鳥居家 家臣団
 
 
 
  鳥居忠広 (?〜1572年)
 鳥居忠吉の四男。元忠の弟。四郎左衛門。永禄元年、松平元康に従い、水野信元の軍と戦う。永禄三年、丸根砦攻めに参加。永禄六年、三河一向一揆に参加。後に許される。元亀三年、三方ヶ原合戦で武者奉行。武田軍を見て家康に撤退を進言。それを臆病と叱責されると、家康に「勝負を知らざるは大将の恥」と言い放ち、武田軍に突撃をかけて討死した。
 
 
  鳥居忠政 (?〜?)
 鳥居元忠の長男。慶長五年八月、長束正家配下の甲賀衆らの活躍もあり伏見城は陥落。茶人神崎竹谷は捕らえられ、請われて三成に守将の活躍を語る。三成は元忠らの奮戦に大いに感じ入り、竹谷を解放。関東の忠政の下に向かわせ、伏見城守将の奮戦を伝えている。陸奥岩城六万石。後に八万石に加増。元和八年九月二十五日、出羽山形二十二万石。従兄弟松平重忠は上山四万石。妹婿戸沢政盛は新庄六万石。娘婿酒井直次は左沢一万二千石。同じく娘婿の酒井忠重は白岩八千石。忠重の一族酒井忠勝は庄内十四万石。このように鳥居氏は東北の抑えとして重用された。
 
 
  鳥居成次 (?〜?)
 鳥居元忠の次男。関ヶ原合戦後、家康は三成を成次に預ける。元忠の死に責任を感じていたため、殺害もやむなしと考えたのだろう。しかし、成次は三成を恨むことなく縄を解き、温かい食事に風呂、着物を用意した。そして、家康に私怨による誅殺でなく、法による処罰を求めた。家康はその志を大いに賞賛した。三成も強く心を打たれたと言う。鳥居家は常に武勇を重んじ、元忠を討ち取った鈴木重朝にも好意的に接している。
 
 
 
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