駿河徳川家 家臣団
 
 
 
  徳川忠長 (1606〜1633年 28歳没)
 徳川秀忠の三男。元和三年、信州小諸十万石。元和四年、甲斐に移封。従四位少将。 元和六年、参議兼左近衛権中将に昇進。元和九年、従三位中納言。寛永二年正月十一日、駿府城主五十五万石。寛永三年八月十九日、従二位大納言。寛永八年二月、駿河忠長が幕臣小浜光隆の子を斬る。細川忠興は「民部(光隆)は西国の船かしらに仰せ付けられ置かれ候に、あまりなる事に候」と記す。忠興は近年、江戸の町に出没する辻斬りの誅殺を禁じ、必ず捕縛せよとの幕命に不審を抱いていた。そして、誅殺を禁じたのは忠長がその犯人であるためと察し、「今存じ当たり候」と記している。三月、年寄酒井忠世と土井利勝は使者を遣わして駿河忠長に行状改めを意見。忠長はこれに激怒。傅役内藤政吉を成敗しようとした。三月末、駿河忠長は秀忠に付家老朝倉宣正を切腹させるよう訴える。秀忠が忠長を改易しようとすると、朝倉宣正はこれに抗議。家臣を斬ったことは決して叛意あってのことではなく、自分は家老として御手討ちに遭うまで奉公する所存とした。宣正の意外な反応に秀忠は激怒。宣正に切腹を命じようとする。年寄衆の仲介により、朝倉宣正は酒井忠世に預けられることとなる。駿河忠長は付家老鳥居忠房の所領甲斐谷村に蟄居となる。忠長は金地院崇伝らを通じて秀忠に赦免を訴えていた。三月二十八日、同日付薩摩藩島津家江戸家老の国元への書状に、秀忠が忠長を改易したとある。忠長が人を斬ったことを秀忠は嘆き、忠長を庇えば天下の乱に繋がるとして勘当した。そして、忠長の処分は家光に一任した。五月二十九日、駿河忠長は蟄居先の甲斐谷村に向かう。寛永十年九月、徳川家光が発病。将軍病臥に乗じた紀伊頼宣、駿河忠長の謀叛が噂された。家光が忠長に自刃を命じようと考えたのはこの時であろうか。十月、快復。忠長の蟄居先を安藤重長の領する上野高崎とする。わずかな近習、馬一匹、槍一本が供奉したのみであった。十二月六日、駿河忠長は上州高崎大進寺にて自刃。
 
 
  糟屋吉成 (?〜?)
 糟屋政忠の子。徳川忠長に仕える。
 
 
  細井光信 (?〜?)
 長左衛門、金大夫。徳川秀忠に仕える。大坂の陣で首級を挙げる戦功があった。後に徳川秀忠の命により、徳川忠長に仕えた。寛永十年二月二十七日、堀直寄に仕える。寛永十九年、出羽秋田に移る。承応二年五月、佐竹家に仕える。明暦元年四百石を賜る。養子は最上家臣楯岡信義の次男弘盛。
 
 
  小野寺道白 (1586〜1643年 58歳没)
 最上家臣小野寺道元の子。主膳正、桂之助。元和九年、徳川忠長に仕える。寛永二十年十一月八日、五十八歳没。子の道國は佐竹家に仕えた。
 
 
 
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