筒井家 家臣団
 
 
 
  筒井順興 (1487〜1535年 49歳没)
 筒井順尊の嫡子。天文元年、一向一揆と争う。天文四年七月五日、四十九歳没。子は順昭、順国。
 
 
  筒井順賢 (?〜?)
 筒井順尊の次男。
 
 
  慈明寺順国 (?〜?)
 筒井順興の次男。筒井順昭の弟。兄の娘を娶り、後に順慶の養嗣子となった定次が生まれている。戦国時代に限らず、日本では近親婚の例が多い。順国の場合も叔父と姪という近親婚の一例である。本能寺合戦後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。
 
 
  筒井城之介 (?〜?)
 筒井順昭の子。順慶の弟。「寛永諸家系図伝」に名がある。信長、秀吉に仕えた。
 
 
  筒井新兵衛 (?〜?)
 筒井順慶の子。母は南石蛸助の娘。
 
 
  筒井定慶 (?〜?)
 福須美順弘の子。筒井順慶の養子。
 
 
  筒井慶之 (?〜?)
 福須美順弘の子。筒井順慶の養子。
 
 
  筒井順定 (?〜1615年)
 筒井定次の子。母は織田信長の娘。慶長二十年三月、自刃。
 
 
  筒井紀伊守 (?〜?)
 筒井城之介の子。順慶の甥。家康に仕える。慶長十五年八月三日、六十歳没。子の正次は秀忠に仕えるが、元和元年五月三日、二十七歳で没した。孫の正信は家光に仕え、千二百石を賜った。
 
 
  筒井順政 (?〜?)
 筒井一族。本能寺合戦後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。
 
 
  福住宗職 (?〜?)
 筒井一族。本能寺合戦後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。
 
 
  福住順弘 (?〜?)
 筒井一族。本能寺合戦後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。
 
 
  山田順国 (?〜?)
 筒井一族。本能寺合戦後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。
 
 
  布施左京進 (?〜?)
 筒井一族。本能寺合戦後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。
 
 
  十市遠治 (?〜?)
 大和の士豪。十市氏は筒井氏に属していたが、十市遠治の頃には両家の関係は疎遠になっていた。子は遠忠。
 
 
  十市遠忠 (?〜1545年)
 十市遠治の子。筒井順昭の妹を娶る。十市城主。龍王城を築城。筒井順昭と対立。天文九年九月、大和興福寺の申し出により、幕府は両家の仲裁役となる。これにより十市遠忠は筒井順昭と和睦し、有力な家臣となった。天文十一年、木沢長政が討死すると筒井順昭は木沢領へ侵攻。十市遠忠は楊本城や福智城などを攻め落とした。天文十三年七月二十七日、筒井順昭の柳生攻めに協力するため、三百名を派遣。天文十四年三月二十六日、病没。子は遠勝。
 
 
  十市遠勝 (?〜?)
 十市遠忠の子。
 
 
  嶋友保 (?〜?)
 嶋清興の父。大和の国人。足利家、次ぎに筒井家に仕えたと伝わる。生国は対馬と言うが、詳細は不明。恐らくは俗説だろう。
 
 
  井戸覚弘 (1556〜1638年 83歳没)
 井戸良弘の長男。若狭守。筒井順慶に仕える。慶長十四年、召されて秀忠に拝謁。寛永九年、隠居。同十五年十月、八十三歳で没した。
 
 
  井戸治秀 (?〜? 71歳没)
 井戸良弘の次男。忠右衛門尉。秀忠、家光に仕える。某年、七十一歳で没す。子の秀長は家光に仕えた。
 
 
  井戸直弘 (?〜?)
 井戸良弘の三男。新右衛門尉。慶長十五年、秀忠に拝謁。十七年、御書院番。元和九年、家光に仕える。寛永十五年十二月、御弓頭。
 
 
  井戸良弘 (?〜?)
 筒井重臣井戸良弘の長男、覚弘の子。祖父と同じ名を称す。左馬助。慶長十五年、秀忠に拝謁。十七年、青山忠俊に属し御書院番となる。十九年、冬の陣に出陣。二十年、夏の陣で首一つを挙げる。同年八月、夏の陣の功により加増。寛永九年、家督を継ぎ、さらに御諸道具奉行になる。十九年三月、与力十騎、鉄炮同心三十人を預かる。子は祖父と同じく覚弘を称した。
 
 
  井戸勝吉 (?〜?)
 井戸覚弘の外孫で、父は山崎勝家。覚弘の養子となる。寛永元年、二十歳のとき、家光に仕え御小姓組。九年、大御番。
 
 
  森好高 (?〜?)
 大和の国人で、筒井家に仕える。天正十五年二月、筒井家を去る。
 
 
  中坊秀祐 (?〜?)
 筒井家臣。嶋清興領の百姓は水不足に悩まされ、清興は秀祐に分水を願い出る。しかし、秀祐はこれを断る。すると清興は独断で別の場所に井戸を建設。秀祐は清興を訴え。定次が秀祐領の百姓に理があるとしたため、清興は筒井家を去っている。慶長十三年、定次の行いを訴える。これにより、筒井家は改易された。中坊秀祐は徳川家に仕え、奈良奉行となった。慶長十四年没。筒井旧臣が忍びを雇い、暗殺したと云う。
 
 
  桃谷与次郎 (?〜?)
 慶長十四年、伊賀の服部平七郎を雇い、中坊秀祐を暗殺したと云う。
 
 
  松蔵弥八郎 (?〜?)
 筒井家臣。天正十一年、伊賀攻めに一族松蔵弥二郎と共に出陣。負傷している。他に中村九郎三郎らも負傷している。
 
 
  鷹山主殿助 (?〜?)
 天文十三年七月二十七日、筒井順昭の命により柳生攻めに出陣。しかし、柳生城の守りは固く、筒井勢は多くの死傷者を出した。そこで筒井順昭は柳生城の水路を断ち、近隣の須川城を落とすことで柳生城を孤立させた。同年七月二十九日、柳生城は開城した。
 
 
  木阿弥 (?〜?)
 黙阿弥。盲目。僧侶。天文二十年、筒井順昭が没すると風貌が良く似ていたため、暫くの間、順昭の代役を務める。後に木阿弥は僧侶に戻ったと云う。
 

 
 兵法者
 
 
  柳生厳勝 (1551〜1616年 66歳没)
 新次郎。柳生石舟斎宗厳の長男、新陰流三代同統である柳生利厳の父。若い頃の二度の鉄炮傷で歩行不能となり隠棲する。必死の訓練により歩行できるようになり、元和二年四月五日、流浪の中に没した。
 
 
  柳生宗章 (?〜1603年)
 五郎右衛門。柳生石舟斎宗厳の四男。長男厳勝は歩行不能となり、次男久斎、三男徳斎は僧籍にあり、宗章は五男宗矩とともに仕官先を求めて旅に出る。小早川秀秋に仕官したが、秀秋の死によって藩は改易、再び流浪の身となる。かつて剣を教えた横田村詮の元に身を寄せるが、村詮が主君中村忠一に謀殺されると、その子主馬助ら三百人とともに飯山城に籠もる。吹雪の中、突撃をかけ十八人を斬り、討死したという。 
 
 
  宝蔵院胤栄 (1521〜1607年 87歳没)
 大和興福寺塔中宝蔵院院主。宝蔵院胤栄の次男。松栄丸、覚禅房胤栄、伊勢伊賀守。成人後、父の名を継ぐ。宝蔵院は僧兵集団であり、大名のような影響力を持っていた。当初は薙刀を使用していたが、これは長刀を仏を護るための道具とする考えがあったためである。他の僧は槍を使うことを非難したが、胤栄は逆に彼らと立ち合うことで己の技の正しさを証明した。薙刀の達人穴沢盛秀と立ち合ったこともあると言う。盛秀は大坂の陣で豊臣家に属し討死したと伝わり、弟子の阿多棒庵は柳生利厳に槍を教えたと言う。槍の使い手成田盛忠と立ち合ってからは槍の術に傾倒。ある日、池に映った三日月と槍の先が重なり、十文字に見えた。胤栄はそこから十文字槍を考案したと言う。月剣と呼ぶ十文字鎌槍を使う槍術の評判は極めて高く、宝蔵院流は勇名を馳せた。一説に十文字槍は有名な剣豪松本備前守がすでに使用していたとも伝わる。十五本の式目を制定。神道流も学び、上泉信綱上洛の際には昵懇であった柳生宗厳とともに立ち合いを望む。宗厳が疋田文五郎に敗れると、信綱の門人となる。信綱は技量は申し分ないが、胤栄は仏に仕える身であるとして印可を与えなかったと言う。後年は殺生の術に励んだ自分と、それを伝えた自分のあり方に悩み、隠居した。慶長十二年正月二日没。
 
 
  宝蔵院胤舜 (1589〜1648年 60歳没)
 禅栄坊。宝蔵院胤栄の跡を継ぐ。晩年の胤栄は槍術を否定したが、胤栄は槍の宝蔵院と言う誇りから再び槍術普及を行った。禅舜坊胤清が跡を継いだ。
 
 
  金春氏勝 (?〜?)
 能楽金春流七代目にして兵法にも通じた異能者。剣を柳生石舟斎に、槍を宝蔵院胤栄に学び皆伝を得る。石舟斎から金春流に伝わる「一足一見」と、新陰流の「西江水」を交換教授しようと言われ、これに応じる。新陰流が能と深いつながりがあるというのはこうしたことによると言う。
 
 
 
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