咲ける
 梅の花、
 いま盛りなり。
 見む人もがも。
 
 由吉能伊呂遠《ユキノイロヲ》 有婆比弖佐家流《ウバヒテサケル》
 有米能波奈《ウメノハナ》
 伊麻左加利奈利《イマサカリナリ》
 弥牟必登母我聞《ミムヒトモガモ》
 
【譯】雪の白い色を奪つて咲いている梅の花は、今が盛りだ。見る人があるといい。
(464)【釋】由吉納伊呂遠有婆比弖佐家流 ユキノイロヲウバヒテサケル。梅花の白色に咲くのを、雪の色を奪うと表現している。漢文から來た表現であろう。「惡(ム)2紫之奪(フヲ)1v朱(ヲ)也」(論語陽貸篇)。
 弥牟必登母我聞 ミムヒトモガモ。ガは願望の助詞。ひとり見むことを惜しむ情である。
【評語】漢文風の口調の出ている點、旅人らしくもある。五句は類想が多く、このゆえに平凡感の生ずるのを免れない。
 
851 わが屋戸に 盛りに咲ける
 梅の花、 
 散るべくなりぬ。
 見む人もがも。
 
 和我夜度尓《ワガヤドニ》 左加里尓散家留《サカリニサケル》
 宇梅能波奈《ウメノハナ》
 知流倍久奈里奴《チルベクナリヌ》
 美牟必登聞我母《ミムヒトモガモ》
 
【譯】わたしの庭前にさかんに咲いている梅の花は、散りそうになつた。見る人があるといい。
【釋】知流倍久奈里奴 チルベクナリヌ。盛りが極まつて、散ろうとする状況になつたのである。句切。
【評語】前の歌と同じ結句を使つて、連絡を保つている。第一首から順次、經過を敍しているとも解せられる。この歌、大伴の旅人の「わが岡の秋|〓子《はぎ》の花」(卷八、一五四二)及び「わが岡に盛りに咲ける」(同、一六四〇)と趣を同じくしており、同人の作とすべきであることは上に記した。
 
852 梅の花 夢《いめ》に語らく、
 風流《みやび》たる 花と吾《あれ》思《も》ふ。
 酒に浮《う》かべこそ。
 
 烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊米尓加多良久《イメニカタラク》
 美也備多流《ミヤビタル》 波奈等阿例母布《ハナトアレモフ》
 左氣尓于可倍許曾《サケニウカベコソ》
 
(465)【譯】梅の花が、夢にあらわれて語ることには、風雅な花だとわたくしは思います。どうか酒杯に浮かべてください。
【釋】伊米尓加多良久 イメニカタラク。梅花が、作者の夢にあらわれて語ることは。
 美也備多流 ミヤビタル。ミヤビは、ここでは動詞として使用されている。
 波奈等阿例母布 ハナトアレモフ。モフは思フに同じ。句切。
 左氣尓于可倍許曾 サケニウカベコソ。梅花を酒杯に浮かべること、既出、「梅の花誰か浮かべし酒杯《きかつき》の上に」(卷五、八四〇)の歌に詠まれている。コソは願望の意の助詞。
【評語】旅人には、琴の娘子が夢にあらわれて歌を詠んだという構想の文があつた。ここにも同じように梅花が夢にあらわれたとしている。その梅花も娘子身を現じたのであろう。仙女を夢みているこの作者の興趣は、この風情を構出するに至つた。梅花を酒杯に浮かべることも、また極めて詩趣に富んでいる。そういう詩趣の世界が歌われている。
 
一云、伊多豆良尓《イタヅラニ》 阿例乎知良須奈《アレヲチラスナ》 左氣尓于可倍己曾《サケニウカベコソ》
 
一は云ふ、いたづらに 吾《あれ》を散らすな。酒に浮かべこそ。
 
【釋】一云伊多豆良尓阿例乎知良須奈 アルハイフ、イタヅラニアレヲチラスナ。上記の歌の第三句以下の別傳である。作者自身に兩案を存したもので、草稿のままに傳わつたのだろう。本文の歌詞の方が、一ふしあつておもしろい。句切。
 左氣尓于可倍己曾 サケニウカベコソ。この句、本文と同じである。
 
(466)遊2於松浦河1序
 
【釋】遊於松浦河序 マツラガハニアソブツギテノフミ。松浦河は、佐賀縣東松浦郡、今、玉島川という。その玉島の地は、昔、神功皇后が新羅に渡られようとされた時、釣の絲を垂れたと傳える。その傳説は參考の欄に載せる。この文は、その傳説にもとづいて作爲した物語であつて、ある官人がその地に遊んで、魚を釣る娘子に逢い、歌を贈答したという筋である。序は、事を舒するをいう。作者の署名はないが、吉田の宜および山上の憶良の書状、また内容、文章等によつて大伴の旅人の作であること確實である。山上の憶良の作とする説があるが、全く根據のないことである。前から附してあつた題と見られる。
 
余以暫往2松浦之縣1逍遙、聊臨2玉島之潭1遊覽、忽値2釣v魚女子等1也。花容無v雙、光儀無v匹。開2柳葉於眉中1、發2桃花於頬上1。意氣凌v雲、風流絶v世。僕問曰、誰郷誰家兒等、若疑神仙者乎。娘等皆咲答曰、兒等者、漁夫之舍兒、草庵之微者。無v郷無v家、何足2稱云1。唯性便v水、復心樂v山。或臨2洛浦1而徒羨2王魚1。乍臥2巫峽1以空望2烟霞1。今以邂逅、相2遇貴客1、不v勝2感應1、輙陳2款曲1、而今而後、豈可v非2偕老1哉。下官對曰、唯々、敬奉2芳命1。于v時日落2山西1、驪馬將v去。遂申2壞抱1、因贈2詠歌1曰。
 
余《やつがれ》以《すで》に暫く松浦の縣に往きて逍遥《あそ》び、聊玉島の潭に臨みて遊覽《み》しに、たちまち魚を釣る女子等に値《あ》ひき。花の容|雙《なら》びなく、光《て》れる儀《すがた》匹なし。眉の中に柳の葉を開き、頬の上に桃の花を發《ひら》く。意氣雲を凌ぎ、風流世に絶《すぐ》れたり。僕問ひて曰はく、誰が郷誰が家の兒等ぞ、若疑《けだ》しくは神仙といふ者かといふ。娘等皆|咲《ゑ》み(467)て答へて曰はく、兒等《こら》は漁夫の舍《いへ》の兒、草庵の微《いや》しき者、郷も無く家もなし。何《なに》ぞ稱《なの》りて云ふに足らめや。ただ性として水を便とし、また心山を樂しむ。あるは洛浦に臨みて徒らに王魚をうらやみ、あるは巫峽に臥して空しく烟霞を望む。今|以《すで》に邂逅《わくらば》に貴客《うまひと》に遭遇《あ》ひ、感應に勝《あ》へずして、すなはち款曲を陳ぶ。今ゆ後、あに偕老にあらざるぺしやといふ。下官《やつがれ》對へて曰はく、唯唯《をを》敬《つつし》みて芳命を奉《うけたまは》るといふ。時に日山の西に落《しづ》み、驪馬は去《い》なむとす。遂に懷抱を申《の》べ、因りて詠歌を贈りて曰はく。
 
【譯】わたしは先ごろ松浦の縣に行つてあちこち行き、玉島の潭にも臨んで遊覽したところ、たちまちに魚を釣る女子たちに逢つた。その女子たちは、花のような容貌は竝ぶものなく、輝くばかりの姿は匹敵するものがない。眉の中には柳の葉が開き、頬の上には桃の花が咲いている。志は天にも昇らんばかり、風雅なことは、この世にまたとない。わたしが尋ねていうには、どの郷の誰の家の人ですか。それとも神仙という者ですかというと、娘等が皆笑つて答えていうには、わたくしたちは漁夫の家の子で、草家のいやしい者です。郷もなく家もなく、名のつていうほどの者ではありません。ただ性質は水にたより、心は山を樂しみにしています。ある時は洛浦に臨んでいたずらに大きい魚をうらやみ、または巫峽に臥して空しく山の氣を眺めています。今偶然お客樣に逢い、感激に堪えませんので、そこで誠の心を述べました。今か(468)ら後は夫婦でないとは申されませんと言つた。わたしが答えていうには、はい承知しましたと言つた。時に日は山の西に沈み、乘つて來た黒い馬は歸ろうとしている。ついに思いを述べて歌を贈ること、次の通りである。
【構成】風流絶世までは、玉島の潭で娘子に逢つたことをいい、その娘子の美しいことを述べている。以下娘子との問答に移り、于時日落山西以下、これを受けて歌を贈答することを記している。
【釋】余以暫往松浦之縣逍遙 ヤツガレスデニシマシクマツウラノアガタニユキテアソビ。以は已に同じ。これは鈴木虎雄博士の説である。松浦之縣は、肥前の國の西北部の總稱。今、佐賀、長崎の二縣に分屬している。玉島はその佐賀縣東松浦郡に屬しており、ここに松浦之縣というのも、その方面をさすものと考えられる。アガタは地方の領地の稱。ここは支配下の地方をいう。逍遙は、あちこち行くこと。類聚名義抄にアソブの訓がある。
 聊臨玉島之潭遊覽 イササカタマシマノフチニノゾミテミシニ。玉島之潭は、松浦河(今の玉島川をいう。今日、松浦川と稱する川とは別である。以下同じ。)のうち玉島の里にある淵。神功皇后の釣をされた處と傳え、その遺跡を存する。
 花容無雙 ハナノカホナラビナク。以下、娘子の美なることを述べる。
 光儀無匹 テレルスガタタグヒナシ。光儀は花容に對していう。歌詞中には光儀をスガタに當てて使用している。
 開柳葉於眉中 マヨノウチニヤナギノハヲヒラキ。唐土の婦人の化粧法として、青黛をもつて眉を描くこと新柳の葉のようであつて、これを柳眉という。柳葉を開くは、柳の新に葉を開いたようであるをいう。眉は新柳の葉の如くの意。
 發桃花於頬上 ホノウヘニモモノハナヲヒラク。頬上に紅を塗つたさまは桃の花が咲いたようである。
(469) 意氣凌雲 ココロザシハクモヲシノギ。意氣は志向。或ヘル情ヲ反サシムル歌の序にも、意氣ハ青雲ノ上ニ揚レドモの句があつた。志向のすぐれていることは、天にも昇るばかりであるの意。
 風流絶世 ミヤビヤカナルコトハヨニスグレタリ。風流文雅なことは、この世にまたとなくすぐれている。
 誰郷誰家兒等 タガサトタガイヘノコラゾ。その家郷を問うのである。
 若疑神仙者乎 ケダシクハヤマヒメトイフモノカトイフ。若は或の意に使用されている。よつて若疑を意を採つてケダシクハと讀む。神仙は、漢文にいう神仙で、ここは仙女の意である。下のトイフは、上の問ヒテ曰ハクを受けて結ぶ。人間として家郷を問い、また疑つて、仙女かとなしたのである。
 漁夫之舍兒 アマノイヘノコ。漁夫の子であるの意。
 草庵之微者 クサノイホノイヤシキモノ。漁夫之舍兒と對句を成し、卑賤の者である由を言う。謙退の辭。
 唯性便水復心樂山 タダサガトシテミヅヲタヨリマタココロハヤマヲタノシム。以下實は仙女であることを明かすのである。神仙は自然に生き、自然を愛好するものとして、山水に親しむことをいう。樂山は、論語雍也篇に「知者(ハ)樂(シミ)v水(ヲ)、仁者(ハ)樂(シム)v山(ヲ)」とあるによる。この句、當時の人の好んで用いるところとなり、懷風藻に多く見えている。
 或臨洛浦而徒羨王魚 アルハラクホヲノゾミテイタヅラニオホキウヲヲウラヤミ。上の唯性便水を受け、文選の曹植の洛神武によつて、句を構えている。洛神賦は、洛水にいる神女を敍したもの。王魚は、巨魚の義。この句、みずから洛水の神女に近いものであることをいう。
 乍臥巫峽以空望烟霞 アルハフカフニフシテムナシクカスミヲノゾム。乍は忽の義の字であるが、ここは兩辭とする義によつて、マタもしくはアルハと讀む。上の復心樂山を受け、文選の宋玉の高唐賦によつて句を成している。高唐賦は、巫山の神女のことを敍しているので、これによつて巫山の神女に近いものであることを(470)いう。
 今以邂逅相遇貴客 イマスデニワクラバニウマヒトニアヒ。邂逅は詩經に出る。偶然。貴客は、外來者を貴んでいう。
 不勝感應 アハレトオモフココロエアヘズ。相手のりつぱなのに感じて。
 輙陳款曲 スナハチマコトヲノブ。款曲は、款は誠、曲は委曲。眞心を披瀝する。
 豈可非偕老哉 アニイモセニアラザルベシヤトイフ。偕老は、日本挽歌の前文に見えている。夫婦の契り。下のトイフは、娘子皆咲ヒテ曰ハクを受ける。
 下官 ヤツガレ。官を有する者の謙稱。遊仙窟に使用されている。
 唯々 ヲヲ。承諾の辭。
 驪馬將去 クロウマハイナムトス。驪馬は乘つて來た黒馬。馬は家を戀うて歸ろうとしている。
 遂申懷抱 ツヒニオモヒヲノベ。ここに至つて思うところを述べて。
 
853 漁《あさり》する 海人《あま》の兒等《こども》と
 人はいへど、
 見るに知らえぬ。
 良人《うまびと》の子と。
 
 阿佐里須流《アサリスル》 阿末能古等母等《アマノコドモト》
 比得波伊》倍騰《ヒトハイヘド》
 美流尓之良延奴《ミルニシラエヌ》
 有麻必等能古等《ウマビトノコト》
 
【譯】漁りをする海人の子どもですとあなたはいうけれども、見てもわかりました。りつぱなお方だということは。
【釋】阿佐里須流 アサリスル。アサリは、海に出て魚を捕ること。鴨鶴などにもいうを見れば、淺入の義で(471)あろう。次の句の海人に冠している。
 阿末能古等母等 アマノコドモト。文中の漁夫之舍兒とあるを受けている。
 比得波伊倍騰 ヒトハイヘド。ヒトは、娘子等をいう。
 美流尓之良延奴 ミルニシラエヌ。シラエヌは知られた。受身。句切。
 有麻必等能古等 ウマビトノコト。ウマビトは貴人。コは愛稱。わが妻の子などと同じ言い方で、貴人である子としての意。前の句の知ラエヌの内容を説明する。「于磨臂苔能《ウマビトノ》 多菟屡虚等太弖《タツルコトダテ》」(日本書紀四六)、「宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》」(卷二、九六)。
【評語】物語中の歌として、會話性を多量に有している。筋を通すのがおもな目的であり、すべて獨立した歌としての價値はすくない。これもそれに漏れないで、説明的な要素が多きを占めている。
 
答詩曰
 
【釋】答詩曰 コタフルウタニイハク。女子の答歌に擬した作である。歌を詩ということは、前にもあつた。續日本紀にも、由義《ゆげ》の宮の歌垣の事を記して、歌一首を擧げ、さて、その餘四首は竝是古詩なりとある。
 
854 玉島の この川|上《かみ》に
 家はあれど、
 君をやさしみ 顯《あらは》さずありき。
 
 多麻之末能《タマシマノ》 許能可波加美尓《コノカハカミニ》
 伊返波阿禮騰《イヘハアレド》
 吉美乎夜佐之美《キミヲヤサシミ》 阿良波佐受阿利吉《アラハサズアリキ》
 
【譯】玉島のこの川上に家はありますけれど、おはずかしいので申しあげませんでした。
【釋】許能可波加美尓 コノカハカミニ。カハカミは既出。川の上方。
(472) 吉美乎夜佐之美 キミヲヤサシミ。ヤサシは、はずかしい意の形容詞。動詞痩スから轉成したものの如く、痩せるようにあるをいうのであろう。そこで後に、強盛でないことの意に分化を遂げた。「世間乎《ヨノナカヲ》 宇之等夜佐之等《ウシトサシト》 於母倍杼母《オモヘドモ》 飛立可禰都《トビタチカネヅ》 鳥爾之安良禰婆《トリニシアラネバ》」(卷五、八九三)。君ヲヤサシミは、君に對してはずかしくて。
 阿良波佐受阿利吉 アラハサズアリキ。家のあることを言わなかつた。
【評語】文中の「無v郷無v家、何足2稱云1」を受けて、家のあることをあきらかにしている。これは婚姻の前提と解せられ、物語として、以下の歌の贈答にみちびく手段である。
 
蓬客等、更贈歌三首
 
【釋】蓬客等更贈歌 タビビトラノサラニオクレルウタ。蓬客は、蓬の實の轉々として飛ぶに譬え、客は旅客で、蓬の實のように風に吹かれて行く方定めぬ旅人の義。
 
855 松浦河《まつらがは》 河の瀬光り、
 年魚《あゆ》釣ると 立たせる妹が
 裳の裾ぬれぬ。
 
 麻都良河波《マツラガハ》 可波能世比可利《カハノセヒカリ》
 阿由都流等《アユツルト》 多々勢流伊毛河《タタセルイモガ》
 毛能須蘇奴例奴《モノスソヌレヌ》
 
【譯】松浦河の河の瀬が光つて、年魚を釣ると立つておいでになるあなたの裳の裾が濡れました。
【釋】可波能世比可利 カハノセヒカリ。河水が早く流れて波が立つので光るのである。但し娘子が美しいので、河の瀬が光るとする解釋がある。それならば河の瀬光り立たせると續くのであるが、そうすると裳ノ裾濡レヌが、何によつて濡れたかの證明がないことになる。よつて前解の如く見るべきものと考えられる。
(473) 阿由都流等 アユツルト、アユは、倭名類聚鈔、鮎魚に註して阿由とあり、また、「崔禹食經(ニ)云(フ)、貌(ハ)似(テ)v鱒(ニ)而小、有(リ)2白皮1、無(シ)v鱗。春生(レ)夏長(ジ)秋袁(ヘ)冬死(ス)、故(ニ)名(ヅク)2年魚(ト)1也」とある。本集、古事記など年魚の字を使用している。
 多々勢流伊毛河 タタセルイモガ。タタセルは、立てるの敬語法。イモは娘子等をさす。
 毛能須蘇奴例奴 モノスソヌレヌ。娘子の裳の裾の濡れることは、興味があつたと見えて、しばしば歌われている。
【評語】娘子たちの有樣を描いて、美しい歌を成している。裳の裾の濡れたことには、特殊の興味があるのだろうが、たぶん歌われて流通している歌があつたのだろう。
 
856 松浦《まつら》なる 玉島河に
 年魚《あゆ》釣ると 立たせる子らが
 家|路《ぢ》知らずも。
 
 麻都良奈流《マツラナル》 多麻之麻河波尓《タマシマガハニ》
 阿由都流等《アユツルト》 多々世流古良何《タタセルコラガ》
 伊弊遲斯良受毛《イヘヂシラズモ》
 
【譯】松浦の玉島河に年魚を釣ろうとして立つておいでになるあなたたちのお家を存じません。
【釋】麻都良奈流多麻之麻河波尓 マツラナルタマシマガハニ。他の歌文に松浦河というのを、都合によつて言い代えている。
 多々世流古良何 タタセルコラガ。前の歌の妹をコラに置き代えている。前文においては、娘等皆咲などの句があつて、娘子は複數であるが、偕老を契るに至つては複數と思われず、その邊はなはだ曖昧である。ここのコラも、やはりラは複數を意味しない接尾語と見る方がよい。
 伊弊遅斯良受毛 イヘヂシラズモ。イヘヂは家に行く道。
【評語】前の歌の詞句を、語を變えて言つたまでで、ただ第五句だけが、變つているに過ぎない。前の歌の方(474)が描爲があつてよかつた。
 
857 遠つ人 松浦《まつら》の河に
 若年魚《わかゆ》釣る 妹《いも》が手本《たもと》を、
 われこそ纏《ま》かめ。
 
 等富都比等《トホツヒト》 末都良能加波尓《マツラノカハニ》
 和可由都流《ワカユツル》 伊毛我多毛等乎《イモガタモトヲ》
 和禮許曾末加米《ワレコソマカメ》
 
【譯】遠方の人を待つ、松浦の河に若い年魚を釣るあなたの腕を、わたしこそ枕にしましよう。
【釋】等富都比等 トホツヒト。枕詞。遠つ人の義で、遠方にいる人をいう。遠い人を待つの意から、次の句の松浦に冠する。「得保都必等《トホツヒト》 麻通良佐用比米《マツラサヨヒメ》」(卷五、八七一)、「遠人《トホツヒト》 待之下道湯《マツノシタミチユ》」(卷十三、三三二四)など使用されている。また雁に冠するのは、雁が遠方から來るので、これを説明する句としてである。
 和可由都流 ワカユツル。ワカユは若年魚で、ちいさい年魚をいう。
 伊毛我多毛等乎和禮許曾末加米 イモガタモトヲワレコソマカメ。自分こそ夫婦の契りを結ぼうの意。
【評語】遠つ人のような枕詞は、それ自身に感慨を含んでいるもので、使いようによつては、有效に響くものである。この歌においても、この語があつて、若年魚を釣る娘子と、客人との關係の微妙なもののあることが感じられる。遠來の人を待つて年魚を釣つているとも解せられるのである。四五句は露骨で厭味を生じた。前二首の準備があるにしても、これほどまでに言わない方がよかつたのである。
 
娘等更報歌三首
 
【釋】娘等更報歌 ヲトメラノサラニコタフルウタ。前の旅人の贈歌に對して、更に報えた歌。一々にどの歌に對してというのではなく、三首をもつて三首に答えている。
 
(475)858 若年魚《わかゆ》釣る 松浦《まつら》の河の
 河竝《かはなみ》の、
 竝にし思《も》はば われ戀ひめやも。
 
 和可由都流《ワカユツル》 麻都良能可波能《マツラノカハノ》
 可波奈美能《カハナミノ》
 奈美迩之母波婆《ナミニシモハバ》 和禮故飛米夜母《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】若年魚を釣る松浦河の河竝のように、竝々に思うならば、わたくしは戀を致しません。
【釋】和可由都流麻都良能可波能可波奈美能 ワカユツルマツラノカハノカハナミノ。以上は實景を敍して、同音を利用して、次句のナミを引き出す序としている。カハナミは、普通に河波の義と釋せられている。集中河波の語は「痛足河《アナシガハ》 々浪立奴《カハナミタチヌ》(卷七、一〇八七)など使用されているが、「立名附《タタナヅク》 青垣隱《アヲガキゴモリ》 河次乃《カハナミノ》 清河内曾《キヨキカフチゾ》」(卷六、九二三)、「山竝之《ヤマナミノ》 宜國跡《ヨロシキクニト》 川次之《カハナミノ》 立合郷跡《タチアフサトト》」(同、一〇五〇)の河次、川次は、山竝に對する語であつて、川の姿、有樣をいうと考えられる。しからばこの歌においては、いずれかというと、四句のナミニは、竝にの義であるから、同音の利用であるにしても、河竝の義とするを適切とする。
 奈美迩之母波婆 ナミニシモハバ。ナミは、竝、普通、一通りの意。モハマバは思ハバ。
 和禮故飛米夜母 ワレコヒメヤモ。反語によつて將來を否定している。尋常ならぬ思いであるから、戀をするだろうの意。
【評語】序の用法は器用である。内容は平凡で特色がない。
 
859 を春されば
 我家《わぎへ》の里の 河門《かはと》には、
 年魚兒《あゆこ》さ走る。
(476) 君待ちがてに。
 
 波流佐禮婆《ハルサレバ》
 和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》 加波度尓波《カハトニハ》
 阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》
 吉美麻知我弖尓《キミマチガテニ》
 吉美麻知我※[人偏+弖]尓《キミマチガテニ》
 
【譯】春になると、わたくしの里の河門では、年魚が勢よく泳いでいます。あなたを待ちかねて。
【釋】波流佐禮婆 ハルサレバ。春になれば何時もの意に、既定法を使用している。
 和伎覇能佐刀能 ワギヘノサトノ。我が家の里ので、わが家のある里の意。
 加波度尓波 カハトニハ。カハトは河門。既出(卷四、五二八)。川渡りをすべきところ。
 阿由故佐婆斯留 アユコサバシル。アユコは、年魚の愛稱。サバシルは、サは接頭語。年魚の勢よく泳ぐ樣をいう。句切。
 吉美麻知我※[人偏+弖]尓 キミマチガテニ。待ちあぐんでの意。ガテニのガに濁吾の我を使用している例である。
【評語】將來を豫想して詠んでいる。年魚に託して年魚が待ちかねているように詠んでいるのは、しばしば用いられる手段である。
 
860 松浦河 七瀬の淀は
 澱《よど》むとも、
 われはよどまず 君をし待たむ。
 
 麻都良我波《マツラガハ》 奈々勢能與騰貴波《ナナセノヨドハ》
 與等武等毛《ヨドムトモ》
 和禮波與騰麻受《ワレハヨドマズ》 吉美遠志麻多武《キミヲシマタム》
 
【譯】松浦河のあちこちの淀は、水の淀むことがあつても、わたくしは淀まないで、あなたをお待ちいたしましよう。
【釋】奈々勢能與騰貴波 ナナセノヨドハ。ナナセは七瀬で、濱は水の淺く流れる處であるが、ここでは七つの場所ぐらいの意に使われている。七というのは、大體の見當で、あちこちの淀というほどのこと。「明日香川《アスカガハ》 (477)七瀬之不行爾《ナナセノヨドニ》 住鳥毛《スムトリモ》」(卷七、一三六六)の用例がある。ヨドは淀で、水の深く湛えている處。
 與等武等毛 ヨドムトモ。假設條件法で、よし水の流れないことがあつても。
 和禮波與騰麻受吉美遠志麻多武 ワレハヨドマズキミヲシマタム。中絶することなく君を待とうの意。
【評語】調子のよい歌である。ヨドの語を重ねているのが、調子を整えている。以上で一往この物語は完成するが、更に後人の詩を添えて興趣を饒にする手段に出ている。次の三首をも併わせて、その構成を觀るべきである。
 
後人追和之詩三首 郎老
 
【釋】後人追和之詩 ノチノヒトノオヒテコタフルウタ。後人は、歌詞の内容によれば、この行に殘された人の意にも解せられるが、下の松浦の佐用比賣の歌に、後人、最後人等とあるによつて、後の人とするがよい。この後人は、下の註記に帥老とあつて、大伴の旅人とされる。しかるに、この後人が大伴の旅人ならば、前の行客は別人とすべきが如くであるが、これは一の構成であつて、すべてが旅人の製作と見るべきである。一の物語に、後人が歌を追和する形式は、たとえば、丹後國風土記の浦島の説話にもあつて、神女と浦島との贈答の歌をもつて、一旦物語を終り、さて後時人追和歌曰として二首の歌を録している。それも同樣に物語の作者の追記するところであろう。
 
861 松浦河《まつらがは》 河の瀬早み、
 紅《くれないゐ》の 裳のすそ沾《ぬ》れて、
 年魚《あゆ》か釣るらむ。
 
 麻都良河波《マツラガハ》 河波能波夜美《カハノセハヤミ》
 久禮奈爲能《クレナヰノ》 母能須蘇奴例弖《モノスソヌレテ》
 阿由可都流良武《アユカツルラム》
 
(478)【譯】松浦河の河の瀬が早くして、赤い裳の裾が濡れて、年魚をか釣つているだろう。
【釋】河波能世波夜美 カハノセハヤミ。川水の瀬をなして流れることが早いので。これで前に河の瀬光りとあつたのが、水の流れの早いことを意味したことが確かめられる。
 久禮奈爲能母能須蘇奴例弖 クレナヰノモノスソヌレテ。娘子の裳の色は、赤いのが通例であつた。この句には肉感的な感じが含まれている。
 阿由可都流良武 アユカツルラム。カは疑問の係助詞。ラムは、歌全體に懸かつている。
【評語】松浦河の有樣を推量している。具體的に敍した點がよい。
 
862 人皆の 見らむ松浦《まつら》の
 玉島を
 見ずてや我《ワレ》は 戀ひつつ居《を》らむ。
 
 比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムマツラノ》
 多麻志末乎《タマシマヲ》
 美受弖夜和禮波《ミズテヤワレハ》 故飛都々遠良武《コヒツツヲラム》
 
【譯】皆の人の見るだろう松浦の玉島を、見ないでかわたしは戀していることだろう。
【釋】比等未奈能 ヒトミナノ。松浦河に遊んだ一行を含めて、一般の人をさしている。
 美良武麻都良能 ミラムマツラノ。ミラムは既出(卷一、五五)。動詞見ルは、古くはその未然連用形からラムに接續している。それで特にこの形において、不定時の推量が成立する。
 美受弖夜和禮波 ミズテヤワレハ。ヤは疑問の係助詞。
 故飛都々遠良武 コヒツツヲラム。松浦の玉島の風景を見たく思つているだろうの意。
【評語】玉島をなつかしく思う心を述べている。ひと通りの歌である。
 
(479)863 松浦河《まつらがは》 玉島の浦に
 若年魚《わかゆ》釣る
 妹《いも》らを見らむ 人のともしさ。
 
 麻都良河波《マツラガハ》 多麻斯麻能有良尓《タマシマノウラニ》
 和可由都流《ワカユツル》
 伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》 比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》
 
【譯】松浦河の玉島の浦に若年魚を釣る娘子を見るだろう人はうらやましいことだ。
【釋】多麻斯麻能有良尓 タマシマノウラニ。ウラは、陸地に入り込んだ水面をいう。川について浦という例は、「吉野川《ヨシノガハ》 河浪高見《カハナミタカミ》 多寸能浦乎《タキノウラヲ》 不v視歟成嘗《ミズカナリナム》 戀布眞國《コホシケマクニ》」(卷九、一七二二)、「吾疊《ワガタタミ》 三重乃河原之《ミヘノカハラノ》 礒裏爾《イソノウラニ》」(同、一七三五)など見える。
 伊毛良遠美良武 イモラヲミラム。イモラのラは接尾語。連體の句。
 比等能等母斯佐 ヒトノトモシサ。トモシは、羨しの意に使われている。
【評語】前の歌を、語を代えて歌つているようだ。想像の強く働いている點が注意される。以上で、この松浦河に遊ぶ序は、完全に終了する。この序および贈答の歌は、一人の手になつたもので、官人と女子と實際に歌を贈答したものではない。松浦河の玉島の潭に遊んで、釣魚の女子を見て、これを仙女のように思いよそえた一篇の小説である。そうして小説としては、作られた年代が知れ、作者も推考できる最古のものとして意義がある。神仙譚の流行は、ここにこの神女ものを産するに至つた。文詞の中には遊仙窟の詞句と同じものも見出されるのであつて、特にその影響は否定し得ない。
【參考】一、神功皇后の釣魚の説話。
  (仲哀天皇九年)夏四月壬寅の朔にして甲辰の日、北のかた火の前《みちのくち》の國の松浦《まつら》の縣《あがた》に到りたまひて、玉島の里の小河の側に進食《みをし》したまひき。ここに皇后、針をまげて釣《ち》とし、粒を取りて餌とし、裳の縷《いと》をぬき(480)取りて緡《つりのを》とし、河中の石の上に登りて鉤を投《い》れて祈《の》みたまはく、朕《われ》、西のかた財《たから》の國を求めむとおもふ。もし事を成すあらむには、河の魚、鉤《ち》を飲《く》へとのりたまひ、囚りて竿をあげて細鱗魚《あゆ》を獲たまひき。時に皇后のりたまはく、めづらしきものぞとのりたまひき。かれ時人そこに名づけてめづらの國といふ。今、松浦といふは訛れるなり。ここをもちてその國の女人、四月の上旬にあたるごとに、鉤を河中に投《い》れて年魚を捕ること、今に絶えず。ただ男夫は釣すとも魚を獲ることあたはず。(日本書紀神功皇后の卷)
 また筑紫の末羅《まつら》の縣《あがた》の玉島《たましま》の里に到りまして、その河の邊に御食《みをし》したまひし時に、四月の上旬に當りき。ここにその河中の礒に坐して、御裳《みも》の絲を拔き取り、飯粒《いひぼ》を餌としてその河の年魚《あゆ》を釣りたまふ。【その河の名は小河といふ。またその礒の名は勝戸比賣といふ。】かれ四月の上旬の時、女人、裳の絲を拔き、粒を餌として年魚を釣ること、今までに絶えざるなり。(古事記中卷)
 二、作者に關する萬葉代匠記精撰本の説(契沖)。
 此序并ニ仙女ニ贈ル歌ヲ古來憶良ノ作トス。今按是ハ旅人卿ノ作ナリ。其故ハ大宰帥ハ九國二島ヲ管攝スル故ニ都督ト號スレハ、所部ヲ檢察セムタメニ何レノ國ニモ到ルヘシ。此故ニ第六ニハ薩摩ノ迫門モ吉野川ニシカストヨマレタリ。是一ツ。憶良ハ筑前守ニテ輙ク境ヲ越テ他國ニ赴ク事ヲ得ヘカラス。是二ツ。次ノ吉田連宜カ状ニ、伏奉賜書ト云ヒ、戀主之誠ト云ヒ、心同葵霍ト云ヘルハ、同輩ニ報スル文體ニ非ス。憶良ハ從五位下、宜ハ此時從五位上ニテ|ナ《(ママ)》レハ、カヤウニハ書ヘカラス。是帥殿ヘノ返簡ナル證、是三ツ。又兼奉垂示、梅花芳席、群英※[手偏+離の旁]藻、松浦玉潭、仙媛贈答ト云ヘルモ、帥主人ナリケル故ニ徑ニ梅花芳席ト云ヘリ。仙媛贈答モ同人ノ證ナリ。是四ツ。又彼次下ノ憶良ノ書并歌ハ、帥卿ノ典法ニ依テ部下ヲ巡察セラルヽニ贈ラル。書尾ニ天平二年七月十一日トカヽレタルニ、三首ノ歌、何レモ憶良ハ遂ニ松浦河ヲモ領巾麾山ヲモ見ラレサルコト明ナリ。見テ辨フヘシ。是五ツ。又憶良ハ殊ニ佛道ニ心ヲ寄ラレ、大伴卿ハ老(481)莊ノ趣ヲスカレタリト見ユレハ、仙媛ヲ感スヘキハ大伴卿ナリ。前ノ琴娘ヲ思ヒ合スヘシ。是六ツ。今辨スル所當レリヤアラスヤ。決ヲ後人ニ屬ス。
 
宜啓、伏奉2四月六日賜書1、跪開2封函1、拜2讀芳藻1、心神開朗、似v懷2泰初之月1、鄙懷除※[衣+去]、若v披2樂廣之天1。至v若d覊2旅邊城1、懷2古舊1而傷v志、年矢不v停、憶2平生1而落uv涙、但達人安v排、君子無v悶。伏冀朝宣2懷v※[擢の旁]之化1、暮存2放v龜之術1。架2張趙於百代1、追2松喬於千齢1耳。兼奉2垂示1、梅苑芳席、群英※[手偏+離の旁]v藻、松浦玉潭、仙媛贈答、類2杏壇各言之作1、疑2衡皐税駕之篇1。耽讀吟諷、感謝歡怡。宜戀v主之誠、々逾2犬馬1、仰v徳之心々同2葵※[草がんむり/霍]1。而碧海分v地、白雲隔v天、徒積2傾延1、何慰2勞緒1。孟秋庸v節、伏願萬祐日新。今因2相撲部領使1、謹付2片紙1。宜謹啓不v次。
 
宜《よろし》啓《まを》さく、伏して四月六日の賜書を奉《うけたまほ》る。跪きて封函を開き、拜みて芳藻を讀むに、心神開朗にして、泰初が月を懷《うだ》くに似、鄙しき懷|除※[衣+去]《のぞこ》りて、樂廣が天を披くがごとし。邊城に覊旅し、古舊を懷ひて志を傷ましめ、年の矢は停らず、平生を憶ひて涙を落すがごときに至りては、ただ達人は排に安みし、君子は悶《いきどほり》無し。伏して冀《ねが》はくは朝に※[擢の旁]《きぎし》を懷《なつ》くる化を宣べ、暮《ゆふべ》に龜を放つ術を存し、百代に張趙を架《しの》ぎ、千齢に松喬を追はむのみ。兼ねて垂示を奉《うけたまは》るに、梅の苑の芳しき席に、群英|藻《ふみ》を※[手偏+離の旁]《の》べ、松浦の玉潭に、仙媛と贈り答へしは、杏壇各言の作に類《たぐ》ひ、衡皐に駕を税《おろ》す篇に疑《なぞ》ふ。耽讀吟諷し、感謝歡怡す。宜が主に戀ふる誠誠は犬と馬とに逾《こ》え、徳を仰ぐ心、心は葵※[草がんむり/霍]に同じ。しかも碧海は地を分ち、白雲は天を隔て、いたづら(482)に傾延を積む。何ぞも勞緒を慰めむ。孟秋にして節《とき》に庸《あた》る。伏して願はくは、萬祐日に新たならむことを。今相撲部領使《すまひことりづかひ》に因りて、謹みて片紙を付く。宜謹みて啓《まを》す。次ならず。
【譯】宜《よろし》が申しあげます。伏して四月六日のお手紙を拜受して、跪いて封の箱をあけて御文章を拜讀いたしまして、精神が明朗になつて、かの泰初の月を懷くようであり、いやしい思いが除き去られて、かの樂廣の天を披《から》き見るようであります。遠い國に旅して昔を慕つて心を痛め、年月が停まらず若かつた時を思つて涙を流すようの事に至つては、ただ物に至つた人は運命に安んじ、よい人は煩悶がございません。どうか願うところは、朝には雉子を馴づけたような徳化を敷き、暮に龜を放したような手段をお殘しになり、末の代に張敬や趙高漢をお凌ぎになり、千年の後に赤松子王子喬の跡をお慕いになるべきであります。またお示しをいただきました、梅花の苑の御宴會に、多數のすぐれた人が歌を詠み、松浦河の清らかな潭で、仙女と贈答されましたことは、杏壇で、それぞれ言いました作の如く、かの香草の澤に乘物を寄せた文章かと疑いました。讀みふけり吟詠しまして、感謝し滿足いたしました。宜が、あなたを慕います誠は、犬や馬よりもまさり、御徳を仰ぐ心は、葵に同じであります。しかしながら青海が土地を分ち、白雲が天を隔てて、むだにお慕い申しあげるばかりで、どうして御苦勞をお慰め申しましよう。初秋の節供に當りまして、伏して願いますことは、日に日に御幸福であらむことであります。今相撲の部領使が出かけますのによつて、謹んで一片の手紙を依託いたします。宜が謹んで申しあげます。亂れがちでございます。
【釋】以下、天平二年七月十日の行まで、吉田の宜の書状で、ほぼ完全に存している。最後に宛名があつたろうと思われるが、その部分を切り取つて繼いだのだろう。文面によれば、大伴の旅人が四月六日に書状と共に、梅花の會の歌、および松浦河に遊ぶ序を贈つたのに對して、それに答えた書状であると推考される。これによつて松浦河に遊ぶ序などの作者の推考される貴重な資料である。
(483) 宜啓 ヨロシマヲサク。この書状には、常に宜とのみあるが、目録には「吉田連宜和(フル)2梅花(ノ)歌(ニ)1一首、吉田(ノ)連宜和(フル)2松浦仙媛歌(ニ)1一首、吉田(ノ)連宜思(ヒ)v君(ヲ)末v盡(キ)重題二首」となつており、吉田の宜のことであると認められる。續日本紀、文武天皇四年八月の條に「乙丑、僧通徳惠俊に勅して竝に還俗せしむ。代度各一人。通徳に姓陽侯史、名久爾曾を賜ひ、勤廣肆を授く。惠俊に姓吉名宜を賜ひ務廣肆を授く。その藝を用ゐむがためなり」とあり、神龜元年五月、吉智の首と共に竝に姓吉田の連を賜わる。天平二年三月、太政官の奏に「陰陽醫術及び七曜頒暦等の類は、國家の要道にして、廢闕することを得ず。但し諸博士を見るに、年齒衰老せり。もし教授せずは、恐らくは絶業を致さむ。望み仰ぐは、吉田連宜等七人、各弟子を取り、業を習はしめむ」とある。五年十二月圖書頭、十年閏七月典藥頭となつた。懷風藻に詩を傳え「正五位(ノ)下圖書頭吉田(ノ)連宜七十」とある。歿年未詳であるが、この時すでに老年であつたらしい。吉田の連は孝昭天皇の皇子の系統で、新撰姓氏録に、崇神天皇の代に、その祖先の鹽垂津彦《しおたりつひこ》の命が任那《みまな》の地方を治めて功があり、その國の語に、長官を吉というので、氏としたという。よつてもとの稱を殘したので、キチダと讀むべしとする説がある。文徳天皇實録、嘉祥三年十一月、興世の朝臣書主の卒去の條に「書生は右京の人なり。本姓は吉田の連、その先百濟より出づ。祖正五位の上圖書の頭兼内藥の正相模の介吉田の連宜、父は内膳の正正五位の下石麻呂、竝に侍醫となり、代を累ね供奉す。宜等兼ねて儒道に長ず。門徒餘あり」とある。また本集に「右は、吉田の連《むらじ》老《おゆ》といふものあり。字を石麻呂と曰《い》へり。いはゆる仁敬の子なり。その老、人となり身體いたく痩せたり。多く喫飲すれども形|飢饉《うゑびと》に似たり」(卷十六、三八五四左註)とある。
 伏奉四月六日賜書 フシテウヅキムカニタマハレルフミヲウケタマハル。大伴の旅人からの四月六日づけの書状を受けた由である。
 心神開朗 ココロドアキラカニシテ。心神は精神に同じ。開朗は、開濶明朗であつて、ほがらかになつたこ(484)とをいう。
 似懷泰初之月 タイソガツキヲウダクニニ。泰初は太初に同じ。世説容止篇に「時人目(スルコト)2夏侯大初(ヲ)1、朗朗如(シ)2日月之入(ルガ)1v懷(ニ)」とある。泰初を見ると同じく、日月を懷に入れたようにほがらかであるの意。
 鄙懷除※[衣+去] イヤシキオモヒノゾコリテ。※[衣+去]は、拂う、逐うの意。
 若披樂廣之天 ガクワウガアメヲヒラクガゴトシ。晋書樂廣傳に、尚書令衛〓が樂廣を見て、奇なりとして、「若《シ》d披(キテ)2雲霧(ヲ)1而覩(ルガ)c青天(ヲ)u也」と言つたとあるによる。樂廣を見ると同樣、雲霧を披いて青天を見るようにあかるい心になるの意。
 羈旅邊城 トホキクニニタビシ。邊城は大宰府をいう。この句以下、「憶(ヒテ)2平生(ヲ)1而落(ス)v涙(ヲ)」の句まで、旅人の上をいう。おもに梅花の歌に附した員外思2故郷1歌兩首によつているが、旅人の書状中にも、これに觸れているであろう。
 懷古舊而傷志 フリニシヲオモヒテココロヲイタマシメ。古舊は、故人の意で、旅人の亡き妻をいう。
 年矢不停 トシノヤハトドマラズシテ。年月の疾く行くを矢に譬える。文選の陸機の長歌行に、「年(ノ)往(クコト)迅(シ)2勁矢(ヨリモ)1」、千字文に「年矢毎(ニ)催(ス)」などある。
 憶平生而落涙 ワカキトキヲオモヒテナミダヲオトス。平生は、論語に、「久要不v忘(レ)2平生之言(ヲ)1」とあつて、孔安國の註に「平生猶(シ)2少時(ノ)1」とあり、本集に「〓襁《ヒムツキノ》 平生蚊見庭《ハフコガミニハ》」(卷十六、三七九一)とある。これは旅人の故郷ヲ思フ歌に、ワガ盛リイタククタチヌとあるを受けていると考えられる。以上旅人の文詞を受けていい、次句以下これを慰める。
 但達人安排 タダヨキヒトハウツルニヤスミシ。達人は、左傳に、「其(ノ)後必(ズ)有(リ)2達人1」、註に「知能通達之人也」とあり、安排は、莊子大宗師篇に、「安排(シテ)而去化(シ)、乃(チ)入(ル)2於寥天※[弌の左上に横棒あり](ニ)1」。註に「安排(ハ)推移(ナリ)」とある。通達の人(485)は推移に安んずる意。
 君子無悶 ウマビトハイキドホリナシ。悶は憂悶、煩悶をいう。
 朝宣懷※[擢の榜]之化 アシタニキギシヲナツクルオモムケヲノベ。※[擢の榜]は山雉をいう。化は徳化。後漢書魯恭傳に、「建初七年、郡國に※[虫+冥]あり、稼を傷つく。犬牙界に縁《よ》り中牟《ちゆうむ》に入らず。河南の尹《いん》、袁安《ゑんあん》これを聞きてその實ならざるを疑ふ。仁恕椽肥みつから往きてこれを察せしむ。恭隨ひて阡陌に行き、供に桑下に坐す。雉あり、その傍に止る。傍に童兒あり、曰はく何ぞこれを捕らざる。兒言はく、雉方に雛せむとすと。親※[擢の榜]然として起ち、恭と訣れて曰はく、來る所以の者に、君の政迹を察せんと欲するのみ。今蟲境を犯さず。これ一異なり。化鳥獣に及ぶ。これ二異なり。竪子仁心あり。これ三異なり」(もと漢文)とあるによる。かの魯恭が雉子を馴《な》つけしが如き徳化を敷きたまえの意で、朝は下の暮と共に文飾のみ。
 暮存放龜之術 ユフベニカメヲハナツミチヲノコシ。晋書孔愉傳に「愉かつて行きて餘不亭を經て、龜を路に籠する者を見る。愉買ひてこれを溪中に放つ。龜中流に左顧する者、數四なり。ここに及りて侯印を鑄るに印龜左顧す。三鑄初めのごとし。印工もちて告ぐ。愉乃ち悟り、遂に佩く」(もと漢文)とあるによる。孔愉が龜を放つたような仁術を存したまえの意。
 架張趙於百代 モモヨノスヱニチヤウトテウトヲシノギ。張趙は、張敬と趙廣漢。二人とも地方官として令名があつた。文選、孔徳璋の北山移文に、「籠(シ)2張趙(ヲ)於往圖(ニ)1、架(ス)2卓魯(ニ)於前※[竹/録](ニ)1」とある。百代の後なる今、張敬や趙廣漢の政治をも凌ぎたまえの意。
 追松喬於千齡耳 チトセノノチニシヨウトケウトヲオハムノミ。松喬は、赤松子と王子喬と、共に仙人として知られている。後漢書馮衍傳に、「觀2覽乎孔老之論(ヲ)1、庶2幾(カランカ)乎松喬之福(ニ)1」とあり、註に「列仙傳に曰はく、赤松子は、神農の時の雨師なり。氷玉を服し、よく火に入りて燒けず。常に西王母の石室の中に止まる。よく(486)風に隨ひて上下す。王子喬は周の靈王の太子晋なり。よく笙を吹き、鳳鳴を作す。伊洛の間に游び、道人浮丘公接りてもちて嵩高山に上り、遂に仙去す」とある。千年の齡の後には、赤松子王子喬の後を追つて仙人になつて長生したまえの意。上の伏冀は、ここまでに懸かる。
 梅苑芳席群英※[手偏+璃の旁]藻 ウメノソノノカグハシキムシロニモロビトコトヲノベ。梅苑の芳席は、前出旅人邸の梅花の宴をいう。※[手偏+璃の旁]は舒、藻は文辭。旅人から、かの一篇を贈つたことが知られる。
 松浦玉潭仙媛贈答 マツラノタマノゴトキフチニヤマヒメトオクリコタヘシは。これも前出の松浦河に遊ぶ序を贈つたことが知られる。玉潭は、玉の如き潭であるが、玉島の潭を利かせている。
 類杏壇各言之作 カラモモノトコロニオノモオノモイヘルコトニタグヒ。杏壇各言之作は、莊子漁父篇に、「孔子游(ビ)1緇帷之林(ニ)1、休2坐(ス)乎杏壇之上(ニ)1、弟子讀(ム)v書(ヲ)、孔子絃歌(シ)鼓(シ)v琴(ヲ)奏(ス)v曲(ヲ)」とあるによつて杏壇といい、論語に「顔淵季路侍(ス)。子(ノ)曰(ク)、蓋(ザル)3各言(ヲ)2爾(ノ)志(ヲ)1」とあるによつて各言という。孔子が杏壇にあつて弟子がそれぞれ言つたような作だというので、梅花の歌をさして賞めている。
 疑衡皐税駕之篇 カゲハシキクサノサハニノリモノヲオロスフミニナゾフ。衡皐税駕之篇は、文選洛神賦に「税2駕(ス)乎衡皐(ニ)1」とあつて、洛川の神女に逢つたことをいうによる。税は舍で、車を止めること。衡皐は、香草の澤。これは松浦川で仙女に逢つた文を賞している。
 宜戀主之誠々逾犬馬 ヨロシガヌシニコフルマコト、マコトハイヌトウマトニコユ。主は大伴の旅人。犬馬ニ逾エは、犬馬の主人を慕うにも過ぎている意。
 仰徳之心々同葵〓 ノリヲアフグココロ、ココロハアフヒニオナジ。徳は旅人の徳をいう。葵〓は、ヒマワリ(植物)。曹植の求(ムル)v通(センコトヲ)2親々(ニ)1表に「若(キハ)2葵〓之傾(クルガ)1v葉(ヲ)、太陽雖(ドモ)v不(ト)2爲《タメニ》之廻(ラサ)1v光(ヲ)、終(ニ)向(フ)v之(ニ)者誠也」とあるによる。
(487) 徒積傾延 イタヅラニカタムキノブルコトヲツム。傾延は、葵〓の葉を傾けることと、犬馬の頸を伸ばすこと。いたずらに慕うばかりであるの意。
 何慰勞緒 ナニゾイタヅキヲナゴメム。勞緒は、旅人の辛勞。これを緒に譬えて勞緒という。
 孟秋庸節 ハジメノアキニシテトキニアタル。孟秋は七月。庸節は、七月七日の節に當るをいう。
 今因相撲部領使 イマスマヒノコトリヅカヒニヨリテ。相撲部領使は、地方から京に出る力士を引率して行く使。相撲の節會は、七月七日に行われた。大宰府から力士を引率して來た使の歸任するのに書状を託して、旅人のもとに屆けさせたのであろう。
 不次 ツギテナラズ。順序が整つていない意で、書状の末に書く謙遜の辭。
 
奉v和2諸人梅花歌1一首
 
【釋】奉和諸人梅花歌一首 モロビトノウメノハナノウタニコタヘマツレルヒトツ。三十二首の梅花の歌に和する意である。
 
864 後《おく》れ居て なが戀せずは、
 御園生の 梅の花にも
 ならましものを。
 
 於久禮爲天《オクレヰテ》 那我古飛世殊波《ナガコヒセズハ》
 弥曾能不乃《ミソノフノ》 于梅能波奈尓母《ウメノハナニモ》
 奈良麻之母能乎《ナラマシモノヲ》
 
【譯】その席にいないでいつまでも慕つていないで、あなたの園の梅の花にもなればようございました。
【釋】於久禮爲天那我古飛世殊波 オクレヰテナガコヒセズハ。既出「遣居而《オクレヰテ》 戀管不v游者《コヒツツアラズハ》」(巻二、一一五)参照。ナガコヒは長戀で、長き思慕をいう。「暮霧爾《ユフギリニ》 長戀爲乍《ナガコヒシツツ》 寐不v勝可母《イネガテヌカモ》」(卷十二、三一九三、一云)(488)その場にいないで長い物思いをしないで、そうして。
 弥曾能不乃 ミソノフノ。ミソノフは、旅人邸の園をいう。
 奈良麻之母能乎 ナラマシモノヲ。何になつた方がよかつたの意の假設法。なり得ないのである。
【評語】何になつたらというのは、集中に多い。類型的な表現である。
 
和2松浦仙媛歌1一首
 
【釋】和松浦仙媛歌一首 マツラノヤマヒメノウタニコタフルヒトツ。松浦河に遊ぶ序中の仙女の歌に和する歌である。娘子を仙媛と見ていることは前文中にもあつたが、神仙譚として通用したことが知られる。
 
865 君を待つ、
 松浦《まつら》の浦の 孃子《をとめ》らは、
 常世《とこよ》の國の 天孃子《あまをとめ》かも。
 
 伎弥乎麻都《キミヲマツ》
 々々良乃于良能《マツラノウラノ》 越等賣良波《ヲトメラハ》
 等己與能久尓能《トコヨノクニノ》 阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》
 
【譯】あなたのお出でを待つ、松浦河の娘さんは、常世の國の天女でしようか。
【釋】伎弥乎麻都 キミヲマツ。娘子の歌中に君を待つ意のあるによつている。娘子らを修飾するが、松浦に對しては、同音聲をもつて續いており、枕詞としての任務をも帶びている。
 々々良乃于良能 マツラノウラノ。松浦河の浦のである。
 等己與能久尓能 トコヨノクニノ。トコヨノクニは、常世の國。既出、理想國。仙郷。
 阿麻越等賣可忘 アマヲトメカモ。アマヲトメは、天の娘子。天を飛行する娘子で、仙人の女をいう。丹後國風土記の浦島の説話中、娘子を、「天上仙家之人也」といい、その浦島の歌に、「常世べに雲たちわたる。水(489)の江の浦島の子が言持ちわたる」などある。海人娘子の義とする説のあるは非である。カモは詠嘆の辭。
【評語】松浦の仙女を讃嘆しただけの内容で、特にその天女に關する敍述がない。初句のすべり出しは器用にできている。
 
思v君未v盡重題二首
 
【釋】思君未盡重題二首 キミヲシノフコトイマダツキズカサネテシルセルフタツ。前の歌によつて、いまだ盡きない心を述べて、重ねて題せると言つている。
 
866 はろばろに 思はゆるかも。
 白雲の 千重に隔《へだ》てる
 筑紫《つくし》の國は。
 
 波漏婆漏尓《ハロバロニ》 於志方由流可母《オモハユルカモ》
 志良久毛能《シラクモノ》 智弊仁邊多天留《チヘニヘダテル》
 都久紫能君仁波《ツクシノクニハ》
 
【譯】はるかにも思いやることであります。白雲が幾重にも隔つている筑紫の國は。
【釋】波漏婆漏尓 ハロバロニ。遙の意の語を重ねて副詞を構成した。はるかな状態においての意で、遠くにあつて思うのである。はるかな國と思うの意に解する説があるが、この種の語構成から見ても、用例から見てもそれは違う。「波魯波魯爾《ハロバロニ》 渠騰曾枳擧喩屡《コトゾキコユル》」(日本書紀皇極天皇の卷)、「波呂波呂爾《ハロバロニ》 於毛保由流可母《オモホユルカモ》」(卷十五、三五八八)。
 於忘方由流可母 オモハユルカモ。オモハユは、通例オモホユと書いているが、オモハユの方が原形である。キカユ(聞)が通例キコユとなつているが如きである。「兒良波可奈之久《コラハカナシク》 於毛波流留可毛《オモハルルカモ》」(卷十四、三三七二)、「和藝毛古我《ワギモコガ》 蘇弖母志保々爾《ソデモシホホニ》 奈伎志曾母波由《ナキシゾモハユ》」(卷二十、四三五七)などの例がある。句切。
(490) 志良久毛能智弊仁邊多天留 シラクモノチヘニヘダテル。文中の、「白雲(ノ)隔(テル)v天(ニ)」と同意である。ヘダテルは動詞隔ツに、助動詞リの連體形の接續したもの。
 都久紫能君仁波 ツクシノクニハ。筑紫の國は、九州北部、筑前、筑後をいう。
【評語】平凡な内容であるが、遠い國を思う情は、二句の詠嘆的な表現で、窺われる。
 
867 君が行《ゆ》き けながくなりぬ。
 奈良路なる 山齋《しま》の木立《かだち》も
 神《かむ》さびにけり。
 
 枳美可由伎《キミガユキ》 氣那我久奈理奴《ケナガクナリヌ》
 奈良遲那留《ナラヂナル》 志滿乃己太知母《シマノコダチモ》
 可牟佐飛仁家理《カムサビニケリ》
 
【譯】あなたのお出ましは、時久しくなりました。奈良への路にあるお邸の庭園の木立も、もの古びました。
【釋】枳美可由伎氣那我久奈理奴 キミガユキケナガクナリヌ。既出(卷二、八五)。ユキは、行くこと。ケは時間。句切。
 奈良遲那留 ナラヂナル。ナラヂは奈良路で、奈良に行く路。大伴氏の佐保の邸宅を歌つたものと考えられその位置が説明されている。
 志滿乃己太知母 シマノコダチモ。シマは、庭園、林泉。コダチは木立。
 可牟佐飛仁家埋 カムサビニケリ。木立が茂つて神靈の感じられるようになつたことをいう。
【評語】古歌によつて歌を起しているが、遠人を思う情を、風物の變化に託して巧みに表現している。感慨の情の盛られた作品というべきである。後、旅人が九州からこの家に歸り來たつて詠んだ「妹として二人作りしわが山齋は木高く繁くなりけるかも」(卷三、四五二)の歌は、この吉田の宜の歌などを想起して詠んでいるのであろう。
 
(491)天平二年七月十日
 
【釋】天平二年七月十日 テニヒヤウノフタトセフミヅキノトヲカ。以上吉田の宜の書状である。原文はこの次に多分宛名があつたのであろう。
 
憶良誠惶頓首謹啓
憶良聞、方岳諸侯、都督刺史、竝依2典法1、巡2行部下1、察2其風俗1。意内多v端、口外難v出。謹以2三首之鄙歌1、寫2五藏之鬱結1。其歌曰、
 
憶良誠惶頓首、謹みて啓《まを》さく、
憶良聞かくは、方岳諸侯、都督刺史、みな典法に依りて、部下を巡行《めぐ》りて、其の風俗を祭《み》るといふ。意の内に端多く、口の外に出し難し。謹みて三首の鄙《いや》しき歌を以ちて、五藏の鬱結《むすぼほり》を寫く。その歌に曰はく、
 
【譯】憶良が恐れ畏み頓首して申しあげます。憶良が承りますと、都督以下お役向の方々は、規則によつて、管内を巡行して、人民の有樣を見るということであります。心の内に思うことは多いのですが、言葉にはあらわしがたいのであります。謹んで三首のいやしい歌で、心の内のとどこおりを除きます。その歌は、次の通りであります。
【釋】以下天平二年七月十一日の一行まで、山上憶良の書状である。大伴の旅人に當てたもので、その内容は、旅人以下の部内の巡行を聞き、同行し得なかつたことを遺憾としている。歌が領巾麾《ひれふり》の嶺、松浦河のことに及んでいるのは、旅人から、それに關する作を提示され、それに答えたものであり、またそれらの作品の作者を考察する重要なる資料となる。これも宛名の部分を除いて原文のままに繼いだのであろう。
(492) 憶良誠惶頓首謹啓 オクラカシコミヲロガミツツシミテマヲサク。
誠惶頓首は書状の常用語で、誠惶は恐れかしこまる意。頓首は拜禮する意。
 方岳諸侯都督刺史 オホミコトモチカミタチ。方岳諸侯は、尚書周官に、「六年、王乃(チ)時(ニ)巡(リテ)考(ヘ)2制度(ヲ)于四岳(ニ)1、諸侯各朝(ス)2于方岳(ニ)1、大(ニ)明(ニス)2黜陟(ヲ)1」とあり、四方の岳に朝する諸侯の君。東岳は岱宗、南岳は衡山、西岳は華山、北岳は恒山で、天子巡狩してその地に至り、諸侯これに謁するをいう。都督は晋の時に始めて置かれたもので大宰の帥に相當し、刺史は國守に相當する。ここは以上すべてで大宰の帥以下の府の官人、および國守等をさしている。分けていえば方岳の諸侯に相當するものはないが、文飾でこれを置いたのであろう。
 竝依典法巡行部下 ミナノリニヨリテクヌチヲメグリテ。大宰の帥および國守等、法の定めるところによつて、所管内を巡行するをいう。しかし憶良は筑前の守で、國守であるが、行かなかつたので、實は大宰府の役人だけであつたのだろう。
 察其風俗 ソノクニフリヲミルトイフ。風俗は、民風習俗。
 寫五藏之鬱結 イツツノキモノムスボホリヲノゾク。五藏は五臓に同じ。肝心脾肺腎をいう。精神の宿る所と考えられていたので、その鬱結というのは、心の晴れやらぬことをいう。寫は除の意に使用されている。
 
(493)868 松浦縣《まつらがた》
 佐用比寶《さよひめ》の子が 領巾《ひれ》振《ふ》りし
 山の名のみや 聞きつつ居らむ。
 
 麻都良我多《マツラガタ》
 佐欲比賣能故何《サヨヒメノコガ》 比例布利斯《ヒレフリシ》
 夜麻能名乃尾夜《ヤマノナノミヤ》 伎々都々遠良武《キキツツヲラム》
 
【譯】松浦縣の佐用比賣が領巾を振つた山の名ばかりをか聞いていることでございましよう。
【釋】麻都良我多 マツラガタ。松浦の縣で、既出、松浦河に遊ぶ序に見えている。ここは領巾振りし山の所在を示すために冠している。
 佐欲比賣能故何 サヨヒメノコガ。佐欲比賣は、この書状の次に載せてある文に出ており、その條であきらかである。コは愛稱。佐欲比賣その人を佐欲比賣の子という。
 比例布利斯 ヒレフリシ。ヒレは領巾肩巾の字を當てる。女子の頸に懸ける薄布。「肩巾、此(ヲ)云(フ)2比例《ヒレト》1」(日本書紀天武天皇紀)もと魔よけの呪力を感じて使用し、後もつぱら装飾品となつた。佐欲比賣が領巾を振つたことも次の文詞に見える。
 夜麻能名乃尾夜 ヤマノナノミヤ。領巾麾の嶺という山名のみをかの意。ヤは疑問の係助詞。
 伎々都々遠良武 キキツツヲラム。みずから見ることなくして居らむの意。
【評語】ただ思うところを述べたというに過ぎない。この歌によつて、次の領巾麾の嶺に關する一篇も旅人の作であることが推考される。
 
869 足比賣《たらしひめ》 神の命《みこと》の、
 魚《な》釣《つ》すと み立《た》たしせりし
(494) 石を誰《たれ》見き。一は云ふ、あゆつると。
 
 多良志比賣《タラシヒメ》 可尾能美許等能《カミノミコトノ》
 奈都良須等《ナツラスト》 美多々志世利斯《ミタタシセリシ》
 伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》一云、阿由都流等
 
【譯】神功皇后樣が魚をお釣りになるとして、お立ちになつた石を、どなたが見たのでしょう。
【釋】多良志比賣可尾能美許等能 タラシヒメカミノミコトノ。既出(卷五、八一三)。神功皇后。
 奈都良須等 ナツラスト。ナは魚。食料としての稱。日本書紀持統天皇の卷に、「魚、此(ヲ)云(フ)v儺《ナト》」とある。ツラスは、釣ルの敬語法。
 美多々志世利斯 ミタタシセリシ。ミタタシは、ミは敬語の接頭語、タタシは立ツの敬語の名詞形。セリシはしておつたの意。連體句。
 伊志遠多禮美吉 イシヲタレミキ。イシは、石。神功皇后が魚を釣るために立たれた石。タレミキは、誰見キで、誰が見たのか、自分は見ないのにの意である。誰のような疑問の辭を受けて、普通の終止形で結ぶことは、「誰聞都《タレキキヅ》 從2此間1鳴渡《コユナキワタル》 鴈鳴乃《カリガネノ》」(卷八、一五六二)などあり、古い語法のようである。
 一云阿由都流等 アルハイフ、アユツルト。第三句の別傳であるが、作者自身に兩案を存したか、別人の註記かはわからない。
【評語】これも旅人の松浦河に遊んだことをうらやんで作つている。これだけではその序を見たかどうかはわからない。説明が多く、感慨が出ていないが、末句を、石ヲ誰見キで留めたのは、強い調子で、一つの手段とも言えよう。
 
870 百日《ももか》しも 行かぬ松浦路《まつらぢ》、
 今日行きて明日は來《き》なむを、
(495) 何か障《さや》れる。
 
 毛々可斯母《モモカシモ》 由加奴麻都良遲《ユカヌマツラヂ》
 家布由伎弖《ケフユキテ》 阿須波吉奈武遠《アスハキナムヲ》
 奈尓可佐夜禮留《ナニカサヤレル》
 
【譯】百日も行くのにかからない松浦の路を、今日行つて明日にも來ようものを、どうして支障があるのでございましょう。
【釋】毛々可斯母由加奴麻都良遲 モモカシモユカヌマツラヂ。筑前の國府から松浦へ行く路はさして遠くないことをいう。百日も行かない路だのにの意。シは強意の助詞。
 家布由伎弖阿須波吉奈武遠 ケフユキテアスハキナムヲ。早く行つて來ようの意を、今日行つて明日來るというのは、集中に例が多い。ヲは然るにの意に使用されている。
 奈尓可佐夜禮留 ナニカサヤレル。サヤレルは障れるで、支障となるの意。「出波之利《イデハシリ》 伊奈々等思騰《イナナトオモヘド》 許良爾佐夜利奴《コラニサヤリヌ》」(卷五、八九九)などの用例がある。
【評語】前の二首が、領巾麾の嶺、松浦河について、個々に歌つているのに對して、これは總括的に歌つている。やはり全體としての構成があるから、それを見るべきである。内容は平凡だが、見られないで殘念である意味はよく出ている。
 
天平二年七月十一日、筑前國司山上憶良謹上
 
【釋】天平二年七月十一日 テニヒヤウノフタトセフミヅキノトヲカアマリヒトヒ。この行まで憶良の書状で、これはその日附である。旅人が松浦の地方に行つたのは三、四月の頃と見られるが、卷の八の秋の雜歌の中に、天平二年七月八日の旅人の邸での七夕の會に憶良が歌を作つているから、その時にでも松浦河に遊ぶ序などを憶良にも見せたのだろう。それで七月に至つて、憶良がこの書状を作つたと見える。
 
(496)大伴佐提比古郎子、特被2朝命1、奉2使藩國1。艤棹言歸、稍赴2蒼波1。妾也松浦【佐用殯面】、嗟2此別易1。歎2彼會難1。即登2高山之嶺1、遙望2離去之船1、悵然斷v肝、黯然※[金+肖]v魂。逸脱2領巾1麾之。傍者莫v不v流v涕。因號2此山1曰2領巾麾之嶺1也。乃作v歌曰、
 
大伴《おほとも》の佐提比古《さでひこ》の郎子《いらつこ》、特に朝命を被《かがふ》り、使を藩國《みかき》に奉《うけたまは》る。艤棹《ふなよそひ》して言《ここ》に歸《ゆ》き、やや蒼波に赴く。妾《をみなめ》松浦【佐用ひめ】この別るることの易きを嗟《なげ》き、その會ふことの難きを歎く。すなはち高山の嶺に登りて、遙かに離れ去く船を望み、悵然《いた》みて肝を斷ち、黯然《かな》しみて魂を※[金+肖]《け》つ。遂に領巾《ひれ》を脱《ぬ》ぎて麾《ふ》る。傍の者|涕《なみた》を流さざるはなかりき。因りてこの山に號《なづ》けて領巾麾《ひれふり》の嶺と曰ふ。すなはち歌を作りて曰はく、
 
【譯】大伴の佐提比古の郎子は、特に朝廷の命令を被つて、外地に使として行つた。船を用意して出發し、少しく海上に出た。愛人の松浦の佐用比賣は、この別れ易く會いがたいのを歎いて、高い山の嶺に登つて、遠く離れて行く船を望み、悲しんで肝も切れ心も消えるばかりであつて、遂に領巾をぬいで振つた。傍の者が涙を流さないものはなかつた。よつてこの山に名づけて領巾麾の嶺という。そこで歌を作ること、次の通りである。
【釋】大伴佐提比古都子 オホトモノサデヒコノイラツコ。郎子は、郎女に對する語で、男子に對する敬愛の稱。大伴の佐提比古は、大伴の金村の子、日本書紀に、大伴の狹手彦と書く。宣化天皇の朝に、新羅が任那を侵したので、命を受けて赴き、任那を鎭め百濟を救つた。また欽明天皇の朝にも高麗を伐つて大いにこれを破つた。肥前國風土記には、狹手彦と篠原の弟日姫子との説話を傳え、領巾を振つたのも弟日姫子のこととしている。この文章および歌にも作者の署名がないが、これも旅人の作であることは、前の憶良の文などによつて確かめられる。最々後人追加二首まで、一團として旅人の作と考えられる。松浦河に遊ぶ序におけると同樣の(497)作者の構成を味わうべきである。
 奉使藩國 ツカヒヲマガキノクニニウケタマハル。藩國は藩屏の國の意。
 艤樟言歸 フナヨソヒシテココニユキ。言は、語辭也とある義によつたもので、語勢のためにいう辭である。歸は往に同じ。
 稍赴蒼波 ヤヤアヲナミニオモムク。蒼波は海の意。
 妾也松浦【佐用殯面】 ヲミナメマツラサヨヒメ。妾は、倭名類聚紗に「妾、文字集略(ニ)云(フ)、妾音接和名|乎无奈《ヲムナ》小妻也」とある。也は助字。佐用殯面は名。字音假字で、殯は關係のある字を使用している。
 悵然斷肝 ウラミテキモヲタチ。悵は恨む意。斷肝は斷腸に同じ。
 黯然※[金+肖]魂 イタミテココロヲケツ。黯然は別れを傷む形容。※[金+肖]魂は精神を喪失するをいう。「頓《タチマチニ》 情消失奴《ココロケウセヌ》」(卷九、一七四〇)とある意である。
 遂脱領巾麾之 ツヒニヒレヲヌギテフル。領巾を振ることは、もと呪力の發生を意味している。古事記上卷に、須勢理※[田+比]賣《すせりびめ》が大國主の神に蛇の比禮などを與えて、これを振つて蛇の害を避けさせたことが見える。また古事記中卷、天の日矛《ひほこ》の持ち來たつた寶の中に、浪振る比禮、浪切る比禮、風振る比禮、風切る比禮などのあるのは、それらの比禮に風や浪を起しまた鎭める威力が宿つているとする信仰で、これらもその比禮を振ることによつてその力があらわれるとした。今、佐用比賣が、沖行く船に向かつて領巾を振つたのは、ただ別れを惜しんだだけでなく、領巾の威力によつてこれを呼び返そうとしたものと解せられる。その意は、この歌詞の中にもあらわれている。この容易になすべからざることを敢えてしたところに思いつめた心がある。古傳には佐用比賣が石になつたとは言わないが、後世は石になつたといい、今では、山から飛び下りて石になつたと傳えている。
(498) 曰領巾麾之嶺也 ヒレフリノミネトイフ。この山は、東松浦郡にあり、虹の松原の南方に聳えている。その山上の唐津灣一帶の眺望は極めて美しい。
 
871 遠つ人 松浦佐用比賣《まつらさよひめ》、
 夫戀《つまごひ》に 領巾《ひれ》振《ふ》りしより
 負へる山の名。
 
 得保都必等《トホツヒト》 麻通良佐用比米《マツラサヨヒメ》
 都麻胡非尓《ツマゴヒニ》 比例布利之用利《ヒレフリシヨリ》
 於返流夜麻能奈《オヘルヤマノナ》
 
【譯】遠方の人を待つ、松浦佐用比賣が、夫戀しさに領巾を振つたから、附けられた山の名である。
【釋】得保都必等 トホツヒト。既出(卷五、八五七)。枕詞。遠方の人を待つの意に、松浦に冠している。
 都麻胡非尓 ツマゴヒニ。夫戀しさに。夫戀のゆえに。
 於返流夜麻能奈 オヘルヤマノナ。山名と負つた由である。
【評語】ただ山名の由來を語つているだけである。文章の意味をまた歌つているだけで、文との關係に妙味がない。遠ツ人の枕詞も、この歌では利いていない。但し以下後人追和の歌に對して、まず總括的に詠んで、この山名を提示したものと見れば、全體の組織の上からは、意味を成さぬものでもない。
 
後人追和
 
【釋】後人追和 ノチノヒトノオヒテコタフル。前の歌に對して、後の人があとから唱和するところの意であるが、以下の敷首を併わせて、一人の作爲と考えられる。松浦河に遊ぶ序の後人追和の詩の條參照。
 
875 山の名と 言《い》ひ繼げとかも、
(499) 佐用比賣《さよひめ》が、
 この山の上《へ》に 領巾《ひれ》を振りけむ。
 
 夜麻能奈等《ヤマノナト》 伊賓都夏等可母《イヒツゲトカモ》
 佐用比賣河《サヨヒメガ》
 許能野麻能閉仁《コノヤマノヘニ》 必例遠布利家牟《ヒレヲフリケム》
 
【譯】山の名として言い繼げとてか、佐用比賣が、この山の上で領巾を振つたのだろう。
 
【釋】夜麻餞奈等 ヤマノナト。山の名として。
 伊賓都夏等可母 イヒツゲトカモ。カモは疑問の係助詞。
 許能夜麻開閉仁 コノヤマノヘニ。ヘは、上。この山上で。
 必例遠布利家牟 ヒレヲフリケム。第二句を受けて結んでいる。
【評語】前の歌を受けて、佐用比賣の領巾を振つたわけを推測している。同じく山名に興味をもつた歌。
 
最後人追和
 
【釋】最後人追和 イトノチノヒトノオヒテコタフル。最は極の意である。前記のように、これも旅人の作と考えられる。
 
873 萬代に 語り繼げとし、
 この嶽《たけ》に 領巾振りけらし。
 松浦佐用比賣。
 
 余呂豆余尓《ヨロヅヨニ》 可多利都夏等之《カタリツゲトシ》
 許能多氣仁《コノタケニ》 比例布利家良之《ヒレフリケラシ》
 麻通羅佐用嬪面《マツラサヨヒメ》
 
【譯】永久に語り繼げとて、この山で領巾を振つたのであろう。松浦佐用比賣は。
【釋】可多利都夏等之 カタリツゲトシ。シは強意の助詞。
(500) 許能多氣仁 コノタケニ。タケは、高シの名詞形。高いもの。この山で。
 比例布利家良之 ヒレフリケラシ。ケラシは、ケルラシの約言。句切。
 麻通羅佐用嬪面 マツラサヨヒメ。松浦佐用比賣を呼びあげている。初句以下の敍述の主體であるが、これを末句に据えて、感動の意を表示している。
【評語】前の歌の内容を、語を代えて表現しただけのような歌だが、佐用比賣に對する感動が主になつている點は注意すべきである。
 
最々後人追和二首
 
【釋】最々後人追和二首 イトイトノチノヒトノオヒテコタフルフタツ。イトイトという例はないが、他に訓法が見當らないので、これによる。これも旅人の構成と見なされる。
 
874 海原の 沖行く船を、
 歸れとか 領巾振らしけむ。
 松浦佐用比賣。
 
 宇奈波良能《ウナハラノ》 意吉由久布祢遠《オキユクフネヲ》
 可弊禮等加《カヘレトカ》 比禮布良斯家武《ヒレフラシケム》
 麻都良佐欲比寶《マツラサヨヒメ》
 
【譯】海上の沖を行く船を、還れとてか、領巾を振つたのだろう。松浦佐用比賣は。
【釋】宇奈波良能 ウナハラノ。ウナハラは、海上の廣いのをいう。ハラは廣い處。
 意吉由久布祢遠 オキユクフネヲ。フネヲは、船だが、しかるにの意。
 可弊禮等加 カヘレトカ。カは疑問の係助詞。
 比禮布良斯家武 ヒレフラシケム。フラシは振るの敬語法。句切。
(501) 麻都良佐欲比賣 マツラサヨヒメ。前の歌と同樣、佐用比賣を呼んで感動を表示している。
【評語】前の歌とあまり氣分が變らない。領巾を振る目的をあきらかにした點が、多少の特色であろう。
 
875 行く船を 振り留《とど》みかね、
 いかばかり 戀《こほ》しくありけむ。
 松浦佐用比寶。
 
 由久布祢遠《ユクフネヲ》 布利等騰尾加祢《フリトドミカネ》
 伊加婆加利《イカバカリ》 故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》
 麻都良佐欲比賣《マツラサヨヒメ》
 
【譯】行く船を引き留めかねて、どのくらい悲しかつたであろう。松浦佐用比賣は。
【釋】布利等騰尾加祢 フリトドミカネ。フリは接頭語、フリサケ見ルなどのフリに同じ。領巾を振つての意とする説があるが、そうではあるまい。トドミは留ムの連用形。
 故保斯苦阿利家武 コホシクアリケム。コホシは、戀シの古い形。句切。
【評語】前の歌に續いて連作を成している。ここに至つて佐用比賣の失望を説いているが、三四句は力が弱く、その悲痛の情が痛切に感じられない。以上一體にこの佐用比賣の歌は、山名に囚われすぎているものが多く、せつかく絶好の題材を取りあげながら、白熱して來ないのは、作者の性格の枯淡なのによるものである。
 
書殿餞酒日、倭歌四首
 
【釋】書殿餞酒日倭歌 フミドノニテウマノハナムケセシヒノヤマトウタ。書殿は、大伴の旅人邸の圖書室を尊んでいう。その室で、旅人の大納言に任ぜられた送別の宴を開いたのである。餞は既出。倭歌は漢詩に對していう。この日、漢詩も作られたのであろう。この題詞は、以下四首に題するものであるが、次の敢布2私懷1歌三首も、同時のものであり、その後の天平二年十二月六日云々の行まで、一團となつている。旅人は十二月(502)に大宰府を發したのだから、この日附は、直前のものと言える。なおこれらの題詞は、作者みずから附したものと考えられる。
 
876 天《あま》飛ぶや 鳥にもがもや。
 都《みやこ》まで 送り申して
 飛び歸るもの。
 
 阿麻等夫夜《アマトブヤ》 等利余母賀母夜《トリニモガモヤ》
 美夜故摩提《ミヤコマデ》 意久利摩遠志弖《オクリマヲシテ》
 等比可弊流母能《トビカヘルモノ》
 
【譯】天を飛ぶ鳥にもなりたいものです。鳥だつたら都までお送り申して飛び歸りますものを。
【釋】阿麻等夫夜 アマトブヤ。既出。ヤは感動の助詞。
 等利尓母賀母夜 トリニモガモヤ。ガは願望の助詞。ガモヤの例は、「知々波々母《チチハハモ》 波奈爾母我毛夜《ハナニモガモヤ》」(卷二十、四三二五)などある。句切。
 意久利摩遠志弖等比可弊流母能 オクリマヲシテトビカヘルモノ。マヲシは敬語の助動詞。もと言上する義であるが、ここではただ敬語として添えられている。モノはモノヲの意。
【評語】何になりたい、殊に鳥になつたら、雲になつたら、思う所へ容易に行けるという意味の歌は多く、その點、類型的であるが、しかしこの歌は、三句以下が極めて率直に述べられており、これによつて、旅人に對する思慕の情がよく表現されているので、好感が持てる。四五句の言い方の如き、平易であつて、しかも容易に言い得ないものがある。よくこの人の特色を發揮していると言えよう。
 
877 人もねの うらぶれ居《を》るに、
 龍田山 御馬《みま》近づかば、
(503) 忘らしなむか。
 
 比等母祢能《ヒトモネノ》 宇良夫禮遠留尓《ウラブレヲルニ》
 多都多夜麻《タツタヤマ》 美麻知可豆加婆《ミマチカヅカバ》
 和周良志奈牟迦《ワスラシナムカ》
 
【譯】人々の寂しがつているのに、龍田山の御馬が近づいたなら、お忘れになるでしようか。
【釋】比等母祢能 ヒトモネノ。未詳の句。致證に人皆のの方言であろうかという。ヒトは人か一か。大宰府附近にヒトモネという山があるか。明瞭にしがたい。しかし殘された方面をいうことだけは推測される。
 宇良夫禮遠留尓 ウラブレヲルニ。ウラブレは、感傷するをいう。「往川之《ユクカハノ》 過去人之《スギニシヒトノ》 手不v折者《タヲラネバ》 裏觸立《ウラブレタテリ》 三和之檜原者《ミワノヒバラハ》」(卷七・一一一九)、「於v君戀《キミニコヒ》 裏觸居者《ウラブレヲレバ》 敷野之《シキノノノ》 秋〓子凌《アキハギシノギ》 左壯鹿鳴裳《サヲシカナクモ》」(卷十、二一四三)など、使用例は多い。
 多都多夜麻 タツタヤマ。龍田山を越えて大和に入るので、奈良に近づくことを言おうとしてこの山を出している。
 美麻知可豆加婆 ミマチカヅカバ。ミマは御馬。難波まで舟行し、それから馬に代えて龍田山を越える順序である。
 和周良志奈牟迦 ワスラシナムカ。ワスラシは、忘ルの敬語法。ナムは將來を豫想する助動詞。カは疑問の終助詞。
【評語】巧みに旅人の心中を忖度している。具體的に表現されており、送別の歌として特色のある作である。
 
878 言《い》ひつつも 後《のち》こそ知らめ。
 とのしくも さぶしけめやも。
 君|坐《いま》さずして。
 
 伊比都々母《イヒツツモ》 能知許曾斯良米《ノチコソシラメ》
 等乃斯久母《トノシクモ》 佐夫志計米夜母《サブシケメヤモ》
 吉美伊麻佐受斯弖《キミイマサズシテ》
 
(504)【譯】かように申しながらも、後になつて知ることでしよう。總じてつまらないことはないでしよう、あなたがおいでにならないでもと。
【釋】伊比都々母能知許曾斯良米 イヒツツモノチコソシラメ。三句以下を受けて、將來思い知るだろうと言つている。
 等乃斯久母 トノシクモ。未詳の句。やはり攷證に九州の方言だろうと言つている。トノシクが形容詞で、シクはその活用語尾だろうということは推量しがたくないが、トノは不明である。強いて求めれば、トノ曇ルなどいう場合、トノは全體的であることを意味するものと考えられるから、このトノシクもそれで、全體的にの意味をなすものでもあろうか。
 佐夫志計米夜母 サブシケメヤモ。サブシケまでが形容詞。それに助動詞ムが接續し、さて反語になつている。樂しくないことはないの意。
 吉美伊麻佐受斯弖 キミイマサズシテ。キミは旅人。三句以下は、人々のいうことと解せられる。
【評語】複雜な内容を、よく一首のうちに盛りあげている。但しそれだけに説明にもつぱらであつて情趣に乏しい憾みがないでもない。
 
879 萬代に 坐《いま》したまひて、
 天《あめ》の下 まをしたまはね。
 朝廷去らずて。
 
 余呂豆余尓《ヨロヅヨニ》 伊麻志多麻比提《イマシタマヒテ》
 阿米能志多《アメノシタ》 麻乎志多麻波祢《マヲシタマハネ》
 美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》
 
【譯】永久においでになつて、天下の政事を奏上なさいませ。朝廷を去らないで。
【釋】伊麻志多麻比提 イマシタマヒテ。タマヒは敬語の助動詞。
(505) 阿米能志多麻乎志多麻波祢 アメノシタマヲシタマハネ。アメノシタマヲスは、天下の政事を奏上する義で、政治を執るをいう。「天下《アメノシタ》 申賜者《マヲシタマヘバ》」(卷二、一九九)、「天下《アメノシタ》 奏多麻比志《マヲシタマヒシ》」(卷五、八九四)など使用されている。タマハネは、敬語の助動詞に、願望の助詞ネの接續した形。旅人は大納言になつて上京するので、天の下を奏したまえという。句切。
 美加度佐良受弖 ミカドサラズテ。ミカドは朝廷。サラズテは離れないで。
【評語】慶賀希望の意をもつて、第四首を構成しているのは順當の組織である。すべて普通の儀禮的な送別の言辭以上に、特色を出しているのは、さすがに憶良である。
 
敢布2私憤1歌三首
 
【釋】敢布私懷歌 アヘテオモヒヲノブルウタ。旅人に對する惜別の情は、前の四首に述べたので、この機會に、轉じて自身の懷を述べるのである。
 
880 天《あま》ざかる 鄙《ひな》に五年《イツトセ》
 住まひつつ、
 都《みやこ》の手ぶり 忘らえにけり。
 
 阿麻社迦留《アマザカル》 比奈尓伊都等世《ヒナニイツトセ》
 周麻比都々《スマヒツツ》
 美夜故能提夫利《ミヤコノテブリ》 和周良延尓家利《ワスラエニケリ》
 
【譯】遠い田舍に五年住んで、都の風俗も忘れてしまいました。
【釋】阿麻社迦留 アマザカル。既出。枕詞。
 比奈尓伊都等世周麻比都々 ヒナニイツトセスマヒツツ。ヒナは地方。ここは筑前の國。憶良は國守となつて赴任していたのである。五年は、國司となつて五年いたことをいう。國司の年限は、時代によつて違つてい(506)る。この歌の當時は四年であつて、後、天平寶字二年に六年になり、後また四年になつた。しかし遠隔の地はかならずしもこれによらなかつた。この歌は天平二年十二月の作だから、文字通り五年いたとすれば、神龜二年筑前の守に任ぜられたことになる。
 美夜故能提夫利 ミヤコノテブリ。テブリは手振りで、風俗をいう。
 和周良延尓家利 ワスラエニケリ。ワスラエは、忘ラエで、受身の忘ラユの連用形。忘られてしまつた。
【評語】すつかり田舍びてしまつた感慨が、よく歌われている。初句の天ザカルも、この場合、實によく利いている。
 
881 かくのみや 息《いき》づき居《を》らむ。
 あらたまの 來經往《きへゆ》く年の
 限り知らずて。
 
 加久能未夜《カクノミヤ》 伊吉豆伎遠良牟《イキヅキヲラム》
 阿良多麻能《アラタマノ》 吉倍由久等志乃《キヘユクトシノ》
 可伎利斯良受提《カギリシラズテ》
 
【譯】こんなふうにばかり、溜息をついているのでしようか。來ては去つて行く年のはてを知らないで。
【釋】加久能未夜 カクノミヤ。カクは、三句以下の事實をいう。ヤは疑問の係助詞。
 伊吉豆伎遠良牟 イキヅキヲラム。イキヅキは、大きな息をつく、溜息をつく。句切。
 阿良多麻能 アラタマノ。既出。枕詞。
 吉倍由久等志乃 キヘユクトシノ。キヘユクは、來經行く。來り、經過する。
 可伎利斯良受提 カギリシラズテ。カギリは際限。
【評語】四年の年限を過ぎたのに、なおそのままに置かれたことに對して、嘆息しているらしい。ちよつと類型的な言い方のように見えるが、連作の一首として、これを言つておく必要があるのであろう。
 
(507)882 吾《あ》が王《ぬし》の 御靈《みたま》賜ひて、
 春さらば、
 奈良の都《みやこ》に 召上《めさ》げたまはね。
 
 阿我農斯能《アガヌシノ》 美多麻多麻比弖《ミタマタマヒテ》
 波流佐良婆《ハルサラバ》
 奈良能美夜故尓《ナラノミヤコニ》 ※[口+羊]佐宜多麻波祢《メサゲタマハネ》
 
【譯】あなた樣のお蔭を蒙つて、春になりましたなら、奈良の都にお召しください。
【釋】阿我農斯能 アガヌシノ。ヌシは尊稱。多く主の字を當てているのは、君主の義をもととするからである。ノウシの約言とする説があるが、我ガの如き語に接續し、その他獨立語として使用されているから、この語原説は危まれる。しかしウシ(大人)と關係のある語なるべく、恐らくは、同語をヌシともウシとも發音していたのだろう。本集では「多々佐爾毛《タタサニモ》 可爾母與己佐母《カニモヨコサモ》 夜都故等曾《ヤツコトゾ》 安禮波安利家流《アレハアリケル》 奴之能等能度爾《ヌシノトノドニ》」(卷十八、四一三二)、「古昔爾《イニシヘニ》 君之三代經《キミガミヨヘテ》 仕家利《ツカヘケリ》 吾大主波《ワガオホヌシハ》 七世申禰《ナナヨマヲサネ》」(卷十九、四二五六)などある。
 美多麻多麻比弖 ミタマタマヒテ。ミタマは先方の靈魂。タマヒは、賜フの意の動詞。御恩頼を賜わつて。「皇御祖乃《スメロキノ》 御靈多須氣弖《ミタマタスケテ》」(卷十八、四〇九四)などいう。
 波流佐良婆 ハルサラバ。十二月なので、やがて春を迎えたならばの意に言つている。後、正月に地方官の任免が行われたが、當時既にそのことがあつたのであろう。
 ※[口+羊]佐宜多麻波祢 メサゲタマハネ。メサゲは召し上げ。タマハネは既出。
【評語】連作の第三首に至つて、本意をあきらかにしている。やはり全體として、その構成を味わうべきである。
 
天平二年十二月六日、筑前國司山上憶良謹上
 
(508)【釋】天平二年十二月六日 テニヒヤウノフタトセシハスノムカ。書殿餞酒の日の日附で、この行までで一團を成している。
 
三島王、後追和松浦佐用媛面歌一首
 
【釋】三島王 ミシマノオホキミ。舍人の皇子の王子で、養老七年正月に、无位から從四位の下を授けられている。
 後追和松浦佐用嬪面歌 ノチニオヒテコタフルマツラノサヨヒメノウタ。前掲の大伴の佐提比古云々の文辭を伴なう一團の歌に、後になつて唱和した歌で、配列の順序によれば、旅人が上京後、この追和の作を得たのであろう。
 
883 音《おと》に聞き 目にはいまだ見ず。
 佐用比賣《さよひめ》が 領巾《ひれ》振りきとふ、
 君|松浦《まつら》山。
 
 於登尓吉岐《オトニキキ》 目尓波伊麻太見受《メニハイマダミズ》
 佐容比賣我《サヨヒメガ》 必禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》
 吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》
 
【譯】名前は聞いているが、目にはまだ見ない。佐用比賣が領巾を振つたという、君を待つ、その松浦山は。
【釋】於登尓吉岐目尓波伊麻太見受 オトニキキメニハイマダミズ。名ばかり聞いて目にまだ見ないのである。松浦山の説明である。「音聞《オトニキキ》 目者未v見《メニハイマダミズ》 吉野川《ヨシノガハ》」(卷七、一一〇五)。
 必禮布理伎等敷 ヒレフリキトフ。トフは、トイフに同じ。「麻許登可聞《マコトカモ》 和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》」(卷十四、三三八四)など用例がある。
 吉民萬通良楊滿 キミマツラヤマ。君待つの意に、君を序として使用している。マツラヤマは松浦山で、領(509)巾麾の嶺をいう。「今木乃嶺《イマキノミネニ》 茂立《シゲリタツ》 嬬待木者《ツママツノキハ》」(卷九、一七九五)、「吾屋戸乃《ワガヤドノ》 君松樹爾《キミマツノキニ》」(卷六、一〇四一)。
【評語】初二句は説明的で、多分先行の歌があつたのだろう。この歌では利いていない。五句は、界用な言い方だが、これも類型的であまり效果がない平凡な歌である。
 
大伴君熊凝歌二首【大典麻田陽春作】
 
【釋】大伴君熊凝歌 オホトモノキミクマゴリノウタ。大伴の君熊凝については、下の山上の憶良の文章につまびらかである。この二首の歌詞によるに、熊凝自身の作のように歌つているから、この題も、一往、大伴の君熊凝の作つた歌の意に解すべきである。さて實は、題下の註にあるように、麻田の陽春の作で、もと文章もあつたのが逸失したのであろう。これは何人かが記し留めたものと考えられる。
 大典麻田陽春作 オホキフミヒトアサダノヤスノツクレル。大典は大宰の大典。麻田の陽春は既出(卷四、五七〇)。梅花の宴の作者中に見えないのは、その後に任命されたのであろう。
 
884 國遠き 道の長|手《て》を、
 おほほしく 今日や過ぎなむ。
 言問《ことど》ひもなく。
 
 國遠伎《クニトホキ》 路乃長手遠《ミチノナガテヲ》
 意保々斯久《オホホシク》 計布夜須疑南《ケフヤスギナム》
 己等騰比母奈久《コトドヒモナク》
 
【譯】國の遠い道の長い途中で、うつうつとして今日死ぬことだろうか。慰められる言葉もなくて。
【釋】國遠伎 クニトホキ。クニは郷國。家を離れて遠く途中にあることをいう。
 路乃長手遠 ミチノナガテヲ。ミチノナガテは既出。長い道路。ヲは、それだのに。
 意保々斯久 オホホシク。既出。鬱悒として。心の晴れやかでない形容。
(510) 計布夜須凝南 ケフヤスギナム。ヤは疑問の係助詞。スギは、この世を過ぎ行くをいう。死ぬこと。今日か死んで行くのだろうの意。死ぬことを推量し、それは今日かと凝つている言い方。句切。
 己等騰比母奈久 コトドヒモナク。コトドヒは、物を言うこと。ここは病状など尋ねかけられること。慰問のことば。
【評語】死のうとする者の上に同情して、その人の立場になつて詠んでいる。歌がらが、すなおに行つていないのは、題材にもよることであろう。寂しい氣持は窺える。
 
885 朝霧の 消易《けやす》きわが身、
 他國《ひとくに》に 過ぎがてぬかも。              親の目を欲《ほ》り。
 
 朝霧乃《アサギリノ》 既夜須伎我身《ケヤスキワガミ》
 比等國尓《ヒトクニニ》 須疑加弖奴可母《スギガテヌカモ》
 意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》
 
【譯】朝霧のような消えやすいわたしの身だが、他國では死に切れない。親に逢いたくして。
【釋】朝霧乃 アサギリノ。枕詞。過ギに冠する。仙覺本には、朝露乃になつており、無常思想からは、それが常道だが、朝霧は、過グの語に縁があり、有機的にまさつている。
 既夜須伎我身 ケヤスキワガミ。ケヤスキは亡びやすいのをいう。佛教思想を受けている。熊凝に代わつて詠んでいるので、わが身という。
 比等國尓 ヒトクニニ。ヒトクニは他國をいう。「比等久爾波《ヒトクニハ》 須美安之等曾伊布《スミアシトゾイフ》」(卷十五、三七四八)などある。ニは、において。
 須凝加弖奴可母 ヌギガテヌカモ。スギは前の歌と同じく死ぬをいう。ガテヌは困難な意の助動詞。ここは不能の意に使つている。死ぬことができないなあ。死に切れないなあの意。句切。
(511) 意夜能目遠保利 オヤノメヲホリ。メヲホリは、目を欲りで、逢いたさに。
【評語】死に面しての煩悶が取りあげられている。恐らくは死を容易なものとした古人のあいだに、こういう思想はすくない方だ。初二句は、この歌では必要だが、佛教の無常思想が出て理くつになつている。もつと純情一本で行きたいところだつた。作者が知識人だから説明的になるのはやむを得なかつたのだろう。
 
敬和爲2熊凝1述2其志1歌六首并v序       筑前國守山上憶良
 
敬みて和ふる、熊凝のためにその志を述ぶる歌六首。【序并はせたり。】     筑前の國の守山上の憶良
 
【釋】敬和爲熊凝述其志歌六首 ツツシミテコタフルクマゴリノタメニソノココロザシヲノブルウタムツ。麻田の陽春の作つた歌に唱和した歌で、陽春に對して敬和と言つている。六首は、長歌と反歌五首とを併わせいう。他の例と違うが、これで反歌も數のうちにはいることになる。
 筑前國守山上憶良 ツクシノミチノクチノクニノカミヤマノウヘノオクラ。この作者の名の位置、集中の例と相違している。しかしかような位置に書くことは、既に卷の四にも、笠の朝臣金村の歌にその例があつた。原文のままか編者の註記かわからないが、もとからたまたまかような形があつたのであろう。仙覺本にはこれを敬和云々の上に載せているが、これは他の例に合わせようとしたための作爲である。この篇は、文中に天平三年六月十七日の文字があり、その後の作であるが、憶良は、その頃まで筑前の守であつたのであろう。その年の七月に旅人は死んでいるから、どういう經路によつて集中に入つたかもあきらかでないが、その死を知らないで呈上したものであろうか。
 
大伴君熊凝者、肥後國益城郡人也。年十八歳、以2天平三年六月十七(512)日1、爲2相撲使ム國司官位姓名從人1、參2向京都1、爲v天不v幸、在v路獲v疾、即於2安藝國佐伯郡高庭驛家1身故也。臨終之時、長歎息曰、傳聞、假合之身易v滅、泡沫之命難v駐。所以千聖已去、百賢不v留。況乎凡愚微者、何能逃避。但我老親、竝在2庵室1、待v我過v日、自有2傷v心之恨1、望v我違v時、必致2喪v明之泣1。哀哉我父、痛哉我母。不v患2一身向v死之途1、唯悲2二親在v生之苦1。今日長別、何世得v覲。乃作2歌六首1而死。其歌曰、
 
大伴の君熊凝は、肥後の國|益城《ましき》の郡の人なり。年十八歳にして、天平三年六月十七日を以ちて、相撲使某の國の司官位姓名の從人《ともびと》となり、京都《みやこ》に參《まゐ》向かふ。天なるかも、幸あらず、路にありて疾を獲、すなはち安藝の國佐伯の郡高庭の驛家《うまや》にして身故《みまか》りぬ。臨終《みまか》らむとする時、長嘆息して曰はく、傳へ聞く、假に合へる身は滅び易く、泡沫の命は駐め難しといふ。この所以《ゆゑ》に千聖已に去り百賢も留らず。まして凡愚の微《いや》しき者、何《なに》ぞもよく逃れ避らむ。ただわが老いたる親、竝に庵室に在《いま》す。我を待ちて日を過したまひ、おのづから心を傷むる恨みあり。我を望みて時に違はば、かならず明を喪ふ泣《なみだ》を致さむ。哀しきかもわが父、痛《いたま》しきかもわが母、一《ひとり》の身の死に向かふ途を患へず、ただ二の親の世にいます苦を悲しむ。今日|長《とこしへ》に別れなば、いづれの世にか覯《み》ることを得むといふ。すなはち、歌六首を作りて死《みまか》りぬ。その歌に曰はく、
 
【譯】大伴の君熊凝は、肥後の國益城の郡の人である。年十八歳で、天平三年六月十七日をもつて、相撲使の、何の國の役人官位姓名の從者となつて都に向かつた。運命か、不幸にも途中で病氣になり、安藝の國佐伯の郡の高庭の驛家で死んでしまつた。その死のうとする時に、歎息していうには、傳え聞くところでは、假に生まれた身は亡びやすく、水の泡のような命は留めがたいということだ。それだから多くの聖人賢者も、みな死に(513)去つた。まして物の數でもない賤しい者が、どうして逃れることができよう。ただわが年取つた親が、草屋にあつて、わたしを待つて日を過ごして、わたしが歸らなかつたら自然に心を傷つける恨みがある。わたしの歸りを待つているから、時に違つたら、きつと失明の涙を出すだろう。かなしいことだ、痛ましいことだ、わたしの父母は。わたしの一身の死に向かう道を心配しないが、ただ兩親の、この世での苦しみが悲しいのだ。今日永久に別れたら、いつの世にお目に懸かれようと言つて、そこで六首の歌を詠んで死んだ。その歌は次の通りである。
【構成】身故也まで事實を記す。以下、熊凝の意中を推量して、その言として述べ、歌六首を詠んで死んだとしている。
【釋】大伴君熊凝者 オホトモノキミクマゴリは。大伴の君は、大伴の宿称と關係のない氏。熊凝は、日本書紀神功皇后の卷に熊之凝という人があり、熊の心の意であろう。
 肥後國益城郡 ヒノミチノシリノクニノマシキノコホリ。今熊本縣に屬し、上益城、下益城の二郡となつている。
 相撲使 スマヒノツカヒ。相撲部領便に同じ。力士をつれて行く使。
 ム國司官位姓名 ソレノクニノツカサクラヰカバネナ。ムは、某の古字で、類聚名義抄にソレの訓がある。何の國の司、何の官位姓名何某とわかつているのだが、その從人の事を記す私的な文章に、その主人の官位姓名を出すべきでないから、わざと書かないのである。その相撲使は誰であるかわからないが、麻田の陽春であつたかも知れない。
 爲天不幸 アメナルカモサキハヒアラズ。爲天は天道としての意。
 安藝國佐伯郡高庭驛家 アギノクニノサヘキノコホリタカニハノウマヤ。廣島縣佐伯郡、今、海を隔てて嚴(514)島に對する地に高帛の名が殘つている。
 假合之身 カリニアヘルミ。佛説に、人身は、地水火風の四大が假に合つて成れるものという。
 望我違時 ワレヲノゾミテトキニタガハバ。自分の歸るのを待つていて、もし歸るべき時に違わば。
 喪明之泣 アカリヲウシナフナミダ。泣いて失明するだろう。泣は涙。
 
886 うち日さず 宮へ上《のぼ》ると、
 たらちしや 母が手|離《はな》れ、
 常知らぬ 國の奧處《おくか》を
 百重山 越えて過ぎゆき、
 何時しかも 京師《みやこ》を見むと
 思ひつつ 語らひ居《を》れど、
 おのが身し いたはしければ、
 玉桙の 道の隈《くま》みに
 草|手折《だを》り 柴取り敷きて、
 とけじもの うち臥伏《こいふ》して、
 思ひつつ 歎き臥《ふ》せらく、
 國にあらば 父とり見まし。
 家にあらば 母とり見まし。
(515) 世間《よのなか》は かくのみならし。
狗《いぬ》じもの 道に臥《ふ》してや、
命過ぎなむ。【一は云ふ、わが世過ぎなむ。
 
 宇知比佐受《ウチヒサズ》 宮弊能保留等《ミヤヘノボルト》
 多羅知斯夜《タラチシヤ》 波々何手波奈例《ハハガテハナレ》
 常斯良奴《ツネシラヌ》 國乃意久迦袁《クニノオクカヲ》
 百重山《モモヘヤマ》 越弖須疑由伎《コエテスギユキ》
 伊都斯可母《イツシカモ》 京師乎美武等《ミヤコヲミムト》
 意母比都々《オモヒツツ》 迦多良比遠禮騰《カタラヒヲレド》
 意乃何身志《オノガミシ》 伊多波斯計禮婆《イタハシケレバ》
 玉桙乃《タマホコノ》 道乃久麻尾尓《ミチノクマミニ》
 久佐太袁利《クサダヲリ》 志婆刀利志伎提《シバトリシキテ》
 等許自母能《トケジモノ》 宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》
 意母比都々《オモヒツツ》 奈宜伎布勢良久《ナゲキフセラク》
 國尓阿良婆《クニニアラバ》 父刀利美麻之《チチトリミマシ》
 家尓阿良婆《イヘニアラバ》 母刀利美麻志《ハハトリミマシ》
 世間波《ヨノナカハ》 迦久乃尾奈良志《カクノミナラシ》
 伊奴時母能《イヌジモノ》 道尓布斯弖夜《ミチニフシテヤ》
 伊能知周疑南《イノチスギナム》【一云、和何余須疑奈牟】
 
【譯】りつぱな都へ上ると、慕わしい母の手を離れて、常には知らない國の先の方を、幾重もの山を越えて過ぎ行き、早く都を見ようと、思つて話をするけれども、自分の身體が大儀なので、道路のすみに草を積み木の枝を敷いて、床のようにしてころげ伏して、思いつつ嘆息して横たわつて、國にいたら父が見てくれるだろう、家にいたら母が見てくれるだろう。世の中はこんなことなのか。犬のように道路に倒れて死ぬのだろうか。
【構成】別に段落はない。歎キ伏セラクまで、熊凝が道中で病を得て倒れることを敍す。その以下は熊凝の感慨を述べている。
【釋】宇知比佐受 ウチヒサズ。枕詞。既出ウチヒサス(卷三、四六〇)に同じ。受は濁音ズを表示する文字であるから、文字通りウチヒサズと讀むべきである。この語は、普通ウチヒサスであるが、「打久津《ウチヒサツ》(卷十三、三二九五)、「宇知比佐都《ウチヒサヅ》」(卷十四、三五〇五)と書かれたものと、同語と見るべく、その最後の音は、動搖していたものと考えられる。この作者は、往々にして方言の如き特殊語をも使用するので、ズの音を意識して受を用いたのであろう。また清音のスであるべき場合に受を用いた例は「安左乎良乎《アサヲラヲ》 遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》 宇麻受登毛《ウマズトモ》」(卷十四、三四八四)、「由豆流波乃《ユヅルハノ》 布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》 可是布可受可母《カゼフカズカモ》」(同、三五七二)があり、これらは東歌であつて、今と同じく清音であるべき場合に、濁音を使つたものと考えられる。濁音の文字は、濁音に讀むを原則とすべきであつて、みだりに清音を混淆すべきではない。
 宮弊能保留等 ミヤヘノボルト。ミヤは朝廷をいう。
(516) 多羅知斯夜 タラチシヤ。母に冠する枕詞は、通例タラチネノの形を採つているが、ここにこの形の出ていることは注意される。これは「垂乳爲《タラチシ》 母所v懷《ハハニウダカエ》」(卷十六、三七九一)と共に、この詞の原形的なものと考えられる。多分タラチシは足ラシシ、ヤは感動の助詞で、養育したの意をもつて、母の説明をするのであろう。子を育てることを日足《ひた》スということと關係づけて考えられる。ヤスミシシを八隅知之、安見知之と書くように、タラシシの上のシが、動搖してチとも聞えたのであろう。なおこの反歌の第一首にはタラチシノとあつて、中間的な形を採つている。
 常斯良奴 ツネシラヌ。平常は知らない。まだ知らぬ國に行くことをいう。
 國乃意久迦袁 クニノオクカヲ。オクカは、奥の庭。國の先の方をいう。「霞立《カスミタツ》 春長日乎《ハルノナガヒヲ》 奧香無《オクカナク》 不v知山道乎《シラヌヤマチヲ》 戀乍可將v來《コヒツツカコム》」(卷十二、三一五〇)、「大海乃《才ホウミノ》 於久可母之良受《オクカモシラズ》 由久和禮乎《ユクワレヲ》」(卷十七、三八九七)など使用例は多い。
 百重山 モモヘヤマ。山の幾重にも多く重なつているのをいう。
 伊都斯可母 イツシカモ。何時かであるが、強意の助詞シがあるので、何時になつたらか、早くの意になる。
 迦多良比袁禮騰 カタラヒヲレド。カタラヒは、語ルの連續して行われるをいう。友と語らうのである。
 意乃何身志 オノガミシ。己が身しで、シは張意の助詞。
 伊多波斯計禮婆 イタハシケレバ。イタハシは、勞苦に思われる形容で、「誰心《タガココロ》 勞跡鴨《イタハシトカモ》」(卷十三、三三三五)など、勞をイタハシと讀んでいる。
 道乃久麻超尓 ミチノクマミニ。クマミは隈で、曲り角などの隅を作つている處。そのミは接尾語。
 久佐太袁利 クサダヲリ。草手折の義とされている。太はダの音を表示する字であるが、「阿良之乎乃《アラシヲノ》 伊乎佐太波佐美《イヲサダハサミ》」(卷二十、四四三〇)の如き、清音であるべき場合にも使用されている。
(517) 志婆刀利志伎提 シバトリシキテ。シバは、ここは樹枝をいう。トリは接頭語。
 等計自母能 トケジモノ。
  トケシモノ(神)         
  ――――――――――
  等許自母能《トコシモノ》(代初)
 仙覺の註釋に解霜の意とし、代匠記に計を許の誤りとして、床じものとしている。トコジモノで床のようにしての意であろうか。
 字知許伊布志提 ウチコイワシテ。ウチは接頭語。コイは、動詞コユの連用形。ころぶ意。
 奈宜伎布勢良久 ナゲキフセラク。フセラクは、臥せること。次の句以下、臥して思うことを敍している。
 父刀利美麻之 チチトリミマシ。トリミルは看護する。
 世間波迦久乃尾奈良志 ヨノナカハカクノミナラシ。既出(卷三、四七八)。この卷の日本挽歌の一云にも出ている。
 伊奴時母能 イヌジモノ。犬じもので、犬の如く。
 道尓布斯弖夜 ミチニフシテヤ。ヤは、疑問の係助詞。
 伊能知周疑南 イノチスギナム。スギは、この世を過ぎ去る意で、死ぬをいう。
 一云和何余須疑奈牟 アルハイフ、ワガヨスギナム。ヨは生涯。この句は、末句の別傳であるが、次の反歌の第一首の終りにあつたものが、ここに轉じたのだろうとする説がある。それは反歌の五首のうち、第二首から第五首までの四首は、いずれも末句の別傳と見られるものを有しており、それは多分、第五句をすこし變えて歌つたもので、いわゆる佛足跡歌體の歌であつたものを、後人が、それを理解し得ないで、誤つて一云を冠するに至つたものだろう。そうしてその形が反歌の第一首のみにないのは、もとあつたものが長歌の方に移つたのだろうというのである。佛足跡歌體の第六句に、誤つて一云を冠するに至つたのだということは、あり得(518)そうなことで、卷の十八の四〇三七の如き、その例として指摘することができる。しかし第一首の別傳が、その位置を誤つたのだということは、この句は長歌の末句と似た句なので、やはりそのまま長歌の末句をすこし變えて繰り返したのだと見る方がまさつているだろう。
【評語】悲痛の題材を取り扱つていながら、それほどに響かないのは、敍述が冗長だからである。道路で病氣になるあたりは、かなり具體的に敍してはいるが、まだ描寫が足りない。未定稿のままに傳わつたと見られるが、そんなこともあるだろう。
 
887 たらちしの 母が目見ずて、
 おほほしく 何方《いづち》向きてか、
 吾《あ》が別るらむ。
 
 多良知子能《タラチシノ》 波々何目美受提《ハハガメミズテ》
 意保々斯久《オホホシク》 伊豆知武伎提可《イヅチムキテカ》
 阿我和可留良武《アガワカルラム》
 
【譯】慕わしい母の顔を見ないで、うつうつとしてどちらを向いてか、わたしが別れることだろう。
【釋】多良知子能 タラチシノ。枕詞。長歌「多羅知斯夜《タラチシヤ》」の條參照。恐らくは、タラチシの語が、その本義を忘れて、ノを加えるに至つたのだろう。
 波々何目美受提 ハハガメミズテ。メヲミルは逢うことで、その打消である。
 伊豆知武伎提可 イヅチムキテカ。家郷の方向を知らない趣であろうが、表現は不十分である。
 阿我和可留良武 アガワカルラム。ラムは、三句以下を推量している。
【評語】以下五首は反歌だが、別に反歌とはことわつていない。この歌、家郷の方を何方とも知らず、旅の空で母を慕いつつ死のうとする心が歌われている。
 
(519)888 常知らぬ 道の長手《ながて》を、
 くれくれと いかにか行かむ。
 糧米《かりて》は無しに。【一は云ふ。乾飯は無しに。】
 
 都祢斯良農《ツネシラヌ》 道乃長手袁《ミチノナガテヲ》
 
久禮々々等《クレクレト》 伊可尓可由迦牟《イカニカユカム》
 
可利弖波奈斯尓《カリテハナシニ》【一云、可例比波奈之尓】
 
【譯】常には知らない長い道を、たよりなくどういうふうにわたしは行くのだろう。たべものはなしに。
【釋】都祢斯良農道乃長手袁 ツネシラヌミチノナガテヲ。長歌の詞句を取つているが、意は變えて、死んで行く道を言つている。
 久禮々々等 クレクレト。クレは闇い義で、それを重ねて副詞を作つている。おぼつかないさまである。「于之盧母倶例弖《ウシロモクレニ》 飫岐底※[舟/可]〓※[舟/可]武《オキテカユカム》」(日本書紀一二〇)のクレも同じとされている。「奧浪《オキツナミ》 來因濱邊乎《キヨルハマベヲ》 久禮々々等《クレクレト》 獨曾我來《ヒトリゾワガクル》 妹之目乎欲《イモガメヲホリ》」(卷十三、三二三七)。
 伊可尓可由迦牟 イカニカユカム。行くべきさまを案じている。句切。
 可利弖波奈斯尓 カリテハナシニ。カリテは、靈異記下卷訓釋に「糧、可里弖《カリテ》」とある。カテは、この語から出たものであろう。語原は乾飯値だろうという。
 一云可例比波奈之尓 アルハイフ、カレヒハナシニ。カレヒは乾飯をいう。靈異記下卷訓釋に「飼、可禮意比《カレイヒ》」とある。この句第五句の別傳と見られるが、長歌の末において記したように、一云の二字は誤つて冠せられたもので、もと佛足跡歌體の歌であろうという。以下第五首まで、皆同樣に言われている。
【評語】糧米は無シニと歌つたのは、やはり憶良らしく、よく生活に徹している。上品な作風の人だつたら、こうは言い得ないだろう。暗い氣持のよくわかる歌である。
 
(520)889 家にありて 母がとり見《み》ば
 慰むる 心はあらまし。
 死なば死ぬとも。【一は云ふ、後は死ぬとも。】
 
 家尓阿利弖《イヘニアリテ》 波々何刀利美婆《ハハガトリミバ》
 奈具佐牟流《ナグサムル》 許々呂波阿良麻志《ココロハアラマシ》
 斯奈婆斯農等母《シナバシヌトモ》【一云、能知波志奴等母】
 
【譯】家にいてお母さんが看護してくだすつたら、慰む心もあつたろうに。よし死ぬにしても。
【釋】波々何刀利美婆 ハハガトリミバ。トリミルは、長歌に出ている。
 許々呂波阿良麻志 ココロハアラマシ。假設推量法。句切。
 斯奈婆斯農等母 シナバシヌトモ。よし死ぬとても。
【評語】長歌の、家ニアラバ母トリ見マシを受けている。せめてもと思い切れない心が寫されている。
 
890 いでて行きし 日を數へつつ
 今日今日と 吾《あ》を待たすらむ
 父母らはも。【一は云ふ、母が悲しさ。】
 
 出弖由佳斯《イデテユキシ》 日乎可俗閉都々《ヒヲカゾヘツツ》
 家布々々等《ケフケフト》 阿袁麻多周良武《アヲマタスラム》
 知々波々良波母《チチハハラハモ》【一云、波々我迦奈斯佐】
 
【譯】出て行つた日を數えながら、今日か今日かとわたしを待つていなさるだろう兩親はなあ。
【釋】出弖由佳斯日乎可俗閉都々 イデテユキシヒヲカゾヘツツ。出發した日を何月何日と數えながら。
 家布々々等 ケフケフト。今日は歸るかとの意を、今日を重ねることによつて強調している。
 阿袁麻多周良武 アヲマタスラム。マタスは待ツの敬語法。ラムは終止形も連體形も同じであるが、ここは連體形と見るべきである。
 知々波々良波母 チチハハラハモ。ラは接尾語。ハモは提示詠嘆の助詞。
(521) 一云波々我迦奈斯佐 アルハイフ、ハハガカナシサ。本文の第五句は父母を歌い、これは母について言つている。これなどは佛足跡歌體とすると、よくその妙趣を發揮するものだ。
【評語】父母の待つている有樣を想像している。これもあわれな歌である。
 
891 一世《ひとよ》には 二遍《ふたたび》見えぬ
 父母を
 置きてや長く 吾《あ》が別れなむ。【一は云ふ、あひ別れなむ。】
 
 一世尓波《ヒトヨニハ》二遍美延農《フタタビミエヌ》
 知々波々袁《チチハハヲ》
 意伎弖夜奈何久《オキテヤナガク》 阿我和加禮南《アガワカレナム》【一云、相別南】
 
【譯】一生のうちでは二度見られない父母を置いてか、永久にわたしは別れるのだろう。
【釋】一世尓波 ヒトヨニハ。ヒトヨは一つの生涯。
 二遍美延農 フタタビミエヌ。別れては再會する由なきをいう。以上二句、佛説にいう、親子は一世の思想とするには、表現不十分である。
 意伎弖夜奈何久 オキテヤナガク。オキテは、この世に殘し置いて。ナガクは永久に。
【評語】一度別れては、また見ることを得ないことを歎いている。單純な内容だけに悲痛の感は一層である。以上、父母を慕いながら旅中に死んだ少年を描いて、よく同情の心を披瀝している。少年の死をあわれんで、その父母を思うことを中心とした表現は、よくこの作者の倫理的な性格を語つている。名作とは言えないが、さすがに特色のある作である。
 
貧窮問答歌一首 并2短歌1
 
(522)【釋】貧窮問答歌 マヅシキヒトノトヒコタフルウタ。ある人と貧窮者との問答體の歌で、もちろん問答とも作者の構成であるが、間者の方には、幾分作者自身の姿が描かれていると言われている。主眼は、答の方にあつて長歌の後半と反歌とをもつて組織され、この世における極貧の者が描かれている。題は、貧窮人の問答の歌の意であろう。私註には、漁樵問答が、漁者と樵者との問答であることをあげて、貧者と窮者との問答の意であるとしている。しかし貧も窮も、訓はマヅシであり、問の部に、吾ヨリモマヅシキ人というのが、答者であるから、作者は、貧と窮とを區別していたとは思われない。作者は、反歌の左証に、「山上憶良謹上」とあり、筑前の守を離れて後に作つたものの如く、何人に贈つたかは知られない。旅人の死ぬ前、もしくは死後その死を知らないで贈つたものかも知れない。
 
892 風|雜《まじ》り 雨降る夜《よ》の
 雨|雜《まじ》り 雪降る夜は、
 すべもなく 寒くしあれば、
 堅鹽《かたしほ》を 取りつづしろひ
 糟湯酒《かすゆざけ》 うち啜《すす》ろひて、
 咳《しは》ぶかひ 鼻びしびしに
 しかとあらぬ 鬚かき撫でて、
 吾《あれ》を除《お》きて 人はあらじと
 誇ろへと 寒くしあれば、
(523)  麻衾《あさぶすま》 引き被《かがふ》り
 布眉衣《ぬのかたぎぬ》 ありのことごと
 服襲《きそ》へども 寒き夜すらを、
 我《われ》よりも 貧しき人の
 父母は 飢《う》ゑ寒からむ。
 妻子《めこ》どもは さくり泣くらむ。
 この時は いかにしつつか
 汝が世は渡る。」
 天地は 廣しといへど、
 あが爲《ため》は 狹《さ》くやなりぬる。
 日月は 明《あか》しといへど、
 あがためは 照りや給はぬ。
 人皆か 吾《われ》のみや然る。
 わくらばに 人とはあるを、
 人|竝《なみ》に 吾《あれ》も作《つく》るを、
 綿もなき 布眉衣《ぬのかたぎぬ》の
(524) 梅松《みる》の如 わわけさがれる
 繿縷《かがふ》のみ 肩にうち懸け、
 伏廬《ふせいほ》の 曲廬《まげいほ》の内に
 直土《ひたつち》に 藁解き敷きて、
 父母は 枕頭《まくら》の方に
 妻子《めこ》どもは 後方《あと》の方に
 圍《かく》み居《ゐ》て 憂へさまよひ、
 竈《かまど》には 火氣《けぶり》ふき立てず、
 甑《こしき》には 蜘蛛の巣懸きて、
 飯《いひ》炊《かし》く 事も忘れて、
 ※[空+鳥]鳥《ぬえどり》の のどよひ居《を》るに、
 いとのきて 短き物を
 端《はし》截《き》ると 云へるが如く、
 楚《しもと》取《と》る 里長《さとをさ》が聲は、
 寢屋戸《ねやど》まで 來《き》たち呼《よ》はひぬ。
 かくばかり すべ無きものか。
 世間《よのなか》の道。」
 
 風雜《カゼマジリ》 雨布流欲乃《アメフルヨノ》
 雨雜《アメマジリ》 雪布流欲波《ユキフルヨハ》
 爲部母奈久《スベモナク》 寒之安禮婆《サムクシアレバ》
 堅鹽乎《カタシホヲ》 取都豆之呂比《トリツヅシロヒ》
 糟湯酒《カスユザケ》 宇知須々呂比弖《ウチススロヒテ》
 之〓夫可比《シハブカヒ》 鼻※[田+比]之※[田+比]之尓《ハナビシビシニ》
 志可登阿良農《シカトアラヌ》 比宜可伎撫而《ヒゲカキナデテ》
 安禮乎於伎弖《アレヲオキテ》 人者安良自等《ヒトハアラジト》
 富己呂陪騰《ホコロヘド》 寒之安禮婆《サムクシアレバ》
 麻被《アサブスマ》 引可賀布利《ヒキカガフリ》
 布可多衣《ヌノカタギヌ》 安里能許等其等《アリノコトゴト》
 伎曾倍騰毛《キソヘドモ》 寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》
 和禮欲利母《ワレヨリモ》 貧人乃《マヅシキヒトノ》
 父母波《チチハハハ》 飢寒良牟《ウヱサムカラム》
 妻子等波《メコドモハ》 乞々泣良牟《サクリクラム》
 此時者《コノトキハ》 伊可尓之都々可《イカニシツツカ》
 汝代者和多流《ナガヨハワタル》
 天地者《アメツチハ》 比呂之等伊倍杼《ヒロシトイヘド》
 安我多米波《アガタメハ》 狹也奈理奴流《サクヤナリヌル》
 日月波《ヒツキハ》 安可之等伊倍騰《アカシトイヘド》
 安我多米波《アガタメハ》 照哉多麻波奴《テリヤタマハヌ》
 人皆可《ヒトミナカ》 吾耳也之可流《ワレノミヤシカル》
 和久良婆尓《ワクラバニ》 比等々波安流乎《ヒトトハアルヲ》
 比等奈美尓《ヒトナミニ》 安禮母《アレモ》作《ツクル・ナレル》乎《ヲ》
 綿毛奈伎《ワタモナキ》 布可多衣乃《ヌノカタギヌノ》
 美留乃其等《ミルノゴト》 和々氣佐我禮流《ワワケサガレル》
 可可布能尾《カガフノミ》 肩尓打懸《カタニウチカケ》
 布勢伊保能《フセイホノ》 麻宜伊保乃内尓《マゲイホノウチニ》
 直土尓《ヒタツチニ》 藁解敷而《ワラトキシキテ》
 父母波《チチハハハ》 枕乃可多尓《マクラノカタニ》
 妻子等母波《メコドモハ》 足乃方尓《アトノカタニ》
 圍居而《カクミヰテ》 憂吟《ウレヒサマヨヒ》
 可麻度柔播《カマドニハ》 火氣布伎多弖受《ケブリフキタテズ》
 許之伎尓波《コシキニハ》 久毛能須可伎弖《クモノスカキテ》
 飯炊《イヒカシク》 事毛和須禮提《コトモワスレテ》
 奴延鳥乃《ヌエドリノ》 能杼與比居尓《ノドヨヒヲルニ》
 伊等乃伎提《イトノキテ》 短物乎《ミジカキモノヲ》
 端伎流等《ハシキルト》 云之如《イヘルガゴトク》
 楚取《シモトトル》 五十戸良我許惠波《サトヲサガコヱハ》
 寝屋度麻低《ネヤドマデ》 來立呼比奴《キタチヨバヒヌ》
 可久婆可里《カクバカリ》 須部奈伎物能可《スベナキモノカ》
 世間乃道《ヨノナカノミチ》
 
(525)【譯】風がまじつて雨が降る夜の、雨がまじつて雪の降る夜は、何としようもなく寒いので、鹽を嘗《な》め嘗め、酒糟を湯に溶かしたものをすすつて、咳をし、鼻水をすすり上げて、あるともない鬚を撫でて、自分をおいてまた人はあるまいと誇るけれども、寒いから、麻の衾を引きかぶり、布の肩ばかりの衣のありたけを著添えるけれども、寒い夜であるのを、わたしよりも貧しい人の、父母は飢えて寒いだろう。妻子どもはしやくり泣きをしているだろう。この時はどういうふうにして、この世を渡るのですか。天地は廣いというけれども、わたしに取つては狹くなつたのですか。日月はあかるいというけれども、わたしのためにはお照りにならないのですか。人皆がこうでしようか。わたしのみがこうであるのか。たまたまに人とはあるのを、人竝にわたしも耕作をするのを、綿もない布の肩衣の、海松《みる》のような繿縷になつたのを、肩にうち懸け、見る影もない曲つた家に、土間に藁を解き敷いて、父母は枕の方に、妻子たちは足の方に、圍んでいて、憂え呻吟し、竈には煙を立てず、甑には蜘蛛が巣を掛けて,飯を炊く方法も忘れて、※[空+鳥]鳥のようにうめいているのに、特別に短い物を端を切るということのように、鞭を取る村長の聲は、寢室の入口まで來て呼んでいる。これほどまでに致し方のないものでしようか。世の中の道は。
【構成】二段から成つている。コノ時ハイカニシツツカ汝ガ代ハ渡ルまで第一段、寒夜における一の人物をして語らせる。問の部分である。以下第二段、極貧者の答である。各段おのおの長歌の定型でできている。
【釋】風雜雨布流欲乃 カゼマジリアメフルヨノ。風がまじつて雨の降る夜で、雨の降るのが主で、それに風も加わつている意。寒夜を描いている。ノは、同形の語を重ねるための助詞で、生く日の足る日の如き言い方で、寒夜であることを強調する。「風交《カゼマジリ》 雪者雖v零《ユキハフレドモ》」(卷八、一四四五)、「風交《カゼマジリ》 雪者零乍《ユキハフリツツ》 然爲蟹《シカスガニ》 霞田菜引《カスミタナビキ》 春去爾來《ハルサリニケリ》」(卷十、一八三六)。
 兩雜雪布流欲波 アメマジリユキフルヨハ。上の二句と同形の句を重ねている。雨をまじえて雪の降る夜で、(526)この方が主であり、結局その上に風も加わつていることになる。
 爲部母奈久寒之安禮婆 スベモナクサムクシアレバ。スベ無シは、この歌における總括的な批判であつて、答の部に、極貧の生活を具體的に描いて、最後に、カクバカリスベ無キモノカ世ノ中ノ道と結んでいる。また寒クシアレバは、問の部における主條件で、下にも寒クシアレバ、寒キ夜スラヲと重ねて出ている。
 堅鹽乎 カタシホヲ。カタシホは、日本書紀欽明天皇の卷の訓詁に「竪鹽、此(ヲ)云(フ)2岐※[手偏+施の旁]志《キタシト》1」とあり、倭名類聚鈔に、「今按(スルニ)、俗(ニ)呼(ビ)2黒鹽(ト)1爲(ス)2堅鹽《カタシホト》1」とある。精製しないで固まつている鹽である。
 取都豆之呂比 トリツヅシロヒ。トリは接頭語。下の動詞の意を強めるもの。ツヅシロヒは、ツヅシルの連續動作を示すもの。ツヅシルは、類聚名義抄、伊呂波字類抄などに、※[口+幾]をツヅシルと讀んでいる。その※[口+幾]は説文に小食也とあつて、すこしずつ食うをいう。今昔物語集卷の二十八に、「鹽辛キ物共ヲツヅシルニ」、源氏物語の帚木の卷に、「かげもよしなどつゞしりうたふ程に」。
 糟湯酒 カスユザケ。酒の糟を湯にとかしたもの。實物の酒を飲むことができない貧しさを描いている。
 宇知須々呂比弖 ウチススロヒテ。ウチは接頭語。ススロヒは啜ルの連續を示す語。
 之〓夫可比 シハブカヒ。〓は、諸本に可に作つているが、可では解釋が成立しない。よつて萬葉考に波の誤りとしている。今、意をもつて〓に作る。これは既に、「草取〓奈知《クサトリハナチ》」(卷三、三八五)の條に説いた。〓は可の反對の不可の意の字で、字音ハであり、本集では、「敷々丹《シクシクニ》 不v思人〓《オモハズヒトハ》 雖v有《アラメドモ》」(卷十三、三二五六、古本による)の用例がある。シハブカヒは、シハブキの連續を語る語。
 鼻※[田+比]之※[田+比]之爾 ハナビシビシニ。ビシビシニは、集中、「此床乃《コノトコノ》 比師跡鳴左右《ヒシトナルマデ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》」(卷十三、三二七〇)、源氏物語夕顔の卷に「こゝかしこのくまぐましくおぼえ給ふに、物の足音ひし/\と踏み鳴らしつゝうしろより來るこゝちす」、また總角の卷に、「はかなきさまなる蔀などはひしひしとまぎるる音に」などあつて、(527)ビシビシは擬音のように思われる。さて鼻のびしびしと説明をつけているのだから、ここも多少滑稽的な敍述をしているものであろう。嚔《はなひ》しの意に解く説もあるが、それでは説き得ない。
 志可登阿良農比宜可伎撫而 シカトアラヌヒゲカキナデテ。自慢をする状を描いている。シカトアラヌは、それともなき、ありともなき。「然不v有《シカアラヌ》 五百代小田乎《イホシロヲダヲ》 苅亂《カリミダリ》 田廬爾居者《タブセニヲレバ》 京師所v念《ミヤコシオモホユ》」(卷八、一五九二)。
 安禮乎於伎弖人者安良自等 アレヲオキテヒトハアラジト。この句あたりには、作者自身の自負が描かれているとされている。清貧に安んじて自尊心を捨てない儒者ふうの人物がよく描寫されている。この歌では、問の部にアレとワレが併用されている。音韻が動搖していたのだろう。
 富己呂倍騰 ホコロヘド。ホコル(誇)の連續を語るホコラフのラがロに轉じそれに助詞が接續している。
 寒之安禮婆 サムクシアレバ。上の寒クシアレバを重ねて、その意を強調している。
 麻被 アサブスマ。フスマは夜具をいう。麻の夜具で、暖くないもの。綿はまだ廣く行き渡つていない。
 引可賀布利 ヒキカガワリ。ヒキは接頭語。カガフリは、かぶること。
 布可多衣 ヌノカタギヌ。布の肩衣で、袖がなく、肩ばかりを蔽う衣服。
 安里能許等其等 アリノコトゴト。あるかぎりの悉皆。
 伎曾倍騰毛 キソヘドモ。著襲ヘドモで、重ね著るけれども。「加吉都婆多《カキツバタ》 衣爾須里都氣《キヌニスリツケ》 麻須良雄乃《マスラヲノ》 服曾比獵須流《キソヒガリスル》 月者伎爾家里《ツキハキニケリ》」(卷十七、三九二一)。
 寒夜須良乎 サムキヨスラヲ。スラヲは、であるのに、しかるにの意。
 和禮欲利母貧人乃 ワレヨリモマヅシキヒトノ。ワレは問者。この句は、問の部分における眼目である。作者は自分よりも貧しい人を、この歌で歌おうとした。その作者の大きな指標を表示しているのがこの句である。
 父母波飢寒良牟 チチハハハウヱサムカラム。その人の貧窮を説こうとして、その人を問わずに、その父母(528)妻子の困苦を問う。この作者の思想の倫理的な所以である。句切。 乞々泣良牟 サクリナクラム。代匠記には下の乞を弖の誤りとし、乞弖をコヒテと讀んでいる。乞々は吃々に同じ。吃は、口のどもる意。泣くために物が言えないでどもる形容。泣きじやくる。古語にサクルという。類聚名義抄に、咽にサクリ、歔欷にサクルの訓がある。句切。
 汝代者和多流 ナガヨハワタル。ヨは生活。ワタルは經過する。以上第一段。問者を點出して、極貧の者に問いかけている。
 天地者比呂之等伊倍杼安我多米波狹也奈良奴流 アメツチハヒロシトイヘドアガタメハサクヤナリヌル。以下第二段で、前の問に對して、一層貧しい者の答である。天地は廣いということだが自分のためには狹くおぼえるという意を述べている。天地の間にこの身のおき所もない心である。サクは、狹クの古語。ヤは疑問の係助詞。神田本等の寫本には、狹也をセバクヤと訓している。サクヤは、代匠記の訓である。句切。
 日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴 ヒツキハアカシトイヘドアガタメハテリヤタマハヌ。天地云々と對句になつている。アカシは明カシ。テリヤのヤは疑問の係助詞。照りたまわぬかと凝つている。句切。
 人皆可吾耳也之可流 ヒトミナカワレノミヤシカル。人皆がそうか、または自分のみがそうなのか。シカルは然るで、天地日月の句を受けている。
 和久良婆尓比等々波安流乎 ワクラバニヒトトハアルヲ。ワクラバニは、偶然、たまたま、たまさか等の意。「人跡成《ヒトトナル》 事者難乎《コトハカタキヲ》 和久良婆爾《ワクラバニ》 成吾身者《ナレルワガミハ》」(卷九、一七八五)と同じく、人生は受けがたいものであるのを、たまたま人間とありての意で、佛教の思想にもとづいている。
 比等奈美尓安禮母作乎 ヒトナミニアレモツクルヲ。作乎は寫本にナレルヲと讀み、人竝に自分もできている意とした。しかし作をナルと讀む例はない。今略解にツクルヲと讀むにより、人竝に自分も耕作するが、しか(529)しの意に解して、後に里長が租税を徴る條の伏線とする。耕作の意にツクルを用いたのは、「波羅門乃《ハラモニノ》 作有流小田乎《ツクレルヲダヲ》 喫烏《ハムカラス》」(卷十六、三八五六)、「都久里多流《ツクリタル》 曾能奈里波比乎《ソノナリハヒヲ》」(卷十八、四一二二)などある。
 綿毛奈伎布可多衣乃 ワタモナキヌノカタギヌノ。以下衣服についていう。
 美留乃其等 ミルノゴト。ミルは海松、海藻の一種。衣服の破れてよれよれになつたのを海松に譬える。正倉院文書によれば、海松も食料に供したのであるから、ここではその乾燥して黒くよれているものを想像しているであろう。元來が、食料の海藻から使い出された修辭で、ほした海藻についていうのが、根本である。
 和々氣佐我禮流 ワワケサガレル。ワワケは、海松の譬喩によつて思うに、織物の片よりよれよれになつているのをいうであろう。「こめの衣のわゝけしたる」(うつぼ物語祭使の卷)、「くれなゐの袖にはづれしまみよりもなれがつゞりのわゝけをぞ思ふ」(夫木抄俊頼)。
 可々布能尾 カガフノミ。カガフは、新撰字鏡、「幡、殘帛也、也不禮加々不《ヤブレカガフ》」とあつて、今のボロである。
 布勢伊保能麻宜伊保乃内尓 フセイホノマゲイホノウチニ。以下住居についていう。フセイホノマゲイホは粗末な家の意の語を重ねて強調する。イホは、假の小舍。フセは、物を伏せたような意に、いやしい小舍をフセイホという。マゲイホは曲つた小舍の義で、すべてその家の陋小なのを敍している。
 直土尓藁解敷而 ヒタツチニワラトキシキテ。ヒタツチは直接の土。當時の住宅は、普通に板で床を張り、菅、薦などで織つた敷物タタミを敷いて生活していた。
 父母波枕乃可多尓 チチハハハマクラノカタニ。主人は寢ているようである。マクラは頭の方。「まくらよりあとより戀のせめくればせむ方無みぞ床なかに居る」(古今集誹諧歌)。
 足乃方尓 アトノカタニ。アトは足の方。前條の引歌參照。
 圍居而憂吟 カクミヰテウレヘサマヨヒ。カクミは本集に、「乎知己知爾《ヲチコチニ》 左波爾可久美爲《サハニカクミヰ》」(卷二十、四四(530)〇八)、憂は、寫本にウレヘ、古義にウレヒである。三代寶録に「憂 禮比 念 保之」(貞觀八年九月)とあるによるが、その諸傳本に「憂禮比」の三字がない由だから文證にならない。サマヨヒは呻吟するをいう。
 可麻度柔播火氣布伎多弖受 カマドニハケブリフキタテズ。以下食事についていう。カマドは釜所である。物を煮ないから煙を吹き立てない。
 許之伎尓波久毛能須可伎弖 コシキニハクモノスカキテ。コシキは甑。飯を蒸す器。古くは飯をばむして作つたもので、甑に米を入れて釜の中でむすのである。しかし甑を使わないから、蜘蛛が巣を掛けている。カキテは懸クを四段活として用いている。
 飯炊事毛和須禮提 イヒカシクコトモワスレテ。久しく飯を炊かないので、その方法も忘れて。
 奴延鳥乃 ヌエドリノ。既出。枕詞。
 能杼與比居尓 ノドヨヒヲルニ。ノドヨフは、橋本博士の説に、金剛波若經集驗記の古訓に、細々聲をノトヨフコヱと讀んでいる。細々とした力のない聲を出すことであるという。
 伊等乃伎提短物乎端伎流等云之如 イトノキテミジカキモノヲハシキルトイヘルガゴトク。イトノキテは、はなはだ、いたく等の意の副詞。、語義は最退キテの意か。「伊等能伎提《イトノキテ》 痛伎瘡爾波《ィタキキズニハ》 鹹鹽遠《カラシホヲ》 灌知布何其等久《ソソグチフガゴトク》」(卷五、八九七)、「五十殿寸太《イトノキテ》 薄寸眉根乎《ウスキマヨネヲ》」(卷十二、二九〇三)など。非常に短い物を端を伐るというようにの意で、同じ作者の沈v痾自哀文に、「諺(ニ)曰(フ)、痛瘡(ニ)灌(ギ)v鹽(ヲ)、短材截(ル)v端(ヲ)、此之謂也」とあるように當時の諺である。
 楚取五十戸良我許惠波 シモトトルサトヲサガコヱハ。楚は、若い枝で、罪人を打つ具。倭名類聚鈔刑罰具に「笞、唐令(ニ)云(フ)、笞 音知、之毛度《シモト》」とある。五十戸良は、戸令に「凡そ戸は五十戸をもちて里となし、里ごとに長一人を置き、戸口を※[手偏+僉]※[手偏+交]し、農桑を課殖し、非違を禁察し、賦役を催駈することを掌る」とある。良は長の(531)意で使用している。租税を徴收するために、里長が楚を採つてくるのである。
 寢屋度麻低來立呼比奴 ネヤドマデキタチヨバヒヌ。ネヤドは寢屋戸。句切。
 可久婆可里須部奈伎物能可 カクバカリスベナキモノカ。上記の貧窮の叙述を受けて總評を下している。モノカは詠嘆の語。
 世間乃道 ヨノナカノミチ。人生をいう。ミチは、ここでは抽象的に使用されている。「安我古登婆之都《アガコトバシツ》 世間之道《ヨノナカノミチ》」(卷五、九〇四)。
【評語】前半において寒夜を描いたのは、非常に效果的だが、肝心の後半に、これに呼應することがないのは物足りない。部分的にはかような缺點もあるが、全體としてはこれだけの長篇を、すこしも弛緩させずに歌つている。すべてが具體的に描かれているのは、作者がこの世界の貧窮を眞劍に見つめていることを語る。かようにこの歌は題材を社會の事相に取つて、よく當時の貧しい人の生活を描いている。一體、萬葉の作者は、庶人もあるけれども、多く役人貴族であるのに、特にこういう貧困を題材としたのは、この歌の特色であつて、上代の文藝中、多く比を見ないところである。形を問答の體に取つているが、問も答も無論一人の作で、ただ前半の問者としては、幾分か作者自身をモデルとして寫したようなところがある。歌中にいうほどの貧乏ではあるまいが、清貧を樂しむ儒者ふうのところが憶良にはあつたのである。後半の答者は、當時實際にあつたはずの下層民の生活を寫したものである。直士に藁を敷いて寢るような生活、そういう暗い姿、人竝に働いてもなお貧しい世帶、そういう嘆息が、はつきりと描かれている。しかも貧者の自身の語によつて敍述せられ、安價な同情隣愍の語が出ていないのは、かえつて作者の深い同情心を窺うに適している。自家の貧乏を歌うことは、近世以後かならずしも乏しとしないが、ここには我よりも貧しい人の生活を描いているのは、特に注意される。この歌あるが故に、憶良の位置は高められるものであり、また萬葉集の價値も高められるものである。
 
(532)893 世間《よのなか》を
 憂《う》しと恥《やさ》しと 思へども、
 飛び立ちかねつ。
 鳥にしあらねば。
 
 世間乎《ヨノナカヲ》
 宇之等夜佐之等《ウシトヤサシト》 於母倍杼母《オモヘドモ》
 飛立可祢都《トビタチカネツ》
 鳥尓之安良祢婆《トリニシアラネバ》
 
【譯】人生を憂くはずかしく思うけれども、飛び立つて去ることもできない、鳥ではないのだから。
【釋】宇之等夜佐之等 ウシトヤサシト。ヤサシは、既出(卷五、八五四)。恥かしの意。世間を憂しと思い、また恥かしいと思えども。
 飛立可祢都 トビタチカネツ。この世を去ることができない由である。句切。
 鳥尓之安良祢婆 トリニシアラネバ。第四句の理由を説明している。
【評語】反歌であるが、反歌とことわつていない。これも極貧者の答の一部である。貧窮問答の歌としては、この答者の方に主眼がある。歌は、世の中のすべなきことを、語を代えて歌つたまでである。
 
山上憶良頓首謹上
 
【釋】山上憶良頓首謹上 ヤマノウヘノオクラヲロガミテツツシミテタテマツル。貧窮問答歌のみに懸かるか、熊凝の歌にも懸かるか不明である。
 
好去好來歌一首反歌二首
 
【釋】好去好來歌 カウコカウライノウタ。好去の文字は、「奈何好去哉《イカニサキクヤ》 言借吾妹《イフカシワギモ》」(卷四、六四八)、「好去(533)而《マサキクテ》 亦還見六《マタカヘリミム》」(卷七、一一八三)、「眞好去有欲得《マサキクアリコソ》」(卷九、一七九〇)など使用されており、サキク、マサキクと讀まれている。好來の文字は用例を見ないが、去來に、それぞれ好の字を加えたものと見られる。無事に行つていらつしやいの意である。歌意は、歌詞、ならびに左註等によつて天平五年の遣唐の大使に贈つたものであることがあきらかである。この大使は、丹比の廣成で、四年八月遣唐の大使となり、五年四月難波津から進發し、七年三月歸朝し、十一年四月薨じた。左大臣島の第五子である。歌は傳わらない。なおこの歌の作者は山上の憶良であることが、左註によつてあきらかである。題下に反歌二首とあるは特例である。
 
894 神代より 言ひ傳《つ》てけらく、
 そらみつ 大和の國は、
 皇神《すめがみ》の 嚴《いつく》しき國、
 言靈《ことだま》の 幸《さき》はふ國と、
 語り繼ぎ 言ひ繼《つ》がひけり。」
 今の世の 人も悉《ことごと》
 目の前に 見たり知りたり。」
 人|多《さは》に 滿ちてはあれども、
 高光る 日の朝廷《みかど》、
 神《かむ》ながら 愛《めで》の盛りに
 天の下 奏《まを》したまひし
(534) 家の子と 擇《えら》み給ひて、
 勅旨《おほみこと》【反して大命といふ。】 戴き持ちて
 唐《からくに》の 遠き境に
 遣《つか》はされ 罷り坐《いま》せ、
 海原《うなはら》の 邊《へ》にも沖《おき》にも
 神留《かむづま》り 領《うしは》き坐《いま》す
 諸《もろもろ》の 大御神|等《たち》、
 船《ふな》の舳《へ》に【反して船の舳にといふ。】 道引きまをし
 天地《あめつち》の 大御神等
 大和の 大國靈《おほくにだま》、
 ひさかたの 天《あま》の御虚《みそら》ゆ
 天翔《あまがけ》り 見渡したまひ、
 事《こと》了《をは》り 還らむ日は
 また更に 大御神|等《たち》、
 船《ふな》の舳《へ》に 御手《みて》うち懸けて、
 墨繩を 延《は》へたる如く、
 あちかをし 値嘉《ちか》の岬《さき》より
(535) 大伴の 御津《みつ》の濱|邊《び》に
 直泊《ただはて》に 御船は泊《は》てむ。
 恙無《つつみな》く 幸《さき》くいまして
 はや歸りませ。」
 
 神代欲理《カミヨヨリ》 云傳介良久《イヒツテケラク》
 虚見津《ソラミツ》 倭國者《ヤマトノクニハ》
 皇神能《スメガミノ》 伊都久志吉國《イツクシキクニ》
 言靈能《コトダマノ》 佐吉播布國等《サキハフクニト》
 加多利繼《カタリツギ》 伊比都賀比計理《イヒツガヒケリ》
 今世能《イマノヨノ》 人母許等期等《ヒトモコトゴト》
 目前尓《メノマヘニ》 見在知在《ミタリシリタリ》
 人佐播尓《ヒトサハニ》 滿弖播阿禮等母《ミチテハアレドモ》
 高光《タカヒカル》 日御朝庭《ヒノミカド》
 神奈我良《カムナガラ》 愛能盛尓《メデノサカリニ》
 天下《アメノシタ》 奏多麻比志《マヲシタマヒシ》
 家子等《イヘノコト》 撰多麻比天《エラミタマヒテ》
 勅旨《オホミコト》【反云2大命1】 戴持弖《イタダキモチテ》
 唐能《カラクニノ》 遠境尓《トホキサカヒニ》
 都加播佐禮《ツカハサレ》 麻加利伊麻勢《マカリイマセ》
 宇奈原能《ウナハラノ》 邊尓母奥尓母《ヘニモオキニモ》
 神豆麻利《カムヅマリ》 宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》
 諸能《モロモロノ》 大御神等《オホミカミタチ》
 船舳尓《フナノヘニ》【反云2布奈能閉尓1】 道引麻遠志《ミチヒキマヲシ》
 天地能《アメツチノ》 大御神等《オホミカミタチ》
 倭《ヤマトノ》 大國靈《オホクニダマ》
 久堅能《ヒサカタノ》 阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》
 阿麻賀氣利《アマガケリ》 見渡多麻比《ミワタシタマヒ》
 事畢《コトヲハリ》 還日者《カヘラムヒニハ》
 又更《マタサラニ》 大御神等《オホミカミタチ》
 船舳尓《フナノヘニ》 御手打掛弖《ミテウチカケテ》
 墨繩袁《スミナハヲ》 播倍多留期等久《ハヘタルゴトク》
 阿遲可遠志《アチカヲシ》 智可能岫欲利《チカノサキヨリ》
 大伴《オホトモノ》 御津濱備尓《ミツノハマビニ》
 多太泊尓《タダハテニ》 美船播將v泊《ミフネハハテム》
 都々美無久《ツツミナク》 佐伎久伊麻志弖《サキクイマシテ》
 速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》
 
【譯】神代から言い傳え來ることには、この日本の國は、皇神の嚴としています國、言葉の靈の活躍する國と、人々のあいだに語り繼いでおりました。今の世の人もことごとく、目の前に見もし知つてもおります。人多く滿ちてはありますが、天つ日のような天皇が、神のままに御恩寵遊ばされるままに、天下の政治を執奏した人の子としてお選みになつて、勅命を奉じて、唐國の遠き國土に遣わされておいでになりますから、海上の岸邊にも沖にも、留まつて領しておいでになるもろもろの大御神たち、船の舳に導きなされ、天地の大御神たち、殊には大和の大國靈の神は、天の御空から天を飛んで見渡したまい、事終つて歸つてくる日には、また更に大御神たちが、船の舳に御手をお懸けになつて、墨繩を引いたように、九州の値嘉《ちか》の岬から、大伴の御津の濱邊に、一筋に船は泊るでございましょう。惡い事なく幸福においで遊ばして、早くお歸りなさいませ。
【構成】三段に分けて考えることができる。語リ繼ギ言ヒツガヒケリまで第一段、歴史的にこの國の神靈ある國であることを説く。目ノ前ニ見タリ知リタリまで第二段、現在の人々もそれを知つていることを説く。以下第三段、遣唐の大使が勅を奉じ、かの國に渡つて無事に歸つて來るようにと述べている。
【釋】云傳介良久 イヒツテケラク。
  イヒツテケラク(細)
  ――――――――――
  云傳久良久《イヒツテクラク》(西)
 イヒツテはイヒツタヘ。ケラクはケルコト。永久性の事實の根據を、神代以來のこととする思想は、一般に(536)存在していた。この世の事は、神代に始まるとするのである。「從v古《イニシヘユ》 言續來口《イヒツギケラク》 戀爲者《コヒスレバ》 不v安物登《ヤスカラヌモノト》 玉緒之《タマノヲノ》 繼而者雖v云《ツギテハイヘド》」(卷十三、三二五五)とも歌われている。また「天地之《アメツチノ》 始時欲《ハジメノトキヨ》 世中波《ヨノナカハ》 常無毛能等《ツネナキモノト》 語繼《カタリツギ》 奈我良倍伎多禮《ナガラヘキタレ》」(卷十九、四一六〇)の如き、この歌の影響を受けているかとも見られる。クラクの訓も成立するが、下にケリと受けているので、ケラクによるべきである。
 虚見通 ソラミツ。既出(卷一、一)。枕詞。
 倭國者 ヤマトノクニハ。この歌は、遣唐使の行を贈る歌であり、從つて、倭の國も國家として使用されている。日本の國は。
 皇神能 スメガミノ。スメガミは、須賣神(卷一、七七)とも書いている。スメは、統治する意の語で、神の中でも特に尊貴の神をいう。
 伊都久志吉國 イツクシキクニ。イツクシキは、日本靈異記に、儼然を、しか訓している。嚴としています國の意である。
 言靈能佐吉播布國等 コトダマノサキハフクニト。コトダマは、言語の精靈である。言語に魂があつて、よい事を言えばよい結果があらわれ、惡いことを言えば惡い結果があると信じられている。サキハフは、繁昌する、幸福にする意。柿本朝臣人麻呂歌集の歌に「志貴島《シキシマノ》 倭國者《ヤマトノクニハ》 事靈之《コトダマノ》 所v佑國敍《サキハフクニゾ》 眞福在與具《マサキクアリコソ》」(卷十三、三二五四)というのがある。この歌は、人麻呂が、遣唐使に贈つた歌と考えられ、それは人麻呂の時代から言つて、大寶二年の遣唐の際なるべく、その時には憶良も遣唐の少録として隨行したのだから、この歌を知つていると見られ、その歌からこの句などを得ているようである。かの人麻呂集の歌の第四句は、他本には「所佐國敍」となつているが、元暦校本には「所佑國敍」である。佑は助であり啓開であり、また祐にも通じて用いられる字であるから、所佑は、やはりサキハフと讀むのが正しいと思われる。この歌はそれを受けているであ(537)ろう。
 加多利繼伊比都賀比計理 カタリツギイヒツガヒケリ。繼グの連續的状態をあらわすのが、繼ガフである。以上第一段で、總論的に、日本國は神靈のいつくしむ國であることを神代以來の傳えとして誇示している。
 今世能人母許等期等 イマノヨノヒトモコトゴト。第一段に神代以來を説いたのに對して、ここには現代を説く。コトゴトは悉皆。
 目前尓見在知在 メノマヘニミタリシリタリ。以上第二段で、第一段に言うことは、今人のすべて現に見聞して承知していることであるとする。
 人佐播尓滿弖播阿禮等母 ヒトサハニミチテハアレドモ。多數の中から一を取りあげて來る表現法で、長歌に例の多い行き方である。「式島之《シキシマノ》 山跡之土丹《ヤマトノクニニ》 人多《ヒトサハニ》 滿而雖v有《ミチテアレドモ》」(卷十三、三二四八)。
 高光 タカヒカル。既出。枕詞。
 日御朝庭 ヒノミカド。日ノは、太陽の如き意。ミカドは御門が語原で、宮殿、朝廷の意となる。ここでは朝廷と解してよいであろう。この語は、更に進んで、朝廷宮殿の主人公にまします天皇をさしていうようになる。天皇をミカドということは、この集にはまだ見えないところであるが、この歌のこの語の如きは、下文に神ナガラ愛ノ盛リニとあるので、ミカドが天皇の意に近くなつているとも見られる。さすれば、天皇をミカドと稱した、はやい例となるのである。
 神奈我良愛能盛尓 カムナガラメデノサカリニ。神として御寵愛の盛んなるままに。この句は、撰ミタマヒテに懸かるものと見られる。
 天下奏多麻比志 アメノシタマヲシタマヒシ。天ノ下奏スは、書殿餞酒の日の倭歌の中にあつた。廣成の父左大臣島が天下の政事を奏上したことをいう。
(538) 家子等撰多麻比天 イヘノコトエラミタマヒテ。執政大臣の家の子としてお選びになつて。
 勅旨戴持弖 オホミコトイタダキモチテ。この句から主格が變わつて、廣成の事になる。
 反云大命 カヘシテオホミコトトイフ。勅旨の訓法を註したので、作者みずから加えたものと思われる。反というは、漢文で、字音を反切の法によつて示すをいう。反切の法とは、ある一字の音を、音の既に知られている二字をもつて説明する法で、たとえば、抒は臣與の反というが如く、抒の音を示すに、臣の父音sと、與の韻とを併わせて、シヨであることを示すが如きである。然るに日本では、ただ訓法を示すだけで、反切にはよらない。勅旨とある字の、讀み方は大命《おほみこと》であるというだけである。讀み方というほどの意に反の字を用いている。この歌中の下にもあり、また「懸有、反(シテ)云(フ)2佐我禮流《サガレルト》1」(卷十六、三八三九)など見えている。
 唐能 カラクニノ。古くモロコシノと讀んでいたが、奈良時代の文獻に、モロコシと稱したものを見ないとされる。しかし靈異記の「至(ル)2于|輕諸越之衢《カルノモロコシノチマタニ》1」(上卷一條)とある諸越は、モロコシで、唐の義だろう。今「萬葉集攷證」に從つてカラクニノと讀む。この時代は唐の玄宗の世である。
 遠境尓 トホキサカヒニ。サカヒは境界をいうが、ここは遠地の意に使用している。
 麻加利伊麻勢 マカリイマセ。マカリは、この國から退去する意。罷り坐せばの意の條件法である。段落ではない。
 神豆麻利宇志播吉伊麻須 カムヅマリウシハキイマス。カムヅマリは、神の留ります意である。祝詞に多く見え、續日本紀の詔詞にも、高天の原に神積《かむづも》り坐《ま》す皇親神魯伎神魯美《すめむつかむろぎかむろみ》の命など見える。賀茂の眞淵は、神集まりと説いたのであるが、本居宣長の「大祓詞後釋」に神留りとする説が出ている。ウシハキは、主人として領有する意である。「此山乎《コノヤマヲ》 牛掃神之《ウシハクカミノ》」(卷九、一七五九)。
 反云布奈能閉尓 カヘシテフナノヘニトイフ。上の船舳爾の讀法を註している。自註であろう。特にこれを(539)註した所以は、フナノヘの語が、祝詞から來ている古語であるゆえで、註がなければ、フネノヘニと讀むおそれがあつたのであろう。
 道引麻遠志 ミチビキマヲシ。廣成に對して敬語を使つている。
 倭大國靈 ヤマトノオホクニダマ。この神は、大和の國土の神靈である。奈良縣山邊郡にある大和に坐す大國魂の神社で、今の大和神社の神である。上の天地ノ大御神タチの中に入るはずであるが、その中から特にこの神を提示したのは、遣唐使の一行が故國なる大和の國に還ろうとする場合だからであり、またこの神が、大和の國の鎭守として信仰を集めていたからでもある。
 久堅能 ヒサカタノ。枕詞。
 阿麻能見虚喩 アマノミソラユ。天空を通して。
 阿麻賀氣利見渡多麻比 アマガケリミワタシタマヒ。神が天空を飛翔するという思想は、出雲の國の造の神賀詞に、「天の八重雲をおし別けて、天がけり國がけりて天の下を見廻らして」などある。
 事畢還日者 コトヲハリカヘラムヒニハ。以下使命を終つて歸國する際のことをいう。
 大御神等 オホミカミタチ。上述の神たちであるが、特に、海上の神を主としていう。
 墨繩袁播倍多留期等久 スミナハヲハヘタルゴトク。墨繩は大工が用いる工具で、墨のついた繩を張つて、材木に線をひくをいう。延ヘタル如クは、延ばした如く。この句は眞直ぐにの意の譬喩である。「云々《カニカクニ》 物者不v念《モノハオモハジ》 斐太人乃《ヒダビトノ》 打墨繩之《ウツスミナハノ》 直一道二《タヾヒトミチニ》」(卷十一、二六四八)。
 阿遲可遠志 アチカヲシ。値嘉の枕詞と認められるが、語義未詳。チカの音を重ねて修飾するのであろう。アチカの語は知られない。アは遠方の義で、値嘉に冠するか。ヲは感動、シは強意の助詞であろう。
 智可能岫欲利 チカノサキヨリ。岫は、山の穴の義の字であるが、岬に通じて使用されている。チカは多く(540)値嘉の字が當てられる。値嘉は、肥前國風土記、松浦郡に、値嘉島、郡の西南の海中にありとして、地名起原傳説を載せている。遣唐の船の往還に、日本領土の最後、また最初の舟つきであつた。今の平戸、五島の諸島をいうのであろう。延喜式卷の十六に載せた追儺《ついな》の祭文には、西の方は遠つ値嘉とあつて、國土の西端としている。
 大伴御津濱備尓 オホトモノミツノハマビニ。大伴は、今の大阪の附近一帶の總地名。御津は難波の御津である。この地から船は發著したものである。ハマビは濱邊に同じ。
 多太泊尓美船播將泊 タダハテニミフネハハテム。一直線に停泊する意である。句切。
 都々美無久 ツツミナク。ツツミは、凶事のために物忌すること。それがないので、災禍なくの意になる。
 佐伎久伊麻志弖速歸坐勢 サキクイマシテハヤカヘリマセ。題の好去好來の意をあらわしている。
【評語】この國の、神靈の加護ある國であることをいい、轉じて神靈の力によつて無事に歸つて來るようにと歌つている。思想としてもよく纏まつている。前掲の人麻呂歌集の歌の影響を受けているが、さすがに全然別の歌としている。神々を多く出したのは、特色であるが、かえつて效果をそぐ。やはり人麻呂歌集の歌の簡潔なのに及ばない。
 
反歌
 
895 大伴の 御津《みつ》の松原、
 かき掃《は》きて われ立ち待たむ。
 はや歸りませ。
 
 大伴《オホトモノ》 御津松原《ミツノマツバラ》
 可吉掃弖《カキハキテ》 和禮立待《ワレタチマタム》
 速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》
 
(541)【譯】大伴の御津の松原を、掃除をして、わたしは待つていましよう。はやくお歸りなさいませ。
【釋】大伴御津松原 オホトモノミツノマツバラ。遣唐使の船の歸著すべき地の松原。
 可吉掃弖 カキハキテ。カキは接頭語。ハキテは、掃き清めて。
 和禮立待 ワレタチマタム。タチは接頭語。今か今かと待つて落ちつかない心を立チの語であらわしている。句切。
 速歸坐勢 ハヤカヘリマセ。長歌の末句を繰り返して連絡を保つている。
【評語】松原をかき掃くというだけが、特色であつて、大さわぎをして待つ意をあらわしている。誇張的な内容である。
 
896 難波津に 御《み》船|泊《は》てぬと
 聞《きこ》え來《こ》ば、
 紐解き放《さ》けて 立《た》ち走《ばし》りせむ。
 
 難破津尓《ナニハヅニ》 美船泊農等《ミフネハテヌト》
 吉許延許婆《キコエコバ》
 緋解佐氣弖《ヒモトキサケテ》 多知婆志利勢武《タチバシリセム》
 
【譯】難波澤に御船が停泊したと知らせて參りましたら、著物の紐も解けたまま走つて參りましよう。
【釋】難破津尓 ナニハヅニ。難波の御津にである。仙覺本には難波とあり、古本に難破に作つているのは、古風で、正倉院文書に例が多い。昔は難破の意に、縁起を祝つたものであろう。
 吉許延許婆 キコエコバ。人のいうことが聞えて來たなら。當時作者は、奈良の都にいたらしい。
 ※[糸+刃]解佐氣弖 ヒモトキサケテ。ヒモは、衣服の紐。サケは離れる。衣の紐も解き放して。これは衣服を整える隙をも惜しんでの意である。
 多知婆志利勢武 タチバシリセム。タチは接頭語。タチバシリは、そのまま走り出すこと。日本書紀景行天(542)皇の卷に、日本武の尊が走水の海に臨んで「是(レ)小海|耳《ノミ》、可(シ)2立跳渡《タチハシリワタル》1」と仰せられた。その立跳にタチハシリと訓してある意である。
【評語】遣唐使の歸著を歡待しようとする心がよく描かれている。これも特色のある歌である。
 
天平五年三月一日。良宅對面、獻三日、山上憶良
 
天平五年三月一日。良の宅に對面して獻れるは三日なり。山上の憶良。
 
【釋】天平五年三月一日 テニヒヤウノイツトセヤヨヒノツキタチノヒ。この好去好來の歌の製作された月日である。この年の閏三月二十六日に、大使丹比の廣成は辭見し節刀を授けられている。
 良宅對面獻三日 ラガイヘニアヒテタテマツレルハミカナリ。良は憶良。廣成が憶良の家を訪問して、この歌を受けたのは三日であるという。上の三月一日に對する註記で、憶良の自註と見られる。良、獻の如きは、憶良の手記と見るべきである。
 
謹上、大唐大使卿記室
 
【釋】大唐大使卿記室 カラクニノオホキツカヒノマヘツギミノフミヒト。好去好來歌を獻上した文書の宛名。大唐の大使の卿は、遣唐の大使丹比の廣成。記室は書記。その人を敬して、書記に當てたようにしている。
 
沈v痾自哀文  山上憶良作
 
痾に沈みて自《みづから》哀しむ文  山上の憶良の作れる。
 
【釋】沈痾自哀文 ヤマヒニシヅミテミヅカラカナシムフミ。題下に署名のあるように、山上の憶良が、自分(543)の病氣を悲しんで作つた文である。作つた年月に關する記事はないが、下の、「老(イタル)身(ニ)重(キ)病經(テ)v年(ヲ)辛苦(ミ)、及《マタ》思(フ)2兒等(ヲ)1歌七首」(卷五、八九七−九〇三)の内容に通ずるものがあり、その左註には、「天平五年六月丙申朔三日戊戌作」とあるので、多分その頃に作つたものであろう。この時は、作者は、筑前の守を罷めて上京しており、官職を有していなかつたのであろう。
 
竊以、朝佃2食山野1者、猶無2災害1而得v度v世、【謂常執2弓箭1不v避2六齋1、所v値禽獣不v論2大小孕及不v孕1、竝皆殺食以v此爲v業者也。】晝夜釣2漁河海1者、尚有2慶福1而全v經v俗。【謂漁夫潜女、各有v所v勤、男者手把2竹竿1能釣2波浪之上1、女者腰帶2鑿籠1潜2採深潭之底1者也。】況乎我從2胎生1、迄2于今日1、自有2修v善之志1、曾無2作v惡之心1。【謂聞2諸惡莫v作諸善奉行之教1也。】所以禮2拜三寶1、無2日不1v勤、【毎日誦經發露懺悔也。】敬2重百神1、鮮2夜有1v闕。【謂敬2拜天地諸神等1也。】
 
竊に以《おもひみ》るに、朝夕に山野に佃し食ふ者すら、猶災害無くして世を度ることを得、【謂ふこころは、常に弓箭を執り六齋を避けず、値ふ所の禽獣、大小と、孕めると孕まざるとを論せず、竝にみな殺し食ひ、こを以ちて業とする者をいふ。】畫夜に河海に釣漁する者すら、なほ慶福ありて俗を經ることを全くす。【謂ふこころは、漁夫潜女おのもおのも勤むる所あり、男は手に竹竿を把りてよく波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠を帶びて深き潭の底に潜き採る者をいふ。】いはめや我胎生せしより今日までにみづから善を修むる志あり、かつて惡を作《な》す心なし。【謂ふこころは、諸惡作すなかれ、諸善奉行せよといふ教を聞くをいふ。】この所以に三寶を禮拜して、日として勤めざることなく、【毎日誦脛し發露し懺悔するなり。】百神を敬《ゐやま》ひ重みして、夜として闕くことある鮮《な》し。【謂ふこころは、天地の諸神等を敬拝むをいふ。】
 
【譯】心に思うに、朝夕山野に狩獵して食つている者も、災禍が無く世を渡ることができ、晝夜河海に漁業をするものも、幸福があつて世を渡つて行く。まして自分は、生まれてから今日まで、自然に善を修める志があつて、かつて惡行をする心はない。それだから佛樣を禮拜して勤めない日はなく、神々を貴んで闕けた夜とてはない。
(544)【構成】この文は、相當に長いが、別に章段を分けていない。文中、細字で註を加えているのは、自註と認められる。今假りに段を分つて解釋に便にするが、内容が連續していて明瞭に區別されない場合も多い。第一段、夜トシテ闕クコトアルナシまで。(その下の細註ももちろんこの段に屬する。以下同じ)。序説、殺生を敢えてする者でも無事であることと、自分は佛神を信じ、修善の心があることを述べ、次の病にかかつたことの伏線とする。第二段、足跛ヘタル驢ニ比フまで。自己の病状を述べる。第三段、カツテ滅差ユルコトナシまで。病を癒そうとして苦心することを述べる。第四段、二ノ竪ノ逃レ匿ルルヲ顯サムト欲フまで。前代の名醫について述べ、名醫に遭つて病を癒そうとすることを願う。第五段、世ニアル大キナル患イヅレカコレヨリ甚シカラムまで。轉じて中道にして死する者について述べる。この次にある、志恠記ニ云フからミヅカラ治ムルコト能ハザルモノカまでは、細註であつて本文ではない。この文は、初めに命を延ばすことを得た例を擧げ、次に病は口より入ることを述べ、わが病もまた飲食の招くところかと述べている。第六段、何ニ由リテカコレヲ慮ラムまで。生の貴いことを述べる。第七段、千年ノ愁苦更ニ座ノ後ニ繼グまで。しかも遂に老と疾の至るは絶對であることを説く。第八段、福大キナリト爲サムカトイフまで。長生を求め無病を願うことを述べる。第九段、終りまで。自己の病を歎き悲しみ、病を除くことを願う。
【釋】朝夕佃食山野者 アサヨヒニヤマノニカリシクラフモノ。佃食は、狩獵してこれを食とすること。佃は、易の繋辭の釋文に「取v獣(ヲ)曰v佃」とある。
 不避六齋 ロクサイヲサラズ。六齋は、雜令に「凡(ソ)、月(ノ)六齋日、公私皆斷(ツ)2殺生(ヲ)1」とあり、その義解に「謂(ハ)、六齋、八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日」とある。
 從胎生 タイサウセシヨリ。胎生は、四生の一。佛數語。成形を備えて生まれること。
 諸惡莫作諸善奉行 ソアクナスナカレ、ソセニブギヤウセヨ。法句經述佛品の偈に、「諸惡莫(レ)v作(ス)、諸善奉行、(545)自(ラ)淨(ム)2其(ノ)意(ヲ)1、是(レ)諸佛教」とあるによる。
 三寶 ホトケ。佛法僧をいう。
 發露懺悔 ホツロサムケスルナリ。自分の罪を顯して懺悔するをいう。菩薩戒經に、「如(キ)v是(ノ)一切(ノ)諸惡、我今於2十方(ノ)諸佛(ニ)1、發露懺悔(ス)」とある。
 
嗟乎※[女+鬼]哉、我犯2何罪1、遭2此重疾1。【謂未v知2過去所v造之罪、若是現前所v犯之過1、無v犯2罪過1何獲2此病1乎。】初沈v痾已來、年月稍多。【謂經2十餘年1也。】是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[兀+王]羸。不2但年老1、復加2斯病1。諺曰、痛瘡灌v鹽、短材截v端、此之謂也。四支不v動、百節皆疼。身體太重、猶v負2鈞石1。【二十四銖爲2一兩1、十六兩爲2一斤1、三十斤爲2一鈞1、四鈞爲2一石1、合一百二十斤也。】懸v布欲v立、如2折翼之鳥1、倚v杖且v歩、比2跛足之驢1。
 
ああ※[女+鬼]《はづか》しきかも、我、何の罪を犯して、この重き疾に遭へる。【謂ふこころは、いまだ過去に造れる罪か、もしくは是現前に犯せる過かを知らず。罪過を犯すことなくは何ぞこの病を獲めや。】初め痾に沈みてこのかた、年月やや多し。【謂ふこころは十餘年を經るをいふ。】この時年七十有四、鬢髪|斑白《ふぶせ》にして、筋力|※[兀+王]羸《よわ》く、ただに年の老いたるのみにあらず、またこの病を加ふ。諺に曰はく、痛き瘡に鹽を灌ぎ、短き材に端を截るといふは、この謂なり。四支動かず、百節みな疼み、身體はなはだ重く、なほ鈞石を負へるが如し。【二十四銖を一兩となし、十六兩を一斤となし、三十斤を一鈞となし、四鈞を一石となす、合せて一百二十斤なり。】布に懸かりて立たむと欲《おも》へば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚りて歩《あゆ》まむとすれば、足|跛《な》へたる驢に比ふ。
 
【譯】ああ恥ずかしいことだ。わたしは何の罪を犯してこの重い病にかかつたのだろう。はじめ病にかかつてから年月も多くなつた。この時に年は七十四で、鬢髪はまだらに白く、筋力は弱い。ただ年を取つただけでなく、またこの病を加えた。諺にいう、痛い瘡に鹽をふりかけ、短い材木の端を切るというのは、この事である。(546)手足が動かず、節々がみな痛い。身體はたいへん重くして重りを荷つているようだ。布を懸けて立とうとすると、翼の折れた鳥のようであり、杖にすがつて歩もうとすると、びつこの驢のようである。
【釋】是時年七十有四 コノトキニトシナナソヂアマリヨツ。この文が、天平五年に書かれたとすると、年七十四から逆算して持統天皇の九年に生まれたことになる。新考はこれを疑つて五十有四の誤りであろうとしている。
 諺曰痛瘡鹽短材截端 コトワザニイハク、イタキキズニシホヲソソギ、ミジカキキニハシヲキルトイフは。當時の諺である。「伊等能伎提《イトノキテ》 痛伎瘡爾波《イタキキズニハ》 鹹鹽遠《カラシホヲ》 灌知布何其等久《ソソクチフガゴトク》」(卷五、八九七)、「伊等乃伎提《イトノキテ》 短物乎《ミヂカキモノヲ》 端伎流等《ハシキルト》 云之如《イヘルガゴトク》」(同、八九二)。
 四支 テアシ。四肢に同じ。
 猶負鈞石 ナホオモリヲオヘルガゴトシ。細註にあるように鈞石は重量の單位である。一斤は約百八十匁で、一鈞は、三十斤であるから、一鈞は五貫四百目に當り、一石はその四倍である。しかしかような數量にかかわらずに、ただ重いことをあらわすだけである。
 
吾以2身已穿v俗、心亦累1v塵、欲v知2禍之所v伏、祟之所1v隱、龜卜之門、巫祝之室、無v不2往問1。若實若妄、隨2其所1v教、奉2幣帛1、無v不2祈祷1。然而弥有v増v苦、曾無2減差1。
 
吾《われ》、身はすでに俗に穿《つらぬ》き、心も塵に累はさるるを以ちて、禍の伏すところ、祟の隱るるところを知らむと欲《おも》ひて、龜卜の門、巫祝の室、往きて問はずといふことなし。もしくは實、もしくは妄、その教ふる所に隨ひ、弊帛を奉り、祈祷せずといふことなし。然れどもいよいよ苦を増すことあり、かつて減|差《い》ゆること(547)なし。
【譯】わたしは、身が既に俗におり、心もまた俗事に煩わされるので、禍のある所、祟りの隱れる所を知りたいと思つて、卜者の家や巫女の室を行つて尋ねないことはない。うそでも誠でも、その教える通りにして、捧げものをして祈祷しないことはない。それだのにいよいよ苦しみを増すことがあつて、決して減じ癒《い》えることがない。
【釋】身已穿俗 ミハスデニヨニツラヌキ。穿俗は、俗中に身を置くをいう。
 祟之所隱 タタリノカクルルトコロ。鬼神の祟りによつて病を得るかと疑い、その祟りの知られないで隱れているのを求めようとするのである。
 龜卜之門 ウラベノカド。龜甲を燒いて卜をする者の家。
 巫祝之室 カムナギノイヘ、巫祝は、神がかりをする巫子《みこ》神職。
 
吾聞、前代多有2良醫1、救2療蒼生病患1。至v若2楡※[木+付]扁鵲華他秦和緩葛稚川陶隱居張仲景等1、皆是在v世良醫、無v不2除愈1也。【扁鵲姓秦字越人、勃海郡人也。割v※[匈/月]採v心、易而置之、投以2神藥1、即寤如v平也。華他字元化、沛國※[言+焦]人也。若有2病結積沈重在v内者1。刳v腸取v病縫復摩v膏、四五日差v之。】追2望件醫1、非2敢所1v及。若逢2聖醫神藥1者、仰願割2刳五藏1、抄2探百病1、尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1。【肓※[隔の旁]也、心下爲v膏、攻v之不v可、達之不v及、藥不v至焉。】欲v顯2二竪之逃匿1。【謂晉景公疾、秦醫緩視而還者、可v謂2爲v鬼所1v殺也。】
 
吾聞かくは、前の代に多《さは》に良き醫あり、蒼生の病患を救療しき。※[木+付]、扁鵲、華他、秦の和緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等のごときに至りては、皆これ世にありし良き醫、除き癒さずといふことなしといへり。【扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海の郡の人なり。胸を割き心を採りて易へて置き、投《い》るるに神藥を以ちてすれば、すなはち寤めて平《つね》の如し。華他、字は元化、沛國の※[言+焦]の人なり。もし病の結積して沈重内にあるあらむには、腸を刳りて病を取り、縫ひてまた膏を摩り、四五日にし(548)て差す。】件の醫を追ひ望むとも、敢へて及《し》く所にあらじ。もし聖の醫|神《くす》しき藥に逢はば、仰ぎ願はくは五つの藏を割刳し、百の病を抄探し、膏肓の※[こざと+奧]《ふか》き處に尋ね達《いた》り、【肓は※[隔の旁]なり、心の下を膏と爲す、攻むれども可からず、達も及ばず、藥も至らざるなり。】二《ふたり》の竪の逃れ匿るるを顯さむと欲《おも》ふ。【謂ふこころは、晉の景公疾めり。秦の醫緩視て還りしは、鬼に殺さるといふべし。】
【譯】わたしは聞いている。前の代に良い醫者が多勢居て、人々の病氣を療治した。楡※[木+付]、扁鵲、華他、秦の和や緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等の如きは、皆この世にいた良醫で、病氣を治さないことはなかつたということだ。これらの醫者を追憶しても及ぶ所ではない。もし名醫や良藥に逢つたら、どうか願わくは、臓腑を割つて病氣を探り出し、腹内の深い處に尋ね行つて、病魔の逃げ匿れるのをあらわしたいと思う。
【釋】楡※[木+付] ユフ。周禮の疾醫の註に「楡※[木+付]、黄帝時醫」とある。史記扁鵲列傳には「上古之時、醫(ニ)有(リ)2兪※[足+付]1」云々とあり、同人である。
 扁鵲 ヘニザク。史記扁鵲傳に「扁鵲者、勃海郡鄭(ノ)人也。姓(ハ)秦氏、名(ハ)越人」。
 華他 ケタ。後漢書方術傳に「華他、字元化。沛國※[言+焦]人也」。
 秦和緩 シニノワトクワニト。秦の時の醫の和と緩との二人である。國語晋語に「平公疾あり、秦の貴公醫和をして之を視せしむ。」左傳成公十年の傳に「(晋景)公疾病す、醫を秦に求む、秦伯醫緩をして之を爲《をさめ》しむ。未だ至らず、公夢に疾二竪子となる、曰く彼は良醫なり、懼《おそ》らくは我を傷けむ。焉《いづれ》にか逃れむ。其の一に曰く、肓の上膏の下に居ては、我を若《いかん》せん。醫至りて曰く、疾爲《をさ》むべからず。肓の上膏の下に在り、攻むるも可《よ》からず。達《はり》も及《いた》らず、藥も至らず、爲むべからず。公曰く、良醫なりと。厚く之が爲禮して之を歸す。」
 葛稚川 カチチセニ。晋書列傳に「葛洪、字(ハ)稚川、丹陽句客(ノ)人也」。
 陶隱居 タウイニコ。梁書列傳に「陶弘景、字(ハ)通明、丹陽秣陵(ノ)人也」。
 張仲景 チヤウチユウケイ。漢書に「張機、字(ハ)仲景、南陽(ノ)人也」。
(549) 五藏 イツツノキモ。肝心脾肺腎の五臓をいう。前出憶良の書簡にもある。
 尋達膏肓之※[こざと+奧]處 カウカウノフカキトコロニタヅネイタリ。前掲、秦の和緩の項に引用した左傳成公の十年の條の文によつて書いている。下の細註の文も同じ。膏は、心臓の下、肓は横隔膜である。
 達之不及 ハリモオヨバズ。達は、醫療用の鍼をいう。
 二竪 フタリノワラハ。竪は豎に同じ。小童。上記の左傳成公十年の條に見える。二竪は病氣のこと。この下の細註も同じ文によつている。
 
命根既盡、終2其天年1、尚爲v哀。【聖人賢者一切含靈、誰免2此道1乎。】何况生録未v半、爲v鬼枉殺、顔色壯年、爲v病横困者乎。在世大患、孰甚2于此1。
 
命根既に盡きて、その天年を終るすら、なほ哀しとす。【聖人賢者、一切の含靈、誰かこの道を免れめや。】いかにいはめや生録いまだ半ならずして鬼のために枉殺せられ、顔色壯年にして病のために横困《たしな》めらるるものをや。世にある大きなる患、いづれかこれより甚しからむ。
 
【譯】壽命が盡きてその一生を終るのでも袁しいのだ。それに何ぞ、生年がまだ半分に至らないで、鬼のために殺され、顔色が壯年で、病氣のために苦しめられる者をやだ。この世にあつての大きな悩みは、これに過ぎたものはない。
【釋】一切含靈 イチサイノガムラウ。すべての命あるもの。含靈は、靈を有する者。晋書桓靈寶傳論に「夫(レ)帝王(ハ)者、功高(ク)2宇内(ニ)1、道濟(フ)2含靈(ヲ)1」。
 生録 サウロク。生禄に同じ。壽命をいう。
 
(550)志恠記云、廣平前太守北海徐玄方之女、年十八歳而死。其靈謂2馮馬子1曰、案2我生録1、當2壽八十餘歳1。今爲2妖鬼1所2枉殺1。已經2四年1。此遇2馮馬子1、乃得2更活1是也。内教云、瞻浮洲人壽百二十歳。謹案2此數1、非2必不1v得v過v此。故壽延經云、有2比丘1名曰2難達1、臨2命終時1詣v佛請v壽、則延2十八年1。但善爲者、天地相畢。其壽夭者、業報所v招、隨2其脩短1而爲v半也。未v盈2斯算1而|※[しんにょう+端の旁]死去、故曰v未v半也。任徴君曰、病從v口入。故君子節2其飲食1。由v斯言v之、人遇2疾病1、不2必妖鬼1、夫醫方諸家之廣説、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、三者盈v目滿v耳、由來久矣。抱朴子曰、人但不v知2其當v死之日1、故不v憂耳。若誠知2羽※[隔の旁+羽]可1v得v延v期者、必將v爲v之。以v此而觀、乃知我病蓋斯飲食所v招、而不v能2自治1者乎。
 
志恠記にいふ、廣平の前の大守北海の徐玄方が女、年十八歳にして死《みまか》りき。その靈、憑馬子に謂ひて曰はく、わが生録を案《かむが》ふるに、當に壽八十餘歳なるべし。今妖鬼に枉殺せられて、すでに四年を經たり。ここに憑馬子に遇ひて、すなはち更に活くことを得たりといへる、これなり。内教にいふ、瞻浮州の人は壽百二十年なりといふ。謹みて案ふるに、この數かならずしもこれを過ぐることを得ずといふにあらず。故《かれ》、壽延經にいふ、比丘あり、名を難達と曰ふ。命終る時に臨みて、佛に詣《いた》りて壽を請《ねが》ひ、すなはち十八年を延べたりといふ。但し善く爲《をさ》むる者は天地と相|畢《を》ふ。その壽夭は業報の招く所にして、その脩短に隨ひて半とするなり。いまだこの算に盈たずして、※[しんにょう+端の旁]に死去す。故にいまだ半ならずと曰ふなり。任徴君日はく、(551)病は口より入る。故、君子はその飲食を節すといふ。これに由りて言へば、人の疾病に遇へるは、かならずしも妖鬼ならず。それ醫方諸家の廣き説、飲食禁忌の厚き訓、知り易く行ひ難き鈍き情、三つの者目に盈《み》ち耳に滿つこと、由來久し。抱朴子曰はく、人ただその當に死すべき日を知らず、故、憂へざるのみ。もし誠に羽※[隔の旁+羽]して期を延ぶるを得べきことを知らば、かならず將にこれを爲むといふ。ここを以ちて觀れば、すなはち知りぬ、わが病はけだしこれ飲食の招く所にして、みづから治むること能はざるものか。
【釋】志恠記 シケキ。以下二百五十六字、原文小字の目註である。今、便宜上大字とする。志恠記は書名。今傳わらない。隋書經籍志に「志恠二卷祖台之撰、志恠四卷孔氏(ノ)撰、志恠記三卷殖氏(ノ)撰」、舊唐書經籍志に「志恠四卷祖台(ノ)撰」。唐書藝文志に「祖台之志恠四卷、孔氏(ノ)志恠四卷」(攷證による)。
 徐玄方之女 ゾゲニハウガムスメ。この話は、捜神後記卷の四、法苑珠林卷の九十二、太平廣記卷の三百七十五に載せている(攷證)。
 内教 ナイケウ。佛典をいう。
 瞻浮州 セニフス。人間の住んでいる世界。須彌山の南方にあつて、南瞻浮州とも閻浮提ともいう。
 壽延經 スエニキヤウ。經典の名であるが、不明。
 脩短 スタニ。修短に同じ。長短の意。抱朴子對俗篇に「生死有(リ)v命、修短素(ヨリ)足(マル)」。
 任徴君 ニニチヨウクニ。梁の任※[日+方]、字は元昇のこと。徴君は尊稱。
 三者 ミツノモノ。上記の、醫方諸家の廣説、飲食禁忌の厚訓、知易行難の鈍情の三をいう。
 抱朴子 ハウホクシ。晋の葛稚川の著。以下の文は、その内篇勤求篇の文である。現行の抱朴子は、ここに引く所と小異があり、ここに引く所の方がよい。
 羽※[隔の旁+羽] ウカク。※[隔の旁+羽]は羽の莖。ここは飛行する意にいう。
 
(552)帛公畧説曰、伏思自※[蠣の旁]、以2斯長生1。々可v貪也、死可v畏也。天地之大徳曰v生。故死人不v及2生鼠1。雖v爲2王侯1、一日絶v氣、積v金如v山、誰爲v富哉。威勢如v海、誰爲v貴哉。遊仙窟曰、九泉下人、一錢不v直。孔子曰、受2之於天1、不v可2變易1者形也。受2之於命1、不v可2請益1者壽也。【見2鬼谷先生相人書1。】故知2生之極貴、命之至重1、欲v言々窮、何以言v之、欲v慮々絶、何由慮v之。
 
帛公の略説に曰はく、伏して思ひみづから励ますにこの長生を以ちてすといふ。生は貪るべく、死は畏るべし。天地の大徳を生といふ。故、死ぬる人は生ける鼠に及《し》かず。王侯たりとも一日氣を絶たば、金を積むこと山の如くなりとも、誰か貴しとなさめや。遊仙窟に曰はく、九泉の下の人は、一錢にだに直《あたひ》せずといふ。孔子の曰はく、これを天に受けて、變易すべからざる者は形なり。これを命に受けて、益を請ふべからざる者は壽なりといふ。【鬼谷先生の相人書に見えたり。】故、生の極めて貴く、命の至りて重きことを知る。言はむと欲《おも》ひて言窮まる。何を以ちてかこれを言はむ。慮らむと欲ひて慮絶ゆ。何に由りてかこれを慮らむ。
 
【譯】帛公の略説にいう、伏して思い、みずから励まして長生をしようとするという。生は貪るべきだ。死は畏るべきだ。天地の大きな徳を生という。それ故に死んだ人は、生きている鼠に及ばない。貴族でも、一度呼吸が絶えたら、金を山のように積んでも、誰も富んでいるとはしないだろう。威勢が海のように廣大でも、誰も貴いとはしないだろう。遊仙窟にいう、冥土の人は、一錢のねうちもないと。孔子がいう、天に受けて變えることのできないのは形だ。運命に受けて増してもらえないものは壽命だという。そこで生の極めて貴く、命の至つて重いことが知られる。言おうとしても言が窮する。どのようにして言おう。考えようとしても考えが絶える。どのようにして考えよう。
(553)【釋】帛公略説 ハククノリヤクセツ。帛公は人名、略説は書名であろうが、共に不明。
 遊仙窟 ユセニクチ。唐の張文成の撰。仙女に逢つた物語。ここの引用は「少府謂(ヒテ)言(ク)、兒(ハ)是九泉(ノ)下(ノ)人(ナリ)、明日在(リテ)2外處(ニ)1談(リテ)道(ク)、兒(ハ)一錢(ニ)不v直(セ)」。九泉下の人は、黄泉の國の人の意で、死者をいう。
 鬼谷先生相人書 キコクセニサウノサウニニソ。鬼谷先生は、戰國時代の論客蘇秦の師とした人。蘇秦がその道を神秘にしようとして假託した人名かともいう。相人書は書名だろうが、今傳わらない。
 
惟以、人無2賢愚1、世無2古今1、咸悉嗟歎。歳月競流、書夜不1v息。【曾子曰、往而不v反者年也。宣尼臨v川之嘆、亦是矣也。】老疾相催、朝夕侵動。一代歡樂、未v盡2席前1、【魏文惜2時賢1詩曰、未v盡2西苑夜1、劇作2北※[亡+おおざと]塵1也。】千年愁苦、更繼2座後1。【古詩云、人生不v滿v百、何懷2千年憂1。】
 
ただ以《おもひみ》れば人は賢愚となく、世は古今となく威悉に嗟歎す。歳月競ひ流れて、畫夜も息《や》まず。【曾子の曰はく、往きて反らざる者は年なりといふ。宣尼が川に臨める歎もまたこれなり。】老疾相催して、朝夕に侵し動く。一代の懽樂は、いまだ席の前に盡きざるに、【魏文が時賢を惜しめる詩に曰はく、いまだ西苑の夜を盡くさず、劇に北※[亡+おおざと]の塵となるといふ。】千年の愁吉は更に座の後に繼ぐ。【古詩に云ふ、人生百に滿たず、何ぞ千年の憂を懷かむといふ。】
 
【譯】えて見れば、賢人も愚人も、古代も現在も、すべて歎いている。年月が爭つて過ぎて、晝夜も止まない。老年と疾病とが催して、朝夕に侵して來る。一代の歡樂が、まだ座の前に盡きないのに、千代の愁苦は、更に座の後に續いている。
【釋】曾子 ソシ。魯の曾參。孔子の弟子。
 宣尼 セニニ。孔子。宣尼は、その謚號。漢の平帝、孔子に謚して褒成宣尼公と稱した。臨川の歎は論語にある。「子在(リテ)2川上(ニ)1曰(ク)、逝(ク)者(ハ)如(シ)v斯(ノ)夫、不v舍(カ)2晝夜(ヲ)1」の文による。
 魏文 ギフニ。魏の文帝か。この詩は、何によつたか不明。
(554)古詩 フルキカラウタ。文選、古詩源等に載せて、「生年不v滿(タ)v百(ニ)、何(ゾ)懷(ク)2千歳(ノ)憂(ヲ)1」に作つている。
 
若2夫群生品類1、莫v不d皆以2有v盡之身1、竝求c無v窮之命u。所以道人方士、自負2丹經1、入2於名山1而合v藥者、養性怡v神、以求2長生1。抱朴子曰、神農云、百病不v愈、安得2長生1。帛公又曰、生好物也、死惡物也。若不幸而不v得2長生1者、猶以d生涯無2病患1者u、爲2福大1哉。
 
かの群生品類のごときは、みな盡くることある身を以ちて、竝に窮まり無き命を求めずといふことなし。この所以《ゆゑ》に道人方士みづから丹經を負ひ、名山に入りて藥を合はすは、性を養ひ神を怡《よろこ》ばしめて、長生を求むるなり。抱朴子に曰はく、神農いふ、百病愈えずは、いかにぞ長生を得むといふ。帛公はまた曰はく、生は好き物なり、死は惡しき物なりといふ。もし幸あらずして長生を得ずは、なは生涯病患無きを以ちて、福大きなりとなさむか。
 
【譯】すべての生命のある者は、みな盡きることのある身をもつて、窮まりのない命を求めないということはない。道や術を求める人が、自分で藥を作る書物を背負つて、名山に入つて藥を作るのは、天性を養い精神を喜ばせて、長生を求めるのだ。抱朴子にいう。神農がいうには、多くの病氣が癒らなければ、どうして長生することができようと。帛公がまたいう、生は好いものだ、死は惡いものだと。もし不幸にも長生を得ないなら、生涯病氣のないのを、大きな幸福としよう。
【釋】丹經 タニキヤゥ。仙藥の處方を記してある書。
 神農 シニヌ。神話時代の皇帝、人身牛首と傳えている。始めて人に醫藥を教えた。
 
(555)今吾爲v病見v悩、不v得2臥坐1、向東向西、莫v知v所v爲。無v福至甚、惣集2于我1。人願天從、如有v實者、仰顧頓除2此病1、頼得v如v1。以v鼠爲v喩、豈不v愧乎。【已見v上也。】
 
今吾、病に悩《なや》まされ、臥坐することを得ず。かにかくにせむすべを知ることなし。福無きことの至りて甚しき、すべて我に集まる。人願へば天從ふといふ。もし實あらば、仰ぎ願はくは頓《にはか》にこの病を除き、頼《さきはひ》に平《つね》の如くなるを得む。鼠を喩となすは、あに愧ぢざらめや。【すでに上に見えたり。】
 
【譯】今わたしは、病氣のために悩まされて、臥したり坐つたりすることができない。どのようにもすべき手段を知らない。幸のないことのはなはだしいのは、すべてわたしに集まつている。人が願えば、天が與えるというが、もし本當なら、どうかたちまちにこの病氣を除いて幸に平復することができるように望む。鼠を喩とするのは、はずかしいことだ。
【釋】向東向西 カニカクニ。さまざまに、どのようにも。あちむきこちむきしての義。「然全萬呂、以2去月七日1臥v病、至v今東西患侍」(正倉院文所麻柄全麻呂啓)。この文の東西も、カニカクニと讀むべきであろう。日本書紀に「闇夜(ニ)東西(ニ)、求覓《モトム》」(雄略天皇三年四月)の東西にトサマカクサマニと訓している。
 以鼠爲喩 ネズミヲタトヘトスルハ。上文の、「死人不v及2生鼠1」をいう。みずから鼠をもつて喩にしたのを恥じたのである。それで細註に「已見v上也」と記したのである。
 
悲2歎俗道假合即離易v去難1v留詩一首 并v序
 
俗の道の、假に合ふはすなはち離れ、去り易くして留まり難きことを悲しみ歎く詩一首。【序并はせたり。】
 
(556)【釋】悲歎俗道假合即離易去難留詩 ヨノナカノミチノ、カリニアフハスナハチハナレ、サリヤスクシテトドマリガタキコトヲカナシミナゲクカラウタ。俗道は、人間世界の道理。假合は、佛教語。地水火風の四大が暇に合つて生じたもの。人命。この詩および序も、山上の憶良が前の文および後の老身重病の歌とほぼ同じ頃に作つたのだろう。
 
竊以釋慈之示v教【謂釋氏慈氏。】先開2三歸【謂歸2依佛法僧1。】五戒1、而化2法界1、【謂、一不2殺生1、二不2偸盗1、三不2邪淫1、四不2妄語1、五不2飲酒1也。】周孔之垂v訓、前張2三綱【謂君臣父子夫婦。】五教1以齊2濟邦國1【謂父義母慈兄友弟順子孝。】故知引導雖v二、得v悟惟一也
 
竊に以《おもひみ》るに、釋慈の教を示すは、【謂ふこころは釋氏慈氏をいふ。】先に三歸【謂ふこころは佛法僧に歸依するをいふ。】五戒を開きて、法界を化し、【謂ふこころは一つに殺生せず、二つに偸盗せず、三つに邪婬せず、四つに妄語せず、五つに飲酒せざるをいふ。】周孔の訓を垂るるは、前に三つの綱【謂ふこころは君臣父子夫婦をいふ。】五つの教を張り、以ちて邦國を濟ふ。【謂ふこころは父は義、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝なるをいふ。】故知る、引導は二つなれども、悟を得るはこれ一つなり。
 
【譯】自分で思うに、釋迦や彌勒の教を示すのには、まず佛法を信じ五戒を保つ道を開いて、佛法の世界を指導し、周公孔子の教訓を下すのには、まず三つの道と五つの教とを立てて、國を救う。そこで知られる、指導することは別だが、悟りを得るのは一つだ。
【構成】今假りに段を分つて解釋に便にする。第一段、悟ヲ得ルハコレ一ツナリまで。序説、釋慈周孔の教を説く。第二段、金容ヲ雙樹ニ掩ヘリまで。世間の無常を述べる。第三段、終りまで。死生観を述べる。
【釋】釋慈之示教 サクジノヲシヘヲシメスハ。釋慈は、釋迦と慈氏すなわち彌勒と。慈氏は、彌勒の譯語である。
 三歸 ミツノヨリドコロ。佛法僧に歸依し信頼するをいう。
(557) 五戒 イツツノイマシメ。佛教にいう五種の戒律。その目は細註に記している。
 周孔之垂訓 スクノノリヲタルルハ。周孔は、周公と孔子。
 三綱 ミツノツナ。君臣、父子、夫婦の関係。「令《シムル》v反(サ)2惑(ヘル)情(ヲ)1歌」(卷五、八〇〇)の序に見える。
 五教 イツツノヲシヘ。細註に、父義、母慈、兄友、弟順、子孝をいうとある。これは何によつたかあきらかでない。外に左傳には、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝とし、孟子には、父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、朋友信あり、長幼序ありとしている。
 引導雖二 イニダウハフタツナレドモ。釋慈を代表とする佛教と周孔を代表とする儒道と、人を導くのは二種だが。
 
但以世無2恒質1、所以陵谷更變、人無2定期1、所以壽夭不v同。撃v目之間、百齡已盡、申v臂之頃、千代亦空。且作2席上之主1。夕爲2泉下之客1。白馬走來、黄泉何及。隴上青松、空懸2信釼1、野中白楊、但吹2悲風1。是知、世俗本無2隱遁之室1、原野唯有2長夜之臺1。先聖已去、後賢不v留。如有2贖而可v免者1、古人誰無2價金1乎。未v聞d獨存、遂見2世終1者。所以維摩大士、疾2玉體于方丈1、釋迦能仁、掩2金容乎雙樹1。
 
ただ以《おもひみ》るに、世に恆の質なし、この所以《ゆゑ》に陵と谷と更變《かは》り、人に定れる期なし、この所以に壽と夭と同じからず。目を撃つ間に、百齡すでに盡き、臂を申《の》ぶる頃に千代また空し。旦には席上の主となれども、夕には泉下の客となる。白馬走り來とも、黄泉にはいかにか如《し》かむ。隴上の青き松に、空しく信《まこと》の劔を懸け、野中の白楊は、ただ悲しき風に吹かる。ここに知る、世俗もと隱遁の室無く、原野ただ長夜の臺《うてな》あること(558)を。先聖すでに去り、後賢も留まらず。もし贖ひて免るべきことあらば、古人誰か價の金無からむ。いまだひとり存《ながら》へて、遂に世の終りを見る者あるを聞かず。この所以に維摩大士は、玉體を方丈に疾ましめ、釋迦能仁は金容を雙樹に掩へり。
 
【譯】但し世には恒久の性質がなく、この故に山や谷が入れ變わり、人に定まつた年限がなく、この故に長生と若死とが等しくない。目を撃つあいだに長い年齡が既に盡き、手を伸ばすあいだに千代も過ぎてしまう。朝には座の上の主人であつても、夕方には地下の客人となる。白い馬が走つて來ても、死者の國には行かれない。墓の上の青い松は、いたずらに信義を守る劔を懸け、野中の白楊には、ただ悲しみの風が吹いている。そこで知る、世の中には、もとより隱れ遁れる室がなく、原野にはただ長い夜を眠る建物があるばかりだということを。昔の聖人は既に去り、後世の賢人も留まらない。もし物を出して免れられるものなら、古人は誰か價の金のないことがあろうか。まだ聞かない、ひとり存在して遂に世の終りを見るもののあることを。それ故に、維摩大士は、御身を狹い室で悩まされ、お釋迦樣は、お姿を沙羅雙樹で蔽われるのだ。
【釋】陵谷更變 ヲカトタニトカハリ。陵は高地、谷は低地。地形の變化するをいう。詩經十月之交に「高岸爲(ス)v谷(ヲ)、深谷爲(ス)v陵(ヲ)」。
 人無定期 ヒトニサダマレルトキナシ。人間には生存期間が定まつていない。
 撃目之間 メヲウツアヒダニ。またたきをするあいだに、寸時に。
 申臂之頃 カヒナヲノパスコロニ。手をのばすあいだで、やはり寸時をいう。陸※[人偏+垂]思田賦に、「歴2四時(ヲ)于遊水(ニ)1、馳(ス)2三稔(ヲ)于伸臂(ニ)1」。
 泉下之客 セニカノマレヒト。黄泉の人、死者。
 白馬走來 シロウマハシリクトキ。白馬は、時の過ぎることの早いのを譬える。ここは早いものの譬喩。(559)荘子知北遊篇に「人生(ルル)2天地之間(ニ)1、若(シ)2白駒之過(グル)1v隙(ヲ)、忽然(タルノミ)而已」。白馬と黄泉とを對語にしている。
 隴上青松空懸信劔 ツカノウヘノアヲキマツニムナシクマコトノツルギヲカケ。隴は墓。史記呉大伯世家に「季札初めて北に使し徐君を過ぐ。徐君季札の劔を好めども、口に敢へて言はず。季札心に之を知れども、上國に使する爲に、未だ獻ぜず。還りて徐に至る、徐君已に死す。是に於て乃ち其の寶劔を解き、之を徐君が冢の樹に繋けて去る」。
 野中白楊但吹悲風 ノナカノカハヤナギハタダカナシキカゼニフカル。文選の古詩に、「古墓犂(カレテ)爲(リ)v田(ト)、松柏摧(ケテ)爲(ル)v薪(ト)、白楊多(シ)2悲風1、肅々愁2殺(ス)人(ヲ)1」。
 長夜之臺 ナガキヨノウテナ。永久の夜の樓閣で、墓をいう。
 維摩大士 ヰマダイシ。日本挽歌(卷五、七九四)の前の文參照。
 釋迦能仁 サカノニニ。同前。
 
内教曰、不v欲2黒闇之後來1、莫v入2徳天之先至1。【徳天者生也、黒闇者死也。】故知、生必有v死、々若不v欲、不v如v不v生。況乎縱覺2始終之恒數1、何慮2存亡之大期1者也。
 
内教に曰はく、黒闇の後に來るを欲《ねが》はずは、徳天の先に至るに入ることなかれといへり。故知る、生まるれば死あることを。死もし欲はずは生まれざるに如《し》かず。いはめやよし始終の恒の數を覺《さと》るとも、何ぞ存亡の大きなる期を慮らめや。
 
【譯】佛教の經文にいう、死があとから來るのを望まないなら、生がまず來るのに入ることなかれと。そこで知られる。生まれればきまつて死がある。死をもし欲しないなら生まれない方がましだ。ましてよし人生のきまつた數を知つても、どうして生死の大きな期限を考えられよう。
(560)【釋】内教曰 ナイケウニイハク。この引用は、涅槃經聖行品の文によつている。日本挽歌(卷五、七九四)の前の文參照。
 縱覺始終之恒數何慮存亡之大期者也 ヨシハジメヲハリノツネノカズヲサトルトモナニゾイキシニノオホキナルトキヲハカラメヤ。人生無常のきまつた法則を悟つていても、實際の死の時期を考え知ることはできない。
 
 俗道變化猶v撃v目、人事經紀如v申v臂。
 空與1浮雲1行2大虚1、心力共盡無v所v寄。
 
 俗の道の變化するは猶目を撃つが如く、人の事の經紀するは臂を申ぶるが如し。
 空しく浮かべる雲と大虚を行き、心と力と共に盡きて寄《やど》る所なし。
 
【譯】世の中の道の變化するのは、目を撃つように瞬時であり、人間の事の經過するのは手を伸ばすあいだ。いたずらに浮かべる雲のように大空を行き、心も身力も共に盡きて寄る處がない。
【構成】七言四句の詩の形になつて居り、臂寄を韻字としている。これが題詞にいう所の詩である。
【釋】猶撃目 ナホメヲウツガゴトク。瞬時である。
 人事經紀 ヒトノコトノキヤウキスルハ。經紀は、常の理法の意の字だが、經過の意に使つているのだろう。史記に、「大史公曰(ク)、春秋、上明(ニシ)2三王之道(ヲ)1、下辯(ズ)2人事之經紀(ヲ)1」。
 空與浮雲 ムナシクウカベルクモト。空しく浮いた雲と共に。人生の實の無いことを浮いた雲に譬える。
 
老身重v病經v年辛苦、及思2兒等1歌七首【長一首短六首】
 
老いたる身に病を重ね、年を經て辛苦《たしな》み、また兒等を思ふ歌七首。【長一首。短六首。】
 
(561)【釋】老身重病經年辛苦及思兒等歌七首 オイタルミニヤマヒヲカサネトシヲヘテタシナミマタコラヲシノフウタナナツ。左註に「天平五年六月丙申朔三日戊戌作」とあるだけで、作者の名を記さないが、山上の憶良の作と認められる。沈痾自哀文の中に「初(メテ)沈(ミテ)v病(ニ)已來、年月稍多(シ)。【謂v經2十餘年1也。】是時年七十有四」とある。これを同年の作とすれば、作者は七十四歳で、十餘年前から病にかかつていたと考えられる。この年齡については、老齡に過ぎるとの説もあるが、文獻的には、この數に從うほかはない。その年にしては歌中の兒等が幼少に過ぎるようであるが、孫としてもよいので、それによつて年齡の數字を動かすわけにはゆかない。七首とあるは、下に記した通り長歌一首短歌六首で、これも題詞の例に違つた書式である。
 
897 たまきはる 現《うち》の限りは、
     【謂ふこころは、瞻浮州の人の壽一百二十年なるを謂ふ。】
 平《たひら》けく 安くもあらむを、
 事も無く 喪もなくあらむを、
 世間《よのなか》の厭《う》けく辛《つら》けく、
 いとのきて 痛き瘡《きず》には
 鹹鹽《からしほ》を灌《そそ》くちふが如く、
 ますますも 重き馬荷《うまに》に
 表荷《うはに》打《う》つと いふことの如、
 老いにてある わが身の上に
(562) 病をと 加へてあれば、
 晝はも 歎かひ暮らし、
 夜《よる》はも 息衝《いきづ》きあかし、
 年長く 病みし渡れば、
 月|累《かさ》ね 憂へ吟《さまよ》ひ、
 ことごととは 死ななと思へど、
 さ蠅《ばへ》なす 騷く兒どもを
 棄《う》つてては 死《しに》は知らず、
 見つつあれば 心は燃えぬ。
 かにかくに 思ひわづらひ
 哭《ね》のみし泣かゆ。
 
 靈剋《タマキハル》 内限者《ウチノカギリハ》【謂、瞻浮州人壽一百二十年也】
 平氣久《タヒラケク》 安久母阿良牟遠《ヤスクモアラムヲ》
 事母無《コトモナク》 母裳無阿良牟遠《モモナクアラムヲ》
 世間能《ヨノナカノ》 宇計久都良計久《ウケクツラケク》
 伊等能伎提《イトノキテ》 痛伎瘡尓波《イタキキズニハ》
 鹹鹽遠《カラシホヲ》 灌知布何其等久《ソソクチフガゴトク》
 益々母《マスマスモ》 重馬荷尓《オモキウマニニ》
 表荷打等《ウハニウツト》 伊布許等能其等《イフコトノゴト》
 老爾弖阿留《オイニテアル》 我身上爾《ワガミノウヘニ》
 病遠等《ヤマヒヲト》 加弖阿禮婆《クハヘテアレバ》
 晝波母《ヒルハモ》 歎加比久良思《ナゲカヒクラシ》
 夜波母《ヨルハモ》 息豆伎阿可志《イキヅキアカシ》
 年長久《トシナガク》 夜美志渡禮婆《ヤミシワタレバ》
 月累《ツキカサネ》 憂吟比《ウレヘサマヨヒ》
 許等々々波《コトゴトハ》 斯奈々等思騰《シナナトオモヘド》
 五月蠅奈周《サバヘナス》 佐和久兒等遠《サワグコドモヲ》
 宇都弖々波《ウツテテハ》 死波不v知《シニハシラズ》
 見乍阿禮婆《ミツツアレバ》 心波母延農《ココロハモエヌ》
 可尓可久尓《カニカクニ》 思和豆良比《オモヒワヅラヒ》
 祢能尾志奈可由《ネノミシナカユ》
 
【譯】この現在の世では、平安に無事にありたいものなのに、世間の憂く辛いことは、非常に痛い瘡に鹽を灌ぎかけるということのように、たいへん重い馬の荷に、更に荷を附け添えるということのように、老いはてたわたしの身の上に、病をさえ加えてあるから、晝間は歎思して暮らし、夜はため息をついて明かし、長い年の間、病んで過ごすから、月を累ねて憂え呻吟し、結局は死のうと思うけれども、夏の蠅のように騷ぐ子どもを、棄てて死ぬことも知らず、見ていると心は燃え立つた。ああもこうも思案し心配して、聲に出して泣くばかりである。
(563)【構成】別に段落はないが、見ツツアレバ心は燃エヌで、一往文が切れている。以上叙述的な部分で、以下の三句は、これを受けて、總括的に心事を説いている。
【釋】靈剋 タマキハル。既出。枕詞。
 内限者 ウチノカギリハ。ウチは、形容詞としてウツシとなり、同語を重ねてウツツとなる語で、現實を意味する。ウチノカギリは、この世の限り、生きているあいだ。
 謂瞻浮州人壽一百廿年也 イフココロハセムブスノヒトノイノチモモチアマリハタチナルヲイフ。謂は、意を註する時に、常に使用されている。これは現の限りの註釋で、作者自身書いておいたものである。後人の註記とする説もあるが、かえつて誤りであろう。歌詞に註を下すことは、これのみならず往々ある。瞻浮州《せむふす》は、佛説に、須彌山の南方海中にある世界で、すなわち吾人人間の生存する世界の名。南瞻部州とも閻浮提ともいう。人壽一百二十年は、瞻浮州に住める人間の壽命は一百二十年を限りとする謂いである。長阿含經に、「閻浮提の人の壽は百二十歳にして、中夭する者多し」、阿※[田+比]曇論に、「閻浮提の人は壽命定まらず。その三品あるは、上壽は一百二十五歳、中壽は一百歳、下壽は六十歳にして、其の間、中夭するもの數ふるに勝ふ可からず」とある。要するに佛教の説によつて、人間の壽命の最大限を擧げて、上の生命のある限りの句を釋している。沈痾自哀文の中にも、内教云瞻浮州壽百二十歳とある。
 事母無母裳無阿良牟遠 コトモナクモモナクアラムヲ。平ケク安クモアラムヲと對句になつている。モモナクの上の毛は名詞で、災禍、哀しむべきことをいう。「和多都美能《ワタツミノ》 可之故伎美知乎《カシコキミチヲ》 也須家口母《ヤスケクモ》 奈久奈夜美伎弖《ナクナヤミキテ》 伊麻太爾母《イマダニモ》 毛奈久由可牟登《モナクユカムト》」(卷十五、三六九四)、「多婢爾弖毛《タビニテモ》 母奈久波也許登《モナクハヤコト》」(卷十五、三七一七)。凶事もなくあるべきをの意。
 宇計久都良計久 ウケクツラケク。ウケクは憂きこと、ツラケクは辛いことで、いずれも體言である。憂い(564)ことつらいことは。
 伊等能伎提痛伎瘡尓波鹹鹽遠灌知布何其等久 イトノキテイタキキズニハカラシホヲソソクチフガゴトク。既出「伊等乃伎提《イトノキテ》 短物乎《ミヂカキモノヲ》 端伎流等《ハシキルト》 云之如久《イヘルガゴトク》」(卷五、八九二)參照。痛き瘡に鹹鹽を灌ぐは、沈痾自哀文の中にも「痛瘡灌v鹽」とあつて、當時の諺である。痛い瘡に鹽を灌げば、一層沁みて痛苦を増す意である。チフは、トイフの約言。「佐左浪乃《ササナミノ》 連庫山爾《ナミクラヤマニ》 雲居者《クモヰレバ》 雨曾零智否《アメゾフルチフ》 反來吾背《カヘリコワガセ》」(卷七、一一七〇)の歌にも書いている。
 益々母重馬荷尓表荷打等伊布許等能其等 マスマスモオモキウマニニウハニウツトイフコトノゴト。これも當時の諺であろう。重荷に小附という意である。「年の數積まむとすなる重荷にはいとどこづけをこりも添へなむ」(後撰集、賀歌)。表荷打つは、上方に荷を附け添える意。打ツは、荷を附けること。マスマスモは、重い馬荷にますます表荷うつというべきを、句の都合で、上に置いたもので、通常の言い方ではない。以上、鹸鹽の句と馬荷の句と對句になつている。
 老尓弖阿留 オイニテアル。ニは去の意で、古リニシ、過ギニシのニの例である。ニテと續くは、「奈美能宇倍由《ナミノウヘユ》 奈豆佐比伎爾弖《ナヅサヒキニテ》」(卷十五、三六九一)。
 病遠等加弖阿禮婆 ヤマヒヲトクハヘテアレバ。この等はラともトとも讀める字であるが、從來多くこの句を病ヲラと讀んでいる。それはラの助詞で、「君待夜等者《キミマツヨラハ》」(卷十、二〇七〇)、「物悲良爾《モノカナシラニ》」(卷四、七二三)などのラの例であるというのである。然るに、これらの助詞のラは、今の句の如く、まだヲのような助詞の下に附く例を見ない。ただ一つの例は、「古乎等都麻乎等《コヲトツマヲト》」(卷二十、四三八五)があるばかりであるが、これはトと讀むべきものである。それは「汝乎與吾乎《ナヲトワヲ》」(卷四、六六〇)の例があつて、この句は、ナヲトワヲとのほか讀みようがない。これによれば、卷の二十のも、コヲトツマヲトと讀むべきこと必定で、この病遠等をもヤマ(565)ヒヲトと讀むべきに定むべきである。これらのトは助詞で、物をいくつも數え立てる時に使うものと思われる。「烏梅能波奈遠等《ウメノハナヲト》」(卷五、八二六)參照。
 晝波母歎加比久良志 ヒルハモナゲカヒクラシ。晝ハモ夜ハモを使つて對句を構成する例は、既にあつた。ナゲカヒは、歎クの連續して行われるをいう。
 夜波母息豆伎阿可志 ヨルハモイキヅキアカシ。イキヅキは太息をつく、アカシは夜を明かし。
 夜美志渡禮婆 ヤミシワタレバ。シは強意の助詞。病み渡ればで、病んで年月を送つたことをいう。
 憂吟比 ウレヘサマヨヒ。既出(卷五、八九二)。
 許等々々波 コトゴトハ。契沖は、異事はで、子等を思う事のほかはの意に解している。なお事々はで、悉皆の意であろう。
 斯奈々等思騰 シナナトオモヘド。シナナは死ナナで、下のナは、願望をあらわす助詞。
 五月蠅奈周 サバヘナス。既出(卷四、四七八)。枕詞。夏の蠅のように。
 佐和久兒等遠 サワクコドモヲ。この句によれば、まだ幼少の子どものようである。
 宇都弖々波 ウツテテハ。棄つを古くウツということ、「奴伎都流其等久《ヌキツルゴトク》」(卷五、八〇〇)の條參照。うち棄ててはの約言。
 死波不知 シニハシラズ。上の死ナナト思ヘドを受けている。
 見乍阿禮婆 ミツツアレバ。騷ぐ子どもを見ておれば。
 心波母延農 ココロハモエヌ。心の燃えるというは、多く思慕の情にいうが、ここは子どもらを捨てて死ぬことのできない煩悶に使つている。句切で、以上は事實を敍述している。
 可尓可久尓思和豆良比 カニカクニオモヒワヅラヒ。ああもこうもと種々に思い煩うのである。
(566) 祢能尾志奈可由 ネノミシナカユ。ナカユは泣カルに同じ。以上心事を敍して留めている。
【評語】山上の憶良には、病を嘆く内容の作品に、沈痾自哀文、また藤原の八束の使者に對して歌つた短歌があり、子を思う歌に、前に出した子等ヲ思フ歌、後に出す男子名ハ古日ニ戀フル歌がある。今それらの内容を併わせて、ここにこの一篇を成している。彼の厭世と子に對する愛著との闘爭が、力強く描き出されている。しかしこの人には持つて生まれた理くつつぽさがあり、また譬喩などを使用した多辯があつて、材料ほどに痛切に響かない。
 
反歌
 
898 慰むる 心はなしに、
 雲|隱《がく》り 鳴き往《ゆ》く鳥の、
 哭《ね》のみし泣かゆ。
 
 奈具佐牟留《ナグサムル》 心波奈之尓《ココロハナシニ》
 雲隱《クモガクリ》 鳴往鳥乃《ナキユクトリノ》
 祢能尾志奈可由《ネノミシナカユ》
 
【譯】安まる心はなくして、雲に隱れて飛んでゆく鳥のように、泣かれてばかりいる。
【釋】奈具佐牟留心波奈之尓 ナグサムルココロハナシニ。長歌を受けて、その煩悶を慰めて安らかになる心はなくしての意。
 雲隱鳴往鳥乃 クモガクリナキユクトリノ。この二句は、插入句で、五句の哭ニ泣クの序になつている。
 祢能尾志奈可由 ネノミシナカユ。長歌の末句を繰り返している。
【評語】長歌に即して歌つている。長歌がなくては、何の憂悶だかわからないが、歌としては一往纏まつている。序を插んであやを作つているだけで、内容は平凡である。
 
(567)899 術《すべ》も無く 苦しくあれば
 いで走り 去《い》ななと思へど、
 兒らに障《さや》りぬ。
 
 周弊母奈久《スベモナク》 苦志久阿禮婆《クルシクアレバ》
 出波之利《イデハシリ》 伊奈々等思騰《イナナトオモヘド》
 許良尓佐夜利奴《コラニサヤリヌ》
 
【譯】何とも法がなく苦しいので、いで走つて行つてしまいたいと思うが、子どもに妨げられた。
【釋》周弊母奈久苦志久阿禮婆 スベモナククルシクアレバ。これは病苦を歌つているのであろう。
 出波之利伊奈々等思騰 イデハシリイナナトオモヘド。家を出て走つて去ろうと思えどの意で、長歌の死ナナト思ヘドを、語を變えて言つたまでである。
 許良尓佐夜利奴 コラニサヤリヌ。サヤリは、既出「奈爾可佐夜禮留《ナニカサヤレル》」(卷五、八七〇)參照。心にかかつて遂行されない。
【評語】病苦と子らに對する愛著との爭いが、よく描かれている。長歌の要約に過ぎないが、かえつて痛切に響いている。病苦に悩みながら子どもの愛を離れることができないでいる。尊い人生である。
 
900 富人《とみびと》の 家の子どもの、
 著《き》る身《み》無《な》み くたし棄つらむ
 ※[糸+施の旁]綿らはも。
 
 冨人能《トミビトノ》 家能子等能《イヘノコドモノ》 
 伎留身奈美《キルミナミ》 久多志須都良牟《クタシスツラム》
 ※[糸+施の旁]綿良婆母《キヌワタラハモ》
 
【譯】物持の家の子たちの、著る身體がなくして、腐らせて棄てるだろう絹や綿はなあ。
【釋】冨人能家能子等能 トミビトノイヘノコドモノ。クタシ棄ツラムに對して主格を成している。富の語は、集中これ一つである。
(568) 伎留身奈美 キルミナミ。いかに富家の子でも、衣服は一通りあれば足るのに、著る身體がないまでに多くの絹綿を藏していることをいうので、この句は、著る身體が無さにの意。
 久多志須都良牟 クタシスツラム。クタシは、朽ちさせる。くたくたにする。「春去者《ハルサレバ》 宇乃花具多思《ウノハナグタシ》」(卷十、一八九九)。ラムは連體形。
 ※[糸+施の旁]綿良波母 キヌワタラハモ。※[糸+施の旁]はアシギヌと訓する字。精選しない絲で織つた絹。粗い絹。ラは接尾語。ハモは提示詠嘆の助詞。絹や綿はの下に敍述部を省略した氣分である。
【評語】この歌、次の麁妙の歌と共に、前の貧窮問答歌の反歌であつたのが、ここに紛れ入つたのだとすること、萬葉考の説である。それは、この二首が貧を歌つているからであるが、これも、子等の事に關しているので、本題の子等を思う方面のものとして、やはり、もとから在つたものとすべきである。反歌の中に、話頭を換えて、他事を言い出ることのあるのは、むしろ作者としての手段であつて、長歌に貧のことに言い及ばなかつたから、それを補う性質もあるものとしてよいのである。憶良は、この歌で、冨人の家の子どもの餘分の絹綿をうらやんでいるが、眞實これを要求する程度の生活状態であつたかは疑問である。やはり貧者に代わつて言う態度で作つたのだろう。この歌は、そのうらやみが、歌を下品にしている。
 
901 麁妙《あらたへ》の 布衣《ぬのぎぬ》をだに
 著せがてに かくや歎かむ。
 爲《せ》むすべを無み。
 
 麁妙能《アラタヘノ》 布衣遠陀尓《ヌノギヌヲダニ》
 伎世難尓《キセガテニ》 可久夜歎敢《カクヤナゲカム》
 世牟周弊遠奈美《セムスベヲナミ》
 
【譯】粗末な布の著物だけも著せることができないで、こんなに歎くことだ。何とも法がなくて。
【釋】麁妙能 アラタヘノ。アラタヘは、粗末な織物。藤の皮の繊維などで織る布。ここは粗末な織物の意に(569)次の布衣を修飾する。
 布衣遠陀尓 ヌノギヌヲダニ。布衣をだけも。
 伎世難尓 キセガテニ。誰にとはないが、子どもたちに著せかねてである。
 可久夜歎敢 カクヤナゲカム。敢は古覽の切の字で、音カムであるから、カムの音聲表示に使用している。現に嘆いていることをさしてカクと言つている。句切。
 世牟周弊遠奈美 セムスベヲナミ。四句の内容を説明している。
【評語】この歌、誰にともないが、子等に著せることができないの意であることはあきらかである。これは前後の歌によつて推知するので、連作として、一首だけでは十分に意を盡さないものも存するのである。
 
902 水沫《みなわ》なす 微《いや》しき命も、
 栲繩《たくなは》の 千尋《ちひろ》にもがと、
 願ひ暮《く》らしつ。
 
 水沫奈須《ミナワナス》 微命母《イヤシキイノチモ》
 栲繩能《タクナハノ》 千尋尓母何等《チヒロニモガト》
 慕久良志都《ネガヒクラシツ》
 
【譯】水の泡のようないやしい命も、コウゾの繩のように長くあつてほしいと願つて暮らした。
【釋】水沫奈須 ミナワナス。ミナワは水の泡。すぐに消えるので、はかないのに譬える。水の沫のように。この作者の「敬みて和ふる熊凝の爲に其の志を述ぶる歌」の序に、「泡沫之命(ハ)難(シ)v駐(メ)」とあり、また維摩詰經に「是身如(シ)v泡(ノ)、不v得2久(シク)立(ツコトヲ)1」とある。結ぶかとすればすぐに消える、はかない義を取つて人の命を修飾する。「三名沫如《ミナワノゴトシ》 世人吾等者《ヨノヒトワレハ》」(卷七、一二六九人麻呂集)。
 微命母 イヤシキイノチモ。モロキイノチモと讀む説もある。松浦の河に遊ぶ序に「草庵の微しき者」、草香山の歌(卷八、一四二八)の左註に「右の一首は作者微しきに依りて名字を顯さず」等、この集に微をイヤシ(570)と讀むべきものあるによつて、代匠記にイヤシキイノチモと讀んだのによる。「雲に飛ぶ藥|食《は》むよは都見ばいやしきあが身|復《また》變《を》ちぬべし」(卷五、八四八)。
 栲繩能 タクナハノ。既出。枕詞。コウゾで作つた繩のように。
 千尋尓母何等 チヒロニモガト。ヒロは人が兩手を擴げた長さから起る。千尋は長い形容。本來空間の長さをあらわす語であるが、枕詞の栲繩の縁で用いたもので、この歌では、譬喩で長い時間をあらわしている。モガは願望の辭。
 慕久良志都 ネガヒクラシツ。クラシツは、日を暮らしたことであるが、ここでは年月を過ごしたことをいう。
【評語】人の生命を泡のようであると觀ずるのは、佛説から來ている。この作者は佛教の知識に熟していたので、歌中にもおのずから佛語を用いたものが多い。しかしその無常觀は、結局長壽を願つたことの前提になるのであつて、どこまでも佛教思想が知識として受け入れられているに過ぎないことが知られる。前數條の歌の内容によれば、憶良が死に切れないのは、單なる子どもの愛著だけでなしに、それらを養育せねばならない責任があるようだ。これがどこまで眞實であるかはわからないが、清廉の人であつたように思われるので一生を貧苦に處していたのだろう。そういう生活苦の中から生まれ出た歌として、さすがに他に比類のない作だといえよう。ひたすらに無常觀の中に逃げきらないところが貴いのである。
【參考】類想、水沫の如き命。
  卷向の山邊とよみて行く水の水沫の如し、世の人|吾等《われ》は(卷七、一二六九)
  泡沫《みつぼ》なす假れる身ぞとは知れれどもなほし願ひつ。千歳の命を(卷二十、四四七〇)
 
(571)903 倭文手纏《しつたまき》 數にもあらぬ
 身には在《あ》れど、
 千年にもがと 思ほゆるかも。
  【去る神龜二年作りき。但し類を以ちて故更に茲に載す。】
 
 倭文手纏《シツタマキ》 數母不v在《カズニモアラヌ》
 身尓波在等《ミニハアレド》
 千年尓母何等《チトセニモガト》 意母保由留加母《オモホユルカモ》
  【去神龜二年作之。但以v類故、更載2於茲1。】
 
【譯】倭文の手纏のような物の數でもないわたしの身だが、千年でもいたいものだと思われることだ。
【釋】倭文手纏 シツタマキ。枕詞。數ニモアラヌ、賤シキ等を修飾する。語義は、シツはシツオリ、シトリとも言い、わが國固有の織物の名である。タマキは、古來ヲダマキと同樣に、絲の卷いたものと解し、シツタマキは、俊文布の材料の絲を卷いたものと解していた。これは、シヅノヲダマキという語に引かれての解釋である。しかるに本集では、絲の卷いたものをタマキという例がない。「海神《わたつみ》の手纏《たまき》の珠を家裹《いへづと》に妹にやらむと」(卷十五、三六二七)の歌に、手に纏く飾りの義に用い、また卷の四の六七二、卷の九の一八〇九、およびこの歌とも、みな倭文手纏と書いてある字面によつて、タマキは手に纏く飾りと解すべきものである。貴人は珠玉を手纏に飾るが、賤しい者は古い習慣のままに倭文を手纏とするので、數ナラヌ、賤シキ等の枕詞となるのである。
 數母不在身尓波在等 カズニモアラヌミニハアレド。物の數にも入らぬいやしい身だが。
 千年尓母何等 チトセニモガト。千年にもあれかしと。
 去神龜二年作之 イニシジニキノフタトセニツクリキ。この歌の作歌の年で、作者の手もとに記録があつたことを語る。作者の自註である。
 但以類故更載於茲 タダシタグヒヲモチテカレサラニココニノス。前の歌と同じ内容なので、重ねてここに(572)載せる由である。本集には重載していない。
【評語】前の歌と同じ内容だが、ここには佛教の思想は表面に出ていない。神龜二年は、この天平五年より六年前だが、當時既に病氣に冒されていたようだ。そういう中から生まれた歌で、やはり憶良の容易にこの生を捨てようとしない貴い人生觀が窺われる。
 
天平五年六月丙申朔三日戊戌作
 
【釋】天平五年六月丙申朔三日戊戌作 テニヒヤウノイツトセミナヅキヒノエサルノツキタチニシテミカツチノエイヌノヒツクレル。丙申朔云々は、六月の一日が丙申で、それから數えて三日戊戌の日というのである。この左註の懸かるところは、沈痾自哀文からかどうか不明だが、とにかく憶良に關して傳えられる年月の最後のものである。おそらくこの老病を最後の悩みとして、この世を辭し去つたのであろう。
 
戀2男子名古日1歌三首【長一首短二首】
 
男《を》の子の名は古日といふに戀ふる歌三首。【長一首、短二首。】
 
【釋】戀男子名古日歌三首 ヲノコノナハフルヒトイフニコフルウタ、ミツ。古日という男子の早逝したのを哀しむ歌で、作者は山上の憶良と推測される。但し最後の一首は、後人の追記であるから、もとから三首とあつたわけではない。またその最後の一首は、憶良の作とは考えられない。そのことは、その歌の條に記す。
 
904 世の人の 黄み願ふ
 七種《ななくさ》の 寶も われは何《なに》爲《せ》む。」
(573) わが間《なか》の 生まれ出でたる
 白玉の わが子古日は、
 明《あか》星の 明くる朝《あした》は、
 敷細《しきたへ》の 床《とこ》の邊《べ》去らず、
 立てれども 居《を》れども 共に戯《たはむ》れ、
 夕星《ゆふづつ》の 夕《ゆふべ》になれば、
 いざ寐よと 手を携《たづさ》はり、
 父母も、上はな下《さが》り
 三枝《さきくさ》の 中にを寐むと、
 うつくしく しが語らへば、
 何時しかも 人と成りいでて
 惡しけくも 善けくも見むと、
 大船の 思ひ憑むに、
 思はぬに 横風《よこしまかぜ》の
 にふふかに ふふかに 覆《おほ》ひ來《きた》れば、
 爲《せ》むすべの 爲方《たどき》を知らに、
 白細の 手襁《タスキ》を掛け
(574) まそ鏡 手に取り持ちて、
 天つ神 仰ぎ乞ひ祷《の》み、
 地《くに》つ祇《かみ》 伏して額《ぬか》づき、
 かからずも かかりも
 神のまにまにと、
 立ちあざり わが乞ひ祷《の》めど、
 須臾《しましく》も 快《よ》けくは無しに、
 やくやくに 容貌《かたち》つくほり、
 朝な朝な 言ふこと止《や》み、
 たまきはる 命絶えぬれ、
 立ち踊り 足|摩《す》り叫び、
 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き、
 手に持てる あが兒飛ばしつ。
 世間《よのなか》の道。」
 
 世人之《ヨノヒトノ》 貴慕《タフトミネガフ》
 七種之《ナナクサノ》 寶毛《タカラモ》 我波何爲《ワレハナニセム》
 和我中能《ワガナカノ》 産禮出有《ウマレイデタル》
 白玉之《シラタマノ》 吾子古日者《ワガコフルヒハ》
 明星之《アカボシノ》 開朝者《アクルアシタハ》
 敷多倍乃《シキタヘノ》 登許能邊佐良受《トコノベサラズ》
 立禮杼毛《タテレドモ》 居禮杼毛《ヲレドモ》 登母尓戯禮《トモニタハムレ》
 夕星乃《ユフヅツノ》 由布弊尓奈禮婆《ユフベニナレバ》
 伊射祢余登《イザネヨト》 手乎多豆佐波里《テヲタヅサハリ》
 父母毛《チチハヽモ》 表者奈佐我利《ウヘハナサカリ》
 三枝之《サキクサノ》 中尓乎祢牟登《ナカニヲネムト》
 愛久《ウツクシク》 志我可多良倍婆《シガカタラヘバ》
 何時可毛《イツシカモ》 比等等奈理伊弖天《ヒトトナリイデテ》
 安志家口毛《アシケクモ》 與家久母見武登《ヨケクモミムト》
 大船乃《オホブネノ》 於毛比多能無尓《オモヒタノムニ》
 於毛波奴尓《オモハヌニ》 横風乃《ヨコシマカゼノ》
 尓母布敷可尓《ニフフカニ》 布敷可尓《フフカニ》 覆來禮婆《オホヒキタレバ》
 世武須便乃《セムスベノ》 多杼伎乎之良尓《タドキヲシラニ》
 志路多倍乃《シロタヘノ》 多須吉乎可氣《タスキヲカケ》
 麻蘇鏡《マソカガミ》 弖尓登利毛知弖《テニトリモチテ》
 天神《アマツカミ》 阿布藝許比乃美《アフギコヒノミ》
 地祇《クニツカミ》 布之弖額拜《フシテヌカヅキ》
 可加良受毛《カカラズモ》 可賀利毛《カカリモカ》
 神乃末尓麻仁等《ミノマニマニト》
 立阿射里《タチアザリ》 我例乞能米登《ワガコヒノメド》
 須臾毛《シマシクモ》 余家久波奈之尓《ヨケクハナシニ》
 漸々《ヤクヤクニ》 可多知都久保里《カタチツクホリ》
 朝々《アサナサナ》 伊布許等夜美《イフコトヤミ》
 靈剋《タマキハル》 伊乃知多延奴禮《イノチタエヌレ》
 立乎杼利《タチヲドリ》 足須里佐家婢《アシスリサケビ》
 伏仰《フシアフギ》 武祢宇知奈氣吉《ムネウチナゲキ》
 手尓持流《テニモテル》 安我古登婆之都《アガコトバシツ》
 世間之道《ヨノナカノミチ》
 
【譯】世間の人の貴び願つている七種の寶物もわたしは何にしよう。わたしたちの中で生まれ出た白玉のようなわが子古日は、あけの明星が出て夜の明ける朝は、やわらかい床のほとりを去らず、立つても坐つても一緒に遊び戯れ、宵の明星の出る夕方になると、さあ寐ましようと手を取り合つて、お父さんお母さんも上の方を(575)下つちやいや、三枝《さきくさ》のようにまん中に寐ましようと、愛らしくあれが話をするので、早く一人前になつて、惡いにつけ幸いにつけ見たいものだと、大船のように頼みに思つていたところ、意外にも横風がさあつと吹いて來たので、何ともしかたがなく、白布の手次を懸け、澄んだ鏡を手に取り持つて、天の神を仰いでお願いをし、國の神を伏しておがみ、神樣のお力でもとのようにしてくださいと、足ずりをしてお願いをするけれども、ちよつともよいことはなしに、だんだんに形がくたくたになり朝ごとに物を言わなくなり、ついに死んでしまつたので、躍りあがり足ずりをして叫び、伏したり仰いだりして胸を打つて嘆いて、手に持つているわたしの子どもを飛ばしてしまつた。これが世間の道なのか。
【構成】二段から成つている。ワレハ何セムまで短いが第一段。序で、あらゆる寶も何の意味もないことを説く。以下第二段、古日という子の死を述べる。大船ノ思ヒ憑ムニまでは、その子の状態を述べ、以下病にかかつてついに死に至り痛哭することを述べる。
【釋】世人之貴慕七種之寶毛我波何爲 ヨノヒトノタフトミネガフナナクサノタカラモワレハナニセム。七種之以下仙覺本にナナクサノタカラモワレハナニカセムと讀んでいたが、略解にナナクサノタカラモワレハナニセムニと讀んでから、だいたいこの訓が行われるようになつた。これは「銀母《シロガネモ》 金母玉母《クガネモタマモ》 奈爾世武爾《ナニセムニ》」(卷五、八〇三)などに引かれ、また何爲を強いて五音に讀もうとしたためであると考えられる。しかしここには、ニもしくはカに相當する文字はない。またこの歌中では、立テレドモ居レドモ共ニ戯レ、カカラズモカカリモ神ノマニマニトの如く、五四七(八を含む)句形がいくつもあり、これは意識して使用されていると見られるので、ここもナナクサノタカラモワレハナニセムと、五四七の形に讀むを適當とする。これは長歌の五七調の平板を避けるために、特に試みられた作者の手段であつて、古歌に通曉している者においてなし得るところである。「窺はく 知らにと 御眞木《みまき》人彦はや」(古事記二三)、「事なぐし ゑぐしに 吾醉ひにけり」(同五〇)。(576)七種の寶は、物説にいう七種の珍寶であるが、何と何であるかについてはかわつた傳えがある。法華經に、金、銀、瑠璃《るり》、※[石+車]※[石+渠]《しやこ》、瑪瑙《めのう》、※[王+攵]瑰《ばいかい》、眞珠とし、佛地論に、金、銀、吠琉璃《ばいるり》、頗※[月+※[氏/一]]迦《はていか》、牟娑落掲拉婆《むしやらくがらば》(※[石+車]※[石+渠])、遏濕摩《あしつま》掲婆(瑠璃)、赤眞珠とし、無量壽經に、金、銀、琉璃、頗梨《はり》、珊瑚、※[石+車]※[石+渠]、金剛とし、恒水經に、金、銀、珊瑚、眞珠、※[石+車]※[石+渠]、明月珠、摩尼珠《まにしゆ》とし、大論に、金、銀、※[田+比]瑠、頗梨、※[石+車]※[石+渠]、瑪※[石+悩の旁]、赤眞珠としている。ナニセムは、何とかせむで、不用の意である。以上第一段で、總論として、子の愛に及ぶもののなきことを敍している。前掲子等ヲ思フ歌の反歌、「銀も黄金も玉も何せむに」の歌と同じ思想である。
 和我中能 ワガナカノ。夫婦のあいだので、ワガは妻と自分とをいう。
 白玉之 シラタマノ。譬喩をもつてわが子を修飾する。シラタマは眞珠だが、良い珠の意に使用している。この句は、第一段を受けて、自分に取つては子が殊寶である意をあきらかにする。
 吾子古日者 ワガコフルヒハ。古日は子の名である。
 明星之 アカボシノ。枕詞。アカボシは金星をいう。この星は宵には西方にあらわれ、曉には東方にあらわれる。ここでは明けの明星の意に明クルに冠している。
 敷多倍乃 シキタヘノ。枕詞。床を修飾説明している。敷細を敷いた床の義である。
 登許能邊佐良受 トコノベサラズ。トコは床で、晝は座席であり、夜は寢所である。室内に特に人の常在の場處を設定して疊や敷細を敷く。これを床という。
 立禮杼毛居禮杼毛登母尓戯禮 タテレドモヲレドモトモニタハムレ。立テレドモ居レドモは兩親の行動。共ニ戯レは子の行動。この句は、五四七の形になつている。脱句ありとする説は非。
 夕星乃 ユフヅツノ。既出(卷二、一九六)。ユフヅツは金星、宵の明星をいう。ヅツは精靈の義。ユフヅツノユフと、同音を重ねているが、意義の上からも懸かる。
(577) 手乎多豆佐波里 テヲタヅサハリ。手をにぎり合つて。
 表者奈佐我利 ウヘハナサガリ。佐我里は、從來我を清音カとし、離りの義とする説が行われていたが、それは無理で、やはり下りの義とするほかはなく、三人竝んで寢る場合に、父母は下方へ下るなの意であろう。サガリは、上から懸かる意の語であるが、下に行くのをもいうのだろう。父母モ以下中ニヲ寐ムまで、子のいう言。
 三枝之 サキクサノ。枕詞。サキクサは植物の名。枝が三つに分かれる性質を持つているのでナカの枕詞となる。サキクサの實物については異説がある。古くはヒノキとし、本居宣長はユリとし、鹿持雅澄はジンチヨウゲの類かとし、その他ミツマタ、オケラとする説もある。神祇令に孟夏に三枝祭あり、その義解に「率川(ノ)社(ノ)祭也。以(テ)2三枝(ノ)華(ヲ)1飾(リ)2酒吹iヲ)1祭(ル)、故(ニ)曰(フ)2三枝(ト)1也」とある。率川社は、奈良市西新屋町にあつて、姫|踏鞴五十鈴媛《たたらいすずひめ》の命を祭る。孟夏は陰暦四月であるから、その頃花の咲く植物に三枝を求むべきである。
 中尓乎祢牟登 ナカニヲネムト。ヲは感動の助詞。
 愛久 ウツクシク。ウツクシク(神)、オモハシク(西)、ウルハシク(古義)。ウツクシクは、愛すべくある意の形容詞。
 志我可多良倍婆 シガカタラヘバ。シは、上に出たのを受けて、其と指定する代名詞。「鵜河立《ウカハタチ》 取左牟安由能《トラサムアユノ》 之我波多波《シガハタハ》」(卷十九、四一九一)。ここでは古日をさしている。
 何時可毛 イツシカモ。シを讀み添える。何時か、早くの意。
 比等々奈理伊弖天 ヒトトナリイデテ。人と成つて。成人して。
 安志家口毛與家久母見武登 アシケクモヨケクモミムト。アシケクは惡しくあること、ヨケクは善くあることで、その子の善きにも惡しきにもの意。
(578) 大船乃 オホブネノ。枕詞。
 横風乃 ヨコシマカゼノ。横樣に吹く風がで、暴風をいう。病氣にかかつたのを、暴風の吹くに譬える。
 尓布敷可尓布敷可尓 ニフフカニフフカニ。
  ニモフフカニ(神)
  ――――――――――
  爾母布敷可爾布敷可爾《ニフフカニフフカニ》(細)
  爾母布敷可爾布敷可爾《ニモシクシクカニフフカニ》(西)
  爾母布敷可爾《ニモシクシクカニ》(代初)
  爾波可爾母布敷爾《ニハカニモシクシクニ》(代精)
  率爾母布敷可爾《ニハカニモシクシクバカリニ》(童)
  奧爾母邊爾母布浪布敷爾《オキニモヘニモシクナミノシクシクニ》(考)
  爾渡可爾母《ニハカニモ》(略、宣長)
  爾波布爾《ニハシクニ》(新考)
  爾布敷可爾《ニフフカニ》(新訓)
 神田本以外の諸本には、上の爾の下に母の字がある。神田本には無いが、右に書き入れてあり、訓はそのあるによつている。細井本にはこの母の字があるが、訓はこれに相當するものがないから、古本系統には、この字がなかつたものと推測される。西本願寺本等には、下の布敷可爾について、四字古本無之と註しているから、そういう傳本もあつたのだろう。しかし現存せる古本系統には、この四字の無い傳來はない。この歌は、歌中しばしば五音七音の句のあいだに、四音の句を插入しているから、ここもそのあるによるべきである。ニフフカニは、俄にの意であろうかという。俄にの意の形容詞には、ニハシクがあり、「爾波志久母《ニハシクモ》 於不世多麻加保《オフセタマホカ》」(卷二十、四三八九)があり、ニハが語幹の位置に置かれているから、ニフフカの語もあり得ない形ではな(579)い。また笑うことの形容にニフブニがあり、「吾兄子者《ワガセコハ》 二布夫爾咲而《ニフブニヱミテ》」(卷十六、三八一七)の如く使われているが、これは關係はないだろう。下のフフカニも、明解を得ない。しばらく文字によつて存するのみである。
 多杼伎乎之良尓 タドキヲシラニ。タドキは手著で、手のつけ所。手段。ニは打消の助動詞。
 志路多倍乃多須吉乎可氣 シロタヘノタスキヲカケ。神を祭るために白布の手次を懸ける。祭祀に手次を懸けることは既出(卷三、四二〇)。
 麻蘇鏡弖尓登利毛知弖 マソカガミテニトリモチテ。マソカガミは、澄んだ鏡。それを手に持つは、これによつて神靈を申しおろすのである。日本書紀神代の上の一書に、伊弉諾の尊が白銅鏡を手にされた時に、天照らす大神、月讀の尊が出現されたとするのも、この信仰にもとづく。
 天神阿布藝許比乃美 アマツカミアフギコヒノミ。天つ神に對して仰ぎという。コヒノミは、乞いいのる意。
 地祇布之弖額拜 クニツカミフシテヌカヅキ。國つ神に對して、伏してという。ヌカヅキは、額を地に附けて拜するをいう。
 可加良受毛可賀利毛神乃末尓麻尓等 カカラズモカカリモカミノマニマニト。病氣にかかつたことについて、カカラズは病氣でない状態をいい、もちろんそこに祈願の主眼があるが、すべて神意にもとづくとする思想から、カカリモの語を添えている。神意をやわらげるために祭を行う信仰である。この句、五四八になつている。
 立阿射里 タチアザリ。アザリは騷ぎ亂れること「上中下《かみなかしも》醉《ゑ》ひ過ぎていとあやしく潮海《しほうみ》のほとりにてあざれあへり」(土佐日記)、「あざれたる大君すがた」(源氏物語、花宴)など中世の文學に見えている。
 漸々 ヤクヤクニ。有坂秀世博士の説に、神樂歌、弓の末歌「みちのくのあづさの眞弓《まゆみ》わが引かばやうやう寄り來《こ》しのびしのびに」のヤウヤウを重種本神樂歌に、ヤクヤクに作つているのは、この語の古い形であろうという。今、これによる。漸く。漸次。次第次第に。
(580) 可多知都久保里 カタチツクホリ。ツクホリは未詳の語である。形容衰えて屈折する意の語であろうという。久都保里の誤りであろうともいう。クツホリにしても他に例證はない。
 朝々伊布許登夜美 アサナアサナイフコトヤミ。朝ごとに衰弱が増して物を言わなくなるのである。
 靈剋 タマキハル。枕詞。
 伊乃知多延奴禮 イノチタエヌレ。已然條件法。以上わが子の死んだことをいう。
 立乎杼利足須里佐家婢 タチヲドリアシスリサケビ。悲憤し殘念がる状態を描いている。浦島の歌に「立走《タチハシリ》 叫袖振《サケビソデフリ》 反側《コイマロビ》 足受利四管《アシズリシツツ》」(卷九、一七四〇)とある。
 伏仰武祢宇知奈氣吉 フシアフギムネウチナゲキ。これも悲痛の状態である。胸を打つは親しいものを失つて哀痛する形容語。「※[手偏頁辟]踊哭泣」(孝經)。
 手尓持流安我古登婆之都 テニモテルアガコトバシツ。最愛の子、手にしつかりと持つていたその子を死なせたの意。句切。
 世間之道 ヨノナカノミチ。これが世間の常かと嘆いている。貧窮問答歌の末句に同じ。
【評語】最愛の子を失つた悲痛がよく描かれている。堂々たる作品で、父の愛情が盡くされている。この歌は、長歌ではあるが、形式上、しばしば短調を用いている。「七種の寶も我は何せむ」、「立てれども居れども共に戯れ」、「かからずもかかりも神のまにまにと」の如き、五七調を破つている。この破格を用いたのは、長い歌にあつては、單調に落ち易いから、それを避けるためであつて、これに脱字があるとして、字を補つて、しいて五七調に合わせようとする説のあるのは、かえつてよくないのである。
 
反歌
 
(581)905 稚《わか》ければ 道行き知らじ。
 幣《まひ》はせむ。
 黄泉《したべ》の使 負ひて通《とほ》らせ。
 
 和可家禮婆《ワカケレバ》 道行之良士《ミチユキシラジ》
 末比波世武《マヒハセム》
 之多敝乃使《シタベノツカヒ》 於比弖登保良世《オヒテトホラセ》
 
【譯】若いので旅行を知らない。贈物をしようから、下の國のお使さん、背負つて行つてください。
【釋】道行之良士 ミチユキシラジ。ミチユキは道を行くこと。旅行。句切。
 末比波世武 マヒハセム。マヒは贈物。「天爾座《アメニマス》 月讀壯子《ツクヨミヲトコ》 幣者將v爲《マヒハセム》 今夜乃長者《コヨヒノナガサ》 五百夜繼許増《イホヨツギコソ》」(卷六、九八五)、「多麻保許乃《タマホコノ》 美知能可未多知《ミチノカミタチ》 麻比波勢牟《マヒハセム》 安賀於毛布伎美乎《アガオモフキミヲ》 奈都可之芙勢余《ナツカシミセヨ》」(卷十七、四〇〇九)などあり、この句を插入文として第三句に使用し、これを受けて第四五句に希望を述べるのが、一つの型になつている。句切、三句切。
 之多敝乃使 シタベノツカヒ。死者の行く世界が地下にあるとする思想から、下邊という。下方の國の意である。ツカヒは、從者であり使者であるが、死者を迎えに來るという考えから言えば、使者と見られる。
 於比弖登保良世 オヒテトホラセ。オヒテは背負つて。子を負うことは、前にもあつた。「雄自毛能《ヲノコジモノ》 負見抱見《オヒミウダキミ》」(卷三、四八一)。トホラセは、通ルの敬語法の命令形。
【評語】この歌は、人が死んで黄泉の國に行くという思想をあらわしている。旅行も知らないわが若い子のひとり行くを思うこと、哀しみの極みである。
【參考】類句、幣はせむ。
  天に坐す月人壯士《つきひとをとこ》、幣《まひ》はせむ。今夜の長さ五百夜《いほよ》繼ぎこそ(卷六、九八五)
  (上略)幣はせむ。遠くな行きそ、わが宿の花橘に住み渡れ鳥(卷九、一七五五)
(582)  玉ほこの道の神たち、幣はせむ。わが思ふ君をなつかしみせよ(卷十七、四〇〇九)
  わが宿に咲ける瞿麥《なでしこ》、幣はせむ。ゆめ花散るな。いやをちに咲け(卷二十、四四四六)
  幣しつつ君がおほせる瞿麥が花のみ訪はむ君ならなくに(同、四四四七)
 
906 布施《ふせ》置きて われは乞ひ祷《の》む。
 欺《あざむ》かず 直《ただ》に率去《ゐゆ》きて
 天路《あまぢ》知らしめ。
 
 布施於吉弖《フセオキテ》 吾波許比能武《ワレハコヒノム》
 阿射無加受《アザムカズ》 多太尓率去弖《タダニヰユキテ》
 阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》
 
【譯】お布施を置いてわたしはお願いします。うそをいわないで、まつすぐに連れて行つて、天へ行く路を教えてください。
【釋】布施於吉弖 フセオキテ。布施は佛教語。佛や僧に贈る品。外來語をそのまま使用している。
 吾波許比能武 ワレハコヒノム。コヒノムは長歌の中に出ている。元來神に對していう語と思われるが、ここでは物の使者に對している。句切。
 阿射無加受 アザムカズ。次の句を修飾している。
 多太尓率去弖 タダニヰユキテ。タダニは、ただ泊てになどのタダに同じく、直線的であることをいう。まつすぐに。ヰユキテは、つれて行つて。
 阿麻治思良之米 アマヂシラシメ。アマヂは天路、天に行く路。前に、「阿麻遲波等保斯《アマヂハトホシ》」(卷五、八〇一)の句があつた。シメは使役の助動詞の命令形。天をよい世界とし、そこに行かしめよの意である。
【評語】この歌は、天に行かせよというので、前の歌の、下邊ノ使負ヒテ通ラセとは、思想において矛盾があり、よし憶良の作としても、前の長歌の反歌ではあるまい。左註に從つて作者未詳とすべきである。歌として(583)は、前の稚ケレバの歌の方が悲痛の情がよく出ている。
 
右一首、作者未v評、但以3裁歌之體、似2於山上之操1、載2此次1焉。
 
右の一首は、作者いまだ詳ならず。但し歌を裁る體、山上の操に似たるを以ちてこの次に載す。
 
【釋】裁歌之體似於山上之操 ウタヲツクルカタチヤマノウヘノフリニニタルヲモチテ。裁は製の意。裁歌は作歌である。山上は山上の憶良。操は風調、また琴曲。前の長歌および反歌一首を山上の憶良の作とし、この一首が山上の憶良の作に似ているので、ここに載せる由である。しかし實際は、似ているだけで、惜良の作ではないようである。
 
萬葉集卷第五
 
昭和三十二年六月十日  初版發行
昭和三十三年三月二十日 再版發行
 
増訂萬葉集全註釋 五 卷の四・五
       定價  四百八拾圓
       地方價 四百九拾圓
       たけだ ゆうきち
   著作者 武田 祐吉
   發行者 角川 源義
   印刷者  中内あき子
      東京都千代田區飯田町一ノ二三
發行所 【株式會社】角川書店《かどかわしよてん》
      東京都千代田區富士見町二ノ七
      振替東京一九五二〇八番
      電話九段(33)〇一一一(代表)−五
 
 
萬葉集卷第六
 
 卷の六は、雜歌と題せられた一卷で、卷中時代の最終の程度、用字法、編纂法などは、卷の三、四、八などと同一群に屬するようである。同じ時の作品のうち、季節のあるものを卷の八に、季節のないものをこの卷に收めているものがあつて、とくに卷の八とは密接な關係がある。年代からいえば、卷の一に接續するようであるが、そのような形で成立したかどうかは、あきらかにされない。
 歌數は或る本の歌を併わせて百六十首、番號によれば百六十一首だが、そのうち古く二首と解せられていたために二個の番號を有しているものが一首(一〇二〇・一〇二一)ある。うち長歌二十七首、旋頭歌一首である。題詞を具有し、特に、年月を立てて歌を收載しているのを特色とする。但し卷末の二十一首は、田邊の福麻呂の歌集から出た歌であつて、これは年月の標目に入らない。その年月の標記は、卷首の養老七年五月に始まり天平十六年正月に至るが、福麻呂歌集所出の歌には、難波の宮の歌があり、これは天平十六年二月に、難波の宮を帝都と定められた後の作と考えられる。なお卷末に、同じく福麻呂歌集所出の敏馬《みぬめ》の浦での作があるが、これは年代不明で、それより後のものであるかも知れない。このようにこの卷の組織は、年月を立てた部分と、福麻呂歌集所出の部分との、二部に分けて見ることができ、その年月を立てている部分においては、多分笠の朝臣金村歌集をも資料として消化採録していると考えられるのに、福麻呂歌集をそのままに取り入れたのは、それと別手に出ると見るのが順當である。この卷にも、大宰の帥大伴の旅人を中心とした、九州方面における作品があり、それは十四首(九五五−九六八)あつて、やはりそういう資料を使用したことが推量され(18)る。更に天平十二年以後は、大伴の家持の手記を材料としたと考えられるものがある。これらを始めて、諸種の資料から編纂した一卷である。歌人としては、笠の金村・山部の赤人等の作品が、比較的多量に集められている。これらの奈良時代前期から中期にかけての歌人の作に見るべきものがある。
 文字は、表意文字と表音文字とを併用しており、これも卷の一乃至四あたりと似ている用法である。
 この卷は元暦校本が大部分を存しているが、それは鎌倉時代に書き繼いだ一卷で、寂蓮《じやくれん》筆と傳える卷である。その他には、神田本、細井本が古本系統であり、春日本も殘簡を存している。類聚古集、古葉略類聚鈔も存していること、例の如くである。
雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。既に卷の一、三、五の各卷において説いたように、相聞および挽歌でない歌を集めている。この卷のこの二字については、まだこれのない傳本を見ない。
 
養老七年癸亥夏五月、幸于芳野離宮時、笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
養老の七年癸亥の夏五月、芳野《よしの》の離宮《とつみや》に幸《い》でましし時、笠の朝臣金村の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】養老七年癸亥夏五月 ヤウラウノナナトセミヅノトヰノナツサツキ。以下かようにます年月を標記し、年月を同じくする作品は、その次に列擧してある。これらの同年月の歌について、金村の作のある場合は、まず金村の作によつて掲記する等、金村の歌および金村歌集の研究によつて、その金村の作は、金村歌集を資料とすること、その作歌年月は資料から來ており、それは金村の手記にもとづくことなどが考えられる。金村はきちようめんに年月を題してその作を記しておいたと考えられる。
(19) 幸于芳野離宮時 ヨシノノトツミヤニイデマシシトキ。芳野の離宮は、既出「吉野宮」(卷一、二七)參照。吉野川の激流に臨んだ景勝の地にあり、今の宮瀧の地と考えられる。この行幸は、續日本紀、養老七年の條、「五月葵酉(九日)行2幸(ス)芳野宮(ニ)1、丁丑(十三日)車駕還(リヌ)v宮(ニ)」とある。元正天皇の行幸である。
 笠朝臣金村 カサノアソミカナムラ。既出(卷三、三六四)。金村の作品中、作歌年代の最古のもので、當時舍人その他の微官であつたと思われる。
 
907 瀧《たぎ》の上の 御舟《みふね》の山に
 瑞枝《みづえ》さし 繁《しじ》に生《お》ひたる
 とがの樹の いや繼《つ》ぎ繼ぎに、
 萬代に かくし知らさむ
 み芳野《よしの》の 蜻蛉《あきづ》の宮は、
 神《かむ》からか 貴《たふと》くあるらむ。
 國からか 見《み》が欲《ほ》しからむ。
 山川を 清《きよ》み清《さや》けみ、
 うべし神代ゆ 定《さふぁ》めけらしも。
 
 瀧上之《タギノウヘノ》 御舟乃山尓《ミフネノヤマニ》
 水枝指《ミヅエサシ》 四時尓生有《シジニオヒタル》
 刀我乃樹能《トガノキノ》 弥繼嗣尓《イヤツギツギニ》
 萬代《ヨロヅヨニ》 如v此二二知三《カクシシラサム》
 三芳野之《ミヨシノノ》 蜻蛉乃宮者《アキヅノミヤハ》
 神柄香《カムカラカ》 貴將v有《タフトクアラム》
 國柄鹿《クニカラカ》 見欲將v有《ミガホシカラム》
 山川乎《ヤマカハヲ》 清々《キヨミサヤケミ》
 諾之神代從《ウベシカミヨユ》 定家良思母《サダメケラシモ》
 
【譯】激流に臨んでいる御舟の山に、いきいきとした枝を出していつぱいに生えているトガの樹のように、いよいよ次々に幾久しく、かように御領有になるべきみ芳野の蜻蛉の宮は、その神靈の故でか貴いのだろう。その土地がらか見たいと思われるのだろう。山や川が清くさやかなので、まことに神代から離宮とお定めになつ(20)たと思われる。
【構成】別に段落はない。神カラカ貴クアラム、および國カラカ見ガホシカラムは、いずれも終止形になつているが、蜻蛉ノ宮ハを受けて一時中止するまでで、主脈はなお以下に續いて行く。ミ芳野ノ蜻蛉ノ宮ハまでが、主格の提示であり、以下は、それを説明し敍述している。
【釋】瀧上之御舟乃山尓 タギノウヘノミフネノヤマニ。既出(卷三、二四二)。
 水枝指四時尓生有 ミヅエサシシジニオヒタル。ミヅエは、榮えているいきいきとした枝。シジニは繁つて密生している形容。いつぱいに繁くある意。
  刀我乃樹能 トガノキノ。トガノキは樹名。既出「樛木乃《ツガノキノ》」(卷一、二九)、「都賀乃樹乃《ツガノキノ》」(卷三、三二四)に同じ。以上は、目前の風物を敍して、次の、イヤ繼ギツギニの句の序としている。この形は、赤人の「三諸乃《ミモロノ》 神名備山爾《カムナビヤマニ》 五百枝刺《イホエサシ》 繁生有《シジニオヒタル》 都賀乃樹乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》」(卷三、三二四)と同型で、その先後はあきらかでないが、一元に出たことはあきらかである。人麻呂には「樛木乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》」(卷一、二九)があり、それらから發達して來た句である。
 萬代如是二二知三 ヨロヅヨニカクシシラサム。二二は義をもつてシに當てている。三は字音假字でサムの音を表示している。連體形の句。
(21) 三芳野之蜻蛉乃宮者 ミヨシノノアキヅノミヤハ。吉野の秋津の地にある離宮で、主格として提示している。蜻蛉の文字は、地名に當てているが、古事記下卷雄略天皇の條に、天皇がこの地に行幸のあつた際に、御腕を食つた虻《あぶ》を、蜻蛉が食つたので、御製の歌があり、それよりその野を阿岐豆野《あきづの》というとする地名起原説話があり、それによつてこの字を使用している。日本書紀にも蜻蛉野の字を使つており、本集だけでの用字ではない。アキヅの假字書きは、古事記に阿岐豆、日本書紀にあき(漢字)豆、あ(漢字)岐豆、阿耆豆、阿企菟と書いている。菟以外は濁音と見られる。
 神柄香貴將有 カムカラカタフトクアヲム。カムカラカタフトカルラム(西)。神カラ國カラの對句をもつて、芳野の宮を説明している。神カラ國カラの兩方面から國土を讃嘆することは、琴歌譜《きんかふ》の正月元日の讀歌《よみうた》にあり、人麻呂の讃岐の國から船を出して來る時の歌(卷二、二二〇)にこれを使用している。神カラは、神靈の故、國カラは國土の故の義。タフトクアラムは、その貴い所以を、神カラと推察している。次の見欲將有の訓に照らして、タフトクアラムと讀むべきである。句切。
  國柄鹿見欲將有 クニカラカミガホシカラム。上の神カラカ云々と對句をなしているのだが、音韻の上ではかならすしも同一の形でなく、その點に多少の不安定がある。しかしこの句は或る本の反歌に「神柄加《カムカラカ》 見欲賀藍《ミガホシカラム》」(九一〇)とあつて、ミガホシカラムの訓は動かせないようである。ミガホシは、見ることの望ましい意で熟語となつている。句切。
 清々 キヨミサヤケミ
  サヤケクスメリ(西)
  サヤケクキヨシ(代初書入)
  サヤニサヤケミ(代初書入)
(22)  キヨクサヤカニ(童)
  キヨミサヤケミ(略)
  ――――――――――
  峻清《タカクサヤケミ》(考)
  峻清《タカミサヤケミ》(略)
  (山偏+青)清《フカミサヤケミ》(略、濱臣)
   淳清《アツミサヤケミ》(古義)
 訓に諸説があつて、定まる所がない。清をキヨまたサヤケと讀むこと、共に普通であるから、今キヨミサヤケミと讀むによる。山や川の清くあるゆえにの意である。この句の下に、大宮ト、または常宮ト等の句を脱しいているという説(古義)があるが、原文のままでよい。
 諾之神代從 ウベシカミヨユ。ウべは、ほんとに。首肯する意である。シは強意の助詞。神代ユは、神代このかたの意。
 定家良思母 サダメケラシモ。離宮を此處にお定めになつたそうなの意。上に蜻蛉ノ宮ハと、主格を提示してあるから、重ねてわずらわしく離宮としてとは云わないのである。「三日原《ミカノハラ》 布當乃野邊《フタギノノベヲ》 清見社《キヨミコソ》 大宮處《おほみやどころ》 定異等霜《サダメケラシモ》」(卷六、一〇五一)。
【評釋】この歌は、當時多く詠まれたはずの、芳野の離宮での作品の一である。この芳野の行幸などでは、群臣に詔して、歌を奉らしめたものと思われる。この種のものには、ほかにも車特の千年、山部の赤人、大伴の旅人等の作品が傳わつている。そういう歌の性質として、類型的になり易い弊があつて、この歌もそれを免かれない。ただ目前の瀧の上の三舟の山から説き起した序の行き方には描寫があつて、多少の詩趣も感じられる。
 
反歌二首
 
908 毎年《としのは》に かくも見てしか。
 み吉野の 清き河内《かふち》の 激《たぎ》つ白波。
 
 毎年《トシノハニ》 如v是裳見壯鹿《カクモミテシカ》
 三吉野乃《ミヨシノノ》 清河内之《キヨキカフチノ》 多藝津白浪《タギツシラナミ》
 
(23)【譯】毎年こんなふうに見たいものだ。吉野の清い溪谷を流れる激流の白浪は。
【釋】毎年 トシノハニ。毎年をトシノハということは既に出ている(卷五、八三三)。
 如是裳見壯鹿 カクモミテシカ。シカは希望の助詞。句切。
 清河内之 キヨキカフチノ。カフチは既出(卷一、三六)。川を中心として見渡される範圍に對して河内という。それで溪谷などの譯が當てられるのだが、溪谷の觀念ではない。 多藝津白浪 タギツシラナミ。ツは、助詞とも見られるが、次の歌に動詞としてタギツが使用されているから、ここも動詞と見るべきである。「石走《イハバシリ》 多藝千流留《タギチナガルル》 泊瀬河《ハツセガハ》」(卷六、九九一)の例もあるが、不完全動詞である。水の激し流れる白浪よと感激する語意である。白浪を見たいものだと上に返るのではない。
【評語】平凡な歌で、取りあげていうべき所もない。ただいかに古人が川波を愛したかが知られるのである。
 
909 山高み 白木綿《しらゆふ》花に落ちたぎつ
 瀧《たぎ》の河内《かふち》は、
 見れど飽かぬかも。
 
 山高三《ヤマタカミ》 白木綿花《シラユフバナニ》 落多藝追《オチタギツ》
 瀧之河内者《タギノカフチハ》
 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】山が高くして白い木綿の花のように落ち激する激流の溪谷は、見ても飽きないことだ。
【釋】白木綿花 シラユフバナニ。ユフバナは、コウゾの繊維で作つた造花。白いので白を冠する。これは信仰行事に使用したものだろう。ここは激流の白波を白い木綿花に見立てている。「木綿花乃《ユフバナノ》 榮時爾《サカユルトキニ》」(卷二、一九九)參照。
 落多藝追 オチタギツ。タギツは動詞として使用されている。その連體形。
 瀧之河内者 タギノカフチハ。タギを中心とする河内の意。
(24)【評語】白波を木綿花に見立てることは、一往巧みな見立てだが、類歌もあり、その作者の創意でもないらしい。見レド飽カヌカモも、類型的な驚嘆の表現法である。
【參考】類歌と類想。
  泊瀬《ハツセ》川白木綿花に落ちたぎつ。瀬を清《さや》けみと見に來《こ》し吾を(卷七、一一〇七)
  山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身《なつみ》の河門《かはと》見れど飽《あ》かぬかも(卷九、一七三六)
  逢坂《あふさか》をうち出でて見れば近江《あふみ》の海白木綿花に浪立ち渡る(卷十三、三二三八)
 
或本反歌曰
 
【釋】或本反歌曰 アルマキノヘニカニイハク。或る本には、反歌として次の三首か載せてあるというのである。その或る本というのは、いかなるものであるか不明であるが、次の車持の千年の作にも、或る本の反歌を載せて、その左註に「或本(ニ)云(フ)、養老七年五月幸(マシシ)2于芳野之離宮(ニ)1之時(ニ)作(レル)」とある。それと同物であるかも知れない。
 
910 神からか 見が欲《ほ》しからむ。
 み吉野の 瀧《たぎ》の河内《かふち》は、
 見れど飽かぬかも。
 
 神柄加《カムカラカ》 見欲賀藍《ミガホシカラム》
 三吉野乃《ミヨシノノ》 瀧乃河内者《タギノカフチハ》
 雖v見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】神靈の故でか見たいのだろう。吉野の激流の溪谷は、見ても飽きないなあ。
【釋】神柄加見欲賀藍 カムカラカミガホシカラム。藍は、字音をもつてラムの音を表示している。この句は、長歌の句を綴り合わせて作つている。句切。
 瀧乃河内者 タギノカフチハ。激流である河内の意を、ノを使用して表現している。
(25)【評語】長歌に則して歌われている。二句と五句とが、一が見たいと思うことであり、一が見ても飽きないというので、若干の矛盾があるのは、類型によつて無意識的に句を排列した結果であろう。
 
911 み吉野の 秋津《あきづ》の川の
 萬世に 絶《た》ゆることなく、
 また還《かへ》り見む。
 
 三芳野之《ミヨシノノ》 秋津乃川之《アキヅノカハノ》
 萬世尓《ヨロヅヨニ》 絶事無《タユルコトナク》
 又還將v見《マタカヘリミム》
 
【譯】吉野の秋津の川のように何時までも絶えることなく、また來て見よう。
【釋】三芳野之秋津乃川之 ミヨシノノアキヅノカハノ。秋津ノ川は、吉野の秋津の地を流れる川で、吉野川の一部分である。以上、その地の川を敍述して、以下の序としている。 萬世尓斷事無 ヨロヅヨニタユルコトナク。永久に絶えず。
 又還將見 マタカヘリミム。またここに立ち帰つて見ようの意。カヘリは、ふたたびここに來る意。
【評語】人麻呂の「見れど飽かぬ吉野の河の常滑《とこなめ》の絶《た》ゆることなくまた還《かへ》り見む」(卷、三七)の記憶があつて、多少詞句を變えた程度の作である。
 
912 泊瀬女《はつせめ》の 造《つく》る木綿花《ゆふはな》、
 み吉野の 瀧《たぎ》の水沫《みなわ》に
 開《さ》きにけらずや。
 
 泊瀬女《ハツセメノ》 造木綿花《ツクルユフハナ》
 三吉野《ミヨシノノ》 瀧乃水沫《タギノミンワニ》
 開來受屋《サキニケラズヤ》
 
【譯】泊瀬女の造る木綿の花が、吉野の激流の水の泡と咲いたのではないか。
【釋】泊瀬女造木綿花 ハツセメノツクルユフバナ。泊瀬の女が木綿花を造るわけがあつたのであろう。泊瀬(26)は山地で清流があるので、コウゾの皮をさらすに便があつて、生産地となつていたのであろう。その木綿で作つた花か。または木綿のたばねられたものが、木綿花の語で呼ばれていたのかもしれない。「白香付《シラガツク》 木綿者花者《ユフハハナモノ》」(卷十二、二九九六)の句があつて、木綿が花の連想をもつものであることを語つている。
 瀧乃水沫 タギノミナワニ。ミナワは水の泡で、白波をいう。
 開來受屋 サキニケラズヤ。サキは、花の縁語で、白波の立つのをいう。ヤは反語。
【評語】泊瀬で作つた木綿花が吉野で咲いたということに興味を感じているらしい。特に泊瀬女と持ち出したのが趣向である。
 
車持朝臣千年作歌一首并短歌
 
【釋】車持朝臣千年 クラモチノアソミチトセ。車持は、竹取物語にクラモチノミコとあるが、車持の皇子の義であるとして、クラモチと讀まれている。千年も傳記はつまびらかでない。芳野、住吉での作を留めており、それらは養老神龜の頃の作と考えられるだけである。
 
913 うまこり あやにともしく、
 鳴る神の 音《おと》のみ聞きし
 み芳野の 眞木《まき》立つ山ゆ、
 見|降《おろ》せば、 川の瀬毎に
 明け來れば 朝霧立ち、
 夕されば 河蝦《かはづ》鳴くなへ、
(27) 紐《ひも》解《と》かぬ 旅にしあれば、
 ひとりして
 清き川原を 見らくし惜しも。
 
 味凍《ウマコリ》 綾丹乏敷《アヤニトモシク》
 鳴神乃《ナルカミノ》 音耳聞師《オトノミキキシ》
 三芳野之《ミヨシノノ》 眞木立山湯《マキタツヤマユ》
 見降者《ミオロセバ》 川之瀬毎年《カハノセゴトニ》
 開來者《アケクレバ》 朝霧立《アサギリタチ》
 夕去者《ユフサレバ》 川津鳴奈拝《カハヅナクナヘ》
 紐不v解《ヒモトカヌ》 客尓之有者《タビニシアレバ》
 吾耳爲而《ヒトリシテ》
 清川原乎《キヨキカハラヲ》 見良久之惜蒙《ミラクシヲシモ》
 
【譯】ほんとにうらやましく思い、雷樣のように音にばかり聞いていた、吉野のよい木の立つている山からずつと見渡すと、川の瀬ごとに夜が明けて來れば朝霧が立ち、夕方になればカジカが鳴く時に、衣の紐を解かない旅のことだから、わたしひとりで、この清らかな川原を見るのは惜しいことだ。
【構成】段落はなく、全篇一文でできている。
【釋】味凍 ウマコリ。既出(卷二、一六二)。枕詞。
 綾丹乏敷 アヤニトモシク。音ノミ間キシを修飾する。
 鳴神乃 ナルカミノ。ナルカミは雷神。枕詞。音に冠する。
 音耳聞師 オトノミキキシ。三芳野を修飾する。
 眞木立山湯 マキタツヤマユ。マキタツは既出(卷一、四五)。ユは、その山を通して。 川津鳴奈拝 カハヅナクナへ。ナへはナヘニともいう。既出(卷一、五〇)。その語の上の敍述と、下の敍述と竝び行われるに用いる語。この歌では、朝霧が立ち河蝦が鳴くことと、ひとり川原を見ることとが竝び行われることをいう。古葉略類聚鈔には奈利に作つているので、これによつて河蝦嶋クナリと句切にする説もある。
 紐不解客尓之有者 ヒモトカヌタピニシアレバ。衣服の紐を解いてうち解けて寢るべき場合でないからの意。旅に出ては、著衣のままに寢るのである。同時に細解カヌで、妻を伴なわないことを意味し、次のヒトリシテの準備としている。
(28) 吾耳爲而 ヒトリシテ。ワレノミシテ(代精)とも讀まれ、訓が不安定である。「吾耳《ヒトリノミ》 聞者不伶毛《キケバサブシモ》」(卷十九、四一七八)の吾耳は、ヒトリノミと讀むべきが如くであり、吾耳をヒトリと讀むことも不可能ではない。
 見良久之惜蒙 ミラクシヲシモ。ひとりで見ることが惜しいのである。
【評語】朝と夕とを對句にしているのは、概念的な言い方である。折角霧やカジカを出しても類型的な表現になつて、效果がすくない。山部の赤人の、神岳に登りて作れる歌(卷三、三二四)參照。
 
反歌一首
 
914 瀧《たぎ》の上の 三船《みふね》の山は 畏《かしこ》けど、
 思ひ忘るる 時も日もなし。
 
 瀧上乃《タギノウヘノ》 三船之山者《ミフネノヤマハ》 雖v畏《カシコケド》
 思忘《オモヒワスルル》 時毛日毛無《トキモヒモナシ》
 
【譯】激流に臨んでいる三舟の山はおそろしいけれども、わが妻を忘れる時も日もないことだ。
【釋】雖畏 カシコケド。カシコケまで形容詞の活用形。それに肋詞ドの接續したもの。 思忘 オモヒワスルル。忘れるに同じ。
 時毛日毛無 トキモヒモナシ。一刻とて忘れる時なしの意に強調している。
【評語】山はおそろしいけれども、しかし自分は妻を思うのである。妻を思うを、何か私心を挿むように、山の精靈に對して憚つている。深山に對して、その威壓を感ずる旅情か描かれている。この長歌および反歌は、山部の赤人の明日香の神岳の歌を連想させる。いずれが先かはわからないが、赤人の作の方が綺麗であり、これはむしろ單純に近いものが感じられる。
 
(29)或本反歌日
 
915 千鳥鳴く《》 み吉野川の 川音《かはおと》なす、
 止《や》む時なしに 思ほゆる公《きみ》。
 
 千鳥鳴《チドリナク》 三吉野川之《ミヨシノガハノ》 川音成《カハオトナス》
 止時梨二《ヤムトキナシニ》 所v思公《オモホユルキミ》
 
【譯】千鳥の鳴く吉野川の川音のように、止む時なしに思われる君である。
【釋】千鳥鳴 チドリナク。川の説明として、類型的な修飾句である。
 三吉野川之 ミヨシノガハノ。吉野川ノに同じ。音の都合で三吉野川と云つている。  川音成 カハオトナス。
  ヲトシゲミ(細)
  カハトナス(童)
  ――――――――――
  音成《オトシゲミ》(元)
  川音《カハノオトノ》(金)
  音茂《オトシゲミ》(古葉)
  音成《オトヲナス》(代初)
  音成《オトナス》(代精)
この句には四種の傳來がある。金澤本、神田本には川音とし、細井本には川音成とし、元暦校本、類聚古集、西本願寺本等には音成とし、古葉路類聚鈔には音茂としている。このうち茂は成の誤りと見られ、また成をシゲミと讀む例がないので、音成は認めがたく、川音か、川音成かの二種に限定される。しかも成のある傳來も捨てがたいので、川音成とあるによる。以上は譬喩によつて次の句を引き起している。
 所思公 オモホユルキミ。公の字は、男性に對して使用する文字であつて、これによれば友人に歌いかけて(30)いると考えられる。
【評語】實景を取りあげて序としながら、四五句があまりにも平凡で、感興をそぐことがはなはだしい。芳野の離宮における交友同士の歌で、社交的な性質における成立が、この形を採るに至らしめた原因である。旅の眞情から遠ざかつたのがいけなかつた。
 
916 茜さす 日《ひ》ならべなくに、
 わが戀は 吉野の河の 霧に立ちつつ。
 
 茜刺《アカネサス》 日不v竝二《ヒナラベナクニ》
 吾戀《ワガコヒハ》 吉野之河乃《ヨシノノカハノ》 霧丹立乍《キリニタチツツ》
 
【譯】日を重ねたのでもないのに、わたしの戀は、この吉野の川の霧のように、立ち昇つている。
【釋】茜刺 アカネサス。既出。枕詞。赤みを帶びているの意だから、太陽の義の日に冠するのが本來だが、ここでは轉じて一日の義の日に冠している。
(21)  日不竝二 ヒナラベナクニ。ヒナラべは、日竝べで、「足比奇乃《アシヒキノ》 山櫻花《ヤマサクラバナ》 日竝而《ヒナラベテ》 如v是開有者《カクサキタラバ》 甚戀目夜裳《イトコヒメヤモ》」(卷八、一四二五)、「和我勢故我《ワガセコガ》 夜度乃奈弖之故《ヤドノナデシコ》 比奈良倍弖《ヒナラベテ》 安米波布禮杼母《アメハフレドモ》 伊呂毛可波良受《イロモカハラズ》」(卷二十、四四四二)など使用されている。幾日も竝べてで、ケ竝べテに同じ。ここは日を重ねないことだのに。
 吾戀 ワガコヒハ。家に對する戀であるが、前の歌と連絡あるものとすれば、公に對する戀である。
 霧丹立乍 キリニタチツツ。川霧が立ち昇るように、表面にあらわれた由である。
【評語】茜刺スの枕詞は、ここに適しない。空氣をこわしている。ワガ戀ハ吉野ノ川ノ霧ニ立ツという云い方は、巧みに譬喩を使つて、情景を併わせた表現である。前の歌との關係を抛棄して、純醉旅情と見るとよい。「わが戀は松をしぐれの染めかねてまくずが原に風騷ぐなり」(新古今集、慈圓)の技巧は、既にここにその先蹤を見るのである。
 
右年月不v審。但以2歌類1載2於此次1焉。
或本云、養老七年五月、幸2干芳野離宮1之時作
 
右は、年月審ならず。但し歌の類をもちて、この次に載す。
或る本にいふ、養老の七年五月、芳野の離宮に幸でましし時に作れる。
 
【釋】右年月不審 ミギハトシツキツマビラカナラズ。車持千年の歌の年月が未詳だが、芳野の離宮の作だからこの順序に載せるといふのである。
 或本云 アルマキニイフ。或る本には養老七年五月云々の記事があるというのであつて、これは「或本反歌」の或る本であろう。そのいかなるものであるかはわからない。元暦校本、金澤本等には、五月を正月としている。續日本紀には、この年五月癸酉(九日)芳野の宮に行幸すとある。
 
(32)神龜元年甲子冬十月五日、幸2于紀伊國1時、山部宿禰赤人作歌一首并2短歌1
 
神龜の元の年甲子の冬十月五日、紀伊の國に幸でましし時、山部の宿禰赤人の作れる【歌一首短歌并はせたり。】
 
【釋】神龜元年甲子冬十月五日 シニキノハジメノトシキノエネノフユカムナヅキイツカ。この日附は、左註によるに萬葉集の編者が行幸の年月を檢註したもので、作者自身の記録ではない。
 幸于紀伊國時 キノクニニイデマシシトキ。續日本紀、神龜元年十月の條に辛卯(五日)天皇幸(ス)2紀伊(ノ)國(ニ)1。癸巳(七日)行(キテ)至(ル)2紀伊(ノ)國那賀《ナカノ》郡玉垣(ノ)勾《マガリノ》頓宮(ニ)1。甲午(八日)至(ル)2海部(ノ)郡|玉津島《タマツシマノ》頓宮(ニ)1、留(ルコト)十有餘日。戊戌(十二日)造(ル)2離宮(ヲ)於岡(ノ)東(ニ)。壬寅(十六日)又詔(シテ)曰(ク)、登(リ)v山(ニ)望(ム)v海(ニ)、此(ノ)間最(モ)好(シ)。不v勞(セ)2遠(ク)行(クヲ)。足(ル)2以(テ)遊覽(スルニ)1。故(レ)改(メテ)弱濱名《ワカノハマノナヲ》1、爲(セ)2明光(ノ)浦(ト)1。宜(ク)d置(キ)2守戸(ヲ)1、勿(カル)uv令(ムル)2荒穢(セ)1。春秋(ノ)二時、差2遣(シ)官人(ヲ)1、奠2祭《マツレ》玉津島之神、明光(ノ)浦之靈(ヲ)1。丁未(二十一日)行還(リ)2至(ル)和泉(ノ)國所石(ノ)頓宮(ニ)1。己酉(二十三日)車駕至(ル)v自(リ)2紀伊(ノ)國1」などある。聖武天皇の行幸である。卷の四にこの時の笠の金村の作(五四三)がある。
 
917 やすみしし わご大王《おほきみ》の
 常宮《とこみや》と 仕《つか》へまつれる
 雜賀野《さひがの》ゆ、背向《そがひ》に見ゆる
 沖《おき》つ島、清き渚《なぎさ》に、
 風吹けば 白浪|騷《さわ》き、
 潮|干《ふ》れバ 玉藻刈りつつ、
(33) 神代より しかぞ尊《たふと》き
 玉《たま》つ島山《しまやま》。
 
 安見知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》
 常宮等《トコミヤト》 仕奉流《ツカヘマツレル》
 左日鹿野由《サヒガノユ》 背ヒ尓所v見《ソガヒニミユル》
 奧島《オキツシマ》 清波瀲尓《キヨキナギサニ》
 風吹者《カゼフケバ》 白浪左和伎《シラナミサワキ》
 潮干者《シホフレバ》 玉藻苅管《タマモカリツツ》
 神代從《カミヨヨリ》 然曾尊吉《シカゾタフトキ》
 玉津島夜麻《タマツシマヤマ》
 
【譯】安らかに知ろしめす天皇陛下の、永久の宮殿として奉仕する雜賀野から後方に見える沖の島の清らかななぎさに、風が吹けば白波が騷ぎ、潮が乾れば玉藻を刈りながら、神代からかように尊い玉津島山である。
【構成】段落はなく、全篇一文でできている。
【釋】安見知之 ヤスミシシ。既出。多く八隅知之と書いてあるが、ここに安見知之とあるは注意される。
 和期大王之 ワゴオホキミノ。既出(卷一、五二)。
 常宮等 トコミヤト。トコミヤは永久の宮殿。高市の皇子の殯《あらき》の宮《みや》の歌(卷二、一九九)では、墓所の義に使用されていた。ここは離宮を賀していう。玉ツ島の岡の東に離宮を作るとあるもこれである。
 仕奉流 ツカヘマツレル。マツレは、敬語の助動詞。
 左日鹿野由 サヒガノユ。左日鹿野は、普通、雜賀野の字を當てる。和歌山市の南方。ユは、その野から、その野を通して。
 背ヒ尓所見 ソガヒニミユル。既出(卷三、三五七)。後方に見えるの義だが、全然後方ではないのだろう。ヒは、倭名類聚鈔に「説文(ニ)云(フ)ヒ、卑履(ノ)反、賀比《カヒ》」とあつて、カヒの訓假字である。「山ヒ丹《ヤマカヒニ》 霞田名引《カスミタナビキ》」(卷六、九四八)。
 奧島 オキツシマ。沖の方にある島で、玉津島という。
 清波瀲尓 キヨキナギサニ。ナギサは、浪の寄る處。
 潮干者 シホフレバ。乾《ひ》る意の動詞は、古くはハ行上二段に活用したと考えられている。既出「乾時文無《フルトキモナシ》」(34)(卷二、一五九)參照。これによつて、ここも干者をフレバと讀むべしとされる。潮が乾ている意の已然條件法である。
 玉藻苅管 タマモカリツツ。玉藻を刈ることは、前にしばしば出た。海藻を採取する意である。明媚ともいうべき海面の描寫によく使用されて、効果を擧げている。潮の乾た荒礒に人々のおり立つ風景である。
 然曾尊吉 シカゾタフトキ。神代より今ある通りにして貴くあるの意。波の立ち玉藻を刈ることの清くあることを、神代からこの通りと敍している。
 玉津島夜麻 タマツシマヤマ。玉ツ島は島の名。すなわち、前にいう沖の島をいう。玉のような島とほめた名である。
【評語】赤人の作も、先行の歌の參考とすべきがない場合に、かえつてよい歌ができる。この歌、玉ツ島の風光を描いて、相當の效果を擧げている。さしてすぐれた歌でもないが、見るに足る作ということができる。
 
反歌二首
 
918 奧《おき》つ島 荒礒《ありそ》の玉藻、
 潮干《しほひ》滿《み》ちて 隱《かく》らひゆかば
 念《おも》ほえむかも。
 
 奧島《オキツシマ》 荒礒之玉藻《アリソノタマモ》
 潮干滿※[人偏+弖]《シホヒミチテ》 隱去者《カクラヒユカバ》
 所v念武香聞《オモホエムカモ》
 
【譯】沖の方の島の荒礒の美しい藻は、潮干が滿ちて、海水に隱れてしまつたら、思われることだろうなあ。
【釋】奧島 オキツシマ。長歌に歌つた沖つ島で、玉津島のこと。
 荒礒之玉藻 アリソノタマモ。長歌に、潮乾レバ玉藻刈リツツと歌つた玉藻である。
(35)潮干滿※[人偏+弖] シホヒミチテ。シホヒは潮の乾てあること。それが滿ちて。
 隱去者 カクラヒユカバ。潮が滿ちて、海藻が隱れて行つたら。
 所念武香關 オモホエムカモ。海藻が思われるだろうかの意。
【評語】長歌の潮乾レバ玉藻刈リツツを受けて、沖つ島の玉藻を愛する意を歌つている。古人の海藻の美を愛すること思うべきである。さして美しい歌ではないが特色のある作である。
 
919 若の浦に 潮滿ち來れば、
 潟《かた》を無《な》み
 葦邊《あしべ》をさして 鶴《たづ》鳴き渡る。
 
 若浦尓《ワカノウラニ》 鹽滿來者《シホミチクレバ》
 滷乎無美《カタヲナミ》
 葦邊乎指天《アシベヲサシテ》 多頭鳴渡《タヅナキワタル》
 
【譯】若の浦に潮が滿ちてくれば、干潟が無くなるので、葦の生えている岸邊を指して、鶴が鳴き渡つて來る。
【釋】若浦尓 ワカノウラニ。 和歌山市南方の海で、今和歌の浦の文字を使用する。神龜元年行幸の際の詔に、弱の濱の名を改めて明光の浦となせとあるを見れば、もとからワカノウラの名があつたのである。
 滷乎無美 カタヲナミ。干潟が無さに。鶴は干潟に餌を拾いにおり(36)るので、潮が滿ちて潟が無くなると、其處を去るのである。
 葦邊乎指天 アシベヲサシテ。アシべは、アシの生えているほとり、岸の方である。  多頭鳴渡 タヅナキワタル。タヅは鶴。ナキワタルは、鳴いて移動するをいう。   【評語】美しい海上の風景が描かれている。四五句の具體的描寫があつて、一層その趣を増して來る。長歌からこの反歌へと、時間の推移に伴なつて進行していることが注意される。そこに全體として有機的な組織が見られる。
【參考】鶴の移動を歌う。
  櫻田《さくらだ》へ鶴《たづ》鳴き渡る。年魚市《あゆち》潟潮|干《ひ》にけらし。鶴鳴き渡る(卷三、二七一)
  (上略)曉《あかとき》の潮滿ち來れば、葦邊《あしべ》には鶴鳴き渡る(下略、卷十五、三六二七)   
  可之布江《かしふえ》に鶴鳴き渡る。志珂《しか》の浦に沖つ白浪立ちし來《く》らしも(同、三六五四)
 
右年月不v記。但稱v從2駕玉津島1也。因今檢2注行幸年月1以載之焉。
 
右は年月を記さず。但し玉津島に從駕すといへり。因りて今、行幸の年月を檢注し   て載す。
 
【釋】右年月不記 ミギハトシツキヲシルサズ。赤人の作品は、年月のあきらかでないものが多いのは、作者がその年月を記すことが乏しかつたためであろう。これもその一つで、萬葉集の編者が、年代を考證してここに編したことを記しているのである。
 從駕 オホミトモス。既出(卷一、三九左註)。駕は車駕。天皇の行幸に從うこと。
 
神龜二年乙丑夏五月、幸2于芳野離宮1時、笠朝臣金村作歌一首并2短歌1
 
(37)神龜の二年乙丑の夏五月、芳野の離宮に幸でましし時、笠の朝臣金村の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】神龜二年乙丑夏五月 シニキノフタトセキノトウシノナツサツキ。續日本紀にこの時の行幸を傳えない。これも笠の金村の作歌の記録によるものと考えられるので、行幸のあつたことは確かであろう。
 
920 あしひきの み山もさやに
 落ち激《たぎ》つ 芳野の河の
 河の瀬の 淨《きよ》きを見れば、
 上邊《かみべ》には 千鳥|數鳴《しばな》き、
 下邊《しもべ》には 河蝦《かはづ》妻《つま》呼ぶ。」
 ももしきの 大宮人も、
 をちこちに 繁《しじ》にしあれば、
 見る毎に あやにともしみ、
 玉葛《たまかづら》 絶ゆることなく
 萬代に かくしもがもと、
 天地《あめつち》の 神をぞ祷《いの》る。
 恐《かしこ》かれども。」
 
 足引之《アシヒキノ》 御山清毛《ミヤマモサヤニ》
 落多藝都《オチタギツ》 芳野河之《ヨシノノカハノ》
 河瀬乃《カハノセノ》 淨乎見者《キヨキヲミレバ》
 上邊者《カミベニハ》 千鳥數鳴《チドリシバナキ》
 下邊者《シモベニハ》 河津都麻喚《カハヅツマヨブ》
 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人毛《オホミヤビトモ》
 越乞尓《ヲチコチニ》 思自仁思有者《シジニシアレバ》
 毎v見《ミルゴトニ》 文丹乏《アヤニトモシミ》
 玉葛絶事無《タマカヅラタユルコトナク》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 如v是霜願跡《カクシモガモト》
 天地之《アメツチノ》 神乎曾祷《カミヲゾイノル》
 恐有等毛《カシコカレドモ》
 
【譯】山もさやかに激しく流れ落ちる芳野の川の、川の瀬の清らかなのを見れば、上流の方では千鳥がしきり(38)に鳴き、下流の方では河鹿が妻を呼んでいる。宮廷にお仕えする人々も、あちこちにいつぱいにいるので、見るたびに誠にりつぱに思つて、玉葛のように絶えることなく、永久にかようにありたいものだと、天地の神にお願いすることだ。恐れ多いけれども。
【構成】二段になつている。河蝦妻呼ブまで第一段、吉野川の景勝を説く。以下第二段、離宮奉仕の永久であるようにと祈る。
【釋】御山毛清 ミヤマモサヤニ。ミは美稱の接頭語。山そのものをたたえる。サヤニは、見るもの聞くものの状態の、清潔、明朗の感じをいう副詞。ここは激流を伴なつて、山の感じの清らかなのをいう。山も清らかに感じられるほどに水が激流する意である。
 落多藝都 オチタギツ。タギツは動詞の連體形として使用されている。
 上邊者 カミベニハ。カミベハ(新訓)。邊は、表意文字として使用されているが、字音がへニなので、助詞ニをも併わせて表示していると見られる。「足氷木乃《アシヒキノ》 清山邊《キヨキヤマベニ》 蒔散漆《マケバチリヌル》(卷七、一四一五)の邊の用法の如き、この種の用例が多い。カミべは、上流の方であるが、立體的に上空の方面をも含んでいる。そこで上ツ瀬ニというのと、意味が違うのである。この語は、他に所見がなく、この歌特有の語である。
 千鳥數鳴 チドリシバナキ。シバナキは、度々鳴く、しきりに鳴く意。
 下邊者 シモベニハ。シモべは、上邊と對する語で、下流の方、および下方の意。この語も、この歌の特有である。
 河津郡麻喚 カハヅツマヨブ。河蝦の鳴く所以を想像して妻呼ブと言つている。以上第一段。吉野川の美景を敍している。
 大宮人毛 オホミヤビトモ。大宮人は、ここは離宮に奉仕する人々。上の自然の景勝に加えての意に、モを(39)使用している。
 越乞尓 ヲチコチニ。越乞の二字、いずれも字音をもつて、ヲチコチの音を表示している。彼方此方に。
 思目仁思有者 シジニシアレバ。シジは繁。下のシは強意の助詞。充滿しているので、大勢いるので。
 文丹乏 アヤニトモシミ。トモシミは賞美される状態にあるをいう。自然も美しく、奉仕の大宮人も滿ちているので、これを稱讃する。
 玉葛 タマカヅラ。枕詞。美しい蔓草で、引いても盡きないので、絶エズに冠する。
 如是霜願跡 カクシモガモト。ガは願望の助詞。
 神乎曾祷 カミヲゾイノル。イノルは、神力の發揚を願う意。旬切。
 恐有等毛 カシコカレドモ。神を祈ることに恐れを感じている。
【評語】やはり人麻呂の芳野の宮での作が念頭にあつて、その影響を受けている。第一段において自然を敍し、第二段において大宮人の奉仕を説いているのは、それだ。しかし第一段の自然の敍述には特色がある。激流、千鳥、河蝦と、すべて自然の音聲の美を描いており、上邊下邊など特殊の語を使つて、類型に陷るのを避けている。かような意味で、相當に特色のある歌であることは認められねばならない。
 
反歌二首
 
921 萬代に 見とも飽かめや。
 み吉野の たぎつ河内《かふち》の 大宮どころ。
 
 萬代《ヨロヅヨニ》 見友將v飽八《ミトモアカメヤ》
 三芳野乃《ミヨシノノ》 多藝都河内之《タギツカフチノ》 大宮所《オホミヤドコロ》
 
【譯】永久に見ても飽きないだろう。吉野の激流の溪谷にある宮殿は。
(40)【釋】見友將飽八 ミトモアカメヤ。ミトモは、「都良々々爾《ツラツラニ》 美等母安加米也《ミトモアカメヤ》」(卷二十、四四八一)とあつて、この形から、助詞トモに接續している。一段活の動詞は、他の助動詞、助詞に接續する場合に、後世終止形を採るものが、古くは連用形を採る事實に屬する。アカメヤは、飽カメヤで、ヤは反語の助詞。句切。
 大宮所 オホミヤドコロ。大宮のある場所。
【評釋】類型的な内容で、何の特色もない。一首の歌に纏まつているだけである。
 
922 皆人の 壽《いのち》も吾《われ》も、
 み吉|野《の》の 瀧《たぎ》の床磐《とこは》の
 常ならぬかも。     
 
 皆人乃《ミナヒトノ》 壽毛吾母《イノチモワレモ》
 三吉野乃《ミヨシノノ》 多吉能床磐乃《タギノトコハノ》
 常有沼鴨《ツネナラヌカモ》
 
【譯】皆の人の命も、わたしも、吉野の激流の動かない岩のように、變わらないでありたいものだ。
【釋】皆人乃壽毛吾母 ミナヒトノイノチモワレモ。ミナヒトノイノチモワガモ(新校)。ワガモは、「見天久良波《ミテクラハ》 和加丹波安良須《ワガニハアラズ》」(重種本神樂歌)によるようである。皆人の壽命も、わが壽命もで、不變の生命を願つている。
 多吉能床磐乃 タギノトコハノ。トコハは、床を成している巖石。激流に臨んでいる岩床をいう。ミ吉野ノ激流ノ床磐ノは、挿入句で譬喩になつて、次の常ナラヌカモを引き出している。
 常有沼鴨 ツネナラヌカモ。ツネは恒久不變。變らないでいてくれないかなあ。
【評釋】吉野で、生命の恒久であるようにと願う歌が往々にあるのは、この地を仙郷とする思想があつたためであろう。この歌は、詠嘆の氣分は出ている。長歌の主旨を露骨に表現した歌である。
 
(41)山部宿祢赤人作歌二首并2短歌1
 
【釋】山部宿祢赤人作歌二首 ヤマベノスクネアカヒトノツクレルウタフタツ。山部の赤人の吉野での作歌であるが、左註によれば、年代不明のものを、ここに附載したのである。二番目の長歌には、春ノ茂野ニの句があり、五月の作でないことがあきらかである。
 
923 やすみしし わご大王《おほきみ》の
 高知《たかし》らす 芳野の宮は、
 疊《たたな》づく 青垣隱《あをかきごも》り
 河次《かはなみ》の 清き河内《かふち》ぞ。」
 春べは 花咲き撓《をを》り、
 秋されば 霧立ち渡る。」
 その山の いや益々《ますます》に、
 この河の 絶ゆることなく、
 ももしきの 大宮人は、
 常に通はむ。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王乃《ワゴオホキミノ》
 高知爲《タカシラス》 芳野宮者《ヨシノノミヤハ》
 立名附《タタナヅク》 青垣隱《アヲカキゴモリ》
 河次乃《カハナミノ》 清河内曾《キヨキカフチゾ》
 春部者《ハルベハ》 花咲乎遠里《ハナサキヲヲリ》
 秋去者《アキサレバ》 霧立渡《キリタチワタル》
 其山之《ソノヤマノ》 弥益々尓《イヤマスマスニ》
 此河之《コノカハノ》 絶事無《タユルコトナク》
 百石木能《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》
 常將v通《ツネニカヨハム》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君の、御領有になる芳野の宮は、重なつている青い山に圍まれ、川の姿の清らかな溪谷だ。春の頃は、花が咲き滿ち、秋になれば霧が立ち渡る。その山のようにいよいよますます、この河(42)のように絶えずに、離宮に奉仕する人々は、常に通うだろう。
【構成】三段から成つている。清キ河内ゾまで第一段、芳野の宮の総括的敍述。霧立チ渡ルまで第二段、山川の美を説く。以下第三段、大宮人の奉仕を説く。
【釋】八隅知之 ヤスミシシ。既出(卷一、三六)。
 高知爲 タカシラス。既出(卷一、三六)。タカは高大、壯大の意の形容詞。シラスは、知ろしめす、領有する、御座ある。
 立名附 タタナヅク。既出(卷二、一九四)。枕詞。疊まり附くの義で、疊まり重なる意と解せられる。青垣に冠するのは、古くは「夜麻登波《ヤマトハ》 久爾能麻本呂婆《クニノマホロバ》 多々那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》 夜麻碁母禮流《ヤマゴモレル》 夜麻登志字流波斯《ヤマトシウルハシ》」(古事記三一)があり、この歌は有名であつたと思われる。人麻呂の吉野の長歌には「疊有《タタナハル》 青垣山《アヲカキヤマ》」(卷一、三八)とある。
 青垣隱 アヲカキゴモリ。アヲカキは既出。前條參照。青い障壁の義で、山をいう。ゴモリは、その山に圍まれて隱つている意。
 河次乃 カハナミノ。カハナミは既出(卷五、八五八)。川の姿。
 清河内曾 キヨキカフチゾ。ゾは終助詞。句切。以上第一段。芳野の宮の地勢を説く。 春部者 ハルベハ。春の頃は。
 花咲乎遠里 ハナサキヲヲリ。ヲヲリは既出(卷二、一九六)。ここは花が咲いてその重みで枝の撓むをいう。山の敍述である。
 秋去者 アキサレバ。秋になれば。
 霧立渡 キリタチワタル。川霧の立ち昇るをいう。句切。以上第二段。春秋の景勝を説く。
(43) 其山之弥益々尓 ソノヤマノイヤマスマスニ。上の山の敍述を受けて、その山の如くいよいよますますにと言つている。但し何がいよいよますますにだかは、これではわからない。これは人麻呂の作品の、コノ山ノイヤ高知ラスを受けて模倣したために、かような不手際な表現を生じたのである。
 此河之絶事無 コノカハノタユルコトナク。これは人麻呂の歌の句のままである。この川の如く絶えることなく。
 常將通 ツネニカヨハム。この芳野の離宮に、やまずに通つて奉仕しようの意で、賀意を表している。
【評語】人麻呂の芳野の長歌二首の影響をこうむることが多い。全體の構想、春秋の景勝、山河を敍してこれを序とすることなど、詞句の一々にも及んで模倣している。第一段は、よく纏まつている。第二段は、春秋を對句にしたのは、概念的で、歌を弱體化する。第三段は、もつとも類型的である。なお大伴の家持の「芳野の離宮にいでまさむ時のために、儲けて作れる歌」(卷十八、四〇九八)の末尾は、この歌にならつて作られてある。
 
反歌二首
 
924 み吉野の 象《きさ》山の際《ま》の 木末《こぬれ》には、
 ここだも騷《さわ》く 鳥の聲かも。
 
 三吉野乃《ミヨシノノ》 象山際乃《キサヤマノマノ》 木末尓波《コヌレニハ》
 幾許毛散和口《ココダモサワク》 鳥之聲可聞《トリノコヱカモ》
 
 
【譯】吉野の象山の間の樹の枝先では、非常に騷いでいる鳥の聲だな。
【釋】象山際乃 キサヤマノマノ。キサは吉野山中の地名。「象乃中山」(卷一、七〇)參照。キサの語は、古語に枳佐加比比賣《キサカヒヒメ》(出雲國風土記)があり、後世吉野山中にキサ谷の地名を殘し、もとは象の義ではなかつた(44)であろうが、山名として象の字を當てるに至つては、象の山の義を感じているであろう。山の際は、山のあいだ。
 木末尓波 コヌレニハ。コヌレは既出。樹の伸びている枝先。樹梢には限らない。
 幾許毛散和口 ココダモサワク。ココダは、多量。
 鳥之聲可聞 トリノコヱカモ。鳥の聲を賛嘆している。
【評語】夕方になるままに、鳥は樹枝に集まつて、まだ眠らないで騷いでいる。山中の物聲のある靜寂が描かれている。赤人の作品は、長歌よりも短歌にすぐれたものが多いが、これもその一つである。長歌において、概念的に歌われた芳野の離宮の美は、短歌において一々實證されている。何等作者の主觀を加えない手段は、見事に成功している。
 
926 ぬばたまの 夜《よ》の深《ふ》けぬれば、
 久木《ひさぎ》生《お》ふる 清き河原に
 千鳥|數《しば》鳴く。
 
 烏玉之《ヌバタマノ》 夜乃深《ヨノフケ》去《ヌレ・ユケ》者《バ》
 久木生留《ヒサギオフル》 清河原尓《キヨキカハラニ》
 知鳥數鳴《ツドリシバナク》
 
【譯】夜か深けていつたので、久木の生えている清らかな河原で、千鳥がしきりに鳴いている。
(45)【釋】烏玉之 ヌバタマノ。枕詞。この句を使用することによつて、夜の暗さが感じられる。
 夜乃深去者 ヨノフヌヌレバ。夜が深くなつたので。
 久木生留 ヒサギオフル。ヒサギは樹名。何であるかについては諸説がある。倭名類聚鈔に「唐韻(ニ)云(フ)、楸音秋。漢語抄(ニ)云(フ)、比佐岐《ヒサキ》」とあり、貝原益軒は、楸樹は「山林村落處々にあり。ひさきとも又かしはとも云。其の葉は、桐葉に似、又梓にも似たり。苗及葉の筋赤し、故に赤目柏と云ふ」と云つている。アカメガシワは、山野に自生するタカトウダイ科の落葉喬木で、葉は先端が尖り、夏の頃緑黄色の花をつける。しかし「去年咲之《コゾサキシ》 久木今開《ヒサギイマサク》 徒《イタヅラニ》 土哉將v墮《ツチニヤオチム》 見人名四二《ミルヒトナシニ》」(卷十、一八六三)の歌が、春の部に收められているによれば、アカメガシワ説は成立しない。ノウゼンカズラ料の落葉喬木キササゲとする説は、説文に「楸(ハ)梓也」とあり、梓すなわちキササゲとするのである。この植物も初夏に黄色紫斑の脣形花を開く。この句は、昼間の記憶によつている。
 清河原尓 キヨキカハラニ。吉野川の川原である。
【評語】これは夜の歌であるが、山中の夜氣のしみ透るような氣分の歌である。長歌に春と秋とを對したのは例の筆法であるが、ここに至つて氣分の集中が行われた。反歌として長歌と共に味わうよりも、この二首の反歌の如きは、むしろ長歌を去つて、獨立した短歌として味わつた方が自然の深いところに入ることが出來よう。
 
926 やすみしし わご大王は
 み芳野の 蜻蛉《あきづ》の小野の
 野の上《へ》には 跡見《とみ》居《す》ゑ置きて、
 み山には 射目《いめ》立て渡し、
(46) 朝獵《あさかり》に 鹿猪《しし》履《ふ》み起し
 夕狩に 鳥|踏《ふ》み立て、
 馬|竝《な》めて 御獵ぞ立たす。
 春の茂野《しげの》に。  
 
 安見知之《ヤスミシシ》 和期大王波《ワゴオホキミハ》
 見吉野乃《ミヨシノノ》 飽津之小野笶《アキヅノヲノノ》
 野上者《ノノヘニハ》 跡見居置而《トミスヱオキテ》
 御山者《ミヤマニハ》 射目立渡《イメタテワタシ》
 朝※[獣偏+葛]尓《アサカリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》
 夕狩尓《ユフカリニ》 十里※[足+榻の旁]立《トリフミタテ》
 馬竝而《ウマナメテ》 御※[獣偏+葛]曾立爲《ミカリゾタタス》
 春之茂野尓《ハルノシゲノニ》
 
【譯】安らかに知ろしめすわが大君は、吉野の秋津の小野の、野の方には獣の跡を見る役を据え置き、山には弓を射る場所を置いて、朝の獵に鹿猪を追い立て、夕べの獵に鳥を踏み立てて、馬を竝べて御獵を遊ばされる。春の草の茂つた野に。
【構成】段落はなく、全篇一文で出來ている。
【釋】飽津之小野の(漢字) アキヅノヲノノ。飽津は、秋津、蜻蛉と書いたものに同じ。  野上者 ノノヘニハ。ノノへは、その野の處をいうだけで、藤原の上、高野原の上などいう云い方に同じ。その野に於いてである。
 跡見居置而 トミスヱオキテ。トミは、鹿猪などの通過した跡を見る役。跡を見る義である。漢文では迹人《セキジン》という。攷證頭書に、周禮《しゆらい》地官迹人の注に「迹之(ヲ)言(フ)v跡(ト)、知(ル)2禽獣(ノ)處(ヲ)1也」とあるを引いている。
 射自立渡 イメタテワタシ。イメは、弓を射る人の隱れている所をいう。おもに鹿を射るために隱れているところ。全國方言辭典に「@追い出した獲物を覗い撃つ所。熊本縣|球磨《くま》郡。A獵師小屋。禰島縣岩瀬郡」とある。從來射部の義とされていたが、目の字の表示するメの音は、部の義のメとは違うとされている。「高山《タカヤマノ》 峰之手折丹《ミネノタヲリニ》 射目立《イメタテテ》 十六待如《シシマツガゴト》」(卷十三、三二七八)など見えている。タテワタシは、射目をそれぞれの位置に配置するをいう。
(47) 朝※[獣偏+葛]尓十六履起之夕狩尓十里※[足+榻の旁]立 アサカリニシシフミオコシユフカリニトリフミタテ。既出大伴の家特の「朝獵爾《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》 暮獵爾《ユフカリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》」(卷三、四七八)の根據となつたものと考えられる。しかしそのもとは、人麻呂の獵路《かりぢ》の池の作(卷三、二三九)あたりから來ているであろう。
 馬竝而 ウマナメテ。騎馬で人々の行く説明。「馬竝而《ウマナメテ》 三獵立流《ミカリタタセル》」(卷三、二三九)。
 御獵曾立爲 ミカリゾタタス。ゾは、ニゾの意と解せられる。タタスは立ツの敬語法。獵に立ちいでなされた。句切。
 春之茂野尓 ハルノシゲノニ。飽津の小野の現状を説明している。これで獵場の風光が描かれる。シゲノは草の生い茂つている野をいう。
【評語】この長歌は全文實事を敍して、山野の狩場の壯景を描いている。最初のヤスミシシは、慣用されている句であるが、しかも有力にわが大君の荘重神聖な有樣を描き出している。その以外すべて獵の敍述である。これによつて全文躍動して、その有樣を髣髴せしめている。これは獵の歌としては人麻呂あたりにも作品があるが、その記憶がうすかつたので、かえつて率直に事を敍するに至つたものであろう。赤人の特色の良く出ている歌である。
 
反歌一首
 
927 あしひきの 山にも野にも、
 御獵人《みかりびと》 さつ矢手挾み
 さわきたり、 見ゆ。
 
 足引之《アシヒキノ》 山毛野毛《ヤマニモノニモ》
 御※[獣偏+葛]人《ミカリビト》 得物失手挾《サツヤタバサミ》
 散動而有所v見《サワキタリミユ》
 
(48)【譯】見渡される山にも野にも、御獵の人が、獵の矢を抱え込んで入り亂れているのが見える。
【釋】山毛野毛 ヤマニモノニモ。山モ野モでは具合がわるいから助詞ニを讀み添える。 御獵人 ミカリビト。天皇の御獵に奉仕する人々をいう。
 得物矢手挾 サツヤタバサミ。既出(卷一、六一)。サツヤは、獲物に對して威力の宿つている矢。獵に使用する矢。強力の矢。タは接頭語。脇に抱えて。
 散動而有所見 サワキタリミユ。ミダレタルミユ(元)、トヨミタルミユ(代精)、サワキタルミユ(攷)、サワキタリミユ(古義)。散動は、トヨムとも讀まれているが、トヨムは音響についていい、ここは視覺を主とするので、トヨムではよくない。用例「奧見者《オキミレバ》 跡位浪立《トヰナミタチ》 邊見者《ヘタミレバ》 白浪散動《シラナミサワク》」(卷二、二二〇)、「鮪釣等《シビツルト》 海人船散動《アマフネサワキ》 鹽燒等《シホヤクト》 人曾左波爾有《ヒトゾサハニアル》」(卷六・九三八)。ミユは、終止形を受ける。「亂出處見《》」(卷三、二五六)參照。
【評語】作者の位置から見渡された山野の光景が描かれている。御獵の人々の入り亂れている壯大な景觀が強くあらわれている。
 
右、不v審2先後1、但以v便、故載2於此次1。
 
右は、先後を審にせず。但し便をもちて、故この次に載す。
 
【釋】右不審先後 ミギハアトサキヲツマビラカニセズ。どの歌との先後を審にせずというのか明白ではないが、多分金村の作と赤人の作との先後を知らないというのだろう。赤人の二首は、年代不明なのだから、そう解するのが順當である。
 以便故載於此次 タヨリヲモチテカレコノツギテニノス。金村の神龜二年の吉野の作があるから、便宜この(49)順序に載せるというのだろう。
 
冬十月、幸2于難波宮1時、笠朝臣金村作歌一首并2短歌1
 
冬十月、難波の宮に幸でましし時、笠の朝臣金村の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
【釋】冬十月 フユカムナヅキ。前を受けて神龜二年である。續日本紀に「冬十月庚申(十日)天皇幸(ス)2難波(ノ)宮(ニ)1」とある。但し還幸を傳えない。十一月十日には大安殿に御したことが見えるから、その以前に還宮されたであろう。
 幸于難波宮時 ナニハノミヤニイデマシシトキ。歌詞によれば、長柄の宮とあり、孝徳天皇の難波の長柄《ながら》の豊碕《とよさき》の宮の故地であろう。その地については、大阪城の附近とし、また大阪市の北端豊崎本庄ともしている。住吉大社神代記の長柄船瀬本記には、四至として「東(ハ)限(リ)2高瀬(ノ)大庭(ヲ)1、南(ハ)限(リ)2大江(ヲ)1、西(ハ)限(リ)2靹淵(ヲ)1、北(ハ)限(ル)2川岸(ヲ)1」とあり、長柄の船瀬が、大江の北にあつたことが知られ、長柄の宮もこれに從つてその所在が推知されよう。それがためには大江の位置があきらかにされねばならないが、後の大阪城より北であつたことはたしかである。
 
928 おし照る 難波の國は、
 葦垣《あしがき》の 古《ふ》りにし郷《さと》と
 人皆の 念ひ息《やす》みて、
 つれもなく ありし間《あひだ》に、
 績麻《うみを》なす 長柄《ながら》の宮に、
 眞木柱《まきばしら》 太高敷《ふとたかし》きて、
(50) 食《を》す國を 治めたまへば、
 沖つ鳥 味經《あぢふ》の原に、
 もののふの 八十伴《やそとも》の雄《を》は、
 廬《いほり》して 都なしたり。
 旅にはあれども。
 
 忍照《オシテル》 難波乃國者《ナニハノクニハ》
 葦垣乃《アシガキノ》 古郷跡《フリニシサトト》
 人皆之《ヒトミナノ》 念息而《オモヒヤスミテ》
 都禮母無《ツレモナク》 有之間尓《アリシアヒダニ》
 績麻成《ウミヲナス》 長柄之宮尓《ナガラノミヤニ》
 眞木柱《マキバシラ》 太高敷而《フトタカシキテ》
 食國乎《ヲスクニヲ》 治賜者《ヲサメタマヘバ》
 奧鳥《オキツトリ》 味經乃原尓《アヂフノハラニ》
 物部乃《モノノフノ》 八十伴雄者《ヤソトモノヲハ》
 廬爲而《イホリシテ》 都成有《ミヤコナシタリ》
 旅者安禮十方《タビニハアレドモ》
 
【譯】海の光り輝く難波の地は、葦垣のような古びた里だと、皆の人が思い棄てて、心にも懸けないでいたあいだに、績んだ麻の長いような、長柄の宮に、りつぱな柱をしつかと立てて、天下をお治めになるので、沖の水鳥の味經の原に、武士の多くの人々は、小舍がけして都をなしている。旅のことではあるが。
【構成】段落はなく、全篇一文からできている。
【釋】忍照 オシテル。既出(卷三、四四三)。枕詞。海上の照る義と解せられ、難波を説明する。
 難波乃國者 ナニハノクニハ。既出(卷三、四四三)。クニは一地方一区域の義に使用されている。
 葦垣乃 アシガキノ。枕詞。アシで作つた垣は、すぐ古くなり、古びて見えるので、古リニシに冠する。難波の地方で、特に目立つ垣なのだろう。
 古郷跡 フリニシサトト。難波は、孝徳天皇の帝都であつたのだが、その後久しく放置されたことをいう。トは、としての意。
 念息而 オモヒヤスミテ。思いが休息するので、思慮に入れていなかつたことをいう。 都禮母無 ツレモナク。既出(卷二、一八七)。關係なく。
 績麻成 ウミヲナス。績は、諸本に續と書いてある。枕詞。績んだ麻糸のように。長に冠する。
(51) 長柄之宮尓 ナガラノミヤニ。長柄の宮は、孝徳天皇の長柄の豊碕の宮と同地であろう。その處については説のあること、題詞の條下に記した。
 眞木柱 マキバシラ。りつぱな木の柱。ここは宮柱というに同じ。
 太高敷而 フトタカシキテ。フトもタカも壯大な状態をいう形容詞。柱については、普通柱の縁によつて、太敷クという。ここは太高を重ねて最大級に形容している。宮殿を壯大に造營して。
 食國乎 ヲスクニヲ。ヲスクニは既出(卷一、五〇)。領國。
 治賜者 ヲサメタマへバ。ヲサムは、亂れるのを整える意。
 奧鳥 オキツトリ。枕詞。沖の鳥の義で、アヂ(味鳧)に冠する。
 味經乃原尓 アヂフノハラニ。日本書紀孝徳天皇の卷、白雉元年の條に「正月辛丑(ノ)朔、車駕幸(シ)2味經(ノ)宮(ニ)1。觀(ル)2賀正(ノ)禮(ヲ)1。【味經此云2阿膩賦1】」とある。その地は長柄の宮の所在地と共に考察されねばならない。今大阪市の東部に味原町があり、味生の池と稱する小池がある。喜田貞吉博士は三島郡の味生であろうという。田邊の福麻呂歌集の歌(卷六、一〇六二)には、難波の宮を味經の宮とも云つている。
 物部乃八十伴雄者 モノノフノヤソトモノヲハ。既出(卷三、四七八)。武士の多くの人々。行幸に供奉した人々。ここなどは、まさしく部族の長と解するを得ないところである。
 廬爲而 イホリシテ。イホリは、小舍がけしてそれに入ること。
 都成有 ミヤコナシタリ。ミヤコは宮殿のある處の義で、帝都をいう。人々多く廬を連ねている状を、都を成していると説いている。句切。
 旅者安禮十方 タビニハアレドモ。都ナシタリに對する條件である。
【評語】説明が勝つていて、情趣に乏しい。この作者の弱點である。旅先で人々が賑わしく小舍がけをして集(52)まつている點について、讃稱の意があるのだが、それが十分に表現されていない。
 
反歌二首
 
929 荒野らに 里はあれども、
 大王《おほきみ》の 敷きます時は
 京師《みやこ》となりぬ。
 
 荒野等丹《アラノラニ》 里者雖v有《サトハアレドモ》
 大王之《オホキミノ》 敷座時者《シキマストキハ》
 京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》
 
【譯】この里は、荒れた野原だけれども、大君がおいでになると、都になつた。
【釋】荒野等丹 アラノラニ。下のラは接尾語。大野ラなどいう類である。
 敷座時者 シキマストキハ。シキマスは御座あるをいう。マスは敬語の助動詞。
 京師跡成宿 ミヤコトナリヌ。宿はヌの音に借りている。長歌の都ナシタリの句意。
【評語】やはり説明が勝つていて、感激が出ていない。長歌の内容を要約しただけの歌である。
 
930 海未通女《あまをとめ》、 棚無《たなな》し小舟《をぶね》 榜《こ》ぎ出《づ》らし。
 旅のやどりに 楫《かぢ》の音開ゆ。
 
 海未通女《アマヲトメ》 棚無小舟《タナナシヲブネ》 榜出良之《コギヅラシ》
 客乃屋取尓《タビノヤドリニ》 梶音《カヂノオト・カヂノト》所聞《キコユ》
 
【譯】海人の少女が、小さい船を榜き出すらしい。旅の宿りに船漕ぐ音が聞える。
【釋】海末通女 アマヲトメ。未通女は、若い女の義に使用している。字面に拘泥すべきものではない。
 棚無小舟 タナナシヲブネ。既出(卷一、五八)。横板も無いような、ちいさな船。粗末な船。
 榜出良之 コギヅラシ。句切、三句切。
(53) 梶音所開 カヂノオトキコユ。カヂノオトは、オがノに吸收されて、カヂノトとも寫音される。船漕ぐ音。
【評語】屋内にあつて船漕ぐ音を聞いて、その樣を想像しているのだが、海末通女が棚無し小舟を榜いでいると、目で見るように敍述している。海未通女に興味がつながれているのである。四句は説明であるが、この歌ではやむを得ない程度である。この難波の宮の歌では、これだけが生きている。
 
車持朝臣千年作歌一首井短歌
 
931 鯨魚取《いさな》り 濱邊を清み、
 うち靡《なび》き 生《お》ふる玉藻に
 朝なぎに 千重浪《ちへなみ》寄り、
 夕なぎに 五百重浪《いほへなみ》寄る」
 邊《へ》つ浪の いやしくしくに、
 月にけに 日《ひ》に日《ひ》に見とも、
 今のみに 飽《あ》き足らめやも。
 白浪の い開《さ》き廻《めぐ》れる
 住吉《すみのえ》の濱。
 
 鯨魚取《イサナトリ》濱邊乎清三《ハマベヲキヨミ》
 打靡《ウチナビキ》 生玉藻尓《オフルタマモニ》
 朝名寸二《アサナギニ》 千重浪縁《チヘナミヨリ》
 夕菜寸二《ユフナギニ》 五百重波因《イホヘナミヨル》
 邊津浪之《ヘツナミノ》 益敷布尓《イヤシクシクニ》
 月二異二《ツキニケニ》 日日雖v見《ヒニヒニミトモ》
 今耳二《イマノミニ》 秋足目八方《アキタラメヤモ》
 四良名美乃《シラナミノ》 五十開廻有《イサキメグレル》
 住吉能濱《スミノエノハマ》
 
【譯】鯨を取る海の濱邊が清く、波のまにまに靡いて生えている海藻に、朝の凪ぎに幾重にも浪がうち寄せ、夕方の凪ぎにも多くの浪がうち寄せる。その濱邊に寄る浪のように、いよいよ重ね重ね、月ごとに毎日見ても、(54)今の時だけで滿足することはないだろう。白浪の起つて廻つている住吉の濱は。
【構成】二段から成つている。五百重浪寄ルまで第一段。濱邊に幾重にも浪の寄ることを敍する。以下第二段、浪の寄る住吉の濱の佳景を稱える。
【釋】鯨魚取 イサナトリ。既出。枕飼。海に冠する。ここでは濱に冠している。
 夕名寸二五百重波因 ニフナギニイホヘナミヨル。上の朝ナギニ云々と對句を成して、朝夕に浪のうち寄ることを敍している。千重波も五百重波も、共に浪の幾重にもかさなつているをいう。句切。以上第一段。濱邊に浪の寄ることを敍して次の邊ツ波を起している。 邊津浪之 へツナミノ。濱邊の浪である。次の句の枕詞となつている。
 益敷布尓 イヤシクシクニ。シクシクニは、同語シクを重ねて、重ね重ねの意としている。
 月二異二 ツキニケニ。ケは特異。月毎にの意の熟語句。月ニ日ニケニ、または日ニケニというのが普通だが、下に日ニ日ニの語があるので、日を避けて月ニケニと言つている。この句は他に見えない特異の形である。
 日日雖見 ヒニヒニミトモ。假設條件法で、よし毎日見ても。ヒニヒニミトモと讀む(湯口誠一氏、萬葉集大成)のは、「美等母安加米也《ミトモアカメヤ》」(卷二十・四四八一)等を證とする。
 今耳二秋足目八方 イマノミニアキタラメヤモ。今見るだけで飽きることはないだろう。句切。
 五十開廻有 イサキメグレル。イは接頭語。サキは、波の白く立つをいう。華やかに起る意である。
【評語】波を中心として器用に纏まつている。住吉の濱の特色は出ていないが、型によつて歌を作る上はやむを得ない。
 
反歌一首
 
(55)932 白浪の 千重に來寄する
 住吉《すみのえの》の 岸の埴生《はにふ》に
 にほひて行かな。
 
 白浪之《シラナミノ》 千重來縁流《チヘニキヨスル》
 住吉能《スミノエノ》 岸乃黄土粉《キシノハニフニ》
 二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》
 
【譯】白浪の幾重にもうち寄せる住吉の岸の黄士に著物を染めて行こう。
【釋】千重來縁流 チヘニキヨスル。長歌の千重浪寄りを受けている。
 岸乃黄土粉 キシノハニフニ。既出(卷一、六九)。粉は、字音をもつてフニの音を表示している。ハニは赤士(卷七、一三七六題詞、卷十一、二六八三)とも書いているが、住吉に關する限りは黄士と書いているので、そこでは黄色というべきものであつたのだろう。フは生の字が當てられる。普通植物の生えている處をいうが、ハニフの場合は黄士のある陽處をいう。元來フは、斑をなしているところをいうのだろう。
 二寶比天由香名 ニホヒテユカナ。ニホヒテは、黄土に染めて。この地に遊んだ記念として衣服を染めて行こうというのである。
【評語】住吉の岸の黄士に染めようということ、古い歌(卷一、六九)にもあり、そういうことが歌いものにあつたらしい。この卷にも同じような歌がある。慰安のすくなかつた當時の旅行におけるせめてもの興趣であつたようである。
【參考】類歌
  馬の歩みおさへとどめよ。住吉《すみのえ》の岸の黄士《はにふ》ににほひて行かむ(卷六、一〇〇二)
 
山部宿祢赤人作歌一首并短歌
 
(56)933 天地《あめつち》の 遠きが如、
 日月《ひつき》の 長きが如、
 おし照る 難波の宮に、
 わご大王《おほきみ》 國知らすらし。」
 御食《みけ》つ國 日の御調《みつき》と、
 淡路の 野島《のじま》の海人《あま》の、
 海《わた》の底 沖《おき》つ海石《いくり》に
 鰒珠《あはびだま》 多《さは》に潜《かづ》き出《で》、
 船|竝《な》めて 仕へまつるし、
 貴《たふと》し、 見れば。
 
 天地之《アメツチノ》 遠我如《トホキガゴト》
 日月之《ヒツキノ》 長我如《ナガキガゴト》
 臨照《オシテル》 難波乃宮尓《ナニハノミヤニ》
 和期大王《ワゴオホキミ》 國所v知良之《クニシラスラシ》
 御食都國《ミケツクニ》 日之御調等《ヒノミツキト》
 淡路乃《アハヂノ》 野島之海子乃《ノジマノアマノ》
 海底《ワタノソコ》 奧津伊久利二《オキツイクリニ》
 鰒珠《アハビタマ》 左盤尓潜出《サハニカヅキデ》
 船竝而《フネナメテ》 仕奉之《ツカヘマツルシ》
 貴見禮者《タフトシミレバ》
 
【譯】天地の永遠なように、日月の長久なように、海面の照り輝く難波の宮で、わが大君は國を知ろしめすだろう。御食事に奉仕する國の晴の献上物として、淡路の野島の海人が、海底の沖の岩礁で眞珠を澤山に採取して、船を竝べてお仕えするのを見れば貴いことである。
【構成】二段から成つている。國知ラスラシまで第一段、永久に難波の宮で御統治になるだろうと言つている。以下第二段、淡路の野島の海人が船を漕いで御食料を上納することを敍している。
【釋】遠我如 トホキガゴト。トホキガゴトク(元赭)。トホキは時間の永遠なるをいう。天地は變化することなく永久に存在するものとして、この譬喩がなされる。「天地之《アメツチノ》 彌遠長久《イヤトホナガク》」(卷二、一九六)。
(57) 日月之長我如 ヒツキノナガキガゴト。日月もまた永久に變化しないものとして譬喩に用いられている。
 國所知良之 クニシラスラシ。ラシは、永久に國を知らすことを推量している。以上第二段で、以下はその推量の根據である事實をいう。
 御食都國 ミケツクニ。ミケは大御食で、天皇の御食事をいう。「御膳持須流若宇加命《ミケモタスルワカウカノメノミコト》」(廣瀬の大忌の祭の祝詞)。ツは助詞。御食料を出す國をいう。「御食國《ミケツクニ》 志麻乃海部有之《シマノアマナラシ》」(卷六、一〇三三)、「御食都國《ミケツクニ》 神風之《カムカゼノ》 伊勢乃國者《イセノクニハ》」(卷十三、三二三四)とあり、志摩、伊勢も御食ツ國である。
 日之御調等 ヒノミツキト。ヒノは、天皇の御料である意に稱えていう。「日之御門《ヒノミカド》」(卷一、五〇)、「日御朝庭《ヒノミカド》」(卷五、八九四)などある例である。なお延喜内膳式に「凡そ諸國の御厨《みくりや》の御贄《みにえ》を貢進《こうしん》する結番《けちばん》は、和泉の國【子巳】紀伊の國【丑酉午】近江の國【卯】若狹の國【辰申亥】件の日に當る毎に次《ついで》に依りて貢進す」とあるによつて、日次、日々の義に解する説があるが、ヒノをそのような意に使用した例はない。また「御食《みけ》つ國|志摩《しま》の海人《あま》ならし。眞熊野《まくまの》の小船に乘りて沖邊《おきへ》漕ぐ見ゆ」(卷六、一〇三三)の歌は、この歌の影響を受けて作られていると見られるが、志摩の國は、延喜内膳式の結番にはいつていないのだから、ここもそれとは關係がないのであろう。御調は、その國の特産の貢物をいう。トはとしての意。
 淡路乃野島之海子乃 アハヂノノジマノアマノ。野島は淡路の北端の地名。野島の海子は有名で、日本書紀(仁徳天皇紀・履中天皇紀)にも見えている。
 海底 ワタノソコ。枕詞。沖に冠する。
 奧津伊久利二 オキツイクリニ。イクリは既出(卷二、一三五)。海中の石をいう。
 鰒珠 アハビタマ。鰒貝の中の珠で、眞珠をいう。「珠洲乃安麻能《ススノアマノ》 於伎都實可未爾《オキツミカミニ》 伊和多利弖《イワタリテ》 可都伎等流登伊布《カヅキトルトイフ》 安波妣多麻《アハビタマ》 伊保知毛我母《イホチモガモ》(卷十八、四一〇一)
(58) 左盤尓潜出 サハニカヅキデ。カヅキデは、水中に潜り入つて採取し來るをいう。
 船竝而 フネナメテ。馬竝メテと同樣、船を多數竝べて。
 仕奉之 ジカヘマツルシ。ツカヘマツリシ(元赭)、ツカヘマツルシ(代初)、ツカヘマツルガ(略)。シは強意の助詞。仕え奉ることは。
 貴見禮者 タフトシミレバ。タフトシで切れる。ミレバはその條件法。
【評語】難波の宮にあつて、淡路の方から御調の船の來ることを敍して、その宮の榮えを讃えている。第一段の、天地日月の悠久であるように御統治遊ばされるであろうという讃え方も、大きく出ている。また末の仕へマツルシ貴シ見レバの言い方も、強い言い方である。全體によく纏まつていて美しい姿の歌である。海邊の離宮を讃えた歌として、傑作の一つである。
 
反歌一首
 
934 朝なぎに 楫の音聞ゆ。
 み食つ國 野島の海人の
 船にしあるらし。
 
 朝名寸二《アサナギニ》 梶音所v聞《カヂノオトキコユ》
 三食津國《ミケツクニ》 野島乃海子乃《ノジマノアマノ》
 船二四有良信《フネニシアルラシ》
 
【譯】朝の凪ぎに船漕ぐ音が聞える。御食事に奉仕する國の野島の海人の船であるらしい。
【釋】朝名寸二梶音所間 アサナギニカヂノオトキコユ。海上がしずかで、水を打つ楫の音が聞える。作者は海上を見渡しているのである。句切。
 船二四有良信 フネニシアルラシ。上のシは強意の助詞。漕ぐ音のする船を、野島の海人の船だろうと推量(59)している。入港して來る状景である。
【評語】長歌の内容をよく一首の短歌に纏めている。しずかな海上に漕ぎ進んでくる船を推量しているだけだが、難波の宮の風光がよく描き出されている。
 
三年丙寅秋九月十五日、幸2於播磨國印南郡1時、笠朝臣金村作歌一首并2短歌1
 
三年丙寅の秋九月十五日、播磨の國の印南の郡に幸でましし時、笠の朝臣金村の作れ  る歌一首【短歌并せたり。】
 
【釋】三年丙寅秋九月十五日 ミトセヒノエトラノアキナガツキトヲカアマリイツカ。三年は、前を受けて神龜三年である。この年月も笠の金村の記録によつたものであろう。次状參照。
 幸於播磨國印南郡時 ハリマノクニノイナミノコホリニイデマシシトキ。續日本紀、神龜三年の條「冬十月辛亥(七日)行2幸(ス)幡磨(ノ)國印南野(ニ)1。甲寅(十日)至(ル)2印南野(ノ)邑美(ノ)頓宮(ニ)1。(中略)祭亥(十九日)還(リテ)至(ル)2難波(ノ)宮(ニ)1。」これによると、九月十五日というのは、行幸の準備の日をいうか、または先發でもした日であろう。
 
935 名寸隅《なきすみ》の 船瀬《ふなせ》ゆ見ゆる
 淡路島 松帆《まつほ》の浦に、
 朝なぎに 玉藻刈りつつ、
 夕なぎに 藻鹽《もしほ》燒きつつ、
 海未通女《あまをとめ》 ありとは聞けど、
(60) 見に行かむ よしのなければ、
 丈夫《ますらを》の 情《こころ》はなしに、
 手弱女《たわやめの》の 思ひたわみて、
 徘徊《たもとほ》り 吾はぞ戀ふる。
 船楫《ふねかぢ》を無み。
 
 名寸隅乃《ナキスミノ》 船瀬從所v見《フナセユミユル》
 淡路島《アハヂシマ》 松帆乃浦尓《マツホノウラニ》
 朝名藝尓《アサナギニ》 玉藻苅管《タマモカリツツ》
 暮菜寸二《ユフナギニ》 藻鹽燒乍《モシホヤキツツ》
 海末通女《アマヲトメ》 有跡者雖聞《アリトハキケド》
 見尓將v去《ミニユカム》 余四能無者《ヨシノナケレバ》
 大夫之《マスラヲノ》 情者梨荷《ココロハナシニ》
 手弱女乃《タワヤメノ》 念多和美手《オモヒタワミテ》
 俳※[人偏+回]《タモトホリ》 吾者衣戀流《ワレハゾコフル》
 船梶雄名三《フネカヂヲナミ》
 
【譯】名寸隅の船著きから見える淡路島の松帆の浦に、朝の凪ぎに海藻を刈り、夕方の凪ぎに鹽を燒いて、海人の娘子がいるとは聞くけれども、見に行くべき便宜がないので、男子たる心はなしに、女のように思い屈して、徘徊してわたしは戀をしている。船や楫がないので。
【構成】段落はなく、全篇一文でできている。
【釋】名寸隅乃 ナキスミノ。ナキスミは地名と見られる。代匠記に、本朝文粹、三善《みよし》の清行《きよつら》の意見封事《いけんふうじ》に、「重ねて播磨の國の魚住の泊を修復せむと請ふ事」とあるを擧げて、この魚住の泊にやとある。類聚三代格貞觀九年の官符にも「明石郡魚住の船瀬は、損廢することすでに久しく、いまだ作り治むること能はず。往還の舟路ややもすれば多く漂没す」とある。今明石市と高砂市との中間にある。
 船瀬從所見 フナセユミユル。フナセは、船の泊る處。「大唐《もろこし》に使《つかひ》遣《つか》はさむとするに船居《ふなすゑ》無きによりて播磨の國より船乘りして使は遣はさむと念《おも》ほしめす間に皇神《すめかみ》の命《みこと》もちて船居は吾作らむと教へ悟《さと》したまひき。教へ悟したまひながら船居作りたまへれば」(遺唐使時奉幣祝詞)とあるによれば、語義はフナスヱか。住吉大社神代記に「長柄船瀬本記」がある。
 松帆乃浦尓 マツホノウラニ。マツホノウラは、淡路島の北端明石に面した處。
(61) 藻鹽燒乍 モシホヤキツツ。海藻を燒いて鹽を採取するをいう。以上朝ナギからは、海未通女の行動。
 余四能無者 ヨシノナケレバ。ヨシは因縁、子細。
 大夫之情者梨荷 マスラヲノココロハナシニ。男らしいしつかりした心を失つて。丈夫の持つているはずの心はなくて。
 手弱女乃 タワヤメノ。弱い女のように。
 念多和美手 オモヒタワミテ。物念いに屈するをいう。思い悩んで。
 俳※[人偏+回] タモトホリ。一處に逡巡して進行しない意。
 吾者衣戀流 ワレハゾコフル。海未通女に對して戀うのである。
 船梶雄名三 フネカヂヲナミ。渡るべき船や楫がなくして。
【評語】對岸にありという海人の娘子に興味を感じて、戀いこがれる心を述べている。長歌にしているのは、わざとらしい感じがある。丈夫ノ云々の對句も仰山である。對岸の海人の娘子を配した佳景を中心にしたらよかつたのだろう。
 
反歌二首
 
936 玉藻刈る 海末通女ども
 見に行かむ 船楫もがも。
 浪高くとも。
 
 玉藻苅《タマモカル》 海末通女等《アマヲトメドモ》
 見尓將v去《ミニユカム》 船梶毛欲得《フネカヂモガモ》
 浪高友《ナミタカクトモ》
 
【譯】海藻を刈る海人の娘たちを見に行くべき船や櫂もほしいなあ。よし浪は高くても。(62)【釋】玉藻苅 タマモカル。長歌を受けて海未通女ドモを修飾している。やはり娘子の説明としては、藻鹽燒くより、この句の方がふさわしいのである。
 船梶毛欲得 フネカヂモガモ。長歌の、船楫ヲ無ミを受けている。希望の語法。
 浪高友 ナミタカクトモ。明石海峽の浪の高いのを描いて條件法としている。
【評語】長歌の内容を要約した歌で、ただ末句だけが新たに加わつている。纏まつてはいるが、物足りない。
937 往きめぐり 見とも飽かめや。
 名寸隅の 船瀬の濱に
 しきる白浪。
 
 往廻《ユキメグリ》 雖見將飽八《ミトモアカメヤ》
 名寸隅乃《ナキスミノ》 船瀬之濱尓《フナセノハマニ》
 四寸流思良名美《シキルシラナミ》
 
【譯】ひと廻りして見ても飽きないだろう。名寸隅の船瀬の濱に重なり寄る白浪は。
【釋】行廻 ユキメグリ。行き廻つて。海邊を一周して。
 雖見將飽八 ミトモアカメヤ。ミトモは既出。見るともに同じ。句切。
 四寸流思良名美 シキルシラナミ。シキルは、頻るで、あとからあとから寄るのをいう。
【評語】前二首が對岸への憧憬であるのに對して、轉じて名寸隅の濱の佳景を詠んで、作者の環境を説いている。こういう手段もあるが、今の場合は、集中が二分される趣があつてよくない。こちらも佳景だというのだからである。歌自身も類型的なほめ方に過ぎないが、しきる白浪をとりあげたのは、とりえだろう。
 
山部宿祢赤人歌一首并2短歌1
 
(63)938 やすみしし わが大王の、
 神《かむ》ながら 高知らします
 印南野《いなみの》の 大海《おほうみ》の原の
 荒細の《あらたへ》 藤井《ふぢゐ》の浦に、
 鮪《しび》釣ると 海人船《あまぶね》散動《さわ》き、
 鹽燒くと 人ぞ多《さは》なる。」
 浦をよみ うべも釣《つり》はす。
 濱をよみ うべも鹽燒く。
 あり通ひ 見ますもしるし
 清き白《しら》濱。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 神隨《カムナガラ》 高所v知須《タカシラシマス》
 稻見野能《イナミノノ》 大海乃原笶《オホウミノハラノ》
 荒妙《アラタヘノ》 藤井乃浦尓《フヂヰノウラニ》
 鮪釣等《シビツルト》 海人船散動《アマブネサワキ》
 鹽燒等《シホヤクト》 人曾左波尓有《ヒトゾサハナル》
 浦乎吉美《ウラヲヨミ》 宇倍毛釣者爲《ウベモツリハス》
 濱乎吉美《ハマヲヨミ》 諾毛鹽燒《ウベモシホヤク》
 蟻往來《アリガヨヒ》 御覽母知師《ミマスモシルシ》
 清白濱《キヨキシラハマ》
 
【譯】八方を知ろしめすわが大君の、神にましますがままに御領有になる印南野の、邑美《おうみ》の原の藤井の浦に、鮪を釣るとて海人の船は騷ぎ、鹽を燒くとて人が大勢いる。浦がよいので、釣をするのももつともだ。濱がよいので鹽を燒くのももつともだ。おでましになつて御覽になるのも當然だ。この清らかな白濱を。
【構成】二段からできている。人ゾ多ナルまで第一段、藤井の浦の情景を説く。以下第二段その濱を稱美する。敍述と賞美。
【釋】神隨 カムナガラ。この地が領土であることに神秘性を感じて、神ナガラという。 高所知須 タカシラシマス。
(64)  タカシロシメス(元赭)
  タカシラシマス(定本)
  ――――――――――
  高所知流《タカクシラセル》(西)
  高所知流《タカシラシヌル》(略)
  高所知流《タカシラセル》(古義)
 須は、古本系統の本の傳來であるが、仙覺本系統の本では流に作つている。須に作るによれば、タカシラシメス、タカシラシマスの兩訓が考えられるが、タカシラスの成語があるので、それに敬語の助動詞マスを添えたタカシラシマスによることとした。
 稻見野能 イナミノノ。イナミノは既出。印南郡の野。
 大海乃原笶 オホウミノハラノ。オホウミノハラは、文字通り大海原とも解せられるが、地名説もある。續日本紀のこの行幸の記事に「十月甲寅、至(ル)2印南野(ノ)邑美(ノ)頓宮(ニ)1」とある邑美は、倭名類聚鈔地名に「明石(ノ)郡邑美(ノ)郷 於布美《オフミ》」とある。その頓宮のある地であろうという。ここで大海原を持ち出すのも變だから、地名とする方がよかろう。語義オホウミで、オフミと發音されたのだろう。
 荒妙 アラタヘノ。既出。枕詞。
 藤井乃浦尓 フヂヰノウラニ。藤井の浦は、反歌には藤江の浦とある。藤江の浦は、既出(卷三、二五二)。同じ浦であろうが、音韻が動揺したものか、誤傳があるか、わからない。
 鮪釣等 シビツルト。シビは、日本書紀武烈天皇の卷に、平群《へぐり》の鮪《しび》に註して「鮪、此(ヲ)云(フ)2茲寐《シビト》1」とあり、倭名類聚鈔にも、鮪に、之比《シビ》と和名を當ててある。今のシビマグロ。
 海人船散動 アマブネサワキ。散動は既出(卷二、二二〇)。上の九二七にもあつた。散在し活動している状をいう。
 人曾左波尓有 ヒトゾサハナル。濱邊に人の群れていることを敍している。以上第一段、藤井の浦の賑いを(65)述べる。
 浦乎吉美字倍毛釣者爲 ウラヲヨミウベモツリハス。上の鮪釣ルト海人船サワキを受けている。ウベモは、もつともだと首肯する意の副詞。句切。
 濱乎吉美諾毛鹽燒 ハマヲヨミウベモシホヤク。鹽燒クト人ゾサハナルを受けている。句切。
 蟻往來 アリガヨヒ。蟻は借字。本集には虫のアリは歌われていない。ありて通うことをいう。
 御覽母知師 ミマスモシルシ。ミマスモシルシ(考)、メサクモシルシ(古義)。御覽は敬意を表して書いている。御念《おもほす》、御知《しらす》、御問《とはす》などの類の用法である。シルシは、あきらかである、よくわかるなどの意。メサクモシルシは、「有雲知之《アラクモシルシ》」(卷三、二五八)、「來之雲知師《コシクモシルシ》」(卷十、二〇七四)の例による。句切。
 清白濱 キヨキシラハマ。シラハマは、白砂の濱。
【評語】よく整つている歌である。初めの稻見野の説明も有効であり、それを受けて濱の賑わいを敍したのもよい。第二段はそれによつて濱を稱美している。結句もしつかり据えられてよく全體を受けている。
 
反歌三首
 
939 沖つ浪 邊《へ》つ浪安み
 漁《いざ》りすと
 藤江の浦に 船ぞ動《さわ》ける。
 
 奧浪《オキツナミ》 邊浪安美《ヘツナミヤスミ》
 射去爲登《イザリスト》
 藤江乃浦尓《ふぢえのうらに》 船曾動流《フネゾサワケル》
 
【譯】沖の浪や濱邊の浪がしずかなので、すなどりをするとて、藤江の浦に船が騷いでいる。
【釋】邊波安美 へツナミヤスミ。へナミヲヤスミ(元)、ヘナミシヅケミ(西)。へツナミは、岸邊に近い波。(66)ヤスミは靜かである状態。
 射去爲登 イザリスト。イザリは既出(卷三、二五二)。漁業。トは、として。
 船曾動流 フネゾサワケル。動流は、長歌の散動を受けているので、同じくサワケルと讀むを適當とする。
【評語】長歌の敍述の一部を受けているが、さすがに全然踏襲しないで、別の歌に纏めあげている。しかも長歌との連絡もあり、反歌としての性格をあきらかにしている。ただ船の行動を説明しすぎたのは難點である。
 
940 印南野《いなみの》の 淺茅《あさぢ》おしなべ さ宿《ぬ》る夜《よ》の
 け長くあれば 家ししのはゆ。
 
 不欲見野《イナミノノ》 淺茅押靡《アサヂオシナベ》 左宿夜之《サヌルヨノ》
 氣長在者《ケナガクアレバ》 家之小篠生《イヘシシノハユ》
 
【譯】印南野の淺い茅草をおし伏せて寐る夜が久しいので、家が思われることだ。
【釋】不欲見野乃 イナミノノ。不欲は、義をもつてイナの音の表示に借りている。
 淺茅押靡 アサヂオシナべ。アサヂは、茅草はたけが低いのでいう。オシナべは、おし靡かせて、おし伏せて。
 左宿夜之 サヌルヨノ。サは接頭語。
 氣長在者 ケナガクアレバ。ケナガクは既出(卷一、六〇)。時久しく。
 家之小篠生 イヘシシノハユ。イへは、わが家。小篠は、義をもつてシノの音の表示に借りている。シノハユは思われる意。
【評語】こういう内容の歌は、旅の歌として自然類型が多いのだが、この歌は、初二句の特殊な描寫があるので、類歌を凌駕して、旅情を感じさせる。この作者らしい精細な描寫である。しかも上品を失わない、すぐれた歌というべきである。
 
(67)941 明石潟《あかしがた》 潮干の道を
 明日よりは 下咲《したゑ》ましけむ。
 家近づけば。
 
 明方《アカシガタ》 潮干乃道乎《シホヒノミチヲ》
 從2明日1者《アスヨリハ》 下咲異六《シタヱマシケム》
 家近附者《イヘチカヅケバ》
 
【譯】明石潟の潮干の道を、明日からは、うれしいだろうな。わが家が近つくので。
【釋】明方 アカシガタ。明石の潟。カタは海口の洲であるが、この歌では海岸をいう。結局潮が滿ちて來れば、海水をかぶるのである。
 潮干乃道乎 シホヒノミチヲ。潮の退いた海岸の道である。初句と呼応している。京に帰る道路である。
 從明日者 アスヨリハ。還幸もいよいよ明日と定まつた。
 下咲異六 シタヱマシケム。シタは心中をいう。ヱマシケまで形容詞の活用形。笑ましくある状態。ムは助動詞。心中に愉快を覺えるだろう。笑ムの状態を形容詞にしてヱマシという。そのようにある意である。句切。
 家近附者 イヘチカヅケバ。一歩一歩戀しいわが家が近づくをいう。第四句の理由。
【評語】いよいよ還幸の日の近づいたうれしさが歌われている。率直な表現で、感じがよく出ている。
過2辛荷島1時、山部宿祢赤人作歌一首并2短歌1
 
辛荷の島を過ぎし時、山部の宿祢赤人の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】過辛荷島時 カラニノシマヲスギシトキ。辛荷の島は、兵庫縣|揖保《いぼ》郡|室津《むろつ》の近い海上にある島で、地唐荷、中唐荷、沖唐荷の三島から成つている。播磨國風土記に「韓荷《からに》の島、韓人《からひと》の船を破りて漂さえし物、この島に漂ひつく。故《かれ》、韓荷の島と云へり」(もと漢文)という地名起原説話がある。赤人に、伊豫の温泉で詠んだ(68)歌があり、四國に下つたことが知られるので、その途上での作であろう。同じく播磨の國での作というので、の前歌に續けて載せたので、神龜三年の行幸の際に赴いたものではないであろう。
 
942 あぢさはふ 妹が目かれて、
 敷細《しきたへ》の 枕も纏《ま》かず、
 櫻皮《かには》纏き 作れる舟に
 眞楫《まあかぢ》貫《ぬ》き わが榜《こ》ぎ來《く》れば、
 淡路の 野島も過ぎ、
 印南都麻《いなみつま》 辛荷《からに》の島の
 島の際《ま》ゆ 吾宅《わぎへ》を見れば、
 青山の 其處《そこ》とも見えず、
 白雲も 千重になり來ぬ。」
 漕ぎ廻《た》むる 浦のことごと、
 往き隱る 島の埼々、
 隈《くま》も置かず 憶《おも》ひぞわが來《く》る。
 旅のけ長み。」
 
 味澤相《アヂサハフ》 妹目不2數見1而《イモガメカレテ》
 敷細乃《シキタヘノ》 枕毛不v卷《マクラモマカズ》
 櫻皮纏《カニハマキ》 作流舟二《ツクレルフネニ》
 眞梶貫《マカヂヌキ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》
 淡路乃《アハヂノ》 野島毛過《ノジマモスギ》
 伊奈美嬬《イナミツマ》 辛荷乃島之《カラニノシマノ》
 島際從《シマノマユ》 吾宅乎見者《ワギヘヲミレバ》
 青山乃《アヲヤマノ》 曾許十方不v見《ソコトモミエズ》
 白雲毛《シラクモモ》 千重尓成來沼《チヘニナリキヌ》
 許伎多武流《コギタムル》 浦乃盡《ウラノコトゴト》
 往隱《ユキカクル》 島乃埼々《シマノサキザキ》
 隈毛不v置《クマモオカズ》 憶曾吾來《オモヒゾワガクル》
 客乃氣長弥《タビノケナガミ》
 
【譯】妻の目に別れて、やわらかい枕もせず、櫻の皮で卷いて作つた船に、楫を取りつけて、わたしが漕いで(69)來ると、淡路の野島も過ぎて、印南都麻《いなみつま》や辛荷の島の島のあいだからわが家を見れば、青い山のその處とも見えず、白い雲も幾重にも隔たつた。漕ぎまわる浦のことごとく、往つて隱れる島の岬ごとに、どの角も落さずに、物思いをしながらわたしは來るのだ。旅の日數が長くたつて。
【構成】二段からできている。白雲モ千重ニナリ來ヌまで第一段、家を離れて遠く來たことを敍する。以下第二段、顧みがちに來ることを敍する。
【釋】味澤相 アヂサハフ。既出(卷二、一九六)。枕詞で、目に冠するが、語義は未詳。類似の形を有する枕詞にツノサハフがあるが、ツノサハフは角障經と書いているのに對して、これは、いつも味澤相と書いているから、形が似ているだけで、語構成は違うのだろう。
 妹目不數見而 イモガメカレテ。不數見而は、義をもつてカレテと讀む。妻と別れてである。
 枕毛不卷 マクラモマカズ。わが家の床を離れて來たことをいう。
 櫻皮纏 カニハマキ。カニハは、倭名類聚抄に「樺|迦邇波《カニハ》、今櫻皮有v之。木(ノ)名。皮(ハ)可(キ)2以(テ)爲(ス)1v炬(ト)者也」とある。カバノキ科の落葉喬木。カニハザクラ、今シラカバという。その皮をもつて舷側を卷いて作つた船である。
 眞梶貫 マカヂヌキ。マは接頭語。マカヂは完全なカヂ。ヌキは船に取りつけるをいう。
 伊奈美嬬 イナミツマ。既出。「稻日都麻《イナビツマ》」(卷四、五〇九)參照。印南に付屬し別になつている地の稱で、加古川の河口であろうという。ここは辛荷の島と竝立の格になつているが、そのあいだに相當の距離がある。
 島際從 シママノマユ。島の間を通してで、辛荷の島のあいだをいう。
 吾宅乎見者 ワギヘヲミレバ。ワギヘは、大和にあるわが家。
 青山乃曾許十方不見 アヲヤマノソコトモミエズ。アヲヤマは大和の遠山をいう。ソコは其處。青く見える(70)山のその點が、わが家ともわからない。
 白雲毛千重尓成來沼 シラクモモチヘニナリキヌ。遠く隔たつたことをいう。青山白雲と、對語になつている。句切。以上第一段。
 許伎多武流 コギタムル。コギは船を漕ぐ。タムルは、弧を描いてまわる。陸に沿つて浦を漕ぎ進むをいう。
 往隱 ユキカクル。往きて島に隱れ行くをいう。この形で連體形をとるとすれば、四段活である。
 隈毛不置 クマモオカズ。クマは物の隅。隈も落ちずに同じ。隈ごとに。
 憶曾吾來 オモヒゾワガクル。わが家を思いつつくる。句切。
 客乃氣長弥 タビノケナガミ。ケは時、上の句の理由。家を出てから既に長くなつたのである。
【評語】旅行を具體的に敍述し、顧みつつ行く趣が述べられている。赤人としては長い形の歌で、相當にその特色を出している。
 
反歌三首
 
943 玉藻刈る 辛荷《からに》の島に、
 島|廻《み》する 鵜《う》にしもあれや、
 家念はざらむ。
 
 玉藻苅《タマモカル》 辛荷乃島尓《カラニノシマニ》
 島廻爲流《シマミスル》 水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》
 家不v念有六《イヘオモハザラム》
 
【譯】海藻を刈る辛荷の島で、島めぐりをしている鵜ではないのだが、もし鵜であつたら家を思わないだろう。
【釋】玉藻苅 タマモカル。辛荷の島の状況を説明している。
 島廻爲流 シマミスル。アサリスル(元)、シマミスル(古義)。シマミは、島めぐりの義である。「礒廻爲(71)鴨《イソミスルカモ》」(卷三、三六八)、「礒廻爲等霜《イソミスラシモ》」(卷七、一一六四)、「灣廻爲流《ウラミスル》」(卷十九、四二〇二)などの語例がある。
 水烏二四毛有哉 ウニシモアレヤ。水烏は、鵜を姿をもつて書いている。アレヤは反語の條件法。ヤは反語の助詞。これと同形の歌には「石倉之《イハクラノ》 小野從秋津爾《ヲノユアキヅニ》 發渡《タチワタル》 雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》 時乎思將v待《トキヲシマタム》」(卷七、一三六八)の如きがある。鵜や雲の如きその物でないのに、もしそうだつたらの意である。「之麻思久母《シマシクモ》 比等利安里宇流《ヒトリアリウル》 毛能爾安禮也《モノニアレヤ》 之麻能牟漏能木《シマノムロノキ》 波奈禮弖安流良武《ハナレテアルラム》」(卷十五、三六〇一)の如きも、條件法は同じである。
 家不念有六 イヘオモハザラム。鵜であつたらの前提のもとに希望を述べている。
【評語】何になりたいという構想の歌は多いが、これは特に感慨が出ている。初句の玉藻刈ルも、よく風光を描いている。
 
944 島隱り わが榜《こ》ぎ來れば
 ともしかも。
 倭へ上《のぼ》る ま熊野の船。
 
 島隱《シマガクリ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》
 乏毳《トモシカモ》
 倭邊上《ヤマトヘノボル》 眞熊野之船《マクマノノフネ》
 
【譯】島隱れにわたしが漕いで來ると、うらやましいことだ。大和をさして上つて行く熊野の船は。
【釋】島隱 シマガクリ。岸に沿つて、島に隱れて。
 乏毳 トモシカモ。トモシはうらやましい意。都へ上るのがうらやましいのである。句切。三句切。
 倭邊上 ヤマトヘノボル。赤人の船と反對に大和に向いて行くので、都をさして行くのでノボルという。
 眞熊野之船 マクマノノフネ。上のマは接頭語。熊野は紀伊の國の地名。その地は、海に面した地なので、特殊の船が發達していた。日本書紀神代の下にも熊野の諸手船《もろたぶね》がある。【評語】行き違いに都へ上る船に逢つた感慨が歌われている。三句で短く切つたのも効果が多い。
 
(72)945 風吹けば 浪か立たむと、
 伺候《さもらひ》に 都太《つだ》の細江に 浦|隱《がく》りをり。
 
 風吹者《カゼフケバ》 浪可將v立跡《ナミカタタムト》
 伺候尓《サモラヒニ》 都太乃細江尓《ツダノホソエニ》 浦隱居《ウラガクリヲリ》
 
【譯】風が吹くので、浪が立つだろうかと、樣子を見て、都太の細江に入つて隱れている。
【釋】風吹者 カゼフケバ。現に風が吹いているので。
 浪可將立跡 ナミカタタムト。浪でもか立つだろうと。
 伺候尓 サモラヒニ。サモラヒは、樣子を伺つていること。サは接頭語、モラヒは守ルの連續動作をいう。既に「雖2侍候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》」(卷二、一九九)など見えている。ここは灣外の樣子を伺うのである。
 都太乃細江尓 ツダノホソエニ。都太は、今姫路市の南方に津田がある。その細江は、飾磨川の河口。
 浦隱居 ウラガクリヲリ。灣入した水面に隱れおる意。風波を避けているのである。
【評語】都太の細江は、辛荷の島よりも東方に當るので、時間からいえば、長歌より前の事になる。旅中の一事を敍して、風波の苦勞をすることを述べている。平淡な内容で趣があり、上品な作である。
 
過2敏馬浦1時、山部宿祢赤人作歌一首并2短歌1
 
敏馬の浦を過ぎし時、山部の宿禰赤人の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】過敏馬浦時 ミヌメノウララスギシトキ。敏馬は、しばしば出た。神戸市の東方である。赤人のこの行は、前の辛荷の島の歌と同時であるかどうかわからない。反歌に、須磨を歌い、馴レナバカと歌つているのは、下向の時の如くであり、そうとすれば辛荷の島の歌と同時で、それよりも前に列すべきが如くである。
 
946 御食《みけ》向ふ 淡路の島に
(73) 直《ただ》向かふ 敏馬《みぬめ》の浦の、
 沖べには 深海松《ふかみる》探《と》り、
 浦《うら》みには 名告藻《なのりそ》刈る。」
 深海松の 見まく欲しけど、
 名告藻の おのが名惜しみ、
 間使《まづかひ》も 遣《や》らずてわれは、
 生けりともなし。」
 
 御食向《ミケムカフ》 淡路乃島二《アハヂノシマニ》
 直向《タダムカフ》 三犬女乃浦能《ミヌメノウラノ》
 奧部庭《オキベニハ》 深海松採《フカミルトリ》
 浦廻庭《ウラミニハ》 名告藻苅《ナノリソカル》
 深見流乃《フカミルノ》 見卷欲跡《ミマクホシケド》
 莫告藻之《ナノリソノ》 己名惜三《オノガナヲシミ》
 間使裳《マヅカヒモ》 不v遣而吾者《ヤラズテワレハ》
 生友奈重二《イケリトモナシ》
 
【譯】御食事のように前にある淡路の島に、じかに向き合つている敏馬の浦の、沖の方では深い所に生えている海松を採り、浦の方では名告藻を刈つている。その海松のように見たいと思うけれども、名告藻のようにわたしの名が惜しさに、使も遣らないで、わたしは、生きているそらもない。 
【構成】二段から出來ている。名告藻刈ルまで第一段、敏馬の浦の風物を敍する。以下第二段使を遣らないで思い戀う情を述べる。
【釋】御食向 ミケムカフ。既出(卷二、一九六)。枕詞。「御食向《ミケムカフ》 木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》」(卷二、一九六)、「御食向《ミケムカフ》 味原宮者《アヂフノミヤハ》」(卷六、一〇六二)、「御食向《ミケムカフ》 南淵山之《ミナブチヤマノ》」(卷九、一七〇九)など使用され、酒、味などに冠するので、ここも粟の義によつて淡路に冠するのであろう。
 直向 タダムカフ。淡路島にじかに向き合つている。
 三犬女乃浦能 ミヌメノウラノ。犬は、イヌを上略して、ヌの音を表示している。
 深海松採 フカミルトリ。海松は深海に生えるので深海松という。
(73) 浦廻庭 ウラミニハ。ミは地形語につける接尾語。
 名告藻苅 ナノリソカル。ナノリソは、ホンダワラ。海藻を採取することに、特に海松、名告藻の名を出したのは、以下の句の準備としてであつて、實際には、指定された海藻に限らない。句切。以上第一段。
 深見流乃 フカミルノ。枕詞。深海松のの義。
 見卷欲跡 ミマクホシケド。ミマクは見むこと。ホシケは形容詞。
 莫告藻之 ナノリソノ。枕詞。
 己名惜三 オノガナヲシミ。家郷に戀々たることを人に知られるのを憚つている。
 間使裳 マヅカヒモ。マヅカヒは、兩者のあいだを通ふ使者。
 不遣而吾者 ヤラズテワレハ。家なる妻のもとに遣らないで。
 生友奈重二 イケリトモナシ。重二は義をもつて書いている。二二の義で、シ(四)である。生きているとも覺えない。
【評語】海上の光景を敍し、それを使用して次の句を引き起してくる。人麻呂の長歌などに見る手法が用いられている。作爲に過ぎて、旅情の表現が稀薄になつている。
 
反歌一首
 
947 須磨の海人の 鹽燒《しほやきぎぬ》衣の
 馴《な》れなばか、 一日も君を 忘れて念はむ。
 
 爲間乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》
 奈禮名者香《ナレナバカ》 一日母君乎《ヒトヒモキミヲ》 忘而將v念《ワスレテオモハム》
 
(75)【譯】須磨の浦の海人が鹽を燒く著物のように、馴れもしたら、一日でもあなたを忘れられるだろう。
【釋】爲間乃海人之 スマノアマノ。スマは、神戸市の西部。須磨。「須磨乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》 藤服《フヂゴロモ》」(卷三、四一三)。
 鹽燒衣乃 シホヤキギヌノ。以上は序詞。鹽を燒く衣は、鹽氣のために特にくたくたになるので、ナレナバに懸かる。
 奈禮名者香 ナレナバカ。ナレは馴レに穢レを懸けている。旅に馴れたならばかの意。 一日母君乎 ヒトヒモキミヲ。ヒトヒモは、一日でも。キミは妻をいう。
 忘而將念 ワスレテオモハム。忘レテ念フは、思ヒ忘ルに同じく、忘れるをいう。
【評語】序も器用に使われており、悶々たる戀情をよく表現している。但し器用すぎて、深い趣はない。
 
右作v歌年月未v詳也。但以v類、故載2於此次1。
 
右は、歌を作れる年月、いまだ詳ならず。但し類をもちて、故この次に載す。
 
【釋】右作歌年月末詳也 ミギハウタヲツクレルトシツキイマダツマビラカナラズ。右と指している範圍はあきらかでない。多分九四二以下であろうが、赤人は作歌の年月を明記して置かなかつたので、編者の處置を要したものであろう。
 
四年丁卯春正月、勅2諸王諸臣子等1、散2禁於授刀寮1時、作歌一首并2短歌1
 
四年丁卯の春正月、諸王諸臣子等に勅して、授刀寮に散禁せしめし時作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】四年丁卯春正月 ヨトセヒノトウノハルムツキ。前を受けて神龜四年である。
(76) 勅諸王諸臣子等 オホキミタチオミノコタチニミコトノリシテ。オミノコは臣下の愛稱。「飫瀰能古簸《オミノコハ》 多倍能波伽摩嗚《タヘノハカマヲ》」(日本書紀七四)。
 散禁於授刀寮時 タチハキノツカサニトラヘシメシトキ。授刀寮は、慶雲四年七月に始めて授刀舍人寮を置き、後天平寶字三年十二月に授刀衛を置き、天平神護元年、改めて近衛府とした。授刀の舍人の役所である。散禁は、木索をかけないでただその出入を禁ずるをいう。この事件は、歌の左註にあきらかである。
 
948 眞葛《まくず》はふ 春日の山は、
 うち靡《なび》く 春さりゆくと、
 山|峽《かひ》に 霞棚引き、
 高圓《たかまと》に 鶯鳴きぬ。」
 もののふの 八十伴《やそとも》の雄《を》は、
 雁がねの 來繼《きつ》ぐこのごろし、
 かく續《つ》ぎて 常にありせば、
 友|竝《な》めて 遊ばむものを、
 馬竝めて 往かまし里を、
 待ちがてに わがせし春を、
 かけまくも あやに恐《かしこ》く
 言はまくも ゆゆしからむと、
(77) あらかじめ かねて知りせば、
 千鳥鳴く その佐保川に
 石《いは》に生《お》ふる 菅《すが》の根取りて、
 しのふ草 解除《はら》へてましを、
 往く水に 禊《みそ》ぎてましを、
 天皇《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み、
 ももしきの 大宮人の、
 玉桙《たまほこ》の 道にも出でず
 戀ふるこの頃。」
 
 眞葛延《マクズハフ》 春日之山者《カスガノヤマハ》
 打靡《ウチナビク》 春去往跡《ハルサリユクト》
 山ヒ丹《ヤマカヒニ》 霞田名引《カスミタナビキ》
 高圓尓《タカマトニ》 鶯鳴沼《ウグヒスナキヌ》
 物部乃《モノノフノ》 八十友能壯者《ヤソトモノヲハ》
 折木四哭之《カリガネノ》 來繼比日石《キツグコノゴロシ》
 此續《カクツギテ》 常丹有脊者《ツネニアリセバ》
 友名目而《トモナメテ》 遊物尾《アソバムモノヲ》
 馬名目而《ウマナメテ》 往益里乎《ユカマシサトヲ》
 待難丹《マチガテニ》 吾爲春乎《ワガセシハルヲ》
 決卷毛《カケマクモ》 綾尓恐《アヤニカシコク》
 言卷毛《イハマクモ》 湯々敷有跡《ユユシカラムト》
 豫《アラカジメ》 兼而知者《カネテシリセバ》
 千鳥鳴《チドリナク》 其佐保川丹《ソノサホガハニ》
 石二生《イハニオフル》 菅根取而《スガノネトリテ》
 之努布草《シノフグサ》 解除而益乎《ハラヘテマシヲ》
 往水丹《ユクミヅニ》 禊而益乎《イソギテマシヲ》
 天皇之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》
 百磯城之《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》
 玉桙之《タマホコノ》 道毛不v出《ミチニモイデズ》
 戀比日《コフルコノゴロ》
 
【譯】葛の廣がつている春日の山は、草木の靡く春になつてくると、山の峽に霞がたなびき、高圓には鶯が鳴いた。宮廷にお仕えしている人々は、雁の續いてくるこの頃かような日が續いて常であつたら、友だちと遊ぼうものを、馬を列ねて行つたろう里を、わたしの待ちかねていた春だのに、詞に懸けることもおそろしく、口に言うことも憚りがあると、前々から知つておつたなら、千鳥の鳴くあの佐保川で、石に生えている菅の根を取つて、物思いを払い捨てようものを、流れる水に洗い去ろうものを、天皇の仰せを恐れ畏まつて、宮廷にお仕えする人々が、道にも出ないで、戀うこの頃である。
【構成】二段から成つているが、第一段は短く、準備になつている。鶯鳴キヌまで第一段、春日山に春の來たことを述べる。以下第二段、このよい春に外出もならずにいることを恨んでいる。
(78)【釋】眞葛延 マクズハフ。クズはマメ科、クズ屬の多年生草本で、蔓性植物である。マは接頭語、ハフは伸ぴている意。クズが一面に這いひろがつている意に、春日山を説明する。
 打靡 ウチナビク。枕詞。春に冠する。
 春去往跡 ハルサリユクト。ハルサリは春になるをいう。ユクも來るに同じ。春になることが進行する意。トは、として。
 山ヒ丹 ヤマカヒニ。カヒは山のあいだの峽をいう。ヒをカヒの音に借用することは、「背ヒ爾所見《ソガヒニミユル》」(卷六、九一七)參照。
 高圓尓 タカマトニ。高圓は春日山中の一地點。狹義にいう春日山の南方の一山であるが、廣く言えば春日の地名に含まれる。
 鶯鳴沼 ウグヒスナキヌ。以上第一段、春日山の春を敍する。
 物部乃八十友能壯者 モノノフノヤソトモノヲハ。既出。ここでは散禁された人々をいう。
 折木四哭之 カリガネノ。折木四をカリと讀むことは、喜多村節信の折木哭考に詳しい。今、美夫君志によつてその要を擧げる。「和名抄雜藝部に、兼名苑(ニ)云(フ)、樗蒲、一名九采【内典云、樗蒲賀利宇智。】又陸師(ニ)曰(フ)※[木+梟]【音軒、和名加利、】※[木+梟]子樗蒲(ハ)采(ノ)名也とあり。これにて折木四は則樗蒲子の事にて、其は小木を薄く削りて、兩邊を尖らしめて、其の形|杏仁《きようにん》をそぎたるが如し。その半面は白く、半面は黒く塗りて、白きかた二に雉を畫き、黒き方二に犢《こうし》を畫きて、これを投じて其の采色によりて、勝負をなすなり。但し西土にては、これを五木といひて、其の采五子なれども、皇國にては四子を用ゐるなり。かかれば折木四は樗蒲子の事にて、加利の假字としたるなり」。この遊戯は現に朝鮮に行われ、四木を用いて※[木+四]《し》戯という。圓木の、一方をたいらにしたものを使用し、女子用は男子用に比して小形である。これを假字に使用したものには、なお「月乎吉三《ツキヲヨミ》 切木四之泣所v聞《カリガネキコユ》」(卷十、二一三一)があり(79)り、「春霞《ハルガスミ》 田菜引今日之《タナビクケフノ》 暮三伏一向夜《ユフヅクヨ》」(卷十、一八七四)の三伏一向、「梓弓《アヅサユミ》 末中一伏三起《スヱノナカゴロ》」(卷十二、二九八八)の一伏三起もこの遊びによる戯書と考えられる。「神之諸伏《カミノモロフシ》」(卷四、七四三)の諸伏も、多分これに關する用字であろう。
 來繼比日石此續 キツグコノゴロシカクツギテ。
  キツギナラビシココニツギ(考)
  キツグコノゴロシカクツギテ(新釧)
  ――――――――――       
  來繼皆石此續《キツギテミナシココニツギ》(代初)
  來繼此日如此續《キツギコノゴロカクツギテ》(略)
  來繼留如此續《キツグルゴトクココニツギ》(補)
  來繼比日如此續《キツグコノゴロコノゴロヲ》(新考)
 諸説の存する所である。比日は諸本に皆とあり、考に比日の誤りとするによる。略解に石は如の誤りとし、如此をカクと讀むのも、あり得そうなことである。雁のくるのは、秋であるのに、來繼グコノ頃というは、不審であるが、帰る雁の次々と來るをいうと解せられている。カクツギテは、かような日頃の繼續するをいう。
 常丹有脊者 ツネニアリセバ。ツネニは、平常の如きであるをいう。
 友名目而遊物尾 トモナメテアソバムモノヲ。トモナメテは人々連れ立つて。以下句の終りを助詞ヲで結ぶ形が數出しており、いずれもそれなのに然るにの意を寓して、殘り惜しく思う心を表現してぃる。
 馬名目而往益里乎 ウマナメテユカマシサトヲ。友ナメテ云々と對句になつている。マシは助動詞、連體形。ヲは、なるが然るにの意。
 待難丹吾爲春乎 マチガテニワガセシハルヲ。マチガテニセシと續く語法。「字具比須能《ウグヒスノ》 麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》 宇米我波奈《ウメガハナ》」(卷五、八四五)。ヲは、であるが然るにの意。
 決卷毛綾尓恐 カケマクモアヤニカシコク。罪科に逢つたことをいう。決は缺に通じて使用されている。
(80) 言卷毛湯々敷有跡 イハマクモユユシカラムト。前條と對句を成し、同じ意味を述べて、トで受けている。
 豫 アラカジメ。既出。前々から。
 兼而知者 カネテシリセバ。カネテも、前からの意であるが、アラカジメは、アラクハジメで、事の初めにの義。カネテは未來をかけての義で、未來を予想する意である。「可久婆可里《カクバカリ》 古非牟等可禰弖《コヒムトカネテ》 之良末世婆《シラマセバ》」(卷十五、三七三九)など用例がある。
 千鳥鳴 チドリナク。佐保川の説明。
 石二生菅根取而 イハニオフルスガノネトリテ。石は、イシ、イソとも讀むが、「奧山之《オクヤマノ》 磐本菅乎《イハモトスゲヲ》」(卷三、三九七)などの例により、イハと讀む。菅ノ根は、解除(祓)の料に使用する。「天有《アメナル》 左佐羅能小野之《ササラノヲノノ》 七相菅《ナナフスゲ》 手取持而《テニトリモチテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天川原爾《アマノカハラニ》 出立而《イデタチテ》 潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》」(卷三、四二〇)參照。
 之努布草 シノフグサ、戀草、目さまし草などの類で、しのふ事を草に譬えている。シノフは思慕、ここでは鬱悒の心である。
 解除而益乎 ハラヘテマシヲ。日本書紀神代の上に、解除にハラへの訓を當てている。神道の信仰行事で、災禍罪科の類を、払い捨てて清淨にする行事。普通、祓の字が當てられる。ここは動詞で下二段活である。「奈加等美乃《ナカトミノ》 敷刀能里等其等《フトノリトゴト》 伊比波良倍《イヒハラヘ》」(卷十七、四〇三一)の例によつて下二段活であることが知られる。マシヲは、そうもしようがしかるにの意。
 往水丹潔而益乎 ユクミヅニミソギテマシヲ。佐保川ニを受け、祓へテマシヲと竝んで一往結んでいる。潔は潔身の義、ミソギで、水によつて災禍罪科を拂う行事。祓と潔身(禊)とは、常に併わせ行われる。
 天皇之御命恐 オホキミノミコトカシコミ。御命は、勅に對して敬意を表わしている。散禁の命をいう。
 玉桙之 タマホコノ。枕詞。
(81) 道毛不出 ミチニモイデズ。外出を禁じられているのをいう。
 戀比日 コフルコノゴロ。野外を戀うのである。
【評語】若干たどたどしい所はあるが、何を何をと同型の句を重ねて殘念がる氣持はよく出ている。事件が事件だけに、佳作のできるはずはないので、この程度なら致し方があるまい。
 
反歌一首
 
949 梅柳 過ぐらく惜しき 佐保の内に、
 遊ばむことを、
 宮もとどろに。
 
 梅柳《ウメヤナギ》 過良久惜《スグラクヲシキ》 佐保乃内尓《サホノウチニ》
 遊事乎《アソバムコトヲ》
 宮動々尓《ミヤモトドロニ》
 
【譯】梅や柳の過ぎるのが惜しい、佐保の地内で、遊ぼうとすることを、宮中で大騷ぎしている。
【釋】梅柳 ウメヤナギ。初春の風物として點出した。
 過良久惜 スグラクヲシキ。梅は咲き、柳は萌えている。その風物のよい時期の過ぎるのが惜しい。連體句。從來スグラクヲシミと讀んでいた。
 佐保乃内尓 サホノウチニ。佐保の内という云い方は、佐保一帶の地の意で、見渡した範圍をいう。自然に佐保川が中心となり、その兩岸の傾斜地對を含む。境内とか区域内とかいうような地圖的な考え方は不可である。左註に春日野とあり、春日の一部として取り扱われている。「春日有《カスガナル》 羽買之山從《ハガヒノヤマユ》 狹帆之内敝《サホノウチヘ》 鳴往成者《ナキユクナルハ》 孰喚子鳥《タレヨブコドリ》」(卷十、一八二七)、「我門爾《ワガカドニ》 禁田乎見者《モルタヲミレバ》 紗穂之内之《サホノウチノ》 秋芽子爲酢寸《アキハギススキ》 所v念鴨《オモホユルカモ》」(同、二二二一)「佐保能宇知乃《サホノウチノ》 里乎往過《サトヲユキスギ》」(卷十七、三九五七)
(82) 遊事乎 アソバムコトヲ。新校の訓による。長歌にアソバムモノヲとあるのを受ける。左註によれば、打毬の遊びなどをしようとするをいう。從來の訓、アソビシコトヲ。
 宮動々尓 ミヤモトドロニ。トドロニは、大きな物音の形容である。「三吉野乃《ミヨシノノ》 瀧動々《タギモトドロニ》 落白波《オツルシラナミ》」(卷十三、三二三二)、「麻末乃於須比爾《ママノオスヒニ》 奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》」(卷十四、三三八五)。この句の下に、云い騷ぐの如き意の語が省略されてある云い方である。
【評語】大騷ぎになつて遊ばれないのを恨めしそうに詠んでいる。これも普通の水準作である。
 
右、神龜四年正月、數王子及諸臣子等、集2於春日野1、而作2打毬之樂1。其日忽天陰、雨雷電。此時宮中無2侍從及侍衛1。勅行2刑罸1、皆散2禁於授刀寮1、而妄不v得v出2道路1。于v時悒憤即作2斯歌1。作者未v詳 
 
右は、神龜の四年正月、數王子と、諸臣子等と、春日野に集《つど》ひて、打毬《まりうち》の樂《あそび》を作《な》しき。その日忽に天《ひ》陰《し》け雨ふり雷なり電《いなひかり》しき。この時、宮の中に侍從と侍衛と無し。勅して刑罰に行ひ、みな授刀寮に散禁して妄に道路にいづることを得ざらしめき。時に悒憤してすなはちこの歌を作りき。【作者いまだ詳ならず。】
【譯】右は、神龜四年正月に、數人の王子、諸臣たちが、春日野に集まつて、毬うちをして遊んだ。その日急に空かき陰り雨が降つて雷が鳴りはためいた。この時に宮中に、侍從も護衛兵も無かつた。そこで勅して刑罰に行い、皆授刀寮に入れて外出を禁止した。そこで恨めしく思つて、この歌を作つた。作者はわからない。
【釋】作打毬之樂 マリウチノアソビヲナシキ。打毬は、中國の典籍にも見え、渡來した遊戯であろう。日本書紀皇極天皇の卷に「中臣の鎌子《かまこ》の連《ムラジ》(中略)偶《たまさか》に中大兄に、法興寺の槻《つき》の樹の下に、打毬の侶《ともがら》に預《まぢ》りて、皮鞋《みくつ》の毬《まり》の隨《まま》に脱《ぬ》げ落つるを候《まも》りて、掌中に取置き、前《すす》み跪《ひざまづ》き恭しみて奉る」とあり、蹴たようであるが、倭名(83)類聚鈔には「打毬、師説(ニ)云(フ)、末利宇知《マリウチ》」、「蹴鞠、世間(ニ)云(フ)、末利古由《マリコユ》」とあつて、兩者別の如くでもある。
 天陰雨雷電 ソラヒシケアメフリカミナリイナヒカリシキ。天陰は、日本書紀神武天皇の即位前紀戊午の年十二月の條に、天陰にヒシケテと訓してある。電は、同じ條に流電にイナヒカリとあり、倭名類聚鈔に「玉篇(ニ)云(フ)、電、音甸、和名|以奈比加利《イナヒカリ》、一云(フ)以奈豆流比《イナツルヒ》、又云(フ)以奈豆天《イナツマ》」とある。
 無侍從及侍衛 オモトビトトタハキトナシ。侍從は官名。侍衛は、授力の舍人をいう。 悒憤 オホホシミシテ。鬱々として心の安らかでないのをいう。
 
五年戊辰、幸2于難波宮1時作歌四首
 
【釋】五年戊辰 イツトセツチノエタツ。前を受けて神龜五年である。
 幸于難波宮時 ナニハノミヤニイデマシシトキ。この行幸のこと、他に傳えない。四首の歌の左註に「笠朝臣金村之歌中出也」とあり、金村の記録によつて年を記したものであろう。
 
950 大王《おほきみ》の 界《さか》ひたまふと、
 山守《やまもり》居《す》ゑ 守《も》るといふ山に、
 入らずは《や》止まじ。
 
 大王之《オホキミノ》 界賜跡《サカヒタマフト》
 山守居《ヤマモリスヱ》 守云山尓《モルトイフヤマニ》
 不v入者不v止《イラズハヤマジ》
 
【譯】大君が界をなされるとして、山の番人を置いて守つているという山にはいらないでは置かない。
【釋】界賜跡 サカヒタマフト。出入禁斷の地として区画したまうの意である。トは、として。
 山守居 ヤマモリスエ。ヤマモリは既出。山の番人。
 守云山尓 モルトイフヤマニ。人の入るを禁じてある山に。
(84) 不入者不止 イラズハヤマジ。どうしてもはいろうとする意志を表示している。
【評語】寓意のありそうな歌である。宮廷の女子などに思いを寄せているのであろう。どうしても意志を貫こうとする強い心が、堅い禁斷の地にはいろうとする形で、よく表現されている。
 
951 見渡せば 近きものから、
 石隱《いはがく》り かがよふ珠を、
 取らずは止まじ。
 
 見渡者《ミワタセバ》 近物可良《チカキモノカラ》
 石隱《イハガクリ》 加我欲布珠乎《カガヨフタマヲ》
 不v取不v已《トラズハヤマジ》
 
【譯】見渡せば近いのだが、石に隱れて光つている珠を取らないではやまない。
【釋】近物可良 チカキモノカラ。モノカラは既出(卷四、七六六)。ながらに同じ。近いのだのに。
 石隱 イハガクリ。石に隱れて。石中で。
 加我欲布珠乎 カガヨフタマヲ。カガヨフは、カガは輝くのカガに同じく、ヨフはタダヨフ、イサヨフなどのヨフに同じとされている。光を發して輝いている意と解せられる。「燈之《トモシビノ》 陰爾蚊蛾欲布《カゲニカガヨフ》 虚蝉之《ウツセミノ》 妹蛾咲状思《イモガヱマヒシ》 面影爾所v見《オモカゲニミユ》」(卷十二 二六四二)。
【評語】前の歌と連作で、やはり宮廷の女などを、石隱リカガヨフ珠に譬えているであろう。目に見えていながら手にすることの困難が歌われている。前の歌と、五句を同じ形にしたのも利いており、意欲の十分に出ている歌である。
 
952 韓衣《からころも》 着奈良《きなら》の里の 山齋松《しままつ》に
 玉をし付けむ 好《よ》き人もがも。
 
 韓衣《カラコロモ》 服楢乃里之《キナラノサトノ》 島待尓《シママツニ》
 玉乎師付牟《タマヲシツケム》 好人欲得《ヨキヒトモガモ》
 
(85)【譯】大陸風の著物を著馴れる。その奈良の里の庭の松に、珠を附けるよい人があるといいなあ。
【釋】韓衣 カラコロモ。カラは,大陸朝鮮等の總稱。當時唐風の衣服が、一部に行われたので、それをいう。
 服楢乃里之 キナラノサトノ。初句からキまでは序詞で、唐服ヲ著穢ラスと續く。ナラは奈良。楢は借字。「戀衣《コヒゴロモ》 著楢乃山爾《キナラノヤマニ》」(卷十二、三〇八八)。
 島待尓 シママツニ。シマは山齋、庭園。マツは松、待は借字。「嬬待木者《ツママツノキハ》」(卷九、一七九五)。
 玉乎師付牟 タマヲシツケム。シは助詞。松に玉を著けるというは、装飾をする。庭園に光輝を生ずる意である。連體句。
 好人欲得 ヨキヒトモガモ。ヨキヒトは、賢人雅客の類をいうが、ここは佳人である。
【評語】奈良のわが家に佳人を迎えて、庭園に光輝あらしめたいという寓意の歌である。初句に韓衣を點出したのは、宮廷の女子が、唐風に装つているのが念頭にあるのだろう。五句の口調によると、誰でもよいのらしい。そこに熱意を缺くところがあるようだ。
 
953 さを鹿の 鳴くなる山を 越え行かむ
 日だにや、君が はた逢はざらむ。
 
 竿牡鹿之《サヲシカノ》 鳴奈流山乎《ナクナルヤマヲ》 越將v去《コエユカム》
 日谷八君《ヒダニヤキミガ》 當不v相將v有《ハタアハザラム》
 
【譯】鹿の鳴いている山を越えて行く日だけでもか、あの人はやはり逢わないのだろう。
【釋】竿牡鹿之 サヲシカノ。サは接頭語。牡鹿をいう。
 鳴奈流山乎 ナクナルヤマヲ。ナルは鳴くことを認定する語。おりしも秋で、難波へ下り、もしくは奈良へ行くのに鹿の鳴く山を越えて行くのである。
 越將去 コエユカム。連體句。
(86) 日谷八君 ヒダニヤキミガ。ヒダニヤキミニ(元)、ヒダニヤキミガ(代初)。君は、從來キミニと讀まれていた。しかし君當不相將有の字面よりすれば、君を主格と見るのが順當であり、内容からいうも、逢う逢わないは、先方の意志によるのだから、キミガと讀むのが適切である。君は、難波もしくは奈良にいる女をさす。
 當不相將有 ハタアハザラム。ハタは、マタの感慨の深いもので、上を抑えて新たに語を起すに使用する。當の字は、類聚名義抄にもハタの訓があり、卷の一には爲當の字を使つている。「爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》 我獨宿牟《ワガヒトリネム》」(卷一、七四)參照。
【評語】鹿の鳴く山を越えて難波の宮に下り、もしくは奈良の京に上つて行く心が詠まれている。どちらかわからないが、難波から歸京する時の作だろうか。役目で往反するのだろうが容易に手に入れがたい戀を思うと、それだけにこの歎息も出るのである。
 
右、笠朝臣金村之歌中出也。或云、車持朝臣千年作之也。
 
右は、笠の朝臣金村が歌の中よりいづ。或るは云はく、車持の朝臣千年が作れるといへり。
【釋】右笠朝臣金村之歌中出也 ミギハカサノアソミカナムラガウタノナカヨリイヅ。笠の金村の歌の集録については、既に笠の朝臣金村歌集(卷二、二三二左註)があり、またその歌中ということも既に出て(巻三、三六九)そこで説明した。
 或云車持朝臣千年作之也 アルハイハク、クラモチノアソミチトセガツクレルトイヘリ。この或云というのは、いかなる性質のものとも知られない。金村の歌集は、自作の集録と見られるが、卷の三の例によれば、關係者の歌をも收めているようである。ここには車特の千年の作という別傳を記しているが、どういう根據によつたものか、すべて不明である。
 
(87)膳王歌一首
 
【釋】膳王 カシハデノオホキミ。既出(卷三、四四二)。長屋の王の子。卷の三には膳部の王とある。天平元年二月、長屋の王が讒に逢つて死んだ時に、共に死んだ。
 
954 朝《あした》には 海|邊《べ》に漁《あさ》りし、
 夕されば 大和へ越ゆる
 雁《かり》しともしも。
 
 朝波《アシタニハ》 海邊尓安左里爲《ウミベニアサリシ》
 暮去者《ユフサレバ》 倭部越《ヤマトヘコユル》
 鴈四乏母《カリシトモシモ》
 
【譯】朝は海邊で餌をあさり、夕方になると、大和へ越える雁がうらやましいなあ。
【釋】海邊尓安左里爲 ウミベニアサリシ。アサリは、淺い處で食餌を取るをいう。
 鴈四乏母 カリシトモシモ。上のシは強意の助詞。トモシはうらやましい意。
【評語】交通の不便な當時にあつて、鳥などをうらやむのは常型の思想である。この點、珍しくもないが、朝と夕とを對句にした表現に、若干の趣があり、なりたいと思う雁について描寫のあるところに、うらやましい氣持もある程度出ているようである。
 
右、作v歌之年不v審也。但以2歌類1、便載2此次1。
 
右は、歌を作れる年審ならず。但し歌の類をもちてすなはちこの次に載す。
 
【釋】右作歌之年不審也 ミギハウタヲツクレルトシツマビラカナラズ。神龜五年の作中に列してあることについて説明している。
(88) 但以歌類便載此次 タダシウタノタグヒヲモチテスナハチコノツギテニノス。難波の宮に旅行しての歌と考えられるので、年代未詳だが、ここに編するというのである。
 
大宰小貳石川朝臣足人歌一首
 
【釋】石川朝臣足人 イシカハノアソミタルヒト。既出(卷四、五四九)。前を受けて神龜五年の作であるから、大伴の旅人が大宰の帥となつて赴任した年の作である。石川の足人は、その年に大宰の少貳から遷任している。ここから大宰府中心の集録になる。
 
955 さす竹の 大宮人の 家と住む
 佐保の山をば、思ふやも、君。
 
 刺竹之《サスタケノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》 家跡住《イヘトスム》
 佐保能山乎者《サホノヤマヲバ》 思哉毛君《オモフヤモキミ》
 
【譯】宮廷にお仕えしている人の、わが家として住んでいる佐保の山邊を、お思いになりますか、あなたは。
【釋】刺竹之 サスタケノ。既出(卷二、一六七)。枕詞。語義未詳だが、文字通り、竹を立てる意であるのだろう。通例、大宮に冠する。
 家跡住 イヘトスム。家として住む。佐保は、大宮人の住宅地であつたのだろう。
 佐保能山乎者 サホノヤマヲバ。奈良の都の佐保の山である。大伴氏の住宅もそこにあつた。
 思哉毛君 オモフヤモキミ。ヤモは疑間の助詞。キミは大伴の旅人をさす。
【評語】新任の長官に對して、都の家を思うかと尋ねている。佐保を説明している處に特色が見られる。但し情趣において「藤浪の花は盛りになりにけり。奈良の都を思ほすや君」(卷三、三三〇)に及ばない。
 
(89)帥大伴卿和歌一首
 
【釋】帥大伴卿和歌 カミオホトモノマヘツギミノコタフルウタ。帥の大伴の卿は、大宰の帥大伴の旅人。前の石川の足人の歌に答えた歌。
 
956 やすみしし わが大王の 食《を》す國は、
 大和も此處《ここ》も 同《おや》じとぞ念ふ。
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 御食國者《ヲスクニハ》
 日本毛此間毛《ヤマトモココモ》 同登曾念《オヤジトゾオモフ》
 
【譯】八方を知ろしめす天皇陛下の御統治になる國は、大和も此處も同じだと思います。
【釋】御食國者 ヲスクニハ。御は敬意を表して使用している。ヲスクニは既出。ヲスは、食するの敬語。ここに御食と書いているのは、一層その意をあきらかにしている。
 日本毛此間毛 ヤマトモココモ。日本は大和の國の意に使用している。これは日本の字面の本義的な用法で、後に國際関係を生じてこれを廣義に使用するに至つたのであろう。ココは大宰府を指す。
 同登曾念 オヤジトゾオモフ。オヤジもオナジも共に本集に文證がある。日本書紀の例によつてオヤジとする。「於野兒弘傾農倶《オヤジヲニヌク》」(日本書紀一二五)。
【評語】正面から望郷の心を尋ねられたので、堂々として答えている。率土《そつと》の濱《ひん》王土にあらざるはなしの思想によつているらしい。作者が望郷の歌を多く殘しているだけに興味がある。大宰の帥として赴任した直後に尋ねられたので、この詠を成したのであろう。
 
冬十一月、大宰官人等、奉v拜2香椎廟1訖、退歸之時、馬駐2于香椎浦1、(90)各述v懷作歌
 
冬十一月、大宰の官人等、香椎《かしひ》の廟を拜《をろが》みまつり訖《を》へて退《まか》り歸りし時、馬を香椎の浦に駐《とど》めて、各《おのもおのも》懷《おもひ》を述べて作れる歌。
 
【釋】冬十一月 フユシモツキ。年號を記さないので前を受けて神龜五年と解せられる。次の歌の題に、大貳小野の老の朝臣とあるが、小野の老は、天平二年正月十三日の梅花の宴の時には、まだ小貳であつて(卷五、八一六)、その後大貳になつたと思われるので、大貳とあるのは、後に官名を書き改めたのだろう。十一月は神拜の行われる月なので、特にこの事があつたのであろう。
 大宰官人等 オホキミコトモチノツカサビトタチ。大宰府の役人たち。
 奉拜香椎廟訖 カシヒノミヤヲヲロガミマツリヲヘテ。香椎の廟は、福岡縣糟屋郡香椎町にあつて、香椎宮という。仲哀天皇の崩御の故地であり、山陵を營まれた地である。古くは香椎の廟《びよう》と呼ばれているのは、漢土の廟の制によつたためであろう。後世、神社として仲哀天皇・神功皇后をまつる。廟は、故人の神靈をまつる所で、大陸の制に則つて、特にその例を開かれたものである。
 退歸之時 マカリカヘリシトキ。神前から退下した意。
 馬駐于香椎浦 ウマヲカシヒノウラニトドメテ。香椎の浦は、香推宮の西方の海面で、博多灣内の一部を成している。
 
帥大伴卿歌一首
 
957 いざ兒等《こども》、
(91) 香椎《かしひ》の潟に
 白細の 袖さへぬれて 朝菜採みてむ。
 
 去來兒等《イザコドモ》
 香椎乃滷尓《カシヒノカタニ》
 白妙之《シロタヘノ》 袖左倍所v沾而《ソデサヘヌレテ》 朝菜採手六《アサナツミテム》
 
【譯】さあ皆《みんな》、この香椎の干潟で、白衣の袖まで濡れても、朝の食物を採つて行こう。
【釋】去來晃等 イザコドモ。既出(卷一、六三)。イザは人を誘う詞。コドモは、從者たちをいう。
 香椎乃滷尓 カシヒノカタニ。滷は鹵に同じく、鹽を含む土地をいうが、ここでは海中の土地の義に使つている。カタは海中の洲。潮滿てば隱れ、潮干ればあらわれるような土地。
 白妙之袖左倍所沾而 シロタヘノソデサヘヌレテ。シロタへは染めない織物をいう。部下たちは、實際に無色の衣服を著ていたのであろう。サヘは袖までもの意。
 朝菜採手六 アサナツミテム。ナは味のある食物。朝菜は朝の食物。朝たべるから朝菜というので、朝の時に採む藻ではない。ここでは海藻をいう。ツムは採取するをいう。テムは希望をあらわす語法。歌は朝の作とは限らない。
【評語】この歌は、旅人が、その從人を顧みて詠んだ形を取つている。内容は、格別のことはないが、ゆたかな清らかな點で、すぐれている。旅人の歌のよい性質を語つている作。
 
大貳小野老朝臣歌一首
 
【釋】大貳小野老朝臣歌 オホキスケヲノノオユノアソミノウタ。小野の老は既出(卷三、三二八)。天平二年正月の梅花の宴の歌に、小貳小野の大夫とあるが、その後いつ大貳になつたかは不明。後になつて官名を書き改めたのだろう。
 
(92)958 時つ風 吹くべくなりぬ。
 香椎潟 潮干の浦に
 玉藻刈りてな。
 
 時風《トキツカゼ》 應v吹成奴《フクベクナリヌ》
 香椎滷《カシヒガタ》 潮干※[さんずい+内]尓《シホヒノウラニ》
 玉藻苅而名《タマモカリテナ》
 
【譯】毎日きまつて吹く風が吹きそうになつた。香椎潟の潮干の浦で、海藻を採取しよう。
【釋】時風 トキツカゼ。時季時間をきめて吹く風。ここでは一日中において時を定めて吹く風で、多分午後の風であろう。
 應吹成奴 フクベクナリヌ。吹く時間になつた。だからその吹かないうちに藻を採ろうというのである。
 潮干※[さんずい+内]尓 シホヒノウラニ。※[さんずい+内]《うら》は入り込んだ水面。浦。
 玉藻苅而名 タマモカリテナ。テは完了の助動詞。ナは希望の助詞。
【評語】初二句の起しは壯大であるが、三句以下の内容が相應しない。藻を刈ることは、實際の食生活に關係があるのだが、語としては、美しい感じがあつて、好んで使用される。ここでは、旅人の、朝菜採ミテムの句に應じているのであろう。同じ題材を取り扱つても、旅人の歌の上品な美しさに及ばない。
 
豐前守宇努首男人歌一首
 
【釋】豐前守宇努首男人歌 トヨノミチノクチノカミウノノオビトヲビトノウタ。政事要略二十二に「舊紀に云ふ、養老四年大隅、日向兩國の隼人《はやひと》亂を發《おこ》す。勅して豐前の守|宇努《うの》の首《おびと》男人《をびと》をもちて將軍とす。八幡の大神を祈りてこれを伐ち多く隼人を殺し、大きに勝てり。ここに放生會《ほうじやうゑ》をなし神恩に報ず」(もと漢文)とある。養老四年から神龜五年まで九年間國司の任にあつたものとすれば、非常に長い。歌意によれば、この時遷任の(93)運びになつていたらしい。大宰の官人ではないが、便宜この行に加わつていたのであろう。新撰姓氏録に宇努の首は、百濟の國人の後とある。古葉略類聚鈔に「姓氏録(ニ)云(フ)、於2百齊(ノ)國1、應神天皇(ノ)御代初(メテ)歸化(ス)。七世之孫衣召之商孫中石男。齊明天皇(ノ)御代(ニ)、賜(フ)2宇努(ノ)首(ヲ)1、男正六位(ノ)上男人云々」とある。
 
959 往《ゆ》き還《かへ》り 常にわが見し 香椎潟、
 明日ゆ後には 見む縁《よし》もなし。
 
 往還《ユキカヘリ》 常尓我見之《ツネニワガミシ》 香椎滷《カシヒガタ》
 從2明日1後尓波《アスユノチニハ》 見縁母奈思《ミムヨシモナシ》
 
【譯】行き還りの路にいつもわたしの見た香椎潟は、明日から後は、見るすべもないことだ。
【釋】往還 ユキカヘリ。任地の豐前の國から大宰府へ通う往路と歸途とである。
 從明日後尓波 アスユノチニハ。遷任のことが決して、大宰府へ来たのも、これが最後であり、今その歸途ここまで行を共にして來たので、この句がある。
【評語】所懷を述べているだけで、香椎潟の特色は何も描かれていない。以上三首、十一月、香椎の廟參拜の歸途の作である。
 
帥大伴卿、遙思2芳野離宮1作歌一首
 
【釋】遙思芳野離宮作歌 ハロカニヨシノノトツミヤヲシノヒテツクレルウタ。歌意によれば、薩摩《さつま》の迫門《せと》を見てから後の作であるが、何時の頃とも知られない。薩摩の迫門《せと》は、大宰府の管内であるから、巡視したものとされているが、大宰の帥時代に南方に赴いた文證は殘つていない。旅人は、養老四年に征隼人持節大將軍となつて征討に赴いているから、その際に見たのを想起しているのであろう。
 
(94)960 隼人《はやひと》の 湍戸《せと》の磐《いはほ》も
 年魚《あゆ》走《はし》る 芳野の瀧に
 なほ及《し》かずけり
 
 隼人乃《ハヤヒトノ》 湍門乃磐母《セトノイハホモ》
 年魚走《アユハシル》 芳野之瀧尓《ヨシノノタギニ》
 尚不v及家里《ナホシカズケリ》
 
【譯】隼人の薩摩の迫門の岩石も、年魚の走る芳野の激流の景には、やはり及ばないなあ。
【釋】隼人乃湍門乃磐母 ハヤヒトノセトノイハホモ。隼人は地名。隼人の迫門は、薩摩の追門といい、薩摩と長島との間にある黒瀬戸のこと。「隼人乃《ハヤヒトノ》 薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》」(卷三、二四八)參照。
 年魚走 アユハシル。芳野の激流を説明している。
 芳野之瀧尓 ヨシノノタギニ。瀧は激流奔湍をいう。
 尚不及家里 ナホシカズケリ。ナホは前の事を一掃して正しい所見をいう場合に使われる副詞。隼人の迫門をよいとしたが、考えればやはり芳野の激流がよいの意である。ケリは、決定することによつて詠嘆の意を表示する。
【評語】旅人が、芳野の山河を慕つた歌は、他にもあるが、いずれも望郷の念が基調となつているものである。この歌は、望郷の意が表面には出ておらず、ただ隼人の迫門と芳野の激流とをくらべたに終つている。わずかに湍門ノ磐モといい、年魚走ルというあたりに、兩者の特色が代表的に描かれている。
 
帥大伴卿、宿2次田温泉1、聞2鶴喧1作歌一首
 
帥の大伴の卿の、次田《すきた》の温泉《ゆ》に宿りて、鶴《たづ》が喧《ね》を聞きて作れる歌一首。
 
【釋】宿次田温泉 スキタノユニヤドリテ。次田の温泉は、福岡縣筑紫郡にあり、今、武藏温泉という。大宰(95)府の南西約三十町である。筑前國續風土記には、北谷村の北十町ばかり、野山のくぼき所で、昔この所に温泉があつたとしている。梁塵秘抄《りようじんひしよう》に、すいたのみ湯の次第は云々の歌が載つている。
 
961 湯の原に 鳴く蘆鶴《あしたづ》は、
 わが如く 妹に戀ふれや、
 時わかず鳴く。
 
 湯原尓《ユノハラニ》 鳴蘆多頭者《ナクアシタヅハ》
 如v吾《ワガゴトク》 妹尓戀哉《イモニコフレヤ》
 時不v定鳴《トキワカズナク》
 
【譯】温泉の出る原で鳴いている鶴は、わたしのように妻に戀をしているのでか、時を分けずに鳴いている。
【釋】湯原尓 ユノハラニ。湯の原は、温泉地の原で、温泉の涌出する處であろう。
 鳴蘆多頭者 ナクアシタヅハ。アシタヅは、鶴の生態を描く語。
 如吾 ワガゴトク。ゴトクは、もと體言ゴトから、形容詞類似の活用をするに至つたので、助詞ガを受けるのであろう。ゴトク自體もまた、もと體言であり、後に形容詞ふうの副詞の作用を有するに至つたのであろう。
 妹尓戀哉 イモニコフレヤ。イモは、亡き妻、コフレヤは、已然候件法。ヤは疑問の係助詞。
 時不定鳴 トキワカズナク。時を定めずに鳴いている。絶えず鳴いている。
【評語】温泉に宿つて、ひとり亡き妻を思う情がよく描かれている。歌は鶴が主になつているが、勿論これによつて、自身の哀情を述べているのである。作者自身が時をわかずに泣いていることが、鶴に託して歌われている。
 
天平二年庚午、勅遣2擢駿馬使大伴道足宿祢1時歌一首
 
天平の二年庚午、勅して擢駿馬使大伴の道足《ちたり》の宿禰を遣しし時の歌一首。
 
(96)【釋】擢駿馬使 トキウマヲヌクツカヒ。特に駿馬を抜擢する使で、臨時に派遣せられたのである。
 大伴道足宿祢 オホトモノチタリノスクネ。慶雲元年正月、從六位の下から從五位の下、和銅元年三月、讃岐の守、五年正月、正五位の下、六年八月、彈正の尹、養老四年正月、正五位の上、十月、民部の大輔、七年正月、從四位の下、天平元年二月、參議、三月正四位の下、九月、右大辨、三年八月、參議、十一月、南海道の鎭撫使となつたことが見える。歿年未詳であるが、公卿補任には天平十三年卒去とある。また績日本紀延暦元年二月の條に、「參議從三位中宮(ノ)大夫兼衛門(ノ)督大伴(ノ)宿禰伯麻呂薨(ズ)、祖(ハ)馬來田《ウマクタ》、贈内大紫、父(ハ)道足、平城《ナラノ》朝(ノ)參議正四位(ノ)下」とある。
 
962 奧山の 磐《いは》に蘿《こけ》むし、
 恐《かしこ》くも 問ひたまふかも。
 念ひあへなくに。
 
 奧山之《オクヤマノ》 磐尓蘿生《イハニコケムシ》
 恐毛《カシコクモ》 問賜鴨《トヒタマフカモ》
 念不v堪國《オモヒアヘナクニ》
 
【譯】奥山の磐に蘿が生えておそろしいように、かしこくもお尋ねになることですね。歌などは考えつきません。
【釋】奥山之磐尓蘿生 オクヤマノイハニコケムシ。蘿は垂れさがる蘚苔をいうが、ここでは蘚苔の總稱で、岩に苔の生えているのをいう。以上は序で、おそろしげにあるので、カシコクモを引き起している。
 恐毛 カシコクモ。歌を詠めということの烈しいのをいう。
 開賜鴨 トヒタマフカモ。歌を詠めとの問である。句切。
 念不堪國 オモヒアヘナクニ。思うに堪えない。歌を詠むに堪えないの意。
【評語】奥山ノ磐ニ蘿ムシの句は、成句として歌われていた句であろう。それを使用して、即座にこの歌を詠(97)んだ所に、作者の機才が窺われる。名歌ではないが、時に取つての佳作といえよう。
【參考】類句。
  奥山の石《いは》に蘿《こけ》生《む》しかしこみと思ふ情《こころ》をいかにかもせむ(卷七、一三三四)
 
右、勅使大伴道足宿称、饗2于帥家1。此日會集衆諸、相2誘驛使葛井連廣成1、言v須v作2歌詞1、登時廣成應v聲、即吟2此歌1。
 
右は勅使大伴の道足の宿禰を、帥の家に饗しき。この日會集の衆諸、驛使《はゆまづかひ》葛井《ふぢゐ》の連《むらじ》廣成を相誘ひ、歌詞を作るべしと言へば、その時廣成、聲に應へて、この歌を吟《うた》ひき。
 
【釋】驛使葛井連廣成 ハユマヅカヒフヂヰノムラジヒロナリ。驛使は既出(卷四、五六七左註)。驛馬を使用して來往する使で、公用の使である。大伴の道足とは別に、用事があつて、たまたま來合わせていたのであろう。葛井の廣成は、もとの姓は白猪の史、養老四年五月、葛井の連を賜わつた。天平十五年六月、備後の守、二十年六月、從五位の上となり、八月には、車駕、散位從五位の上葛井の連廣成の宅に幸でまし、群臣を延《ひ》きて宴飲し、日暮れて留宿し、明くる日、廣成およびその室縣の犬養の宿禰八重に竝に正五位の上を授けられた。天平勝寶元年八月には中務の少輔となつた。この卷には、なお歌※[人偏+舞]所の諸王臣子等が廣成の家に集まる風流事(卷六、一〇一一)を傳え、また懷風藻に詩をのせてその書の撰者にも擬せられる説があり、經國集には對策文を傳えている。才能の人であつて、それゆえに人々が歌を詠めと強要もしたものである。
 應聲 コヱニコタヘテ。聲の下から、即座に。「爾(ニ)乃(チ)衆諸誘(ヒテ)2興麻呂(ヲ)1曰(ク)、關(ケテ)2此饌具(ノ)雜器狐(ノ)聲河橋等(ノ)物(ニ)1、但《タダニ》作(レ)v歌(ヲ)者、即(チ)應(ヘテ)v聲(ニ)作(リキ)2此(ノ)歌(ヲ)1也」(卷十六、三八二四左註)。
 
(98)冬十一月、大伴坂上郎女、發2帥家1上道、超2筑前國宗形郡名兒山1之時作歌一首
 
冬十一月、大伴の坂上の郎女の、帥の家を發ちて上道《みちだち》し、筑前の國|宗形《むなかた》の郡の名兒《なご》山を超《こ》えし時、作れる歌一首。
 
【釋】冬十一月 フユシモツキ。前を受けて天平二年である。
 大伴坂上郎女 オホトモノサカノウヘノイラツメ。大伴の旅人の異母妹で、前に度々出た。當時大宰府にいたのだが、何時下つたかはわからない。神龜五年に旅人の妻が死に、その後、家事を見るためなどのゆえに下つたのであろうか。
 筑前國宗形郡名兒山 ツクシノミチノクチノクニムナカタノコホリノナゴヤマ。名兒山は、今福岡縣宗像郡に屬し、勝浦《かつら》から田島に越える山である。當時、坂上の郎女の一行は、海路上京したのであるが、途中まで陸路によつたものと見える。
 
963 大汝《おほなむち》 少彦名《すくなびこな》の
 神こそは 名づけ始《そ》めけめ。
 名のみを 名兒《なご》山と負《お》ひて、
 わが戀の 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も
 慰《なぐさ》めなくに。
 
 大汝《オホナムチ》 小彦名能《スクナビコナノ》
 神社者《カミコソハ》 名著始※[奚+隹]目《ナヅケソメケメ》
 名耳乎《ナノミヲ》 名兒山跡負而《ナゴヤマトオヒテ》
 吾戀之《ワガコヒノ》 千重之一重裳《チヘノヒトヘモ》
 奈具佐米七國《ナグサメナクニ》
 
【譯】大汝の神樣や少彦名の神樣が名づけ始めたのでしよう。名前ばかり名兒山という名を持つて、わたしの(99)戀の千分の一も慰めないことです。
【構成】全篇一文。名ヅケソメケメまでは、一文を成し、名ノミヲ名兒山ト負ヒテの句に對して、前提となつている。
【釋】大汝小彦名能 オホナムチスクナビコナノ。オホナムチの命とスクナビコナの命(卷三、一二五五參照)。
 名著始※[奚+隹]目 ナヅケソメケメ。山名の起原を推量している。句切。
 名耳乎名兒山跡負而 ナノミヲナゴヤマトオヒテ。名のみ負つてその實の伴なわないことを言おうとする。ナゴに慰む、和《なご》むの意を感じている。
 吾戀之千重之一重裳 ワガコヒノチヘノヒトヘモ。「吾戀流《ワガコフル》 千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》」(卷四、五〇九)參照。ここではワガコヒノになつているだけの相違である。戀の繁くあるのを幾重にも重なつているようにいい、その千分の一もの意にいう。ここに戀というのは、人に對する戀か、家郷に對する戀かわからない。次の歌にはわが夫子とあるが、恐らくは重大な意識なしに戀の歌を取り扱つているのであろう。
 奈具佐米七國 ナグサメナクニ。名兒山の山名がわが戀を慰めないというのである。
【評語】全く同じ内容の歌があり、旅の即興に、それをもととして歌い出したのであろう。オホナムチ、スクナビコナの神は、國土の築造にあずかつた神として信仰が保たれていたので、これを出したのである。それと言語に對する信仰、名はその實を伴なうということが基礎になつている。短い長歌で反歌も伴なわずに、輕く思いを述べる、また一手段である。これだけ見れば、よく纏まつている作である。
【參考】類歌。
  名草山《なぐさやま》言《こと》にしありけり。わが戀の千重の一夏も慰めなくに(卷七、一二一三)
 
(100)同坂上郎女、向v京海路、見2濱貝1作歌一首
 
同じ坂上の郎女の、京に向かふ海路に濱の貝を見て作れる歌一首。
 
【釋】向京海路 ミヤコニムカフウナヂニ。大宰府から陸路名兒山を越えたのは、多分外海の波浪を避けたのであろう。それから九州の北岸に出て乘船したものと見える。
 見濱貝作歌 ハマノカヒヲミテツクレルウタ。濱の貝は、歌詞には、忘れ貝とある。
 
964 わが夫子に 戀ふれば苦し。
 暇《いとま》あらば 拾《ひり》ひて行かむ。
 戀忘《こひわす》れ貝《がひ》。
 
 吾背子尓《ワガセコニ》 戀者苦《コフレバクルシ》
 暇有者《イトマアラバ》 拾而將v去《ヒリヒテユカム》
 戀忘貝《コヒワスレガヒ》
 
【譯】あの方に戀をすれば苦しいことです。時間があつたら拾つて行きましよう。戀を忘れるという忘れ貝を。
【釋】吾背子尓戀者苦 ワガセコニコフレバクルシ。ワガセコは、誰をさしているかわからないが、心にその人とさしていう人があつたのであろう。大伴の旅人とも、また宿奈麻呂《すくなまろ》とも取れる。句切。
 暇有者 イトマアラバ。濱に下り立つて貝を拾う餘裕があらば。
 拾而將去 ヒリヒテユカム。拾フの假字書きは、卷の十五、十八、二十に、ヒリフとした例があり、卷の十四にはヒロフとした一例がある。卷の十四は東歌であるから、ヒリフとするによるべきである。句切。
 戀忘貝 コヒワスレガヒ。ワスレガヒは既出(卷一、六八)。からの貝をいう。忘れ貝の名に寄せて、戀を忘れる貝の義に取りなしている。
【評語】この歌も、名に寄せて歌つている。特に婦人として言葉を氣にする所があつたのであろう。これも類(101)歌があり、即興ふうにそれを歌いかえたまでである。
【參考】類歌。
  暇《いとま》あらば拾《ひり》ひに行かむ。住吉《すみのえ》の岸に寄るといふ戀わすれ貝(卷七、一一四七)
 
冬十二月、大宰帥大伴卿上v京時、娘子作歌二首
 
冬十二月、大宰の帥大伴の卿の京に上りし時、娘子《をとめ》の作れる歌二首。
 
【釋】冬十二月 フユシハス。天平二年の十二月。この年に旅人は、大納言に兼任せられて上京することになつた。萬葉集寫本の書き入れに、十月一日に大納言に任ずとあり、十二月に上京した。卷の五には十二月六日に書殿餞酒の歌があるから、その後である。
 娘子 ヲトメ。この娘子については、左註に説明がある。大宰府の地にいた遊行女婦で、兒島という名の娘子である。卷の三の三八一にも歌がある。
 
965 凡《おほ》ならば かもかもせむを、
 恐《かしこ》みと
 振りいたき袖を 忍《しの》びてあるかも。
 
 凡有者《オホナラバ》 左毛右毛將v爲乎《カモカモセムヲ》
 恐跡《カシコミト》
 振痛袖乎《フリイタキソデヲ》 忍而有香聞《シノビテアルカモ》
 
【譯】竝々ならああもこうもしましようものを、恐れ多さに振れて來る袖をこらへております。
【釋】凡有者 オホナラバ。オホは、平凡、通例普通。「於保爾見敷者《オホニミシクハ》」(卷二、二一九)。旅人が貴族なので、それに對して、もし普通の人ならばというのである。
 左毛右毛將爲乎 カモカモセムヲ。カモカモは、カモカクモの原形で、かようにもあのようにも、樣々にの(102)意。「此岳爾《コノヲカニ》 小牡鹿履起《ヲジカフミオコシ》 宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》 可聞可聞爲良久《カモカモスラク》 君故爾許曾《キミユヱニコソ》」(卷八、一五七六)、「事痛者《コチタクハ》 左右將v爲乎《カモカモセムヲ》 石代之《イハシロノ》 野邊之下草《ノベノシタクサ》 吾之苅而者《ワレシカリテハ》」(卷七、一三四三)。
 恐跡 カシコミト。旅人に對して身分の相違を感じている。「加思故美等《カシコミト》 能良受安里思乎《ノラズアリシヲ》」(卷十五、三七三〇)。
 振痛袖乎 フリイタキソデヲ。フリイタキは、發聲しては、フリタキと聞えるのだろう。言痛シと同型の語法で、振ることはなはだし、振ること繁しの義で、振る性質を多く有している意。フリは、動詞振ルを體言として使つている。袖を振るは、別れを惜しむ意を表示する。「由久遊久登《ユクユクト》 戀痛吾弟《コヒイタシワオト》 乞通來禰《コチカヨヒコネ》」(卷二、一三〇)の戀痛も、コヒイタシと讀んで、これと同樣の語法になるのだろう。
 忍而有香聞 シノビテアルカモ。シノピテは、忍耐して、こらえて。シノブは、上二段活の動詞。
【評語】貴人に對する感情が歌われている。大伴の旅人などに對しては、この作者の身分としては、江戸時代における大名の殿樣に對するような感があつたのであろう。そういう身分の違う人に對する心がよく描かれている。
 
966 大和|道《ぢ》は 雲|隱《がく》りたり。
 然れども
 わが振る袖を 無禮《なめ》しと念《も》ふな。
 
 倭道者《ヤマトヂハ》 雲隱有《クモガクリタリ》
 雖v然《シカレドモ》
 余振袖乎《ワガフルソデヲ》 無禮登母布奈《ナメシトモフナ》
 
【譯】大和へ行く道は雲に隱れております。けれどもわたくしの振ります袖を、無禮とお思いくださいますな。
【釋】倭道者 ヤマトヂハ。ヤマトヂは、今この處から、大和の方へ向かつて展開している道をいう。
 雲隱有 クモガクリタリ。遠く雲の中に續いて見えるをいう。遠方である意。句切。
(103) 雖然 シカレドモ。前の歌の、振リイタキ袖ヲ忍ビテアルカモを受けて、然レドモと言つている。この歌の初二句を受け、省略ありとする解は誤りである。
 無禮登母布奈 ナメシトモフナ。ナメシは、文字通り禮無しの意であるが、日本書紀に、輕をナメシと讀んでいるによれば、輕んずる意が本義であろう。「汝乃多米仁無v禮之※[氏/一]不v從《イマシノタメニヰヤナクシテシタガハズ》、奈米乎方《ナメクアラムヒトヲバ》」(續日本紀天平寶字八年十月九日宣命)、「妹登曰者《イモトイフハ》 無禮恐《ナメシカシコシ》」(卷十二、二九一五)。モフナは思うな。
【評語】前の歌と二首併わせて一の意を成している。完全な連作である。前の歌なくしては、この歌は成立しない。どこまでも二首併わせて味わうべきである。一旦は袖を振るのをこらえたが、遂に振つたその經過が、この形でよく表現されている。遊行女婦の歌は、集中にすくなからず散見するが、多くは類型的であるのはやむを得ないが、この歌には創意があり、さすがに大宰府あたりの高官に愛されるだけの人であることを思わせる。格別に才媛であつたのであろう。
 
右、大宰帥大伴卿、兼2任大納言1、向v京上道。此日馬駐2水城1、顧2望府家1。于v時送v卿府吏之中、有2遊行女婦1。其字曰2兒島1也。於v是娘子、傷2此易1v別、嘆2彼難1v會、拭v涕自吟2振v袖之歌1。
 
右は、大宰の帥大伴の卿、大納言に兼任して、京に向かひて上道《みちだち》しき。この日馬を水城《みづき》に駐《とど》めて、府家《ふけ》を顧望《かへり》みき。時に卿を送る府吏の中に、遊行女婦《うかれめ》あり。その字《な》を兒島《こじま》と曰ふ。ここに娘子《をとめ》、この別れ易《やす》きを傷《いた》み、その會《あ》ひ難きを嘆き、涕《なみだ》を拭《のご》ひ、みづから袖を振る歌を吟《うた》ひき。
 
【釋】馬駐水城 ウマヲミヅキニトドメテ。水城は、日本書紀天智天皇の三年の條に「於2筑紫(ニ)1築(キテ)2大堤(ヲ)1貯(ヘ)v水(ヲ)、名(ケテ)曰(ヘリ)2水城《ミヅキト》1」とあり、大宰府防備のために築かれたものである。今大宰府町の西北十町水城村にその遺址を(104)存している。御笠《みかさ》川を中心とし東西から山脚の追つた處に築いた長堤であつて、その中に水を貯え、一朝事ある際には、これを決潰《けつかい》して敵を水|責《ぜ》めにする作戰のようである。その水城の上から、大宰府が望見される。
 顧望府家 フケヲカヘリミキ。府家は大宰府の廳をいう。
 有遊行女婦 ウカレメアリ。遊行女婦は、倭名類聚鈔に、「遊女、楊氏漢語抄(ニ)云(フ)、遊行女兒、和名|宇加禮女《ウカレメ》、又云(フ)、阿曾比《アソビ》」とある。集中、遊行女婦|土師《はにし》(卷十八、四〇四七左註)、左夫流兒《さぶるこ》(同、四一〇六小註)、遊行女婦|蒲生《かまふ》娘子(卷十九、四二三二題詞)、等あり、常陸娘子、對馬娘子|玉槻《たまつき》などもその類である。大宰府、國府などの地、驛館、その他人々の集まる處にいて、行客に侍した女子である。勿論都にもいたのであろう。
 其字曰兒島也 ソノナヲコジマトイフ。字は通稱である。玉槻、珠名などの例があり、藝名もあるのだろう。
 自吟振袖之歌 ミヅカラソデヲフルウタヲウタヒキ。實際に吟誦したことを語つている。
 
大納言大伴卿和歌二首
 
【釋】大納言大伴卿 オホキモノマヲシノツカサオホトモノマヘツギミ。大伴の旅人。
 和歌 コタフルウタ。兒島の歌に唱和したのである。
 
967 大和|道《ぢ》の 吉備《きび》の兒島を
 過ぎて行かば、
 筑紫《つくし》の兒島 念ほえむかも。
 
 日本道乃《ヤマトヂノ》 吉備乃兒島乎《キビノコジマヲ》
 過而行者《スギテユカバ》
 筑紫乃子島《ツクシノコジマ》 所v念香聞《オモホエムカモ》
 
【譯】大和へ行く道の、吉備の兒島を過ぎて行つたら、筑紫の兒島が思われるだろうな。
【釋】日本道乃吉備乃兒島乎 ヤマトヂノキビノコジマヲ。吉備の兒島は、岡山縣の兒島。吉備は、備前備中
(105)備後の總名。その兒島は、九州から大和に行く道にあるので、ヤマドヂノと説明している。
 筑紫乃子島 ツクシノコジマ。九州の子島で、遊行女婦の兒島をいう。
 所念香聞 オモホエムカモ。思われるだろうと想像している。
【評語】兒島の地名に寄せて、同名の人を想う情を歌つている。機智のある作だが、見島の歌の眞劔なのにくらべて、ひどく遊戯的である。別れを惜しむ情はあらわれていない。
 
968 丈夫《ますらを》と 念へる吾や、
 水莖《みづくき》の 水城《みづき》の上に
 涙《なみだ》拭《のご》はむ。
 
 大夫跡《マスラヲト》 念在吾哉《オモヘルワレヤ》
 水莖之《ミヅクキノ》 水城之上尓《ミヅキノウヘニ》
 泣將v拭《ナミダノゴハム》
 
【譯】男だと思つているわたしにしてか、この水々しい水城の上で涙をおし拭おうよ。
【釋】大夫跡念在吾哉 マスラヲトオモヘルワレヤ。丈夫ト念へル吾は、この集の男子の自負を語る句。既出(卷一、五)。ヤは凝間の係助詞。男子は、別離に際して涙を流すことなどあるべきものではない。その男子にしてやの意に、以下の句を起している。
 水莖之 ミヅクキノ。枕詞。語義未詳。玉勝間に、ミヅクキは瑞々(106)しい莖という意で、集中他にミヅクキノ岡とあるも、地名でなくて枕詞であると見えている。水城には、同音をもつて修飾するものと認められる。「水莖之《ミヅクキノ》 岡水門爾《ヲカノミナトニ》 波立渡《ナミタチワタル》」(卷七、一二三一)、「水莖能《ミヅクキノ》 岡之木葉毛《ヲカノコノハモ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》」(卷十、二一九三)、「水莖之《ミヅクキノ》 岡乃葛葉者《ヲカノクズバハ》 色付爾來《イロヅキニケリ》」(同、二二〇八)、「水莖之《ミヅクキノ》 岡乃田葛葉緒《ヲカノクズハヲ》」(卷十二、三〇六八)など、他の語例はみな岡に接續している。
 水城之上尓 ミヅキノウヘニ。前の文章に、馬を水城に駐めてとあるに呼應する。馬からおりて水城の上で別れの盃を擧げたであろう。
 泣將拭 ナミダノゴハム。兒島との別離に涙を流すことをいう。泣は涙の意に使用していること、既に出ている。
【評語】堂々たる風格の歌である。兒島に對するこまかい感情は表面に出ていない。
 
三年辛未、大納言大伴卿、在2寧樂家1思2故郷1歌二首
 
三年辛未、大納言大伴の卿の、寧樂《なら》の家に在りて故郷を思《しの》ふ歌二首。
 
【釋】在寧樂家 ナラノイヘニアリテ。寧樂の宅は、佐保にある邸宅で、卷の三に、故郷の家に還り入りて(四五一題詞)とある家である。
 思故郷歌 フルサトヲシノフウタ。故郷はもと住んでいた郷で、明日香の里をいう。旅人はそこで少壯時代を過した。
 
969 須臾《しましく》も 行きて見てしか。
 神名火《かむなび》の 淵は淺《あさ》みて 瀬にかなるらむ。
 
 須臾《シマシクモ》 去而見壯鹿《ユキテミテシカ》
 神名火乃《カムナビノ》 淵者淺而《フチハアサミテ》 瀬二香成良武《セニカナルラム》
 
(107)【譯】ちよつとでも行つて見たいものだ。神名火の淵は淺くなつて瀬にでもなつているだろう。
【釋】須臾 シマシクモ。既出(卷五、九〇四)。シマシクは、シマシともいい、クは體言を作る助詞であろう。
 去而見牡鹿 ユキテミテシカ。シカは希望の助詞。句切。
 神名火乃 カムナビノ。カムナビは神の森で、ここは明日香の神南備であり、そこを流れる明日香川の淵を神南備の淵と言つている。
 淵者淺而 フチハアサミテ。
  フチハアサビテ(元)
  フチハアセツツ(代初)
  フチハアセニテ(古義)
  ――――――――――
  淵者淺爾而《フチハアセニテ》(古義)
 アサミテは、他に文證は無いが、形容詞淺シの語幹が、マ行四段に活用したもののようで、白《シラ》ム、暗《クラ》ムなどの例に準じて、かように訓した。淺くなつて。
 瀬二香成良武 セニカナルラム。現在の明日香川の状況を推量している。
【評語】大宰府であのように戀しく思つていた奈良の都に歸つて、年を越して天平三年になつたが、旅人はもう大分元氣を失つて來たらしい。次の歌によれば、これらの歌の作られたのは、ハギの花の咲く頃であつたらしいが、恐らく身體の調子を失して、暑さに弱り、そこでまた少壯時代を過した明日香の里を戀しく思うようになつたのであろう。歸京してからまだ行かなかつた明日香の里の有樣を想像して、一も二もなく行つて見たい氣持になつている。その焦燥の氣分がよくあらわれている歌である。
 
970 さす墨の 栗栖《くるす》の小野の はぎが花
(108) 散《ち》らむ時にし 行きて手向《たむ》けむ。
 
 指進乃《サススミノ》 栗栖乃小野之《クルスノヲノノ》 芽花《ハギガハナ》
 將v落時尓之《チラムトキニシ》 行而手向六《ユキテタムケム》
 
【譯】さした墨の黒いような、栗栖の野邊のハギの花が散る頃には、行つて手向の祭をしよう。
【釋】指進乃 サススミノ。サシスキノ(西)、サシススノ(代精)、サシズミノ(考)。枕詞と解せられる。諸訓があり、語義も未詳だが、クルスに冠するものとして、サススミノと讀まれ、指はサス、進はススミで、これを重ねてサススミの音を表示したのだろう。サスは、茜サスなどのサスで、染料を加える意、スミは墨で、加えた墨の意に、クル(黒)に懸かるのであろうか。考に墨斗の義だというが、それならスミサシである。
 栗栖乃小野之 クルスノヲノノ。南葛城郡に栗栖の地名があるそうだが離れ過ぎている。クルスは日本書紀神功皇后の卷に、狹々浪栗林をササナミノクルスと讀んでおり、栗の林の義の如く、諸國に同名の地が多い。明日香にも栗栖の小野と呼ばれる處があつたのであろう。
 〓花 ハギガハナ。ハギは多く〓子と書いているが、〓とのみも書いている。
 將落時尓之 チラムトキニシ。この歌を詠んだのは、ハギの花咲く頃であつたのだろう。
 行而手向六 ユキテタムケム。タムケムは、手向の祭をしようの意。手向は既出(卷一、三四)。道路に神を祭つて災禍のないことを乞うこと。
【評語】旅人は、當時恐らくは病中であつたらしい。ハギの花の散る頃には、戀しい明日香の故郷にも行つて見ようと、希望をかけながら、遂にその七月二十五日に歿した。年六十七と傳える。故郷のハギの花を夢みながらこの世を去つたのが、いかにも歌人らしい最後である。旅人の死を悼む資人《しじん》余《よ》の明軍《みようぐん》の歌に、「かくのみにありけるものをはぎが花咲きてありやと問ひし君はも」(卷三、四五五)というのがあり、旅人が病中、ハギの花を氣にしていたことが知られてあわれである。旅人中心の資料は、ここで終る。
 
(109)四年壬申、藤原宇合卿、遣2西海道節度使1之時、高橋連蟲麻呂作歌一首并2短歌1
 
四年壬申、藤原の宇合《ウマカヒ》の卿を西海道の節度使に遣しし時、高橋の連蟲麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】四年壬申 ヨトセミヅノエサル。天平四年。
 藤原宇合卿 フヂハラノウマカヒノマヘツギミ。既出(卷一、七二)。
 遣西海道節度使之時 サイカイダウノセチドシニツカハシシトキ。西海道の節度使は既出(卷四、六二一)。西海道は九州及び壹岐對馬。節度使は、唐制に摸したもので、地方の軍事を視察し征伐を事とする官。續日本紀天平四年八月十七日の條に「正三位藤原(ノ)朝臣房前(ヲ)爲(シ)2東海東山二道(ノ)節度使(ト)1、從三位多治比(ノ)眞人縣守(ヲ)爲(シ)2山陰道(ノ)節度使(ト)1、從三位藤原(ノ)朝臣宇合(ヲ)爲(ス)2西海道(ノ)節度使(ト)1、道別(ニ)判官四人、主典四人、醫師一人、陰陽師一人(アリ)」とある。
 高橋連蟲麻呂 タカハシノムラジムシマロ。既出(卷三、三二一左註)。蟲麻呂は、本集のほか正倉院文書にも見える。その作として載せてあるのは、この歌だけで、他はすべて高橋連蟲麻呂歌集所出となつている。しかしその蟲麻呂歌集所出の歌は、格調内容の上から、ことごとく蟲麻呂の作であろうと考えられている。蟲麻呂は、地方官として常陸に赴任したらしく、その頃は宇合が常陸の守であつた時代らしい。その縁でこの送別の作をも成したのであろう。この時は、大和に歸つていたのだろう。
 
971 白雲の 龍田の山の
 露霜《つゆじも》に 色づく時に、
 うち超《こ》えて 旅行く君は、
(110) 五百重《いほへ》山 い行《ゆ》きさくみ、
 賊《あた》守《まも》る 筑紫に至り、
 山の極《そき》 野の極《そき》見よと
 伴《とも》の部《べ》を 班《あか》ち遣《つか》はし、
 山彦の 應《こた》へむ極《きは》み、
 谷蟇《たにぐく》の さ渡る極み、
 國|状《がた》を 見《め》し給ひて、
 冬ごもり 春さり行かば、
 飛ぶ鳥の はやく來まさね。」
 龍田道《たつたぢ》の 丘邊《をかべ》の路に
 丹躑躅《につつじ》の 薫《にほ》はむ時の
 櫻花 咲きなむ時に、
 山たづの 迎へ参出《まゐで》む。
 君が來まさば。」
 
 白雲乃《シラクモノ》 龍田山乃《タツタノヤマノ》
 露霜尓《ツユジモニ》 色附時丹《イロヅクトキニ》
 打超而《ウチコエテ》 客行公者《タビユクキミハ》
 五百隔山《イホヘヤマ》 伊去割見《イユキサクミ》
 賊守《アタマモル》 筑紫尓至《ツクシニイタリ》
 山乃曾伎《ヤマノソキ》 野之衣寸見世常《ノノソキミヨト》
 伴部乎《トモノベヲ》 班遣之《アカチツカハシ》
 山彦乃《ヤマビコノ》 將v應極《コタヘムキハミ》
 谷潜乃《タニグクノ》 狹渡極《サワタルキハミ》
 國方乎《クニガタヲ》 見之賜而《メシタマヒテ》
 冬木成《フユゴモリ》 春去行者《ハルサリユカバ》
 飛鳥乃《トブトリノ》 早御來《ハヤクキマサネ》
 龍田道之《タツタヂノ》 岳邊乃路尓《ヲカベノミチニ》
 丹管士乃《ニツツジノ》 將v薫時能《ニホハムトキノ》
 櫻花《サクラバナ》 將v開時尓《サキナムトキニ》
 山多頭能《ヤマタヅノ》 迎參出六《ムカヘマヰデム》
 公之來益者《キミガキマサバ》
 
【譯】白雲の立つ龍田の山が、露霜のために色づく時に、その山を越えて旅においでになるあなたは、幾重にもかさなる山を踏み越えて、敵の來襲を守る九州に至り、山のはて、野のはてを見よと部隊を分かち遣《つかわ》し、山の木魂の答える限り、ひきがえるの渡り行く處まで、國情を御覧になつて、冬過ぎて春になりましたら、飛ぶ(111)鳥のように早くお歸りなさいませ。龍田に行く道の岡邊の道に、赤い躑躅の花咲く時で櫻花の開く時に、ニワトコの葉のようにお迎えに參りましよう。あなたがお出でになりますなら。
【構成】二段から成つている。飛ブ鳥ノ早ク來マサネまで第一段、宇合が命を受けて九州に赴き使命をはたして早く歸ることを歌う。以下第二段、歸る時には迎えに出ることを述べている。
【釋】白雲乃 シラクモノ。枕詞。白雲が立つの意に龍田山に冠するが、同時にその山の描寫にもなつている。これは作者蟲麻呂の愛用する所で、難波に往來する時の諸作(卷九、一七四七、一七四九)にも使用されている。
 龍田山乃 タツタノヤマノ。大和川の北方にあり、奈良から難波に出るために越える山。
 露霜尓色附時丹 ツユジモニイロヅクトキニ。八月に節度使の任命があり、十月十一日に節度使に白銅印を賜わつているから、その頃に出發したのであろう。以上、この作者の特色の、色彩の鮮明な句である。
 五百隔山 イホヘヤマ。幾重にもかさなる山。九州に行くまでの山々をいう。
 伊去割見 イユキサクミ。イは接頭語。サクミは「石根左久見手《イハネサクミテ》」(卷二、二一〇)參照。サクは割、裂、開等の義があり、サクムに、破つて、足を散らしての意があるのであろう。
 賊守 アタマモル。「之良奴日《シラヌヒ》 筑紫國波《ツクシノクニハ》 安多麻毛流《アタマモル》 於佐倍乃城曾等《オサヘノキゾト》」(卷二十、四三三一)とあり、賊を見守り、守備する義である。當時特に外敵の來襲に對して九州の防備を嚴にしていた。
 山乃曾伎野之衣寸見世常 ヤマノソキノノソキミヨト。ソキは退きで、山野の彼方へ退き行く處を、山のソキ野のソキという。山野の遠方のはての處である。
 伴部乎班遣之 トモノベヲアカチツカハシ。トモノベは、トモは人々。ベは部族で、配下の部族をいう。それらを分遣するの意。
(112) 山彦乃將應極 ヤマビコノコタヘムキハミ。ヤマビコは、山の男子の義。山の反響をいう。山男がいて返事をするという表現である。山の反響のするはてまで。反響のない處は、精靈がないのであり、もはや山とも言われないというので、山である限りはの意になる。
 谷潜乃狹渡極 タニグクノサワタルキハミ。既出(卷五、八〇〇)。ヒキガエルのわたつて行く限り。水澤の果まで。
 國方乎 クニガタヲ。クニガタは、國土の形状であるが、ここは國士の樣子をいう。「天穗比命國體見遣時《アメノホヒノミコトヲクニガタミニツカハシシトキニ》」(出雲の國造の神賀詞)の國體とあるも同じ。
 見之賜而 メシタマヒテ。メシは、見ルに敬語の助動詞スの接續したもの。もとミスだろうが、轉音して、メスという。タマヒは敬語の助動詞。ここの見ルは視察の意である。
 冬木成 フユゴモリ。既出(卷一、一六)。枕詞。冬のうちからの意に、春になるの意の句に冠する。
 春去行者 ハルサリユカバ。春になり行かば。サリユクも來ることである。
 飛鳥乃 トブトリノ。枕詞。早クに冠する。
 早御來 ハヤクキマサネ。御來は、來に敬意を表した書き方。「御覽《ミマス》」(卷六、九三八)參照。句切。以上第一段。
 龍田道之岳邊乃路尓 タツタヂノヲカベノミチニ。龍田を通過する道は、岡ぞいに行く路である。同じ作者の龍田道の歌として、「島山をい行きもとはる、河ぞひの岳邊《をかべ》の道ゆ、昨日こそわが越え來《こ》しか」(卷九、一七五一)とも歌われている。
 丹管士乃 ニツツジノ。ニツツジは赤い躑躅。
 將薫時能 ニホハムトキノ。ニホハムは、色にあらわれる。咲きにおうの意。ノは、同格の語を重ねるため(113)に使用されている。生く日の足る日の類である。
 山多頭能 ヤマタヅノ。既出(卷二、九〇)。枕詞。ヤマタヅはニワトコ、枝葉が對生するので、迎えに冠する。
 迎參出六 ムカヘマヰデム。迎えにあり出よう。句切。
 公之來益者 キミガキマサバ。九州から歸つて來たならば。
【評語】對句を多く使用して、整然と事を敍している。白雲ノ龍田ノ山ノ露霜ニ色ヅク時の起句と、丹躑躅ノニホハム時ノ櫻花咲キナム時の結びとは、極めて美しい對照をしている。この作者の獨得の表現である。しかし云おうとするところは云いつくしているが、これはこの作者の敍事に妙を得ている點であつて、早く歸つていらつしやいというだけで、肝心の、幸福を祈るという種の作者の眞情から出る送別氣分を缺いている。末句の君ガ來マサバも、人麻呂の歌に見るような、靡ケコノ山の句の如き力強さがないのは物足らない。儀禮的な題材なのでやむを得ないのだろう。
 
反歌一首
 
972千萬《ちよろづ》の 軍《いくさ》なりとも、
(114) 言擧《ことあげ》せず 取りて來《き》ぬべき
 男《をのこ》とぞ念《おも》ふ。
 
 千萬乃《チヨロヅノ》 軍奈利友《イクサナリトモ》
 言擧不v爲《コトアゲセズ》 取而可v來《トリテキヌベキ》
 男常曾念《ヲノコトゾオモフ》
 
【譯】千萬人の敵軍であつても、黙つて伐つて來るような男兒だと思つています。
【釋】千萬乃 チヨロヅノ。非常に數の多いのをいう。
 軍奈利友 イクサナリトモ。イクサは、兵士をいう。ここは敵兵。
 言擧不爲 コトアゲセズ。コトアゲは、言語を擧げる義で、揚言の意である。言擧をしないことが、正常の倫理として信じられていたことは、「蜻島《アキヅシマ》 倭之國者《ヤマトノクニハ》 神柄跡《カムカラト》 言擧不v爲國《コトアゲセヌクニ》」(卷十三、三二五〇)「この白猪《しろゐ》に化《な》れるは、その神の使者にはあらずて、その神の正身なりしを、言擧《ことあげ》したまへるによりて、惑《まど》はさえつるなり」(もと漢文、古事記中卷)などによつて知られる。
 取而可來 トリテキヌベキ。トリテは殺して、伐つて。「西の方に熊曾建《くまそたける》二人あり。これ伏《まつろ》はず、禮《ゐや》无《な》き人どもなり。かれその人どもを取れ」(もと漢文、古事記中卷)などある。
 男常曾念 ヲノコトゾオモフ。ヲノコは、男兒。ここはりつぱな男兒の意に使つている。
【評語】長歌に片影をも示さなかつた、討平の大事を、力強い句調であらわしている。武人の出征に際していかにも適切の餞語である。懷風藻に、この時の藤原の宇合の詩一篇を載せている。曰はく「五言、奉(ズル)2西海道(ノ)節度(ニ)1之作 往歳東山(ノ)役、今年西海(ノ)行、行人一生(ノ)裏《ウチ》、幾度(カ)倦(マン)2邊兵(ニ)1」。これをこの歌に比較すると、詩形によつて思想の動かされやすいことが感じられる。宇合は、漢文學に通じており、唐詩などの影響を受けて、この詩を作つているようである。
 
右※[手偏+僉]2補任文1、八月十七日、任2東山々陰西海節度使1。
 
(115)右は、補任の文を※[手偏+僉]ふるに、八月十七日、東山山陰西海の節度使を任《よさ》しき。
 
【釋】右※[手偏+僉]補任文 ミギハフニニノフミヲカムガフルニ。補任によつて、節度使を任命した日を註している。後人の註という説もあるが、なお編者の註であろう。補任は、官吏等任免の記録であるが、この時代の補任は傳わらない。現行の公卿補任の奈良時代は、後の編纂物である。
 八月十七日 ハツキノトヲカアマリナヌカ。續日本紀には八月丁亥とあり、丁亥は十七日だからよく一致する。
 任東山々陰西海節度使 トウセニセニヲニサイカイノセチドシヲヨサシキ。續日本紀には東海道東山道を兼ねて房前を任じたとある。ここには東海が落ちている。
 
天皇、賜2酒節度使卿等1御歌一首并2短歌1
 
天皇の、酒を節度使の卿等に賜へる御歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】天皇 スメラミコト。聖武天皇である。但し左註に、「或るは云はく、太上天皇の御製なりといふ。」とあるによれば、元正天皇である。かような臣下を奨励される性質の歌には、型があつて、時に臨んで下されたものであり、卷の十九にも遣唐使に酒肴を賜わる歌(四二六四)があつて、後半は同一の詞章から成つている。數代の天皇に同型の御歌があり、それでここにも作者の別傳を存するに至つたのであろう。眞實の作者は、宣命と同じく中務省あたりで起草したであろう。なお卷の十九は、助詞などを小字で書き、いわゆる宣命書《せんみようが》きになつているが、それが原形であつたと考えられ、この歌ももとは宣命書きになつていたのであろうと推測される。
 
(116)973 食《を》す國の 遠の朝廷《みかど》に、
 汝等《いましら》が かく罷《まか》りなば、
 平《たひら》けく 吾は遊ばむ。
 手抱《たうだ》きて 我はいまさむ。」
 天皇《すめら》朕《わ》が うづの御手《みて》もち
 かき撫《な》でぞ 勞《ね》ぎたまふ。
 うち撫でぞ 勞ぎたまふ。」
 還《かへ》り來《こ》む日 相飲まむ酒《き》ぞ。
 この豐御酒《とよみき》は。」
 
 食國《ヲスクニノ》 遠乃御朝庭尓《トホノミカドニ》
 汝等之《イマシラガ》 如v是退去者《カクマカリナバ》
 平久《タヒラケク》 吾者將v遊《ワレハアソバム》
 手抱而《タウダキテ》 我者將2御在1《ワレハイマサム》
 天皇朕《スメラワガ》 宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》
 掻撫曾《カキナデゾ》 祢宜賜《ネギタマフ》
 打撫曾《ウチナデゾ》 祢宜賜《ネギタマフ》
 將2還來1日《カヘリコムヒ》 相飲酒曾《アヒノマムキゾ》
 此豐御酒者《コノトヨミキハ》
 
【譯】統治する國の遠方の政廳に、お前たちがかように出かけて行つたら、平安にわしは遊んでいよう。手を組んでわしはいるだろう。天皇なるわしが貴い御手をもつて、かき撫でて勞苦を慰める。うち撫でて勞苦を慰める。やがて歸つて來る日に、共に飲むべき酒だ。このよい酒は。
【構成】三段から成つている。手抱キテ我ハイマサムまで第一段、節度使たちに信頼する意を述べる。ウチ撫デゾネギタマフまで第二段、勞をねぎらうことを述べる。以下三段、御酒を授ける。
【釋】食國遠乃御朝庭尓 ヲスクニノトホノミカドニ。他には多く、大君ノ遠ノミカド(卷三、三〇四)として使用されているが、ここは天皇の地位においていうので、食國ノに代えている。トホノミカドは、もと遠方の御門戸の義にいで、後、地方廳をさすようになつた。ここも遠國の役所と解せられる。
(117) 汝等之 イマシラガ。ナムヂラガ(元赭)、イマシラガ(童)、ナムダチガ(考)、イマシラシ(古義)。イマシは、續日本紀に「天下《アメノシタハ》 朕子伊末之授給《ワガコイマシニサヅケタマフ》」(天平寶字八年十月九日宣命)、本集に「無用《イタヅラニ》 伊麻思毛吾毛《イマシモワレモ》 事應v成《コトヤナルベキ》」(卷十一、二五一七)など用例がある。ナムタチは、延喜式に「奈牟多知疫鬼《ナムタチエノオニ》」(卷十六、儺《な》の祭文)とある。
 如是退去者 カクマカリナバ。カクは節度使として行くをいう。マカリナバは、朝廷から地方へ退去するをいう。
 平久 タヒラケク。平安に。
 手抱而 タウダキテ。書經武成に「垂(レテ)v衣(ヲ)而天下治(マル)」。その蔡註《さいちゆう》に「垂(レ)v衣(ヲ)拱(キテ)v手(ヲ)而天下自(ラ)治(マル)」とあるによつている。手を組んで何もせずにあるをいう。ウダキは日本靈異記の訓釋に「抱、于田伎《ウダキ》」とある。本集には「可伎武大伎《カキムダキ》 奴禮杼安加奴乎《スレドアカヌヲ》」(卷十四、三四〇四)とある。なおこの句は「手拱而《タウダキテ》 事無御代等《コトナキミヨト》」(卷十九、四二五四)と使用されている。
 我者將御在 ワレハイマサム。御在は敬意をもつて書いている。この句、また下のウヅノ御手モチ、ネギタマフなど、御自身の上に敬語を使用している。これは宣命にも常に見る所であつて、これによつて天皇の尊嚴性を表現しようとする起草者の意圖である。以上第一段。節度使の任に赴くに信頼して平安無事にあるべきことを敍する。
 天皇朕 スメラワガ。天皇をスメラと訓するのは、「須米良美久佐爾《スメラミクサニ》 和例波伎爾之乎《ワレハキニシヲ》」(卷二十、四三七〇)、「須賣良弊爾《スメラベニ》 伎波米都久之弖《キハメツクシテ》」(同、四四六五)などの例による。スメはスメガミ(皇神)などのスメに同じく、統治の意、ラは接尾語であろう。
 宇頭乃御手以 ウヅノミテモチ。ウヅは、日本書紀神代の上に、珍子に註して「珍、此(レヲ)云(フ)2于圖《ウヅト》1」とある。(118)珍は貴の意である。祝詞には宇豆乃幣帛《ウヅノミテグラ》など多く使用されている。貴い御手でもつて。
 掻撫曾祢宜賜 カキナデゾネギタマフ。カキは接頭語。ナデは愛撫する意。「矢形尾乃《ヤカタヲノ》 麻之路能鷹乎《マシロノタカヲ》 屋戸爾須惠《ヤドニスヱ》 可伎奈泥見都追《カキナデミツツ》 飼久之余志毛《カハクシヨシモ》」(卷十九、四一五五)、「知々波々我《チチハハガ》 可之良加伎奈弖《カシラカキナデ》」(卷二十、四三四六)など。ネギは慰勞する、ねぎらう意。かき撫でて慰撫したまう。句切。
 打撫曾祢宜賜 ウチナデゾネギタマフ。ウチは接頭語。カキと同じく意を強めるだけである。句切。以上第二段、慰勞の意を述べる。
 將還來日相飲酒曾 カヘリコムヒアヒノマムキゾ。歸來の日に飲むべき酒を賜わるのではないだろうから、ここにいうのは、酒の一般についてであろう。酒をキというは古語で、熟語として、御酒《みき》、黒酒《くろき》、白酒《しろき》などいう。サケの方がやや新しいのであろう。
 此豐御酒者 コノトヨミキハ。トヨミキは、酒をほめていう。トヨは、ゆたかな意の形容詞。「登與美岐《トヨミキ》 多弖麻都良世《タテマヅヲセ》」(古事記六)など。
【評語】實に堂々たる歌で、さすがに君主の宣命たるにそむかない。大歌の正統を傳えた歌で、朗々として吟誦したものであろう。
【參考】類型。
   從四位の上|高麗《こま》の朝臣|南信《ふくしに》に勅して難波に遣し、酒肴を入唐便藤原の朝臣清河等に賜へる御歌
  そらみつ倭の國は、水の上は地《つち》往く如く、船の上は床《とこ》に坐《を》る如、大神の鎭《いは》へる國ぞ、四の船|船《ふな》の舳《へ》竝べ、平《たひら》けく早渡り來て、還《かへ》り言|奏《まを》さむ日に、相飲まむ酒《き》ぞ、この豐御酒《とよみき》は(卷十九、四二六四)
 
反歌一首
 
(119)974 丈夫《ますらを》の 行くといふ道ぞ。
 おほろかに 念《おも》ひて行くな。
 丈夫の件《とも》。
 
 大夫之《マスラヲノ》 去跡云道曾《ユクトイフミチゾ》
 凡可尓《オホロカニ》 念而行勿《オモヒテユクナ》
 大夫之伴《マスラヲノトモ》
 
【譯】勇士の行くという道であるぞ。よい加減に思つて行くな。勇士の人たちよ。
【釋】大夫之去跡云道曾 マスラヲノユクトイフミチゾ。この道は、抽象的な用法で、節度使の任は、大丈夫の務むべき任であるぞの意。句切。
 凡可尓 オホロカニ。おろそかに、おおよそに、疎略に。「此花乃《コノハナノ》 一與能内爾《ヒトヨノウチニ》 百種乃《モモクサノ》 言曾隱有《コトゾコモレル》 於保呂可爾爲莫《オホロカニスナ》」(卷八、一四五六)、「於保呂可爾《オホロカニ》 情盡而《ココロツクシテ》 念良牟《オモフラム》 其子奈禮夜母《ソノコナレヤモ》」(卷二十、四一六四)。
 大夫之伴 マスラヲノトモ。トモは人々。
【評語】長歌とあいまつて、これは士氣を引き締めている。併わせてその擒縱自在《きんしようじざい》を味わうべきである。雄大な作で、三段に切つたのも雄勁勤な表現である。
 
右御歌者、或云、太上天皇御製也
 
右の御歌は、或るは云はく、太上天皇の御製なりといふ。
 
【釋】太上天皇 オホキスメラミコト。元正天皇。草壁の皇太子の皇女。御母は元明天皇。神龜元年二月讓位、天平二十年四月崩ず。壽六十九。
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
(120)【釋】中納言安倍廣庭卿 ナカノモノマヲシノツカサアベノヒロニハノマヘツギミ。既出(卷三、三〇二)。
 
975 かくしつつ あらくを好《よ》みぞ、
 たまきはる 短き命を
 長く欲《ほ》りする。
 
 如是爲管《カクシツツ》 在久乎好敍《アラクヲヨミゾ》
 靈剋《タマキハル》 短命乎《ミジカキイノチヲ》
 長欲爲流《ナガクホリスル》
 
【譯】こんな有樣であるのがよいので、短い命を長くあれと願うことだ。
【釋】如是爲管 カクシツツ。酒宴か何か、悦樂を盡しているのを云つているのだろうが、その事情は傳わらない。
 在久乎好敍 アラクヲヨミゾ。あることが良くて。ゾは係助詞。
 靈剋 タマキハル。枕詞。命に冠する。
 長欲爲流 ナガクホリスル。第三句のゾを受けて結んでいる。
【評語】代匠記に、酒を節度使に賜う時の歌としている。この卷の例、題に作歌事情を記すことになつており、その無いのは、前の題を受けるものであつて見れば、そういう事であるかも知れない。然らば廣庭は勅使として行つたのであろう。歌は説明に過ぎて、歡樂の情が十分に出ていない。
 
五年癸酉、超2草香山1時、神社忌寸老麻呂作歌二首
 
五年癸酉、草香山を超えし時、神社の忌寸老麻呂の作れる歌二首。
 
【釋】五年癸酉 イツトセミヅノトトリ。天平五年。
 超草香山時 クサカヤマヲコエシトキ。草香山は、大阪府中河内郡|孔舍衙《くさか》村|日下《くさか》の山で、生駒山の一部であ(121)る。奈良から難波に出るのには、この山を越える方が近いが、道が峻嶮なので多く龍田に赴くのである。
 神社忌寸老麻呂 カミコソノイミキオイマロ。傳未詳。この姓氏は、新撰姓氏録に見えない。日本書紀に神社の福草、續日本紀に神社の忌寸河内の人名が見えるだけである。訓法も問題で、モリノイミキかとも思うが、證明がないから、舊に任かせておく。京都大學本には、緒でミワモリノイミキとある。
 
976 難波潟《なにはがた》 潮干の餘波《なごり》 委曲《つばら》に見む。
 家なる妹が 待ち問はむため。
 
 難波方《ナニハガタ》 潟潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》 委曲見《ツバラニミム》
 在v家妹之《イヘナルイモガ》 待將v問多米《マチトハムタメ》
 
【譯】難波潟の潮干のなごりをくわしく見よう。家にいる妻が待つていて尋ねるだろうから。
【釋】潮干乃奈凝 シホヒノナゴリ。ナゴリは、波の引いた跡に殘つているもの。ここは潮の引いた跡。殘つている貝や藻の類をいう。
 委曲見 ツバラニミム。マコクミム(神)、マクハシミ(西)、アカズミム(童)、ツバラミル(考)、ヨクミテナ(略)、ヨクミテム(古義)、クハシクミ(新訓)、ツバラニミム(定本)。諸訓があるが、文字が不十分で正訓を得がたい。要するに詳細に見ようというのであろう。
 在家妹之 イヘナルイモガ。家にある妻がである。
 待將問多米 マチトハムタメ。難波潟の風光を待ち問うであろう。そのために。
【評語】平語に近い。妻を思つている忠實な一男子の心が寫されているだけである。
 
977 直超《ただこ》えの この道にてし、
 おし照るや 難波の海と
(122) 名づけけらしも。
 
 直超乃《タダコエノ》 此徑尓弖師《コノミチニテシ》
 押照哉《オシテルヤ》 難波乃海跡《ナニハノウミト》
 名附家良思蒙《ナヅケケラシモ》
 
【譯】草香の直超えのこの道で、照り輝く難波の海と名づけたものだろう。
【釋】直超乃 タダコエノ。タダコエは、まつすぐに越える道の義で、この草香山越えの道が、かように呼ばれていたことは、古事記の下卷にも日下《くさか》の直越《ただこえ》の道とあるのでも知られる。動詞としては「磐城山《イハキヤマ》 直越來益《タダコエキマセ》」(卷十二、三一九五)、「之乎路可良《シヲヂカラ》 多太古要久禮婆《タダコエクレバ》」(卷十七、四〇二五)の用例がある。
 此徑尓弖師 コノミチニテシ。徑は細い道路をいう。實際草香の直超は細徑であつたのだろう。ニテシは、助詞ニテに強意の助詞シの接續したもの。「去年之春《コゾノハル》 相有之君爾《アヘリシキミニ》 戀爾手師《コヒニテシ》 櫻花者《サクラノハナハ》 迎來良之母《ムカヘクラシモ》」(卷八、一四三〇)のニテシは、同形であるが、それは用言に接している。仙覺本系統に尓師弖としたのは誤りである。
 押照哉 オシテルヤ。枕詞。ヤは感動の助詞。實際にこの枕詞は、大和人が難波の海の光り輝くを見、それを賞美する感情をもつて云い始めたのだろう。古い枕詞で、古事記の歌謠にも見えている。
 難波乃海跡 ナニハノウミト。難波の地名起原説話は、日本書紀神武天皇の卷にあり、浪が速かつたから浪速と云つたのが、訛つてナニハとなつたのだとしている。これによれば、海の名がもとで、後に陸上にも云つたことになる。淀川の河口の海に入るあたりを難波のわたりと云つたのがもとであろう。
 名附家良思蒙 ナヅケケラシモ。おし照る難波の海と稱した海原を推量している。
【評語】直超えの徑から望み見た大阪灣の大觀が詠まれている。それを直接に表現しないで、古語の解に持つて行つたのは物足りない。
 
山上臣憶良、沈v痾之時歌一首
 
山上の臣憶良の、痾《やまひ》に沈みし時の歌一首。
 
【釋】沈痾之時 ヤマヒニシヅミシトキ。卷の五の沈痾自哀文、老身重病經年疾苦云々の歌などによれば、數年に亙つて病にかかつていたらしい。ここには天平五年の項に列し、左註にも記事があるが、その時の作か、前に詠んだものを吟誦したかは不明である。
 
978 士《をのこ》やも 空《むな》しかるべき。
 萬代に 語り續《つ》ぐべき
 名は立てずして。
 
 士也母《ヲノコヤモ》空應v有《ムナシカルベキ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》語續可《カタリツグベキ》
 名者不v立之而《ナハタテズシテ》
 
【譯】男兒は徒にあるべきではない。萬世に語り繼いで行くような名を立てないでは。
【釋】土也母 ヲノコヤモ。ヲノコは男兒。ヤモは反語の助詞。
 空應有 ムナシカルベキ。ヤモを受けて、連體形で結ぶ。ムナシは實のない形容。句切。
 語續可 カタリツグベキ。文字のなかつた時代には、口から口に語り傳えて行つた。文字が出來てからも、その語を存して、傳わることをこれによつて表現している。
 名者不立之而 ナハタテズシテ。名を立てるは、廣く名の知られることをいう。
【評語】作者は多分再起の不能を感じてこの歌を作つたのだろう。今死のうとして過ぎ來し方を顧みれば、碌碌として何等功業の世に傳うべきもののないことが痛感されて、悲憤悔恨の涙にむせぶ。その名が歌人として傳えられようとは、思いも寄らなかつたであろうが、結果から見れば、彼の一生は空しくなかつたのである。この歌の如きも、彼の代表作の一として傳えられているのは、大きな皮肉とも云えることであつた。
【參考】追ひて和ふる歌。
   勇士の名を振ふを慕《ねが》ふ歌一首【短歌并はせたり。】
(124)  ちちの實の父の命、柞葉《ははそば》の母の命、おほろかに情《こころ》盡《つく》して、思ふらむその子なれやも、丈夫《ますらを》や空《むな》しくあるべき、梓弓《あづさゆみ》末《すゑ》振《ふ》り起し、投矢《なぐや》持ち千尋《ちひろ》射渡し、劍刀《つるぎたち》腰に取り佩《は》き、あしひきの八峯《やつを》踏み越え、さし任《ま》くる情《こころ》障《さや》らず、後の世の語り繼《つ》ぐべく、名を立つべしも
   反歌
  丈夫は名をし立つべし。後の世に聞き繼ぐ人も語り繼ぐがね
   右の二首は、山上の憶良の臣の作れる歌に追ひて和ふる。(大伴の家持、卷十九、四一六四、四一六五)
 
右一首、山上憶良臣、沈v痾之時、藤原朝臣八束、使2河邊朝臣東人1、令v問2所v疾之状1。於v是憶良臣、報語已畢、有v須拭v涕、悲嘆口2吟此歌1。
 
右の一首は、山上の憶良の臣の痾に沈みし時、藤原の朝臣八束、河邊の朝臣東人をして疾《や》める状《さま》を問はしめき。ここに憶良の臣、報《こたへ》の語已に畢り、須《しまらく》ありて涕《なみだ》を拭ひ、悲しみ嘆きで、この歌を口吟《うた》ひき。
 
【釋】藤原朝臣八束 フヂハラノアソミヤツカ。既出(卷三、三九八)。後名眞楯。房前の第三子。天平十二年正月に正六位の上から從五位の下になつている。この人は天平神護二年に五十二歳で薨じているから當時十九歳であつた。憶良の門人ででもあろう。八束が、東人を使としてやつたのである。
 河邊朝臣東人 カハベノアソミアヅマビト。神護景雲元年正月、從六位の上から從五位の下に進み、寶龜元年十月、石見の守となつた。これも當時青年であつたろう。
 
大伴坂上郎女、與d姪家持從2佐保1還c歸西宅u歌一首
 
大伴の坂上の郎女の、姪《をひ》家持が佐保より西の宅《いへ》に還歸《かへ》るに與ふる歌一首。
 
(125)【釋】姪家持 ヲヒヤカモチ。大伴の坂上の郎女から云えば、家持は、兄旅人の子だから姪になる。古くは男女に拘わらず、兄弟の子に姪の字を使つた。
 從佐保還歸西宅 サホヨリニシノイヘニカヘルニ。大伴氏は安麻呂の時代から佐保に住んでいた。旅人が九州から歸つて來たのも、その家であろう。それは佐保川の右岸にあつたと推察される。坂上の郎女の住んでいたのは、それかどうかわからないし、また西の宅というのもそれらとどのような關係にあるか不明である。
 
979 わが夫子が 著《け》る衣《きぬ》うすし。
 佐保風は いたくな吹きそ。
 家に至るまで。
 
 吾背子我《ワガセコガ》著衣薄《ケルキヌウスシ》
 佐保風者《サホカゼハ》疾莫吹《イタクナフキソ》
 及v家左右《イヘニイタルマデ》
 
【譯】あなたの著物はうすい。佐保の風は強く吹かないでください。家に行くまでは。
【釋】吾背子我 ワガセコガ。ワガセコは、姪の家持に對して使用している。
 著衣薄 ケルキヌウスシ。動詞著ルは既に上一段としての文獻を有しているが、一方「許能安我家流《コノアガケル》 伊毛我許呂母能《イモガコロモノ》」(卷十五、三六六七)の如くケルの活用形をも有している。このケルは「富人能《トミビトノ》 家能子等能《イヘノコドモノ》 伎留身奈美《キルミナミ》」(卷五、九〇〇)のキルに比して、著ているの意が顯著である。これによれば、ケルのルは完了の助動詞リの性格を有するものと見るべく、四段動詞以外にもかような接續法があつたものであろう。來ルの場合もそうだろう。ここも卷の十五の例と、同樣の意味であるから、ケルと讀むべきである。句切。
 佐保風者 サホカゼハ。明日香《あすか》風、初瀬風の類で、佐保の地を吹く風である。佐保山が北にあつて、その山から吹いてくる北風である。
 疾莫吹 イタクナフキソ。イタクは、はなはだしく。句切。
(126) 及家左右 イヘニイタルマデ。西の宅に歸るまで。
【評語】婦人らしい、やさしい情が溢れている。叔母としての心遣いが歌われている。女婿に對する心構えも既に含まれているであろう。
 
安倍朝臣蟲麻呂月歌一首
 
【釋】安倍朝臣蟲麻呂 アベノアソミムシマロ。既出(卷四、六六五)。
 
980 雨隱《あまごも》り 三笠の山を 高みかも、
 月の出で來《こ》ぬ。
 夜は更《くた》ちつつ。
 
 雨隱《アマゴモリ》 三笠乃山乎《ミカサノヤマヲ》 高御香裳《タカミカモ》
 月乃不2出來1《ツキノイデコヌ》
 夜者更降管《ヨハクタチツツ》
 
【譯】雨から隱れる三笠の山が高いのでか、月が出て來ない。夜は更けて行くのに。
【釋】雨隱 アマゴモリ。枕詞。雨を防ぎ隱れる意で、笠に冠する。
 三笠乃山乎高御香裳 ミカサノヤマヲタカミカモ。三笠山が高くしてか。カモは疑問の係助詞。「吾妹子乎《ワギモコヲ》 去來見乃山乎《イザミノヤヤヲ》 高三香裳《タカミカモ》 日本能不v所v見《ヤマトノミエヌ》 國遠見可聞《クニトホミカモ》」(卷一、四四)の歌と四句まで同型である。
 月乃不出來 ツキノイデコヌ。カモを受けて結んでいる。句切。
 夜者更降管 ヨハクタチツツ。クタツは、下降する義で、夜の深くなるをいう。フケニツツとも讀まれるが、「夜具多知爾《ヨグタチニ》 寐覺而居者《ネザメテヲレバ》」(卷十九、四一四六)と竝んで「夜降而《ヨグタチテ》 鳴河波知登里《ナクカハチドリ》」(同、四一四七)とあり、降の字に附いてヨハクタチツツと讀むべきである。
【評語】山が高くして月の出の遲いことは、山近く住む人の生活にも普通に感じられる所で、類想の歌の存す(127)るのも當然である。初句に雨ゴモリと置いたのは、月の歌としてわざとその語の矛盾性を愛用したのであろう。しかしそのために歌がよくならず、かえつて混雜を生じている。
 
大伴坂上郎女月歌三首
 
981 獵高《かりたか》の 高圓山《たかまとやま》を 高みかも、
 出で來《く》る月の 遲《おそ》く光《て》るらむ。
 
 ※[獣偏+葛]高乃《カリタカノ》 高圓山乎《タカマトヤマヲ》 高弥鴨《タカミカモ》
 出來月乃《イデクルツキノ》 遲將v光《オソクテルラム》
 
【譯】獵高にある高圓山が高くてか、出て來る月の照るのが遲いのだろう。
【釋】※[獣偏+葛]高乃 カリタカノ。カリタカは、「借高之《カリタカノ》 野邊副清《ノベサヘキヨク》 照月夜可聞《テルツクヨカモ》」(卷七、一〇七〇)ともあつて、地名と考えられる。高圓山のあるあたりなのだから、奈良市の東南になる。
 高圓山乎高弥鴨 タカマトヤマヲタカミカモ。前の歌の二三句と同型である。
 遲將光 オソクテルラム。月の照ることが違いのだろう。ラムは、山が高いのでかと月の遲い理由を推量している。
【評語】前の歌と全く同じ内容だ。ある晩にちよいと口ずさんだという形である。
 
982 ぬばたまの 夜霧の立ちて
 おほほしく 照れる月夜《つくよ》の、
 見れば悲しさ。
 
 烏玉乃《ヌバタマノ》 夜霧立而《ヨギリノタチテ》
 不清《オホホシク》 照有月夜乃《テレルツクヨノ》
 見者悲沙《ミレバカナシサ》
 
【譯】くらい夜霧が起つて、ぼうつと照つている月が、見ると悲しいのです。
(128)【釋】烏玉乃 ヌバタマノ。枕詞。烏は黒い意味に使われている。 夜霧立而 ヨギリノタチテ。タチテは生じて、起つて。
 不清 オホホシク。不清は、月だから義をもつて書いている。不明と書いた例もある。「不明《オホホシク》 公乎相見而《キミヲアヒミテ》」(卷十、一九二一)、「夕月夜《ユフヅクヨ》 五更闇之《アカトキヤミノ》 不明《オホホシク》 見之人故《ミシヒトユヱニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》」(卷十二、三〇〇三)。場合に應じて文字も書き分けている。この語は、景にも情にも云えるが、景にいう方がすくない。ここは照レルを修飾している。
 見者悲沙 ミレバカナシサ。月夜の悲しさという語脈で、見レバは插入的である。
【評語】ぼうつとした月に對して物悲しさを感じている。文藝人の持つ敏感な心が歌われているが、これが型にならないあいだは自然であつた。ここではその自然な感情が窺われる。
 
983 山の端《は》の ささらえ壯子《をとこ》、
 天《あま》の原 門渡《とわた》る光
 見らくしよしも。
 
 山葉《ヤマノハノ》 左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》
 天原《アマノハラ》 門度光《トワタルヒカリ》
 見良久之好藻《ミラクシヨシモ》
 
【譯】山のはずれの月の男が、大空の門を渡つて行く光を見るのはよいものです。
【釋】山葉 ヤマノハノ。山のはずれの。月の出る處をいう。
 左佐良榎壯子 ササラエヲトコ。月をいうことは、左註であきらかである。天上の野をササラの小野というが、語義はわからないつ「天有《アメナル》 左佐羅能小野之《ササラノヲノノ》 七相菅《ナナフスゲ》 手取持而《テニトリモチテ》」(卷三、四二〇)、「天爾有哉《アメニアルヤ》 神樂良能小野爾《ササラノヲノニ》」(卷十六、三八八七)。神樂の聲をササというより見れば、神々の樂の聲のする野の義か。エヲトコは「阿那邇夜志《アナニヤシ》 愛袁登古袁《エヲトコヲ》」(古事記上卷)のエヲトコであろう。このエは愛すべくある意であろう。「筑紫日向可愛之山陵《ツクシノヒムカノエノミササギ》。可愛、此(ヲ)云(フ)v埃《ヱト》」(日本書紀神代下)。良いのエは、ヤ行のエで別。
(129) 門度光 トワタルヒカリ。トは、門戸のような地形をいい、ここは天の一方から他方へ渡るのをトワタルという。船で、迫門《せと》河門などを渡ると同樣の表現である。
 見良久之好藻 ミラクシヨシモ。月を見る好ましさである。
【評語】月を擬人法で詠んでいる。美しい歌である。月は古くは恐れられていたが、ここではあきらかに愛賞すべきものとして扱われている。美を愛する心が發逢して來たのである。
 
右一首歌、或云、月別名曰2佐散良衣壯士1也。縁2此辭1作2此歌1。
 
右の一首の歌は、或るは云はく、月の別《また》の名をささらえをとこと曰ふといふ。この辭に縁《よ》りて此の歌を作りき。
 
【釋】或云 アルハイハク。これは佐散良衣壯士トイフまでに懸かる。ある人が、作者に向かつて月の別名を語つたので、それを聞いてこの歌を作つたというのである。
 
豐前國娘子月歌一首 娘子字曰2大宅1、姓氏未v詳也。
 
豐前の國の娘子の月の歌一首 【娘子字を大宅と曰ふ。姓氏いまだ詳ならず。】
 
【釋】豐前國娘子 トヨノミチノクチノクニノヲトメ。既出(卷四、七〇九)。卷の四の歌も月を取り入れている。歌詞によるに、遊行女婦らしい。
 
984 雲隱《くもがく》り 行《ゆ》く方《へ》を無《な》みと、
 わが戀ふる 月かも、君が
(130) 見まく欲《ほ》りする。
 
 雲隱《クモガクリ》 去方乎無跡《ユクヘヲナミト》
 吾戀《ワガコフル》 月哉君之《ツキカモキミガ》
 欲v見爲流《ミマクホリスル》
 
【譯】雲に隱れてどこに行つたかわからないでわたしのさがしている月ですか、あなたが見たいと思うのは。
【釋】雲隱去方乎無跡 クモガクリユクヘヲナミト。月が雲に隱れて、行く方がないとして。どこに隱れているかわからないとして。
 月哉君之 ツキカモキミガ。カモは、疑問の係助詞。「秋夜之《アキノヨノ》 月疑意君者《ツキカモキミハ》」(卷十、二二九九)は、調子の似ている句である。
 欲見爲流 ミマクホリスル。カモを受けて結んでいる。
【評語】自分の戀う月を君も戀うかの意に、月を中心に詠んでいる。國を隔てて都の人に送つたのかも知れないが、表現が不十分で、ごたごたしており、せつかくの複雜な趣向が十分に出なかつた。
 
湯原王月歌二首
 
【釋】湯原王 ユハラノオホキミ。既出(卷三、三七五)。志貴の皇子の子。
 
985 天《あめ》に坐《ま》す 月讀壯子《ツクヨミヲトコ》
 幣《まひ》はせむ。
 今夜《こよひ》の長さ 五百夜《いほよ》繼《つ》ぎこそ。
 
 天尓座《アメニマス》 月讀壯子《ツクヨミヲトコ》
 幣者將v爲《マヒハセム》
 今夜乃長者《コヨヒノナガサ》 五百夜繼許増《イホヨツギコソ》
 
【譯】天においでになる月の男よ。贈りものはしよう。どうか今夜の長さを、五百夜も繼いでください。
【釋】天尓座 アメニマス。マスはある意の敬語。次の句を修飾する。
(131) 月讀壯子 ツクヨミヲトコ。月の擬人法で、これを呼びかけている。月の神の名は、古事記に月讀の命、日本書紀に月讀の尊、月夜見の尊、月弓の尊とあり、恐らくは月讀が正字で、月齡または暦月の數を數える義であろう。前にもササラエ壯子があり、月を男性としている。「三空往《ミソラユク》 月讀壯士《ツクヨミヲトコ》」(卷七、一三七二)。月人壯士《つくひとをとこ》ともいう。
 幣者將爲 マヒハセム。既出(卷五、九〇五)。マヒは贈りもの。插入文。三句切。
 今夜乃長者 コヨヒノナガサ。今夜一夜の長さ。
 五百夜繼許増 イホヨツギコソ。イホヨは、極めて多數の夜。コソは希望の助詞。
【評語】この良夜の長くあるべきことを願う。これもよくある思想である。「秋の夜の百夜《ももよ》の長さありこせぬかも」(卷四、五四六)もそうだが、「月|累《かさ》ねわが思ふ妹に會《あ》へる夜は今し七夜《ななよ》を繼《つ》ぎこせぬかも」(卷十、二〇五七)の如きは、全く類想である。二句に月讀壯子を呼びかけたのはよいが、三句はやはり氣になる。ただで頼んだ方がよかつたらしい。
 
986 愛《は》しきやし ま近き里の、
 君來むと、
 大能備にかも 月の照りたる。
 
 愛也思《ハシキヤシ》不v遠里乃《マヂカキサトノ》
 君來跡《キミコムト》
 大能備尓鴨《オホノビニカモ》 月之照有《ツキノテリタル》
 
【譯】なつかしい遠くない里に住んでいるあなたがおいでになるだろうと、伸びあがつたように月が照つております。
【釋】愛也思 ハシキヤシ。形容詞。ハシキに、感動の助詞が接續したものだから、語法からいえば、句を隔てて君を修飾する。この句は、慣用ののち、獨立句として感情を表現する傾向になつて行つたので、一面には(132)全體の感情だともいえるのである。「波之家也思《ハシケヤシ》 不v遠里乎《マヂカキサトヲ》」(卷四、六四〇)參照。それも同じ作者である。
 不遠里乃 マヂカキサトノ。マヂカキサトノ(西)、トホカラヌサトノ(童)。次句の君の住む處を説明している。
 君來跡 キミコムト。君は誰かわからない。男子どうLであろう。
 大能備尓鴨 オホノビニカモ。大能備は、未詳の語。大野邊だろうというが、野の音韻は能ではない。やはり大伸ビで、月の大きく照り渡る状態を説明し、また月も君の來るのを待つとする心を含んでいるのであろう。カモは疑問の係助詞。
 月之照有 ツキノテリタル。ツキノテラセル(西)、ツキノテリタル(考)。カモを受けて結んでいる。
【評語】未詳の語があるので、よくわからないが、月の大きく照つている状を歌つて、良夜に友を待つ心を寓しているのであろう。感じのよい歌である。
 
藤原八束朝臣月歌一首
 
987 待ちがてに わがする月は、
 妹が著《き》る 三笠の山に
 隱《かく》りてありけり。
 
 待難尓《マチガテニ》 余爲月者《ワガスルツキハ》
 妹之著《イモガキル》 三笠山尓《ミカサノヤマニ》
 隱而有來《カクリテアリケリ》
 
【譯】わたしの待ちかねている月は、あの子のかぶる三笠の山に隱れていたことだ。
【釋】待難尓余爲月者 マチガテニワガスルツキハ。わが待ちがてにする月は。月の出るのを待ちかねている、その月は。
(133) 妹之著 イモガキル。枕詞。イモは愛する女子をいう。ここでは特定の人でない。笠に冠する。
 隱而有來 カクリテアリケリ。カクレテアリケリ(元)、カクレタリケリ(代精)、コモリテアリケリ(攷)、コモリタリケリ(古義)。三笠山は奈良の都の東方に當り、ここはまだ月の出ない状をいう。ケリは感歎の意をあらわしている。
【評語】平凡な内容の歌だが、妹ガ著ルの枕詞がよく一首のうるおいをなしている。その句は、一首の内容に直接に關係はないのだが、三笠の山に對する親しみの情は、これでよく表現されて歌の味がよくなつたのである。
 
市原王、宴祷2父安貴王1歌一首
 
市原の王の、宴《うたげ》に父の安貴《あき》の王《おほきみ》を祷《ほ》く歌一首。
 
【釋】市原王宴祷父安貴王歌 イチハラノオホキミノウタゲニチチノアキノオホキミヲホクウタ。市原の王、安貴の王、共に既出(卷三、三〇六、四一二)。市原の王は安貴の王の唯一人の子である。祷は福を求むる意。慶賀したのである。
 
988 春草は 後《のち》は散りやすし。
 巖《いはほ》なす 常磐《ときは》に坐《いま》せ。
 貴きわが君。
 
 春草者《ハルクサハ》 後波落易《ノチハチリヤスシ》
 巖成《イハホナス》 常磐尓座《トキハニイマセ》
 貴吾君《タフトキワガキミ》
【譯】春草は一時榮えても、後には散りやすいものです。岩のように變わることなくおいで遊ばせ。尊い父上。
【釋】後波落易 ノチハチリヤスシ。草について散るということ、適切ではないが、枯れて葉の搖落するを意(134)味しているのであろう。句切。
 巖成 イハホナス。古本系統の諸本に嚴成としているのも捨てがたいが、訓のイツクシクは文字につかない。成を來の誤りとすれば、イツクシクとも讀める。イハホナスは仙覺本の訓である。巖を成して、岩石のような。
 常磐尓座 トキハニイマセ。トキハは、トコイハの約言と見られるが、トコは恒常の義か、床の義かわからない。集中、この外に、常盤、常石、床磐各一例がある。この歌の用法の如きは、常久不動の岩石をいうと見てよい。句切。
 貴吾君 タフトキワガキミ。わが君は、父の王をさす。
【評語】譬喩によつて父の王を祝している。その譬喩は、普通にいう所で、珍しくもないが、句の續き方に特色があり、五句に貴キワガ君と呼びかけて歌い留めたのも力強い。大伴の家持の「八千種《やちくさ》の花はうつろふ。常磐《ときは》なる松のさ枝を我は結ばな」(卷二十、四五〇一)は、この歌に負う所があるらしい。
 
湯原王、打v酒歌一首
 
湯原の王の、酒を打つ歌一首。
 
【釋】打酒歌 サケヲウツウタ。代匠記に、酒ニ打タルルと讀んで、強いられて醉える意であるとし、宣長は打を所の誤りかとし、古義には打を折の誤りかとする中山嚴水の説を擧げている。これらの諸説いずれも非である。これは文字通り酒を打つ歌で、その意は、歌詞にあきらかである。みずから打つのではないが、自分で漕がなくても、わが舟をこぐという類である。なお打酒は漢文から來た熟字で、酒をやる(行う)義で、飯酒の意に近いとする説(小島憲之氏)がある。
 
(135)989 燒刀《やきだち》の 稜《かど》うち放《はな》ち
 丈夫《ますらを》の 壽《ほ》く豐御酒《とよみき》に、
 われ醉《ゑ》ひにけり。
 
 燒刀之《ヤキダチノ》 加度打放《カドウチハナチ》
 大夫之《マスラヲノ》 祷豐御酒尓《ホクトヨミキニ》
 吾醉尓家里《ワレヱヒニケリ》
 
【譯】鍛えた大刀の切先をぶつ放して、勇士の祝つた酒に、わたしは醉つてしまつた。
【釋】燒刀之 ヤキダチノ。火をもつて鍛冶して作つた刀で、鋭い刀である。
 加度打放 カドウチハナチ。カドは、舊説にシノギの異稱としている。シノギは、刀の刃と峰との中間の、小高いところをいう。しかしシノギを打ち放つということは意味を成さない。カドはやはり刀の角で、刃の稜角《りようかく》と見るべく、切尖《きつきき》と解するがよい。類聚名義抄にも、稜にカドの訓がある。打故を、ウチハナツと讀んで、丈夫の習性を敍しているとする説もあるが、ウチはハナツの語勢を強めるもの。カドをウチハナツとは、刃先を鋭く放出することで、切り付ける意である。ウチハナチと讀んで、祷《ほ》ぐことの敍述と見るがよい。酒に切り付けて、惡靈を祓《はら》うのである。刀劔に惡魔拂う威力があるとするのは、古來の信仰で、神話等にその證が多い。劔で切りつけて清めることは、その信仰から出ることで、誓約《うけひ》の神話において、劔を三段《みきだ》に打ち折つて天《あめ》の眞名井《まなゐ》に振《ふ》り滌《すす》ぐというのも、切りつけて水を清めた劔光の證明である。
 大夫之 マスラヲノ。劇をふるつて清めた人をいう。湯原の王その人ではない。
 祷豐御酒尓 ホクトヨミキニ。上古酒を飲むに當つては、まず祝言をもつて酒を祝い、然る後に宴を開く。サカホカヒの本義である。トヨミキは、酒の豐滿していることを讃めている。
【評語】古來酒を讃める歌も多いが、この歌では、刀を拔いて酒を打つという、特殊な行事が描かれている。それがいかにも昔ふうの酒宴を思わせる材料となつている。表現も率直で力強い歌である。
 
(136)紀朝臣鹿人、跡見茂岡之松樹歌一首
 
紀の朝臣|鹿人《かびと》の、跡見《とみ》の茂岡《しげをか》の松の樹の歌一首。
 
【釋】紀朝臣鹿人 キノアソミカビト。卷の四、紀の女郎怨恨の歌三首(六四三)の題下に「鹿人(ノ)大夫之女、名(ヲ)曰(ヘリ)2小鹿(ト)1也。安貴(ノ)王之妻也」とある。これによれば紀の女郎の父である。天平九年九月に外の從五位の下、十二月に主殿の頭、十二年十一月に外の從五位の上、十三年八月に大炊の頭になつている。
 跡見茂岡 トミノシゲヲカ。跡見は、奈良縣磯城郡櫻井町|外山《とやま》の地。櫻井の東に當る。下に、「典鑄(ノ)正紀(ノ)朝臣鹿人、至(リテ)2衛門(ノ)大尉大伴(ノ)宿禰稻公(ノ)跡見(ノ)庄(ニ)1作(レル)歌一首」と題して「射目立而《イメタテテ》 跡見乃岳邊之《トミノヲカベノ》 瞿麥花《ナデシコノハナ》」(卷八、一五四九)とも詠まれている。茂岡は、草木の茂つた岡の義。
 
990 茂岡《しげをか》に 神《かむ》さび立ちて 榮えたる
 千代まつの樹の 歳の知らなく。
 
 茂岡尓《シゲヲカニ》 神佐備立而《カムサビタチテ》 榮有《サカエタル》
 千代松樹乃《チヨマツノキノ》 歳之不v知久《トシノシラナク》
 
【譯】茂つた岡に神々しくなつて榮えている千代を待つている松の樹の年のわからないことだ。
【釋】神佐備立而 カムサビタチテ。神威を現して立つて。樹木に神さびというのは、年老いて巨大になつたのにいう。
 千代松樹乃 チヨマツノキノ。千代を待つを、松に云い懸けている。何時までも榮えるだろうという心である。
 歳之不知久 トシノシラナク。シラナクは、知らぬことの意の體言。年齡の不明という意である。
【評語】松樹の年齡を知らないというのは、類想の多い所である。四句の千代松ノ樹という云い方は、嬬松《つままつ》ノ(137)木、君松ノ木などの類であるが、巧みな云い方で、後世ふうの技巧である。
 
同鹿人、至2泊瀬河邊1作歌一首
 
【釋】至泊瀬河邊 ハツセガハノホトリニイタリテ。泊瀬河は、泊瀬の溪谷の水を集め、西北に向かつて流れて、丹波市《たんばいち》の西方で、西流する。この歌は、泊瀬の溪谷で詠んだのであろう。
 
991 石走《いはばし》り 激ち流るる 泊瀬川、
 絶ゆることなく またも來て見む。
 
 石走《イハバシリ》 多藝千流留《タギチナガルル》 泊瀬河《ハツセガハ》
 絶事無《タユルコトナク》 亦毛來而將v見《マタモキテミム》
 
【譯】石上を走つて激しく流れる泊瀬河を、絶えることなくまたも來て見よう。
【釋】石走 イハバシリ。石上や石間を勢よく水の流れるをいう。
 多藝千流留 タギチナガルル。タギチは激しく流れる意の動詞。
 泊瀬河 ハツセガハ。泊瀬河に呼び懸けている語法で、この歌の主題になつている。同時に次の句に對して序の役をもなしている。
 絶事無 タユルコトナク。河の水の流れて止まないようにの意で、この句が使われており、五句に對して、絶えずに、いつもの意をなして修飾している。
(138)【評語】類型的な内容の歌で、極めて平凡である。人麻呂の「見れど飽かぬ吉野の川の常滑《とこなめ》の絶《た》ゆることなくまたかへり見む」(卷一、三七)などの影響を受けているであろう。
 
大伴坂上郎女、詠2元興寺之里1歌一首
 
【釋】詠元興寺之里歌 グワニゴジノサトヲヨメルウタ。元興寺は、崇峻天皇の元年、蘇我の馬子が、飛鳥《あすか》の衣縫《きぬぬひ》の造《みやつこ》の祖《おや》樹葉《このは》の家を壞つて始めて法興寺を作り、これが佛法最初の地として尊崇された。この寺は、後に元興寺と稱した。都が奈良に遷されるに及んで、靈龜二年五月に、この寺を奈良の左京六條四坊に遷そうとしたが、その地は、大安寺移建の地となつたので、養老二年九月に、改めて左京五條七坊、今の芝新屋町の地に遷した。しかしもとの元興寺も存せられて、本元興寺と稱し、今、安居院と大佛とを存している。ここは奈良に遷された元興寺を詠んだのである。
 
992 古郷《ふるさと》の 飛鳥《あすか》はあれど、
 あをによし 平城《なら》の明日香《あすか》を
 見らくし好《よ》しも。
 
 古郷之《フルサトノ》 飛鳥者雖v有《アスカハアレド》
 青丹吉《アヲニヨシ》 平城之明日香乎《ナラノアスカヲ》
 見樂思好裳《ミラクシヨシモ》
 
【譯】むかし住んでいた明日香の里もなつかしいが、今榮えている奈良の元興寺の里を見ることも樂しいことです。
【釋】古郷之 フルサトノ。明日香を指していうので、明日香は、舊都でもあるが、ここは昔住んでいた里として解すべきである。
 飛鳥者雖有 アスカハアレド。飛鳥は明日香に同じ。本元興寺を中心として、明日香の里をいう。アレドは(139)それもそうだがで、良い處だがの意をあらわす。「君が名はあれどわが名し惜しも」(卷二、九三)の類。
 平城之明日香乎 ナラノアスカヲ。ナラノアスカは、奈良に遷された元興寺をいう。故郷の明日香が戀しいが、その故郷から遷つて來た元興寺がなつかしいので、これを明日香というのである。諸説この明日香を元興寺の異名のように扱つているのは、よろしくない。この歌における特殊の表現である。
 見樂思好裳 ミラクシヨシモ。既出(卷六、九八三)。見ることが好ましい。
【評語】多分明日香の元興寺の建物などをも移したのであろう。それを見ると、なつかしい明日香の里にあるような氣がするのである。その望郷の心が詠まれている。明日香の語を再出してあやを作つている。
 
同坂上郎女、初月歌一首
 
【釋】初月歌 ミカヅキノウタ。初月は既出(卷三、二八九)。この歌では三日月だが、三日月には限らず、ほそい月をいう。
 
993 月立ちて ただ三日月の 眉根《まよね》掻《か》き、
 
 け長く戀ひし 君に達へるかも。
 
 月立而《ツキタチテ》 直三日月之《タダミカヅキノ》 眉根掻《マヨネカキ》
 氣長戀之《ケナガクコヒシ》 君尓相有鴨《キミニアヘルカモ》
 
【譯】今月になつてたつた三日目の月のような眉をかいて、時久しく戀していたあなたにお逢いしたことでした。
【釋】月立而 ツキタチテ。タチは、發する、始まるの意で、新しい月になつて。
 直三日月之 タダミカヅキノ。タダは、わずかに。三日月は、月齡三日の新月をいう。以上譬喩で、新月のような形の眉の意に、次の句を修飾する。唐ふうの化粧法として、黛《まゆずみ》をもつて新月の形に眉を描くのである。
(140) 眉根掻 マヨネカキ。マヨネは眉に同じ。ネは、接尾語。眉がかゆいのは、思う人に逢う前じるしとしていた。「無v暇《イトマナク》 人之眉根乎《ヒトノマヨネヲ》 徒《イタヅラニ》 令v掻乍《カカシメツツモ》 不v相妹可聞《アハヌイモカモ》」(卷四、五六二)參照。句を隔てて五句を修飾する。
 氣長戀之 ケナガクコヒシ。ケナガクは、時長く。コヒシは、動詞戀フに助動詞の接續したもの。
 君尓相有鴨 キミニアヘルカモ。君は何人をさすか不明。
【評語】眉がかゆいと、人に逢うという諺は、前からあつたのであろう。この歌は、その眉を説明したのがきいている。實際新月の頃だつたのであろう。但し初月を主題とした歌ではないから、初月の歌と題してあるのは、初月に關する歌の程度である。
 
大伴宿祢家持、初月歌一首
 
【釋】大伴宿祢家持 オホトモノスクネヤカモチ。前からの續きで、天平五年の作と見られるが、家持の作中年代の知られる最初の作である。但し卷の八の春の雜歌に、大伴の坂上の郎女の天平四年三月一日の歌(一四四七)の前に、大伴の家持の歌が收めてあり、それは天平四年三月以前の作であるかも知れない。
 
994 振仰《ふりさ》けて 若月《みかづき》見れば、
 一目見し 人の眉引《まよひき》
 念ほゆるかも。
 
 振仰而《フリサケテ》 若月見者《ミカヅキミレバ》
 一目見之《ヒトメミシ》 人乃眉引《ヒトノマヨヒキ》
 所v念可聞《オモホユルカモ》
 
【譯】ふり仰いで三日月を見ると、一目見た人の眉が思われることだ。
【釋】振仰而 ワリサケテ。フリは、強調する意の接頭語。
 若月見者 ミカヅキミレバ。若月は文字通り新月で、ここではミカヅキの訓でよいであろう。
(141) 人乃眉引 ヒトノマヨヒキ。マヨヒキは、黛《まゆずみ》で描いた眉。前の歌に見えるように、新月の形に描くので、新月を見て婦人の眉を思うのである。
【評語】家持の青年期の作である。すなおな表現であるが、純粹の感情ではなく、作りものたるを免かれない。
 
大伴坂上郎女、宴2親族1歌一首
 
【釋】宴親族歌 ヤカラトウタゲスルウタ。卷の三にも、坂上の郎女の親族と宴する日に歌つた歌(四〇一)があり、卷の八にも親々飲樂する歌(一六五七)がある。
 
995 かくしつつ 遊び飲みこそ。
 草木すら
 春はもえつつ 秋は散りゆく。
 
 如v是爲乍《カクシツツ》 遊飲與《アソビノミコソ》
 草木尚《クサキスラ》
 春者生管《ハルハモエツツ》 秋者落去《アキハチリユク》
 
【譯】こんなふうに遊んでお酒をおあがりなさい。草木でも春は芽が出て秋は散つてしまうのです。
【釋】如是爲乍 カクシツツ。現に酒宴をしていることをカクと云つている。
 遊飲與 アソビノミコソ。與は、コソの語に當る所に書いている例、集中に多く、何の誤りともしがたい。ノミだけで、酒を飲むことを言つている。コソは希望の助詞。句切。
 草木尚 クサキスラ。草木の如きものでも。
 春者生管 ハルハモエツツ。ハルハモエツツ(元)、ハルハオヒツツ(略)、ハルハサキツツ(古義)。生は訓の多い字であるが、春の草木についてはモユが適している。草木の春生秋落を述べたのは、人生無常、時到れば死ぬの意である。
(142)【評語】旅人の酒の歌などに比して、遙かに享樂的である。彼は心に亡妻を悼み、これは衆を招いて歡樂を致そうとする。その境涯に相違がある。
 
六年甲戌、海犬養宿祢岡麻呂、應v詔歌一首
 
六年甲戌、海《あま》の犬養の宿禰岡麻呂の、詔に應ふる歌一首。
 
【釋】六年甲戌 ムトセキノエイヌ。天平六年。
 海犬養宿祢岡麻呂 アマノイヌカヒノスクネヲカマロ。傳未詳。麿詔歌とあるので、宮廷に奉仕した微官の人であつたことが知られる。海の犬養氏は、新撰姓氏録に、「海犬養《アマノイヌカヒハ》、海神綿積命之後也《ウミノカミワタツミノミコトノノチナリ》」とあり、連《むらじ》姓であつたが、天武天皇の十三年十二月に、姓宿禰を賜わつた。
 應詔歌 ミコトノリニコタフルウタ。既出(卷三、二三八題詞)。いかなる場合とも知られない。歌がらから見れば、新年の賜宴《しえん》の際などの作であろう。三月の歌の前に收めてあるのも、その意であろう。
 
996 御民《みたみ》吾《われ》 生《い》ける驗《しるし》あり。
 天地《あめつち》の 榮《さか》ゆる時に
 遇《あ》へらく念《おも》へば。
 
 御民吾《ミタミワレ》 生有驗在《イケルシルシアリ》
 天地之《アメツチノ》 榮時尓《サカユルトキニ》
 相樂念者《アヘラクオモヘバ》
 
【譯】陛下の臣民なるわたくしは、生きている效のあることを感じます。天地の榮える時代に逢いましたことを思いますので。
【釋】御民吾 ミタミワレ。ミタミは、天皇に對して、接頭敬語ミを附している。「散和久御民毛《サワクミタミモ》」(卷一、五〇)。
(143) 生有驗在 イケルシルシアリ。シルシは、效驗。シルシがあるとかないとかいう。シルシのある例、「安米比度之《アメヒトシ》 可久古非須良波《カクコヒスラバ》 伊家流思留事安里《イケルシルシアリ》」(卷十八、四〇八二)、「参來之《マヰリコシ》 印毛有香《シルシモアルカ》 年之初爾《トシノハジメニ》」(卷十九、四二三〇)。句切。
 天地之榮時尓 アメツチノサカユルトキニ。天地ノ榮ユル時は、その御代を祝つた句で、精神的物質的に、あらゆる事物の、その處を得て活動する時代の義である。
 相樂念者 アヘラクオモヘバ。アヘラクは、逢えることの意の體言。
【評語】集中にも、天皇の代を讃稱した歌で、まだこのように、力強いものを見ない。初二句に、臣下としての自分の生きがいのあることを歌つて、云い切つたところも強い。第三四句に、天下の光り輝く時を敍述したのも簡にして有力である。天平時代の榮えは、この歌あるによつて、いかに輝かしく、傳えられたことであろう。眞に聖武天皇の御代の榮えを歌いあらわした一首というべきである。
 
春三月、幸2于難波宮1之時歌六首
 
【釋】春三月幸于難波宮之時 ハルヤヨヒ、ナニハノミヤニイデマシシトキ。この行幸のこと、續日本紀天平六年の條に「三月辛未(十日)行2幸(ス)難波(ノ)宮(ニ)1。」「戊寅(十七日)車駕發(チテ)v(リ)2難波1、宿(ル)2竹原井(ノ)頓宮(ニ)1。庚辰(十九日)車駕還(ル)v宮(ニ)」とある。難波の宮は、既出(卷六、九二八)。出遊された日の作が中心になつているらしく、住吉方面の歌が多い。
 
997 住吉《すみのえ》の 粉濱《こはま》のしじみ、
 あけも見ず、
(144) 隱《こも》りてのみや、戀ひわたりなむ。
 
 住吉乃《スミノエノ》 粉濱之四時美《コハマノシジミ》
 開藻不v見《アケモミズ》
 隱耳哉《コモリテノミヤ》 戀度南《コヒワタリナム》
 
【譯】住吉の粉濱の蜆が蓋をあけて見もしないように、隱れてばかり戀い暮らすことでしようか。
【釋】粉濱之四時美 コハマノシジミ。元暦校本には、美を華に作つて、コスノトコナツと訓している。粉濱は、住吉の西北方の地名に殘つている。シジミは、集中他に所見がない。播磨國風土記、美嚢《みなぎ》の郡、志深《しじみ》の里の條に、「志深《しじみ》と號《なづ》くる所以《ゆゑ》は、伊射報和氣《いざほわけ》の命《みこと》、この井《ゐ》に御食《みをし》したまひし時に、信深《しじみ》貝、御飯《みいひ》の筥《はこ》の縁《ふち》に遊び上りき。その時に勅したまひしく、この貝は、阿波の國の和那散《わなさ》にわが食《を》しし貝かもと宣りたまひき。故《かれ》志深の里と號《なづ》く」とあり、新撰字鏡に、「蜆、小蛤、之自彌《シジミ》」とある。またトコナツも本集には所見がないが、正倉院文書に、得夏女の名があり、倭名類聚砂に「瞿麥、本草(ニ)云(フ)、瞿麥一(ノ)名(ハ)大蘭|奈天之古《ナデシコ》、一云|度古奈都《トコナツ》」とあり、(145)既にその名があつたようである。今、七音の句であるにより、シジミとするによる。
 開藻不見 アケモミズ。蜆が蓋《ふた》をあけても見ないの意で、以上隱リテノミの序となる。但し二句をトコナツとすれば、サクモミズである。いずれにしても、この句は、戀をうちあけないでの意を譬喩で表示している。
 隱耳哉 コモリテノミヤ。コモリテは、心中に戀して。心中にのみ思つて。
 戀度南 コヒワタリナム。戀をして日を過すのだろう。
【評語】旅先で目に觸れたものを材料として、戀の心を詠んでいる。この戀は、家郷に對する戀ではなく、難波あたりの人に對しているようである。それも輕い遊戯性の感じられる歌である。
 
右一首、作者未v詳
 
【釋】作者未詳 ツクレルヒトイマダツマビラカナラズ。行幸に御供した人であろう。
 
998 眉《まよ》の如《ごと》 雲居《くもゐ》に見ゆる 阿波の山、  かけて榜《こ》ぐ舟
 泊《とまり》知らずも。
 
 如v眉《マユノゴト》 雲居尓所v見《クモヰニミユル》 阿波乃山《アハノヤマ》
 懸而榜舟《カケテコグフネ》
 泊不v知毛《トマリシラズモ》
 
【譯】眉のように遠い空に見える阿波の山、その方にかけて漕いでいる舟の泊る處は、何處だろう。
【釋】如眉 マヨノゴト。海上に浮ぶ遠山を譬喩であらわしている。描いた眉である。
 雲居尓所見 クモヰニミユル。クモヰは、遠天をいう。海上遠くして高く見えたのである。
 阿波乃山 アハノヤマ。四國の阿波の方面の山。呼びかけている語法。
 懸而榜舟 カケテコグフネ。カケテは、關して。そちらに向かつて。
(146) 泊不知毛 トマリシラズモ。トマリは停止する處。船つき場。
【評語】住吉あたりから見える雲煙渺茫たる大景を描いて、相當成功している。よい作である。
 
右一首、船王作
 
【釋】船王 フネノオホキミ。舍人の皇子の子、淳仁天皇の皇弟。神龜四年正月に無位から從四位の下、累進して天平寶字二年八月に從三位、三年六月、親王となり三品、四年正月、信部の卿、八年正月、二品、十月、藤原の仲麻呂の反に坐して、王に下して隱岐の國に流された。
 
999 血沼《ちぬ》みより 雨ぞ零《ふ》り來る。
 四極《しはつ》の白水郎《あま》 網手綱《あみたづな》乾《ほ》せり。
 沾《ぬ》れ敢《あ》へむかも。
 
 從2千沼廻1《チヌミヨリ》 雨曾零來《アメゾフリクル》
 四八津之白水郎《シハツノアマ》 網手綱乾有《アミタヅナホセリ》
 沾將堪香聞《ヌレアヘムカモ》
 
【譯】血沼の方から雨が降つてくる。四極の海人が網の引き綱を乾しているが、濡れてしまうだろうなあ。
【釋】從千沼廻 チヌミヨリ。チヌは地名。大阪府泉北郡の海濱一帶。神武天皇の東征の時、皇兄|五瀬《いつせ》の命《みこと》が手傷の血を洗われたので血沼《ちぬ》というとする地名起原説話が、古事記に載つている。その地形が弧を描いているので、接尾語ミを添える。
 雨曾零來 アメゾフリクル。血沼の方から雨が移行してくるのが見えるのである。句切。
 四八津之白水郎 シハツノアマ。四八津は、日本書紀雄略天皇の卷に、呉客《くれひと》のために、磯齒津路《しはつぢ》を通ずとある。「四極山」(卷三、二七二)參照。ここに四八津の白水郎とあるによれば、海に面しているであろう。アマは海人。
(147) 網手綱乾有 アミタヅナホセリ。アミタヅナは、網の手綱。網を引くための綱である。句切。
 沾將堪香聞 ヌレアヘムカモ。アヘムは、堪えよう、できるだろう。濡れることができるだろうかで、濡れ勝つだろう。濡れてしまうだろうの意になる。
【評語】急に雨の襲來することを敍している。海濱の風光をとらえて、生氣のある歌である。
 
右一首、遊2覽住吉濱1、還v宮之時、道上、守部王、應v詔作歌。
 
右の一首は、住吉の濱に遊覽して、宮に還りたまひし時、道の上《ほとり》にて、守部の王の、詔に應へて作れる歌。
 
【釋】守部王 モリベノオホキミ。舍人の皇子の子。天平十二年正月、無位から從四位の下、十一月、從四位の上になつている。
 
1000 兒らがあらば 二人聞かむを、
 沖つ渚《す》に 鳴くなる鶴《たづ》の
 曉《あかとき》の聲。
 
 兒等之有者《コラガアラバ》 二人將v聞乎《フタリキカムヲ》
 奧渚尓《オキツスニ》 鳴成多頭乃《ナクナルタヅノ》
 曉之聲《アカトキノコヱ》
 
【譯】わが妻がいたら、二人で聞こうものを、沖の洲で鳴いている鶴の曉の聲は感の深いものだ。
【釋】兒等之有者 コラガアラバ。コラは、その子とさす一人があるので、複數ではない。妻のこと。
 二人將聞乎 フタリキカムヲ。二人して聞こうものを、然るにの意。その聞こうとする内容が、三句以下に敍せられている。
 奥渚尓 オキツスニ。沖の方の洲で。
(148) 鳴成多頭乃 ナクナルタヅノ。ナルは鳴くことを確かだと指定している。
 曉之聲 アカトキノコヱ。アカトキは明時で、夜の明けゆく頃。
【評語】ただひとりこの風光に對する遺憾を歌つた作は多いが、この歌は、特にその風物の描寫がすぐれているので注意される。鶴の曉の聲と言い放つただけで、無限の感興を感じさせている。前の歌といい、この歌といい、すぐれた作家である。
 
右一首、守部王作
 
1001 丈夫《ますらを》は 御獵に立たし、
 未通女等《をとめら》は 赤裳《あかも》裾引《すそび》く。
 清き濱邊《はまび》を。
 
 大夫者《マスラヲハ》 御※[獣偏+葛]尓立之《ミカリニタタシ》
 未通女等者《ヲトメラハ》 赤裳須素引《アカモスソビク》
 清濱備乎《キヨキハマビヲ》
 
【譯】男子たちは御獵においでになり、婦人たちは赤い裳の裾を引いています。この清らかな濱邊を。
【釋】大夫者 マスラヲハ。マスラヲは、行幸に御供した男子の人々をいう。
 御※[獣偏+葛]尓立之 ミカリニタタシ。タタシは、立ツの敬語。
 未通女等者 ヲトメラハ。このヲトメラも、大宮に仕えている若い女子をいう。
 赤裳須素引 アカモスソビク。裳は赤いのを通例とするが如く、しばしば赤裳と云つている。句切。
 清濱備乎 キヨキハマビヲ。ハマビは、濱邊に同じ。この句は、女子の赤裳の裾を引いている場處をさしている。
【評語】概念的に傾いて、あやうく踏み留まつている。綺麗な歌である。初二句は、男子をあちらへやり、主(149)として三句以下に描寫の中心がある。
 
右一首、山部宿祢赤人作
 
1002 馬の歩《あゆ》み おさへ駐《とど》めよ。
 住吉《すみのえ》の 岸の黄土《はにふ》に
 にほひて行かむ。
 
 馬之歩《ウマノアユミ》 押止駐余《オサヘトドメヨ》
 住吉之《スミノエノ》 岸乃黄土《キシノハニフニ》
 尓保比而將v去《ニホヒテユカム》
 
【譯】馬の歩みをおし停めなさい。住吉の岸の黄土で著物を染めて行こう。
【釋】抑止駐余 オサヘトドメヨ。作者は馬に乘つて、同輩と共に遊行しているので、この句は、その同輩に對して、馬の手綱を引いて馬を停めよと云つているのである。句切。
 岸乃黄土 キシノハニフニ。黄土は、既出(卷六、九三二)。黄土はハニであるが、ハニフに當てて書いている。
 尓保比而將去 ニホヒテユカム。ニホヒテも前項黄土の例參照。衣服を染めるのである。
【評語】住吉の岸の黄土を詠むのは、類型的であるが、初二句にやや特色がある。
 
右一首、安倍朝臣豐繼作
 
【釋】安倍朝臣豐繼 アベノアソミトヨツグ。天平九年二月に、外の從五位の下阿倍の朝臣豐繼に從五位の下を授けると、續日本紀にあるだけで、その他の事は知られない。
 
(150)筑後守外從五位下葛井連大成、遙見2海人釣船1作歌一首
 
筑後の守|外《と》の從五位の下葛井の連大成の、遙かに海人《あま》の釣船を見て作れる歌一首。
 
【釋】外從五位下 トノヒロキイツツノクラヰノシモツシナ。中央朝廷の奉仕者以外の者に賜わる位を外位といい、外の何位という。從は、もと位階を大廣に分かつた時代の稱呼を殘して、正をオホキ、從をヒロキという。
 葛井連大成 フヂヰノムラジオホナリ。既出(卷四、五七六)。
 
1003 海人《あま》をとめ 玉求むらし。
 沖つ浪 恐《かしこ》き海に
 船出《ふなで》せり見ゆ。
 
 海※[女+感]嬬《アマヲトメ》 玉求良之《タマモトムラシ》
 奥浪《オキツナミ》 恐海尓《カシコキウミニ》
 船出爲利所見《フナデセリミユ》
 
【譯】海人の娘が玉を求めているのだろう。沖の方の波のおそろしい海に船出をしているのが見える。
【釋】海※[女+感]嬬 アマヲトメ。※[女+感]嬬の文字は、既出(卷一、四〇)。愛すべき女子の義で、ヲトメ、イモなどの訓が當てられている。
 玉求良之 タマモトムラシ。タマは總稱だが、この歌では眞珠である。句切。
 奥浪恐海尓 オキツナミカシコキウミニ。沖の方の波の荒れている海に。
 船出爲利所見 フナデセリミユ。ミユの受ける句が、假字書きで終止形になつている點が注意される。ミユが終止形を受ける證の一つとなるものである。
【評語】海人の娘子が船出をしている景が描かれている。見ユを使用して作者との關係を明示したのが利いている。
 
(151)※[木+安]作村主益人歌一首
 
【釋】※[木+安]作村主益人 クラツクリノスグリマスヒト。傳未詳。左註に内匠寮の大屬とある以外は、何も知られない。
 
1004 念ほえず 來《き》ましし君を、
 佐保川の 河蝦《かはづ》聞かせず
 還《かへ》しつるかも。
 
 不所念《オモホエズ》 來座君乎《キマシシキミヲ》
 佐保川乃《サホガハノ》 河蝦不v令v聞《カハヅキカセズ》
 還都流香聞《カヘシツルカモ》
 
【譯】思いがけなくおいでになつたあなたを、佐保川の河蝦を聞かせないでお歸ししたことでした。
【釋】不所念 オモホエズ。思われずで、意外に、思いがけず。
 來座君乎 キマシシキミヲ。左註によるに、君は長官|佐爲《さい》の王である。
 河蝦不令聞 カハヅキカセズ。カハヅは日暮に鳴くので、この句で、日暮に至らないことをいう。
【評語】殘念に思う心はよくわかる。佐保川の河蝦を聞かせないでという云い方で持つている歌である。
 
右、内匠大屬※[木+安]作村主益人、聊設2飲饌1、以饗2長官佐爲王1。未v及2日斜1、王既還歸。於v時益人、怜2惜不v※[厭のがんだれなし]之歸1、仍作2此歌1。
 
右は、内匠の大屬※[木+安]作の村主益人、いささか飲饌を設けて、長官|佐爲《さゐ》の王を饗せしに、いまだ日の斜《くた》つに及《いた》らずして、王既に還歸《かへ》りき。時に益人、厭《あ》かずして歸るを怜惜《を》しみて、よりてこの歌を作りき。
 
【釋】内匠大屬 タクミノオホキフミヒト。神龜五年八月、始めて内匠寮を置く。頭一人、助一人、大允一人、(152)少允二人、大屬一人、少屬二人である。中務省に屬し、工匠技術の事をつかさどり、公事の鋪設等をも兼ね行う。
 設飲饌 ヲシモノヲマケテ。飲は酒、饌は食物。
 長官佐爲王 カミサヰノオホキミ。長官は、内匠寮の頭であることをいう。佐爲の王は、美努《みの》の王の子、橘諸兄の弟、和銅七年正月、無位から從五位の下、養老五年正月、從五位の上、同月、佐爲の王等十六人に詔して退朝の後、東宮に侍せしめられた。天平八年十一月、姓橘の宿禰を賜い、橘の宿禰佐爲と稱した。九年八月、中宮の大夫兼右兵衛の率《かみ》正四位の下をもつて卒した。
 未及日斜 イマダヒノクタツニイタラズシテ。夕方にならないで。
 怜惜不※[厭のがんだれなし]之歸 アカズシテカヘルヲヲシミテ。不厭は、十分に歡を盡さないのをいう。怜惜は、怜は感動するをいう。ひどく殘念に感じて。
 
八年丙子夏六月、幸2于芳野離宮1之時、山部宿祢赤人應v詔作歌一首并2短歌1
 
八年丙子の夏六月、芳野の離宮に幸でましし時、山部の宿禰赤人の、詔に應へて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】八年丙子夏六月 ヤトセヒノエネノナツミナツキ。天平八年。
 幸于芳野離宮之時 ヨシノノトツミヤニイデマシシトキ。續日本紀、天平八年の條に、「六月乙亥(二十七日)行2幸(ス)芳野離宮(ニ)1。秋七月庚寅(十三日)車駕還(ル)v宮(ニ)」とある。赤人の作品中、これが年月のあきらかな最後である。
 
(153)1005 やすみしし わが大王の
 見《め》したまふ 芳野の宮は、
 山高み 雲ぞ棚引《たなび》く。
 河|速《はや》み 瀬《せ》の音《おと》ぞ清き。」
 神《かむ》さびて 見れば貴く、
 宜《よろ》しなへ 見れば清《さや》けし。」
 この山の 盡《つ》きばのみこそ、
 この河の 絶えばのみこそ、
 ももしきの 大宮處《おほみやどころ》
 止《や》む時もあらめ。
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 我大王之《ワガオホキミノ》
 見給《メシタマフ》 芳野宮者《ヨシノノミヤハ》
 山高《ヤマタカミ》 雲曾輕引《クモゾタナビク》
 河速弥《カハハヤミ》 湍之聲曾清寸《セノオトゾキヨキ》
 神佐備而《カムサビテ》 見者貴久《ミレバタフトク》
 宜名倍《ヨロシナヘ》 見者清之《ミレバサヤケシ》
 此山乃《コノヤマノ》 盡者耳社《ツキバノミコソ》
 此河乃《コノカハノ》 絶者耳社《タエバノミコソ》
 百師紀能《モモシキノ》 大宮所《オホミヤドコロ》
 止時裳有目《ヤムトキモアラメ》
 
【譯】八方を知ろしめす天皇陛下の、御覧遊ばされる芳野の宮は、山が高くして雲が棚引いております。川の流れが早くして瀬の音が清らかであります。神威を感じて見れば貴く、よい都合に見ればさやかであります。この山のなくなる時ばかり、この川の絶える時ばかり、この大宮處の止む時もあるでしよう。
【構成】三段から成つている。瀬ノ音ゾ清キまで第一段、芳野の宮の山川を敍する。見レバサヤケシまで第二段、山川の貴く清くあることを敍する。以下第三段、その山川につけて、大宮所の永久であることを祝う。
【釋】見給 メシタマフ。メシは見ルの敬語。タマフは敬語の助動詞。
 雲曾輕引 クモゾタナビク。輕引は、山に雲の懸かつた樣を寫している。句切。
(154) 湍之聲曾清寸 セノオトゾキヨキ。川の流れが速かであつて、瀬に激する音が清らかに聞える。句切。
 神佐備而見者貴久 カムサビテミレバタフトク。山について述べている。山が神さびてあり、それを見れば貴く思われるのである。
 宜名倍 ヨロシナヘ。既出(卷一、五二)。よろしいさまにで、よい有樣に、好都合にの意をなすのであろう。ここは川についていい、見レバを修飾する。
 見者清之 ミレバサヤケシ。川についていう。句切。
 此山乃盡者耳社 コノヤマノツキバノミコソ。上の山の敍述を受けている。ツキバは盡きてなくなることを豫想している。
 此河乃絶者耳社 コノカハノタエバノミコソ。タエバは、川の流れの絶えることを豫想している。
 大宮所 オホミヤドコロ。離宮をいう。大宮の地の義であるが、大宮そのものをいう。
 止時裳有目 ヤムトキモアラメ。上の、盡キバノミコソ、絶エバノミコソの二條件を受けて結んでいる。結局やむ時のないことを述べて祝意を表している。
【評語】赤人としては、むしろ晩年の作に屬するのだろう。芳野の山と川とによつて祝意を述べている進行法は巧みだが、山や川の描寫がなく、概念的な敍述に過ぎないのは力が弱い。
 
反歌一首
 
1006 神代より 芳野の宮に あり通《がよ》ひ
 高知《たかし》らせるは
(155) 山河をよみ。
 
 自2神代1《カミヨヨリ》 芳野宮尓《ヨシノノミヤニ》 蟻通《アリガヨヒ》
 高所v知者《タカシラセルハ》
 山河乎吉三《ヤマカハヲヨミ》
 
【譯】神代から芳野の宮に通つて、御領有になつているのは、山川のよい故であります。
【釋】自神代 カミヨヨリ。はるかな古代からの意に言つている。
 蟻通 アリガヨヒ。ありつつ通つて。
 高所知者 タカシラセルハ。壯大に御領有になるのは。離宮を造營しておいでになるのをいう。
 山河乎吉三 ヤマカハヲヨミ。神代から高知らせる理由を述べている。山河をよみとてなりの意。
【評語】概念的に述べていて、赤人の特色の自然描寫がない。長歌と共に物足りなさが感じられる作である。
 
市原王、悲2獨子1歌一首
 
【釋】悲獨子歌 ヒトリゴヲカナシムウタ。市原《いちはら》の王が、父の安貴《あき》の王のただ一人の御子であることを悲しまれた歌。從來市原の王の子が、ただ一人のみであつたのを悲しまれたとする説が多かつた。續日本紀天應元年二月の條に、「丙午三品能登(ノ)内親王薨(ズ)。内親王(ハ)天皇之女也。適(ギ)2正五位(ノ)下市原(ノ)王(ニ)1、生(ム)2五百井(ノ)女王五百枝(ノ)王(ヲ)1。薨(レル)時年四十九」とあり、能登《のと》の内親王の年齡は、この歌の詠まれた天平八年には四歳である。市原の王も、天平十五年に無位から從五位の下に敍せられているから、この時はまだ若年であつて、その子の獨子を歎ぜられるはずはない。
 
1007 言《こと》問《と》はぬ 木すら妹《いも》と兄《せ》
 ありといふを
(156) ただ獨子《ひとりご》に あるが苦しさ。
 
 言不v問《コトトハヌ》
 有云乎《アリトイフヲ・アリトフヲ》
 木尚妹與兄《キスライモトセ》
 直獨子尓《タダヒトリゴニ》 有之苦者《アルガクルシサ》
 
【譯】物を言わない木ですら兄弟があるというのに、わたしはただ獨子であるのが、心苦しいことです。
【釋】言不問木尚妹與兄 コトトハヌキスライモトセ。物を言わない木にも、女性男性がある。すなわち夫婦があるというのが原義で、そういう諺のあるのを轉用して、ここでは兄弟の關係に引いたのであろう。イモトセは、女子と男子。木に女性男性があるというのは、樹種によつて雌木雄木があるのをいうのだろう。古人はよく自然を見るから、そのくらいのことは、ただちに感得する。
 有云乎 アリトイフヲ。世間でいう、諺にいうの意。ヲは、然るにの意を含む。
 直獨子尓 タダヒトリゴニ。タダは、外のことではなく、これによるの意をいう。獨子は、一人きりの子。「秋〓子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》 一子二《ヒトリゴニ》 子持有跡五十戸《コモテリトイヘ》」(卷九、一七九〇)。
 有之若者 アルガクルシサ。クルシサは、心苦しいのである。
【評語】父のものさびしさを案じた作者の純情がよく窺われる。作者の人がらも見えて美しい歌である。
 
忌部首黒麻呂、恨2友〓來1歌一首
 
忌部《いみべ》の首《おびと》黒麻呂の、友の〓《おそ》く來るを恨むる歌一首。
 
【釋】忌部首黒麻呂 イミベノオビトクロマロ。天平寶字二年八月に、正六位の上から外の從五位の下、三年十二月に連の姓を賜わる。六年正月に、内史局の助となつている。卷の十六に夢の裏《うち》に作れる歌(三八四八)がある。
 恨友〓來歌 トモノオソクキタルヲウラムルウタ。〓は、音シヤ。遲緩の義。もと買物の價を拂うことの遲いのをいう字。
 
(157)1008 山の端《は》に いさよふ月の
 出でむかと わが待つ君が、
 夜はくたちつつ。
 
 山之葉尓《ヤマノハニ》 不知世經月乃《イサヨフツキノ》
 將v出香常《イデムカト》 我待君之《ワガマツキミガ》
 夜者更降管《ヨハクタチツツ》
 
【譯】山の端にためらつている月の出るだろうかと待つている。そのようにわたしの待つているあなたがお見えにならないで、夜はふけて行きます。
【釋】山之葉尓 ヤマノハニ。ヤマノハは、月の出るところ。
 不知世經月乃 イサヨフツキノ。イサヨフは、躊躇しためらうのをいう。
 將出香常我待君之 イデムカトワガマツキミガ。ワガマツは、月の出でむかと待つと、君を待つとを懸けている。
 夜者更降管 ヨハクタチツツ。この下に來ぬことよの如き意の句が略されている。
【評語】月の出を待つのに懸けて言つたのは趣向だが、表現が不十分で、ごたごたしている。歌作に慣れないゆえであろう。「山のはにいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞくたちける」(卷七、一〇七一)があり、それによつてこの歌を作つているのだろう。
 
冬十一月、左大辨葛城王等、賜2姓橘氏1之時、御製歌一首
 
冬十一月、左の大辨葛城の王等に、姓|橘《たちばな》の氏を賜ひし時、御製の歌一首。
 
【釋】冬十一月 フユシモツキ。天平八年の十一月である。
 左大辨 ヒダリノオホキトモヒ。左大辨は、中務式部治部民部を管掌し、庶事を受付し、宮内を糺判し、文(158)案を暑する等のことにあずかる。
 葛城王 カヅラキノオホキミ。敏達天皇の曾孫。祖父は栗隈《くりくま》の王、父は美努《みの》の王。天平八年十一月、上表して姓橘の宿禰を賜わつて、橘の諸兄《もろえ》といい、累進して正一位左大臣に至り、天平寶字元年正月乙卯、薨じた。
 御製歌 オホミウタ。聖武天皇の御製である。但し左註に太上天皇の御歌とあるによれば、元正天皇である。
 
1009 橘は 實《み》さへ花さへ その葉さへ、
 枝《えだ》に霜降れど
 いや常葉《とこは》の樹。
 
 橘花者《タチバナハ》 實左倍花左倍《ミサヘハナサヘ》 其葉左倍《ソノハサヘ》
 枝尓霜雖v降《エダニシモフレド》 益常葉之樹《イヤトコハノキ》
 
【譯】橘は、實も花も、その葉までも、枝に霜が降つても、いよいよ常緑の木だ。
【釋】橘者 タチバナハ。タチバナは、外來植物で、垂仁天皇の崩後、田道間守《たじまもり》が大陸から持ち來つたと傳えられている。他の果實のない時期に熟するので珍重された。ここでは、葛城の王等に賜う姓にちなんで、これを提示している。
 實左倍花左倍其葉左倍 ミサヘハナサヘソノハサヘ。サヘを重ねて、これもあれもという意を表示している。
 枝尓霜雖降 エダニシモフレド。冬が來てもの意に、條件を插入している。
 益常葉之樹 イヤトコハノキ。常葉は、續日本紀養老五年十月の條に、太上天皇の詔を載せて「其(ノ)地(ノ)者、皆殖(ウ)2常葉之樹《トコハノキヲ》1」とあつて、四時葉のあるをいう。常緑木である。「宇良賀禮勢那奈《ウラガレセナナ》 登許波爾毛我母《トコハニモガモ》」(卷十四、三四三六)のトコハはこれである。イヤは、いよいよ常緑樹として榮える意である。
【評語】全體が譬喩でできている。橘樹の性質を歌つたものであるが、非常に調子良く、歌いものとして適している。御宴の席上で吟誦されたものであろう。
 
右冬十一月九日、從三位葛城王、從四位上佐爲王等、辭2皇族之高名1、賜2外家之橘姓1已訖。於v時太上天皇々后、共在2于皇后宮1、以爲2肆宴1而即御2製賀v橘之歌1、并賜2御酒宿称等1也。
或云、此歌一首、太上天皇御歌。但天皇々后御歌、各有2一首1者、其歌遺落、未v得2探求1焉。今※[手偏+僉]2案内1、八年十一月九日、葛城王等願2橘宿祢之姓1上v表、以2十七日1依2表乞1賜2橘宿祢1。
 
右は、冬十一月九日、從三位葛城の王、從四位の上|佐爲《さゐ》の王等、皇族の高名を辭して外家の橘の姓を賜ふこと已《すで》に訖《をは》りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后の宮にありて肆宴《とよのあかり》をきこしめし、すなはち橘を(160)賀《ほ》く歌をよみたまひ、并はせて御酒《みき》を宿禰等に賜ひき。或るは云ふ、この歌一首は、太上天皇の御歌なり。但し天皇皇后の御歌各一首ありといへれば、その歌遺落していまだ探り求むることを得ず。今案内を※[手偏+僉]《かむか》ふるに、八年十一月九日、葛城の王等、橘の宿禰の姓を願ひて表を上《たてまつ》る。十七日をもちて、表の乞によりて、橘の宿禰を賜ひきといへり。
 
【釋】辭皇族之高名賜外家之橘姓 オホミヤカラノタカキナヲヤメテ、ハハカタノタチバナノカバネヲタマフ。この句は、その時の詔勅の文によつている。外家の橘の姓は、葛城の王等の母は、縣《あがた》の犬養の宿禰|東人《あずまひと》の女三千代であるが、三千代は、和銅元年十一月、元明天皇の大嘗祭の御儀に侍して、二十五日の御宴に橘を浮かべた御盃を賜わり、橘の宿禰の姓を賜わつた。葛城の王等は、今その母の賜姓を賜わろうと乞うたのである。
 太上天皇々后 オホキスメラミコトオホキサキ。元正天皇と光明皇后。
 御製賀橘之歌 タチバナヲホクウタヲヨミタマヒ。御製は、ここでは動詞として使用している。
 ※[手偏+僉]案内 アナイヲカムカフルニ。案内は、役所内の記録。事務に便するために、諸事を記し留めておくもの。
 上表 フミヲタテマツル。この時の上表文は續日本紀に載つている。今次にこれを載せる。
【參考】臣下に降つて橘の姓を賜わらむことを乞う上表。
  臣葛城等|言《まを》さく、去る天平五年、故《もと》の知太政官事一品舍人《ちだいじやうぐわんじいちぼんとねり》の親王、大將軍一一品|新田部《にたべ》の親王、勅を宣りて曰ひしく、聞くならく、諸王等、臣|連《むらじ》の姓を賜はりて朝廷《みかど》に供《つか》へまつらむと願ふといへり。このゆゑに王等を召してその状を問はしむといへれば、臣葛城等、本よりこの情を懷けども、上達するに由なかりき。幸に恩勅に遇ひ、昧死《まいし》して聞ゆ。昔者《むかし》、輕《かる》の堺原《さかひはら》の大宮に天の下知らしめしし天皇(宣化)の曾孫|建内《たけしうち》の宿禰、君に事《つか》ふる忠を盡くし、人臣の節を致し、はじめて八氏の祖となり、永く萬代の基を遺《のこ》しき。これよりこのかた、姓を賜ひ氏に命《なづ》くること、或るは眞人、或るは朝臣、源は王家に始まり、流れて臣民に終ふ。飛鳥の淨(161)御原《きよみはら》の大宮に大八洲《おほやしま》知らしめしし天皇(天武)、徳は四海を覆ひ、威は八荒に震《ふる》ふ。欽明文思、天を經《たて》とし地を經《よこ》としたまふ。太上天皇(元明)、内は四徳を脩《をさ》め、外は萬民を撫《な》でたまふ。化は翅鱗に及び、澤は草木に被《かかふ》る。後の太上天皇(元正)、先軌を改むることなく、守りて違はず。率土清靜にして、民以ちて寧一なり。時に、葛城の親母、贈從一位|縣《あがた》の犬養の橘の宿禰、上は淨御原《きよみはら》の朝庭《みかど》を歴《へ》、下は藤原の大宮に逮《およ》ぶ。君に事《つか》へて命を致し、孝を移して忠とす。夙夜《しゆくや》に勞を忘れ、累代力を竭《つく》しき。和銅の元《はじめ》の年十一月二十一日、國を擧ぐる大嘗《おほにへ》に供《つか》へまつる。二十五日の御宴に、天皇、忠誠の至りを誉《ほ》めて、杯に浮かべる橘を賜ひ、勅りたまひしく、橘は、果子の長上にして、人の好む所、柯《えだ》は霜雪を凌《しの》ぎて繁茂し、葉は寒暑を經て彫《しぼ》まず。珠玉と光を競ひ、金銀に交りていよいよ美し。このゆゑに汝が姓は、橘の宿禰を賜ふとのりたまひき。しかるに今、繼嗣無くは、恐らくは明詔を失せむ。伏して惟《おもひ》みれば皇帝陛下(聖武)、天下に光宅し、八※[土+延]《はちえん》に充塞し、化は海路の通ふ所に被り、徳は陸道の極まる所を蓋《おほ》ふ。方船の貢、府に空しき時なく、河圖《かと》の靈、史、記すことを絶たず。四民業に安みし、萬姓|衢《ちまた》に謳《うた》ふ。臣葛城、幸に時に遭ふ恩を蒙り、濫《みだり》に九卿の末に接《まじは》る。進むるに可否をもちてし、志すところ忠を盡くすにあり。身は絳闕《こうけつ》に隆《さか》え、妻子は家に康《やす》し。それ王の、姓を賜はり氏を定むること、由來《ありけること》遠し。このゆゑに臣葛城等、願はくは橘の宿禰の姓を賜はり、先帝の厚命を戴き、橘氏の殊名を流《つた》へ、萬歳窮まることなく、千葉相傳へむ。(續日本紀、もと漢文)
 
橘宿祢奈良麻呂應v詔歌一首
 
【釋】橘宿祢奈良麻呂 タチバナノスクネナラマロ。諸兄の子。天平十二年五月乙未、天皇、右大臣(諸兄)の相樂《さがらか》の別業に幸し宴飲したまひ、大臣の男無位奈良麻呂に從五位の下を授けられた。その後、累進して左大辨正四位の下に至つたが、天平寶字元年七月|安宿《あすか》の王、黄文《きふみ》の王、小野の東人、大伴の古麻呂等と謀つて惠美《えみ》(162)の押勝《おしかつ》を除こうとして謀もれて獄に下つた。その後消息をあきらかにしないが、多分この時に死んだのであろう。仁明天皇の承和十年八月、詔あつて從三位を贈られ、十四年十月、更に太政大臣正一位を贈られたのは、天皇の御母は、奈良麻呂の孫に當るからであつた。
 
1010 奧山の 眞木《まき》の葉|凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪の、
 ふりは益すとも、
 地《つち》に落ちめやも。
 
 奧山之《オクヤマノ》 眞木葉凌《マキノハシノギ》 零雪乃《フルユキノ》
 零者雖v益《フリハマストモ》
 地尓落目八方《ツチニオチメヤモ》
 
【譯】奥山のりつぱな木の葉をおし伏せて降る雪が、いよいよ降り増さつても、その實は地上に落ちることはございません。
【釋】眞木葉凌 マキノハシノギ。マキは、松杉檜など堂々たる風格の木をいう。シノギは、壓迫して。
 零雪乃 フルユキノ。四句に對して主格を成している。
 零者雖益 フリハマストモ。雪の降ることがいよいよさかんになつても。
 地尓落目八方 ツチニオチメヤモ。橘の實はという主格が略されている。橘氏は、零落しないだろうの意を含んでいる。
【評語】全く譬喩でできている。橘を主格としているが、それを言わないでもよくわかつたのであろう。器用に譬喩を使つているだけの歌だが、雪の敍述のくわしいのが特色である。
 
冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等、集2葛井連廣成家1宴歌二首
 
冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所《うたまひどころ》の諸王臣子等、葛井《ふぢゐ》の連《むらじ》廣成の家に集《つど》ひて宴せる歌二首。
 
(163)【釋】歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等 ウタマヒドコロノオホキミタチオミノコタチ。歌※[人偏+舞]所は、雅樂寮をいう。倭名類聚鈔職官部に「雅樂寮、宇多末比乃豆加佐《ウタマヒノツカサ》」とある。治部省の被管で、文武の雅曲正樂雜樂に關することをつかさどる。諸王臣子等は、本卷九四八の題詞に、諸王諸臣子等とあるに同じ。ここは歌※[人偏+舞]所關係の諸王および臣子をいう。臣子は、臣下のこと。雅樂寮は、本邦固有の歌舞および外來の歌舞をつかさどるが、固有の歌舞は、毎年十一月から翌年正月まで、その演奏が多く、その間、臨時に歌人などを任命する。この歌は十二月とあるから、その人數の多い頃である。後、固有の歌舞に關する方面は、大歌所と稱するに至つたが、この頃はまだ分離している徴證を見ない。
 葛井連廣成 フヂヰノムラジヒロナリ。既出(卷六、九六二)。文雅に通じた才人であり、富裕でもあつたらしいことは、その家に天皇の行幸を迎えたことがあるのでも知られる。
 
比來古※[人偏+舞]盛興、古歳漸晩。理宜d共盡2古情1、同唱c古歌u。故擬2此趣1、輙獻2古曲二節1。風流意氣之士、儻有2此集之中1、爭發v念心々和2古體1。
 
比來《このごろ》古※[人偏+舞]盛りに興りて、古歳|漸《やくやく》に晩《く》れぬ。理宜しく共に古情を盡して、同に古歌を唱《うた》ふべし。故《かれ》この趣に擬へて、輙《すなはち》古曲二節を獻る。風流意氣の士、もしこの集《つどひ》の中にあらば、爭ひて念を發《おこ》し、心々に古體に和《こた》へよ。
 
【釋】比來古※[人偏+舞]盛興 コノゴロフルキマヒサカリニオコリ。一時外來の樂曲を受け入れるに急だつた樂界も、この頃になつて古來のものを顧みる餘裕を生じた。天平六年二月には、天皇朱雀門に御して歌垣をみそなわされ、十五年五月には、皇太子(孝謙天皇)みずから五節を舞われた。これらの事實は、その一端を語るものであろう。ここに古※[人偏+舞]というのは、固有の舞、例えば、倭舞《やまとまい》、筑紫舞、諸縣舞の如きをいう。なおこの文は、葛(164)井の廣成の作で、歌序ともいうべく、古の字を多く使用して文飾としている。
 古歳漸晩 フルキトシヤクヤクニクレヌ。古歳は歳末をいう。十二月で、歳の暮れようとするをいう。
 共盡古情 トモニフルキココロヲツクシテ。古情は、古昔を思う心をいう。
 獻古曲二節 フルキフリフタフシヲタテマツル。古い歌曲の二節を贈る意で、古い曲に合わせて詠んだ歌詞二章をいう。
 風流意氣之士 フリウイキノマスラヲ。風流を解し意氣をたつとぶ男子。風雅人で志氣のすぐれた人。
 心々和古體 ココロゴコロニフルキカタチニコタヘヨ。古曲に擬して作つた廣成の歌に唱和せよ。
 
1011 わが屋戸《やど》の 梅咲きたりと 告げやらば
 來《こ》といふに似たり。
 散りぬともよし。
 
 我屋戸之《ワガヤドノ》 梅咲有跡《ウメサキタリト》 告遣者《ツゲヤラバ》
 來云《コトイフニ・コトフニ》似有《ニタリ》
 散去十方吉《チリヌトモヨシ》
 
【譯】わたしの庭前の梅が咲いたと言つてやつたら、おいでなさいというようだ。そうしたらもう散つてもよい。
【釋】我屋戸之 ワガヤドノ。家におればヤドは家屋の戸のあちらになる。庭前。
 告遣者 ツゲヤラバ。思う人を目標にしている。
 來云似有 コトイフニニタリ。來よというに似ている。句切。
 散去十方吉 チリヌトモヨシ。梅花の咲いている目的は達したのだから散つてよいの意。
【評語】梅花を詠じた歌で、五句に散リヌトモヨシの句を有するものが、歌曲として行われていたであろうと(165)いうことは、既に前に記した所である(卷五、八二一參照)。この歌は廣成自身も古曲と言つているのであつて、そういう歌曲の詞章の替歌のようなものと考えられる。そこにこの歌の調子のよさが生じたのであろう。古今集の、
  月夜よし夜よしと人に告げやらば來《こ》ちふに似たり。待たずしもあらず(古今集戀四、よみ人しらず)
という歌は、この歌に類した發表形式を取り、ただ梅を月に代えただけである。散リヌトモヨシは、媒介に用いた梅に對して放心の状を示し、待タズシモアラズは、云いやつた言に纏綿している。萬葉の歌には、意をもつて言を補うべき、古風なところがあり、古今の歌は、人を待つ心の動搖を巧みに描いている。同型の歌でありながら、別種の趣の生じているのは、五句の相違にもとづくものである。
 
1012 春さらば ををりにををり、
 うぐひすの 鳴くわが山齋《しま》ぞ。
 やまず通はせ。
 
 春去者《ハルサラバ》 乎呼理尓乎呼里《ヲヲリニヲヲリ》
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 鳴吾島曾《ナクワガシマゾ》
 不v息通爲《ヤマズカヨハセ》
 
【譯】春になつたら、枝をたわみにたわませて、ウグイスの鳴くわたしの庭園ですよ。絶えずいらつしやい。
【釋】乎呼理尓乎呼里 ヲヲリニヲヲリ。ヲヲリは、撓むをいう。花が咲キヲヲルと常に用いる語で、その時は、枝がたわむまでに花咲くことである。このヲヲリニヲヲリを、花の咲いた形容とする説もあるが、それは無理で、ウグイスが枝うつりして、枝もたわみにたわんで鳴くと續く語法である。
 鳴吾島曾 ナクワガシマゾ。シマは、庭園、林泉。ゾは終助詞。
 不息通爲 ヤマズカヨハセ。カヨハセは、通フの敬語カヨハスの命令形。
【評語】これも、本歌があるのだろうが、それは傳わらない。客を喜ぶ主人の心がよく出ている。廣成の家は、(166)相當の林泉を有していたのであろう。
 
九年丁丑春正月、橘少卿并諸大夫等、集2彈正尹門部王家1宴歌二首
 
九年丁丑の春正月、橘の少卿并はせて諸大夫等、彈正尹門部の王の家に集ひて宴せる歌二首。
 
【釋】九年丁丑春正月 ココノトセヒノトウシノハルムツキ。天平九年。
 橘少卿 タチバナノワカキマヘツギミ。橘の佐爲。當時從四位の上であつたが、兄の諸兄に對して少卿と云つたのだろう。
 彈正尹 タダスツカサノカミ。彈正臺の長官。彈正臺は、非違《ひい》を糺彈《きゆうだん》し風俗を肅清することをつかさどる。
 門部王 カドベノオホキミ。既出(卷三、三一〇)。後、姓大原の眞人を賜わつて、大原の眞人門部と稱した。
 
1013 あらかじめ
 君|來《き》まさむと 知らませば、
 門《かど》に屋戸《やど》にも 珠《たま》敷《し》かましを。
 
 豫《アラカジメ》
 公來座武跡《キミキマサムト》 知麻世婆《シラマセバ》
 門尓屋戸尓毛《カドニヤドニモ》 珠敷益乎《タマシカマシヲ》
 
【譯】前からあなたがおいでになろうと知つておりましたら、門にも戸口にも、珠を敷きましたものを。
【釋】知麻世婆 シラマセバ。マセは、助動詞マシの未然形。
 門尓屋戸尓毛 カドニヤドニモ。門にも屋戸にもの意であるが、モ一つで兩方を受けている。「蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》 吾羽成奈武《ワレハナリナム》」(卷三、三四八)と同樣の云い方。
 珠敷益乎 タマシカマシヲ。マシヲは、珠を敷いたろうものを、敷かなくて殘念だの意。
【評語】客を待つに珠を敷くという歌は、數首ある。これもその類型を免かれない作である。
(167)【參考】類句、珠敷かましを。
  思ふ人來むと知りせば八重葎《やへむぐら》覆《おほ》へる庭に珠敷かましを(卷十一、二八二四)
  堀江《ほりえ》には珠敷かましを、大君を御船《みふね》漕《こ》がむとかねて知りせば(卷十八、四〇五六)
  葎《むぐら》はふいやしき屋戸《やど》も大君の坐《ま》さむと知らば珠敷かましを(卷十九、四二七〇)
 
右一首、主人門部王 後賜2姓大原眞人氏1也
 
右の一首は、主人門部の王【後に姓大原眞人の氏を賜へり。】
 
【釋】後賜姓大原眞人氏也 ノチニカバネオホハラノマヒトノウヂヲタマヘリ。天平十一年四月に、從四位の上高安の王等に大原の眞人の氏を賜わつている。門部の王は、天平九年十一月に、從四位の下門部の王を右京の大夫とし、天平十四年四月には從四位の下大原の眞人門部に從四位の上を授くとあつて、多分高安と同時に大原の眞人を賜わつたのであろう。
 
1014 前日《をとつひ》も 昨日も今日も 見つれども
 明曰さへ見まく 欲《ほ》しき君かも。
 
前日毛《ヲトツヒモ》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 雖v見《ミツレドモ》
 明日左倍見卷《アスサヘミマク》 欲寸君香聞《ホシキキミカモ》
 
【譯】一昨日も昨日も今日もお逢いしましたが、明日もお逢いしたいあなたですね。
【釋】前日毛 ヲトツヒモ。ヲトツヒは、彼方つ日の義であろう。「乎登都日毛《ヲトツヒモ》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 由吉能布禮々婆《ユキノフレレバ》」(卷十七、三九二四)、「乎登都日毛《ヲトツヒモ》 伎能敷母安里追《キノフモアリツ》」(同、四〇一一)などある。
 明日左倍見卷欲寸君香聞 アスサヘミマクホシキキミカモ。更に逢いたいと思う心を述べている。
【評語】一昨日昨日今日明日と、竝べたてて歌を作つている。しばしば見られる型で、しかもそれ以外には何(168)の特色もない歌である。
 
右一首、橘宿祢文成 即少卿之子也
 
【釋】橘宿祢文成 タチバナノスクネフミナリ。下の註にあるように佐爲の子であろうが、傳未詳。天平勝寶三年正月に、文成の王に甘南備《かむなび》の眞人の姓を賜わるとあり、新撰姓氏録に「甘南備の眞人は、謚敏達の皇子難波の王より出づ」とあるによれば、同祖であり、何かの事情で諸王に復していたのかも知れない。
 
榎井王、後追和歌一首 志貴親王之子也
 
【釋】榎井王 エノヰノオホキミ。下の註にあるように、志貴の皇子の子である。日本後紀、大同元年四月の條に「右大臣從二位神(ノ)王薨(ス)。大臣(ハ)者、田原(ノ)天皇之孫、榎井(ノ)親王之子也」とある。なお續日本紀に、天平寶字六年正月、無位から從四位の下を授けられ、六月、散位從四位の下をもつて卒したと傳える註釋書があるが、今の續日本紀には、これは榎本の王の事となつている。
 
1015 玉敷きて 待たましよりは、
 たけそかに 來たる今夜《こよひ》し
 樂《たの》しく念《おも》ほゆ。
 
 玉敷而待《タマシキテ》 益欲利者《マタマシヨリハ》
 多鷄蘇香仁《タケソカニ》 來有今夜四《キタルコヨヒシ》
 樂所v念《タノシクオモホユ》
 
【譯】珠を敷いて待ちもしたろうよりは、突然來た今夜が、樂しく思われる。
【釋】玉敷而待益欲利者 タマシキテマタマシヨリハ。門部の王の歌詞の珠敷カマシヲを受けて作つている。わたしの來るを前から知つて、珠を敷いて用意をしてもいたろうよりは。マシは假想の助動詞。
(169) 多鶏蘇香仁 タケソカニ。他に用例なく、語義未詳。代匠記に「タケハタケキニテ、ソカハオロソカ、オゴソカナドイフニモ添ヘタル詞ニヤ」とあるのが穩當である。荒木田久老の信濃浸録に、おしかけて凌《しの》ぎ來れる意とし、攷證に、たまさかの詞にかようとし、古義に、不意の謂としている。要するに、オゴソカニ、オロソカニ、ヒソカニ、カソカニなどと同型の副詞と見るべく、タケは、タケシもしくはタケナハのタケで、威壓的、絶頂的な意から、突然、驚かしてなどの意が出るのであろう。
 來有今夜四 キタルコヨヒシ。シは強意。作者自身がきた意である。
 樂所念 タノシクオモホユ。愉快にある情を述べている。
【評語】後ニ追ヒテ和フル歌とあるが、橘の佐爲にかわつて、その心になつて門部の王の歌に答えている。意を盡してはいるが、情趣のない歌である。
 
春二月、諸大夫等、集2左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家1宴歌一首
 
春二月、諸大夫等の、左の少辨巨勢の宿奈麻呂の朝臣の家に集ひて宴せる歌一首。
 
【釋】春二月 ハルキサラギ。天平九年。
 左少辨 ヒダリノスナキトモヒ。太政官に屬し、左大辨、左中辨の下にある。左大辨の條(卷六、一〇〇九題詞)參照。
 巨勢宿奈麻呂朝臣 コセノスクナマロノアソミ。續日本紀に、神龜五年五月、正六位の上から外の從五位の下に、天平元年二月、少納言、三月、從五位の下、五年三月、從五位の上になつたことが傳えられる。この歌の作歌事情は、左註にあきらかで、蓬莱の仙媛が歌つたようになつている。
 
(170)1016 海原の 遠き渡《わたり》を、
 遊士《みやびを》の みやびを見むと、
 なづさひぞ來《こ》し。
 
 海原之《ウナハラノ》 遠渡乎《トホキワタリヲ》
 遊士之《ミヤビヲノ》 遊乎將v見登《ミヤビヲミムト》
 莫津左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》
 
【譯】海上の遠いあいだを、風流人の風流を見ようと思つて骨をおつて來ました。
【釋】海原之遠渡乎 ウナハラノトホキワタリヲ。仙人の住んでいる蓬莱山は、海上にあるとする思想から、今海を遠く越えてきたとする。ワタリは、通過すべき場處。
 遊士之 ミヤビヲノ。ミヤビヲは、宮廷ふうの男の義で、文雅を解する人。「遊士跡《ミヤビヲト》 吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》 屋戸不v借《ヤドカサズ》 吾乎還利《ワレヲカヘセリ》 於曾閑風流士《オソノミヤビヲ》」(卷二、一二六)、「遊士之《ミヤビヲノ》 飲酒杯爾《ノムサカヅキニ》 陰爾所v見管《カゲニミエツツ》」(卷七、一二九五)、「※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 頭插乃多米爾《カザシノタメニ》 遊士之《ミヤビヲガ》 ※[草冠/縵]之多米等《カヅラノタメト》」(卷八、一四二九)。ここに集まつている人々をいう。
 遊乎將見登 ミヤビヲミムト。ミヤビは、風流文雅の事。具體的に言えば、詩歌文章を作り音樂を演奏するなどのこと。
 莫津左比曾來之 ナヅサヒゾコシ。ナヅサフは、水の抵抗を排して進行するをいい、水鳥、船、網などに使う。ここは蓬莱の仙媛が海を渡つてきたので、勞してきた意に使用している。
【評語】仙人思想を貴び、宮廷ぶりの生活を樂しんでいた當時の風潮が窺われる。構想もあり、相當の文人であつたと見える。
 
右一首、書2白紙1懸2著屋壁1也。題云、蓬莱仙媛所v化嚢※[草冠/縵]、爲2風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉。
 
(171)右の一首は、白紙に書きて屋の壁に懸け著けたり。題していはく、蓬莱の仙媛の化《な》れる嚢※[草冠/縵]《ふくろかづら》なり。風流秀才の士のためにす。こは凡客に望み見らえざらむかといふ。
【釋】題云 シルシテイハク。白い紙に以下の文が題してあつたというのである。
 蓬莱仙媛 トコヨノヤマヒメ。中國の傳説に、蓬莱山は、東海の中にあつて、仙人が住んでいるという。トコヨは常世で、恒久不變の思想國をいい、仙人思想が入り來るに及んで、仙郷と結んで、これをいうようになつた。仙媛は女子の仙人。
 所化嚢※[草冠/縵] ナレルフクロカヅラナリ。仙媛が器物などにばけることは例がある。嚢※[草冠/縵]はいかなるものか、未詳。※[草冠/縵]は蔓性植物を輪にして頭髪の上に戴くを原義とするので、特にその嚢のようのものをいうか。その物を作つて、同じく屋壁に懸けてあつたのだろう。
 凡客不所望見哉 タダビトニノゾミミラエザラムカトイフ。世常の人、風流人にあらざる人には見えないだろうか。トイフは、上の題云を受けて補い讀む。類聚名義抄、凡俗にタダビトの訓がある。
 
夏四月、大伴坂上部女、奉v拜2賀茂神社1之時、便超2相坂山1、望2見近江海1而晩頭還來作歌一首
 
夏四月、大伴の坂上の郎女、賀茂の神社を拜みまつりし時、すなはち相坂《あふさか》山を超え、近江の海を望み見て、晩頭《ひのくれ》に還り來て作れる歌一首。
 
【釋】夏四月 ナツウヅキ。天平九年。
 賀茂神社 カモノモリ。京都市鎭座の賀茂の別雷神社と賀茂の御祖神社。共に天武天皇の六年に創建されたと傳える。四月中旬に祭を行うので、作者は、その際に參拜したのだろう。
(172) 相坂山 アフサカヤマ。京都府と滋賀縣との堺を成している山。 望見近江海 アフミノウミヲノゾミミテ。相坂山の上から琵琶湖を遠望したのであろう。
 晩頭 ヒノクレニ。夕暮に同じ。頭は助辭。
 
1017 木綿疊《ゆふだたみ》 手向《たむけ》の山を 今日越えて  
 いづれの野邊に 廬《いほり》せむ、吾等《われ》。
 
 木綿疊《ユフダタミ》 手向乃山乎《タムケノヤマヲ》 今日越而《ケフコエテ》
 何野邊尓《イヅレノノベニ》 廬將v爲吾等《イホリセムワレ》
 
【譯】木綿の疊を持つて手向の祭をする山を今日越えて、何處の野邊に廬をしましようか、わたしたちは。
【釋】木綿疊 ユフダタミ。枕詞。木綿で編んだ疊。祭は、それを手に持つて行うので、手もしくは手向に冠している。「木綿疊《ユフダタミ》 手取持而《テニトリモチテ》」(卷三、三八〇)は枕詞でなく、實際である。「木綿疊《ユフダタミ》 田上山之《タナカミヤマノ》 狹名葛《サナカヅラ》(卷十二、三〇七〇)、「木綿牒《ユフダタミ》 手向乃山乎《タムケノヤマヲ》 明日香越將v去《アスカコエナム》」(同、三一五一)は枕詞。
 今日越而 ケフコエテ。あちらへ越さないで、戻つてきたのであろう。
 何野邊尓廬將爲吾等 イヅレノノベニイホリセムワレ。日暮に廬すべき野邊を求める心である。
【評語】相坂山から歸つて、日暮に及んで旅の心ぼそさを詠んでいる。類型的な内容であり、先行の歌があつて口をついて出たのであろう。
 
十年戊寅、元興寺之僧自嘆歌一首
 
【釋】十年戊寅 トトセツチノエトラ。天平十年。
 元興寺之僧 グワニゴジノホフシ。元興寺は既出。奈良の元興寺である。
 自嘆歌 ミヅカラナゲクウタ。作歌の事情は、左註にあきらかである。
 
(173)1018 白珠《しらたま》は 人に知らえず。
 知らずともよし。
 知らずとも、
 吾し知れらば 知らずともよし。
 
 白珠者《シラタマハ》人尓不v所v知《ヒトニシラエズ》
 不v知友縱《シラズトモヨシ》
 雖v不v知《シラズトモ》
 吾之知有者《ワレシシレラバ》 不v知友任意《シラズトモヨシ》
 
【譯】白珠は、人に知られないが、人は知らないでもよい。人は知らないでも、自分が知つていたら、人は知らないでもよい。
【釋】白珠者 シラタマハ。シラタマは、眞珠をいうこともあるが、ここは美玉の意である。
 人尓不所知 ヒトニシラエズ。その價値を人に知られないの意。句切。
 不知友縱 シラズトモヨシ。人はの主語が略してある。上の白珠ハが、ここまで懸かると見ると惑うのである。句切。
 雖不知 シラズトモ。知ラズトモヨシを受けている。
 吾之知有者 ワレシシレラバ。上のシは強意の助詞。シレラバは、知レリの未然條件法。
 不知友任意 シラズトモヨシ。第三句を繰り返している。
【評語】旋頭歌で、全體譬喩でできている。一身の才智を白珠に譬えているのは、卞和《べんか》の故事によつているであろう。才能を抱いて、しかも遇せられざる嘆きは、いつの代にもあることで、同情もされるが、みずから知つていればそれでよいとなしたところに、この僧の貴いものがある。人に知られないということは、才能そのものにおいては、問題ではないが、世を益するという立前からいえば、知られないことは歎かわしい。この僧も多分若かつたであろうから、この嘆きをしたのも無理はない。僧中に才能あるものを見ると、還俗《げんぞく》せしめて(174)登庸した時代の次を承けて、僧形のままで國家から重く見られ、社會的に勢威を振おうとしつつあつた時代である。そういう時代を念頭において、この歌を讀んで見るがよい。歌は、同音を利用して、吟誦によくできている。
 
右一首、或云、元興寺之僧、獨覺多智、未v有2顯聞1、衆諸押侮、因v此僧作2此歌1、自嘆2身才1也。
 
右の一首は、或るは云はく、元興寺の僧《ほふし》、ひとり覺《さ》めて智《さとり》多けれども、いまだ顯聞するところあらず、衆諸押し侮《あなづ》りき。これによりて僧、この歌を作りて、みづから身の才を嘆くなりといふ。
 
【釋】衆諸押侮 モロビトオシアナヅリキ。致證に押は狎に通じて用いられているという。狎侮は熟語で、漢籍に例が多い。ここには押のまま國語の逐字譯と見ておく。
 
石上乙麻呂卿、配2土左國1之時歌三首并2短歌1
 
石上の乙麻呂の卿の、土左の國に配《なが》さえし時、作れる歌三首【短歌并はせたり。】
 
【釋】石上乙麻呂卿 イソノカミノオトマロノマヘツギミ。既出(卷三、二八七)。左大臣石上の麻呂の第三子である。神龜元年二月、正六位の下から、從五位の下になつたのを初めとし、名家の子として、才氣|頴秀《えいしゆう》、官位しきりに進んだが、天平十一年三月、久米《くめ》の若賣《わかめ》に※[(女/女)+干]《たわ》くるによりて、土佐の國に流された。續日本紀にこれを記して、「石上(ノ)朝臣乙麻呂、坐(シ)v※[(女/女)+干]《タハクルニ》2久米(ノ)連|若賣《ワカメニ》1配2流(シ)土左(ノ)國(ニ)1、若賣(ハ)配(サル)2下總(ノ)國(ニ)1焉」とある。萬葉集に天平十年の條に收めているのは、どういう事かわからない。久米の若賣は、天平十二年六月の大赦で、京に入るを許されたが、乙麻呂は、十三年九月の大赦で許されたらしい。若賣については、續日本紀、寶龜十一年六月の條(175)に「散位從四位(ノ)下久米(ノ)連若女卒(ス)、贈右大臣從二位藤原(ノ)朝臣宮川之母也」とあるから、藤原の宇合の妻である。百川は天平四年の生れだから、天平十一年には八歳になる。宇合は、天平九年八月に薨じ、若賣は若後家となつて、多分宮中に奉仕し、そこで乙麻呂との問題を生じたのだろう。乙麻呂には、土佐にあつた間の詩を録して、〓悲藻《かんひそう》二卷があつたというが、それは今傳わらない。乙麻呂の詩は、懷風藻に四首を載せている。十三年九月の大赦に、乙麻呂も赦されて入京したものなるべく、爾來官位進んで、天平勝寶二年九月に、中納言從三位兼中務の卿をもつて薨じた。
 配土左國之時歌 トサノクニニナガサエシトキノウタ。前項參照。初めの二首は、乙麻呂以外の人、乙麻呂の妻などの作のようにし立ててある。これは乙麻呂自身の構成のように思われる。なお各歌の評語の條に述べる。
 
1019 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の尊《みこと》は、
 手弱女《たわやめ》の 惑《まどひ》に縁《よ》りて、
 馬《うま》じもの 繩《なは》取り附け、
 鹿猪《しし》じもの 弓矢《ゆみや》圍《かく》みて、
 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み、
 天離《あまざか》る 夷邊《ひなべ》に退《まか》る。」
 古衣《ふるごろも》 又打《まつち》の山ゆ
 還《かへ》り來ぬかも。」
 
 石上《イソノカミ》 振乃尊者《フルノミコトハ》
 弱女乃《タワヤメノ》 惑尓縁而《マドヒニヨリテ》
 馬自物《ウマジモノ》 繩取附《ナハトリツケ》
 肉自物《シシジモノ》 弓笶圍而《ユミヤカクミテ》
 王《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》
 天離《アマザカル》 夷部尓退《ヒナベニマカル》
 古衣《フルゴロモ》 又打山從《マツチノヤマユ》
 還來奴香聞《カヘリコヌカモ》
 
(176)【譯】石上の乙麻呂樣は、婦人に迷つたために、馬のように繩を懸けられて、獣のように弓矢で圍まれて、勅命によつて、遠い田舍へ出て行く。古い着物をまた打つ、その眞土山を通つて歸つて來ないかなあ。
【構成】二段から成つている。夷邊ニマカルまで第一段、乙麻呂が流罪に處せられて都から出ることを敍す。以下第二段、歸つて來ないかの希望を述べる。
【釋】石上振乃尊者 イソノカミフルノミコトハ、乙麻呂をさしている。その氏を石上というので、これを冠して布留ノ尊ハと云つている。布留は、石の上という土地の中の小地名で、石の上布留と云い慣わしたもの。ここには乙麻呂その人を布留の尊というので、乙麻呂の別名ではない。尊は、尊稱。石上氏は、石の上の地を本居とし、そこに住んでいたので振の尊と云つたのだろう。
 弱女乃或尓縁而 タワヤメノマドヒニヨリテ。久米の若賣に通じたことをいう。マドヒは、婦人に惑溺《わくでき》したことをいう。
 馬自物 ウマジモノ。枕詞。馬には繩をかけるので、次句に冠する。
 繩取附 ナハトリツケ。罪人として繩を身にかけたのをいう。以下都から流される時の描寫である。
 肉自物 シシジモノ。枕詞。シシは鹿猪の類をいう。
 弓笶圍而 ユミヤカクミテ。武士たちに護衛されて。
 王命恐 オホキミノミコトカシコミ。流罪の勅命を恐れ承わつて。
 天離 アマザカル。枕詞。
 夷部尓退 ヒナベニマカル。ヒナベは、夷の地方。マカルは、京から退出する。句切。以上第一段。
 古衣 フルゴロモ。枕詞。著古した衣服は、解いて洗つて固くなるからまた打つてやわらかにするので、マツチに冠する。
(177) 又打山從 マツチノヤマユ。又打はマツチ(マタウチの約言)の假字。土佐の國は南海道なので、奈良から紀伊の國に出て、和歌山市の南方大崎から出船するので、途中眞土山を越えるのである。ユはその山を通つて。
 還來奴香聞 カヘリコヌカモ。ヌカモは、打消の詠嘆で、希望の意を生ずる。
【評語】乙麻呂以外の人の作のように構成されているが、流される姿の描寫など、どうも自嘲の氣分に滿ちている。作者自身の名を初めに提示するのは、古事記上卷、八千矛ノ神ノ命ハ云々の歌があり、歌いものの骨法を受けている。自分を物語中の人物のように敍して、客觀性を與えた作と見なされる。特殊の境涯を敍した作だけに、一般の作とは變わつた趣のある歌となつた。
 
1020 おほきみの 命《みこと》恐《かしこ》み、
 さし竝《なら》ぶ 國に出でますや
 わが夫《せ》の君を、
1021 懸《か》けまくも ゆゆし恐《かしこ》し。
 住吉《すみのえ》の 現人神《あらひとがみ》、
 船《ふな》の舳《へ》に 領《うしは》きたまひ、
 著《つ》きたまはむ 島の埼埼《さきざき》、
 寄りたまはむ 礒《いそ》の埼埼《さきざき》、
 荒き浪 風に遇《あ》はせず、
 草《くさ》つつみ 疾《やまひ》あらせず、
(178) 急《すむや》けく 還したまはね。
 本《もと》つ國邊《くにべ》に。
 
 王《オホキミノ》 命恐見《ミコトカシコミ》
 刺竝《サシナラブ》 國尓出座耶《クニニイデマスヤ》
 吾背乃公矣《ワガセノキミヲ》
 繋卷裳《カケマクモ》 湯々石恐石《ユユシカシコシ》
 住吉乃《スミノエノ》 荒人神《アラヒトガミ》
 船舳尓《フナノヘニ》 牛吐賜《ウシハキタマヒ》
 付賜將《ツキタマハム》 島之埼前《シマノサキザキ》
 依賜將《ヨリタマハム》 礒乃埼前《イソノサキザキ》
 荒浪《アラキナミ》 風尓不v令v遇《カゼニアハセズ》
 草管見《クサツツミ》 身疾不v有《ヤマヒアラセズ》
 急《スムヤケク》 令v變賜根《カヘシタマハネ》
 本國部尓《モトノクニベニ》
 
【譯】勅命を恐れ承わつて、竝んでいる國においでになる夫の君を、申そうも恐れ多い住吉の人とあらわれる神樣、船の舳に御座ましまし、お著きになる島の埼毎に、お寄りになる礒の埼毎に、荒い浪や風に逢わせずに、災難もなく病氣もなく、すみやかにお歸しください。もとの國の方に。
【構成】段落はなく、全篇一文でできている。仙覺本は、吾背乃公矣までを一首とし、以下を別の歌として取り扱つた。國歌大觀は寛永版本によつたのでこれを踏襲し前者(179)に一〇二〇、後者に一〇二一の番號をつけたのである。本居宣長が、ある人の説として、これを續けて一首とする説を出してから、舊に復した。但しその説は、國尓出座の下に脱字ありとしたのだが、これは從いかねる。
【釋】刺竝 サシナラブ。枕詞。竝んでいる意で隣に冠するが、ここは國が竝んでいる意に、國に冠している。
 國尓出座耶 クニニイデマスヤ。クニは土佐の國。ヤは感動の助詞で、連體形。次のワガ夫ノ君を修飾する。
 吾背乃公矣 ワガセノキミヲ。次の句以下の文に對して、客語格になつているが、句の意は、わが夫の君なるがの如き意を有している。
 繋卷裳湯々石恐石 カケマクモユユシカシコシ。插入文で、住吉の荒人神を説明している。
 住吉乃荒入神 スミノエノアラヒトガミ。住吉の神は、底筒《そこつつ》の男《お》の命、中筒《なかつつ》の男《お》の命、表筒《うわつつ》の男《お》の命。アラヒトガミは、現人神で、人とあらわれる神をいう。日本書紀景行天皇の卷に「王《みこ》對《こた》へたまはく、吾は現人神《あらひとがみ》の子なり」。雄略天皇の卷に、「現人之神《あらひとがみ》、まづ王《きみ》の諱《みな》をなのれ、然る後に道《い》ふべし」などある。住吉の神は現形《げんぎよう》する神として信じられていた。攝津國風土記に「住吉といふゆゑは、昔、息長帶比賣《おきながたらしひめ》の天皇(神功皇后)の世に、住吉の大神現われ出て天の下を巡行して住むべき國を覓《もと》めたまひし時に、沼名椋《ぬなくら》の長岡の前《きき》に到りて謂《の》りたまひしく、こは實《まこと》に住むべき國なりとのりたまひて、遂に讃め稱へてま住吉《すみのえ》、住吉の國と云ひてよりて神の社を定めたまひき。今の俗《よひと》、略きて直に須美乃叡《すみのえ》といふ」(釋日本紀の引くところ。もと漢文)とあり、住吉大社神代紀、伊勢物語にも現形のことが見える。
 船舳尓牛吐賜 フナノヘニウシハキタマヒ。好去好來歌(卷五、八九四)の「船舳爾」に自註して「反して布奈能閉爾《ふなのへに》と云ふ」とある。ウシハキも同じ歌に出ている。占據する意である。
 付賜將 ツキタマハム。將の字は、上に返つて讀むように書くのが通例だが、かように助動詞ムに當てて下に書く例もある。「母父之《オモチチノ》 愛子丹裳在將《マナゴニモアラム》 稚草之《ワカクサノ》 妻裳有等將《ツマモアラムト》」(卷十三、三三三九)。このタマフは、住吉の(180)神に對して敬意を表している。
 草管見 クサツツミ。
  クサツツミ(元赭)
  ――――――――――
  莫管見《ツツミナク》(攷、宣長)
 ツツミは、災難に逢つて物忌《ものいみ》するをいう。それのないのは無事の意になる。クサを冠したのは、旅行の災難の意からであろうか。宣長の玉勝間に、草を莫の誤りとしてツツミナクと讀んでいる。今原文のままとするが、明證はない。
 急 スムヤケク。速やかにある意の副詞。「須牟也氣久《スムヤケク》 波也可反里萬世《ハヤカヘリマセ》」(卷十五、三七四八)。
 本國部尓 モトツクニベニ。モトノクニベニ(神)、モトツクニベニ(略)。本國、大和の國をいう。
【評語】これも乙麻呂以外の人の立場で詠んでいる。よくできているが、次に掲げる天平五年の遣唐の際の歌と類似が多く、それを模倣したとされている。しかし事によると、彼もおなじく乙麻呂の作であるかも知れない。
【參考】類歌。
   天平五年、入唐使に贈れる歌一首【短歌并はせたり。作主いまだ詳ならず。】
  そらみつ大和の國、あをによし奈良の京《みやこ》ゆ、おしてる難波に下り、住吉《すみのえ》の三津《みつ》に船乘り、直渡《ただわた》り日の入る國に、遣《つかは》さるわが夫《せ》の君を、懸《か》けまくのゆゆしかしこき、住吉のわが大御神、船《ふな》の舳《へ》にうしはきいまし、船艫《ふなとも》に御立《みた》たしまして、さし寄らむ礒《いそ》の埼々、漕《こ》ぎ泊《は》てむ泊々《とまりとまり》に、荒き風浪に逢はせず、平けく率《ゐ》て歸りませ、もとの國家《みかど》に(卷十九、四二四五)
   反歌一首
  沖つ浪|邊浪《へなみ》な越しそ。君が船漕ぎ歸り來て津《つ》に泊《は》つるまで(同、四二四六)
 
(181)1022 父公《ちちぎみ》に 吾は愛兒《まなご》ぞ。
 母刀自《ははとじ》に 吾は愛兒《まなご》ぞ。」
 參上《まゐのぼ》る 八十氏《やそうぢびと》人の
 手向《たむけ》する 恐《かしこ》の坂に
 幣《ぬさ》奉《まつ》り 吾はぞ追《お》ふ。
 遠き土佐|道《ぢ》を。
 
 父公尓《チチギミニ》 吾者眞名子叙《ワレハマナゴゾ》
 妣刀自尓《ハハトジニ》 吾者愛兒叙《ワレハマナゴゾ》
 參昇《マヰノボル》 八十氏人乃《ヤソウヂビトノ》
 手向爲《タムケスル》 恐乃坂尓《カシコノサカニ》
 幣奉《ヌサマツリ》 吾者敍追《ワレハゾオフ》
 遠杵士左道矣《トホキトサヂヲ》
 
【譯】父上にとつてわたしは最愛の子だ。母上にとつてわたしはかわいい子だ。參内する多數の氏人が、手向の祭をするおそろしい坂に、幣を奉つて、わたしは出て行くのだ。遠い土佐への道なのだが。
【構成】二段から成つている。母刀自ニ吾ハ愛兒ゾまで第一段。父母の愛する子であることをいう。以下第二段、多くの人とは反對に土佐に下ることを敍する。
【釋】父公尓吾者眞名子敍 チチギミニワレハマナゴゾ。乙麻呂の父麻呂は、既に養老元年に薨じているから、ここは亡父を戀うていることになる。父公に取つて我は愛子なりの意。句切。
 妣刀自尓吾者愛兄敍 ハハトジニワレハマナゴゾ。乙麻呂の母は知られない。妣は亡き母をいうから、これも既に死んでいたのだろう。刀自は主婦の稱。愛兒は、「名高浦之《ナダカノウラノ》 愛子地《マナゴツチ》」(卷七、一三九二)、「眞若之浦之《マワカノウラノ》 愛子地《マナゴツチ》」(卷十二、三一六八)などの例によつてマナゴと讀む。句切。以上第一段。
 參昇 マヰノボル。地方から京に參り上る意。
 八十氏人乃 ヤソウヂビトノ。多くの氏人ので、上京する人を羨む氣が含まれている。
 手向爲 タムケスル。手向の祭をする。
(182) 恐乃坂尓 カシコノサカニ。大和から河内に出る道に、恐《かしこ》の坂というがあつたことは、天武天皇紀に見えているが、それは高安の附近と思われるから、眞土山を通つて紀州に出るという土佐路に適しない。この恐の坂は別で、神ありて恐るべき坂を云つたものと思われる。
 幣奉 ヌサマツリ。幣を奉るのは、手向の祭を行うためである。
 吾者敍追 ワレハゾオフ
  ワレハゾオヘル(失)
  ワレハゾオハル(童)
  ワレハゾオフ(考)
  ――――――――――
  吾者敍退《ワレハゾマカル》(考)
 ゾは係助詞。オフは、次の驛、泊をさして行くをいう。「なはのみなとをおふ」(土佐日記)、「大みなとをおふ」(同上)などある。考に退の誤りかとしているが、誤りとするに及ばない。句切。
 遠杵土左道矣 トホキトサヂヲ。トサヂは、土佐に赴く道。ヲは、ナルモノヲの意を含んでいる。
【評語】第一段に、父母の愛兒なる旨を述べ、第二段に、その自分が人々とは反對に土佐に下ることを敍している。罪に落ちて思わぬ旅に出る憂悶が、よく描かれている。父母に對する思慕の情も出ており、しかもそれに密接しないで敍している名作と云えよう。
 
反歌一首
 
1023 大埼の 神の小濱《をばま》は ちさけども
 百船人《ももふなびと》も 過《す》ぐといはなくに。
 
 大埼乃《オホサキノ》 神之小濱者《カミノヲバマハ》
 雖v《チサケドモ》
 百船純毛《モモフナビトモ》 過迹云莫國《スグトイハナクニ》
 
(183)【譯】大埼の神のまします小濱はちいさいけれども、多くの船乘も、通り過ぎるとはいわないことだ。
【釋】大埼乃神之小濱者 オホサキノカミノヲバマハ。大埼は、和歌山縣海草郡。海南市南方の灣。ヲは愛稱。神のまします貴い地の意に、神の小濱と云つている。此處から船を出して土佐に赴く。
 雖小 チサケドモ。セハケレト(元)、セマケドモ(古義)。形容詞セバシは、「多爾世婆美《タニセバミ》 彌年爾波比多流《ミネニハヒタル》 多麻可豆良《タマカヅラ》」(卷十四、三五〇七)の例があつて、その存在が推考されるが、これは「谷迫《タニセバミ》 峯邊延有《ミネベニハヘル》 玉葛《タマカヅラ》」(卷十二、三〇六七)の用字例もあつて、兩方が迫つて中間がすくない意であるから、小濱をいうには適しないようである。よつてチサケドモとし、ちいさいけれどもの意とすべきである。
 百船純毛 モモフナビトモ。純は、一の義をもつてヒトの假字としている。多くの船人も。
 過迩云莫國 スグトイハナクニ。スグは、寄港しないで通過する意。イハナクは、人々が云わない。どの船もかならず寄港する意。
【評語】大埼の港の出入の船の多いのを歌つている。その中に土佐に向けて出航する自分があわれなのである。長歌に併わせて味わうべき作である。
 
秋八月二十日、宴2右大臣橘家1歌四首
 
【釋】秋八月二十日 アキハツキハツカ。天平十年。
 右大臣橘家 ミギノオホキマヘツギミタチバナノイヘ。橘の諸兄の家。諸兄は、天平十年正月に右大臣になつている。この時の宴の歌は、卷の八の秋の雜歌の中にも七首載せてある。その作者は、巨曾倍《こそべ》の津島、阿倍の蟲麻呂、文《ふみ》の馬養《うまかひ》で、これらの人が宴に列したことがわかる。
 
(184)1024 長門《ながと》なる 沖つ借島《かりしま》、
 奧《おく》まへて わが念ふ君は
 千歳《ちとせ》にもがも。
 
 長門有《ナガトナル》 奧津借島《オキツカリシマ》
 奥眞經而《オクマヘテ》我念君者《ワガオモフキミハ》
 千歳尓母我毛《チトセニモガモ》
 
【譯】長門にある沖の方の借島。そのように遠い世をかけてわたしの思うあなたは、千年も生きておいでなさい。
【釋】長門有奥津借島 ナガトナルオキツカリシマ。作者は、長門の守なので、その任國の地名を持ち出している。借島は所在不明。借島群島ともいうべきものがあつて、その沖の方のを、沖つ借島というのだろう。阿武郡の江崎の沖にある加禮島とも、長府の沖にあるとも、鶴江臺のほとりともいうが不明である。また室田浩然氏の説(山口大學文學會志第六卷第二號)に、豐浦郡吉見村の西方海上にある蓋井島を奥津借島と稱している文獻をあけて、その島だろうとしている。以上次の奥マヘテを引き出すための序になつている。オキの音から、オクを引き出すのである。
 奥眞經而 オクマヘテ。オクの語を根幹として成立している語であろう。オクの語は、將來の意と、心の奥の意との二様に使われている。「禰毛己呂爾《ネモコロニ》 於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》 麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》」(卷十四、三四一〇)の如きは、將來であり、「珠匣《タマクシゲ》 奧爾念乎《オクニオモフヲ》 見賜吾君《ミタマヘワギミ》」(卷三、三七六)の如きは、心の底のようである。そこでオクマヘテのオクも、この二樣の解があり得るのだが、「淡海之海《アフミノウミ》 奥津島山《オキツシマヤマ》 奥間經而《オクマヘテ》 我念妹之《ワガオモフイモガ》 言繁苦《コトノシゲケク》」(卷十一、二七二八)、「淡海《アフミノウミ》 奥島山《オキツシマヤマ》 奥儲《オクマケテ》 吾念妹《ワガオモフイモガ》 事繁《コトノシゲケク》」(同、二四三九)の如く、同じ歌の同句をオクマヘテともオクマケテとも言つた例があり、オクマケテは、春マケテなどの例に同じく、將來を待ち受けての意とすべきだから、結局オクマヘテも、將來かけての意とすべきであろう。行く末長くかけて思う意とされる。
(185) 吾念君者 ワガオモフキミハ。キミは主人諸兄をいう。
 千歳尓母我毛 チトセニモガモ。千年にも長くいませの意。
【評語】奥眞經而の項に記したように、類歌があり、それによつて作りかえている。任地の地名を持ち出しただけが創意だが、その地名はすこしも利いていない。
 
右一首、長門守巨曾倍對馬朝臣
 
【釋】長門守巨曾倍對馬朝臣 ナガトノカミコソベノツシマノアソミ。卷の八には、「長門守巨曾倍朝臣津島」とある。續日本紀、天平四年八月の條に、山陰道の節度使の判官巨曾部の津島に外の從五位の下を授くとあるほか、傳記は知られない。
 
1025 奧まへて 吾を念へる わが夫子は、
 千年|五百歳《いほとせ》 ありこせぬかも。
 
 奥眞經而《オクマヘテ》 吾乎念流《ワレヲオモヘル》 吾背子者《ワガセコハ》
 千年五百歳《チトセイホトセ》 有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》
 
【譯】行く末をかけてわたしを思つているあなたは、千年も五百年もおつて貰いたいものです。
【釋】奥眞經而吾乎念流吾背子者 オクマヘテワレヲオモヘルワガセコハ。對馬の歌を受けている、ワガセコは、對馬をさしている。
 千年五百歳 チトセイホトセ。千年も五百年も、年數の多いことをいう。
 有巨勢奴香聞 アリコセヌカモ。コセヌカモは、そうあつてくれないかなあの語氣で、希望の意になる。
【評語】將來かけて自分を思う君が、長生きをするようにというのは、巧みな言い方である。平易な中に、さすがに答歌の體を成している。
 
(186)右一首、右大臣和歌
 
【釋】右大臣和歌 ミギノオホキマヘツギミノコタフルウタ。對馬の歌に對して、諸兄の和した歌である。
 
1026 ももしきの 大宮人は、
 今日もかも、
 暇を無みと 里に去《ゆ》かずあらむ。
 
 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》
 今日毛鴨《ケフモカモ》
 暇無跡《イトマヲナミト》 里尓《サトニ》不v去將v有《ユカズアラム・ユカザラム》
 
【譯】大宮にお仕えしている人は、今日もやはり暇がないので、里に出ないのでしょう。
【釋】百礒城乃 モモシキノ。枕詞。
 大宮人者 オホミヤビトハ。オホミヤビトは、宮廷に奉仕する男女の總稱であるが、この歌では、特にその君と思う人があるのを、總稱をもつて表現している。大宮人全體の性質として、いそがしさがあるので、かような云い万をしている。
 今日毛鴨 ケフモカモ。カモは疑問の係助詞。
 暇無跡 イトマヲナミト。暇がないことだと。トは、として。
 里尓不去將有 サトニユカズアラム。
  サトニユカザラム(西)
  ――――――――――
  里爾不出將有《サトニイデズアラム》(古葉)
  里爾不出將有《サトニイデザラム》(古義)
 類聚古葉、古葉略類聚紗には、去を出に作つている。サトは、ここでは宮廷に對して、人々の私宅をいう。
【評語】作者は豐島の采女とあるが、前の采女で、當時里住みをしていてこの歌を作つている。恨みを表面に(187)出さないで、腕曲に言つている。人を待つ氣持が味わわれなければならない。
 
右一首、右大臣傳云、故豐島采女歌
 
【釋】右大臣傳云 ミギノオホキマヘツギミツタへイハク。諸兄が右の歌を口誦して、これは故の豐島の采女の歌だと云つたのである。
 故豐島采女歌 モトノトシマノウネメノウタトイフ。故は物故の意。豐島の郡から出た采女の義だが、豐島の郡は、當時、攝津の國と武藏の國とに同名があり、そのいずれであるか不明である。日本靈異記下卷に、攝津の國の手島の郡とあり、テシマと云つたことが知られる。武藏の國のは、倭名類聚鈔に止志末《としま》とある。攝津の豐島の字は、倭名類聚鈔以前に文獻がないのをもつて見れば、武藏のが豐島の文字で通つたものであろうか。
 
1027 橘の 本《もと》に道|履《ふ》み
 八衢《やちまた》に ものをぞ思ふ。
 人に知らえず。
 
 橘《タチバナノ》 本尓道履《モトニミチフミ》
 人尓不v所v知《ヒトニシラエズ》
 
【譯】橘の樹のもとで道を踏んで、その別れ路のように、樣々に物を思つています。人には知られないで。
【釋】橘本尓道履 タチバナノモトニミチフミ。橘の樹のもとを行く意で、次の句を引き起す序になつている。
 八衝尓物乎曾念 ヤチマタニモノヲゾオモフ。千々に思う意を、序の縁で、言つている。但しこの歌は、三方沙彌の歌を歌い傳えて初句に差違を生じたもので、かような無理な言い方もできたのである。句切。
 人尓不所知 ヒトニシラエズ。ヒトは、その人とさすのがある。人知れず思う由である。
【評語】三方の沙彌の「橘の蔭《かげ》ふむ道の八衢《やちまた》に物をぞ思ふ妹にあはずて」(卷二、一二五)の歌を歌い傳えて、(188)宴席に適するように五句を歌い代えたものである。それがために、上の序の縁だけで、八衢ニの句を使うような無理を生じた。原歌の趣の深いのには遠く及ばない。
 
右一首、右大辨高橋安麻呂卿語云、故豐島采女之作也。但或本云、三方沙弥、戀2妻苑臣1作歌。然則豐島采女、當時當所、口2吟此歌1歟。
 
右の一首は、右の大辨高橋の安麻呂の卿語りて云ふ、故の豐島の采女の作れるといふ。但し或る本に云はく、三方の沙彌《さみ》の妻、苑《その》の臣に戀ひて作れる歌なりといふ。然らばすなはち、豐島の采女、その時その所にしてこの歌を口吟《くちずさ》めるか。
 
【釋】右大辨 ミギノオホキトモヒ。大政官に屬して、兵部、刑部、大藏、宮内の四省のことをつかさどる。その職掌は、左大辨に同じ。
 高橋安麻呂卿 タカハシノヤスマロノマヘツギミ。續日本紀には、養老二年正月に從五位の下を授けられ、その後累進して、天平四年九月、右中辨、十年十二月、大宰の大貳となつていて、右大辨になつたことを傳えない。古葉略類聚砂には「大貳補任(ニ)云(フ)、高橋(ノ)安丸、天平十五年任(ズ)2大貳(ニ)1云々」とある。その後の事も傳えないし、ここに右大辨とあるのは、後に書かれたものかどうか、疑問である。またこの時の席上にいて語つたものか、または後に編者に向かつて語つたものかもわからない。
 或本云 アルマキニイハク。この或る本というのは、卷の二の所傳をいうらしい。
 當時當所 ソノトキソノトコロニシテ。この八月二十日の橘諸兄邸の宴をいう。
 
十一年己卯、天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時、小獣泄2走都里之中1。於v是適値2勇(189)士1、生而見v獲。即以2此獣1獻2上御在所1副歌一首 獣名俗曰2牟射佐妣1
 
十一年己卯、天皇の高圓野《たかまとの》に遊獵したまひし時、ちさき獣、都里の中に泄《に》げ走りき。ここにたまたま勇士に値《あ》ひて生きながら獲《と》らえぬ。すなはちこの獣を御在所に獻上《たてまつ》るに副へたる歌一首。獣の名、俗に牟射佐妣《むざさび》といふ。
 
【釋】十一年己卯 トヲマリヒトトセツチノトウ。天平十一年。
 天皇 スメラミコト。聖武天皇。
 高圓野 タカマトノ。高圓は、總稱春日の一部で、山にも野にもいうが、山にいうのがもとであろう。その地には離宮があつた。
 小獣 チサキケモノ。下の註によるに、ムササビである。ムササビは既出(卷三、二六七)。
 泄走都里之中 サトノウチニニゲハシリキ。山地から追われて、大伴氏の邸宅のあたりまで遁走したのであろう。
 
1028 丈夫の 高圓山《たかまとやま》に 迫《せ》めたれば、
里に下《お》りける むざさびぞこれ。
 
 大夫之《マスラヲノ》 高圓山尓《タカマトヤマニ》 迫有者《セメタレバ》
 里尓下來流《サトニオリケル》 牟射佐※[田+比]曾此《ムザサビゾコレ》
 
【譯】勇士が高圓山で攻めたので、里におりましたムササビでございます。
【釋】大夫之 マスラヲノ。三句に對して主格を成している。
 迫有者 セメタレバ。獵のために攻撃したのをいう。
 里尓下來流 サトニオリケル。サトは人家の集まつている處。山から追われておりたのである。
 牟射佐※[田+比]曾此 ムザサビゾコレ。ムザサビは、卷の三には「牟佐々婢《ムササビ》」(二六七)、卷の七には「武佐左妣《ムササビ》」(190)(一三六七)とある。上のサは、普通清音だが、濁音にも動搖したのだろう。ゾは終助詞で、ムササビなることを述べ、更にコレと指定したもの。「菟會處女乃《ウナヒヲトメノ》 奧城敍此《オクツキゾコレ》」(卷九、一八〇二)、「山人乃《ヤマビトノ》 和禮爾依志米之《ワレニエシメシ》 夜麻都刀曾許禮《ヤマヅトゾコレ》」(卷二十、四二九三)など例がある。
【評語】單に小獣を説明したまでの歌で、興趣がうすい。作者には、他にも天皇に獻つた歌が傳えられ、皇室と密接な關係にあつたことが知られる。
 
右一首、大伴坂上郎女作之也。但未v逕v奏而小獣死樂斃。因v此獻v歌停之。
 
右の一首は、大伴の坂上の郎女の作れる。但しいまだ奏を經ずして小き獣死に斃《たふ》れぬ。これに因りて歌を獻ることは停めき。
 
【釋】未逕奏 イマダマヲスコトヲヘズシテ。逕は經に同じ。
 
十二年庚辰冬十月、依2大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發1v軍、幸2于伊勢國1之時、河口行宮、内舍人大伴宿祢家持作歌一首
 
十二年庚辰の冬十月、大宰の少貳藤原の朝臣廣嗣が、謀反《みかどかたぶ》けむとして軍を發せるによりて、伊勢の國に幸でましし時、河口の行宮にて、内の舍人大伴の宿禰家持の作れる歌一首。
 
【釋】十二年庚辰冬十月 トヲマリフタトセカノエタツノフユカムナヅキ。天平十二年。
 依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍 オホキミコトモチノスナキスケフヂハラノアソミヒロツグガミカドカタブケムトシテイクサヲオコセルニヨリテ。藤原の廣嗣は、宇合の第一子。天平九年九月に從五位の下、十年四(191)月に大養徳《やまと》の守、その十二月に大宰の少貳となつた。十二年八月に上表して、時政の得失を指摘し、天地の災異を陳べ、因つて僧正玄※[日+方]法師、右の衛士の督從五位の上|下道《しもつみち》の朝臣|眞備《まきび》を除くをもつて言とした。九月、遂に兵を起して反したので、勅して大野の東人を大將軍とし、紀の飯麻呂《いいまろ》を副將軍とし、東海東山山陰山陽南海の五道の軍一萬七千人を遺してこれを伐たしめ、十月二十三日、廣嗣を捕獲し、十一月一日、肥前の國松浦の郡においてこれを斬つた。これより先、伊勢に行幸の事決し、十月二十九日奈良を發し、十一月二日、伊勢の國|壹志《いつし》の郡の河口の頓宮《かりみや》に到つた。これを關の宮という。四日、和遲野《わちの》に遊獵した。十二日、河口より發して壹志の郡家《ぐうけ》に到りて宿し、十四日、進んで鈴鹿の郡の赤坂の頓宮に至つた。二十三日、赤坂より發して朝明《あさけ》の郡に到り、二十五日、桑名の郡の石占《いわうら》の頓宮に到り、二十六日、美濃の國の當伎《たき》の郡に到つた。十二月一日、不破の郡の不破の頓宮に到つた。六日、不破より發して、十五日、恭仁《くに》の宮に幸して、始めて京都を作つた。この度の行幸は、廣嗣の反に呼應する者のあるべきことを恐れて、事前に難を避けたものと論ぜられている。その奈良に還幸しないで、新たに恭仁の京を起したのは、奈良の地の空氣の平穩でないものがあつたためであろう。
 河口行宮 カハグチノカリミヤ。三重縣一志郡にあり、大和への通路に當る。行宮は漢文に使用する字面で、皇帝の行つておられる所をいう。
 内舍人 ウチノトネリ。朝廷に奉仕して警衛雜役に從事し、行幸の際は供奉して護衛する。家持が内の舍人と稱している年月は、これが初めである。
 
1029 河口の 野邊《のべ》に慮《いほ》りて
 夜の歴《ふ》れば、
(192) 妹が手本《たもと》し 念ほゆるかも。
 
 河口之《カハグチノ》 野邊尓廬而《ノベニイホリテ》
 夜乃歴者《ヨノフレバ》
 妹之手本師《イモガタモトシ》 所v念鴨《オモホユルカモ》
 
【譯】河口の野邊に假屋を立てて幾夜か經たので、わが妻の腕が思われることだ。
【釋】野邊尓廬而 ノベニイホリテ。イホリテは、廬を作つて入るをいう。
 夜乃歴者 ヨノフレバ。續日本紀によるに、河口の行宮に宿せられること十數日に及んでいる。
 妹之手本師 イモガタモトシ。タモトは、手の本、腕。シは強意の助詞。
【評語】類型的で平凡な内容であるが、表現が平明で、若干の趣がないでもない。
 
天皇御製歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。聖武天皇。作歌事情については、左註に今案が記されてある。
 
1030 妹に戀ひ 吾《あが》の松原 見渡せば、
 潮干《しほひ》の潟《かた》に 鶴《たづ》鳴き渡る。
 
 妹尓戀《イモニコヒ》 吾乃松原《アガノマツバラ》 見渡者《ミワタセバ》
 潮干乃滷尓《シホヒノカタニ》 多頭鳴渡《タヅナキワタル》
 
【譯】あの子に戀うてわがいる、その吾の松原を見渡すと、潮の干た洲に鶴が鳴いて滞つて行く。
【釋】殊尓戀 イモニコヒ。枕詞。妹に戀うてわがいる意に、吾に冠する。
 吾乃松原 アガノマツバラ。左註にあるように三重の郡にあるのであろう。古義に、「三重郡なるは、赤の松原にて、其は天平の大安寺伽藍縁起流記資財帳《たいあんじがらんえんぎるきしざいちょう》に、伊勢國三重郡赤松原百町と記せる是なり。赤を吾と書くべき謂なければ、赤の松原ぞと思へるは、いみじきひがごとなり」とあるが、清濁は動搖しやすいものであるから、赤の松原を吾乃松原と書かないとは限らない。ここは妹ニ戀ヒの枕詞を冠したので、吾の字を使用したも(193)のと見るべきである。
 潮干乃滷尓 シホヒノカタニ。潮の干たあとの洲。ニは、鶴の鳴き渡る方向を示す。
【評語】美しい歌で、松原のある海岸の風光がよく歌われている。初句の枕詞も有效である。「わが夫子《せこ》を我《あ》が松原よ見わたせば海娘子《あまをとめ》ども玉藻刈る見ゆ」(卷十七、三八九〇)は似た所のある歌である。妹ニ戀ヒの句は、枕詞としては他にありそうでしかも例を見ない。美しい枕詞である。
 
右一首、今案、吾松原、在2三重郡1、相2去河口行宮1遠矣。若疑、御2在朝明行宮1之時、所v製御歌、傳者誤之歟。
 
右の一首は、今案ふるに、吾の松原は三重の郡にあり。河口の行宮を相去ること遠し。けだし疑はくは、朝明《あさけ》の行宮におはしましし時、製《つく》りましし御歌にして、傳ふる者誤れるか。
 
【釋】三重郡 ミヘノコホリ。當時の三重の郡は、四日市の附近で、明治二十九年に、朝明の郡を合わせて、今の三重郡となつた。
 相去河口行宮遠矣 カハグチノカリミヤヲアヒサルコトトホシ。河口の行宮は山村なので、海岸に遠い。
 御在朝明行宮之時 アサケノカリミヤニオハシマシシトキ。朝明の行宮は、續日本紀に朝明の郡に至りましきとあり、朝明の郡役所である。
 
丹比屋主眞人歌一首
 
【釋】丹比屋主眞人 タヂヒノヤヌシノマヒト。續日本紀には多治比の眞人屋主として、神龜元年二月、正六位の上から從五位の下、天平十七年正月、從五位の上、十八年九月、備前の守、二十年二月、正五位の下、天(194)平勝寶元年閏五月、左の大舍人の頭になつている。天平十二年十月の伊勢の行幸の際には、赤坂の頓宮で、從駕の人々に敍位の事があつたが、屋主ははいつていない。これは左註のように、屋主は、河口の行宮から歸京したためであろうか。なお屋主と紛らわしい人に、多治比の眞人|家主《やかぬし》がある。この人は、天平九年二月、正六位の上から從五位の下、十二年十一月、從五位の上、十三年八月、鑄錢の長官、天平勝寶三年正月、正五位の下、六年正月、從四位の下になり、天平寶字四年三月に卒している。すなわち家主は、はじめ屋主よりも後れて從五位の下になり、先に從五位の上になり、また後れて正五位の下になつている。兄弟で、屋主の方が兄ででもあつたのだろう。
 
1031 後《おく》れにし 人を思《しの》はく、
 四泥《しで》の埼 木綿《ゆふ》取り垂《し》でて
 さきくとぞ念《おも》ふ。
 
 後尓之《オクレニシ》 人乎思久《ヒトヲシノハク》
 四泥能埼《シデノサキ》 木綿取之泥而《ユフトリシデテ》
 好住跡其念《サキクトゾオモフ》
 
【譯】家に殘つている人を思うことは、この四泥の埼で木綿を取り垂らして無事にと思うのです。
【釋】後尓之人乎思久 オクレニシヒトヲシノハク。オクレニシヒトは、あとに後れた人の謂で、家に留まつている妻をいう。その人を思うことの意で、三句以下そのことに對する内容である。
 四泥能埼 シデノサキ。延喜式神名に、伊勢の國朝明の郡に志※[氏/一]《しで》神社がある。その地の岬で、四日市北方の海岸である。實際にいる地名を擧げて、次の句のシデテを引き出すに役に立てている。
 木綿取之泥而 ユフトリシデテ。シデは垂れること。木綿をさげて祭を行うのである。「神山之《カムヤマノ》 山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》 短木綿《ミジカユフ》」(卷二・一五七)「齋戸爾《イハヒベニ》 木綿取四手而《ユフトリシデテ》」(卷九、一七九〇)。
 好住跡其念 サキクトゾオモフ。前に好去好來の歌(卷五、八九四)があつた。好住もこれに準じて解すべ(195)く、家に留まつている人の上にいうのだから、好住の文字をもつてしたものである。
【評語】同音を重ねて調子をよくしている。旅にあつて祭をして家人の無事を祈ることは、集中往々にして見える。調子の良さのために、かえつて旅愁をなくしたのは、惜しむべきだ。
 
右案、此歌者、不v有2此行之作1乎。所2以然言1、勅2大夫1從2河口行宮1還v京、勿v令2從駕1焉。何有d詠2思泥埼1作uv歌哉。
 
右は案ふるに、この歌はこの行の作にあらざるか。然いふ所以は、大夫に勅して、河口の行宮より京に還らしめ、從駕せしむることなし。何ぞ思泥の埼を詠めて歌を作ることあらめや。
 
【釋】何有詠思泥埼作歌哉 ナニゾシデノサキヲナガメテウタヲツクルコトアラメヤ。思泥の埼は朝明の郡だから、河口の行宮から京に還らしめた屋主は、その地に行かなかつたろうというのである。
 
狹殘行宮、大伴宿祢家持作歌二首
 
【釋】狹殘行宮 サザノカリミヤ。所在未詳。歌詞によるに、海岸の行宮である。續日本紀に、天平十二年十一月、「乙未、河口より發《た》ち、壹志の郡に到りて宿りぬ。丁酉、進みて鈴鹿の郡赤坂の頓宮に至りぬ。丙午、赤坂より發ちて朝明の郡に到る。戊申、桑名の郡|石占《いはうら》の頓宮に至る。乙酉、美濃の國|當伎《たき》の郡に到る。」とある。この間のいずれかである。
 
1032 天皇《おほきみ》の 行幸のまにま
 吾妹子が 手枕《たまくら》纏《ま》かず、
(196) 月ぞ歴《へ》にける。
 
 天皇之《オホキミノ》 行幸之隨《ミユキノマニマ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 手枕不v卷《タマクラマカズ》
 月曾歴去家留《ツキゾヘニケル》
 
【譯】天皇のおでましのまにまに、わが妻の手枕をしないで月を經たことだ。
【釋】行幸之隨 ミユキノマニマ。ミユキノマニマ(元)、イデマシノマニ(略)、イデマシノマニマ(總索引)。以上二句既出(卷四、五四三)。イデマシノマニとも讀まれているが、マニの假字書きの例はなく、マニマというべきである。ままにあることをいう。
 手枕不卷 タマクラマカズ。別れていることをいう。次句に對する修飾句。
 月曾歴去家留 ツキゾヘニケル。十月に出發して十一月になつたのである。
【評語】平明な敍述である。説明的で興趣を伴なわない。
 
1033 御饌《みけ》つ國 志摩《しま》の海人《あま》ならし。
 眞熊野《まくまの》の 小船《をぶね》に乘りて
 沖邊こぐ、見ゆ。
 
 御食國《ミケツクニ》 志麻乃海部有之《シマノアマナラシ》
 眞熊野之《マクマノノ》 小船尓乘而《ヲブネニノリテ》
 奧部榜所v見《オキベコグミユ》
 
【譯】陛下の御食事に仕える國の志摩の海人であろう。熊野ふうの小船に乘つて、沖の方を漕ぐのが見える。
【釋】御食國 ミケツクニ。既出(卷六、九三四)。天皇の供御に奉仕する國。志摩を説明する句。
 志麻乃海部有之 シマノアマナラシ。志摩の國を御食ツ國とすることは明文はないが、古事記上卷に「代々《みよみよ》島《しま》の速贄《はやにへ》を獻《たてまつ》る」とある島は、この國のことであろう。句切。
 眞熊野之小船尓乘而 マクマノノヲブネニノリテ。マクマノノヲブネは、熊野ふうの小船。「倭邊上《ヤマトヘノボル》 眞熊野之船《マクマノノフネ》」(卷六、九四四)參照。
(197) 奧部榜所見 オキベコグミユ。コグは終止形。
【評語】赤人の作から影響を受けて作つているが、一往よく纏まつている。特色のある小船が海上を漕いでいる風景を描いて、御食ツ國志摩ノ海人ナラシと推量したのも、大きい所が感じられる。
 
美濃國多藝行宮、大伴宿祢東人作歌一首
 
【釋】美濃國多藝行宮 ミノノクニノタギノカリミヤ。續日本紀に、天平十二年十一月己酉、美濃の國の當伎《たき》の郡に到りたまうとあるに當る。當伎の郡とあるは、當伎の郡役所である。今養老郡に屬する。所在未詳であるが、多度《たど》川の水域であることは、歌詞によつて知られる。
 大伴宿祢東人 オホトモノスクネアヅマピト。天平寶字五年十月、從五位の下をもつて武部の少輔となり、七年正月、少納言、寶龜元年六月、散位の助、八月、周防の守、五年三月、彈正の弼となつている。
 
1034 古《いにしへ》ゆ 人の言ひける
 老人の をつといふ水ぞ。
 名に負《お》ふ瀧《たぎ》の瀬。
 
 從v古《イニシヘユ》 人之言來流《ヒトノイヒケル》
 老人之《オイビトノ》 變若云水曾《ヲツトイフミヅゾ》
 名尓負瀧之瀬《ナニオフタギノセ》
 
【譯】昔から人の言つている、年よりの若がえるという水だ。この名前にそむかない激流は。
【釋】從古人之言來流 イニシヘユヒトノイヒケル。ケルは來れる。連體形。これは參考の欄に引く所の元正天皇行幸の事などをいうのであろう。
 變若云水曾 ヲツトイフミヅゾ。ヲツは既出(卷四、六五〇)。若がえる意。句切。
 名尓負瀧之瀬 ナニオフタギノセ。ナニオフは、名として持つている。ここは養老の泉という名を有してい(198)るの意。
【評語】養老の美泉を説明した歌である。名所を見てそれに感心しているように見える。少々の感激はあるが、説明の分量も多い。
【參考】養老の醴泉《れいせん》。
 養老の元の年九月丁末、天皇、美濃の國に行幸したまひき。丙辰、當耆《たき》の郡に幸し、多度山の美泉を覽《み》たまふ。十一月癸丑、天皇臨軒したまひ、詔りたまひしく、朕、今年九月をもちて美濃の國の不破の行宮に到り、留連《とどま》ること數日なりき。因りて當耆の郡の多度山の美泉を覽《み》て、みづから手面《ておもて》を盥《あら》ふに、皮膚滑らかなるが如く、また痛き處を洗ふに、除き愈《い》えずといふことなし。朕が躬《み》にありて、いたもその驗《しるし》あり。またつきて飯《は》み浴《あ》むる者、或るは白髪黒きに反《かへ》り、或るは頽れたる髪更に生む。或るは闇《くら》き目明らかなるが如く、自餘の痼疾《やまひ》、ことごとに平愈す。昔聞かくは、後漢の光武の時、醴泉《れいせん》出で、飯む者痼疾みな愈《い》ゆといへり。符瑞書《ふずゐしよ》に曰はく、醴泉は美泉なり、以《も》ちて老を養ふべし。けだし水の精なりといへり。まことにこれ美泉、すなはち大瑞に合ふ。朕、庸虚《ようきよ》なりといへども、何ぞ天の賜《たまもの》に違はむ。天の下に大赦すべく、靈龜の三年を改めて養老の元の年とせよとのりたまひき。(續日本紀節録。もと漢文)
 
大伴宿称家持作歌一首
 
1035 田跡河《たどがは》の 瀧《たぎ》を清みか
 いにしへゆ 宮仕《みやづか》へけむ。
 多藝《たぎ》の野の上に。
 
 田跡河之《タドガハノ》 瀧乎清美香《タギヲキヨミカ》
 從v古《イニシヘユ》 宮仕兼《ミヤヅカヘケム》
 多藝乃野之上尓《タギノノノウヘニ》
 
(199)【譯】田跡河の激流が清いのでか、昔から宮仕えをしたのだろう。多藝の野の上で。
【釋】田跡河之 タドガハノ。田跡河は、源を養老の瀧に發して多度郡を流れる川。
 瀧乎清美香 タギヲキヨミカ。カは係助詞。
 從古宮仕兼 イニシヘユミヤヅカヘケム。ミヤヅカヘは、宮殿に奉仕すること。宮殿を造營することをもいうが、かならずしもそれに限らず日常の奉仕にもいう。「山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃原爾《イシノハラニ》 内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤヅカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》 目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》」(卷十三、三二三四)。元正天皇の行幸を想起している句。句切。
 多藝乃野之上尓 タギノノノウヘニ。多藝は地名。
【評語】整つているが、平凡である。特色のある描寫がない。あまり耳立たないが、タの音が頭韻になつている。
 
不破行宮、大伴宿祢家持作歌一首
 
【釋】不破行宮 フハノカリミヤ。續日本紀に、「十二月癸丑(ノ)朔、到(ル)2不破(ノ)郡不破(ノ)頓宮(ニ)1。」とある。所在未詳だが、古の國府の地、今の府中村だろうという。
 
1036 關《せき》無《な》くは 還《かへ》りにだにも うち行きて、 妹が手枕 纏《ま》きて宿《ね》ましを。
 
 關無者《セキナクハ》 還尓谷藻《カヘリニダニモ》 打行而《ウチユキテ》
 妹之手枕《イモガタマクラ》 卷手宿益乎《マキテネマシヲ》
 
【譯】關が無かつたら、行つて來るだけでも出かけて行つて、妻の腕を枕にして寢もしようものを。
【釋】關無者 セキナクハ。セキは、ここでは主として不破の關をいう。軍防令義解に、「三關とは、伊勢の鈴鹿、美濃の不破《ふは》、越前の愛發《あらち》を謂ふ」とある。
(200) 還尓谷藻 カヘリニダニモ。ちよつと行つてすぐ歸ること。俗語に、イツテコイ(行つて來い)という。同じ人の長歌に「近在者《チカクアラバ》 加弊利爾太仁母《カヘリニダニモ》 宇知由吉※[氏/一]《ウチユキテ》 妹我多麻久良《イモガタマクラ》 佐之加倍※[氏/一]《サシカヘテ》 禰天蒙許萬思乎《ネテモコマシヲ》」(卷十七、三九七八)というのがある。
 打行而 ウチユキテ。ウチは接頭語。
 卷手宿益乎 マキテネマシヲ。そうしたいができない意。
【評語】上に句切がなくて、マシヲと留めたのは、含みのある云い方で、相當の愚痴つぽさがあらわれている。この行の家持の歌は、妹が手本を思う情が露出して小る。前年六月に妾を失つてから、特にある一人に集中する心があつたのだろう。坂上の大孃との結婚年代は不明だが、この頃ではなく、もつと早いのだろう。その人に對して歌つているかとも考えられる。
 
十五年癸未秋八月十六日、内舍人大伴宿祢家持、讃2久迩京1作歌一首
 
十五年癸未の秋八月十六日、内の舍人大伴の宿禰家持の、久邇《くに》の京を讃《ほ》めて作れる歌一首。
 
【釋】十五年癸未秋八月十六日 トヲマリイツトセミヅノトヒツジノアキハツキトヲカアマリムカ。天平十五年。この年月日は、作歌の日附で、當時造營のことなお續行されていたと見られる。
 久迩京 クニノミヤコ。既出。續日本紀天平十二年十二月六日の條に「この日、右大臣橘の宿禰諸兄、前に在りて發ち、山背《やましろ》の國|相樂《さがら》の郡|恭仁《くに》の郷を經略せり。もちて都を遷さむとするに擬へむが故なり」とあつて、十月以來の行幸の間に決せられたと見える。その十五日の條に「丁卯、皇帝前にいまして恭仁の宮に幸し、始めて京都《みやこ》を作りたまふ。太上天皇皇后後にいまして至りたまふ。」とあつて、奈良に還幸されないで、すぐに(201)久邇の京に幸せられた。この京は、山間の地で奈良に比して、防備によいとし、竝に奈良における一部不平分子の妄動を避ける意味もあつたのであろう。しかし長くはなく、十六年二月、難波の京に遷り、五月、また久邇に還り、その年十二月、紫香樂《しがらき》の宮に遷り、十七年五月、久邇に還り、その九月、また奈良に還られた。以下卷末まで、この轉々たる遷都のあいだにおける、新京の讃歌と、舊都の怜惜とに關する歌を多く收めている。
 
1037 今つくる 久邇《くに》の王都《みやこ》は、
 山河の さやけき見れば
 うべ知らすらし。
 
 今造《イマツクル》 久迩乃王都者《クニノミヤコハ》
 山河之《ヤマカハノ》 清見者《サヤケキミレバ》
 宇倍所v知良之《ウベシラスラシ》
 
【譯】今造つている久邇の京は、山や川の清らかなのを見れば、知ろしめすのももつともである。
【釋】今造久迩乃王都者 イマツクルクニノミヤコハ。天平十二年十二月に新都の造營を始められてから三年目になるが、大宮殿を主體とする造營は、なお完成に至らなかつたであろう。
 山河之清見者 ヤマカハノサヤケキミレバ。サヤケキは、主として河についていうが、ここは山と河との兩方について云つている。宮殿を稱えるのに、山と河との兩方からいうのは例である。
 字倍所知良之 ウベシラスラシ。知らすことはうべであるらしいの意。
【評語】久邇の京は、もつと具體的にその特色を描くべきであつたに拘わらず、概念に墮ちてしまつた。
 
高丘河内連歌二首
 
【釋】高丘河内連 タカヲカノカフチノムラジ。初め、樂浪《ささなみ》の河内といい、神龜元年五月に高丘の連を賜わつた。和銅五年七月、播磨の國の大目《だいさかん》として、正倉を建て、よく功績をいたしたので、位一階を進め、※[糸+施の旁]《あしぎぬ》一疋、(202)布三十端を賜い、養老五年正月、退朝の後、東宮に侍せしめられ、天平三年正月、外の從五位の下、後進んで、天平勝寶六年正月、正五位の下を授けられて、その後見えない。高丘氏は、神護景雲元年に宿禰を賜わつた。百濟の國の公族の後という。子に比良麻呂《ひらまろ》がある。
 
1038 故郷は 遠くもあらず。
 一重山 越ゆるがからに
 念《おも》ひぞわが爲《せ》し。
 
 故郷者《フルサトハ》 遠毛不v有《トホクモアラズ》
 一重山《ヒトヘヤマ》 越我可良尓《コユルガカラニ》
 念曾吾世思《オモヒゾワガセシ》
 
【譯】奈良の舊都は遠くもないことだ。一重の山を越えることのゆえに、わたしは物思いをした。
【釋】故郷者 フルサトハ。フルサトは、舊都をいうが、同時にもと住んでいた處でもある。
 遠毛不有 トホクモアラズ。久邇から奈良までは、直線距離にすれば十キロぐらいのものなので、この句がある。句切。
 一重山 ヒトヘヤマ。山一重の意で、普通名詞である。奈良山系の低い山が隔てている。
 越我可良尓 コユルガカラニ。カラは故、理由。それだのにの意を含んでいる。一重山を越えるだけだのにの意である。「爾波爾多知《ニハニタチ》 惠麻須我可良爾《ヱマスガカラニ》 古麻爾安布毛納乎《コマニアフモノヲ》」(卷十四、三五三五)。このカラニは、それだけでの意である。
 念曾吾世思 オモヒゾワガセシ。オモヒは、郷愁をいう。奈良に家人が殘つているのであろう。
【評語】奈良の舊都を忘れかねる情が歌われている。都會の形をなした奈良がよいので、家人たちも殘してあるのだろう。久邇の京は山間の地で、旅の心が脱し切れないものと見える。そういう氣持がかなりよくあらわれている。
 
(203)1039 我が夫子と 二人し居《を》れば、
 山高み
 里には月は 照らずともよし。
 
 吾背子與《ワガセコト》 二人之居者《フタリシヲレバ》
 山高《ヤマタカミ》
 里尓者月波《サトニハツキハ》 不v曜十方余思《テラズトモヨシ》
 
【譯】あなたと二人でいるので、山が高くて里には月は照らないでもよい。
【釋】吾背子與 ワガセコト。ワガセコは誰であるかわからないが、大伴の家持だろう。
 二人之居者 フタリシヲレバ。シは強意の助詞。
 山高 ヤマタカミ。久邇の京は、四圍に山があるが、ここは東方の山で、和束《わづか》山など。
 里尓者月波 サトニハツキハ。サトは、今作者のいるあたりの村里をいう。
 不曜十方余思 テラズトモヨシ。テラズトモは假設條件だが、事實照つていないのである。
【評語】友と二人で歡を盡している情が描かれている。室内の照明が暗く、月の存在が話題に上りやすい生活から生まれた歌である。この二首も、久邇の京で詠まれたものであろう。
 
安積親王、宴2左少辨藤原八束朝臣家1之日、内舍人大伴宿祢家持作歌一首
 
安積《あさか》の親王《みこ》の、左の少辨藤原の八束《やつか》の朝臣の家に宴したまひし日、内の舍人大伴の宿禰家持の作れる歌一首。
 
【釋】安積親王 アサカノミコ。既出(卷三、四七五)。聖武天皇の皇子。天平十五年には、御年十六で、翌年閏正月に薨去せられた。
 
(204) 藤原八束朝臣 フヂハラノヤツカノアソミ。既出(卷三、三九八)。當時二十八歳であつた。左少辨になつたことは、他に傳わらない。
 
1040 ひさかたの 雨は零《ふ》り重《し》け。
 念《おも》ふ子の 屋戸《やど》に今夜《こよひ》は
 明《あ》かして行かむ。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 雨者零敷《アメハフリシケ》
 念子之《オモフコノ》 屋戸尓今夜者《ヤドニコヨヒハ》
 明而將去《アカシテユカム》
 
【譯】天から降る雨は、いよいよ降りしきれ。思う人の宿に今夜は明かして行こう。
【釋】久堅乃 ヒサカタノ。枕詞。ここは轉用して雨に冠している。
 雨者零敷 アメハフリシケ。シケはかさなる意。降りしきれ。かように雨についてフリシクと言つているによつて、雪についていうのも、降りしきる意とも解せられるが、「沫雪乃《アハユキノ》 庭爾零敷《ニハニフリシキ》 寒夜乎《サムキヨヲ》」(卷八、一六六三)、「等許奈都爾《トコナツニ》 由伎布理之伎弖《ユキフリシキテ》」(卷十七、四〇〇〇)、「白雪能《シラユキノ》 布里之久山乎《フリシクヤマヲ》」(卷十九、四二八一)など、降り頻る意には解せられぬものがあるから、雪については、地上に廣く降る意に解すべきである。句切。
 念子之屋戸尓今夜者 オモフコノヤドニコヨヒハ。この屋戸は、藤原の八束の家であることがあきらかであるが、オモフコは、そこにいる娘子を意味しているであろう。ヤドは、ここでは家の意に轉じている。
 明而將去 アカシテユカム。宿つて行こうの意。
【評語】雨にかこつけて、泊つて行こうとする意を歌つている。よくある内容で、ただ平明なだけがとりえで、ある。初句の枕詞もあまり有效でない。
 
十六年甲申春正月五日、諸卿大夫、集2安倍蟲麻呂朝臣家1宴歌一首 (205)作者不v審。
 
十六年甲申の春正月五日、諸卿大夫、安倍の蟲麻呂の朝臣の家に集ひて宴せる歌一首【作者審かならず。】
 
【釋】十六年甲申春正月五日 トヲマリムトセキノエサルノハルムツキイツカ。天平十六年。
 諸卿大夫 マヘツギミタチ。卿は、官は參議以上、位は三位以上に使用し、大夫は四五位に使用するが、訓としては區別はない。
 安倍蟲麻呂朝臣 アベノムシマロノアソミ。既出(卷四、六六五)。天平十三年八月に播磨の守となつており、そのままとすれば當時在京したものと見える。
 作者不審 ツクリヒトツマビラカナラズ。歌詞によるに、主人蟲麻呂の作のようである。もし然りとせば、この註は、後人の追記ということになる。
 
1041 わが屋戸の 君松《きみまつ》の樹《き》に 零《ふ》る雪の、
 行きには去《ゆ》かじ。
 待ちにし待たむ。
 
 吾屋戸乃《ワガヤドノ》 君松樹尓《キミマツノキニ》 零雪乃《フルユキノ》
 行者不v去《ユキニハユカジ》
 待西將v待《マチニツマタム》
 
【譯】わたしの家の屋前のあなたをお待ちしている松の樹に降る雪のように、行きはしないで、待ちに待つておりましよう。
【釋】君松樹尓 キミマツノキニ。君を待つと松の樹とを、懸け詞にしている。屋前に目につく松の樹があつたようである。
 零雪乃 フルユキノ。以上三句は、次のユキニを引き出すための序であるが、實際雪が降つたので、この序(206)を成したものと見える。
 行者不去 ユキニハユカジ。ユキは、行クの體言。行くことにおいては行かないの意。下の待チニシ待タムも同様の語法。句切。
【評語】 マツとユキとを重ねて調子を成している。巧みに過ぎて、熱意を消している。歌いものに前行するものがあつて、その技巧を模倣しているのであろう。
 
同月十一日、登2活道岡1、集2一株松下1飲歌二首
 
同じ月十一日、活道《いくぢ》の岡に登り、一|株《もと》の松の下に集ひて飲《うたげ》せる歌二首。
 
【釋》同月十一日 オヤジツキノトヲカアマリヒトヒ。天平十六年正月十一日。
 活道岡 イクヂノヲカ。卷の三に「活道山《イクヂヤマ》」(四七八)とある。久邇の京の東、和束《わづか》町|白栖《しらす》にある。
 一株松下 ヒトモトノマツノモトニ。一本松のもとに。
 
1042 一つ松 幾代か歴《へ》ぬる。
 吹く風の 聲の清きは
 年深みかも。
 
 一松《ヒトツマツ》 幾代可歴流《イクヨカヘヌル》
 吹風乃《フクカゼノ》 聲之清者《コヱノキヨキハ》
 年深香聞《トシフカミカモ》
 
【譯】この一本松は、どれほどの代を經たのだろう。吹く風の音の澄んでいるのは、年が多いからだろうか。
【釋】一松 ヒトツマツ。一本松。「袁波理邇《ヲハリニ》 多陀邇牟迦弊流《タダニムカヘル》 袁都能佐岐那流《ヲツノサキナル》 比登都麻都《ヒトツマツ》 阿勢袁《アセヲ》」(古事記三〇、倭建《やまとたける》の命)。
 幾代可歴流 イクヨカヘヌル。古びたものに對して發する感想。句切。
(207) 聲之清者 コヱノキヨキハ。コヱノスメルハ(元)、コヱノキヨキハ(新考)。松風の音が澄むという表現は集中類似のものを見ず、後世の表現らしくもある。澄ムの語すら集中にはない。またスメルならば、有の字のある方が普通である。聲については、「湍之聲曾清寸《セノオトゾキヨキ》」(卷六、一〇〇五)、「落多藝都《オチタギツ》 湍音毛清之《セノオトモキヨシ》」(同、一〇五三)の如く、キヨシと言つている例がある。これによつてコヱノキヨキハと讀むべきものと思われる。
 年深香聞 トシフカミカモ。年深シとは、年數を重ねたのをいう。「昔者之《イニシヘノ》 舊堤者《フルキツツミハ》 年深《トシフカミ》」(卷三、三七八)カモは疑問。
【評語】老松に對して、幾代を經たかと問う形は他にもあるが、この歌は、松風の聲の清きを描いた所に特色があり、丘上の一本松に對する感銘がよく表現されている。
 
右一首、市原王作
 
【釋】市原王 イチハラノオホキミ。既出。
 
1043 たまきはる 壽《いのち》は知らず。
 松が枝《え》を 結ぶこころは
 長くとぞ念《おも》ふ。
 
 靈剋《タマキハル》 壽者不v知《イノチハシラズ》
 松之枝《マツガエヲ》 結情者《ムスブココロハ》
 長等曾念《ナガクトゾオモフ》
 
【譯】限りのある命のほどは知りません。しかし今松の枝を結ぶ意味は、長くあるようにと思うのです。
【釋】靈剋 タマキハル。枕詞。語義未詳であるが、ここに靈剋と書いたのは、魂の極まるの義とする解の根據ともなるもので、際限のある生命の意として見れば、この場合、適切な枕詞だと云える。
 壽者不知 イノチハシラズ。何時命が終るかも知れない意に、無常觀を含んでいる。句切。
(208) 松之枝結情者 マツガエヲムスブココロハ。松の枝を結ぶことは、既出(卷二、一四一)。魂を結び合わせて再會を期する信仰だが、松の枝は、常久の意味に、祝意を有している。「夜知久佐能《ヤチクサノ》 波奈波宇都呂布《ハナハウツロフ》 等伎波奈流《トキハナル》 麻都能左要太乎《マツノサエダヲ》 和禮波牟須婆奈《ワレハムスバナ》」(卷二十、四五〇一)。
 長等曾念 ナガクトゾオモフ。長くあれかしと思う意。
【評語】初二句に無常觀があるのは、理くつつぽさを感じさせる。岡の上の集宴の一興趣として、もつとあかるくありたいものだ。
 
右一首、大伴宿祢家持作
 
傷2惜寧樂京荒墟1作歌三首 作者不v審。
 
寧樂《なら》の京の荒れたる墟《あと》を傷み惜しみて作れる歌三首【作者審ならず。】
 
【釋】傷惜寧樂京荒墟作歌 ナラノミヤコノアレタルアトヲイタミヲシミテツクレルウタ。奈良の京は、天平十二年に捨てられてから、荒れて行くばかりであつたのだろう。何人の作とも何年の作とも知られない三首の歌。なお天平十二年以後數年間における帝都の移動は、目まぐるしいものがあつた。これについては、前に記してある。
 
1044 くれなゐに 深く染《し》みにし 情《こころ》かも、
 寧樂《なら》の京師《みやこ》に 年の歴《へ》ぬべき。
 
 紅尓《クレナヰニ》 深染西《フカクシミニシ》 情可母《ココロカモ》
 寧樂乃京師尓《ナラノミヤコニ》 年之歴去倍吉《トシノヘヌベキ》
 
【譯】紅の色に深く染まつた心、そんな心なのだろうか、奈良の都で、年が過ぎようとしている。
(209)【釋】紅尓 クレナヰニ。クレナヰは、キク科の二年生草本。ベニバナ。ここは、その花冠から採つた染料をいう。
 深染西情可母 フカクシミニシココロカモ。紅色に濃く染まつた心は、奈良の京に馴染んで、離れがたくなつた心を、譬喩であらわしている。カモは、疑問の係助詞。
 年之歴去倍吉 トシノヘヌベキ。年が經過すべしの意で、カモを受けてベキで結んでいる。
【評語】奈良の京に住み馴れて、都は遷つたが、なお離れかねる愛著の心が、巧みに描かれている。紅ニ云々の譬喩は色つぽいが、舊都に留まるという事情から見ても、作者は婦人であるかも知れない。事によると、大伴の坂上の郎女あたりでもあり得よう。郎女には他に久邇の京での作を傳えていない。
 
104 世間《よのなか》を 常無きものと 今ぞ知る
 平城《なら》の京師《みやこ》のうつろふ見れば。
 
 世間乎《ヨノナカヲ》 常無物跡《ツネナキモノト》 今曾知《イマゾシル》
 平城京師之《ナラノミヤコノ》 移徙見者《ウツロフミレバ》
 
【譯】世の中を、無常のものだとは、今こそ知つた。奈良の都の荒れたのを見たので。
【釋】常無物跡 ツネナキモノト。佛教の無常思想によつている。
 今曾知 イマゾシル。句切。三句切。
 移徙見者 ウツロフミレバ。ウツロフは、變移する意で、舊都となつて荒廢するをいう。
【評語】さしもに盛んであつた奈良の京の荒廢するのを見て、佛教の無常思想に想到している。その無常を悟つたような云い方が氣になる。知識者の歌らしい理くつつぽさがあつて、陰鬱な歌になつている。
 
1046 石綱《いはつな》の またをちかへり、
(210) あをによし 奈良の都を
 またも見むかも。
 
 石綱乃《イハツナノ》 又變若反《マタヲチカヘリ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良乃都乎《ナラノミヤコヲ》
 又將v見鴨《マタモミムカモ》
 
【譯】石に這つている蔦のように、またもとに返つて、華やかな奈良の都を、また見ることだろうか。
【釋】石綱乃 イハズナノ。枕詞。石に這うツタの義で、蔓が這つてまたもとに返るので、ヲチカヘリに冠する。ツタをツナということは、日本書紀顯宗天皇の卷の室壽《むろほぎ》の詞に、「築《つ》き立つる稚室葛根《わかむろつなね》」、また「取り結《ゆ》へる繩葛《つなかづら》」、延喜式の大殿祭の祝詞に「引結 幣魯 葛目 能 緩 比《ヒキユヘルツナメノユルビ》」などあるを取り合わせて考えられる。
 又變若反 マタヲチカヘリ。ヲチは既出。ここはもとに返る意に使つている。
 青丹吉 アヲニヨシ。枕詞。この句によつて、奈良の京を讃歌する意を表現している。
 奈良乃都乎 ナラノミヤコヲ。アヲニヨシ奈良ノ都で、帝都として榮えている奈良を描いている。
 又將見鴨 マタモミムカモ。マタモミムカモ(元)、マタミナムカモ(古義)。また見るだろうかと疑い、それを希望する意をほのめかしている。
【評語】枕詞を二つまで使つている。中にもアヲニヨシの方は、それで帝都としての美をあらわしているのは、巧みな使い方というべきである。世間の轉變に逢つた人が、新しきに從つて移り行くだけのこともなく、ただ舊い都を慕つて、その花やかな昔に返ることを願つている。思い入つたさまが歌われている。
 
悲2寧樂故郷1作歌一首并2短歌1
 
寧樂の故郷を悲しみて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】悲寧樂故郷作歌 ナラノフルサトヲカナシミテツクレルウタ。前の三首の歌と同樣、奈良の京の荒れた(211)のを悲しんで作つた歌。以下卷末まで長短併わせて二十一首は、田邊の福麻呂の家集から出た歌で、福麻呂の作と考えられる。福麻呂は傳未詳。天平二十年に、造酒司《みきのつかさ》の令史であつて、右大臣橘の諸兄の使として、越中の國に下つたことが傳えられる(卷十八、四〇三二題詞)。
 
1047 やすみしし わが大王の
 高|敷《し》かす 大和の國は、
 皇祖《すめろき》の 神の御代より
 敷きませる 國にしあれば、
 生《あ》れまさむ 御子のつぎつぎ、
 天の下 知らしいませと、
 八百萬《やほよろづ》 千年を兼《か》ねて
 定めけむ 平城《なら》の京師《みやこ》は、
 かぎろひの 春にしなれば、
 春日山 三笠の野邊に
 櫻花 木《こ》の晩《くれ》隱《がく》り
 貌鳥《かほどり》は 間《ま》なく數《しば》鳴く。
 露霜の 秋きり來《く》れば、
 射駒山《いこまやま》 飛火《とぶひ》が嶽《たけ》に、
(212) はぎの枝を しがらみ散らし
 さを鹿は 妻《つま》呼び響《とよ》む。」
 山見れば 山も見《み》が欲《ほ》し。
 里見れば 里も住みよし。
 もののふの 八十件《やそとも》の緒《を》の
 うち延《は》へて 思へりしくは、
 天地の 寄り會《あ》ひの限《かぎ》り
 萬代に 榮え行かむと
 思へりし 大宮すらを、
 恃《たの》めりし 奈良の京《みやこ》を、
 新世《あらたよ》の 事にしあれば、
 皇《おほきみ》の 引《ひ》きのまにまに
 春花の うつろひ易《かは》り
 群《むら》鳥の 朝立ちゆけば、
 さす竹の 大宮人の
 踏みならし 通ひし道は、
 馬も行かず 人も往かねば、
(213) 荒れにけるかも。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 高敷爲《タカシカス》 日本國者《ヤマトノクニハ》
 皇祖乃《スメロキノ》 神之御代自《カミノミヨヨリ》
 敷座流《シキマセル》 國尓之有者《クニニシアレバ》
 阿禮將v座《アレマサム》 御子之嗣繼《ミコノツギツギ》
 天下《アメノシタ》 所v知座跡《シラシイマセト》
 八百萬《ヤホヨロヅ》 千年矣兼而《チトセヲカネテ》
 定家牟《サダメケム》 平城京師者《ナラノミヤコハ》
 炎乃《カギロヒノ》 春尓之成者《ハルニシナレバ》
 春日山《カスガヤマ》 御笠之野邊尓《ミカサノノベニ》
 櫻花《サクラバナ》 木晩※[穴/牛]《コノクレガクリ》
 ※[白/八]鳥者《カホドリハ》 間無數鳴《マナクシバナク》
 露霜乃《ツユジモノ》 秋去來者《アキサリクレバ》
 射駒山《イコマヤマ》 飛火賀※[山+鬼]丹《トブヒガタケニ》
 芽乃枝乎《ハギノエヲ》 石辛見散之《シガラミチラシ》
 狹男牡鹿者《サヲシカハ》 妻呼令v動《ツマヨビトヨム》
 山見者《ヤマミレバ》 山裳見※[白/八]石《ヤマモミガホシ》
 里見者《サトミレバ》 里裳住吉《サトモスミヨシ》
 物負之《モノノフノ》 八十伴緒乃《ヤソトモヲノ》
 打經而《ウチハヘテ》 思煎敷者《オモヘリシクハ》
 天地乃《アメツチノ》 依會限《ヨリアヒノカギリ》
 萬世丹《ヨロヅヨニ》 榮將v往迹《サカエユカムト》
 思煎石《オモヘリシ》 大宮尚矣《オホミヤスラヲ》
 恃有之《タノメリシ》 名良乃京矣《ナラノミヤコヲ》
 新世乃《アラタヨノ》 事尓之有者《コトニシアレバ》
 皇之《オホキミノ》 引乃眞尓眞荷《ヒキノマニマニ》
 春花乃《ハルバナノ》 遷日易《ウツロヒカハリ》
 村鳥乃《ムラドリノ》 且立徃者《アサダチユケバ》
 刺竹之《サスタケノ》 大宮人能《オホミヤビトノ》
 踏平之《フミナラシ》 通之道者《カヨヒシミチハ》
 馬裳不v行《ウマモユカズ》 人裳往莫者《ヒトモユカネバ》
 荒尓異類香聞《アレニケルカモ》
 
【譯】八方を知ろしめす天皇陛下の、御座遊ばされる大和の國は、御祖先の神樣の御代から、御座遊ばされる國であるから、お生まれになる皇子の次々に天下を知ろしめせと、八百萬年も千年もの後をかけて定めたであろう奈良の都は、陽炎《かげろう》の立つ春になると、春日山の御笠の野邊に、櫻の花のいつぱいに咲いている中にこもつて、貌鳥《かおどり》は間もなくしきりに鳴いている。露霜の降る秋になると、生駒山の飛火が嶽に、ハギの枝を搦み散らして、牡鹿は妻を呼び立てて鳴いている。山を見れば山も見るによく、里を見れば里も住みよい。宮仕えする多くの人々が、心から思つておつたことは、天地の寄り合つている限り、永久に榮えて行くだろうと、思つていた大宮だのに、恃みにしていた奈良の都を、新時代の事であるから、天皇の御指導のままに、春の花のように變りやすく、群る鳥のように朝立つて行くので、大宮仕えをする人が、踏み馴らして往來した道は、馬も行かず人も行かないので、荒れてしまつたことだ。
【構成】二段から出來ている。サヲ鹿の妻呼ビトヨムまで第一段、奈良の都の良い都であることを述べる。そのうち、奈良ノ都ハまでが、主題の提示、その以下、八句ずつ二個の對句でこれを説明する。以下終りまで第二段、住みよい里だと思つてい(214)たものを、都が遷つて荒れたことを敍する。
【釋】高敷爲 タカシカス。タカは、壯高性を表示する形容詞。シカスは敷く、占有するの敬語。連體形。
 日本國者 ヤマトノクニハ。ヤマトノクニは、大和の國をいう。
 皇祖乃神之御代自 スメロキノカミノミヨヨリ。天皇の御祖先の、既に神となりたまえる方の御代以來。事實としては、神武天皇以來である。
 敷座流 シキマセル。シキは、高敷カスのシクに同じ。
 阿禮將座 アレマサム。アレは出現の意で、御生誕になることをいう。
 所知座跡 シラシイマセト。シラシメマセト(元赭)、シラシイマセト(代精)、シラシマサムト(略)。文字表示が不完全であるが、六音の句でもないようだから、何とか補讀しなくてはならない。下に定メケムとあるによれば、シラシイマセトと讀むべきか。
 八百萬千年矣兼而 ヤホヨロヅチトセヲカネテ。八百萬年も千年もをかけて。八百萬と千とでは、隨分違うようだが、そういう數量の差の意識はなしに、ただ數の多いのを、句の都合でかようにあらわしている。カネテは將來を豫期して。
 炎乃 カギロヒノ。枕詞。以下、平城の京師を、春秋にわけて説明する。
 御笠之野邊尓 ミカサノノベニ。三笠山のあるあたりの野邊。
 木晩※[穴/牛] コノクレガクリ。※[穴/牛]は牢に同じ。コノクレは、櫻の花が咲いて、花のために木暗くあるをいう。「櫻花《サクラバナ》 木晩茂爾《コノクレシゲニ》」(卷三、二五七)とあるに同じ。ガクリは、その木のくれに隱れて。櫻花の滿開の中での意。
 ※[白/八]鳥者間無數鳴 カホドリハマナクシバナク。既出「容烏能《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》」(卷三、三七二)參照。カホドリは未詳の鳥。美しい鳥の義だろう。間斷なく鳴いている。句切。
(215) 露霜乃 ツユジモノ。枕詞。秋を説明する
 射駒山 イコマヤマ。奈良縣と大阪府との境を成す山。奈良の西方に當る。
 飛火賀※[山+鬼]丹 トブヒガタケニ。トブヒガクレニ(元赭)、トブヒガヲカニ(考)、トブヒガタケニ(古義)。トブヒは、烽火をいう。倭名類聚鈔燈火部に「烽燧 峯遂二音、度布比《トブヒ》 邊(ニ)有(レバ)v警則(チ)擧(グ)v之(ヲ)」とある。國境に事ある時順次狼火を擧げて中央に急報する設備をいう。日本書紀天智天皇の三年の條に、「この歳、對馬《つしま》の島、壹岐《いき》の島、筑紫の國等に、防人《さきもり》と烽《とぶひ》とを置く」とあり、軍防令に「およそ烽《とぶひ》を置くは、皆相去ること四十里、もし山岡隔絶して、便を逐ひて安置すべきは、但相照するを得しめよ。かならずしも四十里に限らざれ」とある。奈良の京の附近では、生駒山と春日野とに置いた。生駒山の烽火は、續日本紀和銅五年正月の條に、「河内の國の高安の烽を廢し始めて高見《たかみ》の烽と大倭《やまと》の國の春日《かすが》の烽とをおきて平城《なら》に通ず」とある。高見は、くらがり峠の北方で、すなわち生駒の烽火である。※[山+鬼]は高くして平でないのをいう。
 石辛見散之 シガラミチラシ。シガラミは、搦む、まとうの意。鹿がハギをからみつけて花を散らす。「秋萩をしがらみ伏せて鳴く鹿の目には見えずて音のさやけさ」(古今和歌集卷の四、秋上)。
 狹男牡鹿者 サヲシカハ。サは接頭語。
 妻呼令動 ツマヨビトヨム。トヨムは音響を發する意。句切。以上第一段。春と秋とに分かつて、奈良の京の風光を敍している。
 山裳見※[白/八]石 ヤマモミガホシ。ミガホシは、見ガ欲シで、見ることの望ましい意。句切。
 里裳住吉 サトモスミヨシ。スミヨシは、住むに好都合なのである。以上山と里とに分けて、奈良の京の形勢を敍した。山見レバの句は、春秋の山の敍述を受けて連絡を附けている。句切。
 物負之八十伴緒乃 モノノフノヤソトモノヲノ。既出(卷三、四七八)。ここは文武の百官をいう。伴緒は、(216)集中多くヲに勇壯雄の字を當てているが、ここには緒の字を書いており、緒の義とする解釋の殘つてあつたことが考えられる。
 打經而 ウチハヘテ。經は、假字としては、ヘ、フ、フル、フレと讀むべく、これをハヘと讀むのは、ハを補つて讀むのである。ウチは接頭語、ハヘテは延ヘテの義で、思いを廻らす形容。心中でひろがつての意。「打延而《ウチハヘテ》 思之小野者《オモヒシヲノハ》」(卷十三、三二七二)の用例がある。「阿我志多婆倍乎《アガシタバヘヲ》 許知弖都流可毛《コチテヅルカモ》」(卷十四、三三七一)などのシタバヘのハヘも同じ。
 思煎敷者 オモヘリシクハ。煎は動詞|煎《イ》ルのリだけを假字として使つたもの。下に「思煎石」、反歌に「長生爾異煎《ナガクオヒニケリ》」とあるも同じ。また「津煎裳無《ツレモナキ》」(卷十三、三三四一)などは、煎をレの音に使用している。思ヘリシクハで、前に思つていたことはの意。
 天地乃依會限 アメツチノヨリアヒノカギリ。既出(卷二、一六七)。天地のあらむ限り。
 思煎石 オモヘリシ。上の思ヘリシクハを受けている。
 大宮尚矣 オホミヤスラヲ。オホミヤは、奈良の京の宮殿をいう。その大宮だのになおの意。
 恃有之 タノメリシ。上の思ヘリシと竝んで、語を代えている。
 新世乃事尓之有者 アラタヨノコトニシアレバ。アラタヨは、新しい時代。新時代であるから改革も止むなしとする思想。「新代登《アラタヲト》 泉乃河爾《イヅミノカハニ》」(卷一、五〇)。
 皇之引乃眞尓眞荷 オホキミノヒキノマニマニ。天皇の引きたまうに任せの意。ヒキは、先に立つてある方向に導く意。ここは都を遷されたことをいう。
 春花乃 ハルバナノ。枕詞。譬喩としてウツロフに冠する。
 村島乃 ムラドリノ。枕詞。これも譬喩として朝立チ行クに冠する。
(217) 且立往者 アサダチユケバ。奈良の都を離れ行くをいう。
 刺竹之 サスタケノ。枕詞。語義未詳。
 踏平之 フミナラシ。踏んでたいらにする意で、度數多く通るをいう。
【評語】整然として奈良の都の興亡を述べている。風光の描寫もよく、結末の詠嘆もよい。ただ風光の描寫がそのままになつてしまつて、結末に來て呼應がないので、全體としてのまとまりが弱くなり、感慨の深さがなくなつている。
 
反歌二首
 
1048 立ち易《かは》り 古き都と なりぬれば、
 道の芝草 長く生《お》ひにけり。
 
 立易《タチカハリ》 古京跡《フルキミヤコト》 成者《ナリヌレバ》
 道之志婆草《ミチノシバクサ》 長生尓異煎《ナガクオヒニケリ》
 
【譯】すつかり變つて古い都となつたので、道路の雜草も長く伸びてしまつた。
【釋】立易 タチカハリ。タチは接頭語。變る意だけである。帝都であつたものが、變つて舊都となつたのである。
 道之志婆草 ミチノシバクサ。倭名類聚鈔に「莱草、辨色立成云、莱草上音來、之波《シバ》」とある。莱草は、荒草で荒れた地に生える草をいう。「疊薦《タタミコモ》 隔編數《ヘダテアムカズ》 通者《カヨハサバ》 道之柴草《ミチノシバクサ》 不v生有申尾《オヒザラマシヲ》」(卷十二、二七七七)。
 長生尓異煎 ナガクオヒニケリ。道路の荒廢した状を描く。
【評語】四五句の描寫が利いて、感慨無量の状がよくわかる。長歌の末尾を受けてまとめたものであるが、よく長歌と呼應して長歌を力づけている。
 
(218)1049 馴著《なつ》きにし 奈良の都の 荒れゆけば、
 いで立つごとに 嘆きし益《ま》さる。
 
 名付西《ナツキニシ》 奈良乃京之《ナラノミヤコノ》 荒行者《アレユケバ》
 出立毎尓《イデタツゴトニ》 嘆思益《ナゲキシマサル》
 
【譯】馴れきつていた奈良の都が荒れて行くので、出かけるたびに嘆きがまさることだ。
【釋】名付西 ナツキニシ。ナツキは馴れつく。落ちついて住み馴れていた意である。
 出立毎尓 イデタツゴトニ。作者は、奈良の都に住んでいるかどうかわからないが、家ならば外出するたびに、他郷からならば、奈良の京に入り立つごとにである。
 嘆思益 ナゲキシマサル。シは張意の助詞。嘆息が益すのみ。
【評語】棄てられた都は、日毎に荒廢の一途をたどるばかりである。目に見えて荒れて行くさまを嘆いている。初句の説明は、むだではなく、よく荒レユケバと呼應している。
 
讃2久迩新京1歌二首并2短歌1
 
【釋】讃久迩新京歌二首 クニノアラタシキミヤコヲホムルウタフタツ。天平十二年の十二月に久邇の京の造營を始められて、天平十六年の二月に難波に遷都せられたから、その間の作である。
 
1050 現《あき》つ神 わが皇《おほきみ》の
 天の下 八島《やしま》の中《うち》に、
 國はしも 多くあれども、
 里はしも 多《さは》にあれども、
(219) 山竝《やまなみ》の 宜《よろ》しき國と、
 川|次《なみ》の 立ち合《あ》ふ郷《さと》と、
 山代《やましろ》の 鹿脊山《かせやま》の際《ま》に
 宮柱 太敷《ふとし》きまつり、
 高知らす 布當《ふたぎ》の宮は、
 河近み 瀬の音《おと》ぞ清き。
 山近み 鳥が音響《ねとよ》む。
 秋されば 山もとどろに
 さを鹿は 妻呼び響《とよ》め、
 春されば 岡邊も繁《しじ》に
 巖《いはほ》には 花|開《さ》きををり、
 あなおもしろ 布當《ふたぎ》の原。
 いと貴《たふと》 大宮|處《どころ》。
 うべしこそ わが大王は、
 君ながら 聞《きこ》したまひて、
 さす竹の 大宮|此處《ここ》と
 定めけらしも。
 
 明津神《アキツカミ》 吾皇之《ワガオホキミノ》
 天下《アメノシタ》 八島之中尓《ヤシマノナカニ》
 國者霜《クニハシモ》 多雖v有《オホクアレドモ》
 里者霜《サトハシモ》 澤尓雖v有《サハニアレドモ》
 山竝之《ヤマナミノ》 宜國跡《ヨロシキクニト》
 川次之《カハナミノ》 立合郷跡《タチアフサトト》
 山代乃《ヤマシロノ》 鹿脊山際尓《カセヤマノマニ》
 宮柱《ミヤバシラ》 太敷奉《フトシキマツリ》
 高知爲《タカシラス》 布當乃宮者《フタギノミヤハ》
 河近見《カハチカミ》 湍音敍清《セノオトゾキヨキ》
 山近見《ヤマチカミ》 鳥賀鳴慟《トリガネトヨム》
 秋去者《アキサレバ》 山裳動響尓《ヤマモトドロニ》
 左男鹿者《サヲシカハ》 妻呼令v響《ツマヨビトヨメ》
 春去者《ハルサレバ》 岡邊裳繁尓《ヲカベモシジニ》
 巖者《イハホニハ》 花開乎呼里《ハナサキヲヲリ》
 痛※[立心偏+可]怜《アナオモシロ》 布當乃原《フタギノハラ》
 甚貴《イトタフト》 大宮處《オホミヤドコロ》
 諾己曾《ウベシコソ》 吾大王者《ワガオホキミハ》
 君之隨《キミナガラ》 所v賜而《キカシタマヒテ》
 刺竹乃《サスタケノ》 大宮此跡《オホミヤココト》
 定異等霜《サダメケラシモ》
 
(220)【譯】現實の神にまします天皇陛下の、天下の島々の中に、國は多くあり、里も澤山にあるけれども、山の姿のよい國として、また河の姿の添つている郷として、山城の國の鹿脊山の山間に、宮殿の柱をしかと据えて、知ろしめす布當《ふたぎ》の宮は、河が近くして瀬の音が清らかであり、山が近くして鳥の聲が聞える。秋になれば山も響いて牡鹿は妻を呼んで鳴き、春になれば岡邊も一杯に花が咲き滿ち、大變愉快だ、布當の原は。非常に貴い、大宮處は。ほんとにそうだから、天皇陛下は、君にましますがままにお聞き遊ばされて、りつぱな宮殿を、此處とお定めになつたのであろう。
【構成】文章の切目はあるが、段落というべきものは見がたい。布當ノ宮はまで主題の提示であるが、これを受けて、川山秋春の四方面に分けて敍述する。鳥ガ音トヨムで、文が終止するが、次の秋春はいずれも中止形になつていて、その下に接續しているから段落と見るわけに行かない。また、アナオモシロ布當ノ原、イト貴大宮處は、插入文で、獨立している。
【釋】明津神 アキツカミ。公式令詔書式に「明神ト大八洲ヲ御メタマヘル日本根子天皇ノ詔命云々」などあり、日本書紀にも、明神御宇日本天皇詔旨、明神御大八洲日本根子天皇詔命など見えている。天皇は直に神ではないが、現實にまします神の義に、神の語にアキツの限定詞を附けていうのである。
 八島之中尓 ヤシマノナカニ。ヤシマは、多數の島の義。古事記、日本書紀に、大八島出現の神話があり、八個の島を數え立てているが、それは後に八の數に拘泥して、數え立てるに至つたものである。その數え方は、古事記、日本書紀の本文および一書等、數種の傳來がある。
 多雖有 オホクアレドモ。オホクアレドモ(元赭)、サハニアレドモ(代精)。次に澤尓雖有とあるから、ここは語を換えて讀むべきであろう。
 山竝之 ヤマナミノ。ヤマナミは山の序列で、人が見て山の竝んでいる形をいう。山脈というように上から(221)見た考え方はわるい。「布當山《ふたぎやま》  山竝見者《ヤマナミミレバ》」(卷六、一〇五五)、「三毛侶之《ミモロノ》 其山奈美爾《ソノヤマナミニ》 兒等手乎《コラガテヲ》 卷向山者《マキムクヤマハ》 繼之宜霜《ツギノヨロシモ》」(卷七、一〇九三)。
 川次之 カハナミノ。カハナミは既出(卷五、八五八)。川の存在状態。ある姿。但し集中、河浪の字を使用しているものは河の浪である。
 立合郷跡 タチアフサトト。タチアフは、川の臨める意。下のトは、として。
 山代乃 ヤマシロノ。ヤマシロは國名。山城の國。
 鹿脊山際尓 カセヤマノマニ。鹿脊山は、久邇の京の中、泉河の右岸にある山。續日本紀天平十三年九月の條に「京都の百姓の宅地を班給するに、賀世山《かせやま》の西の道より東を左京とし、西を右京とす。」とある。ヤマノマは山間。
 太敷奉 フトシキマツリ。フトシキは、宮柱を太々と立てるをいう。マツリは、天皇に對する敬語。
 布當乃宮者 フタギノミヤハ。久邇の京の主要部を三香《みか》の原といい、その東北部を布當という。泉川の右岸(北岸)である。その地名を取つて布當の宮と云つている。久邇の京の宮號である。
 河近見 カハチカミ。川は泉川をいう。
 湍音敍清 セノオトゾキヨキ。泉川の川瀬の音を敍している。句切。
 山近見 ヤマチカミ。狹い土地なので、四圍の山が近い。
 鳥賀鳴慟 トリガネトヨム。慟は動に通じて用いたものだろう。トヨムに當てたと思われるものは他にない。句切。
 山裳動響尓 ヤマモトドロニ。トドロニは、音響の大きいのを説明する副詞。
 岡邊裳繁尓 ヲカベモシジニ。ヲカベモシゲニ(元赭)、ヲカベモシジニ(西)。シジニは、繁くいつぱいに(222)密在している意の副詞。
 花開乎呼理 ハナサキヲヲリ。巖ニハとあるを受けているのは、ツツジなどを想像しているのであろう。ヲヲリは枝のたわむをいう。以上、布當の宮の景觀を敍する。
 痛※[立心偏+可]怜 アナオモシロ。イタアハレ(元赭)、イトアハレ(西)、アナニヤシ(考)、アナアハレ(略)、アナタヌシ(攷)、アナオモシロ(古義)。痛は非常である意に書いたのであろう。次の甚の字をイトと讀むとすれば、略解などにアナと讀んだのが適していようか。※[立心偏+可]怜は、アハレともオモシロとも讀めるが、アナの下は普通形容詞が來るので、古語拾遺の古詞を參考として、オモシロの訓が採擇される。この句から大宮處まで、二個の插入文をもつて、讃歌の意を描いている。「阿波禮《アハレ》 阿那於茂志呂《アナオモシロ》」(古語拾遺)。
 甚貴 イトタフト。イヤタカニ(元赭)、イトタカニ(神)、イトタカキ(西)、アナタフト(略)、イトタフト(古義)。上の痛※[立心偏+可]怜と對句になつているので、同樣に獨立文として見るべきである。甚は、「屋前之橘《ニハノタチバナ》 甚近《イトチカク》 殖而師故二《ウヱテシカラニ》」(卷三、四一一)など、イトと讀まれている。
 諾己曾 ウベシコソ。シは強意の助詞。相當する文字はないが、讀み添える。
 君之隨 キミナガラ。從來キミガマニ、キミノマニと讀んでいるが、マニの語はない。皇子隨、山隨、神隨等、隨をナガラと讀むのに照らして、キミナガラと讀むべきである。ナガラは、のゆえの義であるから、之をナに當てて書いたのであろう。君であるから、君なるがゆえに。
 所聞賜而 キコシタマヒテ。キカシタマヒテ(西)、キコシタマヒテ(考)。キコシは、聞くの敬語。原形はキカスであろうが、集中の例は、キコスとのみ書いている。
 定異等霜 サダメケラシモ。ケラシは、ケルラシ。モは助詞。
【評語】久邇の京を敍して、その良い處であることを説く。形體は、前の奈良の散郷を悲しむ歌と似ているが、(223)景觀の敍述において、わざと順序を代えて、河山秋春の順とし、しかも連用形をもつて下に接續せしめて、目先を變えている。アナオモシロ云々の插入文をもつて感動をあらわしたのも、一手段で、よくその效果を擧げている。ただ例によつて、景觀の敍述が概念的であり、春と秋とを對して、鹿と花とを敍しているなど、形式に墮しているのは致し方がない。山や川に接しているというだけで、何等久邇の京の特色が出ていない。
 
反歌二首
 
1051 三日の原 布當《ふたぎ》の野邊を 清みこそ、
 大宮どころ【一は云ふ、ここと標さし】定めけらしも。
 
 三日原《ミカノハラ》 布當乃野邊《フタギノノベヲ》 清見社《キヨミコソ》
 大宮處《オホミヤドコロ》【一云、此跡標刺】 定異等霜《サダメケラシモ》
 
【譯】三日の原の布當の野が清らかなので、大宮の地を、此處とお定めになつたのであろう。
【釋】三日原 ミカノハラ。泉川を插む久邇の京の平地の總稱である。
 一云此跡標刺 アルハイフ、ココトシメサシ。シメサスは、占有を意味するために、標木をさすをいう。シメは、占有の義。サスは、それを設定する義。この一云此跡標刺の六字は、古寫本にあつて、第四句の大宮處の下にあるので、普通の例に從つて、第四句を代えて、「三日の原布當の野邊を清みこそここと標さし定めけらしも」とする時は、内容の表出が不安定である。五句の校異とする時は」「清みこそ大宮處ここと標刺せ」と讀むべきであるが、口調上これも落ちつかない。これらの理由で、後の本には削られたものと思われる。或るいは「三日の原布當の野邊を清みこそ大宮處此處と標刺し定めけらしも」と讀んで、六句體の歌であつたものを、そのうちの一句に、誤つて一云の冠を附けて、校異の形としたものではあるまいか。もとより臆測に過ぎないけれども、そうも考えられる。六句體の歌は、佛足跡歌碑の歌のように、第六句は獨立句であるのが普(224)通であるが、長歌の末を、五七七七と結ぶもののある上は、かような六句の遊離しない六句體の歌も考えられないこともない。さて短歌形式の全盛と共に、それに適うように形を整備されたものであるかもしれないのである。
【評語】長歌の内容を、一首の短歌にまとめただけで、何の興趣もない。概念的な歌である。
 
1052 山高く 川の瀬清し。
 百世《ももよ》まで 神《かむ》しみ行かむ 大宮どころ。
 
 山高來《ヤマタカク》 川乃湍清石《カハノセキヨシ》
 百世左右《モモヨマデ》 神之味將v往《カムシミユカム》 大宮所《オホミヤドコロ》
 
【譯】山は高く川の瀬は清らかだ。永久に神々しくなつて行くだろう大宮の地だ。
【釋】山高來 ヤマタカク。山は諸本に弓に作つている。弓では何とも解の下しようがないので、萬葉考に山の誤りとするによつている。
 百世左右 モモヨマデ。遠い將來まで、永久に。
 神之味將往 カムシミユカム。カミノミユカム(西)、カミシミユカム(管)、カムシミユカム(攷)。代匠記に神之味をカミシミと讀んで、神サビと同語としているが、カムサビに準ずればカムシミであろう。しかしカミシミ、カムシミの語は、他に用例を見ない。ユカムは連體形。
【評語】第四句に疑問があつて、明解を得ないのは遺憾であるが、殊に特色のある歌でもなさそうである。
 
1053 わが皇《おほきみ》 神の命の
 高知らす 布當《ふたぎ》の宮は、
 百樹《ももき》成す 山は木高《こだか》し。
(255) 落ちたぎつ 瀬の音《おと》も清し。
 鶯の 來鳴く春べは、
 巖には 山|下《した》光り、
 錦なす 花咲きををり、
 さを鹿の 妻呼ぶ秋は、
 天霧《あまぎら》ふ 時雨を疾《いた》み、
 さにつらふ 黄葉《もみち》散りつつ、
 八千年に あれつかしつつ、
 天の下 知らしめさむと、
 百代にも 易《かは》るましじき
 大宮處。
 
 吾皇《ワガオホキミ》 神乃命乃《カミノミコトノ》
 高所v知《タカシラス》 布當乃宮者《フタギノミヤハ》
 百樹成《モモキナス》 山者木高之《ヤマハコダカシ》
 落多藝都《オチタギツ》 湍音毛清之《セノトモキヨシ》
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 來鳴春部者《キナクハルベハ》
 巖者《イハホニハ》 山下耀《ヤマシタヒカリ》
 錦成《ニシキナス》 花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》
 左壯鹿乃《サヲシカノ》 妻呼秋者《ツマヨブアキハ》
 天霧合《アマギラフ》 之具禮乎疾《シグレヲイタミ》
 狹丹頬歴《サニヅラフ》 黄葉散乍《モミチチリツツ》
 八千年尓《ヤチトセニ》 安禮衝之乍《アレツガシツツ》
 天下《アメノシタ》 所v知食跡《シロシメサムト》
 百代尓母《モモヨニモ》 不v可v易《カハルベカラヌ》
 大宮處《オホミヤドコロ》
 
【譯】天皇陛下の知ろしめす布當の宮は、樹立の茂つている山は木高くあり、激流の川瀬の音も清らかだ。ウグイスの來て鳴く春の頃は、巖には草木の下葉が輝き、錦をなして花が咲き滿ち、壯鹿の妻を呼ぶ秋は、空かき曇つて降る時雨が強くして、赤く染まつた木の葉が散りつつ、何時までも生まれついて、天下を知ろしめすことと、永久に變わるべくもない大宮の地である。
【構成】これも文の切目はあるが段落はない。布當ノ宮ハまで主題の提示。その以下、黄葉散リツツまで景觀の敍述。山河春秋の順で述べられており、山と河とは終止形を採つている。その以下、永久性を説いて終つて(226)いる。
【釋】吾皇神乃命乃 ワガオホキミカミノミコトノ。あまつ神なる天皇を、ただちに神の命と申している。わが大君である神の命で、ミコトは尊稱。
 百樹成 モモキナス。
  モモキナル(元賭)
  モモキナス(矢)
  モモキモル(古義)
  モモキモリ(新考)
  ――――――――――
  百木盛《モモキモル》(略、宣長)
 ナスは、何々を成しての意に、多く枕詞を構成するものとして使用される。ここもモモキモル等の説もあるが、ナスで、樹木が主になつている山を説明するものとも解し得る。譬喩でなしにナスを使う例は、「水門成《ミナトナス》 海毛廣之《ウミモヒロシ》」(卷十三、三二三四)など多くある。
 山者木高之 ヤマハコダカシ。コダカシは、樹木の茂つて高くあるをいう。句切。
 落多藝都 オチタギツ。タギツは、ここは動詞。
 山下耀 ヤマシタヒカリ。ヤマシタは、山の下方の義で、山膚に接しているところをいう。草木の葉など赤くなつているのが目立つので、ヒカルという。「安之比奇能《アシヒキノ》 山下比可流《ヤマシタヒカル》 毛英知葉能《モミチバノ》」(卷十五、三七〇〇)。多く秋にいうが、ここに春にいうのは珍しい。
 錦成 ニシキナス。枕詞。倭名類聚紗に「錦、釋名(ニ)云(フ)、錦居飲(ノ)反、邇之岐《ニシキ》」とある。錦のようなの意。
 天霧合 アマギラフ。キラフは動詞霧ルの連續をいう語法である。空が霧でこもつて。雲で天がいつぱいになつて。
(227) 之具禮乎疾 シグレヲイタミ。シグレは、秋降る雨。イタミは、はなはだしくある意。
 狹丹頬歴 サニツラフ。赤く色にあらわれる。
 黄葉散乍 モミチチリツツ。モミチは、草木の葉の秋になつて變色したものをいう。黄葉の字を使うが、かならずしも黄に限らないから、サニツラフと衝突しない。この句まで、布當の宮の景觀を述べている。
 八千年尓 ヤチトセニ。ヤチトセは、多い年數をいう。
 安禮衝之乍 アレツカシツツ。アレは生誕、出現する意。ツカシは、ツクの敬語。この世に出現し到る義。「藤原之《フヂハラノ》 大宮都加倍《オホミヤツカヘ》 安禮衝哉《アレツクヤ》 處女之友者《ヲトメガトモハ》 乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》」(卷一、五三)參照。皇子が次々に出現して知ろしめす意。
 不可易 カハルマシジキ。マシジキは、助動詞マシジ(後のマジの原形)の連體形。變わるべくもあらぬ。
【評語】前二首の長歌と、同樣の構成を有し、この作者の表現の、變化のすくないことを語つている。この歌は、景觀の敍述がややくわしくなつているのが特色であるが、前二首とくらべても、その以外に多く出ていないことが見られる。
 
反歌五首
 
1054 泉川《いづみがは》 ゆく瀬の水の 絶えばこそ、
 大宮どころ 遷《うつ》ろひ往かめ。
 
 泉川《イヅミガハ》 往瀬乃水之《ユクセノミヅノ》 絶者許曾《タエバコソ》
 大宮地《オホミヤドコロ》 遷往目《ウツロヒユカメ》
 
【譯】泉川の流れて行く川瀬の水が絶えもしたら、この大宮の地が變わりもするだろう。
【釋】泉川 イヅミガハ。源を奈良縣の宇陀に發し、三重縣の伊賀にはいつて名張川となり、伊賀川を合わせ(228)て、京都府山城の國にはいつて、久邇の京の地を流れる川。今、木津川という。
 往瀬乃水之 ユクセノミヅノ。ユクセは、流れ行く瀬。
 遷往目 ウツロヒユカメ。ウツロヒは、變移する。衰える。コソを受けてメと結んでいる。
【評語】河水の流れてやまないのに譬えるのは、類型的で、何らの新味はないが、反歌を五首も詠んでいるのは、特色である。
 
1055 布當《ふたぎ》山 山|竝《なみ》見れば、
 百代にも 易《かは》るましじき 大宮處。
 
 布當山《フタギヤマ》 々竝見者《ヤマナミミレバ》
 百代尓毛《モモヨニモ》 不v可v易《カハルマシジキ》 大宮處《オホミヤドコロ》
 
【譯】布當山の連山を見ると、永久に變わるべくもない大宮の地だ。
【釋】布當山 フタギヤマ。布當の地の山で、久邇の京の東北から流れて泉川に入る川が布當川だから、主として東北方面の山をいうと見られる。
 々竝見者 ヤマナミミレバ。ヤマナミは、長歌參照。山列の姿。
【評語】長歌の山の部分を取り、また末句を取つて、一首の短歌にまとめただけである。
 
1056 娘子《をとめ》らが 績苧《うみを》繋《か》くといふ 鹿脊《かせ》の山、
 時の往《ゆ》ければ 京師《みやこ》となりぬ。
 
 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 績麻繋云《ウミヲカクトイフ》 鹿脊之山《カセノヤマ》
 時之往者《トキノユケレバ》 京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》
 
【譯】娘さんたちが績んだ苧を懸けるというカセという名の山は、時節が來たので、帝都となつた。
【釋】※[女+感]嬬等之 ヲトメラガ。※[女+感]嬬は既出(卷一、四〇)。
 績麻繋云 ウミヲカクトイフ。ウミヲは、うんだ麻で、それを懸けるカセの義に、次の句に續く。以上二句、(229)序である。
 鹿脊之山 カセノヤマ。山名のカセと、苧を懸けるカセ(※[木+峠の旁])とを懸けことばにしている。カセは、絲を懸けて卷く道具。棒の先後に横木をつけて※[エの形の図]のような形に作つたもの。
 時之往者 トキノユケレバ。時が行つたので。時が運行して、その時節に廻り合つて。
【評語】序だけで持つている歌である。かような山間の僻地が、時勢に合つて都となつたことを感歎している。
 
1057 鹿脊《かせ》の山 樹立《こだち》をしげみ、
 朝去らず 來鳴きとよもす
 うぐひすの聲。
 
 鹿脊之山《カセノヤマ》 樹立矣繁三《コダチヲシゲミ》
 朝不v去《アササラズ》 寸鳴響爲《キナキトヨモス》
 ※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》
 
【譯】鹿脊の山は樹立が茂くあるので、朝ごとに來て鳴き立てるウグイスの聲がする。
【釋】樹立矣繁三 コダチヲシゲミ。樹立が茂くして。
 朝不去 アササラズ。朝ごとに、朝は離れ去ることなくの義で、朝はかならずの意になる。
 寸鳴響爲 キナキトヨモス。トヨモスは、聲を立てる意。大きな響きではなく使つている。連體形。
【評語】長歌の中の一部について歌つているが、具體的に敍して、生きている歌である。直接に久邇の京とは關係がないが、その景觀を敍するものとして、次の歌と共に、反歌の一環を成している構成を見るべきである。
 
1058 狛山《こまやま》に 鳴くほととぎす、
 泉河 渡《わたり》を遠み
 ここに通はず。
 
 狛山尓《コマヤマニ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》
 泉河《イヅミガハ》 渡乎遠見《ワタリヲトホミ》
 此間尓不v通《ココニカヨハズ》
 
(230)【譯】狛山で鳴くホトトギスは、泉川の渡る處が遠いので、ここに通つてこない。
【釋】狛山尓 コマヤマニ。狛山は、久邇の京の西方。泉川の右岸(北岸)にある。
 渡乎遠見 ワタリヲトホミ。ワタリは、渡るべき場處。鳥も人と同様に渡るべき場處を渡つて通うとする構想である。
 此間尓不通 ココニカヨハズ。作者は、泉川を隔てて、狛山の對岸(南岸)にいる。
【評語】ホトトギスの鳴かないことを述べている。前の歌と共に、久邇の京の景観の一部をなすものであるが、むしろこの作歌の時の事情を述べたものと見るべきであろう。ホトトギスを思う情はよく描かれている。ウグイス、ホトトギスは、季節の違うものであるが、夏季には共に鳴くので、その頃の作であろう。
 
一云、渡遠哉《ワタリトホミヤ》 不v通有武《カヨハザルラム》
 
一は云ふ、渡遠みや 通はざるらむ。
 
【釋】一云渡遠哉不通有武 アルハイフ、ワタリトホミヤカヨハザルラム。前の歌の四五句の別傳である。本文の句の方が、決定的でよい。これは多分作者が、別案を存したものであろう。
 
春日悲2傷三香原荒墟1作歌一首并2短歌1
 
春の日に、三香《みか》の原の荒れたる墟《あと》を悲しみ傷みて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】春日悲傷三香原荒墟作歌 ハルノヒニミカノハラノアレタルアトヲカナシミイタミテツクレルウタ。しばしば記したように、天平十二年十二月に久邇の京の造營を始められ、初め平城の宮の大極殿竝に歩廊を壞つて、久邇の宮に遷し造り、四年にしてわずかに終つたのであるが、十五年には更に紫香樂《しがらき》の宮を造つて、久邇(231)の宮の造作をやめた。紫香樂の宮は、近江の國甲賀の郡にあり、久邇の宮から、山越しに到る處にある。しかも天平十六年二月には、難波の宮を帝都と定める勅を下された。この都も久しからず、翌十七年正月、にわかに紫香樂の新京に遷つた。そうして、その五月には久邇の京に還り、ついで平城の京に行幸せられた。この時紫香樂の宮に人なく、盗賊みちて、四邊の山には、山火事久しくして消えなかつた。この歌に春の日とあるのは、天平十六年の春であろう。
 
1059 三香《みか》の原 久邇《くに》の京師は、
 山高み 河の瀬清み、
 ありよしと 人は云へども、
 ありよしと 吾は念へど、
 古りにし 里にしあれば、
 國見れど 人も通はず。
 里見れば 家も荒れたり。」
 はしけやし かくありけるか。
 三諸著《みもろつ》く 鹿脊《かせ》山の際《ま》に
 咲く花の 色めづらしく、
 百島《ももとり》の 聲なつかしき、
 ありが欲《ほ》し 住みよし里の
(232) 荒るらく惜しも。」
 
 三香原《ミカノハラ》 久迩乃京師者《クニノミヤコハ》
 山高《ヤマタカク》 河之瀬清《カハノセキヨミ》
 在吉迹《アリヨシト》 人者雖v云《ヒトハイヘドモ》
 在吉跡《アリヨシト》 吾者雖v念《ワレハオモヘド》
 故去之《フリニシ》 里尓四有者《サトニシアレバ》
 國見跡《クニミレド》 人毛不v通《ヒトモカヨハズ》
 里見者《サトミレバ》 家裳荒有《イヘモアレタリ》
 波之異耶《ハシケヤシ》 如v在家留可《カクアリケルカ》
 三諸著《ミモロツク》 鹿脊山際尓《カセヤマノマニ》
 開花之《サクハナノ》 色目列敷《イロメヅラシク》
 百鳥之《モモトリノ》 音名束敷《コヱナツカシク》
 在杲石《アリガホシ》 住吉里乃《スミヨキサトノ》
 荒樂苦惜哭《アルラクヲシモ》
 
【譯】三香の原の久邇の都は、山が高くして河の瀬が清らかなので、いよい處だと人はいうが、いよい處だとわたしは思うが、古くなつてしまつた里のことだから、土地を見ても人も通らない。里を見れば家も荒れている。ほんとにこんなことだつたのだ。お社のある鹿脊山の山間に、咲く花のように色が愛すべく、多くの鳥のように聲のなつかしい、いることが願わしく、住みよい里の荒れるのが惜しいことだ。
【構成】二段からできている。家モ荒レタリまで第一段、久邇の都の景觀を述べてその荒れたことを述べる。以下第二段、その荒れることを惜しんでいる。
【釋】三香原 ミカノハラ。所在の地名をもって、冠している。
 河之瀬清 カハノセキヨミ。カハノセキヨシ(元赭)。カハノセキヨミ(代初書入)。以上、山河の状況を述べて、次のアリヨシト云々の理由とする。カハノセキヨシと讀めば、ここで文が切れる。
 在吉迹人者雖云 アリヨシトヒトハイヘドモ。在は、類聚古集には住に作つているが、その方がよさそうだ。下文にも在杲石住吉里と、在と住とになつている。迹は跡と通用する字で、トの訓假字として使用されている。
 故去之 フリニシ。古くなつた。都の遷り去つたことをいう。
 國見跡 クニミレド。クニは、元來四方の見渡される限りをいう語で、ここは時代は新しいが、そういう使い方が殘つている處だ。見渡した處をいう。
 人毛不通 ヒトモカヨハズ。カヨハズは、往來しない。句切。
 家裳荒有 イヘモアレタリ。人が住まなくなつたのをいう。句切。以上第二段。
 波之異耶 ハシケヤシ。考にこの下に之の字脱かとし、略解に二句ほど脱かとしている。釋日本紀の引用に(233)は「波之異耶思《ハシケヤシ》」とある。しかし、下のシは強意の助詞だから、それに相當する文字がなくても讀み添える例はある。またこの句は、語義からいえば、體言が接續するのを原形とするが、慣用の後に、獨立句の如き氣分を生じたことは、しばしば記した。「伴之伎與之《ハシキヨシ》 加久乃未可良爾《カクノミカラニ》」(卷五、七九六)の如き、その一例である。(ハシキヨシはハシケヤシに同じ)そこでここも脱落したのでなくして、このままで感動の意をあらわしたものと見るべきである。その語氣は、アハレの如き意で、荒れたことに感動したのである。
 如此在家留可 カクアリケルカ。上の記事をカクで受けている。下のカは感動の助詞。この二句は插入文で、上を受けて詠嘆の意を現す。
 三諸著 ミモロツク。ミモロは、神座。ツクは著く。山などに神社があるのは、神がそこに著きたまう意味で、神社がつくという表現になるのであろう。「三諸就《ミモロツク》 三輪山見者《ミワヤマミレバ》」(卷七、一〇九五)。
 開花之 サクハナノ。實際の花である。枕詞ではない。
 色目列敷 イロメヅラシク。メヅラシは、賞すべくあるをいう。
 百鳥之 モモトリノ。モモトリは、多數の鳥。これも枕詞ではない。
 音名束敷 コヱナツカシキ。コヱナツカシク(西)、コヱナツカシキ(古義)。ナツカシは、馴著カシで、馴れ親しまれる状態にあるをいう。
 在杲石 アリガホシ。在ることが欲しくあるをいう。連體形で、里を修飾する。
 住吉里乃 スミヨシサトノ。スミヨキサトノ(元赭)、スミヨシサトノ(細)。上がアリガホシであるから、古い形によつて、スミヨシサトノとするがよいであろう。以上二句、上のアリヨシト云々を受けている。
 荒樂苦惜哭 アルラクヲシモ。哭は、泣く意の字で喪の意味に、モの假字に使用している。アルラクは、荒れることの意。
(234)【評語】前數首の長歌とは、大分構成を變えてきた。數首詠みきているうちに、進歩したのである。もつと具體的に荒れた樣を描寫すればよかつたろうが、そこまで行つていない。わずかに、三諸ツクあたりに、その一片が見られるに過ぎない。その他は、どこの都に持つて行つても、大體通用するのは、弱點である。
 
反歌二首
 
1060 三香《みか》の原 久邇《くに》の京《みやこ》は 荒れにけり。
 大宮人の 遷《うつ》ろひぬれば。
 
 三香原《ミカノハラ》 久迩乃京者《クニノミヤコハ》 荒去家里《アレニケリ》
 大宮人乃《オホミヤビトノ》 遷去禮者《ウツロヒヌレバ》
 
【譯】三香の原の久邇の都は、荒れてしまつた。大宮づかえの人々が遷り去つたので。
【釋】荒去家里 アレニケリ。ケリは、詠嘆の意。句切、三句切。
 遷去禮者 ウツロヒヌレバ。ウツロヒは、ここでは遷り去る意に使つている。
【評語】長歌の内容を要約しただけの歌である。二句までかかつて、久邇の都を提示し、三句だけで詠嘆したのは、氣分がよく出て效果的である。四五句に、その理由を説いたのは、理くつつぽさを感じさせる。
 
1061 咲く花の 色はかはらず。
 ももしきの 大宮人ぞ
 立ち易りける。
 
 咲花乃《サクハナノ》 色者不v易《イロハカハラズ》
 百石城乃《モモシキノ》 大宮人敍《オホミヤビトゾ》
 立易奚流《タチカハリケル》
 
【譯】咲く花の色は變わらないが、大宮にお仕えする人は變わつて遷り去つてしまつた。
【釋】咲花乃色者不易 サクハナノイロハカハラズ。花といえば通例櫻花と見てよいが、ここは櫻花に限るわ(235)けではない。中止形の句。
 立易奚流 タチカハリケル。タチは接頭語。
【評語】作者はいま春の日に、舊都の花に對して感慨をおぼえている。この歌は、花と人とを對照して、人事の移りやすいことを述べている。その思想は、類型的であるが、この歌の表現は率直で、感慨の情のよく通ずるのがよい。久邇の都の規模は、かなり大きくあつたことと思われるが、都であつた時は短かく、盛衰の變化のあまりにもはげしいのに、歌人の心は傷んでいる。新都の榮えを頌《しよう》した歌が、まだ墨も乾かないのに、もはや荒れた墟《あと》の春を悼んで歌わねばならなくなつている。花は無心、都であつたとなくなつたとに論なく、におい滿ちている。唐詩に、年年歳歳花相似(タリ)、歳歳年年人不v同(ジカラ)というと、趣旨を同じくしており、人麻呂の志賀の辛碕《からさき》を詠んだ歌にも通ずるものがある。
 
難波宮作歌一首并2短歌1
 
【釋】難波宮作歌 ナニハノミヤニテツクレルウタ。難波の宮は、しばしば見え、本卷にも九二八以下、および、九九七以下に歌われている。天平十六年閏正月十一日、天皇、難波の宮に幸し、二月、久邇の宮の高御座《たかみくら》および大楯《おおたて》を難波の宮に運び、難波の宮をもつて帝都と定められたが、二十四日には、三島路を取つて紫香樂の宮に行幸あり、七月に難波の宮に還幸された。然るに天平十七年正月元日には、たちまち新京に遷るとあり、この新京は、紫香樂の宮をさすので、前年中に遷られたものと見られる。かように難波の宮を帝都とされた期間は、極めて短かかつた。この作品中、帝都であるよしが見えないので、帝都であつた時代の作であるとは定められない。歌詞中に、味原の宮とあり、その點は、九二八の歌と一致している。
 
(236)1062 やすみしし わが大王の
 あり通ふ 難波の宮は、
 鯨魚《いさな》取り 海|片附《かたつ》きて、
 玉|拾《ひり》ふ 濱邊を近み、
 朝羽振《あさはふ》る 浪の音《おと》騷き、
 夕凪《ゆふな》ぎに 櫂《かぢ》の聲《おと》聞ゆ。」
 曉《あかとき》の 寢覺《ねざめ》に聞けば、
 海石《いくり》の 潮干《しほひ》のむた
 浦渚《うらす》には 千鳥《ちどり》妻呼び、
 葦邊《あしべ》には 鶴《たづ》が音《ね》響《とよ》む。」
 視《み》る人の 語《かたり》にすれば、
 聞く人の 見まく欲りする
 御食向《みけむか》ふ 味原《あぢふ》の宮は、
 見れど飽《あ》かぬかも。」
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 在通《アリガヨフ》 名庭乃宮者《ナニハノミヤハ》
 不知魚取《イサナトリ》 海片就而《ウミカタツキテ》
 玉拾《タマヒリフ》 濱邊乎近見《ハマベヲチカミ》
 朝羽振《アサハフル》 浪之聲躁《ナミノオトサワキ》
 夕薙丹《ユフナギニ》 櫂合之聲所v聆《カヂノオトキコユ》
 曉之《アカトキノ》 寐覺尓聞者《ネザメニキケバ》
 海石之《イクリノ》 鹽干乃共《シホヒノムタ》
 ※[さんずい+内]渚尓波《ウラスニハ》 千鳥妻呼《チドリツマヨビ》
 葭部尓波《アシベニハ》 鶴鳴動《タヅガネトヨム》
 視人乃《ミルヒトノ》 語丹爲者《カタリニスレバ》
 聞人之《キクヒトノ》 視卷欲爲《ミマクホリスル》
 御食向《ミケムカフ》 味原宮者《アヂフノミヤハ》
 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】安らかに見そなわす天皇陛下の、お通いになる難波の宮は、鯨を捕る海に一方がついて、玉を拾う濱邊が近く、朝うち寄せる浪の音が騷ぎ、夕べの凪ぎに船漕ぐ音が聞える。明け方の寢ざめに聞けば、海中の石が、潮のひると共に、浦の所では千鳥が妻を呼び、葦の生えている岸邊では鶴が鳴き立てている。見る人が物語に(237)すれば、聞く人が見たいと思う、御食事に向かう味原の宮は、見ても飽きないことだ。
【構成】三段から出來ている。楫ノ聲聞ユまで第一段、難波の宮の地勢を説く。鶴ガネトヨムまで第二段、その景觀を述べる。以下第三段、その見ても飽きることのない旨を敍して、結んでいる。
【釋】在通 アリガヨフ。ありつつ通う意で、アリは接頭語ふうになつてきている。
 名庭乃宮者 ナニハノミヤハ。名庭は假字。難波に同じ。主題の提示で、以下これを説明する。
 不知魚取 イサナトリ。枕詞。不知はイサの假字に使用している。
 海片就而 ウミカタツキテ。カタツキテは、一方がついている意。「足曳之《アシヒキノ》 山片就而《ヤマカタツキテ》 家居爲流君《イヘヰセルキモ》」(卷十、一八四二)、「之可禮杼毛《シカレドモ》 谷可多頭伎※[氏/一]《タニカタツキテ》 家居有《イヘヰセル》 君之聞都々《キミガキキツツ》」(卷十九、四二〇七)。
 玉拾 タマヒリフ。タマは、貝、石など、玉の材料となるものをいう。海濱に對する魅力の大きな素因をなしている。
 朝羽振 アサハフル。ハフルは、鳥の羽を振う義で、浪の勢のよいのを形容している。
 浪之聲躁 ナミノオトサワキ。躁は、騷ぎ亂れるをいう。
 櫂合之聲所聽 カヂノオトキコユ。
  サヲノヲトキコエ(元赭)
  カカヒノオトキコユ(西)
  カヂノトキコユ(攷)
  ――――――――――
  櫂之聲所聆《カヂノトキコユ》(考)
 櫂は、船を漕ぐ道具で、その長いものをいう。合の字は、櫂を水に合わせて使用する意に添えたらしい。聆は、さやかに聞えること。句切。以上第一段、難波の宮が、海に近い地勢にあることを述べる。
 寐覺尓聞者 ネザメニキケバ。ネザメは、眠りから覺めたのをいう。
(238) 海石之 イクリノ。イクリは、海中の石。
 鹽干乃共 シホヒノムタ。ムタは、共にの意。
 ※[さんずい+内]渚尓波 ウラスニハ。※[さんずい+内]は浦に同じく、入り込んだ水面をいう。寫本に納によつているのは、※[さんずい+内]の誤りである。ウラスは、浦にある洲。
 葭部尓波 アシベニは。葭は蘆葦に同じ。アシベは、海岸近くアシの生えている邊。
 鶴鳴動 タヅガネトヨム。タヅナキトヨミ(元赭)、タヅガネトヨミ(西)、タヅガネトヨム(古義)。以上第二段。曉の鳥聲を敍する。
 語丹爲者 カタリニスレバ。カタリは、語りごと。物語。
 御食向 ミケムカフ。枕詞。御食に向かう味と續く。
 味原宮者 アヂフノミヤハ。アヂフノミヤは既出(卷六、九二八)。難波の宮を、その所在の小地名によつて稱している。
 雖見不飽香聞 ミレドアカヌカモ。景觀人物などを讃嘆するに使用する慣用句。
【評語】海濱の宮の敍述が、具體的であり、かつ、春と秋とを對にするような概念的な行き方がないので、感じがよい。第三段の行き方も巧みである。但し第二段が、音聲のみによつて敍しているのに對して、第三段が、視覺を主としているのは、矛盾であり、兩者の呼應がしつくり行かない所以でもある。作者が、長歌の作に慣れてきたことは窺われる。
 
反歌二首
 
(239)1063 ありがよふ 難波の宮は、
 海近み、
 漁童女《あまをとめ》らが 乘れる船見ゆ。
 
 有通《アリガヨフ》 難波乃宮者《ナニハノミヤハ》
 海近見《ウミチカミ》
 漁童女等之《アマヲトメラガ》 乘船所v見《ノレルフネミユ》
 
【譯】天皇のお通ひになる難波の宮は、海が近いので、海人の娘たちの乘つている船が見える。
【釋】有通 アリガヨフ。主格はないが、長歌の句を受けているので、天皇のおでましになることをいうと見られる。
 漁童女等之 アマヲトメラガ。童女は、年少の女子であるが、ここでは娘子と同じに使用されている。
【評語】長歌を受けて、難波の宮の風光を敍している。單純な説明が、かえつて海濱の宮の空氣をよく出している。
 
1064 潮|干《ふ》れば 葦邊《あしべ》に騷《さわ》く 白鶴《あしたづ》の
 妻呼ぶ聲は、宮もとどろに。
 
 鹽干者《シホフレバ》 葦邊尓躁《アシベニサワク》 白鶴乃《アシタヅノ》
 妻呼音者《ツマヨブコヱハ》 宮毛動響二《ミヤモトドロニ》
 
【譯】潮が干ると、アシの生えている邊で騒ぐ鶴の、妻を呼ぶ聲は、宮中に響き渡るほどだ。
【釋】鹽干者葦邊尓躁 シホフレバアシベニサワク。潮がひると、鶴が沖の干潟に出ると歌うのが多いが、これは葦邊に騷ぐと敍している。多分潮がひて、アシの邊が鶴の餌を拾うのにほどよくなるのであろう。
 白鶴乃 アシタヅノ。シラツルノ(元)、アシタヅノ(西)、シラタヅノ(攷)。白は鶴の羽毛の色をあらわしている。これをアシタヅと讀むのは、義訓で、白の字に拘わらない讀み方である。
 宮毛動響二 ミヤモトドロニ。ミヤは宮中。トドロニは、音響の大なるを形容する副詞。
(240)【評語】巧みに海濱の宮殿の状況を描いている。鶴の生態も躍如として、活動的である。
 
過2敏馬浦1時作歌一首并2短歌1
 
【釋】過敏馬浦時作歌 ミヌメノウラヲスギシトキツクレルウタ。何時の作とも知られない。假に排列の順序から云えは、難波の宮にあつた頃に、敏馬の浦を過ぎて作つたのであろうか。歌中、旅情に及んでいないことを見ると、遠行の際の作ではないのだろう。
 
1065 八千|桙《ほこ》の 神の御世より、
 百船の 泊《は》つる泊《とまり》と、
 八島國《やしまぐに》 百船人《ももふなひと》の
 定めてし 敏馬《みぬめ》の浦は、
 朝風に 浦浪騷き、
 夕浪に 玉藻は來寄る。」
 白沙《しらまなご》 清き濱邊は、
 往き還り 見れども飽かず。」
 うべしこそ 見る人ごとに、
 語り繼ぎ 思《しの》ひけらしき。
 百世|歴《へ》て 思《しの》はえ行かむ。
(241) 清き白《しら》濱。
 
 八千桙之《ヤチホコノ》 神之御世自《カミノミヨヨリ》
 百船之《モモフネノ》 泊停跡《ハツルトマリト》
 八島國《ヤシマグニ》 百船純乃《モモフナビトノ》
 定而師《サダメテシ》 三犬女乃浦者《ミヌメノウラハ》
 朝風尓《アサカゼニ》 浦浪左和寸《ウラナミサワキ》
 夕浪尓《ユフナミニ》 玉藻者來依《タマモハキヨル》
 白沙《シラマナゴ》 清濱部者《キヨキハマベハ》
 去還《ユキカヘリ》 雖v見不v飽《ミレドモアカズ》
 諾石社《ウベシコソ》 見人毎尓《ミルヒトゴトニ》
 語嗣《カタリツギ》 偲家良思吉《シノヒケラシキ》
 百世歴而《モモヨヘテ》 所v偲將v往《シノハエユカム》
 清白濱《キヨキシラハマ》
 
【譯】八千桙の神の御代から、澤山の船の碇泊する港として、日本の國の多くの船人たちの定めた敏馬の浦は、朝の風に浦の浪が騷ぎ、夕方の浪に、海藻が來て寄る。白い砂の清らかな濱邊は、往復に見ても飽きない。ほんとに見る人ごとに語り繼いで、思つたことだろう。永久に思われて行くだろう。清い白濱は。
【構成】三段からできている。玉藻は來寄ルまで第一段、敏馬の浦の風光を敍する。次に見レドモ飽カズまで第二段、その佳景であることを述べる。以下第三段、永久に愛賞して行こうの意を述べる。そのうち思ヒケラシキまで一文、見る人の愛して思慕することを述べ、その以下、永久に思慕されるだろうと述べて結んでいる。
【釋】八千桙之神乃御世目 ヤチホコノカミノミヨヨリ。八千桙の神は、大國主の神の別名と傳えられている。その時代からというのは、悠遠な古代からの意である。「八千戈《ヤチホコノ》 神自2御世1《カミノミヨヨリ》 乏※[女+麗]《トモシヅマ》 人知爾来《ヒトシリニケリ》 告思者《ツギテシオモヘバ》」(巻十、二〇〇二)。
 百般之 モモフネノ。モモフネは、多数の船をいう。
 泊停跡 ハツルトマリト。ハツルは、終る、果つるの義で、碇泊するをいう。トマリは、留泊する處。
 八島國 ヤシマグニ。日本の國土。
 百般純乃 モモフナビトノ。純を人に當てることは、既出「百般純毛《モモフナビトモ》」(卷六、一〇二三)參照。
 三犬女乃浦者 ミヌメノウラハ。ミヌメは訓假字。敏馬をいう。敏馬は神戸市の東部で、當時舟著場となつていたものと見える。
 玉藻者來依 タマモハキヨル。以上第一段。敏馬の浦の風光を敍する。
 白沙 シラマナゴ。白い海濱の砂。
(242) 去還雖見不飽 ユキカヘリミレドモアカズ。敏馬を過ぎて往來したものと見える。以上第二段。白砂の海濱の佳景を述べる。
 諾石社 ウベシコソ。シは強意の助詞。コソは係助詞。
 偲家良思吉 シノヒケラシキ。シノヒは賞美し思慕する。ケラシキは、ケルラシの意の連體形で、コソを受けて結んでいる。「古昔母《イニシヘモ》 然爾有許曾《シカニアレコソ》 虚蝉毛《ウツセミモ》 嬬乎《ツマヲ》 相挌良思吉《アラソフラシキ》」(卷一、一三)と同じ語法である。この地を見る人毎にうべこそ語り嗣ぎ愛賞したのだろうの意。
 百世歴而 モモヨヘテ。モモヨは、永き世代、永久に。
 所偲將往 シノハエユカム。愛賞せられ行くならむ。句切。
 清白濱 キヨキシラハマ。上の白マナゴ清キ濱邊を繰り返して、賞美される目標を明らかにしている。
【評語】もはや春秋の景觀を對句として作りものとするような境地から脱して、見る所を描寫し敍述するまでに進んでいる。勿論若干の海の概念的な敍述は殘つているが、大體において生き生きとした感じを與える。
 
反歌二首
 
1066 まそ鏡 敏馬《みぬめ》の浦は、
 百船の 過ぎて往くべき
 濱ならなくに。
 
 眞十鏡《マソカガミ》 見宿女乃浦者《ミヌメノウラハ》
 百船《モモフネノ》 過而可v往《スギテユクベキ》
 濱有七國《ハマナラナクニ》
 
【譯】澄んだ鏡を見る。その敏馬の浦は、たくさんの船が通り過ぎて行くような濱ではないのだ。
【釋】眞十鏡 マソカガミ。枕詞。澄んだ鏡で、見に冠する。
(243) 過而可往 スギテユクベキ。寄らないで通過すべき。
 濱有七國 ハマナラナクニ。濱ではない。
【評語】長歌の内容を、短歌一首に要約しただけの歌で、長歌がある以上、これは蛇足だ。初句の枕詞も、無意味にすえられている。一〇二三の歌に通う所のある作だ。
 
(244)1067 濱清み 浦うるはしみ、
 神代より 千船《ちふね》のとまる 大和田の濱。
 
 濱清《ハマキヨミ》 浦愛見《ウラウルハシミ》
 神世自《カミヨヨリ》 干船湊《チフネノトマル》 大和太乃濱《オホワダノハマ》
 
【譯】濱が清く、浦が美しく、神代から澤山の船の碇泊する大和田の濱だ。
【釋】浦愛見 ウラウルハシミ。ウルハシミは、賞美すべくある意の形容詞。「宇流波之吉《ウルハシキ》 伎美我手奈禮能《キミガタナレノ》 許等爾之安流倍志《コトニシアルベシ》」(卷五、八一一)。
 千船湊 チフネノトマル。チフネノトマル(元)、チフネノツドフ(代精)、チフネノハツル(考)。チフネは、百船に同じく、多數の船。湊はミナトの義で、あつまる意である。連體形の句。
 大和太乃濱 オホワダノハマ。大和太は、兵庫縣、和田岬の名が殘つている。ワダは曲灣の意である。この歌によつて敏馬の浦というのが、神戸港を意味していることがわかる。三善《みよし》の清行《きよつら》の意見封事《いけんふうじ》に「臣伏して山陽西海南海の三道に舟船海行の程を見るに、※[木+聖]生《やぎふ》の泊《とまり》より韓《から》の泊に至る一日の行、韓の泊より魚住の泊に至る一日の行、魚住の泊より大輪田《おほわだ》の泊に至る一日の行、大輪田の泊より河尻に至る一日の行、これ皆行基菩薩程を計りて建て置かれしなり」とある。
【評語】長歌の初めの方を一首にまとめただけで、これも智慧のない行き方である。この二首の反歌は、説明的であるのが弊である。この人の詠嘆ふうのよさがあらわれていない。
 
右二十一首、田邊幅麻呂之歌集中出也
 
【釋】右二十一首 ミギノハタチアマリヒトツは。元暦校本、前掲の春日本斷簡等に二十一首を二十二首に作つているのは、古い形であるかも知れないが、數え違いである。實數二十一首でよく合う。
(245) 田邊幅麻呂之歌集 タナベノサキマロノウタノシフ。この人の家集は、なお卷の九にもあり、菟原《うなひ》の處女《をとめ》の墓を過ぎし時の歌、弟の死去を哀しむ歌などがある。すべて福麻呂その人の作品の集と考えられる。
 
萬葉集卷第六
 
(247)萬葉集卷第七
 
(249)萬葉集卷第七
 
 卷の七は、作者の記事のない一卷で、他の作者未詳の諸卷、卷の十、十一、十二、十三等と合わせて一団をなしている。雜歌、譬喩歌、挽歌の三部を立て、その雜歌と譬喩歌とは、更に小題を置いて、歌を分類して排列している。但し最後に羇旅歌一首があるのは、雜歌のうちにあるべきをおとして、ここに補い書いたものであろう。歌數三百五十首、うち短歌三百二十五首、旋頭歌二十五首で、長歌は一首もない。柿本の朝臣人麻呂の歌集、古歌集から出た歌があり、前者は五十六首であるが、後者は所出の範圍に不明の點があつて、何首かわからない。
 作者については、一一九五の歌の左註に「右七首者藤原卿作、未審年月」とあるが、この藤原の卿が誰であるかは、諸説かあつて決定しがたい。その他、作歌事情について、一〇八九の左註に「右一首、伊勢徒駕作」とある。作品の時代は、卷の三と部類法が同じなので、それと同時代の作者未詳の分を集めたと見てよいのだが、大伴の家持の集録の時代になると、作者の知れないことはすくないだろうから、大體その以前までの作が大部分であるとされ、女子の作と見なされるもののすくないことは特色の一つである。大伴の旅人の歌は、集中に、その大宰の帥時代以後の作は相當に傳つているのに、その以前の作は、ニ首存しているだけであるが、この人の作品などが、作者の署名のない草本であつたままに、この卷などの作者未詳の中にまぎれ入つているのであろうと推量される。
 文字使用法は、人麻呂歌集所出の分は、その特色を存しているが、その以外は、表意文字と表音文字とを交(250)え用い、卷の五を除く前の諸卷と、ほほ同樣の用法になつている。
 作品としては、羇旅の作にすぐれたものが多く、人麻呂集所出、古歌集所出の中にも見るべきものがある。
 傳本としては、古本系統では、元暦校本が大部分を存し、それに神田本、類聚古集、古葉略類聚鈔が存している。仙覺本の寂印成俊本《じやくいんじようしゆんぼん》の流は、一一九四以下錯簡《さつかん》があり、これは古本系統によつて訂正されねばならない。
 
雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。卷の一、三、五、六等の卷首にある標目に同じ。この標目のない傳本はない。但し元暦校本は、卷首の部分を欠いているので、どうなつているかわからない。この部では、更に小題を立てて歌を分類している。すなわち、詠天等、詠物の題十三、次に思故郷、次にまた詠物二、次に芳野作、山背作、攝津作、羇旅作、問答、臨時、就所發思、寄物發思、行路の順に載せ、最後に旋頭歌の目を立てて終つている。寄物發思の歌は、月に寄せているが、無常思想を詠んでいるので、この部に收めたのであろう。歌數はすべてで二百二十八首で、うち旋頭歌二十四首である。
 
詠v天
 
【釋】詠天 アメヲヨメル。詠物の題は、既に前にも、例えば、沙弥滿誓詠(メル)v綿(ヲ)歌(卷三、三三六)の如きがあつた。目前にある物について詠むのが原形であり、その物なくして題を設けて詠むことも、既に生じていたと考えられる。この歌は人麻呂の歌集から出た歌であるが、人麻呂歌集には、詠(メル)2仙人(ノ)形(ヲ)1(卷九、一六八二小註)のような記事もあるから、資料とする所に、この題があつたかもしれず、萬葉集の編者が、歌詞によつて、この題を設けたとも定めがたい。漢詩の詠物の作を受けて起つたようである。
 
(251)1068 天《あめ》の海に 雲の波立ち、
 月の船
 星の林に 榜《こ》ぎ隱る見ゆ。
 
 天海丹《アメノウミニ》 雲之波立《クモノナミタチ》
 月船《ツキノフネ》
 星之林丹《ホシノハヤシニ》 榜隱所v見《コギカクルミユ》
 
【譯】天の海に雲の波が立つて、月の船が、星の林の中に漕いで隱れるのが見える。
【釋】天海 アメノウミニ。天を海に譬えている。以下すべて天象を地上の物に比している。
(252) 榜隱所見 コギカクルミユ。カクルは終止形、見ユは、終止形を受ける。
【評語】あまりに作りすぎている。天を海とし、月を船、雲を波と見るのは、順當であるが、そこに星の林を出したのは、無理である。月を船に譬えることは、しばしばあり、類歌として、「天《あめ》の海に月の船浮け桂楫《かつらかぢ》懸けて榜ぐ見ゆ。月人壯子《つくひとをとこ》」(卷十、二二二三)の如きもある。懷風藻にも、文武天皇御製の詩に「月(ノ)舟移(リ)2霧(ノ)渚《ナギサニ》1 楓※[楫+戈]《カツラノカヂ》泛《ウカブ》2霞(ノ)濱(ニ)1」とある。もと弦月の形より想起した詞藻であろうが、本集には、弦月に限らず用いているようである。七夕の會の作であるのだろう。
 
右一首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】柿本朝臣人麻呂之歌集出 カキノモトノアソミヒトマロノウタノシフニイヅ。柿本の朝臣人麻呂の歌集は、既に前に出ている(卷二、一四六等)。萬葉集は人麻呂歌集から歌を採録しているので、その出所を註したのである。人麻呂歌集の歌は、女子の作と見られない限り、通例、人麻呂の作と見てよいものである。
 
詠v月
 
1069 常はかつて 念はぬものを、
 この月の 過ぎ匿《かく》れまく
 惜しき夕かも。
 
 常者曾《ツネハカツテ》 不v念物乎《オモハヌモノヲ》
 此月之《コノツキノ》 過匿卷《スギカクレマク》
 惜夕香裳《ヲシキヨヒカモ》
 
【譯】いつもけつして思わないのだが、この月の過ぎ隱れるのが惜しい夕だ。
【釋】常者曾 ツネハカツテ。曾は已然の意をあらわす字。カツテは、集中假字で書いた例はないが、「花勝見(253)都毛不v知《ハナカツミカツテモシラヌ》 戀裳楷可聞《コヒモスルカモ》」(卷四、六七五)の如く、カツミを受ける例があつて、その語のあつたことが推量される。この語は、既往を総括していう語で、下にかならず打消で受ける例である。曾の字を用いた例には、「木高者《コダカクハ》 曾木不v殖《カツテキウヱジ》」(卷十、一九四六)、「名者曾不v告《ナハカツテノラジ》 戀者雖v死《コヒハシヌトモ》」(卷十二、三〇八〇)、「我待之《エアガマチシ》 代者曾無《カヒハカツテナシ》」(卷十六、三八一〇)がある。以上の例のうち、卷の十の例を除いては、この歌と共に、曾をカツテと讀むと、母音を含まない字あまりの句になるが、もし二音に讀むべしとせば、類聚名義抄に、マタの訓があつて、それでも通用する。
 不念物乎 オモハヌモノヲ。月の隱れるのを惜しく思わない意。モノヲは、然るにの意を含む。
 過匿卷 スギカクレマク。經過し隱れ去ろうとすることの意。
【評語】今夜の月の特に心をひくよしが歌われている。人を迎えて月明に對しているのであろう。それで初二句が出ていると思われるが、これは説明に過ぎている。
 
1070 ますらをの 弓末《ゆずゑ》振《ふ》り起こし、
 借高《かりたか》の 野邊《のべ》さへ清く
 照る月夜《つくよ》かも。
 
 大夫之《マスラオノ》 弓上振起《ユズヱフリオコシ》
 借高之《カリタカノ》 野邊副清《ノベサヘキヨク》
 照月夜可聞《テルツクヨカモ》
 
【譯】勇士が弓の末を振り立てて獵をする。その借高の野邊までも清らかに照る月夜だなあ。
【釋】大夫之弓上振起 マスラヲノユズヱフリオコシ。以上は序で、獵をするという意に、同音によつて次の借高の地名を起している。借高の野邊あたりは獵に適していたらしいが、この歌では獵をしているのではあるまい。ユズヱは、弓の末。弓の上方。「大夫之《マスラオノ》 弓上振起《ユズヱフリオコシ》 射都流矢乎《イツルヤヲ》」(卷三、三六四)。
 借高之 カリタカノ。大伴の坂上の郎女の軟に、「獵高乃《カリタカノ》 高圓山乎《タカマトヤマヲ》 高彌鴨《タカミカモ》」(卷六、九八一)ともあつて、(254)高圓附近の地名であつたことが知られる。
【評語】序が借物で、ただ借高の音を引き起すために過ぎないのは惜しい。獵場であるとの説明にはなるが、それと月光との連絡がない。「ますらをの得物矢《さつや》手挾《たばさ》み立ち向ひ射《い》る圓方《まとかた》は見るにさやけし」(卷一、六一)を學んで、それに及ばないのは、卷の一のは、屬目する所をもつて序として、これによつて行幸の人々の風姿を描いているのだが、この歌にはそれがないからである。
 
1071 山の末《は》に いさよふ月を、
 出でむかと、 侍ちつつ居《を》るに
 夜《よ》ぞ更《くた》ちける。
 
 山末尓《ヤマノハニ》 不知夜歴月乎《イサヨフツキヲ》
 將v出香登《イデムカト》 待乍居尓《マチツツヲルニ》
 夜曾降家類《ヨゾクタチケル》
 
【譯】山の端でためらつている月を、出るだろうかと待つているあいだに、夜が更けてしまつた。
【釋】不知夜歴月乎 イサヨフツキヲ。イサヨフは、躊躇《ちゆうちよ》し逡巡《しゆんじゆん》する意。月の出ようとするようすが見えて、なかなか出てこない光景である。
 夜曾降家類 ヨゾクタチケル。クタツは、下降して行く意で、夜の更けるのにいう。既に降り坂になつた氣もちである。
【評語】夜深くして、月の容易に出ない頃の趣が描かれている。すなおな表現である。下に、「山の末《は》にいさよふ月を何時《いつ》とかもわが待ち居らむ夜は深けにつつ」(卷七、一〇八四)の類歌がある。
 
1072 明日《あす》の夕《よひ》 照《て》らむ月夜《つくよ》は、
 片よりに 今夜《こよひ》に寄《よ》りて
(255) 夜長《よなが》からなむ。
 
 明日之夕《アスノヨヒ》 將v照月夜者《テラムツクヨハ》
 片因尓《カタヨリニ》 今夜尓因而《コヨヒニヨリテ》
 夜長有《ヨナガカラナム・ヨナガクアラナム》
 
【譯】明日の晩に照る月は、今夜の方に片寄つてきて、夜が長くあつてほしいことだ。 【釋】明日之夕將照月夜者 アスノヨヒテラムツクヨハ。明日の晩に照るべきことになつている月は。月夜は、月に同じく、夜は接尾語として使われている。
 片因尓今夜尓因而 カタヨリニコヨヒニヨリテ。今夜の方にかたより寄つて。月のもとに宴でも開いているのであろう。
 夜長有 ヨナガカラナム。夜が長くあつてほしい意で、他に對して希望をあらわす語法。
【評語】清夜の長いことを希望する歌は多いが、この歌は、明日の晩の月が片寄つて照るとよいという所に特色がある。月明の夜のみじかいのを惜しむ心がよくあらわれている。
 
1073 玉垂《たまだれ》の 小簾《をす》の間《ま》通《とほ》し、
 ひとりゐて 見る験《しるし》なき
 暮月夜《ゆふづくよ》かも。
 
 玉垂之《タマダレノ》 小簾之間通《ヲスノマトホシ》
 獨居而《ヒトリヰテ》 見驗無《ミルシルシナキ》
 暮月夜鴨《ユフヅクヨカモ》
 
【譯】玉を垂れてある小簾の間を通して、ひとりでいて見るかいのない、夕月だなあ。
【釋】玉垂之 タマダレノ。枕詞。玉を垂れ下げる意に簾を説明する。上代の簾は、竹をちいさく切つて緒につらぬいたものを竝べ下げたので、この枕詞を生じたのであろう。竹のちいさく切つたのは、竹玉といい、神を祭る敍述に「竹玉乎《タカダマヲ》 繁爾貫垂《シジニヌキタリ》」(卷三、三七九)の句がある。またヲの音にも冠するのも緒につらぬくからである。「玉垂乃《タマダレノ》 越乃大野之《ヲチノオホノノ》」(卷二、一九四)。
(256) 小簾之間通 ヲスノマトホシ。ヲスは簾の愛稱。スは隙間の意で、簾をいう。小簾の間通し見ると、句を隔てて四句を修飾する。
 見驗無 ミルシルシナキ。シルシは、效果、效驗。ひとりで見るので、張合いのない心である。
 暮月夜鴨 ユフヅクヨカモ。ヨは接尾語的になつている。夕月を賞する句である。
【評語】佳景に對して、ひとり見るかいなさを歌つた歌は多い。これはその中にあつて、感情の集中が行われており、さびしい心がよく出ている。
 
1074 春日《かすが》山 おして照らせる この月は、
 妹が庭にも 清《さや》けかりけり。
 
 春日山《カスガヤマ》 押而照有《オシテテラセル》 此月者《コノツキハ》
 妹之庭母《イモガニハニモ》 清有家里《サヤケカリケリ》
 
【譯】春日山をあかるく照らしているこの月は、わが妻の家の庭前にもさやかであつた。
【釋】押而照有 オシテテラセル。強く照り渡つている状を描いている。山に月光のみなぎつている樣である。「我屋戸爾《ワガヤドニ》 月押照有《ツキオシテレリ》」(卷八、一四八〇)。
 妹之庭母 イモガニハニモ。イモは愛人である。ニハは、屋前、前庭。
【評語】春日山に照り輝いている月を仰ぎつつ、妹が家に來た趣がよく描かれている。内容も表現も快適の歌である。
 
1075 海原《うなはら》の 道遠みかも、
 月讀《つくよみ》の 明《あかり》すくなき。
 夜は降《くた》ちつつ。
 
 海原之《ウナハラノ》 道遠鴨《ミチトホミカモ》
 月讀《ツクヨミノ》  明少《アカリスクナキ》
 夜者更下乍《ヨハクタチツツ》
 
(257)【譯】海上の道が遠くてか、月の光のすくないことだ。夜はふけて行くのに。
【釋】海原之道遠鴨 ウナハラノミチトホミカモ。海原の道が遠いゆえかの意で、疑問の條件法である。月が海を渡つて出るという考えは、日本書紀の一書にも「月讀《つくよみ》の尊は滄海原《あをうなばら》の潮《しほ》の八百重《やほへ》を治《し》らすべし」とあつて、月は海と縁の深いものである。「海原《うなはら》の遠きわたりをみやび男《を》のみやびを見むとなづさひぞ來し」(卷六、一〇一六)とあるのも、この思想だ。
 月讀 ツクヨミノ。ツクヨミは、月の神であるが、月をかようにいう。
 明少 アカリスクナキ。月の出ようとしてまだ出ず、その光のすくないのを描いている。月しろがまだあかるくないのである。この句、第二句を受けて結んでいる。句切。
 夜者更下乍 ヨハクタチツツ。更下で、夜の深くなる意をあらわしている。
【評語】月を愛し月を待つ心がかえつてよく感じられる。燈火の乏しい時代ではあるが、月に親しんだ生活から生まれ出ている歌である。
 
1076 ももしきの 大宮人の、
 退《まか》り出でて あそぶ今夜《こよひ》の
 月の清《さや》けさ。
 
 百師木之《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》
 退出而《マカリイデテ》 遊今夜之《アソブコヨヒノ》
 月清左《ツキノサヤケサ》
 
【譯】朝廷にお仕えする人々が、退出して遊ぶ今夜の月の澄んであかるいことだ。
【釋】百師木之 モモシキノ。枕詞。
 退出而 マカリイデテ。朝廷から退出して。
 遊今夜之 アソブコヨヒノ。アソブは、文筆、歌琴音樂などに興ずるをいう。ここは宴を開いて會飲してい(258)ることをいうのであろう。
 月清左 ツキノサヤケサ。サヤケサは、音にも景にもいう。ここは月の清明なのを稱えている。
【評語】宴會の席上の作であろう。文雅の遊びに没入している生活が寫されている。大宮人というものに誇りを感じていることが窺われる。あたかも文化の專有者であつたかのように思つていたのである。
 
1077 ぬばたまの 夜渡る月を とどめむに、
 西の山邊に 關もあらぬかも。
 
 夜干玉之《ヌバタマノ》 夜渡月乎《ヨワタルツキヲ》 將v留尓《トドメムニ》
 西山邊尓《ニシノヤマベニ》 塞毛有※[禾+更]毛《セキモアラヌカモ》
 
【譯】夜の空を渡る月を留めるために、西の山の方に關もほしいものだ。
【釋】夜渡月乎 ヨワタルツキヲ。ワタルは、夜の空を通過する意。
 塞毛有※[禾+更]毛 セキモアラヌカモ。セキは、道路を塞いで通行する人を禁止する處。當時の實状が反映している。ヌカモは打消の詠嘆で、希望の意になる。※[禾+更]は、米の一種をいう字だが、ヌカに使用している。
【評語】人の行くのを惜しんで、關もあつたらという歌はあるが、月の入るのについて詠んだ歌は、この集にはほかにない。しいて作り設けたような歌で、わざとらしさが感じられる。
 
1078 この月の 此間《ここ》に來《きた》れば、
 今とかも、
 妹が出で立ち 待ちつつあらむ。
 
 此月之《コノツキノ》 此間來者《ココニキタレバ》
 且今跡香毛《イマトカモ》
 妹之出立《イモガイデタチ》 待乍將v有《》マチツツアラム
 
【譯】この月がここまでさして來たので、今くる時だと、わが妻が外に出て待つているだろう。
【釋】此間來者 ココニキタレバ。窓などからさし入る月が、ある點まできたので、時間のある時期になつた(259)ことをいう。時計のない時代の計時法である。
 且今跡香毛 イマトカモ。且今は、もう今こそくる時だの意をあらわしている。カモは係助詞。
 妹之出立 イモガイデタチ。イモは愛人。屋外に立ち出でて。
【評語】月がもうある線に到達したのにと、妹が待つているだろうと思うと、いるにいられない氣もちである。燈火が乏しいので、月の影が常に注意されるのである。行かれぬ事情があつて、焦燥に堪えない心が歌われている。
 
1079 まそ鏡 照るべき月を、
 白たへの 軍か隱せる。
 天つ霧かも。
 
 眞十鏡《マソカガミ》 可v照月乎《テルベキツキヲ》
 白妙乃《シロタヘノ》 雲香隱流《クモカカクセル》
 天津霧鴨《アマツキリカモ》
 
【譯】澄んだ鏡のように照るべき月だのに、白い雲か、隱している。それともあれは天の霧であろうか。
【釋】眞十鏡 マソカガミ。枕詞。澄んだ鏡の義で、照ルに冠する。
 白妙乃 シロタヘノ。シロタヘは白布の義であるが、ここでは白色の意に使用している。
 雲香隱流 クモカカクセル。上のカは、凝間の係助詞。雲であろうか、隱しているの意。句切。
 天津霧鴨 アマツキリカモ。白い雲を、あるいは天の霧かと疑つている。
【評語】月を隱している雲を、雲か霧かと疑つている。天空を仰いで詠んだ歌で、零霧の多く來往する状が描かれている。
 
1080 ひさかたの 天《あま》照る月は、
(260) 神代にか 出でかへるらむ。
 年は經《へ》につつ。
 
 久方乃《ヒサカタノ》 天照月者《アマテルツキハ》
 神代尓加《カミヨニカ》 出反等六《イデカヘルラム》
 年者經去乍《トシハヘニツツ》
 
【譯】天に照つている月は、神代のそのままくりかえし出るのだろう。年は經過して行くが。
【釋】神代尓加 カミヨニカ。神代に出るというのは、天照る月に、時間を超越して、神代を觀じているのであろう。神代は、太古の時代に、神の時代があつたとする思想による。神代のままにか。カは係助詞。
 出反等六 イデカヘルラム。イデカヘルは、「荒璞能《アラタマノ》 登之由吉我敝利《トシユキガヘリ》」(卷十七、三九七八)のユキガヘリと同樣、くりかえして出るをいう。シニカヘリの語もある。それは死んで歸るのでなく、たびたび死ぬをいう。ラムは、神代ニカを受けて推量している。句切。
 年者經去乍 トシハヘニツツ。年は經過して、なお神代の姿の殘るをいう。
【評語】崇高な月の姿は、今なお神代のままかと疑つている。内容が複雜なので、表現が十分でない。もつとすなおに感心したままを表現した方がよかつた。
 
1081 ぬばたまの 夜渡る月を おもしろみ、
 わが居《を》る袖に 露ぞ置きにける。
 
 鳥玉之《ヌバタマノ》 夜渡月乎《ヨワタルツキヲ》 ※[立心偏+可]怜《オモシロミ》
 吾居袖尓《ワガヲルソデニ》 露曾置尓鷄類《ツユゾオキニケル》
 
【譯】夜空を過ぎる月を愛して、わたしのいる袖に、露が置いたことだ。
【釋】※[立心偏+可]怜 オモシロミ。新撰字鏡に「※[言+慈]、心樂(シキ)也、於毛志呂志《オモシロシ》」とある。※[立心偏+可]怜をオモシロシに當てた例には「生有代爾《イケルヨニ》 吾者未v見《》ワレハイマダミズ 事絶而《コトタエテ》 如v是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》 縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》」(卷四、七四六)がある。またオモシロシは、「阿波禮《アハレ》 阿那於茂志呂《アナオモシロ》」(古語拾遺)、「珠匣《タマクシゲ》 見諸戸山矣《ミモロトヤマヲ》 行之鹿齒《ユキシカバ》 面白四手《オモシロクシテ》 古昔所v念《イニシヘオモホユ》」(卷七、一二四〇)、(261)「於毛思路伎《オモシロキ》 野乎婆奈夜吉曾《ヌヲバナヤキソ》」(卷十四、三四五二)、「春避而《ハルサリテ》 野邊尾廻者《ノベヲメグレバ》 面白見《オモシロミ》 我矣思經蚊《ワレヲオモヘカ》 狹野津鳥《サノツドリ》 來鳴翔經《キナキカケラフ》」(卷十六、三七九一)などある。感興深い意の形容詞である。ここは上の助詞ヲを受けてオモシロミと讀む。月がおもしろくての意である。
【評語】月を愛賞して屋外におり、袖に露のおいたことを敍している。すなおなよい歌である。
 
1082 水底の 玉さへ清《さや》に 見つべくも
 照る月夜《つくよ》かも 夜の深《ふ》けぬれば。
 
 水底之《ミナソコノ》 玉障清《タマサヘサヤニ》 可v見裳《ミツベクモ》
 照月夜鴨《テルツクヨカモ》
 夜之深去者《ヨノフケヌレバ》
 
【譯】水の底の玉までもはつきり見えるように、照つている月だな。夜が更けたので。
【釋】水底之 ミナソコノ。ミナソコは、ミが水、ナが接續の助詞。ミナカミ(水上)、ミナモト(水源)の例である。「日向《ひむか》の國の橘《たちばな》の小門《をど》の水底《みなそこ》に居て」(日本書紀、神功皇后の卷)、この水底にミナソコと訓してある。
 玉障清 タマサヘサヤニ。障は、訓假字として使用している。サヤニは、さやかに。明白に。
 可見裳 ミツベクモ。ツは完了の助動詞。ベクは可能の助動詞。見られるほどに。
 照月夜鴨 テルツクヨカモ。カモは詠嘆。句切。
 夜之深去者 ヨノフケヌレバ。夜が深くなつたので。
【評語】深夜の月光、いよいよ冴えまさる状が詠まれている。五句、不用意なようで、しかも必要な句である。
 
1083 霜ぐもり すとにかあらむ。
 ひさかたの 夜わたる月の
(262) 見えぬ念へば。
 
 霜雲入《シモグモリ》 爲登尓可將v有《ストニカアラム》
 久堅之《ヒサカタノ》 夜度月乃《ヨワタルツキノ》
 不v見念者《ミエヌオモヘバ》
 
【譯】霜が降るので曇つているのであろうか。夜空を過ぎて行く月の見えないのを思えば。
【釋】霜雲入 シモグモリ。霜が降るために曇つていること。事實は、曇つた夜は、霜が置かないのだが、雨や雪のように、霜が天から降るものとする考えから、できた語である。事實に合わないところを見ると、この作者の新造語であろう。
 爲登尓可將有 ストニカアラム。霜ぐもりをするとてでかあろう。句切。
 不見念者 ミエヌオモヘバ。古義にミエナクモヘバと讀んでいる。「珠蜻《タマカギル》 髣髴谷裳《ホノカニダニモ》 不v見思者《ミエヌオモヘバ》」(卷二、二一〇)の例と同じく、ミエヌオモヘバでよい。
【評語】曇つた月を見て感じたことが歌われている。輕い作だが、せつかくの霜グモリが、不自然な造語であるのは遺憾である。
 
1084 山の末《は》に いさよふ月を、
 何時《いつ》とかも わが待ち居らむ。
 夜は深《ふ》けにつつ。 
 
 山末尓《ヤマノハニ》 不知夜經月乎《イサヨフツキヲ》
 何時母《イツトカモ》 吾待將v居《ワガマチヲラム》
 夜者深去乍《ヨハフケニツツ》
 
【譯】山の端にためらつている月を、何時出ることとしてか、わたしが待つのだろう。夜は更けて行くのに。.
【釋】不知夜經月乎 イサヨフツキヲ。不知は訓を借りて書いている。出ようとしてまだ出ない月をである。
 何時母 イツトカモ。出るのを何時としてか。待ち遠の氣分である。カは係助詞。
 夜者深去乍 ヨハフケニツツ。夜はくたちつつと、ほぼ似よつた意味だが、クタチツツは、盛りを過ぎて行(263)く意味があり、フケニツツは、既に深くなつた意味で、その間、多少の差がある。
【評語】上に出た、一〇七一の歌、および卷の六の「山の端《は》にいさよふ月の出でむかとわが待つ君が夜はくたちつつ」(一〇〇八)と同趣の歌である。待ち遠しい氣もちは、この歌が一番よくあらわれている。
 
1085 妹があたり われ袖振らむ。
 木《こ》の間より 出で來《く》る月に
 雲な棚引《たなび》き。
 
 妹之當《イモガアタリ》 吾袖將v振《ワレソデフラム》
 木間從《コノマヨリ》 出來月尓《イデクルツキニ》
 雲莫棚引《クモナタナビキ》
 
【譯】わが妻の家のあたりで、わたしは袖を振ろう。木の間から出て來る月に、雲よ、棚引いてはいけない。
【釋】妹之當 イモガアタリ。殊の居るあたりで、その家に對しての意である。
 吾袖將振 ワレソデフラム。手を振つてあいずをしよう。句切。
 木間從出來月尓 コノマヨリイデクルツキニ。作者は林中を行つているので、木の間から出てくる月を敍しているのは、結局林間のやや開いた處に作者が出たのを、かように詠んでいるのである。
 雲莫棚引 クモナタナビキ。ナは禁止の助詞。雲に對して月を隱すことなかれと歌つている。
【評語】月下に、愛人の家を出て、別れを惜しむ状を歌つている。よく情を得た歌である。人麻呂の「石見《いはみ》のや高角山《たかつのやま》の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか」(卷二、一三二)などが記憶にあり、しかも月下にそれを歌つているので、りつぱに別の歌になつた。
 
1086 靱《ゆき》懸《か》くる 伴《とも》の雄《を》ひろき 大伴に、
 國榮えむと、月は照るらし。
 
 靱懸流《ユキカクル》 伴雄廣伎《トモノヲヒロキ》 大伴尓《オホトモニ》
 國將v榮常《クニサカエムト》 月者照良思《ツキハテルラシ》
 
(264)【譯】靱を懸けている勇士の多い大伴氏によつて、國は榮えるであろうと、月は照つているようだ。
【釋】靱懸流 ユキカクル。ユキは矢を入れて背負う料の兵具。靱懸クルで、矢を携帶せるをあらわし、武装せる意に用いている。「靱、此ヲバ由岐《ユキ》ト云フ」(推古天皇紀)。
 伴雄廣伎 トモノヲヒロキ。トモノヲは、本来伴の緒で、多くの人々、部族の意であるが、本集では、ヲを男子の義として、男子の人々の意に使用するようになつた。大祓の詞に「手繦《たすき》挂《か》くる伴《とも》の男《を》、靱《ゆき》負《お》ふ伴の男、剱《たち》佩《は》く伴の男、伴の男の八十《やそ》伴の男を始めて」とある。廣キは、大伴氏の家門の廣く、勇士の數の多いことをあらわしている。
 大伴尓 オホトモニ。大伴氏によつての意である。この大伴を地名と解する説があるが、それでは上の二句は單に序となるので、歌品が下る。また第四句の國榮エムトも生きてこない。
 國將榮常 クニサカエムト。國家の隆昌を期している意。
 月者照良思 ツキハテルラシ。月の皎々として照つている心を、大伴氏の武力によつて國が榮えるであろうことを、あらわしているように取つている。月の光が、國を鎭める大伴氏の武威を象徴しているように歌つている。ラシは、月の照る心を推量する辭。
【評語】大伴氏が、一族を擧げて宴を開いているような場合の作である。竝びいる勇士の面々のたのもしさ。おりしも月は、この盛宴を一層さかんにするかのように照つている。國の榮えるのを、自分たちの力であるとなす抱負が歌われている。内容も大きいし、格調も高い。有數の佳作である。本卷が大伴の旅人あたりの作を多く含んでいるであろうと考えられる材料の一つにもなる。
 
詠v雲
 
(265)1087 痛足河《あなしがは》 河浪立ちぬ。
 卷目《まきもく》の 齋槻《ゆつき》が嶽《たけ》に
 雲居《くもゐ》立てるらし。
 
 痛足河《アナシガハ》 河浪立奴《カハナミタチヌ》
 卷目之《マキモクノ》 由槻我高仁《ユツキガタケニ》
 雲居立有良志《クモヰタテルラシ》
 
【譯】痛足河に河浪が立つた。卷目の齋槻が岳に雲が懸かつて立つているらしい。
【釋】痛足河 アナシガハ。奈良縣磯城郡纏向村。卷向山から出て、三輪の北を流れて初瀬川にそそぐ。小流である。穴師川とも書く。
 河浪立奴 カハナミタチヌ。カハナミは河の浪で、河次とは別語である。風が急に起つた樣が描かれている。句切。
 卷目之 マキモクノ。マキモクは、卷向、纏向ともあり、古事記には麻岐牟久《マキムク》とある。
 由槻我高仁 ユツキガタケニ。ユツキガタケは、次の歌に弓月高とあるに同じ。三輪山の東方に續いている山で、標高五六五メートルである。ユツキの山名は齋槻の義で槻の巨樹があるゆえにの名であろうという。「三諸《みもろ》のその山なみに子らが手を卷向山は繼《つぎ》のよろしも」(卷七、一〇九三)。高は、高い處の義に嵩に通じて使用している。
 雲居立有良志 クモヰタテルラシ。クモヰの語の使用には、ヰを接尾語とするものと、ヰを動詞とするものとがある。前者は名詞として、天空、または遠方の意になる。「雲居曾《クモヰニゾ》 妹之當乎《イモガアタリヲ》 過而來計類《スギテキニケル》」(卷二、一三六)の如きはその例である。また後者は、「時登無《トキトナク》 雲居雨零《クモヰアメフル》 筑波嶺乎《ツクハネヲ》」(卷九、一七五三)の如く、雲の動作を敍するものである。ここは天空または遠方の意ではないのだから、ヰを動詞と見るべく、雲のいることを敍すると見られる。タテルは上昇する意。
(266)【評語】一陣の強風が痛足川を打つて、河浪が騷ぎ、それによつて、齋槻が岳の状況を推測している。山雨のまさに到らむとする光景が躍如としている。人麻呂歌集所出の歌であるが、作者は痛足川のほとりに、その愛人を住ませていたとおぼしく、特にその付近、痛足、卷向、三輪あたりの歌の多いことが注意される。
 
1088 あしひきの 山河《やまがは》の瀬の 響《な》るなへに、
 弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に 雲立ち渡る。
 
 足引之《アシヒキノ》 山河之瀬之《ヤマガハノセノ》 響苗尓《ナルナヘニ》
 弓月高《ユツキガタケニ》 雲立渡《クモタチワタル》
 
【譯】山中を流れる川の瀬の鳴ると共に、弓月が岳に雲が立ち渡つている。
【釋】山河之瀬之 ヤマガハノセノ。ヤマガハは、熟語で、山中の川。下に弓月が岳を詠んでいるので、前の歌と同じく痛足河である。
 響苗尓 ナルナヘニ。ナヘには、共の字を當てているものがあり、兩者の竝び行われる意を示すために使用される。苗を用いたのは借字である。この語、集中、助詞ニを伴なうものと、伴なわいものとがあり、またヨロシナヘの如き熟語となつているものもあるが、ナヘに當ててある文字を見るに、奈倍十二例、名倍二例、奈辨一例、奈戸一例、苗一例、共四例である。苗は普通清音のヘに讀まれている。「可美都氣努《カミツケノ》 佐野田能奈倍能《サノタノナヘノ》 武良奈倍爾《ムラナヘニ》」(卷十四、三四一八)の如く、稻苗の義にも奈倍の字を使用している。上代のハ行音は、漢字で適切に表示することが困難であつたらしく、それで文字が動揺しているのであろう。
 弓月高 ユツキガタケニ。前の歌の由槻ガタケに同じ。
 雲立渡 クモタチワタル。雲が立つて移動している意。
【評語】前の歌と同時の作であろう。これにも山中の天候の激變が描かれている。格調の高い歌である。
 
(267)右二首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
1089 大海に 島もあらなくに。
 海原《うなはら》の たゆたふ浪に
 立てる白雲。
 
 大海尓《オホウミニ》 島毛不v在尓《シマモアラナクニ》
 海原《ウナハラノ》 絶塔浪尓《タユタフナミニ》
 立有白雲《タテルシラクモ》
 
【譯】大海に島もないことだ。海上のためらつている波に立ち昇る白雲が見える。
【釋】島毛不在尓 シマモアラナクニ。ニは感動の助詞で、島もあらぬことよと感嘆する。句切。
 絶塔浪尓 タユタフナミニ。タユタフは、ためらい進行しない状をいう動詞。「大船《オホブネノ》 猶預不定見者《オホブネノタユタフミレバ》」(卷二、一九六)とある猶預不定を、タユタフと讀んでいるので、その意が推測されよう。浪が動揺しているのである。塔は、字音假字で、タフの音聲を表示している。
 立有白雲 タテルシラクモ。海上に雲の立ち昇る状である。
【評語】この歌まず海上に島影もない大きい景を寫し、さてそこに動いている波に白雲が立つていると云う壯大な光景を描いている。ただそれだけであるが、海を望み見た大きな氣分がよくあらわれている。
 
右一首、伊勢從駕作
 
【釋】伊勢從駕作 イセノオホミトモニツクレル。伊勢の行幸または御幸に從つて作つたというのであるが、藤原時代から奈良時代にかけて伊勢に行幸または御幸のあつたのは、持統天皇六年、聖武天皇天平十二年の兩度があるが、本卷の歌は、天平十二年頃に下ると證明されるものがないから、多分持統天皇六年の度であろう。
 
(268)詠v雨
 
1090 吾妹子が 赤裳《あかも》の裾の 染《し》み濕《ひ》ぢむ
 今日の※[雨/脉]※[雨/沐]《こさめ》に 吾さへ沾《ぬ》れな。
 
 吾妹子之《ワギモコガ》 赤裳裙之《アカモノスソノ》 將2染※[泥/土]1《シミヒヂム》
 今日之※[雨/脉]※[雨/沐]尓《ケフノコサメニ》 吾共所v沾名《ワレサヘヌレナ》
 
【譯】あの子の赤い裳の裾が、水に滲みてびしよ濡れになるだろう今日の小雨には、わたしも濡れたいなあ。
【釋】吾妹子之 ワギモコガ。ワギモコは、愛人で、その子と指す人がいたのであろう。
 赤裳裙之 アカモノスソノ。裙と裾とは、字形の似た字であるが、裙は下裳をいい、裾は衣の前につけて端取つた部分をいう。いずれもスソと訓している。ここは赤い裳の下部である。
 將染※[泥/土] シミヒヂム。ソメムトテ(元)、ソメヒヂム(西)、シミヒヂム(代精)、ヒヅチナム(考)、ヒヅツラム(古義)、シメヒヂム(新訓)。シミは水のしみ入るをいう。ヒヂムは、水に漬かるだろう。連體形で句切ではない。
 今日之※[雨/脉]※[雨/沐]尓 ケフノコサメニ。※[雨/脉]※[雨/沐]は、倭名類聚鈔に、「※[雨/脉]※[雨/沐]、兼名苑(ニ)云(フ)、細雨一(ノ)名(ハ)※[雨/脉]※[雨/沐]、小雨也。麥木二音。【已上本註】和名|古佐女《コサメ》」とある。「彼方之《ヲチカタノ》 赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》 ※[雨/脉]※[雨/沐]零《コサメフリ》 床共所v沾《トコサヘヌレヌ》 於v身副我妹《ミニソヘワギモ》」(卷十一、二六八三)。但しこの卷の十一の例をはじめ、※[雨/脉]※[雨/沐]の字を、大雨の義に誤用しなかつたともいえない。この歌の場合もそうである。
 吾共所沾名 ワレサヘヌレナ。ナは希望の助詞。
【評語】愛人の濡れる雨に自分も濡れたいというのである。思う心はよく出ている。赤裳ノ裾ノ染ミヒヂムは、肉感的な表現である。
 
(269)1091 徹《とほ》るべく 雨はな零《ふ》りそ。
 吾妹子が 形見《かたみ》の衣服《ころも》、
 われ下《した》に著《け》り。
 
 可v融《トホルベク》 雨者莫零《アメハナフリソ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 形見之服《カタミノコロモ》
 吾下尓著有《ワレシタニケリ》
 
【譯】下まで通るほどに雨は降つてくれるな。わが妻の記念の著物を、わたしは下に著ているのだ。
【釋】可融 トホルベク。上衣を通して中までしみこむほどにの意で、當時雨露に對して防備のなかつた服装が描かれている。
 雨者莫零 アメハナフリソ。ナは禁止の助詞。動詞をはさんで、下にソで受けている。句切。
 形見之服 カタミノコロモ。別れに臨んで、身の代りとして贈る衣服。ここは妻の贈つた衣服。
 吾下尓著有 ワレシタニケリ。ワレシタニキタリ(類)、ワレシタニケリ(略)。「摺衣《スリゴロモ》 著有跡夢見津《ケリトイメミツ》」(卷十一、二六二一)の如く、著有を二音に當てている例がある。これは動詞著ルに助動詞リの接續したもので、假字書きの例には、「許能安我家流《コノアガケル》 伊毛我許呂母能《イモガコロモノ》 阿可都久見禮婆《アカヅクミレバ》」(卷十五、三六六七)がある。
【評語】別れた時に著た妻の衣によつて、妻に對する親しみを味わつている。妻の暖かみを感じつつ雨に濡れている姿が描かれている。情味のゆたかな作である。
 
詠v山
 
1092  鳴《な》る神の 音のみ聞きし
 卷向の 檜原《ひはら》の山を、
 今日見つるかも。
 
 動神之《ナルカミノ》 音耳聞《オトノミキキシ》
 卷向之《マキムクノ》 檜原山乎《ヒハラノヤマヲ》
 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
(270)【譯】雷のように、音にばかり聞いていた、卷向の檜原の山を今日見たことだ。
【釋】動神之 ナルカミノ。枕詞。ナルカミは雷神をいう。動の字を使用したのは、動響と熟する字だからであろう。雷鳴の音の義をもつて、音に冠する。
 音耳聞 オトノミキキシ。話に聞いていたで、有名なの意。
 卷向之檜原山乎 マキムクノヒハラノヤマヲ。卷向にある檜原の山を。檜原は、「隱口乃《コモリクノ》 始瀬之檜原《ハツセノヒハラ》」(卷七、一〇九五)、「彌和乃檜原爾《ミワノヒハラニ》」(同、一一一八)、「三和之檜原者《ミワノヒハラハ》」(同、一一一九)、「卷向之《マキムクノ》 檜原丹立流《ヒハラニタテル》 」(卷十、一八一三)、「卷向之《マキムクノ》 檜原毛未2雲居1者《ヒハラモイマダクモヰネバ》 」(同、二三一四)など、初瀬の檜原、三輪の檜原、卷向の檜原と見えている。檜原は、普通名詞から出て、固有名詞となつたものもあるべく、かならずしも同地と見る要もないが、三輪と卷向とは、隣接の地で、同地とも解せられる。雲がいるなどの句があり、檜原の山というのも、若干の高さのあることが示されている。また初瀬は、一帶の連山の南側の總名であるから、その方面からすれば、初瀬の檜原と云われるのである。そうなると、三輪山と卷向の弓月が岳との中間の地が檜原で、それは更に北方に低部まで伸びているのだろう。弓月が嶽にしても「長谷《ハツセノ》 弓槻下《ユツキガシタニ》」(卷十一、二三五三)とも呼ばれている。
【評語】特にその山を見ることに、感動をおぼえた理由があるのだろう。たまたまその地を訪れたことが、妻のもとを訪れたという特殊の事情のもとに行われたのであろう。内容としては、類型的で、檜原の山の特性があらわれていない。その山名が、よい感じを与えるだけである。
 
1093 三諸の その山竝《やまなみ》に、
 子らが手を 卷向山は
(271) 繼ぎのよろしも。
 
 三毛侶之《ミモロノ》 其山奈美尓《ソノヤマナミニ》
 兒等手乎《コラガテヲ》 卷向山者《マキムクヤマハ》
 繼之宜霜《ツギノヨロシモ》
 
【譯】三諸山の、その山の竝びにある、あの子のてを纏くという、その名も卷向山は、續きかたがよいことだ。
【釋】三毛侶之 ミモロノ。ミモロは神座で、その名の山は諸處にあるが、ここは磯城郡の三輪山をいう。
 其山奈美尓 ソノヤマナミニ。ヤマナミは、山の竝びで、眺めた姿についていう。山脈ではない。
 兒等手乎 コラガテヲ。枕詞。コラは妻をいう。ラは接尾語。兒ラガ手ヲ纏クと續いて卷向に冠する。特にこの枕詞を選んだのは、作者が、卷向の穴師に愛人を住ませていたからである。「兒等手乎《コラガテヲ》 卷向山者《マキムクヤマハ》 常在常《ツネナレド》」(卷七、一二六八)「子等我手乎《コラガテヲ》 卷向山丹《マキムクヤマニ》」(卷十、一八一五)の例、いずれも人麻呂歌集所出である。
 卷向山者 マキムクヤマハ。卷向から見た諸山中、その主峰である弓月が嶽をいう。
 繼之宜霜 ツギノヨロシモ。三諸山に續いて立つている姿を賛嘆している。
【評語】三輪山は姿の美しい山である。その山の東方に續いている卷向山は、これも美しい。しかもその卷向山に子ラガ手ヲの枕詞を冠しているが、これはこの作者が卷向山に特別の好意を持つている表情である。この枕詞は、決していたずらに置かれているものではない。何故卷向山がよいかというに、山の姿(272)も美しいが、特にそれを美しと見る心境が存在する。それは卷向山の麓にわが妻と呼ばれる人が住んでいたのである。その妻は、長谷の齋槻《ゆつき》が下にわが隱せる妻と歌われた妻である。ここに到つて、三諸山に竝んでいる卷向山の美しさがしみじみと味わわれる。
 
1094 わが衣《ころも》 色《いろ》に服染《きし》めむ。
 味酒《うまさけ》を 三室《みむろ》の山は
 黄葉《もみち》せりけり。
 
 我衣《ワガコロモ》 色服染《イロニキシメム》
 味酒《ウマサケヲ》 三室山《ミムロノヤマハ》
 黄葉爲在《モミチセリケリ》
 
【譯】わたしの著物を、色のある著物に染めよう。うまい酒を盛るという、その三室の山は、黄葉しておつたのだ。
【釋】色服染 イロニキシメム。
  イロニソメタル(元赭)
  イロキソメタリ(類)
  イロヅキソメヌ(童)
  イロヅキソメツ(考)
  イロニソメナム(略)
  イロギヌニシメム(新訓)
  ――――――――――
  服色染《イロニソメタリ》(代精)
  色將染《イロニシメナム》(古義)
 イロは、染色。色のある衣服に、著つつ染めよう。黄葉の山に分け入つて、著たままでその色に染めよう。句切。
 味酒 ウマサケヲ。ウマサケノ(細)、ウマサケ(考)、ウマサケヲ(略)。枕詞。日本書紀では、ウマサケと(273)四音のまま枕詞としているが、それは短歌の初句に置いたものである。本集では「味酒《ウマサケ》 三輪之山《ミワノヤマ》(卷一、一七)、「味酒乎《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)、「味酒乎《ウマサケヲ》 神名火山之《カムナビヤマノ》」(卷十三、三二六六)、「味酒之《ウマサケノ》 三毛侶之山爾《ミモロノヤマニ》」(卷十一、二五一二)等の用例がある。短歌の第三句は、初句よりも音節數の多いのを常型とすることは、統計によつてあきらかであり、字足らずの例は、ほとんど見ないのであるから、味酒の二字のみであるが、助詞を讀み添えるべく、人麻呂集所出の歌であるから、古きに從つてウマサケヲとする。神酒の義のミワに冠するにより、慣用上轉じて三室に冠し、また同意義の神名火にも冠する。
 三室山 ミムロノヤマハ。ミムロは、ミモロに同じ。
 黄葉爲在 モミチセリケリ。モミチシテアリ(元赭)、モミチシニケリ(古義)、モミチセリケリ(新訓)。たまたま來てその山の黄葉していたのに驚嘆した云い方である。ケリは既定の事實を感歎している。
【評語】自然の色の美しいのを見て、衣を染めようと歌つているものは往々にしてある。當時植物性の染料を多く使用していた時代なので、特にこの感が深いのであろう。黄葉にしても、「わが夫子が白たへごろも行き觸《ふ》ればにほひぬべくももみつ山かも」(卷十、二一九二)などある。染めない衣を著て、黄葉の色のうつくしい山邊を通おうとする心が描かれている。
 
右三首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
1095 三諸《みもろ》つく 三輪山見れば、
 こもりくの 始瀬《はつせ》の檜原《ひはら》
 念ほゆるかも。
 
 三諸就《ミモロツク》 三輪山見者《ミワヤマミレバ》
 隱口乃《コモリクノ》 始瀬之檜原《ハツセノヒハラ》
 所v念鴨《オモホユルカモ》
 
(274)【譯】神座のある三輪山を見れば、隱れた國の初潮の檜原が思われることだ。
【釋】三諸就 ミモロツク。ミモロは、神座。大神《おおみわ》神社をいう。ツクは、附著し存在する義。アレ著ク、天降リ著クなどのツクに同じ。これをイツクの義とするのは誤りである。「三諸著《ミモロツク》 鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》」(卷六、一〇五九)。
 隱口乃 コモリクノ。枕詞。隱れた國のの義。
 始瀬之檜原 ハツセノヒハラ。三輪山の後方に續いた檜原の山を、初瀬の方面から稱したのであろう。
【評語】三輪山の後方にある檜原山、それはかつて初瀬の溪谷から見たその山が思い出されるというのであろう。初句は、鬱蒼たる状をあらわしており、それによる檜原山の連想があるのである。山を愛する情のこもつた作である。
 
1096 いにしへの 事は知らぬを、
 われ見ても 久しくなりぬ。
 天の香具山。
 
 昔者之《イニシヘノ》 事波不v知乎《コトハシラヌヲ》
 我見而毛《ワレミテモ》 久成奴《ヒサシクナリヌ》
 天之香具山《アメノカグヤマ》
 
【譯】古い時代の事は知らないが、わたしが見てからでも久しくなつた。この天の香具山は。
【釋】昔者之事波不知乎 イニシヘノコトハシラヌヲ。者は添えて書く。昔者でイニシヘである。「昔者之《イニシヘノ》 舊堤者《フルキツツミハ》」(卷三、三七八)。ここのイニシヘは、隨分と古い神代時代のことをさしているであろう。その時代の事は、知らないのだが。くわしくは知らないが、しかしの意。その時代には生まれ合わなかつたが。
 我見而毛久成奴 ワレミテモヒサシクナリヌ。作者は、香具山の見えるあたり、明日香藤原のほとりに人となつたのであろう。句切。
 天之香具山 アメノカゲヤマ。神聖な山として、特に、アメを冠している。呼格。
(275)【評語】天の香具山は、神代以來の古い山で神話のある山である。それを、古い時代の事は知らないと云つたのは、かえつて、昔話のあることを思わせる云いぶりだ。ワレ見テモの語法は、昔話があるが、自分が見てからでもの意に解せられる。含蓄の多い佳作である。
【參考】類歌。古今集卷の十七、よみ人しらず。
  わが見ても久しくなりぬ。住吉《すみのえ》の岸の姫松《ひめまつ》いく代|經《へ》ぬらむ。
 
1097 わが夫子を こち巨勢《こせ》山と
 人は云へど、
 君も來まさず。
 山の名にあらし。
 
 吾勢子乎《ワガセコヲ》 乞許世山登《コチコセヤマト》
 人者雖v云《ヒトハイヘド》
 君毛不2來益1《キミモキマサズ》
 山之名尓有之《ヤマノナニアラシ》
 
【譯】あなたに、こちらにいらつしやいという名の、巨勢山と人はいうけれども、君もおいでにならない。ただ山の名であるらしい。
【釋】吾勢子乎乞許世山登 ワガセコヲコチコセヤマト。ワガセコヲコチは、序詞。コチは、こちらへ。コセヤマは、奈良縣南葛城郡の巨勢山。それを、此方《こち》來《こ》せとしやれたのである。コセは動詞コス(來ス)の命令形で、おいでなさいの義。
 人者雖云 ヒトハイヘド。ヒトは世人。
 君毛不來益 キミモキマサズ。キミモキマサズ(類)、キミモキマサヌ(西)。マサは敬語の助動詞。句切。
 山之名尓有之 ヤマノナニアラシ。山の名でその實を伴なわない意。
【評語】山の名によつて、その事のあらわれることを願う意の歌は、しばしば見受ける。この歌は、紀伊の國(276)から巨勢山を越えて歸つてくる夫を待つている女の歌らしい。山の名に寄せているが、巧みに待ちあぐむ心が描かれている。
 
1098 紀道《きぢ》にこそ 妹山《いもやま》ありといへ。
 み櫛上《くしげ》の 二上《ふたがみ》山も
 妹こそありけれ。
 
 木道尓社《キヂニコソ》 妹山在云《イモヤマアリトイヘ》
 三櫛上《ミクシゲノ》 二上山母《フタガミヤマモ》
 妹許曾有來《イモコソアリケレ》
 
【譯】紀伊の國に行く道に妹山はあるというが、この二上山も妹があつたことだ。
【釋】木道尓社 キヂニコソ。キヂは、紀伊の國に行く道。紀伊の國はもと木の國といい、よつて木の字を使用している。
 妹山在云 イモヤマアリトイヘ。妹山は、紀の川を隔てて背山と對している。初句のコソを受けて、文理から云えば、アリで結ぶはずであるが、「相而後社《アヒテノチコソ》 悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》」(卷四、六七四)、「妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》 一子二子持有跡五十戸《ヒトリゴニコモテリトイヘ》」(卷九、一七九〇)の如く、下のイフの方がコソを受けた形で結ぶ例になつている。句切。
 三櫛上 ミクシゲノ。
  ミクシゲノ(童)
  ――――――――――
  櫛上《クシカミノ》(元)
  櫛上《カツラキノ》(西)
  櫛上《クシアゲノ》(管)
  櫛上《クシゲノ》(代精)
  玉櫛上《タマクシゲ》(新考)
 諸本多く櫛上の二字として、カツラキノ、クシカミノなど訓している。しかし櫛上をカツラキノと讀むのは(277)無理であり、クシカミノは意をなさない。またクシゲノとも讀まれているが、三句の字足らずは例が乏しい。今大矢本に、消してはいるが、三の字のあるのによる。この本は往々にして古い形を存しているものがあるからである。これをミクシゲノと讀むのは、上をアゲと讀んで上略したもので、多少の無理があるがやむを得ない。さて枕詞として蓋の義に、二上山に冠する。なお第二句の云が、三の誤りであるのかも知れない。
 二上山母 フタガミヤマモ。二上山は、奈良縣北葛城郡、大和川の南方にある山で、二峰竝立の形を成している。
 妹許曾有來 イモコソアリケレ。二上の二峰を男嶽女嶽という。その女嶽の方を妹と呼んでいる。
【評語】山にも夫婦があるのだという内容の歌である。まして人間が妻を戀うのも當然だという心である。二上山の形から思いついた歌である。
 
詠v岳
 
1099 片岡の この向《むか》つ峯《を》に 椎《しひ》蒔《ま》かば、
 今年の夏の 陰《かげ》に比《そ》へむか。
 
 片岡之《カタヲカノ》 此向峯《コノムカツヲニ》 椎蒔者《シヒマカバ》
 今年夏之《コトシノナツノ》 陰尓將v比疑《カゲニソヘムカ》
 
【譯】片岡のこの向の尾の上に椎の實《み》をまいたら、今年の夏の陰にすることができようか。
【釋】片岡之 カタヲカノ。片岡は、地名とすれば、奈良縣北葛城郡、二上山の東方に當る。
 此向峯 コノムカツヲニ。片岡から前面の峯である。ヲは高い稜線をいう。
 陰尓將比疑 カゲニソヘムカ。
  カゲニナミムカ(西)
(278) カゲニソヘムカ(定本)
  ――――――――――
  陰爾將成凝《カゲニナラムカ》(略)
  陰爾將化疑《カゲニナラムカ》(古義)
 仙覺は、カゲニナミムカと訓しているが、その意を得ない。比は、一物を取つて他に竝べ見る義であるから、夏の陰に擬するに足るならむかの意であろう。今ソヘムカと讀む。「棚霧合《タナギラヒ》 雪毛零奴可《ユキモフラスカ》 梅花《ウメノハナ》 不v開之代爾《サカヌガカヒニ》 曾倍而谷將v見《ソヘテダニミム》」(卷八、一六四二)。
【評語】椎の實《み》をまいたら、今年の夏の陰にもなろうかというのは、あまりに性急で、何等か寓意がありそうである。調子のよい歌だが、寓意の解けない限りは、何とも云えない。
 
詠v河
 
1100 卷向《まきむく》の 痛足《あなし》の川ゆ 往《ゆ》く水の、
 絶ゆることなく また反《かへ》り見む。
 
 卷向之《マキムクノ》 病足之川由《アナシノカハユ》 往水之《ユクミヅノ》
 絶事無《タユルコトナク》 又反將v見《マタカヘリミム》
 
【譯】卷向の痛足の川を通つて行く水のように、絶えずにまた此處にきて見よう。
【釋】病足之川由 アナシノカハユ。病の字は、痛の字から轉じて、使用したのであろう。ユは、ここは、その中を通つて。「天離《アマザカル》 夷之長道從《ヒナノナガヂユ》 戀來者《コヒクレバ》」(卷三、二五五)などのユに同じ。
 往水之 ユクミヅノ。以上三句は、絶ユルコトナクというための序。
 絶事無又反將見 タユルコトナクマタカヘリミム。土地に對する熱愛の情をあらわしている。「雖v見飽奴《ミレドアカヌ》 吉野乃河之《ヨシノノカハノ》 常滑乃《トコナメノ》 絶事無久《タユルコトナク》 復還見牟《マタカヘリミム》」(卷一、三七)は、同じく人麻呂の作である。また「三芳野之《ミヨシノノ》 秋津乃川之《アキツノカハノ》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 斷事無《タユルコトナク》 又還將v見《マタカヘリミム》」(卷六、九一一)は、その模倣作であろう。いずれも川を材料として引き出されている。
(279)【評語】この歌は、表面には、卷向の痛足の川の忘れがたきを歌つているが、それは手段であつて、その川のほとりに忘れかねる理由が存するのである。その人ゆえに、その川のいくかえり絶えることなく訪れられる。その内面的な意味を盛る歌として、この歌が、心ゆくばかりの情を盛つていることが看取されるであろう。吉野川の常滑《とこなめ》を歌材としたのと、同じ取り扱い方が、ここにも見られるのである。これを模した九一一の歌が、氣のぬけたものになつているのも、模倣作としてやむを得ない所である。
 
1101 ぬばたまの 夜《よる》さり來《く》れば、
 卷向《まきむく》の 川音《かはおと》高しも。
 嵐かも疾《と》き。
 
 黒玉之《ヌバタマノ》夜去來者《ヨルサリクレバ》
 卷向之《マキムクノ》川音高之母《カハオトタカシモ》
 荒足鴨疾《アラシカモトキ》
 
【譯】まつくらな夜になつてくると、卷向の川の音が高く聞える。嵐の風が強いのだろう。
【釋】黒玉之 ヌバタマノ。枕詞。
 夜去來者 ヨルサリクレバ。春サリクレバ、夕サリクレバなどと同樣の云い方で、夜になつてくれば。
 卷向之川音高之母 マキムクノカハオトタカシモ。卷向の川は、痛足川のこと。カハオトは、川瀬の音。モは感動の助詞。句切。
 荒足鴨疾 アラシカモトキ。アラシは、荒い風。カモは係助詞。
【評語】あかるいうちは、さして心にも留めなかつた川瀬の音が、夜になるにつれて、烈しくなつたのを覺える。強い山風が吹き渡つているのだろうと疑つている。川邊の家の風趣が實によく描かれている。初句の枕詞も、くらい夜の感じを出すに役立つている。
 
(280)右二首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
1102 大王《おほきみ》の 三笠の山の 帶にせる
 細谷川《ほそだにがは》の 音《おと》の清《さや》けさ。
 
 大王之《オホキミノ》 御笠山之《ミカサノヤマノ》 帶尓爲流《オビニセル》
 細谷川之《ホソダニガハノ》 音乃清也《オトノサヤケサ》
 
【譯】大君のお召しになる御笠、その名も御笠の山が帶にしている細い谷川の音がさやかなことだ。
【釋】大王之 オホキミノ。枕詞。大君の召したまう御笠の意に、御笠山に冠する。「妹が著《け》る三笠の山」(卷六、九八七)の類である。
 帶尓爲流 オビニセル。山腰を川のまわつていることを譬喩であらわしている。
 細谷川之 ホソダニガハノ。細い谷川の義であつて、川の名ではない。「能登《のと》川の水底《みなそこ》さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも」(卷十、一八六一)の歌もあつて、能登川のことであろう。
 音乃清也 オトノサヤケサ。也の字は、決定の辭で、添えて書いている。可v依礒之《ヨルベキイソノ》 無蚊不v怜也《ナキガサブシサ》」(卷十三、三二二六)など例がある。
【評語】歌いものふうのあかるい歌である。山が川を帶にしているという表現は、他にもあるが、この歌は、三笠の山についていうので、その縁がある。類歌として、古今集、神あそびの歌の中に、
   かへしものの歌、
  まがねふく吉備《きび》の中山帶にせる細谷川の音のさやけさ
という歌がある。萬葉のと比べて、また別趣があるが、萬葉の方が、大樣でゆつたりしている。
 
(281)1103 今しくは 見めやと念ひし
 み芳野の 大川淀を
 今日見つるかも。
 
 今敷者《イマシクハ》 見目屋跡念之《ミメヤトオモヒシ》
 三芳野之《ミヨシノノ》 大川余杼乎《オホカハヨドヲ》
 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
【譯】今ごろは見ることはないだろうと思つた、吉野の大川の淀を今日見たことだ。
【釋】今敷者 イマシクハ。イマシクは、體言を形容詞類似の活用形に活用させたものの體言形で、續日本紀宣命に「今 之紀乃 間 方 念見定 牟仁《イマシキノマハオモヒミサダメムニ》」(天平寶字八年十月十四日)とある。この類の語形には、「許貴太斯伎《コキダシキ》」、「意太比之美《オダヒシミ》」(以上宣命)、「彌常敷爾《イヤトコシクニ》」(卷七、一一三三)などがある。語意は、今であること、今のまである。
 大川余杼乎 オホカハヨドヲ。大川の淀みを成している處を。次の歌に見える六田の淀であろう。
【評語】まだ見ることもあるまいと思つていたのに、豫想外に早く、その機會に接した喜びを歌つている。吉野川の佳景にあくがれる心が詠まれている。
 
1104 馬|竝《な》めて み芳野川を 見まく欲《ほ》り、
 
うち越え來《き》てぞ 瀧に遊びつる。
 
 馬竝而《ウマナメテ》 三芳野河乎《ミヨシノガハヲ》 欲v見《ミマクホリ》
 打越來而曾《ウチコエキテゾ》 瀧尓遊鶴《》タギニアソビツル
 
【譯】馬を竝べて、吉野川を見たいと思つて、山を越えてきて、激流で遊んだ。
【釋】馬竝而 ウマナメテ。官仕の人々の連行する常套句。四句につづく。
 打越來而曾 ウチコエキテゾ。山を越えてきたのだが、多分藤原の京あたりからであろう。奈良の京になつてからは、距離が遠いので、あまり吉野に行かなくなつた。
 瀧尓遊鶴 タギニアソビツル。瀧は奔流をいう。瀑布に使うようになつたのは、後である。吉野川の清流、(282)離宮のある附近。
【評語】ただ事實を敍したまでである。句の順序も不自然であり、ウチ越エ來テも突然である、全體にぎごちなさを感じさせる。歌作になれない人の作のようである。
 
1105 音に聞き 目にはいまだ見ぬ
 吉野河 六田《むつた》の淀《よど》を
 今日見つるかも。
 
 音聞《オトニキキ》 目者未v見《メニハイマダミヌ》
 吉野川《ヨシノガハ》 六田之與杼乎《ムツタノヨドヲ》
 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
【譯】名ばかり聞いて、まだ見ることのなかつた吉野川の六田の淀を、今日見たことだ。
【釋】音聞 オトニキキ。話に聞いていた意。
 六田之與杼乎 ムツタノヨドヲ。六田は、上市《かみいち》の下流、吉野川がここに到つて、川幅廣く淀みをなしている。
【評語】音に聞えた勝地に遊んだ喜びが、すなおな形で詠まれている。前出の「鳴る神の音のみ聞きし卷向の檜原《ひはら》の山を今日見つるかも」(卷七、一〇九二)などと同趣で、創意は見られない。
 
(283)1106 河蝦《かはづ》鳴く 清き川原を 今日見ては、
 何時《いつ》か越えきて 見つつ偲《しの》はむ。
 
 川豆鳴《カハヅナク》 清川原乎《キヨキカハラヲ》 今日見而者《ケフミテハ》
 何時可越來而《イツカコエキテ》 見乍偲食《ミツツシノハム》
 
【譯】河蝦の鳴く清らかな川原を今日見たら、今度また何時山を越えてきて、ここを見て思い出すことだろう。
【釋】川豆鳴 カハヅナク。カハヅは、川に棲む蛙。カジカ。
 清川原乎 キヨキカハラヲ。カハラは、川中の廣場。何處の川ともないが、前からの続きで、吉野川であろう。
 何時可越來而 イツカコエキテ。また何時の日にか、山を越えて來て。
 見乍偲食 ミツツシノハム。清き河原を見つつ、今日の清遊を思慕することだろう。
【評語】省略が多いが、それでも意味はよくわかる。初句の河蝦鳴クの句が、具體的で、全體の趣をよく助けている。
 
1107 泊瀬《はつせ》川 白木綿花《しらゆふばな》に 落ちたぎつ
 瀬を清《さやけ》みと 見に來《こ》し吾《われ》を。
 
 泊瀬川《ハツセガハ》 白木綿花尓《シラユフバナニ》 堕多藝都《オチタギツ》
 瀬清跡《セヲサヤケミト》 見尓來之吾乎《ミニコシワレヲ》
 
【譯】泊瀬川は、白木綿の造花のように、水が流れ落ちて激している。瀬が清らかなので見にきたわたしなのだ。
【釋】泊瀬川 ハツセガハ。泊瀬の溪谷を流れ、三輪山の南方を過ぎて平野に出で、大和平野を横斷する。ここは泊瀬の溪谷での詠であろう。
 白木綿花尓 シラユフバナニ。ユフを花にたとえていう。ユフは、コウゾの皮の繊維をさらしたもので白い。(284)「泊瀬女《はつせめ》の造る木綿花み吉野の瀧《たぎ》の水沫《みなわ》に咲きにけらずや」(卷六、九一二)とも歌われて、泊瀬に縁がある。それを借りて激流の白波の譬喩としている。
 墮多藝都 オチタギツ。水の流れ落ちて激する意。これを連體形と見て、次の瀬を修飾すると見る説もあるが。落チタギツ瀬ヲというのを、落チタギツで句を切るとすれば、調子がわるくなる。終止形と見る方がよい。
 瀬清跡 セヲサヤケミト。瀬がさやかであるからとして。
 見尓來之吾乎 ミニコシワレヲ。ヲは感動の助詞。吾なのだの意。
【評語】古人が瀬のさやけさを愛した心はわかる。白木綿花をもつて川瀬の浪を敍するのは、類型的であり、いずれが先であるかを知らない。
 
1108 泊瀬川 ながるる水脈《みを》の 瀬を早み、
 井堤《ゐで》越《こ》す浪の 音の清《きよ》けく。
 
 泊瀬川《ハツセガハ》 流水尾之《ナガルルミヲノ》 湍乎早《セヲハヤミ》
 井提越浪之《ヰデコスナミノ》 音之清久《オトノキヨケク》
 
【譯】泊瀬川は、流れる水脈の瀬が早いので、井堤を越す水の音がさやかであることだ。
【釋】流水尾之 ナガルルミヲノ。ミヲは、河海などの中で、特に水の流れる路。水がやや高まつているのでミヲというのだろう。
 湍乎早 セヲハヤミ。瀬が早く流れるので。
 井提越浪之 ヰデコスナミノ。ヰデは、川中に作つた塞。ヰセキ。それによつて水が深く湛えられる。
 音之清久 オトノキヨケク。オトノサヤケク(類)。形容詞キヨケにコトの意の助詞クの接續したもの。普通サヤケクと讀まれているが、サヤケシのような形の語のケは、乙類のケで、その類の形容詞には、ケクの形で體言を作ることがない。ここは清らかであることの意の名詞である。
(285)【評語】泊瀬川の早瀬の浪の有樣を歌つて、よく水の姿を描いている。湍の音を愛した心が窺われる。
 
1109 さ檜《ひ》の隈《くま》 檜《ひ》の隈川《くまがは》の 瀬を早み、
 君が手取らば 寄らむ言《こと》かも。
 
 佐檜乃熊《サヒノクマ》 檜隈川之《ヒノクマガハノ》 瀬乎早《セヲハヤミ》
 君之手取者《キミガテトラバ》 將v縁言毳《ヨラムコトカモ》
 
【譯】檜の隈の、檜の隈川の瀬が早いので、あの方の手を取つたら、人が何とかいうだろうか。
【釋】佐檜乃熊 サヒノクマ。サは接頭語。ヒノクマは地名。普通に檜隈の字を使用する。「鬱悒《オホホシク》 宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》 佐日之隈廻乎《サヒノクマミヲ》」(卷二、一七五)とあるによれば、地名としてもサヒノクマと言つたのかも知れない。地名に接頭語サを添える例には、「沙額田乃《サヌカダノ》 野邊乃秋芽子《ノベノアキハギ》」(卷十、二一〇六)があり、これもサヌカダとも呼んでいたのであろう。
 檜隈川之 ヒノクマガハノ。檜の隈川は、高取山から發して、檜の隈の地を通り、下流は、曾我川に合流する。
 瀬乎早 セヲハヤミ。ここでは、川を徒歩で渡る場合である。
 君之手取者 キミガテトラバ。流されないように、君の手を取つてすがつたら。
 將縁言毳 ヨラムコトカモ。コトヨセムカモ(考)、ヨセイハムカモ(略)、ヨラムコトカモ(新訓)。人の言葉が寄るだろうなあ。噂を立てられるだろうなあ。
【評語】 「さ檜の隈檜の隈川に馬とどめ馬に水飼へ。吾よそに見む」(卷十二、三〇九七)の歌もあつて、檜の隈のあたりに歌いものの生育するわけがあつたのだろう。それは藤原の京から南方への通路に當るので、自然客商賣の家などがあつたものと見える。この歌も歌いものふうの歌で、なまめかしい風情が見える。
 
(286)1110 齋種《ゆだね》蒔く 新墾《あらき》の小田を 求めむと、 足結《あゆひ》出《い》で沾《ぬ》れぬ。
 この川の瀬に。
 
 湯種蒔《ユダネマク》 荒木之小田矣《アラキノヲダヲ》 求跡《モトメムト》
 足結出所v沾《アユヒイデヌレヌ》
 此水之湍尓《コノカハノセニ》
 
【譯】清めた種を蒔く新墾の田を捜索しようと、袴をくくつて出て、この川の瀬に濡れた。
【釋】湯種蒔 ユダネマク。ユダネは、蒔くために不淨を祓つて祝つた種。止由氣《とゆけ》宮儀式帳に「湯鍬持《ユクハモチテ》東(ニ)向耕佃《ムキタツクリ》、湯草湯種下始《ユクサユダネオロシハジム》」とあり、本集に「安乎楊疑能《アヲヤギノ》 延太伎里於呂之《エダキリオロシ》 湯種蒔《ユダネマキ》」(卷十五、三六〇三)とある。
 荒木之小田矣 アラキノヲダヲ。アラキは、新たに墾く意。「荒城田乃《アラキダノ》 子師田乃稲乎《シシダノイネヲ》」(卷十六、三八四八)。
 求跡 モトメムト。川のほとりに耕すべき地を求めようとして。
 足結出所沾 アユヒイデヌレヌ。アユヒは、行動に便にするために、袴の裾を結ぶこと。川を渡る時には、足結をするのは、衣袴の濡れることを嫌うからである。「大和の忍《おし》の廣瀬《ひろせ》を渡らむと足結《あよひ》たづくり腰づくろふも」(日本書紀一〇六)。ヌレヌは、川渡りをして足などが濡れたので、自然足結も濡れもしよう。特に足結だけが濡れたというのではない。
【評語】古代の人々は、毎年川のほとりに、耕すべき土地を求めていた。萬葉集の時代にはいつては、耕すべき土地は大體固定したと思われるが、なお川のほとりなどは、年々土砂を流して地相が變わるので、そういう地を求めて新たに開墾しようとした。そのような原始的な生活が歌われている。事によると寓意があつて、娘子を得ようとして手をやいた意であるのかもしれない。
 
1111 いにしへも
(287) かく聞きつつや 偲《しの》ひけむ
 この古河の 清き瀬の音を。
 
 古毛《イニシヘモ》
 如v此聞乍哉《カクキキツツヤ》 偲兼《シノヒケム》
 此古河之《コノフルカハノ》 清瀬之音矣《キヨキセノオトヲ》
 
【譯】昔もこんなふうに聞きながら愛したのだろう。この布留の川の清らかな瀬の音を。
【釋】古毛 イニシヘモ。このイニシヘは、漠然と過去の時をさしている。以下、過去の時に生存していた人についていうので、その人とさしていうのではない。
 如此聞乍哉 カクキキツツヤ。作者自身の現に聞いて愛賞していることを、カクと指定している。
 偲兼 シノヒケム。このシノヒは愛賞する意。兼は字音假字。句切。
 此古河之 コノフルカハノ。フルカハは、奈良縣山邊郡布留の地を流れる布留川であろう。集中「石上《イソノカミ》 袖振川之《ソデフルカハノ》」(卷十二、三〇一三)とも詠まれている。
 清瀬之音矣 キヨキセノオトヲ。清キ瀬ノ吾ヲ古モカク聞キツツヤシノヒケムと返る語法だが、かように置いてある以上は、清き瀬の音だと感動する氣分を味わうべきである。それは助詞ヲの有している歴史的性格だ。
【評語】布留川の名によつて、古モ云々の句を起している。自然は時と共に移らず、しかもその遺響は、永遠に若い。布留川の名が、極めて效果的に使用されている。
 
1112 葉根※[草冠/縵]《はねかづら》 いまする妹を うら若み、
 いざ率川《いざがは》の 音の清《さや》けさ。
 
 波祢※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹乎《イマスルイモヲ》 浦若三《ウラワカミ》
 去來率去河之《イザイザガハノ》 音之清左《オトノサヤケサ》
 
【譯】葉根※[草冠/縵]を今しているあの子が若いので、いざと誘おうと思う。その名もいざ川の音のさやかなことだ。
【釋】波祢※[草冠/縵] ハネカヅラ。「葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹乎《イマスルイモヲ》」(卷四、七〇五)、「葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹者《イマスルイモハ》」(同、七〇六)とも(288)あり、文字通り植物の葉や根で作つた※[草冠/縵]で、多分五月五日の節供に、若い女のする※[草冠/縵]であろう。カヅラは、植物で輪に作つて、頭髪の上にいただくもの。
 今爲殊乎 イマスルイモヲ。スルは、※[草冠/縵]をつけるをいう。
 浦若三 ウラワカミ。ウラは内面をいう。内面的に若いので。
 去來率去河之 イザイザガハノ。上のイザは、葉根※[草冠/縵]をつけている若い妹を、イザと誘う意で、ここまで序詞となり、同音を利用して次のイザを引き起している。次のイザに、率去の字を書いているのは、さそい去る意を含ませている。イザガハは、普通、率州の字を當てている。率川は春日山から發して、率川神社の前を通り、今の奈良市を横斷して佐保川に合流する。
【評語】この歌の序は、率川のイザの音を引き起すために置かれているが、それは現に見る所を描いて序としたものであろう。非常に巧みな序の使い方で、序歌ではあるが、清新の感がある。家持の葉根※[草冠/縵]の歌(卷四、七〇五)は、この歌あたりを模倣したものだろう。この歌は、奈良時代の作であろうが、三枝《さきくさ》の花をもつて祭るという率川神社の祭に關係のある序であるかも知れない。なお、「葉根※[草冠/縵]今する妹がうら若み咲《ゑ》みみ慍《いか》りみ著《つ》けし紐《ひも》解《と》く」(卷十一、二六二七)という類句を使用した歌もある。
 
1113 この小川 白氣《きり》ぞ結べる。
 流らふや まこと井《ゐ》の上に
 言上《ことあげ》せねども。
 
 此小川《コノヲガハ》 白氣結《キリゾムスベル》
 流至八《ナガラフヤ》 信井上尓《マコトヰノウヘニ》
 事上不v爲友《コトアゲセネドモ》
 
【譯】この小川は、霧が立つている。流れて行く勢いのよい井の上で、眞實、言い立てをしないのだが。
【釋】白氣結流至八信井上尓 キリゾムスベルナガラフヤマコトヰノウヘニ。
(289)  キリムスボホリナガラフヤマコトヰノウヘニ(新訓)
  キリゾムスベルナガレユクハシリヰノウヘニ(略)
  ――――――――――
  白氣結瀧至八信井上爾《キリゾムスベルタギチユクハシリヰノウヘニ》(西)
  白氣結瀧去八信井上爾《キリゾムスベルタキチユクハシリヰノウヘニ》(代精)
  白氣結落瀧八信井上爾《キリタナビケリオチタギツハシヰノウヘニ》(古義)
 問題の句であつて、諸説がある。白氣は、古くはコホリとも讀まれていたが、仙覺以後キリで落ちついている。流は、古本系統に流、仙覺本系統に瀧である。この字を二句につけるか、三句につけるかが、まず問題になる。次に八信井を、ハシリヰと讀んでいるが、そう讀むことは、可能ではあるが、決定的ではない。信は、音シヌ。n韻をr韻にあらわすことは、クルマに群馬の字を當てるが如く、例が多い。本集にも「思篇來師《オモヘリケラシ》」(卷十二 二五五八)の篇の字の例がある。ハシリヰは、水の勢いよく流れる井。この井は、この小川の一部であろう。今の訓、ナガラフヤは、連體句で、マコトを隔てて、井を修飾する。ヤは感動の助詞。至は、※[糸+至]の糸偏のおちたもので、流經八は、ナガラフヤであろう。信をマコトと讀むのは、「信有得哉《マコトアリエメヤ》 戀敷鬼呼《コホシキモノヲ》」(卷七、一三五〇)等數例がある。ヰノウヘは、井の上方である。
 事上不爲友 コトアゲセネドモ。コトアゲは、言語に言い立てること。
【評語】信仰的な内容を有している歌のようであるが、不幸にして難解の句があつて、その意を明白にすることのできないのは遺憾である。
 
1114 わが紐を 妹が手もちて 結八《ゆふや》川、
 また還《かへ》り見む。
 萬代までに。
 
 吾※[糸+刃]乎《ワガヒモヲ》妹手以而《イモガテモチテ》 結八川《ユフヤガハ》
 又還見《マタカヘリミム》
 萬代左右荷《ヨロヅヨマデニ》
 
【譯】わたしの衣の紐を、あの子の手で結ぶ。その名の結八川を、永久にまたも來て見よう。
(290)【釋】吾※[糸+刃]乎 ワガヒモヲ。ヒモは、衣の紐。
 妹手以而 イモガテモチテ。男女婚を通ずる時に、女が男の衣の紐を結ぶ慣例となつている。以上は、結八川を呼び起すための序。
 結八川 ユフヤガハ。所在未詳。吉野にあるとする説があるが、これは人麻呂の歌中の逝副川を、遊副《ゆふ》川とする傳本のあるによつたもので、遊副川が否定せられる以上、その根據を失う。
 又還見萬代左右荷 マタカヘリミムヨロヅヨマデニ。永久に繰り返し此處に來り見ようの意を現している。「み芳野の秋澤の川の萬世に絶ゆることなくまたかへり見む」(卷六、九一一)と同想。
【評語】序に興味を持つた歌である。その序は、ただ言葉のあやか、しかいうべき根據があるかは不明である。
 
1115 妹が紐《ひも》 結八河内《ゆふやかふち》を、
 いにしへの 人さへ見きと、
 ここを誰知る。
 
 妹之※[糸+刃]《イモガヒモ》 結八川内乎《ユウヤカフチヲ》
 古之《イニシヘノ》 并v人見等《ヒトサヘミキト》
 此乎誰知《ココヲタレシル》
 
【譯】あの子の衣の紐を結ぶ。その名の結八川の溪谷を、昔の皆の人が見たと、それを誰が知つていよう。
【釋】妹之※[糸+刃] イモガヒモ。枕詞。ヒモは、衣の紐で、結フに冠する。
 結八河内乎 ユフヤカフチヲ。カフチは、河畔に立つて眺められる範圍をいう。結八川の景色である。
 并人見等 ヒトサヘミキト。
  ミナヒトミキト(元)
  ミナヒトミメド(代精)
  ――――――――――
  淑人見等《ヨキヒトミキト》(考)
  人并見管《ヒトサヘミツツ》(古義)
 并をサヘと讀むことは、「手取者《テニトレバ》 袖并丹覆《ソデサヘニホフ》 美人部師《ヲミナヘシ》」(卷十、二一一五)の例があるが、并人とあるのは、(291)漢文ふうに書いたので、人并の誤りとするには及ばない。「及2七日1《ナヌカマデ》」(卷九、一七四〇)、「至2今年1《コトシマデ》」(卷四、七八三)などの、及至の類をマデと讀むと同樣の例である。
 此乎誰知 ココヲタレシル。古ノ人サヘ見キをさして、ココと言つている。タレシルは、知る人もないの意で、古人の見たかどうかはわからない由である。
【評語】前の歌と同一人の作であろう。ここには轉じて、妹が紐の句を枕詞としている。結八川の美景を古人も見たかどうかを疑つている。變わつた表現の歌である。
 
詠v露
 
1116 ぬばたまの わが黒髪に
 零《ふ》りなづむ 天《あめ》の露霜《つゆじも》、
 取れば消《け》につつ。
 
 鳥玉之《ヌバタマノ》 吾黒髪尓《ワガクロカミニ》
 落名積《フリナヅム》 天之露霜《アメノツユジモ》
 取者消乍《トレバケニツツ》
 
【譯】まつ黒なわたしの髪に、降つてかかつている、天から降る露霜を、手に取れば消えてしまう。
【釋】落名積 フリナヅム。ナヅムは、拘泥する、係累する意で、なめらかでなくあるをいう。「不v近《チカカラヌ》 道之間乎《ミチノアヒダヲ》 煩參來而《ナヅミマヰキテ》」(卷四、七〇〇)の例は、煩をナヅミに當てていると解せられる。そのほか「落雪乎《フルユキヲ》 腰爾奈都美弖《コシニナヅミテ》 參來之《マヰリコシ》」(卷十九、四二三〇)など、多く困難を冒して來ることに使用している。そこでフリナヅムは、他に用例はないが、降つてひつかかつている意と解せられる。
 天之露霜 アメノツユジモ。露霜を雨雪のように天から降るものと解して、天ノを冠している。これによつていかにもはるかなところから來るものとの意味があらわれている。
(292) 採者消乍 トレバケニツツ。ニは、完了の助動詞。取つても取つても、消えてしまう。露霜のはかない性質がよく歌われている。
【評語】女子の作であろう。人を待つか何かして屋外にいるのであろう。はかない手すさびであるが、露霜の風情がよく描かれている。天ノを冠したのも、よく利いている。
 
詠v花
 
1117 島廻《しまみ》すと 礒《いそ》に見し花、
 風吹きて 波は寄るとも、
 取らずは止まじ。
 
 島廻爲等《シマミスト》 礒尓見之花《イソニミシハナ》
 風吹而《カゼフキテ》 波者雖v縁《ナミハヨルトモ》
 不v取不v止《トラズハヤマジ》
 
【譯】島めぐりをするとて、礒で見た花は、風が吹いて波が寄つても、取らないではやまない。
【釋】島廻爲等 シマミスト。アサリスト(元)、シマミスト(古義)。シマミは、島そのものをいう場合と、島めぐりの意の場合とがあり、ここは後者である。「島廻爲流《シマミスル》 水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》」(卷六、九四三)。
 風吹而波者雖縁 カゼフキテナミハヨルトモ。得がたい事情にあることを假設している。
【評語】本卷譬喩歌に、「海《わた》の底|沈《しづ》く白玉風吹きて海は荒るとも取らずは止まじ」(一三一七)があり、その他にも類似の歌がある。この歌も、それらと共に寓意のある譬喩歌と見られる。ある女子を礒ニ見シ花と譬えているのであろう。かような形の歌いものがあつて、それから種々の替歌が詠まれているようだ。
 
詠v葉
 
(293)1118 いにしへに ありけむ人も
 わが如《ごと》か
 三輪《みわ》の檜原《ひはら》に 插頭《かざし》折りけむ。
 
 古尓《イニシヘニ》 有險人母《アリケムヒトモ》
 如2吾等1架《ワガゴトカ》
 弥和乃檜原尓《ミワノヒハラニ》 插頭折兼《カザシヲリケム》
 
【譯】昔いたという人も、わたしのようにか、この三輪の檜原で、插頭のために檜葉を折つたことだろう。
【釋】古尓有險人母 イニシヘニアリケムヒトモ。かつてあつた人を想像しているが、その人とさす人があつたものと思われる。次の歌參照。險は字音假字。
 如吾等架 ワガゴトカ。カは疑問の係助詞。この句で、作者自身が、檜の枝を折つていることが描かれる。
 弥和乃檜原尓 ミワノヒハラニ。弥和は三輪で、檜原は、次の歌によれば、穴師川に臨んだ處と考えられる。檜原山の裾がずつと川岸まで引いているのであろう。
 插頭折兼 カザシヲリケム。カザシは、髪插シ。三輪の社に詣でる人が、檜葉を插頭にする風習があつたのであろう。風流ではなく信仰にもとづくものである。
【評語】詠葉とあるが、この二首の如きは、歌詞によつて、後に題を設けたことが顯著である。語を古人に借り、古人の行爲を敍するが如くで、實は作者自身のことを敍するのが眼目である。
【參考】類型。
  古にありけむ人もわが如《ごと》か妹に戀ひつついねがてずけむ(卷四、四九七)
 
1119 往《ゆ》く川の 過ぎにし人の 手折《たを》らねば
 うらぶれ立てり。
(294) 三輪の檜原《ひはら》は。
 
 往川之《ユクカハノ》 過去人之《スギニシヒトノ》 手不v折者《タヲラネバ》
 裏觸立《ウラブレタテリ》
 三和之檜原者《ミワノヒハラハ》
 
【譯】流れ行く川のように過ぎ去つてしまつた人が手折らないので、さびれて立つている。この三輪の檜原は。
【釋】往川之 ユクカハノ。枕詞。川水の流れ去ることから、過ギニシに冠する。目前を流れる穴師の川によつて起した枕詞と考えられる。
 過去人之 スギニシヒトノ。スギニシは、この世を過ぎ去つた人で、死んだ人をいう。前の歌の、古ニアリケム人に相當する。
 裏觸立 ウラブレタテリ。ウラブレは、心さびしくあるをいう。悄然として立つている感じである。句切。
 三和之檜原者 ミワノヒハラハ。檜原の檜樹を概括している。
【評語】前の歌と連作をなしている。前の歌で疑問を出し、この歌で囘答している姿である。人は既に故人となつて、今は手折ることもなければの意に解すべきである。しんみりしたよい歌である。この二首は、亡き妻を思つているので、古ニアリケム人、往ク川ノ過ギニシ人は、その亡き妻をさしているのだろう。
 
右二首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
詠v蘿
 
【釋】詠蘿 コケヲヨメル。蘿はサガリゴケであるが、「奥山之《オクヤマノ》 磐爾蘿生《イハニコケムシ》」(卷六、九六二)の如く、苔の意に使用したものもある。次の歌における用法も、苔の意である。
 
1120 み芳野の 青根《あをね》が峯《みね》の 蘿《こけ》むしろ、
(295) 誰《たれ》か織《お》りけむ。
 經緯《たてぬき》なしに。
 
 三芳野之《ミヨシノノ》青根我峯之《アヲネガミネノ》蘿席《コケムシロ》
 誰將v織《タレカオリケム》
 經緯無二《タテヌキナシニ》
 
【譯】吉野の青根が峯の蘿の敷物は、誰が織つたのだろう。經絲も横絲もなしで。
【釋】青根我峯之 アヲネガミネノ。青根が峯は、吉野山中の高峯で、離宮のあつた宮瀧から南方に見える。標高八五八メートル。
 蘿席 コケムシロ。コケは蘚苔《せんたい》類、地衣《ちい》類などの總稱。ここはムシロと熟語となつているから、地上を蔽うものをいうと見られる。ムシロは絲や植物性のもので織つて作る敷物。「綾席《アヤムシロ》 緒爾成及《ヲニナルマデニ》」(卷十一、二五三八)、「伊奈武思侶《イナムシロ》 敷而毛君乎《シキテモキミヲ》」(同、二六四三)などは、それぞれ綾のむしろ、稻がらで作つたむしろである。ここは譬喩で、コケの密生しているのをむしろに見立てたのである。「伊儺武斯盧《イナムシロ》 呵簸泝野儺擬《カハゾヒヤナギ》」(日本書紀八三)は、譬喩に使用した例である。青根が峯に接近して、その地のコケの見事なのを賞したと見るのだが、もし吉野の離宮のあたりから、青根が峯の、青根とも呼ばれる状を遠望した歌とすると、解が違つてくる。そうすれば實際のコケでなくして、山を蔽う一切の草木の遠望を、この句で譬喩にしたものとなすべきである。
 誰將織 タレカオリケム。自然の作りなしたコケムシロを、何人の所爲かと疑つている。「經毛無《タテモナク》 緯毛不v定《ヌキモサダメズ》 未通女等之《ヲトメラガ》 織黄葉爾《オルモミチニ》 霜莫零《シモナフリソネ》」(卷八、一五一二、大津の皇子)の思想と通ずるものである。句切。
 經緯無二 タテヌキナシニ。タテは、織物の縱の絲。ヌキは横絲。縱の絲の間を貫くのでヌキという。經緯なくして織つたむしろだというのである。
【評語】 コケのようなものにまで、愛賞が及んでいることは、この集の歌人の、いかに自然に親しんでいたかをよく實證する。材料がコケであるだけに、四五句の作爲的な表現が、さしていやらしくないのが一得である。(296)自然現象が、經緯の絲なしに織り出されるという思想は、漢文學の影響を受けているものだろう。
 
詠v草
 
1121 妹《いも》らがり わが通《かよ》ひ道《ぢ》の しのすすき、
 
 我し通はば 靡《なび》け、細竹原《しのはら》。
 
 妹等所《イモラガリ》 我通路《ワガカヨヒヂノ》
 我通《ワレシカヨハバ》 靡細竹原《ナビケシノハラ》
 細竹爲酢寸《シノススキ》
 
【譯】あの子の處に、わたしの通う路の小竹のあらい草よ、わたしの通う時には、横になつてくれよ、小竹原よ。
【釋】妹等所 イモラガリ。ラは接尾語。イモラは、その人とさすのがあつて、複數ではない。ガリは、そのもとをいう。
 我通路 ワガカヨヒヂノ。カヨヒヂは、通行往來する路。妹のもとをさして行く道である。「殊等所《イモラガリ》 今木乃嶺《イマキノミネニ》」(卷九、一七九五)の例は、イモラガリが枕詞になつているが、イマキに今來をかけ詞にしている。
 細竹爲酢寸 シノススキ。シノは小竹。ススキは、カホン科の一種、今もいうススキであるが、また叢生した草の總稱にもいう。ここはシノとススキとの併立ではなくして、シノススキという熟語と見られる。ススキは荒草の義であるから小竹のさまをいう。薄の字は、本集にススキの義には使用していないが、その字義は、草の叢生をいう。後の歌であるが、藤原の俊成に「難波女《なにはめ》のあしのしの屋のしのすすきひとよのふしも忘れやはする」(續千載集)というのがある。ススキには節がないので、これも小竹をいうと見られる。略解には、撓《しな》うすすきとしているが、五句の小竹原に對して、シノに中心があるとすべきである。「旗荒《ハタススキ》 本葉裳具世丹《モトハモソヨニ》」(卷十、二〇八九)にある荒の字も、荒草の義で、ススキに當てたのであろう。
(297) 我通 ワレシカヨハバ。シに當る字はないが讀み添える。
 靡細竹原 ナビケシノハラ。ナビケは、横たわり伏せの意。
【評語】調子のよい、歌いものらしい歌である。三句にシノススキを呼びかけ、五句にやや變えて細竹原を擧げたのも、音聲上、内容上、共に效果が多い。「わが通路《かよひぢ》の、於吉蘇山《おきそやま》美濃《みの》の山、靡《なぴ》けと人は踏めども、かく寄れと人は衝《つ》けども、心なき山の於吉蘇山美濃の山」(卷十三、三二四二)に通う所のある歌である。
 
詠v鳥
 
1122 山の際《ま》に 渡る秋沙《あきさ》の ゆきて居《ゐ》む、
 その河の瀬に 浪立つな、ゆめ。
 
 山際尓《ヤマノマニ》 渡秋沙乃《ワタルアキサノ》 往將v居《ユキテヰム》
 其河瀬尓《ソノカハノセニ》 浪立勿湯目《ナミタツナユメ》
 
【譯】山の端を渡つて行くアキサの行つて下りるだろうその河の瀬には、浪よ、立つてはいけない。
【釋】渡秋沙乃 ワタルアキサノ。アキサは、遊禽類、鴨に似てちいさい。アイサ、アイガモという。ワタルは通過する。
 往將居 ユキテヰム。飛んで行つておりているだろうの意で、連體形。
 浪立勿湯目 ナミタツナユメ。ユメは、決して。
【評語】アキサの行く先を案じている。遠來の鳥に寄せた同情である。大伴の家持に「雲がくり鳴くなる雁の行きて居む秋田の穗立《ほだち》繁《しげ》くし思ほゆ」(卷八、一五六七)の歌があるのは、この歌をもとにしているのであろう.
 
1123 佐保河の 清き河原に 鳴く千鳥、
(298) 蝦《かはづ》と二つ 忘れかねつも。
 
 佐保河之《サホガハノ》 清河原尓《キヨキカハラニ》 鳴知鳥《ナクチドリ》
 河津跡二《カハヅトフタツ》 忘金都毛《ワスレカネツモ》
 
【譯】佐保河の清らかな河原で鳴く千鳥と、河蝦と二つは、忘れることができない。
【釋】鳴知鳥 ナクチドリ。佐保川に千鳥は、常に詠まれている。その千鳥を主にして呼びかけている。
 河津跡二 カハヅトフタツ。カハヅは河蝦。千鳥に河蝦を添えて二つである。
【評語】遠く他郷にあつて、佐保川の風物の忘れかねる情を歌つている。なつかしむ心がよくあらわれている。
 
1124 佐保河に さ驟《はし》る千鳥、
 夜更《よくた》ちて 汝《な》が聲聞けば
 いねがてなくに。
 
 佐保河尓《サホガハニ》 小驟千鳥《サバシルチドリ》
 夜三更而《ヨクタチテ》 尓音聞者《ナガコヱキケバ》
 宿不v難尓《イネガテナクニ》
 
【譯】佐保川に走つている千鳥よ、夜が更けてお前の聲を聞くと、寢られないことだ。
【釋】小驟千鳥 サバシルチドリ。驟は、集中サワクに當てて書いているが、ここではサワクは内容も騷がしくなり、小の字を附けての讀み方にも苦しいところがある。この字は、疾速をいい、馬の疾走するをいう字であるから、今サバシルと讀む。千鳥を呼びかけている句。
 夜三更而 ヨクタチテ。三更は夜中である。意をもつてクタチと讀む。
 尓吾間者 ナガコヱキケバ 尓は汝の義。千鳥に對していう形である。「淡海《あふみ》の海夕浪千鳥|汝《な》が鳴けば」(卷三、二六六)の類である。
 宿不難尓 イネガテナクニ。ガテは可能の意の助動詞。ナクはヌコト。
【評語】夜深くして千鳥の聲を開く情が歌われている。千鳥に親しみを感じている。傷みやすい心がよく出て(299)いる。
 
思2故郷1
 
【釋】思故郷 フルサトヲシノフ。前後、詠物の題の中に、この題が介在しているのは不整頓である。事によれば、この二首は連作で、前の歌に千鳥が詠まれているから、前の詠鳥の題下に入るもので、この思故郷は、その題下の小題であるかも知れない。フルサトはもと住んでいた里をいう。明日香の甘南備の里をいい、都と共に遠くなつた人が、その故郷を思つて詠んだ歌である。奈良時代にはいつてからの作であろう。
 
1125 清き瀬に 千鳥妻|喚《よ》び
 山の際《ま》に 霞立つらむ。
 甘南備《かむなび》の里。
 
 清湍尓《キヨキセニ》 千鳥妻喚《チドリツマヨビ》
 山際尓《ヤマノマニ》 霞立良武《カスミタツラム》
 甘南備乃里《カムナビノサト》
 
【譯】清らかな瀬には千鳥が妻を呼んで居り、山のまには霞が立つているだろう。あの甘南備の里は。
【釋】千鳥妻喚 チドリツマヨビ。鳥の鳴くのを、妻呼ブの形で表現した例は多い。鳥の鳴き聲に對して、情味を感じさせる描寫である。
 霞立良武 カスミタツラム。ラムは、千鳥の妻を呼ぶと、霞の立つと兩方を受けている。終止形。句切。
 甘南備乃里 カムナビノサト。カムナビのあることによつて地名となつている。諸地に同名があるが、明日香にいうこと多く、これも明日香であろう。
【評語】故郷の清らかな風光を思い、望郷の念に堪えない情がよく出ている。歌も清らかに上品である。大伴の旅人あたりの作であろう。
 
(300)1126 年月も いまだ經《へ》なくに、
 明日香川《あすかがは》
 瀬瀬《せぜ》ゆ渡りし 石走《いはばし》もなし。
 
 年月毛《トシツキモ》 未v經尓《イマダヘナクニ》
 明日香河《アスカガハ》
 湍瀬由渡之《セゼユワタリシ》 石走無《イハバシモナシ》
 
【譯】年月もまだたたないのに、明日香川は、瀬と瀬の間を渡した踏石もない。
【釋】年月毛未經尓 トシツキモイマダヘナクニ。體言を構成するに使用される助詞クに接續する助詞ニは、感動の要素の多いものであつて、これによつて文を終止するのを原形としたのであるが、後に助詞ニの、副詞を構成する性質が發達するに及んで、その形において副詞句を構成するようになつた。そういう用法の例として、この句が指摘される。ここで文が終らないで、下文に對して副詞句としての位置に立つものである。
 湍瀬由渡之 セゼユワタリシ。セゼユは、いくつもの瀬を通つて。右走は瀬の個處を渡すのである。ワタリシは、石走を渡つて川を横斷したことをいう。
 石走無 イハバシモナシ。石走は、「飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》 上瀬《カミツセニ》 石橋渡《イシバシワタシ》」(卷二、一九六)の例によつて、イハバシと讀む方がよいであろう。この場合の走は、ハシの音聲の訓假字である。「石走《イハバシノ》 間々生有《ママニオヒタル》 貌花乃《カホバナノ》」(卷十、二二八八)の石走も、これに同じとも見られる。イハバシは、河中に入れた踏石である。
【評語】これはその他に臨んで詠んだ歌で、思故郷の題意に合わない。しかし實際は、前の歌と連作で、その地の變化を想像して、その他で詠んだかのように作爲したのであろう。人麻呂集所出の歌に「橋立《ハシタテノ》 倉椅川《クラハシガハノ》 石走者裳《イハバシリハモ》 壯子時《ヲザカリニ》 我度爲《ワガワタリテシ》 石走者裳《イハバシリハモ》」(卷七、一二八三)という歌があり、これはその影響を受けているであろう。
 
(301)詠v井
 
1127 落ちたぎつ 走井《はしりゐ》の水の 清くあれば、
 廢《す》てては、吾は 去《ゆ》きがてぬかも。
 
 隕田寸津《オチタギツ》 走井水之《ハシリヰノミヅノ》 清有者《キヨクアレバ》
 廢者《ステテハ・オキテハ》吾者《ワレハ》 去不v勝可聞《ユキガテヌカモ》
 
【譯】激しく落ち流れて、水の走る井の水が清らかなので、うち捨ててはわたしは行くことができないなあ。
【釋】隕田寸津 オチタギツ。急傾斜を水の流れ落ちる状をいう。タギツは動詞で、その連體形。
 走井水之 ハシリヰノミヅノ。ハシリヰは、勢いよく水の流れる井をいう。涌き出る水でも、流れ來る水でもよい。井は、清らかな水の湛えてある處。伊豆國風土記の逸文に走湯《はしりゆ》の語が見える。
 廢者吾者 ステテハワ(302)レハ。走井のもとを去るに忍びない心である。廢者は、元暦校本、類聚古集には、癈者に作る。仙覺本に度者に作つているが、井を渡るということは、意を成さない。井は渡るべきものではない。流れの末を渡るというならわかるが、それならば表現が不十分である。新考に、正宗敦夫氏の説として、廢者としてオキテハと讀む説をあげ、佐竹昭廣氏に、癈者のままでオキテハと讀む説がある(萬葉集大成訓詁篇)。類聚名義抄、廢にオクの訓がある。オキテハでよいのかもしれない。
 去不勝可聞 ユキガテヌカモ。ガテヌは、困難の意をあらわす助動詞。
【評語】清泉を変する心は、集中にもしばしば歌われている。この歌も、清泉に對して去りがたくする純粹の情がよく描かれている。初二句の具體的な説明があつて、下句の情趣が生きてくるのである。
 
1128 あしびなす 榮《さか》えし君が 穿《ほ》りし井《ゐ》の 
 石井《いはゐ》の水は、 飲めど飽《あ》かぬかも。
 
 安志妣成《アシビナス》 榮之君之《サカエシキミガ》 穿之井之《ホリシヰノ》
 石井《イハヰ・イシヰ》之水者《ノミヅハ》 雖v飲不v飽鴨《ノメドアカヌカモ》
 
【譯】アシビのように榮えた君の掘つた井である石井の水は、飲んでも飽きないなあ。
【釋】安志妣成 アシビナス。アシビは、馬醉木の字を當てているものと同じと見られる。ナスによつて譬喩を構成している。
 榮之君之 サカエシキミガ。サカエシで、その人が、過去の人であることをあらわしている。これと次の掘リシとで、追憶の意があきらかにされている。このキミは、その人とさす人があつたであろうが、それは知られない。長者か大官か、作者の面識のある人と推定される。
 穿之井之 ホリシヰノ。井は自然の河流や涌泉《ゆうせん》である場合が多いので、特に掘リシと説明している。これに(303)よつて、その人の榮えた有樣が描かれる。
 石井之水者 イハヰノミヅハ。イハヰは、岩石で組み立てた井。「波爾思奈能《ハニシナノ》 伊思井乃手兒我《イシヰノテコガ》」(卷十四、三三九八)の伊思井は、地名であるが、これによつてイシヰとも讀まれる。
 雖飲不飽鴨 ノメドアカヌカモ。集中しばしば見られる所の、見レド飽カヌカモの變化である。
【評語】初句は譬喩だが、その井のあたりに馬醉木の榮えているのを借りている。これによつてその井の敍述になるのである。井によつて故人を思う。眞摯《しんし》の感のある作である。
 
詠2倭琴1
 
【釋】詠倭琴 ヤマトゴトヲヨメル。ヤマトゴトは、日本ふうの琴、六絃である。(卷五、八一〇參照)
 
1129 琴取れば なげき先《さき》だつ。
 けだしくも
 琴の下樋《したひ》に 嬬《つま》やこもれる。
 
 琴取者《コトトレバ》 嘆先立《ナゲキサキダツ》
 蓋毛《ケダシクモ》
 琴之下樋尓《コトノシタヒニ》 嬬哉匿有《ツマヤコモレル》
 
【譯】琴を手に取れば、先だつのは嘆きである。恐らくは、琴のうつろに、亡き妻が隱れているのだろう。
【釋】琴取者 コトトレバ。トレバは手にするをいう。
 嘆先立 ナゲキサキダツ。琴を彈じようとしてまず嘆息の發せられるをいう。句切。
 蓋毛 ケダシクモ。ケダシは、推量の意をあらわす副詞であるが、これに語尾クが接續してケダシクとなる。五句のコモレルを修飾限定する。
 琴之下樋尓 コトノシタヒニ。シタヒは、地下に埋設した木製の通水路をいう。ここは琴の表板と裏板との(304)あいだにある空虚の部分をいう。音のひびきをよくするためのもの。
 嬬哉匿有 ツマヤコモレル。ツマハ、亡き妻をいう。
【評語】妻を亡つた人の悲痛な情が歌われている。古くは物のうつろに神靈が宿るとする信仰があり、ここにもそれが感じられる。琴は、膝に乘せて弾ずるものであるので、一層亡き妻を想う情を禁じ得ないのである。これも大伴の旅人あたりの作であろうと思われる。
 
芳野作
 
【釋】芳野作 ヨシノニテツクレル。以下種類が變わつて、芳野作、山背作、攝津作、羇旅作の順に、諸地方で詠んだ歌を載せている。芳野での作は五首で、そのうち皇祖神之の一首だけは、吉野地方の地名を含んでいない。
 
1130 神《かむ》さぶる 磐根《いはね》こごしき
 み芳野の 水分《みくまり》山を
 見ればかなしも。
 
 神左振《カムサブル》 磐根己凝敷《イハネコゴシキ》
 三芳野之《ミヨシノノ》 水分山乎《ミクマリヤマヲ》
 見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
【譯】神々しく貴い岩石のけわしい吉野の水分山を見れば、感に堪えない。
【釋】神左振 カムサブル。神としての威力をあらわしている意。磐根を修飾する。岩石が靈の存在を感じさせるにいう。
 磐根己凝敷 イハネコゴシキ。イハネは岩石。ネは接尾語。岩石のしかとすわつているにいうので、その根部の謂ではない。コゴシキは凝固してある意で、險岨なのにいう。凝敷の二字でコゴシキと讀まれるが、讀み(305)方を確かにするために、字音假名の己を添えて書いている。
 水分山乎 ミクマリヤマヲ。水分山は、水源の山の意で、水分の神を祭つてある山。吉野の水分神社は、吉野の上の一目千本の上方にある。水分の神は、祈年祭《きねんさい》の祝詞《のりと》に「水分坐皇神等《ミクマリニマススメガミタチノマヘニマヲサク》、吉野《ヨシノ》、宇陀《ウダ》、都祁《ツゲ》、葛木御名者白※[氏/一]《カヅラキトミナハマヲシテ》」とある。水を配分する神の義で、水神である。
 見者悲毛 ミレバカナシモ。カナシは、感にうたれる意の形容詞で、ここは賞美の情に堪えないのをいう。
【評語】岩石の峨々たる山に對する賞美の心が歌われている。山岳に對して、カナシというのは異色であつて、水分の神の靈力を感じてかように言つているのであろう。初句の神サブルも、これに應じていると見られる。寓意のある歌で、これらの詞を使い、カナシと言つているのだろう。
 
1131 皆人の 戀ふるみ吉野、
 今日見れば、 うべも戀ひけり。
 山川清み。
 
 皆人之《ミナヒトノ》 戀三吉野《コフルミヨシノ》
 今日見者《ケフミレバ》 諾母戀來《ウベモコヒケリ》
 山川清見《ヤマカハキヨミ》
 
【譯】皆の人の戀うている吉野を、今日見れば戀うているのももつともだ。山や川が清らかで。
【釋】皆人之 ミナヒトノ。ミナヒトは、作者の接している人々をさす。
 戀三吉野 コフルミヨシノ。吉野に行きたいと思う情をコフルと言つている。
 諾母戀來 ウベモコヒケリ。上の皆人ノ戀フルを承認している。句切。
 山川清見 ヤマカハキヨミ。第四句の理由を語る。
【評語】戀フの語は、何に對しても云えるが、特に人に對して使用するのが通例となつている。この歌では、わざわざこの語を使用して興がつているようだ。作者は初めて吉野を見ている。たどたどしさのある歌である。
 
(306)1132 夢《いめ》の曲淵《わだ》 言《こと》にしありけり。
 現《うつつ》にも 見てけるものを。
 念ひし念へば。
 
 夢乃和太《イメノワダ》 事西在來《コトニシアリケリ》
 寤毛《ウツツニモ》 見而來物乎《ミテケルモノヲ》
 念四念者《オモヒシオモヘバ》
 
【譯】夢のわだというのは言葉だけだつた。現にも見てしまつたものだ。思いにしていたので。
【釋】夢乃和太 イメノワダ。吉野川のうち、離宮の所在地にある淵の名。ワダは、灣形をなしている淵。
 事西在來 コトニシアリケリ。コトは言語。夢という名がついているが、それは言葉の上のことで、實を伴なわないの意。「名草山《ナグサヤマ》 事西在來《コトニシアリケリ》 吾戀《ワガコフル》 千重一重《チヘノヒトヘモ》 名草目名國《ナグサメナクニ》」(卷七、一二一三)。句切。
 寤毛 ウツツニモ。ウツツは現前をいう。
 見而來物乎 ミテケルモノヲ。モノヲは、現前にも見てしまつたのだ、それだのに夢のわだというの意。句切。
 念四念者 オモヒシオモヘバ。思いに思うの意に強調している。オモヒ、動詞。シ、強意の助詞。
【評語】夢のわだの名によつて歌をなしている。名に心をひかれる古人の心が窺われる。
 
1133 皇祖《すめろきの》の 神の宮人
 ところづら いや常《とこ》しくに
 吾《われ》かへり見む。
 
 皇祖《スメロキノ》 神之宮人《カミノミヤビト》
 冬薯蕷葛《トコロヅラ》 弥常敷尓《イヤトコシクニ》
 吾反將v見《ワレカヘリミム》
 
【譯】皇室の御祖先の神樣をお祭りしてある宮にお仕えしている人を、トコロの蔓のように、いよいよ永久に、わたしはまた尋ねてこよう。
【釋】皇祖 スメロキノ。元暦校本スヘラキノ。仙覺本スメロキノに對して、類聚古集にスヘカミノと訓して(307)いる。皇祖は、類聚古集による。他本は、みな初二句を皇祖神之神宮人としているが、類聚古集には、下の神の字がない。集中、皇祖神の字面は他にない。卷の十九、四二〇五の例は、古本系統では、皇神祖である。スメロキは、文字通り皇祖である。
 神之宮人 カミノミヤビト。皇祖の神をまつつてある宮の人。宮中の神殿に奉仕する女子をいう。
 冬薯蕷葛 トコロヅラ。枕詞。トコロの蔓の義で、次の常シクに冠する。トコロは、ヤマイモ科の蔓性植物。倭名類聚鈔に「※[草がんむり/解]《カイ》、崔禹《サイウ》食經(ニ)云(フ)、※[草がんむり/解]。度古侶《トコロ》、俗(ニ)用(ヰル)2〓(ノ)字(ヲ)1、漢語抄(ニ)用(ヰル)2野老(ノ)二字(ヲ)1、味苦(ク)少甘(ニシテ)無(シ)v毒、燒(キ)蒸(シテ)充(ツ)v粮(ニ)」とある。冬の字を冠するのは、冬季根を掘り取るからであろう。「冬※[草がんむり/叙]蕷都良《トコロヅラ》 尋去祁禮婆《トメユキケレバ》」(卷九、一八〇九)。
 弥常敷尓 イヤトコシクニ。トコシクは、常を形容詞類似の形に活用したものの體言形。今シク(一一〇三)の類である。「勢能山爾《セノヤマニ》 黄葉常敷《モミチツネシク》」(卷九、一六七六)の常敷は、ツネシクと讀むべく、これとは別で、この卷の九の例は、動詞である。
【評語】吉野の地名はなく、資料に吉野での作とされてあつたのであろう。スメロキノ神ノ宮人は、吉野の離宮における神殿の宮人をいうと見られる。マタ帰リ見ムの句は、常用されている。この歌は、初めの數句に特色があるようだが、なぜ神ノ宮人を出したかがあきらかでないので、歌としてもその眞価が窺われない。永久に通おうの意を述べたもので、全體から見れば、類型的な思想である。
 
(308)1134 芳野川 石《いは》と柏《かしは》と 常磐《ときは》なす、
 吾は通はむ。
 萬代《よろづよ》までに。
 
 熊野川《ヨシノガハ》 石迹柏等《イハトカヂハト》 時齒成《トキハナス》
 吾者通《ワレハカヨハム》
 萬世左右二《ヨロヅヨマデニ》
 
【譯】吉野川は、石と柏とが、永久であるように、永久にわたしは通おう。いつの代までも。
【釋】能野川 ヨシノガハ。吉野川であるが、能の字を使つたのは珍しい。
  石迹柏等 イハトカシハト。石と柏葉とで、トは竝立の助詞。從來諸説のある句で、まだ明解を得なかつた。略解に宣長の説として石常盤《イハトコシハ》トであるという。イハトカシハを一の熟語とすれば、カシハは柏葉でよいが、イハトは何かの問題がある。イハトは集中、石戸、石門の語があるが、そのトは、ここの卜と音韻が違う。このトは、肋詞トの音韻と同じである。
 時齒成 トキハナス。トキハは常石で、變化のないものとして擧げている。その常石のようにの意の譬喩。
【評語】石と柏葉とに上つて常磐ナスを引き出したのは、手段ではあるが、眞實感を伴なわない。一首の思想は、類想の多い歌だ。
 
山背作
 
【釋】山背作 ヤマシロニテツクレル。山背は山城の國に同じであるが、ここではすべて宇治川が詠まれている。激流として知られていたのである。
 
1135 宇治川は 淀瀬《よどせ》無からし。
 網代人《あじろびと》 舟|呼《よ》ばふ聲、
(309) をちこち聞《きこ》ゆ。
 
 氏河齒《ウヂガハハ》 與杼湍無之《ヨドセナカラシ》
 阿自呂人《アジロビト》 舟召音《フネヨバフコヱ》
 越乞所聞《ヲチコチキコユ》
 
【譯】宇治川は、淀んだところがないらしい。網代を懸けている人の、船を呼ぶ聲が、方々に聞える。
【釋】氏河齒 ウヂガハハ。ウヂガハは、普通宇治川の字を使用する。琵琶湖から出て、山城の宇治を通過して、鴨川・大井川等を併わせて淀川となる。
 與杼湍無之 ヨドセナカラシ。ヨドセは、水の淀んだ處、靜かに流れる處。淀瀬があれば、そこを渡り場處とするので、あちこちで船を呼ぶこともないのである。「於婆勢流《オバセル》 泉河乃《イヅミノカハノ》 可美都瀬爾《カミツセニ》 宇知橋和多之《ウチハシワタシ》 余登瀬爾波《ヨドセニハ》 宇枳橋和多之《ウキハシワタシ》」(卷十七・三九〇七)。
 阿目呂人 アジロビト。アジロは網代、それをいとなむ人。網代は、水中に簀《す》を漬けて、流れ下る魚を捕る漁法。主として冬の頃|氷魚《ひお》を漁するために行われる(卷三、二六四參照)。
 舟召音 フネヨバフコヱ。流れが早く深いので、渡るために船を呼ぶのである。
 越乞所聞 ヲチコチキコユ。越乞は、共に字音假字。ヲチは、川の向こう岸。彼方此方で、あちらこちらで聲がするのである。
【評語】宇治川の情趣を描いている。行人の作らしい味が出ている。流れの早いことをそれと言わないで具體的な描寫で語つているところがよい。
 
1136 宇治川に おふる菅藻《すがも》を、
 河早み 取らず來にけり。
 裹《つと》にせましを
 
 氏河尓《ウヂガハニ》 生乎菅藻乎《オフルスガモヲ》
 河早《カハハヤミ》 不v取來尓家里《トラズキニケリ》
 裹爲益緒《ツトニセマシヲ》
 
【譯】宇治川に生えている菅藻を、川が早いので取らないできてしまつた。おみやげにしたかつたものを。
(310)【釋】生菅藻乎 オフルスガモヲ。スガモは、萬葉集注釋に「菅に似たる河藻なり、人のくふ物といへり」とあるが、どのような物とも知られない。同名の海藻があつて、根があまくて子どもが食うそうであるが、宇治川に生えている菅の葉のような藻を見て、その名で呼んだのであろう。それは別に宇治川の特産でもないのであろう。
 河早不取來尓家里 カハハヤミトラズキニケリ。水の流れが急で、採取できなかつたのを嘆いている。句切。
 裹爲益緒 ツトニセマシヲ。マシヲによつて、そのできなかつたわけを述べて遺憾の意をあらわしている。
【評釋】水流にもまれる河藻を詠じている。波が高くして貝玉などの採取されないのを歎じたものと同趣である。實際問題としては、さような流れの急な處に藻が生えているとも思われないし、それをおみやげにしたいというのもどうかと思われる。宇治川については、流れの早いということが概念となつていたのであろう。
 
1137 字治人の 譬《たとへ》の網代《あじろ》、
 吾ならば 今はならまし。
 木積《こづみ》來ずとも。
 
 氏人之《ウヂビトノ》 譬乃足白《タトヘノアジロ》
 吾在者《ワレナラバ》 今齒生良増《イマハナラマシ》
 木積不v來友《コヅミコズトモ》
 
【譯】宇治人の譬にいう網代のように、わたしだつたら、今はそれになつたろうものを、よし木積が來ないでも。
【釋】氏人之 ウヂビトノ。前後宇治川を詠んでいるので、これも、宇治の人の義であろう。
 譬乃足白 タトヘノアジロ。句についていえばほ、宇治人がたとえにいう網代の義と解せられる。四五句の意が明白でないので、決定的にはいえない。譬えによく引かれる宇治人の網代の意であるかも知れない。
 今齒生良増 イマハナラマシ。
(311)  ――――――――――
  今齒王良増《イマハキミラゾ》(西)
  令齒田良増《セメハタラマシ》(童)
  今齒王田増《イマハワタラマシ》(童)
  今齒世良増《イマハヨラマシ》(考)
  今齒与良増《イマハヨラマシ》(略)
  今齒去良増《イマハサラマシ》(新考)
 難解の句として知られている。諸本に、今齒王良増であり、古葉略類聚鈔には、今齒生即増に作つている。今、生に作るにより、今ハナラマシの義とする。生は、「香青生《カアヲナル》 玉藻息津藻《タマモオキツモ》」(卷二、一三一)、「蚊青生《カアヲナル》 玉藻息都藻《タマモオキツモ》」(同、一三八)など、ナルの訓假字に使用されており、ナルと讀まれることが知られる。その網代になつたろうものをというのである。但し今齒与良増の誤りで、イマハヨラマシであるかもしれない。その方がわかりやすい。句切。
 木積不來友 コヅミコズトモ。
  コヅミコズトモ(西)
  ――――――――――
  木積不成友《コヅミナラズトモ》(考)
 コヅミは、木の屑である。樹木の破片、葉枝などの流れ寄るもの。「ひとり江水に浮き漂へる糞《こづみ》を見て、貝玉の寄らざるを怨恨《うら》みて作れる歌一首、保理江欲利《ホリエヨリ》 安佐之保美知爾《アサシホミチニ》 與流許都美《ヨルコヅミ》 可比爾安里世波《カヒニアリセバ》 都刀爾勢麻之乎《ツトニセマシヲ》」(卷二十、四三九六)の歌で、そのいかなるものをいうかが知られる。考に來を成の誤りとして、コヅミナラズトモと訓しているが、それも決定の限りではない。
【評語】上記のように、第四句が難解で、定訓を得がたく、從つて評語も下しかねる。吉野川の梁《やな》うつ人に關する傳説(卷三、三八六)の如きが、宇治川の網代人にもあつたかも知れないが、それも想像をほしいままに(312)するだけのことに過ぎない。
 
1138 宇治川を 船渡せをと 喚《よ》ばへども
 聞えざるらし。
 楫《かぢ》の音もせず。
 
 氏河乎《ウヂガハヲ》 船令v渡呼跡《フネワタセヲト》 雖v喚《ヨバヘドモ》
 不v所v聞有之《キコエザルラシ》
 ※[楫+戈]音毛不v爲《カヂノオトモセズ》
 
【譯】宇治川を、船を渡せよと呼ぶけれども、聞えないらしい。楫の音もしない。
【釋】船令渡呼跡 フネワタセヲト。ヲは、感動の助詞。このヲが動詞の命令形の下に來るのは珍しい。
 不所聞有之 キコエザルラシ。河の流れが早く騷がしいことを含んでいる。句切。
 ※[楫+戈]音毛不爲 カヂノオトモセズ。船を漕ぐ音が聞えない。
【評語】旅人が宇治川の岸に立つて、渡船を呼んでいる。激流の姿がよく描かれている。但し漕ぐ音が聞えるよりは、目に見える方が先であろうと思うが、霧でもかかつているのだろう。「渡守《わたりもり》船渡せをと呼ぶ聲の至らねばかも楫《かぢ》の音のせぬ」(卷十、二〇七二)は、七夕の歌であるが、類歌である。
 
1139 ちはや人 宇治川浪を 清みかも
 旅行く人の 立ちがてにする。
 
 千早人《チハヤビト》 氏川浪乎《ウヂカハナミヲ》 清可毛《キヨミカモ》
 旅去人之《タビユクヒトノ》 立難爲《タチガテニスル》
 
【譯】勇猛な人のいる氏、その名の宇治川の浪が清らかなのでか、旅行く人が立ち去りかねている。
【釋】千早人 チハヤビト。枕詞。チは靈力。ハヤは勇猛で、チハヤブルのチハヤに同じ。勇猛な人の義で氏に冠している。氏々には武人が多くいるからである。
 氏川浪乎清可毛 ウヂカハナミヲキヨミカモ。浪ヲ清ミは、浪が清くして。カモは疑問の係助詞。
 立難爲 タチガテニスル。宇治川の風光を賞して、立ち去りがたくするをいう。   【評語】宇治川の風光を賞して、同行の人に示した歌であろう。旅行く人の中には、作者自身の姿も見出される。
 
攝津作
 
【釋】攝津作 ツノクニニテツクレル。住吉の地名のはいつているものが多く、その他諸處に及んでいる。地名のない歌が一首あるのは、難波もしくは住吉あたりで詠んだのであろう。
 
1140 しなが鳥 猪名野《ゐなの》を來れば、
 有間山 夕霧立ちぬ。
 宿《やどり》は無くて。
 
 志長鳥《シナガドリ》 居名野乎來者《ヰナノヲクレバ》
 有間山《アリマヤマ》 夕霧立《ユフギリタチヌ》
 宿者無而《ヤドリハナクテ》
 
【譯】尾の長い鳥がいる。その猪名野を來れば、有間山に夕霧が立つた。宿る處はないのに。
【釋】志長鳥 シナガドリ。枕詞。尻長鳥の義で、尾の長い鳥をいう。ニワトリのこと。その鳥がいるの意に猪名に冠する。安房に冠するもの(卷九、一七三八)があるのは、鳴き聲でアにかかるのであろう。また息長鳥で、ニホドリ(カイツブリ)は長く水に潜るからだともいう。
 居名野乎來者 ヰナノフクレバ。居名野は、猪名川を中心とした原野。一本に猪名の浦廻ともいうによれ下流をいうようである。住吉大社神代記に爲奈《ゐな》河を説明して「源流は、有馬の郡の能勢《のせ》の國の北方の深山の中より出づ。東西の兩《ふた》つの河なり。東の川の名は久佐佐《くささ》川、流れ通りて多《さは》に山中を拔く。西の川の名は美度奴《みとぬ》川、美奴賣《みぬめ》の山中を流れ通りて兩つの河ともに南に流れて宇禰野《うねの》にいたりて西南に同じく流れ合ひて、名を爲奈《ゐな》河(314)と號《い》ふ」とある。
 有間山 アリマヤマ。兵庫縣有馬郡の山。
 夕霧立 ユフギリタチヌ。この句で、夕方になつたことを語る。
 宿者無而 ヤドリハナクテ、ヤドリは、屋戸入の義で、名詞。宿をヤドリに當てた例は「草枕《クサマクラ》 羇宿爾《タビノヤドリニ》」(卷三、四二六)などある。
【評語】行き暮れて宿る處のあてのない寂しさが歌われている。第四句があつて、歌が生きている。當時の旅行の状が窺われる歌である。
 
一本云、猪名乃浦廻乎《ヰナノウラミヲ》 榜來者《コギクレバ》
 
一本に云ふ、猪名の浦廻を 榜ぎ來れば。
 
【釋】一本云 アルマキニイフ。この卷は、多種の資料を使用していると見られるので、一本とは、そのうちの一をいうであろう。また同一の資料でも、別の場處をさして一本ということもあるようである。
 猪名乃浦廻乎榜來者 ヰナノウラミヲコギクレバ。猪名ノ浦ミは、猪名川の河口附近の水面をいう。これは本歌の第二三句の別傳で、多分、その海上にあつて詠み替えたのであろう。これでは第四句への續きがらも惡く、情趣も遠く及ばない。
 
1141 武庫《むこ》河の 水脈《みを》を早みか、
 赤駒の 足掻《あが》くたぎちに
 沾《ぬ》れにけるかも。
 
 武庫河《ムコガハノ》 水尾急嘉《ミヲヲハヤミカ》
 赤駒《アカゴマノ》 足何久激《アガクタギチニ》
 沾祁流鴨《ヌレニケルカモ》
 
(315)【譯】武庫河の水みちが早くてか、赤い馬の足を運ぶ水の騷ぎに濡れてしまつたわい。
【釋】武庫河 ムコガハノ。武庫川は、水源を丹波の國に發し、攝津の國の有馬郡、武庫郡を流れて大阪灣に入る。
 水尾急嘉 ミヲヲハヤミカ。
  ミヅヲハヤミカ(西)
  ミヲヲハヤミカ(考)
  ――――――――――
  水尾急《ミヅヲハヤミカ》(神)
  水尾急三等《ミヲヲハヤミト》(古義)
  水尾急《ミヲヲハヤケミ》(新訓)
 仙覺本系統には、嘉の字があるが、類聚古集、古葉略類聚鈔、神田本には嘉の字がない。なくては訓に困難である。水尾は、「流水尾之《ナガルルミヅノ》 湍乎早《セヲハヤミ》」(卷七・一一〇八)、「水尾早見鴨《ミヲハヤミカモ》」(同、一一四三)、「水尾之不v斷者《ミヲシタエズハ》」(卷九、一七七〇)など、ミヲとのみ讀まれ、水の盛りあがつているをいう。水流の中心をなす部分である。また常にミヲハヤミとのみ言い、ミヲヲハヤミと言つては調子がわるい。急をハヤケミと讀む説もあるが、形容詞早シは、早ケシとは言わないので、ハヤケミの形はない。またミヲハヤミニカの訓も考えられる。何ヲ何ミの形に助詞ニカの接續した例は、「秋夜乎《アキノヨヲ》 奈我美爾可安良武《ナガミニカアラム》 奈曾許己波《ナゾココバ》 伊能禰良要奴毛《イノネラエヌモ》 比等里奴禮婆可《ヒトリヌレバカ》」(卷十五、三六八四)があり、ある事實の原因として、自己の知つている所をそれかと推量する表現である。定訓ともしがたいが、助詞に當る字を省いて書いている歌なので、この訓も可能である。
 赤駒 アカゴマノ。馬は赤いのを通例とするのでいう。
 足何久激 アガクタギチニ。アガクは足掻クで、馬が歩もうとして足を動かすをいう。タギチは、その足掻きのために生じた水の立ち騷ぐをいう。
【評語】馬に乘つて武庫川を渡る時の作で、その情景がよく描かれている。大伴の家持の「※[盧+鳥]坂《うさか》川渡る瀬多み(316)このわが馬《ま》の足掻《あが》きの水に衣《きぬ》濡《ぬ》れにけり」(卷十七、四〇二二)は、この歌をもととしているようである。
 
1142 命《いのち》を 幸《さき》くよけむと、
 石《いは》そそく 垂水《たるみ》の水を
 掬《むす》びて飲《の》みつ。
 
 命《イノチヲ》 幸久吉《サキクヨケムト》
 石流《イハソソク》 垂水水乎《タルミノミヅヲ》
 結飲都《ムスビテノミツ》
 
【譯】命の無事なのがよかろうと、石にそそぐ垂水の水をすくつて飲んだ。
【釋】命幸久吉 イノチヲサキクヨケムト。
  イノチサチヒサシキヨシモ(類)
  イノチノサキクヒサシキ(考)
  イノチヲサキクヨケムト(新訓)
  ――――――――――
  命幸久在《イノチヲサキクアラムト》(略、宣長)
 初二句に相當する處であるが、訓については諸説がある。久を正用としてひさしと讀むことも考えられるが、そうすると前後の訓が無理になる。參考としては「命乎志 麻勢久可願」(卷九、一七七九)があるが、これも明訓を得ないでいる。
 石流 イハソソク。
  イハソソク(類)
  イハバシル(考)
  ――――――――――
  石激《イハバシル》(略)
 普通にイハバシルと讀まれているのは「石走 垂水之水能《タルミノミヅノ》」(卷十二、三〇二五)とあるものなどによる。流は、類聚名義抄に、動詞としては、ナガル、ツタフ、メグル、モトム、クダル、ウカブ、シク等の訓があるが、ハシル系統の訓は見えない。よつてこの句はイハツタフであるかもしれない。
(317) 垂水々乎 タルミノミヅヲ。攝津の作とあるので、垂水は、地名であるとするのが普通である。そうしてそれは大阪府|豐能《とよの》郡西|能勢《のせ》村大字|垂水《たるみ》の地であるとされている。しかし歌としては、むしろ普通名詞と見る方がよいのであつて、これによつて生命が躍動する。垂水の語があるによつて、編者が、攝津の作に編入したものであろう。
 結飲都 ムスビテノミツ。ムスビテは、水を手にすくうこと。
【評語】垂水のような清泉には、これを飲めば命を永くするとの信仰があつた。養老の靈泉の如きは、その著名な例である。これによつてこの歌が成されている。清泉の水を手にした古人の純眞の情がよくあらわれている。
 
1143 さ夜|更《ふ》けて 堀江|榜《こ》ぐなる 松浦船《まつらぶね》、
 楫《かぢ》の音高し。
 水脈《みを》早みかも。
 
 作夜深而《サヨフケテ》 穿江水手鳴《ホリエコグナル》 松浦舟《マツラブネ》
 梶音高之《カヂノオトタカシ》
 水尾早見鴨《ミヲハヤミカモ》
 
【譯】夜が更けて堀江を漕いでいる松浦船は、楫の音が高い。水流が早いからだろう。
【釋】穿江水手鳴 ホリエコグナル。ホリエは、難波の堀江。日本書紀仁徳天皇の十一年十月の條に「宮の北の郊原《のはら》を掘りて南の水を引きてもちて西の海に入る。因りてもちて其の水を號《なづ》けて堀江といふ」(もと漢文)とある。海上に出入する船は、すべてこの堀江を利用した。それは淀川の下流をなす天滿《てんま》川のことであろう。水手は船漕ぐ人であるが、ここはコグに借りている。ナルは、コグをしかと指定する助動詞。
 松浦舟 マツラブネ。九州の松浦地方の船。その船は、特殊の構造を有していたのであろう。「松浦舟《マツラブネ》 亂穿江之《サワクホリエノ》 水尾早《ミヲハヤミ》 楫取間無《カヂトルマナク》 所v念鴨《オモホユルカモ》」(卷十二、三一七三)。
(318) 梶音高之 カヂノオトタカシ。カヂは舟漕ぐ道具。艪櫂。句切。 水尾早見鴨 ミヲハヤミカモ。ミヲは水流。堀江の水の流について言つている。――ミカモは、この形のままで文を終止する性能をもつ。「遊内乃《アソブウチノ》 多努之吉庭爾《タノシキニハニ》 梅柳《ウメヤナギ》 乎理加謝思底婆《ヲリカザシテバ》 意毛比奈美可毛《オモヒナミカモ》」(卷十七、三九〇五)。
【評語】難波の宮あたりに宿して、夜深くして船漕ぐ音を聞いて詠んでいる。水流が早くして、楫に當る水の音が強い。河邊旅宿の風趣をよく描いている。
 
1144 悔《くや》しくも 滿《み》ちぬる潮《しほ》か。
 住吉《すみのえ》の 岸の浦《うら》みゆ
 行かましものを。
 
 悔毛《クヤシクモ》 滿奴流鹽鹿《ミチヌルシホカ》
 墨江之《スミノエノ》 岸乃浦廻從《キシノウラミユ》
 行益物乎《ユカマシモノヲ》
 
【譯】殘念にも滿ちて來た潮だな。住吉の岸の浦を通つて行きたかつたのに。
【釋】悔毛滿奴流鹽鹿 クヤシクモミチヌルシホカ。クヤシクモは、滿チヌルを修飾し、これを遺憾とする情をあらわしている。カは、感動の助詞。句切。
 岸乃浦廻從 キシノウラミユ。ミは地形の彎曲性をあらわすための接尾語。ユは、それを通つて。
 行益物乎 ユカマシモノヲ。マシモノヲは、そうしたいのだができないで殘念の意をあらわす語法。
【評語】住吉の岸のおもしろさを歌つている。岸邊づたいに行くことのできないのを殘念がる心が、よく描かれている。
 
1145 妹がため 貝を拾《ひり》ふと、
(319)血沼《ちぬ》の海に 沾《ぬ》れにし袖は
 乾《ほ》せど干《かわ》かず。
 
 爲v妹《イモガタメ》 貝乎拾等《カヒヲヒリフト》
 陳奴乃海尓《チヌノウミニ》 所v沾之袖者《ヌレニシソデハ》
 雖v涼常不v干《ホセドカワカズ》
 
【譯】妻のために貝を拾おうとして、血沼の海で濡らしてしまつた袖は、ほしてもかわかない。
【釋】爲妹 イモガタメ。イモは、家に殘つている妻をいう。
 貝乎拾等 カヒヲヒリフト。玉などにする材料のために貝を拾うのである。トは、としての意。
 陳奴乃海尓 チヌノウミニ。チヌの海は、もと河内の國泉の郡であり、靈龜二年三月に分かつて和泉の國としてから、和泉の國になつた。住吉より南方であるが、難波の宮での作と見えて、攝津の作の中に收めたのであろう。「從2千沼廻1《チヌミヨリ》 雨曾零來《アメゾフリクル》 四八津之白水郎《シハツノアマ》 網手綱乾有《アミタツナホセリ》 沾將v堪香聞《ヌレアヘムカモ》」(卷六、九九九)。
 雖涼常不干 ホセドカワカズ。涼は、曝涼《ばくりよう》の義に、ホスに當てている。雖v涼でホセドであるが、讀み方をたしかにするために、更に常を添えている。「朝入爲流《アサリスル》 海未通女等之《アマヲトメラガ》 袖通《ソデトホリ》 沾西衣《ヌレニシコロモ》 雖v干跡不v乾《ホセドカワカズ》」(卷七、一一八六)の例がある。
【評語】旅衣をぬらしたわびしさを歌つている。妻に別れている旅情が、ぬれた衣の袖によつて描かれている。これも旅の一日の風情である。
 
1146 めづらしき 人を吾家《わぎへ》に、
 住吉《すみのえ》の 岸の黄土《はにふ》を
 見むよしもがも。
 
 目頬敷《メヅラシキ》 人乎吾家尓《ヒトヲワギヘニ》
 住吉之《スミノエノ》 岸乃黄土《キシノハニフニ》
 將v見因毛欲得《ミムヨシモガモ》
 
【譯】愛すべき人をわたしの家に迎えて住ませる。その住吉の岸の黄土を見たいものだ。
(320)【釋】目頬敷人乎吾家尓 メヅラシキヒトヲワギヘニ。以上は住というための序である。メヅラシキ人は、めずべくある人で、愛人。めずらしい人がわが家に住むというべきだが、ヲを使つたのは、めずらしい人なるものをの意である。
 岸乃黄土 キシノハニフヲ。ハニフは、文字通り黄土で、住吉の名物となつていた。但しこの歌によれば、容易に見られなかつたようである。次の駒雙而の歌(一一四八)參照。
 將見因毛欲得 ミムヨシモガモ。何とかして見るくふうはないかの意。
【評語】序によつて興をつないでいる歌である。住吉の黄土は、旅人の興味を惹いていたようであるが、それは衣を染める料としての意味においてであつて、今日では、その興味のほどがわかりにくい。
 
1147 暇《いとま》あらば 拾《ひり》ひに行かむ。
 住吉《すみのえ》の 岸に寄るといふ
 戀《こひ》忘《わす》れ貝《がひ》。
 
 暇有者《イトマアラバ》 拾尓將v往《ヒリヒニユカム》
 住吉之《スミノエノ》 岸《キシニ》因云《ヨルトイフ・ヨルトフ》
 戀忘貝《コヒワスレガヒ》
 
【譯】暇があつたら拾ひに行こう。住吉の岸に寄るという、戀を忘れる忘れ貝を。
【釋】暇有者拾尓將往 イトマアラバヒリヒニユカム。難波の宮あたりにいて、住吉に行く暇のない由を詠んでいる。拾ヒニ行カムの目的は、下三句であきらかにされる。句切。
 戀忘貝 コヒワスレガヒ。戀を忘れるという忘れ貝。それを戀忘れ貝と云いかけにしている。ワスレガヒは既出(卷一、六八)。「手取之《テニトルガ》 柄二忘跡《カラニワスルト》 礒人之曰師《アマノイヒシ》 戀忘貝《コヒワスレガヒ》 言二師有來《コトニシアリケリ》」(卷七、一一九七)。
【評語】難波の宮で、家郷戀しい旅情が詠まれている。忘れ貝の名に寄せて詠まれているだけであるが、物の(321)名に意義を感じた當時としては、しばしば使用される行き方である。「わが夫子に戀ふれば苦し。暇あらば拾《ひり》ひて行かむ。戀忘れ貝」(卷六、九六四)は類歌であり、「道知らばつみにも行かむ。住の江の岸に生《お》ふてふ戀わすれ草」(古今和歌集、紀の貫之)は、貝を草に改めただけである。
 
1148 駒《こま》竝《な》めて 今日わが見つる、
 住吉《すみのえ》の 岸の黄土《はにふ》を
 萬世に見む。
 
 駒雙而《コマナメテ》 今日吾見鶴《ケフワガミツル》
 住吉之《スミノエノ》 岸之黄土《キシノハニフヲ》
 於2萬世1見《ヨロヅヨニミム》
 
【譯】馬を竝べて行つて今日わたしの見た住吉の岸の黄土を永久に見よう。
【釋】駒雙而 コマナメテ。人々と共に馬をつらねて行つたことを歌つている。
 於萬世見 ヨロヅヨニミム。上の「またかへり見む萬世までに」(卷七、一一一四)の意と同じく、永久にまたたずね來て見ようの心である。
【評語】これも住吉の黄土の感興を歌つている。初二句の大げさな調子、また第五句の内容にふさわしい興味がつながれていたのだろうが、今日では、いかなるものとも知りがたい。黄土を採取するところを見に行つたのだろうか。
 
1149 住吉に 行くといふ道に
 昨日見し 戀《こひ》忘《わす》れ貝《がひ》、
 言《こと》にしありけり。
 
 住吉尓《スミノエニ》 往云道尓《ユクトイフミチニ》
 昨日見之《キノフミシ》 戀忘貝《コヒワスレガヒ》
 事二四有家里《コトニシアリケリ》
 
【譯】住吉に行くという道で昨日見た戀忘れ貝は、言葉だけのものだつた。
(322)【釋】住吉尓往云道尓 スミノエニユクトイフミチニ。難波の宮から住吉へ行くという途中での意であろう。
 事二四有家里 コトニシアリケリ。戀を忘れる貝というのは、言葉だけで、その實を伴なわないの意。「手取之《テニトルガ》 柄二忘跡《カラニワスルト》 礒人之曰師《アマノイヒシ》 戀忘貝《コヒワスレガヒ》 言二師有來《コトニシアリケリ》」(卷七、一一九七)。
【評語】これも名に實の伴なわないことを歎いている。かようなはかない物によつても、家郷の戀を忘れたいと思う旅情を見るべきである。
 
1150 住吉の 岸に家もがも。
 沖に邊《へ》に 寄する白浪
 見つつ思《しの》はむ。
 
 墨吉之《スミノエノ》 岸尓家欲得《キシニイヘモガモ》
 奥尓邊尓《オキニヘニ》 縁白浪《ヨスルシラナミ》
 見乍將v思《ミツツシノハム》
 
【譯】住吉の岸に家があつたらいいな。沖や岸邊に寄せる白波を見て樂しもう。
【釋】墨吉之 スミノエノ。墨吉は、普通住吉と書くのに同じ。
 岸尓家欲得 キシニイヘモガモ。欲得は、モガでも意をなすが、まさしくモガに當てていると見られるのは、「欲2得裹1登《ツトモガト》 乞者令v取《コハバトラセム》」(卷七、一一九六)の一例のみで、他はことごとくモガモと讀まないと、音數の不足するものである。よつてここも字餘りに、モガモと讀むがよい。家はわが家である。句切。
 奥尓邊尓 オキニヘニ。海上の遠い處や近い處に。
 見乍將思 ミツツシノハム。シノハムは、見て賞美しよう、樂しもうの意。
【評語】住吉の佳景に接した喜びが歌われている。海のない大和の國の人が、始めて海を見て詠んだような歌である。浪のような自然を愛した古人の心が窺われる。
 
(323)1151 大伴の 三津《みつ》の濱邊を うち曝《さら》し
 寄り來《く》る浪の 行《ゆ》く方《へ》知らずも。
 
 大伴之《オホトモノ》 三津之濱邊乎《ミツノハマベヲ》 打曝《ウチサラシ》
 因來浪之《ヨリクルナミノ》 逝方不v知毛《ユクヘシラズモ》
 
【譯】大伴の三津の濱邊を、洗いあげて寄つてくる波は何處へ行つてしまうのかなあ。
【釋】大伴之 オホトモノ。大伴は、大阪灣に面した今の大阪市の東部から南方へ懸けて一帶の大地名で、大伴氏が領有していたところから起つた名と推定される。
 三津之濱邊乎 ミツノハマベヲ。ミツは、船つきで、難波の三津に同じ。
 打曝 ウチサラシ。ウチは、サラシの意を強めるために添えた接頭語。サラシは、波が濱邊を洗い立てるをいう。
 逝方不知毛 ユクヘシラズモ。波がうち寄せて去るが、消えてしまうので、行き方がわからないというのである。
【評語】三津の濱邊を洗う波のおもしろさが詠まれている。ウチサラシは、波が砂を洗う状が描かれている。人麻呂の「もののふの八十宇治川《やそうぢがは》の網代木《あじろぎ》にいさよふ波の行《ゆ》く方《へ》知らずも」(卷三、二六四)と趣を同じくするが、これには無常觀はなく、ただ濱に寄る波を興がつている。
 
1152 楫《かぢ》の音《おと》ぞ ほのかにすなる。
 海未通女《あまをとめ》、
 沖つ藻刈りに 舟出《ふなで》すらしも。
 
 梶之音曾《カヂノオトゾ》 髣髴爲鳴《ホノカニスナル》
 海未通女《アマヲトメ》
 奧藻苅尓《オキツモカリニ》 舟出爲等思母《フナデスラシモ》
 
【譯】楫の音がかすかに聞える。海人の娘が、沖の藻を刈りに船出をすると見える。
【釋】髣髴爲鳴 ホノカニスナル。髣髴は、ぼんやりしていることを形容する字。ここはかすかに聞えるので(324)ある。ナルは指定する助動詞。ホノカニスは、はつきりしないことだから、それを正にそうだと指定するのである。句切。
 海未通女 アマヲトメ。海人の娘子。未通女は、若い女の義に借りている。
 奥藻苅尓 オキツモカリニ。海上の藻を採取するために。刈ルというが、棹の先に鍵などを附けて藻を引き懸けて採るのである。
【評語】かすかに船漕ぐ音の聞えるにつけて、娘子が藻を刈りに出るのだろうと推量している。難波あたりの海濱の宿りの風情である。「海未通女《あまをとめ》棚無し小舟榜ぎ出《づ》らし旅のやどりに楫の音聞ゆ」(卷六、九三〇)と同趣である。
 
一云、暮去者《ユフサレバ》 梶之音爲奈利《カヂノオトスナリ》
 
一は云ふ、夕されば 楫の音すなり。
 
【釋】一云暮去者梶之吾爲奈利 アルハイフ、ユフサレバカヂノオトスナリ。前の歌の初二句の別傳で、かようにも歌われていたのであろう。但し人の娘子が沖つ藻刈りに船出するらしいというのに對して、夕サレバでは似合わない。夕方の宴會などに興にまかせて吟誦した際に、時に相當するように歌い改めて、かえつてこの過誤を生じたものであろう。
 
1153 住吉の 名兒《なご》の濱邊に 馬たてて
 玉拾《ひり》ひしく、
 常《つわ》忘らえず。
 
 住吉之《スミノエノ》 名兒之濱邊尓《ナゴノハマベニ》 馬立而《ウマタテテ》
 玉拾之久《タマヒリヒシク》
 常不v所v忘《ツネワスラエズ》
 
(325)【譯】住吉の名兒の濱邊で、馬を留めて、玉を拾つたことは、いつも忘れられない。
【釋】名兒之濱邊尓 ナゴノハマベニ。名兒は、所在未詳。「奈呉乃海《ナゴノウミ》」(卷七、一一五五)、「名子江乃濱邊《ナゴエノハマベ》(同、一一九〇)。
 馬立而 ウマタテテ。タテテは、馬を留めて。歩みを押えて。
 玉拾之久 タマヒリヒシク。玉は、貝石など、玉の材料となるもの。シは時の助動詞の連體形。クはそれを受けて名詞を作る助詞。曰ハク、有ラナクなどのクに同じ。シに接續した例は、「念有四九四《オモヘリシクシ》」(卷四、七五四)、「背向爾宿之久《ソガヒニネシク》 今思悔裳《イマシクヤシモ》」(卷七、一四一二)、「來之久毛知久《コシクモシルク》 相流君可聞《アヘルキミカモ》」(卷八、一五七七)などあり、宣命には例が多い。
 常不所忘 ツネワスラエズ。ツネは、何時も。
【評語】追憶の歌で、住吉の濱の遊覽を想起している。その行動を具體的に敍したのがよい。
 
1154 雨は零《ふ》る。 假廬《かりほ》は作る。
 いつの間《ま》に
 阿胡《あご》の潮干《しほひ》に 玉は拾《ひり》はむ。
 
 雨者零《アメハフル》 借廬者作《カリホハツクル》
 何暇尓《イツノマニ》
 吾兒之鹽干尓《アゴノシホヒニ》 玉者將v拾《タマハヒリハム》
 
【譯】雨は降つて來るし、借廬は作るし、いつになつたら阿胡の潮干で、玉を拾うのだろう。
【釋】雨者零借廬者作 アメハフルカリホハツクル。短い文二つを重ねて、かような事が續いて行われたことを述べている。カリホは、假の小舍。
 吾兒之鹽干尓 アゴノシホヒニ。吾兒は、下の歌に、阿胡の海とある。前の歌の名兒と同地なのだろう。
 玉者將拾 タマハヒリハム。阿胡の海の潮干におり立つて遊覽し得ようかの意をあらわしている。
(326)【評語】初二句に短文を用いて疊みかけた手法が有效に響いている。かような形は、「月夜よし。河音《かはと》さやけし。いざここに行くも行かぬも遊びて行かむ」(卷四、五七〇、「我も念ふ。人もな忘れ。おほなわに浦吹く風の止む時なかれ」(同、六〇六)など、集中往々にして使用されている。
 
1155 
 名兒《なご》の海の 朝明《あさけ》の餘波《なごり》、
 今日もかも、
 礒の浦《うら》みに 亂れてあらむ。
 
 奈呉乃海之《ナゴノウミノ》 朝開之奈凝《アサケノナゴリ》
 今日毛鴨《ケフモカモ》
 礒之浦廻尓《イソノウラミニ》 亂而將v有《ミダレテアラム》
 
【譯】名兒の海の明け方の潮の引いた跡は、今日もやはり礒の浦で亂れているだろう。
【釋】奈呉乃海之 ナゴノウミノ。既出(卷七、一一五三)參照。
 朝開之奈凝 アサケノナゴリ。アサケは、朝明けで、朝のあかるくなつて行く頃。ナゴリは、波殘で、波が引いた跡。藻や貝などが殘つたりしている。
 今日毛鴨 ケフモカモ。作者の見た日の如く、今日はかで、上のモは強意。カモは係助詞。
 礒之浦廻尓 イソノウラミニ。波殘のある場處を指定している。
 亂而將有 ミダレテアラム。波の引いた跡の殘物が、散亂しているだろうと推量している。
【評語】これも追憶の歌である。名兒の海の餘波のおもしろさが想起され、その風光が忘れかねるのである。「今日もかも沖つ玉藻は白浪の八重《やへ》折《を》るが上に亂れてあらむ」(卷七、一一六八)は、これと同樣の表現樣式を採つている。
 
1156 住吉の 遠里小野《とほざとをの》の 眞榛《まはり》以《も》ち
(327)摺《す》れる衣《ころも》の 盛り過ぎゆく。
 
 住吉之《スミノエノ》 遠里小野之《トホザトヲノノ》 眞榛以《マハリモチ》
 須禮流衣乃《スレルコロモノ》 盛過去《サカリスギユク》
 
【譯】住吉の遠里小野のハギの花で摺りつけた著物の盛りは過ぎて行く。
【釋】遠里小野之 トホザトヲノノ。遠里小野は、後、瓜生野《うりうの》といい、今遠里小野の字を當てている。住吉の南方の地名。
 眞榛以 マハリモチ。ハリは、榛《はん》の木説とハギの花説とがある。集中の用例を見るに、榛の木では風趣をなしがたい。マは接頭語。
 須禮流衣乃 スレルコロモノ。ハギの花を絞つてそれで摺りつけて染めた衣服のである。「墨江之《スミノエノ》 遠里小野之《トホザトヲノノ》 眞榛持《マハリモチ》 丹穗之爲衣丹《ニホハシシキヌニ》」(卷十六、三七九一)。正倉院文書、天平寶字五年のものと推量されている造寺雜物請用帳(大日本古文書二十五ノ三〇七)に、「九十二領|禅衣《タンイ》」としてその説明に「七十四領調布(ノ)衣 卅領洗染、十九領雜摺衣、百《ママ》廿五両自布衣、十八領細布(ノ)洗染(ノ)衣」とある。洗染に對して摺衣のあることが注意される。
 盛過去 サカリスギユク。染めた色の衰えて行くことを歎いている。
【評語】植物の花で染めた衣は色は美しいが、褪色しやすい。ここには旅の記念として、おもい出の深い衣服の色の褪せるのを悲しんでいる。旅のおもい出が變わつた形で歌われている。
 
1157 時つ風 吹かまく知らに、
 阿胡《あご》の海の 朝明《あさけ》の潮に
 玉藻刈りてな。
 
 時風《トキツカゼ》 吹麻久不v知《フカマクシラニ》
 阿胡乃海之《アゴノウミノ》 朝明之鹽尓《アサケノシホニ》
 玉藻苅奈《タマモカリテナ》
 
【譯】きまつて吹く風が吹くかも知れない。阿胡の海の明け方の潮に、玉藻を刈りたいものだ。
(328)【釋】時風 トキツカゼ。時間がきまつて吹く風。
 吹麻久不知 フカマクシラニ。吹くかも知れないの意に、副詞句となつている。「生而有者《イキテアラバ》 見卷毛不v知《ミマクモシラニ》 何如毛《ナニシカモ》 將v死與妹常《シナムヨイモト》 夢所v見鶴《イメニミエツル》」(卷四、五八一)の語法と同じである。
 玉藻苅奈 タマモカリテナ。カリテナは、刈りたいと思う願望の語法。海藻を採取しようの意。
【評語】玉藻を刈ろうというのは、食料としてであるが、言葉は美しい。風が吹き出すかも知れないのを氣にしている所に趣がある。小野の老の「時つ風吹くべくなりぬ。香椎潟《かしひがた》潮干の※[さんずい+内]《うら》に玉藻刈りてな」(卷六、九五八)は、似寄つた歌である。
 
1158 住吉の 沖つ白浪、
 風吹けば 來《き》寄する濱を
 見れば淨《きよ》しも。
 
 住吉之《スミノエノ》 奧津白浪《オキツシラナミ》
 風吹者《ケズフケバ》 來依留濱乎《キヨスルハマヲ》
 見者淨霜《ミレバキヨシモ》
 
【譯】住吉の沖の白浪の、風が吹いてうち寄せる濱を見ると清らかだ。
【釋】奥津白浪 オキツシラナミ。沖の白浪に呼びかけている。それの來寄スルと續く語法である。
 見者淨霜 ミレバキヨシモ。白浪のうち寄せる濱を淨しと讃嘆している。
【評語】濱の清らかさを愛した心はわかる。表現としては、吹ケバ、見レバと同形の句を重ねたために、混雜の氣分を生じて、流暢でなくなつている。
 
1159 住吉の 岸の松が根、
 うち曝《さら》し 寄り來《く》る浪の
(329) 音のさやけさ。
 
 住吉之《スミノエノ》 岸之松根《キシノマツガネ》
 打曝《ウチサラシ》 縁來浪之《ヨリクルナミノ》
 音之清羅《オトノサヤケサ》
 
【譯】住吉の岸の松が根を洗いあげて、寄つて來る浪の音は清らかである。
【釋】岸之松根 キシノマツガネ。海濱の松の根である。
 打曝 ウチサラシ。既出(卷七、一一五一)。
 音之清羅 オトノサヤケサ。
  オトノサヤケサ(元)
  オトノキヨラニ(新訓)
  ――――――――――
  音之清霜《オトシキヨシモ》(略)
  音之清紗《オトノサヤケサ》(新考)
 舊訓にオトノサヤケサとある。羅をサと讀むべき根據としては、「羅丹津蚊經《サニツカフ》」(卷十六、三七九一)をサニツカフと讀むのは、羅は、ウスモノで、紗の意に使つて、サにあてて書いたとする(澤瀉博士)。オトノサヤケサは、「能登湍河《ノトセガハ》 音之清左《オトノサヤケサ》」(卷三・三一四)等、清左、亮左、明抄などをサヤケサにあてているものがある。キヨラニと讀むのは、助詞ニを讀み添えたのである。ラは接尾語で、清き趣であるをいう。清らにありの意に、述語を路している。「赤根刺《アカネサス》 日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》」(卷十三・三二九七)の如き用例がある。
【評語】前にもうち曝す浪を歌つたものがあつた。これもそれと同樣の風趣を詠んでいる。いかにも清らかな歌で、古人の愛した自然の一角が、よく描き出されている。
 
1160 難波潟《なにはがた》 潮干に立ちて 見わたせば、
 淡路の島に 鶴《たづ》渡る見ゆ。
 
 難波方《ナニハガタ》 鹽干丹立而《シホヒニタチテ》 見渡者《ミワタセバ》
 淡路島尓《アハヂノシマニ》 多豆渡所v見《ワヅワタルミユ》
 
【譯】難波潟の潮干に立つて見渡すと、淡路の島に鶴の渡るのが見える。
(330)【釋】鹽干丹立而 シホヒニタチテ。おりしも潮のひた處に下り立つて。
 多豆渡所見 タヅワタルミユ。タヅは鶴。ワタルは終止形。
【評語】いかにも綺麗な歌である。赤人の若ノ浦ニの歌に匹敵するが、これは大阪灣の大觀を歌つており、景が大きい。また鶴が干潟におりるというような理くつも出ていない。ゆたかな氣分が味わわれる。
 
羈旅作
 
【釋】羈旅作 タビニテツクレル。羈は※[羈の馬が奇]に通じて使用している。※[羈の馬が奇]旅の作九十首を集めてあり、その中には、地名のあるものもあり、ないものもある。地名のある中では、何の國の地名と知られるもの、また何の國とも知られないものもある。その知られるものについては、紀伊の國がもつとも多い。後世の※[羈の馬が奇]旅の歌と違つて、旅情を詠むのみならず、旅中の見聞をも歌つている。また旅の追憶にも及んでいる。
 
1161 家|離《ざか》り 旅にしあれば、
 秋風の 寒き暮《ゆふべ》に
 雁鳴きわたる。
 
 離v家《イヘザカリ》 旅西在者《タビニシアレバ》
 秋風《アキカゼノ》 寒暮丹《サムキユフベニ》
 雁喧度《カリナキワタル》
 
【譯】家を離れて旅に出ていると、秋風の寒い夕べに雁が鳴いて渡つて行く。
【釋】離家 イヘザカリ。次の句の内容を説明している。
 旅西在者 タビニシアレバ。アレバは、わがある義で、旅に出ていることをいう。ここは旅にある時にの意に使用されている。
【評語】旅情のしんみりした歌である。家を離れての説明もよく利いている。
 
(331)1162 圓方《まとかた》の 湊《みなと》の渚島《すどり》、
 浪立てや、
 妻呼び立てて 邊《へ》に近づくも。
 
 圓方之《マトカタノ》 湊之渚鳥《ミナトノスドリ》
 浪立也《ナミタテヤ》
 妻唱立而《ツマヨビタテテ》 邊近著毛《ヘニチカヅクモ》
 
【譯】圓方の湊の洲にいる鳥は、波が立つのでか、妻を呼び立てて岸邊に近づいている。
【釋】圓方之 マトカタノ。圓方は、伊勢の國の地名で、卷の一の六一にも詠まれている。松坂の東方の地であろうが、早くから陸地となつたと傳えられている。
 湊之渚鳥 ミナトノスドリ。ミナトは水門の義で、水上に向かつて開いている門戸である。船の集まる義をもつて湊の字を使用する。スドリは、渚にいる鳥。
 浪立也 ナミタテヤ。浪立てばにやの意の條件法。
 妻唱立而 ツマヨビタテテ。水鳥の鳴くのを、妻を呼び立てると説明している。唱は、高く歌う義であり、導く義でもあるので、使用されている。
 邊近著毛 ヘニチカヅクモ。海上に出ていた水鳥が、多分飛んで岸邊に近づいてくるのであろう。
【評語】風波の漸く高くなろうとして、水禽の騷ぎ立てる光景が敍せられている。妻呼ピ立テテは、水禽にも情あるものとして取り扱つている。
 
1163 年魚市潟《あゆちがた》 潮干にけらし。
 知多《ちた》の浦に 朝|榜《こ》ぐ舟も
 沖に寄る見ゆ。
 
 年魚市方《アユチガタ》 鹽干家良思《シホヒニケラシ》
 知多乃浦尓《チタノウラニ》 朝榜舟毛《アサコグフネモ》
 奧尓依所v見《オキニヨルミユ》
 
(332)【譯】年魚市潟は潮がひいたらしい。知多の浦で朝漕いでいる舟も、沖の方に寄るのが見える。
【釋】年魚市方 アユチガタ。名古屋灣の底部。名古屋市熱田地方の海面。前面に知多半島が横たわつている。大きく知多の浦をも含めて言つている。
 知多乃浦尓 チタノウラニ。知多は、知多半島。ここに知多の浦というのは、その半島の前面の海上をいう。
 奧尓依所見 オキニヨルミユ。潮がひたので、岸近く行くことができないで、海上に出たのをいう。ヨルは終止形。
【評語】作者は知多にいて歌つているであろう。理づめの歌であるが、大きい所がある。四五句の敍述で、歌が生きている。高市の黒人の、同じく年魚市潟の潮干を詠んだ歌に、「櫻田へ鶴《たづ》鳴きわたる。年魚市潟潮干にけらし。鶴鳴きわたる」(卷三、二七一)は、材料は違うが、内容の通ずる所のある歌である。
 
1164 潮|干《ふ》れば 共に潟《かた》に出でて 鳴く鶴《たづ》の
 聲遠ざかる。
 礒廻《いそみ》すらしも。
 
 鹽干者《シホフレバ》 共滷尓出《トモニカタニイデテ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》
 音遠放《コヱトホザカル》
 礒廻爲等霜《イソミスラシモ》
 
【譯】潮がひれば、一緒に潟に出て鳴く鶴の聲が遠くなつて行く。礒めぐりをするらしい。
【釋】鹽干者 シホフレバ。動詞干ルは、上二段活と認められるので、フレバと讀む。
 共滷尓出 トモニカタニイデテ。トモニは、鶴が群をなしていることを示している。
 礒廻爲等霜 イソミスラシモ。鶴の聲の遠ざかるわけを推量している。イソミは、礒めぐりをすること。(卷三、三六二參照)。
【評語】潮のひるに伴なう鶴の移動が詠まれている。その鶴の聲の遠ざかるのを描いているのは、實況の寫生(333)から出たもので、生氣を感じさせる。
 
1165 夕なぎに あさりする鶴《たづ》、
 潮滿てば、
 沖浪高み 己妻《おのづま》喚《よ》ばふ。
 
 暮名寸尓《ユフナギニ》求食爲鶴《アサリスルタヅ》
 鹽滿者《シホミテバ》
 奧浪高三《オキナミタカミ》己妻喚《オノヅマヨバフ》
 
【譯】夕の凪ぎに餌をあさる鶴は、潮が滿ちて沖の浪が高いので、自分の妻を呼んでいる。
【釋】暮名寸尓求食爲鶴 ユフナギニアサリスルタヅ。夕方の凪ぎに海上に出て食餌をあさる鶴を描いている。
 鹽滿者奥浪高三 シホミテパオキナミタカミ。潮が滿ちてくる、そのさし潮のために、沖の浪が高まるのである。
 己妻喚 オノヅマヨバフ。オノヅマは自分の妻。鶴の妻である。「於能豆麻乎《オノヅマヲ》 比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》」(卷十四、三五七一)。ヨバフは、呼ブの引き續いて行われるをいう語。
【評語】海潮の滿々としてみなぎる中に、鶴が妻を呼んで飛翔している状が描かれている。説明敍述のみでできており、充實感のある作である。
 
1166 古《いにしへ》に ありけむ人の
 覓《もと》めつつ 衣《きぬ》に摺《す》りけむ。
 眞野《まの》の榛原《はりはら》。
 
 古尓《イニシヘニ》 有監人之《アリケムヒトノ》
 覓乍《モトメツツ》 衣丹摺牟《キヌニスリケム》
 眞野之榛原《マノノハリハラ》
 
【譯】昔いたという人が、尋ね求めて、著物に摺りつけたであろう。この眞野のハギ原は。
(334)【釋】古尓有監人之 イニシヘニアリケムヒトノ。古ニアリケム人というのは、ここでは特定の人をさしていうのではなく、この道を通つた風雅を解する人の意に言つているであろう。
 覓乍 モトメツツ。ハギの花を尋ね求めつつ。
 衣丹摺牟 キヌニスリケム。ハギの花の色を、著物に摺りつけたであろうと推量している。句切。
 眞野之榛原 マノノハリハラ。高市の黒人の歌に歌われた處と同じく、今の神戸市の眞野であろう。榛原は、ハギ原。
【評語】人麻呂集所出の「古《いにしへ》にありけむ人もわが如《ごと》か三輪の檜原に插頭《かざし》折りけむ」(卷七、一一一八)と同じく、古人の風雅なわざを追憶している。人麻呂集のは、自分の行爲が主になつているが、これは眞野の榛原を讃えることが主になつている。
 
1167 漁《あさり》すと 磯にわが見し 莫告藻《なのりそ》を、
 いづれの島の 白水郎《あま》か刈るらむ。
 
 朝入爲等《アサリスト》 礒尓吾見之《イソニワガミシ》 莫告藻乎《ナノリソヲ》
 誰島之《イヅレノシマノ》 泉郎可將v刈《アマカカルラム》
 
【譯】漁りをするとて、礒でわたしの見た莫告藻を、何處の島の海人が刈つていることだろう。
【釋】朝入爲等 アサリスト。アサリは、魚貝海藻の類を採るのをいう。鶴などについては、餌を拾う意になる。語義は、淺い處に入る義で、潮のひたところに入ることであろう。
 莫告藻乎 ナノリソヲ。ナノリソは海藻、ホンダワラ。多くは、名告るなかれの義に、言い懸けているが、ここに言い懸けにしていないのは珍しい。
 誰島之 イヅレノシマノ。誰は、通例ダレであるが、島については、イヅレであろう。タレシと讀む場合は、シは助詞。その例には「古之《イニシヘノ》 狹織之帶乎《サオリノオビヲ》 結垂《ムスビタレ》 誰之能人毛《タレシノヒトモ》 君爾波不v益《キミニハマサジ》」(卷十一、二六二八)がある。
(335)【評語】アサリスト礒ニワガ見シ莫告藻というのは、海岸の風物の追憶と解せられるが、旅中に女を見たことを譬えていうとも取れる。前出の「島廻《しまみ》すと礒に見し花」(一一一七)とあると、似た言い方である。さて寓意とすれば、四五句に、誰が手に入れるだろうと歌つたのであろう。旅中の一日の興趣を見るべきである。
 
1168 今日もかも、
 沖つ玉藻は、白浪の 八重《やへ》折るが上に
 亂れてあらむ。
 
 今日毛可母《ケフモカモ》
 奧津玉藻者《オキツタマモハ》 白浪之《シラナミノ》 八重折之於丹《ヤヘヲルガウヘニ》
 亂而將v有《ミダレテアラム》
 
【譯】今日もまた、沖の玉藻は、白浪の幾重にも崩れる中で亂れているだろう。
【釋】今日毛可母 ケフモカモ。今日もかも亂れてあらむと接續する語法である。
 八重折之於丹 ヤヘヲルガウヘニ。ヤヘヲルは、白波が起つて幾重にも折れるようにくずれるをいう。「之良奈美乃《シラナミノ》 夜敝乎流我宇倍爾《ヤヘヲルガウヘニ》」(卷二十、四三六〇)。
【評語】類型の歌に、前に「奈呉乃海之《ナゴノウミノ》」(卷七、一一五五)があつた。旅の追憶の歌である。船で航海してきて、前の日の海上の有樣を思い出して、今日も海上ではあの美しい藻が波に揉まれて亂れているであろうと想像して詠んでいる。前に出た歌よりも、この歌の方が、藻と波ともつれ合う有樣が印象的に描かれていて、讀者をして海上の景を思い起させるに足るものがある。海上の光景の再現に成功した歌である。
 
1169 近江の海 湊は八十《やそ》を、
 いづくにか、
(336) 君が船|泊《は》て 草結びけむ。
 
 近江之海《アフミノウミ》 湖者八十《ミナトヤソヲ》
 何尓加《イヅクニカ》
 公之舟泊《キミガフネハテ》 草結兼《クサムスビケム》
 
【譯】近江の湖には、水門がたくさんあるが、その何處に、君の船がとまつて、そこの草を結んだのであろう。
【釋】湖者八十 ミナトハヤソヲ。
  ミナトハヤツヂ(西)
  ミナトハヤソアリ(新訓)
  ――――――――――
  湖有八十《ミナトヤソアリ》(略)
 「近江之海《アフミノウミ》 泊八十有《トマリヤソアリ》」(卷十三、三二三九)、「天漢《アマノガハ》 河門八十有《カハトヤソアリ》」(卷十、二〇八二)などの例、八十アリとあるにより、略解に者を有の誤りとしてミナトヤソアリと讀んでいる。しかし誤字説は從われないから、このままで讀むべしとすれば、ミナトハヤソアリと、アリを讀み添えるか、ミナトハヤソヲと、ヲを讀み添えるかである。今、後者による。湖は、大水の貌の義であるが、本集では往々にしてミナトの義に使用している。「湖風《ミナトカゼ》 寒吹良武《サムクフクラム》」(卷三、三五二)の類である。これは水を圍む灣口の義に取つているのであろう。
 何尓加 イヅクニカ。水門ハ八十ヲを受けて、そのいずれにかの意である。
 草結兼 クサムスビケム。草を桔ぶことは、既出(卷一、一〇)參照。古人がまじないの心もちで草の葉を結ぶはまた無事にそこまで歸つて來ようとする心を含めるものである。それでこの歌の場合では、船から岸に上つて、その處の草を結び、またその船をとめた場處まで歸つてこようとする祝いの心もちをあらわしたものである。君の船がとまつてそこから上陸し、上陸する誰ものするように、やはり草を結んだであろうと云う、過去推量の語法をもつて敍している。どの湊に上陸されたであろうかと疑う意味の歌である。
【評語】この歌では、何處に君が上陸したかを凝つている。さてどういう場合の歌とも知りがたいが、旅に出た人の後を慕つて詠んだ歌とも取れるし、また君が去つて歸つて來ないという悲しみの歌とも解せられる。こ(337)の歌の場合では、後の方が當つているかとも思われる。いずれにしても廣茫たる湖水の何方に君が行つたかと、捜し求める氣分があらわれている。感情の深い歌である。
 
1170 樂浪《ささなみ》の 連庫山《なみくらやま》に 雲|居《ゐ》れば、
 雨ぞ零《ふ》るちふ。
 歸り來《こ》、わが夫《せ》。
 
 佐左浪乃《ササナミノ》 連庫山尓《ナミクラヤマニ》 雲居者《クモヰレバ》
 雨曾零智否《アメゾフルチフ》
 反來吾背《カヘリコワガセ》
 
【譯】樂浪の連庫山に雲がかかると、雨が降るということです。歸つていらつしやい、あなた。
【釋】佐左浪乃連庫山尓 ササナミノナミクラヤマニ。ササナミは地名。集中多く樂浪の字を當てる。琵琶湖南岸一帶の地。その他から連庫山を眺めたことを示す。かならずしもササナミが連庫山の所在地ではない。連庫山は、今どの山か不明。拾遺和歌集神樂歌に、「高島や三尾《みを》の中山|杣《そま》立てて作り重ねよ。千代のなみくら」があり、高島は、樂浪に隣接せる地名であるから、連庫山は、高島に近い方面にあることになる。
 雲居者 クモヰレパ。雲がかかつておれば。
 雨曾零智否 アメゾフルチフ。チフはトイフの約言。そういう言い習わしのあることをいう。句切。
【評語】夫が旅に出たあとで、連庫山に雲がかかつているのを見て、家に殘つた妻が案じて詠んでいる。夫に對して歌いかけているが、もとより肉聲の聞える範圍に夫がいるわけではない。しかし聞えようと聞えまいと、かように歌わないではいられない。夫を思う純情のよく出ている歌である。
 
1171 大御舟 泊《は》ててさもらふ、
 高島の 三尾《みを》の勝野《かちの》の
(338) 渚《なぎさ》し念ほゆ。
 
 大御舟《オホミフネ》 竟而佐守布《ハテテサモラフ》
 高島之《タカシマノ》 三尾勝野之《ミヲノカチノノ》
 奈伎左思所v念《ナギサシオモホユ》
 
【譯】天皇の御舟のとまつてお待ちしている、高島の三尾の勝野の渚が思われます。
【釋】大御舟 オホミフネ。天皇の御乘船であろう。オホミは、皇子の上にもいう例があるから、そうでないとも云えないが。
 竟而佐守布 ハテテサモラフ。ハテテは、船が泊つて。サモラフは、乘船者を待つている意。連體形で、渚を修飾する。
 三尾勝野之 ミヲノカチノノ。滋賀縣高島郡。三尾は今の高島町附近。
 奈伎左思所念 ナギサシオモホユ。ナギサは、波の寄せる處。波うちぎわ。
【評語】後に殘つた人が、貴人のおでましの先を思つているらしい。作者のお見送りした大御船が、三尾の勝野の渚にとまつて、御乘船を待つている姿を描いている。想像の働いた歌で風趣に富んでいる。
 
1172 いづくにか 舟乘《ふなのり》しけむ。
 高島の 香取《かとり》の浦ゆ
 漕ぎ出《で》來《こ》し船。
 
 何處可《イヅクニカ》 舟乘爲家牟《フナノリシケム》
 高島之《タカシマノ》 香取乃浦從《カトリノウラユ》
 己藝出來船《コギデコシフネ》
 
【譯】何處で乘船をしたのだろう。高島の香取の浦を通つて漕いできた船は。
【釋】何處可舟乘爲家牟 イヅクニカフナノリシケム。目標としている船の、何處から出航したかを疑つている。
 香取乃浦從 カトリノウラユ。香取の浦は、所在不明。やはり勝野附近であろう。ユは、そこを通過する意
(339)をあらわす。
【評語】作者のいる前を通過する船について、その出發地を問題にしているだけの歌である。旅中の輕い屬目の作である。高市の黒人の「何處《いづく》にか舟泊《ふなはて》すらむ。安禮《あれ》の埼《さき》こぎたみ行きし棚無し小舟」(卷一、五八)に、形の似ている歌である。
 
1173 斐太人《ひだびと》の 眞木《まき》流すといふ 丹生《にふ》の河
 言《こと》はかよへど、 船ぞ通はぬ。
 
 斐太人之《ヒダビトノ》 眞木流云《マキナガストイフ》 尓布乃河《ニフノカハ》
 事者雖v通《コトハカヨヘド》 船曾不v通《フネゾカヨハヌ》
 
【譯】斐太人が材木を流すという丹生の河は、向こう岸と言葉は通じるが、船は通じない。
【釋】斐太人之 ヒダビトノ。飛騨の國からは、多く工匠や杣人《そまびと》を出した。賦役令に「凡(ソ)斐陀《ヒダノ》國(ハ)、庸調倶(ニ)免(ズ)、毎(ニ)v里點(ズ)2匠丁十人(ヲ)1」とある。その飛騨の國から出ている匠丁《しようちよう》をいう。
 眞木流云 マキナガストイフ。マキは、ここは木材。
 尓布乃河 ニフノカハ。爾布の河は、多く丹生の字を當てている。諸國に同名が多いが、ここは吉野川の上流であろう。
 事者雖通船曾不通 コトハカヨヘドフネゾカヨハヌ。丹生川の激流を隔てて、對岸と言語は通じるが、船は通じないので、逢うことができない意である。
【評語】旅先の地物について思いを述べているのだろう。下句は調子がなめらかで、歌いものふうの味がある。
 
1174 霰|零《ふ》り 鹿島《かしま》の埼を、
 浪高み 過ぎてや行かむ。
(340) 戀《こほ》しきものを。
 
 霞零《アラレフリ》鹿島之埼乎《カシマノサキヲ》
 浪高《ナミタカミ》 過而夜將v行《スギテヤユカム》
 戀敷物乎《コホシキモノヲ》
 
【譯】霰が降つてかしましい。その鹿島の埼の浪が高いので、通り過ぎて行くのだろう。戀しいのだのに。
【釋】霰零 アラレフリ。枕詞。霰が降つてかしましいの意に、鹿島に冠する。「阿良例布里《アラレフリ》 可志麻能可美乎《カシマノカミヲ》 伊能利都々《イノリツツ》」(卷二十、四三七〇)。
 鹿島之埼乎 カシマノサキヲ。鹿島の埼は、常陸の鹿島が有名であるが、浪の高いことを歌つており、同名の別地であるかも知れない。この句は、過ギテヤ行カムに續く。
 過而夜將行 スギテヤユカム。立ち寄らないで行くことかと惜しんでいる。句切。
 戀敷物乎 コホシキモノヲ。その鞄に行つて見たい情を戀シと言つている。
【評語】名に聞えた地を見ないで行くことの殘り惜しいという舟行の情が歌われている。下の「荒礒《ありそ》超《こ》す浪をかしこみ淡路島見ずや過ぎなむ。ここだ近きを」(一一八〇)の歌と同趣である。
 
1176 夏麻引《なつそび》く 海上潟《うなかみがた》の 沖つ洲に
 鳥はすだけど、
 君は音《おと》もせず。
 
 夏麻引《ナツソビク》 海上滷乃《ウナカミガタノ》 奧洲尓《オキツスニ》
 鳥者簀竹跡《トリハスダケド》
 君者音文不v爲《キミハオトモセズ》
 
【譯】夏の麻を引いて績《う》む。その海上潟の沖の洲で、鳥は集まつているが、わたしの思う人は音沙汰もないことだ。
【釋】夏麻引 ナツソビク。枕詞。夏麻を引くの義で、麻は苧《お》に績《う》むので、海上潟のウに冠する。「奈都素妣久《ナツソビク》 宇奈加美我多能《ウナカミガタノ》 於伎都渚爾《オキツスニ》 布禰波等杼米牟《フネハトドメム》 佐欲布氣爾家里《サヨフケニケリ》」(卷十四、三三四八)。
(341) 海上滷乃 ウナカミガタノ。海上は、今下總の國に海上郡の名が殘つている。前掲、卷の十四の海上滷の歌を、上總の國に編してあるのは、上總の國の市原郡の同名の地による。ここにいう海上滷は、利根川の下流の方面をさしているので下總の國の方だろう。
 鳥者簀竹跡 トリハスダケド。スダケドは、多く集まるをいう。自然その聲が高いのである。「葦鴨之《アシカモノ》 多集池水《スダクイケミヅ》」(卷十一、二八三三)は、多集をスダクと讀んでいる。
 君者音文不爲 キミハオトモセズ。思う人のたよりの聞えないことを歌つている。
【評語】旅に出たきり音信の聞えない人を思つて詠んでいる。民謠ふうの清婉な歌である。深い感情を露出しないのが、かえつて切實に響いている。なお以下二首の順序は、古本による。番號の順と相違のある所である。
 
1175 足柄《あしがら》の 筥根《はこね》飛び越え 行く鶴《たづ》の
 ともしき見れば、大倭《やまと》し念《おも》ほゆ。
 
 足柄乃《アシガラノ》 筥根飛超《ハコネトビコエ》 行鶴乃《ユクタヅノ》
 乏見者《トモシキミレバ》 日本之所v念《ヤマトシオモホユ》
 
【譯】足柄の筥根を飛び越えて行く鶴のうらやましいのを見ると、大和が思われる。
【釋】足柄乃筥根飛超 アシガラノハコネトビコエ。足柄は、神奈川縣西部の地名。筥根は、その他の山名。靜岡縣との縣境をなしている。
 乏見者 トモシキミレバ。トモシは、慕わしくあるをいう。「乏※[女+麗]《トモシヅマ》 人知爾來《ヒトシリニケリ》」(卷十、二〇〇二)のトモシの如き用法である。
【評語】相摸の國に旅して詠んだ歌である。「夕されば大和へ越ゆる雁しともしも」(卷六、九五四)など、鳥の自由に飛翔し行くをうらやんだ歌は多い。箱根山の嶮峻を越えた旅情が、この歌では強く響いている。
 
(342)1177 若狹《わかさ》なる 三方《みかた》の海の 濱清み、
 い往《ゆ》き還《かへ》らひ 見れど飽かぬかも。
 
 若狹在《ワカサナル》 三方之海之《ミカタノウミノ》 濱清美《ハマキヨミ》
 伊往變良比《イユキカヘラヒ》 見跡不v飽可聞《ミレドアカヌヌカモ》
 
【譯】若狹の三方の海の濱が清らかなので、行き遣りに見ても飽きないことだ。
【釋】若狹在三方之海之 ワカサナルミカタノウミノ。福井縣三方郡の三方湖。三湖連續し、その西方のを、今、三方湖と呼んでいるが、ここは總稱しているであろう。
 伊往變良比 イユキカヘラヒ。イは接頭語。行き還りにの意。變は反に通じて使用している。
【評語】何處の海にでも、地名を入れ替えれば通じるような歌である。三方の海の特色が出ていないが、歌は平明で、いやみのないのがとりえである。
 
1178 印南野《いなみの》は 往き過ぎぬらし。
 天《あま》づたふ 日笠《ひがさ》の浦に
 波立てり見ゆ。
 
 印南野者《イナミノハ》 往過奴良之《ユキスギヌラシ》
 天傳《アマヅタフ》 日笠浦《ヒガサノウラニ》
 波立見《ナミタテリミユ》
 
【譯】印南野は行き過ぎたと見える。天を傳う日の日笠の浦に波の立つているのが見える。
【釋】印南野者往過奴良之 イナミノハユキスギヌラシ。海上を航行しているので、もはや印南野あたりを通過したと思われる旨を述べている。句切。
 天傳 アマヅタフ。枕詞。天を傳う日の義に、日笠に冠している。「天傳《アマヅタフ》 日能久禮由氣婆《ヒノクレユケバ》」(卷十七、三八九五)。
 日笠浦 ヒガサノウラニ。日笠の浦は、所在未詳。藤江の浦の邊とする説があるが、別傳に、飾磨江ハ漕ぎ(343)過ギヌラシとあるによれば、飾磨河口附近の海面とすべきである。
 波立見 ナミタテリミユ。見ユは、終止形を受けている。
【評語】多分西行の歌であろう。無言のあいだに、舟行の多難を語つている。日笠の浦は、感じのよい地名だ。これによつて、三句以下の調子が美しく保たれている。
 
一云、思賀麻江者《シカマエハ》 許藝須疑奴良思《コギスギヌラシ》
 
一は云ふ、飾磨江は こぎ過ぎぬらし。
 
【釋】一云思賀麻江者許藝須疑奴良思 アルハイフ、シカマエハコギスギヌラシ。前の歌の初二句の別傳で、一字一音に書いているのは、資料のままであろう。シカマエは、飾磨江で、飾磨川の河口の江。この川は、「わたつみの海に出でたる飾磨川」(卷十五、三六〇五)と歌われて、海上からもそれと知られる川だ。作者は海上を航行しており、飾磨川の河口あたりは漕ぎ去つたらしいと歌つているのであろう。これも多分西行の旅なのであろう。
 
1179 家にして 吾は戀ひむな。
 印南野《いなみの》の 淺茅《ああぢ》が上に
 照りし月夜《つくよ》を。
 
 家尓之弖《イヘニシテ》 吾者將v戀名《ワレハコヒムナ》
 印南野乃《イナミノノ》 淺茅之上尓《アサヂガウヘニ》
 照之月夜乎《テリシツクヨヲ》
 
【譯】わたしは家に歸つて戀い慕うだろうなあ。この印南野の淺茅の上に照り渡つた月を。
【釋】家尓之弖 イヘニシテ。イヘは、作者の自宅。今旅にいて、わが家に歸つた後のことを想像している。
 吾者將戀名 ワレハコヒムナ。ナは感動の助詞。「吾者將v戀名《ワレハコヒムナ》 直相左右二《タダニアフマデニ》」(卷四、五五〇)等、助動詞ム(344)に接續するものが多い。動詞に直接に接續するものには、古事記中卷に「阿斯用由久那《アシヨユクナ》」(三六)がある。句切。
 淺茅之上尓 アサヂガウヘニ。アサヂは、茅草がたけの低いものであるからいう。
 照之月夜乎 テリシツクヨヲ。ツクヨは、月に同じ。
【評語】作者は印南野の淺茅の上に照つた月を見て、それを思い起している。多分、そこに野宿でもした明け方などに、その夜景の、心に染みついて忘れがたくあつたのであろう。さて旅を終つて家に歸つてから、この印南野の一夜が忘れがたいものとなるであろうと歌つている。旅の一夜の非常に心に染みついた有樣がよくあらわれている。印象的な敍述が利いており、家に歸つてから旅のその夜を思い出すであろうと歌つた點に、深い興趣がかかつている。
 
1180 荒礒《ありそ》越《こ》す 浪をかしこみ、
 淡路島 見ずや過ぎなむ。
 幾許《ここだ》近きを。
 
 荒礒超《アリソコス》 浪乎恐見《ナミヲカシコミ》
 淡路島《アハヂシマ》 不v見哉將2過去1《ミズヤスギナム》
 幾許近乎《ココダチカキヲ》
 
【譯】荒礒を越す浪がおそろしいので、淡路島を見ないでか行くことだろう。非常に近いのだが。
【釋】荒礒超浪乎恐見 アリソコスナミヲカシコミ。海上を航行しつつ礒邊に近づきがたいことを述べている。
 不見哉將過去 ミズヤスギナム。ミズヤは、上陸して見ないでかの意。句切。
 幾許近乎 ココダチカキヲ。ココダは、許多の意で、たいへんに近いのである。
【評語】明石海峽を航行する旅行者の作と認められる。名所の風光にあこがれる心が詠まれている。
 
(345)1181 朝霞 やまず棚引く。
 龍田《たつた》山、
 船出《ふなで》せむ日に われ戀ひむかも。
 
 朝霞《アサガスミ》 不v止輕引《ヤマズタナビク》
 龍田山《タツタヤマ》
 船出將v爲日《フナデセムヒニ》 吾將v戀香聞《ワレコヒムカモ》
 
【譯】朝の霞の絶えず棚引いている。あの龍田山は、船出をした日には、わたしは戀しく思うことだろうなあ。
【釋】不止輕引 ヤマズタナビク。輕引は、霞の輕くかかる義をもつて書いている。龍田山をながめた敍景である。句切。
 船出將爲日 フナデセムヒニ。難波の御津から船出をするであろうその日にはで、見えなくなつてからの意である。
【評語】能田山を越えて難波に下つてから、その山を望み見て詠んだ作であろう。初二句は實景を詠んでおり、この句で印象を深からしめている。
 
1182 海人小船《あまをぶね》 帆かも張れると
 見るまでに、
 鞆《とも》の浦《うら》みに 浪立てり見ゆ。
 
 海人小船《アマヲブネ》 帆毳張流登《ホカモハレルト》
 見左右荷《ミルマデニ》
 鞆之浦廻二《トモノウラミニ》 浪立有所v見《ナミタテリミユ》
 
【譯】海人の小船が帆を張つているのかと見るまでに、鞆の浦に浪の立つているのが見える。
【釋】海人小船 アマヲブネ。海人の乘つている小船である。
 帆毳張流登 ホカモハレルト。帆をか張つているとの義だが、意は、帆を張つているのかとである。白浪が白帆かとまがう由である。
(346) 鞆之浦廻二 トモノウラミニ。鞆は、廣島縣|沼隈《ぬまくま》郡。灣形が鞆の形をしているので、名を生じたのであろう。ミは接尾語。
【評語】洋上の白浪を歌つている。譬喩を使つているが、厭味を感じさせない。五句の見ユは、しばしば用いられる表現だが、この歌では、白浪が白帆のように見えるというので、役立つている。
 
1183 好去《まさき》くて また還《かへ》り見む。
 ますらをの 手に卷き持《も》てる
 鞆の浦みを。
 
 好去而《マサキクテ》亦還見六《マタカヘリミム》
 大夫乃《マスラヲノ》手二卷持在《テニマキモテル》
 鞆之浦廻乎《トモノウラミヲ》
 
【譯】無事に行つてまた歸つて見よう。勇士の手に卷いて持つているという、その鞆の浦を。
【釋】好去而 マサキクテ。好去は、幸福に行く義で、「眞好去有欲得《マサキクアリコソ》」(卷九、一七九〇)などの例により、マサキクと讀む。
 亦還見六 マタカヘリミム。また歸り來て見ようの意。句切。
 大夫乃手二卷持在 マスラヲノテニマキモテル。以上、鞆というための序。鞆は弓を射る時につける武装具だから、かようにいう。
【評語】無事の歸還を祈る心もあり、佳景に對する愛情もある。序も巧みに使用されている。それらの要素の集まつてできた、よくまとまつている歌と云えよう。
 
1184 鳥じもの 海に浮きゐて
 沖つ浪 さわくを聞けば、
(347) あまた悲しも。
 
 鳥自物《トリジモノ》 海二浮居而《ウミニウキヰテ》
 奧浪《オキツナミ》 驂乎聞者《サワクヲキケバ》
 數悲哭《アマタカナシモ》
 
【譯】鳥のように海に浮いていて、沖の波の立ち騷ぐ音を聞くと、たいへん悲しいことだ。
【釋】鳥自物 トリジモノ。鳥であるように。これは鴨等の水鳥が水に浮いている、そのように自分は鳥でもないのに、海に浮いていると云う心に、次の句を呼び起している。
 海二浮居而 ウミニウキヰテ。船に乘つていることをいう。
 驂乎聞者 サワクヲキケバ。驂は、數頭の馬に駕する義の字で、サワクに使用している。
 數悲哭 アマタカナシモ。アマタは、非常に、たいへんにの意に用いている。海上に出て沖の波の立ちさわぐのを聞いて、心が非常にもの悲しく感じられるのである。「天漢《アマノガハ》 敝太而禮婆可母《ヘダテレバカモ》 安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》」(卷八、一五二二)、「袖不v振爲而《ソデフラズシテ》 安萬田悔毛《アマタクヤシモ》」(卷十二、三一八四)などのアマタは、この用法である。
【評語】海上の旅愁をよく描いている。初句の鳥ジモノも、よく利いている。寂寥感がひしと迫るのを覺える。「鴨《かも》じもの浮宿《うきね》をすればみなのわたか黒き髪に露ぞおきにける」(卷十五、三六四九)は、同じ趣に歌つて、またそれぞれに別種の味がある。
 
1185 朝なぎに 眞楫《まかぢ》榜《こ》ぎいでて
 見つつ來《こ》し
 三津の松原、浪越しに見ゆ。
 
 朝菜寸二《アサナギニ》 眞梶榜出而《マカヂコギイデテ》
 見乍來之《ミツツコシ》
 三津乃松原《ミツノマツバラ》 浪越似所v見《ナミゴシニミユ》
 
【譯】朝の凪ぎに漕いで出て見ながらきた、その三澤の松原が、浪越しに見える。
【釋】朝菜寸二 アサナギニ。かつて船出した際の状況を描いている。
(348) 眞梶榜出而 マカヂコギイデテ。マカヂは、兩舷に十分に著けた艪櫂《ろかい》。ま楫で漕いで出ての意。
 見乍來之 ミツツコシ。次の句に對する連體句である。なごり惜しい氣もちを描いている。
 三津乃松原 ミツノマツバラ。難波の三津の濱の松原で、船出をした處である。
 浪越似所見 ナミゴシニミユ。海上から見える由である。
【評語】かつて朝凪ぎに船出をした三津の松原が、ようやく近づいてくる海上の波越しに見える喜びを歌つている。心の躍動を禁じ得ないさまがよく描かれている。
 
1186 漁《あさり》する 海未通女《あまをとめ》らが
 袖とほり ぬれにし衣《ころも》、
 ほせど乾《かわ》かず。
 
 朝入爲流《アサリスル》 海未通女等之《アマヲトメラガ》
 袖通《ソデトホリ》 沾西衣《ヌレニシコロモ》
 雖v干跡不v乾《ホセドカハカズ》
 
【譯】漁りをする海人の若い女たちが袖の中まで通つて濡れた著物は、ほしてもかわかない。
【釋】朝入爲流 アサリスル。アサリは既出。この卷では一一六七に見える。
 袖通 ソデトホリ。中までしみ込んで。
 雖干跡不乾 ホセドカワカズ。跡の字は、特に書き添えてある。「雖v涼常不v干《ホセドカワカズ》」(卷七、一一四五)と同じ書法。
【評語】旅中に逢つた海人の娘子の上を詠んでいる。推量の語法を使用しないで、著物の中まで濡れてかわかないと歌つているのは、率直な表現である。
 
1187 網引《あびき》する 海子《あま》とや見らむ。
(349) 飽《あく》浦の 清き荒礒《ありそ》を
 見に來《こ》し吾を。
 
 網引爲《アビキスル》海子哉見《アマトヤミラム》
 飽浦《アクウラノ》 清荒礒《キヨキアリソヲ》
 見來吾《ミニコシワレヲ》
 
【譯】網引きをする海人とか見ているのだろう。飽の浦の清らかな荒礒を見に來たわたしだのに。
【釋】網引爲 アビキスル。海人の説明句。
 海子哉見 アマトヤミラム。「荒栲《アラタヘノ》 藤江之浦爾《フヂエノウラニ》 鈴寸釣《スズキツル》 白水郎跡香將v見《アマトカミラム》 旅去吾乎《タビユクワレヲ》」(卷三、二五二)の歌の句によつて、アマトヤミラムと讀む。ミラムは、動詞見ルに、助動詞ラムの接續した形である。句切。
 飽浦 アクノウラノ。
  アキノウラノ(元)
  アコノウラノ(童)
  アカノウラノ(考)
  アクラノ(略)
  アクウラノ(新考)
  アクノウラノ(定本)
  ――――――――――
  飽浦海《アクラノミ》(古義)
 アクノウラは、所在未詳。「木國之《キノクニノ》 飽等濱之《アクラノハマノ》 忘貝《ワスレガヒ》 我者不v忘《ワレハワスレジ》 年者雖v歴《トシハヘヌトモ》」(卷十一、二七九五)の飽等の濱と同地として、アクラノと讀む説がある。しかし第三句を字足らずにすることは珍しく、またアクウラノでは調子わるく、なお浦の語は、助詞ノを受ける例であるから、今アクノウラノと讀む。
 見來吾 ミニコシワレヲ。わざわざ來たように歌つている。ヲは、吾だ、しかるにの意を有する。
【評語】自分は旅人だが、海人と誤られるのは殘念だという意を藏している。上掲の人麻呂のアラタヘノ藤江(350)ノ浦ニの歌も、これと同じ思想である。旅人としての寂寥感を大切にする氣もちがあり、また文化人としての誇りを感じて、かような歌になつているのであろう。この歌には、特に、清キ荒礒ヲ見ニ來シ吾ヲの句があつて、一層そのわざとらしさを感じさせる。
 
右一首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出 ミギノヒトツハカキノモトノアソミヒトマロノウタノシフニイヅ。右の一首が人麻呂集所出の歌だというのだが、ここに一首だけ人麻呂集の歌を取り入れたのは、どういうわけかわからない。他の資料から出たうちの一首が、人麻呂集に見えるので、この説明をつけたのかも知れない。他の歌中にまじつて一首だけ人麻呂集の歌があるのは、卷の二、卷の十四にもあるが、卷の二、卷の十四は、性質が違うから、この卷と同樣には扱えない。
 
1188 山越えて 遠津の濱の 石《いは》つつじ、
 わが來るまでに 含《ふふ》みてあり待て。
 
 山越而《ヤマコエテ》 遠津之濱之《トホツノハマノ》 石管自《イハヅツジ》
 迄吾來《ワガクルマデニ》 含而有待《フフミテアリマテ》
 
【譯】山を越えて遠く行く。その遠津の濱の石ツツジは、わたしの還つて來るまで、蕾んで待つておいで。
【釋】山越而 ヤマコエテ。事實の敍述であり、同時に山を越えて遠く行くの意味に、次句の遠を引き出している。
 遠津之濱之 トホツノハマノ。遠津の濱は、所在未詳。「霰零《アラレフリ》 遠津大浦爾《トホツオホウラニ》 縁浪《ヨスルナミ》」(卷十一、二七二九)の遠津大浦と同地とする説があるが、その遠津は、遠方の義とする解もあつて、同じか否か不明である。
 石管自 イハツツジ。岩間に生えているツツジをいう。特殊のツツジではない。
(351) 迄吾來 ワガクルマデニ。迄は、國語では助詞マデに當てているが、元來至の字であるから、漢文ふうに上に書いたのである。訓については「和禮由伎弖《ワレユキテ》 可敝里久流末低《カヘリクルマデ》 知里許須奈由米《チリコスナユメ》」(卷十五、三七〇二)、「安里米具利《アリメグリ》 和我久流麻※[泥/土]爾《ワガクルマデニ》」(卷二十、四四〇八)の例によつて、ワガクルマデニと讀む。ワガコムマデニとも讀まれているが、マデが助動詞ムに接續した例は見當らない。なお防人の歌では「阿例波伊波々牟《アレハイハハム》 加倍理久麻泥爾《カヘリクマデニ》」(卷二十、四三五〇)などの如く、マデが終止形來を受けている。
 含而有待 フフミテアリマテ。フフミテは、蕾んで。アリマテは、存在して待ての意。
【評語】下にも同想の歌があり(卷七、一二一二)、そのほかにもある。旅人の感ずることの多い心を歌つている。初二句の續き方は巧みで、よく旅情を寫し得ている。
 
1189 大海に 嵐な吹きそ。
 しなが鳥《どり》 猪名《ゐな》の湊に
 舟|泊《は》つるまで。
 
 大海尓《オホウミニ》 荒莫吹《アラシナフキソ》
 四長鳥《シナガドリ》 居名之湖尓《ヰナノミナトニ》
 舟泊左右手《フネハツルマデ》
 
【譯】大海に嵐は吹くな。あの猪名の湊に、船がとまるまでは。
【釋】荒莫吹 アラシナフキソ。アラシは荒い風。句切。
 四長鳥 シナガドリ。枕詞。既出(卷七、一一四〇)。
 居名之湖尓 ヰナノミナトニ。湖の字をミナトと讀むこと、既出(卷七、一一六九)。ヰナノミナトは、猪名川の河口。今の尼崎市の東方長洲のあたりであろうという。
【評語】海上を航している船中の作である。天候の變わろうとする徴候でも見えたのであろう。早く陸地の蔭にはいろうとする心がよく描かれている。
 
(352)1190 舟|泊《は》てて 〓〓《かし》振《ふ》り立てて 廬《いほり》せむ。
 名子江《なごえ》の濱邊 過ぎがてぬかも。
 
 舟盡《フネハテテ》 可志振立而《カシフリタテテ》 廬利爲《イホリセム》
 名子江乃濱邊《ナゴエノハマベ》 過不v勝鳧《スギガテヌカモ》
 
【譯】舟を泊めて、カシを振り立てて假屋を作ろう。名子江の濱邊は、このまま通り過ぎかねる。
【釋】舟盡 フネハテテ。盡は、航海し盡す義で、泊ててに使用している。
 可志振立而 カシフリタテテ。カシは、倭名羸聚鈔に「唐韻(ニ)云(フ)、〓〓《シヨウカ》、所2以(テ)繋(グ)1v舟(ヲ)、漢語抄(ニ)云(フ)、加之《カシ》」とある。舟を繋ぐ杭で、舟に積んでいる。「大船爾《オホブネニ》 可之布里多弖天《カシフリタテテ》 波麻藝欲伎《ハマギヨキ》 麻里布能宇良爾《マリフノウラニ》 也杼里可世麻之《ヤドリカセマシ》」(卷十五、三六三二)などあり、カシを振り立てるのは、打ち込むためであろう。
 廬利爲 イホリセム。イホリは、廬を作つて入ること。句切。三句切である。
 名子江乃濱邊 ナゴエノハマベ。所在未詳。
 過不勝鳧 スギガテヌカモ。ガテヌは、不能の意の助動詞。勝地を、そのまま通過しかねるのである。
【評語】遊覽の旅ではないが、勝景に接すると、そのままには過ぎかねる。自然を愛し、自然を解する古人の心があらわれている。
 
1191 妹が門 出入《いでいり》の河の 瀬をはやみ、
 わが馬つまづく。
 家思ふらしも。
 
 妹門《イモガカド》 出入乃河之《イデイリノカハノ》 瀬速見《セヲハヤミ》
 吾馬爪衝《ワガウマツマヅク》
 家思良下《イヘオモフラシモ》
 
【譯】妻の家の門口を出入する。その出入の川の瀬が早いので、わたしの馬がつまづいた。馬も家を思つているらしい。
(353)【釋】妹門出入乃河之《イモガカドイデイリノカハノ》。妹が家の門を出入するの意に、序に使つているが、川の名が出入の川というのか、入の川というのか、不明なので、序と河名との境界がたしかでない。また出入の讀み方も確實でない。類似の句に「妹門《イモガカド》 入出見川乃《イリイヅミガハノ》 床奈馬爾《トコナメニ》」(卷九、一六九五)がある。それは人麻呂歌集の歌であるが、その影響を受けているのであろう。
 家思良下 イヘオモフラシモ。馬のつまずくのは、馬が家を思つているからだとする。次の歌にも同樣の思想が出ている。家では思つているらしいとする解もある。評語參照。
【評語】卷の三にも同思想の歌があり、次の歌も同じである。初二句の序は、妹が門を思う情をあらわしている。旅にあつて家を思う情を、馬に寄せて歌つているところに手段がある。五句、家で思つているらしいと解くのは「吾立沾等《ワレタチヌルト》 家念良武可《イヘオモフラムカ》」(卷九、一六九六)などの例によるのだが、この歌では馬の上を推量したと解すべきだろう。次の歌も參照。
 
1192 白たへに にはふ信士《まつち》の 山川に
 わが馬なづむ。
 家戀ふらしも。
 
 白栲尓《シロタヘニ》 丹保布信士之《ニホフマツチノ》 山川尓《ヤマガハニ》
 吾馬難《ワガウマナヅム》
 家戀良下《イヘコフラシモ》
 
【譯】白い著物に色のつく眞土山の山川で、わたしの馬が悩んでいる。家を戀うているらしい。
【釋】白栲尓 シロタヘニ。シロタヘは、白い織物で色に染めてないもの。
 丹保布信士之 ニホフマツチノ。ニホフは、色にあらわれる。眞土山の土が、白色を染めるのをいう。白タヘニニホフまで、眞土の序とも見られる。實景と見てよい。マツチは、眞土山。
 山川尓 ヤマガハニ。ヤマガハは、山中の川。眞土山の降り口を流れている。
(354) 吾馬難 ワガウマナヅム。ナヅムは難儀をする。悩む。句切。
 家戀良下 イヘコフラシモ。家を戀うているらしい。
【評語】前の歌と同じ内容の歌である。旅情を乘せて馬のつまずく樣が思いやられる。
 
1193 勢《せ》の山《やま》に 直《ただ》に向へる 妹の山、
 言《こと》聽《ゆる》せやも、
 打橋《うちはし》渡す。
 
 勢能山尓《セノヤマニ》 直向《タダニムカヘル》 妹之山《イモノヤマ》
 事聽屋毛《コトユルセヤモ》
 打橋渡《ウチハシワタス》
 
【譯】勢の山に直接向かつている妹の山は、承諾をしたのか、打橋を渡してある。
【釋】勢能山尓直向妹之山 セノヤマニタダニムカヘルイモノヤマ。紀の川を中に隔てて、右岸に勢の山、左岸に妹の山があり、直接に向かい合つている。
 事聽屋毛 コトユルセヤモ。勢の山の婚姻の申し入れを承諾したのだろうか。言ゆるせばにやの意。ヤモは係助詞。
 打橋渡 ウチハシワタス。橋を懸けて往來が出來るようにしてある。
【評語】勢の山妹の山の名に興じて詠んだ歌である。打橋が渡してある實景によつて構想している。作爲の歌であるが、實景に即している點に特色がある。
 
1209 人ならば 母の最愛子《まなご》ぞ。
 あさもよし 紀の川の邊《べ》の
 妹《いも》と勢《せ》の山。
 
 人在者《ヒトナラバ》 母之最愛子曾《ハハノマナゴゾ》
 麻毛吉《アサモヨシ》 木川邊之《キノカハノベノ》
 妹與背之山《イモトセノヤマ》
 
(355)【譯】 人間だつたらお母さんのかわいい子だ。紀の川の邊にある妹山と勢の山は。
【釋】人在者母之最愛子曾 ヒトナラバハハノマナゴゾ。この山がもし人だつたら、母親の最愛の子だの意。最愛子をマナゴと讀むのは、集中眞砂の義に愛子の字を使用したもの(一三九二等)があるによる。句切。
 麻毛吉 アサモヨシ。枕詞。朝裳よし、もしくは麻裳よしの義と考えられる。既出(卷一、五五)參照。
 木川邊之 キノカハノベノ。吉野川の下流、紀伊の國にはいつてから、紀の川という。但しこの名は、集中ここのみである。
 妹與背之山 イモトセノヤマ。妹山と勢の山とを一緒に併わせている。夫婦のことをイモトセというのだろうが、兄弟のことをイモトセという例がある。「言不v間《コトトハヌ》 木尚妹與兄《キスライモトセ》 有云乎《アリトイフヲ》 直獨子爾《タダヒトリゴニ》 有之苦者《アルガクルシサ》」(卷六、一〇〇七)。
【評語】山に對して人だつたらというのは、山に對する愛情を表示してい(356)る。古人の自然を愛する心が、ここにも及んでいる。殊に勢の山について、かような表現が多いのは、その名にもとづくものである。なお以下二十九首の順序は、多本の順序による。仙覺本の一傳本である寂印成俊本のうちの一つに、歌の番號の通りの順になつているものがあつて、寛永版本がそれによつたので、國歌大觀は、かような番號をつけたのである。但しそのうち初めの三首、一二〇九、一二一〇、一二〇八の順序は、神田本等の古本系統の順序による。仙覺本系統では、番號の順になつている。以上の順序の相違によつて、一一九五の歌の左註にある「右(ノ)七首(ハ)者藤原(ノ)卿(ノ)作」の七首の範圍が違つてくることは、注意すべきである。
 
1210 吾妹子に わが戀ひ行けば
 ともしくも 竝《なら》び居《を》るかも。
 妹と勢の山。
 
 吾妹子尓《ワギモコニ》 吾戀行者《ワガコヒユケバ》
 乏雲《トモシクモ》 竝居鴨《ナラビヲルカモ》
 妹與勢能山《イモトセノヤマ》
 
【譯】わが妻にわたしが戀いつつ行けば、うらやましいことにも竝んでいることだ。妹山と勢の山とは。
【釋】吾妹子尓吾戀行者 ワギモコニワガコヒユケバ。家においてきた妻に戀いつつ行けば。
 乏雲 トモシクモ。竝びいる樣を修飾する。
 妹與勢能山 イモトセノヤマ。この歌では、夫婦の山として取り扱つている。
【評語】二山竝び立つのを見てうらやましく感じている。沈痛でないのは、山名に興ずる氣分があるからである。
 
1208 妹に戀ひ わが越え行けば、
 勢の山の、
(357) 妹に戀ひずて あるがともしさ。
 
 妹尓戀《イモニコヒ》 余越去者《ワガコエユケバ》
 勢能山之《セノヤマノ》
 妹尓不v戀而《イモニコヒズテ》 有之乏左《アルガトモシサ》
 
【譯】妻に戀うてわたしが越えて行くのに、勢の山が、妻に戀しないであるのがうらやましいことだ。
【釋】妹尓戀 イモニコヒ。家に殘して來た妻を思つている。動詞戀フは、助詞ニを受ける例である。
 余越去者 ワガコエユケバ。山を越え行く意で、勢の山を望み見るあたりの道路の山である。
 妹尓不戀而 イモニコヒズテ。勢の山は、すぐ前に妹の山を擁しているので、かようにいう。
 有之乏左 アルガトモシサ。あることのうらやましさよの意で、……ガ……サとなる型である。サは形容詞についてこれを體言にする接尾語。
【評語】これも勢の山の名によつて構想している。しんみりした感じはない。
 
1211 妹があたり 今ぞわが行く。
 目のみだに われに見えこそ。
 言《こと》問《と》はずとも。
 
 妹當《イモガアタリ》 今曾吾行《イマゾワガユク》
 目耳谷《メノミダニ》 吾耳見乞《ワレニミエコソ》
 事不問侶《コトトハズトモ》
 
【譯】愛する人の家のあたりを、今わたしは行くのだ。顔だけでも見えてくれ。よし物を言わないでも。
【釋】妹當 イモガアタリ。この妹は愛人程度で、まだ妻とまでは行かない。その人の家のあたりである。
 今曾吾行 イマゾワガユク。句切。
 目耳谷吾耳見乞 メノミダニワレニミエコソ。メニミルとは、逢うことをいう。ミエコソは、見えてほしい。コソは願望の助詞。句切。
 事不問侶 コトトハズトモ。コトトフは、物をいう。
(358)【評語】旅行の歌とも思われないとされている。妹の語があるので、誤つて編者がここに入れたのであろうという。しかし助けていえば、妹山のあたりを通る時に、興じて妹ガアタリと云つたのかも知れない。ほんとに愛人のあたりを行くのなら、妹ガアタリ今ゾワガ行クとはいわないだろう。また旅の歌でないとすると、この歌はむしろ平凡だ。
 
1212 足代《あて》過ぎて 絲鹿《いとか》の山の 櫻花、
 散らずあらなむ。
 還りくるまで。
 
 足代過而《アテスギテ》 絲鹿乃山之《イトカノヤマノ》 櫻花《サクラバナ》
 不v散在南《チラズアラナム》
 還來萬代《カヘリクルマ デ》
 
【譯】足代を通り過ぎて絲鹿の山の櫻の花は、散らないでいてくれ。わたしが歸つてくるまで。
【釋】足代過而 アテスギテ。日本後紀大同元年七月の條に「紀伊の國|安諦《あて》の郡を改めて在田《ありた》の郡となす。詞、天皇の諱《いみな》に渉《わた》るをもちてなり」とある。平城天皇の御諱が安殿《あて》であつたので、安諦を改められたので、今の有田郡の地である。
 絲鹿乃山之 イトカノヤマノ。絲鹿の山は、有田川の南方にある絲我《いとが》村の山である。
 不散在南 チラズアラナム。ナムは、願望の助動詞。句切。
【評語】前出の「山越えて遠津《とほつ》の濱の石《いは》つつじ」(一一八八)の歌と同型同想の歌である。かの歌では、遠津の濱の名が内容にふさわしかつたが、この歌では、絲鹿の山の名が、櫻花の咲く景にふさわしい。共に地名が歌の空氣を作る上に重要な役をなしている。
 
1213 名草山 言《こと》にしありけり。
(359) わが戀の 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も
 慰めなくに。
 
 名草山《ナグサヤマ》 事西在來《コトニシアリケリ》
 吾戀《ワガコヒノ》 千重一重《チヘノヒトヘモ》
 名草目名國《ナグサメナクニ》
 
【譯】名草山は名前だけだつた。わたしの戀の千分の一も慰めないことだ。
【釋】名草山 ナグサヤマ。和歌山市、紀三井寺の東方の山。
 事西在來 コトニシアリケリ。コトは言。名のみでその實を伴なわない。句切。
 千重一重 チヘノヒトヘモ。千重にかさなる戀のうちの一重も。千分の一も。
【評語】名を信ずること篤くして、かえつてその實を伴なわないことを責める歌は、集中に多く、これもその一つである。よくまとまつているだけで、感激のすくない歌である。
【參考】類歌。
  大汝《おほなむち》少彦名《すくなひこな》の、神こそは名づけそめけめ。名のみを名兒《なご》山とおひて、わが戀の千重の一重も、慰めなくに。(卷六、九六三、大伴の坂上の郎女)
 
1214 安太《あだ》へ行く 小爲手《をすて》の山の
 眞木《まき》の葉も、
 久しく見ねば 蘿《こけ》生《む》しにけり。
 
 安太部去《アダヘユク》 小爲手乃山之《ヲステノヤマノ》
 眞木葉毛《マキノハモ》
 久不v見者《ヒサシクミネバ》 蘿生尓家里《コケムシニケリ》
 
【譯】安太へ行く途の小爲手の山の樹々の葉も、久しく見ないので、蘿が生えてしまつた。
【釋】安太部去 アダヘユク。前後紀伊の國の歌であるので、これも同じ地方とすれば、アダは、有田郡の英多《アタ》の郷で、今の宮原村、田殿《たどの》村あたりであろう。
(360) 小爲手乃山之 ヲステノヤマノ。ヲステの山は、所在未詳。本居宣長の玉勝間に、有田郡の推手《おして》村の山としている。その村は、有田郡の東方、郡境にあつて、當時交通の路に當つていたとすることは疑わしい。
 蘿生尓家里 コケムシニケリ。蘿は、サガリゴケである。松杉などの木の枝に蘿がさがつているのを、葉にと言つている。
【評語】平易な歌いぶりで、途上の所見を述べたに過ぎない。かつて通過してから、久しく時の經過したことを歌つている。
 
1215 玉つ島 よく見ていませ。
 あをによし 平城なる人の
 待ち問はばいかに。
 
 玉津島《タマツシマ》 能見而伊座《ヨクミテイマセ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 平城有人之《ナラナルヒトノ》
 待問者如何《マチトハバイカニ》
 
【譯】玉つ島を、よく見ていらつしやい。奈良にいる人が待つてたずねたらどうします。
【釋】玉津島 タマツシマ。和歌の浦にある島。
 能見而伊座 ヨクミテイマセ。イマセは、御座あるの意の動詞で、ここでは行きたまえの意になつている。句切。
 平城有人之 ナラナルヒトノ。平城は、奈良の都。續日本紀和銅三年三月の條に「辛酉始めて都を平城《なら》に遷す」とある。ナラの語義、平地の意であるにより、平城と書く。この歌を贈られた人の妻などを、平城ナル人と言つている。
【評語】旅行の同行者か、または和歌の浦あたりの娘子などの歌であろう。自然を愛する心はわかるが、格別の情趣はない。
 
(361)1216 潮|滿《み》たば いかにせむとか、
 わたつみの 神が手わたる。
 海未通女《あまをとめ》ども。
 
 鹽滿者《シホミタバ》 如何將v爲跡香《イカニセムトカ》
 方便海之《ワタツミノ》 神我手渡《カミガテワタル》
 海部未通女等《アマヲトメドモ》
 
【譯】潮が滿ちたらどうしようというのか、海神の手のような處を渡つている。海人の娘たちは。
【釋】如何將爲跡香 イカニセムトカ。カは係助詞で、下の渡ルに懸かつている。
 方便海之 ワタツミノ。方便海は、珍しい用字例である。代匠記に「方便海トカケルコト、其意ヲ得ズ。モシ諸大龍王等ハ諸佛菩薩ノ善權方便ナルモ多ケレバ、其意ニテカケルニヤ」とある。ワタツミは海神の義。ここは海洋の意にいう。
 神我手渡 カミガテワタル。神が手は譬喩で、海上に突出している岩礁などを、海神の手に譬えているであろう。「海神《わたつみ》の手に纏き持てる玉」(卷七、一三〇一)など、海神が手に玉を纏いているという表現が多いので、その珠を採りに、娘子たちが冒險をするという意味に、かような表現を試みたのであろう。句切。
【評語】娘子たちが岩礁におり立つて、貝など採つているのを詠んでいる。珍しくもあり、危くも思われる都人の情がよく窺われる。三四句の敍述が、特色があつてよい。
 
1217 玉つ島 見てし善《よ》けくも 吾はなし。
 京《みやこ》に行きて 戀ひまく思へば。
 
 玉津島《タマツシマ》 見之善雲《ミテシヨケクモ》 吾無《ワレハナシ》
 京往而《ミヤコニユキテ》 戀幕思者《コヒマクオモヘバ》
 
【譯】玉津島を見ても、わたしはよくはなかつた。京に歸つてから戀しいだろうと思うので。
【釋】見之善雲吾無 ミテシヨケクモワレハナシ。ミテシのシは強意の助詞。ヨケクは、善いことで、見たこ(362)とを幸いとすること。「石根《いはね》さくみてなづみ來し、吉《よ》けくもぞなき」(卷二、二一〇)のヨケクモゾナキと同樣の云い方である。句切。
 戀幕思者 コヒマクオモヘバ。玉津島の好風景を戀うことを豫想している。
【評語】玉つ島の佳景を讃嘆するために、わざと逆語を試みている。作爲に過ぎた表現には、同感をなし得ない。
 
1218 黒牛《くろうし》の海 紅にほふ。
 ももしきの 大宮人し、
 あさりすらしも。
 
 黒牛乃海《クロウシノウミ》 紅丹穗經《クレナヰニホフ》
 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人四《オホミヤビトシ》
 朝入爲良霜《アサリスラシモ》
 
【譯】黒牛の海は紅色に輝いている。大宮に仕える人が漁りをしているらしい。
【釋】黒牛乃海 クロウシノウミ。和歌山縣海南市黒江の海。黒牛のような巨岩でもあつて、この名が出たのだろう。
 紅丹穗經 クレナヰニホフ。ニホフは、色の映發するをいう。宮女たちの赤裳が目につくので、この句がある。句切。
 百礒城乃 モモシキノ。枕詞。
 大宮人四 オホミヤビトシ。大宮人は、ここでは主として宮女をいう。シは、強意の助詞。
 朝入爲良霜 アサリスラシモ。アサリは、干潟におり立つて魚貝海藻などを採取すること。
【評語】黒牛の海の名は、恠奇の感を與える。作者もその名に興味を感じて、初句に据えたのであろう。二句の紅は、初句の黒に對して、意識して置かれている。その海に大宮人のおり立つている樣に興じている作で、(363)大寶二年の行幸の時の歌、「黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳《たまも》裾引《すそひ》き行くは誰が妻」(卷九、一六七二)の影響を受けている。なおこの歌以下七首は、藤原の卿の作で、行幸の御供をして詠んだ歌と推測される。藤原の卿については、その左註の文の條に記す。
 
1219 若の浦に 白浪立ちて、
 沖つ風 寒き暮《ゆふべ》は、
 大和し念《おも》ほゆ。
 
 若浦尓《ワカノウラニ》 白浪立而《シラナミタチテ》
 奧風《オキツカゼ》 寒暮者《サムキユフベハ》
 山跡之所v念《ヤマトシオモホユ》
 
【譯】若の浦に白浪が立つて、沖の方の風の寒い夕方は、大和が思われる。
【釋】若浦尓 ワカノウラニ。若の浦は、和歌山市南方の和歌の浦に同じ。
 奧風 オキツカゼ。海上で吹く風。
 山跡之所念 ヤマトシオモホユ。シは、強意の助詞。
【評語】家郷を思う情が、美しい詞句で表現されている。海上を吹く風の膚寒いことを敍しているのは、神龜元年十月の行幸の時の作であるかも知れない。志貴の皇子の「葦邊行く鴨の羽がひに霜ふりて寒き夕は大和し念ほゆ」(卷一、六四)と四五句を同じくしている。
 
1220 妹がため 玉を拾《ひり》ふと、
 紀の國の 由良《ら》の岬《みさき》に
 この日暮らしつ。
 
 爲v妹《イモガタメ》 玉乎拾跡《タマヲヒリフト》
 木國之《キノクニノ》 湯等乃三埼二《ユラノミサキニ》
 此日鞍四通《コノヒクラシツ》
 
【譯】わが妻のために玉を拾うとして、紀の國の由良の岬で、この一日を暮らした。
(364)【釋】爲妹 イモガタメ。家に殘つている妻のために。
 玉乎拾跡 タマヲヒリヒフト。玉は、玉にする材料の貝や石など。
 木國之 キノクニノ。キノクニは古名。奈良時代の初めに至つて、紀伊の國の字を當て、なおキノクニの讀法を存していた。
 湯等乃三埼二 ユラノミサキニ。ユラは、和歌山縣日高郡由良の地。その突角に。
 此日鞍四通 コノヒクラシツ。この日の暮に至つたことを敍している。
【評語】事を敍しただけであるが、若干の風情がないでもない。恩に著せたような云い方をしているのは、その妹に贈つた歌だからであろう。下に「殊が爲|菅《すが》の實採りに行く吾を山路にまどひこの日暮らしつ」(卷七、一二五〇)がある。
 
1221 わが舟の 楫《かぢ》はな引きそ。
 大和より 戀ひ來《こ》し心
 いまだ飽かなくに。
 
 吾舟乃《ワガフネノ》 梶者莫引《カヂハナヒキソ》
 自2山跡1《ヤマトヨリ》 戀來之心《コヒコシココロ》
 未v飽九二《イマダアカナクニ》
 
【譯】わたしの船の楫を動かすな。大和から思つて來た心はまだ滿足しないのだ。
【釋】梶者莫引 カヂハナヒキソ。楫を引くとは、楫を引き動かして舟を漕ぐこと。「安佐奈藝爾《アサナギニ》 可治比伎能保理《カヂヒキノボリ》」(卷二十、四三六〇)などある。句切。
 戀來之心 コヒコシココロ。この地の景を思慕してきた心である。
【評語】佳景に接して去りかねる心が詠まれている。紀伊の國の沿岸を舟行している時の作。
 
(365)1222 玉つ島 見れども飽かず。
 いかにして 裹《つつ》み持ち行かむ。
 見ぬ人のため。
 
 玉津島《タマツシマ》 雖v見不v飽《ミレドモアカズ》
 何爲而《イカニシテ》 裹持將v去《ツツミモチユカム》
 不v見人之爲《ミヌヒトノタメ》
 
【譯】玉つ島は見ても飽きない。どのようにして包んで持つて行こう。見ない人のために。
【釋】裹持將去 ツツミモチユカム。玉つ島をつつみにして持つて行こうかの意。句切。
 不見人之爲 ミヌヒトノタメ。見ヌ人は、この景を見ない人で、奈良に殘した妻をいう。
【評語】 「伊勢の海の沖つ白浪花にもが。包みて妹が家裹《いへづと》にせむ」(卷三、三〇六)など、自然の景を愛するあまり、おみやげにしたいという歌は他にもあつて、人情の自然であるが、作爲の跡のあることは否めない。
 
1194 紀の國の 雜賀《さひか》の浦に いで見れば、
 海人《あま》の燈火《ともしび》 浪の間《ま》ゆ見ゆ。
 
 木國之《キノクニノ》 狹日鹿乃浦尓《サヒカノウラニ》 出見者《イデミレバ》
 海人之燎火《アマノトモシビ》 浪問從所見《ナミノマユミユ》
 
【譯】紀伊の國の雜賀の浦に出て見れば、海人の漁火が浪のまを通して見える。
【釋】狹日鹿乃浦尓 サヒカノウラニ。サヒカの浦は、山部の赤人の歌に「左日鹿野由《サヒカノユ》 背匕爾所v見《ソガヒニミユル》」(卷六、九一七)とあつた左日鹿野の浦で、普通雜賀の字を使う。和歌の浦の海岸で、神龜元年の行幸には、此處に行宮を造營された。
 浪間從所見 ナミノマユミユ。波間を通して漁火の見えることを敍している。
【評語】これも神龜元年の行幸の時の作であろう。平易な歌で、若干の情趣もある。
 
1195 麻衣《あさごろも》 著《け》ればなつかし。
(366) 紀の國の 妹背の山に
 麻|蒔《ま》く吾妹《わぎも》。
 
 麻衣《アサゴロモ》 著者夏樫《ケレバナツカシ》
 木國之《キノクニノ》 妹背之山二《イモセノヤマニ》
 麻蒔《アサマク・アサマケ》吾妹《ワギモ》
 
【譯】わたしは麻の衣を著ているのでなつかしく思われる。紀伊の國の妹背の山に、麻をお蒔きなさい、あなた。
【釋】麻衣著者夏樫 アサゴロモケレバナツカシ。紀伊の國は、麻裳ヨシの枕詞を有しているくらいに、麻の産地であつたので、麻衣に寄せて思いを陳べるに至つたのであろう。ケレバは、著ルに助動詞リの已然形の接續した條件法。作者が麻衣を著ているので、妹背の山附近の麻の耕作になつかしさを感じたのである。句切。
 麻蒔吾妹 アサマクワギモ。ヲマケワキモコ(元)、アサマケワカイモ(神)、アサマケワキモ(西)、アサマクワギモ(略)。略解にアサマクワギモとしたのは、實景とするので、麻をまく娘子によびかけたとする。この歌、前からの關係上、神龜元年十月り作らしく、そうとすれば麻を蒔く季節でない。また旅先から愛人に贈つたものとも見られるので、アサマケであるかもしれない。
【評語】麻をまく娘子に對して輕く戯れたものと解せられる。麻衣につけて麻になつかしさをおぼえた構想は、特色があるが、表現は十分でない。麻を蒔くことに、特別の意味があるのだろうか。今これを審かにし得ない。
 
右七首者、藤原卿作。未v審2年月1。
 
【釋】右七首者 ミギナナツハ。前述のように、この七首については、後世に起つた錯簡《さつかん》があるので、歌の番號通りにならない。番號では黒牛の海(一二一八)から玉津島(一二二二)までの五首と、木の國の(一一九四)、麻衣(一一九五)の二首とである。これはいずれも紀伊の國での作であり、多分神龜元年十月の行幸に從つて、その地に赴き、妻のもとに送り來したものと考えられる。
(367) 藤原卿 フヂハラノマヘツギミ。誰とも知られない。契沖は「藤原卿といへるは、藤原北卿と云へる北の字落ちたる歟。大織冠ならば内大臣藤原卿と云ふべし。藤原卿とのみ云ひては南卿北卿わかれず。南卿は武智麻呂なり。武智麻呂は和歌に不堪なりける歟。集中一首もなければ北卿なるべしとは云ふなり」と云つている。北卿は房前である。房前は、卷の五に、大伴の旅人から琴を贈られたのに對する返書があり、その中に歌一首を載せている。わたしは麻呂かと思う。麻呂が神龜元年の行幸に供奉して、旅先から愛人なる大伴の坂上の郎女に贈つたもので、その頃、兩人のあいだに關係があつたのだろうと考える。本卷は大伴氏と關係が深いので、その縁でここにはいつているのであろう。
 
1196 裹もがと 乞《こ》はば取らせむ。
 貝拾ふ われをぬらすな。
 沖つ白浪。
 
 欲2得裹1登《ツトモガト》 乞者令v取《コハバトラセム》
 貝拾《カヒヒリフ》 吾乎沾莫《ワレヲヌラスナ》
 奧津白浪《オキツシラナミ》
 
【譯】おみやげをと言つたら渡してやろう。貝を拾うわたしを濡らすなよ。沖の白浪よ。
【釋】欲得裹登 ツトモガト。欲得裹は、漢文ふうに書いている。
 乞者令取 コハバトラセム。家なる人が乞わばである。句切。
 貝拾 カヒヒリフ。貝は、玉の材料のために拾われる。
【評語】ここにも家へのみやげを心懸けている旅人の姿が描かれている。すなおな作である。
 
1197 手に取るが 故《から》に忘ると
 海人《あま》のいひし
(368) 戀忘れ貝、言《こと》にしありけり。
 
 戀忘貝《コヒワスレガヒ》 言二師有來《コトニシアリケリ》
 手取之《テニトルガ》 柄二忘跡《カラニワスルト》
 礒人之曰師《アマノイヒシ》
 
【譯】手に取るだけで、戀を忘れると海人の言つた戀忘れ貝は、名前だけだつた。
【釋】手取之柄二忘跡 テニトルガカラニワスルト。カラは、理由、故。手に取つた、それだけのゆえに忘れるというの意。ワスルは、戀を忘れること。「一重山《ヒトヘヤマ》 越我可良爾《コユルガカラニ》」(卷六、一〇三八)、「爾波爾多知《ニハニタチ》 惠麻須我可良爾《ヱマスガカラニ》」(卷十四、三五三五)。
 礒人之曰師 アマノイヒシ。礒人は、義をもつてアマの語に當てている。
 戀忘貝 コヒワスレガヒ。既出(卷七、一一四七)。
【評語】手ニ取ルガカラニは、續いた句であるのに、これを二句に分かつているのは、諧調を缺く。この歌は、既出の「住吉に行くといふ道に昨日見し戀忘れ貝|言《こと》にしあけり」(卷七、一一四九)と類想で、同じく忘れ貝の名に寄せた作である。
 
1198 あさりすと 礒に住む鶴《たづ》、
 曉《あ》けゆけば、
 濱風寒み 自妻《おのづま》喚《よ》ぶも。
 
 求食爲跡《アサリスト》 礒二住鶴《イソニスムタヅ》
 曉去者《アケユケバ》
 濱風寒弥《ハマカゼサムミ》 自妻喚毛《オノヅマヨブモ》
 
【譯】餌を拾うために礒にいる鶴は、夜が明けて行くと、濱風が寒いので、自分の妻を呼んでいる。
【釋】求食爲跡 アサリスト。鶴の礒に住む理由を説明しているので、現に食餌をあさつているのではない。
 礒二住鶴 イソニスムタヅ。スムは、そこを棲處としている意。
 曉去者濱風寒弥 アケユケバハマカゼサムミ。夜の明け行くにつれて、濱吹く風が寒いので。
【評語】礒邊の曉を詠んでいる。作者自身の家郷の戀しさを、鶴に寄せている。曉ケユケバ濱風寒ミが、この(369)歌の特有の情景である。既出の「夕凪ぎにあさりする鶴潮滿てば沖浪高み己妻《おのづま》呼ばふ」(卷七、一一六五)と同趣で、それぞれに興趣がある。
 
1199 藻苅舟《めかりぶね》 沖こぎ來《く》らし。
 妹が島 形見《かたみ》の浦に
 鶴《たづ》翔《かけ》る見ゆ
 
 藻苅舟《メカリブネ》 奧榜來良之《オキコギクラシ》
 妹之島《イモガシマ》 形見之浦尓《カタミノウラニ》
 鶴翔所v見《タヅカケルミユ》
 
【譯】海藻を刈る舟は、沖を漕いでくるらしい。妹が島の形見の浦に、鶴の飛び立つのが見える。
【釋】藻苅舟 メカリブネ。若布などを刈る舟。下に「海藻苅舟《メカリブネ》」(一二二七)ともある。
 奧榜來良之 オキコギクラシ。オキは、舟の榜いでいる處をさす。沖の方で舟が漕いでくるようだ。句切。
(370) 妹之島形見之浦尓 イモガシマカタミノウラニ。妹が島、形見の浦、共に所在未詳。紀伊國名所圖會に、妹が島は、由良海峽の友が島の古名とし、形見の浦は、加太町のあたりとしている。
 鶴翔所見 タヅカケルミユ。藻刈り舟が漕いできたので、鶴が飛び立つたのだろうと推量するのである。
【評語】よく海上の情趣を描いている。使用した地名も美しい地名で、この情趣にふさわしいものがある。
 
1200 わが舟は 沖ゆな離《さか》り。
 迎へ舟 片待ちがてり、 
 浦ゆ榜《こ》ぎ會《あ》はむ。
 
 吾舟者《ワガフネハ》 從奥莫離 オキユナサカリ
 向舟《ムカヘブネ》 片待香光《カタマチガチリ》
 從v浦榜將v會《ウラユコギアハム》
 
【譯】わたしの舟は、沖を通つて離れるな。向こうから來る舟を待ちながら、浦を通つて漕ぎ合うことにしよう。
【釋】從奥莫離 オキユナサカリ。ユは、を通過して。沖の方を通つて。句切。
 向舟 ムカヘブネ。ムカヘブネ(元)、ムカヒブネ(古義)。「宇美邊欲利《ウミベヨリ》 牟可倍母許奴《ムカヘモコヌカ》 安麻能都里夫禰《アマノツリブネ》」(卷十八、四〇四四)とあるによれば、ムカヘブネであろう。向こうからくる舟。
 片待香光 カタマチガテリ。動詞にカタの冠せられる場合は、カタ聞ク、カタ去ル、カタ敷ク、カタ就ク、カタ設《マ》ク等がある。これらのカタは、かたよるの義で、一方に偏ることをいうようである。よつてカタ待ツも、一方に偏つて待つの意と解してよい。ガテリは、カタハラで、片待ツを本意とし、一方では漕ぎあおうの意を示す。「梅花《ウメノハナ》 咲散苑爾《サキチルソノニ》 吾將v去《ワレユカム》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 片待香花光《カタマチガテリ》」(卷十、一九〇〇)。
 從浦榜將會 ウラユコギアハム。ウラユは、上のオキユに對しており、浦を通つての意を示している。
【評語】海上を舟行する時の作で、意のある所を歌の形で示したまでである。舟漕ぐ人に歌いかけたように言(371)つているのは、船上の作のしばしば行う所である。
 
1201 大海の 水底とよみ 立つ浪の、
 寄らむと思へる 礒の清《さや》けさ。
 
 大海之《オホウミノ》 水底豐三《ミナソコトヨミ》 立浪之《タツナミノ》
 將v依思有《ヨラムトオモヘル》 礒之清左《イソノサヤケサ》
 
【譯】大海の底も鳴り響いて立つ浪の、寄せようと思つている礒の清らかなことだ。
【釋】水底豐三 ミナソコトヨミ。トヨミは、音響を立てるをいう。以上二句、立つ浪の説明で、實景である。三句までを序と見る説があるが誤りである。
【評語】荒礒に浪のうち寄せる壯大性が描かれている。さつぱりしたよい歌だ。下に「大海の礒もとゆすり立つ波の、寄らむと念へる濱のきよけく」(一二三九)という類歌がある。
 
1202 荒礒《ありそ》ゆも まして思へや
 玉の浦の 離れ小島《こじま》の
 夢《いめ》にし見ゆる。
 
 自2荒礒1毛《アリソユモ》 益而思哉《マシテオモヘヤ》
 玉之裏《タマノウラノ》 離小島《ハナレコジマノ》
 夢石見《イメニシミユル》
 
【譯】荒礒よりも一層思うゆえか、玉の浦の離れ小島が夢に見えることだ。
【釋】自荒礒毛益而思哉 アリソユモマシテオモヘヤ。荒礒を思う、それよりもまさつて思えばにや。ユは比較の意を示す。
 玉之裏 タマノウラノ。人麻呂集所出の歌に、紀伊國作歌と題して、「吾戀《ワガコフル》 妹相左受《イモハアハサズ》 玉浦丹《タマノウラニ》 衣片敷《コロモカタシキ》 一鴨將v寐《ヒトリカモネム》」(卷九、一六九二)とあり、これも同じく紀伊の國であろう。その所在については、玉勝間に「那智山の下なる粉白《このしろ》浦といふところより、十町ばかり西南にあり。離小島といへるは、玉の浦の南の海中にちり(372)ぢりに岩あれば、それをいへるなるべし」と言つている。これは當つているか否かをあきらかにしないが、南方に失する嫌いがある。なお卷の十五の遣新羅使の一行の歌中にも玉の浦があるが、これは別地であろう。
【評語】夢にまで見たというので、古人の勝地を愛する心が窺われる。寓意があるという説もあるが、そうではあるまい。
 
1203 礒の上に 爪木《つまぎ》折り焚《た》き、
 汝《な》がためと わが潜《かづ》き來《こ》し
 沖つ白玉。
 
 礒上尓《イソノウヘニ》 爪木折燒《ツマギヲリタキ》
 爲v汝等《ナガタメト》 吾潜來之《ワガカヅキコシ》
 奧津白玉《オキツシラタマ》
 
【譯】礒の上で細い木を折つて焚いて、あなたのためにと、わたくしの潜つて採つて來ました海中の白玉です。
【釋】爪木折燒 ツマギヲリタキ。ツマギは、木のはしの義で、小枝などの細い薪。礒の上で爪木を焚くのは、海女が海中から上つて暖を取るためである。
 吾潜來之 ワガカヅキコシ。カヅキは、水中に潜り入るをいう。
 奥津白玉 オキツシラタマ。シラタマは、眞珠。
【評語】海女が海中から眞珠貝を採取する勞苦を歌つている。全釋にいうように、男が旅に得た眞珠を、妻に贈る時に、自分が苦勞して得たように歌つたのだとするのが當つているだろう。古人がいかに玉を愛したかを知つて味わうべきである。
 
1204 濱清み 礒にわが居《を》れば、
 見る者《ひと》は 白水郎《あま》とか見らむ。
(373) 釣《つり》もせなくに。
 
 濱清美《ハマキヨミ》 礒尓吾居者《イソニワガヲレバ》
 見者《ミルヒトハ》 白水郎可將v見《アマトカミラム》
 釣不v爲爾《ツリモセナクニ》
 
【譯】濱が清らかなので、わたしが礒におれば、見る人は海人とか見るだろう。釣もしないのだ。
【釋】見者 ミルヒトハ。ミルヒトハ(元)、ミムヒトハ(古葉)。下文のラムは、現在推量だからミルヒトハがよい。略解に、見の下に人の字脱かとあるが、このままでよい。
 白水郎可將見 アマトカミラム。ミラムは、動詞見ルに、助動詞ラムが接續している。句切。
【評】旅人がしきりに漁夫と見まちがえられることを氣にして歌を詠んでいる。旅人には、大宮人で文雅を解する人としての自尊心があつたからであろう。
 
1205 沖つ楫《かぢ》 漸漸《やくやく》しぶを、
 見まく欲《ほ》り わがする里の
 隱らく惜しも。
 
 奧津梶《オキツカヂ》 漸々志夫乎《ヤクヤクシブヲ》
 欲v見《ミマクホリ》 吾爲里乃《ワガスルサトノ》
 隱久惜毛《カクラクヲシモ》
 
【譯】沖を漕ぐ楫がだんだん骨が折れるが、見たいと思う里の隱れるのは惜しいことだ。
【釋】奥津梶 オキツカヂ。沖の方で漕ぐ楫。「奥津加伊《オキツカイ》 痛勿波禰曾《イタクナハネソ》」(卷二、一五三)。
 漸々志夫乎 ヤクヤクシブヲ。ヤクヤクは、漸次。ヤクを重ねた語。「漸々《ヤクヤクニ》 可多知都久保里《カタチツクホリ》」(卷五、九〇四)。ヤクヤクシブは、形容詞ヤクヤクシを動詞化したもの。だんだん沖の楫になつて行くをいう。ヲは、それだのにの意の助詞。
 欲見吾爲里乃 ミマクホリワガスルサトノ。ワガ見マクホリスル里ノで、里は、出發地をいう。
【評語】沖の方に漕ぎ離れゆく心が描かれている。里から離れ去りがたい別離の情が感じられる。初二句の表(374)現は巧みだ。
 
1206 沖つ波 邊《へ》つ藻|纏《ま》き持ち 寄り來《く》とも、
 君にまされる 玉寄らめやも。
 
 奧津波《オキツナミ》 部都藻纏持《ヘツモマキモチ》 依來十方《ヨリクトモ》
 君尓益有《キミニマサレル》 玉將v縁八方《タマヨラメヤモ》
 
【譯】沖の浪が、岸邊の海藻を卷いて持つて寄つて來ても、あなたにまさつた玉は寄せないでしよう。
【釋】部都藻纏持 ヘツモマキモチ。沖の方の波が、岸邊の海藻を打ち寄せることを、玉を手に纏く縁で、纏キ持チと云つている。
 君尓益有玉將縁八方 キミニマサレルタマヨラメヤそ。君以上の美玉は寄らないだろうという譬喩の表現である。
【評語】君よりもまさつた玉は寄らないだろうという譬喩の用法が、突然の感を與える。海濱に遊んだ、男子どうしの相聞の歌であろうが、作りすぎている。しかし時にとつての興趣は相當にあつたであろう。
 
一云、奧津浪《オキツナミ》 邊浪布敷《ヘナミシクシク》 緑來登母《ヨリクトモ》
 
一は云ふ、沖つ波 邊波しくしく 寄り來とも。
 
【釋】一云奥津浪邊浪布敷緑來登母 アルハイフ、オキツナミヘナミシクシクヨリクトモ。前の歌の三句までの別傳だが、三句は同一だから、結局初二句の相違である。シクシクは、重ね重ね。前の歌の方が巧みに歌われて特色がある。
 
1207 粟島《あはしま》に 漕ぎ渡らむと 思へども、
(375) 明石《あかし》の門浪《となみ》
 いまだ騷《さわ》けり。
 
 粟島尓《アハシマニ》 許枳將v渡等《コギワタラムト》 思鞆《オモヘドモ》
 赤石門浪《アカシノトナミ》
 未佐和來《イマダサワケリ》
 
【譯】粟島に漕いで渡ろうと思うけれども、明石海峽の浪が、まだ騷いでいる。
【釋】粟島尓 アハシマニ。粟島は既出(卷三、三五八)。明石海峽を渡つて行くべき處であることが知られる。阿波島で、四國のことだろう。
 赤石門浪 アカシノトナミ。アカシは、普通明石と書く。日本書紀にも赤石の文字が使われている。トナミは、海峽の浪。
 未佐和來 イマダサワケリ。イマダの下に打消の語を伴なわない例は、他にもある。「木末之於者《コヌレガウヘハ》 未靜之《イマダシヅケシ》」(卷七、一二六三)など。
【評語】明石海峽の海波を前にして詠んでいる。よく情景を併わせ得た作である。
 
1223 海《わた》の底 沖漕ぐ舟を、
 邊《へ》に寄せむ 風も吹かぬか。
 波立てずして。
 
 綿之底《ワタノソコ》 奧己具舟乎《オキコグフネヲ》
 於v邊將v因《ヘニヨセム》 風毛吹額《カゼモフカヌカ》
 波不v立而《ナミタテズシテ》
 
【譯】海上の沖を漕ぐ船を、岸邊に寄せる風も吹かないかなあ。波を立てないで。
【釋】綿之底 ワタノソコ。枕詞。海の底は深いとする所から、深い處の意のオキに冠し、そのオキを轉じて海上はるかの處の意に使用するものである。「海底《ワタノソコ》 奥津白浪《オキツシラナミ》 立田山《タツタヤマ》」(卷一、八三)、「和多能曾許《ワタノソコ》 意枳都布可延乃《オキツフカエノ》」(卷五、八一三)。
(376) 於邊將因風毛吹額 ヘニヨセムカゼモフカヌカ。沖の船を岸邊に寄せる風の吹かむことを願つている。ヌは打消の助動詞。カは疑問の助詞で、ヌカで願望になる。
【評語】波を立てないで風が吹いてくれという、無理な註文をしている。沖漕ぐ船を待つ人の歌である。
 
1224 大葉山 霞たなびき、
 さ夜|深《ふ》けて
 わが船|泊《は》てむ 泊《とまり》知らずも。
 
 大葉山《オホバヤマ》 霞蒙《カスミタナビキ》
 狹夜深而《サヨフケテ》
 吾船將v泊《ワガフネハテム》 停不v知文《トマリシラズモ》
 
【譯】大葉山には霞がかかつて居り、夜がふけてわたしの船のつくべき泊りを知らない。
【釋】大葉山 オホバヤマ。所在未詳。前後の歌に紀伊の國の作が多いので、これも紀伊の國かとされている。
 霞蒙 カスミタナビキ。新訓萬葉集にカスミカガフリの訓を出したのは、蒙の字に即して讀んだものであるが、同歌を卷の九に載せて、この句を霞棚引としているのによつて、ここにはカスミタナビキの訓に復歸することとする。
 停不知文 トマリシラズモ。船の碇泊すべき處を知らない心細さを詠んでいる。
【評語】舟行の人が、夜深くして海上に漂う心細さを詠んで、よくその感情を描いている。四五の二句は卷の九の一七一九の歌にも見えている。
【參考】重出。
  母山《オホバヤマ》 霞棚引《カスミタナビキ》 左夜深而《サヨフケテ》 吾舟將v泊《ワガフネハテム》 等萬里不v知母《トマリシラズモ》(卷九、」七三二)
 
1225 さ夜|更《ふ》けて 夜中《よなか》の潟《かた》に、
(377) おほほしく 呼びし舟人《ふなびと》、
 泊《は》てにけむかも。
 
 狹夜深而《サヨフケテ》 夜中乃方尓《ヨナカノカタニ》
 鬱之苦《オホホシク》 呼之舟人《ヨビシフナビト》
 泊兼鴨《ハテニケムカモ》
 
【譯】夜が更けて、夜中の潟で、こもつた聲で呼んでいた船人は、泊つたであろうか。
【釋】夜中乃方尓 ヨナカノカタニ。ヨナカは、夜の中頃とも取れるし、又夜中という地名とも取れる。もし地名とすれば、次の如き歌があるによつて近江の國であろうかとされている。「旅なれば三更《よなか》を指して照る月の高島山に隱らく惜しも」(卷九、一六九一)。地名でないとすると、初句との續きかたが變である。
 鬱之苦 オホホシク。ぼうつとしたはつきりしない意味の形容詞。海上で船人の呼ばわる聲でもあり、かつ何か事があつて呼ぶのであろうから、一層うつとうしいような明るくない聲なのであろう。
 泊兼鴨 ハテニケムカモ。海上で呼んでいた船人の上を推量している。
【評語】夜に入つた海上の情景が描かれている。作者の船は無事に陸地について、安心した氣もちの中に、他の船の行く先を心配している。
 
1226 神《みわ》が埼《さき》 荒石《ありは》も見えず 浪立ちぬ。
 何處《いづく》ゆ行かむ。
 避道《よきぢ》は無しに。
 
 神前《ミワガサキ》 荒石毛不v所v見《アリハモミエズ》 浪立奴《ナミタチヌ》
 從2何處1將v行《イヅクユユカム》
 與奇道者無荷《ヨキヂハナシニ》
 
【譯】神が崎は、荒い岩も見えないまで浪が立つた。どちらから行こうか、廻り道はないのに。
【釋】神前 ミワガサキ。「神之埼《ミワガサキ》 狹野乃渡爾《サノノワタリニ》」(卷三、二六五)と同處か。カミノサキともミワガサキとも讀める。
(378) 荒石毛不所見 アリハモミエズ。荒石は、アリソと讀まれていたが、アリハと讀むべきである。正倉院文書(大日本古文書八、九、十、十一)に、同一人と考えられる人を、己知荒石《コチノアリハ》、己知蟻石、己知安利芳、己智蟻礒、己智在羽、己智蟻羽、己智阿利波、己知在石、許智在石、己知有礒、許智蟻羽などと記している。これによつてコチノアリハという人があつて、荒石をアリハと讀むことが確かめられる。なお礒をもハに當てているのは注意すべきである。アリハは荒い岩石。荒礒が見えないよりは、荒石が見えないの方が、まさつている。
 從何處將行 イヅクユユカム。イヅクユは、どちらを通つて。句切。
 與寄道者無荷 ヨキヂハナシニ。ヨキヂは、避ける路。迂廻する路。「在乍毛《アリツツモ》 公之來《キミガキマサム》 曲道爲《ヨキミチニセム》」(卷十一、二三六三)の曲道は、ヨキミチと讀まれている。類聚名義抄、復道にヨキミチと訓している。
【評語】風波が烈しくなつて、岬角から歸る道を失つた状が歌われている。實感のよく出ている作である。この歌、荒石をアリハと讀むことによつて、一層その生命が躍動する。
 
1227 礒に立ち 沖邊を見れば、
 藻刈舟《めかりぶね》 海人《あま》榜《こ》ぎ出《い》づらし。
 鴨|翔《かけ》る、見ゆ。
 
 礒立《イソニタチ》奧邊乎見者《オキベヲミレバ》
 海藻苅舟《メカリブネ》 海人榜《アマコギ》出良之《イヅラシ・ヅラシ》
 鴨翔所v見《カモカケルミユ》
 
【譯】礒に立つて沖の方を見ると、海藻を刈る舟を、海人が漕いで出るらしい。鴨の飛び立つのが見える。
【釋】奥邊乎見者 オキベヲミレバ。オキベは、沖の方。「直向《タダムカフ》 三犬女乃浦能《ミヌメノウラノ》 奧部庭《オキベニハ》 深海松採《フカミルトリ》」(卷六、九四六)。
 海藻苅舟 メカリブネ。メは、若布、荒布などの海藻。
(379) 海人榜出良之 アマコギイヅラシ。このアマは海人の女子であろう。海藻を刈るのは、女子の業とされている。句切。以上二句、插入文で、奥邊ヲ見レバ鴨翔ル見ユと續く。
 鴨翔所見 カモカケルミユ。舟を榜ぎ出たのに驚いて鴨が立つたと見たのである。
【評語】美しい情景を描いている。「藻刈り舟沖榜ぎ來らし」(卷七、一一九九)の歌と同趣で、しかも別樣の味がある。鴨の飛ぶのを描いたのは珍しい。
 
1228 風早《かざはや》の 三穗の浦みを こぐ舟の、
 船人|動《さわ》く。
 浪立つらしも。
 
  風早之《カザハヤノ》 三穗乃浦廻乎《ミホノウラミヲ》 榜舟之《コグフネノ》
 船人動《フナビトサワク》
 浪立良下《ナミタツラシモ》
 
【譯】風の強い三穂の浦を漕ぐ舟の舟人が騷いでいる。浪が立つらしい。
【釋】風早之 カザハヤノ。三穂の浦の實際によつて冠したものであろう。「加麻※[白+番]夜能《カザハヤノ》 美保乃浦廻之《ミホノウラミノ》 白管仕《シラツツジ》」(卷三、四三四)。
 三穂乃浦廻乎 ミホノウラミヲ。三穂は、和歌山縣日高郡、今、三尾という。ウラミのミは、接尾語。
 船人動 フナビトサワク。フナビトサワク(細)、フナビトトヨム(新考)。動は、トヨムともサワクとも讀まれる。トヨムは、音響に言い、サワクは、音響と動作とを併わせいう。ここはサワクであろう。船人が立ち騷いでいるのである。句切。
【評語】船人の行動を敍して、海上の變化を推量している。躍動的な作品である。東歌に「葛飾《かづしか》の眞間《まま》の浦《うら》みを榜ぐ舟の船人さわく。浪立つらしも」(卷十四、三三四九)の歌があり、ただ地名をさし換えただけなのは、諸國に歌い傳えられていたことを語るのであろう。
 
(380)1229 わが舟は 明石の湖《みと》に 榜《こ》ぎ泊《は》てむ。 沖へな放《さか》り。
 さ夜|深《ふ》けにけり。
 
 吾舟者《ワガフネハ》 明石之《アカシノ》湖《ミト・ハマ》尓《ニ》 榜泊牟《コギハテム》
 奧方莫放《オキヘナサカリ》
 狹夜深去來《サヨフケニケリ》
 
【譯】わたしの舟は、明石の湊に漕ぎつこう。沖へは離れるな。夜が更けてしまつた。
【釋】明石之湖尓 アカシノミトニ。
  アカシノシマニ(元)
  アカシノウミニ(新訓)
  ――――――――――
  明且石之湖爾《アカシノシホニ》(類)
  明旦石之潮爾《アカシノハマニ》(西)
  明旦石之湖爾《アカシノミナトニ》(童)
  明旦石之滷爾《アカシノカタニ》(考)
  明石之浦爾《アカシノウラニ》(略、宣長)
 湖は集中ミナトと讀むべき處に使用されている。「吾船者《ワガフネハ》 枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》 榜將v泊《コギハテム》」(卷三、二七四)。元來この字は、水を圍む堰堤《えんてい》を意味するものであるから、ハマ(濱)として使用されたとも見られるが、ここはミナトの意である。佐竹昭廣氏は、倭名類聚鈔に「水門、後漢書(ニ)云(フ)、水門故處、皆在(リ)2河中(ニ)1。日本紀私記、水門、美度《ミト》」とあるのをあげて、湖をミトと讀む説(日本古語大辭典)を支持している。今これによる。明石ノミトは明石川の河口であろう。
 奥方莫放 オキヘナサカリ。ナサカリは、離れる勿れの意。句切。
【評語】舟人に呼びかけた形を採つている。夜は岸邊に寄せて假泊する習いなので、その意に歌つている。既に日暮れて海上航行の心細くなつた心がよく描かれている。高市の黒人の「わが舟》は比良《ひら》のみなとに漕ぎ泊《は》て(381)む。沖へなさかりさ夜|更《ふ》けにけり」(卷三、二七四)は、ただ地名が變わつているだけだ。船中、黒人の歌を歌い變えて吟誦したのであろう。
 
1230 ちはやぶる 金《かね》のみ埼を 過ぎぬとも、
 われは忘れじ。
 志珂《しか》の皇神《すめがみ》。
 
 千磐破《チハヤブル》 金之三埼乎《カネノミサキヲ》 過鞆《スギヌトモ》
 吾者不v忘《ワレハワスレジ》
 壯鹿之須賣神《シカノスメガミ》
 
【譯】おそろしい金のみ埼を過ぎたとしても、わたしは忘れない。この志珂の神樣を。
【釋】千磐披 チハヤブル。神威の激しく發揮する意に金のみ埼を修飾している。
 金之三埼乎 カネノミサキヲ。福岡縣|宗像《むなかた》郡北端の岬角。玄海灘に面し、航海の難所なので、ここに荒ぶる神があつて、その威を振うと信じられていたものと見られる。
 過鞆 スギヌトモ。まだ過ぎない中に、豫想して言つている。
 壯鹿之須賣神 シカノスメガミ。福岡縣博多灣頭の志賀島の神で、志賀の海《わたつみ》神社といい、海神をまつる。スメガミは、尊貴の神の稱。
【評語】海上を渡ろうとして志珂の神を祭つた時の歌である。神を祭つて航海の安泰を期した信仰が窺われる。
 
1231 天霧《あまぎら》ひ 日方《ひかた》吹くらし。
 水莖《みづくき》の 岡の水門《みなと》に
 波立ちわたる。
 
 天霧相《アマギラヒ》 日方吹羅之《ヒカタフクラシ》
 水莖之《ミヅクキノ》 岡水門尓《ヲカノミナトニ》
 波立渡《ナミタチワタル》
 
【譯】空がかき曇つて東風が吹くようだ。水莖の生えている岡の水門に波が立ち騷いでいる。
(382)【釋】天霧相 アマギラヒ。キラヒは、動詞キル(霧)の連續動作をあらわす。天が霧になつて。次の日方の吹くさまを説明する。
 日方吹羅之 ヒカタフクラシ。ヒカタは風位の名。太陽のある方から吹く風の義であろう。古く藤原の範兼は巽風(東南風)であるといい、藤原の清輔は坤風(西南風)であると云つている。風位考資料には、十四種に分類して、諸國の使用法を擧げている。今、この歌の詠まれている福岡縣における用法を見ると、北東風(福岡縣京都郡白川村)、東風(福岡縣若松市藤木、京都郡前田村〔これは日和の時〕、遠賀郡蘆屋町)、南東風(福岡縣遠賀都蘆屋町)とある。そのうち岡の水門の所在地である遠賀郡蘆屋町の用法は、この歌の解に對して有力である。句切。
 水莖之 ミヅクキノ。枕詞、瑞々しい莖の義で、その生えている處の意に岡に冠するのであろう。水城に冠するのは、同音によるものである(卷六、九六八)。
 岡水門尓 ヲカノミナトニ。岡の水門は、福岡縣遠賀郡遠賀川の河口。筑前國風土記に「塢※[舟+可]《をか》の縣《あがた》の東の側に近く、大江《おほえ》の口《くち》有り。名を塢※[舟+可]《をか》の水門《みなと》といふ。大船を容《い》るるに堪《た》へたり。」(もと漢文)とある。古代の要津であつたが、今は水が淺くなつた。
【評語】作者の位置は、陸上または船中のどちらかあきらかでないが、河口の水面を望見している。豪快な調子の出ている歌である。
 
1232 大海の 波はかしこし。
 然れども
 神を齋祀《いの》りて 船出《ふなで》せばいかに。
 
 大海之《オホウミノ》 波者畏《ナミハカツコシ》
 然有十方《シカレドモ》
 神乎齋祀而《カミヲイノリテ》 船出爲者如何《フナデセバイカニ》
 
(383)【譯】大海の波は恐ろしい。しかし神を祭つて船出をしたらどうだろう。
【釋】神乎齋祀而 カミヲイノリテ。
  カミヲイノリテ(元)
  カミヲタムケテ(元赭)
  ――――――――――
  神乎齋禮而《カミヲイノリテ》(類)
  神乎齋禮而《カミヲイハヒテ》(考)
  神乎齋禮而《カミヲマツリテ》(考)
 從來、カミヲイハヒテの訓が多く行われていたが、イハフは齋戒する意であつて、神ヲイハフとは云わない。よつて今、齋祀を義讀してカミヲイノリテと讀む。神威の發動を乞う意である。
 船出爲者如何 フナデセバイカニ。イカニは、いかにあらむの意。上にも出た。「平城有人之《ナラナルヒトノ》 待問者如何《マチトハバイカニ》」(卷七、一二一五)。これは待ち問わばいかにせむの意である。「榜間《コグホドモ》 極太戀《ココダクコホシ》 年在如何《トシニアラバイカニ》(卷十一、二四九四。)
【評語】傍人に歌いかけた調子である。神を信じていた生活が窺われる。しかし如何の如き語を使用したので、ひたすらな信念はあらわれていない。
 
1233 未通女《をとめ》らが 織る機《はた》の上を
 眞櫛《まぐし》もち かかげ栲島《たくしま》、
 波の間《ま》ゆ見ゆ。
 
 未通女等之《ヲトメラガ》 織機上乎《オルハタノウヘヲ》
 眞櫛用《マグシモチ》 掻上栲島《カカゲタクシマ》
 波間從所v見《ナミノマユミユ》
 
【譯】娘たちが織る機の上を、櫛で掻きあげてたかねる。その名の栲島が浪の間から見える。
【釋】未通女等之織機上乎眞櫛用掻上栲島 ヲトメラガオルハタノウヘヲマグシモチカカゲタクシマ。カカゲまでは、タクと言うための序である。マグシは櫛に同じ。マは接頭語。織る機の絲を、亂れないように、櫛で(384)掻きあげる意で、タクに冠する。タクは、東ねる意。「多氣婆奴禮《タケバスレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》 妹之髪《イモガカミ》 比來不v見爾《コノゴロミヌニ》 掻入津良武香《カキレツラムカ》」(卷二、一二三)。栲島は、諸國にあつて、所在不明。タクは樹名。タコの木ともいう。樹幹の下部に、多數の氣根を生ずる。南洋の産であるが、漂流して往々内地南方の島に自生する。なお出雲國風土記島根郡の條に「〓〓《たこ》島。島の周り一十八里一百歩、高さ三丈あり。古老の傳へに云へらく、出雲の郡の杵築《きづき》の御埼に〓〓あり。天の羽々鷲《はばわし》掠《と》り持ち飛び來てこの島に止まりき。故《かれ》、〓〓《たこ》島といふ。今の人猶誤りて栲島《たくしま》といふ」(もと漢文)とあり、往々にしてこの歌の栲島とする説がある。
 波間從所見 ナミノマユミユ。波間を通して見える。
【評語】序がいかにも巧みに懸けられている。興味本位の歌である。
 
1234 潮早み 礒みに居《を》れば、
 あさりする 海人《あま》とや見らむ。
 旅行く我を。
 
 鹽早三《シホハヤミ》 礒廻荷居者《イソミニヲレバ》
 入潮爲《アサリスル》 海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》
 多比由久和禮乎《タビユクワレヲ》
 
【譯】潮が早いので、礒におれば、漁りをする海人と見るだろうか。旅行をするわたしなのだが。
【釋】鹽早三礒廻荷居者 シホハヤミイソミニヲレバ。潮の流れが早くて船を出すことができないで、礒邊にいるのである。
 入潮爲 アサリスル。
  カヅキスル(元)
  アサリスル(類)
  ――――――――――
  朝入爲《アサリスル》(略、宣長)
(385) 入潮は、漢文ふうに書いている。義をもつてアサリと讀む。
 海人鳥屋見濫 アマトヤミラム。ミラムは、人が見るだろうと推量している。句切。
 多比由久和禮乎 タビユクワレヲ。ヲは、感動の助詞で、それだのにの意を含む。
【評語】海人とまちがえられることを氣にしている意味の歌は、上來しばしば出た。これもその一つである。初二句に、この歌における、作者の特殊の位置が描かれている。
 
1235 波高し。
 いかに楫取《かぢとり》、
 水鳥の 浮宿《うきね》やすべき。
 なほや榜《こ》ぐべき。
 
 浪高之《ナミタカシ》
 奈何梶執《イカニカヂトリ》
 水鳥之《ミヅトリノ》 浮宿也應v爲《ウキネヤスベキ》
 猶哉可v榜《ナホヤコグベキ》
 
【譯】浪が高い。何と船頭さん、水鳥のように浮寐をしたものか。もつと漕いで行くものか。
【釋】奈何梶執 イカニカヂトリ。イカニは、呼びかけてたずねる語。「乞如何《イデイカニ》 吾幾許戀流《ワガコギコフル》」(卷十二、二八八九)の如何の如き用法である。カヂトリは、楫を執る人で、船人。それに呼びかけている。
 水鳥之 ミヅトリノ。枕詞。譬喩によつて浮寐に冠している。
 浮宿也應爲 ウキネヤスベキ。ベキは、することを可とすべきの意。句切。
【評語】船人に問いかける形をもつて、船上の不安を歌つている。初句で切り、二句で呼びかけ、また四句と五句とに同形の文をもつてしている。短文を積み重ねた形で、急迫した語調で、よく表現している。同音、および同型の句の重出が、極めて快く響いている。しかも三句の水鳥ノの枕詞も、この場合、情趣を作るに役立つてむだでない。
 
(386)1236 夢《いめ》のみに 繼《つ》ぎて見えつつ、
 小竹《しの》島の 礒越す波の、
 しくしく 念ほゆ。
 
 夢耳《イメノミニ》 繼而所v見《ツギテミエツツ》
 小竹島之《シノジマノ》 越v磯波之《イソコスナミノ》
 敷布所v念《シクシクオモホユ》
 
【譯】夢ばかりに續いて見えて、小竹島の礒を越す波のように、重ね重ね思われる。
【釋】繼而所見小竹島之 ツギテミエツツシノジマノ。
  ツギテミユレバササシマノ(元)
  ツギテミエツツシヌジマノ(新訓)
  ――――――――――
  繼而所見八竹島之《ツギテミユレバタカシマノ》(略、宣長)
  繼而所見乍竹島之《ツギテミエツツタカシマノ》(古義)
 ツツに當る文字はないが、「曉之《アカトキノ》 夢所v見乍《イメニミエツツ》 梶島乃《カヂシマノ》 石超浪乃《イハコスナミノ》 敷弖志所v念《シキテシオモホユ》」(卷九、一七二九)の類歌によつて讀み添える。思う人が夢に見えるのである。シノジマは、松田好天氏の説に、愛知縣|渥美《あつみ》灣の篠島だろうという。小竹は、集中、ササともシノとも讀んでいる。
 越礒波之 イソコスナミノ。越礒は、漢文ふうに書いている。以上二句、插人句で、シクシクというための序。
 敷布所念 シクシクオモホユ。シクシクは、重なる意の動詞を重ねている。
【評語】旅中の風物に寄せて家郷を思う情が描かれている。郷愁の溢れている作である。
 
1237 靜けくも 岸には波は 寄りけるか。
 これの屋《や》通《とほ》し、聞きつつ居《を》れば。
 
 靜母《シヅケクモ》 岸者波者《キシニハナミハ》 縁家留香《ヨリケルカ》
 此屋通《コレノヤトホシ》 聞乍居者《キキツツヲレバ》
 
【譯】しずかにも岸には波はうち寄せたことだ。この家越しに聞いていると。
(387)【釋】靜母 シヅケクモ。シヅカニモ(元)。シヅケクは、形容詞シヅケシの副詞形。
 縁家留香 ヨリケルカ。カは、感動の助詞。句切。
 此屋通 コレノヤトホシ。作者は屋内にいて、その家越しに波の音を聞いている。
【評語】海溝の家にあつて、しずかに寄せる波の音を聞いている。極めて落ちついた作であつて、天地間の靜寂がしみじみと味わわれる。
 
1238 高島の 阿渡《あと》白波は 動《さわ》けども、
 吾は家思ふ。
 廬《いほり》悲しみ。
 
 竹島乃《タカシマノ》 阿戸白波者《アトシラナミハ》 動友《サワケドモ》
 吾家思《ワレハイヘオモフ》
 五百入鉋染《イホリカナシミ》
 
【譯】高島の阿渡川の白波は騷ぐけれども、わたしは家を思つている。小舍がけが悲しいので。
【釋】竹島乃阿戸白波者 タカシマノアトシラナミハ。タカシマノアトは、滋賀縣高島郡の阿渡で、今、安曇川《あとがわ》という。その川の白波である。
 動友 サワケドモ。サハケドモ(元)、トヨメドモ(西)。音を立てて流れている。ドモは、それを別にして他事をいう場合に使用される。川波は騷いでいる。だがそれとかかわりなしにの意である。「小竹之葉者《ササノハハ》 三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》 亂友《サヤゲドモ》 吾者妹思《ワレハイモオモフ》 別來禮婆《ワカレキヌレバ》」(卷二、二二三)のドモの用法に同じ。
 五百入鉋染 イホリカナシミ。イホリは、旅の小舍に入ること。鉋染は訓を借りて悲シミを表示している。旅の小舍住みが心悲しいので。
【評語】川渡の立ち騷ぐあたりの假廬の心ぼそさが強く表示されている。「高島之《タカシマノ》 阿渡川波者《アトカハナミハ》 驟鞆《サワケドモ》 吾者家思《ワレハイヘオモフ》 宿加奈之彌《ヤドリカナシミ》」(卷九、一六九〇)と同歌であつて、それを歌い傳えたものである。卷の九のは、人麻呂集(388)所出の歌であるから、その方が原歌であろう。卷の九の方が、詞句に眞實味があつてよい。二句もやはり阿渡川波というのがほんとうだろう。白波は印象的ではあるが、白波が騷ぐという言いかたは、正確ではない。
 
1239 大海の、礒もとゆすり 立つ波の、
 寄らむと念へる 濱のきよけく。
 
 大海之《オホウミノ》 礒本由須理《イソモトユスリ》 立波之《タツナミノ》
 將v依念有《ヨラムトオモヘル》 濱之淨奚久《ハマノキヨケク》
 
【譯】大海の礒の根もとを動かし立つ浪の、寄ろうと思つている濱の清らかであることよ。
【釋》礒本由須理 イソモトユスリ。イソモトは、礒の底部。ユスリは、動搖せしめる。地の底から搖り動かして。次の立つ波の壯大性を形容している。
 將依念有 ヨラムトオモヘル。波が寄ろうと思つているので、波を意力あるもののように取り扱つている。
 濱之淨奚久 ハマノキヨケク。ハマノキヨケク(元)、ハマノサヤケク(西)。淨奚久は、サヤケクとも讀まれるが、淨の字は、集中、淨之宮など、普通にキヨに當てられているので、キヨケクの訓がよい。奚はケの甲類の字で、サヤケシなどいう場合のケとは、音の種類が違う。キヨケクは、清くあることの意の體言である。
【評語】この歌は、上出の「大海の水底《みなそこ》とよみ立つ波の寄らむと思へる礒のさやけさ」(卷七、一二〇一)と詞句がほとんど同一である。大きくうち寄せる波の有樣がよく描かれており、特にこの歌では、礒モトユスリ立ツ波の句が強く響いている。
 
1240 珠《たま》くしげ み諸戸山《もろとやま》を 行きしかば、
 おもしろくして いにしへ念《おも》ほゆ。
 
 珠匣《タマクシゲ》 見諸戸山矣《ミモロトヤマヲ》 行之鹿齒《ユキシカバ》
 面白四手《オモシロクシテ》 古昔所v念《イニシヘオモホユ》
 
【譯】美しい櫛笥を見る。その見諸戸山を行つたところ、興が深くして昔のことが思われる。
(389)【釋】珠匣 タマクシゲ。枕詞。美しい串笥《くしげ》で、これを見るというので、ミの音に冠するのだろう。
 見諸戸山矣 ミモロトヤマヲ。見諸戸山は、所在不明。三輪山の別名、御諸山に同じともいうが確かではない。
 面白四手 オモシロクシテ。オモシロクは、新撰字鏡に「※[言+慈]、市貴(ノ)反、※[立心偏+可]怜也。心樂(シキ)也。於毛志呂志《オモシロシ》」とあつて、感興に堪えない状をいう。「阿那禮《アハレ》 阿那於茂志呂《アナオモシロ》」(古語拾遺)、「耶麻古曳底《ヤマコエテ》 于瀰倭※[手偏+施の旁]留騰母《ウミワタルトモ》 於母之樓枳《オモシロキ》 伊麻紀能禹智播《イマキノウチハ》 倭須羅〓麻旨珥《ワスラユマシジ》」(日本書紀一一九)、「於毛思路伎《オモシロキ》 野乎婆奈夜吉曾《ノヲバナヤキソ》」(第十四、三四五二)などあり、また集中、※[立心偏+可]怜をオモシロクまたオモシロミと讀んでいる例(卷四 七四六、卷七、一〇八一)がある。
 古昔所念 イニシヘオモホユ。このイニシヘは、物語などに傳えられた昔のことであろう。
【評語】すなおな歌である。山を愛し、山に親しんでいた生活の産物である。
 
1241 ぬばたまの 黒髪山を 朝越えて、
 山下露に ぬれにけるかも。
 
 黒玉之《ヌバタマノ》 玄髪山乎《クロカミヤマヲ》 朝越而《アサコエテ》
 山下露尓《ヤマシタツユニ》 沾來鴨《ヌレニケルカモ》
 
【譯】まつ黒な黒髪。その黒髪山を朝越えて、山の木の下露に濡れたことだなあ。
【釋】黒玉之 ヌバタマノ。枕詞。
 玄髪山乎 クロカミヤマヲ。辰巳利文氏の説に、佐保山の一部に、今も黒髪山の名が殘つている、それであろうという。「烏玉《ヌバタマノ》 黒髪山《クロカミヤマノ》 山草《ヤマクサニ》 小雨零敷《コサメフリシキ》 益々所v思《シクシクオモホユ》」(卷十一、二四五六)。
 山下露尓 ヤマシタツユニ。ヤマシタツユは、山の樹木の下露をいう。
【評語】黒髪山の名が、特殊の連想を誘つている。朝山を越えて露に濡れたわびしさを歌つているが、表現は(390)それを興がつているように見られる。感じのよい歌である。
 
1242 あしひきの 山行き暮し 宿借らば、
 妹立ち待ちて 宿|借《か》さむかも。
 
 足引之《アシヒキノ》 山行暮《ヤマユキクラシ》 宿借者《ヤドカラバ》
 妹立待而《イモタチマチテ》 宿將v借鴨《ヤドカサムカモ》
 
【譯】山中を行つて日が暮れて宿を借りたら、わが妻が待つていて宿を貸すだろうか。
【釋】山行暮 ヤマユキクラシ。山中を旅行して、日ぐれになる意。
 妹立待而 イモタチマテテ。イモは、その宿に居る遊行女婦の類とする見方と、わが家に殘してきた妻をいうとする見方とがある。第三者の女子を妹と呼ぶことはあるが、なおこの語の本來の用法からいえば、愛人を呼ぶとするのが順當である。よつて妻の義とするがよい。
【評語】旅のさびしい行程の中に、妻の幻影を描いている。妻に迎えられて宿ろうという夢を描いているのがあわれである。旅に出かける時に、妻に與えて別れを悲しんだ歌としても情趣が深い。
 
1243 見渡せば 近き里みを、
 たもとほり 今ぞわが來る。
 禮巾《ひれ》振りし野に。
 
 視渡者《ミワタセバ》 近里廻乎《チカキサトミヲ》
 田本欲《タモトホリ》 今衣吾來《イマゾワガクル》
 禮巾振之野尓《ヒレフリシノニ》
 
【譯】見渡せば近い里なのだが、迂廻して今やつとわたしはきた。あの人が禮巾を振つて合圖をした野に。
【釋】視渡者近里廻乎 ミワタセバチカキサトミヲ。サトミのミは接尾語。里の彎曲していることを示す。ここは地勢に伴なつて、彎形をしている里である。見渡したところ、すぐ目の前に近く見える里である。
 田本欲今衣吾來 タモトホリイマゾワガクル。タモトホリは、ここでは迂廻しての意。道路のままに迂廻し(391)てくるのである。句切。
 禮巾振之野尓 ヒレフリシノニ。禮巾は、領巾に同じ。儀禮の巾の義によつて、禮巾と書いている。領巾は、女子の肩に掛ける巾であるから、それを振つたのは、女子であるが、かつて別れに際して妻の領巾を振つた野まで作者は迂廻してようやくたどりついたのである。
【評語】この旅人に對してかつて妻が領巾を振つた。いよいよわが家も近づいて山などから眺めた地にようやく來た心もちがよく描かれている。感情を露骨に出していないのがよい。
 
1244 未通女《をとめ》らが はなりの髪を木綿《ゆふ》の山、
 雲なたなびき。
 家のあたり見む。
 
 未通女等之《ヲトメラガ》 放髪乎《ハナリノカミヲ》 木綿山《ユフノヤマ》
 雲莫蒙《クモナタナビキ》
 家當將v見《イヘノアタリミム》
 
【譯】娘たちのおさげ髪を結うという、その木綿の山は、雲がかからないでくれ。わたしの家のあたりを見たい。
【釋】未通女等之放髪乎 ヲトメラガハナリノカミヲ。以上は、ユフ(結フ)を引き出すための序。少女は髪をおさげにしていた。年頃になると、上に擧げてつかねる。ハナリノカミは、つかねないで自由に放してある髪。
 木綿山 ユフノヤマ。大分縣|速見《はやみ》郡の由布山のこと。別府温泉の西方にそびえている。
 雲莫蒙 クモナタナビキ。蒙については、「大葉山《オホバヤマ》 霞蒙《カスミタナビキ》」(卷七、一二二四)參照。句切。
 家當將見 イヘノアタリミム。作者の家は、木綿の山のあなたにあると解するのが常識で、遠く故郷の空を眺めやつて作つたのだろう。
【評語】序の使いかたが巧みである。はなりの髪を結うような若い妻が、その家にいて、それを想起している(392)のかも知れない。旅情の描かれている作であるが、序が巧みにできているだけに、かえつてあかるい感じを抱かせる。
 
1245 志珂《しか》の白水郎《あま》の 釣船の綱
 堪《あ》へなくに、
 情《こころ》に念ひて 出でて來にけり。
 
 四可能白水郎乃《シカノアマノ》 釣船之※[糸+弗]《ツリブネノツナ》
 不v堪《アヘナクニ》
 情念而《ココロニオモヒテ》 出而來家里《イデテキニケリ》
 
【譯】志河の海人の釣をする船の綱が浪に堪えないように、こらえられないで、心に念つて出て來たことだつた。
【釋】四可能白水郎乃釣船之※[糸+弗] シカノアマノツリブネノツナ。シカは博多灣頭の志珂の島。釣船の綱は、その船をつないである綱であろう。さて波浪のために、その綱が今にも切れそうに見えるので、堪ヘナクニの序としている。
 不堪 アヘナクニ。堪フは、集中タフの假字書きはなく、アフの例は「安伎左禮婆《アキサレバ》 於久都由之毛爾《オクツユシモニ》 安倍受之弖《アヘズシテ》」(卷十五、三六九九)などある。この句は、本來堪えないことだの意に切れる語法であつたのだが、ここでは副詞句として下に接しているのであろう。思い堪えないことでの意。
 情念而 ココロニオモヒテ。愛人を思い、別離を悲しむ思いである。
 出而來家里 イデテキニケリ。ここに出てきたことをいう。
【評語】斷腸の思いを、釣船の綱の切れようとするさまによそえて詠んでいるのは巧みである。遊行女婦の類が出て來て詠んだのだろう。常用の歌かもしれない。「もみち葉の散らふ山邊ゆ榜ぐ船のにほひにめでて出でて來にけり」(卷十五、三七〇四)參照。
 
(393)1246 志珂《しか》の白水郎《あま》の 鹽燒く煙、
 風をいたみ 立ちはのぼらず、
 山に棚引く。
 
 之加乃白水郎之《シカノアマノ》 燒鹽煙《シホヤクケブリ》
 風乎疾《カゼヲイタミ》 立者不v上《タチハノボラズ》
 山尓輕引《ヤマニタナビク》
 
【譯】志珂の海人の鹽を燒く煙は、風が強いので、立ち昇らないで、山に棚引いている。
【釋】風乎疾立者不上 カゼヲイタミタチハノボラズ。風が強く煙を吹いて上昇せしめないのである。
 山尓輕引 ヤマニタナビク。タナビクは、横に懸かるをいう。
【評語】海濱の景觀がよく描かれている。率直に敍して、よくその眞を寫している。「繩《なは》の浦に鹽燒く煙夕されば行き過ぎかねて山に棚引く」(卷三、三五四)よりもまさつているのは、風の描寫があるからである。
 
右件歌者、古集中出
 
【釋】右件歌者古集中出 ミギノクダリノウタハフルキシフノナカニイヅ。右件歌とあつて、歌數を記さないので、どこまでがその中に入るか不明である。藤原卿作とある後を受けるとすれば、三十六首をさすことになる。その中にはすぐれた歌が多く、相當の人の集録であることを思わしめる。古集は、他に古歌集とあると同じものであろう。何人かの手録が、その人名を逸したものと考えられる。
 
1241 大穴道《おほあなみち》少御神《すくなみかみ》の 作らしし  妹勢の山は、見らくしよしも。
 
 大穴道《オホアナミチ》 少御神《スクナミカミノ》 作《ツクラシシ》
 妹勢能山《イモセノヤマハ》 見吉《ミラクシヨシモ》
 
【譯】オホナムチの神とスクナビコナの神とがお作りになつた妹の山と勢の山とは、見るのが樂しいことだ。
【釋】大穴道少御神 オホアナミチスクナミカミノ。オホアナミチは、オホナムチの命。日本書紀の自註に、(394)「大己貴、此《コヲバ》云《イフ》2於褒婀娜武智《オホアナムチト》1」とあるによつて、オホアナミチと讀む。古事記には「大穴牟遲神《オホアナムチノカミ》」とある。少御神は、スクナビコナの神。古事記中卷に「伊波多々須《イハタタス》 々久那美迦微能《スクナミカミノ》」(四〇)とある。この二神は、國土造營の神として知られている。出雲國風土記には、天の下逸らしし大神大穴持の命とある。
 作 ツクラシシ。作一字であるから、讀みようも樣々あるが、敬語であり、過去のことであるから、ツクラシシと讀む考の説が行われている。出雲國風土記には、五百箇《いほつ》の※[金+且]《すき》を取つて天の下をお作りになつたとある。
 妹勢能山 イモセノヤマハ。妹の山と勢の山とを併わせいう。山ヲとも讀めるが、山はと提示した方がよい。
 見吉 ミラクシヨシモ。これも何とも讀めるが、「平城之明日香乎 《ナラノアスカヲ》 見樂思好裳《ミラクシヨシモ》」(卷六、九九二)などの例による。
【評語】男女竝び立つ山の佳景に接して、これを讃嘆している。古代に思いを馳せて詠んでいるのが、靈妙の感を強くしている。以下人麻呂歌集所出で、字數をすくなく書いているのは、その原形のままを傳えたのであろう。それだけに讀み万に動搖を生じやすい。
 
1248 吾妹子と 見つつ偲《しの》はむ。
 沖つ藻の 花咲きたらば、
 われに告げこそ。
 
 吾妹子《ワギモコト》 見偲《ミツツシノハム》
 奧藻《オキツモノ》 花開在《ハナサキタラバ》
 我告與《ワレニツゲコソ》
 
【譯】わたしの妻だと思つて見ながら慕おうよ。水中の藻の花が咲いたら、わたしに知らせてください。
【釋】吾妹子 ワギモコト。これも助詞を添えて讀むのだが、結局代匠記の説のようにトを添えるのが穩當だろうということになる。吾妹子としての意。
 見偲 ミツツシノハム。シノハムは、思慕しようの意。
(395) 奧藻 オキツモノ。オキツモは、海上の沖の藻であり、また池川などにもいう。次の句に花咲キタラバとあるので、淡水産の藻の方が適當であるようだが、名ノリソ藻にも花咲クというので、何ともいえない。
 我告與 ワレニツゲコソ。與は、與えよの意をもつて、願望の助詞コソに當てたのであろう。「遊飲與《アソビノミコソ》」(卷六、九九五)、「爾保比與《ニホヒコソ》」(卷十、一九六五)など使用例が多い。
【評語】人麻呂集所出の歌には、「梓弓|引津邊《ひきつべ》にある名のりその花。採《つ》むまでに逢はざらめやも名のりその花」(卷七、一二七九)、「海の底沖つ玉藻の名のりその花。妹と吾此處にいかにありと名のりその花」(卷七、一二九〇)など、男女關係において名のりその花を詠んだ歌があり、これもそれらと關係のあるものであろう。推測すれば妻を亡つて後に詠んだものであるようだ。藻の花について、妻との思い出があるのだろう。しかしそれらの作歌事情が明白でないので、完全に歌意を釋することができない。
 
1249 君がため 浮沼《うきぬ》の池の 菱《ひし》採《つ》むと、
 わが染めし袖 ぬれにけるかも。
 
 君爲《キミガタメ》 浮沼池《ウキヌノイケノ》 菱採《ヒシツムト》
 我染袖《ワガシメシソデ》 沾在哉《ヌレニケルカモ》
 
(396)【譯】あなたのために、浮沼の池の菱を採むので、わたくしの染めた著物の袖は、濡れてしまいました。
【釋】浮沼池 ウキヌノイケノ。池の名であろうが、所在未詳。八雲御抄《やくもみしよう》に石見とあるが、疑わしい。
 菱採 ヒシツムト。ヒシは、ヒシ科の水生植物。葉及び莖は水上に浮かび、白色四辨の花をつけ、菱形の堅い皮におおわれた果實を結ぶ。果實の肉は白色で食料に供せられる。ヒシを採むとは、この果實を採取するのである。
 我染袖 ワガシメシソデ。色に染めた袖である。
【評語】女子の歌と解せられる。「君がため山田の澤に惠具《ゑぐ》採むと雪解《ゆきげ》の水に裳の裾濡れぬ」(卷十、一八三九)と同趣で、田舍びた風情を宿している。
 
1250 妹がため 菅《すが》の實|採《みと》りに
 行く吾《われ》を、
 山路にまどひ この日暮らしつ。
 
 妹爲《イモガタメ》 菅實採《スガノミトリニ》
 行吾《ユクワレヲ》
 山路惑《ヤマヂニマドヒ》 此日暮《コノヒクラシツ》
 
【譯】わが妻のために菅の實を採りに行くわたしなのだが、山路に迷つて、この日を暮らしてしまつた。
【釋】菅實採 スガノミトリニ。スガノミは、ヤマス(397)ゲの實、すなわちジヤノヒゲの實で、瑠璃色の小球である。夏季に成熟するが、これを採るのは、女子の装飾用のためと解せられる。
 行吾 ユクワレヲ。例によつて使用の字數がすくないので、讀み方が動搖する。今舊訓による。行く吾であるものを、それだのにの意である。
 山路惑 ヤマヂニマドヒ。ヤマヂは、山に向かう路をいうが、ここは山中の路である。
【評語】愛人のために骨を折つたことを歌つている。菅の實に添えて贈つた歌のようである。
 
右四首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右四首柿本朝臣人麻呂之歌集出 ミギノヨツハカキノモトノアソミヒトマロノウタノシフニイヅ。右の四首の出處を註したもので、※[羈の馬が奇]旅の作としてここに掲記したのであろうが、吾妹子の歌は、原集に※[羈の馬が奇]旅の作としてあつたものかおぼつかない。君ガタメの歌は、旅中で、娘子がヒシの實を出して歌つたものでもあろうか。これらによるに、人麻呂歌集に※[羈の馬が奇]旅の部があつたものであるかも知れない。
 
問答
 
【釋】問答 トヒコタヘ。問答の題は、このほかに卷の十、十一、十二、十三、十四にも見えており、卷の十二には問答歌ともある。また題詞ではないが、卷の四、六六七の左註に「聊(カ)作(リテ)2戯(ノ)歌(ヲ)1以爲(セリ)2問答(ヲ)1也」とあつて、かような場合に、問答をしたことが知られる。卷の五、山上の憶良の貧窮問答歌は、貧窮に關して問答をしたことに擬したもので、卷の十三には問答と題してあるもののほかに、一首で自問自答の形を採つたものがあり、そのほか、旋頭歌で自問自答になつているものもある。なおこの以下十七首は、古歌集所出の歌で、多分その(398)集に、既に問答の題が存していたのであろう。
 
1251 佐保河に 鳴くなる千鳥、
 何しかも
 川原《かはら》をしのひ、いや河のぼる。
 
 佐保河尓《サホガハニ》 鳴成智鳥《ナクナルチドリ》
 何師鴨《ナニシカモ》
 川原乎思努比《カハラヲシノヒ》 益河上《イヤカハノボル》
 
【譯】佐保川で鳴いている千鳥は、何だつて河原を慕つて、ますます川を登つて行くのですか。
【釋】鳴成智鳥 ナクナルチドリ。ナルは、その上の語の意を、たしかにそれと指定する助動詞。チドリは、相手の戯稱で、それを呼びかけている。
 何師鴨 ナニシカモ。シは強意の助詞で、これを使用することによつて、質問の意が一層強調される。カモは係助詞。
 川原乎思努比 カハラヲシノヒ。シノヒは、思慕する意。それに愛著を感ずるのである。
 益河上 イヤカハノボル。川原を慕つて上流の方へ登り行く意である。
【評語】寓意としては、自分を川原とし、相手が離れずにしばしば言い寄ることを歌つている。佐保川のほとりに住む女子の作と考えられる。
 
1252 人こそは 凡《おほ》にも言はめ。
 わがここだ しのふ川原を
 標《しめ》結《ゆ》ふな、ゆめ。
 
 人社者《ヒトコソハ》 意保尓毛言目《オホニモイハメ》
 我幾許《ワガココダ》 師努布川原乎《シノフカハラヲ》
 標結勿謹《シメユフナユメ》
 
【譯】人はかりそめにもいうでしようが、わたくしのたいへん愛している川原を、標繩を張つてしまわないで(399)ください。
【釋】人社者 ヒトコソハ。作者は千鳥になつて詠んでいるので、ヒトは、一般の人間だが、その中にも相手の女が中心になつている。
 意保尓毛言目 オホニモイハメ。オホは、疎略、等閑。川原について格別の情をもつていないだろうの意。
 我幾許 ワガココダ。ココダは、許多の意の副詞。
 師努布川原乎 シノフカハラヲ。シノフは、前の歌のシノフを受けている。その意に同じ。
 標結勿謹 シメユフナユメ。シメユフは、標繩を張つて占有を表示し、他の入るを禁ずるをいう。女が他人に許すことをいう。
【評語】作者は男子で、自分を千鳥であるものとして歌つている。兩者の密な關係が感じられる問答である。
 
右二首、詠v鳥
 
【釋】右二首詠鳥 ミギノフタツハトリヲヨメル。詠鳥とあるが、むしろ鳥に寄せた歌で、普通の詠物歌とは違う。
 
1253 樂浪《ささなみ》の 志賀津《しがつ》の白水郎《あま》は、
 吾《われ》無しに 潜《かづき》はな爲《せ》そ。
 浪立たずとも。
 
 神樂浪之《ササナミノ》思我津乃白水郎者《シガツノアマハ》
 吾無二《ワレナシニ》 潜者莫爲《カヅキハナセソ》
 浪雖v不v立《ナミタタズトモ》
 
【譯】樂浪の志賀津の海人は、わたしなしには水に入らないでください。よし浪が立たないでも。
【釋】神樂浪之 ササナミノ。ササナミは、神樂聲浪(卷七、一三九八)と書いたものがあり、その意によつ(400)て神樂浪と書いている。多くは更に略して樂浪と書いている。神樂のはやし詞にササというのであろう。琵琶湖南方一帶の地名。
 思我津乃白水郎者 シガツノアマハ。シガツは、志賀の津。相手を白水郎に譬えている。
 潜者莫爲 カヅキハナセソ。カヅキは水にはいつて貝などを採取すること。句切。
 浪雖不立 ナミタタズトモ。潜に適する状態であつても。
【評語】これも女子の作と考えられる。相手の男が漁色するのを、白水郎が潜をするのに替えている。その男は、近江の國の役人などであつたので、樂浪の地名を持ち出したのであろう。
 
1254 大船に 楫《かぢ》しもあらなむ。
 君無しに かづきせめやも。
 波立たずとも。
 
 大船尓《オホブネニ》 梶之母有奈牟《カヂシモアラナム》
 君無尓《キミナシニ》 潜爲八方《カヅキセメヤモ》
 波離v不v起《ナミタタズトモ》
 
【譯】大船に艪櫂もほしいものです。あなたなしには潜はいたしません。よし浪が立たないでも。
【釋】大船尓梶之母有奈牟 オホブネニカヂシモアラナム。梶は、船を漕ぐ道具だが、それがほしいというのは、君を乘せて共に潜に出かけようという意であろう。句切。
【評語】初二句が特色であるが、その表現は不十分で、思う心を明白にしていない。しかもこれを除いては、先方の歌に應じているだけで、何の手段もない。藝のない歌である。これも白水郎になつて詠んでいる。
 
右二首、詠2白水郎1
 
【釋】右二首詠白水郎 ミギノフタツハアマヲヨメル。これも白水郎に寄せた歌で、詠物の歌ではない。
 
(401)臨v時
 
【釋】臨時 トキニノゾメル。おりに觸れ、各種の時に當つての作で、集中他に見えない標目である。十二首の多くは、相聞の歌であるが、これも古歌集から來た題であろう。
 
1255 月草《つきぐさ》に 衣《ころも》ぞ染《し》むる。
 君がため 綵色《しみいろ》ごろも
 摺《す》らむと念ひて。
 
 月草尓《ツキグサニ》 衣曾染流《コロモゾシムル》
 君之爲《キミガタメ》 綵色衣《シミイロゴロモ》
 將v摺跡念而《スラムトオモヒテ》
 
【譯】月草に衣を染めた。あなたのために美しい色の著物を摺ろうと思つて。
【釋】月草尓衣曾染流 ツキグサニコロモゾシムル。ツキグサの花をしぼつて衣服を染めるのである。句切。
 綵色衣 シミイロゴロモ。綵は、色に染めた絲をいう字で、日本書紀に、シミ、またシミノキヌと訓しているのは、その意である。舊訓イロトルコロモとあるは、ややその意に近いが、略解などにマダラノコロモとあるは、その意を得なかつたのである。美しく染めた衣服である。
 將摺跡念而 スラムトオモヒテ。染料を摺りつけて染めるのを、摺ルという。
【評語】衣ゾ染ムルといい、摺ラムト念ヒテというのは、表現の重複で、くだくだしい。材料は女の手わざのいとなみを詠んでおり、女心のやさしみが描かれている。女子の作だろう。
 
1256 春霞 井《ゐ》の上ゆ直《ただ》に 道はあれど、
 君に逢はむと、たもとほり來《く》も。
 
 春霞《ハルガスミ》 井上從直尓《ヰノウヘユタダニ》 道者雖v有《ミチハアレド》
 君尓將v相登《キミニアハムト》 他廻來毛《タモトホリクモ》
 
(402)【譯】春霞のかかつている井の上を通つて、じかに行く道はあるけれども、あなたにお逢いしようと思つて、廻り道をしてきました。
【釋】春霞 ハルガスミ。枕詞。霞がヰルの意にヰに冠するが、實景を描いて枕詞に利用したものである。
 井上從直尓道者雖有 ヰノウヘユタダニミチハアレド。ヰノウヘは、約してヰノヘともいう。井の上方で、井が川ならば、その岸をいう。タダニは、直接に。
 他廻來毛 タモトホリクモ。タモトホリは、迂囘するをいう。
【評語】情趣のゆたかな歌である。初句の枕詞もよく利いている。井に水を汲む娘子の心が、よく描かれている。
 
1257 道の邊の 草深《くさふか》ゆりの 花|咲《ゑ》みに、
 咲《ゑ》まししからに 妻といふべしや。
 
 道邊之《ミチノベノ》 草深由利乃《クサフカユリノ》 花咲尓《ハナヱミニ》
 咲之柄二《ヱマシシカラニ》 妻常可云也《ツマトイフベシヤ》
 
【譯】道のほとりの草の深い中にあるユリの花の咲くように、につこりとお笑いになつただけで、妻といえるのでしようか。
【釋】草深由利乃 クサフカユリノ。草の深い處にあるユリの意。
 花咲尓。ハナヱミニ。ハナヱミは、花のつぼみがわれて咲くこと。そのようにの意で、以上三句は、譬喩である。
 咲之柄二 ヱマシシカラニ。ヱマシは、ヱムの敬語法。下のシは時の助動詞。カラは、ゆえに、それだのに、それだけだのにの意。あなたがお笑いになつたその事だけで。
 妻常可云也 ツマトイフベシヤ。ベシヤは、可能の反語。妻というべきでしようか、そんな事はないの意。(403)それだけでは妻として恃《たの》まれない心である。
【評語】美しい譬喩を用いており、全體としても含みのあるよい歌だ。これは多分男の歌であろう。
 
1258 黙然《もだ》あらじと ことの慰《なぐさ》に いふ言《こと》を、
 聞き知れらくは、あしくはありけり。
 
 黙然不v有跡《モダアラジト》 事之名種尓《コトノナグサニ》 云言乎《イフコトヲ》
 聞知良久波《キキシレラクハ》 少可者有來《アシクハアリケリ》
 
【譯】そのままにはいられませんと、慰め言にいうことを、聞いて承知していることも、よいことではありません。
【釋】黙然不有跡 モダアラジト。モダアラジは、こちらからの申し入れに對して、黙つていられない、そのままには過されないの意。
 事之名種尓 コトノナグサニ。コトノナグサは、言の慰で、言葉の上だけでの氣安めをいうこと。
 聞知良久波 キキシレラクハ。聞き知れることは。聞いて慰め言に過ぎないことを承知していることは。
 少可者有來 アシクハアリケリ。
  スクナカリケリ(元)
  ウベニハアリケリ(代精)
  ――――――――――
  少可有來《スクナカリケリ》(考)
  奇者有來《アヤシカリケリ》(略、宣長)
  苛曾有來《カラクゾアリケル》(古義)
  苛者有來《カラクハアリケリ》(新訓)
 少可は、不可に同じ。奇、苛等の誤字説があるが、このままでよい。「如v此許《カクバカリ》 令v戀波《コヒセシムルハ》 小可者在來《アシクハアリケリ》」(卷十一、二五八四)の小可も同じ。
【評語】これは男の歌で、かなり複雜な内容を、よく一首に纏めている。愚痴めいた言い方で、相手のいうこ(404)とを信じない語氣を漏らしている。
 
1259 佐伯山《さへきやま》 千《ちぢ》の花いし、
 あはれわれ 子をし取りては、
 花は散るとも。
 
 佐伯山《サヘキヤマ》 千花以之《チヂノハナイシ》
 哀我《アハレワレ》 子鴛取而者《コヲシトリテハ》
 花散鞆《ハナハチルトモ》
 
【譯】佐伯山のたくさんの花は、ああわたしは、その實をわがものにしたら、花は散つてもよい。
【釋】佐伯山 サヘキヤマ。所在未詳。攝津の國豐島郡にもと佐伯村あり、その地の山かというが不明。
 千花以之 チヂノハナイシ。千は、元暦校本による。チヂノハナは、千種の花。イシは、強意の助詞。多くの花を提示する。諸本に、千を于に作つて、ウノハナモタシ(西)、ウノハナモチシ(京赭)等の訓がある。これについて諸説があるが、首肯すべきものを見ない。今假に元暦校本によるのみである。元暦校本も訓はウノハナモテシである。
 哀我 アハレワレ。アハレワレ(元)、カナシキガ(代初)。カナシキガと讀むとすると、下の子を手に改めたくなる。文字に忠實なという點からいえば、アハレワレの方が近い。
 子鴛取而者 コヲシトリテハ。コは、實のことで、子の譬喩にしている。ミとも讀まれる。代匠記に子を手の誤りとしているが、從うべき理由を知らない。コヲトルとは、その人をわが物とするをいう。
 花散鞆 ハナハチルトモ。目的を達した上は、花は方便に過ぎない意をあきらかにしている。
【評語】おもしろそうな歌だが、訓詁に難點があつて、明白にされないところが殘るのは遺憾である。
 
1260 時ならず 斑《まだら》ごろもの 著|欲《ほ》しきか。
(405) 島の榛原《はりはら》 時にあらねども。
 
 不時《トキナラズ》 斑衣《マダラゴロモノ》 服欲香《キホシキカ》
 島針原《シマノハリハラ》 時二不v有鞆《トキニアラネドモ》
 
【譯】時節ではないがまだらの著物が著たいことだ。島のはぎ原は、花の時節ではないのだが。
【釋】不時 トキナラズ。トキナラヌとして、次の斑ゴロモを修飾するとも見られるが、なお第三句を修飾するものとしてトキナラズと讀むのがよかろう。その時節にあらずしての意である。
 斑衣 マダラゴロモノ。マダラは、染色の濃淡の一樣でないのをいう。梵語曼陀羅から出るというが疑わしい。雪の状態をいうハダラの語と關係があるのだろう。「伎倍比等乃《キベヒトノ》 萬太良夫須麻爾《マダラブスマニ》」(卷十四、三三五四)。
 服欲香 キホシキカ。カは感動の助詞。句切。
 島針原 シマノハリハラ。島は地名と見られる。「思子之《オモフコノ》 衣將v摺爾《コロモスラムニ》 爾保比與《ニホヒコソ》 島之榛原《シマノハリハラ》 秋不v立友《アキタタズトモ》」(卷十、一九六五)ともあり、また「橘之《タチバナノ》 島爾之居者《シマニシヲレバ》」(卷七、一三一五)ともある。ハリハラは、ハギの原である。
 時二不有鞆 トキニアラネドモ。時にあらずとは、ハギの花咲く時でないのをいう。ハギの花を染料として衣服を染めたいのだがの意である。
【評語】寓意のある歌のようである。まだ花のない頃に島のハギ原を通つて、思い寄せる所があつたのであろう。島のハギ原の描寫があつたら、よかつたであろう。
 
1261 山守《やまもり》の 里へ通ひし 山道ぞ、
 茂くなりける。
 忘れけらしも。
 
 山守之《ヤマモリノ》 里邊通《サトヘカヨヒシ》 山道曾《ヤマミチゾ》
 茂成來《シゲクナリケル》
 忘來下《ワスレケラシモ》
 
(406)【譯】山の番人の、里へ通つた山道が、草深くなつた。通うのを忘れてしまつたのだろう。
【釋】山守之 ヤマモリノ。ヤマモリは山の番人。ここでは自分のもとへ通つて來た人をさしているのだろう。
 里邊通 サトヘカヨヒシ。サトヘニカヨフ(類)、サトヘカヨヒシ(略)。山をおりて里へ通つた意。
 山道曾 ヤマミチゾ。ヤマミチは、ここでは道の性質を説明している。山の通路。
 茂成來 シゲクナリケル。シゲクは、草の茂くあるをいう。句切。
 忘來下 ワスレケラシモ。草の茂くなつたことによつて、通うことを忘れたためであろうと推量している。
【評語】詞句の表面だけを解しても、趣はあるが、やはり寓意があるのであろう。五句は、唐突のようで、それでも意味はわかる。投げつけたような句だ。
 
1262 あしひきの 山つばき咲く 八岑《やつを》越え、
 鹿《しし》待つ君が いはひ嬬《づま》かも。
 
 足病之《アシヒキノ》 山海石榴開《ヤマツバキサク》 八岑越《ヤツヲコエ》
 鹿待君之《シシマツキミガ》 伊波比嬬可聞《イハヒヅマカモ》
 
【譯】山の椿の咲く峰々を越えて、鹿のくるのを待つているあなたの大切にしている妻です。
【釋】足病之 アシヒキノ。枕詞。足を引く意に足病と書いているのだろう。それで、アシヒキノ病の意に、山に接するのだという説があるが、たまたま遊戯的に文字を使つたまでで、語義は別だろう。
 山海石榴開 ヤマツバキサク。ツバキは、倭名類聚鈔に「楊氏漢語抄(ニ)云(フ)、海石榴、和名、豆波岐《ツハキ》」とあり、椿の字は、中國の書籍にもあるが、ツバキに當てるのは日本で製した文字である。
 八岑越 ヤツヲコエ。ヤツヲは、多くの尾で、ヲは谷の反對の高い稜線をいう。
 鹿待君之 シシマツキミガ。シシマツは、鹿を獵するために待つをいう。
 伊波比嬬可聞 イハヒヅマカモ。イハヒヅマは、大切にしまつておく妻をいう。イハヒは、人に手もつけさ(407)せないように守る意に冠している。但し齋槻《イハヒツキ》(卷十一、二六五六)はあるが、イハヒヅマは他にない。
【評語】別に寓意はないのであろう。イハヒ嬬は、多分第三者から、ある女子をさしていうのであろう。上の四句に特色があり、イハヒ嬬もおもしろい語だ。
 
1263 曉《あかとき》と 夜烏《よがらす》鳴けど、
 この山上《をか》 木末《こぬれ》の上は、
 いまだ靜けし。
 
 曉跡《アカトキト》 夜烏雖v鳴《ヨガラスナケド》
 此山上之《コノヲカノ》 木末之於者《コヌレノウヘハ》
 未靜之《イマダシヅケシ》
 
【譯】曉だと夜カラスは鳴くけれども、この山の上の木々の枝先はまだ靜かだ。
【釋】曉跡 アカトキト。アカトキは明時の義で、夜明けをいう。「安香等吉《アカトキ》」(卷十五、三六二七)等、假字書きの例多く、「旭時《アカトキ》」(卷十一、二八〇〇)とも書いている。
 夜烏雖鳴 ヨガラスナケド。ヨガラスは、夜中に鳴くカラス。ここは明け方のカラスであるが、まだ暗いので、夜烏と云つている。
 此山上之 コノヲカノ。山上は、舊訓ヲカ、代匠記ミネである。また上は、義をもつて添えた字としてヤマとも讀まれる。ヲカの語が、ヲ(峯)の處の義ならば、山上の字はよく當る。
 木末之於者 コヌレノウヘハ。コヌレは、木の伸びた枝先。
 未靜之 イマダシヅケシ。まだ小鳥などの鳴き立てない情景である。これもイマダの下に打消を伴なつていない。
【評語】曉の靜寂を歌つたよい歌である。女のもとを出ようとする男の作であろう。なごり惜しさが、それと言わないで感じられる。
 
(408)1264 西の市に ただひとり出でて、
 眼《め》竝《なら》べず 買ひにし絹の
 商《あき》じこりかも。
 
 西市尓《ニシノイチニ》 但獨出而《タダヒトリイデテ》
 眼不v竝《メナラベズ》 買師絹之《カヒニシキヌノ》
 商自許里鴨《アキジコリカモ》
 
【譯】西の市にただひとりで出て、見てしらべないで買つた絹の、買いそこないをしたことだ。
【釋】西市尓 ニシノイチニ。平城の都には、東西に市があつた。その西の市である。東の市は、いまの奈良市|辰市《たつのいち》附近の地らしく、西の市は、天理市九條の田市の邊らしいという。東の市は、卷の三、三一〇参照。市は日を定めて諸人が集まつて賣買をする處。
 眼不竝 メナラベズ。眼を竝べないで。多數の人が見ないでで、よく見しらべないでの意になるのであろう。
 買師絹之 カヒニシキヌノ。カヒは、交換する義で、購入する意になる。古くは物を持つて行つて、所要の品と交換した。奈良時代には錢の通用も漸次行われた。
 商目許里鴨 アキジコリカモ。アキジコリは、アキとシコリとの熟語とする解が普通に行われている。アキは商賣、シコリは、凝り固まる意で、買いそこないの意であろうか。シコリは爲懲りであるかもしれない。「思咲八更々《シヱヤサラサラ》 思許理來目八面《シコリコメヤモ》」(卷十二・二八七〇)のシコリと同語で、しそこなう意だとされる。
【評語】寓意のある歌と考えられるが、譬喩に使つたものが奇警で、異色がある。市に出て絹を買うというによれば、女子の作で、配偶者とした男に不滿を感じているのであろう。
 
1265 今年行く 新島守《にひしまもり》が 麻衣《あさごろも》、
 肩の※[糸+比]《まよ]ひは 誰《たれ》かとりみむ
 
 今年去《コトシユク》 新島守之《ニヒシマモリガ》 麻衣《アサゴロモ》
 肩乃間亂者《カタノマヨヒハ》 許誰取見《タレカトリミム》
 
(409)【譯】今年代わつて行く新しい島守の兵士の麻衣の、肩のすき切れは、誰がつくろつてやるだろう。
【釋】今年去 コトシユク。兵士は、毎年三分の一ずつ交替せしめるので、今年代わつて行く兵士の意である。
 新島守之 ニヒシマモリガ。新しく代わつて行く島守である。島守は防人に同じ。シマモリとも言つたことは「八百日《やほか》行く濱の沙《まさご》もわが戀にあにまさらじか。沖つ島守」(巻四、五九六)などある。島守と書いてあるのは、シマモリと讀むがよい。サキモリには「也良之埼守《ヤラノサキモリ》」(卷十六、三八六六)など書いている。
 麻衣 アサゴロモ。麻は當時もつとも廣く用いられていた。
 肩乃間亂者 カタノマヨヒハ。マヨヒは、倭名類聚紗に「※[糸+比]|萬與布《マヨフ》、一(ニ)云(フ)、與流《ヨル》。※[糸+曾]《キヌ》欲(スル)v壞(レント)也」とある。織物の絲が寄つて穴を生じてくるをいう。「白細之《シロタヘノ》 袖者間結奴《ソデハマユヒヌ》」(巻十二、二六〇九)、「多母登乃久太利《タモトノクダリ》 麻欲比伎爾家利《マヨヒキニケリ》」(卷十四、三四五三)などある。カタノマヨヒは、衣服の肩のあたりがほつれてきたのである。
 誰取見 タレカトリミム。トリミムは、取リ見ムで、ここはつくろおうの意。病を看護することをもトリミルというので、管理し保全する意の語である。
【評語】あらたに兵士としていで立つ人を送る人の作であろう。初二句は客觀性がつよい。家庭にあつて妻や母などが處理していた衣服の上を案じて、遠く旅立つ人を思う情をあらわしている。眞實味に富んだ作である。
 
1266 大船を 荒海《あるみ》に榜《こ》ぎ出で
 彌船《やふね》たけ、
 わが見し兒《こ》らが 目見《まみ》は著《しる》しも。
 
 大舟乎《オホブネヲ》 荒海尓榜出《アルミニコギイデ》
 八船多氣《ヤフネタケ》
 吾見之兒等之《ワガミシコラガ》 目見者知之母《マミハシルシモ》
 
【譯】大船を荒海に漕ぎ出して、いよいよ漕ぎあおつて、そのようにしてわたしの見たあの子の顔は忘れがたい。
(410)【釋】荒海尓榜出 アルミニコギイデ。アルミは、アラウミの約言。「大船乎《オホブネヲ》 安流美爾伊太之《アルミニイダシ》」(卷十五、三五八二)の例がある。
 八船多氣 ヤフネタケ。ヤは彌で、タケにかかる。土佐日記に「ゆくりなく風吹きて、たけども、しりへしぞきにしぞきて、ほとほとしくうちはめつべし」とあり、船を漕ぎあおるをいう。以上譬喩で、苦勞を積んでの意にいっている。
 吾見之兒等之 ワガミシコラガ。ラは接尾語で、コラは、その人とさしていう人がある。
 目見者知之母 マミハシルシモ。マミは、目で見る義で、目つき顔つきである。シルシは、明白である意で、その容貌がはつきりして、目先に見えて忘れられないのである。目見は、他に所見のない語である。
【評語】この歌も、譬喩が奇警である。いかにも難儀をして逢つた樣子が歌われている。作者が荒海の航行に經驗を持つているのであろう。ヤ船タケ、目見ハシルシなど、他に所見のない特殊の詞句を使つていることも注意される。
 
就v所發v思 旋頭歌
 
【釋】就所發思 トコロニツキテオモヒヲオコセル。ある處に赴いて思いを發した意で、同じ題目は、他にはない。卷の十二には、※[羈の馬が奇]旅發思があり、趣は同様である。
 旋頭歌 セドウカ。五七七、五七七の二段六句體の歌をいい、この體の歌は、既に前に出た(卷四、五二九、卷六、一〇一八)。但し旋頭歌の名は、これが初見である。
 
1267 ももしきの 大宮人の 踏みし跡所。
(411) 沖つ波 來寄らざりせば、
 失《う》せざらましを。
 
 百師木乃《モモシキノ》大宮人之《オホミヤビトノ》踏跡所《フミシアトドコロ》
 奧浪《オキツナミ》 來不v依有勢婆《キヨラザリセバ》
 不v失有麻思乎《ウセザラマシヲ》
 
【譯】宮廷にお仕えする人の踏んだ跡の處だ。沖の浪が來て寄せなかつたら消えなかつたろうものを。
【釋】百師木乃 モモシキノ。枕詞。
 大宮人之 オホミヤビトノ。オホミヤビトは、宮廷奉仕の人。男女ともにいう。
 踏跡所 フミシアトドコロ。かつて歩を印した場處の意。句切。旋頭歌は、すべて第三句で切れるのを通則とする。
 不失有麻思乎 ウセザラマシヲ。事實失せてしまつたのだが、失せなかつたであろうと假設して云つている。残念に思うのである。
【評語】どこかの海濱で、往時を思つて詠んでいる。ひとり自然に對して、過去の一事を追憶した作である。感慨無量なのであろうが、表現は切迫していない。旅中の一興趣という程度である。
 
右十七首、古歌集出
 
【釋】右十七首 ミギノトヲアマリナナツハ。問答の歌以下をさしている。これらの分類は、多分原資料の古歌集のままであろう。この十七首の中には、すぐれた歌の多數を含んでいる點が注意される。時代については、西の市が奈良時代のものと推測されるだけである。
 
1268 兒らが手を 卷向《まきむく》山は 常にあれど、
 過ぎにし人に 行き纏《ま》かめやも。
 
 兒等手乎《コラガテヲ》 卷向山者《マキムクヤマハ》 常在常《ツネニアレド》
 過往人尓《スギニシヒトニ》 往卷目八方《ユキマカメヤモ》
 
(412)【譯】あの子の手を枕にする。その名も纏向山は變わらないであるが、死んだ人には、もう行つてその手を纏くよしもないことだ。
【釋】兒等手乎 コラガテヲ。枕詞。かの人の手を身に纏くというので、卷向山に冠している。この句は、下の過ギニシ人の性質からくる連想である。
 卷向山者 マキムクヤマハ。卷向山は、三輪山の東方に續いている山。
 常在常 ツネニアレド。ツネは、常在の義。山容は昔ながらにあるをいう。
 過往人尓 スギニシヒトニ。スギニシヒトは、死去した人をいう。この世を過ぎ去つた人の意である。ここでは作者の愛人をさしている。
 往卷目八方 ユキマカメヤモ。往きてその人の手を卷くことはあるまいの意。故人に再会する機會会のないことを歌つている。
【評語】人麻呂歌集には、他にも亡き妻を悼む意の歌が多くあり、それらと共に見るべき作品である。これは人麻呂の經歴を語るものと考えられる。この歌は、亡き妻に對する哀惜の情が強く燃えている。初句の枕詞もよく利いて、全體に響いている。山容昔ながらにして、人は遠く去つて歸らない情が、躍如として寫されてる。
 
1269 卷向《まきむく》の 山邊とよみて 行く水の、
 水泡《みなわ》のごとし。
 世の人われは。
 
 卷向之《マキムクノ》 山邊響而《ヤマベトヨミテ》 往水之《ユクミヅノ》
 三名沫如《ミナワノゴトシ》
 世人吾等者《ヨノヒトワレハ》
 
【譯】卷向の山邊に鳴り響いて流れて行く水の泡のようなものだ。世の人であるわたしたちは。
(413)【釋】山邊響而 ヤマベトヨミテ。トヨミテは、物音を立てて。鳴り響いて。
 往水之 ユクミヅノ。ユクミヅは、川で、穴師川をいう。
 三名沫如 ミナワノゴトシ。ミナワは、水の泡。人生のはかないことを泡沫に譬えている。佛典の句から出ている。「水沫奈須《ミナワナス》 微命母《イヤシキイノチモ》」(卷五、九〇二)。
 世人吾等者 ヨノヒトワレハ。吾等は、世人一般にわたる意をもつて書いている。
【評語】前の歌と併わせて連作を成している。作者の愛人は、穴師川のほとりに住んでいたので、この詠をなしたと考えられる。佛教の無常思想を受けているが、人麻呂集には、往々にしてかような類が見られる。 
 
右二首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右二首 ミギノフタツハ。兒ラガ手ヲ、卷向ノの二首をさす。この二首は、就所發思の題のもとに置かれているが、人麻呂歌集からきた題であるかどうかは不明である。
 
寄v物發v思
 
【釋】寄物發思 モノニヨセテオモヒヲオコセル。事物に寄せて思いを發した由の題で、ここには月に寄せて詠まれている。やはり古歌集から出た題目であろう。卷の十一、十二には、寄物陳思の題がある。
 
1270 こもりくの 泊瀬の山に 照る月は、
 盈《み》ち昃《か》けしけり。
 人の常無き。
 
 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬之山丹《ハツセノヤマニ》 照月者《テルツキハ》
 盈昃爲焉《ミチカケシケリ》
 人之常無《ヒトノツネナキ》
 
(414)【譯】山にこもつた土地である泊瀬の山に照る月は、満ちたり缺けたりする。人の無常なのも、その通りだ。
【釋】隱口乃 コモリクノ。枕詞。
 泊瀬之山丹 ハツセノヤマニ。泊瀬の山は、作者の位置から仰がれる山なので擧げたのであろう。但し、墓所である關係から擧げたのだろうともいう。
 盈昃爲焉 ミチカケシケリ。昃は、日の西に傾く義の字であるが、ここは轉じて月の缺けるをいう。滿ち缺けすると決定的に言つて、嗟嘆の意をあらわしている。これで月も常無きことを描いている。句切。焉は寫本の字形では烏と區別が困難である。考は、寛永版本に烏に作るによって、ミチカケスルヲと讀んでいる。
【評語】これも佛教の無常思想を詠んでいる。作者に特に無常を感じさせる子細があつたのであろう。歌は理くつに墮しており、興趣に乏しいが、特にコモリクノ泊瀬ノ山を點出したのは、具體的で、その月を眺めている心が出てよい。
 
右一首、古歌集出
 
 
行路
 
【釋】行路 タビ。旅行の路上にあつて歌つたもの。人麻呂集から來ている題であろう。
 
1271 遠くありて 雲居に見ゆる 妹が家に、
 早くいたらむ。
 歩め、黒駒。
 
 遠有而《トホクアリテ》 雲居尓所v見《クモヰニミユル》 妹家尓《イモガイヘニ》
 早將v至《ハヤクイタラム》
 歩黒駒《アユメクロコマ》
 
(415)【譯】遠くであつて、遙かの空に見えるわが妻の家に、早く行きたいものだ。あるけ、黒駒よ。
【釋】遠有而雲居尓所見妹家尓 トホクアリテクモヰニミユルイモガイヘニ。遙遠の天に見える妹が家にの意であるが、その家の形が見えるわけではなく、その家のある山などが見えるのをいうのである。
 歩黒駒 アユメクロコマ。乘つている黒い馬に命令している。
【評語】歸心矢の如き情がよく歌われている。馬の歩みのもどかしい心である。
【参考】別傳。
  ま遠くの雲ゐに見ゆる妹が家にいつか到らむ。歩めわが駒。(巻十四、三四四一)
 
柿本朝臣人麻呂歌集に曰はく、遠くして。又曰はく、歩め黒駒。
 
右一首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出 ミギノヒトツハカキノモトノアソミヒトマロノウタノシフニイヅ。すぐ次に續いて人麻呂歌集所出の歌が出るのに、別にこれを註記した理由はわからない。事によると、後になつて、そのいずれかが入れられたものであろうか。
 
旋頭歌
 
【釋】旋頭歌 セドウカ。旋頭歌は、歌體の名稱であるが、この處、および卷の十、十一では、分類の標目として使用されている。ここのは、雜歌と相聞の歌とが混じている。二十四首の二十三首までは、人麻呂歌集所出であるが、人麻呂集でも、既に旋頭歌のみ一處に集めてあつたのであろう。
 
(416)1272 劔大刀 鞘《さや》ゆ納野《いりの》に 葛《くず》引く吾妹《わぎも》。
 ま袖もち 著せてむとかも、
 夏草刈るも。
 
 劔《ツルギタチ》 從v鞘納野迩《サヤユイリノニ》 葛引吾妹《クズヒクワギモ》
 眞袖以《マソデモチ》 著點等鴨《キセテムトカモ》
 夏草苅母《ナツクサカルモ》
 
【譯】劔は鞘を通つてはいるのだが、その入野にクズを引いているわが妻よ。兩袖のある著物を著せようとてか夏草を刈つている。
【釋】劔從鞘納野迩 ツルギタチサヤユイリノニ。仙覺本には從を後に作つてタチノシリサヤニイリノニと訓している。鞘に入れた劔は、その鞘の部分をタチノシリというのだろうが、刀身そのものをタチノシリとは云われないであろう。今元暦校本等に後を從に作るによる。サヤユまでは、序である。サヤユは、鞘を通つての意。イリノは、道路から横に入り込んだ野をいい、現に地方に殘つている語であつて、單にイリともいう。
 葛引吾妹 クズヒクワギモ。クズは蔓性の草本で、その皮を採つて織物の材料とする。そのクズを採取するをヒクという。麻引くの類である。ワギモは婦人に對する愛稱。句切。
 眞袖以 マソデモチ。マソデは兩袖。この句はすぐ次の著セテムに懸かると見るのが順當である。眞袖のある衣服を著せようの意である。
 著點等鴨 キセテムトカモ。自分に著せようとてか。
 夏草苅母 ナツクサカルモ。夏草刈ルは、上の葛引クを語を變えて云つている。
【評語】道の邊にクズを引いている娘子に歌いかけたような所がある。吾妹は、わが妻というほどの關係が成立しているわけでもなかろう。この歌を始め、この一連の旋頭歌には、農耕に關することが比較的多いことが注意をひく。葛引クと夏草刈ルと、語を變えたのは、女のはたらきを、立體的に描寫するものとしての效果が(417)ある。全體に輕いあかるい性質の歌である。
 
1273 住吉《すみのえ》の 波《なみ》づま公《きみ》が 馬乘衣《うまのりごろも》。
 さひづらふ 漢女《あやめ》を坐《ま》せて
 縫へる衣ぞ。
 
 住吉《スミノエノ》 波豆麻公之《ナミヅマキミガ》 馬乘衣《ウマノリゴロモ》
 雜豆臈《サヒヅラフ》 漢女乎座而《アヤメヲマセテ》
 縫衣敍《ヌヘルコロモゾ》
 
【譯】住吉の海邊に住んでいるあなたの乘馬服です。言葉の騷々しい漢國の女を住ませて縫つた著物です。
【釋】波豆麻公之 ナミヅマキミガ。波豆麻は未詳の語。地名としてハヅマノと讀む説もあるが、根據はない。今假に波の夫の義に釋しておく。公の字は男子である場合に使う。
 馬乘衣 ウマノリゴロモ。馬に乘る時の衣服で、これを提示している。
 雜豆臈 サヒヅラフ。枕詞。囀ルの連續動作を示す語。漢女の性質を敍して枕詞としている。意味のわからない語をよくしやべる樣を描いている。遠藤嘉基博士は、八十卷本新譯華嚴經音義私記に「邊呪語、古經云、鬼神邊地語、佐比豆利」とあるをあげて、邊土の人の言語をサヒヅリと言つたことを證明している。(訓點資料と訓點語の研究)。
 漢女乎座而 アヤメヲマセテ。アヤメは漢土の女。織縫の技にすぐれていた。日本書紀雄略天皇の卷に「身狹《むさ》の村主《すぐり》青等《あをら》、呉《くれ》の國の使と共に、呉の獻れる手末《たなすゑ》の才伎《てひと》漢織《あやはとり》呉織《くれはとり》及び衣縫兄媛弟媛《きぬぬひえひめおとひめ》等を將《ゐ》て、住吉《すみのえ》の津《つ》に泊《は》つ」とある。それらの子孫か又は新來の者であろう。マセテは、居させて。
【評語】大陸ふうの乘馬服のりつぱなのを褒めている。大陸の文化にあこがれていた思想が窺われる。住吉邊の豪族の生活が歌われているのであろう。
 
(418)1274 住吉《すみのえ》の 出見《いづみ》の濱の 柴な刈りそね。
未通女等《をとめら》が 赤裳の裾の
ぬれてゆかむ見む。
 
 住吉《スミノエノ》 出見濱《イヅミノハマノ》 柴莫苅曾尼《シバナカリソネ》
 未通女等《ヲトメラガ》 赤裳下《アカモノスソノ》
 閏將v往見《ヌレテユカムミム》
 
【譯】住吉の出見の濱の柴を刈らないでください。娘さんの赤い裳の裾の波に濡れて行くのを見よう。
【釋】出見濱 イヅミノハマノ。イデミノハマノ(元)、イヅミノハマノ(略)、イデミルハマノ(略)。出見は舊訓イデミだが、そういう地名は殘つていない。むしろイヅミと讀んで、泉の地の義とすべきである。泉の地は、住吉の南方に績いており、住吉ではないが、住吉の地から見渡される濱なので、これを冠したのである。「妹門《イモガカド》 入出見川乃《イリイヅミガハノ》」(卷九、一六九五)の出見は、國名ではなく、川の名であるが、やはりイヅミにあてている。
 柴莫苅曾尼 シバナカリソネ。シバは小枝の集まりで、灌木などの叢をいう。句切。
 未通女等 ヲトメラガ。ヲトメは若い女。土地の娘子か、行幸の御供の大宮人か不明。
 赤裳下 アカモノスソノ。裳は女子の下半身につける衣裳。赤いのを通例とする。
 閏將往見 ヌレテユカムミム。海濱づたいに行くので、波に濡れるのである。
【評語】肉感的な興味を歌つている。旅の一日の興趣である。
 
1275 住吉《すみのえ》の 小田《をだ》を刈らす子、
奴《やつこ》かも無き。
奴《やつこ》あれど、妹が御《み》ために 私田《わたくしだ》刈《か》る。
 
 住吉《スミノエノ》 小田苅爲子《ヲダヲカラスコ》
 賤鴨無《ヤツコカモナキ》
 奴雖v在《ヤツコアレド》 妹御爲《イモガミタメニ》 私田苅《ワタクシダカル》
 
(419)【譯】住吉の田をお刈りになつている方は、奴が無いのですか。奴はありますが、わが妻の御ために私有の田を刈るのです。
【釋】小田苅爲子 ヲダヲカラスコ。小田は、田の愛稱。カラスは、刈ルの敬語。コは愛稱。その人を呼びかけている。
 賤鴨無 ヤツコカモナキ。賤は賤民で、奴婢《ぬひ》家人《けにん》の類をいう。句切。
 妹御爲 イモガミタメニ。イモは愛人をいう。
 私田苅 ワタクシダカル。私田は、個人に屬している田で、口分田《くぶんでん》、位田《いでん》、職田《しきでん》等以外の、自家の開墾した田をいう。
【評語】自問自答の形を採つている。秋田におり立つて稻を刈つている自分の姿をえがいて、これも誰ゆえという自嘲の意が感じられる。變わつた題材を取り扱つている歌である。
 
1276 池の邊《べ》の 小槻《をつき》が下《した》の
 細竹《しの》な刈りそね。
 其《そ》をだに 君が形見に 見つつ偲《しの》はむ。
 
 池邊《イケノベノ》 小槻下《ヲツキガシタノ》
 細竹苅嫌《シノナカリソネ》
 其谷《ソヲダニ》 公形見尓《キミガカタミニ》 監乍將v偲《ミツツシノハム》
 
【譯】池のほとりの槻の木の下の小竹を刈らないでください。せめてそれを、その方の形見として、見つつ思つていましよう。
【釋】小槻下 ヲツキガシタノ。ヲは愛稱の接頭語。
 細竹苅嫌 シノナカリソネ。嫌は嫌う意味で、禁止の意に使用している。日本靈異記また類聚名義抄に、嫌に、ソネムの訓があり、訓による縁もあつて借りたのだろう。次の歌にもこの字が使われ、上に莫の字がある(420)が、ここにないのは落ちたのではなく、もとから無いのであろう。句切。
 公形見尓 キミガカタミニ。その小竹を踏んで通つた君を思つている。
【評語】思う人が旅に出たか何かして來なくなつたのである。その人の分けて來た小竹を、せめてもの形見に思つている心が描かれている。
 
1277 天《あめ》なる 姫菅原《ひめすがはら》の 草な刈りそね。
 蜷《みな》の腸《わた》 か黒き裳に 芥《あくた》し著《つ》くも。
 
 天在《アメナル》 日賣菅原《ヒメスガハラノ》 草莫苅嫌《クサナカリソネ》
 弥那綿《ミナノワタ》 香烏《カグロキ・カグロシ》髪《カミニ》 飽田志付勿《アクタシツクモ》
 
【譯】天にある姫菅原の草を刈らないでください。ニナの腸のようなまつ黒な髪に塵埃がつくことだ。
【釋】天在 アメナル。次の姫菅原の所在を語つている。ヒの枕詞として使われているのであろう。
 日賣菅原 ヒメスガハラノ。ヒメスガハラは地名か否か不明。娘子の縁で、小形の菅の生地を意味するのかも知れない。
 草莫苅嫌 クサナカリソネ。嫌の字は前の歌にも使われている。句切。
 弥那綿 ミナノワタ。枕詞。ニナ貝の腸の義。
 香烏髪 カグロキカミニ。カは接頭語。烏は義をもつて黒に使つている。「三名之綿《ミナノワタ》 蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》」(卷十六、三七九一)。この例にょればカグロシカミニか。
 飽田志付勿 アクタシツクモ。アクタは塵芥。シは強意の助詞。勿は字吾假字。
【評語】草を刈つている娘子に對する情愛が歌われている。天ナル姫菅原の語も、娘子の草を刈つている場處として、ふさわしい表現である。よい感じのあらわれている歌である。
 
(421)1278 夏影《なつかげ》の 房《つまや》の下に 衣《きぬ》裁《た》つ吾妹《わぎも》。
 うら設《ま》けて わがため裁たば、
 やや大《おほ》に裁《た》て。
 
 夏影《ナツカゲノ》 房之下迩《ツマヤノシタニ》 衣裁吾妹《キヌタツワギモ》
 裏儲《ウラマケテ》 吾爲裁者《ワガタメタタバ》
 差大裁《ヤヤオホニタテ》
 
【譯】夏の木の影さす部屋のもとで、裁物をしているわが妻よ。心づもりをしてわたしのために裁つのなら、すこし大きいくらいに裁つてください。
【釋】夏影 ナツカゲノ。ナツカゲは、夏の茂つた樹木の影をいう。樹蔭になつて日の直射しない涼しい處の意に、この語を使つている。
 房之下迩 ツマヤノシタニ。房は部屋である。倭名類聚鈔に「房、釋名(ニ)云(フ)、房、音防、俗(ニ)云(フ)音望。旁也。在(ル)2室之兩方(ニ)1也」とある。これによつてツマヤと讀む。別建てになつて對する屋の義である。ツマは別郭になつているものをいう。シタは、その房の下部の意。「摩久良豆久《マクラヅク》 都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》」(卷五、七九五)。
 衣裁吾妹 キヌタツワギモ。キヌは、衣服の料の織物をいう。ワギモは女子の愛稱。ここは妻である。句切。
 裏儲 ウラマケテ。ウラは心中。心設けをして。次の句を説明している。自分のためにと心づもりをして裁つならば。
 差大裁 ヤヤオホニタテ。すこしく大きくゆつたりと裁つてくれ。夏衣の寛博を欲している心である。
【評語】恐らくは新婚の生活かと思われる夫婦の情味がよく出ている。初句の夏影も、非常によく利いていて、ある一日の風情が、手に取るばかりに寫されている。「うれしさを何に包まむ。からごろも手本《たもと》ゆたかに裁てと言はましを」(古今和歌集)とは、全く趣を異にしていて、しかも一脈の通ずる所のある歌である。それはゆたかに衣を裁つという所に生ずる、ゆたかな氣分が共通して感じられるのである。
 
(422)1279 梓弓 引津邊《ひきつべ》にある 莫告藻《なのりそ》の花。
 採《つ》むまでに 逢はざらめやも。
 莫告藻《なのりそ》の花。
 
 梓弓《アヅサユミ》 弓津邊在《ヒキツベニアル》 莫謂花《ナノリソノハナ》
 及v採《ツムマデニ》 不v相有目八方《アハザラメヤモ》
 勿謂花《ナノリソノハナ》
 
【譯】梓弓を引く。その引津のほとりのナノリソの花は、それを採むようになるまでに、あの子に逢わないことはないだろう。そのナノリソの花は。
【釋】梓弓 アヅサユミ。枕詞。弓を引くというので引津に冠している。
 引津邊在 ヒキツベニアル。引津は、宿岡縣糸島郡の西海岸。朝鮮に渡る船の泊り處として知られていた。
 莫謂花 ナノリソノハナ。ナノリソは、海藻、ホンダワラ。花の無いものであるが、ここに花というのは、「梓弓|引津邊《ひきつべ》にあるなのりその花咲くまでに逢はぬ君かも」(卷十、一九三〇)の歌などで知られるように、非常に長い時間の意を、ナノリソノ花咲クマデという形であらわしているので、この句ができた。ここでもやはり採ムマデニというので、長い時間を描いている。句切。
 及採 ツムマデニ。ナノリソの花が咲いてそれを採むまでにで、長い時間を描いている。
 不相有目八方 アハザラメヤモ。今別れているその人に、かならず逢おうとの望みを歌つている。句切。
 勿謂花 ナノリソノハナ。第三句を繰り返している。
【評語】引津の邊に旅している人の作で、いくら長い時がたつてもきつと逢おうとする心を描いている。それをナノリソの花という夢を描くことによつて成功している。三句と六句とに同一の句を重ねているが、これは旋頭歌としては本格的な形であつて、效果の多い形體である。
 
1280 うち日さす 宮路《みやぢ》を行くに
(423) わが裳は破《や》れぬ。
 玉の緒の 念《おも》ひしなえて
 家にあらましを。
 
 撃日刺《ウチヒサス》 宮路行丹《ミヤヂヲユクニ》
 吾裳破《ワガモハヤレヌ》
 玉緒《タマノヲノ》 念委《オモヒシナエテ》
 家在矣《イヘニアラマシヲ》
 
【譯】日の照りわたる御所への路を行くので、わたしの裳は破れた。玉の緒のように思いしおれても家におりましたろうものを。
【釋】撃日刺 ウチヒサス。枕詞。宮に冠する。
 宮路行丹 ミヤヂヲユクニ。ミヤヂは、宮へ行く路。御所へ行く道で、大宮仕えをしている思う人を求めて行くのである。
 吾裳破 ワガモハヤレヌ。宮路を行つても、遂に思う人に違えない事情を、この句で描いている。勞する所多くして得る所がなかつたのである。
 玉緒 タマノヲノ。枕詞。玉を貫いてある緒で、萎エテに冠している。
 念委 オモヒシナエテ。オモヒミタレテ(元)、オモヒステテモ(西)、オモヒツミテモ(代精)、オモヒシナエテ(考)、オモヒユダネテ(新訓)。委については諸訓があるが、萎に通用するものとして、オモヒシナエテと讀むのが穏當である。物思いにうちしおれての意。佐竹昭廣氏は、委を妄の誤りとしてオモヒミダレテと讀むが、誤字とするならば亂の草體の誤りとする方が近くはないか。亂の草體は、つくりの乙の部を右下に書くものがある。
 家在矣 イヘニアラマシヲ。マシヲは、そうでなくて殘念である意をあらわしている。
【評語】宮路を彷徨して、しかもその意を達せぬ樣を巧みに表現している。二つの枕詞も有效に使用されてい(424)る。都の女の作らしい歌である。
 
1281 公がため 手力《たぢから》疲れ 織れる衣《ころも》ぞ。
 春さらば
 いかにかいかに 摺《す》りては好《よ》けむ。
 
 公爲《キミガタメ》 手力勞《タヂカラツカレ》 織在衣服斜《オレルコロモゾ》
 春去《ハルサラバ》
 何々《イカニカイカニ》 摺者吉《スリテハヨケム》
 
【譯】あなたのために手が疲れるまでにして織つた著物ですよ。春になりましたら、どういうふうに染めつけたらいいでしよう。
【釋】手力勞 タヂカラツカレ。タヂカラは腕力。この句で機繊りの勞苦を描いている。
 織在衣服斜 オレルコロモゾ。斜では解釋がつかない。敍の誤りであろう。句切。
 春去 ハルサラバ。春になれば、種々の花が咲き、染料となるものもできるので、この句がある。
 何々 イカニカイカニ。宣長は何色の誤りとしているが、もとのままでよい。種々選擇する意である。
 摺者吉 スリテハヨケム。花を集めた染料で摺りつけたらというので、希望を描いている。
【評語】骨を折つて織つた織物を手にして春を待つ心が歌われている。春の花をあれこれと考える、染料のすくない時代の生活が、かえつて趣を成している。
 
1282 橋立《はいだて》の 倉椅《くらはし》山に 立てる白雲。
 見まく欲《ほ》り わがするなへに
 立てる白雲。
 
 橋立《ハシタテノ》 倉橋山《クラハシヤマニ》 立白雲《タテルシラクモ》
 見欲《ミマクホリ》 我爲苗《ワガスルナヘニ》
 立白雲《タテルシラクモ》
 
【譯】梯子を立てたような倉橋山に立つている白雲よ。見たいとわたしが思う時に立つている白雲よ。
(425)【釋】橋立 ハシダテノ。枕詞。梯子を立てる意で、倉に冠する。しかし倉椅の名は、クラは谷あいの義であつて、それが梯子のようになつている意で、急峻なのによるものであろうから、結局その山の説明にもなつている。古事記の歌に見える古い枕詞である。
 倉椅山 クラハシヤマニ。倉椅山は、奈良縣磯城郡、多武の峰つづきの山。
 立白雲 タテルシラクモ。立ち昇つている白い雲を呼びかけている。句切。
 見欲我爲苗 ミマクホリワガスルナヘニ。ワガ見マクホリスルナヘニの意。ナヘニは、と同時に、と共に。
【評語】自然を愛する深い人生が描かれている。譬喩とする説もあるが、そうではあるまい。
 
1283 橋立の 倉椅《くらはし》川の 石走《いはばしり》はも。
 壯子時《をざかり》に わが渡りてし 石走《いはばしり》はも。
 
 橋立《ハシダテノ》 倉椅川《クラハシガハノ》 石走者裳《イハバシリハモ》
 壯子時《ヲザカリニ》 我度爲《ワガワタリテシ》 石走者裳《イハバシリハモ》
 
【譯】梯子を立てる倉椅川の川を渡る踏石はなあ。壯年時代にわたしの渡つた踏石はなあ。
【釋】橋立 ハシダテノ。枕詞。
 倉橋川 クラハシガハノ。倉椅川は、多武の峰から出て倉橋村を過ぎて櫻井町に出る。
 石走者裳 イハバシリハモ。イシノハシハモ(西)、イハバシリハモ(新訓)。石走は、イハハシ、イハノハシとも讀むが、文字から見てもイハバシリと讀むのが自然である。川を渡るための踏石をいう。ハモは提示詠嘆の助詞。石走に對して感嘆の意をあらわしている。句切。
 壯子時 ヲザカリニ。壯子であつた時の意。男ざかりの時に。
 我度爲 ワガワタリテシ。過去の事なので、ワタリテシと讀む。
【評語】その川の石走を渡つて思う人のもとに通つた壯年時代を想起している。後その地に来て無限の感慨を(426)禁じ得ないのである。既出の「年月もいまだ經なくに明日香川瀬々ゆ渡りし石走《いははし》も無し」(卷七、一一二六)と似て別の趣を詠んでいる。
 
1284 橋立の 倉椅川の 河のしづ菅《すげ》。
 われ刈りて 笠にも編《あ》まず。
 川のしづ菅《すげ》。
 
 橋立《ハシダテノ》 倉椅川《クラハシガハノ》 河靜菅《カハノツヅスゲ》
 余苅《ワレカリテ》 笠裳不v編《カサニモアマズ》
 川靜菅《カハノツヅスゲ》
 
【譯】梯子を立てた倉椅川の川のしず菅は、わたしが刈つて笠にも編まなかつた。川のしず菅は。
《釋】河静菅 カハノシヅスゲ。シヅスゲは、どういう菅か不明。古義に石著菅で、石についている菅だという。女子を譬えていることはたしかである。句切。
 余苅笠裳不編 ワレカリテカサニモアマズ。せつかく管を刈つたが、笠にも編まなかつたというので、女を手なずけたが遂に妻とするにいたらなかつたことを言つている。
【評語】倉椅川のほとりにいた女を詠んでいる。寓意のよく出ている歌で、譬喩とする所にも風趣がある。
 
1285 春日すら 田に立ち疲る
 公は哀《かな》しも。
 若草の 嬬《つま》無き公が 田に立ち疲る。
 
 春日尚《ハルヒスラ》 田立羸《タニタチツカル》
 公哀《キミハカナシモ》
 若草《ワカクサノ》 嬬無公《ツマナキキミガ》 田立羸《タニタチツカル》
 
【譯】春の日でさえ田に出て疲れているあなたはお氣のどくです。若草のような妻のないあなたが田に出て疲れている。
【釋】春日尚 ハルヒスラ。スラは、こののどかな春の日でもなおの意。
(427) 田立羸 タニタチツカル。タチツカルは、田を耕していることをタチであらわし、その故に疲勞していることを描いている。ツカルは、本集には別に活用形を證する文證はない。歌經標式に「宇麻都可羅旨爾《ウマツカラシニ》」とあるによれば、古く四段活であつたのであろう。
 公哀 キミハカナシモ。キミハアハレとも讀まれそうであるが、今舊訓による。カナシは氣のどくに思う情である。句切。
 若草 ワカクサノ。枕詞。
 ※[女+麗]無公 ツマナキキミガ。上の公を受けて更に説明して、次の句の主格としている。
【評語】孤影悄然として田園に出ている人を憐んでいる。その公を揶揄した女の作であろう。その耕人は、實際の田舎そだちの人であるかどうかを保證しないが、歌としては民謠ふうな野趣のゆたかな作である。
 
1286 山城の 久世《くせ》の社の 草な手折《やを》りそ。
 おのが時 立ち榮ゆとも、
 草な手折《たを》りそ。
 
 開木代《ヤマシロノ》 來背社《クセノヤシロノ》 草勿手折《クサナタヲリソ》
 己時《オノガトキ》 立雖v榮《タチサカユトモ》
 草勿手折《クサナタヲリソ》
 
【譯】山城の久世の神社の草を手折りなさるな。自分の一時は繁昌しても、草を手折りなさるな。
《釋】開木代 ヤマシロノ。ヤマシロは國名であるが、開木をヤマに當てた理由はわからない。卷の十一にも、「開木代《ヤマシロノ》 來背若子《クセノワクゴガ》」(二三六二)とあり、同じく人麻呂集所出の歌である。
 來背社 クセノヤシロノ。京都府久世郡城陽町久世にある神社。
 草勿手折 クサナタヲリソ。神社の草を手折るなとは、神の祟を恐れて、その草木に手も觸れない心であろう。句切。
(428) 己時 オノガトキ。時は世代、自分の一代はの意であろう。
 立雖榮 タチサカユトモ。タチは接頭語。一時繁昌しても、やがて悲運におちいるというのであろう。
【評語】内容の明瞭でないものがあるが、多分長者傳説などがあつて、久世の社の草を手折つて一時繁昌したが、後滅亡したというようなことが傳えられていたのであろう。女子に關して寓意があるとする解があるが、それも不明である。久世神社は、日本武の尊を祭る。日本武の尊の神靈が白鳥となつておりた地と傳え、久世の鷺坂というも、ここだという。
 
1287 青み蔓《づら》 依網《よさみ》の原に 人も逢はぬかも。
 石走り 淡海縣の 物語せむ。
 
 青角髪《アヲミヅラ》 依網原《ヨサミノハラニ》 人相鴨《ヒトモアハヌカモ》
 石走《イハバシリ》 淡海縣《アフミアガタノ》 物語爲《モノガタリセム》
 
【譯】青い蔓草の廣がつている依網の原で、誰か人に逢わないかなあ。水が石を走る淡海の土地の話をしよう。
【釋】青角髪 アヲミヅラ。枕詞。角髪は訓假字で、ミヅラの音を表示している。青い蔓の義である。依網に冠するわけは、ヨサミが良い網の義であろうから、一面に廣がつている蔓草を網に見立てたものと見られる。それは囑目する所の實景を枕詞として採用したもので、一面において描寫の意が存する。
 依網原 ヨサミノハラニ。依網は諸處に同名の地があつて、何處であるかわからない。下の淡海縣と連絡があるのだから、その近接の地であろう。
 人相鴨 ヒトモアハヌカモ。打消になる文字はないが、添えて讀むので、他に例も多い。逢わぬか逢えかしと希望する語法。句切。
 石走 イハバシリ。枕詞。この語は、水が石を走る意と、川中の踏石の意と、兩樣に使用されている。この枕詞としては、水が石走り合うの義に、淡海に冠するのであろう。
(429) 淡海縣 アフミアガタノ。アフミは近江の國、アガタは地方の莊園。
 物語爲 モノガダリセム。モノガタリは、特殊の小説の類でなくして、一般の世間ばなしをいうであろう。
【評語】近江の國から歸るのであろう。廣い原中で逢う人もない寂しさが歌われている。誰かに話しかけたい氣もちがよく描かれている。情趣のゆたかな作品である。
 
1288 水門《みなと》の 葦の末葉《うらば》を 誰《たれ》か手折《たを》りし。
 わが夫子が 振る手を見むと
 我ぞ手折りし。
 
 水門《ミナトノ》 葦末葉《アシノウラバヲ》 誰手折《タレカタヲリシ》
 吾背子《ワガセコガ》 振手見《フルテヲミムト》
 我手折《ワレゾタヲリシ》
 
【譯】海の出口のアシの若い葉を誰が折つたのですか。あの方の振る手を見ようと思つて、わたしが折つたのです。
【釋】水門 ミナトノ。ミナトは、廣い水面から入り來る入口。河口、江口、灣頭など。船の出入口である。ここはアシの末葉を手折つたというのだから、極めて小規模の水門と見える。
 葦末葉 アシノウラバヲ。ウラバは、若い葦の葉。繁つたアシの意である。
 誰手折 タレカタヲリシ。折つた人を何人かと問うている。句切。
 吾背子振手見 ワガセコガフルテヲミムト。船で出て行く男のなごりを惜しんで振る手を見ようとして。
 我手折 ワレゾタヲリシ。この女も船を出してじやまになるアシの葉を折つて置いたのであろう。
【評語】自問自答の形を採つている。船つき場に住む遊行女婦などの作らしい民謠ふうの歌である。アシの末葉を手折つたことを問題にしているが、それは假設で、男に對するおあいそを云つたに過ぎない。實際船を漕ぎ出してアシを手折つておいたものでもなかろうが、小船に乘つて男を送つて別れを惜しんでいるような情景(430)は想像される。そんな場合に臨んで歌われたものらしい。
 
1289 垣越ゆる 犬呼び越《こ》して 鳥獵《とがり》する公。
 青山の しげき山邊に 馬|息《やす》め、公。
 
 垣越《カキコユル》 犬召越《イヌヨビコシテ》 鳥※[獣偏+葛]爲公《トガリスルキミ》
 青山《アヲヤマノ》 葉茂山邊《シゲキヤマベニ》 馬安公《ウマヤスメキミ》
 
【譯】垣を越える犬を呼び返して鷹狩をするお方。青山の茂つている山邊で、馬をお休めなさいませ。
【釋】垣越犬召越 カキコユルイヌヨビコシテ。狩に出ようとして、はやる犬を呼び込んでいる空氣がよく描かれている。コスは、越ユの他動詞。「多誤辭珥固佐摩《タゴシニコサバ》 固辭介※[氏/一]務介茂《コシカテムカモ》(日本書紀、一九)。
 鳥※[獣偏+葛]爲公 トガリスルキミ。トガリは、鷹狩である。鷹狩に出かける君に呼びかけている。句切。
 青山葉茂山邊 アヲヤマノシゲキヤマベニ。葉の字が餘分なようだが、葉茂の二字をもつてシゲキに當てたのであろう。西本願寺本等には、葉を等に作つているが、なお古本のままでよい。
 馬安公 ウマヤスメキミ。ヤスメは休めよで、安は借字。
【評語】狩獵に出かけようとしている情景がよく描かれている。鷹や犬を連れて女のもとに立ち寄つている貴公子に對して、見送つている女の風情が窺われる。
 
1290 海《わた》の底 奧つ玉藻の 名告藻《なのりそ》の花。
 妹とわれ 此處《ここ》にいかにありと
 莫告藻《なのりそ》の花。
 
 海底《ワタノソコ》 奥玉藻之《オキツタマモノ》 名乘曾花《ナノリソノハナ》
 妹與吾《イモトワレ》 此何有跡《ココニイカニアリト》
 莫語之花《ナノリソノハナ》
 
【譯】海の底の深い沖合の美しい藻であるナノリソの花よ。わが妻とわたしと、此處でどのようにあると、人に話すなよ。
(431)【釋】海底 ワタノソコ。枕詞。
 奥玉藻之名乘曾花 オキツタマモノナノリソノハナ。沖の玉藻であるナノリソの花よと呼びかけている。但しナノリソは花のないもので、實在の物ではないから、それを假設して思い浮かべているだけである。句切。
 妹與吾此何有跡 イモトワレココニイカニアリト。海に面して愛人といる樣を描いている。
 莫語之花 ナノリソノハナ。ナノリソの名に莫告リソの語を懸けている。物をいうなという花の意。
【評語】 二人の中を見ているのは海ばかりだが、そこにまぼろしの花を咲かせて、それによせて、誰にも知らせたくない心を描いたのは巧みである。奇巧をもつてまさる歌といえよう。
 
1291 この岡に 草刈る小子《わらは》、然《しか》な刈りそね。
 ありつつも 公が來まきむ
 御馬草《みまくさ》にせむ。
 
 此岡《コノヲカニ》 草苅小子《クサカルワラハ》 勿v然苅《シカナカリソネ》
 有乍《アリツツモ》 公來座《キミガキマサム》
 御馬草爲《ミマクサニセム》
 
【譯】この岡で草を刈つている子どもよ、そんなに草を刈るなよ。そのままにしてあの方のおいでになる時の御馬草にしようよ。
【釋】草苅小子 クサカルワラハ。小子は小童に同じ。「戀乎太爾《コヒヲダニ》 忍金手武《シノヒカネテム》 多和良波乃如《タワラハノゴト》」(卷二、一二九)。小子に呼びかけた語法。
 勿然苅 シカナカリソネ。現に刈つているのに對して、そのように刈るなと云つている。句切。
 有乍 アリツツモ。このままにありつつ。
 御馬草爲 ミマクサニセム。ミマクサは、馬の飼料に敬語の接頭語ミを添えている。
【評語】草刈りの小童に言い懸けたのは、假設であつて、本意の部を引き出すための便宜に過ぎない。馬に乘(432)つてくる客を待つ宿の歌だろう。民謠ふうな歌で、人を待つ心が歌われている。廣く歌われていたものに、旋頭歌の形が與えられたものであろう。
 
1292  江林に 宿る猪鹿《しし》やも、求むるによき。
 白たへの 袖|纏《ま》きあげて
 猪鹿《しし》待つわが夫。
 
 江林《エバヤシニ》 次宍也物《ヤドルシシヤモ》 求吉《モトムルニヨキ》
 白栲《シロタヘノ》 袖纏上《ソデマキアゲテ》
 宍待我背《シシマツワガセ》
 
【譯】江林に宿つている猪鹿は、都合よく求められるものではありません。それだのに白い著物の袖を卷きあげて猪鹿を待っていらつしやるあなたです。
【釋】江林 エバヤシニ。エバヤシは、江に臨んだ林。同じ人麻呂集所出に「月の船、星の林に榜ぎ隱る見ゆ」(卷七、一〇六八)の句があり、かような地形を描いた句である。
 次宍也物 ヤドルシシヤモ。シシは猪鹿の類。ヤモは、疑問の助詞で、反語になる。「空蝉乃《ウツセミノ》 代也毛二行《ヨヤモフタユク》」(卷四、七三三)、「士也母《ヲノコヤモ》 空應v有《ムナシカルベキ》」(卷六、九七八)。いずれもヤモを受けて結ぶ部分が、反語によつて否定されている。この歌においても、江林に宿る猪鹿は、求むるに良からずとするのである。
 求吉 モトムルニヨキ。上を受けて求むること都合よからずで、求めがたいことをいう。句切。
 白栲袖纏上 シロタヘノソデマキアゲテ。猪鹿を待つ體勢を描いている。
【評語】猪鹿に譬喩の意ありとする説が多く、鹿猪をもつて女子にたとえているとも解せられるが、譬喩と見ないでもよい。狩獵などを事としていた世界から生まれた歌で、民謠ふうな素質のある作とも見られる。ある男の狩獵の姿を寫しているが、上三句には、揶揄の氣が窺われる。
 
(433)1293 霰|降《ふ》り 遠《とほ》つ淡海《あふみ》の 阿渡川楊《あとかはやなぎ》。
 刈れども またも生ふといふ
 阿渡川楊。
 
 丸雪降《アラレフリ》 遠江《トホツアフミノ》 吾跡川楊《アトカハヤナギ》
 雖v苅《カレドモ》 亦生云《マタモオフトイフ》
 余跡川楊《アトカハヤナギ》
 
【譯】霰の降る遠い淡海の阿渡川のヤナギよ。刈つてもまた生えるという阿渡川のヤナギよ。
【釋】丸雪降 アラレフリ。枕詞。丸雪は義をもってアラレに當てている。霰の降る音の意にト(音)の音に冠する。
 遠江 トホツアフミノ。次の吾跡川が滋賀縣高島郡であるので、遠い淡海の義であることがわかる。都から遠い方面の淡海の意である。
 吾跡川楊 アトカハヤナギ。高島郡の阿渡川の川添の楊である。ヤナギはカワヤナギで、シダレヤナギではない。句切。
 雖苅 カレドモ。カリツトモ (西)、カレレドモ(京赭)、カリヌトモ(代初)、カレリトモ(考)、カレドモ(新訓)。訓には諸説がある。次の句と合わせて既定の事實をいう句である。
 亦生云 マタモオフトイフ。人づてに聞いたように敍している。遠方にあつてその地を想像して詠んでいるであろう。
【評語】寓意のある歌である。ヤナギは切つてもまた生えるが、人は切れればそれつきりだとしている。歌詞の上からは相聞の歌のようであるが、人麻呂が亡き妻を悼んでいるのかもしれない。明日香の皇女の木※[瓦+缶]《きのへ》の殯《あらき》の宮の時の歌(卷二、一九六)と同樣の思想表現が窺われる。
 
(434)1294 朝づく日 向かひの山に
 月立てり見ゆ。
 遠妻《とほづま》を 持ちたる人は、見つつ偲《しの》はむ。
 
 朝月日《アサヅクヒ》 向山《ムカヒノヤマニ》
 月立所v見《ツキタテリミユ》
 遠妻《トホヅマヲ》 持在人《モチタルヒトハ》 看乍偲《ミツツシノハム》
 
【譯】朝の太陽に向かう。その向こうの山に新月の出たのが見える。遠方に妻を持つている人は、これを見ながら思いやつているだろう。
【釋】朝月日 アサヅクヒ。枕詞。朝ヅク日で、月はあて字。朝ヅクは、秋ヅク、夕ヅクなどと同樣の語構成を有し、朝の氣の浸潤する意である。朝の日に向かう義で、向カヒに冠する。
 月立所見 ツキタチリミユ。ツキタテリは、新月のあらわれたのをいう。句切。
 遠妻 トホヅマヲ。トホヅマは、遠方にいる妻。家郷に妻を置いて遠く旅に出た人の場合である。
 看乍偲 ミツツシノハム。新月を見て家郷の妻を思うことであろう。
【評語】新月を望んで、時の過ぎたことを感じて、無限の哀愁に襲われている。遠妻すなわち自分であつて、作者は家にあつて、遠く旅に出ている人に同情を寄せているようである。自然の催す哀調がよく描かれている。
 
右二十三首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右二十三首 旋頭歌の二十三首をいう。人麻呂歌集から出た旋頭歌の集積は、卷の十一にも十二首あつて、その集に旋頭歌が一處に集められていたようである。
 
1295 春日《かすが》なる 三笠の山に 月の船出づ。
 遊士《みやびを》の 飲《の》む酒坏《さかづき》に 影に見えつつ。
 
 春日在《カスガナル》三笠乃山二《ミカサノヤマニ》 月船出《ツキノフネイヅ》
 遊士之《ミヤビヲノ》 飲酒坏尓《ノムサカヅキニ》 陰尓所v見管《カゲニミエツツ》
 
(435)【譯】春日の三笠の山に船のような月が出た。風雅な人の飲む酒坏に影に見えながら。
【釋】月船出 ツキノフネイヅ。月が出たのを、船に譬えて敍している。「月(ノ)舟移(ル)2霧(ノ)渚(ニ)1」(懷風藻、文武天皇)。句切。
 遊士之 ミヤビヲノ。ミヤビヲは、文雅を解する男子。宮廷の文化に親しんでいる人々。
【評語】酒盃を擧げている席上に月の出たことを興じている。月光を酒盃に浮かべて飲む風流である。作者目身、風流をもつて任ずる氣もちである。奈良時代の作と見えるが、人麻呂歌集所出の二十三首に對して、ただ一首のみなのは、旋頭歌が既にさびしい存在になつたことを語るものである。
 
譬喩歌
 
【釋】譬喩歌 ヒユカ。譬喩歌の標目は、本卷のほか、卷の三、十、十一、十三、十四等の諸卷にあつて、譬喩をおもな表現樣式としている歌を集めている。ここには人麻呂歌集所出の分十五首と、その他の分九十二首とを收めている。
 
寄v衣
 
【釋】寄衣 コロモニヨスル。衣服を材料とした譬喩歌である。思想の全部を衣服に寄託して歌うのが、譬喩歌の方式である。この點、譬喩を一部に使用する寄物陳思歌との相違がある。しかし實際には部分に譬喩を使つた歌をも收めている。
 
1296 今つくる 斑衣《まだらごろも》は、
(436) 面づきて、吾に念ほゆ。
 いまだ著《き》ねども。
 
 今造《イマツクル》 斑衣服《マダラゴロモハ》
 面就《オモヅキテ》 吾尓所v念《ワレニオモホユ》
 未v服友《イマダキネドモ》
 
【譯】今造つているまだら染めの著物は、似合うようにわたしには思われる。まだ著ないけれども。
【釋】今造 イツマクル。新たに織染し裁縫している。
 斑衣服 マダラゴロモハ。まだらに染めた衣服。「伎倍比等乃《キベヒトノ》 萬太良夫須麻爾《マダラブスマニ》」(卷十四、三三五四)。
 面就 オモヅキテ。舊訓メニツキテ。面を字音假字としないとも限らないが、他に例はない。略解に擧げた宣長の説によつてオモヅキテとするのが穏當である。ツクは、色ヅク、秋ヅクなどのツクで、附クであり、浸クでもある。面に親しむ、なじむ義で、似合わしい意であろう。
 吾尓所念 ワレニオモホユ。ワレは作者自身をいう。
 未服友 イマダキネドモ。まだその人を手に入れていないことをいう。
【評語】寓意のある所はあきらかだが、作者は女子か男子か。今つくるまだらの衣といい、それが似合うかどうかを氣にしている所を見ると、女子らしくもある。元來譬喩歌は、あまり高價に評價されないが、この程度のものなら、わるくもないようだ。日常の生活に出やすい表現なのである。
 
1297 紅に 衣《ころも》染《し》めまく 欲《ほ》しけども、
 著《き》てにほはばや、 人の知るべき。
 
 紅《クレナヰニ》 衣染《コロモシメマク》 雖v欲《ホシケドモ》
 著丹穗哉《キテニホハバヤ》 人可v知《ヒトノシルベキ》
 
【譯】紅に著物を染めたいと思うのですが、著て目立つたら、人目をひくことでしよう。
【釋】紅 クレナヰニ。クレナヰはベニバナ。その花を採つて染料とする。
 著丹穗哉 キテニホハバヤ。著は、シルクとも讀まれそうであるが、集中、著をシルクと讀む例はなく、ま(437)たシルクと讀めは、字あまりの句になる。ニホハバヤは、色のあらわれたならばか。丹穗は、この語の慣用の訓假字。
【評語】紅色にしるく染まつたら人の知るだろうという、寓意はあきらかだが、譬喩としてはしつくりしない所がある。人に逢うことを、紅に染めることに譬えている。人目を憚る氣特があらわれている。
 
1298 かにかくに 人はいふとも、
 織り次《つ》がむ。
 わが織物《はたもの》の 白麻衣《シロアサゴロモ》。
 
 干各《カニカクニ》 人雖v云《ヒトハイフトモ》
 織次《オリツガム》
 我廿物《ワガハタモノノ》 白麻衣《シロアサゴロモ》
 
【譯】とやこうと人は言つても、わたしは織り續けて行こう。わたしの機である白い麻衣は。
【釋】干各 カニカクニ。二字、字音假字として使つている。かようにもかようにも。どのようにも。
 織次 オリツガム。織ることを續けて行こう。句切。
 我廿物 ワガハタモノノ。ハタモノは、機物。機にかけた物。
 白麻衣 シロアサゴロモ。染色を施してない麻衣で、普通のアサゴロモをいうのであるが、ここには特にシロを冠している。
【評語】女子の作である。人の口のうるさい中に所信を貫こうとする強い心が窺われる。
 
寄v玉
 
1299 あぢ群《むら》の とをよる海に 船|浮《う》けて、
(438) 白玉《しらたま》採《と》ると 人に知らゆな。
 
 安治村《アヂムラノ》 十依海《トヲヨルウミニ》 船浮《フネウケテ》
 白玉採《シラタマトルト》 人所v知勿《ヒトニシラユナ》
 
【譯】小鴨の群のたわんでいる海に船を浮かべて、眞珠を採ると人に知られるな。
【釋】安治村 アヂムラノ。アヂは小鴨の類。群棲するのでアヂムラという。
 十依海 トヲヨルウミニ。トヲヨルは、「奈用竹乃《ナヨタケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》」(卷二、二一七)、「名湯竹乃《ナユタケノ》 十緑皇子《トヲヨルミコ》」(卷三、四二〇)などの用例がある。動詞寄ルにトヲが限定詞として冠してある。鴨の群の水上におりる状がたわんで見えるのをいう。
 白玉採 シラタマトルト。シラタマは眞珠。この歌では、作者自身を譬えている。
【評語】女子の作である。ここにも人目を憚る心が中心になつており、自分を眞珠に比して、その自分に對する行動を、人に悟られないようにと注意している。アヂ群ノトヲヨル海は、情景を描いて、人目の多い事情が自然に寫されている。巧みな表現である。
 
1300 遠近《をちこち》の 礒の中《なか》なる 白玉を、
 人に知らえず、見むよしもがも。
 
 遠近《ヲチコチノ》 礒中在《イソノナカナル》 白玉《シラタマヲ》
 人不v知《シトニシラエズ》 見依鴨《ミムヨシモガモ》
 
【譯】あちらの方の礒の中にある眞珠を、人に知られないで見る法もないかなあ。
【釋】遠近 ヲチコチノ。あちらまたはこちらので、結局あちらの方の意になる。何處という指定のできない場合に使つている。
 人不知 ヒトニシラエズ。眞珠を見ることを、それと人に知られないで。
【評語】深窓にいる女を、人知れず見たいと思う心を描いている。寓意のほどはあきらかである。
 
(439)1301 海神《わたつみ》の 手に纏《ま》き持《も》てる 玉ゆゑに、
 礒の浦みに 潜《かづき》するかも。
 
 海神《ワタツミノ》 手纏持在《テニマキモテル》 玉故《タマユヱニ》
  石浦廻《イソノウラミニ》 潜爲鴨《カヅキスルカモ》
 
【譯】海神の手に卷いて持つている玉のために、礒の水面で潜水をすることだ。
【釋】海神手纏持在玉故 ワタツミノテニマキモテルタマユヱニ。深海に潜んでいる玉を、海神の手に卷いている玉と稱している。ワタツミは海神。
 石浦廻 イソノウラミニ。ミは接尾語。礒の浦である。
 潜爲鴨 カヅキスルカモ。カヅキは潜水。眞珠を採取するために潜水すること。
【評語】思う人を、海神の手に卷いている珠に譬えている。戀ゆえの冒險が描かれている。
 
1302 海神《わたつみ》の 持《も》てる白玉 見まく欲《ほ》り、
 千遍《ちたび》ぞ告《の》りし。
 潜《かづき》する海人《あま》。
 
 海神《ワタツミノ》 持在白玉《モテルシラタマ》 見欲《ミマクホリ》
 千遍告《チタビゾノリシ》
 潜爲海子《カヅキスルアマ》
 
【譯】海神の持つている眞珠を、見たいと思つて、千遍も言い立てた。潜水をする海人は。
【釋】海神持在白玉 ワタツミノモテルシラタマ。前の歌の、海神ノ手ニ卷キ持テル珠に同じ。前の歌に續いて作られたものであろう。
 千遍告 チタビゾノリシ。チタビゾツゲシ(代精)、チタビゾノリシ(考)。潜する海人に關して告の字の使用されること、次の歌にもあるが、その意不明で、訓も定めがたい。
 潜爲海子 カヅキスルアマ。潜水眞珠を採るのは普通女子だが、この歌では男子を譬えているであろう。
(440)【評語】自分を得たいと思つて言い寄つてくる男を描いているであろう。第四句に強い表示があるらしいが、不明なのは遺憾である。下一三一八に類歌がある。海人が潜水をする前に、唱えごとでもするのだろうか。
 
1303 潜《かづき》する 海人《あま》は告《の》れども、
 海神《わたつみ》の 心し得ねば、
 見ゆといはなくに。
 
 潜爲《カヅキスル》 海子雖v告《アマハノレドモ》
 海神《ワタツミノ》 心不v得《ココロシエネバ》
 所v見不v云《ミユトイハナクニ》
 
【譯】潜水をする海人は言い立てるけれども、海神の同意を得ないので、白玉が見えるといわないことです。
【釋】海子雖告 アマハノレドモ。アマハツグトモ(元)、アマハノレドモ(童)、アマニハノレド(考)、アマハツグレド(古義)、アマハノルトモ(新訓)。前の歌の、千遍ゾ告リシ潜スル海人の句を受けている。
 海神心不得 ワタツミノココロシエネバ。これも前の歌の、海神ノ持テル白玉の句を受けている。心を得るとは、その意を得ることで、同意、許諾の意である。
 所見不云 ミユトイハナクニ。ミユは、白玉について云つている。
【評語】前の歌と連作と見られ、この歌のみでは表現不十分といわざるを得ない。玉に寄せて歌い、しかも玉を歌詞にあらわしていない。女の親の許諾を得ないで、逢いたいと思う女に逢うことのできない事情を歌つている。
 
寄v木
 
1304 天雲《あまぐも》の 棚引く山の
(441) 隱《こも》りたる わが下ごころ
 木《こ》の葉知るらむ。
 
 天雲《アマグモノ》 棚引山《タナビクヤマノ》
 隱在《コモリタル》 吾下心《ワガシタゴコロ》
 木葉《コノハ》知《シルラム・シリケム》
 
【譯】天の雲の棚引いている山のように包んでいるわたしの心の底を、木の葉は知つているだろう。
【釋】天雲棚引山 アマグモノタナビクヤマノ。以上序詞。雲のたなびいている山というので、物に蔽われて隱れている心を引き出している。
 隱在 コモリタル。表面にあらわれないで、心の中に包んでいる意。
 吾下心 ワガシダゴコロ。下心は、原文、忘の一字に作つている。元暦校本等に忌であるが、それでも意を成しがたい。略解に宣長の論として下心に作つている説の行われている所以である。以上二句は、譬喩ではない。
 木葉知 コノハシルラム。知は、シリケムとも讀まれる。
【評語】相手を木の葉に譬えているので譬喩歌に收めているのであろう。他の譬喩歌と行き方を異にしている歌で、獨語ふうの作である。字數すくなく書いているので、訓法が一定しがたい。補讀を要するものが多いからである。
 
1305 見れど飽かぬ 人國《ひとくに》山の 木の葉をし、
 わが心から なつかしみ念《おも》ふ。
 
 雖v見不v飽《ミレドアカヌ》 人國山《ヒトクニヤマノ》 木葉《コノハヲシ》
 己心《ワガココロカラ・オノガココロニ》 名著念《ナツカツミオモフ》
 
【譯】見ても飽きない人國山の木の葉を、わたしの心になつかしく思うことだ。
【釋】雖見不飽 ミレドアカヌ。枕詞。次の句の人の語に冠している。實際ある人を見ても飽くことのないの(442)を敍して枕詞に利用している。
 人國山 ヒトクニヤマノ。人國山は、下に「常不《ツネナラヌ》 人國山乃《ヒトクニヤマノ》 秋津野乃《アキツノノ》」(卷七、一三四五)の歌があつて、吉野説もあるが、さような實在の山ではなく、ただ人國ということを山名に擬したものであろう。人國ということは、他國の義であるが、見レド飽カヌを冠しているによれば、ここは人のものの意に使つているのであろろう。
 木葉 コノハヲシ。思う人を木の葉に譬えている。
 己心 ワガココロカラ。オノガココロニ(元)、ワガココロカラ(考)。わが心からと親しまれて思う所以を説く。
【評語】思う人を、見レド飽カヌ人國山ノ木ノ葉と敍したのが巧みである。高嶺の花と眺めるというあらわし方である。しかし譬喩であるだけに、情熱的であり得ないのは、いたし方がない。「吾松椿《ワレマツツバキ》」(卷一、七三)などと、やや通う所のある表現である。
 
寄v花
 
1306 この山の 黄葉《もみち》の下《した》の 花をわれ
 はつはつに見て 更に戀しも。
 
 是山《コノヤマノ》 黄葉下《モミチノシタノ》 花矣我《ハナヲワレ》
 小端見《ハツハツニミテ》 反戀《サラニコホシモ》
 
【譯】この山の黄葉の下の花を、わたしはわずかに見て、今更戀しく思つている。
【釋】黄葉下花矣我 モミチノシタノハナヲワレ。佳人を黄葉の下の花に譬えている。
 小端見 ハツハツニミテ。小端は、「白細布《シロタヘノ》 袖小端《ソデハツハツニ》 見柄《ミシカラニ》 如是有戀《カカルコヒヲモ》 吾爲鴨《ワレハスルカモ》」(卷十一、二四一一)とあ(443)り、それも人麻呂集である。端々と書いた例もある。わずかに、すこしだけの意。ハツハツニは、わずかにある意の副詞。
 反戀 サラニコホシモ。代匠記にカヘリテコヒシと讀んでいる。サラニと讀むのは、「夜干玉之《ヌバタマノ》 吾黒髪乎《ワガクロカミヲ》 引奴良思《ヒキヌラシ》 亂而反《ミダレテサラニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》」(卷十一、二六一〇)の如く、三音の語に當てられている例がある。反は變に通じ、變ハルにあてて書いた例は多い。ここも變更の義をもつてサラニに當てているのであろう。
【評語】美しいものの象徴として、黄葉の下の花というのが特殊だ。しかし極端に美しいものをねらつたというより、やはり季節の物に思いを寄せたとすべきである。黄葉ノ下ノ花は、清楚な感じの秋草で、その樹の葉がくれという點から、ハツハツニ見テの句意が生きてくるのだ。類想の歌は多いが、これは巧みな表現といえる。
 
寄v川
 
1307 この川ゆ 船は行くべく
 ありといへど、
 渡り瀬ごとに 守る人あり。
 
 從2此川1《コノカハユ》 船可v行《フネハユクベク》
 雖v在《アリトイヘド》
 渡瀬別《ワタリセゴトニ》 守人有《マモルヒトアリ》
 
【譯】この川を通つて、船は行かれるのだけれども、どの渡り瀬にも番人がいることだ。
【釋】從此川 コノカハユ。ユは、中を通つて。この川を通つて。但しここは船で川を横斷する意である。
 船可行 フネハユクベク。ベクは可能をあらわしている。
 渡瀬別 ワタリセゴトニ。船渡りをすべき處ごとに。ワタリセは、もと徒歩で渡ることのできる瀬をいうが(444)轉じてここには船渡りのできる處を云つている。
 守人有 マモルヒトアリ。モルヒトアルヲ(略)。番人があつて、船渡りを許さない意である。
【評語】女の親などが番をして男を寄せつけないのである。行かれそうで行くことのできないもどかしさが描かれている。
 
寄v海
 
1308 大船の 候《さもら》ふ水門《みなと》、
 事しあらば、
 何方《いづへ》ゆ君が 吾《わ》を率《ゐ》凌《しの》がむ。
 
 大船《オホブネノ》 候水門《サモラフミナト》
 事有《コトシアラバ》
 從2何方1君《イヅヘユキミガ》 吾率凌《ワヲヰシノガム》
 
【譯】大きな船のとまつている水門で、事件が起りましたら、どちらの方を通つて、あなたはわたしを連れて避難するでしよう。
【釋】大船候水門 オホブネノサモラフミナト。大きい船が、外海の樣子を窺つてとまつている水門。ミナトは河口灣口など。
 事有 コトシアラバ。暴風、津波などの起つた場合を想像している。
 從何方君吾率凌 イヅヘユキミガワヲヰシノガム。イヅヘユは、どちらの方から。ヰシノガムは、連れてその變事を凌ぐだろう。
【評語】巧みに譬喩を使つて、世波の難を描いている。戀の冒險を、君がいかに處理するかを案じている。巧みな歌と云える。
 
(445)1309 風吹きて 海は荒るとも、
 明日と言はば久しかるべし。
 公がまにまに。
 
 風吹《カゼフキテ》 海荒《ウミハアルトモ》
 明日言《アストイハバ》 應v久《ヒサシカルベシ》
公隨《キミガマニマニ》
 
【譯】風が吹いて海が荒れても、明日と言つたら待ち遠でしよう。あなたのお考え通りに致しましよう。
【釋】明日言應久 アストイハバヒサシカルベシ。明日逢おうと言つたら、それまで久しく感じられるだろう。
 公隨 キミガマニマニ。公の欲する通りで、すなわち今日逢おうの意。
【評語】女の歌で、上の二句で、事情の適しない意を述べている。難局を推して男の意に應じようとする心がよく描かれている。
 
1310 雲隱《くもがく》る 小島《こじま》の神の かしこけば、
 目こそ隔てれ。
 心隔てや。
 
 雲隱《クモガクル》 小島神之《コジマノカミノ》 恐者《カシコケバ》
 目間《メコソヘダテレ》
 心間哉《ココロヘダテヤ》
 
【譯】雲に隱れている小島の神のようにおそろしいので、逢うことは隔たつているが、心は隔たつてはいないのだ。
【釋】雲隱 クモガクル。枕詞。次句の小島の神を説明している。神は、雲に隱れているものであり、かつ小島そのものも雲間に隱れているので、二重に冠している。
 小島神之 コジマノカミノ。小島は、作者の念頭にそれと思うものがあつたのだろうが、不明。相手の女子が、宮中の神殿に奉仕しているようなので、そこをいうか。以上恐ケバの序となつている。
(446) 恐者 カシコケバ。カシコケは、形容詞の已然形。周圍の事の憚るべくあるをいう。
 目間心間哉 メコソヘダテレココロヘダテヤ。字がすくなく書いてあるで、訓法に諸説があるが、對句ふうに讀むのがよい。ヘダツは、古く四段に活用していたから、目コソヘダテレ、心ヘダテヤであろう。四段活の例「智弊仁邊多天留《チヘニヘダテル》」(卷五、八六六)。メは逢うこと。逢うことは隔たつているが、心は隔てようや隔てはしないの意。ヘダテヤは、動詞の已然形に反語の助詞ヤの接續したもの。
【評語】神を持ち出してきたのは、事情が逢うことを憚る有樣なのを表現しようとしてであるが、實際としては、相手の女が神殿に奉仕しているのであろう。お互に心の通つていることをよく描いている歌である。
 
右十五首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右十五首 この十五首は、使用する文字の數もすくなく、よく人麻呂集の特色を存している。既にその集に、寄何の題下に分類してあつたのであろう。
 
寄v衣
 
【釋】寄衣 コロモニヨスル。以下九十二首は、作者未詳の寄物歌で、その順序は、寄衣、寄絲、寄玉、寄日本琴、寄弓、寄山、寄草、寄稻、寄木、寄花、害鳥、寄獣、寄雲、寄雷、寄雨、寄月、寄赤土、寄神、寄河、寄埋木、寄海、害浦沙、寄藻、寄船の順になつている。この順序は、同種のものを一處に集める傾向はあるが、それは嚴密ではなく、亂れているので、明確な分類の意圖を有していなかつたことが知られる。
 
1311 橡《つるばみ》の 衣《きぬ》は人皆 こと無しと
(447) いひし時より 著|欲《ほ》しく念《おも》ほゆ。
 
 橡《ツルバミノ》 衣人皆《キヌハヒトミナ》
 事無跡《コトナシト》
曰師時從《イヒシトキヨリ》 欲v服所v念《キホシクオモホユ》
 
【譯】ツルバミで染めた著物は、皆が問題がないと言つた時から、著たく思われる。
【釋】橡衣人皆事無跡 ツルバミノキヌハヒトミナコトナシト。ツルバミは、クヌギの實でドングリの事。倭名類聚妙に「橡|都流波美《ツルハミ》橡(ノ)實也」とある。ツルバミノキヌは、ツルバミの實で染めた衣服。これは灰褐色で、賤者の衣服となつていた。ここにツルバミノキヌというのは、その衣服を著る人で、すなわち賤者をいう。ヒトミナは、世間の人。コトナシは、何事も心配事がない。何の苦勞もなさそうに暮らしているのをいう。一般人の賤者に對する觀察が描かれている。
 曰師時從 イヒシトキヨリ。人皆の言うのを聞いた時から。
 欲服所念 キホシクオモホユ。キホシクは、キマホシクと言いたい所だが、前に「不v時《トキナラズ》 斑衣《マダラゴロモノ》 服欲香《キホシキカ》」(卷七、一二六〇)があり、後にも「恠《アヤシクモ》 殊欲服《コトニキホシキ》 此暮可聞《コノユフベカモ》」(同、一三一四)があつて、いずれもマを入れると音節數を超過するようになつている。他に同樣の語法の例を見ないが、キホシという言い方があつたのであろう。
【評語】身分のあるゆえに悩みがあつたのであろう。氣樂な生活がうらやまれている。
 
1312 おほろかに 吾し念はば
 下《した》に著て 穢《な》れにし衣《きぬ》を
 取りて著めやも
 
 凡尓《オホロカニ》 吾之念者《ワレシオモハバ》
 下服而《シタニキテ》 穢尓師衣乎《ナレニシキヌヲ》
 取而將v著八方《トリテキメヤモ》
 
【譯】おろそかにわたしが思つているなら、下に著てくたくたになつた著物を取つて著はしないだろう。
(448)【釋】凡尓 オホロカニ。疏略に、等閑に。舊訓オホヨソニであるが、オホヨソはオヨソとなる語であり、總括していう意の副詞であるから、ここには協わない。「凡可爾《オホロカニ》 念而行勿《オモヒテユクナ》 大夫之伴《マスラヲノトモ》」(卷六、九七四)の例があり、また凡ニ我シ念ハバの句は「凡《オホロカニ》 吾之念者《ワレシオモハバ》 如是許《カクバカリ》 難御門乎《カタキミカドヲ》 退出米也母《マカリイデメヤモ》」(卷十一、二五六八)、「凡爾《オホロカニ》 吾之念者《ワレシオモハバ》 人妻爾《ヒトヅマニ》 有云妹爾《アリトイフイモニ》 戀管有米也《コヒツツアラメヤ》」(卷十二、二九〇九)の例がある。
 下服而穢尓師衣乎 シタニキテナレニシキヌヲ。肌に著けてよごれた著物で、身近く親しみなじんだ人を譬えている。
 取而將著八方 トリテキメヤモ。表衣として著ることはしないだろうの意で、意は、傍妾の如き人を、正妻に取り立てることだろうと云われている。しかし隱しごとを表面化するくらいに解してよいのだろう。
【評語】譬喩の使いざまがおもしろい。何か特殊の事情があるらしく、それは不明である。オホロカニ我シ念ハバの句は慣用句で、歌いものにあるのであろう。
 
1313 紅の 深染《こぞめ》の衣 下に著て、
 上に取り著ば 言《こと》なさむかも。
 
 紅之《クレナヰノ》 深染之衣《コゾメノコロモ》 下著而《シタニキオテ》
 上取著者《ウヘニトリキバ》 事將v成鴨《コトナサムカモ》
 
【譯】紅色の濃く染めた著物を、下に著て、さて上著にしたら人に何かいわれるだろうか。
【釋】深染之衣 コゾメノコロモ。コゾメノコロモ(元)、フカゾメノキヌ(新訓)。コゾメは濃染の義。色深く染めた衣服。
 上取著者 ウヘニトリキバ。表衣として著たならば。
 事將成鴨 コトナサムカモ。コトは言辭。人がうるさくいうだろうかの意。
【評語】これも内々の縁を表面化する場合を歌つている。紅の深染の衣で、契りの深いことをいい、それを表(449)衣とすることによつて目立つことを表現しているのは巧みである。
 
1314 橡《つるばみ》の 解濯衣《ときあらひぎぬ》の、
 あやしくも 殊に著欲《きほ》しき
 このゆふべかも。
 
 橡《ツルバミノ》 解濯衣之《トキアラヒギヌノ》
 恠《アヤシクモ》 殊欲服《コトニキホシキ》
 此暮可聞《コノユフベカモ》
 
【譯】橡染の解いて洗つた著物が、ふしぎなほど、殊更に著たく思われるこの夕暮だ。
【釋】橡解濯衣之 ツルバミノトキアラヒギヌノ。ツルバミで染めた衣服の解き洗い衣である。トキアラヒギヌは、著古した衣服の、解いて洗濯して作つたもので、古衣である。これによつて身分も低く、前から馴染んでいた人を描いている。
 恠 アヤシクモ。殊に著たいと思われることが、普通ではなく、ふしぎに思われるのである。
【評語】ある夕暮に舊人を思う情を敍している。恐らくその人とは、既に別れていたのであろう。ツルバミノトキアラヒ衣は、巧みな表現で、よくその人を描いている。情趣のゆたかな作品である。
 
1315 橘の 島にし居《を》れば、
 河遠み 曝《さ》らさず縫《ぬ》ひし
 わが下衣《したごろも》。
 
 橘之《タチバナノ》 島尓之居者《シマニシヲレバ》
 河遠《カハトホミ》 不v曝縫之《サラサズヌヒシ》
 吾下衣《ワガシタゴロモ》
 
【譯】橘の島にいるので、川が遠くて曝らさないで縫つたわたしの上衣です。
【釋】橘之島尓之居者 タチバナノシマニシヲレバ。橘の島は、地名、奈良縣高市郡高市村大字橘、今島の庄の地とされている。但し、その地は、飛鳥川に接しており、河遠ミというに合わない。仙覺の萬葉集註釋には、(450)伊豫國風土記を引いて、この歌は息長足日女《おきながたらしひめ》の命(神功皇后)の御歌であるとし、橘の島は、伊豫の國の宇摩郡にありとしているが、その根據を知らない。
 不曝縫之 サラサズヌヒシ。サラスは布を水に洗つて日に干すをいう。
 吾下衣 ワガシタゴロモ。シタゴロモは、肌につけた衣服をいい、親しんだ人をこれで表現している。
【評語】伊豫國風土記にも載せてあるとすれば、歌いものとしての傳播を有していたのであろう。橘の島というのも、もとは何處のことであるかわからない。寓意もまた、よく選擇をしないで配偶者としたことを歌つているのであろうが、歌いものふうの興趣のゆたかな歌である。
 
寄v絲
 
1316 河内女《かふちめ》の 手染《てぞめ》の絲を 絡《く》り反《かへ》し、
 片絲にあれど、絶えむと念《おも》へや。
 
 河内女之《カフチメノ》 手染之絲乎《テゾメノイトヲ》 絡反《クリカヘシ》
 片絲尓雖v有《カタイトニアレド》 將v絶跡念也《タエムトオモヘヤ》
 
【譯】河内の國の女が、自分で染めた絲を繰り返しているように、片絲ではあるが、切れようとは思わない。
【釋】河内女之 カフチメノ。河内の國は、外來の歸化人なども多く住み、早くから染織の技なども發達していた。それで特に河内女を持ち出したのだろう。
 手染之絲乎 テゾメノイトヲ。テゾメは、自分で染めたもの。
 絡反 クリカヘシ。絲をわくに懸けて繰つているのである。染めることを繰り返しているのではない。以上河内女の行動を敍している。
 片絲尓雖有 カタイトニアレド。カタイトは縒《よ》り合わせてない絲で、自然弱い。ここではこれで片思いの意(451)をあらわしている。
 將絶跡念也 タエムトオモヘヤ。オモヘヤは反語の法。絶えようとは思わない。
【評語】譬喩を使用すること巧みであるが、やや縁語にたより過ぎている感がある。うわついて聞えるのは、そのためである。
 
寄v玉
 
1317 海《わた》の底 石著《しづ》く白玉、
 風吹きて 海は荒るとも、
 取らずは止《や》まじ。
 
【譯】海の底に沈んでいる眞珠は、風が吹いて海が荒れても取らないでは止まない。
【釋】海底 ワタノソコ。白玉の所在を示している。枕詞ではない。
 沈白玉 シヅクシラタマ。沈をシヅクと讀むのは「大海之《オホウミノ》 水底照之《ミナソコテラシ》 石著玉《シヅクタマ》」(卷七、一三一九)、「藤奈美能《フヂナミノ》 影成海之《カゲナスウミノ》 底清美《ソコキヨミ》 之都久石乎毛《シヅクイシヲモ》 珠等曾吾見流《タマトゾワガミル》」(巻十九、四一九九)などの例による。語義は、石著の字を當てているが、シヅは下の義で、沈の字義に相當するのであろう。シラタマは、眞珠をいう。
【評語】いかに困難な事情のもとにあつても、かならず思う人を得ようとする決意が歌われている。譬喩の用法は明瞭であるが、類想の歌は多い。
 
1318 底清み 石著《しづ》ける玉を 見まく欲《ほ》り、
(452) 千遍《ちたび》ぞ告《の》りし。
 潜《かづき》する白水郎《あま》。
 
 底清《ソコキヨミ》 沈有玉乎《シヅケルタマヲ》 欲v見《ミマクホリ》
 千遍曾告之《チタビゾノリシ》
 潜爲白水郎《カヅキスルアマ》
 
【譯】底が清くして沈んでいる玉を見たいと思つて、何遍も言い立てたことだ。潜水をする海人は。
【釋】沈有玉乎 シヅケルタマヲ。沈有は、前の歌の沈に準じてシヅケルと讀む。
 千遍曾告之 チタビゾノリシ。上の「千遍告《チタビゾノリシ》」(卷七、一三〇二)参照。句切。
【評語】上記、一三〇二の類歌である。初句の底清ミは、無雜作に置いたもので、この歌では無意味である。底の玉が見えるというなら意味はあるが、この歌では見たいというのだ。前の人麻呂集の歌にひかれて作られたものである。
 
1319 大海の 水底《みなそこ》照らし 石著《しづ》く玉、
 齋《いは》ひて採《と》らむ。
 風な吹きそね。
 
 大海之《オホウミノ》 水底照之《ミナソコテラシ》 石著玉《シヅクタマ》
 齋而將v採《イハヒテトラム》
 風莫吹行年《カゼナフキソネ》
 
【譯】大海の水底を照らして沈んでいる玉を、潔齋して取ろう。風よ吹くな。
【釋】大海之水底照之 オホウミノミナソコテラシ。以上シヅク玉の修飾句。海底にあつて玉が光を放つている状態を敍している。大海は、「於保吉宇美能《オホキウミノ》 美奈曾己布可久《ミナソコフカク》」(卷二十、四四九一)の例によつて、オホキウミとも讀まれ、その方が調子が張つてよいようでもある。オホウミの假字書きの例はないが、「大海乃原笶《オホウミノハラノ》」(卷六、九三八)の例があつて、それはオホキウミとは讀みがたい。
 石著玉 シヅクタマ。前の歌に記したように、石著は、語義ではないであろう。
(453) 齋而將採 イハヒテトラム。深海の珠を採るために、つつしんでこれをする意である。句切。
【評語】類想の多い歌だが、玉の敍述に特色があり、また潜水を慎重にする意が歌われ、これによつて相手の得がたい事情が一層強調されている。
 
1320 水底《みなそこ》に 石著《しづ》く白玉、
 誰ゆゑに
 心つくして わが念はなくに。
 
 水底尓《ミナソコニ》 沈白玉《シヅクシラタマ》
 誰故《タレユヱニ》
 心盡而《ココロツクシテ》 吾不v念尓《ワガオモハナクニ》
 
【譯】水底に沈んでいる白玉、その外には、誰のゆえにも心を盡してわたしは思いません。
【釋】水底尓沈白玉 ミナソコニシヅクシラタマ。まず目標を提示している。相手の女の譬喩である。
 誰故心盡而吾不念尓 タレユヱニココロツクシテワガオモハナクニ。誰ゆえにも心を盡して念わないことだ。結局上の白玉を除いてはということになる。
【評語】白玉に集中した云い方に特色がある。三句以下、強い表現である。
【参考】別傳。
   亦如d藤原(ノ)里官(ノ)卿、奉(レル)v贈(リ)2新田(ノ)親王(ニ)1歌u曰(ク)
  美那曾己弊《ミナソコヘ》一句 旨都倶旨羅他麻《シヅクシラタマ》二句 他我由惠爾《タガユヱニ》三句 己々侶都倶旨弖《ココロツクシテ》四句 和我於母婆那倶爾《ワガオモハナクニ》五句(歌經標式、藤原の里官の卿は藤原の麻呂)
 
1321 世間《よのなか》の 常かくのみか。
 結びてし 白玉の緒の
(454) 絶ゆらく思へば。
 
 世間《ヨノナカノ》 常如v是耳加《ツネカクノミカ》
 結大王《ムスビテシ》 白玉之緒《シラタマノヲノ》
 絶樂思者 タユラクオモヘバ
 
【譯】世間の通例は、こんなことだつたのか。結んであつた白玉の緒の切れることを思えば。
【釋】世間常如是耳加 ヨノナカノツネカクノミカ。ヨノナカノツネは、世間の通例。このツネは、恒久ではなく、常例、通常である。カクノミカは、ほかの事ではなく。こればかりにきまつた事かの意。句切。
 結大王 ムスビテシ。大王をテシに當てているのは、書道の聖と呼ばれる晉の王羲之を大王といい、王獻之を小王というにより、手師《てし》(書道の師)の義で書く。羲之をテシに當てているのと同樣である。ここのテシは助動詞で、白玉の緒を修飾する句である。
 白玉之緒 シラタマノヲノ。白玉をつらぬいた緒について述べている。
 絶樂思者 タユラクオモヘバ。樂は、字音假字で、ラクの音聲を表示している。
【評語】上二句の詠嘆といい、白玉の緒の切れることを問題としているのは、挽歌のようでもある。男女間の歌としては、強い嗟歎が感じられる。
 
1322 伊勢の海の 白水郎《あま》の島津が 鰒玉《あはびたま》、
 取りて後もか、戀の繁けむ。
 
 伊勢海之《イセノウミノ》 白水郎之島津我《アマノシマヅガ》 鰒玉《アハビタマ》
 取而後毛可《トリテノチモカ》 戀之將v繁《コヒノシゲケム》
 
【譯】伊勢の海の海人の島津が眞珠を採つてからの後もやはり、戀が繁くあることだろう。
【釋】伊勢海之白水郎之島津我 イセノウミノアマノシマヅガ。シマヅは未詳。ヅは人の義で、島人か。海人の名で、一場の物語があるのだろうともいう。島津の文字は、語義の考察に參考とすべきものであるとすれば、島津彦などの省略で、島人をいうのであろうか。「照左豆我《テリサヅガ》」(卷七、一三二六)。
(455) 鰒玉 アハビタマ。鰒の貝の中にある玉。眞珠。「珠洲乃安麻能《ススノアマノ》 於伎都美可未爾《オキツミカミニ》 伊和多利弖《イワタリテ》 可都伎等流登伊布《カヅキトルトイフ》 安波妣多麻《アハビタマ》 伊保知毛我母《イホチモガモ》」(卷十八、四一〇一)。
 取而後毛可 トリテノチモカ。眞珠を採つて後もかで、人を手に入れてから後もかの意をあらわしている。
 戀之將繁 コヒノシゲケム。シゲケムは、形容詞シゲケに助動詞ムの接續した形。
【評語】逢つて後にかえつて戀の繁くあるだろうということを豫想している。別に背景をなしている物語などを必要としないが、伊勢の海人が眞珠を得るということに、困難の成功を語るものがある。困難であつた戀の、まさに成ろうとした頃に、前途を懸念して詠んだ作であろう。
 
1323 海《わた》の底 おきつ白玉、
 縁《よし》を無み、
 常かくのみや 戀ひわたりなむ。
 
 海之底《ワタノソコ》 奧津白玉《オキツシラタマ》
 縁乎無三《ヨシヲナミ》
 常如v此耳也《ツネカクノミヤ》 戀度味試《コヒワタリナム》
 
【譯】海の底の深い處にある白玉は、縁故がなくて、いつもこんなふうにばかり戀い暮らしていることだろうか。
【釋】海之底 ワタノソコ。沖つ白玉の所在を示しているが、枕詞ふうに使われている。
 奥津白玉 オキツシラタマ。オキツは、深い處にあることを指示している。
 縁乎無三 ヨシヲナミ。ヨシは縁故、手のつけどころ。手段がなくて。
 常如此耳也 ツネカクノミヤ。ツネは平常。カクノミは、現に戀している状態を指示している。ヤは疑問の係助詞。
 戀度味試 コヒワタリナム。味試は、嘗ムの義をもつて書いている。
(456)【評語】手に入れがたい人を詠んだものである。このような内容は、やはり譬喩で表現するのが、適切なようである。
 
1324 葦《あし》の根の ねもころ念ひて結びてし
 玉の緒といはば、
 人解かめやも。
 
 葦根之《アシノネノ》 懃念而《ネモコロオモヒテ》 結義之《ムスビテシ》
 玉緒云者《タマノヲトイハバ》
 人將v解八《ヒトトカメヤモ》
 
【譯】葦の根のように、ねんごろに思つて結んだ玉の緒と言つたら、人が解くことはないだろう。
【釋】葦根之 アシノネノ。枕詞。同音によつてネの一言に冠している。
 懃念而 ネモコロオモヒテ。懇切に思つて、心から思つて。
 結義之 ムスビテシ。義之は羲之とあるべきもの。王羲之の意で、大王とあると同じ文字使用法である。
 玉緒云者 タマノヲトイハバ。玉の緒に、二人の中を譬えている。イハバは、他に對していう場合である。
 人將解八方 ヒトトカメヤモ。ヒトは第三者についていう。
【評語】二人の中の誓約を歌つている。二句以下は緊張しているが、枕詞は、働いていないで、ただ句を塞いでいるに過ぎない。
 
1325 白玉を 手には纏《ま》かなくに、
 箱のみに 置けりし人ぞ
 玉|詠《なげ》かする。
 
 白玉乎《シラタマヲ》 手者不v纏尓《テニハマカナクニ》
 匣耳《ハコノミニ》 置有之人曾《オケリシヒトゾ》
 玉令v詠流《タマナゲカスル》
 
【譯】白玉を手には卷かないで、箱にばかり置いていた人は、玉に嘆きをさせることです。
(457)【釋】白玉乎手者不纏尓 シラタマヲテニハマカナクニ。玉は手に卷くべきものであるのに、それをしないで。妻としないでの意を譬えている。
 匣耳置有之人曾 ハコノミニオケリシヒトゾ。玉を匣中に藏していた人で、婚約をしながら結婚を實行しない人を云つている。
 玉令詠流 タマナゲカスル。詠は、集中吟詠の義に使用しているが、ここは詠嘆の義と見る。玉をして嗟嘆せしめる意。眞珠は、肌に接しているのを好み、死藏しておくとその光を失うものであるので、その意を詠んでいるのであろう。
【評語】相手の煮えきらないもどかしさを歌つている。珍しい内容の歌である。
 
1326 照左豆が 手に纏《ま》き古す 玉もがも。
 その緒は替《か》へて
 わが玉にせむ。
 
 照左豆我《テリサヅガ》 手尓纏古須《テニマキフルス》 玉毛欲得《タマモガモ》
 其緒者替而《ソノヲハカヘテ》
 吾玉尓將v爲《ワガタマニセム》
 
【譯】照左豆が手に卷き古した玉がほしい。その緒は取り替えてわたしの玉にしよう。
【釋】照左豆我 テリサヅガ。テリサヅは體言のようだが未詳。テリサヅの訓も決定しかねる。代匠記にサヅは獵夫の義かと云つている。「佐豆人之《サヅビトノ》 弓月我高荷《ユヅキガタケニ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナヒク》」(卷十、一八一六)ともあり、今のところこの以外に然るべき解は見當らない。何にしても、賤しい人の代表に取りあげているらしい。
 手尓纏古須玉毛欲得 テニマキフルスタマモガモ。手に卷き古していた玉は、ある男の手にしている女をいう。句切。
 其緒者替而 ソノヲハカヘテ。ヲは玉の緒をいう。
(458)【評語】照左豆はわからないが、歌一首の意は分明である。「眞珠《しらたま》は緒絶《をだえ》しにきと聞きし故にその緒また貫《ぬ》きわが玉にせむ」(卷十六、三八一四)と同樣の譬喩である。
 
1327 秋風は 繼《つ》ぎてな吹きそ。
 海《わた》の底 奧なる玉を
 手に纏《ま》くまでに。
 
 秋風者《アキカゼハ》 繼而莫吹《ツギテナフキソ》
 海底《ワタノソコ》 奧在玉乎《オキナルタマヲ》
 手纏左右二《テニマクマデニ》
 
【譯】秋風は續いて吹くな。海の底の深い處にある珠を採つてわたしの手に卷くまでは。
【釋】秋風者繼而莫吹 アキカゼハツギテナフキソ。秋風は、荒い風の意味に使つている。ツギテは、引き續いて。句切。
 奧在玉乎 オキナルタマヲ。海の深處をオキと云つている。
 手纏左右二 テニマクマデニ。その玉を取つてわが玉とするまでは。
【評語】秋風のような季節語を使つたのは、有效である。譬喩の意は分明である。
 
寄2日本琴1
 
【釋】寄日木琴 ヤマトゴトニヨスル。ヤマトゴトは、卷の五、八一〇の前行文にも日本琴とあつた。本卷一一二九の題詞に倭琴とするも同じである。日本固有の琴で、六絃あり、長さ六尺二寸ぐらいから五尺ぐらいという。これを膝に載せて彈ずる。
 
1328 膝に伏す 玉の小琴《をごと》の 事なくは、
(459) はなはだ幾計《ここだ》 われ戀ひめやも。
 
 伏v膝《ヒザニフス》 玉之小琴之《タマノヲゴトノ》 事無者《コトナクハ》
 甚幾許《ハナハダココダ》 吾將v戀也毛《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】膝に横たわる美しい琴のように、事がないならば、こんなに非常に、わたしは戀をしないだろう。
【釋】伏膝 ヒザニフス。琴は膝にのせて彈くものであるからをいう。
 玉之小琴之 タマノヲゴトノ。タマノは、琴の美稱として冠している。玉の小琴の語は、この例のみである。以上二句序詞で、次の事の語を引き出すに使われているが、作者の身邊に琴があり、作者はその琴を撫してこの歌を詠んでいる。
 事無者 コトナクハ。琴と事と同音なので、この句が出ている。事故、故障がないなら。
 甚幾許 ハナハダココダ。許多の意の副詞を重ねて強調している。
【評語】調子のよい歌である。初二句は序に使われているが、それには深いわけがあるのだろう。それは恐らくは、前に出た、琴取レバ嘆キ先立ツの歌と同樣、亡き妻を戀うているのだろう。事無クハの事というのは、妻の死を意味しているものとも考えられる。そう解すると、一層深みも感じられる。
 
寄v弓
 
1329 陸奥《みちのく》の 安太多良眞弓《あだたらまゆみ》、
 弦《つら》著《は》けて 引かばか、人の
 吾《わ》を言《こと》なさむ。
 
 陸奥之《ミチノクノ》 吾田多良眞弓《アダタラマユミ》
 著v絲而《ツラハケテ》 引者香人之《ヒカバカヒトノ》
 吾乎事將v成《アヲコトナサム》
 
【譯】陸奥の安太多良から出た眞弓に、弓弦を張つて引きもしたら、人がわたしを何かというだろう。
【釋】陸奥之吾田多良眞弓 ミチノクノアダタラマユミ。陸奥の安太多良地方から出る眞弓。アダタラは、福(460)島縣|安達《あたち》郡附近。安達は、アダタラのアダに當てて書き、後にアダチというようになつた。本集では「安太多良乃《アダタラノ》 禰爾布須思之能《ネニフスシシノ》」(卷十四、三四二八)、「美知乃久能《ミチノクノ》 安太多良末由美《アダタラマユミ》」(同、三四三七)など見えている。マユミはマユミノキで作つた弓。
 著絃而 ツラハケテ。ツラは弓弦。ハケは、弓に弦をつけるをいう。下二段活。「梓弓《アヅサユミ》 都良弦取波氣《ツラヲトリハケ》」(卷二・九九)、「美知乃久能《ミチノクノ》 安太多良末由美《アダタラマユミ》 波自伎於伎弖《ハジキオキテ》 西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》 都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》」(卷十四、三四三七)。
 引者香人之 ヒカバカヒトノ。ヒカバは、弓の弦を引くことに、相手の人を引くことを懸けている。下のカは、疑問の係助詞。
 吾乎事將成 ワヲコトナサム。コトナサムは、言辭を成さむ、人がうるさくいうだろうの意。
【評語】安太多良眞弓を持ち出したのは、奇抜な材料を持ち出したものであるが、東歌にもあるところを見ると、歌いものにあるのだろう。これも調子のよい歌である。
 
1330 南淵《みなぶち》の 細川山に 立つ檀《まゆみ》、
 弓束《ゆづか》纏《ま》くまで 人に知らえじ。
 
 南淵之《ミナブチノ》 細川山《ホソカハヤマニ》 立檀《タツマユミ》
 弓束級《ユヅカマクマデ》 人二不v所v知《ヒトニシラエジ》
 
【譯】南淵の細川山に立つているマユミの木、それで弓を作つて握り革を卷くまでは、人に知られたくない。
【釋】南淵之細川山 ミナブチノホソカハヤマニ。奈良縣高市郡の東南方に、南淵山と細川山と竝んでいるが、ここでは南淵を冠している。
 立檀 タツマユミ。マユミは、檀の木。弓材である。
 弓束纏及 ユヅカマクマデ。
(461)  ツカマクマデニ(古義)
  ――――――――――
  弓束級《ユツカマクマデ》(元)
  弓束級《ユヅカノシナヲ》(代初)
 纏及は、古葉略類聚鈔によるのであるが、まだ決定的ではなく、しばらくこれによるのみである。ユヅカは倭名類聚鈔に、弓について「中央(ヲ)曰(フ)v※[弓+付](ト)、和名|由美都加《ユミツカ》」とある。弓の手に握るところ。そこに革などを卷く。わが妻とするまでを譬えている。弓束級のままならば、代匠記の訓のように、ユヅカノシナヲで、配偶者の身分をの意となる。
【評語】人に知られないで、ある人をわがものとしたい念願を歌つている。これも弓を愛した人の作であろう。
 
寄v山
 
1331 岩疊《いはだたみ》 かしこき山と 知りつつも、
 われは戀ふるか。
 同等《なみ》ならなくに。
 
 磐疊《イハダタミ》 恐山常《カシコキヤマト》 知管毛《シリツツモ》
 吾者戀香《ワレハコフルカ》
 同等不v有尓《ナミナラナクニ》
 
【譯】岩のかさなりのおそろしい山と知つてはいますが、わたしは戀をすることです。同じ身分でないのに。
【釋】磐疊 イハダタミ。岩石のかさなり合つている有樣、岩を組んで疊のようにしたとする見方である。
 恐山常 カシコキヤマト。岩疊の嶮しくおそろしい山というので、相手の身分の貴いことを敍している。
 吾者戀香 ワレハコフルカ。カは感動の助詞。かようなカは、みずから疑う意があり、それが根底となつて、詠嘆の意になるものである。「苦毛《クルシクモ》 零來雨可《フリクルアメカ》 神之埼《ミワガサキ》 狹野乃渡爾《サノノワタリニ》 家裳不v有國《イヘモアラナクニ》」(卷三、二六五)のカの如き、この用例である。句切。
(462) 同等不有尓 ナミナラナクニ。ヒトシカラヌニ(元)、トモナラナクニ(元赭)、ナゾヘナラヌニ(考)、ナゾヘラナクニ(略)、ナミナラナクニ(新訓)。ナミは、同等の身分にあること。「和可由都流《ワカユツル》 麻都良能可波能《マツラノカハノ》 可波奈美能《カハナミノ》 奈美邇之母波婆《ナミニシモハバ》 和禮故飛米夜母《ワレコヒメヤモ》」(卷五、八五八)の第四句のナミに同じ。
【評語】貴人に對する戀が歌われている。この時代の階級思想にとらわれた生活の産物である。しかし作者たちは、そういう條件を絶對のものと信じて、その中で恐れつつ生きていたのである。その心は窺われる。(一三三四、一三三五參照)。
 
1332 磐が根の 凝《こご》しき山に 入り初《そ》めて、
 山なつかしみ 出でがてぬかも。
 
 石金之《イハガネノ》 凝敷山尓《コゴシキヤマニ》 入始而《イリソメテ》
 山名付染《ヤマナツカシミ》 出不v勝鴨《イデガテヌカモ》
 
【譯】岩石の嶮しい山に入り始めてから、山がなつかしさに出かねたことだ。
【釋】石金之 イハガネノ。イハガネは岩石。地に根據を有しているのでイハガネという形を採る。
 凝敷山尓 コゴシキヤマニ。コゴシは、凝り固まつている状態をいう。嶮岨な意に、山の形容に使われる。
 山名付染 ヤマナツカシミ。名付染は訓假字。山がなつかしくて。山に親愛の情を感ずるようになつたのである。
 出不勝鴨 イデガテヌカモ。ガテヌは困難である意の助動詞。
【評語】石ガネノコゴシキ山というのは、前の歌の磐疊カシコキ山と同樣の義であろう。ここにも貴い身分の人のあいだに入り立つている自分が描かれている。
 
1333 佐保山を 凡《おほ》に見しかど、
 今見れば 山なつかしも。
(463) 風吹くなゆめ
 
 佐穗山乎《サホヤマヲ》 於凡尓見之鹿跡《オホニミシカド》
 今見者《イマミレバ》 山夏香思母《ヤマナツカシモ》
 風吹莫勤《カゼフクナユメ》
 
【譯】佐保山をおろそかに見ていたけれども、今見れば山がなつかしいことだ。風よ、吹かないでくれ。
【釋】佐穗山乎 サホヤマヲ。佐保にいる人を描くために佐保山を提示している。その人を山に譬えた形である。
 於凡尓見之鹿跡 オホニミシカド。オホは、疏略、等閑。從來關係なく過ぎたことを、しばしばオホニミシという形で表現している。
 山夏香思母 ヤマナツカシモ。その山に對して親しさの感じられる状である。句切。
 風吹莫動 カゼフクナユメ。故障が起らないようにということを、この句であらわしている。
【評語】從來いたずらに見過していたものに對して、特殊の情を感ずるようになつた變化が歌われている。佐保山を實際に眺めての作であろう。「昔こそよそにも見しか吾妹子が奧津城《おくつき》と思へばはしき佐保山」(卷三、四七四)。
 
1334 奧山の 石《いは》に蘿《こけ》生《む》し、
 恐《かしこ》みと 思ふ情《こころ》を
 いかにかもせむ。
 
 奧山之《オクヤマノ》 於v石蘿生《イハニコケムシ》
 恐常《カシコミト》 思情乎《オモフココロヲ》
 何如裳勢武《イカニカモセム》
 
【譯】奥山の岩に蘿が生えておそろしいように、恐れ多いと思う心をどうしたものでしよう。
【釋】奥山之於石蘿生 オクヤマノイハニコケムシ。蘿は紐状の蘚苔であるが、ここは何によらず岩石に這う植物を總稱している。以上序詞。カシコミを引き出している。葛井《ふじい》の廣成の「奥山之《オクヤマノ》 磐爾蘿生《イハニコケムシ》 恐毛《カシコクモ》 問賜鴨 《トヒタマフカモ》 念不v堪國《オモヒアヘナクニ》」(卷六、九六二)は、これと同じ序を使つている。
(464) 恐常思情乎 カシコミトオモフココロヲ。カシコミは、恐れ多く思う心をいう。「加思故美等《カシコミト》 能良受安里思乎《ノラズアリシヲ》」(卷十五、三七三〇)。身分が違うので、恐縮して思う情である。
 何如裳勢武 イカニカモセム。何とかしようで、何ともしかたのないのをいう。
【評語】この序詞は、歌いものとして慣用されていたであろう。身分違いの戀を敍してはいるが、それは相手にへつらい、相手をおだてあげる意を多量に含んでいることが看取されよう。遊行女婦か何かの歌のような感じであるが、實際高位高官の人に對しては、このようにも思つていたのだろう。
 
1335 思ひあまり いたもすべ無み、
 玉襷《タマダスキ》 畝火《うねび》の山に
 われは標《しめ》結《ゆ》ふ。
 
 思※[月+(券の刀が貝)]《オモヒアマリ》 痛文爲便無《イタモスベナミ》
 玉手次《タマダスキ》 雲飛山仁《ウネビノヤマニ》
 吾印結《ワレハシメユフ》
 
【譯】思い餘つて何ともしかたなさに、玉だすきの畝火の山に、わたしは標繩を張るのだ。
【釋】思※[月+(券の刀が貝)] オモヒアマリ。※[月+(券の刀が貝)]は餘の義でアマリに當てている。思いに堪えきれないで。
(465) 痛文爲便無 イタモスベナミ。ひどく手段がなくて。何とも致し方なさに。
 玉手次 タマダスキ。枕詞。
 雲飛山仁 ウネビノヤマニ。雲飛は字音假字。雲はn韻の字なのでウネに當てている。
 吾印結 ワレハシメユフ。シメユフは、標示を意味する繩を結ぶことで、占有を意味する。自分のものとする。愛人とする。
【評語】畝火山は、高山というわけではないが、山勢|屹然《きつぜん》としており、かつ歴史のある山なので、これに標結うことをもつて、高貴の人を占有する意を表示している。貴族との結縁《けちえん》を語つているのであろう。神武天皇の皇居の地として知られているので、皇族を意味しているのだろう。
 
寄v草
 
1336 冬ごもり 春の大野を 燒《や》く人は、
 燒き足らねかも。
 わが情《こころ》熾《や》く。
 
 冬隱《フユゴモリ》 春乃大野乎《ハルノオホノヲ》 燒人者《ヤクヒトハ》
 燒不v足香文《ヤキタラネカモ》
 吾情熾《ワガココロヤク》
 
【譯】冬の終りから續いて、春の大野を燒く人は、燒き足りないゆえか、自分の心を燒いている。
【釋】冬隱 フユゴモリ。枕詞。冬の終り頃の季節をいい、その頃から春がきざしてくるので、春になる意の語に冠する。ここにただちに春の大野に冠したのは轉用であるが、野を燒くのは、冬の終りから早春にかけて行われるので、この句を冠したのであろう。
 燒不足香文 ヤキタラネカモ。疑問の條件法で、燒き足らねばかの意。
(466) 吾情熾 ワガココロヤク。烈しく物を思うことを、情を燒くという形であらわすのは、例が多い。ワガは、春の大野を燒く人のことであるが、結局自分のことをいうのである。
【評語】春ノ大野ヲ燒クというのによつて、猛烈な火勢をあらわし、それにも足りないでの意を描いている。他の上について敍して自分のことに落して來ている作である。
 
      
1337 葛城《かづらき》の 高間《たかま》の草野、
 早|領《し》りて 標《しめ》指《さ》さましを。
 今ぞ悔しき。
 
 葛城乃《カヅラキノ》高間草野《タカマノクサノ》
 早知而《ハヤシリテ》標指益乎《シメササマシヲ》
 今悔拭《イマゾクヤシキ》
 
【譯】葛城山の高間の草野は、早く占領して、標の杙をさしておいたらよかつたものを。今になつて殘念だ。
【釋】葛城乃高間草野 カヅラキノタカマノクサノ。高間の草野は、葛城山の高原で、今、葛城村高間の名が殘つている。草野は、眞野の草原などは、カヤハラと讀み、ここもカヤノとも讀んでいるが、古くはクサノと讀んでいた。
 早知而 ハヤシリテ。シリテは、領有して。
 標指益乎 シメササマシヲ。シメサスは、插籤《くしざし》などの語例により、標をさすことで、標示のための竹木の類を插むをいう。それをして占有の意を表示するのである。ここはそうしなかつたのでくやしい意である。ヲは、もと終止に使われたが、後それだのにの意が發逢して下文に續くようになつた。
 今悔拭 イマゾクヤシキ。拭は、字音假字で、シキの音をあらわしている。
【評語】葛城の高間の草野を持ち出したのは、やはり高い處の意に、身分の違う戀を描いたのであろうか。わが物としないで殘念だつたという歌は、類が多い。
 
(467)1338 わが屋前《には》に 生《お》ふる土針《つちはり》、
 心ゆも 想《おも》はぬ人《ひと》の
 衣《きぬ》に摺《す》らゆな。
 
 吾屋前尓《ワガニハニ》 生土針《オフルツチハリ》
 從v心毛《ココロユモ》 不v想人之《オモハヌヒトノ》
 衣尓須良由奈《キヌニスラユナ》
 
【譯】わたしの家の前に生えている土針は、心の底から思わない人の著物に摺りつけられるな。
【釋】吾屋前尓 ワガニハニ。ニハは文字通り屋前をいう。
 生土針 オフルツチハリ。ツチハリは、ユリ科の多年生草本、ツクバネソウ。五六月の頃、淡黄緑色の花を開くが、衣服の染料としたのは、染色の莖であろう。倭名類聚鈔に「王孫、本草(ニ)云(フ)王孫、一(ノ)名(ハ)黄孫。沼波利久佐《ヌハリクサ》、世間(ニ)云(フ)2都知波利《ツチハリト》1」とある。この歌、土針に呼びかけている。
 從心毛不想人之 ココロユモオモハヌヒトノ。ココロユモオモフとは、心の中を通して思うので、心底から思う意である。ここはその打消。
 衣尓須良由奈 キヌニスラユナ。スラユナは、摺られるなで、染料として染めつけられるなの意。
【評語】可隣な草を材料として、早まつた婚姻に身を誤らないように希望している。自分の家にいる娘子の身の上を案じているのだろう。
 
(468)1339 鴨頭草《つきぐさ》に 衣《ころも》色どり 摺《す》らめども、
 變《うつろ》ふ色と いふが苦しさ。
 
 鴨頭草丹《ツキクサニ》 服色取《コロモイロドリ》 楷目伴《スラメドモ》
 移變色登《ウツロフイロト》 ※[人偏+稱の旁]之苦沙《イフガクルシサ》
 
【譯】ツキグサで、著物に色をつけて染めたいけれど、變色する色と言うのがつらいことです。
【釋】鴨頭草丹 ツキグサニ。ツキグサは、露草。その花を染料にする。
 服色取 コロモイロドリ。イロドリは、色をつけて。
 楷目伴 スラメドモ。摺りつけようが。
 移變色登 ウツロフイロト。露草の染色は褪色しやすいのでいう。
【評語】相手の心の變りやすいのを危んでいる。露草を材料として可憐な歌となつている。女の歌であろう。
 
1340 紫の 絲をぞわが搓《よ》る。
 あしひきの 山橘を
 貫《ぬ》かむと念《おも》ひて。
 
 紫《ムラサキノ》 絲乎曾吾搓《イトヲゾワガヨル》
 足檜之《アシヒキノ》 山橘乎《ヤマタチバナヲ》
 將v貫跡念而《ヌカムトオモヒテ》
 
【譯】紫色の絲をわたしは搓つています。あの山橘の實をさそうと思つて。
【釋】紫絲乎曾吾搓 ムラサキノイトヲゾワガヨル。紫色に染めた絲をより合わせている。句切。
 足檜之 アシヒキノ。枕詞。
 山橘乎 ヤマタチバナヲ。ヤマタチバナは、ヤブコウジで、その實を愛したのである。
【評語】紫の絲でヤブコウジの實をつらぬこうという美しい希望が描かれている。實際にかようなちいさな實を愛した生活が窺われる。
 
(469)1341 眞珠《またま》つく 越《をち》の菅原《すがはら》、
 われ刈らず、
 人の刈らまく 惜しき菅原。
 
 眞珠付《マタマツク》越能菅原《ヲチノスガハラ》
 吾不v苅《ワレカラズ》
 人之苅卷《ヒトノカラマク》 惜菅原《ヲシキスガハラ》
 
【譯】珠をつける緒、その越智の菅原は、わたしが刈らないで、人の刈ることの惜しい菅原だ。
【釋】眞珠付 マタマツク。枕詞。上のマは接頭語。珠をつける緒の意に、次の越に冠する。
 越能菅原 ヲチノスガハラ。ヲチは地名。滋賀縣坂田郡の越智が菅原として有名である。この歌では、別にその地に縁はなく、ただ慣用句として取りあげられたのであろう。菅原に女子を譬えることは、古事記下卷、仁徳天皇の御製にもあり、歌いものとして傳えられているであろう。
 吾不苅 ワレカラズ。その女子に自分が手をつけないことを敍している。
 人之苅卷 ヒトノカラマク。ヒトは第三者をいう。
【評語】二句と五句とに同じ語で結んで對立形をなしているのは、歌いものからきているものである。すべてにわたつて調子のよさで持つている歌である。
 
1342 山高み 夕日隱りぬ。
 淺茅《あさぢ》原、
 後《のち》見むために 標《しめ》結《ゆ》はましを。
 
 山高《ヤマタカミ》 夕日隱奴《ユフヒカクリヌ》
 淺茅原《アサヂハラ》
 後見多米尓《ノチミムタメニ》 標結申尾《シメユハマシヲ》
 
【譯】山が高いので夕日が隱れた。この淺茅原を後に見るために標繩を結つておいたらよかつた。
【釋】山高夕日隱奴 ヤマタカミユフヒカクリヌ。日が暮れて暗くなつたことを描いて、三句以下の準備とし(470)ている。
 淺茅原 アサヂハラ。たけの低い茅草の原。女子を譬えている。
 後見多米尓 ノチミムタメニ。再會を期する心を言つている。
 標結申尾 シメユハマシヲ。占有を標示する意もあるが、むしろ目印としようものをの意が強くなつている。
【評語】たまたま逢つた一夜妻に對する場合のような歌である。詞句は美しい。譬喩としては、無理もあるようだが、言おうとすることはよくわかる。
 
1343 言痛《こちた》くは かもかも爲《せ》むを、
 石代《いはしろ》の 野邊の下草、
 われし刈りてば。
 
 事痛者《コチタクハ》 左右將爲v乎《カモカモセムヲ》
 石代之《イハシロノ》 野邊之下草《ノベノシタクサ》
 吾之苅而者《ワレシカリテバ》
 
【譯】人のいう言がひどかつたら、どのようにもしようよ。石代の野邊の下草をわたしが刈つたら、それでよいのだ。
【釋】事痛者 コチタクハ。コチタクは、人のいう言の繁くひどくあるをいう。コトとイタシとの結合語で、コトは言辭、イタシははなはだしくある意。
 左右將爲乎 カモカモセムヲ。カモカモは、かようにもの意のカモを重ねた語。いかようにも、ああもこうも。ヲは感動の助詞。
 石代之 イハシロノ。イハシロは、結び松で有名な和歌山縣日高郡の磐代《いわしろ》であろうか。何故にこの地名を出したかは、あきらかでないが、その地が靈地で、手をつけることを憚る子細があつたのかも知れない。
 野邊之下草 ノベノシタクサ。シタクサは、樹木の下方の草をいう。女をこの語であらわしているのは、あ(471)る人の保護のもとにある意を寓しているのであろう。
 吾之苅而者 ワレシカリテバ。この下に語を省略した形である。刈つたら、あとは何とでもしようの意。
【評語】強い意志があらわれている。五句を省略の形で留めたのは、含蓄があつてよい。
 
一云、紅之《クレナヰノ》 寫心哉《ウツシゴコロヤ》 於v妹v不v相將v有《イモニアハザラム》
 
一は云ふ、紅の うつし心や 妹にあはざらむ。
 
【釋】一云 アルハイフ。上の歌の別傳と見て、編者が一云を冠したものであろうが、初二句を同じくするだけで、内容上全く獨立した別個の歌と見るべきである。初二句を同じくするだけならば、集中多く別の歌として取り扱つている。
 紅之寫心哉於妹不相將有 クレナヰノウツシゴコロヤイモニアハザラム。前の歌の初二句を受けて、三句以下がこれに代わるのであつて、「こちたくはかもかもせむを紅《くれなゐ》のうつし心や妹にあはざらむ」という歌になる。一首の意、人のいう言がひどいなら、どのようにもしようものを、わたしは、紅のうつしのように、うつし心であつてか、あの子に逢わないでいるのだろう。クレナヰノは、枕詞。花の色を染料にするために、一往多他物に移したものをウツシというので、ウツシに冠する。ウツシゴコロは、まともな心。正氣、現實の心。「虚蝉之《ウツセミノ》 宇都思情毛《ウツシゴコロモ》 吾者無《ワレハナシ》 妹乎不2相見1而《イモヲアヒミズテ》 年之經去者《トシノヘヌレバ》」(卷十二、二九六〇)。正氣であつてか妹違わないでいるのだろう。殊に逢わないでは、生きた心もない。
【評語】複雜な感情が歌われている。第二句の意がよく次に續いているのを見ると、おくれてできた歌なのだろう。紅の枕詞の使い方は、巧みではないが、色彩感を與えて、歌を美しくしている效果はある。
 
(472)1344 眞鳥《まとり》住む 卯名手《うなて》の神社《もり》の 菅《すが》の根を、
 衣《きぬ》にかきつけ 著《き》せむ子もがも。
 
 眞鳥住《マトリスム》 卯名手之神社之《ウナテノモリノ》 菅根乎《スガノネヲ》
 衣尓書付《キヌニカキツケ》 令v服兒欲得《キセムコモガモ》
 
【譯】ワシの住んでいる卯名手の神社の菅の根を、著物に摺りつけて、著せたい女の子がほしいなあ。
【釋】眞鳥住 マトリスム。舊説に、枕詞とし、マトリは鵜のことだとしていたが、ウの音にかかるものとしては、鵜の住むでは意を成さない。全釋に、マトリはワシのことだとしているのがよいようだ。ま木、ま草というように、鳥のりつぱなのをいう。卯名手の神社の修飾句。
 卯名手之神社之 ウナテノモリノ。ウナテノモリは、奈良縣高市郡の雲梯《うなて》神社。事代主《ことしろぬし》の神をまつる。モリは森林形體の神社をいう。
 菅根乎衣尓書付 スガノネヲキヌニカキツケ。スガノネは、ヤマスゲの根で、染料をもつて、その形を書いたものと見えるが、次の句に、著セム子モガモと言つているによれば、愛すべき形であつたのだろう。カキツケは、染料でその形を摺りつけるをいう。
 令服兒欲得 キセムコモガモ。コは、愛すべき女子をいう。それと目ざしていう人があつて、それをわが妻としたいというのであろう。
【評語】譬喩歌の中にあるが、何が譬喩になつているか不明である。マ鳥住ム卯名手ノ神社で、憚るべきことをあらわしているとは見える。その憚るべきことを敢えてするほどの相手がほしいというのか、その憚るべきことを譬喩であらわしているというのかも知れない程度にしか推測されない。誰か相手ほしやというだけなら、集中にも例があり、浮氣つぽいことになるが、おそらく、その人と思うのがあるのだろう。
 
1345 常ならぬ 人國山の 秋津野《あきづの》の、
(473) かきつばたをし 夢《いめ》に見るかも。
 
 常不《ツネナラヌ》 人國山乃《ヒトクニヤマノ》 秋津野乃《アキツヌノ》
 垣津幡鴛《カキツバタヲシ》 夢見鴨《イメニミルカモ》
 
【譯】通常ではない人の國の山の秋津野のカキツバタを夢に見ることだ。
【釋】常不 ツネナラヌ。ツネは通常、通例。普通でない意で、貴人であることをいう。次の句の人に冠し、自分の相手の一般の人と違うことを語つている。
 人國山乃 ヒトクニヤマノ。ヒトクニヤマは、上にも、「見れど飽かぬ人國山」(卷七、一三〇五)とある。そういう山があるわけでなく、人間世界ということを山に擬したものと考えられる。それが普通でないので、高貴の世界のことになる。
 秋津野乃 アキヅノノ。アキヅノは、同名の地が、吉野にも和歌山縣にもあるが、ここは吉野の離宮の縁で、この美しい地名を提示したのであろう。
 垣津幡鴛 カキツバタヲシ。カキツバタは、杜若。紫色の美しい花を開く。これをもつて思う女子を描いている。鴛は借字で、助詞。正倉院文書、造佛所作物帳斷簡(大日本古文書二十四ノ二四)に「垣津幡 貳伯陸拾陸斤」とあり、垣津幡が慣用文字であることが知られ、またこれを染料としたものと考えられる。雜經書寫注文(大日本古文書二十四ノ一〇九)には、染めた紙と見えて、「垣津幡 卅四張」とある。
 夢見鴨 イメニミルカモ。イメニミシカモと過去にも讀まれているが、舊訓のままでさしつかえない。過去に見たのみに限らない内容である。
【評語】美しい詞でできていて、譬喩の效果をよく發揮している。常ナラヌ人國山という言い方も、この種の歌には似合わしい。吉野の離宮の美人を描いたのだろう。
 
1346 女郎花 生ふる澤邊の 眞田葛《まくず》原、
(474) 何時《いつ》かも絡《く》りて わが衣《きぬ》に著む。
 
 姫押《ヲミナヘシ》 生澤邊之《オフルサハベノ》 眞田葛原《マクズハラ》
 何時鴨絡而《イツカモクリテ》 我衣將v服《ワガキヌニキム》
 
【譯】オミナエシの生えている澤のほとりのクズの生えている原、そのクズを何時になつたら繰り取つて、わたしの著物にして著ることだろう。
【釋】姫押 ヲミナヘシ。姫は、貴女の義をもつてヲミナに當てたのだが、押をヘシに當てたわけは、日本靈異記に、挫釘の訓註に「挫、弊師《ヘシ》」とあり、古く押しつぶすことをヘスと言つた。今、ヘシツブス、ヘシヲルなというヘシはそれであろう。
 生澤邊之 オフルサハベノ。サキサハノベノとも讀まれるが、サキを地名とすると音韻が違うからオフルサハベノによるべきである。「娘子部四《ヲミナヘシ》 咲澤二生流《サクサハニオフル》 花勝見《ハナガツミ》」(卷四、六七五)參照。
 眞田葛原 マクズハラ。クズの生えている原だが、この歌ではクズをいうためにこの句を成している。
 何時鴨絡而 イツカモクリテ。クリテは、クズの蔓を繰つて採取する意。クズの皮の繊維を織つてクズ布に作るのである。
【評語】オミナエシに女子の連想はあるが、眞葛原は野生の感があり、それから製するクズ布も粗末な感じである。その點、女子の譬喩として適切であるとは考えられない。類型の歌が多くあり、それに乘つて作られた歌であろう。
 
1347 君に似る 草と見しより
 わが標《し》めし、
 野山の淺茅、人な刈りそね。
 
 於v君似《キミニニル》 草登見從《クサトミシヨリ》
 我標之《ワガシメシ》
 野山之淺茅《ノヤマノアサヂ》 人莫苅根《ヒトナカリソネ》
 
【譯】あの人に似ている草だと見たので、わたしのしるしをつけた野山の淺茅は、人が刈らないでくれ。
(475)【釋】於君似草登見從 キミニニルクサトミシヨリ。キミは思う人の敬稱。この歌では女子をさしている。淺茅のなよよかなのを、君に似る草と言つている。
 我標之 ワガシメシ。シメシは、標示をつけて領有の意をあきらかにしたのをいう。
 野山之淺茅 ノヤマノアサヂ。アサヂは、茅草はたけが低いのでいう。
【評語】淺茅の可憐な風情に、思う人をよそえている。淺茅原に標を結うこと、他にも歌われており、實際に行われたらしい。大伴の家持の、妻に代わつて詠んだ、「妹に似る草と見しよりわが標《し》めし野邊の山吹誰か手《た》折りし」(卷十九、四一九七)は、この歌によつたのだろう。
 
1348 三島江の 玉江のこもを
 標《し》めしより、 己《おの》がとぞ念《おも》ふ。
いまだ刈らねど。
 
 三島江之《ミシマエノ》 玉江之薦乎《タマエノコモヲ》
 從2標之1《シメシヨリ》 己我跡曾念《オノガトゾオモフ》
 雖v未v苅《イマダカラネド》
 
【譯】三島江の玉江のコモを、印をつけてから、わたしのだと思う。まだ刈り取らないが。
【釋】三島江之 ミシマエノ。三島江は、大阪府三島郡、淀川下流の入江である。
(476) 玉江之薦乎 タマエノコモヲ。タマエは、江の美稗。コモは、水邊に生える草で、蓆の材料とする。
 己我跡曾念 オノガトゾオモフ。オノガは、わが物の意。モノを略している。句切。
【評語】三島江の玉江の美しい地名で持つている歌である。約束をして一息ついた氣もちが窺われる。三島江は恐らくは直接に關係のない地名が持ち出されたのであろう。
 
1349 かくしてや なほや老いなむ。
 み雪|零《ふ》る 大荒木野《おほあらきの》の
 小竹《しの》にあらなくに。
 
 如v是爲而也《カクシテヤ》 尚哉將v老《ナホヤオイナム》
 三雪零《ユキフル》 大荒木野之《オホアラキノノ》
 小竹尓不v有九二《シノニアラナクニ》
 
【譯】かようにしてか、やはり年を取るのだろう。雪の降つている大荒木野の小竹ではないのだ。
【釋】如是爲而也 カクシテヤ。作者の今していることを、カクシテと言つている。それは異性に對する戀のはかばかしく進行しないでいることを言つているのであろう。
 尚哉將老 ナホヤオイナム。ナホは、そのままであることをいう副詞。オイナムは、自然に年の老い行くことを推量する語法。句切。
 三雪零 ミユキフル。大荒木野の荒涼たる樣を、實景によつて敍述している句。
 大荒木野之 オホアラキノノ。大荒木野は、奈良縣宇智郡荒木神社附近の野であるという。オホアラキは、山陵をいうので、諸處に同名の野があるであろう。
 小竹尓不有九二 シノニアラナクニ。ナクニは終止形で、これで留まるのであるが、轉じて、それだのにの意を含むようになつた。
【評語】荒涼たる風物を描いて、心の慰めかねるさまを寫している。「かくしてやなほや守らむ。大荒木の浮(477)田の社《もり》の標《しめ》ならなくに」(卷十一、二八三九)の類歌があり、歌いものとして傳えられた歌があつて、それがもとになつているであろう。
 
1350 淡海《あふみ》のや 矢橋《やばし》の小竹を
 矢著《やは》がずて、
 信《まこと》ありえめや。
 戀《こほ》しきものを。
 
 淡海之哉《アフミノヤ》 八橋乃小竹乎《ヤバシノシノヲ》
 不v造v笶而《ヤハガズテ》
 信有得哉《マコトアリエメヤ》
 戀敷鬼呼《コホシキモノヲ》
 
【譯】淡海の矢橋の竹を矢に作らないでは、ほんとにあり得ないだろう。戀しいものを。
【釋】淡海之哉 アフミノヤ。ヤは、感動の助詞で、動詞助動詞の連體形に接續するものに同じである。助詞ノに接續するものは、本集には稀で、他に「石見乃也《イハミノヤ》 高角山之《タカツノヤマノ》」(卷二、一三二)の一例があるばかりである。
 八橋乃小竹乎 ヤバシノシノヲ。ヤバシは、矢橋で、滋賀縣|栗太《くりた》郡勢田の北方の地。後世ヤバセというが、ここはヤバシだろう。
 不造笶而 ヤハガズテ。笶は、矢の義に使用している。「肉自物《シシジモノ》 弓笶圍而《ユミヤカクミテ》」(卷六、一〇一九)。矢を造ることをハグという。弦を附けることもハグというのによれば、竹に鏃《やじり》や羽根を附けることをいうのであろう。
 信有得哉 マコトアリエメヤ。マコトは眞實にの意の副詞。句切。
 戀敷鬼呼 コホシキモノヲ。この句は、譬喩ではなく、作者の本意である。ヲは、感動の助詞。しかし接續の氣を生じて、上に返る意を持つようになつている。
【評語】重要な部分が響喩になつているが、一部には作者の本意が露出している。譬喩歌には、かような型をも含んでいる。矢橋は、矢に作る小竹の産地として知られていたのであろう。この地名も、それだけの縁で、(478)ここに引かれたものと見える。
 
1351 つきぐさに 衣《ころも》は摺《す》らむ。
 朝露に ぬれての後は
 うつろひぬとも。
 
 月草尓《ツキグサニ》 衣者將楷《コロモハスラム》
 朝露尓《アサヅユニ》 所v沾而後者《ヌレテノノチハ》
 徙去友《ウツロヒヌトモ》
 
【譯】ツキグサで著物は染めよう。朝露に濡れた後には褪色してもよい。
【釋】衣者將楷 コロモハスラム。染料をこすりつけて染めるのを摺るという。句切。
 所沾而後者 ヌレテノノチハ。舊訓ヌレテノノチハであり、代匠記にヌレテノチニハである。ノを讀み添えるか、ニを讀み添えるかの問題であつて、いずれとも決定しかねるのであるが、「能彌弖能々知波《ノミテノノチハ》 知利奴得母與斯《チリヌトモヨシ》」(卷五、八二一)の證文のあるによつて、舊訓によることとする。
 徙去友 ウツロヒヌトモ。徙は移去の義でウツロフに當てている。ウツロフは、變色し褪色するをいう。ヌは完了の助動詞。この句、上に返る語氣である。
【評語】ツキグサの花染は、あせやすいものとして取りあげられている。先方の氣の變わりやすさを氣に病んでいる歌である。美しい譬喩が使われており、ツキグサに衣を摺るということ、女子の作のようである。
 
1352 わが情《こころ》 ゆたにたゆたに、
 浮《うき》ぬなは
 邊にも奧《おき》にも 依《よ》りかつましじ。
 
 吾情《ワガココロ》 湯谷絶谷《ユタニタユタニ》
 浮蓴《ウキヌナハ》
 邊毛奧毛《ヘニモオキニモ》 依勝益士《ヨリガツマシジ》
 
【譯】わたしの心はぐらぐらして、浮いているジユンサイのように、岸邊にも沖の方にも寄ることができまい。
(479)【釋】湯谷絶谷 ユタニタユダニ。動搖する状を形容する副詞句。ユタニを二つ重ねたもので、下のユタニに接頭語タが添えられてある。ユタは、ユタカのユタに同じであるが、ここではひろびろとしてしまりのない意に使つている。「大舟之《オホブネノ》 由多爾將v有《ユタニアルラム》 人兒由惠爾《ヒトノコユヱニ》」(卷十一、二三六七)など、この意に使われている。「いでわれを人な咎《とが》めそ。大舟のゆたのたゆたに物思ふころぞ」(古今集)とある、ユタノタユタニも同じである。
 浮蓴 ウキヌナハ。浮いているヌナハ。ヌナハは、沼繩の義、ジユンサイ。スイレン科の多年生水草で、葉は水上に浮き、若い莖葉はぬらぬらしており食料とされる。
 依勝益士 ヨリカツマシジ。カツは、可能の意の助動詞。マシジは、打消推量の助動詞で、マジの古い形。
【評語】初句のワガ情が主題で、以下それを譬喩で説明しているのであるが、第二句は、ワガ情に直接に續いているだけに、本意と譬喩との兩樣に懸かつており、これをどちらかに片づけないで味わうところに趣がある。人を思つて得られない落ちつきのなさを、ジユンサイの浮いているのに譬えている。本意と譬喩との交錯している點がおもしろさである。
 
寄v稻
 
(488)1353 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の早田《わさだ》を、
 秀《ひ》でずとも 繩《なは》だに延《は》へよ。
 守《も》りつつ居らむ。
 
 石上《イソノカミ》 振之早田乎《フルノワサダヲ》
 雖不v秀《ヒデズトモ》 繩谷延與《ナハダニハヘヨ》
 守乍將v居《モリツツヲラム》
 
【譯】石上の布留の早稻の田を、その稻穗が伸びないでも、繩だけでも張つたがよい。番をしていよう。
【釋】石上振之早田乎 イソノカミフルノワサダヲ。イソノカミフルは地名。ワサダは、早熟の稻の田。「石上布留の早田の穗には出でず心の中に戀ふるこの頃」(卷九、一七六八)の歌もあり、布留の地と早田とが結びついているのは、その地が山間の地で、日あたりがわるいので早稻を植え、それが穗に出ることが乏しいので、これらの歌となつているのであろう。ヲは、句を隔てて五句に續くと解されているが、であるものをの意に見るべきである。
 雖不秀 ヒデズトモ。ヒデズは、穗の拔け出ないのをいう。
 繩谷延與 ナハダニハヘヨ。ナハダニノベヨ(元)、ツナダニハヘヨ(類)、シメダニハヘヨ(西)、ナハダニハヘヨ(童)。ナハは標繩。ハヘヨは、伸ばす意の命令形。句切。
 守乍將居 モリツツヲラム。作者の言おうとする所は、ここにある。
【評語】種々の場合が想像される。相手のまだ年頃に達しないことを、早田の穗の出ないのに譬えているとも見られる。また自分の子女の幼いのを、ある男に約束せよと迫つているとも解せられる。いずれもその生い先を樂しみにして見守つていようとする意欲が歌われている。これも歌いものを受けているのであろう。
 
寄v木
 
(481)1354 白菅《しらすげ》の 眞野《まの》の榛原《はりはら》、
 心ゆも 念《おも》はぬ吾《われ》し
 衣に摺《す》りつ。
 
 白菅之《シラスゲノ》眞野乃榛原《マノノハリハラ》
 心從毛《ココロユモ》不v念吾之《オモハヌワレシ》
 衣尓楷《コロモニスリツ》
 
【譯】白菅の生えている眞野のハギ原の花で、心の底からも思わないわたしが、著物に摺りつけた。
【釋】白管之眞野乃榛原 シラスゲノマノノハリハラ。シラスゲは、菅の白けているもの。眞野は地名。今、神戸市のうちに眞野町の名が殘つている。ハリハラは、ハギ原。以上の句、高市の黒人の歌(卷三、二八〇)に見えている。
 心從毛不念吾之 ココロユモオモハヌワレシ。ココロユモオモフは、心を通して思うで、心の奥底から思う意。吾は古本による。通行本に君に作り、袖中抄にも下句「思はぬ君が衣にぞする」とあり、それでも意は通ずるが、やはり吾がよいのであろう。「眞野の浦の淀《よど》の繼橋《つぎはし》心ゆも思へや妹が夢にし見ゆる」(卷四、四九〇)などある。
 衣尓楷 コロモニスリツ。楷一字であるが、助動詞を讀み添える。
【評語】ちよつとしたはずみで結ばれた縁を歌つている。獨語ふうな作品で、ひたすらな戀の歌とは趣を具にしている。この歌、木に寄するという題に入れてあつて、榛原を詠んでいるので、榛をハンノキとする説の據りとどろになつている。これはこの卷の編者が、既に榛について正しい知識を持つていなかつたためであろう。
 
1355 眞木柱《まきばしら》 つくる杣人《そまびと》、
 いささめに
(482) 假廬《かりほ》のためと 造りけめやも。
 
 眞木柱《マキバシラ》 作蘇麻人《ツクルソマビト》
 伊左佐目丹《イササメニ》
 借廬之爲跡《カリホノタメト》 造計米八方《ツクリケメヤモ》
 
【譯】りつぱな柱を作る仙人は、かりそめに假小屋のためにと作らなかつたろう。
【釋】眞木柱 マキバシラ。りつばな木の柱。マキは木をほめていう。主として檜の柱にいうが、かならずしもそれには限らない。
 伊左佐目丹 イササメニ。かりそめに。集中、率爾の字をこの語に當てていると考えられる。「率爾《いささめに》今も見がほし。秋|芽子《はぎ》のしなひにあらむ妹が姿を」(卷十、二二八四)、「かきつばた丹つらふ君を率爾《いささめに》思ひ出でつつ嘆きつるかも」(卷十一、二五二一)。
 借廬之爲跡 カリホノタメト。カリホは、假の小舍。タメトはためにと。
 造計米八方 ツクリケメヤモ。ヤモは反語。
【評語】人を思う心のかりそめでないのを、譬喩によつて描いている。仙人は自分をいう。卑下した心である。
 
1356 向つ峯《を》に 立てる桃の樹《き》、
 成らめやと 人ぞ耳言《ささめ》きし。
 汝《な》が情《こころ》ゆめ。
 
 向峯尓《ムカツヲニ》 立有桃樹《タテルモモノキ》
 將v成哉等《ナラメヤト》 人曾耳言爲《ヒトゾササメキシ》
 汝情勤《ナガココロユメ》
 
【譯】向うの峯に立つている桃の樹は、實が成りはしまいと人がささやいた。あなたは心からしつかりしてください。
【釋】向峯尓 ムカツヲニ。ヲは水に削り殘された稜線をいう。向こうの高みである。
 將成哉等 ナラメヤト。ヤは反語。實の成ることはあるまいということに、戀の成就しないだろうの意を寓(483)している。
 人曾耳言爲 ヒトゾササメキシ。ヒトは、第三者。耳言は義をもつてササメキと讀む。但しこの語は、集中他に用例はない。類聚名義抄、私語にササメゴト。爲を時の助動詞シに使うことは數例ある。句切。
 汝情動 ナガココロユメ。ユメは、語原は齋メで、つつしめの意の命令語である。ここでは緊張せよの意に使用している。
【評語】浮いた中に終らないように相手を戒めている。譬喩の使い方が巧みだ。但し實の成らないことをもつて、戀の成就しないことに譬えているのは、類型的である。人のうわさを利用した形勢がある歌である。
 
1357  たらちねの 母のその業《なり》の 桑すらに、
 願へば衣《きぬ》に 著るといふものを。
 
 足乳根乃《タラチネノ》 母之其業《ハハノソノナリノ》 桑尚《クハスラニ》
 願者衣尓《ネガヘバキヌニ》 著常云物乎《キルトイフモノヲ》
 
【譯】お母さんの爲事の桑ですら、お願いすれば著物として著るというものです。
【釋】足乳根乃 タラチネノ。枕詞。
 母之其業 ハハノソノナリノ。ナリは、産業をいう。耕作物のみのりから出た語であろう。
 桑尚 クハスラニ。尚は、スラニともスラモとも讀まれ、集中、兩方とも用例がある。スラニは、「輕池之《カルノイケノ》 ※[さんずい+内]廻往轉留《ウラミユキミル》 鴨尚爾《カモスラニ》」(卷三、三九〇)、「加苦思※[氏/一]也《カクシテヤ》 安良志乎須良爾《アラシヲスラニ》 奈氣枳布勢良武《ナゲキフセラム》」(卷十七、三九六二)。スラモ、「鴨尚毛《カモスヲモ》 己之妻共《オノガツマドチ》 求食爲而《アサリシテ》」(卷十二、三〇九一)、可母須良母《カモスラモ》 都麻等多具比弖《ツマトタグヒテ》」(卷十五、三六二五)。尚一字では、いずれにでも讀まれる。クワでもなおの意である。
 願者衣尓 ネガヘバキヌニ。ネガヘバは、クワに對して願うのである。
 著常云物乎 キルトイフモノヲ。モノヲは、ものだ、それだのにの意。
(484)【評語】クワから衣服になる變化を詠んでいる。思いあまつた心をこぼしている語調である。
 
1358 愛《は》しきやし 吾家《わぎへ》の毛桃《けもも》、
 本《もと》しげみ
 花のみ咲きて ならざらめやも。
 
 波之吉也思《ハシキヤシ》 吾家乃毛桃《ワギヘノケモモ》
 本繁《モトシゲミ》
 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成在目八方《ナラザラメヤモ》
 
【譯】愛すべきわたしの家の毛桃は、本が繁く花ばかり咲いて成らないことはないだろう。
【釋】波之吉也思 ハシキヤシ。ヤシは感動の助詞。次句の毛桃を修飾する。
 吾家乃毛桃 ワギヘノケモモ。桃の實には毛が生えているので毛桃という。ここは桃の樹を言つている。
 本繁 モトシゲミ。モトは樹幹であるが、この句は、枝葉の繁りをいうであろう。
 不成在目八方 ナラザラメヤモ。實の成らずにあろうや、かならず成るの意。
【評語】毛桃をもつて愛人に譬えている。毛桃ということが、いささか語感がよくない。これも實のなるならぬを使つており、表現は類型的である。「大和の室生《むろふ》の毛桃もと繁く言ひてしものを成らずは止まじ」(卷十一、二八三四)は、同樣の材料を扱つている。
 
1359 向つ岡《を》の 若《わか》かつらの木、
 下枝《しづえ》取り
 花待つい間《ま》に 嘆きつるかも。
 
 南岳之《ムカツヲノ》 若楓木《ワカカツラノキ》
 下枝取《ツヅエトリ》
 花待伊間尓《ハナマツイマニ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
【譯】向うの岡の若いカツラの木の下枝を手にして、花の咲くのを待つまに嘆いたことだ。
【釋】南岳之 ムカツヲノ。南岳は、作者の對する岡が、南方なので書いたのだろう。岳の字が書いてあるが、(485)前に峯とあつたに同じ。
 若楓木 ワカカツラノキ。若いカツラの木。楓は倭名類聚鈔に乎加都良《ヲカツラ》とある。カツラ科の落葉喬木で、早春葉の伸びない前に紅色の花をつける。この句、その木を呼びかけている。
 下枝取 シヅエトリ。トリは、手にすること。折り取つたのではない。
 花待伊間尓 ハナマツイマニ。イは接頭語。イマは、間に同じ。「春風爾《ハルカゼニ》 不v亂伊間爾《ミダレヌイマニ》 令v視子裳欲得《ミセムコモガモ》」(卷十、一八五一)。これは今の語の語原的な用法なのであろう。イを、語勢の助詞と見ることもできるようであるが、マの方に密接しているのだろう。
 嘆鶴鴨 ナゲキツルカモ。花の待ち遠しさを嘆いたのである。
【評語】美しい譬喩が使われ、春を待つ心が歌われている。若い女を若かつらの木で表現したのも適切である。
 
寄v花
 
1360 氣《いき》の緒に 念《おも》へるわれを、
 山ぢさの 花にか、君が
 移ろひぬらむ。
 
 氣緒尓《イキノヲニ》 念有吾乎《オモヘルワレヲ》
 山治左能《ヤマヂサノ》 花尓香公之《ハナニカキミガ》
 移奴良武《ウツロヒヌラム》
 
【譯】息をつくたびに思つているわたしなのだのに、山ヂサの花のような、あんな花にあなたが氣が移つているのだろうか。
【釋】氣緒尓念有吾乎 イキノヲニオモヘルワレヲ。イキノヲは、呼吸の繼續を、緒を皆喩に使つてあらわしている。イキノヲニオモフは、呼吸の續くあいだも思うので、絶えず思うをいう。ワレヲは、わたしだのにの(486)意。
 山治左能 ヤマヂサノ。ヤマヂサは、チシヤノキ。ムラサキ科の落葉喬木。山野に自生し、夏季白色の圓錐花序の花を開く。見どころのない花なので、あんな女の意味に譬喩として使つている。
 花尓香公之 ハナニカキミガ。ハナニカは、花の如くにか。
 移奴良武 ウツロヒヌラム。ウツロフは、移るをいう。ウツロフは、色のあせるのにもいうが、移り去るの意にも使う。「梅枝爾《ウメガエニ》 鳴而移徙《ナキテウツロフ》 鶯之《ウグヒスノ》」(卷十、一八四〇)。
【評語】何の花でもよいのだが、山ヂサを出したのは、おりしもその花の頃で、それがつまらない花なので使つたのだろう。譬喩は、局部的に使われている。山ヂサのような、普通に歌われない花を持ち出したのは、實際的であつて、季節の感もよくあらわれている。この卷の譬喩歌は、季節のない歌を集めたと見られるのに、以下季節のある歌をのせているのは、不注意である。
 
1361 住吉《すみのえ》の 淺澤小野の かきつばた、
 衣に摺り著《つ》け 著《き》む日知らずも。
 
 墨吉之《スミノエノ》 淺澤小野之《アサザハヲノノ》 垣津幡《カキツバタ》
 衣尓摺著《キヌニスリツケ》 將v衣日不v知毛《キムヒシラズモ》
 
【譯】住吉の淺澤小野のカキツバタは、著物に摺りつけて著られる日がわからない。
【釋】墨吉之淺澤小野之 スミノエノアサザハヲノノ。淺澤小野は、住吉神社の南方の窪地だという。地形によつてこの名が出ているであろう。
 垣津幡 カキツバタ。カキツバタの花を擧げて、思う人の譬喩としている。(一三四五參照)。
 將衣日不知毛 キムヒシラズモ。衣服として著るべき日の何時であるかを知らないの意。
【評語】上三句の譬喩が美しい。女をわがものとすることを、衣を染めることであらわしているのは類歌が多(487)い。住吉の淺澤小野は、カキツバタの産地として知られている。地名を出したので、この歌の作と直接の關係はないのだろう。
 
1362 秋さらば 影にもせむと わが蒔きし
 韓藍《からあゐ》の花を 誰か採《つ》みけむ。
 
 秋去者《アキサラバ》 影毛將v爲跡《ウツシモセムト》 吾蒔之《ワガマキシ》
 韓藍之花乎《カラアヰノハナヲ》 誰採家牟《タレカツミケム》
 
【譯】秋になつたら影にもしようと思つて、わたしの蒔いた韓藍の花を誰が採んだのだろう。
【釋】影毛將爲跡 カダニモセムト。宣長は、影を移の誤りとしてウツシと讀み、花などの色を他に移して染料とするものの意としている。また影のままでウツシと讀む説もある。今舊訓のままにカゲニと讀む。物の影の意であろう。「月待ちて家には行かむ。わがさせるあから橘影に見えつつ」(卷十八、四〇六〇)など、月の影を愛した歌がある。
 韓藍之花乎 カラアヰノハナヲ。カラアヰはケイトウのこと。
【評語】思う子を人に取られたくやしさを詠んでいる。女を韓藍の花に譬えること、いかにも美しくふさわしい。正倉院文書の短歌墨蹟に、「□が家の韓藍の花今見れば移し難くもなりにけるかも」とあるのも、同様の譬喩を用いている。
 
1363 春日《かすが》野に 咲きたるはぎは、
 片枝《かたえだ》は いまだ含《ふふ》めり。
 言《こと》な絶えそね。
 
 春日野尓《カスガノニ》 咲有〓子者《サキタルハギハ》
 片枝者《カタエダハ》 未含有《イマダフフメリ》
 言勿絶行年《コトナタエソネ》
 
【譯】春日野に咲いたハギは、片枝はまだ莟んでいる。たよりは絶えないでくれ。
【釋】未含有 イマダフフメリ。イマダに對して打消しで受けない例は多い。フフメリは、フクメリに同じ。(488)莟んでいる。句切。
 言勿絶行年 コトナタエソネ。コトは言辭。先方から通じてくる言葉。行年は、宣長の説に、所年の誤りとしてソネと讀んでいる。ソネの訓は然るべきだが、行年をソネと讀む理由はわからない。
【評語】春日野を出したのは、奈良の京の歌で、その地に縁があつたのであろう。相手の若さを、イマダ含メリで描いているのは、他に類型があるが、よく適う譬喩である。五句は、兩者のあいだが不通にならないことを希望している。突然の氣分があるが、かえつていきいきとした感がある。
 
1364 見まく欲《ほ》り 戀ひつつ待ちし
 秋はぎは
 花のみ咲きて 成らずかもあらむ。
 
 欲v見《ミマクホリ》 戀管待之《コヒツツマチシ》
 秋〓子者《アキハギハ》
 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成可毛將v有《ナラズカモアラム》
 
【譯】見たいと思つて戀いながら待つていた秋のハギは、花ばかり咲いて實がならないであるだろうか。
【釋】欲見 ミマクホリ。はぎの花の咲くのを見たいと思つてである。
 不成可毛將有 ナラズカモアラム。實が成らないでかあるだろう。
【評語】例によつて、戀の成功を實のなることに譬えている。これは類型的であり、かつハギに實のなることを扱つていることが、似つかわしく感じられない。ただ五句に危惧の情があらわれているところに趣がある。
 
1365 吾妹子が 屋前《には》の秋はぎ、
 花よりは 實になりてこそ
 戀ひまさりけれ。
 
 吾妹子之《ワギモコガ》 屋前之秋〓子《ニハノアキハギ》
 自v花者《ハナヨリハ》 實成而許曾《ミニナリテコソ》
 戀益家禮《コヒマサリケレ》
 
(489)【譯】あの子の宿の秋ハギは、花よりは實になつてからが戀がまさつたことだ。
【釋】吾妹子之 ワギモコガ。ワギモコは、わが愛する女子の稱で、本來第二人稱であるが、轉じて獨語的な歌にも使う。
 屋前之秋〓子 ニハノアキハギ。屋前は、家屋の前の廣場をいう。
 實成而許曾 ミニナリテコソ。戀の成就してからのことを、この句で描いている。
【評語】前の歌と同じく、ハギの實のなるということは、實際目にする所であろうが、それで戀の成就を描くのが適切に感じられない。すなおな表現であるが、平凡の評を免かれない。
 
寄v鳥
 
1366 明日香川《あすかがは》 七瀬《ななせ》の淀に 住む鳥も、
 心あれこそ 波立てざらめ。
 
 明日香川《アスカガハ》 七瀬之不行尓《ナナセノヨドニ》 住鳥毛《スムトリモ》
 意有社《ココロアレコソ》 波不v立目《ナミタテザラメ》
 
【譯】明日香川のあちこちの淀に住んでいる鳥も、心があるから波を立てないのだろう。
【釋】明日香川 アスカガハ。大和の明日香川である。
 七瀬之不行尓 ナナセノヨドニ。ナナセは、セの數の多いのをいう。セは、渡り場所だが、ここでは七箇處の意になつている。不行は、水の流れない意で、ヨドに當てている。大伴の旅人の歌に「麻都良我波《マツラガハ》 奈々勢能與騰波《ナナセノヨドハ》」(卷五、八六〇)。
 意有社 ココロアレコソ。已然條件法。
【評語】鳥は、相手を譬えている。鳥も心があつて波を立てないだろうの意で、相手に向かつてあの鳥のように人に言つたりして騷がないでくれと希望している。巧みな表現である。
(490)寄v獣
 
1367 三國山 木末《こぬれ》に住まふ ※[鼠+吾]鼠《むざさび》の
 鳥待つが如《ごと》、吾《われ》待ち痩《や》せむ。
 
 三國山《ミクニヤマ》 木末尓住歴《コヌレニスマフ》 武佐左妣乃《ムザサビノ》
 此待v鳥如《トリマツガゴト・トリヲマツナス》 吾俟將v痩《ワレマチヤセム》
 
【譯】三國山の木の枝先に住んでいるムササビが鳥を待つように、わたしは待つて痩せるでしよう。
【釋】三國山 ミクニヤマ。福井縣坂井郡三國港附近の山だろうという。
 木末尓住歴 コヌレニスマフ。コヌレは、木の伸びた枝先。スマフは、住ムの連續して行われるをいう。
 武佐左妣乃 ムザサビノ。ムザサビは、※[鼠+吾]鼠。(491)夜間、宿鳥を襲つて食う習性をもつている。
 此待鳥如 トリマツガゴト。元暦校本等の古本系統に、此待鳥名に作つているが、訓法に苦しむ。仙覺本系統に名を如に作つているによる。細井本には此の字がないが、左に書いてあり、また此待鳥名の字面によるとすると、(イ)カクトリマツナ (ロ)カクトリマタナの二訓が考えられる。(イ)は、ナを感動の助詞とする。動詞につく確かな例は、本集にはないが、古事記にはある。「阿斯用由久那《アシヨユクナ》」(三六)。(ロ)は、ナを願望の助詞とする。これは五句の内容に適しない。
【評語】奇拔な譬喩で、注目をひくだけのことはあるが、自分をムササビに譬え、相手を鳥に譬えているのは、取つて食おうとする下心がありそうで、ぶつそうである。しかしムササビが鳥を待つているようにと、人を待つて痩せるほどになつている自分を描いたのは適切で、獨語性の歌と見れば、自嘲の氣分もあつておもしろい。
 
寄v雲
 
1368 石倉《いはくら》の 小野ゆ秋津《あきづ》に 立ち渡る
 雲にしもあれや、
 時をし待たむ。
 
 石倉之《イハクラノ》 小野從秋津尓《ヲノユアキヅニ》 發渡《タチワタル》
 雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》
 時乎思將v待《トキヲシマタム》
 
【譯】石倉の小野から出て、秋津に立ち渡る雲であつたなら、時節を待つているだろう。
【釋】石倉之小野從秋津尓 イハクラノヲノユアキヅニ。石倉は、吉野山中、宮瀧の西方に、今、岩倉の名が殘つている。ユは、そこから出發してずうつとやつて來ることを示す。秋澤は、吉野の離宮のある處の地名。
 雲西裳在哉 クモニシモアレヤ。アレヤは、疑問條件法で、ヤは感動を表示する助詞。雲ででもあつたなら、(492)時節を待とう。しかし雲ではないから時節の到來するまで待てない意である。「玉藻刈る辛荷《からに》の島に島廻《しまみ》する水烏《う》にしもあれや家思はざらむ」(卷六、九四三)と同型である。「あぶりほす人もあれやも家人の春雨すらを間使《まづかひ》にする」(卷九、一六九八)、「しましくもひとりあり得るものにあれや島のむろの木離れてあるらむ」(卷十五、三六〇一)。この卷の九の例などは、反語になつている。
 時乎思將待 トキヲシマタム。時節を待とうの意であるが、上の疑問條件法を受けて、事實は、待ち得ない心である。
【評語】雲だつたら時を待ちもしようというのは、雲ならばやがて秋津に來ることもあるというのであろう。山中の悠々たる雲に對して、焦燥の心を歌つている。詠嘆の氣の濃い歌である。
 
寄v雷
 
【釋】寄雷 イカヅチニヨスル。倭名類聚鈔に「雷公、兼名苑(ニ)云(フ)、雷公、一名雷師、雷音力囘(ノ)反、和名|奈流加美《ナルカミ》、一云|以加豆知《イカヅチ》」とあつて、ナルカミでもイカヅチでもよいらしい。「雲隱《クモガクル》 伊加土山爾《イカヅチヤマニ》 宮敷座《ミヤシキイマス》」(卷三、二三五、一本)。
 
1369 天雲《あまぐも》の 近く光りて 鳴る神の、
 見ればかしこし。
 見ねば悲しも。
 
 天雲《アマグモノ》 近光而《チカクヒカリテ》 響神之《ナルカミノ》
 見者恐《ミレバカシコシ》
 不v見者悲毛《ミネバカナシモ》
 
【譯】天の雲が近く光つて鳴る雷のように、見ればおそろしいし、見なければ悲しいことだ。
【釋】天雲 アマグモノ。諸本多くアマグモニと讀んでいるが、元暦校本等にアマグモノと讀んでいるのがよい。雷が雲に近く光つて鳴るのではなく、作者の身近に鳴るのである。
(493) 近光而 チカクヒカリテ。身に近く電光がはためくのである。
 響神之 ナルカミノ。カミは雷をいう。その暴威を怖れる心である。以上貴人を譬えている。「伊香保禰爾《イカホネニ》 可未奈那里曾禰《カミナナリソネ》」(卷十四、三四二一)。
 見者恐 ミレバカシコシ。譬喩と本意とを兼ねて云つている。句切。
 不見者悲毛 ミネバカナシモ。この句には、作者の本意が主になつている。雷にはあてはまらない。
【評語】貴人に戀う心である。雷神に譬喩を借りたのは巧みである。四五句は、對句になつているが、譬喩から本意に移つて行く變化が味わわれる。
 
寄v雨
 
1370 はなはだも 零《ふ》らぬ雨ゆゑ、
 行潦《にはたづみ》 いたくな行きそ。
 人の知るべく。
 
 甚多毛《ハナハダモ》 不v零雨故《フラヌアメユヱ》
 庭立水《ニハタヅミ》 太莫逝《イタクナユキソ》
 人之應v知《ヒトノシルベク》
 
【譯】澤山にも降らない雨だのに、庭の出水はひどく流れるな、人が知るまでに。
【釋】甚多毛不零雨故 ハナハダモフラヌアメユヱ。ハナハダモは、はなはだしくもで、降ラヌを修飾している。ユヱは、他詞に接續して副詞句を作り、下に敍する事の理由を説明する任務を持つているが、元來、特殊の理由を説明するので、それだのにの語氣を生じる。「はなはだも降らぬ雪ゆゑこちたくも天つみ空は陰《くも》らひにつつ」(卷十、二三二二)の如きは、この歌と同樣の用法である。
 庭立水 ニハタヅミ。雨が降つてにわかに出る水。ニハは俄の義であろうが、他にも「庭多泉《ニハタヅミ》」(卷二、一七(494)八)と書いてあり、前庭の意が感じられていたのだろう。
【評語】人に知られるのを憚る心が歌われている。譬喩の心は明白だが、五句は、本意が露出している。譬喩で掩い切れなかつたのである。
 
1371 ひさかたの 雨には著ぬを、
 あやしくも
 わが衣手は 干《ふ》る時なきか。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 雨尓波不v著乎《アメニハキヌヲ》
 恠毛《アヤシクモ》
 吾袖者《ワガコロモデハ》 干時無香《フルトキナキカ》
 
【譯】雨降りには著ないのだのに、ふしぎにも、わたしの著物の袖は、かわく時がないなあ。
【釋】久堅之 ヒサカタノ。枕詞。天に冠する語だが、轉じて雨に冠している。
 吾袖者 ワガコロモデハ。袖の字を四音の處に書いている例は、「袖可禮天《コロモデカレテ》 一鴨將v寐《ヒトリカモネム》(卷九、一六九三)などある。ソデも、衣手の義であろうから、コロモデとも讀まれる。
 干時無香 フルトキナキカ。動詞乾ルは、古く上二段に活用していたので、その連體形はフルである。カは感動の助詞。
【評語】涙のために袖のかわく時のないのを歎じている。愚痴つぽさの感じられる所、女の作らしい歌である。
 
寄v月
 
1372 み空ゆく 月讀壯士《つくよみをとこ》、
 夕《よひ》去らず 目には見れども、
(495) 寄る縁《よし》も無し。
 
 三空往《ミソラユク》 月讀壯士《ツクヨミヲトコ》
 夕不v去《ユフサラズ》 目庭雖v見《メニハミレドモ》
 因縁毛無《ヨルヨシモナシ》
 
【譯】空を行く月の壯士よ、夕ごとに目には見るけれども、近よるよしがない。
【釋】月讀壯士 ツクヨミヲトコ。月の擬人法。月をツクヨミという。
 夕不去 ヨヒサラズ。夕ごとに。
 因縁毛無 ヨルヨシモナシ。ヨルは、寄ルで、關係のできることをいう。ヨシは、因縁、理由。
【評語】譬喩で巧みにできている。その人を目には見ながら、寄るすべのない歎きがよくあらわれている。相手を月讀壯士と言つているので、女子の作だという説のあるのはもつともである。
 
1373 春日山 山高からし。
 石《いは》の上の 菅の根見むに、
 月待ちがたし。
 
 春日山《カスガヤマ》 々高有良之《ヤマタカカラシ》
 石上《イハノウヘノ》 菅根將v見尓《スガノネミムニ》
 月待難《ツキマチガタシ》
 
【譯】春日山は山が高いのだろう。石の上の菅を見ようとするが、月を待ちかねる。
【釋】々高有良之 ヤマタカカラシ。有良は、どちらか一字だけでもよい。有良之と書いたのは、アラシに當てたのであろう。以上は下の月待チガタシの理由を推量している。月を待ちかねるのを見ると、山が高いのだろうの意。
 菅根將塀見尓 スガノネミムニ。スガノネは、山菅。ここは根を採るものなので、スガノネと云つたのだろう。
 月待難 ツキマチガダシ。舊訓ツキマチカネヌ、略解ツキマチガテヌであるが、難の字をカネ、またガテヌと讀んだ例はない。
(496)【評語】思う人にあいがたいことを言つているのだろうが、譬喩が適切とも思われない。初二句も、山の高いことを推量するのは不自然だ。初心の人の作であろう。
 
1374 闇の夜《よ》は 苦しきものを、
 何時《いつ》しかと わが待つ月も
 早も照らぬか。
 
 闇夜者《ヤミノヨハ》 辛吉物乎《クルシキモノヲ》
 何時跡《イツシカト》 吾待月毛《ワガマツツキモ》
 早毛照奴賀《ハヤモテラヌカ》
 
【譯】闇の夜は苦しいものだが、いつかいつかとわたしの待つ月も、早く照つてほしい。
【釋】辛吉物乎 クルシキモノヲ。モノヲは、ものだが、それにしてもの意をなしている。
 何時跡 イツシカト。シカを讀み添える。何時か何時かと待つ心である。
 早毛照奴賀 ハヤモテラヌカ。テラヌカは、照らぬか、照れかしと希望する語法。
【評語】戀の悩みを闇夜に比しているのは、適切な譬喩である。照明の乏しかつた時代の生活から生まれた修辭である。三句以下、いかにも月を待つ心がよくあらわれている。
 
1375 朝霜の 消《け》やすき命、
 誰がために
 千歳もがもと わが念はなくに。
 
 朝霜之《アサジモノ》 消安命《ケヤスキイノチ》
 爲v誰《タガタメニ》
 千歳毛欲得跡《チトセモガモト》 吾念莫國《ワガオモハナクニ》
 
【譯】朝霜のように消えやすい命を、千年もあるようにとは、あなたのほかの誰のためにもわたしは思つていないのだ。
【釋】朝霜之 アサジモノ。譬喩として使つている。
(497) 消安命 ケヤスキイノチ。命の終ることを、消ユというのは、もと露や霜のようであるとする譬喩から出たのであろう。ここは初句の朝霜を受けた譬喩である。
 爲誰 タガタメニ。思う人があるのだが、その人以外を誰のゆえにかと言つている。上の「水底爾《ミナソコニ》 沈白玉《シヅクシラタマ》 誰故《タレユヱニ》 心盡而《ココロツクシテ》 吾不v念爾《ワガオモハナクニ》」(卷七、一三二〇)と同樣の言い方である。
【評語】これは左註にもあるように、初句が譬喩になつているだけで、譬喩歌ではない。千年モガモトワガ念ハナクニというのは反語で、君のためには千年も生きたいと思つているというのである。その特殊な表現が目立つて、歌意を強くしている。
 
右一首者、不v有2譬喩歌類1也。但闇夜歌人所心之故、竝作2此歌1。因以2此歌1載2於此次1。
 
右の一首は、譬喩歌の類にあらず。但し闇《やみ》の夜《よ》の歌人の所心《おもひ》のゆゑに、竝にこの歌を作りき。因りてこの歌を、この次に載す。
 
【釋】闇夜歌人 ヤミノヨノウタビト。上の、闇ノ夜ハ苦シキモノヲの歌の作者をいう。この卷は、作者未詳の卷であるが、この二首が同一人の作と知られていたのである。
 所心 オモヒ。所の下には動詞がくるのが通例であるのに、心のような名詞を置いたのは異例である。但し「於v是悲2傷※[羈の馬が奇]旅1、各陳2所心1作歌」(卷十七、三八九〇題詞)など、他にも見えている。思う所の意である。
 
寄2赤土1
 
(498)1376 大和の 宇陀《うだ》の眞赤土《まはに》の さ丹著《につ》かば、
 其《そこ》もか人の、 吾《わ》を言《こと》なさむ。
 
 山跡之《ヤマトノ》 宇陀乃眞赤土《ウダノマハニノ》 左丹著《サニツカバ》
 曾許裳香人之《ソコモカヒトノ》 吾乎言將v成《ワヲコトナサム》
 
【譯】大和の宇陀の赤土のように、赤く染つたなら、それをか人がわたしのことを、とやかくいうだろう。
【釋】山跡之 ヤマトノ。地名にヤマトを冠するもの、卷の一に、青香具山、卷の十一に、室原の毛桃がある。大和の國の東部の地方をいうらしい。
 宇陀乃眞赤土 ウダノマハニノ。宇陀は、大和の國の東方。赤土の産地をいう。宇陀で作つた歌ではない。マハニは、赤色の土。染料にしたもの。以上は譬喩。
 左丹著者 サニツカバ。サは接頭語。ニツクは赤く染まる。色にあらわれたらの意。
 曾許裳香入之 ソコモカヒトノ。上のサ丹著カバを受けて、ソコと云つている。その事の意。
 吾乎言將成 ワヲコトナサム。コトナサムは、言葉を成すだろう。うわさをするだろう。
【評語】人に知られることを憚つていることは、類歌が多い。これは大和の宇陀の眞赤土を持ち出したのが、大がかりで手がらといえば言われる。調子のよい歌である。
 
寄v神
 
1377 木綿《ゆふ》懸《か》けて 祭る御諸《みもろ》の、
 神《かむ》さびて 齋《いは》ふにはあらず。
 人目多みこそ。
 
 木綿懸而《ユフカケテ》 祭三諸乃《マツルミモロノ》
 神佐備而《カムサビテ》 齋尓波不v在《イハフニハアラズ》
 人目多見許曾《ヒトメオホミコソ》
 
【譯】木綿を懸けてお祭する神社のように、神樣ぶつて潔齋しているのではありません。人目が多いからです。
(499)【釋】木綿懸而 ユフカケテ。ユフは、コウゾの皮の曝したもの。神を祭るための古風習である。
 祭三諸乃 マツルミモロノ。ミモロは、神座で、神のよりつくところ。以上譬喩として使われている。
 神佐備而 カムサビテ。神としての性質を發揮して。
 齋尓波不在 イハフニハアラズ。イハフは、神を祭つて潔齋するをいう。以上の二句で、相手を近づけないでいることを説明している。句切。
 人目多見許曾 ヒトメオホミコソ。下に省略の氣のある語。
【評語】譬喩が奇警で巧みにできている。女子の作であつて、すぐに許諾し得ない理由を説明している。
 
1378 木綿《ゆふ》懸《か》けて 齋《いは》ふこの神社《モリ》、
 超えぬべく 念《おも》ほゆるかも。
 戀の繁きに。
 
 木綿懸而《ユフカケテ》 齋此神社《イハフコノモリ》
 可v超《コエヌベク》 所v念可毛《オモホユルカモ》
 戀之繁尓《コヒノシゲキニ》
 
【譯】木綿を懸けて淨めてあるこの神社も、越えそうに思われることだ。戀の繁きによつて。
【釋】齋此神社 イハフコノモリ。神社に木綿を懸けて、人のみだりに侵すことを戒めてある。モリは、森林形體の祭祀物をいう。神社の字が使用してあるが、次句に越エヌベクとあるによれば、やはり森林の形をなしているのだろう。
 可超所念可毛 コエヌベクオモホユルカモ。禁を犯して森にはいりそうにも思われるの意で、しいて相手に近づこうとすることを言つている。句切。
 戀之繁尓 コヒノシゲキニ。上の詞句の理由を語つている。戀のさかんなのをいう。
【評語】前の歌と問答かという説があり、そういうこともあろう。「ちはやぶる神の齋垣《いがき》も越えぬべし。今は(500)わが名の惜しけくもなし」(卷十一、二六六三)と同趣で、あつい信仰を基礎としているその強い心が窺われる。
 
寄v河
 
1379 絶えず逝《ゆ》く 明日香の川の
 よどめらば、
 故しもあるごと 人の見まくに。
 
 不v絶逝《タエズユク》 明日香川之《アスカノカハノ》
 不逝有者《ヨドメラバ》
 故霜有如《ユヱシモアルゴト》 人之見國《ヒトノミマクニ》
 
【譯】絶えずに流れる明日香川が、もし流れなかつたら、子細があるように、人が見ることだろう。
【釋】不逝有者 ヨドメラバ。義をもつて不通の意に讀む。初句の逝の字を受けて、不逝と書いている。
 人之見國 ヒトノミマクニ。人が見むことだ。それだから云々の意を感じさせるのは、助詞ニが接續の氣を生じているからである。
【評語】巧みに譬喩を使つて、相手のしばし中絶しようとするのを詰問している。調子のよさの感じられる歌である。
 
1380 明日香川
 瀬々に玉藻は 生ひたれど、
 しがらみあれば、靡きあはなくに。
 
 明日香川《アスカガハ》
 湍瀬尓玉藻者《セゼニタマモハ》 雖2生有1《オヒタレド》
 四賀良美有者《シガラミアレバ》 靡不v相《ナビキアハナクニ》
 
【譯】明日香川は、瀬々に玉藻は生えているが、しがらみがあるので、靡きあわないことだ。
(501)【釋】四賀良美有者 シガラミアレバ。シガラミは、水流中に木石で作つた柵。流れ下るものを塞《せ》き留める。
 靡不相 ナビキアハナクニ。玉藻が流れ合わないことだの意。
【評語】第三者が見たように詠んでいる。二三句の語氣が説明になつているからであろう。じやまをする人があるので、いつしよになれないことを歌つている。
 
1381 廣瀬川、
 袖つくばかり 淺きをや、
 心深めて わが念へるらむ。
 
 廣瀬川《ヒロセガハ》
 袖衝許《ソデツクバカリ》 淺乎也《アサキヲヤ》
 心深目手《ココロフカメテ》 吾念有良武《ワガオモヘルラム》
 
【譯】廣瀬川は、袖を浸すほどの淺い川だ。その思う心の淺い人を、心深くからわたしに思つているのだろうか。
【釋】廣瀬川 ヒロセガハ。奈良縣の葛城川の下流、北葛城郡を流れる。廣く淺く流れる川で、祝詞に、廣瀬の河合にの句がある。
 袖衝許 ソデツクバカリ。ツクは、漬クで、濡れることをいい、徒歩わたりをするほどに淺いので、袖ツクバカリというのだとされていた。しかし淺いのをいうのに、袖が濡れるほどというのは、變である。袖は、手よりも長いので、手をさげてその先にさがつている袖が、水にふれるほどで、水面の低いのをいう。「紅之《クレナヰノ》 襴引道乎《スソヒクミチヲ》 中置而《ナカニオキテ》 一云 須蘇衝河乎《スソヅクカハヲ》」(卷十二 二六五五)の例がある。「澤田川袖つくばかり淺けれど、はれ、淺けれど、久邇《くに》の宮人高橋わたす。あはれそこよしや、高橋渡す」(催馬樂、澤田川)。
 淺乎也 アサキヲヤ。アサキは、先方の人の思う心の淺いのをいう。深く思つていない意である。ヤは疑問の係助詞。
(502) 心深目手 ココロフカメテ。フカメテは、深くして。深い心の底から。
 吾念有良武 ワガオモヘルラム。舊訓ワガオモヘラムであり、そうも讀まれるが、字についてはワガオモヘルラムで、音聲としてはオが吸收されよう。同一の字面に、「相不v念《アヒオモハズ》 有物乎鴨《アルモノヲカモ》 菅根乃《スガノネノ》 懃懇《ネモコロゴロニ》 吾念有良武《ワガオモヘルラム》」(卷十二、三〇五四)があり、歌意も同樣である。ラムは、淺キヲヤを受けて推量している。
【評語】相手の心がもしや淺いのかもしれないのに自分が思つているのだろうかと疑う心がよく出ている。心の深い歌である。
 
1382 泊瀬《はつせ》川
 流る水沫《みなわ》の 絶えばこそ、
 わが念ふ心 遂《と》げじと思はめ。
 
 泊瀬川《ハツセカハ》
 流水沫之《ナガルミナワノ》 絶者許曾《タエバコソ》
 吾念心《ワガオモフココロ》 不v遂登思齒目《トゲジトオモハメ》
 
【譯】泊瀬川は、流れる水の沫の絶えもしたら、わたしの思う心が成就しないと思おう。
【釋】流水沫之 ナガルミナワノ。舊訓ナガルミナワノである。動詞流ルの連體形をナガルとすべき證明はないが、「射水河《イミヅガハ》 流水沫能《ナガルミナワノ》」(卷十八、四一〇六)など三音の處に流の字を使つており、ナガルで連體形としたようである。
 絶者許曾 タエバコソ。事實絶えることのないのを、假に絶えたならと云つている。コソは、その條件を強調している。
 不遂登思齒目 トゲジトオモハメ。トゲジは、成しとげないだろう。
【評語】川の水の流れが止まることもあつたならと、あり得ないことを條件としている。相手に向かつて自分の心を裏切ることはないだろうというのである。平凡な譬喩だが、歌は巧みにできている。
 
(503)1383 嘆《なげ》きせば 人知りぬべみ、
 山川の 激《たぎ》つ情《こころ》を
 塞《せ》かへてあるかも。
 
 名毛伎世婆《ナゲキセバ》 人可v知見《ヒトシリヌベミ》
 山川之《ヤマガハノ》 瀧情乎《タギツココロヲ》
 塞敢而有鴨《セカヘテアルカモ》
 
【譯】歎息したら人が知るだろうから、山川のような激しい心を抑え留めていることだ。
【釋】名毛伎世婆 ナゲキセバ。ナゲキは、長息。歎息、ためいき。セは、動詞|爲《す》の未然形。
 山川之 ヤマガハノ。以下譬喩に使つている。
 瀧情乎 タギツココロヲ。タギツは激流する。はげしい心を。
 塞敢而有鴨 セカヘテアルカモ。セカヘテは、進んで塞く意で、塞き抑えて。續日本後紀の長歌に「年月加倍《トシツキヲセカヘトドメテ》」とある。
【評語】強い調子の出ている歌である。「言《こと》に出でていはばゆゆしみ山川の激《たぎ》つ心を塞《せ》かへたりけり」(卷十一、二四三二)と類想で、この方が強い。
 
1384 水隱《みごも》りに 息衝《いきづ》きあまり、
 早川の 瀬には立つとも、
 人に言はめやも。
 
 水隱尓《ミコモリニ》 氣衝餘《イキヅキアマリ》
 早川之《ハヤカハノ》 瀬者立友《セニハタツトモ》
 人二將v言八方《ヒトニイハメヤモ》
 
 
【譯】水中で嘆息をして、それが上に出て、早川の瀬としてあらわれても、人には言いはしない。
【釋】水隱尓 ミゴモリニ。ミゴモリは、水中にこもつて隱れてあること。集中假字書きの例はない。「青山之《アヲヤマノ》 石垣沼間乃《イハガキヌマノ》 水隱爾《ミゴモリニ》 戀哉將v度《コヒヤワタラム》 相縁乎無《アフヨシヲナミ》」(卷十一、二七〇七)。コヌレガクリ(木末隱り)などの例(504)によればミガクリとも讀まれる。
 氣衝餘 イキヅキアマリ。息をついてその勢いが餘つて。はげしくといきをついて。
 瀬者立友 セニハタツトモ。瀬として表面にあらわれても。思いの外面にあらわれるのを譬えている。
【評語】譬喩を巧みに使つており、やや巧妙に過ぎて輕い厭味をさえ感じさせる。相聞の歌としては上乘の作と云えよう。
 
寄2埋木1
 
【釋】寄埋木 ウモレギニヨスル。ウモレギは、古代の木材が土中に埋もれ、炭化しかけたもので、細工物の材料として使用して、その木理を愛する。
 
1385 眞鉋《まがな》持ち 弓削《ゆげ》の河原の 埋木《うもれぎ》の
 顯《あらは》るましじき 事にあらなくに。
 
 眞鉋持《マガナモチ》 弓削河原之《ユゲノカハラノ》 埋木之《ウモレギノ》
 不v可v顯《アラハルマシジキ》 事尓不v有君《コトニアラナクニ》
 
【譯】鉋を持つて弓を削る。その弓削の川原から出る埋木のように、顯れまいことではないのだ。
【釋】眞鉋持 マガナモチ。枕詞。マガナは鉋。マは接頭語。正倉院御藏に、黒柿の杷の鉋がある。槍の身のような刀に木製の柄がついている。これで木を突いてけずる。その鉋を持つて弓を削る意に、弓削に冠する。
 弓削河原之 ユゲノカハラノ。弓削は、大阪府中河内郡の地名。弓削川は、八尾市附近を流れて大和川に入る。その邊から埋木が出たのだろう。
 埋木之 ウモレギノ。以上序詞。埋木も、結局顯れるので、次句に冠している。
 不可顯 アラハルマシジキ。マシジキは、マシジの連體形。顯れないであろうの意。不可の意の字に〓があ(505)り、カタシと訓せられているから、ここにもアラハレガタキとも讀まれる。「豫屡麻志士枳 箇破能區莽愚莽《ヨルマシジキカハノクマグマ》」(日本書紀五六)。
 事尓不有君 コトニアラナクニ。君は字音假字として、クニの二音に使つている。
【評語】何をか譬喩に使おうと苦心した状が窺われる。ちようど埋木が手もとにあつたので、それを使つたのだろう。埋木は、本集中他にないところを見ても、發見であつたと云えよう。
 
寄v海
 
1386 大船に 眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 漕ぎ出にし
 沖は深けむ。
 潮は干《ひ》ぬとも。
 
 大船尓《オホブネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》
 水手出去之《コギデニシ》 奥將v深《オキハフカケム》
 潮者干去友《シホハヒヌトモ》
 
【譯】大船に櫓櫂をいつぱいに取り附けて榜ぎ出した沖は深いだろう。潮が引いても。
【釋】大船尓眞梶繁貫 オホブネニマカヂシジヌキ。大船に漕ぐ器具を十分に装備する意の慣用句。
 奥者將深 オキハフカケム。フカケムは、形容詞深ケに、助動詞ムの接續した形。句切。
【評語】十分に舟よそおいをして漕ぎ出した沖が、底深くあるだろうということを詠んでいる。深いということが、心の深さを言つているのはいうまでもない。五句は、どのような事に際會してもの意である。全面的に譬喩が使われ、巧妙に利用されている。そのために多少のぎごちなさを生じたのはやむを得ない。
 
1387 伏超《ふしこえ》ゆ 行かましものを、
(506) 守らふに うちぬらさえぬ。
 浪|數《よ》まずして。
 
 伏超從《フシコエユ》 去益物乎《ユカマシモノヲ》
 間守尓《マモラフニ》 所2打沾1《ウチヌラサエヌ》
 浪不v數爲而《ナミヨマズシテ》
 
【譯】伏超を通つて行つたらよかつたものを。見守つているところを濡らされてしまつた。浪に注意しないで。
【釋】伏超從 フシコエユ。フシコエは、通路の名であろうが、所在未詳。仙覺の萬葉集註釋には、富士の山麓だという。海岸沿いに通路が二條あり、その山手の道が伏超である。それが這つて越えるような難路だつたので、伏超というのであろう。ユは、それを通つて、その道から。
 去益物乎 ユカマシモノヲ。行つたらよかつたものを、しかるに。
 間守尓 マモラフニ。ヒマモリニ(西)、ヒマモルニ(考)、マモラフニ(古義)。様子を窺つているところを。マモラフは見守る意である。この通路は、親知らず子知らずのような處で、浪が通路を洗うので、その間を見て通るのである。富士山の麓にそのような通路のあつたことは、西鶴の好色一代男にもあり、そのほか諸国にあつたであろう。
 打所沾 ウチヌラサエヌ。浪のためにぬらされた。句切。
 浪不數爲而 ナミヨマズシテ。浪の寄せるのを測らないで。ヨマズは數えずの意だが、浪のもようを推測する意に使つている。
【評語】まわり遠くても安全な途を取ればよかつたものを、いそいで危險をおかして、番人に咎められたというような事情が詠まれている。すこし表現がくだくだしいが、こういう内容は、譬喩で歌うに適しているのであろう。
 
1388 石灑《いはそそ》く 岸の浦みに 寄する浪、
(507) 邊《へ》に來寄《きよ》らばか、 言《こと》の繁けむ。
 
 石灑《イハソソク》 岸之浦廻尓《キシノウラミニ》 緑浪《ヨスルナミ》
 邊尓來依者香《ヘニキヨラバカ》 言之將v繁《コトノシゲケム》
 
【譯】水が石に注ぐ岸の浦に寄せる浪が、邊に來寄つたなら、人の口がうるさいだろう。
【釋】石灑 イハソソク。枕詞。敍述によつて岸を説明している。水が石にそそぐ意。
 邊尓來依者香 ヘニキヨラバカ。へは岸邊だが、ここでは思う人のあたりの意を意味している。
 言之將繁 コトノシゲケム。本意が露出している。
【評語】石ソソクは、岸を修飾してその風景を描いているが、この歌ではわずらわしい。浪が邊に近寄ることまでは、譬愉になつているが、それを受けて言ノ繁ケムというは、唐突である。ごたごたして落ちつきのない歌である。
 
1389 礒の浦に 來寄る白浪、
 反《かへ》りつつ 過ぎがてなくは、
 誰にたゆたへ。
 
 礒之浦尓《イソノウラニ》 來依白浪《キヨルシラナミ》
 反乍《カヘリツツ》 過不v勝者《スギガテナクハ》
 誰尓絶多倍《タレニタユタヘ》
 
【譯】礒の浦に來て寄る白浪は、歸つて通り過ぎることができないのは、誰のためにためらつているのでもない。あなたゆえだ。
【釋】反乍 カヘリツツ。寄つて來た浪が、沖の方へ戻りつつ。
 過不勝者 スギガテナクハ。スギは、通過し去るをいう。ガテナクは、ガテヌコトの義で、できないこと。歸り去ることのできないことは。
 誰尓絶多倍 タレニタユタヘ。誰は元暦校本等の字である。仙覺本系統には雉に作つてキシと讀んでいるが、(508)雉はキギシでキシと讀むのは無理である。タユタヘは猶豫して落ちつかない意の動詞の已然形。木下正俊氏の説(萬葉五號)に、上に疑問の語があつて、下に用言の已然形がくる場合には、反語になる例であるという。「可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》 伊都知由可米等《イヅチユカメト》」(卷十四、三五七七)。誰のためにためらつているのでもない。あなたゆえにためらつているのだ。
【評語】男が歸ろうとしてなごりを惜しんで立ち去りかねていて歌つた歌と見るべきである。表現はごたごたしているように見えるが、當時としては、普通のことばになつたのだろう。
 
1390 淡海《あふみ》の海 浪かしこみと、
 風守り 年はや經《へ》なむ。
 榜《こ》ぐとはなしに。
 
 淡海之海《アフミノウミ》 浪恐登《ナミカシコミト》
 風守《カゼマモリ》 年者也將2經去1《トシハヤヘナム》
 榜者無二《コグトハナシニ》
 
【譯】淡海の湖水で、浪がおそろしさに風もようを窺つて、年を經ることだろうか。漕ぐことはなしに。
【釋】浪恐登 ナミカシコミト。浪がおそろしさにと。
 風守 カゼマモリ。風の様子を窺つて。
 年者也將經去 トシハヤヘナム。ヤは、疑問の係助詞。年を經るは、年の代るをいう。句切。
 榜者無二 コグトハナシニ。船を沖に漕ぎ出すことなしに。
【評語】譬喩の見つけ所や立て方は巧みだが、表現はなめらかでない。浪、風、年など、提示的な出し方の道具が多過ぎるのである。人目人言を憚つていたずらに待つている焦燥の情が歌われている。淡海の海は全く縁のない地名であろう。
 
(509)1391 朝なぎに 來《き》寄る白浪、
 見まく欲《ほ》り われはすれども、
 風こそ寄《よ》せね。
 
 朝茶藝尓《アサナギニ》 來依白浪《キヨルシラナミ》
 欲v見《ミマクホリ》 吾雖v爲《ワレハスレドモ》
 風許増不v令v依《カゼコソヨセネ》
 
【譯】朝凪に寄せて來る白浪を、見たいとわたしは思うけれども、風が寄せない。
【釋】欲見吾雄爲 ミマクホリワレハスレドモ。我ハ見マク欲リスレドモの意。
 風許増不令依 カゼコソヨセネ。風が白浪をうち寄せない。
【評語】朝なぎに來寄る白浪は、しずかな浪をいい、その更に大いに寄ることを望んでいるが、風が寄せないというのであろう。男の寄り来ることのはかばかしくないのを歎いた歌である。譬喩の表現のしつくりしない所のあるのは、やはり朝ナギ云々と風コソ寄セネとがうち合わないためである。
 
寄2浦沙1
 
1392 紫の 名高《なたか》の浦の 眞砂路《まなごぢ》に
 袖のみ觸《ふ》れて 寐《ね》ずかなりなむ。
 
 紫之《ムラサキノ》 名高浦之《ナタカノウラノ》 愛子地《マナゴヂニ》
 袖耳觸而《ソデノミフレテ》 不v寐香將v成《ネズカナリナム》
 
【譯】紫の色は名高い。その名高の浦の砂地に、袖が觸れただけで寐ないでかしまうのだろう。
【釋】紫之 ムラサキノ。枕詞。紫色は、外來の技術による染色であつて、當時人々の注意を引いていたので、名高に冠するのであろう。
 名高浦之 ナタカノウラノ。和歌山縣海南市名高附近の海岸。
 愛子地 マナゴヂニ。マナゴヂニ(元)、マナゴツチ(元赭)。マナゴヂは眞砂の路。愛子は訓假字。マナゴ(510)に、愛するかの人の連想がある。「衣袖之《コロモデノ》 眞若之浦之《マワカノウラノ》 愛子地《マナゴヂノ》 間無時無《マナクトキナシ》 吾戀〓《ワガコフラクハ》」(卷十二・三一六八)。
 袖耳觸而 ソデノミフレテ。袖だけが觸れて。
【評語】紫の名高の浦は、海岸の地名を持ち出しただけだが、その字面からは美しい連想があり、その眞砂路というのにもまた、愛する人の連想がある。かような美しい連想の中に暖めて育てた歌である。それだけに歌がらも氣よわで、前途を悲觀して歌つている。
 
1393 豐國《とよくに》の 企救《きく》の濱邊の 眞砂路《まなごぢ》の、
 眞直《まなほ》にしあらば 何か嘆かむ。
 
 豐國之《トヨクニノ》 聞之濱邊之《キクノハマベノ》 愛子地《マナゴヂノ》
 眞直之有者《マナホニシアラバ》 何如將v嘆《ナニカナゲカム》
 
【譯】豐の國の企教の濱邊の細砂路のように、まつすぐだつたら、何も嘆くことはない。
【釋】豐國之 トヨクニノ。豐國は、豐前豐後の古名。
 聞之濱邊之 キクノハマベノ。キクは、福岡縣|企救《きく》郡。その地の濱。「豐國の企救の長濱行き暮し」(卷十二、三二一九) とも歌われている。
 愛子地 マナゴヂノ。以上序詞。その路のまつすぐなので。次の眞直を引き出している。
 眞直之有者 マナホニシアラバ。マナホは、まつすぐで、相手がすなお、正直なのをいう。何のさまたげもなかつたら。
【評語】調子で持つている歌である。この地名も、遠くにいて詠んだものであろうが、かつてその地を通つたことがあるのだろう。
 
寄v藻
 
(511)1394 潮《しほ》滿《み》てば 入りぬる磯の 草なれや、
 見らくすくなく
 戀ふらくの多き。
 
 鹽滿者《シホミテバ》 入流礒之《イリヌルイソノ》 草有哉《クサナレヤ》
 見良久少《ミラクスクナク》
 戀良久乃太寸《コフラクノオホキ》
 
【譯】潮が滿ちると、潮の中にはいつてしまう礒の草であるのだろうか、見ることが稀で、戀うことが多いことだ。
【釋】入流礒之 イリヌルイソノ。イリヌルは、礒を修飾する。潮が滿ちると、礒が海水中に没するのである。
 草有哉 クサナレヤ。疑問條件法。ヤは、疑問の意が強く、草であるかと疑う意である。
 見良久少 ミラクスクナク。ミラクは、見ること。逢うことの稀なのをいう句意。クは、動詞助動詞の連體形のア段に轉じたものに接續するを通例とするので、ミラクの如き形ができる。
 戀良久乃太寸 コフラクノオホキ。上の見ラクスクナクに對して對句になつている。
【評語】四五句を對句とし、同形の語を多く重ねて調子を取つている。それで句が躍動的になり調子がつきすぎて、浮華な感じをも生じている。
【参考】別傳。
   如2孫王鹽燒戀歌1曰、
  旨保美弖婆《シホミテバ》一句 伊利努留伊蘇能《イリヌルイソノ》二句 倶佐那羅旨《クサナラシ》三句 美留比須倶那倶《ミルヒスクナク》四句 古不留與於保美《コフルヨオホミ》五句(歌經標式)
 
1395 奧《おき》つ浪 寄する荒礒《ありそ》の 名告藻《なのりそ》は、
 心のうちに いたみとなれり。
 
 奧浪《オキツナミ》 依流荒礒之《ヨスルアリソノ》 名告藻者《ナノリソハ》
 心中尓《ココロノウチニ》 疾跡成有《イタミトナレリ》
 
(512)【譯】沖の方の浪のうち寄せる荒礒の名告藻は、心の中で悩みとなつた。
【釋】名告藻者 ナノリソハ。ナノリソは、物をいうなの意味に通ずるので、兩者の關係を隱して人に言わないでいる意味に懸けて使つている。
 心中尓 ココロノウチニ。作者の心中に。
 疾跡成有 イタミトナレリ。トクトナリケリ(元)、ヤマヒトナレリ(代精)。有をケリに當てた確實な例がない。よって跡成有は、代匠記によつてトナレリと讀むべく、疾の字を三音にあてて書いたと見るべきである。疾は、熟字となるのを除いては、集中、ヤマヒ、イタ、イタク、イタミ、トキ、ハヤクにあてて書いている。この歌は、初三句の「おきつ浪寄する荒礒のなのりそは」の句が提示部であつて、四五句でこれを敍述している。その提示は、譬喩であつて、ナノリソによつて、愛人(多分女子)をえがいているが、それが心の中において「疾」となつたと釋せられる歌意である。今、イタミの訓により、病痛の義に使つたものとする。「帥大伴(ノ)卿、忽(ニ)生(ジ)2瘡(ヲ)脚(ニ)1、疾2苦(ス)枕席(ニ)1。」(卷四、五六七左註)。
【評語】作者自身を名告藻に比しているのであろう。それを譬喩に使つて人に言わないことの悩みを描いているのは、巧みだが、譬喩と本意との接續は突然である。
 
1396 紫の 名高《なたか》の浦の 名告藻《なのりそ》の
 礒に靡かむ 時待つ吾を。
 
 紫之《ムラサキノ》 名高浦乃《ナタカノウラノ》 名告藻之《ナノリソノ》
 於v礒將v靡《イソニナビカム》 時待吾乎《トキマツワレヲ》
 
【譯】紫の色は名高い。その名高の浦の名告藻が、礒に靡くであろう時節を待つているわたしだ。
【釋】紫之名高浦乃 ムラサキノナタカノウラノ。既出(卷七、一三九二)。
 名告藻之 ナノリソノ。ナノリソは、思う女を喩えでいる。
(513) 於礒將靡 イソニナビカム。浪に寄せられて礒で靡く意で、女が自分のもとに寄ることを描いている。
 時待吾乎 トキマツワレヲ。時待ツは、連體形。ヲは、感動の助詞。
【評語】美しい詞に包まれた情趣のある作品である。女の靡き寄るのを待つ心が、ゆたかな調子で歌われている。
 
1397 荒礒《ありそ》越す 浪は恐《かしこ》し。
 しかすがに、
 海の玉藻の、 憎くはあらずて。
 
 荒礒超《アリソコス》 浪者恐《ナミハカシコシ》
 然爲蟹《シカスガニ》
 海之玉藻之《ウミノタマモノ》 憎者不v有手《ニククハアラズテ》
 
【譯】荒礒を越す浪はおそろしい。そうではあるが、海の玉藻が憎くはなくして。
【釋】然爲蟹 シカスガニ。それはそうだがの意の副詞。語義は、然爲ガニで、ガニは助詞、アエヌガこなどの語と同じ構成で、動詞助動詞の終止形に接續する。そうする、その程度にの意らしい。
 海之玉藻之 ウミノタマモノ。愛人を玉藻に喩えている。
 憎者不有手 ニククハアラズテ。この下に省略部分のある語氣である。
【評語】平明な譬喩である。すべてにわたつて説明的であつて、「紫のにほへる妹を憎くあらば」の歌ほどの情熱に乏しい。
 
寄v船
 
1398 樂浪《ささなみ》の 志賀津の浦の 船乘《ふなの》りに、
 乗りにし心 常忘らえず。
 
 神樂聲浪乃《ササナミノ》 四賀津之浦能《シガツノウラノ》 船乘尓《フナノリニ》
 乘西意《ノリニシココロ》 常不v所v忘《ツネワスラエズ》
 
(514)【譯】樂浪の志賀津の浦での乘船のように、乘つてしまつた心は、いつも忘れられない。
【釋】神樂聲浪乃 ササナミノ。ササナミは、琵琶湖南方の地名。普通に樂浪の二字を使用するのは、多分奈良時代の初めに好字を使用することに定めた時の用字であろう。神樂聲浪とあるのは、この一例のみであるが、これが語義を示すものであろう。他に神樂浪と書いた例(卷七、一二五三)がある。神樂を演奏する時に、ササとはやすからだという。「阿佐受袁勢《アサズヲセ》 佐々《ササ》」(古事記四〇)。
 四賀津之浦能 シガツノウラノ。シガは、樂浪のうちの地名。
 船乘尓 フナノリニ。フナノリは、乘船し渡海するをいう。ここまで譬喩としてあげている。
 乘西意 ノリニシココロ。ノリは、船に乘ると、心に乘るとを懸けている。心に人を思うのを、その人が心に乘るという言い方をするのである。「思ひ妻心に乘りて」(巻十三、三二七八)の例などで、その用法を知るべきである。船乘リニ乘リニシ心という續きは、自分が先方に乘つたようである。相手に思われたことをいうのだろう。
 常不所忘 ツネワスラエズ。ツネは、いつも、永久に。
【評語】調子に乘つているだけの作である。樂浪の志賀津の浦も、何處の浦でもよい。作者の思い出があつて使われたものであろうか。「はゆま路に引舟《ひきふね》わたしただ乘りに妹が心に乘りにけるかも」(卷十一、二七四九)と通ずるところのある歌である。
 
1399 百傳《ももづた》ふ 八十《やそ》の島みを 榜《こ》ぐ船に、
 乘りにし情《こころ》 忘れかねつも。
 
 百傳《モモヅタフ》 八十之島廻乎《ヤソノシマミヲ》 榜船尓《コグフネニ》
 乘尓志情《ノリニシココロ》 忘不v得裳《ワスレカネツモ》
 
【譯】百に近いたくさんの島々を榜ぐ船に乘つたように、乘つてしまつた心は、忘れることができないなあ。
(515)【釋】百傳 モモヅタフ。枕詞。百に傳わり行く意に、八十に冠する。
 八十之島廻乎 ヤソノシマミヲ。ヤソは、多數をいう。ミは地形に附く接尾語。
【評語】前の歌と同意である。同じ作者が、詞句を變えて歌い試みたものであろう。地名を擧げた前の歌の方が、具體性があつてよい。
 
1400 島づたふ 足速《あしはや》の小舟、
 風守り 年はや經なむ。
 逢ふとはなしに。
 
 島傳《シマヅタフ》 足速乃小舟《アシハヤノヲブネ》
 風守《カゼマモリ》 年者也經南《トシハヤヘナム》
 相常齒無二《アフトハナシニ》
 
【譯】島を傳う足のはやい小舟は、風もようを窺つて年を經るだろう。逢うことはなくて。
【釋】足速乃小舟 アシハヤノヲブネ。速力の早い小舟。行動の速いことを足速の語であらわしているであろう。
【評語】既出の「淡海の海浪かしこみと風守り年はや經なむ榜ぐとはなしに」(卷七、一三九〇)と同想同型である。淡海の海の歌の方が痛切感が強い。この歌は、焦燥の感はあるが、それに比して客観性が濃いので、幾分餘裕がある。
 
1401 みなぎらふ 沖つ小島《こじま》に、
 風を疾《いた》み 船寄せかねつ。
 心は念《おも》へど。
 
 水霧相《ミナギラフ》 奧津小島尓《オキツコジマニ》
 風乎疾見《カゼヲイタミ》 船縁金都《フネヨセカネツ》
 心者念杼《ココロハオモヘド》
 
【譯】水煙の立つている沖の小島に、風がひどいので船を寄せかねた。心では思つているのだが。
【釋】水霧相 ミナギラフ。水が霧になつてこもつている意。この語は、集中このほかには「水激」(卷一、(516)三六)、「潦」(巻十三、三三三九)の訓にあてられている。
【評語】譬喩は適切であり、またその譬喩の敍述もよくなされている。航海の經験のある人の作であろう。
 
1402 こと放《さ》けば 沖ゆ放《さ》けなむ。
 湊より 邊《へ》つかふ時に
 放《さ》くべきものか。
 
 殊放者《コトサケバ》 奧從酒甞《オキユサケナム》
 湊自《ミナトヨリ》 邊著經時尓《ヘツカフトキニ》
 可v放鬼香《サクベキモノカ》
 
【譯】同じ別れるなら沖から別れてもらいたい。湊を通つて岸邊についている時に、別れるべきではない。
【釋】殊故者 コトサケバ。コトは、殊に、殊更、特になどの意に、動詞に接續して熟語を作る。從來、如v此の義で、如と同語とされていたが、本集中、このほかにも、殊の字を使い、また清音に書いているので、それは當つていないだろう(橋本進吉博士の説)。「許等梅涅麼《コトメデバ》 波椰區波梅涅嬬《ハヤクハメデズ》」(日本書紀六七)「殊落者《コトフラバ》 袖副沾而《ソデサヘヌレテ》」(卷十、二三一七)、「琴酒者《コトサケバ》 國丹放嘗《クニニサケナム》 別避者《コトサケバ》 宅仁離南《イヘニサケナム》」(卷十三、三三四六)。
 奥從酒嘗 オキユサケナム。オキユは、沖の方から。サケナムは、希望の語法。句切。
 湊自 ミナトヨリ。ミナトは、水路の入口。港口を通つて。
 邊者經時尓 ヘツカフトキニ。ヘツカフは、岸邊に近づいている。ツカフは、附クの連續していることをあらわす。
 可放鬼香 サクベキモノカ 放くべきか、いなそうでないの意。
【評語】船の語を出してはいないが、巧みに言おうとする所を、譬喩で示している。事が進んでから成立が危まれるようになつた事情が、よくわかり、しかも慨嘆の氣も出ている。
 
旋頭歌
 
(517)【釋】旋頭歌 セドウカ。歌體の名で、前にも出ているが、ここでは譬喩歌のうちの一項目として擧げられている。
 
1403 御幣帛《みぬさ》取り 神の祝《はふり》が 鎭齋《いは》ふ杉原
 薪《たきぎ》伐《き》り
 ほとほとしくに 手斧《てをの》取らえぬ。
 
 三幣帛取《ミヌサトリ》 神之祝我《カミノハフリガ》 鎭齋杉原《イハフスギハラ》
 燎木伐《タキギキリ》
 殆之國《ホトホトシクニ》 手斧所v取奴《テヲノトラエヌ》
 
【譯】御幣を手にして、神樣の神職が淨めている杉原で、薪を伐つて、あぶないことに手斧を取られるところだつた。
【釋】三幣帛取 ミヌサトリ。ミヌサは、神を祭るに使うもので、普通に麻、コウゾの類を使った。ミは接頭語。それを棒の先に附けて祓などをするので、トリという。紙を切つて使うようになつたのは後だが、奈良時代には、既に紙も使われるようになつたのだろう。但し文獻はない。
 神之祝我 カミノハフリガ。ハフリは、不淨を拂う役の者。神職。
 鎭齋杉原 イハフスギハラ。御神木の杉が何本かあるので、杉原と云つたのだろう。例えば三輪山の杉など。人を入れないように戒めてある。その杉原を呼びあげている句。句切。
 燎木伐 タキギキリ。タキギは燃料に使う木。
 殆之國 ホトホトシクニ。ホトホトは、ホトンドの古語。シクは、それを體言化した形。ほとほとしいことというような意。あやうく、ほとんどそうなつたの意。ホトホトの例。「保等穂跡妹爾《ホトホトイモニ》 不v相來爾家里《アハズキニケリ》」(卷十、一九七九)、「保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》 君香登於毛比弖《キミカトオモヒテ》」(卷十五、三七七二)。
 手斧所取奴 テヲノトラエヌ。テヲノは、工具には違いないが、今の手斧との異同はあきらかでない。トラ(518)エヌは取られたであるが、上のホトホトシクニを受けて、ほとんど取られたので、實際は、取られそうになつた。取られなかつたのである。
【評語】あぶない所だつたの氣もちがよく描かれている。人を近づけないで守つている所に、推して近づいた事情が歌われている。譬喩も巧みである。
 
挽歌
 
1404 鏡なす わが見し君を、
 阿婆《あば》の野の 花橘の
 玉に拾《ひり》ひつ。
 
 鏡成《カガミナス》 吾見之君乎《ワガミシキミヲ》
 阿婆乃野之《アバノノノ》 花橘之《ハナタチバナノ》
 珠尓拾都《タマニヒリヒツ》
 
【譯】鏡のようにわたしの見た君を、阿婆の野の花橘の珠のように拾つた。
【釋】鏡成 カガミナス。枕詞。鏡によつて、貴いものと見た意があらわれている。
 吾見之君乎 ワガミシキミヲ。ミシは、生前の關係を語つている。
 阿婆乃野之 アバノノノ。所在未詳。日本書紀、皇極天皇の卷に「烏智可※[手偏+施の旁]能《ヲチカタノ》 阿婆努能枳枳始《アバノノキギシ》」(一一〇)とある阿婆努かという。それならば明日寄附近であろうが、これは阿裟努とする本もある。
 花橘之珠尓拾都 ハナタチバナノタマニヒリヒツ。古人は橘の花蕾の白いのを愛して、これを緒につらぬいて珠とした。死者の火葬の骨を拾つたのを、その橘の花の珠に見立てたのである。橘の實とする説は誤りである。
【評語】美しい譬喩が使われている。火葬の骨を橘の花の珠に比したのは、死者が女子であつたのだろう。全(519)體の表現も率直で、男性的である。
 
1405 秋津野を 人の懸《か》くれば、
 朝|蒔《ま》きし 君が思ほえて
 嘆《なげ》きはやまず。
 
 蜻野叫《アキヅノヲ》 人之懸者《ヒトノカクレバ》
 朝蒔《アサマキシ》 君之所v思而《キミガオモホエテ》
 嗟齒不v病《ナゲキハヤマズ》
 
【譯】秋澤野を人が口にすると、朝、火葬の灰を蒔いた君が思われて、嘆息がとまらない。
【釋】蜻野叫 アキヅノヲ。アキヅは、吉野の秋津であろう。叫は、寫本には※[口+立刀]と書いている。※[口+立刀]は、叫に同じ。叫聲をヲというので、ヲの訓假字として使用している。
 人之懸者 ヒトノカクレバ。カクレバは、口に懸くればで、言葉にいうこと。
 朝蒔 アサマキシ。火葬した灰は、朝これを蒔(520)く風習である(一四一五參照)。
 君之所思而 キミガオモホエテ。キミは、思われる對象。
 嗟齒不病 ナゲキハヤマズ。ナゲキは、嗟嘆、嘆息。病は、ヤマの借字としている。
【評語】亡き人の因縁の地として、その地の名を聞くに堪えない情である。いたましい感情が盛られている。
 
1406 秋津野に 朝ゐる雲の 失《う》せゆけば、
 昨日も今日も 亡《な》き人|念《おも》ほゆ。
 
 秋津野尓《アキヅノニ》 朝居雲之《アサヰルクモノ》 失去者《ウセユケバ》
 前裳今裳《キノフモケフモ》 無人所v念《ナキヒトオモホユ》
 
【譯】秋津野に朝居る雲が失せて行けば、昨日も今日も死んだ人が思われる。
【釋】朝居雲之 アサヰルクモノ。火葬の烟を雲としている。
 前裳今裳 キノフモケフモ。舊訓ムカシモイマモ。代匠記に、キノフモケフモと讀んでいる。
【評語】火葬は、夜間に行うので、朝になつてその煙の殘つているのを、雲と見立てている。火葬の煙を雲と見ることは、人麻呂の作品以下、例が多い。しかし雲によつて亡き人を思うのは自然だが、その雲が消えたので、昨日も今日も思われるというのは、縁が無い。吉野の離宮にいて、愛人を喪つたので、秋津野にゆかりもなくなつたのを悲しんでいるのであろう。
 
1407 こもりくの 泊瀬《はつせ》の山に
 霞立ち 棚引く雲は、
 妹にかもあらむ。
 
 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山尓《ハツセノヤマニ》
 霞立《カスミタチ》 棚引雲者《タナビククモハ》
 妹尓鴨在武《イモニカモアラム》
 
【譯】隱れ國の泊瀬の山に、霞が立つて棚引く雲は、わが妻ででもあるのだろうか。
(521)【釋】隱口乃 コモリクノ。枕詞。
 霞立 カスミタチ。雲の棚引く樣を説明している。
【評語】これも雲を見て、火葬の烟を想起している。藤原の京あたりの人が、泊瀬山に愛人を火葬して後に詠んだ作であろう。土形《ひじかた》の娘子を火葬した時の人麻呂の作、「こもりくの泊瀬の山の山の際《ま》にいさよふ雲は妹にかもあらむ」(卷三、四二八)とよく似ている。その歌の記憶があつたのだろう。
 
1408 狂語《たはごと》か、 逆言《およづれごと》か、
 こもりくの 泊瀬の山に
 廬《いほり》すといふ。
 
 狂言香《タハゴトカ》 逆言哉《オヨヅレゴトカ》
 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山尓《ハツセノヤマニ》
 廬爲云《イホリストイフ》
 
【譯】狂った言葉か、人惑わしの言葉か。隱れ国の泊瀬の山で、假小舍住みをしているそうだ。
【釋】狂語香逆言哉 タハゴトカオヨヅレゴトカ。物に狂つた言葉か、または人を欺く迷わし言葉か。「於余頭禮可《オヨヅレカ》 吾聞都流《ワガキキツル》 狂言加《タハゴトカ》 我聞都流母《ワガキキツルモ》」(卷三、四二〇)、「逆言之《オヨヅレノ》 狂言等可聞《タハゴトトカモ》」(同、四二一)參照。
 廬爲云 イホリストイフ。イホリは、假小舍を作つてそれに居ること。トイフは、誰かそう言つている由だが、もとより作者の假設で、そう言つている人が實際にあるのではない。
【評語】人麻呂が、妻の死を悲しんだ歌の中の「大鳥の羽貝《はがひ》の山にわが戀ふる妹はいますと人の言へば」(卷二、二一〇)の句と同意である。新しい塚の前に小舍を作つて祭をする風習があつて、そこに亡き妻がいるように感じられたのである。連作中の一首のような作で、この歌だけでは、獨立性が薄弱である。
 
1409 秋山の 黄葉《もみち》おもしろみ、
(522) うらぶれて 入りにし妹は
 待てど來まさず。
 
 秋山《アキヤマノ》 黄葉※[立心偏+可]怜《モミチオモシロミ》
 浦觸而《ウラブレテ》 入西妹者《イリニシイモハ》
 待不v來《マテドキマサズ》
 
【譯】秋山の黄葉に感じて、心さびしくはいつて行つたわが妻は、待つているが歸つてこない。
【釋】黄葉※[立心偏+可]怜 モミチオモシロミ。※[立心偏+可]怜は、感に堪えないさまである。興趣を感じて。
 浦觸而 ウラブレテ。ウラヅレは、心の寂寥としてあるをいう。ウラは心、ブレは不明であるが、「於毛比和夫禮弖《オモヒワブレテ》」(卷十五、三七五九)の例のあるによれば、ウラワブレの約であるかと考えられる。「比等母禰能《ヒトモネノ》 宇良夫禮遠留爾《ウラブレヲルニ》」(卷五、八七七)。
 入西妹者 イリニシイモハ。イリニシは、山にはいつた意で、死者を山に葬送したのをいう。
【評語】妻を失つた時の人麻呂の歌に、「秋山の黄葉を茂みまどひぬる妹を求めむ山路知らずも」(卷二、二〇八)とあるものと同じく、秋の黄葉の頃、妻を山に送つた人の作である。人麻呂の作にぐらべて受身な云い方が特色で、亡き妻を思うあわれな感情が歌われている。しかし人麻呂の作品の影響を受けているであろう。
1410
 世間《よのなか》は まこと二代《ふたよ》は 行《ゆ》かざらし。
 過ぎにし妹に 逢はなく念へば。
 
 世間者《ヨノナカハ》 信二代者《マコトフタヨハ》 不v往有之《ユカザラシ》
 過妹尓《スギニシイモニ》 不v相念者《アハナクオモヘバ》
 
【譯】世の中は、實際二通りには行かないらしい。死んだ妻に逢わないことを思うと。
【繹】信二代者不在有之 マコトフタヨハユカザラシ。二代が行くというのは、世間が唯一ではなく、表に現れている生活のほかに、例えば夢の世界、靈魂の世界というような陰れた世界があるとするのである。ここは、それを否定している。「うつせみの世やも二行く」(卷四、七三三)と同じことを言つている。句切。
(523) 過妹尓 スギニシイモニ。死去した妻に。
【評語】死んだ妻を求めて、どこかで逢うこともあろうかと思つていた心は、しかしついに失望しないわけに行かなかつた。そこで理性を取りもどしてこの歌となつたが、その表現には理くつつぽさがあり、純粹な思慕がうすくなつて感じられる。
 
1411 福《さきはひ》の いかなる人か、
 黒髪の 白くなるまで
 妹が音《こゑ》を聞く。
 
 福《サキハヒノ》 何有人香《イカナルヒトカ》
 黒髪之《クロカミノ》 白成左右《シロクナルマデ》
 妹之音乎聞《イモガコヱヲキク》
 
【譯】何という幸福の人だろうか、黒髪が白くなるまでも妻の聲を聞くのは。
【釋】福何有人香 サキハヒノイカナルヒトカ。いかなる福の人かに同じで、どういう幸福の人がか。カは疑問の係助詞。
 黒髪之白成左右 クロカミノシロクナルマデ。老年になるまで。
【評語】中道に妻を失つた人の悲哀がよくあらわれている。詠嘆の調子が強く出ているので、極めて效果的である。初二句の詞句の配置も、效果が多い。すぐれた歌である。
 
1412 わが夫子を 何處《いづく》行かめと、
 さき竹の 背向《そがひ》に宿《ね》しく
 今し悔しも。
 
 吾背子乎《ワガセコヲ》 何處行目跡《イヅクユカメト》
 辟竹之《サキタケノ》 背向尓宿之久《ソガヒニネシク》
 今思悔裳《イマシクヤシモ》
 
【譯】あの方を何處へも行かないだろうと、裂いた竹のように、うしろ向きに寐たことが、今は殘念だ。
(524)【釋】吾背子乎 ワガセコヲ。ヲは、何處行かめの目的が、わが夫子にあることを示すために使われている。わが夫子についてぐらいの意。
 何處行目跡 イヅクユカメト。イヅクユカメは、用言の已然形が疑問の語を受けて、反語になる。「見えずとも誰戀ひざらめ」(卷三、三九三)の如き例である。
 辟竹之 サキタケノ。枕詞。サキタケは、割つた竹で、これを同じ向きに重ねると腹と背とが接するので、背向に冠するのであろう。
 背向尓宿之久 ソガヒニネシク。ソガヒは、うしろの方。ネシクは、寐たことで、シは時の助動詞。クはコトの意味を成す。「念へりしくし面影に見ゆ」(卷四、七五四)、「玉|拾《ひり》ひしく常忘らえず」(巻七、一一五三)などの例があり、宣命には殊に多い。
【評語】かなり露骨に歌われている。哀情のほどはわかるが、含蓄に乏しい憾みがある。「かなし妹をいづち行かめと山菅のそがひに寐しく今し悔しも」(卷十四、三五七七)という類歌があり、多分それなどをもととして詠まれているのだろう。
 
1413 庭つ鳥 鷄《かけ》の垂尾《たりを》の 亂尾の、
 長き心も 念《おも》ほえぬかも。
 
 庭津鳥《ニハツトリ》 可鷄乃垂尾乃《カケノタリヲノ》 亂尾乃《ミダレヲノ》
 長心毛《ナガキココロモ》 不v所v念鴨《オモホエヌカモ》
 
【譯】庭鳥の垂れている尾の亂れた尾のような、ゆつたりした心は思われないことだ。
【釋】庭津鳥 ニハツトリ。枕詞。屋前にいる鳥の義で、カケに冠している。
 可鷄乃垂尾乃 カケノタリヲノ。カケは鷄。鳴き聲によつて名づける。「庭鳥はかけろと鳴きぬなり。起きよ起きよ。わが一夜妻、人もこそ見れ」(神樂歌)。可鷄は字音假字だが、鷄は、その物をあらわす字を使つて(525)いる。
 亂尾乃 ミダレヲノ。ミダレヲは亂れている尾。垂尾の亂尾は、垂れている尾で亂れている尾。生《い》く日の足《た》る日の如き云い方である。動詞亂ルは、他動のとき四段、自動のとき下二段とすれば、ミダレヲである。以上三句は、次句の長キを引き出すための序詞。
 長心毛 ナガキココロモ。ナガキココロは、氣長にゆつたりした心。「奥手有《オクテナル》 長意爾《ナガキココロニ》 尚不v如家里《ナホシカズケリ》」(巻八、一五四八)。ここは人の死などに驚かない心。
【評語】序詞で持つた歌である。調子に乘つて巧みにできているだけに、哀調において缺ける所がある。挽歌でなく、相聞の歌として見た方が、かえつてよいようである。「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長き長夜をひとりかも寐む」(卷十一、二八〇二或本)は、これと同巧の歌だ。
 
1414 薦《こも》枕 相纏《あひま》きし兒も あらばこそ、
 夜の深《ふ》くらくも わが惜しみせめ。
 
 薦枕《コモマクラ》 相卷之兒毛《アヒマキシコモ》 在者社《アラバコソ》
 夜乃深良久毛《ヨノフクラクモ》 吾惜責《ワガヲシミセメ》
 
【譯】薦の枕を一緒に枕としたあの子もいたならば、夜の長いのをわたしが惜しみもしよう。
【釋】薦枕 コモマクラ。コモで作つた枕で、高の枕詞としても使われるので、高いものであつたと考えられる。また長くもあつて、一つ枕をしたのであろう。「まを薦の同《おや》じ枕は吾は枕《ま》かじやも」(卷十四、三四六四)の歌も、薦の枕を共にすることを詠んでいる。
 相卷之兒毛 アヒマキシコモ。共に枕としたあの子も。
 夜乃深良久毛 ヨノフクラクモ。フクラクは、更けること。
【評語】夜の更けて行くにつけて、孤閨の寂しさが感じられる趣である。肉感的な追憶も、この際、身に迫つ(526)ている。時のたつのを惜しむ心もなくなつた自暴自棄的な氣分がよく描かれている。
 
1415 玉|梓《づさ》の 妹は珠かも、
 あしひきの 清き山邊に
 蒔《ま》けば散りぬる。
 
 玉梓能《タマヅサノ》 妹者珠氈《イモハタマカモ》
 足氷木乃《アシヒキノ》 清山邊《キヨキヤマベニ》
 蒔散漆《マケバチリヌル》
 
【譯】親しんでいた妻は珠だろうか。この清らかな山邊に蒔けば散つた。
【釋】玉梓能 タマヅサノ。枕詞。使に冠するを通例とし、ここに妹に冠しているのは異例である。その語義については、菅江眞澄の鄙廼一曲《ひなのひとふし》に「三河の國麥舂唄はた臼舂唄にも諷ふ、戀の玉房、鼠にひかれ、鼠よく捕《と》る猫ほしや」という歌を記して、その頭註に「手間房《たまぶさ》は章とはおなじからず。文字なき懸想文《けさうぶみ》なり。凡國風土記におのれその圖を、やまとぶり、しなのぶり、三河ぶり、みちのくぶり、つくしぶりのあらましをかいのせつ。玉むすびといひ、あるはたまぶさといふ。筑紫人しま人は、はんじものともいふ。其形くさぐさ也」と記した。柳田國男氏は、これをタマヅサの遺俗とした。文章のない時代に、男のもとから女のもとに使の持つてゆく物とする。手紙を使うようになつてからは、手紙をタマヅサという。この歌では、妹のもとにやるものだから、妹に冠するとする(佐竹昭廣氏)。
 妹者珠氈 イモハタマカモ。氈は、皮の敷物で、倭名類聚鈔に加毛《カモ》の和名がある。この句、火葬した愛人の骨を珠かと疑つている。句切であるが、五句は、これを受けて連體形で留めている。カモは、終助詞であり、係助詞でもあるのである。
 蒔散漆 マケバチリヌル。チリヌルは、散りぬることよの意。
【評語】愛人の骨を山邊に蒔いた悲痛の情が歌われている。次に或る本の別傳があり、かような歌が傳誦され(527)たのは、哀情の痛切なるものが同感されるからである。
 
或本歌曰
 
1416 玉|梓《づさ》の 妹は花かも、
 あしひきの この山かげに
 蒔けば失《う》せぬる。
 
 玉梓之《タマヅサノ》 妹者花可毛《イモハハナカモ》
 足日木乃《アシヒキノ》 此山影尓《コノヤマカゲニ》
 麻氣者失留《マケバウセヌル》
 
【譯】親しんでいた妻は花だろうか。この山の蔭に蒔けばなくなつた。
【釋】此山影尓 コノヤマカゲニ。ヤマカゲは、山の蔭になつている處。
【評語】前の歌の珠が花に代えられている。しかし花が失せるというのは、ややうち合わない。前の歌の方が原形的だ。
 
羈旅歌
 
【釋】羈旅歌 タビノウタ。この卷には、前に※[羈の馬が奇]旅作と題して多數の歌を載せている。ここに更に一首だけを※[羈の馬が奇]旅の歌として載せたのは、一往の編纂が濟んでから補つたのであろう。
 
1417 名兒《なご》の海を 朝|榜《こ》ぎ來《く》れば、
 海中《わたなか》に 鹿子《かこ》ぞ鳴くなる。
 あはれその鹿子《かこ》。
 
 名兒乃海乎《ナゴノウミヲ》 朝榜來者《アサコギクレバ》
 海中尓《ワタナカニ》 鹿子曾鳴成《カコゾナクナル》
 ※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》
 
(528)【譯】名兒の海を朝榜いでくると.海中で鹿が鳴いている。ああその鹿よ。
【釋】名兒乃海乎 ナゴノウミヲ。上に「住吉の名兒の濱邊」(卷七、一一五三)とあつた、その海上であろう。
 鹿子曾鳴成 カコゾナクナル。カコは鹿の愛稱。海中に鹿が鳴くことがないとし、また五句に水手の字が使われているのによつて、略解に鳴を喚の誤りとして、水手ゾ呼ブナルとしているのは誤りである。海中で鹿の鳴く聲を聞いたのである。鹿の聲は鋭く、海上にあつてよくその聲を聞くのである。また鹿は、隨分干潟に下り立つのである。「鳥音之《トリガネノ》 所v聞海尓《キコユルウミニ》」(卷十三、三三三六)。句切。
 ※[立心偏+可]怜其水手 アハレソノカコ。アハレは、感情の動きを寫した語。水手は借字で、鹿子に同じ。
【評語】朝のしずかな海に鹿の聲を聞く。情趣に滿ちた作である。鹿に感情を寄せているのは、その鳴く心が傷心に値するからである。
 
萬葉集卷第七
 
   1956年12月10日(昭和三十一年)初版、1958、4、.20(再版)、定價480圓、
 増訂萬葉集全註釋 六 卷の六・七
 著作者 武田祐吉
 發行者 角川源義
 發行所 角川書店
 
増訂萬葉集全註釋 七 卷の八・九
 
目次〔省略〕
 
(23)萬葉集卷第八
 
(25)萬葉集卷第八
 
 卷の八は、作者、作歌事情の傳わつている歌を、四季に分かつて編纂してある。歌数は二百四十六首で、内長歌六首、旋頭歌四首、短歌二百三十六首である。歌を季節によつて分類することは、この卷と卷の十とだけであり、卷の十は、作者、作歌事情の傳わらない歌を集めている點で、この卷と相違している。四季に分けた中では、季毎に雜歌と相聞とを分かち、それぞれの項目の中では、ほぼ時代順に配列してある。その季節の別、雜歌、相聞の別、および歌體の別によるそれぞれの歌數は、次の通りで、秋の歌數の多いことが注意される。數字のうち記事のないのは短歌である。
    春       夏       秋          冬
雜歌  三〇(内長二) 三四(内長一) 九五(【内長一旋三】) 一九
相聞  一六      一三(内長一) 三〇(【内長一旋一】) 九
 時代は、岡本の天皇の御製と傳えるもの(一五一一)がもっとも古く、年代の明記してある最後のものは、天平十五年八月十六日のもの(一六〇二・一六〇三)であって、卷の三、四、六あたりと、はば同時代まで收めている。
 文字使用法も、それらの諸卷と同じく、表意文字と表音文字とを併用している。作者の範圍もほぼ同樣で、奈良時代初期の有名歌人の作から、大伴氏の一族に及び、家持の作も多い。藤原時代およびその以前の歌はすくなく、全體の調子は、平板に流れでいる傾向がある。
(26) 傳本は、よいものがすくなく、古本系統としては、神田本があるばかりであり、これに類聚古集、古葉略類聚鈔を參照としても、資料の不足を感ぜざるを得ない。
 
春雜歌
 
【釋】春雜歌 ハルノザフカ。春の季節に關する雜歌、長歌二首、短歌二十八首を收めている。すべて歌中に春の風物を含んでいる。
 
志貿皇子懽御歌一首
 
志貴《しき》の皇子《みこ》の懽《よろこび》の御歌一首。
 
【釋】志貴皇子 シキノミコ。天智天皇の皇子。(卷一、五一參照)。
 懽御歌 ヨロコビノミウタ。ヨロコビは、作歌事情を説明するものであるが、いかなる喜悦であつたかは、わからない。かような類の題には、「大伴坂上郎女怨恨歌」(卷四、六一九)の如きがある。
 
1418 石《いは》そそく 垂水《たるみ》の上の さわらびの
 萌《も》えいづる春に なりにけるかも。
 
 石灑《イハソソク》 垂見之上乃《タルミノウヘノ》 左和良妣乃《サワラビノ》
 毛要出春尓《モエイヅルハルニ》 成來鴨《ナリニケルカモ》
 
【譯】石にそそいで落ちる水の上のワラビの、芽を出す春になつたなあ。
【釋】石灑 イハソソク
  イハソソク(類)
  ――――――――――
  石激《イハソソク》(西)
  石激《イハバシル》(考)
(27) 灑は、類聚古集による。その他の諸本、みな激である。古點の歌と思われるが、訓は古くイハソソクであり、考に至つてイハバシルに改めた。灑に作るのは類聚古集だけであるが、本卷は、古本系統の本に乏しいので、やむを得ない。古くイハソソクと讀まれていたことは、參考とすべきである。集中、垂水に冠しては、「石流《イハソソク》 垂水々乎《タルミノミヅヲ》 結飲都《ムスビテノミツ》」(卷七、一一四二)・「石走《イハハシル》 垂水之水能《タルミノミヅノ》」(卷十二、三〇二五)の二例があり、後者はイハバシルと讀むべきが如くである。また石灑の文字は「石灑《イハソソク》 岸之浦廻爾《キシノウラミニ》 縁浪《ヨスルナミ》」(卷七、一三八八)の如く使用されている。
 垂見之上乃 タルミノウヘノ。タルミは、地名説と普通名詞説とがある。地名とすれば、攝津の國豐島の郡(28)(今大阪府豐能郡)であるというが、この歌との縁故のたどられるものなく、かつ集中の垂水は、みな普通名詞であるから、ここも普通名詞とすべきである。垂水の例は、前項に見える。地名としては、垂水ノ上ノサワラビということが、意義を持つてこない。
 左和良妣乃 サワラビノ。サ、接頭語。ワラビ、ウラボシ科の宿根草。
【評語】全體が譬喩でできている。春のきたことによつてその喜悦を表示したのは自然であり、その春のきたことを、具體的に敍述したのがよい。極めて快い歌である。名作と云える歌である。
 
鏡王女歌一首
 
【釋】鏡王女 カガミノオホキミ。鏡の王の女、藤原の鎌足の妻。天武天皇の十二年七月薨じた。(卷二、九一參照)。
 
1419 神奈備《かむなび》の 伊波瀬《いはせ》の社《もり》の 喚子鳥《よぶこどり》、
 いたくな鳴きそ。
 わが戀|益《まさ》る。
 
 神奈備乃《カムナビノ》 伊波瀬乃社之《イハセノモリノ》 喚子鳥《ヨブコドリ》
 痛莫鳴《イタクナナキソ》
 吾戀益《ワガコヒマサル》
 
【譯】神奈備の磐瀬の森の呼子鳥よ、そんなに鳴くな。その聲を聞くと、わたしの戀がまさつてきて堪えられない。
【釋】神奈備乃 カムナビノ。カムナビは、神靈のある森。ここは龍田の神奈備で生駒川の下流に臨んでいる。
 伊波瀬乃社之 イハセノモリノ。イハセノモリは、奈良縣生駒郡|斑鳩《いかるが》町龍田の南方にある。モリは、森林形態である神社をいう。一四六六、一四七〇にも、その森のホトトギスが詠まれている。
(29) 喚子島 ヨブコドリ。カツコウのことだという。
【評語】鳥の聲に物思いが催されるという歌は、類歌も多い。この歌は、呼子鳥が自分の戀を催し立てるような聲で鳴いていることが中心になつており、情と景との關係の自然に出ているところが特色である。
 
駿河采女歌一首
 
【釋】駿河采女 スルガノウネメ。駿河の國から召された采女。卷の四、五〇七にも歌がある。
 
1420 沫雪か はだれに零《ふ》ると
 見るまでに、
 流らへ散るは 何《なに》の花ぞも。
 
 沫雪香《アワユキカ》 薄太禮尓零登《ハダレニフルト》
 見左右二《ミルマデニ》
 流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物之花其毛《ナニノハナゾモ》
 
【譯】沫のような雪が、うすく降りくるかと見るまでに、流れて散るのは、何の花だろうか。
【釋】沫雪香 アワユキカ。アワユキは、沫のような雪。雪の白いのを、水に立つ沫の白いのに譬えていう。カは係助詞。アワの假字書き(30)の例、「阿和雪《アワユキハ》 千重零敷《チヘニフリシケ》」(卷十、二三三四)
 薄太禮尓零登 ハダレニフルト。ハダレは、全釋に考證して、雪のうすく降るのをいうとしているのがよいようだ。ハダラともいうが、ホドロを同語としたのは首肯しかねる。ハダレは、この歌とも五例、ハダラは一例で、その文字は、薄太禮二、薄垂一、波太禮一、波太列一、薄太良一である。薄の字を多く使用したのは、全釋のいうように、その字の意味を含んでいるのであろう。歌の趣も、うすく降る意で、よく理解される。「薄垂霜零《ハダレシモフリ》 寒此夜者《サムシコノヨハ》」(卷十、二一三二)の例は、霜について言つている。
 
尾張連歌二首 名闕
 
【釋】尾張連 ヲハリノムラジ。下に註して、名闕とあるように、誰であるか、わからない。連は姓である。
 
1421 春山の さきのををりに 春菜《わかな》つむ、
 妹が白※[糸+刃]《しらひも》 見らくしよしも。
 
 春山之《ハルヤマノ》 開乃乎爲里尓《サキノヲヲリニ》 春菜《ワカナ・ハルナ》採《ツム》
 妹之白紐《イモガシラヒモ》 見九四與四門《ミラクシヨシモ》
 
【譯】春の山の花の咲き滿ちている處に、若菜を採むあの子の白い紐は、見るのがよいなあ。
【釋】開乃乎爲里尓 サキノヲヲリニ。乎爲里は「打靡《ウチナビク》 春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》 山邊爾波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》」(卷三、四七五)とあり、ヲヲリと讀むものらしい。花の咲いた重さで、枝のたわんでいること。ここは花の咲いている盛りの意。花の語はなく、山が咲くという形であらわしている。
 春菜採 ワカナツム。ワカナツム(類)、ハルナツム(童)。春菜は義を以つて若菜に當てて書いたとも見られるし、朝菜の語もあるからハルナの語もあつたとも見られる。歌語としてはワカナの方が馴れている。連體句。
 妹之白※[糸+刃] イモガシラヒモ。シラヒモは、染めない織物の紐で、上衣の紐である。
(31)【評語】春山の花の盛りに春菜を摘む女子を描いている。白紐の語は、特殊のものであるが、その女子の服装のうち、目につく一點を抽出したものとして、これによつて光景が生きてきている。長い紐が目立つのだろう。妹を見ることはよいというよりも、具體的にその姿が描かれているのがよいのである。
 
1422 うち靡く 春來るらし。
 山の際《ま》の 遠き木末《こぬれ》の
 咲《さ》き行く、見れば。
 
 打靡《ウチナビク》 春來良之《ハルキタルラシ》
 山際《ヤマノマノ》 遠木末乃《トホキコヌレノ》
 開往見者《サキユクミレバ》
 
【譯】草木の靡く春はきたらしい。山の間の遠い木の枝先の咲いて行くのを見ると。
【釋】打靡 ウチナビク。枕詞。春の性質を敍して春に冠する。
【評語】山の木の末の咲いて行く事實を見て、春の季節のおとずれきたつたことを推量している。春の概念が、暦の知識によつて既に成立しており、事物の變化によつて、その季節になつたことを歌つている。
【參考】別傳。
  うち靡く春さり來らし。山の際《ま》の遠き木末《こぬれ》の咲きゆく見れば(卷十、一八六五)
 
中納言阿倍廣庭卿歌一首
 
【釋】阿倍廣庭 アベノヒロニハ。阿倍の御主人《みうし》の子、天平四年二月薨じた。年七十四。(卷三、三〇二參照)。
 
1423 去年《こぞ》の春 い掘《こ》じて植ゑし
 わが屋外《やど》の 若樹の梅は、
(32) 花咲きにけり。
 
 去年春《コゾノハル》 伊許自而殖之《イコジテウヱシ》
 吾屋外之《ワガヤドノ》 若樹梅者《ワカギノウメハ》
 花咲尓家里《ハナサキニケリ》
 
【譯】去年の春、掘つてきて植えた、わたしの家のそとの、若樹の梅は、花が咲いたことだ。
【釋】伊許自而殖之 イコジテウヱシ。イは、接頭語。コジテは、掘り取つて。固くついているものを無理に取る義であろう。「天香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而《ネコジニコジテ》」(古事記、上卷)。
【評語】移し植えた若樹の梅の、始めて花をつけたのを見た喜びが、平明に敍せられている。五句は詠歎の氣があらわれている。
 
山部宿祢赤人歌四首
 
1424 春の野に すみれ採《つ》みにと 來《こ》し吾ぞ、
 
 野をなつかしみ 一夜|宿《ね》にける。
 
 春野尓《ハルノノニ》 須美禮採尓等《スミレツミニト》 來師吾曾《コシワレゾ》
 野乎奈都可之美《ノヲナツカシミ》 一夜宿二來《ヒトヨネニケル》
 
【譯】春の野にスミレを採みにと來たわたしなのだが、野がなつかしくて、一夜宿たことだ。
【釋】須美禮採尓等 スミレツミニト。スミレは、白井光太郎氏の説によれば、花の美しいスミレでなくて、食料に供する菫菜だということである。ツムの語は、手を以つてつまみ取る義であつて、集中の用例は、食用もしくは染用の目的で、植物を採むことを歌つている。これによれば菫菜説ももつともであるが、この歌から句を取つていると考えられる大伴の池主の歌に「夜麻備爾波《ヤマビニハ》 佐久良婆奈知利《サクヲバナチリ》 加保等利能《カホドリノ》 麻奈久之婆奈久《マナクシバナク》 春野爾《ハルノノニ》 須美禮乎都牟等《スミレヲツムト》 之路多倍乃《シロタヘノ》 蘇泥乎利加敝之《ソデヲリカヘシ》 久禮奈爲能《クレナヰノ》 安可毛須蘇妣伎《アカモスソビキ》 乎登賣良波《ヲトメラハ》 於毛比美太禮弖《オモヒミダレテ》 伎美麻都等《キミマツト》 宇良呉悲須奈里《ウラゴヒスナリ》」(卷十七、三九七三)とある。この歌は、天平十九年に作られ、赤人の作品の年代は不明であるが、多分十年前後であろう。そうして池主の作におけるスミレは、花のスミレと見(33)られるのであるから、これを赤人の歌に對する一の解釋と見て、當時春の野にスミレを採むといえば、花のスミレと解せられるものであつたことが知られる。そうしてそれは染料として採むのであろう。
 野乎奈都可之美 ノヲナツカシミ。ナツカシは、馴附クから轉成した形容詞。ナツカシミはその動詞化で馴れ親しまれる意である。
【評語】春の野にスミレを採みにきて一夜宿たということが、いかにも仰山である。これは既に文雅の思想がさかんであつて、野邊の風情を強調しようとして、かような作を成すに至つたもので、歌われている内容は、かならずしも事實ではないであろう。たまたま何か旅行のおりなどに、春の野に一宿したことのあるのを囘想して、かような表現を取つたものと考えられる。
 
1425 あしひきの 山櫻花、
 日竝《ひなら》べて かく咲きたらば
 いと戀ひめやも。
 
 足比寄乃《アシヒキノ》 山櫻花《ヤマサクラバナ》
 日竝而《ヒナラベテ》 如是開有者《カクサキタラバ》
 甚戀目夜裳《イトコヒメヤモ》
 
【譯】山のサクラの花は、幾日もこのように咲いたら、ひどく慕うことはないだろう。
【釋】山櫻花 ヤマサクラバナ。山にあるサクラの樹の花で、ヤマザクラという種類ではない。
 日竝而 ヒナラベテ。幾日も竝べて。「比奈良倍弖《ヒナラベテ》 安米波布禮杼母《アメハフレドモ》」(卷二十、四四四二)。「夜竝而」(卷十一、二六六〇)という語もある。
 甚戀目夜裳 イトコヒメヤモ。サクラの花に對して戀い慕うことはないだろうの意。
【評語】櫻花の盛りの短いことを歌つている。心から櫻花を愛した風懷が窺われる。アシヒキノ山櫻花という云い方は、櫻花の美を描くに足りるよい句だ。
 
(34)1426 わが夫子《せこ》に 見せむと念ひし 梅の花、
 それとも見えず。
 雪の降れれば。
 
 吾勢子尓《ワガセコニ》 令v見常念之《ミセムトオモヒシ》 梅花《ウメノハナ》
 其十方不v所v見《ソレトモミエズ》
 雪乃零有者《ユキノフレレバ》
 
【譯】あなたに見せようと思つた梅の花は、それとも見えません。雪が降つていますので。
【釋】吾勢子尓 ワガセコニ。ワガセコは、男子の愛稱。ここは友人關係で云つている。
 雪乃零有者 ユキノフレレバ。フレレバは、フレリの已然形に、助詞バの添つたもの。
【評語】梅に雪を配した歌は多く、これもその一つである。梅花が白くして、雪にまぎれてそれとも分けかねるという詩的構想である。自然を人と共に賞美しようという内容の歌も多く、古人の自然を愛する熱情が窺われる。
1427
 明日《あす》よりは 春菜《わかな》採《つ》まむと
 標《し》めし野に、
 昨日も今日も 雪は降りつつ。
 
 從2明日1者《アスヨリハ》 春菜將v採跡《ワカナツマムト》
 標之野尓《シメシノニ》
 昨日毛今日母《キノフモケフモ》 雪波布利管《ユキハフリツツ》
 
【譯】明日からは若菜を採もうと占めておいた野に、昨日も今日も雪は降つている。
【釋】標之野尓 シメシノニ。シメシは、繩を張り、または棒を立てなどして、領有を表示した意。但しこの歌では、心にそう思つていたことをいい、實際の行動にあらわしたわけではないだろう。元來野を占めるというのは、耕作のために領有を表示することから起つた語で、その名殘に使われている句である。
【評語】初春の情景が、美しく描き出されている。女に關する譬喩の歌と見る説もあるが、そう見ない方がよ(35)いだろう。
 
草香山歌一首
 
【釋】草香山 クサカヤマ。クサカは、大阪府中河内郡で、生駒山の麓の地名である。草香山は、生駒山の北方の一部で、奈良の京と難波との通路になつていた。
 
1428 おし照る 難波を過ぎて、
 うち靡く 草香の山を
 夕暮に わが越え來れば、
 山もせに 咲ける馬醉木《あしび》の、
 惡しからぬ 君を何時《いつ》しか
 往きてはや見む。
 
 忍照《オシテル》 難波乎過而《ナニハヲスギテ》
 打靡《ウチナビク》 草香乃山乎《クサカノヤマヲ》
 暮晩尓《ユフグレニ》 吾越來者《ワガコエクレバ》
 山毛世尓《ヤマモセニ》 咲有馬醉木乃《サケルアシビノ》
 不v惡《アシカラヌ》 君乎何時《キミヲイツシカ》
 往而早將v見《ユキテハヤミム》
 
【譯】日のおし照る難波を過ぎて、草のなびく草香の山を、夕暮にわたしが越えて來れば、山いつぱいに咲いているアシビのように、あしくない君を、早く行つて見よう。
【構成】全篇一文。
【釋】忍照 オシテル。枕詞。
 打靡 ウチナビク。枕詞。草がなびく意に、草香山に冠している。
 山毛世尓 ヤマモセニ。セは塞く意。山もふさがるほどに。山いつぱいに。セは、狹の義とされていたが、(36)狹の字をあてたものはなく、狹はセの音の表示に使われないで、サの音に使われている。「高松之此峯追爾《タカマツノコノミネモセニ》」(卷十、二二三三)。
 咲有馬醉木乃 サケルアシビノ。アシビは、今のアセボとする説が有力だが、アシビに關しては、早春に咲く趣の歌は無い。馬醉の文字は、その色をあらわすものと見るべく、ツツジの一種と見るべきである。アシビの音を利用して、次の句のアシを引き起している。實景を敍して、序に利用したものである。
 不惡 アシカラヌ。ニクカラヌ(類)、アシカラヌ(童)。ニクカラヌと讀む場合は、アシビノまでは、單に譬喩による序となる。惡をアシと讀むのは「惡木山《アシキヤマ》」(卷十二、三一五五) の例がある。
 君乎何時 キミヲイツシカ。キミは、女子に對しても使用するが、ここは作者の身分から考えて、主君の意であろう。これがキミの語の本來の用法である。イツシカは、何時か何時か、早くの意。
(37)【評語】事實を敍して、序に應用した手段が巧みである。主想の部分が短いのも、要を得ていてよい。
 
右一首、依2作者微1不v顯2名字1
 
右の一首は、作者の微《いや》しきに依りて名字を顯《あらは》さず。
 
【釋】依作者微不顯名字 ツクリヌシノイヤシキニヨリテナヲアラハサズ。編者の註と見える。作者の名はわかつているが、身分がいやしいからこれを記さないというのである。集中の例、姓のある場合には、原則として姓名を書く。ここに名字と書いているのは、その人が姓氏を有していなかつた人で、ここは家人奴婢の類ででもあつたのだろう。そういう人々に對する一般の人の態度の知られる記事である。
 
櫻花歌一首 并2短歌1
 
1429 孃子《をとめ》らが 插頭《かざし》のために、
 遊士《みやびを》が ※[草冠/縵]《かづら》のためと、
 敷《し》き坐《ま》せる 國のはたてに
 咲きにける 櫻の花の
 にほひはも、あなに。
 
 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 頭插乃多米尓《カザシノタメニ》
 遊士之《ミヤビヲガ》 ※[草冠/縵]之多米等《カヅラノタメト》
 敷座流《シキマセル》 國乃波多弖尓《クニノハタテニ》
 開尓鷄類《サキニケル》 櫻花能《サクラノハナノ》
 丹穗日波母安奈尓《ニホヒハモアナニ》
 
【譯】娘子たちの頭插のために、風雅の人の※[草冠/縵]のためと、天皇の領有される國土のはてまで、咲いたサクラの花の色はなあ。
【構成】全篇一文。
(38)【釋】※[女+感]嬬等之 ヲトメラガ。※[女+感]嬬は卷の一、四〇參昭。
 遊士之 ミヤビヲガ。ミヤビヲは、風雅を解する人。(卷二、一二六參照)。
 頭插乃多米尓 カザシノタメニ。男子女子ともにカザシ、およびカヅラをしたので、ここもただ對句ふうに分けて云つたまでである。
 敷座流 シキマセル。天皇の敷きませるで、主語が略してある。
 國乃波多弖尓 クニノハタテニ。ハタテは、極果の處。古今集に「雲のはたてに物ぞ思ふ」の句があるが、本集には、これ一つである。國土のはてで、全國到る處にの意である。
 丹穏日波母安奈尓 ニホヒハモアナニ。ニホヒは、色にあらわれたのをいい、ハモは感動の助詞。アナは、はなはだしくあることを感嘆する語。ニは助詞。古事記のアナニヤシ、日本書紀のアナニヱヤのアナニに同じ。「安奈爾可武佐備《アナニカムサビ》」(卷十六、三八八三、一云)。これは副詞になつている。
【評語】櫻花の美を讃嘆した歌として、よくその要を得ている。頭插や※[草冠/縵]を出したのは、宴會の席上で歌われる歌としてである。
 
反歌
 
1430 去年《こぞ》の春 逢へりし君に
 戀ひにてし、
 櫻の花は、迎《むか》へけらしも。
 
 去年之春《コゾノハル》 相有之君尓《アヘリシキミニ》
 戀尓手師《コヒニテシ》
 櫻花者《サクラノハナハ》 迎來良之母《ムカヘケラシモ》
 
【評】去年の春逢つた君に戀して、櫻の花は、お迎えするらしい。
(39)【釋】相有之君尓 アヘリシキミニ。櫻花の逢つた君に。キミは、席上の人をさす。
 戀尓手師 コヒニテシ。コヒは動詞、ニテは助動詞、シは助詞。戀ヒテの強力の言い方。戀をして。
 迎來良之母 ムカヘケラシモ。櫻の花が咲いて君を迎える意である。
【評語】櫻花が君を迎えるの意を盡している。長歌と共に、櫻花を、人間中心の存在と見ている思想であつて、これは宴會での吟誦歌である性質に即應するものである。
 
右二首、若宮年魚麻呂誦之
 
右の二首は、若宮《わかみや》の年魚麻呂《あゆまろ》の誦《うた》へる。
 
【釋】若宮年魚麻呂 ワカミヤノアユマロ。傳未詳(卷三、三八七參照)。すぐれた歌手であつたのだろう。
 
山部宿祢赤人歌一首
 
1431 百濟野の はぎの古枝に、
 春待つと 居りし鶯、
 鳴きにけむかも。
 
 百濟野乃《クダラノノ》 〓古枝尓《ハギノフルエニ》
 待v春跡《ハルマツト》 居之※[(貝+貝)/鳥]《ヲリシウグヒス》
 鳴尓鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》
 
【譯】百濟野のハギの古枝に春を待つていた鶯は、鳴いたであろうかなあ。
【釋】百濟野乃 クダラノノ。百濟野は、奈良縣北葛城郡百濟村附近の野原。「言左敝久《コトサヘク》 百濟之原從《クダラノハラユ》」(卷二、一九九)。
 〓古枝尓 ハギノフルエニ。〓は〓子に同じ。フルエは、枯れ殘つている枝。
(40) 居之※[(貝+貝)/鳥] ヲリシウグヒス。集中ウゲヒスに※[(貝+貝)/鳥]の字を使用しているが、これは鶯と同字である。漢土の鶯は、ウグヒスではないが、近似の鳥名なので、國語のウゲヒスに當てている。
 鳴尓鷄鵡鴨 ナキニケムカモ。鷄鵡鴨は、鳥類をあらわす文字を使用している。「戀乃繁鷄鳩《コヒノシゲケク》」(卷八、一六五五)などと同樣の用字法。
【評語】鶯の敍述が具體的でよい。かつて冬の頃百濟野を通つた時に見たことが、追憶となつて物を言つている。鳥の鳴くことによつて春になつたことを描いている歌の中でも、出色の作である。
 
大伴坂上郎女柳歌二首
 
1432 わが夫子が 見らむ佐保道《ぢ》の
 青|柳《やぎ》を、
 手《た》折りてだにも 見しめてもがも。
 
 吾背兒我《ワガセコガ》 見良牟佐保道乃《ミラムサホヂノ》
 青柳乎《アヲヤギヲ》
 手折而谷裳《タヲリテダニモ》 見綵欲得《ミシメテモガモ》
 
【譯】あなたの見ているでしよう佐保へ行く道の青柳を、手折つてでも見せていただきたいものです。
【釋】見良牟佐保道乃 ミラムサホヂノ。ミラムは、見ルラムの古い形。サホヂは、佐保に行く道。この歌の相手が佐保道にいると解するのが通常の解である。
 見綵欲得 ミシメテモガモ。
  ミルイロニモカ(類)
  ミシメテモガモ(定本)
  ――――――――――
  見縁欲得《ミルヨシモガナ》(代初)
  見縁欲得《ミムヨシモガモ》(略)
綵は、彩絲の義の字で、日本書紀に、綵絹にシミノキヌの訓がある。ここはシメの訓假字として使用されて(41)いる。染の字をシメの訓假字としたのと同じ趣である。自分に見させてほしい意。
【評語】青柳を愛する心が歌われている。表現は會話ふうに、事務的に運んでいて、うらやむ氣もちが十分に出ていない。奈良に行く人に贈つた歌と解せられる。
 
1433 うち上《のぼ》る 佐保の河原の 青柳は、
 今は春べと なりにけるかも。
 
 打上《ウチノボル》 佐保能河原之《サホノカハラノ》 青柳者《アヲヤギハ》
 今者春部登《イマハハルベト》 成尓鷄類鴨《ナリニケルカモ》
 
【譯】登る道の佐保の河原の青柳は、今は春の頃となりましたよ。
【釋】打上 ウチノボル。ウチは、接頭語。佐保川は、登つて行く地形であるので、この句を冠している。
【評語】前の歌に續いて、作者の邸宅のある佐保の河原の青柳を詠んでいる。ウチノボル佐保ノ河原の句、よくその地形を説いて、青柳のある風光をいま目に見るようにえがいている。
 
大伴宿祢三林梅歌一首
 
【釋】大伴宿祢三林 オホトモノスクネミハヤシ。傳未詳。略解に、三林は、三依の誤りかと云つているが、推量に過ぎない。
 
1434 霜雪も いまだ過ぎねば、
 思はぬに、春日《かすが》の里に 梅の花見つ。
 
 霜雪毛《シモユキモ》 未v過者《イマダスギネバ》
 不v思尓《オモハヌニ》 春日里尓《カスガノサトニ》 梅花見都《ウメノハナミツ》
 
【譯】霜や雪もまだ過ぎないのに、思いのほかに春日の里で梅の花を見た。
【釋】未過者 イマダスギネバ。まだ過ぎないのに。
(42)【評語】意外にも梅花を見た驚喜が歌われている。すなおな歌で、文飾もないが、情趣は得ている。春日の里の地名も、文化人の邸宅地として、梅花にふさわしい。
 
厚見王歌一首
 
【釋】厚見王 アツミノオホキミ。系譜未詳、奈良時代末期の人。(卷四、六六八参照)。
 
1425 河蝦《かはづ》鳴く甘南備《かむなび》河に かげ見えて、
 今か咲くらむ。
 山振《やまぶき》の花。
 
 河津鳴《カハヅナク》 甘南備河尓《カムナビガハニ》 陰所v見而《カゲミエテ》
 今香開良武《イマカサクラム》
 山振乃花《ヤマブキノハナ》
 
【譯】河蝦の鳴く甘南備川に影が見えて、今は咲いているだろうか。山振の花が。
【釋】河津鳴 カハヅナク。カハヅは、河に棲むカエルで、カジカをいうが、この歌ではヤマブキの花を歌つているから、ただ甘南備川の説明に使つたまでである。しかしそれも作者の追憶によるものであろう。
 甘南備河尓 カムナビガハニ。カムナビ河は、カムナビの地を流れる川で、いずれの川とも知られない。龍田川、明日香川など、カムナビに接して流れている。
【評語】甘南備河の風光を想像している。それは作者に取つてなつかしい思い出の地であつたのだろう。その想像は、むしろ追憶というべく、美しい情景を描いている。河蝦鳴クも、季節は違うが、やはり作者の追憶から出ているであろう。この歌、平安時代の歌人に喜ばれたと見えて、これを本歌とする歌が多く見えている。「春ふかみ神なび川に影見えてうつろひにけり山吹の花」(金葉和歌集、大宰大貳長実)、「蛙鳴く神なび川に咲く花のいはぬ色をも人のとへかし」(新勅撰和歌集、二條院讃岐)、「あふ坂の關の清水に影見えて今やひく(43)らむ望月の駒」(拾遺和歌集、紀貫之)。
 
大伴宿祢村上梅歌二首
 
【釋】大伴宿祢村上 オホトモノスクネムラカミ。寶龜二年四月、正六位の上から從五位の下を授けられ、十一月肥後の介、三年四月、從五位の上を以つて阿波の守となつている。この歌を詠んだ時代はまだ若かつたであろう。
 
1436 含《ふふ》めりと 言ひし梅が枝《え》、
 今朝|零《ふ》りし 沫雪にあひて
 咲きぬらむかも。
 
 含有常《フフメリト》 言之梅我枝《イヒシウメガエ》
 今且零四《ケサフリシ》 沫雪二相而《アワユキニアヒテ》
 將v開可聞《サキヌラムカモ・サキニケム》
 
【譯】莟んでいると言つた梅の枝は、今朝降つた沫雪に逢つて、咲いたであろうなあ。
【釋】含有常 フフメリト。フフメリは、含メリで、花のまだ咲かないで莟んでいるをいう。
 沫雪二相而 アワユキニアヒテ。アワユキは、沫のような大形の雪をいう。(既出、一四二〇)
 將開可聞 サキヌラムカモ。サキニケムカモ(類)。サキヌラムカモ(略)。いずれにも讀まれ、意味も通ずる。對手の家の梅花の有樣を推量する句。
【評語】誰かが莟んでいると言つた梅の花が、今朝降つた雪に逢つて咲いたであろうと推量している。梅花が雪に逢つて咲いたであろうという考え方は、變つているが、沫雪を春のしるしと感じたのだろう。梅花の、雪を凌いで咲くさまを想像して、できた歌である。
 
(44)1437 霞立つ 春日《かすが》の里の 梅の花、
 山の下風《あらし》に 散りこすなゆめ。
 
 霞立《カスミタツ》 春日之里《カスガノサトノ》 梅花《ウメノハナ》
 山下風尓《ヤマノアラシニ》 落許須莫湯目《チリコスナユメ》
 
【譯】霞の立つ春日の里の梅の花は、山の荒い風に、散つてくれるな、決して。
【釋】霞立 カスミタツ。枕詞。同音によつてカスに冠するが、春日の里の景色の敍述にもなつている。
 山下風尓 ヤマノアラシニ。下風は、山を吹き下す風の義を以つて、アラシに當てている。「下風吹夜者《アラシフクヨハ》 公乎之其念《キミヲシゾオモフ》」(卷十一、二六七九)。
 落許須莫湯目 チリコスナユメ。コスは、或る動作のあらわれる意の動詞で、ここは助動詞に使われている。チリコスナは、散るなに同じだが、散つてくれるなぐらいの意になる。
【評語】梅花に對する歌としては、平凡だが、前にも記したように、文化人の住む里である春日の里を描いている點が注意される。霞立ツの枕詞も、有效に置かれている。
 
大伴宿祢駿河麻呂歌一首
 
【釋】大伴宿祢駿河麻呂 オホトモノスクネスルガマロ。大伴の御行の孫。道足の子ともいう。寶龜七年七月卒した(卷三、四〇〇參照)。ここは類聚古集、神田本等の諸本に、麻呂に宛てて丸の字が使つてあるが、原形からしてそうであつたかどうか不明である。マロに丸の字を使用し始めたのは、いつの頃からかわからない。正倉院文書には見えないようである。
 
1438 霞立つ 春日の里の 梅の花、
 はなに問はむと わが念はなくに。
 
 霞立《カスミタツ》 春日里之《カスガノサトノ》 梅花《ウメノハナ》
 波奈尓將v問常《ハナニトハムト》 吾念奈久尓《ワガオモハナクニ》
(45)【譯】霞の立つ春日の里の梅の花は、あだにたずねようとは、わたしは思つていないことだ。
【釋】波奈尓將問常 ハナニトハムト。梅の花を受けて、同音にハナニと言つている。ハナニは、眞實味なくあだにの意の副詞。花の如くにの義であろう。トハムは、訪れむ。「吾宅之梅乎《ワギヘノウメヲ》 花爾令v落莫《ハナニチラスナ》」(卷八、一四四五)。
【評語】春日の里の梅の花には、ある人を思いよそえているようだ。上三句に序詞としての用法があるとすれば、同音を重ねた意義はあるが、純粹に梅花を賞しただけの歌ならば、同音を重ねたのは、歌を浮薄にするだけで、役立つてこない。
 
中臣朝臣武良自歌一首
 
【釋】中臣朝臣武良自 ナカトミノアソミムラジ。傳未詳。
 
1439 時は今は 春になりぬと、
 み雪|零《ふ》る 遠山の邊に 霞棚引く。
 
 時者今者《トキハイマハ》 春尓成跡《ハルニナリヌト》
 三雪零《ミユキフル》 遠山邊尓《トホヤマノベニ・トホキヤマベニ》 霞多奈婢久《カスミタナビク》
 
【譯】時節は、今は春になつたと、雪の降つている遠い山のあたりに、霞がたなびいている。
【釋】三雪零 ミユキフル。ミは接頭語、雪の積つている遠山の姿でなくして、遠山の性質を敍述していると見られる。
 遠山邊尓 トホヤマノベニ。トホキヤマヘニ(温)、トホヤマノベニ(略)。いずれにも讀まれるが、ミ雪フルの句を、直に遠山と受ける方がよいのだろう。
【評語】季節の風物の動きによつて、暦面の春の來たことを認證している。初二句の表現には、春を待ち得た(46)心が、看取される。
 
河邊朝臣東人歌一首
 
【釋】河邊朝臣東人 カハベノアソミアヅマビト。奈良時代末期の人。山上の憶良が病んでいた時に、藤原の八束《やつか》の使として見舞に行つた人(卷六、九七八參照)。
 
1440 春雨の しくしく零《ふ》るに、
 高圓の 山の櫻は、
 いかにかあるらむ。
 
 春雨乃《ハルサメノ》 敷布零尓《シクシクフルニ》
 高圓《タカマトノ》 山能櫻者《ヤマノサクラハ》
 何如有良武《イカニカアルラム》
 
【譯】春雨が引き續いて降るので、高圓の山のサクラは、どのようにあるだろうか。
【釋】敷布零尓 シクシクフルニ。シクシクは、重ね重ねで、引き績いて降るのにの意。
【評語】しきりに降り續く春雨に、高圓の櫻を案じている。既に咲いたであろうかどうだろうかというのであろう。材料が、春雨やサクラであり、土地が高圓なので、風情のないこともないが、表現は平語で、思つている所をそのままに出しただけである。
 
大伴宿祢家持※[(貝+貝)/鳥]歌一首
 
1441 うち霧《き》らし 雪は零《ふ》りつつ、
 しかすがに 吾家《わぎへ》の苑《その》に 鶯鳴くも。
 
 打霧之《ウチキラシ》 雪者零乍《ユキハフリツツ》
 然爲我二《シカスガニ》 吾宅乃苑尓《ワギヘノソノニ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《ウグヒスナクモ》
 
(47)【譯】空がかき曇つて雪は降りながら、そうではあるが、わたしの家の苑で鶯が鳴いているなあ。
【釋】打霧之 ウチキラシ。ウチは接頭語。キラシは、霧で曇らせて。雲霧で空がくもつて。
 然爲我二 シカスガニ。そうするほどに、しかし、さすがに。前にある事を敍し、それでも一方では、かくの如しと、他の事を敍するに使う副詞。「之加須我仁《シカスガニ》 黙然得不v在者《モダエアラネバ》」(卷四、五四三一)が初出である。季節の動きに關しては、卷の十の初めに、この句を使つた數首が見えている。
【評語】自然の風物の動きのあいだに起つた矛盾の感が取りあげられている。わが家の苑に鶯が啼くという敍述の中には、春の季節感が成立している。家持の初期の作品中では、綺麗にできているが、卷の十の春の雜歌の、シカスガニに依る形式の歌の影響を多量に受けている。大伴の坂上の郎女の天平四年三月の作よりも前に配列してあるので、この順序が正確ならば、家持の天平四年三月以前の作ということになる。
 
大藏少輔丹比屋主眞人歌一首
 
【釋】丹比屋主眞人 タヂヒノヤヌシノマヒト。屋主は名、眞人は姓。奈良時代中期の人(卷六、一〇三一參照)。
 
1442 難波邊《なにおべ》に 人の行《ゆ》ければ、
 後《おく》れ居《ゐ》て、
 春奈《わかな》採《つ》む兒を 見るが悲しさ。
 
 難波邊尓《ナニハベニ》 人之行禮波《ヒトノユケレバ》
 後居而《オクレヰテ》
 春菜採兒乎《ワカナツムコヲ》 見之悲也《ミルガカナシサ》
 
【譯】難波の方に人が行つているので、あとに殘つていて、若菜をつむ子を見るのが、氣のどくだ。
【釋】人之行禮波 ヒトノユケレバ。ヒトは、春菜つむ子の夫をさす。
(48) 見之悲也 ミルガカナシサ。也は、決定の辭で、添えて書いている。「朝露乃如也《アサツユノゴト》 夕霧乃如也《ユフギリノゴト》」(卷二、二一七)、「吾乃清也《オトノサヤケサ》」(卷七、一一〇二)など例が多い。カナシサは、あわれに感じた意である。
【評語】ひとり留まつて、ものさびしげに春菜を採む兒の姿が描き出されている。その兒は、作者の娘などであろう。特殊の内容の歌である。大伴の家持が歌を贈つている京の丹比家の人(卷十九、四一七三・四二四三)は、この娘あたりであるかもしれない。
 
丹比眞人乙麻呂歌一首 屋主眞人之第二子也。
 
【釋】丹比眞人乙麻呂 タヂヒノマヒトオトマロ。下の註に、屋主の第二子とある。奈良時代末期の人。天平神護元年正月、正六位の上から從五位の下を授けられ、十月、紀伊の國の行幸に際して、御前次第司の次官となつている。
 
1443 霞立つ 野の上の方に 行きしかば、
 鶯鳴きつ。
 春になるらし。
 
 霞立《カスミタツ》 野上乃方尓《ノノウヘノカタニ》 行之可波《ユキシカバ》
※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウグヒスナキツ》
 春尓成良思《ハルニナルラシ》
 
【譯】霞の立つ野原の方に行つたところ、鶯が鳴いた。春になるらしい。
【釋】野上乃方尓 ノノウヘノカタニ。ノノウヘは、野の上で、野原というに同じ。野は平面であるから、具體的に、その上というまでである。「高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》」(卷一、八四)、「多加麻刀能《タカマトノ》 努乃宇倍能美也波《ノノウヘノミヤハ》」(卷二十、四五〇六)。
【評語】鶯の聲によつて、季節の春になつたことを推量している。類型的な内容だが、霞立ツ野ノ上ノ方ニ行(49)キシカバと、事實を報告しているので、實感が伴なつている。
 
高田女王歌一首 高安之女也。
 
【釋】高田女王 タカタノオホキミ。下の註にある高安は、大原の眞人高安で、もと高安の王と言つた人であろう。續日本紀に見える高田の王、および正倉院文書《しようそういんもんじよ》、天平七年の相摸國|封戸《フコ》租交易帳に「從四位下高田王食封」とあるは、別人である。
 
1444 山振《やまぶき》の 咲きたる野邊の つぼ菫、
 この春の雨に 盛りなりけり。
 
 山振之《ヤマブキノ》 咲有野邊乃《サキタルノベノ》 都保須美禮 ツボスミレ
 此春之雨尓《コノハルノアメニ》 盛奈里鷄利《サカリナリケリ》
 
【譯】ヤマブキの咲いている野邊のツボスミレは、この春の雨に盛りに咲いている。
【釋】都保須美禮 ツボスミレ。スミレが壺のような花の形を持つているからいうのである。
【評語】春の野の美しさを敍した歌。スミレが主になつている歌であるが、ヤマブキノ咲キタルは、その野邊の情景を寫すに效果が多い。しかしまた、歌の中心を二つにする嫌いがないでもない。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1445 風|交《まじ》り 雪は零るとも、
 實《み》にならぬ 吾家《わぎへ》の梅を
 花に散らすな。
 
 風交《カゼマジリ》 雪者雖v零《ユキハフルトモ》
 實尓不v成《ミニナラヌ》 吾宅之梅乎《ワギヘノウメヲ》
 花尓令v落莫《ハナニチラスナ》
 
(50)【譯】風が交つて雪は降つても、實にならないわたしの家の梅を、むだに散らさないでください
【釋】風交雪者雖零 カゼマジリユキハフルトモ。風が加わつて雪が降つても。「風雜《カゼマジリ》 雨布流欲乃《アメフルヨノ》」(卷五、八九二)。
 花尓令落莫 ハナニチラスナ。ハナニは、花として、むだに。「波奈爾將v問常《ハナニトハムト》」(卷八、一四三八)のハナニに同じ。
【評語】どうせ實にはならないのだから、せめて花として眺めたいという心である。しかし鑑賞としては、やはり實ニナラヌが、説明し過ぎてじやまである。そうしてまたそれがないと、歌が全く平凡になつてしまう。
 
大伴宿祢家持春雉歌一首
 
【釋】春雉歌 キギシノワタ。春雉は熟字として使われている。「春雉鳴《キギシナク》 高圓邊爾《タカマトノベニ》」(卷十、一八六六)。
 
1446 春の野に あさる雉《きぎし》の、
 妻戀《つまごひ》に、
 おのがあたりを 人に知れつつ。
 
 春野尓《ハルノノニ》 安佐留雉乃《アサルキギシノ》
 妻戀尓《ツマゴヒニ》
 己我當乎《オノガアタリヲ》 人尓令v知管《ヒトニシレツツ》
 
【譯】春の野に餌をあきる雉子が、妻に戀して自分のいる處を、人に知られている。
【釋】安佐留雉乃 アサルキギシノ。アサルは、餌を求めるをいう。
 人尓令知管 ヒトニシレツツ。令知は、人に知らしめる意で書いている。動詞知ルは、普通は四段活であるが、下二段に活用すると、被動の意を含む。「人不v令v知《ヒトシレズ》 本名也戀牟《モトナヤコヒム》」(卷十三、三二七二)の令知も、同樣の用字用語である。
(51)【評語】妻戀に鳴く雉子に感興を催して詠んだ歌で、これをあわれむ心がよく出ている。譬喩と見ないがよい。雉子も鳴かずば撃たれまいという、後世の諺が、既に歌となつてあらわれている。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1447 尋常《よのつね》に 聞くは苦しき 喚子鳥《よぶこどり》、
 聲なつかしき 時にはなりぬ。
 
 尋常《ヨノツネニ》 聞者苦寸《キクハクルシキ》 喚子鳥《ヨブコドリ》
 音奈都炊《コヱナツカシキ》 時庭成奴《トキニハナリヌ》
 
【譯】平常の時に聞くのは、聞き苦しい喚子鳥は、聲のなつかしい時にはなつた。
【釋】尋常聞者苦寸 ヨノツネニキクハクルシキ。春でない平常の時に聞くのは、聲がわるく聞き苦しい意。これによると、春以外は、聞きづらい聲で鳴くのだろう。
 音奈都炊 コヱナツカシキ。炊は、訓假字で、カシキの音を表示している。聲の親しむべき。
【評語】喚子鳥の聲の愛すべき季節になつたことを歌つている。そういう鳥の聲などに親しんで住んでいた生活が思われる。そういう生活の記録である。
 
右一首、天平四年三月一日、佐保宅作
 
【釋】佐保宅作 サホノイヘニテツクレル。佐保の宅は、大伴氏の邸宅で、坂上の郎女の住んでいた處。坂上の郎女の作に、年月日や、處の傳えられていることが注意される。郎女自身の手記から出ているであろう。
 
春相聞
 
(52)【釋】春相聞 ハルノサウモニ。春の相聞の歌は長歌一首、短歌十六首を收めている。
 
大伴宿祢家持、贈2坂上家之大孃1歌一首
 
【釋】坂上家之大孃 サカノウヘノイヘノオホヲトメ。坂上の家は、大伴の宿奈麻呂の家。大孃は、宿奈麻呂の女で、母は坂上の郎女である。後、家持の妻となつた(卷四、五八一參照)。
 
1448 わが屋外《やど》に まきしなでしこ、
 いつしかも 花に咲きな心。
 比《なそ》へつつ見む。
 
 吾屋外尓《ワガヤドニ》 蒔之瞿麥《マキシナデシコ》
 何時毛《イツシカモ》 花尓咲奈武《ハナニサキナム》
 名蘇經乍見武《ナソヘツツミム》
 
【譯】わたしの家のそとに蒔いたナデシコは、何時になつたら花に咲くでしようか。その花に寄せて見ましように。
【釋】何時毛 イツシカモ。イツシカは、何時かの強いので、早くの意になる。
 花尓咲奈武 ハナニサキナム。花として咲くだろうと推量する句。句切。「何時毛《イツシカモ》 珠貫倍久《タマニヌクベク》 其實成奈武《ソノミナリナム》」(卷八、一四七八)。同人の作である。
 名蘇經乍見武 ナソヘツツミム。ナソヘは、擬する意。あなたをこの花に擬して見ましよう。
【評語】ナデシコは、秋咲くものとされ、この卷中には夏の雜歌にも詠まれている。ここはまだ花の咲かない時の歌である。思う人を、花に擬して見ようという、花を愛し人を愛する心が基調となつているが、歌としては作り設けた氣分が濃厚である。
 
(53)大伴田村家毛大孃、與2妹坂上大孃1歌一首
 
大伴の田村の家の毛の大孃の、妹坂上の大孃に與ふる歌一首。
 
【釋】毛大孃 ケノオホヲトメ。毛の大孃ということ、はなはだしく異樣であるが、諸本にすべてかようにある。神田本には、毛の字は本行には無いが、右に書き加えてあるから、一層その存在が確められる。「田狹臣婦《タサノオミガメ》、名毛孃《ナハケヒメ》」(雄略天皇紀)のように、毛媛という婦人もあるから、毛は名の一字で、かように呼んだことがないともいえない。みだりに改めまたは削り去るべきではない。「櫻大娘《サクラノオホヲトメ》」(日本靈異記中卷)。
 
1449 茅花《ちばな》拔《ぬ》く 淺茅が原の つぼ菫《すみれ》、
 いま盛りなり。
 わが戀ふらくは
 
 茅花拔《チバナヌク》 淺茅之原乃《アサヂガハラノ》 都保須美禮《ツボスミレ》
 今盛有《イマサカリナリ》
 吾戀苦波《ワガコフラクハ》
 
【譯】茅花を拔く淺茅が原のツボスミレのように、今さかりです。わたしの戀することは。
【釋】茅花拔 チバナヌク。ツハナヌク(羸)、チハナヌク(神)。茅はその花を拔いて食料としたので、淺茅が原を修飾している。
 今盛有 イマサカリナリ。以上四句、事實を敍して、これを譬喩として、わが戀うことを説明している。殊にこの句は、一面において、次の句を受けている。
 吾戀苦波 ワガコフラクハ。全體の文主である。この戀は、妹の坂上の大孃に對する戀である。
【評語】譬喩に使つた敍述が美しい。ツボスミレの咲く頃、これに思いを寄せて贈つた歌である。末句に、ワガ戀フラクハと置くのは、一つの型で、しばしば見受けられる(卷四、七六〇參照)。
 
(54)大伴宿祢坂上郎女歌一首
 
【釋】大伴宿祢坂上郎女 オホトモノスクネサカノウヘノイラツメ。女子にも姓をいうことのあるのは通常である。坂上の郎女のような通稱の場合に姓をいうのは珍しいが、あり得ないことでもないようだ。卷の十七、三九二七の歌の題詞には「大伴氏坂上都女」とある。
 
1450 情《こころ》ぐき ものにぞありける。
 春霞 たなびく時に 戀の繁きは。
 
 情具伎《ココログキ》 物尓曾有鷄類《モノニゾアリケル》
 春霞《ハルガスミ》 多奈引時尓《タナビクトキニ》 戀乃繁者《コヒノシゲキハ》
 
【譯】心の晴々としないものでした。春霞のたなびく時に、戀うことの多いのは。
【釋】情具伎 ココログキ。心の鬱して晴々としない形容。春霞のたなびく時というのに、ふさわしい形容である。「春日山《カスガヤマ》 霞多奈引《カスミタナビキ》 情具久《ココログク》 照月夜爾《テレルツクヨニ》 獨鴨念《ヒトリカモネム》」(卷四、七三五)。
【評語】説明的な歌だが、その情景と情グキとがよく照合して、趣のある空氣を作つている。情グキモノニゾと續くべき句を、初二句に跨らせたのは、散文的である。參考欄に出した類歌は、大伴の家持の作だが、この歌を模したのであろう。
【參考】類歌。
 心ぐく念ほゆるかも。春霞たなびく時に事の通へば(卷四、七八九)
 
笠女郎、贈2大伴家持1歌一首
 
【釋】笠女郎 カサノヲミナ。傳未詳。家持に贈つた歌が多い。金村の近親だろう。(卷三、三九五參照)。
 
(55)1451 水鳥の 鴨の羽《は》色の 春山の、
 おほつかなくも 念《おも》ほゆるかも。
 
 水鳥之《ミヅトリノ》 鴨乃羽色乃《カモノハイロノ》 春山乃《ハルヤマノ》
 於保束無毛《オホツカナクモ》 所v念可聞《オモホユルカモ》
 
【譯】水鳥である鴨の羽根の色の春山のように、おぼつかなく思われることですね。
【釋】水鳥之鴨乃羽色乃春山乃 ミヅトリノカモノハイロノハルヤマノ。以上三句、序詞。春山は、霞がかかつてはつきりしないので、オホツカナクモを引き起している。ミヅトリノは枕詞。鴨を説明する。鴨の羽色は、緑色の部分が目立つから、譬喩として春山を修飾している。正倉院の御物の鳥毛の屏風も鴨の緑の羽を多く使つている。「水鳥乃《ミヅトリノ》 可毛羽能伊呂乃《カモハノイロノ》 青馬乎《アヲウマヲ》」(卷二十、四四九四)。
 於保束無毛 オホツカナクモ、物のはつきりしない形容で、ここは、思われるさまを形容している。
【評語】器用にできた歌で、歌がらもすつきりしている。しかし内容に乏しいのはやむを得ない所である。
 
紀女郎歌一首 名曰2小鹿1也
 
【繹】紀女郎 キノヲミナ。紀女郎怨恨歌(卷四、六四三)の題下に「鹿人(ノ)大夫之女、名(ヲ)曰(ヘリ)2小鹿(ト)1也。安貴王之妻也」とある。婦人としては珍しく名が傳わつている。ここにも名が註記されている。
 
1452 闇夜《やみ》ならば 宜《うべ》も來坐《きま》さじ。
 梅の花 咲ける月夜《つくよ》に
 出《い》でまさじとや。
 
 闇夜有者《ヤミナラバ》 宇倍毛不2來座1《ウベモキマサジ》
 梅花《ウメノハナ》 開月夜尓《サケルツクヨニ》
 伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》
 
【譯】闇夜だつたら、おいでにならないのももつともです。しかし梅の花の咲いている月夜にも、おでましに(56)ならないというのですか。
【釋】伊而麻左自常屋 イデマサジトヤ。而を訓假字として使用している。イデは外出の意。この句の下にイフの如き語が省略されている。
【評語】梅花の咲いている月明の夜にも來ないというのかと詰問している。鋭い語氣の歌である。
 
天平五年癸酉春閏三月
 
笠朝臣金村贈2入唐使1歌一首 并2短歌1
 
【釋】天平五年癸西春閏三月 テニヒヤウノイツトセミヅノトトリノハル、ノチノヤヨヒ。この月の二十六日に、遣唐の大使多治比の眞人廣成が天皇に召されて、節刀を授けられ、翌四月三日、遣唐の四船が、難波の津から出發した。ここに作歌の年月を明記してあるのは、笠金村歌集の特色で、この歌も、その集から採録したものと認められる。
 
1453 玉だすき 懸けぬ時無く
 氣《いき》の緒に わが念ふ公《きみ》は、
 うつせみの 命《みこと》かしこみ、
 夕されば 鶴《たづ》が妻|喚《よ》ぶ
 難波潟《なにはがた》 三津《みつ》の埼《さき》より、
 大船に 眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き、
 白浪の 高き荒海《あるみ》を
(57) 島傳ひ い別れ行かば、
 留《とど》まれる われは幣《ぬさ》引き
 齋《いは》ひつつ 公《きみ》をばやらむ。
 はや還りませ。
 
 玉手次《タマダスキ》 不v懸時無《カケヌトキナク》
 氣緒尓《イキノヲニ》 吾念公者《ワガオモフキミハ》
 虚蝉之《ウツセミノ》 命恐《ミコトカシコミ》
 夕去者《ユフサレバ》 鶴之妻喚《タヅガツマヨブ》
 難波方《ナニハガタ》 三津埼從《ミツノサキヨリ》
 大舶尓《オホブネニ》 二梶繁貫《マカヂシジヌキ》
 白浪乃《シラナミノ》 高荒海乎《タカキアルミヲ》
 島傳《シマヅタヒ》 伊別往者《イワカレユカバ》
 留有《トドマレル》 吾者幣引《ワレハヌサヒキ》
 齊乍《イハヒツツ》 公乎者將v往《キミヲバヤラム》
 早還萬世《ハヤカヘリマセ》
 
【譯】美しいたすきのように、心に懸けない時なく、呼吸の續く限り、わたしの思つている君は、この世において勅命を承つて、夕方になれば鶴が妻を呼ぶ難波潟の三津の埼から、大船に櫂を十分に取りつけて、白浪の高い荒海を、島傳いして別れて行つたら、留まつているわたしは、もの忌みをしながら、君を旅立たせましよう。早く歸つていらつしやい。
【構成】全篇一文。文は、君ヲバヤラムで一往切れている。
【釋】玉襷 タマダスキ。枕詞。
 氣緒尓吾念公者 イキノヲニワガオモフキミハ。イキノヲは、呼吸の永續。氣ノ緒ニ念フは、絶えず思う意の慣用句。
 虚蝉之命恐 ウツセミノミコトカシコミ。代匠記に「死毛生毛《シニモイキモ》 公之隨意常《キミガマニマト》 念乍《オモヒツツ》 有之間爾《アリシアヒダニ》 虚蝉乃《ウツセミノ》 代人有者《ヨノヒトナレバ》 大王之《オホキミノ》 御命恐美《ミコトカシコミ》」(卷九、一七八五)、「虚蝉乃《ウツセミノ》 世人有者《ヨノヒトナレバ》 大王之《オホキミノ》 御命恐彌《ミコトカシコミ》」(同、一七八七)の例によつて、「虚蝉之」の下に「世人有者大王之」の二句が脱落したとしている。例に擧げた卷の九の二首は、いずれも笠の朝臣金村の歌集の所出である。脱落したとすれば、萬葉集の原形において、既に脱落していたのだろう。
 二梶繁貫 マカヂシジヌキ。二梶は、船の左石の舷の楫の義を以つて書いている。船の装備を完備する意の(58)慣何句。
 伊別往者 イワカレユカバ。イは、接頭語。
 吾者幣引 ワレハヌサヒキ。ヌサは、賢木《きかき》に懸けた麻、木綿、布の類をいい、それを引くのは神靈の威力を自分に受けるために、連絡をつける意味でされる。靈異記に、佛像の手や足に絲をかけて、それを引いて祈願する風習のあつたことを傳えるのと、同樣の思想である。「大ぬさの引く手あまたになりぬれば思へどえこそたのまざりけれ」(古今和歌集)。
 公乎者將往 キミヲバヤラム。將往は、往かしめむの意。句切。
【評語】慣用句を多く使つて、形式的に作られている感がある。わずかに、幣引キあたりに、多少の特色があるだけである。齋いのことを述べているのは、娘子に代わつて詠んだ歌のようである。
 
反歌
 
1454 波の上《うへ》ゆ 見ゆる兒島《こじま》の 雲|隱《がく》り、
 あな氣《いき》づかし。
 相別れなば。
 
 波上從《ナミノウヘユ》所v見兒島之《ミユルコジマノ》 雲隱《クモガクリ》
 穴氣衝之《アナイキヅカシ》
 相別去者《アヒワカレナバ》
 
【譯】浪の上を通して見える兒島が、雲に隱れるように、ああ歎息されることだ。別れたならば。
【釋】波上從所見兒島之 ナミノウヘユミユルコジマノ。波上を通して見える兒島の。兒島は、ちいさい島で、固有名詞ではない。
 雲隱 クモガクリ。以上序詞。雲に隱れて見えないのでうつとうしい意に、次句の、息ヅカシを引き起して(59)いる。
 穴氣衝之 アナイキヅカシ。アナは、感動の語。イキヅカシは、息ヅキ(歎息)をする状にある意の形容詞。句切。
【評語】作者は、奈良の都で、この歌を詠んでいるのであろう。それで一行の海路に思いを馳せてこの序詞を使つたのだが、それは机上の作なので、波ノ上ユ見ユルと、雲ガクリとのあいだに両立しないもののあるのに氣づかなかつた。形式的な送別の作である。
 
1455 たまきはる 命に向かひ
 戀ひむゆは、
 公がみ船の 楫柄《かぢから》にもが。
 
 玉切《タマキハル》 命向《イノチニムカヒ》
 戀従者《コヒムユハ》
 公之三舶乃《キミガミフネノ》 梶柄母我《カヂカラニモガ》
 
【譯】魂の極りである命に懸けて戀をしようよりも、あなたのお船の楫の柄《え》にもなりたいのです。
【釋】玉切 タマキハル。枕詞。玉切と書く例は、卷の十一にも二例ある。「年切《トシキハル》 及v世定《ヨマデサダメテ》」(巻十一、二三九八)の年切をもトシキハルと讀んでいる。
 命向 イノチニムカヒ。ムカヒは、向き合う意で、匹敵することをあらわす。生命をかけて。
 戀従者 コヒムユハ。ユは、比較をあらわす。
 梶柄母我 カヂカラニモガ。楫の柄にてもありたいの意。
【評語】あとに殘つて戀をすることの苦しさに堪えられぬ趣を歌つている。君の手もとの品になりたいという表現は、類歌が多く、この歌では海を渡る人の縁で、楫の柄というところに特色があるだけである。以上の三首は、歌詞に春の季語無く、ただ閏の三片に作つたというだけで、春の部に收めてある。これはこの卷の部類(60)に、作歌の月によらないで、歌詞によつて季節を定めたものと、矛盾するものがある。この卷中、歌詞に季語の無いのは、後にもあるが、これらは作歌の時節によつて分類したものである。
 
藤原朝臣廣嗣、櫻花贈2娘子1歌一首
 
藤原の朝臣|廣嗣《ひろつぐ》の、櫻の花を娘子《をとめ》に贈れる歌一首。
 
【釋】藤原朝臣廣嗣 フヂハラノアソミヒロツグ。藤原の宇合の第一子。天平十二年十一月、九州において謀反して斬られた(卷六、一〇二九參照)。
 
1456 この花の 一瓣《ひとよ》のうちに
 百種《ももくさ》の 言《こと》ぞ隱《こも》れる。
 おほろかにすな。
 
 此花乃《コノハナノ》 一與能内尓《ヒトヨノウチニ》
 百種乃《モモクサノ》 言會隱有《コトゾコモレル》
 於保呂可尓爲莫《オホロカニスナ》
 
【譯】この花の一瓣の中に、澤山の言葉が籠つています。疎略にしないでください。
【釋】一與能内尓 ヒトヨノウチニ。ヨは、花瓣をいう。「父母我《チチハハガ》 等能々志利弊乃《トノシリヘノ》 母々余具佐《モモヨグサ》」(卷二十、四三二六)のモモヨグサは多瓣の花の草である。またヨは代で、花の莟から開いて散るまでをいうか。この場合、モモヨグサは、花の壽命の長い草である。
 於保呂可尓爲莫 オホロカニスナ。オホロカは、疎略に、粗末に、等閑に。
【評語】櫻花に思いを寄せて贈つた歌である。一瓣と百種とを對比させて作つている。無言の花に、無數の言葉を籠めた意が、巧みである。
 
(61)娘子和歌一首
 
【釋】娘子 ヲトメ。どのような人とも知られない。
 
1457 この花の 一瓣《ひとよ》のうちは、
 百種の 言持ちかねて
 折らえけらずや。
 
 此花乃《コノハナノ》 一與能裏波《ヒトヨノウチハ》
 百種乃《モモクサノ》 言持不v勝而《コトモチカネテ》
 所v折家良受也《ヲラエケラズヤ》
 
【譯】この花の一瓣のうちは、たくさんの言葉を持つに堪えないで折られたではございませんか。
【釋】言持不勝而 コトモチカネテ。言を保持するに堪えかねて。
【評語】この花の一瓣のうちは、よく百種の言葉を保持するに堪えかねて、この通り折られたではないかと反駁している。言葉あらそいの巧みな歌で、鋭くやり返しているが、それだけに情趣には乏しい。
 
厚見王、贈2久米女郎1歌一首
 
【釋】厚見王 アツミノオホキミ。既出(一四三五)。
 久米女郎 クメノヲミナ。傳未詳。
 
1458 屋戸《やど》にある 櫻の花は、
 今もかも、松風|疾《いた》み 地《つち》に落《ち》るらむ。
 
 屋戸在《ヤドニアル》 櫻花者《サクラノハナハ》
 今毛香聞《イマモカモ》 松風疾《マツカゼイタミ》 地尓落良武《ツチニチルラム》
 
【譯】そちらの屋戸の櫻の花は、松風が強く吹くので、地に散つているだろうか。
(62)【釋】室戸在 ヤドニアル。室戸は屋戸に同じ。久米の女郎の家の戸口である。室戸崎、三室戸山の地名のあるによれば、ムロトの語もあるかもしれない。
 今毛香聞 イマモカモ。イマモは、今はを強調している。カモは、疑問の係助詞で、五句がこれを受けている。
 松風疾 マツカゼイタミ。マツカセハヤミ(神)、マツカゼイタミ(童)。風については、ハヤミは例がすくなく、多くはイタミという例である。
【評語】女の家の松の木の間の櫻を歌つて、春風の荒びに、花の散り亂れている樣を想像している。風が強くして花が散るだろうというのは、一通りであるが、松風と斷つたので、その婦人の家の有樣が特に見えるようである。
 
久米女郎報贈歌一首
 
1459 世間《よのなか》も 常にしあらねば、
 屋戸《やど》にある 櫻の花の
 散れる頃かも。
 
 世間毛《ヨノナカモ》 常尓師不v有者《ツネニシアラネバ》
 屋戸尓有《ヤドニアル》 櫻花乃《サクラノハナノ》
 不v所比日可聞《チレルコロカモ》
 
【譯】世の中も無常なので、わたくしの屋戸にある櫻の花の散つているこの頃です。
【釋】不所比日可聞 チレルコロカモ。ウツルコロカモ(代精)、ウツロフコロカモ(考)。不所は曖昧な書き方である。チレルと讀むのは、處《ヲ》ラズの義に依つた義讀である。そのほか、スグル、アラヌなどの訓も考えられる。
(63)【評語】この世の無常にしてはかない事を歌つているが、これは厚見の王の心の變り易くして、忘れてしまうというような事を、恨んでいるかも知れない。何にしても落花に對して、さびしい日を迎えている心を寫している。贈られた歌に對して、世間の無常を持ち出したのは、すこしく仰山過ぎるようである。
 
紀女郎、贈2大伴宿祢家持1歌二首
 
1460 戯奴《わけ》【變してわけといふ】がため、 わが手もすまに、
 春の野に 拔《ぬ》ける茅花《ちばな》ぞ。
 食《を》して肥えませ。
 
 戯奴《ワケ》【變云2和氣1】之爲《ガタメ》 吾手母須麻尓《ワガテモスマニ》
 春野尓《ハルノノニ》 拔流茅花曾《ヌケルツバナゾ》
 御食而肥座《ヲシテコエマセ》
 
【譯】奴のために、わたくしの手も忙しく、春の野で拔いた茅花ですよ。おあがりになつておふとりなさい。
【釋】戯奴之爲 ワケガタメ。戯奴に註して「變云2和氣1」とある。變は反に通じ、漢土で反切の法によつて字音を註するにならつて、訓を註したものである。本集では「勅旨」に註して「反云2大命1」(卷五、八九四)といい、「船舳爾」に註して「反云2布奈能閉爾1」(同)というが如きがある。ここでは戯奴をワケと讀むべしと註したのである。ワケは、奴の義なるべく、ここでは實際の奴でなく、戯にいう意で、戯奴と書いたのである。それで自然一人稱にも二人稱にも使われる。ここは二人稱。「吾君者《ワガキミハ》 和氣乎波死常《ワケヲバシネト》 念可毛《オモヘカモ》」(卷四、五五二)、「勤和氣登《イソシキワケト》 將v譽十方不v在《ホメムトモアラズ》」(同、七八〇)。いずれも男子について言つているから、婢は含まないらしい。
 吾手母須麻尓 ワガテモスマニ。スマニは、いそがしく隙のないことをいう。語義は不明。「手母須麻爾《テモスマニ》 殖之芽子爾也《ウヱシハギニヤ》」(卷八、一六三三)。
(64) 御食而肥座 ヲシテコエマセ。メシテコエマセ(西)。御食は「御食國者《ヲスクニハ》」(卷六、九五六)のようにヲスに當てて書いている。食するの敬語である。また「武奈伎取食《ムナギトリメセ》 賣世反也」(卷十六、三八五三)ともあつて、メスとも言つたことが知られる。茅花を食えば肥えると言われていたものだろう。
【評語】せつかく相手を戯奴といいながら、それに呼應する詞句がないのは物足りない。君がためでも一向にさしつかえない所だ。茅花を贈るに添えた歌としては、あかるく輕くできているのがとりえだ。
 
1461 晝は咲き 夜《よる》は戀《こ》ひ宿《ぬ》る 合歡木《ねぶ》の花、
 君のみ見めや。
 戯奴《わけ》さへに見よ。
 
 晝者咲《ヒルハサキ》 夜者戀宿《ヨルハコヒヌル》 合歡木花《ネブノハナ》
 君耳將v見哉《キミノミミメヤ》
 和氣佐倍尓見代《ワケサヘニミヨ》
 
【譯】晝は咲いて夜は戀して寢るネブの花は、主君のみ見ましようか。お前までも見たがよい。
【釋】夜者戀宿 ヨルハコヒヌル。ネムノキの花は、夜間つぼむので戀ヒツツ宿ルと、心のあるように言つている。
 合歡木花 ネブノハナ。合歡木は、マメ科の落葉喬木。ネムノキ。葉が對生し、夜間は接合するので眠りの木という。「合歡木、唐韻云、※[木+昏]、音昏、禰布利乃岐」(倭名類聚鈔)。
 君耳將見哉 キミノミミメヤ。キミは主君。この語の本義で使用している。相手を戯奴と言つたのに對して(65)自分をキミと言つている。
 和氣佐倍尓見代 ワケサヘニミヨ。ワケは、前の歌參照。相手をいう。
【評語】戯れに自分を主君として、高壓的な物言いをしていることが感じられる。階級思想の強かつた時代の作として注意される。これはネムノキの花に寄せて寓意する所がある。その性質がよく使用されている。
 
右、折2攀合歡花并茅花1贈也。
 
右は、合歡の花并せて茅花を折り攀ぢて贈れるなり。
 
【釋】折攀 ヲリヨヂテ。攀は、下から上を引く意の字で、引き寄せる意に使われている。歌中にも「攀而手折都《ヨヂテタヲリツ》(卷八、一五〇七)、「引攀而《ヒキヨヂテ》 折者可v落《ヲラバチルベミ》」(同、一六四四)など、この意である。攀は、類聚名義抄に、ヨヅ、ヒクの訓がある。ヨヅは、集中、「妹手《イモガテヲ》 取而引與治《トリテヒキョヂ》」(卷九、一六八三)、「乎佐刀奈流《ヲサトナル》 波奈多知波奈乎《ハナタチバナヲ》 比伎余知弖《ヒキヨヂテ》」(卷十四、三五七四)、「青柳乃《アヲヤギノ》 保都枝與治等理《ホツヱヨヂトリ》」(卷十九、四二八九)など使用され、みな攀の字義に合うものである。
 
大伴家持贈和歌二首
1462 わが君に 戯奴《わけ》は戀ふらし。
 給《たば》りたる 茅花《ちばな》を喫《は》めど
 いや痩《や》せに痩《や》す。
 
 吾君尓《ワガキミニ》 戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》
 給有《タバリタル》 茅花乎雖v喫《チバナヲハメド》
 弥痩尓夜須《イヤヤセニヤス》
 
【譯】御主人樣に奴は戀しているらしいのです。賜わりました茅花をたべますが、いよいよ痩せに痩せます。
(66)【釋】吾君尓 ワガキミニ。キミは主人。戯奴に對する語で、紀の女郎をさしている。
 戯奴者戀良思 ワケハコフラシ。戯奴は、贈られた歌の語を取つて、みずから稱している。
【評語】贈られた歌に對して、つけ入つて返している。さすがに歌に馴れた詠みぶりである。なおこれらの贈答の歌によつて、家持が痩せていたのだろうとする説があるが、痩せていないでもさしつかえなく、別に痩せていた證明にはならない。
 
1463 吾妹子が 形見の合歡木《ねぶ》は、
 花のみに 咲きてけだしく
 實に成らじかも。
 
 吾妹子之《ワギモコガ》 形見乃合歡木者《カタミノネブハ》
 花耳尓《ハナノミニ》 咲而蓋《サキテケダシク》
 實尓不v成鴨《ミニナラジカモ》
 
【譯】あなたの形見のネムノキは、花ばかり咲いて、たぶん實にならないでしようなあ。
【釋】形見乃合歡木者 カタミノネブハ。カタミは記念物だが、ここでは贈物の意である。その人の代表として見るものの義である。
【評語】實ニナラジに、戀の成就しないだろうの意を含めている。何の花でもよく、ネムノキの花の特質が働いていない。また實にならないという形で、戀の成就しない意をあらわすのは、類型的である。
 
大伴家持、贈2坂上大孃1歌一首
 
1464 春霞 たなびく山の 隔《へな》れれば、
 妹に逢はずて 月ぞ經にける。
 
 春霞《ハルガスミ》 輕引山乃《タナビクヤマノ》 隔者《ヘナレレバ》
 妹尓不v相而《イモニアハズテ》 月曾經尓來《ツキゾヘニケル》
(67)【譯】春霞のたなびく山が隔たつているので、あなたに逢わないで、月を經たことでした。
【釋】隔者 ヘナレレバ。ヘダタレバ(類)、ヘナレレバ(略)。同じ家持の、坂上の大孃を思つて詠んだ歌に、「一隔山《ヒトヘヤマ》重成物乎《ヘナレルモノヲ》」(卷四、七六五)とあり、同じく久邇の京で作つている。ここの春霞タナビク山ノ隔レレバというのも、奈良の京との堺の山をいう。
【評語】平凡な歌だが、中に隔つている山を、春霞タナビク山と敍したので、氣分が出ている。その山の敍述も、勿論平凡ではあるが。
 
右、從2久邇京1贈2寧樂宅1。
 
【釋】久邇京 クニノミヤコ。京都府相樂郡、泉河に面した山間の地で、天平十二年十二月に遷都した。翌年の春の作であろう。
 擧樂宅 ナラノイヘ。奈良の京の家で、坂上の大孃は、母と共に佐保の邸にいたのだろう。
 
夏雜歌
 
【釋】夏雜歌 ナツノザフカ。短歌三十三首を收めている。この部が、春の雜歌に匹敵する歌數を有しているのは、橘、ホトトギスのような、文雅な題材の歌が多くはいつているからで、ホトトギスの如きは、その二十六首に詠まれている。
 
藤原夫人歌一首【明日香清御原宮御宇天皇之夫人也。字曰2大原大刀自1即新田部皇子之母也。】
 
(68)藤原の夫人の歌一首【明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし天皇の夫人なり。字を大原の大刀自といへり。すなはち新田部の皇子の母なり也。】
 
【釋】藤原夫人 フヂハラノオホトジ。下の註にあるように。天武天皇の夫人で、明日香の大原にいたので、大原の大刀自といい、新田部の皇子の母である。日本書紀卷の二十九に、「次に夫人氷上娘《おとしひかみのいらつめ》の弟《いろと》五百重《いほへ》の娘《いらつめ》、新田部《にひたべ》の皇子《みこ》を生みき」とあつて、藤原の鎌足の女五百重の娘《いらつめ》であることが知られる。夫人は、天皇に奉仕する女官で、妃に次ぐものだが、制度には出ていない。卷の二の一〇三に見える藤原の夫人と同人であろう。
 
1465 ほととぎす いたくな鳴きそ、
 汝《な》が聲を 五月《さつき》の玉に
 相貫《あひぬ》くまでに
 
 霍公鳥《ホトトギス》 痛莫鳴《イタクナナキソ》
 汝音乎《ナガコヱヲ》 五月玉尓《サツキノタマニ》
 相《アヒ・アヘ》貫左右二《ヌクマデニ》
 
【譯】ホトトギスよ、ひどく鳴かないでおくれ。お前の聲を、五月の玉にまぜて緒に貫くまでは。
【釋】五月玉尓 サツキノタマニ。サツキノタマは、五月五日に、藥を錦の袋に入れて、これに菖蒲、橘花などをつけた緒を垂れて、室内にさげて邪氣を拂うまじないにする。その緒につける玉をいう。「霍公鳥《ホトトギス》 汝始音者《ナガハツコヱハ》 於v吾欲得《ワレニモガ》 五月之珠爾《サツキノタマニ》 交而將v貫《マジヘテヌカム》」(卷十、一九三九)
 相貫左右二 アヒヌクマデニ。アヒヌクマデニ(西)、アヘヌクマデニ(代精)。アヒヌクは、玉として緒につらぬく。ホトトギスの聲を、玉にまじえてつらぬこうというのである。「霍公鳥《ホトトギス》 喧始音乎《ナクハツコヱヲ》 橘珠爾安倍貫《タマニアヘヌキ》」(卷十九、四一八九)の例はあるが、相はアヒに慣用されてあり、アヘならば、それと區別する文字を使用するだろう。
【評語】まだ五月にならないうちにホトトギスの鳴くのを惜しんでいる。その聲を珠として緒につらぬいて藥(69)玉《くすだま》にさげるという處に、ホトトギスを愛する氣特が歌われている。
 
志貴皇子御歌一首
 
1466 神名火《かむなび》の 磐瀬《いはせ》の社《もり》の ほととぎす、
 毛無《ならし》の岳《をか》に 何時《いつ》か來鳴かむ。
 
 神名火乃《カムナビノ》 磐瀬乃社之《イハセノモリノ》 霍公鳥《ホトトギス》
 毛無乃岳尓《ナラシノヲカニ》 何時來將v鳴《イツカキナカム》
 
【譯】神名火の磐瀬の森のホトトギスは、この毛無の岡には、いつになつたら來て鳴くだろうか。
【釋】神名火乃磐瀬乃社之 カムナビノイハセノモリノ。既出。
 毛無乃岳尓 ナラシノヲカニ。ナラシノヲカは、地名。生駒郡の坂上の里だろうという。ナラシは、草木の生えていない岡の義である。「古郷之《フルサトノ》 奈良思之岳能《ナラシノヲカノ》 霍公鳥《ホトトギス》」(卷八、一五〇六)とも詠まれている。春日博士の説に、ここは別で、ケナシノヲカと讀むべきだという。
【評語】ごく平易な淡泊な内容の歌であるが、これらの地名には、それぞれの連想があつて、作者にとつてはもつと深い感じをあらわしているのであろう。神奈備の磐瀬の社で、鬱蒼たる森林を思い、毛無の岡で草木のない岡を思う。その對照がある效果を生じ、ここにホトトギスを點出した、一個の情景は感じられるのである。
 
弓削皇子御歌一首
 
【釋】弓削皇子 ユゲノミコ。天武天皇の第六皇子。文武天皇の三年七月薨じた(卷二、一一一參照)。
 
1467 ほととぎす 無かる國にも
(70) 行きてしか。
 その鳴く聲を 聞けば苦しも。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 無流國尓毛《ナカルクニニモ》
 去而師香《ユキテシカ》
 其鳴音乎《ソノナクコヱヲ》 聞者辛苦母《キケバクルシモ》
 
【譯】ホトトギスの無い國にも行きたいものだ。その鳴く聲を聞けば、胸が迫つて苦しいことだ。
【釋】去而師香 ユキテシカ。シカは、希望をあらわす助詞。句切。
【評語》ホトトギスに對して、心の苦しさを催したてられるように覺えると歌つている。ホトトギスの聲を歌うようになつたのは、大陸文學の影響であつて、當時の知識者のあいだに、その哀調が感じられるようになつた。これは、歌が文筆的に發達してきた結果として生じたのである。この歌に苦しいと歌われているのは、戀の苦しさであろうと思われる。當時としては、新しい方面に屬する歌である。
 
小治田廣瀬王、霍公鳥歌一首
 
【釋】小治田廣瀬王 ヲハリダノヒロセノオホキミ。小治田は、今の高市郡高市村あたりで、推古天皇の小墾田の宮のあつた處。廣瀬の王の邸宅であろう。廣瀬の王は、系統未詳。養老六年正月卒した(卷一、四四、左註參照)。
 
1468 ほととぎす 聲聞く小野の 秋風に、
 はぎ咲きぬれや、聲の乏《とも》しき。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 音聞小野乃《コヱキクヲノノ》 秋風尓《アキカゼニ》
 〓開禮也《ハギサキヌレヤ》 聲之乏寸《コヱノトモシキ》
 
【譯】ホトトギスの聲をよく聞く野原では、ハギの花が咲いたからか、そういうこともないだろうのに、聲が稀になつた。
(71)【釋】音聞小野乃 コヱキクヲノノ。コヱキクは、小野の習性を説く。常には聞く意である。ヲノは、作者の指定している野である。
 〓開禮也 ハギサキヌレヤ。ハキサキタレヤ(類)、ハキサキヌレヤ(神)。タもしくはヌを補讀する。サキヌレヤは、疑問條件法。ヤは、疑問の意が濃厚で、反語になる。ハギが咲いたか、そんなことはないのだがの意である。「白水郎有哉《アマナレヤ》」(卷一、二三參照)。
 聲之乏寸 コヱノトモシキ。ホトトギスの聲がすくない意。
【評語】ホトトギスの聲のようやくすくなくなりゆく頃の風情である。三四句の特殊な條件法が目立つて、歌の特色となつている。ホトトギスの聲を愛する心から生まれてきた歌である。
 
沙弥霍公鳥歌一首
 
【釋】沙弥 サミ。どういう人か不明。代匠記に、三方の沙彌かとしている。或る修行僧の意味か。歌中に、家なる妹とあるが、俗家にいて僧になる風習があるから、別に問題にはならない。「諾樂《なら》の京に、一の大僧あり。名いまだ詳ならず。僧常に方廣經典を誦し、俗につきて錢を貸し妻子を蓄養《やしな》ふ」(靈異記下卷)。
 
1469 あしひきの 山ほととぎす、
 汝《な》が鳴けば、
 家なる妹し 常に思《しの》はゆ。
 
 足引之《アシヒキノ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》
 汝鳴者《ナガナケバ》
 家有妹《イヘナルイモシ》 常所v思《ツネニシノハユ》
 
【譯】山にいるホトトギスよ、お前が鳴けば、家にある妻が、いつも思われる。
【釋】山にいて詠んだ歌で、修行中の山居かもしれない。すなおな歌で、山居のさびしさから、鳥に呼びかけ(72)ている。鳥に對して、汝ガ鳴ケバというのは、人麻呂の「淡海の海夕浪千鳥」(卷三、二六六)以下、類歌があるが、さびしい氣もちで、鳥に呼びかける常の型である。なお僧侶の歌であるとしても、俗人と變わつた生活が詠まれているとは限らないから、その邊は心得ておかねばならない。
 
刀理宣令歌一首
 
【釋】刀理宣令 トリノセニリヤウ。奈良時代、中期の人、學者(卷三、三一三參照)。
 
1470 もののふの 石瀬《いはせ》の社《もり》の
 ほととぎす、
 今しも鳴きぬ。
 山の常陰《とかげ》に。
 
 物部乃《モノノフノ》 石瀬之社乃《イハセノモリノ》
 霍公鳥《ホトトギス》 今毛鳴奴《イマシモナキヌ》
 山之常影尓《ヤマノトカゲニ》
 
【譯】石瀬の森のホトトギスは、今ちようど鳴いた。山のいつも陰の處で。
【釋】物部乃 モノノフノ。枕詞。石瀬に冠するのは、物部の八十氏と績くと同樣に、多數の義を以つてイ(五十)の一音に冠するのだという説(全釋)がよい。百足ラズ磐余というのも、イの一音に冠している。
 今毛鳴奴 イマシモナキヌ。イマモナカヌカ(類)。イマモナカヌカの訓について、代匠記に奴の下に香の字脱かと言つている。しかし山ノ常陰ニと、場處の説明があつて、現實に鳴いたとする原歌の意であろう。句切。
 山之常影尓 ヤマノトカゲニ。トカゲは、山の直下で、いつも山の蔭になつている處と解せられる。「足日木乃《アシヒキノ》 山之跡陰爾《ヤマノトカゲニ》 鳴鹿之《ナクシカノ》」(卷十、二一五六)。「川余杼爾《カハヨドニ》 鴨曾鳴成《カモゾナクナル》 山影爾之弖《ヤマカゲニシテ》」(卷三、三七五)のヤマカゲというもほぼ同意で、それに常の意が加わつている語だ。
(73)【評語】極めて感じのよいしんみりした歌だ。但し物部ノの枕詞は、慣用で置いたのだろうが、ホトトギスの鳴く情景に對して適切であるとも思えない。むしろ神南備ノと置いた方がよかつた。
 
山部宿祢赤人歌一首
 
1471 戀しけば 形見にせむと、
 わが屋戸に 植ゑし藤浪、
 今咲きにけり。
 
 戀之家婆《コヒシケバ》 形見尓將v爲跡《カタミニセムト》
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 殖之藤浪《ウヱシフヂナミ》
 今開尓家里《イマサキニケリ》
 
【譯】戀しかつたら形見にしようと、わたしの宿に植えた藤の花が、今咲いたことだ。
【釋】戀之家婆 コヒシケバ。コヒシケは、形容詞の活用形。女が戀しいならば。
 殖之藤波 ウヱシフヂナミ フヂナミは、藤の枝葉がのびて、浪のようにあるから云い、ここはその木の花である。
【評語】この作者の歌に多い、花を愛した歌の一つである。愛人を花に思い寄せる内容の歌は、集中にも多いが、これは事實を平易に敍して、直接思い寄せることに及んでいない。それで平明な作となつて、情熱の烈しさに觸れない。
 
式部大輔石上堅魚朝臣歌一首
 
【釋】石上堅魚 イソノカミノカツヲ。奈良時代中期の人。養老三年正月、從六位の下から從五位の下を授けられ、神龜三年正月、從五位の上、天平三年正月、正五位の下、八年正月、正五位の上になつている。
 
(74)1472 ほととぎす、來《き》鳴き響《とよも》す。
 卯の花の 共にや來しと
 問はましものを。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令v響《キナキトヨモス》
 宇乃花能《ウノハナノ》 共也來之登《トモニヤコシト》
 問麻思物乎《トハマシモノヲ》
 
【譯】ホトトギスが來て鳴き立てる。卯の花と一緒にきたのかと、たずねましようものを。
【釋】宇乃花能共也來之登 ウノハナノトモニヤコシト。トモは名詞だから、卯ノ花ノ共ニともいう。卯の花と共にというに同じ。「阿米都知能《アメツチノ》 等母爾比佐斯久《トモニヒサシク》」(卷五、八一四)。ホトトギスが、卯ノ花ト共ニヤ來シの意であるが、左註によれば、大伴の旅人の妻の死を弔つているので、旅人に對して、卯の花の咲く頃に、妻を伴なつて來たかの意を含んでいることが知られる。
 問麻思物乎 トハマシモノヲ。ホトトギスに對して、實際に問わなかつたのを、假設して、問いもしたかつたにというのである。
【評語】ホトトギスの聲を愛賞しているが、寓意する所があるので、單純ではなくなつている。卯の花の咲く頃にホトトギスが來て鳴くので、一種の情趣は作られている。なお作歌事情については、左註と答歌を參看すべきである。
 
右、神龜五年戊辰、大宰帥大伴卿之妻大伴部女、遇v病長逝焉。于v時勅使式部大輔石上朝臣堅魚、遣2大宰府1、弔v喪并賜v物也。其事既畢、驛便及府諸卿大夫等、共登2記夷城1、而望遊之日、乃作2此歡1。
 
右は、神龜五年戊辰、大宰の帥大伴の卿の妻大伴の郎女、病に遇ひて長逝せり。時に勅使式部の大輔(75)石上の朝臣堅魚を大宰府に遣して、喪《も》を弔《とむら》ひ并せて物を賜ひき。その事既に畢《をは》りて驛使及び府の諸卿大夫等、共に記夷《き》の城に登りて、望遊せし日、すなはちこの歌を作りき。
 
【釋】大宰帥大伴卿 オホキミコトモチノカミオホトモノマヘツギミ。大伴の旅人、安麻呂の第一子、天平三年七月薨じた。
 大伴郎女 オホトモノイラツメ。旅人の一族だろうが、系統はわからない。旅人の異母妹だろうか。家持の母ではないらしい。卷の三の旅人の歌(四四九、四五〇)などによつて、共に大宰府に下つたことが知られる。旅人が大宰府に下つたのは、神龜五年だが、前掲の石上の堅魚の歌に卯ノ花ノ共ニヤ來シと云つているのは、疑問の語法だが、堅魚は事情を知つていたと思われるから、卯の花の咲く月、すなわち四月に下つたと思われる。その死んだのは、旅人の、凶問ニ報フル歌(卷五、七九三)の日附が、神龜五年六月二十三日になつているから、その以前で、またその訃報を受けて石上の堅魚が大宰府に下つて、ここにホトトギスの歌を詠んでいることなどを綜合して考えると、五月六月の頃として、多分五月のうちだつたのだろう。
 驛使 ハユマヅカヒ。勅使に同じ。驛馬を給わつて使する人である。
 府諸卿大夫等 フノマヘツギミタチ。大宰府の官人。帥および大貳を卿とし、小貳を大夫とする。
 記夷城 キノキ。筑前と肥前との國境の城山。城を二字に記夷と書いている。
 
大宰帥大伴卿和歌一首
 
1473 橘の 花散る里の ほととぎす、
 片戀しつつ 鳴く日しぞ多き。
 
 橘之《タチバナノ》 花散里乃《ハナチルサトノ》 霍公鳥《ホトトギス》
 片戀爲乍《カタコヒシツツ》 鳴日四曾多寸《ナクヒシゾオホキ》
 
(76)【譯】橘の花の散る里のホトトギスは、片戀をしながら泣く日が多いのです。
【釋】霍公鳥 ホトトギス。自分を譬えている。
 片戀爲乍 カタコヒシツツ。死んだ妻を思う一方的な戀なので、カタコヒという。
【評語】上三句の譬喩は、極めて美しい。そのホトトギスによそえて、妻を失つた悲しみを歌つている。旅人の作品の特色をよくあらわした、上品で美しい歌である。
 
大伴坂上郎女、思2筑紫大城山1歌一首
 
大伴の坂上の郎女の、筑紫の大城《おほき》の山を思ふ歌一首。
 
【釋】大伴坂上郎女 オホトモノサカノウヘノイラツメ。坂上の郎女は、旅人の大宰の帥時代に大宰府に下つており、天平二年十一月に、大宰府を發して上京した。その大宰府に下つたのは、旅人の妻の死んだ後ではないかと思われるが、これは推量である。
 筑紫大城山 ツクシノオホキノヤマ。「灼然《イチジロク》 四具禮乃雨者《シグレノアメハ》 零勿國《フラナクニ》 大城山者《オホキノヤマハ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》」(卷十、二一九七)の歌の原註に「謂2大城山1、者、在2筑前國御笠郡1之大野山頂、號曰2大城1者也」とある。大宰府の背後の山である。
 
1474 今もかも、大城《おほき》の山に
 ほととぎす 鳴き響むらむ。
 吾無けれども。
 
 今毛可聞《イマモカモ》 大城乃山尓《オホキノヤマニ》
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴令v響良武《ナキトヨムラム》
 吾無禮杼毛《ワレナケレドモ》
 
【譯】今頃は、大城の山でホトトギスが鳴き立てているだろうか。わたしがいないけれども。
(77)【釋】今毛可聞 イマモカモ。イマモは、今を強調している。カモは、疑問の係助詞。
【評語】さすがに興趣のあつた大宰府の生活が、追憶されている。すなおな飾り氣のない作品である。
 
大伴坂上郎女霍公鳥歌一首
 
1475 しかも 許多《ここだく》戀ふる。
 ほととぎす 鳴く聲聞けば、
 戀こそまされ。
 
 何奇毛《ナニシカモ》 幾許戀流《ココダクコフル》
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴音聞者《ナクコエキケバ》
 戀許曾益禮《コヒコソマサレ》
 
【譯】どうして大變に戀しいのでしよう。ホトトギスの鳴く聲を聞くと、戀がまさることです。
【釋】何奇毛 ナニシカモ。奇は、神田本等によつたのだが、不審である。之可の誤りであるかも知れない。類聚古集等には哥に作つているが、この字を他に字音假字に使つた例なく、これも疑問である。
 幾許戀流 ココダクコフル。初句を受けて結んでいる。コフルは、人に戀うので、五句もこれを受けている。
【評語】ホトトギスの聲を聞くと戀がまさるというのは、類型的な思想で、珍しくはない。戀の語を重ねたなど、そういう一般的な思想に溺れて、むりに戀しがつているような所がある。
 
小治田朝臣廣耳歌一首
 
【釋】小治田朝臣廣耳 ヲハリダノアソミヒロミミ。傳未詳。小治田の朝臣廣千の誤りかという。廣千は、奈良時代中期の人。天平五年三月、外の從五位の下、十一年正月に從五位の下、十三年八月に尾張の守、十五年六月に讃岐の守になつている。
 
(78)1476 ひとり居て もの念ふ夕《よひ》に
 ほととぎす 此間《こ》ゆ鳴き渡る。
 心しあるらし。
 
 獨居而《ヒトリヰテ》 物念夕尓《モノオモフヨヒニ》
 霍公鳥《ホトトギス》 從2此間1鳴渡《コユナキワタル》
 心四有良思《ココロシアルラシ》
 
【譯】ひとりいて物を思つている夕べに、ホトトギスが、ここを通つて鳴いて行く。心があるらしい。
【釋】從此間鳴渡 コユナキワタル。此間の意をコとのみいう例は「許由奈伎和多禮《コユナキワタレ》」(卷十八、四〇三五)などある。コユは、わが前を通過しての意。
【評語】ホトトギスが、自分の物思いに同情して鳴いて行つたというのであろう。ホトトギスの聲が物思いを催すというのが、常型であるのに、慰めるというのが變わつている。中臣の宅守《やかもり》の、「心無き鳥にぞありける。霍公鳥もの思ふ時に鳴くべきものか」(卷十五、三七八四)と全然反對なのがおもしろい。
 
大伴家持霍公鳥歌一首
 
1477 卯の花も いまだ咲かねば、
 ほととぎす 佐保の山邊に
 來鳴きとよもす。
 
 宇能花毛《ウノハナモ》 未v開者《イマダサカネバ》
 霍公鳥《ホトトギス》 佐保乃山邊《サホノヤマベニ》
 來鳴令v響《キナキトヨモス》
 
【譯】卯の花もまだ咲かないのに、ホトトギスが、佐保の山邊に來て鳴き立てる。
【釋】佐保乃山邊 サホノヤマベニ。佐保の山邊は、大伴氏の邸宅のあつた處である。
【評語】季物のおとずれを詠んでいる。卯の花とホトトギスとを配合しただけで、特殊の描寫がない。
 
(79)大伴家持橘歌一首
1478 わが屋前《には》のも花橘の、
 何時《いつ》しかも 珠に貫《ぬ》くべく
 その實成りなむ。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 花橘乃《ハナタチバナノ》
 何時毛《イツシカモ》 珠貫倍久《タマニヌクベク》
 其實成奈武《ソノミナリナム》
 
【譯】わたしの屋前の橘の花が、何時か早く、珠として緒につらぬくようにその實が成るだろうか。
【釋】何時毛 イツシカモ。何時か早くと、催し立てる氣もちの句。
 珠貫倍久 タマニヌクベク。橘のちいさい實を珠として緒につらぬくように。
【評語】橘の實を、早く珠として愛用したいというだけであるが、かような珠を愛した古人の心は、熱烈のものがあるらしい。
 
大伴家持晩蝉歌一首
 
【釋】晩蝉歌 ヒグラシノウタ。倭名類聚鈔に、「茅蜩、爾雅注云、茅蜩、一名〓 子烈反、比久良之小青蝉也」とある。卷の十には、夏にも秋にも入れてある。陰暦七月の初めに鳴き始めるを習いとする。
 
1479 隱《こも》りのみ 居れば鬱悒《いぶせ》み、
 
 慰《なぐさ》むと 出で立ち聞けば
 來鳴く晩蝉《ひぐらし》。
 
 隱耳《コモリノミ》 居者鬱悒《ヲレバイブセミ》
 奈具左武登《ナグサムト》 出立聞者《イデタチキケバ》
 來鳴日晩《キナクヒグラシ》
 
(80)【譯】家に籠つてばかりいるのでうつとうしいので、心が慰むかと、戸外に立ち出て聞けば、來て鳴くヒグラシの聲がする。
【釋】居者鬱悒 ヲレバイプセミ。鬱悒は、人麻呂の用字としては、オホホシと讀み、その後の用字としては、イブセシと讀むべきが如くである。どちらも、はればれとしない意の形容である。
 奈具佐武登 ナグサムト。ナグサムは、四段活と下二段活とある。ここは終止形であるから、形の上では、どちらかわからないが、自動で、心が慰むとの意であるから、四段活の方である。
【評語】事實を平敍してすなおにわかり易く詠まれている。自然に觸れて慰安を得ようとする心が描かれている。
 
大伴書持歌二首
 
【釋】大伴書持 オホトモノフミモチ。家持の弟。天平十八年九月頃死んだ(卷三、四三六參照)。
 
1480 わが屋戸《やど》に 月おし照《て》れり。
 ほととぎす
 心ある今夜《こよひ》 來《き》鳴きとよもせ。
 
 我屋戸尓《ワガヤドニ》 月押照有《ツキオシテレリ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 心有今夜《ココロアルコヨヒ》 來鳴令v響《キナキトヨモセ》
 
【譯】わたしの屋戸に月が照り渡つている。ホトトギスよ、心がある今夜、來て鳴き立てよ。
【釋】心有今夜 ココロアルコヨヒ。文字から云つて、ココロアルコヨヒと讀むのが順當である。趣のある今夜である。また、ココロアラバと、ホトトギスに懸けてよめば、わかりがよい。
【評語】ホトトギスに對して命令形を用い、それで歌を結んでいるあたり、若いだけに景氣がよい。心アル今(81)夜は、良夜を樂しむ心で、風雅な氣もちである。月明の夜にホトトギスを待つ内容の歌として、作り物になり、清徹の氣に缺けている。
 
1481 わが屋前《には》の 花橘に、
 ほととぎす 今こそ鳴かめ。
 友に遇《あ》へる時。
 
 我屋戸乃《ワガニハノ》 花橘尓《ハナタチバナニ》
 霍公鳥《ホトトギス》 今社鳴米《イマコソナカメ》
 友尓相流時《トモニアヘルトキ》
 
【譯】わたしの屋前の橘の花に、ホトトギスは、今こそ鳴くべきだ。友に逢つた時に。
【釋】我屋戸前乃 ワガニハノ。屋戸前と書いたのは、屋戸の前で屋前の庭である。
 今社鳴米 イマコソナカメ。鳴くのが順序だと希望している語氣である。句切。
【評語】前の歌と同時の歌であろう。月を橘に代えただけで、同じような内容である。やはり若々しい調子が出ている。
 
大伴清繩歌一首
 
【釋】大伴清繩 オホトモノキヨナハ。傳未詳。
 
1482 皆人の 待ちし卯の花 散りぬれと、
 鳴くほととぎす われ忘れめや。
 
 皆人之《ミナヒトノ》 待師宇能花《マチシウノハナ》 雖v落《チリヌレド》
 奈久霍公鳥《ナクホトトギス》 吾將v忘哉《ワレワスレメヤ》
 
【譯】皆の人の待つていた卯の花は散つたけれども、鳴くホトトギスを、わたしは忘れないだろう。
【釋】雖落 チリヌレド。チルトイヘト(羸)、チリヌトモ(温)、チリヌレト(京赭)。卯の花は散つても鳴く(82)と續くのだろう。
【評語】卯の花が咲けば鳴くホトトギスが、卯の花の散つても鳴くのを愛している。皆人ノ待チシという卯の花の説明は、傍系的なものであり、全體の歌意もたどたどしいのは、作歌に慣れない人だからであろう。
 
奄君諸立歌一首
 
【釋】奄君諸立 アムノキミモロタチ。傳未詳。奄の君は、日本書紀景行天皇の四年の條に「次妃《ツギノミメ》、日向髪長大田根《ヒムカノカミナガオホタネ》、生2日向襲津彦皇子1《ヒムカノソツヒコノミコヲウミキ》。是阿牟君之始祖也《コハアムノキミノトホツオヤナリ》」とある阿牟の君であろう。
 
1483 わが夫子が 屋戸《やど》の橘、
 花を吉《よ》み 鳴くほととぎす
 見にぞわが來《こ》し。
 
 吾背子之《ワガセコガ》 屋戸乃橘《ヤドノタチバナ》
 花乎吉美《ハナヲヨミ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》
 見曾吾來之《ミニゾワガコシ》
 
【譯】あなたの屋戸の橘の花がよさに鳴くホトトギスを、見にわたしは來ました。
【釋】吾背子之 ワガセコガ。ワガセコは、橘の家の主人で、男子どうしで云つている。
【評語】ホトトギスの鳴く橘を見にきたというべきを、鳴くホトトギスを見にきたというのは逆である。これも歌に慣れない人の作であろう。表現もごたごたしている。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1484 ほととぎす いたくな鳴きそ。
(83) ひとり居て 寐《い》の宿《ね》らえぬに
 聞けば苦しも。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 痛莫鳴《イタクナナキソ》
 獨居而《ヒトリヰテ》 寐乃不v所v宿《イノネラエヌニ》
 聞者苦毛《キケバクルシモ》
 
【譯】ホトトギスよ、ひどく鳴いてくれるな。ひとりいて眠られないのに、聞けば苦しいことです。
【評語】ホトトギスが、戀の物思いを催し立てて苦しいのである。調子よく整つている。
 
大伴家持、唐棣花歌一首
 
【釋】唐棣花 ハネズ。バラ科の落葉灌木。ニワウメ。またニワザクラ。淡紅色五瓣の花が咲く。
 
1485 夏まけて 咲きたるはねず、
 ひさかたの 雨うち零《ふ》らば、
 うつろひなむか。
 
 夏儲而《ナツマケテ》 開有波祢受《サキタルハネズ》
 久方乃《ヒサカタノ》 雨打零者《アメウチフラバ》
 將v移香《ウツロヒナムカ》
 
【譯】夏を待つて咲いたハネズは、雨が降つたなら、色があせるだろうか。
【釋】夏儲而 ナツマケテ。マケテは、待ち設けて。ハネズは春の末に咲くものだが、ここは夏にかかつて咲くとしている。
 將移香 ウツロヒナムカ。ウツロフは、花については散る、萎む、色があせるなど、その衰えるのを總稱する。
【評語】雨が降つたら花が衰えるだろうかというだけで、極めて平凡な内容である。ただ、ハネズのような可隣な花をとりあげたのが、特色である。その花色のあせるのを惜しんでいる。
 
大伴家持、恨2霍公鳥晩喧1歌二首
 
(81)大伴の家持の、ほととぎすの晩《わそ》く喧《な》くを恨むる歌二首。
 
1486 わが屋前《には》の 花橘を、
 ほととぎす 來喧《きな》かず地《つち》に
 散らしめむとか。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》
 霍公鳥《ホトトギス》 來不v喧地尓《キナカズツチニ》
 令v落常香《チラシメムトカ》
 
【譯】わたしの屋前の橘の花を、ホトトギスが來て鳴かないで、地上に散らそうとするのか。
【釋】令落常香 チラシメムトカ。この下にスルの如き語が省略されている。
【評語】せつかくの橘の花が、ホトトギスの來て鳴くのを待たないで散ろうとするのを惜しんでいる。詰問ふうの調子が出ていて、情趣がゆたかでない。
 
1487 ほととぎす 念はずありき。
 木《こ》の暗《くれ》の かくなるまでに、
 なにか來喧《きな》かぬ。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 不v念有寸《オモハズアリキ》
 木晩乃《コノクレノ》 如此成左右尓《カクナルマデニ》
 奈何不2來喧1《ナニカキナカヌ》
 
【譯】ホトトギスよ、思いもよらなかつた。木が茂つて暗いのが、このようになるまで、どうして來て鳴かないのか。
【釋】不念有寸 オモハズアリキ。思わないでいた。こんなになるまで鳴かないとはと、下の敍述を受けている。思いもよらなかつたのである。
 木晩乃 コノクレノ。コノクレは、木が茂つてそのために蔽われて暗いこと。「多胡乃佐伎《タゴノサキ》 許能久禮之氣(85)爾《コノクレシニゲ」(卷十八、四〇五一)。
【評語】夏の木末の茂くなるまでに、ホトトギスの來て鳴かないことを恨んでいる。待ちあぐんで恨んでいる氣もちは窺える。二句の念ハズアリキは、插入句としての役目をはたして、氣もちを描くに役立つている。
 
大伴家持、懽2霍公鳥1歌一首
 
大伴の家持のほととぎすを懽《よろこ》ぶる歌一首
 
1488 何處《いづく》には 鳴きもしにけむ。
 ほととぎす、
 吾家《わぎへ》の里に 今日のみぞ鳴く。
 
 何處者《イヅクニハ》 鳴毛思仁家武《ナキモシニケム》
 霍公鳥《ホトトギス》
 吾家乃里尓《ワギヘノサトニ》 今日耳曾鳴《ケフノミゾナク》
 
【譯】何處かでは鳴きもしたであろう。ホトトギスが、わたしの家の里で、今日こそは鳴いている。
【釋】鳴毛思仁家武 ナキモシニケム。シニケムは、シケムに、完了の助動詞ニが插入されている。句切。
 今日耳曾鳴 ケフノミゾナク。ノミは、今日を強く指摘して、ほかの日ではないことをあきらかにしている。
【評語】ほかでは鳴いたでもあろうが、わが住む里では今日が始めてだという意を歌つている。表現に特色があり、その來て鳴くのを懽ぶ情が溢れている。
 
大伴家持惜2處花1歌一首
 
1489 わが屋前《には》の 花橘は 散り過ぎて、
(86) 珠に貫《ぬ》くべく 實《み》になりにけり。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 落過而《チリスギテ》
 珠尓可v貫《タマニヌクベク》 實尓成二家利《》ミニナリニケリ
 
【譯】わたしの屋前の橘の花は、散つてしまつて、珠につらぬくまでに實になつたなあ。
【評語】前出の、「わが屋前の花橘の何時しかも殊に貫くべくその實成りなむ」(卷八、一四七八)の歌に呼應している。前の歌では、早く實になればよいと歌い、ここでは花の散つたのを惜しんでいるのも人情か。橘の花の經過に心を留めている生活の記録である。
 
大伴家持霍公鳥歌一首
 
1490 ほととぎす 待てど來喧《きな》かず。
 あやめ草《ぐさ》 玉に貫《ぬ》く日を
 いまだ遠みか。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 雖v待不2來喧1《マテドキナカズ》
 蒲草《アヤメグサ》 玉尓貫日乎《タマニヌクヒヲ》
 未遠美香《イマダトホミカ》
 
【譯】霍公鳥は、待つていたが、來て鳴かない。アヤメを玉として貫く日が、まだ遠いからか。
【釋】蒲草玉尓貫日乎 アヤメゲサタマニヌクヒヲ。蒲草では不備で、菖蒲とあるべきところだ。五月五日には、アヤメを玉として緒につらぬいてさげるので、その日のことをいう。
【評語】まだ五月五日に遠いのでか、ホトトギスを待つていても來て鳴かないと歌つている。初夏の風懷である。
 
大伴家持、雨日聞2霍公鳥喧1歌一首
 
大伴の家持の、雨のふる日にほととぎすの喧くを聞ける歌一首
 
(87)1491 卯の花の 過ぎば惜しみか、
 ほととぎす、
 雨間《あまま》も措《お》かず 此間《こ》ゆ喧き渡る。
 
 宇乃花能《ウノハナノ》 過者惜香《スギバヲシミカ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 雨間毛不v置《アママモオカズ》 從2此間1喧渡《コユナキワタル》
 
【譯】卯の花が散つたら惜しいからか、ホトトギスが、雨の間も置かないで、ここを通つて鳴いて行く。
【釋】過者惜香 スギバヲシミカ。ヲシミカは、惜しいゆえかで、不定時の形である。カは疑問の係助詞。
 雨間毛不置 アママモオカズ。アママは、雨の降つているあいだ。十月《カムナヅキ》 雨間毛不v置《アママモオカズ》 零爾西者《フリニセバ》」(卷十二、三二一四)は、同じ形の歌であるが、雨と雨とのあいだも置かずの意に使用されている。
【評語】雨の降るまもホトトギスが鳴いて渡るというだけの歌で、その理由として、卯ノ花ノ過ギバ惜シミカというのも平凡である。理由を求めるよりも、實況の描寫をした方がよかつたろう。
 
橘歌一首 遊行女婦
 
【釋】遊行女婦 ウカレメ。倭名類聚鈔に「遊女、楊氏漢語抄云、遊行女兒 宇加禮女、已上本注。一云、阿曾比」とある。集中、諸國にいたことが散見しているが、奈良の都にもいたので、この歌は、奈良の都での作だろう。君が家とあるのは、家持の家であるかも知れない。
 
1492 君が家の 花橘は なりにけり。
 花ある時に 逢はましものを。
 
 君家乃《キミガイヘノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 成尓家利《ナリニケリ》
 花有時尓《ハナアルトキニ》 相益物乎《アハマシモノヲ》
 
【譯】あなたのお邸の橘の花は實になりました。花のある時に逢いたいものでした。
(88)【釋】成尓家利 ナリニケリ。實になつたことをいう。句切。
 相益物乎 アハマシモノヲ。その花に逢つたろうものをと、殘念がつている。
【評語】情熱の乏しい歌である。橘が實になつたと平敍して、その花の過ぎたのを惜しむ意があらわれていないので、四五句の前提として力が弱いのである。五句は、花に逢うことを言つて、君に逢うことを寓意している。
 
大伴村上橘歌一首
 
【釋】大伴村上 オホトモノムラカミ。(卷八、一四三六參照)。
 
1493 わが屋前《には》の 花橘を、
 ほととぎす 來鳴きとよめて
 本《もと》に散らしつ。
 
 吾屋前乃《ワガニハノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》
 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令v動而《キナキトヨメテ》
 本尓令v散都《モトニチラシツ》
 
【譯】わたしの屋前の橘の花を、ホトトギスが來て鳴き立てて、樹のもとに散らした。
【釋】來鳴令動而 キナキトヨメテ。令動は、令響に同じ。トヨムの形にあらわれる方面を示している字。
 本尓令散都 モトニチラシツ。モトは、樹下。
【評語】平淡な歌である。報告的ではあるが、一の光景が描かれている。ホトトギスは、實際に樹梢などにきて鳴くそうである。
 
大伴家持霍公鳥歌二首
 
(89)1494 夏山の 木末《こぬれ》の繁《しげ》に、
 ほととぎす 鳴きとよむなる
 聲のはるけさ。
 
 夏山之《ナツヤマノ》 木末乃繁尓《コヌレノシゲニ》
 霍公烏《ホトトギス》 鳴響奈流《ナキトヨムナル》
 聲之遙佐《コヱノハルケサ》
 
【譯】夏山の木の枝の繁みで、ホトトギスが鳴き立てる聲の遠いことだ。
【釋】木末乃繁尓 コヌレノシゲニ。コスヱノシケニ(細)、コヌレノシジニ(代精)。木の伸びた枝先の繁みに。繁尓は「多胡乃佐伎《タコノサキ》 許能久禮之氣爾《コ′クレシゲニ》」(卷十八、四〇五一)の例によつて、シゲニと讀まれる。
【評語】夏山の樹々の茂りの中に鳴くホトトギスの、遠い聲を詠んでいる。夏の情趣の感じられる作である。
 
1495 あしひきの 木《こ》の間《ま》立ち潜《く》く
 ほととぎす、
 かく聞きそめて 後戀ひむかも。
 
 足引乃《アシヒキノ》 許乃間立八十一《コノマタチクク》
 霍公鳥《ホトトギス》
 如此聞始而《カクキキソメテ》 後將v戀可聞《ノチコヒムカモ》
 
【譯】山の木のまをくぐり拔けて行くホトトギスの聲を、かように聞き始めて、あとでなつかしく思うだろうかなあ。
【釋】足引乃 アシヒキノ。枕詞。山の意に轉用して、木に冠している。
 許乃間立八十一 コノマタチクク。八十一は、九九の義によつて、ククの音を表示している。タチは接頭語。ククは潜り拔ける。連體形。「保登等藝須《ホトトギス》 木際多知久吉《コノマタチクキ》 奈可奴日波奈之《ナカヌヒハナシ》」(卷十七、三九一一)、「遙々爾《ハロバロニ》 喧霍公鳥《ナクホトトギス》 立久久等《タチククト》 羽觸爾知良須《ハブリニチラス》 藤浪乃《フヂナミノ》 花奈都可之美《ハナナツカシミ》」(卷十九、四一九二)。
【評語】後になつて戀うようになろうかと豫想している。そのホトトギスの説明が、變わつている。アシヒキ(90)の枕詞も、慣用の久しきに及んで、既にその語自身に山の意が成立していることが知られる。
 
大伴家持、石竹花歌一首
 
【釋】石竹花 ナデシコ。歌中の瞿麥に同じ。カワラナデシコ。
 
1496 わが屋前《には》の なでしこの花
 盛りなり。
 手《た》折りて一目 見せむ兒もがも。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 瞿麥乃花《ナデシコノハナ》
 盛有《サカリナリ》
 手折而一目《タヲリテヒトメ》 令v見兒毛我母《ミセムコモガモ》
 
【譯】わたしの屋前の瞿麥の花は盛りだ。手折つて一目見せる子もほしいなあ。
【評語】花鳥や、自然の景などを、人に見せたいという歌は多い。これはナデシコの花を、少女に見せたいという所に、縁があるのがとりえだ。
 
惜v不v登2筑波山1歌一首
 
筑波の山に登らざりしを惜しむ歌一首。
 
1497 筑波根《つくはね》に わが行けりせば、
 ほととぎす
 山彦とよめ 鳴かましや、それ
 
 筑波根尓《ツクハネニ》 吾行利世波《ワガユケリセバ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 山妣兒令v響《ヤマビコトヨメ》 鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》
 
【譯】筑波山にわたしが行つておつたら、ホトトギスが山を響かせて、きつと鳴いたに違いない。
(91)【釋】吾行利世波 ワガユケリセバ。セは、過去をあらわす助動詞シの未然形。この助動詞は、動詞爲の、セ、シの形と關係あるべく、セ、シと活用し、後シカを派生し、また別途にキと結合したものと考えられる。
 山妣兒合響 ヤマビコトヨメ。ヤマビコは、山彦の義で、山の反響をいう。山男がいて返答するという考え方である。山に響かせて。
 鳴麻志也其 ナカマシヤソレ。マシは、不可能の希望。ナカマシは、實際鳴かなかつたことを、鳴いてほしいと假想する。ヤは反語で、ナカマシの鳴きもしたらの假設を覆して、鳴くに相違ないことになる。ベシヤなどと同じ行き方で、マシの意を覆すのである。集中の用例としては「其故《ソコユヱニ》 爲便知之也《スベシラマシヤ》」(卷二、一九六)の知之也が、シラマシヤと讀むべきものと考えられる。その意は、爲便を知つているとなる。その條參照。「見し人の松の千年に見ましかば遠くかなしき別せましや」(土佐日記)、「曉の無からましかば白露のおきてわびしき別せましや」(後撰和歌集)の例は、上に否定條件法があつて、しなかつたろうものをの意になつている。ソレは句頭にあるものに同じく、言葉に調子をつけるために使われる。
【評語】四五句の言い方が、變わつた強い言い方である。同僚が山に登つて、ホトトギスの鳴かなかつたのを報じたのに答えた歌。
 
右一首、高橋連蟲麻呂之歌中出
 
右の一首は、高橋の連蟲麻呂の歌の中に出づ。
 
【釋】高橋連蟲麻呂之歌中 タカハシノムラジムシマロノウタノナカ。卷の三には、ここと同じく歌中とあり、卷の九には、三處とも歌集中と集の字がある。別に區別して書いたものとも思われない。いずれも蟲麻呂の作と見てよいものである。
 
(92)夏相聞
 
【釋】夏相聞 ナツノサウモニ。夏の相聞の歌として、長歌一首、短歌十二首を收めている。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1498 暇無み 來ざりし君に、
 ほととぎす
 わがかく戀ふと 行きて告げこそ。
 
 無v暇《イトマナミ》 不v來之君尓《コザリシキミニ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 吾如此戀常《ワガカクコフト》 往而告社《ユキテツゲコソ》
 
【譯】暇が無くて來なかつたあの方に、ホトトギスよ、わたしがかように戀していると、行つて知らせて下さい。
【評語】ホトトギスに傳言をした形になつている。これも類型的である。内容も平凡で、特殊の描爲がない。
 
大伴四繩宴吟歌一首
 
【釋】大伴四繩 オホトモノヨツナ。卷の四には大伴の四綱とあり、防人の佑《すけ》であつたことが知られる。正倉院文書に、天平十七年に雅樂《うた》の助であつたことが傳えられている。歌謠曲に通じていたであろう。奈良時代中期の人(卷三、三二九參照)。
 
1499 事繋み 君は來まさず。
 ほととぎす 汝《なれ》だに來鳴け。
(93) 朝戸開かむ。
 
 事繁《コトシゲミ》 君者不2來益1《キミハキマサズ》
 霍公鳥《ホトトギス》 汝太尓來鳴《ナレダニキナケ》
 朝戸將v開《アサドヒラカム》
 
【譯】事が多くて君はおいでにならない。ホトトギスよ、せめてお前だけでも來て鳴いてくれ。朝の戸をあけて迎えよう。
【釋】事繁君者不來益 コトシゲミキミハキマサズ。コトシゲミは、多くは人の言葉がうるさくての意に使つているが、ここは事件が多くてである。用事が多くて。誰か待たれる賓客があつて、その來なかつたことを歌つている。句切。
 汝太尓來鳴 ナレダニキナケ。ホトトギスに向かつて歌つている。君は來ないでもお前だけは來て鳴け。句切。
 朝戸將開 アサドヒラカム。宴《うたげ》に夜を徹して朝に至るべきことを言つている。この歌は、題詞に宴《ウタゲ》ニテ吟《ウタ》ヘル歌とあり、この句は三輪の神宴の歌「宇磨佐階《ウマサケ》 瀰和能等能能《ミワノトノノ》 阿佐妬珥毛《アサドニモ》 於辭寐羅箇禰《オシヒラカネ》 瀰和能等能渡烏《ミワノトノドヲ》」(日本書紀一六、崇神天皇御製)の歌を思つているようだ。この三輪の神宴の歌は、歌曲として歌われていたのであろう。
【評語】酒宴の歌としては、珍しくさつぱりした氣分の歌だ。賓客の來ないのを歎き、せめてホトトギスのためにでも朝戸を開こうと歌つているのが、清興を感じさせる。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1500 夏の野の 繁みに咲ける
 ひめゆりの、
(94) 知らえぬ戀は 苦しきものぞ。
 
 夏野之《ナツノノノ》 繁見丹開有《シゲミニサケル》
 姫由理乃《ヒメユリノ》
 不v所v知戀者《シラエヌコヒハ》 苦物曾《クルシキモノゾ》
 
【譯】夏の野の繁みに咲いているヒメユリのように、相手に知れない戀は苦しいものですよ。
【釋】夏野之繁見丹開有姫由理乃 ナツノノノシゲミニサケルヒメユリノ。以上三句、序詞。譬喩によつて、知ラエヌ戀を引き起している。夏の野の繁みに咲いている姫百合は、他の草に蔽われて隱れているからである。ヒメユリは、ユリの一種。紅色の花を開く。
【評語】人知れず戀う苦しい心を訴えている。萬緑叢中に一點の紅を點ずるヒメユリを譬喩としたのは可憐で、風情がある。
 
小治田朝臣廣耳歌一首
 
1501 ほととぎす 鳴く峯《を》の上の
 卯の花の、
 厭《う》きことあれや、君が來まさぬ。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴峯乃上能《ナクヲノウヘノ》
 宇乃花之《ウノハナノ》 
 ※[厭のがんだれなし]事有哉《ウキコトアレヤ》 君之不2來益1《キミガキマサヌ》
 
【譯】ホトトギスの鳴く峯の上の卯の花の名のように、憂い事があるのでしようか、あなたがおいでにならないのは。
【釋】霍公鳥鳴峯乃上能宇乃花之 ホトトギスナクヲノウヘノウノハナノ。以上三句、序詞。同音をもつて、ウキ事アレヤの句を引き起している。
 ※[厭のがんだれなし]事有哉 ウキコトアレヤ。ウキコトは、我に對して憂く不愉快に思うこと。アレヤは、疑問の條件法。そ(95)んな事は無いはずだがと疑つている。
【評語】季節に關することを序詞として、調子よく詠んでいる。類型の歌があり、序詞の卯の花の説明をさし替えて歌つているのだろう。
【參考】類歌。
  鶯のかよふ垣根の卯の花のうき事あれや君が來まさぬ(卷十、一九八八)
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1502 
 五月《さつき》の 花橘を
 君がため 珠にこそ貫け。
 散らまく惜しみ。
 
 五月之《サツキノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》
 爲v君《キミガタメ》 珠尓貫《タマニコソヌケ》
 零卷惜美《チラマクヲシミ》
 
【譯】五月の橘の花を、あなたのために、珠として緒につらぬきます。散るのが惜しいので。
【釋】珠尓貫 タマニコソヌケ。タマニツラヌクとも讀めるが、集中ツラヌクの例が無いから、コソを補つて讀むのがよい。句切。
【評語】橘の花を珠として緒に貫いて贈つたのに添えた歌であろう。他の歌と共に花などを珠として変する風趣を味わうべきである。
 
紀朝臣豐河歌一首
 
【釋】紀朝臣豐河 キノアソミトヨカハ。續日本紀に、天平十一年正月、正六位の上から外の從五位の下を授(96)けられたことが見えるほか、傳記未詳。
 
1503 吾妹子が 家の垣内《かきつ》の さゆり花
 後《ゆり》と云へるは 不欲《いな》とふに似る。
 
 吾妹兒之《ワギモコガ》 家乃垣内乃《イヘノカキツノ》 佐由理花《サユリバナ》
 由利登云者《ユリトイヘルハ》 不欲云二似《イナトフニニル》
 
【譯】わが妻の家の垣内のユリの花の名のように、ゆり(あとで)と言つているのは、いやということのようだ。
【釋】吾殊兒之家乃垣内乃佐由理花 ワギモコガイヘノカキツノサユリバナ。以上三句、序詞。同音によつてユリの音を引き起している。カキツは、カキウチの約言。「和我勢故我《ワガセコガ》 布流伎可吉都能《フルキカキツノ》 佐久良婆奈《サクヲバナ》」(卷十八、四〇七七)、「鶯能《ウグヒスノ》 鳴之可伎都爾《ナキシカキツニ》」(卷十九、四二八七)などある。家の圍内の意であるが、「垣津田乃《カキツタノ》」(卷十三、三二二三)、「和我勢故我《ワガセコガ》 垣都能谿爾《カキツノタニニ》」(卷十九、四二〇七)の如く、垣ツ田、垣ツノ谿とも言つているので、相當廣い範圍にわたつていることが知られる。サユリバナのサは、接頭語の愛稱。
 由利登云者 ユリトイヘルハ。ユリは、これから後の意、「佐由利婆奈《サユリバナ》 由利毛安波牟等《ユリモアハムト》」(卷十八、四〇八七)。このユリは、「由奈由奈波《ユナユナハ》 氣左倍絶而《イキサヘタエテ》」(卷九、一七四〇)のユナユナと關係あるべく、これによつて、もと助詞のユ、ユリと同語であつたろうと想像される。
 不欲云二似 イナトフニニル。欲は、諸本に歌とあるものを新訓に意改したものである。
【評語】同音を利用した調子のよい歌である。これもユリの説明をさし替えて通用しているのではなかろうか。しかし主想部は、他に所見がなく、民謠らしいおもしろい内容を持つていて、氣の利いた句になつている。
 
高安歌一首
 
(97)【釋】高安 タカヤス。高安の王のことであろう。この人は、天平十一年四月に大原の眞人《まひと》の姓を賜わつて大原の眞人高安となつた人だ。それならばなぜここに高安とのみ書き放したかというに、稿本には「高安王」と書いてあり、天平十一年四月以後に、眼に觸れて王の字を消したのだろう。一四四四の題詞の下の註にも、「高安之女也」とある。
 
1504 暇無み 五月《さつき》をすらに、
 吾妹子が 花橘を 見ずか過ぎなむ。
 
 暇無《イトマナミ》 五月乎尚尓《サツキヲスラニ》
 吾妹兒我《ワギモコガ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 不v見可將v過《ミズカスギナム》
 
【譯】暇がないので、五月でさえも、わが妻の橘の花を見ないで過ぎてしまうのだろうか。
【釋】五月乎尚尓 サツキヲスラニ。ほかの月は別としても、この五月でもなお。五月は妻の家におとずれるよい月としている。節供の樂しい行事のある月だからである。
【評語】好季節の空しく過ぎ行くのを歎いている。妹が家をおとずれるのを、花橘を見にと言つたのは、類想はあるが、趣のある表現である。
 
大神女郎、贈2大伴家持1歌一首
 
【釋】大神女郎。オホミワノヲミナ。傳未詳(卷四、六一八參照)。
 
1505 ほととぎす 鳴きしその時、
 君が家に 行けと追ひしは、
(98) 至りけむかも。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴之登時《ナキシソノトキ》
 君之家尓《キミガイヘニ》 往跡追者《ユケトオヒシハ》
 將v至鴨《イタリケムカモ》
 
【譯】ホトトギスの鳴いたその時に、あなたの家に往けと追いましたのは、參りましたでしようか。
【釋】鳴之登時 ナキシソノトキ。ナキシスナハチ(類)、ナキシソノトキ(童)。登時は、その時の意で、集中散文にはしばしば使用されているが、歌には唯一の例である。古くスナハチと讀んでいるが「右ノ件ノ王卿等、詔ニ應ヘテ歌ヲ作リ次《ツギテ》ニヨリテ奏シキ。登時《ソノトキ》記サズ、ソノ歌漏失セリ。」(卷十七、三九二六、左註)の如き用例によつて、ソノトキであることが知られる。これでスナハチは、集中の歌詞から無くなる。
【評語】ホトトギスに寄せて戯れ贈つた輕い意味の歌である。ホトトギスの聲に哀調を感じないで、ひたすらこれを愛好しているのが、純粹な氣もちである。
 
大伴田村大孃、與2妹坂上大孃1歌一首
 
【釋】大伴田村大孃 オホトモノタムラノオホヲトメ。大伴の宿奈麻呂の女。坂上の大孃の異母の姉で、田村の里にいた。田村の里は、奈良の京の内であろう(卷四、七五六參照)。
 
1506 故郷の 奈良思《ならし》の岡《をか》の ほととぎす、
 言《こと》告《つ》げ遣《や》りし、いかに告げきや。
 
 古郷之《フルサトノ》 奈良思之岳能《ナラシノヲカノ》 霍公鳥《ホトトギス》
 言告遣之《コトツゲヤリシ》 何如告寸八《イカニツゲキヤ》
 
【譯】故郷の奈良思の岡からきたホトトギスに、傳言を申してやりましたのは、何と申しましたか。
【釋】古郷之 フルサトノ。フルサトは、住み古した里。
 奈良思乃岳能 ナラシノヲカノ。ナラシノヲカは、前に「毛無乃岳爾《ナラシノヲカニ》」(卷八、一四六六)とあつた處。坂上(99)の大孃のいたという坂上の里に近い。ここはその岡を住所とするホトトギスの意。坂上の大孃が、坂上の里にいた頃であろう。
 霍公鳥 ホトトギス。ホトトギスを呼びかけている。ホトトギスにの意であるが、ニを補わないで味わうべきである。
 言告遣之 コトツゲヤリシ。ホトトギスによつて、言を告げてやつたのは。ヤリシハの意。
 何如告寸八 イカニツゲキヤ。はたして告げたであろうか。イカニを受けて疑問の助詞ヤを使用している例は「奈何好去哉《イカニサキクヤ》 言借我妹《イブカシワギモ》」(卷四、六四八)などある。
【評語】鳥を使として言を傳えたという歌で、他にも類例多く、思い寄りやすい所である。奈良思の岡から來たホトトギスに寄せたあたり、さすがに風趣がないでもない。その岡を敍して、古郷ノと言つているのは、わるくいうのでなく、もの古びた意を乘せているのだろう。
 
大伴家持、攀2橘花1贈2坂上大孃1歌一首 并2短歌1
 
大伴の家持の、橘の花を攀ぢて、坂上の大孃に贈れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
1507 いかといかと あるわが屋前《には》に
 百枝《ももえ》刺《さ》し 生《お》ふる橘、
 玉に貫《ぬ》く 五月《さつき》を近み
 あえぬがに 花咲きにけり。」
 朝にけに いで見るごとに
(100) 氣《いき》の緒《を》に わが念ふ妹に、
 まそ鏡 清き月夜《つくよ》に
 ただ一目 見するまでには、
 散りこすな ゆめといひつつ、
 ここだくも わが守《も》るものを、
 慨《うれた》きや 醜《しこ》ほととぎす
 曉《あかとき》の うら悲しきに
 追へど追へど なほも來鳴きて
 徒《いたづら》に 地《つち》に散らせば、
 術《すべ》を無み 攀《よ》ぢて手折《たを》りつ
 見ませ、吾妹子。」
 
 伊加登伊可等《イカトイカト》 有吾屋前尓《アルワガニハニ》
 百枝刺《モモエサシ》 於布流橘《オフルタチバナ》
 玉尓貫《タマニヌク》 五月乎近美《サツキヲチカミ》
 安要奴我尓《アエヌガニ》 花咲尓家里《ハナサキニケリ》
 朝尓食尓《アサニケニ》 出見毎《イデミルゴトニ》
 氣緒尓《イキノヲニ》 吾念妹尓《ワガオモフイモニ》
 銅鏡《マソカガミ》 清月夜尓《キヨキツクヨニ》
 直一眼《タダヒトメ》 令v覩麻而尓波《ミスルマデニハ》
 落許須奈《チリコスナ》 由米登云管《ユメトイヒツツ》
 幾許《ココダクモ》 吾守物乎《ワガモルモノヲ》
 宇禮多伎也《ウレタキヤ》 志許霍公鳥《シコホトトギス》
 曉之《アカトキノ》 裏悲尓《ウラガナシキニ》
 雖v追雖v追《オヘドオヘド》 尚來鳴而《ナホモキナキテ》
 徒《イタヅラニ》 地尓令v散者《ツチニチラセバ》
 爲便乎奈美《スベヲナミ》 攀而手折都《ヨヂテタヲリツ》
 見末世吾妹兒《ミマセワギモコ》
 
【譯】繁り榮えている、わたしの庭前にたくさんの枝を出して生えている橘、その花を玉につらぬく五月が近いので、今にも落ちそうに花が咲いた。朝ごとに時ごとに出て見る度に、呼吸の續くあいだはわたしの思つている妻に、澄んだ鏡のように清い月夜に、ただ一目見させるまでは、散つてくれるな決してと言いながら、たいへんにわたしが番をしているものを、嘆かわしいにくいホトトギスが、曉の心の感じやすい時に、追つても追つてもやはり來て鳴いてむだに地に散らしたので、しかたなさに引き寄せて折りました。御覽なさい、あなた。
【構成】第一段、花咲キニケリまで。橘の花の咲いたことを述べる。第二段、終りまで。その花を折つて見せ(101)ることを述べる。
【釋】伊加登伊可等 イカトイカト。仙覺は、門々と釋し、考に至つて、如何に如何にとと釋してから、その説が廣く行われている。しかし如何ニ如何ニトアルでは、歌として意を成さない所である。このイカは、形容詞イカシの語幹で、茂つてある意の語であろう。形容詞は、語幹だけで使われるのが、その本來の用法で、後に活用語尾の發達したものと考えられる。イカシの場合は、イカだけで使用されるものは、續日本紀天平十五年五月の歌に「許能等與美岐遠《コノトヨミキヲ》 伊可多底末都流《イカタテマツル》」のように副詞として使用したものがあつて、たくさんにの意をなしている。またイカヅチ(雷)の如き、嚴しい意味の方のもの、「八束穗 能 伊加志穗 爾《ヤツカホノイカシホニ》」(祈年祭祝詞)のようなものもある。後世、イカト、イカイカトなどの副詞が、たくさんにあることを意味するを見れば、さような用法のものもあつたと見てよかろう。この歌では、イカトイカトアルで、わが屋前を修飾している。
 百枝刺 モモエサシ。たくさんの枝を張つて。
 玉尓貫五月乎近美 タマニヌクサツキヲチカミ。橘の花を緒につらぬいて玉に擬して、五月の藥玉《くすだま》にさげる。その五月が近いので。
 安要奴我尓 アエヌガニ。アエはポタポタ落ちる意の動詞。「安由流實波《アユルミハ》 多麻爾奴伎都追《タマニヌキツツ》」(卷十八、四一一一)。ヌは完了の助動詞で、意を強めるに使う。ガニは、ほどに、までになどの意。花が枝に一ばいに咲いて今にも落ちそうに感じられるにいう。
 朝尓食尓 アサニケニ。朝に時に。
 銅鏡 マソカガミ。枕詞。白銅鏡は、よい鏡なので、當てている。
 宇禮多伎也 ウレタキヤ。ウレタキは、歎かわしい。「慨哉、此云2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤ》1」(日本書紀神武天皇の卷)。ヤは、感動の助詞。
(102) 志許霍公鳥 シコホトトギス。シコは、醜の意でホトトギスをわるく言つている。
 裏悲尓 ウラガナシキニ。氣もちの感傷的なのに。曉に當つて、感傷をいだいている。
 攀而手折都 ヨヂテタヲリツ。ヨヂテは、枝を手もとに引き寄せて。
【評語】橘を愛する氣もちはわかるが、説明が冗長で、散文的である。これほどに長くしないでもよかつたろう。イカトイカトアル、散リコスナユメなど、連續すべき句を、二句に分けているものがあつて、これも散文的な調子を感じさせるもとになつている。部分的には、ホトトギスを罵倒しているのがおもしろい。
 
反歌
 
1508 十五夜降《もちくた》つ 清き月夜《つくよ》に
 吾妹子に 見せむと念ひし
 夜前《には》の橘。
 
 望降《モチクタツ》 清月夜尓《キヨキツクヨニ》
 吾妹兒尓《ワギモコニ》 令v視常念之《ミセムトオモヒシ》
 夜前之橘《ニハノタチバナ》
 
【譯】十五夜過ぎの清らかな月夜に、あなたに見せようと思つた夜前の橘です。
【釋】望降 モチクタツ。モチは十五日の月。クタツは、それを過ぎて。十五夜以後の意である。
【評語】望クタツ清キ月夜は、實際に橘の花を贈つた時をいうのだろうが、具體的でよい。その他は長歌の意を要約しただけであるが、短歌にしただけに、かえつてまとまりがよい。
 
1509 妹が見て 後も鳴かなむ。
 ほととぎす 花橘を 地《つち》に散らしつ。
 
 妹之見而《イモガミテ》 後毛將v鳴《ノチモナカナム》
 霍公鳥《ホトトギス》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 地尓落津《ツチニチラシツ》
 
(103)【譯】あなたが見て、その後にも鳴いてくれ。ホトトギスが、橘の花を地上に散らした。
【釋】後毛將鳴 ノチモナカナム。ナムは、願望の助動詞。將の字を使つているのは、助動詞のム、ナム、ラムなどと、性質上の區別を感じなかつたものと見られる。句切。
【評語】長歌の内容を要約している。鳴カサムに呼應して、三句以下に、來鳴キテの語がないので、飛躍の感を與える。
 
大伴家持、贈2紀女郎1歌一首
 
1510 なでしこは 咲きて散りぬと
 人はいへど、
 わが標《し》めし野の 花ならめやも。
 
 瞿麥者《ナデシコハ》 咲而落去常《サキテチリヌト》
 人者雖v言《ヒトハイヘド》
 吾標之野乃《ワガシメシノノ》 花尓有目八方《ハナナラメヤモ》
 
【譯】ナデシコは、咲いて散つたと人はいうが、わたしの占めておいた花ではないでしよう。
【評語】ナデシコが咲いて散つたということに、相手が結婚した意をかけている。この歌、類歌として出す大伴の駿河麻呂の梅の歌と同型同想で、どちらかが模倣であることは疑いない所である。
【參考】類歌。
  梅の花咲きて散りぬと人はいへどわが標結ひし枝ならめやも(卷三、四〇〇)
 
秋雜歌
 
【釋】秋雜歌 アキノザフカ。秋の雜歌は、長歌一首、短歌九十一首、旋頭歌二首を收めている。他の部に比(104)して、非常に歌數の多いことが注意される。また作歌の月日によらないで、歌中の季語によつてこの部に收めたもののあることが注意される。
 
崗本天皇御製歌一首
 
岡本の天皇《すめらみこと》の御製の歌一首。
 
【釋】崗本天皇 ヲカモトノスメラミコト。崗は岡に同じ。高市の岡本の宮に御代を知ろしめした天皇、すなわち舒明天皇。その皇后にましました齊明天皇が、後にまた同地に宮を定められた。これを後の岡本の宮という。ただ岡本の天皇とだけでは、この二帝のいずれであるかは、決定されない。既に本集にも「右今案ズルニ、高市ノ岡本ノ宮、後ノ岡本ノ宮、二ツノ代二ノ帝各異レリ。但シ岡本ノ天皇トイヘル、イマダソノ指ストコロヲ審ニセズ。」(卷四、四八七、左註)とある。
 
1511 夕されば 小倉《をぐら》の山に 鳴く鹿は、
 今夜《こよひ》は鳴かず。
 寐宿《いね》にけらしも。
 
 暮去者《ユフサレバ》 小倉乃山尓《ヲグラノヤマニ》 鳴鹿者《ナクシカハ》
 今夜波不v鳴《コヨヒハナカズ》
 寢宿家良思母《イネニケラシモ》
 
【譯】夕方になると、小倉の山で鳴く鹿は、今夜は鳴かない。寐てしまつたらしいなあ。
【釋】暮去者 ユフサレバ。夕方になれば、鹿の習性を述べるので、已然形を使用する。
 小倉乃山尓 ヲグラノヤマニ。ヲグラノ山は、諸處に同名の山があるが、これは明日香の一つの山であろう。クラは地形語で、谿問を意味する。
 今夜波不鳴 コヨヒハナカズ。この句の敍述を根據として、次の句のケラシの推量が出るものと見られるか(105)ら、終止形と見るべきである。
【評語】夜な夜な鹿の聲を聞いて、たまたまその聲の聞えない夜のさびしさが歌われている。情趣のゆたかな歌で、自然に親しんでいる生活が窺える。五句は、鹿が妻を得たことを想像しているが、それだけで寓意は無い。この歌は、卷の九に重出し、そこでは雄略天皇の御製としている。古帝王の御製と傳えて、かような歌が歌われてきたものと考えられる。
 
大津皇子御歌一首
 
【釋】大津皇子 オホツノミコ。天武天皇の皇子。文武の才があり、朱鳥元年十月死を賜わつて死んだ(卷二、一〇五參照)。
 
1512 經《たて》もなく 緯《ぬき》も定めず、
 未通女《をとめ》らが 織れる黄葉《もみち》に
 霜な零《ふ》りそね。
 
 經毛無《タテモナク》 緯毛不v定《ヌキモサダメズ》
 未通女等之《ヲトメラガ》 織黄葉尓《オレルモミチニ》
 霜莫零《シモナフリソネ》
 
【譯】經絲も無く緯絲も定めないで、孃子たちの織つた黄葉に、霜よ降るな。
【釋】經毛無緯毛不定 タテモナクヌキモサダメズ。經緯は、織物についていう語で、經は縦絲、緯は横絲。
 織黄葉尓 オレルモミチニ。黄葉は實物をいう。
 霜莫零 シモナフリソネ。霜が降つて黄葉もするが、また霜によつて葉が腐り落ちるのである。
【評語】黄葉を織物に譬えて、孃子が織つた錦としている。これは、漢文學から出ている所で、この歌の創意ではないであろう。懷風藻に、大津の皇子の詩として、「天紙風箪畫(キ)2雲鶴(ヲ)1、山機霜杼織(ル)2葉錦(ヲ)1」の句があるの(106)と、同樣の著想である。黄葉を錦に見立てることは、何人も思いつきやすいところで、それだけによくその美をあらわしているといえる。黄葉の美を詠んだ歌も多いが、特に文筆的な古い歌として注意される。
 
穗積皇子御歌二 首
 
【釋】穗積皇子 ホヅミノミコ。天武天皇の皇子。靈龜元年七月薨じた(卷二、一一四參照)。
 
1513 今朝《けさ》の朝明《あさけ》 雁《かり》が音《ね》聞きつ。 春日《かすが》山 もみちにけらし。
 わが情《こころ》痛《いた》し。
 
 今朝之旦開《ケサノアサケ》 鴈之鳴聞都《カリガネキキツ》
 春日山《カスガヤマ》 黄葉家良思《モミチニケラシ》
 吾情痛之《ワガココロイタシ》
 
【譯】今朝の明け方に雁の聲を聞いた。春日山は、黄葉したらしい。わたしの心は傷まれる。
【釋】黄葉家良思 モミチニケラシ。モミチは、動詞として使われている。チは清音である。句切。
【評語】短文を重ねて、事實の敍述、推量、心中の告白の三段階を歌つている。その三段階のあいだには、かなりの飛躍がありながら、全體としては、よく纏まつて、秋の感傷を描いている。次に但馬の皇女の御歌が載せられ、皇子と皇女とのあいだには格別の關係があつたと傳えられるので、ここに、ワガ心痛シといわれるのも、純粹な季節の感傷であるかどうかを保しがたいが、形式からいえば、雁聲や黄葉によつてあらわれた季節に對する文學的感動で、固有の歌謠のあいだに無かつた所である。初句、ケサノアサケの音韻效果も鋭いものがある。
 
1514 秋はぎは 咲くべくあるらし。
 わが屋戸《やど》の 淺茅《あさぢ》が花の
(107) 散りぬる見れば。
 
 秋〓者《アキハギハ》 可v咲有良之《サクベクアルラシ》
 吾家戸之《ワガヤドノ》 淺茅之花乃《アサヂガハナノ》
 散去見者《チリヌルミレバ》
 
【譯】秋ハギは咲きそうであるらしい。わたしの屋戸の淺茅の花の散つたのを見ると。
【釋】秋〓者 アキハギハ。〓は卷二、一二〇參照。
 散去見者 チリヌルミレバ。チリユクミレバ(神)、チリヌルミレバ(略)。茅花は、カホン科で、初春に、葉に先だつて花が出るが、白毛を有する穗であつて、散るというには合わない。種になつて散つたのだろう。
【評語】茅花は、春のものとされているが、夏深くなつて、そのほうけて散つたのを見て、やがて秋ハギが咲き繼ぐだろうと推量している。その關係が、固定した季節の觀念にとらわれずに、自然の實際に即して歌つているのが、この種の型の歌の中にも特出している所である。歌人としての素質に富んだ方であつた。
 
但馬皇女御歌一首 一書云、子部王作
 
但馬の皇女の御歌一首 【一書にいふ、子部の王の作れる。】
 
【釋》但馬皇女 タヂマノヒメミコ。天武天皇の皇女。穗積の皇子の異腹の妹で、皇子と、戀愛關係があつた。和銅元年六月薨じた(卷二、一一四參照)。
 子部王 コベノオホキミ。傳未詳。兒部の女王(卷十六、三八二一)と同人か。
 
1515 事しげき 里に住まずは、
 今朝鳴きし 雁に副《たぐ》ひて
 行かましものを。
 
 事繁《コトシゲキ》 里尓不v住者《サトニスマズハ》
 今朝鳴之《》ケサナキシ 雁尓副而《カリニタグヒテ》
 去益物乎《ユカマシモノヲ》
 
(108)【譯】人の事のうるさい里に住まないで、今朝鳴いた雁に伴なつて行きたかつたものを。
【釋】事繁 コトシゲキ。人間世界の事の繁多な。
 里尓不住者 サトニスマズハ。里に住まずして。ハは輕い感動の意に添えた助詞。ズハと懸けて、マシと受けるのは、一つの型である。「如此許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》 死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》」(卷二、八六參照)。
【評語】人間の世の煩累を捨てて、雁と共に行つてしまつたらよかつたという、烈しい感情が歌われている。「おのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る」(卷二、一一六)の歌の作者らしい、奔放な作品である。今朝鳴キシ雁というのは、穗積の皇子の歌に詠まれた今朝の朝明の雁であるかも知れない。
 
一云、國尓不v有者《クニニアラズハ》
 
一はいふ、國にあらずは。
 
【釋】 一云國尓不有者 アルハイフ、クニニアラズハ。前の歌の第二句の別傳である。子部の王の作と傳えている方に、こうなつていたのだろう。里の方が、現實性が強く、國の方は、この世を嫌う意が濃厚である。
 
山部王、惜2秋葉1歌一首
 
山部の王の、秋の葉を惜しむ歌一首。
 
【釋】山部王 ヤマベノオホキミ。傳未詳。日本書紀天武天皇の卷に、壬申《じんしん》の年の亂に戰死した山部の王があるが別の人であろう。
 
1516 秋山に もみつ木《こ》の葉の
(109) うつりなば、
 更にや秋を 見まくほりせむ。
 
 秋山尓《アキヤマニ》 黄反木葉乃《モミツコノハノ》
 移去者《ウツリナバ》
 更哉秋乎《サラニヤアキヲ》 欲v見世武《ミマクホリセム》
 
【譯】秋の山に黄に染まつている木の葉が、衰えて行つたら、また更に秋の美しさが戀しく思われる事であろう。
【釋】黄反木葉乃 モミツコノハノ。黄反は、黄變に同じ。黄色に變ずる意で、義を以つてモミツと讀んでいる。動詞で四段活の連體形。
【評語】四句の秋の語は、秋の美しさを、ただこの一語にあらわしている。また秋を見たいと思うだろう、秋の時節に逢いたいと思われるであろうという歌である。秋の季節を興がつているが、秋の語を重ねているあたり、わざとらしさがある。
 
長田王歌一首
 
【釋】長屋王 ナガヤノオホキミ。高市の皇子の子。天平元年二月、死を賜わつて死んだ(卷一、七五參照)。
 
1517 味酒《うまさけ》を 三輪の祝《はふり》が 山照らす
 秋の黄葉の 散らまく惜しも。
 
 味酒《ウマサケヲ》 三輪乃祝之《ミワノハフリガ》 山照《ヤマテラス》
 秋乃黄葉乃《アキノモミチノ》 散莫惜毛《チラマクヲシモ》
 
【譯】三輪の神職の守つている山が、秋の黄葉で目もあやに照り輝いているが、その黄葉の散ることが惜しい。
【釋】味酒 ウマサケヲ。枕詞。酒を古くミワというので、三輪に冠している。ウマサケと四音にも讀まれるが、長屋の王の作で、文筆時代にはいつているから、ヲを添えて五音に讀む。「味酒呼《ウマザケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)。
 三輪乃祝之 ミワノハフリガ。ミワは、大和の中央にある三輪山。この山は大物主の神をまつり、山そのも(110)のが神體として、信仰されていた。ハブリは神職の事。それで三輪の神職の山で、三輪の神山という意味になる。
【評語】三輪山を仰ぎ見て、その美しさを嘆賞した歌である。山をいうに、特に神職のまつる山という間接的なあらわし方をしたのは、神域として仰ぐ意味を含めている。黄葉を惜しむ歌も多いが、山照ラスと、特にその黄葉の状態を寫した點において成功している歌である。
 
山上臣憶良七夕歌十二首
 
【釋】七夕 ナヌカノヨヒ。一年に一度、七月七日の夜に、牽牛星が銀河を渡つて織女星に逢うという、大陸の傳説にもとづく行事である。この夕べ、二星を祭つて、文筆に遊び、また手藝の上達をいのる。わが國では、本集の所傳が古いのだが、集中の歌数は、二百首に近く、人麻呂歌集にも多数を收めており、すくなくも天武天皇の御代に溯ることが知られる。北邊隨筆に、七夕をナヌカノヨヒと讀めと見えている。
 
1518 天漢《あまのがは》 相向き立ちて わが戀ひし
 君來ますなり。
 紐《ひも》解き設《ま》けな。
 
 天漢《アマノガハ》 相向立而《アヒムキタチテ》 吾戀之《ワガコヒシ》
 君來益奈利《キミキマスナリ》
 紐解設奈《ヒモトキマケナ》
 
【譯】天の河に向かい立つて、わたくしの戀していた君がおいでになるのだ。紐を解いて待ち受けましよう。
(111)【憚】天漢 アマノガハ。漢は、河水の名であり、天上における洪水の義をもつて、銀河をいう。無教の恒星の集合體で、川のように見えるから、天の川という。常は、これを隔てて牽牛星と織女星とが住んでおり、七月七日の夜だけ、牽牛星が、天の川を渡つて織女屋を訪うというのである。牽牛星は、鷲座の星で、犬飼星といい、織女星は、琴座の星である。
 君來益奈利 キミキマスナリ。キミは、牽牛星をさしている。句切。
 紐解設奈 ヒモトキマケナ。ヒモは、衣服の左右を結ぶ紐。マケは設けるで用意する。ナは、願望の助詞。
【評語】織女星になつて詠んでいる。四句までで事實を敍し、五句で心用意を述べている。五句の表現は、露骨で、下品である。七夕の歌としては、簡素な形のものである。
【参考】類歌。
  天の川|河門《かはと》に立ちてわが戀ひし君来ますなり。紐解き待たむ 一はいふ、天の河川に向き立ち(卷十、二〇四八)
 
一云|向v河《カハニムカヒテ》
 
一はいふ、河に向かひて。
 
【釋】一云向河 アルハイフ、カハニムカヒテ。前の歌の第二句の別傳と見られる。アヒ向キ立チテは、たがいに向かつた意であつて、ワガ戀ヒシに對してやや落ちつかなかつたが、河ニ向カヒテなら、平凡であるが落ちつきはよい。作者の別案だろうか。
 
右、養老八年七月七日、應v令。
 
(112)【釋】右養老八年七月七日應令 ミギハヤウラウノヤトセフミヅキノナヌカ、ノリゴトニコタフル。養老八年二月四日、皇太子は即位して、改元して神龜元年とした。それ故に、養老八年七月七日という云い方は無く、また應令というは、皇太子の令旨に答うる意であるのに、皇太子は二月四日に即位したのだから、かたがた養老八年とあるは誤りだろうとされている。次の歌には、神龜元年七月七日とある。山上の憶良は、養老五年正月に勅によつて、退朝の後、東宮に侍せしめられたのであるから、右の歌は、養老五年、六年、七年のうちの七夕の歌であろう。
 
1519 ひさかたの 天《あま》の河瀬《かはせ》に 船|泛《う》けて、
 今夜《こよひ》か君が、 我許《わがり》來《き》まさむ。
 
 久方之《ヒサカタノ》 漢尓《アマノカハセニ》 船泛而《フネウケテ》
 今夜可君之《コヨヒカキミガ》 我許來益武《ワガリキマサム》
 
【譯】天の川の瀬に船を浮かべて、今夜か、君がわたしのもとにおいでになるだろう。
【釋】漢尓 アマノカハセニ。漢尓だけでは、文字表示が不十分なので、語を補つて讀む。補うとすれば、アマノカハセニ、アマノカハトニ、アマノカハラニなどが考えられるが、船を浮かべるので、セ(瀬)とする。大矢本等、漢の下に、瀬の字のある本もあるが、傳來が新しく、原形であるかどうかを知りがたい。
【評語】これも織女星に代わつて詠んでいる。天の川というので、船に乘つて渡るという歌が多い。その種の歌として、別に特色の無い、平凡な作である。
 
右、神龜元年七月七日夜、左大臣宅。
 
【釋】左大臣宅 ヒダリノオホキマヘツギミノイヘ。神龜元年二月、聖武天皇の即位と共に、長屋の王は、右大臣から左大臣に任ぜられた。その家は佐保にあり、作寶樓と稱し、文筆の客を招いて詩宴を張つたことが、(113)懷風藻に傳えられている。
 
1520 牽牛《ひこぼし》は 織女《たなばたつめ》と。
 天地の 別れし時ゆ
 いなうしろ.河に向き立ち、
 思ふそら 安けなくに、
 嘆くそら 安けなくに、
 青浪に 望《のぞ》みは絶えぬ。
 白雲に 涙は盡《つ》きぬ。」
 かくのみや 氣《いき》つき居《を》らむ。
 かくのみや 戀ひつつあらむ。
 さ丹塗《にぬり》の 小船《をぶね》もがも。
 玉纏《たままき》の 眞櫂《まかい》もがも。【一は云ふ、小楫もがも。】
 朝なぎに い掻《か》き渡り
 夕汐に【一は云ふ、夕べにも。】 い榜ぎ渡り、
 ひさかたの 天《あま》の河原に
 天《あま》飛ぶや 領巾《ひれ》片敷き、
(114) 眞玉手の 玉手さし交《か》へ、
 あまたにも 宿《い》も寐《ね》てしかも。【一は云ふ、いもさ寐てしか。】
 秋にあらずとも。【一は云ふ、秋待たずとも。】」
 
 牽牛者《ヒコボシハ》 織女等《タナバタツメト》
 天地之《アメツチノ》 別時由《ワカレシトキユ》
 伊奈宇之呂《イナウシロ》 河向立《カハニムキタチ》
 思空《オモフソラ》 不v安久尓《ヤスケナクニ》
 嘆空《ナゲクソラ》 不v安久尓《ヤスケナクニ》
 青浪尓《アヲナミニ》 望者多要奴《ノゾミハタエヌ》
 白雲尓《シラクモニ》 ※[さんずい+帝]者盡奴《ナミダハツキヌ》
 如是耳也《カクノミヤ》 伊伎都枳乎良武《イキツキヲラム》
 如是耳也《カクノミヤ》 戀都追安良牟《コヒツツアラム》
 佐丹塗之《サニヌリノ》 小船毛賀茂《ヲブネモガモ》
 玉纏之《タママキノ》 眞可伊毛我母《マカイモガモ》【一云、小棹毛何毛】
 朝奈藝尓《アサナギニ》 伊可伎渡《イカキワタリ》
 夕鹽尓《ユフシホニ》【一云、夕倍爾毛】 伊許藝渡《イコギワタリ》
 久方之《ヒサカタノ》 天河原尓《アマノガハラニ》
 天飛也《アマトブヤ》 領布可多思吉《ヒレカタシキ》
 眞玉手乃《マタマデノ》 玉手指更《タマデサシカヘ》
 餘《アマタニモ》 宿毛寐而師可聞《イモネテシカモ》【一云、伊毛左祢而師加】
 秋尓安良受登母《アキニアラズトモ》【一云、秋不待登母】
 
【譯】牽牛星は、織女屋と、天地の別れた時からこの方、天の河に向かい立つて、思う心が安らかでなく、嘆く心が安らかでなく、青浪に眺めはとどかない。白雲に涙は流れつくした。かようにしてばかり、歎息していることだろうか。かようにしてばかり、戀していることだろうか。赤く塗つた小船もほしいなあ。玉を纏いた櫂もほしいなあ。朝の凪ぎに河を渡り、夕べの汐に漕いで渡つて、天の川の河原に、天を飛ぶ領巾を敷いて、美しい手をさし交わして、たくさんに寐たいものだ。秋ではなくとも。
【構成】第一段、白雲ニ涙ハ盡キヌまで。牽牛星が織女星と天の川を隔てて思うことを敍する。第二段、終りまで。牽牛星に代わつて、その心中を歌つている。
【釋】牽牛者 ヒコボシハ。ヒコボシは、男子の星の義、牽牛星のこと。倭名類聚鈔に「牽牛、爾雅注云、牽牛、一名河鼓 和名比古保之、一云、以奴加比保之」とある。牽牛は、牛を引く義で、農業に從事することを意味する。ワシ座に屬する一等星である。
 織女等 タナバタツメト。タナバタツメは棚機の女の義。機織の道具をタナバタという。倭名類聚鈔に「織女、兼名宛注云、織女 和名太奈波太豆女 牽牛疋也」とある。荊楚歳時記に「天河之東、有2織女1、天帝之子也。年年織杼勞役、織2成雲錦天衣1、天帝憐2其獨處1、許v嫁2河西牽牛1、即嫁後遂廢2織※[糸+任]1、天帝怒責令v歸2河東1、但使2其一年一度相會1」という。
 天地之別時由 アメツチノワカレシトキユ。混沌としていたものが、太古に天と地とに分かれた。その時以(115)來の意で、中國の宇宙創生説によつている。
 伊奈宇之呂 イナウシロ。枕詞。イナムシロの轉音で、稻筵の義という。稻わらで編んだしきもの。ムシロ、古語ウシロ(−代)。身代《ムシロ》の義で身をおくところの意だろう。川の有樣を譬えて、冠するのであろう。「伊儺武斯廬《イナムシロ》 ※[加/可]簸泝比野儺擬《カハソヒヤナギ》」(日本書紀八三、顯宗天皇の卷)。本集には「伊奈武思侶《イナムシロ》 敷而毛君乎《シキテモキミヲ》 將v見因母鴨《ミヲシモガモ》」(卷十一、二六四三)とある。これは筵を敷く意に、シク(重く)に冠している。
 思空 オモフソラ。ソラは心中をいう。形體のないものだからソラという。
 不安久尓 ヤスケナクニ。ヤスカラナクニ(神)、ヤスケナクニ(新訓)。安らかでないことだ。落ちつかず、思い亂れることである。「奈氣久蘇良《ナゲクソラ》 夜須家奈久爾《ヤスケナクニ》」(卷十七、三九六九)。
 青浪尓望者多要奴 アヲナミニノゾミハタエヌ。天の川に立つ青浪のために、見通しが利かず、織女星の見られないことをいう。ノゾミは、望見の意。本集では、まだ希望の意に使われていない。句切。
 白雲尓※[さんずい+帝]者盡奴 シラクモニナミダハツキヌ。間を隔てる白雲に對して涙を流して出しつくした意。句切。
 佐丹塗之小船毛賀毛 サニヌリノヲブネモガモ。サニヌリノヲブネは、赤く塗つた船。牽牛星が乘つて天の川を渡る船として、美しい船を描いている。
 玉纏之眞可伊毛我母 タママキノマカイモガモ。タママキノマカイは、玉を飾りに纏いた櫂で櫂の美稱。マカイのマは接頭語。以上の句は、「見渡爾《ミワタシニ》 妹等者立志《イモラハタタシ》 是方爾《コノカタニ》 吾者立而《ワレハタチテ》 思虚《オモフソラ》 不v安國《ヤスカラナクニ》 嘆虚《ナゲクソラ》 不v安國《ヤスカラナクニ》 左丹漆之《サニヌリノ》 小舟毛鴨《ヲブネモガモ》 玉纏之《タママキノ》 小※[楫+戈]毛鴨《ヲカヂモガモ》 榜渡乍毛《コギワタリツツモ》 相語妻遠《アヒカタラメヲ》」(卷十三、三二九九)の歌にも見えている。これは多分、憶良の作が、歌い傳えられた歌の詞句を受けているのだろう。
 伊可伎渡 イカキワタリ。イは接頭語。カキは、水を掻く意であろう。
 夕鹽尓 ユフシホニ。朝凪の對句であるが、天の川に、夕べの汐を出したのは變である。強いて對句を求め(116)て、この無理を生じたのであろう。
 伊許藝渡 イコギワタリ。イは、接頭語。
 天飛也 アマトブヤ。領巾の説明の句。ヤは、感動の助詞。領巾に、天を飛ぶ威力があるとしたもの。天の羽衣の思想である。
 領巾可多思吉 ヒレカタシキ。ヒレは、織女星の領巾。カタシキは、一枚だけを敷くをいい、常にひとり寐の形容に使われるが、ここは織女星の領巾を敷いたというだけの意である。
 眞玉手乃玉手指更 マタマデノタマデサシカヘ。マタマデノタマデは、手の美稱。「麻多麻傳《マケマデ》 多麻傳佐斯麻岐《タマデサシマキ》」(古事記四)、「麻多麻提乃《マタマデノ》 多麻提佐斯迦閉《タマデサシカヘ》」(卷五、八〇四)。互に手をさしかわして。
 餘宿毛寐而師可聞 アマタニモイモネテシカモ。
  ヨイモネテシカモ(西)
  アマタイモネテシカモ(考)
  ――――――――――
  餘多宿毛寐而師可聞《アマタタビイモネテシカモ》(古義)
  餘夜毛宿毛寐而師可聞《アマタヨモイモネテシカモ》(新考)
 多數にも眠りを寐たいの意。一云に、イモサネテシカとあり、イモネテシカモを一句と見て、上の餘を一句とする。よつて助詞ニモを補讀する。古義に、餘の下に多の字を脱したものとし、アマタタピイモネテシカモと讀んでいるが、脱字ありとするならば、夜毛の如き字で、アマタヨモイモネテシカモか。「安麻多欲母《アマタヨモ》 爲禰※[氏/一]己麻思乎《ヰネテコマシヲ》」(卷十四 三五四五)。シカモは、願望の助詞シカに、感動の助詞モの接續した形。句切。
【評語】牽牛を主格として詠んでいるが、中頃からいつしか牽牛に代わつて詠んでおり、その變わり目は明白に行つていない。對句を多く用い、また古歌謠からきたと思われる詞句を用いて、調子は相當に見るべきものがあるが、全體としては冗長で、もつと引き締めた方がよかつた。感激はむしろ前半にあり、後半は説明的である。殊に結句の秋ニアラズトモは、突然で、今までの敍述が、七夕の夜の事と思われてきたのを裏切るものである。
 
(117)反歌
 
1521 風雲《かぜくも》は 二つの岸に 通へども、
 わが遠嬬《とほづま》の【一は云ふ、はしづまの】 言《こと》ぞ通はぬ。
 
 風雲者《カゼクモハ》 二岸尓《フタツノキシニ》 可欲倍杼母《カヨヘドモ》
 吾遠嬬之《ワガトホヅマノ》【一云、波之嬬乃】 事曾不v《コトゾカヨハヌ》
 
【譯】風と雲とは、彼方此方の岸に通うけれども、遠くにいるわたしの妻の言葉が通つて來ない。
【釋】風雲者 カゼクモハ。風と雲とは、遠く音信を通ずる手段として、空想的に考えられている。遠く音信を寄せることを、風雲に寄すなどいう。漢文學から來た思想である。「今風雲ニ勒《シル》シテ徴使ヲ發遣ス」(卷十八、四二一八、文章)、「近《シタ》シク談ラムトスルココロニ勝《ア》ヘズ、就風雲來《オトヅレキ》ツ」(丹後國風土記、浦島の條)。ここは風雲は通うが、君の使はこない意にいうのである。
 二岸尓 フタツノキシニ。天の川の彼岸とこなたとに。
 吾遠嬬之 ワガトホヅマノ。トホヅマは、天の川を隔てている織女星のこと。
【評語】牽牛星となつて詠んでいる。漢文學の素養のあらわれているのが特色で、七夕傳説の性質上、當然のことといえる。
 
1522 礫《たぶて》にも 投《な》げ越しつべき 天《あま》の河《がは》
 隔てればかも、あまた術《すべ》なき。
 
 多夫手二毛《タブテニモ》 投越都倍伎《ナゲコシツベキ》 天漢《アマノガハ》
 敝太而禮婆可母《ヘダテレバカモ》 安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》
 
【譯】礫にでも投げ越されそうな天の川が、隔たつているからか、大變手段のないことだ。
【釋】多夫手二毛 タブテニモ。タプテは、小石、礫。ツブテに同じ。類聚名義抄、礫にタブテの訓がある。
(118)【評語】長歌では、天の川を海のように歌い、ここでは、礫でも投げ越せるようなと歌つている。この一首は、反歌ではなく、別に獨立した歌であるかも知れない。しかしやはり牽牛になつて詠んでいる。礫ニモ投ゲ越シツベキと歌つたのが、特殊で、男性の歌らしい味を出している。
 
右、天平元年七月七日夜、憶良仰2觀天河1 一云、帥家作
 
【釋】帥家作 カミノイヘニテツクレル。帥は、大宰の帥大伴の旅人。憶良の筑前の守時代である。
 
1523 秋風の 吹きにし日より
 いつしかと わが待ち戀ひし
 君ぞ來ませる。
 
 秋風之《アキカゼノ》 吹尓之日從《フキニシヒヨリ》
 何時可登《イツシカト》 吾待戀之《ワガマチコヒシ》
 君曾來座流《キミゾキマセル》
 
【譯】秋風の吹いた日から、何時か何時かとわたくしの待ち戀していた君が、おいでになりました。
【釋】織女星になつて詠んでいる。秋風が吹き始めてから、もう來るかもう來るかと待つていた心が描かれている。平明に敍している作である。
 
1524 天《あま》の河《がは》 いと河浪は 立たねども、
 伺候《さもら》ひ難し。
 近きこの瀬を。
 
 天漢《アマノガハ》 伊刀河浪者《イトカハナミハ》 多々祢杼母《タタネドモ》
 伺候難之《サモラヒガタシ》
 近此瀬呼《チカキコノセヲ》
 
【譯】天の川は、ひどく河浪は立たないけれども、待つに堪えられない。ほど近いこの渡り瀬だのに。
【釋】伊刀河浪者 イトカハナミハ。イト、はなはだしく、大變に。立タネドモを限定修飾している。
(119) 伺候難之 サモラヒガタシ。サモラヒは、見守り樣子を伺つているをいう。「雖2伺候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》」(卷二、一九九)。待つているに待ちかねる。句切。
 近此瀬呼 チカキコノセヲ。セは、天の川の瀬で、渡る場處。
【評語】織女星になつて詠んでいる。河浪が立たないことと、瀬が近いこととが、兩方から、サモラヒ難シを挾んで、中心點が無い。
 
1525 袖振らば 見もかはしつべく
 近けども、
 渡るすべなし。
 秋にしあらねば。
 
 袖振者《ソデフラバ》 見毛可波之都倍久《ミモカハシツベク》
 雖v近《チカケドモ》
 度爲便無《ワタルスベナシ》
 秋西安良祢波《アキニシアラネバ》
 
【譯】袖を振つたら見かわすことができるほどに近いけれども、渡る手段がない。秋ではないので。
【評語】牽牛でも織女でも、どちらでもよい。礫ニモの歌の内容を、言葉をかえて歌つている。これは秋という絶對條件に抑えられている心の歌で、礫の歌よりもやわらかい。
 
1526 玉かぎる 髣髴《ほのか》に見えて 別れなば、
 もとなや戀ひむ。
 逢ふ時までは。
 
 玉蜻※[虫+廷]《タマカギル》 髣髴所v見而《ホノカニミエテ》 別去者《ワカレナバ》
 毛等奈也戀牟《モトナヤコヒム》
 相時麻而波《アフトキマデハ》
 
【譯】玉がほのかに光るように、ほのかに見えて別れたならば、ひどく戀をすることだろうか。逢う時までは。
【釋】玉蜻※[虫+廷] タマカギル。枕詞。蜻※[虫+廷]は、蟲の名。トンボ。古名カゲロフだが、更に古くカギロと言つたの(120)だろう。「蜻※[虫+廷]火之《カギロヒノ》 心所v燎管《ココロモエツツ》」(卷九、一八〇四)など、カギロに當てている。タマカギルは、玉がかすかな光を放つ意で、ホノカに冠している。
 髣髴所見而 ホノカニミエテ。ただ一夜逢うだけなのを、ホノカニ見エテと敍している。「朝影爾《アサカゲニ》 吾身者成奴《ワガミハナリヌ》 玉蜻《タマカギル》 髣髴所v見而《ホノカニミエテ》 往之兒故爾《イニシコユヱニ》」(卷十二、三〇八五)。
 毛等奈也戀牟 モトナヤコヒム。ひどくや戀うのだろう。ヤは、疑問の係助詞で、モトナを、はたしてそうかと疑つている。モトナは、ひどく、致し方なく、などの意の副詞。よしなくとも解されているが、ここは、よしなくではない。句切。
【評語】二星のはかない會見を、同情して歌つて、效果を擧げている。玉カギルホノカニ見エテの句は、歌い傳えられた成句である。「戀はみなわが上に落ちぬ。玉かぎるはろかに見えていにし子ゆゑに」(日本靈異記)。
 
右、天平二年七月八日夜、帥家集會
 
右は、天平二年七月八日の夜、帥の家の集會。
 
【釋】七月八日夜 フミヅキノヤカノヨ。天候か何かの都合で、八日の夜、七夕の會を催したのであろう。
 
1527 牽牛《ひこぼし》の 嬬《つま》迎へ船《ぶね》 榜《こ》ぎ出づらし。
 天の河原に 霧の立てるは。
 
 牽牛之《ヒコボシノ》 迎v嬬船《ツマムカヘブネ》 己藝出良之《コギイヅラシ》
 天漢原尓《アマノカハラニ》 霧之立波《キリノタテルハ》
 
【譯】牽牛星の妻を迎える船が、漕ぎ出るらしい。天の川の河原に霧の立つているのは。
【釋】迎嬬船 ツマムカヘブネ。妻の織女星を迎える船。普通は、牽牛が河を渡つて織女に逢いに行くというのだが、多數の人が、詩歌を作つているうちに、種々の變形を生じた、その一つであろう。
(121)【評語】天の川に霧のかかつているのを見て、船を漕ぎ出すにつけて、霧が立つのだろうと推量したのである。秋冷のころ水を動かすと霧が起る。嬬迎へ船の語は、他に所見無く、美しい。これは嬬よぶ船(卷十、二〇七五)あたりから、變化して生じたものだろう。嬬よぶ船は、婚を求めに行く船である。但し織女が河を渡るという意味の歌は他にもある。
 
1528 霞立つ 天の河原に、
 君待つと い行き還るに
 裳の裾ぬれぬ。
 
 霞立《カスミタツ》 天河原尓《アマノカハラニ》
 待v君登《キミマツト》 伊往還尓《イユキカヘルニ》
 裳襴所v沾《モノスソヌレヌ》
 
【譯】霞の立つている天の川の河原で、君を待つと、往來しているので、裳の裾が濡れました。
【釋】霞立 カスミタツ。天の川の光景である。カスミは、キリに同じく、水蒸氣の粒子の微細なのをいう。
 伊往還尓 イユキカヘルニ。イは接頭語。往復徘徊しているので。
【評語】織女星になつて詠んでいる。霞立ツの一句、一首の景趣をゆたかにする效果がある。五句に裳ノ裾ヌレヌと置くのは、民謠から來た類型的の表現。
 
1529 天《あま》の河 浮津《うきつ》の浪音《なみおと》 騷くなり。
 わが待つ君し、 船出すらしも。
 
 天河《アマノガハ》 浮津之浪音《ウキツノナミオト》 佐和久奈里《サワクナリ》
 吾待君思《ワガマツキミシ》 舟出爲良之母《フナデスラシモ》
 
【譯】天の川の浮津の浪音が騷いでいる。わたくしの待つ君が、船出をするらしい。
【釋】浮津之浪音 ウキツノナミオト。ウキツは、略解に、天上の川だからいうかとしている。空中の津の義である。ツは、船つき場。
(122)【評語】織女星になつて詠んでいる。牽牛星の船出を推量している意味の歌は多く、これもその一つである。浮津の語が珍しい。以上憶良の七夕の詩作は、すぐれた作は無く、平凡の歌が多い。これは題材が題詠の性質のもので、眞實性を缺く故であると共に、憶良その人の歌境は、社會の人事を得意とし、かような文雅の作に向かないからである。ただ當時の文筆の遊びとしては、憶良も、その要員の一人だつたのである。
 
大宰諸卿大夫并官人等、宴2筑前國蘆城驛家1歌二首
 
【釋】大宰諸卿大夫 オホキミコトモチノマヘツギミタチ。卷の五の例、大宰府の役人中、帥、大貳について卿といい、小貳について大夫と言つている。諸は、雙方に懸けてある。
 官人等 ツカサビトタチ。大夫より以下の卑官の人々。
 蘆城驛家 アシキノウマヤ。大宰府の東南一里ばかりにある。驛家は、驛路の馬を飼う家であるが、その性質上、旅館同樣に發達し、接客の女子などもいたので、わざわざ宴會をそこに開いたのである。
 
1530 をみなへし 秋はぎまじる
 蘆城《あしき》野は、
 今日をはじめて 萬代に見む。
 
 娘部思《ヲミナヘシ》 秋〓子交《アキハギマジル》
 蘆城野《アシキノハ》
 今日乎始而《ケフヲハジメテ》 萬代尓將v見《ヨロヅヨニミム》
 
【譯】オミナエシに秋ハギのまじる蘆城の野は、今日を初めとして、永久に見よう。
【釋】蘆城野 アシキノハ。アシキノノとも讀まれるが、野の名は、助詞ノを使用しないのが多いから、ここもハを補讀する。
(123)【評語】初めて蘆城の野に遊んだ人の作と見える。オミナエシと秋ハギのまじるという説明はよいが、五句の萬代ニ見ムは、類型的で感興をそぐ。〓の字については、普通に芽の字を使うが、誤りのようである。「秋〓之」(卷二、一二〇)の歌の釋參照。
 
1531 玉匣《たまくしげ》 蘆城の河を 今日見ては、
 萬代までに 忘らえめやも。
 
 珠匣《タマクシゲ》 葦木乃河乎《アシキノカハヲ》 今日見者《ケフミテハ》
 迄2萬代1《ヨロヅヨマデニ》 將v忘八方《ワスラエメヤモ》
 
【譯】玉匣をあけるという、その蘆城の河を今日見てからは、永久までに忘れられないだろう。
【釋】珠匣 タマクシゲ。枕詞。玉匣を開けるというので、類似の音であるアシキに冠している。
 葦木乃河乎 アシキノカハヲ。アシキノ河は、蘆城の野を流れている。
【評語】葦城の野を流れる河の美景を讃しているが、その河の特色にすこしも觸れないから、何處の山か河でもよいことになる。内容も類型的である。
 
右二首、作者未v詳
 
笠朝臣金村、伊香山作歌二首
 
【釋】伊香山 イカゴヤマ。滋賀縣伊香郡にある山。今の古保利村が、當時の郡家の地であつた。延喜式神名近江の國伊香郡に、伊香具神社があるので、古くはイカグであつたらしいが、集中に、「伊香胡山《イカゴヤマ》 如何吾將v爲《イカニカワガセム》」(卷十三、三二四〇)とあるのも同山と見えるから、やはりイカゴヤマであろう。賤が嶽の南嶺で、余呉(124)の湖に面している。
 
1532 草枕 旅行く人も、
 行き觸れば にほひぬべくも
 咲けるはぎかも。
 
 草枕《クサマクラ》 客行人毛《タビユクヒトモ》
 往觸者《ユキフレバ》 尓保比奴倍久毛《ニホヒヌベクモ》
 開流〓子香聞《サケルハギカモ》
 
【譯】草の枕の旅を行く人も、行き觸れたならば、染まりそうにも咲いているハギだなあ。
【釋】往觸者 ユキフレバ。動詞觸ルは、澤瀉博士の説に、集中の例によつて下二段活と見るを通例とするとう。フレバ、その未然前提法。
 尓保比奴倍久毛 ニホヒヌベクモ。著ている衣服が、ハギの色に染まりそうにも。
【評語】 ハギの一面に咲いている中にはいつて、衣服も染まるということは、早く長の意吉麻呂《おきまろ》の歌(卷一、五七)あたりにも見えて、珍しいことではない。これはハギの花を染料とすることから出てきた思想である。伊香山に一面に咲いているハギの説明として、一往纏まつている歌である。
 
1533 伊香《いかご》山
 野邊《のべ》に咲きたる はぎ見れば、
 公が家なる 尾花し念《おも》ほゆ。
 
 伊香山《イカゴヤマ》
 野邊尓開有《ノベニサキタル》 〓子見者《ハギミレバ》
 公之家有《キミガイヘナル》 尾花之所v念《ヲバナシオモホユ》
 
【譯】伊香山で、野邊に咲いているハギの花を見ると、あなたの家の尾花が思われます。
【釋】公之家有 キミガイヘナル。公は、男子をさす。同行者か、郷里の人か、わからない。
【評語】 ハギの花を見て尾花を思う。秋の情趣をつくしている歌だ。尾花の美を見いでた古人の趣味を味わう(125)べきである。
 
石川朝臣老夫歌一首
 
【釋】石川朝臣老夫 イシカハノアソミオキナ。傳未詳。代匠記に、文武天皇の二年七月に、美濃の守となつた石川の朝臣小老の子かと言つている。
 
1534 をみなへし 秋のはぎ折れ
 玉桙の 道去※[果/衣]《みちゆきづと》と 乞はむ兒のため。
 
 娘部志《ヲミナヘシ》 秋〓子折禮《アキノハギヲレ》
 玉桙乃《タマボコノ》 道去※[果/衣]跡《ミチユキヅトト》 爲2乞兒1《コハムコノタメ》
 
【譯】オミナエシや秋ハギをお折りなさい。旅行のおみやげとして乞うだろう、あの兒のために。
【釋】秋〓子折禮 アキノハギヲレ。アキノハギヲレ(類)、アキハギタヲレ(温)、アキハギヲヲレ(代精)。諸訓があるが、語を補うとすれば、ノを補讀するのが穏當である。アキノハギの語は、「吾屋戸乃《ワガヤドノ》 秋之〓子開《アキノハギサク》 夕影爾《ユフカゲニ》」(卷八、一六二二)、「白露與2秋〓子1者《シラツユトアキノハギトハ》」(卷十、二一七一)の例があり、秋之〓子とも、秋〓子とも書いている。
 道去※[果/衣]跡 ミチユキヅトト。ミチユキヅトは、山ヅト、濱ヅトの類で、道ゆきのつと。道を行つた包みもの、旅行のおみやげ。
【評語】同行者に呼びかけた形の、平明な作である。野の花の美しいのを見て、折つてみやげにしようというだけの單純な内容である。
 
藤原宇合卿一歌一首
 
(126)【釋】藤原宇合卿 フヂハラノウマカヒノマヘツギミ。藤原の不比等の第三子。天平九年八月薨じた(卷一、七二參照)。
 
1535 わが夫子を
 何時《いつ》ぞ今かと 待つなへに、
 面《おも》やは見えむ。
 秋の風吹く。
 
 我背兒乎《ワガセコヲ》
 何時曾且今登《イツゾイマカト》 待苗尓《マツナヘニ》
 於毛也者將v見《オモヤハミエム》
 秋風吹《アキノカゼフク》
 
【譯】あなたのおいでを何時だろう、今かと待つている時に、お顔は見えないでしよう。秋の風が吹いている。
【釋】我背兒乎 ワガセコヲ。作者は男子であるから、ここにワガセコとあるのは、男どうしの友人、同僚などである。待ツに接續する。
 何時曾且今登 イツゾイマカト。何時であろうぞ。今か今かと。且今は、もう今はの意。「吾背子乎《ワガセコヲ》 且今且今《イマカイマカト》 出見者《イデミレバ》」(卷十、二三二三)
 待苗尓 マツナヘニ。待つおりしも。
 於毛也者將見 オモヤハミエム。面が見えようや、見えない。ヤハは反語。これを反語としない説もあるがそういう用法は無い。句切。
【評語】友のくるのを待つて、遂に來ないで、秋風の吹く風情である。七夕の歌とするは誤り。そう解すべき根據は無い。
 
縁達師歌一首
 
(127)【釋】縁達師 エニダチホウシ。傳未詳。師は、法師の義。
 
1536 暮《よひ》に逢ひて 朝《あした》面無《おもな》み、
隱野《なばりの》の はぎは散りにき。
黄葉《もみち》はや續《つ》げ。
 
 暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面羞《アシタオモナミ》
 隱野乃《ナバリノノ》 〓子者散去寸《ハギハチリニキ》
 黄葉早續也《モミチハヤツゲ》
 
【譯】昨夜逢つて、朝ははずかしいので隱れる。その名張の野のハギは散つてしまつた。黄葉よ、早く續け。
【釋】暮相而朝面羞 ヨヒニアヒテアシタオモナミ。以上二句、序詞。昨夜逢つて今朝ははずかしいので隱れるという意に、隱れるの古語、ナバリと同音の地名ナバリを引き起している。オモナミは、面がなくてで、はずかしさにの意となる。この序詞は、長の皇子の「暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面無美《アシタオモナミ》 隱爾加《ナバリニカ》 氣長妹之《ケナガキイモガ》 廬利爲里計武《イホリセリケム》」(卷一、六〇)の御歌に使用されており、それらの歌から得たものであろう。
 隱野乃 ナバリノノ。ナバリノは、三重縣伊賀の國の名張。その地の野。
 黄葉早續也 モミチハヤツゲ。モミチは、野山の草木の黄葉をいう。也は、添えて書いている。この卷にも既にこの用例があつた(一四四二)。
【評語】序詞は、主想部とは全く何の關係もなく、かえつてその間の飛躍の巧妙を示している。主想部は、催し立てるような氣分が感じられる表現である。これは短文を重ねた形によるものである。
 
山上臣憶良、詠2秋野花1二首
 
1537 秋の野に 咲きたる花を、
 指《ゆび》折《を》りて かき數《かぞ》ふれば、
(128) 七種《ななくさ》の花。その一つ
 
 秋野尓《アキノノニ》 咲有花乎《サキタルハナヲ》
 指折《ユビヲリテ》 可伎數者《カキカゾフレバ》
 七種花《ナナクサノハナ》其一
 
【譯】秋の野に咲いている花を、指を折つて數えて見ると、七種の花である。
【釋】指折 ユビヲリテ。テヲヲリテ(神)、ユビヲリテ(童)、オヨビヲリ(略)。ユビは倭名類聚鈔に「唐韵云、指 音旨、由比、俗云於與比」とある。ユビでよいので、俗云とあるのを採るに及ばない。オヨビは大指だろう。「およびの血もて」(伊勢物語)。
 可伎數者 カキカゾフレバ。カキは接頭語。
 其一 ソノヒトツ。歌の下に、其一、其二というように番號を記すのは、卷の十六の三七八六以下にあり、三七九四以下には、其の字はないが、一二などの數字だけがある。これらの卷の十六の例は、作者の違つた歌に附してあるので、こことは意味が違う。ここと同様に、同一人の作に附した例には、日木書紀の孝徳天皇紀、齊明天皇紀、天智天皇紀等に例がある。これらは、同一の事情のもとに作られた歌で、相互に關聯があり、特に數字によつて示された順序に意味があるものと考えられる。すなわちこの歌は、次の歌と共に一聯を成すもので、その第一首であることを示すものである。
【評語】單純な事務的な内容の歌であるが、これは連作の一として、まず秋の野の花を賞する順序を示したまでで、次の歌と併わせて味わうべきである。
 
1538 はぎが花、尾花《をばな》くず花《ばな》、
 なでしこの花。
 をみなへし、またふぢばかま、
(129) 朝貌《あさがほ》の花。その二つ
 
 〓之花《ハギガハナ》 乎花葛花《ヲバナクズバナ》
 瞿麥之花《ナデシコノハナ》
 姫部志《ヲミナヘシ》 又藤袴《マタフヂバカマ》
 朝※[貌の旁]顔之花《アサガホノハナ》其二
 
【譯】 ハギの花に尾花にクズの花にナデシコの花だ。オミナエシに、それからフジバカマにアサガオの花だ。
【釋】乎花葛花 ヲバナクズバナ。尾花と葛花、ヲバナはススキの穗。獣の尾に似ているからヲバナという。集中しばしばその美が歌われている。クズバナは、クズの花。クズはしばしば歌中にはいつているが、その花の詠まれているのは、これだけである。
 又藤袴 マタフヂバカマ。フヂバカマは、キク科の多年生草本。花は、淡紫色の筒状花瓣をなしているので、その色についてフヂといい、形が袴を連想させるのでハカマの名を得ている。集中、この一例だけである。
 朝※[貌の旁]之花 アサガホノハナ。桔梗説、旋花《ひるがお》説、木槿《むくげ》説、牽牛子《あさがお》説等があつて一定しない。桔梗説(田中道麿等)は、天治本新撰字鏡に、桔梗に註して、「二八月採v根曝干、阿佐加保、又云|岡止々支《ヲカトトキ》」とあるを根據とする。これは古今和歌集には、キチカウとあり、今いうキキヨウである。旋花説(狩谷※[木+夜]齋等)は、後に牽牛子が渡つてくるに及んで、旋花に似ているのでこれをアサガオと呼び、旋花をこれに對してヒルガオと呼ぶようになつたのだという。木槿説は、槿は槿《きん》花一朝ノ榮と歌われて、朝開いて暮に散るものとされていること、倭名類聚鈔に、蕣《むくげ》について「朝生夕落者也」と説明しているが、蕣は、槿と同物で、アサガホの訓のあることなどを理由としている。しかし木槿は、固有の植物ではなく、大陸から渡來したものとされているから、ここに秋の野の花というにふさわない。また牽牛子も、平安時代に、その種子を薬用として舶載《はくさい》したもので、固有の植物ではない。かように見てくると、結局、キキヨウかヒルガオかということになるが、文獻のあるについて、キキヨウとするが妥當《だとう》である。アサガオの名は、朝開く大きな花の義であろう。
【評語】旋頭歌の形を成しているが、この歌だけでは獨立した生命がなく、花の名の羅列《られつ》に過ぎない。前の歌の評語に記したように、合わせて一體として味わうべきである。形は二首だが、内容は二つを合わせて一つになる。これは古歌話の一形體を受けたもので、文筆的に整理すれば二首として扱われるのである。(131)この七種の花の選擇は、憶良の鑑識を窺《うかが》うべきものであるが、この歌が、どこで詠まれたか、その野の實際は、參酌されねばならない。カホン科のオバナの美を見出したのは、憶良のみのことではないが、七種のうちに、これを入れたのは、すぐれた鑑識というべきである。フジバカマについては、他に花もあつたろうにとも思われるが、その名にめでてのわざであろう。その他おおむね代表的な美しい花である。
 
天皇御製歌二首
 
【釋】天皇 スメラミコト。前後の歌の時代から推して、聖武天皇であると考えられる。ただ天皇とのみあるのは、その時代に成立した資料からくるもので、卷の三の初めにもある。神田本にはこの一行が無いから、自然次の歌は、山上の憶良の作ということになる。類聚古集にも、この題はなく、前行に山上憶良とあ(132)る。事によると、これらの古本系統の傳來が原形であるかもしれない。
 
1539 秋の日の、穗田《ほだ》を、雁《かり》が音《ね》
 闇《くらやみ》に
 夜のほどろにも 鳴き渡るかも
 
 秋日乃《アキノヒノ》 穗田乎鴈之鳴《ホダヲカリガネ》
 闇尓《クラヤミニ》
 夜之穗杼呂尓毛《ヨノホドロニモ》 鳴渡可聞《ナキワタルカモ》
 
【譯】秋の日の、稻の穗波の出そろつた田を、空は暗いのに、雁が鳴き渡つて行くなあ。
【釋】闇尓 クラヤミニ。クラヤミニ(類)、ヤミナルニ(略)、クラケキニ(略)、クラケクニ(古義)。クラヤミは日が暗れてからの闇をいう。
 夜之穗杼呂尓毛 ヨノホドロニモ。ヨノホドロは、夜がまだ明けきらないで、闇く殘つている頃をいう。夜の程ろの義であろう。「夜之穗杼呂《ヨノホドロ》 吾出而來者《ワガイデテクレバ》」(卷四、七五四)。
【評語】闇の田圃の上に、雁の鳴き渡る感じがよく出ている。おちついた叙景詩である。
 
1540 今朝の朝|明《け》
 雁が音《ね》寒く 聞きしなへ、
 野邊《のべ》の淺茅《あさぢ》ぞ 色づきにける。
 
 今朝乃旦開《ケサノアサケ》
 鴈之鳴寒《カリガネサムク》 聞之奈倍《キキシナヘ》
 野邊能淺茅曾《ヌベノアサヂゾ》 色付丹來《イロヅキニケル》
 
【譯】このあけ方に雁の鳴く音が、寒さを思わしめるように聞えたが、野邊のチグサは、ちようど色づいた事であつた。
【釋】今朝乃旦開 ケサノアサケ。この明け方で、アサケはアサアケ、朝になる時をいう。
【評語】秋の朝あけに雁が寒くおとずれて、野邊の色づく有樣は、季節に親しんでいた生活をよく語つている。
(133)平明にして興趣のゆたかな作である。神田本、および類聚古集には、この歌の前に「天皇御製歌一首」とある。
 
大宰帥大伴卿歌二首
 
1541 わが岡に さを鹿來鳴く。
 初はぎの 花嬬《はなづま》問《と》ひに
 來《き》鳴くさ牡鹿。
 
 吾岳尓《ワガヲカニ》 棹壯鹿來鳴《サヲシカキナク》
 先〓之《ハツハギノ》 花嬬問尓《ハナヅマトヒニ》
 來鳴棹壯鹿《キナクサヲシカ》
 
【譯】わたしの岡に壯鹿が來て鳴く。始めて咲くハギの美しい妻をおとずれて、來て鳴く壯鹿だ。
【釋】先〓之 ハツハギノ。ハツハギノ(類)、サキハギノ(略)。サキハギの訓は、「さいばりに衣は染めむ。雨ふれどうつろひ難し。深く染めては」(神樂歌)のサイバリを、サキハギの語の音便として、解しているが、語としては、ハツハギが穩當《おんとう》である。
 花嬬問尓 ハナヅマトヒニ。ハナヅマは、花のように美しい妻の義であろう。ここはハギの花を鹿の妻としてハナヅマと云つている。「那泥之古我《ナデシコガ》 曾乃波奈豆末爾《ソノハナヅマニ》」(卷十八、四一一三)。
【評語】鹿が、ハギの花を妻として訪い寄るという美しい空想があつて、しばしば歌にも詠まれている。この歌もそれを基礎として詠んだもので、よく鹿の風情を描いている。二句の、サヲ鹿來鳴クを、五句に、來鳴クサヲ鹿として、形を變えて繰り返しているのは巧みである。
【參考】 ハギを妻とする鹿。
  さを艶の心あひ思ふ秋はぎのしぐれの降るに散らくし惜しも(卷十、二〇九四、人麻呂集)
  奥山に住むといふ鹿の初夜《よひ》さらず妻どふはぎの散らまく惜しも(同、二〇九八)
(134)  秋はぎの戀も盡きねばさを鹿の聲い繼ぎい繼ぎ戀こそ増《まさ》れ(同、二一四五)
 
1542 わが岡の 秋はぎの花、
 風をいたみ 散るべくなりぬ。
 見む人もがも。
 
 吾岳之《ワガヲカノ》 秋〓花《アキハギノハナ》
 風乎痛《カゼヲイタミ》 可v落成《チルベクナリヌ》
 將v見人裳欲得《ミムヒトモガモ》
 
【譯】わたしの岡の秋ハギの花は、風が強くて、散りそうになつた。見る人がほしいなあ。
【評語】ハギの敍述に特色があるだけで、五句は、類型的である。また四五句が同一で、ハギを梅に代えただけの作がある。
【參考】類歌。
  わが宿に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ。見む人もがも(卷五、八五一)
 
三原王歌一首
 
【釋】三原王 ミハラノオホキミ。舍人の皇子の子。養老元年正月、無位から從四位の下を授けられ、累進《るいしん》して中務の卿正三位に至り、天平四年七月薨じた。清原の夏野の祖父である。
 
1543 秋の露は 移《うつし》なりけり。
 水鳥の 青葉の山の 色づく見れば。
 
 秋露者《アキノツユハ》 移尓有家里《ウツシナリケリ》
 水鳥乃《ミヅトリノ》 青羽乃山能《アヲバノヤマノ》 色付見者《イロヅクミレバ》
 
【譯】秋の露は染草であつた。水鳥のような青々と茂つておつた山が、黄に紅に色づくのを見れば。
【釋】移尓有家里 ウツシナリケリ。ウツシは、染色の便のために、染料をしみこませてある紙・布・綿の類(135)をいう。
 水鳥乃 ミヅトリノ。枕詞。鴨の頭の毛が青いので、青葉に冠している。
【評語】秋の露によつて山の木の葉の色がまさり行くという歌は多いが、この歌は、水鳥ノ青葉ノ山ノ色ヅクというのが、いかにも清爽《せいそう》な感じを抱かしめる。
 
湯原王七夕歌二首
 
【釋】湯原王 ユハラノオホキミ。志貴の皇子の子。奈良時代後期の人(卷三、三七五參照)。
 
1544 牽牛《ひこぼし》の 念《おも》ひ坐《ま》すらむ 情《こころ》ゆも
 見る吾《われ》苦し。
 夜の更降《くた》ちなば。
 
 牽牛之《ヒコボシノ》 念座良武《オモヒマスラム》 從v情《ココロユモ》
 見吾辛苦《ミルワレクルシ》
 夜之更降去者《ヨノクタチナバ》
 
【譯】牽牛星が思つておいでになる心よりも、見ているわたしの方が苦しい。夜が更けて行つたならば。
【釋】念座良武 オモヒマスラム。マスは、敬語の助動詞。牽牛星に對して敬意を表している。連體句。
 從情 ココロユモ。ユモは、比較して、それよりもの意をあらわしている。
 夜之更降去者 ヨノクタチナバ。ヨノフケユケバ(類)。更降は、「月乃不2出來1《ツキノイデコヌ》 夜者更降管《ヨハクタチツツ》」(卷六、九八〇)、「我待君之《ワガマツキミガ》 夜者更降管《ヨハクタチツツ》」(同、一〇〇八)など、三音に當てて書かれており、一首置いて次にも「附目緘結跡《ツケメシメユフト》 夜更降家類《ヨゾクタチケル》」(卷八、一五四六)とあつて、クタチと讀むべきが如くである。夜のくたちなば見る我苦しということ、語法に合わないようであるが、「安米都知能《アメツチノ》 可未乎許比都々《カミヲコヒツツ》 安禮麻多武《アレマタム》 波夜伎萬世伎美《ハヤキマセキミ》 麻多婆久流思母《マタバクルシモ》」(卷十五、三六八二)の如く、かようにいう語法がある。よつて今、夜ノクタチナバの訓を採(136)ることとした。クタチは、下降して行く意で、夜中を過ぎるをいう。意は、夜の更け行かばに同じである。
【評語】二星の戀を、傍觀者の立場で詠んでいるのが、他にないわけではないが、むしろ珍しい。作者の、自己を主體とする立場が、出ているのである。夜更けて牽牛星の心に同情し、その同情に堪えない苦しさを歌つている内容も、特色がある。
 
1545 織女《たなばた》の 袖つぐ三更《よる》の 五更《あかとき》は、
 河瀬の鶴《たづ》は 鳴かずともよし。
 
 織女之《タナバタノ》 袖續三更之《ソデツグヨルノ》 五更者《アカトキハ》
 河瀬之鶴者《カハセノタヅハ》 不v鳴友吉《ナカズトモヨシ》
 
【譯】織女星が袖を續けて寐る夜の曉は、河瀬の鶴は、鳴かないでもよい。
【釋】袖續三更之 ソデツグヨルノ。ソデツグは、牽牛星の袖に、織女星が自分の袖を繼ぐをいい、袖を竝べて寐る意である。三更は、中夜であるから、ヨルと讀む。漏刻の三度かわる義で次の五更に對して書いている。
 河瀬之鶴者 カハセノタヅは。天の川の瀬にいる鶴である。
【評語】曉に鳥が鳴くのを、今夜は特に鳴くなと止めている。第三者として、天の川のほとりの情景を歌つている。曉を告げる鳥の聲を恨む歌は、他にもあるが、七夕の歌としてはこれも珍しい。
 
市原王七夕歌一首
 
【釋】市原王 イチハラノオホキミ。安貴の王の子。奈良時代後期の人(卷三、四一二參照)。
 
1546 妹|許《がり》と わが行く道の 河しあれば、
 附目緘結《つけめしめゆふ》と 夜ぞ更降《くた》ちける。
 
 妹許登《イモガリト》 吾去道乃《ワガユクミチノ》 河有者《カハシアレバ》
 附目緘結跡《ツケメシメユフト》 夜更降家類《ヨゾクタチケル》
 
(137)【譯】妻のもとにと、わたしが行く道に河が横たわつているので、著物の裾を結んで川渡りの用意をしているうちに、夜が更けてしまつた。
【釋】妹許登 イモガリト。妹のもとへとの意。妹は織女星をさす。
 附目緘結跡 ツケメシメユフト。
  ヒトメツツムト(類)
  ツクメツツムト(代精)
  ――――――――――
  脚緘結跡《アユヒムスブト》(考)
  脚固緘結跡《アユヒツクルト》(略)
  脚固緘結跡《アユヒナダスト》(古義)
 諸説があつて一定しないが、原文のままで意味の通らぬものでもない。ツケメは袴の裾の紐の附目で、シメユフは、それをしつかり水に濡れないように、くくり上げるのをいうのだろう。上の河シアレバに對して解すべきである。緘結は、「赤駒之《アカゴマノ》 越馬柵乃《コユルウマセノ》 緘結師《シメユヒシ》」(卷四、五三〇)の例があり、シメユフと讀む。袴の裾を結びあげているあいだに、夜の更けてしまつたことを歌つている。
【評語】歌中に河とあるは、天の河のことであるが、歌には實際に水が流れている河のように取り扱つている。これは珍しいことではないが、ここではそれを徒歩渡りすると歌つている。すべて下界の河渡りになぞらえて詠んでいるのであつて、殊に具體的に河渡りをする身じたくを敍したのが特色である。そこに題詠ではあるが、眞實味が感じられるのである。これは牽牛星になつて詠んでいる。
 
藤原朝臣八束歌一首
 
【釋】藤原朝臣八束 フヂハラノアソミヤツカ。藤原の房前の第三子、後、眞楯と名を改めた。天平神護二年三月薨じた(卷三、三九八參照)。
 
(138)1547 さを鹿の はぎに貫《ぬ》き置ける
 露の白珠《しらたま》。
 あふさわに 誰の人かも、
 手に腫かむちふ。
 
 棹四香能《サヲシカノ》 〓二貫置有《ハギニヌキオケル》
 露之白珠《ツユノシラタマ》
 相佐和仁《アフサワニ》 誰人可毛《タレノヒトカモ》
 手尓將v卷知布《テニマカムチフ》
 
【譯】壯鹿が、ハギの枝につらぬいておいた露の白珠よ。行きなりに誰の人が手に卷こうというのか。
【釋】棹四香能〓二貫置有露之白珠 サヲシカノハギニヌキオケルツユノシラタマ。ハギの枝に白露が珠のように置いているのを、鹿がつらぬいておいたと言つている。句切。
 相佐和仁 アフサワニ。他に「開木代《ヤマシロノ》 來背若子《クセノワクゴガ》 欲云余《ホシトイフワレ》 相狹丸《アフサワニ》 吾欲云《ワヲホシトイフ》 開木代來背《ヤマシロノクセ》」(卷十一、二三六二)の用例がある。醍醐寺三寶院の大毘盧遮那成佛經疏に「輙尓《アフサワ》」とあるそうである(藤枝徳三氏、帚木)。案ずるに、アフサは、「そへにとてとすればかかりかくすればあないひ知らずあふさきるさに」(古今和歌集)のアフサで、逢ヒサマであろう。ワニは「吾毛念《ワレモオモフ》 人毛莫忘《ヒトモナワスレ》 多奈和丹《オホナワニ》 浦吹風之《ウラフクカゼノ》 止時無有《ヤムトキナカレ》」(卷四、六〇六)のオホナワニのワニに同じく、副詞を構成する組織體なのであろう。そこでこの語は、逢いさまに、行きなりに、出あいがしらにで、見ると即座に、輕率にの意を成すのであろう。卷の十一の例も、それでよく通ずる。
 誰人可毛手尓將卷知布 タレノヒトカモテニマカムチフ。これを愛して手に卷こうというは誰か。
【評語】作り設けた歌ながら、ハギに露の置いた風情を歌つている。鹿が白露をつらぬいておいたというのも作爲、見るなり誰が手に卷こうというかというも作爲である。それで持つている興がつた歌である。
 
(139)大伴坂上部女、晩〓子歌一首
 
1548 咲く花も をそろはうとし。
 晩《おくて》なる 長き心に なほ如かずけり。
 
 奧手有 長意尓 尚不レ如家里
 
【譯】咲く花もあわてて咲くのはうとましい。おそく咲く氣の長いのには、やはり及ばなかつた。
【釋】乎曾呂波※[厭のがんだれなし] ヲソロハウトシ。ヲソロは、周章輕率《しゆうしようけいそつ》の意。咲く花も、あわてて咲くのを嫌つている。「相見者《アヒミテハ》 月毛不v經爾《ツキモヘナクニ》 戀云者《コフトイヘバ》 乎曾呂登吾乎《ヲソロトワレヲ》 於毛保寒毳《オモホサムカモ》」(卷四、六五四)。句切。
 長意尓 ナガキココロニ。ナガキココロは、氣の長いのをいう。挽歌に「庭津鳥《ニハツトリ》 可鷄乃垂尾乃《カケノタリヲノ》 亂尾乃《ミダレヲノ》 長心毛《ナガキココロモ》 不v所v念鴨《オモホエヌカモ》」(卷七、一四一三)。
【評語】秋たけて咲く花を愛している。題に晩きハギとあり、歌には花の名を云わないが、十分に秋光を浴びて、その色を輝かしている樣が思いやられる。特色のある表現の歌である。
 
典鑄正妃朝臣鹿人、至2衛門大尉大伴宿祢稻公跡見庄1作歌一首
 
典鑄の正紀の朝臣|鹿人《かびと》の、衛門の大尉大伴の宿禰|稻公《いなぎみ》の跡見《とみ》の庄に至りて作れる歌一首。
 
【釋】紀朝臣鹿人 キノアソミカビト。奈良時代末期の人(卷六、九九〇參照)。
 大伴宿祢稻公 オホトモノスクネイナギミ。大伴の安麻呂の子、坂上の郎女の同母弟。奈良時代末期の人。(卷四、五六七左註參照)。
 跡見庄 トミノタドコロ。奈良縣磯城郡の外山村とする説があるが、大伴氏の縁故からいえば、生駒郡の鳥(140)見であろう。この地は、日本書紀神武天皇の卷に、長髓彦を伐つた時に、靈鵄が下つたから、鵄《とび》の邑といい、後鳥見というとする地名起原説話がある。大伴氏の祖先が功勞を立てた地なので、領地を賜わつていたのだろう。鳥見の地の範圍は明瞭でないが、坂上の郎女のいたという坂上の里に近いことは確かである。稻公は、坂上の郎女の同母弟だから、跡見の庄にいたのだろう。
 
1549 射目《いめ》立てて 跡見《とみ》の岡邊《をかべ》の
 なでしこの花。
 ふさ手折《たを》り われは持ちゆく。
 寧樂人《ならびと》のため。
 
 射目立而《イメタテテ》 跡見乃丘邊之《トミノヲカベノ》
 瞿麥花《ナデシコノハナ》
 總手折《フサタヲリ》 吾者將去《ワレハモチユク》
 寧樂人之爲《ナラビトノタメ》
 
【譯】弓射るところを立てて獣の跡を見る。その跡見の岡邊のナデシコの花。澤山折つて、わたしは持つて行く。奈良の人のために。
【釋】射目立而 イメタテテ。枕詞。イメは、弓を射る人のかくれる場處。獵場には、射目を置いて獣の跡を見るというので、トミに冠する。「御山者《ミヤマニハ》 射目立渡《イメタテワタシ》」(卷六、九二六)。
 總手折 フサタヲリ。フサは、澤山の意の副詞。「和我勢古我《ワガセコガ》 布左多乎里家流《フサタヲリケル》 乎美奈敝之香物《ヲミナヘシカモ》」(卷十七、三九四三)。
【評語】内容も平凡だし、特に旋頭歌にしただけの效果もない。ナデシコの花の特色もなく、何の花でもよい歌だ。
 
湯原王鳴鹿歌一首
 
(141)1550 秋はぎの 散りのまがひに
 呼び立てて 鳴くなる鹿の
 聲のはるけさ。
 
 秋〓之《アキハギノ》 落乃亂尓《チリノマガヒニ》
 呼立而《ヨビタテテ》 鳴奈流鹿之《ナクナルシカノ》
 音遙者《コヱノハルケサ》
 
【譯】秋ハギの散り亂れるのに、妻を呼び立てて鳴いている鹿の聲の遠いことだ。
【釋】落乃亂尓 チリノマガヒニ。散り亂れるのに。「烏梅能波奈《ウメノハナ》 知利麻我比多流《チリマガヒタル》 乎加肥爾波《ヲカビニハ》(卷五、八三八)、「毛美知葉能《モミチバノ》 知里能麻河比波《チリノマガヒハ》 計布仁聞安留香母《ケフニモアルカモ》」(卷十五、三七〇〇)。
【評語】鹿の遠い聲を詠んでいるが、その鹿の鳴く樣を、初二句で、視覺に訴えて描いているのは、不用意である。美しい情景の歌だが、前半と後半とに食いちがいがある。
 
市原王歌一首
 
1551 時待ちて ふりし時雨の 雨止みぬ。
 明けむ朝《あした》か 山のもみちむ。
 
 待v時而《トキマチテ》 落《フリシ・フレル》鐘禮能《シグレノ》 雨令2零收1《アメヤミヌ・フリヤミテ》
 開朝香《アケムアシタカ》山之將2黄變1《ヤマノモミチム》
 
【譯】時を待つて降つたしぐれの雨がやんだ。夜のあけた朝は、多分、山は黄葉するだろう。
【釋】落鍾禮能雨令零收 フリシシグレノアメヤミヌ。
  オツルシクレノアメヤミテ(類)
  フレルシグレノアメヤメテ(代初)
  ――――――――――
  落鍾禮能零零低《フレルシグレノフリフリテ》(考)
  落鍾禮能零零奴《オツルシグレノフリフリヌ》(新訓)
雨の降りやんだとする訓法と、雨が降りに降つたとする訓法とあつて、内容からは、どちらでも通ずる。ア(142)メヤミヌとする訓は、令の字が餘分になる。フリフリヌとする訓は、字を改めねばならない。また雨令は、零の一字で、フレルシグレノフリヤミテと讀むべきであろうか。いずれであるか決定しがたい。
【評語】秋の夜を降るしぐれの雨に、明朝、山の木の葉が黄葉しているだろうと想像している。山近い里の秋の風情である。趣としては、零リ零リヌの方がよいようだ。
 
湯原王蟋蟀歌一首
 
【釋】蟋蟀歌 コホロギノウタ。蟋蟀は、蟋とのみ書いている處もある。歌の中にあつては、四音の處にのみ使われており、コホロギと讀むべきものと推考される。それは夜間、庭や床などで鳴くことが歌われており、今のコオロギをいうと考えられる。倭名類聚鈔には、「蜻※[虫+列]《セイレツ》、文字集略云《モンジシフリヤクニイフ》、蜻※[虫+列] 精列二音、古保呂岐」とあるが、蔡〓《さいよう》の月令章句《げつれいしようく》に「蟋蟀虫名《コホロギハムシノナ》、俗謂2之蜻※[虫+列]1《ゾクニコレヲセイレツトイフ》」とあつて、蟋蟀と蜻※[虫+列]と同物だから、これによつても、コホロギと讀むべきことが知られる。平安時代の歌文には、これをキリギリスと言つたのは、語が變わつたのである。また倭名類聚鈔に「蟋蟀、兼名宛云、蟋蟀、一名蛬 渠容反、又音拱、岐利々々須」とあるから、キリギリスの名も古くからあるのだろう。以上大體略解の説による。
 
1552 夕月夜《ゆふづくよ》、
 心もしのに 白露の 置くこの庭に、
 蟋蟀《こほろぎ》鳴くも。
 
 暮月夜《ユフヅクヨ》
 心毛思努尓《ココロモシノニ》 白露乃《シラツユノ》 置此庭尓《オクコノニハニ》
 蟋蟀鳴毛《コホロギナクモ》
 
【譯】夕月の夜に、心が傷まれるまでに、白露の置くこの屋前に、コオロギが鳴くことだ。
【釋】心毛思努尓 ココロモシノニ。心が感傷するほどに。わが心もなえなえと。コオロギの鳴くさまを修飾(143)している。
【評語】夕月の影さす庭前の小景が描かれている。かような情景に、感傷を覺えるまでに、心が洗煉されてきたのである。萬葉後期の代表的作品というべきである。初句の夕月夜が、全體を統制する置き方であることも注意される。
 
衛門大尉大伴宿祢稻公歌一首
 
1553 時雨の雨 間《ま》無くし零《ふ》れば、
 三笠山、
 木末《こぬれ》あまねく 色づきにけり。
 
 鐘禮能雨《シグレノアメ》 無v間零者《マナクシフレバ》
 三笠山《ミカサヤマ》
 木末歴《コヌレアマネク》 色附尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】時雨の雨が間斷なく降るので、三笠山は、木の枝先がすべて色づいたことだ。
【評語】すなおな形のよい歌で、しぐれ降る頃の感興を寫している。しかし類歌があつて、それによつたものだろう。
【参考】類歌。
  しぐれの雨間無くし降れば眞木の葉もあらそひかねて色づきにけり(卷十、二一九六)
 
大伴家持和歌一首
 
1554 皇《おほきみ》の 三笠の山の 黄葉《もみちば》は、
(144) 今日の時雨に 散りか過ぎなむ。
 
 皇之《オホキミノ》 御笠乃山能《ミカサノヤマノ》 黄葉《モミチバハ》
 今日之鍾禮尓《ケフノシグレニ》 散香過奈牟《チリカスギナム》
 
【譯】王樣のお召しになる御笠。その三笠の山の黄葉は、今日の時雨に、多分、散つてしまうことでしよう。
【釋】皇之 オホキミノ。枕詞。大君の御笠の意に三笠の山に冠する。慣用されている句。
【評語】黄葉が、今日の時雨に散つてしまうだろうというだけで、平凡な歌である。枕詞も、格別利いていない。
 
【tV】安貴王歌一首
 
【釋】安貴王 アキノオホキミ。春日の王の子、市原の王の父。奈良時代中期の人(卷三、三〇六參照)。
 
1555 秋立ちて 幾日《いくか》もあらねば、
 この宿《ね》ぬる 朝明《あさけ》の風は
 手本《たもと》寒しも。
 
 秋立而《アキタチテ》 幾日毛不v有者《イクカモアラネバ》
 此宿流《コノネヌル》 朝開之風者《アサケノカゼハ》
 手本寒母《タモトサムシモ》
 
【譯】秋になつて幾日もたたないのに、この寐た朝あけの風は、手が寒いことだ。
【釋】秋立而 アキタチテ。秋が始まつて。アキタツという語は、暦の立秋の語から來ているのだろう。
 此宿流 コノネヌル。今寐ての。寐て起きた朝あけの風にの意に。次の句に續く。
 手本寒母 タモトサムシモ。タモトは腕。袖を通して手が寒いのである。
【評語】朝の秋風が歌われている。秋の季節感が十分に成熟している。氣もちのよい清らかな歌である。
 
(145)忌部首黒麻呂歌一首
 
【釋】忌部首黒麻呂 イミベノオビトクロマロ。奈良時代中期の人(卷六、一〇〇八參照)。
 
1556 秋田刈る 假廬《かりほ》もいまだ 壞《こぼ》たねば、
 雁が音《ね》寒し。
 霜も置きぬがに。
 
 秋田苅《アキタカル》 借廬毛未v壞者《カリホモイマダコボタネバ》 鴈鳴寒《カリガネサムシ》
 霜毛置奴我二《シモモオキヌガニ》
 
【譯】秋の田を刈る假小舍もまだこわさないのに、雁の聲が寒く聞える。霜も置くほどまでに。
【釋】借廬毛未壞者 カリホモイマダコボタネバ。秋の田を刈るために設けた假の小舍も、まだこわすに至らないのに。
 霜毛置奴我二 シモモオキヌガニ。ガニは、ほどに、くらいにの意をあらわす助詞。ヌは、強意のために插入される。霜も置くほどまでに。「安要奴我爾《アエヌガニ》 花咲爾家里《ハナサキニケリ》」(卷八、一五〇七)。
【評語】秋の田園の風景が歌われている。收穫もまだ完了しないのに、既に霜も置くほどになつている驚きが描かれている。田園の情趣のある作である。
 
故郷豐浦寺之尼、私房宴歌三首
 
故郷の豐浦寺の尼の、私の房に宴せる歌三首
 
【釋】故郷豐浦寺之尼 フルサトノトヨラデラノアマ。蘇我の稻目の邸宅を寺としたもので、わが國最初の尼寺である。故郷を冠したのは、飛鳥の地にあるからであろう。
(146)私房 ワタクシノツマヤ。寺に附屬している私室である。房《ほう》は、旁室《ぼうしつ》。「房之下邇《ツマヤノシタニ》」(卷七、一二七八參照)。
 
1557 明日香河《あすかがは》 行《ゆ》き廻《み》る岡《をか》の 秋はぎは、
 今日|零《ふ》る雨に 散りか過ぎなむ。
 
 明日香河《アスカガハ》 逝廻岳之《ユキミルヲカノ》 秋〓子者《アキハギハ》
 今日零雨尓《ケフフルアメニ》 落香過奈牟《チリカスギナム》
 
【譯】明日香川の流れ廻つている岡の秋ハギは、今日降る雨に、多分、散つてしまうだろうか。
【釋】逝廻岳之 ユキミルヲカノ。明日香川が、岡を廻つて流れている。ミルは、「榜廻舟者《コギミルフネハ》」(卷三、三五七)。
【評語】寺から川を隔てた對岸の雷の岡のハギを想像して詠んでいる。秋ハギの説明に特色があるだけである。
 
右一首、丹比眞人國人
 
【釋】丹比眞人國人 タヂヒノマヒトクニヒト。奈良時代中期の人(卷三、三八二參照)。
 
1558 鶉鳴く 古《ふ》りにし郷《さと》の 秋はぎを、
 思ふ人どち 相見つるかも。
 
 鶉鳴《ウヅラナク》 古郷之《フリニシサトノ》 秋〓子乎《アキハギヲ》
 思人共《オモフヒトドチ》 相見都流可聞《アヒミツルカモ》
 
【譯】ウズラが鳴く古くなつた里の秋ハギを、思う人どうしで見たことだなあ。
【釋】鶉鳴 ウヅラナク。枕詞。古リニシ郷を敍述説明している。ウズラは、草深い處に住むから、荒れた里の説明とする。「鶉鳴《ウヅラナク》 故郷從《フリニシサトユ》 念友《オモヘドモ》」(卷四、七七五)。
 古郷之 フリニシサトノ。フリニシサトは、住む人なども多く去つて、古くなつた里をいう。ここは明日香の地が、もとの京であるをいう。
(147)【評語】 ハギの説明が、具體的であり、鶉鳴クの枕詞も、慣用から來ているのであろうが、この場合適切である。鶉とハギとが、よい情景を作つている。
 
1559 秋はぎは 盛りすぐるを、
 いたづらに 頭插《かざし》に插《さ》さず、
 還《かへ》りなむとや。
 
 秋〓子者《アキハギハ》 盛過乎《サカリスグルヲ》
 徒尓《イタヅラニ》 頭刺不v插《カザシニササズ》
 還去牟跡哉《カヘリナムトヤ》
 
【譯】秋ハギは、盛りが過ぎるのを、むだにして、頭插にも插さないで、歸ろうというのですか。
【釋】頭刺不插 カザシニササズ。カザシは、髪に插すもので、實際に時の花をさして興じた。副詞句として歸リナムトヤを修飾している。
 還去牟跡哉 カヘリナムトヤ。この下にスルの如き語が省路されている氣分である。
【評語】客が歸りをいそぐのを惜しんでいる。客は、丹比の國人で、作者は沙弥か尼のうちであろう。
 
右二首、沙弥尼等
 
【釋】沙弥尼等 サミアマドモ。當時の風習として、僧尼は、一面においては俗生活をも營んでいたのだから、その私房において、沙弥や尼が同居していても、何の不思議もない。
 
大伴坂上部女、跡見田庄作歌二首
 
大伴の坂上の郎女の、跡見の田庄にて作れる歌二首
 
【釋】跡見田庄 トミノタドコロ。一五四九の題詞の跡見の庄に同じ。大伴氏の莊園の地。
 
(148)1560 妹が目を 始見《はつみ》の埼の 秋はぎは、
 この月頃は 散りこすな、ゆめ。
 
 妹目乎《イモガメヲ》 始見之埼乃《ハツミノサキノ》 秋〓子者《アキハギハ》
 此月其呂波《コノツキゴロハ》 落許須莫湯目《チリコスナユメ》
 
【譯】あなたのお顔をおはつに見る。その始見の埼の秋ハギは、この月頃は、散つてくれるな、決して。
【釋】妹目乎 イモガメヲ。枕詞。妹が顔を始めて見るの意に、地名のハツミに冠している。「妹目乎《イモガメヲ》 見卷欲江之《ミマクホリエノ》」(卷十二、三〇二四)の例があるが、それは枕詞ではない。
 始見之埼乃 ハツミノサキノ。ハツミノサキは、跡見の近くの地名だろうが、所在未詳。
 此月其呂波 コノツキゴロハ。ツキゴロは、幾月かをいうが、ここは兩月にまたがつているのをいう。
【評語】 ハギに散るなというだけの歌で、ただそのハギの説明に特色がある。妹ガ目ヲの枕詞は、この場合、感じがよいが、作者には何かこの詞を使うだけの由縁があつたのだろう。
 
1561 吉名張《よなばり》の 猪養《ゐかひ》の山に 伏す鹿の、
 嬬《つま》呼ぶ聲を 聞くがともしさ。
 
 吉名張乃《ヨナバリノ》 猪養山尓《ヰカヒノヤマニ》 伏鹿之《フスシカノ》
 嬬呼音乎《ツマヨブコヱヲ》 聞之登聞思佐《キクガトモシサ》
 
【譯】吉名張の猪養の山にねている鹿の、妻を呼ぶ聲を聞くのはうらやましいことです。
【釋】吉名張乃猪養山尓 ヨナバリノヰカヒノヤマニ。ヨナバリは、初瀬町の東方一里の地。跡見の庄が、假に天の香具山の東方の地であるにしても、數里を隔てている。「吉隱之《ヨナバリノ》 猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》」(卷二、二〇三)。
 聞之登聞思佐 キクガトモシサ。トモシは、乏少の義から出て、珍し、賞すべくある意と、うらやましい意とに分化をとげた。しかしかような一つの句形において、どちらであるか紛らわしいような用法はなされないであろう。その本意は、乏しいことを中心として、うらやましくあり、珍重すべくある意に落ちつくものと見(149)られる。類似の用例としては「安麻能我波《アマノガハ》 許具布奈妣等乎《コグフナビトヲ》 見流我等母之佐《ミルガトモシサ》」(卷十五、三六五八)などがある。
【評語】ある人が、猪養の山に鳴く鹿の聲を聞いたというのをうらやましがつて詠んでいる。何處の鹿でもよいわけだが、猪養の山には、歴史的の連想もあつて、鳴く鹿にふさわしい地名だつたのだろう。全體としては平凡な内容の歌である。
 
巫部麻蘇娘子鴈歌一首
 
【釋】巫部麻蘇娘子 カムナギベノマソノヲトメ。傳未詳。(卷四、七〇三參照)。
 
1562 誰《たれ》聞《き》きつ。
 此間《こ》ゆ鳴き渡る 雁が音《ね》の
 嬬呼ぶ聲の ともしくもあるを。
 
 誰聞都《タレキキツ》
 從2此間1鳴渡《コユナキワタル》 鴈鳴乃《カリガネノ》
 嬬呼音乃《ツマヨブコヱノ》 之知左寸《トモシクモアルヲ》
 
【譯】誰か聞きましたか。此處を通つて鳴く雁の、妻を呼ぶ聲の珍しいのを。
【釋】誰聞都 タレキキツ。誰か聞いたかと疑つている。タレを受けては、終止形に結んでいる。「伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》」(卷五、八六九)。答の歌によれば、タレは、暗に家持をさしている。句切。
 乏知在乎 トモシクモアルヲ。
  ――――――――――
  之知左守《ユクヲシラサズ》(西)
  之方知左寸《ユクヘシラサズ》(代精)
  乏蜘在可《トモシクモアルカ》(略、宣長)
(150)  乏左右爾《トモシキマデニ》(古義)
  之知寸方《ユクヘシラズモ》(補)
  乏蜘在寸《トモシクモアリキ》(新訓)
 古本に、之知左守とあり、難訓の句である。今、乏知在乎の誤りとしトモシクモアルヲと讀む。乏を之に誤つたと見られるものは、集中に例がある。知は蜘の省畫と見るのである。珍しく賞すべくもあるがの意。
【評語】初句が、短文で獨立しているのが目立つ。明白な初句切で、集中にはすくない。結句は、不明瞭だが、全體の内容は格別の事はないらしい。
 
大伴家持和歌一首
 
1563 聞きつやと 妹が問はせる
 雁が音《ね》は、
 まことも遠く 雲|隱《がく》るなり。
 
 聞津哉登《キキツヤト》 妹之問勢流《イモガトハセル》
 鴈鳴者《カリガネハ》
 眞毛遠《マコトモトホク》 雲隱奈利《クモガクルナリ》
 
【譯】聞いたかと、あなたのお尋ねになつた雁の聲は、ほんとうにも遠く雲に慮れます。
【釋】妹之問勢流 イモガトハセル。トハセルは、問フの敬語トハスに、助動詞リの連體形の接續したもの。
【評語】問の歌に應じて、いかにも速く聞いたと答えたまでである。雁が遠く雲隱れるというあたりに、わずかな情趣が感じられる。
 
日置長枝娘子歌一首
 
(151)【釋】日置長枝娘子 ヘキノナガエノヲトメ。傳未詳。日置は、ヒオキを約してヘキという。「是大山守命者、土形君、幣岐君、榛原君等之祖也」(古事記中卷)とある幣岐《へき》の君である。長枝は名か、不明。
 
1564 秋づけば 尾花が上に 置く露の、
 消《け》ぬべくも、われは 念《おも》ほゆるかも。
 
 秋付者《アキヅケバ》 尾花我上尓《ヲバナガウヘニ》 置露乃《オクツユノ》
 應v消毛吾者《ケヌベクモワレハ》 所v念香聞《オモホユルカモ》
 
【譯】秋になり切ると、尾花の上に置く露のように、消えそうに、わたしは思われることです。
【釋】秋付者 アキヅケバ。アキヅクは、秋の性質がしみ渡るをいう。十分に秋になれば。ここは秋季の習性をいう語法。「伊麻欲里波《イマヨリハ》 安伎豆吉奴良之《アキヅキヌラシ》」(卷十五、三六五五)。
 置露乃 オクツユノ。以上三句は序詞。
【評語】露から今にも消えそうにと云つてくる形は、あまりにも類型的であり、またこの歌の主文である四五句の内容も、同樣に云い古されたことである。作者は年少で、作歌は初歩であろう。次の歌によると、家持の邸宅で詠んだようだが、邸勤めなどに始めて出てきた人だろう。多くは戀のために死んでしまいそうだという心をあらわす形の歌であるが、ここははずかしさに消え入りたいという心を詠んでいるようだ。
【參考】類歌。
  秋の田の穗の上に置ける白露の消ぬべくも吾は念ほゆるかも(卷十、二二四六)。
 
大伴家持和歌一首
 
1565 わが屋戸《やど》の 一むらはぎを
(152) 念《おも》ふ兒に 見せず、ほとほと
 散らしつるかも。
 
 吾屋戸乃《ワガヤドノ》 一村〓子乎《ヒトムラハギヲ》
 念兒尓《オモフコニ》 不v令v見殆《ミセズホトホト》
 令v散都類香聞《チラシツルカモ》
 
【譯】わたしの屋戸の一むらのハギを、思うあなたに見せないで、あぶなく散らしてしまうところだつたなあ。
【釋】不令見殆 ミセズホトホト。ホトホトは、ほとんどの古語。危くそうなる所であつた意をあらわす副詞。「殆寧樂京師乎《ホトホトニナラノミヤコヲ》 不v見歟將v成《ミズカナリナム》」(卷三、三三一)、「保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》 君香登於毛比弖《キミカトオモヒテ》」(卷十五、三七七二)。
【評語】贈られた歌に離れて答えている。娘子の歌が、あまりに型にはまつているので、氣分を變えたのだろう。一ムラハギなど、語としては珍しい。第四句に、見セズホトホトと、中間に大きな息つぎを置いたのは、格調がくずれてよくない。娘子がはじめてきた時に詠んだ歌で、ハギの花の散りかかつている頃であつたので、この歌となつたのだろう。
 
大伴家持秋歌四首
 
1566 ひさかたの 雨間《あまま》もおかず、
 雲|隱《がく》り 鳴きぞ行くなる。
 早田《わさだ》雁がね。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 雨間毛不v置《アママモオカズ》
 雲隱《クモガクリ》 鳴曾去奈流《ナキゾユクナル》
 早田雁之哭《ワサダカリガネ》
 
【譯】雨の降るまもおかずに、雲に隱れて鳴いて行くのだ。早稻の田の雁の聲は。
【釋】雨間毛不置 アママモオカズ。雨の降つているあいだもうち置かないで。「雨間毛不v置《アママモオカズ》」(卷八、一四九一參照)。(153) 早田雁之哭 ワサダカリガネ。ワサダは、早稻の田で、早稻田にいる雁がねの意であると共に、早田を刈るという意に、雁がねの序になつている。雁との縁が深いので、單なる序詞と見てはわるいし、また情趣も逸することになる。カリガネは、雁という事。ここでは聲の意が若干出ている。
【評語】雨間もおかずに鳴いて行く雁を歌つて、一往まとまつている。早田雁ガネなどの句にみずから興味を感じているのだろう。
 
1567 雲|隱《がく》り 鳴くなる雁の 去《ゆ》きて居む
 秋田の穗立《ほだち》、繁くし念《おも》ほゆ。
 
 雲隱《クモガクリ》 鳴奈流鴈乃《ナクナルカリノ》 去而將v居《ユキテヰム》
 秋田之穗立《アキタノホダチ》 繁之所v念《》シゲクシオモホユ
 
《譯》雲に隱れて鳴いている雁の往つておりるだろう秋の田の宿の立つたのが、繁く思われることだ。
《釋》去而將居ユキテヰム。連體形。
 秋田之積立 アキタ(ノ)ホゲチ。ホダチは、標が出ていること。
 繁之所念 シゲクシオモホユ。心にいつぱいに思われる。
【評語】秋田の穗立までを序詞と見る解もあるが、秋の雜歌の部に收めてあり、やはり秋の田のもようを想像して詠んだものとすべきである。「山際爾《ヤマノマニ》 渡秋沙乃《ワタルアキサノ》 往將居《ユキテヰム》 其河瀬爾《ソノカハノセニ》 浪立勿湯目《ナミタツナユメ》」(卷七、一一二二)という歌があり、その骨法を學んだ歌であろう。
 
1568 雨隱《あまごも》り 情《こころ》鬱悒《いぶせ》み 出で見れば、
 春日の山は、色づきにけり。
 
 雨隱《アマゴモリ》 情欝悒《ココロイブセミ》 出見者《イデミレバ》
 春日山者《カスガノヤマハ》 色付二家利《イロヅキニケリ》
 
【譯】雨に閉じ籠つて心がうつとうしいので、出て見ると、春日の山は色づいていた。
(154)【評語】雨の降りつづく頃のうつとうしさを開放するものとして、山の黄葉は、人生に與えられた大きな光であつた。その氣もちが、すなおに敍せられている。ある日の記録として、まとまつた作である。
 
1569 雨晴れて 清く照りたる この月夜《つくよ》、
 夜くたちにして 雲な棚引き。
 
 雨※[日+齊]而《アメハレテ》 清照有《キヨクテリタル》 此月夜《コノツクヨ》
 又更而《ヨクタチニシテ》 雲勿田菜引《クモナタナビキ》
 
【譯】雨が晴れて清らかに照らしているこの月よ。夜ふけになつて雲はたな引くな。
【釋】此月夜 コノツクヨ。夜は接尾語ふうになつており、主として月である。
 又更而 ヨクタチニシテ。又は、上の字をまた書くという意味で、夜の字に代えたもの。播磨國風土記に「田又利君鼻留《タタリノキミヒル》」とある又の字の用法に同じ。
【評語】月夜の清明を愛する氣もちがよくあらわれている。照明の乏しい時代にあつて、月を愛する心は、今日の想像以上のものがあつたであろう。現代の都會人は、月光の存在を忘れていたが、戰災などで照明を失うに及んで、その存在が再認されるようになつた。今はそれもまた忘れがちになつて行くようだ。
 
右四首、天平八年丙子秋九月作
 
【釋】天平八年 テニヒヤウノヤトセ。大伴の家持の作歌年代として、年月の明記されている最初のもの。但し單に年代の知られるものには、卷の六に、天平五年の部に、その作があり、本卷の春の雜歌に、天平四年二月の大伴の坂上の郎女の作の前に、載せられているものがある。
 
(155)藤原朝臣八束歌二首
 
1570 ここにありて 春日や何處《いづく》。
 雨障《あまざは》り いでて行かねば
 戀ひつつぞ居《を》る。
 
 此間在而《ココニアリテ》 春日也何處《カスガヤイヅク》
 雨障《アマザハリ》 出而不v行者《イデテユカネバ》
 戀乍曾乎流《コヒツツゾヲル》
 
【譯】ここにいては、春日はどちらだろう。雨に悩まされて出て行かないので、戀いながらいるのだ。
【釋】此間在而春日也何處 ココニアリテカスガヤイヅク。作者は、室内にあつて、春日の方角を何處かと求めている。春日からすこし離れた地で詠んでいるのだろう。イヅクの下にナルの如き語のある氣分である。但し國語の原形論からいえば、無い方が原形だろう。「此間在而《ココニアリテ》 筑紫也何處《ツクシヤイヅク》」(卷四、五七四)。句切。
 雨障 アマザハリ。雨に障害されることの意であるが「雨障《アマザハリ》 常爲公者《ツネスルキミハ》 久堅乃《ヒサカタノ》 昨夜雨爾《キゾノヨノアメニ》 將v懲鴨《コリニケムカモ》」(卷四、五一九)の歌意によれば、雨のために病み悩むことと考えられる。
 戀乍曾乎流 コヒツツゾヲル。春日に對して戀しているのである。
【評語】雨に籠つて春日の佳貴を思う情が歌われている。初二句は、感動的な表現で、歌意を張調するだけの效果がある。しかし實際は、春日は何處かというのは、おかしいので、前掲の「ここにありて筑紫やいづく」の句などに催されて作つたのだろう。
 
1571 春日野に 時雨ふる見ゆ。
 明日よりは 黄葉《もみち》插頭《かざ》さむ。
(156) 高圓《たかまと》の山。
 
 春日野尓《カスガノニ》 鍾禮零所v見《シグレフルミユ》
 明日從者《アスヨリハ》 黄葉頭刺牟《モミチカザサム》
 高圓乃山《タカマトノヤマ》
 
【譯】春日野に時雨の降るのが見える。明日からは黄葉をかざすだろう。高圓の山は。
【釋】黄葉頭刺牟 モミチカザサム。高圓山が黄葉するだろうの意を、擬人法で云つたもの。句切。
 高圓乃山 タカマトノヤマ。意は、明日ヨリハ黄葉カザサムの文主になるものであるが、格は、高圓の山を呼びあげて詠嘆するものである。
【評語】雨によつて、山の黄葉するだろうということを歌つたものは多いが、その中にあつて、この歌は、時雨の降るさまを視覺に訴えて確實にした所が特色である。單に時雨が降るという概念的な云い方の歌と、比較して味わうべきである。黄葉カザサムと、山を擬人化した表現は、人麻呂の吉野の宮での長歌(卷一、三八)にもあり、創始ではない。
 
大伴家持白露歌一首
1572 わが屋戸《やど》の 草花《をばな》が上の 白露を
 消《け》たずて玉に 貫《ぬ》くものにもが。
 
 吾屋戸乃《ワガヤドノ》 草花上之《ヲバナガウヘノ》 白露乎《シラツユヲ》
 不v令v消而玉尓《ケタズテタマニ》 貫物尓毛我《ヌクモノニモガ》
 
【譯】わたしの屋戸の尾花の上の白露を、消さないで玉として緒に貫くものだつたらなあ。
【釋】草花上之 ヲバナガウヘノ。この歌は、古點の歌だが、古點でも既に、草花をヲバナと讀んでいるらしい。ススキは、草の代表的なものとして、延喜式《えんぎしき》などでも草の字をもつて表示しているものがある。本集でも「秋野之《アキノノノ》 草花我末乎《ヲバナガウレヲ》 押靡而《オシナベテ》」(卷八、一五七七)、「秋野之《アキノノノ》 草花我末《ヲバナガウレニ》 鳴舌百鳥《ナクモズノ》」(卷十、二一六七)など、(157)いずれも草花をヲバナと讀むべきが如くである。
【評語】尾花に宿る白露の美を愛する歌であるが、むしろ玉を愛する心の方が主になつている。内容も、類型的で特色のない歌である。
 
大伴利上歌一首
 
【釋】大伴利上 オホトモノトシカミ。傳未詳。代匠記に、大伴の村上の誤りだろうと云つている。
 
1573 秋の雨に ぬれつつ居《を》れば、
 賤《いや》しけど、
 吾妹《わぎも》が屋戸《やど》し 念ほゆるかも。
 
 秋之雨尓《アキノアメニ》 所v沾乍居者《ヌレツツヲレバ》
 雖v賤《イヤシケド》
 吾妹之屋戸志《ワギモガヤドシ》 所v念香聞《オモホユルカモ》
 
【譯】秋の雨に濡れながらいるので、賤しいけれどもわが妻の屋戸が思われるなあ。
【釋】雖賤 イヤシケド。吾妹の屋戸と云つているが、作者は旅にあつて、妻の留守居しているわが家をかように云つたのだろう。他の人に對して謙遜しているだろう。このイヤシは、きたない、むさくるしい意に使つている。
【評語】旅に出て雨に濡れ、わが家を思う情が、率直な形で歌われている。賤シケドの一句、云い過ぎたようではあるが、實はこの歌の特色を成す所以《ゆえん》であり、わが家をなつかしく思いながら、他に對して卑下する氣もちが描かれている。
 
右大臣橘家宴歌七首
 
(158)【釋】右大臣橘家 ミギノオホキマヘツギミタチバナノイヘ。橘の諸兄の家。諸兄は、天平十年正月から十五年五月まで右大臣であつた。諸兄は、京都府綴喜郡井手町に別邸を營み、井手の左大臣と稱せられた。その邸であろう。
 
1574 雲の上に 鳴くなる雁の 遠けども、
 君に逢はむと 徘徊《たもとほ》り來つ。
 
 雲上尓《クモノウヘニ》 鳴奈流鴈之《ナクナルカリノ》 雖v遠《トホケドモ》
 君將v相跡《キミニアハムト》 手廻來津《タモトホリキツ》
 
【譯】雲の上で鳴く所の雁の聲のように、遠いけれども、あなたに逢おうと思つて、廻つて來ました。
【釋】雲上尓鳴奈流鴈之 クモノウヘニナクナルカリノ。以上二句序詞。雲中に鳴く雁の聲が遠いというので、遠ケドモを引き起している。
 手廻來津 タモトホリキツ。タモトホリは、徘徊《はいかい》、迂廻《うかい》の意であるが、ここはただ曲つている道をきた意に使つている。「春霞《ハルガスミ》 井上從直爾《ヰノヘユタダニ》 道者雖v有《ミチハアレド》 君爾將v相登《キミニアハムト》 他廻來毛《タモトホリクモ》」(卷七、一二五六)
【評語】季節の風物をもつて序として、情趣を添えている。わざわざ遠路をきたというまでの歌である。
 
1575 雲の上に 鳴きつる雁の 寒きなへ、
 はぎの下葉は もみちなむかも。
 
 雲上尓《クモノウヘニ》 鳴都流鴈乃《ナキツルカリノ》 寒苗《サムキナヘ》
 〓子乃下葉者《ハギノシタバハ》 黄變可毛《モミチナムカモ》
 
【譯】雲の上で鳴いた雁の聲の寒いおりに、ハギの下葉は、黄葉するだろうなあ。
【釋】黄變可毛 モミチナムカモ。ウツロハムカモ(類)、モミチツルカモ(代初書入)、モミチセムカモ(代精)。黄變は、他の例、動詞モミツに當てている。動詞に讀むとすれば、助動詞を補わねばならず、ツル、ヌル、ケル、ナム等が考えられるが、調子の上からは、ナムが一番やわらかい。秋八月二十日の作だから、モミ(159)チナムでもよいだろう。
【評語】雁がねの寒く鳴く頃の風情である。二つの自然現象を、ナヘで結合した形の歌で、季節の推移につれて、數種の現象が關聯してあらわれるとする思想である。
 
右二首
 
【釋】右二首。 ミギノフタツ。この下に作者の名があるべきであるが、資料か、傳來か、どこかで脱落したものと見える。外來者の作と見られる。
 
1576 この岡に 小牡鹿《をじか》履《ふ》み起し 窺狙《うかねら》ひ、
 かもかもすらく 君ゆゑにこそ。
 
 此岳尓《コノヲカニ》 小壯鹿履起《ヲシカフミオコシ》 宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》
 可聞可聞爲良久《カモカモスラク》 君故尓許曾《キミユヱニコソ》
 
【譯】この岡で壯鹿を踏み越して、窺い覘《ねら》い樣々にするように、ああもこうもすることは、あなたゆえです。
【釋】此岳尓小壯鹿履起宇加※[泥/土]良比 コノヲカニヲジカフミオコシウカネラヒ。以上三句、序詞。壯鹿をねらつて射ようとして、樣々にするという意に、カモカモスラクを引き起している。フミオコシは、隱れている處を踏み立てて鹿を起し立てるのである。ウカネラヒは、窺いねらう意。
 可聞可聞爲良久 カモカモスラク。下の聞は、原文開とあるを、代匠記に聞に改めたによる。カモカモは、カモカクモの原形で、ああもこうも。種々樣々に。スラクは、すること。
 君故尓許曾 キミユヱニコソ。キミは、橘の諸兄をさす。コソで、君ユヱニを強く指示している。
【評語】序が特殊である。主人のために、鹿を獵することなどがあつて、序に利用したのかも知れない。四五句は、作者が、何か諸兄のためにすることのあつたのを歌つているのだろう。風情の乏しい歌である。
 
(160)右一首、長門守巨曾倍朝臣津島
 
【釋】巨曾倍朝臣津島 コソベノアソミツシマ。奈良時代中期の人。「巨曾倍對馬」(巻六、一〇二四)と同じ時の作である。
 
1577 秋の野の 草花《をばな》が末《うれ》を おしなべて
 來《こ》しくもしるく 逢へる君かも。
 
 秋野之《アキノノノ》 草花我末乎《ヲバナガウレヲ》 押靡而《オシナベテ》
 來之久毛知久《コシクモシルク》 相流君可聞《アヘルキミカモ》
 
【譯】秋の野の尾花の穗先をおし靡かせて來たかいがあつて、あなたにお目にかかりました。
【釋】來之久毛知久 コシクモシルク。コシクは、過去の意のコシに、これを名詞化する助詞クの接續したもの。きたことの意。「玉拾之久《タマヒリヒシク》」(卷七、一一五三)、「背向爾宿之久《ソガヒニネシク》」(同、一四一二)の、ヒリヒシク、ネシクと同じ語法。シルクは、明白に、いちじるしく、かいがあつての意の副詞。
【評語】尾花をおし分けてきたというので、秋の風情が描かれている。遙々ときて逢つた喜びが表明されている。
 
 
1578 今朝鳴きて 行きし雁が音《ね》 寒みかも、
 この野の淺茅《あさぢ》、 色づきにける。
 
 今朝鳴而《ケサナキテ》 行之鴈鳴《ユキシカリガネ》 寒可聞《サムミカモ》
 此野乃淺茅《コノノノアサヂ》 色付尓家類《イロヅキニケル》
 
【譯】今朝鳴いて行つた雁の聲が寒いのでか、この野の淺茅は色づいたことだ。
【釋】寒可聞 サムミカモ。カモは、疑問の係助詞。五句でこれを受けて結んでいる。
【評語】雁が鳴いて淺茅が色づく。秋の景觀が平明な形で敍せられている。雁の聲と淺茅の黄葉との密接に結(161)合した風趣のある作である。
右二首、阿倍朝臣蟲麻呂。
 
【釋】阿倍朝臣蟲麻呂 アベノアソミムシマロ。奈良時代中期の人、天平勝寶四年三月卒した(卷四、六六五參照)。
 
1579 朝戸開けて もの念ふ時に
 白露の 置《お》ける秋はぎ
 見えつつ、もとな。
 
 朝扉開而《アサトアケテ》 物念時尓《モノオモフトキニ》
 白露乃《シラツユノ》 置有秋〓子《オケルアキハギ》
 所v見喚鷄本名《ミエツツモトナ》
 
【譯】朝の戸をあけて、物を思う時に、白露の置いている秋ハギが見えて、心がいたまれる。
【釋】所見喚鷄本名 ミエツツモトナ。喚鷄をツツに當てて書いているのは、追馬喚犬《ソマ》(卷十一、二六四五)などと同樣の戯書である。
【評語】起きいでて戸をあけた朝の風懷で、秋のあわれが歌われている。橘家に宿つた朝の感興であろう。
 
1580 さを鹿の 來立ち鳴く野の
 秋はぎは、
 露霜|負《お》ひて 散りにしものを。
 
 棹壯鹿之《サヲシカノ》 來立鳴野之《キタチナクノノ》
 秋〓子者《アキハギハ》
 露霜負而《ツユジモオヒテ》 落去之物乎《チリニシモノヲ》
 
【譯】壯鹿の來立つて鳴く野の秋ハギは、露霜を負つて散つてしまつたのだ。
【釋】露霜負而 ツユジモオヒテ。ツユジモは、すぐ融ける霜。ミズジモ。
(162) 落去之物乎 チリニシモノヲ。モノヲは、モノヨに同じ。
【評語】 ハギの花の散つたのを歌つたまでで、そのハギの説明も平凡というほかはない。鹿、露霜、ハギと、取り合わせが型にはまつている。
 
右二首、文忌寸馬養。
 
【釋】文意寸馬養 フミノイミキウマカヒ。續日本紀、靈龜二年四月の條に、詔して壬申の年の功臣、贈正四位の上文の忌寸|禰麻呂《ねまろ》の子正七位の下馬養等十人に田を賜うこと各差ありと見え、禰麻呂の子であることが知られる。この禰麻呂は、日本書紀天武天皇の卷に、書《ふみ》の首《おびと》根麻呂とある人であるから、文は、フミと讀むべきである。この家は、應神天皇の朝に來朝した百濟の王仁の子孫である。馬養は、その後、天平九年七月に、正六位の上から外の從五位の下を授けられ、累進《るいしん》して天平寶字元年六月に鑄錢《ちゆうせん》の長官となり、二年八月に從五位の下を授けられている。
 
天平十年戊寅秋八月二十日。
 
【釋】天平十年戊寅秋八月二十日 前掲の橘家の宴の年月を註したものである。この年月日は卷の六に「秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首」(一〇二四)とあるものと一致しており、同時の作を、季の無いものを卷の六に、季のあるものをこの卷に分ち載せたことが知られる。これによつても卷の六と八との關係が推察されよう。
 
橘朝臣奈良麻呂結集宴歌十一首
 
橘の朝臣奈良麻呂の結集せる宴の歌十一首
 
(163)【釋】橘朝臣奈良麻呂 タタイバナノアソミナラマロ。橘の諸兄の第一子、天平寶字元年七月、政變を起して死んだ(卷六、一〇一〇參照)。橘氏は、天平八年十一月、橘の宿禰の姓を賜い、天平勝寶二年正月、朝臣の姓を賜わつた。ここには前に溯《さかのぼ》らせて朝臣の姓を書いている。その家は、奈良山近くにあつたことが、歌によつて知られる。
 結集宴歌 ケチジフセルウタゲノウタ。結集は熟字。漢籍に見える語を、そのままに使用したのだろう。
 
1581 手《た》折らずて 散りなば惜しと
 わが念ひし
 秋の黄葉《もみち》を かざしつるかも。
 
 不2手折1而《タヲラズテ》 落者惜常《チリナバヲシト》
 我念之《ワガオモヒシ》
 秋黄葉乎《アキノモミチヲ》 插頭鶴鴨《カザシツルカモ》
 
【譯】手折らないで散つたら惜しいとわたしの思つた秋の黄葉をかざしたことだなあ。
【評語】折らないで散つたら惜しいと思つた黄葉を、今日の集宴によつて、手折つてかざしにした。その喜びを歌つている。黄葉の説明が丁寧で、感激が大きく出てこない。
 
1582 めづらしき 人に見せむと、
 黄葉《もみちば》を 手《た》折りぞわが來《こ》し。
 雨の降《ふ》らくに。
 
 希將見《メヅラシキ》 人尓令v見跡《ヒトニミセムト》
 黄葉乎《モミチバヲ》 手折曾我來師《タヲリゾワガコシ》
 雨零久仁《アメノフラクニ》
 
【譯】めずらしいお方に見せようと、わたしは黄葉を手折つてきました。雨の降るのに。
【釋】希將見 メゾラシキ。希は、原文、布とあるのを、略解によつて改めた。「本人《モトツヒト》 霍公鳥乎八《ホトトギスヲヤ》 希將見《メヅラシミ》」(卷十、一九六二)、「希將見《メヅラシキ》 君乎見常衣《キミヲミムトゾ》」(卷十一、二五七五)、「穢者雖v爲《ナレハスレドモ》 益希將見裳《イヤメヅラシモ》」(同、二六二三)(164)など、數出している字面で、稀に見むの義をもつて、メヅラシに當てている。そこでメヅラシは、この字義通り、常に見ない意で、珍重すべくある意に、敬愛の意を表している。「希見、謂2梅豆羅志《メヅラシ》1」(肥前國風土記)。
 手折曾我來師 タヲリゾワガコシ。ゾは、手折りを強く指示する。わが手折り來しである。句切。
【評語】山から採つて來た黄葉の大きな枝が插されていたであろう。主人奈良麻呂が、それを客人に誇示した歌。雨ノ降ラクニで、その折つて來た時の状が描かれている。
 
右二首、橘朝臣奈良麻呂。
 
1583 黄葉《もみちば》を 散らす時雨に ぬれて來て、
 君が黄葉《もみち》を かざしつるかも。
 
 黄葉乎《モミチバヲ》 令v落鍾禮尓《チラスシグレニ》 所v沾而來而《ヌレテキテ》
 君之黄葉乎《キミガモミチヲ》 插頭鶴鴨《カザシツルカモ》
 
【譯】黄葉を散らす時雨の中を濡れて來て、あなたの折つてきた黄葉をかざしにしたことです。
【釋】黄葉乎令落鍾禮尓 モミチバヲチラスシグレニ。秋すでに深くなつて、黄葉が時雨に濡れてはらはらと散る意。
【評語】メヅラシキ人ニ見セムトの歌に答えたもの。客も時雨に濡れてきて、主人の折つた黄葉の小枝をかざしにしたのである。事實を平敍して趣があるのは、事柄そのものに風情があるからである。
 
右一首、久米女王。
 
【釋】久米女王 クメノオホキミ。系統未詳。續日本紀に、天平十七年正月、無位から從五位の下を授けられている。
 
(165)1584 めづらしと わが思ふ君は、
 秋山の 初黄葉《はつもみちば》に
 似てこそありけれ。
 
 希將見跡《メヅラシト》 吾念君者《ワガオモフキミハ》
 秋山乃《アキヤマノ》 始黄葉尓《ハツモミチバニ》
 似許曾有家禮《ニテコソアリケレ》
 
【譯】めずらしいとわたくしの思うあなたは、秋山の初黄葉に似ていらつしやいます。
【釋】希將見跡 メヅラシト。希は、原文、布。略解によつて希に改めること、一五八二に同じ。
【評語】主人を初黄葉に譬えたのは、その賞美すべき風格をいうのである。眞向から褒めた形で、表現にはあやがない。
 
右一首、長忌寸娘。
 
【釋】長忌寸娘 ナガノイミキノヲトメ。娘とあるのは、娘子に同じであること、孃と孃子、女と女子、郎と郎子との關係の如きであろう。この人、傳未詳。
 
1585 奈良山の 峯の黄葉《もみちば》 取れば散る。
 時雨の雨し 間《ま》無く降るらし。
 
 平山乃《ナラヤマノ》 峯之黄葉《ミネノモミチバ》 取者落《トレバチル》
 鍾禮能雨師《シグレノアメシ》 無v間零良志《マナクフルラシ》
 
【譯】奈良山の峯の黄葉を取れば散る。時雨の雨が間斷なく降るらしい。
【釋】平山乃峯之黄葉 ナラヤマノミネノモミチバ。奈良山から折り取つてきた黄葉で、奈良麻呂の歌に應じている。奈良山は黄葉の出所をいう。
 取者落 トレバチル。手に取れば、たやすく散る。三句切である。
(166)【評語】手にすれば散る黄葉に對して、奈良山に時雨の降る有樣を推量している。目前の事を敍して山の自然の景觀に及んでいる。
 
右一首、内舍人縣犬養宿祢吉男。
 
【釋】縣犬養宿祢吉男 アガタノイヌカヒノスクネヨシヲ。奈良時代中期の人。正倉院文書に、天平勝寶二年正月八日の但馬の國司の解に、正六位の上の椽として署名している。その後、天平實字二年八月、正六位の上から從五位の下を授けられ、五月、肥前の守となり、天平寶字五年には上野の介、天平寶字八年十月、伊豫の介となつた。縣の犬養氏は、諸兄の母橘の三千代の家であるから、親族になる。
 
1586 黄葉《もみちば》を 散らまく惜しみ
 手折り來て 今夜《こよひ》かざしつ。
 何か念《おも》はむ。
 
 黄葉乎《モミチバヲ》 落卷惜見《チラマクヲシミ》
 手折來而《タヲリキテ》 今夜插頭津《コヨヒカザシツ》
 何物可將v念《ナニカオモハム》
 
【譯】黄葉の散るのが惜しさに、折つて來て、今夜かざしにした。何も思うことはない。
【評語】黄葉を插頭して興じている有樣が歌われている。率直な表現である。
 
右一首、縣犬養宿祢持男。
 
【釋】縣犬養宿祢持男 アガタノイヌカヒノスクネモチヲ。傳未詳。吉男の近親であろうか。
 
(167)1587 あしひきの 山の黄葉《もみちば》、
 今夜《よこよひ》もか 浮び去《い》ぬらむ。
 山川の瀬に。
 
 足引乃《アシヒキノ》 山之黄葉《ヤマノモミチバ》
 今夜毛加《コヨヒモカ》 浮去良武《ウカビイヌラム》
 山河之瀬尓《ヤマガハノセニ》
 
【譯】山の黄葉は、今夜は、浮いて流れてゆくだろうか。山川の瀬に。
【釋】今夜毛加 コヨヒモカ。モは強意のために添えるので、今夜に集中した云い方。
【評語】これは山の黄葉の流れてゆくだろうということに集中している。それも採つてきた黄葉のはらはらと散るのを背景にしての想像である。すなおな作品というべきである。
 
1588 奈良山を にほはす黄葉《もみち》、
 手《た》折り來て 今夜《こよひ》かざしつ。
 散らば散るとも。
 
 平山乎《ナラヤマヲ》 令v丹黄葉《ニホハスモミチ》
 手折來而《タヲリキテ》 今夜插頭都《コヨヒカザシツ》
 落者雖v落《チラバチルトモ》
 
【譯】奈良山を美しく染めている黄葉を折つてきて、今夜かざしにした。もう散るなら散つてもよい。
【釋】令丹黄葉 ニホハスモミチ。ニホスモミチハ(矢)。令丹は、赤くさせる、美しい色にさせるの意と見られる。ニホに、しばしば丹穗の字をあててあるように、赤色の意の體言であるならば、體言にフをつけて動詞とする例があるから、ニホスの語もあるべきである。「丹穗之爲衣丹《ニホハシシキヌニ》」(卷十六、三七九一)もニホシシキヌニとも讀まれている。
 落者雖落 チラバチルトモ。今は散るともよしの意。
【評語】梅花を詠んで、散リヌトモヨシと歌つた歌が敷首あり、そういう歌が歌い傳えられていたものと推量(168)されるが、これもその應用で、梅を黄葉に代えただけである、すべてこれらの宴歌は、その席上で歌われたものと思われるので、從來の歌の影響を受けることが多いのである。
 
右一首、三手代人名。
 
【釋】三手代人名 ミテシロノヒトナ。傳未詳。人名は、名である。正倉院文書に、御手代の乎伎波都がある。
 
1589 露霜に あへる黄葉《もみち》を
 手《た》折り來て 妹がかざしつ。 
 後は散るとも。
 
 露霜尓《ツユジモニ》 逢有黄葉乎《アヘルモミチヲ》
 手折來而《タヲリキテ》 妹總頭都《イモガカザシツ》
 後者落十方《ノチハチルトモ》
 
【譯】露霜に逢つた黄葉を折つてきて、あなたは總頭にした。これからは散つてもよい。
【釋】露霜尓逢有黄葉乎 ツユジモニアヘルモミチヲ。露霜に逢つた今にも散りそうになつている黄葉を。
 妹插頭都 イモガカザシツ。イモは、その席上にいる女子をいう。句切。
 後者落十方 ノチハチルトモ。插頭にしてこれを賞したのだから、以後は散つてもよいの意。
【評語】これも前の歌と同樣の趣である。妹ガカザシツの句に、席上の描寫があるのを可とする。
 
右一首、秦許遍麻呂。
 
【釋】秦許遍麻呂 ハダノコヘマロ。傳未詳。
 
1590 十月《かむなづき》、
(169) 時雨に逢へる 黄葉《もみちば》の
 吹かば散りなむ。
 風の、まにまに。
 
 十月《カムナヅキ》
 鍾禮尓相有《シグレニアヘル》 黄葉乃《モミチバノ》
 吹者將v落《フカバチリナム》
 風之隨《カゼノマニマニ》
 
【譯】十月だ。時雨に逢つた黄葉が、風が吹いたら散るだろう。風に任せて。
【釋】十月 カムナヅキ。名義はわからない。神嘗月で、新穀で神を祭る月の義か。この句は、一首全體の季節を提示するもので、獨立句である。
 吹者將落 フカバチリナム。突然吹カバと云うのは、次に風ノマニマニとあるのに讓つたのである。句切。
【評語】今にも散りそうな黄葉をよく描いている。四句に風をいわないで吹カバといい、五句に風ノマニマニと云つたのは、巧みを弄《ろう》している。
 
右一首、大伴宿祢池主。
 
【釋】大伴宿祢池主 オホトモノスクネイケヌシ。奈良時代中期の人、卷の十七以下に歌や詩文を多く傳えている。その記事によれば、天平十八年に、大伴の家持が越中の守として赴任《ふにん》した時に越中の椽であり、二十一年三月、越前の椽に轉じ、天平勝寶五年、左京の少進となつて大和に歸つた。天平十年の駿河國正統帳《するがのくにしようぜいちよう》(大日本古文書二ノ一〇七)にょれば、覓珠玉使春宮坊《まくしゆぎよくしとうぐうぼう》の少屬として從七位の下の位にあつて、その前年天平九年に、駿河の國を通過したことが傳えられる。續日本紀天平寶字元年の、橘の奈良麻呂の亂に、これに加擔した人名の中に、その名が見えるが、その後どうなつたかはわからない。
 
(170)1591 黄葉の 過ぎまく惜しみ
 思ふどち 遊ぶ今夜は、
 明けずもあらぬか。
 
 黄葉乃《モミチバノ》 過麻久惜美《スギマクヲシミ》
 思共《オモフドチ》 遊今夜者《アソブコヨヒハ》
 不v開毛有奴香《アケズモアラヌカ》
 
【譯】黄葉の過ぎるのを惜しんで、親しい人々の遊ぶ今夜は、明けないでいないかなあ。
【釋】不開毛有奴香 アケズモアラヌカ。ヌカは打消の疑問で、希望になる。
【評語】黄葉を惜しんで人々の遊ぶ今夜の明けないようにと願つている。敍述に格別の事はないが、歡をつくしている樣は窺われる。
 
右一首、内舍人大伴宿祢家持。
 
【釋】内舍人大伴宿祢家持 ウチノトネリオホトモノスクネヤカモチ。家持について、内の舍人と記した最初の年代のものである。
 
以前、冬十月十七日、集2於右大臣橋卿之舊宅1宴飲也。
 
以前は、冬十月十七日に、右の大臣橘の卿の舊宅に集ひて宴飲せり。
 
【釋】冬十月十七日 フユカムナヅキトヲカアマリナヌカ。前掲の橘の奈良麻呂の招集した宴の日附である。作歌の月日は冬であるのに、秋の雜歌に收めたのは、黄葉の歌だからで、黄葉について、秋の觀念が成立していたことが知られる。
 
(171)大伴坂上郎女、竹田庄作歌二首
 
【釋】竹田庄 タケダノタドコロ。竹田は、奈良縣|磯城郡耳成村《しきぐんみみなりむら》。この地は、日本書紀神武天皇の卷に、「皇師立詰之處《ミイクサノタケビシトコロ》、是謂2猛田1《コレヲタケダトイフ》」とあつて、大伴氏の祖先の功勞を立てた地であるから、大伴氏の領地があつたのだろう。
 
1592 然あらぬ 五百代小田《いほしろをだ》を 刈り亂《みだ》り、
 田廬《たぶせ》に居《を》れば 京師《みやこ》し念《おも》ほゆ。
 
 然不v有《シカアラヌ》 五百代小田乎《イホシロヲダヲ》 苅亂《カリミダリ》
 田廬尓居者《タブセニヲレバ》 京師所v念《ミヤコシオモホユ》
 
【譯】さほどでもない五百代の田を刈り亂して、田舍家にいると、都が思われる。
【釋】然不有 シカアラヌ。シカアルの打消。それほどにない。シカトアラヌと讀む説(代初)が行われているが、「波之寸八師《ハシキヤシ》 志賀在戀爾毛《シカアルコヒニモ》 有之鴨《アリシカモ》」(卷十二、三一四〇)の如く、シカアルの語があり、かつここにはトに當る文字がないのだから、シカアラヌと讀むがよい。この句は、次句の五百代小田を修飾する。
 五百代小田乎 イホシロヲダヲ。シロは、田地の面積をいう語。令の制では、三百六十歩を一段とし、これを五十代とする。拾芥抄《しゆうかいしよう》には七十二歩を十代とするとある。一歩は一坪である。五百は概數であるが、假に文字通り解すれば、五百代の田は、令制で十段だから、大伴氏のような大族に取つて、さして廣い領地ということではない。それで、シカアラヌを冠して、何ほどでもない田というのである。
 苅亂 カリミダリ。刈り散らしてぐらいの感じである。收穫にいそがしい有樣を述べている。
 田廬尓居者 タブセニヲレバ。タブセは、田園の廬。謙遜的な表現である。「田廬者、多夫世(ノ)反(ナリ)」(卷十六、三八一七)。
(172)【評語】田舍に住んで都戀しい氣もちを詠んでいる。收穫時なので、その田庄に行つていたのであろう。田園の秋の行事に觸れているが、それに對する貴族らしい感じが、敍述のうちに見えている。
 
1593 こもりくの 泊瀬《はつせ》の山は 色づきぬ。
 時雨の雨は 零《ふ》りにけらしも。
 
 隱口乃《コモリクノ》 始瀬山者《ハツセノヤマハ》 色附奴《イロヅキヌ》
 鍾禮乃雨者《シグレノアメハ》 零尓家良思母《フリニケラシモ》
 
【譯】山に圍まれた泊瀬の山は、色づいた。時雨の雨は、降つたらしい。
【釋】隱口乃 コモリクノ。枕詞。
【評語】竹田の庄あたりからは、泊瀬の山は、東方遙かに見える。その山色の黄變しているのを詠んだので、多分西方の光を受ける午後の作だろう。平凡といえば平凡だが、よく自然を描いている。三句切の歌。
 
右、天平十一年己卯秋九月作。
 
佛前唱歌一首
 
【釋】佛前唱歌 ホトケノミマヘノサウガ。佛前で歌われた歌で、その事情は、歌の左註に傳えられている。本卷の他の歌が、多くは文筆的な成立過程を有しているのに對して、佛前唱歌とあるのは注意すべきである。
 
1594 時雨の雨 間《ま》無くな零《ふ》りそ。
 紅《くれなゐ》に にほへる山の
 散らまく惜しも。
 
 思具禮能雨《シグレノアメ》 無v間莫零《マナクナフリソ》
 紅尓《クレナヰニ》 丹保敝流山之《ニホヘルヤマノ》
 落卷惜毛《チラマクヲシモ》
 
【譯】時雨の雨よ、そんなに間斷なく降るな。紅に美しく染つた山の散るのが惜しいことだ。
(173)【釋】紅尓丹保敝流山之 クレナヰニニホヘルヤマノ。山の草木のくれない色に美しく染まつた山が。
【評語】秋の自然美を愛した歌であるが、これを佛前の唱歌に使つたのは、無常觀の意味でであろう。無常のおとずれを、時雨の雨に譬えているといえる。そういう意味に解すれば、表現が露骨でなくて、極めて感じがよい。佛前の唱歌として、自然に題材を取つた歌を使用したのは、美しい。
 
右、冬十月、皇后宮之維摩講、終日供2養大唐高麗等種々音樂1、爾乃唱2此歌詞1。彈琴者、市原王、忍坂王【後賜v姓大原眞人赤麻呂也。】歌子者、田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連長谷等十數人也。
 
右は、冬十月、皇后《おほぎきき》の宮の維摩講《ゐまこう》に、終日《ひねもす》大唐《もろこし》高麗《こま》等の音樂を供養し、すなはちこの歌詞《うた》を唱《うた》ひき。彈琴《ことびき》は、市原の王、忍坂《おさか》の王【後姓を賜へる大原眞人赤麻呂なり。】歌子《うたびと》は田口の朝臣|家守《やかもり》、河邊の朝臣|東人《あづまびと》、置始《おきそめ》の連|長谷《はつせ》等十數人なり。
 
【釋】冬十月 フユカムナヅキ。これも冬のことであるが、紅葉を詠んだ歌なので、秋に收めたのであろう。
 皇后宮之維摩講 オホギサキノミヤノヰマコウ。オホギサキは、光明皇后。維摩講は、維摩經を講ずる法會で、藤原の鎌足が興福寺でこれを始めた。十月十日に始まり、十六日に講じ了る。
 忍坂王 オサカノオホキミ。系統未詳。天平寶字五年正月、無位から從五位の下を授けられた。下の註に、後に姓を賜わる大原の眞人赤麻呂とある。歌は傳わらない。
 歌子 ウタビト。歌い手である。
 田口朝臣家守 タグチノアソミヤカモリ。傳未詳。
 河邊朝臣東人 カハベノアソミアヅマビト。既出。(卷六、九七八參照)。
(174) 置始連長谷 オキソメノムラジハツセ。傳未詳。卷の二十に歌がある(四三〇二)。
 
大伴宿祢像見歌一首
 
【釋】大伴宿祢像見 オホトモノスクネカタミ。奈良時代末期の人(卷四、六六四參用)。
 
1595 秋はぎの 枝もとををに 降《お》く露の、
 消《け》なば消《け》ぬとも、色にいでめやも。
 
 秋〓子乃《アキハギノ》 枝毛十尾二《エダモトヲヲニ》 降露乃《オクツユノ》
  消者雖v消《ケナバケヌトモ》 色出目八方《イロニイデメヤモ》
 
【譯】秋ハギの枝もたわむまでに置く露のように、消えるなら消えても表に現さないだろう。
【釋】秋〓子乃枝毛十尾二降露乃 アキハギノエダモトヲヲニオクツユノ。以上三句、序詞。譬喩によつて、消ナバ消ヌトモを引き起している。トヲヲニは、たわむさまを形容する副詞。降の字は、露を天から下降するものとして書いている。
 消者雖消 ケナバケヌトモ。死ぬなら死んでもの意。
【評語】露から消えるのを引き起してくるのは、類型的であり、内容も型にはまつている。色ニイデメヤモあたりに、強い調子が窺えるだけである。この歌、秋の雜歌に收めてあるが、内容からいえば、相聞の部に收めるのを妥當とする。
 
大伴宿祢家持、到2娘子門1作歌一首
 
【釋】娘子門 ヲトメガカド。ヲトメは、誰とも知られない。
 
(175)1596 妹が家の 門田を見むと
 うちいで來し
 情《こころ》もしるく、照る月夜《つくよ》かも。
 
 妹家之《イモガイヘノ》 門田乎見跡《カドタヲミムト》
 打出來之《ウチイデコシ》
 情毛知久《ココロモシルク》 照月夜鴨《テルツクヨカモ》
 
【譯】あなたの家の門邊の田を見ようと思つて出てきたかいがあつて、照つている月だなあ。
【釋】妹家之 イモガイヘノ。イモはもちろん娘子をさすが、愛稱で、二人稱、三人稱を兼ねている。
 打出來之 ウチイデコシ。ウチは接頭語。家を出てきた。
 情毛知久 ココロモシルク。出てきた心に、そのかいがあつて。
【評語】妹が家をおとずれようとして、門田ヲ見ムトと歌つているのは、手段で、よく情景を描くに足りる。五句に月夜を出して結んだのも巧みである。家持初期の作品中で、上乘の作である。この歌も、むしろ相聞の歌とすべきである。
 
大伴宿祢家持秋歌三首
 
1597 秋の野に 咲ける秋はぎ、
 秋風に 靡ける上に 秋の露置けり。
 
 秋野尓《アキノノニ》 開流秋〓子《サケルアキハギ》
 秋風尓《アキカゼニ》 靡流上尓《ナビケルウヘニ》
 秋露置有《アキノツユオケリ》
 
【譯】秋の野に咲いている秋ハギが、秋風に靡いている上に秋の露が置いている。
【評語】一首の中に、同語同音を重ねることは、口誦歌謠の時代に發達したものであり、文筆時代にはいつて衰えた。文筆作品においては、その效果がすくなくなつたからである。家持が、ここにかような作を試みたの(176)は、一は懷古的な興味であり、また一方では、漢詩における同字使用の法に刺戟されもしたものである。文筆作品の歌としては、遊戯性が強くなつて、眞實感を薄弱にする。秋の野、秋ハギ、秋風などは、熟語として廣く使われているからともかく、秋の露の如きは、ここでは、秋の冠詞は蛇足である。
 
1598 さを鹿の 朝立つ野邊の 秋はぎに、
 玉と見るまで おける白露。
 
 棹壯鹿之《サヲシカノ》 朝立野邊乃《アサタツノベノ》 秋〓子尓《アキハギニ》
 玉跡見左右《タマトミルマデ》 置有白露《オケルシラツユ》
 
【譯】壯鹿の朝立つ野邊の秋ハギに、玉と見るまでに置いている白露よ。
【評語】秋の野を説明した概念的な歌だ。サヲ鹿ノ朝立ツ野邊も佳句には違いないが、この場合は、想像で説明しているのであつて、實感を伴なわない。
 
1599 さを鹿の 胸別《むなわけ》にかも、
 秋はぎの 散り過ぎにける。
 盛りかも去《い》ぬる。
 
 狹尾壯鹿乃《サヲシカノ》 胸別尓可毛《ムナワケニカモ》
 秋〓子乃《アキハギノ》 散過鷄類《チリスギニケル》
 盛可毛行流《サカリカモイヌル》
 
【譯】男鹿が胸で別けるためにか、ハギが散つてしまつたのか。それとも盛りが過ぎ去つたのか。
【釋】胸別尓可毛 ムナワケニカモ。ムナワケは、胸で野原の草を押し分けること。同じ作者の歌に「麻須良男乃《マスラヲノ》 欲妣多天思加婆《ヨビタテシカバ》 左乎之加能《サヲシカノ》 牟奈和氣由加牟《ムナワケユカム》 安伎野波疑波良《アキノハギハラ》」(卷二十、四三二〇)。カモは、疑問の係助詞で、四句の散リ過ギニケルが、これを受けて結んでいる。
【評語】鹿の胸別でハギの花が散つたのかというのが特色で作者も得意のところらしい。兩頭に疑問を置いてその一に空想をたくましくする手段は、往々にして見受けられる。「吾妹子を去來見《いざみ》の山を高みかも大和の見(177)えぬ。國遠みかも」(卷一、四四)、「筑波嶺に雪かも降らる。否をかもかなしき兒ろが布乾さるかも」(卷十四、三三五一)の如きは、兩頭疑問の例で、後者は、その一方に空想をほしいままにしている。
 
右、天平十五年癸未秋八月、見2物色1作。
 
【釋】見物色作 モノノイロヲミテツクレル。物色は熟字で、風物に同じ。「物色人ヲ輕ミセムトハ」(卷十七、三九六七前文)、「物色ノ變化ヲ悲ビ怜《アハレ》ビテ作レル」(卷二十、四四八四左註)。
 
内舍人石川朝臣廣成歌二首
 
【釋】石川朝臣廣成 イシカハノアソミヒロナリ。奈良時代末期の人。(卷四、六九六參照。)
 
1600 妻戀に 鹿《か》鳴《な》く山邊の 秋はぎは、
 露霜寒み、盛り過ぎ行く。
 
 妻戀尓《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》 秋〓子者《アキハギハ》
 露霜寒《ツユジモサムミ》 盛須凝由君《サカリスギユク》
 
【譯】妻を戀うて鹿の鳴く山邊の秋ハギは、露霜が寒いので、盛りが過ぎて行く。
【釋】鹿鳴山邊之 カナクヤマベノ。鹿は、通例シカというが、カとのみも言つたらしい。假字書きの例は無いが、鹿の字を當ててある中に、一音に讀むべきかと思われるものがある。しかし例は多くはなく、カコ(鹿子)の如きを別としては、「要戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》」(卷八、一六〇二)、「秋〓子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマトフカコソ》」(卷九、一七九〇)の例がある程度に過ぎない。
【評語】鹿、ハギ、露霜という取り合わせは平凡だが、よく纏まつて秋の山邊の情趣を描いている。秋ハギの説明も、鹿の聲を出しているだけに、不自然に感じない。
 
         (178)1601 めづらしき 君が家なる 花すすき、
 穗にいづる秋の 過ぐらく惜しも。
 
 目頬布《メヅラシキ》 君之家有《キミガイヘナル》 波奈須爲寸《ハナススキ》
 積出秋乃《ホニイヅルアキノ》 過良久惜母《スグラクヲシモ》
 
【譯】親愛なるあなたの家の花ススキの、標に出る秋の過ぎるのが惜しいことですね。
【釋】波奈須爲寸 ハナススキ。花に出るススキ。ハナススキの語は、集中唯一の用例である。
【評語】人のもとをおとずれての作で、それは家持の邸であるかも知れない。過ぎゆく秋を惜しむ歌として、花ススキを取りあげたのが注意される。
 
大伴宿祢家持鹿鳴歌二首
 
【釋】鹿鳴歌 シカノネノウタ。鹿鳴は、鹿の聲の意で使用している。一五五〇の歌の題詞には「湯原王鳴鹿歌一首」とある。
 
1602 山彦の 相|響《とよ》むまで
 妻戀ひに 鹿《か》鳴く山邊に、
 ひとりのみして。
 
 山妣姑乃《ヤマビコノ》 相響左右《アヒトヨムマデ》
 妻戀尓《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊尓《カナクヤマベニ》
 獨耳爲手《ヒトリノミシテ》
 
【譯】山の木靈《こだま》の響くまでに、妻戀いに鹿の鳴く山邊にひとりだけであつて。
【釋】山妣姑乃相響左右 ヤマビコノアヒトヨムマデ。山の反響のするまでに。鹿の鳴く聲の反響である。
 獨耳爲手 ヒトリノミシテ。この下にいるの意の語が省略されている。
【評語】平易に歌いきつている。五句の留め方は、含みを持たせている。妻戀ヒニ鹿鳴ク山邊の句は、前の石(179)川の廣成の歌を受けて模倣したものかも知れない。
 
1603 この頃の 朝けに聞けば、
 あしひきの 山呼びとよめ
 さを鹿鳴くも。
 
 頃者之《コノゴロノ》 朝開尓聞者《アサケニキケバ》
 足日木箆《アシヒキノ》 山呼令v響《ヤマヨビトヨメ》
 狹尾壯鹿鳴哭《サヲシカナクモ》
 
【譯】この頃の朝明けに聞けば、山を呼びひびかせて壯鹿が鳴くなあ。
【釋】山呼令響 ヤマヨビトヨメ。山を響かせて、ヨビは、鹿の鳴き立てるをいう。
 狹尾壯鹿鳴哭 サヲシカナクモ。哭の字は、喪には泣くので、意をもつてモに當てている。「鳴鳥之《ナクトリノ》 止者繼流《ヤメバツガルル》 戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》」(卷三、三七三)の例も、助詞モに使つている。
【評語】朝明けに鳴く鹿を敍して、寫實的であるのがよい。秋の朝の空氣が感じられる作である。
 
右二首、天平十五年癸未秋八月十六日作。
 
大原眞人今城、傷2惜寧樂故郷1歌一首
 
大原の眞人|今城《いまき》の、寧樂《なら》の故郷《ふるさと》を傷み惜しむ歌一首
 
【釋】大原眞人今城 オホハラノマヒトイマキ。もと今城の王といい、後、大原の眞人を賜わつて大原の眞人今城と稱した。奈良時代末期の人。「今城王」(卷四、五三七)參照。
 寧樂故郷 ナラノフルサト。天平十二年十二月に、久邇の京に遷都して後、寧樂の京は、故郷となつて荒廢した。寧樂は、奈良に同じ。
 
(180)1604 秋されば 春日の山の 黄葉《もみち》見る
 寧樂《なら》の京師《みやこ》の 荒るらく惜しも。
 
 秋去者《アキサレバ》 春日山之《カスガノヤマノ》 黄葉見流《モミチミル》
 寧樂乃京師乃《ナラノミヤコノ》 荒良久惜毛《アルラクヲシモ》
 
【譯】秋になると、春日の山の黄葉を見る、寧樂の京の荒れるのが惜しいなあ。
【評語】秋サレバ春日ノ山ノ黄葉見ルの句は、奈良の京の自然美をよく描いている。春日の山の黄葉に親しんでいた奈良の京の生活が思われる。しかしこれは奈良の京の代表的な説明として擧げたので、この歌の詠まれたのは、かならずしも黄葉の頃とはいえない。
 
大伴宿祢家持歌一首
 
1605 高圓《たかまと》の 野邊の秋はぎ、
 この頃の 曉露《あかときつゆ》に 咲きにけむかも。
 
 高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋〓子《ノベノアキハギ》
 比日之《コノゴロノ》 曉露尓《アカトキツユニ》 開兼可聞《サキニケムカモ》
 
【譯】高圓の野邊の秋ハギは、この頃の曉の露で咲いたであろうかなあ。
【評語】高圓の野の秋ハギを推量しただけの歌であるが、すなおに歌つてあるのがよい。コノ頃ノ曉露ニの句が、多少の情趣を宿している。久邇の京にいて、高圓の野を思つて詠んだのだろう。
 
秋相聞
 
【釋】秋相聞 アキノサウモニ。秋の相聞の歌としては、長歌一首、短歌二十八首、旋頭歌一首を收めている。短歌のうち一首は、二人で半分ずつ作つたもので、後世の連歌のような製作状態である。夏六月の作が二首あ(181)り、また卷の四に載せた歌の重出しているものが、二首ある。
 
額田王、思2近江天皇1作歌一首
 
額田の王の、近江《あふみ》の天皇を思《しの》ひまつりて作れる歌一首
 
【釋】額田王思近江天皇作歌一首 ヌカダノオホキミノアフミノスメラミコトヲシノヒマツリテツクレルウタヒトツ。以下二首は、卷の四の四八八、四八九に重出している。題詞は全く同じであり、歌の用字に小異があるだけで、同一の資料から出ているものと考えられる。今、卷の四の原文を次に載せておく。
【參考】重出。
   額田王、思2近江天皇1作歌一首
  君待登《キミマツト》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 我屋戸之《ワガヤドノ》 簾動之《スダレウゴカシ》 秋風吹《アキノカゼフク》(卷四、四八八)
   鏡王女作歌一首
 
(182)風乎太爾《カゼヲダニ》 戀流波乏之《コフルハトモシ》 風小谷《カゼヲダニ》 將v來登時待者《コムトシマタバ》 何香將v嘆《ナニカナゲカム》」(同、四八九)
 
1606 君待ツと わが戀ひをれば、
 わが星戸の すだれ動《うごか》し
 秋の風吹く。
 
 君待跡《キミマツト》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》
 我屋戸乃《ワガヤドノ》 簾令v動《スダレウゴカシ》
 秋之風吹《アキノカゼフク》
 
【譯】君のお出でを待つてわたくしが戀しておりますと、わたくしの家の戸口の簾を動かして秋風が吹いています。
 
鏡王女作歌一首
 
1607 風をだに 戀ふるはともし。
 風をだに 來《こ》むとし待たば、
 何か嘆かむ。
 
 風乎谷《カゼヲダニ》 戀者乏《コフルハトモシ》
 風乎谷《カゼヲダニ》 將v來常思待者《コムトシマタバ》
 何如將v嘆《ナニカナゲカム》
 
【譯】風だけでも待ち戀うのはうらやましい。風だけでもくるだろうと待つならば、何も嘆くことはないのだ。
 
弓削皇子御歌一首
 
1608 秋はぎの 上に置きたる 白露の、
 消かもしなまし。
(183) 戀ひつつあらずは。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 上尓置有《ウヘニオキタル》 白露乃《シラツユノ》
 消可毛思奈萬思《ケカモシナマシ》
 戀管不v有者《コヒツツアラズハ》
 
【譯】秋ハギの上に置いてある白露のように、消えてしまつたらなあ。戀をしていないで。
【釋】秋〓子之上尓置有白露乃 アキハギノウヘニオキタルシラツユノ。以上三句、序詞。譬喩によつて消カモシナマシを引き起している。
 消可毛思奈萬思 ケカモシナマシ。ケは、消える義で、死ぬことをかけている。死んでしまうべきであつたろうかの意。句切。
【評語】譬喩といい、主想部といい、類型的で、類歌の多いところから見ても、かような歌が歌われて傳えられていたものと見える。
【參考】別傳および類歌。
  秋はぎの上に置きたる白露の消かもしなまし。戀ふるにあらずは(卷十、二二五四)
  秋の穗をしのにおしなべ置く露の消かもしなまし。戀ひつつあらずは(同、二二五六)
  秋はぎの枝もとををに置く露の消かもしなまし。戀ひつつあらずは(同、二二五八)
 
丹比眞人歌一首 名闕
 
【釋】丹比眞人 タヂヒノマヒト。下の註に名闕ケタリとあつて、何人かをあきらかにしない。他にも「丹比眞人 名闕 擬2柿本朝臣人麻呂之意1報歌一首」(卷二、二二六)とあり、卷の九、一七二六の題詞にも「丹比眞人歌一首」とのみある。時代から見て、同人としてもよい。家持は、丹比家と姻戚關係があつたようだ(卷十九、四一七三、四二一三)。
 
(184)1609 宇陀《うだ》の野の 秋はぎ凌《しの》ぎ 鳴く鹿も、
 妻に戀ふらく、 我《われ》には益さじ。
 
 宇陀乃野之《ウダノノノ》 秋〓子師弩藝《アキハギシノギ》 鳴鹿毛《ナクシカモ》
 妻尓戀樂苦《ツマニコフラク》 我者不v益《ワレニハマサジ》
 
【譯】宇陀の野の秋ハギをおし伏せて鳴く鹿も、妻に戀うことは、わたしにはまさるまい。
【釋】宇陀乃野之 ウダノノノ。ウダは、奈良縣宇陀郡。
 秋〓子師弩藝 アキハギシノギ。シノギは、凌駕《りようが》して、おし伏せての意。「奥山之《オクヤマノ》 菅葉凌《スガノハシノギ》 零雪乃《フルユキノ》」(卷三、二九九)。
【評語】宇陀の野を出したのは、當時原野の地として知られていたからであり、また輕の皇子の狩獵などの記憶もあつたのであろう。宇陀の野での作であるかも知れない。野に鳴く鹿の聲を痛切に感じ、それにもまさつている自分の戀を顧みた歌で、熱烈な氣もちが窺われる。
 
丹生女王、贈2大宰帥大伴卿1歌一首
 
【釋】丹生女王 ニフノオホキミ。系統未詳。「丹生王」(卷三、四二〇)、「丹生女王」(卷四、五五三參照)。
 
1610 高圓《たかまと》の 秋野の上の なでしこの花。
 うらわかみ 人のかざしし
 なでしこの花。
 
 高圓之《タカマトノ》 秋野上乃《アキノノウヘノ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》
 丁壯香見《ウラワカミ》 人之插頭師《ヒトノカザシシ》
 瞿麥之花《ナデシコノハナ》
 
【譯】高圓の秋の野の上のナデシコの花。これこそはあなたの若かつた時代に插頭にさしたあのナデシコの花です。
(185)【釋】丁壯香見 ウラワカミ。丁壯は、義をもつて壯年の意に書いている。
 人之插頭師 ヒトノカザシシ。ヒトは、歌を贈つた相手。大伴の旅人。
【評語】當時の旅人は大宰の帥として筑紫にあり、女王は都に留まつてみずから高圓の野邊のナデシコの花を手折つて、この歌の書状にでもはさんではるかに贈つたのであろう。この花を見てなつかしい思い出があることでございましようというのである。
 
笠縫女王歌一首 【六人部王之女、母曰2田形皇女1也。】
 
【釋】笠縫女王 カサヌヒノオホキミ。下の註に、六人部《むとべ》の王の女、母は田形の皇女というとある。六人部の王は、系統未詳。天平元年に卒しているから、その女は、奈良時代中期の人である。田形の皇女は、天武天皇の皇女、神龜五年に薨じた。
 
1611 あしひきの 山下|響《とよ》み 鳴く鹿の
 言《こと》ともしかも。
 わが情《こころ》づま。
 
 足日木乃《アシヒキノ》 山下響《ヤマシタトヨミ》 鳴鹿之《ナクシカノ》
 事乏可母《コトトモシカモ》
 吾情都末《ワガココロヅマ》
 
【譯】山の下を響かせて鳴く鹿のように、言葉がすくないことです。わたくしが心に思う御方は。
【釋】足日木乃山下響鳴鹿之 アシヒキノヤヤシタトヨミナクシカノ。以上三句、序詞。譬喩によつて、言乏シカモを引き起している。ヤマシタは、山の木の下蔭。
 事乏可母 コトトモシカモ。コトトモシは、言葉のすくないこと。たよりの稀なこと。
 吾情都末 ワガココロヅマ。ココロヅマは、わが心中に夫と定めた人をいう。誰かわからない。
(186)【評語】序から主文に移る邊がよくできている。ここでは鹿の聲の稀なことによせて歌つているのは、かえつて眞實であろう。
 
石川賀係女郎歌一首
 
【釋】石川賀係女郎 イシカハノカケノヲミナ。傳未詳。賀係は、氏の名か、人名か、不明。
 
1612 神《かむ》さぶと いなにはあらず。
 秋草の 結びし紐を 解くは悲しも。
 
 神佐夫等《カムサブト》 不許者不v有《イナニハアラズ》
 秋草乃《アキクサノ》 結之※[糸+刃]乎《ムスビシヒモヲ》 解者悲哭《トクハカナシモ》
 
【譯】神樣ぶつていやというのではありません。秋草のように、結んだ紐を解くのが悲しいのです。
【釋】神佐夫等不許者不有 カムサブトイナニハアラズ。神として思い高ぶつて拒否するのではない。作者は年配で、みずから古くなつたという氣があるのだろう。「神左夫跡《カムサブト》 不欲者不v有《イナニハアラズ》 八也多八《ヤヤオホヤ》 如是爲而後二《カクシテノチニ》 佐夫之家牟可聞《サブシケムカモ》」(卷四、七六二)。
 秋草乃 アキクサノ。枕詞。秋草は亂れて結ばれるから結びに冠するといわれている。おりしも秋の事で、この句を使つている。
 結之※[糸+刃]乎 ムスビシヒモヲ。衣服の紐を。
【評語】言い寄つた人に對して、拒否していると解せられる。作者は、夫に死別して貞操を守つているのであろう。それで衣の紐を解くのを悲しんでいるようである。婉曲な表現で、複雜な内容をあらわしているといえる。秋草の枕詞が、この拒否の内容をやわらげて見せている。
 
(187)賀茂女王歌一首 【長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也。】
 
【釋】賀茂女王 カモノオホキミ。下の註によれば、長屋の王の女で、母を阿倍の朝臣ということが知られる。(卷四、五五六參照)。
 
1613 秋の野を 朝行く鹿の、
 跡もなく 念《おも》ひし君に
 逢へる今夜《こよひ》か。
 
 秋野乎《アキノノヲ》 旦往鹿乃《アサユクシカノ》
 跡毛奈久《アトモナク》 念之君尓《オモヒシキミニ》
 相有今夜香《アヘルコヨヒカ》
 
【譯】秋の野を分けて行く鹿の跡もないように、あともないように思つたあなたに、とうとう逢つた今夜ですね。
【釋】秋野乎旦往鹿乃 アキノノヲアサユクシカノ。以上二句、序詞。譬喩によつて、跡モ無クを引き起している。
 跡毛奈久 アトモナク。野を分けて行く鹿の何處を通つたとも見えない。そのようにあとがない。しかとしない事。日本書紀に「朕《アレ》王卿ニ問フニ無端事《アトナシゴト》ヲ以チテス仍リテ對言《コタ》フルニ實《マコト》ヲ得バカナラズ賜《タマモノ》アラム」(天武天皇朱鳥元年正月)の無端事にアトナシゴトと訓している。實のないことである。
 相有今夜香 アヘルコヨヒカ。カは、逢ヘル今夜カモという感嘆の調子で、疑問ではない。
【評語】第二句に、朝行ク鹿ノというのは、具體的であり、朝の歌であるからでもあろう。漕いで行く船のあとが無いというのよりも、理くつぽくなく、眞實味に富んでいる譬喩である。特殊の感情がよく描かれており、内容にも特色がある。
 
(188)右歌、或云、椋橋部女王作、或云、笠縫女王作。
 
【釋】椋橋部女王 クラハシベノオホキミ。傳未詳。卷の三、四四一に、長屋の王が死を賜わつた時に歌を詠んでいる。
 笠縫女王 カサヌヒノオホキミ。一六二參照。
 
遠江守櫻井王、奉2天皇1歌一首
 
【釋】櫻井王 サクラヰノオホキミ。奈良時代中期の人。皇胤紹運録に、天武天皇の曾孫、長の皇子の孫、河内の王の子としている。續日本紀に、和銅七年正月、無位から從五位の下を授けられ、累進《るいしん》して天平三年正月、從四位の下を授けられている。同じく天平十六年二月の條に、大藏の卿從四位の下大原の眞人櫻井とあるのは、同人と考えられるから、天平三年以後に、大原の眞人を賜わつたのであろう。本集にも、「大原眞人櫻井、行2佐保川邊1之時作歌一首」(卷二十、四四七八)とある。
 天皇 スメラミコト。聖武天皇。
 
 
1614 九月《ながつき》の その初雁の 使にも、
 念《おも》ふ心は 聞え來《こ》ぬかも。
 
 九月之《ナガツキノ》 其始雁乃《ソノハツカリノ》 使尓毛《ツカヒニモ》
 念心者《オモフココロハ》 可v聞來奴鴨《キコエコヌカモ》
 
【譯】九月にくる初雁の使にも、わたしの思う心は、聞えてこないものでしようか。
【釋】其始雁乃使尓毛 ソノハツカリノツカヒニモ。始めて渡る雁を使とする便にも。雁は北から渡るものであるから、遠江の國から、奈良の京に向かつて、初雁を使としてやつたがの意に歌つている。これは前漢の蘇(189)武が、匈奴《きようど》に使して抑留され、漢に歸ることを許されなかつたので、雁の足に書を托して放つたのが、漢に到つて、その生存が傳えられたという故事による。これをもととして、雁を使とするということが歌われるに至つた。「春草《ハルクサヲ》 馬咋山自《ウマクヒヤマユ》 越來奈流《コエクナル》 雁使者《カリノツカヒハ》 宿過奈利《ヤドリスグナリ》」(卷九、一七〇八)。
 念心者 オモフココロハ。自分の思う心である。
 可聞來奴鴨 キコエコヌカモ。可聞は、聞くべくある意に、キコエに當てて書いたのであろう。珍しい用字例である。聞えてこないか、來よかしと希望する語法。
【評語】他の君臣の關係の歌のように、かどばらないのがよい。親しい氣もちがよくあらわれている。雁の使を使つたのは、創始ではないが、漢文學の知識から來たものとして注意される。
【參考】參考、異物を使とする歌。
  家人の使なるらし。春雨の避《よ》くれど吾を濡らす思へば(卷九、一六九七)
  あぶり干《ほ》す人もあれやも家人の春雨すらを間使《まづかひ》にする(同、一六九八)
  妹に戀ひ寐《い》ねぬ朝明《あさけ》に鴛鴦《をしどり》のここゆ渡るは妹が使か(卷十一、二四九一)
  たしかなる使を無みと心をぞ使にやりし。夢《いめ》に見えきや(卷十二、二八七四)
  天飛ぶや雁を使に得てしかも。奈良の都に言告げやらむ(卷十五、三六七六)
  雁がねは使に來むとさわくらむ。秋風寒みその川の邊に(卷十七、三九五三)
  み空行く雲も使と人はいへど家づと遣らむたづき知らずも(卷二十、四四一〇)
  天飛ぶ鳥も使ぞ。鶴が音の聞えむ時はわが名問はさね(古事記八六)
 
天皇賜、報和御歌一首
 
(190)天皇の賜へる報和《みこたへ》の御歌一首
 
1615 大の浦の その長濱に 寄する浪、
 ゆたけき公を 念ふこの頃
          【大の浦は、遠江の國の海濱の名なり。】
 
 大乃浦之《オホノウラノ》 其長濱尓《ソノナガハマニ》 縁流浪《ヨスルナミ》
 寛公乎《ユタケクキミヲ》 念比日《オモフコノゴロ》
          【大浦者遠江國之海濱名也。】
 
【譯】大の浦のその長濱に寄せる浪のように、ゆつたりしたあなたを思つているこの頃です。
【釋】大乃浦之 オホノウラノ。オホノウラは、倭名類聚鈔、遠江の國の郷名に、飫寶《オホ》とあつて、見附市の南方に當る。その地の浦。類聚古集、古葉略類聚鈔に乃の字が無く、註にも大浦とあるによれば、オホウラか。
 其長濱尓縁流浪 ソノナガハマニヨスルナミ。ナガハマは、長い濱で、地名ではない。以上三句、序詞。海濱のゆつたりした景によつて、次のユタケキを引き起している。
 寛公乎 ユタケキキミヲ。ユタケキは、ゆつたりして大人のふうのあるのをいう。櫻井の王の風格をいう。
【評語】海濱の悠大な氣分と、人の風格とのあいだに共通なもののあることが歌われている。海の景について、ユタケシというは、「蘆原の清見が埼の三穗の浦のゆたけき見つつ物思ひも無し」(卷三、二九六)というのがある。その感じを、人物に持ち越したところに特色がある。
 
笠女郎、贈2大伴宿祢家持1一首
 
【釋】笠女郎 カサノヲミナ。既出(卷三、三九五)。この卷では、一四五一の歌の作者として出ている。笠の金村の縁者だろう。
 贈大伴宿祢家持一首 オホトモノスクネヤカモチニオクレルヒトツ。贈大伴宿祢家持の下に、通例は歌の字(191)のあるべき所で、仙覺本系統にはあるが、古本には無い。今、古本による。
 
1616 朝ごとに わが見る屋戸《やど》の
 なでしこの
 花にも、君は ありこせぬかも。
 
 毎v朝《アサゴトニ》 吾見屋戸乃《ワガミルヤドノ》
 瞿麥之《ナデシコノ》
 花尓毛君波《ハナニモキミハ》 有許世奴香裳《アリコセヌカモ》
 
【譯】朝ごとにわたくしの見ます屋戸のナデシコの花で、あなたはあつてくださらないのでしようか。
【評語】君が何々であつたらという歌は多く、ただその何々に、それぞれの特色があるべきである。この歌は、相手の男を、優美なナデシコの花に譬えたのが、ふさわしくない。しかし大伴の池主も家持に對して、「うら戀しわが夫の君はなでしこが花にもがもな。朝なさな見む」(卷十七、四〇一〇)と歌つているから、當時としては普通のお世辭であつたのだろう。
 
山口女王、贈2大伴宿祢家持1歌一首
 
【釋】山口女王 ヤマグチノオホキミ。傳未詳(卷四、六一三參照)。
 
1617 秋はぎに 置きたる露の、
 風吹きて 落つる涙は、
 留《とど》みかねつも。
 
 秋〓子尓《アキハギニ》 置有露乃《オキタルツユノ》
 風吹而《カゼフキテ》 落涙者《オツルナミダハ》
 留不v勝都毛《トドミカネツモ》
 
【譯】秋ハギに置いた露に風が吹き渡つてこぼれ落ちるように、落ちる涙は、留めかねたことです。
【釋】秋〓子尓置有露乃風吹而 アキハギニオキタルツユノカゼフキテ。以上三句、序詞。譬喩によつて、落(192)ツル涙ハを引き起している。
 留不勝都毛 トドミカネツモ。動詞トドムは、四段にも下二段にも使用され、カネに接續する場合にもトドミカネ、トドメカネの兩樣がある。下二段活はやや新しいようであるから、四段活による。
【評語】上三句は、ただ落ツルというだけの序であるが、自然の敍景から涙ノ落ツルに轉じてきた行き方は、調子がよい。秋風にハギの上葉の露が落ちる事から、涙の落つる事に移つて行くのは、珍しい事ではないが、續けがらで味わわせているところがある。哀傷の歌のようである。
 
湯原王、贈2娘子1歌一首
 
【釋】湯原王贈娘子歌 ユハラノオホキミノヲトメニオクレルウタ。湯原の王が、娘子に贈つた歌は、卷の四、六三一以下に數首見えている。その中の、秋の季節に關するものを此處に收めたのであつて、娘子も同一人であろう。何人か、不明である。
 
1618 玉に貫《ぬ》き 消《け》たず賜《たは》らむ。
 秋はぎの 末《うれ》わわら葉に
 置ける白露。
 
 玉尓貫《タマニヌキ》 不v令v消賜良牟《ケタズタバラム》
 秋〓子乃《アキハギノ》 宇禮和々良葉尓《ウレワワラバニ》
 置有白露《オケルシラツユ》
 
【譯】玉として緒につらぬいて、消えないようにしていただきましよう。秋ハギののびた先のわわら葉に置いている白露を。
【釋】宇禮和々良葉尓 ウレワワラハニ。ワワラハは未詳。ある状態における葉をいうらしい。ワワラは、「美留乃其等《ミルノゴト》 和々氣佐我禮流《ワワケサガレル》」(卷五、八九二)のワワクと關係があるか、不明。ウレワワラハニは、のびた(193)先であるわわら葉にであろう。のびた葉さきのもやもやしているのをいうか。
【評語】白露を玉につらぬいてくれという難題は、格別のことはないが、ウレワワラ葉ニ置ケルと、その露を説明したのが特色で、この歌の生命である。清新な敍述を特色とするこの人の作たるにふさわしい。
 
大伴家持、至2姑坂上郎女竹田庄1作歌一首
 
【釋】姑坂上郎女 ヲバノサカノウヘノイラツメ。姑は、配偶者の母をいい、また叔母をいう。坂上の郎女は、家持の妻坂上の大孃の母であり、また家持の父旅人の妹であるから、どちらからでも意味が通じる。「大伴坂上郎女、與(フル)d姪《ヲヒ》家持(ガ)從(リ)2佐保1還c歸(ルニ)西(ノ)宅(ニ)u歌一首」(卷六、九七九)のように、姪家持とも書いているから、叔母の義に使つたと見るべきであろう。
 
1619 玉|桙《ほこ》の 道は遠けど、
 はしきやし 妹をあひ見に
 いでてぞわが來《こ》し。
 
 玉桙乃《タマホコノ》 道者雖v遠《ミチハトホケド》
 愛哉師《ハシキヤシ》 妹乎相見尓《イモヲアヒミニ》
 出而曾吾來之《イデテゾワガコシ》
 
【譯】道は遠いのですが、最愛の妻に逢いたさに出てわたしが參りました。
【釋】玉桙乃 タマホコノ。枕詞。
 愛哉師 ハシキヤシ。親愛なる。妹を修飾する。
 妹乎相見尓 イモヲアヒミニ。イモは、坂上の郎女の女なる坂上の大孃をさす。當時母に從つて竹田の庄にいたものと思われる。家持と大孃との結婚が、既に成立していたかどうかはわからないが、郎女の和歌によれば、既に成立していたようでもある。
(194)【評語】奈良の京からきたので、道ハ遠ケドと云つたのだろう。事情を説明しただけの歌である。
 
大伴坂上郎女和歌一首
 
1620 あらたまの 月立つまでに
 來まさねば、
 夢《いめ》にし見つつ 思ひぞわがせし。
 
 荒玉之《アラタマノ》 月立左右二《ツキタツマデニ》
 來不v益者《キマサネバ》
 夢西見乍《イメニシミツツ》 思曾吾勢思《オモヒゾワガセシ》
 
【譯】月が改まるまでにおいでにならないので、夢に見ながら、わたしは物思いをしていました。
【釋】荒玉之 アラタマノ。枕詞。轉用して月に冠している。
 月立左右二 ツキタツマデニ。ツキタツは、月が始まる、月の初めになる意。八月にはいつてからまもなく來たものと見える。
【評語】家持が來て、やつと安心した氣もちが感じられる。久しく來なかつたので、母として案じていたことを、率直に歌つている。以上二首、秋の風物は歌つていないが、八月の作なので、ここに收めたのである。
 
右二首、天平十一年己卯秋八月作。
 
巫部麻蘇娘子歌一首
 
【釋】巫部麻蘇娘子 カムナギベノマソノヲトメ。傳未詳(卷四、七〇三參照)。
 
(195)1621 吾が屋前《には》の はぎの花咲けり。
 見に來《き》ませ。
 今二日ばかり あらば散りなむ。
 
 吾屋前乃《ワガニハノ》 〓子花咲有《ハギノハナサケリ》
 見來益《ミニキマセ》
 今二日許《イマフツカバカリ》 有者將v落《アラバチリナム》
 
【譯】わたくしの屋前のハギの花が咲いています。見にいらつしやい。もう二日ばかりたつたら散るでしよう。
【評語】短文を重ねて作られている。殊に三句が、一句だけで獨立文を成しているのは、珍しい形である。ハギに托して人を誘つた歌だが、今二日バカリが、具體的で特色がある。五句のアラバは、四句の方に密接するので、形が亂れて散文的になつている。
 
大伴田村大孃、與2妹坂上大孃1歌二首
 
大伴の田村の大孃の、妹坂上の大孃に與ふる歌二首
 
1622 わが屋戸《やど》の 秋のはぎ咲く 夕影に
 今も見てしか。
 妹が光儀《すがた》を。
 
 吾屋戸乃《ワガヤドノ》 秋之〓子開《アキノハギサク》 夕影尓《ユフカゲニ》
 今毛見師香《イマモミテシカ》
 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
 
【譯】わたくしの屋戸の秋のハギの咲く夕方の光に、今見たいものです。あなたのお姿を。
【釋】夕影尓 ユフカゲニ。ユフカゲは、夕の光。
 今毛見師香 イマモミテシカ。イマモは、今を強調する語法。句切。
【評語】ハギの花の咲いている夕べの光に、相手の姿を見たいと願つている。美しい想像から成り立つている。(196)ハギノ花サク夕カゲと、妹ガ光儀との對照がよい。
 
1623 わが屋戸《やど》に もみつかへるで
 見るごとに、
 妹を懸けつつ 戀ひぬ日はなし。
 
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 黄變蝦手《モミツカヘルデ》
 毎v見《ミルゴトニ》
 妹乎懸管《イモヲカケツツ》 不v戀日者無《コヒヌヒハナシ》
 
【譯】わたくしの屋戸で黄葉するカエデを見るたびに、あなたを心に思つて戀しない日はないのです。
【釋】黄變蝦手 モミツカヘルデ。モミツは、黄葉する意の動詞の連體形。この語は、四段にも上二段にも活用している。カヘルデは、樹名。カエデ(楓)。その葉がカエルの手に似ているからいう。黄變の字は、慣用に從つた。事實は紅葉するのである。「和可加敝流手能《ワカカヘルデノ》 毛美都麻手《モミツマデ》」(卷十四、三四九四)。
 妹乎懸管 イモヲカケツツ。カケツツは、心に懸けつつ。
【評語】くれないに美しく染まつた楓葉を見つつ、人を思うのは、相手をこれに思い寄せたのである。しかし紅葉するカエデを取りあげただけの效果である。
 
坂上大娘、秋稻※[草冠/縵]、贈2大伴宿祢家持1歌一首
 
坂上の大娘の、秋の稻の※[草冠/縵]を、大伴の宿祢家持に贈れる歌一首
 
【釋】秋稻※[草冠/縵] アキノイネノカヅラ。稻の穗で作つたカズラ。實際に頭髪の上に載せることも考えられるが、多分屋壁などに懸けたのであろう。
 
1624 わが業《なり》なる 早田《わさだ》の穗立《ほだち》
(197) 造りたる ※[草冠/縵]《かづら》ぞ。見つつ
 偲《しの》はせ、わが夫。
 
 吾之業有《ワガナリナル》 早田之穗立《ワサダノホダチ》
 造有《ツクリタル》 ※[草冠/縵]曾見乍《カヅラゾミツツ》
 師弩波世吾背《シノハセワガセ》
 
【譯】わたくしの生業の早稻の田の穗に出たイネで作りました※[草冠/縵]ですよ。見ながらお思いください。あなた。
【釋】吾之業有 ワガナリナル。ナリは、農業をいい、延いて他の職業にもいう。
 早田之穗立 ワサダノホダチ。ワサダは、早く熟するイネの田。ホダチは穗に出ることで、ここはイネの穗。
 。ゾは指定の助詞で、ここで切れる。
 師弩波世吾背 シノハセワガセ。シノハセは、シノフの敬語の命令形。自分の樣子を思つてください。
【評語】稻の穗で作つた※[草冠/縵]を贈つた歌で、格別の内容はない。多分母と共に竹田の庄などの田園にあつて詠み、そのイネを、ワガ業ナルと田舍娘らしく云つて見たのだろう。第四句を、※[草冠/縵]ゾ見ツツと、句中に句切を置いたのは、調子を亂している。
 
大伴宿祢家持報贈歌一首
 
1625 吾妹子が 業《なり》と造《つく》れる
 秋の田の 早穗《わさは》の※[草冠/縵]《かづら》
 見れど飽かぬかも。
 
 吾妹兒之《ワガモコガ》 業跡造有《ナリトツクレル》
 秋田《アキノタノ》 早穗乃※[草冠/縵]《ワサホノカヅラ》
 雖v見不v飽可聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】あなたが生業として作つた秋の田の早稻の稻穗の※[草冠/縵]は、見ても飽きませんなあ。
【釋】早穗乃※[草冠/縵] ワサホノカヅラ。ワサホは、早く熟する穀物の穗で、ここは早稻の穗。
(198)【評語】見レド飽カヌカモという慣用句で結んだ類型の歌で、贈られた歌の詞を取つて※[草冠/縵]を説明している。内容の乏しい歌である。
 
又報d脱2著v身衣1贈c家持u歌一首
 
また、身につけたる衣を脱ぎて家持に贈れるに報ふる歌一首
 
【釋】脱著身衣 ミニツケタルコロモヲヌギテ。坂上の大孃が、その身に著ていた衣服をぬいで家持に贈り、家持がそれに答えて歌を贈つたのである。下著は、男女とも同樣のものを使用していた。
 
1626 秋風の 寒きこの頃、 下《した》に著《き》む。
 妹が形見と かつも偲《しの》はむ。
 
 秋風之《アキカゼノ》 寒比日《サムキコノゴロ》 下尓將v服《シタニキム》
 妹之形見跡《イモガカタミト》 可都毛思努播武《カツモシノハム》
 
【譯】秋風の寒いこの頃、下に著ましよう。あなたの形見として、かたがた思いやつておりましよう。
【釋】可都毛思努播武 カツモシノハム。カツモは、一方では。モは、カツの意を強めるために添える。寒さをしのぐと共に、思慕しょうの意。
【評語】秋風の寒いこの頃に著ようということと、妹が形見として思おうということが、結合しないで、別々になつているので、情熱に乏しい。一通りの禮状として見るべき歌である。
 
右三首、天平十一年己卯秋九月往來。
 
【釋】秋九月往來 アキナガツキニカヨハセリ。同年八月に、家持が竹田の庄をおとずれ、それから引き續いて、大孃は、竹田の庄にいて、この往來をしたのだろう。往來は、書状を往來する意。
 
(199)大伴宿祢家持、攀2非v時藤花并〓子黄葉二物1、贈2坂上大孃1歌二首
 
大伴の宿祢家持の、時じき藤の花、并はせてはぎの黄葉の二つの物を攀ぢて、坂上の大孃に贈れる歌二首
 
【釋》攀非時藤花并〓子黄葉二物 トキジキフヂノハナアハセテハギノモミチノフタツノモノヲヨヂテ。トキジキは、時にあらざる、時節はずれの意で、藤の花とハギの黄葉との兩方を説明している。夏六月のことで、二物とも季節に合わない。普通の藤とハギとの、季節はずれなのを珍しがつたのである。ヨヂテは、引き寄せての意だが、折り取ることに使つている。
 
1627 わが屋前《には》の 時じきふぢの、
 めづらしく 今も見てしか。
 妹が咲容《ゑまひ》を。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 非v時藤之《トキジキフヂノ》
 目頬布《メヅラシク》 今毛見壯鹿《イマモミテシカ》
 妹之咲容乎《イモガヱマヒヲ》
 
【譯】わたしの屋前の、時節はずれのフジのように、珍しいものに今見たいものです。あなたの笑顔を。
【釋】吾屋前之非時藤之 ワガニハノトキジキフヂノ。以上二句、序詞。譬喩によつてメヅラシクを引き起している。
 目頼布 メヅラシク。珍しくかつ愛すべくある意の副詞。この語は、稀に見るので愛すべくある意が原義であつて、その意に、上の譬喩からも續き、また下文にも接している。珍しと愛すべしとの二樣に、この語の意義を分けて考うべきではない。
【評語】返り咲きなどで、たまたまに咲いた藤の花に寄せて贈つている。前に田村の大孃から坂上の大孃に贈つた歌(一六二二)と、四句五句が同型であるのは、共に同一人に贈つた歌であるだけに、暗合と見るほかは(200)ない。そうとすればかような型の歌が、既に行われておつて、田村の大孃も、大伴の家持も、これに倣つて作つたとすべきである。書状について作例集のあつた時代だから、歌についても、類似の書があつたかもしれない。時ジキフヂから、メヅラシに續くところは、巧みであり、四五句も、この歌だけで見れば、これに即應してわるくはない表現である。
1628 わが屋前《には》の はぎの下葉は、
 秋風も いまだ吹かねば
 かくぞもみてる。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 〓子乃下葉者《ハギノシタバハ》
 秋風毛《アキカゼモ》 未v吹者《イマダフカネバ》
 如v此曾毛美照《カクゾモミテル》
 
【譯】わたしの屋前の、ハギの下葉は、秋風もまだ吹かないのに、かように黄葉しています。
【釋】如此曾毛美照 カクゾモミテル。カクは、そのハギの黄葉をさしていう。モミテルは、照は訓假字で、黄葉する意の動詞モミツの命令形に完了の助動詞リが接續したもの。ここではモミツは四段活として使用されている。モミチ(黄葉)は、普通チを濁音に讀んでいるが、集中の例、字音假字を使用したものは、すべてチが使用されており、動詞モミツの各活用形もまた假字書きのものは、すべて清音の字が使用されている。ここもその一つで、照は、清音にテルと讀むべきである。
【評語】時ならぬハギの黄葉を説明しただけで、何の變わつたこともない。秋風モイマダ吹カネバと季物に觸れながら、カクゾモミテルで、せつかくの風趣を逸してしまつた觀がある。
 
右二首、天平十二年庚辰夏六月往來。
 
【釋】夏六月 ナツミナヅキ。夏六月の作であるが、第二首に黄葉が詠まれているので、秋の相聞に入れたの(201)であろう。しかしその歌も、秋風のまだ吹かないよしに言つているから、無論夏の歌である。第一首もいうまでもなく、秋の歌ではない。これらを秋の相聞としたのは、分類を誤つたものというべきである。これが家持の歌である所を見ると、分類は家持の所業ではないということになる。
 
大伴宿祢家持、贈2坂上大孃1歌一首 并2短歌1
 
大伴の宿祢家持の、坂上の大孃に贈れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
1629 ねもころに 物を念《おも》へば、
 言はむ術《すべ》 爲《せ》むすべもなし。」
 妹と吾 手|携《たづさ》はりて、
 朝《あした》には 庭に出でたち、
 夕《ゆふべ》には 床《とこ》うち拂ひ、
 白|栲《たへ》の 袖さし交《か》へて
 さ寐《ね》し夜や 常にありける。」
 あしひきの 山鳥こそは、
 峯向《をむか》ひに 嬬問《つまどひ》すといへ。
 うつせみの 人なる我や、
 何すとか 一日一夜《ひとひひとよ》も
(202) 離《さか》り居て 嘆き戀ふらむ。」
 ここ念へば 胸こそ痛め。
 そこ故《ゆゑ》に 情《こころ》和《な》ぐやと、
 高|圓《まと》の 山にも野にも
 うち行きて 遊びは往《ゆ》けど、
 花のみ にほひてあれば、
 見るごとに まして思《しの》はゆ。」
 いかにして 忘れむものぞ。
 戀といふものを。」
 
 叩々《ネモコロニ》 物乎念者《モノヲオモヘバ》
 將v言爲便《イハムスベ》 將v爲々便毛奈之《セムスベモナシ》
 妹與吾《イモトワレ》 手携而《テタヅサハリテ》
 旦者《アシタニハ》 庭尓出立《ニハニイデタチ》
 夕者《ユフベニハ》 床打拂《トコウチハラヒ》
 白細乃《シロタヘノ》 袖指代而《ソデサシカヘテ》
 佐寐之夜也《サネシヨヤ》 常尓有家類《ツネニアリケル》
 足日木能《アシヒキノ》 山鳥許曾波《ヤマドリコソハ》
 峯向尓《ヲムカヒニ》 嬬問爲云《ツマドヒストイヘ》
 打蝉乃《ウツセミノ》 人有我哉《ヒトナルワレヤ》
 如何爲跡可《ナニストカ》 一日一夜毛《ヒトヒヒトヨモ》
 離居而《サカリヰテ》 嘆戀良武《ナゲキコフラム》
 許己念者《ココオモヘバ》 胸許曾痛《ムネコソイタメ》
 其故尓《ソコユヱニ》 情奈具夜登《ココロナグヤト》
 高圓乃《タカマトノ》 山尓毛野尓母《ヤマニモノニモ》
 打行而《ウチユキテ》 遊往杼《アソビハユケド》
 花耳《ハナノミ》 丹穂日手有者《ニホヒテアレバ》
 毎v見《ミルゴトニ》 益而所v思《マシテシノハユ》
 奈何爲而《イカニシテ》 忘物曾《ワスレムモノゾ》
 戀云物乎《コヒトイフモノヲ》
 
【譯】心の底から物を思うので、言うすべもなすべきすべもありません。あなたとわたしが、手を携えて、朝は屋前にいで立ち、夕方には、床を掃除して、白い布の袖をかわして寐た夜が、常であつたことか。あの山鳥こそは、谷の向こうに妻問いをするということだ。生きている人であるわたしが、どうしてか、一日一夜も離れて居て嘆き戀うのだろう。それを思うと胸が痛まれる。それゆえに心が慰むかと、高圓の山にも野にも行つて、遊んであるくけれども、花ばかり美しく咲いているので、見るたびに一層思われる。どうして忘れるものだろうか。戀というものを。
【構成】比較的短い文が重なつてできている。第一段、爲ムスベモナシまで。序説。戀の致し方なさを總括して述べる。第二段、常ニアリケルまで。二人の中の、落ちついた關係でなかつた事實を述べる。戀の思いの前(203)提である。第三段、嘆キ戀フラムまで。前半は、山鳥を例として擧げる。後半、それに比して人間なる作者の戀を述べる。第四段、マシテ思ハユまで。戀に悩んで高圓の山野に遊行することを述べる。第五段、終りまで。總括。はるかに第一段に呼應する。
【釋】叩々 ネモコロニ。諸本に多く叩々であり、神田本に叮々に作つている。小島憲之氏(萬葉第十七號)は、王臺新詠に、「何以致2叩々1」とあるのをあげて、叩々のままにネモコロニと讀むべしとされた。首をさげておじぎをするさまで、意をもつてネモコロニの語にあてる。これに關する脇屋眞一君の補説(書簡)の一部を次に掲げる。
  試に康煕字典《こうきじてん》を引きますと、叩のところに、「集韻」以v手至v首也。「正字通」稽※[桑+頁]《ケイソウヲ》曰2叩首(ト)1。「韓愈元和聖徳詩」……啼哭拜叩(ス)。など見え、小島氏の引用されなかつたことが不思誘なくらゐでございます。右の正字通の稽※[桑+頁]《けいそう》は、荀子大略篇に、至v地曰2稽※[桑+頁]1とみえ、※[革+斤]海風氏《きんかいふうし》は「稽※[桑+頁](ハ)則(チ)頭(ヲ)觸(ル)v地(ニ)」と注してをります。集韻のは、もとより、オジギの形式を示したもので、説文解字の首至v地也(拜字の註)などと同種のものでございませう。また、周禮(春官)によれば、稽首を最も重しとしてをりますが、右に引いた荀子では、稽首より稽※[桑+頁]を重しとしてをりますから、稽※[桑+頁]即叩首とすれば、それと同義の叩頭を簡單にオジギなどにあてるのは當らないとおもひます。むしろ、ヌカヅクの原義がこれにあたりませう。なほ、「叩々」の字面は、時代は降りますが朱熹《しゆき》の詩にも見えます。(別(チテ)v袖(ヲ)不《ズ》v忍(ビ)v分(ルルニ)、叩々陳(ブ)2苦詞(ヲ)1)。これらは、まさに、萬葉の叩々と同じと申せませうか。
 佐寐之夜也常尓有家類 サネシヨヤツネニアリケル。ツネは、通常の意。二人の中の同棲を繼續しないで、別居がちであつたことを、疑問の形であらわしている。大孃は母と共に住み、家持とは離れていることが多かつたのだろう。句切。山上の憶良の歌の「世の中や常にありける」「さねし夜のいくだもあらねば」(卷五、八(204)〇四)の句を受けている。
 足日木能 アシヒキノ。枕詞。
 山鳥許曾波峯向尓嬬問爲云 ヤマドリコソハヲムカヒニツマドヒストイヘ。語法の常識からいえば、コソを受けるのは、ツマドヒスだから、ツマドヒスレといわねばならないのだが、下にトイフがある場合は、結びがずれて、トイフがコソを受けてトイヘと結ぶことになる。「相而後社《アヒテノチコソ》 悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》」(卷四、六七四參照)。山鳥は峯向かいに嬬問すると人がいうの意。ヤマドリは、山にいる鳥の意ではなく、鶉※[奚+隹]類の一種。雌雄別居し雄は峯を越えて雌を訪うと傳える。ヲムカヒは、峯である前面。谷を隔てた前面の山。以上、山鳥の熱烈な戀を例として擧げている。句切。
 打蝉乃 ウツセミノ。枕詞。生ける人である意と解せられ、人を修飾説明している。
 人有我哉 ヒトナルワレヤ。何ストカ一日一夜モ離り居テ嘆キ戀フラムまでの全體に懸かり、その敍述部の中で、またナニストカが、嘆キ戀フラムまでに懸かつている。
 許己念者 ココオモヘバ。ココは、上のウツセミノ人ナル我ヤ以下の内容をさしている。
 其故尓 ソコユヱニ。ソコは、胸コソ痛メを受けている。
 情奈具夜登 ココロナグヤト。ナグは、やわらぐ、慰む。ヤは疑問の終助詞。
 打行而 ウチユキテ。ウチは、接頭語。
 遊往杼 アソビハユケド。アソヒテユケト(神)、アソバヒユケト(考)、アソビアルケド(古義)。往杼をアルケドと讀むのは、「雖2行往《ユキユケド》1 安久毛不v有《ヤスクモアラズ》(卷十六、三八五七)の雖行往をアルケドモと讀むに照らしてのことであつて、それもユキユケドの如くも讀まれるのであるから、ここもユケドの如く讀むを順當とし、よつてハを補讀する。
(205)花耳 ハナノミ。ハナは反歌によれば容花である。
 益而所思 マシテシノハユ。容花を見て、それに愛人を思い寄せて、山野を行かなかつたよりも一層思われるのである。
【評語】比較的短い文を重ねて、順序よく述べ、戀のやむ方なき樣を敍している。よく纏まつた作である。しかし詞句は、山上の憶良などの歌から得ているものが多く、それらを參考として作つたことが指摘される。全體に、敍述的で、情熱に乏しいのは、この人の作品の常で、やむを得ない。これは練習にょつて作歌に熟した人の陷りやすい弱點である。
 
反歌
 
1630 高|圓《まと》の 野邊の容花《かほばな》、
 おもかげに 見えつつ妹は
 忘れかねつも。
 
 高圓之《タカマトノ》 野邊乃容花《ノベノカホバナ》
 面影尓《オモカゲニ》 所v見乍妹者《ミエツツイモハ》
 忘不v勝裳《ワスレカネツモ》
 
【譯】高圓の野邊の容花のように、面影に見えてあなたは忘れかねましたよ。
【釋】野邊乃容花 ノベノカホバナ。カホバナは、現在の何に當るか、不明。譬喩によつて名づけられているだろうから、圓形もしくはそれに近い大きな花だろう。ここに野邊といい、また「石走《イハバシル》 間々生有《ママニオヒタル》 貌花乃《カホバナノ》」(卷十、二二八八)、「宇知比佐都《ウチヒサツ》 美夜能瀬河伯能《ミヤノセガハノ》 可保婆奈能《カホバナノ》」(卷十四、三五〇五)の如く、河中、または河邊を生地とする等によつて、ヒルガオ(晝顔)だろうという説がある。以上二句は、非喩で、容花を見て、それに愛人を思い寄せている。容花のような顔が、面影に見えつつの意である。
(206) 面影尓 オモカゲニ。オモカゲは、その實體が無くて目に見るように感ずるものをいう。
【評語】高圓の野邊の容花を譬喩に使つたのは、美しく巧みである。かような用法のもとに、容花を取りあげたのは、獨創といえよう。しかし主想部に、「人はよし思ひ息むとも玉※[草冠/縵]影に見えつつ忘らえぬかも」(卷二、一四九)の歌あたりを受けており、譬喩を目新しいものに取り換えただけのものである。
 
大伴宿祢家持、贈2安倍女郎1歌一首
 
大伴の宿祢家持の、安倍の女郎に贈れる歌一首
 
【釋】安倍女郎 アベノヲミナ。傳未詳。卷の三、二六九、卷の四、五〇五、五一四、五一六にも同名の人が見えるが、それは時代が上つているから別人か。但しここの歌の趣は、老女に對して苦しい心中を訴えて同情を求めたものと解せられるから、同人と考えられないこともない。卷の三のは、年代不明であるが、假に奈良に遷都した年(和銅三年)から數えれば、久邇の京に遷都した天平十二年までに、三十年經過している。
 
1631 今造る 久邇《くに》の京《みやこ》に、
 秋の夜の 長きにひとり
 宿《ぬ》るが苦しさ。
 
 今造《イマツクル》 久迩能京尓《クニノミヤコニ》
 秋夜乃《アキノヨノ》 長尓獨《ナガキニヒトリ》
 宿之苦左《ヌルガクルシサ》
 
【譯】今作る久邇の京に、秋の夜の長いのにひとり寐るのが苦しいことです。
【釋】今造久邇能京尓 イマツクルクニノミヤコニ。天平十二年十二月に奈良から久邇に遷都したのだが、それは突然の事であつたので、それから造營せられ、その造營は、相當の年月間繼續したであろう。同じく家持は、天平十五年八月十六日にも「今造《イマツクル》 久邇乃王都者《クニノミヤコハ》 山河之《ヤマカハノ》 清見者《サヤケキミレバ》 宇倍所v知良之《ウベシラスラシ》」(卷六、一〇三七)
(207)とも詠んでいる。イマツクルは、新造のぐらいの意に解してよい。【評語】舊都に妻子を置いて、家持は、單身新都に來ていた。そのさびしさをうち明けている。今造る久邇の京の句には、まだ落ちつかないもののあることを含んでいるとすれば、三句以下に對して、むだに置かれたものでないことになる。
 
大伴宿祢家持、從2久迩京1、贈d留2寧樂宅1坂上大娘u歌一首
 
大伴の宿祢家持の、久迩の京より、寧樂の宅に留まれる坂上の大娘に贈れる歌一首
 
【釋】從久迩京 クニノミヤコヨリ。前記の如く、家持は、ひとり久邇の京に赴いていた。他にも、「在2久邇京1思d留2寧樂宅1坂上大孃u大伴宿禰家持作歌一首」(卷四、七六五)ともある。
 寧樂宅 ナラノイヘ。大伴の坂上の郎女の佐保の家からは、家持の家を西宅と稱している(卷六、九七九)。坂上の大孃は、そのどちらにいたかわからない。佐保でも、奈良の京の一部として、寧樂の宅と稱したであろう。
 
1632 あしひきの 山邊に居《を》りて、
 秋風の 日にけに吹けば
 妹をしぞ念《おも》ふ。
 
 足日木乃《アシヒキノ》 山邊尓居而《ヤマベニヲリテ》
 秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》
 妹乎之曾念《イモヲシゾオモフ》
 
【譯】山のほとりにいて、秋風が日ましに吹くので、あなたを思つています。
【釋】山邊尓居而 ヤマベニヲリテ。久邇の京は、山に圍まれている京で、家持のいた處も、自然山に近かつたのであろう。
(208) 日異吹者 ヒニケニフケバ。ヒニケニは、日々に特別にで、日ましに、日ごとに一層の意。「月日異《ツキニヒニケニ》」(卷四、五九八參照)。
【評語】平易な歌だが、情趣は得ている。ひとり山邊にいて、日ましに秋風の吹いてくる頃のさびしい氣もちが、巧まないで表現されている。
 
或者贈v尼歌二首
 
【譯】或者贈尼歌 アルヒトノアマニオクレルウタ。アルヒトも、アマも何人とも知られない。但し尼は、一人で返歌が作れなかつたこと、家持と親しかつたことなどから推して、新羅の國の人で、來朝して大伴家に寄住し、天平七年に死去して、坂上の郎女が挽歌を詠んだ理願尼だろうかと考えられる。それならば天平七年以前の作である(卷三、四六〇參照)。
 
1633  手もすまに 植ゑしはぎにや
 かへりては 見れども飽かず、
 情《こころ》つくさむ。
 
 手母須麻尓《テモスマニ》 殖之毛〓子尓也《ウヱシハギニヤ》
 還者《カヘリテハ》 雖v見不v飽《ミレドモアカズ》
 情將v盡《ココロツクサム》
 
【譯】手も休めずに植えたハギのためにか、かえつて見ても飽きないで、心をつくすことだろうか。
【釋】手母須麻尓 テモスマニ。手も休めずに。いそがしくの意の副詞。「吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》」(卷八、一四六〇)參照。
 殖之〓子尓也 ウヱシハギニヤ。ヤは、疑問の係助詞。
 還者 カヘリテハ。かえつて。
(209)【評語】ハギを譬喩としている。世話をしておいてかえつて心をつくすことであろうと歌つている。一通りの意を通じているだけの歌で、疑問や推量による表現を使つており、そのために情熱は感じられない。
 
1634 衣手に 水澁《みしぶ》つくまで 植ゑし田を、
 引板《ひきた》わが延《は》へ 守れる苦し。
 
 衣手尓《コロモデニ》 水澁付左右《ミシブツクマデ》 殖之田乎《ウヱシタヲ》
 引板吾波倍《ヒキタワガハヘ》 眞守有栗子《マモレルクルシ》
 
【譯】著物に水の垢が附くまでにして植えた田なのだが、わたしが引板を渡して番をしているのは苦しいことです。
【釋】水澁付左右 ミシブツクマデ。ミシブは、水の澁で、水垢である。水田の水垢が、衣服につくまでで、勞苦しての意をあらわしている。
 引板吾波倍 ヒキタワガハヘ。ヒキタは、鳴子に同じ。田畑の中に板を釣つておいて、繩を引いてその板を鳴らして音を立て、鳥獣を追う。繩を張つておくから、延へという。
【評語】全體が譬喩でできている。勞苦して田を植えたことによつて、尼を育てあげたことをあらわし、引板を張つて番をすることによつて、他の男などの言い寄るのを防ぐ意を表示している。さて自分のものともなし得ない苦悩が、苦シであらわされている。巧みな譬喩の用法であるが、返歌によれば、まじめかどうかは疑わしい。
 
尼作2頭句1、并大伴宿祢家持、所v誂v尼、續2末句等1和歌一首
 
尼、頭《はじめ》の句を作り、并はせて大伴宿称の家持の、尼に誂らへらえて末の句等を續《つ》ぎて和ふる歌一首
 
【釋】尼 アマ。前出の、或る人に歌を贈られた尼である。一人で歌を詠み得ないで、家持に援けを乞うたも(210)のと見える。
 作頭句 ハジメノクヲツクリ。歌によるに、初二三の三句を頭の句と云つている。頭句の語は、卷の十二、十三、十八にあり、卷の十二では、短歌の初二句、十三では長歌の初六句、十八では短歌の初句のみをさしている。また同意の語に發句があり、これは、短歌の初二句、もしくは初句のみをさしている。これらによれば短歌のどの部分までを、頭句發句というかには、別にきまつた事はなかつたのである。この歌で、三句までを尼が作つたのは、既に三句までをもつて一段落とする氣分が濃くなつていたことを語るものである。
 所誂尼 アマニアトラヘラエテ。人に頼まれて歌を作ることは、「所v誂《アトラヘラエテ》2娘子(ニ)1」(卷四、五四三)、「所v誂2家婦1」(卷十九、四一九八左註)などがある。
 續末句等 スヱノクラヲツギテ。スヱノクは、ここでは四五の兩句をさしているが、卷の十二では五句のみを、卷の十四では、三四五の三句をさしていて、これも一定していない。等は、接尾語ラに當てて書いたのだろう。
 
1635  佐保河の 水を塞きあげて
 植ゑし田を【尼の作れる。】
 刈れる早飯《わさいひ》は 獨なるぺし。【家持續ぐ。】
 
 佐保河之《サホガハノ》 水乎塞上而《ミヅヲセキアゲテ》
 殖之田乎《ウヱシタヲ》 尼作
 苅流早飯者《カレルワサイヒハ》 獨奈流倍思《ヒトリナルベシ》 家持續
 
【譯】佐保川の水を塞きあげて植えた田を、刈り取つたお初の御飯は、ひとりだけでしよう。
【釋】佐保河之 サホガハノ。住家の傍の川を譬喩に使つている。
 水乎塞上而 ミヅヲセキアゲテ。河水をせいて水位を上げて田に通ずるのである。
 苅流早飯者 カレルワサイヒハ。苅流は、カルと讀まれているが、集中、苅一字の用例は多數あつて、カル(211)の場合にルの音に當る字を附したものは無く、一方に、「苅流玉藻焉《カレルタマモゾ》」(卷四、七八二)の如く、カレルの場合に、流の字を添えて書いているものがある。よつてここもカレルと讀む。ワサイヒは、刈つた稻で初めて炊いた飯であろう。
 獨奈流倍思 ヒトリナルベシ。早飯を食するのは、ただ一人であろうの意であろう。
【評語】尼が三句までは作つたが、どうにもならなかつたので、家持が續けて一首にまとめた。或るひとが、田を守つているだけなのは苦しいと言つたのに對して、收穫した稻の初飯は、あなた一人で食うべきだとした。まじめに言つているのではないようだ。譬喩でできているが、四五句の表現に無理があるのはやむを得ない所である。連歌の形になつてはいるが、計畫的に作られたものではなく、たまたま、初二三と四五とを二人で作つて一首にしたというまでである。ただ三句までを一段落とする氣分が、當時既に發達しておつて、三句切の歌をも多く見るに至り、この歌でも自然に三句までで一段落となつたものとはいえる。
 
冬雜歌
 
【釋】冬雜歌 フユノザフカ。冬の雜歌としては、短歌十九首を收めている。ただ二首を除いては、すべて雪ならびに梅の歌である。
 
舍人娘子雪歌一首
 
【釋】舍人娘子 トネリノヲトメ、傳未詳(卷一、六一參照)。卷の二には、舍人の皇子にこたえた歌がある。
 
1636 大口の 眞神《まがみ》が原に 零《ふ》る雪は、
(212) いたくな零《ふ》りそ。
 家もあらなくに。
 
 大口能《オホクチノ》 眞神之原尓《マガミガハラニ》 零雪者《フルユキハ》
 甚莫零《イタクナフリソ》
 家母不v有國《イヘモアラナクニ》
 
【譯】口の大きいオオカミのいる眞神が原に降る雪は、ひどく降らないでください。家も無いことです。
【釋】大口能 オホクチノ。枕詞。マガミ(狼)は口が大きいから冠する。「大口能《オホクチノ》 眞神之原從《マガミガハラユ》」(卷十三、三二六八)
 眞神之原尓 マガミガハラニ。マガミガ原は、飛鳥から西北方に廣がつている原。天武天皇の御陵があり、「明日香乃《アスカノ》 眞神之原爾《マガミガハラニ》」(卷二、一九九)と歌われている。マガミはオオカミのことで、それによつて得た地名であろう。マガミノハラニとも讀まれる。
【評語】荒野の中で雪に逢つたことが歌われている。この場合、大口の眞神が原の地名が大きく響いている。長の意吉麻呂の、「苦しくも降り來る雨か。神《みわ》が埼《さき》佐野のわたりに家もあらなくに」(卷三、二六五)と類似する所があるが、これはこれでよい歌として立派に生きている。
 
太上天皇、御製歌一首
 
【釋】太上天皇 オホキスメラミコト。元正天皇。草壁の皇子の皇女。靈龜元年九月二日即位、神龜元年二月四日太上天皇となり、天平二十年四月二十一日崩じた。
 
1637 はだ薄 尾花|逆葺《さかふ》き、
 黒木|用《も》ち 造れる室《むろ》は、
(213) よろづ代までに。
 
 波大須珠寸《ハタススキ》 尾花逆葺《ヲバナサカブキ》
 黒木用《クロキモチ》 造有《ツクレル》室《ムロ・イヘ》者《ハ》 迄2萬代1《ヨロヅヨマデニ》
 
【譯】はだ薄の尾花を逆樣にして葺き、皮のついた木で作つた家は、萬代までもあることでしよう。
【釋】波太須珠寸 ハダススキ。尾花を修飾する。この語は、このほかには、「波太須酒伎《ハダススキ》」(卷十四、三五〇六、三五六五)、「波太須酒吉《ハダススキ》」(卷十七、三九五七)の如き假字書きのもの、および「皮爲酢寸《ハダススキ》」(卷三、三〇七)(卷十、二二八三、二三一一)の如く書いたものがあつて、タは濁音と見られ、「旗須爲寸《ハタススキ》」(卷一、四五)、「旗荒《ハタススキ》」(卷十、二〇八八)とは別と思われる。このほかに「者田爲々寸《ハダススキ》」(卷十六、三八〇〇)があるが、この田は清音にも濁音にも讀まれる。ハダススキは、穗をはらんでいるススキをいうと解せられる。「皮爲酢寸《ハダススキ》」(卷三、三〇七參照)。
 尾花逆葺 ヲバナサカフキ。葺草をもつて屋根を葺くに、通例根に近い方を下に向けて切り揃えて葺くのに、今は尾花の方を下に向けて葺いたので、逆葺キと云つている。尾花のついたままに葺いたのである。
 黒木用 クロキモチ。クロキは、皮を剥かないままの木材。
 造有室者 ツクレルムロハ。
  ツクレルヤトハ(類)
  ツクレルムロハ(略)
  ツクレルイヘハ(定本)
  ――――――――――
  造有室戸者《ツクレルヤドハ》(代精)
 室は、通例ムロと訓せられている。ムロは、周圍を圍つて作る家屋であるが、ここはイヘと同じく家屋の義に使用されているようである。新築の家など、ムロ(室)の形式でなくても、ニヒムロという例である。
 迄萬代 ヨロヅヨマデニ。この下にアラムの如き意が省路されている。
(214)【評語】長屋の王の佐保の宅での御製で、風流な原始的な家屋を作つてお迎えしたのであろう。室壽ぎの歌であるが、特に風流な構成であることを稱えた點に特色がある。
 
天皇御製歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。聖武天皇。
 
1638 あをによし 奈良の山なる
 黒木|用《も》ち
 造れる室は、坐《を》れど飽かぬかも。
 
 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良乃山有《ナラノヤマナル》
 黒木用《クロキモチ》
 造有室者《ツクレルムロハ》 雖2居座1不v飽可聞《ヲレドアカヌカモ》
 
【譯】奈良の山の皮のついた木で作つた室は、いても飽かないことだなあ。
【釋】雖居座不飽可聞 ヲレドアカヌカモ。居座の二字は、熟字として使用されていると見られる。
【評語】前の歌を受けて、同じく黒木モチ造レル室の語が使用されている。尾花逆葺キの如き特殊の説明が無く、アヲニヨシ奈良ノ山ナルの句がこれに代わり、末句を居レド飽カヌカモと結んで、歌がらが大きくなつている。居レド飽カヌカモは、類型的な結句である。
 
右聞之、御2在左大臣長屋王佐保宅1肆宴御製
 
右は、聞かくは、左の大臣長屋の王の佐保の宅に御在《いま》して肆宴《トヨノアカリキコシメ》せる御製なりといへり。
 
【釋】左大臣長屋王 ヒダリノオホキマヘツギミ、ナガヤノオホキミ。長屋の王は、神龜元年二月から天平元年二月まで左大臣であつた。
(215) 佐保宅 サホノイヘ。懷風藻に、長屋の王の家を作寶樓と稱しているのは、佐保にあつたからの名である。
 
大宰帥大伴卿、冬日見v雪憶v京歌一首
 
大宰の帥大伴の卿の、冬の日に雪を見て京《みやこ》を憶ふ歌一首
 
1639 沫雪の
 ほどろほどろに 零り敷けば、
 平城《なら》の京《みやこ》し 念《おも》ほゆるかも。
 
 沫雪《アワユキノ》
 保杼呂保杼呂尓《ホドロホドロニ》 零敷者《フリシケバ》
 平城京師《ナラノミヤコシ》 所v念可聞《オモホルカモ》
 
【譯】沫のような雪が、うつすらと降り敷いているので、奈良の京が思われることだなあ。
【釋】沫雪 アワユキノ。アワユキは、沫のような大形の雪。
 保杼呂保杼呂尓 ホドロホドロニ。ホドロの語を重ね助詞ニを添えて副詞とした。ホドロニの例もあるが、庭もほどろに降るといい、ここも降リシクの語が受けているから、雪の降つてある形容であつて、降る状態の形容でないことは明白である。適當にくらいの意か。用例は、「庭毛薄太良爾《ニハモハダラニ》 三雪零有《ミユキフリタリ》 一云 庭裳保杼呂爾《ニハモホドロニ》 雪曾零而有《ユキゾフリタル》」(卷十、二三一八)、「沫雪零有《アワユキフレリ》 庭毛保杼呂爾《ニハモホドロニ》」(同、二三二三)があつて、二三一八の例では、庭モハダラニの句に置き代えられて使用されている。全釋に、ハダラを、うすく淡々とある意としているのはもつともであるが、ホドロをもこれと同語とするのは、ホドロホドロニ降リシクの場合もあり、かならずそうとも決定しかねる。「夜之穗杼呂《ヨノホドロ》」(卷四、七五四、七五五、卷八、一五三九)のホドロも、關係のある語であろう。
 零敷者 フリシケバ。フリシクは、雨について言つている例もあつて、降りしきる意と解されている。しか(216)し雪についていうものが多く、シクに敷の字を當てているものが多いのは、降り敷く意を感じているのだろう。
 
「池邊乃《イケノベノ》 松之末葉爾《マツノウラバニ》 零雪者《フルユキハ》 五百重零敷《イホヘフリシケ》 明日佐倍母將v見《アスサヘモミム》」(卷八、一六五〇)の如く、松ノウラ葉ニ降リシクと言い、五百重降リシケとも言つている、これは降りかさなる意であることが知られる。この歌の如きも、兩樣の意を感じていたのであろう。
【評語】旅人の望郷詩の一つで、沫雪が一面に降り積つているのを見て、奈良の京の有樣を想起している。情趣のゆたかな高雅な作品で、用語にも格調にも無理がなく、よくその作風を代表している。
 
大宰帥大伴卿梅歌一首
 
1640 わが岡に 盛りに咲ける 梅の花、
 殘れる雪を まがへつるかも。
 
 吾岳尓《ワガヲカニ》 盛開有《サカリニサケル》 梅花《ウメノハナ》
 遺有雪乎《ノコレルユキヲ》 亂鶴鴨《マガヘツルカモ》
 
【譯】わたしの岡にさかりに咲いている梅の花は、消え殘つている雪を、それに見違えたなあ。
【釋】吾岳尓 ワガヲカニ。ワガヲカは、大宰府における旅人の邸地をいう。高みにあつたのであろう。同人の作に「吾岳爾《ワガヲカニ》 棹壯鹿來鳴《サヲシカキナク》」(卷八、一五四一)、「吾岳之《ワガヲカノ》 秋〓花《アキハギノハナ》」(同、一五四二)ともある。
 遺有雪乎 ノコレルユキヲ。この頃に降つて消え殘つている雪をいう。冬から春にかけて殘つている雪ではない。
 亂鶴鴨 マガヘツルカモ。雪を梅に紛えたの意。梅が咲いたので、雪までも梅かと思つたというのである。
【評語】梅、雪に似たりという型通りの歌だが、率直に歌つているので見られる。卷の五の梅花の宴の同人の歌も、同樣の内容であつた。以下梅の歌が多い。この花の、冬の中から早く咲くのを賞する意が多分である。
 
(217)角朝臣廣辨雪梅歌一首
 
【釋】角朝臣廣辨 ツノノアソミヒロナリ。傳未詳。廣辨の讀み方はわからない。ヒロベとも讀んでいる。角の朝臣は、もと臣のかばねであつたが、天武天皇の十三年に朝臣を賜わつた。武内の宿禰の子なる紀の角の宿禰の子孫。
 
1641 沫雪に 降らえて咲ける 梅の花、
 君がり遣《や》らば よそへてむかも。
 
 沫雪尓《アワユキニ》 所v落開有《フラエテサケル》 梅花《ウメノハナ》
 君之許遣者《キミガリヤラバ》 與曾倍弖牟可聞《ヨソヘテムカモ》
 
【譯】沫のような雪に降られて咲いた梅の花を、あなたの所にやつたなら、それに心を寄せるだろうかなあ。
【釋】所落開有 フラエテサケル。降る沫雪に催されて。
 與曾倍弖牟可聞 ヨソヘテムカモ。ヨソヘは、自然に寄せる意。「縱咲八師《ヨシエヤシ》 世副流君之《ヨソフルキミガ》 惡有莫君爾《ニクカラナクニ》」(卷十一、二六五九)の如く使用されている。またこの句は「梅花《ウメノハナ》 先開枝《マヅサクエダヲ》 手折而者《タヲリテハ》 裹常名付而《ツトトナヅケテ》 與副手六香聞《ヨソヘテムカモ》」(卷十、二三二六)の例と、内容も同樣であるから、たがいに照合して解すべきである。君がその梅花に心を寄せるだろうというのである。
【評語】雪に催されて咲いた梅花を、君も愛するがゆえに人も愛するだろうとする心を歌つている。表現が不十分の感があるが、當時はこれでよかつたのだろう。
 
安倍朝臣奧道雪歌一首
 
【釋】安倍朝臣奧道 アベノアソミオキミチ。奈良時代末期の人。天平寶字六年正月、正六位の上から從五位(218)の下を授けられ、累進して神護景雲二年十一月、左兵衛の督となつたが、寶龜二年閏三月、無位から本位從四位の下に復されたのは、その間、道鏡の事件に連座したのであろう。その九月に内藏の頭、三年四月に但馬の守となり、五年三月に卒した。
 
1642 たな霧《ぎ》らひ 雪も零《ふ》らぬか。
 梅の花 咲かぬが代《かひ》に
 擬《そ》へてだに見む。
 
 棚霧合《タナギラヒ》 雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》
 梅花《ウメノハナ》 不v開之代尓《サカヌガカヒニ》
 曾倍而谷將v見《ソヘテダニミム》
 
【譯】一面にかき曇つて雪が降らないかなあ。梅の花が咲かない代りに、それに擬してでも見よう。
【釋】棚霧合 タナギラヒ。タナは、たな曇りのタナに同じく、一面にの意をあらわしている。
 雪毛零奴可 ユキモフラヌカ。モは強意で、雪がの意。句切。
 不開之代尓 サカヌガカヒニ。カヒは、代り、代理の意。「味飯乎《ウマイヒヲ》 水爾釀成《ミヅニカミナシ》 吾待之《ワガマチシ》 代者曾無《カヒハカツテナシ》 直爾之不v有者《タダニシアラネバ》」(卷十六、三八一〇)のカヒは、效の意だが、それも、わが待ちし代りの物の義で、根本は同語である。
 曾倍而谷將見 ソヘテダニミム。ソヘテは、比して、擬して。せめて雪をもつて梅に擬して見よう。
【評語】梅が咲かないので、せめて雪でも降れ。それを梅に擬して見ようの意で、作爲の心が顯著である。作者は若く、知性の人で、この作を成したと考えられる。
 
若櫻部朝臣君足雪歌一首
 
【釋】若櫻部朝臣君足 ワカザクラベノアソミキミタリ。傳未詳。
 
(219)天霧《あまぎ》らし 雪も零《ふ》らぬか。
 いちしろく
 このいつ柴に 零《ふ》らまくを見む。
 
 天霧之《アマギラシ》 雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》
 灼然《イチシロク》
 此五柴尓《コノイツシバニ》 零卷乎將v見《フラマクヲミム》
 
【譯】天が曇つて雪が降らないかなあ。はつきりとこの茂つた柴に降るのを見よう。
【釋】天霧之 アマギラシ。空が霧で曇つて。天がかき曇つて。
 灼然 イチシロク。明白に、目に立つように。
 此五柴尓 コノイツシバニ。イツシバは、イチシバに同じ。茂つた樹枝で、「住吉《スミノエノ》 出見濱《イヅミノハマノ》 柴莫苅曾尼《シバナカリソネ》」(卷七、一二七四)などの例は、樹叢をいう。イツは、嚴の義とされている。
【評語】前の歌と、二句を同じくし、また五句の終りを同じくしていて、類型の歌というべきである。イチシロク、イツシバの同音を重ねることも、「このいち柴の何時しかと」(卷四、五一三)、「いちしの花のいちしろく」(卷十一、二四八〇)など、類型がある。前の歌と同じく、歌い傳えられていた歌を、時に合わせて歌い變えたものであろう。
 
三野連石守梅歌一首
 
【釋】三野連石守 ミノノムラジイソモリ。傳未詳。石守は、イソモリともイシモリとも讀まれる。天平二年十一月、大伴の旅人の※[手偏+兼]《ケン》從たちが、海路上京した時に、この人も加わつている。(卷十七、三八九〇)。
 
1644 引き攀《よ》ぢて 折らば散るべみ、
(220) 梅の花 袖に扱《こ》き入《れ》つ。
 染《し》まば染《し》むとも。
 
 引攀而《ヒキヨヂテ》 折者可v落《ヲラバチルベミ》
 梅花《ウメノハナ》 袖尓古寸入津《ソデニコキレツ》
 染者雖v染《シマバシムトモ》
 
【譯】引き寄せて折つたら散りそうなので、梅の花を袖にこいて入れた。袖がしみになつたらなつてもよい。
【釋】引攀而 ヒキヨヂテ。引き寄せての意(卷八、一五〇七參照)。
 袖尓古寸入津 ソデニコキレツ。コキは、梅から花をこいて取る意。コキレツは、コキイレツ。「之路多倍能《シロタヘノ》 蘇泥爾毛古伎禮《ソデニモコキレ》」(卷十八、四一一一)、「引攀而《ヒキヨヂテ》 袖爾古伎禮都《ソデニコキレツ》 染婆染等母《シマバシムトモ》」(卷十九、四一九二)等の例によれば、コキレツと發音したものらしい。四一九二の歌は、この歌から句を取つている。
 染者雖染 シマバシムトモ。シムは、色がしみつく意。しみになる。
【評語】シマバシムトモと歌つているのは、露を帶びているためか。四一九二の歌では、フジの花について歌つている。これも興がつて詠んだ作爲のあとが顯著である。
 
巨勢朝臣宿奈麻呂雪歌一首
 
【釋】巨勢朝臣宿奈麻呂 コセノアソミスクナマロ。奈良時代中期の人(卷六、一〇16參照)。
 
1645 吾が屋前《には》の 冬木の上に 零《ふ》る雪を、
 梅の花かと うち見つるかも。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 冬木乃上尓《フユキノウヘニ》 零雪乎《フルユキヲ》
 梅花香常《ウメノハナカト》 打見都流香裳《ウチミツルカモ》
 
【譯】わたしの屋前の冬木の上に降る雪を、梅の花かと眺めたことだなあ。
【評語】雪が梅の花に似ていることを歌つている。類型的な思想であるが、表現がいかにも率直であるのがよ(221)い。
 
小治田朝臣東麻呂雪歌一首
 
【釋】小治田朝臣東麻呂 ヲハリダノアソミアヅママロ。傳未詳。
 
1646 ぬばたまの 今夜《こよひ》の雪に
 いざぬれな。
 明《あ》けむ朝《あした》に 消《け》なば惜しけむ。
 
 夜干玉乃《ヌバタマノ》 今夜之雪尓《コヨヒノユキニ》
 率所v沾名《イザヌレナ》
 將v開朝尓《アケムアシタニ》 消者惜家牟《ケナバヲシケム》
 
【譯】くらい今夜の雪に、さあ濡れよう。夜が明けてあしたに、消えたら惜しいだろう。
【釋】率所沾名 イザヌレナ。イザは誘う意の副詞。ヌレナは、希望の語法。句切。
 消者惜家牟 ケナバヲシケム。ヲシケムは、形容詞ヲシケに、助動詞ムの添つた形。
【評語】今夜の雪に濡れようというのは、作爲がはなはだしい。雪を興ずるあまり、この表現に出たもので、かえつて興趣を失している。雪をおして歸る時の作か。
 
忌部首黒麻呂雪歌一首
 
1647 梅の花、枝にか散ると 見るまでに
 風に亂れて 雪ぞ零《ふ》りくる。
 
 梅花《ウメノハナ》 枝尓可散登《エダニカチルト》 見左右二《ミルマデニ》
 風尓亂而《カゼニミダレテ》 雪曾落久類《ユキゾフリクル》
 
【譯】梅の花が、枝でか散ると見るまでに、風に亂れて雪が降つてくる。
(222)【釋】枝尓可散登 エダニカチルト。ニカは、枝でかの意で、散る場處を想像している。何處かで散る、それは枝でかの意である。
【評語】どのくらいにという意味を、何々までにの形であらわしている型の歌である。雪、梅に似たりという内容の歌で、格別の事はない。
 
紀少鹿女郎梅歌一首
 
【釋】紀少鹿女郎 キノヲジカノヲミナ。紀の女郎に同じ。少鹿は名。
 
1648 十二月《しはす》には 沫雪ふると 知らねかも、
 梅の花咲く。
 含《ふふ》めらずして。
 
 十二月尓者《シハスニハ》 沫雪零跡《アワユキフルト》 不v知可毛《シラネカモ》
 梅花開《ウメノハナサク》
 含不v有而《フフメラズシテ》
 
【譯】十二月には、沫のような雪が降ると知らないでか、梅の花が咲く。つぼんでいないで。
【釋】十二月尓者 シハスニハ。十二月をシハスというのは、爲果つで、一年中の事をなしはてた意であるという。
 不知可毛 シラネカモ。知らねばかも。カモは疑問の係助詞で、これを受けて、梅ノ花咲クと結んでいる。
 含不有而 フフメラズシテ。フフメラズは、含メラズで、つぼんでいない意。
【評語】十二月に咲く梅花を歌つている。梅花が沫雪に逢つたのをあわれんでいるのが、沫雪に誘われて咲くというよりも、純粹な感情である。
 
(223)大伴宿祢家持雪梅歌一首
 
1649 今日|零《ふ》りし 雪に競《きほ》ひて、
 わが屋前《には》の 冬木の梅は、
 花咲きにけり
 
 今日零之《ケフフリシ》 雪尓競而《ユキニキホヒテ》
 我屋前之《ワガニハノ》 冬木梅者《フユキノウメハ》
 花開二家里《ハナサキニケリ》
 
【譯】今日降つた雪に競つて、わたしの屋前の冬木の梅は、花が咲いたことだ。
【評語】雪に負けまいと爭つて、梅の花が咲いたと云つている。雪ニ競フという所に中心を置いて、春にさきがけて咲く梅花を愛している。特に冬木の梅というのも、その思想の表示である。
 
御2在西池邊1肆宴歌一首
 
【釋】御在西池邊肆宴歌 ニシノイケノホトリニオホマシマシテトヨノアカリキコシメセルウタ。西池は、平城宮の西の池で、そこに宮殿があつた。御在は、天皇のおいでになつたのをいう。西の池の邊に肆宴せられたことは、何囘もあるのであろう。その一つとして、續日本紀天平十年七月七日の條に、次の記事がある。「癸酉、天皇御(シテ)2大藏省(ニ)1覽2相撲(ヲ)1、晩頭(ニ)轉御(ス)2西(ノ)池(ノ)宮(ニ)1、因(リテ)指(シ)2殿前(ノ)梅樹(ヲ)1、勅(シテ)2右衛士(ノ)督下道(ノ)朝臣眞備及(ビ)諸(ノ)才子(ニ)1曰(ハク)、人皆有(リ)v志、所v好(ム)不v同(カラ)、朕去春(ヨリ)欲(ヘトモ)v翫(ハント)2此樹(ヲ)1、而未v及(バ)2賞翫(スルニ)1、花葉遽(ニ)落(チ)、意(ニ)甚惜(ム)焉。宜(シ)d各賦(ミテ)2春意(ヲ)1詠(ム)c此(ノ)梅樹(ヲ)u。文人卅人、奉(ハリテ)v詔(ヲ)賦(ム)v之。因(リテ)賜2五位已上※[糸+施の旁]廿匹。六位已下(ニ)各六匹(ヲ)1」。この文には春意を賦すとあり、次の歌は、冬の雪の歌だから、もとよりこの時の作ではない。
 
(224)1650 池の邊《べ》の 松の末葉《うらば》に ふる雪は、
 五百重《いほへ》ふり敷け。
 明日さへも見む。
 
 池邊乃《イケノベノ》 松之末葉尓《マツノウラバニ》 零雪者《フルユキハ》
 五百重零敷《イホヘフリシケ》
 明日佐倍母將v見《アスサヘモミム》
 
【譯】池のほとりの梅の伸びた葉先に降る雪は、いく重にも降り重なれ。明日さえも見よう。
【釋】松之末葉尓 マツノウラバニ。ウラバは、伸びた枝先の葉。
 五百重零敷 イホヘフリシケ。イホヘは、いく重にもの意。フリシケは、降りかさなれ。命令形。句切。
【評語】松の末葉に降り積む雪を賞している。特に池ノ邊ノ松ノ末葉ニと敍したのが特色である。明日サヘモ見ムは、類型的で、輕く片づけている。
 
右一首、作者未v詳。但竪子阿倍朝臣蟲麻呂傳誦之。
 
右の一首は、作者いまだ詳ならず。但し竪子阿倍の朝臣蟲麻呂傳へ誦めり。
【釋】竪子 チヒサワラハ。まだ元服しないで、宮中に奉仕する者。竪は豎に同じ。宮中奉仕の少年。
 阿倍朝臣蟲麻呂 アベノアソミムシマロ。卷の四、六六五參照。本卷にも一五七八の左註に見えている。この人は、天平九年九月に、正七位の上から外の從五位の下を授けられでいるから、竪子というのは、その以前の事で、多分西の池の肆宴の時に竪子であつてこの歌を傳誦したというのであろう。そうとすれば古歌で、その時の作品ではないことになる。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
(225)1651 沫雪の この頃|續《つ》ぎて かく降れば、
 梅の初花 散りか過ぎなむ。
 
 沫雪乃《アワユキノ》 此日續而《コノゴロツギテ》 如此落者《カクフレバ》
 梅始花《ウメノハツハナ》 散香過南《チリカスギナム》
 
【譯】沫のような雪が、この頃續いてこのように降るので、梅の初花が、散つてしまうだろうか。
【評語】いたずらに風流がらないで、ただ雪に逢つて梅の花の散り過ぎてしまうだろうかと案じている。その純粹な心もちがよい。連日の雪に、梅花を案じている實情が歌われている。
 
他田廣津娘子梅歌一首
 
【釋】他田廣津娘子 ヲサダノヒロツノヲトメ。傳未詳。廣津は名か、氏か、不明。
 
1652 梅の花
 折りも折らずも 見つれども、
 今夜《こよひ》の花に なほ如かずけり。
 
 梅花《ウメノハナ》
 折毛不v折毛《ヲリモヲラズモ》 見都禮杼母《ミツレドモ》
 今夜能花尓《コヨヒノハナニ》 尚不v如家利《ナホシカズケリ》
 
【譯】梅の花は、折つても折らないでも見たけれども、今夜の花には、やはり及ばなかつた。
【評語】今夜の花と言つているのは、宴會か何か特殊の場合をさしているのだろう。格別の歌ではなく、また梅の花でなくてもよい。
 
縣犬養娘子、依v梅發v思歌一首
 
縣の犬養の娘子の、梅によりて思ひを發《おこ》せる歌一首
 
(226)【釋】縣犬養娘子 アガタノイヌカヒノヲトメ。傳未詳。
 依梅發思歌 ウメニヨセテオモヒヲオコセルウタ。梅を材料として思いを表現した歌で、相聞の歌の類である。卷の七に寄物發思、卷の十一、十二に寄物陳思とある類の題詞である。
 
1653 今の如《ごと》 心を常に 念へらば、
 まづ咲く花の、地《つち》に落ちめやも。
 
 如v今《イマノゴト》 心乎常尓《ココロヲツネニ》 念有者《オモヘラバ》
 先咲花乃《マヅサクハナノ》 地尓《ツチニ》將v落《オチメ・チラメ》八方《ヤモ》
 
【譯】今のように心をいつも思つていたならば、まず咲く梅の花のように、地面に散ることはないでしよう。
【釋】先咲花乃地尓將落八方 マヅサクハナノツチニオチメヤモ。この二句は、譬喩で、ここに梅に寄せた題意がある。マヅサクハナは、衆花にさきだつて咲く花で梅をいう。ハナノは、花の如くの意。ツチニオチメヤモは、散ることはあるまいの意で、男女關係でいえば、別れることはないだろうの意になる。梅花の咲いているようにであつて、散ることを豫想しない表現である。「奥山之《オクヤマノ》 眞木葉凌《マキノハシノギ》 零雪乃《フルユキノ》 零者雖v益《フリハマストモ》 地爾落目八方《ツチニオチメヤモ》」(卷六、一〇一〇)。
【評語】 マヅ咲ク花ノは、新婚を寓意しているのであろうか。梅花を譬喩に取つたのはよいが、それから地ニ落チメヤモに及んだのは、適切とはいえない。作者は若くて、十分に意をあらわし得ないのだろう。
 
大伴坂上郎女雪歌一首
 
1654 松蔭の 淺茅が上の 白雪を、
 消ずて置かむ ことはかも無き。
 
 松影乃《マツカゲノ》 淺茅之上乃《アサヂガウヘノ》 白雪乎《シラユキヲ》
 不v令v消將v置《ケタズテオカム》 言者可聞奈吉《コトハカモナキ》
(227)【譯】松の木蔭の淺茅の上の白雪を、消えないようにして置く方法はないのか。
【釋】言者可聞奈吉 コトハカモナキ。コトは、事で、四句から續いている。カモは、疑問の係助詞。
【評語】雪の叙述が美しい。四五句も純粹でよいが、消タズテ置カムコトと續くべきを、二句に割つたのは、散文的で調子が亂れている。
 
冬相聞
 
【釋】冬相聞 フユノサウモニ。冬の相聞の歌として、短歌九首を收めている。大部分、雪ならびに梅の歌で、一首だけ、和フル歌として、季語を含まない歌がはいつている。
 
三國眞人人足歌一首
 
【釋】三國眞人人足 ミクニノマヒトヒトタリ。奈良時代前期の人。慶雲二年十二月、從六位の上から從五位の下を授けられ、靈龜元年四月、從五位の上、養老四年正月、正五位の下になつている。
 
1655 高山の 菅《すが》の葉|凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪の、
 消《け》ぬと言《い》ふべしも。
 戀の繁けく。
 
 高山之《タカヤマノ》 菅葉之努藝《スガノハシノギ》 零雪之《フルユキノ》
 消跡可v曰毛《ケヌトイフベシモ》 戀乃繁鷄鳩《コヒノシゲケク》
 
【譯】高い山の菅の葉をおし伏せて降る雪のように、消えたというべきだ。戀の繁くあることよ。
【釋】高山之 タカヤマノ。高山は、奥山というほどの感じである。
 零雪之 フルユキノ。以上、序詞。
(228) 消跡可曰毛 ケヌトイフベシモ。ケヌトカイハモ(代初)。この場合の可は、カともベシとも讀まれる。もしカと讀むとすれば、曰毛はイフモでは具合がわるく、イハモと讀まねばならない。然るに、助動詞ムをモと書くのは、東歌と防人歌とに限られていて、大和方面の歌には、その確證とすべきものがない。「哭耳四泣裳《ネノミシナクモ》」(卷四、六一四)の例は、代匠記精撰本にネノミシナカモと讀んでいるが、これもネノミシナクモとも讀まれる。その條參照。既に曰毛をイハモと讀むべき根據なしとすれば、可をベシと讀むほかなく、それで意味は通ずるのである。わしはもう死んだも同樣だ。消えたというべきだの意。句切。
 戀乃繁鷄鳩 コヒノシゲケク。この戀の繁くあることはなあの意。
【評語】雪の譬喩によつて、消ヌを引き出す手段は常套的だ。「奥山の菅の葉しのぎ」(卷三、二九九)、「奥山の眞木の葉しのぎ」(卷六、一〇一〇)など、雪の敍述も型がある。ただ四五句の表示が特殊で、感動的なので持つている歌である。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1656 酒杯《さかづき》 梅の花浮かべ、
 念《おも》ふどち 飲みての後は、
 散りぬともよし。
 
 酒杯尓《サカヅキニ》 梅花浮《ウメノハナウカベ》
 念共《オモフドチ》 飲而後者《ノミテノノチハ》
 落去登母與之《チリヌトモヨシ》
 
【譯】酒杯に梅の花を浮かべて、仲のよい人たちが、飲んでからは、散つてもよい。
【釋】酒抔尓梅花浮 サカヅキニウメノハナウカベ。酒杯に梅花を浮かべるのは、風流なあそびで、その文雅の風情を愛するのである。卷の五の梅花の宴の歌中にも詠まれ、その後人追和の歌にも詠まれている。
(229) 念共 オモフドチ。あい思う人どうし、ドチは「始花乎《ハツハナヲ》 折而插頭奈《ヲリテカザサナ》 客別度知《タビワカルドチ》」(卷十九、四二五二)とも使われている。
【評語】梅花を酒杯に浮かべて、その風流を愛している。梅花の歌で、末句を、散リヌトモヨシと結んだ歌は、卷の五、八二一、卷の六、一〇一一にもあり、歌いものの中に、そういう型があつたものらしい。それでこの歌も、吟誦歌として、かような型によつているものであろう。
 
和歌一首
 
【釋】和歌 コタフルウタ。何人の作とも知られない。
 
1657 官《つかさ》にも 許したまへり。
 今夜《こよひ》のみ 飲まむ酒かも。
 散りこすな、ゆめ。
 
 官尓毛《ツカサニモ》 縱賜有《ユルシタマヘリ》
 今夜耳《コヨヒノミ》 將v飲酒可毛《ノマムサケカモ》
 散許須奈由米《チリコスナユメ》
 
【譯】役人も許してくださつている。今夜ばかり飲むべき酒でしようか。散つてくれるな、決して。
【釋】官尓毛縱賜有 ツカサニモユルシタマヘリ。左註にあるように、多人數はいけないが、近親の者が少數で集まつて飲むのは、許すとしたのをいう。句切。
 今夜耳將飲酒可毛 コヨヒノミノマムサケカモ。今夜ばかり飲むべき酒か、そうではないと反語になつている。次の散つてはいけないの理由になる。句切。
 散許須奈由米 チリコスナユメ。コスは、與える意の助動詞。散つてくれるな。ユメは、注意して。決して。
【評語】坂上の郎女が、酒に浮かべて飲んだら、もう散つてもよいと歌つたのを受けて、今夜ばかりではない(230)から、散つてくれるなと歌つている。五句に、梅をいわないで、散リコスナユメと言つたのは、突然で、四句との續きも無理である。自分たちだけわかればよいという態度である。
 
右酒者、官禁制※[人偏+稱の旁]、京中閭里、不v得2集宴1、但親々一二飲樂聽許者、縁v此和人作2此發句1焉。
 
右は、酒は、官禁制していはく、京中の閭里、集宴することを得ざれ。但《ただ》し親々一二飲樂するは聽許すといへれば、これによりて和ふる人、この發の句を作れり。
 
【釋】酒者官禁制※[人偏+稱の旁] サケハツカサキニセイシテイハク。奈良時代に禁酒の令のあつたのは、天平九年、天平寶字二年などが知られているが、年代の上から見て、ここは天平九年の禁酒の令に關すると見られる。天平九年五月壬辰、「詔曰、四月以來疫旱竝(ニ)行(ハレテ)、田苗※[火+焦]萎(ス)。(中略)宜(シ)v令(ム)d國郡(ヲシテ)、審(ニ)2冤獄(ヲ)1、掩(ヒ)v骼《カクヲ》埋(ミ)v※[止/肉]《シヲ》、禁(ジ)v酒(ヲ)斷(タ)uv屠(ヲ)」(續日本紀)とある。
 發句 ハジメノク。ここでは、初二句をさしている。
 
藤皇后、奉2天皇1御歌一首
 
藤の皇后の、天皇に奉れる御歌一首
 
【釋】藤皇后 トウノオホギサキ。藤は、藤原の略。光明皇后。藤原の不比等の女、母は、縣の犬養の橘の宿禰三千代。天平元年八月、皇后となり、天平寶字四年六月崩じた。
 天皇 スメラミコト。聖武天皇。
 
(231)1658 わが夫子と 二人見ませば、
 幾許《いくばく》か
 この零《ふ》る雪の 懽《うれ》しからまし。
 
 吾背兒與《ワガセコト》 二有見麻世波《フタリミマセバ》
 幾許香《イクバクカ》
 此零雪之《コノフルユキノ》 懽有麻思《ウレシカラマシ》
 
【譯】わが君と共に、見ましたならば、どのくらい、この降る雪がうれしい事でございましよう。
【釋】吾背兒與 ワガセコト。ワガセコは、この歌では、天皇をさす。
 二有見麻世波 フタリミマセバ。ミマセバは、マシの條件法で、見ましたならばの意である。マセは、助動詞マシの未然形。敬語のマスではない。この歌は、マセバと、そうしたかつたことを敍して、結句をやはりマシと結んでいる。すべて假設の法でできている歌である。なおフタリに二有の字を當てていることが注意される。
【評語】別に飾りのない、眞情の流露している御歌で、巧みを求めないところにかえつて味がある。ひとりこの雪景に對する、もの足りなさがよく歌われている。
 
他田廣津娘子歌一首
 
1659 眞木《まき》の上に 零《ふ》り置ける雪の、
 しくしくも 念《おも》ほゆるかも。
 さ夜《よ》訪《と》へ、吾が夫。
 
 眞木乃於尓《マキノウヘニ》 零置有雪乃《フリオケルユキノ》
 敷布毛《シクシクモ》 所v念可聞《オモホユルカモ》
 佐夜問吾背《サヨトヘワガセ》
 
【譯】常盤木の上に降つてある雪のように、重ね重ね思われることですよ。夜を尋ねていらつしやい、あなた。
(232)【釋】眞木乃於尓零置有雪乃 マキノウヘニフリオケルユキノ。以上二句、序詞。譬喩によつて、シクシクモを引き起している。マキは、松杉檜のような堂々たる樹木。
【評語】降り積む雪から、シクシクを引き出したのは、類型的な手段である。しかしこの序は實景であろう。サ夜訪ヘワガ夫は、上からの續きは突然だが、特色のある句である。
 
大伴宿祢駿河麻呂歌一首
 
【釋】大伴宿祢駿河麻呂 オホトモノスクネスルガマロ。奈良時代中期の人。寶龜七年七月卒した(卷三、四〇〇參照)。
 
1660 梅の花 散らす冬風《あらし》の、
 音のみに 聞きし吾妹《わぎも》を
 見らくしよしも。
 
 梅花《ウメノハナ》 令v落冬風《チラスアラシノ》
 音耳《オトノミニ》 聞之吾妹乎《キキシワギモヲ》
 見良久志吉裳《ミラクシヨシモ》
 
【譯】梅の花を散らす嵐のように、音にばかり聞いたあなたを見るのはうれしいことです。
【釋】梅花令落冬風 ウメノハナチラスアラシノ。以上二句、序詞。譬喩によつて、音ノミニを引き起している。冬風は、義をもつてアラシに當てて書いている。
【評語】風の吹き荒れている時に詠んだので、梅花を散らす冬風と詠んだのだろうが、音にばかり聞いていた婦人に、始めて逢つた喜びを述べる歌の譬喩としては、荒々しくて適切でない。この作者は、坂上の郎女の二番目の娘の夫となつた人であるから、吾妹というのは、その娘のことだろう。
 
(233)紀少鹿女郎歌一首
 
1661 ひさかたの 月夜《つくよ》を清《きよ》み、
 梅の花 心開けて わが念《おも》へる公。
 
 久方乃《ヒサカタノ》 月夜乎清美《ツクヨヲキヨミ》
 梅花《ウメノハナ》 心開而《ココロヒラケテ》 吾念有公《ワガオモヘルキミ》
 
【譯】月が清らかなので、梅の花のように、心が晴々と開いてわたくしの思つておりますあなたです。
【釋】梅花 ウメノハナ。枕詞。開ケテに冠す。
 心開而 ココロヒラケテ。心からうち解けて愉快に樂しく。月夜ヲ清ミ心が開ケテと續く。心ヒラケテは、歌には例がないが、吉田の宜《よろし》の文には「心神開(ケ)朗(ニ)」(卷五、八六四前文)とある。
【評語】おりからの月と梅花とを使用した表現が巧みである。月明の夜に男のおとずれきたのを喜んで迎えた歌と見られる。
 
大伴田村大娘、與2妹坂上大娘1歌一首
 
大伴の田村の大娘の、妹坂上の大娘に與ふる歌一首
 
1662 沫雪の 消ぬべきものを、
 今までに ながらへふるは、
 妹に遇《あ》はむとぞ。
 
 沫雪之《アワユキノ》 可v消物乎《ケヌベキモノヲ》
 至v今尓《イママデニ》 流經者《ナガラヘフルハ・ナガラヘヌルハ》 妹尓相曾《イモニアハムトゾ》
 
【譯】沫雪のように消えてしまうべきものを、今まで生きながらえていたのは、あなたに逢おうとです。
(234)【釋】沫雪之 アワユキノ。枕詞。譬喩によつて、消ヌベキに冠する。
 流經者 ナガラヘフルハ。流經の二字をもつてナガラヘ(ナガラフル等の變化を含む)と讀むのが例であるが、七音としては、ナガラヘフルハである。生存して世に經るはの意である。
 妹尓相曾 イモニアハムトゾ。この下にアルの如き意が略されている。
【評語】異母妹に逢おうとすることを歌つたものとして、生命をかけているのは、誇張に過ぎる。しかし他の男女關係の歌でも、實際にはこの種の誇張が多いのだろう。沫雪の枕詞は、その季節の物を使用したものであろう。
 
大伴宿祢家持歌一首
 
1663 沫雪の 庭に零《ふ》りしき 寒き夜を、
 手《た》枕|纏《ま》かず ひとりかも宿《ね》む。
 
 沫雪乃《アワユキノ》 庭尓零敷《ニハニフリシキ》 寒夜乎《サムキヨヲ》
 手枕不v纏《タマクラマカズ》 一香聞將v宿《ヒトリカモネム》
 
【譯】沫雪が庭に降り積つて寒い夜なのを、妻の手枕もしないで、ひとりでか寐よう。
【釋】手枕不纏 タマクラマカズ。タマクラは、妹の手枕。
【評語】ヒトリカモ寐ムの結句は、類型的だが、寒い夜の獨居の心はよくあらわれている。寒い夜と手枕マカズの句とが、密接な關係に立つて、一首の内容を作つている。
 
萬葉集卷第八
 
(235)萬葉集卷第九
 
(237)萬葉集卷第九
 
 卷の九は、おおむね作者ならびに作歌事情の傳えられている歌を、雜歌、相聞、挽歌の三部に分かつて收録している。歌數は、長歌二十二首、短歌百二十五首、旋頭歌一首で計百四十八首である。時代は、雄略天皇の御製と傳えるもの一首がもつとも古く、他は、岡本の宮の時代の歌二首以外は、降つて藤原の宮時代以後の作らしく、年代の知られる最後のものは、天平五年の遣唐使に關する作である。柿本朝臣人麻呂歌集、高橋連蟲麻呂歌集、笠朝臣金村歌集、田邊史福麻呂歌集、および古集等の歌集所出の歌を採録することの多いのが特に目立つており、中にも高橋の蟲麻呂の作品と見られるその歌集所出の歌の大部分は、この卷にある。これらの歌集所出の歌は、左註において、その由を記しているが、その中には、右何首と歌數を明記したものと、歌數を明記しないものとがあつて、各歌集所出の歌の數を明白にすることは、困難である。雜歌の部における人麻呂歌集所出の分も、その範圍について諸説があつて、一定しかねるが、今假に、その最初の分を一六八二から一七〇九まで、第二の分を一七二〇から一七二五までとして、これによつて各歌集所出の歌の數を表示すれば、次のようになる。
        雜歌         相聞      挽歌      計
出所不明  四五(【内長二】)    一二(【内長一】)         五七
人麻呂集  三四          五        五       四四
蟲麻呂集  二三(【内長一〇施一】) 二(【内長一】)  五(【内長二】) 三〇
(238)古集              二                二
金村集               五(【内長二】)          五
福麻呂集              三(【内長一】)  七(【内長三】) 一〇
 これによつて、ほぼ本卷の組織を窺うことができるであろう。以上のうちには、資料のままを繼ぎ合わせたものもあるべく、また編纂に當つて書き改めたものもあるのだろう。その成立事情は、前諸卷と格別の相違はないようであるが、大伴の旅人の九州時代、および大伴の家持中心の集録は、見ることができない。
 用字法は、表意文字と表音文字とをまじえて書いており、各歌集所出の分は、大體その資料に近い形で傳えているのであろう。人麻呂集所出の分の如きは、字數をすくなく貫く特色を存している。
 傳本は、古本系統として、一部分を存するものに、元暦校本《がんりやくこうほん》、藍紙本《らんしぼん》、傳壬生隆祐筆本《でんみぶのたかすけひつぼん》があり、全卷を存するものに、神田本がある。これに類聚古集、古葉略類聚鈔の所載を加えれば、他卷に比して古本系統の校勘資料に富んでいる方である。仙覺本系統としては、西本願寺本、金澤文庫本が、比較的古い時代の寫本として殘つている。
 
雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。雜歌としては、長歌十二首、旋頭歌一首、短歌八十九首を收めている。人麻呂歌集、蟲麻呂歌集所出の歌が多く、人麻呂歌集所出の分は、その範圍に疑問があつて正確には云えないが、最小に見て三十四首はあり、蟲麻呂集所出の分は、二十三首ある。その外にも出所を明記しないで、纏つて取り入れた、いわゆる古記の類がある。
 
(239)泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首
 
泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめしし大泊瀬幼武《おほはつせわかたけ》の天皇《すめらみこと》の御製の歌一首
 
【釋】泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇 ハツセノアサクラノミヤニアメノシタシラシメシシオホハツセワカタケノスメラミコト。この形は、藍紙本等の古本系統によるものである。仙覺本系統には、「大泊瀬幼武天皇」の七字を小字二行とし、その下に天皇の二字を本行に加えている。これは卷の一二あたりの時代の標目の形式に接近させようとしたものであろう。「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇」の如く、宮號の下に天皇の御名を入れる形は、本集でも「藤原宮御宇高天原廣野姫天皇」(卷二、一〇五前行標目)の如き例があり、他の古典にも、往々にして見受ける所である。この標目の書き方は、卷の一あたりの標目の書式を參考として書いたものらしいが、それとはすこし變わつたかような形のものとなつた。これは資料のままでもなく、一往整理された形のものと考えられる。大泊瀬幼武の天皇は、雄略天皇。古事記に、大長谷若建の命、日本書紀に、大泊瀬幼武の天皇とあり、本集卷の一には、大泊瀬稚武の天皇とある。
 
1664 暮《ゆふ》されば 小椋《をぐら》の山に 臥《ふ》す鹿《しか》の、
 今夜《こよひ》は鳴かず 寐《い》ねにけらしも。
 
 暮去者《ユフサレバ》 小椋山尓《ヲグラノヤマニ》 臥鹿之《フスシカノ》
 今夜者不v鳴《コヨヒハナカズ》 寐家良霜《イネニケラシモ》
 
【譯】夕方になると、小倉の山で寐る鹿は、今夜は鳴かないで寐てしまつたらしい。
【釋】小椋山尓。ヲグラノヤマニ。卷の八の重出には、この句を、「小倉乃山爾《ヲグラノヤマニ》」(一五一一)としている。椋の字は、狩谷※[木+夜]齋《かりやえきさい》の日本靈異記攷證に、京の字は、もと倉庫の義であつたが、京都の義に使用されるものと區別するために、木篇を加えたのだろうという。それで、クラの音に借りている。「椋橋乃《クラハシノ》 山乎高可《ヤマヲタカミカ》」(卷三、(240)二九〇)
 臥鹿之 フスシカノ。ノは、主格を示すために使われている。以上、夕方になれば、きまつて小椋の山に臥すと、鹿の習性をあげて説明している。參考欄に掲げたように、卷の八に載せたのには、この句を「鳴鹿者」としている。鹿の習性をいう句だから、夕方になれば臥すでは、視覺に訴えることになつてわるい。
【評語】卷の八の歌の重出で、作者を雄略天皇としている。第三句の相違は、卷の八の所傳の方が、重點があつてよく纏まつている。この卷のは傳誦の間に訛つたものであろう。
【參考】重出。
   崗本天皇御製歌一首
 
  暮去者《ユフサレバ》 小倉乃山爾《ヲグラノヤマニ》 鳴鹿者《ナクシカハ》 今夜波不v鳴《コヨヒハナカズ》 寐宿家良思母《イネニケラシモ》(卷八、一五一一)
 
右或本云、崗本天皇御製、不v審2正指1、因以累載
 
右は、或る本に云ふ、岡本の天皇の御製なりといへり。正指を審にせず。因りて以ちて累《かさ》ね載す。
 
【釋】或本云崗本天皇御製 アルマキニイフ、ヲカモトノスメラミコトノオホミウタトイヘリ。崗は岡に同じ。岡本の天皇は、舒明天皇、もしくは齊明天皇をいう。右の歌は、卷の八にも載せて、詞句に小異があり、それには崗本の天皇の御製としているので、ここに或る本というのは、卷の八の資料となつたものをさすことが知られる。ところで、この歌に、作者の兩傳のあることは、この歌が口誦されてきたためであつて、古歌と新歌とを明白に區別することのなかつた當時の傳誦事情によるものである。かような古歌の作者については、傳説的な性質を有するものと解すべきである。卷の八のは、題詞を「崗本天皇御製歌」として簡素であるが、それはその資料から來たものであろう。
 
(241)崗本宮御宇天皇、幸2紀伊國1時歌二首
 
岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の紀伊の國に幸《い》でましし時の歌二首
 
【釋】崗本宮御宇天皇 ヲカモトノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコト。岡本の宮は、舒明天皇の明日香の岡本の宮、齊明天皇の後の岡本の宮の二つがある。舒明天皇の紀伊の國の行幸は、歴史に傳えないが、齊明天皇は、四年十月に、紀伊の國に行幸された。卷の一には、後の岡本の宮の御宇の標目のもとに、紀の温泉に幸《い》でましし時の歌を載せている。齊明天皇の四年十月十五日、紀の温湯に幸し、五年正月三日に還幸された。その間に、有間の皇子を誅せられることがあつた。
 
1665 妹がため 吾《われ》玉|拾《ひり》ふ。
 沖邊なる 玉|寄《よ》せ持ち來《こ》。
 沖つ白浪。
 
 爲v妹《イモガタメ》 吾玉拾《ワレタマヒリフ》
 奧邊有《オキベナル》 玉縁持來《タマヨセモチコ》
 奧津白浪《オキツシラナミ》
 
【譯】妻のために、わたしは玉を拾う。沖の方の玉を寄せて持つてきてくれ。沖の白浪よ。
【釋】吾玉拾 ワレタマヒリフ。タマは、貝、石など、玉の材料。拾フは、「多麻母比利波牟《タマモヒリハム》」(卷十七、四〇三八)、「比里比登里《ヒリヒトリ》」(卷十五、三六二七)、「可比乎比里布等《カヒヲヒリフト》」(同、三七〇九)など、假字書きに多くヒリフと書いている。ヒロフは「多麻等比呂波年《タマトヒロハム》」(卷十四、三四〇〇)の一例のみである。以上二句、作者自身の上を説明して、三句以下の伏線としている。句切。
 奧邊有玉縁持來 オキベナルタマヨセモチコ。オキベナルは、玉の所在を示す修飾句。奧ツ白浪に對して、希望を述べている。沖の方の、手にし難い玉を寄せ來よの意。玉は、二句の玉と同じく、貝、石など、玉の材(242)料となる物をいうが、眞珠などをも考えているだろう。句切。
【評語】當時の人が、装身具として玉を愛用したことが、この歌の基礎となつている。海濱に出れば、玉を拾うということが、男子たちの重要な目標になつていたのである。そうしてそれによつて、間接に清き濱邊の描寫がされている。次に別傳があるように、この歌自身が、人々に愛唱されたのも、その内容が、人々の共鳴する所であつたからである。妹ガタメという句を使用した歌は多く、慣用句になつている、妹のために玉を拾うことも「妹がため玉を拾ふと紀の國の湯等のみ埼にこの日暮らしつ」(卷七、一二二〇)などある。
 
1666 朝霧に 濡《ぬ》れにし衣 干《ほ》さずして、
 ひとりや君が 山路越ゆらむ。
 
 朝霧尓《アサギリニ》 沾尓之衣《ヌレニシコロモ》 不v干而《ホサズシテ》
 一哉君之《ヒトリヤキミガ》 山道將v越《ヤマヂコユラム》
 
【譯】朝霧に濡れてしまつた著物をほさないで、ひとりでか、あの方は、山路を越えているでしよう。
【釋】朝霧尓沾尓之衣 アサギリニヌレニシコロモ。朝の霧のために濡れてしまつた衣服で、旅に出た人の上を推量していう。
 不干而 ホサズシテ。集中、濡れた衣服をほすのは、多く妻のわざとして、歌われており、ここにほさずしてというのは、妻である作者自身が、旅行く人のかたわらにいないことを敍している。
 一哉君之 ヒトリヤキミガ。ヒトリは、單獨の意ではあるが、それは妻を伴なわない意が中心になつている。他に同行者がいるかも知れないが、それはこの歌では問題にしていない。ヤは、疑問の係助詞。これを受けて、越ユラムで結んでいる。キミは、夫をいう。
 山道將越 ヤマヂコユラム。コユラムは、夫の現在の状況を推量していうが、夫が現に山道を越えつつあり、または越えようとしていることを含んでいう。主としては、現に越えていることを推量しているが、しかしラ(243)ムの性格上、かならずしも現在のみに固定しているものではない。「往來趾見良武《ユキクトミラム》」(卷一、五五參照)。
【評語】これは家に留まつている妻の歌である。朝霧ニ濡レニシ衣というのは、今までの旅行で、既に濡れてしまつた衣服の謂であるが、同時に、この句で、朝霧の深くかかつている山を想像している。濡れた衣服をかわかす人もなく、ひとりさびしく夫が山を越えている有樣を推量して同情を寄せている。當時の衣服は、雨に堪えないで濡れとおるので、時にその點に感情が集中されるのである。
【參考】類句、山路越ゆらむ。
  山|科《しな》の石田《いはた》の小野のははそ原見つつや公が山路越ゆらむ(卷九、一七三〇)
  草蔭の荒藺《あらゐ》の埼の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ(卷十二、三一九二)
  玉かつま島熊山の夕晩《ゆふぐれ》に獨か君が山路越ゆらむ(同、三一九三)
 
右二首、作者未v詳
 
【釋】作者未詳 ツクレルヒトイマダツマビラカナラズ。前の歌は、旅に出た男の歌、後の歌は、家に留まつた女の歌で、兩者の間に關係があるのだろう。しかし歌の内容から見れば唱和の作とは云いがたい。
 
大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首
 
大寶元年辛丑の冬十月、太上天皇、大行天皇の紀伊の國に幸《い》でましし時の歌十三首
 
【釋】大寶元年辛丑冬十月 ダイホウノハジメノトシカノトウシノフユカムナヅキ。この時の行幸に關しては、續日木紀に、大寶元年九月の條に「丁亥《ヒノトヰ》、天皇幸(ス)2紀伊(ノ)國(ニ)1、」、冬十月の條に「丁未《ヒノトヒツジ》、車駕至(リタマフ)2武漏温泉(ニ)1。戊午《ツチノエウマ》、車駕自(リ)2紀伊1至(リタマフ)」とあり、武漏《むろ》の温泉(牟婁の湯、今の白濱温泉)を目的地としたことが知られる。本集には(244)卷の一に「大寶元年辛丑秋九月《ダイホウノハジメノトシカノトウシアキノナガツキ》太上天皇幸2于紀伊國1時歌」(五四・五五)、卷の二に「大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時、見2結松1歌一首」(一四六)とあつて、卷の二のは、柿本朝臣人麻呂歌集所出の歌である。持統太上天皇、文武天皇の行幸御幸であつて、柿本の人麻呂およびその妻などが供奉したものと推考される。それでここに掲げた十三首も、人麻呂歌集所出であるかも知れない。それは一七〇九の左註の「右柿本朝臣人麻呂之歌集所v出」の範圖が明瞭でなく、ここから係かると見られないこともないからである。人麻呂歌集所出の範圍に入るとする根據は、大體次の如くである。一、この十三首は、作者に關して、左註に若干の記事のある以外には、作者未詳とも記していないこと。二、人麻呂歌集には、この行幸の時の歌のあること(卷二、一四六)。三、「黒牛方《クロウシガタ》 鹽干乃浦乎《シホヒノウラヲ》」(卷九、一六七二)の歌は、「古家丹《イニシヘニ》 妹等吾見《イモトワガミシ》 黒玉之《ヌバタマノ》 久漏牛方乎《クロウシガタヲ》 見佐府下《ミレバサブシモ》」(卷九、一七九八)の歌と、關係があるかも知れないこと。四、人麻呂歌集は、すくない字數で、歌を書くのを、特色とするが、この十三首は、十六字二首、十八字二首、十九字五首、二十字二首、二十一字二首であつて、たとえば人麻呂歌集所出の、紀伊國作歌四首(卷九、一七九六−九九)の字數が、十五字、十九字、二十一字、二十二字各一首であるのにくらべても、大差のないこと等である。歌品、内容から云つても、人麻呂歌集所出としてふさわしいものである。しかし、人麻呂歌集を論ずるには、一往これを除外しておく方が、無事であろう。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。
 大行天皇 サキノスメラミコト。文武天皇。大行は、崩御せる皇帝の、いまだ謚號《しごう》を奉らないあいだの稱號であるが、わが國では、文武天皇に限り、本集および正倉院文書などに、後からも大行天皇と記している。崩御の當時、大行天皇と記したのを、後にその語義を知らないものが、そのままに踏襲《とうしゆう》して使用するに至つたものであろう。
(245) 十三首 トヲマリミツ。一六六七から一六七九までで十三首であるが、その次の「後人歌二首」と題してある一六八〇、一六八一の二首は、同じ時の作と見られるが、十三首の數にはいつていない。
 
1667 妹がため 我《われ》玉求む。
 沖邊なる 白玉寄せ來《こ》。
 沖つ白波
 
 爲v妹《イモガタメ》 我玉求《ワレタマモトム》
 於伎邊有《オキベナル》 白玉依來《シラタマヨセコ》
 於岐都白浪《オキツシラナミ》
 
【譯】妻のために、わたしは玉を求める。沖の方の玉を寄せて持つてきてくれ。沖の白浪よ。
【評語】前出一六六五の歌の別傳で、ただ詞句に小異があるだけである。拾うの方が情景が描かれてよい。これは古歌を傳誦したのだろう。すべて傳誦歌は、詞句の上に、間隙が入りやすいものであつて、この歌の、求ムも、その嫌いがある。
 
右一首、上見既畢。但歌辭小換、年代相違、因以累載
 
右の一首は、上に見ゆること既に畢りぬ。但し歌の辭すこしく換り、年代相違へり。因りて以ちて累ね載す。
 
【釋】上見既畢 カミニミユルコトスデニヲハリヌ。上に、既に一六六五に同じ歌を載せたというのである。類似の文章は、「安利伎奴乃」云々の歌(卷十四、三四八一)の左註に「柿本朝臣人麿歌集ノ中ニ出ヅ。上ニ見ユルコト已ニ訖リヌ。」とある。
 
1668 白埼《しらさき》は 幸《さき》くあり待《ま》て。
 大船に 眞揖《まかぢ》繁貫《しじぬ》き また反《かへ》り見む。
 
 白埼者《シラサキハ》 幸在待《サキクアリマテ》
 大船尓《オホブネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 又將v顧《マタカリミム》
 
(246)【譯】白埼は無事で待つていてくれ。大船に櫂を十分に取りつけて、また來て見よう。
【釋】白埼者 シラサキハ。シラサキは、和歌山縣日高郡白崎村の海岸で、紀伊水道に面して突出している。石灰石から成り、雪白色をしているので、白崎という。
 幸在待 サキクアリマテ。アリマテは、そのままにあつて待ての意で、命令形。「久自我波々《クジガハハ》 佐氣久阿利麻弖《サケクアリマテ》」(卷二十、四三六八)。この例は、防人の歌で、サケクと云つているが、大和人の歌には、サキクと云つている。句切。
【評語】行幸の下檢分か何かで、先發しているので、次いで來ることを期して、大船ニマ楫シジヌキと云つているのだろう。白埼ハ幸クアリマテは、サキの吾を重ねている。「樂浪《ささなみ》の志賀の辛埼《からさき》幸くあれど」(卷一、三〇)の類である。大船ニマ楫シジヌキの句は、當時既に慣用句となつていたのだろう。勝地に對して、再來を期する氣もちが、その他に呼びかける形で歌われている。マタカヘリ見ムが、思想の中心になつているが、これは勝地を愛する類型的な表現である。全體としても、「久慈河は幸《さけ》くあり待て潮船にま※[楫+戈]しじ貫き吾は歸り來む」(卷二十、四三六八)の如き、同型の歌があり、かような型の歌が歌い傳えられて、時に應じて地名をさし換えたものと思われる。
 
1669 三名部《みなべ》の浦 潮な滿ちそね。
(247) 鹿島《かしま》なる 釣する海人《あま》を
 見て歸り來《こ》む。
 
 三名部乃浦《ミナベノウラ》 鹽莫滿《シホナミチソネ》
 鹿島在《カシマナル》 釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》
 見變來六《ミテカヘリコム》
 
【譯】三名部の浦よ、潮が滿ちてくるな。鹿島にいる釣する海人を見て歸つて來よう。
【釋】三名部乃浦 ミナベノウラ。和歌山縣日高郡南部町の海面。
 鹿島在 カシマナル。鹿島は、海岸から八町ほどの沖にある小島。この島と海岸とのあいだは、潮干にも徒歩では渡れない。それを、潮ナ滿チソネと云つたのは、興に乘じて歌つたまでである。
 見變來六 ミテカヘリコム。變は、反に通じて使つている。「伊往變良比《イユキカヘラヒ》 見跡不v飽可聞《ミレドアカヌカモ》」(卷七、一一七七)など用例が多い。
【評語】海上に、愛すべき小島の浮かんでいるのを見て、詠んだ歌である。旅中の興趣で、釣する海人を風光のうちに取り入れている。そういう人を珍しがり、なつかしがる都會人ふうの氣もちである。「玉藻刈る海未通女《あまをとめ》ども見にゆかむ船梶もがも。浪高ぐとも」(卷六、九三六)などいう歌はあるが、ここのは、別に女子に限つてもいない。漁業そのものに對する興味から出ているのだろう。なおこの四五句は、次の歌にも使われている。
 
1670 朝びらき 榜《こ》ぎでてわれは、
 湯羅《ゆら》の埼 釣する海人《あま》を
 見て歸り來《こ》む。
 
 朝開《アサビラキ》 滂出而我者《コギデテワレハ》
 湯羅前《ユラノサキ》 釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》
 見反將v來《ミテカヘリコム》
 
【譯】朝、船を漕ぎ出して、わたしは、湯羅の埼で釣をする海人を見て歸つて來よう。
(248)【釋】朝開 アサビラキ。既出。「世間乎《ヨノナカヲ》 何物爾將v譬《ナニニタトヘム》 旦開《アサビラキ》 榜去師船之《コギイニシフネノ》 跡無如《アトナキガゴト》」(卷三、三五一)。假字書きの例には、「安佐妣良伎《アサビラキ》 許藝弖天久禮婆《コギデテクレバ》」(卷十五、三五九五)などある。碇泊していた船が、朝になつて榜ぎ出るのをいい、始めて水面を開く意でいうのだろう。山びらきのヒラキと、同樣の用法だろう。
 滂出而我者 コギデテワレは。滂は、大水の貌の字だが、本卷以下、往々にして、榜と通じて混用されている。誤字とすべきではない。
 湯羅前 ユラノサキ。和歌山縣日高郡由良町の岬。今、神谷崎という。「爲v妹《イモガタメ》 玉乎拾跡《タマヲヒリフト》 木國之《キノクニノ》 湯等乃三埼二《ユラノミサキニ》 此日鞍四通《コノヒクラシツ》」(卷七、一二二〇)とあり、美しい風景の地である。
【評語】前の歌と同樣の内容であつて、四五句は、同じ句を使つている。上三句に、この歌の特色があるわけであるが、釣する海人に興味を感じている氣もちはよくあらわれている。都會人らしい内容の歌であることは同樣である。
 
1671 湯羅の埼 潮干にけらし。
 白神《しらかみ》の 礒の浦|廻《み》を
 敢《あ》へて榜《こ》ぐなり。
 
 湯羅乃前《ユラノサキ》 鹽乾尓祁良志《シホヒニケラシ》
 白神之《シラカミノ》 礒浦箕乎《イソノウラミヲ》
 敢而滂動《アヘテコグナリ》
 
【譯】湯羅の埼は、潮が乾たらしい。白神の礒の浦を押し切つて漕いで行くのだ。
【釋】湯羅乃前 ユラノサキ。藍紙本、傳壬生隆祐筆本、類聚古集、古葉略類聚鈔の諸本、みな羅の字が無い。前の歌によつてユラノサキとするのだが、白神の礒との關係の問題もあつて、おちつかないものがある。
 白神之礒浦蓑乎 シラカミノイソノウラミヲ。シラカミの礒は、和歌山縣有田郡田栖川村栖原にある栖原山を一に白上山ともいうので、その山裾の海に入る處だという。そこから湯羅の埼までは海上二十キロもあるか(249)ら、大日本地名辭書にいうように、白崎であるかも知れない。ウラミのミは接尾語。蓑の字が書いてあるので、ウラミであることが確められる。
 敢而滂動 アヘテコグナリ。アヘテは、敢えて、しいて、押しての意。「率兒等《イザコドモ》 安倍而榜出牟《アヘテコギデム》 爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》」(卷三、三八八)。滂動は、從來コギトヨムと讀まれていたが、佐竹昭廣氏の説に、人麻呂集には動の字を動詞ナルに當てて書いているから、コグナリだという。今これによる。「動神之《ナルカミノ》 吾耳聞師《オトノミキキシ》」(卷七、一〇九二)。
【評語】歌意によれば、湯羅の埼と白神の礒の浦とは、近接の地であるようである。その浦を、船漕ぐ人が力を入れて漕いでいるさまが描かれている。第五句の、敢ヘテ榜グナリが、この歌の眼目である。
 
1672 黒牛潟 潮干の浦を、
 紅の 玉裳裾ひき 行くは誰が妻。
 
 黒牛方《クロウシガタ》 鹽干乃浦乎《シホヒノウラヲ》
 紅《クレナヰノ》 玉裙須蘇延《タマモスソヒキ》 往者誰妻《ユクハタガツマ》
 
【譯】黒牛の潟の潮干の浦を、赤い美しい裳の裾を引いて行くのは、誰の妻だろう。
(250)【釋】黒牛方 クロウシガタ。和歌山縣海南市黒江の海で、黒牛の潟の意である。この海に、黒い牛を連想させる岩礁などがあつたのだろう。「黒牛乃海《クロウシノウミ》 紅丹穗經《クレナヰニホフ》 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人四《オホミヤビトシ》 朝入爲良霜《アサリスラシモ》」(卷七、一二一八)の黒牛の海も同處で、いずれも黒牛の名に、くれないを配して詠んでいる。
 玉裙須蘇延 タマモスソヒキ。裙は、衣装の下裳を意味する字であつて、ここではモの意に使用している。「吾妹子之《ワギモコガ》 赤裳裙之《アカモノスソノ》 將2染※[泥/土]1《シミヒヂム》」(卷七、一〇九〇)。日本靈異記下卷、三十八條の歌謠には、「法師等乎裙著□侮」とあつて、裾著をモハキに當てている。裙の字義と裳とに共通するものがあつたので、漢風に書いたのだろう。タマモは、婦人の裳の美稱。スソヒキは、玉裳をつけた婦人の行歩するをえがく。
 往者誰妻 ユクハタガツマ。タガツマの下にゾの如き語が略されている。これは行幸に供奉した女房たちを詠んでいるので、誰が妻とは、假に設問したまでである。その風姿を賞するまでの輕い用法である。
【評語】黒牛潟という怪奇《かいき》な感じの地名に、紅の玉裳の裾を引く佳人を配し、色彩的にも對比して興味の中心としている。何處の海濱でも詠まれる内容ではあるが、この場合、黒牛潟の地名が、不動のものになつて、情景を構成している。この地名を初句に据えたのは、この歌が初めとすれば、やはり手段として稱うべきである。末に誰が妻とあるが、作者の愛人を中心にして言つているだろう。
 
1673 風莫《かぜなし》の 濱の白浪、
 いたづらに 此處《ここ》に寄り來《く》る。
 見る人無しに。
 
 風莫乃《カゼナシノ》 濱之白浪《ハマノシラナミ》
 徒《イタヅラニ》 於v斯依久流《ココニヨリクル》
 見人無《ミルヒトナシニ》
 
【譯】風莫の濱の白浪は、むだに此處に寄つてくることだ。見る人も無しに。
【釋】風莫乃 カゼナシノ。
(251)  カセナキノ(藍)
  カサナキノ(壬)
  カザナミノ(考)
  カゼナシノ(新校)
  ――――――――――
  風暴乃《カザハヤノ》(考)
  風早乃《カザハヤノ》(略)
 カゼナシノ濱は、所在不明。紀路歌枕抄に西牟婁郡瀬戸鉛山村《にしむろぐんせとなまりやまむら》の綱不知の事とし「山陰の入江にて、難風の時も、此浦へ漕入ぬれば、船の碇もおろさず綱にもおよばず、此故に名付ともいふ。海深き故の名ともいふとて、此所風なぎたる浦なれば、風莫浦とも云ふ」とある。その地に限らず、地勢の關係で、風の吹くことのすくない浦はあるものである。「風早之《カザハヤノ》 三穗乃浦廻乎《ミホノウラミヲ》」(卷七、一二二八)の歌によつて、風早の誤りとする説は、採用しがたい。風早があれば、風なしもあるわけである。
 於斯依久流 ココニヨリクル。クルは、來ルで、その連體形である。上に特殊の係助詞がなくて連體形で結ぶことは、「武藏禰能《ムザシネノ》 乎美禰見可久思《ヲミネミカクシ》 和須禮遊久《ワスレユク》 伎美我名可氣※[氏/一]《キミガナカケテ》 安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》」(卷十四、三三六二或本)の如き例が、往々にしてある。下にコトゾのような語が省略される語氣である。句切。
【評語】見る人も無しに白波の寄せる景が歌われている。風莫の濱の白浪というのが、いかにもしずかな海岸を思わせる。こういう内容の歌は、佳景を賞するあまりに出たものであつて、何人かに見せたいという歌と同樣、類歌が多い。參考欄に掲げた類句の歌に見るように、三句に徒ニと置いて、五句に見ル人無シニと留める類型が成立している。しかし、その中では、この歌などが古い方だろうが、かたらずしも創始とはいえないだろう。
【參考】類句。五句、見る人無しに。
  高圓《たかまと》の野邊の秋《あき》はぎ徒に咲きか散るらむ。見る人無しに(卷二、二三一)
(252)  去年《こぞ》咲きし久木《ひさぎ》今咲く。徒に土にやおちむ。見る人無しに(卷十、一八六三)
  阿保山の櫻の花は今日もかも散り亂るらむ。見る人無しに(同、一八六七)
  上つ毛野小野のたどりがあはぢにも夫《せ》なは逢はなも。見る人無しに(卷十四、三四〇五或本)
  わが屋戸の花橘は徒に散りか過ぐらむ。見る人無しに(卷十五、三七七九)
 
一云、於v斯依來藻《ココニヨリクモ》
 
一はいふ、ここに寄り來も。
 
【釋】於斯依來藻 ココニヨリクモ。本歌の第四句の別傳である。句切としては、連體形來ルで止めている本文よりは、この方が古風である。傳誦の間に生じた別傳だろうが、この方が、原形であるらしい。左註にいう類聚歌林の所傳であろう。
 
右一首、山上臣憶良類聚歌林曰、長忌寸意吉麻呂、應v詔作2此歌1
 
右の一首は、山上の臣憶良の類聚歌林に曰はく、長《なが》の忌寸意吉麻呂《いみきおきまろ》、詔に應《こた》へてこの歌を作るといへり。
 
【釋】山上臣憶良類聚歌林 ヤマノウヘノオミオクラノルヰズカリニ。書名。卷の一、六、左註參照。ここでは、その書に、撰者の憶良とほぼ時代を同じくしている、長の忌寸志吉麻呂の歌の載つていることが注意される。
 長忌寸志吉麻呂 ナガノイミキオキマロ。藤原時代の人。特殊の歌をよく詠んでいる(卷一、五七參照)。
 應詔 ミコトノリニコタヘテ。多分持統太上天皇の詔に應じて詠んだのだろう。卷の三にも「長忌寸志吉麻(253)呂應v詔歌一首」(二三八)があるが、共にこの作者の即興の詩才を愛して詔を下したものであろう。
 
1674 わが夫子が 使|來《こ》むかと
 いで立《た》ちし この松原を
 今日か過ぎなむ。
 
 我背兒我《ワガセコガ》 使將v來歟跡《ツカヒコムカト》
 出立之《イデタチシ》 此松原乎《コノマツバラヲ》
 今日香過南《ケフカスギナム》
 
【譯】あの方の使が來るだろうかといで立つた、この松原を、今日は通り過ぎて行くことだろうか。
【釋】我背兒我使將來歟跡 ワガセコガツカヒコムカト。ワガセコは、夫をいうと解せられる。もしこの歌の作者が男ならば、友人と解すべきであるが、多分そうではないであろう。また以上を序とする説が行われているが、それは無理である。次條參照。
 出立之 イデタチシ。イテタチシ(藍)、イデタチノ(略)。作者が立ちいでて、夫の使を待つた意で、次の句の松原を修飾する。この句をイデタチノと讀み、出立を地名とし、上の初二句を序と見る説がある。すなわち今の田邊市の海岸に、出立の名が殘つているというのである。(日比野道男氏萬葉地理研究、木下正俊氏萬葉集大成訓詁篇)。地名とすると、上二句を序とするのであるが、その序は、下三句の内容に對して意味の混亂を感じさせるものとなる。この語は、卷の十三にも「紀伊國之《キノクニノ》 室之江邊爾《ムロノエノベニ》 千年爾《チトセニ》 障事無《サハルコトナク》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 如是將v在登《カクシアラムト》 大舟乃《オホブネノ》 思恃而《オモヒタノミテ》 出立之《イデタチシ》 清瀲爾《キヨキナギサニ》 朝名寸二《アサナギニ》 來依深海松《キヨルフカミル》 夕難岐爾《ユフナギニ》 來依繩法《キヨルナハノリ》」(三三〇二)とある。この長歌において、出立之をイデタチノと讀むと、非常に調子のわるい歌になつてしまう。よつて、ここもそれに準じて、イデタチシと讀むを可とする。それで意味は、十分に通ずるのである。そこで、わが夫子がいで立つたか、作者がいで立つたかであるが、これはどちらでも通じる。恐らく後者であろう。
 今日香過南 ケフカスギナム。その松原の近くに宿つておつたのが、今日か立ち過ぎようと、なごりを惜し(254)んでいる。
【評語】作者は、太上天皇の御幸に御供した女官の一人であろう。同じく御供した夫のたよりを待つて、その松原を徘徊した。その思い出のある松原に對する愛惜が歌われていると見られる。作者に取つて興趣のある題材であつて、第三者に取つては、説明に過ぎている憾みがある。男は、行幸に先行して準備し、女は、天皇に供奉して、常に男の進んだ跡を行つているのである。
 
1675 藤白《ふぢしろ》の み坂を越ゆと、
 白栲《しろたへ》の わが衣手は
 濡《ぬ》れにけるかも。
 
 藤白之《フヂシロノ》 三坂乎越跡《ミサカヲコユト》
 白栲之《シロタヘノ》 我衣手者《ワガコロモデハ》
 所v沾香裳《ヌレニケルカモ》
 
【譯】藤白のみ坂を越えるとして、白い布のわたしの著物は、濡れたことだつた。
【釋】藤白之三坂乎越跡 フヂシロノミサカヲコユト。藤白のみ坂は、和歌山縣海南市の南方にある山。ミは接頭語。坂に對して敬意を感じている。この坂は、斎明天皇の四年十一月に、有間の皇子の殺された地として知られている。
 白栲之 シロタヘノ。シロタヘは、アサ、コウゾなどの織布。染めてないもの。衣手の材料を説明する句。
 所沾香裳 ヌレニケルカモ。山の露で濡れたのである。
【評語】 「朝露に濡れにし衣ほさずしてひとりや君が山路越ゆらむ」などの歌の趣で、その歌中の人自身の立場である。單純な表現だが、かえつて旅の口吟歌らしい風情がある。これを涙で濡れたのだとする解があるのは、誤りである。
【參考】類句。五句、ぬれにけるかも。
(255)  武庫川の水尾《みを》をpはやみか赤駒の足掻《あが》くたぎちに濡れにけるかも(卷七、一一四一)
  ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも(同、一二四一)
  君がため浮沼《うきぬ》の池の菱採るとわが染《し》めし袖濡れにけるかも(同、一二四九)
  妹がためほつ枝の梅を手折るとは下枝《しづえ》の露に濡れにけるかも(卷十、二三三〇)
  行けど行けど逢はぬ妹ゆゑひさかたの天の露霜に濡れにけるかも(卷十一、二三九五)
  吾妹子に觸るとはなしに荒礒廻《ありそみ》にわが衣手は濡れにけるかも(卷十二、三一六三)
  室《むろ》の浦の迫戸《せと》の埼なる鳴島の礒越す浪に濡れにけるかも(同、三一六四)
 
1676 勢の山に 黄葉《もみち》常敷《つねし》く。
 神岡《かむをか》の 山の黄葉は
 今日か散るらむ。
 
 勢能山尓《セノヤマニ》 黄葉常敷《モミチツネシク》
 神岳之《カムヲカノ》 山黄葉者《ヤマノモミチハ》
 今日散濫《ケフカチルラム》
 
【譯】勢の山に黄葉が敷きつくしている。神岡の山の黄葉は、今日あたり散つているだろう。
【釋】勢能山尓 セノヤマニ。セノ山は、和歌山縣伊都郡、紀の川の右岸にある。大和の國から紀伊の國に行くのに越える山である。
 黄葉常敷 モミチツネシク。
  モミチツネシク(藍)
  モミチトコシク(細)
  ――――――――――
  黄葉常敷《モミヂチリシク》(略、宣長)
 常は、ツネともトコとも讀まれるが、トコは、シ、ツなどの助詞に接するもののほかには、直接に體言のみに接して、用言に接する例を見ない。假字書きの例、「等許奈都《トコナツ》」(常夏、卷十七、四〇〇〇)、「登許波《トコハ》」(常(256)葉、卷十四、三四三六)、「登許波都波奈《トコハツハナ》」(常初花、卷十七、三九七八)」「等許夜未《トコヤミ》」(常闇、卷十五、三七四二)、「等己與能久爾《トコヨノクニ》」(常世の國、卷五、八六五)、「床奈馬《トコナメ》」(常滑、卷九、一六九五)。一方ツネの方は、副詞として他の用言に接して使用される例が多い。「都禰斯良農《ツネシラヌ》 道乃長手袁《ミチノナガテヲ》」(卷五、八八八)、「可久之都禰見牟《カクシツネミム》」(卷十八、四一一六)の如きである。いつも敷いてある意で、黄葉の既に散つたことをいう。この語は、「白雪之《シラユキノ》 常敷冬者《ツネシクフユハ》 過去家良霜《スギニケラシモ》」(卷十、一八八八)、とも使用されている。以上二句、現に見る所を敍している。句切。
 神岳之 カムヲカノ。カムヲカは、明日香の神南備山で、雷の岡に同じ。藤原の京の時代の作なので、わが住む里に近い神岳を想起したのである。「神岳乃《カムヲカノ》 山之黄葉乎《ヤマノモミチヲ》」(卷二、一五九)。
【評語】旅先の風景を見て、わが住む郷を思いやつている。二句に黄葉常數クといい、四句に重ねて山ノ黄葉はと、黄葉の語を重ねるのを嫌わないのは、古風な味である。黄葉の散る頃の旅ごころである。見る所の事實を敍して、これによつて他所の季節の動きを推量する歌は多く、殊に黄葉に關するものが、しばしば見えており、この歌もその一つである。
 
1677 大和には 聞えゆかぬか。
 大我野《おほがの》の 竹葉《たかば》刈り敷き
 廬《いほり》せりとは。
 
 山跡庭《ヤマトニハ》 聞往歟《キコエユカヌカ》
 大我野之《オホガノノ》 竹葉苅敷《タカバカリシキ》
 廬爲有跡者《イホリセリトハ》
 
【譯】大和には聞えて行かないかなあ。大我野の竹の葉を刈つて敷いて廬をしているとは。
【釋】聞往歟 キコエユカヌカ。キコエモユクカ(藍)。文字表示が不十分なので、何かの語を補つて讀まなければならないが、歌意よりすれば、打消の助動詞ヌを補うのが自然である。打消のヌを補讀する例は、多く(257)あり、その中に、歟の字の使用してあるものには、「吾念情《ワガオモフココロ》 安虚歟毛《ヤスカラヌカモ》」(卷九、一七九二)の如きがある。句切。
 大我野之 オホガノノ。オホガ野は、今の和歌山縣橋本市、東家《トウケ》・市脇あたりの地で、もと相賀の圧と云つた處。
 竹葉苅敷 タカバカリシキ。
  サヽカリシキテ(類)
  タカハカリシキ(壬)
  ――――――――――
  小竹葉苅敷《ササバカリシキ》(代初書入)
 竹は、「竹島」(滋賀縣高島、卷七、一二三八)、「竹敷浦」(卷十五、三七〇〇)、「竹取翁」(卷十六、三七九〇など、タカと讀み馴れている。「妹之髪《イモガカミ》 上小竹葉野之《アゲタカバノノ》」(卷十一、二六五二)の如き、小竹葉と書いたものも、タカバであるようである。ここも竹葉をタカバと讀むがよい。竹と云つても、かならずしも大きい竹を意味しないことが知られる。
【評語】旅の辛勞を、大和に聞えないかと歌つている。竹葉刈リ敷キの句が、具體的で、草葉というよりも一層よくそのもようが描かれている。何處の野でもよいが、大我野は、音聲もわるくはない。
 
1678 紀《き》の國の 昔、弓雄の
 響矢《なりや》用《も》ち 鹿《しか》獲《と》り靡《な》べし
 坂の上《うへ》にぞある。
 
 木國之《キノクニノ》 昔弓雄之《ムカシユミヲノ》
 響矢用《ナリヤモチ》 鹿取靡《カトリナベシ》
 坂上尓曾安留《サカノウヘニゾアル》
 
【譯】紀伊の國の昔の弓雄が鏑矢をもつて、鹿を取り靡かせた坂の上なのだ。
【釋】昔弓雄之 ムカシユミヲノ。ユミヲは、文字通り弓雄だろうが、固有の人名か、または弓をよく射た男(258)の義か、不明。下文に、鹿取リ靡ベシと、過去の事實を云つているに依れば、多分ある一人の男をさしているのだろう。
 響矢用 ナリヤモチ。ナルヤモテ(藍)、カブラモテ(西)、ナリヤモテ(略)、ナリヤモチ(新訓)。ナリヤは、音響を發する矢。かぶら矢。
 鹿取靡 シカトリナベシ。シカトリナヒク(壬)、シカトリナメシ(考)、カトリナビケシ(古義)。鹿は、集中多くシカと讀んでいる。カとも讀むようであるが、一音の處に當てたと見られる例は稀である。ナベシは、靡かせたで、鹿を多く狩し得た意である。
【評語】何か古傳説でも取り扱つているようだが、不明である。ある坂の上に立つて、往時を追憶した、特殊の内容を有する歌である。旅行者の歌には、ありがちな題材で、笠の金村の鹽津山の歌(卷三、三六四)なども想起される。
 
1679 紀《き》の國に 止《や》まず通はむ。
 都麻《つま》の社《もり》 妻|寄《よ》し來《こ》せね。
 妻と言ひながら
 
 城國尓《キノクニニ》 不v止將2往來1《ヤマズカヨハム》
 妻社《ツマノモリ》 妻依來西尼《ツマヨシコセネ》
 妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》
 
【譯】紀伊の國にやまずに通おう。妻の森よ、妻を寄せてください。妻というのだから。
【釋】城國尓不止將往來 キノクニニヤマズカヨハム。城國は、紀伊の國。キノクニ。往來をカヨフに當てて書いていると見られるものには、「言母不2往來1《コトモカヨハヌ》」(卷九、一七八三)、「鶯之《ウグヒスノ》 往來垣根乃《カヨフカキネノ》」(卷十・一九八八)などある。以上の二句は、欲する所を述べている。これは三句以下の敍述にもとづくものである。句切。
 妻社 ツマノモリ。今の和歌山縣橋本市の妻の地にあるモリ。または海草郡東山東村平尾の地は、倭名類聚(259)抄の郷名に、都麻とある處で、その地のモリともいう。モリは、神靈の宿る森林。ツマは、元来地形語で、別に一區劃を成して行き詰つている處をいうのだろうが、人倫の妻と音が同じなので、多くそれに寄せて歌つている。「稻日都麻《イナビツマ》」(卷四、五〇九參照)。
 妻依來西尼 ツマヨシコセネ。ヨシは、寄せる。四段活用としている。「妹慮豫嗣爾《メロヨシニ》 豫嗣豫利據禰《ヨシヨリコネ》」(日本書紀三)。コセは、希望をあらわす助動詞。「須臾毛《シマシクモ》 不通事無《ヨドムコトナク》 有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》」(卷二、一一九)の如く使用しているので、コセが未然形であることが知られる。それに、助詞ネが接續して、希望をあらわしている。句切。
 妻常言長柄 ツマトイヒナガラ。ナガラは、であるが故に、のままにの意。妻というがゆえに。「皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》」(卷二、一九九)、「山隨《ヤマナガラ》 如此毛現《カクモウツクシク》 海隨《ウミナガラ》 然眞有目《シカマコトナラメ》」(卷十三、三三三二)など、隨をナガラと讀んでいる。假字書きでは「思延《オモヒノベ》 宇禮之備奈我良《ウレシビナガラ》」(卷十九、四一五四)の如き、同じ意である。「皮服著而《カハゴロモキテ》 角附奈我良《ツノツキナガラ》」(卷十六、三八八四)、「波利夫久路《ハリブクロ》 應碑都々氣奈我良《オビツツケナガラ》」(卷十八、四一三〇)の如きは、――たままでの意に使用している。
【評語】妻という地名に興味を感じて、それを各句の初めに置いて歌つている。紀の國に止まず通おう、何とぞ妻を賜われかし、妻の森というのだからというのである。輕い調子の歌で、あかるく時の興を歌つている。
 
一云、嬬賜尓毛《ツマタマフニモ》  嬬云長良《》ツマトイヒナガラ
 
一は云ふ、妻賜ふにも 妻と云ひながら
 
【釋】嬬賜尓毛 ツマタマフニモ。略解に、爾を南の誤として、ツマタマハナモとする説などあるが、もとのままでよい。妻を賜うにも、妻の社という名だから顯著だというのである。しかしこれは下略の語法であり、(260)本文の方がわかりよい。これは坂上の人長の作とする方の傳來だろう。
 
右一首、或云坂上忌寸人長作
 
【釋】坂上忌寸人長 サカノウヘノイミキヒトヲサ。傳未詳。人長は、ヒトヲサか、ヒトナガか、不明。
 
後人歌二首
 
後れたる人の歌二首
 
【釋】後人歌 オクレタルヒトノウタ。オクレタルヒトは、家に留守している人をいう。あとに殘つた人の意である。但し、後人を、ノチノヒトと解すべき場合もある。「後(ノ)人(ノ)追(ヒテ)和(フル)(卷五、八七二)の如き、それである。これも大寶元年の紀伊の國の行幸の時の作である。
 
1680 朝裳《あさも》よし 紀《き》べ行く君が、
 信士山《まつちやま》 越ゆらむ今日ぞ。
 雨な零《ふ》りそね。
 
 朝裳吉《アサモヨシ》 木方往君我《キベユクキミガ》
 信土山《マツチヤマ》 越濫今日曾《コユラムケフゾ》
 雨莫零根《アメナフリソネ》
 
【譯】朝の裳を著る。その紀の國へ行く君が、信土山を越えているでしよう、今日です。雨よ、降つてくれるな。
【釋】朝裳吉 アサモヨシ。枕詞。麻の裳を著る意に、キの音に冠するとする説が、一往成立している。この語は、集中「朝毛吉」(卷一、五五、卷二、一九九)、「朝裳吉」(卷九、一六八〇、卷十三、三三二四)の如く、アサに朝の字を當てるものと、「麻裳吉」(卷四、五四三)、「麻毛吉」(卷七、一二〇九)の如く、麻の字を當て(261)るものとがある。このうち、朝の字を使つた歌の方が古いのであり、また古人は、男女關係に興味を感じて用語を作ることが多いから、これも婦人の朝裳に、興味を感じて作つたものであるかも知れない。しからばここの朝裳の用字は、漢字の正用である。ヨシは、感動を表示する語であるが、良しの意を感じて使用されているであろう。また著ルのキは甲類、木の國のキは乙類の音であるから、續きかたについても再考を要する。
 木方往君我 キベユクキミガ。木方は、普通キヘと讀んで、ヘを助詞とする解が有力である。キは地名で、紀の國のことであろうが、その一音の地名に、助詞ヘを附けていうことは、諧調とは云いがたい。一方に、體言のへを附けて、その方向を指示することは、「夜麻登幣邇《ヤマトベニ》 爾斯布岐阿宜弖《ニシフキアゲテ》」(古事記下卷)の大倭邊、「故事部爾夜良波《コシベニヤラバ》」(卷十八、四〇八一)の越邊など例が多い。よつてこの木方もキベと讀んで、紀の國の方向の意を成すものと見るべきである。方は、訓假字としても見られるが、むしろ表意文字として、方向の意を表しているものと見られる。このへは、その音韻の表示が動搖して、清音の字にも濁音の字にも書かれることは、他の一般のハ行音の語と同樣である。なおこの語は「木部行君乎《キベユクキミヲ》 何時可將v待《イツトカマタム》」(卷十三、三三二一)とも使用され、同じく助詞なしに使われている。
 信土山 マツチヤマ。信は、眞に通じてマの音に使用している。大和から紀伊の國に入つた處にある山。「白栲爾《シロタヘニ》 丹保布信士之《ニホフマツチノ》 山川爾《ヤマカハニ》」(卷七、一一九二)。
 越濫今日曾 コユラムケフゾ。ゾは、終助詞。句切。
【評語】夫が信土山を越えているだろうと思われる日に詠んでいる。雨の降りそうな空模樣なのだろう。案じている樣がよくあらわれている。當時防水の装備が乏しいので、雨に逢うことを非常に嫌うのである。
 
1681 後《おく》れ居て わが戀ひ居《を》れば、
(262) 白雲の 棚引く山を
 今日か越ゆらむ。
 
 後居而《オクレヰテ》吾戀居者《ワガコヒヲレバ》
 白雲《シラクモノ》 棚引山乎《タナビクヤマヲ》
 今日香越濫《ケフカコユラム》
 
【譯】あとに殘つていて、わたしが戀していると、白雲の、たなびく山を、今日あたり、越えているのでしよう。
【評語】前と同じく、旅に出た夫を思つている。白雲ノタナビク山というのが、いかにもはるかな土地の山という感じを與える。内容は、平易で、すなおに詠まれている。「ここにして家やもいづく。白雲のたなびく山を越えて來にけり」(卷三、二八七)。
 
獻2忍壁皇子1歌一首 詠21
 
忍壁《おさかべ》の皇子に獻《たてまつ》れる一首【仙人の形を詠める。】
 
【釋】忍壁皇子 オサカベノミコ。天武天皇の第九皇子。慶雲元年五月薨じた。天武天皇の十年三月の國史の編纂、および大寶の律令の制定に關係されているので、學間のあつた方であることが知られる。この歌以降は、柿本朝臣人麻呂歌集の所出の範圍に入ること、用字法などから見ても、疑いを容れないところであつて、この歌も人麻呂の作と考えられるのであるが、次に出る歌は、舍人の皇子に獻るとあり、舍人の皇子は、日本書紀の撰者として知られている方なので、人麻呂が、かような學識のある方に召されて歌を獻つていたことがわかるのである。
 詠仙人形 ヤマビトノカタヲヨメル。忍壁の皇子が、仙人の像または、畫などを所有せられていて、それについて詠んだものであろう。神仙思想がさかんにはいつて來た時代で、その圖像なども、愛玩されたものと見(263)える。
 
1682 とこしへに 夏冬行けや、
 裘《かはごろも》 扇放たぬ。
 山に住む人。
 
 常之倍尓《トコシヘニ》 夏冬往哉《ナツフユユケヤ》
 裘《カハゴロモ》 扇不v放《アフギハナタヌ》
 山住人《ヤマニスムヒト》
 
【譯】永久に、夏と冬とが進行するというのだろうか、皮服を著て扇を放さない。山に住んでいる人は。
【釋】常之倍尓夏冬往哉 トコシヘニナツフユユケヤ。ユケヤは、疑問條件法。はたして永久に夏と冬とが進行するだろうかの意になる。強い疑問だから、その條件の内容は、そんなはずはないのだがの意になる。ここはその起り得ない場合であるが、仙人の世界では、そういうこともあるのかの意を含んでいる。
 裘 カハゴロモ。獣皮の衣服。寒氣を防ぐ衣料。「火鼠のかはごろもをたまへ」(竹取物語)。倭名類聚鈔に「裘、説文云裘、音求、加波古路毛、俗云、加波岐奴。皮衣也。」
 扇不放 アフギハナタヌ。アフギは、團扇である。倭名類聚鈔に、「扇、四聲字苑云、扇、式戰反、玉篇作v※[竹/扇]、在2竹部1、阿布岐。所2以取1v風也。」上のユケヤを受けて結んでいる。句切。
 山住人 ヤマニスムヒト。仙人をいう。山中に神仙ありとする思想から來ている。仙人は日本にはいなかつたので、仙の字をヤマビトと訓し、それにつけてこの句となつた。
【評語】即興の作として、皇子の邸にあつたものについて詠んだのであろう。人間世界とは違つた時間の經過を持つていると考えられた仙人の世界が、歌われている。それはそんな世界もあるだろうという憧憬の思いを寄せた、時代の思想を描いている。人麻呂の時代に、仙人が好奇心をもつて迎え入れられた文獻として注意される。仙人は、女子の形を採るものもあるが、この歌のは、服装から云つても男子だろう。仙人が、どのよう(264)な姿でえがかれていたかがわかる。
【參考】仙人に關する歌。
   仙柘《つみ》の枝の歌
  霞降り吉志美《きしみ》が高嶽《たけ》を峻《さか》しみと草取りはなち殊が手を取る
   右の一首は、或るは云ふ、吉野人|味稻《うましね》の、柘の枝の仙媛に與ふる歌なりといへり。但し柘枝傳を見るに、この歌あることなし。(卷三、三八五)
  わが盛りいたくくたちぬ。雲に飛ぶ藥はむともまた變《を》ちめやも(卷五、八四七)
  海原の遠きわたりをみやびをのみやびを見むとなづさひぞ來し
   右の一首は、白紙に書きて屋の壁に懸け著けたり。題して云ふ、蓬莱の仙媛が化《な》れる嚢※[草冠/縵]《ふくろかづら》、風流秀才の士のためにす、こは凡客の望み見る所ならざらむかといへり。(卷六、一〇一六)
  あしひきの山行きしかば山人の我に得しめし山裹《やまつと》ぞこれ(卷二十、四二九三)
 
獻2舍人皇子1歌二首
 
舍人の皇子に獻れる歌二首
 
【釋】舍人皇子 トネリノミコ。天武天皇の第三皇子。日本書紀の撰者として知られ、やはり學問を理解された方と思われる。人麻呂集の歌が、かような方々に獻られているのは、當時の歌の詠まれた世界を語るものである。同じ題は、下の一七〇四の前行にもある。
 
1683 妹が手を 取りて引き攀《よ》ぢ
(265)ふさ手折《たを》り
 わが插頭《かざ》すべき 花咲けるかも。
 
 妹手《イモガテヲ》 取而引與治《トリテヒキヨヂ》
 ※[手偏+求]手折《フサタヲリ》
 吾刺可《ワガカザスベキ》 花開鴨《ハナサケルカモ》
 
【譯】妻の手を取つて引き寄せるように、引き寄せてふさふさと手折つて、わたしの插頭《かざし》にすべき花が咲いたなあ。
【釋】妹手取而引與治 イモガテヲトリテヒキヨデ。妹ガ手ヲ取リテまで序詞。手を取つて引き寄せると續く。ヨヂは、手もとに寄せる意。「青柳乃《アヲヤギノ》 保都枝與治等理《ホツエヨヂトリ》」(卷十九、四二八九)。「右は合歡ノ花并セテ茅花ヲ折リ攀ヂテ贈レルナリ」(卷八、一四六一左註參照)。
 ※[手偏+求]手折 フサタヲリ。從來ウチタヲリと、讀まれていたが、※[手偏+求]は、新撰字鏡に「擧隅反、盛土也、法也、累也、採也」とあつて、ウチと讀むべき根據がない。よつて竹岡正夫氏、眞鍋次郎氏の説(萬葉)に、※[手偏+求]は手首の義。正倉院文書に、手※[手偏+求]とあるは、タフサにあててあるとして、※[手偏+求]をフサと讀むべしとする。今、これによる。この字形は、「※[手偏+求]手折《フサタヲリ》 多武山霧《タムノヤマギリ》」(卷九、一七〇四)、「※[手偏+求]手折《フサタヲリ》 吾者持而往《ワレハモチテユク》」(卷十三、三二二三)とある。フサタヲリは、ふさふさと折る意である。その用例。「布佐多乎里家流《フサタヲリケル》 乎美奈敝之香物《ヲミナヘシカモ》」(卷十七、三九四三)。「ふさ折りもつは誰が子なるらむ」(建久年中行事)。
 吾刺可 ワガカザスベキ。刺は、頭刺の意に使われている。文字を、ある語の符號とする用法の目立つものである。可の字は、漢文ふうに多く動詞の上に置いて書かれているが、ここに國語の配列通りに、動詞の字の下に書かれているのは、特例で、例はすくない。「萬代爾《ヨロヅヨニ》 語續可《カタリツグベキ》 名者不v立之而《マハタテズシテ》」(卷六、九七八)。
【評語】花を賞した歌であるが、序詞が氣が利いている。巧みをねらつて、時の興を助けた歌である。寓意はなく、宴席などでの即興の作であろう。
 
(266)1684 春山は 散り過ぎぬとも
 三輪山は いまだ含《ふふ》めり。
 君待ちがてに。
 
 春山者《ハルヤマハ》 散過去鞆《チリスギヌトモ》
 三和山者《ミワヤマハ》 未含《イマダフフメリ》
 君待勝尓《キミマチガテニ》
 
【譯】春の山は、よし散り過ぎても、三輪山はまだつぼんでおります。あなたをお待ちしかねて。
【釋】春山者 ハルヤマハ。すべての春の山は。
 散過去鞆 チリスギヌトモ。チリスクレトモ(壬)、チリスギヌレドモ(代精)。よし散り過ぎてしまつたとしても。
 未含 イマダフフメリ。まだ花が咲かないでいる。句切。
 君待勝尓 キミマチガテニ。人麻呂集の歌に、ガテに、勝の字を當ててあるのは、ガテの語義考察の上に、重要な資料となるものである。
【標語】三輪山のほとりに、君のお出でを待つべきわけがあつたのだろう。春の實景以外に、含む所のある歌である。
 
泉河邊、間人宿祢作歌二首
 
泉河の邊《ほとり》にて間人《はしびと》の宿称の作れる歌二首
 
【釋】泉河 イヅミガハ。今の木澤川。京都府相樂郡に發して、流れて淀川に入る。大利の國から奈良山を越えて山城の國に入る旅人(267)は、まずこの川のほとりに出る。綴喜の郡の泉の郷を流れるので、泉川という。
 間人宿称 ハシビトノスクネ。何人か不明。天武天皇の十三年十二月、間人の連に、宿禰を賜わつた。神魂《かむむすび》の命の系統と傳える。集中この姓の人に、間人の連老(卷一、三)、間人の宿禰大浦(卷三、二八九)があるが、老は、舒明天皇の御代の人で、時代が違う。しかしここは大浦だという推定はできない。
 
1685 河の瀬の 激《たぎ》つを見れば、
 玉もかも 散り亂れたる。
 川の常かも。
 
 河瀬《カハノセノ》 激乎見者《タギツヲミレバ》
 玉鴨《タマモカモ》 散亂而在《チリミダレタル》
 川常鴨《カハノツネカモ》
 
【譯】河の瀬の激するのを見れば、玉が散り亂れたのか。それとも川の習いだろうか。
【釋】激乎見者 タギツヲミレバ。タギツは、激しく流れる。
 玉鴨散亂而在 タマモカモチリミダレタル。タマヲカモチリミダシタルとも讀まれるが、この歌は、次の歌と共に連作を成しているのであつて、次の歌には、牽牛星の頭插の玉が亂れたのかと自動に云つているので、ここもそれと歩調を合わせることとした。句切。
 川常鴨 カハノツネカモ。川としてきまつたことかの意。
【評語】激流を見て、玉を亂したのかと疑つている。その見方は、ごく普通の考えかたである。五句に、川の常かと云つたのは、正直すぎて曲がなさそうだが、かえつて素朴の感を與えるものである。
 
1686 彦星の 頭插《かざし》の玉の、
 嬬戀《つまごひ》に 亂れにけらし。
 この川の瀬に。
 
 孫星《ヒコホシノ》 頭刺玉之《カザシノタマノ》
 嬬戀《ツマゴヒニ》 亂祁良志《ミダレニケラシ》
 此川瀬尓《コノカハノセニ》
 
(263)【譯】牽牛星が頭插にしている玉が、妻戀いのために亂れたのだろう。この川の瀬に。
【釋】孫星 ヒコボシノ。ヒコボシは、男の星の義。孫の字は、ヒコの訓のために當てて書いている。七夕傳説の牽牛星のこと。
 頸刺玉之 カザシノタマノ。カザシノタマは、頭髪に刺してある玉である。普通に、花を頭插にすることは歌うが、玉を頭插にするのは特殊で、天人の風俗を想像したのだろう。
 嬬戀 ツマゴヒニ。妻すなわち織女星に戀するためにで、戀のために思い亂れて、頭插の玉が散つたとするのである。
【評語】美しい空想によつて、川の激流を敍している。前の歌と共に、連作として味わうべく、これによつて、激流の美しさが浮かびあがつてくる。
 
鷺坂作歌一首
 
鷺坂にて作れる歌一首
 
【釋】鷺坂 サギサカ。京都府久世郡|城陽《じようよう》町久世にある。泉川を渡つてから、宇治川に出る通路にあり、大和から山城、近江の國府などに赴く街道に當る。「山代《ヤマシロノ》 久世乃鷺坂《クセノサギサカ》」(卷九、一七〇七)。
 
1687 白鳥《しらとり》の 鷺坂山の 松蔭に
 宿りて行かな。
 夜も深《ふ》け行くを。
 
 白鳥《シラトリノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 松影《マツカゲニ》
 宿而往奈《ヤドリテユカナ》
 夜毛深往乎《ヨモフケユクヲ》
 
【譯】白い鳥の鷺坂山の松の木かげに、宿つて行こう。夜も更けて行くものを。
(269)【釋】白鳥 シラトリノ。枕詞。鷺を説明する。
【標語】行き暮れて道のほとりに宿ろうとする旅の心ぼそさが詠まれているが、その場處の敍述が美しい詞で作られているので、全體が美しくなつている。白鳥は、枕詞だが、歌を美しくするのに役立つている。松蔭と處を明示したのもよい。
 
名木河作歌二首
 
名木河《なぎがは》にて作れる歌二首
 
【釋】名木河 ナギガハ。所在不明。倭名類聚鈔に、久世郡に那紀の郷があり、今の小倉村伊勢田の邊だろうという。なお二首とあるのは、一首の誤りだろうとする説があるが、これについては、一六八九の歌の評語に記した。
 
1688 ※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す 人もあれやも、
 濡衣《ぬれぎぬ》を 家には遣《や》らな。
 旅のしるしに。
 
 ※[火三つ]干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》
 沾衣乎《ヌレギヌヲ》 家者夜良奈《イヘニハヤラナ》
 羈印《タビノシルシニ》
 
【譯】ここでは火であぶつてほす人も無いことだ。濡れた著物を、家へ送つてやりたい。旅のしるしに。
【釋】※[火三つ]干人母在八方 アブリホスヒトモアレヤモ。ヤモは反語。旅にあつて濡れた著物をあぶつてほす人が無いの意。句切。
 沾衣乎 ヌレギヌヲ。雨に濡れた衣服を。
 家者夜良奈 イヘニハヤラナ。願望の語法。句切。
(270) 羈印 タビノシルシニ。旅をしていることを明白にするために。シルシは、記念、證明などの意のある語。ここは輕く、旅をしている表明にぐらいである。
【評語】突然、沾衣とあるが、この一首は、後に出る名木河にて作れる歌三首と同時同人の作と考えられる。それを何故に二つに分けたかといえば、この人麻呂集所出の一連のうち、一六八七から一六九三までは、季節のない歌を集め、一六九四以下は、季節のある歌を集めたものと思われる。歌の順序としては、後の三首の方が先で、この一首がそれに續くものであり、四首を併わせて連作と見られるものであるが、殊にこの一首は、一六九八のアブリホス人モアレヤモの歌とは不可分の關係に立つものである。それをかように分離したのは、人麻呂集の編纂が、作者と見られる人麻呂の企畫に反して行われたことを證明する。さて、沾衣を旅のしるしとして家にやりたいと歌い納めたのは、よく旅中に雨に逢つたものわびしき、家戀しさを描いている。
 
1689 荒礒邊《ありそべ》に 著《つ》きて榜《こ》がさね。
 杏人《ももひと》の 濱を過ぐれば
 戀《こほ》しくありなり。
 
 在衣邊《アリソベニ》 著而榜尼《ツキテコガサネ》
 杏人《モモヒトノ》 濱過者《ハマヲスグレバ》
 戀布在奈利《コホシクアリナリ》
 
【譯】礒の方に著いて船をお榜ぎなさい。杏人の濱を通り過ぎるので、その礒がなつかしく思われる。
【釋】在衣邊著而榜尼 アリソベニツキテコガサネ。自分の乘つている船の、水手《かこ》に向かつて言つている。岸邊近く船を進めよの意。なお榜尼は、コガサニとも、讀まれる。「吾爾尼保波尼《ワレニニホハネ》」(卷九、一六九四)參照。句切。
 杏人 モモヒトノ。
  カラヒトノ(西)
(271)  カラモモノ(札、士清)
  ウマヒトノ(補)
  ――――――――――
  京人《ミヤコビト》(略、宣長)
 次の句の濱に冠して、地名であろうが、訓法不明。杏は、倭名類聚鈔に加良毛毛とあり、新撰字鏡に辛桃と註しているのもその意である。杏人をカラモモと讀むのは、杏仁に同じとするのである。カラヒトとするのは、カラモモのカラを借りたとするものである。しかしカラモモのカラを借りたとするよりも、まだしもモモを借りたとする方が無事だろう。いずれにしても所在も不明なのだから致し方がない。前後、山城の國を經て近江の國に旅行しての作であるから、琵琶湖畔の地名であるかも知れない。百人の義であるかもしれない。
 濱過者 ハマヲスグレバ。船上に、その濱を通過するのでの意。
 戀布在奈利 コホシクアリナリ。助動詞ナリは、古くは動詞の終止形を受ける。アリは、ラ行變格だから、アリナリとなる。「伊多玖佐夜藝帝阿理那理《イタクサヤギテアリナリ》」(古事記中卷)、「美奈不之天阿利奈利《ミナフシテアリナリ》」(正倉院文書、續修別集第四十八卷)。
【評語】海岸の風光を愛する心が、船人に對していう語となつて、歌われている。輕い内容の旅の歌である。但しこの一首は、名木河での作ではない。前の歌とのあいだに中斷された部分があるのだろう。この卷の編纂法は、もとの資料のままに切つて繼いだ部分が多く、この部分もそういう編纂になつていると考えられるので、たまたま中間を裁斷してかような形に繼ぎ合わせてしまつたのだろう。それで用字法なども資料のままになつていると考えられるのである。
 
高島作歌二首
 
高島にて作れる歌二首
 
(272)【釋】高島 タカシマ。滋賀縣高島郡の地。琵琶湖の北方の西岸の地である。
 
1690 高島の 阿渡《あと》河波は 騷《さわ》けども、
 吾《われ》は家思ふ。
 宿り悲しみ。
 
 高島之《タカシマノ》 阿渡川波者《アトカハナミハ》 驟鞆《サワケドモ》
 吾者家思《ワレハイヘオモフ》
 宿加奈之弥《ヤドリカナシミ》
 
【譯】高島の阿渡川の波は騷ぐけれども、わたしは家を思う。宿りに感傷して。
【釋】阿波川波者 アトカハナミハ。アト川は、今の安曇川。東流して琵琶湖にそそぐ。
 驟鞆 サワケドモ。このドモは、ある事が行われるが、それは別としての意に使われている。「小竹之葉者《ササノハハ》 三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》 亂友《サヤケドモ》 吾者妹思《ワレハイモオモフ》 別來禮婆《ワカレキヌレバ》」(卷二、一三三)のドモの用法に同じ。
 宿加奈之弥 ヤドリカナシミ。カナシミは、心に感傷する意の形容。
【評語】河波の立ち騷ぐほとりに旅宿する感傷が歌われている。無量の旅情が、よく寫されている。三句の騷ケドモは、いかにも人麻呂らしい表現で、感慨を描く要素になつている。人麻呂の作とする「小竹の葉はみ山もさやに」の歌と、同巧の歌である。重出が傳えられるのは、後人によつて愛誦されたためであろう。
【參考】重出。
  高島の阿渡白波はさわけども吾は家思ふ。いほりかなしみ(卷七、一二三八)
 
1691 旅なれば 三更《よなか》を指して 照る月の、
 高島山に 隱らく惜しも。
 
 客在者《タビナレバ》 三更刺而《ヨナカヲサシテ》 照月《テルツキノ》
 高島山《タカシマヤマニ》 隱惜毛《カクラクヲシモ》
 
【譯】旅なので、夜中を目ざして照る月が、高島山に隱れるのが惜しいなあ。
(273)【釋】三更刺而 ヨナカヲサシテ。ヨナカは、「狹夜深而《サヨフケテ》 夜中乃方爾《ヨナカノカタニ》」(卷七、一二二五)の歌に照らして地名とする。その條參照。ここでは、夜半とも見られる。サシテは、目ざして。夜中に向かつて。
【評語】旅にあつて、夜半に照る月の隱れるのを惜しんでいる。深夜の旅情が、月に對して別れを惜しむ形で表現されている。
 
紀伊國作歌二首
 
紀伊の國にて作れる歌二首
 
1692 わが戀ふる 妹は逢はさず。
 玉の浦に 衣片敷き
 ひとりかも寐む。
 
 吾戀《ワガコフル》 妹相佐受《イモハアハサズ》
 玉浦丹《タマノウラニ》 衣片敷《コロモカタシキ》
 一鴨將v寐《ヒトリカモネム》
 
【譯】わたしの思つている妻は逢つてくれない。玉の浦に著物を片敷いてひとりでか寐よう。
【釋】吾戀妹相佐受 ワガコフルイモハアハサズ。アハサズは、敬語法の否定。お逢いにならないだが、敬意は輕くなつている。句切。
 玉浦丹 タマノウラニ。タマノ浦は、「玉之裏《タマノウラ》 離小島《ハナレコジマノ》 夢石見《イメニシミユル》」(卷七・一二〇二)とあつて、和歌山縣東牟婁郡だというが、東牟婁郡では、奧過ぎる。もつと、和歌山市寄りに求めらるべきである。和歌の浦だろう。
 衣片敷 コロモカタシキ。男女が寐る時には、その衣服を敷いて寐るのだが、ひとりで寐る時には、自分の衣服だけを敷くことになる。それをカタシキという。
(274)【評語】かつて行幸御幸のおりに、夫婦共に御供して旅行した。そのなつかしい地に、今はその妻に死別してから、ひとりさびしく旅行する心が詠まれている。幻影の妻を追つて、しかも逢うことを得ないで、ひとり礒邊に旅衣を片敷いて寐ようとする。悲痛の作で、よくその情趣が描かれている。四五句は、慣用句として、しばしば使用されている。なお次の歌も、この歌と同時同人の連作と見るべきである。
 
1693 玉匣《たまくしげ》 明けまく惜しき あたら夜を、
 袖《ころもで》離《か》れて ひとりかも寐む。
 
 玉匣《タマクシゲ》 開卷惜《アケマクヲシキ》 〓夜矣《アタラヨヲ》
 袖可禮而《コロモデカレテ》 一鴨將v寐《ヒトリカモネム》
 
【譯】玉匣のふたをあける。そのように夜の明けるのが惜しい、惜しむべき夜を、妻の袖に離れて、ひとりでか寐るのだろう。
【釋】玉匣 タマクシゲ。枕詞。匣の蓋をあけるということから、そのアクと、同音の夜の開けるに冠している。
 〓夜矣 アタラヨヲ。〓は、悋の異體字。惜しむべき意に、アタラと讀む。アタラヨは、明けることの惜しまれる夜。
【評語】前の歌と連作をなしている。亡き妻を求めてひとり旅宿する寂寥感が歌われている。獨カモ寐ムは、類型的な句で、この歌あたりが古い方だが、なお前行の歌詞を受けているのだろう。普通の旅の心を詠んだものとも解せられる歌であるが、ここでは連作として見るべきだろう。
 
鷺坂作歌一首
 
鷺坂にて作れる歌一首
 
(275)1694 細領巾《たくひれ》の 鷺坂山の 白《しら》つつじ、
 吾ににほはね。
 妹に示さむ。
 
 細比禮乃《タクヒレノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 白管自《シラツツジ》
 吾尓尼保波尼《ワレニニホハネ》
 妹尓示《イモニシメサム》
 
【譯】コウゾの領巾のように白い、鷺坂山の白ツツジは、わたしのために咲いてくれ。わが妻に見せよう。
【釋】細比禮乃 タクヒレノ。枕詞。細は、細布の義をもつて、栲に代えて使用している。栲の領巾は白いので、鷺を修飾する。
 白管自 シラツツジ。ツツジは赤いのが普通なので、時に白と言つている。
 吾尓尼保波尼 ワレニニホハネ。尼の字を、字音假字として、右の中に、ニおよびネの音の表示に使つていると見られる。これは、字音の渡來の種類によるもので、ニというのは、尼僧などの場合に、ニと言つていたのを使用したのだろう。但し、「伊弊爾可弊利提《イヘニカヘリテ》 奈利乎斯麻佐爾《ナリヲシマサニ》」(卷五、八〇一)の例によれば、ニホハニと讀むべきであるかも知れない。ニホハネは、におつてほしい意で、色にあらわれよ、咲き出でよの意。句切。
【評語】旅先の風光品物などを愛人に見せたいという思想は、類型的なものだが、特に咲キイデヨと注文したのが特色である。栲領巾ノ鷺坂山ノ白ツツジは、白い物を重ねた所が計畫的である。この歌以下十六首は、季節順に配列してあり、以下五首は、春の歌である。
 
泉河作歌一首
 
泉河にて作れる歌一首
 
(276)1695 妹《いも》が門《かど》 入《い》り泉川《いづみがは》の 常滑《とこなめ》に
 み雪殘れり。
 いまだ冬かも。
 
 妹門《イモガカド》 入出見川乃《イリイヅミガハノ》 床奈馬尓《トコナメニ》
 三雪遺《ミユキノコレリ》
 未冬鴨《イマダフユカモ》
 
【譯】妻の家の門を、出入をする。その泉川の岩床に、雪が殘つている。まだ冬なのだろうか。
【釋】妹門入出見川乃 イモガカドイリイヅミガハノ。妹が門入りまでは、序詞。イヅミ川のイヅを引き起している。
 床奈馬尓 トコナメニ。トコナメは、卷の一、卷の七に常滑と書いてる。岩床の水に濡れて常に滑らかなもの。
 三雪遺 ミユキノコレリ。雪がまだ消えないで殘つている。句切。
【評語】早春に泉川のあたりを過ぎてその風物を敍している。作者は妻の家を思い、妹ガ門入リの序を使つて、巧みに泉川を起している。巧みな歌だが、感興は深い。
 
名木河作歌三首
 
名木河にて作れる歌三首
 
1696 衣手の 名木の川邊を、
 春雨に 吾《われ》立ち濡《ぬ》ると、
 家念ふらむか。
 
 衣手乃《コロモデノ》 名木之川邊乎《ナギノカハベヲ》
 春雨《ハルサメニ》 吾立沾等《ワレタチヌルト》
 家念良武可《イヘオモフラムカ》
(277)【譯】著物が和ぐ。その名木の川邊を、春雨にわたしが濡れると、家では思つているだろうか。
【釋】衣手乃 コロモデノ。枕詞。かかり方については、諸説があるが、衣服を著馴れて和ぐという意に、地名のナギに冠するのだろう。
 名木之川邊乎 ナギノカハベヲ。このヲは、名木の川邊なるをの意に、下の吾立チ濡ルの場處を指示している。
 吾立沾等 ワレタチヌルト。タチは、接頭語で、強い意はないが、濡れる時の状態に即して、使われてはいる。
 家念良武可 イヘオモフラムカ。家では念うだろうかの意。この歌におけるこの句の用法によつて、「吾馬爪衝《ワガウマツマヅク》 家思良下《イヘオモフラシモ》」(卷七、一一九一)、「吾馬難《ワガウマナヅム》 家戀良下《イヘコフラシモ》」(同、一一九二)のイヘオモフ、イヘコフが、同樣の意に使われているとすることもできる。
【評語】以下三首、および前出の一六八八の歌と共に連作として、まず最初に總説ふうに歌つている。これで大體の輪郭が描かれ、以下順次、その感情を精寫してゆくのである。そこで衣手の枕詞が、やはり伏線としての用を成していることが知られる。家では、旅に辛勞している自分をどう思つているだろうかという、旅人としての心情が、正面から歌われている。
 
1697 家人《いへびと》の 使なるらし。
 春雨の 避《よ》くれど吾を
 濡《ぬ》らす念《おも》へば。
 
 家人《イヘビトノ》 使在之《ツカヒナルラシ》
 春雨乃《ハルサメノ》 與久列杼吾乎《ヨクレドワレヲ》
 沾念者《ヌラスオモヘバ》
 
【譯】家の人の使なのだろう。春雨が、避けてもわたしを濡らすのを思うと。
(278)【釋】家人 イヘビトノ。イヘビトは、家にある人で、主として妻をいう。
 與久列杼吾等乎 ヨクレドワレヲ。ヨクレは、避ける意の動詞で、「與寄道者無荷《ヨキヂハナシニ》」(卷七、一二二六)、「與久流日毛安良自《ヨクルヒモアラジ》」(卷十五、三六八三)などの使用例がある。
【評語】春雨がつきまとつて濡らすのを、家人の使かと疑つたのは、巧みな感想である。しつとりと濡れた困惑が、家人をなつかしむ形であらわれている所に、特色がある。
 
1698 ※[火三つ]《あぶ》りほす 人もあれやも、
 家人の 春雨すらを 間使《まづかひ》にする。
 
 ※[火三つ]干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》
 家人《イヘビトノ》 春雨須良乎《ハルサメスラヲ》 間使尓爲《マヅカヒニスル》
 
【譯】火であぶつてほす人があるというのだろうか、家の人は、春雨のような者をも、使にしている。
【釋】※[火三つ]干人母在八方 アブリホスヒトモアレヤモ。前の一六八八の歌と同じ句だが、ここでは疑問條件法になつている。ヤモは疑問が深く、反語になつている。同一の形の文が、一つは獨立文として、一つは前提法として使用され、しかも同一人によつて、多分同じ時に使用されたかと見られるのは、興味をひく。作者は、この二種の用法に、さして區別を感じていないだろう。この歌において、初二句は、作者自身の上をいい、三句以下は、家人が主になつていて、嚴密に云えば初二句は三句以下の條件にならないのである。これは獨立文としてもよく、これに脚をつけて、前提法としてもよいのである。そこで使用されている助詞についていえば、ヤモは、終助詞ともなり、係助詞ともなることになる。そのどちらが原形的であるかといえば、終助詞としての用法が原形的で、轉じて係助詞にも使用されることになつたものと推定される。これはひとりヤモだけの問題でなくして、他のすべての係助詞にわたつて共通している性質である。ゾなどでもこういう傾向は指摘される。たとえば「夕去者《ユフサレバ》 公來座跡《キミキマサムト》 待夜之《マチシヨノ》 名凝衣今《ナゴリゾイマモ》 宿不v勝爲《イネガテニスル》」(卷十一、二五八八)の歌において、ゾを(279)受けてスルと結んでいるけれども、歌意は、ナゴリゾで切れ、今モイネガテニスルは,それを受けて説明を補足しているものである。ナゴリニゾの意であるとする解釋は、恐らくは當つていないだろう。
 間使尓爲 マヅカヒニスル。マヅカヒは、兩者のあいだの使者。アレヤモを受けて結んでいる。
【評語】以上三首は連作で、既出の一六八八の歌と共に一團を成している。この歌で條件法になつている句を、一六八八では受けて繰り返し、しかもそこでは獨立文として使用している。ここの三首に對して、一六八八の歌は、反歌のような性質を成している。その構成の巧みを味わうべきである。
 
宇治河作歌二首
 
宇治河にて作れる歌二首
 
【釋】宇治河 ウヂガハ。琵琶湖から發して山城の國に入り、宇治の地を流れるので、宇治河の名を得ている。ここには巨椋の入江が詠まれているのは、もと宇治川が流入してできた水面だからである。
 
1699 巨椋《おほくら》の 入江|響《とよ》むなり。
 射目人《いめびと》の 伏見が田井に
 雁《かり》渡るらし。
 
 巨椋乃《オホクラノ》 入江響奈理《イリエトヨムナリ》
 射目人乃《イメビトノ》 伏見何田井尓《フシミガタヰニ》
 雁渡良之《カリワタルラシ》
 
【譯】巨椋の入江が鳴り響いている。弓を射る人が伏して見る、その伏見の田に雁が渡るらしい。
【釋】巨椋乃入江響奈理 オホクラノイリエトヨムナリ。オホクラノ入江は、宇治川の水が廣がつて入江を成している處。後、桃山時代に堤防を築いて河流と分離して池とした。當時は、廣かつたらしい。トヨムは、物音が響くのをいうが、ここは入江におりていた雁が、一度に立つた物音をいうのだろう。句切。
(280) 射目人乃 イメビトノ。枕詞。イメは、弓を射る人の、かくれているところであり、その人が、弓を射るのに伏してねらうので、伏見に冠している。射目は、鹿猪などを射るために身を隱す場所だという(大野豊氏)。雁を射る人の隱れる所にもいうか。
 伏見何田井尓 フシミガタヰニ。フシミは、京都市の伏見の地。巨椋の入江の北方に當る。ヰは接尾語。雲ヰのヰに同じ。定著を感ずる物につける。
【評語】初二句で事實を直寫して云い切つたのが強い感じを與える。廣々とした水面に立つ物音を描いて、それからその物音の説明に移つたのは、心の動いた順序によるもので、自然な形の表現である。以下十首、秋の歌である。
 
(281)1700 秋風の 山吹きて瀬の 響《な》るなへに、
 天の白雲 翔りあふかも。
 
 金風《アキカゼノ》 山吹瀬乃《ヤマフキテセノ》 響苗《ナルナヘニ》
 天雲《アマノシラクモ》 翔相鴨《カケリアフカモ》
 
【譯】秋風が山を吹いて川瀬が鳴り響くと共に、大空の白雲が飛びあうことだなあ。
【釋】金風 アキカゼノ。金を秋に當てるのは。五行説によるもので、季節を木火土金水の五行に配當すれば、秋は金に當るとするからである。「金野乃《アキノノノ》」(卷一、七參照)。 
山吹瀬乃響苗 ヤマフキテセノナルナヘニ。
  ヤマフクセセノヒヒクナヘ(藍)
  ヤマフキノセノナルナヘニ(西)
  ヤマフキノセノトヨムナヘ(代精)
  ヤマフキセセノトヨムナヘ(定本)
  ――――――――――
  山吹瀬々響苗《ヤマフクセセノヒヒクナヘニ》(神)
 ヤマフキノセと讀む説は、宇治川に山吹の瀬という名處があるというが、それは疑問で、その地名は、この歌あたりから云い出したことだろう。秋風が山を吹く實景と、見るべきである。響は、前の歌には、トヨムと讀まれているが、「足引之《アシヒキノ》 山河之瀬之《ヤマカハノセノ》 響苗爾《ナルナヘニ》」(卷七、一〇八八)にょれば、響苗を、ナルナヘニと讀まれる。
 天雲翔相鴨 アマノシラクモカケリアフカモ。
  アマクモカケルカリニアへルカモ(藍)
  ――――――――――
 天雲翔雁相鴨《アマクモカケルカリニアヘルカモ》(壬)
 天雲翔雁相鴨《アマグモカケルカリニアフカモ》(童)
 天雲翔雁相鴨《アマグモカケルカリニヲミルカモ》(童)
(282) 藍紙本、類聚古集、古葉略類聚鈔以外の諸本には、翔の下に鴈の字がある。藍紙本などには鴈の字は無いが、訓にはある。この訓に釣られて鴈の字が加わつたとも見られるし、もと鴈の字のあつた本によつて訓が得られたとも見られ、どちらにも證據にならない。鴈の字の無いのによれば、天雲を、補讀しなければならない。歌意から云えば、鴈でなくて、雲の飛ぶ方が、歌がらが大きくなる。「多奈妣家流《タナビケル》 安麻能之良久毛《アマノシラクモ》」(卷十五、三六〇二)。
【評語】傳來の文字に疑問があつて、完全に原歌を味わうことができない。雄大な内容の歌らしいが、殘念なことである。今の訓によつて味わえば、その大きな構想が窺えるが、それで完全な原形であるかどうかを知らない。
 
獻2弓削皇子1歌三首
 
弓削の皇子に獻《たてまつ》レる歌三首
 
1701 さ夜中と 夜は深けぬらし。
 雁《かり》が音《ね》の 聞ゆる空ゆ 月渡る見ゆ。
 
 佐宵中等《サヨナカト》 夜者深去良斯《ヨハフケヌラシ》
 鴈音《カリガネノ》 所v聞空《キコユルソラニ》 月渡見《ツキワタルミユ》
 
【譯】ま夜中と夜はふけたらしい。雁の聲の聞える空を、月の渡るのが見える。
【釋】所聞空 キコユルソラユ。從來キコユルソラニと讀んで恠《あや》しまなかつた句であるが、類歌を卷の十に載せたのには、三句以下「雁鳴乃《カリガネノ》 所v聞空從《キコユルソラユ》 月立度《ツキタチワタル》」(卷十、二二二四)とある。物のわたる場處を指示する句については、「見渡者《ミワタセバ》 潮干乃潟爾《シホヒノカタニ》 多頭鳴渡《タヅナキワタル》」(卷六、一〇三〇)、「見渡者《ミワタセバ》 淡路島爾《アハヂノシマニ》 多豆渡所v見《タヅワタルミユ》」(卷七、一一六〇)などの如く、助詞ニを受けるものは、その渡つて行く方向を指示しており、また「喚子鳥《ヨブコドリ》 三(283)船山從《ミフネノヤマユ》 喧渡所v見《ナキワタルミユ》」(卷十、一八三一)、「我門從《ワガカドユ》 喧過渡《ナキスギワタル》 霍公鳥《ホトトギス》」(卷十九、四一七六)などの如く、助詞ユを受けるものは、その通過する道程を指示している。今この歌で、月の渡る所の、雁ガネノ聞ユル空は、その渡り行く道程であつて、月の渡り行く方向ではないのだから、キコユルソラユと讀むべく、ユを補讀することになるのである。雁の鳴聲の聞える空を通つての意で、ユは、本來の意義に使われている。
【評語】深夜の情景が、自然な形で歌われている。巧みを求めない、おちついた歌である。卷の十に類歌があり、古今和歌集にもこれを載せているのは、人々に愛誦されて傳えられたのであろう。
【參考】類歌。
  この夜らはさ夜更けぬらし。雁がねの聞ゆる空ゆ月たち渡る(卷十、二二二四)
 
1702 妹があた。茂き雁がね、
 夕霧に 來《き》鳴きて過ぎぬ。
 すべなきまでに。
 
 妹當《イモガアタリ》 茂苅音《シゲキカリガネ》
 夕霧《ユフギリニ》 來鳴而過去《キナキテスギヌ》
 及v乏《スベナキマデニ》
 
【譯】妹の家の邊には、澤山の雁が、夕霧に來て鳴いて行つた。しかたのないまでに。
【釋】妹當 イモガアタリ。愛人の家のあたり。その家のある方角をさしている。
 茂苅音 シゲキカリガネ。シゲキは、數の多いのをいう。苅は、雁の借字。
 來鳴而過去 キナキテスギヌ。今ここに妹のあたりに、鳴いて過ぎて行つた。句切。
 及乏 スベナキ々デニ。從來トモシキマデニと讀まれていた。澤瀉博士は、「戀無乏《コヒハスベナシ》」(卷十一、二三七三)などによつて、スベナキマデニと、讀んでいる。その方が通りがよい。乏しいことが、スベナキに當るのである。
(284)【評語】妹ガアタリ茂キ雁ガネというような、ただ言葉を積み重ねたような云い方が、かえつて思い悩んでいる心を表現するに役立つている。雁の聲に感傷するという内容は、思い寄り易く、類想もあるのだが、上記のような時殊の表現で、持つている歌である。
 
1703 雲|隱《がく》り 雁鳴く時に、
 秋山の 黄葉《もみち》片待つ。
 時は過ぎねど。
 
 雲隱《クモガクリ》 鴈鳴時《カリナクトキニ》
 秋山《アキヤマノ》 黄葉片待《モミチカタマツ》
 時者雖v過《トキハスギネド》
 
【譯】雲に隱れて雁の鳴く時に、秋山の黄葉を待ち設ける。時は過ぎないのだが。
【釋】黄葉片待 モミチカタマツ。カタマツは、片より待つで、ひたすらに待つ意。句切。
 時者經過 トキハスギネド。
  トキハスクトモ(藍)
  トキハスキネト(西)
  トキハスグレド(代精)
  ――――――――――
  時者雖不過《トキハスギネド》(略、宣長)
 打消を意味する文字が無くて、その意に補讀すべきものと考えられる。この種の補讀は、助詞カ、カモに接續する場合に多く、この句の場合のようなのは、例は無いが、人麻呂集所出には、打消の意味を補讀すべき場合が、しばしばあるから、ここももとからこのような形になつていたのだろう。黄葉すべき時節は、まだ來ないのだがの意である。
【評語】雁の聲に催されて、秋山の黄葉を待つ心が、まだその時に到らないのに、動いている。秋の氣分の出ている歌だが、五句は説明に落ちて、理くつになつている。
 
(285)獻2舍人皇子1歌二首
 
舍人の皇子に獻れる歌二首
 
【釋】獻舍人皇子歌 トネリノミコニタテマツレルウタ。歌詞に、細川を詠んでいるのを見ると、その邊に皇子の邸宅でもあつたものだろう。
 
1704 ふさたをり 多武《たむ》の山霧
 しげみかも
 細川の瀬に 波の騷ける。
 
 ※[手偏+求]手折《フサタヲリ》 多武山霧《タムノヤマギリ》
 茂鴨《シゲミカモ》
 細川瀬《ホソカハノセニ》 波驟祁留《ナミノサワケル》
 
【譯】ふさふさ折つてたわめる。その多武の山の霧が茂くあるゆえか、細川の瀬に浪が騷いでいる。
【釋】※[手偏+求]手折 フサタヲリ。枕詞。ふさふさと、手折つてたわむというので、タムに冠する。※[手偏+求]は、一六八三參照。
 多武山霧 タムノヤヤギリ。タムノ山は、奈良縣磯城郡高市郡に跨つている塔の峰。高市郡の方面から眺めている。
 細川瀬 ホソカハノセニ。ホソ川は、多武の山の西南を流れて、飛鳥川に入る小川である。
 波驟祁留 ナミノサワケル。サワケルは、三句の茂ミカモを受けて結んでいる。
【評語】山中の情景、霧の立つこと茂くして、川の瀬の騷ぐように覺えるさまである。初句の枕詞は、無用であり、細川も小流で、その瀬の騷ぐということが、大げさに感じられる。「あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が嶽に雲立ち渡る」(卷七、一〇八八)の壯大なのに及ばない。
 
(286)1705 冬ごもり 春べに戀ひて
 植ゑし木の、
 實のなる時を 片待つわれぞ。
 
 冬木成《フユゴモリ》 春部戀而《ハルベニコヒテ》
 植木《ウヱシキノ》
 實成時《ミノナルトキヲ》 片待吾等敍《カタマツワレゾ》
 
【譯】冬の中から春の頃を慕つて植えた木の、實のなる時を待ちこがれるわたくしです。
【釋】冬木成 フユゴモリ。冬の終り頃。ここは、枕詞ではなく、實際の季節である。「冬木成《フユゴモリ》 時敷時跡《トキジキトキト》」(卷三、三八二)、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」(古今和歌集序)などの用法に同じ。
 春部戀而 ハルベニコヒテ。ハルヘヲコヒテ(藍)、ハルベニコヒテ(童)。從來多くは、春ベヲ戀ヒテと讀んでいたものであるが、童蒙抄に、春ベニ戀ヒテとしているのがよい。動詞戀フは、助詞ニを受けて、これによつて、その戀う所の方向を指示するのを通例とする。但し助詞ヲを受ける例も無いではない。集中、ヲを受ける例は、次の如くである。
  風乎太尓《カゼヲダニ》 戀流波乏之《コフルハトモシ》 風小谷《カゼヲダニ》 將v來登時待者《コムトシマタバ》 何香將v嘆《ナニカナゲカム》(卷四、四八九)
 これは、三四句の、風ヲダニ來ムトシ待タバに合わせて、風ヲダニ戀フルはと云つている。
  波之家也思《ハシケヤシ》 不遠里乎《マヂカキサトヲ》 雲居爾也《クモヰニヤ》 戀管將v居《コヒツツヲラム》 月毛不v經國《ツキモヘナクニ》(卷四、六四〇)
  家尓之弖《イヘニシテ》 吾者將v戀名《ワレハコヒムナ》 印南野乃《イナミノノ》 淺茅之上尓《アサヂガウヘニ》 照之月夜乎《テリシツクヨヲ》(卷七・一一七九)
  香山爾《カグヤマニ》 雲位桁曳《クモヰタナビキ》 於保々思久《オホホシク》 相見子等乎《アヒミシコラヲ》 後戀矣鴨《ノチコヒムカモ》(卷十二 二四四九)
  高麗劔《コマツルギ》 己之景迹故《ワガココロカラ》 多耳《ヨソノミニ》 見乍哉君乎《ミツツヤキミヲ》 戀渡奈矣《コヒワタリナム》(卷十二、二九八三)
  伊都之可母《イツシカモ》 見牟等於毛比師《ミムトオモヒシ》 安波之麻乎《アハシマヲ》 與曾爾也故非無《ヨソニヤコヒム》 由久與思乎奈美《ユクヨシヲナミ》(卷十五、三六三一)
(287)  多妣爾安禮杼《タビニアレド》 欲流波火等毛之《ヨルハヒトモシ》 乎流和禮乎《ヲルワレヲ》 也未爾也伊毛我《ヤミニヤイモガ》 古非都追安流良牟《コヒツツアルラム》(同、三六六九)
  多知波奈乃《タチバナノ》 之多布久可是乃《シタフクカゼノ》 可具波志伎《カグハシキ》 都久波能夜麻乎《ツクハノヤマヲ》 古比須安良米可毛《コヒズアラメカモ》(卷二十、四三七一)
 これらの例において、戀フは、助詞ヲを受けているが、いずれも戀フの目的物について説明がなされてあり、そのヲは、なるものをの意が濃厚であつて、それゆえに使用されているものである。しかるに今この歌では、目的物の説明も無く、なるものをの意でもないから、ハルベニコヒテと讀むを至當とするのである。
【評語】木を植えてやがて實のなるのを待つことに、寓意が感じられる。舍人の皇子が、やがて時代に迎えられるのを待つているものとも解せられる。舍人の皇子は、天武天皇の第三皇子で、御母は新田部の皇女だから、この歌が何時作られたものであるかはわからないが、ある時期に、周圍の人々が帝位につくべき方として希望を懸けたこともあるのだろう。それは高市の皇子の薨後だろう。
 
舍人皇子御歌一首
 
舍人の皇子の御歌一首
 
1706 ぬばたまの 夜霧は立ちぬ。
 衣手を 高屋《たかや》の上に 棚引くまでに。
 
 黒玉《ヌバタマノ》 夜霧立《ヨギリハタチヌ》
 衣手《コロモデヲ》 高屋於《タカヤノウヘニ》 霏※[雨/微]麻天尓《タナビクマデニ》
 
【譯】くらい夜の霧は立つた。その高屋の上にたなびくまでに。
【釋】黒玉 ヌバタマノ。枕詞。
 夜霧立 ヨギリハタチヌ。ヨルキリタチヌ(藍)、ヨキリハタチヌ(西)、ヨギリゾタテル(略)、ここで句を切ることには多く一致しているが、訓には諸説がある。夜霧の下に、助詞を補讀するとせば、他に同形の例が(288)あるなどの事情のない限り、ハを補うのが穩當である。句切。
 衣手 コロモデヲ。「衣手能《コロモデノ》 田上山之《タナカミヤマノ》」(卷一、五〇)の、例に任せて、コロモデノとも讀まれる。枕詞。衣手の手というので、タの音に冠する。コロモデヲは、「衣手乎《コロモデヲ》 打廻乃里爾《ウチミノサトニ》」(卷四、五八九)の、一例がある。
 高屋於 タカヤノウヘニ。タカヤは、高い家屋とする説と、地名説とあり、どちらでも通じる。地名とすれば、略解に、「神名帳に、大和城上郡高屋安倍神社とある所なるべし」とあるのでよい。これは今の磯城郡櫻井町大字谷の若櫻神社の境内にある高屋神社である。
【評語】枕詞を二つまでも使つており、主想は、極めて單純である。高屋が地名であるにしても、その高の語は、動かない所であろう。特にこの皇子の作をここに載せたのは、前の、多武の山霧の歌に應じられた作であるからかも知れない。そうすれば、高屋は、家屋をさすことになり、それは多分その時の御座所のことになるのだろう。歌は、これによつて活氣を帶びて來る。
 
鷺坂作歌一首
 
鷺坂にて作れる歌一首
 
1707 山城の 久世《くせ》の鷺坂、
 神代より 春は萌《は》りつつ
 秋は散りけり。
 
 山代《ヤマシロノ》 久世乃鷺坂《クセノサギサカ》
 自2神代1《カミヨヨリ》 春者張乍《ハルハハリツツ》
 秋者散來《アキハチリケリ》
 
【譯】山城の久世の鷺坂は、神代から、春は草木の芽が出、秋は散つたのだ。
(289)【釋】春者張乍 ハルハハリツツ。ハリツツは、萌リツツで、草木の芽のふくらむをいう。張の字は、膨脹の意味に使つたのだろう。春の意に張の字を使つたものに「在乍毛《アリツツモ》 張之來者《ハルシキタラバ》 立隱金《タチカクルガネ》」(卷四、五二九)があり、春の語義は、草木の芽の膨張することであつたのだろう。
【評語】季節の推移による風物の變化は、太古から同じことが繰り返されていることを歌つている。思想的な歌である。山城の久世の鷺坂を通つて、この感を深くして、この作を成したのだろう。春秋を竝べているが、歌は、秋の葉の散る頃に詠んだものである。
 
泉河邊作歌一首
 
泉河の邊にて作れる歌一首
 
1708 春草を 馬咋《うまくひ》山ゆ 越え來《く》なる
 雁《かり》の使は 宿《やど》り過ぐなり。
 
 春草《ハルクサヲ》 馬咋山自《ウマクヒヤマユ》 越來奈流《コエクナル》
 雁使者《カリノツカヒハ》 宿過奈利《ヤドリスグナリ》
 
【譯】春草を馬が食う。その名の咋山を通つて越えてくる雁の使は、宿りを過ぎて行くのだ。
【釋】春草馬咋山自 ハルクサヲウマクヒヤマユ。ハルクサヲウマまで序詞。春草を馬が食う意に、クヒを引き起している。クヒ山は地名。延喜式神名に、綴喜郡に咋岡神社とある。京都府綴喜郡田邊町飯岡にある小山で、その麓に咋岡神社がある。ユは、そこを通つて。
【評語】序が巧奇である。但し秋の歌なので、歌われた時の季節ではない。雁の使を詠むために、わざわざ春草から歌い出した手段と見られる。雁の使というのは、家人からの使を連想している。それがいたずらに旅の宿りを過ぎてゆく時の感慨である。指定の助動詞ナリを二度使用して、雁を強く提示している。
 
(290)獻2弓削皇子1歌一首
 
弓削の皇子に獻れる歌一首
 
1709 御食向《みけむか》ふ 南淵《みなぶち》山の 巖には、
 落《ふ》りしはだれか、削り殘れる。
 
 御食向《ミケムカフ》 南淵山之《ミナブチヤマノ》 巖者《イハホニハ》
 落波太列可《フリシハダレカ》 削遺有《ケヅリノコレル》
 
【譯】南淵山の巖には、降つたはだれの雪だろうか、削り殘つている。
【釋】御食向 ミケムカフ。枕詞。ミケムカフは、御食事を供える意であつて、他の例は「御食向《ミケムカフ》 木※[瓦+缶]宮乎《キノヘノミヤヲ》」(卷二、一九六)、「御食向《ミケムカフ》 淡路乃島二《アハヂノシマニ》」(卷六、九四六)、「御食向《ミケムカフ》 味原宮者《アヂフノミヤハ》」(同、一〇六二)とあり、それぞれ、酒《き》、粟《あは》、味に冠していると考えられる。それでここもミナ(御肴)に冠するのだろう。ミ(肉)に冠するというのは、音韻が違うので境疑わしい。
 南淵山之 ミナブチヤマノ。ミナブチ山は、奈良縣高市郡にある山、今、稻淵山という。
 落波太列可 フリシハダレカ。ハダレは、はだれの雪の略。うすく降つた雪。カは、疑問の係助詞。
 削遺有 ケヅリノコレル。
  ケツリノコセル(西)
  ケヅリノコレル(定本)
  ――――――――――
  消遺有《キエノコリケル》(考)
 誤字説もあるが、原文のままでよい。巖について、その殘つた雪を歌うので、削リ殘レルと云つている。この削るの語を使つたのは、漢文學の影響があるのだろう。「萬丈(ノ)崇巖削成秀」(懷風藻、紀の男人)。
【評語】南淵山の巖に雪のところどころ殘つているのを詠んでいる。削リ殘レルと云つたのが、手段であるが、(291)それがためにかえつて後人の誤解を招いて、消エ殘リタルの誤りとする説を生じた。消エ殘リタルならば、降リシハダレカと、疑問の辭を用いる要はない。この歌は、冬の歌である。
 
右、柿本朝臣人麻呂之歌集所v出
 
【釋】右柿本朝臣人麻呂之歌集所出 ミギハカキノモトノアソミヒトマロノウタノシフニイヅルトコロ。ただ右とのみあつて、何首ともないので、係かる範圍が不明である。作者について記事のないものからとすれば、大寶元年の紀伊の國の行幸御幸の歌からになる。人麻呂歌集に、その時の歌あること、歌の内容から推してそうかとも考えられ、また若干の疑問も殘る。仙人の形を詠める歌からは、まちがいのない所である。
 
1710 吾妹子が
 赤裳ひづちて 植ゑし田を、
 刈りて藏《をさ》めむ 倉無《くらなし》の濱。
 
 吾妹兒之《ワギモコガ》
 赤裳※[泥/土]塗而《アカモヒヅチテ》 殖之田乎《ウヱシタヲ》
 苅將v藏《カリテヲサメム》 倉無之濱《クラナシノハマ》
 
【譯】あの子が赤い裳をぬらして植えた田を、刈つて藏に收めよう、その倉の無い濱だ。
【釋】吾妹兒之赤裳※[泥/土]塗而殖之田乎苅將藏 ワギモコガアカモヒヅチテウヱシタヲカリテヲサメム。以上四句、序詞。刈りて藏めむ倉の意に續く。連體形の句。ワギモコは、ここは妻というほどでもない。ただ女性の愛稱。ヒヅチテは、濡れそぼちてで、文字通り泥まみれになつての意。
 倉無之濱 クラナシノハマ。所在未詳。和爾雅《わにが》に、豐前中津の龍王濱とある。
【評語】倉無の濱の名に興じて詠んだ、序詞中心の歌である。その地を通つて詠んだのだろう。四句まで序詞で埋める歌は、相聞の歌には、往々にしてあるが、かような地名の説明の歌は珍しい。歌が遊戯的にもてあそ(292)ばれるようになつたことを語つている。
 
1711 百傳《ももづた》ふ 八十《やそ》の島|廻《み》を 榜《こ》ぎ來れど、
 粟の小島し、見れど飽かぬかも。
 
 百轉《モモヅタフ》 八十島廻乎《ヤソノシマミヲ》 榜雖v來《コギクレド》
 粟小島志《アハノコジマシ》 雖v見不v足可聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】澤山の島々を漕いできたが、粟の小島は、見ても飽きないなあ。
【釋】百轉 モモヅタフ。枕詞。轉は、傳に通じて使用されている。「展傳《コイマロビ》 戀者死友《コヒハシストモ》」(卷十一、二二七四)の展傳も、展轉に同じである。百に傳う意に八十に冠している。
 粟小島志 アハノコジマシ。アハノ小島は、今の何の島か、不明。天平八年の遣新羅の使人が、周防の國玖珂郡麻里布の浦を行きし時の歌に「伊都之可母《イツシカモ》 見牟等於毛比師《ミムトオモヒシ》 安波之麻乎《アハシマヲ》 與曾爾也故非無《ヨソニヤコヒム》 由久與志乎奈美《ユクヨシヲナミ》」(卷十五、三六三一)とある安波之麻は四國と見られるが、ここは小島とあつて別だろう。藍紙本等には、志を者に作り、アハノコジマハとしているが、シの方が提示の力が強くてよい。
【評語】多くの島々の中に、特に粟の小島を稱美している。見レド飽カヌカモというほめ方は、類型的で手輕だが、感歎これを久しくするという氣もちは窺われる。大がかりな表現の歌である。
 
右二首、或云、柿本朝臣人麻呂作
 
【釋】或云柿本朝臣人麻呂作 アルハイフ、カキノモトノアソミヒトマロガツクレルトイヘリ。傳誦した歌なので、人麻呂の作という傳來もあつたのだろう。もとより確實性のあるものとは云いがたい。
 
登2筑波山1詠v月一首
 
(293)筑波山に登りて月を詠める一首
 
1712 天《あま》の原 雲なき夕《よひ》に、
 ぬばたまの 宵《よ》渡る月の
 入らまく惜しも。
 
 天原《アマノハラ》 雲無夕尓《クモナキヨヒニ》
 烏玉乃《ヌバタマノ》 宵度月乃《ヨワタルツキノ》
 入卷〓毛《イラマクヲシモ》
 
【譯】大空に雲の無い夜に、夜の空を過ぎゆく月のはいるのが惜しいなあ。
【評語】山上にあつて、雲の無い夜に月の入るのを惜しんでいる。雄大な氣象の感じられる歌である。初句の、天の原も、極めて效果が大きい。ヌバタマノ夜渡ル月というのは、月の説明として平凡だが、それでよく夜空を渡る月を表現し得ている。
 
幸2芳野離宮1時歌二首
 
【釋】幸芳野離宮時歌 ヨシノノトツミヤニイデマシシトキノウタ。何時の行幸とも知られない。前後の歌の時代から云えば、藤原の宮の時代だろう。
 
1713 瀧の上の 三船の山ゆ
 秋津|邊《べ》に 來《き》鳴きわたるは、
 誰喚子鳥《たれよぶこどり》。
 
 瀧上乃《タギノウヘノ》 三船山從《ミフネノヤマユ》
 秋津邊《アキツベニ》 來鳴度者《キナキワタルハ》
 誰喚兒鳥《タレヨブコドリ》
 
【譯】激流の上の三船の山を通つて、秋津のあたりに、來て鳴いて飛ぶのは、誰を呼ぶ喚子鳥だろう。
【釋】瀧上乃三船山從 タギノウヘノミフネノヤマユ。タギは激流。ミフネノ山は、吉野の離宮の上流にある(294)山。笠の金村の歌にも「瀧上之《タギノウヘノ》 御舟乃山爾《ミフネノヤマニ》」(卷六、九〇七)とある。その山の形に、船を連想させるものがあり、瀧の上の御船の語に、興味を感じて使つている。
 秋津邊 アキツベニ。アキツは、吉野の離宮のある處の地名。「花散相《ハナチラフ》 秋津乃野邊爾《アキツノノベニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太敷座波《フトシキマセバ》」(卷一、三六)。
 誰喚兒鳥 タレヨブコドリ。誰を呼ぶ喚子鳥ぞの意。喚子鳥は、その聲が、人を呼ぶように聞えるからの名で、他の歌にも鳴きながら飛ぶことが歌われ、そのような習性をもつている鳥であることが知られる。「呼兒鳥《ヨブコドリ》 象乃中山《キサノナカヤマ》 呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》」(卷一、七〇)、「呼子鳥《ヨブコドリ》 三船山從《ミフネノヤマユ》 喧渡所v見《ナキワタルミユ》」(卷十、一八三一)。
【評語】吉野山中の景を敍して、平易に歌われている。五句のかけ詞が、さして技巧を感じさせないで、自然に使われているのは、單純な形だからである。よぶこ鳥は、その鳴聲が、人を呼ぶように聞えるというので、その名を得ており、歌にも、常にその意に詠まれている。これは一つの約束が成立しているものと見てよい。
 
1714 落ち激《たぎ》ち 流るる水の、
 磐《いは》に觸れ 淀める淀に
 月の影見ゆ。
 
 落多藝知《オチタギチ》 流水之《ナガルルミヅノ》
 磐觸《イハニフレ》 與抒賣類與杼尓《ヨドメルヨドニ》
 月影所v見《ツキノカゲミユ》
 
【譯】落下し激して流れる水が、岩に觸れて、淀んでいる淀みに月の光が見える。
【釋】落多藝知 オチタギチ。タギチは、激しく流れる意の動詞で、タギチ、タギツの用例がある。
 與杼賣類與杼尓 ヨドメルヨドニ。ヨドメルは、水の流れないでたまるのをいう。ヨドは、その處。
【評語】激しく流れ落ちる水が、岩石に觸れて作つた淀みに、月光のさしているさまが、實によく歌われてい(295)る。激流の中の、一旦しずまつた處に月の影のさしている、動中の靜ともいうべき一點が、まさしくも描き出されている。練達の士の作であることを思わしめる。淀メル淀と、ヨドの語を重ねたのも、效果を助けている。
 
右三首、作者未v詳
 
【釋】右三首作者未詳 ミギノミツハツクレルヒトイマダツマビラカナラズ。勿論誰と推定することはできないが、いずれも立派な作品であり、風格において通ずる所があるから、同一人の作であろう。
 
槐本歌一首
 
【釋】槐本歌 ヱノモトノウタ。槐は、ヱニスと讀まれる字で、本草和名に、槐實に和名惠乃美と註しているによれば、槐本はヱノモトか。また新撰字鏡に、槐に加太久美の訓があり、これは建築上の用語と考えられるが、また同書、※[木+觀]に豆支、又加太久彌の訓がある。これによれば※[木+觀]に通じて使用したもののようであつて、ツキモトとも讀まれる。越前國司解(大日本古文書二十五、二一四頁)は、天平寶字元年に越前の國から、東大寺の墾地の目録を報告した文書であるが、その中に、「九柿本里、廿垣本田三段中、廿一垣本田二段中、廿三槐本田二段中、廿五槐本田一段二百十六歩中、廿六槐本田六段上」等の記事がある。これによれば、垣本田を槐本田とも書いたとするよりも、別意とする方が順當であるから、カキモトではないようである。また柿本に同じとする説があるが、根據はない。この次に、山上歌、春日歌、高市歌、春日藏歌など、みな氏と見られるので、これも氏と見られる。槻木氏は、新撰姓氏録左京皇別に、「坂田宿禰、息長眞人同祖。天渟中原瀛眞人天皇《アマノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト》謚天武御世、出家入道、法名信正。娶2近江國人槻本公1、戸、附2母氏1唱2槻木公1、改2槻本1賜2坂田宿禰1。」また天武天皇の朱鳥元年六月、槻本の村主勝麻呂に連を賜わつたことがあり、槻本の公もあつた。なお正倉院文書(296)には、槐田という氏も見える。ヱノモトという氏は見受けない。以下五首、一團となつて、一七一九の左註にいう古記から出たものの如くである。この五首は、姓氏と思われるものによつて作者を記している。
 
1715 樂浪《さざなみ》の 比良《ひら》山風の 海吹けば、
 釣する海人《ま》の 袂《そで》かへる見ゆ。
 
 樂浪之《サザナミノ》 平山風之《ヒラヤマカゼノ》 海吹者《ウミフケバ》
 釣爲海人之《ツリスルアマノ》 袂變所v見《ソデカヘルミユ》
 
【譯】樂浪の比良の山風が湖水を吹くので、釣をする海人の袖の飜えるのが見える。
【釋】樂浪之平山風之 ササナミノヒラヤマカゼノ。ササナミは、琵琶湖の南方の總地名であり、ヒラ山は、その北方にあつて、京都府と滋賀縣との堺に立つ山である。これによつて、ササナミの地名が、ヒラ山をも含むものとされるが、しかし古人のいう地名は、その地に對していうのであつて、地圖の上などの知識にもとづくものではない。ササナミのヒラ山というのは、ササナミの地に立つて見たヒラ山であつて、この意味において、ヒラ山がササナミの地域内にもなるのである。その山から吹いて來る風が、ヒラ山風である。「佐左浪乃《ササナミノ》 連庫山爾《ナミクラヤマニ》」(卷七、一一七〇)の如きも、この用法である。
【評語】湖上の風光が、いきいきと描かれている。比良の山から吹きおろす風で、湖上が波立つているさまが、目に見えるようである。
 
山上歌一首
 
【釋】山上歌 ヤマノウヘノウタ。ヤマノウヘは山上の憶良。卷の一に「幸2于紀伊國1時、川島皇子御作歌」(三四)に註して「或云山上憶良作」とあるのは、これによつて記したものと解せられる。
 
(297)1716 白波の 濱松の木の 手向草《たむけぐさ》、
 幾代までにか 年は經ぬらむ。
 
 白那弥之《シラナミノ》 濱松之木乃《ハママツノキノ》 手酬草《タムケグサ》
 幾世左右二箇《イクヨマデニカ》 年薄經濫《トシハヘヌラム》
 
【譯】白浪のうち寄せる濱の松の木に懸けてある手向の品は、幾代までに、年を經ているのだろうか。
【釋】濱松之木乃 ハママツノキノ。卷の一には、濱松ガ枝ノとある。枝の方が、手向草の所在を明示してよい。
 手酬草 タムケグサ。手向の祭に使用した材料。すなわち幣《ぬさ》で、アサ、コウゾの類をいう。これを樹枝に縣けて手向を行つたと思われる。
 年薄經濫 トシハヘヌラム。卷の一には、年ノ經ヌラムとある。年ハというと、特に年を提示する氣もちである。年ノの方が、すなおでよい。
【評語】かような歌は、旅行く人がしばしば吟誦したものと見えて、作者を異にして、傳えられるようになつたのであろう。旅行者のすくなかつた時代に、特に遺物につけて前人を思う感慨が歌われている。
【參考】別傳。
   幸2于紀伊國1時、川島皇子御作歌 或云、山上臣憶良作
   白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》 手向草《タムケグサ》 幾代左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》 一云 年者經尓計武
    日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸2紀伊國1也(卷一、三四)
    如2角沙彌記濱哥1曰
  旨羅那美能《シラナミノ》一句 婆麻々都我延能《ハママツガエノ》二句 他年氣倶佐《タムケグサ》三句 伊倶與麻弖爾可《イクヨマデニカ》四句 等自能倍爾計牟《トシノヘニケム》五句(歌經標式)
 
(298)右一首、或云川島皇子御作歌
 
【釋】或云川島皇子御作歌 アルハイフ、カハシマノミコノツクリマセルウタ。卷の一の所載によつて、この註を附したのであろう。川島の皇子は、天智天皇の皇子、持統天皇の五年九月薨じた(卷一、 三四參照)。
 
春日歌一首
 
【釋】春日歌 カスガノウタ。カスガは、春日の藏首老であろう、藤原時代の人(卷一、五六參照)。
 
1717 三川《みつかは》の 淵瀬もおちず 小網《さで》刺《さ》すに
 衣手|濕《ぬ》れぬ。
 干《ほ》す兒は無しに。
 
 三川之《ミツカハノ》 淵瀬物不v落《フチセモオチズ》 左提刺尓《サデサスニ》
 衣手潮《コロモデヌレヌ》
 干兒波無尓《ホスコハナシニ》
 
【譯】三川の淵も瀬も殘さずに、小網をかけるので、著物が濡れた。ほす人も無しに。
【釋】三川之 ミツカハノ。ミツカハは、川の名であろうが、所在未詳。
 淵瀬物不落 フチセモオチズ。オチズは、脱落せずで、淵瀬のことごとく。
 左提刺尓 サデサスニ。サデは、小網。サスは、小網を河中に插し込むので、小網を入れて魚を捕るをいう。
 衣手潮 コロモデヌレヌ。潮は、仙覺の萬葉集註釋には、濕に作つている。仙覺本の諸本には湖に作るにより、代匠記初稿本に沾の誤りとし、考に潤の誤り、略解に濕の誤りとしている。潮は、本來濕潤の義のある字であるから、古本系統の諸本に、潮に作るのでよい。句切。
 干兒波無尓 ホスコハナシニ。コは、ここでは女子をさしている。妻というよりもつと遊離した立場で、女(299)子をさしているであろう。
【評語】魚を捕るので濡れた衣服を、ほす兒も無いというのは、旅の寂寥を歌つたものである。この兒は、家に殘した妻の愛稱とも取れるが、漠然と周邊のさびしさを感じているものともいえる。多分後者なのだろう。
 
高市歌一首
 
【釋】高市歌 タケチノウタ。タケチは、高市の連黒人であろう。藤原時代の人(卷一、七〇參照)。
 
1718 あともひて 榜《こ》ぎ行く船は、
 高島の 阿渡《あと》の水門《みなと》に
 泊《は》てにけむかも。
 
 足利思代《アトモヒテ》 榜行船薄《コギユクフネハ》
 高島之《タカシマノ》 足速之水門尓《アトノミナトニ》
 極尓濫鴨《ハテニケムカモ》
 
【譯】つれだつて漕いで行く船は、高島の阿渡の河口に停泊しただろうなあ。
【釋】足利思代 アトモヒテ。四字とも訓假字。率いて、連れだつて。何艘か連れ立つて漕いで行く船である。「御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》」(卷二、一九九)。
 高島之足速之水門尓 タカシマノアトノミナトニ。アトは、滋賀縣高島郡安曇。ミナトは、その川口。
【評語】漕ぎ行く船の前途を問題にしているのは、作者自身が、旅の心ぼそさを感じているからである。高市の黒人の作に、「何處にか船泊すらむ。安禮《あれ》の埼漕ぎたみ行きし棚無し小船」(卷一、五八)というのがあるが、それと同樣の手段で、旅の寂寥感を、船に寄せて歌つている。何艘かの船の漕ぎ去つたあとの空虚な湖面が、眼前に展開している景を思うべきである。アトモヒテ、アトノ水門と、アトの音を重ねて、調子をつけている。作者の興味は、かなり多くこの點に懸かつている。
 
(300) 春日藏歌一首
 
【釋】春日藏歌 カスガノクラノウタ。カスガノクラは、春日の藏首老であろう。藏首はカバネで、その一字だけを記している。前には、春日の歌とあり、ここには藏の字がはいつているが、すべて左註にいうように、古記によつたもので、資料とした所に、既にかようにあつたのだろう。元來おぼえ書きふうに記されたものと見える。
 
1719 照る月を 雲な隱しそ。
 島かげに わが船泊てむ
 泊《とまり》知らずも。
 
 照月遠《テルツキヲ》 雲莫隱《クモナカクシソ》
 島陰尓《シマカゲニ》 吾船將v極《ワガフネハテム》
 留不v知毛《トマリシラズモ》
 
【譯】照る月を雲よ隱してくれるな。島陰にわたしの船の泊る場處がわからない。
【評語】月光をたよりに泊地を求めようとしている。おりしも浮雲が漂つて、その月が隱れようとする心ぼそさが感じられる歌で、特に第三句以下が感情を描いている。
【參考】類歌。
  大葉山霞たなびきさ夜更けてわが船泊てむとまり知らずも(卷七、一二二四、卷九、一七三二)
 
右一首、或本云、小辨作也。或記2姓氏1、無v記2名字1。或※[人偏+稱の旁]2名號1、不v※[人偏+稱の旁]2姓氏1。然依2古記1、便以v次載。凡如v此類、下皆放v焉。
 
右の一首は、或る本に云ふ、小辨の作なりといへり。或るは姓氏を記し、名字を記すことなく、或る(301)は名號を※[人偏+稱の旁]ひて、姓氏を※[人偏+稱の旁]はず。然れども古記に依りて、すなはち次を以ちて載す。およそかくの如き類、下皆これに放《なら》へ。
【釋】小辨作也 スナキオホトモヒガツクレル。小辨は、「高市連黒人近江舊都歌一首」(卷三、三〇五)の左註にも「右歌、或本曰、小辨作也、未v審2此小辨者1也」と見えている。これは、辨官のうちの左右の少辨であるとも、また人名ともいう。今、辨官として訓した。
 古記 フルキフミ。資料とした古い記録の類をいうと見えるが、いかなるものとも知られない。何人かが、得るにしたがつて歌を記し留めておいたものと見える。この前後、特に筆録者自身だけの備忘録といつたふうの資料である。
 
元仁歌三首
 
【釋】元仁歌 グワヌニノウタ。元仁は、どういう人とも知られない。「右、有2吉田連老1、字曰2石麻呂1。所v謂仁敬之子也」(卷十六、三八五四左註)とある、仁敬は、吉田の宜の字《あざな》と考えられているように、當時の學者が、漢風の字を附けていた、その種の字であろう。また、僧であるかも知れないが、歌意は僧らしくはない。
 
1720 馬|竝《な》めて うち群れ越え來《き》
 今見つる 芳野の川を、
 いつ反り見む。
 
 馬屯而《ウマナメテ》 打集越來《ウチムレコエキ》
 今見鶴《イマミツル》 芳野之川乎《ヨシノノカハヲ》
 何時將v顧《イツカヘリミム》
 
【譯】馬を竝べて、大勢で越えて來て、今日見た、吉野の川を、いつまた來て見ることだろうか。
【釋】馬屯而 ウマナメテ。屯は、屯集の義をもつて書いている。多數の馬での意であるから、ナメテと義讀(302)している。
 打集越來 ウチムレコエキ。コエは、大和の中部から吉野川のほとりに出るために山を越えたのをいう。
【評語】馬竝メテウチムレ越エ來という續き方は、流暢でない。それから續いて今見ツルという、今がここに出るのは、不自然である。何時カヘリ見ムは、またいずれの日にか來り見ようの意だろうが、言おうとする心の表現が不十分である。素人くさい歌たるを免れない。
 
1721 苦しくも 晩《く》れゆく日かも。
 吉野川 清き河原を
 見れど飽かなくに。
 
 辛苦《クルシクモ》 晩《クレ》去《ユク・ヌル》日鴨《ヒカモ》
 吉野川《ヨシノガハ》 清河原乎《キヨキカハラヲ》
 雖v見不v飽君《ミレドアカナクニ》
 
【譯】困つたことには日がくれて行くなあ。吉野川の清らかな河原を、見ても飽きないのに。
【釋】晩去日鴨 クレユクヒカモ。クレヌルヒカモ(類)、クレユクヒカモ(壬)。去は、ユクともヌルとも讀まれる。クレユクの方が進行態であつて、清き河原に對する愛惜の情が出るようである。句切。
【評語】吉野川の佳景に對して、日の暮れたのを歎いている。見レド飽カヌの類型的表現によつている。初二句は、感情的でよい。
【參考】類型。
  苦しくも降りくる雨か。神《みわ》が埼佐野のわたりに家もあらなくに(卷三、二六五)
 
1722 吉野川 河浪高み
 瀧《たき》の浦を 見ずかなりなむ。
(303) 戀《こほ》しけまくに。
 
 吉野川《ヨシノガハ》 河浪高見《カハナミタカミ》
 多寸能浦乎《タキノウラヲ》 不v視歎成嘗《ミズカナリナム》
 戀布眞國《コホシケマクニ》
 
【譯】吉野川の川浪が高くて、激流の川中を見ないでしまうだろうか。あとで戀しいだろうに。
【釋】多寸能浦乎 タキノウラヲ。タキは、激流。キは、清音にも濁音にも、假字書きの例があり、ここは清音の字が使われている、タキノウラは、激流の彎曲した地形をいう。吉野川のうち、灣の形状を成している處である。
 戀布眞國 コホシケマクニ。コホシケは、形容詞。それにムコトの意のマク、および助詞ニの接續した形。後に戀しくあるだろうことよの意。
【評語】吉野川の川水が多くて、船を出したりすることができなかつたのであろう。勝地に來て、十分に賞美することのできないのを歎いている。意をつくしてはいるが、情趣に乏しいのは、説明に過ぎたからである。
 
絹歌一首
 
【釋】絹歌 キヌノウタ。キヌは、人名の略稱であろう。絹麻呂とでもいう人だろう。
 
1723 河蝦《かはづ》鳴く 六田《むつた》の河の 川楊《かはやなぎ》の、
 ねもころ見れど 飽かぬ河かも。
 
 河蝦鳴《カハヅナク》 六田乃河之《ムツタノカハノ》 川楊乃《カハヤナギノ》
 根毛居侶雖v見《ネモコロミレド》 不v飽河鴨《アカヌカハカモ》
 
【譯】河蝦の鳴く六田の河の川楊の根。そのようにねんごろに見ても、飽きない川だなあ。
【釋】河蝦鳴六田乃河之川楊乃 カハヅナクムツタノカハノカハヤナギノ。以上序詞。川楊の根という所から、同音のネを引き起している。但し以上は實景で、これを敍して序に利用しているのである。ムツタは、吉野川(304)の一地點。下市町の下流。ムツタノカハは、六田の地における吉野川のこと。カハヤナギは、川邊の楊樹。
【評語】序の使用が巧みであるが、それだけに得意がつていて、腰が浮いている。河に對する感動が、從になつている。河蝦と河楊を使つて六田の川を描いてはいるのだが、根本的に態度を變えてかからねばならない。
 
島足歌一首
 
【釋】島足歌 シマタリノウタ。シマタリは、人名だろうが、いかなる人とも知られない。
 
1724 見まく欲《ほ》り 來《こ》しくもしるく、
 吉野川 音《おと》の清《さや》けさ。
 見るにともしく。
 
 欲v見《ミマクホリ》 來之久毛知久《コシクモシルク》
 吉野川《ヨシノガハ》 音清左《オトノサヤケサ》
 見二友敷《ミルニトモシク》
 
【譯】見たいと思つてきたこともかいがあつて、吉野川は、音がさやかだ。見るに願わしく。
【釋】來之久毛知久 コシクモシルク。コシクは、來しこと。シルクは、かいのある意の形容で、形容詞の副詞形。音ノサヤケサを修飾する。「來之久毛知久《コシクモシルグ》 相流君可聞《アヘルキミカモ》」(卷八、一五七七)。
 見二友敷 ミルニトモシク。トモシクは、稀にあるので愛される意の形容詞。その副詞形。この下にアリの如き語が省略されているが、内容的には、やはり、音ノサヤケサを修飾している。
【評語】見マク、來シクモシルク、見ルニトモシクと、クの音に終る語を重ねたのは、作者が意識してかどうかはわからないが、結果としては、音調を亂して流暢の感を失つた。やはり前の歌と同樣に、説明し過ぎている。
 
(305)麻呂歌一首
 
【釋】麻呂歌 マロノウタ。マロは、石上の麻呂、藤原の麻呂などもあるが、左註に人麻呂集所出とあるによれば、柿本の人麻呂らしい。下に出る歌詞「麻呂等言八子」(卷九、一七八三)のマロも同樣と見られ、人麻呂をマロと略稱することがあつたと見える。
 
1725 古《いにしへ》の 賢《さか》しき人の 遊びけむ
 吉野の川原、見れど飽かぬかも。
 
 古之《イニシヘノ》 賢人之《サカシキヒトノ》 遊兼《アソビケム》
 吉野川原《ヨシノノカハラ》 雖v見不v飽鴨《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】昔の賢い人の遊んだであろう吉野の川原は、見ても飽きないなあ。
【釋】古之賢人之 イニシヘノサカシキヒトノ。イニシヘノサカシキヒトは、何人とも知られない。作者には、あの人と心に指摘する人があつたはずである。漢語の古賢を譯したと思われる語である。
 遊兼 アソビケム。ケムは過去推量の助動詞で、その連體形である。
【評語】吉野川の敍述に特色があるが、知識的であつて、興趣を伴なわない。吉野川について、古人を思うことは、文學思想表現の型になつていたのだろう。それに見レド飽カヌカモというあらわし方も、類型によつている。
 
右、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右柿本朝臣人麻呂之歌集出 ミギハカキノモトノアソミヒトマロノウタノシフニイヅ。これも所出の範圍があきらかでないが、槐本の歌(一七一五)以下の五首は、近江の國の歌に他の地方の歌と思われるものが(306)まじつており、作者の記事は氏に依つているのに對して、元仁の歌(一七二〇)以下の六首は、芳野の歌であること、作者は名によつていることの二點に相違があるから、別種の資料によつたと見るを妥當とする。從つて元仁の歌以下六首が、人麻呂集所出として確實なものと見られる。人麻呂が、自分のおぼえのために歌を記し留めておいたものと推測される。
 
丹比眞人歌一首
 
【釋】丹比眞人歌 タヂヒノマヒトノウタ。タヂヒノマヒトは、何人か不明。卷の二にも、「丹比眞人名闕、擬2柿本朝臣人麻呂之意1報歌一首」(二二六)の題詞がある。
 
1726 難波潟 潮干にいでて 玉藻刈る
 海《あま》の未通女《をとめ》ら、汝《な》が名|告《の》らさね。
 
 難波方《ナニハガタ》 鹽干尓出而《シホヒニイデテ》 玉藻苅《タマモカル》
 海未通等《アマノヲトメラ》 汝名告左祢《ナガナノラサネ》
 
【譯】難波潟の潮のひたのに出て藻を刈る海人の娘さん、あなたの名をおつしやい。
【釋】玉藻苅 タマモカル。海藻を刈る意であるが、それは海女の手わざの代表的な云い方で、鹽干にいでてと云つているのに見ても、實際に海藻を刈つているのではないだろう。
 海未通等 アマノヲトメラ。アマノヲトメラ(矢)、アマヲトメドモ(考)。以上の如き兩樣の訓が考えられる。アマヲトメドモは「安麻乎等女等母《アマヲトメドモ》 思麻我久流見由《シマガクルミユ》」(卷十五、三五九七)、「多麻毛可流登布《タマモカルトフ》 安麻乎等女杼毛《アマヲトメドモ》」(同、三六三八)のような假字書きのものがあるが、それらは娘子の幾人かを描いているものであつて、ドモは複數を示し、ここには適わない。ここはその中の一人について云つているのだろう。アマノヲトメの例は、「伊射理須流《イザリスル》 安麻能乎等女波《アマノヲトメハ》」(卷十五、三六二七)がある。ヲトメラのラは、單なる接尾語で、複數で(307)はなく、一人をさしている。未通は、他の例は、未通女と書いているが、ここは女の字を略している。その娘子に呼びかけている語法である。
 汝名告左祢 ナガナノラサネ。ノラサネは、名のりなさいと希望する語法。「伊波紀欲利《イハキヨリ》 奈利提志比等迦《ナリテシヒトカ》 奈何名能良佐祢《ナガナノラサネ》」(卷五、八〇〇)。
【評語】娘子に對して名を問うのは、妻とする意志を表示しているが、これはそれほどの重い意味でなく、旅の心やりに、戯れに問いかけているのだろう。その娘子の敍述にも、格別の特色はなく、ただありのままに敍したまでである。但し和フル歌によると、眞實の海人ではなく、遊行女婦の類であるかも知れない。そうすれば、海人の娘子に擬したのは、一つの手段といえる。
 
和歌一首
 
和《こた》ふる歌一首
 
1727 漁《あさり》する 人とを見ませ。
 草枕 旅行く人に 妾《われ》は及《し》かなく。
 
 朝入爲流《アサリスル》 人跡乎見座《ヒトトヲミマセ》
 草枕《クサマクラ》 客去人尓《タビユクヒトニ》 妾者不v敷《ワレハシカナク》
 
【譯】すなどりをする人と御覽ください。草の枕の旅を行く人に、わたくしは及びません。
【釋】朝入爲流 アサリスル。アサリは、海に出て漁りをすることであるが、主として鶴や娘子などについて云つている。しばしば朝入の字を使つているが「暮名寸爾《ユフナギニ》 求食爲鶴《アサリスルタヅ》」(卷七、一一六五)の求食もアサリと讀まれており、朝は借字で、淺い渚に入る義であろう。
 人跡乎見座 ヒトトヲミマセ。ヲは、感動の助詞。ミマセは命令形。句切。
(308) 客去人尓 タビユクヒトニ。タビユクヒトは、前の歌の作者をさしている。
 妾者不敷 ワレハシカナク。
  アフニハシカシ(類)
  ツマニハシカジ(拾)
  ――――――――――
  妻者不敷《ツマハシカセジ》(代精)
  妻者不教《ツマトハノラジ》(略)
  妾名不教《ワガナハノラジ》(新考)
 難訓の句であつて、諸説がある。妾は、女子の謙稱の一人稱に使われ、また妻妾の妾の義に使われる。敷は、及くの意に使用した例は、シクシクなどの場合に使用したものがそれに近い。よつて今、原文のままにワレハシカナクと讀み、旅行く人にくらぶべき身分の者でないから、ただ海人とのみ見よの意とする。上二句の意は、これで落ちつくのである。
【評語】旅人を、都からの貴人として、この歌を詠んでいると思われる。訓讀が決定的であるとはしがたいが、難波あたりの娘子としては、一往かような返事をするだろう。
 
石川卿歌一首
 
【釋】石川卿歌 イシカハノマヘツギミノウタ。石川の卿は、何人かわからない。天平寶字六年五月に年七十五で薨じた石川の年足だろうという。次の歌の作者、天平九年に四十四歳で薨じた藤原の宇合より六年の年長であるから、同じ時代の人といえる。
 
1728 慰めて 今夜《こよひ》は寐《ね》なむ。
 明日よりは 戀ひかも行かむ。
(309) 此間《こ》ゆ別れなば。
 
 名草目而《ナグサメテ》 今夜者寐南《コヨヒハネナム》
 從2明日1波《アスヨリハ》 戀鴨行武《コヒカモユカム》
 從2此間1別者《コユワカレナバ》
 
【譯】心を慰めて今夜は寐よう。明日から先は、戀してか行こう。此處から別れたなら。
【釋】戀鴨行武 コヒカモユカム。カモは、疑問の係助詞。戀いつつか行くだろうの意。句切。
 從此間別者 コユワカレナバ。此間は、此處の意に使われている。ここからずつと別れて行つたら。
【評語】妻に別れる時の歌で、平易に情を述べている。旅舍などで、かりそめに逢つた女との別れであるかも知れない。
 
宇合卿歌三首
 
【釋】宇合卿歌 ウマカヒノマヘツギミノウタ。宇合は、藤原の宇合。目録のこの部分、藍紙本には、この一行を「飯女歌三首」に作つている。ここの三首が、初めの一首は海濱、後の二首が石田の社であること、第二首は女子の歌らしいことなどと併わせて、一人一處の作ではないらしく、作者についてなお考うべきものを殘している。「飯女歌三首」とあるのも、そのままには從われないが、何か混雜のあつたことを語る手がかりになるかも知れない。
 
1729 曉《あかとき》の 夢《いめ》に見えつつ、
 梶島の 石《いは》越す浪の、
 しきてし寝ん念《おも》ほゆ。
 
 曉之《アカトキノ》 夢所v見乍《イメニミエツツ》
 梶島乃《カヂシマノ》 石越浪乃《イハコスナミノ》
 敷弖志所v念《シキテシオモホユ》
 
【譯】曉の夢に見えながら、梶島の岩を越す浪のように、しきりに思われる。
(310)【釋】曉之夢所見乍 アカトキノイメニミエツツ。夜明け方の夢に、愛人が見えるのである。
 梶島乃石超浪乃 カヂシマノイハコスナミノ。以上二句、序詞。浪が重ねて寄せる意をもつて、シキテを引き起している。カヂシマは、所在未詳。カヂは樹名によつて島名としたのだろう。その島のほとりの海濱に旅宿してこの歌を詠み、實景を序に利用したのである。
 敷弖志所念 シキテシオモホユ。シキテは、重きて、頻きてで、かさねがさね。
【評語】夢に人を見ること、浪によつてシキテを出してくること、いずれも類型的であるが、しかも曉ノ夢といい、梶島ノ石越ス浪といい、特殊の描寫があつて、情趣のゆたかな作品を成している。實景を利用した序も效果的で、懸詞のいやみを感じさせないでいる。
 
1730 
 山科《やましな》の 石田《いはた》の小野の 柞《ははそ》原、
 見つつや公が 山|道《ぢ》越ゆらむ。
 
 山品之《ヤマシナノ》 石田乃小野之《イハタノヲノノ》 母蘇原《ハハソバラ》
 見乍哉公之《ミツツヤキミガ》 山道越良武《ヤマヂコユラム》
 
【譯】山科の石田の野原のハハソの原を、見ながらか、あの方は、山道を越えているでしよう。
【釋】山品之石田乃小野之 ヤマシナノイハタノヲノノ。ヤマシナノイハタは、京都市醍醐。逢坂山を越えて近江の國に出る要路に當る。これから山路にさしかかるのである。ヲノは、地名ではなく、野原の意であろう。
 母蘇原 ハハソバラ。ハハソは、イヌブナ科の落葉喬木《きようぼく》。コナラ。
【評語】山路を越えゆく夫を思いやつて詠んだ歌は、珍しくはない。ただ柞原というだけが、その山路の特色を描いている。山路越ユラムは、本卷一六六六參照。
【參考】類歌。
  草かげの荒藺《あらゐ》の埼の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ(卷十二、三一九二)
 
(311) 1731 山科の 石田の社《もり》に 手向《たむけ》せば、
 けだし吾妹《わぎも》に ただに逢はむかも。
 
 山科乃《ヤマシナノ》 石田社尓《イハタノモリニ》 布麻越者《タムケセバ》
 蓋吾妹尓《ケダシワギモニ》 直相鴨《タダニアハムカモ》
 
【譯】山科の石田の森に、手向の祭をしたら、多分わが妻に、じかに逢うだろうかなあ。
【釋】石田社尓 イハタノモリニ。イハタノモリは、石田にある神社で、モリは、森林形體による神道信仰の目標をいう。
 布麻越者 タムケセバ。布麻は、手向に使用する幣《ぬさ》の材料で、これで幣をあらわしている。越は、その布麻を、森にうち越すので使用しているのだろう。かくて布麻越をもつて、手向の意に使用していると見られる。「何名負神《イカナラムナニオフカミニ》 幣嚮奉者《タムケセバ》」(卷十一、二四一八)も、幣嚮奉の字を、義をもつてタムケと讀んでいる。タムケは、道中にあつて、神を祭つて障害のないことを願う行事。
【評語】手向の祭をして、妻との再會を期する歌は無いでもないが、この歌は、四五句の表現に特色がある。道中に手向の祭をしながら、妻を思う心が、描き出されている。
 
基師歌二首
 
【釋】基師 キシ。基は、細井本、藍紙本等には碁に作つている。今、類聚古集、傳壬生隆祐筆本等による。碁に作るによつては、碁の檀越説、圍碁の師説等がある。思うに、基は、法師の名の一字を取つて稱したので、師は法師の義であろう。日本靈異記中卷に、僧智光を光師と稱している。また正倉院文書、寫未寫大乘經論疏目録(大日本古文書二十四ノ三九五)に、論疏の撰者として、上宮王、吉藏、憬興、法寶等と竝んで、基師というのがある。この師は法師の意で、法號の一字を書いて、基とのみ記したものと思われる。この文書は、天(312)平十八年のものと推定されている。
 
1732 大葉《おほば》山 霞たなびき、
 さ夜ふけて わが船|泊《は》てむ
 泊《とまり》知らずも。
 
 母山《オホバヤマ》 霞棚引《カスミタナビキ》
 左夜深而《サヨフケテ》 吾舟將v泊《ワガフネハテム》
 等万里不v知母《トマリシラズモ》
 
【譯】大葉山には霞がかかり、夜が更けて、わたしの船の碇泊すべき處を知らない。
【釋】母山 オホバヤマ。卷の七に重出しているのに、大葉山とあるので、オホバヤマと讀む。オホバは、祖母、伯母をいうので、母の上に祖の字が落ちたのだろうという説(宣長)もあるが、初めから略書したものだろう。但し山名としてのオホバの名義や所在はわからない。紀伊の國だろうという。
【評語】夜が更けて船を留むべき處の知れない心ほそさがよく詠まれている。(卷七、一二二四參照)。
【參考】重出。
 大葉山《オホバヤマ》 霞蒙《カスミタナビキ》 狹夜深而《サヨフケテ》 吾船將v泊《ワガフネハテム》 停不v知文《トマリシラズモ》(卷七、一二二四)
 
1733 思《しの》ひつつ 來《く》れどきかねて、
 水尾《みを》が埼、眞長《まなが》の浦を
 また反《かへ》り見つ。
 
 思乍《シノヒツツ》 雖v來々不v勝而《クレドキカネテ》
 水尾埼《ミヲガサキ》 眞長乃浦乎《マナガノウラヲ》
 又顧津《マタカヘリミツ》
 
【譯】風光を賞しながら來るけれども、來かねて、水尾が埼から、眞長の浦をまたふり返つて見た。
【釋】思乍 シノヒツツ。眞長の浦の風光を、心に忘れられず思いながら。
 水屋埼眞長乃浦乎 ミヲガサキマナガノウラヲ。ミヲガ埼は、滋賀縣滋賀郡の北端の岬角で、今、明神崎と(313)いう。その北方が、マナガノ浦である。作者は、北方から舟行しており、ミヲガ埼まできて、マナガノ浦を顧みたのである。ミヲガ埼とマナガノ浦とは、竝立ではない。ミヲガ埼から見たマナガノ浦の意である。「廬原乃《イホハラノ》 淨見乃埼乃《キヨミノサキノ》 見穗乃浦之《ミホノウラノ》」(卷三、二九六)という類である。本卷樂浪の比良山風(卷九、一七一五參照)。
【評語】平淡に事を敍しているが、湖上の風光を愛して、顧みがちにきた氣もちはわかる。水尾が埼を廻れば、眞長の浦が見えなくなるので、特に顧みたのである。
 
小弁歌一首
 
【釋】小弁歌 スナキオホトモヒノウタ(卷九、一七一九左註參照)。
 
1734 高島の 阿渡《あと》の湖《みなと》を 榜《こ》ぎ過ぎて、
 鹽津《しほつ》菅浦《すがうら》、今か榜《こ》ぐらむ。
 
 高島之《タカシマノ》 足利湖乎《アトノミナトヲ》 滂過而《コギスギテ》
 鹽津菅浦《シホツスガウラ》 今香將v滂《イマカコグラム》
 
【譯】高島の阿渡の河口を漕ぎ過ぎて、鹽津の菅浦を、今は漕いでいるだろうか。
【釋】高島之足利湖乎 タカシマノアトノミナトヲ。タカシマノアトノミナトは、滋賀縣高島郡の安曇川《あとがわ》の河口。
 鹽津菅浦 シホツスガウラ。シホツは、伊香郡に屬し、琵琶湖の北端の奥にある。そこから越前に越える山を鹽津山という。ここでは北方の總稱にシホツを使つている。スガウラは、琵琶湖の北部から南方に向かつて突出している岬の西側にある。
【評語】湖北に向かつて船を出して行つた人の上を想像して詠んでいる。作者に取つては、歌中の地名は、いずれも舊識の地であるだろう。その思い出が背景となつており、それによつて情趣を保つている作品である。
 
(314)伊保麻呂歌一首
 
【釋】伊保麻呂歌 イホマロノウタ。イホマロは、いかなる人とも知られない。
 
1735 わが疊 三重の河原の 礒《いそ》のうらに、
 かくしもがもと 鳴く河蝦《かはづ》かも。
 
 吾疊《ワガタタミ》 三重乃河原之《ミヘノカハラノ》 礒裏尓《イソノウラニ》
 如v是鴨跡《カクシモガモト》 鳴河蝦可物《ナクカハヅカモ》
 
【譯】わたしの敷物は三重だが、その三重の河原の石の浦に、こうありたいものだと河蝦が鳴いている。
【釋】吾疊 ワガタタミ。枕詞。タタミは、スゲ、コモなどを織つて作つた敷物。重ねて敷くので三重に冠する。
 三重乃河原之 ミヘノカハラノ。三重は、三重縣三重郡。その河原は、今の内部川《うちべがわ》。
 礒裏尓 イソノウラニ。礒の浦に。
 如是鴨跡 カクシモガモト。カクシモガモは、かようにありたいの意で、河蝦の語によつて、風光なり居心なりを賞したことになるが、これは河蝦の鳴き聲の描寫で、河暇の聲を意味あるかのように聞きなしたのである。「烏とふ大をそ鳥のまさでにも來まさぬ君をコロクとぞ鳴く」(卷十四、三五二一)と同じ手法である。
【評語】河蝦の聲に興じた輕快な作品である。旅のある時の氣ばらしとでもいうべきで、あまりむずかしく考えない方がよい。
 
式部大倭芳野作歌一首
 
式部の大倭の、芳野にて作れる歌一首
 
(315)【釋】式部大倭 ノリノツカサノヤマト。式部省の役人であつた大倭であろう。ヤマトは、氏か名か、不明。藤原武智麻呂傳に、神龜年中の人物を記した中に、文雅に百濟の公倭麻呂の名をあげているが、その人かどうか、不明。
 
1736 山高み 白木綿花《しらゆふばな》に 落ち激《たぎ》つ
 夏身《なつみ》の川門《かはと》、見れど飽かぬかも。
 
 山高見《ヤマタカミ》 白木綿花尓《シラユフバナニ》 落多藝津《オチタギツ》
 夏身之川門《ナツミノカハト》 雖v見不v飽香裳《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】山が高いので、白木綿の花のように落ち激する夏身の川のせまつた處は、見ても飽きないなあ。
【釋】白木綿花尓 シラユフバナニ。シラユフバナは、白いコウゾのさらしたのが花のように見えるもの。譬喩によつて、激流の樣を敍する句。
 落多藝津 オチタギツ。タギツは、動詞として使われている。連體形。
 夏身之川門 ナツミノカハト。ナツミは、吉野川の一地點の地名、離宮よりは上流になる。カハトは、河の兩岸が對して門戸のような感じの地形で、渡り場所などにいう。
【評語】吉野の激流を賞する歌としてよくまとまつている。五句は類型的である。譬喩に白木綿花を使つたのが、特色になる。これは、笠の金村の作に類歌があり、いずれかが前の歌を受けているだろう。多分吟誦されて傳わつたのであろう。
【參考】類歌。
  山高三《ヤマタカミ》 白木綿花《シラユフバナニ》 落多藝追《オチタギツ》 瀧之河内者《タギノカフチハ》 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》(卷六、九〇九笠の金村)
 
兵部川原歌一首
 
(316)【釋】兵部川原 ツハモノノツカサノカハラ。兵部省の役人で、カハラは、多分、氏だろう。何人とも知れない。
 
1737 大|瀧《たぎ》を 過ぎて夏箕《なつみ》に
 傍《そ》ひてゐて、
 清き川瀬を 見るが清《さや》けさ。
 
 大瀧乎《オホタギヲ》 遇而夏箕尓《スギテナツミニ》
 傍爲而《ソヒテヰテ》
 淨河瀬《キヨキカハセヲ》 見河明沙《ミルガサヤケサ》
 
【譯】大瀧を過ぎて夏箕に沿つていて、清らかな川瀬を見るのが、さわやかなことだ。
【釋】大瀧乎 オホタギヲ。オホタギは、吉野の離宮の上方で、落下する吉野川の本流。後、崩壞して瀧が無くなつたそうである。
 過而夏箕尓 スギテナツミニ。ナツミは、吉野の離宮より上流にある地名。
 傍爲而 ソヒテヰテ。ソハリキテ(略)。吉野川の夏箕の地點に接していて。
 見何明抄 ミルガサヤケサ。サヤケサは、作者の心が、清明を感じていることを寫している。
【評語】作者は、上流に向かつて歩を進めている。その次第を敍して、平淡明朗な作を成している。經過どおり具體的に敍して行つたのが、よい結果になつている。
 
詠2上總末珠名娘子1一首 并2短歌1
 
上總《かみつふさ》の周淮《すゑ》の珠名《たまな》の娘子《をとめ》を詠める一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】上總末珠名娘子 カミツフサノスヱノタマナノヲトメ。スヱは、地名。倭名類聚鈔の郷名に、「上總國周淮郡、季」とあり、郡名にもなつている。この郡は、今、君津郡の一部となつている。タマナは、娘子の名。(317)人名の終りにつくナは愛稱の性質を持つている。作者と考えられる高橋の蟲麻呂は、常陸の國の役人であつたようであり、どういう機會にこの娘子のことを聞いたかわからないが、養老三年七月に、常陸の國守藤原の宇合を按察使として、安房上總下總の三國を管せしめることがあるから、その頃在任して、上總の國にも往來したものであるかも知れない。
 
1738 しなが鳥 安房《あは》に繼ぎたる
 梓弓 周淮《すゑ》の珠名は、
 胸|別《わけ》の 廣き吾妹《わぎも》、
 腰|細《ぼそ》の ※[虫+果]羸娘子《すがるをとめ》の、
 その姿《さま》の 端正《きらきら》しきに、
 花の如 咲《ゑ》みて立てれば、
 玉|桙《ほこ》の 道行く人は、
 おのが行く 道は行かずて、
 召《よ》ばなくに 門《かど》に至りぬ。
 さし竝ぶ 隣の君は、
 あらかじめ 己妻《おのづま》離《か》れて、
 乞はなくに 鎰《かぎ》さへ奉る。」
 人皆の かく迷《まど》へれば、
(318) 容艶《かほにほ》ひ 縁《よ》りてぞ妹は
 戯《たは》れてありける。」
 
 水長鳥《シナガドリ》 安房尓繼有《アハニツギタル》
 梓弓《アヅサユミ》 末乃珠名者《スヱノタマナハ》
 胸別之《ムナワケノ》 廣吾妹《ヒロキワギモ》
 腰細之《コシボソノ》 須輕娘子之《スガルヲトメノ》
 其姿之《ソノサマノ》 端正尓《キラキラシキニ》
 如v花《ハナノゴト》 咲而立者《ヱミテタテレバ》
 玉桙乃《タマホコノ》 道往人者《ミチユクヒトハ》
 己行《オノガユク》 道者不v去而《ミチハユカズテ》
 不v召尓《ヨバナクニ》 門至奴《カドニイタリヌ》
 指竝《サシナラブ》 隣之君者《トナリノキミハ》
 預《アラカジメ》 己妻離而《オノヅマカレテ》
 不v乞尓《コハナクニ》 鎰左倍奉《カギサヘマツル》
 人皆乃《ヒトミナノ》 如是迷有者《カクマドヘレバ》
 容艶《カホニホヒ》 縁而曾妹者《ヨリテゾイモハ》
 多波礼弖有家留《タハレテアリケル》
 
【譯】安房の地に續いている周淮《すえ》の珠名は、胸の廣い娘子で、蜂のような腰の細い娘子であり、その形の美しいのに、花のように笑つて立つていると、道を行く人は、自分の行く道は行かないで、呼ばないのに門口に來た。竝んでいる隣の主人は、前もつて自分の妻を離別して、頼まないのに鍵までも贈つている。人皆がかように迷つているので、顔も花やかにうち寄つて、この娘子は、戯れていた。
【構成】第一段、鎰サヘ奉ルまで。娘子の美を敍し、衆人の迷つていることを述べる。第二段、終りまで。娘子の嬌態を、總括的に敍している。
【釋】水長鳥 シナガドリ。枕詞。尾長鳥の義で、ニワトリをいう。※[奚+隹]ガ鳴クの枕詞と共に、鳴き聲によつてアの音に冠し、ここは地名の安房に冠している。水をシに使つた例には「水良玉《シラタマノ》 五百都集乎《イホツツドヒヲ》」(卷十、二〇一二)がある。
 安房尓繼有 アハニツギタル。アハは、地名。養老二年、上總《かずさ》の國の、平群《へぐり》、安房《あわ》、朝夷《あさひな》、長狹《ながさ》の四郡を割いて安房の國を置き、天平十三年上總の國に併せ、天平寶字二年舊によつて安房の國を置いた。この歌の詠まれた時代は、一國となつていたかどうか不明であるが、國名郡名としてでなく、大地名として擧げたのであろう。周淮と安房とは、直接に隣接しないが、大體の地勢は接續している。
 梓弓 アヅサユミ。枕詞。弓の末の義をもつて、地名のスヱに冠する。
 末乃珠名者 スヱノタマナは。花ノ如咲ミテ立テレバまでの主格として提示している。
 胸別之廣吾妹 ムナワケノヒロキワギモ。ムナワケは、胸をいう。動物の胸が、物をおし分ける性質がある(319)のでいうのだろう。その胸の廣いのを美人の相としている。ワギモは、わが妹の義で、自分の愛人をいう語であるが、ここに女子の愛稱として三人稱に使用しているのは、轉用である。この歌の終りに近く、縁リテゾ妹ハとある妹も、同樣の用法である。二人稱の語が、漸次客觀性を増加して行く過程を示すものとして注意される。
 腰細之須輕娘子之 コシボソノスガルヲトメノ。スガルは、蜂の一種、似我蜂《じがばち》、※[虫+果]羸《くわら》。色黒く腰が極めて細い。腰のくくりの細いのを美人の相としている。漢士に細腰を貴ぶことからきているのだろう。胸別ノ廣キ吾妹と、腰細ノ※[虫+果]羸娘子とは、同一人を重ねて説明している。「飛翔《トビカケル》 爲輕如來《スガルノゴトキ》 腰細丹《コシボソニ》 取餝氷《トリカザラヒ》」(卷十六、三七九一)。
 其姿之 ソノサマノ。ソノカホノ(西)。日本書紀、容姿にカホともカタチとも訓している。類聚名義抄には、姿に、スカタ、カタチ、カホシナ、サマ、フルマヒの諸訓がある。ここは形の方だろうが、二音の場處だからサマとする。
 端正尓 キラキラシキニ。ウツケシケサニ(西)、キラキラシクニ(代初)、キラキラシキニ(童)、イツクシケサニ(考)、イツクシキニ(定本)。日本靈異記中卷訓釋に「端正、岐良支良シ」とあり、日本書紀にも、端正にキラキラシと訓している。美麗である意の形容である。
 玉桙乃 タマホコノ。枕詞。
 指竝 サシナラブ。枕詞。サシは接頭語。
 隣之君者 トナリノキミハ。キミは、主君の意で、敬稱に使用する。
 鎰左倍奉 カギサヘマツル。鎰は、倭名類聚鈔に「鑰、四聲字苑云、鑰 音藥、字亦作v〓 關具也」とあり、能龕手鑑《りようがんしゆかん》に「鑰正鎰俗」とあつて鑰の俗字である。門戸の鍵であるが、ここは倉庫などの鍵をさしているであろう。(320)マツルは進上する意。以上、娘子の美なるによつて、人々の迷えることを敍する。句切。
 容艶 カホニホヒ。カホヨキニ(西)、ウチシナヒ(略、宣長)。艶は、「霞立《カスミタチ》 開艶者《サキニホヘルハ》 櫻花鴨《サクヲバナカモ》」(卷十、一八七二)、「白妙丹《シロタヘニ》 令2艶色1有者《ニホハシタルハ》 梅花鴨《ウメノハナカモ》」(同、一八五九)など、本集ではニホフに當てて書いていると見られる。容顔の美を發揮する意の句。
 縁而曾妹者 ヨリテゾイモハ。ヨリテは、男子に寄り添う意。
 多波礼弖有家留 タハレテアリケル。類聚名義抄、婬にタハルの訓がある。色情に任せて行爲する意である。
【評語】以下二十三首は、高橋の蟲麻呂の歌集の所出の歌で、その格調からして同一人の作とされ、よつて蟲麻呂の作品であろうと考えられる。蟲麻呂の作品の題材には、人事と自然の兩方面があり、いずれも鮮麗な敍述をなしている點が特に注意されている。殊に蟲麻呂は、人事を敍述することに興味を有し、物語ふうの作品を多く殘している。その取り扱つた人物は、過去の人と現在の人とがある。過去の人物としては、水の江の浦島の子、葦屋《あしのや》の菟原《うない》娘子、葛飾《かずしか》の眞間の娘子等があつて、これらは傳説の内容について語る所の多いのが特色である。現在の人物と思われるものには、この周淮《すえ》の珠名の娘子や河内の大橋をひとり行く娘子などがある。これらは、それぞれにその人物を敍して、やはり物語ふうな作品を成している。この周淮の珠名の娘子を歌つた一篇は、娼婦型の一娘子を取り扱つたもので、當時の實際の世相の一面を描いている珍しい作品である。その婬奔な風俗を、是認してはいないが、山上の憶良の作品に見るように、露骨な教訓はしていない。蟲麻呂にあつては、その事實に興味を有して、これに文學作品の形を與えたのである。それは敍述であり描寫であつて、これを豐麗な詞章で表現する所に、その眞價が存するのである。この一篇は、美しい作品だが、娘子の嬌態を中心に、隣人たちの狂える状が描かれ、しかもこの娘子の個性が寫されていないのは、やや物足らぬ感がある。
 
(321)反歌
 
1739 金門《かなと》にし 人の來《き》立てば、
 夜中にも 身はたな知らに、
 いでぞ逢ひける。
 
 金門尓之《カナトニシ》 人乃來立者《ヒトノキタテバ》
 夜中母《ヨナカニモ》 身者田菜《ミハタナ》不v知《シラニ》
 出曾相來《イデゾアヒケル》
 
【譯】門口に人がきて立てば、夜中でも、その身はすべてを忘れて、出て逢つている。
【釋】金門尓之 カナトニシ。カナトは、門をいう。カネ(金)によつて、門の堅固であることを表現する。「小金門尓《ヲカナトニ》」(卷四、七二三)參照。
 身者田菜不知 ミハタナシラニ。タナシラニは、すべて知らずの意。身の上をもうち捨てて。「家忘《イヘワスレ》 身毛多奈不v知《ミモタナシラニ》」(卷一、五〇)。
 出曾相來 イデゾアヒケル。イデテゾアヒケル(略)。イデ逢ヒケリというべきを、ゾを入れてイデを強調している。
【評語】娘子の行動の一端を敍して、長歌の末尾の内容を、更に説明している。敍事ふうな表現であることが注意されるべきである。そうしてそれがなかなか效果的である。作者の批判は露出していないが、是認しない態度はわかる。しかしそれよりも作者は、事實そのものに興味を持つているのである。
 
詠2水江浦島子1一首 并2短歌1
 
水《みづ》の江《え》の浦島《うらしま》の子《こ》を詠める一首 【短歌并はせたり。】
 
(322)【釋】水江浦島子 ミヅノエノウラシマノコ。丹後國風土記には、水江浦嶼子とあつて、その下の文に嶼子とあるによればミヅノエノウラノシマコかも知れないが、同じ書の歌には「等許余弊爾《トコヨベニ》 久母多智和多留《クモタチワタル》 美頭能叡能《ミヅノエノ》 宇良志麻能古賀《ウラシマノコガ》 許等母知和多留《コトモチワタル》」とある。コは、愛稱。日本書紀雄路天皇の二十二年七月の條に「丹波國餘社郡管川人《タニハノクニヨサノコホリツツカハノヒト》、水江浦島子《ミヅノエノウラシマノコ》、乘v船而釣《フネニノリテツリシ》、遂得2大龜《ツヒニオホカメヲエタルニ》1、便化2爲女《スナハチヲミナニナリキ》1。於v是浦島子《ココニウラシマノコ》、感以爲v婦《タケリテメトシ》、相逐入v海《アヒシタガヒテウミニイリ》、到2蓬莱山《トコヨノシマニイタリ》1、歴2覩仙家《ヒジリノクニヲメグリミキ》1。語在2別卷《コトハコトマキニアリ》1」とあつて、丹波の國餘社の郡(今、京都府與謝郡)の事としている。然るにこの歌中には、墨吉ノ岸ニイデヰテとあつて、墨吉の地が浦島の家郷であつたように歌つているが、これはこの傳説が、わが國の西方の海岸地方に分布していたのであつて、攝津の墨吉(住吉)地方にも、その傳承があつたものと考えられる。但しこの物語が神仙譚化しているのは文筆詞人の間におけることであつて、民間には、それよりも原形的なものにおいて傳わつていたであろう。水の江は氏のように傳えられ、浦島の子は、もと浦人というほどの意味であつたものが、固有名詞のように取り扱われるに至つたものである。
 
1740 春の日の 霞める時に
 住吉《すみのえ》の 岸にいで居《ゐ》て、
 釣船の とをらふ見れば、
 古《いにしへ》の 事ぞ念ほゆる。」
 水の江の 浦島の兒が、
 堅魚《かつを》釣り 鯛釣り矜《ほこ》り、
 七日まで 家にも來《こ》ずて、
(323) 海界《うなさか》を 過ぎて榜《こ》ぎ行くに、
 海若《わたつみ》の 神の女《むすめ》に、
 邂《たまさか》に い榜《こ》ぎ向かひ
 あひあとらひ こと成りしかば、
 かき結び 常世《とこよ》に至り、
 海若《わたつみ》の 神の宮の
 内の重《へ》の 妙《たへ》なる殿に、
 携《たづさは》り 二人入り居て、
 老《おい》もせず 死《しに》もせずして
 永き世に ありけるものを、
 世の中の 愚人《おろかびと》の
 吾妹子に 告《の》りて語らく、
 須臾《しましく》は 家に歸りて、
 父母に 事も告《の》らひ、
 明日の如 吾は來《き》なむと
 言ひければ 妹がいへらく、
 常世《とこよ》邊に また歸り來て、
(324) 常の如 逢はむとならば、
 この篋《くしげ》 開くなゆめと、
 そこらく 堅《かた》めし事を、
 住吉《すみのえ》に 還《かへ》り來《きた》りて、
 家見れど 家も見かねて、
 里見れど 里も見かねて、
 あやしと そこに念はく、
 家ゆいでて 三歳《とせ》のほどに
 垣もなく 家|滅《う》せめやと、
 この箱を 開きて見てば、
 本の如 家はあらむと、
 玉くしげ 少し開くに、
 白雲の 箱よりいでて、
 常世《とこよ》べに 棚引きぬれば、
 立ち走り、叫《さけ》び袖振り、
 こいまろび 足ずりしつつ、
 たちまちに 情《こころ》消失《けう》せぬ。
(325) 若かりし 膚《はだ》も皺《しわ》みぬ。
 黒かりし 髪も白《しら》けぬ。
 ゆなゆなは 氣《いき》さへ絶えて、
 後つひに 壽《いのち》死にける、
 水の江の 浦島の子が
 家どころ見ゆ。」
 
 春日之《ハルノヒノ》 霞時尓《カスメルトキニ》
 墨吉之《スミノエノ》 岸尓出居而《キシニイデヰテ》
 釣船之《ツリフネノ》 得乎良布見者《トヲラフミレバ》
 古之《イニシヘノ》 事曾所v念《コトゾオモホユル》
 水江之《ミヅノエノ》 浦島兒之《ウラシマノコガ》
 竪魚釣《カツヲツリ》 鯛釣矜《タヒツリホコリ》
 及2七日1《ナヌカマデ》 家尓毛不v來而《イヘニモコズテ》
 海界乎《ウナサカヲ》 過而榜行尓《スギテコギユクニ》
 海若《ワタツミノ》 神之女尓《カミノムスメニ》
 邂尓《タマサカニ》 伊許藝※[走+多]《イコギムカヒ》
 相誂良比《アヒアトラヒ》 言成之賀婆《コトナリシカバ》
 加吉結《カキムスビ》 常代尓至《トコヨニイタリ》
 海若《ワタツミノ》 神之宮乃《カミノミヤノ》
 内隔之《ウチノヘノ》 細有殿尓《タヘナルトノニ》
 携《タヅサハリ》 二人入居而《フタリイリヰテ》
 耆不v爲《オイモセズ》 死不v爲而《シニモセズシテ》
 永世尓《ナガキヨニ》 有家留物乎《アリケルモノヲ》
 世間之《ヨノナカノ》 愚人之《オロカビトノ》
 吾妹兒尓《ワギモコニ》 告而語久《ノリテカタラク》
 須臾者《シマシクハ》 家歸而《イヘニカヘリテ》
 父母尓《チチハハニ》 事毛告良比《コトモノラヒ》
 如2明日1《アスノゴト》 吾者來南登《ワレハキナムト》
 言家禮婆《イヒケレバ》 妹之答久《イモガイヘラク》
 常世邊《トコヨベニ》 復變來而《マタカヘリキテ》
 如v今《イマノゴト》 將v相跡奈良婆《アハムトナラバ》
 此篋《コノクシゲ》 開勿勤常《ヒラクナユメト》
 曾己良久尓《ソコラクニ》 堅目師事乎《カタメシコトヲ》
 墨吉尓《スミノエニ》 還來而《カヘリキタリテ》
 家見跡《イヘミレド》 宅毛見金手《イヘモミカネテ》
 里見跡《サトミレド》 里毛見金手《サトモミカネテ》
 恠常《アヤシト》 所許尓念久《ソコニオモハク》
 從v家出而《イヘユイデテ》 三歳之間尓《ミトセノホドニ》
 垣毛無《カキモナク》 家滅目八跡《イヘウセメヤト》
 此※[草がんむり/呂]乎《コノハコヲ》 開而見手齒《ヒラキテミテバ》
 如v本《モトノゴト》 家者將v有登《イヘハアラムト》
 玉篋《タマクシゲ》 小披尓《スコシヒラクニ》
 白雲之《シラクモノ》 自v箱出而《ハコヨリイデテ》
 常世邊《トコヨベニ》 棚引去者《タナビキヌレバ》
 立走《タチハシリ》 叫袖振《サケビソデフリ》
 反側《コイマロビ》 足受利四管《アシオズリシツツ》
 頓《タチマチニ》 情消失奴《ココロケウセヌ》
 若有之《ワカカリシ》 皮毛皺奴《ハダモシワミヌ》
 黒有之《クロカリシ》 髪毛白斑奴《カミモシラケヌ》
 由奈由奈波《ユナユナハ》 氣左倍絶而《イキサヘタエテ》
 後遂《ノチツヒニ》 壽死祁流《イノチシニケル》
 水江之《ミヅノエノ》 浦島子之《ウラシマノコガ》
 家地見《イヘドコロミユ》
 
【譯】春の日の霞んでいる時に、墨吉の岸に出ていて、釣船の搖れているのを見ると、昔の事が思われる。水の江の浦島の子が、鰹魚を釣り鯛を釣り、調子に乘つて七日までも家に歸らないで、海の堺を過ぎて榜いで行くと、海の神の娘に、偶然榜いで逢つて、話をしあつて相談ができたので、つれ立つて、仙人の世界に行き、海の神の宮殿の、内部のりつぱな御殿に、手を取つて二人はいつていて、老いもせず死にもしないで、永久にあつたものを、世の中のおろかな人間が、その愛人に告げていうには、ちよつとのあいだ家に歸つて、父母に事も語り、明日にもわたしは來ようと言つたから、妻が答えるには、仙人の世界にまた歸つてきて、今のように逢おうとなら、この箱をあけてはいけないと、大層約束したことなのに、墨吉に歸つてきて、家を見ても家も見ることができず、里を見るけれども里も見ることができないで、不思議だとそこで思うには、家を出て三年のあいだに、垣も無く家が消えようかと、この箱をあけて見たら、もとのように家があるだろうと、美しい箱をすこしあけると、白雲が箱から出て、仙人の世界の方へと棚引いたので、立ち走り叫び袖を振り、ころび廻つて足ずりをしながら、たちまちに氣を失つた。若かつた皮膚も皺がよつた。黒かつた髪も白くなつた。それからは呼吸さえも絶えて、その後はついに命を失つて死んでしまつた水の江の浦島の子の家のあつた土地が(326)見える。
【構成】第一段、古ノ事ゾ思ホユルまで。序の分。春の日に海岸に出て往時を追憶する。第二段、終りまで。追憶の内容である浦島の物語を述べ、その家郷の見えることをもつて結ぶ。
【釋】墨吉之岸尓出居而 スミノエノキシニイデヰテ。スミノエは、住吉の神を祭つてある土地で、わが國の西海の海岸沿いに多い地名である。そのうち大和人に親しまれたのは、攝津の住吉で、これもその地と考えられる。浦島の子は、日下部《くさかべ》の首《おびと》の祖と傳え、その系統の氏族の傳承したものと見られるが、新撰姓氏録、和泉の國の皇別に、日下部の首があり、開化天皇の皇子|彦坐《ひこいます》の命の後とされている。その地は、和泉の國大鳥郡の日下《くさか》(久佐部)で、攝津の住吉に近接した處である。
 得乎良布見者 トヲラフミレバ。トヲラフは、トヲ(撓)を語幹として活用した動詞であろう。他に同形の用例を見ないが「由古作枳爾《ユコサキニ》 奈美奈等惠良比《ナミナトヱラヒ》」(卷二十、四三八五)のトヱラヒは、多分同語であろう。
 古之事曾所念 イニシヘノコトゾオモホユル。イニシヘノコトは、浦島の子のことをいう。その事は、日本書紀および丹後國風土記には、雄略天皇の御代の事としているが、これは勿論傳説であつて、その時代は信ず(327)ることはできない。句切。
 堅魚釣 カツヲツリ。カツヲは、倭名類聚鈔に「鰹魚、唐韵云、鰹 音堅、漢語抄云、加豆乎、式文用2堅魚二字1 大※[魚+同]也。大曰v鰹、小曰v※[魚+兌]」とある。延喜式にも、煮堅魚など多く見えて、古くから食用に供していたことが知られる。
 鯛釣矜 タヒツリホコリ。タヒは、倭名類聚鈔に、「崔禹食輕云、鯛 都條反、多比。味甘冷無v毒、貌似v※[魚+即]而紅鰭者也」とある。本集には、「醤酢爾《ヒシホスニ》 蒜都伎合而《ヒルツキアヘテ》 鯛願《タヒネガフ》 吾爾勿所v見《ワレニナミエソ》 水葱乃煮物《ナギノアツモノ》」(卷十六、三八二九)とあつて、その食用に供した状態が歌われている。ホコリは、優越感をあらわしている。獲物が多いので、得意になつて。
 及七日家尓毛不來而 ナヌカマデイヘニモコズテ。七日は、この種の異郷訪問説話にしばしばあらわれる日數で、相當に多い日數を示す。鎭火祭の祝詞に、伊佐奈美の命が、黄泉の國に赴かれる條に「夜七夜晝七日《ヨハナナヨヒハナヌカ》、吾奈見給比曾《アヲナミタマヒソ》。吾奈妹申給比支《アガナセノミコトトマヲシタマヒキ》」とある。靈異記の地獄廻りの説話にも、七日を經て歸ることが見えている。
 海界乎過而榜行尓 ウナサカヲスギテコギユクニ。ウナサカは、古事記上卷に、「塞(キテ)2海坂(ヲ)1而返(リ)入(リタマヒ)」とあり、それは海との交通の路にある坂をいうが、ここはすこし違つて、海の限界の意に使つているのだろう。同一の語に對する解釋が變つたものと考えられる。知らないあいだに、海の限界範圍を過ぎて榜いで行く意である。浦島の行つた別世界が、海のかなたの遠い處にありとしている。
 海若神之女尓 ワタツミノカミノムスメニ。ワタツミノカミノヲトメニ(矢)。海若は海神をいう。國語にワタツミというのは、海の神靈の義で、古事記上卷には、綿津見の神とある。下文にも、海若ノ神ノ宮ノとある。カミノムスメは、神の娘子の義。ムスメは、神田本の訓である。海幸山幸の神話では、この娘子をもつて(328)海神の女子としているので、ここにいうワタツミノカミノムスメも、海神の女なる娘子の意であろう。
 邂尓 タマサカニ。邂は、邂逅(メグリアヒ)の義。たまたま、偶然に。類聚名義抄に、邂、邂逅、偶に、タマサカの訓がある。「玉坂《タマサカニ》 吾見人《ワガミシヒトヲ》 何有《イカナラム》 依以《ヨシヲモチテカ》 亦一目見《マタヒトメミム》」(卷十一、二三九六)。
 伊許藝※[走+多]相誂良比 イコギムカヒアヒアトラヒ。イコキワシラヒカタラヒ(西)、イコギワシリテアヒアトラヒ(代精)、イコギワシラヒカガラヒ(考)、イコギムカヒテアヒカガラヒ(略)、イコギムカヒアヒカタラヒ(古義)。イは、接頭語。※[走+多]は、新撰字鏡に「趙也、走也、※[走+多]騰也、疾行也、疾行曰v※[走+多]、疾※[走+多]曰v走」とあつて、疾行の義の字であるが、類聚名義抄には、ワシル、ムカフ、ヲモムクの訓がある。よつてムカヒの訓を採る。喜んで馳せ向かう意であろう。誂は、日本書紀垂仁天皇の卷に、アトラヘテの訓があり、類聚名義抄にアツラフの訓がある。ここは良比の二字を送つてあるから、アヒアトラヒで、相互に誘い合う意とすべきである。
 言成之賀婆 コトナリシカバ。コトは、語りあうことで、相談が成立したからの意。婚姻の約束のできたのをいう。「足千根乃《タラチネノ》 母爾障良婆《ハハニサハラバ》 無用《イタヅラニ》 伊麻思毛吾毛《イマシモワレモ》 事應v成《コトヤナルベキ》」(卷十一、二五一七)。
 加吉結 カキムスビ。カキムスヒ(神)、カキツラネ(西)、カキチキリテ(童)、カイツラネ(考)。カキは接頭語。結合して、あい伴なつての意である。
 常代尓至 トコヨニイタリ。トコヨは、永久不變の世界の義で、思想上の世界である。古事記上卷の終りに「故御毛沼命者《カレミケヌノミコトハ》、跳2浪穗1《ナミノホヲフミテ》、渡3坐于2常世國1《トコヨノクニニワタリマシ》」などあつて、海のあなたにありとされていた。神仙思想が渡來するに及んで、仙人の住む世界を、この語であらわすようになり、年を取らないで若くていられる國の概念が成立した。「吾妹兒者《ワギモコハ》 常世國爾《トコヨノクニニ》 住家良思《スミケラシ》 昔見從《ムカシミシヨリ》 變若益爾家利《ヲチマシニケリ》」(卷四、六五〇)の如きは、この思想で使つている。この歌では、そこに海神の宮殿があることになつている。
 内隔之 ウチノヘノ。へは、障壁で、宮殿には、内外の障壁が多いとしている。その内部の意である。「皇(329)祖《スメロキノ》 神之御門爾《カミノミカドニ》 外重爾《トノヘニ》 立候《タチサモラヒ》 内重爾《ウチノヘニ》 仕奉《ツカヘマツリテ》」(卷三、四四三)。八雲立つ出雲八重垣のヤヘガキも、障壁の多くある宮殿の義である。
 細有殿尓 タヘナルトノニ。タヘは、緻密な織物をいい、これを尊重する心から、轉じてりつぱな意に、タヘナルの語を使うようになつたものと考えられる。この意味に使つた例は、集中これのみであるが、シロタヘなどの語に、白妙の字を當てているところを見ると、既にその意味に使われていたのであろう。ここでは、宮殿を稱えて、タヘナルトノと言つている。トノは、大きな建築物。
 耆不爲死不爲而 オイモセズシニモセズシテ。常世に住む人は、年取ることもなく死ぬこともないという思想である。これは神仙思想の不老不死の語を、その儘に直譯している。仙人は、不老不死であるとするのである。列子《れつし》湯問篇に、仙郷を敍して「珠※[王+干]之樹(ハ)、皆(ナ)叢生(シ)、華實(ハ)皆有(リ)2滋味1、食(ヘバ)v之|皆《ミナ》不v老(イ)不v死(ナ)」とある。
 世間之愚人乃 ヨノナカノオロカビトノ。ヨノナカノシレタルヒトノ(西)、ヨノナカノカタクナビトノ(古義)、ヨノナカノオロカビトノ(新訓)。愚は、類聚名義抄に、オロカナリと訓している。ヨノナカノオロカビトとは、浦島の子をいい、作者の批判がされている。そのままに仙郷に留まつて、不老不死でおればよいものをの意である。
 吾妹兒尓 ワギモコニ。ワギモコは、海神の女をいう。この語は、もと二人稱として女子に對していう語であつたが、ここでは、浦島の子が、その妻にの意に、三人稱として使われている。次の、妹ガイヘラクのイモの用法もこれに同じである。二人稱の語が、三人稱として使われる傾向に轉じて行くのである。
 事毛告良比 コトモノラヒ。コトは、言葉。ここでは事情をいうことばである。ノラヒは、語つて。ノルの繼續する意。
 如明日 アスノゴト。明日のようにも、明日にも。短い時間にの意。
(330) 妹之答久 イモガイヘラク。イモカイラヘク(神)、イモガイヘラク(考)、イモガコタヘラク(總索引)。七音に整えるには、イモガイヘラクあたりであろう。イラフ、コタフは、共に下二段活であるから、イラヘク、コタヘラクとはいわない。イラフラク、コタフラクといわねばならない。イヘラクは、言えることの意。
 復變來而 マタカヘリキテ。變の字は、反に通じて使用されている。「釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》 見變來六《ミテカヘリコム》」(卷九、一六六九)。
 此篋開勿勤常 コノクシゲヒラクナユメト。篋は竹製の箱で、クシゲが竹製であつたことを語る。クシゲは、櫛箱。女子が櫛に靈魂をつけて封じておく神聖な箱。下に玉篋とある。後世は玉手箱という。それを開くなとする禁止の約束である。その箱を開くことによつて、靈魂を封じた呪術が破れる。丹後國風土記には、娘子が玉匣を取つて浦島の子に與えたとある。異郷の者が禁止をして、人間の方がその禁を破るので、別離になるのが、この種の説話の型である。ユメは、心を用いよの意。勤の字は、努力の意に使つている。
 曾己良久尓 ソコラクニ。ソコラクは、ソコバクに同じ。許多。たくさんに。集中、他に用例は無い。「片時の程とくだししを、そこらの年ごろ、そこらのこがね賜ひて」(竹取物語)。
 堅目師事乎 カタメシコトヲ。カタメシは、約東し、契約した意。コトヲは、ことなるものをの意。
 所許尓念久 ソコニオモハク。ソコは、其處。ソコニは、そこで、それで。
 三歳之間尓 ミトセノホドニ。海神の宮にわずかに三年を經過したのに、人間世界では數百年を經過したというのである。三年を經たというのは、この種の説話におけるきまつた條件の一つである。海幸山幸の神話では、山幸彦が、海神の宮に至つて、三年を經て故郷を思つて大きな嘆息をしたとある。
 家滅目八跡 イヘウセメヤト。家が無くなることはないと。このトは、次の、本ノ如家アラムトのトと共に、トシテの意に、玉クシゲスコシ開クに接續する。かように中間にトを插むのは、語りもの、昔話などにしばし(331)ば見る形で、そういう性質の形を受けているのだろう。本集では、柿本の人麻呂の日竝みし皇子の尊の殯《あらき》の宮の時の歌(卷二、一六七) に、「天乎婆《アメヲバ》 所v知食登《シラシメサヘト》」の形で出ている。
 玉篋小披尓 タマクシゲスコシヒラクニ。タマは美稱。本來は、靈魂の宿つている箱の義である。それをあけるので、禁を破ることになり、またこれで海神の女の呪術が破れることになる。
 白雲之自箱出而常世邊棚引去者 シラクモノハコヨリイデテトコヨベニタナビキヌレバ。白雲が箱から出て、常世の方に歸つたのでの意。白雲は靈氣で、神女がその靈氣を封じて、浦島の子に授けたので、それを持つているあいだは、浦島の子が年老いることが無かつたとする思想である。トコヨベは、常世の方向。「等許余弊爾《トコヨベニ》 久母多智和多留《タモタチワタル》」(丹後國風土記)。
 立走叫袖振反側足受利四管 タチハシリサケビソデフリコイマロピアシズリシツツ。浦島の子が箱をあけたことを後悔して、狂い廻る状が寫されている。これはこの説話が、舞曲として傳えられた時の、浦島の子の狂亂の舞の部分に相當するもので、海幸山幸の神話では、隼人の狂舞となつてあらわれている。
 頓情消失奴 タチマチニココロケウセヌ。たちまちに精神を失つてしまつた。氣を失つた。句切で、以下同じ形の文を、三個重ねて疊みかけている。
 髪毛白斑奴 カミモシラケヌ。白斑は、白まだらをいう。白髪まじりになつた意で、年老いたことをいう。句切。
 由奈由奈波 ユナユナハ。ユは、ユリに同じで、それから後の意。「佐由理花《サユリバナ》 由利登云者《ユリトイヘルハ》」(卷八、一五〇三)。ナは、接尾語。朝ナ朝ナ、夜ナ夜ナ、諾《うべ》ナ諾ナなど、しばしば同じ語を重ねて使われる。それから後々はの意である。他に用例は無い。
 壽死祁流 イノチシニケル。人間に歸つた浦島の子が、遂に死んだことを述べる。連體形の句。
(332) 家地見 イヘドコロミユ。初めの、墨吉ノ岸ニ出デヰテを受けて、その地が浦島の子の家郷の地として傳えられたことを語つている。中間にも、墨吉ニ歸リ來リテ家見レド家モ見カネテの句があつた。
【評語】海岸に生育した異郷説話の一つが、ある文筆家に取りあげられて、神仙思想と結合して、仙女に逢う物語として成立した浦島の説話を、ここではまた長歌に翻譯している。その説話の内容を敍述しているのが特色であつて、ここに物語の語り手である性質を發揮しているが、構成としては、作者自身の立場があきらかにされ、第一段と、および末尾とにそれが説かれている。これは整備された形體であつて、殊に初めの、春ノ日ノ霞メル時ニ云々の歌い起しは、全體の空氣を作るものとして極めて效果が多い。作者は、浦島その人に對して、世ノ中ノ愚人と批評しているが、それは故國に歸ろうという心などを起さないで、そのまま常世の國に留まつていたらよかつたという意で、大衆の持つ氣もちであることも、物語そのものに興味を持つ作者の立場があきらかにされていてよい。この浦島の歌には、全然龜のことに觸れていないが、龜が娘子に化して婚姻するというのは、神婚説話の重要な要素であるに拘わらず、これの無いのは、その事を怪奇《かいき》として、遺却したものと見るべきである。これは浦島の説話の一展開を意味するものである。
 
反歌
 
1741 常世邉《とこよべ》に 住むべきものを、
 劍刀《つるぎたち》 おの行《わざ》から 鈍《おそ》やこの君。
 
 常世邊《トコヨベニ》 可v住物乎《スムベキモノヲ》
 劔刀《ツルギタチ》 己之心柄《オノガワザカラ》 於曾也是君《オソヤコノキミ》
 
《譯】仙人の世界に住むべきであるのに、自分の所業のゆえに、愚なことだなあ。この人は。
【釋】常世邊 トコヨベニ。トコヨは、長歌の語を受けている。常世の國の方に。
(333) 劔刀 ツルギタチ。枕詞。次の句の己之に冠していると見られる。その己之は、ワガ、ナガ、オノガ、サガ、シガの五訓がある。ワに冠するのは、古代の劔には、柄の頭に輪があるからだという。しかし高麗劔がワに冠する例はあるが、劔刀がワに冠する例は無い。ナに冠するのは、劔には名があるからだという。ナに冠するのは、他に三例あるが、いずれも名ノ惜シケクと績く例であつて、劔刀を丈夫の象徴として譬喩の意に名を惜しむに冠するのであろう。オノに冠する例は、他には無い。身に冠する例が多いから、轉用してオノに冠しているのだろう。サガ、シガに冠するわけはわからない。
 己之行柄 オノガワザカラ。
  ワカココロカラ(藍)
  オノガワザカラ(新訓)
  ――――――――――
  己之心柄《サカココロカラ》(西)
  己之心柄《ナガココロカラ》(童)
  己之心柄《シガココロカラ》(略)
  己之心柄《ワガココロカラ》(古義)
 字面は、古證本の多くは行であつて、心に作る本のあるのは、訓にひかれてのことと思われる。行に作るによれば、オノガワザカラと讀むほかはなく、それでよく意が通じる。己は、自己の義を有する字で、ここもその意に使用されている。この字は集中、「己世爾《オノガヨニ》 未v渡《イマダワタラヌ》 朝川渡《アサカハワタル》」(卷二、一一六)など、多くオノ、オノガと讀まれている。ただこの歌と「己之母乎《ワガハハヲ》 取久乎不v知《トラクヲシラニ》 己之父乎《ワガチチヲ》 取久乎思良爾《トラクヲシラニ》」(卷十三、三二三九)の例の己之だけが、ナガとも讀まれていた。己をナと讀むことは、日本書紀に「大己貴、此云2於褒婀娜武智《オホアナムチ》1」とあり、この神名を、風土記類に、大名持とも大汝とも書いているのによるのである。このナは、二人稱のナレ(汝)のナと同語で尊稱であるが、今の浦島の歌と共に、自己の意に使われているのだから、ワガと讀むのが順當である。あなたの心からではなくして、自分の心からである。ワザは所業、禁止を破つて玉篋をあけた(334)ことをいう。「風流無三《ミヤビナミ》 吾爲類和射乎《ワガスルワザヲ》 〓目賜名《トガメタマフナ》」(卷四、七二一)などの用例があり、「凡乃《オホヨソノ》 行者不v念《ワザハオモハジ》」(卷十一、二五三五)の例は、行をワザと讀んでいる。カラは、故、理由。なお佐竹昭廣氏の説(萬葉第四號)に、類聚名義抄に、行にココロの訓があり、仙覺本に心としたのは、訓に引かれての改變であるとされた。
 於曾也是君 オソヤコノキミ。オソは、愚鈍の意。ヤは、感動の助詞。[於曾能風流士《オソノミヤビヲ》」(卷二、一二六)。コノキミは、浦島の子をさす。
【評語】長歌の、世ノ中ノ愚人ノ云々の意を取つて歌つている。やはり、大衆と同樣の心で、常世に住むべきであつたのにと殘念がり、オソヤコノ君と批判しているのが面白く、この作者の人間的であることを示している。
【參考】浦島の子の説話。
  丹後國風土記に曰はく、與謝の郡、日置《ひおき》の里、この里に筒川の村あり。ここの人夫《たみ》日下部《くさかべ》の首等《おびとら》が先祖《とほつおや》は、名を筒川《つつかは》の嶼子《しまこ》といひき。人となり姿容《かたち》秀美《うるは》しく風流《みやび》なること類《たぐひ》なかりき。こはいはゆる水の江の浦の嶼子《しまこ》といふ者なり。こは舊宰《もとのみこともち》伊豫部《いよべ》の馬義《うまかひ》の連《むらじ》が記せるに相乖《あひそむ》くことなし。故《かれ》ほぼ所由之旨《ゆゑよし》を陳べむ。長谷《はつせ》の朝倉《あさくら》の宮に天の下知らしめしし天皇の御世、嶼子ひとり小船に乘りて海中に汎《う》かび出で、釣して三日三夜を經て一つの魚だに得ず、すなはち五色の龜を得たり。心に奇異《あや》しと思ひて船の中に置きて、やがて寐《い》ねつるに、たちまちに婦人《をとめ》となりき。その容《かたち》美麗《うるは》しく、また比《たと》ふべきものなかりき。嶼子、問ひて曰はく、「人宅《ひとさと》遙遠《はるか》にして、海庭《うなばら》に人なし、※[言+巨]人《なにびと》のたちまちに來たれる」と云ふ。女娘《をとめ》微笑《ほほゑ》みて對《こた》へて曰はく、「風流之士《みやびを》獨|蒼海《うみ》に汎《う》かべり。近《した》しく談らむとするこころに勝《あ》へず、就風雲來《おとづれき》つ」といふ。嶼子また問ひて曰はく、「何處よりか來つる」といふ。女娘答へて曰はく、「天上仙家の人なり。請《ねが》はくは君な疑ひそ。相談《かたら》ひて感《めぐ》みたまへ」といふ。ここに嶼子、神女なることを知りて懼れ疑ふ心を鎭めき。女娘語ひて曰はく、「賤妾《やつこ》が意《こころ》は、天地と畢《を》へ日月と極まらむとおもふを、但《ただ》、君いかにかする。許不《いなう》の意《こころ》を早先《すみやか》にしたまへ」といふ。嶼子答へて曰はく、「また言ふと(335)ころなし。何をか解《し》らむや」といふ。女娘曰はく、「君、うべ棹を廻らして蓬山《とこよ》に赴《ゆ》きまさね」といふ。嶼子從ひて往かむとするに、女娘、目を眠らしむ。すなはち意《おも》はざるほどに、海中《わたなか》の博大《ひろ》き島に至りき。その地は玉を敷けるが如く、闕臺《うてな》は※[日+奄]映《きらきら》しく棲堂《たかどの》は玲瓏《かがや》き、目に見ざりし所、耳に聞かざりし所なり。手を携へて徐《おもぶる》に行き、一つの大きなる宅《いへ》の門に到りき。女娘曰はく、「君しまし此處に立ちたまへ」といひて、門を開きて内に入りき。すなはち七《ななたり》の豎子《わらは》來たりて相語らひて曰はく、「こは龜比賣《かめひめ》の夫《せ》なり」といふ。また八《やたり》の豎子來たりて相語らひて曰はく、「こは龜比賣の夫なり」といふ。ここに女娘の名は龜比賣なることを知りき。すなはち女娘出で來たりしとき、嶼子、豎子等の事を語りき。女娘曰はく、「その七の豎子は昴星《すばる》なり。その八の豎子は畢星《あめふり》なり。君なあやしみそ」といひて、すなはち前に立ちて引導《みちび》き、内に進み入りき。女娘の父母、共に相迎へ揖《をろが》みて坐《ゐどころ》を定めき。ここに人間《このよ》と仙都《とこよ》との別《わかち》を稱説《と》き、人と神と偶《たまさか》に會へる嘉《よろこび》を談議《かた》り、すなはち百品《ももくさ》の芳《かぐは》しき味を薦《すす》め、兄弟姉妹等は坏を擧げて獻酬《とりかは》し、隣の里の幼女等は紅顔《にのほ》にして戯れ接《まじは》り、仙歌《うた》は寥亮《さやか》に神舞《まひ》は※[しんにょう+委]※[しんにょう+施の旁]《もこよか》に、その歡宴《うたげ》をなすこと人間《このよ》に萬倍《まさ》れり。ここに日の暮るることを知らず。ただ黄昏《たそがれ》の時に群仙侶等、漸々《やくやく》に退き散《あら》け、すなはち女娘獨留り、雙の眉袖に接《まじは》りて夫婦《いもせ》の理《ことわり》を成しき。時に嶼子、舊俗《もとつよ》を遺《わす》れて仙都《とこよ》に遊ぶこと既に三歳を經たり。忽に土《くに》を懷ふ心を起し、ひとり親に戀ふ。故《かれ》、吟哀《かなしみ》繁く發《おこ》り、嗟嘆《なげき》日に益りき。女娘問ひて曰はく、「比來《このごろ》君夫《きみ》が貌を觀るに、常の時に異なり。願はくはその志を聞かむ」といふ。嶼子對へて曰はく「古の人、小人は土《くに》を懷ひ、死せる狐は丘を首《まくら》にすと言ひき。僕《あれ》、虚談《いつはり》なりと以《おも》ひしに、今これ信《まこと》にしかなり」といふ。女娘間ひて曰はく、「君歸らむと欲《おもほ》すか」といふ。嶼子答へて曰はく、「僕、近く親故之俗《むつまじきよ》を離れて遠く神仙之堺《とこよ》に入り、戀ひ眷《しの》ふに忍《あ》へず、すなはち輕《かろがろ》しき慮《おもひ》を申《の》べつ。望《ねが》はくは、暫《しまし》本俗《もとつくに》に還りて、二親を拜みまつらむ」といふ。女娘、涙を拭ひて歎きて曰はく、「意《こころ》は金石と等しく、共に萬歳《よろづよ》を期《ちぎ》りしに、何ぞ郷里《ふるさと》を眷《した》ひて、一時《たちまち》に棄て遺《わす》るる」といひて、すなはち相携へて俳※[人偏+回]《たちやすら》ひ、相談ひて慟哀《なげきかな》しみ、遂に袂を接《まじ》へて退き去り、(336)岐路《わかれぢ》に就きき。ここに女娘の父母と親族と、但《ただ》に悲しみて副ひ送りき。女娘、玉匣を取りて嶼子に授けて謂ひて曰はく、「君、終《つひ》に賤妾《われ》を遺《わす》れずして眷《かへり》み尋ねむとならば、堅く匣を握《と》り、慎《ゆ》めな開き見たまひそ」といふ。すなはち相分れて船に乘り、よりて目を眠らしめき。忽に本土《もとつくに》筒川の郷に到り、すなはち村邑を瞻眺《なが》むるに、人と物と遷《うつろ》ひ易《かは》り、更に由る所なかりき。ここに、郷人《さとびと》に問ひて曰はく、「水の江の浦の嶼子が家の人、今、何處《いづく》にかある」といふ。郷人答へて曰はく、「君は何處の人なれば、舊遠《むかし》の人を問ふ。吾、聞かくは、古老達《おきなたち》相傳《つた》へて曰はく。先の世に水の江の浦の嶼子といふものあり。ひとり蒼海《うみ》に遊びてまた還り來たらず。今にして三百餘歳を經つといへり。何ぞ忽にこれを問へる」といふ。すなはち棄《う》てし心を喞《ふふ》みて郷里を廻りしかども、一《ひとり》の親しきものにも會はず、はやく旬月を逕《すぐ》しき。すなはち玉匣を撫でて神女を感思《した》ふ。ここに嶼子、前《きき》の日の期《ちぎり》を忘れて忽に玉匣を開きつ。未瞻之間《たちまちのあひだ》に芳《かぐは》しき蘭《らに》のごとき體《かたち》、風と雲とに率《したが》ひて蒼天《あおぞら》に翩《ひるがへ》り飛びき。嶼子、すなはち期要《ちぎり》に乖遠《そむ》きて、また會ひ難きことを知り、首を廻らして蜘※[虫+厨]《たたず》まひ、涙に咽びて俳※[人偏+回]《たもとほ》りき。ここに涙を拭ひて歌ひて曰はく、
  常世邊《とこよべ》に雲立ち渡る。水の江の浦島の子が言持ち渡る
   神女、遙に芳《よき》音《こゑ》を飛ばして歌ひて曰はく、
  大和邊《やまとべ》に風吹き上げて雲離れ退《そ》き居りともよ吾《わ》を忘らすな
   嶼子、更《また》戀望《こひしさ》に勝へずして歌ひて曰はく、
  娘《こ》らに戀ひ朝戸を開き吾が居れば常世の濱の波の音《と》聞ゆ
   後時《のち》の人追ひ加へて歌ひて曰はく、
  水の江の浦島の子が玉くしげ開けずありせばまたも逢はましを
  常世邊に雲たちわたる。經ゆ間無く言ひは繼がめど我ぞ悲しき(原漢文、丹後國風土記、釋日本紀所引)
 
(337)見2河内大橋獨去娘子1歌一首 并2短歌1
 
河内《かふち》の大橋を獨|去《ゆ》く娘子《をとめ》を見る歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】河内大橋 カフチノオホハシ。歌詞によれば、片足羽川に架した丹塗の大橋である。片足羽川は、石川とする説と、大和川とする説とがある。石川は、河内の國の南方の山間から發して、北流して大和川にそそぐ清流であるが、その川に架したものとすれば、河内の國府へ通ふためであり、相當に華麗であつたと思われるこの橋の所在としてふさわしくない。これは奈良の京から、難波の宮へ通う道にあつたものなるべく、當時の大和川は、河内の國にはいつてから北流していたから、龍田山を越えてこの川を渡るために架せられてあつたのだろう。行幸の通路に當るので華麗に造られてあつたのだろう。安寧天皇の皇居を、片鹽の浮穴の宮というが、それはもとの大縣郡、後の中河内郡である。その片鹽は、この片足羽に同じだろうか。
 
1742 級照《しなて》る 片足羽河《かたしはがは》の、
 さ丹塗《にぬり》の 大橋の上ゆ、
 紅《くれなゐ》の 赤裳裾引き
 山|藍《あい》もち 摺れる衣《きぬ》著て、
 ただひとり い渡らす兒は、
 若草の 夫《つま》かあるらむ。
 橿《かし》の實《み》の 獨か宿《ぬ》らむ。」
 問はまくの 欲《ほ》しき我妹《わぎも》が
(338) 家の知らなく。」
 
 級照《シナテル》 片足羽河之《カタシハガハノ》
 左丹塗《サニヌリノ》 大橋之上從《オホハシノウヘユ》
 紅《クレナヰノ》 赤裳數十引《アカモスソヒキ》
 山藍用《ヤマアヰモチ》 摺衣服而《スレルキヌキテ》
 直獨《タダヒトリ》 伊渡爲兒者《イワタラスコハ》
 若草乃《ワカクサノ》 夫香有良武《ツマカアルラム》
 橿實之《カシノミノ》 獨歟將v宿《ヒトリカヌラム》
 問卷乃《トハマクノ》 欲我妹之《ホシキワギモガ》
 家乃不v知久《イヘノシラナク》
 
【譯】段になつて日の照つている片足羽川の、赤く塗つた大橋の上を通つて、くれないで染めた赤い裳の裾を引き、山藍で摺つた著物を著て、ただ獨りで渡られる娘さんは、若草のような夫があるだろうか。カシの實のようにひとりで寐るだろうか。聞きたいと思うその子の家を知らないことだ。
【構成】第一段、獨カ宿ラムまで。大橋の上を行く娘子を敍して、その身の上を想像している。第二段、終りまで。その家を知らないことを述べる。
【釋】級照 シナテル。枕詞。階段を成して日が照る意で、聖徳太子の御歌に「斯那提流《シナテル》 箇多烏箇夜摩爾《カタヲカヤマニ》」(日本書紀一〇四)の如く、片岡に冠してその地形を説明していたものが、轉用して、ここでは、片だけに懸かつているのだろう。
 片足羽河之 カタシハガハノ。カタアスハカハノ(神)、カタシハガハノ(考)。カタシハ河は、題詞の條參照。カタシハは、堅い岩の義か。家の敷地を、アスハというのと同語で、脚岩の義だろう。
 左丹塗大橋之上從 サニヌリノオホハシノウヘユ。橋を赤く塗つたのは、装飾のためばかりでなく、魔よけの思想があるものと思われる。船を赤く塗るのと同じ。ユは、を通つて。
 山藍用 ヤマアヰモチ。ヤマアヰは、タカトウダイ科の多年生草本、山中の陰地に生ずる。その葉の汁で衣を染める。
 若草乃 ワカクサノ。枕詞。
(339) 橿實之 カシノミノ。枕詞。カシの實は、ただ一つずつ成るものだから、ヒトリに冠している。
 獨歟將宿 ヒトリカヌラム。ラムは、現在推量の助動詞だが、將來についてもいうので、現に大橋の上を渡つている娘子に對して、ひとりで寐るかと推量する。「行來跡見良武《ユキクトミラム》」(卷一、五五)參照。句切。
 欲我殊之 ホシキワギモガ。このワギモも愛すべき女子の意に使用している。
【評語】現在の人物を取り扱つて、事實を敍述しその身の上を想像している。娘子がただ獨大橋の上を渡るというだけの平凡な事柄を題材として、物語ふうな扱いかたである。前半の色彩の描寫は、殊に一篇を美しく鮮麗にしている。路行く娘子を敍して、これだけの作品を作つたのが、人事に興味をもつこの作者の特色である。
 
反歌
 
1743 大橋の 頭《つめ》に家あらば、
 うらがなしく ひとりゆく兒に
 宿|借《か》さましを。
 
 大橋之《オホハシノ》 頭尓家有者《ツメニイヘアラバ》
 心悲久《ウラガナシク》 獨去兒尓《ヒトリユクコニ》
 屋戸借申尾《ヤドカサマシヲ》
 
【譯】大橋の橋詰に家があつたなら、悲しそうにひとりで行く娘さんに、宿を貸したかつたものを。
【釋】頭尓家有者 ツメニイヘアラバ。ツメは、橋のつめ、橋のたもと。「于知波志能《ウチハシノ》 都梅能阿素弭爾《ツメノアソビニ》 伊提麻栖古《イデマセコ》」(日本書紀、一二四)。正倉院文書、高橋の蟲麻呂の優婆塞貢進解《うばそくこうしんげ》に「山背國葛野郡橋頭里」。この橋頭は、ハシヅメか、ハシモトか。
 心悲久 ウラガナシク。アハレシク(藍)、ココロイタク(温)、ウラガナシク(代精)、マガナシク(略)。字に即して讀めば、ウラガナシクである。悲をイタクと讀む例は無いが、「情袁《ココリタク》 伊去吾妹可《イユクワギモカ》 若子乎置而《ミドリゴヲオキテ》」(340)(卷三、四六七)、「心哀《ココロイタク》 何妹《ナニシカイモニ》 相云始《アヒイヒソメシ》」(卷十二、三一三〇)など、哀をイタクと讀んでいる。この句は、獨去クを修飾するものであつて、娘子がたよりなげに悲しそうな樣子をして行くのだから、心いたく行くでは意を成さない。やはりウラガナシクとすべきであろう。
【評語】作者は、この反歌に至つて、娘子の有樣を、ウラ悲シクヒトリ行クと敍した。これによつて、一層物語に近づいたといえる。長歌の内容を補つて、作者の感想を述べている。五句の宿借サマシヲの句も、その娘子に興味を持ち、これを隣む心が、よく描かれている。
 
見2武藏小埼沼鴨1作歌一首
 
武藏の小埼《をざき》の沼《ぬま》の鴨を見て作れる歌一首
 
【釋】武藏小埼沼 ムザシノヲザキノヌマ。歌詞に、埼玉の小埼の沼とある。埼玉の郷は、今の熊谷市と羽生市とのあいだで、そこに小埼の沼があつたのだろう。ムザシは、古事記上卷に、「无耶志國造《ムザシノタニノミヤツコ》」、本集に「牟射志野《ムザシノ》」(卷十四、三三七六)など書かれている。
 
1744 埼玉《さきたま》の 小埼《をざき》の沼に 鴨ぞ翼《はね》きる。
 おのが尾に 零《ふ》り置ける霜を
 掃《はら》ふとならし。
 
 前玉之《サキタマノ》 小埼乃沼尓《ヲザキノヌマニ》 鴨曾翼霧《カモゾハネキル》
 己尾尓《オノガヲニ》 零置流霜乎《フリオケルシモヲ》
 掃等尓有斯《ハラフトナラシ》
 
【譯】埼玉の小埼の沼で鴨が翼を強く振つている。自分の尾に降つて置いている霜を拂うというのだろう。
【釋】鴨曾翼霧 カモゾハネキル。ハネキルは、翼を強く振つて水分などを拂うこと、句切。
【評語】寒夜に小埼の沼のほとりに宿して、鴨の羽ばたく音を聞いて詠んだ歌である。寒夜の旅情が溢れるば(341)かりに盛りあがつている。旋頭歌で、前三句で事を敍し、後三句で推量している。
 
那賀郡曝井歌一首
 
那賀《なか》の郡の曝井《さらしゐ》の歌一首
 
【釋】那賀郡曝井 ナカノコホリノサラシヰ。ナカノ郡は、武藏の國の那珂の郡、常陸の國の那珂の郡の兩説があるが、次に大地名を冠しないで手綱の濱とあるのは、常陸の國と認められるから、これも常陸の國の那珂の郡と見るべきである。その曝井は、常陸國風土記那賀の郡に「自(リ)v郡東北挾(ミテ)2粟河(ヲ)1而置(ク)2驛家《ウマヤヲ》1。當(リテ)2其(ノ)以南(ニ)1、泉出(ヅ)2坂(ノ)中(ニ)1。水多(ク)流尤(モ)清(シ)。謂(フ)2之曝井(ト)1。縁(ヒテ)v泉(ニ)所v居(ル)村落(ノ)婦女、夏(ノ)月(ニ)會集《ツドヒ》、浣《アラヒ》v衣(ヲ)曝(シ)乾(セリ)」とあるもので、今、東茨城郡に屬し、渡里村臺渡の瀧坂の清泉が存している由である。サラシヰは、衣を洗いさらす井の意。以下蟲麻呂の歌中には、風土記の記事と連絡のあるものに、筑波山の※[女+燿の旁]歌があり、これを併わせて、風土記と蟲麻呂との關係を論ずる資料となつている。
 
1745 三栗《みつぐり》の 那賀に向かへる 曝井《さらしゐ》の、
 絶えず通はむ 彼所《そこ》に妻もが。
 
 三栗乃《ミツグリノ》 中尓向有《ナカニムカヘル》 曝井之《サラシヰノ》
 不v絶將v通《タエズカヨハム》 彼所尓妻毛我《ソコニツマモガ》
 
【譯】三栗の中。その那賀に向かつている曝井の絶えないように、絶えず通おうとおもうあそこに妻がほしいものだ。
【釋】三栗乃中尓向有曝井之 ミツグリノナカニムカヘルサラシヰノ。以上三句、序詞。井の水が絶えず涌出するというので、絶エズを引き起している。ミツグリノ、枕詞。三子の栗の中央の意で、地名のナカに冠している。ナカは地名。那賀郡をさす。その郡役所の所在地に向かつている曝井の意である。以上は、曝井に對し(342)て感興を起して序に使つたのである。
 不絶將通 タユズカヨハム。この曝井の地に絶えず通い來ようの意。連體句と見るべきだろう。
 彼所尓妻毛我 ソコニツマモガ。ソコは、曝井の地をさす。
【評語】詞句の巧みを弄して、極めて輕快にできている。三栗ノという歌い起しから、轉々して最後に、ソコニ妻モガと結んでいる。その結句もやはり輕い氣もちで云つている。曝井に興じて詞をもてあそんだというだけの歌だが、曝井のようなものを見ても、人事に結びつけてゆく所に、この作者の特色はあらわれている。
 
手綱濱歌一首
 
手綱の濱の歌一首
 
【釋】手綱濱 タヅナノハマ。今、茨城縣多賀郡松岡町に、手綱の地名が殘つている。その附近の海岸で、關川を中心とする地。常陸の國の北端に近い。
 
1746 遠妻《とほづま》し 高《たか》にありせば、
 知らずとも
 手綱の濱の 尋ね來なまし。
 
 遠妻四《トホヅマシ》 高尓有世婆《タカニアリセバ》
 不v知十方《シラズトモ》
 手綱乃濱能《タヅナノハマノ》 尋來名益《タヅネキナマシ》
 
【譯】遠方にいる妻が、多珂にいたならば、道を知らないでも、手綱の濱の名のように、尋ね來ただろうに。
【釋】遠妻四 トホヅマシ。トホヅマは、遠方の妻。家に殘して來た妻をいう。シは、強意の助詞。「遠嬬《トホヅマノ》 此間不v在者《ココニアラネバ》」(卷四、五三四)。
 高尓有世婆 タカニアリセバ。タカは地名。倭名類聚鈔に「多珂郡多珂」とある處で、郡の所在地である。(343)今の松原村。伸びあがるようにして人を待つ形容の副詞に、タカダカニがあり、タカニもその意を含んでいるらしい。それを地名のタカと懸詞にしているのだろう。
 手綱乃濱能、タヅナノハマノ。一句插入句で、序詞。同音によつて、尋ねを引き起している。今手綱の濱に居り、その地名を利用してこの序詞を置いている。
【評語】地名の同音を利用した輕快な作である。旅にあつて遠妻を思つているのだが、詞句の興味本位になつてしまつて、沈痛な旅情は感じられない。作者は、多分|史生《ししよう》ぐらいの微官で、常陸の國の役人となつてきており、その役向きで國内を巡行して、かような北方まできたのだろう。その妻は、奈良の京にいたか、または常陸の國府まで伴なつてきていたか、不明であるが、速妻というから、大和の方だろう。この人には、この歌以外に、妻に關して歌つたものが無い。
 
春三月、諸卿大夫等、下2難波1時歌二首 并2短歌1
 
春三月、諸卿大夫等の難波に下りし時の歌二首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】春三月 ハルヤヨヒ。何年か不明。蟲麻呂と縁故の深い藤原の宇合は、神龜三年十月に、知造難波宮事《チゾウナニワグウジ》となつているが、それと關係があるかどうかわからない。一七四九の歌にある君ガミユキは、天皇の行幸と解せられ、その下檢分乃至準備のための旅行とすれば、當時三月頃の行幸としては、天平六年三月十日、聖武天皇の難波の宮への行幸があり、その年のことであるかも知れない。
 諸卿大夫等 マヘツギミタチ。卿と大夫とは、文字としては、官位によつて區別して書いているが、訓はどちらもマヘツギミである。卿大夫等が幾人か難波に下つたのに、作者も同行したのである。作者は微官で、卿大夫等の中にははいらない。
 
(344)1747 白雲の 龍田《たつた》の山の
 瀧《たぎ》の上の 小※[木+安]《をぐら》の嶺に
 咲きををる 櫻の花は、
 山高み 風し止《や》まねば、
 春雨の 繼ぎてし零《ふ》ふれば、
 秀《ほ》つ枝は 散り過ぎにけり。」
 下枝《しつえ》に 殘れる花は、
 須臾《しましく》は 散りな亂れそ。
 草枕 旅行く君が
 還《かへ》りくるまで。」
 
 白雲之《シラクモノ》 龍田山之《タツタノヤマノ》
 瀧上之《タギノウヘノ》 小※[木+安]嶺尓《ヲグラノミネニ》
 開乎爲流《サキヲヲル》 櫻花者《サクラノハナハ》
 山高《ヤマタカミ》 風之不v息者《カゼシヤマネバ》
 春雨之《ハルサメノ》 繼而零者《ツギテシフレバ》
 最末枝者《ホツエハ》 落過去祁利《チリスギニケリ》
 下枝尓《シつエニ》 遺有花者《ノコレルハナハ》
 須臾者《シマシクハ》 落莫亂《チリナミダレソ》
 草枕《クサマクラ》 客去君之《タビユクキミガ》
 及2還來1《カヘリクルマデ》
 
【譯】白雲の立つ、その龍田の山の激流に臨んでいる小椋の嶺に、咲き滿ちている櫻の花は、山が高くて風が止まないので、春雨が續いて降るので、上の枝は散り過ぎてしまつた。下の枝に殘つている花は、しばらくは散り亂れるな。草の枕の旅を行く君が歸つて来るまで。
【構成】第一段、散リ過ギニケリまで。龍田山の櫻花の、上の枝の散つてしまつたことを述べる。第二段、終りまで。下枝の花に對して希望を述べる。
【釋】白雲之 シラクモノ。枕詞。白雲が立つということから、同音に依つて、龍田山に冠している。しかしこの句は、龍田山の説明にもなつている。「白雲乃《シラクモノ》 龍田山乃《タツタノヤマノ》」(卷六、九七一)。この例も蟲麻呂の作である。
(345) 小※[木+安]嶺尓 ヲグラノミネニ。ヲグラノミネは、龍田山の一峰であろうが、所在不明。タギノウヘノとあるタギを、大和川の本流、今の龜が瀬の激流とし、その上方に求める説もある。
 開乎爲流 サキヲヲル。花が咲いて枝のたわむをいう。乎爲流の乎爲は、この語に使用される慣用文字である。「山邊爾波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》」(卷三、四七五)。
 繼而零者 ツギテシフレバ。シに相當する字無く、讀み添えている。
 最末枝者 ホツエハ。最末枝は 義をもつてホツエと讀んでいる。末枝と書いたものは、「爲v妹《イモガタメ》 末枝梅乎《ホツエノウメヲ》 手折登波《タヲルトハ》 下枝之露爾《シツエノツユニ》 沾家類可聞《ヌレニケルカモ》」(卷十、二三三〇)などあり。ホツエは、樹木の上方の枝をいう。なお用例には「本都延波《ホツエハ》 登理韋賀良斯《トリヰガラシ》 志豆延波《シヅエハ》 比登々理賀良斯《ヒトトリカラシ》(古事記四四)、「青柳乃《アヲヤギノ》 保都枝與治等理《ホツエヨヂトリ》」(卷十九、四二八九)。
 下枝尓 シツエニ。シツエは、ホツ枝に對して、下方の枝をいう。用例は、前條に引用した古事記の歌中にある。ホツ枝とシツ枝とを對比していうのは、古事記上卷、天の岩戸の段に「於2上枝1。取(リ)2著(ケ)八尺勾〓《ヤサカノマガタマ》之五百津之御須麻流之玉(ヲ)1、於2中(ツ)枝1、取(リ)2繋(ケ)八尺(ノ)鏡(ヲ)1、於《ニ》2下枝1、取2垂|白丹寸手青丹寸手《シロニギテアヲニギテヲ》1」とあり、前條に引いた例の外にも「末枝爾《ホツエニ》 毛知引懸《モチヒキカケ》 仲枝爾《ナカツエニ》 伊加流我懸《イカルガカケ》 下枝爾《シツエニ》 比米乎懸《ヒメヲカケ》」(卷十三、三二三九)とあり、これらは、ホツ枝、シツ枝のほかに、ナカツ枝をも擧げている。シは下方、(346)ツは助詞。エは枝の義である。
 客去君之 タビユクキミガ。次の句に還リ來ルマデとあるので、このキミは、同行している卿大夫等をさしているものと考えられる。
 及還來 カヘリクルマデ。カヘリクルマデ(藍)、カヘリクマデニ(略)、カヘリコムマデ(古義)。助動詞ムがマデに接續する例はない。未然のことであつても、不定時をもつて接續している。同行の人が難波から歸つてくるまでである。「和禮由伎弖《ワレユキテ》 可敝里久流末低《カヘリクルマデ》 知里許須奈由米《チリコスナユメ》」(卷十五、三七〇二)。
【評語】山の櫻を歌うにしても、上つ枝と下枝との遲速を歌いわけたのは、よく自然を見ているあらわれで、この作者の特色が出ている。上ツ枝は散り過ギニケリと嗟歎し、改めて下枝ニ殘レル花ハと、密接にそれを受けて敍述している手段も、巧みである。小品の長歌で、内容も平凡だが、表現で同感させる。初句の白雲の枕詞も、この歌では、よく利いている。
 
反歌
 
1748 わが行《ゆ》きは 七日は過ぎし。
 龍田彦、
 ゆめこの花を 風にな散らし。
 
 吾去者《ワガユキハ》 七日不v過《ナヌカハスギジ》
 龍田彦《タツタビコ》
 勤此花乎《ユメコノハナヲ》 風尓莫落《カゼニナチラシ》
 
【譯】わたしの旅行は、七日間は過ぎまい。龍田彦よ、決してこの花を風に散らすな。
【釋】吾去者 ワガユキハ。ユキは、旅行で、難波への往來である。
 七日者不遇 ナヌカハスギジ。このナヌカは實數をいう。七日以内に歸つてくる豫定だつたのである。しか(347)も次の歌によれば、ただ一夜寐ただけで歸つて來た。句切。
 龍田彦 タツタビコ。延喜式神名、大和の國平群郡に「龍田比古龍田比女神社二座」とある。龍田町にある龍田神社の祭神で、風の神である。この神は、龍田の地にいる由で、この名を得たのであろう。延喜式に載せた龍田の風の神の祭の祝詞には、崇神天皇の御夢にあらわれた神の名を、天の御柱の命、國の御柱の命といい、この神を、龍田の立野の小野に祭るとしているのは、別の神社とされている。この句は、龍田彦を呼びかけている。呼格。
 風尓莫落 カゼニナチラシ。ナは、禁止の意の副詞。ナチラシは、散らすなかれ。チラシは、散ルの使役法である。この種のナは、上にある語の方に接著する性質があるが、ここはカゼニナチラシだろう。
【評語】長歌では、旅行ク君ガと云つたが、反歌では、自分を含めて一行の意に、ワガ行キと云つている。龍田彦という神名を歌い入れたのは、やはりこの作者の特色で、人物を取り扱うのと通ずる所がある。
 
1749 白雲の 龍田の山を
 夕暮に うち越え行けば、
 瀧《たぎ》の上の 櫻の花は、
 咲きたるは 散り過ぎにけり。
 含《ふふ》めるは 咲き繼ぎぬべし。」
 こちごちの 花の盛りに 見ざれども、
 かにかくに 君がみゆきは、
(348) 今にしあるべし。」
 
 白雲乃《シラクモノ》 立田山乎《タツタノヤマヲ》
 夕晩尓《ユフグレニ》 打越去者《ウチコエユケバ》
 瀧上之《タギノウヘノ》 櫻花者《サクラノハナハ》
 開有者《サキタルハ》 落過祁里《チリスギニケリ》
 含有者《フフメルハ》 可2開繼1《サキツギヌベシ》
 許知期智乃《コチゴチノ》 花之盛尓《ハナノサカリニ》雖v不v見《ミザレドモ》
 左右《カニカクニ》 君之三行者《キミガミユキハ》
 今西應v有《イマニシアルベシ》
 
【譯】白雲の立つ、その龍田の山を、夕暮に越えて行けば、激流の上の櫻の花は、咲いたのは散り過ぎてしまつた。つぼんでいるのは、咲き繼ぐだろう。あちらこちらの花の盛りに見ないけれども、とにかく、天皇のおでましは、今が適當である。
【構成】第一段、咲キ繼ギヌベシまで。龍田山の櫻花の現状を述べる。第二段、終りまで。作者の意見を述べる。
【釋】許知期智乃 コテゴチノ。此方此方ので、あちこちのに同じ。まだアチの語が成立していなかつた。「己知碁知乃枝之《コチゴチノエノ》」(卷二、二一〇》。
 雖不見 ミザレドモ。ミサレトモ(神)、ミズトヘド(考)、ミズトイヘド(略)。五音の一句で、七吾の句を伴なつていない。長歌の定型からいえば、變則なので、誤字説脱字説もある。原文のままならば、特に破調を試みたものとされる。蟲麻呂の歌には、下に「山下之《アラシノ》 風莫吹登《カゼナフキソト》 打越而《ウチコエテ》」(卷九、一九五一)のような七五調の句もあるので、ここもその調子が出たものと見られる。これは「于知波志能《ウチハシノ》 都梅能阿素弭爾《ツメノアソビニ》 伊堤麻栖古《イデマセコ》」(日本書紀一二四)などにも見られる所である。
 左右 カニカクニ。左右の文字の用例には、「左毛右毛《カニモカクニモ》」(卷十六、三八三六)があつて、カニカクニの訓が確められる。
 君之三行者 キミガミユキハ。ミユキは、行幸をいう。ミは崇敬の接頭語。
【評語】この歌も、櫻花を敍して、咲キタルハ散リ過ギニケリ。フフメルハ咲キ繼ギヌベシと説明したあたりがよく、全體に簡單な内容だが、これによつて情趣を成している。君ガミユキは云々の句によつて、作者たちの旅行の目的も推測される。
 
(349)反歌
 
1750 暇あらば なづさひ渡り、
 向つ峯《を》の 櫻の花も
 折らましものを。
 
 暇有者《イトマアラバ》 魚津柴比渡《ナヅサヒワタリ》
 向峯之《ムカツヲノ》 櫻花毛《サクラノハナモ》
 折末思物緒《ヲラマシモノヲ》
 
【譯】暇があつたら、谷を渡つて行つて、向こうの嶺の櫻の花も折つたろうものを。
【釋】魚津柴比渡 ナヅサヒワタリ。ナヅサフは、水に浸つてその抵抗を排するをいう。船、水鳥などが、水面をわけるのによく使う。ここは谷川を渡つて。「八雲刺《ヤクモサス》 出雲子等《イヅモノコラガ》 黒髪者《クロカミハ》 吉野川《ヨシノノカハノ》 奧名豆颯《オキニナヅサフ》(卷三、四三〇)。
【評語】公用の旅であり、夕暮でもあるので、櫻の花を折る暇の無いのを惜しんでいる。ナヅサヒ渡りあたりに特色が見られるだけである。
 
難波經宿、明日還來之時歌一首 并2短歌1
 
難波に經宿《やど》りて明《あす》の日還り來し時の歌一首 【短歌を并はせたり。】
 
【釋】難波經宿明日還來之時 ナニハニヤドリテアスノヒカヘリコシトキ。經宿は、一夜宿るをいう。代匠記初稿本に「天台山賦曰、陟降《チヨクコウシテ》信宿、迄《イタル》2于仙都(ニ)1。翰曰、再宿(ヲ)爲(ス)v信(ト)。言、上下兩宿(シテ)、至(ル)2于仙都(ニ)1也。」この歸途は、往途の人數の一部分だつたのだろう。豫想外に早く歸ることになつたものらしい。
 
(350)1751 島山を い行きもとほる
 河副《かはぞひ》の 岡邊《をかべ》の道ゆ、
 昨日こそ わが越え來《こ》しか。
 一夜のみ宿《ね》たりしからに、
 峯《を》の上《うへ》の 櫻の花は、
 瀧《たぎ》の瀬ゆ落ちて流る。」
 君が見む その日までには、
 嵐《あらし》の 風な吹きそと うち越えて、
 名に負へる社《もり》に 風祭《かぜまつり》せな。」
 
 島山乎《シマヤマヲ》 射往廻流《イユキモトホル》
 河副乃《カハゾヒノ》 丘邊道從《ヲカベノミチユ》
 昨日己曾《キノフコソ》 吾超來牡鹿《ワガコエコシカ》
 一夜耳《ヒトヨノミ》 宿有之柄二《ネタリシカラニ》
 峯上之《ヲノウヘノ》 櫻花者《サクラノハナハ》
 瀧之瀬從《タギノセユ》 落墮而流《オチテナガル》
 君之將v見《キミガミム》 其日左右庭《ソノヒマデニハ》
 山下之《アラシノ》 風莫吹登《カゼナフキソト》 打越而《ウチコエテ》
 名二負有社尓《ナニオヘルモリニ》 風祭爲奈《カザマツリセナ》
 
【譯】島山を行き廻つている河ぞいの岡邊の道を通つて、昨日こそわたしが越えてきたのだ。一夜だけ寐たばかりだのに、峯の上の櫻の花は、激流の瀬を通つて、落ちて流れる。君が御覽になるその日までは、荒い風は吹くなと、山を越えて、名に負うているお社で、風の祭をしよう。
【構成】第一段、落チテ流ルまで、櫻の花の現状を述べる。第二段、終りまで。風が吹かないように祭をしようとする意を述べる。
【釋】島山乎 シマヤマヲ。シマヤマは、川に臨んでいる山をいう。離れ島ではない。
 射往廻流 イユキモトホル。イユキモトホル(西)、イユキメグレル(考)。次の句の川を修飾するとする見方と、句を隔てて道を修飾するとする見方とある。川ゾヒノ岡邊ノ道というのは、川に沿つて岡がある、そのほとりの道というのだから、島山ヲイ行キモトホルの句は、川だけの修飾句と見る方がよいであろう。
(351) 河副乃 カハゾヒノ。この河は、龍田川、今の大和川であろう。龍田路は、大和川の右岸(北岸)に沿つていた。
 丘邊道從 ヲカベノミチユ。ヲカベノミチは、龍田路である。ユは、それを通つて。以上、具體的によくこの道の特色を描き出している。
 吾越來牡鹿 ワガコエコシカ。牡鹿は、訓假字として使用している。コソに對して、時の助動詞の已然形シカで結んでいる。シカは バ、ドの如き助詞を伴なつて前提法を作るものが古く、これをもつて文を結ぶのは、奈良時代に入つて起つたもののようである。しかもなお前提法の語氣を存して、諸例いずれもシカに終る文をもつて、前提として、後續の文を有している。ここも昨日こそ越え來しかどものような語氣に解すべきである。
 峯上之 ヲノウヘノ。ヲノヘノ(神)。ヲノウヘノ(西)、ミネノヘノ(童)。峯上は、下の筑波山に登る歌(一七五三)、また「足引乃《アシヒキノ》 峯上之櫻《ヲノウヘノ》 如此開爾家里《サクラカクサキニケリ》」(卷十九、四一五一)の歌では、ヲノウヘ若しくはヲノヘと讀まれている。前の歌に見える、瀧ノ上ノ小※[木+安]ノ嶺ニ咲キヲヲル櫻ノ花だから、ミネノウヘニでもよいか。
 瀧之瀬從 タギノセユ。激流の瀬を通過して、この瀧の瀬は、大和川のうち、龜が瀬あたりの急瀬をいうのだろう。
(352) 君之將見 キミガミム。このキミは、往路の第一の長歌にいう所の、旅行ク君か、第二の長歌にいう所の、君ガミユキの天皇か、不明である。第一の長歌および反歌に、風のことを云つているのと呼應するものとせば、同行して難波に下り、後れて歸る人をいうのだろう。
 山下之 アラシノ。ヤマオロシノ(西)、アラシノ(古義)。集中、下風をアラシと讀み、また山下は「衣袖丹《コロモデニ》 山下吹而《アラシノフキテ》」(卷十三、三二八二)の歌にはアラシと讀まれている。ここは兩樣の訓が考えられるが、ヤマオロシノカゼは、文證が無いから、證のあるにまかせてアラシノとすべきである。
 打越而 ウチコエテ。龍田山を越えて。その東麓立野に龍田神社がある。
 名二負有社尓 ナニオヘルモリニ。ナニオヘルモリは、風の神として名に負つている社で、龍田神社をいう。
 風祭爲奈 カザマツリセナ。カザマツリは、風の神を祭つて、風の吹き荒れないように要請する祭。セナは、自分のしようと思うのをあらわす。
【評語】難波に下つて一宿しただけなのに、花が激流に流れる樣を敍して、この上風の吹かないようにと願つている。風祭のような特殊の語を出したのが特色である。花の散りゆくあわただしさと、これを惜しむ心とがよく措かれている。
 
反歌
 
1752 い行相《ゆきあひ》の 坂の麓に 咲きををる
 櫻の花を 見せむ兒もがも。
 
 射行相乃《イユキアヒノ》 坂上之蹈本爾《サカノフモトニ》 開乎爲流《サキヲヲル》
 櫻花乎《サクラノハナヲ》 令v見兒毛欲得《ミセムコモガモ》
 
【譯】人々の往來する坂の麓に咲き滿ちている櫻の花を、見せる娘もほしいなあ。
(353)【釋】射行相乃 イユキアヒノ。イは接頭語。人々の行き違う處の意に、坂を修飾する。行き違う處の意に使用した例に「※[女+感]嬬等爾《ヲトメヲニ》 行相乃速稻乎《ユキアヒノワセヲ》」(卷十、二一一七)がある。
【評語】見せる兒がほしいという形は、類型的であるが、その花の表現に、特色があつて、感興を保つている。長歌の内容とは關係が無いようだが、ウチ越エテとあるを受けて、山の東麓の櫻花を詠んだのだろう。
 
※[手偏+僉]税使大伴卿登2筑波山1時歌一首 井2短歌1
 
※[手偏+僉]税使大伴の卿の筑波山に登りし時の歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】※[手偏+僉]税使大伴卿 ケミサイシオホトモノマヘツギミ。※[手偏+僉]税使は、正倉院文書の長門國正税帳に天平七年の※[手偏+僉]税使、續日本紀に寶龜七年の※[手偏+僉]税使のことが見えるが、ここはその以前であろう。臨時の官で、諸國に出張して、その國の正倉に存在する正税の租稻を※[手偏+僉]し、正税帳と勘合することをつかさどる。大伴の卿は、大伴の安麻呂、旅人のうち、多分旅人だろうとされている。※[手偏+僉]税使は通例五位程度の人を任命するのに、安麻呂は、和銅七年五月に大納言兼大將軍正三位をもつて薨じているので、奈良時代初期における※[手偏+僉]税使としては、地位が高すぎる。この歌は、※[手偏+僉]税使として下つてきた大伴の卿が筑波山に登つた時の歌で、高橋の蟲麻呂は案内して行つて、この歌を作つたのである。
 
1753 衣手《ころもで》 常陸《ひたち》の國、
 二竝《ふたなら》ぶ 筑波の山を、
 見まく欲《ほ》り 君が來《き》ますと、
 熱《あつ》けくに 汗かきなけ
(354) 木《こ》の根取り 嘯《うそぶ》き登り、
 峯《を》の上《うへ》を 公に見すれば、
 男《を》神も 許したまひ
 女《め》神も ちはひたまひて、
 時となく 雲居《くもゐ》雨降る
 筑波|嶺《ね》を 清《さや》に照らして、
 いふかりし 國のまほらを
 委曲《つばらか》に 示したまへば、
 歡《うれ》しみと 紐の緒解きて
 家の如 解けてぞ遊ぶ。」
 うち靡く 春見ましゆは、
 夏草の 茂くはあれど
 今日の樂しさ。
 
 衣手《コロモデ》 常陸國《ヒタチノクニ》
 二竝《フタナラブ》 筑波乃山乎《ツクハノヤマヲ》
 欲v見《ミマクホリ》 君來座登《キミキマスト》
 熱尓《アツケクニ》 汗可伎奈氣《アセカキナケ》
 木根取《コノネトリ》 嘯鳴登《ウソブキノボリ》
 峯上乎《ヲノウヘヲ》 公尓令v見者《キミニミスレバ》
 男神毛《ヲガミモ》 許賜《ユルシタマヒ》
 女神毛《メガミモ》 千羽日給而《チハヒタマヒテ》
 時登無《トキトナク》 雲居雨零《クモアメフル》
 筑波嶺乎《ツクハネヲ》 清照《サヤニテラシテ》
 言借石《イブカリシ》 國之眞保良乎《クニノマホラヲ》
 委曲尓《ツバラカニ》 示賜者《シメシタマヘバ》
 歡登《ウレシミト》 紐之緒解而《ヒモノヲトキテ》
 家如《イヘノゴト》 解而曾遊《トケテゾアソブ》
 打靡《ウチナビク》 春見麻之從者《ハルミマシユハ》
 夏草之《ナツクサノ》 茂者雖v在《シゲクハアレド》
 今日之樂者《ケフノタヌシサ》
 
【譯】常陸の國の二峰の竝ぶ筑波の山を、見たいと思つてあなたがおいでになるので、熱いのに汗をかき、長い息をつき、木の根を手にして息を吹いて登り、峰の上をあなたにお見せすれば、男嶽もお許しになり、女嶽も好意をお示しになつて、何時という時がなく雲が懸かつて雨の降る筑波山を、はつきりと照らして、ぼんやりしていた國の中心を、明細にお見せになつたので、うれしい事と、著物の紐を解いて、わが家にいるように、(355)うち解けて遊びます。草木の靡く春見ようよりは、夏草が茂くはあるけれども、今日が樂しいことです。
【構成】第一段、解ケテゾ遊ブまで。大伴の卿を案内して登山し、うち解けて遊ぶことを敍する。第二段、終りまで。作者の感想。
【釋】衣手 コロモデ。枕詞。常陸國風土記、國號の由來の條に、一説として、日本武の尊が、この國の新治の縣においでになつた時に、國造が、新に井を掘らしめた所、流泉が淨澄で愛すべくあつたので、御輿を停めて水を翫び手を洗ひ、御衣の袖が泉に垂れて濡れたので、袖を漬す義によつて、この國の名とした。風俗の諺に、筑波の岳に黒雲かかり、衣袖ひたちの國というのはこれであると記している。これは地名起原説話だが、これでこの枕詞が、その地に行われていたことが知られる。
 二竝 フタナラブ。筑波山は、二峰竝立の山形なので、これを説明し修飾する。
 君來座登 キミガキマスト。キミは、大伴の卿をいう。
 熱尓 アツケクニ。アツケクは、熱いことの體言。「見吉野乃《ミヨシノノ》 山下風之《ヤマノアラシノ》 寒久尓《サムケクニ》」(卷一、七四)のサムケクニと、同じ語形の句。
 汗可伎奈氣 アセカキナケ。
  アセカキナケ(新訓)
  ――――――――――
  汗可伎奈氣伎《アセカキナゲキ》(代精)
  汗可伎奈※[氏/一]《アセカキナデ》(考)
 アセは、倭名類聚鈔に「汗、蒋魴韵云、汗 音寒、一音翰、阿勢。人身上熱汁也」とある。カキナケは、動詞カキとナケとだろうが、カキを接頭語と見るか、獨立語と見るかの二解がある。しかし接頭語としては、カキナケが、アセの説明語となり、解釋に困難である。アセカキと、ナケとを分離する方が、まだしも解釋しやすい。この場合、カキは、汗の出る動作をいう。汗をかくという。ナケは、「奴要鳥能《ヌエドリノ》 宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》」(卷十七、(356)三九七八)のナケに同じく、そのウラナケは、「奴要子鳥《スエコドリ》 卜歎居者《ウヲナケヲレバ》」(卷一、五)、「奴延鳥之《ヌエドリノ》 裏歎座津《ウラナケマシツ》」(卷十、一九九七)、「奴延鳥《ヌエドリノ》 浦嘆居《ウラナケヲリト》」(同、二〇三一)の卜歎裏歎浦嘆と同じと考えられる。このナケは、下二段活動詞の連用形で、長い息がつかれる意であろう。
 木根取 コノネトリ。山に登るために、木の根を手がかりとするのである。
 嘯鳴登 ウソブキノボリ。ウソブキは、内部の空虚な物を吹くような聲を出すのをいう。あえぎつつ登るので、聲が出るのである。日本書紀卷の二、「風招即嘯也《カゼヲキハスナハチウソブキナリ》」「弟居v濱而嘯之時《オトノミコトウミベタニマシマシテウソブキタマフトキニ》、迅風忽起《ハヤチタチマチニオコル》」などの嘯に、ウソブキ、ウソブクと訓している。
 男神毛許賜 ヲガミモユルシタマヒ。ヲガミは、筑波山の西の峰で、これを男神として信仰している。ユルシタマヒは、登ることを許し、かつ國土を示すことをいう。風土記に、西の峰を雄神といい、登臨せしめずとある。
 女神毛千羽日給而 メガミモチハヒタマヒテ。メガミは女神、東の峰をいう。チハヒは、靈力をあらわすをいう。チは、靈力あることをいい、それを發揮するのがチハフである。「靈治波布《タマチハフ》 神毛吾者《カミモワレヲバ》 打葉乞《ウツテコソ》」(卷十一、二六六一)。この靈力に依つて、雲が晴れて國土の樣子が示される意である。許シタマヒチハヒタマヒテ委曲ニ示シタマエバの文脈である。
 時登無 トキトナク。その時となく、何時と定まらずに。
 雲居雨零 クモヰアメフル。クモヰは、雲が居て。ヰは動詞。連體形の句。
 言借石 イフカリシ。今まで明瞭でなかつた意。シは、時の助動詞。
 國之眞保良乎 クニノマホラヲ。クニノマホラは、國土の最上の處。良い處。國の中心地。
 委曲尓 ツバラカニ。日本靈異記中卷の訓釋に、「委曲、ツ波比良計苦」とある。本集では「委曲毛《ツバラニモ》 見管行(357)武雄《ミツツユカムヲ》」(卷一、一七)の例があつて、ツバラニと讀んでいる。ここもツバラニでもよいが、「奥山之《オクヤマノ》 八峯乃海石榴《ヤツヲノバキ》 都婆良可爾《ツバラカニ》 今日者久良佐禰《ケフハケラサネ》 大夫之徒《マスラヲノトモ》」(卷十九、四一五二)の例があるによつて、ツバラカニと讀む。こまかに、詳細にの意の副詞である。
 示賜者 シメシタマヘバ。神が許諾して國内の風光を見せてくださつたので。
 歡登 ウレシミト。ウレシミは、形容詞から轉成した動詞で、トを併わせてうれしい事としての意になる。「不v念丹《オモハヌニ》 到者妹之《イタラバイモガ》 歡三跡《ウレシミト》 咲牟眉曵《ヱマムマヨビキ》 所v思鴨《オモホユルカモ》」(卷十一、二五四六)、「宇禮之美登《ウレシミト》 安我麻知刀敷爾《アガマチトフニ》」(卷十七、三九五七)の用例がある。
 ※[糸+刀]之緒解而 ヒモノヲトキテ。衣服の紐を解いてくつろぐ意。
 解而曾遊 トケテゾアソブ。このトケテもやはり衣帶がおのずからゆるやかになつての意と見られる。自動詞。句切。
 打靡 ウチナビク。枕詞。
 春見麻之從者 ハルミマシユハ。ユは、ここは比較を示すに使つている。
【評語】敍事が精細である。殊に山氣が晴れて國土の見渡されることを敍したあたりがよい。しかしほんとうに歡をつくした喜びにうすいのはやむを得ない。
 
反歌
 
1754 今日の日に いかにか及《し》かむ。
 筑波|嶺《ね》に 昔の人の
 來《き》けむその日も。
 
 今日尓《ケフノヒニ》 何如將v及《イカニカシカム》
 筑波嶺《ツクハネニ》 昔人之《ムカシノヒトノ》
 將v來其日毛《キケムソノヒモ》
 
(358)【譯】今日の日にどうして及びましようか。筑波山に昔の人の來たでしようその日も。
【評語】昔の人とは、誰をさすか不明。大伴の旅人の父安麻呂あたりの思い出か。これはさすがに躍動的で、感情が出ている。二句の四三の音節の調子が快く、また末句の下略した云い方も、調子の輕さを助けている。
 
詠2霍公鳥1一首 并2短歌1
 
霍公鳥を詠める一首 【短歌を并はせたり。】
 
1755 うぐひすの 卵《かひこ》の中《なか》に
 ほととぎす ひとり生れて、
 己《わ》が父に 似ては鳴かず、
 己《わ》が母に 似ては鳴かず、
 卯の花の 咲きたる野邊ゆ、
 飛び翻《かへ》り 來《き》鳴きとよもし、
 橘の 花を居散らし、
 終日《ひねもす》に 鳴けど聞きよし。
 幣《まひ》はせむ 遠くな行きそ。
 わが屋戸の 花橘に
 住み渡れ、鳥。
 
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 生卵乃中尓《カイヒコノナカニ》
 霍公鳥《ホトトギス》 獨所v生而《ヒトリウマレテ》
 己父尓《ワガチチニ》 似而者不v鳴《ニテハナカズ》
 己母尓《ワガハハニ》 似而者不v鳴《ニテハナカズ》
 宇能花乃《ウノハナノ》 開有野邊從《サキタルノベユ》
 飛翻《トビカヘリ》 來鳴令v響《キナキトヨモシ》
 橘之《タチバナノ》 花乎居令v散《ハナヲヰチラシ》
 終日《ヒネモスニ》 雖v喧聞吉《ナケドキキヨシ》
 幣者將v爲《マヒハセム》 遐莫去《トホクナユキソ》
 吾屋戸之《ワガヤドノ》 花橘尓《ハナタチバナニ》
 住度鳥《スミワタレトリ》
 
(359)【譯】鶯の卵の中に、ホトトギスがひとり生まれて、自分の父に似ては鳴かず、自分の母に似ては鳴かず、卯の花の咲いている野邊を通つて、飛び翻り來て鳴き響かせ、橘の花にとまつて散らし、一日中鳴いているが、聞くのはよいものだ。贈り物をしよう。遠くへ行くな。わたしの宿の橘の花に住んで過せ、鳥よ。
【構成】第一段、鳴ケド聞キヨシまで、ホトトギスの上を敍し、その聲の愛すべきを述べる。第二段、終りまで。ホトトギスに對して、自分の宿に永住せよと希望する。
【釋】※[(貝+貝)/鳥]之生卵乃中尓霍公鳥獨所生而 ウグヒスノカヒコノナカニホトトギスヒトリウマレテ。ホトトギスの類が、みずから巣をいとなんで雛を育てないで、ウグイスのような他鳥の巣の中に卵を産んで、これに孵化させる習慣であることは、今日知られている事實である。この事が、古くから認められて、以上の句になつている。なお大伴の家持の歌にも、「木の暗闇《くれやみ》四月《うづき》し立てば、夜ごもりに鳴くほととぎす、古ゆ語り繼ぎつる、(360)鶯のうつし眞子かも」(卷十九、四一六六)とも歌つている。カヒコは、卵をいう。倭名類聚鈔に「卵、陸詞曰、卵 音〓、加比古 鳥胎也」とある。古事記に、仁徳天皇の皇子建貝古の王を、建卵の王とも書いている。古今六帖、拾遺抄、源氏物語等には、カヒとのみもいう。カヒは殻の義で、コは愛稱である。ヒトリウマレテは、ホトトギスが一羽だけ生まれての意。
 己父尓 ワガチチニ。サカチチニ(藍)、シカチチニ(類)、ナガチチニ(童)、ワガチチニ(考)。ナガチチニの訓が多く行われているが、己の字をナと讀むことは、大己貴の神の場合の如き例があるから、訓として成立する。しかし本集には、他にも「高麗劔《コマツルギ》 己之景迹故《ワガココロカラ》」(卷十二、二九八三)、「親々《ムツマジキ》 己之家尚乎《ワガイヘスラヲ》」(卷十三、三二七二)の如く、己之をワガと讀んでいる例があり、今の場合も、かならずしもナガと讀んで、汝のの義とするを要せぬのだから、むしろワガで統一する方がまさつている。下の己母尓も同斷である。また「己之母乎《ワガハハヲ》 取久乎不v知《トラクヲシラニ》 己之父乎《ワガチチヲ》 取久乎思良爾《トラクヲシラニ》」(卷十三、三二三九)の己之も同樣である。「己之行柄《オノガワザカヲ》」(一七四一)參照。ナガチチは、鶯をさす。ホトトギスが、父なるウグイスの聲に似ないで鳴くことを述べる。
 宇能花乃開有野邊從 ウノハナノサキタルノベユ。ウノハナは、ユキノシタ科の落葉灌木。卯の花の咲いている野邊を通過して。
 飛翻 トビカヘリ。トヒカヘリ(西)、トビカケリ(略)。翻は、輕く疾く飛ぶ意の字で、類聚名義抄には、カケルの訓がある。ここは「檀岡爾《マユミノヲカニ》 飛反來年《トビカヘリコネ》」(卷二、一八二)による。
 花乎居令散 ハナヲヰチラシ。橘の樹にとまつて、その花を散らし。
 幣者將爲 マヒハセム。マヒは、贈り物。他處へ行かないように物を贈つて留めようの意。獨立句。慣用句で、しばしば使われている。
 住度鳥 スミワタレトリ。スミワタレは命令形で、トリは、鳥を呼びかけている。この留め方は、柿本の人(361)麻呂の「靡此山《ナビケコノヤマ》」(卷二、一三一)などと同じ形である。
【評語】ホトトギスを愛し、その鳥が、卯の花の咲いている野邊を通り花橘に來て鳴くことを敍するのは、常の型であるが、その素姓を述べて、鶯の卵の中から生まれて云々と敍しているのは、こういう關係に興味をもつこの作者の特色として、この歌を、ホトトギスの多くの歌の中の、特殊の存在とするものである。末句を命令形であらわし、鳥と呼びかけて留めたのも、特色のある表現である。
 
反歌
 
1756 かき霧《き》らし 雨の零《ふ》る夜《よ》を
 ほととぎす 鳴きて行くなり。
 あはれその鳥。
 
 掻霧之《カキキラシ》 雨零夜乎《アメノフルヨヲ》
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而去成《ナキテユクナリ》
 ※[立心偏+可]怜其鳥《アハレソノトリ》
 
【譯】空がかき曇つて雨の降る夜を、ホトトギスが鳴いて行くことだ。ああ、その鳥よ。
【釋】掻霧之 カキキラシ。カキは接頭語。空一面にかき曇つて。雲霧が立ちこめて。
 ※[立心偏+可]怜其鳥 アハレソノトリ。アハレは、感動に堪えない意の副詞。
【評語】反歌では轉じて夜のホトトギスを詠んでいる。その聲に對する感動が、よく表現されている。
 
登2筑波山1歌一首 并2短歌1
 
筑波山に登る歌一首 【短歌を并はせたり。】
 
(362)1757 草枕 旅の憂《うれへ》を
 慰もる 事もありやと、
 筑波|嶺《ね》に 登りて見れば、
 尾花ちる 師付《しづく》の田井に
 雁がねも 寒く來鳴きぬ。
 新治《にひはり》の 鳥羽《とば》の淡海《あふみ》も、
 秋風に 白浪立ちぬ。」
 筑波嶺の よけくを見れば、
 長きけに 念ひ積み來《こ》し
 憂は息《や》みぬ。」
 
 草枕《クサマクラ》 客之憂乎《タビノウレヘヲ》
 名草漏《ナグサモル》 事毛有哉跡《コトモアリヤト》
 筑波嶺尓《ツクハネニ》 登而見者《ノボリテミレバ》
 尾花落《ヲバナチル》 師付之田井尓《シヅクノタヰニ》
 鴈泣毛《カリガネモ》 寒來喧奴《サムクキナキヌ》
 新治乃《ニヒハリノ》 鳥羽能淡海毛《トバノアフミモ》
 秋風尓《アキカゼニ》 白浪立奴《シラナミタチヌ》
 筑波嶺乃《ツクハネノ》 吉久乎見者《ヨケクヲミレバ》
 長氣尓《ナガキケニ》 念積來之《オモヒツミコシ》
 憂者息沼《ウレヘハヤミヌ》
 
【譯】草の枕の旅の憂悶を、慰めることもあるかと、筑波山に登つて見れば、尾花の散る師付の田に、雁も寒そうに來て鳴いた。新治の鳥羽の湖も、秋風に白浪が立つた。筑波山のよくあることを見ると、長いあいだ思い積んできた憂悶は止んだ。
【構成】第一段、白浪立チヌまで。筑波山に登つて見た景觀を敍する。第二段、終りまで。筑波山の勝景によつて旅の憂のやんだことを述べる。
【釋】客之憂乎 タビノウレヘヲ。ウレヘは、本集には假字書きの例が無い。三代實録、貞觀八年九月の宣命に「因v茲日夜無v間 久、憂 禮比 念 保之 熱 加比 御座 須」とあり、これによれば、四段か上二段かと思われるが、朝日(363)新聞社版六國史によれば、この憂禮比の三字は諸本に無いそうである。新訂増補國史大系には、印本によつてこの三字を補うとあつて、底本には無いようである。日本書紀の傍訓、土佐日記、竹取物語には、ウレヘとある。これにより、ウレヘと讀むべきである。
 名草漏 ナグサモル。自動詞として使用される。自動的に慰さまれる意。羽グクモルと同樣の語法。「吾戀流《ワガコフル》 千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》 名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアリヤト》」(卷四、五〇九)。他動詞ナグサムルの例、「奈具佐牟流《ナグサムル》 許々呂波阿良麻志《ココロハアラマシ》」(卷五、八八九)、「左奈葛《サナカヅラ》 後毛相得《ノチモアハムト》 名草武類《ナグサムル》 心乎持而《ココロヲモチテ》」(卷十三、三二八〇)、「大夫波《マスラヲハ》 友之※[馬+參]爾《トモノサワキニ》 名草溢《ナグサフル》 心毛將v有《ココロモアラム》 我曾苦寸《ワレゾクルシキ》」(卷十一、二五七一)。
 尾花落 ヲバナチル。薄の穗の散る意で、次の師付の田井を修飾している。
 師付之田井尓 シヅクノタヰニ。シヅクは、地名。筑波山の東の麓で、今、新治郡千代田村に志筑の名が存している。
 新治乃鳥羽能淡海毛 ニヒハリノトバノアフミモ。ニヒハリは、常陸國風土記に、新治郡の四至を記して「東(ハ)、那賀(ノ)郡(ノ)堺(ナル)大山、南(ハ)、白壁(ノ)郡、西(ハ)、毛野河、北(ハ)、下野(ト)常陸(ト)二國(ノ)堺(ニシテ)即波太(ノ)岡(ナリ)」とある。今の眞壁郡の一部に當り、葦穗山《あしほやま》の西方である。今新治郡と稱するのは、古の茨城郡の一部で、文禄年中に、古名を附して郡を立てたもので、全く別地である。トバの淡海は、大日本地名辭書に「今高道祖の西北にして、眞壁郡上野村、鳥羽村と、同郡黒子村、騰波江《トバエ》村、大寶村との間なる卑濕《ヒシツ》、蓋(シ)是(レ)なり。古風土記に、筑波(ノ)郡西十里(ニ)、在2騰波江《トバノエ》1、長二千九百歩、廣一千五百歩、東筑波郡、南毛野河、西(ト)北(トハ)新治郡、艮(ハ)白壁(ノ)郡(ナリ)と載せしにて明白とす」とある。大體筑波山の西方に當り、東方の志筑の田井と、相對して東西の風光が敍せられていることがわかる。
 吉久乎見者 ヨケクヲミレバ。ヨケクは、良いこと。風光の佳なるをいう。「吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》」(卷二、二〇九)のヨケクに同じ。クはコトの意の助詞。
(364) 長氣尓 ナガキケニ。ケは時間。ある長さの時をいう。
 憂者息奴 ウレヘハヤミヌ。初めの、旅の憂を受けて、その憂愁のやんだことをいう。
【評語】初めに旅の憂悶を慰めようとして筑波山に登ることを敍し、終りに、長キケニ念ヒ積ミ來シ憂ハ止ミヌと結んで呼應している。中間、筑波山上から見下した風光の描寫が、清麗であつて、旅の憂が止んだというにふさわしい。情熱には乏しいが、まとまつた作品である。
 
反歌
 
1758 筑波嶺の 裾廻《すそみ》の田井に 秋田刈る
 妹がり遣らむ 黄葉《もみち》手折《たを》らな。
 
 筑波嶺乃《ツクハネノ》 須蘇廻乃田井尓《スソミノタヰニ》 秋田苅《アキタカル》
 妹許將v遣《イモガリヤラム》 黄葉手折奈《モミチタヲラナ》
 
【譯】筑波山の裾の田で秋田を刈る娘さんのもとに遣る黄葉を手折りましよう。
【釋】須蘇廻乃田井尓 スソミノタヰニ。ミは、地形語につける接尾語。
 妹許將遣 イモガリヤラム。イモは、女子に對する愛稱で、ここは三人稱として使つている。特にさす人があるのではなく、稻刈の娘子を、漠然とさしている。ヤラムは、連體形。
【評語】稻刈の娘子に黄葉を折つて遣ろうというまでで、格別の事はなく、ただ黄葉に興ずる心が詠まれているだけである。それに稻刈の娘子に興味を持つたのが、特色といえよう。
 
登2筑波嶺1爲2※[女+燿の旁]歌會1日作歌一首 并2短歌1
 
筑波嶺に登りて※[女+燿の旁]歌會《かがひ》をせし日に作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
(365)【釋】※[女+燿の旁]歌會 カガヒ。※[女+燿の旁]は、玉篇に「徒了徒卿二切、往來貌」。※[女+燿の旁]歌は、文選の魏都賦に「或明發而※[女+燿の旁]歌」。李善の註に、「※[女+燿の旁]歌、巴土人歌也」とある。左註に、「※[女+燿の旁]歌者、東俗語曰2賀我比1」とあり、歌中に「加賀布※[女+燿の旁]歌爾」とあつて、カガヒと讀むべきことが知られる。常陸國風土記、香島郡童子女松原の條に、「※[女+燿の旁]歌之會」に註して「俗云2宇太我岐1、又云2加我※[田+比]1也」とあり、ウタガキともいう。ウタガキは、日本書紀武烈天皇の卷には、歌場の字に當て、また攝津國風土記、古事記などには歌垣の字に當てて訓している。男女會集して遊樂し歌をかけ合せる行事である。筑波山の歌垣の事は、常陸國風土記に見えているから、次にその文を出す。
【參考】筑波山の行事。
それ筑波の岳は、高く雲に秀で、最頂《いただき》は、西の峰|※[山+爭]※[山+榮]《さが》しく、これを雄神といひて登臨《のぼ》らしめず。但し東の峰は、四方盤石にして昇り降り決屹《さが》しく、その側に流泉あり、冬も夏も絶えず。坂より東の諸國の男女、春の花の開《さ》ける時、秋の葉の黄《もみ》つ節《とき》、相携《たづさ》ひ駢〓《つらな》り、飲食を齎《もたら》し、騎に歩に登臨り、遊樂び栖遲《す》めり。その唱《うた》に曰はく、
筑波嶺に會はむと云ひし子は誰が言聞けばかみ寐《ね》會はずけむ
筑波嶺に廬《いほ》りて妻無しにわが寐む夜ろは早も明けぬかも
詠ふ歌|甚《いと》多くして載車《のする》にあへず。世の諺に曰はく、筑波峰の會に娉《つまどひ》の財を得ざるものは、兒女とせずといへり。(常陸國風土記、もと漢文)
 
(366)1759  鷲《わし》の住む 筑波の山の
 裳羽服津《もはきづ》の その津の上に、
 率《あとも》ひて 未通女《をとめ》壯士《をとこ》の
 往き集《つど》ひ ※[女+燿の旁]歌《かが》ふ※[女+燿の旁]歌《かがひ》に、
 他妻《ひとづま》に 吾も交《まじ》らむ。
 わが妻に 他《ひと》も言問《ことと》へ。」
 この山を 領《うしは》く神の
 昔より 禁《いさ》めぬ行事《わざ》ぞ。
 今日のみは めぐしもな見そ。
 言《こと》も咎むな。」【※[女+燿の旁]歌は、東の俗の語にかがひといふ。】
 
 鷲住《ワシノスム》 筑波乃山之《ツクハノヤマノ》
 裳羽服津乃《モハキヅノ》 其津乃上尓《ソノツノウヘニ》
 率而《アトモヒテ》 未通女壯士之《ヲトメヲトコノ》
 往集《ユキツドヒ》 加賀布※[女+燿の旁]歌尓《カガフカガヒニ》
 他妻尓《ヒトヅマニ》 吾毛交牟《ワレモマジラム》
 吾妻尓《ワガツマニ》 他毛言問《ヒトモコトトヘ》
 此山乎《コノヤマヲ》 牛掃神之《ウシハクカミノ》
 從來《ムカシヨリ》 不v行事叙《イサメヌワザゾ》
 今日耳者《ケフノミハ》 目串毛勿見《メグシモナミソ》
 事毛咎莫《コトモトガムナ》【※[女+燿の旁]歌者、東俗語曰2賀我比1】
 
【譯】鷲の住む筑波の山の、裳羽服津の、その津の上で、誘い合つて娘子や壯士の、行き集まつて、歌をかけ合う※[女+燿の旁]歌に、人の妻に自分も通おう。わたしの妻に人も物いうがよい。この山を領している神が、今までも禁じないことだ。今日ばかりはかわいと見るな。事も咎めるな。
【構成】第一段、人モ言問ヘまで。筑波山に登つて※[女+燿の旁]歌をすることを述べる。第二段、終りまで。神の禁じない行事であることをいう。
【釋】鷲住 ワシノスム。枕詞。筑波山を叙述説明する。往時森林繁茂し、實際にワシが住んでいたのだろう。「筑波禰爾《ヅクハネニ》 可加奈久和之能《カカナケワシノ》」(卷十四、三三九〇)。
(367) 裳羽服津乃 モハキヅノ。モハキヅは、筑波山中の地名であろうが、所在不明。これをモハキヅと讀むのは、訓讀であるが、集中、羽を字音假字としてウの音に當てている以外には、他の三字は音讀の例が無いから、モハキヅの訓は、まず動かないであろう。ツは、「隱津之《コモリツノ》 澤立見爾有《サワタツミニアル》 石根從毛《イハネユモ》」(卷十一、二七九四)の如く、かならずしも船つきでなく、水邊の意に使用されていると見られる例もあり、モハキ津も、そういうふうに解してよいと思う。語義については、代匠記精撰本に「裳羽眼津は、此神ニ詣ツル者、此處ニシテ肅敬シテ裳ヲモハク故ニ裳帶津《モハキツ》ト云意ニ名付タル歟。津ハ集ル處ヲ云ヘリ」とある。モハキについては、裳および服の字を使つているのは、語義の考慮に入れて然るべく、裳は、婦人の腰部に纏う衣裳であることを思えば、ハキは、それを著る意だろうとの推量がされる。類聚名義抄には、著帶佩などの字にハクの訓がある。モハキの語は、日本靈異記下卷第三十八條の歌謠に「法師等乎裙著□侮《アナヅリソ》、曾之中要帶薦槌懸有《ソガナカニコシオビコモヅチサガレリ》」というのがある。裙は、衣服の下部をいう字であるが、本集では「紅《クレナヰノ》 玉裙須蘇延《タマモスソヒキ》 往者誰妻《ユクハタガツマ》」(卷九、一六七二)の如く、裳の義に使用されている。この靈異記の歌謠の意は、法師等を裳はきと侮るな。その裳の中に、腰帶や薦槌がさがつているという意である。裳は、婦人以外では、法師がこれをつけたことは、催馬樂《さいばら》の老鼠にも、「西寺の老鼠、若鼠、御《おん》裳つんづ、袈裟つんづ、法師に申さむ、師に申せ」の句があるので確められる。そこで法師の裳の中には、薦槌がさがつているというので、モハキ津をこれに準じて考えれば、筑波山の女峰の陰部であることが知られる。山の凹處を陰部に比していうことは、古事記に、安寧天皇の山陵を畝火山之美冨登にありとし、これを日本書紀に畝傍山の南の御陰の井の上の陵と記している。凹處で水の出る處だからモハキ津というと考えられる。その津の上方の處で、※[女+燿の旁]歌の會が催されたのである。女體に對して崇信する思想が、根柢を成しているのだろう。
 其津乃上尓 ソノツノウヘニ。モハキ津の上の地點をさしている。いくらかの平地があるのだろう。
(368) 率而 アトモヒテ。誘い合つて。「足利思代《アトモヒテ》 榜行舟薄《コギユクフネハ》」(卷九、一七一八)。
 加賀布※[女+燿の旁]歌尓 カガフカガヒニ。カガフは、動詞カグが、ハ行に再活用したものと見れば、「歸香具禮《ユキカグレ》 人乃言時《ヒトノイフトキ》」(卷九、一八〇七)のカグレとの關係が考えられる。またカケアフの約言とも言われている。カケアフは、歌を懸け合う義であるが、その名詞形に、※[女+燿の旁]歌の字を當てているのを見れば、あながちに否定もできかねる。この行事には、歌が重要な位置を占めているようである。
 牛掃神之 ウシハクカミノ。ウシハクは、領する。カミは山の神靈をいう。
 目串毛勿見 メグシモナミソ。メグシは、愛憐すべくある意の形容詞。めぐしとは見るなの意。句切。
 東俗語 アヅマノヨノコト。東國の語を註している。俗語は、民間の語の意に使われ、或る場合には、漢語に對して國語をいい、また或る場合には、文語に對して口語を意味する。「東俗語云、可豆思賀能麻末能弖胡《カヅシカノママノテゴ》」(卷三、四三一)、「越俗語、東風謂2之|安由乃可是《アユノカゼ》1也」(卷十七、四〇一七)。
【評語】東國に存在した特殊風俗の資料として貴重である。作者高橋の蟲麻呂が、敍事的な方面に興味をもつていたので、その行事の内容が傳わつたのである。蟲麻呂の作品には、倫理的な批判はなく、事實をすなおに感受する所があつて、それがかような題材をも取り扱うゆえでもあり、またそれがいやみに落ちないゆえでもある。この歌は、感興に乘ることは十分とはいえないが、それは題材の性質によるもので、やむを得ない所である。終りの方に短い文章を重ねた表現は有效である。
 
反歌
 
1760 男《を》神に 雲立ち登り 時雨ふり
 沾《ぬ》れ通《とほ》るとも、われ還《かへ》らめや。
 
 男神尓《ヲガミニ》 雲立登《クモタチノボリ》 斯具禮零《シグレフリ》
 沾通友《ヌレトホルトモ》 吾將v反哉《ワレカヘラメヤ》
(369)【譯】男峰に雲が立ち渡つて、時雨が降つて濡れ通つても、わたしは歸りはしない。
【釋】男神尓 ヲガミニ。ヲノカミニ(藍)。ヲガミは、筑波の男女二峰のうち、男峰の方を、ただちに男神と云つている。
 沾通友 ヌレトホルトモ。衣服が濡れて中まで通つても。
【評語】長歌には、主として女峰の方面が説明されていると見られるので、反歌ではこれを補つて男峰を説いている。季節も示され、感興の盡きせぬもののあることを敍して、長歌の叙事説明に過ぎたのを補つている。
 
右件歌者、高橋連蟲麻呂歌集中出
 
【釋】右件歌者 ミギノクダリノウタハ。何首とも記していないが、上總の末の珠名の娘子を詠める歌以下をさすものと考えられる。いずれも高橋の蟲麻呂の作と認められる。蟲麻呂は、既にしばしば出て、傳記は明瞭でない。以上の歌は、大伴の旅人が※[手偏+僉]税使として常陸の國に下つた歌があり、また藤原の宇合の常陸の守時代とも推量されているので、それらは奈良時代の初めの頃に屬するのであろう。
 
詠2鳴鹿1一首 并2短歌1
 
鳴鹿を詠める一首 【短歌を并はせたり。】
 
【釋】詠鳴鹿 シカヲヨメル。鳴鹿は、字に即しては、ナクシカであるが、鹿の聲を詠んでいるので、鳴の字を添えたのであろう。「湯原王鳴鹿歌一首」(卷八、一五五〇)、「大伴宿祢家持鹿鳴歌二首」(同、一六〇二)。
 
1761 三諸《みもろ》の 神奈備山《かむなびやま》に
(370) 立ち向かふ み垣《かき》の山に、
 秋はぎの 妻をまかむと、
 朝|月夜《づくよ》 明けまく惜しみ、
 あしひきの 山彦《やまびこ》とよめ
 喚《よ》び立て鳴くも。
 
 三諸之《ミモロノ》神邊山尓《カムナビヤマニ》
 立向《タチムカフ》 三垣乃山尓《ミカキノヤマニ》
 秋〓子之《アキハギノ》 妻卷六跡《ツマヲマカムト》
 朝月夜《アサヅクヨ》 明卷鴦視《アケマクヲシミ》
 足日木乃《アシヒキノ》 山響令v動《ヤマビコトヨメ》
 喚立鳴毛《ヨビタテナクモ》
 
【譯】神社である神奈備山に向き合つている宮處の垣の山に、秋ハギの妻を抱こうと、朝の月夜の明けるのを惜しんで、山に反響させて、鹿が妻を呼び立てて鳴いている。
【構成】全篇一文。
【釋】三諸之神邊山尓 ミモロノカムナビヤマニ。三諸の神奈備山は、明日香の神奈備で、明日香川に臨んでいる雷の岡をいう。邊の字は、「未通女等者《ヲトメラハ》 赤裳須素引《アカモスソヒク》 清濱備乎《キヨキハマビヲ》」(卷六、一〇〇一)の如く、邊の意をビともいうので、ビの訓假字として使用している。
 立向 タチムカフ。向き合つている。
 三垣乃山尓 ミカキノヤマニ。ミカキは、皇居の垣をいう。ここは皇居の垣をなしている山である。明日香の清御原の宮の垣を成している山に。
 秋〓子之妻卷六跡 アキハギノツマヲマカムト。鹿はハギに親しいものであるから、ハギをもつて鹿の妻とする構想のもとに歌われている句である。この考え方は、當時の人のあいだに行われていた考え方であつたであろう。「吾岳爾《ワガヲカニ》 棹壯鹿來鳴《サヲシカキナク》 先芽之《ハツハギノ》 花嬬問爾《ハナヅマトヒニ》 來鳴棹壯鹿《キナクサヲシカ》」(卷八、一五四一)など、例歌は多い。マカムは、手もて卷こうの意。
(371) 朝月夜 アサヅクヨ。朝まで殘つている月夜。
 喚立鳴毛 ヨビタテナクモ。鹿がその妻を呼び立てて鳴いている意。
【評語】鹿の語を使用しないで詠んでいるのは、鳴く鹿に感興を覺えて詠まれたからである。内容は單純だが、美しい歌である。明日香の清御原の宮の時代の歌である。
 
反歌
 
1762 明日《あす》の夕《よひ》 逢はざらめやも。
 あしひきの 山彦とよめ
 呼び立て哭《な》くも。
 
 明日之夕《アスノヨヒ》 不v相有八方《アハザラメヤモ》
 足日木乃《アシヒキノ》 山彦令v動《ヤマビコトヨメ》
 呼立哭毛《ヨビタテナクモ》
 
【譯】明日の夜、逢はないことはないだろう。それだのに山に反響させて、男鹿が呼び立てて鳴いている。
【評語】上二句を補つただけで、三句以下は、長歌の末を繰り返しそれと密接な關係を保つているのは、古い形で、口誦歌謠の性質を遺存している。これも鹿の語を出していない。
 
右件歌、或云、柿本朝臣人麻呂作
 
【釋】或云柿本朝臣人麻呂作 アルヒトノイハク、カキノモトノアソミヒトマロノツクレル。これも人麻呂の作という別傳もあるというだけで、肯定にも否定にも、他に材料が無い。
 
沙弥女王歌一首
 
(372)【釋】沙弥女王 サミノオホキミ。傳未詳。
 
1763 倉橋の 山を高みか、
 夜隱《よごもり》に 出で來《く》る月の
 片待ち難《がた》き。
 
 倉橋之《クラハシノ》 山乎高歟《ヤマヲタカミカ》
 夜※[穴/牛]尓《ヨゴモリニ》 出來月之《イデクルツキノ》
 片待難《カタマチガタキ》
 
【譯】倉橋の山が高くてか、夜おそく出てくる月の待ち遠いことです。
【釋】倉橋之山乎高歟 クラハシノヤマヲタカミカ。クラハシノ山は、磯城郡倉橋の東方の山。倉橋山が高いゆえか。
 夜※[穴/牛]尓 ヨゴモリニ。ヨゴモリは、夜の後半、明け方に近い部分をいう。「夜隱爾《ヨゴモリニ》 出來月乃《イデクルツキノ》」(卷三、二九〇參照)。
 片待難 カタマチガタキ。ひたすら待つに困難である。待ちかねる。
【評語】左註にあるように間人の大浦の歌と、末句が異なるだけである。大浦の歌の方が情趣があり、この歌の方がわかりやすい。
【參考】類歌。
  倉橋の山を高みか夜ごもりに出で來る月の光ともしき。(卷三、二九〇、間人の大浦)
 
右一首、間人宿祢大浦歌中既見。但末一句相換、亦作歌兩主、不v敢2正指1。因以累載。
 
右の一首は、間人《はしびと》の宿祢大浦《すくねおほうら》の歌の中に既に見えたり。但し末の一句相換り、また作歌の兩《ふたり》の主、正(373)しく指すに敢《あ》へず。因りて累ね載す。
 
【釋】間人宿祢大浦歌中既見 ハシビトノスクネオホウラノウタノナカニスデニミエタリ。卷の三、二九〇の歌をさす。
 
七夕歌一首 并2短歌1
 
【釋】七夕歌 ナヌカノヨヒノウタ。七夕は、七月七日の夕で、この夜、牽牛星が、天の川を渡つて織女星に逢うと傳えている。
 
1764 ひさかたの 天《あま》の河瀬に、
 上《かみ》つ瀬に 珠橋《たまはし》渡し
 下《しも》つ瀬に 船浮け居《す》ゑ、
 雨|降《ふ》りて 風吹かずとも、
 風吹きて 雨降らずとも、
 裳《も》濕《ぬ》らさず 息《や》まず來ませと、
 玉橋わたす。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 天漢尓《アマノカハセニ》
 上瀬尓《カミツセニ》 珠橋渡之《タマハシワタシ》
 下湍尓《シモツセニ》 船浮居《フネウケスヱ》
 雨零而《アメフリテ》 風不v吹登毛《カゼフカズトモ》
 風吹而《カゼフキテ》 雨不v落等物《アメフラズトモ》
 裳不v令v濕《モヌラサズ》 不v息來益常《ヤマズキマセト》
 玉橋渡須《タマハシワタス》
 
【譯】天の川に、上流の瀬に美しい橋をかけ、下流の瀬に船を浮かべて置いて、雨が降つて風が吹かないでも、風が吹いて雨が降らないでも、裳を濡らさずに、やまずにいらつしやいと、美しい橋をかけます。
【釋】天漢尓 アマノカハセニ。漢は、一字でアマノガハの意を成す字であるが、更に天の字を加えて、その(374)意をあきらかにしている。この天漢尓の三字は、七音の句の處に置かれているが、このままでは、アマノガハニと讀むべきであるが、ヒサカタノの枕詞を受けては、六音では調子が整わない。そこで一音を補うとなると、アマノカハラニ、アマノカハセニ、アマノカハツニなどが考えられる。從來は、アマノカハラニと讀んでいたのであるが、カハラは、河原で、河中の廣い陸地をいい、この歌のように、上つ瀬、下つ瀬と受けるのに適しない。そこでカハセ、またはカハツが選まれるが、「久方乃《ヒサカタノ》 漢瀬尓《アマノカハセニ》 船泛而《フネウケテ》」(卷八、一五一九)、また「久堅之《ヒサカタノ》 天河津爾《アマノカハヅニ》 舟泛而《フネウケテ》」(卷十、二〇七〇)と、どちらも、ヒサカタノを受け、舟浮ケテと續く例が存している。今は、下に、上つ瀬、下つ瀬とあり、そのすべてが天の川の瀬であるのだから、セの一音を補つて、天の川瀬にとしておく。
 上瀬尓 カミツセニ。上流の瀬に。上の天ノ川瀬ニを受けて、以下その上流および下流の瀬に分けて敍述している。
 珠橋渡之 タマハシワタシ。タマハシは、橋の美稱。朱ぬりの橋などを想像しているだろう。
 雨零而風不吹登毛 アメフリテカゼフカズトモ。雨降リテに重點があり、風吹カズトモは添えていうだけである。但しこの歌は、吟誦された歌を聞いて記し留めておいたものの如く、他にも疑問の句があり、この句も、雨降リテ風吹カストモと歌つたのを誤解して不の字を當てて記したものであるかも知れない。次の句同斷。
 裳不令濕 モヌラサズ。裳は、女子の衣裳であるが、この歌は、織女に代つて詠んでいるから、この句は不審である。意は、河を徒歩で渡らないでの意である。
【評語】美しい詞句でできており、調子に愛すべきものがあるが、部分には、疑問があり、傳來を重ねているらしいことが想像される。反歌によつても、織女星に代つて詠んでいるのだろうと考えられる。
 
(375)反歌
 
1765 天漢《あまのがは》 霧立ち渡る。
 今日今日と わが待つ君し、
 船出《ふなで》すらしも。
 
 天漢《アマノガハ》 霧立渡《キリタチワタル》
 且今日且今日《ケフケフト》 吾待君之《ワガマツキミシ》
 船出爲等霜《フナデスラシモ》
 
【譯】天の川に霧が立ち渡る。今日か今日かとわたしの待つている君が船出をするらしい。
【釋】且今日且今日 ケフケフト。且は、或るいはの意に添えて書き、今日か今日かの意をあらわしている。「且今日且今日《ケフケフト》 吾待君者《ワガマヅキミハ》」(卷二、二二四)。
【評語】波が騷ぎ、船を榜ぐなどで、水を刺戟すれば、霧が立つのである。その霧の立つによつて、牽牛の船の榜ぎ出たことを推量している。古人の自然觀照のくわしいことを見るべきである。織女星に代つて詠んでいる。
 
右件歌、或云、中衛大將藤原北卿宅作也
 
右の件の歌は、或る人の云はく、中衛の大將藤原の北の卿の宅にて作れるといへり。
 
【釋】中衛大將藤原北卿宅 チユウヱノダイシヤウフヂハラノキタノマヘツギミノイヘ。中衛は、神龜五年八月、始めて中衛府を置き、大同二年、四月、右近衛とした。藤原の北の卿は、藤原の房前。房前が中衛の大將となつたのは、いつかわからないが、卷の五の八一一の文章には、天平元年十月に、房前のことを中衛と稱している。その房前の家での七夕の會の歌と傳えるのである。その會の時に、房前が中衛の大將であつたのか、(376)傳えた時の官名であつたのかもわからない。
 
相聞
 
【釋】相聞 サウモニ。相聞の歌としては、長歌五首、短歌二十四首を收めている。男女關係の歌のほかに、男子どうしの贈答と見える歌も相當にある。田邊正男氏の説に、相はサグの音の字だから、相聞をサガモニと讀むべきだという。
 
振田向宿称、退2筑紫國1時歌一首
 
振《ふる》の田向《たむけ》の宿称の、筑紫の國に退りし時の歌一首
 
【釋】振田向宿祢 フルノタムケノスクネ。傳未詳。フルは、天武天皇十三年十二月に、布留の連に宿称を賜わつた、その氏であろう。田向は名か。訓もタムケかタムキかタムカヒか不明。
 退筑紫國時歌 ツクシノクニニマカリシトキノウタ。ツクシは、九州の北方、後の筑前筑後の兩國の地をいうが、歌には豐國の香春が詠まれているから、廣く北九州の意に使用しているのだろう。日本書紀神武天皇の卷には、筑紫の國の菟狹《うさ》とあり、これは今の大分縣の宇佐と考えられるから、その方面をも、ツクシの國と稱したのだろう。元來ツクシの地名は、内海の海上から、九州の地を眺めて稱したものだろうが、ここの用法は、その古意に近い。マカルは、京から筑紫をさして退出する意。
 
1766 吾妹子は 釧《くしろ》にあらなむ。
 左手《ひだりて》の わが奥の手に
(377) 纏《ま》きて去《い》なましを。
 
 吾妹兒者《ワギモコハ》 久志呂尓有奈武《クシロニアラナム》
 左手乃《ヒダリテノ》 吾奥手尓《ワガオクノテニ》
 纏而去麻師乎《マキテイナマシヲ》
 
【譯】妻は、わたしの釧であるとよい。左手であるわたしの奥の手に纏いて行くものを。
【釋】久志呂尓有奈武 クシロニアラナム。クシロは、腕輪で、玉、貝、石、銅などを材料としている。貝釧は、石器時代から使用され、貝を輪の形に切つたものであるが、玉釧は、丸玉、小玉の類を緒につらぬいて二三十卷いたものと推定されている。ナムは、願望の助動詞。句切。
 左手乃吾奥手二 ヒダリテノワガオクノテニ。オクノテは、手の奥の方ではなく、ただ手を貴ぶ意にいう。兩手のうち特に左手を尊重し、これを左手の奥の手と言つたのである。事實は手首に纏いたのだろう。
【評語】玉だつたら手に纏いて行こうという内容の歌は珍しくはないが、この歌では、釧や、奥の手のような特殊の語が使用されて、目新しく感じられる。男子がクシロをつけるのは、既に古風になつていたのだろう。それらの比較的古い風俗が、この歌の時代を思わせ、そうしてかえつて目新しさを感じさせたのである。
 
拔氣大首、任2筑紫1時、娶2豐前國娘子※[糸+刃]兒1作歌三首
 
拔氣《ぬきけ》の大首《おほびと》の、筑紫に任《ま》けらえし時、豐前の國の娘子《をとめ》紐《ひも》の兒《こ》を娶りて作れる歌三首
 
【釋】拔氣大首 ヌキケノオホビト。傳未詳。拔氣は氏か。訓法も不明。大首はカバネ、オビトの原形であろう。
 任筑紫時 ツクシニマケラエシトキ。歌詞には、豐國ノ香春は吾家とあり、多分、豐前の國の役人となつて行つたのだろう。筑紫は、北九州の稱で、豐國をも含めていうこと、前の歌の題詞に説けるが如くである。
 
1767 豐国《とよくに》の 香春《かはる》は吾宅《わぎへ》、
(378) 紐《ひも》の兒《こ》に いつがり居《を》れば
 香春《かはる》は吾家《わぎへ》。
 
 豐國乃《トヨクニノ》 加波流波吾宅《カハルハワギヘ》
 紐兒尓《ヒモノコニ》 伊都我里座者《イツガリヲレバ》
 革流波吾家《カハルハワギヘ》
 
【譯】豐國の香春は、わたしの家だ。紐の兒と一所にいると、香春はわたしの家だ。
【釋】豐國乃加波流波吾宅 トヨクニノカハルハワギヘ。カハルは、福岡縣田川郡|香春《かわら》町。もと豐前の國に屬していた。ワギヘは、ワガイヘの約言。我家なりの意。句切。
 伊都我里座者 イツガリヲレバ。イツガリは、イは接頭語。ツガリは、連繋する意。倭名類聚鈔に「※[金+巣]、唐韻云、※[金+巣] 蘇果反、日本紀私記云、加奈都賀利 鐵※[金+巣]也」とあるのは、金屬のツガリの意である。「比毛能緒能《ヒモノヲノ》 移都我利安比弖《イツガリアヒテ》」(卷十八、四一〇六)。これによつても、イツガリが、紐の縁語であることがわかる。
【評語】二句と五句とに同句を繰り返して、躍動的に歡喜の情を表現している。イツガリヲレバは、紐の兒の名の縁語だが、露骨で、下品である。香春ハ我家の句は、力強く簡潔に、他郷でもわが家のように思う意を云い得ている。歌われる歌として情熱の盛りあがつている作である。
 
1768 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の早田《わさだ》の 穗には出でず、
 心のうちに 戀ふるこの頃。
 
 石上《イソノカミ》 振乃早田乃《フルノワサダノ》 穗尓波不出《ホニハイデズ》
 心中尓《ココロノウチニ》 戀流比日《コフルコノゴロ》
 
【譯】石上の布留の早稻の田のように、穗には出ないで、心の中で戀しているこの頃だ。
【釋】石上振乃早田乃 イソノカミフルノワサダノ。以上二句、序詞。早田の稻は、早く穗に出るが、そのようには穗に出ない意に、懸かつている。イソノカミフルは、奈良縣山邊郡。
 穗尓波不出 ホニハイデズ。色にあらわさない意を、稻が穗に出ないという形であらわしている。
(379)【評語】歌全體の内容が平凡であり、序詞も類型的である。内容からいえば、紐の兒を得る前の歌らしいが、大和の國の地名を使用しているのは、歸つてからの歌だとも見られる。全然別の場合の作であるかもしれない。いずれにしても、前の歌ほどの活氣は見られない。
 
1769 かくのみし 戀ひし渡れば、
 たまきはる 命も吾は
 惜しけくもなし。
 
 如v是耳志《カクノミシ》 戀思度者《コヒシワタレバ》
 靈刻《タマキハル》 命毛吾波《イノチモワレハ》
 惜雲奈師《ヲシケクモナシ》
 
【譯】かようにばかり戀して過すので、命もわたしは惜しいこともない。
【釋】戀思度者 コヒシワタレバ。シは、強意の助詞。戀い渡ればの意を、シを使つて、戀ヒに力を入れたのである。
 靈刻 タマキハル。枕詞。靈刻と書いたのは、靈を切りちぢめる意に書いたのだろうか。
【評語】思いつめた氣もちは、表現されている。戀のために命を惜しとしない意の歌は、類歌もあり、常用されていたものと思われる。この歌は、逢つてから後の歌らしい。
【參考】類句、命も惜しけくもなし。
  靈ちはふ神も吾をばうつてこそ。しゑや命の惜しけくも無し(卷十一、二六六一)
  君に逢はず久しくなりぬ。玉の緒の長き命の惜しけくも無し(卷十二、三〇八二)
  吾妹子に戀ふるに吾はたまきはる短き命も惜しけくも無し(卷十五、三七四四)
 
大神大夫、任2長門守1時、集2三輪河邊1宴歌二首
 
(380)大神《おほみわ》の大夫の長門の守に任《ま》けらえし時、三輪河の邊《ほとり》に集《つど》ひて宴《うたげ》せる歌二首
 
【釋】大神大夫 オホミワノマヘツギミ。大神の高市《たけち》麻呂のこと。日本書紀に大三輪の朝臣高市麻呂、三輪の君高市麻呂、續日本紀に大神の朝臣高市麻呂と書いている。大寶二年正月、長門の守に任ぜられた。(卷一、四四左註參照)。
 三輪河 ミワガハ。泊瀬川の、三輪附近を流れる時の稱。
 
1770 三諸《みもろ》の 神の帶ばせる 泊瀬《はつせ》河、
 水脈《みを》し絶えずは、われ忘れめや。
 
 三諸乃《ミモロノ》 神能於婆勢流《カミノオバセル》 泊瀬河《ハツセガハ》
 水尾之不v斷者《ミヲシタエズハ》 吾忘禮米也《ワレワスレメヤ》
 
【譯】三諸山の神が、帶にしておいでになる泊瀬川よ、水の流が絶えないならば、わたしは忘れないでしよう。
【釋】三諸乃神能於婆勢流 ミモロノカミノオバセル。ミモロノカミは、三輪山をいう。山そのものを神としている。オバセルは、帶ばせるで、山麓を流れる川の説明である。
 水尾之不斷者 ミヲシタエズハ。ミヲは、水脈、水流。河でも海でも特に水の盛り上る筋をミヲという。タエズハは、絶えないならばで、絶えない限りはの意。
【評語】泊瀬川の説明に特色があり、神かけて誓うような調子の高い歌である。多分、大神の高市麻呂の作だろう。日本書紀敏達天皇十年二月の條に、蝦夷《えみし》の魁帥綾糟等《ひとこのかみあやかすら》が、泊瀬の中流におり立つて、三諸の岳に向かつて、漱水《くちそそ》ぎて盟を立てて變らないことを誓つたことが見えている。
 
1771 後《おく》れ居て 吾《われ》はや戀ひむ。
 春霞 たなびく山を
(381) 君が越えいなば。
 
 於久禮居而《オクレヰテ》 吾波也將v戀《ワレハヤコヒム》
 春霞《ハルガスミ》 多奈妣久山乎《タナビクヤマヲ》
 君之越去者《キミガコエイナバ》
 
【譯】あとに殘つていて、わたしが戀うことでしよう。春霞のたなびく山を、あなたが越えて行つたら。
【釋】吾波也將戀 ワレハヤコヒム。ヤは、感動の助詞。かようなハヤの用例は、「淡海之海《アフミノウミ》 浪恐登《ナミカシコミト》 風守《カゼマモリ》 年者也將2經去1《トシハヤヘナム》 榜者無二《コグトハナシニ》」(卷七、一三九〇)の如きがある。これによつても、吾ハが一團を成して、これにヤが接續していることがわかる。これらのヤは、係助詞であるが、疑問ではなく、強調の意が強くなつており、我がか、年がかの意になつている。これは、古事記中卷の「阿禮波夜惠奴《アレハヤヱヌ》」「阿豆麻波夜《アヅマハヤ》」のハヤであり、「吾者毛也安見兒得有《アハモヤヤスミコエタリ》」(卷二、九五)のヤでもある。
【評語】春霞たなびく山と、行くべき方の山を敍述したのは、情趣がある。すぐ續いて阿倍の大夫の類歌もあり、「おくれゐて吾はや戀ひむ」の如き句は、慣用句となつていたのだろう。
【參考】類歌。
  おくれゐて我はや戀ひむ。印南野の秋はぎ見つつ去なむ子ゆゑに(卷九、一七七二)
  おくれゐて我が戀ひ居れば白雲のたなびく山を今日か越ゆらむ(同、一六八一)
  明日よりは我は戀ひむな。名欲山石ふみならし君が越えいなば(同、一七七八)
  朝霞たなびく山を越えていなば我は戀ひむな。あはむ日までに(卷十二、三一八八)
 
右二首、古集中出
 
【釋】古集 フルキシフ。卷の七、一二四六の左註にも、古集とある。古歌集に同じであろう。ここの引用は、特に題詞を有しており、その作歌年代のほぼ推知される點で注意される。
 
(382)大神大夫、任2筑紫國1時、阿倍大夫作歌一首
 
大神《おほみわ》の大夫の筑紫の國に任《ま》けらえし時、阿倍の大夫の作れる歌一首
 
【釋】大神大夫 オホミワノマヘツギミ。これも大神の高市麻呂か。高市麻呂が筑紫の國の官に任命されたことは傳わらない。
 阿倍大夫 アベノマヘツギミ。何人か不明。高市麻呂とほぼ時代を等しくして、安倍の廣庭がある。天平四年二月、七十四歳で薨じているから、慶雲三年二月に、五十歳で卒したと傳える高市麻呂にくらべて、二歳の年少である。
 
1772 後《おく》れ居て 吾《われ》はや戀ひむ。
 稻見《いなみ》野の 秋はぎ見つつ
 去《い》なむ子ゆゑに。
 
 於久禮居而《オクレヰテ》 吾者哉將v戀《ワレハヤコヒム》
 稻見野乃《イナミノノ》 秋〓子見都津《アキハギミツツ》
 去奈武子故尓《イナムコユヱニ》
 
【譯】あとに殘つていて、わたしは戀うことでしよう。稻見野の秋ハギを見ながら、行くでしようその子ゆえに。
【釋】稻見野乃 イナミノノ。イナミ野は、兵庫縣印南郡の野。
 去奈武子故尓 イナムコユヱニ。コは、普通女子に對していう語である。ここは、大神の大夫に同行するその妻などをさしているのだろう。その人は、多分作者の縁者なのだろう。
【評語】前の歌と同じ形の歌で、ただ秋になつているだけの差違である。かような形の歌が歌い傳えられて、時に臨んで一部を改めるだけで通用していたものと思われる。三句以下、稻見野の秋ハギを點出しただけに、(383)若干の風趣の感じられる歌である。
 
獻2弓削皇子1歌一首
 
【釋】獻弓削皇子歌 ユゲノミコニタテマツレルウタ。以下相聞の歌に、獻るというのは、作者が自分の心を歌によつて申すというに限らず、もつと廣く解してよいと思う。世間ばなしを申しあげるような意味で、自分の歌を獻つて、かような歌はいかがですかというほどの輕いものもあるのだろう。その中には皇子の生活に觸れているものもあつて、感興が呼び起されるのである。雜歌の中における同種の題詞の歌においても、そういう傾向は認められるが、相聞の歌は、元來人事を扱つているので、その趣が一層濃厚なのである。
 
1773 神南備《かむなび》の 神依《かみよ》せ板《いた》に する杉の、
 念《おも》ひも過ぎず。
 戀のしげきに。
 
 神南備《カムナビノ》 神《カミ》依《ヨセ・ヨリ》板尓《イタニ》 爲杉乃《スルスギノ》
 念母不v過《オモヒモスギズ》
 戀之茂尓《コヒノシゲキニ》
 
【譯】神社で、神寄せ板にする杉の名のように、思いも過ぎ去らない。戀が繁くあるので。
【釋】神南備神依板尓爲杉乃 カムナビノカミヨセイタニスルスギノ。以上三句、序詞。同音によつて、過ギズを引き起している。カムナビは、神靈のある森。ここは、明日香の神南備か、三輪山かのうちであろう。どちらも杉には縁がある。カミヨセイタは、從來カミヨリイタと讀まれていたが、板に神が寄るのではなくして、神を寄せるために板をたたくのだから、カミヨセイタである。その板をたたいて祈ると神が寄るとする信仰である。これは神事を行うに當つて、板をたたいて神を招請したのであろう。略解に、宣長の説を引いて「杉を神より板にするといふ事は、琴の板とて、杉の板をたたきて神を請招する事あり、今も伊勢の祭禮には、此事(384)有、琴頭《ことがみ》に神の御影の降り給ふなり」とある。古事記中卷には、仲哀天皇が琴をお彈きになつて、神寄せをす
 
る記事がある。杉から思ヒ過グに續く例には、「石上《イソノカミ》 振乃山有《フルノヤマナル》 杉村乃《スギムラノ》 思過倍吉《オモヒスグベキ》 君爾有名國《キミニアラナクニ》」(卷三、四二二)の如きがある。
 念母不過 オモヒモスギズ。物思いが過ぎ去らない。思わなくならない。句切。
【評語】神奈備の神よせ板を持つてきたのは、珍しい。これだけで相手の注意をひくに十分である。人麻呂集には、神事に關する材料が比較的に多く、これもその一つである。杉は、直立した巨樹が多いので、特に神聖な樹木として感じられていた。「三諸の神の神杉」(卷二、一五六)の歌も、そういう信仰に觸れているのだろうが、惜しいことに、その歌は、三句以下が難解で、眞意を得ることができない。
 
獻2舍人皇子1歌二首
 
1774 たらちねの 母の命《みこと》との 言《こと》にあれば、
 年の緒長く 憑《たの》み過《す》ぎなむ。
 
 垂乳根乃《タラチネノ》 母之命乃《ハハノミコトノ》 言尓有者《コトニアレバ》
 年緒長《トシノヲナガク》 憑過武也《タノミスギナム》
 
【譯】育てて下すつたお母さんのお言葉だから、長い年月を頼みにして過しましよう。
【釋】母之命乃 ハハノミコトノ。ミコトは、尊稱。
 言尓有者 コトニアレバ。コトニアラハ(元)。コトナレバ(童)、コトニアレバ(新訓)。有を未然形に讀むのと、已然形に讀むのと、兩説があつて、どちらでも通じないものでもない。これは四句以下の訓法によつて決定されるべき問題であつて、今ここに頼みにして過すことにしようの意とすれば、已然に讀む方がうち合うのである。なお五句の解の條參照。
(385) 年緒長 トシノヲナガク。トシノヲは、年の續くのを、緒にたとえた云い方で、この句も多く見えている慣用句である。
 憑過武也 タノミスギナム。タノミスキメヤ(元)、タノミスキナム(元赭)、タノメスキメヤ(神)、タノメスキムヤ(西)。文字表示が不十分で、諸訓があるが、也を讀むか讀まないかの二種にわかれる。内容から見て讀まない方がわかりよい。タノミスギナムと讀むのは、也を決辭として、讀まない訓法である。またタノミスギムヤと讀むとすれば、助動詞ムに助詞ヤが接續することになるが、かような例としては、「於毛波受母《オモハズモ》 麻許等安里衣牟也《マコトアリエムヤ》 左奴流欲能《サヌルヨノ》 伊米爾毛伊母我《イメニモイモガ》 美延射良奈久爾《ミエザラナクニ》」(卷十五、三七三五)がある。このムヤは、メヤと同じく、反語になるもので、眞實あり得ようや、あり得ないの意になる。よしお母さんのお言葉だからと言つても、長い年月を、頼みにして過されようや、それはできないの意となるが、それでは三句の解に無理ができる。なお動詞スグを、時間上の經過に使つた例に、「和何余須凝奈牟《ワガヨスギナム》」(卷五、八八六)など、多數ある。
【評語】タラチネノという枕詞の用法から考えても、母に對して親愛を感じている。題詞から見ても、作者は男子として解すべきであろう。母の許諾があるから、忍んで待つていようとの心を女に通ずるものとして、成立していると見られる。訓法の不安定と共に、種々の場合が想像されて、解釋に苦しむ所のある歌である。
 
1775 泊瀬河《はつせがは》 夕渡り來て、
 我妹子《わぎもこ》が 家の金門《かなと》に
 近づきにけり。
 
 泊瀬河《ハツセガハ》 夕渡來而《ユフワタリキテ》
 或妹兒何《ワギモコガ》 家《イヘノ》門《カナトニ・カドベニ》
 近舂二家里《チカヅキニケリ》
 
【譯】泊瀬川を、夕方に渡つてきて、わが妻の家の門口に近づいたことだ。
【釋】家門 イヘノカナトニ。イヘノミカトハ(元)、イヘノカドベニ(童)、イヘノミカドニ(略)。文字表示(386)が不十分なので、諸種の訓法がある。イヘノカドベニ、イヘノミカドニなどの訓も考えられる。カナトは金門の義で、堅固な門の意にいう。ミカドの語は、貴人の門に使われており、妹の家の門にはふさわない。最小限に音を補うとすれば、カドベか。
 近舂二家里 チカヅキニケリ。舂は訓假字として、ツキの音韻表示に使用されている。
【評語】これも作者の、自分の場合の歌を、ある機會に皇子に獻つたものであろう。妹の家に近づいてゆく喜びが、よくあらわれている。初二句の敍述が、よくその情趣を描いている。穴師の里に住んでいた妻を藤原の京からおとずれた頃の歌であろう。
 
右三首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
石川大夫遷v任上v京時、播磨娘子贈歌二首
 
石川の大夫の任を遷さえて京《みやこ》に上りし時、播磨《はりま》の娘子《をとめ》の贈れる歌二首
 
【釋】石川大夫 イシカハノマヘツギミ。續日本紀に、靈龜元年五月の條に、從五位の下石河の朝臣|君子《きミこ》を播磨の守とすとある、その人であろう。石河の君子は、卷の三、二七八參照。
 播磨娘子 ハリマノヲトメ。何人とも知られない。國司の上京の時に、その國の娘子が歌を贈ることは「藤原宇合大夫、遷v任上v京時、常陸娘子贈歌一首」(卷四、五二一)などがある。
 
1776 絶等寸《たゆらき》の 山の峯《を》の上《へ》の 櫻花
 咲かむ春べは 君が思《しの》はむ。
 
 絶等寸笶《タユラキノ》 山之峯上乃《ヤマノヲノヘノ》 櫻花《サクラバナ》
 將v開春部者《サカムハルベハ》 君之將v思《キミガシノハム》
 
(387)【譯】絶等寸の山の峯の上の櫻の花の咲く春の頃は、あなたが思いやるでしよう。
【釋】絶等寸笶 タユラキノ。タユラキは、播磨の國の山の名だろうが、所在不明。多分國府の近傍であろう。當時の國府は、今の姫路市にあつたというから、この山も、餝磨郡、印南郡あたりに求めらるべきだろう。
 君之將思 キミガシノハム。
  キミヲオモハム(元)
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  君乎將思《キミヲオモハム》(西)
  君乎將思《キミヲシヌバム》(考)
 仙覺本系統の諸本には君乎とあるが、これによれば、娘子が、花の咲く頃には君を思おうということになる。花咲く頃に思おうというのは、冷淡なようである。古本系統の元暦校本等によれば、君之とあり、石川の大夫が、花咲く頃には思うだろうの意となる。それは櫻花を思おうの意で、それでよく通ずる。常は思うことなくとも、花咲く頃には思うであろうの意である。
【評語】櫻の花咲く頃には、この山の花を思うでしようと疑つている。自分のことを影にして、櫻花に寄せているのは、上品である。身分の高下を氣にしていて、かような形を採つたものとも考えられる。絶等寸のような特殊の地名も、地方の歌らしい感じを與える。
 
1777 君なくは 何《な》ぞ身《み》装餝《よそ》はむ。
 匣《くしげ》なる 黄楊《つげ》の小梳《をぐし》も
 取らむとも念はず。
 
 君無者《キミナクハ》 奈何身將2装餝1《ナゾミヨソハム》
 匣有《クシゲナル》 黄楊之小梳毛《ツゲノヲグシモ》
 將v取跡毛不v念《トラムトモモハズ》
 
【譯】あなたがおいででなくば、何しに身を飾りましよう。櫛匣の中の黄楊の小櫛も、手にしようとも思いません。
(388)【釋】奈何身將装餝 ナゾミヨソハム。ナソミカサラム(西)、ナゾミヨソハム(童)。類聚名義抄、装にヨソフ、装、飾にカザルの訓がある。集中にも「腰細丹《コシボソニ》 取餝氷《トリカザヲヒ》」(卷十六、三七九一)の餝氷の如きは、カザラヒと讀むべきが如くである。ヨソフも、「水都等利乃《ミヅトリノ》 多々武與曾比爾《タタムヨソヒニ》」(卷十四、三五二八)など假字書きのものがあつて、衣装をととのえる意に使用している。ここもその意に歌つていると思われるから、ヨソハムがよいであろう。句切。
 匣有 クシゲナル。クシゲは、櫛笥の義。
【評語】代匠記に、「詩衛風云、自《ヨリ》2伯之《キミノ》東(セシ)1首如(シ)2飛蓬(ノ)1、蓋無(カラムヤ)2膏沐1、誰(カ)適(ク)爲v容《カタチヅクラム》」以下、漢文學に類似の詞のあるのを擧げているように、内容としては、特別のものではない。表現は、初二句で、一旦強く云い切り、三四五句で、更にこれを補つて、笥の黄楊の小櫛を擧げているのは、精細になつていてよい。一體に強く言い切つた調子が、思い入つた樣をよくあらわしている。
 
藤井連、遷v任上v京時、娘子贈歌一首
 
藤井の連の任を遷さえて京に上りし時、娘子《をとめ》の贈れる歌一首
 
【釋】藤井連 フヂヰノムラジ。何人か不明、葛井の大成か、葛井の廣威か。位階の正をオホキといい、從をヒロキというによれば、この二人は兄弟で、大成が兄か。何處の國司であつた時の事とも知られない。從つて娘子も、何處の國の娘子とも知られない。
 
1778 明日よりは 吾は戀ひむな。
 名欲《なほり》山
(389) 石《いは》踏《ふ》み平《なら》し 君が越えいなば。
 
 從2明日1者《アスヨリハ》 吾波孤悲牟奈《ワレハコヒムナ》
 名欲山《ナホリヤマ》
 石踏平之《イハフミナラシ》 君我越去者《キミガコエイナバ》
 
【譯】明日からは、わたくしは戀うことでしよう。名欲山の石を踏みつけて、あなたが越えて行きましたら。
【釋】名欲山 ナホリヤマ。所在不明。豐後の國の直入郡の山とする説があるが、直入郡は、大分縣の西方の山地で、何處の國司でも、その山を通つて歸京するとは思われない。葛井の大成は、筑後の守であつたから、筑後から上京する時に、直入の山を詠んだのだろうか。
 石踏平之 イハフミナラシ。フミナラシは、踏んでたいらかにする意で、踏みつけてに同じ。
【評語】送別の歌として、型にはまつた歌で、格別のことはない。山名なども、何處の山にでもさしかえが利く性質に置かれている。類歌は、一七七一參照。
 
藤井連和歌一首
 
藤井の連の和ふる歌一首
 
1779 命《いのち》をし まさきくもがも。
 名欲《なほり》山
 石《いは》踐《ふ》み平《なら》し またまたも來《こ》む。
 
 命《イノチ》乎志《ヲシ・ヲシ》 麻勢久可願《マサキクモガモ・マセヒサシクモガモ》
 名欲山《ナホリヤマ》
 石踐平之《イハフミナラシ》 復亦毛來武《マタマタモコム》
 
【譯】命は無事でありたいものです。名欲山の石を踏みつけて、またまたも來ましよう。
【釋】命乎志麻勢久可願 イノチヲシマサキクモガモ。
  イノチヲシマセヒサシカレ(西)
(390)  イノチヲシマセヒサシクモガモ(定本)
  ――――――――――
  命乎志麻狹伎久可母願《イノチヲシマサキクモガモ》(考)
  命乎志麻幸久母願《イノチヲシマサキクモガモ》(古義)
 原文のままでは、初句を七音としイノチヲシマセヒサシクモガモとする外に讀み方が考えられない。そこで誤字説も出てくるのである。命ヲマ幸クモガモとするのは、勢を幸の誤りとするのであつて、參考としては、「 命《イノチヲ》 幸久吉《サキクヨケムト》 石流《イハバシル》 垂水々乎《タルミノミヅヲ》 結飲都《ムスビテノミツ》」(卷七、一一四二)がある。ここで多分、句切であろう。
【評語】訓には問題が殘るが、三句以下の内容は明白であり、初二句も、どちらかの命について言つていることは確である。しかし一首としては氣やすめの詞のようで、情熱は感じられない。
 
鹿島郡苅野橋、別2大伴卿1歌一首 并2短歌1
 
鹿島の郡の刈野《かるの》の橋にて大伴の卿に別るる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】鹿島郡苅野橋 カシマノコホリノカルノノハシニテ。カシマノ郡は、茨城縣の鹿島郡である。カルノノ橋は、倭名類聚鈔に、常陸の國鹿島の郡に輕野の郷がある。その地は、今、輕野村と稱し、神の池の南方で、利根川を隔てて下總の國に面している。歌詞によれば、その橋の處から、下總の海上の津をさして船を出したのである。當時は、利根川の下流は、今よりも水域が廣かつたようであり、それを渡つて對岸に向かつたのである。
 別大伴卿歌 オホトモノマヘツギミニワカルルウタ。前に、※[手偏+僉]税使大伴の卿の筑波山に登る時の歌があつた。※[手偏+僉]税の事を終えて、下總の國に向かつた時に、高橋の蟲麻呂が送つてきて、別れを惜しんで詠んだ歌である。大伴の卿は、大伴の旅人と推定される。
 
1780 牡牛《ことひうし》の 三宅《みやけ》の滷《かた》に
(391) さし向かふ 鹿島《かしま》の埼に、
 さ丹塗《にぬり》の 小船《をぶね》を設《ま》け
 玉|纏《まき》の 小楫《をかぢ》繁貫《しじぬ》き、
 夕汐の 滿《みち》のとどみに
 御船子《みふなこ》を 率《あとも》ひ立てて、
 喚《よ》び立てて 御船いでなば、
 濱もせに 後《おく》れな居りて、
 反側《こいまろ》び 戀ひかも居らむ。
 足摩《あしず》りし 哭《ね》のみや泣かむ。
 海上《うなかみ》の その津をさして
 君が榜《こ》ぎ行かば。
 
 牡牛乃《コトヒウシノ》 三宅之滷尓《ミヤケノカタニ》
 指向《サシムカフ》 鹿島之埼尓《カシマノサキニ》
 狹丹塗之《サニヌリノ》 小船儲《ヲブネヲマケ》
 玉纒之《タママキノ》 小梶繁貫《ヲカヂシジヌキ》
 夕鹽之《ユフシホノ》 滿乃登等美尓《ミチノトドミニ》
 三船子呼《ミフナコヲ》 阿騰母比立而《アトモヒタテテ》
 喚立而《ヨビタテテ》 三船出者《ミフネイデナバ》
 濱毛勢尓《ハマモセニ》 後奈居而《オクレナヲリテ》
 反側《コイマロビ》 戀香裳將v居《コヒカモヲラム》
 足垂之《アシズリシ》 泣耳八將v哭《ネノミヤナカム》
 海上之《ウナカミノ》 其津於指而《ソノツヲサシテ》
 君之己藝歸者《キミガコギユカバ》
 
【譯】牡牛のいる、三宅の潟に向きあつている鹿島の埼に、赤く塗つた船を用意し、玉で飾つた櫂をとりつけて、夕方の汐の滿ちて來た時に、船人を誘い立てて、呼び立ててお船が出ましたら、濱いつぱいに後に殘つていて、ころび廻つて戀うてもいましよう。足ずりをして泣いてばかりかおりましよう。海上のあの津をさして、あなたが榜いでおいでになつたら。
【構成】全篇一文。
【釋】牡牛乃 コトヒウシノ。枕詞。コトヒウシは、大きい牛で、倭名類聚鈔に「辨色立成云、特牛 俗語云古止(392)比 頭大牛也」とある。本集には「事負乃牛之《コトヒノウシノ》 倉上之瘡《クラノウヘノカサ》」(卷十六、三八三八)とある。コトヒは、殊負で、特に荷を負うことの多いのをいう。次句の三宅は、地名だが、屯倉をミヤケといい、屯倉には貢物を運ぶために特牛がいたので、枕詞としたのであろう。
 三宅之滷尓 ミヤケノカタニ。ミヤケは、倭名類聚鈔に、下總の國海上の郡に三宅の郷があり、今千葉縣海上郡海上町に三宅の地名がある。利根川の河口に近い右岸の地であるが、當時は、鹿島から水面を隔てて對していたであろう。滷は、諸本に酒に作る。そのままではサカ(坂)に當てたものと見るべきであるが、サカに當てたとすることに、不安があるので、今、字形の類似により滷の誤りとするによる。
 指向 サシムカフ。向き合つている。サシは接頭語。
 鹿島之埼尓 カシマノサキニ。鹿島の埼は、常陸の國の側である。
 狹丹塗之小船儲 サニヌリノヲブネヲマケ。官船は、赤く塗つてあるので、それを美化してかようにいい、それにつれて次の句をも言つている。これらの句は、七夕の歌などに常用されている句であろう。ヲブネというが、ヲは愛稱の接頭語。
 玉纏之小梶繁貫 タママキノヲカヂシジヌキ。玉を卷いた楫の意だが、ただ文飾に過ぎない。
 夕鹽之滿乃登等美尓 ユフシホノミチノトドミニ。夕方の汐の滿ちた極みに。
 三船子呼 ミフナコヲ。ミは接頭語。相手の船の船人ゆえに、敬意を表して附けてある。
 阿騰母比立而 アトモヒタテテ。アトモヒは、誘つて。引きつれて。
 喚立而 ヨビタテテ。船子たちの聲をかけあつて。
 濱毛勢尓 ハマモセニ。濱いつぱいに。濱もふさぐまでに。
 後奈居而 オクレナヲリテ。
(393)  ヲクレナミヰテ(元)
  オクレナヲリテ(矢)
  ――――――――――
  後奈美居而《オクレナミヰテ》(略)
 オクレナミヰテのミに當る字が脱落したのだとする説がある。上の「濱もせに」の句に對しては、それももつともだが、このままで解くとすれば、ナを助詞と見るのである。かようなナの用例には、「手寸十名相《タキソナヒ》 殖之名知久《ウヱシナシルク》」(卷十、二一一三)、「久佐可氣乃《クサカゲノ》 安努奈由可武等《アノナユカムト》 波里之美知《ハリシミチ》」(卷十四、三四四七)、「可久須酒曾《カクススゾ》 宿莫奈那里尓思《ネナナナリニシ》」(同、三四八七)などあり、これらのナを、すべて誤字もしくは轉音とするは、無理である。このナは、助詞で、後にあらわれる係助詞ナムのナに相當するものであろう。本集には係助詞ナムは無いが、その前身とも見るべきナモは「何時奈毛《イツハナモ》 不v戀有登者《コヒズアリトハ》 雖v不v有《アラネドモ》」(卷十二、二八七七)があり、かようなナの存在がかならずしも唐突でないことを示している。この助詞ナの意義は、その上にある語を提示する義であろう。ナは、接續助詞としては、古くから使われているので、それと關係のある語とすべきである。
 足垂之 アシズリシ。略解に、垂は、摩の誤りかとしている。訓のアシズリシは、動かない所であろう。シは、する意の動詞。去つた人を思つて、いても立つてもいられない状を描いている、「反側《コイマロビ》 足受利四管《アシズリシツツ》」(卷九、一七四〇)。これも同一人の作である。
 海上之其津乎指而 ウナカミノソノツヲサシテ。ウナカミは、下總の國の海上郡の津で、船のさして行く津である。其津乎の乎は、寫本にすべて乎であり、版本も、初めは乎であつたが、寛永二十年に出版した本には、誤つて於としたので、學者のあいだに疑義を生じて、諸説を生ずるに至つた。
【評語】送別の歌として、類型的だが、よく纏まつている。船の敍述は、大げさだが特色があり、七夕の歌などの影響を受けている。初めの地理の説明も、この作者の特色のある所だが、全體としては、格別の作とも云われない。
 
(394)反歌
 
1781 海つ路《ぢ》の 和《な》ぎなむ時も 渡らなむ。
 かく立つ浪に 船出《ふなで》すべしや。
 
 海津路乃《ウミツヂノ》 名木名六時毛《ナギナムトキモ》 渡七六《ワタラナム》
 加九多都波二《カクタツナミニ》 船出可v爲八《フナデスベシヤ》
 
【譯】海の方の道の凪いでいる時にでも渡るべきでしよう。こんなに浪が立つているのに渡るべきではないでしよう。
【釋】海津路乃 ウミツヂノ。ウミツヂは、海の方の道。今、内水路に面して、外海の荒れている模樣を氣にしているので、以下の句がある。日本書紀、東海にウメツミチと訓しているのは、海の道の義である。
 名木名六時毛 ナギナムトキモ。トキモは、時にもの意。
 船出可爲八 フナデスベシヤ。ヤは反語。
【評語】船出を留める語氣の強いのが特色である。二句と三句のナムは、性質が違うが、同音で重ねているのは、かえつて耳ざわりである。この歌、三句切になつている。海上にやや風波が荒いので、この作を成したのであろう。
 
右二首、高橋連蟲麻呂之歌集中出
 
與v妻歌一首
 
妻に與ふる歌一首
 
(395)【釋】與妻歌 ツマニアタフルウタ。人麻呂歌集から出ている歌で、作者を人麻呂とすれば、妻は人麻呂の妻になる。この事は、人麻呂の前の妻で、輕の娘子と呼ばれ、持統天皇に仕えた才媛であつた人であろう。
 
1782 雪こそは 春日《はるび》消《き》ゆらめ。
 心さへ 消え失《う》せたれや、
 言《こと》も通はぬ。
 
 雪己曾波《ユキコソハ》 春日消良米《ハルビキユラメ》
 心佐閉《ココロサヘ》 消失多列夜《キエウセタレヤ》
 言母不2往來1《コトモカヨハヌ》
 
【譯】雪こそは、春の日に消えているだろう。あなたは心までも消え失せたか、そんなこともないだろうに、言も通じてこない。
【釋】雪己曾波春日消良米 ユキコソハハルビキユラメ。大和の國にいる妻を思い、雪こそは春の日に逢つて消えているだろうと推量している。これは三句以下の前提になるものである。句切。
 心佐閉 ココロサヘ。妻の心。
 消失多列夜 キエウセタレヤ。タレヤは、疑問條件法。そんなことはあるはずはないがの意に、強い疑いになつている。
【評語】作者は、多分雪のすくない南方の國(四國だろう)からこの歌を送つているだろう。堅く約した妻からのたよりのうち絶えたのに誘いかけている。巧みな誘いである。
 
妻和歌一首
 
妻の和ふる歌一首
 
(396)1783 松反《まつがへ》り しひてあれやは、
 三栗《みつぐり》の 中《なか》ゆ上《のぼ》り來《こ》ぬ。
 麻呂といふ奴。
 
 松反《マツガヘリ》 四臂而有八羽《シヒテアレヤハ》
 三栗《ミツグリノ》 中上不v來《ナカノボリコヌ》
 麻呂等言八子《マロトイフヤツコ》
 
【譯】歸つてくるのをためらつているのですか。そんなこともないでしように、三栗の那珂から上京してこない。麻呂という奴さん。
【釋】松反四臂而有八羽 マツガヘリシヒテアレヤハ。
  マツカヘリシヒテアリヤハ(元赭)
  マツカヘリシヒテアレヤハ(西)
  ――――――――――
  松反四臂而有八母《マツガヘリシヒニテアレヤモ》(略)
  松反四臂両有八物《マツガヘリシヒニテアレヤモ》(古義)
  松反四臂而有八物《マツガヘリシヒテアレヤモ》(新考)
 諸説があつて、訓義ともに一定しがたい。四臂而をシヒニテと讀む説のあるのは、次に引く大伴の家持の歌に、シヒニテとあるによるものであるが、この字面では、シヒテと讀むのが穏當である。マツガヘリシヒテは、大伴の家持の放逸せる鷹を詠んだ歌の反歌に、「麻追我敝里《マツガヘリ》 之比爾弖安禮可母《シヒニテアレカモ》 佐夜麻太乃《サヤマダノ》 乎治我其日爾《ヲヂガソノヒニ》 母等米安波受家牟《モトメアハズケム》」(卷十七、四〇一四)と詠んでいるのは、この歌によつたのであろうが、鷹の歌に使つているのを見れば、鷹に關することであろう。よつて思うに、マツガヘリは、放した鷹が待つに歸ることをいうのであろう。マツは、松か待ツか、不明。シヒは、橋本進吉博士は、目しひ耳しひのシヒではないかと言われた。ハ行四段活用とするのだろうが、證明はない。この四臂は、甲類のヒで、強ヒのヒは、乙類のヒである。アレヤハのヤは、疑問の係助詞で、ハは輕く添えたものと見られる。已然條件法。待つ歸りを澁つているのか、そんなこともないだろうがの意と解せられる。山家集下卷に「ふたつありける鷹の、いらごわたりをすると申し(397)けるが、ひとつの鷹はとどまりて、木の末にかかりて侍ると申しけるをききて、すたかわたるいらごがさきを疑ひてなほ木にかへる山がへりかな」とある、山がへりの語も、このマツガヘリと關係のある語であろうか。さてこの二句は、前提となる。
 三栗 ミツグリノ。枕詞。三個の果實を有している栗で、中に冠している。
 中上不來 ナカユノボリコヌ。
  ナカツカヘコス(元赭)
  ナカニヰテコヌ(西)
  ナカニイテコヌ(温)
  ナカニノボリコヌ(新訓)
  ――――――――――
  中出不來《ナカニモイデキデ》(童)
  中止不來《ナカタエテコズ》(補正)
  中止不來《ナカタエテコヌ》(新考)
 三栗ノという枕詞を冠しているので、中は誤字とは見られない。さて、原文のままでは、ナカノボリコヌと讀まれるが、人麻呂集の常として、助詞に當る字を省路することも多いから、これを補つて讀むことも考えられる。そこで今助詞ユを補うこととした。ユを補つて讀むべき例は「雁音《カリガネノ》 所v聞空《キコユルソラユ》 月渡見《ツキワタルミユ》」(卷九、一七〇一)などある。ナカは、人麻呂が讃岐の國から上つて來る時の歌(卷二、二二〇)に、「天地《アメツチ》 日月與共《ヒツキトトモニ》 滿將v行《タリユカム》 神乃御面跡《カミノミオモト》 次來《ツギキタル》 中乃水門從《ナカノミナトユ》 船浮而《フネウケテ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》」とある中の水門であろう。この中の水門は、讃岐の國にもと那珂の郡があつて、そこの船の出入する處、今の仲多度郡の中津であろう、そのナカの地から上つてこないというと見える。人麻呂が、讃岐の國に行つておつて、そのナカを通つて上京してこない意とするのである。この句は、終止と見られる。
 麻呂等言八子 マロトイフヤツコ。
  マロライハハコ(元赭)
(398)  マロトイハハコ(矢)
  マロトイヘヤコ(代初)
  マロトイフヤツコ(新訓)
  ――――――――――
  麻追等言八毛《マツトイハメヤモ》(考)
  麻追等言八方《マツトイハムヤモ》(略)
  麻追等言八子《マツトイヘヤコ》(古義)
 諸説があるが、マロトイフヤツコの訓に落ちつくものと考えられる。マロは、前の歌の作者の麻呂で、人麻呂その人を畧稱している。ヤツコは、奴婢の意。當時奴婢階級があつて、政府、寺院、もしくは個人の所有として、取り扱われていた。そこで歌にも、戀を奴にたとえていうことなどがあり、また親しい仲でも相手を奴に擬していうことも行われた。「戯奴之爲《ワケガタメ》 吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》 春野爾《ハルノノニ》 拔流茅花曾《ヌケルツバナゾ》 御食而肥座《ヲシテコエマセ》」(卷八、一四六〇)の如きも、その一例であつて、これは紀の女郎が、大伴の家持を目して、戯の奴と言つているのである。ここに麻呂トイフ奴というのも、その例で、愛人を呼ぶに、戯れに賤奴をもつてしたものと解せられる。紀の女郎の歌も、この歌などによつたものだろう。
【評語】意義の不明の句もあるが、全體の大意は察知される。ずいぶん思い切つた大膽な表現で、辛辣な云い方である。作者の才氣の非凡であつたことが知られる。人麻呂の妻と考えられるこの作者は、持統天皇に仕えた女官で、その紀伊の國や伊勢の國への行幸にも御供したと考えられる。一時穴師の里に住んでいたであろうが、不幸にして人麻呂に先んじて死んだ。才色兼備の才媛であつたように考えられる。
 
右二首、柿本朝臣人麻呂之歌集中出
 
贈2入唐使1歌一首
 
【釋】贈入唐使歌 ニフタウシニオクレルウタ。歌の左註にあるように、いずれの時のとも知られない。藤原(399)の宮の時代から、奈良時代の前半にかけては、大寶二年、靈龜元年、天平五年の三囘がある。神龜五年八月の歌の前に載せてあるが、この順序は、おもく考えることはできない。
 
1784 海若《わたつみ》の いづれの神を齋祈《いの》らばか、
 ゆくさも來《く》さも 船の早けむ。
 
 海若之《ワタツミノ》 何神乎《イヅレノカミヲ》 齋祈者歟《イノラバカ》
 往方毛來方毛《ユクサモクサモ》 舶之早兼《フネノハヤケム》
 
【譯】海神のどの神を祭つて所願をしたら、行く途も歸る途も船が早いだろう。
【釋】海若之何神乎 ワタツミノイヅレノカミヲ。海神は種類が多く、たとえば阿曇《あづみ》氏の祭る綿津見の神、津守氏の祭る住吉の神などあるので、そのいずれの神がよかろうというのである。
 齋祈者歟 イノラバカ。タムケハカ(元)、イノラハカ(元赭)、マツラバカ(童)、イハハバカ(考)。イハハバカとも讀まれているが、まだ神ヲイハフという思想は無いので、イノラバカの訓が選定される。イノルは、願つて神威神力の發揚を期するをいう。
 往方毛來方毛 ユクサモクサモ。サは、方向の義。往路も歸途も。
 舶之早兼 フネノハヤケム。ハヤケは形容詞。ムは助動詞。
【評語】長歌の反歌のような歌だ。送別の辭としては格別のことはない。海神に多種ありとした思想は、當時の幼稚な宗教思想として注意される。
 
右一首、渡海年記未v詳
 
右の一首は、海を渡りし年記いまだ詳ならず。
 
【釋】渡海年記未詳 ウミヲワタリシトシツキイマダツマビラカナラズ。何年の遣唐の時とも知られない由を(400)註している。歌の出所は註していない。
 
神龜五年戊辰秋八月歌一首 并2短歌1
 
神龜五年戊辰の秋八月の歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】神龜五年戊辰秋八月歌 シニキノイツトセツチノエタツノアキハツキノウタ。以下、いかにも笠の金村らしい題詞の書き方で、きちようめんなその人がらも思われる。金村の歌集には、おおむね作歌の年月が記されている。ただ本集に取り入れる際に、その年月を省いたものも存するのであろう。
 
1785 人と成る 事は難きを、
 邂逅《わくらば》に 成れる吾が身は、
 死《しに》も生《いき》も 公がまにまと
 念ひつつ ありし間《あひだ》に、
 うつせみの 世の人なれば、
 大|王《きみ》の 御命《みこと》かしこみ、
 天離《あまざか》る 夷《ひな》治《をさ》めにと、
 朝鳥の 朝|立《だち》しつつ
 群鳥《むらどり》の 群立《むらだ》ち行けば、
 留り居て 吾は戀ひむな。
(401) 見ず久ならば 
 
 人跡成《ヒトトナル》 事者難乎《コトハカタキヲ》
 和久良婆尓《ワクラバニ》 成吾身者《ナレルワガミハ》
 死毛生毛《シニモイキモ》 公之隨意常《キミガマニマト》
 念乍《オモヒツツ》 有之間尓《アリシアヒダニ》
 虚蝉乃《ウツセミノ》 代人有者《ヨノヒトナレバ》
 大王之《オホキミノ》 御命恐美《ミコトカシコミ》
 天離《アマサカル》 夷治尓登《ヒナヲサメニト》
 朝鳥之《アサドリノ》 朝立爲管《アサダチシツツ》
 群鳥之《ムラドリノ》 群立行者《ムラダチユケバ》
 留居而《トマリヰテ》 吾者將v戀奈《ワレハコヒムナ》
 不v見久有者《ミズヒサナラバ》
 
【譯】人となる事はむずかしいのだが、たまたま人となつたわが身は、死ぬも生きるも、君の心まかせと思つていたあいだに、この世の人の事ですから、天皇の命令を承つて、天のように遠い地方を治めにと、朝の鳥のように朝立つて行くので、群る鳥のように群つて行くので、留まつていてわたくしは戀うことでしよう。見ないで久しかつたなら。
【構成】全篇一文。
【釋】人跡成事者難乎和久良婆尓成吾身者 ヒトトナルコトハカタキヲワクラバニナレルワガミハ。佛説に、容易に人身を得難いとする思想によつている。ワクラバニは、偶然にで、偶然にして人身を得たことを述べている。容易に得がたい人身を、偶然にも得た自分はの意で、山上の憶良の貧窮問答の歌(卷五、八九二)の「和久良婆爾《ワクラバニ》 比等等波安流乎《ヒトトハアルヲ》」とある思想に同じ。憶良の歌は、何年に作られたか不明であるから、この歌との先後は論じられないが、かような思想を盛つた歌は、既に別に行われていたのだろう。
 死毛生毛公之隨意常 シニモイキモキミガマニマト。隨意の字は、三音の處にも四音の處にも使われている。三音ならばマニマ、四音ならばマニマニと讀まれる。マニマの例は、「可毛加久母《カモカクモ》 伎美我麻爾麻等《キミガマニマト》」(巻十七、三九九三)、「末支太末不《マキタマフ》 官乃末爾末《ツカサノマニマ》」(卷十八、四一一三)などある。これによれば、マニマニは、マニマに助詞ニの添つたもので、やがてマニを重ねいうように感ずるに至つたものだろう。生死ともに公の御心まかせとの意である。後にも記すように、この歌は、女子に代つて作つているようであるから、この句があるのだろう。そうとすれば、キミというのは、愛する夫をいう。
 虚蝉乃 ウツセミノ。枕詞。代の人に冠している。語義については、卷の一、二四參照。
(402) 代人有者 ヨノヒトナレパ。この世の人間であるから、この世の拘束を免れずに、地方にも旅するというのである。この句は、相手の男の説明である。
 大王之御命恐美 オホキミノミコトカシコミ。慣用句で、しばしば使用されている。勅命を受けての義であるが、役に任ぜられることなどにもいう。
 天離 アマザカル。枕詞。
 夷治尓登 ヒナヲサメニト。ヒナは地方、地方を治めるとして。地方官として任命されたことをいう。天ザカル夷治メニトの句は、後に大伴の家持が、その越中の守時代に、度々使用して、慣用句となつている。
 朝鳥之 アサドリノ。枕詞。譬喩によつて朝立に冠している。
 群島之 ムラドリノ。枕詞。これも譬喩によつて群立に冠している。かような鳥を譬喩に使うことは、古事記上卷、八千矛の神の歌「牟良登理能《ムラドリノ》 和賀牟禮伊那婆《ワガムレイナバ》 比氣登理能《ヒケドリノ》 和賀比氣伊那婆《ワガヒケイナバ》」(五)以下多數であり、これは八千矛の神の歌のような、歌われる歌からきたものと推考される。
 吾者將戀奈 ワレハコヒムナ。ナは、感動の助詞。本集では助動詞ムに接續するものが多い。
【評語】地方官として赴く人を送る歌としては、前半の敍述、すなわち稀に人身を得たことから説き起して、死生も君がままであるというのが、いかにも仰山である。歌を贈られた人は、作者よりも地位の高い人であつたのだろうが、それにしてもかなり思想をしいて歌詞にしたような所がある。後半は類型的で、歌い傳えられたものを踏襲する所が多いのだろう。笠の金村は、「神龜の元年甲子の冬十月、紀伊の國に幸でましし時|從駕《みとも》の人に贈らむがために娘子に誂《あとら》へらえて作れる歌一首」(卷四、五四三)のように、しばしば娘子に代つて歌を詠んでおり、これもその類であろう。その娘子というのは、金村の女なるべく、集中に、笠の女郎として呼ばれている人であるかも知れない。當時、歌の贈答が儀禮になつていたので、人に代つて詠む場合もすくなか(403)らず、大伴の坂上の郎女、大伴の家持なども、その旨を明記した代作を詠んでいる。
 
反歌
 
1786 み越路《こしぢ》の 雪|零《ふ》る山を 越えむ日は、
 留《と》マレル吾を 懸《か》けてしのはせ。
 
 三越道之《ミコシヂノ》 雪零山乎《ユキフルヤマヲ》 將v越日者《コエムヒハ》
 留有吾乎《トマレルワレヲ》 懸而小竹葉背《カケテシノハセ》
 
【譯】越の國に行く路の、雪の降る山を越える日には、留まつているわたくしを、心にかけてお思いください。
【釋】三越道之雪零山乎 ミコシヂノユキフルヤマヲ。ミコシヂは、越の國へ行く道で、北陸道のこと。近江の國から愛發《あらち》山を越えて、越前に出る。ミは接頭語で、三ではない。雪フル山は、その山を想像しているのだろう。
 懸而小竹葉背 カケテシノハセ。カケテは、心に懸けてである。シノハセは、思慕する意のシノフの敬語法の命令形。
【評語】北陸へ赴任するというので、雪フル山といい、それが歌の趣を作るに役立つている。しかし作歌の時は、八月だというから、北國の旅の概念をあらわすために、慣用語が無雜作に使用されたものと見られる。
 
天平元年己巳冬十二月歌一首 并2短歌1
 
天平の元年己巳の冬十二月の歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】天平元年己巳冬十二月歌 テニヒヤウノハジメノトシツチノトミノフユシハスノウタ。歌詞によると、作者はこの時、公用で、布留の里に宿つてこの歌を詠んでいる。略解には、續日本紀、天平元年十一月、京及(404)び畿内の班田司を任ずとあるを引いて、班田使としての旅行だろうとしている。年月も一致するから、多分そうであろう。その班田の使の低い役をしていたと見える。
 
1787 うつせみの 世の人なれば、
 大王の 御命《みこと》恐《かしこ》み
 礒城《しき》島の 大和の國の
 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の里に、
 紐解かず 丸寐《まろね》をすれば、
 わが著たる 衣《ころも》は穢《な》れぬ。」
 見るごとに 戀はまされど
 色にいでば 人知りぬべみ、
 冬の夜の あかしも得ぬを、
 寐《い》も宿《ね》ずに 吾はぞ戀ふる。
 妹が直香《ただか》に。」
 
 虚蝉乃《ウツセミノ》 世人有者《ヨノヒトナレバ》
 大王之《オホキミノ》 御命恐弥《ミコトカシコミ》
 礒城島能《シキシマノ》 日本國乃《ヤマトノクニノ》
 石上《イソノカミ》 振里尓《フルノサトニ》
 紐不v解《ヒモトカズ》 丸寐乎爲者《マロネヲスレバ》
 吾衣有《ワガキタル》 服者奈禮奴《コロモハナレヌ》
 毎v見《ミルゴトニ》 戀者雖v益《コヒハマサレド》
 色二山上復有山者《イロニイデバ》 一可v知美《ヒトシリヌベミ》
 冬夜之《フユノヨノ》 明毛不v得呼《アカシモエヌヲ》
 五十母不v宿二《イモネズニ》 吾齒曾戀流《ワレハゾコフル》
 妹之直香仁《イモガタダカニ》
 
【譯】この世の人であるから、天皇の命令を承つて、礒城島の大和の國の、石上の布留の里に、著物の紐も解かないで、そのままに寐ると、わたしの著ている著物は、くたくたになつた。それを見る度に、戀は増るが、顔色に出したら人が知るので、冬の夜の明かしも得ないのに、眠りもしかねてわたしは戀をする。妻の本身に。
【構成】第一段、衣は穢レヌまで。布留の里に宿ることを敍する。第二段、終りまで。眠りもしかねて妻を戀(405)うことを述べる。
【釋】礒城島能 シキシマノ。枕詞。礒城島の宮のある國の意に、大和に冠する。その礒城島の宮は、崇神天皇の礒城の瑞籬《みづがき》の宮によるといい、また欽明天皇の礒城島の金利《かなさし》の宮によるともいう。多分欽明天皇の時代に、外國關係がさかんになり、外國にあつて大和の國を稱するに用い始めたのだろうという。シキシマは、泊瀬溪谷にはいろうとする一帶の地で、泊瀬川に臨み、川を隔てて三輪山に對している。シキの地で、水に面しているから、呼んでシキシマという。
 日本國乃 ヤマトノクニノ。ヤマトノ國は、大和の國をいう。日本の字を使用したのは、日の本のヤマトと言つたのから出た借字である。
 石上振里尓 イソノカミフルノサトニ。イソノカミは、奈良縣山邊郡の地名。その地の中のフルの里に。
 ※[糸+刃]不解丸寐乎爲者 ヒモトカズマロネヲスレバ。衣服の紐を解かないで、著たままで寐るので。マロネは、衣服をきたままで、寐ること。
 服者奈禮奴 コロモハナレヌ。ナレヌは、衣服を著古して、萎え、よごれ、皺だらけになつた意。このナレは、馴狎の意のナルと同語である。「和伎毛故我《ワギモコガ》 牟須比思比毛波《ムスビシヒモハ》 奈禮爾家流香聞《ナレニケルカモ》」(卷十五、三七一七)、「都流波美能《ツルバミノ》 奈禮爾之伎奴爾《ナレニシキヌニ》 奈保之可米夜母《ナホシカメヤモ》」(卷十八、四一〇九)。句切で、以上、事實を敍している。
 毎見戀者雖益 ミルゴトニコヒハマサレド。上の、衣ハナレヌを受けて、そのよごれた衣服を見るごとに、家に對する戀は増すがの意。家にあらば、かような事もなく、清潔な衣服にも著換えられるがの意を含んでいる。奈良の京にあるわが家に對する戀である。
 色二山上復有山者 イロニイデバ。この歌は、次點の歌であるが、古くは、イロイロニヤマノウヘニマタアルヤマハと讀んでいた。それを代匠記の精撰本に、イロニイデバと讀むべしとして「其故は、古樂府ニ、藁砧(406)今何在、山上更安v山云々。此山上更安v山トハ、出ノ字ヲ云ヘリ。正シク山ヲフタツ重ネテカクニハアラネド、見タル所相似タル故ナリ。唐ノ孟遲ガ、山上有v山不v得v歸ト作レルモ此に依レリ。今モ此義ヲ意得テ、イデト云フタ文字ヲ、山上復有山トハカケルナリ」と記している。但し契沖の引いた古樂府の詩は、玉臺新詠には「藁砧今何在、山上復有v山、何當2大刀頭1、破鏡飛上v天」とあるから、それによつたものであろう。この詩は、隱語を多く使用しており、藁砧《こうちん》は※[石+夫]《ふ》で夫に通じ、山上復有山は出、大刀頭《たいとうとう》は環《かん》で還《かん》に通じ、破鏡飛上天《ほきようひしようてん》は月で、「夫今何在、出何當2還月1」の意とされている。これは戰役に徴發された夫を思う詩で、夫は何時歸るだろうかということを、露骨にいうことを憚つて、かように歌つたのである。その詩の句を採つて書いたのである。金村の作品に、かような戯書のあるのは珍しい。
 冬夜之明毛不得呼 フユノヨノアカシモエヌヲ。冬の夜が長く、かつ寒くして、容易に明かし難くあるのを。
 五十母不宿二 イモネズニ。五十は、イの訓假字。睡眠の意である。
 吾齒會戀流 ワレハゾコフル。ゾは係助詞。それを受けてコフルと結んでいる。句切。その戀フルの目的は、次の句で示されている。
 妹之直香仁 イモガタダカニ。イモは、作者の妻。タダカは、まさしき存在の意で、本身、本體をいう。「亂而念《ミダレテオモフ》 君之直香曾《キミガタダカゾ》」(卷四、六九七)、「波之家夜之《ハシケヤシ》 吉美賀多太可乎《キミガタダカヲ》 麻佐吉久毛《マサキクモ》 安里多母等保利《アリタモトホリ》」(卷十七、四〇〇八)。
【評語】穢れた衣服を見ることによつて、旅情の増ることを敍しているのは、眞實の境地であろう。やはり初めの數句の大げさな表現が、かえつて情趣を害している。ウツセミノ世ノ人ナレバの歌い起しは、突然である。しかし末尾の冬ノ夜ノ明カシモ得ヌヲ以下が、しんみりしていてよい。
 
(407)反歌
 
1788 布留山ゆ 直《ただ》に見渡す 京《みやこ》にぞ、
 寐《い》も宿《ね》ず戀ふる。
 遠からなくに。
 
 振山從《フルヤマユ》 直見渡《タダニミワタス》 京二曾《ミヤコニゾ》
 寐不v宿戀流《イモネズコフル》
 遠不v有尓《トホカラナクニ》
 
【譯】布留の山から、直接に見瀕す京に、眠りもしないで戀している。遠くはないのだのに。
【釋】振山從 フルヤマユ。フル山は、フルの里の山であろうが、山と言つても、さして高いわけではなく、小高い處をいうのだろう。ユは、そこからずうつと眺める意に使つている。
 直見渡 タダニミワタス。タダニは、直接に、目の前に。連體形の句。
 京二曾 ミヤコニゾ。ミヤコは、平城の京をいう。布留の山から五キロほどの距離である。それで五句の、遠カラナクニが出て來る。
【評語】説明的である嫌いはあるが、率直に情意を寫して、多少の風情がある。寐モ宿ズ戀フルといい、夜の歌であるのに、布留山ユ直ニ見渡ス京と視覺に訴えた説明を附けたのは、おもしろくない。この歌では、この上の三句の敍述が、生きていなくてはならなかつたのである。
 
1789 吾妹子が 結《ゆ》ひてし紐を
 解かめやも。
 絶えば絶ゆとも 直《ただ》に逢ふまでに。
 
 吾妹兒之《ワギモコガ》 結手師※[糸+刃]乎《ユヒテシヒモヲ》
 將v解八方《トカメヤモ》
 絶者絶十方《タエバタユトモ》 直二相左右二《タダニアフマデニ》
 
(408)【譯】わが妻の結んだ著物の紐を解きはしないだろう。切れるなら切れても、じかに逢うまでは。
【釋】結手師※[糸+刃]乎 ユヒテシヒモヲ。妻が再會を期して結んだ衣服の紐である。女が、男の衣の紐を結ぶ風習であつた。
 將解八方 トカメヤモ。長歌の、紐解カズ丸寐ヲスレバの句を受けて、これは解かないという意志を示している。句切。三句切である。
 絶者絶十方 タエバタユトモ。衣服の紐が切れるなら、それも致し方がないの意で、この句の下に、語を省略した形である。紐が切れるなら、切れるとても、解きはしないの意である。
【評語】長歌の、紐解カズ丸寐ヲスレバを受けて細説している。類想のある歌であるが、下四五句あたりが、力強く詠まれている。以上の長歌一首と反歌二首とは、相聞の部に收めてあるが、妻に贈つた歌とは見えない。旅にあつてひとり詠んだ作のようである。
【參考】類想。
  二人して結ひてし紐を獨して吾は解き見じ。直に逢ふまでは(卷十二、二九一九)
 
右件五首、笠朝臣金村之歌中出
 
【釋】笠朝臣金村之歌中出 カサノアソミカナムラノウタノナカニイヅ。同樣の文は、卷の三、および卷の六に見えて、いずれも歌ノ中ニ出ヅとある。ただ卷の二、「靈龜元年歳次2乙卯1秋九月、志貴親王薨時作歌」(二三〇−二三二)の左註だけが「右歌笠朝臣金村歌集出」となつている。しかしこれらは多分同一の集録をさすものであろう。それは金村自身の集録と考えられる。
 
(409)天平五年癸酉、遣唐使舶、發2難波1入v海之時、親母贈v子歌一首 并2短歌1
 
天平の五年癸酉、遣唐使の舶の、難波を發《た》ちて海に入りし時、親母《はは》の、子に贈れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】天平五年癸酉遣唐使舶發難波入海之時 テニヒヤウノイツトセミヅノトトリノトシ、ケニタウシノフネノナニハヲタチテウミニイリシトキ。天平四年八月、從四位の上多治比の眞人廣成を遣唐の大使とし、從五位の下中臣の朝臣名代を副使とし、判官四人、録事四人等を定めた。五年閏三月、節刀を授け、夏四月、難波津から進發した。この年の遣唐使に關する歌は、卷の五(八九四)、卷の八(一四五三)、卷の十九(四二四五)等に見えている。
 
1790 秋はぎを 妻|問《ど》ふ鹿《か》こそ、
 一子《ひとりこ》に 子持てりといへ。」
 鹿兒《かこ》じもの わが獨子の
 草枕 旅にし行けば、
 竹珠《たかだま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り、
 齋戸《いはひべ》に 木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて、
 齋《いは》ひつつ わが思ふ吾子《あこ》、
 眞幸《まさき》くありこそ。」
 
 秋〓子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》
 一子二《ヒトリゴニ》 子持有跡五十戸《コモタリトイヘ》
 鹿兒自物《カコジモノ》 吾獨子之《ワガヒトリゴノ》
 草枕《クサマクラ》 客二師往者《タビニシユケバ》
 竹珠乎《タカダマヲ》 密貫垂《シジニヌキタリ》
 齊戸尓《イハヒベニ》 木綿取四手而《ユフトリシデテ》
 忌日管《イハヒツツ》 吾思吾子《ワガオモフアコ》
 眞好去有欲得《マサキクアリコソ》
 
【譯】秋ハギを妻としておとずれる鹿は、ただ一人の子として子を持つているという。その鹿のようなわたし(410)の一人子が、草の枕の旅に行くので、竹の珠をいつぱいに緒につらぬいて懸け、齋戸《いはひべ》に木綿を取りさげて、物忌みをしながらわたしの待つているわが子よ。無事であつてください。
【構成】第一段、子持テリトイヘまで。譬喩による序説。鹿がただ一人の子を持つことをいう。第二段、終りまで。ただ一人の子が旅に行くので、物忌みをして無事を祈ることを敍する。
【釋】秋〓子乎妻問鹿許曾 アキハギヲツマドフカコソ。ハギを鹿の妻とする思想を歌つている。「秋〓子之《アキハギノ》 妻卷六跡《ツマヲマカムト》」(卷九、一七六一)參照。ツマドフは、婚姻を求める。「故《カレ》、都麻杼比《ツマドヒ》之物(ト)云(ヒ)而、賜(ヒ)入(レキ)也」(古事記下卷)。
 一子二子特有跡五十戸 ヒトリゴニコモテリトイヘ。五十はイ、戸はヘの訓假字。鹿が一人子に子を持つていると人々がいう意であるから、上の鹿コソを受けるのは、子持有であるはずであるが、こういう場合は、調子の上から、結びが移動して、言フがこれを受けて、已然形で結ぶことになる。「悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》」(卷四、六七四)參照。以上は、次の句の鹿兒ジモノを起す準備として歌われている。句切。
 鹿兒自物 カコジモノ。枕詞。カコは鹿をいう。コは、愛稱。鹿の子ではない。上文のように鹿は多く一匹の子を持つので、次の獨子を引き起している。
 竹珠乎密貫垂齋戸尓木綿取四手而 タカダマヲシジニヌキタリイハヒベニユフトリシデテ。祭典の具體的敍述。齋戸に木綿をさげるというのが、この歌における敍述の特色である。ユフは、アサ、コウゾの繊維で、これをさげることによつても、イハヒベが甕でないことが確められる。「齋戸乎《イハヒベヲ》 忌穿居《イハヒホリスヱ》 竹玉乎《タカダマヲ》 繁爾貫垂《シジニヌキタリ》」(卷三、三七九)參照。
 忌日管 イハヒツツ。イハヒをして、旅に出たわが子の無事を期するのである。
 眞好去有欲得 マサキクアリコソ。好去の文字は、幸福に行く意の字で、好去好來歌《こうきよこうらいか》の如くも使用されてい(411)る。歌詞にも「奈何好去哉《イカニサキクヤ》」(卷四、六四八)、「新夜乃《アラタヨノ》 好去通牟《サキクカヨハム》 事計《コトハカリ》」(卷十三、三二二七)の用例がある。ここはそれに眞の字を添えてマサキクと讀むべきことを指示している。欲得は、通例ガモに當てられる字で、コソと讀む例は他にないが、ここは有の字に引かれて、コソと讀んでいる。
【評語】獨子を遠く海外の異域に旅立たせる母親の愛情がよく描かれている。祭典の敍述も、この歌にあつては極めて有效である。最初の鹿の獨子を持つ習性の句は、女子の作らしい前置きである。
 
反歌
 
 
1791 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば、
(412) わが子羽ぐくめ。
 天《あめ》の鶴群《たづむら》。
 
 客人之《タビビトノ》 宿將v爲野尓《ヤドリセムノニ》 霜降者《シモフラバ》
 吾子羽裹《ワガコハグクメ》
 天乃鶴群《アメノタヅムラ》。
 
【譯】旅人が宿りをするだろう野に、霜が降つたら、わたしの子を包んでください。空飛ぶ鶴の群よ。
【釋】吾子羽裹 ワガコハグクメ。ハグクメは、羽で包む意の命令形。集中では、まだ育てる意には使つていない。「羽具久美母知弖《ハグクミモチテ》 由可麻之母能乎《ユカマシモノヲ》」(卷十五、三五七九)。
 天乃鶴群 アメノタヅムラ。鶴は、天を飛ぶものなので、アメノを冠している。
【評語】極寒の地を行くわが子に對する母親の情愛が溢れている。霜降ラバというのは、寒氣を豫想したのだが、大陸の氣候の實際を知らないので、作者の知識の範圍での敍述になつている。天ノ鶴群は、天空から舞いおりる鶴の群を想像した語で、いかにもよくこの歌に適している。
 
思2娘子1作歌一首 并2短歌1
 
娘子《をとめ》を思ひて作れる歌一首 【短歌并ハセタリ。】
 
1792 白玉の 人のその名を、
 なかなかに 辭《こと》を下延《したば》へ
 逢はぬ日の まねく過ぐれば、
 戀ふる日の 累《かさな》り行けば、
 思ひ遣る たどきを知らに、
(413) 肝向《きもむか》ふ 心|摧《くだ》けて、
 珠だすき 懸《か》けぬ時|無《な》く
 口息まず わが戀ふる兒を、
 玉|釧《くしろ》 手に取持ちて
 まそ鏡 直目《ただめ》に見ねば、
 下檜《したひ》山 下ゆく水の
 上にいです わが念ふ情、
 安からぬかも。
 
 白玉之《シラタマノ》 人乃其名矣《ヒトノソノナヲ》
 中中二《ナカナカニ》 辭緒下延《コトヲシタバヘ》
 不v遇日之《アハヌヒノ》 數多過者《マネクスグレバ》
 戀日之《コフルヒノ》 累行者《カサナリユケバ》
 思遣《オモヒヤル》 田時乎白土《タドキヲシラニ》
 肝向《キモムカフ》 心摧而《ココロクダケテ》
 珠手次《タマダスキ》 不v懸時無《カケヌトキナク》
 口不v息《クチヤマズ》 吾戀兒矣《ワガコフルコヲ》
 玉釧《タマクシロ》 手尓取持而《テニトリモチテ》
 眞十鏡《マソカガミ》 直目尓不v視者《タダメニミネバ》
 下檜山《シタヒヤマ》 下逝水乃《シタユクミヅノ》
 上丹不v出《ウヘニイデズ》 吾念情《ワガオモフココロ》
 安虚歟毛《ヤスカラヌカモ》
 
【譯】白玉のように美しい人の名を、なまなかにその言葉を心に思つて、逢わない日が多く過ぎるので、戀う日がかさなつてゆくので、思わなくなる手段を知らず、心が摧けて、美しいたすきのように心に懸けないことなく、口にやまずにわたしの戀うあの子を、玉くしろのように手に取り持つて、澄んだ鏡のように直接の目で見ないので、下檜のある山の下ゆく水のように、上に出ないで、わたしの思う心は安らかでないことだなあ。
【構成】全篇一文。
【釋】白玉之 シラタマノ。シラタマは、特に貴い玉として愛賞されているので、それを譬喩として使つている。この歌では、思う子の名をおもく取り扱つているので、ソノ名を修飾していると見るべきである。
 人乃其名矣 ヒトノソノナヲ。ヒトは、思う人をさす。
 中々二 ナカナカニ。ここでは、なまなかにの意に使つている。
 辭緒下延 コトヲシタバヘ。コトは、言語。思う子の名のこと。ヲは助詞。シタバヘは、おもてに出さずに(414)心中に思うをいう。「伊多良武等曾與《イタラムトゾヨ》 阿我之多波倍思《アガシタバヘシ》」(卷十四・三三八一)。但し「隱沼乃《コモリヌノ》 下延置而《シタバヘオキテ》」(卷九、一八〇九)の用法は違う。その條參照。
 思遣田時乎白土 オモヒヤルタドキヲシラニ。思いなくす方法を知らず。「思遣《オモヒヤル》 鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》」(卷一、五)。
 肝向 キモムカフ。枕詞。腹の中に心がありとし、藏腑が向かい合つている意に、心に冠する。
 心摧而 ココロクダケテ。思い亂れて分別もつきかねるようになるのをいう。「村肝之《ムラギモノ》 情摧而《ココロクダケテ》 如此許《カクバカリ》 余戀良苦乎《ワガコフラクヲ》 不v知香安累良武《シラズカアルラム》」(卷四、七二〇)。
 珠手次 タマダスキ。枕詞。
 不懸時無 カケヌトキナク。心にかけて思わない時なく。
 口不息 クチヤマズ。思う子の名を、絶えず口にのぼせて戀うのである。獨語に口に出すをいう。「波流能野爾《ハルノノニ》 久佐波牟古麻能《クサハムコマノ》 久知夜麻受《クチヤマズ》 安乎思努布良武《アヲシノブラム》 伊敝乃兒呂波母《イヘノコロハモ》」(卷十四、三五三二)。
 玉釧 タマクシロ。枕詞。釧は、手につける物であるから、手に冠する。玉をつけたくしろ。
 手尓取持而 テニトリモチテ。手に取つて持つてであるが、愛人に接することを、譬喩に、手に取り持つというのだろう。
 眞十鏡 マソカガミ。枕詞。見に冠している。
 正目尓不視者 タダメニミネバ。タダメは、直接の目。直接に見ないので。
 下檜山下逝水乃 シタヒヤマシタユクミヅノ。以上二句、序詞。譬喩によつて、上ニ出デズを引き起している。シタヒは、下ヒ山で、紅葉の山であるという(大野晋氏)。檜は、ヒの甲類の字であるが、下樋ならば、ヒは乙類である。下樋は、木材で作つて地中に埋めた水路をいう。シタヒ山は、その水路のある山。本朝神社考に引いた攝津國風土記に、下樋山の地名を傳えており、もしこの歌が難波あたりで詠まれたものであれば、そ(415)の山をさしているかもしれない。シタの同音によつて、下ユク水といい、次の上ニ出デズを引き起している。
 上丹不出 ウヘニイデズ。顔色にあらわさないで。
 安虚歟毛 ヤスカラヌカモ。
  ヤスキソラカモ(元赭)
  ヤスミナシカモ(童)
  ヤスカラヌカモ(定本)
  ――――――――――
  安不在歟毛《ヤスカラヌカモ》(古義)
  安在歟毛《ヤスカラヌカモ》(新考)
 虚は、空虚の義で、カラに當てる。ヌに當る文字はないが、讀み添えるのである。空虚をカラというのは、古い文獻の支持はないが、植物の幹をカラというのは、中心の空虚なものをいうから、カラに空虚の義を感じていたであろう。打消のヌを補讀する例は、多いことである。
【評語】その子の名を中心として歌つているのは、重點があつてよいが、全體の敍述は、冗長で、煩雜を感じさせる。枕詞や慣用句を、無雜作に使つているのも、粗雜な點である。しかし白玉ノ人ノソノ名ヲあたりの起りは、感じもよく、部分的にはよい處もある。
 
反歌
 
1793 垣ほなす 人の横言《よこごと》 繁みかも、
 逢はぬ日|數多《まね》く 月の經ぬらむ。
 
 垣保成《カキホナス》 人之横辭《ヒトノヨコゴト》 繁香裳《シゲミカモ》
 不v遭日數多《アハヌヒマネク》 月乃經良武《ツキノヘヌラム》
 
【譯】垣を成している人の口出しが繁くてか、逢わない日が多く月がたつのだろう。
【釋】垣保成 カキホナス。枕詞。カキホは、垣をその突起せる形状の方からいう語。その垣のようなの意で、(416)人の横言に冠している。
 人之横辭 ヒトノヨコゴト。ヒトは、周圍の人々。ヨコゴトは、横から口を出す言で、さまたげになる言である。讒言をヨコシマゴトというが、もつと廣く使つている。
 繁香裳 シゲミカモ。カモは、疑問の係助詞。
【評語】これによれば、先方が逢つてくれないようである。相手のもようを想像している歌で、ぐちつぽい内容である。
 
1794 立《た》ち易《かは》り 月|重《かさ》なりて 逢はねども、
 眞實《さね》忘らえず。
 面影にして。
 
 立易《タチカハリ》 月重而《ツキカサナリテ》 雖v不v遇《アハネドモ》
 核不v所v忘《サネワスラエズ》
 面影思天《オモカゲニシテ》
 
【譯】立ちかわつて月がかさなつて逢わないけれども、ほんとうに忘れられない。面影に見えて。
【釋】立易 タチカハリ。月が變つて。タチは、接頭語。
 核不所忘 サネワスラエズ。サネは、眞實にの意の副詞。句切。
【評語】月をかさねても、その人の面影がちらついて忘れられない由である。面影を見つめて、不安な氣もちが描かれている。
 
右三首、田邊福麻呂之歌集出
 
【釋】田邊福麻呂之歌集出 タナベノサキマロノウタノシフニイデタリ。田邊の福麻呂の歌集は、この卷には「蘆檜木笶《アシヒキノ》」(一八〇六)の左註にあり、そのほかに、卷の六、一〇六七の左註にも見えている。その條參照。(417)福麻呂は、大伴の家持と同時代の人。卷の十八の卷初に、天平二十年三月、造酒司《ミキノツカサ》の令史であつて、橘の諸兄の使として越中の國に赴いた事のほかはあまり知られない。その歌集の歌は、福麻呂の作品と見られる。
 
挽歌
 
【釋】挽歌 メニカ。挽歌としては、長歌五首、短歌十二首を收めている。柿本人麻呂歌集の歌五首、田邊福麻呂歌集の歌七首、高橋蟲麻呂歌集の歌五首で、すべて人々の歌集から出た歌である。
 
宇治若郎子宮所歌一首
 
宇治《うぢ》の若郎子《わきいらつこ》の宮所《みやどころ》の歌一首
 
【釋】宇治若郎子宮所歌 ウヂノワキイラツコノミヤドコロノウタ。ウヂノワキイラツコは、應神天皇の皇子。王仁《わに》について書を學び、その他、古事記、日本書紀に、この方に關し説話がある。御母は、春日の袁登比賣《おとひめ》で、丸邇《わに》氏の出であり、柿本氏は、その氏の支流である。その宮所は、京都府宇治市の離宮址であるという。その宮所で詠んだ歌で、人麻呂歌集から出ている。
 
1795 妹らがり 今木《いまき》の嶺に 茂り立つ
 嬬《つま》松《まつ》の木は 古《ふる》人見けむ。
 
 妹等許《イモラガリ》 今木乃嶺《イマキノミネニ》 茂立《シゲリタツ》
 嬬待木者《ツママツノキハ》 古人見祁牟《フルヒトミケム》
 
【譯】妻のもとに今くる。その今木の嶺に茂つて立つている、妻が待つという、その松の木は、昔の人が見たであろう。
【釋】妹等許 イモラガリ。枕詞。妹のもとに今くるという意に、地名のイマキに冠している。ラは接尾語。(418)「妹等所《イモラガリ》 我通路《ワガカヨヒヂノ》」(卷七、一一二一)。
 今木乃嶺 イマキノミネニ。イマキの地名に、今來をかけている。但し、木の音は乙類、來は甲類で、音韻は違う。イマキノ嶺は、宇治の宮所の附近にあるのだろう。日本書紀通證に「今來嶺、在2宇治彼方町東岸1、今曰2離宮山1、【一名朝日山】」とあるが、この歌によつて考えたのではなかろうか、不明。
 嬬待木者 ツママツノキハ。ツマは序詞。妻が待つから、同音の松の木に冠している。「吾妹乎《ワギモコヲ》 將v來香不v來香跡《コムカコジカト》 吾待乃木曾《ワガマツノキゾ》」(卷十、一九二二)。
 古人見祁牟 フルヒトミケム。フルヒトは、昔の人で、宇治の若郎子を含んでいるのだろう。
【評語】枕詞や序の技巧が目立つている歌で、懷古の情は、しつくりと出ていない。妹ラガリ今木の續きは、近江の國からの上京の途中で、自然に躍る心があらわれているのだろう。案外その邊に、この歌の作歌動機があるのかも知れない。
 
紀伊國作歌四首
 
【釋】紀伊國作歌 キノクニニテツクレルウタ。以下四首の歌は、紀伊の國に旅して、かつて共に遊んだが、今は亡き妻を思う意味の歌である。當時の人が、妻と共にただ遊覽に旅行したとは考えられないから、その國の役人として行つたか、または行幸に御供して行つたものと見るべく、人麻呂集には、大寶元年十月、持統天皇、文武天皇の紀伊の國への行幸の時の作があるから、多分その時に、夫妻とも御供して旅行したのだろう。作者の妻は、持統天皇に仕えた女官であつたと考えられる。そうして作者は、その後にひとりまたこの國に旅行する機會に接して、以下の歌を作つたのであろう。なお既出の紀伊國作歌二首(卷九、一六九二、一六九三)も、同じ時の作であろう。
 
(419)1796 黄葉《もみちば》の 過ぎにし子らと、
 携《たづさは》り 遊びし礒を、
 見れば悲しも。
 
 黄葉之《モミチバノ》 過去子等《スギニシコラト》
 携《タヅサハリ》 遊礒麻《アソビシイソヲ》
 見者悲裳《ミレバカナシモ》
 
【譯】黄葉のように過ぎ去つてしまつた妻と、手を携えて遊んだ礒を見れば、悲しいことだ。
【釋】黄葉之 モミチバノ。枕詞。譬喩によつて、過ギニシに冠する。「葉《モミチバノ》 過去君之《スギニキミガ》 形見跡曾來師《カタミトゾコシ》」(卷一、四七)。
 過去子等 スギニシコラト。スギニシは、この世を通過し去つた意で、死んだことをいう。コラは、妻をいう。ラは接尾語。
【評語】悲しい内容であるだけに、すなおに表現してあるのがよい。黄葉の枕詞は、無常觀の背景があるだろうし、また妻の死んだ時節か、今この國にきている時節かによつて、引き出されているだろう。一首の詩趣を催すに役立つている。
 
1797 潮氣《しほけ》立つ 荒礒《ありそ》にはあれど、
 行く水の 過ぎにし妹が
 形見とぞ來し。
 
 鹽氣立《シホケタツ》 荒礒丹者雖v在《アリソニハアレド》
 往水之《ユクミヅノ》 過去妹之《スギニシイモガ》
 方見等曾來《カタミトゾコシ》
 
【譯】潮の氣の立つ荒礒ではあるけれども、行く水のように過ぎてしまつた妻の形見の地として來たのだ。
【釋】鹽氣立 シホケタツ。シホケは、海水から放出する氣で、香、しめりなどをいう。「鹽氣能味《シホケノミ》 香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》」(卷二、一六二)。
(420) 往水之 ユクミヅノ。枕詞。譬喩によつて、過ギニシに冠している。
【評語】荒礒に立つて亡き妻を思う無限の感慨が、敍事的に歌われている。ユク水の枕詞も、無常觀から來ている。行つて歸らない心である。この歌、人麻呂の「眞草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ來し」(卷一、四七)と、同型同想であり、作者を同じくすることを證明する一端となつている。
 
1798 古《いにしへ》に 妹とわが見し、
 ぬばたまの 黒牛潟を
 見ればさぶしも。
 
 古家丹《イニシヘニ》 妹等吾見《イモトワガミシ》
 黒玉之《ヌバタマノ》 久漏牛方乎《クロウシガタヲ》
 見佐府下《ミレバサブシモ》
 
【譯】昔、妻とわたしの見た、黒牛潟を見れば、心が慰まないことだ。
【釋】古家丹 イニシヘニ。イニシヘは、わずかに數年前のことにも使つている。ここもあまり年數は經過していないだろう。
 黒玉之 ヌバタマノ。枕詞。
、久漏牛方乎 クロウシガタヲ。クロウシガタは、黒牛潟で、大寶元年の行幸の歌(卷九、一六七二)に見えている。その歌に、「紅の玉裙裾引き行く」と詠まれているのは、今は思い出の亡き妻をさしているのだろう。
【評語】黒牛潟のような特色のある海なので、一層忘れかねるものがある。この地名によつて、印象が強くなつている。大伴の旅人の「妹と來し敏馬《みぬめ》の埼を歸るさに獨して見れば涙ぐましも」(卷三、四四九)は、同樣の内容で、しかもずつと弱く涙もろい。
 
1799 玉つ島 礒の浦|廻《み》の 眞砂《まなご》にも、
(421) にほひに行かな。
 妹が觸《ふ》れけむ。
 
 玉津島《タマツシマ》 礒之裏未之《イソノウラミノ》 眞名仁文《マナゴニモ》
 尓保比去名《ニホヒニユカナ》
 妹觸險《イモガフレケム》
 
【譯】玉つ島の礒の浦の砂土にも、著物を染めに行こう。あれは妻が觸れた砂だろう。
【釋】玉津島 タマツシマ。和歌の浦にある島の名。
 眞名仁文 マナゴニモ。神田本には、名の下に子の字があるが、原形かどうかはわからない。
 尓保比去名 ニホヒニユカナ。ニホヒニは、色に染めにで、ここは砂で衣服に色をつける意。但し染料として染めるのではなく、その砂の色の自然に移るのをいう。從來ニホヒテと讀まれていたが、同じく補讀を要するので、ニホヒニと讀むがよい。ユカナは、願望の語法。「今谷毛《イマダニモ》 爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》」(卷十、二〇一四)。
 妹觸險 イモガフレケム。イモガフレケム(略)、イモガフリケム(古義)。險は、字音假字。その砂には、亡き妻が觸れたであろうと想像している。
【評語】心の無い海邊の砂も、亡き妻が觸れたろうと思うと、無限の感慨がある。玉つ島を見て、むかし妻が行幸の御供をして舟遊したことを思い起している。その濱邊にいて、※[行人偏頁※[氏/一]]徊して去ることのできない情趣が描かれている。
 
右五首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
過2足柄坂1見2死人1作歌一首
 
足柄の坂を過ぎて死《みまか》れる人を見て作れる歌一首
 
(422)【釋】足柄坂 アシガラノサカ。東海道の通路で、神奈川縣足柄上郡矢倉澤から、西へ靜岡縣へ越える坂である。「安思我良乃《アシガラノ》 美佐可加思古美《ミサカカシコミ》」(卷十四、三三七一)。
 
1800 小垣内《をかきつ》の 麻を引き干《ほ》し
 妹なねが 作り著《き》せけむ
 白細《しろたへ》の 紐をも解かず、
 一重|結《ゆ》ふ 帶を三重結ひ、
 苦しきに 仕へまつりて、
 今だにも 國に罷《まか》りて、
 父母も 妻をも見むと、
 思ひつつ 行きけむ君は、
 鳥が鳴く 東《あづま》の國の
 恐《かしこ》きや 神の御《み》坂に、
 和靈《にぎたま》の 衣《ころも》寒らに、
 ぬばたまの 髪は亂れて、
 國問へど 國をも告らず、
 家問へど 家をも言はず、
 丈夫の 行《ゆ》きの進《すす》みに
(423) 此處《ここ》に臥《こや》せる。
 
 小垣内之《ヲカキツノ》 麻矣引干《アサヲヒキホシ》
 妹名根之《イモナネガ》 作服異六《ツクリキセケム》
 白細乃《シロタヘノ》 ※[糸+刃]緒毛不解《ヒモヲモトカズ》
 一重結《ヒトヘユフ》 帶矣三重結《ヲビヲミヘユヒ》
 苦伎尓《クルシキニ》 仕奉而《ツカヘマツリテ》
 今谷裳《イマダニモ》 國尓退而《クニニマカリテ》
 父妣毛《チチハハモ》 妻矣毛將v見跡《ツマヲモミムト》
 思乍《オモヒツツ》 往祁牟君者《ユキケムキミハ》
 鳥鳴《トリガナク》 東國能《アヅマノクニノ》
 恐耶《カシコキヤ》 神之三坂尓《カミノミサカニ》
 和靈乃《ニキタマノ》 服寒等丹《コロモサムラニ》
 烏玉乃《ヌバタマノ》 髪者亂而《カミハミダレテ》
 邦問跡《クニトヘド》 國矣毛不v告《クニヲモノラズ》
 家問跡《イヘトヘド》 家矣毛不v云《イヘヲモイハズ》
 益荒夫乃《マスラヲノ》 去能進尓《ユキノススミニ》
 此間偃有《ココニコヤセル》
 
【譯】垣の内の麻を引いてほして、妻の君の作つて著せたであろう白い織物の紐をも解かないで、一重結ぶ帶を三重結ぶまでに痩せて、苦しいのにお仕え申しあげて、今だけでも國に歸つて、父母をも妻をも見ようと、思いながら行つたであろう君は、鷄の鳴く東方の國の、おそろしい神靈のある坂に、おだやかな靈魂の著ている著物は寒そうに、黒い髪は亂れて、國を問うが、國をも告げず、家を問うが、家をもいわず、男子の旅行の途中で、ここに伏している。
【構成】全篇一文。
【釋】小垣内之 ヲカキツノ。ヲは接頭語、愛稱である。カキツは、垣の内、圍いの内で、アサの植えてある場處を指示している。「和我勢故我《ワガセコガ》 布流伎可吉都能《フルキカキツノ》 佐久良婆奈《サクラバナ》」(卷十八、四〇七七)、「鶯能《ウグヒスノ》 鳴之可伎都爾爾保敝理之《ナキシカキツニニホヘリシ》 梅此雪爾《ウメコノユキニ》 宇都呂布良牟可《ウツロフラムカ》」(卷十九、四二八七)。
 麻矣引干 アサヲヒキホシ。垣内に栽培した麻を引いて日にほして。妹の動作を敍し、以上で、衣服の材料を説明している。
 妹名根之 イモナネガ。ナネは、婦人の愛稱。イモの語と重ねて、愛すべき女子をあらわしている。ここは死人の妻をいう。「如是許《カクバカリ》 名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》 夢爾所v見家留《イメニミエケル》」(卷四、七二四)。
 作服異六 ツクリキセケム。使役を示す文字はないが、補つて讀む。かような例は、「人不v見者《ヒトミズハ》 我袖用手《ワガソデモチテ》 將v隱乎《カクサムヲ》 所燒作可將v有《ヤケツツカアラム》 不v服而來來《キセズテキニケリ》」(卷三、二六九)がそれであると考えられる。作り著セケムは、次の、白栲の紐を修飾する連體形の句になつているが、本來は、白栲の衣の上にいうべき處である。
 白細乃 シロタヘノ。白布の衣で、事實の敍述である。但しこの歌では、衣の語を略して、直に紐と云つている。
(424) 一重結帶矣三重結 ヒトヘユフオビヲミヘユヒ。痩せた形容。帶は、普通一重廻すものであるのを、三重廻すまでになつたのである。「一重耳《ヒトヘノミ》 妹之將v結《イモガムスバム》 帶乎尚《オビヲスラ》 三重可v結《ミヘムスブベク》 吾身者成《ワガミハナリヌ》」(卷四、七四二)、「二無《フタツナキ》 戀乎思爲者《コヒヲシスレバ》 常帶乎《ツネノオビヲ》 三重可v結《ミヘムスブベク》 我身者成《ワガミハナリヌ》」(卷十二、三二七三)。戀のために痩せたことをいう表現として慣用されていたのであろう。
 苦伎尓 クルシキニ。苦しくあるのに、苦しいのに。但し苦シキニ仕ヘマツリテという表現は、不十分で、無理である。
 今谷裳國尓退而 イマダニモクニニマカリテ。この死人は、奈良の京などの西方で奉仕していたが、たまたま暇を得て、郷國に歸ろうとしている。足柄の坂よりも東の國から出た、兵士、役丁の類であつたのだろう。
 鳥鳴 トリガナク。枕詞。卷二、一九九參照。
 恐耶 カシコキヤ。ヤは、感動の助詞。神を修飾する。
 神之三坂尓 カミノミサカニ。カミノミサカは、坂を、恐るべき神靈のある處としていう。足柄の坂には限らず、他の坂にもいうことがある。
 和靈乃 ニキタマノ。
  ニキタマノ(西)
  ――――――――――
  和細布乃《ニギタヘノ》(考)
 和靈は、ニキタマと讀まれるが、それでは、次の句との接續が解しにくい。ニキタマは、荒魂に對する語で、靈魂の温和な方面をいうが、日太書紀神功皇后の卷の自註に「和魂《ワコン》、此云2珥伎瀰多摩《コヲニキミタマトイフ》1」とあつて、ニキミタマというべく、ニキタマということを聞かない。この句の解は、死者の温和な方面の魂の著用する衣服が寒そうにの意とでもいうべきである。誤字説によれば、ニキタヘは、やわらかい織物であるが、かような死者の肌につけた衣服を、ニキタヘと敍述するかどうか、疑わしい。字形からいえば、靈は膚の誤りで、ニキハダかと(425)も思うが、これも疑わしい。決定説を缺く所以である。
 服寒等丹 コロモサムラニ。ラは接尾語。サムラニは、寒そうに。このラは、キヨラ、サカシラ、シミラなどのラと同じである。
 烏玉乃 ヌバタマノ。枕詞。黒に冠することから轉用して、髪に冠している。
 去能進尓 ユキノススミニ。ススミは、進行。行旅の途中で。「大船乎《オホブネヲ》 榜乃進爾《コギノススミニ》」(卷四、五五七)。
 此間偃有 ココニコヤセル。偃有は、「荒礒矣卷而《アリソヲマキテ》 偃有公鴨《フセルキミカモ》」(卷十三、三三四一)とも使用され、フセルと讀まれている。しかし死人の臥してあるには、多くコヤスの語を使つているので、ここはコヤセルと讀む。上に特殊の係助詞は無いが、こやせる事ぞの意に、連體形で留めている。コヤスは、動詞コユ(臥)の敬語。
【評語】旅にあつて、死者を見て哀傷する歌は多く、これは旅行者に取つて同情の禁じ得ないものがあるに據る。妻が作つて著せたであろうと、衣服のことから説き起しているのは、死者と家族との關係を思うもので、效果が多い。相當に長い文章を續け、そのあいだに特に緊張を感じさせる變化が無いために、全般にわたつて平板の感があり、痛切の情に乏しい。前半、二個のケムによつて推量を表現しているのは、歌意を弱くする所以であり、後半の、服寒ラニ、髪ハ亂レテあたりの直接描寫にはいつて、ようやく弛緩を取り返している。この歌、田邊の福麻呂の歌集の所出であり、天平時代の作と見られるのに、反歌を伴なつていないのは珍しい。推敲を經ないで草案で止んだためであろうか。
 
過2葦屋處女墓1時作歌一首 并2短歌1
 
葦屋《あしのや》の處女《をとめ》の墓を過ぎし時、作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】過葦屋處女墓時 アシノヤノヲトメノツカヲスギシトキ。アシノヤは、今神戸市の東方芦屋市と稱して(426)いる地方で、アシノヤノヲトメは、その地の娘子の意である。その地は、もと菟原郡であつたから、菟原娘子ともいう。傳説上の人物で、その事は、下の高橋の蟲麻呂の歌詞(卷九、一八〇九)にくわしい。娘子が美しかつたので、思いを寄せる人も多かつた中に、菟原壯士《うないをとこ》と血沼壯士《ちぬをとこ》とが、もつとも熱烈に言い寄り、はげしく娘子を得ようと爭つたので、いずれに身を許すこともできないで、水に投じて死に、二人の壯士もその後を追つて死んだので、人々があわれんで、娘子の墓を中央に、壯士の墓をその左右に築いたというのである。大日木地名辭書に「處女墓三所、各周廻は十餘歩、一は住吉村字|御田《ごでん》、一は東明《とうミやう》、一は味泥《みどろ》に在り。相距る各十餘町、今御田東明の二塚は現存し、近年味泥塚は削られて民宅と爲る。俗説御田塚を茅渟《ちぬ》の信太《シノダ》男(の)墓、東明塚を處女墓、味泥塚を菟原男墓と爲す。皆前方後圓の大爲|鬣封《れつぷう》なり」とある。茅渟の信太男というのは、血沼壯士に同じ。東明の處女塚は、大體舊形を存し、史蹟として保護されている。この地は、西國への往還の途に當つているので、京人の目に觸れ、耳に傳えることも多く、その物語は、大和物語にも入り、謠曲にも作られ、多少の變化も生じている。この物語は、もと三個の墳墓が竝列して存在している事實に、妻爭いの傳説が結びついて、成立したものと考えられる。大和物語に傳えられたこの説話は、本卷一八一一の歌の終りに載せてある。
 
1801 古《いにしへ》の ますら壯《をとこ》の
 相競《あひきほ》ひ 妻問《つまどひ》しけむ
 葦屋の 菟原處女《うなひをとめ》の
 奥津城《おくつき》を わが立ち見れば、
 永き世の 語《かたり》にしつつ、
 後人《のちびと》の 思《しの》ひにせむと、
(427) 玉|桙《ほこ》の 道の邊《べ》近く、
 磐《いは》構《かま》へ 作れる塚《つか》を、
 天雲《あまぐも》の 退部《そくへ》の限《かぎ》り
 この道を 行く人|毎《ごと》に
 行き寄りて いたち嘆かひ、
 或《わび》人は 啼《ね》にも哭《な》きつつ
 語り繼ぎ 思《しの》ひ繼ぎ來し
 處女《をとめ》らが 奥津城どころ、
 吾さへに 見れば悲しも。
 古《いにしへ》思へば。
 
 古之《イニシヘノ》 益荒丁子《マスラヲトコノ》
 各競《アヒキホヒ》 妻問爲祁牟《ツマトヒシケム》
 葦屋乃《アシノヤノ》 菟名日處女乃《ウナヒヲトメノ》
 奥城矣《オクツキヲ》 吾立見者《ワガタチミレバ》
 永世乃《ナガキヨノ》 語尓爲乍《カタリニシツツ》
 後人《ノチビトノ》 偲尓世武等《シヌビニセムト》
 玉桙乃《タマホコノ》 道邊近《ミチノベチカク》
 磐構《イハカマヘ》 作冢矣《ツクレルツカヲ》
 天雲乃《アマグモノ》 退部乃限《ソクヘノカギリ》
 此道矣《コノミチヲ》 去人毎《ユクヒトゴトニ》
 行因《ユキヨリテ》 射立嘆日《イタチナゲカヒ》
 或人者《ワビビトハ》 啼尓毛哭乍《ネニモナキツツ》
 語嗣《カタリツギ》 偲繼來《シノヒツギコシ》
 處女等賀《ヲトメラガ》 奥城所《オクツキドコロ》
 吾并《ワレサヘニ》 見者悲喪《ミレバカナシモ》
 古思者《イニシヘオモヘバ》
 
【譯】昔のりつぱな男が、競つて言い寄つたという葦屋の菟原娘子の墓を、わたしが來て見れば、永い世の物語にして、後の人の思い出にしようと、道のほとり近く、岩を構えて作つた塚を、天の雲の退いている遠い處までも、この道を行く人毎に、近づいて歎息し、感じやすい人は泣きもして、語り繼ぎ思い繼いできた娘子の墓所を、わたしまでも見れば悲しいことだ。昔を思うので。
【構成】全篇一文。
【釋】古之益荒丁子 イニシヘノマスラヲトコノ。丁子は、男子の成年者の意をもつて、ヲトコに當てて書いている。菟原壯士と、血沼壯士との二人をいう。
(428) 各競 アヒキホヒ。各競は、たがいに爭つての意に、義をもつて書いている。
 妻問爲祁牟 ツマドヒシケム。ツマドヒは、婚を求めるをいう、その名詞形。ケムは、過去推量の助動詞の連體形。
 葦屋乃菟名日處女乃 アシノヤノウナヒヲトメノ。アシノヤは、郷名であり、ウナヒは、大地名で、郡名にもなつている。葦屋の郷に住む菟原娘子の意である。題詞には、葦屋の娘子とあるが、物語としては、菟原娘子として傳えられていたのだろう。これらは、地名を冠していう傳説上の名で、生前の稱號ではない。
 奥城矣 オクツキヲ。オクツキは、墳墓。オクは、遠い處、ツは接續の助詞、キは、建造物の義であろう。假字書きの例には「大伴能《オホトモノ》 等保追可牟於夜能《トホツカムオヤノ》 於久都奇波《オクツキハ》 之流久之米多弖《シルクシメタテ》 比等能之流倍久《ヒトノシルベク》」(卷十八、四〇九六)があり、これによつて、訓法が推定される。
 語尓爲乍 カタリニシツツ。カタリは、物語、語りごと。モノガタリ、カタリゴトとはいふが、カタリとのみ言つたのは珍しい。しかし語部、語連などの氏姓があるのだから、カタリの語も通用していたのだろう。この菟原娘子の物語も、一つの語りものとして傳えられていたのかも知れない。
 後人 ノチビトノ。ノチヒトシ(元赭)、ノチヒトニ(類)、ノチノヒト(西)。後世の人のの意。古くノチビトの訓がある。
 偲尓世武等 シノヒニセムト。シノヒは思慕すること。菟原娘子たちの身の上を思うことをいう。
 玉桙乃 タマホコノ。枕詞。
 磐構 イハカマヘ。墳墓は、石を組んで造るので、岩石を構えと云つている。
 作冢矣 ツクレルツカヲ。ツクレルツカヲ(元赭)、ツクレルハカヲ(古義)。倭名類聚紗に、「墳墓、周禮注云、墓 莫故反、與v暮同、豆賀。塚塋地也」とあつて、ツカと訓している。上のオクツキを、語を換えて、ふたたび(429)提示している。
 天雲乃退部乃限 アマグモノソクヘノカギリ。退部は、集中假字書きの例、「曾久敝《ソクヘ》」(卷三、四二〇)、「曾伎敝《ソキヘ》」(卷十七、三九六四、卷十九、四二四七)の兩樣がある。語義は退く方であろう。天の雲の彼方に退きいる果で、遠隔の限りをいう。この句は、この道を行く人の説明に置かれ、遠い果まで行く人でもの意に使用される。「天雲乃《アマグモノ》 遠隔乃極《ソクヘノキハミ》 遠鷄跡裳《トホケドモ》 情志行者《ココロシユケバ》 戀流物可聞《コフルモノカモ》」(卷四、五五三)の如く、遠隔の字をソクヘと讀んでいる。
 行因 ユキヨリテ。塚のほとりに立ち寄つて。
 射立嘆日 イタチナゲカヒ。イは接頭語。ナゲカヒは、歎クの連續して行われるをいう。「畫波母《ヒルハモ》 歎加比久良志《ナゲカヒクラシ》」(卷五、八九七)。
 或人者 ワビビトハ。
  アルヒトハ(元赭)
  ワヒヒトハ(西)
  ――――――――――
  惑人者《ワビビトハ》(矢)
  惑人者《サトビトハ》(代初書入)
  戚人者《ワビビトハ》(考)
 或は惑に通じて使用されている。「令v反2或情1歌《マドフココロヲカヘサシムルウタ》」(卷五、八〇〇題詞)の如き、その例である。この卷の五の例も、仙覺本には惑に作つている。これをワビと讀むのは、「都禮毛無《ヅレモナク》 將v有人乎《アルラムヒトヲ》 獨念爾《カタモヒニ》 吾念者《ワレシオモヘバ》 惑毛安流香《ワビシクモアルカ》」(卷四、七一七)の歌に、惑をワビシクと讀むに準ずるもので、それも神田本には或に作つている。同樣の用字例には、「或者之《ワビビトノ》 痛情無跡《アナココロナト》 將v念《オモフラム》 秋之長夜呼《アキノナガヨヲ》 寐臥耳《イネフシテノミ》」(卷十、二三〇二)がある。ワビは、「狹夜中尓《サヨナカニ》 友喚千鳥《トモヨブチドリ》 物念跡《モノオモフト》 和備居時二《ワビヲルトキニ》 鳴乍本名《ナキツツモトナ》」(卷四、六一八)、「今者吾羽《イマハワレハ》 和備曾四二結類《ワビゾシニケル》 氣乃緒尓《イキノヲニ》 念師君乎《オモヒシキミヲ》 縱左久思者《ユルサクオモヘバ》」(同、六四四)、「大夫之《マスラヲノ》 思和備乍《オモヒワビツツ》 遍多《タビマネク》 嘆久嘆乎《ナゲクナゲキヲ》 不v負物可聞《オハヌモノカモ》」(同、六四(430)六)などの例によつて、さびしがり感傷的にあるをいうと知られる。ワビビトは、そのような物に感じやすくなつている人をいう。もののあわれを知る者の意に使用している。
 偲繼來 シノヒツギコシ。シノヒツキクル(西)、シヌビツギコシ(考)。シノヒツギケルとも讀まれる。思慕し繼いで來た意。
 吾并 ワレサヘニ。ワレシマタ(西)、ワレサヘニ(代初)。并は、自分をも併わせての意に、サヘに當てている。「能登河之《ノトガハノ》 水底并爾《ミナソコサヘニ》 光及爾《テルマデニ》」(卷十、一八六一)。
 古思者 イニシヘオモヘバ。はるかに初めの、古ノマスラ壯士ノという歌い起しに呼應している。
【評語】娘子の墓に對する感慨が主になつていて、物語の内容にすこしも觸れていないことは、高橋の蟲麻呂の歌との相違で、山部の赤人の、葛飾の眞間の娘子の墓を過ぎし時の歌の跡を追つている。語り傳えゆくことを重視している點も、赤人の作に類している。奧津城ヲワガ立チ見レバといい、重ねて奥津城ドコロ吾サヘニ見レバと云つているのは、あまり效果はなく、しかも途中にその塚を説明しているなど、かえつて冗長《じようちよう》を感じさせる。
 
反歌
 
1802 古《いにしへ》の 小竹田壯士《しのだをとこ》の 妻問《つまど》ひし
 菟原處女《うなひをとめ》の 奥津城《おくつき》ぞ、これ。
 
 古乃《イニシヘノ》 小竹田丁子乃《シヌダヲトコノ》 妻問石《ツマドヒシ》
 菟會處女乃《ウナヒヲトメノ》 奥城敍此《オクツキゾコレ》
 
【譯】昔の小竹田壯士が言い寄つた菟原娘子の墓所はこれだ。
【釋】小竹田丁子乃 シノダヲトコノ。シノダは、和泉の國の地名、信田の郷。血沼壯士のことで、チヌはそ(431)の大地名である。
 奥城敍此 オクツキゾコレ。オクツキであるぞ、これがと、強く指示する表現である。「里爾下來流《サトニオリケル》 牟射佐※[田+比]曾此《ムササビゾコレ》」(卷六、一〇二八)、「山人乃《ヤマビト》 和禮爾依志米之《ワレニエシメシ》 夜麻都刀曾許禮《ヤマツトゾコレ》」(卷二十、四二九三)の如き用例がある。
【評語】血沼壯士の名を特に擧げているのは、娘子が心を寄せたのは、この血沼壯士の方であつたからだろう。娘子の墓を指示するのに、ただ小竹田壯士が妻問ヒシというだけで、特殊の内容に觸れていないのは、物足りない。これでは、何處の娘子の墓所にでも通用する。
 
1803 語りつぐ からにも幾許《ここだ》 戀しきを、
 直目《ただめ》に見けむ 古壯士《いにしへをとこ》。
 
 語繼《カタリツグ》 可良仁文幾許《カラニモココダ》 戀布矣《コホシキヲ》
 直目尓見兼《タダメニミケム》 古丁子《イニシヘヲトコ》
 
【譯】語り繼ぐそれだけでも大變戀しいのを、目のあたりに見たであろう昔の男は、どのようであつたろう。
【釋】可良仁文幾許 カラニモココダ。カラは、多く助詞として使用されているが、ここなどは、なお體言としての性質を殘している。故の意である。句の初めに置かれた例には「手取之《テニトルガ》 柄二忘跡《カラニワスルト》 礒人之曰師《アマノイヒシ》」(卷七、一一九七)がある。
 直目尓見兼 タダメニミケム。終止とも連體とも解せられるが、ここは連體形として、次の古壯士を修飾していると見るべきである。
【評語】長歌の、語リ繼グを受けている。昔の男たちに同情した氣もちは、よくあらわれている。末句を體言で止めて、以下を省路した云い方は、感情を含んだ表現である。
 
(432)哀2弟死去1作歌一首 并2短歌1
 
弟の死去《みまか》れるを哀《かな》しみて作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】哀弟死去作歌 オトノミマカレルヲカナシミテツクレルウタ。弟は、古事記中卷に「また弟國に到りし時に、遂に峻《ふか》き淵に墮ちて死にき。かれ其地《そこ》に名づけて墮國《おちくに》といひしを、今は弟國《おとくに》といふなり。」とある弟國は、後に乙訓の字をあてており、正倉院文書に、秦姓オトアニという同一人の名を、弟兄、弟安、乙安(大日本古文書九ノ五九、二〇〇、二二四、二四三等)と書いているので、オトと讀むことが確められる。本集に「弟日娘」(卷一、六五)とあるのも、オトヒヲトメと讀まれる。イロセ、イロトともいうが、それは古語であろう。これは田邊の福麻呂の弟だろうが、いかなる人とも知られず、死去の年代はわからない。
 
1804 父母が 成しのまにまに
 箸向《はしむか》ふ 弟《おと》の命《みこと》は、
 朝露の 消易《けやす》き壽《いのち》、
 神の共《むた》 爭ひかねて、
 葦原の 瑞穗の國に、
 家無みや また還《かへ》り來《こ》ぬ。」
 遠つ國 黄泉《よみ》の界に
 蔓《は》ふ蔦の おのが向《む》き向《む》き、
 天雲《あまぐも》の 別れし行けば、
(433) 闇夜《やみよ》なす 思ひ迷《まど》はひ、
 射《い》ゆ猪《しし》の 心をいたみ、
 葦垣の 思ひ亂れて、
 春鳥の 啼《ね》のみなきつつ、
 味さはふ 夜晝《よるひる》知らず、
 かぎろひの 心燃えつつ
 嘆き別れぬ。
 
 父母賀《チチハハガ》 成乃任尓《ナシノマニマニ》
 箸向《ハシムカフ》 弟乃命者《オトノミコトハ》
 朝露乃《アサツユノ》 銷易杵壽《ケヤスキイノチ》
 神之共《カミノムタ》 荒競不v勝而《アラソヒカネテ》
 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國尓《ミヅホノクニニ》
 家無哉《イヘナミヤ》 又還不v來《マタカヘリコヌ》
 遠津國《トホツクニ》 黄泉乃界丹《ヨミノサカヒニ》
 蔓都多乃《ハフツタノ》 各々向々《オノガムキムキ》
 天雲乃《アマグモノ》 別石往者《ワカレシユケバ》
 闇夜成《ヤミヨナス》 思迷匍匐《オモヒマドハヒ》
 所v射十六乃《イユシシノ》 意矣痛《ココロヲイタミ》
 葦垣之《アシガキノ》 思亂而《オモヒミダレテ》
 春鳥能《ハルトリノ》 啼耳鳴乍《ネノミナキツツ》
 味澤相《アヂサハフ》 宵晝不v知《ヨルヒルシラズ》
 蜻※[虫+廷]火之《カギロヒ》 心所v燎管《ココロモエツツ》
 悲悽別焉《ナゲキワカレヌ》
 
【譯】父母が生みなしたままに食事を共にする弟の君は、朝の露のように消えやすい命を、神樣と爭いかねて、この日本の國に、家が無いからかまたと歸つて來ない。遠い國である死の世界に、伸びている蔓草のように、それぞれ向かつて、天の雲のように別れて行くので、闇の夜のように思い惑い、射られた鹿のように心が痛み、アシの垣のように思い亂れて、春の鳥のように泣きながら、夜晝をも知らずに、陽炎のように心が燃えつつ、歎いて別れた。
【構成】第一段、マタ歸リ來ヌまで。弟の死んだことを敍する。第二段、終りまで。歎きつつ別れたことを敍する。
【釋】成乃任尓 ナシノマニマニ。生み成したままに。
 箸向 ハシムカフ。枕詞。文字に即して考えれば、箸の向かう意で、相對して食事する意であろう。ミケムカフ(御食向)に準じて考えられる。箸を假字として、愛シの義とする説があるが、無理のようである。
 弟乃命者 オトノミコトハ。弟をオトと讀むことは題詞の條に記した。「波之伎余思《ハシキヨシ》 奈弟乃美許等《ナオトノミコト》」(卷十(434)七、三九五七)の奈弟をナオトと讀むべきが如くあるので、この訓が確められる。弟を從來ナセと讀んでいたが、ナセでは、弟に限定されない。弟の字をセとも讀むが、それは特殊の場合である。ミコトは、敬稱。
 朝露乃 アサツユノ。枕詞。
 神之共荒競不勝而 カミノムタアラソヒカネテ。神は、人の死生を支配するという思想から、その神と爭うことができない意に歌つている。神と共に、死生を爭うのである。この思想は、男子名は古日ニ戀フル歌(卷五、九〇四)に、その子古日の病氣について、「かからずもかかりも神のまにまにと」などの句によつてあらわれている。「千早振《チハヤブル》 神持在《カミノモタセル》 命《イノチヲモ》」(卷十一、二四一六)も同じ思想である。
 葦原乃水穗之國尓 アシハラノミヅホノクニニ。アシハラノミヅホノクニは、日本國の古い稱號であるが、ここでは、黄泉の國に對して、人間の世界の意をあらわしている。日本靈異記中卷、「知者誹2妬《ニクミソシリ》變化聖人1而現至2閻羅闕《エンラノミカド》1受2地獄苦1縁第七」に、智光という僧が、地獄に行くと、閻魔王が尋ねていうには、「葦原の水穗の國にある、いはゆる智光法師か」というとある。そのような葦原の國の使い方である。
 家無哉又還不來 イへナミヤマタカヘリコヌ。死んでふたたび歸り來ないことをいう。イヘは、實際の邸宅でなく、死者の靈魂の歸るべき處の意に言つている。これも靈異記の説話に、死んで地獄へ行つた女が、地獄から歸ることを許されたけれども、既に死體が燒かれてしまつて、靈魂の歸るべき處がないので、これを閻魔王に訴える話がある。句切。
 遠津國 トホツクニ。枕詞。黄泉の國を、遠方の國として説明している。
 黄泉乃界丹 ヨミノサカヒニ。黄泉は、漢籍から來た文字で、地下にあつて死者の行く處をいう。左傳に、「不v及《イタラ》2黄泉(ニ)1、無(キ)2相(ヒ)見(ル)1也」、漢の古詩に「下有2陳死(ノ)人1、杳杳(トシテ)即《ツク》2長暮(ニ)1、潜(ニ)寐(テ)2黄泉(ノ)下(ニ)1、千歳永(ニ)不v寤《サメ》」、本集では「悲2歎《カナシミナゲグ》俗道假(ニ)合(フハ)即(チ)離(レ)易(クシテ)v去(リ)難(キヲ)1v留(リ)詩」(卷五)の序に「白馬走(リ)來(ルトモ)、黄泉何及(カン)」、また「宍串呂《シシクシロ》黄泉爾將v待跡《ヨミニマタムト》」(435)(卷九、一八〇九)など見えている。國語に、ヨミ、ヨミノクニ、ヨモツクニなどいうが、語義は不明で、闇黒であつても見えるから、夜見の義でいうとされているが、當つているかどうかわからない。神話では、暗い穢い世界として、そこをおとずれる話を傳えている。サカヒは、境界の義で、その地域の意に使つている。この死者の思想は、古くから傳えた所に、外來思想を受け入れて、整理されたであろう。
 蔓都多乃 ハフツタノ。枕詞。ツタは、石などにまつわる蔓草。蔓が伸びてそれぞれに向かうので、オノガ向キ向キに冠している。
 各々向々 オノガムキムキ。ヲノカムキムキ(元赭)、オノオノムキムキ(代精)、オノモオノモ(古義)。オノガは、おのれがの義で、義をもつて各々に訓している。自分の心のままに向いてで、死者が、みずから死に行くように敍している。死ぬことを、死者のみずから選んですることとする云い方である。
 天雲乃 アマグモノ。枕詞。天の雲が、それぞれに別れるというので、別レに冠している。
 別右往者 ワカレシユケバ。シは、強意の助詞。別れ行けばに同じ。
 闇夜成 ヤミヨナス。枕詞。闇夜のようにで、思ヒ迷ハヒに冠している。
 思迷匍匐 オモヒマドハヒ。匍匐は、ハヒの假字に使用している。迷匍匐で、マドハヒと讀まれる。惑うことの連續する意である。
 所射十六乃 イユシシノ。枕詞。イユは、射られるの意の語。「伊喩之々乎《イユシシヲ》 都那遇何播杯熊《ツナグカハベノ》」(日本書紀一一七)の例によつて、イユと讀まれている。イユで、連體形を採つていると見られる古語である。十六は、四四十六だから、シシのおとに借りて書いている。シシは、鹿猪をいい、射られた鹿猪で、次の痛ミに冠している。「所v射宍乃《イユシシノ》 行文將v死跡《ユキモシナムト》」(卷十三、三三四四)、「所v射鹿乎《イユシシヲ》 認河邊之《ツナグカハベノ》 和草《ニコグサノ》」(卷十六・三八七四)。
 葦垣之 アシガキノ。枕詞。葦を編んで作つた垣は亂れ易いから、亂レに冠する。
(436) 春鳥能 ハルトリノ。ウクヒスノ(元赭)、ハルトリノ(略)。枕詞。春鳥は、春花、春草などの例によつて、ハルトリと讀む。枕詞として、音ニ鳴クに冠しており、ウグイスに限らないのである。
 味澤相 アヂサハフ。枕詞。語義不明。多くはメに冠しているが、ここに夜晝知ラズに冠しているのは珍しい。これによれば、アヂサハフは、愛すべくある意の語であろうか。アヂは多數、サハフは、多く生える意か。
 蜻※[虫+廷]火之 カギロヒノ。枕詞。蜻※[虫+廷]火は、訓假字で、陽炎をいい、燃ユに冠する。蜻※[虫+廷]は虫の名。ここにカギロヒに火の字を送り、タマカギルに「玉蜻※[虫+廷]」(卷八、一五二六)と書いているによれば、カギル、もしくはカギロと言つたのだろう。「蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野尓《モユルアラノニ》」(卷二、二一〇)。但しこの用例は、枕詞ではなく、陽炎の實物である。
 心所燎管 ココロモエツツ。思う通りにならないで、嘆き悲しむをいう。
 悲悽別焉 ナゲキワカレヌ。
  アハレワカレヲ(元赭)
  イタムワカレヲ(西)
  ――――――――――
  悲悽別烏《ナゲクワカレヲ》(矢)
  悲悽我爲《ナゲキゾアガスル》(古義)
  悲悽我焉《カナシブワレゾ》(新考)
 悲悽は、悲しみ歎く意で、悽に重點があるとすれば、ナゲクと讀まれる。焉は措辭とすれば、別焉をワカレヌと讀むべきである。上に思ヒ迷ハヒ、意ヲ痛ミ、思ヒ亂レテ、音ノミ哭キツツ、および、夜晝シラズ、心燃エツツを受けているのだから、歎キ別レヌの方がよく收まるのである。
【評語】前半の、弟の説明から、その死に至るあたりの敍述はよくまとまつており、感傷の情も出ている。後半、連續して九個の枕詞を使用したのは、感情表出の妨げになるばかりで、惡效果を來している。死に對する思想が窺われ、佛教の無常思想と、神が死生を支配するとする思想とが入りまじつているのが注意される。
 
(437)反歌
 
1805 別れても
 またも遭《あ》ふべく 念《おも》ほえば、
 心亂れて われ戀ひめやも。
 
 別而裳《ワカレテモ》
 復毛可v遭《マタモアフベク》 所v念者《オモホエバ》
 心亂《ココロミダレテ》  吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】別れても、また逢うことと思われるならば、心が亂れてわたしが戀をしようや。
【釋】所念者 オモホエバ。思ホユの未然條件法。思われるならば。
【評語】平易に述べてあるだけに、哀痛の情は、掬み取られる。二度と逢うことのできない別れが、あわれに描かれている。
 
一云、意盡而《ココロツクシテ》
 
一はいふ、意《こころ》盡して。
 
【釋】一云意盡而 アルハイフ、ココロツクシテ。前の歌の第四句の別傳である。心亂レテの方が、惑亂の情を描いているといえよう。心盡シテは、心をあれこれと使つての意である。
 
1806 あしひきの 荒山中に 送り置きて
 還《かへ》らふ見れば 情《こころ》苦しも。
 
 蘆檜木笶《アシヒキノ》 荒山中尓《アラヤマナカニ》 送置而《オクリオキテ》
 還良布見者《カヘラフミレバ》 情苦喪《ココロクルシモ》
 
【譯】荒い山中に送つておいて、歸つてくるのを見ると、心が苦しいことだ。
(438)【釋】蘆檜木笶 アシヒキノ。枕詞。
 還良布見者 カヘラフミレバ。葬送の人々の歸るのを見れば。
【評語】死者を葬る歌は、多くは死者みずから山に入るように歌つているが、これは人々が送つたと敍しているのは變つている。それだけに客觀性が強く出ており、そこに哀傷の感がしみじみと味わわれる。死者を葬る歌としては、後世ふうの表現になつているのである。荒山中ニ送リオキテという表現が、いたましい感じをあらわし得ている。
 
右七首、田邊福麻呂之歌集出
 
詠2勝鹿眞間娘子1歌一首 并2短歌1
 
勝鹿《かつしか》の眞間《まま》の娘子《をとめ》を詠める歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】詠勝鹿眞間娘子歌 カツシカノママノヲトメヲヨメルウタ。カツシカノママノヲトメは、傳説上の一女子で、葛飾の眞間の地に住む娘子の意である。前に「過2勝鹿眞間娘子墓1時、山部宿禰赤人作歌」(卷三、四三一)がある。その條參照。これも高橋の蟲麻呂が、その地を過ぎての作である。娘子は、、東國語ではテコナというが、娘子と書いてあるのは、ヲトメと讀んだのであろう。以下、高橋の連蟲麻呂の歌集所出の歌で、蟲麻呂の作と考えられる。
 
1807 ※[奚+隹]が鳴く 吾妻《あづま》の國に
 古昔《いにしへ》に ありけることと、
(439) 今までに 絶えず言ひ來《く》る
 葛飾の 眞間の手兒奈が、
 麻衣に 青衿《あをくび》つけ
 ひたさ麻《を》を 裳には織り著て、
 髪だにも かきは梳《けづ》らず、
 履《くつ》だにも はかず行けども、
 錦綾の 中につつめる
 齋兒《いはひご》も 妹にしかめや。
 望月の 滿《た》れる面わに
 花のごと 咲《ゑ》みて立てれば、
 夏蟲の 火に入るがごと、
 水門《みなと》入りに 船こぐ如く、
 行きかぐれ 人の言ふ時、
 いくばくも 生けらじものを、
 何すとか 身をたな知りて、
 浪の音の さわく湊《みなと》の
 奧津城《おくつき》に 妹が臥《こや》せる。」
(440) 遠き世に ありける事を、
 昨日しも 見けむが如も
 思ほゆるかも。」
 
 鷄鳴《トリガナク》 吾妻乃國尓《アヅマノクニニ》
 古昔爾《イニシヘニ》 有家留事登《アリケルコトト》
 至v今《イママデニ》 不v絶言來《タヘズイヒクル》
 勝壯鹿乃《カツシカノ》 眞間乃手兒奈我《ママノテコナガ》
 麻衣尓《アサギヌニ》 青衿著《アヲクビツケ》
 直佐麻乎《ヒタサヲヲ》 裳者織服而《モニハオリキテ》
 髪谷母《カミダニモ》 掻者不v梳《カキハケヅラズ》
 履乎谷《クツヲダニ》 不v著雖v行《ハカズユケドモ》
 錦綾之《ニシキアヤノ》 中丹裹有《ナカニツツメル》
 齊兒毛《イハヒゴモ》 妹尓將v及哉《イモニシカメヤ》
 望月之《モチヅキノ》 滿有面輪二《タレルオモワニ》
 如v花《ハナノゴト》 咲而立有者《ヱミテタテレバ》
 夏蟲乃《ナツムシノ》 入v火之如《ヒニイルガゴト》
 水門入尓《ミナトイリニ》 船己具如久《フネコグゴトク》
 歸香具禮《ユキカグレ》 人乃言時《ヒトノイフトキ》
 幾時毛《イクバクモ》 不v生物呼《イケラジモノヲ》
 何爲跡歟《ナニストカ》 身乎田名知而《ミヲタナシリテ》
 浪音乃《ナミノオトノ》 驟湊之《サワクミナトノ》
 奥津城尓《オクツキニ》 妹之臥勢流《イモガコヤセル》
 遠代尓《トホキヨニ》 有家類事乎《アリケルコトヲ》
 昨日霜《キノフシモ》 將v見我其登毛《ミケムガゴトモ》
 所v念可聞《オモホユルカモ》
 
【譯】鷄の鳴く、東の國に、昔あつた事と、今に至るまで絶えず言つている葛飾の眞間の娘子が、麻の著物に青い襟を附け、純粹の麻を裳に織つて著て、髪だけもかき梳《けず》らず、はき物だけもはかないで行くけれども、錦綾の中に包んである大切にしている兒も、この娘子には及ばない。滿月のように、滿ちている顔に、花のように笑つて立つていると、夏の蟲が火に入るように、水門に入るために船を漕ぐように、行き集まつて人がいう時に、何ほども生きてはいない身だのに、何としたことか、自分の身の上をすつかり知つて、浪の音の騷ぐ水門の墓所に娘子が臥している。遠い昔にあつた事を、昨日にでも見たように思われるなあ。
【構成】第一段、奧津城ニ妹ガ臥セルまで。眞間の手兒奈の事蹟を語る。そのうち妹ニ及カメヤまで第一節、眞間の手兒奈の美しさを描く。妹ガ臥セルまで第二節、時ならずして死んだことを敍する。第二段、終りまで。作者の感想を述べる。
【釋】鷄鳴 トリガナク。枕詞。
 吾妻乃國尓 アヅマノクニニ。アヅマは、古事記中卷に、倭建の命が、足柄の坂にお登りになつて、東方を望んで、妃の弟橘比賣を思つて「吾妻《あづま》はや」と歎息されたから、その國に名づけて、アヅマというとする説話を載せている。しかしこれは、一の地名起原説話であつて、アヅマの地名に對する興趣の深い解釋というべきである。地名にいうツマは、地形表示の語であつて、それは、別廓を成している地形をいうのだから、足柄山を堺として、その東方の地帶を、大和人がアヅマと呼んだのであろう。アの語義は不明だが、遠方の意だろう。(441)アヅマの國は、場合によつては、かなり廣範圍に、伊勢以東を總稱することもある。これは地名は、元來その地に對していうものであるから、大和の國から東方を總稱することにもなつたものである。この歌での用法は、狹義に關東の國という程度に使用されている。
 古昔尓有家留事登 イニシヘニアリケルコトト。眞間の手兒奈の時代は知られない。山部の赤人の歌にも「古昔《イニシヘニ》 有家武人之《アリケムヒトノ》 倭文幡乃《シヅハタノ》 帶解替而《オビトキカヘテ》 廬屋立《フセヤタテ》 妻問爲家武《ツマドヒシケム》 勝壯鹿乃《カツシカノ》 眞間之手兒名之《ママノテコナガ》」(卷三・四三一)と言い、その事の遠く久しいことを歌つている。イニシヘの語は、古代の意から、わずかに數年前にもいう廣範圍の語であるから、これによつても、時代を指定することはできない。また單に傳説として存在して、時間の上にこれを求めるのが無理であるのかも知れない。
 不絶言來 タエズイヒクル。タエスイヒクル(元)、タエスイヒケル(西)。來は、クルともケルとも讀まれ、句意も、どちらでも通ずるが、前出の「或人者《ワビビトハ》 啼尓毛哭乍《ネニモナキツツ》 語嗣《カタリツギ》 偲繼來《シノヒツギコシ》 處女等賀《ヲトメラガ》 奥城所《オクツキドコロ》」(卷九、一八〇一)の來も、共にケルとも讀まれる。しかしここでは、上に、「古昔尓《イニシヘニ》 有家留事登《アリケルコトト》」の句があり、それを受けているから、やはりクルの方が穩當なのであろう。これは人々が語り繼いで今に至つたことを述べている。連體形の句。
 眞間乃手古奈我 ママノテコナガ。ママは、地名。ガケ地の義。テコナは、東國の語で、娘子の義。テコが女子、コは兒の義であろう。ナは、愛稱の接尾語。山部の赤人の、勝鹿の眞間の娘子を過ぎし時の歌(卷三、四三一)に註して「東(ノ)俗語(ニ)云(フ)、可豆思賀能麻末乃弖胡《カヅシカノママノテゴ》」とあり、テゴとも云つたことが知られる。娘子の名ではない。
 麻衣尓 アサギヌニ。アサギヌは、麻で織つた衣服。當時の普通の品である。ここでは娘子が質素な衣服をつけていることを描くために、この語を出している。
(442) 青衿著 アヲクビツケ。アヲクビツケテ(元赭)、アヲエリツケテ(代初、書入)、アヲエリツケ(童)。青衿は、代匠記精撰木に「毛詩云、青々子衿。傳云、青衿青領也。爾雅云、衿、交領、與v襟同。」 倭名類聚鈔に「衿、釋名云、袷 音領、古呂毛乃久比。頸也。所2以擁(スル)1v頸(ヲ)也。襟 音金 禁也。交(シ)2於前(ニ)1、所3以禁(ス)2禦《スル》風寒(ヲ)1也」とある。青い襟である。日本書紀にも、襟にキヌノクビと訓してある。
 直佐麻乎裳者繊服而 ヒタサヲヲモニハオリキテ。ヒタサヲは、純粹の麻。ヒタは、ひたむき、ひたすらなどのヒタで、「等能乃多知婆奈《トノノタチバナ》 比多底里爾之弖《ヒタテリニシテ》」(卷十八、四〇六四)のヒタも同語である。サは接頭語、ヲは、麻を絲にしたもの。麻ばかりで裳に織つて著て。モは、女子の腰につける衣裳。麻は、庶民一般の衣料として用いられたので、これも、質素な衣裳をつけている意に述べている。
 掻者不梳 カキハケヅラズ。髪を掻いて梳らずの意で、ハを入れてカキを強調している。「波布都多能《ハフツタノ》 由伎波和可禮受《ユキハワカレズ》」(卷十七、三九九一)の、行き別れずというを、行キハ別レズという如き形である。
 履乎谷不著雖行 クツヲダニハカズユケドモ。クツは、はきもの。倭名類聚鈔に「履、唐韵云、草曰v〓、麻曰v〓、革曰v履 音李、久豆」とあるけれども、一般庶民の使用したものは、皮革の製ではないだろう。麻または他の植物で作つたものと考えられる。「信濃道者《シナノヂハ》 伊麻能波里美知《イマノハリミチ》 可里婆禰爾《カリバネニ》 安思布麻之奈牟《アシフマシナム》 久都波氣和我世《クツハケワガセ》」(卷十四、三三九九)と歌われて、クツをはかないのが普通であつたようである。ここも眞間の手兒奈が、クツだけもはかないで歩行していることを敍して、身なりをつくろわないままでいることを述べている。
 錦綾之 ニシキアヤノ。ニシキは、倭名類聚鈔に「錦、釋名云、錦 居飲反、邇之岐」とある。諸種の色に染めた絹をもつて織つた物。アヤは、同書に「綾、野王案、綾 音陵 阿夜、似(テ)v綺(ニ)而細(キ)者也」とある。模樣を織り出した物。この二種は、高級の織物として擧げられている。
 齋兒毛 イハヒゴモ。イハヒゴは、大切に守つている兒。ここでは、大事にして育てた富家の女子をいう。(443)人倫を表示する語にイハヒを冠して、大切にして人に觸れさせない意を表示する例には、「鹿待君之《シシマツキミガ》 伊波比嬬可聞《イハヒヅマカモ》」(卷七、一二六二)の如きがある。
 妹尓將及哉 イモニシカメヤ。イモは、女子の愛稱であるが、本來二人稱として使用されたものが、三人稱にも使用されるようになつた。この作者は、物語の上に、しばしばこの語を、かの女の如き意味に使用している。しかしこの語の有する愛情は、保有されていると考えられる。浦島の子を詠める歌(卷九、一七四〇)における「如2明日1《アスノゴト》 吾者來南登《ワレハキナムト》 言家禮婆《イヒケレバ》 妹之答久《イモガイヘラク》」のイモの用法の如き、その例である。「筑波嶺乃《ツクハネノ》 須蘇廻乃田井爾《スソミノタヰニ》 秋田苅《アキタカル》 妹許將v遣《イモガリヤラム》 黄葉手折奈《モミチタヲラナ》」(卷九、一七五八)のイモも、同樣である。シカメヤは、及ぼうか及びはしないの意。句切。
 望月之 モチヅキノ。枕詞。譬喩に依つて、タレルを修飾する。
 滿有面輪二 タレルオモワニ。ミテルヲモ□ニ(元赭)、タレルオモワニ(考)。タレルは、充足してある意。手兒奈の容貌が、圓滿具足してあるをいう。オモワは、顔面。ワは接尾語。オモが圓形であることを示す。「天地《アメツチ》 日月與共《ヒツキトトモニ》 滿將v行《タリユカム》 神乃御面跡《カミノミオモト》」(卷二、二二〇)。
 水門入尓船己具如久 ミナトイリニフネコグゴトク。ミナトは、水の門戸、河口、港口などの處。そこに海上から船を漕ぎ入れるようにの意に、手兒奈のもとに、人々の寄りくる状を説く。この句、上の、夏蟲ノ火ニ入ルガ如の句と、對句を成すが、上は、火ニ入ルガ如の形を採り、これは、船コグ如クとして變化を示している。
 歸香具禮 ユキカグレ。
  コキカクレ(元賭)
  ユキカクレ(西)
(444)  ヨリカグレ(考)
  ――――――――――
  歸香賀比《ユキカガヒ》(古義)
 
 歸をユキと讀むのは、例が多い。カグレは、未詳の語。香の字を使つていることに意ありとすれば、カグ(香)と關係があるか。動詞カグは、嗅覺を働かすことをいうが、その下二段活として、香氣が求められる意にいうのででもあろう。香を慕うように集まつて。自然にカグようになる意。動詞ワブについて「於毛比和夫禮弖《オモヒワブレテ》」(卷十五、三七五九)ともいう類であろう。古事記傳卷の四十三、歌垣の條には、「加賀布※[女+燿の旁]歌爾《カガフカガヒニ》」(卷九、一七五九)の歌を擧げて「さて加賀比と云は、右の長歌に、加賀布とある如く、本用言なるを、體言になしたる名なり。其名は、又|加具禮交《カグレナヒ》の切《ツヅ》まりたるなるべし」とて、この歌を擧げ、また「加具禮と云言、此外には見えざれども、妻をよばふ事を、然云る古言のありしなるべし」と言つている。
 幾時毛 イクバクモ。
  イクトキモ(元赭)
  イクハクモ(西)
  ――――――――――
  幾許毛《イクバクモ》(略)
 幾時と書いた例は、他には無いが「幾《イクバクモ》 不2生有1命乎《イケラジイノチヲ》」(卷十二、二九〇五)の如く、幾とのみ書いて、同じく不生に續いている例があるから、それと共に、イクバクモと讀んでよいのであろう。
 不生物呼 イケラジモノヲ。イケラヌモノヲ(元赭)、イケラジモノヲ(古義)。本集には、打消の助動詞ジに、體言が接續した假字書きの例は無いが、前條に掲げた、「不2生者1命乎《イケラジイノチヲ》」(卷十二、二九〇五)の例によつて、イケラジモノヲと讀んでいる。人生を、短いものとする思想で歌つている。
 何爲跡歟 ナニストカ。どうするとしてか。カは、疑問の係助詞。下の、妹ガ臥セルの句で、これを受けて結んでいる。手兒奈の行爲を、理解しがたいものとして、その意を疑う心である。
 身乎田名知而 ミヲタナシリテ。タナシリは、すべてを知る意。身の上を思い悟つて。「家忌《イヘワスレ》 身毛多奈不(445)v知《ミモタナシラニ》」(卷一、五〇)、「夜中母《ヨナカニモ》 身者田菜不v知《ミハタナシラニ》 出曾相來《イデゾアヒケル》」(卷九、一七三九)。
 浪音乃驟湊之 ナミノオトノサワクミナトノ。湊は、水の集まる所で、河口などをいう。浪が寄せて音を立てる水の門で、オクツキの所在を示している。
 奧津城尓妹之臥勢流 オクツキニイモガコヤセル。死んで墳墓に横たわつていることをいう。コヤセルは、上の何ストカを受けて、連體形で結んでいる。この浪の音の騷ぐ湊の奥つ城に臥したの句で、手兒奈の水死したことを暗示しているようである。イクバクモ生ケラジモノヲ以下の句意は、不自然に、みずから死んだことをいうものと解せられる。句切。
 遠代尓有家類事乎 トホキヨニアリケルコトヲ。初めの、古昔ニアリケル事の句を受けて、呼應している。
 昨日霜將見我其登毛 キノフシモミケムガゴトモ。極めて近い時に見たようにあることを述べて、深い感慨に沈んだことを示す。
【評語】赤人の作が、墓に對して感傷しているのに對して、これは手兒奈の事蹟に觸れているのが、特色である。殊にその衣服風俗を精しく敍して印象をあきらかにしている。初めに、古昔ニアリケル事で起し、終りに遠キ世ニアリケル事と受けているのも、首尾一貫して、よく一首を纏めている。しかし傳説の内容を語つていないのは、誰でも知つているものとして扱つたのであろうか。または物語の内容を傳える歌が、既に存在していたのでもあろう。結末の、昨日シモ見ケムガ如モ思ホユルカモという句は、娘子の塚を見て程經て作つたことを思わしめる。當時の文學者たちが、かような題材を取りあげて文筆化する風潮があつて、この作者も、その波に乘つたともいえよう。またこの句は、同じ作者の葦屋の菟原處女《うないをとめ》の墓を見る歌の結句の、知ラネドモ新喪ノ如モ哭泣キツルカモの句と通うもので、古い物語を、身近い事に感ずるこの作者の特色を語つている。他の作者の、多くは古昔を思うという態度と相違する所である。
 
(446)反歌
 
1808 勝鹿《かつしか》の 眞間《まま》の井を見れば、
 立ち平《なら》し 水汲ましけむ
 手兒奈し念《おも》ほゆ。
 
 勝壯鹿之《カツシカノ》 眞間之井乎見者《ママノヰヲミレバ》
 立平之《タチナラシ》 水※[手偏+邑]家武《ミヅクマシケム》
 手兒名之所v念《テコナシオモホユ》
 
【譯】葛飾の眞間の井を見ると、この地を踏んで水を汲んだであろう娘子が思われる。
【釋】眞間之井乎見者 ママノヰヲミレバ。ママノ井は、眞間の地にある井で、清らかな水を湛えてある處。掘井には限らない。
 水※[手偏+邑]家武 ミヅクマシケム。ミツヲクミケム(元)、ミヅクマシケム(古義)。※[手偏+邑]は、汲む意の字。クマシと讀むのは、敬語法による。しかし敬意は輕く、慣用をもつていうのであろう。連體形の句で、次の手兒奈を修飾している。
【評語】水を汲むことによつて、娘子の生活をあきらかにし、長歌の質素な風俗の措寫と照應させている。水を汲むのは、女子の業とされていたので、これに及んだのである。これによつてよく娘子の生活状態を描いている。
 
見2菟原處女墓1歌一首 并2短歌1
 
菟原處女《うなひをとめ》の墓を見る歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】見菟原處女墓歌 ウナヒヲトメノツカヲミルウタ。ウナヒヲトメは、一八〇一の歌における菟名日處女(447)に同じ。その歌の題詞參照。菟原は、後にウバラというが、この歌の詞にも菟名負とあり、古くはウナヒと言つたのであろう。轟蟲呂は、この地を過ぎて更に西下したのだろうが、その作品にあらわれたところとしては、これが西のはてである。
1809 葦屋《あしのや》の 菟原處女の
 八年兒《やとせご》の 片生《かたおひ》の時ゆ
 振分髪《をはなり》に 髪たくまでに、
 竝《なら》び居《を》る 家にも見えず、
 虚木綿《うつゆふ》の 隱《こも》りて坐《を》れば、
 見てしかと いぶせむ時の
 垣ほなす 人の誂《と》ふ時、
 血沼壯士《ちぬをとこ》 菟原壯士《うなひをとこ》の、
 廬屋《ふせや》燒《た》く 進《すす》し競《きほ》ひ
 相結婚《あひよば》ひ しける時は、
 燒太刀《やきだち》の 柄《たかみ》おし練《ね》り、
 白檀弓《しらまゆみ》 靫取り負ひて、
 水に入り 火にも入らむと、
 立ち向かひ 競《きほ》ひし時に、
(448) 吾妹子が 母に語らく、
 倭文手纏《しづたまき》 賤《いや》しきわがゆゑ、
 丈夫《ますらを》の 爭ふ見れば、
 生けりとも 逢ふべくあれや、
 ししくしろ 黄泉に待たむと、
 隱沼《こもりぬ》の 下延《したば》へ置きて、
 うち嘆き 妹が去《い》ぬれば、
 血沼壯士《ちぬをとこ》 その夜|夢《いめ》に見、
 取り續き 追ひ行きければ、
 後《おく》れたる 菟原壯士《うなひをとこ》い、
 天仰ぎ 叫びおらび
 地《つち》をふみ 牙喫《きか》み誥《たけ》びて、
 もころ男に 負けてはあらじと、
 懸佩《かきはき》の 小劔《をだち》取り佩《は》き
 ところ葛《づら》 尋《と》め行きければ、
 親族《やから》ども い行き集《つど》ひ
 永き代に 標《しるし》にせむと、
(449) 遠き代に 語り繼がむと、
 處女墓《をとめづか》 中に造り置き
 壯士墓《をとこづか》 此方彼方《こなたかなた》に
 造り置ける 故縁《ゆゑよし》聞きて、
 知らねども 新喪《にほも》の如も
 哭《ね》泣きつるかも。
 
 葦屋之《アシノヤノ》 菟名負處女之《ウナヒヲトメノ》
 八年兒之《ヤトセゴノ》 片生之時從《カタオヒノトキユ》
 小放尓《ヲハナリニ》 髪多久麻弖尓《カミタクマデニ》
 並居《ナラビヰル》 家尓毛不v所v見《イヘニモミエズ》
 虚木綿乃《ウツユフノ》 ※[穴/牛]而座在者《コモリヲレバ》
 見而師香跡《ミテシガト》 悒憤時之《イブセムトキノ》
 垣廬成《カキホナス》 人之誂時《ヒトノトフトキ》
 智弩壯士《チヌヲトコ》 宇奈比壯士乃《ウナビヲトコノ》
 廬八燎《フセヤタク》 須酒師競《ススシキホヒ》
 相結婚《アヒヨバヒ》 爲家類時者《シケルトキハ》
 燒大刀乃《ヤキダチノ》 手穎押祢利《タガミオシネリ》
 白檀弓《シラマユミ》 靫取負而《ユキトリオヒテ》
 入v水《ミヅニイリ》 火尓毛將v入跡《ヒニモイラムト》
 立向《タチムカヒ》 競時尓《キホヒシトキニ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 母尓語久《ハハニカタラク》
 倭文手纒《シヅタマキ》 賤吾之故《イヤシキワガユヱ》
 大夫之《マスラヲノ》 荒爭見者《アラソフミレバ》
 雖v生《イケリトモ》 應v合有哉《アフベクアレヤ》
 宍串呂《シシクシロ》 黄泉尓將v待跡《ヨミニマタムト》
 隱沼乃《コモリヌ》 下延置而《シタバヘオキテ》
 打歎《ウチナゲキ》 妹之去者《イモガイヌレバ》
 血沼壯士《チヌヲトコ》 其夜夢見《ソノヨイメニミ》
 取次寸《トリツヅキ》 追去祁禮婆《オヒユキケラバ》
 後有《オクレタル》 菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》
 仰v天《アメアフギ》 叫於良妣《サケビオラビ》
 ※[足+昆]v地《ツチヲフミ》 牙喫建怒而《キカミタケビテ》
 如己男尓《モコロヲニ》 負而者不v有跡《マケテハアラジト》
 懸佩之《カケハキノ》 小劔取佩《ヲダチトリハキ》
 冬※[草がんむり/叙]蕷都良《トコロヅラ》 尋去祁禮婆《トメユキケレバ》
 親族共《ヤカラドモ》 射歸集《イユキツドヒ》
 永代尓《ナガキヨニ》 標將v爲跡《シルシニセムト》
 遐代尓《トホキヨニ》 語將v繼常《カタリツガムト》
 處女墓《ヲトメヅカ》 中尓造置《ナカニツクリオキ》
 壯士墓《ヲトコヅカ》 此方彼方二《コナタカナタニ》
 造置有《ツクリオケル》 故縁聞而《ユヱヨシキキテ》
 雖v不v知《シラネドモ》 新喪之如毛《ニヒモノゴトモ》
 哭泣鶴鴨《ネナキツルカモ》
 
【譯】葦屋の菟原娘子が、八歳ほどの子どもの時からして、さげ髪に髪を結うまで、竝んでいる家にも見えないで、中のうつろなコウゾの皮のように家にこもつているので、見たいものだと思い悩む時の、垣を成すように人が言い寄る時に、血沼壯士と菟原壯士とが、賤が家に焚く煤の名のように、進み合い爭つて、婚姻を求めた時には、鋭い大刀の柄をおし握り、白檀弓や靫を背負つて、水に入り火にも入ろうと、立ち向かつて爭つた時に、この娘子が母に語ることに、倭文《しず》の手纏のような賤しいわたくしゆえに、りつぱな男の爭うのを見ると、生きていても、結婚すべくもありません。串にさした肉のように、黄泉の國で待ちましようと、水の出口の無い沼のように、暗に言つておいて、歎息して娘子が死んだので、血沼壯士がその夜夢に見て、續いて追つて行つたので、あとに殘つた菟原壯士は、天を仰いで叫び、地を踏んで齒がみをし怒つて、あのくらいの男に負けてはいないと、かけて帶びる大刀を佩《は》いて、イモの蔓を探るように、尋ねて行つたので、親族たちが集まつて來て、永い世にしるしを殘そうと、遠い將來に語りごとにしようと、娘子の墓を中に造り置き、壯士の基をあちらこちらに作つておいた事の由を聞いて、わたしの知らない時の事であるけれども、新しい喪のように泣いたことであるなあ。
(450)【構成】全篇一文。
【釋】八年兒之片生乃時從 ヤトセゴノカタオヒノトキユ。ヤトセゴは、八歳ぐらいの子で、小兒の意に使つている。元來ヤトセの語は、多年の義に使われていたと考えられるが、數の觀念の發達と共に、やや多年の意になり、またこの歌のように、八箇年の意味に使われるに至つた。「年之八歳乎《トシノヤトセヲ》 吾竊※[人偏+舞]師《ワガススマヒシ》」(卷十一、二八三二)、「年之八歳乎《トシノヤトセヲ》 待騰來不v座《マテドキマサズ》」(卷十六、三八六五)の如き用例は、相當に多年である意に使用しでいる。カタオヒは、十分に成熟しないことをいう。カタによつて不完全を表示している。片戀、片念などの例である。この語は唯一の用例である。八歳ぐらいの小兒の時からこの方。
 小放尓髪多久麻弖尓 ヲハナリニカミタクマデニ。ヲハナリは、髪を分けて、肩ぐらいの長さにして垂れている風俗。ヲは、愛稱の接頭語で、ハナリとも、ハナリノカミともいう。「橘《タチバナノ》 寺之長屋爾《テラノナガヤニ》 吾率宿之《ワガヰネシ》 童女波奈理波《ウナヰハナリハ》 髪上都良武可《カミアゲツラムカ》」(卷十六、三八二二)の例がある。しかるにこれには、次の如き左註がある。「右歌、椎野(ノ)連長年(ガ)脉(ニ)曰(ク)、夫(レ)寺家(ノ)之屋(ハ)者、不v有(ラ)2俗人(ノ)寢處(ニ)1、亦|※[人偏+稱の旁]《イヒテ》2若冠(ノ)女(ヲ)1、曰(ヘリ)2放髪丱(ト)1矣。然(レバ)則腹句已(ニ)云(ヘレバ)2放髪丱(ト)1者、尾句(ニ)不(ル)v可(カラ)3重(ネテ)云(フ)2著冠之辭(ヲ)1哉(ヲヤ)。決(メテ)曰(ク)、橘之《タチバナノ》 光有長屋爾《テレルナガヤニ》 吾率宿之《ワガヰネシ》 宇奈爲放爾《ウナヰハナリニ》 髪擧都良武香《カミアゲツラムカ》」(卷十六、三八二三)とある。寺の長屋というのを否として、光レル長屋に改め、ウナヰハナリハというのを、ウナヰハナリニと改めている。寺の長屋の方は、ここには關係がないから觸れないこととするが、第四句を改めたのは、若冠女をウナヰハナリというのだから、重ねて著冠《ちやくかん》の辭をいうべきでないというのである。ウナヰハナリのハナリは、童女の風俗を描いて、その説明とする云い方であるが、ここには、ウナヰニカミアゲスルという云い方のあることが注意される。丱は、頭髪の形を示す象形文字で、束髪兩角の貌で、これをハナリに當てているのは、ハナリの髪が、ただはらりと垂れてあるだけでなく、重ねて束ねてあつたものと解せられる。よつてヲハナリニカミタクの句が存するのである。タクは、束ねる意。「多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》 妹之髪《イモガカミ》 比來不(451)v見尓《コノゴロミヌニ》 掻入津良武香《カキレツラムカ》》」(卷二、一二三)。また「未通女等之《ヲトメラガ》 放髪乎《ハナリノカミヲ》 木綿山《ユフノヤマ》」(卷七、一二四四)とあるのは、ハナリの髪から、風俗を改めることではないのかも知れない。そこでヲハナリニは、ヲハナリノの誤りだろうという説(新考)は、當らず、もとのままでよいと考えられる。
 竝居 ナラビヰル。ナラヒヰテ(西)、ナラビヰル(拾)、ナラビヲル(管)、ナラビスム(代精)、ナミヰタル(代精)、ナラビヰシ(考)。家を修飾する句である。居は、ヰルとも、ヲルとも讀まれている。しかし「爾保鳥能《ニホドリノ》 布多利那良※[田+比]爲《フタリナラビヰ》」(卷五、七九四)の例があり、その他、他の動詞に接續して使用される場合には、多くヰという例であるから、ナラビヰルと讀むがよいであろう。竝び居る家は、近所隣の家をいう。
 家尓毛不所見 イヘニモミエズ。近隣の人々にも見えないで、家にこもつている由で、深窓に育つたことをいう。
 虚木綿乃 ウツユフノ。枕詞。この句は、日本書紀、神武天皇の卷、「妍哉《アナニエヤ》、國之獲矣《クニシエツ》、雖2内木綿之眞〓國《ウツユフノマサキクニナレドモ》1、猶如2蜻蛉之臀※[口+占]2焉《アキツノトナメセルゴトモアルカ》」とあり、用例はこの二個のみで、コモリ、およびマサキ(狹)に冠していることが知られる。ユフは、コウゾの皮のさらしたものであり、ウツは、その説明語であろう。そこでウツの語義については、イ、ウツロ(空虚)、ロ、ウツシ、ウツツ(現)、ハ、ウツ(打)、ニ、ウツ(内)、ホ、ウツ(全)等の諸義が考えられ、これに關して田邊正男氏の精緻な研究もある。この歌においては、虚の字を使用し、またコモリに冠している事からして、中のうつろな木綿の意に解しているのであろう。
 ※[穴/牛]而座在者 コモリテヲレバ。カクレテマセハ(西)、コモリテヲレバ(考)、コモリテマセバ(古義)。※[穴/牛]は牢に同じ。「夜※[穴/牛]爾《ヨゴモリニ》 出來月之《イデグルツキノ》 片待難《カタマチガタキ》」(卷九、一七六三)の如く、用言の準體言としてコモリに當てて使つている。座在は、在の字義によつて、ヲレと讀むべきである。以上、葦屋の菟原娘子が、竝びいる家にも見えずこもりておればと續く文脈である。
(452) 見而師香跡 ミテシカト。シカは、願望の助詞。助動詞テを添えて、テシカの形を採つているが、テ無しにも使用される。以下娘子を思う人々の上を敍する。
 悒憤時之 イブセムトキノ。イフカルトキノ(元赭)、イフカシキトキシ(西)、イフセキトキシ(矢)、イブカルトキシ(童)、イブセムトキノ(略)。悒憤《ゆうふん》は、鬱々として憤りをおぼえる意であろう。「雨隱《アマゴモリ》 情悒憤《ココロイブセミ》 出見者《イデミレバ》」(卷八、一五六八)の如く、鬱悒をイブセミと讀む例のあるによる。この語は、假字書きの例としては、「比毛等可須《ヒモトカズ》 末呂宿乎須禮波《マロネヲスレバ》 移夫勢美等《イブセミト》 情奈具左爾《ココロナグサニ》」(卷十八、四一一三)の如く使用されているものがある。心のはればれとしないで、むしやくしやする意に使われる語のようである。形容詞としてはイブセシがあり、同語から出たものだろう。イブセム時ノ人ノ問フ時と續く文脈で、以下、アヒヨバヒシケル時、立チ向カヒ競ヒシ時と併わせて、何々する時の句を四出して、語りものとして調子を成している。藤原の宇合の卿を西海道の節度使に遣しし時の歌(卷六、九七一)參照。
 垣廬成 カキホナス。ホは接尾語。垣のようなの意で、多くの人の取り圍む樣を描いている。廬は、イホの上略で、表音假字として使われている。「垣穗成《カキホナス》 人辭聞而《ヒトゴトキキテ》」(卷四、七一三)。
 人之誂時 ヒトノトフトキ。ヒトノイトムトキ(元赭)、ヒトノイフトキ(童)、ヒトノトフトキ(略)。トフは、妻問うの意で、誂の字を使つている。誂は誘う意の字である。
 智弩壯士 チヌヲトコ。和泉の國の血沼の地の男。下に血沼壯士とある。チヌのヌに弩の字を當てたのは、音の動搖である。
 宇奈比壯士乃 ウナヒヲトコノ。娘子と同郷の菟原の地の男。下に菟原壯士とある。
 廬八燎 フセヤタク。
  イホハモエ(元赭)
(453)  イホヤモエ(神)
  フセヤモエ(西)
  フセヤタキ(考)
  フセヤタク(定本)
  ――――――――――
  蘆火燎《アシビタキ》(古義)
  蘆火燎《アシビタク》(新考)
 フセヤタキと讀めば、その家を燒いての意になるが、何のために燒くかわからない。フセヤタクと讀んで、廬屋に燒く意とし、次のスス(煤)に冠する枕詞と見るべきである。フセヤは、伏屋で、伏せたような粗末な小舍。それは焚く火のために煤けているのを常とするので、この枕詞を生じたのであろう。
 須酒師競 ススシキホヒ。ススシは、ススム(進)、ススグ(濯ぐ)などと關係のある語であろう。用言であろうが、終止形は、スススとなつてありそうにも思われない。ススが單語で、それを重ねたものだろうか。「葦火燎屋之《アシビタクヤノ》 酢四手雖v有《スシテアレド》」(卷十一、二六五一)のスシは、それであろう。この句は、二人の壯士が、せり合つて競つたことをいう。
 爲家類時者 シケルトキハ。
  シケルトキニハ(元赭)
  シケルトキハ(新訓)
  ――――――――――
  爲家類時煮《シケルトキニ》(略)
 以下の文は、アヒヨバヒシケル時の説明であるから、シケルトキハの訓でよい。
 燒大刀乃 ヤキダチノ。ヤキダチは、火力で鍛えた大刀で、鋭利な大刀の意である。
 手頴押称利 タカミオシネリ。
  タカヒオシネリ(矢)
  タカミオシネリ(略)
  ――――――――――
  手頭押禰利《タガミオシネリ》(考)
(454) 頴は、カホン科植物の穗をいう字。倭名類聚鈔に「穗、唐韵云、頴 餘頃反、訓加尾 穗也」とあるによつて、カミの訓に、使用したものと考えられる。これによつてこの句をタカミオシネリと讀むべきである。タカミは、「集(ル)2御刀之|手上《タガミ》1血(ニ)」(古事記上卷)、「撫劔、此云2都盧耆能多伽彌屠利辭魔屡《ツルギノタカミトリシバル》1」(日本書紀神武天皇の卷)などのタカミと同じく、劔柄をいう。オシネリは、押し捻《ひね》りの約言とされているが、練《ね》りで、おしもむ意であるかも知れない。オシは、意味を強調する性能を有する接頭語。
 白檀弓 シラマユミ。マユミの材で作つた、塗つてない弓。
 靫取負而 ユキトリオヒテ。ユキは、矢を入れて負う皮革製の武装具。
 吾妹子之 ワギモコガ、ワギモコの語を、三人稱として使つている。
 倭文手纏 シヅタマキ。枕詞。倭文の手纏は、當時既に賤しい者の風俗とされていたのであろう。「倭文手纏《シヅタマキ》 數二毛不v有《カズニモアラヌ》 壽持《イノチモチ》」(卷四、六七二)。
 荒爭見者、アラソフミレバ。荒は、アラソフと讀ませるために、特に添えている。元來アラソフのアラに、荒の義があるので、縁によつて使つたのだろう。「白露爾《シラツユニ》 荒爭芽子之《アラソフハギノ》 明日將v咲見《アスサカムミム》」(卷十、二一〇二)。
 應合有哉 アフベクアレヤ。アフは、婚姻する意。アレヤは、反語法。婚姻すべくもない意。句切。
 宍串呂 シシクシロ。枕詞。語義は、文字通り、肉の串で、ロは接尾語であろう。肉の串ざしは、味がよいから、ヨミに冠するのであろう。黄泉の内容に對しては、ちよつと皮肉な枕詞である。「矢自矩矢慮《シジクシロ》 于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》」(日本書紀九六)。外には、クシロを、釧に當てても考えられるが、そうではないだろう。
 黄泉尓將待跡 ヨミニマタムト。ヨミは、「黄泉乃界丹《ヨミノサカヒニ》」(卷九、一八〇四)參照。マタムは、先に行つて、父母の來るのを待とうとの意である。これによつて、死者が、黄泉に赴き、生前と同樣の状態にあると考えられていたことが知られる。
(455) 隱沼乃 コモリヌノ。枕詞。コモリヌは、水の出口が無いから、下を延《は》う意に、シタバヘに冠する。
 下延置而 シタバヘオキデ。シタバヘは、心の中に思う意に使われるが、ここは上に母ニ語ラクとあつて、言つたことになつているから、黄泉に待とうと、死ぬことをそれとなく言つたものと見るべきである。あとで思い當るという程度であろう。
 妹之去者 イモガイヌレバ。イモは、娘子をいう。この世から去つた意で、死んだことをいう。水死したと考えられる。家持の歌には「家ざかり海邊に出でたち、朝暮に滿ち來る潮の、八重浪に靡く玉藻の、ふしの間も惜しき命を、露霜の過ぎましにけれ」とあつて、海に入つたように暗示している。
 其夜夢見 ソノヨイメニミ。娘子の死んだのを夢に見たのである。娘子は、血沼壯士の方に傾いていたから、この男の夢にあらわれたとするのであろう。
 取次寸 トリツヅキ。次は、續くの意に、用言として使用されている。
 菟原壯士伊 ウナヒヲトコイ。イは助詞で、主語を示すものとされている。但し「玉緒乃《タマノヲノ》 不v絶射妹跡《タエジイイモト》 結而石《ムスビテシ》 事者不v果《コトハハタサズ》」(卷三、四八一)の射によつて表示されるイが、もしこのイと同語とすれば、語勢による用法を有するものとされなければならない。その條參照。
 仰天 アメアフギ。次の※[足+昆]地と共に、天地に俯仰しての意になり、慷慨悲憤《こうがいひふん》する状態を説明する。
 叫於良妣 サケビオラビ。オラビは泣き叫ぶ意。日本書紀に、啼、哭にオラブと訓し、西大寺本金光明最勝王經の古點には、號にオラブと訓している。
 ※[足+昆]地 ツチヲフミ。
  ツチニマロヒ(元緒)
  ツチニフシテ(西)
(456)  ツチニフシ(細)
  タチヲドリ(訓義辨證)
  アシズリシ(訓義辨證)
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  ※[足+昆]地《ツチニフシ》(細)
  頓地《ツチニフシ》(拾)
  ※[足+榻の旁]地《アシフミシ》(考)
  ※[足+榻の旁]地《ツチフミ》(私)
  蹉他《アシズリシ》(略)
  ※[足+易]地《ツチニフシ》(古義)
 ※[足+昆]は、新撰字鏡に、「趾、士里反止、足後也、跟也、※[足+昆]也、足乃宇良、又久比々須」とあつて、「足のうら、踵《かかと》の義の字である。ここは地を強く踏む意に使用されていると解せられる。
 牙喫建怒而 キカミタケビテ。キカミは、齒をくいしばる、齒がみをする。タケビテは、勇氣をあらわす意。古事記上卷に「伊都之男建」に註して「訓(ミテ)v建(ヲ)云(フ)2多祁夫《タケブ》1」とある。
 如己男尓 モコロヲニ。モコロヲは、文字通り、自分の如き程度の男で、あんな男の意。モコロは、如くの意に使われる語。「母許呂乎乃《モコロヲノ》 許登等思伊波婆《コトトシイハバ》」(卷十四、三四八六)。
 懸佩之 カキハキノ。カキは腰にかけておびるからいうのだろう。佩く所の意。
 小劔取佩 ヲダチトリハキ。ヲは、美稱の接頭語で、かならずしもちいさい劔ではない。
 冬※[草がんむり/叙]蕷都良 トコロヅラ。
  フユイモツラ(元赭)
  サネカツラ(西)
  マサキヅラ(代精)
  トコロヅラ(略)
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  冬薯都良《フユモヅラ》(考)
 枕詞。冬※[草がんむり/叙]蕷は、トコロイモ。ツラは蔓。冬季その蔓を探つて根を尋ねるから、尋ね行くに冠する。「皇祖《スメロキノ》 神之宮人《カミノミヤビト》 冬薯蕷葛《トコロヅラ》 彌常數爾《イヤトコシクニ》 吾反將v見《ワレカヘリミム》」(卷七、一一三三)。この卷の七の例は、同音をもつて常シクに冠(457)しており、これによつてトコロヅラと讀むべきことが確められる。
 尋去祁禮婆 トメユキケレバ。タツネキケレバ(元赭)、ツキユキケレハ(西)、ツキテユケレハ(矢)、タヅネユケレバ(管)、トメユキケレバ(略)。トメは、尋ね求める意。娘子の屍を求めて海に入つたのである。
 親族共 ヤカラドモ。娘子および壯士の親族の者たち。
 射歸集 イユキツドヒ。イヨリアツマリ(西)、イユキアツマリ(矢)、イユキツドヒテ(代初)、イユキツドヒ(古義)。イは接頭語。來たり集まつて。
 標將爲跡 シルシニセムト。記念にしようとして。
 此方彼方二 コナタカナタニ。娘子の墓を中心にして、その左右に壯士の墓を作るよしである。實地では、その傳説地とする三個の古墳は、かなり隔たつている。
 雖不知 シラネドモ。時代もへだたり、またその人をも知らないのだが。
 新喪之如毛 ニヒモノゴトモ。ニヒモは、あらたに人を失つた悲しみ。
【評語】水の江の浦島の子を詠める歌と同樣に、傳説の内容を語つているのが、大きな特色である。この歌では、いきなり葦屋の菟原娘子の名を出し、これについて物語を進めている。何々する時の句を疊みかけて進行するのは、物語であるのにふさわしい表現である。兩壯士が相對して闘おうとし、娘子が身を置くに所無くして死ぬ。そうして血沼壯士まずその後を追い、ついで菟原壯士がおくれたことを殘念がつてまた追つて死ぬあたり、委曲をつくしている。血沼壯士がその夜夢に見てあとを追つたというのは、反歌に、娘子が血沼壯士に心を寄せていたことをあきらかにする伏線になつている。そうしてこの物語を聞いて、新喪の如くに泣いたという結びも、よく一首を生かしている。全體としては、墓を見て詠んだ敍情詩であるが、敍事の部分が發達しており、物語の語り手と見られているこの作者の特色をよく發揮している。
 
(458)反歌
 
1810 葦屋《あしのや》の 菟原處女《うなひをとめ》の 奥津城《おくつき》を、
 往《ゆ》き來《く》と見れば、 哭《ね》のみし泣かゆ。
 
 葦屋之《アシノヤノ》 宇奈比處女之《ウナヒヲトメノ》 奥槨乎《オクツキヲ》
 往來跡見者《ユキクトミレバ》 哭耳之所v泣《ネノミシナカユ》
 
【譯】葦屋の菟原娘子の墓所を、往來して見れば、泣かれることだ。
【釋】往來跡見者 ユキクトミレバ。往くとして見、來るとして見れば。往復の度に見れば。「行來跡見良武《ユキクトミラム》 樹人友師母《キビトトモシモ》」(卷一、五五)。
【評語】長歌の内容に對して、作者の位置をあきらかにする性質の反歌である。歌そのものはむしろ平凡だが、全體の構成に關しては、やはり一つの要素になつている。
 
1811 墓《つか》の上《うへ》の 木《こ》の枝《え》靡けり。
 聞くが如《ごと》、
 血沼壯士《ちぬをとこ》にし 寄りにけらしも。
 
 墓上之《ツカノウヘノ》 木枝靡有《コノエナビケリ》
 如v聞《キクガゴト》
 陳努壯士尓之《チヌヲトコニシ》 依家良信母《ヨリニケラシモ》
 
【譯】墓の上の木の枝が靡いている。聞いた通り、血沼壯士に心が寄つていたのだろう。
【釋】墓上之木枝靡有 ツカノウヘノコノエナビケリ。ツカは、娘子の墓をいう。コノエは、木の枝で、その木は、大伴の家持の處女の墓の歌に追つて和ふる長歌の末尾に、「後の代の聞き繼ぐ人も、いや遠にしのひにせよと、黄楊小櫛《つげをぐし》しか插しけらし。生ひて靡けり」(卷十九、四二一一)、同反歌に、「娘子らが後のしるしと黄楊小櫛生ひかはり生ひて靡きけらしも」(同、四二一二)とあるによれば、ツゲの樹で、娘子の櫛をさしたのが生(459)育したものと傳えていたのである。この樹の枝が血沼壯士の墓の方に靡いているのを見て、娘子の心が血沼壯士に寄つているものと推量している。句切。
 陳奴壯士尓之 チヌヲトコニシ。奴は、元暦校本等による。仙覺本系統には努に作つている。この血沼壯士は、以上に數出し、その音韻表示の文字の動搖しているのは、傳來が不正確であるためであろう。
 如聞 キクガゴト。キクカコト(類)、キキシゴト(童)。聞いているようにの意で、キクガゴトと、不定時に讀む。「霍公鳥《ホトトギス》 盖哉鳴之《ケダシヤナキシ》 吾念流碁騰《ワガオモヘルゴト》」(卷二、一一二)。また如聞の例は「如v聞《キクガゴト》 眞貴久《マコトタフトク》 奇母《クスシクモ》 神左備居賀《カムサビヲルカ》 許禮能水島《コレノミヅシマ》」(卷三、二四五)があり、これもキクガゴトと讀まれる。
 依家良信母 ヨリニケラシモ。ヨリは、心を寄せる意。血沼壯士の方に靡き寄つたのであろうと推量している。傳説では、娘子が、血沼壯士に心を寄せていたというのである。
【評語】娘子墓の實状を敍して、全篇の結びとしている。この墓の描寫によつて、物語が一層生きてくるのである。この一首無きを得ない所である。これによつて、長歌の、血沼壯士がその夜夢に見たことも、菟原壯士がおくれてくやしがるのも、意味のあることが明白にされる。これが大和物語になると、二人の壯士を平等に取り扱うのに力を入れている。そこに作り物語の性質が濃厚になるのである。
【參考】一、大伴の家持の歌。
  處女墓の歌に追ひて和ふる一首 【短歌并はせたり。】
 古にありけるわざの、くすばしき事と言ひ繼ぐ、知努壯士菟原壯士の、うつせみの名を爭ふと、たまきはる命も棄てて、あらそひに妻問しける、娘子らが聞けば悲しさ。春花のにほえ榮えて、秋の葉のにほひに照れる、あたらしき身の壯《さかり》すら、ますらをの語《こと》いたはしみ、父母に申し別れて、家ざかり海邊に出で立ち、朝暮《あさよひ》に滿ち來る潮の、八重浪に靡く玉藻の、ふしの間も惜しき命を、露霜の過ぎましにけれ、おくつきを此處《ここ》と定めて、(460)後の代の聞き繼ぐ人も、いや遠にしのひにせよと、黄楊小櫛《つげをぐし》しか插《さ》しけらし、生ひて靡けり(卷十九、四二一一)
 娘子らが後のしるLと黄楊小柄生ひかはり生ひて靡きけらしも(同、四二一二)
   右は、五月六日、興に依りて大伴の宿禰家持の作れる。
    二、生田《いくた》川の物語。
 昔、津の國に住む女ありけり。それをよばふ男、二人なんありける。一人はその國に住む男、姓は菟原《うはら》になんありける。今一人は和泉の國の人になんありける。姓は血沼となんいひける。かくてその男ども、年齡《としよはひ》、顔|容貌《かたち》、人のほど、たゞ同じばかりなんありける。志のまさらんにこそはあはめと思ふに、志のほど、たゞ同じやうなり。くるればもろともに來逢ひぬ。物おこすれば、たゞ同じやうにおこす。いづれまされりといふべくもあらず。女思ひわづらひぬ。この人の志のおろかならば、いづれにも逢ふまじけれど、これもかれも月日を經て、家の門に立ちて、よろづに志を見えければ、しわびぬ。これよりもかれよりも、同じやうにおこする物ども、取りも入れねど、いろ/\に持ちて立てり。
 親ありて、「かく見苦しく年月を經て、人の歎きをいたづらに負ふもいとほし。ひとり/\にあひなば、今一人が思は絶えなん」といふに、女「こゝにもさ思ふに、人の志の同じやうなるになん思ひわづらひぬる。さらばいかゞすべき」といふに、そのかみ生田川のつらに、平帳《ひらばり》をうちてゐにけり。
 かかれば、そのよばひ人どもをよびにやりて、親のいふやう「誰も御志の同じやうなれば、このをさなき者なん思ひわづらひにてはべる。今日いかにまれ、この事を定めてん。あるは遠き所よりいまする人あり、あるはこゝながらそのいたつき限りなし。これもかれも、いとほしきわざなり」といふ時に、いとかしこく喜びあへり。「申さんと思うたまふるやうは、この川に浮きて候ふ水鳥を射給へ。それを射あてたまへらん人にたて(461)まつらん」といふ時に、「いとよき事なり」といひて射るほどに、一人は頭の方を射つ。今一人は尾の方を射つ。そのかみいづれといふべくもあらぬに、女思ひわづらひて、
  住みわびぬ。わが身なげてん。津の國の生田の川は名のみなりけり
とよみて、この平張は川にのぞきてしたりければ、つふりと落ち入りぬ。親あわて騷ぎのゝしるほどに、このよばふ男二人、やがて同じ所に落ちいりぬ。一人は足をとらへ、今一人は手をとらへて死にけり。そのかみ親いみじく騷ぎて、取り上げて泣きのゝしりてはふりす。
 男どもの親も來にけり。この女の塚のかたはらに、また塚ども作りて掘り埋む時に、津の國の男の親いふやう、「同じ國の男をこそ同じ所にはせめ、他國《ことくに》の人いかでこの國の土をば犯すべき」といひてさまたぐる時に、和泉の方の親、和泉の國の土を船に運びて、こゝにもて來てなん、遂に埋みてける。されば女の墓をば中にて、左右になん男の塚ども今もあなる。
 (中略、宇多天皇の皇后の宮でこの物語を繪にかいて人々が歌を詠むことを述べる。)
 さて、この男は呉竹のよながきを切りて、かぎりて、狩衣、袴、烏帽子、帶などを入れて、弓、胡※[竹/録]《やなぐひ》、太刀など入れてぞうづみける。今一人は、おろかなる親にやありけん、さもせずぞありける。かの塚の名をば、處女塚とぞいひける。
 ある旅人、この塚のもとに宿りたりけるに、人のいさかひする音のしければ、あやしとは思ひて見せけれど、さる事もなしといひければ、怪しと思ふ思ふ眠りたるに、血にまみれたる男、前に來てひざまづきて、「我|敵《かたき》に責められてわびにてはぺり。御太刀《みはかし》しばし貸したまはらん。ねたき者のむくいしはぺらん」といふに、おそろしと思へど貸してけり。さめて夢にやあらんと思へど、太刀は誠にとらせてやりてけり。とばかり聞けば、いみじうさきのごといさかふなり。しましありて初めの男來て、いみじう喜びて、「御徳に年頃ねたき者うち殺し(462)はべりぬ。今よりは永き御まもりとなりはべるべき」とて、この事の初めよりかたる。いとむくつけしと思へど、めづらしきことなれば、問ひ聞くほどに、夜も明けにければ人もなし。あしたに見れば、塚のもとに血などなん流れたりける、太刀にも血つきてなんありける。いとうとましく覺ゆる事なれど、人の言ひけるまゝなり。(大和物語)
 
右五首、高橋連蟲麻呂之歌集中出
 
萬葉集卷第九
 
 
昭和三十一年九月五目 印刷
昭和三十一年九月十日 發行
増訂萬葉集全註釋七 巻の八・九
定價 四百八拾圓
 地方價 四百九拾圓
著作者  武 田 祐 吉《たけだゆうきち》
發行者 角 川 源 義
印刷者 中内あき子
 東京都千代田區飯田町一ノ二三
發行所 【株式會社】角 川 書 店《かどかわしよてん》
東京都千代田區富士見町二ノ七
損替東京一九五二〇八番
電話九段(33)〇一一一(代表)−五
 
 
増訂 萬葉集全註釋 八(卷の十卷の十一(上))、角川書店、477頁、480圓、1956.10.10
 
目次〔省略〕
 
(9)萬葉集卷第十
 
(11)萬葉集卷第十
 
 この卷は、作者ならびに作歌事情を傳えない歌を、四季に分かち、各季毎にまた雜歌と相聞とに分かつている。そうしてその各部類の中に、更に小題を立てて、歌を分類收載している。この小題は、春の雜歌、春の相聞、秋の相聞、冬の雜歌、冬の相聞の各部の初めに擧げた人麻呂歌集所出の歌には無いから、人麻呂集には、かような小題による分類はされていなかつたのだろう。また各部の終りの部分の小題には、問答、譬喩歌、旋頭歌など記されているものもあるが、これらは、それぞれの部においての問答、譬喩歌、および、旋頭歌であつて、獨立した分類の標目ではない。かように四季の雜歌と相聞とに分かつことは、卷の八の部類法と一致する所であり、ただ彼は、作者と作歌事情とを傳えるものを載せ、これはそれを傳えないものを載せているだけの相違であつて、相互に關係の深いもののあるべきは推量に難くない。但しこの卷でも、作者については、二三一五の左註に、「或本云、三方沙弥作」とあり、作歌事情については、一八三八の左註に「右一首、筑波山作」とあるが如き、例外的にこれを傳えているものは存在する。作品の時代は、明日香の宮時代から、奈良時代に及ぶものの如く、これも大體において卷の八と共通するものであろう。柿本人麻呂歌集からは、相當の分量を採録しており、また古歌集所出の歌も存する。
 歌の總數は、五百三十九首で、集中第一に歌數の多い卷であり、そのうち長歌は三首、旋頭歌は四首で、大部分は短歌である。今これを各部に分かち、また卷の八との比較を表示すれば、次の通りである。
 
(12)     長歌  短歌 旋頭歌   計  卷の八
 春の雜歌      七六   二  七八  三〇
 春の相聞      四七      四七  一七
 夏の雜歌   一  四一      四二  三三
 夏の相聞      一七      一七  一三
 秋の雜歌   二 二四一     二四三  九五
 秋の相聞      七一   二  七三  三〇
 冬の雜歌      二一      二一  一九
 冬の相聞      一八      一八   九
   計    三 五三二   四 五三九 二四六
 用字法は、表意文字に表音文字をまじえて使用し、人麻呂歌集所出の分を除いては、卷の八あたりと顯著な相違はない。資料としては、人麻呂歌集、古歌集以外は不明であるが、やはり大伴氏の人々、旅人や坂上の郎女などの手記が有力な資料になつているらしく、その人々の作も相當數含まれているのであろう。
 傳本としては、古本系統に元暦校本、神田本があるほかに、例によつて、類聚古集、古葉略類聚鈔の記載がある。なお三十六人集中の赤人集は、一部分、この卷の假字書きを收めており、校勘資料として參考となるものがある。藍紙本、天治本の斷簡もあるが、これは小部分に過ぎない。
 
春雜歌
 
【釋】春雜歌 ハルノザフカ。初めに人麻呂集所出の無題七首を載せ、次に詠鳥以下十四題(神田本による)(13)に分かつて歌を收載している。雜歌の分の小題は、多く詠何とあるを常型とするが、この部に、野遊、歎舊、懽逢の如き題のあるのは注目される。
 
1812 ひさかたの 天《あめ》の香具《かぐ》山
 このゆふべ 霞たなびく。
 春立つらしも。
 
 久方之《ヒサカタノ》 天芳山《アメノカグヤマ》
 此夕《コノユフベ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》
 春立下《ハルタツラシモ》
 
【譯】日のさす方の天の香具山、この夕つかた霞がたなびいている。春が立つたのだな。
【釋】久方之 ヒサカタノ。枕詞。語義不明で諸説があるが、風の名にヒカタがあり、西南風、東南風など、處によつて違うが、みな日のある方から吹く風をいう。これによれば、ヒサカタも、日のある方の義で、天に冠するのだろう。サは、行クサ來サなどの、方向を意味するか。
 天芳山 アメノカグヤマ。芳は、カグハシの義の字で、カグの訓假字として使用している。この句は、呼格で、その山を呼びあげるのである。
 霞霏※[雨/微] カスミタナビク。霏※[雨/微]は、人麻呂歌集のみにある用字。句切。
【評語】風物の上にあらわれる處によつて、暦面の推移を描いている。自然に接續していた生活の上に、暦の知識がはいつて來て、ここにその兩者の關係が歌われるに至つた。この歌では、具體的な描寫を主にしてそれを知識に照らし合わせている。藤原の宮あたりから、日頃見馴れている天の(14)香具山に、たまたまこの夕べは霞のたなびいているのが仰ぎ見られた。その氣特がよく歌われている。「春過ぎて夏來たるらし。しろたへの衣ほしたり。天の香具山」(卷1、二八)などと同樣の構想であるが、表現の順序は、逆になつている。思想からいえば、このヒサカタノの歌の表現の方が、正しい順序である。
 
1813 卷向《まきむく》の 檜原《ひばら》に立てる 春霞、
 おほにし思はば なづみ來《こ》めやも。
 
 卷向之《マキムクノ》 檜原丹立流《ヒバラニタテル》 春霞《ハルガスミ》
 鬱之思者《オホニシオモハバ》 名積米八方《ナヅミコメヤモ》
 
【譯】卷向の檜原山に立つている春霞のように、ぼんやり思うならば、骨を折つて來はしないだろう。
【釋】卷向之檜原丹立流春霞 マキムクノヒバラニタテルハルガスミ。 マキムクノヒバラは、卷向山中の檜原山。以上三句、序詞で、次のオホニを引き出す。
 鬱之思者 オホニシオモハバ。オホニは、霞がかかつてぼうつとしている意をかけて、なおざりに、よいかげんにの意に使つている。オホロカのオホである。
 各積米八方 ナヅミコメヤモ。古義に米を來の誤りとしているが「伊波能杯※[人偏+爾]《イハノヘニ》 古佐屡渠梅野倶《コサルコメヤク》」(日本書紀一〇七)のように、既にコメの語があるのだから、誤りとするに及ばない。
【評語】人麻呂歌集の中心作家である人麻呂は、卷向山の麓に、妻を持つていた。それで春の頃、そこをおとずれてこの歌を成している。初三句は、實景を序に應用したもので、極めて有效に、情景を成している。
 
1814 古《いにしへ》の 人の植ゑけむ 杉が枝《え》に、
 霞棚引く。
 春は來《き》ぬらし。
 
 古人之殖兼《イニシヘノヒトノウヱケム》 杉枝《スギガエニ》
 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》
 春者來良芝《ハルハキヌラシ》
 
(15)【譯】昔の人の植えたと思われる杉の枝に、霞がたなびいている。春は來たらしい。
【釋】古人之殖兼 イニシヘノヒトノウヱケム。古の人は、誰とさす人はないのだろう。ウヱケムは、その杉の樹が植えられたものと見られるので、推量を使つている。連體句。
【評語】杉の樹の過去を追憶し、これを現在の背景としている。その杉の樹の説明は、春の來たそうなということと、何等の關係なくして、しかもこの歌の風情を成している。
 
1815 子らが手を 卷向《まきむく》山に、
 春されば、木《こ》の葉|凌《しの》ぎて霞たなびく
 
 子等我手乎《コラガテヲ》 卷向山丹《マキムクヤマニ》
 春去者《ハルサレバ》 木葉凌而《コノハシノギテ》 霏※[雨/微]《カスミタナビク》
 
【譯】あの子の手を卷く。その卷向山に、春になれば、木の葉をおおつて霞がたなびいている。
【釋】子等我手乎 コラガテヲ。枕詞。愛人の手を卷くの意に、卷向に冠する。卷の七に、一〇九三、一二六八の二例がある。これらはいずれも人麻呂集所出の歌であつて、この作者は、卷向山の麓に愛人を持つているので、特にこの枕詞を構成したものである。
 木葉凌而 コノハシノギテ。シノギテは、凌駕して。木の葉を蔽いつくして。
【評語】四句に強い語を使つておりながら、全體としては、春の歌にふさわしいやわらかさを持つている。初句の枕詞も、氣分を出す上に役立つている。
 
1826 玉かぎる 夕さり來《く》れば、
 獵人《さづびと》の 弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に 霞たなびく。
 
 玉蜻《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》
 佐豆人之《サヅビトノ》 弓月我高荷《ユツキガタケニ》
 霞※[雨/微]《カスミタナビク》
 
【譯】玉の光のような夕方になつてくれば、獵師の持つ弓の、弓月が嶽に霞がたなびいている。
(16)【釋】玉蜻 タマカギル。枕詞。「玉限《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》」(卷一、四五)の例によつて、タマカギルと讀むものと推考される。夕に冠するほか、ほのか、石垣淵、ただ一目に冠している。語義は、玉の光を發する意だとされている。蜻は、蟲の名で、カギロというのを借りているだけである。
 佐豆人之 サヅビトノ。枕詞。サヅビトは、獵師。その持つ弓の意で、弓月に冠する。
 弓月我高荷 ユツキガタケニ。ユツキガタケは、卷向山中の高峰。卷向の弓月が嶽ともいう。高の字は、名詞としてタケに使つている。嶽の語義である。
【評語】枕詞を二つまで使つているが、煩わしくもなく、おちついた感じを出している。格別のこともないが、感じのよい歌である。
 
1817 今朝行きて 明日は來《こ》ねと
 云ひしがに、
 朝妻山《あさづまやま》に 霞たなびく。
 
 今朝去而《ケサユキテ》 明日者來年等《アシタハコネト》
 云子鹿丹《イヒシガニ》
 旦妻山丹《アサヅマヤマニ》 霏※[雨/微]《カスミタナビク》
 
【譯】わが妻が、今朝は歸つて明日はいらつしやいと云つたように、その朝妻山に霞がたなびいている。
【釋】明日者來年等云子鹿丹 アシタハコネトイヒシガニ。
  アスハコシトイフシカスガニ(類)
   ――――――――――
  明日者來年等云子鹿爾《アスハコムトイフシカスガニ》(神)
  明日者來牟等云子鹿丹《アスハキナムトシカスガニ》(童)
  明日者來牟等云愛也子《アスハコムチフハシキヤシ》(古義)
 年は、元暦校本、類聚古集による。諸本多く牟である。この歌の二三句は、從來諸説があつて、落ちつく所を知らなかつた。それは三句をシカスガニであるとする先人見があつて、それがために誤字説を立てざるを得(17)なかつたのである。今文字通りすなおに讀むこととした。アシタは朝の意の語であるが、「暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝南無美《アシタオモナミ》」(卷一、六〇)のアシタは翌朝の意であり、「明者《アシタハ》 失等言《ウストイヘ》」(卷二、二一七)は明をアシタと讀んでいる。以上三句は空想で、相手の女が、今朝はもう歸つて行つて、明日は來よと云つたようにの意と解く。それで朝妻山のもようがそれに適うように霞がたなびいていると見たのである。ガニは、ほどに、ようにの意の助詞。「那利奴賀爾《ナリヌガニ》 古呂波伊敝杼母《コロハイヘドモ》」(卷十四、三五四三)。ガニが連體形を受ける例、「布流久左爾《フルクサニ》 仁比久佐麻自利《ニヒクサマジリ》 於非波於布流我爾《オヒバオフルガニ》」(卷十四、三四五二)。
 旦妻山丹 アサヅマヤマニ。アサヅマ山は、奈良縣南葛城郡、金剛山の一山である。
【評語】美しい地名を利用して美しい歌を成しているようである。初三句の空想と四五句の實景との配合が妙を得ている。次の歌と同時の作とすべきである。
 
(18)1818 子らが名に 懸けのよろしき
 朝妻の 片山ぎしに 霞たなびく。
 
 子等名丹《コラガナニ》 關之宜《カケノヨロシキ》
 朝妻之《アサヅマノ》 片山木之尓《カタヤマギシニ》 霞多奈引《カスミタナビク》
 
【譯】あの子の名としていうのにふさわしい朝妻山の、一方のがけで、霞がたなびいている。
【釋】子等名丹關之宜 コラガナニカケノヨロシキ。コラは、子ラガ手ヲのコラに同じく、愛人の稱である。その名にかけていうのがよろしいというので、朝妻の、ツマという語が好ましいのである。以上二句、朝妻の修飾句。
 片山木之尓 カタヤマギシニ。カタヤマギシは、山の一方が懸崖になつている地形。他方は、山つづきでも何でもよい。山についてキシという例は、「卷向之《マキムクノ》 木志乃子松二《キシノコマツニ》 三雪落來《ミユキフリケリ》」(卷十、二三一三)などあつて、川などの存在を條件としない。
【評語】言葉の美しい歌だ。初二句の、朝妻の地名からくる連想も美しい。作者は、あかるい氣もちで、朝妻の片山岸にたなびく霞を見ている。
 
右、柿本朝臣人麻呂歌集出
 
【釋】右柿本朝臣人麻呂歌集出 ミギハカキノモトノアソミヒトマロノウタノシフニイヅ。以上七首、いずれも霞の歌であるが、詠霞の題下に入れないで、ここに別置したのは、人麻呂集に小題を立てて分類してなかつたからであろう。春の相聞の部の初めにおける人麻呂集所出の歌の如きは、種々の題材がまじつている。
 
詠v鳥
 
【釋】詠鳥 トリヲヨメル。かような小題は、既に一部の資料に存在したものを受けているのであろう。それ(19)でかならずしも統一なく、野遊、歎舊の如き形のものをも存しているのであろう。詠鳥十三首のうち、鶯八首、喚子鳥四首、貌鳥一首である。
 
1819 うち靡く 春立ちぬらし。
 
 わが門の 柳のうれに 鶯鳴きつ。 
 
 打霏《ウチナビク》 春立奴良志《ハルタチヌラシ》
 吾門之《ワガカドノ》 柳乃宇禮尓《ヤナギノウレニ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウグヒスナキツ》
 
【譯】草木の靡く春になつたらしい。わたしの門口の柳の枝先で鶯が鳴いている。
【釋】打霏 ウチナビク。枕詞。霏は、本集では、霏※[雨/微]と熟してタナビクに當てているので、ナビクに借用したのであろう。春は、草木の枝葉がなびくので、春に冠する。
 柳乃宇禮尓 ヤナギノウレニ。ヤナギは、わが門の柳といい、柳の字を使用しているのは、シダレヤナギをいうのだろう。ウレは、若い枝先だが、ここではむしろ柳の樹梢をさしているようである。
 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都 ウグヒスナキツ。※[(貝+貝)/鳥]は鶯に同じ。古寫本みな※[(貝+貝)/鳥]としている。
【評語】柳條に鶯を配して、それによつて春の來たことを推量している。美しい歌だ。事實にもとづいて暦面の春の來たことを推量している。
 
1820 梅の花 咲ける岡邊に 家|居《を》れば、
 乏しくもあらず。
 鶯の聲。
 
 梅花《ウメノハナ》 開有岳邊尓《サケルヲカベニ》 家居者《イヘヲレバ》
 乏毛不v有《トモシクモアラズ》
 ※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》
 
【譯】梅の花の咲いている岡邊に家居しているので、すくなくもないことだ。鶯の聲は。
【釋】家居者 イヘヲレバ。家居しておれば。家に動詞が接續して熟語を作ることは、「伊敝社可利伊摩須《イヘザカリイマス》」(20)(卷五、七九四)の例がある。
 乏毛不有 トモシクモアラズ。トモシは、すくない意に使つている。かような用法には、「夜隱爾《ヨゴモリニ》 出來月乃《イデクルツキノ》 光乏寸《ヒカリトモシキ》」(卷三、二九〇)、「奈爾之可母《ナニシカモ》 安吉爾之安良禰波《アキニシアラネバ》 許等騰比能《コトドヒノ》 等毛之伎古良《トモシキコラ》」(卷十八、四一二五)の如きがある。句切。
【評語】春の風趣に樂しんでいる家居のさまがよく描かれている。そこに住む主人の心のゆたかな姿も思いやられる。梅とウグイスとの照應もよく歌われている。「戀乍裳《コヒツツモ》 稻葉掻別《イナバカキワケ》 家居者《イヘヲレバ》 乏不v有《トモシクモアラズ》 秋之暮風《アキノユフカゼ》」(卷十、二二三〇)と同型の歌で、それに比して無理なところがない。
 
1821 春霞 流るるなへに、
 青柳《あをやぎ》の 枝|喙《く》ひ持ちて、鶯鳴くも。
 
 春霞《ハルガスミ》 流共尓《ナガルルナヘニ》
 青柳之《アヲヤギノ》 枝喙持而《エダクヒモチテ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ウグヒスナクモ》
 
【譯】春霞が流れるおりしも、青柳の枝をくわえて鶯が鳴いている。
【釋】流共尓 ナガルルナヘニ。ナガルは、普通水に言つているが、ここは霞の移動を描いている。「天之四具禮能《アメノシグレノ》 流相見者《ナガラフミレバ》」(卷一、八二)、「櫻花《サクラバナ》 散流歴《チリテナガラフ》」(卷十、一八六六)など、フに相當する文字のある場合は、ナガラフと讀み、流一字の場合はナガルルと讀んでいる。ナヘニは、と共にの意の助詞で、共爾の字は、よくその意をあらわしている。
 枝喙持而 エダクヒモチテ。枝をくわえてで、柳の枝に鶯のいて鳴くのを歌つているが、正倉院御物の圖案にある花喰い鳥の模樣などを思い起している叙述であろう。言語どおりに解しては、枝を口にしては鳴かれない。喙はクチバシで、口にする意に使つている。
【評語】美しい風景だが、作りものふうのところがあるのは、三四五句の敍述に、空想の要素があるからであ(21)る。しかしそれがこの歌の特色になつている。
 
1822 わが夫子を な巨勢《こせ》の山の 喚子鳥《よぶこどり》、
 君|喚《よ》びかへせ。
 夜の深《ふ》けぬとに。
 
 吾瀬子乎《ワガセコヲ》 莫越山能《ナコセノヤマノ》 喚子鳥《ヨブコドリ》
 君喚變瀬《キミヨビカヘセ》
 夜之不v深刀尓《ヨノフケヌトニ》
 
【譯】あの方が山を越さないようにと思う。その巨勢の山の喚子鳥よ、あの方を喚び返してください。夜の更けないうちに。
【釋】吾瀬子乎莫越山能 ワガセコヲナコセノヤマノ。ワガセコヲナまでは、わが夫子を巨勢の方へ來させるなの意をもつて序詞となつている。思う男が巨勢山を越えて行くので、そちらへ來させたくない心を敍して、序詞に利用している。コセノヤマは巨勢山で、奈良縣南葛城郡の地名。紀伊の國へ行く道。
 喚子鳥 ヨブコドリ。數出した。カツコウ鳥だという。
 君喚變瀬 キミヨビカヘセ。キミは作者の夫。その立ち去つたのを喚び返せという。句切。
 夜之不深刀尓 ヨノフケヌトニ。トニは、うちに、ほどになどの意をあらわしている。この語は、「于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》」(日本書紀九六)、「古非之奈奴刀爾《コヒシナストニ》」(卷十五、三七四七、三七四八)、「左欲布氣奴刀爾《サヨフケトニ》」(卷十九、四一六三)、「和我可敝流刀爾《ワガカヘルトニ》」(卷二十、四三九五)の諸例がある。このトは、時の義とする解があるが、時のトは、乙類のトであるに對して、このトニのトは、甲類のトであつて、ト(戸、外)、ホド(程)などのトと同種である。ニは助詞と考えられる。
【評語】ヨブコドリの鳴き聲が人を呼ぶように聞えるので、それによつて一首を構成している。序詞の用法が巧みにできており、四句と呼應している。巧みな歌というべきである。
 
(22)1823 朝ゐでに 來《き》鳴く貌鳥《かほどり》、
 汝《なれ》だにも 君に戀ふれや、
 時|終《を》へず鳴く。
 
 朝井代尓《アサヰデニ》 來鳴杲鳥《キナクカホドリ》
 汝谷文《ナレダニモ》 君丹戀八《キミニコフレヤ》
 時不v終鳴《トキヲヘズナク》
 
【譯】朝の井堰に來て鳴く貌鳥よ、お前のような者でも、君に戀うているのか、やまずに鳴いている。
【釋】朝井代尓 アサヰデニ。ヰデは、井のつつみ。井には井堰があるのでヰデというのだろう。
 來鳴杲鳥 キナクカホドリ。杲は、カウの音の字であるが、集中、「朝杲《アサガホ》」(卷十、二一〇四)など、カホの音の表示に使用されている。これは、高をカグの音に使用しているものと同樣に、字音の誤解からきているのであろう。カホドリは問題の鳥で、何の鳥とも知られない。「容鳥能《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》」(卷三、三七二)の如く、間ナクシバ鳴クと敍したものが多い。このカホは、貌花などのカホと同じく、美しく大きいことを意味するのだろう。特定の鳥の名とも思われない。この句は、その鳥を呼びかけている。
 汝谷文 ナレダニモ。ダニは、それだけででもの意をあらわすので、お前のような者でもの意になる。自分たちのことはしばらく別としての意である。
 君丹戀八 キミニコフレヤ。コフレヤは、已然條件法で、戀うからかの意。
 時不終鳴 トキヲヘズナク。トキヲヘズは、鳴く時の終りがなくで、いつまでも止まずに、絶えずにの意となる。
【評語】貌鳥に寄せて、自分の戀に泣いていることを歌つている。朝ヰデに來鳴ク貌鳥を呼んでいるのは美しく、歌の作られた時處を説明している。「湯原爾《ユノハラニ》 鳴蘆多頭者《ナクアシタヅハ》 如v吾《ワカゴトク》 妹爾戀哉《イモニコフレヤ》 時不v定鳴《トキワカズナク》」(卷六、九六一大伴の旅人)と同型で、湯の原にの歌は、亡き妻に對する戀なので悲痛に詠まれ、これは現在の戀であかるく(23)歌われている。
 
1824 冬ごもり 春さり來らし。
 
 あしひきの 山にも野にも 鶯鳴くも。
 
 足比木乃《アシヒキノ》 山二文野二文《ヤマニモノニモ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《ウグヒスナクモ》
 
【譯】冬が終つて春になるらしい。山でも野原でもウグイスが鳴いている。
【釋】冬隱 フユゴモリ。冬が終つて。多の終りから。
 春去來之 ハルサリクラシ。春サリ來レバの句は、集中に多く、來ることを、サリクという。句切。
《評語》初句は、冬のあいだから春を待つている心を描いて、よく利いている。山野の到る處に鶯の鳴く春の情景が歌われている。春の概念が既に固定していることは、この歌のみのことではないが、注意される。
 
1825 紫草《むらさき》の 根延《ねは》ふ横野の 春野には、
 君を懸《か》けつつ 鶯鳴くも。
 
 紫之《ムラサキノ》 根延横野之《ネハフヨコノノ》 春野庭《ハルノニハ》
 君乎懸管《キミヲカケツツ》 ※[(貝+貝)/鳥]名雲《ウグヒスナクモ》
 
【譯】紫草が根を伸ばしている横野の春の野では、君を思つてウグイスが鳴いている。
【釋】紫之 ムラサキノ。ムラサキは、紫草で、ここは草の名として用いている。美しい色の連想があつて使われている。
 根延横野之 ネハフヨコノノ。ネハフは、根の伸びている。根を張つている。横野は、地名。今大阪府中河内郡|巽《たつみ》町に横野神社があり、延喜式神名帳にも載つている。この邊、大伴氏の本居であつたと考えられる伴《ばん》林に近い。
 春野庭 ハルノニハ。横野、すなわちその春野では。
(24) 君乎懸管 キミヲカケツツ。カケツツは、心に懸けつつで、鴬までが君を思いつつである。
【評語】鶯に寄せて、作者の戀を歌つている。これも美しい句を使つて、よくその情緒を寫している歌である。
 
1826 春しあれば 妻を求むと、
 鶯の、木末《こぬれ》を傳ひ 鳴きつつ、もとな。
 
 春之在者《ハルシアレバ》 妻乎求等《ツマヲモトムト》
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木末乎傳《コヌレヲツタヒ》 鳴乍本名《ナキツツモトナ》
 
【譯】春なので、妻を求めると、鶯が、木の枝先を傳つて、せつに鳴いている。
【釋】春之在者 ハルシアレバ。ハルサレバと讀まれていたが、サレバは、去ればで、春の來ることをいい、サレは動詞と考えられる。ここに之在の字を使つているのは、やはり文字通り讀むのが順當で、春があればであろう。下にもなお二個處まで例がある。催馬樂《さいばら》の貫河《ぬきがは》に「しかされば」というのは、然シアレバの約と見られるから、春シアレバは、春サレバの歴史的記載であるかもしれない。
 鳴乍本名 ナキツツモトナ。モトナは、せつに、またはよしなしの意の副詞で、ツツモトナは、引き續いて、せつに、または、よしなくの意のことが行われることをあらわす。「舊都乎《フルキミヤコヲ》 令v見乍本名《ミセツツモトナ》」(卷三、三〇五)などによつてその用法を知るべきである。ここはせつにの意。
【評語】鶯の鳴く聲に、自分の戀の催されて致し方のない心である。春の風物に引かれる心が歌われている。
 
1827 春日《かすが》なる 羽買《はがひ》の山ゆ
 佐保の内へ 鳴き行くなるは、
 誰喚子鳥《たれよぶこどり》。
 
 春日有《カスガナル》 羽買之山從《ハガヒノヤマユ》
 狹帆之内敝《サホノウチヘ》 鳴往成者《ナキユクナルハ》
 孰喚子鳥《タレヨブコドリ》。
 
【譯】春日の羽買の山を通つて佐保の地内へ鳴いて行くのは、誰を呼ぶヨブコドリか。
(25)【釋】春日在羽買之山從 カスガナルハガヒノヤマユ。この歌によつて、ハガヒの山が春日にあることが知られる。このハガヒの山は、「大鳥 羽貝乃山爾《オホトリノハガヒノヤマニ》」(卷二、二一〇)と同じ山であろう。ユは、そこから通つて。
 狹帆之内敝 サホノウチヘ。サホは、佐保川を中心とした地で、ウチは、その一劃をいう。佐保川を中心として、見渡される兩岸一帶の地の謂である。「佐保乃内爾《サホノウチニ》」(卷六、九四九)など、用例が多い。
 孰喚子鳥 タレヨブコドリ。ヨブコドリは、人を呼ぶような聲の鳥なので、名とされている。よつて誰を呼んで鳴く喚子鳥ぞと言つたものである。この鳥が鳴きながら飛ぶことは、この下にも數首ある。
【評語】喚子鳥の聲に興じた歌である。「瀧の上の三船の山ゆ秋澤邊に來鳴き渡るは誰喚子鳥」(卷九、一七一三)と類型の歌である。誰喚子鳥の句は、氣のきいた句として慣用されていたのであろう。
 
1828 答へぬに な喚《よ》び響《とよ》めそ。
 喚子鳥《よぶこどり》、
 佐保の山邊を 上《のぼ》り下《くだ》りに。
 
 不答尓《コタヘヌニ》 勿喚動曾《ナヨビトヨメソ》
 喚子鳥《ヨブコドリ》
 佐保乃山邊乎《サホノヤマベヲ》 上下二《ノボリクダリニ》
 
【譯】返事をしないのに喚び立てるな。喚子鳥よ、佐保の山邊を上り下りして。
【釋】不答尓勿喚動曾 コタヘヌニナヨビトヨメソ。喚子鳥が鳴いて人をよんでも、答が無いのだから、そのように鳴いて音を立てるな。句切。
 上下二 ノボリクダリニ。山に沿つて上りまた下る、その上下に。
【評語】喚子鳥が鳴いても應ずる者の無いのを歌つているが、これによつて作者の寂寥感が描かれている。これも鳥に歌いかけた歌の一つである。
 
(26)1829 梓弓 春山近く 家居して、
 續《つ》ぎて聞くらむ。
 鶯のこゑ。
 
 梓弓《アヅサユミ》 春山近《ハルヤマチカク》 家居之《イヘヰシテ》
 續而聞良牟《ツギテキクラム》
 ※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》
 
【譯】梓弓を引いて張る。その春山の近くに家居して、續いて聞いているだろう。鶯の聲は。
【釋】梓弓 アヅサユミ。枕詞。弓に弦を懸けることをハルというので、春に冠する。
 家居之 イヘヰシテ。古義にイヘヲラシと讀んでいるが、それでは、四句の續ギテ聞クラムとの昭應が成立しない。ラシに對しては事實の敍述であるべきである。之をシテと讀むのは、テに當る字を脱したか、またはこのままで讀むかであるが、いずれとも決しがたい。またイヘヰセシと、敬語の中止形に讀むことも考えられる。
 續而聞良牟 ツギテキクラム。ツギテは、繼績して。この句は、終止形と見られる。
【評語】春山の近くに家居している人に贈つた歌で、前の梅ノ花咲ケル岡邊ニの歌は、この歌の返しとしても解せられる歌である。春山近い人の家居をうらやむ氣もちがよく描かれている。
 
1830 うち靡く 春さり來《く》れば、
 小竹《しの》のうれに 尾羽《をば》うち觸《ふ》れて
 鶯鳴くも。
 
 打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》
 小竹之末丹《シノノウレニ》 尾羽打觸而《ヲハウチフレテ》
 ※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ウグヒスナクモ》
 
【譯】草木の靡く春になつてくれば、小竹の葉先に尾を觸れてウグイスが鳴くことだ。
【釋】小竹之末丹 シノノウレニ。小竹の若い葉先に。
 尾羽打觸而 ヲハウチフレテ。ヲハは、鶯の尾の羽。フレは、從來四段活としてフリと讀まれていたが、使(27)役の語意であるから、下二段活としてフレと讀むがよいであろう。「仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》 古呂之可奈思母《コロシカナシモ》」(卷十四、三五三七)、「伎美我手敷禮受《キミガテフレズ》 波奈知良米夜母《ハナチラメヤモ》」(卷十七、三九六八)など、フレの形で連用形を作つている例がある。
【評語】小竹の葉末に尾羽を觸れてと、鶯の鳴く形を描寫したのが鮮明でよい。春になつた喜びの感じられる歌である。
 
1831 朝霧に しののに濡れて、
 喚子鳥《よぶこどり》 三船の山ゆ 鳴き渡る見ゆ。
 
 朝霧尓《アサギリニ》 之努々尓所沾而《シノノニヌレテ》
 喚子鳥《ヨブコドリ》 三船山從《ミフネノヤマユ》 喧渡所v見《ナキワタルミユ》
 
【譯】朝霧にしつとり濡れて、ヨブコドリが、三船の山を通つて、鳴いて行くのが見える。
【釋】之努々尓所沾而 シノノニヌレテ。シノノニは、しとどにで、びつしより濡れる形容である。下にも「聞津八跡《キキツヤト》 君之問世流《キミガトハセル》 霍公鳥《ホトトギス》 小竹野爾所v沾而《シノノニヌレテ》 從v此鳴綿流《コユナキワタル》」(卷十、一九七七)ともある。
 三船山從 ミフネノヤマユ。ミフネノ山は、吉野山中の一山で、卷の六にも見えている。ユは、を通つて。
【評語】朝霧の中を喚子鳥が鳴いて行くのを歌つている。その鳥を敍することによつて深山の朝の空氣が描かれている。氣分においてすぐれている作品だ。
 
詠v雪
 
【釋】 詠雪 ユキヲヨメル。諸本にこの題無く、ただ神田本のみにある。以下は春の雪の歌であるから、あるを可とすべきである。春の部に詠雪の題のあるを不審として、何時しか落したものであろう。
 
1832 うち靡く 春さり來《く》れば、
(28) しかすがに 天雲《あまぐも》霧《き》らひ
 雪は零《ふ》りつつ。
 
 打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》
 然爲蟹《シカスガニ》 天雲霧相《アマグモキラヒ》
 雪者零管《ユキハフリツツ》
 
【譯】草木の靡く春になつてくれば、そうあるほどに雲が曇つて雪は降つている。
【釋】然爲蟹 シカスガニ。それはそうだが、そうあるほどになどの意の副詞。然するに助詞ガニが接續してできた熟語であろう。「安蘇々二破《アソソニハ》 且者雖v知《カツハシレドモ》 之加須我仁《シカスガニ》 黙然得不v在者《モダエアラネバ》」(卷四、五四三)、「荒礒超《アリソコス》 浪者恐《ナミハカシコシ》 然爲蟹《シカスガニ》 海之玉藻之《ウミノタマモノ》 憎者不v有手《ニククハアラズテ》」(卷七、一三九七)などあり、以下にも數出している。
 天雲霧相 アマグモキラヒ。アマグモは、雲のこと。天にあるものだからいう。キラヒは、雲でかき曇つているをいう。
【評語】春が來たのに、自然現象のかならずしも應じないことを歌つている。季節の觀念に對して矛盾した情景が、不平不安を感じさせるのである。暦の知識の行きわたつた時代の作というべきである。以下シカスガニを表現の中心とする作が數首見えるのは、同一人の作なのだろう。
ウメノハナフリオホフユキヲツツミモチ
 
1833 梅の花 零《ふ》り蔽《おほ》ふ雪を つつみ持ち
 君に見せむと、取れば消につつ。
 
 梅花《ウメノハナ》 零覆雪乎《フリオホフユキヲ》 裹持《ツツミモチ》
 君令v見跡《キミニミセムト》 取者消管《トレバケニツツ》
 
【譯】梅の花を零り覆つている雪を包んで持つて、君に見せようと手に取れば、消えて行きます。
【釋】零覆雪乎 フリオホフユキヲ。降つて梅花をおおう雪を。
 裹持 ツツミモチ。紙か何かに包んで。モチは添えた語。
 君令見跡 キミニミセムト。他に「於v公令v視跡《キミニミセムト》 取者消管《トレバケニツツ》」(卷十一、二六八六)に、公にとあり、ここも君にとする方が穩當のようであるが、字面として、君爾とある本を採らないとすれば、キミガとも讀まれる。(29)しかしニを讀み添える例は多いから、今キミニとする。
 取者消管 トレバケニツツ。動詞消ユは、下二段活であるが、その連用形キエは、多くの場合約してケとなり、キエの原形で使用されたと見える例は「心佐閉《ココロサヘ》 消失多列夜《キエウセタレヤ》」(卷九、一七八二)の如きがあるだけである。よつてここも「將v落雪之 《フリナムユキノ》 空爾消二管《ソラニケニツツ》」(卷十、二三一七)などの例によつて、トレバケニツツと讀む。
【評語】雪を愛する風雅な心が歌われている。實生活の煩累を感じない、のんびりした生活樣式である。これが當時の貴族たちのあいだに育てられていた世界であつた。これは漢文學の影響を受けて興つた所である。
 
1834 梅の花 咲き散り過ぎぬ。
 しかすがに
 白雪庭に 零り重《し》きにつつ。
 
 梅花《ウメノハナ》 咲落過奴《サキチリスギヌ》
 然爲蟹《シカスガニ》
 白雪庭尓《シラユキニハニ》 零重管《フリシキニツツ》
 
【譯】梅の花は咲いて散つてしまつた。そうするほどに白雪は庭前に零り積つている。
【釋】咲落過奴 サキチリスギヌ。咲いて散り過ぎ去つた。散り過ぐという表現がある。散り去る意である。「烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊麻左家留期等《イマサケルゴト》 知利須義受《チリスギズ》」(卷五、八一六)、「佐久良波奈《サクラバナ》 知利加須疑奈牟《チリカスギナム》」(卷二十、四三九五)。句切。
 白雪庭尓 シラユキニハニ。ニハは、屋前の廣場をいう。
 零重管 フリシキニツツ。フリカサネツツ(元)、フリシキニツツ(考、千蔭)、フリシキリツツ(古義)。重をシキルと讀んだ例は無く、ここは降り積る意であるからワリシキニツツと讀む。雪にはフリシクとのみ言つて、フリシキルとはいわない。しかし、シキルは、「四寸流思良名美《シキルシラナミ》」(卷六、九三七)の例があるが、これも波には多くシクとのみいう。
(30)【評語】梅花の過ぎ去つたのに、なお雪の頻りに降ることを敍し、その間の矛盾に興を感じている。梅花や雪などの自然現象に季節の觀念が結合したのである。
 
1835 今更に 雪|零《ふ》らめやも。
 かぎろひの 燎《も》ゆる春べと
 なりにしものを。
 
 今更《イマサラニ》 雪零目八方《ユキフラメヤモ》
 蜻火之《カギロヒノ》 燎留春部常《モユルハルベト》
 成西物乎《ナリニシモノヲ》
 
【譯】もう今は雪は零らないだろう。かげろうの立つ春となつたものだ。
【釋】蜻火之 カギロヒノ。カギロヒは、陽炎。春の頃、地上から立ち動く氣である。
 燎留春部常 モユルハルベト。モユルは、陽炎の立つをいう。カギロヒの語に、火を連想しているのだろう。元來、地上から氣の立つのをモユとはいうが。
 成西物乎 ナリニシモノヲ。モノヲは、モノヨに同じだが、それだがの意を含んで使用される。
【評語】すつかり春になつて、もう雪の降ることはないだろうという、ほつとした氣もちを詠んでいる。この歌などは、風雅心ばかりでなく、實生活に即しているところが殘つている。
 
1836 風まじり 雪はふりつつ、
 しかすがに
 霞たなびき 春さりにけり。
 
 風交《カゼマジリ》 雪者零乍《ユキハフリツツ》
 然爲蟹《シカスガニ》
 霞田菜引《カスミタナビキ》 春去尓來《ハルサリニケリ》
 
【譯】風がまじつて雪はふりながら、それだのに霞がたなびいて春になつてしまつたことだ。
【釋】風交雪者零乍 カゼマジリユキハフリツツ。雪の零るのが主になり、風も加わつている意である。「風(31)雜《カゼマジリ》 雨布流欲乃《アメフルヨノ》 雨雜《アメマジリ》 雪布流欲波《ユキフルヨハ》」(卷五、八九二)「風交《カゼマジリ》 雪者雖v零《ユキハフレドモ》」(卷八、一四四五)などの例がある。
【評語】前出の「打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》
 然爲蟹《シカスガニ》 天雲霧相《アマグモキラヒ》
 雪者零管《ユキハフリツツ》」(卷十、一八三二)を逆にしたような歌である。同一人の作だろう。雪はふつているが、一方霞のたなびいている特殊な風光が描かれている。
 
1837 山の際《ま》に 鶯鳴きて、
 うち靡く春と念《おも》へど、雪降り重《し》きぬ。
 
 山際尓《ヤマノマニ》 ※[(貝+貝)/鳥]喧而《ウグヒスナキテ》
 打靡《ウチナビク》 春跡雖v念《ハルトオモヘド》 雪落布沼《ユキフリシキヌ》
 
【譯】山の間では鶯が鳴いて、草木の靡く春と思うけれども、雪がふり積つている。
【釋】山際尓 ヤマノマニ。ヤマノマは、山と山との合う處。山の間。
 雪落布沼 ユキフリシキヌ。フリシクは、零り積るをいう。「比佐可多能《ヒサカタノ》 安米波布里之久《アメハフリシク》」(卷二十、四四四三)など、雨にいう例があるが、雪では積るをいう。
【評語】やはり春ということに拘泥している。こういうものが春だとする、その概念が固定したのである。これは時代の勢いだが、この作者は、特にそういう思想を持つているらしい。
 
1838 峯《を》の上《うへ》に 零《ふ》り置ける雪し、
 風の共《むた》 此處《ここ》に散るらし。
 
 春にはあれども。
 
 峯上尓《ヲノウヘニ》 零置雪師《フリオケルユキシ》
 風之共《カゼノムタ》 此間散良思《ココニチルラシ》
 春者雖v有《ハルニハアレドモ》
 
【譯】峯の上にふつて置いた雪が、風と共に、ここに散るのだろう。春ではあるけれども。
【釋】峯上尓 ヲノウヘニ。ヲは山の稜線の高みをいう。
 零置雪師 フリオケルユキシ。ふり積つてある雪が。シは助詞。
(32) 此間散良思 ココニチルラシ。ココは、作者の居る處で、峯を仰ぐ位置にいたのだろう。
【評語】雪のふるべしとも見えない空から、雪の數片がふつてくるのを、峯の雪が風に散るかと興じたのだろう。末句の春ニハアレドモは、やはり前の歌あたりと、同じ作者であるように思わせる。
 
右一首、筑波山作
 
右の一首は、筑波山にて作れる。
 
【釋】筑波山作 ツクハヤマニテツクレル。この卷中、註をもつて作歌の場處を語つている唯一の例である。作者は、例によつて誰とも知られない。
 
1839 君がため 山田の澤に ゑぐ採《つ》むと、
 雪消《ゆきげ》の水に 裳の裾ぬれぬ。
 
 爲v君《キミガタメ》 山田之澤《ヤマダノサハニ》 惠具採跡《ヱグツムト》
 雪消之水尓《ユキゲノミヅニ》 裳裾所v沾《モノスソヌレヌ》
 
【譯】あの方のために、山田の澤でエグを採むとして、雪消の水のために、裳の裾を濡らした。
【渾】爲君 キミガタメ。作者は女だから、キミは、その夫である。
 惠具採跡 ヱグツムト。ヱグは、カヤツリグサ科の多年生草本、クロクワイ。池沼等の水中に生じ、塊莖《かいけい》は、食うことができる。採むといい、雪消の頃であるので、その芽を採んだようにも取れるがやはり
 
塊莖だろう。「足檜之《アシヒキノ》 山澤〓具乎《ヤマサハヱグヲ》 採將v去《ツミユカム》 日谷毛相爲《ヒダニモアハセ》 母者責十方《ハハハセムトモ》」(卷十一、二七六〇)。
(33) 裳裾所沾 モノスソヌレヌ。モは、婦人の下半身に纏う衣裳。これによつて、作者が女子であることが知られる。
【評語】春の山村の情趣が歌われている。ヱグに添えて贈つた歌かも知れない。裳の裾を濡らしたというのは、作者があまりそういう事に慣れていないことを語るのであろう。塊莖に添えて贈つたので、實際に、自分の採んだヱグではないのだろう。
 
1840 梅が枝《え》に 鳴きて移ろふ 鶯の、
 羽《はね》白細に 沫雪ぞ降る。
 
 梅枝尓《ウメガエニ》 鳴而移徙《ナキテウツロフ》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》
 翼白妙尓《ハネシロタヘニ》 沫雪曾落《アハユキゾフル》
 
【譯】梅の枝に鳴いて枝移りをするウグイスの、羽根がまつ白に沫のような雪がふつている。
【釋】鳴而移徙 ナキテウツロフ。ウツロフは、それからそれへと枝移りをするをいう。ウツロフは、假字書きのものも多いが、それはいずれも變化する、褪色するの意のもので、移動する意のものには、假字書きの例がない。
 翼白妙尓 ハネシロタヘニ。シロタヘは、ここでは白色の意に使つている。
 沫雪曾落 アワユキゾフル。アワユキは沫のような大形の雪。
【評語】鶯ノ羽根シロタヘニというのは、誇張で、事實ではない。綺麗にできているが、作り歌で、素朴感に乏しいのはやむを得ない。
 
1841 山高み 降り來《く》る雪を、
 梅の花 散りかも來《く》ると
 念《おも》ひつるかも。
 
 山高三《ヤマタカミ》 零來雪乎《フリクルユキヲ》
 梅花《ウメノハナ》 落鴨來跡《チリカモクルト》
 念鶴鴨《オモヒツルカモ》
 
(34)【譯】山が高いのでふつてくる雪を、梅の花が散つてくるのかと、思つたことだ。
【釋】落鴨來跡 チリカモクルト。散つてかくると。空からふる雪をいうので、山から散る意ではないだろう。カモ、係助詞。
【評語】梅花が雪にまがうというのは、後の歌に多いが、ここでは、ふる雪を、梅花かと疑つており、それをすなおに表現したところに、純な氣もちがある。風流がつてはいるが、作爲の跡の強くないのがよい。
 
一云、梅花《ウメノハナ》 開香裳落跡《サキカモチルト》
 
一は云ふ、梅の花 咲きかも散ると。
 
【釋】一云梅花関香裳落跡 アルハイフ、ウメノハナサキカモチルト。前の歌の三四句の別傳である。サキカモテルということ「烏梅能波奈《ウメノハナ》 和企弊能曾能爾《ワギヘノソノニ》 佐伎弖知流美由《サキテチルミユ》」(卷五、八四一)の如き例があつて、散ることの前提としての咲くを言つているのが特色である。
 
1842 雪を除《お》きて 梅にな戀ひそ。
 あしひきの 山|片附《かたつ》きて 家居せる君。
 
 除雪而《ユキヲオキテ》 梅莫戀《ウメニナコヒソ》
 足曳之《アシヒキノ》 山片就而《ヤマカタツキテ》 家居爲流君《イヘヰセルキミ》
 
【譯】雪をさしおいて梅に戀をなさるな。裾を引いている山に寄つて家居をしているあなた。
【釋】除雪而 ユキヲオキテ。雪の風趣の捨てがたいのをさしおいて。
 梅莫戀 ウメニナコヒソ。從來ウメヲナコヒソと讀まれていたが、戀フは助詞ニを受ける語であるから、ウメニナコヒソと讀むべきである。脇屋眞一君の注意による。句切。
 山片就而 ヤマカタツキテ。一方は山について。
(35)【評語】問答の歌であつて、新人をもつて舊人を捨てるなというような寓意がありそうである。雪の風趣を説いているが、具體的に雪の美を説かないので、迫力に乏しい。四五句の敍述は、全體に對してよく利いている。
 
右二首、問答
 
【釋】右二首問答 ミギノフタツハトヒコタヘ。かように左註で問答と註したものと、小題を掲げて問答としたものとあつて、統一はない。これらも資料によるものであろう。
 
詠v霞
 
1843 昨日こそ 年は極《は》てしか。
 春霞、春日《かすが》の山に はや立ちにけり。
 
 昨日社《キノフコソ》 年者極之賀《トシハハテシカ》
 春霞《ハルガスミ》 春日山尓《カスガノヤマニ》 速立尓來《ハヤタチニケリ》
 
【譯】昨日こそ年は暮れたのだ。それだのにもう春霞が春日の山に立つている。
【釋】昨日社年者極之賀 キノフコソトシハハテシカ。昨日一年の終つたことを敍して、今日の新年であることを含ませている。係助詞コソを含む文を前提とする一つの格になる。句切。
【評語】暦面の新年になつて、春の景象のあらわれたことを歌つている。理くつが先になつている作である。殊に昨日コソ年ハ極テシカと、まず暦の推移に重點を置いた言い方がわるいのである。「ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも」(卷十、一八一二)の方は、自然の景象の敍述が中心になつているので、兩者を比較すると、その優劣がよくわかる。「昨日こそ早苗とりしか。いつのまに稻葉そよぎて秋風の吹く」(古今和歌集)など、この格の歌である。
 
(36)1844 寒《ふゆ》過ぎて 暖《はる》來《きた》るらし。
 朝日さす 春日《かすが》の山に 霞たなびく。
 
 寒過《フユスギテ》 暖來良思《ハルキタルラシ》
 朝烏指《アサヒサス》 滓鹿能山尓《カスガノヤマニ》 霞輕引《カスミタナビク》
 
【譯】冬が過ぎて春がきたらしい。朝日のさしている春日の山に、霞がたなびいている。
《釋】寒過暖來良思 フユスギテハルキタルラシ。寒の字を冬に、暖の字を春に當てて書いている。冬が過ぎて春が來たことに對して、寒い季節から脱出した感じが、かような文字づかいをするもととなつている。季節の推移を敍しているのだが、かような實感の裏づけがあることを語る。下にも「寒過《フユスギテ》 暖來者《ハルシキタレバ》」(卷十、一八八四)とある。句切。
 朝烏指 アサヒサス。烏は、日の義に使用している。漢籍に、太陽を金烏といい、日の中に三本足の烏がいるとしている。この句は實景で、春日の山を修飾している。
 滓鹿能山尓 カスガノヤマニ。滓鹿は、訓假字。春日に同じ。
 霞輕引 カスミタナビク。輕引は、義をもつて當てている。
【評語】上記のように、寒い季節から脱却し得た氣持で字を使用し、それは作者の用字がそのままに殘つていると考えられる。冬過ギテ春來ルラシという。幾分くどい云い方が、かえつて效果を現わしている。それに對して三句以下の敍述は、極めて美しい。殊に第三句がよく利いている。「春過ぎて夏來るらし。しろたへの衣ほしたり。天のかぐ山」(卷一、二八)。
 
1845 鶯の 春になるらし。
 春日《かすが》山 霞たなびく。
 夜目《よめ》に見れども。
 
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 春成良思《ハルニナルラシ》
 春日山《カスガヤマ》 霞棚引《カスミタナビク》
 夜目見侶《ヨメニミレドモ》
 
(37)【譯】鶯の鳴く春になるらしい。春日山に霞がたなびいている。夜目に見るのだが。
【釋】※[(貝+貝)/鳥]之春成良思 ウグヒスノハルニナルラシ。鶯ノ春は、ウグイスが時を得がおにさえずる春をあらわしている。句切。
 夜目見侶 ヨメニミレドモ。ヨメは、夜間に見る目。
【評語】鶯ノ春の語は、大膽な表現で、よく春の世界を描くに足りる。夜間見ても霞がたなびいているのがわかることを歌つているのも珍しい。もつとも夜の霞を詠んだ歌には「大葉山《オホバヤマ》 霞蒙《カスミタナビキ》 狹夜深而《サヨフケテ》 吾船將v泊《ワガフネハテム》 停不v知文《トマリシラズモ》」(卷七、一二二四)などあるにはあるが、いずれも實景に即してでなければ、云えない所だ。
 
詠v柳
 
1846 霜枯れの 冬の柳は、
 見る人の ※[草冠/縵]《かづら》にすべく 萌えにけるかも。
 
 霜干《シモガレノ》 冬柳者《フユノヤナギハ》
 見人之《ミルヒトノ》 ※[草冠/縵]可v爲《カヅラニスベク》 目生來鴨《モエニケルカモ》
 
【譯】霜枯れの冬の柳は、見る人の※[草冠/縵]にするように、芽ぷいたことだ。
【釋】冬柳者 フユノヤナギハ。このヤナギはシダレヤナギであろう。
 ※[草冠/縵]可爲 カヅラニスベク。カヅラは、植物をわがねて、頭髪の上に頂くもの。もと魔よけの思想に起り、この集では、風流の遊びになつている。ここも風流の氣もちである。
 目生來鴨 モエニケルカモ。古くモエニケルカモと讀ん(38)でいる。下に「毛延爾家留可聞《モエニケルカモ》」(一八四八)と假字書きにしたものもあり、目生をもつて義書したものと見るべきである。文字に即してはメバエケルカモとも讀まれる。
【評語】霜ガレノ冬ノ柳というのは、云い過ぎている。やはり冬の季節感に囚われたのだろう。新柳に對して、風流の氣の誘われるのを、見る人の※[草冠/縵]にすべしと敍したのは巧みである。
 
1847 淺緑 染《し》み掛けたりと 見るまでに、
 春の楊《やなぎ》は 萌えにけるかも。
 
 淺緑《アサミドリ》 染懸有跡《シミカケタリト》 見左右二《ミルマデニ》
 春楊者《ハルノヤナギハ》 目生來鴨《モエニケルカモ》
 
【譯】うすい緑色に、色をかけたと見るまでに、春のヤナギは、芽ぷいたことだ。
【釋】染懸有跡 シミカケタリト。シミカケは、染めて色をかける意。薄い緑の色をかけたとである。
 春楊者 ハルノヤナギハ。このヤナギは、楊の字どおり、カワヤナギと見るべきである。
【評語】楊樹の芽ぶいたのを、淺緑の色をかけたようだと歌つている。平凡な敍述である。春のヤナギとことわつたのは、例によつて季節の感に囚われている。春ノという必要のないところだ。
 
1848 山の際《ま》に 雪はふりつつ、
 しかすがに
 この川楊《かはやなぎ》は 萌えにけるかも。
 
 山際尓《ヤマノマニ》 雪者零管《ユキハフリツツ》
 然爲我二《シカスガニ》
 此河楊波《コノカハヤナギハ》 毛延尓家留可聞《モエニケルカモ》
 
(39)【評】山の間に雪はふりながら、それだのにこの河のヤナギは芽ぷいたことだ。
【釋】此河楊波 コノカハヤナギハ。河楊は、童蒙抄にカハヤギと讀んでいる。この語は「河蝦鳴《カハヅナク》 六田乃河之《ムヅタノカハノ》 川楊乃《カハヤナギノ》」(卷九、一七二三)は、ここと同じく四音の處にあり、「丸雪降《アラレフリ》 遠江《トホヅアフミノ》 吾跡川楊《アトカハヤナギ》」(卷七、一二九三)は、五言の處にある。この五音の處のを四音に讀むべくもなく、四音の處は五音に讀んでもさしつかえなく、またカハヤギの語は他に文證も無いから、カハヤナギと讀むのが妥當である。河邊に生えているヤナギでカハヤナギである。
【評語】これも、シカスガニの語によつて構成されている。その語によつて比較される雙方が、いずれも實景であるのがよい。
 
1849 山の際《ま》の 雪は消《け》ざるを、
 みなぎらふ 川の副《そひ》には
 萌えにけるかも。
 
 山際之《ヤマノマノ》 雪者不v消有乎《ユキハケザルヲ》
 水〓合《ミナギラフ》 川之副者《カハノソヒニハ》
 目生來鴨《モエニケルカモ》
 
【譯】山の間の雪は消えないのだのに、水けぶりを立てて流れる川の添つているところは、芽ふいたことだ。
【釋】水〓合 ミナギラフ。
  ミヅイヒアヒ(元)
  ナガレアフ(仙)
  シカスガニ(代)
  ――――――――――
  水激合《ミナギラフ》(考)
  水激合《タギチアフ》(古義)
  水〓合《ミナギラフ》(澤瀉博士)
 〓は、諸本に飯に作り、別傳は無く、解釋し難いので、諸説のある所であるが、今、澤瀉博士の説に〓の誤りとしてミナギラフと讀むによる。水が霧になつている意で、川水が多量にはげしく流れるさまである。飯の(40)ままでは、ミナヒアフなどの訓が考えられる。類聚名義抄に、〓、〓、灣などにミナアヒの訓がある。これは水の寄り集まる處の義であろうが、ミナヒは、その約言と見る。ここは動詞で、更にアフが接して水の寄り集まる意を示すとするのである。また誤字説では、考に、飯を激の誤りとする説があり、これが普通に行われている。訓は、ミナギラフ(考)とタギチアワ(古義)とが對立している。水激の字面は「此山乃《コノヤマノ》 彌高思良珠《イヤタカシラス》 水激《ミヅタギツ》 瀧之宮子波《タギノミヤコハ》」(卷一、三六)があり、そこでは、、ミヅハシル、もしくはミヅタギツと讀まれている。しかしタギチアフは例が無く、ミナギラフは「水霧相《ミナギラフ》 奥津小島爾《オキツコジマニ》」(卷七、一四〇一)があり、水煙の立つ意に解せられる。水が霧に立つのである。
 川之副者 カハノソヒニハ。古義に、副を楊の誤りとして、カハノヤナギハと讀んでいる。連作の一首として見れば、かならずヤナギの語が無くてもよいのだろう。ソヒは、川ぞいの地。「伊香保呂能《イカホロノ》 蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》」(卷十四、三四一〇)など山についていい、川についても、「伊儺武斯廬《イナムシロ》 呵簸泝比野儺擬《カハソヒヤナギ》」(日本書紀八三)などがある。
【評語】上記の如く、連作の一として見たい。シカスガニ系統の表現で、ただその語が無いだけである。三四句の地形の敍述が、この歌の特色をなしているが、明瞭でない點のあるのは遺憾である。
 
1850 朝《あさ》な且《さ》な わが見る柳、
 鶯の 來居《きゐ》て鳴くべき
 森にはやなれ。
 
 朝且《アサナサナ》 吾見柳《ワガミルヤナギ》
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 來居而應v鳴《キヰチナクベキ》
 森尓早奈禮《モリニハヤナレ》
 
【譯】毎朝わたしの見るヤナギは、ウグイスの來てとまつて鳴くような茂りに早くなつてくれ。
【釋】吾見柳 ワガミルヤナギ。柳を提示し、それを呼びかけている。
(41) 森尓早奈禮 モリニハヤナレ。モリは、木の茂りをいう。
【評語】このヤナギは、若木だろう。毎朝見て、その成長を樂しみにしている風情が、すなおに詠まれている。五句は、春になることを待つと共に、樹の大きくなるのをもかけている。自然を愛する心のしみじみと出ている歌である。
 
1851 青柳の 絲の細《くは》しさ。
 春風に 亂れぬい間《ま》に
 見せむ子もがも。
 
 青柳之《アヲヤギノ》 絲乃細紗《イトノクハシサ》
 春風尓《ハルカゼニ》 不v亂伊間尓《ミダレヌイマニ》
 令v視子裳欲得《ミセムコモガモ》
 
【譯】青柳のしだれている枝の精巧なことよ。春風に亂れないうちに見せるような人がほしいなあ。
【釋】絲乃細紗 イトノクハシサ。イトは、シダレヤナギの長く垂れている枝をいう。クハシサは、精妙、精巧なこと。美しさである。句切。
 不亂伊間尓 ミダレヌイマニ。イは接頭語と見られるが、上の用言の連體形の方につく接尾語かもしれない。亂れない間に。「花待伊間爾《ハナマツイマニ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》」(卷七、一三五九)の例がある。
 令視子裳欲得 ミセムコモガモ。コは、愛すべき人をいう。女子を想像している。
【評語】シダレヤナギの枝の美しく精巧なのを愛している。シダレヤナギは、大陸から渡つた植物で、特に植えて愛翫した。見セム子モガモは、慣用句であるが、この美しさを誰かに見せたいという心は自然である。
 
1852 ももしきの 大宮人の ※[草冠/縵]《かづら》なる
 しだり柳《やなぎ》は 見れど飽かぬかも。
 
 百礒城《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 ※[草冠/縵]《カヅラ》有《ナル・ケル》
 垂柳者《シダリヤナギハ》 雖v見不v飽鴨《ミレドアカヌカモ》
 
(42)【譯】大宮仕えの人の※[草冠/縵]であるシダレヤナギは、見ても飽きないことだなあ。
【釋】百礒城 モモシキノ。枕詞。
 ※[草冠/縵]有 カヅラナル。眞淵はカヅラケルと讀み、それが廣く行われている。カヅラ(※[草冠/縵])をすることを動詞にして、カヅラクという。それに助動詞リの連體形が接續したものとする。「菖蒲《アヤメグサ》 可都良久麻泥爾《カヅラクマデニ》」(卷十九、四一七五)、「青柳乃《アヲヤギノ》 保都枝與治等理《ホツエヨヂトリ》 可豆良久波《カヅラクハ》」(同、四二八九)。しかしカヅラクの用例は、卷の十八以下のみにあるので今舊訓による。
 垂柳者 シダリヤナギハ。シダリヤナギは、集中「四垂柳《シダリヤナギ》」(卷十、一九〇四)、「爲垂柳《シダリヤナギ》」(同、一八九六)とも書いている。シダリは、「足日木乃《アシヒキノ》 山鳥之尾乃《ヤマドリノヲノ》 四垂尾乃《シダリヲノ》」(卷十一、二八〇二、或本)の如く、シダリヲとも使つている。倭名類聚鈔に「柳、兼名苑(ニ)云(フ)、柳、一名小楊 之太利夜奈岐。崔豹(ノ)古今注(ニ)云(フ)、一名獨搖、微風(ニモ)大(キニ)搖(ル)、故以名(ヅク)v之。」
【評語】シダレヤナギの長い枝を輪にして※[草冠/縵]とした風流が歌われている。表現は類型的だが、ヤナギを愛する心は感じられる。取
 
1853 梅の花 取り持ちて見れば、
 わが屋前《ニハ》の 柳の眉し 念ほゆるかも。
 
 梅花《ウメノハナ》 取持而見者《トリモチテミレバ》
 吾屋前之《ワガニハノ》 柳乃眉師《ヤナギノマヨシ》 所v念可聞《オモホユルカモ》
 
【譯】梅の花を手に手に持つて見れば、わたしの家の前の柳の若葉が思われることだ。
【釋】吾屋前之 ワガニハノ。ニハは、文字通り屋前、家屋の前庭である。
 柳乃眉師 ヤナギノマヨシ。ヤナギノマヨは、柳の眉で、柳の若芽、新葉をいう。これを眉といつたのは、譬喩だが、女子の眉を新柳にたとえる事から、逆に新柳を眉といつたのである。シは強意の助詞。
(43)【評語】作者は、他人の家に客となり、もしくは他郷にあつてこの歌を詠んでいる。梅花と新柳とを竝べて初春の愛すべき風物とする心から詠まれている歌である。
 
詠v花
 
【釋】詠花 ハナヲヨメル。春の花を詠んだ歌二十首を載せている。櫻花九首、梅花六首、山吹一首、久木一首、馬醉木一首、その他二首である。なお梅花の歌は、冬の部にも收めてあり、季節感が確定していなかつた。その他二首とあるは、花の名が無いもので、その一首は櫻花と見られ、他は何の花とも決定しがたい。
 
1854 鷺の 木傳《こづた》ふ梅の うつろへば、
 櫻の花の 時|片設《かたま》けぬ。
 
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木傳梅乃《コヅタフウメノ》 移者《ウツロヘバ》
 櫻花之《サクラノハナノ》 時片設奴《トキカタマケヌ》
 
【譯】ウグイスの枝を傳う梅の花が散つてしまうと、櫻の花の咲く時がひたすら待たれた。
【釋】移者 ウツロヘバ。花が散つて過ぎ去つたので。
 時片設奴 トキカタマケヌ。カタマケは、片より思い設ける意で、ひたすらに待つをいう。「春冬片設而《トキカタマケテ》」(卷二、一九一)、「波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》」(卷五、八三八)など用例が多い。ヌは完了の助動詞。
【評語】梅花に續いて櫻花を迎える、春の風物の樂しい推移が歌われている。花を愛して、それからそれへと季節を送り迎える生活を敍して、この歌は平凡な表現を取つている。鶯ノ木傳フ梅というのは、既に梅の概念が固定したような云い方になつている。
 
1855 櫻花 時は過ぎねど、
 見る人の 戀の盛りと 今し散るらむ。
 
 櫻花《サクラバナ》時者雖v不v過《トキハスギネド》
 見人之《ミルヒトノ》 戀盛常《コヒノサカリト》 今之將v落《イマシチルラム》
 
(44)【譯】櫻の花は、その時節は過ぎないけれども、見る人の愛する盛りとして、今散るのだろう。
【釋】時者雖不過 トキハスギネド。その咲いている時節は、まだ過ぎないが。
 戀盛常 コヒノサカリト。コヒは、櫻花に對して愛を寄せる心をいう。今が愛する盛りであるとして。
 今之將落 イマシチルラム。シは、強意の助詞。ラムは、散る心を推量している。將の字をラムと讀むのは、以前の諸卷には多數あるが、この卷では始めてである。將は、事のまだ行われないことを意味する字で、國語のムに相當するから、それによつてラムにも流用したのであろう。
【評語】櫻花が、人の愛する盛りに散る、飽きられないうちに散るとする心である。無常觀などの含まれていないだけに、純粹に受け入れられる。
 
1856 わが插《さ》しし 柳の絲を 吹き亂る
 風にか、妹が 梅の散るらむ。
 
 我刺《ワガサシシ》 柳絲乎《ヤナギノイトヲ》 吹亂《フキミダル》
 風尓加妹之《カゼニカイモガ》 梅乃散覽《ウメノチルラム》
 
【譯】わたしがさし木にしたヤナギの長い枝を吹き亂している風のためにか、わが妻の梅の花が散るのだろう。
【釋】我刺 ワガサシシ。ワガカザス(元)、ワガサセル(類)、頭刺とあらば、カザスだが、刺の一字では、サスである。さし木にさした意。
 吹亂 フキミダル。ミダルは、四段活の連體形。
 風尓加妹之 カゼニカイモガ。イモは、愛する女子。妻であろう。イモガは、次句の梅を修飾している。妹が家の梅、もしくは妹の愛する梅、妹の植えた梅の意である。
【評語】自分のさしたヤナギの枝を吹く風のために、妹が家の梅が散るだろうと推量している。自分の柳、妹の梅と、似つかわしい物を持つて來ている。自分と愛人との上に、風のような自然物が通うことを詠んだ歌に(45)は「吾袖爾《ワガソデニ》 零鶴雪毛《フリツルユキモ》 流去而《ナガレユキテ》 妹之手本《イモガタモトニ》 伊行觸粳《イユキフレヌカ》」(卷十、二三二〇)などの例がある。
 
1857 毎年《としのは》に 梅は咲けども、
 うつせみの 世の人君し、
 春なかりけり。
 
 毎年《トシノハニ》 梅者開友《ウメハサケドモ》
 空蝉之《ウツセミノ》 世人君羊蹄《ヨノヒトキミシ》
 春無有來《ハルナカリケリ》
 
【譯】毎年梅は咲くけれども、この世の人である君は、春が無かつた。
【釋】毎年 トシノハニ。トシノハは、年の端で、來る年も來る年もの意である。「毎年(ハ)、謂(フ)2之|等之乃波《トシノハト》1」(卷十九、四一六八)。
 空蝉之 ウツセミノ。枕詞。ウツセミは、語義未詳。現身の義とする説があるが、そうと定めがたい。(卷一、二四)參照。空蝉の字を當てているのは、同音によつて蝉のぬけがらを連想して、無常の感をあらわしている。
 世人君羊蹄 ヨノヒトキミシ。この世の人である君が。代匠記に君を吾の誤りとしているが、文獻の支持は無い。君でよくわかる。羊蹄は、倭名類聚鈔に「羊蹄菜、唐韻(ニ)云(フ)菫丑六反、字亦作v〓、之布久佐、一運之羊蹄菜也」とあり、新撰字鏡、本草和名に、羊蹄に之乃禰の訓があるのは、シの根で、根を藥用にするによつていうのである。タデ科の多年生草本でギシギシという。ここは助詞シの音に使つている。
 春無有來 ハルナカリケリ。ハルは、榮える時の意に使つている。志貴の皇子の懽《よろこび》の御歌に「石灑《イハソソク》 垂見之上乃《タルミノウヘノ》 左和良妣乃《サワラビノ》 毛要出春爾《モエイヅルハルニ》 成來鴨《ナリニケルカモ》」(卷八、一四一八)の歌における用法である。
【評語】不運の人に同情して詠んでいる。集中珍しい内容の歌である。春の概念に、榮える時であるとする意が含まれている。これは既に漢籍にも春をもつて樂しい時とするので、その影響を受けているのであろう。
 
(46)1858 うつたへに 鳥は喫《は》まねど、
 繩《しめ》延《は》へて 守《も》らまく欲《ほ》しき
 梅の花かも。
 
 打細尓《ウツタヘニ》鳥者雖v不v喫《トリハハマネド》
 繩延《シメハヘテ》 守卷欲寸《モラマクホシキ》
 梅花鴨《ウメノハナカモ》
 
【譯】殊更に鳥はたべないのだが、標繩を張つて番をしておきたい梅の花だなあ。
【釋】打細尓 ウツタヘニ。打細は、訓假字。「打細丹《ウツタヘニ》 人妻跡云者《ヒトヅマトイヘバ》 不v觸物可聞《フレヌモノカモ》」(卷四、五一七)、「打妙爾《ウツタヘニ》 前垣乃酢堅《マガキノスガタ》 欲v見《ミマクホリ》」(同、七七八)など使用されており、殊更に特にの意をなすものと解せられる。鳥は喫マネドの句を修飾して、特に鳥が食うのではないけれどもの意を成している。
 繩延 シメハヘテ。シメは、標繩で、繩を張つて、入るを禁止する意である。
 守卷欲寸 モラマクホシキ。モラマクは、守らむこと。番をすること。
【評語】梅花を愛するあまりに、鳥をも近づけまいとする心である。愛する心はわかるが、わざとらしさのある歌である。
 
1859 馬竝めて 高き山邊を、
 白細に 艶《にほ》はしたるは 梅の花かも。
 
 馬竝而《ウマナメテ》 高山乎《タカキヤマベヲ》
 白妙丹《シロタヘニ》 令2艶色1有者《ニホハシタルハ》 梅花鴨《ウメノハナカモ》
 
【譯】馬を竝べて行く、その道にある高い山邊を、まつ白に花が咲いているのは、梅の花だな。
【釋】馬竝而 ウマナメテ。考に馬は推の誤りとし、略解に宣長の説とて馬は忍の誤りとして、共にオシナベテと訓している。しかし萬葉集の歌は、かならずしも整備したものばかりではないので、みだりに原文を改めるのは不可である。この句は、作者が、馬を竝べて行くことを敍したものと見るべきである。
 高山乎 タカキヤマベヲ。大矢本、京都大學本には、山の下に部の字があるが、元暦校本、類聚古集、神田(47)本、西本願寺本、細井本に、すべて部の字がないのだから、それによるるほかはない。しかしそのままでは補讀を要するので、タカキヤマベニと讀む。もし脱字があるとするなら、初句を考慮して※[獣偏+葛]の字を補い、※[獣偏+葛]高山乎《カリタカヤマヲ》とする。この場合、初句は枕詞になる。
 白妙丹 シロタヘニ。白色に。
 令艶色有者 ニホハシタルハ。ニホハセタルハ(考)。におわしめる意のニホハスは「岸之埴布尓《キシノハニフニ》 仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》」(卷一、六九)、「紅乃《クレナヰノ》 衣爾保波之《コロモニホハシ》」(卷十九、四一五七)、「秋野乎《アキノノヲ》 爾保波須波疑波《ニホハスハギハ》」(卷十五、三六七七)、「衣爾保波勢《コロモニホハセ》 多鼻能知師爾《タビノシルシニ》」(卷一、五七)など、四段に活用しているから、ニホハシタルハである。色に美しく染め出したのは。令艶色の字面は、特殊の書法で、これによつて語意を知るべきである。
【評語】初句が、二句以下に對して接續がわるく遊離しているので、誤字説も出るのである。馬を竝べて行く途上の見る所を敍したもので、表現が不完全なものと見たい。しかしこれによつて感じは出ている。白く咲いているのは、梅の花かと單純に疑つたのがよい。
 
1860 花咲きて 實《み》はならねども、
 長きけに 念《おも》ほゆるかも。
 山振《やまぶき》の花。
 
 花咲而《ハナサキテ》 實者不v成登裳《ミハナラネドモ》
 長氣《ナガキケニ》 所v念鴨《オモホユルカモ》
 山振之花《ヤマブキノハナ》
 
【譯】花が咲いては實はならないけれども、花のさくのが長いあいだ、待たれることだなあ。山振の花は。
【釋】花咲而實者不成登裳 ハナサキテミハナラネドモ。山振の性質を敍している。山振は、實はならないけれども花は長く待ち思われる由である。
 長氣 ナガキケニ。ケは、時のあいだをいう。長いあいだを。「長氣乎《ナガキケヲ》 如v此所v待者《カクマタルレバ》」(卷四、四八四)。
(48) 所念鴨 オモホユルカモ。花の咲くのが、待ち思われるなあ。句切。
【評語】ヤマブキの花の特色をよく描いている。初二句は説明に過ぎるようであるが、寓意する所があつて云つているのかも知れない。
 
1861 能登河の 水底さへに 光《て》るまでに、
 三笠の山は 咲きにけるかも。
 
 能登河之《ノトガハノ》 水底并尓《ミナソコサヘニ》 光及尓《テルマデニ》
 三笠乃山者《ミカサノヤマハ》 咲來鴨《サキニケルカモ》
 
【譯】能登川の水底までも照るほどに、三笠の山は、花が咲いたことだ。
【釋】能登河之 ノトガハノ。能登川は、三笠の山に接している川であることが、この歌で知られる。春日山中から流れ出る小川である。
【評語】三笠の山の櫻の花はといわないで、ただ三笠の山は咲いたと歌つているのは、それでわかるからであり、かえつて歌がらが大きくなつている。能登川の水に映じて咲いている櫻の花の美しさが、よく表現されている。
 
1862 雪見れば いまだ冬なり。
 しかすがに
 春霞立ち、梅は散りつつ。
 
 見v雪者《ユキミレバ》未冬有《イマダフユナリ》
 然爲蟹《シカスガニ》
 春霞立《ハルガスミタチ》 梅者散乍《ウメハチリツツ》
 
【譯】雪を見ればまだ冬だ。それだのに、春霞が立つて梅は散りつつある。
【釋】 見雪者 ユキミレバ。春になつても殘つている雪をさしたでのあろう。
 未冬有 イマダフユナリ。まだ冬の季節の特色が殘つている。
(49)【評語】 雪について冬のものとする季節感の固定してゐることが注意される。既に春になつたのに、雪が冬を意味して殘つているというのである。事物に封する季節感の確立と、季節の推移に伴なつて、風物の動くことを既定の事實と考えるようになつたのである。「み雪のこれり。いまだ冬かも」(卷九、一六五九)參照。
 
1863 去年《こぞ》咲《さ》きし 久木《ひさぎ》今咲く。
 いたづらに 地《つち》にやおちむ。
 見る人なしに。
 
 去年咲之《コゾサキシ》 久木今開《ヒサギイマサク》
 徒《イタヅラニ》 土哉將v墮《ツチニヤオチム》
 見人名四二《ミルヒトナシニ》
 
【譯】去年咲いたヒサギが今咲いた。むだにちるだろうか。見る人が無く。
【釋】久木今開 ヒサギイマサク。
  ヒサギイマサク(類)
  ――――――――――
  冬木今開《フユキイマサク》(考)
  左久樂今開《サクライマサク》(考)
  文木今開《ウメハイマサク》(考)
  足氷今開《アシビイマサク》(古義)
 ヒサギは、植物の名、アカメガシワであるといい、キササゲであるという。「久木生留《ヒサギオフル》 清河原爾《キヨキカハラニ》 知鳥數鳴《チドリシバナク》」(卷六、九二五)參照。アカメガシワは、夏季黄緑色の花を開くので、春の花ではない。キササゲも、初夏に黄色で紫斑のある花を開き、これも春の花とはいいがたい。何かほかの樹であろう。誤字説もあるが、採用しがたい。句切。
【評語】ひとり花に對する寂寥感が歌われている。ヒサギも質素な花なのであろう。全釋に、今は死んでいない故人を思う歌としている。しかし下の阿保山(一八六七)の歌などによれば、やはり花を愛して友を求める(50)心とするが順當であろう。
 
1864 あしひきの 山の間照らす 櫻花、
 この春雨に 散《ち》りゆかむかも。
 
 足日木之《アシヒキノ》 山間照《ヤマノマテラス》 櫻花《サクラバナ》
 是春雨尓《コノハルサメニ》 散去鴨《チリユカムカモ》
 
【譯】山のまを照らして咲いている櫻の花は、この春雨に散つて行くだろうなあ。
【釋】山間照 ヤマノマテラス。テラスは、櫻の花が咲いて輝くばかりなのをいう。連體句。
 散去鴨 チリユカムカモ。
  チリヌラムカモ(類)
  チリユカムカモ(西)
  チリニケムカモ(考)
  ――――――――――
  將散去鴨《チリヌラムカモ》(略)
  散去來鴨《チリニケルカモ》(古義)
 二三句の叙述は、現在櫻花が滿開であるようであるから、この句は、未來のことをいうと解して訓すべきである。
【評語】春雨に山の櫻の散ることを惜しんでいる。平凡な内容の歌で、黄葉に關して類想の歌が多く、わずかに山ノマ照ラスの敍述に特色があるだけである。
 
1865 うち靡く 春さり來らし。
 山の際《ま》の 遠き木末《こぬれ》の
 咲き行く見れば。
 
 打靡《ウチナビク》 春避來之《ハルサリクラシ》
 山際《ヤマノマノ》 ※[うがんむり/取]木末乃《トホキコヌレノ》 咲往見者《サキユクミレバ》
 
【譯】草木の靡く春になつてくるらしい。山のまの遠い枝先の咲いて行くのを見れば。
(51)【釋】 ※[うがんむり/取]木末之 トホキコヌレノ。タカキコスヱノ(類)、ヒサキノスヱノ(西)、イトモコスヱノ(改)、ホツキノウレノ(代精)、トホキコズヱノ(考)。※[うがんむり/取]は、最の正字。これをトホキと讀むのは無理だが、同歌と見える「打靡《ウチナビク》 春來良之《ハルキタルラシ》 山際《ヤマノマノ》 遠木末乃《トホキコヌレノ》 開往見者《サキユクミレバ》」(卷八、一四二二尾張の連)の支持がある。木ヌレに即しては、類聚古集にタカキと讀んだのが捨てがたく、風趣も佳である。
【評語】山間の樹梢に咲きゆく花を望見して、春のくることを歌つている。風趣のある歌である。花は一般に、櫻花と解しているが、春の來ることをこれによつて推量しているとすれば、櫻花には限らない。
 
1866 春雉《きぎし》鳴く 高圓《たかまと》の邊《べ》に、
 櫻花 散りて流《なが》らふ。
 見む人もがも。
 
 春雉鳴《キギシナク》 高圓邊丹《タカマトノベニ》
 櫻花《サクラバナ》 散流歴《チリテナガラフ》
 見人毛我母《ミムヒトモガモ》
 
【譯】雉子の鳴く高圓のあたりで、櫻の花が散つて流れている。見る人があるといいなあ。
【釋】春雉鳴 キギシナク。雉子は、春に鳴くので、春雉と書いている。
 高圓邊丹 タカマトノベニ。高圓は、春日の地名。山にも野にもいう。高圓とのみ云つた例は、「高圓爾鶯鳴沼《タカマトニウグヒスナキヌ》」(卷六、九四八)、「多可麻刀能《タカマトノ》 乎婆奈布伎故酒《ヲバナフキコス》 秋風爾《アキカゼニ》」(卷二十、四二九五)などある。
 散流歴 チリテナガラフ。ナガラフは、流動する意と、存續する意とに兩用されている。ここは流れ移る意である。この用法で、花の散るのを歌つたものには、「流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物之花其毛《ナニノハナゾモ》」(卷八、一四二〇)の例がある。これによれば下二段活であることが知られる。句切。
【評語】散る花の美しさを、人と共に見ようと思う、類型的だが、當時の人の純粹な心が歌われている。句も美しい。
 
(52)1867 阿保山の 櫻の花は、
 今日もかも 散り亂るらむ。
 見る人なしに。
 
 阿保山之《アホヤマノ》 佐宿木花者《サクラノハナハ》
 今日毛鴨《ケフモカモ》 散亂《チリミダルラム》
 見人無二《ミルヒトナシニ》
 
【譯】阿保山の櫻の花は、今日は、散り亂れているだろうか。見る人も無いのに。
【釋】阿保山之 アホヤマノ。阿保山は、所在不明。大日本地名辭書に、佐保村の不退寺の丘陵を、阿保山というとある。それかも知れない。伊勢物語に、在原の業平と解せられるその主人公について、奈良の京の春日に領地があつて狩に行つたと書いているが、業平の父の阿保親王の稱は、その地名によるのだろうか。
 佐宿木花者 サクラノハナハ。佐宿木は、サクラと讀むのだろうが、この字を書いたわけはわからない。宿を、ネグラなどのクラに當てて書いたか、それも臆測に過ぎない。
 今日毛鴨 ケフモカモ。上のモは、添えていうだけで、今日に集中するだけの效果を有している。今日もまたではない。カモは、疑問の係助詞。用例の多い句である。「今日毛鴨《ケフモカモ》 問給麻思《トヒタマハマシ》」(卷二、一五九)。
 散亂 チリミダルラム。ラムに當る字は無いが、上のカモの意を迎えて、讀み添える。句切。
【評語】これも、見ル人無シニの句で構成されている。かつて見た阿保山の櫻の花の美しさが忘れられないで詠まれている歌である。作者以外の人には、その追憶が無いから、味のうすいものになつて感じられる。
 
1868 河蝦《かはづ》鳴く 吉野の河の 瀧《たぎ》の上の、
 馬醉木《あしび》の花ぞ。
 地《つち》に置くな、ゆめ。
 
 川津鳴《カハヅナク》 吉野河之《ヨシノノカハノ》 瀧上乃《タギノウヘノ》
 馬醉之花曾《アシビノハナゾ》
 置v末勿勤《ツチニオクナユメ》
 
【譯】カジカの鳴く吉野の川の激流の上の馬醉木の花ですよ。下にお置きなさいますな。
(53)【釋】川津鳴 カハヅナク。カハヅは、川に住む蛙。アシビの花の咲く時季は、明白ではないが、いずれも春であろうから、その花の咲く頃に、カハヅが鳴くとは思われない。それでこの句は、吉野川の説明に、河蝦の鳴く川として知られている意をもつて冠しているのだろう。
 馬醉之花曾 アシビノハナゾ。アシビは、疑問の植物である。「礒之於爾《イソノウヘニ》 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》」(卷二、一六六)參照。ゾは、指定の助詞。句切。
 置末勿勤 ツチニオクナユメ。
  オクニマモナキ(西)
  スヱニオクナユメ(代精)
  オキハツナユメ(代精)
  ――――――――――
  置手勿勤《テナフレソユメ》(童)
  觸手勿勤《テフレソナユメ》(考)
  觸手勿勤《テフレソユメ》(略)
  置土勿勤《ツチニオクナユメ》(古義)
 末は、義をもつてツチに當てているのだろう。下に置くなの意である。ユメは、禁止の意をあらわす語。「和何世古我《ワガセコガ》 多那禮之美巨騰《タナレノミコト》 都地爾意加米移母《ツチニオカメヤモ》」(卷五、八一二)。
【評語】吉野から馬醉木の花を手折つて人に贈るに添えた歌である。前に數出した、時の花を人に見せたいと思う心の具體化したものと見て、同人の作らしくもある。吉野の激流のほとりに咲いたアシビの花には、作者としては特別の情趣が感じられているのであろう。
 
1869 春雨に 爭ひかねて、
 わが屋前《には》の 櫻の花は
 咲き始《そ》めにけり。
 
 春雨尓《ハルサメニ》 相爭不v勝而《アラソヒカネテ》
 吾屋前之《ワガニハノ》 櫻花者《サクラノハナハ》
 開始尓家里《サキソメニケリ》
 
(54)【譯】春雨に抵抗しきれないで、わたしの屋前の櫻の花は、咲き始めたことだ。
【釋】相爭不勝而 アラソヒカネテ。春雨は、花を誘つて咲かせようとし、花は咲くまいとしたが、遂に抵抗し得ないで。
【評語】季節のおとずれに催されて、花の咲いたのを、アラソヒカネテと解釋しているのが特色である。その考え方には、植物を擬人化した氣持があり、若干のいやみが無いでもない。
【参考】類句、あらそひかねて(植物の場合)。
  白露にあらそひかねて咲けるはぎ散らば惜しけむ。雨な零りそね(卷十、二一一六)
  しぐれの雨間無くし零れば眞木の葉もあらそひかねて色づきにけり
(同、二一九六)
 
1870 春雨は いたくな零《ふ》りそ。
 櫻花 いまだ見なくに、
 散らまく惜しも。
 
 春雨者《ハルサメハ》甚勿零《イタクナフリソ》
 櫻花《サクラバナ》 未v見尓《イマダミナクニ》
 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
 
【譯】春雨はひどく零るな。櫻の花を、まだ見ない事だのに、散るのが惜しい。
【釋】未見尓 イマダミナクニ。ナクニは、古くは終止形を成していたと考えられるが、この例の如きになると、切らずに、次に續くらしい。これは助詞この用法の展開によるもので、感動性が無くなり、副詞的に使用される道が大きくなつたのによるのだろう。
【評語】春雨に對して、その花を散らすことを惜しんでいる。花を愛する純粹な感情の窺われる歌だ。
 
1871 春されば 散らまく惜しき 梅の花、
(55) しましは咲かず 含《ふふ》みてもがも。
 
 春去者《ハルサレバ》 散卷惜《チラマクヲシキ》 梅花《ウメノハナ》
 片時者不v咲《シマシハサカズ》 含而毛欲得《フフミテモガモ》
 
【譯】春になると、散るだろうことの惜しい梅の花は、しばしは咲かないで、つぼんでいてほしいものだ。
【釋】春去者 ハルサレバ。春になればきまつての意に已然形を使用している。梅花のまだつぼんでいる時の歌と見るのである。
 片時者不咲 シマシハサカズ。シマシは、極めて短い時間。
 含而毛欲得 フフミテモガモ。フフミは、花のつぼんでいるのをいう。
【評語】梅花を愛惜する心が歌われている。赤人集に三句さくら花とあり、大矢本系統にも櫻花で、櫻の花でも通じるが、やはり梅の花とする方が佳趣である。
 
1872 見渡せば 春日《かすが》の野邊に 霞立ち、
 咲き艶《にほ》へるは 櫻花かも。
 
 見渡者《ミワタセバ》春日之野邊尓《カスガノノベニ》 霞立《カスミタチ》
 開艶者《サキニホヘルハ》 櫻花鴨《サクラバナカモ》
 
【譯】見渡せば春日の野邊に霞が立つて、美しく咲いているのは櫻の花だな。
【釋】聞艶者 サキニホヘルハ。ニホヘルは、美しく色にあらわれているをいう。艶の字によつてその語意が窺われる。「白妙丹《シロタヘニ》 令v艶有者《ニホハシタルハ》」(卷七、一八五九)。
 櫻花鴨 サクラバナカモ。カモは、疑問の意から出發して、感動の意をあらわしている。作者は、櫻の花であることをよく知つて、詠嘆している。
【評語】美しい春の野の景が歌われている。すなおな表現がよく、四五句の感動的な云い方もよい。
 
1873 いつしかも この夜の明けむ。
(56) 鷺の 木傳《こづた》ひ散らす 梅の花見む。
 
 何時鴨《イツシカモ》 此夜乃將v明《コノヨノアケム》
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木傳落《コヅタヒチラス》 梅花將v見《ウメノハナミム》
 
【譯】早くこの夜が明ければよい。ウグイスが枝移りして散らす梅の花を見よう。
【釋】何時鴨 イツシカモ。何時であるか、早くの意をあらわす句。カモは疑問の係助詞。
 此夜乃將明 コノヨノアケム。句切。
【評語】早く夜が明けて、梅花に鶯のくる佳景を眺めたいと待つ心である。梅花の敍述は、やや型を作つているが、風雅にひたすらな心が、これらの句を作りなすに至つた。しかし鳴くといわないで、木傳ヒ散ラスといつたのには、描寫がある。
 
詠v月
 
1874 春霞 たなびく今日の 夕月夜《ゆふづくよ》、
 清く照るらむ。
 高松の野に。
 
 春霞《ハルガスミ》 田菜引今日之《タナビクケフノ》 暮三伏一向夜《ユフヅクヨ》
 不v穢照良武《キヨクテルラム》
 高松之野尓《タカマツノノニ》
 
【譯】春霞のたなびいている今日の夕月夜よ。清く照つているだろう。高松の野には。
【釋】暮三伏一向夜 ユフヅクヨ。三伏一向をツクと讀むのは、四本の木を投げる勝負(※[木+四]戯)で、その三本が伏し一本が表を出したのをツクと云つたのにもとづくと解せられる。三伏一向の反對に「末中一伏三起《スヱノナカゴロ》」(卷十二、二九八八)というのがあつて、一伏三起をコロに當てて使つている。「折木四哭之《カリガネノ》」(卷六、九四八)參照。この句は、夕月夜を呼びかけることによつて、感動を表示している。結局、夕月が清く照つているだろうの意になるのだが、歌としては、ここで一往切つて味わうべきである。
(57) 不穢照良武 キヨクテルラム。不穢は、義をもつて書いている、キヨクは、霞がかかつているのであかるいのをいうのではなく、月の光の美しきを云つている。
 高松之野尓 タカマツノノニ。タカマツは、地名。この歌とも、五出している。「高松之《タカマツノ》 山木毎《ヤマノキゴトニ》 雪曾零有《ユキゾフリタル》」(卷十、二三一九)などの例があつて、山にもいう。春日の高圓を、タカマツとも發音したものとされているが、同地とする證明はなく、別地かもしれない。
【評語】春霞のたなびいている日の暮れゆくままに、夕月の光うつくしくさして來た。そこで風情のある高松の野を思いやつて詠んでいる。美しい歌である。
 
1875 春されば 樹《き》の木《こ》の暗《くれ》の 夕月夜《ゆふづくよ》、
 おほつかなしも。
 山|陰《かげ》にして。
 
 春去者《ハルサレバ》 紀之許能暮之《キノコノクレノ》 夕月夜《ユフヅクヨ》
 鬱束無裳《オホツカナシモ》
 山陰尓指天《ヤマカゲニシテ》
 
【譯】夕方になつて、樹の茂りで暗い夕月夜よ。はつきりしないことだ。山のかげであつて。
【釋】紀之許能暮之 キノコノクレノ。コノクレは、樹の暗で、枝葉が茂つて光のささないのをいう。それに更にキノを冠しているのが變である。下の一ハ云フに依れば、コノクレオホキであつたろうというのも、もつともではある。
 鬱束無裳 オホツカナシモ。オホツカナシは、明白でないのをいう。モは、感動の助詞。句切。
【評語】夕月の光ほのぐらくして、樹蔭に徹りかねる春の夕べの美しさが歌われている。歌の表面ではオホツカナシと云つているが、作者はむしろそのうす暗さを樂しんでいるように見える。
 
(58)一云、春去者《ハルサレバ》 木陰多《コノカゲオホキ》 暮月夜《ユフヅクヨ》
 
一は云ふ、春されば 木のかげ多き 暮月夜。
 
【釋】一云、春去者 アルハイフ、ハルサレバ。以下、前の歌の初三句の別傳である。しかし前の歌と相違すると見られるのは、第二句だけであるのに、同一である第三句をも書いているのは違例であること、前の歌の第二句は、疑問のある句で、傳來に誤謬があるかも知れないこと、この別傳の第二句の字面にも疑問のあることなどを綜合して考えると、傳來のあいだに發生した別傳であるかも知れない。
 木陰多 コノカゲオホキ。コガクレオホキ(西)、コカゲノオホキ(代精)。陰は、カゲで、木陰では、コガクレとは讀みがたい。あるいは、コノクレオホキか。代匠記精撰本に、陰は隱の誤りかとしたのももつともである。前項に記したように、後人が書いたためであるかも知れない。前の歌の別傳としては、木ガクレ多キで、よく通じるのである。
 
1876 朝霞 春日《はるひ》の晩《く》れば、
 木《こ》の間《ま》より うつろふ月を
 いつとか待たむ。
 
 朝霞《アサガスミ》 春日之晩者《ハルヒノクレバ》
 從2木間1《コノマヨリ》 移歴月乎《ウツロフツキヲ》
 何時可將v待《イツトカマタム》
 
【譯】朝の霞のかかつている春の日が暮れたなら、樹のあいだを通つて月が移つて行くだろうが、待ち遠なことだ。
【釋】朝霞春日之晩者 アサガスミハルヒノクレバ。アサガスミは名詞で、それを取りあげて感服している形である。朝霞のかかつているこの春の日が暮れたらで、木ノ間ヨリウツロフ月に對する條件になつている。
 從木間 コノマヨリ。樹間を通つて。
(59) 移歴月乎 ウツロフツキヲ。ウツロフは、移動する。
【評語】樹間を移動する春の夜の月を待ちかねる心に歌われている。朝霞に對して夕月を待つ歌である。木ノ間ヨリウツロフ月は美しいが、朝からそれを待つというのが、作り過ぎた感を與える。わざと朝霞とおいた技巧だろう。
 
詠v雨
 
1877 春の雨に ありけるものを、
 立ち隱り
 妹が家|道《ぢ》に この日暮らしつ。
 
 春之雨尓《ハルノアメニ》有來物乎《アリケルモノヲ》
 立隱《タチカクリ》
 妹之家道尓《イモガイヘヂニ》 此日晩都《コノヒクラシツ》
 
【譯】春の雨であつたものを、人家にはいつていて、わが妻の家に行く道で、この日を暮らした。
【釋】春之雨尓有來者乎 ハルノアメニアリケルモノヲ。春雨は、降り續いて容易にやまないものとして擧げられている。驟雨と思つて途中で宿つたのだが、春雨だつたというのである。ヲは、それだのにの意をあらわしている。
 立隱 タチカクリ。途中の人家にはいつて、雨から隱れて。タチは、接頭語として使われているだけである。
 妹之家道尓 イモガイヘヂニ。イヘヂは、家に向かつて行く道。
【評語】旅先などから歸る途中で詠んだものだろう。雨やどりをしていて、その雨がやまないので、遂に日暮に及んだもどかしさが歌われている。風趣のある歌で、春雨を恨む情がよく出ている。
 
(60)詠v河
 
1878 今|往《ゆ》きて 聞くものにもが。
 明日香川《あすかがわ》、春雨降りて 激つ瀬の音を。
 
 今往而《イマユキテ》 聞物尓毛我《キクモノニモガ》
 明日香川《アスカガハ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 瀧津湍音乎《タギツセノオトヲ》
 
【譯】今行つて聞くものだつたらなあ。明日香川に春雨が降つてはげしく流れる瀬の音を。
【釋】聞物尓毛我 キクモノニモガ。聞くことのできるものであつたらよい。句切。
 明日香川 アスカガハ。その川を呼びかけている。
 瀧津湍音乎 タギツセノオトヲ。タギツは、動詞として使われている。音聲としては、オがノに吸收されてタギツセノトヲとなるだろう。
【評語】明日香川に對してなつかしさを感じている。川に寄せた、望郷の歌だが、春雨の降つてはげしく流れる瀬の音を想像しているのが、具體的でよい。今春雨がしとしとと降つているのである。
 
詠v煙
 
1879 春日野《かすがの》に 煙立つ、見ゆ。
 ※[女+感]嬬等《をとめら》し 春野のうはぎ
 採みて煮らしも。
 
 春日野尓《カスガノニ》 煙立所v見《ケブリタツミユ》
 ※[女+感]嬬等四《ヲトメラシ》 春野之菟〓子《ハルノノウハギ》
 採而煮良思文《ツミテニラシモ》
 
【譯】春日野に煙の立つのが見える。娘子たちが春野のヨメナを採んで煮るらしい。
(61) 【釋】煙立所見 ケブリタツミユ。ケブリは、下文によれば、ヨメナを煮る火の煙である。ミユは、動詞助動詞の終止形を受ける。句切。
 ※[女+感]嬬等四 ヲトメラシ。※[女+感]嬬は、人麻呂の用字法から出ていると思われる特殊の字面である。
 春野之菟〓子 ハルノノウハギ。ウハギは、薺蒿。ヨメナ。
 採而煮良思文 ツミテニラシモ。ニラシは、動詞煮ルに、助動詞ラシの接續した形。
【評語】春の野に出て、娘子が菜を煮るのは、一の行樂であるが、この歌としては、仙人の女子が、若菜のあつものを煮ていることを連想している。春の初めに、若い女子が若菜を煮るのは、若菜のあつもので、若さをたもつ食味として信じられていた。それは仙人の調ずる仙藥に擬して、これを喫して祝うのである。卷の十六にある竹取の翁の歌には、竹取の翁が、春の野であつものを煮る九人の女子に逢うことを述べているが、それと同じく、仙女があつものを煮ているのだろうとするのが、この歌の構想である。神仙思想のはいつて來た時代の作品として注意すべきである。日本靈異記上卷、「女人、風聲《みさを》の行《わざ》を好み、仙草を食ひて現身に天に飛ぶ縁《えに》」第十三參照。
 
野遊
 
【釋】野遊 ノニアソブ。以下、今までの題詞と變わつた形の題が附けられている。資料としたものに既にかようになつていたのだろう。
 
1880 春日野の 淺茅《あさぢ》が上に
 思ふどち 遊ぶ今日の日は
(62) 忘らえめやも。
 
 春日野之《カスガノノ》 淺茅之上尓《アサヂガウヘニ》
 念共《オモフドチ》 遊今日《アソブケフノヒハ》
 忘目八方《ワスラエメヤモ》
 
【譯】春日野の淺茅の上で、親しい人たちが遊んでいる今日は、忘れられないだろう。
【釋】淺茅之上尓 アサヂガウヘニ。アサヂは、茅草は、たけが低いのでいう。その生えている處。
 念共 オモフドチ。思つている人たち。ドチは、自立語としては存在しない。ドは人の義だろう。チは、タチ(等)、ヨチ(同年兒)のチと同語か。
 遊今日 アソブケフノヒハ。
  アソベルケフノ(類)
  アソベルケフハ(神)
  アソブケフヲバ(西)
  アソブコノヒノ(古義)
  アソビシケフノ(新考)
  アソブケフノヒハ(定本)
  ――――――――――
  遊今日者《アソベルケフハ》(考)
 今日の二字を四音の處に當てて書いてあるのは「今日爾《ケフノヒニ》 何如將v及《イカニカシカム》」(卷九、一七五四)以下數例がある。この歌のすぐ後の一八八二もその一つである。字餘りになるので、この訓で安定したとも云いがたいが、しばらくこれによる。今日という日はの意である。
【評語】春の野遊の樂しさが歌われている。淺茅が上にと、具體的に言つたのはよいが、五句の表現は類型的である。
 
1881 春霞 立つ春日野を、
(63) 往き還り われは相見む。
 いや毎年《としのは》に。
 
 春霞《ハルガスミ》 立春日野乎《タツカスガノヲ》
 往還《ユキカヘリ》 吾者相見《ワレハアヒミム》
 弥年之黄土《イヤトシノハニ》
 
【譯】春霞の立つ春日野に、わたしはたびたび行つて見よう。來る年ごとに。
【釋】立春日野乎 タツカスガノヲ。ヲは、下のアヒ見ムに對していう。
 往還 ユキカヘリ。往復してだが、絶えず、始終、たびたびの意になる。
 吾者相見 ワレハアヒミム。アヒは、接頭語。
 弥年之黄土 イヤトシノハニ。黄土は、ハニの音に借りて書いている。トシノハは、毎年。イヤを冠したのは、將来續いてくる意である。
【評語】毎年來てこの佳景を愛しようというのも、類型的である。春日野の敍述も平凡で、特色がない。
 
1882 春の野に 心のべむと、
 思ふどち 來《こ》し今日の日は
 晩《く》れずもあらぬか。
 
 春野尓《ハルノノニ》 意將v述跡《ココロノベムト》
 念共《オモフドチ》 來之今日者《コシケフノヒハ》
 不v晩毛荒粳《クレズモアラヌカ》
 
【譯】春の野で心をのばそうと、親しい人たちが来た今日は、日が暮れないでいないかなあ。
【釋】意將述跡 ココロノベムト。ノベムは、伸ばそうと。心をのびやかに、ゆつたりさせようとして。談り合うの意を含んでいるだろう。
 不晩毛荒粳 クレズモアラヌカ。ヌカは、ないか、あれかしと願望する語法。
【評語】樂しい今日の日の暮れないようにと願つている。これも類型的である。心ノベムトだけが、他に例の無い句になつている。「伊伎騰保流《イキドホル》 許己呂能宇知乎《ココロノウチヲ》 思延《オモヒノベ》」(卷十九、四一五四)、「念暢《オモヒノベ》 見奈疑之山爾《ミナギシヤマニ》」(同、(64)四一七七)のオモヒノベが、似よつた表現である。
 
1883 ももしきの 大宮人は、
 暇あれや、梅を插頭《かざ》してここに集《つど》へる。
 
 百磯城之《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》
 暇有也《イトマアレヤ》 梅乎插頭而《ウメヲカザシテ》 此間集有《ココニツドヘル》
 
【譯】宮廷に仕えている人々は、暇があるのだろうか、梅をかざして、ここに集まつている。
【釋】百礒城之 モモシキノ。枕詞。
 大宮人者 オホミヤビトハ。オホミヤビトは、男にも女にもいう。ここは主として男だろう。
 暇有也 イトマアレヤ。ヤは、疑問の係助詞。動詞、助動詞の已然形をヤで受けるこの形は、果してそうかと疑う意が強いのだが、ここは暇のあることを、むしろ肯定した云い方で、單なる疑問になつている。
 梅乎插頭而 ウメヲカザシテ。カザシは、頭にさすもの。ここはその動詞。
 此間集有 ココニツドヘル。三句のヤを受けて、ツドヘルと讀む。
【評語】大宮人ののどかな行動が描かれている。今日の心では、三句の暇アレヤに、皮肉を感じやすいのだが、ここでは別に皮肉ではなく、政務の餘暇があるのでかというほどの心であろう。この歌、新古今集に赤人の作として、「ももしきの大宮人は暇あれや。櫻かざしてこの日暮らしつ」として載せている。暇アレヤの句が條件法であることを忘れて、ここで切る形としている。それで五句も終止形で結んだのである。作者を赤人としたのは、この卷を假字がきにしたものを、當時赤人集の中に取り入れてあつたので、それによつたものであろう。
 
歎v舊
 
舊《ふ》りにしを歎く
 
【釋】歎舊 フリニシヲナゲク。これも特殊の小題である。フリニシは、歌意によるに、老境に至つたことを(65)いう。老年を歎息する意である。
 
1884 冬過ぎて 春し來《きた》れば、
 
 年月は 新《あらた》なれども、
 人は舊《ふ》りゆく。
 
 寒過《フユスギテ》 暖來者《ハルシキタレバ》
 年月者《トシツキハ》 雖2新有1《アラタナレドモ》
 人者舊去《ヒトハフリユク》
 
【譯】冬が過ぎて春がくると、年月は新しくなるが、人は古くなつて行く。
【釋】寒過暖来者 フユスギテハルシキタレバ。「寒過《フユスギテ》 暖來良思《ハルキタルラシ》」(卷十、一八四四)參照。同人の作だろう。
 雖新有 アラタナレドモ。冬が過ぎて春のくることは、太陽の運行によつて算出するのであり、年月が更新するのは、月が新月になるによるものであつて、かならず一致するものではないが、大體において接近しているので、その兩者が伴なつているように取り扱う。春になつたので、年と月が新しくなつたというのである。
【評語】年は年々にあらたになり、しかも人は年々に古くなつて行く。知識者として、漢文學の影響を受けているようである。寒暖の文字を冬春に當てて使つたのは、この歌ではあまり意義が感じられない。
 
1885 物皆は 新《あらた》しきよし。
 ただ人は、舊《ふ》りぬるのみし
 よろしかるべし。
 
 物皆者《モノミナハ》 新吉《アラタシキヨシ》
 唯人者《タダヒトハ》 舊之《フリヌルノミシ》
 應v宜《ヨロシカルベシ》
 
【譯】物は何でも新しいのがよい。ただ人間は古くなつたのがよいようだ。
【釋】物皆者 モノミナハ。物のすべては。
(66) 新吉 アラタシキヨシ。新しいのがよいのだ。形容詞新しは、アラタシというのが原形である。「阿良多之支止之乃波之女爾《アラタシキトシノハジメニ》」(琴歌譜)。句切。
 應宜 ヨロシカルベシ。ベシは、推量の助動詞として使われている。
【評語】前の歌と、二首で連作をなしている。前の歌で、老を歎き、この歌ではみずから慰めている。老境にはいつた人の心があわれである。
 
懽v逢
 
逢へるを懽《よろこ》ぶる
 
【釋】懽逢 アヘルヲヨロコブル。これも特殊の小題である。歌意によるに、偶然に逢つたので、知つた人ではないようだ。
 
1886 住吉《すみのえ》の 里行きしかば、
 春花の いやめづらしき
 君に逢へるかも。
 
 住吉之《スミノエノ》 里行之鹿齒 サトユキシカバ
 春花乃《ハルバナノ》 益希見《イヤメヅラシキ》
 君相有香聞《キミニアヘルカモ》
 
【譯】住吉の里を行つたので、春の花のようにますます愛すべきあなたに出逢つたのです。
【釋】里行之鹿齒 サトユキシカバ。行は、諸本に得に作つて、多くサトヲエシカバと訓している。しかしそれでは意を成さぬので、考に行の誤りとする説が廣く行われている。同樣の場合は、「得行而將v泊《エユキテハテム》」(卷十、二〇九一)にも見られるが、これは得のままでも通じないでもない。
 春花乃 ハルバナノ。枕詞。譬喩によつて君を修飾している。
(67) 益希見 イヤメヅラシキ。イヤは見れば見るほどめずらしさを増す意に使つている。希見は、他は多く希將見と書いていて、希見と書いたのはない。希は稀少の意であろう。
【評語】春花の枕詞を冠しているのは、女子に逢つたことを歌つているのだろう。すなおな感じのよい歌である。「山邊《やまのべ》の御井を見がてり神風の伊勢をとめどもあひ見つるかも」(卷一、八一)あたりにくらべて、單純に詠まれている。
 
旋頭歌
 
【釋】旋頭歌 セドウカ。旋頭歌は、歌體の名稱であるが、ここは、春の雜歌である旋頭歌を載せている。旋頭歌に對して、編者が特殊のものとして扱つていることが知られる。
 
1887 春日なる 三笠の山に
 月も出でぬかも。
 佐紀《さき》山に 咲ける櫻の 花の見ゆべく。
 
 春日在《カスガナル》 三笠乃山尓《ミカサノヤマニ》
 月母出奴可母《ツキモイデヌカモ》
 佐紀山尓《サキヤマニ》 開有櫻之《サケルサクラノ》 花乃可v見《ハナノミユベク》
 
【譯】春日の三笠の山に月も出ないかなあ。佐紀山に咲いている櫻の花が見えるように。
【釋】月母出奴可母 ツキモイデヌカモ。希望の語法。句切。
 佐紀山尓 サキヤマニ。佐紀は、平城宮北方の地名。
【評語】佐紀山近くにいて、東方の三笠山を眺めて歌つている。内容に比して、大がかりな表現を採つているのは、不似合である。酒宴などでの作らしい。
 
(68)1888 白雪の 常《つね》敷《し》く冬は過ぎにけらしも。
 春霞 たなびく野邊の 鶯鳴くも。
 
 白雪之《シラユキノ》 常敷冬者《ツネシクフユハ》 過去家良霜《スギニケラシモ》
 春霞《ハルガスミ》 田菜引野邊之《タナビクノベノ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴焉《ウグヒスナクモ》
 
【譯】白雪の消えずにいる冬は過ぎ去つたらしい。春霞のたなびく野邊のウグイスが鳴いている。
【釋】常敷冬者 ツネシクワユハ。ツネシクは、永く地に敷いている。「勢能山爾《セノヤマニ》 黄葉常敷《モミチツネシク》」(卷九、一六七六)。
【評語】鶯の聲によつて、雪にとざされた冬の過ぎたことを推量している。春のよろこびが感じられる歌である。冬の季節感は固定しているが、ここではそれを具體的に、白雪ノ常敷クと敍述して説明したのがよい。
 
譬喩歌
 
【釋】譬喩歌 ヒユカ。譬喩歌は、卷の三あたりでは、雜歌、挽歌に對して、大きな標目として立てている。この卷では、春の雜歌、夏の雜歌、秋の相聞の、それぞれの終りの方に、譬喩歌と題した歌を載せている。これは、春の雜歌の中での譬喩歌の意であろう。
 
1889 わが屋前《には》の 毛桃《けもも》の下に 月夜《つくよ》さし
 下心《したごころ》よし。
 うたてこの頃。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 毛桃之下尓《ケモモノシタニ》 月夜指《ツクヨサシ》
 下心吉《シタゴコロヨシ》
 菟楯頃者《ウタテコノゴロ》
 
【譯】わたしの屋前の毛桃の下に月の光がさして、氣もちがよいことだ。さてこの頃は。
【釋】毛桃之下尓 ケモモノシタニ。ケモモは、果實の外皮に毛の多い桃。ここは春の歌だから、花の頃であ(69)る。「波之吉也思《ハシキヤシ》 吾家乃毛桃《ワギヘノケモモ》 本繁《モトシゲク》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成在目八方《ナラザラメヤモ》」(巻七、一三五八)、「日本之《ヤマトノ》 室原乃毛桃《ムロフノケモモ》 本繁《モトシゲク》 言大王物乎《イヒテシモノヲ》 不v成不v止《ナラズハヤマジ》」(卷十一、二八三四)など、本繁クを起しており、樹幹の根に近いところが繁茂するものである。ケモモノシタは、多少そういう茂つた處を示している。
 月夜指 ツクヨサシ。ツクヨは、月をいう。サシは、月光のさす意。
 下心吉 シタゴコロヨシ。シタゴコロは、心中、心の底。句切。
 菟楯頃日 ウタテコノゴロ。ウタテは、轉じて、移つての意の副詞。平常とは變わつている意である。古事記下卷に「宇多弖《ウタテ》物云(フ)王子|故《ナレバ》、應v慎《ココロシタマヘ》」とあり、變わつて物をいう王子だから注意なさいの意である。また同上卷に「其惡態《ソノアシキワザ》不v止(マ)而轉」の轉をウタテアリと訓している。本集では、この歌ともに五出しており、ウタテコノゴロとあるもの三、ウタテケニとあるもの二である。ウタテコノゴロは「見欲《ミマクホシキ》 宇多手比日《ウタテコノゴロ》」(卷十一、二四六四)、「何時奈毛《イツハナモ》 不v戀有登者《コヒズアリトハ》 雖v不v有《アラネドモ》 得田直比來《ウタテコノゴロ》 戀之繁母《コヒノシゲシモ》」(卷十二、二八七七)の如くあり、平常と違つてこの頃はの意をあらわしている。ウタテケニは「得田價異《ウタテケニ》 心鬱悒《ココロオホホシ》」(卷十二、二九四九)、「秋等伊閉婆《アキトイヘバ》 許己呂曾伊多伎《ココロゾイタキ》 宇多弖家爾《ウタテケニ》 花仁奈蘇倍弖《ハナニナソヘテ》 見麻久保里香聞《ミマクホリカモ》」(卷二十、四三〇七)の如くあり、ケニは異なつてであつて、やはり前と變わつての意になつている。要するにウタテは、ウツリテの意あるもので、後に、異様にあり、またつれなくの意になるのも、ここに出發する。
【評語】春夜の佳景に接して、平常の鬱悒を散じた趣に歌つている。上三句が譬喩になつているというので、譬喩歌と題したものだろうが、かようなのを譬喩歌とするならば、まだ他にもいくつもあろう。
 
春相聞
 
【釋】春相聞 ハルノサウモニ。四十七首の歌を收めている。初めの七首は人麻呂歌集所出で、これには小題(70)がない。以下寄鳥等の題を揚げて、物に寄せた歌をかかげ、末に至つて、贈※[草冠/縵]、悲別、問答のような題になつている。
 
1890 春日野に 友鶯の 鳴き別れ、
 歸ります間《ま》も 思はせ、吾を。
 
 春日野《カスガノニ》 友鶯《トモウグヒスノ》 鳴別《ナキワカレ》
 眷益間《カヘリマスマモ》 思御吾《オモホセワレヲ》
 
【譯】春日野で、友だち鶯が鳴いて別れて、お歸りになるあいだも、わたしを思つてください。
【釋】春日野 カスガノニ。澤瀉博士の萬葉古徑二に、春山の誤りかとする説が出ている。これは類聚古集に春山野に作りはルヤマノと訓していること、人麻呂集として春日野が似つかわしくないことなどを根據としている。歌としては、いかにも春山ノの方がすぐれているが、春日野とあるものを改めるわけにも行かない。
 友※[(貝+貝)/鳥]鳴別 トモウグヒスノナキワカレ。トモウグヒスは、友人を鶯にたとえている。これによつて別離することをナキワカレと云つている。
 眷益間 カヘリマスマモ。眷は、かえり見る意の字で、カヘリに使つている。「海人釣船《アマノツリブネ》 濱眷奴《ハマニカヘリヌ》」(巻三、二九五)とも使われている。マスは敬語の助動詞。
【評語】作者は、旅に出ようとして、僚友と春日野で別れを惜しんでいるので、これは男どうしの交遊であろう。この歌に春日野を詠んでいるのは、奈良時代にはいつてからの作品であることを示し、もしこれを人麻呂の作とすれば、人麻呂の死は、奈良時代にはいつてからのこととなる。歌は巧みにできているが、二三句は、輕快に過ぎてしんみりした味は出ない。
 
1891 冬ごもり 春咲く花を 手折《たを》り持ち、
 千遍《ちたび》の限り 戀ひにけるかも。
 
 冬隱《フユゴモリ》 春開花《ハルサクハナヲ》 手折以《タヲリモチ》
 千遍限《チタビノカギリ》 戀《コヒニケルカモ》
 
(71)【譯】冬の終りから、春になると咲く花を、折つて持つて、千遍ほども戀をしたなあ。
【釋】冬隱 フユゴモリ。枕詞。冬の終りの時節。
 春開花 ハルサクハナヲ。何の花とも指定していないが、梅櫻の類であろう。
 千遍限 チタビノカギリ。千遍までもで、戀のはげしく長いのをいう。
 戀 コヒニケルカモ。西本願寺本に、戀渡鴨とし、コヒワタルカモとしているのは、古訓によつて渡鴨の二字を補つたものだろうが、花を折つて千度の限りと度數を云つて戀ヒワタルカモでは變である。類聚古集、神田本等に、戀の一字だけとするによつて、コヒニケルカモと讀むべきである。花を折つた時のはげしい戀である。
【評語】春花を手折つて、人を思う。女子の作らしい風趣である。この花をひとり見るさびしさに堪えない心であろう。
 
1892 春山の 霧に惑《まど》へる 鶯も、
 我にまきりて 物念はめや。
 
 春山《ハルヤマノ》 霧惑在《キリニマドヘル》 ※[(貝+貝)/鳥]《ウグヒスモ》
 我益《ワレニマサリテ》 物念哉《モノオモハメヤ》
 
【譯】春山の霧に迷つているウグイスも、わたしにまさつては物を思わないだろう。
【釋】霧惑在 キリニマドヘル。霧の中で方向を失つている。
【評語】春山ノ霧ニ惑ヘル鶯というのは、珍しい表現で、霧にまだ秋の季節感が固定していないことを語つている。この鶯の敍述には描寫があつてよい。それを譬喩にした點に、かえつて新鮮味がある。
 
1893 いでて見る 向かひの岡に、
(72) 本《もと》繁《しげ》く 咲きたる花の、
 成らずは止まじ。
 
 出見《イデテミル》  向岡《ムカヒノヲカニ》
 本繁《モトシゲク》 開在花《サキタルハナノ》
 不v成不v止《ナラズハヤマジ》
 
【譯】家を出て見る向こうの岡に、木のもとが繁つて咲いている花のように、實がならないではやまない。
【釋】出見 イデテミル。わが家を出て見る。戸外に出て見る。
 本繁 モトシゲク。樹幹が茂つて。本枝からいつぱいに。
 不成不止 ナラズハヤマジ。ナラズは、實の成らないこと、戀の成就しないことを、かけて言つている。
【評語】春の花に寄せて歌つている。成ラズハ止マジのような句は、歌いものとして慣用していたのだろう。
【参考】類句、成らずは止まじ。
  吾妹子が屋前《には》の橘いと近く植ゑてしからに成らずは止まじ(卷三、四一一)
  大和の室原《むろふ》の毛桃本繁く言ひてしものを成らずは止まじ(卷十一、二八三四)
 
1894 霞立つ 春の永日を 戀ひ暮《く》らし、
 夜の深《ふ》け行けば、 妹に逢へるかも。
 
 霞發《カスミタツ》 春永日《ハルノナガビヲ》 戀暮《コヒクラシ》
 夜深去《ヨノフケユケバ》 妹相鴨《イモニアヘルカモ・イモハアハムカモ》
 
【イモハアハムカモ】【譯】霞の立つ春の永い日を戀い暮らして、夜が深けて行つたので、妻に逢つたことだ。
【釋】妹相鴨 イモニアヘルカモ。イモニアハムカモ(代初書入)。人麻呂歌集は、文字すくなく書かれており、打消の字なども省いてあるので讀み方が動揺しがちである。イモモアハヌカモあたりであるかも知れない。古歌集所出の歌には「眞十鏡《マソカガミ》 見之賀登念《ミシカトオモフ》 妹相可聞《イモモアハヌカモ》」(卷十一、二三六六)。しかし文字通りには、イモニアヘルカモと讀むのが順當である。
(73)【評語】戀の歡喜が歌われている。上三句の敍述がよく利いていて、その喜びを大きく強いものにしている。戀の喜びを歌つた歌はすくないが、その中にも特色のある作である。
 
1895 春されば まづ三枝《さきくさ》の 幸《さき》くあらば、
 後にも逢はむ。
 な戀ひそ、吾味《わぎも》。
 
 春去《ハルサレバ》 先三枝《マヅサキクサノ》 幸命在《サキクアラバ》
 後相《ノチニモアハム》
 莫戀吾味《ナコヒソワギモ》
 
【譯】春になればまず咲く、サキクサのように、幸くあつたなら、後にも逢おうよ。戀をするなよ、わが妻よ。
【釋】春去先三枝 ハルサレバマヅサキクサノ。春になればまず咲く、そのサキクサノの意である。サキクサは、諸説があつて一定しない。ヒノキ、ヤマユリ、チヨウジ、ミツマタ、オケラなどが擧げられているが、多分、草本だろう。この歌によれば、春になつて早く咲く植物のようである。三枝と書いたのは、枝が三枝に分かれる形について書くのだろう。新撰姓氏録、左京神別に「三枝部(ノ)連(ハ)、額田部(ノ)湯坐《ユヱト》同祖(ナリ)。顯宗天皇(ノ)御世(ニ)、喚2集《メシツドヘ》諸氏(ノ)人等(ヲ)1、賜(フ)2饗〓(ヲ)1。于v時(ニ)三莖之草生(フ)2於宮庭(ニ)1、採(リテ)以奉獻(ル)。仍(リテ)負(フ)2姓三枝部(ノ)造(ヲ)1」とあり、日本書紀顯宗天皇の三年四月の條に「戊(74)辰置(ク)2福草部《サキクサベヲ》1」とあるもの、これに當る。倭名類聚鈔に「文字集略(ニ)云(フ)、〓音娘、佐岐久佐。日本紀私記云福草」、また同書に「薺〓、本草(ニ)云(フ)薺〓臍禰二音、佐岐久佐奈、一云美乃波」とある。箋註《せんちゆう》にこれをもつてサキクサに擬している。薺〓は、ソバナ、ツリガネソウである。以上二句は、序詞。同書によつて次のサキを引き出すが、サキクサに福草の意を含んでいる。
【評語】妻に別れる時の作で、めでたい物を使つて序としている。あかるい内容で、慰めている。情景に滿ちた歌である。
 
1896 春されば しだり柳の、とををにも、
 妹が心に 乘りにけるかも。
 
 春去《ハルサレバ》 爲垂柳《シダリヤナギノ》 十緒《トヲヲニモ》
 妹心《イモガココロニ》 乘在鴨《ノリニケルカモ》
 
【譯】春になると、シダレヤナギのたわむように、たわむまでに、わが妻の心に乘つたことだつた。
【釋】春去爲垂柳 ハルサレバシダリヤナギノ。以上、序詞。柳はなよなよとするものであるから、トヲヲを引き出すに使われる。
 十緒 トヲヲニモ。トヲヲニは、たわむ形容の副詞。心に乘つたその重さで、しなう意である。
 妹心乘在鴨 イモガココロニノリニケルカモ。慣用句で、心いつぱいに、妹に思われたのをいう。この句は、この歌を合わせて六出しているが、第四句に當る所が、妹情爾、妹心爾などとばかり書かれており、妹の下に補うべき助詞が示されていない。よつてイモハココロニとも讀まれていたが、妹心とあるものは、妹ガ心とよむのが順當であるから、今ガを補うこととした。例は卷の二、一〇〇の歌の條に出した。
【評語】類型によつて詠まれている歌で、相手の心に乘るという云い方に興味がつながれていたらしい。この歌は、序に季節の物を使用しているところに新鮮味がある。
 
(75)右、柿本朝臣人麻呂歌集出
 
【釋】右柿本朝臣人麻呂歌集出 ミギハカキノモトノアソミヒトマロノウタノシフニイヅ。以上の七首の出所を註している。これも人麻呂集に既に春の相聞の歌が、まとめてあり、しかもまだ小題を附してなかつたのを、そのまま取り入れたのだろう。
 
寄v鳥
 
1897 春しあれば、
 百舌鳥《もず》の草潜《くさぐき》 見えずとも、
 我れは見|遣《や》らむ。
 君が邊《あたり》をば。
 
 春之在者《ハルシアレバ》
 伯勞鳥之草具吉《モズノクサグキ》 雖v不v所v見《ミエズトモ》
 吾者見將v遣《ワレハミヤラム》
 君之當乎婆《キミガアタリヲバ》
 
【譯】春であるので、モズが草に隱れるように見えなくつても、わたしは見やりましよう。君の家のあたりをば。
【釋】春之在者 ハルシアレバ。ハルサレバとは別なのだろう。一八二六參照。
 伯勞鳥之草具吉 モズノクサグキ。モズは鳥名。倭名類聚鈔に「兼名苑(ニ)云(フ)、鵙一名〓上音覓、下音煩、漢語抄云、伯勞|毛受《モズ》、伯勞也。日本紀私記(ニ)云(フ)、百舌鳥。」伯勞と書くのは、その鳴き聲によるということである。クサグキは草にくぐる意で、春になつてこの鳥の見えなくなるをいう。以上二句、譬喩による序詞で、次の見エズトモに冠している。後世、この鳥が蛙などを捕らえて木の枝などに刺しておくのを、モズノハヤニエというを、ま(76)たモズノクサグキともいうのは、この歌のこの句の誤解にもとづく。集中クサグキはこの一例のみである。
【評語】珍しい材料を序に使つている。土に親しんでいる生活から生まれた歌のようである。
 
1898 容鳥《かほどり》の 間《ま》無《な》く數《しば》鳴《な》く 春の野の、
 草根の繁き 戀もするかも。
 
 容鳥之《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》 春野之《ハルノノ》
 草根乃繁《クサネノシゲキ》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》
 
【譯】容鳥が間鳴くしきりに鳴く春の野の草のように、暇のない戀もすることだ。
【釋】容鳥之 カホドリノ。カホドリは既出。美しい大きな鳥である。
 草根乃繁 クサネノシゲキ。クサネノまでは序で、繁く間斷なき戀を引き起している。クサネのネは接尾語で、草が地中に根を生じているをあらわす。草の根のではない。地に生えているから草根で、抜けば草根とはいわない。「岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》」(卷一、一〇)參照。
【評語】序が巧みに美しい情景をとらえていて、相聞の歌にふさわしくなつている。主意は極めて簡單で、ただ序との續きぶりを味わわせる作である。
 
寄v花
 
1899 春されば 卯の花ぐたし わが越えし、
 妹が垣間は 荒れにけるかも。
 
 春去者《ハルサレバ》 宇乃花具多思《ウノハナグタシ》 吾越之《ワガコエシ》
 妹我垣間者《イモガカキマ》 荒來鴨《アレニケルカモ》
 
【譯】春になると、卯の花を踏みしだいてわたしの越えた、わたしの妻の垣のあいだは荒れたことだなあ。
【釋】宇乃花具多思 ウノハナグタシ。グタシは、朽ちしめる意で、本來清音だろうが、ここは熟語としてグ(77)タシになつている。くたくたにつぶして、踏みくたす意である。梅の花くたしの誤りとする説があるが、卯の花で垣間に適合する。囘想の敍述だから、春になるときまつて卯の花をふみ分けてでよいのである。クタスの例。「久多志須都良牟《タタシスヅラム》 ※[糸+施の旁]綿良波母《キヌワタラハモ》」(卷五、九〇〇)、「宇能花乎《ウノハナヲ》 令v腐霖雨之《クタスナガメノ》」(巻十九、四二一七)。この句は、ワガ越エシを修飾するので、卯の花を踏んで越えた垣である。古義に三四一二五と次第して解くべしと云つたのは誤解である。
 妹我垣間者 イモガカキマハ。カキマは、垣のあいだ。垣の中間のところ。
 荒來鴨 アレニケルカモ。おとずれなくなつてしまつたことを表現している。
【評語】しばらく行かなかつた妹が家の垣間に對する感想である。旅から歸つて來たか何かの場合の作であろう。具體的な敍述で、囘想が生きている。
 
1900 梅の花 咲き散る苑に 吾《われ》行かむ。
 君が使を 片待ちがてり。
 
 梅花《ウメノハナ》 咲散苑尓《サキチルソノニ》 吾將v去《ワレユカム》
 君之使乎《キミガツカヒヲ》 片待香花光《カタマチガテリ》
 
【譯】梅の花の咲きまた散る園に、わたしは行こう。君の使をひたすら待ちながら。
【釋】吾將去 ワレユカム。明瞭に三句で切れている。
 片待香花光 カタマチガテリ。花光は、義をもつてテリに借りている。梅花の歌なので、縁のある美しい文字を使用したのだろう。他には香光をガテリに當てているものが三例あるから、特に花の字を加えた意が知られる。カタマチは、片寄り待つで、ひたすらに待つ意である。カタマチとガテリとのあいだに、矛盾があるようで、矛盾はない。心ではひたすら君の使を待つのだが、その氣もちであるかたわら、梅花の園に行こうというのである。
(78)【評語】これも美しい歌である。女子の作だろうが、三句で切つて、下二句がそれを説明しているあたり、強い語調である。
 
1901 藤波の 咲ける春野に 蔓《は》ふ葛《かづた》、
 下よし戀ひば 久しくもあらむ。
 
 藤浪《フヂナミノ》 咲春野尓《サケルハルノニ》 蔓葛《ハフカヅラ》
 下夜之戀者《シタヨシコヒバ》 久雲在《ヒサシクモアラム》
 
【譯】藤の花の咲く春の野にのびているつる草のように、心の下で戀うたなら、時間が長くかかることだろう。
【釋】藤浪 フヂナミノ。藤の枝葉の野に廣がつている樣が波のようなので、フヂナミというのだろう。但し語義は藤竝か。
 蔓葛 ハフカヅラ。カヅラは、蔓生植物の總稱。ここは初句の藤ではなく、他の蔓の植物をいう。以上、序詞。藤が上を蔽い、葛が下を這う意に、次の下を起す。
 下夜之戀者 シタヨシコヒバ。シタは、心の中、下心。ヨは、よりの意の助詞。シは、強意の助詞。心の中で戀うならば。
 久雲在 ヒサシクモアラム。ヒサシクは、時久しくで、時間のかかること。
【評語】序を使つて、巧みにもどかしく思う心を歌つている。序は、うつとうしい情を描くに役立つている。
 
1902 春の野に 霞たなびき 咲く花の、
 かくなるまでに 逢はぬ君かも。
 
 春野尓《ハルノノニ》 霞棚引《カスミタナビキ》 咲花乃《サクハナノ》
 如v是成二手尓《カクナルマデニ》 不v逢君可母《アハヌキミカモ》
 
【譯】春の野に霞がたなびいて、咲く花が、かように花ざかりになるまでの永いあいだを、逢わない君ですね。
【釋】春野尓霞棚引 ハルノノニカスミタナビキ。以上、花の咲く頃の景を敍述している。
(79) 如是成二手尓 カクナルマデニ。カクナルは、現に花の盛りになつているのをいう。ナルは實のなることをもいうが、春の歌だからそうではあるまい。二手は、左石の手で、マデの音に借りている。以上、永い時間の經過をいう。
【評語】時間の久しいのを、具體的な事實によつて歌うのは、例が多くあるが、これは花の盛りになるまでというので、戀の歌にふさわしい。しかし初二句の敍述は、類型的で、緊張しない。
 
1903 我が夫子に わが戀ふらくは、
 奥山の 馬醉木《あしび》の花の 今盛りなり。
 
 吾瀬子尓《ワガセコニ》 吾戀良久者《ワガコフラクハ》
 奥山之《オクヤマノ》 馬醉花之《アシビノハナノ》 今盛有《イマサカリナリ》
 
【譯】あなたにわたくしの戀をしていることは、奥山の馬醉木の花のように、今盛りでございます。
【釋】奥山之馬醉花之 オクヤマノアシビノハナノ。譬喩による序詞で、今盛リナリを引き起している。
【評語】調子のよさはあるが、幾分型にはめて作つたようだ。全體としても型があり、今盛リナリも慣用句だ。後世の歌に、初句に、わが戀はと置いて、二句以下にそれを説明する型があるが、この歌と同じ種類の表現である。
【参考】類句、わが夫子にわが戀ふらくは。
  白細《しろたへ》の袖を觸れてよわが夫子にわが戀ふらくは止む時も無し(巻十一、二六一二)
  わが夫子にわが戀ふらくは夏草の刈りそくれども生ひ及《し》くが如(同、二七六九)
   類句、今盛りなりわが戀ふらくは。(今盛りなりの類歌は、巻の三、三二八參照)
  茅花《ちばな》抜く淺茅が原のつぼ董今盛りなり。わが戀ふらくは(卷八、一四四九)
 
(80)1904 梅の花 しだり柳に 折り雜《まじ》へ、
 花に供養《まつ》らば 君に逢はむかも。
 
 梅花《ウメノハナ》 四垂柳尓《シダリヤナギニ》 折雜《ヲリマジヘ》
 花尓供養者《ハナニマツラバ》 君尓相可毛《キミニアハムカモ》
 
【譯】この梅の花をシダレヤナギに折りまぜて、花として佛に奉つたなら、君に逢うだろうか。
【釋】梅花 ウメノハナ。梅の花を提示している。意は、この梅の花をである。
 花尓供養者 ハナニマツラバ。
  ハナニソナヘバ(西)
  ハナニタムケバ(童)
  ――――――――――
  神爾供養者《カミニタムケバ》(略)
  仏爾供養者《ブツニタムケバ》(新考)
 供養は、佛語を使用している。供養者をタムケバと讀む説があるが、本集ではタムケは、祭祀の一種であつて、物を奉る意ではない。マツラバ、ソナヘバと讀むのがおだやかだろう。マツルは、獻る意である。字音で讀んだかも知れないが、讀み方が不明である。クヤセバか。
【評語】佛教のさかんな時代の作として、供養のような語を使つているのがおもしろい。供華《くげ》の功徳の信仰が詠まれている。
 
1905 女郎花 咲く野に生ふる 白《しら》つつじ、
 知らぬこともち 言はれしわが夫。
 
 姫部思《ヲミナヘシ》 咲野尓生《サクノニオフル》 白管自《シラツツジ》
 不知事以《シラヌコトモチ》 所言之吾背《イハレシワガセ》
 
【譯】女郎花の咲く野に生えている白いツツジのように、知らないことで、人に言われたあなたです。
【釋】姫部思 ヲミナヘシ。次の咲クの主語。
 咲野尓生 サクノニオフル。咲野をサキノと讀み、佐紀野で、平城宮の北方の佐紀の野とする説があるが、(81)女郎花の冠しかたもおかしいし、キの音も違う。
 白管自 シラツツジ。白躑躅。以上三句は、序詞で、同音をもつて、次の知ラヌを引き起している。
 不知事以 シラヌコトモチ。シラヌコトは、知らない事、身に覺えのない事。別に相手を思つてもいないので、その事での意。モチは、以ちての意。「美許登母知《ミコトモチ》 多知和可禮奈婆《タチワカレナバ》」(卷十六、四〇〇六)などの例によつてモチと讀む。「奈爾毛能母弖加《ナニモノモテカ》 伊能知都我麻之《イノチツガマシ》」(卷十五、三七三三)の如く、モテとした例もあるが、モテは、この他に卷の十四に例があるだけである。
 所言之吾背 イハレシワガセ。イハレシは、人に何かとうわさされたのをいう。連體形で、無論ワガセを修飾している。
【評語】白ツツジを言おうとしてオミナエシを持ち出したのは手段で、序詞の性質を利用したものである。「娘子部四《ヲミナヘシ》 咲澤二生流《サクサハニオフル》 花勝見《ハナカツミ》 都毛不v知《カツテモシラヌ》 戀裳楷可聞《コヒモスルカモ》」(卷四、六七五)など、同種の表現がある。この歌、相手の男の上を慰めたように歌つているが、それは皮肉で、わざと言つているのだろう。技巧で終始している歌である。
 
1906 梅の花 われは散らさじ。
 あをによし 平城《なら》なる人の
 來つつ見るがね。
 
 梅花《ウメノハナ》 吾者不v令v落《ワレハチラサジ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 平城之人《ナラナルヒトノ》
 來管見之根《キツツミルガネ》
 
【譯】梅の花をわたしは散らさない。美しい奈良の京の人が、来て見るだろう。
【釋】平城之人 ナラナルヒトノ。
  ミヤコノヒトモ(元)
(82)  ナラノサトビト(元赭)
  ナラナルヒトノ(西)
  ――――――――――
  平城之里人《ナラノサトビト》(代初)
  平城之在人《ナラナルヒトノ》(略)
  平城在人《ナラナルヒトノ》(略)
 平城は、奈良、寧樂と書くに同じ。奈良の京に住む人ので、その人とさす人があるはずである。之はノと讀むのが普通であるが、音が足りないからナルとする。
 來管見之根 キツツミルガネ。ガネは、豫想し希望する助詞。ここに之根と書いているのは、變わつた書き方である。ガに助詞ガを感じているのだろう。
【評語】奈良の京の人に贈つた歌であろう。二句の散ラサジは、大切に思う心があらわれている。梅花を擁して客を待つ心である。
 
1907 かくしあらば 何か植ゑけむ。
 山振《やまぶき》の やむ時もなく
 戀ふらく念へば。
 
 如是有者《カクシアラバ》 何如殖兼《ナニカウヱケム》
 山振乃《ヤマブキノ》 止時喪哭《ヤムトキモナク》
 戀良苦念者《コフラクオモヘバ》
 
【譯】かような事なら何だつて植えたのだろう。そのヤマブキの名のように、やむ時もなく戀うことを思うと。
【釋】如是有者 カクシアラバ。四五句の内容を前提としてカクと指定している。
 何如殖兼 ナニカウヱケム。何如は、他の例ナニと讀む場合に使われている。「何如之恠曾毛《ナニノシルシゾモ》」(巻四、六〇四)、「何如爲常香《ナニストカ》 彼夕相而《ソノヨヒアヒテ》」(同、七三〇)の類である。ヤマブキを植えたことを後悔している。句切。
 山振乃 ヤマブキノ。同音によつて次の句を起している。
【評語】山振が、實に巧みに使われている。山振ノヤム時無シニの句を得て、それによつて構成したような歌だ。技巧が勝つて、率直性に缺ける恨みがあるともいえるほどだ。
 
(83)寄v霜
 
1908 春されば 水草《みくさ》が上に 置く霜の、
 消《け》つつも我は 戀ひ渡るかも。
 
 春去者《ハルサレバ》 水草之上尓《ミクサガウヘニ》 置霜之《オクシモノ》
 消乍毛我者《ケツツモワレハ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
 
【譯】春になると、水草の上に置く霜のように、消えながらわたしは戀い暮らすことだ。
【釋】水草之上尓 ミクサガウヘニ。ミクサノウヘニ(元)。「秋付者《アキヅケバ》 尾花我上爾《ヲバナガウヘニ》 置露乃《オクツユノ》 應v消毛吾者《ケヌベクモワレハ》 所v念香聞《オモホユルカモ》」(卷八、一五六四)と同型の歌として、ミクサガウヘニと讀む。ミクサは、水中水邊の草。「池之瀲爾《イケノナギサニ》 水草生爾家里《ミクサオヒニケリ》」(卷三、三七八)。
 置霜之 オクシモノ。以上、消ツツモと云うための序。
 消乍毛我者 ケツツモワレハ。ケツツは、消えてなくなりつつ。死にかけて。
【評語】露や霜に寄せて、消えるを引き出している歌は多く、この歌もその一つである。しかも春の霜を出して消えやすいことを強調しているだけで、その霜の説明も、型にはまつている。感激の乏しい作だ。
 
寄v霞
 
1909 春霞 山にたなびき、
 おほほしく 妹を相見て
 後《のち》戀ひむかも。
 
 春霞《ハルガスミ》 山棚引《ヤマニタナビキ》
 鬱《オホホシク》 妹乎相見《イモヲアヒミテ》
 後戀毳《ノチコヒムカモ》
 
(84)【譯】春霞が山にたなびいて、そのようにぼんやりとあなたを見て、後に戀をすることだろうなあ。
【釋】春霞山棚引 ハルガスミヤマニタナビキ。オホホシクというための序。
 鬱 オホホシク。ぼんやりと、はつきりしない意。わずかに相手を見ただけなのをいう。
 妹乎相見 イモヲアヒミテ。イモは相手の女子だが、その人に歌を贈つているか獨語しているかわからない。
【評語】はつきり見ないで戀をするという歌は、この下(一九一二)にもあり、他にもある。初二句の序詞も、極めて平凡である。
【参考】類想。
  香具山に雲ゐたなびきおほほしくあひ見し子らを後戀ひむかも(卷十一、二四四九)
 
1910 春霞 立ちにし日より 今日までに、
 わが戀|止《や》まず。
 本《もと》の繁けば。
 
 春霞《ハルガスミ》 立尓之日從《タチニシヒヨリ》 至2今日1《ケフマデニ》
 吾戀不v止《ワガコヒヤマズ》 本之繁家波《モトノシゲケバ》
 
【譯】春霞の立つた日から今日までも、わたしの戀はやまない。心から繁くあるので。
【釋】春霞立尓之日従 ハルガスミタチニシヒヨリ。春になつて霞の立つた、その日からこの方。
 本之繁家波 モトノシゲケバ。モトは、樹幹をいうのだろう。シゲケは、形容詞の活用形だろうが、このケの形は未然にも已然にも使われる。ここは已然。自分の戀が、元來心の底から繁くあるのでというのだろう。
【評語】永いあいだということを、春霞の立つた日から今日までと敍している。春の日頃を戀に過したことが歌われている。五句がすこし唐突であるが、作者みずからもそれを氣にして、片念ヒニシテと直したのだろう。
 
一云、片念尓指天《カタモヒニシテ》
 
(85)一は云ふ、片念ひにして。
 
【釋】一云片念尓指天 アルハイフ、カタモヒニシテ。前の歌の第五句の別傳で、この方がよくわかる。作者の別案であろうか。
 
1911 さ丹《に》つらふ 妹を念ふと、
 霞立つ 春日《はるび》もくれに
 戀ひわたるかも。
 
 左丹頬經《サニツラフ》 妹乎念登《イモヲオモフト》
 霞立《カスミタツ》 春日毛晩尓《ハルヒモクレニ》
 戀度可母《コヒワタルカモ》
 
【譯】美しいあの人を思うとして、霞の立つ春の日も、暗くおぼえて戀をして過すことだ。
【釋】左丹頬經 サニツラフ。枕詞。サは接頭語。ニツラフは、くれないにあらわれる意。紅顔の意に妹を修飾敍述する枕詞。
 霞立 カスミタツ。枕詞。春を修飾敍述する。
 春日毛晩尓 ハルヒモクレニ。クレニは、くらがりに。あかるいはずの春の日も、心がふさがつて暗く感じる意に、副詞になつている。「于之廬母倶例尼《ウシロモクレニ》 飫岐底※[舟+可]〓※[舟+可]武《オキテカユカム》」(日本書紀三〇)のクレに同じ。春の日もくらく覺えるまでに。
【評語】サ丹ツラフ妹と、春日モクレニとが、期せずしてよい對比をなしている。思い入つた樣は窺われる。
 
1912 たまきはる わが山の上に 立つ霞、
 立つとも坐《ゐ》とも 君がまにまに。
 
 靈寸春《タマキハル》 吾山之於尓《ワガヤマノウヘニ》 立霞《タツカスミ》
 雖v立雖v座《タツトモヰトモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
 
(86)【譯】命の限られているわたしの山の上に立つ霧のように、立つにしてもすわるにしても、あなたのお心まかせです。
【釋】靈寸春 タマキハル。枕詞。命に冠するのが通例であるが、ここは吾に冠している。玉をきる意から靈魂の限りある義に轉じ、命の短い意に吾に冠したのだろう。元暦校本、類聚古集には、霞寸春に作つているが、三句に霞があるのだから、それではおかしい。
 吾山之於尓 ワガヤマノウヘニ。
  ワカヤマノウヘニ(西)
  ――――――――――
  五口山之於爾《イクヤマノウヘニ》(改訓抄)
  春山之於爾《ハルヤマノウヘニ》(略、宣長)
  吾家之於爾《ワギヘノウヘニ》(新考)
 ワガヤマは、作者の家から近く見える山をいう。
 立霞 タツカスミ。以上、立ツというための序。
 雖立雖座 タツトモヰトモ。タツトモヰトモ(代精)、タツトモウトモ(略)。動詞居ルは、上一段活だから、助詞トモが接續する時は、古くはヰトモとなる。「美等母安久倍伎」(卷十八、四〇三七)の例である。(脇屋眞一君説)
【評語】序詞は平凡だが、タマキハルといい、ワガ山ノ上ニといつたのが、かえつて特殊性を發揮している。五句に、君ガマニマニと置く型も、類型的である。
 
1913 見渡せば 春日の野邊に 立つ霞、
 見まくの欲《ほ》しき 君が容儀《すがた》か。
 
 見渡者《ミワタセバ》 春日之野邊《カスガノノベニ》 立霞《タツカスミ》
 見卷之欲《ミマクノホシキ》 君之容儀香《キミガスガタカ》
 
(87)【譯】見渡せば春日の野邊に立つ霞。そのように見たいと思う。あなたのお姿ですね。
【釋】見渡者春日之野邊立霞 ミワタセバカスガノノベニタツカスミ。以上事實を敍している。その佳景のようにの意に、下に續く。
 君之容儀香 キミガスガタカ。スガタカは、容儀であることよと讃歎している。
【評語】春の美しい景を擧げて、君が容姿の譬喩としている。譬喩も實景であり、それと實事との関係が、ほどよくできていて、詠嘆の氣分を出している。
 
1914 戀ひつつも 今日は暮らしつ。
 霞立つ 明日の春日《はるひ》を
 いかにくらさむ。
 
 戀乍毛《コヒツツモ》 今日者暮都《ケフハクラシツ》
 霞立《カスミタツ》 明日之春日乎《アスノハルヒヲ》 如何將v晩《イカニクラサム》
 
【譯】戀いながらも、今日は暮らした。霞の立つ明日の春の日を、どのようにして暮らそうか。
【釋】戀乍毛今日者暮都 コヒツツモケフハクラシツ。戀に悩みながらも、さすがに永いといわれる春の日を暮らして夜になつたの意である。句切。
【評語】明日の永い一日をどのようにして過そうかという心が、適切に表現されている。思い悩む樣がよく描かれている。
 
寄v雨
 
1915 わが夫子に 戀ひて術《すべ》なみ、
(88) 春雨の 零《ふ》る別《わき》知らに
 出でて來しかも。
 
 吾背子尓《ワガセコニ》 戀而爲便莫《コヒテスベナミ》
 春雨之《ハルサメノ》 零別不v知《フルワキシラニ》
 出而來可聞《イデテコシカモ》
 
【譯】あなたに戀して致し方なさに、春雨の降つているわかちも知らずに出てきましたよ。
【釋】零別不知 フルワキシラニ。ワキは、区別、わかち。降つているかどうかもわからないで。
【評語】初句ワガ夫子ニとあるので、女子の作とされているが、男子どうしの場合でも、戀うということがあるから、決定はしがたい。春雨をおかして出てきたことを報告するだけの歌である。
 
1916 今更に 君はい往《ゆ》かじ。
 春雨の 情《こころ》を人の 知らざらなくに。
 
 今更《イマサラニ》君者伊不v往《キミハイユカジ》
 春雨之《ハルサメノ》 情乎人之《ココロヲヒトノ》
 不v知有名國《シラザラナクニ》
 
【譯】今更あなたはおいでにならないでしよう。春雨の降る心を、人として知らないことはないでしよう。
【釋】君者伊不往 キミハイユカジ。イは接頭語。句切。元暦校本に君何不往に作つているのは、君ガリ行カジのリに當る字が落ちたのだろう。それを後に今の形にしたものだろうか。
 情乎人之 ココロヲヒトノ。ココロは、春雨の降る心。人を歸さないようにと降るその心。ヒトは、一般的に云つているが、意は君のことである。
 不知有名國 シラザラナクニ。打消が二つ重なつて、肯定になつている。あなたは御承知です。
【評語】春雨に寄せて君を留めている。末句の打消を重ねた云い方に特色がある。人が知らないはずはないと、大がかりに云つたのも利いている。君ノというより、人ノという方が、一般的になつてよい。二句を君ガリ行カジとすると、また趣がかわつて、男子どうしの相聞の歌になつてそれもおもしろい。
 
(89)1917 春雨に 衣《ころも》はいたく 通《とほ》らめや。
七日し零《ふ》らば 七日來じとや。
 
 春雨尓《ハルサメニ》 衣甚《コロモハイタク》 將通哉《トホラメヤ》
 七日四零者《ナヌカシフラバ》 七日不v來哉《ナヌカコジトヤ》
 
【譯】春雨に著物はひどく通りはしますまい。もし七日降つたら七日來ないというのですか。
【釋】衣甚將通哉 コロモハイタクトホラメヤ。トホルは、衣服の裏まで濡れ通るをいう。句切。
 七日不來哉 ナヌカコジトヤ。コジトヤの下に、イフの如き語が省略されている。仙覺本系統には、七日を七夜に作つている。
【評語】四五句に七日の語を重ねたのが、ひどく利いている。これが歌の中心を成している。才氣に富んだ表現である。五句を七夜來ジトヤに作つているのもよい。しかしその方は一層技巧が勝つ。やはり七日の同語を重ねた方が古調である。
 
1918 梅の花 散らす春雨 多《さは》にふる
 旅にや、君が 廬《いほり》せるらむ。
 
 梅花《ウメノハナ》 令v散春雨《チラスハルサメ》 多零《サハニフル》
客尓也君之《タビニヤキミガ》 廬入西留良武《イホリセルラム》
 
【譯】梅の花を散らす春雨のひどく降つている旅先でか、君は小舍にはいつているのだろう。
【釋】多零 サハニフル。連體句で、以上三句、旅を修飾している。
 廬入西留良武 イホリセルラム。イホリは假舍を作つて入ること。
【評語】春の雨のおびただしく降るのに、旅のわびしさを思いやつて詠んでいる。上三句は、作者の現に見る景で、それをもつて旅先を想像して云つている。情趣の滿ちている作である。
 
寄v草
 
(90)1919 國栖《くにす》等が 春菜《わかな》採《つ》むらむ 司馬《しま》の野の、
 しましま君を 思ふこの頃。
 
 國栖等之《クニスラガ》 春菜將v採《ワカナツムラム》 司馬乃野之《シマノヌノ》
 數君麻《シマシマキミヲ》 思比日《オモフコノゴロ》
 
【譯】國栖たちの春の菜を採んでいるだろう司馬の野のように、しばしばあなたを思うこの頃です。
【釋】國栖等之 クニスラガ。クズラガ(考)、クズドモガ(代初)。クニスは、吉野山中の土民。古事記中卷、「吉野之國主等」、日本書紀卷の十に「國※[木+巣]人」。古くクニスといい、後クズと云つたのだろう。語義は、クニヌシかクニスミか不明。國栖は、吉野の離宮のやや上流に當つて、今、國栖村の名が殘つている。
 春菜將採 ワカナツムラム。ワカナツムラム(元)、ハルナツマント(補、宣長)。春菜は、ハルナとも讀まれるが、今ワカナと讀むによる。「春菜採《ワカナツム》 妹之白紐《イモガシラヒモ》」(卷八、一四二一)など。
 司馬乃野之 シマノノノ。シメノノノ(類)、シハノノノ(西)、シマノノノ(童)。馬は、字音假字としてマにもメにも使用されている。ここは次にシマシマとあるを引き起すのだからマとして使つているのだろう。シマノノは所在不明だが、吉野山中だろう。シマは島の義か。以上序詞。同音によつてシマシマを引き起している。
【評語】國栖を引き出してきたのが特色であるが、内容は平凡である。吉野山中の司馬の野は、作者の知つている野で、春に當つてその野を想起したのだろう。
 
1920 春草の 繁きわが戀、
 大海の 方《へ》にゆく浪の、
 千重《ちへ》に積りぬ。
 
 春草之《ハルクサノ》 繁吾戀《シゲキワガコヒ》
 大海《オホウミノ》 方往浪之《ヘニユクナミノ》
 千重積《チヘニツモリヌ》
 
(91)【譯】春草のような繁きわたしの戀は、大海の岸邊に行く波のように、千重に積りました。
【釋】春草之 ハルクサノ。枕詞。譬喩によつて繁きに冠している。
 大海方往浪之 オホウミノヘニユクナミノ。へは邊、岸邊。この二句は序で、譬喩によつて千重を引き起している。
【評語】二つの譬喩を使つて構成しているが、その譬喩が、春草であり、大海であつて、全然連絡のない別種のものを使つているのは、思想の分裂が感じられて、よくない。またその譬喩も平凡だが、内容も平凡である。
 
1921 おほほしく 公《きみ》を相見て、
 菅の根の 長き春日《はるひ》を
 戀ひわたるかも。
 
 不明《オホホシク》 公乎相見而《キミヲアヒミテ》
 菅根乃《スガノネノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》
 孤悲渡鴨《コヒワタルカモ》
 
【譯】ぼんやりとあなたを見て、菅の根のような永い春の日を戀して過すことです。
【釋】不明 オホホシク。はつきりしない意の副詞。「不明《オホホシク》 見之人故《ミシヒトユヱニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》(卷十二、三〇〇三)。
 菅根乃 スガノネノ。枕詞。
【評語】公をよく見なかつたので、この永い春の日を戀い暮らすという、これも平凡な歌である。
 
寄v松
 
1922 梅の花 咲きて散りなば、
 吾妹子を  來《こ》むか來《こ》じかと
(92) わが松の木ぞ。
 
 梅花《ウメノハナ》 咲而落去者《サキテチリナバ》
 吾味乎《ワギモコヲ》 將v來香不v來香跡《コムカコジカト》
 吾待乃木曾《ワガマツノキゾ》
 
【譯】梅の花が咲いて散つたなら、あなたを、くるだろうか、こないだろうかと、わたしの待つている、その松の木ですよ。
【釋】將來香不來香跡 コムカコジカト。來るか來ないか、たしかでない意に、兩方にかけて云つている。「荒雄良乎《アラヲラヲ》 將v來可不v來可等《コムカコジカト》」(卷十六、三八六一)。トは、初句から來ムカ來ジカまでを受けている。
 吾待乃木曾 ワガマツノキゾ。マツは、來ムカ來ジカト待ツと、松の木とを懸けて云つている。「遠人《トホツヒト》 待之下道湯《マツノシタミチユ》」(卷十三、三三二四) の待の用法に同じ。
【評語】松に待ツを懸けたあたりに中心のある歌で、才氣は見るべきだが、表現が技巧に流れているのがわるい。もつと率直に歌うべきであつたろう。懸けことばが、結局禍をなしているのである。
 
寄v雲
 
1923 白檀弓《しらまゆみ》 いま春山に 行く雲の、
 行きや別れむ。
 戀《こほ》しきものを。
 
 白檀弓《シラマユミ》 今春山尓《イマハルヤマニ》 去雲之《ユククモノ》
 逝哉將v別《ユキヤワカレム》
 戀敷物乎《コホシキモノヲ》
 
【譯】白檀弓を今張る、その春山に行く雲のように、行き別れるのだろうか。戀しいものを。
【釋】白檀弓今春山尓 シラマユミイマハルヤマニ。白檀弓を今引き張るの意に、春を引き起している。今までが、序詞。
 去雲之 ユククモノ。この句まで、同音によつて行キを引き起す序になつている。
(93) 逝哉將別 ユキヤワカレム。作者が、旅に行くおりなので、この句があるのだろう。句切。
【評語】序が二重になつている。技巧に富んだ作だ。季節が春なので、春山を出したのだろう。春山ニ行ク雲の句は、飄々として旅立つ氣分を感じさせてよいが、何にしても全體が巧みに過ぎて、旅に出るおりの悲痛な感傷は、どこへか行つてしまつたようである。上品なのはとりえだが、才氣に溺れた作といえよう。
 
贈v※[草冠/縵]
 
【釋】贈※[草冠/縵] カヅラヲオクル。※[草冠/縵]を贈るに附けた歌である。歌によるに、青柳の※[草冠/縵]で、青柳が當時としては珍しかつたのだろう。
 
1924 丈夫《ますらを》が 伏し居《ゐ》嘆きて 造りたる、
 しだり柳の ※[草冠/縵]《かづら》せ吾妹《わぎも》。
 
 大夫之《マスラヲガ》 伏居嘆而《フシヰナゲキテ》 造有《ツクリタル》
 四垂柳之《シダリヤナギノ》 蘰爲吾妹《カヅラセワギモ》
 
【譯】男兒が、ねたりすわつたりして嘆息して作つたシダレヤナギの※[草冠/縵]をなさい。あなた。
【釋】伏居嘆而 フシヰナゲキテ。君に戀して、伏しては嘆き、坐しては嘆いて。
 ※[草冠/縵]爲吾妹 カヅラセワギモ。カヅラセは、※[草冠/縵]せよの意の命令形。
【評語】戀に悩んで苦しみながら作つたツダレヤナギの※[草冠/縵]だという云い方が仰山でおもしろい。贈物にいわれを附けている。※[草冠/縵]を贈るは、卷の八、一六二四參照。
 
悲v別
 
(94)1925 朝戸出の 君が容儀《すがた》を よく見ずて、
 長き春日《はるひ》を 戀ひや暮さむ。
 
 朝戸出之《アサトデノ》 君之儀乎《キミガスガタヲ》 曲不v見而《ヨクミズテ》
 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 戀八九良三《コヒヤクラサム》
 
【譯】朝お出ましになるあなたのお姿をよく見ないで、長い春の日を戀をしてか過すことでしよう。
【釋】朝戸出之 アサトデノ。アサトデは、朝、家を出ること。ここは男の歸ろうとして出るをいう。
 曲不見而 ヨクミズテ。曲は、委曲の意で、十分に、丁寧に。
【評語】別れを悲しんで、男の家を出るのを、十分に見ることができない趣である。別れに臨んだ歌として情趣をつくしている。
 
問答
 
【釋】問答 トヒコタヘ。問答の歌は、この卷では、春の雜歌、春の相聞、夏の雜歌、秋の相聞の各部にあり、いずれもその部での問答の歌を載せている。二首ずつ一組になつているのが普通だが、この部には、三首で一組になつているものがあつて、十一首ある。但しその三首一組のうちの一首は、問の歌の類歌を參考として掲げたものだろう。
 
1926 春山の 馬醉木《あしび》の花の
 惡《あ》しからぬ 公には、しゑや
 よそるともよし。
 
 春山之《ハルヤマノ》 馬醉花之《アシビノハナノ》
 不v惡《アシカラヌ》 公尓波思惠也《キミニハシヱヤ》
 所v因友好《ヨソルトモヨシ》
 
【譯】春山のアシビの花のように、あしくないあなたには、ええ、結びつけられてもようございます。
(95)【釋】春山之馬醉花之 ハルヤマノアシビノハナノ。以上、序詞。同音によつて次の句を引き起こしているのだろう。但し次をニクカラヌと讀むなら、譬喩になる。
 不惡 アシカラヌ。ニクカラヌ(元)、アシカラヌ(改)。二句の馬醉をアシビと讀むべしとするなら、アシカラヌと讀むのが順當のようである。「山毛世爾《ヤマモセニ》 咲有馬醉木乃《サケルアシビノ》 不v惡《アシカラヌ》 君乎何時《キミヲイツシカ》 往而早將v見《ユキテハヤミム》」(卷八、一四二八)參照。
 公尓波思惠也 キミニハシヱヤ。シヱヤは、感動の語。アアなどと同じく、獨行詞として使用されている。「四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》」(卷四、六五九)。
 所因友好 ヨソルトモヨシ。ヨリヌトモヨシ(西)、ヨスルトモヨシ(考)、ヨセヌトモヨシ(略)、ヨソルトモヨシ(新訓)。ヨソルは、寄せられる意。寄せつけられる、縁を結ばれる。「荒山毛《アラヤマモ》 人師依者《ヒトシヨスレバ》 余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》」(卷十三、三三〇五)。ヨシは、許容、承服の意。
【評語】思い入つた樣が強く表示されている。上二句の序の使い方は、慣用されていたのであろう。答の歌によれば、男を揶揄する氣もちで贈つているようだ。
 
1927 石上《いそのかみ》 布留の神《かむ》杉、
 神びにし 吾や、さらさら
 戀に逢ひにける。
 
 石上《イソノカミ》 振乃神杉《フルノカムスギ》
 神備西《カミビニシ》 吾八更々《ワレヤサラサラ》
 戀尓相尓家留《コヒニアヒニケル》
 
【譯】石上の布留の社の神木の杉のように、神樣めいてしまつたわたしなのに、今更に戀に逢つたことか。
【釋】石上振乃神杉 イソノカミフルノカムスギ。石上神宮の杉の樹は、御神木として當時老樹があつたと見える。「石上《イソノカミ》、振之神※[木+褞の旁]《フルノカムスギ》、伐v本截v末《モトキリスヱオシハラヒ》、於2市邊宮1治2天下1《イチノベノミヤニアメノシタシロシメシシ》、天萬國萬押磐尊御裔僕是也《アメヨロヅクニヨロヅオシハノミコトノミアナスヱヤツコラコレナリ》」(日本書紀(96)顯宗天皇の卷)、「石上《イソノカミ》 振神杉《フルノカムスギ》 神成《カムビニシ》 戀我《コヒヲモワレハ》 更爲鴨《サラニスルカモ》」(卷十一、二四一七人麻呂集)。以上、序詞。神々しくあることから、次の神ビニシを引き起している。
 神備西 カムビニシ。カムビは、神樣ふうになる意の動詞。宮ビ、都ビ、鄙ビなどと同じ構成。上二段活だが、これ以外の活用例を見ない。「許太知之氣思物《コダチシゲシモ》 伊久代神備曾《イクヨカムビゾ》」(卷十七、四〇二六)。この句で、作者自身の年を取つて物古くなつた意をあらわしている。
 吾八更々 ワレヤサラサラ。ヤは、疑問の係助詞。わたしにしてかと疑つている。サラサラは、更にの意で、今改めて。「思咲八更々《シヱヤサラサラ》 思許理來目八面《シコリコメヤモ》」(卷十二、二八七〇)。
【評語】公ニハシヱヤの歌を受けて、この老境に及んでかと、驚いた調子を見せている。前掲の人麻呂の歌によつているのだろうが、巧みな應酬といえる。戯れにもせよ先方のむきになつて言い寄つたのを、上手にはずした形である。これを問答らしくないなどという評のあるのは、もつてのほかだ。
 
右一首、不v有2春歌1、而猶以v和、故載2於茲次1
 
右の一首は、春の歌にあらざれども、なほ和ふるをもちて、故《かれ》この次に載す。
(97)【釋】不有春歌 ハルノウタニアラザレドモ。右の石上云々の歌が、春の歌ではないが、問答の答歌だからここに載せるという編者のことわり書きである。有の字の使い方が變わつているが、國語アリに合わせて書いたのだろう。
 
1928 狹野方《さのかた》は 實に成らずとも、
 花のみに 咲きて見えこそ。
 戀の慰《なぐさ》に。
 
 狹野方波《サヌカタハ》 實雖v不v成《ミニナラズトモ》
 花耳《ハナノミニ》 開而所v見社《サキテミエコソ》
 戀之名草尓《コヒノナグサニ》
 
【譯】狹野方は、實に成らないでも、花ばかりでも咲いて見せてください。戀の慰めに。
【譯】狹野方波 サノカタハ。サノカタは、地名で、その地の花をいうのだろうという。「師名立《シナタツ》 都久麻左野方《ツクマサノカタ》 息長之《オキナガノ》 遠智能小菅《ヲチノコスゲ》」(卷十三、三三二三)の左野方と同じで、滋賀縣坂田郡だろうとされている。「沙額田乃《サヌカダノ》 野邊乃秋〓子《ノベノアキハギ》」(卷十、二一〇六)の沙額田は、別だろう。これはヌの音が違つている。
 實雖不成 ミニナラズトモ。
  ミニナラネドモ(元)
  ――――――――――
  實爾雖不成《ミニナラズトモ》(西)
 ミハナル、ミニナルの兩樣の云い方が考えられるが、「玉葛《タマカヅラ》 實不v成樹尓波《ミナラヌキニハ》」(卷二、一〇一)、「玉葛《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成有者《ナラザルハ》」(同、一〇二)の如き古歌があり、ナルは何になるのナルでなく、ナルだけで果實になることを意味することが知られる。よつて實になるという必要はないことになる。しかし次の答歌にミニナルとあるから、ここはミニナルがおだやかであろう。この語に、戀の成就を寓意している。
 開而所見社 サキテミエコソ。コソは、願望の助詞。咲いて見えてほしい。句切。
 戀之名草尓 コヒノナグサニ。自分の戀のせめてもの慰めに。
(98)【評語】戀は成就しないでも、せめてよい返事だけでもしてくれという歌である。狹野方を出したのは、相手の縁故の地か。地名とすれば、狹野方は實ニ成ラズトモの云い万は、すこし無理である。
 
1929 狹野方《さのかた》は 實になりにしを、
 今更に 春雨ふりて 花咲かめやも。
 
 狹野方波《サノカタハ》 實尓成西乎《ミニナリニシヲ》
 今更《イマサラニ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 花將v咲八方《ハナサカメヤモ》
 
【譯】狹野方は、もう實になつたものを、今更春雨が降つて、花が咲くことはありません。
【釋】實尓成西乎 ミニナリニシヲ。この句で、關係の成立したことを表示している。多分この問答の二人のあいだに、諒解の成立したことをいうのだろう。
【評語】今更らしく花が咲くまでもないというのは、既に他の人とのあいだに戀の成立したことをいうのであろう。問の歌に即した答歌で、譬喩によつていう所は、相手にはよくわかるであろうが、歌としては、情趣の無いものができている。
 
1930 梓弓 引津邊《ひきつべ》にある 莫告藻《なのりそ》の、
 花咲くまでに 逢はぬ君かも。
 
 梓弓《アヅサユミ》 引津邊有《ヒキツベニアル》 莫告藻之《ナノリソノ》
 花咲及二《ハナサクマデニ》 不v會君毳《アハヌキミカモ》
 
【譯】梓弓を引く。その引津のほとりの莫告藻の花が咲くまでも、逢わない君ですね。
【釋】梓弓 アヅサユミ。枕詞。
 引津邊有 ヒキツベニアル。ヒキツヘニアル(元赭)、ヒキツノベナル(西)。引津は地名。福岡縣糸島郡小富士村附近の海邊だという。
 莫告藻之花咲及二 ナノリソノハナサクマデニ。ナノリソは海藻、ホンダワラ。花の咲かないものであるか(99)ら、その花の咲くまでというので、非常に長い時間をあらわしている。以上の句は「梓弓《アヅサユミ》 引津邊在《ヒキツベニアル》 莫謂花《ナノリソノハナ》 及v採《ツムマデニ》 不v相有目八方《アハザラメヤモ》 勿謂花《ナノリソノハナ》」卷七、一二七九、人麻呂集)あたりからきているのだろう。ナノリソは粒子ができるから、これを實に擬して、花のことをいうに至つたのだろう。
【評語】いつになつても逢おうとしない人に贈つた歌である。花の無いナノリソ藻を使つて、長い時間をあらわす譬喩は、奇拔で趣がある。しかしナノリソの花については、前に知られている歌があつて、それによつたのだろう。
 
1931 川上の いつ藻の花のいつもいつも、
 來ませ、わが夫子、時じけめやも。
 
 川上之《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時々々《イツモイツモ》
 來座吾背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》
 
【譯》川の上流の美しい藻の花のように、いつでもいらつしやい、あなた。時期でないということはありません。
【釋】川上之 カハカミノ。カハノウヘノ(類)、カハカミノ(神)、カハノヘノ(童)。
 伊都藻之花乃 イツモノハナノ。イツモは、藻であるが、どういう藻ともわからぬ。萬葉集註釋(仙覺)には嚴藻だという。イツは、「五柴原《イツシバハラ》」(卷十一、二七七〇)のイツと同語なら、繁茂する義だろうか。以上序詞。
 時自異目八方 トキジケメヤモ。トキジケまで、時ジの活用形。
【評語】卷の四に重出している。文字までもほぼ一致している。時に臨んでその歌を應用したものか、同人の歌か、事情不明である。歌は巧みにできている。
【參考】重出。
  吹※[草がんむり/欠]刀自歌二首(一首略)
(100)  河上乃《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時々々《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》(卷四、四九一)
 
1932 春雨の やまずふりふり、
 わが戀ふる 人の目すらを
 相見せなくに。
 
 春雨之《ハルサメノ》 不v止零々《ヤマズフリフリ》
 吾戀《ワガコフル》 人之目尚矣《ヒトノメスラヲ》
 不v令2相見1《アヒミセナクニ》
 
【譯】春雨が止まずに降り續いていて、わたくしの戀うている方のお顔だけも見せないことです。
【釋】不止零々 ヤマズフリフリ。ヤマズフリフル(元)、ヤマズフルフル(西)、ヤマズフリフリ(新訓)。同じ動詞を重ねていう場合に、その連續して行われる意をあらわす時には、上の動詞は連用形を採り、副詞となる時には、終止形を重ねる例である。ここは雨が續いて降る意であるからフリフルであり、ここで切らないで下に續くとすればフリフリである。これがアヒ見セナクニの理由になるので、切る所ではない。
 人之目尚矣 ヒトノメスラヲ。人の顔だけをも。
【評語】春雨が降り續いて、人のおとずれてこないさびしさを歎いている。雨を恨んでいる情が、相當に出ている。
 
1933 吾妹子に 戀ひつつ居《を》れば、
 春雨の そも知る如く
 やまずふりつつ。
 
 吾妹子尓《ワギモコニ》 戀乍居者《コヒツツヲレバ》
 春雨之《ハルサメノ》 彼毛知如《ソモシルゴトク》
 不v止零乍《ヤマズフリツツ》
 
【譯】あなたに戀していると、春雨が、自分もわけを知つているように、止まずに降つています。
【釋】彼毛知如 ソモシルゴトク。カレモシルゴト(類)、ヒトモシルゴト(童)、ソレモシルゴト(新考)、ソ(101)モシルゴトク(新訓)。彼は「黒駒《クロコマノ》 厩立而《ウマヤヲタテテ》 彼乎飼《ソヲカヒ》」(卷十三・三二七八)「抑刺《オサヘサス》 々細子《サスタヘノコハ》 彼曾吾※[女+麗]《ソレゾワガツマ》」(同・三二九五)の如く、ソ、ソレと讀まれている。指示の代名詞であるが、さす所には疑いがある。春雨をさすとされており、春雨みずからが事情を知る如くであろう。「比登豆麻等《ヒトヅマト》 安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》」(卷十四、三四七二)などの例によれば、相手の人をさすとも見られる。これは後世、二人稱に、ソコ、ソナタなどという意のソである。
【評語】贈られた歌に答えたというだけの歌である。雨の降るを不便とした上代の生活樣式が思いやられる。
 
1934 相|念《おも》はぬ 妹をや、もとな
 菅の根の 長き春日を 念ひ暮らさむ。
 
 相不念《アヒオモハヌ》 妹哉本名《イモヲヤモトナ》
 菅根乃《スガノネノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 念晩牟《オモヒクラサム》
 
【譯】思つていないあなたなのに、心から菅の根のような長い春の日を思つて過すことだろうか。
【釋】妹哉本名 イモヲヤモトナ。妹ヲヤ念ヒ暮ラサムと續く。ヤは、疑問の係助詞。モトナ、副詞。切に、心から。五句の念ヒ暮ラサムを修飾する。
【評語】この長い春の日を、片思いに過すことかと歎いている。格別の歌ではない。問の歌である。
 
1935 春されば まづ鳴く鳥の 鶯の、
 言《こと》先立《さきだ》ちし 君をし待たむ。
 
 春去者《ハルサレバ》 先鳴鳥乃《マヅナクトリノ》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》
 事先立之《コトサキダチシ》 君乎之將v待《キミヲシマタム》
 
【譯】春になるとまず鳴く鳥である鶯のように、早く言葉をおかけになつたあなたをお待ちしましよう。
【釋】春去者先鳴鳥乃※[(貝+貝)/鳥]之 ハルサレバマヅナクトリノウグヒスノ。以上譬喩で、次の言先立チシを引き起している。
(102) 事先立之 コトサキダチシ。コトは言。言葉がまず言い出された意で、他の人よりも先に言い寄つたことをいう。
【評語】譬喩が巧みである。言先立チシ君ヲシ待タムというのも、よく言い得ている。
 
アルラムコユヱ
1936 相|念《おも》はず あるらむ兒ゆゑ、
 玉の緒の 長き春日を
 念ひ暮らさく。
 
 相不v念《アヒオモハズ》 將v有兒故《アルラムコユヱ》
 玉緒《タマノヲノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》
 念晩久《オモヒクラサク》
 
【譯】思つていないだろう人なのだのに、玉の緒のような長い春の日を思い暮らすことだ。
【釋】玉緒 タマノヲノ。枕詞。絶ユ、繼グなどにも冠するが、往々長シにも冠している。
 念晩久 オモヒクラサク。クラサクは、暮すこと。
【評語】前の「あひ念はぬ妹をやもとな」(一九三四)の歌の類歌として載せたもので、春サレバの歌に對する答ではないだろう。長い春の日を思うということが、類型になつている。思ヒ暮ラサクと、現にそうしている意に歌つたのがよい。
 
夏雜歌
 
【釋】夏雜歌 ナツノザフカ。四十二首を收めているが、内一首は珍しく長歌である。詠鳥が二十七首あり、そのうち二十六首まで、ホトトギスで、一首だけヨブコドリである。ヨブコドリは、多くは春に收められているが、一首だけこの部にはいつているのは、作られた時期によるものか、または誤つてはいつたものか不審である。
 
(103)詠v鳥
 
1937 丈夫《ますらを》の いで立ち向かふ
 故郷《ふるさと》の 神名備《かむなび》山に、
(104) 明け來《く》れば 柘《つみ》のさ枝《えだ》に、
 夕されば 小松の末《うれ》に、
 里人の 聞き戀ふるまでに、
 山彦の 答ふるまでに、
 ほととぎす 妻戀《つまごひ》すらし。
 さ夜中に鳴く。
 
 大夫之《マスラヲノ》 出立向《イデタチムカフ》
 故郷之《フルサトノ》 神名備山尓《カムナビヤマニ》
 明來者《アケクレバ》 柘之左枝尓《ツミノサエダニ》
 暮去者《ユフサレバ》 小松之若末尓《コマツノウレニ》
 里人之《サトビトノ》 聞戀麻田《キキコフルマデ》
 山彦乃《ヤマビコノ》 答響萬田《コタフルマデニ》
 霍公鳥《ホトトギス》 都麻戀爲良思《ツマゴヒスラシ》
 左夜中尓鳴《サヨナカニナク》
 
【譯】勇士が出で立つて向かう所の、古い里の神名備山に、夜が明けてくればツミの枝に、夕方になれば小松の枝先に、里人の聞いて慕うまでに、山の木だまの返事をするまでに、ホトトギスが妻戀をするらしい。夜中に鳴いている。
【構成】段落は無く、全篇一文である。
【釋】大夫之出立向 マスラヲノイデタチムカフ。作者自身が出かけてきたことを敍して、故郷の神名備山を修飾している。
 故郷之 フルサトノ。古くなつた里である意で、明日香の里をいう。
 神名備山尓 カムナビヤマニ。カムナビ山は明日香の神名備で、もと飛鳥神社のあつた山。今の飛鳥神社のある山は、後に移した地である。
 柘之左枝尓 ツミノサエダニ。ツミは樹名。野生のクワ。卷の三、三八六參照。
 小松之若末尓 コマツノウレニ。ウレは、文字通り若い枝葉の末である。
 聞戀麻田 キキコフルマデニ。古くキキコフルマデと讀んでいるが、下の答響萬田をコタフルマデニと讀む(105)に合わせては、ニを加えて讀むのが順當である。田をデニに當てて書いている。ホトトギスの聲を聞いてまた聞きたぐ戀い慕うまでにの意である。
 山彦乃 ヤマビコノ。ヤマビコは、山の木だま。反響を擬人化して、山男がいて返事をするようにいう。
 答響萬田 コタフルマデこ。答響は、熟字として書いている。山彦だから答に重點をおいてコタフルと讀むが、響を重視すれば二字でトヨムルである。
【評語】故郷の神名備山のホトトギスを敍して、感じのよい歌である。但し、明ケクレバ、暮《ユフ》サレバと、朝夕に分けて述べ、それを受けて、サ夜中ニ鳴クというのは、突然で、不調和である。
 
反歌
 
1938 旅にして 妻戀すらし。
 ほととぎす
 神名備《かむなび》山に さ夜ふけて鳴く。
 
 客尓爲而《タビニシテ》 妻戀爲良思《ツマコヒスラシ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 神名備山尓《カムナビヤマニ》 左夜深而鳴《サヨフケテナク》
 
【譯】旅にあつて、妻に戀うているらしい。ホトトギスは、神名備山で、夜中に鳴いている。
【釋】客尓爲而 タビニシテ。ホトトギスが旅にあつての意だが、作者が旅先なので、鳥に託してこの句がある。
【評語】旅に出て妻戀をしているのを、ホトトギスが妻戀をして鳴くと歌つている。これは情景よく一致して情趣のゆたかな作である。新古今和歌集撰進の時、はじめこの歌がはいつていたが、既に後撰和歌集にはいつていることを發見して他の歌ととりかえたという插話を傳えている。
 
(106)右、古歌集中出
 
【釋】古歌集 フルキウタノシフ。卷の二以下しばしば出ている。奈良時代初期ごろの作品を集めているが、誰の集ともわからない。卷の七、および九に見える古集との同異も問題になる。
 
1939 ほととぎす 汝《な》が初聲は 吾にもが。
 五月《さつき》の珠に まじへて貫かむ。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 汝始音者《ナガハツコヱハ》 於v吾欲得《ワレニモガ》
 五月之珠尓《サツキノタマニ》 交而將v貫《マジヘテヌカム》
 
【譯】ホトトギスよ、お前の鳴く初聲は、わたしに欲しいものだ。五月の珠にまぜて緒につらぬこう。
【釋】於我欲得 ワレニモガ、我に得させよの意。句切。
 五月之珠尓 サツキノタマニ。サツキノタマは、藥包にさげる玉。「霍公鳥《ホトトギス》 痛莫鳴《イタクナナキソ》 汝音乎《ナガコヱヲ》 五月玉爾《サツキノタマニ》 相貫左右二《アヒヌクマデニ》」(卷八、一四六五)參照。
【評語】その年になつて始めて鳴くホトトギスの聲を愛する心で歌つている、ずいぶん風流がつている内容である。ホトトギスは、ちようど五月の頃に鳴くので、その聲を五月の珠につらぬこうというのは、類想があつて前からある歌によつたのだろう。
 
1940 朝霞 たなびく野邊に、
 あしひきの  山ほととぎす
 いつか來鳴かむ。
 
 朝霞《アサガスミ》 棚引野邊《タナビクノベニ》
 足檜木乃《アシヒキノ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》
 何時來將v鳴《イツカキナカム》
 
【譯】朝霞のたなびいている野邊に、山のホトトギスは、いつになつたら來て鳴くだろう。
(107)【釋】何時來將鳴 イツカキナカム。イツカは何時か、早くと思う意である。
【評語】すなおな表現である。朝霞のたなびく野邊にホトトギスを待つ心が、純な敍述であらわされている。
 
1941 朝霞 八重山越えて、
 呼子鳥《よぶこどり》 吟《な》きや汝が來《く》る。
 屋戸《やど》もあらなくに。
 
 旦霞《アサガスミ》 八重山越而《ヤヘヤマコエテ》
 喚孤鳥《ヨブコドリ》 吟八汝來《ナキヤナガクル》
 屋戸母不v有九二《ヤドモアラナクニ》
 
【譯】朝霞の幾重にも懸かつている、その山々を越えて、喚子鳥よ、鳴きながらお前が來るのか。宿も無いことだのに。
【釋】旦霞 アサガスミ。枕詞。實景を採つて枕詞としている。八重に霞がかかる意である。
 八重山越而 ヤヘヤマコエテ。ヤヘヤマは、幾重にもかさなる山。
 吟八汝來 ナキヤナガクル。吟は、呻吟の義をもつてナキに當てている。ヤは、疑問の係助詞だが、ここは鳴いてくることかと感動している。句切。
【評語】旅人として宿の定まらぬ心ぼそさを、鳥に託して歌つている。情趣の溢れた佳作である。喚子鳥は、春の部に出してあり、ここに夏の部に入れたのは、まぎれたのだろう。
 
1942 ほととぎす 鳴く聲聞けや、
 卯の花の 咲き散る岡に
 田草《くさ》引く※[女+感]嬬《をとめ》。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴音聞哉《ナクコヱキケヤ》
 宇能花乃《ウノハナノ》 開落岳尓《サキチルヲカニ》
 田草引※[女+感]嬬《クサヒクヲトメ》
 
【譯】ホトトギスの鳴く聲を開いてか、卯の花の咲き散る岡で、草を引いている娘子よ。
(108)【釋】鳴音聞哉 ナクコヱキケヤ。キケヤは、已然條件法。ホトトギスの鳴く聲を聞いて、時節のきたのを知る意である。聞哉は、從來多くキクヤと讀んでいたが、この形の多くの用例は、已然條件法に讀むべきものである。助詞ヤの表意文字としての表示は、哉が多く、耶が少々あるだけである。哉は、感動および疑問の意の字で、ヤの意味もまたその邊にあるものと察せられる。
 田草引※[女+感]嬬 クサヒクヲトメ。田草をクズと讀み、または草を葛の誤りとする説が多いが、原文のままでよい。田の草だから田草と書いたのだ。
【評語】ホトトギスが、農事を催し立てるという諺をもとにしているらしい。田草を引くわぎが詠まれているのが注意される。枕の草子にある「ほととぎす、おれ、かやつよ、おれ鳴きてこそ、われは田植うれ」という民謠は、ホトトギスが鳴いて田植の季節になつたことを歎いたもので、このような歌が古くから行われていたのだろう。
 
1943 月夜《つくよ》よみ 鳴くほととぎす
 見まく欲《ほ》り、
 吾《われ》草取れり。
 見む人もがも。
 
 月夜吉《ツクヨヨミ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》
 欲v見《ミマクホリ》
 吾草取有《ワレクサトレリ》
 見人毛欲得《ミムヒトモガモ》
 
【譯】月がよいので、鳴くホトトギスを見たいと思つて、わたしは草を取つている。誰か見る人がほしいなあ。
【釋】月夜吉 ツクヨヨミ。月がよさにホトトギスを見たいと思つての意に、見マクホリを修飾している。
 吾草取有 ワレクサトレリ。
  ワガクサトレル(元)
(109)  ワカサヲトレル(西)
  ワレクサトレリ(代初)
  ワガクサカレリ(改)
  ワガクサトルヲ(童)
  ――――――――――
  今草取有《イマクサトレリ》(略、宣長)
 諸説があるが、ほとんど問題にするに足りない。
 見人毛欲得 ミムヒトモガモ。自分の草を取つている働きぶりを見る人もあれと願うのである。
【評語】ホトトギスを愛する文雅と、草を取る實生活との交錯しているおもしろさがある。但し草を取るというのが、事實どの程度に生活を寫しているかは、別の問題である。
 
1944 藤浪の 散らまく惜しみ、
 ほととぎす
 今城《いまき》の岡を 鳴きて越ゆなり。
 
 藤浪之《フヂナミノ》 散卷惜《チラマクヲシミ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 今城岳叫《イマキノヲカヲ》 鳴而越奈利《ナキテコユナリ》
 
【譯】藤の花の散るのを惜しんで、ホトトギスは、今城の岡を鳴いて越えて行く。
【釋】藤浪之 フヂナミノ。フヂナミは、ここではその花をいう。
 今城岳叫 イマキノヲカヲ。今城の岡は、奈良縣吉野郡。吉野川のその郡内での西端の右岸にある。高市郡を古く今木郡と言つたのは、新しい宮の造營された地の意であつて、イマキは新宮をいう。そのある岡で、明日香にその名の岡があるかもしれない。叫は、訓假字としてヲに使用されている。
【評語】ホトトギスが藤の花の散るのを惜しんで鳴くように歌つているのは、梅花の散るのを惜しんで鶯が鳴くというのと同樣の手段だ。歌は平易で、今城の岡の初夏の情景が描かれている。
 
(110)1945 朝霧の 八重山越えて
 ほととぎす
 卯の花|邊《べ》から 鳴きて越えけり。
 
 旦霧《アサギリノ》 八重山越而《ヤヘヤマコエテ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 宇能花邊柄《ウノハナベカラ》 鳴越《ナキテコエ》來《ケリ・キヌ》 
 
【譯】朝霧の幾重にもかかつている山々を越えて、ホトトギスは、卯の花の咲いている邊を通つて、鳴いて越えて行つた。
【釋】旦霧 アサギリノ。枕詞。實景を直に枕詞に利用している。前の「旦霞《アサガスミ》 八重山越而《ヤヘヤマコエテ》」(一九四一)と同手段。その條參照。
 宇能花邊柄 ウノハナベカラ。カラもユと同じく、それを經過しての意に使つている。卯の花邊は、今作者のいる處である。但しその用例は、いずれも邊もしくは道のような、地理上の名辭に接續している。これが初出であるが、集中九例あり、ユに比べて口語なので、多く使われなかつたのだろう。「人祖《ヒトノオヤノ》 未通女兒居而《ヲトメゴスヱテ》 守山邊柄《モルヤマベカラ》 朝々《アサナサナ》 通公《カヨヒシキミガ》 不v來哀《コネバカナシモ》」(卷十一、二三六〇)、「直道柄《タダヂカラ》 吾者雖v來《ワレハクレドモ》(同、二六一八)。
 鳴越來 ナキテコエケリ。ナキテコエケリ(代初)、ナキテコエキヌ(同)。四句をよく吟味すればコエケリの方がよいようだ。
【評語】朝霧のかかつている山々を、ホトトギスの鳴いて越えて來て、そうして今卯の花の咲いているあたり越えたことを歌つている。これも情景のよく描かれている作である。
 
1946 木高《こだか》くは かつて木植ゑじ。
 ほととぎす 來鳴き響《とよ》めて
(111) 戀まさらしむ。
 
 木高者《コダカクハ》 曾木不v殖《カツテキウヱジ》
 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令v響而《キナキトヨメテ》
 戀令v益《コヒマサラシム》
 
【譯】木高くは決して木を植えまい。ホトトギスが來て鳴いて、戀をまさらせる。
【釋】曾木不殖 カツテキウヱジ。カツテは、決して、全く、すべてなどの意で、下はかならず打消で受ける。「常者曾《ツネハカツテ》 不v念物乎《オモハヌモノヲ》」(卷七、一〇六九)、「名者曾不v告《ナハカツテノラジ》 戀者雖v死《コヒハシヌトモ》」(卷十二、三〇八〇)。句切。
 來鳴令響而 キナキトヨメテ。トヨメテは、とよましめて。音を立たせて。
【評語】ホトトギスの聲が感傷を誘うものとして取り扱われている。ホトトギスが樹梢に來て鳴き立てるというのである。その鳥の概念が固定している作だ。
 
1947 逢ひ難き 君に逢へる夜《よ》、
 ほととぎす
 他時《こととき》よりは 今こそ鳴かめ。
 
 難v相《アヒガタキ》 君尓逢有夜《キミニアヘルヨ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 他時從者《コトトキヨリハ》 今社鳴目《イマコソナカメ》
 
【譯】容易に逢い難い君に逢つた夜だから、ホトトギスは、ほかの時よりは、今こそ鳴くべきだ。
【釋】他時從者 コトトキヨリハ。コトトキは、他の時。ヨリは、比較をあらわしている。
【評語】人と共にホトトギスの聲を賞翫しようとする心である。酒宴の席などでの作であろう。一往の座興に詠まれている。
【參考】類想。
  わが屋前《には》の花橘にほととぎす今こそ鳴かめ。友に逢へる時(卷八、一四八一、大伴の家持)
 
1948 木の晩《くれ》の 暮闇《ゆふやみ》なるに、 【一は云ふなれば】
(112) ほととぎす
 何處《いづく》を家と 鳴き渡るらむ。
 
 木晩之《コノクレノ》 暮闇有尓《ユフヤミナルニ》 【一云有者】
 霍公鳥《ホトトギス》
 何處乎家登《イヅクヲイヘト》 鳴渡良武《ナキワタルラム》
 
【譯】木の茂つて暗い夕闇だのに、ホトトギスは、何處を家として鳴いて行くのだろう。
【釋】木晩之 コノクレノ。コノクレは、木の繁茂して暗いこと。
 暮閣有尓 ユフヤミナルニ。クラヤミナルニ(古義)。暮闇はクラヤミとも讀まれるが、暮の字は、集中多くユフ、ヨヒと讀まれている。またクラヤミの語は、「晩闇跡《ユフヤミト》 隱益去禮《カクリマシヌレ》」(卷三、四六〇)の晩闇をクラヤミと讀む説があるだけである。ユフヤミは「夕闇者《ユフヤミハ》 路多豆多頭四《ミチタヅタヅシ》」(卷四、七〇九)、「夕闇之《ユフヤミノ》 木葉隱有《コノハゴモレル》 月待如《ツキマツガゴト》」(卷十一、二六六六)がある。 
一云有者 アルハイフ、ナレバ。第二句がユフヤミナレバとあるとすると、ナルニの方が通りがよい。
 何處乎家登 イヅクヲイヘト。何處を、わが行くべき家として。
【評語】暗い空にホトトギスの鳴いて行くのを詠んでいる。何處を家というあたり、巧みだが、ホトトギスの上を推量しているのは、作り歌たるを免れない。
 
1950 ほととぎす 花橘の 枝に居て、
 鳴き響《とよも》せば、花は散りつつ。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 花橘之《ハナタチバナノ》 枝尓居而《エダニヰテ》
 鳴響者《ナキトヨモセバ》 花波散乍《ハナハチリツツ》
 
【譯】ホトトギスは、花の咲いている橘の枝にいて鳴き聲を立てれば、花は散つている。
【釋】鳴響者 ナキトヨモセパ。鳴いて聲を立てれば。
【評語】ホトトギスが橘の枝にとまつていて鳴くと、花がほろほろとこぼれる。美しいすなおな歌で、ホトトギスを描寫しているのがよい。なお以下二首の順序は、古本系統による。それで番號は通行本によつて附けら(113)れているから順になつていない。
 
1949 ほととぎす
 今朝の朝明に 鳴きつるは、
 君聞きけむか。
 朝|宿《い》か寐けむ。
 
 霍公鳥《ホトトギス》
 今朝之旦明尓《ケサノアサケニ》 鳴都流波《ナキツルハ》
 君將v聞可《キミキキケムカ》
 朝宿疑將v寐《アサイカネケム》
 
【譯】ホトトギスが、今朝の夜明けに鳴いたのは、あなたはお聞きになつたでしようか。それとも朝寐をなさつたでしようか。
【釋】朝宿疑將寐 アサイカネケム。アサイは、朝の睡眠。凝の字を、カに當てて書いている。
【評語】第五句が率直で、さすがに萬葉集らしい。相手を揶揄している氣もちもあるのだろう。
 
1951 慨《うれた》きや 醜《しこ》ほととぎす。
 今こそは 聲の嗄《か》るがに
 來|喧《な》き響《とよ》まめ。
 
 慨哉《ウレタキヤ》 四去霍公鳥《シコホトトギス》
 今社者《イマコソハ》 音之干蟹《コヱノカルガニ》
 來喧響目《キナキトヨマメ》
 
【譯】腹立たしいいやなホトトギスだ。今こそ聲の枯れるまで、來て鳴き立てるべきだのに。
【釋】慨哉 ウレタキヤ。ウレタキは、心痛しで、歎かわしい意。その連體形。ヤは、感動の助詞。「慨裁、此(ヲバ)云(フ)2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤト》1」(日本書紀、卷の三、神武天皇)、「宇禮多伎也《ウレタキヤ》 志許霍公鳥《シコホトトギス》」(卷八、一五〇七)。
 四去霍公鳥 シコホトトギス。シコは、ホトトギスを惡く言つている。
 音之干蟹 コヱノカルガニ。カルガニは、嗄《か》れるほど、嗄れるくらい。
(114)【評語】宴會遊覽などの席で、ホトトギスの鳴かないのを恨んでいる。愛するあまり、その鳴かないのを罵倒したのが特色であるが、歌としては騷々しくなつている。時の興を助けるには足りよう。
 
1952 今夜《こよひ》の おほつかなきに、
 ほととぎす 喧《な》くなる聲の
 音の遙《はる》けさ。
 
 今夜乃《コヨヒノ》 於保束無荷《オホツカナキニ》
 霍公鳥《ホトトギス》 喧奈流聲之《ナクナルコヱノ》
 音乃遙左《オトノハルケサ》
 
【譯】今夜の暗くて何もわからないのに、ホトトギスの鳴く所の聲の遠いことだ。
【釋】今夜乃 コヨヒノ。コノヨラノ(西)、コノヨヒノ(新訓)、コヨヒノ(全釋)。初句に、今夜乃、もしくは今夜之と筐いた例は、この歌ともに四個ある。「今夜之《コヲヒノ》 早開者《ハヤクアクレバ》 爲便乎無三《スベヲナミ》」(卷四、五四八)、「今夜乃《コヨヒノ》 曉降《アカトキクタチ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》」(卷十、二二六九)、「今夜之《コヨヒノ》 在開月夜《アリアケヅクヨ》 在乍文《アリツツモ》」(卷十一、二六七一)。これらが皆、コヨヒノと四音に詠んだとも考えにくいが、さりとてラの如き音を補つて讀むものとも考えられない。コヨヒとは他に多く讀んでいるから、それによるほかはあるまい。
 於保束無荷 オホツカナキニ。暗くておぼつかないのである。
【評語】鳴クナル聲ノ音ノ遙ケサと、コヱとオトとを重ねたのは、丁寧すぎる。遠くホトトギスの聲を聞く情趣は窺われる。
 
1953 五月《さつき》山 卯の花|月夜《づくよ》、
 ほととぎす 聞けども飽かず。
 また鳴かぬかも。
 
 五月山《サツキヤマ》 宇能花月夜《ウノハナヅクヨ》
 霍公鳥《ホトトギス》 雖v聞不v飽《キケドモアカズ》
 又鳴鴨《マタナカヌカモ》
 
(115)【譯】五月の山の卯の花の月夜に、ホトトギスは、聞いても飽きない。またも鳴かないかなあ。
【釋】五月山 サツキヤマ。五月の山で、山名ではない。
 宇能花月夜 ウノハナヅクヨ。卯の花の咲いているのに月光の照つている夜。
 又鳴鴨 マタナカヌカモ。マタナカムカモ(元)、マタナカヌカモ(略)。ヌに當る字を省いている。
【評語】美しい情景である。初三句の名詞を重ねた手法は、「淡海の海夕浪千鳥」(卷三、二六六)の類で、印象的である。
 
1954 ほととぎす 來居《きゐ》も鳴かぬか。
 わが屋前《には》の 花橘の
 地《つち》に散らむ見む。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 來居裳鳴香《キヰモナカヌカ》
 吾屋前乃《ワガニハノ》 花橘乃《ハナタチバナノ》
 地二落六見牟《ツチニチラムミム》
 
【譯】ホトトギスは、來てとまつて鳴かないかなあ。わたしの屋前の橘の花の、地上に散るのを見よう。
【釋】來居裳鳴香 キヰモナカヌカ。
  キヰテモナクカ(元)
  ――――――――――
  來居裳鳴奴香《キヰモナカヌカ》(童)
 ここにも打消に當る字が省路されている。句切。
【評語】前出の「花橘の枝に居て」(一九五〇)の歌のような、ホトトギスが橘の樹にとまつて鳴くのを願つている。作り設けた歌であるのは勿論である。
 
1955 ほととぎす 厭ふ時無し。
 菖蒲《あやめぐさ》 ※[草冠/縵]《かづら》にせむ日 此《こ》ゆ鳴き渡れ。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 厭時無《イトフトキナシ》
 昌蒲《アヤメグサ》 ※[草冠/縵]將v爲日《カヅラニセムヒ》
 從v此鳴度禮《コユナキワタレ》
 
(116)【譯】ホトトギスは、厭うべき時は無い。アヤメを※[草冠/縵]にする日に、ここを通つて鳴いて行け。
【釋】厭時無 イトフトキナシ。何時として厭う時とては無い。句切。この下に、しかし特にの如き意を含めている。
 昌蒲※[草冠/縵]將爲日 アヤメグサカヅラニセムヒ。五月五日に、アヤメを※[草冠/縵]に作る。その日をいう。昌蒲は、菖蒲に同じ。アヤメ。五月の節供に使うアヤメは、サトイモ科のシヨウブで、葉莖根に香氣がある。アヤメ科のアヤメの名を、葉の形の似ているシヨウブに移したのだろう。
 從此鳴度禮 コユナキワタレ。コユは、ここを通つて。
【評語】五月の節供に當つて、ホトトギスの聲を望んでいる。アヤメの※[草冠/縵]とホトトギスとの取り合わせが、五月らしい氣分を作つている。後に田邊の福麻呂の誦詠したという歌中に重出しているのは、古歌を誦詠したのだろうか。なおその傳來には問題があるから、その條參照。
【參考】重出。
 
  保等登藝須《ホトトギス》 伊等布登伎奈之《イトフトキナシ》 安夜賣具左《アヤメグサ》 加豆良爾藝武日《カヅラニキムヒ》 許由奈伎和多禮《コユナキワタレ》(卷十八、四〇三五)
 
1956 大和には 噂きてか來《く》らむ。
 ほととぎす 汝《な》が鳴く毎《ごと》に
 亡《な》き人念《おも》ほゆ。
 
 山跡庭《ヤマトニハ》 啼而香將v來《ナキテカクラム》
 霍公鳥《ホトトギス》 汝鳴毎《ナガナクゴトニ》
 無人所v念《ナキヒトオモホユ》
 
【譯】大和には鳴いてか來ることだろう。ホトトギスよ、お前が鳴く度に、死んだ人が思われる。
【釋】山跡庭啼而香將來 ヤマトニハナキテカクラム。大和では、ホトトギスが、鳴きながらか來ることだろう。作者は他の地にいて、大和の有樣を想像推量している。句切。
 
「倭爾者《ヤマトニハ》 鳴而歟來良武《ナキテカクラム》 呼兒鳥《ヨブコドリ》 象乃中(117)山《キサノナカヤマ》 呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》」(卷一、七〇)。
【評語】ホトトギスの鳴く聲に死んだ人を思つている。それと同時に故郷の戀しさも描かれている。哀情のこもつた歌だ。ホトトギスの鳴く頃に、旅にあつて妻を失つた大伴の旅人あたりの作だろう。
 
1957 卯の花の 散らまく惜しみ
 ほととぎす
 野に出で山に入り 來鳴き響《とよ》もす。
 
 宇能花乃《ウノハナノ》 散卷惜《チラマクヲシミ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 野出山入《ノニイデヤマニイリ》 來鳴令v動《キナキトヨモス》
 
【譯】卯の花の散りそうなのを惜しんで、ホトトギスは、野に出たり山にはいつたりして、來て鳴き立てている。
【釋】來鳴令動 キナキトヨモス。令動は、響かせる、音を立てさせる意。動だけで、トヨムに當てたと思われる例は、案外多い。
【評語】ホトトギスが、卯の花の散りそうなのを惜しんで鳴くというのは、類型的だが、この歌では、野ニ出デ山ニ入リの句が、特殊の句で、これで一首が生きている。ホトトギスがいかにも散るのを惜しんで往來するような樣が描かれている。
 
1958 橘の 林を植ゑむ。
 ほととぎす
 常に冬まで 住みわたるがね。
 
 橘之《タチバナノ》 林乎殖《ハヤシヲウヱム》
 霍公鳥《ホトトギス》
 常尓冬及《ツネニフユマデ》 住度金《スミワタルガネ》
 
【譯】橘の林を植えよう。ホトトギスがいつも冬まで住みつくだろう。
(118)【釋】林乎殖 ハヤシヲウヱム。木を多く植えよう。句切。
【評語】ホトトギスが橘を愛して落ちつくだろうというのである。橘とホトトギスとの取り合わせが、既に成立している。
 
1959 雨|霽《は》れし 雲に副《たぐ》ひて、
 ほととぎす
 春日《かすが》をさして 此《こ》ゆ鳴き渡る。
 
 雨※[日+齊]之《アメハレシ》 雲尓副而《クモニタグヒテ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 指2春日1而《カスガヲサシテ》 從v此鳴度《コユナキワタル》
 
【譯】雨あがりの雲に伴なつて、ホトトギスが、春日をさして、ここを通つて鳴いて行く。
【釋】雨※[日+齊]之雲尓副而 アメハレシクモニタグヒテ。雨の晴れあがると共に、その雲に伴なつて。
 指春日而 カスガヲサシテ。作者は、多分奈良の京にいるだろう。そこで西から空が晴れて行つて、東方の春日の方へ雲が移動する。それにつれてホトトギスも春日をさして行くというのである。
【評語】雨後のホトトギスを詠んで、よい描寫がなされている。梅雨ばれの情景がよく窺われる。
 
1960 物|念《おも》ふと 宿《い》ねぬ朝明に
 ほととぎす 鳴きてさ渡る。
 術《すべ》なきまでに。
 
 物念登《モノオモフト》 不v宿旦開尓《イネヌアサケニ》
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而左度《ナキテサワタル》
 爲便無左右二《スベナキマデニ》
 
【譯】物を思うと寐ない朝あけに、ホトトギスが鳴いて過ぎて行く。何とも致し方のないまでに。
【釋】不宿旦開尓 イネヌアサケニ。寐なかつた夜あけに。
 鳴而左度 ナキテサワタル。サは、接頭語。句切。
(119) 爲便無左右二 スベナキマデニ。自分の心が、ホトトギスの聲に催されて、何ともしかたのないまでに。
【評語】ホトトギスの聲が哀愁を誘うことを詠んでいる。感傷的な歌である。
 
1961 わが衣《ころも》 君に著せよと、
 ほととぎす
 吾《われ》を領《うしは》き 袖に來居《きゐ》つつ。
 
 吾衣《ワガコロモ》 於v君令v服與登《キミニキセヨト》
 霍公鳥《ホトトギス》
 吾乎領《ワレヲウシハキ》 袖尓來居管《ソデニキヰツツ》
 
【譯】わたしの著物を、あなたにお著せなさいと、ホトトギスが、わたしを占領して、袖に來ております。
【釋】吾衣 ワガコロモ。ワガキヌヲ(元)、ワガコロモ(代初)。衣は、キヌヲともコロモとも読まれるが、ヲに當る字が無いから、コロモと讀む。ここでは、作者の著ている衣服である。
 吾乎領 ワレヲウシハキ。
  ワレヲシラセテ(西)
  ワレヲウナガス(新考)
  ワレヲウシハキ (新訓)
  ――――――――――
  吾干領《ワガホスキヌノ》(考)
  吾乎頷《アレヲウナヅキ》(古義)
 ウシハキは、領有する意。「奧國《オキツクニ》 領君之《ウシハクキミガ》 染屋形《シメヤカタ》」(卷十六、三八八八)の領もウシハクと讀む。
【評語】衣服に添えて人に贈つた歌だろう。ホトトギスを持ち出したのは風雅である。ホトトギスの聲が、人を催すように感じられることが働いている。
 
1962 本《もと》つ人 ほととぎすをや 希《めづら》しみ、
 今や汝《な》が來《く》る。
(120)戀ひつつ居《を》れば。
 
 本人《モトツヒト》 霍公鳥乎八《ホトトギスヲヤ》 希將見《メヅラシミ》
 今哉汝來《イマヤナガクル》
 戀乍居者《コヒツツヲレバ》
 
【譯】昔なじみの人であるホトトギスをか珍しがつて、今にもかあなたがくるだろう。戀い慕つているので。
【釋】本人 モトツヒト。昔なじみの人の意で、ホトトギスは、前年から知り合いであるからいう。
 霍公鳥乎八希將見 ホトトギスヲヤメヅラシミ。ホトトギスをめずらしく思つてか。希將見は、義をもつてメヅラシに當てている。ヤは、疑問の係助詞で、メヅラシミがこれを受けている。
 今哉汝來 イマヤナガクル。ヤは疑問の係助詞。句切。
 戀乍居者 コヒツツヲレバ。作者が、歌中の汝に對して戀いつついるのである。
【評語】二個の疑問條件法を使つて構成して、ホトトギスの來鳴く頃に人を待つ心が描かれている。今にもくるだろうかと待つ心がよく出ている。
 
1963 かくばかり 雨の零《ふ》らくに、
 ほととぎす
 卯の花山に なほか鳴くらむ。
 
 如是許《カクバカリ》 雨之零尓《アメノフラクニ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 宇之花山尓《ウノハナヤマニ》 猶香將v鳴《ナホカナクラム》
 
【譯】これほどに雨が降るのに、ホトトギスは、卯の花の咲いている山で、やはり鳴いているのだろうか。
【釋】雨之零尓 アメノフラクニ。フラクは、降ること。
 宇乃花山尓 ウノハナヤマニ。卯の花の咲いている山に。「宇能婆奈夜麻乃《ウノハナヤマノ》 保等登藝須《ホトトギス》」(卷十七、四〇〇八)。
【評語】雨中のホトトギスを想像して詠んでいる。卯の花山は、ちよつと氣のきいた造語だ。雨中ホトトギスを思う心が、この句で生きて描かれている。
 
(121)詠v蝉
 
【釋】詠蝉 セミヲヨメル。セミは總稱と見えるが、歌には「伊波婆之流《イハバシル》 多伎毛登杼呂爾《タキモトドロニ》 鳴蝉乃《ナクセミノ》」(卷十五、三六一七)の一首があるだけで、他はすべてヒグラシを詠んでいる。ヒグラシは、夏の末から秋にかけて鳴くので、本集では夏にも秋にも入れてある。この卷にも、秋の部の二一五七に同じ題がある。
 
1964 黙然《もだ》もあらむ 時も嶋かなむ。
 茅蝉《ひぐらし》の
 もの念ふ時に 鳴きつつもとな。
 
 黙然毛將v有《モダモアラム》 時母鳴奈武《トキモナカナム》
 日晩乃《ヒグラシノ》
 物念時尓《モノオモフトキニ》 鳴管本名《ナキツツモトナ》
 
【譯】何もしないでいる時に鳴くがいい。ヒグラシが、物思いをしている時に鳴いてしかたないなあ。
【釋】黙然毛將有 モダモアラム。モダは、語義としては、黙つていることだが、集中多く何もしないでいることにいう。連體句。
 時母鳴奈武 トキモナカナム。ナムは、希望をあらわす。句切。
 日晩乃 ヒグラシノ。ヒグラシは茅蝉。夏の終から秋にかけて鳴く。多く日暮に鳴くので、ヒグラシという。
【評語】茅蝉の聲に感傷する心が詠まれている。よくまとまつているが、鳥や蟲の鳴聲が感傷を誘うという類型的な内容である。鳴キツツモトナと、モトナを使つての表現も、類が多い。
 
詠v榛
 
【釋】詠榛 ハリヲヨメル。榛は、ハンノ木説もあるが、ここなども、どうしてもハギでなければならない處(122)である。
 
1965 思ふ子が 衣《ころも》摺《す》らむに にほひこそ。
 島の榛原《はりはら》 秋立たずとも。
 
 思子之《オモフコガ》 衣將v摺尓《コロモスラムニ》 々保比與《ニホヒコソ》
 島之榛原《シマノハリハラ》 秋不v立友《アキタタズトモ》
 
【譯】思うあの子の著物を摺ろうから咲いてくれ。島のハギ原は、秋にならないでも。
【釋】思子之 オモフコガ。オモフコは、わが思うその人をいう。
 々保比與 ニホヒコソ。ニホヒは、色に出ることで、花の咲くをいう。コソは願望の助詞。句切。
 島之榛原 シマノハリハラ。シマは、水に臨んだ地をいう。ハリハラは、ハギの原。
 秋不立友 アキタダズトモ。タツは、物の始まるにいうが、秋立つは、暦の上で云い始めたのであろう。
【評語】まだ秋にならないのに、ハギの花の咲くことを望んでいる。思フ子ガ衣摺ラムという所に手段がある。
 
詠v花
 
1966 風に散る 花橘を 袖に受けて、
 君が御跡《みあと》と 思《しの》ひつるかも。
 
 風散《カゼニチル》 花橘叫《ハナタチバナヲ》 袖受而《ソデニウケテ》
 爲2君御跡1《キミガミアトト》 思鶴鴨《シノヒツルカモ》
 
【譯】風に散る橘の花を袖に受けて、あなたの御跡として慕つたことでした。
【釋】爲君御跡 キミガミアトト。
  キミガミタメト(元)
  キミオハセリト(考)
(123)  タテマツラムト(新考)
  ――――――――――
  君御爲跡《キミガミタメト》(代精)
  御爲君跡《キミガミタメト》(代精)
 爲は、トシテの意に使つているのだろう。君の殘した跡としての意で、その人の舊宅などで詠んだものでもあろうか。
【評語】思う人の高風をなつかしむ心がよく出ている。橘の花を袖に受けた風情が、まことにその高風を傳えるにふさわしい。
 
1967 かぐはしき 花橘を 玉に貫《ぬ》き、
 送らむ妹は みつれてもあるか。
 
 香細寸《カグハシキ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 玉貫《タマニヌキ》
 將v送妹者《オクラムイモハ》 三禮而毛有香《ミツレテモアルカ》
 
【譯】香氣のよい橘の花を玉として緒に貫いて送つてあげよう。そのわが妻は病み疲れているのだ。
【釋】將送妹者 オクラムイモハ。贈つてやろうとする妹はで、妹の方へ五月になれば、花橘を送つたものと見える。
 三禮而毛有香 ミツレテモアルカ。ミツレは、身の病み疲れるをいう。「三禮二見津禮《ミツレニミツレ》 片思男責《カタオモヒヲセム》」(卷四、七一九)。アルカは、感動の語法。
【評語】五月になつて橘の花を送ろうとして、愛人の病んでいるのを悲しんで詠んでいるのだろう。橘の花を愛して、玉の緒にもした人々の生活が窺われる。
 
1968 ほととぎす 來《き》鳴きとよもす、
 橘の 花散る庭を 見む人や誰《たれ》。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴響《キナキトヨモス》
 橘之《タチバナノ》 花散庭乎《ハナチルニハヲ》
 將v見人八孰《ミムヒトヤタレ》
 
【譯】ホトトギスの來て鳴き立てて橘の花の散る庭を、見ようとする人は誰でしよう。
(124)【釋】霍公鳥來鳴響 ホトトギスキナキトヨモス。橘の花散る庭を修飾している。連體句。
 花散庭乎 ハナチルニハヲ。ニハは屋前の廣場をいう。屋前をニハと讀むべき證の一つである。
 將見人八孰 ミムヒトヤタレ。見よう人は誰か、君こその意に誘つている。
【評語】庭前の敍述は、類型的だが美しい。五句の誘いも、見ム人モガモなどの表現よりは、誘いの氣もちがよく出ている。
 
1969 わが屋前《には》の 花橘は 散りにけり。
 悔《くや》しき時に 逢へる君かも。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 落尓家里《チリニケリ》
 悔時尓《クヤシキトキニ》 相在君鴨《アヘルキミカモ》
 
【譯】わたしの庭の橘の花は散つてしまつた。殘念な時にお目にかかつたあなたです。
【釋】悔時尓 クヤシキトキニ。花が散つてしまつて殘念な時節に。殘念な時に君に逢つた意である。
【評語】賓客に橘の花を見せられなかつたことを殘念がつている氣もちがよく出ている。それほどに自然を愛していたのだ。
 
1970 見渡せば 向ひの野|邊《べ》の 石竹《なでしこ》の、
 散らまく惜しも。
 雨なふりそね。
 
 見渡者《ミワタセバ》 向野邊乃《ムカヒノノベノ》 石竹之《ナデシコノ》
 落卷惜毛《チラマクヲシモ》
 雨莫零行年《アメナフリソネ》
 
【譯】見渡せば、向こうの野邊のナデシコが、散るのが惜しいことだ。雨よ降らないでくれ。
【釋】雨莫零行年 アメナフリソネ。行年は、ソネと讀むものの如くであるが、しか讀む理申はわからない。「雨莫零行年《アメナフリソネ》」(卷三、二九九)。
(125)【標語】見わたした野邊に咲いているナデシコの、雨に逢つて散ることを惜しんでいる。野趣の愛すべきものを感じている。ナデシコの散るというのは、似合わないようだ。
 
1971 雨間《あまま》關《か》けて 國見もせむを、
 故郷の 花橘は 散りにけむかも。
 
 雨間關而《アママカケテ》 國見毛將v爲乎《クニミモセムヲ》
 故郷之《フルサトノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 散家武可聞《チリニケムカモ》
 
【譯】雨のやんだまをかけて、國見もしようのに、故郷の橘の花は、散つてしまつただろうか。
【釋】雨間關而 アママカケテ。雨と雨とのあいだを懸けて。雨のやんだまに。
 國見毛將爲乎 クニミモセムヲ。クニミは、高い處に登つて國土を望見するをいう。天皇の國状視察などに多く使われるが、ここは觀光に使われている。
 故郷之 フルサトノ。フルサトは、住み古した里。何處ともわからないが、明日香だろう。
【評語】降り續いた梅雨のこやみを見て、故郷をおとずれようとして詠んでいる。永い雨のために、橘の花ももう散つてしまつたろうと推量している。故郷をなつかしむ心がよく出ている。
 
1972 野邊《のべ》見れば
 なでしこの花 咲きにけり。
 わが待つ秋は 近づくらしも。
 
 野邊見者《ノベミレバ》
 瞿麥之花《ナデシコノハナ》 咲家里《サキニケリ》
 吾待秋者《ワガマツアキハ》 近就良思母《チカヅクラシモ》
 
【譯】野邊を見れば、ナデシコの花は咲いている。わたしの待つ秋は、近づくらしい。
【釋】瞿麥之花 ナデシコノハナ。ナデシコは、一九七〇の石竹に同じ。本集では、石竹、瞿麥兩用し、また牛麥花とも書いている。
(126)【評語】ナデシコの花の咲くにつけて、秋の近づくのを喜んでいる。夏の暑さに堪えかねる心であり、また秋の花を愛する心でもあろうが、そうとはいわないで、ナデシコの花に寄せて美しい歌を成している。
 
1973 吾妹子に あふちの花は 散り過ぎず、
 今咲ける如《ごと》 在りこせぬかも。
 
 吾妹子尓《ワギモコニ》 相市乃花波《アフチノハナハ》 落不v過《チリスギズ》
 今咲有如《イマサケルゴト》 有與奴香聞《アリコセヌカモ》
 
【譯】わたしの愛人にあう。そのオウチの花は、散つてしまわないで、今咲いているように、咲いていてくれないかなあ。
【釋】吾妹子尓 ワギモコニ。枕詞。吾妹子に逢うというので、アフチに冠している。
 相市乃花波 アフチノハナハ。アフチは、オウチ科の落葉喬木、オウチ。五月頃淡紫色のちいさい花をつける。
 有與奴香聞 アリコセヌカモ。コセは、自分にそうなつてあらわれる意の助動詞で、多くは動詞アリに接續して使われている。
【評語】オウチの花のような目立たない花をも愛している。初句の枕詞も、なつかしみを出す上に役立つている。
 
1974 春日野の 藤は散りにて、
 何をかも
(127) 御狩《みかり》の人の 折りて插頭《かざ》さむ。
 
 春日野之《カスガノノ》 藤者散去而《フヂハチリニテ》
 何物鴨《ナニヲカモ》
 御狩人之《ミカリノヒトノ》 折而將2插頭1《ヲリテカザサム》 
 
【譯】春日野の藤は散つてしまつて、何をか、御狩の人が折つてかざすだろう。
【釋】藤者散去而 フヂハチリニテ。ニは完了の助動詞で、意を強調するに使われるが、ここなどは、散つてしまつてでよい。
 御狩人之 ミカリノヒトノ。ミカリは、狩獵が宮廷の催しであるがゆえにいう。ミは、敬語の接頭語。
【評語】藤の花が咲いていたら、それを插頭にして狩に出で立つだろうが、今は花の無い季節であるので、そのさびしさが歌われている。この狩は、藥獵で、五月五日に行われるのを原則とする。藥獵に關する最古の文獻として知られている日本書紀の推古天皇の十九年五月五日の記事に、藥獵にいで立つ廷臣が、みな位階に應じて、金、豹尾、鳥尾などの髻華《うず》をつけたことが傳えられている。美的生活として知られる狩獵であつたのである。
 
1975 時ならず 玉をぞ貫《ぬ》ける。
 卯の花の
 五月《さつき》を待たば 久しかるべみ。
 
 不v時《トキナラズ》 玉乎曾連有《タマヲゾヌケル》
 宇能花乃《ウノハナノ》
 五月乎待者《サツキヲマタバ》 可2久有1《ヒサシカルベミ》
 
【譯】その時でもなく玉を緒につらぬいている。卯の花が、五月を待つたら、久しいだろうから。
【釋】不時玉乎曾連有 トキナラズタマヲゾヌケル。五月には、玉につらぬくものだが、その時でないのに、玉を緒につらぬいている。卯の花が、枝に白く續いているのを説明している。
【評語】卯の花が、枝につらなつて咲いているのを、玉につらぬいたと見立てている。四月のうちに詠んだ作である。
 
(128)問答
 
1976 卯の花の 咲き散る岡ゆ、
 ほととぎす 鳴きてさ渡る。
 公は聞きつや。
 
 宇能花乃《ウノハナノ》 咲落岳從《サキチルヲカユ》
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而沙渡《ナキテサワタル》
 公者聞津八《キミハキキツヤ》
 
【譯】卯の花の咲いて散る岡を通つて、ホトトギスが鳴いて渡つて行きます。あなたは聞きましたか。
【釋】咲落岳從 サキチルヲカユ。咲きまた散る岡を通つて。作者のいる岡である。そこから外へではない。
【評語】平易な内容の歌である。人にも聞かせたいと思う心は、咲く花を人に見せたいと思う心と同じで、ホトトギスを愛するあまりに出ている。
 
1977 聞きつやと 君が問はせる
 ほととぎす、
 しののに沾《ぬ》れて 此《こ》ゆ鳴き渡る。
 
 聞津八跡《キキツヤト》 君之問世流《キミガトハセル》
 霍公鳥《ホトトギス》
 小竹野尓所v沾而《シノノニヌレテ》 從v此鳴綿類《コユナキワタル》
 
【譯】聞いたかとあなたのお尋ねになつたホトトギスは、しつとりと濡れて、此處を通つて鳴いて行きます。
【釋】君之問世流 キミガトハセル。トハセルは、問フの敬語トハスに、助動詞リの連體形の添つたもの。
 小竹野尓所沾而 シノノニヌレテ。雨か霧のために濡れたのだろう。シノノニは、しつとりと濡れる形容。
 從此鳴綿類 コユナキワタル。コユは、ここを通つて。このユの使い方に依つて、前の歌のヲカユの意味を理解すべきである。
(129)【評語】四句のシノノニ濡レテの敍述があつて、景趣が生きている。雨霧をいわないでも、たいして支障はない。
 
譬喩歌
 
1978 橘の 花散る里に 通ひなば、
 山ほととぎす 響《とよも》さむかも。
 
 橘《タチバナノ》 花落里尓《ハナチルサトニ》 通名者《カヨヒナバ》
 山霍公鳥《ヤマホトトギス》 將v令v響鴨《トヨモサムカモ》
 
【譯】橘の花の散る里に通つたなら、山ホトトギスは鳴き聲を立てるだろうかなあ。
【釋】將令響鴨 トヨモサムカモ。音を立てさせるだろうか。
【評語】山ホトトギスというのは、まだ人馴れない女子を譬えているのだろう。通つたら應ずるだろうかの意に解せられる。その女のいる處を、橘の花散る里と云つたのは、風情がある。
 
夏相聞
 
【釋】夏相聞 ナツノサウモニ。十七首の歌を録している。ホトトギスの歌は、寄鳥に三首、他に一首あるだけである。
 
寄v鳥
 
1979 春しあれば ※[虫+果]〓《すがる》なす野の
 ほととぎす、
(130) ほとほと妹に 逢はず來《き》にけり。
 
 春之在者《ハシアレバ》 酢輕成野之《スガルナスノノ》
 霍公鳥《ホトトギス》
 保等穗跡妹尓《ホトホトイモニ》 不v相來尓家里《アハズキニケリ》
 
【譯】春であれば蜂が音を立てる野のホトトギス。そのようにほとんど妹に逢わないで來るところだつた。
【釋】春之在者 ハルシアレバ。シは強意の助詞。春になるの意の、春サレバだつたら、こうは書かないだろう。
 酢輕成野之 スガルナスノノ。スガルは、ジガバチ。ナスは、蜂が羽音を立てるをいう。物音を立てるをナスということは、「時守之《トキモリノ》 打鳴鼓《ウチナスツヅミ》」(卷十一、二六四一)および「垣廬鳴《カキホナス》 人雖v云《ヒトハイヘドモ》」(同、二四〇五)によつて、鳴の字をナスと讀まれることで證明される。
 霍公鳥 ホトトギス。以上三句序詞。同音をもつて、ホトを引き起している。春だつたら蜂が鳴く野のホトトギスの意である。
 保等穗跡妹尓 ホトホトイモニ。ホトホトは、ホトンドの原形で、あぶなくそうなる意をあらわす副詞。「保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》 君香登於毛比弖《キミカトオモヒテ》」(卷十五、三七七二)。
【評語】同音を利用した調子の良さを持つている歌である。序詞は、幾分、「女郎花咲く野に生ふる白つつじ」(卷十、一九〇五)と云つたふうな、二重敍述の手段に出ている傾向にある。
 
1980 五月山《さつきやま》 花橘に、
 ほととぎす 隱《かく》らふ時に、
 逢へる君かも。
 
 五月山《サツキヤマ》 花橘尓《ハナタチバナニ》
 霍公鳥《ホトトギス》 隱合時尓《カクラフトキニ》
  逢有公鴨《アヘルキミカモ》
 
【譯】五月の山に、橘の花にホトトギスの隱れるように、かくれている時に、お逢いしたあなたですね。
【釋】五月山 サツキヤマ。五月の頃の山。
(131)隱合時尓 カクラフトキニ。ホトトギスが橘の花に隱れる時に。橘の樹にホトトギスの來る時をカクラフ時と云つている。そのように自分が隱れている時に。
【評語】四句までは、この好季節にの意を、具體的に描き、それを利用して、自分の家にこもつている時を描いている。君に逢つた喜びが巧みに表現されている。
 
1981 ほととぎす 來《き》鳴く五月の 短夜も、
 ひとりし宿《ぬ》れば 明かしかねつも。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴五月之《キナクサツキノ》 短夜毛《ミジカヨモ》
 獨宿者《ヒトリシヌレバ》 明不v得毛《アカシカネツモ》
 
【譯】ホトトギスの來て鳴く五月の短い夜も、ひとりで寐るので、明かしにくいことだ。
【釋】明不得毛 アカシカネツモ。容易に夜が明けないの意である。不得は、ユズともカヌとも讀まれるが、これなどは、意をもつてカネツと讀まれる例である。
【評語】ひとり寐て、短い夏の夜も明かしかねる心である。ホトトギス來鳴クという短夜の敍述があつて、はじめて歌に生氣がある。その説明は平凡だが、ホトトギスなどの鳴く夜だという氣もちは味わうべきだ。
 
寄v蝉
 
1982 茅蝉《ひぐらし》は 時と鳴けども、
 戀ふるにし
 手弱女《たわやめ》我《われ》は 時わかず泣く。
 
 日倉足者《ヒグラシハ》 時常雖v鳴《トキトナケドモ》
 於v戀《コフルニシ》
 手弱女我者《タワヤメワレハ》 不v定哭《トキワカズナク》
 
【譯】茅蝉は、今が時だとばかり鳴くけれども、戀のために、かよわい女であるわたしは、おちつかないで泣(132)いている。
【釋】時常雖鳴 トキトナケドモ。今が鳴く時節だと鳴いているけれども。
 於戀 コフルニシ。
  ワガコフル(元)
  コフルニシ(定本)
  ――――――――――
  我戀《ワガコフル》(西)
  我戀《ワレコヒニ》(童)
  君戀《キミコフル》(考)
  物戀《モノコフル》(略)
  於君戀《キミニコフル》(新考)
  物戀《モノゴヒニ》(新訓)
 於戀は、古本系統の字面だが、コフルニシと、シを讀み添える外はあるまい。「孤布流爾思《コフルニシ》 情波母要奴《ココロハモエヌ》」(卷十七、三九六二)。元暦校本、於の右に物イとあり、仙覺本は我戀である。モノコフルでは、戀の目標が不定になり、ワガコフルでは、下にワレがあるので、うち合わない。
 不定哭 トキワカズナク。
  サタメカネツモ(元)
  サタマラスナク(西)
  トキナラズナク(童)
  トキジクニナク(考)
  トキワカズナク(略)
  イサヨヒニナク(總索引)
  ――――――――――
  時不定哭《トキワカズナク》(代精)
(133) 不定は、「妹爾戀哉《イモニコフレヤ》 時不v定鳴《トキワカズナク》(卷六、九六一)の例があるので、トキワカズナクと讀まれている。二句の時ト鳴ケドモに對する句としては、それがよい。サダマラズでは、意を成さないめである。
【評語】ヒグラシは、夏の終りから鳴くので、その時を鳴くというのであろう。季節の風物を點じて、戀に泣くわが姿を描いている。タワヤメ我ハとことわつたのが、わざとらしいが、全體としては一往まとまつている。
 
寄v草
 
1983 人|言《ごと》は 夏野の草の 繁くとも、
 妹と吾とし 携《たづさ》はり宿《ね》ば。
 
 人言者《ヒトゴトハ》 夏野乃草之《ナツノノクサノ》 繁友《シゲクトモ》
 妹與v吾師《イモトワレトシ》 携宿者《タヅサハリネバ》
 
【譯】人の言葉は、夏の野の草のように繁くあつても、あなたとわたしとが共に寐たらそれでよいのだ。
【釋】人言者 ヒトゴトハ。ヒトゴトは、他人の言。うるさい人の口である。
 夏野乃草之 ナツノノクサノ。一句、譬喩の插入句。
 携宿者 タヅサハリネバ。この下に、よしの如き語が省略されている。
【評語】思い入つた心が歌われている。譬喩はよくあてはまつているが、それだけに概念的に落ちている。
 
1984 この頃の 戀の繁けく、
 夏草の 苅り掃《はら》へども
 生ひしくが如。
 
 廼者之《コノゴロノ》 戀乃繁久《コヒノシゲケク》
 夏草乃《ナツクサノ》 苅掃友《カリハラヘドモ》
 生布如《オヒシクガゴト》
 
【譯】この頃の戀の繁くあることは、夏草が苅り掃つても、あとからあとから生えるようだ。
(134)【釋】戀乃繁久 コヒノシゲケク。シゲケクは、繁くあること。
 生布如 オヒシクガゴト。オヒシクは、續いて生えるをいう。續々として生えるようだ。
【評語】譬喩が巧みだ。殊に夏草の續々として生えるという、活動態を敍しているのがよい。それで歌が生きている。戀の繁くあることに、夏草を配したこと自體は平凡だが、ちよつとしたところで違つてくる。
 
1985 眞田葛《まくず》延《は》ふ 夏野の繁く、
 かく戀ひば
 まことわが命 常ならめやも。
 
 眞田葛延《マクズハフ》 夏野之繁《ナツノノシゲク》
 如是戀者《カクコヒバ》
 信吾命《マコトワガイノチ》 常有目八面《ツネナラメヤモ》
 
【譯】クズの這つている夏の野の繁くあるように、かように戀をしたら、ほんとうにわたしの命は、變わらずにあり得ないだろう。
【釋】眞田葛延夏野之繁 マクズハフナツノノシゲク。夏野の繁くあることを敍して譬喩としている。夏野の繁くあるようにで、これを三句に受けてカクと云つている。これはこの歌の類歌に「荒玉之《アラタマノ》 年緒長《トシノヲナガク》 如此戀者《カクコヒバ》 信吾命《マコトワガイノチ》 全有目八面《マタカラメヤモ》」(卷十二、二八九一)に照らして、知られる所である。但し卷の十二のは譬喩ではない。
 常有目八面 ツネナラメヤモ。ツネは、不變。
【評語】これも夏野の繁くあることを譬喩にしている。前掲の卷の十二の歌をもとにして歌つたようである。
 
1986 吾のみや かく戀すらむ。
 かきつばた 丹《に》つらふ妹は
 いかにかあらむ。
 
 吾耳哉《ワレノミヤ》 如是戀爲良武《カクコヒスラム》
 垣津旗《カキツバタ》 丹頬合妹者《ニツラフイモハ》
 如何將v有《イカニカアラム》
(135)【譯】わたしばかりがこのように戀をしているのだろうか。カキツバタのように美しいあの子は、どうなのだろう。
【釋】吾耳哉 ワレノミヤ。ヤは、疑問の係助詞。われのみかと凝つている。
 如是戀爲良武 カクコヒスラム。ラムは、推量の助動詞。句切。
 垣津旗 カキツバタ。枕詞。譬喩によつて、丹ツラフに冠している。垣津旗は、垣の中の旗の義で、この花の形状から出た名であろう。正倉院文書にも垣津幡の字が使われている。
 丹頬合妹者 ニツラフイモハ。ニツラフは、丹色に出る意で、紅顔の義に解せられているが、ここにカキツバタを枕詞にしているによつても、ただ美しいのにいうことがわかる。これに接頭語サを添えて、サニツラフともいう。「垣幡《カキツバタ》 丹頬經君叫《ニツラフキミヲ》」(卷十一、二五二一)。
【評語】自分の戀の繁くあるのを擧げて、相手の女の心はどうだろうかと案じている。自分ばかりがこのような戀をしているのだろうかと顧みている。カキツバタの枕詞が、よく利いており、これによつて季節を語り、相手の美しさを描き、作者の生活している世界を寫している。
 
寄v花
 
1987 片搓《かたよ》りに 絲をぞわが搓《よ》る。
 わが夫子が 花橘を
 貫《ぬ》かむと思《も》ひて。
 
 片搓尓《カタヨリニ》 絲叫曾吾搓《イトヲゾワガヨル》
 吾背兒之《ワガセコガ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》
 將v貫跡母日手《ヌカムトモヒテ》
 
【譯】一方よりに絲をわたくしはよつています。あなたの橘の花を、それにつらぬこうと思いまして。
(136)【釋】片搓尓 カタヨリニ。カタヨリは、一方の向きにだけ絲に搓りをかけること。絲のよりは一方にきまつているが、ひたすらによる意に、特にいうのだろう。片思いの心をこれに寄せている。
 花橘乎 ハナタチバナヲ。橘の花のつぼみを玉として絲につらぬこうというのであるが、それは譬喩で、相手の男の心をたとえている。
 將貫跡母日手 ヌカムトモヒテ。特にモヒテを假字がきにしている。
【評語】橘の花を玉として緒につらぬいて愛した生活から生まれている歌である。片よりに搓ると云つたところが、ねらいである。
 
 
1988 鶯の 通ふ垣根の 卯の花の、
 うき事あれや、君が來まさぬ。
 
 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 往來垣根乃《カヨフカキネノ》 宇能花之《ウノハナノ》
 厭事有哉《ウキコトアレヤ》 君之2不來座1《キミガキマサヌ》
 
【譯】鶯が往來をする垣根に咲いている卯の花のように、うい事があつてか、あなたがおいでなさらない。
【釋】宇能花之 ウノハナノ。以上三句、序詞。同音によつてウキを引き起している。
 厭事有哉 ウキコトアレヤ。ウキコトは、いやな事、不都合、不愉快なこと。アレヤは、疑問の條件法。あなたが嫌うような覺えはないのだがと深く凝う心である。
【評語】同音を利用した技巧が、禍を成して、歌が浮調子になつている。鶯は、春の鳥とされているが、ここに卯の花に配してあるのは、描寫である。
【參考】類歌。
  ほととぎす鳴く峰《を》の上の卯の花のうき事あれや君が來まさぬ(卷八、一五〇一)
 
(137) 1989 卯の花の 咲くとはなしに
 ある人に、
 戀ひや渡らむ。
 片念《かたも》ひにして。
 
 宇能花之《ウノハナノ》 開登波無二《サクトハナシニ》
 有人尓《アルヒトニ》
 戀也將v渡《コヒヤワタラム》
 獨念尓指天《カタモヒニシテ》
 
【譯】卯の花の咲くようにはない人に、戀して過すことか。片思いであつて。
【釋】宇能花之開登波無二 ウノハナノサクトハナシニ。卯の花の咲くとは、譬喩で、先方の人が、自分に好意を持つことをたとえている。そのようになく。
 戀也將度 コヒヤワタラム。ヤは、疑問の係助詞。ワタラムは、日を送るだろう。句切。
【評語】譬喩が巧みである。片思いに日を過そうとしている歎きが感じられる。但し五句は、説明し過ぎている。卯ノ花ノ咲クトハナシニアル人で、既に十分ではないか。
 
1990 吾こそは 憎《にく》くもあらめ。
 わが屋前《には》の 花橘を
 見には來《こ》じとや。
 
 吾社葉《ワレコソハ》 憎毛有目《ニククモアラメ》
 吾屋前之《ワガニハノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》
 見尓波不v來鳥屋《ミニハコジトヤ》
 
【譯】わたくしこそは憎くもあるでしよう。しかしわたくしの庭前の橘の花を見には來ないというのですか。
【釋】見尓波不來鳥屋 ミニハコジトヤ。見にこないというのか。トヤの下に、イフ、スルの如き語が省略されている。
【評語】かなり突つ込んで歌つている。初二句はすこしいや味に墮している。
 
(138)1991 ほととぎす 來鳴き響《とよも》す 岡邊なる
 藤浪見には、君は來《こ》じとや。
 
 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴動《キナキトヨモス》 岡邊有《ヲカベナル》
 藤浪見者《フヂナミミニハ》 君者不v來登夜《キミハコジトヤ》
 
【譯】霍公鳥の來て鳴き立てる岡邊の藤の花を見には、あなたはこないというのですか。
【釋】來鳴動 キナキトヨモス。連體句。岡を修飾している。
【評語】前の歌と同型で、前の歌のように露骨でなく、おだやかである。ホトトギスと藤の花との取り合わせもよい。
 
1992 隱《こも》りのみ 戀ふれば苦し。
 なでしこの 花に吹き出でよ。
 朝《あさ》な朝《さ》な見む。
 
 隱耳《コモリノミ》 戀者苦《コフレバクルシ》
 瞿麥之《ナデシコノ》 花尓開出與《ハナニサキイデヨ》
 朝旦將v見《アサナサナミム》
 
【譯】心の中でばかり思つているのは苦しい。ナデシコのように、花に咲き出てください。毎朝見ましよう。
【釋】隱耳 コモリノミ。心の中でのみ。
 瞿麥之 ナデシコノ。譬喩。ナデシコの如く。
 花尓開出與 ハナニサキイデヨ。花として咲き出よというので、表にあらわして返事せよの譬喩。句切。
【評語】譬喩がよく當つている。ナデシコを點出したのも、相手にふさわしい。
【参考】類句、こもりのみ戀ふれば苦し。
  こもりのみ戀ふれば苦し。山の端ゆ出で來る月の顯《あらは》さばいかに(卷十六、三八〇三)
 
1993 外のみに 見つつを戀ひむ。
(139) 紅《くれなゐ》の 末《すゑ》採《ツ》む花の 色にいでずとも。
 
 外耳《ヨソノミニ》 見筒戀牟《ミツツヲコヒム・ミツツコヒナム》
 紅乃《クレナヰノ》 末採花之《スヱツムハナノ》 色不v出友《イロニイデズトモ》
 
【譯】よそにばかり見ながら思つておりましよう。末を採むベニバナのように、表面に出さないでも。
【釋】見筒戀牟 ミツツヲコヒム。ミツツヤコヒム(元)、ミツツコヒナム(代精)、ミツツヲコヒム(代精)。文字表項が不完全で、何かの音を補わねばならない。歌としては、ヲを補うのが、心が集中されてよい。讀法としては「眞毛妹之《マコトモイモガ》 手二所v纏牟《テニマカレナム》」(卷四、七三四)の如き例があつて、ナを補うのが穏當である。句切。
 紅乃末採花之 クレナヰノスエツムハナノ。クレナヰノウレツムハナノ(略、宣長)。クレナヰはベニバナ。キク科の二年生草本。その花から臙脂《えんじ》を採るので、末つむ花という。花についてはウレといわないからスヱがよい。この二句、譬喩によつて色ニイヅの序詞となつている。
【評語】譬喩が美しい。作者は男子で、相手の女をベニバナに思い寄せている。
 
寄v露
 
1994 夏草の 露分《つゆわ》け衣《ごろも》 著《つ》けなくに、
 わが衣手の 干《ふ》る時もなき。
 
 夏草乃《ナツクサノ》 露別衣《ツユワケゴロモ》 不v著尓《ツケナクニ》
 我衣手乃《ワガコロモデノ》 干時毛名寸《フルトキモナキ》
 
【譯】夏草の露を分けて行く著物を著たのではないが、わたしの著物のかわく時が無い。
(140)【釋】露別衣 ツユワケゴロモ。草葉の露を分けて行く衣服。
 干時毛名寸 フルトキモナキ。フルは、動詞乾ル。上二段活でフルの形となる。涙でかわく時がないのである。
【評語】上三句の敍述が美しい。涙でかわく時がないという平凡な内容が、これで生きて感じられる。
 
寄v日
 
1995 六月《みなつき》の 地《つち》さへ割《さ》けて 照る日にも、
 わが袖|乾《ひ》めや。
 君に逢はずして。
 
 六月之《ミナツキノ》 地副割而《ツチサヘサケテ》 照日尓毛《テルヒニモ》
 吾袖將v乾哉《ワガソデヒメヤ》
 於v君不v相四手《キミニアハズシテ》
 
【譯】六月の土までも裂けて照る日にも、わたしの袖はかわかないでしょう。君に逢わないでは。
【釋】地副割而 ツチサヘサケテ、かわき切つて土地の裂けることを敍して、照る日を説明している。
【評語】上三句の烈日の敍述が強いひびきを持つている。これも、この三句で生きている作である。夏の烈日を歌つた歌として、集中珍しい作品である。
 
秋雜歌
 
【釋】秋雜歌 アキノザフカ。二百四十三首の歌を録しているが、はじめに七夕の歌九十八首(内三十八首は人麻呂集所出)を收めてあるのが目立つ。人麻呂集所出の歌は、なお詠花、詠黄葉、詠雨の各項にも分載されている。題は七夕のほかは、詠何となつている。
 
(141)七夕
 
【釋】七夕 ナヌカノヨ。七月七日の夜である。この夕べ、平常は天の川を中にして隔たつている牽牛星と織女星が會うという。これにもとづいて雅會が催される。(卷の八、一五一八、題詞參照)。
 
1996 天の河 水さへに照る。
 舟|競《ぎほ》ひ 舟こぐ人に 妹と見えきや。
 
 天漢《アマノガハ》 水左閇而照《ミヅサヘニテル》
 舟競《フナギホヒ》 舟人《フネコグヒトニ》 妹等所見v寸哉《イモトミエキヤ》
 
【譯】天の川は水までも照り輝いている。船を競つて船こぐ人に、あれは妹と見えたか。
【釋】天漢 アマノガハ、漢は、天河をいい、一字だけでも使用されている。ここは熟字として天の字を添えている。銀河である。
 水左閉而照 ミヅサヘニテル。
  ミヅサヘニテル(西)
  ミヅサヘテテル(新訓)
  ――――――――――
  水底左閉而照《ミナソコサヘニヒカル》(古義)
 諸説のある所である。而をニの假字に當てる例は、下に「然敍手而在《シカゾテニアル》」(卷十、二〇〇五)とある。水までも照つている由で、織女星が、川岸に出ているをいう。句切。
 舟競 フナギホヒ。勢いよく船を進めるをいう。「舟競《フナギホヒ》 夕河渡《ユフカハワタル》」(巻一、三六)。これも人麻呂の作品である。
(142) 舟人 フネコグヒトニ。人麻呂集の習として、極端に字を節約するので、何とでも讀まれるが、フネコグヒトニあたりが無難であろう。舟こぐ人は、牽牛星をさす。牽牛皇が船をこいで天の川を渡るとする構想である。
 妹等所見寸哉 イモトミエキヤ。イモトミヘキヤ(西)、イモラミエキヤ(代精)。河岸に出て水さえ照つている人は、妹と見えたかの意。ヤは、疑問の助詞。反語ではない。
【評語】七夕の歌は、その性質上、多くは題詠作爲の歌になるのは、やむを得ない。この歌も、そういう誇張のところがあるが、想像力はよく働いていて、一往天上の情景を描きなしている。
 
1997 ひさかたの 天の河原に、
 ぬえ鳥の うら歎《な》けましつ。
 すべなきまでに。
 
 久方之《ヒサカタノ》 天漢原丹《アマノガハラニ》
 奴延鳥之《ヌエドリノ》 裏歎座津《ウラナケマシツ》
 乏諸手丹《スベナキマデニ》
 
【譯】大空の天の川原で、ぬえ鳥のように、心で泣いておいでになつた。しかたのないまでに。
【釋】奴延鳥之 ヌエドリノ。枕詞。譬喩によつて、ウラナケに冠する。
 裏歎座都 ウラナケマシツ。ウラナケは、心中に泣かれるの意。「奴要子鳥《ヌエコドリ》 裏歎居者《ウラナケヲレバ》」(卷一、五)、「奴延鳥《ヌエドリノ》 浦嘆居《ウラナケヲリト》」(卷十、二〇三一)、「奴要鳥能《ヌエドリノ》 宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》」(卷十七、三九七八)など。これは織女星のふるまいを敍している。句切。
 乏諸手丹 スベナキマデニ。乏は、澤瀉博士の説に、スベナキと讀むべしとする。「及v乏《スベナキマデニ》」(卷九、一七〇二)參照。諸手は、左右手、二手などと同じく、眞手の義をもつて、マデに當てて書いている。
【評語】織女星の上を詠んでいる。その牽牛星を慕つて歎いている樣の敍述である。牽牛星の心になつて詠んでいるのだろう。歎いているのを見て、たまらなくなつた情である。
 
(143)1998 わが戀を 嬬《つま》は知れるを、
 行く船の 過ぎて來《く》べしや。
 言も告《つ》げなむ。
 
 吾戀《ワガコヒヲ》 嬬者知遠《ツマハシレルヲ》
 往船乃《ユクフネノ》 過而應v來哉《スギテクベシヤ》
 事毛告火《コトモツゲナム》
 
【譯】わたしの戀を、妻は知つているのを、行く船が通り過ぎてくることはできない。事情も告げよう。
【釋】嬬者知遠 ツマハシソルヲ。ツマは、夫の意とする解もあるが、織女星のこととしても通ずるから、文字通りに解するのが順當である。
 往船乃 ユクフネノ。牽牛星自身の乘つている船が。
 過而應來哉 スギテクベシヤ。スギテは、通過して。ヤは反語。通過してくるべきではない。句切。
 事毛告火 コトモツゲナム。コトは事情。火は五行の南方に相當するので、ナムの音に借りて書いている。「二々火四吾妹《シナムヨワギモ》」(卷十三、三二九八)。
【評語】牽牛星の心になつて詠んでいる。船に乘つて天の川を往來している意である。説明的で情趣に乏しい憾《うら》みがある。
 
1999 赤《あか》らひく 敷妙の子を しば見れば、
 人妻ゆゑに 吾《われ》戀ひぬべし。
 
 朱羅引《アカラヒク》 色妙子《シキタヘノコヲ》 數見者《シバミレバ》
 人妻故《ヒトヅマユヱニ》 吾可2戀奴1《ワレコヒヌベシ》
 
【譯】赤らんでいる美しい子を度々見れば、人妻であるのに、わたしは戀をしそうだ。
【釋】朱羅引 アカラヒク。枕詞。ラは接尾語で、赤ラ孃子、赤ラ小船などいう。ヒクは、色の行き及んでいるをいう。朝、日、月、肌などに冠しているが、ここは容顔の紅潮している意に冠している。
(144) 色妙子 シキタヘノコヲ。シキタヘは、緻密な織物をいい、ここは譬喩として、和柔の子の意をあらわしている。「布細乃《シキタヘノ》 宅乎毛造《イヘヲモツクリ》」(卷三、四六〇)などの用法に通うものがある。イロタヘノコヲ(拾穂)の訓のあるのは、赤ラヒクの句に引かれたものであるが、イロタヘの語は、他に見えない。
 人妻故 ヒトヅマユヱニ。織女星は、牽牛星の妻であるから、第三者の立場としてヒトヅマと言つている。ユヱニは、その原因をいい、それだのにの意をあらわす。人妻であるのだのに。
 吾可戀奴 ワレコヒヌベシ。奴は、字音假字として書き添えてある。
【評語】第三者として、織女星の美を歌つている。赤ラヒクシキタヘノ子という特殊な敍述が、その美しさをよく描いている。
 
2000 天の河 安《やす》の渡《わた》りに 船|浮《う》けて、
 秋立つ待つと 妹に告げこそ。
 
 天漢《アマノガハ》 安渡丹《ヤスノワタリニ》 船浮而《フネウケテ》
 秋立待等《アキタツマツト》 妹告與具《イモニツゲコソ》
 
【譯】天の河の安の渡りに船を浮かべて、秋になるのを待つていると、妻に告げてください。
【釋】安渡丹 ヤスノワタリニ。高天の原にある川の名を、天の安の川という。それでここに安の渡りと云つている。ワタリは、渡るべき處。
 秋立待等 アキタツマツト。アキタツは秋になるをいう。七月になるのを待つのである。
 妹告與具 イモニツゲコソ。與具をコソに當てて書いている。略解に乞其の誤りとし、なお具を其の誤りとする説が多い。與は一字だけでもコソに當てて使用してあり、その意は、與えよの義によるものと思われる。よつて更に具を添えて、與えそなえよの義で使つているのだろう。「眞福在與具《マサキクアリコソ》」(卷十三、三二五四)。
【評語】牽牛の意に代つて詠んでいる。平明な内容の歌であつて、情熱に乏しい。
 
(145)2001 蒼天《おほぞら》ゆ 通ふ吾すら、
 汝《な》がゆゑに 天の河路を
 なづみてぞ來し。
 
 從2蒼天1《オホゾラユ》 往來吾等須良《カヨフワレスラ》
 汝故《ナガユヱニ》 天漢道《アマノガハヂヲ》
 名積而叙來《ナヅミテゾコシ》
 
【譯】大空を通つて往來するわたしなのだが、あなたゆえに、天の川の道を骨をおつてきた。
【釋】從蒼天往來吾等須良 オホゾラユカヨフワレスラ。星は天空を飛行することのできるものとしている。オホゾラユは、大空を通つて。
 名積而敍來 ナヅミテゾコシ。ナヅミテは、苦勞して、骨を折つて。
【評語】織女ゆえに苦勞して天の川の道を通う牽牛の心が詠まれている。勞苦を織女に訴える形になつている。初二句の敍述が特殊で、そういう者だがの意があらわれている。「淺|小竹《しの》原 腰なづむ。空は行かず 足よ行くな」(古事記三六)の趣である。「上つ毛野安蘇の川原よ石ふまず空ゆと來ぬよ。汝が心|告《の》れ」(卷十四、三四二五)はこの逆である。
 
2002 八千戈《やちほこ》の 神の御世より、
 ともし嬬《づま》 人知りにけり。
 繼ぎてし思へば。
 
 八千戈《ヤチホコノ》 神自2御世1《カミノミヨヨリ》
 乏※[女+麗]《トモシヅマ》 人知尓來《ヒトシリニケリ》
 告思者《ツギテシオモヘバ》
 
【譯】八千戈の神の御代から、愛している妻を、人が知つている。續いて思つているので。
【釋】八千戈神自御世 ヤチホコノカミノミヨヨリ。八千戈の神は、大國主の神の別名と傳える。遠い神代から。「八千桙之《ヤチホコノ》 神之御世自《カミノミヨヨリ》」(卷六、一〇六五)。
(146) 乏嬬 トモシヅマ。トモシは、類すくなく愛せられる意の形容詞。ここは逢うことのまれな妻の意に織女星のことをいう。(卷十、二〇〇四參照)。
 告思者 ツギテシオモヘバ。動詞告グは、下二段活として解されているが、ここにはツギの音に借りている。「語告《カタリツギ》 言繼將v往《イヒツギユカム》」(卷三、三一七)の例もある。これは告グはもと繼グと同語で、四段に使用されていたので、かような用法が殘つたのだろう。
【評語】七夕の事の起原は、神代にありとする思想から、この歌を詠んでいる。これも牽牛の心になつて詠んでいる。愛する妻を人に知られたくないと思う作者たちの心が、牽牛の語を借りてあらわされている。初二句のかかりは、大がかりで、いかにも天上の戀らしい表現である。
 
2003 わが戀ふる にほへる面《おも》わ、
 今夕《こよひ》もか 天の河原に 石枕《いはまくら》纏《ま》く。
 
 吾等戀《ワガコフル》 丹穗面《ニホヘルオモワ》
 今夕母可《コヨヒモカ》 天漢原《アマノガハラニ》 石枕卷《イハマクラマク》
 
【譯】わたしの思つている美しい顔の子は、今夜は、天の河の河原で、石を枕に寐るであろうか。
【釋】丹穗面 ニホヘルオモワ。ニノホノオモワとも讀まれる。これは「爾能保奈須《ニノホナス》 意母提乃宇倍爾《オモテノウヘニ》」(卷五、八〇四)とあるを根據としている。しかもまた一方には、同じく人麻呂集所出の歌に「著丹穗哉《シルクニホハバヤ》 人可v知《ヒトノシルベキ》」(卷七、一二九七)の如く、丹穗を動詞ニホフに當てて書いたと見られるものがあり、また丹穗日、丹穗比など、活用形を送つた例は更に多數である。よつてここもニホヘルオモワと讀むを妥當とすべきである。織女の美貌をいい、その主である織女星をいう。
 今夕母可 コヨヒモカ。モは強意に添える。今夜はかである。
 石枕卷 イハマクラマク。イハマクラ、石の枕。マクは、枕をする意。牽牛星と逢わないで、ひとり寐るさ(147)ま。
【評語】織女が、夫を待ちわびて、天の川原で寐るだろうという意の歌で、牽牛星になつて詠んでいる。別れていて戀う心が描かれている。
 
2004 おのが※[女+麗]《つま》 ともしき子らは、
 泊《は》てむ津の 荒礒《ありそ》枕《ま》きて寐む。
 君待ちがてに。
 
 己※[女+麗]《オノガツマ》 乏子等者《トモシムコラハ》
 竟津《ハテムツノ》 荒礒卷而寐《アリソマキテネム》
 君待難《キミマチガテニ》
 
【譯】わたしの妻である逢うことの稀なあの子は、この船の行く先の船つき場で、荒礒を枕にして寐るだろう。夫を待ちかねて。
【釋】己※[女+麗] オノガツマ。自分の妻。嬬の字を使用しているので、やはり織女星のことと解すべきである。
 乏子等者 トモシキコラハ。トモシムコラハ(略、宣長)。トモシキコラは、二〇〇二のトモシヅマに同じ。逢うことのまれな妻。
 竟津 ハテムツノ。
  アラソヒツ(西)
  アラソツノ(童)
  ハツルツノ(略、宣長)
  ハテムツノ(古義)
  ――――――――――
  舟竟津《フネハテツ》(代初)
  立見津《タチテミツ》(考)
 牽牛の船の泊てむ津のであろう。
 君待難 キミマチガテニ。キミは、自分すなわち牽牛を、織女の立場から云つている。
(148)【評語】牽牛に代つて、織女の有樣を想像して詠んでいるが、五句の、君待チガテニの句には混雜が感じられる。但し訓法にもなお問題があり、まだ正しく讀まれていないのだろう。
 
2005 天地と 別れし時ゆ、
 おのが※[女+麗]《つま》 然《しか》ぞ手にある。
 秋待つ、吾は。
 
 天地等《アメツチト》 別之時從《ワカレシトキユ》
 自※[女+麗]《オノガツマ》 然叙《シカゾ》手而在《テニアル・モチタル》
 金待吾者《アキマツワレハ》
 
【譯】天と地と別れた時からこの方、わたしの妻は、かようにきまつているのだ。わたしは秋を待つている。
【釋】天地等別之時從 アメツチトワカレシトキユ。太古に天と地と一體であつたものが、やがて天と地と分かれた。その時からこのかた。むかし天と地とが分かれたというのは、日本書紀の開闢説で、大陸の哲學説によるものとされている。この歌は、人麻呂歌集所出で、日本書紀結集以前の作と考えられるが、當時既に、天地の初めに關して、かような思想が存在していたことを語つている。このような思想が、古くから日本にもあつたのだろう。ユは、その時からしてこなたへ。
 然敍手而在 シカゾテニアル。
  シカソテニアル(西)
  ――――――――――
  然取手而在《シカチギリケル》(考)
  然敍恃而《シカゾタノミテ》(新考)
 諸説があり決定しかねる。而をニの音に借りたことは、前出一九九六の歌のほかに確たる例が無く、危まれる。手而在を、義をもつてモチタルと讀むべきか。かようにわが妻としてある意。句切。
 金待吾者 アキマツワレハ。金は、五行の一で、季節の秋に當るので、借り用いている。アキマツで切る。
【評語】八千戈ノ神ノ御世ヨリの歌と同じく、大がかりに天地の初めから説いているのが、七夕の歌らしい所(149)である。牽牛星に代つて読んでいるが、訓法に疑義が存するのは遺憾である。
 
2006 彦星は 嘆かす※[女+麗]《つま》に、
 言だにも 告《つ》げにぞ來つる。
 見れば苦しみ。
 
 孫星《ヒコボシハ》 嘆須※[女+麗]《ナゲカスツマニ》
 事谷毛《コトダニモ》 告尓敍來鶴《ツゲニゾキツル》
 見《ミレバ・ミネバ》者苦弥《クルシミ》
 
【譯】牽牛星は、歎いている妻に、言葉だけでも告げに來たのだ。見ると苦しいので。
【釋】嘆須※[女+麗] ナゲカスツマニ。ナゲカスは嘆クの敬語法。
 見者苦弥 ミレバクルシミ。見ると苦しいのでというのは、變であるから、打消の字はないが、ミネバであるかもしれない。
【評語】牽牛星は、今はただおとずれをするだけに來たのだという内容で、七日の夕以外の夜について歌つている。これは第三者として、取り扱つている。
 
2007 ひさかたの 天《あま》つ印と、
 水無《みな》し河《がは》、 隔てて置きし
 神代し恨めし。
 
 久方《ヒサカタノ》 天印等《アマツシルシト》
 水無川《ミナシガハ》 隔而置之《ヘダテテオキシ》
 神世之恨《カミヨシウラメシ》
 
【譯】これが天のしるしだと、水の無い川を隔てに置いた神代がうらめしい。
【釋】天印等 アマツシルシト。これが天である特徴として。天の川の横たわつていることをいう。
 水無川 ミナシガハ。水の無い川。天の川をいう。天上の川だから水無シ川という。船で渡るという思想とは矛盾している表現である。
(150) 隔而置之 ヘダテテオキシ。牽牛と織女とのあいだに隔てておいた。
【評語】遠い神代に、天上でも天の川を隔てに置いたのだとしている。山川などが神代に作られたとする傳説を、天上にも持ち出したものである。これも七夕の傳説であるだけに、神代を出したのである。當事者に代つて詠んだ歌とも取れる。
 
2008 ぬばたまの 夜霧隱《よぎりがく》りにお 遠くとも
 妹が傳《つて》言 早く告げこそ。
 
 黒玉《ヌバタマノ》 宵霧隱《ヨギリガクリニ》 遠鞆《トホクトモ》
 妹傳《イモガツテゴト》 速告與《ハヤクツゲコソ》
 
【譯】くらい夜の霧にこもつて遠いにしても、妻の傳言は早く告げてください。
【釋】宵霧隱 ヨギリガクリニ。ヨギリゴモリテ(西)。夜の霧の中に隱れて。
 妹傳 イモガツテゴト。
  イモシツタヘハ(元)
  イモガツカヒハ(代初)
  イモガツタヘハ(考)
  ――――――――――
  妹傳言《イモガツテゴト》(古義)
 妹からの傳えごとは。イモは織女星をさす。傳の字だけで、ツテゴトと讀むのだろう。
【評語】牽牛星に代つて詠んでいる。織女星のもとから使の來る場合を想像している。初二句に若干の描寫がある。早く妻の傳言を聞きたいと思う心は、相當に感じられる。
 
2009 汝《な》が戀ふる 妹の命《みこと》は、
 飽くまでに 袖|振《ふ》る見えつ。
(151) 雲|隱《がく》るまで。
 
 汝戀《ナガコフル》 妹命者《イモノミコトハ》
 飽足尓《アクマデニ》 袖振所v見都《ソデフルミエツ》
 及2雲隱1《クモガクルマデ》
 
【譯】あなたの思つている妻の君は、滿足するまでに袖を振つているのが見えた。あなたが雲に隱れて見えなくなるまで。
【釋】妹命者 イモノミコトハ。ミコトは、尊稱。妹の君は。
 飽足尓 アクマデニ。アクマデニ(元)、アキタリニ(童)。足は、「毎v日聞跡《ヒゴトニキケド》 不v足聲可聞《アカヌコヱカモ》」(卷十、二一五七)など、アク(飽)にあてて書いているものと見られるものがある。ここも飽足でアクにあてているのだろう。飽き足るまでに、滿足するまでに。
 及雲隱 クモガクルマデ。牽牛が遠ざかつて見えなくなるまで。
【評語】牽牛が別れ去つて遠ざかつて行くのに、別れを惜しんで織女が袖を振つている樣を詠んでいる。想像をほしいままにしているが、別離の情景は描かれている。
 
2010 夕星《ゆふづつ》も 通ふ天道《あまぢ》を、
 何時《いつ》までか、 仰ぎて待たむ。
 月人壯子《つくひとをとこ》
 
 夕星毛《ユフヅツモ》 往來天道《カヨフアマヂヲ》
 及2何時1鹿《イツマデカ》 仰而將v待《アフギテマタム》
 月人壯《ツクヒトヲトコ》
 
【譯】夕方の星の通う天の道を、何時までも仰いで待つていることか。月の男を。
【釋】夕星毛 ユフヅツモ。ユフヅツは、夕の星で、金星をいう。ユフは夕方、ツツは神靈の義。
 往來天道 カヨフアマヂヲ。アマヂは、天の通路。
 月人壯 ツクヒトヲトコ。月を擬人化している。
(152)【評語】七夕の夜の歌だが、牽牛織女の傳説には關係なく、月を待つ心が詠まれている。七日の月だから早く出ているはずだが、題詠化されてかような歌になつたのだろう。卷の十五にも七夕の歌と題して、「大船に眞楫しじ貫き海原を榜ぎ出て渡る月人をとこ」(卷十五、三六一一)という歌がある。
 
2011 天の河 い向かひ立ちて 戀ふとにし
 言《こと》だに告げむ。
 ※[女+麗]《つま》といふまでは。
 
 天漢《アマノガハ》 已向立而《イムカヒタチテ》 戀等尓《コフトニシ》
 事谷將v告《コトダニツゲム》
 ※[女+麗]言及者《ツマトイフマデハ》
 
【譯】天の川に向かい立つて戀うという事に、言葉だけでも告げよう。妻というまでは。
【釋】已向立而 イムカヒタチテ。ワレムキタチテ(元赭)。イは、接頭語。天の川に向かい立つて。
 戀等尓 コフトニシ。
  コフラクニ(元赭)
  コフルトニ(代精)
  ――――――――――
  戀樂爾《コフラクニ》(考)
  コヒムヨハ(古義)
 コフルトニと讀む場合、戀フル人ニの意とすれば、歌意には合うが、このようなト(人)の用例が見當らない。トを時の意とするのは、そのトは「夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》」(卷十、一八二二)の如く、甲類のトであつて、乙類のトである等では適わない。そこで助詞と見るほかはなく、シを讀み添える。天ノ川イ向カヒ立チテ戀フまでを、トで受けて、かく言だに告げようの意となる。脇屋眞一君に、サカシラニの例によつてコヒシラニと讀むべきかとする案がある。
 事谷將告 コトダニツゲム。コトは言。
 ※[女+麗]言及者 ツマトイフマデハ。妻と決定するまでは。
(153)【評語】牽牛に代つて詠んでいる。訓法に問題が殘つていて、十分に鑑賞することができない。
 
2012 白玉《しらたま》の 五百《いほ》つ集ひを 解きも見ず、
 吾はかれかだぬ。
 逢はむ日待つに。
 
 水良玉《シラタマノ》 五百都集乎《イホツツドヒヲ》 解毛不v見《トキモミズ》
 吾者干可太奴《ワレハカレカダヌ》
 相日待尓《アハムヒマツニ》
 
【譯】白玉の澤山集まつている玉の緒を解いても見ないで、わたくしは別れることができません。逢う日を待つので。
【釋】水良玉五百都集乎 シラタマノイホツツドヒヲ。水は、シの音に使つている。「水長鳥《シナガドリ》」(卷九、一七三八)などの例がある。シラタマは、白玉で、よい珠玉。イホツツドヒは、多數の集まりで、それを緒につらぬいたもの。手足の装飾。
 解毛不見 トキモミズ。装身の玉の緒をも解きはずさないでで、衣裳を解いて寐ないのをいう。
 吾者干可太奴 ワレハカレカダヌ。カレ、別れる意の動詞。カダヌは、カダは可能の意の助動詞。その未然形に打消の助動詞ヌの接續したものと考えられる。このカダは、多く下二段活として使われているが、古くは四段であつたのだろう。「宇倍那宇倍那《ウベナウベナ》 岐美麻知賀多爾《キミマチガタニ》」(古事記二九)、「玉垂之《タマダレノ》 小簀之垂簾乎《ヲスノタレスヲ》 往褐《ユキガチニ》」(卷十一、二五五六)などの例は、これを證する。ヌは、古くは終止形もヌであつたと見られ、ここはその終止形である。織女の言なので、古風な語法を使つたのだろう。このまま別れることができない意。「君待難」(二〇〇四)も、キミマチガタニと讀むべきか。句切。
【評語】織女に代つて詠んでいる。織女星の風俗を描き、古風な語法によつて歌いなしている。
 
(154)2013 天の河 水|陰《かげ》草の、
 秋風に 靡かふ見れば、
 時は來にけり。
 
 天漢《アマノガハ》 水陰草《ミヅカゲグサノ》
 金風《アキカゼニ》 靡見者《ナビカフミレバ》
 時來々《トキハキニケリ》
 
【譯】天の川の水の陰に生えている草が、秋風に吹かれて靡くのを見ると、時節は來たことだ。
【釋】水陰草 ミヅカゲグサノ。ミヅカゲグサは、水邊に生えている草。ミヅカゲは「山川《ヤマガハノ》 水陰生《ミヅカゲニオフル》 山草《ヤマクサノ》」(卷十二、二八六二)と使われており、水のほとりをいうと思われる。そこに生えている草。
 金風 アキカゼニ。金を秋に當てているのは、五行の説による。
 時來々 トキハキニケリ。トキは、逢うべき時節。七月七日をいうので、秋風ニ靡カフと云つている。
【評語】天の川の風光を見て、秋の來たことを知る意である。風趣のある歌いぶりである。
 
2014 わが待ちし 秋はぎ咲きぬ。
 今だにも にほひに行かな。
 遠方人《をちかたびと》に。
 
 吾等待之《ワガマチシ》 白〓子開奴《アキハギサキヌ》
 今谷毛《イマダニモ》 尓寶比尓往奈《ニホヒニユカナ》
 越方人迩《ヲチカタビトニ》
 
【譯】わたしの待つていた秋ハギは咲いた。今だけでも色にあらわれて妻どいに行きたいものだ。あの川むこうの人に。
【釋】白〓子開奴 アキハギサキヌ。白は、五行の説により、秋に相當する色として、秋に使用している。下にも「白風《アキカゼ》」(二〇一六)とある。この句によつて、逢うべき時節のきたことを語つている。句切。
 尓寶比尓往奈 ニホヒニユカナ。ニホヒニは、色に美しく出ることで、表に出して妻どいに行く意に使つて(155)いる。ユカナは、願望の語法。句切。
 越方人迩 ヲチカタビトニ。越は字音假字。ヲチカタは、川のむこう岸。「己母理久乃《コモリクノ》 渡都世乃加波乃《ハツセノカハノ》 乎知可多爾《ヲチカタニ》 伊母良波多多志《イモラハタタシ》」(卷十三、三二九九、或本)。織女のもとにである。
【評語】時節の來たのを、秋ハギ咲キヌで描いたのは、事物に即しており、風情がある。ニホヒニはその縁で使用したのだろう。五句の留めも感じがよい。
 
2015 わが夫子《せこ》 うら戀ひをれば、
 天の河 夜船《よふね》榜《こ》ぐなる 楫《かぢ》の音聞ゆ。
 
 吾世子尓《ワガセコニ》 裏戀居者《ウラコヒヲレバ》
 天漢《アマノガハ》 夜船滂動《ヨブネコグナル》 梶音所v聞《カヂノオトキコユ》
 
【譯】あなたを心で思つていますと、天の川に、夜船を榜いで行く楫の音が聞えます。
【釋】裏戀居者 ウラコヒヲレバ。心中に戀うておれば。
 夜船滂動 ヨブネコグナル。滂は、水のさかんなのをいう形容の字だが、集中しばしば船を進める意に使つている。榜と通用したものであろう。(卷の九、一六七〇參照)。動は、人麻呂集には、ナルに使つている(佐竹昭廣氏)。ここは助動詞。この句は、牽牛星が夜船を漕いで訪れきたのである。連體句。
【評語】織女に代つて詠んでいる。牽牛の船を漕ぐ音が聞えてきたというだけの内容である。
 
2016 まけ長く 戀ふる心ゆ、
 秋風に 妹が音《おと》聞《きこ》ゆ。
 紐解きゆかな。
 
 眞氣長《マケナガク》 戀心自《コフルココロユ》
 白風《アキカゼニ》 妹音所v聽《イモガオトキコユ》
 紐解往名《ヒモトキユカナ》
 
【譯】時久しく思つている心によつて、秋風に妻の聲が聞える。著物の紐を解いて行こうよ。
 
(156)【釋】眞氣長 マケナガク。マは、接頭語。ケは、時間。
 戀心自 コフルココロユ。コフルココロシ(西)、コフルココロユ(代精)、コフココロカラ(童)、コフルココロニ(考)、コフルココロヨ(古義)。自は、ユともヨとも讀まれる。本集では、ヨの假字がきの例は、卷の十四以後に見えるだけであるから、ユと讀むによる。ここのユは、理由を示す。それによつて。
 白風 アキカゼニ。白は、五行説によつて秋に使つている。
 妹音所聽 イモガオトキコユ。イモガオトは、織女星の音信である。句切。
 ※[糸+刃]解往名 ヒモトキユカナ。ヒモトクは、衣裳をとり亂して、うち解けてである。「紐解佐氣弖《ヒモトキサケテ》 多知婆志利勢武《タチバシリセム》」(卷五、八九六)。
【評語】秋風が吹いて、織女星の音信も來たよろこびが歌われている。前半は落ちついて説明しているが、それだけに五句の活躍的なのが、強い效果をあらわしている。
 
2017 戀ひしくは け長きものを、
 今だにも ともしむべしや。
 逢ふべき夜《よ》だに
 
 戀敷者《コヒシクハ》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》
 今谷《イマダニモ》 乏牟可哉《トモシムベシヤ》
 可v相夜谷《アヒベキヨダニ》
 
【譯】戀していたことは、時久しいものであるのに、今だけでも逢わないでいるべきではない。逢うべき夜だけでも。
【釋】戀敷者 コヒシクハ。コヒシクは、名詞。これを提示して、ケ長キモノヲで説明している。集中コヒシクに二種がある。甲は、形容詞戀シの副詞形で「伊麻能其等《イマノゴト》 古非之久伎美我《コヒシクキミガ》 於毛保要婆《オモホエバ》」(卷十七、三九二八)、「可久婆可里《カクバカリ》 古非之久安良婆《コヒシクアラバ》」(卷十九、四二二一)、「安比美受波《アヒミズハ》 古非之久安流倍之《コヒシクアルベシ》」(卷二十、四四(157)〇八)などの例はこれである。これは副詞としての用法に終止するもので、「伊加婆加利《イカバカリ》 故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》」(卷五、八七五)の如きコホシクとあるものの轉であると考えられる。「日本戀久《ヤマトコホシク》 鶴左波爾鳴《タヅサハニナク》」(卷三、三八九)、「杏人《モモヒトノ》 濱過者《ハマヲスグレバ》 戀布在奈利《コホシクアリナリ》」(卷九、一六八九)の戀久、戀布の如きは、同じ語法でコホシクと讀むべしと考えられる。これらは、名詞としての用法の無いものである。乙は、名詞として使用されるもので、動詞戀フに時の助動詞キの連體形、および助詞クの接續したものである。これは見シク、宿シク、思ヘリシクなどと同樣の語法によるもので、戀していることの意である。その例としては、「阿和雪《アワユキハ》 千重零敷《チヘニフリシク》 戀爲來《コヒシクノ》 食永我《ケナガキワレハ》 見偲《ミツツシノハム》」(卷十、二三三四)、「故非之久能《コヒシクノ》 於保加流和禮波《オホカルワレハ》」(卷二十、四四七五)の如き、これである。今の歌も、この乙の用法である。この二種は、もとコホシク、コヒシクで區別されていたと思われ、後に形容詞コホシがコヒシに轉じたので、今日、混同を感ずるに至つたものであろう。コヒシクの副詞の用例は新しい。
 氣長物乎 ケナガキモノヲ。ケは時間の經過。時久しいものであるのに。戀して來たのは、久しいあいだだのに。
 今谷 イマダニモ。今だけでもせめて。
 乏之牟可哉 トモシムベシヤ。トモシムは、不滿足にさせる。滿足させない。ベシヤは反語。可をベシに使用して、動詞の下に置いたのは、前にもあつたが、用字法上注意される。句切。
 可相夜谷 フフベキヨダニ。三句の、今ダニモを、語を變えて綴り返している。
【評語】どちらに代つたともいえないが、やはり牽牛星に代つて詠んでいるのだろう。五句に、三句の語を變えて繰り返しているのが、有效に響いている。
 
2018 天の河 去歳《こぞ》の渡《わた》りで 遷《うつ》ろへば
(158) 河瀬を蹈《ふ》むに 夜ぞ深《ふ》けにける。
 
 天漢《アマノガハ》 去歳渡代《コゾノワタリデ》 遷閉者《ウツロヘバ》
 河瀬於v蹈《カハセヲフムニ》 夜深去來《ヨゾフケニケル》
 
【譯】天の川は、去年の渡り場處が變わつたので、川瀬を蹈むのに、夜が更けてしまつた。
【釋】去歳渡代 コゾノワタリデ。ワタリデは、渡る場所で、デは接尾語。ワタリ場所は、川中に出た形なのでいうのであろう。「智破椰臂等《チハヤビト》 于〓能和多利珥《ウヂノワタリニ》 和多利涅珥《ワタリデニ》 多弖屡《タテル》 阿豆瑳由瀰《アヅサユミ》 摩由瀰《マユミ》」(日本書紀四三)。去年の渡り場所。
 遷閉者 ウツロヘバ。出水などのために渡河すべき處の變わつた意である。
 河瀬於蹈 カハセヲフムニ。この歌では、徒渉するようになつている。
【評語】人間の世界にあるような變易が、天の川にもあるとしている。牽牛に代つて詠んでいるが、實生活のにおいが濃くさしている。
 
2019 古《いにしへ》ゆ 擧げてし服《はた》も 顧みず、
 天《あま》の河津《かはつ》に 年ぞ經《へ》にける。
 
 自v古《イニシヘユ》 擧而之服《アゲテシハタモ》 不v顧《カヘリミズ》
 天河津尓《アマノガハツニ》 年序經去來《トシゾヘニケル》
 
【譯】前々から取りあげておいた機も棄てて、天の河津で年を經てしまつた。
【釋】自古 イニシヘユ。イニシヘは、以前をいう。過去の意であるが、自分一身の上のことで、古代の意ではない。
 擧而之服 アゲテシハタモ。アゲテシコロモ(元)。アゲテシは、織ろうとして機上に擧げておいた意。
 天河津尓 アマノガハツニ。カハツは、河の船つき。牽牛の船のつくのを待つ心である。
 年序經去來 トシゾヘニケル。兩年に跨がつた意である。
【評語】織女が、機織りをも忘れて牽牛の來るのを待つ心が詠まれている。織女に代つて歌つているのだが、(159)敍事的に詠んでいるのは、本來の立場が出たのである。
 
2020 天の河 夜船《よぶね》を榜《こ》ぎて 明《あ》けぬとも、
 逢はむと念ふ夜《よ》、 袖かへずあらむ。
 
 天漢《アマノガハ》 夜船滂而《ヨブネヲコギテ》 雖v明《アケヌトモ》
 將v相等念夜《アハムトモフヨ》 袖易受將v有《ソデカヘズアラム》
 
【譯】天の川に、夜船を漕いで夜が明けても、逢おうと思う夜は、袖を變えないで、そのままにいよう。
【釋】夜船滂而 ヨブネヲコギテ。滂は、既出。元暦校本等、傍に作つている本もあるが、傍は誤りであろう。牽牛星が、夜船を漕いでいるのである。
 袖易受將有 ソデカヘズアラム。袖を易えるは、男女共に寐る敍述であるが、ここはそれでは通じない。ただ衣服を改めるというほどの意に云つているのだろう。
【評語】牽牛星になつて詠んでいる。逢おうための勞苦が歌われている。
 
2021 遠妻《とほづま》と 手枕|交《か》へて 寐たる夜は、
 鷄《とり》が音《ね》な動《な》き。
 明《あ》けば明《あ》けぬとも。
 
 遙※[女+莫]等《トホヅマト》 手枕易《タマクラカヘテ》 寐夜《ネタルヨハ》
 ※[奚+隹]音莫動《トリガネナナキ》 明者雖v明《アケバアケヌトモ》
 
【詳】遠方にいる妻と、手枕をかわして寐た夜は、ニワトリは鳴くな、夜が明けるなら明けても。
【釋】遙※[女+莫]等 トホヅマト。娘は、醜女の義の字で、どうして此處に使用されたか不明である。代匠記に※[女+英]の誤り、考に媛の誤り、略解に嬬の誤りとしているが、いずれが是なるかを知らない。トホヅマは、遠方にいる妻、ここは織女。
 ※[奚+隹]音莫動 トリガネナナキ。トリガネは、※[奚+隹]が音で、ニワトリのこと。ガネ、接尾語的な用法。動は、ナキ(160)にあてている。(萬葉集大成)。
 明者雖明 アケバアケヌトモ。アケヌトモの下に、ヨシの如き語が省略されている。
【評語】牽牛に代わつて詠んでいる。※[奚+隹]の聲を惡むのは、逢つた夜の歌の常套手段である。
 
2022 相見らく 飽《あ》き足らねども、
 いなのめの 明け行きにけり。
 船出《ふなで》せむ※[女+麗]《つま》。
 
 相見久《アヒミラク》 ※[厭のがんだれなし]雖v不v足《アキタラネドモ》
 稻目《イナノメノ》 明去來理《アケユキニケリ》
 舟出爲牟※[女+麗]《フナデセムツマ》
 
【譯】逢つていることは、飽き足らないけれども、東の空が明けてしまつた。船を出そうよ。わが妻よ。
【釋】相見久 アヒミラク。あい見ることは。
 稻目 イナノメノ。イナノメは、「秋柏《アキガシハ》 潤和川邊《ウルワカハベノ》 細竹目《シノノメノ》 人不2顔面1《ヒトニハアハジ》 公無勝《キミニアヘナク》」(卷十一、二四七八)、「朝柏《アサカシハ》 閏八河邊之《ウルヤカハベノ》 小竹之眼笶《シノノメノ》 思而宿者《シノビテヌレバ》 夢所v見來《イメニミエケリ》」(同、二七五四)のシノノメと同じく、明け行く東の空をいう。これらの語をあらわす字に、稻目、細竹目、小竹之眼の字を使つているのは、多少の意味を感じているのだろう。それは東方の明けゆく空が、まず細く白むのを、稻、または小竹の眼に比していうのだろう。但し眼は、興味によつていうので、本義は、芽であろう。
 舟出爲牟※[女+麗] フナデセムツマ。フナデセムで切れる。ツマは呼びかけている。
【評語】牽牛に代わつて詠み、情誼をつくしている。分かち難い袖を分かつ氣もちが窺われる。
 
2023 さ宿《ね》そめて 幾何《いくだ》もあらねば、
 白栲の 帶乞ふべしや。
 (161)戀もすぎねば。
 
 左尼始而《サネソメテ》 何太毛不v在者《イクダモアラネバ》
 白栲《シロタヘノ》 帶可v乞哉《オビコフベシヤ》
 戀毛不v過者《コヒモスギネバ》
 
【澤】寐はじめてまだ何ほどもないのに、白い帶を求めるべきではありません。戀も過ぎないのに。
【釋】何太毛不在者 イクダモアラネバ。アラネバは、あらぬに。
 白栲 シロタヘノ。白い織布の。
 帶可乞哉 オビコフベシヤ。牽牛の解き捨てた帶を乞うべきではない。句切。
 戀毛不過者 コヒモスギネバ。コヒは、今までの久しい戀。スギネバは、通り過ぎないのに。
【評語】織女の別れを惜しむ心が、露骨な表現でなされている。二句と五句に重ねてネバを使つたのも、この場合は、内容が違うだけに、かえつて耳ざわりになる。
 
 
2024 萬世《よろづよ》に 携《たづさ》はり居《ゐ》て 相見とも、
 念ひ過ぐべき 戀にあらなくに。
 
 萬世《ヨロヅヨニ》 携手居而《タヅサハリヰテ》
 相見鞆《アヒミトモ》
 念可v過《オモヒスグベキ》 戀尓有莫國《コヒニアラナクニ》
 
【譯】永久につれ立つて逢つていても、思い過ぎてしまうような戀ではないのだ。
【釋】携手居而 タヅサハリヰテ。手を携えて共にいて。
 相見鞆 アヒミトモ。動詞見ルが、助詞トモに接して、本集では、ミトモの形を作る。「美等母安久倍伎《ミトモアクベキ》 宇良爾安艮奈久爾《ウラニアラナクニ》」(卷十八、四〇三七)。
 念可過 オモヒスグベキ。思い過ぎ去るべき、思わなくなるような。
【評語】特に七夕の歌とするほどの特色が無い。人間相互の中でもいうべき所だ。すべて概念的に説明しているが、表現は強く出ている。
【參考】類句、念ひ過ぐべき戀にあらなくに。
(162)  明日香川川淀さらず立つ霧の念ひ過ぐべき戀にあらなくに(卷三、三二五)
 
2025 萬世に 照るべき月も、
 雲|隱《がく》り 苦しきものぞ。
 逢はむと念《おも》へど。
 
 萬世《ヨロヅヨニ》 可v照月毛《テルベキツキモ》
 雲隱《クモガクリ》 苦物敍《クルシキモノゾ》
 將v相登雖v念《アハムトオモヘド》
 
【譯】永久に照るべき月でも、雲に隱れて苦しいものです。逢おうと念うのだけれども。
【釋】苦物敍 クルシキモノゾ。月が雲に隱れて苦しいものであるよ。句切。
 將相登雖念 アハムトオモヘド。月が出ようと思うことと、自分たちの逢いたいと思うことをかけている。
【評語】これも月を譬喩に借りているだけで、七夕の歌としての特色が無い。しかし月の立場を引いて説明しているのは丁寧で、牽牛の立場がよくわかる。
 
2026 白雲の冨 五百重隱《いほへがく》りて 遠けども、
 夜《よひ》去《さ》らず見む。
 妹があたりは。
 
 白雲《シラクモノ》 五百遍隱《イホヘガクリテ》 雖v遠《トホケドモ》
 夜不v去將v見《ヨヒサラズミム》
 妹當者《イモガアタリハ》
 
【譯】白雲の幾重もに隱れて遠いけれども、夜ごとに見よう。わが妻の住むあたりは。
【釋】白雲五百遍隱 シラクモノイホヘガクリテ。白雲の五百重であるのに隱れて。遠くであることを説明する句。
 夜不去將見 ヨヒサラズミム。ヨヒサラズは、初夜ごとに。句切。
【評語】雲に隱れて遠いということは、人家の遠いことにもいうが、この歌の仰山な言い方は、さすがに天上(163)の戀らしい。夜ごとに、妹のいる方を眺めようというのである。
 
2027 わがためと、
 織女《たなばたつめ》の、その屋戸《やど》に 織る白布《たへ》は、
 織りてけむかも。
 
 爲v我登《ワガタメト》
 織女之《タナバタツメノ》 其屋戸尓《ソノヤドニ》 織白布《オルシロタヘハ》
 織弖兼鴨《オリテケムカモ》
 
【譯】織女がその宿で織る白布は、わたしのためにと織つたのだろうか。
【釋】爲我登 ワガタメト。わが料として織りてけむかと五句に續く。
 織女之 タナバタツメノ。倭名類聚鈔「織女、兼名苑(ノ)注(ニ)云(フ)、織女和名太奈波太豆女牽牛(ノ)疋也《ツマナリ》。」タナバタは、機織の具をいう。ツは助詞、メは女性。
【評語】初句がすぐに二句に續かないで、句を隔てて五句に續くのは、歌いものには見られない所で、既に文筆作品として音を埋めて行く方面の發達した證左である。人麻呂集所出の歌に、「わがため裁《た》たばやや大《おほ》に裁て」(卷七、一二七八)という歌があるが、同樣の構想である。
 
2028 君に逢はず久しき時ゆ 織り服たる
 白たへ衣《ごろも》、垢《あか》づくまでに。
 
 君不v相《キミニアハズ》 久時《ヒサシキトキユ》 織服《オリキタル》
 白栲衣《シロタヘゴロモ》 垢附麻弖尓《アカヅクマデニ》
 
【譯】あなたにお目にかからないで、久しい時のあいだを織つて著ている、白い織物の著物は、垢がつくまでになりました。
【釋】久時 ヒサシキトキユ。ユに當る字は無いが讀み添える。長い時間のあいだ。
 織服 オリキタル。オリキタル(元)、オルハタノ(童)、オリテキシ(考)。みずから織つて著ている。
(164) 垢附麻弖尓 アカヅクマデニ。この下に、なりぬの如き語が省略されている。
【評語】衣服の垢づくことによつて、久しい時を表現する歌は多い。これも作者の體驗から出發している作だ。三句オルハタノとすると織女が機織を怠つていることになり、また句の續きもおもしろくない。
 
2029 天の河 楫《かぢ》の音聞ゆ。
 彦星と 織女《たなばたつめ》と、今夕《こよひ》逢《あ》ふらしも。
 
天漢《アマノガハ》 梶音聞《カヂノオトキコユ》
 
孫星《ヒコボシト》 與2織女1《タナバタツメト》 今夕相霜《コヨヒアフラシモ》
 
【譯】天の川に楫の音が聞える。牽牛星と織女星とが、今夜逢うらしい。
【釋】孫星 ヒコボシト。孫星は、彦星をあらわすために借りて書いている。倭名類聚鈔「牽牛、爾雅(ノ)注(ニ)云(フ)、牽牛、一名河鼓 和名比古保之、一云以収加比保之。」
【評語】第三者として詠んでいる。天の川に楫の音が聞えるというのは、天の川の附近にいるものとして詠んでいる。七夕の歌としては、すなおな所がよい。
 
2030 秋されば 河ぞ霧らへる。
 天の川 河に向かひ居《ゐ》て
 戀ふる夜多し。
 
 秋去者《アキサレバ》 川霧《カハゾキラヘル》
 天川《アマノガハ》 河向居而《カハニムカヒヰテ》
 戀夜多《コフルヨオホシ》
 
【譯】秋になると川に霧が立つている。天の川の川に向つていて戀うる夜が多い。
【釋】川霧 カハゾキラヘル。
  カハキリタチテ(元)
  ――――――――――
  河霧立《カハギリタチテ》(代精)
  河霧渡《カハギリワタル》(代精)
(165)  河霧立《カハギリタテル》(古義)
  河霧々《カハギリキラス》(新考)
 何分川霧の二字だけなので、訓讀に苦しみ、脱字説もある。句切。
 戀夜多 コフルヨオホシ。コフルヨゾオホキ(類)。コフルヨゾオホキの句は「一起居而《ヒトリオキヰテ》 戀夜曾大寸《コフルヨゾオホキ》」(卷十、二二六二)の例がある。ゾを讀み添えるか否かの問題になるが、讀み添えるのは、やむを得ぬに出るものであるから、讀み添えないで讀まれるものは、そのまま文字に即して讀むべきである。
【評語】川の語が三出しているが、それだけの效果があるとも見えない。霧のかかつた川に向かつて戀う夜の多くかさなることには、風趣がないわけでもない。織女に代つて詠んでいる。
 
2031 よしゑやし 直《ただ》ならずとも、
 ぬえ鳥の うら嘆《な》け居《を》りと
 告げむ子もがも。
 
 吉哉《ヨシヱヤシ》 雖v不v直《タダナラズトモ》
 奴延鳥《ヌエドリノ》 浦嘆居《ウラナケヲリト》
 告子鴨《ツゲムコモガモ》
 
【譯】よしや直接でないにしても、ぬえ鳥のように心に嘆いていると、告げる子も欲しいなあ。
【釋】吉哉 ヨシヱヤシ。ヨシを感動をつけていう語。
 雖不直 タダナラズトモ。タダは直接。直接に逢うのでなくとも。
 奴延鳥 ヌエドリノ。枕詞。
 浦嘆居 ウラナケヲリト。心に泣かれていると。奴延鳥之《ヌエドリノ》 裏歎座津《ウラナケマシツ》」(卷十、一九九七)參照。
 告子鴨 ツゲムコモガモ。コは、使に行くような人。
【評語】織女に代つて詠んでいる。せめて音信をだに通じたいという、こがれる心が歌われている。ヨシヱヤ(166)シを使つて、かなり感動が表示されている。
 
2032 一年に 七夕《なぬかのよ》のみ 逢ふ人の、
 戀も過ぎねは、夜《よ》はふけゆくも。
 
 一年迩《ヒトトセニ》 七夕耳《ナヌカノヨノミ》 相人之《アフヒトノ》
 戀毛不v過者《コヒモスギネバ》 夜深往久毛《ヨハフケユクモ》
 
【譯】一年に七日の夜だけ逢う人の、戀も過ぎ去らないのに、夜が更けて行くことだ。
【釋】戀毛不過者 コヒモスギネバ。スギネバは、通過し去らないのに。
【評語】第三者の立場で詠んでいる。七日の夜の更け行くのを悲しんでいる。七日の夜の作としてすなおな歌である。
 
一云、不v盡者《ツキネバ》 佐宵曾明尓來《サヨゾアケニケル》
 
一は云ふ、盡きねば さ夜ぞ明けにける。
 
【釋】不盡者佐宵曾明尓來 ツキネバサヨゾアケニケル。前の歌の第四句の後半からの別傳であるが、句の途中から別傳を記したのは珍しい。第三者の歌としては、本文の方がよい。第三句までは第三者の立場だから、四五句もこれに適應すべきである。
 
2033 天の河 安の川原に 定まりて、
 神し競《きほ》へば 年待たなくに。
 
 天漢《アマノガハ》 安川原《ヤスノカハラニ》 定而《サダマリテ》
 神競者《カミシキホヘバ》 磨待無《トシマタナクニ》
 
【譯】天の川の安の川原できまつて、神が氣負つてする戀は、年を待たないことだ。
【釋】天漢安川原 アマノガハヤスノカハラニ。ヤスノカハラは、天の川の地名とされる。「安渡丹《ヤスノワタリニ》」(卷十、(167)二〇〇〇)參照。そこは神々の集まつて事を議《はか》る處とされていた。
 定而 サダマリテ。牽牛織女の二星が、天の川を隔てていることと定まつたというのだろう。この歌は、四五句が難解なのだから、とにかく以上を決定しておかないと、一層四五句の訓法がむずかしくなる。
 神競者磨待無 カミシキホヘバトシマタナクニ。
  ココロクラベハトキマタナクニ(元)
  カガミクラベハトグモマタナク(代初)
  カミツツドヒハトキマタナクニ(考)
  カンツツドヒハトキマタナクニ(略)
  ――――――――――
  神競者禁時無《カミノツドヒハイムトキモナク》(古義)
  神競者度時無《カミノキホヘバワタルトキナシ》(新考)
 神は、カミ、ココロ、クスシなど讀まれる。ココロと讀むのは「大夫之《マスラヲノ》 聰神毛《サトキココロモ》 今者無《イマハナシ》」(卷十二、二九〇七)の一例があるのみだから、カミと讀むのが順當である。競は、クラブ、ツドフと讀むことは、集中に證明が無く、常にキホフと讀まれている。磨を時の借字とする説が多いが、磨ぐは、力行濁音に活用するので、トキに當てるのは無理である。むしろトシとして年に當つべきであろう。そこでカミシキホヘバトシマタナクニの訓を得たが、これは牽牛織女の二星の心がはやるので、一年に一度の會合の期を待たないの意とする。七夕の傳説に對しては無理だが、この作者の若年の頃の作として、しばらくかように釋することとする。
【評語】四五句が難訓なので、評も下し難い。上三句の訓から云えば、神代以來の事だという意味かも知れないが、今如何ともする由がない。
 
此歌一首、庚辰年作之
 
この歌一首は庚辰の年に作れる。
 
(168)【釋】庚辰年 カノエタツノトシ。天武天皇の九年と推考される。人麻呂歌集のうち、年代の記されている唯一の例であり、人麻呂關係の年代としては最古である。多分人麻呂の事蹟を語るものとして解してよいであろう。
 
右、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右 ミギハ。以上七夕の歌三十八首をさす。人麻呂の歌集に、かように七夕の歌が多數にあることは、この傳説と共に、その夜の行事が既に行われていたことを示すものとして意義が多い。
 
2034 棚機の 五百機《いほはた》立てて 織る布《ぬの》の、
 秋さり衣《ごろも》、誰《たれ》か取り見む。
 
 棚機之《タナバタノ》 五百機立而《イホハタタテテ》 織布之《オルヌノノ》
 秋去衣《アキサリゴロモ》 孰取見《タレカトリミム》
 
【譯】織女星が澤山の機を立てて織る布で作る秋になつて著る書物は、誰が手にするのだろう。
【釋】棚機之 タナバタノ。タナバタは、タナバタツメ、織女をいう。
 五百機立而 イホハタタテテ。ハタは、布を織る道具をいい、また織つた布をもいう。栲幡千千姫《タクハタチチヒメ》、栲幡千幡姫《タクハタチハタヒメ》(日本書紀卷二)のチハタの如きは、多數の織布の幡旗の意である。ここにイホハタというのは、機上の經驗の多いことなどをいうのであろう。
 秋去衣 アキサリゴロモ。秋になつて著る衣服。秋の衣服。
 孰取見 タレカトリミム。トリミルは、ここでは、手に取り見る意。誰の料だろう、すなわち牽牛の料だの意。
【評語】五百機、秋サリ衣など、美しい語が用いられている。形もよく整つている。
 
(169)2035 年にありて 今か纏《ま》くらむ。
 ぬばたまの 夜霧隱《よぎりがく》りに
 遠妻《とほづま》の手を。
 
 年有而《トシニアリテ》 今香將v卷《イマカマクラム》
 烏玉之《ヌバタマノ》 夜霧隱《ヨギリガクリニ》
 遠妻手乎《トホヅマノテヲ》
 
【譯】一年のうちで、今こそ纏いているだろうか。くらい夜の霧にこもつて、遠方に住む妻の手を。
【釋】年有而 トシニアリテ。一年のうちにあつて。「等之爾安里弖 《トシニアリテ》 比等欲伊母爾安布《ヒトヨイモニアフ》 比故保思母《ヒコボシモ》」(卷十五、三六五七)、「夜干玉之《ヌバタマノ》 黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》 年爾母有糠《トシニモアラヌカ》」(卷四、五二五)。
 遠妻手乎 トホヅマノテヲ。トホヅマは、遠方にいる妻、織女星。
【評語】牽牛星の喜びを思いやつて詠んでいる。夜霧ガクリニの句が、具體的によく説明している。
 
2036 わが待ちし 秋は來《きた》りぬ。
 妹と吾《われ》 何事あれぞ 紐解かざらむ。
 
 吾待之《ワガマチシ》 秋者來沼《アキハキタリヌ》
 妹與吾《イモトワレ》 何事在曾《ナニゴトアレゾ》 紐不v解在牟《ヒモトカザラム》
 
【譯】わたしの待つていた秋は來た。妻とわたしとは、何事があつて、著物の紐を解かないでいるのだろう。
【釋】何事在曾 ナニゴトアレゾ。ナニゴトアレバゾで、疑問の條件法になる。これは「奈爾須禮曾《ナニスレゾ》 波々登布波奈乃《ハハトフハナノ》 佐吉泥己受祁牟《サキデコズケム》」(卷二十、四三二三)のナニスレゾと同樣の語法で、何事があつてかの意になる。
 ※[糸+刃]不解在牟 ヒモトカザラム。紐を解かないでいるのだろうと歎いている。
【評語】四五句の云いぶりの強い歌である。五句の官能的なのが、きわどい感じを與えている。
 
(170)2037 年の戀 今夜《こよひ》つくして、
 明日よりは 常の如くや、
 わが戀ひ居《を》らむ。
 
 年之戀《トシノコヒ》 今夜盡而《コヨヒツクシテ》
 明日從者《アスヨリハ》 如v常哉《ツネノゴトクヤ》
 吾戀居牟《ワガコヒヲラム》
 
【譯】一年の戀を、今夜盡して、明日からは、いつものようにか、わたしが思つていることだろう。
【釋】年之戀 トシノコヒ。一年間の戀。トシは、穀物の一收穫をいう語なので、これだけで一年の意になる。
【評語】牽牛織女いずれの歌とも取れる。さしもに長い戀を今夜つくして、またその長い戀に移る辛勞が同情されている。
 
2038 逢はなくは け長きものを、
 天の河 隔ててまたや、
 わが戀ひ居らむ。
 
 不v合者《アハナクハ》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》
 天漢《アマノガハ》 隔又哉《ヘダテテマタヤ》
 吾戀將v居《ワガコヒヲラム》
 
【譯】逢わないことは、時久しく思われるものだのに、天の川を隔てて、またかわたしが思つていることだろう。
【釋】不合者 アハナクハ。アハナクは、逢わないこと。
 氣長物乎 ケナガキモノヲ。時久しいものだのに。ケナガクは、時の長くあるのをいう形容。しばしば出た。
【評語】前の歌と同じ内容が取り扱われている。逢つてから後のつらさが、しみじみと感じられている表現である。
 
(171)2039 戀しけく け長きものを、
 逢ふべくある 夕《よひ》だに、君が
 來《き》まさざるらむ。
 
 戀家口《コホシケク》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》
 可v合有《アフベクアル》 夕谷君之《ヨヒダニキミガ》
 不2來益1有良武《キマサザルラム》
 
【譯】戀しいことは、時久しく思われるものだのに、逢うことのできる夜でも、君がおいでにならないのだろうか。
【釋】戀家口 コホシケク。戀しくあること。形容詞戀シに、助詞クが接續して、その體言を作つている。
 不來左有良武 キマサザルラム。推量の語法であるが、疑問の意を含んでいる。
【評語】その夜、織女の待ち遠しく思う心が詠まれている。焦慮の情がよく寫されている。前出の、「戀ひしくはけ長きものを今だにもともしむべしや。逢ふべき夜だに」(卷十、二〇一七)の内容に同じで、それほどに強くは云つていない。
 
2040 牽牛《ひこぼし》と 織女《たなばたつめ》と 今夜《こよひ》逢ふ
 天の河門に 波立つな、ゆめ。
 
 牽牛《ヒコボシト》 與2織女1《タナバタツメト》 今夜相《コヨヒアフ》
 天漢門尓《アマノガハトニ》 浪立勿謹《ナミタツナユメ》
 
【譯】牽牛星と、織女星と今夜逢う天の川の渡り場處に、波は立つてはいけない。
【釋】天漢門尓 アマノガハトニ。天の川の川門に。カハトは、川の、門戸のようになつて川渡りする場處をいう。「天漢《アマノガハ》 河門八十有《カハトヤソアリ》 何爾可《イヅクニカ》 君之三船乎《キミガミフネヲ》 吾待將v居《ワガマチヲラム》」(卷十、二〇八二)。【評語】第三者として、二星の戀に同情して詠んでいる。波立ツナユメは、慣用句である。
 
2041 秋風の 吹きただよはす 白雲は、
(172) 織女《たなばたつめ》の 天つ領巾《ひれ》かも。
 
 秋風《アキカゼノ》 吹漂蕩《フキタダヨハス》 白雲者《シラクモハ》
 織女之《タナバタツメノ》 天津領巾毳《アマツヒレカモ》
 
【譯】秋風が吹きただよわしている白い雲は、織女星の領巾だろうか。
【釋】天津領巾毳 アマツヒレカモ。織女星の領巾を、天ツ領巾と云つている。人界の物でない感じの表現である。
【評語】七夕の夜に、天上を仰いで、秋風にひるがえる白雲を見て、織女星の領巾に思い寄せている。優雅な風懷、七夕の歌中、稀に見る佳作である。雲を領巾にたとえることは、「白栲の天領巾がくり、鳥じもの朝立ちいまして」(卷二、二一〇)など、先行の歌があるが、それらにもとづいたものとしても、この歌の境地は、それから轉じて清新なものを與えている。
 
2042 しばしばも 相見ぬ君を、
 天の河 舟出早せよ。
 夜《よ》の深《ふ》けぬまに。
 
 數裳《シバシバモ》 相不v見君矣《アヒミヌキミヲ》
 天漢《アマノガハ》 舟出速爲《フナデハヤセヨ》
 夜不v深間《ヨノフケヌマニ》
 
【譯】度々は見ない君だのに、天の川の船出を早くなさい。夜の更けないうちに。
【釋】數裳 シバシバモ。度々重ねても。
【評語】織女の待つている心を詠んでいる。牽牛星に船出を早くせよというのであるが、心に思うことを述べているので、直接に聲をかけているのではない。焦慮の氣もちが相當によく出ている。
 
 
2043 秋風の 清き夕べに
 天の河 舟|榜《こ》ぎ渡る。
(173) 月人壯子《つくひとをとこ》。
 
 秋風之《アキカゼノ》 清夕《キヨキユフベニ》
 天漢《アマノガハ》 舟滂度《フネコギワタル》
 月人壯子《ツクヒトヲトコ》
 
【譯】秋風の清らかな夕方に、天の川に、船を漕いで渡つて行く。月の男よ。
【釋】舟滂度 フネコギワタル。終止句とも、連體句とも解せられる。五句に月人ヲトコと置いた例歌にも兩樣のものがあつて決し難い。古格をいえば、終止とするに傾かれる。
【評語】七夕の夜、月を見て詠んでいる。二星に關しない、かような歌も例のあることで、その夜の風趣を歌つているのである。月を船にたとえることは、漢文學以來のことで、これも例が多い。
 
2044 天の河 霧立ち渡り、
 牽牛《ひこぼし》の 楫《かぢ》の音聞ゆ。
 夜の深けゆけば。
 
 天漢《アマノガハ》 霧立度《キリタチワタリ》
 牽牛之《ヒコボシノ》 楫音所v聞《カヂノオトキコユ》
 夜深往《ヨノフケユケバ》
 
【譯】天の川に霧が立ち渡り、牽牛星の船こぐ音が聞える。夜が更けて行つたので。
【釋】霧立度 キリタチワタリ。牽牛が船を漕ぐのに催されて、天の川の川霧が立つのである。
【評語】第三者として、天の川に楫の音の聞えることを詠んでいる。七夕の歌としては、一通りの推量の歌である。
 
2045 君が舟 今|榜《こ》ぎ來《く》らし。
 天の河 霧立ち渡る。
 この川の瀬に。
 
 君舟《キミガフネ》 今滂來良之《イマコギクラシ》
 天漢《アマノガハ》 霧立度《キリタチワタル》
 此川瀬《コノカハノセニ》
 
(174)【譯】君の船は今漕いでくるらしい。天の川に霧が立ち渡つている。この天の川の瀬に。
【釋】君舟 キミガフネ。牽牛星の船を、織女の立場で云つている。
【評語】天の川の夜霧の中を、牽牛の船の漕いでくる樣を推量している。牽牛の船を漕ぐにつれて、一むらの川霧の湧き起る風情は、作者の經驗が物を言つている。
 
2046 秋風に 河浪立ちぬ。
 しましくは 八十の舟津《ふなつ》に
 御舟《みふね》とどめよ。
 
 秋風尓《アキカゼニ》 河浪起《カハナミタチヌ》
 暫《シマシクハ》 八十舟津《ヤソノフナツニ》
 三舟停《ミフネトドメヨ》
 
【譯】秋風に河の浪が立つた。しばらくは、あちこちの船つきで、御船をおとめなさい。
【釋】八十舟津 ヤソノフナツニ。ヤソは多數、フナツは、舟どまりをする處。天の川に八十の舟津ありとし、そのいずれかにの意。
【評語】織女が、牽牛の船の浪に逢うのを危んでいる心である。天人の歌だから、先方に通じるのかも知れないが、そういう距離などを顧みないで、心を歌つていると見ればよい。
 
2047 天の河 川|音《おと》清《さや》けし。
 牽牛《ひこぼし》の 秋|榜《こ》ぐ船の 浪のさわきか。
 
 天漢《アマノガハ》 河聲清之《カハオトサヤケシ》
 牽牛之《ヒコボシノ》 秋滂船之《アキコグフネノ》 浪※[足+參]香《ナミノサワキカ》
 
(175)【譯】天の川の川音がさやかだ。牽牛星の秋になつて漕ぐ船の浪の物音だろうか。
【釋】秋滂船之 アキコグフネノ。七月七日の夜に漕ぐ船の。
 浪※[足+參]香 ナミノサワキカ。※[足+參]は、躁に同じ。騷がしい意。
【評語】川の音のするを、牽牛の船を漕ぐによつてできる浪の音かとしている。第三者の立場で詠んでいるが、想像がすこし行き過ぎている。
 
2048 天《あま》の河《がは》 河門《かはと》に立ちて わが戀ひし
 君|來《き》ますなり。
 紐解き待たむ。
 
 天漢《アマノガハ》 河門立《カハトニタチテ》 吾戀之《ワガコヒシ》
 君來奈里《キミキマスナリ》
 紐解待《ヒモトキマタム》
 
(176)【譯】天の川の河門に立つて、わたしの思つていた君がおいでになるのだ。著物の紐を解いて待とう。
【釋】河門立 カハトニタチテ。カハトは既出。渡りをする處。ワガ戀ヒシを修飾している。
 吾戀之 ワガコヒシ。過去の事として敍している。
【評語】五句が露骨である。一體に風趣を缺くのは説明に過ぎているからである。「天の川あひ向き立ちてわが戀ひし君來ますなり。紐解きまけな」(卷八、一五一八、山上の憶良)と同歌と云つてもよい。その一座した七夕の歌が、作者を失して收められているのだろう。
 
一云、天河《アマノガハ》 川向立《カハニムキタチ》
 
一は云ふ、天の河 川に向き立ち。
 
【釋】天河川向立 アマノガハカハニムキタチ。前の歌の初二句の別傳であるが、これは曲がない。本文の方が河門を出しただけに生き生きとしている。
 
2049 天の河 河門《かはと》に坐《を》りて
 年月を 戀ひ來《こ》し君に、
 今夜《こよひ》逢へるかも。
 
 天漢《アマノガハ》 河門座而《カハトニヲリテ》
 年月《トシツキヲ》 戀來君《コヒコシキミニ》
 今夜會可母《コヨヒアヘルカモ》
 
【譯】天の川の河門にいて、年月のあいだ戀して來たあなたに、今夜逢つたことですね。
【釋】年月 トシツキヲ。年月のあいだを。長いあいだ。
【評語】織女星に代つて詠んでいる。説明的で、逢つた喜びが端的に汲み取れない。ほんとの當事者の歌でないからである。
 
(177)2050 明日よりは わが玉|床《どこ》を うち拂ひ、
 公と宿《ね》ずして ひとりかも寐《ね》む。
 
 明日從者《アスヨリハ》 吾玉床乎《ワガタマドコヲ》 打拂《ウチハラヒ》
 公常不v宿《キミトネズシテ》 孤可母寐《ヒトリカモネム》
 
【譯】明日からは、わたしの床を掃除をして、あなたとは寐ないで、ひとりでか寐ることでしよう。
【釋】吾玉床乎 ワガタマドコヲ。タマドコは、床をほめていう。天人の床なので、自稱の語にも、その美稱が出たのである。「玉床之《タマドコノ》 外向來《ホカニムキケリ》 妹木枕《イモガコマクラ》」(卷二、二二ハ)。
 打拂 ウチハラヒ。塵を拂つて。
【評語】逢つてからの後のさびしさを思いやつて詠んでいる。織女に代つて詠み、天人のひとり寐の樣を想像している。四句は、蛇足である。
 
2051 天の原 往きてを射むと、
 白檀弓《しらまゆみ》 ひきて隱せり。
 月人壯子《つくひとをとこ》
 
 天原《アマノハラ》 往射跡《ユキテヲイムト》
 白檀《シラマユミ》 挽而隱在《ヒキテカクセリ》
 月人壯子《ツキヒトヲトコ》
 
【譯】天の原で、行つて射ようとして、白檀弓を引いて隱している。月の男は。
【釋】往射跡 ユキテヲイムト。
  ユキテヤイムト(類)
  ユキテヤトハン(西)
  ユキテイヌルト(童)
  ユクテニイント(考)
(178)  ユクユクイムト(略)
  ユキテヲイムト(新訓)
  ――――――――――
  往哉射跡《ユキテヤイルト》(代精)
  注射跡《サシテヤイルト》(古義、中山嚴水)
  何射跡《ナニヲイムトカ》(新考)
 字がすくなく書かれており、何かを補讀しなければならない。ヤの如きは、文字を省くことがすくないのだから、ヲを補うのが順序だろう。
 白檀 シラマユミ。月を弓にたとえている。
【評語】これも月の歌で、二星の傳説には、關係は無い。月を弓にたとえることも類型的だが、表現に特色がある。
 
2052 このゆふべ 零《ふ》り來《く》る雨は、
 彦星の 早《はや》榜《こ》ぐ船の 櫂《かい》の散沫《》ちりかも。
 
 此夕《コノユフベ》 零來雨者《フリクルアメハ》
 男星之《ヒコボシノ》 早滂船之《ハヤコグフネノ》
 賀伊乃散鴨《カイノチリカモ》
 
【譯】この夕方に降つてくる雨は、牽牛星がいそいで漕ぐ船の櫂の飛沫だろうか。
【釋】早滂船之 ハヤコグフネノ。ハヤは、急いで。
 賀伊乃散鴨 カイノチリカモ。櫂によつて生じた水の散つたのか。チリは、散つたもの。飛沫。
【評語】七夕の夜の雨を詠んでいる。想像力が働いている。「わが上に露ぞおくなる。天の川とわたる舟の櫂のしづくか」(古今和歌集、伊勢物語)。
 
2053 天の河 八十瀬《やそせ》霧《き》らへり。
 彦星の 時待つ船し 今し榜《こ》ぐらし。
 
 天漢《アマノガハ》 八十瀬霧合《ヤソセキラヘリ》
 男星之《ヒコボシノ》 時待船《トキマツフネシ》 今滂良之《イマカコグラシ》
 
【譯】天の川の、多くの瀬に霧がこめている。牽牛星の時節を待つ船は、今漕ぐらしい。
(179)【釋】八十瀬霧合 ヤソセキラヘリ。ヤソセは、多くの瀬。瀬では、水が激するので、霧が立ちやすい。句切。
 時待船 トキマツフネシ。七月七日を待つ船は。船は、助詞を補つて讀まなければならない。ハか、シか。シの方が強く指示する。
 今滂良之 イマカコグラシ。イマカコグラシ(西)。イマシコグラシ(略)。イマハでもよいが、疑問でない方を補うのが順當であるが、歌意からすれば、やはりカだろう。
【評語】これも川霧の立つことと、牽牛の船とをとり合わせている。八十瀬霧ラヘリというのは、その船によつて立つ霧とも見えない。瀬々に霧の立つ風景と見てよい。第三者の立場で詠んでいる。
 
2054 風吹きて 河浪立ちぬ。
 引船《ひきふね》に 渡りも來《き》ませ。
 夜《よ》の更《ふ》けぬ間に。
 
 風吹而《カゼフキテ》 河浪起《カハナミタチヌ》
 引船丹《ヒキフネニ》 度裳來《ワタリモキマセ》
 夜不v降間尓《ヨノフケヌマニ》
 
【譯】風が吹いて河浪が立つてきました。引船で渡つていらつしやい。夜の更けないうちに。
【釋】引船丹 ヒキフネニ。ヒキフネは、綱を附けて陸から引く船。河渡りをする場合には、對岸から引く。
 夜不降間尓 ヨノフケヌマニ。ヨクタタヌマニ(略)。夜の更けたのをあらわす意字としては、降、更降、更下、更深、深闌などの各種がある。これらは、フクともクタツとも讀まれている。降は、多くクタツと讀まれ、ここもヨクタタヌマニとも讀まれる。但しクタツは、クタチの外の活用形無く、一方ヨノフケヌマニは、例句がある。
【評語】織女に代つて詠んでいる。やはり歌意が先方に通ずるものとして詠まれている。夜の更けて河浪の立つのを案じている情は寫されている。
 
(180)2055 天の河 遠き渡《わた》りは 無けれども、
 公が舟出《ふなで》は 年にこそ待て。
 
 天河《アマノガハ》 遠渡者《トホキワタリハ》 無友《ナケレドモ》
 公之舟出者《キミガフナデハ》 年尓社候《トシニコソマテ》
 
【譯】天の川には遠い渡り場處は無いのですけれども、あなたの船出は、一年もの長いあいだ待つております。
【釋】遠渡者 トホキワタリハ。川幅が廣く、渡り場處の距離の長いのを、トホキワダリという。天の川の幅を狹いとしている。
 年尓社候 トシニコソマテ。一年のあいだにもと待つている。候は、守つている意に、義をもつてマテに借りている。
【評語】織女に代つて詠んでいる。事情を説明しただけの歌である。
 
2056 天の河 打橋《うちはし》渡せ。
 妹が家|道《ぢ》 止《や》まず通はむ。
 時待たずとも。
 
 天漢《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタセ》
 妹之家道《イモガイヘヂ》 不v止通《ヤマズカヨハム》
 時不v待友《トキマタズトモ》
 
【譯】天の川に打橋を渡してください。妻の家に行く道を絶えず通おう。時節を待たないでも。
【釋】打橋度 ウチハシワタセ。ウチハシは板をうち掛けた橋。「又於2天(ノ)安河(ニモ)1亦造(ラム)2打橋(ヲ)1」(日本書紀卷二)。二〇六二、二〇八一の歌によれば、ウチハシワタセ(代初)の訓がよいのだろう。繊女星にいう語である。
【評語】橋を渡して始終通おうという人間らしい望みが詠まれている。天の川に打橋を渡すという歌は、下にもある。
 
2057 月かさね わが思ふ妹に
(181) 逢へる夜は、
 今し七夜《ななよ》を 續《つ》ぎこせぬかも。
 
 月累《ツキカサネ》 吾思妹《ワガオモフイモニ》
 會夜者《アヘルヨハ》
 今之七夕《イマシナナヨヲ》 續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》
 
【譯】月を重ねてわたしの思う妻に逢つた夜は、もう七夜を續けてくれないかなあ。
【釋】今之七夕 イマシナナヨヲ。イマシは、更にの意。かようなイマの用法は、「藤花《フヂノハナ》 伊麻許牟春母《イマコムハルモ》 都禰加久之見牟《ツネカクシミム》」(卷十七、三九五二)の如きがある。ナナヨは、數多の夜。七夕の歌なので、七夕と書いたのだろうが、七月七日の夜の意ではない。
【評語】たまたま逢つた夜の短いのを恨み、更に幾夜の長さを重ねたいというのは、「おの妻と憑《たの》める今夜、秋の夜の百夜の長さありこせぬかも」(卷四、五四六、笠の金村)などあり、特殊の思想ではない。その點では、この歌は、格別の作とも思われない。また七夕の歌としての特色も無く、ただ七夜というのに、若干の連想がある程度である。
 
2058 年《とし》に艤《よそ》ふ わが舟|榜《こ》がむ。
 天の河、風は吹くとも
 浪立つな、ゆめ。
 
 年丹装《トシニヨソフ》 吾舟滂《ワガフネコガム》
 天河《アマノガハ》 風者吹友《カゼハフクトモ》
 浪立勿忌《ナミタツナユメ》
 
【譯】一年目に船装いをするわたしの舟を漕ごう。天の川は、風は吹いても浪は立つてくれるな。
【釋】年丹装 トシニヨソフ。トシは一年。一年に一度舟よそおいをする。
【評語】年ニ装フというのは、特色のある句だが、わが舟を修飾するに止まつて、全體に對しては利いていない。主想である、波立ツナユメは、慣用句である。
 
(182)2059 天の河 浪は立つとも、
 わが舟は いざ榜《こ》ぎ出《い》でむ。
 夜の深《ふ》けぬ間に。
 
 天河《アマノガハ》 浪者立友《ナミハタツトモ》
 吾舟者《ワガフネハ》 率滂出《イザコギイデム》
 夜之不v深間尓《ヨノフケヌマニ》
 
【譯】天の川は浪は立つても、わたしの舟は、さあ漕ぎ出そう。夜の更けないうちに。
【釋】率滂出 イザコギイデム。イザは、事を起そうとするに當つて、發言する語。
【評語】平凡な内容だが、船を漕ぎ出そうとする意氣ぐみは出ている。
 
2060 ただ今夜《こよひ》 逢ひたる兒らに
 言《こと》どひも いまだ爲《せ》ずして、
 さ夜ぞ明《あ》けにける。
 
 直今夜《タダコヨヒ》 相有兒等尓《アヒタルコラニ》
 事問母《コトドヒモ》 未v爲而《イマダセズシテ》
 左夜曾明二來《サヨゾアケニケル》
 
【譯】ただ今夜、逢つたあの子に、物言いかけることもまだしないのに、夜が明けてしまった。
【釋】直今夜 タダコヨヒ。タダは、ほかではない、正に今夜だの意につけている。
 事問母 コトドヒモ。コトドヒは、物をいうこと。
【評語】逢つた夜の短さが、すなおな形で描かれている。但し特に七夕の歌とすべき特色はない。初句のタダ今夜に、無限の感情をこめてはいるが。
 
2061 天の河 白浪高し。
 わが戀ふる 公が舟出は
 今し爲らしも。
 
 天河《アマノガハ》 白浪高《シラナミタカシ》
 吾戀《ワガコフル》 公之舟出者《キミガフナデハ》
 今《イマシ・イマカ》爲下《スラシモ》
(183)【譯】天の川は白浪が高い。わたしの思つているあの方の船出は、今なさるらしい。
【釋】今爲下 イマシスラシモ。イマセスラシモ(新訓)。イマシは、今の時。イマカスラシモとも讀まれる。
【評語】天の川に白浪の立つのを見て、牽牛の舟の安否を氣づかう心であろう。白浪高シを、ラシノの推量の根據としては、内容に無理が生ずる。根據の敍述を伴なわないラシの用法が成立しているのだろう。
 
2062 機《はたもの》の ※[足+榻ノ旁]木《ふみき》持ち行きて
 天の河 打橋《うちはし》わたす。
 公が來《こ》むため。
 
 機《ハタモノノ》 ※[足+榻ノ旁]木持往而《フミキモチユキテ》
 天漢《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタス》
 公之來爲《キミガコムタメ》
 
【譯】機織の道具の※[足+榻ノ旁]木を持つて行つて、天の川に打橋をかけます。あなたのおいでになるために。
【釋】機 ハタモノノ。ハタモノは、機織の道具。日本書紀卷の一に、機にハタモノと訓している。
 ※[足+榻ノ旁]木持往而 フミキモチユキテ。フミキは、機を動かすために足をかけて踏む板。
【評語】天の川に打橋を渡すという歌は、ほかにもあるが、これは、機織りの道具の※[足+榻ノ旁]木を持つて行つてという特殊の敍述のあるのが變わつている。その板は、ちいさくて、打橋などの用に立たないものだろうが、それを敢えて歌つているところに、物語ふうのおかしさがある。
 
2063 天の河 霧立ち上《のぼ》る。
 織女《たなばた》の 雲の衣の 飄《かへ》る袖かも。
 
 天漢《アマノガハ》 霧立上《キリタチノボル》
 棚幡乃《タナバタノ》 雲衣能《クモノコロモノ》
 飄袖鴨《カヘルソデカモ》
 
【譯】天の川に霧が立ちのぼる。あれは、織女星の雲の衣裳の飄る袖だろうか。
【釋】棚幡乃 タナバタノ。タナバタは、織女星。
(184) 雲衣能 クモノコロモノ。織女は天人であるから、雲を衣裳としているとする想像である。
【評語】天上の雲を見て詠んだ歌で、「たなばたつめの天つ領巾《ひれ》かも」(巻十、二〇四一)と同一の手段に出ている。飄々たる白雲を、織女の輕袖に見立てたのは、漢文學の影響を受けているであろう。仙女の敍述などにも見える。
 
2064 いにしへに 織りてし※[糸+曾]《はた》を、
 この暮《ゆふべ》 衣《ころも》に縫ひて 君待つ吾を。
 
 古《イニシヘニ》 織義之八多乎《オリテシハタヲ》
 此暮《コノユフベ》 衣縫而《コロモニヌヒテ》 君待吾乎《キミマツワレヲ》
 
【譯】以前織つておいた布を、この夕方、著物に縫つて、君をお待ちするわたくしです。
【釋】古 イニシヘニ。イニシヘは、以前、先に。織女自身の前の時である。
 織義之八多乎 オリテシハタヲ。義之は、王羲之《おうぎし》の羲之で、手師(書道の師)の義をもつて、テシの音に借り用いている。ハタは、織物。
 君待吾乎 キミマツワレヲ。ヲは、間投の助詞。君待つ吾よの意。「足日木乃《アシヒキノ》 從v山出流《ヤマヨリイヅル》 月待登《ツキマツト》 人爾波言而《ヒトニハイヒテ》 妹待吾乎《イモマツワレヲ》」(卷十二、三〇〇二)。
【評語】男のために、著物を縫つて待つているというのが特色である。古ニ織リテシ※[糸+曾]というのに、織女らしい所が殘つている。言
 
2065 足玉も 手珠《ただま》もゆらに 織る※[糸+曾]《はた》を、
 公が御衣《みけし》に 縫ひ堪《あ》へむかも。
 
 足玉母《アシダマモ》 手珠毛由良尓《タダマモユラニ》 織旗乎《オルハタヲ》
 公之御衣尓《キミガミケシニ》 縫將v堪可聞《ヌヒアヘムカモ》
 
【譯】足の玉も手の玉もゆらゆらと、織る織物を、あなたのおめし物に縫い終えるでしようか。
(185)       卷いた玉の緒の玉。タダマは、手に卷いた玉の緒の玉。手足に玉を卷くことは、播磨國風土記讃容の郡|彌加都岐《ミカツキ》原の條に「中に女二人あり、手足に玉《たま》纏《ま》けり。」とあつて、身分のある女子の風俗である。ユラニは、玉のゆれる形容。「其|御頸珠之《ミクビタマノ》玉緒|母由良邇《モユラニ》、取|由良迦志而《ユラカシテ》」(古事記上巻)。また「手玉玲瓏織※[糸+任]之少女者《タダマモユラニハタオルヲトメハ》是(レ)誰之|子女耶《ムスメゾ》」(日本書紀卷二)。
 公之御衣尓 キミガミケシニ。ミケシは、ミは美稱の接頭語。ケシは著ルの敬語の名詞形。ミトラシと同樣の語構成。
 縫將堪可聞 ヌヒアヘムカモ。アヘムは、できるだろう。縫うことが可能だろうか。まにあうだろうかの意。「夜渡月爾《ヨワタルツキニ》 競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》」(卷三、三〇二)などのアヘムカモの用法に同じ。
【評語】天人らしい風俗が描かれている。今いそいで機を織つている樣を想像し、その織女の心中を推量して、この作を成している。特色のある歌である。
 
2066 月日|擇《え》り 逢ひてしあれば
 別れむの 惜《を》しかる君は、
 明日さへもがも
 
 擇2月日1《ツキヒエリ》 逢義之有者《アヒテシアレバ》
 別乃《ワカレム》 惜有君者《ヲシカルキミハ》
 明日副裳欲得《アスサヘモガモ》
 
【譯】月日を選んで逢つたのだから、別れることの惜しいあなたは、明日までもいてほしいものです。
【釋】擇月日 ツキヒエリ。ほかの月日を選り捨てて、七月七日に定めて。
 逢義之有者 アヒテシアレバ。シは強意の助詞。
 別乃 ワカレムノ。
  ワカレヂノ(元)
(186)  ワカレノ(代精)
  ――――――――――
  別路乃《ワカレヂノ》(童)
  別久《ワカレマク》(略)
 文字に即しては、ワカレノと讀まれるが、三句を四音にしたのは、古歌に證明がすくない。よつてワカレムノと讀む。助動詞ムに助詞ノの接續する例は、「多延武能己許呂《タエムノココロ》 和我母波奈久爾《ワガモハナクニ》」(卷十四、三五〇七)がある。それは接續のノであり、これは主語を示すが、形式としては同樣である。
 明日副裳欲得 アスサヘモガモ。明日までも續いて居て欲しいの意。
【評語】織女が、おとずれきた牽牛に留連を請うている内容である。月日擇リ逢ヒテシアレバあたりが特殊の句になつている。
 
(276)2067 天の河 渡瀬《わたりせ》ふかみ、
 船|浮《う》けて 榜《こ》ぎ來《く》る君が
 楫《かぢ》の音聞ゆ。
 
 天漢《アマノガハ》 渡瀬深弥《ワタリセフカミ》
 泛v船而《フネウケテ》 棹來君之《コギクルキミガ》
 ※[楫+戈]音所聞《カヂノオトキコユ》
 
【譯】天の川は、渡る瀬が深いので、船を浮かべて漕いで來るあの方の楫の音が聞える。
【釋】渡瀬深弥 ワタリセフカミ。ワタリセは、川渡りをすべき瀬。フカミは、徒歩で渡るに適しないので。
【評語】初二句が説明に過ぎて、平凡な歌になつている。それによつて訪いくる牽牛の船に對して、冷淡な感じをもたせる。
 
2068 天の原 ふりさけ見れば、
 天の河 霧立ち渡る。
 公は來《き》ぬらし。
 
 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》
 天漢《アマノガハ》 霧立渡《キリタチワタル》
 公者來良志《キミハキヌラシ》
 
(187)【譯】大空を仰いで見れば、天の川に霧が立ち渡つている。あの方が來たらしい。
【釋】天原振放見者 アマノハラフリサケミレバ。大空を遠く望めばの意だが、この歌では、織女皇が、遠く望めばの意に使つている。
【評語】天ノ原フリサケ見レバが、ちよつと見ると、下界の人の行動のように取れる。天の原の語が禍を成しているからである。川霧の立つことによつて、牽牛の船の來ることを推量した意味の歌は、前にあつた。これもその心である。
 
2069 天の河 瀬《せ》ごとに幣《ぬさ》を たてまつる。
 こころは君を 幸《さき》く來《き》ませと。
 
 天漢《アマノガハ》 瀬毎幣《セゴトニヌサヲ》 奉《タテマツル》
 情者君乎《ココロハキミヲ》 幸來座跡《サキクキマセト》
 
【譯】天の川の瀬ごとに幣を奉つてお祭をする。その心は、君を無事にいらつしやいとです。
【釋】瀬毎幣奉 セゴトニヌサヲタテマツル。セゴトは、川渡りをすべき瀬毎に、ヌサは、神を祭るために奉る布麻の類。ヌサヲタテマツルは、幣を奉つて祭をするのである。ここは川瀬の神を祭つて、神のたたり無く、君の無事に川を渡ることを祈つている。
 幸來座跡 サキクキマセト。無事に來たまえとなりで、トの下にナリの如き語が省略されている。
【評語】牽牛星が船に乘つてくることを豫想しているであろう。山川の神を祭つて、通行の安全を願つた古代の信仰があらわれている。「吾妹子を夢に見え來《こ》と大和路の渡り瀬毎に手向ぞわがする」(卷十二、三一二八)と思想において通う所がある。
 
2070 ひさかたの 天《あま》の河津《がはつ》に 舟浮けて
 君待つ夜らは、明けずもあらぬか。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 天河津尓《アマノガハツニ》 舟泛而《フネウケテ》
 君待夜等者《キミマツヨラハ》 不v明毛有寐鹿《アケズモアラヌカ》
 
(188)【譯】天の川の舟つきに船を浮かべて、君のおいでを待つ夜は、明けないではしいものだ。
【釋】天河津尓 アマノガハツニ。アマノガハツは、天の川の川津で、ツは船つき場。
 君待夜等者 キミマツヨラハ。ラは接尾語。「此夜等者《コノヨラハ》 沙夜深去良之《サヨフケヌラシ》」(卷十、二二二四)。
 不明毛有寐鹿 アケズモアラヌカ。アラヌカは、打消の疑問だが、願望になる語法。
【評語】これは織女が船を浮かべて牽牛を待つているように詠んでいる。その點が變わつている。「牽牛の嬬《つま》迎へ船漕ぎ出らし」(卷八、一五二七)と共に、迎え船を出すという想像である。
 
2071 天の河 なづさひ渡り、
 君が手も いまだ枕《ま》かねば、
 夜の深《ふ》けぬらく。
 
 天河《アマノガハ》 足沾渡《ナヅサヒワタリ》
 君之手毛《キミガテモ》 未v枕者《イマダマカネバ》
 夜之深去良久《ヨノフケヌラク》
 
【譯】天の川を、足を濡して渡つて、君の手もまだ枕にしないのに、夜の更けたことだ。
【釋】足沾渡 ナヅサヒワタリ。アシヌレワタル(元)、アシヌレワタリ(代初)、アヌラシワタリ(略)。「丹穗鳥《ニホドリノ》 足沾來《ナヅサヒコシヲ》 人見鴨《ヒトミケムカモ》」(卷十二、二四九二)、の句を、「念西《オモフニシ》 餘西鹿齒《アマリニシカバ》」(卷十二、二九四七)の歌の左註に「柿本朝臣人麻呂歌集云、爾保鳥之《ニホドリノ》 奈津柴比來乎《ナヅサヒコシヲ》 人見鴨《ヒトミケムカモ》」とも書いているのによれば、ここもナヅサヒワタリであろう。
 未枕者 イマダマカネバ。まだ枕としないのに。
 夜之深去良久 ヨノフケヌラク。フケヌラクは、更けたことよの意。
【評語】これは徒歩で川を渡つたとしている。いたずらに夜の更けたことを怨んでいる。三句以下の調子は、古歌謠からきているのだろう。「人國に婚姻《よばひ》に行きて太刀が緒もいまだ解かねばさ夜ぞ明けにける」(卷十二、(189)二九〇六)のような歌は、相當に流布しており、その調子なり内容なりが出たのだろう。
 
2072 渡守《わたりもり》 船わたせをと 呼ぶ聲の、
 至らねばかも 楫《かぢ》の聲《と》のせぬ。
 
 渡守《ワタリモリ》 船度世乎跡《フネワタセヲト》 呼音之《ヨブコヱノ》
 不v至者疑《イタラネバカモ》 梶聲之不v爲《カヂノトノセヌ》
 
【譯】渡守よ、船を渡せと呼ぶ聲が、聞えないのか、楫の音もしない。
【釋】渡守 ワタリモリ。渡河をする處の番人を呼びかけている。
 船度世乎跡 フネワタセヲト。フネワタセは、船で川を渡せ。ヲは助詞。ヨに同じ。
 不至者疑 イタラネバカモ。カモは、疑問の係助詞。疑の字を使つているのがよく當つている。
【評語】牽牛が織女のもとに行こうとして、渡船を待つている心を詠んでいる。その焦慮の心がよく出ている。「氏河乎《ウヂガハヲ》 船令v渡呼跡《フネワタセヲト》 雖v喚《ヨバヘドモ》 不v所v聞有之《キコエザルラシ》 ※[楫+戈]音毛不v爲《カヂノオトモセズ》」(卷七、一一三八)と同じ内容で、ただ七夕に變えただけである。同一人の作か。
 
2073 まけ長く 河に向《む》き立ち
 ありし袖
 今夜《こよひ》纏《ま》かむと 念《おも》へるがよさ。
 
 眞氣長《マケナガク》 河向立《カハニムキタチ》
 有之袖《アリシソデ》
 今夜卷跡《コヨヒマカムト》 念之吉沙《オモヘルガヨサ》
 
【譯】長いあいだ天の河に向き立つて、あのかつての袖を、今夜わたしの手にまこうと思うことは、うれしいことだ。
【釋】河向立 カハニムキタチ。天の川に向き立つていて。自分(牽牛星)のこと。
 有之袖 アリシソデ。アリシは、かつてありし袖で、織女の袖をいう。思い出の袖である。この句を上につ(190)けて、ムキタチアリシとする解も考えられるが、そうとするとマケナガクも織女のことになり、かつ續けるべき句を二句に分けたことになる。
 念之吉沙 オモヘルガヨサ。念をオモヘルと讀むのは「奈伎我佐夫之佐《ナキガサブシサ》」(卷十五、三七三四)など、連體形を受けてガ……サと受ける例である。ヨサは、好くあること。
【評語】長いあいだ、河を隔てていたが、その愛人の袖を、今夜纏く喜びを歌つている。袖を纏くということに、集中しており、官能的なところのあるを免れない。
 
2074 天の河 渡瀬《わたりせ》ごとに 思ひつつ、
 來《こ》しくもしるし。
 逢へらく念《おも》へば。
 
 天河《アマノガハ》 渡湍毎《ワタリセゴトニ》 思乍《オモヒツツ》
 來之雲知師《コシクモシルシ》
 逢有久念者《アヘラクオモヘバ》
 
【譯】天の川を、渡り瀬毎に思いながら來たかいがあつた。逢つたことを思うと。
【釋】渡湍毎 ワタリセゴトニ。ワタリセは、川渡りをすべき瀬。
 來之雲知師 コシクモシルシ。コシクは、來しこと。「來之久毛知久《コシクモシルク》 相流君可毛《アヘルキミカモ》」(卷八、一五七七)、「欲v見《ミマクホリ》 來之久毛知久《コシクモシルク》」(卷九、一七二四)。シルシは、かいのある意の形容詞。句切。
 逢有久念者 アヘラクオモヘバ。アヘラクは、逢えること。「天地之《アメツチノ》 榮時爾《サカユルトキニ》 相樂念者《アヘラクオモヘバ》」(卷六、九九六)。
【評語】牽牛星が、天の川を幾渡りしてきたことを語つている。川瀬を渡るには、若干の難儀があるので、それを言い立て、あちらへ渡り、こちらへ渡りして來たが、そのかいがあつたというのである。川渡りをする生活を想像して味わうべき歌である。
 
(191)2075 人さへや 見繼がずあらむ。
 牽牛《ひこぼし》の 嬬《つま》よぶ舟の 近づき行くを。
 
 人左倍也《ヒトサヘヤ》 見不v繼將v有《ミツガズアラム》
 牽牛之《ヒコボシノ》 嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》 近附往乎《チカヅキユクヲ》
 
【譯】人さえも見つづけていないだろう。牽牛星の妻を呼ぶ船の近づいて行くのを。
【釋】人左倍也 ヒトサヘヤ。人までもか。サヘヤは、他の用例、反語にならない。しかしヤは、疑問の情が強く、果してそうだろうかのような語氣を含むものと見られる。「朝夕二《アサヨヒニ》 將v見時左倍也《ミムトキサヘヤ》 吾妹之《ワギモコガ》 雖v見如v不v見《ミレドミヌゴト》 由戀四家武《ナホコヒシケム》」(卷四、七四五)、「朝旦《アサナサナ》 將v見時禁屋《ミムトキサヘヤ》 戀之將v繁《コヒノシゲケム》(卷十一、二六三三)。
 見不v繼將v有 ミツガズアラム。ミツガズは、文字通り見繼ガズで、見續けるの打消であろう。ところで、人までも見續けないだろうかというのでは、當事者たる織女も見繼がないことになつて、意を成さない。初句と合わせて人までも見つがずにはいないだろうの意となるのだろう。ミツガザラメヤの意であろう。かように不審の點があるので、「一云見乍有良武」という別傳を生じたのだろう。その方ならばよくわかる。句切。
 嬬喚舟之 ツマヨブフネノ。ツマヨブは、妻を呼ぶ、すなわちその戸外に立つて呼ぶ意から出發して、婚姻を求めるをいう。「誰此乃《タレゾコノ》 吾屋戸來喚《ワガヤドニキヨブ》」(卷十一、二五二七)。
【評語】初二句に疑問があつて、眞意を得るに苦しむが、下界の人も見守つているだろうという歌だろう。牽牛星の船の近づいて行く情景を、第三者として描いている。
 
一云、見乍有良武《ミツツアルラム》
 
一は云ふ、見つつあるらむ。
 
【釋】見乍有良武 ミツツアルラム。前の歌の第二句の別傳である。その第二句の項に述べたように、本文のままでは疑義があり、この別傳ならばよく通ずる。
 
(192)2076 天の河 瀬を早みかも、
 ぬばたまの 夜は開けにつつ、
 逢はぬ牽牛《ひこぼし》。
 
 天漢《アマノガハ》 瀬乎早鴨《セヲハヤミカモ》
 烏珠之《ヌバタマノ》 夜者開尓乍《ヨハアケニツツ》
 不v合牽牛《アハヌヒコボシ》
 
【譯】天の川は、瀬が早いのでか、くらい夜は明け行きつつ、妻に逢わない牽牛星だ。
【釋】瀬乎早鴨 セヲハヤミカモ。カモは、疑問の係助詞。
 夜者開尓乍 ヨハアケニツツ。開は、古本系統による。仙覺本系統には闌に作つて、ヨハフケニツツとしている。歌としてはその方が無難だ。
 不合牽牛 アハヌヒコボシ。牽牛の下に、ナルの如き語が、省略されている。上のカモを受けて結ぶ所である。
【評語】第三者として牽牛星の上を隣んで詠んでいる。その情景を見通しているような口ぶりである。その點説明になつているのはやむを得ない。
 
2077 渡守《わたりもり》 舟はや渡せ。
 一年に 二たび通ふ
 君にあらなくに
 
 渡守《ワタリモリ》 舟早渡世《フネハヤワタセ》
 一年尓《ヒトトセニ》 二遍往來《フタタビカヨフ》
 君尓有勿久尓《キミニアラナクニ》
 
【譯】渡守よ、船を早く渡してください。一年に二度と通うあの方ではないのです。
【釋】舟早渡世 フネハヤワタセ。牽牛星の爲に船を早く渡せとである。
【評語】織女の語として、天の川の渡守に對して言つている形である。よく織女の情を描いている。
 
(193)2078 玉葛《たまかづら》 絶えぬものから、
 さ宿《ぬ》らくは 年の渡《わたり》に
 ただ一夜《ひとよ》のみ。
 
 玉葛《タマカヅラ》 不v絶物可良《タエヌモノカラ》
 佐宿者《サヌラクハ》 年之度尓《トシノワタリニ》
 直一夜耳《タダヒトヨノミ》
 
【譯】美しい蔓草のように、絶えないのではあるが、寐ることは、一年を經るあいだに、ただ一夜のみだ。
【釋】王葛 タマカヅラ。枕詞。玉は美稱。蔓草の長く續くので、絶エヌに冠する。
 不絶物可良 タエヌモノカラ。モノカラは、であるのにの意。二人のあいだは絶えないのだが。
 佐宿者 サヌラクハ。サは接頭語。寐ること。「佐奴良久波《サヌラタハ》 多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》」(卷十四、三三五八)。
 年之度尓 トシノワタリニ。ワタリは、經過。一年の經過する間に。
【評語】當事者の歌とも、また第三者として七夕を詠んだとも取れる。調子のよくなめらかな形の歌である。
 
2079 戀ふる日は け長きものを、
 今夜《こよひ》だに ともしむべしや。
 逢ふべきものを。
 
 戀日者《コフルヒハ》 食長物乎《ケナガキモノヲ》
 今夜谷《コヨヒダニ》 令v乏應哉《トモシムベシヤ》
 可v相物乎《アフベキモノヲ》
 
【譯】戀をしている日は、時が長く思われるものなのに、今夜だけでも、時をすくなくさせるべきではないでしよう。逢うべきものですよ。
【釋】食長物乎 ケナガキモノヲ。時久しいものだのに。久しい氣もちがするものだのに。
 令乏應哉 トモシムベシヤ。トモシムは、少なくする。夜を短くする。時を少なくするものではない。句切。
【評語】二句と五句が同じ形を採つているが、それだけの效果はなく、かえつてくだけた感じを與える。既出(194)の人麻呂集の歌を、作りかえたような歌で、獨立しての價値はない。
【參考】類歌。
  戀ひしくはけ長きものを今夜だに乏しむべしや。逢ふべき夜だに(卷十、二〇一七)
 
2080 織女《たなばた》の 今夜《こよひ》逢ひなば、
 常のごと 明日《あす》を隔てて
 年は長けむ。
 
 織女之《タナバタノ》 今夜相奈婆《コヨヒアヒナバ》
 如v常《ツネノゴト》 明日乎阻而《アスヲヘダテテ》
 年者將v長《トシハナガケム》
 
【譯】織女屋が今夜逢つたなら、平常のように明日を堺として年は長いだろう。
【釋】織女之 タナバタノ。次句の今夜逢ヒナバの主格。常ノ如以下は、牽牛のことと解せられる。
 明日乎阻而 アスヲヘダテテ。明日を隔てとして。明日以後は。
 年者將長 トシハナガケム。戀をする年は長いだろう。ナガケは形容詞。
【評語】内容は比較的單純なのだが、表現の手際がよくなく、雜然とした感じを與える。全部が織女のことのようにも、三句以下は牽牛のことのようにも取れるのも、不備な點である。「年の戀今夜つくして」(卷十、二〇三七)など、この類想である。
 
2081 天の河 棚橋わたせ。
 織女《たなばた》の い渡らさむに 棚橋わたせ。
 
 天漢《アマノガハ》 棚橋渡《タナハシワタセ》
 織女之《タナバタノ》 伊渡左牟尓《イワタラサムニ》 棚橋渡《タナハシワタセ》
 
【譯】天の川に棚橋をお渡しなさい。織女がお渡りになるだろうから棚橋をお渡しなさい。
【釋】棚橋渡 タナハシワタセ。タナハシワタス(類)、タナハシワタセ(神)。タナハシは、板を渡した橋、(195)板が棚のようにあるのでいう。
伊渡左牟尓 イワタラサムニ。イは、接頭語。ワタラサは、敬語法。
【評語】第三者として天の川のほとりにいる人のような心で詠んでいる。二句と五句とに、同句を使つたのは、歌いものからきた格で、調子をよくする。七夕の歌は、元來席上文筆の作だから、かような形の歌はすくないのだが、これは興に乘じて、古い形を使つたのである。棚橋よりは、參考欄に掲げた珠橋の語の方が美しい。
【參考】類想。
  ひさかたの天の河瀬に、上つ瀬に珠橋《たまはし》渡し、下つ瀬に船浮けすゑ、雨降りて風吹かずとも、風吹きて雨降らずとも、裳濡らさず息まず來ませと、玉橋渡す(卷九、一七六四)
 
2082 天の河 河門《かはと》八十《やそ》あり。
 何處《いづく》にか
 君がみ船を わが待ち居《を》らむ。
 
 天漢《アマノガハ》 河門八十有《カハトヤソアリ》
 何尓可《イヅクニカ》
 君之三船乎《キミガミフネヲ》 吾待將v居《ワガマチヲラム》
 
【譯】天の川には、河門が澤山ある。そのどの處で、あの方のお船を、わたくしが待つておりましよう。
【釋】河門八十有 カハトヤソアリ。カハトは、地形についていう語で、河渡りをする場處を言つている。ヤソは多數。
【評語】織女が、多くの河門のうちのいずれに待つていようかと案じる歌である。待つ心の氣迷いを描いている。「淡海の海水門は八十を。何處《いづく》にか君が船|泊《は》て草結びけむ」(卷七、一一六九)あたりと、同じ型で、何かよりどころとする歌があつたのだろう。
 
2083 秋風の 吹きにし日より、
(196) 天の河、瀬に出で立ちて
待つと告《つ》げこそ。
 
 秋風乃《アキカゼノ》吹西日從《フキニシヒヨリ》
 天漢《アマノガハ》 瀬尓出立《セニイデタチテ》
 待登告許曾《マツトツゲコソ》
 
【譯】秋風の吹いた日から、このかた、天の川の瀬にいで立つて待つていると知らせてください。
【釋】瀬尓出立 セニイデタチテ。セは、渡河をすべき川瀬。
 待登告許曾 マツトツゲコソ。コソは、願望の助詞。
【評語】織女になつて詠んでいる。秋風が吹くようになつてから、逢うべき日を待つ心が、歌われている。
 
2084 天の河 去年《こぞ》の渡瀬《わたりせ》 荒れにけり。
 君が來まきむ 道の知らなく。
 
 天漢《アマノガハ》 去年之渡湍《コゾノワタリセ》 有二家里《アレニケリ》
 君之將v來《キミガキマサム》 道乃不知久《ミチノシラナク》
 
【譯】天の川の去年の渡り場處は、荒れてしまつた。あの方のおいでになる道がわからないことです。
【釋】有二家里 アレニケリ。出水などのために荒廢したことをいう。以下二句の前提になつている。句切。
【評語】前出の河門八十アリの歌と同樣の内容を、語をかえて歌つている。毎年渡瀬の變わる下界の河に擬して想を寄せている。
 
2085 天の河 湍瀬《せせ》に白浪 高けども、
 ただ渡り來《き》ぬ。
 待たば苦しみ。
 
 天漢《アマノガハ》 湍瀬尓白浪《セセニシラナミ》 雖v高《タカケドモ》
 直渡來沼《タダワタリキヌ》
 待者苦三《マタバクルシミ》
 
【譯】天の川は、瀬々に白浪が高いけれども、ためらわないで渡つて來た。待つていたら苦しいので。
(197)【釋】直渡來沼 タダワタリキヌ。タダワタリは、他事無く、ひたすらに渡る意。「刀禰河伯乃《トネガハノ》 可波世毛思良受《カハセモシラズ》 多多和多里《タダワタリ》 奈美爾安布能須《ナミニアフノス》 安敝流伎美可母《アヘルキミカモ》」(卷十四、三四一三)。句切。
 待者苦三 マタバクルシミ マテバクルシミ(類)、マツハクルシミ(童)、マタバクルシミ(古義)。マテバ、マタバは、どちらも云えそうだが、「波奈其米爾《ハナゴメニ》 多麻爾曾安我奴久《タマニゾアガヌク》 麻多婆苦流之美《マタバクルシミ》」(卷十七、三九九八)
の例によつてマタバを採る。待つは、浪の靜まるのを待つので牽牛自分の心である。
【評語】牽牛星が、待つのは苦しいから、進んで來たというのである。困難を敢えて冒して來たということを、具體的に描いている所に趣向がある。
 
2086 牽牛《ひこぼし》の 嬬《つま》喚《よ》ぶ舟の 引綱《ひきづな》の、
 絶えむと君を わが念はなくに。
 
 牽牛之《ヒコボシノ》 嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》 引綱乃《ヒキヅナノ》
 將v絶跡君乎《タエムトキミヲ》 吾之念勿國《ワガオモハナクニ》
 
【譯】牽牛の妻を呼ぶ船の引綱のように、切れようと、あなたのことを、わたしは思つていません。
【釋】嬬喚舟之 ツマヨブフネノ。ツマヨブは、妻を呼ばうで、婚姻を求める意。(卷十、二〇七五參照)。
 引綱乃 ヒキヅナノ。船を引くために附けてある綱の。以上三句は序詞で、次の絶エムを引き起している。
 將絶跡君乎 タエムトキミヲ。タエムは、切れよう。中が斷絶しよう。キミヲは、君に對して。
【評語】七夕そのものを詠んだのではなくして、七夕に寄せて、自分の思いを述べた歌になつている。やはり七夕の席上などで詠まれたのであろう。序から主想に移るところは、極めて類型的だ。
 
2087 渡守《わたりもり》 舟出《ふなで》し出でむ。
 今夜《こよひ》のみ 相見て後は、
(198) 逢はじものかも。
 
 渡守《ワタリモリ》 舟出爲將v出《フナデシイデム》
 今夜耳《コヨヒノミ》 相見而後者《アヒミテノチハ》
 不v相物可毛《アハジモノカモ》
 
【譯】津守よ、船出して來よう。今夜ばかり逢つて、後には逢わないものだろうか。
【釋】舟出爲將出 フナデシイデム。シは、助詞とも解せられるが、爲の字を使つているによれば、やはり動詞と見るのがよいだろう。句切。
 不相物可毛 アハジモノカモ。助動詞ジの連體形は、假字がきのものが無いが、「幾時毛《イクバクモ》 不v生物呼《イケラジモノヲ》」(卷九、一八〇七)、「幾《イクバクモ》 不2生有1命乎《イケラジイノチヲ》」(卷十二、二九〇五)の如きは、その語法と見られるものである。モノカモは、反語の氣もちになつている。カモの疑意から引き出されるのである。モノカモ(卷四、五一七)参照。
【評語】牽牛が別れて立ち歸ろうとする時の氣もちを詠んでいる。後會を期するという珍しい内容である。七夕の歌も、多く作られるに及んで、他人の言わないような所に著眼するに至つたと考えられる。
 
2088 わが隱せる 楫《かぢ》棹《さを》無くて、
 渡守 舟貸さめやも。
 しましはあり待て。
 
 吾隱有《ワガカクセル》 ※[楫+戈]棹無而《カヂサヲナクテ》
 渡守《ワタリモリ》 舟將v借八方《フネカサメヤモ》
 須臾者有待《シマシハアリマテ》
 
【譯】わたくしの隱した楫や棹がなくては、渡守が船を貸さないでしよう。しばらくお待ちなさい。
【釋】※[楫+戈]棹無而 カヂサヲナクテ。カヂもサヲも、船を進める道具だが、カヂは、艪櫂のような扁平の形のもの、サヲは棒状のものと解せられる。
 須臾者有待 シマシハアリマテ。アリマテは、その儘に待つていよ。「夜波隱良武《ヨハコモルラム》 須臾羽蟻待《シマシハアリマテ》」(卷四、六六七)。
(199)【評語】織女が、ひたすらに牽牛を歸すまいとして引き留めている情が歌われている。全體の構想が奇警で、初二句の敍述もよい。
 
2089 乾坤《あめつち》の 初めの時ゆ
 天の河 い向ひ居《を》りて、
 一年に 二遍《ふたたび》逢はぬ
 妻《つま》ごひに もの念ふ人、
 天の河 安の川原の
 あり通《がよ》ふ 出々の渡《わたり》に、
 そほ船の 艫《とも》にも舳《へ》にも
 船艤《ふなよそ》ひ 眞楫《まかぢ》繁拔《しじぬ》き、
 はた芒《すすき》 本葉もそよに
 秋風の 吹き來《く》る夕《よひ》に、
 天の河 白浪|凌《しの》ぎ
 落ち激《たぎ》つ 早瀬|渉《わた》りて、
 稚《わか》草の 妻《め》が手|枕《ま》かむと、
 大船の 思ひ憑《たの》みて
 榜《こ》ぎ來らむ その夫《つま》の子が、
(200) あらたまの 年の緒長く
 思ひ來《こ》し 戀をつくさむ
 七月《ふみつき》の 七日の夕《よひ》は、
 吾も悲しも。
 
 乾坤之《アメツチノ》 初時從《ハジメノトキユ》
 天漢《アマノガハ》 射向居而《イムカヒヲリテ》
 一年丹《ヒトトセニ》 兩遍不v遭《フタタビアハヌ》
 妻戀尓《ツマゴヒニ》 物念人《モノオモフヒト》
 天漢《アマノガハ》 安乃川原乃《ヤスノカハラノ》
 有通《アリガヨフ》 出々乃渡丹《デデノワタリニ》
 具穗船乃《ソホブネノ》 艫丹裳舳丹裳《トモニモヘニモ》
 船装《フナヨソヒ》 眞梶繁拔《マカヂシシヌキ》
 旗荒《ハタススキ》 本葉裳具世丹《モトハモソヨニ》
 秋風乃《アキカゼノ》 吹來夕丹《フキクルヨヒニ》
 天河《アマノガハ》 白浪凌《シラナミシノギ》
 落沸《オチタギツ》 速湍渉《ハヤセワタリテ》
 稚草乃《ワカクサノ》 妻手枕迹《メガテマカムト》
 大舟乃《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》
 滂來等六《コギクラム》 其夫乃子我《ソノツマノコガ》
 荒珠乃《アラタマノ》 年緒長《トシノヲナガク》
 思來之《オモヒコシ》 戀將v盡《コヒヲツクサム》
 七月《フミツキノ》 七日之夕者《ナヌカノヨヒハ》
 吾毛悲焉《ワレモカナシモ》
 
【譯】天地の初めの時以來、天の川に向かつていて、一年に二度逢わない妻を戀うて物思いをしている人、その人は、天の川の安の川原の、ありつつ通う渡り場所に、赤く塗つた船の艫にも舳先にも、般装いをして艪櫂を一杯に取りつけて、穗に出たススキの本葉もゆれて秋風の吹いて來る夕べに、天の川の白波をおししのいで、水の流れ落ちて激する早瀬を渡つて、若草のような妻の手を枕にしようと、大船のように頼みに思つて、漕いでくるだろうその夫の人が、改まる年の長いあいだ、思つてきた戀をつくすだろう七月の七日の夕べは、わたしも感慨に堪えない。
【構成】全篇一文。初めに、妻戀ニ物念フ人を擧げ、次にその人の行動を敍して、ソノ夫ノ子ガと受けて、その長い戀をつくす七月七日の夕は、ワレモ悲シモと、自分の感想を敍して終つている。
【釋】乾坤之初時從 アメツチノハジメノトキユ。ユは、その時からこちらへ引き續いて。
 射向居而 イムカヒヲリテ。イは、接頭語。
 物念人 モノオモフヒト。牽牛星をいう。初めから物念フまで、人を修飾している。次句以下戀ヲツクサムまでは、この人の行動である。
 出々乃渡丹 デデノワタリニ。
  テテノワタリニ(元赭)
  ――――――――――
  世世乃渡丹《セセノワタリニ》(童)
(201)  歳乃渡丹《トシノワタリニ》(考)
 デデノワタリは、耳馴れないが、古事記中卷、宇遲《うぢ》の和紀郎子《わきいらつこ》の御歌の句、「和多理是邇《ワタリゼニ》 多弖流《タテル》 阿豆佐由美麻由美《アヅサユミマユミ》」(五二)に相當する句を、日本書紀には「和多利涅珥《ワタリデニ》 多弖屡《タテル》 阿豆瑳由瀰《アヅサユミ》 摩由瀰《マユミ》」(四三)に作つている。また本集にも、「去歳渡代《コゾノワタリデ》」(卷十、二〇一八)とある。このワタリデのデは、接尾語で、出ている地形をいう。ヰデ(堰)などのデと同じであろう。かような語例のある所を見れば、出々ノワタリも、かならず誤りとも決し難いものがある。舊によつて存する所以である。
 具穗船乃 ソホブネノ。
  クホブネノ(元赭)
  ――――――――――
  曾穗船乃《ソホブネノ》(考)
  其穗船乃《ソホブネノ》(略、宣長)
  意穗船乃《オホブネノ》(古義)
 ソホブネノの訓は動かないようだが、何の誤字とも定め難い。字形は其が近いが、この歌の中に、其と書いてもいる。下の「本葉裳具世丹」も、同樣に具をソに當てて書いており、また「妹告與具《イモニヅゲコソ》」(卷十、二〇〇〇)などの具も同樣である。ソナフの下略で、ソに當てたのだろうか。不明とするほかはない。ソホブネは、赤土で塗つた船。牽牛の乘る船をいう。
 旗荒 ハタススキ。諸本、旗荒とあり、考に旗芒の誤りとする。ススキは、荒草の義であるから、誤りとするに及ばない。ハタススキは、旗のように穗に出たススキである。
 本葉装具世丹 モトハモソヨニ。モトハは、根もとに近い葉。具は、「具穗船乃」の條參照。ソヨニは、そよそよ動搖する形容。
 妻手枕迹 メガテマカムト。
(202)  ツマタマクラト(元赭)
  ツマノテマカムト(代初)
  ツマデマカムト(考)
  ツマガテマカムト(略)
  ――――――――――
  妻乎枕迹《ツマヲマカムト》(古義)
 妻の字は、下文に、夫の字をツマに當てて書いているようであるから、ここはメガと讀んだ方がよく、音數もそれがよい。マカムは、枕としようの意。
 大舟乃 オホブネノ。枕詞。
 思憑而 オモヒタノミテ。妻の手を枕にしようと頼みにして。
 滂來等六 コギクラム。今七月七日の夕に牽牛の漕いでくることを推量し(203)ている。連體句。
 其夫乃子我 ソノツマノコガ。ツマノコは、男子。コは愛稱。牽牛星をいう。
 年緒長 トシノヲナガク。トシノヲは、年の續く性質を緒にたとえていう。
 戀將盡 コヒヲツクサム。戀を盡くしてしまう。連體句。
 吾毛悲焉 ワレモカナシモ。カナシは、感傷される意の形容詞。
【評語】牽牛の敍述はくわしくされているが、詞句や内容、もしくは文字にまで混雜が感じられるのは、未定稿のままなのだろう。天の川の語が三出しているのは、それだけの效果は無いし、洗煉されているとはいえない。ソホ船ノ云々のあたりは、船に乘つて通うようであり、しかも落チタギツ速湍ワタリテは、徒歩で渡ることを云つているようだ。秋の風物を描き、天の川の敍述に及んで、さて末に自分の心を述べて終つているのは、この歌のよい所である。
 
反歌
 
2090 高麗錦《こまにしき》 紐《ひも》解《と》きかはし
 天人《あめひと》の 妻問《つまど》ふ夕《よひ》ぞ。
 吾も偲《しの》はむ。
 
 狛錦《コマニシキ》 紐解易之《ヒモトキカハシ》
 天人乃《アメヒトノ》 妻問夕敍《ツマドフヨヒゾ》
 吾裳將v偲《ワレモシノハム》
 
【譯】高麗ふうの錦の紐をお互に解いて、天人の婚姻する夜だ。わたしも思いやろう。
【釋】狛錦 コマニシキ。高麗ふうの錦で、上等の織物である。多く紐に冠しており、非常に貴重とされていたことが知られる。
(204) ※[糸+刃]解易之 ヒモトキカハシ。ヒモは、衣服の紐。トキカハシは、たがいに解くので、婚姻するをいう。以上二句は、次の、天人ノツマドフの具體的敍述。
 天人乃 アメヒトノ。アメヒトは、牽牛織女をいう。ツマドフというによれば、特に牽牛を主としている。「安米比度之《アメヒトシ》 可久古非須良波《カクコヒスラバ》 伊家流思留事安里《イケルシルシアリ》」(卷十八、四〇八二)。この卷の十八の例は、都の人を譬喩的に言つている。
 吾裳將偲 ワレモシノハム。シノハムは、七夕のことを思いやろうの意。
【評語】長歌の組織を受けて、よく呼應している。初二句の敍述も、天人というので、特に大陸ふうの風俗を想像しているのだろう。七夕らしい敍述である。
 
2091 彦星の 川瀬を渡る さ小舟《をぶね》の
 え行きて泊《は》てむ 河津《かはつ》し念《おも》ほゆ。
 
 彦星之《ヒコボシノ》 川瀬渡《カハセヲワタル》 左小舟乃《サヲブネノ》
 得行而將v泊《エユキテハテム》 河津石所v念《カハツシオモホユ》
 
【譯】牽牛星の川瀬を渡る小舟が、行き得てとまる舟つきが思われる。
【釋】左小舟乃 サヲブネノ。サは、接頭語。
 得行而將泊 エユキテハテム。
  ユキテトマラム(元赭)
  トユキテハテム(西)
  トクユキテハテム(代精)
  エユキテハテム(代精)
  ――――――――――
  伊行而將泊《イユキテハテム》(新考)
  行行而將泊《ユキユキテハテム》(新訓)
 得が、副詞として他の動詞の上に置かれて、可能を表示することは、「之加須我仁《シカスガニ》 黙然得不v在者《モダエアラネバ》」(卷四、(205)五四三)、「面忘《オモワスレ》 太爾毛得爲也登《ダニモエスヤト》」(卷十一、二五七四)などの例があるにより、もとのままとする。行を得に誤つたとすることは「住吉之《スミノエノ》 里得之鹿齒《サトユキシカバ》」(卷十、一八八六)の例もあるので、あり得ることとも思われるが、とにかく原文のままでも通じないこともない。
【評語】これは牽牛が舟に乘つて行くことを想像している。反歌二首の順序からいえば、この歌の方が、前にあつてよいのだろう。ここにも未整頓が感じられる。歌も河津を思うというだけで、格別の事がない。
 
2092 天地と 別れし時ゆ、
 ひさかたの 天《あま》つ驗《しるし》と
 定めてし 天《あま》の河原に、
 あらたまの 月を累《かさ》ねて、
 妹に逢ふ 時|候《さもらふ》と、
 立ち待つに わが衣手に
 秋風の 吹き反《かへ》らへば、
 立ちて坐《ゐ》て たどきを知らに、
 村肝《むらぎも》の 心いさよひ
 解衣《ときぎぬ》の 思ひ亂れて、
 何時しかと わが待つ今夜《こよひ》、
 この川の 行く如長く
(206) ありこせぬかも。
 
 天地跡《アメツチト》 別之時從《ワカレシトキユ》
 久方乃《ヒサカタノ》 天驗常《アマツシルシト》
 定大王《サダメテシ》 天之河原尓《アマノガハラニ》
 璞《アラタマノ》 月累而《ツキヲカサネテ》
 妹尓相《イモニアフ》 時候跡《トキサモラフト》
 立待尓《タチマツニ》 吾衣手尓《ワガコロモデニ》
 秋風之《アキカゼノ》 吹反者《フキカヘラヘバ》
 立坐《タチテヰテ》 多土伎乎不v知《タドキヲシラニ》
 村肝《ムラギモノ》 心不v欲《ココロイサヨヒ》
 解衣《トキギヌノ》 思亂而《オモヒミダレテ》
 何時跡《イツシカト》 吾待今夜《ワガマツコヨヒ》
 此川《コノカハノ》 行長《ユクゴトナガク》
 有得鴨《アリコセヌカモ・アリエテシカモ》
 
【譯】天地と別れた時からこの方、天のしるしとして定めた天の川原に、改まる月を重ねて、妻に逢う時節を伺つて、立つて待つに、わたしの著物に、秋風が吹き返るので、立つたりすわつたりして手もつかず、心が動搖して、解いた著物のように思い亂れて、いつになつたらと、わたしの待つ今夜は、この川の行くように長くあつてほしいものだ。
【構成】全篇一文。
【釋】天地跡別之時從 アメツチトワカレシトキユ。渾沌《こんとん》としていたものが、天と地とに別れた、その時からこの方。「天地等 《アメヅチト》 別之時從《ワカレシトキユ》」(卷十、二〇〇五)。
 天驗常 アマツシルシト。アマツシルシは、これが天である表物として。「久方《ヒサカタノ》 天印等《アマヅシルシト》 水無水《ミナシガハ》 隔而置之《ヘダテテオキシ》 神世之恨《カミヨシウラメシ》」(卷十、二〇〇七)の歌を受けているのだろう。
 定大王 サダメテシ。大王は、王羲之《おうぎし》をいい、手師の義によつて、テシの音に借りている。
 璞 アラタマノ。枕詞。通例、年に冠するのだが、ここは轉じて月に冠している。
 時候跡 トキサモラフト。サモラフは、伺う。
 吹反者 フキカヘラヘバ。カヘラヘは、飜る意。衣手ニを受けているから、吹キカヘラヘバがよい。
 立座 タチテヰテ。立つたり居たりして。
 多土伎乎不知 タドキヲシラニ。手のつけ所もなく。
 村肝 ムラギモノ。枕詞。
 心不欲 ココロイサヨヒ。
(207)  ココロオホエス(西)
  ココロタユタヒ(新訓)
  ――――――――――
  心不懽《ココロサブシク》(略、宣長)
  心不知欲比《ココロイサヨヒ》(古義)
 不欲は、心の活動しない義によつて書いているのだろう。よつて、そのままで、イサヨヒと讀む。心が躊躇して働かない意である。「雲居奈須《クモヰナス》 心射左欲比《ココロイサヨヒ》」(卷三、三七二)。
 解衣 トキギヌノ。枕詞。解いた衣服の義をもつて、亂れに冠する。
 行長有得鴨 ユクゴトナガクアリコセヌカモ。
  ユキテナガクモアリエタルカモ(元赭)
  ユキノナガケク(補)
  ナガレノナガクアリコセヌカモ(總索引)
  ――――――――――
  行如長有得鴨《ユクゴトナガクアリエテムカモ》(代精)
  行々良々有得鴨《ユクラユクラニアリガテムカモ》(考)
  行々有不得鴨《ユクラユクラニアリガテヌカモ》(略)
  行瀬長有欲得鴨《ユクセノナガクアリコセヌカモ》(古義)
 文字表現が不完全なので、何かの語を補つて讀まなければならない。今ここには行長にゴトを補讀してユクゴトナガクとすることとした。有得鴨は、總索引にアリコセヌカモとしたのは、例もあり、まずおだやかである。打消の語を補うのである。もつとも字に即した讀み方としてはアリエテシカモである。
【評語】牽牛星が、天の川原にいて、織女に逢う時の接近するのを待つ心が歌われている。早く時節の來ることを願う心と、今夜が長くあつてほしいということとが、かさなり合つていて中心點を失している。天地と別れし時から説き起した效果も無い。
 
反歌
 
2093 妹に逢ふ 時片待つと、
(208) ひさかたの 天の河原に
 月ぞ經にける。
 
 妹尓相《イモニアフ》時片待跡《トキカタマツト》
 久方乃《ヒサカタノ》 天之漢原尓《アマノガハラニ》
 月敍經來《ツキゾヘニケル》
 
【譯】妻に逢う時をひたすらに待つと、天の河原で、月を經たことだ。
【釋】時片待跡 トキカタマツト。カタマツは、かたより待つ、ひたすらに待つ。
【評語】妹に逢う時節の近づいた頃の作である。長歌の一部を繰り返しただけで、格別の手がらもない。
 
詠v花
 
【釋】詠花 ハナヲヨメル。三十四首あるが、その三十一首まではハギの歌で、他は、アサガオとオミナエシとオバナとが一首ずつある。
 
2094 さを鹿の 心|相念《あひおも》ふ 秋はぎの、
 時雨《しぐれ》のふるに 散らくし惜しも。
 
 竿志鹿之《サヲシカノ》 心相念《ココロアヒオモフ》 秋〓子之《アキハギノ》
 鍾禮零丹《シグレノフルニ》 落僧惜毛《チラクシヲシモ》
 
【譯】男鹿の心に思つている秋ハギが、時雨の降るので、散るのが惜しい。
【釋】心相念 ココロアヒオモフ。心で思い合つている。鹿とハギとが思い合つているのである。
 鍾禮零丹 シグレノフルニ。鍾は、ngの韻の字であるから、シグの音に借りている。シグレは、秋の頃降る雨。
 落僧惜毛 チラクシヲシモ。僧は、法師の義をもつてシの音に借りている。訓假字である。「知僧裳無跡《シルシモナシト》」(卷四、六五八)。
【評語】鹿と思いあつているハギというのが、特殊の説明である。人麻呂集所出の歌だから、鹿とハギとの關(209)係については、古い方だろう。
2095 夕されば 野邊の秋はぎ うら若み、
 露に枯れつつ 秋待ち難し。
 
 夕去《ユフサレバ》 野邊秋〓子《ノベノアキハギ》 末若《ウラワカミ》
 露枯《ツユニカレツツ》 金待難《アキマチガタシ》
 
【譯】夕方になれば、野邊の秋ハギは、伸びた枝先が若いので、露にいためられて、秋を待ちかねる。
【釋】末若 ウラワカミ。伸びた枝葉の末が若いので。
 金待難 アキマチガタシ。金は、五行説によつて、秋に當てて書いている。
【評語】 ハギの若い枝先が、露にいたむように見える風情を詠んでいる。ハギを愛する心がよくあらわれている。秋の歌ではないが、ハギの歌なので、秋に收めたのだろう。
 
右二首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
【釋】右二首 ミギノフタツハ。秋の雜歌の部には、人麻呂集の歌を、小題の下に分屬させている。人麻呂集には、別に小題に分けてはなかつたのだろう。
 
2096 眞葛原 なびく秋風 吹くごとに、
 阿太《あだ》の大野の はぎが花散る。
 
 眞葛原《マクズハラ》 名引秋風《ナビクアキカゼ》 毎v吹《フクゴトニ》
 阿太乃大野之《アダノオホヌノ》 〓子花散《ハギガハナチル》
 
【譯】クズの原の靡く秋風の吹く度に、阿太の大野のハギの花が散る。【釋】眞葛原 マクズハラ。マは接頭語。クズの這い廣がつている原で、阿太の大野の一部である。
 阿太乃大野之 アダノオホノノ。阿太は、奈良縣字智郡。奈良縣内における吉野川の下流の右岸の地。
(210)【評語】秋風がクズの繁りの上を渡つて吹いてきて、その度にハギの花のほろほろとこぼれる風趣が描かれている。秋の野のおもかげはよく傳えられている。ただ眞葛原というのが、地名のようにも聞えて、阿太の大野との關係が、對立するように感じられるのが、難點である。
 
2097 鴈がねの 來喧《きな》かむ日まで
 見つつあらむ、
 このはぎ原に 雨なふりそね。
 
 鴈鳴之《カリガネノ》 來喧牟日及《キナカムヒマデ》
 見乍將v有《ミツツアラム》
 此〓子原尓《コ(ノ)ハギハラニ》 雨勿零根《アメナフリソネ》
 
【譯】鴈の來て鳴く日まで見ていたいと思う、このハギ原に、雨よ降らないでくれ。
【釋】來喧牟日及 キナカムヒマデ。鴈の來て鳴くのは、秋深くなつてからで、ハギの花よりはおくれるので、かように言つている。
 見乍將有 ミツツアラム。連體句として解すべきである。
【評語】鴈ガネノ來鳴カム日マデの句で、秋深くなるまでの意をあらわしている。時久しくの意であるが、鴈の鳴く頃までもというあらわし方に、風情がある。
 
2098 奥山に 住むといふ鹿の、
 初夜《よひ》さらず 妻問《つまど》ふはぎの
 散らまく惜しも。
 
 奥山尓《オクヤマニ》 住云男鹿之《スムトイフシカノ》
 初夜不v去《ヨヒサラズ》 妻問〓子乃《ツマドフハギノ》
 散久惜裳《チラマクヲシモ》
 
【譯】奥山に任むという鹿の、宵ごとに妻として訪うハギの散るのが惜しい。
【釋】初夜不去 ヨヒサラズ。初夜ごとに。初夜と書いたのは、妻をおとずれる時間として、特に意を用いて(211)書いたのである。
 妻問〓子乃 ツマドフハギノ。ハギを鹿の妻とする心から、ハギのもとをおとずれるとしている。
【評語】奥山に任むという鹿が、宵毎におとずれるハギというので、ハギに對するなつかしみがよく描かれている。ハギを妻として、鹿がおとずれるという風雅な構想が中心となつている。
 
2099 白露の 置かまく惜しみ、
 秋はぎを 折りのみ折りて
 置きや枯らさむ。
 
 白露乃《シラツユノ》 置卷惜《オカマクヲシミ》
 秋〓子乎《アキハギヲ》 折耳折而《ヲリノミヲリテ》
 置哉枯《オキヤカラサム》
 
【譯】白露の置くのを惜しんで、秋ハギを、折るばかり折つて、置いて枯らすのだろうか。
【釋】折耳折而 ヲリノミヲリテ。折るには折つたが、折るばかりで。
 置哉枯 オキヤカラサム。うち置いてか枯らすだろう。枯れるのを惜しむ心である。
【評語】 ハギを愛するあまり、折るには折つたが、さてどうということもなく枯らすのかと歎いている。思い入つた風情で、どこまでもハギをあわれむ心が描かれている。
 
2100 秋田刈る 假廬《かりほ》の宿《やど》り にほふまで
 咲ける秋はぎ 見れど飽かぬかも。
 
 秋田苅《アキタカル》 借廬之宿《カリホノヤドリ》 爾穗經及《ニホフマデ》
 咲有秋〓子《サケルアキハギ》 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】秋の田を刈るための假廬の宿に、花の色が映ずるまでに咲いている秋ハギは、見ても飽きないことだなあ。
【釋】秋田苅借廬之宿 アキタカルカリホノヤドリ。秋の田を刈るために、田のかたわらに假小舍を作つては(212)いつている、その宿り。
 丹穗經及 ニホフマデ。ハギの花の色が映つて見えるまで。
【評語】秋の田のほとりの假廬の生活に、咲き亂れるハギを愛する心が歌われている。實詠かどうかはわからないが、田園の風趣の味わわれる歌だ。但し五句の見レド飽カヌカモは、古風で大がかりで、こういう題材には適しない。ハギの花の美を直寫する手段に出るべきであつた。
 
2101 わが衣《ころも》 摺れるにはあらず。
 高松の 野邊行きしかば、
 はぎの摺《す》れるぞ。
 
 吾衣《ワガコロモ》 楷有者不v在《スレルニハアラズ》
 高松之《タカマツノ》 野邊行之者《ノベユキシカバ》
 〓子之楷類曾《ハギノスレルゾ》
 
【譯】わたしの著物は、わざわざ摺つたのではありません。高松の野邊を行つたので、ハギが摺つたのです。
【釋】楷有者不在 スレルニハアラズ。楷は、型を置いて摺つて染めるをいう。ここはハギの花の染料で染めたのではない由である。句切。
 高松之 タカマツノ。タカマツは、高圓に同じとされている。
 野邊行之者 ノベユキシカバ。カに當る文字無く、補つて讀む。
【評語】 ハギの花が一面に咲いている野邊を行くと、その花の色で、著物が染まるという構想で、これは類歌も多い。この歌は、それによつて、わざわざ摺つたのではなく、ハギが摺つたのだという點に、興味を置いている。染料のすくなかつた當時は、ハギの花なども、染料として使用されたのである。
 
2102 この暮《ゆふべ》 秋風吹きぬ。
(213) 白露に あらそふはぎの
 明日咲かむ見む。
 
 此暮《コノユフベ》 秋風吹奴《アキカゼフキヌ》
 白露尓《シラツユニ》 荒爭〓子之《アラソフハギノ》
 明日將レ咲見
 
【譯】この夕方、秋風が吹いた。白露に爭つているハギの、明日咲きそうなのを見よう。
【釋】荒爭〓子之 アラソフハギノ。アラソフは、露は、ハギの花を咲かせようとして誘うが、ハギは、それに對して、みだりに咲くまいとする意にいう。「春雨爾《ハルサメニ》 相爭不v勝而《アラソヒカネテ》 吾屋前之《ワガニハノ》 櫻花者《サクラノハナハ》 開始爾家里《サキソメニケリ》」(卷十、一八六九)、「白露爾《シラツユニ》 荒爭金手《アラソヒカネテ》 咲芽子《サケルハギ》 散惜兼《チラバヲシケム》 雨莫零根《アメナフリソネ》」(同、二一一六)。
【評語】雨露が花を咲かせようとし、木草の花が、一往それを拒むようにあらそうとする考えかたは、男が女を誘つた時の事情に、思い寄せているらしい。自然の關係を、人事に擬して解釋しようとするもので、親しみを感じさせる。
 
2103 秋風は 冷《すず》しくなりぬ。
 馬|竝《な》めて いざ野に行かな。
 はぎが花見に。
 
 秋風《アキカゼハ》 冷成奴《スズシクナリヌ》
 馬竝而《ウマナメテ》 去來於v野行奈《イザノニユカナ》
 〓子花見尓《ハギガハナミニ》
 
【譯】秋風は涼しくなつた。さあ馬をつらねて、野に行きたいものだ。はぎの花を見に。
【釋】去來於野行奈 イザノニユカナ。去來をイザに當てている例は多い。來は添辭で、去《ゆ》けと催す語なので、イザに借りているのだろう。ユカナは、願望の語法。句切。
【評語】馬竝メテという所に、作者の地位が窺われる。大伴氏あたりの調子である。ハギの花を見に馬を遠乘しようという、自然を愛する貴族生活が描かれている。
 
(214)2104 朝貌は 朝露|負《お》ひて 咲くと云へど、
 夕|陰《かげ》にこそ 咲きまさりけれ。
 
 朝杲《アサガホハ》 朝露負《アサツユオヒテ》 咲雖v云《サクトイヘド》
 暮陰社《ユフカゲニコソ》 咲益家禮《サキマサリケレ》
 
【譯】朝貌の花は、朝露を負うて咲くというけれども、夕方の光に一層咲きまきつて見える。
【釋】朝杲 アサガホハ。アサガホは、今の何に當るか、諸説がある。キキヨウ、ムクゲ、ヒルガオなどいう。「朝貌之花《アサガホノハナ》」(卷八、一五三八)參照。杲をカホに當てることは、「見杲石山跡《ミガホシヤマト》」(卷三、三八二)參照。
 
 暮陰社 ユフカゲニコソ。ユフカゲは、夕方の光線。「吾屋戸乃《ワガヤドノ》 秋之〓子開《アキノハギサク》 夕影爾《ユフカゲニ》 今毛見師香《イマモミテシカ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》」(卷八、一六二二)、「春野爾《ハルノノニ》 霞多奈※[田+比]伎《カスミタナビキ》 宇良悲《ウラガナシ》 許能暮影爾《コノユフカゲニ》 鶯奈久母《ウグヒスナクモ》」(卷十九、四二九〇)。
 咲益家禮 サキマサリケレ。一層花色を増したよしである。
【評語】朝貌の名に、かならずしも拘泥しないことを歌つている。よくその花を見ている。すなおな表現だ。
 
2105 春されば 霞隱《かすみがく》りて 見えざりし
 秋はぎ咲けり。
 折りてかざさむ。
 
 春去者《ハルサレバ》 霞隱《カスミガクリテ》 不v所v見有師《ミエザリシ》
 秋〓子咲《アキハギサケリ》
 折而將2插頭1《ヲリテカザサム》
 
【譯】春になると霞がかかつて見えなかつた、秋ハギが咲いている。折つてかざしにしよう。
【釋】春去者 ハルサレバ。春になればだが、春の頃はの意に使つている。
【評語】霞ガクリテ見エザリシというのは、霞がかかつており、ハギもその頃は特に目立たなかつたのを、大がかりに言つている。秋のハギを歌うために、わざわざ春から歌い起したのは、手段である。
 
2106 沙額田《さぬかだ》の 野邊の秋はぎ、
(215) 時しあれば 今盛りなり。
 折りてかざさむ。
 
 沙額田乃《サヌカダノ》 野邊乃秋〓子《ノベノアキハギ》
 時有者《トキシアレバ》 今盛有《イマサカリナリ》
 折而將2插頭1《ヲリテカザサム》
 
【譯】沙額田の野邊の秋ハギは、時節になつたので、今さかりだ。折つてかざしにしよう。
【釋】沙額田乃 サヌカダノ。サヌカダは、奈良縣生駒郡の額田に、接頭語サを添えたようだ。地名に接頭語サを添える例は、「左檜乃熊《サヒノクマ》 檜隈川之《ヒノクマガハノ》」(卷七、一一〇九)。既出の「狹野方《サノカタ》」(卷十、一九二八)とは、ノの音が違うから別だろう。
【評語】 ハギの盛りを歌つて、すなおな表現である。しかし地名は、入れ替えが利きそうで、何處でもよい。今盛リナリの句も、慣用句だ。
 
2107 殊更に 衣《ころも》は摺らじ。
 女郎花 咲く野《の》のはぎに
 にほひて居らむ。
 
 事更尓《コトサラニ》 衣者不v楷《コロモハスラジ》
 佳人部爲《ヲミナヘシ》 咲野之〓子尓《サクノノハギニ》
 丹穗日而將v居《ニホヒテヲラム》
 
【譯】特に著物は摺らない。オミナエシの咲く野のハギに染めていよう。
【釋】佳人部爲 ヲミナヘシ。枕詞。オミナエシが咲くと、野を修飾する。「娘子部四《ヲミナヘシ》 咲澤二生流《サクサハニオフル》 花勝見《ハナカツミ》」(卷四、六七五)參照。
 咲野之〓子尓 サクノノハギニ。咲く野のハギに。
 丹穗日而將居 ニホヒテヲラム ニホヒテは、ハギの花の色が映つて、色に染めたようにあるをいう。
【評語】美しい歌だが、幾分のわざとらしさは感じられる。ハギの花に埋もれている自分を想像している。染(216)色しない素色の衣服なので、こういう歌が詠まれるのである。
 
2108 秋風は とくとく吹き來《こ》。
 はぎが花 散らまく惜しみ
 競《きほ》ひ立つ見む。
 
 秋風者《アキカゼハ》 急々《トクトク・ハヤハヤ》吹來《フキコ》
 〓子花《ハギガハナ》 落卷惜三《チラマクヲシミ》
 競立見《キホヒタツミム》
 
【譯】秋風は、いそいで吹いてこい。ハギの花が散るのを惜しんで、爭い立つのを見よう。
【釋】急々吹來 トクトクワキコ。
  ハヤシフキケリ(元赭)
  トクトクフキコ(新訓)
  ――――――――――
  急之吹來《ハヤクシフキテ》(代初)
  急之吹來《ハヤクシフケリ》(代精)
  急之吹來《ハヤクシフキク》(代精)
  急久吹來《ハヤクフキキヌ》(童)
  急之吹來《イタクフキキヌ》(考)
 急々は、ハヤハヤとも讀まれる。急速の意である。句切。
 競立見 キホヒタツミム。
  キソヒタチミム(考)
  キホヒタチミム(古義)
  キホヒタツミム(新訓)
  ――――――――――
  競竟《キホヒキホヒニ》(元赭)
  競竟《アラソヒハテツ》(代初)
  競覽《キホヒテゾミム》(新考)
  競竟《キホヒワタラム》(總索引)
(217) 立見は、諸本に竟とあり、考に立見の誤りとするのを採つた。
【評語】ハギの花の動態の描かれて歌だ。秋風が吹いて、ハギの花が反抗するように、立ちあがる状が希望の語法をもつて巧みに寫されている。
 
2109 わが屋前《には》の はぎの若末《うれ》長し。
 秋風の 吹きなむ時に
 咲かむと思ひて。
 
 我屋前之《ワガニハノ》 〓子之若末長《ハギノウレナガシ》
 秋風之《アキカゼノ》 吹南時尓《フキナムトキニ》
 將v開跡思手《サカムトオモヒテ》
 
【譯】わたしの屋前のハギの伸びた枝先が長い。秋風の吹くだろう時に、咲こうと思つて。
【釋】〓子之若末長 ハギノウレナガシ。若末は、若く伸びた枝先。「葦若末乃《アシノウレノ》」(卷二、一二八)。句切。
【評語】 ハギをよく描いている。秋のくるのを待つ心が伺われる。秋の歌ではないが、ハギの歌なので秋に收めている。
 
 
2110 人皆は はぎを秋といふ。
 よし吾は 尾花が末《うれ》を 秋とは言はむ。
 
 人皆者《ヒトミナハ》 〓子乎秋云《ハギヲアキトイフ》
 縱吾等者《ヨシワレハ》 乎花之末乎《ヲバナガウレヲ》 秋跡者將v言《アキトハイハム》
 
【譯】人は皆、ハギの花が秋のしるしだというが、よしわたしは、尾花の穗末を、秋と云おうよ。
【釋】〓子乎秋云 ハギヲアキトイフ。アキトイフは、秋の特色のあるもの、秋の尤物、秋の代表として、もてはやす意。句切。
 縱吾等者 ヨシワレハ。ヨシは、上を受けて、それはそれとしての意に、下文を起している。「雪寒三《ユキサムミ》 咲者不v開《サキニハサカズ》 梅花《ウメノハナ》 縱比來者《ヨシコノゴロハ》 然而毛有金《シカモアルガネ》」(卷十、二三二九)。
(218)【評語】人々がハギを愛賞するのに對して、尾花の美を提唱している。尾花こそ秋のものだという心である。尾花を愛する歌は多く、上代人の趣味の落ちついたものであることを語つている。なお何ヲ秋トイフの表現は特殊のものだ。
 
2111 玉|梓《づさ》の公が使の 手折《たを》りける
 この秋はぎは 見れど飽かぬかも。
 
 玉梓《タマヅサノ》 公之使乃《キミガツカヒノ》 手折來有《タヲリケル》
 此秋〓子者《コノアキハギハ》 雖v見不v飽鹿裳《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】あなたのお使の折つてきたこの秋ハギは、見ても飽きないことですよ。
【釋】玉梓 タマヅサノ。枕詞。公ガを隔てて、使に冠している。
 手折來有 タヲリケル。來有の字を書いているのは、助動詞でなくて、來てある意を表示している。
【評語】類型的な表現で、ただ君が使の持つて來た秋ハギの花を賞美しているまでである。使を待たせて、すぐ返事に書いた歌だろう。
 
2112 わが屋前《には》に 咲ける秋はぎ、
 常ならば
 わが待つ人に 見せましものを。
 
 吾屋前尓《ワガニハニ》 開有秋〓子《サケルアキハギ》
 常有者《ツネナラバ》
 我待人尓《ワガマツヒトニ》 令v見※[獣偏+爰]物乎《ミセマシモノヲ》
 
【譯】わたしの屋前に咲いている秋ハギは、永く咲くものなら、わたしの待つ人に見せましたろうものを。
【釋】常有者 ツネナラバ。變らずに咲いているものならば。
 令見※[獣偏+爰]物乎 ミセマシモノヲ。猿をマシに借りている。猿をマシラというのは、梵語のmarkata(飜譯名義集に摩斯※[口+託の旁])の轉だという。しかし古くマシといい、マシラの文獻は新しいのだから、この説は疑わしい。
(219)【評語】ハギの花の盛りの久しくないのを歎いている。ハギでなくてもよさそうな歌である。
 
2113 たきそなひ 植ゑしなしるく、
 出で見れば、
 屋前《には》の早《はつ》はぎ 咲きにけるかも。
 
 手寸十名相《タキソナヒ》 殖之名知久《ウエシナシルク》
 出見者《イデミレバ》
 屋前之早〓子《ニハノハツハギ》 咲尓家類香聞《サキニケルカモ》
 
【譯】支度をして植えた效があつて、出て見れば、屋前の早咲のハギは、咲いたことだ。
【釋】手寸十名相 タキソナヒ。舊訓テモスマニとあり、仙覺に至つてタキソナヘと訓を改めたが、その萬葉集註釋に「テモスマニトイフ古語ハハヘルトモ、コノ發句、シカハエヨマレス。タキソナヘトハ、タキハ、アクル也。アケソナヘトイフコトハ也。クサキハウフルトキニ、フカクウエタルハ、アシキ也」とあるが、その解は首肯されない。これは古事記下卷、雄略天皇の御製の歌に「斯漏多閇能《シロタヘノ》 蘇弖岐蘇郵布《ソデキソナフ》 多古牟良爾《タコムラニ》 阿牟加岐都岐《アムカキツキ》」(九八)とあるを參照して解くべきである。その歌のソデキソナフは、袖著具フなるべく、白栲の袖を著て装つている意に解せられる。そのソデが手の字に代つているだけと見られる。動詞ソナフは、本集には用例が無いが、古事記にソナフで連體形を作り、また相の字は、多くアヒ、アフと讀まれているから、タキソナヒと讀むべきである。タは手の意だが、接頭語となり、熟語として、身支度をして、殊に手を使うのに便宜なようにするをいうのであろう。
 殖之名知久 ウエシナシルク。ナは助詞。「後奈居而《オクレナヲリテ》」(卷九、一七八〇)參照。
 屋前之早〓子 ニハノハツハギ。ヤドノワサハギ(和歌童蒙抄)、ヤドノハツハギ(西)、ニハノワサハギ(新訓)。ワサは、ワサダ、ワサホなど、稻にいう例である。「梅之早花《ウメノハツハナ》」(卷十、二三二八)と共に早をハツと讀むのが穩やかであろう。早咲きのハギである。
(220)【評語】みずから植えたハギが、丹精のかいがあつて咲いた喜びが歌われている。誤字説などの行われていた歌であるが、しいて誤字説を採るに及ばない。
 
2114 わが屋外《やど》に 植ゑ生《おほ》したる 秋はぎを、
 誰《たれ》か標《しめ》さす。
 吾に知らえず。
 
 吾屋外尓《ワガヤドニ》 殖生有《ウヱオホシタル》 秋〓子乎《アキハギヲ》
 誰標刺《タレカシメサス》
 吾尓不v所v知《ワレニシラエズ》
 
【譯】わたしの家の外に、植えて育てた秋ハギを、誰が繩を張つたのか、わたしに知れないように。
【釋】誰標刺 タレカシメサス。シメサスは、標をさす。シメは占有の表示。標について多くユフというのは、繩を使用するからである。サスと言つても、木をさすとは限らない。シメを行うことをいうと解せられる。「葛城乃《カヅラキノ》 高間草野《タカマノクサノ》 早知而《ハヤシリテ》 標指益乎《シメササマシヲ》 今悔拭《イマゾグヤシキ》」(卷七、一三三七)。
【評語】これは譬喩歌である。自分のもとにいる女子を秋ハギにたとえている。多分作者の女だろう。標を結うことを、譬喩に使うことは例があり、この歌の特色とは云われない。
 
2115 手に取れば 袖さへにほふ女郎花《をみなへし》、
 この白露に 散らまく惜しも。
 
 手取者《テニトレバ》 袖并丹覆《ソデサヘニホフ》 美人部師《ヲミナヘシ》
 此白露尓《コノシラツユニ》 散卷惜《チラマクヲシモ》
 
【譯】手に取れば袖までも色づくオミナエシよ、この白露に散ろうとするのが惜しい。
【釋】袖并丹覆 ソデサヘニホフ。覆は、オホフの下部を音聲としている訓假字。袖まで色がうつつて美しく見える。連體句。
【評語】手ニ取レバ袖サヘニホフ女郎花の句は美しく、それに白露を配したのも美しいが、白露に散るのが惜(221)しいというのは、生えたままのオミナエシのようであり、中心が二重になつている。またオミナシに散るというのも適切でない。四五句は、吟味なしに成句を使用したためであろう。
 
2116 白露に 爭ひかねて 咲けるはぎ、
 散らば惜しけむ。
 雨なふりそね。
 
 白露尓《シラツユニ》 荒爭金手《アラソヒカネテ》 咲〓子《サケルハギ》
 散惜兼《チラバヲシケム》
 雨莫零根《アメナフリソネ》
 
【譯】白露に爭い得ないで咲いているハギは、散つたら惜しいだろう。雨よ降らないでくれ。
【釋】荒爭金手 アラソヒカネテ。露は、花を催すのを、花は咲くまいとするが、それに抗しかねて。
【評語】既出の、「白露にあらそふはぎ」(二一〇二)の歌と同じ内容である。やはり、白露ニ爭ヒカネテに特色があるが、四五句の表現は類型的で、前の歌に及ばない。
 
2117 娘子らに 行相《ゆきあひ》の早稻《わせ》を
 刈る時に 成りにけらしも。
 はぎが花咲く。
 
※[女+感]嬬等尓《ヲトメラニ》 行相乃速稻乎《ユキアヒノワセヲ》
 苅時《カルトキニ》 成來下《ナリニケラシモ》
 〓子花咲《ハギガハナサク》
 
【譯】娘子たちに行き合う。その往還のほとりの早稻を刈る時になつたらしい。ハギの花が咲いた。
【釋】※[女+感]嬬等尓 ヲトメラニ。枕詞。娘子等に行き逢うというので、行相に冠している。
 行相乃速稻乎 ユキアヒノワセヲ。ユキアヒは、行つて出逢う處の義で、往還、道路をいう。その道路の近傍にある田の早稻をである。「射行相乃《イユキアヒノ》 坂之蹈本爾《サカノフモトニ》」(卷九、一七五二)のイユキアヒに同じく、それは接頭語イを有しているだけの相違である。
(222)【評語】 ハギの花の咲くによつて、早稻の刈時の來たことを歌つている。實際の耕作生活としては、早稻の刈時にハギの咲くことを取り扱つたものであるが、これらの事物の上に、生活に關係の深い季節の推移を見て行くところに、意義が多い。歌としても感じのよい作である。
 
 
2118 朝霧の たなびく小野の はぎが花、
 今か散るらむ。
 いまだ飽かなくに。
 
 朝霧之《アサギリノ》 棚引小野之《タナビクヲノノ》 〓子花《ハギガハナ》
 今《イマ》哉《カ・ヤ》散濫《チルラム》
 未v※[厭のがんだれなし]尓《イマダアカナクニ》
 
【譯】朝霧のたなびく野原のハギの花は、今ごろ散つているだろうか。
まだ厭きないのに。
【釋】朝霧之棚引小野之 アサギリノタナビクヲノノ。アサギリノタナビクは、秋の野の實景である。
 今哉散濫 イマカチルラム。哉は、普通にヤと讀まれる字であるが、カに當てたかと見られるところもある。ここもイマカチルラムの例句のあるのによるべきだろう。
【評語】朝霧のたなびく野を遠望して詠んでいる。日頃愛して來たハギの花の、もはや終りに近づいたことを歎いている。自然の推移に關心を持つ生活から生まれた歌である。
 
2119 戀しくは 形見にせよと
 わが夫子が 植ゑし秋はぎ、
 花咲きにけり。
 
 戀之久者《コヒシクハ》 形見爾爲與登《カタミニセヨト》
 吾背子我《ワガセコガ》 殖之秋〓子《ウエシアキハギ》
 花咲尓家里《ハナサキニケリ》
 
【譯】戀しかつたら形見にせよと言つて、あの方の植えた秋ハギの花が咲いている。
(223)【釋】戀之久者 コヒシクハ。コヒシクには、二種あり、ここは形容詞の副詞形で、戀しくあらばの意をなしている。「戀敷者《コヒシクハ》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》」(卷十、二〇一七)參照。
【評語】君が形見として植えた花を見て、その人を思う情が描かれている。但し類歌があり、それとくらべて、花の名をさし替えたように見える。勿論前後は不明だが、花は何でもよいということになる。
【參考】類歌。
  戀しけば形見にせむとわが屋戸に植ゑし藤浪今咲きにけり(卷八、一四七一山部赤人)
 
2120 秋はぎに 戀|盡《つく》さじと 念《おも》へども
 しゑや惜《あたら》し また逢はめやも。
 
 秋〓子《アキハギニ》 戀不v盡跡《コヒツクサジト》 雖v念《オモヘドモ》
 思惠也安多良思《シヱヤアタラシ》 又將v相八方《マタアハメヤモ》
【譯】秋ハギゆえに戀の心をつくすまいと思うけれども、ええ惜しいことだ。また逢わないだろう。
【釋】戀不盡跡 コヒツクサジト。戀の心をつくすまいと。戀いて悩むまいと。前出の「年之戀《トシノコヒ》 今夜盡而《コヨヒツクシテ》」(卷十、二〇三七)などの戀をつくすとは別である。
思惠也安多良思 シヱヤアタラシ。シヱヤは、感動の副詞。どうでもなれというような場合に使う。アタラシは、惜しむべくある意の形容詞。句切。
【評語】感動の語を使つて、活溌な云い方をしている。ハギに對して、どうともならない氣もちがわかる。表現に特色のある歌である。
 
2121 秋風は 日《ひ》にけに吹きぬ。
 高|圓《まと》の 野邊の秋はぎ
 散らまく惜しも。
 
 秋風者《アキカゼハ》 日異吹奴《ヒニケニフキヌ》
 高圓之《タカマトノ》 野邊之秋〓子《ノベノアキハギ》
 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
 
(224)【譯】秋風は、日ましに吹いてきた。高圓の野邊の秋ハギの、散ろうとするのが惜しい。
【釋】日異吹奴 ヒニケニフキヌ。ヒニケニは、日に殊にで、日ましに。句切。
【評語】すなおな歌だが、それだけに平凡の境を出ない。高圓のハギの花を思いやつている作だろう。
 
2122 丈夫《ますらを》の 心はなくて、
 秋はぎの 戀のみにやも
 なづみてありなむ。
 
 大夫之《マスラヲノ》 心者無而《ココロハナクテ》
 秋〓子之《アキハギノ》 戀耳八方《コヒノミニヤモ》
 奈積而有南《ナヅミテアリナム》
 
【譯】男子の心は無くして、秋ハギに對する戀にばかりに苦勞しているべきではない。
【釋】大夫之心者無而 マスラヲノココロハナクテ。立流な男の心を失つて。
 戀耳八方 コヒノミニヤモ。ヤモは、疑問の係助詞で、反語になる。
 奈積而有南 ナヅミテアリナム。ナヅミは、拘泥して、苦勞して。この句、上のヤモを受けて、反語になり、苦しんであるだろう、そんな事はあるべきでないの意になる。
【評語】秋ハギに對するめめしい戀に悩されていてはならないのだが、しかし實際そうは行かないのを、男子としての理性から説いている。女子に對する戀を、かような形で歌つているのはあるが、秋ハギに對して、歌つているのが特色である。しかしむりに作つたような感じを受ける。
 
2123 わが待ちし 秋は來たりぬ。
 然れども はぎの花ぞも
 いまだ咲かずける。
 
 吾待之《ワガマチシ》 秋者來奴《アキハキタリヌ》
 雖v然《シカレドモ》 〓子之花曾毛《ハギノハナゾモ》
 未v開家類《イマダサカズケル》
 
(225)【譯】わたしの待つた秋は來た。しかしながらハギの花は、まだ咲かないでいる。
【釋】〓子之花曾毛 ハギノハナゾモ。ゾモは、ゾに同じ。モは、感動の助詞。
【評語】おそろしくすなおな表現である。それでいてハギの咲くのを待つ心は相當に表現されている。然レドモなどを使つたのが、四角ばつて聞えるけれども、これは遊行女婦の歌(卷六、九六六)にもあり、當時としては平語であつたのだろう。
 
2124 見まく欲《ほ》り わが待ち戀ひし
 秋はぎは、
 枝もしみみに 花咲きにけり。
 
 欲v見《ミマクホリ》 吾待戀之《ワガマチコヒシ》
 秋〓子者《アキハギハ》
 枝毛思美三荷《エダモシミミニ》 花開二家里《ハナサキニケリ》
 
【譯】見たいと思つてわたしの待つて戀うていた秋ハギは、枝いつぱいに花が咲いた。
【釋】枝毛思美三荷 エダモシミミニ。シミミは「萱草《ワスレグサ》 垣毛繁森《カキモシミミニ》 雖2殖有1《ウヱタレド》」(卷十二、三〇六二)の繁森の字を、シミミニと讀むべきが如くであり、これによつて茂つている意の形容であることが知られる。この語は、「春山跡《ハルヤマト》 之美佐備立有《シミサビタテリ》」(卷一、五二)、「烏梅乃花《ウメノハナ》 美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》 安里登母也《アリトモヤ》」(卷十七、三九〇二)のシミと關係あるべく、多分そのシミを重ね、それに助詞ニが接續して副詞を作つたのだろう。
【評語】前の歌の時を經て、いよいよハギの花がいつぱいに咲いた喜びに逢つた。十分に樂しんでいる心が言外に溢れている。枝モシミミニ花咲キニケリの敍述だけで、打ち切つたのがよい。
 
2125 春日野の はぎし散りなば、
 朝|東風《こち》の 風に副《たぐ》ひて
(226) 此處《ここ》に散《ち》り來《こ》ね。
 
 春日野之《カスガノノ》 〓子落者《ハギシチリナバ》
 朝東《アサコチノ》 風尓副而《カゼニタグヒテ》
 此間尓落來根《ココニチリコネ》
 
【譯】春日野のハギが散つたなら、朝の東風に伴なつて、此處に散つてきてくれ。
【釋】風尓副而 カゼニタグヒテ。風に伴なつて。風と共に。
 此間尓落來根 ココニチリコネ。ココは、春日野から東風に吹かれてこよというので、春日の西であることは確かである。大伴氏の佐保の宅あたりではないか。
【評語】春日野のハギを思いやつて詠んでいる。朝東風ノ風ニタグヒテという所に風情がある。
 
2126 秋はぎは
 雁に逢はじと 言へればか、【一は云ふ、言へれかも】
 聲を聞きては 花に散りぬる。
 
 秋〓子者《アキハギハ》
 於v鴈不v相常《カリニアハジト》 言有者香《イヘレバカ》【一云言有可聞】
 音乎聞而者《コエヲキキテハ》 花尓散去流《ハナニチリヌル》
 
【譯】秋ハギは雁に逢わないと言つているからか、雁の聲を聞いては、花になつて散つて行く。
【釋】於雁不相常 カリニアハジト。アハジは、逢うまいだが、アフとは、女が男に逢うをいい、婚姻を承諾することになる。
 花尓散去流 ハナニチリヌル。ハナニチルは、花として散るをいう。離れ離れになつて散る意があるのだろう。花に咲くともいう。「吾屋戸能《ワガヤドノ》 殖木橘《ウヱキタチバナ》 花爾知流《ハナニチル》 時乎麻太之美《トキヲマダシミ》」(卷十九、四二〇七)。
【評語】雁の鳴く頃にハギの散ることを歌つている。ハギに心があつて散るように歌つている。
 
2127 秋さらば 妹に見せむと 植ゑしはぎ、
 露霜|負《お》ひて 散りにけるかも。
 
 秋去者《アキサラバ》 妹令v視跡《イモニミセムト》 殖之〓子《ウヱシハギ》
 露霜負而《ツユジモオヒテ》 散來毳《チリニケルカモ》
 
(227)【譯】秋になつたら、妻に見せようと思つて植えたハギは、露霜を負つて散つてしまつたことだ。
【釋】露霜負而 ツユジモオヒテ。露霜を受けて。「秋〓子者《アキハギハ》 露霜負而《ツユジモオヒテ》 落去之物乎《チリニシモノヲ》」(巻八、一五八〇)。
【評語】妹に見せようとして植えたハギの散つたことを歌つている。その妹については、何とも説明していないが妹が見ていないことはあきらかであり、そこでさびしい氣もちになつている。妹は死んだのかも知れない。
 
詠v鴈
 
2128 秋風に 大和へ越ゆる 雁がねは、
 いや遠ざかる。
 雲がくりつつ。
 
 秋風尓《アキカゼニ》 山跡部越《ヤマトヘコユル》 鴈鳴者《カリガネハ》
 射矢遠放《イヤトホザカル》
 雲隱筒《クモガクリツツ》
 
【譯】秋風の吹く空に大和へ越える雁は、いよいよ遠ざかつて行く。雲に隱れながら。
【釋】秋風尓 アキカゼニ。秋風に吹かれて。秋風の吹くのになどの意味に、秋風を提示している。
【評語】難波あたりにいて、なつかしい大和の空へ飛んで行く雁の婆を見送つて詠んでいる。その見えなくなつてゆくのを描いた四五句は、よくその情を表現している。
【参考】類歌。
  秋風に山飛び越ゆる雁がねの聲遠ざかる。雲隱るらし(卷十、二一三六)
 
2129 明闇《あけぐれ》の 朝霧|隱《がく》り
 鳴きて行く 雁は、わが戀《こひ》
(228) 妹に告げこそ
 
 明闇之《アケグレノ》 朝霧隱《アサキリガクリ》
 鳴而去《ナキテユク》 鴈者吾戀《カリハワガコヒヲ》
 於v妹告社《イモニツゲコソ》
 
【譯】夜あけのくらい朝雲がくれに鳴いて行く雁は、わたしの戀を妻に告げてください。
【釋】明闇之 アケグレノ。アケグレは、夜があけてまだ闇いのをいう。巧みな語だ。ユフグレ(夕暮)に對する語。「明晩乃《アケグレノ》 旦霧隱《アサギリガクリ》 鳴多頭乃《ナクタヅノ》 哭耳之所v哭《ネノミシナカユ》」(卷四、五〇九)。
【評語】雁に托して、思いを妻に寄せようとしている。雁の敍述があつて、その意が生きてくる。
 
2130 わが屋戸《やど》にこ鳴きし雁がね、
 雲の上に 今夜《こよひ》喧《な》くなり。
 國へかも行く。
 
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 鳴之鴈哭《ナキシカリガネ》
 雲上尓《クモノウヘニ》 今夜喧成《コヨヒナクナリ》
 國方可聞遊群《クニヘカモユク》
 
【譯】わたしの宿で鳴いた雁は、雲の上で今夜鳴いている。國へ行くのだろうか。
【釋】國方可聞遊群 クニヘカモユク。カモは、係助詞。
【評語】家のほとりで鳴いた雁を、今夜は遠く雲の上に聞いた。それが國へ行くのかと歌つたのは、作者の望郷の念の表情である。情趣は感じられる。春の歸雁を詠んだのではなく、國というのは、作者の郷里である。
 
2131 さを鹿の 妻とふ時に、
 月をよみ 雁が音《ね》聞ゆ。
 今し來《く》らしも。
 
 左小壯鹿之《サヲシカノ》 妻問時尓《ツマドフトキニ》
 月乎吉三《ツキヲヨミ》 切木四之泣所v聞《カリガネキコユ》
 今時來等霜《イマシクラシモ》
 
【譯】男鹿が妻を訪う時に、月がよいので、雁の聲が聞える。今くるらしい。
(229)【釋】切木四之泣所聞 カリガネキコユ。切木四は、※[木+四]戯《シギ》の具を借りて、カリの音に當てている。「切木四哭之《カリガネノ》」(卷六、九四八)參照。
【評語】鹿の妻どいの聲の聞える月夜に、雁を取りあわせている。季節の聲に耳をすましている生活である。
 
2132 天雲《あまぐも》の 外《よそ》に雁がね 聞きしより
 はだれ霜|零《ふ》り 寒し、この夜は。
 
 天雲之《アマグモノ》 外鴈鳴《ヨソニカリガネ》 從2聞之1《キキシヨリ》
 薄垂霜零《ハダレジモフリ》 寒此夜者《サムシコノヨハ》
 
【譯】天の雲の遙な空に雁の聲を聞いてからは、はだれ霜が降つて寒い。今夜は。
【釋】外雁鳴 ヨソニカリガネ。ヨソニは、はるか遠くの空にの意をあらわしている。、天雲のあるはるかな空にで、天雲以外の意ではない。
 薄垂霜零 ハダレジモフリ。ハダレジモは、ハダレに置く霜。うすい霜である。ハダレは「薄太禮爾零登《ハダレニフルト》」(卷八、一四二〇)參照。霜は置くものだが、天象のうちなので、フルという。
【評語】夜寒になりゆく秋が、巧みに描かれている。雁の聲が夜寒を告げる心である。別傳の、イヤ益々ニ云云よりは、はるかに本文の方がよい。別傳では、心が露出してしまつて含蓄がない。
 
一云、弥益々尓《イヤマスマスニ》  戀許曾増焉《コヒコソマサレ》
 
一は云ふ、いや益々に 戀こそ増され。
 
【釋】弥益々尓戀許曾増焉 イヤマスマスニコヒコソマサレ。前の歌の四五句の別傳である。本文の方は、季節感を中心とした歌であり、これは戀の情を訴えている。本文の方が眞實で、すぐれている。
 
(230)2133 秋の田の わが刈りばかの
 過ぎぬれば、
 雁が喧《ね》聞ゆ。
 冬|片設《かたま》けて。
 
 秋田《アキノタノ》 吾苅婆可能《ワガカリバカノ》
 退去者《スギヌレバ》
 鴈之喧所v聞《カリガネキコユ》
 冬方設而《フユカタマケテ》
 
【譯】秋の田のわたしの刈り處の時が過ぎて行くと、雁の聲が聞える。冬を待ち設けて。
【釋】吾苅婆可能 ワガカリバカノ。カリバカは、刈るべくある場處。ここはそのまさに刈るべき時である意が出ている。「秋田之《アキノタノ》 穗田乃苅婆加《ホダノカリバカ》 香縁相者《カヨリアハバ》」(卷四、五一二)。
 過去者 スギヌレバ。刈り終つたのをいう。刈るべくあつた時が過ぎた意である。
【評語】稻を刈り終つて、雁の聲が冬を待つように鳴いている。田園の風物詩である。
 
2134 葦邊なる をぎの葉さやぎ、
 秋風の 吹き來《く》るなへに、
 雁鳴き渡る。
 
 葦邊在《アシベナル》 荻之葉左夜藝《ヲギノハサヤギ》
 秋風之《アキカゼノ》 吹來苗丹《フキクルナヘニ》
 鴈鳴渡《カリナキワタル》
 
【譯】アシ邊のオギの葉がざわざわ鳴つて、秋風の吹いて來るそのおりに、雁が鳴いて行く。
【釋】荻之葉左夜藝 ヲギノハサヤギ。サヤギは、騒音を立てる。
【評語】水邊の秋を詠んで、よくその風趣を成している。難波あたりの作であろう。
 
一云、秋風尓《アキカゼニ》 鴈音所v聞《カリガネキコユ》  今四來霜《イマシクラシモ》
 
(231)一は云ふ、秋風に 雁がね聞ゆ。 今し來らしも。
 
【釋】秋風尓鴈音所聞今四來霜 アキカゼニカリガネキヨユイマシクラシモ。前の歌の三句以下の別傳であるが、これでは、二句との連絡がわをい。別の歌を切つて附けたようで、折角の初二句が生きてこない。
 
 
2135 おし照《て》る 難波堀江の 葦邊には、
 雁|宿《ね》たるらむ。
 霜のふらくに。
 
 押照《オシテル》 難波穿江之《ナニハホリエノ》 葦邊者《アシベニハ》
 鴈宿有疑《カリネタルラム》
 霜乃零尓《シモノフラクニ》
 
【譯】日光の照る難波堀江の葦邊では、雁が寐ているだろう。霜の降つているのに。
【釋】押照 オシテル。枕詞
 難波穿江之 ナニハホリエノ。ホリエは、河水を疎通するために掘つた水路。
 雁宿有疑 カリネタルラム。カリネタルカモ(元)、カリソネタラシ(代精)、カリネタルラシ(古義)。疑はカモ、またはラムに當てて使用していると見られる。ラシと讀んでいるものもあるが、これは確證はなく、他の語にも代えられるものである。ラムと讀まれる例には、「十月《カムナヅキ》 鍾禮乃雨丹《シグレノアメニ》 沾乍哉《ヌレツツヤ》 君之行疑《キミガユクラム》 宿可借疑《ヤドカカルラム》」(巻十二、三二一三)がある。そこでこの歌の場合、カモとラムと、どちらが適するかというに、文末のカモには凝意すくなく、また歌君よりして、鴨の寐ていることは、推量のほかはないものであるから、ラムと讀むを適當とする。句切。
【評語】寒い霜夜に寐る鴨を憐んでいる。特殊の敍述のない歌である。
 
2136 秋風に 山飛び越ゆる 雁がねの
(232) 聲遠ざかる。
 雲|隱《がく》るらし。
 
 秋風尓《アキカゼニ》 山飛越《ヤマトビコユル》 鴈鳴之《カリガネノ》
 聲遠離《コヱトホザカル》
 雲隱良思《クモガクルラシ》
 
【譯】秋風の吹く空に、山を飛び越える雁の聲が遠くなつて行く。雲に隱れるらしい。
【評語】既出の、「秋風に大和へ越ゆる」(卷十、二一二八)の類歌で、彼に見られる望郷の情を缺き、また聲だけを聞いて詠んでいる。山飛ビ越ユルは、視覺に訴え、聲遠ザカル、雲ガクルラシは、聲に依つている。矛盾のある作である。そこで初二句が雁の概念的な説明になつてしまう。
 
2137 朝に行く 雁の鳴く音《ね》は
 わが如く もの念《おも》へかも、
 聲の悲しき。
 
 朝尓往《アサニユク》 鴈之鳴音者《カリノナクネハ》
 如v吾《ワガゴトク》 物念可毛《モノオモヘカモ》
 聲之悲《コヱノカナシキ》
 
【譯】朝に往く雁の鳴く聲は、わたしのように物を思つてか、その聲の悲しいことだ。
【釋】朝尓往 アサニユク。ツトニユク(元赭)、アサニユク(新訓)。ツトニは、集中用例が無いので危まれる。アサニであろう。
 物念可宅 モノオモヘカモ。オモヘカモは、思えばかもの意の、凝間條件法。この物思いは、何の物思いか不明。
【評語】初句の朝が、格別利いていない。他物について、わが如くと敍して、結局自分の上を描く手段は、しばしば見られる。この歌は、それが自然に使われている。
 
2138 鶴がねの 今朝鳴くなへに、
(233) 雁がねは、
 何處《いづく》さしてか 雲|隱《がく》るらむ。
 
 多頭我鳴乃《タヅガネノ》 今朝鳴奈倍尓《ケサナクナヘニ》
 鴈鳴者《カリガネハ》
 何處指香《イヅクサシテカ》 雲隱良武《クモガクルラム》
 
【譯】鶴が今朝鳴くにつれて、鳴いて行く雁は、何處をさしてか、雲に隱れるのだろう。
【釋】多頭我鳴乃 タヅガネノ。タヅガネは、鶴が音の義だが、ただ鶴というに同じ。
【評語】鶴ガネと雁ガネとを、對句ふうに使つている。今朝鶴が鳴くにつけて、おりしも雁の聲が遠く聞えたのを歌つたのである。兩者の取り合わせが珍しい。水邊での作であろう。
 
2139 ぬばたまの 夜渡る雁は、
 おほほしく
 幾夜を經てか、おのが名を告《の》る。
 
 野干玉之《ヌバタマノ》 夜渡鴈者《ヨワタルカリハ》
 欝《オホホシク》
 幾夜乎歴而鹿《イクオヲヘテカ》 己名乎告《オノガナヲノル》
 
【譯】くらい夜空を行く雁は、うつとうしく、幾晩を經てか、自分の名を名乘るのだろうか。
【釋】鬱 オホホシク。あきらかでない意の形容詞だが、ここは、オノガ名ヲ告ルさま、すなわち雁の聲がおほほしい感じなのであろう。
 己名乎告 オノガナヲノル。雁は、その鳴き聲によつてカリと呼ばれるので、その鳴くことを、自分の名を名のると云つている。
【評語】雁に寄せた寓意の歌で、訪い寄る男を雁に比している。雁を詠んだ歌としても成立する所に趣がある。
 
2140 あらたまの 年の經《へ》行けば、
 あともふと、
(234) 夜《よ》渡る吾を 問ふ人や誰《たれ》。
 
 璞《アラタマノ》 年之經往者《トシノヘユケバ》
 阿跡念登《アトモフト》
 夜渡吾乎《ヨワタルワレヲ》 問人哉誰《トフヒトヤタレ》
 
【譯】年が經て行けば、どう思うかと、夜空を渡るわたしを問う人は誰ですか。
【釋】璞 アラタマノ。枕詞、璞は、みがかない玉で、アラタマの語義を語るものと見られる。
 阿跡念登 アトモフト。何と思うと。引き連れる意のアトモフとは別。「安杼毛敝可《アドモヘカ》 阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》 由豆流波乃《ユヅルハノ》 布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》 可是布可受可母《カゼフカズカモ》」(卷十四、三五七二)。
 問人哉誰 トフヒトヤタレ。ヤは、疑問の係助詞。
【評語】雁の語は無く、みずから雁になつて詠んでいる。前の歌と問答を成しているのであろう。雁が過ぎて行くので、今はどう思うかと今更らしく問うのは誰であるか、自分は變る心はないの意である。集中、鳥などになつた心で歌つているのは、「人こそは凡《おほ》にも言《い》はめ。わがここだしのふ河原を標《しめ》結ふなゆめ」(卷七、一二五二)などあり、かような物に親しんでいた生活が窺われる。
 
詠2鹿鳴1
 
2141 この頃の 秋の朝明に、
 霧|隱《がく》り 妻呼ぶ雄鹿《しか》の
 聲のさやけさ。
 
 比日之《コノゴロノ》 秋朝開尓《アキノアサケニ》
 霧隱《キリガクリ》 妻呼雄鹿之《ツマヨブシカノ》
 音之亮左《コヱノサヤケサ》
 
【譯】この頃の秋の明け方に、霧に隱れて妻を呼ぶ鹿の聲のよくとおることだ。
【釋】比日之 コノゴロノ。コノゴロは、幾日か續いているのにいう。
 聲之亮左 コヱノサヤケサ。サヤケサは、明徹である感じである。
(235)【評語】よく整つた歌で、鹿の聲を讃美している。霧ガクリで、秋らしい風景で、よく鹿の聲を生かしている。
 
2142 さを鹿の 妻ととのふと 鳴く聲の、
 至らむ極《きは》み なびけ、はぎ原。
 
 左男壯鹿之《サヲシカノ》 妻整登《ツマトトノフト》 鳴音之《ナクコヱノ》
 將v至極《イタラムキハミ》 靡〓子原《ナビケハギハラ》
 
【譯】男鹿が妻を引きつけるとて鳴く聲の、聞えるはてまで、靡けよ、ハギ原は。
【釋】妻整登 ツマトトノフト。トトノフトは、妻の鹿が、例えば他物などに心をひかれて氣が散つているなどを注意して、自分中心に行動させるをいう。「網子調流《アゴトトノフル》 海人之呼聲《アマノヨビゴヱ》」(卷三、二三八)などの用法である。
【評語】鹿の聲の聞える限りは、ハギよ靡けという。美しい情景を描いている。この歌の靡ケは、ただハギの美しくしなうことを要求しているので、人麻呂の作の靡ケコノ山などの靡ケとは違うが、句形はそれから出ているかも知れない。伊藤生更氏の文に」男鹿が鳴いて女鹿を呼ぶと、女鹿が來てならぶ習性があるという。この歌の解に、よくあてはまる。
 
2143 君に戀ひ うらぶれ居《を》れば、
 敷《しき》の野の 秋はぎ凌ぎ
 さを鹿鳴くも。
 
 於v君戀《キミニコヒ》 裏觸居者《ウラブレヲレバ》
 敷野之《シキノノノ》 秋〓子凌《アキハギシノギ》
 左壯鹿鳴裳《サヲシカナクモ》
 
【譯】あなたに戀して、さびしくしていると、敷の野の秋ハギをおし伏せて、男鹿が鳴いている。
【釋】裏觸居者 ウラブレヲレバ。ウラブレは、心が傷んでしよんぼりするをいう。
 敷野之 シキノノノ。シキノ野は、奈良縣磯城の野であろう。ほぼ今の磯城郡の地に當る。但し敷のキは甲類、磯城のキは乙類である。
(236)【評語】感傷的な氣もちでいる處に、鹿の聲が聞える。それは一層感傷的な氣もちを誘うのだが、歌としては、そこまでいわないで、ただその誘い立てる事實を敍述するまでに止めておく。そこに含みができて、心の深い歌になるので、これは集中しばしば見る手段である。
 
2144 雁は來《き》ぬ、はぎは散りぬと、
 さを鹿の 鳴くなる音《こゑ》も
 うらぶれにけり。
 
 雁來《カリハキヌ》 〓子者散跡《ハギハチリヌト》
 左小壯鹿之《サヲシカノ》 鳴成音毛《ナクナルコヱモ》
 裏觸丹來《ウラブレニケリ》
 
【譯】雁は来た、ハギは散つたと、男鹿の鳴く聲も、さびしそうになつてしまつた。
【釋】鴈來 カリハキヌ 雁は秋深くなつてくるので、それをあらわしている。
 鳴成音毛 ナクナルコヱモ。ナルは、指定の助動詞で、鳴くのであることを確かめる性能を有している。
【評語】秋深くなりゆくままに、鹿の聲も物さびて聞えるようになつた。鹿に托して、深けゆく秋を傷む心が描かれている。
 
2145 秋はぎの 戀も盡《つ》きねば、
 さを鹿の 聲い續《つ》ぎい續ぎ之
 戀こそ益《まさ》れ。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 戀裳不v盡者《コヒモツキネバ》
 左壯鹿之《サヲシカノ》 聲伊續伊繼《コヱイツギイツギ》
 戀許増益焉《コヒコソマサレ》
 
【譯】秋ハギに對する思いもまだ終らないのに、男鹿の聲が次々に聞えて、戀の思いを一層増さらせる。
【釋】秋〓子之戀裳不盡者 アキハギノコヒモツキネバ。秋ハギに對する思慕の情も、まだつくし終らないのに。
(237) 聲伊續伊繼 コヱイツギイツギ。二つのイは、接頭語。續ぎ續ぎで、あとからあとから鹿の聲のするのをいう。ヤマシロニイシケトリヤマイシケイシケアガハシヅマニイシキアハムカモ(古事記六〇)。このイシケは及《シ》クの命令形である。
【評語】戀の語が重ねて使われており、上の戀は、秋ハギに對する戀であるが、下の戀も、その種の風物に對する戀で、別種のものではない。しかしこのあらわし方は、不完全であつて、惑いを生じさせている。サヲ鹿ノ聲イ續ギイ續ギあたりの名調子が、このために十分に働かないでしまつた。上二句と下三句との連絡が惡かつたのである。
 
2146 山近く 家や居《を》るべき。
 さを鹿の 音《こゑ》を聞きつつ
 宿《い》ねがてぬかも。
 
 山近《ヤマチカク》 家哉可v居《イヘヤヲルベキ》
 左小壯鹿乃《サヲシカノ》 音乎聞乍《コヱヲキキツツ》
 宿不v勝鴨《イネガテヌカモ》
 
【譯】山近く家居して居るべきではない。男鹿の聲を聞きながら眠られないことだなあ。
【釋】宿不勝鴨 イネガテヌカモ。ガテヌは、不能を示す助動詞。
【評語】鹿の妻を呼ぶ聲が、感傷を誘つて眠りを成しかねるのである。鹿の聲を愛して、その心を傷ましめるものの多いゆえに、この歌を成しているので、嫌つているのでは勿論ない。「梓弓《アヅサユミ》 春山近《ハルヤマチカミ》 家居之《イヘヰシテ》 續而聞良牟《ツギテキクラム》 鶯之音《ウグヒスノコヱ》」(卷十、一八二九)あたりと、鳥の聲を愛する同じ心から出て、變わつた形になつている。
 
2147 山の邊《べ》に い行く獵夫《さつを》は 多かれど、
 山にも野にも さを鹿鳴くも。
 
 山邊尓《ヤマノベニ》 射去薩雄者《イユクサツヲハ》 雖2大有1《オホカレド》
 山尓文野乃文《ヤマニモノニモ》 沙小壯鹿鳴母《サヲシカナクモ》
 
(238)【譯】山の方に行く獵師は多いのだが、山にも野にも男鹿が鳴いている。
【釋】射去薩雄者 イユクサツヲハ。イは接頭語。サツヲは、獵師。「山能佐郡雄爾《ヤマノサツヲニ》」(卷三、二六七)。
【評語】獵人が多く行つているのも知らずに、鹿の鳴くのを、あわれんでいる。當時は、實際鹿が多くいたのだろう。
 
2148 あしひきの 山より來《き》せば、
 さを鹿の 妻呼ぶ聲を
 聞かましものを。
 
 足日木笶《アシビキノ》 山從來世波《ヤマヨリキセバ》
 左小壯鹿之《サヲシカノ》 妻呼音《ツマヨブコヱヲ》
 聞益物乎《キカマシモノヲ》
 
【譯】山を通つてきたなら、男鹿の妻を呼ぶ聲を、聞いたであろうものを。
【釋】山從来世波 ヤマヨリキセバ。ヤマヨリは、山を通つて、セは、助動詞キの未然形。このセは、動詞助動詞の連用形に接續して、條件法を作る時だけに使われる。もと、セ、シと、ケ、キと、二種であつたものが、同一語と考えられるようになり、またシカの形をも生じたのであろう。
【評語】作者自身が、山を通つて來なかつたことを殘念に思つている。輕い形で、鹿の聲を聞かなかつた物足りなさが詠まれている。
 
2149 山邊には 獵夫《さつを》のねらひ 恐《かしこ》けど、
 を鹿《じか》鳴くなり。
 妻の眼を欲《ほ》り。
 
 山邊庭《ヤマベニハ》 薩雄乃祢良比《サツヲノネラヒ》 恐跡《カシコケド》
 小壯鹿鳴成《ヲジカナクナリ》
 妻之眼乎欲焉《ツマノメヲホリ》
 
【譯】山邊では獵師のねらうことがおそろしいが、男鹿は鳴くのだ。妻に逢いたくて。
(239)【釋】薩雄乃祢良比 サツヲノネラヒ。ネラヒは、鹿を獲ようとして目標をつけるのをいう。
 妻之眼乎欲焉 ツマノメヲホリ。メヲホルという云い方は、相手に見られることを願う意で、逢いたく思うことになるのであろう。焉は、添えて書いているだけで、直接に相當する訓はない。
【評語】これは鹿が、獵師のおそろしさを知つているが、妻に逢いたさに鳴くというふうに歌つている。鹿の思い入つた心は寫しているが、風趣は、山ニモ野ニモの歌の方がすぐれている。
 
2150 秋はぎの 散《ち》りゆく見れば、
 おほほしみ 妻戀すらし。
 さを鹿鳴くも。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 散去見《チリユクミレバ》
 鬱三《オホホシミ》 妻戀爲良思《ツマゴヒスラシ》
 棹壯鹿鳴母《サヲシカナクモ》
 
【譯】秋ハギの散つてゆくのを見ると、心が鬱して妻戀をするらしい。男鹿が鳴いている。
【釋】散去見 チリユクミレバ。チリユクヲミテ(元)、チリユクミレバ(神)、チリヌルヲミテ(古義)、チリヌルミレバ(新考)。文字表現が不十分なので、諸訓がある。妻戀スラシの條件になつている。
 鬱三 オホホシミ。形容詞をもととするミ形は、上に體言が來るのが常型だが、この歌では、秋ハギノ散リユク見レバを受けているのは、變わつた形である。
【評語】ハギの散るのに誘われて、鹿が妻戀に鳴くと歌つている。作者の感傷を鹿の上に寄せている歌である。
 
2151 山遠き 京《みやこ》にしあれば、
 さを鹿の 妻呼ぶ聲は、
 乏《とも》しくもあるか。
 
 山遠《ヤマトホキ》 京尓之有者《ミヤコニシアレバ》
 狭小壯鹿之《サヲシカノ》 妻呼音者《ツマヨブコヱハ》
 乏毛有香《トモシクモアルカ》
 
(240)【譯】山の遠い都のことだから、男鹿の妻を呼ぶ聲は、すくないことだ。
【釋】山遠京尓之有者 ヤマトホキミヤコニシアレバ。山遠き京とは、奈良の京か、難波の京か。山の遠いという點では、難波の京の方が適當である。難波の京は、神龜三年以後、藤原の宇合をして、難波の宮を造らしめることがあり、その後行幸もあつて、京とも呼ばれるであろう。奈良の京は、春日山生駒山を東西にし、藤原の京に比して特に山遠き京といえるか問題である。
【評語】平野の京にいて、鹿の聲を思つて詠んでいる。秋のあわれを追求する心の表現といえよう。
 
2152 秋はぎの 散り過ぎゆかば、
 さを鹿《しか》は 侘鳴《わびなき》せむな。
 見ずはともしみ。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 散過去者《チリスギユカバ》
 左小壯鹿者《サヲシカハ》 和備鳴將v爲名《ワビナキセムナ》
 不v見者乏焉《ミズバトモシミ》
 
【譯】秋ハギが散り過ぎて行つたら、男鹿は思い悩んで鳴くだろうなあ。見なかつたら、見たく思つて。
【釋】和備鳴將爲名 ワビナキセムナ。ワビナキは、悩ましい氣もちに鳴くこと。ワブの例は、「物念跡《モノオモフト》 和備居時二《ワビヲルトキニ》」(卷四、六一八)、「物念常《モノオモフト》 不v宿起有《イネズオキタル》 旦開者《アサケニハ》 和備弖鳴成《ワビテナクナリ》 鷄左倍《ニハツトリサヘ》」(卷十二、三〇九四)などある。セムナのナは、感動の助詞。本集では、多く助動詞ムの下に接續する。句切。
 不見者乏焉 ミズハトモシミ。トモシミは、乏しきがゆえに慕う意。
【評語】鹿がハギを愛して、これを思つて鳴くだろうという、作者の心を鹿に寄せて歌つている。鹿とハギとを結びつけて考えることはわかるが、作りすぎた嫌いはある。
 
2153 秋はぎの 咲きたる野邊は、
(241) さを鹿ぞ、
 露を別けつつ 妻問《つまどひ》しける。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 咲有野邊者《サキタルノベハ》
 左小壯鹿曾《サヲシカゾ》
 露乎別乍《ツユヲワケツツ》 嬬問四家類《ツマドヒシケル》
 
【譯】秋ハギの咲いている野邊は、男鹿は、露をわけながら、妻を求めたことだ。
【釋】嬬問四家類 ツマドヒシケル。このツマドヒは、ハギの花を、鹿が妻として訪う意であろう。
【評語】 ハギを鹿の妻とする構想から出ている歌で、表現はすなおである。野末の露を分けて、鹿の訪いよる樣が美しい。
 
2154 なぞ鹿の 侘鳴《わびなき》すなる。
 けだしくも 秋野のはぎや
 繁く散るらむ。
 
 奈何壯鹿之《ナゾシカノ》 和備鳴爲成《ワビナキスナル》
 蓋毛《ケダシクモ》 秋野之〓子也《アキノノハギヤ》
 繁將v落《シゲクチルラム》
 
【譯】何だつて鹿がさびしそうに鳴くのだ。おそらく秋野のハギが、繁く散つているのだろうか。
【釋】和備鳴爲成 ワビナキスナル。上のナゾを受けて結んでいる。
【評語】前々歌と同じく、鹿のわび鳴きを歌つている。ハギの散るのを、鹿が傷んで鳴くとする類想の多い作だ。上二句に疑問を起し、下三句で答を成している。
 
2155 秋はぎの 咲きたる野邊に、
 さを鹿は
 散らまく惜しみ 鳴きゆくものを。
 
 秋〓子之《アキハギノ》開有野邊《サキタルノベニ》
 左壯鹿者《サヲシカハ》
 落卷惜見《チラマクヲシミ》 鳴去物乎《ナキユクモノヲ》
 
(242)【譯】秋ハギの咲いた野邊に、男鹿は、散るのを惜しんで、鳴いて行くのだ。
【釋】鳴去物乎 ナキユクモノヲ。モノヲは、感動をあらわしている。
【評語】鹿がハギの散るのを惜しんで鳴いて行くというだけの歌である。すなおな表現である。
 
2156 あしひきの 山の常陰《とかげ》に 鳴く鹿の
 聲聞かすやも。
 山田守らす兒。
 
 足日木乃《アシヒキノ》 山之跡陰尓《ヤマノトカゲニ》 鳴鹿之《ナクシカノ》
 聲聞爲八方《コヱキカスヤモ》
 山田守酢兒《ヤマダモラスコ》
 
【譯】山の影になつている處で鳴く鹿の、聲をお聞きになりますか。山田を守つている方。
【釋】山之跡陰尓 ヤマノトカゲニ。トカゲは、山の影になる處。常影とも書いている。「物部乃《モノノフノ》 石瀬之社乃《イハセノモリノ》 霍公鳥《ホトトギス》 今毛鳴奴《イマシモナキヌ》 山之常影尓《ヤマノトカゲニ》」(卷八、一四七〇)。
 聲聞爲八方 コヱキカスヤモ。キカスは、敬語法。ヤモは疑問の助詞。句切。
 山田守酢兒 ヤマダモラスコ。モラスは、敬語法。コは、若人をさしている。
【評語】山田を守る人に鹿の聲を聞いたかというだけの問の歌であるが、この問は、設問で、實際に問うたのではない。山の常影に鳴く鹿と山田守らす兒との配合でできているだけの歌である。
 
詠v蝉
 
【釋】詠蝉 セミヲヨメル。蝉は、夏の雜歌にも、相聞にも題として出ている。季節の觀念がまだ固定していなかつたのであろう。
 
(243)2157 夕影《ゆふかげ》に 來《き》鳴くひぐらし、
 ここだくも 日毎に聞けど、
 飽かぬ聲かも。
 
 暮影《ユフカゲニ》 來鳴日晩之《キナクヒグラシ》
幾許《ココダクモ》 毎v日聞跡《ヒゴトニキケド》
不v足音可聞《アカヌコヱカモ》
 
【譯】夕方の光に來て鳴くヒグラシよ、たくさんに毎日聞いても飽きない聲だな。
【釋】暮影 ユフカゲニ。ユフカゲは、夕方の光。
【評語】清楚な小品で、すなおに歌われている。自然に親しんで過している生活が思われる。
 
詠v蟋
 
【釋】詠蟋 コホロギヲヨメル。蟋は、普通に蟋蟀と熟して使われているが、古くは、蟋一字だけでも使用された。蟋とのみあるを誤りとはし難い。コホロギは、夜鳴く蟲にいい、今のコホロギである。
 
2158 秋風の 寒く吹くなへ、
 わが屋前《には》の 淺茅がもとに
 蟋蟀《こほろぎ》鳴くも。
 
 秋風之《アキカゼノ》 寒吹奈倍《サムクフクナヘ》
 吾屋前之《ワガヤドノ》 淺茅之本尓《アサヂガモトニ》
 蟋蟀鳴毛《コホロギナクモ》
 
【譯】秋風が寒く吹くと共に、わたしの屋前の淺茅のもとで、コオロギが鳴く。
【釋】寒吹奈倍 サムクフクナヘ。ナヘは、その上方の詞句の内容が起ると共に、それにつれて下方の詞句の内容の起ることをあらわす語。
【評語】平明の作で、よく秋の情趣を描いている。コオロギの聲を歌つているが、ワガ屋前ノ淺茅ガモトとい(244)う視覺による敍述が、位置を明確にするに役立つている。
 
2159 影草《かげくさ》の 生ひたる屋外《やど》の 暮影《ゆふかげ》に、
 鳴く蟋蟀は、 聞けど飽かぬかも。
 
 影草乃《カゲクサノ》 生有屋外之《オヒタルヤドノ》 暮影尓《ユフカゲニ》
 鳴蟋蟀者《ナクコホロギハ》 雖v聞不v足可聞《キケドアカヌカモ》
 
【譯】家の影の草の生えているわたしの家の外の、夕方の光に鳴くコオロギの聲は、聞いていても飽きないなあ。
【釋】影草乃 カゲクサノ。カゲクサは、ここは家屋の影になつている處の草。
 暮影尓 ユフカゲニ。ユフカゲは、夕方の光、ややくらい感じである。
【評語】影草と暮影とに、影を重出しているのは、計畫的で、光線を重視していることが知られると共に、音調をよくしている。しかし第五句は、慣用句で、これを敍述句としているのは類型的である。
 
2160 庭草に 村雨《むらさめ》ふりて、
 蟋蟀の 鳴く聲聞けば、
 秋づきにけり。
 
 庭草尓《ニハクサニ》 村雨落而《ムラサメフリテ》
 蟋蟀之《コホロギノ》 鳴音聞者《ナクコヱキケバ》
 秋付尓家里《アキヅキニケリ》
 
【譯】屋前の草に村雨が降つて、コオロギの鳴く聲を聞くと、秋のもようが濃くなつたことだ。
【釋】庭草尓 ニハクサニ。ニハクサは、屋前の草。
 村雨落而 ムラサメフリテ。ムラサメは、倭名類聚鈔に「暴雨、楊氏漢語抄(ニ)云(フ)、白雨 和名无良佐女、辨色立成説同(ジ)。暴雨一種也」とあり、驟雨である。
 秋付尓家里 アキヅキニケリ。ヅキは、名詞と熟して、その性質になることをあらわす動詞。家ヅク、面ヅ(245)ク、色ヅク、近ヅクなどのヅクは、これであろう。
【評語】秋の氣のしみじみと感じられる歌である。繊細な、物に感じやすくなつている心である。
 
詠v蝦
 
2161 み吉野の 石本《いはもと》さらず 鳴く河蝦《かはづ》、
 うべも鳴きけり。
 河をさやけみ。
 
 三吉野乃《ミヨシノノ》 石本不v避《イハモトサラズ》 鳴川津《ナクカハヅ》
 諾文鳴來《ウベモナキケリ》
 河乎淨《カハヲサヤケミ》
 
【譯】吉野川の石のもとではどこでも鳴いているカワズよ。鳴くのももつともだ。川が清らかなので。
【釋】石本不避 イハモトサラズ。サラズは、朝サラズ、夕サラズなどのサラズに同じ。石のもとことごとく。石の下部ではどこでも。
 諾文鳴來 ウベモナキケリ。ウベモは、鳴いていることに同意する意。句切。
【評語】カワズの鳴くのは、川が清らかだからだとしている。カワズと共に川を賞美する心である。
 
2162 神《かむ》名火の 山下|響《とよ》み 行く水に、
 河蝦鳴くなり。
 秋といはむとや。
 
 神名火之《カムナビノ》 山下動《ヤマシタトヨミ》 去水丹《ユクミヅニ》
 川津鳴成《カハヅナクナリ》
 秋登將v云鳥屋《アキトイハムトヤ》
 
【譯】神名火の山の下を響かせて流れ行く水の中で、カワズが鳴いている。秋といおうとてだろうか。
【釋】神名火之 カムナビノ。カムナビは、何處か不明だが、川に臨んでいるので、明日香の神名火であるら(246)しい。カムナビ、神靈のある森林。
 秋登將云鳥屋 アキトイハムトヤ。秋であると告げようとてだろう。カワズの聲を秋の風物としている。
【評語】カワズの聲に秋を感じている。殊に末句は、秋の季節感が強く成立していることを語つている。
 
2163 草枕 旅に物|念《おも》ひ わが聞けば、
 夕片設《ゆふかたま》けて 鳴く河蝦かも。
 
 草枕《クサマクラ》 客尓物念《タビニモノオモヒ》 吾聞者《ワガキケバ》
 夕片設而《ユフカタマケテ》 鳴川津可聞《ナクカハヅカモ》
 
【譯】草の枕の旅に物思いしてわたしが聞けば、夕方を待ち受けて鳴くカワズだなあ。
【釋】客尓物念 タビニモノオモヒ。旅愁を感じている。
 夕片設而 ユフカタマケテ。夕方を待つて。夕方になるのを、カワズが待ちつつ鳴く意である。夕方近い頃である。
【評語】旅中に聞く力ワズの聲に、一層旅愁のやる方なさを歌つているが、詞としては、そこまで露出させていないのがよい。すなおな表現である。
 
2164 瀬を速《はや》み 落ち激《たぎ》ちたる 白浪に、
 河蝦鳴くなり。
 朝|夕《よひ》ごとに。
 
 瀬呼速見《セヲハヤミ》 落當知足《オチタギチタル》 白浪尓《シラナミニ》
 河津鳴奈里《カハヅナクナリ》
 朝夕毎《アサヨヒゴトニ》
 
【譯】瀬が速いので、落ちて激する白浪に、カワズが鳴いている。朝夕の度に。
【釋】落當知足 オチタギチタル。當は、字音假字として、タギの音に使つている。ngの韻の字だから、ゲの音が出るのである。タギチは、激流する意の動詞。「石走《イハバシリ》 多藝千流留《タギチナガルル》 泊瀬河《ハツセガハ》」(卷六、九九一)。
(247)【評語】激流に鳴くカワズがよく描寫されている。調子の強い歌である。五句の朝夕ゴトニは、説明的の句で、感興をそぐ。朝か夕かのどちらかにして、實景の描寫の形で歌うべきであつた。
 
2165 上つ瀬に 河蝦妻呼ぶ。
 夕されば 衣手寒み
 妻まかむとか。
 
 上瀬尓《カミツセニ》 河津妻呼《カハヅツマヨブ》
 暮去者《ユフサレバ》 衣手寒三《コロモデサムミ》
 妻將v枕跡香《ツママカムトカ》
 
【譯】上の方の瀬で、カワズが妻を呼んでいる。夕方になつて著物が寒いので、妻と寐ようとてなのだろうか。
【釋】衣手寒三 コロモデサムミ。河蝦に衣服は無いのを、人と同じように取り扱つて、衣が寒いのでといつている。
【評語】カワズに寄せて、ひえびえとする秋の夕方が歌われている。作者も旅に出て、妻を思つているのだろう。
 
詠v鳥
 
2166 妹が手を 取石《とろし》の池の 浪の間ゆ、
 鳥が音《ね》異《け》に鳴く。
 秋過ぎぬらし。
 
 妹手呼《イモガテヲ》 取石《トロシノ・トルシノ》池之《イケノ》 浪間從《ナミノマユ》
 鳥音異鳴《トリガネケニナク》
 秋過良之《アキスギヌラシ》
 
【譯】妻の手を取るという、その取石の池の浪の間を通して、鳥の聲が變わつて聞える。秋が過ぎたらしい。
【釋】妹手呼 イモガテヲ。枕詞。妹が手を取るの意に、取石に冠している。
(248) 取石池之 トロシノイケノ。取石の池は、大阪府泉北郡取石村(今の高石町)の池。續日本紀聖武天皇の卷に取石の頓宮が見える。「和泉國和泉郡にまかりける道に、池を堤を道にてすぎ侍る所ありき。其池の名を、人の登呂須《とろす》の池となん申侍りければ、此歌を思ひ出侍けるを、いまもおぼえ侍り」(萬葉代匠記初稿本)。取石は、トルシ、トリシであるかもしれない。
 浪間從 ナミノマユ。浪の間を通して。
 鳥音異鳴 トリガネケニナク。鳥は、水鳥である。ケニナクは、常に變つて鳴いている。句切。
 秋過艮之 アキスギヌラシ。アキスギヌは、秋の通過して行くことを敍している。秋の深くなつて行くのを推量している。
【評語】水鳥の聲によつて、深みゆく秋を感じている。さびしいしんみりした歌である。初句に妹ガ手ヲとおいた枕詞は、色めかしいが、さしてさまたげにもなつていない。作者はその地に旅して妻を思つていたので、この枕詞が置かれたのだろう。
 
2167 秋の野の 尾花が末《うれ》に鳴くもずの
 聲聞くらむか。
 片《かた》聞く吾味《わぎも》。
 
 秋野之《アキノノノ》 草花我末《ヲバナガウレニ》 鳴百舌鳥《ナクモヅノ》
 音聞濫香《コヱキクラムカ》
 片聞吾妹《カタマツワギモ》
 
【譯】秋の野の尾花が末に鳴くモズの聲を聞いているだろうか。物をよくも聞かないわが妻よ。
【釋】音聞濫香 コヱキクラムカ。聲を聞いているだろうか。句切。
 片聞吾妹 カタキクワギモ。カタは、動詞に接續して、その不完全な動作であることをあらわす。片思フ、片敷クの類である。カタキクは、十分に聞かない、不完全に聞く意。ワギモは、愛人であろう。
(249)【評語】モズのようなやかましい鳥の聲をも、はたして聞いているだろうかというのが主旨である。片聞ク吾妹は、惡口を言つたので、自分のいうことなどは、ろくに耳にもしないがの意である。諧謔性をもつている歌で、痛快な揶揄である。片聞クを片待ツの誤りとする説があるのは、採るに足りない。
 
詠v露
 
2168 秋はぎに おける白露、
 朝な朝《さ》な 殊としぞ見る。
 置ける白露。
 
 冷〓子丹《アキハギニ》 置白露《オケルシラツユ》
 朝々《アサナサナ》 珠年曾見流《タマトシゾミル》
 置白露《オケルシラツユ》
 
【譯】秋ハギに置いた白露、毎朝毎朝、珠と見ることだ。置いた白露。
【釋】冷〓子丹 アキハギニ。冷を、秋の意に使用したのは、寒をフユ、暖をハルに使用する例に同じく、氣候から來ている。
【評語】内容は平凡であり、露を玉として見るというのも類想的である。二句と五句とに、同句を置いて、調子よくできている。
 
2169 夕立の 雨降るごとに、【一は云ふ、うちふれば】
 春日野の 尾花が上の 白露念ほゆ。
 
 暮立之《ユフダチノ》 雨落毎《アメフルゴトニ》【一云|打零者】 春日野之《カスガノノ》 尾花之上乃《ヲバナガウヘノ》 白露所v念《シラツユオモホユ》
 
【譯】夕立の雨が降る度に、春日野のオバナの上の白露が思われる。
【釋】暮立之雨落毎 ユフダチノアメフルゴトニ。ユフダチノアメは、夕方に降る雨の義で驟雨をいう。
(250) 云打零者 アルハイフ、ウチフレバ。卷の十六に傳える所に依つて、これを註しているのだろう。本文の、雨降ルゴトニより、雨ウチ降レバの方がよい。夕立ノ雨降ルゴトニは、夕立の雨が習性になつているようで變である。
【評語】オバナが上に白露のたまつた美しい風情が歌われている。自然を愛する人であつて、始めて歌い得る所である。小鯛の王が、琴を彈いてこの歌を吟誦するを常としたというのももつともである。
【參考】別傳。
  夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露おもほゆ
   右の歌二首(一首略)は、小鯛の王、宴居する日、琴を取りて、登時かならずまづこの歌を吟詠す。その小鯛の王は、更《また》の名|置始《おきそめ》の多久美《たくみ》といふ、この人なり。(卷十六、三八一九)
 
2170 秋はぎの 枝もとををに 露霜おき、
 寒くも時は なりにけるかも。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 枝毛十尾丹《エダモトヲヲニ》 露霜置《ツユジモオキ》
 寒毛時者《サムクモトキハ》 成尓家類可聞《ナリニケルカモ》
 
【譯】秋ハギの枝もたわむまでに露霜が置いて、寒くも時節はなつたものだなあ。
【釋】枝毛十尾丹 エダモトヲヲニ。トヲヲニは、たわんである形容。ここは露霜の重さで、ハギの枝がたわむというのである。
【評語】 ハギの枝に露霜がしつとりと置いて、秋も寒くなつたことが、切に感じられる。四五句の調子が、いかにも詠歎の氣分をよく出している。
 
2171 白露と 秋のはぎとは、
(251) 戀ひ亂れ 別《わ》くこと難き
 わが情《こころ》かも。
 
 白露《シラツユト》與2秋〓子1者《アキノハギトハ》
 戀亂《コヒミダレ》 別事難《ワクコトカタキ》
 吾情可聞《ワガココロカモ》
 
【譯】白露と秋のハギとは、そのどちらをも思い亂れて、別けることのできないわたしの心だ。
【釋】戀亂 コヒミダレ。戀のために亂れて。露とハギとの雙方を思い慕う心が混雜して。
 別事難 ワクコトカタキ。露とハギとを思う心を二つに別けることのできない。
【評語】露を思いハギを思う、その二つを思う心が亂れ合つていることを歌つている。やや複雜な内容を取り扱つているだけに、表現に無理ができて、上二句と、下三句との對應が、二重の中心になつて感じられる。
 
2172 わが屋戸《やど》の 尾花おし靡《な》べ 置く露に、
 手觸れ、吾妹子。
 散らまくも見む。
 
 吾屋戸之《ワガヤドノ》 麻花押靡《ヲバナオシナベ》 置露尓《オクツユニ》
 手觸吾妹兒《テフレワギモコ》
 落卷毛將v見《チラマクモミム》
 
【譯】わたしの屋戸のオバナをおし伏せて置く露に、手をつけて見なさい、わが妻よ。散る樣子を見よう、。
【釋】麻花押靡 ヲバナオシナベ。麻は、訓假字として使用されている。
【評語】妻の手の觸れたオバナの露の散るさまを見ようという、美しい歌である。オバナに置いた露の靜態を愛するばかりでなく、その散るさまをも愛している。吾妹子を點出したのも、一層の感興を添える。
 
2173 白露を 取らば消《け》ぬべし。
 いざ子等《こども》、露に競《きほ》ひて
(252) はぎの遊《あそび》せむ。
 
 白露乎《シラツユヲ》 取者可v消《トラバケヌベシ》
 去來子等《イザコドモ》 露尓爭而《ツユニキホヒテ》
 〓子之遊將v爲《ハギノアソビセム》
 
【譯】白露を手に取つたら消えるだろう。さあ皆さん、露と競爭して、ハギの花見をしましよう。
【釋】去來子等 イザコドモ。人々を呼びかけているが、どういう人々とも知られない。作者より地位の低い人であろう。
 露尓爭而 ツユニキホヒテ。キホヒテは、露がハギの枝にさかんに置くのに競爭してであろう。
 〓子之遊將爲 ハギノアソビセム。ハギノアソビは、ハギをもてあそぶ催しで、ハギの花見、ハギの宴である。
【評語】 ハギの枝を折り取つたら、露が消えるから、こちらから露のようにハギのもとに行つて遊宴しようというのである。風雅に終始しようとする生活が窺われる。
 
2174 秋田刈る 假廬《かりほ》を作り わが居れば、
 衣手寒く 露ぞ置きにける。
 
秋田苅《アキタカル》 借廬乎作《カリホヲツクリ》 吾居者《ワガヲレバ》
 衣手寒《コロモデサムク》 露置尓家留《ツユゾオキニケル》
 
【譯】秋の田を刈る借廬を作つて、わたしがいると、著物が寒く露が置いた。
【釋】借廬乎作 カリホヲツクリ。秋田を刈る便宜のために假家を作つて。家から遠い處に田があり、または收穫をぬすまれるので、假廬を作る必要があつたものと解される。
 吾居者 ワガヲレバ。假廬に入つていると。
【評語】農民の生活が歌われている。すなおに力のこもつた表現である。天智天皇の御製と傳える、「秋の田の假廬の庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ」(後撰和歌集)は、この歌に似ている。
 
(253)2175 この頃の 秋風寒し。
 はぎが花 散らす白露
 おきにけらしも。
 
 日來之《コノゴロノ》 秋風寒《アキカゼサムシ》
 〓子之花《ハギガハナ》 令v散白露《チラスシラツユ》
 置尓來下《オキニケラシモ》
 
【譯】この頃の秋風は寒い。ハギの花を散らす白露が置いたらしい。
【評語】 ハギガ花、散ラス白露と、名詞どめの句を二つ續けた形は、すこし竝べた感じである。内容が平易で、變わつた形を採る必要のない處だからである、ハギの花を散らす白露が、秋のやや深まつて行く感じをあらわしている。
 
2176 秋田刈る 苫手《とまで》搖《うご》くなり。
 白露し、
 置く穗田なしと 告《つ》げに來《き》ぬらし。
 
 秋田苅《アキタカル》 ※[草がんむり/店]手搖奈利《トマデウゴクナリ》
 白露志《シラツユシ》
 置穗田無跡《オクホダナシト》 告尓來良思《ツゲニキヌラシ》
 
【譯】秋の田を刈る小舍の苫が動いている。白露が置く穗田がないと、告げに來たらしい。
【釋】※[草がんむり/店]手搖奈利 トマデウゴクナリ。※[草がんむり/店]は、代匠記に苫だろうと云つている。トマは、倭名類聚鈔に「苫、爾雅注(ニ)云(フ)、苫、土廉反、止萬《トマ》。編(ミ)2菅茅(ヲ)1以(テ)覆(フ)v屋(ヲ)也」とある。秋田を刈るための小舍がけの屋根の覆いである。デは、接尾語。コロモデのデに同じ。
【評語】秋田を刈りつくしたので、白露が、置くべき穗田が無いと、告げに來たらしいというのである。耕人の風懷を描いた愛すべき作品である。
 
一云、告尓來良思母
 
(254)一は云ふ、告げに來らしも。
 
【釋】告尓來良思母 ツゲニクラシモ。前の歌の第五句の別傳であるが、この方の現在に即した云い方が上二句とよく照應する。
 
詠v山
 
2177 春は萌《も》え 夏は緑に、
 紅の 綵色《しみいろ》に見ゆる 秋の山かも。
 
 春者毛要《ハルハモエ》 夏者緑丹《ナツハミドリニ》
 紅之《クレナヰノ》 綵色尓所v見《シミイロニミミル》 秋山可聞《アキノヤマカモ》
 
【譯】春は芽が萌え、夏は緑であり、さてくれないの染めた色に見える秋の山だなあ。
【釋】春者毛要 ハルハモエ。春は草木の芽がふくらんで。
 紅之綵色尓所見 クレナヰノシミイロニミユル。綵は、彩色で、日本書紀に綵絹にシミノキヌと訓しているのは、染の絹の義である。シミイロは、染めた色。「君之爲《キミガタメ》 綵色衣《シミイロゴロモ》 將v摺跡念而《スラムトオモヒテ》」(卷七・一二五五)。
【評語】季節ごとに趣を異にする山を描いている。概念的な歌であるが、季節の推移に伴なう自然の變化には、よく留意されている。
 
詠2黄葉1
 
【釋】詠黄葉 モミチバヲヨメル。人麻呂集所出の二首を併わせて四十一首を載せている。多く黄葉の字が使われているのは、おしなべて草木の葉の寒冷の氣に逢つて黄變するのを愛するからであるが、中に一首だけ紅(255)
 
淺茅三首、ナシ二首、カツラ一首、クズ一首、草一首、木二首、眞木一首で、他は何の植物とも指定していない。
 
2178 妻ごもる 矢野の神山、
 露霜に にほひそめたり。
 散らまく惜しも。
 
 妻隱《ツマゴモル》 矢野神山《ヤノノカミヤマ》
 露霜尓《ツユジモニ》 々寶比始《ニホヒソメタリ》
 散卷惜《チラマクヲシモ》
 
【譯】妻のこもる家。その名のとおりの矢野の神山は、露霜に色づき始めた。散るのが惜しいことだ。
【釋】妻隱 ツマゴモル。枕詞。妻のこもる家の意に、矢野のヤに冠している。
 矢野神山 ヤノノカミヤマ。矢野は、諸國に同名の地が多く、何處とも定め難い。大日本地名辞書には、伊勢の國の度會《わたらい》郡の矢野だろうとしている。島根縣|簸川《ひのかわ》群四纏村(現出雲市)にも矢野の字があり、そこには矢野神社がある。この神社は、出雲國風土記、延喜式神名にあり、八野の若日女の命と大年の神とを祭つている。矢野の神山とあるによれば、此處か。
【評語】地名の提示に特色があるだけで、内容は平凡である。人麻呂が石見の國から上つて來る時の歌に、「妻ごもる屋上の山」(卷二、一三五)の句があり、この歌の矢野を出雲の國とすれば、同じ時の旅の歌であるかも知れない。
 
2179 朝露に にほひそめたる 秋山に
 時雨な零《ふ》りそ。
 あり渡るがね。
 
 朝露尓《アサツユニ》 染始《ニホヒソメタル》 秋山尓《アキヤマニ》
 鍾禮莫零《シクレナフリソ》
 在渡金《アリワタルガネ》
 
(256)【譯】朝露に色づき始めた秋山に、時雨よ降つてくれるな。このままにあることだろう。
【釋】染始 ニホヒソメタル。ソメハジメタル(神)、ニホヒソメタル(考)。染をニホフと讀むのは「應v染毛《ニホヒヌベクモ》 黄變山可聞《モミヅヤマカモ》」(卷十、二一九二)の例がある。
 在渡金 アリワタルガネ。ガネは、希望と豫想の意をあらわす助詞。黄葉がそのままにあるだろうとする豫想である。
【評語】露に染まつた黄葉の、時雨に散ることを恐れている。このままにあるだろうという、はかない希望を描いている五句には、特色が見える。
 
右二首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
2180 九月《ながつき》の 時雨の雨に ぬれとほり、
 春日の山は 色づきにけり。
 
 九月乃《ナガツキノ》 鍾禮乃雨丹《シグレノアメニ》 沾通《ヌレトホリ》
 春日之山者《カスガノヤマハ》 色付丹來《イロヅキニケリ》
 
【譯】九月の時雨の雨に濡れ通つて、春日の山は、色づいたことだ。
【釋】沾通 ヌレトホリ。中まですつかり濡れて。山の木の葉がすつかり濡れてしまつて。
【評語】すなおに詠まれて形の整つた歌である。濡レ通リの句は、旅ごろもなどによく使われるが、ここでは山の木の葉が、下の方までも濡れての意に使われ、時雨の雨の徹底的なありさまが描かれる。この句で、歌全體が生きて感じられる。
 
2181 雁《かり》が鳴《ね》の 寒き朝明の 露ならし。
(257) 春日の山を にほはすものは。
 
 鴈鳴之《カリガネノ》 寒朝開之《サムキアサケノ》 露有之《ツユナラシ》
 春日山乎《カスガノヤマヲ》 令v黄物者《ニホハスモノハ》
 
【譯】雁の鳴聲の寒い朝あけの露だろう。春日の山を黄葉に染めるものは。
【釋】鴈鳴之 カリガネノ。雁の聲の。
 令黄物者 ニホハスモノハ。ニホハスモノハ(元)、モミタスモノハ(西)。令黄は、ニホハスともモミタスとも讀まれている。山の黄葉するを、ニホフというは例がある。モミタスは、動詞モミツの未然形モミタとして他に用例の無い形であり、調子が落ちつかないように感じられる。
【評語】黄葉を染める朝の露を、特に説明しているのが特色である。山の黄葉して行く頃の風趣が歌われている。
 
2182 この頃の 曉《あかとき》露に、
 わが屋前《には》の はぎの下葉は
 色づきにけり。
 
 比日之《コノゴロノ》 曉露丹《アカトキツユニ》
 吾屋前之《ワガニハノ》 〓子乃下葉者《ハギノシタバハ》
 色付尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】この頃の曉の露で、わたしの屋前のハギの下葉は色づいたことだ。
【評語】矚目する所を歌つた、平易な作である。報告的な歌であつて、しかも風趣を失つていない。
【參考】類歌。
  この頃の曉露にわが屋戸の秋のはぎ原色づきにけり(卷十、二二一三)
 
2183 雁がねは 今は來《き》鳴きぬ。
 わが待ちし 黄葉《もみち》はや繼げ。
(258) 待たば苦しも。
 
 鴈音者《カリガネハ》 今者來鳴沼《イマハキナキヌ》
 吾待之《ワガマチシ》 黄葉早繼《モミチハヤツゲ》
 待者辛苦母《マタバクルシモ》
 
【譯】雁は、今は來て鳴いた。わたしの待つた黄葉よ、早く續いて来い。待つていたら苦しいことだ。
【釋】黄葉早繼 モミチハヤツゲ。ハヤツゲは、雁に早く繼げの意。黄葉に對して希望する句。句切。「秋〓子之《アキハギノ》 下葉乃黄葉《シタバノモミチ》 於v花繼《ハナニツグ》 時過去者《トキスギユカバ》 後將v戀鴨《ノチコヒムカモ》」(卷十、二二〇九)。
【評語】雁に續いて黄葉の早くくることを願つている。季物の順序のよい來訪が取り扱われている。この歌、二句と四句とに句切をもつている。
 
2184 秋山を ゆめ人懸くな。
 忘れにし そのもみち葉の
 思ほゆらくに。
 
 秋山乎《アキヤマヲ》 謹人懸勿《ユメヒトカクナ》
 忘西《ワスレニシ》 其黄葉乃《ソノモミチバノ》
 所v思君《オモホユラクニ》
 
【譯】秋山を、どうかいわないでください。忘れていたその黄葉が思われることです。
【釋】謹人懸勿 ユメヒトカクナ。カクナは、口に懸けるな。句切。
【評語】忘れていた黄葉の思い出されるのがつらいという、自然に對する熱愛が歌われている。愛人の場合ならばともかく、黄葉に對しては、作り過ぎてすこし不自然に近い。
 
 
2185 大坂を わが越え來《く》れば、
 二上《ふたがみ》に もみち葉流る。
(259) 時雨ふりつつ。
 
 大坂乎《オホサカヲ》 吾越來者《ワガコエクレバ》
 二上尓《フタガミニ》 黄葉流《モミチバナガル》
 志具禮零乍《シグレフリツツ》
 
【譯】大坂をわたしが越えてくると、二上山に黄葉が散つて流れる。
時雨が降りながら。
【釋】大坂乎 オホサカヲ。大坂は、大和河内間の通路で、二上山の北方を越える道である。奈良縣北葛城部下田村に逢坂《おおさか》の字が殘つている。插入の寫眞は、大和方面からのものであるが、二峰竝立している高い方の向かつて右の裾の高みを越えるのである。
 黄葉流 モミチバナガル。黄葉の風に流れるをいう。川に流れるのではない。句切。
【評語】大坂越えの風情が、よく描き出されている。時雨に流れる黄葉のさまが、二上山を背景として一層美しいものになつて寫されている。
 
2186 秋されば 置く白露に、
 わが門の 淺|茅《ぢ》が末葉《うらば》、
 色づきにけり。
 
 秋去者《アキサレバ》 置白露尓《オクシラツユニ》
 吾門乃《ワガカドノ》 淺茅何浦葉《アサヂガウラバ》
 色付尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】秋になつたので置く白露に、わたしの門邊の淺い茅草の末葉が、色づいたことだ。
【釋】秋去者 アキサレバ。次句の置クにだけ懸かつている。一首全體に懸かるものと見ない方がよい。
(260) 淺茅何浦葉 アサヂガウラバ。たけの低い茅草の末葉。茅草はたけが低いので、アサヂというので、特に低い茅草の謂ではない。
【評語】秋になつてまず茅草の色づいたことを歌つている。黄葉は、どういうものからおとずれ始めるか、よく注意しているのである。
 
2187 妹が袖 卷來《まきき》の山の 朝露に、
 にほふ黄葉の 散らまく惜しも。
 
 妹之袖《イモガソデ》 卷來乃山之《マキキノヤマノ》 朝露尓《アサツユニ》
 仁寶布黄葉之《ニホフモミチノ》 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
 
【譯】妻の袖を纏く。その卷來の山の朝露に、色づいた黄葉の、散るのが惜しい。
【釋】妹之袖 イモガソデ。枕詞。妹の袖を身に纏く意に、卷來のマキに冠する。この枕詞は、他に用例が無い。
 卷來乃山之 マキキノヤマノ。
  マキムクヤマノ(元)
  マキキノヤマノ(神)
  ――――――――――
  卷牟久山之《マキムクヤマノ》(略、宣長)
  卷六來山之《マキムクヤマノ》(古義)
 マキキノ山は、所在不明で、それゆえに、マキムク山の誤りだろうとする説もある。
【評語】初二句の、山名の提示だけが、特色になつている。「妻ごもる矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも」(卷十、二一七八) の歌と、構想も表現も同樣で、曲が無い。
 
2188 もみち葉の にほひは繁し。
 然れども
(261) 妻梨の木を 手《た》折り插頭《かざ》さむ。
 
 黄葉之《モミチバノ》 丹穩日者繁《ニホヒハシゲシ》
 然鞆《シカレドモ》
 妻梨木乎《ツマナシノキヲ》 手折可佐寒《タヲリカザサム》
 
【譯】黄葉の美しいのはたくさんある。しかしながら、わたしは、妻梨の木を折つて插頭にしよう。
【釋】丹穗日者繁 ニホヒハシゲシ。丹穗は、訓假字だが、丹色に穗にあらわれる義をもつて、語の内容に關係のある字を選んだのだろう。シゲシは、繁多にある意で、ここは、種類の多いのをいう。句切。
 妻梨木乎 ツマナシノキヲ。ツマナシは、そういう名の樹種があるわけではなく、妻は序詞で、妻無しのしやれに、梨の木を引き起すのだとされている。ナシの葉は、美しい黄色に變色する。
【評語】黄葉の多種あるが中にも、特に葉のこまかいナシの黄葉を愛している。それに妻ナシという言い懸けをした心は、作者が無き妻を思う人だつたからだろう。秋深き園に下り立つて、特に妻梨の一枝を折る作者の心を掬むべきである。常人では、妻梨の修辭はなさざる所だ。
 
2189 露霜の 寒き夕《ゆふ》べの 秋風に
 もみちにけりも。
 妻梨の木は。
 
 露霜乃《ツユジモノ》 寒夕之《サムキユフベノ》 秋風丹《アキカゼニ》
 黄葉尓來毛《モミチニケリモ》
 妻梨之木者《ツマナシノキハ》
 
(262)【譯】露霜の寒い夕方の秋風に、黄葉したことだ、妻梨の木は。
【釋】黄葉尓來毛 モミチニケリモ。モミチは、動詞として使われている。モは、感動の助詞。句切。
【評語】前の歌と連作をなすものだろう。妻梨の語に托して、自分の境涯を憐んでいると見るべきだ。秋風に色づいたというのが、よく響いている。
 
2190 わが門の 淺茅色づく。
 吉隱《よなばり》の 浪柴の野の 黄葉散るらし。
 
 吾門之《ワガカドノ》 淺茅色就《アサヂイロヅク》
 吉魚張能《ヨナバリノ》 浪柴乃野之《ナミシバノノノ》 黄葉散良新《モミチチルラシ》
 
【譯】わたしの門邊の淺茅が色づく。吉隱の浪柴の野の黄葉が散るらしい。
【釋】吉魚張能 ヨナバリノ。ヨナバリは、奈良縣磯城郡。初瀬町の東方である。
 浪柴乃野之 ナミシバノノノ。ナミシバノ野は、吉隱の中とだけで、所在はあきらかでない。大和志、吉隱の條に「其野(ヲ)曰(フ)2浪芝野(ト)1」とあるが、この歌あたりが出典になつているのだろう。ナミシバは竝柴で、繁つた木の一面に生えている野であるかも知れない。
【評語】門前の風物に依つて、氣候の寒い山の方のもようを推量している。かつて見たその地の風光の忘れかねるものがあつて、それが基礎となつている。
【参考】類型。
  わが屋戸の淺茅いろづく。吉隱の夏身《なつみ》の上に時雨降るらし(卷十、二二〇七)
  八田の野の淺茅いろづく。有乳《あらち》山峰の沫雪《あわゆき》寒く降るらし(同、二三三一)
 
2191 雁が音を 聞きつるなへに
(263) 高松の 野の上の草ぞ
 色づきにける。
 
 鴈之鳴乎《カリガネヲ》 聞鶴奈倍尓《キキツルナヘニ》
 高松之《タカマツノ》 野上乃草曾《ノノウヘノクサゾ》
 色付尓家留《イロヅキニケル》
 
【譯】雁の鳴き聲を聞いたと共に、高松の野の上の草が色づいた。
【釋】高松之 タカマツノ。タカマツは、既出。高圓に同じとされている。
【評語】二句に助詞ナヘを置く表現様式の歌は、前にも後にもあつて、一つの型を成している。これは季節のおとずれは、この型によつて表示するのが便宜だからであろう。この歌も、雁の聲によつて季節のおとずれを感ずる意がよく出ている。
 
2192 わが夫子が 白たへ衣、
 往き觸れば 染《にほ》ひぬべくも
 もみつ山かも。
 
 吾背兒我《ワガセコガ》 白細衣《シロタヘゴロモ》
 往觸者《ユキフレバ》 應v染毛《ニホヒヌベクモ》
 黄變山可聞《モミツヤマカモ》
 
【譯】あなたの白い著物は、行き觸れたなら、染まりそうにも黄葉した山ですね。
【釋】白細衣 シロタヘゴロモ。白い織布の衣服。染めてない生地のままの衣服である。
 往觸者 ユキフレバ。ユキフレバ(元)。ユキフラバ(考)。動詞觸ルは「波都々々爾《ハツハツニ》 仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》 古呂之可奈思母《コロシカナシモ》」(卷十四、三五三七)、「伎美我手敷禮受《キミガテフレズ》 波奈知良米夜母《ハナチラメヤモ》」(卷十七、三九六八)など、觸レシ、觸レズなどの形を有しているから、下二段活として取り扱うのがよいであろう。但し羽觸の如きは、ハブリだろうから、四段活がなかつたとはいえない。
 黄變山可聞 モミツヤマカモ。黄變は、義をもつて書いている。モミツの例は、「和可加敝流弖能《ワカカヘルデノ》 毛美都(264)麻弖《モミツマデ》」(卷十四、三四九四)の例がある。
【評語】黄變の字を使つているが、むしろくれないに燃える山の色が想像される。白い著物を著てはいつて行くと、黄葉の色で染まるだろうという想像は、類想があるにしても美しい。わが夫子の語を使つているが、男どうしの歌と考えられ、現にその黄葉した山に對して歌つていると見られる。
 
2193 秋風の 日にけに吹けば、
 水莖《みづぐき》の 岡の木の葉も
 色づきにけり。
 
 秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》
 水莖能《ミヅグキノ》 岡之木葉毛《ヲカノコノハモ》
 色付尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】秋風が、日毎にまきつて吹くので、若々しい莖の生えている岡の木の葉も、色づいたことだ。
【釋】日異吹者 ヒニケニフケバ。ヒニケニは、日に殊にで、日々に増つて吹く意である。
 水莖能 ミヅグキノ。枕詞。ミヅグキは、生々たる莖の義であろう。その生えている岡と續くか。若《わか》に接續し、若から轉じて岡に冠するという説は、若に續く例が無く、岡のみに接續しているので疑わしい。地名とすることも考えられるが、その地の實在の證明が無いので、これも危ぶまれる。
【評語】すらすらと形の整つた歌だ。水莖ノの枕詞は、木の葉の色づくことと對立をしている。
【參考】類歌。
  雁がねの寒く鳴きしゆ水莖の岡の葛葉《くづは》は色づきにけり(卷十、二二〇八)
 
2194 雁がねの 來鳴きしなへに
 韓衣《からごろも》 立田《たつた》の山は もみち始《そ》めたり。
 
 雁鳴乃《カリガネノ》 來鳴之共《キナキシナヘニ》
 韓衣《カラゴロモ》 裁田之山者《タツタノヤマハ》 黄始有《モミチソメタリ》
(265)【譯】雁が來て鳴いたと共に、韓衣を裁《た》つ、その立田の山は、黄葉し始めた。
【釋】韓衣 カラゴロモ。枕詞。大陸ふうの衣服で、裁つて縫うというので、立田のタツに冠している。
【評語】雁が來て、黄葉が繼ぐという、季節のおとずれが歌われ、類想の多い歌である。地名も立田山でなくてもよいわけである。
 
2195 雁がねの 聲聞くなへに、
 明日よりは
 春日の山は もみち始《そ》めなむ。
 
 鴈之鳴《カリガネノ》 聲聞苗荷《コヱキクナヘニ》
 明日從者《アスヨリハ》
 借香能山者《カスガノヤマハ》 黄始南《モミチソメナム》
 
【譯】雁の鳴聲を聞くと共に、明日からは、春日の山は黄葉し始めるだろう。
【評語】これもナヘニに依つて表現している。内容も雁の聲によつて黄葉し始めることを歌つている。類想類型の多い歌であつて、しかもこの歌には、特色として見るべきものがない。
 
2196 時雨の雨 間無くしふれば、
 眞木の葉も
 あらそひかねて 色づきにけり。
 
 四具禮能雨《シグレノアメ》 無v間之零者《マナクシフレバ》
 眞木葉毛《マキノハモ》
 爭不v勝而《アラソヒカネテ》 色付尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】時雨の雨が、間無く降るので、常磐木の葉も、爭いかねて色づいたことだ。
【釋】眞木葉毛 マキノハモ。マキは、スギ、ヒノキのような、堂々たる風格の木をいい、殊に常緑の樹をいう。
【評語】時雨の雨が間斷なく降つて、常緑木までも色づいたことを歌つている。實際、秋深くなると、スギ、(266)ヒノキのような常緑木の葉も、褐色を帶びてくるものである。爭ヒカネテの句は、技巧的で氣になるが、黄葉の歌として變わつた所を歌つたのが特色だ。
 
2197 いちしろく 時雨の雨は 零《ふ》らなくに
 大城《おほき》の山は 色づきにけり。
 
 灼然《イチシロク》 四具禮乃雨者《シグレノアメハ》 零勿國《フラナクニ》
 大城山者《オホキノヤマハ》 色付尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】はつきりと、時雨の雨は降らないのだが、大城の山は色づいたことだ。
【釋】灼然 イチシロク。著明に、はつきりと。それというほどの時雨の雨は降らなかつたというので、いちしろく降らないと云つている。
 大城山者 オホキノヤマハ。オホキノ山は、大宰府背後の山。次の註參照。
【評語】まだ時雨というほどの雨も降らなかつたが、山の草木の既に色づいたことを歌つている。すつきりとした形のよい歌である。
 
謂2大城山1者、在2筑前國御笠郡1之大野山頂、號曰2大城1者也
 
大城の山と謂へるは、筑前の國の御笠《みかさ》の郡にある大野山の、頂の號を大城と曰へるものなり。
 
【釋】謂大城山者 オホキノヤマトイヘルハ。以下、前の歌の大城ノ山の説明である。これによれば、大野山の山頂を大城の山という由である。大野山は、卷の五、七九九參照。この註は、萬葉集の編纂當時からあつたものなるべく、大城というのが、あまり知られていない名なので、加えた説明であろう。原作者の自註であるかも知れない。特に山頂附近が色づいたという歌意を説明したのであろう。
 
(267)2198 風吹けば 黄葉《もみち》散りつつ、
 すくなくも
 吾《あが》の松原 清からなくに。
 
 風吹者《カゼフケバ》 黄葉散乍《モミチチリツツ》
 小雲《スクナクモ》 吾松原《アガノマツバラ》 清在莫國《キヨカラナクニ》
 
【譯】風が吹くと黄葉が散つて、わがの松原は、大變に美しい。
【釋】少雲 スクナクモ。少は、元暦校本による。諸本に小であるが、小は少に通じて使用されている。スクナクモは、乏少の意の副詞だが、この下にある句を修飾限定して、その内容が、乏少であることをいい、下の句の内容について決してそんな事はないの意をあらわす。下はかならず打消の語で受けている。すなわちこの歌では、清カラナクニを否定して、清らかだというのである。集中の用例を列擧すれば、次の通りである。「散頬相《サニツラフ》 色者不v出《イロニハイデズ》 小文《スクナクモ》 心中《ココロノウチニ》 吾念名君《ワガオモハナクニ》」(卷十一、二五二三)、これは心の中ではなはだしく思うのである。それを、心の中でわたしの思わないことは、すくないの形であらわすのである。「言云者《コトニイヘバ》 三々二田八酢四《ミヽニタヤスシ》 小九毛《スクナクモ》 心中二《ココロノウチニ》 我念羽奈九二《ワガオモハナクニ》」(同、二五八一)これも同前。「人目多見《ヒトメオホミ》 眼社忍禮《メコソシノブレ》 小毛《スクナクモ》 心中爾《ココロノウチニ》 吾念莫國《ワガオモハナクニ》」(卷十二、二九一一)、これも同前。「須久奈久毛《スクナクモ》 伊母爾戀都々《イモニコヒツツ》 須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》」(卷十五、三七四三)、これは妹に戀うて、何とも術が無いというのである。「須久奈久母《スクナクモ》 年月經禮婆《トシツキフレバ》 古非之家禮夜母《コヒシケレヤモ》」(卷十八、四一一八)、これは年月を經ても大いに戀しいというのである。それぞれの歌の條參照。
 吾松原 アガノマツバラ。三重縣の吾の松原(卷六、一〇三〇)だろうという。
【評語】松原に黄葉の散る風情が詠まれている。特殊な句法を使用して、清らかであることを強調している。今までこの句法に對する理解が無く、その意を解し得なかつた歌である。
 
2199 もの念ふと 隱《こも》らひ居《を》りて、
(268) 今日見れば
 春日の山は 色づきにけり。
 
 物念《モノモフト》 隱座而《コモラヒヲリテ》
 今日見者《ケフミレバ》
 春日山者《カスガノヤマハ》 色就尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】物を思うとて家に籠つていて、今日見れば春日の山は色づいたことだ。
【釋】物念隱座而 モノオモフトコモラヒヲリテ。トは讀み添える。物を思うとての意。コモラヒヲリテは、家に閉じこもつていて。
【評語】日ごろ家ごもりをしていて、たまたま出て季節の動いているのに驚いている。初二句は、感傷的な内容だが、率直に敍してあり、三句以下も、すなおにそれを受けて、因果的になつていないのがよい。大伴の家持の、「雨ごもり心いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり」(卷八、一五六八)は、この歌を受けているのだろう。
 
2200 九月《ながつき》の 白露|負《お》ひて、
 あしひきの 山のもみちむ、
 見まくしもよし。
 
 九月《ナガツキノ》 白露負而《シラツユオヒテ》
 足日木乃《アシヒキノ》 山之將2黄變1《ヤマノモミチム》
 見幕下吉《ミマクシモヨシ》
 
【譯】九月の白露を負うて、山の黄葉するだろうのを、見るのは良いものだ。
【釋】山之將黄變 ヤマノモミチム。山の黄葉しようのをで、句切ではなく、次の見るの目的になつている。
【評語】山ノモミチムといい、見マクシモといい、現在形を用いていないので、概説ふうになつてしまつた。黄葉を思う心だけの内容である。
 
2201 妹がりと 馬に鞍置きて、
(269) 射駒山 うち越えくれば、
 紅葉ちりつつ。
 
 妹許跡《イモガリト》馬※[木+安]置而《ウマニクラオキテ》
 射駒山《イコマヤマ》 撃越來者《ウチコエクレバ》
 紅葉散筒《モミヂチリツツ》
 
【譯】妻のもとへと、馬に鞍を置いて、射駒山を越えてくれば、紅葉が散りつつある。
【釋】妹許跡 イモガリト。妹のもとへと。この妹は、大和にいる作者の妻であろう。
 射駒山 イコマヤマ。生駒山に同じ。
【評語】難波あたりに出た官人が、馬に鞍を置いて、生駒山を越えるのだろう。初二句の敍述がよく利いて、情景を兼ねた美しい歌になつている。紅葉の文字は、集中この一例があるのみで、他には、赤葉、赤があるだけである。
 
2202 黄葉する 時になるらし。
 月人の かつらの枝の
 色づく見れば。
 
 黄葉爲《モミチスル》 時尓成良之《トキニナルラシ》
 月人《ツクヒトノ》 楓枝乃《カツラノエダノ》
 色付見者《イロヅクミレバ》
 
【譯】黄葉する時になるらしい。月の中にあるというカツラの枝の色づくのを見ると。
【釋】月人 ツクヒトノ。ツクヒトは、既出の「月人壯《ツクヒトヲトコ》」(卷十、二〇一〇)などのツクヒトヲトコに同じ。月を擬人化したもの。
 楓枝乃 カツラノエダノ。月中に楓樹ありとする傳説によつている。「月内之《ツキノウチノ》 楓如《カツラノゴトキ》」(卷四、六三二)參照。カツラは、カツラ科の落葉喬木で、カエデとは別。
【評語】秋になつて月の光のすみまさるのを、カツラの枝の色づくという譬喩で歌つている。初二句は、黄葉(270)する時節になつたらしいと、當然色づくべき時期になつたことを歌つている。月の歌だが、黄葉に縁があるので、ここに收めたのだろう。當時の知識者の作である。
 
2203 里もけに 霜は置くらし。
 高松の 野山づかさの 色づく見れば。
 
 里異《サトモケニ》 霜者置良之《シモハオクラシ》
 高松《タカマツノ》 野山司之《ノヤマヅカサノ》
 色付見者《イロヅクミレバ》
 
【譯】里も特に霜は置くらしい。高松の野山の高みの色づくのを見れば。
【釋】里異 サトモケニ。ケニは、特に、格別に。
 野山司之 ノヤマヅカサノ。ツカサは、附近を交配する處の義で、高い處をいう。「佐保河乃《サホガハノ》 涯之官能《キシノツカサノ》」(卷四、五二九)、「安之比奇能《アシヒキノ》 山谷古延※[氏/一]《ヤマタニコエテ》 野豆加佐爾《ノヅカサニ》 今者鳴良武《イマハナクラム》 宇具比須乃許惠《ウグヒスノコヱ》」(卷十七、三九一五)(271)など使われている。ノヤマヅカサは、野山の一帶を司るような高みをいうのだろう。
【評語】山野の高みの色づくのを見て、里にも霜は置くらしいという極めて自然な推量をしている。野山ヅカサのような特殊の語が、まず黄葉の色づく場處を指示し、全體の内容に實感を與えている。
 
2204 秋風の 日にけに吹けば、
 露しげみ
 はぎの下葉は 色づきにけり。
 
 秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》
 露重《ツユシゲミ》
 芽子之下葉者《ハギノシタバハ》 色付來《イロヅキニケリ》
 
【譯】秋風が、日ましに吹くので、露が繁く、ハギの下葉は色づいたことだ。
【釋】露重 ツユシゲミ。重をシゲミと讀むことは、「人之事重三《ヒトノコトシゲミ》 念曾吾爲類《オモヒゾワガスル》」(卷四、七八八)の例によつて證明される。露がいつぱいに置くので。
【評語】秋風ノ日ニケニ吹ケバは、日ましに寒くなることをいうが、露シゲミの伏線としては、不適當である。實地について深く考慮することなしに置いた句だからであろう。類型的に作られた歌だ。
 
2205 秋はぎの 下葉もみちぬ。
 あらたまの 月の經去《へゆ》けば
 風をいたみかも。
 
 秋〓子乃《アキハギノ》 下葉赤《シタバモミチヌ》
 荒玉乃《アラタマノ》 月之歴去者《ツキノヘユケバ》
 風疾鴨《カゼヲイタミカモ》
 
【譯】秋ハギの下葉が赤く染まつた。月が過ぎて行くので、風が強いからか。
【釋】下葉赤 シタバモミチヌ。赤の字を書いたのは、ハギの下葉の實際の色に即して書いたので、黄よりは(272)赤の方が適切だと考えたからであろう。句切。
 荒玉乃 アラタマノ。枕詞。ここは月に冠している。
 月之歴去者 ツキノヘユケバ。秋になつて月が經過したので。
 風疾鴨 カゼヲイタミカモ。この下に、たとえばアラムの如き語の省略された氣もちである。三句以下は、初二句の理由になるのだが、上に返るのではない。
【評語】實地に即しているだけに、前の歌よりはこの方がすぐれている。自然をよく見つめている歌である。
 
2206 まそ鏡 南淵《みなぶち》山は、
 今日もかも
 白露置きて 黄葉《もみち》散るらむ。
 
 眞十鏡《マソカガミ》 見名淵山者《ミナブチヤマハ》
 今日鴨《ケフモカモ》
 白露置而《シラツユオキテ》 黄葉將v散《モミヂチルラム》
 
【譯】澄んだ鏡を見る。その南淵山は、今日は、白露が置いて黄葉が散つているだろう。
【釋】眞十鏡 マソカガミ。枕詞。見るの意に、南淵山のミに冠している。
 見名淵山者 ミナブチヤマハ。ミナブチ山は、奈良縣高市郡高市村にあつて、飛鳥川の上流に臨んでいる。
 今日鴨 ケフモカモ。ケフモは今日を強く指示するもので、今日もまたの意ではない。カモは、疑問の係助詞。
【評語】南淵山の黄葉の散る様を推量している。飛鳥の故郷戀しく思う心から詠まれたものであろう。白露と黄葉と、文字の上で對を成して書かれているようだ。
 
2207 わが屋戸《やど》の 淺茅色づく。
(273) 吉隱《よなばり》の 夏身の上に 時雨ふるらし。
 
 吾屋戸之《ワガヤドノ》 淺茅色付《アサヂイロヅク》
 吉魚張之《ヨナバリノ》 夏身之上尓《ナツミノウヘニ》 四具禮零疑《シグレフルラシ》
 
【譯】わたしの屋戸の淺茅が色づいた。吉隱の夏身の上に時雨が降るらしい。
【釋】吉魚張之 ヨナバリノ。ヨナバリは地名。既出(卷十、二一九〇)。
 夏身之上尓 ナツミノウヘニ。ナツミは、吉隱の一地名だろうが、所在不明。山か野か里かも不明。
 四具禮零疑 シグレフルラシ。疑は、ラシともラムともカモとも讀まれるが、類型の歌「吾門之《ワガカドノ》 淺茅色就《アサヂイロヅク》 吉魚張能《ヨナバリノ》 浪柴乃野之《ナミシバノノノ》 黄葉散良新《モミチチルラシ》」(卷十、二一九〇)に照らして、ラシと讀むべきである。 
【評語】身邊の風物によつて、曾遊《そうゆう》の地の物色の變化を推量している。類型のある歌だが、詩趣は感じられる。
 
2208 雁がねの 寒く鳴きしゆ、
 水莖の 岡のくず葉は、
 色づきにけり。
 
 鴈鳴之《カリガネノ》 寒鳴從《サムクナキシユ》
 水莖之《ミヅグキノ》 岡乃葛葉者《ヲカノクズバハ》
 色付尓來《イロヅキニケリ》
 
【譯】雁が寒く鳴いてからこのかた、若々しい莖の生える岡の葛葉は色づいたことだ。
【釋】雁鳴之寒鳴從 カリガネノサムクナキシユ。雁の聲寒く鳴いた時よりこのかた。
 水莖之 ミヅグキノ。枕詞。
【評語】前に類歌(二一九三)があつたが、この歌はこれでまた纏まつている。雁がねに葛葉を取り合わせたのが趣向だ。水莖の枕詞は、季節の推移を感じて使つているのだろう。
 
2209 秋はぎの 下葉の黄葉、
(274) 花に繼ぐ 時過ぎ行かば、
 後《のち》戀ひむかも。
 
 秋〓子之《アキハギノ》下葉乃黄葉《シタバノモミチ》
 於v花繼《ハナニツグ》 時過去者《トキスギユカバ》
 後將v戀鴨《ノチコヒムカモ》
 
【譯】秋ハギの下葉の黄葉が、その花に續く時が過ぎて行つたら、後に思うことだろうか。
【釋】於花繼 ハナニツグ。ハギの花の後に績く。連體句。
【評語】ハギの花が既に過ぎて、その下葉の黄葉の繼いで美しい今、この時が過ぎて行つたら、後に戀しく思われるだろうという歌である。花から黄葉へと、季節の風物と共に住む生活が歌われている。
 
2210 明日香《あすか》河 もみち葉ながる。
 葛城《かづらき》の 山の木の葉は
 今し散るらし。
 
 明日香河《アスカガハ》 黄葉流《モミチバナガル》
 葛木《カヅラキノ》 山之木葉者《ヤマノコノハハ》
 今之落疑《イマシチルラシ》
 
【譯】明日香川は黄葉が流れる。葛城の山の木の葉は、今散るらしい。
【釋】明日香河 アスカガハ。これは大和の飛鳥川ではなく、二上山から流れ出て、河内の國の石川に注ぐ飛鳥川とする説がある。葛城山の木の葉が散つて、この川を流れたとするならば、その方が合理的である。大和の飛鳥川は、葛城山とは、関係無く流れている。しかし飛鳥川の黄葉を見て、葛城山を推量することもあり得る。今シの句から見ても、その方がよいかもしれない。
 葛木 カヅラキノ。大和河内の國境をなす山で、金剛山、葛城山、二上山などの連峯の總稱である。
【評語】川に流れる黄葉を見て、上流の山の木の葉の散るのを推量したものとして、「わが門の淺茅色づく」の歌あたりと、同型の構想で、それよりも實地と推量とに地理的に深い關係のあるのが特色である。それだけに(275)多少理くつぽくなつているのはやむを得ない。明日香河の釋の條の後半に説いたように地理的な關係なしとすれば、その方が趣が深い。
 
2211 妹が紐 解くと結びて 立田山、
 今こそ黄葉《もみち》 はじめてありけれ。
 
 妹之※[糸+刃]《イモガヒモ》 解登結而《トクトムスビテ》 立田山《タツタヤマ》
 今許曾黄葉《イマコソモミチ》 始而有家禮《ハジメテアリケレ》
 
【譯】妹の著物の紐を解いて結んで立つ。その立田山は、今こそ黄葉し始めたことだつた。
【釋】妹之※[糸+刃]解登結而 イモガヒモトクトムスビテ。以上、立田山というための序詞。略解に、而は等などの誤りかとしているが、歌經標式《かきようひようしき》に藤原の内の大臣の秋の歌として「伊母我比母《イモガヒモ》 等倶等牟須婢弖《トクトムスビテ》 他都他夜麻《タツタヤマ》 美和他須能幣能《ミワタスノベノ》 母美知斗《モミチト》(計カ)羅倶婆《ラクハ》」という歌を載せているのによれば、誤りがあるとは云いがたい。トクトは、解し難いが、解くためにとまず結びての意でもあろうか。なお後撰集に、「妹が紐解くと結ぶと立田山今ぞもみぢの錦織りける」として載せたのは、この歌をもととするのであろう。
 今許曾黄葉 イマコソモミ。モミチは、モミチハジメテと續けて、動詞とも取れるが、やはり名詞とすべきであろう。
 始而有家禮 ハジメテアリケレ。テアリは、熟して助動詞ダリとなるもの。テアリはその歴史的の形である。
【評語】初三句の序詞は、歌いものふうに口馴れていたものから來ているのであろう。そのきわどい言いかけだけが興味で、黄葉に関する方は、平凡な説明に過ぎない。
 
2212 雁がねの 喧《さわ》きにしより、
 春日なる 三笠の山は 色づきにけり。
 
 鴈鳴之《カリガネノ》 喧《サワキ・キナキ》之從《ニシヨリ》
 春日有《カスガナル》 三笠山者《ミカサノヤマハ》 色付丹家里《イロヅキニケリ》
 
(276)【譯】雁の鳴いた日からこのかた、春日の三笠の山は色づいたことだ。
【釋】喧之從 サワキニシヨリ。
  キナキシヒヨリ(元)
  サワキニシヨリ(元赭)
  ナキキニシヨリ(類)
  キナキニシヨリ(神)
  ――――――――――
  喧之日從《ナキニシヒヨリ》(代精、早稻田本)
  來喧之從《キナキニシヨリ》(代精)
 文字表現が十分でなく、訓に苦しむ所である。喧は、大聲に語る意の字で、集中、鳥については、動詞ナク、名詞ネにあてて書いている。ここは動詞と見られるが、二音では音數不足ゆえ、義をもつてサワキとするによる。雁については「雁我禰波《カリガネハ》 都可比爾許牟等《ツカヒニコムト》 佐和久良武《サワクラム》」(卷十七、三九五三)があり、その他、カモ、タヅ、アヂムラ等についてサワクと言つている。また補讀するとせば、來の語キを補うか、日の語ヒを補うかであるが、それによつて安定するともいいがたい。
【評語】雁が鳴いてから黄葉したという、類想の多い歌である。春日ナル三笠ノ山は、この集にゆかりの深い地名だが、さりとてその山を置いただけの特色もない。
 
2213 この頃の 曉露《あかときつゆ》に、
 わが屋戸の 秋のはぎ原
 色づきにけり。
 
 比者之《コノゴロノ》 五更露尓《アカトキツユニ》
 吾屋戸乃《ワガヤドノ》 秋之〓子原《アキノハギハラ》
 色付尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】この頃の明け方の露で、わたしの屋戸の秋のハギ原は、色づいたことだ。
【釋】五吏露尓 アカトキツユニ。五更は、漏刻の時數で、五更に及んで夜が開けるので、アカトキに使つて(277)いる。
【評語】前に類歌(二一八二)があつた。秋のハギ原が色づいたというのは、秋ハギの集團的な美を歌つたものといえよう。
 
2214 夕されば 雁が越えゆく 龍田山、
 時雨に競《きほ》ひ 色づきにけり。
 
 夕去者《ユフサレバ》 鴈之越往《カリノコエユク》 龍田山《タツタヤマ》
 四具禮尓競《シグレニキホヒ》 色付尓家里《イロヅキニケリ》
 
【譯】夕方になると雁の越えて行く立田山は、時雨と爭つて色づいたことだ。
【釋】四具禮尓競 シグレニキホヒ。時雨の催し立てるのに爭つて、おくれまいとして色づいたのである。
【評語】雁が立田山を越えるということは、古歌などから來ているだろうが、ここでは、これによつて立田山の動態を描いて、次の時雨ニ競ヒに照應させている。
 
2215 さ夜ふけて 時雨なふりそ。
 秋はぎの 本葉《もとば》の黄葉《もみち》
 散らまく惜しも。
 
 左夜深而《サヨフケテ》 四具禮勿零《シグレナフリソ》
 秋〓子之《アキハギノ》 本葉之黄葉《モトバノモミチ》
 落卷惜裳《チラマクヲシモ》
 
【譯】夜が更けて時雨よ降るな。秋ハギのもと葉の黄葉の散るのが惜しい。
【釋】本葉之黄葉 モトバノモミチ。モトバは、枝のもとの方にある葉をいう。
【評語】夜が更けて時雨がはらはらとおとずれたので、ハギのもと葉の紅葉の散るのを惜しんだ歌である。具體的に、モト葉ノ黄葉といつたのがよく、美しい自然の亂れるのを傷んでいる。
 
(278)2216 古郷の 初もみち葉を 手《た》折り持ち、
 今日ぞわが來る。
 見ぬ人のため。
 
 古郷之《フルサトノ》 始黄葉乎《ハツモミチバヲ》 手折以《タヲリモチ》
 今日曾吾來《ケフゾワガクル》
 不v見人之爲《ミヌヒトノタメ》
 
【譯】古郷の初黄葉を折つて持つて、今日わたしが來ました。見ない人のために。
【釋】古郷之 フルサトノ。明日香あたりの、もと住んでいた里をいうのであろう。
【評語】美しい初黄葉を折つて来たのは、人と共に、古郷をなつかしむ心を分かとうとするからである。黄葉を折つて來たことを説明したに過ぎないが、情趣は存している。
 
2217 君が家の ともしき黄葉《もみち》、
 けさはふる 時雨の雨に
 沾れにけらしも。
 
 君之家乃《キミガイヘノ》 之黄葉《トモシキモミチ》
 早者《ケサハ・ハヤク》落《フル》 四具禮乃雨尓《シクレノアメニ》
 所v沾良之母《ヌレニケラシモ》
 
【譯】あなたのお家のわずかな黄葉は、早く降る時雨の雨に濡れたことでしようね。
【釋】之黄葉早者落 トモシキモミチケサハフル。
  モミチハハヤクチリニケリ(元)
  □ノモミヂハヤクフル(定本)
  ――――――――――
  黄葉早落之者《モミヂバハヤクチリユクハ》(童)
  黄葉早落之者《モミヂバハヤクチリニシハ》(考)
 文字に疑問があつて、正訓を得難い。今假に、之を乏の誤りと見て訓を下した。乏を之に誤つたと見られる例は、「之吉呂賀聞《トモシキロカモ》」(卷一、五三)がある。トモシキは、本義の、すくない意による。わずかに黄葉したのを見知つているのだろう。早者は、ハヤクと讀むのが無理なので、義をもってケサハとした。
(279)【評語】君が家の黄葉が、時雨に濡れているだろうと推量しているが、訓讀に問題があつて、その生命を十分に感じ得ない。時雨のふる頃、人に贈る歌として、まず趣のある方だろう。
 
2218 一|年《とせ》に ふたたび行かぬ 秋山を、
 情《こころ》に飽かず 過《すぐ》しつるかも。
 
 一年《ヒトトセニ》 二遍不v行《フタタビユカヌ》 秋山乎《アキヤマヲ》
 情尓不v飽《ココロニアカズ》 過之鶴鴨《スグシツルカモ》
 
【譯】一年に二度と来ない秋山だのに、心に飽き足らず思つて過したことだなあ。
【釋】二遍不行 フタタビユカヌ。二度と進行しない。二度來ない意である。「空蝉乃《ウツセミノ》 代也毛二行《ヨヤモフタユク》」(卷四、七三三)。
 情尓不飽 ココロニアカズ。アカズは、飽き足らず。飽くまで見なかつた意である。
【評語】秋山を惜しむ情があらわれている。一年に二度と來ないという云い方は、七夕の歌などにもあつて、獨創的ではない。
 
詠2水田1
 
【釋】詠水田 コナタヲヨメル。倭名類聚鈔に「田、釋名(ニ)云(フ)、土(ノ)已(ニ)耕(セル)者爲(ス)v田(ト) 徒年反、和名太。漢語抄云、水田、古奈太。田、填《テン》也。五穀填2滿(ス)其(ノ)中(ニ)1也」とある。これによつて水田をコナタと讀む。箋註倭名類聚鈔に、コナタは熟田の義とある。
 
2219 あしひきの 山田作る子、
 秀《ひ》ででずとも 繩だに延《は》へよ。
(280) 守《も》ると知るがね。
 
 足曳之《アシビキノ》 山田佃子《ヤマダツクルコ》
 不v秀友《ヒデズトモ》 繩谷延與《ナハダニハヘヨ》
 守登知金《モルトシルガネ》
 
【譯】この山田を作つている若者よ、稻がみのらないでも、繩だけでもお張りなさい。番をしていると知るだろう。
【釋】山田佃子 ヤマダツクルコ。佃は田を作るをいう。コは、下の者に對する愛稱。
 不秀友 ヒデズトモ。ヒヅは、穗に出るをいう。山田で稻がみのらないでも。
【評語】譬喩の歌らしい詠みぶりである。山田の耕作の實状に即して詠んでいるのがよい。
【参考】類歌。
  石上《いそのかみ》布留《ふる》の早田《わさだ》を秀《ひ》でずとも繩だに延《は》へよ。守《も》りつつ居らむ(卷七、一三五三)
 
2220 さを鹿の 妻|喚《よ》ぶ山の 岡邊《をかべ》なる
 早田《わさだ》は刈らじ。
 霜は零《ふ》るとも。
 
 左小壯鹿之《サヲシカノ》 妻喚山之《ツマヨブヤマノ》 岳邊在《ヲカベナル》
 早田者不v苅《ワサダハカラジ》
 霜者雖v零《シモハフルトモ》
 
【譯】男鹿が妻を呼ぶ山の岡邊にある早稻の田は刈るまい。霜は降つても。
【釋】早田者不苅 ワサダハカラジ。ワサダは、早く熟する稻の田。山邊は、氣候が寒いので、早く熟する種類を耕作する。句切。
【評語】鹿の妻を呼ぶのに同情して、その立ち寄るあたりの田を刈らないというのだが、作り歌で、實情でない所が缺點である。あまりに思い設けている。實際の耕人の作でないことはあきらかである。
 
2221 わが門に 禁《も》る田を見れば、
 
(281) 佐保の内の 秋はぎすすき
 念《おも》ほゆるかも。
 
 我門尓《ワガカドニ》 禁田乎見者《モルタヲミレバ》
 紗穗内之《サホノウチノ》 秋〓子爲酢寸《アキハギススキ》
 所v念鴨《オモホユルカモ》
 
【譯】わたしの門で番をしている田を見ると、佐保の區内の秋ハギやススキが思われることだなあ。
【釋】禁田乎見者 モルタヲミレパ。モルタは、鹿猪などに犯されないように番をする田をいう。
 紗穗内之 サホノウチノ。サホノウチは、佐保川を中心とした一帶の地域をいう。佐保の區域内の意。「狹帆之内敝《サホノウチヘ》」(卷十、一八二七)。
【評語】田舍に出た人が、門邊の稻田の秋を見て、わが家のある佐保の秋の風情を思つた歌で、すなおに詠まれている。大伴氏は、佐保に邸宅があり、坂上の郎女などは、それから庄園に出ていて詠んだ歌をも殘しているから、そういう場合の歌であろう。
 
詠v河
 
2222 夕さらず 河蝦《かはづ》鳴くなる 三輪河の
 清き瀬の音を 聞かくし宜《よ》しも。
 
 暮不v去《ユフサラズ》 河蝦鳴成《カハヅナクナル》 三和河之《ミワガハノ》
 清瀬《キヨキセノ》音《ト・オト》乎《ヲ》 聞師吉毛《キカクシヨシモ》
 
【譯】夕方ごとに河蝦の聲を聞く三輪川の清い瀬の音を聞くのは氣もちのよいことだ。
【釋】三和河之 ミワガハノ。初瀬川の下流、三輪山の附近を流れるあたりを三輪川という。
【評語】カワズの聲を得て、川瀬の音は、一層その清さを増して感じられる。川瀬の音を愛する歌は多く、古人の、自然に對する感興の深さが感じられる。
 
(282)詠v月
 
2223 天《あめ》の海に 月の船浮け、
 桂楫《かつらかぢ》 かけて榜ぐ見ゆ。
 月人|壯子《をとこ》。
 
 天海《アメノウミニ》 月船浮《ツキノフネウケ》
 桂梶《カツラカヂ》 懸而滂所v見《カケテコグミユ》
 月人壯子《ツクヒトヲトコ》
 
【譯】天の海に月の船を浮かべて、桂の楫を懸けてこぐのが見える。月の男が。
【釋】桂梶 カツラカヂ。桂樹で作つた楫。月中に桂樹ありとすることから來ている。「月内之《ツキノウチノ》 楓如《カツラノゴトキ》」(卷四、六三二)參照。
 懸而滂所見 カケテコグミユ。カケテは、楫を船につけて。句切。
 月人壯子 ツクヒトヲトコ。月の擬人化。四句の、かけて榜ぐの主格。ミユは、作者に見える意。
【評語】漢文學の影響を受けている作だ。懷風藻所載の文武天皇の御製の月の詩「月(ノ)舟移(リ)2霧(ノ)渚(ニ)1、楓(ノ)※[楫+戈]泛(ブ)2霞(ノ)濱(ニ)1」あたりからは、直接に受けているだろうし、人麻呂集の歌からも受けているだろう。大宮人である當時の文學者の、月に對する解釋と云えよう。
【参考】類歌。
  天《あめ》の海に雲の浪立ち月の船星の林に榜《こ》ぎ隱る見ゆ(卷七、一〇六八、人麻呂集)
 
2224 この夜らは さ夜ふけぬらし。
 雁が音の 聞ゆる空ゆ 月立ち渡る。
 
 此夜等者《コノヨラハ》 沙夜深去良之《サヨフケヌラシ》
 鴈鳴乃《カリガネノ》 所v聞空從《キコユルソラユ》 月立度《ツキタチワタル》
(283)【譯】この夜は、夜がふけたらしい。雁の鳴き聲の聞える空を通つて、月が通り過ぎて行く。
【釋】此夜等者 コノヨラハ。ラは、接尾語。
【評語】平凡な内容の歌だが、いや味の無い點がとりえだ。初二句の敍述は、もつと短くてよいのだろう。
【参考】類歌。
  さ夜中と夜は更《ふ》けぬらし。雁がねの聞ゆる空ゆ月渡る見ゆ(卷九、一七〇一)
 
2225 わが夫子《せこ》が 插頭《かざし》のはぎに
 おく露を
 さやかに見よと 月は照るらし。
 
 吾背子之《ワガセコガ》 插頭之〓子尓《カザシノハギニ》
 置露乎《オクツユヲ》
 清見世跡《サヤカニミヨト》 月者照良思《ツキハテルラシ》
 
【譯】あなたの插頭にしたハギの花に置く露を、はつきり見よと月は照つているのだろう。
【釋】清見世跡 サヤカニミヨト。サヤカニは、明白に、明瞭に。月の照る意を推量している。
【評語】男子どうし宴を開いている時の作だろう。插頭のハギに置く露は、實際に露が置くのでもあるまいが、風流ぶつた云い方である。作り過ぎた歌で、時の興には乘つている。四五句の類型「國將v榮常《クニサカエムト》 月者照良思《ツキハテルラシ》」(卷七、一〇八六)。
 
2226 心なき 秋の月夜《つくよ》の、
 もの念ふと 寐《い》の宿《ね》らえぬに、
 照りつつもとな。
 
 無v心《ココロナキ》 秋月夜之《アキノツクヨノ》
 物念跡《モノオモフト》 寐不v所v宿《イノネラヱヌニ》
 照乍本名《テリツツモトナ》
 
【譯】心の無い秋の月が、ものを思うとして眠られないのに、照つていてしかたがない。
(284)【釋】秋月夜之 アキノツクヨノ。ツクヨは、月をいう。以上二句。照リツツモトナに接續する。
 照乍本名 テリツツモトナ。――ツツモトナは、一つの型で、ある事が進行して非常であることだの意をあらわす。「令v見乍本名《ミセツツモトナ》」(卷三、三〇五)參照。
【評語】物思いに沈んで眠りをなし難い時に、月は、それを知らず顔に皎々《きようきよう》として照つている。明月の哀愁を誘う心である。月に對して感傷を懷く心も、やはり大陸文學の影響を受けているのだろう。
 
2227 念はぬに 時雨の雨は ふりたれど、
 天雲《あまぐも》霽《は》れて 月夜《つくよ》さやけし。
 
 不念尓《オモハヌニ》 四具禮乃雨者《シグレノアメハ》 零有跡《フリタレド》
 天雲霽而《アマグモハレテ》 月夜清焉《ツクヨサヤケシ》
 
【譯】思いのほかに時雨の雨は降つたけれども、天の雲が晴れて月があきらかだ。
【釋】不念尓 オモハヌニ。思いのほかに、意外にも。この句は、時雨の雨の降つたのを修飾する。
【評語】思いがけず、時雨の雨が過ぎて、しかも間もなく止んで天が晴れて月のさやかに照るさまが詠まれている。秋の變化の多い天候が描かれている。雨後の明月が、さやかに描き出されている。
 
2228 はぎが花 咲きのををりを
 見よとかも、
 月夜《つくよ》の清き。
 戀益らくに。
 
 〓子之花《ハギガハナ》 開乃乎再入緒《サキノヲヲリヲ》
 見代跡可聞《ミヨトカモ》
 月夜之清《ツクヨノキヨキ》
 戀益良國《コヒマサラクニ》
 
【譯】ハギの花の咲き滿ちてたわんでいるのを見よとてか、月が清いのだ。戀がまさることだ。
【釋】開乃乎再入緒 サキノヲヲリヲ。再の字は、上の乎を再度する意で使用している。々と同じ意である。
(285)ヲヲリは、たわむこと。サキノヲヲリは、花が咲き滿ちて枝のたわむのをいう。
 見代跡可聞 ミヨトカモ。カモは、疑問の係助詞。次句のキヨキで、これを受けて結んでいる。
 戀益良國 コヒマサラクニ。マサラクは、増ること。戀は、ハギの花に對する戀と解せられる。
【評語】夜に入つて月の光さえまさり、またハギの花を見ようとする心の動くことを歌つている。月の光が、ハギに對する戀を誘うように照つているという、その表現には、多少わざとらしさが感じられる。見ヨトカモのような疑問條件法を使つたのも、その大きな原因となつている。
 
2229 白露を 玉になしたる、
 九月《ながつき》の ありあけの月夜《つくよ》、
 見れど飽かぬかも。
 
 白露乎《シラツユヲ》 玉作有《タマニナシタル》
 九月《ナガツキノ》 在明之月夜《アリアケノツクヨ》
 雖v見不v飽可聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】白露を玉のように見せる九月の明け殘つた月は、見ても飽きないことだ。
【釋】玉作有 タマニナシタル。露に月光が宿つて玉のように見えるのをいう。
 在明之月夜 アリアケノツクヨ。アリアケノツキは、夜が明けてからなお殘る月をいうが、おそく出て明け殘るべき月は、明けない中からもいう。ツクヨは、月のこと。
【評語】月を稱えた歌として、形のよい歌であるが、初二句は、作りすぎ、月の説明は平凡であり、見レド飽カヌカモという表現は類型的である。四五句の字あまりが、調子を張る上に役立つている。
 
詠v風
 
2230 戀ひつつも 稻葉かき別け 家|居《を》れば
(286) 乏しくもあらず。
 秋の夕風。
 
 戀乍裳《コヒツツモ》 稻葉掻別《イナバカキワケ》 家居者《イヘヲレバ》
 乏不v有《トモシクモアラズ》
 秋之暮風《アキノユフカゼ》
 
【譯】風を願いながら稻葉を分けて家居をしていると、すくないこともない。秋の夕風は。
【釋】戀乍裳 コヒツツモ。まだ暑いので、風を戀いながらもの意である。
 稻葉掻別家居者 イナバカキワケイヘヲレバ。田の中に家居している由で、假廬の生活をいうのであろう。
 乏不有 トモシクモアラズ。トモシクは、乏少である意。五句を體言で止める歌の四句は、終止形を取るのが多い。ここも終止と見るべきである。
【評語】田園の生活が、よく描かれている。稻葉カキ別ケ家居レバあたりの、具體的な敍述がよく、四五句もすつきりしている。働いた後の涼味というような方面が、いやみを伴なわないで歌われている。型としては、「梅の花咲ける岡邊に家居れば乏しくもあらず。鶯の聲」(卷十、一八二〇)と同じである。
 
2231 はぎが花 咲きたる野邊に
 ひぐらしの 鳴くなるなへに
 秋の風吹く。
 
 〓子花《ハギガハナ》 咲有野邊《サキタルノベニ》
 日晩之乃《ヒグラシノ》 鳴奈流共《ナクナルナヘニ》
 秋風吹《アキノカゼフク》
 
【譯】ハギの花の咲いている野邊に、ヒグラシの鳴くのと共に、秋風が吹く。
【釋】日晩之乃鳴奈流共 ヒグラシノナクナルナヘニ。この句で、夕方になつたことを語つている。
【評語】ヒグラシは樹間で鳴くものであり、ハギガ花咲キタル野邊というのに合わないが、その野に樹木もあるだろう。二句の野邊ニと、四句のナヘニとが、同型であるのも、調子を妨げるものがある。内容としては、(287)秋のさびしい夕方がよく描かれている。
 
2232 秋山の 木の葉もいまだ もみちねば、
 今旦《けさ》吹く風は、 霜も置きぬべく。
 
 秋山之《アキヤマノ》 木葉文未v赤者《コノハモイマダモミチネバ》 今旦吹風者《ケサフクカゼハ》 霜毛置應久《シモモオキヌベク》
 
【譯】秋山の木の葉もまだ赤くならないのに、今朝吹く風は、霜も置きそうなほどだ。
【釋】木葉文未赤者 コノハモイマダモミチネバ。未は二囘讀む。ネバは、ヌニの意。赤の字を使つているのは、前にも例があつた。
 霜毛置應久 シモモオキヌベク。應は、漢文では、動詞の上に置かれる字であるが、ここではベシの意を表示する字として、書き下しに使つている。置キヌベクの下に、アリの如き語を省略している。
【評語】秋風の急に寒く感ずることを歌つている。自然な内容の歌で、風雅の思想を強いて盛らないのがよい。
 
詠v芳
 
【釋】詠芳 カヲリヲヨメル。芳は、大矢本等にカホリヲと訓している。次の歌によるに、茸である。
 
2233 高松の この峯もせに、
 笠立ちて 盈ち盛《さか》りたる
 秋の香のよさ。
 
 高松之《タカマツノ》 此峯迫尓《コノミネモセニ》
 笠立而《カサタチテ》 盈盛有《ミチサカリタル》
 秋香乃吉者《アキノカノヨサ》
 
【譯】高松のこの峯も狭いまでに、笠が立つていつぱいに榮えている秋の香の良いことだ。
【釋】此峯迫尓 コノミネモセニ。セニは、せまつてすきまのないばかりに。峰いつぱいに。
(288) 笠立而 カサタチテ。茸の形状によつて云つている。倭名類聚鈔に「菌茸、崔禹《サイウ》食經(ニ)云(フ)、菌茸、食(ヘバ)v之(ヲ)、温(ニシテ)有(リ)2小毒1、状如(キ)2人(ノ)著(ルガ)1v笠(ヲ)者也」とある。
 盈盛有 ミチサカリタル。ミチは、茸のいつぱいに生えているについていう。
 秋香乃吉者 アキノカノヨサ。茸類のうち、普通の品では松茸が香氣が高いから、松茸について歌つているのだろう。
【評語】珍しい題材を取り扱つている。實景に即して率直に歌つているのがよい。
 
詠v雨
 
2234 一日には
 千重しくしくに わが戀ふる
 妹があたりに 時雨ふれ、見む。
 
 一日《ヒトヒニハ》
 千重敷布《チヘシクシクニ》 我戀《ワガコフル》
 妹當《イモガアタリニ》 爲暮零禮見《シグレフレミム》
 
【譯】一日の中には、幾重にも重ね重ね、わたしの思う妻の家のあたりに、時雨よ、降れ。それを見よう。
【釋】千重敷布 チヘシクシクニ。チヘシクシクは、重ね重ねの意を強調している。「五百重浪《イホヘナミ》 千重敷々《チヘシクシクニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》」(卷十一、二四三七)、「情者《ココロニハ》 千遍敷及《チヘシクシクニ》 雖v念《オモヘドモ》」(同、二五五二)。
 妹當 イモガアタリニ。妹が家のあたりである。
【評語】妹が家のあたりに、時雨でも降らば、それを眺めようというのが、奇警である。なつかしく何かにつけてその方を見たいと思う心、そなたの空を眺めている心が寫されている。時雨の、むらむらと通り過ぎる雨である性質もよく利いている。藤原の京から、穴師《あなし》の里のあたりを眺めているのだろう。
 
(289)右一首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
2235 秋田刈る 旅の廬《いほり》に 時雨ふり
 わが袖ぬれぬ。
 ほす人無しに。
 
 秋田苅《アキタカル》 客乃廬入尓《タビノイホリニ》 四具禮零《シグレフリ》
 我袖沾《ワガソデヌレヌ》
 干人無二《ホスヒトナシニ》
 
【譯】秋の田を刈る旅の假屋入りに時雨が降つて、わたしの袖は濡れた。ほす人は無しに。
【釋】客乃廬入尓 タビノイホリニ。秋の田を刈るために、小舍に泊るのをタビと言つている。「鶴鳴之《タヅガネノ》 所v聞田井爾《キコユルタヰニ》 五百入爲而《イホリシテ》 吾客有跡《ワレタビナリト》 於v妹告社《イモニツゲコソ》」(卷十、二二四九)など詠まれている。イホリは、廬に入ること。小舍住み。
【評語】秋の田の假廬に時雨のふるものわびしさが歌われている。五句は、妻に別れてひとりある意である。
 
2236 玉|襷《だすき》 かけぬ時なし。
 わが戀は 時雨し零《ふ》らば
 濡れつつも行かむ。
 
 玉手次《タマダスキ》 不v懸時無《カケヌトキナシ》
 吾戀《ワガコヒハ》 此具禮志零者《シグレシフラバ》
 沾乍毛將v行《ヌレツツモユカム》
 
【譯】たすきを懸けるように、心に懸けない時はない。わたしの戀は、時雨が降つたら、濡れても行こう。
【釋】玉手次 タマダスキ。枕詞。
【評語】初二句は、常に思つているということをあらわしているが、いささか取つてつけたようだ。三句以下は、強い意志表示である。雨が降ると出動に不便であつた當時の衣服のことを、理解しておかないと、濡レツ(290)ツモ行カムの氣もちがわかりかねるだろう。
 
2237 もみち葉を 散らす時雨の
 零《ふ》るなへに、
 夜《よ》さへぞ寒き。
 獨し宿《ぬ》れば。
 
 黄葉乎《モミチバヲ》 令v落四具禮能《チラスシグレノ》
 零苗尓《フルナヘニ》
 夜副衣寒《ヨサヘゾサムキ》
 一之宿者《ヒトリシヌレバ》
 
【譯】黄葉を散らす時雨の降るにつれて、夜さえ寒いことだ。ひとりで宿れば。
【釋】夜副衣裳 ヨサヘゾサムキ。サヘは、夜を強調するために使われている。夜までも特に寒く感じられる意である。句切。
【評語】孤閨寒夜《こけいかんや》の情をつくしている。黄葉を散らす時雨の語に、さむざむとした秋の雨が描かれている。
 
詠v霜
 
2238 天《あま》飛ぶや 雁のつばさの 覆羽《おほひば】》、
 何處《いづく》漏《も》りてか、霜の零《ふ》りけむ。
 
 天飛也《アマトブヤ》 鴈之翅乃《カリノツバサノ》 覆羽之《オホヒバノ》
 何處漏香《イヅクモリテカ》 霜之零異牟《シモノフリケム》
 
【譯】空を飛ぶ雁の翅《つばさ》の覆つている羽根の、何處から漏れてか、霜が降つたのだろう。
【釋】天飛也 アマトブヤ。ヤは、感動の助詞。
 覆羽之 オホヒバノ。オホヒバは、蔽う羽翼で、上の雁の翅を説明している。
【評語】天飛ぶ雁の羽翼を漏れて霜が降つたのだろうという構想が奇警である。季節の物としての天飛ぶ雁が(291)活用されている。「旅人の宿りせむ野に霜降らばわが子|羽《は》ぐくめ。天《あめ》の鶴群《たづむら》」(卷九、一七九一)と、内容の上に共通する所のある歌である。
 
秋相聞
 
【釋】秋相聞 アキノサウモニ。初めに無題の人麻呂集所出の歌五首を載せ、次に寄水田以下の寄物の歌六十一首、最後に問答、譬喩歌、旋頭歌の題下に七首を載せている。
 
2239 秋山の したびが下に 鳴く鳥の、
 聲だに聞かば、なにか嘆かむ。
 
 金山《アキヤマノ》 舌日下《シタビガシタニ》 鳴鳥《ナクトリノ》
 音谷聞《コヱダニキカバ》 何嘆《ナニカナゲカム》
 
【譯】秋の山の紅葉の下で鳴く鳥のように、聲だけでも聞くなら、何を嘆こう。
【釋】金山 アキヤマノ。金の字を秋に借りている。
 舌日下 シクビガシタニ。シタビは、草木のくれないに染まること。上二段動詞シタビの連用形で準體言。「秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》」(古事記中卷)、「秋山《アキヤマノ》 下部留妹《シタブルイモ》」(卷二、二一七)。
 鳴島 ナクトリノ。以上三句は、聲というための序詞。鳥が聲ばかりで姿が見えないというのではなく、ただ聲の語を引き出すのみに使われている。
【評語】思う人の聲だけでも聞くなら嘆く所はないのだというつきつめた心が歌われている。普通の相聞の歌としても解せられるが、また妻を亡《うしな》つた後の歌とも取れる。いずれにしても紅葉の下に鳴く鳥の聲に對して、この歌を詠んだのであろう。
 
(292)2240 誰《た》そ彼《かれ》と 我をな問ひそ。
九月《ながつき》の 露にぬれつつ
君待つ吾を。
 
 誰彼《タソカレト》 我莫問《ワレヲナトヒソ》
 九月《ナガツキノ》 露沾乍《ツユニヌレツツ》
 君待吾《キミマツワレヲ》
 
【譯】あれは誰かと、わたくしの事をお尋ねなさいますな。九月の露に濡れながら、あの方を待つわたくしです。
【釋】誰彼 タソカレト。タソカレは、彼は誰かと誰何《すいか》する語。黄昏《たそがれ》の意ではないが、歌としては夕方である。
 我莫問 ワレヲナトヒソ。他の人に對していう詞で、吾に對してではない。句切。
 君待吾 キミマツワレヲ。キミマツは、連體形であろう。ワレヲは、吾なるぞの意。
【評語】女の歌で、露に濡れて君を待つ自分を見咎めるなという意である。會話ふうの詞でできているので、歌いものの感じがある。
 
2241 秋の夜の 霧立ちわたる 夜な夜なに、
 夢《いめ》にぞ見つる。
 妹がすがたを。
 
 秋夜《アキノヨノ》 霧發渡《キリタチワタル》 ※[穴/夕]々《ヨナヨナニ》
 夢見《イメニゾミツル》
 妹形矣《イモガスガタヲ》
 
【譯】秋の夜の霧の立ちわたる夕べ夕べに、夢に見たことだつた。妻の姿を。
【釋】秋夜霧發渡 アキノヨノキリタチワタル。次の※[穴/夕]々を敍述説明する句。
 ※[穴/夕]々 ヨナヨナニ。
(293)  ――――――――――
  夙々《アサナサナ》(西)
  夙々《シクシクニ》(代初)
  夙々《ホノホノニ》(代初)
  夙々《オホツカナ》(童)
  凡々《オホホシク》(考)
 ※[穴/夕]は、諸本に夙《しゆく》に作つているが、類聚古集に〓に作つているによれば、※[穴/夕]《せき》の誤りであろう。※[穴/夕]は長夜の義の字で、秋の夜であるからこの字を使つたのであろう。見馴れない字なので夙に誤つたと見える。
【評語】すなおなよい歌である。初二句が、ただ秋の夜の平凡な敍述であつて、しかもよく情景を語るに成功している。前の歌と共に、寄物では無く、實景の歌である。
 
2242 秋の野の 尾花が末《うれ》の 生《お》ひ靡《なび》き、
 心は妹に 依りにけるかも。
 
 秋野《アキノノノ》 尾花末《ヲバナガウレノ》 生靡《オヒナビキ》
 心妹《ココロハイモニ》 依鴨《ヨリニケルカモ》
 
【譯】秋の野の尾花の末の生《は》え靡くように、靡いて、心はあなたの方に寄りましたよ。
【釋】生靡 オヒナビキ。生え靡いて。以上、譬喩で、心が、妹に寄つたことを形容する。
【評語】尾花の靡くように妹に心が靡き寄つたというだけの歌である。譬喩が巧みに使われて風情もある點を買うべきである。
 
2243 秋山に 霜ふり覆《おほ》ひ 木の葉散り、
 歳は行くとも、 我《われ》忘れめや。
 
 秋山《アキヤマニ》 霜零覆《シモフリオホヒ》 木葉落《コノハチリ》
 歳雖v行《トシハユクトモ》 我忘八《ワレワスレメヤ》
 
(294)【譯】秋山に霜が降り覆つて、木の葉が散り、歳は去つても、わたしは忘れはしない。
【釋】木葉落 コノハチリ。以上三句は、實事で、年の行くさまを敍している。
 歳雖行 トシハユクトモ。年が移り去つても。
【評語】年の行くさまを、季節の風物によって敍している所に特色がある。秋山の枯れ行くさまが、時の推移を感じさせる。
 
右、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
寄2水田1
 
【釋】寄水田 コナタニヨスル。秋の雜歌の「水田ヲ詠メル」(二七九頁)の題の下に倭名類聚妙を引いて説明してある。その條參照。
 
2244 住吉の 岸を田に墾《は》り 蒔きし稻の、
 しか刈るまでに 逢はぬ公かも。
 
 住吉之《スミノエノ》 岸乎田尓墾《キシヲタニハリ》 蒔稻乃《マキシイネノ》
 而及v苅《シカカルマデニ》 不v相公鴨《アハヌキミカモ》
 
【譯】住吉の岸を田に開墾して蒔いた稻の、かように刈るまでになつても、逢わないあなたですね。
【釋】住吉之岸乎田尓墾 スミノエノキシヲタニハリ。河川の流し出す土砂のために、住吉方面は、次第に埋まつて、葦原などになつて行つたのだろう。そこでそれを開墾することが歌われていると見える。豪族などが、かような土地を開墾して私田としたのだろう。「住吉《スミノエノ》 小田苅爲子《ヲダヲカラスコ》 賤鴨無《ヤツコカモナキ》 奴雖v在《ヤツコアレド》 妹御爲《イモガミタメニ》 私田苅《ワタクシダカル》」(卷七、一二七五)の如き、この間の消息を語つているようである。
(295) 而及苅 シカカルマデニ。シカは、かように。以上、長い時間を、譬喩によつてあらわしている。
【評語】長い時間をあらわす譬喩に、特色がある。稻を蒔いてから刈るまでの長さは、實際に耕した人のよく知る所で、この歌は、そういう實感から來ていることを味わうべきである。
 
2245 劔《たち》の後《しり》 玉|纒《ま》く田井《たゐ》に、
 何時《いつ》までか、 妹を相見ず、
 家戀ひ居《を》らむ。
 
 劔後《タチノシリ》 玉纒田井尓《タママクタヰニ》
 及2何時1可《イツマデカ》 妹乎不2相見1《イモヲアヒミズ》
 家戀將v居《イヘコヒヲラム》
 
【譯】劔の尻鞘に玉を卷く。その玉を卷く手の、田園に、何時までか、要に逢わないで家を思つていることだろう。
【釋】劔後 タチノシリ。枕詞。劔の鞘には玉をつけるので、玉纏クに冠する。
 玉纏田井尓 タママクタヰニ。タママクまでは序詞。手には玉を卷くので、タの音を引き起している。同時に玉卷クで、露のおいている田をえがいているのだろう。この序詞は、歌の中心である妹の服飾の連想から来ている。ヰは接尾語。
【評語】作者は、收穫のために、家を離れているのだろう。妻を思い家を思うだけの歌だが、枕詞および序詞の屈折で、興味をつないでいる。
 
2246 秋の田の 穗の上に置ける 白露の、
 消ぬべく吾は 念ほゆるかも。
 
 秋田之《アキノタノ》 穗上尓置《ホノウヘニオケル》 白露之《シラツユノ》
 可v消吾者《ケヌベクワレハ》 所v念鴨《オモホユルカモ》
 
【譯】秋の田の穗の上に置いている白露のように、消えそうにもわたしは思われることだ。
(296)【釋】秋田之穗上尓置白露之 アキノタノホノウヘニオケルシラツユノ。以上序詞。
【評語】露のように消えそうだという歌は多く、この歌は、その露の説明にもあまり特色が無い。
【参考】類歌。
  秋づけば尾花が上に置く露の消《け》ぬべくも吾《われ》は念ほゆるかも(卷八、一五六四)
 
2247 秋の田の 穗向《ほむき》の寄りの 片よりに、
 吾は物念ふ。
 つれなきものを。
 
 秋田之《アキノタノ》 穗向之所依《ホムキノヨリノ》 片縁《カタヨリニ》
 吾者物念《ワレハモノオモフ》
 都禮無物乎《ツレナキモノヲ》
 
【譯】秋の田の稻穗の向きの寄つているように、片寄りに寄つてわたしは物を思う。應じてはくれないのだが。
【釋】秋田之穗向之所依 アキノタノホムキノヨリノ。以上、序詞。譬喩としてカタヨリニを起している。この序は「秋田之《アキノタノ》 穗向乃所縁《ホムキノヨリノ》 異所緑《コトヨリニ》 君尓因奈名《キミニヨリナナ》 事痛有登母《コチタカリトモ》」(卷二、一一四)にも使われている。
 片縁 カタヨリニ。偏りにで、一方に傾き寄る意。
 都禮無物乎 ツレナキモノヲ。相手が自分に對して何の關心をも示さないことを述べている。
【評語】古歌に依つて歌つている。この歌自身も、歌いものふうのある歌である。
 
2248 秋山を 假廬《かりいほ》つくり
 廬入《いほり》して あるらむ君を
 見むよしもがも。
 
 秋田※[口+立刀]《アキノタヲ》  借廬作《カリイホツクリ》
 五百入爲而《イホリシテ》 有藍君※[口+立刀]《アルラムキミヲ》
 將v見依毛欲得《ミムヨシモガモ》
 
【譯】秋の山田を刈る、假小舍を作つてそれにはいつているでしよう君を、見る手だてがほしいものです。
(297)【釋】秋山※[口+立刀] アキヤマヲ。ヲは、秋の山田に對しての意に使つている。
 五百入爲而 イホリシテ。五百は、訓を借りて、廬の義に書いている。イホリは、廬入り。
【評語】山田を刈りに行つた男を思つて詠んでいる。その人に逢いたいというだけで、上の敍述のわりに、曲の無い歌である。
 
2249 鶴《たづ》が音《ね》の 聞ゆる田井に 廬入《いほり》して、
 吾《われ》旅なりと 妹に告げこそ。
 
 鶴鳴之《タヅガネノ》 所v聞田井尓《キコユルタヰニ》 五百入爲而《イホリシテ》
 吾客有跡《ワレタビナリト》 於v妹告社《イモニツゲコソ》
 
【譯】鶴の鳴き聲の聞える田中に假屋住みをして、わたしが旅にいると、妻につげてください。
【釋】鶴鳴之所聞田井尓 タヅガネノキコユルタヰニ。鶴もやはり雁と同じく候鳥で、秋の終りに渡來する。タヅガネノキコユルは、人里離れた田園の意であり、また季節をも描いている。ヰは、接尾語。
 吾客有跡 ワレタビナリト。タビは、わが家を離れていることをあらわしている。「客乃廬入爾《タビノイホリニ》」(卷十、二二三五)。
 於妹告社 イモニツゲコソ。この妹は、同じ家にいなかつた愛人をさしている。
【評語】鶴ガネノ聞ユル田ヰと、假廬の場處を、具體的に描いているのがよい。假廬住みのものわびしさを妹に傳えたいと思う心が詠まれている。
 
2250 春霞 たなびく田居に 廬《いほ》づきて、
 秋田刈るまで 思はしむらく。
 
 春霞《ハルガスミ》 多奈引田居尓《タナビクタヰニ》 廬付而《イホヅキテ》
 秋田苅左右《アキタカルマデ》 令v思良久《オモハシムラク》
 
【譯】春霞のたなびく田に假屋住みをして、秋の田を刈るまでの長いあいだ、思わしめることだ。
(298)【釋】廬付而 イホヅキテ。廬につく意で、廬して住むをいうであろう。「於伎爾也須麻牟《オキニヤスマム》 伊敝都可受之弖《イヘツカズシテ》」(卷十五、三六四五)のイヘツクと、構成は同樣だが、用法は違うようである。
 秋田苅左右 アキタカルマデ。以上、譬喩によつて時間の長いことをあらわすに使つている。
【評語】春霞のたなびく時から廬ヅキテというのは、ただ長い時間をあらわすための構想で、事實ではないのだろう。但し人里離れた土地では、こういうこともあるかも知れない。とにかく長い時間のあらわし方に特色のある歌である。
 
2251 橘を 守部《もりべ》の里の 門田|早稻《わせ》、
 刈る時過ぎぬ。
 來《こ》じとすらしも。
 
 橘乎《タチバナヲ》 守部乃五十戸之《モリベノサトノ》 門田早稻《カドタワセ》
 苅時過去《カルトキスギヌ》
 不v來跡爲等霜《コジトスラシモ》
 
【譯】橘を番をする、その守部の里の門田の早稻は、刈る時が過ぎた。來ないつもりらしい。
【釋】橘乎 タチバナヲ。枕詞。橘を守るの意に、守郡に冠している。三代實録、仁和三年五月十四日の條に「この日始めて韓橘《からたちばな》を守る者二人を置き、山城の國の※[人偏+搖の旁]丁《よぼろ》をこれに充《あ》つ。」とある。
 守部乃五十戸之 モリベノサトノ。五十戸は、戸令に「凡戸(ハ)以(テ)2五十戸(ヲ)1爲《ス》v里(ト)」とあり、里の義である。守部の里は、所在未詳。
【評語】守部の里に住む女の歌である。時の空しく過ぎて人の來ないのを恨んでいる。その来るべき時の敍述に、美しい詞を連ねて情景を作つているのが特色である。
 
寄v露
 
(299)2252 秋はぎの 咲き散る野邊の 夕露に
 ぬれつつ來ませ。
 夜はふけぬから。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 開散野邊之《サキチルノベノ》 暮露尓《ユフヅユニ》
 沾乍來益《ヌレツツキマセ》
 夜者深去韓《ヨハフケヌカラ》
 
【譯】秋ハギの花の咲きまた散る野邊の夕方の露に、濡れながらいらつしやい。夜が更けましたから。
【釋】夜者深去韓 ヨハフケヌカラ。韓は、元暦校本等による。仙覺本には鞆に作つている。カラは、その故に、それだからの意をあらわす助詞。カラの用法に不熟で、鞆に作るに至つたのだろう。
【評語】美しい歌である。男の通つてくる野邊の光景を想像して詠んでいる。夕露に濡レツツ來マセと、夜ハ更ケヌカラのあいだには、多少時間に無關心(300)な云い方がある。夕露のような熟語を、無雜作に使つたためだろう。
2253 色づかふ 秋の露霜、な零《ふ》りそね。
 妹が手本を 纏《ま》かぬ今夜《こよひ》は。
 
 色付相《イロヅカフ》 秋之露霜《アキノツユジモ》 莫零根《ナフリソネ》
 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 不v纏今夜者《マカヌコヨヒハ》
 
【譯】木の葉を色に染める秋の露霜は、降つてくれるな。妻の腕を枕にしない今夜は。
【釋】色付相 イロヅカフ。色づくの連續して行われることをあらわす語。草木の葉を染める意に、露霜に冠している。
【評語】妻に別れて旅に出た男が、夜寒を歎いて詠んでいる。色ヅカフ秋ノ露霜と、具體的に敍述して、その季節を描き出している。
 
2254 秋はぎの 上に置きたる 白露の
 消《け》かもしなまし。
 戀ふるにあらずは。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 上尓置有《ウヘニオキタル》 白露之《シラツユノ》
 消鴨死猿《ケカモシナマシ》
 戀尓不v者《コフルニアラズハ》
 
【譯】秋ハギの上に置いた白露のように、消えてかしまつたろうものを。戀をしていないで。
【釋】秋〓子之上尓置有白露之 アキハギノウヘニオキタルシラツユノ。以上序詞。譬喩によつて、消を引き起している。
 消鴨死猿 ケカモシナマン。カモは、疑問の係助詞。シナマシは、爲なまし。死は訓假字。句切。
 戀尓不有者 コフルニアラズハ。
(301)  コヒツツアラズハ(元)
  コヒニアラズハ(西)
  ――――――――――
  戀乍不有者《コヒツツアラズハ》(考)
 コヒツツというのは通例であるが、コフルニでも通じないわけではない。
【評語】類型的な譬喩を使つている、消カモシナマシの句は、慣用句で、譬喩をさし替えて種々に詠み試みられている。
【參考】別傳。
  秋はぎの上に置きたる白露の消《け》かもしなまし。戀ひつつあらずは(卷八、一六〇八、弓削の皇子)
 
2255 わが屋前《には》の 秋はぎの上に
 置く露の、
 いちしろくしも 吾《われ》戀ひめやも。
 
 吾屋前《ワガニハノ》 秋〓子上《アキハギノウヘニ》
 置露《オクツユノ》
 市白霜《イチシロクシモ》 吾戀目八面《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】わたしの屋前の秋ハギの上に置く露のように、はつきり人に知られるようには、わたしは戀をしないだろう。
【釋】吾屋前秋〓子上置露 ワガニハノアキハギノウヘニオクツユノ。以上、序詞。露が著明に置く意に、イチシロクを引き起している。
 市白霜 イチシロクシモ。人にそれと知られるように。
【評語】人に知られることを厭う氣もちが、強く出ている。譬喩の使い方も、趣のあるところを示している。
 
2256 秋の穗を しのにおし靡《な》べ 置く露の、
(302) 消《け》かもしなまし。
 戀ひつつあらずは。
 
 秋穗乎《アキノホヲ》 之努尓押靡《シノニオシナベ》 置露《オクツユノ》
 消鴨死益《ケカモシナマシ》
 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 
【譯】秋の稻穗を、しなうまでに押し伏せて置く露のように、消えてかしまつたろうものを。戀をしていないで。
【釋】秋穗乎 アキノホヲ。ホは、稻の穂をいう。
 之努尓押靡 シノニオシナベ。シノニは、たわんである意をあらわす副詞。多く、心モシノニと熟して使われ、單にシノニだけで使われているのは、この一例だけである。
 置露 オクツユノ。以上三句、序詞。
【評語】前々首と同じ類型の歌で、序詞をさし替えただけである。露の敍述には、多少特色があるが、それは、消カモシナマシに對して、特別の關係がある露だというのでもない。ただ露を描いたに過ぎない。
 
2257 露霜に 衣手ぬれて、
 今だにも 妹がり行かな。
 夜は深《ふ》けぬとも。
 
 露霜尓《ツユジモニ》 衣袖所v沾而《コロモデヌレテ》
 今谷毛《イマダニモ》 妹許行名《イモガリユカナ》
 夜者雖v深《ヨハフケヌトモ》
 
【譯】露霜に著物を濡らして、今だけでも、妻のもとに行こうよ。夜は更けても。
【釋】今谷毛 イマダニモ。今だけでも、今からでも。
 妹許行名 イモガリユカナ。ユカナは、願望の語法。
【評語】夜が更けてから妻のもとに行こうとする心を描いて、よくその情を寫している。やはり初二句の、季(303)節に關する敍述があつて生きている。
 
2258 秋はぎの 枝もとををに 置く露の、
 消《け》かもしなまし。
 戀ひつつあらずは。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 枝毛十尾尓《エダモトヲヲニ》 置露之《オクツユノ》
 消毳死猿《ケカモシナマシ》
 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 
【譯】秋ハギの枝もたわむまでに置く露のように、消えてかしまつたろうものを。戀をしていないで。
【釋】枝毛十尾尓 エダモトヲヲニ。トヲヲニは、撓んであることをあらわす副詞。
 置露之 オクツユノ。以上序詞。
 消毳死猿 ケカモシナマシ。毳は、鳥獣の細毛。周禮に「共(ニ)2其|毳《セイ》毛(ト)1爲(ス)v氈《セント》」とあり、氈と同じく訓假字としてカモの音に使われている。
【評語】これもただ序をさし替えただけの歌である。その露の説明にも、特色が無い。
 
2259 秋はぎの 上に白露 置くごとに
 見つつぞしのふ。
 君が光儀《すがた》を。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 上尓白露《ウヘニシラツユ》 毎v置《オクゴトニ》
 見管曾思怒布《ミツツゾシノフ》
 君之光儀乎《キミガスガタヲ》
 
【譯】秋ハギの上に白露が置く度に、見ながら思うことです。あなたのお姿を。
【釋】見管曾思怒布 ミツツゾシノフ。シノフは、思慕する意。ハギの上の露を見て、それにょそえて思うのである。句切。
【評語】 ハギの上に置く白露の風情を見て、愛人の姿を思いよそえている。その露は、美しいもの、高雅なも(304)のとして考えられているので、はかないものという感じは、更にない。
 
寄v風
 
2260 吾妹子は 衣にあらなむ。
 秋風の 寒きこの頃 下《した》に著ましを。
 
 吾妹子者《ワギモコハ》 衣丹有南《コロモニアラナム》
 秋風之《アキカゼノ》 寒比來《サムキコノゴロ》 下著益乎《シタニキマシヲ》
 
【譯】わたしの妻は、著物であつたらなあ。秋風の寒いこの頃、下に著ようものを。
【評語】妻の衣服を下に著るという歌はあるが、これは妻が衣服そのものだつたらよいという所に、特色がある。秋風の寒い頃に、妻を思う歌として、率直に欲する所を描いている。
 
2261 泊瀬《はつせ》風 かく吹く三更《よる》は、
 何時《いつ》までか、 衣《ころも》片敷《かたし》き わが獨《ひとり》宿《ね》む。
 
 泊瀬風《ハツセカゼ》 如是吹三更者《カクフクヨルハ》
 及2何時1《イツマデカ》 衣片敷《コロモカタシキ》 吾一將v宿《ワガヒトリネム》
 
【譯】泊瀬風が、こんなに吹く夜は、何時までか、著物を一つだけ敷いて、わたしがひとりで寐ることだろう。
【釋】泊瀬風 ハツセカゼ。泊瀬の山から吹く風。泊瀬川に沿つて吹く風である。
 如是吹三更者 カタフクヨルハ。三更は、夜中をいう。カクは、風の吹いている現時をさしている。
 衣片敷 コロモカタシキ。相手の衣服を重ねないで、自分の衣服だけを敷くをいう。獨寐《ひとりね》の形容に使われている。
【評語】男の來るのを待つ女の歌である。その土地特有の寒い風の吹く敍述が、よく利いている。
 
(305)寄v雨
 
2262 秋はぎを 散らす長雨《ながめ》の 零《ふ》る頃は、
 ひとり起き居て 戀ふる夜ぞ多き。
 
 秋〓子乎《アキハギヲ》 令v落長雨之《チラスナガメノ》 零比者《フルコロハ》
 一起居而《ヒトリオキヰテ》 戀夜曾大寸《コフルヨゾオホキ》
 
【譯】秋ハギを散らす長雨の降る頃は、ひとり起きていて、思つている夜が多い。
【評語】秋の長雨の降りつづく頃のさびしさが、よく描かれている。長雨の降る頃はと、概括的《がいかつてき》に敍したのは、遠くにいる男のもとに贈つた歌のようである。
 
2263 九月《ながつき》の 時雨の雨の 山霧の、
 いぶせきわが胸、 誰《たれ》を見ば息《や》まむ。
 
 九月《ナガツキノ》 四具禮乃雨之《シグレノアメノ》 山霧《ヤマギリノ》
 煙寸吾吉胸《イブセキワガムネ》 誰乎見者將v息《タレヲミバヤマム》
 
【譯】九月の時雨の雨の山霧のように、うつとうしいわたしの胸は、誰を見たらやむだろう。
【釋】山霧 ヤマギリノ。時雨の雨が降つて、それが山霧になつて立ちこめているのをいい、以上序詞として、次のイブセキを引き起している。
 煙寸吾吉胸 イブセキワガムネ。煙は、義をもつて、イブセキに當てて書いている。晴れやかでない意である。吉は、衍字とする説が多いが、吉胸で、自分の胸の意に書いたのだろう。
 誰乎見者將息 タレヲミバヤマム。タレは、愛する人をいう。ヤマムは、いぶせさが止むだろうの意。
【評語】山霧ノまでは、序詞であるが、ちようど時雨の雨の降る頃で、それを敍して序に利用している。そのむしやくしや腹の氣もちが、五句の誰ヲ見バ息マムあたりに、巧みに表現されている。
 
(306)一云、十月《カムナヅキ》 四具禮乃雨降《》シグレノアメフリ
 
一は云ふ、十月 時雨の雨降り。
 
【釋】十月四具禮乃雨降 カムナヅキシグレノアメフリ。前の歌の初二句の別傳で、十月に吟誦したので、この句を使つたのだろう。これでは、第三句の山霧ノと、接續がわるい。
 
寄v蟋
 
【釋】寄蟋 コホロギニヨスル。蟋は、普通に蟋蟀と熟して使う字であるが、ここは一字だけで使つている。蟀を脱したものでもないようである。二二七一の歌にも蟋一字である。
 
2264 蟋蟀《こほろぎ》の 待ち歡《よろこ》ぶる 秋の夜を、
 寐《ぬ》るしるしなし。
 枕とわれは。
 
 蟋蟀之《コホロギノ》 待歡《マチヨロコブル》 秋夜乎《アキノヨヲ》
 寐驗無《ヌルシルシナシ》
 枕與吾者《マクラトワレハ》
 
【譯】蟋蟀の待ち得て歡んでいる秋の夜だのに、寐るかいがない。枕とわたしは。
【釋】待歡 マチヨロコブル。動詞ヨロコブは、上二段活であるから、連體形はヨロコブルである。宣命にヨロコホシの語があるが、上二段動詞戀フにもコホシがあるから、これによつて四段とするに至らない。コオロギが、待つていた時の來たのを喜んで鳴いているのをいう。
 枕與吾者 マクラトワレハ。枕と自分はで、獨寐のことを敍している。「玉主爾《タマヌシニ》 珠者授而《タマハサヅケテ》 勝且毛《カツガツモ》 枕與吾者《マクラトワレハ》 率二將v宿《イザフタリネム》」(卷四、六五二)。
(307)【評語】蟋蟀は、時を得顔に鳴いているのに、自分はひとり空閨《くうけい》を守つて寐ることを敍している。秋夜の閨情の、よく寫し出されている歌である。
 
寄v蝦
 
2265 朝霞 鹿火屋《かひや》が下《した》に 鳴く河蝦、
 聲だに聞かば、 われ戀ひめやも。
 
 朝霞《アサガスミ》 鹿火屋之下尓《カヒヤガシタニ》 鳴蝦《ナクカハヅ》
 聲谷聞者《コヱダニキカバ》 吾將v戀八方《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】朝霞んでいる鹿火屋の下で鳴く河蝦のように、聲だけでも聞くなら、わたしは戀をしないだろう。
【釋】朝霞鹿火屋之下尓鳴蝦 アサガスミカヒヤガシタニナクカハヅ。以上序詞で、譬喩によつて聲ダニ聞カバの句を引き起している。カヒヤについては諸説がある。これを要約すると、一、特殊の家屋とする説と、二、家屋以外のものとする説とに分れる。一では、イ、魚を捕るためのしかけを守る河上の家(奥義抄)。ロ、養蠶のための別屋。飼屋の義で、棚の下に溝がある(袖中抄)。ハ、蚊遣火を焚くための家。ニ、猪鹿を追うために引板を鳴らし夜もすがら榾を焚いている假庵(冠辭考)。ホ、信濃の國では、片家根で藁葺になつている家にダイコン、カブなどを貯えて置くが、これをかべ屋というのは、鹿火屋の轉訛であろう(古風土記逸文考證に掲げた吉澤氏の説)。また二では、ヘ、淺く廣きを澤といい、深く狹きをカヒヤという(袖中抄、登蓮法師が常陸國風土記にあると言つたという)。ト、カヒは峽、ヤは谷、山間の溪流(生田耕一氏)。チ、カヒはカハの轉、ヤは添えたもので、河のことをいう(童蒙抄)。リ、岸のはたをいう(袖中抄に引いた和語抄)。以上のような諸説があるが、第一に考うべきことは、鹿火屋の文字が、假字であるか否かということである。この語は、類似の句形のものに「朝霞《アサガスミ》 香火屋之下乃《カヒヤガシタノ》 鳴川津《ナクカハヅ》 之努比管有常《シノヒツツアリト》 將v告兒毛欲得《ツゲムコモガモ》」(卷十六、三八一八)の歌(308)に出で、そこでは香火屋と書かれている。これによれば、鹿、香の字のうち、すくなくも一つは假字でなければならないが、火屋の二字は、共通しているのを見れば、それは表意文字として見るを順當とする。よつて冠辭考の説の如く、鹿を追うために、ぼろなどをいぶしている家の義とすべきであろう。鹿火屋、香火屋のいずれが語義にあたるものであるかわからないが、いずれもその語義を感じて使用していると見られる。朝霞の語を冠したのは、その鹿火のために、朝霞んでいる實況を敍述した枕詞としてであろう。溪流にさしかけて作つた小舍で、その下に鳴くカワズが取りあげられている。
【評語】譬喩が奇警なので、持つている歌である。山間にいて、たまたま屬目する所によつて成された歌だろうが、しかしその譬喩の部分は、多分、歌いものとして歌われていたものを採り來つたのだろう。卷の十六の歌は、河村の王が、琴を彈じて歌つたとあるのも、その句の性質を語るもののようである。
 
寄v鴈
 
2266 出でて去《い》なば
 天《あま》飛ぶ雁の 泣きぬべみ、
 今日今日といふに、年ぞ經にける。
 
 出去者《イデテイナバ》
 天飛鴈之《アマトブカリノ》 可v泣美《ナキヌベミ》
 且今日々々々云二《ケフケフトイフニ》 年曾經去家類《トシゾヘニケル》
 
【譯】出て行つたら、空を飛ぶ雁のように泣くだろうから、今日今日といううちに、年がたつてしまつた。
【釋】天飛鴈之 アマトブカリノ。譬喩の句で、泣キヌベミを引き起している。
 可泣美 ナキヌベミ。相手の女が泣くだろうから。
【評語】二人の中がしつくり行かなくなつたので、出て行こうとは思いながらも、さすがに相手の泣くだろう(309)ことを思うと、思い切つて立ち出ることもならずに、その日その日を送つて年を經たことを歌つている。複雜な心もちを歌い、天飛ブ雁の句が風情を添えている。男のおどし文句のような性質の歌である。古事記上卷、八千矛の神の歌に「群鳥《むらどり》のわが群れ去《い》なば、引鳥《ひけどり》のわが引け去なば、泣かじとは汝《な》はいふとも、やまとの一本《ひともと》すすき、うなかぶし汝が泣かさまく、朝雨の霧に立たむぞ」(五)とある。かような歌曲から拔け出して、民謠になつているものであるのだろう。
 
寄v鹿
 
2267 さを鹿の 朝伏す小野の 草若み、
 隱らひかねて 人に知らゆな。
 
 左小壯鹿之《サヲシカノ》 朝伏小野之《アサフスヲノノ》 草若美《クサワカミ》
 隱不得而《カクラヒカネテ》 於v人所v知名《ヒトニシラユナ》
 
【譯】男鹿の朝伏している野原の草が若くして、隱れかねて人に知られるな。
【釋】左小壯鹿之朝伏小野之草若美 サヲシカノアサフスヲノノクサワカミ。以上、序詞。隱ラヒカネテを引き起している。草が短くして隱れがたい意である。
 隱不得而 カクラヒカネテ。隱れ得ないで。ひそかにあり得ないで。
【評語】序詞が輕快である。鹿の語があるので、秋の相聞に收めてあるが、草若ミとあるによれば、春の歌である。深い考慮無しに秋のうちに入れたのだろう。
 
2268 さを鹿の 小野の草伏《くさぶし》、
 いちしろく わが問はなくに、
 人の知れらく。
 
 左小壯鹿之《サヲシカノ》 小野之草伏《ヲノノクサブシ》
 灼然《イチシロク》 吾不v問尓《ワガトハナクニ》
 人乃知良久《ヒトノシレラク》
 
(310)【譯】男鹿の野原の草にねたあとのように、はつきりともわたしは妻問いをしないことだのに、人が知つていることだ。
【釋】左小壯鹿之小野之草伏 サヲシカノヲノノクサブシ。以上、序詞。鹿が草にねて、そのねたあとがはつきりと目立つので、イチシロクを引き起している。
 吾不問尓 ワガトハナクニ。トハナクは、妻として問わないことで、それと人に知られるようにも妻をおとずれなかつたのをいう。
 人乃知良久 ヒトノシレラク。シレラクは、知れることの意。
【評語】人目を憚る氣もちを歌つているが、譬喩が巧妙で、よく情景を描いている。鹿の臥していたあとが目に立つことは、狩獵の實際から得ている知識で、机上の作句ではない。草伏の語には、妻のもとをおとずれたことを、幾分感じているのだろう。
 
寄v鶴
 
2269 今夜の 曉《あかとき》降《くた》ち 鳴く鶴《たづ》の、
 念《おもひ》は過ぎず、
 戀こそまされ。
 
 今夜乃《コヨヒノ》 曉降《アカトキクタチ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》
 念不v過《オモヒハスギズ》
 戀許増益也《コヒコソマサレ》
 
【譯】今夜の曉方になつた時に鳴く鶴のように、物思いは過ぎ去らないで、戀が増さることだ。
【釋】曉降 アカトキクタチ。クタチは、盛りを過ぎてくだり坂になるをいう。ここは、夜の盛りを過ぎて曉になり行くをいう。
 
(311)鳴鶴之 ナクタヅノ。以上序詞。譬喩として使われている。
 念不過 オモヒハスギズ。物思いが通過せず、思いが滞《とどこお》つている。句切。
【評語】鶴の聲を聞いて詠んだ歌で、その譬喩がよく情景を描いている。鶴は候鳥で、雁と同じく秋來り春去るので、秋に收めている。
 
寄v草
 
2270 道の邊の 尾花が下《した》の 思ひ草、
 今さらになぞ 物か念《おも》はむ。
 
 道邊之《ミチノベノ》 乎花我下之《ヲバナガシタノ》 思草《オモヒグサ》
 今更尓何《イマサラニナゾ》 物可將v念《モノカオモハム》
 
【譯】道のほとりのオバナの下のオモイグサよ、今更に何で物を思いましよう。
【釋】思草 オモヒゲサ。前田曙山の説(園藝文庫第三卷)に、オバナの下にのみ生ずる草としてナンバンギセルだとしている。この草は、ハマウツボ科の草本で、カホン科植物の根もとに寄生する。秋の頃淡紫色の花を附けるが、その花が横に向いているので、人が首を垂れて物思いをするのによそえて、オモイグサというのだろうという。このほかに、リンドウ、ツユクサ等の諸説がある。この語は、集中唯一の用例である。以上三句、序詞。五句の念ハムを引き起している。
(312) 今更尓何物可將念 イマサラニナゾモノカオモハム。今更にどうして物を思おう、思うことも無いの意。
「 今更《イマサラニ》 何乎可將v念《ナニヲカオモハム》 打靡《ウチナビク》 情者君爾《ココロハキミニ》 縁爾之物乎《ヨリニシモノヲ》」(卷四、五〇五)の歌意である。
【評語】序詞に特色のある歌である。オバナの下の思い草を見つけ出したのは、見つけどころである。思い草は、物を思つているが、自分は思うこともないと、思うの語によつて、つづり合わせているあたり、調子のよい歌で、歌いもののような滑らかさが感じられる。
 
寄V花
 
2271 草深み こほろぎ多《さは》に 鳴く屋前《には》の、
 はぎ見に公は 何時か來まさむ。
 
 草深三《クサフカミ》 蟋多《コホロギサハニ》 鳴屋前《ナクニハノ》
 〓子見公者《ハギミニキミハ》 何時來益牟《イツカキマサム》
 
【譯】草が深いので、コオロギが澤山鳴いているわたしの屋前の、ハギを見にあなたはいつおいでになるのでしようか。
【評語】草深い處に人を待つ心が歌われている。秋のあわれの感じられる歌である。
 
2272 秋づけば み草の花の あえぬがに
 思ふと知らじ。
 直《ただ》に逢はざれば。
 
 秋就者《アキヅケバ》 水草花乃《ミクサノハナノ》 阿要奴蟹《アエヌガニ》
 思跡不v知《オモフトシラジ》
 直尓不v相在者《タダニアハザレバ》
 
【譯】秋の季節になるままに、咲く草の花のようにこぼれそうに物を思つているとは、知らないでしよう。じかに逢わないでいるので。
(313)【釋】秋就者 アキヅケバ。秋の季節がしみ渡ると。
 水草花乃 ミクサノハナノ。ミクサは、字に即しては水草だが、その花は水邊の草の穗などをいうのだろう。以上二句、序詞。譬喩によつて、アエヌガニを引き起している。
 阿要奴蟹 アエヌガニ。アユは、こぼれ落ちる意の動詞アユの連用形。ヌは、完了の助動詞。ガニは、ほどにの意の助詞。「百枝刺《モモエサシ》 於布流橘《オフルタチバナ》 玉爾貫《タマニヌク》 五月乎近美《サツキヲチカミ》 安要奴我尓《アエヌガニ》 花咲爾家里《ハナサキニケリ》」(卷八、一五〇七)。
 思跡不知 オモフトシラジ。オモヘドシラジ(西)。跡は、トにもドにも使用しているが、元来アトのトであるから、清音に使うのが順當であり、集中でもその用法の方が斷然多い。ここはどちらでも通ずるとせば、清音に讀む方が順當である。シラジは、相手の心を推量している。句切。
【評語】秋の季物を使つた譬喩の表現に特色がある。それで美しい歌になつている。アエヌガニ思フという云い方も、特殊の表現で、戀の物思いにふさわしい。
 
2273 何すとか 君を厭はむ。
 秋はぎの その初花の
 うれしきものを。
 
 何爲等加《ナニストカ》 君乎將v※[厭のがんだれなし]《キミヲイトハム》
 秋〓子乃《アキハギノ》 其始花之《ソノハツハナノ》
 歡寸物乎《ウレシキモノヲ》
 
【譯】どうしてあなたを厭いましよう。秋ハギの始めて咲く花のように、うれしいものですのに。
【釋】何爲等加 ナニストカ。何をするとてか。何のゆえにか。
 秋〓子乃其始花之 アキハギノソノハツハナノ。以上二句は、序詞、譬喩によつてウレシを引き起している。
【評語】女がちよつと自分の心もちを辯解したというような歌だ。譬喩が、いかにも清らかで、始めて男に逢つた女の身を寓意しているようでもあり、それを受けて、ウレシキモノヲと結んだのも純粹でよい。
 
(314)2274 こしいまろび 戀ひは死ぬとも、
 いちしろく 色には出でじ。
 朝貌《あさがほ》の花。
 
 展傳《コイマロビ》 戀者死友《コヒハシヌトモ》
 灼然《イチシロク》 色庭不v出《イロニハイデジ》
 朝容※[貌の旁]之花《アサガホノハナ》
 
【譯】ころげ廻つて、戀に死ぬにしても、はつきりと面には出しますまい。朝貌の花のように。
【釋】展傳 コイマロビ 展傳は、詩經周南|關雎《かんしよ》の章に「悠(ナルカナ)哉|悠(ナナルカナ)哉、輾轉反則(ス)」とあり、毛詩鄭箋《もうしていせん》に「輾、本亦作(ル)v屍(ニ)」とある。傳は轉に通じて使用したものと考えられる。これをコイマロビと讀むのは、舊訓による。コイは、「等計自母能《トケジモノ》 宇知許伊布志堤《ウチコイフシテ》」(卷五、八八六)、「宇知奈妣伎《ウチナビキ》 登許爾己伊布之《トコニコイフシ》」(卷十七、三九六九)など使用されている。これは上二段に活用する動詞コユの連用形と見られ、コヤス(臥ス)の組織體を成す語と考えられる。「展轉《コイマロビ》 ※[泥/土]打雖v泣《ヒヅチナケドモ》」(卷三、四七五)。
 朝容※[貌の旁]之花 アサガホノハナ。朝貌の花のように、いちじろく色には出でじの意を、譬喩の物體を獨立句として下に置いたのである。アサガホは、「朝貌之花《アサガホノハナ》」(卷八、一五三八)参照。
【評語】譬喩の句を最後に置いた表現の樣式が變わつている。思いつめて朝貌の花に見入つている作者の姿が、描き出され、その朝貌の花に託していう感じがよく出ている。花に寄せて色には出さないという形は、類型として繰り返されるのだが、これはこの特殊な表現で目新しくなつている。
 
2275 言に出でて いはばゆゆしみ。
 朝貌の 穗には咲き出《い》でぬ
 戀もするかも。
 
 言出而《コトニイデテ》 云者忌染《イハバユユシミ》
 朝※[貌の旁]乃《アサガホノ》 穂庭開不v出《ホニハサキイデヌ》 戀爲鴨《コヒモスルカモ》
(315)【譯】言葉に出していうと障りがあるので、朝貌の花のようには、面に咲き出さない戀もすることだなあ。
【釋】云者忌染 イハバユユシミ。口に出していえば憚りがあるので。相手に對して戀をうち明けることを憚つていると見られる。
 朝※[貌の旁]乃穗庭咲不出 アサガホノホニハサキイデヌ。譬喩によつて、表面に出さないことをあらわしている。穂に出るとは、多くカホン科の植物についていうのだが、ここに朝貌についていつているのは珍しい。しかし「吾妹子之《ワギモコガ》 奈何跡裳吾《ナニトモワレヲ》 不v思者《オモハネバ》 含花之《フフメルハナノ》 穗應v咲《ホニサキヌベシ》」(卷十一、二七八三)の如きがあり、穗に咲き出るとは、つぼんでいる花が開いて、色のあらわれるのをいうことが知られる。ホは、色について言つている。
 戀爲鴨 コヒモスルカモ。コヒヲスルカモ(元)、コヒモスルカモ(考)。コヒモスルカモと、助詞モに當る字のある例が、「戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》」(卷三、三七三)、「戀裳楷香聞《コヒモスルカモ》」(卷四、六七五)、「戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》」(巻十、一八九八、卷十一、二六七二)の四例あり、コヒヲスルカモと讀むべき例は無い。「戀爲鴨」と書いた例は、この外に二例あるが、すべてコヒモスルカモと讀むべきだろう。
【評語】朝貌は、色に出て咲くものであるが、それを使つて、しかしそのようには色に出さないとする表現法は、例はあるが、譬喩の法として巧みだとはいえない。參考の欄に出した類歌あたりの影響を受けて作られているのだろうが、本歌の激越な表情には遠く及ばない。
【参考】類句、言に出でて云はばゆゆしみ。
  言に出でて云はばゆゆしみ山川のたぎつ心を塞《せ》きあへてあり(卷十一、二四三二、人麻呂集)
 
2276 雁がねの 初聲聞きて 咲きいでたる
 屋前《には》の秋はぎ 見に來《こ》、わが夫子。
 
 鴈鳴之《カリガネノ》 始音聞而《ハツコヱキキテ》 開出有《サキイデタル》
 屋前之秋〓子《ニハノアキハギ》 見來吾世古《ミニコワガセコ》
 
(316)【譯】雁の始めて鳴く聲を聞いて咲き出た屋前の秋ハギを、見にいらつしやい、あなた。
【評語】雁は、秋深くなつて來るので、その初聲を聞いてハギが咲き出たというのは、季節が合わない。ハギの説明のために作り設けたので、かような歌になつたのだろう。率直なあらわし方だが、前の「草深み」(二二七一)の歌には及ばない。
 
2277 さを鹿の 入野《いりの》のすすき 初尾花、
 何時しか妹が 手を枕かむ。
 
 左小壯鹿之《サヲシカノ》 入野乃爲酢寸《イリノノススキ》 初尾花《ハツヲバナ》
 何時加妹之《イツシカイモガ》 將手v枕《テヲマクラカム》
 
【譯】男鹿の入る、その入野のススキの、その始めてのオバナのように、何時か早く、あの子の手を枕にすることだろう。
【釋】左小壯鹿之 サヲシカノ。鹿が入る野の意に、入野に冠しているのだろう。
 入野乃爲酢寸 イリノノススキ。イリノは、京都府|乙訓《おとくに》郡大原野村大字|上羽《うえは》の入野神社のある處だろうという。元來この語は、通路から奧に入る地勢にある野をいうので、信濃では今でも使つている語である。「多胡能伊利野乃《タゴノイリノノ》 於久母可奈思母《オクモカナシモ》」(卷十四、三四〇三)などは、その用例である。
 初尾花 ハツヲバナ。入野のススキ、その初オバナの意で、以上三句、譬喩に使われている。ススキの初オバナをもつて始めて女子と婚姻することを描いている。
 何時加妹之手將枕 イツシカイモガテヲマクラカム。
  イツシカイモノタマクラニセム(元)
  ――――――――――
  何時加妹之將手枕《イヅレノトキカイモガテマカム》(代精)
  何時加妹之將爲手枕《イツシカイモガタマクラヲセム》(考)
  何時加妹之衣手將枕《イツシカイモガソデマクラカム》(古義)
(317) 何時加を、イツシカと讀むか、イヅレノトキカと讀むかに依つて、下の將枕の訓も決定してくる。イヅレノトキカの句は「何時《イヅレノトキカ》 吾不戀將v有《ワガコヒザラム》」(卷十一・二六〇六)、「伊頭禮乃時加《イヅレノトキカ》 吾孤悲射良牟《ワガコヒザラム》」(卷十七、三八九一)の如く、何の時としてかの意に使われている。よつて、ここは早くの意を含むイツシカの訓によるべきである。マクラカムは、マクラ(枕)をカ行四段に活用した動詞マクラクの未然形に助動詞ムの接續したもの。「比等能比射乃倍《ヒト/ヒザノヘ》 和我摩久良可武《ワガマクラカム》」(卷五、八一〇)。
【評語】譬喩は、わずかに初オバナというだけで、主文との關係が淺いが、かえつて風情は感じられる。初オバナを出したのは、相手が始めて妙齡に達したことを示しているのだろう。歌の性質上、作者自身だけがよくわかつているようなところがあり、それが四五句の露骨なものいいをやわらげているところもある。
 
2278 戀ふる日の け長くあれば、
 わが苑圃《その》の 韓藍《からあゐ》の花の
 色にいでにけり。
 
 戀日之《コフルヒノ》 氣長有者《ケナガクアレバ》
 吾苑圃能《ワガソノノ》 辛藍花之《カラアヰノハナノ》
 色出尓來《イロニイデニケリ》
 
【譯】思つている日が、久しかつたので、わたしの園の、カラアイの花のように、色にあらわれてしまつた。
【釋】氣長有者 ケナガクアレバ。時久しくなれば。
 吾苑園能 ワガソノノ。
  ワガソノノ(元)
  ――――――――――
  三苑圃能《ミソノフノ》(類)
 わが園でも、み園生でも、歌意は通ずるが、時久しく戀うというので、わが園の韓藍の花の、色に出たのに氣づいたとするのが自然である。
 辛藍花之 カラアヰノハナノ。カラアヰノハナは、鷄頭花。以上二句、序詞。譬喩によつて、色ニイデニケ(318)リを引き起している。
【評語】花によつて色に出たことを歌つている。表現は順序よくすなおにできている。「隱庭《コモリニハ》 戀而死鞆《コヒテシヌトモ》 三苑原之《ミソノフノ》 鷄冠草花乃《カラアヰノハナノ》 色二出目八方《イロニイデメヤモ》」(卷十一、二七八四)と同じ譬喩だが、卷の十一のは、色ニイデメヤモだから、ミ園生ノでよく、これは色ニイデニケリだから、ワガ園ノがよい。
 
2279 わが郷《さと》に 今咲く花の 女郎花、
 堪《あ》へぬ情《こころ》に なほ戀ひにけり。
 
 吾郷爾《ワガサトニ》 今咲花乃《イマサクハナノ》 女部四《ヲミナヘシ》
 不v堪情《アヘヌココロニ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
【譯】わたしの里に今咲く花のオミナエシよ。わたしは堪えられない氣もちで、やはり戀してしまつた。
【釋】今咲花乃 イマサクハナノ。今新たに咲く花の。相手の女の年頃になつたことをこの句であらわしている。
 娘部四 ヲミナヘシ。相手の女を譬えている。
 不堪情 アヘヌココロニ。タヘヌココロニ(元)、アヘヌココロニ(略)。本集には、動詞タフ(堪)の假字書きの例は無い。こらえ得ない思いに。物に動きやすい心で。
【評語】身近にあつて、年頃になつてゆく娘子を見て詠んだ作である。譬喩もよくできている。
 
2280 はぎが花 咲けるを見れば、
 君に逢はず、
 まことも久に なりにけるかも。
 
 〓子花《ハギガハナ》 咲有乎見者《サケルヲミレバ》
 君不v相《キミニアハズ》
 眞毛久二《マコトモヒサニ》 成來鴨《ナリニケルカモ》
 
【譯】 ハギの花の咲いたのを見ると、あなたに逢わないで、ほんとに久しくなつたものですね。
 
(319)【釋】眞毛久二 マコトモヒサニ。マコトモは、眞實にも。久しくなつたことを驚嘆している。
【評語】ハギの花の咲いたのを見て、逢わないで久しくなつたものだと驚いている氣もちが、すなおに表現されている。驚嘆の氣もちが、四五句によつて、大げさに出ている。
 
2281 朝露に 吹きすさびたる
 鴨頭草《つきぐさ》の、
 日くたつなへに 消ぬべく念《おも》ほゆ。
 
 朝露尓《アサツユニ》 咲酢左乾垂《サキスサビタル》
 鴨頭草之《ツキクサノ》
 日斜共《ヒクタツナヘニ》 可v消所v念《ケヌベクオモホユ》
 
【譯】朝の露に咲きほこつている露草のように、日が傾くと共に、消えそうに思われる。
【釋】咲酢左乾垂 サキスサビタル。スサビは、新撰字鏡に、「樂溢 須佐比」とある。日本紀竟宴和歌に、「とつゑあまりやつゑを越ゆる龍の駒君すさめねばおいはてぬべし」とあるも、賞翫する意で、この義に近い。サキスサビタルは、時を得顔に咲き榮えている意であろう。スサビは、本集中他に用例を見ない。
 鴨頭草之 ツキグサノ。ツユクサ。鴨頭は、花色が藍色なので、この字を當てるのであろう。
 日斜共 ヒクタツナヘニ。日の傾くと共に。
 可消所念 ケヌベクオモホユ。露草の萎れて見えるにより、この句を成している。
【評語】露草を譬喩に使つて、朝は元氣だが、夕方になると共に、生氣を失う旨を歌つている。ツユクサに思い寄せたのが、あわれである。
 
2282 長き夜を
 君に戀ひつつ 生《い》けらずは、
 咲きて散りにし 花ならましを。
 
 長夜乎《ナガキヨヲ》
 於v君戀乍《キミニコヒツツ》 不v生者《イケラズハ》
 開而落西《サキテチリニシ》 花有益乎《ハナナラマシヲ》
 
(320)【譯】長い夜を、君に戀しつつ生きていないで、咲いて散つてしまつた花だつたらよかつたものを。
【釋】不生者 イケラズハ。生きていないで、そうして。
【評語】表現は類型的であり、長い夜と咲いて散つた花とのあいだにも連絡が無い。長キ夜の語に依つて秋に收めてあるのだろうが、花は何の花か。秋の花としては適切なものが無い。無關心に道具を使つたような歌である。
【參考】類歌。
  吾妹子《わぎもこ》に戀ひつつあらずは秋はぎの咲きて散りぬる花にあらましを(卷二、一二〇)
 
2283 吾妹子 相坂《あふさか》山の はだすすき、
 穗には咲き出でず、戀ひわたるかも。
 
 吾妹兒尓《ワギモコニ》 相坂山之《アフサカヤマノ》 皮爲酢寸《ハダススキ》
 穗庭開不v出《ホニハサキイデズ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
 
【譯】わたしの妻に逢う。その相坂山のハダススキのように、表には咲き出ないで、戀をして過すことだなあ。
【釋】吾妹兒尓 ワギモコニ。相坂山の枕詞として使われており、同時に、戀ヒワタルカモの目的になつている。
 相坂山之 アフサカヤマノ。アフサカ山は、山城近江の國境の山。
 皮爲酢寸 ハダススキ。穗を含んでいるススキをいうと解される。以上序で、穗ニ咲キイデズを引き起している。
【評語】巧みにできているが、巧みなだけに上すべりして力がはいらない。お座なりの歌らしい所である。
 
2284 いささめに 今も見がほし。
(321) 秋はぎの しなひにあらむ
 妹がすがたを。
 
 率尓《イササメニ》 今毛欲見《イマモミガホシ》
 秋〓子之《アキハギノ》 四搓二將v有《シナヒニアラム》
 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
 
【譯】かりそめにも今も見たいものだ。秋ハギのようにたおやかにあるだろうあの子の姿を。
【釋】率尓 イササメニ。かりそめに、ちよつとでも。「眞木柱《マキバシラ》 作蘇麻人《ツクルソマビト》 伊左佐目丹《イササメニ》 借廬之爲跡《カリホノタメト》 造計米八方《ツクリケメヤモ》」(卷七、一三五五)。
 秋〓子之 アキハギノ。譬喩として提示している。
 四搓二將有 シナヒニアラム。搓は、繩をなう義で、ナヒに當てている。シナヒは、草木のたわむのをいう。「眞木葉乃《マキノハノ》 之奈布勢能山《シナフセノヤマ》」(卷三、二九一)參照。
【評語】平凡な内容だが、やはり秋ハギを持ち出したところに、風情が感じられる。その花と愛人との連想は、わるくもない所である。
 
2285 秋はぎの 花野のすすき、
 穗には出でず、
 わが戀ひわたる こもり嬬《づま》はも。
 
 秋〓子之《アキハギノ》 花野乃爲酢寸《ハナノノススキ》
 穗庭不v出《ホニハイデズ》
 吾戀度《ワガコヒワタル》 隱嬬波母《コモリヅマハモ》
 
【譯】秋ハギの花の咲いている野のススキのように、おもてに出さずにわたしの戀をして過す妻はなあ。
【釋】秋〓子之花野乃爲酢寸 アキハギノハナノノススキ。以上序詞。穗ニハ出デズを引き起している。
 隱嬬波母 コモリヅマハモ。コモリヅマは、心で思つている妻をいう。「色出而《イロニイデテ》 戀者人見而《コヒバヒトミテ》 應v知《シリヌベシ》 情中之《ココロノウチノ》 隱妻波母《コモリヅマハモ》」(卷十一、二五六六)の歌によつて、その性質が知られる。
(322)【評語】初二句の譬喩は美しく、コモリ妻の表現には適切であるが、全體としては、何等特色も無く、また感激にも乏しい。形式的な歌というべきである。
 
2286 わが屋戸《やど》に 咲きし秋はぎ、
 散り過ぎて 實《み》になるまでに
 君に逢はぬかも。
 
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 開秋〓子《サキシアキハギ》
 散過而《チリスギテ》 實成及丹《ミニナルマデニ》
 於v君不v相鴨《キミニアハヌカモ》
 
【譯】わたしの宿に咲いた秋ハギが、散り過ぎて實になるに至るまでも、君に逢わないことだ。
【評語】時間の長いことを、具體的に敍述するには種々あるが、これは庭前の花を使つて敍している。その花の經過を見つめてきた氣もちはわかるが、感激は強くあらわれない。
 
2287 わが屋前《には》の はぎ咲きにけり。
 散らぬ間《ま》に 早來て見べし。
 平城《なら》の里人。
 
 吾屋前之《ワガニハノ》 〓子開二家里《ハギサキニケリ》
 不v落間尓《チラヌマニ》 早來可v見《ハヤキテミベシ》
 平城里人《ナラノサトビト》
 
【譯】わたしの屋前のハギが咲いた。散らないうちに、早くきて御覽なさい。平城の里人よ。
【釋】早來可見 ハヤキテミベシ。動詞見ルに、助動詞ラム、ラシ、ベシなどが接續する場合には、ミラム、ミラシ(この例は無いが煮ラシに依つて類推される)、ミベシなどの形を取る。ミベシの例「佐伎多流野邊乎《サキタルノベヲ》 遊吉追都見倍之《ユキツツミベシ》」(卷十七、三九五一)。句切。
 平城里人 ナラノサトビト。奈良の京の人を呼びかけている。
【評語】極めて平易な敍述で、平城の里人を呼びかけているだけが特色である。それにしても散ラヌ間ニハヤ(323)來テ見ベシは、曲がない。
 
2288 石走《いはばし》の 間間《まま》に生《お》ひたる 貌花《かほばな》の、
 花にしありけり。
 ありつつ見れば。
 
 石走《イハバシノ》 間間生有《ママニオヒタル》 ※[貌の旁]花乃《カホバナノ》
 花西有來《ハナニシアリケリ》
 在筒見者《アリツツミレバ》
 
【譯】河中の踏石の、その間々に生えている貌花のように、花であつたことだ。ありつつ見れば。
【釋】石走 イハバシノ。イハヽシリ(元)、イハヽシル(類)、イハハシノ(温)。イハハシは、河中の踏石。「石走《イハバシノ》 間近君爾《マヂカキキミニ》 戀度可聞《コヒワタルカモ》」(卷四、五九七)、「明日香川《アスカガハ》 明日文將v渡《アスモワタラム》 石走《イハバシノ》 遠心者《トホキココロハ》 不v思鴨《オモホエヌカモ》」(卷十一、二七〇一)など、間が遠い近いといい、明日モ渡ラムと言つているので、踏石とする解は動かないであろう。
 ※[貌の旁]花乃 カホバナノ。カホバナは、晝顔。以上三句、序詞で、花ニシを引き起している。
 花西有來 ハナニシアリケリ。ハナニは、花のようにの意と解せられる。それは花やかであるが、實のない意をあらわしている。「梅花《ウメノハナ》 波奈尓將v問常《ハナニトハムト》 吾念奈久爾《ワガオモハナクニ》」(卷八、一四三八)。しかしここは、貌花のような美しいものと見るべきである。句切。
 在筒見者 アリツツミレバ。ここにありて見ればで、共に住んでいる相手に對していう。
【評語】ただ貌花の花のようだと讃歎したのであろう。貌花が、しばしば女子の譬喩に使われるのは、その名が人の連想を引くによるものと見られる。花ニシアリケリと、強く讃歎しておいて、アリツツ見レバと説明したのが、落ちついて感じられる。
 
2289 藤原の 古《ふ》りにし郷《さと》の 秋はぎは、
(324) 咲きて散りにき。
 君待ちかねて。
 
 藤原《フヂハラノ》 古郷之《フリニシサトノ》 秋〓子者《アキハギハ》
 開而落去寸《サキテチリニキ》
 君待不得而《キミマチカネテ》
 
【譯】藤原の古くなつた里の秋ハギは、咲いて散つてしまつた。あなたを待ち得ないで。
【釋】藤原古郷之 フヂハラノフリニシサトノ。今は舊都となつた藤原の古き京をいう。
【評語】平城に遷都した後に、藤原に住んでいた人の歌である。藤原ノ古リニシ郷と、特に地名を擧げたのは、先方の歌にあつた詞なのであろう。古郷の秋の過ぎゆくさまがすなおに歌われている。
 
2290 秋はぎを 散り過ぎぬべみ。
 手《た》折り持ち 見れどもさぶし。
 君にしあらねば。
 
 秋〓子乎《アキハギヲ》 落過沼蛇《チリスギヌベミ》
 手折持《タヲリモチ》 雖v見不怜《ミレドモサブシ》
 君西不v有者《キミニシアラネバ》
 
【譯】秋ハギが散り過ぎそうなので、手折り持つて見るけれども樂しくもない。あなたではないので。
【釋】落過沼蛇 チリスギヌベミ。蛇をベミの音聲に使用したのは珍しい。蛇は、集中唯一の用字である。
【評語】 ハギの花を折つても、それに慰められない情が歌われている。ひとり見るさびしさ、君に見せたいという表現の歌は多いが、その花を、ただちに君で無いからと云つたのが特色である。「かざはやの三穗《みほ》の浦みの白つつじ見れどもさぶし。亡《な》き人思へば」(卷三、四三四)あたりと、通う所のある歌である。
 
2291 朝《あした》咲き 夕《ゆふべ》は消《け》ぬる つき草《ぐさ》の、
 消《け》ぬべき戀も 吾はするかも。
 
 
 朝開《アシタサキ》 夕者消流《ユフベハケヌル》 鴨頭草乃《ツキグサノ》
 可v消戀毛《ケヌベキコヒモ》 吾者爲鴨《ワレハスルカモ》
 
(325)【譯】朝は咲いて夕方には衰えるツキグサのように、消えてしまいそうな戀もわたしはすることだ。
【釋】夕者消流 ユフベハケヌル。ケヌルは、ツキグサの花のしぼみ衰えるをいう。ツキグサの花は、しおれると縮まつてしまうので、消ヌルといい、四句の消ヌベキの伏線にしたのだろう。
 鴨頭草乃 ツキグサノ。以上序詞。譬喩によつて消ヌベキを起している。
 可消戀毛 ケヌベキコヒモ。ケヌベキは、戀の悩みのために死にそうなのをいう。
【評語】美しくもろいものを材料として歌つている。露霜から消えるを引き出す歌は多く、それから一轉してこの歌となつている。夕べは消えるはすこし無理だが、はかないという氣もちはよく出ている。
 
2292 秋津《あきづ》野の 尾花苅り副《そ》へ、
 秋はぎの 花を葺《ふ》かさね。
 君が假廬《かりいほ》。
 
 ※[虫+廷]野之《アキヅヌノ》 尾花苅副《ヲバナカリソヘ》
 秋〓子之《アキハギノ》 花乎葺核《ハナヲフカサネ》
 君之借廬《キミガカリイホ》
 
【譯】秋津野のオバナを刈り添えて、秋ハギの花をお葺きなさい。あなたの假屋は。
【釋】※[虫+廷]野之 アキヅノノ。※[虫+廷]は蜻蛉に同じ。トンボである。古語アキヅといい、その音をあらわしている。アキヅ野は、吉野山中の秋津であろう。
【評語】吉野に旅する人に贈つた歌である。秋ハギの花にオバナを刈り添えて、假廬の屋根にせよという、極めて風流な旅を思つている。五句、君が假廬と言い放したのがよい。キミガカリホニとニを添えて讀む説があるが蛇足である。感じは、君が假廬はである。
 
2293 咲《さ》けりとも 知らずしあらば
(326) 黙然《もだ》もあらむ。
 この秋はぎを 見せつつもとな。
 
 咲友《サケリトモ》 不v知師有者《シラズシアラバ》
 黙然將v有《モダモアラム》
 此秋〓子乎《コノアキハギヲ》 令v視管本名《ミセツツモトナ》
 
【譯】咲いているとも知らないでいたら、そのままにもいよう。この秋ハギを見せてしようがないことだ。
【釋】黙然將有 モダモアラム。モダは、黙つていること。何もしないでいるのを、モダヲリという。そのままに過されようの意。句切。
 令視管本名 ミセツツモトナ。人が自分に見せて、こまつたことだ。
【評語】病氣か何かで家に籠《こも》つている時に、人が秋ハギを見せたので、遊意が動いてしかたがない由の歌である。相手の好意を難詰《なんきつ》したような形で、秋ハギに對する愛が歌われている。後に大伴の家持は、秋ハギをヤマブキに代えただけの歌を作つたが、それによれば花は何でもよいということになる。
【參考】類歌。
  咲けりとも知らずしあらばもだもあらむ。この山吹を見せつつもとな(卷十七、三九七六、大伴の家持)
 
寄v山
 
2294 秋されば 雁飛び越ゆる 龍田《たつた》山、
 立ちても居ても 君をしぞ念《おも》ふ。
 
 秋去者《アキサレバ》 鴈飛越《カリトビコユル》 龍田山《タツタヤマ》
 立而毛居而毛《タチテモヰテモ》 君乎思曾念《キミヲシゾオモフ》
 
【譯】秋になると雁の飛んで越える龍田山。そのように立つてもすわつても君を思うのだ。
【釋】龍田山 タツタヤマ。以上三句、序詞。同音によつて立チテモを引き起している。
【評語】同音を利用しているだけの歌である。龍田山に對して歌つているだろう。雁に寄する題の、下には、雁(327)が山を越えることが歌われていたが、ここには山の名が擧げられ、その音の利用されているだけが特色で、描寫というほどのこともない。
【參考】類句、立ちてもゐても。
  み埼《さき》みの荒磯《ありそ》に寄する五百重浪《いほへなみ》立ちてもゐてもわが念《も》へる君(卷四、五六八)
  春楊《はるやなぎ》葛城山《かづらきやま》に立つ雲の立ちてもゐても妹をしぞ思ふ(卷十一、二四五三、人麻呂集)
  遠つ人獵道《かりぢ》の池に住む鳥の立ちてもゐても君をしぞ思ふ(卷十二、三〇八九)
 
寄2黄葉1
 
2295 わが屋戸《やど》の 田葛葉《くずば》日《ひ》にけに
 色づきぬ。
 來まきぬ君は 何情《なにごころ》ぞも。
 
 我屋戸之《ワガヤドノ》 田葛葉日殊《クズバヒニケニ》
 色付奴《イロヅキヌ》
 不2來座1君者《キマサヌキミハ》 何情曾毛《ナニゴコロゾモ》
 
【譯】わたくしの宿のクズの葉は、日ましに色づきました。おいでにならないあなたは、どういうお心でしよう。
【釋】田葛葉日殊 クズバヒニケニ。ヒニケニは、日に殊にで、日ましに。
【評語】 「吾こそは憎《にく》くもあらめ。わが屋前《には》の花橘《はなたちばな》を見には來じとや」(卷十、一九九〇)ほどの強い調子はなく、單に、來マサヌ君ハ何情ゾモと疑つたものいいに留めたのが、ちようどよい程度になつている。上三句の敍述は、平凡だがよくその趣をなしている。
 
(328)2296 あしひきの 山さな葛《かづら》 もみつまで、
 妹に逢はずや、わが戀ひ居《を》らむ。
 
 足引乃《アシヒキノ》 山佐奈葛《ヤマサナカヅラ》 黄變及《モミツマデ》
 妹尓不v相哉《イモニアハズヤ》 吾戀將v居《ワガコヒヲラム》
 
【譯】山のサナカヅラが黄葉になるまで、妻に逢わずにか、わたしが戀しているのだろう。
【釋】山佐奈葛 ヤマサナカヅラ。山のサナカヅラで、ビナンカズラ。
 黄變及 モミツマデ。以上、時の移り行くことを、具體的に敍している。
【評語】時の移り行くことを敍したところに、特色がある。山サナ葛の黄葉することを、特に言い立てたのは、自然の觀察がこまかく行き屆いていたことを語つている。
 
2297 もみち葉の 過ぎがてぬ兒を、
 人妻と 見つつやあらむ。
 戀しきものを。
 
 黄葉之《モミチバノ》 過不v勝兒乎《スギガテヌコヲ》
 人妻跡《ヒトヅマト》 見乍哉將v有《ミツツヤアラム》
 戀敷物乎《コヒシキモノヲ》
 
【譯】黄葉のように、そのままには過し得ないあの子なのに、人妻として見ているのだろう。戀しいものを。
【釋】黄葉之 モミチバノ。枕詞。黄葉が散つて過ぎ去るというので、過ギを引き起している。
 過不勝兒乎 スギガテヌコヲ。見過すに堪えない子を。子を見つつやあらむと續くが、このヲには、それだのにの氣もちが含まれている。
【評語】人妻に關する歌としては、むしろ平凡な表現である。黄葉を使つてのその説明に、多少の特殊性があるだけである。
 
寄v月
 
(329)2298 君に戀ひ
 しなえうらぶれ わが居れば、
 秋風吹きて 月|斜《かたぶ》きぬ。
 
 於v君戀《キミニコヒ》
 之奈要浦觸《シナエウラブレ》 吾居者《ワガヲレバ》
 秋風吹而《アキカゼフキテ》 月斜焉《ツキカタブキヌ》
 
【譯】君に戀して、うち萎れさびしくなつてわたしがいると、秋風が吹いて月が傾いた。
【釋】之奈要浦觸 シナエウラブレ。シナエは、なえる意。物思いにうちしおれて。
【評語】物思いに悩んでいる時の敍述を、自然の描寫によつて説いたのが、よく情趣を生じている。いかにもその時の情景のつくされている歌といえる。
 
2299 秋の夜の 月かも、君は。
 雲|隱《がく》り しましく見ねば
 ここだ戀しき。
 
 秋夜之《アキノヨノ》 月疑意君者《ツキカモキミハ》
 雲隱《クモガクリ》 須臾不v見者《シマシクミネバ》
 幾許戀敷《ココダコホシキ》
 
【譯】秋の夜の月でしようか、あなたは。雲に隱れてちよつとでも見ないと、大變戀しいのです。
【釋】月疑意君者 ツキカモキミハ。疑意の二字は、意をもつて助詞カモに當てて書いている。月カモで切り、その主格として、君はを置いたので、ここで、句切である。君は秋の夜の月かの意。
【評語】君を月にたとえているが、秋ノ夜ノ月カモ君ハといつた表現に特色がある。雲隱リ云々の譬喩は、この歌の主眼だが、初二句の説明となつており、巧みになりすぎている。
 
2300 九月《ながつき》の ありあけの月夜《つくよ》、
(330) ありつつも、
 君が來まさば われ戀ひめやも。
 
 九月之《ナガツキノ》 在明能月夜《アリアケノツクヨ》
 有乍毛《アリツツモ》
 君之來座者《キミガキマサバ》 吾將v戀八方《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】九月の在明の月のように、ありつつも君がおいでになるなら、わたくしは戀をしないでしよう。
【釋】九月之在明能月夜 ナガツキノアリアケノツクヨ。以上序詞で、同音によつて、アリツツモを引き起している。アリアケノツクヨは、明けてから殘る月だが、夜の中からその月をいうことになつている。
 有乍毛 アリツツモ。自分が、かくの如くあり經つつの意。
【評語】在明の月に對して、君の來ないことを歎いている。しかしこの種のさびしかるべき歌がらとしては、アリアケノ月夜アリツツモというような、同音を重ねたすべりのよい調子は、なめらか過ぎてよくない。
 
寄v夜
 
2301 おしゑやし 戀ひじとすれど、
 秋風の 寒く吹く夜は
 君をしぞ念ふ。
 
 忍咲八師《オシヱヤシ》 不v戀登爲跡《コヒジトスレド》
 金風之《アキカゼノ》 寒吹夜者《サムクフクヨハ》
 君乎之曾念《キミヲシゾオモフ》
 
【譯】いつさい戀いまいとするのだが、秋風の寒く吹く夜は、君を思うことだ。
【釋】 忍咲八師 オシヱヤシ。
  オシヱヤシ(元)
  ヨシヱヤシ(西)
  ――――――――――
  吉咲八師《ヨシヱヤシ》(略)
 從來多くヨシヱヤシと讀んでいたが、忍咲八師とある文字をヨシヱヤシとは讀まれない。元暦校本によつて(331)オシエヤシと讀むべきである。オシは、副詞で、すべての意であろう。ヱヤシは、感動の助詞。ヨシヱヤシのヱヤシに同じ。オシの副詞の例。「さまざまに思ふ心はあるものをおしひたすらに濡るる袖かな」(後拾遺和歌集)。なお言語篇「よしゑやし等」參照。
【評語】戀をしまいと思う心が、秋風の寒く吹く夜は持ち切れないことを歌つている。初句の訓法になお不安があるが、それは感情を描いた句なのだろう。戀にまどう心がよく描かれている。
 
2302 或人《わびびと》の あな情《こころ》なと 念ふらむ。
 秋の長夜を 寐《い》ね臥してのみ。
 
 惑者之《ワビビトノ》 痛情無跡《アナココロナト》 將v念《オモフラム》
 秋之長夜乎《アキノナガヨヲ》 寐臥耳《イネフシテノミ》
 
【譯】風雅人が、ああ心無いことだと思うだろう。秋の長い夜を寐てばかりいる。
【釋】或者之 ワビビトノ。或は惑に通じて使用されている。或者は、「惑者者《ワビビトハ》 啼爾毛哭乍《ネニモナキツツ》」(卷九、一八〇一)と使われている或人に同じであろう。訓は「都禮毛無《ツレモナク》 將v有人乎《アルラムヒトヲ》 獨念爾《カタモヒニ》 吾念者《ワレハオモヘバ》 惑毛安流香《ワビシクモアルカ》」(卷四、七一七)に惑をワビシと讀んでいるによつて、ワビビトと讀むべきであろう。風流詩情を解し、自然を樂しむ如き性情の人をいう。
 秋之長夜乎寐臥耳 アキノナガヨヲイネフシテノミ。これは作者の行爲を敍している。
【評語】風流ぶることに對する反逆ともいえるが、作者は、みずからそう高く買つているのではない。たまたま作られた、ある時の口ずさみである。
 
2303 秋の夜を 長しといへど、
 積《つも》りにし 戀をつくせば 短かりけり。
 
 秋夜乎《アキノヨヲ》 長跡雖v言《ナガシトイヘド》
 積西《ツモリニシ》 戀盡者《コヒヲツクセバ》 短有家里《ミジカカリケリ》
 
(332)【譯】秋の夜を長いというけれども、積つていた戀をつくすので短かつた。
【評語】秋の夜を長いものとする觀念から作られている歌で、秋の長夜ということに拘泥している。その長いという以外、秋の夜の特色があらわれていない。
 
寄v衣
 
2304 秋つ葉に にはへる衣 われは著《き》じ。
君に奉《まつ》らば 夜《よる》も著るがね。
 
秋都葉尓《アキツバニ》 々寶敝流衣《ニホヘルコロモ》 吾者不v服《ワレハキジ》
 於v君奉者《キミニマツラバ》 夜毛著金《ヨルモキルガネ》
 
【譯】秋の木の葉のような美しい衣裳を、わたしは著ません。君にさしあげたら、夜も著るでしよう。
【釋】秋都葉尓 アキツバニ。湯原の王の歌に「秋津羽之《アキツバノ》 袖振妹乎《ソデフルイモヲ》」(卷三、三七六)とある。そのアキツバはトンボの羽のような薄絹のことであるが、ここは秋の黄葉のようなという義であつて、それとは別である。ここには、譬喩としてニホヘルを修飾している。
 々寶敝流衣 ニホヘルコロモ。色の美しい衣服。
【評語】衣服を贈ることによつて、眞情を示している。男女の衣服の共通して使用されている時代の作品である。
 
問答
 
2305 旅にすら 紐解くものを、
 事しげみ 丸《まろ》寐ぞわがする。
(333) 長きこの夜を。
 
 旅尚《タビニスラ》 襟解物乎《ヒモトクモノヲ》
 事繁三《コトシゲミ》 丸宿吾爲《マロネゾワガスル》
 長此夜《ナガキコノヨヲ》
 
【譯】旅にでも著物の紐を解いて寐るものを、事が多いので、わたしは著たままで寐ることだ。長いこの夜を。
【釋】襟解物乎 ヒモトクモノヲ。襟は、上衣の襟に紐をつけて結んだので、ヒモに使用している。
 事繁三 コトシゲミ。コトは、事件であろう。事のいそがしさに。役所などでの場合が想像される。
 丸宿吾爲 マロネゾワガスル。マロネは、著物を解かないで、そのままに寐ること。「紐不v解《ヒモトカズ》 丸寐乎爲者《マロネヲスレバ》」(卷九、一七八七)。
【評語】旅でもないのに、紐を解かないで寐ていることを、女に報じただけの歌である。報告的な歌で、秋の長夜に丸寐をする情趣に缺けている。
 
2306 時雨ふる 曉月夜《あかときづくよ》、
 紐解かず 戀ふらむ君と
 居《を》らましものを。
 
 
 四具禮零《シグレフル》 曉月夜《アカトキヅクヨ》
 ※[糸+刃]不v解《ヒモトカズ》 戀君跡《コフラムキミト》
 居益物《ヲラマシモノヲ》
 
【譯】時雨の降る明け方の月夜に、紐を解かないで戀しているでしようあなたと、一緒におりましたろうものを。
【釋】四具禮零曉月夜 シグレフルアカトキヅクヨ。時雨のおりおりうち過ぎる曉の月夜である。
 ※[糸+刃]不解戀君跡 ヒモトカズコフラムキミト。前の歌の、丸寐をしているという人をさす。
【評語】前の歌に答えた女の歌だが、初二句の景境の敍述に風情があり、漠然と長キコノ夜と言つたのにまさつている。
 
(334)2307 もみち葉に 置く白露の、
色葉にも 出でじと念《おも》へば
 ことの繁けく。
 
 於2黄葉1《モミチバニ》 置白露之《オクシラツユノ》
 色葉二毛《イロハニモ》 不v出跡念者《イデジトオモヘバ》
 事之繁家口《コトノシゲケク》
 
【譯】黄葉に置く白露のように、色にも出すまいと思つていると、人の言がうるさいことだ。
【釋】於黄葉置白露之 モミチバニオクシラツユノ。以上譬喩として、次の色葉ニモ出デジを引き起している。
 色葉二毛 イロハニモ。
  イロハニモ(元)
  ニホヒニモ(考)
  ――――――――――
  色二葉毛《イロニハモ》(略、宣長)
 色葉は、文字通り色づいた葉であろう。イロハという語の存在は「吾衣《ワガコロモ》 色服染《イロギヌニシメム》」(卷七、一〇九四)のイロギヌの語の存在によつて類推される。黄葉に置いた白露が、色づいた葉の色にあらわれまいとする意に歌つている。
【評語】女に戀している男の、遠慮がちに過している心が歌われている。譬喩はやや複雜だが、表現はなめらかでなく、不十分である。
 
2308 雨|零《ふ》れば 激《たぎ》つ山川 石《いは》に觸《ふ》れ、
 君が摧《くだ》む 情《こころ》は持たじ。
 
 雨零者《アメフレバ》 瀧都山川《タギツヤマガハ》 於v石觸《イハニフレ》
 君之摧《キミガクダカム》 情者不v持《ココロハモタジ》
 
【譯】雨が降るとはげしく流れる山川の水が、石に觸れて碎けるような、あなたが千々に思いくだくべき心を、わたくしは持つておりません。
(335)【釋】瀧都山川 タギツヤマガハ。タギツは、動詞。
 於石觸 イハニフレ。以上三句、序詞。譬喩によつて、次の摧カムを引き起している。
 君之摧 キミガクダカム。クダカムは、心の千々に思い碎けるをいう。連體句。
 情者不持 ココロハモタジ。ココロは、作者の心で、君に憂悶《ゆうもん》し心痛させるような心は持たないである。
【評語】贈られた歌に對して、全く別事によつて答を成している。譬喩は巧みだが、この譬喩を使いたくて歌つたような感じの歌である。
 
右一首、不v類2秋歌1而以v和載v之也。
 
右の一首は、秋の歌に類《に》ざれども和なるをもちて載せたり。
 
【釋】不類秋歌 アキノウタニニザレドモ。前の歌が、秋の歌でないのに、秋の相聞のうちに載せていることについて、後人の不審を恐れて説明している。
 
譬喩歌
 
2309 祝部等《はふりら》が 齋《いは》ふ社の もみち葉も
 標繩《しめなは》越えて 散るといふものを。
 
 祝部等之《ハフリラガ》 齋經社之《イハフヤシロノ・イツカフモリノ》 黄葉毛《モミヂバモ》
 標繩越而《シメナハコエテ》 落云物乎《チルトイフモノヲ》
 
【譯】神職たちがお仕えする神社の黄葉も、標繩を越えて散るということです。
【釋】祝部等之 ハフリラガ。祝は、祭を行う人。日本書紀にハフリと訓している。「神主祝部等《カムヌシハフリラ》、共稱唯《トモニヲヲトマヲス》」(延喜式卷八)。ハフリは、不淨汚穢を拂いやる人の義であろう。
(336) 齋經社之 イハフヤシロノ。イハフは、齋戒して不淨を拂うをいう。經の字を添えたのによればイツカフモリノか。
 標繩越而 シメナハコエテ。シメナハは、侵入を禁止する意に張る繩をいう、これによつて神の占有を表示する。
【評語】黄葉が、祝部の張つた標繩を越えることを敍して、守つている女子に思いを寄せていることを表示し、番人を無視して進行すべきことを歌つている。巧みな譬喩で、思い入つた有様は窺われる。
 
旋頭歌
 
2310 蟋蟀《こほろぎ》の わが床《とこ》の隔《へ》に
 鳴きつつもとな。
 起《お》き居つつ 君に戀ふるに
 寐《い》ねがてなくに。
 
 蟋蟀之《コホロギノ》 吾床隔尓《ワガトコノヘニ》
 鳴乍本名《ナキツツモトナ》
 起居管《オキヰツツ》 君尓戀尓《キミニコフルニ》
 宿不v勝尓《イネガテナクニ》
 
【譯】コオロギが、わたくしの床の敷物に鳴いていてしようがありません。起きていてあなたに戀うので、眠ることができません。
【釋】吾床隔尓 ワガトコノヘニ。トコノヘは、床のへだてで、圍いである。「多麻古須氣《タマコスゲ》 可利己和我西古《カリコワガセコ》 等許乃敝太思爾《トコノヘダシニ》」(卷十四、三四四五)の床ノヘダテの意である。
 宿不勝尓 イネガテナクニ。ガテが、可能の意の助詞であることが、よく知られる例である。
【評語】秋夜孤閨の情がよく描かれている。殊に旋頭歌の形體の特色を發揮して、前三句でコオロギを敍し、(337)轉じて後三句で自分を説明している表現は、巧みといえる。
 
2311 はだすすき 穗には咲き出でぬ
 戀をわがする。
 玉かぎる ただ一目《ひとめ》のみ
 見し人ゆゑに。
 
 皮爲酢寸《ハダススキ》 穗庭開不v出《ホニハサキイデヌ》
 戀乎吾爲《コヒヲワガスル》
 玉蜻《タマカギル》 直一目耳《タダヒトメノミ》
 視之人故尓《ミシヒトユヱニ》
 
【譯】穗をはらんでいるススキのように、穗には咲き出ない戀をわたしがすることだ。玉の光のようにただ一目だけ見た人のゆえに。
【釋】皮爲酢寸穗庭開不出 ハダススキホニハサキイデヌ。以上二句、譬喩で、表面にあらわれないことを言つている。
 戀乎吾爲 コヒヲワガスル。ゾの係が無くて、スルと連體形に留める例は、「比登都麻古呂乎《ヒトツマコロヲ》 伊吉爾和我須流《イキニワガスル》」(卷十四、三五三九)の如きがある。
 玉蜻 タマカギル。枕詞。玉の光を放つ意であるが、「珠蜻《タマカギル》 髣髴谷裳《ホノカニダニモ》」(卷二、二一〇)、「玉蜻※[虫+廷]《タマカギル》 髣髴所v見而《ホノカニミエテ》」(卷八、一五二六)、「玉垣入《タマカギル》 風所v見《ホノカニミエテ》」(卷十一、二三九四)、「玉蜻《タマカギル》 髣髴所v見而《ホノカニミエテ》」(卷十二、三〇八五)など、多くホノカに冠しているによれば、ただ一目見たことが、ほのかに見た意として、玉カギルに接しているのだろう。
【評語】譬喩と枕詞とによつて歌を成している。内容が平凡なだけに、その表現技巧が重視されるのだが、その技巧は、この歌では、何等の感激も無いものであり、もしくは慣用的なものであつて、それを使用しただけの效果に乏しい。
 
(338)冬雜歌
 
2312 わが袖に 霰たばしる。
 卷き隱し 消《け》たずもあらむ。
 妹が見むため。
 
 我袖尓《ワガソデニ》 雹手走《アラレタバシル》
 卷隱《マキガクシ》 不v消有《ケタズモアラム》
 妹爲v見《イモガミムタメ》
 
【釋】冬雜歌 フユノザフカ。初めに人麻呂集所出の無題の歌四首を載せ、次に詠雪以下詠物の歌十七首を載せている。
 
【譯】わたしの袖にあられが走つている。卷いて隠して消さずにも置こう。妻が見るために。
【釋】雹手走 アラレタバシル。雹は、空中で凍つて降るものをいい、國語ではやはりアラレである。句切。
 卷隱 マキガクシ。袖で卷いて隱して。
 不消有 ケタズモアラム。ケタズテアラム(代精)、ケタズモアラム(略)。消さずしてもありたい意を表示するには、ケタズモアラムの方が適している。句切。
【評語】袖に散る玉霰を、卷き隱して消えないようにして妻に見せたいという、子どもらしい心がかえつて情景をゆたかな氣分に導いている。純情の愛すべき歌である。
 
2313 あしひきの 山かも高き。
 卷向《まきむく》の 岸の子松に み雪降りけり。
 
 足曳之《アシヒキノ》 山鴨高《ヤマカモタカキ》
 卷向之《マキムクノ》 木志乃子松二《キシノコマツニ》 三雪落來《ミユキフリクル》
 
【譯】山が高いのだろうか。卷向のがけの子松に雪が降つたなあ。
(339)【釋】木志乃子松二 キシノコマツニ。キシは、山の斷崖をいう。コマツは、松の愛稱。
【評語】山中の子松に、雪の降りかかつている風景が、巧みに描かれている。山高くして雪が積つているのかと疑つているのである。山カモ高キと、まず疑意を示し、その疑意の根據を下に具體的に敍している。 
 
2314 卷向《まきむく》の 檜原《ひばら》もいまだ 雲|居《ゐ》ねば、
 子松が末《うれ》ゆ 沫雪《あわゆき》流る。
 
 卷向之《マキムクノ》 檜原毛未2雲居1者《ヒバラモイマダクモヰネバ》
 子松之末由《コマツガウレユ》 沫雪流《アワユキナガル》
 
【譯】卷向の檜原山にもまだ雲がかからないのに、子松の枝先を通つて、沫雪が流れる。
【釋】檜原毛未雲居者 ヒバラモイマダクモヰネバ。ヒバラは卷向の檜原の山をいう。クモヰネバは、雲がかかつていないのに。
 子松之末由 コマツガウレユ。ウレユは、伸びた枝先を通つて。
 沫雪流 アワユキナガル。アワユキは、沫のような大形の雪。
【評語】山にはまだ雲がかからずにいて、しかも子松が末のあたり沫雪が流れている。山中の風景、よくその佳趣をつくしている。
 
2315 あしひきの 山|道《ぢ》も知らず。
 白橿《しらかし》の 枝もとををに 雪の降れれば。
 
 足引《アシヒキノ》 山道不v知《ヤマヂモシラズ》
 白杜※[木+戈]《シラカシノ》 枝母等乎々尓《エダモトヲヲニ》 雪落者《ユキノフレレバ》
 
【譯】山に行く道もわからない。白樫の枝もたわむまでに雪が降つてあるので。
【釋】白杜※[木+戈] シラカシノ。杜※[木+戈]は、船を繋ぐくいの〓〓《しようか》をカシというので、その意をもつて樹名のカシの音に借りたのであろう。シラカシは、樫の普通種。葉は鋸齒を有し、裏面が灰白色なのでシラカシというのであ(340)ろう。
 枝母等乎々尓 エダモトヲヲニ。トヲヲニは、たわんでいる樣を敍する副詞。
【評語】山路もわかぬまでに、雪の降り埋んでいる風情が歌われている。單純でしかもよく情趣をつくしている。二句と三句とはウラの音を重ねている。參考の欄に擧げた枕の草子にいう人まろがよみたる歌というのはこの歌のことかも知れないが、そのよりどころを知りがたい。
【参考】傳説。
  しらかしといふもの、ましてみ山木の中にもいとけ遠くて、三位二位のうへのきぬ染むるをりばかりぞ、葉をだに人の見るめる。めでたきこと、をかしきことにとりいづぺくもあらねど、いつとなく雪のふりたるに見まがへられて、すさのをの命の出雲の國におはしける御事を思ひて、人まろがよみたる歌などを見る、いみじうあはれなり。(枕の草子、木は)
 
或云、枝毛多和々々《エダモタワタワ》
 
或るは云ふ、枝もたわたわ。
 
【釋】枝毛多和多和 エダモタワタワ。第四句の別傳だが、このままでは調子がわるく五句に續かない。枝モクワワニか、枝モタワタワニかであろう。元暦校本には、或云以下の八字が無いが、類聚古集にはあるので、(341)否定も出來ない。もし認めるとすれば、左註の或る本に三方の沙彌の作という、その方の傳來なのだろう。
 
右、柿本朝臣人麻呂之歌集出也。但件一首、或本云、三方沙弥作
 
右は柿本の朝臣人麻呂の歌集に出づ。但し件の一首は、或る本に云ふ、三方沙弥の作れる。
 
【釋】件一首 クダリノヒトツは。最後の、「あしひきの山道も知らず」の一首をさす。
 三方沙弥 ミカタノサミ。三方の沙弥は、卷の二、一二三參照。才物であり、古歌を吟誦したのを、その人の作とも傳えたのだろう。
 
詠v雪
 
2316 奈良山の 峯なほ霧らふ。
 うべしこそ
 間垣《まがき》が下《した》の 雪は消《け》ずけれ。
 
 奈良山乃《ナラヤマノ》 峯尚霧合《ミネナホキラフ》
 宇倍志社《ウベシコソ》
 前垣之下乃《マガキガシタノ》 雪者不v消家禮《ユキハケズケレ》
 
【譯】奈良山の峯はまだくもつている。前垣のもとの雪が消えないであるのは、もつともだ。
【釋】峯尚霧合 ミネナホキラフ。キラフは、霧が続いてかかつているをいう。曇つているのである。句切。
 宇倍志社 ウベシコソ。シは強意の助詞。うべない首肯する意の副詞。
 前垣之下乃 マガキガシタノ。前垣は、意をもつて書いているが、マガキの語義は、マは接頭語であろう。
【評語】山の霧のまだ殘つているのを見て、庭前の雪の消えないでいるのを首肯した、冬日の即事で、その情景をよく描き出している。奈良山を望み見る處に住んでいる人の作で、多分奈良の京の人であろう。
 
(342)2317 こと降らば
 袖さへぬれて とほるべく
 降りなむ雪の、空に消《け》につつ。
 
 殊落者《コトフラバ》
 袖副沾所《ソデサヘヌレテ》 可v通《トホルベク》
 將v落雪之《フリナムユキノ》 空尓消二管《ソラニケニツツ》
 
【譯】殊に降るなら、袖さえも濡れて通るように降るだろう雪が、空で消えてしまつて。
【釋】殊落者 コトフラバ。コトは、殊の字を書いているように、特に、殊更にの意に、他の動詞に冠する。この句、四句の降リナムまでに懸かつている。「殊放者《コトサケバ》 奧從酒嘗《オキユサケナム》」(卷七、一四〇二)。
【評語】何ほども降らない雪を歌つている。雪の大いに降ることを望んでいるところ、大宮人ふうの思想であ等る。
 
2318 夜を寒み、
 朝戸を開き 出で見れば、
 庭もはだらに み雪降りたり。
 
 夜乎寒三《ヨヲサムミ》
 朝戸乎開《アサトヲヒラキ》 出見者《イデミレバ》
 庭毛薄太良尓《ニハモハダラニ》 三雪落有《ミユキフリタリ》
 
【譯】夜が寒くして、朝の戸をあけて出て見ると、庭もうつすらと雪が降つてある。
【釋】庭毛薄太良尓ニハモハダラニ。ニハは、屋前をいう。ハダラは、ハダレに同じ。うすく降つてある様をいう。「薄太禮爾零登《ハダレニフルト》」(卷八、一四二〇)参照。
【評語】寒かつた一夜の明けた早朝の情景が、よく描き出されている。平淡に事を敍しているだけで、しかも上品に詠み成されている。
 
(343)一云、庭裳保杼呂尓《ニハモホドロニ》 雪曾零而有《ユキゾフリタル》
 
一は云ふ、庭もほどろに 雪ぞ零りたる。
 
【釋】 庭裳保杼呂尓雪曾零而有 ニハモホドロニユキゾフリタル。四五句の別傳である。しかしこれによつてホドロが、ハダラと同じ意味の語であるともいえない。ホドロニは、相當に、かなりにの意であろう。「沫雪《アワユキ》 保杼呂保杼呂尓《ホドロホドロニ》 零敷者《フリシケバ》」(卷八、一六三九)。
 
2319 夕されば 衣手寒し。
 高松の 山の木毎に 雪ぞ零りたる。
 
 暮去者《ユフサレバ》 衣袖寒之《コロモデサムシ》
 高松之《タカマツノ》 山木毎《ヤマノキゴトニ》 雪曾零有《ユキゾフリタル》
 
【譯】夕方になると、著物が寒い。高松の山の木には、どれも雪が降つている。
【釋】衣袖寒之 コロモデサムシ。衣袖は、衣服の意に使用している。句切。
【評語】平明な内容で、いやみのない歌である。山の木ごとにと言つたのが、平凡で、しかもよくその景を描いている。
 
2320 わが袖に 零りつる雪も 流れ去《ゆ》きて、
 妹が手本に い行き觸れぬか。
 
 吾袖尓《ワガソデニ》 零鶴雪毛《フリツルユキモ》 流去而《ナガレユキテ》
 妹之手本《イモガタモトニ》 伊行觸粳《イユキフレヌカ》
 
【譯】わたしの袖に降つた雪も、流れて行つて、妻の腕に行つて觸れないかなあ。
【釋】伊行觸粳 イユキフレヌカ。イは接頭語。ヌカは、願望の語法。
【評語】雪中を行く男が、せめて雪でも妻のもとに通えかしという氣もちを詠んでいる。袖に散る雪に、遙か(344)な思いを寄せたのが、冬の歌だけに、一層いたましい。妹が手本を戀しく思う心が、身に迫つてこの歌となつたのである。
 
2321 沫雪は 今日はな零《ふ》りそ。
 白細《しろたへ》の 袖まきほさむ
 人もあらなくに。
 
 沫雪者《アワユキハ》 今日者莫零《ケフハナフリソ》
 白妙之《シロタヘノ》 袖纏將v干《ソデマキホサム》
 人毛不v有君《ヒトモアラナクニ》
 
【譯】沫雪は、今日は降るな。白い著物の袖を身に卷いてほしてくれる人もいないのだ。
【釋】白妙之 シロタヘノ。白い織物の。
 袖纏將干 ソデマキホサム。袖を身に卷いてほすべき。共に寐て體熱で濡れた袖をかわかす意。連體句。
【評語】旅にあつて雪に逢つた男の歌。雪に濡れたとて、ほす人も無いわびしさが歌われている。白細ノは、事實染色しない衣服を著ているので、描寫になつている。
 
2322 はなはだも 零《ふ》らぬ雪ゆゑ、
 こちたくも
 天《あま》つみ空は 陰《くも》りあひつつ。
 
 甚多毛《ハナハダモ》 不v零雪故《フラヌユキユヱ》
 言多毛《コチタクモ》
 天三空者《アマツミソラハ》 陰相管《クモリアヒツツ》
 
【譯】澤山にも降らない雪だのに、非常にも大空は、くもり切つている。
【釋】不零雪故 フラヌユキユヱ。降らない雪ゆえに。ユヱは、それであるのにの意を成している。
 言多毛 コチタクモ。事痛くもで、はなはだしく、非常にも。
【評語】たいして降らない雪だのに、大げさに空がくもつている。ありがちな景をとらえてよく歌いこなして(345)いる。天ツミ空というような、大がかりな言いかたも、よく響いて效果的である。
 
2323 わが夫子を 今か今かと 出で見れば、
 沫雪ふれり。
 庭もほどろに。
 
 吾背子乎《ワガセコヲ》 且今々々《イマカイマカト》 出見者《イデミレバ》
 沫雪零有《アワユキフレリ》
 庭毛保杼呂尓《ニハモホドロニ》
 
【譯】あの方を、今來るか來るかと出て見ると、沫雪がふつている。庭もほどあいに。
【釋】且今々々 イマカイマカト。且は、一方ではの意に使い、これを重ねてうながす意味をあらわしている。
 庭毛保杼呂尓 ニハモホドロニ。ホドロは、二三一八の一云にある句。
【評語】人の來るのを待つて、屋前に出て見れば、いつしか薄雪の降つているのを見る。人は來ないでの意を表に出さずに、庭モホドロニと歌い切つたのが、含みがあつてよい。
 
2324 あしひきの 山に白きは、
 わが屋戸《やど》に 昨日の暮《ゆふべ》 ふりし雪かも。
 
 足引《アシヒキノ》 山尓白者《ヤマニシロキハ》
 我屋戸尓《ワガヤドニ》 昨日暮《キノフノユフベ》 零之雪疑意《フリシユキカモ》
 
【譯】山に白く見えるのは、わたしの宿に、昨日の夜降つた雪だろうか。
【評語】朝起きて山を眺めると、處々に白く輝いている雪が見える。さては昨晩降つた雪が、山にも降り積つたのだなという歌で、冬の朝、山を眺めた心が、自然な形で歌われている。アシヒキノの枕詞は、山脈のように引いている山の姿を描くのに役立つている。
 
詠v花
 
(346)【釋】詠花 ハナヲヨメル。梅花の歌五首を收めている。その中には、初花を詠み、また雪を配しているものもあるが、そうでないものもある。梅花は、春の部にも收めており、まだその季節感が動搖していたことを語つている。
 
2325 誰《た》が苑の 梅の花ぞも。
 ひさかたの 清き月夜《つくよ》に
 ここだ散りくる。
 
 誰苑之《タガソノノ》 梅花毛《ウメノハナゾモ》
 久堅之《ヒサカタノ》 清月夜尓《キヨキツクヨニ》
 幾許散來《ココダチリクル》
 
【譯】誰の家の園の梅の花だろう。空の清らかな月夜に澤山散つてくる。
【釋】梅花毛 ウメノハナゾモ。ムメノハナカモ(元)。助詞ゾを讀み添えている。「秋夜之《アキノヨノ》 月疑意君者《ツキカモキミハ》 雲隱《クモガクリ》 須臾不v見者《シマシクミネバ》 幾許戀敷《ココダコホシキ》」(卷十、二二九九)によれば、ウメノハナカモでもよい。
 久堅之 ヒサカタノ。枕詞。轉用して月に冠している。
【評語】清き月夜に、何處からとも知らず、梅花の散りくるを詠んでいる。氣昧をもつてまさつている歌である。
 
2326 梅の花 まづ咲く枝を 手折《たを》りては、
 裹《つと》と名づけて よそへてむかも。
 
 梅花《ウメノハナ》 先開枝乎《マヅサクエダヲ》 手折而者《タヲリテハ》
 裹常名付而《ツトトナヅケテ》 與副手六香聞《ヨソヘテムカモ》
 
【譯】梅の花のまず咲く枝を手折つては、みやげ物と名づけて思いを寄せるだろうかなあ。
【釋】裹常名付而 ツトトナヅケテ。ツトは包物。贈物と稱して。
 與副手六香聞 ヨソヘテムカモ。ヨソヘは、思いを寄せる、心を寄せる。相手がその梅に、思いを寄せるだ(347)ろうか。自分からの贈物として、その梅に愛情を寄せるだろうか。「沫雪爾《アワユキニ》 所v落開有《フラエテサケル》 梅花《ウメノハナ》 君之許遣者《キミガリヤラバ》 與曾倍弖牟可聞《ヨソヘテムカモ》」(卷八、一六四一)。
【評語】人に梅花を贈つた場合を豫想して詠んでいる。贈ろうとしているのである。そのまず咲く花を愛して風流とした氣もちが窺われる。
 
2327 誰《た》が苑の 梅にかありけむ。
 ここだくも 咲きてあるかも。
 見が欲《ほ》しまでに。
 
 誰苑之《タガソノノ》 梅尓可有家武《ウメニカアリケム》
 幾許毛《ココダクモ》 開有可毛《サキテアルカモ》
 見我欲左右手二《ミガホシマデニ》
 
【譯】誰の家の園の梅だつたのだろうか。非常によく咲いてあることだ。見たく思うまでに。
【釋】梅尓可有家武 ウメニカアリケム。折り取つて來た梅なので、アリケムと言つている。宣長は、家は良の誤りだろうとしているが、アルラムでは、下と適合しない。句切。
 見我欲左石手二 ミガホシマデニ。ミテワガオモフマデニ(西)、ミガホルマデニ(考)、ミガホシキマデニ(新考)。ミガホシは、「眞珠乃《シラタマノ》 見我保之御面《ミガホシミオモワ》」(卷十九、四一六九)、「白玉之《シラタマノ》 見我保之君乎《ミガホシキミヲ》」(同、四一七〇)など、ミガホシの形で連體形を取つているから、ここもミガホシマデニであろう。この語は、見むことの望ましい意であるが、現に見ていてなおも見たく思う意にも使つている。「山見者《ヤマミレバ》 山裳見貌石《ヤマモミガホシ》」(卷六、一〇四七)の如き、その用例である。
【評語】何處からともなく散りくる梅を詠んだか、もしくは折り取つてきた梅花を詠んでいるのであろう。誰ガ苑ノ梅ニカアリケムと疑つているだけで、特殊の描寫の無いのは、あきたらない點である。
 
(348)2328 來て見べき 人もあらなくに、
 吾家《わぎへ》なる 梅の早花《はつはな》、散りぬともよし。
 
 來可v視《キテミベキ》 人毛不v有尓《ヒトモアラナクニ》
 吾家有《ワギヘナル》 梅之早花《ウメノハツハナ》 落十方吉《チリヌトモヨシ》
 
【譯】來て見るような人も無いことだ。わたしの家の梅の初花は、散つてもよい。
【釋】梅之早花 ウメノハツハナ。ウメノワサハナ(全釋)。ハツハナは、始めて咲く花で、意をもつて早花と書いている。ワサハナとも讀んでいるが、花についてワサハナというかどうかおぼつかない。
 落十方吉 チリヌトモヨシ。梅の歌については、この句は歌いものからきているようである。「散去十方吉《チリヌトモヨシ》」(卷六、一〇一一)參照。
【評語】ひとりさびしく梅の初花に對している。散リヌトモヨシというのは、消極的な表現だが、梅の花の歌としては、十分にその任を果しての意になつている。梅花に對する愛情は、これでよく出ているのである。
 
2329 雪寒み 咲きには咲かず。
 梅の花、
 よしこの頃は しかもあるがね。
 
 雪寒三《ユキサムミ》 咲者不v開《サキニハサカズ》
 梅花《ウメノハナ》
 縱比來者《ヨシコノゴロハ》 然而毛有金《シカモアルガネ》
 
【譯】雪が寒いので咲くには咲かないで、梅の花は、よしこの頃は、こんな風にもあるがよい。
【釋】然而毛有金 シカモアルガネ。シカモアルカナ(元)、シカモアルカネ(神)、サテモアルカネ(西)、カクテモアルカネ(總索引)。サテモは、集中用例が無く、上を承ける語は、シカである。ここは然而の二字をシカに當てているのだろう。アルガネは、そうあることを豫想し希望する語法。
【評語】梅花をいとおしむ心が歌われている。風情は乏しいが、やさしい氣もちは窺われる。
(349)詠v露
 
2330 妹がため 上枝《ほつえ》の梅を 手折るとは、
 下枝《しつえ》の露に ぬれにけるかも。
 
 爲v妹《イモガタメ》 末枝梅乎《ホツエノウメヲ》 手折登波《タヲルトハ》
 下枝之露尓《シツエノツユニ》 沾家類可聞《ヌレニケルカモ》
 
【譯】わが妻のために、上の枝の梅を手折るとしては、下の枝の露に濡れたことだなあ。
【釋】手折登波 タヲルトハ。このハは、手折るとしてはの意で、ほかではない、手折ることのためにはの意である。
【評語】ホツ枝ノ梅と、下枝ノ露とを、對照して歌つている。描寫もあつて生き生きとしている。冬季に露を詠んだのも、實地から來ていることで、季節感がまだ固定していない。
 
詠2黄葉1
 
【釋】詠黄葉 モミチヲヨメル。黄葉は、既に秋の季節の観念が成立しているが、ここは雪に配しているので、冬に收めている。
 
2331 八田《やた》の野の 淺茅色づく。
 有乳《あらち》山、
 峯の沫雪 寒く零《ふ》るらし。
 
 八田乃野之《ヤタノノノ》 淺茅色付《アサヂイロヅク》
 有乳山《アラチヤマ》
 峯之沫雪《ミネノアワユキ》 寒零良之《サムクフルラシ》
 
(350)【譯】八田の野の淺茅が色づいた。有乳山の峰の沫雪は、寒く降るらしい。
【釋】八田乃野之 ヤタノノノ。ヤタは、奈良縣大和郡山市の西に矢田の名がある。
 有乳山 アラチヤマ。滋賀縣高島郡から福井縣へ越える山で、北國越えの要路であり、當時|愛發《あらち》の關が置かれた。
【評語】大和にいる人が、その野の淺茅の色づくのを見て、寒い北國の空を旅している人を思いやつて詠んでいる。「わが屋戸の淺茅色づく。吉隱《よなばり》の夏身の上に時雨降るらし」(卷十、二二〇七)などと、類型的であるが、内容は、一層の深みがある。冬の歌ともいわれないが、沫雪の語があるので、ここに收めたのだろう。
 
詠v月
 
2332 さ夜|深《ふ》けば、出で來《こ》む月を、
 高山の 峯の白雲、隱しなむかも。
 
 左夜深者《サヨフケバ》 出來牟月乎《イデコムツキヲ》
 高山之《タカヤマノ》 峯白雲《ミネノシラクモ》 將v隱鴨《カクシナムカモ》
 
【譯】夜が更けたら出るだろう月を、高山の峰の白雲が隱すだろうかなあ。
【釋】將隱鴨 カクシナムカモ。カクシテムカモ(元)、カクスラムカモ(童)、カクシナムカモ(考)。初句を未然條件法に讀むとすれば、隱スラムカモでは、主として現在にいう推量であるからうち合わない。
【評語】月の出でようとする山のはに白雲の懸かつているのを詠んでいる。冬の歌とは限らない。清雅な作品である。
 
冬相聞
 
(351)【釋】冬相聞 フユノサウモニ。初めに人麿集所出の無題の歌二首を載せ、次に、寄露以下寄物の歌十六首を載せている。
 
2333 零《ふ》るる雪の 空に消ぬべく 戀ふれども、
 逢ふよしを無み、月ぞ經にける。
 
 零雪《フルユキノ》 虚空可v消《ソラニケヌベク》 雖v戀《コフレドモ》
 相依無《アフヨシヲナミ》 月經在《ツキゾヘニケル》
 
【譯】降る雪が空で消えるように、今にも消えそうに戀うけれども、逢う手段が無くて月を經過した。
【釋】零雪虚空可消 フルユキノソラニケヌベク。以上、譬喩。今にも死にそうに思うのをたとえている。
 相依無 アフヨシヲナミ。アフヨシモナク(古義)。アフヨシヲナミは慣用句だから、その訓によるべきであろう。
【評語】調子のよい歌だが、それだけに特殊の點の無い歌だ。雪のふる頃、旅の空でひとり嘆いている。そういうふうの趣が、さすがに窺われる。
 
2334 沫雪は 千重に零《ふ》り敷け。
 戀ひしくの け長き我は、
 見つつ偲《しの》はむ。
 
 阿和雪《アワユキハ》 千重零敷《チヘニフリシケ》
 戀爲來《コヒシクノ》 食永我《ケナガキワレハ》
 見偲《ミツツシノハム》
 
【譯】沫雪は、千重にも降りつもれ。戀をしたことが時久しいわたしは、それを見ながら心を慰めよう。
【釋】阿和雪 アワユキハ。阿和雪は、この語の假字書きの例として注意される。
 千重零敷 チヘニフリシケ。千重に降りかさなれ。命令形。
 戀爲來 コヒシクノ。コヒシクは、戀いしたことで、シは時の助動詞。クはコトの意の助詞。形容詞コヒシ(352)の活用ではない。形容詞の活用形シクでは、名詞の用法が無い。「戀敷者《コヒシクハ》」(卷十、二〇一七)參照。
 食永我 ケナガキワレハ。ケナガキは、時の經過の長い。久しい。
 見偲 ミツツシノハム。その雪を見て、心を慰めよう。シノフは、心に愛賞する意に使つている。雪に依つて久しい戀に疲れた心を紛らそうの意。
【評語】雪を愛賞することによつて、積る思いを慰めようとした心はあわれである。初二句には、思い切つた云い方が感じられる。また三四句の表現は、集中でも古風なあらわし方なのだろう。それらをとりまとめて、さすがに古風な味の歌である。次の類歌は、大原の今城《いまき》がこれを歌いかえたものである。
【參考】類歌。
  初雪は千重に降り重《し》け。戀ひしくの多かる吾は見つつしのはむ(卷二十、四四七五)
 
右、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
寄v露
 
2335 咲き出《で》照る 梅の下枝《しつえ》に 置く露の
 消《け》ぬべく妹に 戀ふるこのごろ。
 
 咲出照《サキデテル》 梅之下枝尓《ウメノシツエニ》  置露之《オクツユノ》
 可v消於v妹《ケヌベクイモニ》 戀頃者《コフルコノゴロ》
 
【譯】咲き出して美しい梅の下に置く露のように、消えそうにも妻に戀うこの頃だ。
【釋】咲出照 サキデテル。咲き出て美しく照り輝いている。
 置露之 オクツユノ。以上三句、序詞。消ヌベクを引き起している。
(353)【評語】露を序として消ヌぺクを引き出したのは類型的だが、ただその露の説明に特色があり、その露の置く場處を明細に敍述したのがよい。
 
寄v霜
 
2336 はなはだも 夜|更《ふ》けてな行き。
 道の邊《べ》の ゆ小竹《ざさ》が上に
 霜の降る夜を。
 
 甚毛《ハナハダモ》 夜深勿行《ヨフケテナユキ》
 道邊之《ミチノベノ》 湯小竹之於尓《ユザサガウヘニ》 霜降夜焉《シモノフルヨヲ》
 
【譯】非常に夜が深けておいでなさいますな。道の邊の小竹の上に霜の降る夜ですのを。
【釋】甚毛 ハナハダモ。夜深ケテを修飾している。
 湯小竹之於尓 ユザサガウヘニ。ユは、ユニハ(齋庭)、ユダネ(齋種)などのユに同じく、神聖、清淨を意味する接頭語。ユザサは、神事に小竹を使うことから出て、清らかな小竹の意である。
 霜降夜焉 シモノフルヨヲ。ヲは、感動の意で、ヨに同じだが、それだのにの意を含むものと見られる。
【評語】男の歸ろうとするのを止めている歌で、内容は平凡だが、初二句が深切であり、三句以下の寒夜の敍述も、さつぱりしてよく利いている。
 
寄v雪
 
2337 小竹《ささ》の葉に はだれ零《ふ》り覆《おほ》ひ、
(354) 消《け》なばかも 忘れむといへば、
 益して念《おも》ほゆ。
 
 小竹葉尓《ササノハニ》薄太禮零覆《ハダレフリオホヒ》
 消名羽鴨《ケナバカモ》 將v忘云者《ワスレムトイヘバ》
 益所v念《マシテオモホユ》
 
【譯】小竹の葉に薄雪が降り覆つて、その消えるように死にもしたらば忘れようかと、あなたがいうので、一層思われる。
【釋】小竹葉尓薄太禮零覆 ササノハニハダレフリオホヒ。以上序詞。消ナバを引き起している。ハダレは既出。ここはうすい雪。
 消名羽鴨 ケナバカモ。カモは疑問の係助詞。忘レムが、これを受けて結んでいる。
 將忘云者 ワスレムトイヘバ。トは、初句から忘レムまでを受けているが、初二句は序詞だから、主旨は、消ナバカモ忘レムである。消えたなら忘れもしよう。死んだら始めて忘れるだろうの意。それを人が云うので。
 益所念 マシテオモホユ。これは作者自身の心である。
【評語】美しい序詞を使い、複雑な内容を巧みに云いこなしている。先方の言を歌い入れたところがねらいである。
 
2338 霰ふり さかへ風吹き 寒き夜や、
 旗野に今夜《こよひ》 わがひとり寐む。
 
 霰落《アラレフリ》 坂敢風吹《サカヘカゼフキ》 寒夜也《サムキヨヤ》
 旗野尓今夜《ハタノニコヨヒ》 吾獨寐牟《ワガヒトリネム》
 
【譯】霰が降り、向かい風が吹いて、寒い晩をか、旗野で今夜、ひとりわたしが寐るのだろう。
【釋】坂敢風吹 サカヘカゼフキ。
  イタマカゼフキ(神)
  ――――――――――
  板敢風吹《イタマカゼフキ》(類)
(355)  板敢風吹《イタクカゼフキ》(代初)
  板玖風吹《イタクカゼフキ》(考)
  板聞風吹《イタモカゼフキ》(古義)
 坂は、諸本多く板であり、細井本には枝であるが、板敢では訓をなしかねるので、今神田本によつた。敢は「瀧情乎《タギツココロヲ》 塞敢而有鴨《セキアヘテアルカモ》」(卷七、一三八三)のように使用され、ハ行下二段動詞の連用形を表示している。サカヘの語は、日本書紀卷の二十一用明天皇の卷に、三輪君《みわのきみ》逆の逆に、北野神社本にサカヘの訓があるのは、逆らう意のハ行下二段動詞のあつたことを證明する。サカヘカゼは、逆風で、向かい風である。
 寒夜也 サムキヨヤ。ヤは、疑問の係助詞であるが、寒い夜を凝つていうのではなく、この夜にしてやの意である。也の字を使つているのは、おおむねこの類の用法である。
 旗野尓今夜 ハタノニコヨヒ。ハタノは、奈良縣高市郡高市村畑の野であろう。ハタは、それにしても又の意の副詞とも解される。「爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》 我獵宿牟《ワガヒトリネム》」(卷一、七四)。
【評語】旗野に旅やどりしようとする旅人が、寒夜の寂寥を歎いた歌である。何處の野でもよく、特に旗野を出しただけの效果はなく、またその野の描寫もない。五句は慣用句で、結局寒夜の説明だけが特色だということになる。しかし事實は痛切な事情にあるのだから、その寒夜の敍述は、よく響いているものとすべきである。
 
2339 吉隱《よなばり》の 野木に零《ふ》りおほふ 白雪の、
 いちしろくしも 戀ひむわれかも。
 
 吉名張乃《ヨナバリノ》 野木尓零覆《ノギニフリオホフ》 白雪乃《シラユキノ》
 市白霜《イチシロクシモ》 將v戀吾鴨《コヒムワレカモ》
 
【譯】吉隱の野木に降りかぶさつている白雪のように、人にはつきり知れるように戀をするわたしだろうか。
【釋】吉名張乃 ヨナバリノ。ヨナバリは、初瀬町東方の地名。
(356) 白雪乃 シラユキノ。以上三句、序詞。イチシロクを引き起している。
 市白霜 イチシロクシモ。はつきりと、人に知られるように。「吾屋前《ワガニハノ》 秋〓子上《アキハギノウヘニ》 置露《オクツユノ》 市白霜《イチシロクシモ》 吾戀目八面《ワレコヒメヤモ》」(卷十、二二五五)。
 將戀吾鴨 コヒムワレカモ。カモは、疑問の助詞で、反語になる。人に知られるような戀はしないの意。
【評語】何の縁で、吉隱の雪を持ち出したかわからないが、かつてその地を蔽う白雪を見て知つているのでもあろう。どこの雪でもよく、かつそれが、イチシロクを引き出すだけで、あまり情趣を助けていない。役目だけの序である。
 
2340  一目見し 人に戀ふらく、
 天霧《あまぎ》らし 零《ふ》り來る雪の、
 消《け》ぬべく念ほゆ。
 
 一眼見之《ヒトメミシ》 人尓戀良久《ヒトニコフラク》
 天霧之《アマギラシ》 零來雪之《フリクルユキノ》
 可v消所v念《ケヌベクオモホユ》
 
【譯】一目見た人に戀うことは、空かきくもつて降ってくる雪のように、消え入りそうに思われる。
【釋】一眼見之人尓戀良久 ヒトメミシヒトニコフラク。この二句は、作者の事情を語り、三句以下のよりどころを示している。
 天霧之 アマギラシ。天がかき曇つて。キラシは、霧《き》らしめる意の動詞。「掻霧之《カキキラシ》 雨零夜乎《アメノフルヨヲ》」(卷九、一七五六)などの用法がある。
 零來雪之 フリクルユキノ。以上二句、插入句で、譬喩による序詞。
【評語】ひたすらに思い寄せて、命も消えそうに戀う情は、さすがに雪の譬喩を得て、あわれに述べられている。天霧ラシ降リクル雪は、大雪のようで、今にも消えそうなはかなさの譬喩には不適當の感がある。
 
(357)2341 思ひ出づる 時は術《すべ》なみ、
 豐国の 木綿《ゆふ》山雪の、
 消《け》ぬべく念ほゆ。
 
 思出《オモヒイヅル》 時者爲便無《トキハスベナミ》
 豐國之《トヨクニノ》 木綿山雪之《ユフヤマユキノ》
 可v消所v念《ケヌベクオモホユ》
 
【譯】思い出す時は、しかたがなくて、豐國の木綿山の雪のように、消え入りそうに思われる。
【釋】豐國之木綿山雪之 トヨクニノユフヤマユキノ。トヨクニノユフヤヤは、豐後の國の由布山。以上二句、插人句で、序詞。譬喩によつて消ヌベクを引き起している。
【評語】前の歌と同型で、事情や雪の説明がさし替えられているだけだ。これも何處の山の雪でもよさそうだ。
 
2342 夢《いめ》の如《ごと》 君を相見て
 天霧《あまぎ》らし 降りくる雪の、
 消《け》ぬべく念ほゆ。
 
 如夢《イメノゴト》 君乎相見而《キミヲアヒミテ》
 天霧之《アマギラシ》 落來雪之《フリクルユキノ》
 可v消所v念《ケヌベクオモホユ》
 
【譯】夢のようにあなたに逢つて、空かきくもつて降つてくる雪のように、消え入りそうに思われる。
【評語】これも同型の歌で、殊に前々首とは、三句以下全く同じだ。夢のように逢つたということが、雪の譬喩のはかないのと通ずるものがあつて、この方がよいのだろう。同一人が、種々詠み試みたものだろう。
 
2343 わが夫子が 言《こと》愛《うつく》しみ 出で行かば、
 裳引《もびき》しるけむ。
 雪な零《ふ》りそね。
 
 吾背子之《ワガセコガ》 言愛美《コトウツクシミ》 出去者《イデユカバ》
 裳引將v知《モビキシルケム》
 雪勿零《ユキナフリソネ》
 
(358)【譯】あなたの言葉が上手なので、出て行つたなら、裳を引いてあるいた跡がはつきりするでしよう。雪よ降らないでください。
【釋】言愛美 コトウツクシミ。いう言の立派なのにめでて。うまい言をいうので。
 裳引將知 モビキシルケム。モヒキモシラム(類)、モヒキシルケム(代初)。モビキは、女子が歩行に際して裳を引くこと。將知をシルケムと讀むのは、無理なようだが、次の歌に、「零雪之《フルユキノ》 市白兼名《イチシロケムナ》 間使遣者《マヅカヒヤラバ》」とあり、その一云に、「零雪爾《フルユキニ》 間使遣者《マヅカヒヤラバ》 其將v知奈《ソレシルケムナ》」とある。その「其將知奈」は、「市白兼名」に相當する句で(一首の中における句の位置は違うが)、恐らくはソレシルケムナと讀むべきもののようであるから、それに準じて、ここもシルケムと讀む。シルケは形容詞。著明である意。ムは助動詞。雪中に裳を引いて行けば、跡がよく分かるというのである。句切。
【評語】うまい口にのせられて出て行つたら、人目にかかるだろうというのである。四五句は、言語上の遊戯に走つているような歌である。宮廷に奉仕している女子の作で、一般の生活には遠くなつているようである。
 
2344 梅の花 それとも見えず 零《ふ》る雪の、
 いちしろけむな。
 間使《まづかひ》遣《や》らば。
 
 梅花《ウメノハナ》 其跡毛不v所v見《ソレトモミエズ》 零雪之《フルユキノ》
 市白兼名《イチシロケムナ》
 間使遣者《マヅカヒヤラバ》
 
【譯】梅の花が、それとも見えないまでに降る雪のように、はつきり人に知られるだろうな。使をやつたら。
【釋】其跡毛不所見 ソレトモミエズ。梅花が梅花とも見えないまでにで、降るを修飾している副詞句。
 零雪之 フルユキノ。以上三句、序詞。イチシロケムを引き起している。
 市白兼名 イチシロケムナ。形容詞イチシロケに、助動詞ム、感動の助詞ナの接續した形。いちじるくある(359)だろう。人に知られるだろうなの意。句切。
 間使遣者 マヅカヒヤラバ。マヅカヒは、兩者のあいだを通ずる使。
【評語】序詞の雪の説明に特色があるが、あたかもその季節だつたのだろう。獨語ふうの歌で、やはり序の興味で詠み出されたもののようだ。
 
一云、零雪尓《フルユキニ》 間使遣者《マヅカヒヤラバ》 其將v知奈《ソレシルケムナ》
 
一は云ふ、零る雪に 間使遣らば それしるけむな。
 
【釋】零雪尓 フルユキニ。以下前の歌の、三句以下の別傳で、本文の歌では、零ル雪ノまでが序になつて、イチシロケムを引き起しているが、これは序になつていない。從つてすなおになつているが、ソレの語が二度出るのは、耳ざわりである。
 其將知奈 ソレシルケムナ。ソレは、語勢を強くするために添える副詞。シルケムは、形容詞シルケに助動詞ムが接續している。前の歌參照。ナは、感動の助詞。
 
2345 天霧《あまぎ》らひ 零《ふ》りくる雪の、
 消《け》なめども、
 君に逢はむと ながらへ渡る。
 
 天霧相《アマギラヒ》 零來雪之《フリクルユキノ》
 消友《ケナメドモ・キエヌトモ》
 於v君合常《キミニアハムト》 流經度《ナガラヘワタル》
 
【譯】空がかき曇つて降つて來る雪のように、消え入りそうだが、あなたに逢おうとして、生きながらえています。
【釋】天霧相 アマギラヒ。天が霧にくもつて。キラヒは、霧の續いてある意の動詞。
(360) 零來雪之 フリクルユキノ。以上二句、序詞。次の消ナメドモを引き起している。
 消友 ケナメドモ。キエヌトモ(元)、キユレドモ(神)、キエメドモ(考)、ケナメドモ(略)。消え入りもしそうにあるがの意と解せられるが、文字表示が不十分である。
 流經度 ナガラヘワタル。ナガラヘは、命を永くたもつ意。存命する。
【評語】雪のようにはかない命を、君に逢おうとのみに生存する意の歌である。三句までで、一轉するのだが、その移りぶりが明快でない。譬喩の句が長く、それを受ける、消ナメドモの句の短いのも、はつきりしない原因になっているのだろう。
 
2346 窺覘《うかねら》ふ 鳥見《とみ》山雪の、
 いちしろく 戀ひば、妹が名
 人知らむかも
 
 窺良布《ウカネラフ》 跡見山雪之《トミヤマユキノ》
 灼然《イチシロク》 戀者妹名《コヒバイモガナ》
 人將v知可聞《ヒトシラムカモ》
 
【譯】野獣の足跡を窺いねらう。その鳥見山の雪のように、目立つばかり戀をしたら、あの子の名を、人が知るだろうかなあ。
【釋】窺良布 ウカネラフ。枕詞。鹿猪などの野獣の通つた跡を見る役の跡見《とみ》が、窺いねらうというので、鳥見山に冠している。「比岳爾《コノヲカニ》 小壯鹿履起《ヲジカフミオコシ》 宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》 可聞可聞爲良久《カモカモスラク》 君故爾許曾《キミユヱニコソ》」(卷八、一五七六)。
 跡見山雪之 トミヤマユキノ。トミ山の雪ので、以上二句、序詞。譬喩によつて、イチシロクを引き起している。トミ山は、奈良縣磯城郡。香具山の東方に當る地というが、疑問がある。この地は「大伴(ノ)坂上(ノ)郎女、從(リ)2跡見(ノ)庄1、贈2賜(ヘル)留(レル)v宅(ニ)女子(ノ)大孃(ニ)1歌」(卷四、七二三)とある跡見の庄の地で、大伴氏の領地があつた。
【評語】序詞に興味の中心のある歌である。作者が跡見の庄あたりにいるか、または、その地にいる人に贈る(361)ので、この序詞が成されたのであろう。
 
2347 海小船《あまをぶね》 泊瀬《はつせ》の山に 零《ふ》る雪の
 け長く戀ひし 君が音《おと》ぞする。
 
 海小船《アマヲブネ》 泊瀬乃山尓《ハツセノヤマニ》 落雪之《フルユキノ》
 消長戀師《ケナガクコヒシ》 君之音曾爲流《キミガオトゾスル》
 
【譯】海人の小船が泊てる。その泊瀬の山に降る雪のように、時久しく思つていたあのかたの物音がする。
【釋】海小船 アマヲブネ。枕詞。海人の小船が泊《は》つの義により、泊瀬に冠する。
 落雪之 フルユキノ。以上三句、序詞。雪が消えるというので、ケの一音を引き起している。
 消長戀師 ケナガクコヒシ。消は訓假字。時久しく戀していた。
 君之音曾爲流 キミガオトゾスル。オトは、君のきた物音。馬車などの音、聲音など。
【評語】枕詞から序の主文へ、序から本文へと、次々に移つて、再轉して始めて本意に達する。前のウカネラフの歌もそうだつたが、それは、ウカネラフと、鳥見山雪とのあいだが、あまり懸け離れてもいなかつた。しかしこの歌では、海小船と、泊瀬ノ山ニ零ル雪とのあいだには、何の縁故も無い。そこで轉々として變化する趣向を立てたのである。これは遊戯性に富むものではあるが、この歌の内容は久しく戀していた君の來たことを歌い、心が浮き立つているので、この表現もふさわしく感じられるのである。
 
2348 和射美《わざみ》の 嶺行き過ぎて
 零《ふ》る雪の 厭《いと》ひもなしと
 白《まを》せ、その兒《こ》に。
 
 和射美能《ワザミノ》 嶺往過而《ミネユキスギテ》
 零雪乃《フルユキノ》 ※[厭のがんだれなし]毛無跡《イトヒモナシト》
 白其兒尓《マヲセソノコニ》
 
【譯】和射美の嶺を通つて行つて、降る雪に逢ぅたが、そのためのさわりはないとおいいなさい。その子に。
(362)【釋】和射美能嶺往過而 ワザミノミネユキスギテ ワザミは、岐阜縣不破郡。その嶺は、関が原南方の山。「眞木立《マキタツ》 不破山越而《フハヤマコエテ》 狛劍《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》」(卷二、一九九)と詠まれている地である。ユキスギテは、通過して。和射美の嶺を通過してから、雪に逢つた艱難を語つている。東山道を下つて、和射美の嶺を通過して雪に逢つたのである。
 零雪乃 フルユキノ。以上三句、實事を敍して譬喩としている。
 ※[厭のがんだれなし]毛無跡 イトヒモナシト。
  ウトミモナシト(元)
  イトヒモナシト(元赭)
  ウケクモナシト(代精)
  ――――――――――
  消長戀跡《ケナガクコフト》(略、宣長)
  敷手念跡《シキテオモフト》(古義)
  厭時無跡《アクトキナシト》(古義)
  恙毛無跡《ツツミモナシト》(新考)
 ※[厭のがんだれなし]は、厭に同じである。集中イトフと讀んでいるから、イトヒモナシトでよい。嫌厭の意の字で、厭わしいことの意になるのだろう。ふる雪のための身體のさわり。
 白其兒尓 マヲセソノコニ。使者に命じている云い方である。ソノコは、相手の女。
【譯】旅先から使を愛人のもとに出す形で詠まれている。その形式にも特色があり、また實事を敍して、無事を報じたのも、よく利いている。
 
【寄レ花】2349 わが屋戸《やど》に 咲きたる梅を、
(363) 月夜《つくよ》よみ
 夕《よ》な夕《よ》な見せむ 君をこそ待て。
 
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 開有梅乎《サキタルウメヲ》
 月夜好美《ツクヨヨミ》
 夕々令v見《ヨナヨナミセム》 君乎祚待也《キミヲコソマテ》
 
【譯】わたくしの屋前に咲いている梅を、月がよいので、毎晩お見せしようとあなたを待つています。
【釋】夕々令見 ヨナヨナミセム。夕々は君ヲコソ待テと續く。ミセムは、連體形。
 君乎祚待也 キミヲコソマテ。祚を、コソに當てて書いたと見えるが、その理由はわからない。社の誤りともいうが、未詳。也は添えて書いている。
【評語】梅に寄せて人を待つ、すなおな表現である。月夜に人を誘つた歌である。
 
寄v夜
 
2350 あしひきの 山の下風《あらし》は 吹かねども、
 君なき夕は かねて寒しも。
 
 足檜木乃《アシヒキノ》 山下風波《ヤマノアラシハ》 雖v不v吹《フカネドモ》
 君無夕者《キミナキヨヒハ》 豫寒毛《カネテサムシモ》
 
【譯】山の嵐は吹かないけれども、あなたのいない夜は、前から寒いことです。
【釋】山下風波 ヤマノアラシハ。下風は、山を吹きおろす風の義に書いている。
 豫寒毛 カネテサムシモ。カネテは、前から。まだ寐ないうちからの意と解せられる。
【評語】君の來ない夜の寒さが、身にしみて感じられる。しんみりした作である。
 
萬葉集卷第十
 
(2012、5、8(火)、午前10時40分、巻十一以下を切り離したファイルとして作成)