戦国時代の政治
 
 
 
 『統治政策』
 
 
 
 【家中統制 : 君臣関係】
 天文十五年、毛利隆元が家督を継ぐと志道広良は補佐役を命じられた。志道広良は毛利隆元に対して【君は船、臣は水にて候。水よく船を浮かべ候ことにて候。船候も水なく候へば、相叶はず候か】と説き、主君という船は家臣という水によって浮いていると諭した。
 
 
 
 【家中統制 : 主君の「押し込め」】
 家臣は当主の横暴に耐えかねると諫言を行う。諫言が聞き入れられず、当主が態度を改めない場合、家臣は当主を押し込め、新たな当主を迎え入れた。陶晴賢は大内義隆を討つと、その甥に当たる大内義長を当主とした。この一件は下克上と言うよりも、押し込めの要素が強い。
 戦国時代、大名は家臣を統制しきれないでいた。有力な一門や家臣には相応の配慮を行わなければならない。
 甲斐武田家も同様であり、武田信虎は武田家当主としての権威を高めるため、専制政治を行おうとした。信虎は悪行のため追放されたと言うが、悪行と言うのは専制政治である。家臣からすれば自分の権力、権益を守ることが第一であり、それを奪われかねない専制政治は危険な発想なのだ。だからこそ、重臣らは政変を起こし、武田信玄を武田家当主とした。これは「押し込み」と呼ばれる政治手段である。信玄は武田家の統制を取れないまま没したが、信虎の一件があったからこそ専制政治体制が取れなかったのだ。
 
 
 
 【家中統制 : 佐竹義宣の家臣粛正】
 天正十八年、佐竹義宣は常陸の有力国人江戸氏、大掾氏が小田原に参陣しなかったことを理由に攻め滅ぼした。天正十九年二月九日、主家大掾氏を滅ぼされた南方三十三館の当主十五人は、新しい知行割を決めるため太田城に呼び出される。そして梅見の宴に招かれたところを、佐竹義宣によって謀殺された。小田原に参陣しないものを家中に残すわけにはいかなかったのだろう。これによって佐竹家は常陸五十四万石の大大名としての地位を固めた。
 
 
 
 【家中統制 : 毛利元就の井上党粛正】
 井上党は初期の毛利元就政権の中核といえる存在だったが、それ故に権限が極めて強く、毛利元就の命令に従わないことが多かった。毛利元就も井上党の横暴に対し、忍耐の日々を送っていた。
 特に井上元兼の弟元盛は毛利元就の後見人でありながら、猿掛城と多治比三百貫を横領していた。このように毛利元就と井上党との関係は早い時期から破綻しており、毛利元就は大内義隆の許しを得て井上党粛正を決行した。
 粛正は天文十九年七月十二日、十三日の二日間に行われた。七月十三日、井上元兼は次男就澄と共に屋敷を包囲され、自刃に追い込まれた。
 この時代、当主が危惧するほどの権力を持った家臣は粛正される運命にあった。粛正しなければ下克上の危険があったからだ。当時の時代背景からすれば、井上党粛正を毛利元就の非情とすることは出来ない。逆を言えば、粛正を行わないことにより自分が討たれる危険があったのだ。現代的な感覚を捨て、このことを認識しなければならない。
 
 
 
 【家中統制 : 尼子晴久の新宮党粛正】
 尼子家屈指の軍勢「新宮党」の武名は畿内にも伝わるほどだった。その新宮党を尼子晴久は毛利元就の謀略により粛正してしまった。結果として、尼子晴久の愚かさが尼子家滅亡を招いた、とされてきた。尼子誠久の長男氏久の讒言が粛正を招いたという説もあるのだが、問題はこのことではない。真に問題とすべきは単純に新宮党粛正を愚行とする史観である。
 当時の尼子家は当主である尼子晴久、新宮党を束ねる尼子国久の二頭政治体制に近い状態であった。そして、尼子晴久は尼子国久の越権行為に業を煮やしていた。
 尼子晴久は自身の権力を高め、下克上を防ぐために新宮党を粛正した。尼子晴久は粛正決行前に信頼の置ける家臣を重用するなど、政権基盤の確立に努めていた。毛利元就は越権行為を繰り返した井上元兼を粛正し、井上党を壊滅させた。新宮党も井上党も軍事力の中核であり、両者の粛正はまったく同質である。権力を持ちすぎた家臣は下克上に及ぶ危険があり、粛正によって下克上を防ぐことがあったのだ。それを考えずに愚行と決めつけることは間違っている。
 尼子家は後に滅亡したため、新宮党粛正は必要な措置であったと認識されず、単純に尼子晴久の愚行とされたのではないか。大内義隆は天文二十年九月一日、重臣陶隆房に攻められ大寧寺で自刃した。新宮党粛正はこの直後であり、隣国の政変から新宮党に対する危機感を強めたのだろう。
 
 
 
 【分国法 : 今川仮名目録】
 大永六年四月十四日、今川氏親は分国法「今川仮名目録」三十三ヶ条を制定した。今川氏親は十年ほど前から中風を患っており、仮名目録制定の二ヶ月後に死没している。自身の死期を見定めて、後継者の氏輝の領国統治が円滑に進むよう分国法を制定したのだ。大永五年、今川氏輝は十三歳で元服したが、家督継承問題が発生しないように後継者を定めたのだろう。
 それまでは足利尊氏の制定した「建武式目」、それを補うための「建武以来追加」が各国で施行されていた。今川氏親は幕府の法を認めつつも、今川家に適した領国経営を行うために仮名目録を制定した。例えば喧嘩両成敗のように今川家独自の裁定を加えている。
 
 
 
 【分国法 : 今川仮名目録追加】
 天文二十二年二月二十六日、今川義元は「今川仮名目録追加」二十一ヶ条を制定。条項の追加だけでなく、仮名目録で定められた規則の緩和も織り込んでいる。その第二十条は極めて有名である。
「不入の地の事、代々の判形を載し、各露顕の在所の事は沙汰に及ばず。新儀の不入、自今以後、之を停止す。惣別不入の事は、時に至て諸役免許を申し付け、又、悪党に付ての儀也。諸役の判形申し掠め、棟別、段銭沙汰せざるは私曲也。棟別、段銭等の事、前々より子細有て、相定むる所の役也。然りと雖も、判形に載せ、別して忠節を以て扶助するにをいては、是非に及ばざる也。不入とあるとて、分国中守護使不入など申す事、甚だ曲事也、当職の綺、その外内々の役等こそ不入の判形出す上は、免許する所なれ。他国のごとく、国の製法にかゝらず、うへなしの申し事、沙汰に及ばざる曲事也。旧規より守護使不入と云ふ事は、将軍家天下一同の御下知を以て、諸国守護職仰せ付けらる事也。守護使不入とありとて、御下知に背くべけん哉。只今はをしなべて、自分の力量を以て、国の法度を申し付け、静謐する事なれば、守護の手、入る間敷事、かつてあるべからず。兎角の儀あるにをいては、かたく申し付くべき也」
 
 
 
 【領国経営 : 徳川家康の統治政策】
 天正十八年から十九年にかけて徳川家康は関東各地で検地を実施した。検地竿は一間を六尺五寸としており、太閤検地とは尺が異なった。文禄年間の検地では六尺二分の検地竿を使用した。慶長六年、大久保長安が甲斐総検地を実施した際には六尺一分の竿を用いた。
 江戸前島は江戸氏の所領であり、後に鎌倉円覚寺の寺領となった。豊臣秀吉もそれを安堵していた。前島は江戸の中心部にあり、都市建設に必要不可欠な要地だった。そこで徳川家康は前島を横領した。
 西岸の日比谷入江は軍港となった。東岸は商港となり、十本の船入堀が櫛のように掘られた。大型船は喫水線が深いため、浅瀬の商港に停泊することが出来ない。そこで海岸から桟橋を築くのだが、船入堀は海岸を掘ることで桟橋の代わりを務める。こうして江戸は大型船の荷揚げ可能な商港となった。後に日比谷入江は城下町造営と、南蛮船入港阻止のため埋め立てられた。その分、船入堀や水路は整備されるようになった。
 関東入封後、徳川家康は塩の安定供給を可能にするため、下総行徳の塩田を整備。内陸に塩を輸出するため、小名木川を開削した。
 慶長八年三月、徳川家康は村の統治に関する七ヶ条の定書を出した。村人の村から逃散する権利、代官に直訴する権利を保証。武士には百姓が罪を犯しても直ちに殺害してはならないと定めた。
 徳川家康は幾度か大軍勢を率いて東海道から上洛している。東海道は大軍の通過に耐えられる交通網として整備された。慶長六年正月、東海道各宿場に伝馬朱印状、伝馬定書を発給。宿場は馬三十六頭を用意し、積載重量や中継区画についての規定を定めた。また、伝馬役は屋敷地の税を免除された。こうして東海道の陸運は統一規格での運送が可能になった。慶長七年六月、東海道、中山道の各宿場の駄賃の規定が定められた。馬の荷担量は四十貫文として、永楽銭と鐚銭の比率を一対六とした。
 
 
 
 【領国経営 : 北条氏康の統治政策】
 天文十九年四月、北条氏康は公事赦免令を出した。段銭、懸銭、棟別銭を徴収し、その他の税を廃することで領民の負担を軽減した。これにより、段銭は田畑の耕作税で百貫につき六貫を徴収。棟別銭は家屋に対する徴税で一貫当たり三十五文を徴収。懸銭はそれ以外の税の総称で百貫につき四貫を徴収した。
 北条氏康は永禄二年十二月に隠居し、北条氏政に家督を譲った。その後、北条氏康は「小田原衆所領役帳」を作成。これは各家臣がどの衆に所属し、どの領地を知行しているかを明記したもので詳細さにおいて全国随一の完成度を誇っていた。
 
 
 
 【領国経営 : 由良成繁の統治政策】
 由良成繁は桐生親綱を破り、上州桐生を所領に加えた。足利長尾家に次男顕長を入嗣させ、顕長に上州館林まで勢力を拡大させた。これにより由良家は上州東部から野州南部に大きな勢力を有するようになった。
天文五年正月、由良成繁は「御家中御法度書之事」、「百姓御仕置御法度の度」を制定。林弾正忠、林伊賀守、大沢豊前守、矢内修理亮らはその奉行となった。
 
 
 
 【徳治思想と一揆】
 領主が不徳の政治を行えば、天はそれを許さない。災害や戦乱は天の怒りが招いたものである。天の怒りを鎮めるには善政を行うか、領主交代しかない。この思想を「徳治思想」と言う。徳の無い領主に対し、百姓は一揆を起こして反抗した。
 飢饉や疫病によって社会が混乱すると、百姓は領主に対して救済を求めて蜂起した。一揆は富裕層の屋敷や土蔵、寺社を襲撃し、食料や金銭を奪った。また、債務に関する証書を見つければ、それを破り捨てた。
 

 
 
 『外交政策 国内編』
 
 
 
 【上方外交 : 由良成繁の外交政策】
 天文二十二年六月、由良成繁は将軍義輝に鷹を献上。返礼として太刀一腰と、次毛氈鞍覆白傘袋免の使用を許された。朝廷に禁裏修理費用を献上し、関東に下向した近衛前嗣に供奉した功から刑部大輔に任ぜられた。また、足利義輝の御供衆となった。
永禄九年、伊達輝宗は由良国繁に鷹を贈った。これは家人の上洛に際し、安全を保証するためであった。
 由良成繁没後、嫡子由良国繁は一門横瀬掃部を上洛させ、織田信長に綿百斤を献上した。喜んだ織田信長の斡旋により、由良国繁は従四位信濃守に叙任された。
 
 
 
 【同盟政策 : 甲相駿三国同盟】
 天文二十一年十一月、今川家と武田家の婚姻が行われた。天文二十二年正月、北条氏康の嫡子氏政は武田晴信の娘と婚姻。これにより「甲相同盟」が結ばれ、天文二十三年十二月に晴信の娘は輿入れした。
 天文二十三年七月、北条氏康の娘が今川義元の嫡子氏真に嫁いだ。こうして駿河今川、甲斐武田、相模北条の三家は嫡子の婚姻という強固な血縁で結ばれた。「甲相駿三国同盟」の締結である。
 この同盟は合戦時の援軍派遣、領土不可侵で成り立っている。例えば弘治元年の第二回川中島合戦では、今川家臣一宮出羽守が武田家への援軍として出陣。さらに今川義元が両家の調停役になっているのだ。
 同盟による三家の利点は次の様になる。今川義元は三河、尾張と領土を拡大しており、武田家と北条家と同盟関係を結べば背後を攻められる可能性は無くなる。関東一帯に領土を拡大しようとする北条氏康にしても、関東の合戦に専念出来た。武田晴信も長尾家との合戦に専念出来る。これ以降の三家の領土拡大方針を見ても、三国同盟に利益があったと分かる。
 
 
 
 【婚姻政策 : 長宗我部元親の婚姻】
 永禄六年、長宗我部元親は家老衆に美濃斎藤家から妻を迎えると伝えた。家老衆は遠国ではなく近隣から妻を迎えるよう諫めた。しかし、長宗我部元親は斎藤氏は武勇名高く、その娘も勇将の血を引いている。遠国であろうと問題ではないと述べた。家老衆は元親の思慮深さに感嘆したと云う。吉田周孝が使者として美濃に向かい、両家の縁組みが成立した。
 
 
 
 【人質政策 : 前田利長と芳春院】
 前田利家の生母は芳春院の生母の姉である。利家と芳春院は母方の従兄弟だった。前田利長は徳川家康が関ヶ原合戦に勝てば芳春院を人質とする理由はなく、前田家に戻すものと思っていたようだ。しかし、徳川家康は藩主の母という最大の人質、それも親豊臣派の筆頭的な立場にある加賀前田家からの人質を手放すことはなかった。直筆の書状で芳香院の返還を約束したが、人質政策のためにそれを反故にした。
 これは徳川家康、前田利長両者の認識の違いであり、芳春院も当初はすぐに前田家に戻れると思っていたのかも知れない。それが自ら人質となると言う行為につながったのではないか。芳春院が前田家に戻ったのは前田利長没後であり、すでに徳川一門となった三代前田利常の時代である。そして、新たに利常の生母寿福院が人質として江戸に向かっている。
 

 
 
 『外交政策 国際編』
 
 
 
 【台湾】
 文禄二年、秀吉は長崎商人原田孫七郎を使者として、高山国(台湾)に入貢を促している。しかし、統一政権がないために成果のないまま孫七郎は帰郷した。
 慶長十一年、山田長政はシャムへ向かう際、台湾に入ったと云われる。
 慶長十三年、家康は日本に漂着したアミ族の者と、駿河城にて引見している。慶長十四年、有馬晴純は家康の名により、朝貢を促すため台湾に渡海。高砂族との交易、東南アジアとの交易の際の中継地化を望んだが、成功せず、追い返されている。
 元和元年、長崎代官村山等安は朱印状を得て、台湾への渡海の準備を行う。元和二年五月四日、村山等安は十三艘の軍船に次男村山秋安を含む三千余名を乗せ、長崎から台湾に出航させた。この時、琉球近海で嵐に遭う。秋安の船を含む三艘は交阯(ベトナム)に漂着。元和三年七月に帰国した。
 明石道友の船を含む三艘は、台湾北部に漂着。しかし、そのうちの一艘は高砂族の攻撃を受け、乗組員は総じて自刃している。他の二艘は台湾を出航し、福建省北部の海で、日本近海を偵察していた明人董伯起を捕らえ、帰国した。
 七艘は琉球で船を修理し、金門島、澎湖島を経て、台湾の竹塹に上陸。さらに明の沿岸を攻め、交易を求めている。
 
 
 
 【明】
 明の中期、日本は「互市国」と見なされた。日本が朝貢に応じず、皇帝に臣従しないため両国の関係は貿易のみとなった。支那人に外交や貿易という概念は存在しない。その代わり、自国を世界の中心とする中華思想、周辺の属国が貢物(朝貢)を献じるという冊封体制が存在した。
 朝鮮、琉球は支那に従属しており、越南(ベトナム)やシャム(タイ)も朝貢を行っていた。朝鮮は支那の属国になることを強く望んでいたが、越南は支那の属国になることを嫌い、一時的に冊封を受けることはあっても独立を貫く道を選んだ。
 徳川幕府は明との関係を「通商国」として貿易のみに限定した。支那による冊封に組み込まれることを避けるためである。林羅山は日本の年号を国書に用い、明の年号を用いることはなかった。これも明からの冊封を避けるためである。
 明の商船との私貿易では、慶長十六年には七十艘が来航。慶長十七年には三十艘。十八年に二十艘。十九年には六十艘から七十艘の貿易船が来航した。
 支那は特定の港と地域を「市舶司」として、他国との交易をその地域内に限定する政策を執った。これは属国の人間が皇帝の国に立ち入ることを禁じ、関係を最小に保つための政策だった。市舶司は商人や貿易を管理しやすいため、やがてアジアに広まっていった。日本の出島や琉球館、朝鮮の倭館などがその例である。
 しかし、市舶司はその閉鎖性が交易を生業とする海民の生活を苦しめることとなり、海賊が生まれる土壌ともなった。
 天文十六年、大内義隆が派遣した遣明船が最後の日明貿易となった。慶長十四年以降、徳川家康は朝鮮を通じて明と通商しようとした。しかし、明への取次は朝鮮が独自に日本と講和したと見なされるため拒否された。家康は諦めず、唐入りの際に捕縛された明の将兵を返還して通商の足がかりにしようとした。
 慶長八年、加藤清正は捕縛した明兵八十七名を返還した。島津家に捕縛されていた茅国科の返還に際し、島津家久は茅国科の兄である茅国器に書状を送り、島原宗安に交渉をさせた。これによって明から船二隻が派遣されたが、この船は帰国中に海賊に襲撃されてしまった。その後も明の船が薩摩に来航すると、家康は喜んで便宜を図っている。
 慶長十五年、徳川家康は長崎に来航した広東の商船に朱印状を与え、どの港でも自由公正な貿易が出来る様にした。同年末、五島に来航した周性如は駿府にて家康に拝謁し、朱印状を与えられた。本多正純は福建総督宛の書簡を周性如に渡し、徳川家康による日本統一と日明貿易再開を皇帝に打診するよう求めた。徳川家康による対明政策は全て失敗し、貿易が再開する事はなかった。
 
 
 
 【朝鮮】
 徳川家康は朝鮮との貿易を年間二十艘と定め、対馬の宗氏が管理した。朝鮮釜山の倭館で貿易が行われた。通常の私貿易の他、宗氏から朝鮮国王に物品を送る「進上貿易」、宗氏が用意した銅や錫を朝鮮が生糸で買い上げる「公貿易」があった。
 
 
 
 【シャム】
 元和7年、江戸に1通の手紙が届いた。山田仁左衛門長正からの手紙であり、宛先は土井利勝、本多正純である。シャム国王から将軍への国書の取り次ぎを求めており、鮫皮と200斤の塩硝が添えてあった。
 幕閣は金地院崇伝を呼んで対応を考えた。「異国日記」に「大久保治右衛門六尺、山田仁左衛門、暹羅へ渡り有付、今は暹羅の仕置を仕置を仕置を仕候由也。上様への書にも見えたり、此者の事か。大炊殿、上州へ文を越す」とある。
 浅間神社に寛永3年、シャムから奉納されたと伝わる絵馬があった。江戸期の火災ですでに焼失しているが、写しは今日も残されている。「奉挂到立願、諸願成就、令満之所当国生、今天竺暹羅国住居、寛永三丙寅年二月吉日、山田仁左衛門尉長政」。山田左衛門尉長政という今はシャムに生きる男が、願いがかなった御礼に奉納したのだという。
 意外なことに山田長政の存在を伝える同時代の史料はほとんど上記のものしか残っていない。そのため、虚構の人物とする説さえある。伝えられている山田長政の画像は明治以降に描かれたものである。服装は近代西洋のものであり、当時の日本、シャムのものではない。幕末から明治の頃の絵と推測されている。
 他に山田長政の史料を挙げるとすれば、江戸時代に数冊の本が出版されただけである。元禄年間、「暹羅国山田氏興亡記」が出版される。山田長政の子と知り合いという智原五郎八からの聞き書きであり、山田長政は尾張生まれとしている。シャム王に仕え、約1000石を得たと云う。
 同時代の「天竺徳兵衛物語」では、伊勢山田の生まれとされ、シャム一国の王に昇進したとしている。年代不明ではあるが「駿州山田仁左衛門記事」によると、山田長政は尾張生まれで織田信長の子孫を自称したと云う。
 タイ側の史料ではバタビア総督クーンが山田長政に送った手紙が残っている。長政からの米が良質であったことを伝え、さらなる通商を求める手紙であった。山田長政は貿易商人としての側面が非常に強かった。
 アユタヤは日本、支那、東南アジア、西洋人が貿易のために集まる土地である。シャムの産物は西洋では価値が低いが、日本では高値で取引された。そのため、アユタヤでは日本との貿易が重視されていた。各国の商人は直接貿易だけでなく、仲介料でも儲けていた。オランダのアユタヤ商館を作ったのも対日貿易で利益を得るためである。
 江戸時代初期、日本では鹿皮が羽織袴などに用いられるようになった。しかし、国内の鹿はすでに減りつつあり、価格の安いシャム産の鹿皮の需要が大いに高まった。
 鹿はメナム上流で狩られ、シャム人の食料となった。シャム人は鹿皮を使わなかった。そのため大量の鹿皮が余った。これに目を付けた西洋人はシャム国王から鹿皮の独占権を入手。シャムの貧困層は西洋人に雇われ、鹿を捕獲することで生計を立てていた。
 当時、約8000人の日本人がアユタヤに居住し、オランダや支那と鹿皮の輸出競争を行っていた。日本は鹿皮の対価として銀を支払った。1624年、日本は鹿皮16万枚を購入。そのためオランダ東インド会社が良質の鹿皮を入手出来なくなるほどだった。一部のスペイン人は日本人によって鹿が絶滅する危険性があるとして、鹿皮の輸出を禁止するべきと書き残している。
 1629年、東インド会社の記録に「日本人のオプラ(シャムの最高官位)は郎党を率いてバンコクに向かった」とある。このオプラは山田長政だと推測されている。山田長政は左遷されたのだ。当時の実力者チェーク・アマット、若しくは華僑との政争に敗れたためだろうか。1630年、「日本人オプラは死亡、毒殺と思われる」との記録が、山田長政の死を伝える記録である。
 山田長政の死後も日本とアユタヤとの貿易は続いた。1634年、オランダは鹿皮の輸出を日本人商人に奪われないように、「シャム国王から与えられた鹿皮の独占権維持のため、日本のシャムに対する言動をシャム国王に訴え、日本人商人に鹿皮が渡らないようにする」とした。
 明治時代になると山田長政は駿河の生まれということになった。大正4年、山田長政は従四位を追贈される。さらに昭和に入ると山田長政は日本の英雄として教科書にも載り、大東亜共栄圏の先駆者として賞賛された。
 
 
 
 【ローマ】
 初めてローマを訪れた日本人は、薩摩のベルナルドである。恐らくは武家の出であろうが、残念ながら本名は不明で、洗礼名のみが伝わっている。江戸期からは離れるが、参考のためベルナルドの事蹟を記す。
 天文十八年八月十五日、フランシスコ・ザビエル一行が薩摩に入港。ベルナルドはザビエルが初めて洗礼を授けた日本人となった。イエズス会宣教師はベルナルドを思慮慎ましく、基督教への理解力に満ちていると絶賛した。また、宣教師はベルナルドの出自を貴族と記している。恐らく、これは武士のことを指したのだろう。
 大内義隆への拝謁が許されたザビエルは、通訳としてベルナルドを連れて行った。天文二十年十一月五日、ベルナルドはザビエルと共に日本を離れた。ザビエルに同行した日本人はベルナルドの他に大友家臣上田玄佐、ジョアン、アントニオ、マテオの四人である。十二月二十七日、マラッカに入港。十二月三十日、マラッカから出航。天文二十一年(一五五二年)一月二十四日、インドのコチンに入港。二月中旬、ゴアに入港。四月十七日、ザビエルは支那への布教のためゴアを離れ、中継地であるマラッカへと向かった。上田玄佐も共にゴアを離れ、日本へ戻っている。ベルナルドは一年ほどゴアに残り、基督教についての勉強に励んだ。マテオもゴアに残った。ザビエルはポルトガル管区長シモン・ロドリゲスに宛てて、ベルナルドとマテオの保護と修学の補助を求めた。単なる好意ではない。日本に帰国した両名がローマを褒め称え、それによって迅速な布教を行おうという裏があった。同様の手紙はポルトガル国王ジョアン三世、イエズス会宣教師イグナチオ・ロヨラにも出された。
 天文二十二年(一五五三年)三月、六隻の船がゴアを出航。喜望峰経由でポルトガルへと向かう船団である。ベルナルドはこの船団に加わり、遥かローマを目指した。残念なことに、マテオはゴアで病没していた。九月、船団はポルトガルのリスボンに到着。ベルナルドは聖アントニオ学院にて修道生活を送った。船旅で体調を崩しており、養生を兼ねてのことである。天文二十三年(一五五四年)、イエズス会の手紙にベルナルドの名がいくつか確認出来る。何れも信心深く、勤勉であるが、船旅によって衰弱していると記している。天文二十三年(一五五四年)三月十七日、ポルトガル管区長ジャコモ・ミロンはベルナルドのローマ入りを認める手紙を記す。七月十七日、ベルナルド一行はリスボンを出立。バルセロナを通ってローマへ向かった。途中、ベルナルドは二度も倒れている。
 弘治元年(一五五〇年)一月五日頃、一行はローマへ到着。一行の目的は死亡した宣教師に関する報告で、フランシスコ・ザビエルの死も含まれていた。この後、ベルナルドはローマに十ヶ月も滞在。勉学に勤しむ傍ら、ローマの様々な教会に足を運んだ。また、イエズス会宣教師イグナチオ・ロヨラとも面会ている。ロヨアはイエズス会の創設者である。ザビエルもベルナルドの保護を手紙で求めていた。ロヨラは亡きザビエルから送られた重要なる人物として、ベルナルドの無事を喜んでいる。また、ベルナルドの体調を気遣い、断食などは避けるよう話した。ベルナルドはドイツ人フリードリッヒ・フォン・ヴィスベルク神父に日本語の手紙を渡したが、この手紙は第二次大戦で焼失している。ベルナルドは教皇に特別に呼ばれ、その足許に口吻をしたと云う。その際、かつてザビエルと共に日本各地を旅したことを報告している。
 弘治元年(一五五五年)十月十八日、ローマを離れて陸路でジェノバへ向かう。ジェノバから船に乗り、弘治二年(一五五六年)二月十二日、リスボンへ到着。コインブラへ移るが、体調はますます悪化。弘治三年(一五五七年)三月三日頃、死亡。コインブラ大学校内の教会に埋葬された。五月、イエズス会の手紙にベルナルドの死について書かれている。永禄元年(一五五八年)二月十四日、ニコラ・グラシタ神父がエマヌール・ロペス神父に出した手紙にも、ベルナルドの死が書かれている。長らくベルナルドの墓は所在不明になっていたが、千九四〇年代、コインブラ大学一帯の区画整理の際に見つかっている。彼に関する記録もイエズス会の「ジャポニカエピストライ」にまとめられた。「インドでザビエルから洗礼を授かるベルナルド」という銅版画があり、おそらく薩摩のベルナルドを描いたものと思われる。
 慶長遣欧使節団の渡海にはフランシスコ会のルイス・ソテーロが協力。造船を急ぐため、幕府の船奉行向井家から船大工が派遣されている。慶長遣欧使節団には向井家の家人も乗り込んだ。「津の国の住人、ペドロ・イタミ・ソーマ」はローマ市から公民権を与えられた。慶長四年、長崎奉行寺沢広高によってフィリピンに派遣された伊丹宗昧であろうか。伊丹は慶長九年、呂宋渡海朱印状を賜るなど貿易に積極的な人物であり、慶長遣欧使節団に加わっていてもおかしくはない。同行したペトロ・カスイ岐部は大友家臣の家柄であり、主君大友宗麟と共に切支丹となっていた。元和六年、支倉常長らが帰国した。
 
 
 
 【イギリス】
 慶長五年、豊後臼杵湾にオランダ商船リーフデ号が漂着。その航海士であったイギリス人ウィリアム・アダムスは家康の重臣となった。慶長十八年、クローヴ号が平戸に入港。船長ジョン・セーリスは駿府で徳川家康に拝謁し、イギリス国王ジェームス1世の書簡などを献上。家康はイギリス人に与える朱印状の原案を考えるよう、セーリスに命じた。原案は当初、十四ヶ条であったが、家康が文章を削るよう命じたため七ヶ条にまとめられた。それによると、イギリス船はどの港に入港しても構わない。希望すれば江戸に屋敷を建てることを許可する。帰国の時期は自分で決めることが出来る。死亡した場合、持ち物は没収されない。商品の値段を一方的に決める事を認める。イギリス人が日本で罪を犯した場合、イギリス商館長が罪を裁く。この様にイギリス商船に有利な内容が認められた。この時期、家康は貿易に熱心だったため日本に不利な内容を容認したのだろう。その後、イギリス商館は支那の製品の入荷がうまくいかず経営不振に陥った。さらに商館家主である華僑の李旦に支那の製品を入荷するための費用と騙され、多額の資金を失った。元和九年、貿易の失敗によってイギリス商館は閉鎖された。延宝元年、イギリス商船リターン号は家康の交付した朱印状の写しを持って長崎に来航したが、貿易の再開は認められなかった。イギリスに有利な朱印状の条文が嫌われたのだろう。
 
 
 
 【オランダ】
 1602年、オランダ東インド会社が設立。1603年、マライ半島パタニにオランダ商館が建てられた。徳川家康はウィリアム・アダムスを介し、東インド会社との貿易を考えた。慶長十四年、二隻のオランダ船が平戸に来航。徳川家康にオラニエ公マウリッツからの書簡などを献上したため、返礼として朱印状を交付された。オランダ船は平戸に商館を建て、ヤックス・スペックスを商館長とした。元和三年には秀忠も同朱印状を出している。同時代、支那人の商人ですら長崎に留められ、江戸に入ることは許されなかった。しかし、オランダ商館長は将軍への拝謁さえも認められている。これも家康の発行した朱印状の効力である。
 慶長十六年八月、オランダ館長ジャックス・スペックは家康に南蛮鉄を二百個、秀忠と本多正純に百個を献上した。この南蛮鉄はシリアのダマスカス地方の鍛冶がインドのウーツ鉄を鍛造したダマスカス鋼であった。ウーツ鉄は中東、支那などにも輸出されていた。
 オランダ東インド総督ヤックス・スペックスはピーテル・ノイツを大使に任命。台湾で日本船から生糸輸出税を徴収することになり、それを説明することが任務であった。幕府はノイツの身分が大使であると知り、書簡の受け取りを拒否。大使は戦争時に援軍を求める役職であり、商業とは関係がないと判断したのだ。幕府の外交感覚は中華思想的な要素があり、維新までこの考えが消えることはなかった。さらに総督がオランダの王族の出でないと知ると、総督の日本での身分は長崎奉行と同程度であるとされた。当然、ノイツは激怒。御朱印船貿易を行っていた末次平蔵の船と争うに至った。ヤックス・スペックスは争うの原因はノイツにあるとして、平戸にてノイツを幕府に引き渡した。幕府は大いに喜び、オランダ商館長は家臣であるとの認識を深めた。スペックスもこれを受け入れ、以後、オランダ東インド会社は日本をよく知る温厚な人物を商館長に据えるようになった。
 オランダ側が家臣と思われてでも、日本との貿易を望んだ理由は銀にある。江戸初期の日本の銀の産出量は世界でも一、二を争うほどであった。生糸を輸出することで銀を得られるならば、多少の屈辱にも耐える。オランダ側の態度は、御朱印剥奪による銀の入手不可という事態を避けるためであった。幕末、外国船への警戒のため、幕府は林大学頭に命じ、これまでの対処法を集約した「通航一覧」を大成させる。この中でもオランダは、大坂冬の陣で大坂城に大砲を撃ったこと、島原の乱で原城を砲撃したことなどから、幕臣の扱いを受けている。
 
 
 
 【ポルトガル】
 ポルトガルは日本にイエズス会の宣教師を派遣し、キリスト教を布教し、貿易も行おうとした。マカオ長官の地位はポルトガル国王、若しくはゴア総督から任命される事になっていた。やがてマカオ長官の地位は競売の対象となり、最高入札者が長官となった。2万クルサドでマカオ長官の地位を得たカピタン・モールは、日本との貿易で15万クルサドもの利益を得たと云う。日本と明は通商していないため、支那産の生糸や絹織物はポルトガルを介して日本に販売され、ポルトガルは代価として銀を得ていた。支那は銀を欲していたため、ポルトガルは日本から得た銀で支那と貿易し、さらに利益を得ていた。
 慶長年間、ポルトガルは年間十六万斤から二十万斤の生糸を日本に輸出した。相場はポルトガル側の言い値に等しく、家康は早急に対策を打ち出す必要があった。慶長九年五月、糸割符制度を定めて京、堺、長崎の商人に生糸の先買権を与えた。他の地域の商人は生糸を購入する事を禁じられた。購入場所が限られたために商人同士の買い取り競争が無くなり、ポルトガル船も日本側の値段交渉に応じるしかなかった。家康は平常時に安く買い取った生糸を備蓄し、ポルトガル船が入港できない時に販売した。こうして生糸の家格は安定した。また、主要都市の商人は生糸の販売について家康の指示に従うようになり、家康は駿府に居ながら大都市の有力商人を従える事が出来た。慶長十四年、生糸の購入に灰吹銀を用いる事を禁止し、銀の純度が八割程度の丁銀を用いるよう定めた。
 
 
 
 【スペイン】
 スペインはフランシスコ会を日本に派遣し、ポルトガル同様に布教と貿易に努めた。土佐に漂着したスペイン商船サン・フェリペ号の船長は、豊臣秀吉にスペインが日本を攻めると伝えた。そのため、慶長元年、宣教師パプチスタら六名が日本人切支丹と共に処刑された。宣教師ジェロニモ・デ・ジェススは慶長三年に捕縛され、伏見にて徳川家康に拝謁。家康はジェススにフィリピン総督との仲介役になるよう依頼し、メキシコ行きのスペイン船が浦賀に来航することを求めた。その際、スペインの鉱山技師の派遣も要請した。慶長十三年、スペイン船が浦賀に来航した。当時、スペインはアメリカで大量の金銀を得ており、家康はその技術「アマルガム法」を習得しようとしたのだ。アマルガム法を習得した大久保長安は、佐渡にて莫大な量の金銀を算出。徳川家康の財政を支える重臣となった。その後、スペインとの貿易は失敗に終わっている。
 
 
 
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