島津宗家 家臣団
 
 
 
  島津忠昌 (?〜1508年)
 島津家十一代当主。永正五年、内乱の中、家臣等に攻められ自刃。子は忠治、忠隆、勝久。
 
 
  島津忠治 (1489〜1515年 27歳没)
 島津忠昌の長男。島津家十二代当主。永正十二年八月二十五日、二十七歳没。
 
 
  島津忠隆 (1497〜1519年 23歳没)
 島津忠昌の次男。島津家十三代当主。永正十六年四月四日、二十三歳没。
 
 
  島津勝久 (1503〜1573年 71歳没)
 島津忠昌の三男。島津家十四代当主。又八郎、八郎左衛門尉、修理大夫、陸奥守、忠兼。文亀三年、清水城に生まれる。薩州島津実久を頼るが、実久が守護への野心を抱いていることを知り、薩州島津家を離れる。その後、伊作島津忠良を頼る。大永六年十一月十八日、日置郡伊集院で伊作島津忠良と合流し、薩州島津実久に対して共闘することを約束した。その際、島津忠良に永吉、日置を譲り、その嫡子貴久を養嗣子に迎えた。薩州島津実久が貴久の家督相続に反対。国内は混乱し、島津勝久は島津実久と共に島津貴久を攻め、島津貴久は亀ヶ城に逃れた。大永七年四月、伊作にて隠居し、島津貴久が家督を継いだ。島津忠良も出家した。同年六月、島津実久から守護に復帰するよう求められた。勝久は守護職復帰を決め、島津忠良と決別。情勢不利になった島津忠良は田布施に戻り、鹿児島にいた島津貴久は敵軍に包囲されてしまった。貴久は僅かな家臣と共に田布施に落ち延びた。六月二十一日、島津勝久が鹿児島に戻り、守護職に復帰した。しかし、島津勝久は島津実久の傀儡となっていた。享禄二年、対立していた周辺の豪族たちは議論の末、勝久に和議を申し入れた。しかし、勝久はこれを拒否した。後に島津実久と対立。祁答院氏、北原氏を頼って落ち延びた。天正元年十月十五日、豊後沖浜にて没す。七十一歳。
 
 
  本田親尚 (?〜?)
 島津宗家家老。大永六年、薩州島津実久に対抗するため伊作島津忠良と結んだ。
 
 
  桑波田栄景 (?〜?)
 島津勝久の家老桑波田景元の子。孫六。大永六年、島津忠良から南郷城を与えられ、城主となる。天文二年二月十日、島津実久に寝返る。南郷城が堅城であるため、忠良は了公という盲僧を偵察に出す。そして、三月二十九日に栄景が狩猟に出たという情報を入手。直ちに城攻めを行い、南郷城を落とした。その際、島津勢の先鋒は猟師の姿をすることで城兵を欺き、主君の帰城と思って門を開けたところを攻めたと言う。同年八月十四日、島津忠良は栄景が居城奪回のため兵を挙げたという情報を入手。島津実久軍が野久尾原に布陣したところを五十騎で側面攻撃。正面から貴久が突撃し、実久軍は撤退した。子は駿河守。孫は越後介。
 
 
  桑波田駿河守 (?〜?)
 桑波田栄景の子。伊作島津家に仕え、貴久の弟尚久に付けられた。
 
 
  桑波田河内守 (?〜?)
 桑波田栄景に仕える。南郷城守将。天文二年三月二十九日、栄景が狩猟に出たところを島津忠良に攻められ、落城した。他に桑波田式部少輔も南郷城守将であった。
 
 
 
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