戦国時代の外征 〜太閤唐入りの夢〜
 
 
 
 『唐入り』は豊臣秀吉一代の覇業である。対外戦争の勝利は国家の領土を拡大する。そのため、歴史上の戦争の英雄の多くは領土拡大に成功した者、敵国の攻撃から国土を守った者になる。秀吉が唐入りを成功させていれば、日本史上屈指の英雄とされていただろう。
 しかし、唐入りの夢は秀吉の死により破綻し、秀吉は無謀な戦争を指導したと批判された。戦争の勝利とは戦争目的を達成出来たか否かで決まる。それを考えれば文禄・慶長の役は日本の負けである。御用学者の林羅山、新井白石らは文禄・慶長の役を批判した。上田秋成は他国を武力制圧してもやがて分裂すると説き、明を破った清も同じ道を辿るとした。
 一方、秋成と意見対立を繰り返した本居宣長は、皇国の威光を大陸に広めた大偉業と文禄・慶長の役を絶賛している。当時の世界情勢を考えれば、対外戦争を肯定する宣長の主張に正当性はある。二度の戦争が明国滅亡の要因のひとつとなったことは事実であり、アジア史に刻まれるべき大事件である。
 この様に物事には二つ以上の見方がある。歴史という一つの事実に対し、いくつもの歴史認識が生まれるのは当然である。現代の日本人のほとんどは観念的平和主義に毒され、唐入りを侵略戦争として否定する歴史観しか持っていない。この項目では観念的平和主義から離れ、視点を変えて唐入りを考察する。
 
 
 
 【豊臣秀吉が征夷大将軍にならなかった理由】
 秀吉は天正十三年八月に記された『天正記』(関白任官記)で、暗に父を正親町天皇としている。文禄二年、高山国(台湾)に宛てた国書で、懐妊した大政所は部屋中に日の光が満ちあふれる夢を見たとしている。その光に包まれて生まれた自分には生来の徳があり、高山国にまでその徳を広げるつもりであると記している。この二つ話を『秀吉が勝手に考えたものであって、現実にはありえない』と無視する人がいる。秀吉の根本的な出自を考察する上では無益でも、天皇実父説と日輪受胎説は秀吉の政権思想を考える上で重要である。
 太陽は天照大神であり、天皇陛下に直結する。天皇実父説と日輪受胎説はまったく同じであり、秀吉が一貫して家系を天皇陛下に結びつけようとしていたとわかる。豊臣家が政権を維持したまま続いたならば、間違いなく豊臣家は源平藤橘の上に位置する最高家格となったはずだ。正親町天皇を父に持つ日輪の申し子の家系なのだから。
 さて、秀吉は家格を上げるためだけに皇胤を称したのだろうか。家格ならば関白の家柄とするだけでも十分ではないか。天皇号は支那の皇帝号に対抗するために創られたという歴史がある。秀吉はその意義を完全に理解していたため、自らの父を正親町天皇としたのだ。
 皇帝は自国を世界の中心と考え、周辺国は貢ぎ物(朝貢)を行う野蛮な属国とする世界観を持っていた。これを『中華思想』と呼ぶ。『皇』、『帝』の二文字は皇帝以外の使用は許されず、周辺国の統治者は皇帝から国王に任命された。朝鮮は属国になることを大変に喜んだが、越南(ベトナム)などはそれに強い不満を持ち、武力侵攻が行われれば徹底抗戦を行っていた。日本は海を隔てていたためにそうそう攻められることはなかったが、それでも勝手に属国に封じる支那に強い不満を抱いていた。天皇号は中華思想の世界から脱するため、皇帝以外には使用を禁じられた『皇』の文字を使用した。しかも、支那皇帝が易姓革命で交代するが、皇統は万世一系として面々と続いている。秀吉が天皇号に注目した理由はここである。
 足利義満以来、数名の征夷大将軍が貿易のために皇帝から日本国王に封じられた。唐入りを志す豊臣秀吉が征夷大将軍になれば、自らを皇帝の下に位置付けることになってしまう。敵と戦うならば対等、もしくは凌駕する存在になろうとするのは当然である。
 そこで冊封体制から脱した皇統と血縁があると称し、さらに関白としてその補佐を行う立場に就いた。これにより秀吉は『皇帝と同等、さらにはそれを凌駕する天皇の代理』として合戦を行うことが出来たのだ。秀吉が征夷大将軍職に就くことがなかったのは、その血筋が問題となったのではなく、政権思想からあえて拒絶したとすべきである。
 また、朝鮮征伐を神功皇后の三韓征伐になぞらえる武将もいた。田尻鑑種の「高麗日記」・吉野甚五左衛門の「吉野日記」・下川兵太夫の「清正高麗陣覚書」・宿蘆俊岳の「宿蘆稿」などに、三韓征伐が記されている。秀吉が自らを皇胤としたのも、三韓征伐を意識してのことだろう。秀吉が皇族となれば、朝鮮はかつて祖先(神功皇后)に服属した国になる。つまり、属国が主の名に背いたために懲らしめるという大義名分が出来上がる。神功皇后の武勇にあやかることで兵の志気を高めようとしたのだろう。吉田兼見などの知恵であろうが、秀吉は日本建国期の神話を朝鮮征伐に取り込んだのだ。
 
 
 
 【唐入り後の構想】
 文禄元年五月十八日附秀次宛の書状に唐入り成就後の構想が記されている。それによると天皇陛下を北京に迎え、支那の関白は秀次に任せようとしていたとわかる。皇帝による中華思想を否定し、新たに天皇陛下を中心とした勢力圏を確立しようとしたのだ。日本の天皇には良仁親王か智仁親王を、日本の関白には豊臣秀保か宇喜多秀家を。朝鮮は織田秀信か宇喜多秀家に。九州は木下秀俊(小早川秀秋)に任せるとも記している。織田秀信は織田信長の孫である。織田家に報いることがなかったと言われる秀吉だが、実は主家の嫡統を朝鮮国王に取り立てようとしていたのだ。秀信はそれほど活躍することもなく生涯を終えたが、仮に朝鮮国王になっていれば秀吉には大忠義者という称号が加わったはずだ。さらに明の次は自分の指示を待つことなく唐(インド)を攻めよ、とも記されている。文禄・慶長の役は朝鮮、明、唐を制圧するという、それまでの日本史上最大規模の軍事行動だった。
 天正十九年、秀吉はフィリピン総督やインド・ゴア副王(ポルトガル勢力)に書状を送り、直ちに降伏するよう命じた。これにより、ポルトガルは唐入りに介入することが出来なくなった。公称十五万から十六万もの大軍を動員する秀吉に対し、当時は日本と比べ、まだ弱小であった東南アジアの西洋人は為す術もなかった。
 
 
 
 【出兵の決意】
 天正十三年七月十一日、秀吉は関白に就任した。九月三日、家臣一柳末安に「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ附けられ候心に候歟」と伝える。天正十三年には確実に明に攻め込むことを考えていたとわかる。朝鮮に攻め込んだ理由は、明への出兵に際し、道中案内や補給を命じたが、国王が従わなかったことにある。大村由己は「九州御動座記」に朝鮮は「対馬の屋形」、つまり宗氏に属するものと記した。当時、朝鮮は宗氏に従属していると考えられていたのだ。
 逆に朝鮮側は対馬を慶尚道の一部と思っていた。秀吉がいかに書状を送ろうと、明の属国である朝鮮は受け入れるはずがない。こうした行き違いの末、秀吉は朝鮮征伐のため兵を渡海させたのだ。
 天正十四年四月十日、毛利輝元に九州征伐の準備と共に、朝鮮攻めの準備も命じた。六月十六日、宗義調に高麗攻めの際には忠勤に励むよう手紙を送る。八月五日、「唐国まで成共仰せ付けらるべくと思し召され、御存分の通りに候条、島津御意に背き候処、幸いの儀に候間、堅く仰せ付けらるべくの儀、浅からず候、各、其の分別専用の事(唐を攻めるのに九州は橋頭堡となる。島津が背いたのは幸運だ。堅くそれを思え)」と記した書状を黒田孝高、安国寺恵瓊、宮木右衛門入道に送る。
 フロイスは1586年10月17日(天正十四年九月五日)付のアレクサンドロ・パリニャーノ宛の書状に、「天正十四年三月十六日、ガスパル・コエリョらを歓待した秀吉は、己の死せる後、名と権勢を伝え残すために大陸を攻める決意をした。その際、宣教師も帆船二艘を準備するよう話があった。それは贈与ではなく、相当の代価を支払うというものであった」と記した。
 天正十五年三月三日、「多聞院日記」に「高麗・南蛮・大唐マテも切入るべくト聞ヘタリ、抑、大篇ノ企、前代未聞也」とある。五月四日、宗義調に「抑、九州の儀、悉く平均仰せ付けられ、早く御隙明けられ候間、高麗国に御人数差し渡さるべく候条、其の意を成し、忠儀を抽ぐべく事肝要に候」との書状を送る。八日、小西行長は万一、高麗からの返事が遅れれば、ただちに兵を対馬に送るとの書状を、宗調に出している。
 五月二十八日、北政所に「ゆき・つしまのくにまで、人しちをいたし、しゆしん申事、又、こうらいのほうまでにほんの大りゑしゆし申すへきよし、はやふねをしたて申つかわせ候、しゆし申さす候はゝ、らいねんせいはい申すへきよし、申しつかわせ候、からくにまててに入れ、我等一このうちに申しつくへく候」との書状を送る。(壱岐・対馬まで人質を出して出仕した。高麗の王に日本の内裏に出仕するよう早船を送った。出仕しなければ来年、成敗申しつける。その時は唐国まで手に入れる)
 
 
 
 【宗氏の外交交渉】
 天正十五年六月十五日、宗義調、義智父子に「今度九州の儀、勅定に背く凶徒を御成敗の為め進発せしめ、悉く覚悟に任せ申し付け、隙明候条、何の島々にも残らず仰せ付けられ候、然る処、其の方父子早速渡海せしむるの条、対馬一国先々の如く宛行畢、全く領知せられ、向後忠勤を抽ぐべく候、次に、高麗の儀、御人数を差し遣わされ成敗の儀申し付け候処、義調御理申すの条、先ず指延され候、然らば国王日域に参洛有るに於いては、諸篇先規の如くたるべく候、若し遅滞有らば、即時に渡海を仰せ出され、御誅罰を加えらるべく候、其の時は彼国に一篇の知行を仰せ付けらるべく候、早々此返答油断有るべからず候なり(九州は平定した。宗父子は早速朝鮮に渡海すると云う。所領対馬は安堵するから忠勤に励め。しかし、なかなか高麗の王が出仕しないので兵を送ろうとしたが、義調が必ず出仕させると言うから出兵は延期した。まだ遅れるようならば、ただちに高麗を成敗する。その後、宗父子には朝鮮にて知行を与える)」との書状を送る。
 天正十五年九月、宗家臣油谷康広が日本国王使として朝鮮に渡る。この時の国書の内容は次のようなものであった。「宣祖実録」宣祖二十年九月癸巳:「日本国迷愚にして昭察能わず、改めて適に新王を立つ、近く通仕を欲す(日本は乱世であったが秀吉が統一した。朝鮮は近く、通信使を派遣せよ)」。
 油谷康広の持参した国書には支那皇帝の使う「天下は朕が一握に帰す」の文があった。朝鮮側はこれに激怒。朕とは皇帝のみが使用する文字であり、それ以外の者が使用することは許されない。国書を受け取れば皇帝に刃向かうことになる。そのため、日本を「簒弑の国」として国書の受け取りを断り、渡海しようにも水路迷昧であるとして日本への通信使派遣を断った。秀吉も朝鮮側の対応に激怒。宗義智は秀吉に懇願し、自ら渡海することで朝鮮国王の出仕を促すとした。
 八月、義智一行は漢城にて朝鮮国王に面会を許された。ここで義智は通信使の派遣を強く促し、水路がわからないならば自ら案内するとまで言っている。朝鮮側は会議を開き、まずは宗義智の誠意を確かめることにした。
 宗義智は朝鮮側から派遣の条件を伝えられた。「天正十五年、全羅道高興郡損竹島が倭寇に襲われ、全羅道珍島の沙花同が倭寇に味方した。沙花同をただちに捕らえよ」。倭寇捕縛の命を受けた柳川調信は、近隣の倭寇、日本に居住していた朝鮮人十数名を捕らえ、翌年二月には朝鮮に送った。
 倭寇捕縛と平行して、通信使を先に派遣することが決まった。これはあくまで秀吉の日本統一を祝賀するもので、秀吉の望んだ日本への従属を示す使者ではなかった。黄允吉(ホァン・ユンギル)が正使、金誠一(キム・ソンイル)が副使となり日本に渡海。宗義智は返礼として鉄炮、刀剣、孔雀のつがいを朝鮮国王に贈っている。孔雀は京畿道南陽の島に放された。
 同年十一月七日、両名は聚楽第にて秀吉に拝謁。朝鮮側は日本との関係を「隣好」としたが、秀吉は両名を日本への入貢の使者と位置付けた。そのため、朝鮮国王宣祖に唐入りの先鋒を命じる国書を送った。秀吉は通信使を従属の使者と認識していたため、朝鮮国王を「閣下」と記している。これは国王を見下す文章であり、通信使は強く抗議した。無論、抗議が受け入れられるはずがない。景轍玄蘇は帰国する通信使に同行し、朝鮮に渡った。
 天正十九年正月、黄允吉、金誠一が朝鮮に戻る。允吉は秀吉は知将であり、出兵は実際に起こると報告。これにより、朝鮮側は警戒態勢を執った。三月、誠一は漢城にて出兵の兆候はなく、允吉の報告は人心を乱すものと言上。秀吉に関しても目が鼠のようで畏れることはないとした。両名の報告の食い違いから議論が起こり、防衛策ではなく出兵自体が起こりえるのかを話し合うようになってしまった。さらに国王自身が誠一の報告を信じ、半島南部の兵力を増やしたものの、半島全域での警戒態勢を解くよう命じている。左議政(左大臣に相当)柳成竜も金誠一の報告を支持した。情報に疎いだけでなく、武官を卑しむ朝鮮の体質を物語っている。
 天正十九年三月、宗義智は景轍玄蘇、柳川調信らを朝鮮。その際、宗氏は朝鮮を明攻めの先鋒とする「征明嚮導」策を、朝鮮を経由して明を攻めるという「仮途入明」策にすり替えて交渉した。このように、宗氏は朝鮮との貿易利権保持のため、外交内容を歪曲することがあった。地理的な面、権益保持などの面から考えればこれも仕方のないことと言える。
 この頃、景轍玄蘇が朝鮮国王に面会を許された。玄蘇は歓待役となった呉億齢に、来年、豊臣軍は朝鮮を攻めると伝えた。さらに金誠一との会談では「中朝、久しく日本と絶ち、朝貢通ぜず。平秀吉、此を以て心懐憤恥し、兵端を起こさんと欲す。朝鮮、若し先に奏聞を為し、貢路通ずるを得せしめば、則ち必ず無事なり。而して、日本の民、亦た兵革の労を免れん」。これは「宣祖修正実録」宣祖二十四年閏三月の項にある。誠一が無理であると言うと、玄蘇は「昔、高麗は元兵を導き日本を撃つ。此を以て、怨を朝鮮に報いんと欲す。勢、宣しく然るべき所なり」と反論した。
 五月、景轍玄蘇らは日本に帰国。六月、宗義智が朝鮮に渡海。朝鮮側に唐入りを支援すれば、朝鮮との戦争にはならないと伝えた。朝鮮側は「貴国(日本)は朋友の国なり、大明は君父なり。若し、貴国に便路を許さは、是れ友有事を知りて、君父有を知らさるなり。匹夫すら是を恥つ。況や礼儀の邦に於てをや」と返答した(「朝鮮通交大紀」)。これは中華思想、儒教による過剰な家族制度が朝鮮に蔓延していたことを物語っている。結局、交渉は失敗し、義智は帰国することとなった。柳川調信はこれまでの往来を恭順と見なされ、特例として嘉善大夫(従二品)に封じられた。帰路、両名は漢城攻めまでの案内に用いるため、朝鮮国内を偵察した。六月、宗義智が使者となり、釜山にて最後通告を行う。しかし、朝鮮側はこれを無視。義智はそれまでの情報を基に朝鮮の地図を作製し、自ら朝鮮攻めの案内役を申し出ている。
 
 
 
 【名護屋集結】
 天正十九年、肥前名護屋城の築城が始まる。当初、博多と筑前名島城が本営地の候補に挙げられたが、渡海に適していることから肥前名護屋が本営地に決まった。名護屋は寒村であったが、湾口の加部島が外波を防ぎ、対馬、壱岐にも近いことが決め手となった。
 天正十九年十月、加藤清正、黒田長政、小西行長の普請によって築城開始。九州諸大名が工事に参加した。フロイスは四万人から五万人が工事に参加し、多くの犠牲者が出たものの、わずか数ヶ月で見事な城と城下町が建てられたと驚嘆している。実際、名護屋城は大坂城に次ぐ規模であり、五層の天守を有していた。スペイン人ファン・デ・ソリスはマニラにて「名護屋城は五ヶ月で急造され、十数万人が居住する大都市となった」と報告している。第一陣朝鮮渡海後、本丸広間、三の丸、大手門などの建設が進められた。名護屋城普請に参加した島津家臣新納忠増は、過酷な工事のため、夜になると逃げ出す人夫がいたと「忠増渡海日記」に記している。
 この年、秀吉は長崎の貿易商人原田孫七郎の進言によって、ルソンに入貢を促している。
 出兵の準備が進む一方、豊臣秀長、細川幽斎、前野長康、石田三成らは出兵に反対している。特に幽斎は、渡海によって加増を求める武功だけの思い上がりが多いと嘆いている。江戸大納言家康、加州大納言利家が渡海せず、一門譜代や中国、四国、九州勢ばかり渡海することも豊臣家を弱体化させると危惧している。また、幽斎は渡海した諸侯が秀次から資金を借りていることにも危惧を抱いている。秀吉と秀次が不和になったのも、これが原因と思われる。
 天正十九年十二月二十七日、豊臣秀吉は豊臣秀次に関白職を譲った。
 文禄元年正月、秀次は渡海に際し、朝鮮での乱妨、狼藉、放火などを禁止した。文禄元年正月五日、中国、九州、四国を中心に十五万八千八百人余もの大軍が招集された。第一陣は小西行長・宗義智・松浦鎮信ら一万八千七百名。第二陣は加藤清正・鍋島直茂ら二万二千八百名。第三陣は黒田長政・大友義統の率いる一万一千名。第四陣は島津義弘・毛利吉成ら一万四千名。第五陣は長宗我部元親・蜂須賀家政・福島正則・生駒親正・戸田勝隆ら二万五千百名。第六陣は小早川隆景・立花宗茂ら一万五千七百名。第七陣は毛利輝元の率いる三万名。第八陣は宇喜多秀家の率いる一万名。第九陣は細川忠興・羽柴秀勝の率いる一万一千五百名。総大将は宇喜多秀家が任じられた。
 
 
 
 【豊臣軍、出陣】
 文禄元年四月十二日、第一陣小西行長、宗義智勢一万八千七百名は七百艘の軍船に乗り対馬を出航。翌十三日、慶尚道(キョンサンド)釜山に上陸。釜山鎮城守将鄭揆(チョンバル)は千余名を率いて戦うも討死。慶尚左水使(慶尚左道の水軍長官)朴泓、慶尚左兵使(慶尚左道の陸軍長官)リカクらは逃亡。リカクは宋象賢(ソン・サンヒョン)から共に城を守るよう求められたが、釜山落城を知ると、豊臣勢を挟撃するとして城外に出て、そのまま逃走したのだ。
 十四日、東莱(トンネ)城主宋象賢は小西勢と戦い討死したが、他の役人、将兵の多くは防戦することもなく逃亡している。従軍した妙心寺の僧、天荊は「西征日記」に、この合戦で首三千余を取り、五百余名を捕虜にしたと記している。
 以後、豊臣軍は宗氏の地理情報を頼りに漢城まで攻め込むこととなる。四月十七日、第二陣加藤清正、鍋島直茂勢二万二千余が上陸。四月二十二日、宜寧(ウイリョン)の儒生郭再祐(カク・ジユウ)は豊臣勢と戦うこと決意し、賛同した村民五十名による義兵が生まれた。
 四月二十四日、尚州(サンジュ)を守る巡辺使李鎰(イ・スル)が敗れる。四月二十七日、忠清道(チュンキョンド)忠州(チュンジュ)で都巡辺使シンリプが討死。シンリプは名将とされたが、豊臣軍の進軍を阻むことは出来なかった。豊臣軍の漢城攻めが間近に迫ったため、宣祖は北方へ逃れるため都を捨てた。
 民衆はこれに激怒し王宮に攻め込み、財宝を奪った。蜂起した民衆には両班の圧政に苦しめられた私奴も含まれていた。彼らは王宮に入ると同時に、自らを奴隷階級と記す文書を焼き払っている。朝鮮国王の逃走は、朝鮮軍に大きな動揺を与えた。漢城救援に向かっていた全羅道巡察使李洸らは、戦わずして全州に戻ってしまった。金命元(キム・ヨンウォン)、李陽元(イ・ヤンウォン)らは首都漢城(ソウル)を守るよう命じられていたが、同じく戦う前に逃亡。
 四月二十五日、秀吉は名護屋城に着陣。ちなみに眼病を患っていたために到着が遅れたと言う。四月二十八日、第一陣、第二陣の諸将は忠州にて合流。同月、秀吉は朝鮮人を捕らえたならば、その地に返すよう禁令を出している。しかし、後に捕らえた者のなかに腕の立つ職人がいたならば、直ちに献上するようにも命じている。
 
 
 
 【王都制圧】
 五月二日、第一陣小西勢は漢城入城を果たす。李恒福の「白沙集」、李廷馥の「旧留斉集」には豊臣軍の漢城入城以前に、民衆が王宮を焼き払ったと記されている。「宣祖修正実録」宣祖二十五年四月晦日の項に、「都城の宮省火く。車駕将に都中を出でんとするに、姦民の先ず内帑庫に入り、争いて宝物を取る者有り。已に駕出ず。乱民大いに起こり、先ず掌隷院、刑曹を焚く。二局の公私奴隷の文籍在る所を以てなり」とある。刑曹は奴卑の戸籍を管理する部署であり、朝鮮の奴卑(白丁)は自らの身分を奴隷とする書類を焼き払ったのだ。
 豊臣軍が漢城を焼き払い、そのために多くの文化財が焼失したとされるが、実際は朝鮮の民衆が行ったものである。江戸時代末期の記録「征韓偉略」によると、漢城に攻め込んだ豊臣軍の半数は朝鮮人だったと言う。
 「宣祖実録」宣祖二十五年五月の条には、「人心怨叛し、倭と同心」する朝鮮人が多く、国王も「賊兵の数、半ばは我国人というが、然るか」と家臣に問いただしたとある。金誠一は「鶴峯集」に「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし」と記した。豊臣軍は朝鮮政府軍自体の脆さと、民衆の蜂起によって予想以上の戦果を挙げたのだ。宇喜多秀家は漢城の鋳字所から銅活字などを日本に送った。これらは秀吉に、さらには朝廷に献上された。
 朝鮮側もただ手をこまねいているわけではなかった。漢城と忠州との間にある京畿道驪州では、江原道助防将元豪が豊臣軍と交戦。奇襲を受けた豊臣軍は、驪州に近寄らなくなった。
 五月七日、朝鮮国王一行は漢城に入った。なお、秀吉は朝鮮国王を討つことを禁止している。秀吉が渡海諸侯に宛てた五月十六日付の書状だが、【国王逃退の由、助置かれ堪忍分仰付らるべきの処ニ、右の仕合残多思召し候条、何ともして尋出すべく候、山中江逃入候ハ、餓死に及ぶべく候条、通仕を遣わし、其理を申聞かせ、涯分相尋ぬべく候、聊爾ニ殺し候ハぬ様ニ申付くべく候事】とある。朝鮮国王には堪忍分を与えるから、そのことをよく伝えよ。断じて殺してはならない。秀吉はあくまで、明に攻め込むための先導役を朝鮮国王に命じるつもりであった。これは豊臣軍が朝鮮、大陸の地理に暗く、遠征に支障を来すことを畏れたためである。同書状の八条に、【大明国江の路次等の儀、通仕を引付け、能々尋ね置くべく候】とあり、秀吉が地理の暗さを気にかけていたとわかる。
 四月二十九日、柳成竜は朝鮮王子臨海君を咸鏡道に、順和君を江原道に移し、勤王の士を募るよう進言した。しかし、豊臣軍の進軍により、順和君は江原道から咸鏡道に入り、両王子は七月、会寧に入った。
 五月十六日、漢城陥落を知った秀吉は大いに喜び、支那制圧後の構想を豊臣秀次宛の手紙に記している。首都を制圧したため、渡海諸侯は朝鮮の八道を攻め落とすための編成を行っている。平安道(ピョンアンド)は小西行長、宗義智。咸鏡道(ハムギョンド)は加藤清正。黄海道(ファンヘド)は黒田長政勢一万一千余名。京畿道(キョンギド)は宇喜多秀家勢一万一千余名。慶尚道は毛利輝元勢三万余名。全羅道(チョルラド)は小早川隆景勢一万五千余名。忠清道は福島正則勢一万二千余名。江原道(カンウォンド)は森吉成勢一万五千余名。五月七日、玉浦(オクポ)海戦で李舜臣が勝利。五月二十九日、小西勢は開城を落とす。六月十五日には漢城城を落とした。
 五月十八日、秀吉は秀次に宛てて二十五箇条の覚書を出した。その中に、今後の秀吉の政権構想が記されている。
 
 二条【高麗都、去二日落去候、然る間、弥急度御渡海なされ、此度大明国までも残らず仰付けられ、大唐の関白職御渡しなさるべく候事、】
 十八条【大唐都(北京)へ叡慮(天皇)うつし申すべく候、其御用意有るべく候、明後年行幸たるべく候、然らば、都廻の国十ヶ国進上すべく候、其内にて諸公家衆何も知行仰付らるべく候、下ノ衆十増倍たるべく候、其上の衆ハ仁躰に依るべく事】。
 十九条【大唐関白、右仰せられ候如く、秀次江譲りなさるべく候、然らば都の廻百ヶ国御渡しなさるべく候、日本関白ハ大和中納言(羽柴秀保)、備前宰相(宇喜多秀家)両人の内覚悟次第、仰出さるべく事】。
 二十条【日本帝位の儀、若宮(周仁親王)、八条殿(智仁親王)何にても相究めらるべき事】
 二十一条【高麗の儀は岐阜宰相(羽柴秀勝)、然らずば備前宰相(宇喜多秀家)置かるべく候、然らば丹波中納言(羽柴秀俊)ハ九州ニ置かるべき候事】
 
 秀吉は二条で秀次を大唐の関白に任じるとした。十八条では天皇を北京に移し、近隣十ヶ国を献上。公家衆にも加増するとした。十九条では秀次に近隣百ヶ国を与え、日本の関白は羽柴秀保か宇喜多秀家に任せる。二十条で日本の天皇は周仁親王か智仁親王に即位していただくとし、二十一条で朝鮮を羽柴秀勝か宇喜多秀家に、九州は羽柴秀俊に任せるとした。秀吉の右筆山中橘内が女中に宛てた手紙に、【うへさまは、ほんきん(北京)のみやこに御さ所をなされ、又、それをもたれそ御すへきなされ、につほんのふなつきにんほうふ(寧波府)□きよ所を御きわめなさるへき】とある。なお、文中の□は判読不可の箇所で、前後の文面から「に」を入れるべきと思われる。
 五月二十九日、豊臣軍(加藤・小西・鍋島など)はかつての高麗首府開城に入る。
 六月初旬、脇坂安治は京畿道竜仁にて全羅道巡察使李洸を破った。
 六月一日、宗義智は書状を発し、朝鮮国王の漢城帰還、そして豊臣勢に加勢して明に攻め込むことを求めた。六月二日、朝鮮国王は武勇に長けた地元の将キンチンを登用。さらに漢城から脱出する際、どこに逃れるかも議論された。平安道の江界、寧辺が候補に挙げられ、水利の面から寧辺が選ばれた。
 六月五日、江原道に向かった毛利吉成は淮陽府使金錬光を討ち、淮陽を落とす。金錬光は追いつめられても正坐をし、業を煮やした毛利勢に腕を切られても、その場を動こうとしなかった。そして、遂には大勢に囲まれ、切られたと云う。
 六月八日、小西・黒田・大友宗勢は漢城に入るため、栽松亭に迫る。しかし、漢城の守将となった李鎰に敗れる。同日、前日から豊臣軍の略奪を受けた開城付近の民衆が蜂起。その数を「普聞集」は数千人とし、首級数百を挙げたとしている。秀吉はこうした事態を避けるため、兵の略奪を禁じたが、実際には効果がなかったとわかる。同日、秀吉は前田利家、徳川家康の進言を受け、朝鮮渡海を中止した。翌三日、代わりに石田三成、大谷吉継、増田長盛、前野長泰、加藤光泰らが渡海することとなった。
 六月七日、豊臣軍(加藤・小西・鍋島など)は礼成江を渡る。ここで、加藤清正と鍋島直茂は咸鏡道を、小西行長と宗義智は平安道から安城駅に攻め込むこととした。不案内な朝鮮の地で戦力を分けたことは失策であろう。清正も道に暗いことを気にかけ、十日、捕らえた朝鮮人二人に道案内を命じた。両名は道を知らないと拒むが、清正はそのうちの一人を切ると、怯えたもう一人は道案内を務めたという(「懲録」)。こうして加藤、鍋島勢は咸鏡道に攻め込んだ。
 六月九日、行長らは景轍玄蘇、柳川調信らを使者として、礼曹参判(外務次官に相当)李徳馨と会談。玄蘇は朝鮮側が書簡の受け取りを拒み、結果的に戦闘に至ってしまったと説明。朝鮮国王を説得し、明への路を開くよう促した。徳馨は明を攻めるならば、なぜ朝鮮までも攻めるのかと反論。天朝(明)は父母の国であり、例え死すとも日本には従わないとした。強烈な事大思想である。こうして交渉は決裂。小西勢らは漢城を武力で制圧することとした。しかし、水深の深い大同江に阻まれ、なかなか攻め込むことが出来なかった。
 六月十日、国王が逃走すると知った漢城住民は怒り、町は暴動状態となった。そのため、平安道巡察使宋言慎は暴動の首謀者数名を処刑。ようやく暴動を鎮圧した。
 六月十一日、朝鮮国王は漢城から寧辺に逃れた。国王は尹斗寿の進言を受け、寧辺までも危うくなれば、そのまま明に助けを求めることとした。漢城防衛は左議政尹斗寿、吏曹判書李元翼、都元帥金命元が担当。明からの援軍を待つため、柳成竜、大臣崔興源、兪泓、鄭Kも漢城に残った。十一日夜、尹斗寿、李元翼はキンチンに夜襲を命じる。キンチンは東大院で休む宗勢を襲い、百余名を討ち取り、馬百三十三匹を奪ったと云う。しかし、キンチン側も引き揚げ時に船が沈み、三十余名が溺死した。
 六月十二日、毛利吉成は鉄嶺にて朝鮮軍を破る。咸鏡監司柳永立は地元民に捕らえられ、兵使李渾に至っては地元民に討ち取られている。こうして毛利吉成軍は江原道に入るも、共に江原道を攻める島津義弘が遅れており、仕方なしに部隊を分散することとなった。
 六月十三日夜、高彦伯は金命元から綾羅島を経由して大同江を渡り、豊臣勢を夜襲するよう命じられた。予定は遅れ、実際に戦闘を開始したのは十四日払暁。この戦闘の最中、黒田長政勢が合流。高彦伯は敗走した。この時、朝鮮勢は王城灘の浅瀬を渡り、漢城に逃げ込んだため、豊臣軍の漢城攻略を助けることとなってしまった。十四日、尹斗寿らは漢城防衛を諦め、逃走した。六月十五日、豊臣軍は漢城を制圧。同時に城に備蓄された十数万石もの兵糧米を手に入れた。
 六月十九日、毛利吉成勢の一部隊が金化にて、江原道助防将元豪を討つ。元豪が金化に迫っていることはすでに知られており、毛利勢は逆に伏兵を用意して待ちかまえていた。敗れた元豪は部下に撤退を命じ、自らは崖から身を投げた。元豪の首は金化に晒されたが、これを惜しんだ地元民が夜、首を奪い、密かに葬ったと云う。
 六月二十四日、清正は咸鏡道から名護屋に注進状を送る。ここで清正は咸鏡道南部を鍋島直茂に任せ、自らは朝鮮北部に進軍する意志を示した。鍋島勢は咸鏡道の民衆を家に戻し、年貢や兵糧米を徴収することに専念している。
 七月、鍋島平五郎茂里は郷長を捕らえて諭し、若干の兵糧を鍋島陣営に搬入。さらに朝鮮における下級地方行政官「六伯(六房)」を呼び、豊臣軍への蜂起を禁じ、この地方の特産物や年貢について聞き出している。こうして鍋島家は「朝鮮国租税牒」を作成。咸鏡道南部の人口、年貢、特産物などを整理した。その最後に、租税牒に書き上げられた内容に偽りが有れば、即座に首を刎ねると記されている。これを了承するため六伯の署名も入っているが、実際には日本人の手で書状と六伯の名を書き、六伯側に強制したものとされる。こうした統治政策の末、ようやく村民は家に戻るようになった。
 漢城の民は暴徒と化したが、それは朝鮮全土でも同様だった。蜂起した民衆の多くは政府の倉から食料を奪っている。宜寧(ウイリョン)では虐げられていた多くの私奴が主人を殺害したと言う。草渓(チョゲー)では私奴である于音同(ウ・ウムドン)が豊臣軍に協力し、政府の倉から食料を奪い同じ境遇の者と分かち合おうとした。全羅道の各地で将兵が戦いを拒み、逆に政府の倉を襲っている。咸鏡道監司柳永立(ユ・ヨンニップ)、兵使李渾(リ・ホン)は民衆に殺害された。文官、武官の最高職だけではなく、多くの役人が民衆に殺害されていたため、加藤勢は特に戦うこともなく咸鏡道を陥落させた。
 豊臣軍の上陸に乗じて蜂起する民衆とは別に、豊臣軍を倒し国を守ろうとする義兵も増加した。安国寺恵瓊勢二千は五月、慶尚道宜寧を攻めるも郭再祐の率いた義兵に撃退される。再祐は地の利を活かし、安国寺勢を攪乱させて勝利したと言う。義兵は厳しい軍規で豊臣軍と戦ったが、政府軍の軍規があまりに乱れていたため、それを反面教師にしたとすべきであろう。郭再祐は昌寧でも豊臣軍に勝利している。他にも鄭仁弘(チョン・インフォン)、孫仁甲(ソン・インカブ)が慶尚道で蜂起。慶尚道の義兵は、六月頃にかなりの勢力となった。全羅道では金千鎰(キム・チョンイル)、高敬命(コ・ギョンミョン)が蜂起。忠清道では趙憲(チョホン)、李山謙(リ・サンギョン)が蜂起。
 このような義兵の活躍も空しく、豊臣軍は七月に朝鮮のほぼ全域を制圧している。当初は義兵以上に朝鮮政府への暴動が起こり、そのためにこれほどの短期間での朝鮮制圧が成功したのだ。今日、義兵の活躍を讃える史観が広まっているが、朝鮮政府の無策、民衆の暴動が豊臣軍を大いに助けたことも同時に学ぶべきだろう。
 七月七日、黒田長政は黄海道の首府海州を制圧。七月九日、李舜臣は安骨浦(アンゴルポ)で豊臣海賊衆と戦い大勝。同月、小早川勢が李廷鸞に敗れる。七月十二日、毛利吉成は江原道三陟に入った。七月十六日、遼東副総兵祖承訓は三千余名を率いて漢城城を攻めるも、小西勢に敗れる。七月十七日、加藤清正は海汀倉で北道兵使カン・コクカンと戦う。コクカンは咸鏡道北部の兵を集めたが、清正はこれを打ち破り、逆に敗残兵に追撃をかけた。こうして清正は会寧に入った。
 七月二十三日、会寧で朝鮮王子臨海君、順和君が加藤清正に捕らえられる。この時、会寧の役人鞠景仁は両王子と従者、さらに女官ら二百余名を縛り、清正に引き渡した(「懲録」)。会寧は罪人の流刑の地であり、刑罰への報復として両王子は捕らえられたのだ。同日、清正は両王子捕縛の吉報を記し、さらにオランカイに攻め込むとした注進状を名護屋に送った。また、同日付の注進状で、清正は端川銀山から採掘された銀子三十枚も献上するとしている。
 七月末、清正はオランカイに入った。オランカイは朝鮮の北にある女真族の地で、明までの道筋を明らかにするためにも朝鮮北部の偵察の必要があった。なお、オランカイから明に入ることは困難であると、清正は認識していたらしい。そのため、八月二十二日頃にはオランカイから撤退した。
 九月二十日、オランカイの状況を清正は秀吉に報告した。オランカイは朝鮮の二倍ほどの広さで、守護職のようなものはなく、かつての伊賀、甲賀のようにそれぞれの部族が要害を構えている。つまりは「一揆国之躰」のような状態である。畠ばかりで雑穀しか採れず、兵糧米に不足する。明に入るには韃靼国を通らなければならない。オランカイの者を鎮圧したら、これに圧迫されていた朝鮮人が喜んだ。おおよそ、このような内容である。
 八月、趙憲が清州城を奪回。同月、明から沈惟敬(チェン・ウェイチン)が派遣される。九月一日、釜山浦海戦で李舜臣が勝利。同月、小早川勢は義兵の抵抗に苦戦し、漢城まで撤退した。十月、細川忠興は二万人余を率いて金時敏(キム・シミン)の守る晋州城を攻めるが、城兵三千八百仁余と義兵三千七百人余の応戦を受け、わずか六日で撤退した。こうした活躍から義兵は政府に認められ、その指導者は政府から役人に取り立てられた。次期国王である光海君(クァンヘグン)も義兵を支持している。
 文禄二年正月七日、明軍提督李如松(イ・ルウスン)は四千三百名を率い、小西行長らの籠もる漢城(ピョンヤン)を取り囲む。そのため、行長らは戦力を漢城に集めるため撤退した。正月二十六日、小早川隆景、立花宗茂勢四万一千余名は碧蹄館(ペクチュグァン)合戦で李如松軍・朝鮮軍の計二万余名を破る。しかし、宇喜多秀家、石田三成らは幸州山城合戦で権慄(クォンユル)に敗れた。
 
 
 
 【和平交渉】
 相次ぐ戦闘で明軍の志気が下がり、沈惟敬は日本との和議を結ぶため交渉を開始。渡海諸侯は飢饉による食糧不足、物資不足に苦しんでいたため、小西行長を中心に交渉に応じることとした。朝鮮は明の属国であったため、和平交渉も明に任せることとなった。四月八日、龍山会談によって渡海諸侯、明は和議を結ぶ。日本側は漢城を撤退し、二王子を引き渡すこととなった。明軍も兵力を撤退させ、講和の使者を日本に派遣することとなった。四月十八日、豊臣軍、漢城から撤退。朝鮮側は追撃を主張したが、明軍の許しが得られなかったため断念した。小西行長、石田三成は沈惟敬らを伴い帰国した。
 五月十五日、小西行長らが肥前名護屋に入港。五月二十三日、秀吉に拝謁。秀吉は和議の条件として、明の皇女を日本の皇族に嫁がせること、勘合貿易の再開、日本は南朝鮮を有すること、朝鮮の王子を人質とすること、などを挙げた。これに対し、小西行長はこの和平案では明との和議は不可能と考え、家臣内藤如安を講和使節として北京に派遣している。沈惟敬も行長の行動に協力し、共に「関白降表」を作製した。同書は秀吉が明からの冊封を望んでいるとした偽書である。六月二十九日、豊臣軍、晋州城を落とす。加藤清正は晋州城攻めで、自分に知らせず下人を使い、略奪を行う者は成敗するとの禁制を出した。秀吉の命により、豊臣軍は釜山浦まで撤退。八月、豊臣軍の一部が引き揚げを開始。十二月、安康合戦が行われた。
 文禄二年には、原田孫七郎が高山国(台湾)に入貢を促す使者として渡海している。しかし、台湾の原住民族高砂族は統一した政権を持っておらず、入貢させる相手が見つけられないまま、孫七郎は帰国した。
 
 
 
 【交渉決裂】
 文禄三年十二月、内藤如安、北京入京。明は「関白降表」を降伏文書として受け取り、和議の条件として朝鮮からの完全撤退、貿易の制限、従属国となることを求めた。如安はこれを受け入れ、秀吉は日本国王に封じられることとなった。同年、堺の商人納屋助左衛門(呂宋左衛門)は、台湾から持ち帰った珍品を秀吉に献上した。後に助左衛門は秀吉の怒りを買い、桜丸という船で琉球に逃れている。慶長元年、台湾の淡水に寄港したと伝わる。慶長十六年、助左衛門はシャムに渡る際、台湾を探検したと言う。
 文禄四年十一月、明の冊封正使李宗誠、副使楊方亨(ヤン・ファンフェン)が釜山の小西陣営に入る。李宗誠は秀吉が冊封を望んでいないと察知し、誅殺されることを恐れて逃走。そのため、楊方亨が正使、沈惟敬が副使となった。慶長元年九月一日、方亨らは秀吉に金印や冠服を献じる。九月二日、秀吉は明の冠服を着用し、使節団を大坂城で饗応。しかし、皇帝からの書状(誥勅)の文面には秀吉の提示した和平案の記述がなく、さらに「爾を封じて日本国王と為す」の一文があった。秀吉は欺かれたと激怒し、再び明と合戦を行うとした。
 
 
 
 【慶長の役】
 慶長二年二月二十一日、秀吉は十四万一千四百余名の大軍を編成。第一陣は加藤清正勢一万余名。第二陣は小西行長、宗義智ら一万四千七百名。第三陣は黒田長政、毛利吉成ら一万余名。第四陣は鍋島直茂、勝茂父子ら一万二千余名。第五陣は島津義弘勢一万余名。第六陣は長宗我部元親、藤堂高虎ら一万三千三百余名。第七陣は蜂須賀家政、生駒一正ら一万一千百余名。第八陣は毛利秀元、宇喜多秀家ら四千余名。釜山浦城守将小早川秀秋一万余名。安骨浦城守将立花宗茂五千余名。西生浦城守将浅野幸長三千余名。朝鮮は再び明に救援を求める。和平が偽りと暴かれたため、沈惟敬、彼を登用した書石星は罪人となった。
 七月十五日、三道水軍統制使元均(ウォンギュン)が漆川梁(チルチョンリャン)海戦で討死。朝鮮水軍は大打撃を受けた。豊臣軍は朝鮮上陸に盛行し、朝鮮慶尚道を中心に戦闘を開始。慶長の役で豊臣軍は全羅道、忠清道、京畿道まで攻め込んでいる。九月十五日、李舜臣、鳴梁(ミョンリャン)海戦で勝利。九月十八日、秀吉が耳塚の供養を行う。明軍との攻防の末、豊臣軍は慶尚道、全羅道を拠点に防衛戦を形成しようと試みる。同月、全羅道霊光沖合で、儒学者姜が藤堂家に捕らえられる。十二月二十二日、明・朝鮮軍は加藤清正らの籠もる慶尚道蔚山(ウルサン)城を包囲。
 慶長三年正月四日、毛利秀元勢が蔚山城救援に成功。籠城期間はわずかであったが、籠城軍は食糧不足によって大打撃を受けた。
 
 
 
 【豊臣秀吉の死】
 慶長三年八月十八日、豊臣秀吉没。これにより唐入りは夢に消え、豊臣軍は朝鮮半島から撤退することとなった。石田三成は秀吉の死を隠しつつ、徳永寿昌、宮本豊盛を渡海させ、諸軍の帰国が円滑に進むよう働いている。十月、諸侯の帰国開始。十一月、李舜臣、小西軍の帰路を阻む。十一月十七日、島津軍、露梁(ロリャン)海戦で李舜臣を討ち取る。年末には全軍の帰国が終了し、明軍も慶長五年頃には帰国している。
 
 
 
 【徳川家康の外交政策】
 豊臣軍帰国後、朝鮮では対馬征伐論が持ち上がる。しかし、国力の増強が優先として実行されることはなかった。宗氏は朝鮮との関係修繕を急ぐため、連れ浚われた朝鮮人の送還を行っている。この時、朝鮮は宗主国明に対馬が関係修繕を願っていると報告している。
 慶長五年五月、前佐郎姜(カンハン)が朝鮮に帰国。慶長六年四月、姜士俊(カン・サジュン)が帰国。関ヶ原合戦によって天下は徳川家康の手に移ったと報告。慶長九年六月、朝鮮は僧侶惟政を対馬に送り、宗氏と和平交渉を行う。その中で対馬と釜山の交易は再開されることとなった。
 惟政は宗義智の仲介で、伏見城にて徳川家康に拝謁している。家康は文禄・慶長の役に参戦していないことを挙げ、関係修繕のため朝鮮人三千余名の送還を約束した。慶長十年四月、惟政帰国。五月、宗義智は家康の約束した三千余名の送還とは別に、千三百余名の送還を行っている。朝鮮は家康が関係修繕を求める国書を送ること、九代国王成宗、十一代国王中宗の墓を荒らした犯人を送ることを条件に、日本と国交を結ぶこととした。「宣祖実録」から集計すると、五千七百二十余名の朝鮮人が帰国している。さらに、「光海君日記」九年四月十九日の項も加えれば、七千五百余名が帰国したことになると言う。
 慶長十二年正月、呂祐吉(ヨウキル)ら刷還使(朝鮮人の送還を役目とする者)が日本へ派遣されている。日本に居住し、文化伝来を行った朝鮮人も多い。高知にて豆腐製造法を広めた朴好仁。薩摩に樟脳を広めた鄭宗宦。熊本で製紙技術を広めた道慶・慶春兄弟。佐賀で製薬、絹織物の生産を広めた九山道清。土佐藩に名医として仕えた経東。このように、文禄・慶長の役によって日朝間の人的交流が行われたのも事実である。
 家康は朝鮮の文献を「駿河文書」に加え、家康没後は尾張家の「蓬左文庫」、紀伊家の「南葵文庫」、水戸家の「彰考館文庫」の一部として保存された。他に前田家の「尊経閣文庫、角倉家の「角倉文庫」としても保存された。
 名護屋城のその後についても記しておく。寺沢広高は慶長七年から十三年にかけて唐津城を築城。その際、名護屋城の資材が流用された。名護屋城はこの時、破却されたと推測される。大手門は伊達政宗の願いにより、仙台まで船で運ばれた。寛永十四年、島原の乱に際して名護屋城跡の石垣が利用されないよう、石垣は幕命にて打ち壊されたと言う。
 

 
 【付記】
 
 
 
 【アジア全域を巻き込んだ大戦】
 「宣祖実録」宣祖三十一年五月二十六日の項には、明軍に同行する「異面の神兵」の記述がある。この人物は波郎国の者、つまりポルトガル人で、鉄炮や武芸に長けていたと言う。髪は短めで、黒い羊毛のようだが禿げ上がり、航海によるものと思われるが、全身が黒く日に焼けていた。海に潜り、敵船に穴を空けることが出来たため、「海鬼」と呼ばれるようになった。海鬼は宣祖の前で剣術を披露し、銀一万両を賜ったと言う。このように文禄・慶長の役には明に事大するアジア各国、さらにポルトガル人も参戦していたのだ。
 「宣祖実録」宣祖二十六年四月十日(1593年)の項には、兵曹判覚李恒福(イ・ハンボク)が明軍の部隊を訪れた際の報告文が記されている。恒福は暹羅(タイ)、都蛮(チベット)、小西天竺(インド)、六番得、楞国、苗子、西番、三塞、緬国、播州などの国、地域から招集された兵が明軍に加わっていたとしている。豊臣軍はこれら様々な国、地域の兵と戦ったのだ。
 
 
 
 【朝鮮側に属した日本人】
 豊臣軍に加勢した朝鮮人がいたように、朝鮮側に投降した豊臣兵についての記録も残っている。「沙也可(さやか:1571〜1642年)」と呼ばれる日本人の一団三千人が朝鮮に味方したと朝鮮側の記録にある。慶尚道兵使朴晋に降り、朝鮮側に鉄炮製造の方法を教えたと言う。沙也可の残したとされる手記「慕夏堂記」には、支那の文明に敬服したため朝鮮に味方したと記されている。しかし、同書は後世の書物であり信憑性に疑問が残る。
 沙也可は加藤清正に仕えていたが、罪人となり罰を逃れるために朝鮮に味方したとも伝わる。沙也可の朝鮮名は金忠善(キム・チュンソン)と言い、慶長の役でも戦功があり、戦後も武人として朝鮮政府に仕えた。満州族との合戦にも参加。こうした忠勤により、正憲大夫に叙せられた。
 また、「李朝実録」にはヌルハチに仕えた馬臣、朝鮮人使者申忠一の会話が記されている。それによると朝鮮に投降した日本兵は衣食住を与えられ、鴨緑地方の防備を任されたとわかる。
 
 
 
 【果たして豊臣軍は残虐だったのか】
 慶長の役で挙げた首、耳は日本に持ち帰られ、首塚、耳塚として葬られた。朝鮮の「芝峯類説」に、鼻を削がれて尚、生きている者がいたとある。これらは日本人による惨殺と朝鮮は非難する。もちろん、現在の価値観では容認できることではない。しかし、当時の日本では戦功を示す証拠として、首を挙げることは常識であった。対外戦争において、国内での常識とされる行為が、敵国においては違法行為に見えることは十分にある。首取りは賞罰に関わるという実利面、日本国内では常識であったという二点を考慮する必要がある。
 文禄・慶長の役では多くの朝鮮人が日本に連れ帰られた。彼らは「タルミ」や「カクセイ」と呼ばれた。タルミは朝鮮語のサラム(人間)が訛った言葉であり、カクセイとは美しい女性、コカクセイとは女の子を意味する。フロイスは1596年度の年報として、長崎で千三百余人の朝鮮人に布教したと記す。実際はその数倍の朝鮮人が日本にいたのだろう。
 慶長三年、イエズス会は日本人が朝鮮人を安値で売買することを厳しく非難しており、長崎ではポルトガル人に売るために朝鮮人が集められたと言う。自ら朝鮮に渡り、売買目的で朝鮮人を連れ帰る日本人もいた。イタリア人フランチェスコ・カルレッチの記録から、アントニオ・コリアという朝鮮人がイタリアまで売られたとわかっている。ルーベンスも「朝鮮服を着た男」という画像を残している。
 戦国期、合戦での捕虜や、捕らえられた戦地の民は人身売買の対象となっていた。これは戦場という「無縁」の場で捕らえた者を、世俗から縁の切られた者と見なすことで売買したと推測出来る。合戦が終わると、こうした人身売買、それを取り戻すための駆け引きが行われた。朝鮮でもこの習慣が行われたのだ。秀吉は外国人による日本人の売買を禁じた一方、朝鮮人の売買は黙認していたようだ。さらには、捕らえた朝鮮人の中から優れた技能を持つ者を献上せよと命じている。権力者による二重基準であり、特に人身売買に関わることである。これは今日でも非難の対象になりえる。
 ただ、朝鮮人が単純に日本に連れ帰られたのかは疑問が残る。すでに記したように、豊臣軍の半数近くが朝鮮人で構成されていたという記録がある。講和となれば、豊臣軍に味方した者はどうなるだろうか。当然、処罰の対象となる。とすれば、朝鮮にいるよりも日本に移った方が安全であろう。現在、朝鮮は陶工などの職人を連れ去ったと日本を批判するが、当時の朝鮮では職人は蔑視されており、日本でようやく日の目を見た者が多い。日本から海外に売られた朝鮮人もいるが、一概に日本で不遇の生活を送ったわけではないのだ。
 増田長盛は朝鮮人の名前、髪形を日本風に改めさせた。安国寺恵瓊は子供に「いろは」を教えたという(文禄元年六月八日付の書状:【高麗人ニいろはを教え、髪をはぎ、童部をば中そり仕り、召仕え候】)。これらは渡海諸侯の強要だけではなく、朝鮮人からの要請もあったのではないか。
 元に制圧された高麗は自ら望んでモンゴル風の名前を名乗り、制度などは全て元から取り入れている。強い国に従い、その全てを受け入れるという事大思想があったからこそ、高麗は元の優秀な属国になろうとしたのだ。文禄の役での日本化政策もそれを望んだ人々がいたからこそ行われたとすべきだろう。
 また、朝鮮人は豊臣軍を残虐だと厳しく非難するが、明軍についての批判は消極的である。支那人は籠城の際、周辺から食料を根こそぎ城に運び、敵に利用されそうな物は全て焼き払う「堅壁清野作戦」を得意とした。こうすることで攻め手の補給を断ち、自軍を有利にしようというものだが、当然ながら非戦闘員のことは考慮されない。これにより食料を奪われ、餓死する者は多かったと言う。
 
 
 
 【英雄化された妓生
 光海君は1612年、新たな三綱行実図の編纂を命じる。1617年、「東国新続三綱行実図」が完成。収録された千七百二十五名中、五百八十四名が文禄・慶長の役に参戦した人物であり、特に女性は四百三十六名も記されている。村の学校に配布するため、ハングルの注釈も入れられている。「東国新続三綱行実図」には、被差別民の活躍が記されることはなかった。柳夢寅はこの状況を嘆き、最下層の人々の活躍を記した「於干野談」を編纂した。
 その中に、文禄の役の際、論介(ノンゲ)という妓生(キーセン)が、日本人武将の一人を道連れとして川に身を投げたという話が記されている。妓生とは売春を生業とする女性を指し、論介は淫娼として貞烈に加えられることはなかった。彼女が朝鮮政府から認められたのは、1722年のことである。彼女について様々な記録が残され、名前も「牡丹」や「玉仙」、「論可」など複数伝えられている。
 共に水死した日本人武将は毛谷村六助とされるが、他にも加藤清正、豊臣秀吉が水死したとする書物もある。もちろん、史実ではないが、加藤清正は「カドン・チョンジョン」と、豊臣秀吉は「プンシン・スギル」、あるいは「平秀吉:ピョン・スギル」と呼ばれ、怖れられたことからこうした話が創られたのだろう。
 
 
 
 【朝鮮政府の仏教禁令】
 朝鮮政府が豊臣軍に対し、無力であったことに失望し、仏教への信仰を強める人々がいた。しかし、朝鮮政府は儒教の制度をより強めるため、漢城の仏僧らを追放した。このように朝鮮政府は儒教を国教として、仏教を蔑んだが、韓国では仏教の衰退を豊臣軍の責任としている。寺院を焼き払うなどの行為がそれと言うが、それ以上に朝鮮政府が仏教を認めなかったことが仏教衰退の原因である。
 
 
 
 【活版印刷】
 文禄二年、朝鮮の銅活字によって「古文孝経」が印刷された。その後、銅活字と墨との相性の関係から、日本では木活字が使われるようになった。従来、こうした経緯から活版印刷は朝鮮から伝わったとする説が有力とされてきた。その一方で天正十八年に宣教師から活版印刷が伝えられ、それを応用して手刷り印刷が始まったとする説もある。朝鮮では戦後、七十年以上も活字による印刷が行われなかったと言う。これも豊臣軍の責任とされるが、職人を蔑視する朝鮮の風潮が災いしたとするべきであろう。
 
 
 
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