世良田家 家臣団
 
 
 
  真船義時 (?〜1561年)
 世良田氏十一代真船祐貞の次男。脇屋小次郎、大新田。甲斐武田家に仕え、碓氷峠合戦の功から感状を賜る。「大新田」と称すよう信玄に命じられた。川中島合戦で討死した。
 
 
  真船祐興 (?〜1564年) 
祐貞の三男。十二代当主。義政。大新田小弥太、数馬。永禄七年二月二日没。法名「真光院殿明山祐興大居士」。四弟義秋は船山氏を継いだ。
 
 
  真船祐政 (?〜?)
 祐興の長男。世良田姓。真船太郎、信濃。
 
 
  真船祐親 (?〜1578年)
 祐興の次男。十三代当主。母は岩瀬氏。甲斐武田家に仕え、後に職を辞す。天正六年四月二十三日没。法名「真光院殿賛月祐親大居士」。
 
 
  真船祐包 (?〜?)
 祐興の三男。小三太。佐竹家に仕える。長男包勝は岩瀬郡に居住したため瀬良田と姓を改めた。次男信包は岩瀬氏を継いだ。
 
 
  真船祐元 (?〜1616年)
 祐親の次男。十四代当主。葦名家臣伊藤時綱に仕え、その妹を娶る。信濃守。元亀元年、百石。元亀三年、僧となった弟祐安を蓮蔵寺中興開山とした。祐元は時綱と共に天正十七年六月五日、摺上原合戦に参加。葦名義広と共に常陸へ逃れる。仏門に入り、宥元と号す。伊藤家の祈願所大東寺を継ぐ。中興開山三僧祗権大僧都阿闍梨法印。後に東向山真光院。上州世良田長楽寺にて遠縁に当たる義祐法印から法を授かり、世良田氏の系図を与えられた。元和二年没。
 
 
  真船祐治 (?〜?)
 祐元の子。大蔵。郎党有賀六左衛門、斉藤茂作と共に父を頼り、伊藤時綱に仕える。摺上原合戦に参加。葦名義広と共に常陸に逃れ、下野烏山に居住す。慶長六年、赤津村に戻る。渡辺一綱の娘を娶る。
 
 
  世良田祐綱 (?〜1652年)
 祐元の次男。十五代当主。仏門に入り宥円。承応元年七月四日没。世良田氏は徳川氏に憚ることなく、江戸期を通じて世良田姓を名乗り続けた。
 
 
  生田義豊 (?〜?)
 生田家十六代当主。生田氏の祖生田隼人は松平親氏の三河移住の際、その所領を預けられている。天正十九年、武州川越にて家康に拝謁し「新田徳川系図」を提出。正田姓に改めるよう命じられる。同年十一月、徳川郷は三百石の御朱印を賜り、義豊は子孫末代まで松平氏の屋敷に居住することを許された。
 

 
 【付記】
 
 
 
 徳川家康は自らの祖を新田義重の子、義季とした。義季は父から得川郷を与え、得川義季を称した。また、源頼朝に仕えたとして「吾妻鏡」に名のある徳河三郎、徳河三郎義秀が得川義季であるともしている。本当に家康は新田義重の子孫なのか。それを考えるためにも世良田氏について考察したい。
 
 
 『世良田義季』
 仁安二年(1167年)六月二十日、来王御前(義季)は父新田義重から世良田郷を含む六郷を賜る。さらに十九郷も与える予定とあるが、これらの中に得川郷の名はない。
 承久三年(1221年)、義季は長楽寺を開基。文永九年(1272年)十一月十八日付、長楽寺住持院豪から黒沼太郎入道宛の書状に、「世良田地頭御建立長楽寺」とある。これにより、義季は世良田郷を本拠にしたとわかる。つまり、「得川義季」でなく「世良田義季」が正しく、義季は得川姓を使わなかったことになる。
 得川郷は義重から譲渡されたわけではないが、間違いなく世良田義季の所領である。彼が開拓したのだろうか。義季は庶長子頼有に得川郷を与える。得川頼有の娘は岩松経兼に嫁ぎ、岩松政経をもうける。頼有は政経に得川郷、横瀬郷、下江田村を与えた。得川郷は、家康が祖とした頼氏に与えられたのではない。
 ちなみに義季は、「吾妻鏡」に名が記される徳河三郎義秀と同一人物とされている。義秀は源頼朝の上洛に二度も供奉し、新田義兼や山名義範らと共に記されている。
 
「吾妻鏡」文治四年(1188年)正月二十日、源頼朝は伊豆、箱根、三島神社に参詣。徳河三郎も供奉。
「吾妻鏡」文治五年(1189年)六月九日、徳河三郎義秀、源頼朝の鶴岡塔供養に供奉。
「吾妻鏡」建久二年(1191年)二月四日の条、新田三郎の記述有り。徳河三郎と同一人物と推測される。
「吾妻鏡」建久六年(1195年)三月十日の条、徳河三郎の記述有り。
「吾妻鏡」寛元元年(1243年)七月十七日の条、新田三郎の記述有り。年代から徳河頼有と推測される。
 
 しかし、文治五年六月九日の項を読むと、徳河義秀を世良田義季と考えることに疑問が出てくる。義季の兄新田義兼が十三番目に書かれているのに対し、徳河義秀は十二番目に書かれているのだ。これでは兄よりも立場が上となってしまう。さらに、他の書状に義秀の名がなく、「吾妻鏡」にのみ義秀と記されていることも疑問である。単純に両者を同一人物とすることは出来ない。
 
 
 『得川頼有』
 義季の庶長子頼有は、「尊卑分脈」に徳河四郎太郎を称したとある。官途は下野守であり、下野前司と呼ばれた。これにより、頼有は鎌倉幕府から信任を得ていたとわかる。子の頼泰は徳河下野太郎を称している。外孫の岩松政経を養子とした。
 文永五年五月三十日、頼有から岩松政経への譲状に、「かうつけの国新田庄とくかわのこう」、「新田庄内の所りやうらハ、重代さうてんのしりやう也」とある。得川郷が重代相伝の私領とすれば、義季から頼有に譲られたことの傍証となる。
 家康は得川姓を名乗るなら頼有の子孫とすべきだった。しかし、世良田義季が得川姓であると誤認し、その子頼氏を祖としてしまった。頼氏の子孫とするならば、祖父清康同様に世良田姓を名乗るべきであった。頼氏は鎌倉幕府から重用され、家康からすれば祖とするに十分な人物だったのだろう。
 
 
 『世良田頼氏』
 世良田親季の嫡子。三河守、三河前司。頼氏が幕府に重用された要因は、新田氏惣領新田政義の失脚である。嘉禎三年(1237年)四月、新田政義は幕府に出仕。仁治二年(1241年)、預かっていた科人に逃げられる。「預かり人の罪軽からず」として、八月中に過料三千疋を納めることに。寛元二年六月十七日、大番役中、届け出なしのまま仁和寺にて出家。「所労」が理由という。仁治二年十一月、無断の出家を禁止する法が定められていたため、これに違反したとして所領一部没収の上、新田氏惣領職を剥奪された。
 その後、政義は上州由良にて隠棲。世良田義季、岩松時経の母が惣領地を半分ずつ分けることとなった。新田氏惣領の代わりとして、義季の次男頼氏が幕府に出仕することとなった。建長二年二月二十六日、将軍藤原頼嗣の学問の師となる。同年十二月二十七日、近習詰番。
 
 「吾妻鏡」寛元二年(1244年)八月十五日、将軍藤原頼嗣の鶴岡八幡宮放生会御参に、後陣随兵の二番目として供奉。三河守と記される。
 「吾妻鏡」寛元四年(1246年)八月十五日、頼氏は再び鶴岡八幡宮放生会御参に供奉。五位、六位の列に入り、序列も十一番目と二年前から下がっている。
 
 建久二年から弘長三年まで藤原頼嗣、宗尊親王の側近となった。この時期、「吾妻鏡」に五十回ほど名が記される。「吾妻鏡」に見られる頼氏の記述は、新田氏のなかで最も多い。頼氏は同氏のなかで最も重用されていたとわかる。さらに頼氏は北条義時の甥時直の娘を娶り、彼女との離縁後(死別か)は、義時の次男朝時の娘を娶っている。しかし、文永九年(1272年)二月、北条時宗の弟時輔が叛心したとして誅殺される。北条朝時の子、時章、教時兄弟も時輔に荷担したとして罰せられた。頼氏は時章の姉妹を娶っていたため、事件に連座し、佐渡に流罪となった。
 世良田頼氏には有氏、教氏、満氏の三男がいた。有氏の系統が江田氏を興し、教氏の系統が世良田氏を継いだ。
 
 
 『世良田政義』
 世良田頼氏の子、教氏の子孫。世良田政義の長男政親の家系は南朝の家臣として存続し、子孫は会津に移り住んだ。次男親季は会津世良田氏の記した「世良田家嫡子名帳」に、「欠所又ハ討チ死ニト云」と記される。家康は家系を詐称する際、討死して事跡の曖昧な親季に目を付けたのだろう。親季の子孫として有親、親氏父子を創作し、時宗の僧として三河に移り、松平氏を興したことにしたのだ。
 
 「尊卑分脈」:義季(得川四郎)・頼氏・教氏・満義・政義・《親季》・有親・親氏・康親・信光・親忠・長忠・信忠・清康・広忠・家康
 「徳川家譜」:義季(新田次郎・得川四郎)・頼氏・教氏・家時・満義・政義・《親季》・有親・親氏・康親・信光・親忠・長親・信忠・清康・広忠・家康
 「世良田系図」:義季(得川四郎)・頼氏・教氏・家時・満氏・政義・《親季(親氏カ)》・康親・信光・親忠・長親・信忠・清康・広忠・家康
 
 
 『松平親氏』
 松平親氏、泰親は同時代の史料に名がない。親氏の没年は説によって百年ほども開きがあると云う。このように非常に存在が曖昧な人物なのだ。
 「徳川実紀」に書かれている内容を要約してみよう。義季六代の孫親季は上州新田庄に隠れ住んでいた。その子有親、孫の親氏は鎌倉幕府を恐れ、時宗の僧となり三河に移る。親氏は三河の富豪、酒井村の五郎左衛門の娘を娶り、忠広をもうけた。五郎左の娘が没すると、松平村の太郎左衛門信重の娘を娶り、松平太郎左衛門親氏と名乗った。これが松平家の始まりである。徳川家は新田義重の子孫である。
 次に江戸中期の史料に書かれる徳川家の出自を要約する。徳川氏は上野国新田郡徳河郷に発祥した新田一族である。同族新田義貞に加勢し、そのために足利幕府から徳河郷を追われた。時の当主有親、親氏父子は時宗の僧となった。徳阿弥(親氏)は三河大浜称名寺に入り、還俗して酒井五郎左衛門の娘を娶った。妻との間に長男信広をもうけるも、まもなくして妻は他界。親氏は三河加茂郡松平の松平太郎左衛門信重の娘を娶り、郷敷城を築城。これを本拠地に、親氏は弟泰親と共に加茂郡林添の藪田源五、二重粟の二重粟内記、額田郡麻生の麻生内蔵助らを滅ぼした。
 こうして松平親氏の武名は高まり、近隣諸侯を屈服させるに至った。前妻との子信広は庶長子として松平太郎左衛門家を興した。そして次男信光が松平家の後継者に選ばれた。親氏没後、信光が幼少のため泰親が二代当主となった。成人となった信光は家督を継承し、松平家三代当主となった。
 このように江戸期の史料は徳川家を新田氏の末裔としている。明治に入るとこの説に疑問を投げかける者が出てくる。明治十四年の「松平村誌」は松平郷の信重が連歌の会で一人の若者に目を見張り、筆役を依頼。筆跡も確かなものであったため、その素性を尋ねた。若者は「東西をきらハすして牢流ノ者に候へハおんはつかしく存候」と答えた。信重は若者を気に入り、後に娘の婿とした。信重の家も「せんそと申候ハ在原のゆらいとも申也。又一つニハ紀州熊野の鈴木の筋ト申候。委ハ不存也。但し只今ニ至てハ源家ふせうと申也」としている。
 地元の伝承でも松平家の出自は不明なのだ。三河松平郷に僅かに所領を持つ士豪に、才知に長けた若者が婿入りした。ここから全ては始まったのである。
 
 
 『松平信光』
 確かな史料が残るのは、三代当主松平信光からである。信光は政所執事伊勢貞親の被官となった。寛正六年、戸田宗光と共に額田郡の一揆を鎮圧。こうした功績に加え、戦で勝ち取った大給、保久、岡崎、安城などを所領に加えた。これらの土地に庶子を配置。「三河物語」は信光の代に西三河の三分の一を領したとしている。信光の弟益親は日野勝光に属し、嘉吉三年から文明四年まで近江大浦、菅浦の大官を務めた。また、長禄年間からは京で金貸しも行っている。
 信光の長男岩津松平親長も伊勢氏に仕え、奏者衆の一人となった。しかし、早くに没したようで岩津松平家は衰退。長享二年、松平信光が死没。信光の三男安城松平親忠が明応二年、井田野合戦で勝利すると、松平家の筆頭格となった。文亀元年八月十月、松平親忠が死没。初七日の日、松平一族は浄土宗大樹寺に集まり、親忠の次男長忠を当主と認める連判状を作成。長忠の玄孫が徳川家康である。
 
 
 『徳川家康による系図詐称』
 関ヶ原合戦後、新田は足利の兄の家であり、新田義重の子孫である自分こそが源氏の嫡流であるとした。朝廷も家康の将軍就任時に清和源氏嫡流を名乗ることを許している。家康が新田の子孫を自称したのは、それが足利家への下克上をうち消す最善の方法であったからだ。
 
 家康の「源姓詐称」の年表はこうなる。
 天文四年:松平清康、名族今川家に対抗するため新田一族世良田氏を自称す。世良田次郎三郎。
 弘治元年:竹千代は元服し松平二郎三郎元信。
 弘治三年:築山殿を娶り松平元康。
 今川氏から独立。この頃、「藤原氏」を称す。
 永禄六年七月:「元康」から「家康」に改める。
 永禄九年十二月二十九日:松平姓から徳川姓へ。従五位下三河守。朝廷から新田義重の子孫を許された。関白近衛前久、吉田兼右が万里小路家の系図から徳川の系図を作成したと言う。吉良氏からも系図を譲り受けている。
 小田原征伐後、家康は岩松守純に新田氏の系図を提出するよう要求。しかし、守純が拒んだため二十石の捨て扶持を与えた。
 天正十九年:「尊卑分脈」の源氏の部に、家康側近の学僧梵舜が得川頼氏から家康に至るまでの系譜を書き込む。後に、新田家の子孫である由良氏や里見氏は同族の扱いを受ける。
 上州得川村は朱印四百五十石、守護不入、諸役御免となる。百石は満徳寺の領分に。歴代将軍の位牌を安置。
 慶長八年二月十二日:右大臣、征夷大将軍、源氏の長者、淳和奨学両院別当。牛車、兵仗を許される。
 慶長八年:上州長楽寺に寺領百石。天海により復興。
 慶長十六年:新田義重を弔うため大光院を創建。
 慶長十八年:芝増上寺から呑龍を招き大光院を開山。
 東照宮改築時、旧社殿を長楽寺に移築。世良田東照宮とする。
 
 このように、家康は自らの系図を義重につなぐことに成功した。では、政義の長男政親の家系はどうなったのだろうか。世良田氏は南北朝の戦乱から逃れ、会津真船郷に移り住んだ。戦国時代は甲斐武田家、佐竹家などに仕官することで血脈を保った。世良田氏の家系は真船など各地に残され、現在も続いている。
 
 
 
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