扇谷上杉家 家臣団
 
 
 
  上杉朝良 (?〜1518年)
 扇谷上杉定正の養子。江戸城主。永正十五年没。
 
 
  上杉朝興 (?〜?)
 扇谷上杉朝良の養子。江戸城主。
 
 
  上杉朝定 (?〜1546年)
 扇谷上杉家当主。天文十五年四月二十日夜、河越夜戦で討死。
 
 
  上杉朝成 (?〜?)
 左近大夫。天文六年、上杉朝興の死に乗じて北条氏綱は河越城を攻めた。朝成は曾我丹後守と共に応戦。しかし、敗れて捕縛された。
 
 
  上杉憲勝 (?〜?)
 扇谷上杉朝昌の子。七沢七郎。山内上杉憲政の養子。大田資正とともに後北条家と争う。謙信は永禄四年、武蔵国松山城主上田朝直を破り、憲勝に松山城を預ける。謙信帰国を知った上田朝直は松山城を攻撃。資正は訓練した犬を預けており、この犬を使い危機を知らせる。資正が援軍に駆けつけたため、朝直は兵を引いた。日本史上初の軍用犬使用という有名な逸話である。永禄六年二月四日、北条家により松山城は落城。永禄八年八月十九日、北条氏邦に属し金山城攻撃を画策。兄は朝寧。
 
 
  上田蓮順 (?〜1546年)
 天文十五年四月二十日夜、河越夜戦で討死。
 
 
  難波田義銀 (?〜1546年)
 弾正。天文十四年、河越城包囲に際して古河公方足利晴氏を勧誘。晴氏はこれに応じ、氏康と手を切った。天文十五年四月二十日夜、河越夜戦の際、古井戸に落ちて討死した。
 
 
  難波田隼人 (?〜1546年)
 天文十五年四月二十日夜、河越夜戦で討死。
 
 
  太田全鑑 (?〜?)
 扇谷上杉家宿老。武蔵岩付を領す。天文十五年三月七日までに北条家に寝返る。
 
 
  大森藤頼 (?〜?)
 大森氏頼の子。小田原城主。明応四年九月、伊勢盛時は鹿狩りと偽り、兵を小田原城付近に集めて夜襲を決行。小田原城は落城し、大森藤頼は落ち延びた。伊勢盛時は扇谷上杉家からの報復を封じるため、扇谷上杉朝良に臣従の意志を伝えた。扇谷上杉家は山内上杉家と戦っており、伊勢盛時征伐を行う余裕は無かった。こうして臣従は認められ、伊勢盛時は小田原城主となった。
 
 
  三浦義同 (?〜1516年)
 永正九年、伊勢盛時に攻められ、相模岡崎城は落城。相模住吉城に逃れた。伊勢盛時は追撃をかけて住吉城を攻め落とし、義同は新井城に落ち延びた。伊勢盛時は新井城の押さえとして玉縄城を築城。永正十三年七月、伊勢盛時に攻められ新井城は落城。三浦義同は自刃した。
 
 
  三浦義意 (?〜1516年)
 三浦義同の子。永正十三年七月、伊勢盛時に攻められ新井城は落城。父と共に自刃した。
 
 
  曾我神四郎 (?〜?)
 大永四年正月、北条氏綱は江戸城を攻めた。曾我神四郎は先鋒となって応戦したが敗れた。
 
 
  曾我丹波守 (?〜?)
 扇谷上杉家家老。天文六年、北条氏綱の河越城攻めに際して応戦した。
 
 
  毛利丹後守 (?〜?)
 扇谷上杉家臣。石戸城主。永禄五年七月、北条氏邦に攻められ落城した。
 
 
  大胡重行 (?〜?)
 扇谷上杉家臣。主家滅亡後は北条家に仕え、上州大胡から武蔵豊島郡に移った。子の勝行は牛込城を築城した。
 
 
  椎名慶椿 (?〜?)
 畠山氏の軍配者であったが、扇谷上杉定正に仕官した。
 
 
  遊佐道忠 (?〜?)
 畠山氏の軍配者であったが、扇谷上杉定正に仕官した。
 
 
  曾我豊後守 (?〜?)
 扇谷上杉定正に仕えた。定正は豊後守に宛てて「上杉定正状」を送る。その中で定正は武士の学問、文学は兵法七書を学び、合戦で役立てることと記している。
 
 
  古市小太郎 (?〜?)
 天文六年、北条氏綱の河越城攻めに際して応戦した。
 
 
  小野三河守 (?〜?)
 天文十四年、河越城包囲に際して古河公方足利晴氏を勧誘。晴氏はこれに応じ、氏康と手を切った。
 
 
 
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