簡略音楽史(西洋編8)

〜近代(印象主義と同時代の作曲家たち)〜

近代音楽は,後期ロマン派とほぼ同時代に生まれた音楽ですが,作曲の技法が異なるため区別されます。

印象主義  印象主義とは  全音音階 機能和声 機能理論

 ドビュッシー  ラヴェル  ドビュッシーとラヴェル  サティ  フランス6人組 ファリャ  レスピーギ  
 


§近代音楽

 ふつうに近代音楽という場合,19世紀の末から第1次大戦までの音楽をさしますが,それ以後のいわゆる現代音楽との間には明確な線を引くことはできないと考えています。

 この時代は歴史上は帝国主義の時代ですが,音楽的には,19世紀全般を支配したロマン派音楽の主情主義がくずれ,20世紀的な感覚的表現へと移る過渡期の音楽と考えられます。

 その第1人者が印象主義音楽の創始者ドビュッシーです。

 また,ロマン的傾向の強いドイツにおいても,R.シュトラウスがさまざまな近代的手法を考案していますが,ロマン主義を完全には否定しなかった作曲家として,後期ロマン派に属するというのが一般的です。ロマン主義を完全に否定した作曲家としてはオーストリアのシェーンベルクがあげられます。

 他方,19世紀に国民主義の温床であった国々からは,原始主義とよばれるものが現れました。
 ロシアのストラヴィンスキーハンガリーのバルトークの初期の作風がそれで,いずれも民族性を極限まで追及した強烈なリズム感と,荒削りな表現を特色としました。

 その他,ロシアにはスクリャービンが出ていますし,この時代に入ってようやく国民主義が熟した国々からは,国民的でありながら,ロマン主義からは一歩進んだ傾向が生まれました。その代表がスペインのファリャです。同様なことは,イタリアにおける声楽中心の傾向を打破したレスピーギや,チェコのヤナチェク,ポーランドのシマノフスキー等についてもいえます。

§印象主義

 ロマン派音楽が機能的和声の極限に達して技法的に行き詰まり,また主観性を強調したロマン主義も帝国主義段階を迎えた社会情勢の中では色褪せたものとなったとき,反ロマン主義の動きが表面化してきたのです。
 
 近代音楽は,概ね,フランスのドビュッシーの始めた印象主義(※詳細)から出発します。
 印象主義の音楽は,印象派文学印象派絵画と共通の地盤に立っているといわれています。すなわち,主観を排して外界の印象や微妙な雰囲気を感覚的に客観的に描こうとしました。

 
 そのためにドビュッシー六全音音階をはじめ,従来の調性に逆行する革新的な技法を作りましたが,そこには,ムソルグスキーの音楽東南アジアの音楽からの影響が見受けられるといわれています。

 印象主義を受け継いだ(ドビュッシーの後継者という意味ではありません※参照)のはラヴェルでした。彼は色彩的な表現に優れ,バレー音楽を始め管弦楽曲,ピアノ曲に名作を残しましたが,彼の作品にも,スペインや東洋の趣味が強く影響しています。

 印象主義の音楽は,フランスの音楽家達にとどまらず,スペインのファリャやイタリアのレスピーギをはじめ,同時代の全ての音楽家たちに,何らかの影響を与えたということです。

 ここで,ジムノペディ等で日本でもお馴染みの音楽家サティを紹介しておきます。彼はラヴェルに影響を与えたといわれていますが,サティの大胆な手法は近代2でふれる表現主義に属すというのが一般的です。
(フランス人であり,ドビュッシーとほぼ同年代の作曲家として,ここでとりあげました。)


          ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 〔ヴァーグナーの作品は,延々と引き伸ばされた長大なものである。
なぜならこの年とった神は,退屈さというものを,彼の信者たちの感覚を麻痺させるのに効く麻薬と考えていたからである。

 ドビュッシーは道を誤った。
というのも,彼はドイツの陰謀から逃れようとして,ロシアの罠に落ちてしまったからである。再びペダルがリズムを溶かし,“近視眼的”な耳に好都合なぼんやりした一種の雰囲気を作り出している。

 サティは非のうちどころがない。非常に明確な線と憂鬱な感情をもった,彼の《ジムノペディ》を聴いてみるがよい。
 ドビュッシーはこれを管弦楽に編曲して,この曲を混乱させ,精巧な構造を雲で覆い隠してしまった。〕
                                                          ジャン・コクト


          ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 



印象主義(impressionism)とは

もとは絵画上の用語で,音楽に借用されました。
音楽上の印象主義は,ドイツにおけるロマン主義の崩壊
(ヴァーグナー以後,ロマン派はいきずまったといわれています。)
にかわって,
ほぼ1890〜1915年にフランスにあらわれ,その技法的な特徴は次の諸点に要約することができます。

純粋和音形式
(各種平行和音および平行音程,解決を要せぬ不協和音,高次倍音・付加音・隣接音・変化和音等を使用)
異なる音響要素のとりいれ,
全音音階
5音音階
中世的諸旋法の活用
細分された律動
精微繊細な管弦楽の色彩(楽器法・管弦楽法)

これらの結果,様式的には,音楽聴取の根本的方向が,在来の終止形を中心とする古典的原理に対して,
音色原理を前面におしだした音響感覚的な音楽がうまれるにいたったのです。


全音音階 whole‐tone scale

半音の音を1つおきにとって,6つの全音にした音階のことです。
その構成はおもに,下に示したとおりで,2種の作り方がありますが,
この音階はおもに器楽に用いられます。




機能和声 functional harmony(英)

調性的音楽だけに見られる性質の和声をいいます。
狭義でいう和声そのもののことをいうのいですが,
古楽の和声,現代作品の和声などと区別してこのようにいうことが多いのです。
この名は機能理論に由来しています。



機能理論 theory of function
音楽理論はいつの時代にも実践の後を追っていることが多いものです。
機能理論についても,ごたぶんに漏れず,
既に,調性的和声のたそがれが来ていた時代にその本質的な性質を明らかにする理論が完成されたのです。
これを機能的和声というのですが・・・・・。

すなわち,主和音属和音下属和音の3つの機能から説明されうる和声のことで
リーマン(独,1849〜1919年,音楽学者,音楽辞典の著者)の機能理論に基づくものをいいます。

***********************

Claude Achille Debussy


(仏)1862〜1918

音楽とは縁遠い陶器商の家庭に育ったものの,1873年パリ音楽院に入り,11年間,
ギロー,ラヴィニャック(仏,1846〜1916年,理論家,パリ音楽院に学びソルフェージュの教授となる.)
マスネーデュラン(オルガニスト,フランスのデュラン出版社の創始者)等について作曲とピアノを学びました。

1881年と1882年ロシアに滞在し,チャイコフスキーの保護者のメック夫人に雇われていました
1889年のパリ万国博では,リムスキー・コルサコフ指揮のロシア音楽と,ジャワの音楽を聴いています。

これらは,彼の後の作品に顕著に表れるロシア的色彩と
非西洋的な音楽ときっと関係がありますね。

1884年,カンタータ「放蕩児」によってローマ大賞を得,イタリアに留学するも,
友のいない孤独な生活に耐えられず,期限の終了前の1889年パリに逃げるように帰国,
(ベルリオーズと何か似ていますね。孤独と挫折は人としてある程度は必要なのかも・・・)
この後しばらくは楽壇を避けるような生活を送る一方,
ヴェルレーヌマラルメなどの印象派の詩に深い共感をおぼえ,彼等と接します。

このほか,ムソルグスキーの音楽や東洋音楽にも接しました

このような時期を経て,ドビュッシーは,ヴァーグナーなどの後期ロマン主義音楽から次第に脱却
独自の語法による新しい感覚の音楽の道に進んだのです。

1892年に発表された管弦楽曲「牧神の午後への前奏曲」(マラルメの詩に基づく)は
この新しき道を暗示した作品です。
この後10年間,ドビュッシーは次々と作品を発表しながら,印象主義の音楽を完成しました。

なかでも,1902年パリで初演された抒情劇「ペリアスとメリザンド」
保守的なフランス楽壇の中にあって絶対的な声価を生み,

1903年曲集「版画」の誕生を機に,ピアノ部門にもその個性を開花させて,以後10余年間に
「前奏曲」「海」「映像」「子どもの領分」などの珠玉の作品を遺しました。


ドビュッシーいわく
「音楽は人を楽しませるよう謙虚に努力を積むべきである。
こうした制約の中に偉大な美が見出されるはずである。
極端な複雑化は芸術とは相容れないものである。


美は感覚に訴え,人に直接の楽しみを与えるべきであるし,
また人に努力をさせずに感動を与え,その心に入り込むものでなければならない。」



***********************


Maurice Joseph Ravel
(仏)1875〜1937年)



モーリス・ジョセフ・ラヴェルはスイスの鉄道技師の父とバスク人の母との間に生まれました。
生後すぐにパリに移り,6歳の頃よりピアノの勉強を始めたそうです。
和声は12歳より学び始め,14歳でパリ音楽院に入学しました。

22歳からはフォーレに就いて作曲を学ぶも,象徴派の文学を愛し,サティからも影響を受けました。

音楽院在学中の1899年「ゆける皇女のためのパヴァヌ」,1901年には「水の戯れ」などの
優れた作品をかきました。
この頃,ドビュッシーとお互いにみとめあい,互いに影響しあいました。

ラヴェルが本格的に創作活動を始めたのは,30歳の頃からです。
1905年「ソナティナ」「鏡」,1906年「博物誌」
1907年には「スペイン狂詩曲」「スペインのとき」,1908年「マ・メール・ロワ」などの作品があります。

バレー音楽「ダフニスとクロエ」は1909〜19012年に,
ピアノ曲「マラルメの3つの詩」は1913年に作られました。

ラヴェルは,第1次世界大戦に出征し,負傷したのですが,その間(戦中から戦後)の作品として
「クープランの墓」(1917),「ラ・ヴァルス」(1919〜20)
「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」(1920〜22)などがあります。

「ボレロ」が作曲されたのは,1927年です。またこの頃アメリカに行き自作の演奏活動も行なっています。
(彼の作品には,ジャズやブルースの影響もみられるといわれています。)

1932年,自動車事故にあい,その後遺症か脳疾患をおこし,廃人のようになり,
1937年12月28日パリで亡くなりました。

ラヴェルの作品には,エキゾティックなものを感じますが,
決してそれだけではなく,フランス音楽として純化されているというのが万人の認めるところです。


***********************

ドビュッシーとラヴェル

ふたりには,明らかな様式上の類似は見られるが,
ラヴェルはドビュッシーからの直接の影響を受けているわけではない
と多くの研究者たちは考えている。

その様式的類似の多くは疑いもなく印象主義的環境に起因している。
ラヴェルは,フランス人としての血,パリ音楽院という背景,
多大な影響力を持ったパリの前衛芸術の運動などを含むこの環境のなかで,
音楽家として円熟していったのである。
ドビュッシーと同様,彼もまたロシアの様式に心を惹かれていた

ラヴェルの音楽が基本的に印象主義的な性格をもっていることは,
旋律和声における官能的な音色,自然を扱った主題,
分や雰囲気の強調,音楽形式の選択の仕方など,
ドビュッシーと同じ技法を多く用いていることでも明らかである。

しかしこのように多くの類似点があるにもかかわらず,
ラヴェルの作品には,明らかに古典主義的な性格がみられる。
つまり彼の主題はより直線的で,輪郭がはっきりしており,
リズムはいっそう明確で実生活に根ざしたものを採用している。
(ボレロ,ワルツ,パヴァーヌ,ハバネラ)

またドビュッシーよりはいっそう力強く,積極的な表現が優勢である。
例えば,音量の幅はドビュッシーのやわらかでデリケートな表現とはまるで違ったものになっている。
ドビュッシーは間接的な表現をするか,暗示をするにとどめるのに対し,
ラヴェルははっきりと宣言を下すのである。

最後に付け加えたいのは,
ドビュッシーの音楽では,音色がその音楽的特質の大きな部分を占めているのに対し,
ラヴェルの場合にはリズムがその芸術の本質であり,核となっているように思われることである。

                                          以上 ドナルド・H・ヴァン・エス



***********************

Eric Satie
(仏)1866〜1925年



フランス6人組の指導者で,その作風は伝統にとらわれず,大胆な手法を用いています。
人間的にも奇人であったといわれ,
音楽においても,人の意表をつくユーモアに溢れた作品を書きました。

サティはパリが耽美主義に浸かっていた時期に,『ジムノペディ』(1888年),『ひからびた胎児』(1913年)
などのピアノ作品で,簡潔さ,機知,表現の直接性をその作品でうちだしました。
彼の音楽の特徴である軽快さ,ユーモアそして音の節約は,その後
ラヴェルストラヴィンスキーらにとりいれられることとなります。

サティいわく
「私はとっても古臭い世界に,とっても若く生まれた。」
「私はいつも自分を音響測定家と考えてきた。」
「大芸術家はすべてアマチュアだ。」
etc.


作品
ユーモア・・・風刺と・・・ともかく個性的な題名を紹介します。

「ナマコの胎児<ひからびた胎児>」  
「梨の形をした3つの小品」 「アーモンド入りチョコレートのワルツ<童話音楽の献立表>」
「家でひとり<犬のためのぶよぶよした本当の前奏曲>」 
「おしゃべり女<あらゆる意味にでっちあげられた数章>」
「バラ十字教団の最初の思想」


***********************

フランス6人組

第1次世界大戦後パリで,反ロマン主義,反印象主義の旗をかかげ,
サティの音楽をよりどころにして,単純・直截な新しい音楽の創造に乗り出した,
デュレイ,オネゲル,ミヨー,タイユフェール,オーリック,プーランク
の6人のグループをいう.(詳細は現代音楽で)

***********************

Manuel de Falla
(西)1876〜1946年(アルゼンチン)



マヌエル・デ・ファリャは,スペインの作曲家で,アルベニスグラナドスの先輩に続いて,
スペインの国民音楽に貢献しました。
幼い頃より音楽の才能を示し,若くして優れたピアニストとして名声を得ていたそうです。

1907年より,パリに滞在し,ドビュッシーらの印象主義の影響を強く受けましたが,
つねに,強い民族的色彩を失わず,帰国後は,印象主義からも脱し
ますます独自の語法を発展させました。

作品
バレー音楽「恋は魔術師」「三角帽子」
ピアノと管弦楽のための「スペインの庭の夜」


***********************


Ottorino Respighi
(伊)1879〜1936年



オットリーノ・レスピーギは,ボローニャの音楽院を卒業後,
ロシアでリムスキー・コルサコフに学び,
1913年ローマのサンタ・チェチリア音楽院の作曲家教授,1923年同校校長となりました。

レスピーギはイタリアの古い作曲家の作品を研究し,ローマの風物による作品を書きました。

作品
交響詩「ローマの泉」「ローマの松」「ローマの祭り」
組曲「鳥」,バレエ

           
                           近代2につづく



                        音楽史もくじ
                        
                                音楽室トップ

02/5/12