真田家 家臣団
 
 
 
  海野幸義 (?〜?)
 海野棟綱の子。真田幸隆の父。幸隆の父については諸説あり、海野棟綱が父で幸義は兄とする系図もある。他にも海野頼昌を真田幸隆の父とする説がある。海野頼昌は大永三年三月十五日に没している。
 

 
  海野幸義の子供
 
 
  矢沢頼綱 (1518〜1597年 80歳没)
 海野幸義の次男。綱頼。真田幸隆の弟。幸隆、信綱、昌幸と代々仕え、上野方面軍先鋒および別働隊、さらに沼田城代を務めるなど幅広く活躍した。天正十三年、北条氏邦が沼田城を攻めたが、頼綱が死守した。子は頼康。
 
 
  常田隆家 (?〜1572年)
 海野幸義の三男。隆永、綱富。真田幸隆の弟。永禄五年、長野原城主。永禄六年九月、斎藤憲広に攻め落とされる。二人の兄と共に各地を転戦。上野長野原城主となるが、上杉家に居城を攻められ討死した。
 

 
  真田幸隆の子供
 
 
  真田清鏡 (?〜?)
 真田幸隆の庶子。次男に当たると云う。式部。天文十年、幸隆は海野幸全の下に寄宿するが、その際、幸全の娘に男児清鏡を産ませている。羽黒山の修験者となり、醍醐坊を開く。天正十九年、九戸の乱に際して南部利直を支援。その恩賞として、南部利直から霞廻りの際に名主の家に宿泊出来る特権を得た。後に南部家と諍いを起こして切腹。城門に腸を叩きつけたと云う。南部利直は清鏡荒神社を創建して清鏡を祀った。醍醐坊は子孫の七郎右衛門が継いだ。
 
 
  真田昌輝 (?〜1575年)
 真田幸隆の次男(三男)。兵部。父や兄と共に武田信玄に仕え、永禄十二年の小田原攻めで戦功があった。長篠合戦で兄信綱とともに討死。子は信正。
 
 
  真田信尹 (1547〜1632年 86歳没)
 真田幸隆の四男(五男)。隠岐守。加津野昌春、真田信昌。天正九年十一月二十一日、謀反の嫌疑によって海野幸光を討つ。同月二十三日、海野輝幸を自刃させた。しかし、海野幸光に謀反の意志があったかは不明である。武田滅亡後、北条氏政、徳川家康に仕える。徳川家と兄真田昌幸との和睦に功があった。一時期、蒲生氏郷に仕えたが、再び徳川家に戻る。大阪の陣では甥の真田信繁に退城勧告を行う。旗奉行四千石。子は幸政、信勝。
 
 
  金井高勝(?〜?)
 真田幸隆の五男(六男)。
 

 
  真田昌幸の子供
 
 
  真田昌親 (?〜?)
 真田昌幸の三男。内匠。子は蔵人、多聞、信親。
 
 
  真田信勝 (?〜1609年)
 真田昌幸の四男。左馬助。牧野康成の娘を娶る。幕府旗本となる。慶長十四年、刃傷沙汰を起こして出奔。同年六月十九日没。
 

 
  真田信之の子供
 
 
  真田信吉 (1593〜1634年 42歳没)
 真田信之の長男。母は真田信綱の娘。一説に本多忠勝の娘とも云う。文禄二年生。孫六郎、蔵人。大坂の陣に参戦。元和八年十月、沼田藩三万石の二代藩主となる。寛永十一年十一月二十八日、四十二歳没。妻は酒井忠世の娘。子は熊之助、信利。
 
 
  真田信政 (1597〜1658年 62歳没)
 真田信之の次男。母は本多忠勝の娘。一説に玉川秀政の娘とも云う。慶長二年生。千千代、内記。徳川家康への人質となる。大坂の陣に参戦。元和八年十月、松代藩一万石の藩主となる。寛永十五年十一月六日、甥である真田熊之助が早世。寛永十六年七月二十五日、熊之助の跡を継いで沼田藩四代藩主となる。検地を実行し、新田開墾を行った。明暦二年、父信之から松代藩主の座を譲られる。万治元年二月五日没。妻は稲垣重綱の娘。
 
 
  真田信重 (1599〜1648年 50歳没)
 真田信之の三男。母は本多忠勝の娘。隼人正。慶長四年生。元和八年、父信之から七千石を与えられる。寛永十六年、兄信政から松代藩を譲られ、一万七千石を知行。慶安元年十月二十五日、五十歳没。妻は鳥居忠政の娘。嗣子無く家系は断絶した。松代藩一万七千石は父信之に返された。信之には他に庶子として高僧となった正受老人がいたと云うが、それが事実だとすれば信之は七十歳を過ぎてから子供を作ったことになる。
 

 
  真田信繁の子供
 
 
 
  片倉守信 (1612〜1670年 59歳没)
 真田信繁の次男。大八、四郎兵衛。母は大谷吉継の娘。大坂落城後、伊達家に匿われる。伊達家から客分として千石を知行。寛永十七年、真田守信を名乗り伊達忠宗に出仕。永代召出二番座。江戸御番組馬上役。当然、この情報は幕府に伝わり、伊達家は真田守信の出自を報告することとなった。伊達家は真田信繁の男児が印字打ちという石合戦で死亡したと偽り、さらに真田信尹の子政信という架空の人物を創り、守信はその子供と報告した。それだけでは不十分と思ったのか、伊達家は守信に片倉の名字を名乗らせた。明暦三年、江戸留守居役となるが幕府の警戒心は緩んでおらず、即日免職となった。寛文十年、五十九歳没。子は辰信。正徳二年、辰信は真田姓に復した。伊達家が幕府に憚る必要は無いと判断したためである。
 
 
  三好幸信 (1615〜1667年 52歳没)
 真田信繁の三男。父信繁の死後に生まれる。母は豊臣秀次の娘。出羽亀田藩主岩城宣隆に姉が嫁いだ関係から同藩藩士となる。三百八十石。三好姓は祖父秀次の旧姓である。
 
 
  真田之親 (?〜?)
 真田信繁の四男。権左衛門。讃岐で育つ。大坂落城後に讃岐出身の細川国弘に養育されたとも、信繁が讃岐寒川に落ち延びてから生まれたとも伝わる。娘は細川国弘の孫義国の嫁ぎ、婿養子として家を継がせた。
 
 
  真田宥清 (?〜?)
 真田信繁の庶子。源次郎。羽黒山に入る。伯父真田清鏡の名を継いだと云う。
 

 
  真田一門
 
 
  矢沢頼康 (?〜?)
 矢沢頼綱の子。真田昌幸の従兄弟。父頼康に従い、各地で戦功を挙げた。関ヶ原合戦後は真田信之に仕えた。大坂の陣では真田信吉、信政に附けられた。矢沢氏は松代藩家老職の家柄となった。
 
 
  矢沢頼邦 (?〜?)
 矢沢頼綱の子。真田昌幸の従兄弟。
 
 
  矢沢頼貞 (?〜?)
 矢沢頼邦の子。
 
 
  真田信興 (?〜?)
 真田信綱の子。真田信之、信繁の従兄弟。
 
 
  真田信光 (?〜?)
 真田信綱の子。真田信之、信繁の従兄弟。一説に真田信綱の孫とも云う。
 
 
  真田信正 (?〜?)
 真田昌輝の子。幸明。真田信之、信繁の従兄弟。松平忠輝、松平忠昌、本多忠国に仕えた。
 
 
  真田幸政 (?〜?)
 真田信尹の長男。真田信之、信繁の従兄弟。旗本となり三千石を知行。妻は真田昌幸の次女。子は幸信、幸吉。
 
 
  真田信勝 (?〜?)
 真田信尹の次男。真田信之、信繁の従兄弟。旗本となった。子は信利、某。
 
 
  海野輝幸 (1509〜1581年 73歳没)
 能登守。娘は真田幸隆に嫁ぐ。羽尾景幸の三男。塚原卜伝に師事し印可を得たという。幸隆同様に武田家に仕官。上原姓を与えられ、小山田信茂に属す。剛の者ではあったが、信玄の信任はあまりなかったともいう。信玄没後、帰郷し海野家の家督を相続。真田昌幸に仕える。天正八年、内出城、津久田城、見立城を攻め落とす。天正九年三月、沼田城奪回を試みる沼田景義を阻むため、藤田信吉と共に沼田勢と戦う。この合戦の後、兄海野幸光は岩櫃城代となり、輝幸は沼田城代となった。しかし同年十一月二十一日、海野兄弟は謀反の恐れありとして昌幸に攻められ、二十二日に討たれた。
 
 
  塔原幸貞 (?〜1583年)
 海野輝幸の子。妻は矢沢頼綱の娘。真田昌幸の従兄弟。昌幸の進言により、信濃先方衆二十騎持の塔原氏広の跡を継ぐ。武田滅亡の翌年、古厩盛勝らとともに、松本城主小笠原貞慶によって城内で暗殺される。
 
 
  小山田茂誠 (?〜?)
 小山田昌辰の子。壱岐守。真田昌幸の重臣。真田昌幸の長女を娶る。子は主膳。
 
 
  小山田主膳 (?〜?)
 小山田茂誠の子。母は真田昌幸の娘。真田信之、信繁の甥。元和元年一月二十四日、真田信繁は姉に手紙を送り、真田信之側に属した主膳に会ったことを伝えた。家系は松代藩重臣の家柄となった。
 
 
  鎌原幸重 (?〜?)
 宮内少輔。真田氏とは同族である。永禄三年、真田幸隆、甘利昌忠を通じ、信州平原にて武田信玄に拝謁して家臣となった。岩櫃城主斎藤憲広はこれに危機を感じ、鎌原氏を追放。信州に移る。信玄は鎌原氏を支援した。
 
 
  鎌原重澄 (?〜1575年)
 鎌原幸重の子。筑後守。長篠合戦で討死。
 
 
  鎌原重春 (?〜?)
 鎌原重澄の子。宮内少輔。真田昌幸の家老。真田昌幸の三女を娶る。
 
 
  堀田作兵衛 (?〜?)
 真田家臣。娘は真田信繁の側室となり、長女を生んだ。
 
 
  堀田興重 (?〜1615年)
 堀田作兵衛の子。父と同じく作兵衛を名乗る。真田信繁の義兄弟。真田信繁と共に大坂城に入る。元和元年、大坂の陣にて討死。
 
 
  堀田源内 (?〜?)
 堀田興重の子。又兵衛。大坂の陣の前に信濃小県郡内村に送られた。
 
 
  石合重定 (?〜?)
 十蔵。信濃長窪宿の郷士。真田信繁の長女を娶る。慶長二十年、堀田興重に書状を送り、義父信繁の安否を気遣った。信繁は重定に返書を送っている。
 
 
  高梨内記 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。真田信繁と共に大坂城に入る。元和元年、大坂の陣にて討死。娘は真田信繁の側室となり次女、三女を産んだ。三女は片倉重長の妻となっている。
 
 
  高井元理 (?〜?)
 真田信繁の長男真田大助の後身と云う。幕府猿楽衆。子孫は名字を八木に改めた。八木氏は寛政重修諸家譜にも真田大助の子孫と記されている。
 

 
  有名家臣の一門
 
 
  鈴木忠重 (1574〜1658年 84歳没)
 右近。名胡桃城代鈴木重則の子。父の死後、真田家の庇護を受け、のち柳生宗章に師事。柳生石舟斎にも剣を習ったという。帰参し信之に仕え、伏見屋敷留守居役などを務める。信之と同年に没した。
 

 
  真田家臣
 
 
  河原綱家 (?〜?)
 関ヶ原合戦直前、昌幸は信之、信繁と共に東西どちらに味方するかで論議した。綱家は心配をして戸を開けるが、それに激怒した昌幸から下駄を投げつけられ、前歯を折られたと言う。
 
 
  白倉武兵衛 (?〜?)
 武田滅亡後、真田家に仕える。幼少の信繁に仕えたという。関ヶ原合戦前に大阪屋敷留守居役。
 
 
  折田将監 (?〜?)
 佐藤軍兵衛。関東無双の剛兵と伝わる。永禄七年、真田幸隆が仙蔵城を落とすと、将監が配置された。
 
 
  湯本三郎右衛門 (?〜?)
 武田家臣湯本善大夫の甥。善大夫が長篠合戦で討死すると跡を継ぐ。後に真田家に仕え、同心三十一人を預けられ、六百三十貫余を賜る。天正十年十月、三郎右衛門の家臣石井喜右衛門ら十二名は真田昌幸から安堵状を受ける。
 
 
  来福寺左京 (?〜?)
 原仁兵衛。武田滅亡後、真田家に仕える。出浦守清の参謀。天正十三年の上田城防衛戦で功があった。
 
 
  横谷惣左衛門 (?〜?)
 横谷左近の弟。
 
 
  横谷重氏 (?〜1615)
 横谷左近の弟。庄八郎。真田信繁に従い大阪入城。討死した。
 
 
  池田長門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  原出羽 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  小山田治左衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  青木半左衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  飯島市之丞 (?〜1615年)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。真田信繁に従い、大坂城に入る。大坂の陣で討死した。子は寛永三年、信之の扱いに不満を抱いて浪人となった。
 
 
  関口忠左衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  関口角左衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  田口久左衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。真田昌幸の死後、真田信之の下に戻る。子は寛永三年、信之の扱いに不満を抱いて浪人となった。
 
 
  窪田角右衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。真田昌幸の死後、真田信之の下に戻る。子は寛永三年、信之の扱いに不満を抱いて浪人となった。
 
 
  河野清左衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  石井舎人 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  前島作左衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  三井仁左衛門 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  大瀬義人 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  青柳清庵 (?〜?)
 慶長五年十二月、真田昌幸、信繁の紀州九度山蟄居に従う。
 
 
  真田勘解由 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  真田権太夫 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  大塚清兵衛 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  高梨主膳 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  海野小平太 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  望月善太夫 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  称津小六 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  柏田玄仲 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  山岡軍平 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  角輪佐吉 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  利光久兵衛 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  沼田清次郎 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  森川隼人 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  滝川平太夫 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  丹生弥二郎 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  星田勘平 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  馬淵六郎太夫 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  横谷庄八郎 (?〜?)
 真田信繁と共に大坂城に入る。大坂冬の陣で真田勢として戦った。
 
 
  富沢勘十郎 (?〜1575年)
 父富沢但馬は斎藤憲次に仕え岩下城を与えられるが、斎藤氏没落後は真田家に属す。勘十郎は真田勢に加わり、長篠合戦で討死した。
 
 
  林弾左衛門 (?〜?)
 天正十四年九月、昌幸は中山城を攻め落とすと弾左衛門を配置した。
 
 
  中山右衛門尉 (?〜?)
 津久田城を攻めるが討死した。
 
 
  金子泰清 (?〜?)
 上州沼田家臣。沼田氏が会津方面に逃走すると、天正八年より真田家に仕える。内政などを務めるが、沼田景義暗殺にかかわったとして追放され病死。
 
 
  北能登守 (?〜?)
 沼田家に仕えるが、天正年間から真田昌幸に仕えて沼田衆をまとめる。名胡桃城主。天正八年三月、小川可遊斎と共に北条家を撃退。信之の重臣となり、吾妻奉行となる。
 
 
  森下三河守 (?〜1583年)
 森下城主。天正八年八月、真田昌幸に従う。天正十一年二月、北条氏邦勢に攻められ、反町幸定に討たれた。これは八月の出来事とも言う。
 
 
  塩原源太左衛門 (?〜?)
 真天正九年、上州諏訪の木城を守る。
 
 
  恩田越前守 (?〜?)
 天正八年、下沼田豊前守と共に長井坂城主となる。天正十年十月、北条氏邦に長井坂城を攻められ落ち延びている。
 
 
  池田重安 (?〜?)
 上州斎藤家臣。永禄七年十年、斎藤憲広の末子城虎丸を助け落ち延びさせた。城虎丸の兄憲宗は永禄八年十一月、真田家に攻められ自刃した。重安は斎藤家滅亡後、真田家に属し岩櫃城を守る。関ヶ原合戦では信幸と共に東軍に属す。
 
 
  尻高摂津守 (?〜1580年)
 一族庄次郎と共に上州小城を守るが、天正八年十二月、池田佐渡守、海野郷右衛門の夜襲により討死。
 
 
  尻高景家 (?〜1580年)
 尻高城主。天正八年、宮野城を守り討死。一族尻高源次郎は天正十七年十二月、北条勢を破っている。
 

 
  忍び
 
 
  出浦守清 (?〜1623年)
 対馬守。村上義清の一族という。義清が信濃を追われると、武田晴信の配下となり忍びを操り働いた。自信も忍びであったという逸話が伝えられている。武田滅亡後、森長可、真田昌幸と主を代え、昌幸の元では岩櫃城城代、吾妻郡奉行の要職を任される。
 
 
  横谷左近 (?〜?)
 出浦守清と並ぶ忍びの達者。雁ヶ沢城を守る。昌幸に従い、数々の合戦で功があった。慶長五年の上田籠城の際、昌幸を無事に上田城まで送り届け、そのときの感状が残されている。惣左衛門、庄八郎の二人の弟がいた。
 
 
  祢津潜竜斎 (?〜?)
 長右衛門。真田家の一族として代々重臣の家柄。忍びであったという。天正十三年の上田城防衛戦で功があった。
 
 
  壺谷又五郎 (?〜?)
 武田の忍び。真田昌幸が上州沼田城を落とすと、褒美として昌幸に付けられる。以後、真田家の忍びを統制した。
 
 
  割田重勝 (?〜1618)
 下総守。吾妻七騎の一人。膂力に優れた忍びの達者という。天正十三年の沼田防衛で松田憲秀の乗馬を奪ったという逸話がある。のち盗みの罪で出浦守清に討たれた。
 
 
  角田新右衛門 (?〜?)
 上野国出身の忍びという。出浦守清に属し、真田幸隆、昌幸親子に仕えた。永禄六年、岩櫃城攻撃に間者として功があった。
 

 
  【付記】
 
 
 
 【真田信繁生存説】
 真田信繁は大坂夏の陣で討死したが、城を落ち延びたという伝説が各地に残されている。東北地方にも真田信繁が落ち延びたという伝承があり、真田信繁、大助父子は出羽秋田郡に小館花村を興して村長となったと云われる。その後、大館にて酒造業者信濃屋を興したと云う。秋田の伝承では信繁は寛永十八年十二月十五日、七十六歳。大助は信濃市兵衛、または信濃長兵衛を名乗って元禄四年、八十九歳で没し、子孫は後に飯田氏を名乗ったと云う。
 
 
 
 【真田の六連銭】
 一般に三途の川の渡し賃が六文であるため、死者に六文を持たせたとされる。では、何故六文なのか。それは地蔵菩薩に由来する。この世は地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六道があり、人は生前の行いによって六道を輪廻し続けなければならない。地蔵菩薩は釈迦入滅から弥勒菩薩の光臨までの五十六億七千万年の間、仏に代わって六道を彷徨う人々を救済してくれる。そこで死者に六道と同じ数の銭を持たせ、何処に落ちようと地蔵菩薩に御礼出来るようにしたのだ。真田家は六連銭の旗印を掲げ、合戦で討死しようと救われると示した。
 
 
 
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