菅沼家 家臣団
 
 
 
 田峰菅沼家 家臣団
 
 
  菅沼定成 (?〜1475年)
 菅沼資長の長男。伊賀守。初め田峯に居住したが、後に島田へ移る。文明七年没。子は定行、定信。
 
 
  菅沼定信 (?〜1507年)
 菅沼定成の次男。新三郎、信濃守、刑部少輔。田峯菅沼氏の祖。文明二年、田峯城を築く。永正四年九月十五日没。法名「龍頭院殿大雲高公居士」。子は定忠。
 
 
  菅沼定忠 (?〜1534年)
 田峰菅沼定信の長男。新三郎、大膳太夫。井代宝珠院開基。天文三年四月十六日没。法名「宝珠院仁安良英大居士」。
 
 
  菅沼定広 (?〜1565年)
 田峰菅沼定忠の長男。新三郎、大膳亮。疱瘡の跡が残る顔から「蜂の巣大膳」と呼ばれたという。大谷城を築城。永禄八年没。法名「仁珠浄心大禅定門」。
 
 
  菅沼定継 (?〜1556年)
 田峰菅沼定広の長男。新太郎、大膳亮。初め定綱。天文元年、新城築城。弘治元年、妹を後妻とする奥平貞勝と共に織田家に属す。これに反発した今川家、菅沼一門との間に内乱が起こる。次弟左衛門次郎、一族菅沼孫太夫、野田三右衛門定円、弟野田伝一郎定自、恩原城主山川清兵衛、山川家臣筒井与次右衛門、筒井太郎兵衛らが定継に味方した。弘治二年五月、三弟定直ら一門衆に攻められるも撃退。同年八月、定直らは今川家の助勢を受け、再び定継を攻める。同月二十一日、討死。自刃したとも伝わる。法名「中岩相林居士」。
 
 
  菅沼定忠 (?〜1582年)
 田峰菅沼定継の長男。小法師、刑部少輔。貞吉とも。定直とする文献もあるが、叔父に定直という人物がいるため、誤記であると思われる。父の死により、幼くして家督を継ぐ。元亀二年、甲斐武田家臣秋山勢に攻められ降伏。以降、一門衆へ武田家に属するよう勧めることとなる。同年四月、野田城攻めの際、家老城所道寿に同族野田菅沼家の者を少しでも救うため、わざと道に迷い、城攻めを明け方まで遅らせるよう命じた。三方ヶ原合戦参加。長篠合戦後、田峯城留守居役である叔父定直らによって帰城を拒まれ、武節城に移ることとなった。天正四年七月十四日早朝、田峰城を攻め、定直を討つ。城攻めがあまりに早く成功したことから、地元では物事を短期間で手早くこなす際に、「田峰のお城ではないが」と一言付け加えるようになったと言う。他に城内の老若男女九十六人を討ち取った。後に甲州に移る。武田滅亡後、家康への赦免を願い出るも許されず、牧野康成に誅殺された。これにより、田峯菅沼氏の嫡流は断絶した。安養寺に葬られる。法名「安養院殿剣叟浄秀大居士」。ちなみに安養寺は定忠が開基した。
 
 
  菅沼定常 (?〜?)
 田峰菅沼定継の次男。刑部次郎、七郎右衛門。島田城主。長篠菅沼道満の女婿。弘治二年、織田家に属す。元服の際、討死した島田菅沼孫太夫の所領三州設楽郡島田を賜る。長篠合戦後、奥平信昌に仕える。天正十二年三月、小牧合戦で奥平勢の鉄砲隊を率い、森軍へ一斉射撃を行う。慶長五年、信州上田城攻めに参加。
 
 
  菅沼定次 (?〜?)
 菅沼定常の長男。弥五郎。母は菅沼道満の娘。
 
 
  菅沼定雄 (?〜?)
 菅沼定次の子。新五右衛門。
 
 
  菅沼定仁 (?〜?)
 菅沼定雄の子。弥五兵衛。弟定信を養嗣子とする。
 
 
  菅沼定信 (?〜?)
 菅沼定雄の子。定仁の弟。新五右衛門。兄の養嗣子となる。子は定直、五左衛門定継。
 
 
  菅沼定隅 (?〜?)
 菅沼定常の次男。七郎左衛門。母は菅沼道満の娘。奥平信昌の四男松平忠明の家老。大坂の陣で討死。家系は松平家臣として続いた。
 
 
  菅沼綱正 (?〜?)
 菅沼定常の三男。市内、左兵衛。母は菅沼道満の娘。慶長七年から奥平家昌に仕え、六百石を知行。御供番の家格ならば通常、二百石から三百石を知行するものであり、綱正は破格の扱いを受けた。元和年間、奥平姓を許され、左兵衛と改める。大身衆に抜擢され、千五百石を賜る。以降、奥平家中菅沼家の総領格となる。
 
 
  奥平定頼 (?〜?)
 菅沼綱正の養嗣子。生田尚之の次男。自身は家督を嗣がず、子の左兵衛正重が相続した。
 
 
  奥平正重 (?〜?)
 奥平定頼の子。左兵衛。祖父から家督を継いだ。弟に五次右衛門定道がいる。
 
 
  菅沼定道 (?〜?)
 奥平定頼の子。正重の弟。五次右衛門。
 
 
  菅沼定元 (?〜?)
 菅沼定常の四男。刑部右衛門。母は菅沼道満の娘。山田治郎右衛門の女婿。慶長年間、奥平家昌から二百石を賜る。物置頭。
 
 
  菅沼定英 (?〜?)
 菅沼定元の子。権兵衛。母は山田治郎右衛門の娘。生田尚之の女婿。弟は八郎左衛門定武。子は刑部右衛門定明、五郎左衛門定高。
 
 
  菅沼左衛門次郎 (?〜?)
 田峰菅沼定広の次男。兄定継が織田家に属すと、これに応じる。
 
 
  菅沼定直 (?〜1576年)
 田峰菅沼定広の三男。弥三右衛門、道喜斎。南設楽郡布里を領す。兄定継、左衛門次郎が織田家に属すと、家老林左京亮と共に一門を取り纏め、今川派の勢力を形成。兄弟相克の末、今川家の助勢を得て勝利。定継の子定忠を当主とし、筆頭家老となった。長篠合戦時、田峯城留守居役。戦後、敗将となった定忠の帰城を拒む。天正四年、定忠に攻められ討死。今泉孫右衛門と共に、田峰城平野の辻に首を晒される。そのため、同地には定直、孫右衛門の供養塔が建立された。
 
 
  菅沼定利 (?〜1602年)
 田峰菅沼定直の子か。小大膳。徳川家に仕え、長篠合戦に参加。宗家定忠没後、遺領を賜る。後に上州吉井城二万石。慶長七年没。法名「隆興院殿広山玄太居士」。若くして没した小源次という子がいたと言う。
 
 
  菅沼定氏 (1521〜1604年 84歳没)
 田峰菅沼定広の四男。定忠の次席家老。八名郡大野を領す。永禄四年、野田城攻めに乗じた今川勢に攻められる。定氏は新城を守り抜くが、この合戦で城は大きな痛手を受け、後に破却されることとなった。後に徳川家に属す。永禄十一年、掛川城攻めでは定忠の名代として参戦。元亀三年、三方ヶ原合戦に参加。同年十二月二十二日、大敗直後の夜襲を行い、功を挙げた。家康は定氏に長谷部国重の脇差を与えた。慶長九年七月二十六日、八十四歳没。
 
 
  菅沼定仙 (?〜?)
 田峰菅沼定広の五男。八右衛門、常陸介。初め定成。定忠の三番家老。八名郡井代を領す。定政の養父。
 
 
  菅沼定政 (1551〜1597年 47歳没)
 土岐明智定明の子。菅沼定仙の養子となる。これは母が定仙に再嫁したためとも、定仙の実姉だったためとも伝わる。愛菊丸、藤蔵、山城守。天文二十年生。永禄七年、養父定仙に伴われ、家康に拝謁。初陣は十七歳という。元亀三年十二月、遠州三方ヶ原戦に参戦。天正十二年三月、小牧合戦に参加。四月九日、尾州小幡城入りの後、家康は物見を出して秀吉勢の動静を窺わせた。その内の1人は「今にも迫り来る見込み」と報告したが、家康はさらに定政にも物見をさせた。定政は単騎で目的を遂行。 敵は甲冑を脱いでおり、夜襲の見込みは無いと報告。翌朝に来襲を受けた場合、小幡の小城では防戦に分が無いため、小牧への移動を合わせて献言した。家康は定政の報告を重用し、全軍をその夜の内に小牧へ移した。翌朝、定政の見込みどおり秀吉軍は小幡城に攻め寄せたが、徳川勢は一人残らず出払っていた。朝鮮出兵時、肥前名護屋在陣。慶長二年没。
 
 
  菅沼定利 (?〜?)
 田峰菅沼氏。小大膳。田峰菅沼家が甲斐武田家に属すと、これに反発し、徳川家に属す。
 
 
  菅沼定氏 (?〜?)
 田峰菅沼氏。十郎兵衛。田峰菅沼家が甲斐武田家に属すと、これに反発し、徳川家に属す。
 
 
  林左京亮 (?〜?)
 田峯菅沼一族か。菅沼氏の内乱では定直と共に今川派の勢力を形成。戦後、定忠の四番家老となる。元亀年間、武田家に仕える。長篠合戦の頃から働きが見られず、隠居、または死没したと思われる。
 
 
  城所道寿 (?〜?)
 田峰菅沼家の家老。城所藤五郎の子とも、孫とも伝わるが詳細不明。名は六左衛門信景か。没落した富永氏を見限り、田峯菅沼家臣となったという。元亀二年、定忠に甲斐武田家への帰属を勧めた。娘を武田家への人質としている。長篠合戦以降、事績不明。武田滅亡後、定忠と共に誅殺されたとも言う。
 
 
  今泉四郎兵衛 (?〜?)
 富永家臣。慶保斎。他の重臣らが公家から富永氏の当主を迎えようとすると、これに反対。永正二年、田峰菅沼氏と交渉し、当主定忠の三男竹千代を富永氏当主に迎えることを約束。同年十一月一日、菅沼竹千代は富永氏を相続。孫右衛門はこれに随伴した。しかし、独断で竹千代を当主に迎えたため、家中からの反発を受ける。中島市兵衛の屋敷で様子を見るも、情勢に変わりはなく、仕方なしに中島氏の屋敷の一部を借り、館を築く。交渉の末、永正三年二月十一日、竹千代の家督相続が公認のものとなる。これにより、富永館は野田城に改められた。竹千代が十四歳(十三歳とも)と年少のため、補佐役となる。中村矢剣屋敷に居住。永正三年、居城移転を発案。これを認められた。
 
 
  今泉孫右衛門 (?〜1576年)
 田峰菅沼家家老。道善。長篠合戦時、田峯城留守居役。天正四年、定忠に討たれる。田峰城平野の辻に首を晒される。子を徳川家に属させたとも言う。
 
 
  塩瀬久次 (?〜?)
 富永氏庶流。祖父富永資時から塩瀬姓を称す。甚兵衛、玄秋。作手村に塩瀬城を築く。富永氏、後に田峰菅沼氏に仕える。永正二年十一月一日、田峰菅沼定忠の三男竹千代が富永氏を継ぐと、これに随伴した。中島市兵衛の屋敷の東方、徳定に館を構える。竹千代が野田城に入ると、徳定屋敷に居住。甚兵衛の名乗りは、これ以降の塩瀬氏当主の世襲となった。
 
 
  今泉小十郎 (?〜?)
 菅沼定則の家臣。中市場に住す。
 
 
  城所清庵 (?〜?)
 田峰菅沼家臣。助之丞、浄古斎。永正二年、富永家臣今泉孫右衛門からの依頼で、当主菅沼定忠に子供の一人を富永氏当主にしたいという申し出を仲介。同年十一月一日、定忠の三男竹千代が富永氏を継ぐと、それに随伴した。中島市兵衛の屋敷の南方、金泥平に館を構える。竹千代が野田城に入ると、金泥平屋敷を砦に改築。
 
 
  菅沼権之丞 (?〜?)
 田峰菅沼家臣。永正二年十一月一日、菅沼竹千代が富永氏を継ぐと、これに従う。竹千代が富永家中に受け入れられず、仮屋敷に居住した際、その傍に随伴。竹千代が富永家中に受け入れられると、野田城内に居住。
 
 
  半田藤十郎 (?〜?)
 菅沼定則の家臣。資義屋敷に居住。
 
 
  山川清兵衛 (?〜?)
 恩原城主。菅沼定継に加勢。恩原城は雨堤城と同一の可能性がある。
 
 
  山川四郎右衛門 (?〜?)
 田峰菅沼家臣。元亀二年四月、野田城攻めの案内役となる。天正二年二月、武田家に降伏した野田菅沼定盈の護衛となり、預け先の長篠城まで同行した。
 
 
  塩瀬善助 (?〜?)
 田峰菅沼家臣。元亀二年四月、一族塩瀬甚六と共に野田城攻めの案内役となる。他に鈴木助右衛門、鈴木久内、兵藤新左衛門も案内役となった。天正元年二月、武田家に降伏した野田菅沼定盈の護衛となり、預け先の長篠城まで同行した。善助と兵藤新左衛門は、後に野田菅沼定盈に仕えた。
 

 
  島田菅沼家 家臣団
 
 
  菅沼定行 (?〜?)
 菅沼定成の長男。田峯菅沼定信の兄。島田菅沼氏の祖。血縁的には宗家に当たるが、田峰菅沼家が従った形跡はない。病弱により廃されたと「菅沼家譜」にある。
 
 
  菅沼定家 (?〜?)
 島田菅沼定行の長男。系図によっては定家を記さないものもあると言う。
 
 
  菅沼定盛 (?〜?)
 島田菅沼定家の長男。弟孫太夫に島田を譲り、天文年間、田内に移住。
 
 
  菅沼定勝 (?〜?)
 島田菅沼定盛の子。久助、伊賀入道、源長。井道に移住。田峯菅沼氏の内乱後、子の定清と共に田峯城を一時占拠した。永禄四年、今川家との合戦で功があった。
 
 
  菅沼三照 (?〜1615年)
 島田菅沼定勝の子。久助、休也斎。定清とも。田峯家臣城所道寿の誘いにより、徳川家から武田家に寝返る。後に徳川家に帰参。越前松平家臣となり、大坂の陣にも参戦した。元和元年没。法名「傑伝源英居士」。
 
 
  菅沼定重 (?〜1622年)
 島田菅沼三照の次男。半左衛門。越前松平家臣。元和八年八月二十四日没。嗣子無く家系は断絶した。
 
 
  菅沼孫太夫 (?〜?)
 島田菅沼定盛の弟。島田を譲られる。田峯菅沼氏の内乱時、定継側に属す。定直ら今川派に討たれた。
 
 
  菅沼定房 (?〜?)
 島田菅沼三照の長男。新五左衛門。越前松平家臣。若くして死没したか。
 

 
  長篠菅沼家 家臣団
 
 
  菅沼満成 (?〜?)
 田峯菅沼定成の弟、伊賀守資長の次男。三郎左衛門。はじめ、荒尾岩小屋城居住。後に長篠へ移住。その際、長篠の士豪長篠氏を追い払っている。長篠菅沼氏を興す。
 
 
  菅沼元成 (?〜?)
 長篠菅沼満成の子。新九郎。今川氏親に属す。永正五年、長篠城を築く。
 
 
  菅沼俊則 (?〜?)
 長篠菅沼元成の長男。下野守。今川家に仕える。法名「湖善大禅定門」。
 
 
  菅沼元直 (?〜?)
 長篠菅沼俊則の長男。左馬允。今川に仕える。法名「月分源心」。
 
 
  菅沼満直 (?〜1582年)
 長篠菅沼俊則の次男。伊豆守。曽祖父の岩小屋に居住したと言う。田峯菅沼家臣城所道寿に誘われ、菅沼正貞の武田家従属のための説得に加担。家康勢に長篠城を攻められた際、武田勢の来援まで待つよう開城に断固反対した。勝頼からの信任も厚かったと言う。長篠開城後は岩小屋へ撤退。後に甲信地方に移る。武田滅亡後、子の八左衛門らと共に徳川家への帰属を願い出たが、容れられずに誅殺された。
 
 
  菅沼貞景 (?〜1569年)
 長篠菅沼元直の長男。長篠城主。新九郎、三郎左衛門。今川家に仕える。永禄年間、徳川家に属す。永禄十一年末、遠州掛川攻め参加。永禄十二年一月二十三日、掛川城外の天王山にて討死。法名「屋山源慶」。子は正貞。
 
 
  菅沼正貞 (?〜1582年)
 長篠菅沼貞景の子。新九郎。元亀二年、武田家臣秋山信友に攻められる。大叔父伊豆守、田峯菅沼家臣城所道寿の説得により、積極的ではないものの、徳川家から武田家へ寝返る。人質として伊豆守の子、八左衛門と、長篠家臣浅井半兵衛の子、小三郎を甲斐に送る。背信を理由に、徳川家に長篠城を攻められる。天正元年、伊豆守らの反対を押し切り開城。家康勢に捕縛される事も無く、鳳来寺まで退く。この行為を知った武田信豊、土屋昌次らは、正貞が徳川家に未練を持っていると疑う。推測は正しく、正貞は牧野右馬允らの書状を妻の実家の土蔵に隠すなどしていたが、長篠家臣浅井半平が武田家が徳川家との内通の証拠を探そうとしていると知り、処分している。そのため、内通の証拠は見つからなかったが、疑惑が残ったため信州小諸にて入牢。後に獄死。没年は不明。法名「峯庵源高禅定門」。
 
 
  菅沼政勝 (?〜1641年)
 長篠菅沼正貞の子。半兵衛。小諸で生まれると言う。武田滅亡時、母に伴われて家康に赦免を願い、容れられる。田口に五百石を賜る。元和二年、紀伊頼宣に仕え、八百石。元和五年八月、紀伊御国入りに際し千石に加増。寛永十二年、二千石に加増。寛永十九年八月二十二日、病没。家系は明治に至る。
 
 
  菅沼貞俊 (?〜1573年)
 長篠菅沼元直の次男。菅沼道満の娘婿。弾正左衛門、琉山。長篠城内の「弾正曲輪」は、貞俊の名にちなんだものと思われる。菅沼家中の親徳川派筆頭格とされ、甥の菅沼正貞に徳川家への帰属を強く促したと言う。開城後、三遠の国境付近の本坂峠に隠れていたと言う。戸田忠次の縁者であり、後にその与力になったと言う。また、開城以前に武田派が主流となった長篠城内で、叔父菅沼満直に反論。在城していた武田家臣室賀一葉軒を討ち、家康に詫びよと進言する。正貞はその意見に耳を傾けるが、他の一族が賛同しないため孤立。城を退去し、隠棲先の吉村で帰農したとする説もある。元亀四年七月四日没。西ノ久保に葬られる。法名「一叟清閑」。後年、「広巌院殿瑠山全瑠居士」に改められる。七十三歳を享年とする系図があるが、同世代にあたる他の菅沼一族よりも二十年近く先に生まれたことになり、疑問が残る。
 
 
  菅沼定昌 (?〜1616年)
 長篠菅沼貞俊の次男。三郎左衛門、はじめ定重。本多忠俊の娘婿。父と共に帰農。後に乗本に移住。元和二年二月十九日没。近辺に現在も続く菅沼氏は、定昌の系統と言う。
 
 
  菅沼道満 (?〜1571年)
 長篠菅沼一門。菅沼貞俊の岳父。東田内を領す。元亀二年、甲斐武田家に属した遠州天野氏の長篠城攻めで討死。道満を菅沼元直の弟、その子を菅沼満直とする説もある。
 
 
  菅沼美濃守 (?〜?)
 長篠菅沼一族。永禄十二年一月二十三日、遠州天王山で朝比奈家臣讃井善右衛門に手傷を与えるも、討ち漏らす。
 
 
  河合筑後守 (?〜?)
 長篠菅沼家臣。永禄十二年一月二十三日、遠州天王山での合戦に参加。
 
 
  阿部定次 (?〜?)
 阿部大蔵の弟。元長篠菅沼家臣。乗本に居住。四郎兵衛。天正三年五月、鳶ヶ巣山砦攻めで、後備え酒井忠次の部隊に属し、先導役を務めた。
 
 
  伊藤貞次 (?〜?)
 長篠菅沼家臣伊藤貞久の子。天正三年、長篠合戦時に武田家に仕える。後に甲斐に移った。
 

 
  野田菅沼家 家臣団
 
 
  菅沼定則 (1493〜1547年 55歳没)
 田峰菅沼定忠の三男。竹千代、新八郎、織部正、不春。野田菅沼氏初代。富永家臣今泉四郎兵衛からの申し出により、永正二年十一月一日、富永氏を継ぐ。しかし、当初は四郎兵衛の独断として富永家中から受け入れられず、中島市兵衛の屋敷の一部を借り、仮屋敷を建てて居住した。永正三年二月十一日、富永家中からも当主と認められる。これにより、富永館を野田城に改める。野田郷四ヶ村、山吉田、八名井、長山、養父、下條に加え、田峯菅沼家から祝儀として仮邸時の殿垣内、金泥平、徳定、杉山の内では資義、他に片山、矢部を領した。十四歳と年少のため、今泉四郎兵衛が補佐役となった。永正三年八月、今川氏親に従い、西三河攻めに参加。これが初陣となる。帰城後、今泉四郎兵衛が本拠移転を発案。野田城は防衛、治水の面から不安があり、竹千代はこれを承諾。永正五年正月、上之山にて築城開始。元服も同時に行われ、新八郎定則、織部正を称した。永正七年、奥平貞久の養女を娶る。永正十三年、今川家に従い、遠州曳馬攻略戦に参加。同年八月十九日、曳馬城陥落。戦功により、遠州河合、高辺の二郷を賜る。十二月、野田新城が完成。永正十四年正月四日、移住。享禄二年、松平清康に従い、三州宇利城攻めに参加。十一月四日、宇利城陥落。戦功により宇利、吉田を回る。定則は東三河の士豪に松平家に属すよう勧め、それに賛同する者が多かったという。天文六年八月十五日、泉龍院光国禅師に帰依。天文十年八月、医王寺泰年全継禅師より不春居士の号を受く。天文十一年十二月十八日、田峯菅沼定継と共に、医王寺へ梵鐘を寄付。天文十三年正月、長男定村に家督と所領四千七百貫を譲る。天文十三年十二月から、十四年一月にかけて、連歌師宗牧を野田に迎えたと言う。宗牧は富士遊覧のため東国に赴いており、織田信秀の所にも立ち寄っている。宗牧は定則からの歓待を喜び、子息はいずれも器量者だと評価した。天文十三年四月四日、正室が没す。法名「能満禅定尼」。天文年間中に定則は没したが、正確な年代は不明。二月十四日に死去したと言う。「菅沼勲功記」は天文十六年、五十五歳とも五十四歳とも記す。法名「永昌院殿不春玄休大居士」。
 
 
  菅沼定村 (1521〜1556年 36歳没)
 野田菅沼定則の長男。新八郎。はじめ定富、織部正。大永元年生。名を「さだすえ」と読む文献もある。天文十三年一月、家督を継ぐ。同年四月、母の菩提寺として能満寺を建立。天文十四年、今川義元からの書状に返答する際、学問に疎いことから大いに悩んだという。以降、勉学に勤しみ、遂には能書家とされるに至ったと言う。天文十五年六月十五日、螺貝山龍泉院に大洞村の寄付状を発す。龍泉院に大洞山前住職が十一世として来院したのを喜び、寺の周囲に大洞村を新設し、寺領としたと言う。これを機に、寺号も螺貝山から大洞山に改められた。弘治元年、奥平貞勝が織田家に属し、今川家を離反。貞勝が周辺諸氏を誘ったため、田峯菅沼家ではどちらに属すかをめぐり、内乱が起こる。宗家菅沼定継が織田家に属そうとすると、これを支援するため弟を派遣。今川義元の名により、奥平貞勝征伐が行われると、これに参加。弘治二年八月、奥平家臣阿知波修理の雨山城を攻める。定村は先鋒となるが、修理の弟五郎右衛門の放った矢により、左喉から耳を貫かれ討死。三十六歳。野田勢は総崩れとなり、弟二人が立て直そうとするも敗北。戦後、定村は母の能満寺に葬られ、寺号も道雲寺に改められた。法名「翰照院殿慶岩道雲居士」。姉は西郷正勝の室。妹は設楽越中守貞通の後室。正室は深溝松平初代忠定の娘。いつ嫁したかは不明。元亀四年四月九日没。法名「瑞応院殿幸春理慶大姉」。子の定盈は徳川家臣となった。
 
 
  菅沼定盈 (1542〜1604年 63歳没)
 野田菅沼定村の長男。竹千代、新八郎、織部正。天文十一年生。母は深溝松平忠定の娘。弘治二年、父の死により家督を継ぐ。その際、弟虎之助を幽閉した。これは虎之助が定盈を謀殺しようとしたためと言う。桶狭間合戦後、今川家を離れ、徳川家に属す。近隣諸氏にも徳川家への帰属を積極的に働きかけたため、今川氏真の怒りを買う。氏真は代官岩瀬雅楽助に命じ、遠州河合の菅沼領を差し押さえることとした。同時に、吉田城に居住する東三河の士豪からの人質十三名の処刑が決まる。野田菅沼家からも、定盈の十一歳の妹「おみい」を人質に出していたが、処刑の話を聞きつけた乳母が、菅沼家臣を縁者を持つ寄田助四郎に頼み、闇夜に紛れて逃れることが出来た。後に逃走を助けたことが露見し、寄田助四郎は磔刑に処せられている。永禄四年七月二十九日、小原鎮実に攻められる。牧野氏、戸田氏、伊奈氏、本多氏らがこれに従った。曳馬城からも飯尾氏が出陣。数度の合戦の末、定盈は降伏。西郷氏を頼り落ち延びた。小原鎮実が遠州堀越氏征伐に向かうと、永禄五年六月二日、居城奪回のため夜襲を行う。稲垣氏俊を討ち、奪回に成功した。再び攻め込んできた今川勢を退けるも、城の傷みが激しいため改修を行う。城所清庵の守った古砦に二の丸、三の丸を増し、改修の終えた永禄六年二月、大野田城と改名。しかし、立地条件などの問題からか、「攻めるに易く、守るに難い」と里人から揶揄されたと言う。永禄九年四月十九日、正室長沢松平六代政忠の娘が没す。彼女の母は松平清康の娘である。永禄十一年、遠州攻めで調略を担当。今川家臣後藤実久を内通させるため、小山源三郎を派遣。後藤氏は寝返らなかったが、都田菅沼忠久が今泉四郎兵衛延伝からの今川家離反に応じた。忠久は「井伊谷三人衆」にも話を持ちかけ、共に徳川家に賊することとなった。同年十二月十二日、定盈は調略の功から加増を受ける。「井伊谷三人衆」にも安堵状が出される一方、彼らからも誓紙と人質を出させ出陣に備えた。年末、遠州攻めが開始され、定盈は家康軍を三州宇利で出迎えるも、同地で合流するはずの「井伊谷三人衆」は姿を現さなかった。定盈は己の失態を家康に詫び、その代わりに先鋒を命じられた。後藤実久が徳川勢出陣を知り、同僚に隠れて中宇利に参陣。定盈が家康への面会を執り成した。家康は後藤実久は先鋒に加え、後備えを牧野康成に命じた。拓山から遠州に入り、奥山の方広寺にて戦勝を祈願。井伊谷に出ると、「井伊谷三人衆」が遅れて合流。彼らは野田菅沼勢に加えられ、掻上城攻めに参加。掻上城を落とすと、その南方の刑部城も陥落させた。酒井忠次勢も白須賀城、宇津山城を落とした。家康自身は曳馬城を攻め落とす。こうして足場を固め、掛川城攻めに取りかかる。永禄十一年十二月二十七日、掛川城攻め。永禄十二年一月、再び掛川攻めが行われる。永禄十二年一月月二十三日、掛川城外の天王山で両軍が激突。定盈勢は久能城の備えとなり、出陣はしなかった。永禄十二年三月七日、掛川城攻めに参加。永禄十二年三月十九日、堀江城攻めで副目付。元亀元年六月二十八日、病のため、姉川合戦に参加せず。今泉延伝を名代とした。元亀元年十二月二十八日、田峰菅沼家、長篠菅沼家が甲斐武田家臣秋山信友に敗れる。元亀二年春、田峰菅沼家が秋山信友に降伏。秋山勢が南下すると、西郷氏、設楽氏と共に応戦。元亀二年四月、甲斐武田家に攻められる。討死覚悟で籠城すべきとしたが、家臣の説得により、西郷氏を頼り落ち延びることとした。この時、厠で用を済ませるが、近習の持ってきた手水が冷たいことに激怒。普段は湯だが、敵に攻められると冷水になるのかと叱り飛ばしたと言う。近習が直ちに湯を持ってくると、手水を済ませ、南曲輪から西郷氏の下へ向かった。十二月、修築中の野田城へ帰城を果たす。天正元年一月、再び甲斐武田家に攻められる。道々目記城を拠点とし、堀の水を増やすなど防衛策を練った。しかし、城兵は援軍を併せても四百余名と少数であった。武田勢に囲まれたため、使者を出して家康に援軍を要請。家康は信長に援軍を要請するも断られてしまい、三千余名を率いて自ら出陣した。しかし、三方ヶ原合戦での敗北から合戦を避け、撤退してしまう。援軍到着により志気を高めた城兵だったが、家康撤退を知ると大いに落胆。二月十日、能満寺住職が武田家の使者となり、自刃と引き替えに城兵の助命すると伝えた。同時に、これはあくまでも甲斐武田家の提案であり、城攻めを行っている山家三方衆の発案として、浜松に預けた人質との交換を条件に定盈の助命を行うとも伝えた。定盈はこれを受け入れ、三方衆に預けられた。座敷牢に入れられ、山県昌景から仕官を勧められるも断る。三月十日、野田郷内で山家三方衆人質との交換が成立。解放されるも、野田城は武田軍が入城しているため、従兄弟にあたる西郷清員の許で療養。下條村へ移住した。天正元年八月、長篠城攻めに参加。天正三年五月、長篠合戦参加。鳶ヶ巣山砦を攻め、小宮山信近を討つ。討ち取ったのは小坂井弥兵衛とも伝わる。遠州高天神城攻めに参加。甲州攻めに参加。関東移封の際、上州阿保一万石。後に伊勢長島二万石。関ヶ原合戦では江戸城留守居役。慶長九年七月十八日、六十三歳没。法名「勝徳院殿長翁宗堅大居士」。妹の「おみい」は定盈先妻の兄弟に当たる長沢松平七代康忠の弟良清に嫁ぐ。後に牧野民部成行に再嫁し、寛永十年五月二十一日、八十二歳で没したと言う。
 
 
  菅沼虎之助 (?〜1604年)
 野田菅沼定村の子。定盈の弟。弘治二年、兄を謀殺しようとしたため、幽閉される。「菅沼家譜」はその経緯を次のように記している。虎之助は月見と称し、定盈を私邸に招き、浴室で謀殺しようと思い立つ。定盈の家臣西村五郎太夫は、野田城で見ても月の美しさに変わりはあるまいとして、申し出を断った。虎之助は策略が露見したと思い込み、家臣らは逃亡。詮議の末、虎之助は幽閉の身となり、定盈は生涯対面を許さなかった。慶長九年八月二日没。法名「春林元芳」。子は新蔵。
 
 
  菅沼新蔵 (?〜?)
 野田菅沼虎之助の子。上州阿呆にて隠居する定盈の下を、虎之助の家臣が訪ねた。その後、新蔵は召し出され、五百石を知行した。父より早く没したと言う。
 
 
  菅沼又左衛門 (?〜?)
 菅沼定盈の叔父。
 
 
  菅沼帯刀 (?〜1569年)
 名は定信か。永禄十二年三月七日、掛川城攻めで討死。
 
 
  今泉延伝 (?〜?)
 四郎兵衛。菅沼定盈が病のため姉川合戦に参加出来ないため、名代として四十余名を率い、酒井忠次の部隊に属した。天正元年、野田城籠城に参加。暴風雨の夜、武田勢が夜襲を仕掛けると今泉長次郎、今泉小四郎と共に応戦。矢文で開城し、長篠まで参じるよう伝えられている。
 
 
  今泉弥四郎 (?〜?)
 今泉四郎兵衛の子。
 
 
  小山源三郎 (1530〜?)
 野田菅沼家臣。弓術に長け、弘治二年の雨山城攻めでは、源三郎の放った鏑矢が開戦の合図となった。鏑矢は敵兵を射抜き、それを賞賛されため、矢は射返されたと言う。雨山城攻めの時、二十七歳と伝わる。永禄十一年、調略のため今川家臣後藤実久の下へ向かう。元亀二年四月二十八日、武田家の進軍を郷民から報告される。早寅の下刻のことであったと言う。城落ちの際、伊藤彦八郎と共に海倉淵を泳いで渡る。これを見た武田勢は浅瀬であろうと追撃をかける。しかし、川は予想以上に深く、溺死する者が多かったと言う。
 
 
  菅沼弥太郎 (?〜?)
 野田菅沼家臣。柄漏。永禄十二年三月七日、掛川城攻めで功があった。
 
 
  今泉甚助 (?〜?)
 野田菅沼家臣。永禄十二年三月七日、掛川城攻めで功があった。
 
 
  今泉孫三郎 (?〜?)
 野田菅沼家臣。七郎右衛門。永禄十二年三月七日、掛川城攻めで功があった。
 
 
  今泉久左衛門 (?〜?)
 野田菅沼家臣。永禄十二年三月七日、掛川城攻めで功があった。
 
 
  彦坂小作 (?〜?)
 野田菅沼家臣。永禄十二年三月七日、掛川城攻めで功があった。
 
 
  山口五郎作 (?〜1571年)
 野田菅沼家臣。足軽大将。元亀二年四月、甲斐武田家の野田城攻めの際、討死覚悟で籠城を主張する定盈を説き伏せ、西郷氏を頼り落ち延びる道を選ばせた。自身は殿軍となり、野田勢の城落ちを助けた。宇利方面に向かうため、縄綯瀬を渡ろうとするも馬が進まず、一鍬田を通って吉祥山へ向かう。長引く戦闘で疲れ果て、遂に田峰菅沼定忠と塩瀬甚助に討たれた。指物を定忠に投げつけたが、わずがに頬をかすめるに留まったと言う。
 
 
  中山与六 (1554〜1571年 18歳没)
 西郷家臣。後に野田菅沼家臣。元亀二年四月、野田菅沼定盈の城落ちに随行。途中、定盈から野田城に忘れた鷹を取りに向かうよう命じられる。浅賀九右衛門から鷹を受け取り、直ちに定盈の下へ戻った。途中、海倉淵で田峰菅沼家に仕える従弟、後藤金助と出会う。金助から親族に背を向けて逃げるのか、と言われたため、金助と組み合う。金助の首を取る寸前で、田峰菅沼家臣小野田源右衛門が助太刀に入り、逆に討ち取られた。
 
 
  夏目市兵衛 (?〜?)
 野田菅沼家臣。元亀二年四月、田峰菅沼家に取られた中山与六のが首を取り戻そうとするが、遂に取り戻すことは出来なかった。
 
 
  田中喜三郎 (?〜1571年)
 野田菅沼家臣。元亀二年四月、甲斐武田家の野田城攻めの際に討死。他に井口六蔵、竹下彦次郎、彦坂小作、佐原平蔵も討死した。この合戦では、名のある者だけで十七名、下卒を含むと総勢四十余が討死したと言う。
 
 
  城所八郎四郎 (?〜?)
 野田菅沼家臣。天正元年一月十一日、甲斐武田家の進軍を偵察するため、物見となる。
 
 
  堀田大進 (?〜?)
 野田菅沼家臣。天正元年一月十一日、甲斐武田家の進軍を偵察するため、子の備中と共に物見となる。他に鳥居半四郎、塩瀬甚兵衛、小坂弥平次も物見となった。諏訪川原で武田勢と合い、銃撃を受ける。撤退の際、手綱を落としてしまい、槍でそれを拾い上げた。そのため、わずかに遅れ、奥平家臣室金平に追いつかれる。組み合いとなり、首を取られる寸前で備中、小坂弥平次が助けに入り、逆に金平を討ち取った。
 
 
  塩瀬甚兵衛 (?〜1573年)
 野田菅沼家臣。天正元年一月十一日、甲斐武田家の進軍を偵察するため、物見となる。帰城の際、武田勢と争い討死。
 
 
  菅沼助兵衛 (?〜?)
 野田菅沼定盈の従弟。馬術に長ける。天正元年一月、甲斐武田家に攻められた際、物見に出た六名の帰城を助けるため城外に出る。
 
 
  加藤長四郎 (?〜1573年)
 野田菅沼家臣。天正元年一月、甲斐武田家との合戦の状況報告のため、家康の下へ向かう。帰途、豊川を越える際、馬が見つからぬよう夜陰に乗じて轡に布をかぶせるなどしたが、遂に見つかり、討ち取られた。
 
 
  富永十郎太夫 (?〜?)
 野田菅沼家臣。天正元年一月、先に家康への使者となった加藤長四郎が討死したと知らない定盈は、十郎太夫を使者として再び家康の下へ向かわせる。帰途、野田城が武田軍に囲まれていたため、狼煙を上げて報告を遂げたことを城兵に伝えた。
 
 
  小楠又右衛門 (?〜?)
 野田菅沼家臣。天正元年、野田城籠城時に南曲輪を守る。武田勢が夜襲を仕掛けると、これと戦い功があった。
 
 
  大屋久三郎 (?〜?)
 大屋庄左衛門の次男。父は戸田三郎左衛門の与力となっている。浪人であったが、野田菅沼家に仕え、天正元年、野田城籠城時には南曲輪を守る。武田勢が夜襲を仕掛けると、朝比奈某と槍を合わせる。太股を突くものの、決着はつかず、互いに声高に名乗りを上げて退いた。後に父同様、戸田三郎左衛門の与力となり、久右衛門を称した。後年、江戸の久右衛門の屋敷を朝比奈某が訪ね、組み合ったときの古傷を見せ合い、談笑したと伝わる。
 
 
  菅沼加賀守 (?〜?)
 天正元年、野田城籠城時に西曲輪を守る。暴風雨の夜、敵襲はないと加賀守は深酒をしたが、武田勢は油断を突いて夜襲を決行。同時に金掘衆に水を断たせている。
 
 
  菅沼又左衛門 (?〜?)
 天正元年、野田城籠城に参加。暴風雨の夜、武田勢が夜襲を仕掛けると応戦。子の又十郎、甥の助兵衛も奮戦した。
 
 
  原武兵衛 (?〜?)
 遠州久能の浪人。天正元年、野田城籠城に参加。暴風雨の夜、武田勢が夜襲を仕掛けると応戦。
 
 
  豊田虎蔵 (?〜?)
 豊田藤助の子。天正三年五月、長篠合戦参加。鳶ヶ巣山砦、久間山砦攻めに参加。敗走する武田勢に追撃を仕掛けた。浪合備前守胤成を討ったと言う。後に菅沼小大膳に仕える。
 
 
  西村五郎太夫 (?〜?)
 野田菅沼家臣。天正元年二月、定盈が甲斐武田家に降伏すると、預け先の長篠城まで随行する。
 
 
  兵藤逢之助 (?〜?)
 野田菅沼家臣。天正三年五月、中山砦攻めに参加。飯尾弥四右衛門を討ち取る
 
 
  鍋田甚兵衛 (?〜?)
 野田菅沼家臣。天正三年五月、久間山砦攻めに参加。敗走する武田勢に追撃を仕掛けた。鳥居我右衛門、河合十斗兵衛、堀内奥之進、鋤柄百度右衛門らも参加した。
 
 
  今泉長次郎 (?〜?)
 野田菅沼家臣。天正三年五月、久間山砦攻めに参加。大戸民部、倉賀野淡路守、さらにその家従三名を討ったとして、今泉長次郎、鈴木治太夫、塩瀬甚右衛門の三人が功を争う。定盈は三人共、戦功は同列と裁定を下した。
 
 
  鈴木金左衛門 (?〜?)
 野田菅沼家臣。小牧合戦で功があった。他に堀田備中も手柄を挙げた。
 

 
  都田菅沼家 家臣団
 
 
  菅沼俊弘 (?〜?)
 菅沼元成の次男。次郎右衛門。遠州都田に居住。長篠菅沼家庶流都田菅沼氏初代。以後、代々の当主は次郎右衛門の名を世襲する。
 
 
  菅沼元景 (?〜1568年)
 都田菅沼俊弘の子。長篠菅沼家に仕える。後に伊家直親に属す。永禄十一年八月十一日没。法名「盛膳源政」。
 
 
  菅沼忠久 (?〜1582年)
 都田菅沼元景の子。都田菅沼氏三代。「井伊谷三人衆」の一人。次郎右衛門。永禄十一年、田峰菅沼家臣今泉延伝から徳川家に通じるよう話を持ちかけられる。忠久はこれに応じ、「井伊谷三人衆」の近藤石見守康用、鈴木三郎太夫重時にも寝返りを促した。延伝は、定盈に内通成功を報告。その足で岡崎に赴き、家康に賞せられた。遠州攻めで先鋒。永禄十二年十二月、遠州堀江城を攻め落とす。後に井伊直政に属す。天正十年没。井伊谷龍譚寺に葬られた。妻は鈴木重時の長女。慶長八年十月十七日没。法名「月宗道秋大姉」。
 
 
  菅沼忠道 (1566〜1603年 38歳没。)
 都田菅沼忠久の子。井伊直政に仕え、長久手合戦、関ヶ原合戦で功があった。慶長八年十月二十日、三十八歳没。
 
 
  菅沼勝利 (1594〜1630年 37歳没)
 都田菅沼忠道の子。宗六、はじめ忠元。大坂両陣参戦。元和四年、相模、下総に二百石。寛永七年八月二十八日、三十七歳没。江戸高田宝祥寺に葬られる。以後、子孫は代々、同寺に葬られた。
 
 
 
戻る