清水家 家臣団
 
 
 
  清水月清 (?〜?)
 清水宗治の兄。入道。左近将監。清水宗治七将の一人。永禄十一年、元就は立花鑑載の応援要請に応じて、清水月清入道らに八千の兵を預けて九州に渡海させた。これにより毛利家と大友家は再び合戦を起こす。天正十年、高松城に籠もる。弟と共に切腹した。子は中嶋大炊助。
 
 
  清水宗之 (?〜1600年)
 清水宗治の長男。源三郎。毛利家への人質となる。切腹が決まった宗治は高松城内を整理し、見苦しさを残すまいとした。そして、遺言として宗之に三首を贈っている。「恩を知り慈悲正直に願なく 辛労気尽くし天に任せよ」、「朝起や上意算用武具普請 人を遣て事を敬め」、「談合や公事と書状と威儀法度 酒と女に心乱すな」。天正十年六月四日、宗治は船上で誓願寺を舞い、辞世の句「浮世をば今こそ渡れ武士の 名を高松のこけに残して」を詠み、自刃した。検使は堀尾茂助、介錯は家人高市之充、享年四十六歳と伝わる。毛利輝元は宗治の武勇を古今並ぶ者なく、毛利家の面目も大いに保たれたと絶賛し、この忠誠は忘却することは許されないとした。そして、宗治の恩義に報いるために宗之に太刀、刀を贈っている。隆景から暇を賜り、父の遺臣と共に備中河辺に移る。労人分百人扶持。
慶長五年、伊勢安濃津城攻撃にて討死した。子に義治がいたが、家督は弟景治が継いだ。
 
 
  清水景治 (?〜?)
 清水宗治の次男。寄組三千七百石。小早川秀秋に仕え、秀秋が越前に移されると石田三成に仕官。同時に無禄で毛利家に仕えるが、これは父が毛利家のために自刃したため、父同様に毛利家への忠義を重んじたのだという。子は元貞。
 
 
  中嶋大炊助 (?〜?)
 清水月清の子。宗治の甥。右衛門尉。天正十年、高松城に籠もる。家臣林与三らも籠城に加わった。
 
 
  末近左衛門 (?〜1582年)
 清水宗治七将の一人。天正十年、清水宗治と共に自刃した。
 
 
  林重真 (?〜1582年)
 清水宗治七将の一人。天正十年、清水宗治と共に自刃した。
 
 
  難波伝兵衛 (?〜1582年)
 清水宗治七将の一人。天正十年、清水宗治と共に自刃した。
 
 
  白井与三衛門 (?〜1582年)
 清水宗治七将の一人。天正十年、清水宗治と共に自刃した。
 
 
  高市之允 (?〜1582年)
 清水宗治七将の一人。天正十年、清水宗治と共に自刃した。
 
 
  小者七郎兵衛 (?〜1582年)
 清水宗治七将の一人。天正十年、清水宗治と共に自刃した。
 
 
 
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