相良家 家臣団
 
 
 
  相良義滋 (?〜1546年)
 相良氏当主。大永四年、一族相良長定は家督簒奪のため義滋の弟長祇を殺害。義滋は長定と争うこととなった。後に上村頼興に助勢を求め、条件として頼興の子晴広を養嗣子とした。享禄二年、長定を人吉から追う。享禄三年頃、筑後にて長定を討つ。享禄五年六月、上津浦治種が周辺の地頭に攻められると救援の兵を送る。天文二年、八代に拠点を移す。天文十五年没。
 
 
  相良長晧 (?〜?)
 相良為続の五男。伊勢守。興善寺関城主。後に上土城主。上土城は名和氏に備えるために築城された。天正十五年まで関城に居住していたと言う。
 
 
  上村長国 (?〜?)
 上村直頼の弟。上村氏は相良長頼の四男頼村から始まる一門。岡本庄地頭職。兄直頼は相良為続の子頼廉を養子とする。娘は頼廉の子に嫁いだ。孫の晴広が相良宗家と継ぐと、その心得を記した「洞然居士状」を記す。
 
 
  上村頼興 (?〜?)
 上村頼廉の子。上村城主。養祖父直頼の弟、上村長国の娘を娶る。子は晴広、頼孝、頼堅、長蔵。孫の義陽が家督を継ぐと後見人になる。
 
 
  上村頼孝 (?〜1567年)
 相良晴広の次弟。上村城主。兄の死後、甥義陽に謀叛を起こす。弘治三年六月三日、義陽の軍勢に攻められる。弟長蔵が敗れたため薩摩、後に水俣城に移る。永禄十年、深水長則に攻められ自刃。
 
 
  上村頼堅 (?〜?)
 相良晴広の三弟。豊福城主。兄頼孝の謀叛に賛同。
 
 
  上村長蔵 (?〜?)
 相良晴広の四弟。岡本城主。兄頼孝の謀叛に賛同。弘治三年八月十六日、落城。
 
 
  相良頼貞 (?〜?)
 相良晴広の次男。天正九年、兄義陽が討死すると、家督を相続するとして球麿に戻る。
 
 
  相良頼兄 (1568年〜1655年 88歳没)
 初め犬童姓。清兵衛、長兄。相良家家老。関ヶ原合戦後、大垣城守将を謀殺。これにより家康から賞された。寛永十六年、横暴な振る舞い故に訴えられる。十七年十月、津軽家に預けられ三十人扶持となる。明暦元年七月、八十八歳没。子孫は津軽家に仕える。
 
 
  相良尾張守 (?〜?)
 八代郡四奉行。
 
 
  相良長城 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  相良長住 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  相良長観 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  相良長通 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  相良民部大輔 (?〜?)
 球磨郡老者。
 

 
  相良家 家臣団
 
 
  深水宗満 (?〜?)
 深水宗方の子。
 
 
  深水玄蕃 (?〜?)
 天正年間末期、人吉城普請手木奉行。豊永右衛門、窪田佐平次も普請手木奉行として工事を指揮した。
 
 
  深水長命 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  犬童丹波守 (?〜1581年)
 相良家臣。野角城主。天正九年、島津家に攻められ落城。
 
 
  犬童源兵衛 (?〜?)
 慶長五年、相良城普請に際し刃傷沙汰が起こると、責任を取るため勝又新兵衛と共に切腹した。場所は常楽寺山と伝わる。窪田徳之助は永国寺山で自刃した。
 
 
  犬童重照 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  犬童帯刀充 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  米良三左衛門 (?〜?)
 慶長年間初期、人吉城普請総奉行。
 
 
  菱苅平駄 (?〜?)
 慶長年間初期、人吉城普請総奉行。
 
 
  内田甚五左衛門 (?〜1600年)
 天正年間末期、人吉城普請奉行。亀山瀬兵衛らも奉行となった。慶長五年、亀山瀬兵衛と口論となり、互いに討ち果てている。
 
 
  井口右衛門 (?〜?)
 天正年間末期、人吉城普請に参加。
 
 
  赤坂弥次兵衛 (?〜?)
 小俣川改修に参加したと言う。天正年間末期、人吉城普請に参加。
 
 
  万江兵太夫 (?〜?)
 慶長年間初期、人吉城普請に際し横目役。
 
 
  東加賀 (?〜?)
 久米庄地頭。久米城主か。
 
 
  岩崎加賀守 (?〜?)
 多良木庄地頭職。天正九年、相良頼貞の家督相続に賛同し、球麿帰郷に貢献した。
 
 
  岩崎忠久 (?〜?)
 相良伊勢守の与力。主馬。興善寺関城城代。後に上土城代。畳表の生産に功があり、遺徳は今も讃えられている。
 
 
  蓑田善兵衛 (?〜?)
 天正年間、小浦城を築く。弟が城主となったと伝わる。
 
 
  吉尾大学 (?〜?)
 吉尾城主。子は塩山浅之助。
 
 
  蓑田筑後守 (?〜?)
 八代郡四奉行。
 
 
  宮原筑前守 (?〜?)
 八代郡四奉行。
 
 
  桑原常陸介 (?〜?)
 八代郡四奉行。
 
 
  高塚掃部助 (?〜?)
 八代郡年行。
 
 
  竹下内匠充 (?〜?)
 八代郡年行。
 
 
  有瀬蔵人 (?〜?)
 八代郡年行。
 
 
  東大蔵 (?〜?)
 八代郡年行。
 
 
  東源兵衛尉 (?〜?)
 八代郡年行。
 
 
  簗瀬源左衛門 (?〜?)
 人吉三奉行。
 
 
  東弾正忠 (?〜?)
 人吉三奉行。
 
 
  簗瀬忠将 (?〜?)
 球磨郡年行。
 
 
  恒松貞棟 (?〜?)
 球磨郡年行。
 
 
  宮原公忠 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  吉牟田重宗 (?〜?)
 球磨郡老者。
 
 
  久留又八郎 (?〜?)
 豊後の石工。慶長十二年、人吉城普請のため招かれる。
 

 
  関係外国人
 
 
  伝林坊頼慶 (?〜?)
 明人。丸目長恵に師事し、タイ捨流と大陸の武術を組み合わせや兵法を創始。
 

 
  【付記】
 
 
 
 【相良長毎の朝廷政策】
 永正七年四月、肥後人吉城主相良長毎は近江守に任ぜられた。相良長毎は僧侶観音寺伯元を京に送り、大内義興に仲介を依頼。将軍足利義稙には太刀、面革百枚、羚羊皮五十枚を献上。しかし、大内義興には御礼を用意していなかった。そのため、大内義興は「早々御礼然るべく候」との書状を出し、不満を伝えている。
 
 
 
 【相良義滋の朝廷政策】
 天文十四年四月二日、相良義滋は従五位下宮内少輔に、子の相良晴広は従五位下右兵衛佐に補任された。また、将軍足利義晴は相良父子に偏諱を与え、朝廷は相良義滋に従五位下の礼服を授与した。兵衛佐は源頼朝が初めて補任された官途であり、その由緒から足利一門の有力者のみに許された。公卿小槻伊治は勅使として肥後に向かった。近衛稙家は色紙三十六枚に揮毫し、相良父子に渡すよう小槻伊治に依頼した。口宣案を渡した。途中、小槻伊治は山口の大内義隆の元に立ち寄った。娘が大内義隆の側室となり、義隆の嫡男義尊を生むなど親族関係にあったためである。山口で小槻伊治は武家に和歌の教授などを行い、御礼を受け取った。十月二十四日、小槻伊治は肥後へ向かうため山口を発った。十一月二十七日、肥後徳淵湊に入港。十一月二十八日、相良家臣稲留清右衛門は小槻伊治を歓待し、東泉寺に案内した。十一月二十九日、相良義滋は東泉寺に入り、小槻伊治を自ら八代城に迎え入れた。十二月二日、八代城にて小槻伊治は相良義滋に口宣案を渡した。相良父子は将軍足利義晴から偏諱を受けた。当時、相良義滋は相良長唯と名乗っていたが、これによって相良義滋に改名した。子の晴広も当時は為清を名乗っていたが、改名している。十二月三日、相良父子は東泉寺にて小槻伊治い御礼を述べた。十二月六日、相良義滋は朝廷より下賜した従五位下の礼服を着用し、白木妙見社に参拝。十二月九日、小槻伊治のために八代城で祝宴が開かれた。小槻伊治は肥後滞在中、相良義滋に朝廷への御礼の仕方について教授した。十二月十四日、小槻伊治は肥後を発った。天文十五年正月十六日から二十日にかけて、八代城で祝典が行われた。一月二十三日、相良義滋が人吉城に入ると祝典が行われた。四月四日から五日にかけて、祝賀のための千部経会が行われた。
 
 
 
 【相良義陽の朝廷政策】
 永禄七年二月、相良義陽は修理大夫に任ぜられた。修理大夫は大友家にとって極官である。そのため、大友義鎮は足利義輝に抗議した。足利義輝は大友義鎮の不快感に理解を示しながらも、相良義陽を推挙してしまった以上、今回の事は特別に認めるように宥めた。
 
 
 
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