戦国時代の合戦 第三章
 
 『兵士と武具』
 
 
 
 【軍役】
 合戦には大量の足軽が必要になる。大名は家臣に軍役を課し、足軽を集めて戦った。
 家臣は大名から所領を安堵される代わりに、合戦時に兵士や武器を負担した。これは律令制の庸(現物納入)・歳(労働納入)に由来する。検地によって家臣の所領の石高を確認し、軍役を定めた。軍役の内容を記した書状は着到状と呼ばれる。大名は家臣に着到状を送り、その履行を求めた。
 軍役の義務を果たすためには、足軽の数を集めることが必要になる。その結果、武家同士が部下の中間、足軽の所有権を争うことがあった。別の家に仕官した足軽に対して、前の主人が「自分の部下であり、ただちに引き渡して欲しい」と請求する。新しい主人は当然、これを拒む。こうした争いの後、裁判で足軽の所有権が決められた。
 
 
 
 【脱走する足軽】
 永禄五年二月八日、武田信玄は大井左馬充入道に書状を送り、出陣を嫌って脱走した被官がいれば必ず処罰するよう命じた。
 天正二年閏十一月三日、武田勝頼は出浦主水佐に書状を送った。軍役を嫌って他所に逃れた被官がいるが、見つけ次第、今の主人と交渉して返還してもらうこと。
 

 
 
 『武器』
 
 
 
 鍛冶師、鋳物師は刀や鑓、鉄炮を生産。切革師、細工師は甲冑などを作成。大名はこうした職人を重用し、城内に職域を設けて武具の生産を奨励した。
 
 
 
 【合戦で最も用いられた武器は何か】
 合戦で主に使われた武器は鉄炮、弓、礫(投石)である。実際に敵を死傷させた武器の割合は、遠距離用の武器(弓、鉄炮、礫)が約70%、近距離用の武器が約30%(刀、槍)と推測されている。これは当時の軍忠状を精査し、統計として得られた数字である。この様に合戦で主に使われた武器は、遠距離用の武器だったのだ。
 慶長五年八月二十四日、吉川広家は伊勢津城を攻めた。八月二十六日、吉川家では津城攻めでの死傷者を書類にまとめた。それによると戦傷者は百四十五名。疵は百七十三ヶ所に及び、鉄炮疵が九十三ヶ所、鑓疵が五十八ヶ所、矢疵が二十二ヶ所。鉄炮と矢を合わせると百十五ヶ所になる。全体の三分の二は鉄炮、矢による負傷であった。
 矢は200m近い射程距離があり、通常は約60mの距離で使用された。20mほどの至近距離から正確に射抜くことも上策とされた。弓の戦術は発達しており、斜め上に射ることで射程を伸ばしたり、真上に射ることで籠城時に下の敵を攻撃した。
 鉄炮に至っては最大射程約500mと云われる。有効射程は約200mで、通常は約100mからの射撃が多かった。正確に撃つため、約20mにまで接近して撃つこともあった。
 日本の合戦は遠距離戦主体だった。軍記物には「白刃の林が空を覆い」、「切っ先より火焔を降らし」などの文章表現が多い。その事から、戦国時代の合戦は刀や槍を中心にした白兵戦主体と考えられてきた。これらの文章はあくまでも比喩表現である。それを認識していなかったため、まるで違う合戦像が史実とされてしまったのだ。
 
 
 
 【弓】
 「弓」:合戦での主力武器。鉄炮伝来以降も重用された。弦は折り目があると切れやすくなる。予備の弦は輪状に巻いて携帯した。これを弦巻という。
 「矢」:矢尻は先端を尖らせた征矢尻が使われたが、先端を二股にした雁股という矢尻もあった。矢尻の後ろに鏑を付けることもあった。鏑は中が中空で、穴が二つ空いている。矢を射ると音が鳴った。矢羽根には鷲、鷹、鶴、山鳥などの羽が使われた。矢の本体は箆と言う。箆を拳で握り、端から端までの長さを測る。長さが余る場合は指を当てて測った。十二束三伏ならば拳十二個、指三本の長さになる。通常は十二束の長さの矢が使われた。矢は空穂や箙に入れて運んだ。
 「箙」:矢尻を受ける箱、矢本体を束ねる部分で出来ており、征矢二十四筋、雁股矢二筋を入れた。
 「空穂」:藤や革で作られた筒状の入れ物で、十筋ほどの矢が入る。土俵空穂という数十筋もの矢が入る空穂もある。右腰に付ける。
 「筈槍」:弓の先端に付ける刃。敵に接近された場合に使用したと云うが、実際に使われたかは不明。
 
 
 
 【鑓】
 「槍」:片刃で長さ七尺ほどの武器。
 「鑓」:両刃で二間以上と槍よりも長い武器。長柄鑓、持鑓などがある。合戦は弓、鉄砲、投石が中心で、対陣する両軍が接近した場合に鑓が使われた。鑓は突くものではなく、集団で叩き合うために使われた。二間半から三間が一般的な長さだった。三間以上の鑓は重く、使いにくかった。また、費用や広い置き場も必要になるため、あまり使われなかった。織田信長が三間半の鑓を使ったと云うが、後世にまで普及するようなものではなかった。柄は樫や桜で作られた。竹も使われたが、割れやすいので評価は低かった。
 
 
 
 【刀】
 刀は構造上に問題があり、破損しやすいという欠点があった。堅い物を切ろうとすると鉄の刀身が木の柄を叩き、その衝撃で柄が壊れてしまうのだ。兜や甲冑を切った刀は名刀とされたのは、通常では切れない物を切ったためである。刀は折れ曲がりやすく、柄糸が解けたりと何かと取り扱いに困る代物だった。
 刀は敵を組み伏せたり、逆に組み伏せられたときに多く使われた。これは首取りのための攻防で、それ以外では例外的に使われる程度だった。戦国時代、弓矢が無く、刀しか武器がないため戦闘を放棄した武士がいた。しかし、誰も彼を批判することはなかった。これが当時の常識だった。
 

 
 
 『鉄炮』
 
 
 
 【火薬と鉄炮の発展】
 火薬は支那で生まれ、アラビア、ヨーロッパの順に広まったとされる。806年に記された「石薬爾雅」によると、シャカ族の僧支法林は仏教の修行のため支那五台山へ向かう。汾州霊石地方で硝石を見つけるが、同地の人々が硝石を錬金術に使用しないことを不思議がっている。支那僧は霊石地方の硝石を錬金術に使用するが、インドのものと比べて品質が劣っているとわかった。後に澤州で再び硝石を採り、実験を行った。火にくべると紫色の炎をあげ、インドの硝石と同等の品質だとわかった。これが火薬の発見につながるというが、インドと支那の交流が火薬の発見につながり、その根底にはインドの不死を求める錬金術があったと認識すべきであろう。
 鉄炮は明、ヨーロッパで同時に発達をした。1450〜1470年頃に撃発装置の改良が行われた。これにより携帯火器としての性能が格段に向上した。1515年、ドイツで「歯輪式発火装置」が開発された。歯輪式発火装置はライターの発火法と同じ考えであり、歯車の回転による摩擦で火花を作り、その火花で口薬に点火した。1585年、スペインで「スナッパーン」が発明された。これは燧石(ひうちいし)を当金に打ちつけて発火するもの。1648年、フランスでスナッパーンを改良した「燧石撃発装置」が発明される。十七世紀、スエーデンで紙製薬包が発明される。日本の早合に相当する。
 
 
 
 【鉄炮伝来の正確な時期は不明】
 鉄炮の伝来に関して今日語られている通説は、慶長十一年に薩摩大竜寺住職南浦玄昌が記した「鉄炮記」の記述が出典である。しかし、同書は伝来から六十年以上も経過した慶長年間に書かれた書物で、史料の分類としては二等史料に分類される。他に信憑性のある記録が無いことから、鉄炮伝来については「鉄炮記」の記述でのみ語られているのだ。こうした状況を踏まえ、「鉄炮記」の記述を抜粋し、そこに近年の解釈を加えながら伝来の様子を記してゆく。
 
 【天文癸卯秋八月二十五日丁酉に、我西村の小浦に一大船あり、何れの国より来る事を知らず。船客百余人、その形類せず、その語通ぜず、見者以て奇怪なしぬ。その中に大明の儒生一人、五峰と名づくる者あり、今その姓子を詳せず。時に西村の主宰に織部丞と云うもの有り、頗る文字を解す。たまたま五峰に遇いて杖を以て砂上に書していわく、船中の客、いずれの国人なるや知らず、何ぞその形の異なるやと。五峰書していわく、こはこれ西南蛮種の賈胡なり、ほぼ君臣の義を知ると雖えども、いまだ札貌の其中にある事を知らず】。
 
 定説では「天文十二年、嵐で難破して漂着した船が鉄炮を伝えた」としている。それが事実ならば、最初にその記述を加えるはずである。記述が無いことから大船は「嵐で遭難した」のではなく、普通に通商を求めてきたと推測できる。重要なのは五峰という人物で、彼の本当の名は「王直」という。驚くべき事に明人倭寇の首領と同一人物なのだ。この大船は王直の持船で、ジャンクと呼ばれる支那船だった。織部丞は筆談の結果、彼らを「怪むべき者に非ず」と判断し、種子島時堯に書を送り、船を赤尾木に移した。
 
 【賈胡の長二人あり、一人を牟良叔舎、一人を喜利志多佗猛太という。手に一物を携う、長さ二三尺、その体たるや、中通じ外直くして、重きを以で質となす】。
 
 ポルトガル人の牟良叔舎(むらしゅくしゃ)、喜利志多佗猛太(きりしただもうた)は三尺ほどの鉄炮を持っていた。火縄銃は北欧で「ムスケット」、南欧では「アルケビュース」と呼ばれた。「津田流鉄砲口訣記」は「阿瑠賀放至(アルカブース)」と記している。
 宣教師の記した「新旧発見年代記」には鉄炮記と異なる記述を載せている。1542年、デオゴ・デ・フレイタスの部下、「アントニオ・ダ・モッタ」、「フランシスコ・ゼイモト」、「アントニオ・ペイショット」の三人が脱走。支那へ向かう途中、嵐によってジャポエス島に漂着したとしている。このように種子島家と宣教師とでは記録が異なるのだ。
 
 【時堯その価の高くして及び難きを云わず、蛮種の二鉄炮を求めて、もって家珍となす、その妙薬の擣篩、和合の法をば、小臣篠川小四郎をしてこれを学ばしむ】。
 
 時堯は鉄炮に強い関心を抱き、ポルトガル人に依頼し、鉄炮の操作方法を学んだ。時堯は鍛練を積み重ね、その射撃術は精度を究めていく。そして時堯は高額にもかかわらず、鉄炮二挺を購入。初めに購入した二挺の鉄炮は「故郷」、「腰さし」と呼ばれた。「故郷」は西南戦争で失われ、「腰さし」は紀州に贈られたため記録に乏しい。他にも初伝の銃とされる鉄炮が伝えられているが、どれも根拠に乏しい。伝来当時の鉄炮はすでに失われてしまったようだ。時堯は火薬の調合法を小姓篠川小四郎に学ばせている。
 この頃、紀州根来寺の杉坊某(津田明算)が時堯に鉄炮を求めたと云う。紀伊と種子島は地図上で見ると距離がある。しかし、紀州は貿易業が盛んな土地である。種子島は日本と東南アジアとの貿易の拠点の一つであり、紀伊からも商人が訪れていたのだろう。時堯は明算の兄、津田算長に鉄炮一挺を渡し、明算に届けさせた。この時、火薬の調合方法も伝えられた。
 
 【その翌年、蛮種の賈胡またわが嶋能野の一浦に来る。浦を能野と名づくるは、また小廬山、小天竺の比なり。賈胡の中に、幸いに一人の鉄匠あり、時堯もって天の授るところとなる、即ち金兵衛尉清定なるものをして、其底の塞くところ学ばしむ。漸く時月を経て、其巻いてこれを蔵むることを知る】。
 
 時堯は鉄炮の国内生産を考え、その鍛造を種子島の鍛冶八板金兵衛尉清定に命じた。八板金兵衛は美濃の鍛冶で、良質の砂鉄を求め種子島に移っていた。当時は種子島氏は合戦に敗れたため屋久島を失い、屋久島奪回のために戦力を増強している最中だった。種子島は砂鉄の産地であり、製鉄技術に優れていた。量産に成功すれば大きな戦力となり、さらには輸出によって利益を得ようとしたのではないか。津田明算に一挺を贈ったのは、好意ではなく種子島からの鉄炮販売の布石だったのかも知れない。
 火縄銃は螺子による取り外しで内部の煤を取り除き、不発や暴発を防いでいたが、当時の日本には螺子の技術がなかったため試作品は暴発を繰り返す。金兵衛は強度で向上させることで暴発を防ごうとするが、それも失敗した。
 南蛮船が再び訪れたのは、鉄炮の国産化が息詰まった時だった。王直の記述は無いが、この船は王直配下の倭寇の船ではないか。王直は種子島氏に鉄炮を伝え、売り込もうとしていた。鉄炮に関する通商を求めるため、種子島に使者が来たのではないか。
 種子島氏は南蛮船の船員から螺子の構造と作り方を学び、遂に鉄炮の国産化に成功した。螺子の製造は最後の難関であり、螺子の製造成功によって数十挺の鉄炮が作られた。
 
 以上が鉄炮の国産化に至るまでの大まかな流れである。鉄炮は嵐によって漂着したポルトガル人が偶然伝えたのではなく、明人倭寇の首領王直が販売目的で持ち込んだ物だった。
 
 なお、いくつかの書物は鉄炮伝来について異説を載せている。
 鉄炮鍛冶で有名な近江国友村にも鉄炮伝来の記録が残されていた。「国友鉄炮記」は元寇の時、元が鉄炮や火矢を使ったとしている。。確かに元軍の使用した「鉄放」は鉄炮の語源であるが、全く別の武器である。元の鉄放は熱した金属塊を投石機で投射するという武器だった。中空の鉄の弾に火薬を詰めているため、炸裂弾としての効果があった。その後、元亀元年、永正七年と二回に渡って南蛮から鉄炮が伝えられたが、使い方までは伝えられなかったため普及しなかった。天文八年八月二十五日、大隅国種子島に南蛮船が漂着。この船から鉄炮が伝えられ、種子島から九州に広まった。畿内や小田原でも鉄炮が使われるようになったと云う。国友村を領した京極氏は、細川晴元に属していた。足利義輝は晴元に鉄炮を渡し、国友の鍛冶に鉄炮を作らせた。これが国友と鉄炮の関係の始まりと云われる。国友村での鉄炮国産化の逸話も記されている。国友村の次郎介が鉄炮を造ろうとしたが、螺子を造ることが出来なかった。ある日、「小刀の欠けたるをもって大根をくりぬくと刃の欠けたる通りに道つきたり、この道理に惑解け、捻とゆうもの出来云々」と螺子の国産化成功の逸話を記している。天文十三年八月十二日、将軍に献上した鉄炮二挺は国友で製造したものと云う。
 「甲陽軍鑑」には大永六年、村上新左衛門という西国牢人が武田信虎に鉄炮を伝えたという話が載せられている。
 「北条五代記」によると、玉瀧坊という山伏が享禄年間初期に堺に赴いた時、大きな音を聞いた。その場に向かうと、永正七年に唐から伝えられた鉄炮という物が売られていた。大変に珍しいので一挺を購入し、北条氏綱に献上した。氏綱は鉄炮を試し撃ちし、関東に比類の無い宝だと大いに喜んだ。これにより、北条家の武士は鉄炮を宝とするようになった。北条氏康の時代になると、堺から国康という鉄炮鍛冶を招き、さらに根来の杉坊や二王坊などが砲術を教えたため、誰もが鉄炮を持つようになったと記している。
 「中古治乱記」は文亀元年秋、南蛮から鉄炮が献上されたと記している。この鉄炮は本体のみで火薬が無く、また技術も伝えられなかったため無用の長物として朽ち果てたと云う。
 「蔭凉軒目録」は文正元年、琉球使節から足利義政に「鉄放」が献上され、京で試し撃ちが行われたとしている。
 「碧山日録」は、応仁の乱で細川勝元が「火鎗」という携帯火器を使用したと記している。
 このように鉄炮伝来についての記録は様々で、良質な史料が無いため「鉄炮記」の記述ばかりが取り上げられている。新たな史料が見つかれば、伝来の時期は大きく遡る可能性がある。日本社会は海を通じて広く他国と交わっており、鉄炮は天文年間以前から日本に伝えられていても疑問はない。
 
 「鉄炮記」は鉄炮の普及の過程もいくつか記している。
 
 【その後、和泉の界に橘屋又三郎というものあり、商客の徒なり、わが嶋に寓止すること一二年にして、鉄炮を学ぶこと殆ど熟す、帰施の後、人皆名をいわずして呼んだ鉄炮又という、然して後畿内の近邦、皆伝えてこれを習う。ただ畿内、関西の得手これを学ぶのみに非ず、関東も亦然り】
 
 鉄炮の本格的な普及は橘屋又三郎の功績としている。他に種子島家臣松下五郎三郎の乗った商船が、嵐のため伊豆に漂着。五郎三郎が鉄炮を撃って見せると、伊豆の人々は衝撃を受け、鉄炮の術を教わった。ここから関東一円に広まっていったとしている。
 天文十八年、島津貴久が合戦で鉄炮を使用。これ以降、鉄炮は合戦の必需品となっていった。ほぼ同時期に九州の猟師は鉄炮で狩りをしており、狩猟の道具や贈答品としても用いられた。
 十三代将軍足利義輝は剣術に優れたことで有名だが、鉄炮にも強い関心を抱いていた。天文二十一年十二月、足利義輝は本願寺を通じて硝石十斤を手に入れている。伝来から十年ほどで畿内にも鉄炮が普及していたことが分かる。また、上州金山城主横瀬成繁が鉄炮の鍛錬をしている姿を見た聖護院道増は、天文二十年八月、足利義輝にこの事を伝えている。天文二十二年五月二十六日、横瀬成繁は足利義輝から鉄炮一挺を賜った。道増の書状から、義輝は成繁の鉄炮好きを知っていたのだろう。関東にも鉄炮は普及していた。ただ、この頃は鉄炮衆を組織するほどの数を揃えることは難しかった。天文二十三年、豊後の大友宗麟は足利義輝に鉄炮を献上しており、高級品として贈答用に用いられた。
 
 
 
 【鉄炮の性能】
 伝来したのは狩猟用の鳥銃でヨーロッパでなく東南アジアで使用されたタイプである。東南アジアで改良されたマラッカ式瞬発式点火機を使用したため反応よく発射できた。そのため現代でも十分に使える性能を持つ。
 射程距離は約500mだが、命中精度を考えて約200〜100mの距離で使用される。50m先から50cmの的にかなりの確率で命中させることができた。また、30m先の野球ボール大の目標に命中させることも出来る。木などを支えにすれば命中精度をさらに上げることが出来た。
 鉄炮は弓に比べて短期間で習熟でき、腕力に関わりなく殺傷力を発揮するため重宝した。現代人でも訓練すれば一分間に四発程度撃つことができると云う。連射によって銃身が熱くなると水で濡らした布で冷やした。「太平不忘記」は水がなければ小便で冷やすことと記している。
 一発目を撃ち終えてから次弾装填までの時間に、敵に接近される危険性があった。そのため、弓との併用で装填時間の隙を無くした。日本は源平合戦以前から弓、投石が合戦の主力であり、その割合は戦果の七割を占めた。弓の戦術は非常に発達しており、鉄炮にもそれが応用された。
 破壊力を検証する実験が行われており、それによると四寸(約12cm)程度の木の板に1mm程度の鉄板を重ねたものを貫通した。これならば甲冑を貫通することも容易だ。柔らかい鉛玉が熱と衝撃で偏平になるため、射出孔(しゃしゅつこう:玉が抜け出た箇所の穴)が射入孔(しゃにゅうこう:玉が当たった箇所の穴)の数倍になることもあり、殺傷力はさらに高まる。射撃時の閃光、爆発音は凄まじく馬を狂奔させることができた。
 製造方法は鍛造(加熱したたいて加工する)である。芯鉄に鉄の板を巻き付けていく。作り手により出来にばらつきがあったが、日本刀よりも簡単に製造できたという。鉄炮に使われる鉄の産出地は安芸、出雲、伯耆、石見、播磨など。堺では伯耆産、国友では出雲産の鉄が多く使われた。これらの鉄は海路で若狭、敦賀を経由して購入した。
 西洋では高温を放つコークスがあったため、鉄の融点である1800℃まで加熱することが出来た。一方、日本には炭しかない。最も熱の発生効率の高い松の消し炭でも、1200℃程度である。そのため、半融解した鉄を鍛える製法が発達した。砂鉄粉、石英粉、木炭粉を交互に重ね、タタラに入れる。1200℃で飴状になった鉄を固めると、銑鉄になる。その上に石英粉、木炭粉を重ね、再びタタラで溶かすと、玉鋼になる。玉鋼は炭素含有量が高いため、硬く割れやすい。そこで、もう一度、半融解させて叩き、火花と共に余分な炭素を放出する。この時、均等に叩かなければならず、熟練の技を要した。
 鉄炮が広まると、耐久テストのために兜や甲冑に試し撃ちをして、それで合格したものが良品とされた。徳川家康の甲冑にも試し撃ちの跡が残っている。
 
 
 
 【鉄炮の弱点と解決方法】
 雨中や大風での使用が困難:雨だからといって火縄銃が使用できないわけではない。例えば籠城ならば屋根などの下に入る。野戦ならば雨除けを張る。陣笠も雨よけの効果があった。水火縄なども効果があったらしい。大風は火薬が飛ばされたり、火の粉が飛んでくる。風のない日が最適だが、そうでない時はかなりの注意が必要。
 撃つまでに時間がかかり、技量や状況に左右される:構造上、時間がかかるのは仕方がない。技量を上げるには時間と費用がかかり、その技量も状況(天候、味方の死、恐怖など)によっては発揮することは出来ないのだ。訓練を積むしかない。
 突撃中には使用が困難:突撃でなく迎撃に効果を発揮するため、通常の戦闘や籠城戦、陣地の防御に使用した方がよい。突撃用に馬上筒が作られ、鞍の前輪脇に専用のケースを用意したが普及はしなかった。馬上筒は西欧でも開発されたが、取り扱いが大変難しかった。合戦での使用は希で、室内などでの不測の事態に用いようとする程度だった。
 装填のため身をかがめられない:装填のためには立つ必要がある。かがんだままでも固定すれば装填は可能だが、火薬が底に集中せず不発や故障の原因になる。構造上仕方がない。
 事故が起きる:鉄炮の出来が悪かったり、使用方法が悪いことが事故の原因になる。適性検査をして鉄炮足軽を選び、鉄炮の事故は厳罰とすることで事故を減らそうとした。
 費用がかかる:破壊力と引き替えの費用ならば諦めるしかない。始め二丁を二千両(現代円で約二億円だが当時はそれ以上の価値がある金額)で購入したことから国内生産が開始されるが、それでも現代円で約二千万円もしたという。後に現代円で五十万円ほどになるが、それは戦国時代も終わる頃の話だった。硝石など輸入に頼らなければならないものもあり、海外貿易の出来ない大名は不利だった。優秀な狙撃手を養成するためには訓練が必要になるが、それにも費用がかかってしまう。硝石の製造方法も怪しげながら伝わっており、苦心した様子がうかがえる。
 敵も火縄銃を使用してくる:敵も火縄銃を使用してくることが最大の脅威。対策としては兆弾効果を期待した南蛮甲冑(鉄製:丸みを帯びる)や、竹を束ねた竹束(容易に調達できる竹を束ね兆弾を期待)などがある。
 
 
 
 【発射の原理】
 胴薬と言う玉を飛ばすための黒色火薬を銃口に入れ、次ぎに玉を入れてカルカで突き固める。胴薬と玉をひとつにした早盒が一般的になってからも手順は変わらない。
 火蓋は鉄炮の右側面にあり、風雨対策の蓋の役目を果たす。火蓋を開け、口薬という胴薬に点火するための黒色火薬を火皿に盛り、火蓋を閉める。この火蓋を開ける行為が「火蓋を切る」という言葉の語源になった。火蓋は鉄や真鍮で作られ、煤が溜まるため掃除が必要になった。
 火挟という金具に火縄を挟んで点火。引き金を引けばバネによって火挟が落ちる。火蓋の上部には穴があり、口薬に点火する。口薬から胴薬に点火し、その爆発により玉を飛ばす。口薬が上手く燃えなければ、不発になりやすい。
 
 
 
 【火薬】
 九世紀頃に支那で火薬に近い物が考案され、十一世紀頃にはある程度実用化された。
 火薬は玉薬と呼ばれ、一発の発射には数g〜10g程度必要になる。漆を塗った皮や木などの筒に入れたが、やがて筒は胴乱に取って代わられた。
 火縄銃に使用されたのは黒色火薬で、材料は硝石・硫黄・木炭。比率は「7.5:1.5:1.5」や「5:2.5:2.5」である。粒子の大小、形状、集合密度、原料の純度や配合割合で燃焼速度、つまり火薬自体の性能が左右される。カルカによる圧力で火薬の集合密度が変わるため、力を加減する必要がある。
 硝石は大陸からの輸入に頼るしかなかったため、海外貿易という流通ルートを確保した大名は有利になった。
 
 
 
 【火縄】
 火縄の材料は竹や木綿、檜である。薄く細く割った材料を乾燥させ、縄状に編んだため火縄と呼ばれた。色は紺色で、使いやすいように五〜七寸に切って使用する。一時間で約30cm程度燃える。晴天ならば一日に三尋が必要とされた。そのため、相当量を左手に輪にして掛け、先端だけでなく末端にも点火することで再点火の手間を省いた。着火には火打ち石が使われた。
 竹製の火縄は火持ちが良いが、防湿性、保存性に劣る。木綿製や檜製は火持ちに劣るが、防湿性、保存性に優れる。また、濡れても乾かせば使える。防湿性向上のため漆(うるし)を塗ったり、硝石を染み込ませた水火縄も考案された。
 
 
 
 【鉄炮玉】
 鉄炮玉は球形で直径数mm〜約10mm程度。大筒になるとそれ以上の大きさの玉が使われた。六匁玉、十匁玉が一般的である。
 材料は鉛や鉄、銅。低い温度で溶ける鉛がよく使われたが、その多くは輸入品であり高価だった。細菌などに触れているため破傷風、壊死などを起こした。
 玉が不足してしまった時、鉄や焼き物、石、粘土を固めた土玉が使われたという。
 当時から散弾銃の発想はあり、二つ玉などがあった。二つ玉とは鎖で二つの玉をつなげた物である。射貫は鉛と錫の合金製の玉。通常の玉よりも貫通力がある。門破はいくつもの玉を紙で包んで一つにしたり、先を尖らせたりした城門破壊用の玉である。
 
 
 
 【鉄炮の改良】
 慶長年間、弾金が鉄炮に取り付けられた。これにより、引金を引いてから着火するまでの時間が短縮され、命中精度が向上した。
 早盒:現代の薬莢(やっきょう)に通じる。胴薬と玉をひとまとめにしたもので、装填時間の短縮のため普及。早盒を多く入れるため胴乱(専用の袋)も普及した。
 螺子:銃口を掃除する際、螺子で取り外しを行う。煤が溜まると不発、暴発の原因となり、掃除は必要不可欠だった。
 
 
 
 【鉄炮の訓練】
 鉄炮の稽古は小目当と町打がある。小目当は十五間から六十間先の角(標的)に描かれた星(黒丸)を撃つ。町打は城下から離れた場所で行う長距離射撃訓練である。
 鉄の鉄炮玉は何度でも使えるため稽古に便利だが、軽いため命中率が悪い。また、摩擦が強く、銃口を痛める恐れがある。練習用に紙を固めた紙玉、味噌を紙で包んだ味噌玉も使われた。
 
 
 
 【火縄銃が織田信長の天下統一を阻んだ】
 「長篠合戦鉄炮三段撃ち」のように織田信長は火縄銃を有効活用し、天下統一目前にまで上り詰めたとされてきた。現在、三段撃ちは根拠のない俗説であるという認識が広まっているが、それでも織田信長が火縄銃を有効活用したという説は根強く信じられている。
 火縄銃は力の有無にかかわらず大きな殺傷能力を持ち、命中させることさえ出来れば大きな脅威となる。この均質な火力が鉄炮の最大の特徴である。だからこそ、大量に保有した大名は強大な戦闘力を持つ事になる。
 しかし、一人の大名が火縄銃を独占することは不可能である。織田家だけでなく、甲斐武田家も雑賀衆も鉄炮を導入していた。各地の大名が鉄炮を有効活用していたのだ。鉄炮の活用は織田信長だけの業績ではない。だからこそ、織田信長は雑賀衆の鉄炮に悩まされ、本願寺との和睦までに時間を費やしてしまい、最終的に本能寺で討たれてしまった。雑賀衆の鉄炮が織田信長の天下統一を阻んだのだ。
 
 
 
 【鉄炮に関する宗教的思想】
 岸和田流砲術の秘伝書は鉄炮に関する宗教的思想を知る上で大変に貴重である。
 「四方かための大事」には次のように記されている。目当場の東西南北に降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛明王を祀る。中央には大日大不動明王を祀る。「天長地久こたん閻魔、息災安穏、天下太平国土安穏」と三遍唱え、印を結ぶ。これにより災いを避けることが出来るとしている。
 「鉄炮打様之大事」は鉄炮を不動明王の知恵の利剣としており、鬼神悪魔も恐ると云う。
 「鉄炮立はじまりの事」は鉄炮の由来を記している。鉄炮は釈迦の弟子である無意鬼が造り、釈迦は説法の際に鉄炮で周囲を鎮めた。日本の弓矢を鎮めるため、大唐から鉄炮が伝来したと云う。
 「鉄炮位名之事」は天地開闢の頃から鉄炮はあり、大唐から筑紫、豊後に伝えられたとしている。
 この様に岸和田流は鉄炮の由緒を仏教、神道と結びつけた。他にも鉄炮に撃つ際に読む巻物も伝えられている。巻物を読めば、鉄炮で殺生をしても功徳によって成仏出来るというのだ。こうした思想は鉄炮の普及に一役買ったと思われる。
 
 
 
 【国友村の衰退】
 一般に「大坂の陣の後、近江国友村は急速に貧しくなった」と云われている。しかし、これは信じがたい。鉄炮の需要が減ったため、徐々に衰退したとするべきだろう。
 大坂の陣に際し、国友は膨大な量の鉄炮を製造。徳川方の諸大名も注文したから、その代金で国友の財政は潤った。戦後、家康は国友に対して諸役免除の特権まで与えたのだから、数年間は豊かに過ごせるだけの財力はあっただろう。
 元和元年、徳川家康は国友の鉄炮鍛冶に鍛冶賃一万四千八十九石一升を支払った。これは大坂の陣に使用された鉄炮の代金で、全て百匁玉の鉄炮とすれば四十四挺分、三十匁玉の鉄炮ならば四百三挺分にもなる。
 元和三年、徳川家は国友に大筒七十三挺を発注。元和十年、鉄炮が完成すると国友寿斎らは尾張徳川家に対し、九尺の大筒の運搬には一挺当たり五十六名、七尺の大筒では一挺当たり四十名が必要と伝えた。そして、七十三挺では計三千二百八十六名もの人足が必要とした。大筒の運搬は太い綱を通し、綱を結んだ棒を人足が担いだ。
 元和十年、国友の鉄炮鍛冶は徳川家に大筒七十三挺を納入。この時の大筒の値段は銃身九尺、鉄炮玉百五十匁が三百六十三石二斗五升。同じく銃身九尺、鉄炮玉百匁が三百四十二石二升二合。銃身七尺、鉄炮玉百匁で二百八十三石三斗。七十三挺で計二万二千三百八十七石六升六合であった。
 寛永三年、国友は諸役免除の特権を返上し、代わりに幕府から鉄炮の注文を受けた。製造のために千石、鍛冶への代米として五千石が与えられた。寛永十四年、島原の乱に際して国友に鉄炮の注文があった。以後、国友は毎年、少数定量の鉄炮を幕府に納めるようになった。
 寛永五年の鉄炮の価格は百匁玉の鉄炮が一挺三百二十石。五十匁玉の鉄炮が一挺七十五石。四十匁玉の鉄炮が三十五石。鉄炮は依然として高価であった。
 国友では報酬の配分を均等と定めていた。しかし、寛永年間頃になると惣代が取り分を多くし、鍛冶への配分が少なくなることがあった。寛永十年、国友は幕府から鉄炮百挺の注文を受けた。代金は九千八十五石余で、手付米として六千石が先に支給された。この時、惣代四名が二千五百石を、七十余名の鍛冶で三千五百石を分けることになった。鍛冶は配分の少なさに激怒。遂に代表十名が寛永十二年、報酬を均等に分けるよう幕府に訴えている。
 
 
 【江戸時代の鉄炮】
 江戸初期には連装式火縄銃が考案された。二連装、三連装なら理解できるが五連装、八連装、果ては二十連装となると効果に疑問が残る。これらは引き金を引けば全弾発射するもので、連続して発射するものではない。
 江戸時代、二千発を約十時間連射し続け、千六百二十八発が命中したという記録がある。また、二千百発中、千九百四発が命中したという記録もある。数挺の鉄炮を交換しながら撃ったと思われる。
 江戸時代、西洋の新技術を取り入れる機会があった。日本の鉄炮は狩猟や武芸など命中精度が要求されたため、命中精度よりも速射性を高めた西洋の鉄炮は受け入れられなかった。
 1886年、ボルト式シャスポー銃が発明されるまで火縄銃は西洋でも主力武器であり、日本が特別に遅れていたわけではない。幕末、命中精度よりも速射性が求められるようになり、装填時間の早い燧石銃が導入された。
 

 
 
 『特殊兵器』
 
 
 
 【攻城用の兵器】
 「亀甲」:文禄二年六月、加藤清正が朝鮮征伐時に使用したとされる特殊兵器。亀の甲羅のように樫の木で枠を作り、車輪を付けて牛皮を張る。中に人が入り、押しながら城門や石垣に迫っていく。弓、鉄炮は弾かれると云う。
 「釣井楼」:台車に柱を立て、滑車を付ける。厚い板で作った箱に縄を付け、滑車を使って上に引き上げる。箱には物見が入り、敵城や陣地を偵察する。
 

 
 
 『防具』
 
 
 
 【甲冑】
 「具足」:戦国時代、当世具足という形式の具足が用いられた。胴は鉄板製が多く、複数の鉄板を蝶番でつないで作成された。五枚胴であれば五枚の鉄板をつないでいる。丸胴という一枚板の胴もあった。着用の際は胴の右側にある引合せという部分から着用した。足軽の具足は大名が貸し出した。こうした具足は御貸し具足、御借り具足と呼ばれた。収納を容易にするため、陣笠は重ねて保管された。具足も胴の前後を分けて保管した。これらには貸し出し時の利便性を考え、符丁や番号が記された。自軍の兵の識別のため合印が描かれた。甲冑は黒漆によって黒く染められた。赤漆で赤く染める者もいた。
 「小具足」:顔面や喉など甲冑や具足では保護出来ない部分を守るための防具。面頬、喉輪、籠手、佩楯、脛当など。
 「腹巻」:従来使われていた大鎧よりも軽量で、着脱も簡単なことから普及した。江戸時代、腹巻は胴丸と呼ばれるようになった。
 「胴丸」:背面が大きく開いている。そのため、背板で背面の隙間を塞ぐ者もいた。江戸時代、胴丸は腹巻と呼ばれるようになった。
 「兜」:兜は鉄板を鉄鋲でつなぎ合わせて作った。一枚板で作られることはほとんど無かった。兜を目立たせるため立物という飾りを付けた。武将は自身の信念や信仰に基づき、兜全体や前立に意匠を凝らした変わり兜を愛用した。
 
 
 
 【旗印】
 「旗指物」:敵味方の識別のため目印として用いられた。また、自軍の武威を誇示することも出来た。用途に応じて様々な旗が立てられた。
 「馬印」:武将の所在地を示すための旗。
 「幟旗」:陣所の周囲に立てる大きな旗。
 
 
 
 【軍配】
 軍配は団扇同様、涼を得るための道具だったが、身近にあることから軍の進む方向を示すために使われるようになった。革に漆を塗って頑丈にした。円形、方形、瓢箪形など様々な形の軍配が作られた。また、呪術的な意味から日輪や梵字、九曜星などを描いた。合戦の場で敵味方の軍に流れる力の流れを気と言う。
 「中原高忠軍陣聞書」に扇の使い方が記されている。昼は日の丸の描かれている方を表にして、骨を六つ広げて残り六つは畳んでおく。逆に夜になると裏の三日月の描かれている方を表にして、骨を六つ広げて残り六つは畳む。合戦に勝てば扇を全て広げる。悪日に合戦をする場合、昼は月の描かれている方を表に、夜は日の丸の描かれている方を表にする。
 

 
 
 『馬』
 
 
 
 【軍馬】
 戦国時代の日本馬は西洋馬に比べて体格で劣っていた。日本馬は山岳地の多い日本の地形に適応したため、前足の筋肉が発達。山岳地の多い場所での移動、輸送に適していた。
 当時の日本馬の大きさは四尺が基準だった。四尺一寸であれば「一寸」、四尺二寸であれば「二寸」と呼んだ。特に四尺八寸以上の馬は「八寸にあまる」と呼ばれ、体格の良い馬として評価が高かった。しかし、大きな馬は乗り降りが大変になるため、扱いに困るという一面もあった。
 軍勢を指揮する武将は馬に乗り、足軽は徒歩で移動した。合戦時には武将も馬から下りて戦った。指揮官級の武士だけが馬に乗るため、戦国時代に騎馬隊は存在しなかった。騎馬隊を編成しての戦闘訓練など行われておらず、騎馬隊による突撃などは不可能だった。合戦時には馬を射てから武者を射た。
 鞍には兵糧の他、馬が食べる大豆を入れた袋も付けられた。馬の飼料として主に大豆が与えられた。
 西洋では馬に蹄鉄を付けるが、日本の馬は藁沓を履いていた。
 馬が逃走したり、狂奔すれば周囲は混乱する。敵の強襲と勘違いし、逃走する足軽もいた。そのため、大名は馬を逃がしたり、狂奔させた者を厳罰に処した。
 「乗馬」:武将の乗る馬。
 「輓馬」:車両を引く馬。
 「駄馬」:荷物を運ぶ馬。牛も使われた。
 「厩」:馬の居住する小屋。床を板敷きにして馬が汚れないように気遣った。帯状の布を上から吊し、馬の腹に巻き付けた。こうすれば馬は常に立ったままになる。馬は眠る時も立ったまま眠った。
 「馬丁」:馬の世話係。馬取り、口取りとも呼ぶ。主人が馬に乗る際にその手伝いをする。馬丁は馬櫛(垢取り)、箒、塵取り、熊手、釜、木槌、馬杓、鼻捻、水桶、飼葉桶を使った。馬杓は馬に水を飲ませるための柄杓。鼻捻は棒に紐の付いた道具で、狂奔した馬の鼻を捻り大人しくさせるために使った。
 「手明」:弓や槍を持たず、合戦時に主人の馬を引く者。武器を持っていては馬を引くことが難しいため、手明は武器を持たなかった。
 乗馬についても出陣の儀式が行われた。これを馬祝いと言う。手綱は褐色、浅黄色に白を混ぜた色で染める。腹帯は二重にして使う。馬祝いは厩で行うと良い。この時、馬を厩から出して乗ることは後祝いと言い、宜しくない。その場合、馬に乗り、具足の上帯と腹帯を解いて結び直す事。中門の妻戸に馬を引き立てて乗るとよい。馬の頭は南向きに引き立てるとよい。
 馬の嘶きで吉凶を占うことがあった。馬厩の中や、馬に乗る前に嘶くならば吉。乗馬後に嘶けば凶である。その場合、弓を脇に挟み、具足の上帯と腹帯を結び直す事。
 

 
 
 『軍事物資』
 
 
 
 【大きく変わる自然環境】
 築城や合戦は自然環境に大きな影響を与える。山に城を築けば、土木工事によって山の地形は大きく変わる。戦場になった土地は略奪や放火で荒れ地になる。大規模な合戦が起これば、戦場周辺の環境は一変した。
 洪水を防ぐための治水や、水運の利便性を向上させるための河川工事、農地を増やすための開拓。これらの土木工事は環境に大きな変化を与える一方で、人々の生活を大幅に向上させた。
 
 
 
 【軍事物資の調達】
 大量の物資が無ければ合戦を行うことは出来ない。城の建設に必要な材木や、武具の生産に必要な炭などを入手する際、大名はその権力を駆使して領内各地から材木を集めた。
 大名や、その家臣は物資を調達するため、一部の野山や河川に対して独占的な獲得権を持った。こうした地域は立野、立山、立川、立海と呼ばれた。家臣は大名に臣従する際、自身の持つ立山や立野を安堵してもらうことがあった。寺社も社殿の増改築の物資を得るため、立山などを持っていた。村の有力者も立野などを持ち、牛馬の史料や田畑の堆肥を得ていた。
 
 
 
 【資源を奪い合う村々】
 戦国時代、村と村との境界は曖昧であった。そのため食料や水、物資の所有権を巡り、村と村との争乱が繰り返された。村は大名に争乱を訴え、裁定を仰いだ。大名は自身の権益を侵害しているか、かつて発行された朱印はどちらの村を有利にするのか、などを調べて裁定を下した。
 資源を巡る争いを防ぐため、複数の村が山林の資源を共同利用する。これを入会と言う。大名は村同士の争いの解決策として、山林を入会するよう命じることがあった。
 
 
 
 【資源の不足と略奪】
 山林の樹木は有限である。山林の巨木が切り尽くされると、寺社の境内に生える巨木が切り出しの対象になった。そのため、寺社は大名から領内の巨木の伐採を禁じる朱印を発給してもらい、巨木を保護した。
 戦地で材木が調達出来ない場合、手近な家屋や寺社を破壊し、その柱などを材木に転用した。こうした行為は「壊取(こぼちとる)」と呼ばれた。寺社に使われた良質な建材は、城の材木として最適だった。民家の建材も簡単な陣屋の建設や、薪の調達などに役立った。
 
 
 
 【乱伐によって発生する禿山】
 無計画な伐採や、戦火によって野山の植生は変化する。最悪の場合、土や岩肌が露出する禿山になってしまう。禿山からは必要な資源を得ることが出来ない。こうなると大名も百姓も生活に困窮することになる。
 禿山は保水力が失われており、雨水は地中に留まることなく河川に流れ出てしまう。その結果、洪水が多発することになる。
 大名は山林などの資源が枯渇しないよう、家臣に伐採禁止や植林などの保全を命じた。
 
 
 
 【資源の維持】
 針葉樹である杉や檜、樅、栂などは建材に用いられた。これらの木は切り株から再生する可能性が低いため、人為的な植林を行わなければ森林を維持することは出来ない。
 クヌギの様な広葉樹は薪や炭に用いられた。これらの木は切り株から再生するため、森林の回復は自然に任せることが出来る。
 こうした特性から、戦国時代になると針葉樹の植林の技術が向上した。植林は「成り立ち」、「はやす」と言われた。伐採を命じるときも、その土地の植生を考え、一坪当たり竹二本など制限を設けていた。
 上野国世良田の長楽寺住職でる義哲は、「長楽寺永禄日記」を書き残している。同書には当時の植林に関する記述がある。上野国では杉の枝を土に立て、根を生やさせて苗木にした。これらの行為は取木や挿し木と呼ばれた。苗木を植えた後、周囲の雑草を刈り取り、覆いを被せて苗木を保護した。苗木が根付いてしばらくすると植え替えを行った。そして、苗木が大きくなると植林する土地への植え替えが行われた。
 
 
 
 【立山の監視者】
 大名は立山を保全するため山奉行や山守を置き、侵入者を監視させた。どの地域が立山や立野なのかを示すため、注連縄が張られることがあった。注連縄の内側は立野であり、百姓らが無断で侵入したり、物を取れば奉行らに捕縛された。侵入を黙認した者も処罰された。
 侵入者の抵抗に備え、山守は武装していた。樵は誤って立山に侵入することがあり、山守に遭遇することを恐れていた。最悪の場合、山守は鎌や斧を振るう樵と戦った。
 
 
 
 【山奉行と山造】
 大名は山林に奉行を置き、木の切り出しを管理させた。山奉行は大名から命令を受けると、山に居住する山造という職人に木の切り出しを命じた。山造は山作とも呼ばれた。
 大名は材木の切り出しを命じる際、その用途や寸法を細かく伝えた。材木に運搬などを助けるために人夫も附けられた。
 山造は大名の要求に応えるだけの材木の加工技術を持っていた。室町時代、木の切り出しに大鋸が使われるようになった。それまで木から板を作るには、木に楔を打ち込んで割り、それを手斧や槍鉋で成形した。大鋸は二人引きであり、板を切り出すまでの時間を大幅に短縮することが出来た。大名は大鋸引きに給分を与え、柱や板を納めさせた。
 
 
 
 【建材の寸法】
 柱は本、角材は丁という単位で数えられた。角材の断面は建てたときの安定性を考え、長方形に切られた。断面は一辺が五寸、もう一辺が六寸に揃えられることが多かった。この寸法は五六と呼ばれた。他に四六に切られることがあった。四六の規格は不明だが、恐らく一辺が四寸、もう一辺が六寸だったのだろう。榑という角材の規格もあった。榑は律令制で長辺六寸、短辺四寸、長さ一丈二尺と定められていた。鎌倉時代に長さが七尺から八尺に改められた。戦国時代にも榑という規格は使われた。
 壁や塀の板は幡板と呼ばれた。
 寺社の建設には高度な建設技術が必要になるため、大工や幡匠を雇って改築や修繕を行った。
 
 
 
 【職人に対する手当】
 北条家では職人に一日当たり十七文の公用(給金)を与えていた。職人は一年のうちに大名の命令で動員される日数が決まっていた。その日数を超えて動員される場合、手当として五十文が支払われた。
 
 
 
 【軍事物資:竹】
 竹は強度と弾力性に優れた材木である。竹で編まれた籠は丈夫で、中に石を入れれば川除(堤防)に使うことが出来る。立てに割った竹を捩ると強度に優れた縄になる。
 筍は食用になる。過度に採りすぎると竹藪が減少してしまうため、大名は筍の採取を制限して竹藪を保護した。
 真竹やハチクの様に太い竹は大竹、女竹の様に細い竹は大和竹と呼ばれた。孟宗竹は江戸時代に支那から輸入されたため、戦国時代の日本では使用されていない。北条家では大竹を伐採する際、印判状に切る本数を明記し、それを土地の所有者に見せてから竹を切った。これにより大竹の過剰な伐採を防いだのだ。
 一方、大和竹の伐採は土地の所有者に断りを入れる程度で済まされた。大和竹は数を集めて束にして使用することが多い。大量に集めるために印判状を出さず、現場の判断に任せたと思われる。
 鑓の柄は木や竹で出来ている。木は堅いが重く、柄が長くなると持ち運びが不便になった。竹は軽いが、敵を叩く際に撓ってしまう。木も竹も一長一短の特性があった。短い柄であれば材料は入手しやすいが、長い柄になると入手が困難になる。竹は木よりも育ちやすく、長い柄を作る上で便利だった。そのため、竹が鑓の柄に使われる事が多かった。
 各家によって使用する柄の長さは違った。織田家の鑓は三間半長柄鑓、三間長柄鑓。徳川家は三間長柄鑓、九尺持鑓。武田家は三間長柄鑓、二間半長柄鑓。上杉家は三間長柄鑓、二間半長柄鑓。後北条家は二間半長柄鑓、二間持鑓。織田家の鑓は長いが、そのために重く、扱いにくかったと思われる。
 旗指物は竹竿に旗を附けた物である。長さは一丈以上になり、それを背の筒に指して敵味方の識別に使用した。鑓持は旗指物を指さないが、鑓に紙を付けて敵味方の識別にした。
 鉄炮を防ぐ手段として、数十本の竹を束ねた竹束が考案された。竹束に木製の板を合わせることで楯にしたのだ。攻め手は城に接近すると竹束の間から銃口を出し、城方に銃撃を加えた。
 細かく切った竹を捩れば火縄になる。竹は木綿より安価で簡単に入手出来るため、火縄の材料として重宝された。
 
 
 
 【軍事物資:松】
 赤松は日当たりが良ければ、多少は痩せた土地であっても成長する。森林伐採で木々が減少すると、赤松はその場所にいち早く生える。この特性によって、松の数は増加の一途をたどった。日常生活での伐採や、合戦による大量伐採は山林の植生に大きな影響を与えていた。
 松を庭園に植えると、景観を美しく見せる事が出来る。そのため、公家は屋敷に植える松を山から取り寄せた。将軍や有力な大名になると、家臣の邸宅に雄々しい松があれば、それを所望して手に入れた。
 松脂を含んだ松は燃焼しやすく、松明や篝火に使用された。松の落ち葉は焚き火に使われた。
 松の実は食用になる。松の根元には松茸が生える。この様に松を植えることで食料を得ることも出来た。
 
 
 
 【軍事物資:杉】
 古来、日本人は神が天から降りる際、杉を目印にすると信じていた。真っ直ぐに、大きく成長した杉の偉容が信仰に結びついたのだろう。大きな杉は神社の御神木として崇められた。
 杉は建材に適している。大名は杉の植林を行い、建材の枯渇を防いだ。
 
 
 
 【軍事物資:栗】
 栗の木は育てやすく、切っても切り株から再生する。さらに実は食用になる。この特性から、栗を大量に植えることで林が造営された。雨に強く、強度があるため材木として重宝された。また、薪、炭にも使われた。
 大名は出陣に際し、食卓には打鮑、勝栗、昆布が用意された。「打ち勝って喜ぶ」という縁起を担いだのだ。このように栗は出陣の儀式にも使われるため、大名は栗が枯渇しないよう植林を行っていた。
 
 
 
 【軍事物資:木楢】
 木楢の実は団栗と呼ばれる。団栗を植えることで木楢の苗を増やし、植林が行われた。木楢も栗と同様の特性があるため、建材や燃料などに幅広く用いられた。
 
 
 
 【軍事物資:漆】
 漆の実は蝋燭の原料になる。漆の蝋燭は会津地方の特産品として、各地に輸出された。
 
 
 
 【軍事物資:槐】
 槐はマメ科の樹木で、豆を実につける。豆は薬や染料になった。幹や枝は薪、炭になる。枝には棘があり、伐採の際には怪我に注意しなければならない。有刺という特性を活かし、家と家との境界を示すために槐が植えられる事があった。境界を破ろうとした者には棘が刺さるのだ。
 
 
 
 【軍事物資:柴】
 柴とは小さな雑木である。百姓は柴や草を鎌で刈っていた。柴を集めて焚き火を熾したのだ。
 
 
 
 【軍事物資:草】
 山林や草地では草刈りが行われた。百姓は鎌で草を刈り、牛馬でそれを運んだ。草は牛馬の飼料に使われたり、腐葉土にすることで田畑の堆肥になった。枯れ草を集めれば焚き火を熾すことが出来る。城攻めの際、草は城の堀を埋めるために使われた。
 寺社の境内に草地があれば、百姓はそれを牛馬に食べさせた。寺社は境内に牛馬が入ることを嫌い、大名に境内での放牧禁止の禁制を出してもらった。
 川の下流には土砂が堆積し、やがて島のような地形を形成する。これを洲と言う。洲の土砂は川の流れによって流失しやすく、葦や蒲などの草が長く根付くことで漸く安定する。人々は洲を開墾し、田畑に変えていった。
 
 
 
 【軍事物資:鉄】
 城や軍船を建造する際、釘や碇が必要になる。合戦では刀や鉄炮など鉄製の武具が必要になった。大名はこれらの鉄製品を安定的に得るため、鍛冶や鋳物師を召し抱えた。鍛冶や鋳物師は鉄を溶かす際に蹈鞴を使用し、送風を繰り返して炭を高温で燃焼させた。そのため、北条家では鍛冶に招集をかける際、鉄と共に炭俵を支給していた。
 
 
 
 【南蛮鉄】
 鉄炮と同じように南蛮鉄も南蛮から伝来した。南蛮鉄はその形状から「ひょうたん鉄」と呼ばれた。他にも楕円形の「木の葉鉄」、棒状の「短冊鉄」がある。
 岩鉄鉱を原料に、高温溶融。生木や葉を化炭剤として加え、六時間ほど強熱精錬。ある程度の大きさに調整し、鍛造する。和鉄と比較して炭素、硫黄の含有量が少し高く、燐は十倍(0.1%)も含んでいる。けっして良質な鉄ではない。和鉄に粗悪な南蛮鉄を加えると金気が穢れ、刀に神霊が宿ることもないと貶す者もいた。具足など、刀以外の用途に向いているという意見もあった。
 
 『剣刀秘宝』(貞享元年・大村加卜):「日本の銑のごとき鉄なり」「オランダ人朝鮮人さして来る剣を多く見けるに、みな銑卸しのごとき鉄にして打ちたり。焼刃もあれども、なめくじりの虫ののたれたるがごとくあるなり」「異国に刃鉄あらば、なんぞこれ(注・日本刀)を望まん」
 
 『剣工秘伝志』(文政四年・水心子正秀):「彼の鉄は我国の鉄には劣るべし、実に我国の鉄にてつくりたる刀は万国にすぐれて見ゆるなり、然れば、南蛮鉄などは好むべきものにあらず」「しかるにこの品近来は渡らざる故、若き輩はついに見ることもなきようになるべし」
 
 このように南蛮鉄の評価は低かったが、和鉄に比べて溶解させやすかったため、混ぜて使用する者がいた。
 【卸し鉄法】:銑(ずく)やヒ(けら)を半溶融させ、炭素を除く。これを叩き、鉄滓(てつさい)を除く。こうして鉄を精製する。
 慶長十六年八月、オランダ館長ジャックス・スペックは家康に南蛮鉄を二百個、秀忠と本多正純に百個を献上した。この南蛮鉄はシリアのダマスカス地方の鍛冶がインドのウーツ鉄を鍛造したダマスカス鋼であった。ウーツ鉄は中東、支那などにも輸出されていた。元和七年五月二十三日、オランダ人とイギリス人が長崎平戸で幕府の使者に棒鉄二把を贈る。翌二十四日、松倉豊後守にも棒鉄一把が贈られる。
 
 
 
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