甲斐武田家 家臣団
 
 
 
  武田信昌 (1447〜1505年 59歳没)
 甲斐守護。武田家当主。武田信重の嫡子。宝徳二年十一月、十三代当主武田信重は謀反した甲斐八代郡の黒坂太郎討伐に向かった。しかし、穴山伊豆守が黒坂太郎に加勢して小石和館を攻めたため、防衛に戻らなければならなくなった。そして防衛戦の中で信重は討死。子の信昌がわずか九歳で家督を相続し、甲斐守護代跡部景家がその父跡部明海の支援を受けて補佐役になった。しかし、跡部景家は信昌を蔑ろにして武田家当主に伝来した御旗、楯無の鎧を横領。家中は信昌派と景家派に分裂した。寛正五年、跡部明海が没すると信昌は遂に決起。寛正六年六月、跡部景家を打ち破り楯無の鎧を取り戻した。こうして信昌は名実共に甲斐武田家の当主として君臨することが出来た。仮に信昌が決起出来なければ、甲斐武田家は下克上によって滅亡していたかもしれない。次男信恵を愛し、長男信縄と不和になる。永正二年九月十六日、五十九歳没。
 

 
  武田信昌の子供
 
 
  武田信縄 (1471〜1506年 36歳没)
 武田信昌の嫡子。甲斐守護。武田家当主。父が弟信恵を優遇し、信縄を冷遇したため父子関係は悪化。信縄は父信昌を押し込めることで家督を相続。信昌が信恵に家督を相続させようとしたための措置だが、信恵側からすればはこれを認めず、甲斐国内は内乱となった。明応元年七月、弟信恵と合戦を起こす。伊勢宗瑞、今川氏親は武田家の内乱を好機と考え、明応四年、甲斐攻めを行っている。伊勢宗瑞、今川氏親は文亀元年九月にも甲斐に攻め込んだ。今川家に応戦するため、信縄は父信昌と和睦し、協力して迎撃することにした。信縄は吉田で今川勢と交戦し、伊勢宗瑞を撃退した。永正三年二月十四日、三十六歳没。
 
 
  油川信恵 (?〜1508年)
 武田信昌の次男。勝山城主。彦八郎。父信昌に愛され、それが原因で兄信縄と争った。明応元年七月、兄信縄と合戦を起こす。永正二年、兄信縄が没し、甥信虎が家督を継ぐとこれを認めず、自ら当主になろうとする。そして、賛同者を勝山城に集めた。永正五年十月四日夜、信虎に勝山城を攻められ討死した。
 
 
  岩手縄美 (?〜1508年)
 武田信昌の三男。信安、四郎。永正二年、兄信縄が没すると油川信恵の家督相続を支持。永正五年十月四日夜、信虎に勝山城を攻められ討死した。
 
 
  松尾信賢 (?〜?)
 武田信昌の四男。
 
 
  宗見禅師 (?〜?)
 武田信昌の五男。僧侶。
 
 
  諸角虎定 (?〜1561年)
 武田信昌の六男。豊後守。知謀を山本勘助に高く評価された。川中島合戦で本陣右翼を守り、本陣崩壊を防ぐために奮戦。討死するも家臣の石黒五郎兵衛、成瀬正一が首を取り戻した。
 

 
  武田信縄の子供
 
 
  武田信虎 (1494〜1574年 81歳没)
 武田信縄の長男。武田信玄の父。五郎、信直、左京大夫、陸奥守、甲斐守護。永正四年、父の死により十四歳で家督を継ぐ。叔父油川信恵、岩手縄美が謀叛。小山田弥太郎もこれに荷担した。永正五年十月十四日に二人の叔父を、十二月に小山田弥太郎を討ち取る。永正七年、小山田氏と和睦。永正十二年、今川氏親の援護を受けて大井信達、信業父子が挙兵。十月十七日、大井勢との合戦に大敗。永正十四年一月、吉田城を落とし、勝山城を孤立させる。氏親も不利を認め、同年三月二日、連歌師宗長を使者として信虎と和議を結ぶ。大井信達も信虎に降った。信達の娘は信虎に嫁ぎ、信玄を生んでいる。永正十六年、本拠を石和から躑躅ヶ崎へ移す。これにより、躑躅ヶ崎一帯は甲斐府中を意味する「甲府」と呼ばれるようになった。大永元年九月十六日、今川家臣福島正成が富田城を落とす。正成はそのまま甲府に迫ろうとしたため十月十六日に飯田河原合戦、十一月二十三日に上条河原合戦を行う。信虎はこの二度の合戦に勝利した。福島正成の侵攻は信虎にとって最大の危機とされるが、今川家に通じた波木井城主波木井義実を討つなど鎮圧に成功した。大永四年、山内、扇谷両上杉家と北条家ちの合戦では上杉勢を支持。享禄元年八月二十二日、諏訪攻めのため信州堺に着陣。頼満は長男頼隆と共に出陣。同月三十一日、信州神戸で武田勢に敗れる。同日午後、再び堺川で武田勢と合戦を行い、それに勝利。享禄四年正月、飯富兵部、今井信元、大井信業らが叛し甲府を攻めようとする。二月二日、四月十二日と合戦を重ね、大井信業らを討つ。天文元年九月、今井信元を降伏させた。これにより甲斐国内での内乱を鎮圧した。天文四年、今川氏親、氏輝父子が不和になると駿河に攻め込む。北条氏綱が今川家に味方し、甲斐に攻め込んだため敗走。同年九月十七日、諏訪家と和議を結ぶ。天文五年、今川氏輝が没すると今川義元の家督相続を支持。娘を義元に嫁がせ、同盟を結んだ。天文九年、諏訪頼重に娘を嫁がせ、五月には信州佐久郡に攻め込む。この時、一日に三十六城を攻め落としたとされるほどの猛攻を見せる。天文十年、信州滋野一族を上野国へ追う。天文年間初期、甲斐は冷害による不作が発生しており、軍役に耐えかねた武田家臣は信虎を追放し、晴信を当主に擁立することを計画。板垣信方は事前に今川義元を訪ね、信虎の受け入れ準備を依頼するほどだった。なお、信虎の受け入れにかかる費用は武田家が負担することとなった。天文十年六月十四日朝、信虎は四人の側室とわずかな付き添いと共に駿府城に向かった。今川夫婦との語らいが目的だったのだろう。そして駿府城に到着すると自身が追放されたことを伝えられる。この時、今川義元は側室が四人も同行したことに驚き、彼女らの生活費などを武田家に請求している。そして駿河で幽閉生活を余儀なくされた。追放後に隠居し、道因を名乗った。永禄年間中、外孫今川氏真と不和になり駿河を追放される。甲斐に戻ることも出来ず、京に向かう。永禄六年、足利義輝の相伴衆となる。信玄に今川家が弱体化した今こそ駿河攻めの機会と書状で伝えている。永禄七年から十年まで志摩甲賀に居住。信玄の海賊衆編成に際して志摩の小浜景隆らが加わったが、信虎からも働きかけがあったのかも知れない。織田信長の台頭で畿内情勢が不穏当になると、故郷で最後を迎えようと考えるようになる。信州高遠城に入り、孫の武田勝頼、仁科盛信に歓待される。その際、甲斐への帰参を求められたが、過去の経緯から晴信に迷惑がかかるとして固辞したと云う。また、逆に甲斐に戻ろうとしたが断られたとも云う。天正二年三月五日、八十一歳没。遂に甲斐に戻ることは出来なかった。法名「大泉殿泰雲存康庵主」。
 
 
  勝沼信友 (?〜1535年)
 武田信縄の次男。信虎の弟。一説に武田信長の養孫、道存と同一人物とされる。甲斐勝沼を領し、地名を姓とする。天文四年八月二十二日、北条家との合戦で討死した。法名「不山道存庵主」。
 
 
  大泉寺英心 (?〜?)
 武田信縄の三男。信虎の弟。
 
 
  桜井信貞 (?〜?)
 武田信縄の四男。信虎の弟。河内守。
 

 
  武田信虎の子供
 
 
  武田竹松 (1517〜1523年 7歳没)
 武田信虎の長男と云う。永正十四年生。母は今井信是の娘か。大永三年十一月、七歳没。信虎は尊体寺を創建。尊体寺二世は信虎の弟界誉と伝わる。
 
 
  武田信基 (?〜?)
 武田信虎の三男(四男)。上野介。早世した。
 
 
  松尾信是 (?〜1571年)
 武田信虎の五男(六男)。母方の家を継ぐが、若くして没した。甲斐・武蔵両国国境守備を務めていた。資料からはこれという活動が見られない。遺領は弟の川窪信実の所領となった。法名「月山宗盛居士」。
 
 
  恵林寺宗智 (?〜?)
 武田信虎の六男(七男)。快川紹喜和尚で有名な恵林寺に入り僧となった。
 
 
  川窪信実 (1544〜1575年 32歳没)
 武田信虎の七男(八男)。左兵衛大夫、兵庫頭、兵庫助。東郡川窪を領し、地名を姓とした。兄、松尾信是の遺領を相続。家康の家臣篠瀬某は主命に背いたため、信実を頼って甲斐に落ち延びる。後に許され徳川家に戻るとき、信実は家康が鷹を好むことから、篠瀬に二羽を与え献上させた。家康は大いに感じ入ったという。浪人組三百十三騎を率いるが長篠合戦で討死。三十二歳。法名「輪禅寺殿玉麟一機大居士」。甲斐恵林寺には石塔が建っている。家系は現在も続いているが、川窪の地はダムに水没している。
 
 
  一条信龍 (?〜1582年)
 武田信虎の八男(九男)。右衛門大夫。一条家の名跡を継ぎ、史料によっては武田二十四将の一人に選ぶほどの人物。二百騎を預かり、山県昌景は信龍を「伊達者にて花麗を好む性質なりし」と評した。長篠合戦を生き延びるが、武田滅亡時に討死した。
 
 
  武田信友 (?〜?)
 武田信虎の九男(十男)。上野介。信虎が駿河追放後にもうけた子と伝わる。今川義元に属したが、信虎とともに今川家乗っ取りを計画。これに失敗すると兄晴信の下へ向かったという。元亀三年、駿河賤機山城守将。だが、葛山氏の反逆に連座し甲斐を去ることとなり、小田原の北条氏に仕えた。
 
 
  武田信顕 (?〜1582年)
 武田信虎の子という説がある。「異本阿波志」には「弘治二年、武田信玄の弟信顕は三好長慶と京で会い、阿波脇城主となった」とある。武田信顕は天正十年八月二十二日、嫡子信定と共に長宗我部家に討たれたと云う。
 

 
  武田信玄の子供
 
 
  海野竜宝 (1541〜1582年 42歳没)
 武田信玄の次男。義信同腹弟。龍芳。生まれつきの盲人で、海野氏の跡を継ぐ。家人、領民はお聖道様(つまりは半俗の意)と呼び、信玄留守中の守りを固めた。織田軍に対抗しきれず郊外の入明寺に逃れたが、田野で勝頼が自刃したことを知り自殺した。竜宝の家系は甲斐武田宗家として現在も続いている。ただ、宗家と認められる道は非常に困難であった。竜宝の子顕了、孫の信正は大久保忠隣事件に連座し改易。遠島に処せられ、本土に戻れたのは寛文三年。この間に顕了は没し、二十歳ほどだった信正も七十代の老人に。信正は本土に戻ると、武田家の縁者の娘との間に子信興をもうけた。高齢ではあるが、蓮如は八十代、元就は七十代、家康は六十代でも子供を作っており、信正だけがで異例ではない。ともかく、信正は血筋を残すことが出来た。大正四年、大正天皇の即位に際し、過去の偉人として信玄に従三位が追贈された。このとき、信玄の嫡統は誰かが問題となり、信玄次男の子孫ということから竜宝の家系が認められた。これが武田宗家決定の簡単な経緯である。
 
 
  西保信之 (?〜?)
 武田信玄の三男。三郎。早世。
 
 
  葛山信貞 (?〜1582年)
 武田信玄の六男。幼くして駿河の名門葛山家を継いだ。のちに葛山元氏の娘を娶った。親族衆百二十騎持。武田滅亡時に善光寺に隠れていたが、見つかり成敗された。葛山信貞は信玄の五男で、名は義久であるとも言われる。法名「瑞香浄笑居士」。
 
 
  武田信清 (?〜?)
 武田信玄の七男。僧籍から還俗し海野領を守っていたが、武田滅亡時に上杉景勝の嫁となっていた姉を頼り落ち延びる。景勝から三千石を与えられ、勝信と称した。米沢転封後は一千石に減らされたが、家系は明治維新まで米沢藩に残った。
 

 
  武田勝頼の子供
 
 
  武田信勝 (1567〜1582年 16歳没)
 武田勝頼の長男。母は織田信長の妹の娘。彼女は信長の養女として、永禄八年一月に嫁ぐ。元亀二年二月生。このため、信玄の孫であり、信長の甥に当たる。武田家の家督は信勝が相続し、勝頼は信勝成人までの後見役であったというが、これは現在では勝頼が正式に家督を相続したことがわかっている。信玄の孫らしく聡明な美男であると伝わるが、天正十年三月十一日、田野で父とともに自刃した。法名は「甲岩勝信法雲院」。生き延びて無縁の僧籍に入ったとも、子供が生き延びたとも伝わる。これらの逸話は創作であろうが、信勝に生き延びて欲しいという武田人気の深さがわかる。妹の貞姫は駿河田中に逃れ、家康の命により高力正長に預けられる。後に宮原義久に嫁ぎ、嫡子晴克を生む。家康は庶子が生まれたならば穴山家を相続させるよう命じている。宮原家は現在も続いている。
 
 
  武田某 (?〜?)
 武田勝頼の次男。
 
 
  武田勝三 (1580〜1682年 103歳没)
 武田勝頼の三男。母は北条氏康の娘と云う。武田滅亡時に栗原某に匿われ甲斐から逃れた。後に京に移り、武田治左衛門を名乗ったと云う。天和二年六月十九日、百三歳没。
 
 
  武田某 (?〜?)
 武田勝頼の四男。
 

 
  武田信勝の子供
 
 
  武田信義 (?〜1615年)
 武田信勝の子と伝わる。武田信勝は天正十年、武田滅亡時に上州下仁田一帯土屋高久に匿われ、南牧村の市川家に居住したと云う伝承がある。信勝は妻を娶り、子の信義が生まれた。信義は後に大坂の陣で討死。子孫は市川氏と名乗り、下仁田一帯に居住したと云う。
 

 
  武田一門
 
 
  油川信貞 (?〜?)
 油川信恵の長男。播磨守。子は信吉。
 
 
  油川信友 (?〜?)
 油川信恵の次男。源左衛門。某年、村上義清との合戦で討死。子は信吉。
 
 
  油川信吉 (?〜1561年)
 油川信友の子。彦三郎。永禄四年九月十日、川中島合戦で討死。子は信次。
 
 
  油川信次 (?〜1575年)
 油川信吉の子。四郎左衛門。天正三年、長篠合戦で討死。子は信貞。
 
 
  油川信貞 (1567〜1626年 70歳没)
 油川信次の子。勝松、源兵衛。天正十年、武田滅亡後、徳川家康に仕える。三十八貫。慶長五年、関ヶ原合戦参戦。大坂の陣で伏見城城番。寛永二年十月二十三日、武蔵国都筑郡、上総国埴生郡、武射郡に三百五十石。寛永三年六月二十三日、七十歳没。法名「浄円」。子は信忠。
 
 
  油川信忠 (1614〜1652 39歳没)
 油川信貞の子。信成、乙千代、市郎兵衛、源兵衛。寛永三年十二月十七日、十三歳で家督を相続。大番。寛永十年二月七日、下総香取郡に二百石を加増。五百五十石となる。承応元年七月二十一日、三十九歳没。法名「了悟」。
 
 
  岩手信盛 (?〜1583年)
 岩手縄美の子。信勝、能登守。甲斐山梨郡岩手郷を領す。旗奉行。天正十年、武田滅亡後、徳川家康に仕える。二百貫。天正十一年正月二十六日没。子は信景、信政。
 
 
  岩手信景 (?〜?)
 岩手信盛の長男。右衛門尉。某年没。
 
 
  岩手信政 (1565〜1624年 60歳没)
 岩手信盛の次男。助九郎、九左衛門。天正十年、武田滅亡後、浪人となる。伊勢に移り、織田信孝に仕えた。同年、徳川家康が甲斐に入ると織田家を辞し、徳川家に仕える。天正十一年、父の遺領を継ぐ。天正十八年、上総、下総に百二十石を知行。大番。慶長十二年、紀伊頼宣に仕える。寛永元年正月二十八日、六十歳没。法名「宗英」。子は信盛、信一。
 
 
  岩手信盛 (?〜?)
 岩手信政の長男。新八郎、九左衛門。子は信直、信吉。
 
 
  岩手信一 (?〜?)
 岩手信政の次男。
 
 
  望月信雅 (?〜1575年)
 武田信繁の次男。永禄七年に十四歳で望月氏に入婿し、跡を継ぐ。六十騎を預かるが、長篠合戦で討死した。
 
 
  油川信貞 (?〜?)
 仁科盛信の次男。武田滅亡時、祖母方の油川氏の下に。家康と対面したとき、敗将の子として罰せられることを恐れ、父を油川氏と申し出る。自家保全のためであったが、これが原因で史料に武田氏でなく油川氏と記される。関ヶ原では東軍に加勢。子孫が仁科盛信次男の家系を名乗ることを願い出て、それを許され武田姓となる。家系は現在も続いている。
 
 
  仁科信久 (?〜?)
 仁科盛信の子か。式部。「寛政重修諸家譜 清和源氏義家流」の仁科の頁に名がある。家系は右近信衡、勘右衛門信道と続いていくのだが、盛信の子孫とする証拠が無く、江戸時代から疑問符が付けられている。
 
 
  川窪信俊 (1564〜1639年 76歳没)
 川窪信実の子。信玄の甥。かつて川窪信実を頼った篠瀬某は武田滅亡後、家康から信実の子について尋ねられ、信俊のことを話す。信俊はこれにより召し出され、家康に仕えた。甲信平定で活躍。天正十一年、信州小諸城、岩尾城攻めで一番鑓。同年四月二十四日、甲斐松尾郷三百八十二貫八百文。天正十二年、小牧長久手合戦で首九つを取る。このうち三つは自ら取った。小田原征伐では平岩親吉に属し、武蔵岩槻城を攻める。このとき、山口平内某の首を取り、敵一人を撃って味方に首を取らせた。天正十九年、知行を甲斐八代郡から武蔵比企郡、賀美郡に移される。九戸征伐に参加。伏見城大番頭。元和三年五月二十六日、千六百十石。寛永三年、致仕。十六年二月十四日、七十六歳没。法名「道二」。孫の信安は武田姓を再び名乗るが子孫の代に川窪姓に戻す。家系は現在も続いている。
 
 
  葛山安信 (?〜1561年)
 葛山信貞の子か。四郎六郎。川中島合戦で討死。「寛政重修諸家譜」第百八十二巻の近山氏の頁に、近山氏の家伝が記されている。それによると、信玄三男信貞が葛山氏を名乗り、後に近山に改めたという。武田滅亡時に自刃し、十六歳になる子の安信は山林に逃れ、後に家康に仕えたとしている。近山家の系図で葛山安信に相当するのは近山久家で、安信に相当するのは近山久次である。同書は安信が川中島合戦で討死しているのに対して、同一人物であるはずの久家が武田滅亡時まで生きていることを疑問としている。久家、久次父子の事跡を混同したとしても、葛山信貞の家系かは疑問が残る。
 
 
  一条信就 (?〜1582年)
 一条信龍の子。上野介。父信龍は武田滅亡時に討死したとされるが、「甲斐国志」によると信龍はすでに病没しており、織田軍と戦い討死したのは子の信就としている。
 
 
  武田信光 (1554年〜1582年 29歳没)
 武田信友の子。左衛門佐。百騎を預かる。永禄十二年、駿河江尻城主。長篠合戦を生き延びるが、武田滅亡時に妻の父、小山田信茂とともに勝頼を捨て、信長に降る。しかし、その行為を不快に思う信長により殺された。
 
 
  油川信吉 (?〜1561年)
 油川信友の子。祖父は信虎の叔父油川信恵。彦次郎。永禄四年九月十日、川中島合戦で討死。子の信次は長篠合戦で討死し、孫の信貞は家康に仕えた。
 
 
  油川豊干 (?〜?)
 油川一族。弥平。
 
 
  油川信守 (?〜?)
 油川一族。刑部丞。仁科盛信の外祖父。娘は武田信玄に嫁ぎ、仁科盛信、信貞を生んだ。
 
 
  勝沼信元 (?〜1560年)
 勝沼信友の長男。信玄の従兄弟。五郎、丹波守。天文十一年、信濃大門峠合戦に出陣。天文十五年、上州碓氷峠合戦に出陣。天文十六年、川中島合戦に出陣。天文十九年、深志城攻撃に参加。天文二十二年、小笠原家との合戦に参加。永禄三年、「逆心の文」が発覚したため誅殺される。
 
 
  加藤信厚 (?〜?)
 勝沼信友の次男。信玄の従兄弟。上野原加藤氏の名跡を継ぐ。妹の理慶尼は雨宮某に嫁ぐも離縁。大善寺に入り「理慶尼記」を記した。
 
 
  勝沼信就 (?〜?)
 勝沼信元の子。子は頼快法師。孫に女子がいたが早世。
 
 
  小佐手信広 (?〜?)
 武田信重の三男永信を祖とする武田一族。
 
 
  小佐手信房 (?〜?)
 小佐手一族。
 
 
  小佐手信家 (?〜?)
 小佐手一族。弟は信次。武田滅亡後、徳川家に仕えた。
 
 
  小佐手信次 (?〜?)
 小佐手一族。信家の弟。武田滅亡後、徳川家に仕えた。
 
 
  下曾根信辰 (?〜?)
 武田信重の五男賢信を祖とする武田一族。源六。武田滅亡後は徳川家に仕える。
 
 
  下曾根弥左衛門尉 (?〜1575年)
 下曾根信辰の弟。天正三年、長篠合戦で討死。
 
 
  下曾根楽雲軒 (?〜?)
 下曾根一族。安芸入道。永禄二年から信州小諸城守将。
 
 
  武田麟岳 (?〜?)
 武田信玄の甥と言うが、詳細は不明。長善寺春国和尚の弟子。豪僧で敵を九人まで斬ったという。
 
 
  武田信尭 (?〜1550年)
 甲斐武田一門。天正十九年の戸石合戦で討死した。
 
 
  天桂玄長 (?〜?)
 武田信玄の叔父と云う。恵林寺住職。弘治元年、信州慈雲寺に戻る際、同じ宗派の後輩である快川紹喜を恵林寺に迎えたと云う。
 
 
  根津神平 (?〜?)
 武田信虎の娘を娶る。天正年間、義父武田信虎を屋敷で養う。信虎は根津邸で最後を迎えた。
 

 
  有名武田家臣の一門
 
 
  板垣信憲 (?〜1553年)
 弥次郎。板垣信方の子。晴信に長禅寺に閉門させられ、本郷八郎左衛門に私情から斬られた。板垣信方は於曾氏の出である。
 
 
  室住玄蕃充 (?〜?)
 板垣信方の弟。諏訪上原城守将。天文十七年、上田原合戦での大勝によって信濃勢は武田家を攻めるが、仁科盛政は恩賞不足から引き上げてしまう。玄蕃充は一時、講和を考えていたが、この様子を知り抗戦を決意。やがて晴信が援軍として駆けつけたため、信濃勢は撤退した。
 
 
  山本信共 (?〜1575年)
 勘蔵。山本勘介の長男。長篠合戦で討死した。勘介には関山派の僧となった子もいたと言う。これは「武功雑記」に記されているが、同書は三等史料のため信憑性は低い。武田家臣山本九郎左衛門の次男良天は出家し、恵林寺の僧となっている。これを勘助の次男と誤ったとも考えられる。勘介の孫(姓名不詳)は毛利元就に仕え、その子勝次郎(勘介の曾孫)も毛利家に仕えた。勘介の武名は毛利家でも知られており、子孫は優遇された。これは毛利家の記録である「閥閲録」に記されており、同書の一級史料という信憑性の高さから事実とすることが出来る。昭和四十四年に発見された市川文書と、閥閲録の記述から山本勘介は実在の人物であることが裏付けられた。勝次郎は寛永十一年に毛利秀就から書状を送られている。小幡景憲は甲陽軍鑑を毛利家に贈っているが、勘介の子孫が毛利家にいたこともそれに関係したのではないか。勘介は西国出身ともされ、後に甲斐に移ったという。故郷にかつて生まれた子供を残したのか、または甲斐に知られていない子供がいたか、どちらかであろう。ちなみに武田・毛利の同盟には山伏が伝令役として関わっており、勘介はその情報網の基礎を築いたという。武田滅亡時、勘介の家族は山伏に連れられ、西に移ったとするのは飛躍しすぎか。
 
 
  春日大隅 (?〜?)
 甲斐石和の大百姓。子は春日虎綱。
 
 
  春日源五朗 (?〜1582年)
 春日虎綱の次男。父の跡を継ぎ海津城番将になる。上杉家との同盟が成立すると駿河へ。武田滅亡後に上杉景勝を頼るが、その直後に真田昌幸とともに北条家に内通したため、景勝に誅された。甲陽軍鑑の著者は不明とされるが、小幡景憲が毛利家に甲陽軍艦を贈ったとき「高坂弾正所記」や、「弾正興す所」などと本を紹介している。このことから主な著者は春日虎綱で、彼の死後の部分のみは完全に別人の作とすることが出来る。虎綱の死後も甲陽軍鑑が書き続けられたのは、最も重要な甲斐武田家の滅亡と、武田遺臣が徳川家に組み込まれ小牧合戦で活躍する部分を記すためではないか。
 
 
  春日惣次郎 (?〜?)
 春日虎綱の甥。大蔵彦十郎と共に甲陽軍鑑を記す。
 
 
  工藤虎豊 (?〜?)
 内藤昌秀の父。武田信虎に誅殺された。
 
 
  内藤昌月 (1550〜1588年 39歳没)
 内藤昌秀の子。保科氏の生まれで、養子に入ったと云う。修理亮、大和守。上州箕輪城で育つ。父の死後、箕輪城主となる。武田滅亡後は北条、滝川一益、本能寺合戦により再び北条家に属す。箕輪城を北条家に明け渡し、近隣の城に移る。天正十年頃に作製された「小田原一手役之書立」に名がある。天正十六年五月、三十九歳没。
 
 
  内藤直矩 (1579〜?)
 内藤昌月の子。亀千代、源助、五郎左衛門尉。妻は後北条家宿老狩野泰光の孫娘。この婚姻は上野国における後北条家の支配力を高めるに交わされたのだろう。
 
 
  内藤正重 (?〜1615年)
 内藤昌秀の四男。「寛政重修諸家譜」第百六十八巻に名がある。源助、政経、正経。信玄、勝頼に仕える。武田滅亡後、徳川家に仕官。天正十年十一月十七日、甲斐東郡に百五十貫。天正十八年、関東に移る。大番。大坂夏の陣で討死。子は正次。
 
 
  内藤外記 (?〜1589年)
 内藤昌秀の一族か。上州保渡田城主。「総社記」に名がある。天正十七年七月十一日、中川武蔵守に攻められ善竜寺にて自刃。保渡田城は永禄九年、長野氏滅亡後に内藤昌秀が築城し、西上野支配の拠点とした。
 
 
  横田康景 (1525〜1575年 51歳没)
 原虎胤の長男。横田高松の養子。十郎兵衛。実父、養父に劣らぬ猛者で、二十二歳までに五通の感状を貰う。城意庵とともに家中一の勇将と評された。鉄炮に長けたと「甲陽軍鑑」に記される。永禄六年十二月二十七日、和田城は上杉家の攻撃を受けるが、信玄はかねてから横田康景を配置し、鉄炮足軽百名を含む九百名で和田城を防衛。上杉勢を撤退させている。長篠合戦で討死した。
 
 
  原盛胤 (?〜1575年)
 原虎胤の次男。四郎。元亀二年、両角助四郎との喧嘩により、知行地、同心を召し上げられる。長篠合戦で兄とともに討死した。
 
 
  原直胤 (?〜?)
 原虎胤の三男。武田滅亡後、紀州興国寺で出家し翠山を号す。武田信虎は永正十一年十二月、躑躅ヶ崎館に移ると人材を募集。遠江より小幡虎盛、美濃より多田満頼、近江より横田高松が仕官。原虎胤も父友胤とともに房総より仕官した。信玄初期の名臣はこのときに集まった。
 
 
  原胤歳 (?〜1584年)
 武田信玄の中間頭。永禄四年九月十日、川中島合戦で信玄本陣にまで上杉軍の攻撃が及んだ。原胤歳は信玄に斬りかかった騎馬武者を見て、信玄の持槍で応戦。馬の尻に槍が当たり、騎馬武者は撤退した。一説にこの騎馬武者は上杉謙信と云うが確証は無い。上杉家も謙信と信玄の一騎打ちを否定している。天正十年、武田家滅亡後、徳川家に仕える。天正十二年三月没。子孫は八王子千人頭となる。
 
 
  甘利昌忠 (1533年〜1564年 32歳没)
 甘利虎泰の子。父の死後、十五歳で家督を継ぎ、侍大将となる。この若さで侍大将となったのは昌忠のみである。武功の士であり、永禄五年に米倉重継の子で、部下である彦二郎が北条との合戦で鉄砲に撃たれると、鉄炮傷に効くという芦毛の馬の馬糞汁を飲ませようとした。彦二郎がそこまでして生きようとは思わないというと、なんとしてでも長く生き信玄公のために働くのが良き武士だ、と激怒し、自ら馬糞汁をうまいと二口ほど飲み、彦二郎に椀を渡した。彦二郎が意を決して飲むと、痛みが和らぎ、不思議と命を拾ったという。同心たちは深く感動し、信玄もこの話を聞き、昌忠を重用した。若くして没したが、一説に落馬が原因という。
 
 
  甘利信康 (?〜1575年)
 郷左衛門尉。甘利虎泰の子。昌忠の弟。長篠合戦で討死した。
 
 
  小幡直之 (?〜?)
 小幡信貞の養子。井伊直政の斡旋により上州安中野殿千百石を賜る。
 
 
  三枝虎吉 (?〜?)
 三枝守綱の子。父守綱は石原守種の次男であるが、断絶していた三枝氏の一族であったため三枝氏を再興。右衛門尉、土佐守。武田信虎、信玄に仕える。武田滅亡後は徳川家に仕える。子は三枝守友、守義、昌重。
 
 
  大蔵信安 (?〜?)
 大久保長安の祖父。播磨の猿楽師。金春流に学び、大蔵流を創始。武田春信の招きにより、甲斐に移住。
 
 
  金春喜然 (?〜?)
 大久保長安の父。大蔵太夫。秦長安。大久保長安も秦長安を名乗った。猿楽師。
 
 
  須田新左衛門 (?〜?)
 須田満親の弟。天文十八年、武田家に内通した。
 
 
  仁科盛政 (?〜?)
 信州仁科家当主。武田信玄に仕える。信州攻めの際、家臣が武田家に叛したため甲斐で誅殺される。信玄は盛政が上杉謙信に通じたと判断したのだろう。信玄は五男晴清に仁科家の家督を継がせた。これが仁科盛信である。
 
 
  平林正家 (?〜1569年)
 平林正恒の父。牧之島城副将。永禄十二年、北条家との合戦に先鋒として出陣。討死した。
 
 
  蘆田信幸 (?〜1583年)
 蘆田信守の子。蘆田信蕃の弟。武田滅亡後、兄や一族と共に徳川家に属す。天正十一年、兄信蕃と共に北条家に属した岩尾城主大井行吉を討つため出陣。二月二十二日、兄と共に鉄炮に討たれ討死した。
 
 
  蘆田肥前守 (?〜?)
 蘆田一族。天正十年七月、信州野沢城、伴野館を攻め落とす。
 
 
  秋山虎康 (?〜?)
 徳川家康に降った穴山信君は二人の美女を家康に献じた。この一人である「おつま」が虎康の娘で、信君は彼女を養女とした。おつまは家康の五男、後の武田信吉を生んだ。「柳営婦女伝系」などは信吉生母を信玄の娘としている。
 
 
  秋山昌秀 (1554〜1623年 70歳没)
 平左衛門。信玄、勝頼に仕える。武田滅亡後は徳川家に仕官。下総に千石。大坂両陣では鉄炮奉行。元和九年正月二十日、七十歳没。子は昌吉、正重、昌成、太郎兵衛。妹は家康の側室となり、武田信吉を生むが、天正十九年十月六日に没した。
 
 
  市川昌永 (?〜?)
 十郎左衛門。娘は徳川家康の側室御竹の方。
 
 
  三井吉正 (?〜?)
 十郎左衛門。娘は徳川家康の側室御牟須の方。
 
 
  和田信業 (?〜?)
 跡部勝資の長男。和田業繁の婿養子。八郎、右衛門大夫。武田滅亡後、北条、滝川、再び北条と主家を変え続ける。小田原籠城参加。ちなみに義父和田業繁の「業」は長野業正の一字で、信業は信玄の「信」の字も拝領している。つまり、和田信業の名前は武田信玄と長野業正という宿敵同士の一字が組合わさっているのだ。この二人の関係を知っていると、非常に面白く感じる名前である。
 
 
  海野幸光 (?〜1581年)
 羽尾景幸の次男、海野輝幸の兄。海野姓を名乗る。岩櫃城城代の斉藤憲法、憲宗とともに、真田幸隆の弟、常田隆家を謀殺。激怒する幸隆に攻められると、これに通じ斉藤親子を越後に追う。帰郷した輝幸に家督を譲る。真田昌幸に攻められ討死した。
 

 
  甲斐武田家 家臣団
 
 
  横田高松 (?〜1550年)
 備中守。武田二十四将の一人。武田足軽大将五人衆の一人。参加合戦数三十四、全身三十一ヶ所に傷を持つ剛の者。駿河に追放された信虎は、今川義元に武田自慢の足軽大将の一人と語り、平賀源心との合戦では多田満頼と共に八度も槍を入れたという。その采配は晴信からも高い評価を受け、足軽大将でありながら待遇は侍大将並だった。戸石崩れで殿軍となり討死。晴信はその死を惜しみ、家中の者に武辺者になるならば横田備中のようになれ、と語ったという。
 
 
  多田満頼 (?〜1563年)
 淡路守、三八、昌澄。美濃の出身。武田二十四将の一人。武田足軽大将五人衆の一人。生涯で全身二十七ヶ所に疵を負う。虚空蔵山城城番時代に鬼をも斬ったという剛の者。虚空蔵山と言う地名は虚空蔵菩薩を祀ったことに由来する。しかし、「虚空蔵山城」という名の城は文献上、確認出来ていない。信州岩鼻和合城が有力だが、虚空蔵山付近一帯を示したものとする説もある。平賀源心との合戦では横田高松と共に八度も槍を入れたという。夜襲戦を得意とし、夜襲の采配、満頼の右に出る者なしと評され、信虎も追放先の駿河の太守、今川義元に武田自慢の足軽大将の一人と語ったという。孫の新蔵と共に三十四通の感状を貰う。第四次川中島合戦には老齢のため参加できず、新蔵が代わって参戦した。
 
 
  多田新八郎 (1529〜1570年 42歳没)
 多田満頼の長男。八右衛門。信玄に仕えた。元亀元年、四十二歳没。
 
 
  多田昌俊 (1533〜1567年 35歳没)
 多田満頼の次男。三八郎、満俊。信玄に仕えるが、後に職を辞す。甲斐を離れ、関東に移る。永禄十年十二月十七日、武蔵岩槻にて討死。三十五歳。法名「昌聖」。妻は金丸虎義の娘。子の昌綱、昌繁は土屋昌次に養育された。
 
 
  多田三吉 (?〜?)
 多田満頼の三男。武田滅亡後、徳川家に仕える。後に尾張義直に仕えた。
 
 
  多田正勝 (?〜1575年)
 多田三吉の長男。新蔵。第四次川中島合戦では老齢の祖父の代わり出陣。長篠合戦で討死した。
 
 
  多田三八郎 (1566〜1607年 42歳没)
 多田三吉の四男。八右衛門。勝頼に仕え、武田滅亡後は徳川家に仕える。長久手合戦で功があった。慶長十二年五月十八日、四十二歳没。妻は筒井定次の娘。子は正長、正次、正重。
 
 
  浅利信種 (?〜1569年)
 武田家の宿老。飯富虎昌、小幡信貞と共に赤備えを率いた。永禄十二年十月六日早朝、三増峠で北条家と合戦になり、討死した。
 
 
  原昌俊 (?〜?)
 原昌胤の父。加賀守。陣馬奉行。
 
 
  原昌胤 (?〜1575年)
 昌勝、隼人正。武田二十四将の一人。原虎胤とは別系。地理勘に優れ、陣馬奉行となる。陣馬奉行は戦を有利に戦うための陣の位置を決める役目で、陣取りは昌胤に任せよ、と信玄の信任は厚かった。直接戦闘に参加することはほとんどなかったが、長篠合戦では百二十騎を率いて戦い、討死した。
 
 
  原昌栄 (?〜1580年)
 隼人正。原昌胤の子。父の跡を継ぐが、天正八年の上州善城の素肌攻めで討死した。
 
 
  原貞胤 (?〜?)
 隼人正。原昌栄の子。武田滅亡時に家康に降る。大阪の陣の和談で、又従兄弟にあたる真田信繁(幸村)と会い、往時を偲んだという。
 
 
  小幡虎盛 (1490〜1561年 71歳没)
 山城守。入道し日意。武田二十四将の一人。武田足軽大将五人衆の一人。北条綱成の父、福島正成を討ち、信虎から一字を与えられる。天文七年の韮崎合戦では三度の接戦の全てに一番槍を功名をし、四度目の接戦では自らも敵陣に入り大将首を取った。全身四十一ヶ所の傷のうち、七ヶ所はこのときのものという。愛馬も赤く血に染まっていたことから、月毛の馬が栗毛になるまで戦わねばならぬ、と若武者は語り合ったという。三十八通の感状を貰い、信虎も虎盛の武勇を今川義元に自慢した。晩年は春日虎綱の副将として海津城にあったが、第四次川中島合戦直前に没した。遺言である九文字の戒め「よくみのほどをしれ」は有名である。
 
 
  小幡憲重 (?〜?)
 長野業正の老臣で娘婿。山内上杉家滅亡後も長野業正に従うが、上杉輝虎の関東侵攻時に一族の者に所領を奪われる。そのことを強く恥じ、旧領奪回のために甲斐の武田信玄を頼る。信玄に仕官したが、妻と別れ、他の武将の血縁の者を嫁にするよう命じられる。妻の生家である長野家が滅亡した今、離縁すれば妻に行くところはない、長野殿には大恩があり人としてできることではない、と話し、信玄を感心させた。有名な「赤備え」を率い、その武勇は近隣に鳴り響いた。
 
 
  小幡信高 (1543〜1569年 26歳没)
 小幡憲重次男。弾正左衛門尉。永禄十二年、討死した。次男は小幡宗家を相続。
 
 
  小幡昌高 (?〜?)
 小幡憲重三男。民部少輔、播磨守。
 
 
  小幡信秀 (?〜?)
 小幡憲重末子。これまで「信茂」とされてきたが、「信秀」が正しいという。
 
 
  小幡信定 (1566〜?)
 小幡信高次男。平三、右衛門尉。小幡宗家を継いだ。兄に小幡信氏がいる。
 
 
  小幡高政 (?〜?)
 小幡憲重の一門。左馬助。非常に親しい一門のようだが、詳しい血縁関係ははっきりとしない。他にも小幡信直など関係のはっきりしない一門が多い。
 
 
  鎭目惟眞 (1536〜1596年 61歳没)
 長四郎、左衛門。信玄、勝頼に仕える。武田滅亡後は甲斐に蟄居。慶長元年十月四日、六十一歳没。法名「玄昌」。一説に天正十八年十月、六十九歳で没し、法名は「宗清」とも伝わる。妻は甘利虎泰の娘。子の惟明は徳川家に仕え、「上田七本鑓」の一人となる。
 
 
  駒井政武 (?〜?)
 高白斎。晴信の家老。雲の色や流れで合戦の勝敗を占う「観天望気」に長けていた。政武の残した高白斎記は、明応七年から天文二十二年までの五十五年間にわたる詳細な記録であり、妙法寺記と並んで甲斐武田家の第一級の史料である。
 
 
  駒井政直 (1542〜1595年 54歳没)
 駒井政武の子。深澤城主城代。武田滅亡後、家康に仕える。天正十一年閏正月十四日、甲斐中島報恩寺、正法寺、積翠寺、指切郷西保に三百六十二貫九百文余。十九年七月、上野那波郡千五百石。榊原康政に属す。文禄四年六月八日、五十四歳没。法名「全可」。子は親直。
 
 
  曽根昌世 (?〜?)
 下野守。信玄の奥近習から足軽大将に。騎馬十五、足軽三十人。真田昌幸とともに愛され、信玄から、我が両眼の如し、と評された。合戦では伝令将校として活躍。永禄十二年、北条家との三増峠合戦では討死した浅利信種の代わりに殿軍をこなす。翌年、駿河花沢城攻めで二番槍。駿河興国寺城守将となり、武田滅亡後は徳川、のちに蒲生氏に仕える。
 
 
  加藤信邦 (?〜?)
 駿河守。武田家最高の武者奉行。甲陽軍鑑に、信玄への弓矢の指南申すはこの人なり、と書かれているが、直接戦闘には参加せず同心は持たなかった。武穏草話では上杉家の宇佐見駿河守定満、毛利家の吉川駿河守元春とともに日本の三駿河と評している。
 
 
  加藤景忠 (1542年〜1582年 42歳)
 丹後守。加藤信邦の子。上野原城主。父の素養を継いだ武将といわれたが、武田滅亡時に討たれた。
 
 
  小山田昌辰 (?〜?)
 備中守。旧姓上原。小山田昌行、大学の父。息子と区別するため古備中と呼ばれた。さらに郡内の小山田氏とも区別するため、石田の小山田と呼ばれた。天文九年正月、海尻城を開城させて城代となる。その直後の村上重臣、室賀光氏の来襲では本丸をよく守り、援軍が来るまで持ちこたえている。内山城代。葛尾城攻略のため、晴信は戸石城再興のために出陣するとの偽りの情報を流すよう命令する。信州常田の合戦で討死したという。子は小山田茂誠。
 
 
  小山田昌行 (?〜?)
 備中守。郡内の小山田氏とは別流。父備中守昌辰と同じ侍大将。海津城代、のちに雨飾城代。長篠合戦では、敵将松平主殿助を討つ。長坂らを非難する歌を詠んだ。
 
 
  小山田大学 (?〜?)
 小山田昌行の弟。永禄十一年の蒲原城の攻撃で功があった。
 
 
  小笠原源与斎 (?〜?)
 武田信玄に仕えた軍配者。合戦の日取りと方位を占った。「甲陽軍鑑」に種々の奇特の術を見せたと記される。風呂に入ると戸を人々に押さえさせ、知らない間に外に出ていた。夜に会合すれば、座席の向かいの山に火を立てて見せたと云う。
 
 
  判兵庫 (?〜?)
 判ノ兵庫助。武田家の易者。近江石寺の生まれ。阿倍晴明の流れを組むと云う。天文二十年、武田家に仕官。信州水内郡に知行百貫。本名不詳。「甲陽軍鑑」は「判を能く占に依て、判の兵庫と号す」と記しており、渾名をそのまま名乗っていたようだ。永禄十二年から翌年七月まで彗星が現れる。信玄は毘沙門堂庫裡に判兵庫を呼び、武藤三河守と下曾根某を間者として彗星の吉凶を占わせた。占いの結果、天下怪異の客星であり、古高家は次第に滅び、国中の武家は作法を失い、昨日の下人は今日の主になる。女が男の出立を仕る。正法の仏法は衰微し、新しき宗旨が繁栄すると述べた。またある時、甲州西部十日市場に居住する徳厳という者がいた。徳厳は占いに長けた半俗の人物で、長坂長閑斎から崇敬されていた。長閑斎は徳厳を仕官させようと、判兵庫の知行を与えると持ちかけた。長閑斎は武田信玄にこの件を進言したが、信玄は徳厳が足利学校で占いを学んだかと尋ねた。長閑斎は甲州市川の文殊に籠もり、夢想の末に種々の奇特を現したことを半時ほどかけて説明した。信玄は八卦の本は文字も少なく、大したものではないと言い放ち、夢想など当てにならないとした。徳厳は偽りを言う者で、そのような盗人のような者に将たる者は対面するべきではない。こうした者は心汚く、金を与えれば悪を吉を言い、引き出物を与えれば吉を悪と言う。このように信玄は徳厳を罵倒し、遂に仕官は叶わなかった。この逸話からすると、判兵庫ら甲斐武田家の軍配者は足利学校と何らかの関わりがあったのではないかと推測することも出来る。そうでなければ仕官は出来ないだろう。
 
 
  曲淵吉景 (1518〜1594年 77歳没)
 庄左衛門。天文十二年尾台城合戦で広瀬景房と武功を競い合った剛の者だが、それよりも奇行の人物として有名。板垣信方の死後、跡をついた子の信憲が本郷八郎左衛門に慮外をして斬られたことを信玄の差し金を思いこみ命を狙ったが、誤解であると知り、信玄もその忠誠心を誉めた。生来の訴訟癖で、生涯七十五度の訴訟をして勝ったことが一回、和解が一回で他は全て負けた。奉行衆との仲は極めて悪く、他にも大変なケチであったなどの話があり、長篠合戦、武田滅亡を経て家康に仕えた。
 
 
  長坂光堅 (?〜1582年)
 左衛門尉、長閑斎。勝頼時代第一の出頭人。長篠合戦で進撃を主張し、敗北の原因を招いたというが事実無根。御館の乱で景勝が送った二万両のうち、五千両を自分のものとし、武断派からそのことを指弾されたがまるで気にしなかったという。これも根拠がない。武田滅亡時に隠れていたところを見つかり、誅された。
 
 
  長坂源五郎 (?〜1565年)
 長坂光堅の子。聡明であったらしいが、武田義信謀反事件に連座し誅された。
 
 
  今井虎甫 (?〜?)
 武田信満の四男今井信泰を祖とする武田一族。中務大輔。
 
 
  今井信房 (?〜?)
 右衛門佐。
 
 
  今井信甫 (?〜?)
 左馬助。
 
 
  山高信之 (?〜?)
 武川衆。武川村山高を領する。
 
 
  山高親之 (1509〜1566年 58歳没)
 石見守。武川十二騎筆頭。武田信繁に仕える。永禄四年九月十日、川中島合戦で信繁が討死すると、親之はその敵を討ち取り信繁の首を取り戻し、信玄に献じている。永禄九年六月十八日、五十八歳没。法名「是快」。子は信親、孫兵衛、八左衛門、右近介。
 
 
  山高信親 (?〜?)
 武川衆。
 
 
  山高信直    (?〜?)
 武川衆。
 
 
  山寺信明 (?〜1561年)
 甚左衛門尉。永禄四年、川中島合戦で武田信繁に属す。激戦の中、自分の死に場所はここであると信繁に告げ、その馬前にて討死した。子は昌吉。
 
 
  山寺昌吉 (?〜?)
 山寺信明の子。天正十年八月、徳川家康に仕えた。
 
 
  山寺久富 (?〜?)
 左吾右衛門。永禄四年、川中島合戦で武田信繁の首を奪い返し、胴と共に葬った。
 
 
  柳澤信兼 (?〜?)
 靱負。天正八年十月、勝頼は北条家の上州膳城を攻撃し、城代河田備前守を討ち取る。これが「上州膳城素肌攻め」である。信兼は素肌攻めで抜け駆けを行い、勝頼の命で自刃した。長男信久は後に穴山信君に仕え、天正十年六月十九日、大和宇治田原にて討死。次男信俊の子孫は柳澤吉保である。
 
 
  横手信国 (?〜1570年)
 青木信立の子。元亀元年、駿河花沢で討死。弟信俊が跡を継いだ。
 
 
  柳沢信俊 (?〜?)
 青木信立の子。元亀元年、兄横手信国が駿河花沢で討死すると、横手氏を継ぐ。北巨摩郡武川村柳沢を領し、柳沢を名字とした。子の信忠は徳川家に仕え、孫の吉保は徳川綱吉の側近になった。
 
 
  柳沢信勝 (?〜?)
 壱岐守。天正十年、徳川家康から柳沢郷七十貫を安堵される。
 
 
  横手満俊 (?〜?)
 武川衆。監物。
 
 
  横手源七郎 (?〜?)
 天正十年、徳川家康から横手郷八十二貫を安堵される。
 
 
  小杉左近 (?〜?)
 元亀三年、三方ヶ原合戦で本多忠勝が殿軍を見事に務めると、「家康に過ぎたる二つあり 唐の頭に 本多平八」と絶賛した。
 
 
  河原村伝兵衛 (?〜?)
 三河浪人。元亀元年伊豆韮山城合戦で、山県隊が深入りしたため危機に陥った。このとき、河原村は白地に船の一字を書いた旗を指し、ただ一人で前後六回も敵中に突撃をかけ、山県隊の危機を救った。この武功を信玄は極めて高く評価し、その場で杯、槍、刀、そして自らの手で甲州金を三すくいほど与え、河原村を剛の者と褒め称えた。
 
 
  田中義繁 (?〜1575年)
 甲斐武田一族。安田義資を祖とする。隼人正。今川家に仕える。今川家没落後、甲斐武田家に仕える。天正三年五月二十一日、長篠合戦で討死。子は行繁。
 
 
  田中行繁 (?〜1575年)
 田中義繁の子。天正三年五月二十一日、長篠合戦で討死。子孫は帰農した。
 
 
  早川肥後入道 (?〜?)
 永禄八年、甲斐米倉龍安寺を修築。
 
 
  早川幸豊 (?〜1600年)
 三左衛門。永禄十二年の小田原城攻めで、馬場信房と内藤昌秀との軍中使者となり鉄炮傷を二ヶ所負った。武田滅亡後は家康に仕官。山本勘助流軍学を教授され、同じ井伊隊に配属された広瀬景房とともに彦根城を築城。この彦根城は甲州流の築城として唯一現存する城である。
 
 
  早川半兵衛 (?〜?)
 早川幸豊の弟。武田滅亡後、徳川家に仕える。
 
 
  大仏庄左衛門 (?〜1561年)
 山本勘助晴幸の腹心で同郷三河の人。諫早佐五郎とともに山本隊の中心人物となる。第四次川中島合戦で勘助とともに討死した。
 
 
  諫早佐五郎 (?〜1561年)
 山本勘助晴幸の腹心で同郷三河の人。大仏庄左衛門とともに山本隊の中心人物となる。第四次川中島合戦で勘助とともに討死した。
 
 
  安部貞村 (?〜1582年)
 五郎左衛門。駿河出陣中、使い番として伝令役を一手に引き受ける。戦の読みに長け、勝頼は信玄から「戦さの指引きは五郎左衛門次第ぞ」といわれた。天目山で勝頼に殉じた。
 
 
  小原広勝 (?〜1582年)
 丹後守。武田二十四将の一人に選ぶ史料もある。勝頼に付けられたとき、信玄から「武道以外のこと、小原兄弟と秋山紀伊守が相談して致せ」といわれた。伊那郡方面の司令官の一人。天目山で勝頼に殉じた。
 
 
  小原下総守 (?〜1582年)
 小原広勝の弟。勝頼と最後をともにし、兄に付き従ってきた婦人たちを介錯した。伊那郡方面の司令官の一人。
 
 
  秋山光次 (?〜1582年)
 紀伊守。信玄の信任厚く、勝頼の補佐を命じられる。伊那郡方面の司令官の一人。天目山で勝頼に殉じた。
 
 
  秋山正次 (?〜1582年)
 初め雨宮姓。源五左衛門、土佐守。信虎に仕え、今川家に幽閉される際にも付き従う。後に武田家に戻り、勝頼に仕えた。天正十年、武田滅亡時に討死。子の正重は武田信豊に仕えた。
 
 
  日向昌時 (?〜1582年)
 大和守。天文九年正月、海尻城を攻め開城させ、二の曲輪の守将となる。開城直後の室賀光氏来襲では、囲みを突破して甲斐に逃れる。深志城代をつとめ、南信大島城の主将となる。天正十年二月、大島城が織田軍に陥落されかかったとき、昌時は籠城を主張。しかし、部下に無理矢理に城を脱出させられた。やがて武田家は滅亡し、昌時は生き延びたことを恥として所領村山にて自殺した。
 
 
  小宮山昌友 (?〜1572年)
 丹後守。小宮山友晴の父。永禄年間に諏訪城代、上州松井田城城代となる。元亀二年の遠州二俣城攻撃で討死した。
 
 
  小宮山友晴 (?〜1582年)
 内膳。侍大将小宮山昌友の子。長篠合戦以降の長坂長閑斎らの行いを批判し、長坂らはそのことを勝頼に中傷した。やがて彼らと昵懇の同輩と口論になり、勝頼に理非も問われず閉門を命じられる。勝頼が織田家に追いつめられると無断で閉門を破り、勝頼の陣に駆けつけ、勝頼に殉じようとした。勝頼は感動し、これを受け入れ、同じく駆けつけた友晴の弟、又七には生き延びるよう主命を発し、二人の家族を無事にのがれることができるようにした。武田滅亡時、勝頼に殉じようと駆けつけたのは友晴と又七一家だけだった。僧になっていた弟の拈橋は天目山の戦場跡にやってきて、勝頼たちの遺体を葬り、戒名をつけ手厚く弔った。
 
 
  今福浄閑斎 (?〜?)
 公事四奉行の一人。武略、芸能の素養があり、永禄十二年に駿河久能山城番将となる。公事奉行として罪人の首を百以上も斬った。信州岩村田竜雲寺の法興和尚に、罪人の罪を斬ることで心が汚れていく、と説かれ、それからは罪人を斬ることを止めたと云う。
 
 
  今福顕倍 (?〜1582年)
 今福浄閑斎の長男。丹後守。元亀二年、侍大将。天正元年、遠州諏訪原城番。与力として諸賀昌清、小泉忠季を附けられる。天正三年頃から駿河久能山城将。天正十年二月二十七日、徳川家に屈し甲斐に退く。武田滅亡時に子の善十郎とともに自刃。
 
 
  今福昌和 (?〜1582年)
 今福浄閑斎の次男。左衛門尉。木曽義昌を攻めた鳥居峠合戦で討死した。
 
 
  原虎吉 (?〜?)
 大隅守。第四次川中島合戦で荒川長実に斬りつけられた信玄を、長実の馬を槍で突くことで救う。感状は横目衆最高の十八通に達した。
 
 
  青木満懸 (?〜?)
 武川衆。尾張守。天文十年、武田八幡宮造営奉行。永禄四年、川中島合戦で武田信繁に属す。
 
 
  青木信立 (?〜1590年)
 武田家庶流。武川衆筆頭。長篠合戦での退却時、勝頼が信豊に与えた幌を敵に奪われないように骨を捨て、幌衣だけを首に巻き持ち帰り、勝頼を安堵させた。武田滅亡後は家康に仕えた。子は横手信国、柳沢信俊。
 
 
  青木信秀 (?〜?)
 右兵衛尉。
 
 
  青木重満 (?〜?)
 兵部少輔。
 
 
  青木信時 (?〜?)
 尾張守。天正十年六月、徳川家康から甲斐青木郷三百貫を安堵される。
 
 
  米津昌友 (?〜1575年)
 武川衆筆頭。重継。丹後守。天正三年、長篠合戦で討死。子は晴継、忠継。
 
 
  米津晴継 (?〜?)
 米津昌友の子。彦次郎。弟は忠継。
 
 
  米津忠継 (?〜?)
 米津昌友の子。晴継の弟。五郎兵衛。天正十年、徳川家康に属した。
 
 
  折井次昌 (?〜?)
 武川衆の有力者。市左衛門尉。武田滅亡後、成瀬正一の説得により米倉忠継と共に徳川家に属す。天正十年、徳川家康から甲斐折居郷三十七貫を安堵された。
 
 
  青沼昌忠 (?〜?)
 助兵衛。算術に優れ、信玄、勝頼の勘定奉行となる。永禄三年、北条氏康の援軍に赴いたが、このとき信玄から氏康の財力を調査するよう命じられ、詳細に調べ帰国した。武田滅亡後、家康に仕える。
 
 
  米倉重継 (?〜1575年)
 丹後守。甘利虎泰の部下として十三度の槍合わせをし、八度の功名があった。これがきっかけで足軽大将に昇格し、鉄炮対策として竹束を考案。初期の鉄炮は円柱状の竹を貫くことが出来なかった。長篠合戦で討死。息子は甘利昌忠の鉄炮薬の馬糞汁で命を救われた彦二郎である。
 
 
  曽根昌長 (?〜?)
 武田一族。三河守。
 
 
  曽根縄長 (?〜?)
 三河守。
 
 
  曽根虎長 (?〜?)
 中務大輔。
 
 
  曽根虎吉 (?〜?)
 孫之助。
 
 
  曽根虎盛 (?〜?)
 九郎左衛門。
 
 
  城景茂 (?〜?)
 和泉守、伊庵。元長尾家臣。不興を買い会津に浪人していたとき、晴信からの使者により武田家に仕官。鉄炮衆。景虎が使ったことのある白地に無と書かれた旗を指す。怒る景虎は合戦のたびに討ち取ろうとしたが、結局は討つことができなかった。長篠合戦のとき、深沢城城代。
 
 
  城昌茂 (?〜?)
 城伊庵の子。和泉守。勝頼の侍大将。武田滅亡後は家康に仕え、天正十八年、武蔵忍、熊谷に七千石。大阪冬の陣では軍監七人の一人に選ばれる。
 
 
  玉虫定茂 (?〜?)
 城景茂の弟。助太夫。一族奥山織部、奥山善三郎も武田家に仕えた。
 
 
  小瀬道甲 (?〜1526年)
 武田一族。大永六年没。
 
 
  小瀬信里 (?〜1563年)
 永禄六年没。子の信忠は中沢に名字を改め、慶長十九年に没した。
 
 
  萩原昌勝 (?〜1535年)
 祖は武田信昌と云う。常陸介。天文四年没。
 
 
  栗原昌清 (?〜?)
 甲斐東部の豪族。子は詮冬。
 
 
  栗原詮冬 (?〜?)
 栗原昌清の子。御譜代家老衆。左近、左兵衛尉。
 
 
  栗原昌種 (?〜?)
 武田一族。永正元年十月二十八日、広巌院に寺領を寄進。
 
 
  栗原昌治 (?〜?)
 武田一族。日向守。天正十年の起請文に名がある。
 
 
  渡辺金大夫 (1532〜1582年 51歳没)
 元織田家臣。名は照。高天神衆。姉川合戦で功があり、信長から日本一の槍との感状を受けた剛の者。天正二年、武田家の高天神城攻めにより、武田家に降る。天正十年三月一日、仁科盛信に属し、高遠城防衛のため奮戦。鉄砲で撃たれ討死した。五十一歳没。
 
 
  佐藤一甫斎 (?〜1580年)
 四国の人。伊予河野家臣と云われる。鉄炮の名人で、腕を買われ信玄に仕える。畿内の事情を信玄に語った。のちに上杉景勝に仕えるが、不興を買い誅された。
 
 
  西山十右衛門尉 (?〜?)
 天正八年八月、上杉景勝が越後中部を平定すると、武田勝頼が祝いの使者として派遣。山崎秀仙は多忙のため、直江兼続に上杉景勝との対面の段取りを依頼した。
 
 
  成瀬正一 (?〜?)
 吉左衛門。三河の人。諸角虎定に仕える。武田滅亡後は家康に仕え、武田旧臣を取り込むための使者となる。子の隼人正は尾州徳川家に仕え、犬山三万五千石の城主となった。
 
 
  田辺守真 (?〜1582年)
 太郎左衛門。紀州熊野田辺郷に生まれる。武田信玄に招かれ、甲斐へ移る。黒川金山奉行を務める。大久保長安の学問の師であり、彼を信玄に推挙した。天正十年、討死。
 
 
  赤見源七郎 (?〜?)
 永禄十一年、飯山城攻めで敵の首を取る。この戦功により感状を賜った。
 
 
  名和宗安 (?〜1575年)
 上州那波宗元の長男。無理之助。西上野衆。武田家に属す。川窪信実の浪人組組頭。七十騎を預かる剛の者だが、同僚初鹿野伝右衛門との度胸比べに負ける。永禄九年、兵二百五十にて高浜砦を夜襲。砦主匂坂長信は箕輪城を守っていたため、火を放ち兵を進める。長野家臣安藤勝道を討ち取るが、青柳金王らに敗れ退いた。弟の顕宗は後に上杉家に仕えた。天正三年五月、長篠合戦参加。中山砦を守るも討死。設楽ヶ原本戦で討死とも言う。
 
 
  和気宗勝 (?〜1575年)
 善兵衛。西上野衆。天正三年五月、長篠合戦参加。久間山砦主将。砦の陥落時に自刃。
 
 
  穂坂常陸介 (?〜1585年)
 穴山信君、武田勝千代の陣代。本能寺合戦直後の武田蜂起時に大村加賀守の一党を討ち、家康から感状を貰った。小牧合戦にも勝千代とともに出陣したが、翌年に病没した。
 
 
  芦沢元辰 (?〜1597年)
 穴山信君、勝千代に仕える。穂坂常陸介とともに陣代となる。
 
 
  雨宮家次 (?〜1575年)
 十兵衛。武田家を追放され、小田原の北条氏を頼る。三年の間に七度の手柄をあげ、そのなかに一番槍は四度もあった。これに感心した春日虎綱の口添えで武田家に帰参。長篠合戦で討死したというが、天正八年の高天神城落城時に討死したともいう。
 
 
  小田切民部少輔 (?〜?)
 知行は不明であるが、軍役は騎馬武者六騎、長柄鑓十九本、弓六張、持鑓六本、鉄炮六挺、小幡持三人の四十六人であった。これは天正四年二月のものである。
 
 
  一宮左太夫 (?〜?)
 上州善城攻めで敵六名と交戦。武田滅亡後は家康に仕えた。剣の道に通じ、後に一宮流を創始した。
 
 
  朝日奈五郎 (?〜?)
 天正三年、長篠合戦に敗れると、讃岐内場城主藤沢重弘を頼り、次男信能と共に讃岐に移住。重弘は娘を信能の妻とし、甲斐股に所領を与えた。朝日奈氏は甲斐股城を築き、後に重弘の子を補佐したと云う。これは「全讃史」に記されているが、同書は武田勝頼が長篠合戦で討死したと記すなど、信憑性に疑問が残る。
 
 
  市川計六郎 (?〜?)
 信州高井郡の生まれ。永禄年間、武田信玄から越後の偵察を命じられた。
 
 
  窪村源左衛門 (?〜?)
 天文二十二年九月十六日、敵三人討ち、さらに上杉謙信の書状を三通奪った。この戦功により知行百貫を賜った。
 
 
  坂西周次 (?〜?)
 左衛門佐。名字は「ばんざい」と読む。弟の織部亮とともに飯田城を守った。
 
 
  宇津木下綱 (?〜?)
 武田家臣。下総守、氏久。天正八年一月、上杉家臣北条高広を内通させた功により、那波郡二百八十一貫。玉村城を築城。武田家滅亡後、北条家に属す。天正十年八月、十二月と二度に渡り北条高広に攻められるが、那波顕宗と共に那波城に籠もり撃退。沼田攻めに参加するなどの功があった。天正十二年、金山城攻撃では先鋒。由良氏従属後、金山北城主。小田原征伐時、地元の混乱を抑えるため小田原籠城に参加することは出来なかった。北条家滅亡後、井伊直政に仕え、本領を安堵される。子の泰繁と共に彦根移封に従う。
 
 
  湯本善大夫 (?〜1575年)
 永禄六年、斉藤憲広から長野原城を奪回すると、信玄は善大夫を城主とした。長篠合戦で討死。甥の三郎右衛門が跡を継ぐ。
 
 
  高田信頼 (1550〜1588年 39歳没)
 山内上杉家臣高田憲頼の子。母は安中越前守の娘。乙次郎、小次郎、兵庫助。信玄から一字を賜る。上州永安寺百五十貫文。天正十六年三月十五日没。三十九歳。法名「正傳」。妻は小幡憲重の娘。子の直政は徳川家に仕えた。
 
 
  日向玄東斎 (?〜1608年)
 上杉家臣新津右京亮の子。祖母は武田家臣日向大和守の娘であり、父が討死したため祖母に養育される。武田家臣となり、姓を日向に改めた。元亀三年十一月二十日、駿河厚原郷に七十貫文。慶長十三年五月十四日没。八十四歳とも、八十七歳とも伝わる。法名「宗立」。子は政成。
 
 
  下条主水佐 (?〜?)
 天正十年秋、徳川家康に属した。
 
 
  平井十右衛門 (?〜?)
 武田滅亡後、徳川家に仕えた。天正十年十一月の起請文に名がある。
 
 
  平井十左衛門 (?〜?)
 城織部衆。武田滅亡後、徳川家に仕えた。
 
 
  平井作左衛門 (?〜?)
 遠山衆。武田滅亡後、徳川家に仕えた。
 
 
  宮脇種友 (?〜?)
 清三郎。武川衆。
 
 
  岩手信盛 (?〜?)
 御旗奉行衆。
 
 
  安西有味 (?〜?)
 御鑓奉行衆。
 
 
  加津野信昌 (?〜?)
 御鑓奉行衆。
 
 
  古屋道忠 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  古屋兵部 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  古屋内匠 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  古屋文六郎 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  伊奈宗普 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  諏訪春芳 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  八田村新左衛門 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  松本桂柱 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  平岡道成 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  石原守繁 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  大野主水 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  塚原六右衛門 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  武井江右衛門 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  三沢四郎兵衛 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  相川甚五兵衛 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  笠井半兵衛 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  小池主計 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  伊藤玄蕃 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  切田勘之丞 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  萩原豊前守 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  久保田助之丞 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  志村又右衛門 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  中村弥左衛門 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  河野但馬守 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  石坂勘兵衛 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  萩原五左衛門 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  山本土佐 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  久保田監物 (?〜?)
 近習衆。御蔵前衆。
 
 
  河村下野守 (?〜?)
 御納戸奉行衆。
 
 
  前島加賀守 (?〜?)
 御台所頭衆。
 
 
  大島惣兵衛 (?〜?)
 御台所頭衆。
 
 
  神尾庄左衛門 (?〜?)
 御右筆衆。
 
 
  八重森因幡 (?〜?)
 諸国御使者衆。伊予の七森の出と云う。砲術に長ける。
 
 
  工藤市兵衛 (?〜?)
 むかで差物衆。
 
 
  漆戸左京亮 (?〜?)
 むかで差物衆。
 
 
  板坂法印 (?〜?)
 御伽衆。
 
 
  山本大林 (?〜?)
 御伽衆。
 
 
  寺島甫庵 (?〜?)
 御伽衆。永禄十一年、北条氏康への使者となり、武田家が今川家と戦うことを伝えた。その際、武田信玄は富士川より東を北条氏康の領地と認める代わりに、今川家に加勢しないよう求めた。氏康はこれに激怒。寺島甫庵を監禁し、武田信玄との合戦の意志を示した。
 
 
  山下伊勢 (?〜?)
 御旗楯無別当。
 
 
  五味新右衛門 (?〜?)
 御料人様衆。
 
 
  秋山越前 (?〜?)
 御聖道様衆。
 
 
  橋爪七郎右衛門 (?〜?)
 第二回川中島合戦の戦功により感状を賜った。
 
 
  土橋対馬守 (?〜?)
 第二回川中島合戦の戦功により感状を賜った。
 
 
  内田監物 (?〜?)
 第二回川中島合戦の戦功により感状を賜った。
 
 
  小平木工允 (?〜?)
 第二回川中島合戦の戦功により感状を賜った。
 
 
  根々井右馬亮 (?〜?)
 第二回川中島合戦の戦功により感状を賜った。
 
 
  小島修理亮 (?〜?)
 第二回川中島合戦の戦功により感状を賜った。
 
 
  浦野新右衛門 (?〜?)
 第二回川中島合戦の戦功により感状を賜った。
 
 
  万沢君泰 (?〜?)
 君吉、遠江守。元亀元年没。子の君基は穴山信君に仕え、穴山家断絶後は武田信吉に仕えた。
 
 
  保坂掃部 (?〜?)
 穴山信君に仕える。元亀年間、興国寺城守将。
 
 
  堀無手右衛門 (?〜?)
 一條信龍の家臣。三河衆。天正三年五月、長篠合戦参加。
 
 
  中根七右衛門 (?〜?)
 一條信龍の家臣。三河衆。天正三年五月、長篠合戦参加。
 
 
  小宮山信近 (?〜?)
 川窪信実に仕える。隼人助。天正三年五月、長篠合戦参加。鳶ヶ巣山砦を守る。
 
 
  栗原惣次郎 (?〜1508年)
 油川信恵の縁者。永正二年、武田信縄が没すると油川信恵の家督相続を支持。永正五年十月四日夜、信虎に勝山城を攻められ討死した。
 
 
  河村左衛門 (?〜1508年)
 油川信恵の縁者。永正二年、武田信縄が没すると油川信恵の家督相続を支持。永正五年十月四日夜、信虎に勝山城を攻められ討死した。
 
 
  長竹昌基 (?〜1575年)
 和田信業の家臣。対馬守。天正三年五月、長篠合戦参加。反町大膳ら三百余名と共に君ヶ伏床を守る。自軍が鳶ヶ巣方面で苦戦すると、援軍に派遣される。姥ヶ懐のやや上から尾根伝いで鳶ヶ巣砦へ向かったために、酒井隊と遭遇し、衆寡敵せず討死した。
 
 
  岡戸重成 (?〜1579年)
 中務少輔、真楽斎。永禄四年から信玄に従う。箕輪長野一族羽田彦太郎は信玄に追われ、重成がその跡を継いだ。永禄六年、岩櫃城主斉藤憲広が手子丸城を攻めると、重成らが撃退。永禄九年、箕輪城攻めに参加。岩倉城を守る。天正七年没。子の重次が跡を継いだが、天正十年、北条勢に攻め滅ぼされた。
 
 
  遠山景広 (?〜?)
 信州和田城主。元亀二年、遠州奥山氏を攻める。
 
 
  横地元国 (1505〜?)
 横地氏十五代。弥三。永正二年生。武田信虎、信玄に仕える。
 
 
  横地元次 (?〜?)
 横地氏十六代。渋谷介。信玄に仕える。子の義次は信玄、勝頼、徳川家康に仕えた。
 
 
  浦野重勝 (?〜1569年)
 重成の弟。民部左衛門尉、但馬守、重秀。上州権田城主。永禄九年、箕輪城攻撃の功から上州渋川に五十貫を賜る。後に分家を興す。永禄十二年十月、相模三増峠合戦で討死。
 
 
  浦野重次 (?〜1581年)
 天正九年、浦野幸景と共に三ノ倉城にて北条家と戦い、木戸城に退くも討死。
 
 
  諏訪民部 (?〜1571年)
 甲斐武田家臣。元亀二年四月、野田城攻めで討死。
 
 
  松岡新左衛門 (?〜?)
 甲斐武田家臣。元亀二年、浜松攻めで副将。
 
 
  相木市兵衛 (?〜1589年)
 信州相木一族。武田家に属す。永禄四年、川中島合戦の功により依田能登守を名乗る。田口城主。元亀二年四月、野田城攻めに参加。武田滅亡後、北条家に属す。蘆田信蕃に攻められ、北条家を頼り上州に逃れる。天正十七年、旧領復帰のため挙兵。しかし、松平康国に討たれた。
 
 
  草刈隼人助 (?〜1575年)
 甲斐武田家臣。天正三年五月、長篠合戦参加。宍戸大膳らと共に鳶ヶ巣山砦、姥ヶ懐砦を守る。三枝守友の討死後も奮戦。近藤登助、鈴木八平に討たれた。
 
 
  宍戸大膳 (?〜1575年)
 甲斐武田家臣。天正三年五月、長篠合戦参加。姥ヶ懐砦を守る。織田家臣加藤景村の部下、大村源十郎に討たれた。
 
 
  飯尾助友 (?〜?)
 弥四郎。飯尾豊前守の甥。天正三年五月、長篠合戦参加。
 
 
  飯尾祐国 (?〜?)
 遠州飯野一門。掃門。天正三年五月、長篠合戦参加。中山砦を守るが、作手に向けて落ち延びた。
 
 
  名和田晴継 (?〜?)
 兵部大輔。天正三年五月、長篠合戦参加。
 
 
  五味定氏 (?〜1575年)
 与惣兵衛。天正三年五月、長篠合戦参加。中山砦を守るも、敗走。設楽ヶ原本戦で討死した。
 
 
  坂本貞次 (?〜?)
 武田家臣。武田滅亡後、徳川家に仕える。関東入封により、相模高座郡三百七十石。子は貞吉。孫は重安。重安は大坂の陣に参戦した。
 
 
  中山安芸守 (?〜1582年)
 長尾上杉家に仕えるが、天正七年から武田家に属す。子の右衛門尉は天正十年六月、津久田城を攻めて討死。
 
 
  長井政実 (?〜?)
 上州浄法寺城主。豊前守。父は忠実。武田信玄に属す。永禄三年、小幡信実と共に武州に攻め込む。高崎鳥名城主三千貫。
 
 
  長井信実 (?〜1614年)
 政実の子。武田滅亡後、越後に逃れる。天正十八年、小田原征伐に参加。藤田信吉と共に多比良城を攻め、三月二十五日、多比良友定を降伏させた。戦後、浄法寺城主となる。後に家康に改易され、播磨に流される。慶長十九年五月十四日没。
 
 
  長坂国清 (?〜?)
 左衛門。天文九年正月、信濃村上家の海尻城を開城させ、三の曲輪守将となる。村上重臣室賀光氏の猛攻により、甲冑を着ることも忘れ裏門より脱出。甲斐へ逃れる。
 
 
  平原幡繁 (?〜?)
 信州佐久郡平原城主。天文十八年八月、晴信の侵攻に備え村上義清から援軍五百を送られる。攻撃によく耐えるが、武田家からの和議申し入れに油断し、夜襲を受けてしまう。そして城を捨て義清の下に逃れる。後に晴信に仕え所領安堵。川中島合戦出陣。武田滅亡後は後北条、徳川と主を変えるが、謀叛の疑いにより処刑される。
 
 
  清野左衛門 (?〜?)
 信濃村上重臣清野氏の一族。真田幸隆の誘いにより、天文一八年、武田家に降伏。
 
 
  寺尾重頼 (?〜1550年)
 埴科郡寺尾城主。伝左衛門。真田幸隆の誘いにより村上義清に反旗を翻す。が、高梨頼政と和睦した義清は寺尾城を攻撃。幸隆の援軍が駆けつける前に落城し、義清は内通者への見せしめのために一族を根切りにしたという。
 
 
  於曾源八郎 (?〜1553年)
 村上義清の逃亡により葛尾城守将となる。その直後の天文二十二年四月二十二日、村上義清の攻撃により討ち死にした。第二回川中島合戦の戦功により感状を賜った。
 
 
  大須賀久兵衛尉 (?〜?)
 村上家臣であったが、天文二十二年三月に武田家に寝返る。そのとき、埴科郡狐落城守将小島三兄弟を討つ。この功により小県郡に所領を与えられる。
 
 
  掘金広盛 (?〜?)
 仁科一族。永禄十年八月、仁科一族が信玄に提出した生島足島神社神前起請文に筆頭として名がある。仁科一族の中でも高い地位にいたのだろう。
 
 
  古厩盛隆 (?〜1583年)
 仁科一族。信州古厩城主。平三。永禄十年、生島足島神社神前起請文に名がある。天正十一年二月十三日、深志城で小笠原貞慶に謀殺される。
 
 
  真々部尾張守 (?〜?)
 仁科一族。信州森城主。信玄の命により安曇一帯を守る。後に仁科盛政と共に謀殺された。
 
 
  依田春賢 (?〜?)
 信州依田城主。大和守。天文二十二年、信玄から信州丸子一帯を賜る。
 
 
  浦野民部充 (?〜?)
 信州浦野城主。村上義清に仕えるが、天文年間、武田家に降る。弘治三年、川中島合戦出陣。永禄年間、上州攻めに参加。
 
 
  小泉重成 (?〜?)
 信州小泉城主。豊後守、喜泉斎。村上義清に仕える。天文二十二年八月、居城を破却された上で武田家に降る。
 
 
  室賀経秀 (?〜1583年)
 室賀信俊の跡を継ぎ、信州室賀城主となる。天正十一年、真田昌幸に討たれる。
 
 
  山田飛騨守 (?〜?)
 永禄九年、子の左衛門尉と共に信州壁田一帯に知行を賜る。これにより壁田城守将となるか。
 
 
  市川等長 (?〜?)
 梅蔭斎。永禄年間頃、荒山城将。天正年間、荒山城将となった市川長義、義信父子は一族か。
 
 
  落合備中守 (?〜1557年)
 信濃葛山城主。弘治三年二月十五日、長尾家の攻撃により落城、討死。
 
 
  藤沢頼親 (?〜?)
 信州福与城主。天文十三年、高遠頼継の勧誘に応じて武田家を裏切る。武田家は福与城を攻めるが、高遠家の援軍のため落とすことが出来なかった。天文十四年四月、武田家は再び福与城を攻撃。小山田信有らの説得で頼親は降伏。弟の権次郎を武田家の人質にして落ち延びた。その後、小笠原家を頼っている。
 
 
  藤沢権次郎 (?〜?)
 藤沢頼親の弟。天文十四年、武田家への人質になる。
 
 
  伴野善九郎 (?〜?)
 永禄年間、子の藤右衛門と共に荒山城将。
 
 
  平原全真 (?〜?)
 武田家臣。天正十年、甥の盛繁と共に蘆田信蕃に降る。信蕃討死後、松平康国に仕える。
 
 
  森山俊盛 (?〜?)
 信州森山城主。武田家に仕える。天正十年、勝頼の命により武田信豊の援護に向かう。信豊が討たれると上州小幡に移る。滝川一益を介して織田信忠に拝謁。織田家に仕えようとするが、本能寺合戦後の混乱により徳川家臣蘆田信蕃に属す。
 
 
  三浦義鏡 (?〜?)
 駿河先方衆。兵部。永禄十一年以降、駿河持船城主。
 
 
  諸賀兵部大輔 (?〜?)
 永禄三年、関甚五兵衛と共に駿河丸子城城番。
 
 
  横田胤是 (?〜?)
 甚五郎。永禄十三年、駿河清水城守将。
 
 
  朝比奈信置 (?〜1582年)
 今川家臣朝比奈氏の一族。蒲原城番。駿河守。天正十年三月四日、徳川家の攻撃により落城。武田家滅亡により、庵原館で子と共に自刃。
 
 
  朝比奈氏秀 (?〜?)
 今川家臣朝比奈氏の一族。駿河守。天正八年、勝頼は駿河持船城を改修し、朝比奈氏秀を城番とした。天正十年二月二十三日、徳川家の攻撃を受け落城。同年三月十七日、甲斐に退く。
 
 
  朝比奈三郎左衛門 (?〜?)
 今川家臣朝比奈氏の一族。永禄十二年二月、信玄から駿河六十二貫十八文を安堵される。
 
 
  萩久誉 (?〜?)
 今川家臣萩清誉の長男。小太郎。父は山県昌景に討たれる。武田信玄から所領駿河松野郷を安堵される。
 
 
  萩君誉 (?〜?)
 今川家臣萩清誉の次男。善次郎。父の死後、穴山信君に仕える。元亀元年三月二十三日、松野郷五百棟を賜る。同年十月二十三日、感状と永楽銭十二貫文を賜る。
 
 
  大蔵彦十郎 (?〜?)
 武田家の猿楽者。春日惣次郎と共に春日虎綱の語った話を書き残す。後の甲陽軍鑑である。虎綱没後、惣次郎と共に甲陽軍鑑を記した。
 
 
  田辺四郎左衛門 (?〜?)
 黒川金山衆。元亀二年、黒川金山衆は深沢城攻めに際して坑道を掘り、郭を崩すという戦功を挙げた。これにより信玄から感状を賜った。
 
 
  高山飛騨守 (?〜?)
 武田家の大工。武田信玄から特に重用された。天正三年四月二十一日、大工として諏訪社下社の千手堂を建設。天正五年三月三日、諏訪社下社宝塔を建設。天正七年十二月二十一日、駿河国江尻城築城に参加。
 
 
  花村与右衛門 (?〜?)
 今川家の大工。後に武田家に仕える。天正七年、武田勝頼から高山飛騨守に属するよう命じられる。
 
 
  田口次郎右衛門尉 (?〜?)
 今川家の大工。後に武田家に仕える。天正七年、武田勝頼から高山飛騨守に属するよう命じられる。
 
 
  小島飛騨守 (?〜?)
 甲斐恵林寺の番匠。
 
 
  三木善右衛門尉 (?〜?)
 駿河の番匠。
 
 
  明珍信家 (?〜?)
 甲冑師。甲斐武田家に招かれ、上州白井郷に移住。小幡信貞の赤備えの甲冑を作成。
 
 
  田村孫七 (?〜?)
 武田家の紺屋。天文十八年十一月十八日、武田家から紺屋の役の免許を受けた。武田信玄は某年十月三日、尾張の紺屋に対し、田村孫七の指示に従うよう命じた。
 
 
  万阿弥 (?〜?)
 御同胞衆。
 
 
  福阿弥 (?〜?)
 茶堂坊頭衆。
 
 
  春阿弥 (?〜?)
 茶堂坊頭衆。
 
 
  観世大夫 (?〜?)
 猿楽衆。
 
 
  大蔵大夫 (?〜?)
 猿楽衆。
 
 
  望月善右衛門 (?〜?)
 山の民の頭。永禄三年二月二十一日、穴山信君は望月善右衛門と湯之奥の縫右衛門に「犬の安堵」を与えた。善右衛門は犬を何頭飼ってもよいが殺してはならないと、縫右衛門は犬三匹を飼うことを許された。甲斐の山の民は甲斐犬と共に山々で狩りをしていた。犬を安堵することは狩猟権を認めることを意味している。狩猟は移動をしながら行うものだから、土地ではなく犬を安堵したのだろう。
 

 
  僧侶
 
 
  菊隠瑞潭 (?〜?)
 永昌院二世。永昌院は武田信昌が建立した。永正八年九月十六日、武田信虎は永昌院で信昌の七回忌法要を営んだ。菊隠瑞潭はその際、信昌の生前の業績を賞賛する香語を詠んでいる。
 
 
  岐秀元伯 (?〜1562年)
 甲斐長禅寺住持。大井信達の一族から信任を得る。大井信達は今川氏親と結んで武田信虎と対立した。しかし、今川氏親が武田信虎と和解したため、信達も信虎と結ぶこととした。信達の娘は信虎に嫁ぎ、武田晴信を生んだ。信達の娘は岐秀元伯に帰依しており、晴信の師に迎えた。天文二年、大井夫人が没すると葬儀を取り仕切る。永禄二年、武田晴信が出家すると「玄」の字を与えた。永禄五年十月二十三日没。
 
 
  快川紹喜 (?〜1582年)
 妙心寺派美濃崇福寺三世。妙心寺四派の一つ東海派を学び、仁岫宗寿に師事。名門土岐氏の一族で、若き日の明智光秀の学問の師。斎藤義龍と対立し、かねてより招かれていた甲斐へ移住。これは永禄四年のこととされる。また、一説に武田信玄の叔父天桂玄長に招かれ、弘治元年に甲斐に入ったとも云う。武田家の菩提寺である乾徳山恵林寺の住職となり、同時に信玄の師となる。信玄の葬儀を取りはからう。天正九年九月、正親町天皇より大通知勝国師号を賜る。武田滅亡の前年、天正九年に武田・織田和平のために同じ妙心寺派の僧たちと奔走するが失敗。信長に逆らったとされ、天正十年四月三日の恵林寺焼き討ちで「安禅は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自から涼し」と言い残し炎に身を投じた。かつての弟子である光秀は、師の心中を思い、恵林寺の僧を匿い逃がしたという。また、勘介の次男も妙心寺派の僧であったというが信憑性は低い。俗説であろう。
 
 
  長遠寺師慶 (?〜?)
 実了。関東管領山内上杉憲政の一族。信玄を頼り、甲斐に。長遠寺住職となり、使者として活躍。一向一揆との連絡役となった。永禄十一年夏、上杉謙信から上杉・武田和平の橋渡し役になるよう依頼されるが、和平は失敗する。翌年夏、近江の浅井長政、和泉の堺、越中、加賀、そして伊勢長島と精力的に使者としてまわり、信玄に味方するとの証文をとり、信玄を大いに喜ばせた。天正元年、一向一揆は上杉家と和睦したが、実了は一揆勢を説得し、再び上杉家に対して挙兵させた。
 
 
  北高全祝 (?〜?)
 信州龍雲寺住職。永禄三年、武田信玄、義信父子の関係を修復しようと試みるも失敗。武田信玄の帰依を受け、陣僧として上洛戦に随行。武田信玄が信州駒場で没すると、その遺骨の一部を龍雲寺に埋葬。昭和六年、寺領から骨壺が発掘され、武田信玄の遺骨と判明した。
 
 
  甲天総寅 (?〜?)
 大善寺住職。永禄三年、武田信玄、義信父子の関係を修復しようと試みるも失敗。
 
 
  惟高妙安 (?〜?)
 相国寺南禅寺住職。策彦周良と共に武田信玄に出陣の際には易者に占ってもらうよう勧めた。
 
 
  鉄山宗純 (?〜?)
 甲府臨済寺住職。永禄十二年末、駿府を守る岡部正綱に降伏を求める使者となる。説得の末、岡部正綱は開城した。後に妙心寺住職となる。武田滅亡後、徳川家康に招かれ武蔵平林寺住職となる。
 

 
  甲斐武田家の海賊衆
 
 
  岡部貞綱 (?〜1575年)
 忠兵衛。船十二艘、同心五十騎。今川十八人衆の一人。武田信玄に仕え、土屋姓を与えられる。武田海賊衆を統括役。天目山で勝頼に殉じた土屋昌恒の養父。武田海賊衆は北条、里見水軍に対抗するために編成された。天正三年、長篠合戦で討死した。
 
 
  向井政重 (?〜1579年)
 伊賀守。向井正綱の父。武田水軍の将。向井氏は伊勢の海賊衆で、元亀元年に岡部貞綱に招かれ信玄に仕え、持船城を任された。天正三年頃、興国寺城守将。海戦のないまま、天正七年九月十八日、牧野康成に攻め込まれ養子政勝とともに討死した。
 
 
  向井政勝 (?〜1579年)
 伊兵衛。長谷川長久の子、向井政重の養子。政重の娘を娶り、向井正綱の義兄となる。政重、正綱とともに持船城を守り、持船城落城の前年、攻め込んできた徳川軍を相手に突撃をかけ、撃退に成功する。天正七年の持船城落城時にも奮戦し討死した。
 
 
  間宮武兵衛 (?〜?)
 関船十艘。父康俊は神奈川城を預かる北条家二十将衆の一人、兄康信は北条水軍の船大将。信玄に攻め込まれ、武田水軍の将となる。武田滅亡後は家康に仕えたという。
 
 
  間宮信高 (?〜?)
 間宮武兵衛の弟。関船五艘。兄同様、信玄に屈し武田水軍の将となる。武田滅亡後は家康に仕えたという。
 
 
  大石四方介 (?〜?)
 武田海賊衆。
 
 
  沢江左衛門 (?〜?)
 武田海賊衆。
 
 
  入沢五右衛門 (?〜?)
 武田海賊衆。
 
 
  保科六右衛門 (?〜?)
 武田海賊衆。
 

 
  甲斐武田家の忍び
 
 
  望月千代 (?〜?)
 武田信玄の甥、望月盛時の妻。第四次川中島合戦で夫が討死した後、信玄に仕えたという。甲斐、信濃の巫女の統帥を命じられ、信州小県郡弥津村古御館に定住。孤児、捨て子などの少女を集め、彼女らに強い仲間意識と忠誠心、女であることを生かしての情報収集、色香で男を惑わす法を教えこんだ。そして諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませ、一人前になると各地に送り、知り得た情報を全て自分の手元に集め、有力な情報を信玄に伝えたという。
 
 
  富田郷左衛門 (?〜?)
 武田の忍び。三ツ者の中心的人物。山伏。三ツ者は商人などに変装し、他国の情勢を探った。
 

 
 【付記】
 
 
 
 【甲斐守護武田家】
 新羅三郎義光の三男義清は常陸国那珂郡武田郷を領し、武田義清と名乗った。嫡子清光の代には甲斐に移り、甲斐国巨摩郡逸見郷を領したため逸見を、その長男光長も逸見を名字にした。清光の次男信義は祖父同様武田を名字にしたが、これは甲斐国巨摩郡武田郷を領したためだろうか。治承四年、武田信義は病身の兄光長の代わりに弟安田義定、長男一条忠頼と共に千五百名を率いて平家軍を迎え撃った。この時、武田勢は平家軍の背後に回ったが、軍勢の接近に驚いた水鳥が大群で飛び立ち、よほどの軍勢が来たと勘違いした平家軍は総崩れになった。この戦功の恩賞として武田信義は駿河守に、安田義定は遠江守となった。しかし、同じ源氏の有力一門が勢力を持つことを警戒した源頼朝は、嫌疑をかけて安田義定、一条忠頼を誅殺。そうしたなかで信義の五男信光は源頼朝の信任を得て武田家を相続。年次不明ながら甲斐守護となった。承久三年、承久の乱に際して武田信光は甲斐勢を率いて出陣。恩賞として安芸守護を兼ねることとなった。
 
 
 
 【楯無】
 永承五年、源頼義が阿部頼時を攻める際、摂津住吉神社に参拝。その際、社宝の御旗、鎧を賜った。御旗、鎧は源頼義から新羅三郎義光、そして甲斐武田家へと伝来。武田家は家宝として甲斐菅田神社に納め、小曾氏がそれを守った。鎧は鹿のなめし革で威してあり、大袖、草摺に小櫻の模様があるため「小櫻韋威鎧」「小櫻韋黄返威鎧」と呼ばれた。矢を防ぐ盾が不要なほど優れた鎧であることから「楯無」とも呼ばれた。武田滅亡時、家臣が甲斐塩山向嶽寺に埋めて隠した。それを知った徳川家康は掘り出させ、菅田神社に納めた。また、楯無の袖に割り菱の模様があったため、菱は武田一族の家紋となったと云う。
 
 
 
 【日本最古の日章旗】
 新羅三郎義光は後冷泉天皇から日章旗を下賜された。この日章旗は日本最古の日章旗とされ、甲斐武田家に伝来し、やがて甲斐雲峰寺に奉納された。
 
 
 
 【武田信玄の名の由来】
 信玄の「玄」の一字は唐の高僧臨済義玄、日本の高僧関山恵玄に由来する。
 
 
 
 【武田信玄と上杉謙信】
 武田信玄は上杉謙信を名将と認めていた。天正四年十月十五日、教賀という甲斐の僧が越後長福寺の空陀という僧に書状を送っている。その中で教賀は武田信玄が上杉謙信を「日本無双之名大将」と絶賛していたことを書き記している。
 
 
 
 【武田信玄と鉄炮】
 「妙法寺記」天文二十四年七月の項によると、上杉軍は葛山城を拠点とし、武田軍は旭山城を拠点とした。その際、武田軍は「人数三千、サデ鉢ヲ射ル程ノ弓ヲ八百挺、鉄炮ヲ三百挺カラ御入レ候」と記される。これが事実ならば信玄はこの時期に鉄炮を三百挺も保有していたことになる。
 
 
 
 【武田信玄と諏訪明神】
 諏訪大社は信濃国一之宮で、諏訪湖南の上社(主祭神:建御名方神、八坂刀売神)と諏訪湖北の下社(主祭神:建御名方神、八坂刀売神、八重事代主神)がある。風雨を司り、農耕や狩猟、そして戦の神を祀る神社として敬われてきた。坂上田村麻呂も蝦夷征伐に際して諏訪大社で戦勝祈願をしたと伝わる。武田信玄も諏訪明神を信仰しており、「南無諏訪南宮法性上下大明神」、「諏訪南宮上下大明神」の軍旗を掲げていた。また、信玄は「諏訪法性兜」を愛用していた。
 
 
 
 【武田信玄の駿河侵攻】
 ある一地域に戦力が拮抗した複数の勢力がある場合、一つの勢力が衰えるとその所領をめぐって大きな合戦が起こり、その後の勢力図を大きく塗り替えてしまう。永禄十二年に起きた武田信玄の今川領攻めはその好例である。永禄十一年、武田信玄は御伽衆寺島甫庵を北条氏康に派遣し、今川家と戦うことを伝えた。その際、武田信玄は富士川より東を北条氏康の領地と認める代わりに、今川家に加勢しないよう求めた。氏康はこれに激怒。寺島甫庵を監禁し、武田信玄との合戦の意志を示した。北条家と今川家は血縁関係にあり、長年に渡って同盟関係を維持していた。さらに信玄の今川領侵攻を認めれば、強力な武田軍が目と鼻の先に駐留することになる。小田原防衛の観点からも今川領侵攻をくい止める必要があった。永禄十二年一月十八日、北条氏康は氏政と共に小田原を出陣。武田軍は興津清見寺方面に出陣。北条軍が海路から攻めると、船に不慣れなため岡に上がって応戦しようとした。一月二十三日、武田信玄の使者が徳川家康の元を訪れ、遠江への出兵を促した。信玄は徳川家康に遠江を攻めさせることで今川家を足止めしようとした。一月二十五日、北条氏康が清見寺方面に攻め込み、両軍は三度に渡って交戦。武田軍は敗北した。一方、徳川家康は三月まで今川氏真と戦ったが、掛川城を攻め落とせずにいた。そこで家康は今川氏真と和睦しようと考え、北条氏康に仲介を依頼。遠江は武田信玄を追い返すまで徳川家康が守り、今川氏真に返還することを約束した。北条氏康はこれを受け入れ、今川氏真を伊豆戸倉城で引き取ることにした。北条軍、徳川軍は武田軍を挟撃し、甲斐に追い返すことに成功した。武田信玄の今川領侵攻は完全な失敗に終わった。北条氏康は武田軍撃退という目的を果たし、徳川家康は遠江侵攻の大義名分を得たのだ。今川氏真は伊豆に向かったが、遂に遠江が返還されることはなかった。この時期、北条氏康は上杉謙信との同盟締結交渉を進めていた。上杉、北条、徳川に囲まれるという最悪の事態を切り抜けるため、武田信玄は足利義昭と織田信長に使者を派遣し、上杉謙信との和睦の仲介を依頼した。同時に佐竹家や里見家など関東諸侯にも使者を派遣し、北条氏康を牽制した。その後も信玄は駿河を諦めず、先に北条氏康を降伏させようと小田原城を攻めている。
 
 
 
 【小田原籠城と三増峠合戦】
 永禄十二年六月十九日、武田信玄は再び駿河に攻め込み、古沢新城を包囲。さらに伊豆まで軍を進めた。北条氏康は同盟を結んだ上杉謙信に信濃を攻めるよう要請。しかし、上杉謙信は越中攻めの準備をしており、信濃攻めの意欲は薄かった。仕方なく北条軍は駿河方面の守りに向かった。八月二十二日、上杉謙信は越中松倉城を落とした。北条氏康は再度、謙信に信濃攻めを求めたが、返事は無かった。九月、武田軍二万は碓氷峠から上野国に攻め込み、やがて武蔵鉢形城を包囲。これは鉢形城を守る北条氏邦を牽制するためで、信玄は軍勢に小田原城攻めが目的であり、それ以外の城は牽制する程度に攻めればよいと伝えた。そして軍を二つに分け、自らは江戸城攻めの軍を率い、武田勝頼は滝山城攻めの軍を率いて南下。この時、馬場信房は信州牧島城を守っていたが、小田原攻めに参戦するため独断で手勢五十余名を率いて出陣。武蔵滝山で武田勝頼の軍勢と合流した。連絡を受けた信玄は馬場信房の忠節を大いに喜び、勝頼と共に滝山城を攻めるよう命じた。滝山城は北条氏照が守っており、攻め落とすことが出来ず、武田勝頼は信玄の指示により無理攻めをせず軍を南進させた。北条軍の大半は武田軍の侵攻に際して籠城の構えを見せており、武田軍に追撃をかけることも、小田原城救援に向かうことも出来ずにいた。武田信玄は軍勢を通過させただけで北条軍の動きを封じたのだ。この時、小田原城周辺の北条軍は駿河の守りに就いていた。これは武田軍の駿河攻めを警戒するためだったが、肝心の小田原城が手薄になるという結果を招いていた。小田原城には北条幻庵、北条氏忠、北条氏繁ら一門衆や重臣がおり、武田軍とどう戦うか軍議を開いた。軍議の最中、北条幻庵は小田原籠城が上杉謙信を退けた前例を挙げ、今回も物資を運び込んで籠城するよう進言した。こうして小田原籠城が決定。駿河方面に出陣していた軍勢の一部も小田原に戻り、武田軍に備えた。十月三日、武田軍は小田原城を攻撃。しかし、信玄は小田原城を攻め落とすつもりなど無かった。堅牢な巨城を攻めるよりも、敵軍を城外に誘い出して合戦に及ぼうと考えていた。それも敵の勢力圏内ではなく、武田家の本拠地甲斐、信濃に近い場所での合戦を望んでいた。十月六日、武田信玄は小田原城攻撃を中止させ、三増峠から甲斐に撤退するため鎌倉方面に軍勢を進めた。武田勝頼は殿軍となっている。北条軍の追撃を見越し、甲斐に近い三増峠で雌雄を決する作戦だった。案の定、武田軍を打ち破るために北条氏照、北条氏邦、北条綱成らは軍勢を三増峠に集結させた。この情報を得た信玄は東側から三増峠の北条軍を攻め、小荷駄に峠を先に通らせ、それから本隊が通過する作戦を採った。そして、小幡信貞を津久井城方面を、山県昌景らを韮尾城方面に待機させた。こうして三増峠合戦が起こった。十月八日、武田信廉らは北条綱成の軍勢に突撃。武田軍は浅利信種らが討死したものの、三増峠から甲斐に抜ける道を切り開いた。内藤昌秀は小荷駄を率いて峠を通過。しかし、北条軍は別働隊と合流して優勢になった。信玄は山県昌景、小幡信貞ら伏兵に北条軍を背後から攻撃するよう命じた。これにより北条軍は総崩れとなり敗走。隘路のため部隊は散り散りになって落ち延びた。北条氏康、北条氏政は三増峠に向かうため進軍中であったが、北条軍敗走の報を受けて小田原城に戻った。この合戦以降、北条氏康は駿河方面の兵を関東に引き上げさせた。武田信玄の関東侵攻、小田原城攻撃、三増峠合戦の勝利によって関東の守りが手薄になったと痛感したのだ。こうして武田信玄は前年の駿河侵攻失敗の屈辱を晴らし、駿河侵攻への足がかりを作った。
 
 
 
 【駿河制圧】
 永禄十二年十二月、武田信玄は駿河に攻め込み、北条家の駿河の重要拠点である蒲原城を攻め落とした。さらに駿府を守る今川重臣岡部正綱を寝返らせ、駿府を制圧。元亀元年正月、武田軍は駿河花沢城を攻略。同年四月、駿河東部、伊豆に攻め込み、韮沢城を攻撃した。こうして武田信玄は駿河の大部分を手に入れ、伊豆を攻めることで北条軍の反撃を牽制した。元亀二年、武田軍は伊豆興国寺城、深沢城を攻めた。同年二月下旬、上杉軍が上野に攻め込むという情報を得て、信玄は兵を引き上げた。その後、武田信玄は佐竹義重と同盟を結んだ。佐竹義重は反北条のため上杉謙信と結んだが、その謙信が北条氏康と結んだため、両者と争う武田信玄と関係を深めたのだ。里見義弘、簗田晴助も信玄と結び、北条氏康に抵抗した。
 
 
 
 【武田信玄の死因】
 武田信玄の死因は一般的に肺結核説、胃ガン説、肝臓ガン説が知られてる。変わったところでは日本住血吸虫という寄生虫が原因という説がある。この寄生虫は宮入貝という貝に寄生し、なんらかの原因で人間の体に入ると潜伏期間二、三十年程で内臓を蝕む。若い頃の護岸事業で寄生され、五十歳を過ぎて老年の域に達していた信玄の体は寄生虫に勝つことは出来なかったと言う。肺結核やガンでは激しい移動には耐えられないと言うし、まんざら信憑性がないわけではない。
 
 
 
 【弱体化する武田家】
 長篠合戦大敗後、武田勝頼は村々に武田家存亡の危機を訴え、村の若衆に一人当たり二十日間の出陣を求めた。それも村の「武勇の輩」を出すよう命じ、従わなければ処刑すると威した。しかし、村民は武田勝頼の命令に背き、人夫を出陣させた。その結果、武田軍は人夫ばかりだと敵味方が噂し、武田軍の志気が下がるという悪循環に陥った。
 
 
 
 【武田勝頼の外孫 宮原晴克】
 寛政重修諸家譜「巻第百四十五 武田氏」の項に武田勝頼の娘の記述がある。
 
 【女子 父勝頼没落のとき、僅に六歳にして、駿河國田中に至り、東照宮の仰により高力權左衛門正長にあづけられ、月俸を賜はる。其後また仰によりて宮原勘五郎義久が妻となる】
 寛政重修諸家譜「巻第七十八 宮原氏」を読むと、夫になった宮原義久の事績が載せられている。
 
 【義久 勘五郎 實は義勝が二男、母は信政が娘。 慶長七年兄義照が遺跡を賜ひ、格式無官の高家となされ、采地に住し、随意に參府し奉仕すべしとの仰をかうぶり、又高力權左衛門正長にめし預けられし武田勝頼が女を妻とし、且宮原の稱號は嫡流のみこれを用ひ、庶子に至りては穴山と稱すべき旨台命あり。のち大坂の役に、台徳院殿の供奉に列して京師に至り、二條城を守衛し、寛永二年十二月十一日采地の御朱印を下さる。七年十二月五日死す。年五十四。法名宗繁。坂本の正覺寺に葬る。後代々葬地とす。妻は武田四郎勝頼が女】
 
 宮原義久、武田勝頼息女との間には宮原晴克という男児が生まれていた。武田勝頼の外孫であり、寛政譜はその家系が広く繁栄した様子を伝えている。
 
 【晴克 右京 母は勝頼が女 元和六年九月はじめて台徳院殿にまみえたてまつる。時に十四歳。寛永八年遺跡を継、十九年十月二十八日死す。年三十六。法名宗心。】
 
 寛永諸家系図伝の宮原氏の項にも宮原晴克の記述がある。
 
 【晴克 右京進 母武田勝頼女天正十年六歳自甲州赴駿州田中依 大権現之仰被預於高力権左衛門賜二十人扶持 慶長七年依 大権現之仰為義久妻 元和六年九月晴克始奉仕 台徳院殿 寛永四年拝領父遺跡】
 
 寛永諸家系図伝は宮原晴克の存命中に編纂が始まっている。宮原晴克は存命中から武田勝頼の子孫と公的に認められていたことになる。
 
 彼女の他にも武田勝頼には娘がいたようだ。しかし、天正十年の武田滅亡時の混乱の中で自決を余儀なくされたらしい。寛政譜巻第八十七の金丸昌義には次の記述がある。
 
【天正十年三月十一日、勝頼生害のとき、小原丹波某同下総某とともに命をうけて、その室及び女子を害し、其遺骨をとりおさめて後自殺す。年二十九。法名道助】
 
 
 
 【名将武田信繁】
 永禄四年、武田信繁は子の信豊や家臣に宛てて「古典厩より子息長老江異見九十九箇条之事」という家訓を残した。直後の川中島合戦で信繁は討死したため、遺言と言うことも出来る。数多くの漢籍を引用しており、信繁の教養深さを物語っている。
 第一条「屋形様に対し奉り、尽未来逆意有るべからざる事。論語に云う。造次にも必ず是に於てし、顛沛にも必ず是に於てすと。亦云う。君に事うるに能く其の身を致すと」
 第二条「戦場に於て、聊も未練を為すべからざる事。呉子曰く、生を必するは則ち死し、死を必するは則ち生くと」
 第七条「兄弟に対し、聊かも疎略すべからざる事。後漢書に云う。兄弟は左右の手也と」
 このように武田信繁は兄信玄を盛り立て、決して叛意を抱かなかった。それは兄弟は左右の手と言うべき存在だからだ。多くの家で下克上、兄弟相克が起こる中、武田家中ではそのような事があってはならないという武田信繁の人生観でもある。
 
 
 
 【信濃善光寺如来象】
 善光寺如来は一光三尊阿弥陀如来像であり、中央に阿弥陀如来像、右に観音菩薩像、左に勢至菩薩像が祀られている。弘治元年七月の第二回川中島合戦合戦後、善光寺如来は祢津村に安置された。永禄元年九月二十五日、善光寺如来は甲府に移され、永禄二年二月には仮殿が建てられた。永禄六年三月、甲斐善光寺の棟上が行われた。永禄八年三月、善光寺如来は甲斐善光寺に安置された。甲斐善光寺の門前は栄えたと云う。天正十年、武田家滅亡後、織田信忠は善光寺如来を岐阜へ運んだ。本能寺合戦で織田信長が討たれると、織田信雄は清洲に如来を討つ自他。天正十一年六月、徳川家康は如来を三河吉田、遠江浜松と運び、そして甲斐善光寺に戻した。慶長二年七月十八日、豊臣秀吉は善光寺如来を京へ移した。その際、人足五百名、伝馬二百三十六頭が動員され、天台宗の僧侶百五十名、真言宗の僧侶百五十名が如来を出迎えた。慶長三年八月十七日、如来は信州善光寺へ戻された。
 
 
 
 【甲州金】
 甲州金は四分で一両、四朱で一分、四糸目で一朱だった。江戸幕府はこれを貨幣体系に取り入れ、さらに計量のための秤も甲州守随秤を使用した。
 
 
 
 【甲州桝】
 甲斐国国中三郡では甲州桝が使われた。曲尺の方七寸五分、深さ三寸五分五厘余。徳川家康、大久保長安が甲州桝の使用を認めたため、江戸期を通じて国中三郡で使用され続けた。
 
 
 
 【山本勘介実在の証明】
 明治二十二年、文学博士田中義成氏は「史学雑誌」第一号で川中島合戦を弘治元年、永禄四年の二回であるとした。同時に山本勘介は山県昌景に仕えた一兵卒であり、「武功雑記」の記述から、関山派の僧となった勘介の子が「甲陽軍鑑」執筆時に親を美化したという説を発表した。田中氏は当時の歴史学の権威であり、他の学者もそれに追従した。これが後に勘介を架空の人物とする説を生み出した。
 しかし、武功雑記は寛文年間以降に記された三等史料である。信憑性は極めて低い。甲陽軍鑑は年代の誤記こそ多いものの、武田家の研究に欠くことの出来ない史料である。甲陽軍鑑に記されていることこそ、勘介の実在を示しているのだ。現在では勘介の実在を示す史料が発見されているが、勘介の存在を低く見る傾向は払拭されきっていない。山本勘介の実像は田中氏によって歪められたのだ。
 
 『市川文書』:北海道釧路市松浦町の市川良一氏宅に伝えられた書状で、昭和四十四年、釧路図書館に鑑定を依頼された。発見の経緯は、大河ドラマ「天と地と」放映中に信玄の花押の入った書状が映され、それを見た市川夫人は伝来の書状を鑑定に出した。鑑定の結果、書状は信玄のものであり、「山本菅助」の名が記されていたことから勘介の実在を裏付ける史料となった。
 
 【 注進状披見。仍景虎至干野沢之湯進陣、其地へ可取懸模様、又雖入武略候無同意、剰備堅固故、長尾無功而飯山へ引退候哉、誠心地能候。何ニ今度其方擬頼母敷迄候。就中野沢在陣之砌、中野筋後詰之義、預飛脚候き。則倉賀野へ越上原与三衛門尉、又当手之事も塩田在城之足軽為始、原与三衛門尉五百余人真田江指遣候処、既退散之上不及是非候。全不可有無首尾候。向後者兼存其旨、塩田之在城衆ニ申付候間、従湯本注進次第ニ当地へ不及申届可出陣之趣、今日飯富兵部少輔所へ成下知候条、可有御心易候。猶可有山本菅助口上候。恐々謹言。
 六月廿三日  晴信 花押
  市河藤若殿 】
 
 『閥閲録遺漏 参三 山本家言伝之覚』
 
【 一、元甲州武田ノ臣山本勘介之後胤と云、已後郷士と成、代隔元就公御代御當家え附属し、安藝より御供して御側近ク被召仕、御家来と成り、秀就公御代迄ハ御家来之所、其項目くら矢といふもの御取せ被成候而、其矢染之分町家ニ相成、白羽之分百姓ニ成、其節山本方染羽を取故町家へ可被下之処、先祖より軍功有之ニ付、當御代迄御心入を似御側近被召仕、其已後ニ前大津久原村大庄屋被仰付御判物被下置、其文言ニ永名永刀一僕替草履門松大組同様ニ差木履迄御許容被仰付之通書記し有之、其已後洪水之節右御判物流出
 又云、山本勘介傳来之守刀ト添差流出
 又云、嶋原え支度して出されたる事、はらより御出たはゞ差圖して出されたといふ事しや、其婆々さ何のもて御出た、長持と鑓壹本、嶋原へ持参之分ニて大事ニして居り舛、
 又云、四斗桶一ツ有り、古しより輪かへ不申と申傳ふ
 又云、具足も馬具も有たというふ事
 又云、大小も三腰有り、父ノ代酒ノ代に賣事、小脇差壹本、攝州藤原貞廣、縁七々子ニ竹ニ虎、赤銅金色繪頭四分一ウヅホリ目シテ赤銅獅々龍角コジリ 】
 
 ※要約:山本勘介の子は郷士となるが、孫の代に毛利元就に仕えた。関ヶ原合戦後に毛利家が減封されると、山本家は「目くら矢」と言う籤引きにより町屋になることが決まった。しかし、山本勘介の後裔であることから一代に限って側近に迎えられた。子孫は前大津郡久原村の大庄屋となり、名字帯刀を許され、大組同様の扱いを受けた。これらを記した文書があったが、洪水により流出してしまった。勘介伝来の守刀があったが、これも洪水で流出した。勘介の子孫は島原の乱に出陣した。
 
 
 
戻る