津軽家 家臣団
 
 
 
  久慈治義 (?〜?)
 久慈政継の子。子は信義、為信、五郎。
 

 
  久滋治義の子供
 
 
  久慈信義 (?〜?)
 久慈治義の長男。津軽為信の異母兄。久慈城主。与三郎、左馬助、三河守。為信とは親子ほども年が離れているらしい。為信は信義と不和になり、大浦為則の婿養子になったという。妻は九戸家の娘。
 
 
  久慈五郎 (?〜?)
 久慈治義の三男。津軽為信の同腹弟。為信と共に津軽に向かった。
 

 
  津軽為信の子供
 
 
  津軽信建 (1574〜1607年 34歳没)
 津軽為信の長男。宮内大輔。天正十七年、秋田実季の娘を娶ることとなる。為信は石田三成を介して秀吉と接触。三成は信建元服の際に烏帽子親になっている。信建にとって三成は実父も同然だった。関ヶ原合戦では西軍として大阪城に。為信は京都におり、東軍に軍兵を送る一方で信建にも兵三百人を送ったという。信建はこの三百の兵で出陣しようとしたが、三成は大阪城に残るよう命じた。信建は大阪城にいた三成次男隼人正重成、後の杉山源吾を若狭から海路で津軽に逃がしている。これは、若狭武田家が一族の蝦夷蠣崎家と貿易をしていたルートを利用したものである。結果から考えると、万が一に備えて信建を出陣させなかったようにも思える。信枚の東軍参加などで恩賞を賜るが、それは最も少ない二千石の加増だった。信建は大阪城に残ることになり、西洞院時慶との親交を深めた。彼の「時慶卿記」には信建の子供についても書かれている。慶長七年、為信は孫の大熊の顔に誤って火傷をさせてしまう。信建は大熊を引き取ろうと天童衛門四郎らを為信の下に送る。しかし、為信は二度に渡りこれを拒否。使者の不手際と怒った信建は天童一族を処刑してしまう。激怒した衛門四郎ら四名は堀越城本丸で刀傷沙汰を起こし、信建は女装をして難を逃れた。衛門四郎らは誅殺され、この事件は「天童事件」と呼ばれるようになる。この事件以降、堀越城から新城に移ることが決まり、沼田面松斎の意見を聞き入れて高岡城の築城が決まる。為信も信建も完成前に没してしまい、信枚が高岡城主として津軽藩を治めていくことになる。慶長十一年十二月二十五日、三十四歳で没す。時慶は西洞院家菩提寺で数年に渡って法要を営んだ。杉山源吾の家系は代々津軽家に仕えた。
 
 
  津軽信堅 (?〜?)
 津軽為信の次男。早世した。
 

 
  津軽一門
 
 
  久慈直治 (?〜1591年)
 久慈信義の子。津軽為信の甥。伯父為信と年齢が近かったと云う。九戸の乱に参戦。子は政則。
 
 
  久滋政則 (?〜?)
 久滋直治の子。父と共に九戸の乱に参戦。誅殺された。
 
 
  津軽熊千代 (1600〜1622年 23歳没)
 津軽信建の長男。父と祖父が同年に没したため、熊千代を擁立しようとする一派に担がれ叔父信枚と家督を争う。しかし、信建が西軍派だったのに対し、信枚は東軍派であったため幕府は信枚を支持。本多正信、正純親子は熊千代に毎年百両を与えるよう信枚に命じ、信枚が家督を相続することを認めた。慶長十四年正月のことである。熊千代は津軽に戻れず江戸に残り、加藤清正に仕えるが病弱だったため致仕。幼いため、家臣が熊千代に代わって役目に就いたのだろうか。この清正への士官も事実がどうかは怪しく、早世したこと以外は定かではない。江戸万隆寺門前に住み、元和八年十二月二十八日に二十三歳で没した。法名「桂林源勝大禅定門」。
 
 
  津軽弁千代 (?〜1643年)
 津軽信建の次男。父信建と親交のあった西洞院時慶は慶長七年に太刀を贈っている。また、「時慶卿記」の慶長八年七月六日の頁には信建に三男が生まれたと記されている。しかし、三男についてはそれ以上はわかっていない。寛永二十年十月八日に没した。法名「雪狐一峰大禅定門」。
 
 
  津軽建広 (?〜?)
 大河内建広。兵庫、左馬助。元後北条家臣であったが、小田原征伐後は津軽家に仕える。慶長四年、津軽為信の次女を娶る。姓を津軽に改め、大光寺城城代となる。信建の遺児熊千代の後見人となるが、熊千代の擁立に失敗。居城を攻められる。後に江戸城御典医となる。長男の建次は大御所秀忠に拝謁。次男建義も家光に拝謁し、表番外科になる。家系は津軽家庶流として幕末に至る。
 
 
  杉山源吾 (1589〜1641年 53歳没)
 石田三成の次男。石田隼人正重成、俊成。関ヶ原合戦後、津軽信建によって若狭経由で津軽まで逃がされる。津軽では杉山源吾と名乗り、深味郷で十年ほど隠棲。そして大館に移り、正式に津軽家臣となった。津軽三代信義の母は三成の娘であり、北政所の養女となった辰姫である。これまで北政所と三成は対立していたとされたが、辰姫を養女にするなど関係は良好だった。慶長十六年、弘前城完成時には杉山源吾が大坂から持参した秀吉座像が祀られた。没年は慶長十五年四月二十八日・二十二歳説があるが、これは隠棲の期間と一致するため幕府の目を偽る策と思われる。位牌には没年は不明ながらも四月八日に没したとあり、二十二歳説が正確ではないことを証明している。最有力なのは寛永十八年四月八日・五十三歳説である。法名「道光院殿覚翁了関居士」。長男の八兵衛吉成は信枚異母妹を娶り家老となった。吉成の一字は三成に通じ、千三百石を知行する。寛文九年七月のシャクシャインの乱では幕命により七百名の率いて蝦夷に。子孫は重臣として津軽家に仕え、家系は明治に至る。杉山源吾には次男もおり、石田掃部を名乗っている。五百石で津軽家に仕えた。
 
 
  久慈某 (?〜?)
 久滋一門。石川城攻めに名が見える。久慈家は九戸の乱に参加したため南部家から離れ、為信のいる津軽に向かった。津軽家臣に久慈姓の者がいるが、それは為信の遠縁に当たる者だろう。
 

 
  大浦一門
 
 
  大浦盛信 (?〜?)
 大浦家当主。信濃守。光信の子。天文十年に四十四歳で討死したと伝わるが、これは誤りである。実際は天文十五年以降も存命していた。子は為則。
 
 
  大浦為則 (1520〜1567年 48歳没)
 大浦盛信の子。右京亮、左京亮。次女戌姫を為信に嫁がせ、婿養子として迎え入れる。これは永禄十年三月十日である。それから六日後の十六日に没した。津軽家側の記録では為信の伯父としているが、これは系譜を書き替えたためである。
 

 
  津軽家 家臣団
 
 
  沼田勘右衛門 (?〜?)
 津軽家の軍配者沼田祐光の子。五百石。
 
 
  森岡妥女 (?〜?)
 森岡信元の子。父の死後、追子野木に隠棲。津軽信枚に三百石で召し抱えられた。後に家老となり、七百石を知行。
 
 
  筒井定成 (?〜?)
 筒井順慶の孫。関ヶ原合戦以降、津軽家に仕官。八百石。
 
 
  九戸市左衛門 (?〜?)
 九戸政実の子。九戸の乱で父は討たれるが、その直前に為信に預けられた。為信は市左衛門を馬廻衆四百石とした。家は幕末に至る。
 
 
  宮館文左衛門 (?〜?)
 慶長十五年、弘前城築城の際、総奉行となる。
 
 
  東海吉兵衛 (?〜1626年)
 加賀の生まれ。津軽為信に仕えて四百石を知行。一説によると関ヶ原合戦に際し、三百石で召し抱えられたと云う。兵法、特に弓に優れる。また、北条流軍学にも精通していたとされる。慶長十五年、弘前城築城の際、縄張りを担当。和徳から大石を城の二の丸堀まで引き入れたところ、病気療養中の八木織部の代理人と口論になり、大脇差で殺害した。この大石はそのまま放置されたが、元禄七年、津軽信政は幕府の許しを得て本丸の東と南の石垣に石を入れている。寛永三年没。病死とも自害とも伝わる。
 
 
  谷口仁兵衛 (?〜?)
 慶長十五年、弘前城築城の際、竿奉行となる。
 
 
  徳仁豊前 (?〜?)
 津軽家中でも裕福な人物で、そのために驕慢になり、放蕩生活を送っていた。その罰として弘前城建設に際し、長勝寺構に土塁を建設するよう命じられた。
 
 
  高倉盛次 (?〜1636年)
 御所袋若狭の子。六郎次郎、五左衛門。最上家臣であったが、主家改易後に津軽に移る。寛永元年九月二十一日、津軽信義の守役として仕官し、五百石を賜る。寛永十年、故あって津軽家を辞し、浪人となった。寛永十三年七月二十一日没。婿養子は鍋倉秀道の次男盛成。盛成は高倉盛次の外孫であり、その血縁から婿養子に迎えられたと云う。高倉家、鍋倉家とも最上家に仕えており、その時期に姻戚関係になっていたようだ。
 
 
  高倉盛成 (1608〜1683年 76歳没)
 鍋倉秀道の次男。高倉盛次の婿養子となる。主計。寛永十年、義父高倉盛次と共に津軽家を去る。寛永十七年十一月二日、再び津軽家に仕え、三百石を賜る。御徒頭。慶安二年十二月三日、二百石を加増され、家老となる。寛文四年正月十二日隠居。仏門に入り、休罷を号す。天和三年六月二十六日、七十六歳没。
 
 
  北村茂左衛門 (?〜?)
 祖は近江北村の領主であったが、関ヶ原合戦以降、浪人となる。津軽家に仕官し、深浦城代となる。子は久左衛門。
 
 
  北村久左衛門 (?〜1646年)
 北村茂左衛門の子。家老。千石。正保三年、重臣八名は津軽信義を廃し、弟信英を当主に擁立しようとした。久左衛門も計画に加わっていたが、直前になって恐ろしくなり、信義に密告。計画は失敗し、久左衛門等は誅殺された。
 
 
  八木織部 (?〜?)
 弘前城築城に参加。途中、病気になり代理の者を派遣した。代理の者は東海吉兵衛と口論になり殺害されている。
 
 
  松野信安 (?〜?)
 南部家臣武田九郎左衛門の子。新四郎、久七。父は九戸の乱に加わり、信安は為信に預けられた。松野姓に改め、為信から一字を賜る。津軽藩家老となり、慶長十二年十二月五日に為信の最後を看取る。為信は信安に信枚のことを任せたという。関ヶ原合戦で大垣城を攻めたと言うが、これは根拠がない。
 
 
  大湯勝三郎 (?〜?)
 南部一門大湯昌次の長男。父が九戸の乱に参加し、弟伴二郎とともに為信に預けられる。後に大湯家は津軽藩重臣の家柄となる。
 
 
  八木橋備中 (?〜?)
 為信の重臣。天正十七年に上洛し、秀吉に鷹と名馬を献上。津軽三郡と合浦一円を安堵された。
 
 
  笹森勘解由 (?〜?)
 笹森館主。元は「砂子瀬」を姓とする。小栗山左京と共に野伏八十三名を率いて為信に仕える。武勇名高く、功績が認められ笹森館を賜る。「鬼勘解由」と恐れられた。大間越奉行となり、佐竹領秋田との国境を警備。勘解由の他に菊池刑部、山上衛門佐、七戸修理らも国境を守る。信枚の時、海賊小野茶右衛門を討つ。
 
 
  乳井玄蕃 (?〜1565年)
 乳井福王寺別当覚恩房。山城より移る。福王寺は南朝に属したために足利軍に焼かれたことがある。室町期、民衆は武装し福王寺に籠もった。南部家にも従わない威風から「沙門大名」と呼ばれ、乳井薬師堂大隅館に居住す。沙門とは修行僧を意味する。永禄八年六月五日夜、滝本重行の刺客により路上で暗殺される。子の建清は若年のため仇討ちが出来ず、逆に抑えとして高畑城を築かれてしまう。
 
 
  乳井建清(?〜1584年)
 大隅、覚林房。大光寺城主。元亀二年、為信が石川城を攻め落とすとこれに倣い高畑城を攻め落とす。為信に仕え、津軽統一に参加。同年八月、板垣信成、兼平中書らとともに南部家の勢田石隠岐を撃退した。天正七年七月、滝本重行らが津軽を攻めるが、建清は大浦城にいたために乳井城まで攻められる。為信勢は反撃で比山六郎を討ち、重行らは撤退した。これを六羽川合戦と呼ぶ。
 
 
  千徳政氏 (?〜1596年)
 平賀郡浅瀬石城主。大和守。永禄四年、為信と結ぶと言うが誤りではないか。為信の軍に加わり滝本重行、千徳政武らを滅ぼす。津軽を二分することを条件にと言うが、為信の挙兵が晴政の命令だったことを考えるとこれも疑わしい。滅ぼした千徳政武は掃門を称す支族である。天正十三年九月、南部家臣名杭日向の三千の兵を、為信の援軍と協力して撃退。攻め手を深田に誘き寄せ、七百の兵で打ち破った。慶長元年、為信に討たれた。子の政康は慶長元年、為信に背くが、二千五百の兵で攻められ二月二十六日に自刃した。これは父政氏の仇討ちと言う。父の死後、即座に決起したようだ。
 
 
  葛原祐清 (?〜1600年)
 葛原館主。治部。為信に早くから仕え、百四十五名を率いる。慶長五年、尾崎喜蔵が背くと、これに討たれた。
 
 
  田中太郎五郎 (?〜1579年)
 六羽川合戦は為信本陣まで攻撃される激戦となった。この時、太郎五郎が為信の身代わりに討死し、危機を救う。反撃の機会を捉えた為信軍は盛り返し、南部軍を撃退した。
 
 
  多田采女 (?〜?)
 唐牛城主。為信に仕え、後に「唐牛」を姓とする。
 
 
  築地十郎 (?〜?)
 周防、長胤。出羽最上義秋の子。津軽に移り、浅瀬石城主千徳政氏に仕える。政氏の妹を娶り、中野不動館主となる。
 
 
  石名坂正長 (?〜?)
 石名坂館主。近江。千徳政氏に属し、天正十三年の宇杭野合戦に出陣した。
 
 
  小栗山左京 (?〜?)
 小栗山館主。為信の津軽統一に参加。
 
 
  新屋源次郎 (?〜?)
 新屋城主。滝本重行に仕えるが、重行が討たれると為信に属す。
 
 
  一戸又五郎 (?〜?)
 十一矢姓でもある。一族の兵庫介とともに為信の石川城攻めに参加した。南部家臣が石川城攻めに参加しているのは、これが晴政の策略だったためである。
 
 
  櫛引助太郎 (?〜?)
 南部一門櫛引氏の者。弟の孫次郎とともに石川城攻めに参加。
 
 
  築地添也 (?〜?)
 宇喜多家臣。関ヶ原合戦以降、津軽家に仕官。
 
 
  傍島主水 (?〜?)
 宇喜多家臣。関ヶ原合戦以降、津軽家に仕官。
 
 
  進藤正次 (1614〜?)
 最上家臣佐竹正吉の子。慶長十九年生。庄兵衛。最上家改易後、佐竹氏は津軽に移住した。寛永十七年十一月二日、津軽信義から二百石を賜る。江戸勤番中、津軽信義に諫言をしたことがあり、胆力のある人物だったと思われる。正保四年十二月、百石を加増され、御弓足軽頭となる。寛文二年十二月二十三日、百石を加増。寛文十二年十一月一日、二百石を加増。同年十二月一日、家老職。延宝八年十月六日、家老職を辞す。貞享二年三月二十八日、四百石を加増され、知行は千石となった。弟は與三左衛門。子は太右衛門。
 
 
  長山盛茂 (?〜?)
 最上家臣長山若狭の次男。助左衛門。最上家改易後、津軽家に仕えた。元和年間、津軽家から六百石を賜る。寛永八年八月十八日、江戸勤番の役目を終えて津軽に戻る途中、佐竹領に入る。その際、通行手形を求めたと「梅津政景日記」に記される。同書は長山盛茂は佐竹家臣長山彦兵衛の兄弟と記している。
 
 
  尾崎喜蔵 (?〜1600年)
 滝本重行に仕えるも、重行が討たれてからは為信に属す。関ヶ原合戦に参加するため松野信安、板垣兵庫、多田玄蕃とともに出陣。だが、松野信安以外の三将は出陣を遅らせた。西軍に味方するためだったが、三人は戦後に堀越城に籠もり、同じ津軽家臣金信則に攻め滅ぼされた。ここで肝心なのは、この関ヶ原合戦のための出陣が実際はなかったことである。為信が大垣城攻めに参加したとするものもあるが、これは誤りである。為信は石田三成と親交の深い西軍派で、東軍には三男の信枚が参加。為信は長男信建とともに合戦に参加することはなかったが、西軍よりの態度を示した。信枚のおかげで所領は安堵されたが、西軍に属そうとしたことは消すべき事実であり、三将はそのために討たれたのだろう。
 
 
  金信則 (?〜1609年)
 小三郎、主水。西軍派として堀越城に籠もった三将を討ち、その功により津軽姓を許される。信建の使者としてたびたび西洞院家を訪ねた。信建派であったため、信枚の家督相続が決まると知行召し上げの上、切腹となった。信枚が密かに逃がし、新岡姓に改め開拓事業に生涯を費やしたともいう。
 
 
  念西坊頼英 (?〜?)
 油川田明寺の僧。天正十三年五月、為信の外ヶ浜攻めに参加し、周辺に放火をした。
 
 
  小野茶右衛門 (?〜?)
 津軽の海賊大将。為信に従い、茶右衛門館に居住す。慶長九年、深浦森山検番。信枚の時に攻められ、笹森勘解由の軍に館を包囲されて討たれた。
 

 
  【付記】
 
 
 
 天正十七年、秋田安藤家の内乱が始まる。これは中央から私戦と見なされ、東北一円に討伐の危機が迫った。敵対する南部家は中央との接触が早かったため、為信も討伐の対象とされている。十七年の秋以降には為信家臣八木橋備中が上洛。この年、信建が秋田実季の娘を娶ることで両家は和睦しており、備中の上洛はこれ以降と思われる。十八年には為信自身が上洛した。
 
 
 
 【津軽為信の出自】
 津軽為信の出自に関して、津軽家は情報操作を行っている。為信は南部支族久慈家の出である。津軽家はこの事実を嫌って為信以前の系図を書き替えた。それによると津軽氏は藤原秀衡の弟秀栄を祖とし、為信は近衛尚道の血を引く藤原氏であるという。これは津軽側の史料に記されているのだが、すでに書いたように為信は南部支族久慈氏である。
 大浦為則は次女戌姫を為信に嫁がせ、婿養子として迎え入れる。これは永禄十年三月十日である。それから六日後の十六日に没した。津軽家側の記録では為信の伯父としているが、これは系譜を書き替えたためである。中央では天正十八年ごろまでは南部一族「南部右京亮」と書かれている。このため、近衛家との血縁を主張しようと前久の猶子となる。上洛などが認められ、天正十九年からは「津軽右京亮」と書かれている。
 
 
 
 【津軽家独立の理由】
 津軽為信は南部晴政に仕える重臣であり、南部晴政と共に石川父子と対立した。為信は石川高信を討つが、元亀三年八月四日、南部晴政も没してしまう。同年九月、晴政の子晴継は父の葬儀の帰りに凶賊に襲われ、僅か十三歳で殺害される。
 南部晴政の長女は信直に嫁いでいたが、この頃には没している。そのため次女を娶った九戸実親が二十六代候補となるが、北信愛が強引に信直を当主に迎え入れた。北信愛は高信派の人間である。この時点で次ぎに討たれるのは為信である。だからこそ、為信は南部信直と戦った。為信の独立を南部家は野心によるものとしているが、為信には独立以外に道が残されていなかったのだ。
 石川父子が南部晴政と対立していたこと、信直が南部家の家督を簒奪したことを知らなければ野心説が事実とされてしまう。こうした経緯があるため為信は逆臣とされることを嫌い、文禄二年に南部贔屓の前田家臣奥村主計に罵られ、他の前田家臣や浅野長政も同調したことに激怒。
 以後、津軽家は前田家、浅野家と絶縁した。為信は飢饉や疫病に苦しむ民衆のため、南部家に食料援助を申し出たことがある。また、日頃から倹約に勤しみ、妻子の服も粗末な物で十分だとした。領民は次第に為信の姿勢に惹かれ、「三徳兼備の良将」とするようになったと言う。この三徳とは智・仁・勇である。
 「鳥海武芸談」の逸話は為信を奸臣とするための創作である。
 
 
 
 【津軽家は西軍贔屓】
 津軽家は全国でも稀な豊臣贔屓の大名だった。関ヶ原合戦以降、浪人した者を数多く召し抱えている。為信と共に独立を果たした家臣よりも、彼等は重臣として取り立てられている。石田三成の三女辰姫は信枚の側室となり、三代藩主信義を生んでいる。津軽信義は津軽為信と石田三成の孫なのだ。また、弘前城では城の神として稲荷様を祀っていた。その奥には豊臣秀吉の像を祀っており、江戸時代になっても豊臣秀吉への崇敬の念を抱いていたと分かる。
 
 
 
 【名城弘前城】
 高岡城築城に際し、軍配者沼田面松斎は長勝寺構、高岡、亀ヶ岡の三候補から占術で高岡を選んだ。他の候補地は衰亡を予感させたと云う。慶長十五年三月、高岡城築城開始。慶長十六年五月、高岡城完成。面松斎は慶長十七年に没したが、生前は高岡を四神相応の地にしようと考えていた。その遺志により、慶長十七年から城の南に溜池が造営された。これにより高岡城の東(青龍)に土渕川(流水)、西(白虎)に弘前から日本海に向かう大通り(大道)、南(朱雀)に南溜池(水地)、北(玄武)に梵珠山(丘陵)と四聖獣の全ての要素を備えることになった。また、弘前城の縄張りを担当した東海吉兵衛は北条流軍学に精通しており、全国でも珍しい北条流によって築かれた城となった。寛永五年、高岡は弘前に改められ、城名も弘前城となった。
 
 
 
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