山県家 家臣団
 
 
 
  山県昌満 (?〜1582年)
 山県昌景の子。源四郎。武田滅亡時に討死。
 
 
  小菅五郎兵衛 (?〜1582年)
 飯富虎昌、山県昌景の従兄弟。山県衆。元亀二年の徳川家との戦で功があり、足軽大将となる。長篠合戦後は昌景の子の昌満の陣代となる。武田滅亡時、武田家への背信により誅された。
 
 
  孕石源右衛門 (?〜1615年)
 駿河出身。永禄十三年、駿河花沢城合戦で一番槍を果たし、その功を評価され、山県衆に配属された。武田滅亡後は井伊直政に仕え、千五百石の旗奉行となる。大阪の陣で討死した。
 
 
  広瀬景房 (?〜?)
 郷左衛門、美濃守。板垣衆。後に山県衆。山本勘助に軍学を教授された。天文十二年、尾台城合戦で城主の馬を手に入れると豪語し、言葉通りに馬を奪った。永禄十二年、駿河八幡平合戦で戦功を挙げる。元亀二年、吉田城合戦で城門近くまで攻め込み、惣構門の櫓から家康に名を聞かれ、山県同心広瀬郷左衛門也、と答え敵味方から賞賛された。武田滅亡後、家康に召し出され、吉田城での剛胆ぶりを誉められ、井伊直政の赤備えに配属された。
 
 
  石黒五郎兵衛 (?〜?)
 将監。山県衆。武田滅亡後は家康に仕え、井伊直政に属した。
 
 
  辻盛昌 (1538年〜1612年 75歳没)
 山県衆。第四次川中島合戦で功があった。富士宮での北条家との戦では猪子才蔵とともに先陣を切り功をあげ、高天神城合戦では膝頭を射られるも首級を挙げた。山県衆本陣に引き返すと、戦の終わらぬうちに戻る奴があるか、と叱責されて奮起。再び敵中に攻め入り、首級を挙げた。三方ヶ原合戦では山県衆二番槍。武田滅亡後、四十騎の部下とともに家康に仕えた。
 
 
  松岡貞利 (?〜?)
 伊奈衆。山県昌景に仕える。信州松岡城主。天文二十三年、武田家に攻められ落城。
 
 
  大熊朝秀 (?〜?)
 越後箕冠城主。備前守。父正秀は長尾為景に仕え、永正十四年、大永七年、享禄二年に段銭納入文書を残す。享禄年間から記録が無く、この時期に没したと思われる。朝秀は為景と対立するも、天文五年、為景に敗れ家臣となる。景虎政権の中枢の一人となるが、武田晴信からの密約により謀反。しかし、長尾景虎に一蹴され越中に逃れる。武田晴信の助力で越後に攻め込むが撃退され甲斐に逃れる。以後、山県昌景に属す。永禄六年の上州箕輪城攻めの功で足軽大将となる。武田滅亡後の消息は不明。
 

 
  【付記】
 
 
 
 【山県昌景の出自】
 毛利家の史料「閥閲録」によると山県昌景は安芸の出身で、飯富虎昌の弟ではなく甥と云う。
 
 「山県三郎兵衛昌景は四位右馬助重房弟にて、母者飯富兵部姉、昌景十一歳之時、継母と不和にして、家之軍神摩利支天之像を、法花普門品之文字を以図したる守を隠持、従藝州甲州へ行、叔父之飯富兵部を頼、兵部弟を号、信玄に仕飯富源四郎と申、其後山県三郎兵衛昌景ニ罷成、天正三年五月廿一日三河国長篠合戦ニ討死仕候」
 
 同書によると山県昌景の父は重秋、生母は飯富虎昌の姉である。兄は右馬助重房。重房は大内義興に従って上洛し、将軍から感状を賜った。十一歳のとき、継母(生母は没した)と不和になり、甲斐の叔父飯富虎昌に下に身を寄せそのまま信玄に仕えたと云う。
 
 
 
 【武田信玄の人選方法】
 山県昌景は身長四尺ほどの小男で、兎口であった。兎口とは一種の奇形で、唇が裂け、兎のようになることをいう。武田信玄は彼の素質を見抜き、そして重用した。戦傷によって歩行困難であった山本勘介も重用されている。武士に戦傷は付き物であろう。武田信玄は人を使う時、外見ではなく内面、特に資質を重んじたのだ。後に徳川家康も、障害を持った武士を笑う小姓に激怒している。石田三成はハンセン病に苦しむ大谷吉継との友情を最後まで大切にした。優秀な戦国大名は、外見で人を判断せず、中身で人を判断することを非常に重視していた。
 
 
 
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