大友家 家臣団
 
 
 
  大友政親 (1444〜1496年 53歳没)
 大友親繁の長男。房丸、五郎、左衛門大夫、豊前守。従四位下。大友家当主。足利義稙から一字を賜る。明応五年六月十日、長門国赤間関にて討死。五十三歳。法名「珠山如意海蔵寺」。子は義右。
 
 
  日田親勝 (?〜?)
 大友親繁の次男。七郎。
 
 
  大友親治 (?〜?)
 大友親繁の三男。小僧丸、備前守。従五位下。甥義右の死により大友家当主となる。永正三年から四年にかけて、小門牟礼城を築く。大友義鑑との内乱により小門牟礼城に籠もる。大永二年正月十九日没。大永四年没とも云う。法名「見友梅屋見友院」。子は義長、元載、親種。
 
 
  日田親常 (?〜?)
 大友親繁の四男。六郎、親武。
 
 
  大友親載 (?〜?)
 大友親繁の五男。七郎次郎。
 
 
  戸次親照 (?〜?)
 大友親繁の六男。又五郎。
 

 
  大友政親の子供
 
 
  大友義右 (1459〜1496年 38歳没)
 大友政親の子。親豊、材親、鷹房丸、五郎、中務大輔、修理大夫。従四位下。足利義材から一字を賜る。明応五年五月二十七日、三十八歳没。法名「傅芳成親大智寺」。
 

 
  大友親治の子供
 
 
  大友義長 (?〜1514年)
 大友親治の長男。義親、塩法師丸、五郎、修理大夫。従四位下。足利義稙から一字を賜る。永正十一年八月十一日没。法名「天真清昭大雄院」。子は義鑑、菊池義武。
 
 
  戸次元載 (?〜?)
 大友親治の次男。親元、塩松丸、五郎九郎。戸次親載の養子となる。
 
 
  田原親種 (?〜?)
 大友親治の五男。子は香志田種重。
 

 
  大友義長の子供
 
 
  菊池義武 (?〜1554年)
 大友義長の次男。義鑑の弟。十郎、重治、国武、義宗、義国。左衛門佐。従四位下。宗吟。菊池家を継ぐ。足利義晴から一字を賜り義宗を名乗った。兄の死後、甥義鎮と家督を争う。天文二十三年十一月、豊後木原にて自刃。
 

 
  大友義鑑の子供
 
 
  大友塩市丸 (?〜1550年)
 大友義鑑の三男。父と共に天文十九年二月十二日、家臣によって殺害された。近衛家に嫁ぐことが決まっていた妹も、同時に殺害されている。
 

 
  大友吉統の子供
 
 
  大友義乗 (1577〜1612年 36歳没)
 大友吉統の長男。宗五郎、従五位下、侍従。文禄二年、父が改易されると家康に預けられ、後に常陸筑波郡三千石、武蔵牛込三百石。牢人衆。上杉征伐参加。慶長十七年七月十二日、三十六歳没。妻は高橋紹運の娘。
 
 
  松野正照 (?〜?)
 大友吉統の次男。長三、右京。父が改易されると細川忠興に預けられる。子は能増、親冬、義孝。
 

 
  大友義乗の子供
 
 
  大友義政 (?〜?)
 大友義乗の長男。早世。
 
 
  大友義親 (1593〜1619年 27歳没)
 大友義乗の次男。母は高橋紹運の娘。長五郎、右衛門督。徳川秀忠に仕える。元和五年八月八日、二十七歳没。法名「玄昌」。妻は今川範以の娘。嗣子無く大友家は断絶。叔父松野正照の三男義孝が新たに大友家を興した。
 

 
  大友一門
 
 
  香志田種重 (?〜?)
 田原親種の子。深見郷香志田村を領す。天文二十年、香下城を築く。
 
 
  香志田出雲守 (?〜?)
 妙見嶽城攻めで功があった。一時、香下城を拠点とする。
 
 
  香志田掃部助 (?〜?)
 香志田出雲守の子。長岩城攻めに参加。
 
 
  大聖院宗心 (?〜?)
 大友一族。田原親述に匿われる。
 
 
  日田親将 (?〜1548年)
 大友一門。日田郡司職。天文十七年、討ち取られる。
 

 
  有名大友家臣の一門
 
 
 
  一万田鎮実 (?〜1587年)
 一万田鑑実の子。宗拶。天正十五年、大友義統の命により、弟鎮之、子の統政と共に臼杵で自刃。
 
 
  一万田勘解由 (?〜?)
 一万田一門。慶長五年、石垣原合戦で敗れると、講和のための使者となる。
 
 
  吉岡鑑興 (?〜1578年)
 吉岡長増の子。耳川合戦で討死。
 
 
  吉岡鎮興 (?〜?)
 吉岡長増の子。鑑興の弟。一説に鑑興の子とも言う。
 
 
  吉岡統増 (?〜?)
 鶴崎城主。天正十四年、丹生島城の防衛中、居城を島津軍に攻められる。
 
 
  吉岡妙林尼 (?〜?)
 吉岡統増の生母。天正十四年、島津家の鶴岡城攻めに際し、直ちに城を改修。島津軍の攻撃に備えている。そのため、島津軍三千余名は計十六回も鶴岡城を攻めたが、落城させることは出来なかった。妙林尼は島津軍からの和議の申し出を受けると、これを機に攻勢に転じることとした。豊臣軍が九州征伐に乗り出したため、島津軍は撤退。妙林尼は島津軍への追撃を命じる。乙津川付近で伏兵に攻められ、島津軍は敗走した。
 
 
  佐田鎮綱 (?〜?)
 赤井城主佐田隆居の子。弘治二年、父と共に大友家に属す。
 
 
  佐田統綱 (?〜?)
 赤井城主。佐田氏十六代当主。大友家改易後、黒田家に仕える。家系は細川家臣として続いた。
 
 
  臼杵長景 (?〜?)
 大友一族。臼杵氏六代。近江守。永正二年、水賀城を築城したと言う。大永七年、佐伯栂牟礼城攻めの総大将。二万余の兵を率いる。佐伯惟治は落ち延びるも、新名党が討ち取った。しかし、天候不順が続き、長景も熱病によって死没。人々はこれを惟治の祟りと怖れ、鎮魂のため宮尾神社を造った。
 
 
  臼杵鑑速 (?〜?)
 大友一族。臼杵氏七代。
 
 
  臼杵鑑連 (?〜?)
 安芸守。天文七年、柑子ヶ岳城番。
 
 
  臼杵鑑続 (?〜?)
 臼杵鑑連の子。安芸守。柑子ヶ岳城番。
 
 
  臼杵新助 (?〜?)
 柑子ヶ岳城主。永禄十一年七月、原田隆種を攻めるも敗れる。元亀二年、豊後に戻る。
 
 
  臼杵鎮氏 (?〜1572年)
 進士兵衛。元亀二年、柑子ヶ岳城主。元亀三年正月、原田隆種との池田下河原合戦で討死。
 
 
  高橋重種 (?〜?)
 九郎。天文年間、香春岳城主原田義種が滅ぶと、香春岳城主となる。
 
 
  隈部親泰 (?〜1587年)
 隈部親永の子。天正十五年、肥後一揆に乗じて城村城主。自らを総大将として、家臣有働兼元を惣領頭に任じた。豊臣勢に対抗するために籠城。籠城側は鉄炮八百三十挺を有し、近隣の住民を含めた一万八千人が籠もったという。鉄炮の数はともかく、籠城に加わった人数は誇張とすべきであろう。後に開城し、父親永と有働兼元と共に自刃した。
 

 
  大友家 家臣団
 
 
  角隅石宗 (?〜1578年)
 大友家の軍師。越前守。天正六年夏、立花道雪の養子戸次鎮連は、自身の陣所の隣に石宗が居住することを幸いに軍配の相伝を望み出た。石宗はこれを受け入れ、軍配の全てを伝授した。天正六年十一月、耳川合戦で戦場の気を読み、大友家の敗北を予言。大友宗麟は厄年であり、凶の方角である未申に出陣することになる。さらに昨年から尾を西になびかせた彗星が現れた。しかし、宗麟は出陣を強行。石宗は北郷忠左衛門を討つが重傷を負い、遂に討死した。占術をふさわしくない者に伝授すれば神罰を受けるとされ、耳川合戦直前に石宗も自身の秘伝書を焼いたと言う。後世に占術が誤伝することを防ぐためである。すでに自軍の敗北、それに伴う自身の討死を覚悟していたようだ。別次鎮連に占術を伝授したとも伝わる。
 
 
  斎藤播磨 (?〜1550年)
 大友義鑑に仕える。天文十九年、義鑑が庶子八郎を後継者に推すと、これに反対。そのため、義鑑に討たれた。小佐井大和守も同様に討たれている。
 
 
  津久見美作守 (?〜?)
 大友義鑑に仕える。天文十九年、義鑑の後継者選定に反対した斎藤播磨と小佐井大和守が誅殺される。播磨らと同様に選定を協議していた美作守は、田口玄蕃と共に決起し、義鑑と庶子八郎を殺害。これが「二階崩れの変」である。
 
 
  大友甚左衛門 (?〜?)
 入田丹後守の子。天正十五年正月五日、山ノ城籠城軍に島津家との和議を斡旋。
 
 
  入田泰親 (?〜?)
 津賀牟礼城主。
 
 
  入田親真 (?〜?)
 入田泰親の子。津賀牟礼城主。丹後守。大友義鑑が庶子八郎を後継者に推すと、これを後押しする。二階崩れの変の後、宗麟は親真が自分を廃嫡されることを望んだと激怒。津賀牟礼城攻めが行われ、親真は居城で自刃したとも、逃れ先の小松尾城で自刃したとも伝わる。
 
 
  入田宗和 (?〜?)
 入田親真の子。小松尾城主。父の死後、家督を継ぐ。戸次統貞の讒言により、大友勢に攻められる。島津家臣新納忠元からの誘いを受け、天正十四年、島津家に寝返る。同年十月二十一日、島津義弘が三万七千余名を率いて豊後野尻に着陣。義弘に拝謁し、高城攻め、鳥岳城攻めを助けた。長谷場兵部少輔、赤星備中守らと共に、岡城主志賀親次に降伏を迫る。親次がこれを拒否したため、岡城攻めが開始された。九州征伐後、薩摩に移る。
 
 
  田北紹鉄 (?〜?)
 天正八年、田原親貫討伐に反対し、宗麟に対して挙兵。熊牟礼城に籠もった。攻城側の説得に応じ、他国へ逃れることとした。その途中、伏兵に襲われ、自ら腹を切った。宗麟は熊牟礼城焼き討ちを命じたが、暴風雨や天狗倒し(岩の崩落現象)が起こり、大友勢は紹鉄の祟りと恐れ、熊牟礼城に近づこうとしなかったと伝わる。
 
 
  田北鎮周 (?〜1578年)
 天正年間頃、蛟ノ尾城主。相模守。耳川合戦で討死。
 
 
  田北鑑生 (?〜?)
 田北氏十四代当主。日差城主。大友家家老。日差殿。
 
 
  田北鎮述 (?〜?)
 田北鑑生の子。田北氏十五代当主。日差城主。
 
 
  田北鎮生 (?〜?)
 田北鎮述の子。田北氏十六代当主。日差城主。刑部大輔。田北鎮周討死後、蛟ノ尾城を賜る。
 
 
  田北統生 (?〜?)
 田北鎮生の子。田北氏十七代当主。大友家改易後、家系は日差村の大庄屋となった。
 
 
  加来専順 (?〜?)
 宇留津城主。入道。天正十四年、高橋元種への人質となる。子の与次郎、新左衛門、孫兵衛は父のために籠城。豊臣勢と戦うも一日で敗れた。孫兵衛は城井鎮房の乱に応じている。
 
 
  草野鑑昌 (?〜?)
 大友家臣。発心城主。子の鎮永と共に龍造寺家に通じ、主家に背く。戸次鑑連に攻められるが、鑑連は天正十三年九月一日、発心城攻めの陣中で七十三年の生涯を終えている。
 
 
  麻生隆実 (?〜?)
 山鹿麻生宗家当主。山鹿城主。山鹿麻生家は宇都宮支族。摂津守。永禄十年、麻生鎮里を破る。
 
 
  麻生家氏 (?〜?)
 麻生隆実の子。次郎左衛門。九州征伐後、浪人。後に黒田家に仕えるが、出奔している。
 
 
  麻生四郎右衛門 (?〜?)
 麻生隆実の子。家氏の弟。兄が黒田家を離れると、代わりに召し抱えられた。
 
 
  麻生鎮里 (?〜?)
 花尾城主麻生氏。左衛門大夫。花尾城主となっていた大内重臣相良武任が討たれると、居城に復帰。永禄十年、宗家麻生隆実と不和になり、合戦に敗れ島津家を頼り落ち延びた。
 
 
  麻生隆守 (?〜1587年)
 岡城主。天文十五年九月二十七日、妻子と共に自刃。
 
 
  日野三九郎 (?〜?)
 親山城主。
 
 
  問注所重直 (?〜?)
 問注所親照の子。井上城主。井上城は大永二年、親照が築城した。築城当初は親照の弟親春が城主を務めていた。秋月氏に敗れ長岩城に移る。
 
 
  問注所統景 (?〜?)
 天正十二年、西隈上城主星野隆実は大友家の東山城を奪う。統景は長岩城、松尾城に籠もって応戦した。
 
 
  問注所次郎右衛門 (?〜?)
 長岩城主。天文年間、大友家に属す。後に小早川隆景に仕え、朝鮮で討死した。子の三右衛門は立花家に仕えた。
 
 
  長野弘勝 (?〜1568年)
 三岳城守将。永禄十一年九月、毛利軍に討たれた。
 
 
  伊美弾正左衛門 (?〜1561年)
 永禄二年九月、大友家は毛利家に奪われた門司城を奪回するが、小早川家臣浦宗勝らによって再び攻め落とされる。永禄四年十月、大友軍は門司城奪回のために再び攻め込むが、この合戦でも浦宗勝が奮戦し、伊美弾正左衛門が討ち取られた。
 
 
  長野助盛 (?〜?)
 三郎左衛門。永禄十一年、馬ヶ岳城主。天正十四年、豊臣勢に降伏。子は永盛。
 
 
  中尾盛行 (?〜1584年)
 緩木城主。天正十二年、宗麟の寺社焼き討ちを諫める。宗麟は激怒し、清野美作守、進肥前守に緩木城を攻めさせた。肥前守の高城攻めで、主将安部豊前守が討死。盛行は寡兵ながら奮戦し、苦戦した大友勢は兵糧攻めに持ち込むこととした。天正十二年三月二十四日、遂に城内で自刃し、緩木城も落城した。
 
 
  清野美作守 (?〜?)
 仏焼奉行。天正十二年、緩木城主中尾盛行を攻める。
 
 
  斎藤道暦 (?〜?)
 大友家臣。九州征伐後、山ノ城城主となる。
 
 
  阿南惟秀 (?〜?)
 笹原目城代。天正十四年十二月、島津家臣白板石見守に攻められ、降伏。搦手の守りを任されるが、密かに志賀親次と連絡を取り、笹原目城攻めを行わせる。白坂石見守が迎撃のため出陣すると、搦手に火を放ち、石見守を討ち取った。
 
 
  山田輝家 (?〜?)
 山田城主。天正十四年、豊臣勢に降伏。
 
 
  広津民部大輔 (?〜?)
 広津城主。天正十四年、豊臣勢に降伏。
 
 
  中八屋藤左衛門 (?〜?)
 角田城主。天正十四年、豊臣勢に降伏。
 
 
  永江平方 (?〜?)
 勘解由左衛門。永禄三年、筑後江ノ浦城を築く。家系は立花家臣となった。
 
 
  三池鎮実 (?〜?)
 筑後大間城主。上総介。後に立花家に仕える。
 
 
  赤司資清 (?〜1569年)
 明石城主。永禄十二年、討死。
 
 
  大津秀門 (?〜1574年)
 筑後津村城主。大助。天正二年、龍造寺家に攻められ討死。
 
 
  安武政勝 (?〜?)
 海津城主。天正四年、龍造寺家に攻められ黒木に逃れる。
 
 
  川崎鎮則 (?〜1587年)
 犬尾城主。天正十五年、九州征伐により討たれた。
 
 
  黒木家永 (?〜1584年)
 猫尾城主。大友家から龍造寺家に寝返る。天正十二年、大友宗麟に攻められ討死。
 
 
  草野家清 (?〜1587年)
 発心城主。天正五年、龍造寺家に寝返る。大友家の攻撃を防ぎきるが、九州征伐時に討たれた。
 
 
  小川鑑昌 (?〜?)
 小川館主。伊賀守。大友家に背いたために討たれた。
 
 
  千手宗元 (?〜?)
 秋月氏らと同調し、香春岳城に籠もり謀叛を起こす。
 
 
  小原鑑元 (?〜1556年)
 遠江守、宗惟入道。姓は「おばる」と読む。天文十九年、肥後関城代。同年の菊池義武の攻撃に同調する者がいないかを監視する役目であったと言う。弘治二年五月八日、叛心有りとして大友勢に討たれた。
 
 
  辺春親行 (?〜1587年)
 辺春親運の子。九州征伐に道中案内役として協力したため、所領を安堵される。天正十五年、肥後一揆では佐々成政に加勢。しかし、途中から一揆側に属す。そのため豊臣勢に討たれたとも、落ち延びたとも伝わる。肥後一揆は隈部氏、和仁氏、辺春氏を中心としたものだった。
 
 
  辺春常陸介 (?〜?)
 辺春一門。大友義統の書状に名がある。他に辺春権介、辺春能登守がいた。
 
 
  野村圭殿 (?〜?)
 天正年間、筑後長瀬城主。
 
 
  寒田親将 (?〜1534年)
 永正年間、友親治の籠もる小門牟礼城を攻める。天文三年四月、大内家との勢場ヶ原合戦で討死。
 
 
  清田鎮忠 (?〜?)
 天正八年頃、二千三百余名を率いて安国寺門徒と争う。門徒や周辺の武家が安国寺に籠もった理由は、大友宗麟の次男親家が田原氏の家督を継ぐことに反対したためである。
 
 
  八坂甚太郎 (?〜?)
 天正八年以降、安岐城主。
 
 
  吉荘右馬介 (?〜1578年)
 豊後烏帽子岳城主。耳川合戦で討死。
 
 
  鬼木信家 (?〜1595年)
 岩戸寺城主。左衛門督。文禄四年、黒田家に攻められ城に籠もるも討死した。
 
 
  山口紀伊守 (?〜1595年)
 岩戸寺城守将。文禄四年、黒田家に攻められ城に籠もる。流れ矢に当たり討死。
 
 
  永松大膳 (?〜1595年)
 岩戸寺城守将。文禄四年、黒田家に攻められ城に籠もる。葛原時房らと共に奮戦するが、城は落とされた。
 
 
  櫛来新右衛門尉 (?〜?)
 櫛来一門。天文二年、大友義鑑の書状に名がある。
 
 
  櫛来藤九郎 (?〜?)
 櫛来一門。
 
 
  櫛来佐渡守 (?〜?)
 櫛来一門。
 
 
  櫛来豊重 (?〜?)
 櫛来一門。大和守。天正十六年、城井鎮房攻めに参加。
 
 
  櫛来土佐守 (?〜?)
 櫛来一門。朝鮮に渡海。
 
 
  佐藤信隆 (?〜1600年)
 繁美城主。佐藤家二十四代当主。佐藤家は源義経の家臣、佐藤忠信の一族である。天正十四年、島津家に攻められ、居城を焼失。吉祥寺に移住。朝鮮出兵参加。慶長五年、石垣原合戦で討死。
 
 
  真玉統寛 (?〜1590年)
 真玉氏九代当主。真玉城主。大友一族。天正十八年、小田原征伐に参加するため、竹田津の港に向かう。しかし、途中の長小野峠で家臣山田兼佐によって殺害された。これにより、真玉氏は滅亡している。
 
 
  井ノ口季光 (?〜1590年)
 真玉統寛に仕える。天正十八年、長小野峠で真玉統寛が山田兼佐に討たれると、即座に駆けつけ、兼佐を討ち取る。季光自身も統寛の近習上野正信に討たれた。非常に不可解な事件である。
 
 
  富来実直 (?〜1578年)
 富来氏十八代当主。富来氏の祖は御家人永井氏とも、大友氏四代親時の庶子忠政とも伝わる。大友重臣。富来城主。耳川合戦で討死。
 
 
  富来実信 (?〜1578年)
 富来実直の子。耳川合戦で討死。
 
 
  富来鎮久 (?〜?)
 富来氏十九代当主。朝鮮で討死。
 
 
  富来統長 (?〜?)
 富来氏二十代当主。大友家改易後、浪人となり日向に移る。子の長利は故あって佐賀で自刃。これにより、富来氏は滅んだ。
 
 
  姫島三甫 (?〜?)
 姫島城主。入道。永禄十二年、立花山城攻めに参加。
 
 
  木付鎮直 (?〜?)
 木付城主。中務少輔。天正十四年十月、島津家臣新納忠元に攻められ籠城。鎮直は二ヶ月間、持ちこたえ、豊臣軍に備えるため撤退を開始した島津軍に突撃。大いに打ち破った。宗麟は戦功を賞し、感状を贈っている。また、木付城は勝山城と呼ばれるようになった。主家改易に加え、朝鮮で子の統直、孫の直清を失ったため、妻と共に自刃した。所領は前田玄以、後に杉浦長房に与えられている。
 
 
  木付統直 (?〜?)
 木付鎮直の子。子の直清と共に朝鮮に渡海。しかし、直清が討死したことを悲しみ、自らも自刃した。
 
 
  木付直清 (?〜?)
 木付統直の子。朝鮮鳳山合戦で討死。
 
 
  木付鎮秀 (?〜1580年)
 木付一門。天正八年、田原征伐のため安岐城攻めに向かう。途中、奈多鎮基の軍勢に攻められ討死。
 
 
  木付鎮之 (?〜1580年)
 木付一門。天正八年、奈多鎮基に攻められ、父と共に討死。
 
 
  大神鎮氏 (?〜?)
 日出城主。天文三年、大内家の豊後攻めの際、鹿鳴越城を守る。大内・大友両軍は勢場ヶ原で合戦となり、大内家に戦死者三百五十八人、大友家に戦死者二百八十三人を出した。合戦で多くの死者を出したため、大内勢は撤退した。
 
 
  大神親照 (?〜1522年)
 大神顕親の子。左衛門大夫。深江城主。寺社奉行。讒言により来向寺に幽閉される。後に大友義鑑によって殺害される。大永二年没。七十五名の家臣も同時に討たれた。この事件は冤罪であったとわかり、子の親継は所領相続を認められた。
 
 
  大神親継 (?〜?)
 大神親照の子。深江城主。
 
 
  大神鎮正 (?〜?)
 深江城主。天文三年、大内家の豊後攻めの際、軍勢を鹿鳴越城防衛に派遣している。
 
 
  大神鎮勝 (?〜1593年)
 深江城主。天正十四年、島津軍に攻められたため深江城から退く。文禄二年、朝鮮で討死。
 
 
  大津留鎮益 (?〜?)
 大神一族。松ヶ尾城主。天正十四年、居城を島津家に攻められる。鎮益が龍王城に出仕していたため、松ヶ尾城は守りが薄く、勝機がないと悟った大津留一門は自刃している。
 
 
  林重治 (?〜?)
 大神鎮正の家臣。佐渡守、天文三年、大内家の豊後攻めの際、鹿鳴越城を守る。
 
 
  麻生親政 (?〜?)
 高尾城主。摂津守。嫡子七郎を失うと、大友家から離反。毛利家に属す。永禄九年一月二十日、大友家は田原親賢を総大将に高尾城を攻めた。二月を過ぎても持ちこたえたが、遂に一族十八人と共に自刃した。城攻めの際、親政に同情した者空砲を撃つなど、形だけの攻撃をしたと言う。
 
 
  麻生七郎 (?〜?)
 麻生親政の長男。大友氏への人質となる。田原親賢の子、新七郎から嫌がらせを受ける。それに耐えかね、遂に新七郎を殺害。自らも腹を切った。
 
 
  麻生統宣 (?〜?)
 麻生親政の次男。四郎、左馬介、公明。高尾城落城後、筑後柳川に逃れる。後に帰郷するも、大友家によって毒殺された。
 
 
  麻生乙丸 (?〜?)
 麻生親政の三男。父の死後、黒村政勝に養育される。後に田原家に捕らえられ、誅殺された。
 
 
  佐野親重 (?〜1584年)
 土井城主。弘治二年、大友家に降伏。以後、家臣となる。永禄九年、一族麻生氏が大友家に滅ぼされると、その反発から毛利家に属す。時枝鎮継と共に光岡城を攻め落とす。天正十四年、大友家臣清水村城主内尾帯刀に討たれる。
 
 
  時枝鎮継 (?〜?)
 時枝城主。弘治二年、大友家に降伏。以後、家臣となる。永禄九年、佐野親重と共に毛利家に属す。赤尾氏の居城光岡城を攻め落とした。小早川隆景に援軍を依頼し、二百五十余名が派遣される。天正十三年、高家城主中島統次勢三百余名の夜襲により、周防の小早川隆景の下に逃れることとなった。
 
 
  赤尾賢種 (?〜?)
 光岡城主。弘治二年、大友家に降伏。以後、家臣となる。弘治三年、山田安芸守を討つ。この功により、式部少輔に任ぜられる。永禄九年、高尾城攻めに参加。毛利家に通じた時枝鎮継、佐野親重の夜襲によって、居城を奪われる。
 
 
  赤尾統秀 (?〜?)
 光岡城主赤尾統秀の次男。時枝氏、佐野氏の光岡城攻めの際、大友氏の館に逃れる。
 
 
  赤尾鎮房 (?〜?)
 赤尾賢種の一門。鎮房没後、四十九日法要の日に時枝鎮継、佐野親重の光岡城攻めが行われ、光岡城は落城した。
 
 
  中島房直 (?〜1589年)
 高家城主。伊予守、統次。永禄九年、高尾城攻めでは搦手攻めの総大将となる。時枝鎮継、佐野親重が光岡城を攻めると、赤尾氏の救援に向かうが、伏兵となった時枝勢に攻められ敗走。天正十三年、光岡城を攻め落とす。九州征伐時、高家城に籠もる。黒田勢に敗れ、向野城主松尾民部の下へ逃れる。後に民部が黒田家に属したため、遂に自刃した。天正十七年のことである。
 
 
  中島秀直 (?〜?)
 中島房直の一門。永禄九年、高尾城攻めに参加。他に中島惟真、中島俊直、中島光孝らも参加した。
 
 
  中島弾正忠 (?〜?)
 中島房直の一門。九州征伐時、高家城籠城に参加。他に中島民部丞、中島雅楽助も参加した。
 
 
  成恒矩種 (?〜?)
 田嶋崎城主。越中守。永禄九年、高尾城攻めで一番乗り。この功により、感状を賜る。
 
 
  成恒清種 (?〜1579年)
 田嶋崎城主。佐渡守。天正七年、野仲勢に攻められ自刃。
 
 
  成恒鎮家 (?〜?)
 成恒清種の子。越中守。天正七年、野仲勢に攻められ、大畑城に逃れる。後に仏門に入り、安信を号す。法名「大森院殿思恩安信大居士」。
 
 
  成恒統忠 (?〜?)
 成恒鎮家の子。進士兵衛尉。医術に長ける。天正七年、野仲勢に攻められ、大畑城に逃れる。子孫は医師を家業とした。
 
 
  狭間為直 (?〜?)
 真嶽城代。
 
 
  狭間統為 (?〜?)
 狭間為直の子。越後守。真嶽城代、鹿鳴越城代。天正十四年、島津軍を撃退したため感状を賜る。九州検地後、豊後日出庄の検地高を整理。慶長三年、「日出庄御差出帳」全八冊にまとめた。同年九月、日出庄の惣庄屋となる。関ヶ原合戦時、西軍福原直高に属す。戦後、西軍に属したことを咎められ、細川家臣松井康之の軍兵百二十余名に屋敷を囲まれる。鬼丸九兵衛からの急報により、宇佐郡矢野氏の下に逃れた。慶長六年四月、木下延俊が日出藩主となると帰郷した。
 
 
  狭間統親 (?〜1600年)
 狭間為直の子。統為の末弟。関ヶ原合戦で西軍に属すも討死した。
 
 
  狭間統満 (?〜?)
 狭間統為の子。七蔵、新次郎、権右衛門尉。父と共に日出庄惣庄屋となる。関ヶ原合戦後、細川氏に追われ矢野氏の下に逃れる。木下氏から辻間村大庄屋に任ぜられた。
 
 
  狭間山城守 (?〜?)
 天正十四年、島津家の豊後攻めの際、大友義統は高崎山城を狭間山城守に預け、豊前龍王城に退いた。
 
 
  狭間鎮秀 (?〜?)
 高崎山城守将。天正八年、田北征伐に参加。豊後の国人衆は田北氏を討つことに消極的であり、大友宗麟の出陣令にも応じようとしなかった。戸次道雪の命で出陣したものの、田北紹鉄に落ち延びるよう説得している。これらの逸話は、耳川敗戦以降の大友氏の没落を物語っている。天正十四年、大友義統の命により、権現岳城を築く。島津家に攻められたため、権現岳城に籠もる。夜襲を行い、島津軍を打ち破る。島津家側から人質を出すことで和睦した。
 
 
  渡辺光守 (?〜?)
 鬼子岳城主。筑後守。天文二十二年、四日市城を築く。
 
 
  渡辺統忠 (?〜?)
 渡辺光守の子。四日市城主。和泉守、光政。一門で構成される渡辺切寄衆を率いた。九州征伐時、三好秀次(豊臣秀次)の軍勢に加わる。
 
 
  渡辺統政 (?〜?)
 四日市城主。天正十七年、黒田長政に攻められ、五百余名で籠城。八十余名で突撃をかけ、黒田軍を撤退させる。後に黒田家に人質を出して屈服した。
 
 
  渡辺統房 (?〜?)
 渡辺統政の子。天正十七年、父と弟統貞と共に黒田勢に突撃をかける。
 
 
  櫛野茂晴 (?〜?)
 永禄九年、時枝氏、佐野氏が大友家に背くと、これらと戦い、功を挙げた。
 
 
  櫛野義晴 (?〜?)→櫛野茂晴と同一?
 九州征伐時、三好秀次(豊臣秀次)に属す。天正十七年、黒田家に改易される。
 
 
  長野因幡守 (?〜?)
 龍ヶ鼻城守将。龍ヶ鼻城には、後に都甲山城入道が城番として入城した。
 
 
  元重鎮頼 (?〜1578年)
 元重城主。天正六年、耳川合戦で討死。
 
 
  元重統信 (?〜?)
 元重城主。九州征伐時、豊臣軍に従う。天正十七年、黒田家に属し、元重村の庄屋となった。
 
 
  新開統宏 (?〜?)
 新開館主。新五兵衛。天正十年、安心院千代松丸を九人ヶ峠で殺害。大友義統の龍王城入りを助けた功により、一字を賜る。
 
 
  松木正直 (?〜?)
 畳石城主。和泉守。香浄寺伊賀守を討つ。
 
 
  松木正春 (?〜?)
 松木正直の子。九州征伐時、豊臣軍に属す。黒田家臣となった。家系は細川氏の名により、大庄屋となった。
 
 
  松木主水 (?〜1578年)
 松木正直の弟。耳川合戦で討死。
 
 
  飯田鎮敦 (?〜1578年)
 大内家臣飯田興秀の子。左京進。周防山口に居住。厳島合戦後、豊後に移る。弘治二年、大友家臣となる。一字を賜り、名を長秀から鎮敦に改めた。天正六年十月十一日没。法名「空心安徹信士神義」。
 
 
  飯田重堅 (?〜?)
 飯田鎮敦の子。新左衛門。天正十五年、黒田家に改易される。以後、帰農した。
 
 
  飯田義忠 (?〜1587年)
 大内家臣飯田興秀の子。鎮敦の弟。但馬守。飯田城主。門司城攻めや、近隣諸侯との合戦に参加。天正十年、龍王城攻めに参加。天正十五年七月十日没。
 
 
  安心院麟生 (?〜1583年)
 大内家臣。龍王城主。公正。姓は「あじむ」と読む。弘治二年、大友家に降伏。宗麟から一字を賜り、家臣となる。門司城攻めに参加。天正十年、子の千代松丸と共に大友家に背く。田原親賢らの兵を退けた。天正十一年正月、佐田弾正忠の説得に応じ、開城。その直後に切腹した。
 
 
  安心院千代松丸 (?〜1584年)
 安心院麟生の子。父と共に大友家に背く。天正十二年十月十二日没。法名「安心院殿前傑山良英大居士神儀」。
 
 
  横岳鎮貞 (?〜?)
 元亀元年八月十二日、龍造寺家との合戦の戦功から肥前に知行五百町を賜る。
 
 
  池永重則 (?〜?)
 池永城主。左馬頭、重量。池永氏は宇佐権大宮司式佐の家系で、薦神社池守となった。天正年間、大友家に属す。後に黒田勢三千に攻められ、池永城に籠もる。一族や、大貞八幡社の神官、神兵ら八百五十余名が籠城に参加した。特に重則の妻は薙刀を振るい、敵兵十三人を切ったと言う。しかし、防戦適わず自害した。子の子次郎は後に東小右衛門を名乗った。
 
 
  加来成恒 (?〜?)
 大内家臣。大畑城主。壱岐守。弘治二年、大友家に降伏。
 
 
  加来統直 (?〜1588年)
 大畑城主。安芸守。天正七年、野仲重兼に攻められる。家臣福島佐渡守らを伏兵とし、野仲勢に挟撃を仕掛ける。これにより、野仲勢は撤退。以後、四十八回も野仲重兼に攻められ、その都度、撃退した。天正十六年、黒田家に攻められる。黒田勢の死者は二百八十余名、加来勢の死者は三百余名に達した。統直は家臣五名と共に城から逃れるも、秩大炊助の軍勢に討たれた。子の重基は帰農した。
 
 
  草場義景 (?〜1572年)
 草場城主。姓は伊藤田とも。伊豆守。元亀三年没。
 
 
  草場義忠 (?〜1587年)
 草場城主。甲斐守。天正十五年没。
 
 
  藍原忠俊 (?〜?)
 坂手隈城主。新左衛門。天正七年、野仲勢に降伏。
 
 
  末広正行 (?〜?)
 末広城主。対馬守、妙玄。天正七年、野仲勢に降伏。子の四郎と共に剃髪した。
 
 
  小城定久 (?〜?)
 法華寺城主。天正七年、野仲勢に攻められるも撃退。
 
 
  利光鑑教 (?〜1586年)
 鶴賀城主。越前守。宗匡、宗魚。天正十四年、肥前に出陣。居城が島津家に包囲されたと知り、直ちに帰城。子の統久らが島津家と和議を結んだと知り、その油断をつくために夜襲を決行。島津勢は敗れ、撤退した。同年十二月六日、島津軍によって居城を攻められる。城に火を放たれ、二の丸、三の丸が落とされた。翌七日、島津軍が撤退すると、それを確認するため櫓に上がる。その時、島津兵に射抜かれ討死した。また、撤退する島津軍に追撃をかける際、伊勢貞昌の鉄炮に討たれ討死したとも伝わる。家臣はその後も籠城を続け、城兵千余名が討死。島津軍は三千余名もの死者を出したと伝わる。大友宗麟は城兵の活躍を絶賛している。
 
 
  利光統久 (?〜?)
 利光鑑教の子。天正十四年、父の出陣中に島津家に攻められる。兵力の差が大きいため、家臣牧宇之助を人質に出して和睦。父の帰城後、油断した島津勢に夜襲を決行。
 
 
  成大寺豪永 (?〜?)
 利光鑑教の叔父。天正十四年、鶴賀城に籠もる。他に高橋左近、村上三郎右衛門ら七百余名が籠城に参加した。
 
 
  利光伊予 (?〜?)
 利光一門。天正十四年十二月三日、島津軍に備えるため、佐藤美作と共に三百余名を率いて出陣。島津勢五百余名と大筒井川で合戦になるも、兵力の差から撃退された。この合戦で利光勢は佐藤美作ら三十二名の死者を出したが、島津勢は五十三名の死者を出している。
 
 
  朝見景治 (?〜1586年)
 鶴賀城守将。太郎。天正十四年十二月六日、島津軍の鶴賀城攻撃によって討死。他に徳丸長継が討死している。
 
 
  清田越後守 (?〜?)
 享禄三年、同紋衆二百余名を率いて本庄但馬守、中村左衛門佐を攻める。弟七郎左衛門尉を合戦で失うが、さらに賀来城主賀来左衛門大輔も攻めた。賀来勢は鳥ヶ鼻城主橋爪鑑種らの応援を受け、清田勢を挟撃。これにより清田勢は敗北。追撃を受け、多くの者が討死した。弓に長けた家臣加奈多兵部丞が、殿軍として矢を放ったため、越後守は窮地を脱することが出来た。賀来左衛門大輔は負傷し、合戦の翌日に死没した。鑑種らは大友氏の報復を恐れ、伊予に逃れた。しかし、報復されることはなく、後に帰郷している。
 
 
  清田七郎左衛門尉 (?〜1530年)
 清田越後守の弟。享禄三年、兄と共に他紋衆の本庄、中村両氏を攻める。しかし、この合戦で討死した。
 
 
  稙田貞世 (?〜1600年)
 鷲ヶ尾城主稙田氏三十一代当主。慶長五年、石垣原合戦で討死。
 
 
  小友田佐助 (?〜?)
 野仲家臣。小友田城主小友田氏。天正七年、坂手隈城攻め参加。天正十年、田嶋崎城攻め参加。天正十六年、長岩籠城参加。一族に小友田摂津守、小友田新兵衛がいた。
 
 
  斎藤将監 (?〜?)
 天正十四年、島津家に攻められ船ヶ尾城に籠もる。他に土師弥七らも籠城した。
 
 
  笠和矢因幡守 (?〜?)
 天正十四年、島津家に攻められ船ヶ尾城に籠もる。因幡守が島津家に通じ、城内に火を放ったため落城した。
 
 
  魚返伊豆入道 (?〜?)
 魚返城主。姓は「おがえり」と読む。天正八年、田原征伐に際し、鞍懸城を攻める。天正十五年、角牟礼城籠城に参加。
 
 
  魚返民部丞 (?〜?)
 魚返伊豆入道の一門。天正十五年、角牟礼城籠城に参加。他に魚返宮内少輔も籠城に参加した。
 
 
  岐部掃部介 (?〜?)
 岐部城主。天正十四年、島津家の攻撃によって落城。玖珠城に逃れ、同城に籠もる。
 
 
  中島美濃守 (?〜?)
 玖珠城守将。天正十四年、島津家に攻められ籠城。兵糧攻めに遭い、さらに内通者が出たため落城。主な武将で二十四人、兵卒三百二十四人が討死。百三十六人が負傷した。
 
 
  山田伝九郎 (?〜?)
 玖珠城守将。天正十四年、玖珠城に籠もる。伝九郎は島津家に通じ、城に火を放つ。そのため、籠城軍は開城することとなった。
 
 
  古後中務少輔 (?〜?)
 古後城主古後氏。天文年間、古後清次郎、古後太郎と共に豊前に出陣。大友義鑑から感状を賜る。他に一門として古後左近大夫、古後弾正がいた。
 
 
  古後摂津守 (?〜?)
 古後城主。天正十五年正月二日、角牟礼籠城に参加。防戦の末、島津軍を撤退させている。
 
 
  森五郎左衛門 (?〜?)
 角牟礼城主。天正十五年、島津軍六千に囲まれる。豊臣軍九州渡海の報を受け、島津軍は撤退した。
 
 
  宿利外記 (?〜?)
 弓の名人。天正十五年、角牟礼城籠城に参加。島津勢に矢を放ち、三の丸陥落を防いだ。他に太田八郎、長野安芸、平井弾正らも籠城に参加した。
 
 
  野上兵庫助 (?〜?)
 野上城主。天正十四年、島津軍六千名に攻められ籠城。一門野上鬼千代が内通したため、落城した。
 
 
  帆足鑑直 (?〜?)
 日出生城主。天正十四年、新納勢に攻められ、五百余名を率いて籠城。三百余名で新納陣中を強襲。新納忠元は負傷し、撤退した。妻は古後摂津守の娘。彼女は森鎮生の妻となり、角牟礼城に籠城した娘に宛てて「すこしの油断より大事に及ぶものにて候えば、昼夜心を用い給わんこと肝要に候。合戦難儀に及ばん時、あわてて自害し給うべからず。ただ本丸を枕にて討死し給うべし。もし未練のはたらき候わば、七生までの勘当たるべく候」と手紙を送っている。このように、鑑直夫人は「鬼御前」と呼ばれるほどの女性であった。
 
 
  帆足鎮直 (?〜?)
 帆足鑑直の長男。次弟は鎮次。三弟統通は日出帆足家を興し、四弟統実は戸次帆足家を興した。兄弟四人は天正十四年、日出生城籠城に参加している。
 
 
  佐藤鑑直 (?〜1586年)
 天正十四年四月二十七日没。法名「玉岩源聖禅定門」。
 
 
  佐藤鎮真 (?〜1589年)
 佐藤鑑直の弟。豊後安禅寺砦主。山城守。大友家改易後、子の長治と共に小竹村に居住。天正十七年八月十七日没。
 
 
  財津大和守 (?〜?)
 豊後藤山城主。大永三年、大友義鑑の日田郡攻めに参加。大いに功を挙げたが、讒言によって義鑑に疎まれ、堤弾正少輔、高瀬越後守に攻められる。待ち伏せによって堤弾正少輔を討ち取った。後に高瀬越後守に敗れ、所領を失う。天文三年、藤山城奪回に成功。
 
 
  財津三郎右衛門 (?〜?)
 豊後日田八郡老の一人。大友家改易後、豊臣家臣毛利高政に仕える。慶長の役に参戦。他に坂本太郎右衛門、羽野作内、石松五介も毛利高政に仕えた。
 
 
  堤弾正少輔 (?〜1523年)
 豊後堤城主。大友義鑑の命により、高瀬城主高瀬越後守と共に藤山城を攻める。大雨のなか、川を渡れなかった高瀬勢と分断されたため、単独で城攻めを決行。しかし、財津勢の待ち伏せにより討死。
 
 
  吉田一祐 (?〜?)
 豊後栗山城主。天正十四年、島津勢に攻められるも、防戦に功があった。薩摩勢の雑兵六十名ほどが領内で狼藉を働くと、平原坂で待ち伏せし、その大半を討ち取った。宗麟から恩賞として「月山の太刀」を賜る。
 
 
  実相寺統国 (?〜1586年)
 天正年間頃、武山城主八百貫。太郎右衛門。三河吉良氏の家系と言う。天正十四年、島津家に攻められ三百余名で籠城。家臣に背かれ、討死。武山城も落とされた。
 
 
  鳩兵部丞 (?〜?)
 豊後久保泊城守将。天正十四年十一月十三日、島津勢二百余艘に攻められる。鳩ノ浦の鳩兵部丞、鳩源八、久保泊の加嶋同族鉄炮で応戦し、撃退したとも、逆に背後から攻められ落城したとも伝わる。
 
 
  柴田宮千代 (1574〜1586年 13歳没)
 野津院衆柴田大蔵の次男。天正十四年、島津家に攻められ、岩瀬砦に籠もる。城兵は島津勢九十八名を討つも、落城。宮千代は捕らえられたが、隠し持っていた脇差で敵の大将格を刺す。自身はその場で誅殺されたが、妹が兄を討った者を刺した。妹もこれを咎められ、誅殺されている。
 
 
  広田大膳 (?〜?)
 野津院衆。天正十四年、島津家に攻められ、王子ヶ城に籠もる。井上左馬助らも籠城に参加した。
 
 
  堀民部 (?〜?)
 野津院衆。天正十四年、島津家に攻められ、王子ヶ城に籠もる。岩田道果らも籠城に参加した。
 
 
  軸丸蔵人 (?〜?)
 柏野城主。天正十四年、島津家に降伏。
 
 
  加藤長房 (?〜?)
 四郎左衛門。杉ヶ嶽合戦後、恩賞として知田村十七貫文を賜る。
 
 
  市原頼房 (?〜?)
 田中城主。天正十四年、島津家に攻められ落城。
 
 
  柴田紹安 (?〜1586年)
 朝日岳城守将。天正十年、朝日岳城の築城を行う。天正十四年、子の左京進らと共に島津家に通じ、島津家久の豊後攻めの道中案内を務める。島津軍の松尾城入城を助けた。天面山城に籠城し、家族は星河城に移した。しかし、佐伯惟定が星河城を攻め落とし、紹安の妻子らを誅殺した。紹安は激しく動揺し、再び大友家に属そうとする。天正十四年十二月四日、佐伯惟定らに攻められ討たれる。
 
 
  柴田左京進 (?〜1586年)
 柴田紹安の長男。天正十四年十二月四日、弟次郎らと共に大友勢に捕らえられ、正西寺で誅殺された。
 
 
  土持親成 (?〜1578年)
 臼杵郡松尾城主。天正年間、島津家に寝返る。天正六年、大友義統に攻められ自刃。
 
 
  高畠新右衛門尉 (?〜?)
 天正十四年十二月四日、星河城攻めで先鋒。
 
 
  森迫鎮富 (?〜1578年)
 森迫館主。平氏。兵部少輔。天文十九年、肥後合志村に出陣し、戦功があった。天正六年、耳川合戦で討死。
 
 
  森迫親正 (?〜1550年)
 森迫鎮富の子。天文十九年、肥後合志村に出陣するも、討死。
 
 
  上田玄佐 (?〜?)
 切支丹。ロレンソ・ペレイラ。天文二十年十一月五日、ザビエルと共に日本を離れる。他にベルナルド、ジョアン、アントニオ、マテオの四人の日本人が従った。十二月二十七日、マラッカに入港。十二月三十日、マラッカから出航。天文二十一年一月二十四日、インドのコチンに入港。二月中旬、ゴアに入港。四月十七日、ザビエルは支那への布教のためゴアを離れる。玄佐もこれに従い、マラッカ経由で日本に帰国した。ベルナルドはローマまで旅を続けたが、マテオはゴアで死亡したらしい。他の二名の詳細は不明である
 
 
  福島佐渡守 (?〜?)
 加来家臣。田丸城主。天正七年、野仲勢撃退に功があった。天正十六年、黒田家に攻められ落城。
 
 
  実相景林 (?〜?)
 箱崎宮の易者。田原親貫が背くと、大友宗麟の命令で合戦の勝敗を占った。籤の結果、すぐ攻めるべきと出たため、大友家は兵を遣わし鎮圧した。
 

 
  僧侶、神官
 
 
  怡雲宗悦 (?〜?)
 瑞峰院住職。大友宗麟に招かれ、永禄八年頃、臼杵に寿林寺を創建。宗麟は次男親家を寿林寺に入れた。しかし、親家は僧侶になるならば自殺すると訴えた。宗麟は親家を僧侶にすることを諦めた。
 
 
  安養寺慶念 (?〜?)
 豊後臼杵の僧。文禄、慶長の役に際して朝鮮に渡海。主に豊臣兵の治療に努めた。また、「朝鮮日々記」を残した。
 
 
  徳陽 (?〜?)
 大友家の使僧。「明世宗実録」嘉靖三十六年の項目に「山口都督源義長、且咨送回被虜人口、咨乃用国王印、豊後太守源義鎮、遣僧徳陽等、具方物、奉表謝罪、請頒勘合修貢」とある。大友宗麟は徳陽らを明に派遣し、倭寇が行った非礼を詫び、朝貢して勘合貿易に参加した。
 
 
  中島惣右衛門 (?〜?)
 高勝寺座主。天正十四年、玖珠城籠城に参加。一門中島美濃守も参加した。落城の際、城を落ち延びる。
 
 
  円福寺宥栄 (?〜?)
 南都三本松円福寺権大僧都。法印。大友宗麟、義統は島津家の攻撃に備えるため、豊後と日向の境に城を築くこととした。柴田紹安、宥栄に候補地を選定させたところ、朝日岳が選ばれた。宥栄は縄張りについて助言を行ったと言う。さらに、付近の甲山を青山に改め、「朝日さす 光もつづく 青山は さかえ久しき 君が御代かな」という歌を残した。
 
 
  高山鎮実 (?〜?)
 豊後若宮大宮司。永禄六年、臼杵城鎮城の加持を務める。
 

 
  大友海賊衆
 
 
  若林越後守 (?〜?)
 若林鎮興の父か。大友親治から佐賀郷などに知行を賜る。
 
 
  若林鎮興 (1547〜1593年 47歳没)
 大友家の海賊大将。浦部衆。塩菊、中務少輔、道閑。大内輝弘の旧大内領奪回戦に参加。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に勝利。輝弘は鎮興の活躍を喜び、旧領奪回の後に百石を与えるとの書状を出すが、自身の敗死により反故となった。元亀三年四月、土佐一条氏救援に功があった。天正六年、土持親成攻撃に参加。天正八年、大友家に謀反をした浦部城主田原親貫討伐では、後ろ盾となった毛利海賊衆を撃退、追撃するなど大いに奮戦。大友宗麟は課役を免除し、軍船建設に励むよう命じた。朝鮮出兵参加。文禄二年八月二日、伊予二間津にて没す。四十七歳。浦部衆には若林氏、伊美氏、竹田津氏がいた。
 
 
  若林弾正忠 (?〜?)
 若林鎮興の一族。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  若林九郎 (?〜?)
 若林鎮興の一族。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  若林藤兵衛尉 (?〜?)
 若林鎮興の一族。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  若林大炊助 (?〜?)
 若林鎮興の一族。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  若林上総介 (?〜?)
 若林一族。
 
 
  若林越後守 (?〜?)
 若林一族。
 
 
  樋口左馬助 (?〜?)
 若林家臣。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  合沢市助 (?〜?)
 若林家臣。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  木田主殿助 (?〜?)
 若林家臣。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  内田新十郎 (?〜?)
 若林家臣。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  内田仁兵衛 (?〜?)
 若林家臣。永禄十二年八月九日、周防合尾浦海戦に出陣。
 
 
  岐部能登守 (?〜?)
 大友義鑑は某年十一月十六日付で乱妨を働く海賊の成敗を命じた。
 
 
  岐部掃部頭 (?〜?)
 大友義鑑は某年十一月十六日付で乱妨を働く海賊の成敗を命じた。
 
 
  岐部木工助 (?〜?)
 大友義鑑は某年十一月十六日付で乱妨を働く海賊の成敗を命じた。
 
 
  櫛松新右衛門 (?〜?)
 大友義鑑は某年十一月十六日付で乱妨を働く海賊の成敗を命じた。
 
 
  荒木右衛門 (?〜?)
 大友義鑑は某年十一月十六日付で乱妨を働く海賊の成敗を命じた。
 
 
  富来民部少輔 (?〜?)
 大友義鑑は某年十一月十六日付で乱妨を働く海賊の成敗を命じた。
 
 
  富来彦三郎 (?〜?)
 永享二年十二月、大友持直から父の領していた豊後、豊前、肥前の所領の相続を認められる。永正七年頃、。貿易船の中で中乗と船頭が喧嘩をすると、大友義長は富来彦三郎らに船を南日向外浦に繋留するよう命じられた。大永三年、田原氏の雄度牟礼城攻めに功があった。そのため来浦六十町を賜った。
 

 
  【付記】
 
 
 
 大友氏は一族を「同紋衆」、他の士豪を「他紋衆」として区別した。
 
 北志賀氏、南志賀氏、田北氏、朽綱氏、戸次氏、一万田氏、入田氏は「南郡七家」と呼ばれた。
 
 仏狼機は「国崩し」と呼ばれ、青銅で出来ている。2.88m。9.5口径。壱貫九拾目。天正七年、大友宗麟がポルトガルより購入。豊後臼杵城に配備。天正十四年、島津軍が奪取。砲身上部の装飾からインド・ゴア製と推測される。
 
 
 【大友家と対明貿易】
 応仁二年、大友家臣岐部茂実は明に渡り、修交貿易を行ったと言う。永正七年四月、朝鮮三浦(山浦、乃而浦、塩浦の三地域)の日本人が反乱を起こす。大永三年、細川氏、大内氏の家臣が勘合貿易の利権をめぐり、寧波で武力衝突を起こす。これは「寧波暴動」と呼ばれ、中国府吏が大内氏の家臣によって殺害されている。天文九年、明の倭寇頭目である王直は宇久盛定に貿易を求める。盛定はこれに応じ、その領内に唐人町が作られた。王直が海の神に安全を祈った明人堂が残されている。臼杵城下は貿易によって潤い、日本に帰化した明人の住む唐人町もあった。
 
 
 
 【大内義長の処遇】
 「中国治乱記」は毛利元就が大内義長を討つ際、義長の兄大友宗麟に使僧を派遣している。元就が豊後に義長を送るべきか否かを宗麟に問うと、宗麟は義長とは近年、不快な事があって連絡も取っていない。早々に討って欲しいと返答した。
 
 
 
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