里見家 家臣団
 
 
 
  里見義通 (?〜1518年)
 永正五年、安房鶴ヶ谷八幡宮を造営。永正十五年一月没。子は義豊。弟は実堯。
 
 
  里見義豊 (1514〜1534年 21歳没)
 里見義通の子。竹若丸。傅役は中里源太左衛門、本間八右衛門。初め宮本城主。幼少にして父と死に別れたため、叔父里見実堯が後見人となった。実堯がそのまま里見家の実権を握り、義豊を政権から遠ざけたことに憤慨。天文二年七月二十七日夜、実堯の居城を攻めて自刃に追い込む。これにより家督を相続。天文三年四月五日、里見実堯の子義堯は北条氏綱の支援を受けて挙兵。里見義豊は劣勢となり、稲村城を包囲され自刃した。一説に滝田ノ城で自刃したとも伝わる。この合戦を「犬懸合戦」と呼ぶ。妻は烏山時貞の娘。彼女は烏山城に逃れるも、東山居で自刃した。法名「一渓妙周大姉」。
 
 
  里見実堯 (?〜1533年)
 里見義通の弟。初め宮本城主か。兄義通が永正十五年に没すると、遺言により甥義豊の後見人として稲村城に入る。これは義豊が幼いためで、義通は十五歳になったら家督を譲るよう実堯に頼んでいた。しかし、実堯は家督を譲ることはなかった。大永六年十二月、北条攻めのため鎌倉に侵攻。北条氏綱に敗れ、安房に退いた。その際、戦火が鶴岡八幡宮に燃え移り、社殿は焼失した。天文二年七月二十七日夜、里見義豊に稲村城を攻められ自刃に追い込まれた。子は義堯。
 
 
  里見淳泰 (?〜?)
 里見義弘の子。母は佐貫城主加藤伊賀守の娘とも、千本城主東平安芸守の娘とも伝わる。梅王丸。義弘は弟義頼を跡継ぎとしたが、実子梅王丸が生まれたために家督問題が発生。天正六年、義弘が没すると遺領の相続をめぐって義頼が謀叛。母と妹は幽閉され、梅王丸は仏門に入ることを強要される。そのため、名を淳泰と改め、聖山で生涯を送ることとなった。義頼の家督相続を認めない里見家臣は蜂起するも、すぐに鎮圧されてしまった。
 
 
  里見千寿丸 (1567〜?)
 里見義頼の子。母は正木左京介の娘。弟は正木時堯。
 
 
  正木時堯 (1570〜?)
 里見義頼の子。母は正木左京介の娘。千寿丸の弟。弥九郎。正木憲時誅殺後、義頼は弥九郎に母方の正木姓を名乗らせ、正木大膳亮時堯とした。烏山城主となる。
 
 
  里見左近大夫 (?〜1526年)
 大永六年十二月、鎌倉攻めに参戦。討死した。
 
 
  里見民部少輔 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  里見兵衛尉 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  一色九郎 (?〜?)
 滝田ノ城代。里見義豊の妹を娶る。
 
 
  加藤伊賀守 (?〜?)
 里見淳泰の外祖父と言う。永禄九年、相模三浦を攻める。永禄十年、三船山合戦で功があり、佐貫城主となる。
 
 
  正木時綱 (?〜1533)
 正木氏の祖は新井城主三浦時高で、明応三年九月二十三日に養子三浦道寸に攻められ討死。遺児は乳母と共に逃れ、乳母の故郷正木郷で成人。正木時綱を名乗った。里見義通の妹を娶り、義通没後の内乱を鎮圧。その功により山之城城主となる。天文二年、里見義豊の家臣糟谷石見との合戦中に病没。
 
 
  正木弥五郎 (?〜1533年)
 正木時綱の長男。天文二年七月、里見義豊に稲村城を攻められ、里見実堯と共に討死した。弟は時茂、時忠。
 
 
  正木時忠 (?〜?)
 正木時綱の子。天文十一年、兄時茂と友井北条家の勝浦城を落とし、守将となる。
 
 
  正木時通 (?〜?)
 正木時忠の子。勝浦城主。弟は頼忠。
 
 
  正木憲時 (?〜1581年)
 正木時茂の養子。根古屋城主。大膳亮。永禄十年、三船山合戦で功があった。天正六年、里見義頼の国内平定に協力。天正八年七月五日、里見義頼の家督相続に反対し挙兵。しかし、義頼の軍に敗れる。天正九年十二月、家臣に謀殺される。
 
 
  正木弥五郎 (?〜?)
 正木一門。天文二十一年、北条家に属す。里見勢の攻撃に備え、岩坂に烽火台を築いたと言う。
 
 
  正木淡路守 (?〜?)
 正木一門。里見義康は天正十七年十月十三日付正木淡路守宛の朱印状で、安房から武蔵、下総に向かう廻船は百首湊に寄港するよう命じている。ただし、寄港した船からは税を徴収しないとした。
 
 
  正木弾正左衛門 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  正木左近大夫 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  正木平七 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  村上信濃 (?〜1554年)
 信濃村上一族。足利成氏に仕え、久留里城主。成氏没後、義明に仕える。義明が討死すると里見義康に属すが、天文二十三年六月、北条氏康の攻撃により討死。子は信清、長門守。長門守は里見家に仕えた。
 
 
  土岐為頼 (?〜1583年)
 万喜城主。弾正少弼。後に北条家に仕える。天正十一年四月二十七日没と伝わる。
 
 
  府馬時持 (?〜1565年)
 千葉支族国分氏。左衛門。里見氏に属す。永禄八年、正木時忠、東直胤と共に千葉支城米野井城を落とす。大須賀尾張守の反撃により討死した。東直胤は森山城に撤退した。
 
 
  岡本氏元 (?〜?)
 兵部少輔。岡本城普請奉行。岡本城は岡本氏の居城であったが、後に里見領となり、岡本氏は千代村に移った。普請は元亀元年に開始され、元亀三年に完了した。岡本城は里見義頼の居城となった。
 
 
  角田一明 (?〜?)
 丹後守。葛ヶ崎城代。天正八年七月、正木憲時は里見義頼に対し挙兵。葛ヶ崎城を攻めた。一明は岡本城にあったため、弟角田丹波守一元が病身ながらも出陣。二十歳で討死した。
 
 
  糟谷石見 (?〜1533年)
 里見義豊に仕える。天文二年、山之城を攻めるが、若干十三歳の正木時忠に討たれる。
 
 
  酒井治胤 (?〜?)
 土気城主。永禄八年、北条家に攻められるも撃退。
 
 
  多賀越中守 (?〜1564年)
 大永年間以降、池和田城主。越後守。永禄七年、国府台合戦で討死。子の蔵人、兵庫尉は城に籠もるも、北条勢に討たれた。
 
 
  多賀蔵人 (?〜?)
 多賀越中守の子。池和田城主。永禄七年八月、池和田城落城時に安房に逃れる。一説に自刃したとも云われる。
 
 
  忍丹波守 (?〜?)
 市原城主。天文二十三年、北条家に攻められ落城。
 
 
  忍民部少輔 (?〜?)
 忍丹波守の弟。永禄七年、国府台合戦参加。
 
 
  山川豊前守 (?〜?)
 天正十六年、正木家が小浜城を落とすと、その奪回のため出陣。しかし、正木勢の応戦により撤退。
 
 
  鑓田勝定 (?〜?)
 小浜城主。美濃守。天正十六年二月、相模三浦で北条家と争う。これを好機と正木頼忠勢百五十騎が小浜城を攻め落とす。天正十七年三月三日夜、大工と忍びを船に乗せ、小浜城に向かわせる。忍びは大工の作った梯子を使い城内に入り、中から火を放った。勝定は混乱した正木勢を打ち破り、城を取り戻した。天正十八年八月、小浜城は本多忠勝に攻め落とされる。
 
 
  三浦成良 (?〜?)
 佐貫城主。下野守。天正三年九月三日、蟻木城攻めで大将となり、城主椎津中務少輔、弟の帯刀を討つ。子の良俊は副将となった。
 
 
  秋元義久 (?〜?)
 小糸城主、周東城主。宇都宮氏。永禄七年、北条家は国府台合戦で勝利すると、周東城を攻め義久を討ち取った。
 
 
  秋元上総介 (?〜?)
 小糸城主。上野。天正三年九月三日、蟻木城攻めに参加。天正七年、久留里城代山梨孫九郎が没したため、子の勘解由左衛門を久留里城代とした。同時に小糸城は里見家に譲り、秋元氏は久留里城に移ることとなった。
 
 
  秋元勘解由左衛門 (?〜?)
 久留里城代。秋元上総介の子。天正七年、主家に背いた本吉三郎を攻める。
 
 
  山本弾正 (?〜?)
 久留里城代。山本由那城主山本氏の出か。天正三年九月三日、蟻木城攻めに参加。天正七年、主家に背いた本吉三郎を攻める。
 
 
  本吉三郎 (?〜1579年)
 亀山城主。天正七年、北条家に通じたため、岡本頼元に討たれる。
 
 
  宮本宮内 (?〜1534年)
 天文年間頃、鎌田源六と共に大戸城守将。天文二年、宮本城守将。天文三年、里見義堯勢と戦い討死。
 
 
  木曾左馬介
 天文二十一年以降、椎津城守将。永禄七年、国府台合戦での勝利により北条家は追撃を開始。椎津城も攻められ落城した。
 
 
  安西実元 (?〜1564年)
 伊予守。永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で馬を失った里見義弘に自身の馬を譲り、身代わりとなって奮戦。討死した。
 
 
  安西遠江守 (?〜?)
 天正十五年、正木頼忠が里見家に背くと、軍船数十艘を率いて出陣。頼忠の籠もる勝浦城を攻めるも、落城させることは出来なかった。
 
 
  菅野甚五郎 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  勝山豊前守 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  長南七郎 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  鳥居信濃守 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  佐貫伊賀守 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 
 
  多賀越後守 (?〜1564年)
 永禄七年正月八日、第二回国府台合戦で討死した。
 

 
  上州に伝わる里見家関係人物
 
 
  里見実堯 (?〜1570年)
 里見義堯の叔父。勝広。国府台合戦以降、上州に逃れ桐生助綱を頼る。助綱の養子、親綱は実堯の諫言を叛意ありとして誅殺を決意。元亀元年三月二十日、谷山城にて自刃に追い込まれる。
 
 
  里見随見 (?〜1578年)
 里見実堯の子。弟の勝安と共に上杉謙信に預けられる。実堯没後、謙信により旧領復帰。天正五年、高津戸城を改修。天正六年五月二日、石原石見の守る用命砦を二十数名で夜襲。石見は父実堯を自刃に追い込んだ叛将であるが、この時取り逃す。石見は由良国繁に属しており、高津戸城は九月十七日、由良家臣藤生善久に攻められる。善久の陣に夜襲をかけるが、勝安は討死し、随見は城兵の助命と引き替えに自刃した。
 
 
  里見家連 (?〜1574年)
 里見一族か。二階堂政行に仕え、上州谷山城主。天正二年、上杉謙信に攻められ討死。子の河内は碓氷に逃れたと伝わる。しかし、疑問が多いと言う。
 
 
  石原石見 (?〜?)
 里見実堯に仕える。元亀三年、桐生親綱に通じ実堯を自刃に追い込む。津布久刑部もこの計画に参加している。由良国繁に属し、実堯の子随見、勝安兄弟を滅ぼした。
 
 
  大貫弘景 (?〜1572年)
 里見実堯に仕える。元亀三年、桐生勢と戦い討死。
 

 
  【付記】
 
 
 
 「里見代々記」によると、里見勢が真里谷武田家の造海城を攻めたとき、真里谷武田家側からの提案で里見諸将が付近の景観を百首詠めば開城するとした。諸将は百首を詠み、開城させることに成功した。そのため、城名を百首城に改めたと言う。
 
 
 
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