織田弾正忠家 家臣団
 
 
 
  織田敏定 (?〜?)
 尾張守護代。清洲城主。大和守。尾張での勢力確保のため、織田伊勢守家当主織田敏広は斯波義廉を、織田敏定は斯波義敏をそれぞれ擁立した。文明十三年、織田敏広が没して子の寛広が跡を継ぐ。織田寛広は織田敏定と供に斯波義敏の子義寛を擁立。斯波義廉は越前朝倉家を頼って落ち延びた。尾張守護代は織田伊勢守家の職であったが、織田敏定が就任したため伊勢守家と合戦になる。法名「西厳」、または「常英」。子は信定、寛定、寛村、秀敏、定宗。
 

 
  織田敏定の子供
 
 
  織田信定 (?〜?)
 織田敏定の子。信貞。織田弾正忠家を三奉行家一の勢力にのし上げた。弟は秀敏。子は信秀、信康、信光、信実、信次、信正。法名「月厳」。
 
 
  織田秀敏 (?〜1560年)
 織田敏定の子。織田信定の弟。玄蕃充。織田信秀没後、織田信長の後見役として斎藤道三らとの外交に関わる。永禄三年、今川家に鷲津砦を攻められ討死。
 
 
  飯尾定宗 (?〜1560年)
 織田敏定の子。斯波一族飯尾氏に入る。奥田城主。某年六月十五日、津島神社にて津島踊りが行われた。その際、弁慶役を務める。永禄三年、討死。子は信宗。
 

 
  織田信定の子供
 
 
  織田信光 (?〜1555年)
 織田信定の子。織田信秀の弟。孫三郎。守山城主。弘治元年十一月、家臣坂井孫八郎に討たれた。信長はただちに那古野城を攻め、林通勝を城代とした。子は信成、信昌、仙千代。
 
 
  織田信実 (?〜?)
 織田信定の子。織田信秀の弟。信長の叔父。四郎三郎。
 
 
  織田信次 (?〜1574年)
 織田信定の子。織田信秀の弟。信長の叔父。孫十郎。守山城主。天正二年八月没。子は中川重政、盛月。
 
 
  織田信正 (?〜?)
 織田信定の子。織田信秀の弟。信長の叔父。掃部頭。楽田城主。
 

 
  織田信秀の子供
 
 
  織田信広 (?〜1574年)
 織田信秀の長男。織田信長の兄。津田三郎五郎、大隅守。天文九年、三河安祥城主。天文十八年、太原祟孚に攻められ捕縛される。先に織田家に拐かされていた松平竹千代との人質交換により帰還。弘治二年、斎藤義龍と謀り弟信長に挙兵。しかし鎮圧され、その後は信長の家臣となる。上洛後、義昭、公家との交渉役を務める。吉田兼見と昵懇になった。元亀元年九月、勝軍山城主。天正元年春、織田信長の名代として足利義昭に拝謁。天正二年九月二十九日、先鋒として出陣し、伊勢長島一向一揆の猛攻により討死。法名「寛厳」。娘は六角義秀、丹羽長秀に嫁いだ。
 
 
  織田安房守 (?〜?)
 織田信秀の次男と云う。織田信時と同一人物と考えられる。信時の受領名は安房守である。守山城を守ったというが、安房守も織田信時も同じ城を守っている。信時は弘治二年に没しており、安房守も弘治年間から記録がない。信時は長兄信広の同腹弟と伝わるが、信広と信長は五歳から十歳以上も年が離れている。四男信包は天文十二年頃に生まれており、信時が五男以降の生まれとすれば、信広とは十五歳から二十歳も年の離れた同腹兄弟になってしまう。信広に信長より年下の同腹弟がいたとは少々考えにくく、織田安房守と織田信時は同一人物であり、兄弟の順は信広、信時、信長、達成だったと推測される。
 
 
  織田信時 (?〜1556年)
 織田信秀の子。五男とも六男とも云う。織田安房守と同一人物と考えられる。安房守、喜蔵、秀俊。織田信広とは同腹。叔父織田信康の養子と云う。弘治二年、雲興寺に禁制を出す。雲興寺は無縁所であり、後に信長も禁制を出している。同年六月、居城である守山城で重臣角田新五に殺害される。もう一人の重臣である坂井喜左衛門の子、弥平次との男色関係が角田新五の権力基盤を脅かせたためと云う。織田信長が信時殺害の罪で角田新五を罰したという形跡はない。信長によって暗殺されたと考えることが出来る。信長は織田秀孝暗殺に関わった叔父信次を守山城主とするが、これは弟らを暗殺した恩賞ではないか。子は康長。娘は飯尾敏成に嫁ぐ。敏成討死後は本願寺家司下間頼龍に嫁いだ。
 
 
  織田信治 (?〜1570年)
 織田信秀の子。五男とも七男とも云う。九郎。元亀元年六月、浅井攻めのため近江に出陣。同年九月二十日、討死した。法名「寛厳」。子は正俊。
 
 
  織田秀孝 (?〜1555年)
 織田信秀の子。五男とも六男とも云う。美男であったと云う。弘治元年六月二十六日、龍和泉城周辺を一人で馬に乗って移動していた。その側で叔父織田信次は家臣と釣りをしており、馬が五月蠅いことに苛立った家臣洲賀才蔵が秀孝に矢を放った。これが刺さり、死亡した。織田達成は弟の仇を討つため挙兵するが、信次は事故だったと言い訳をして逃亡。織田信長は無警戒な秀孝が悪いとして追っ手を出すことはなかった。後に信次が罰せられずに守山城主として復帰したことから、信長が信次と結んで秀孝を暗殺したと推測される。
 
 
  織田信興 (?〜1570年)
 織田信秀の子。七男と云う。彦七郎。小木江城主。元亀元年十一月二十一日、一向一揆に小木江城を攻められ自刃した。小木江城は伊勢長島に近く、織田一門が城主であることから攻撃を受けた。
 
 
  中根信照 (?〜?)
 織田信秀の子。何番目の男児かは不明。越中守。母は遠江二俣城主中根忠貞の一族で、信照は中根忠貞の養子になったと云う。沓掛城城主。天正九年二月、三月の馬揃えで長益、長利と共に行進。本能寺合戦以降は信雄に仕え、二千貫を賜る。その後、記録から消える。
 
 
  津田秀成 (?〜1574年)
 織田信秀の子。八男とも九男とも云う。半左衛門尉。天正二年、伊勢長島一向一揆との合戦で討死した。
 
 
  津田長利 (?〜1582年)
 織田信秀の子。十一男と云う。又十郎、長規。天正二年、長島一向一揆との合戦に参戦。天正九年の馬揃えにも参列。本能寺合戦直後、織田信忠と共に討死。子は長正。娘は本丸殿と呼ばれ、織田信雄に側室となる。
 

 
  織田信長の子供
 
 
  織田信正 (1554〜1647年 94歳没)
 織田信長の庶長子。母は塙直政の妹直子で、天文二十三年五月五日に那古野城で生まれる。幼名は勝。帯刀、主膳、大隅守。天正十三年、京都見性寺にて出家し、見性軒を称す。信長は吉乃を最も愛し、彼女との間に生まれた次男信忠を嫡子とした。信正は廃嫡され、信忠が長男とされた。「系図纂要」、「好古類纂」など一部の系図にのみ名前が記される。生前から存在は無視されていたようで、本能寺合戦後も話題になることはなかった。家臣扱いだったのだろう。法名は「英厳」。見性寺に葬られる。長男は信衡(幼名勝若)で、母は織田家の生まれらしい。神戸信孝に娘がおり、織田信衡に嫁いだとも。この信衡とは信正の長男のことだろうか。次男は的寿(幼名亀千代)で、母は村井貞雲の娘。的寿は後に見性寺二世となった。
 
 
  羽柴秀勝 (?〜1585年)
 織田信長の四男(五男)。天正六年頃、羽柴秀吉の養子となる。少将、中納言。早世した羽柴秀吉の実子秀勝の名を継ぐ。中国攻めに参戦。本能寺合戦後、山崎合戦に参戦。清洲会議後、丹波亀山城城主となる。大徳寺での父織田信長の葬儀では喪主を務める。秀勝の存在は織田秀信と共に豊臣秀吉の発言力を強めることとなった。病弱で病に伏すことが多々あった。母親は吉田兼見に病平癒の祈祷を幾度も依頼した。天正十三年十二月十日病没。必要外になったため、秀吉が暗殺したとの見方もある。
 
 
  織田勝長 (?〜1582年)
 織田信長の五男(六男)。御坊丸、源三郎。東美濃岩村城主遠山景任が元亀三年に没すると、信長は岩村城に勝長を配置。遠山夫人の猶子となるが、秋山信友の講和条件により武田信玄の下へ人質として送られる。武田信玄の養子と記す系図もあるが、これは信憑性がないという。天正九年十一月二十四日、織田家に送り返される。勝頼が和睦を願ったからとも、武田信豊の婿にするためともいうがはっきりとしない。その後、犬山城主となる。天正十年三月、上州攻めに参加。本能寺直後、明智勢に攻められ信忠に殉じている。子の源三郎勝良は信雄に仕えた。
 
 
  織田信秀 (?〜?)
 織田信長の六男(七男)。祖父と同じ名前である。幼名は大洞。三吉。三吉待従と呼ばれる。切支丹になったらしい。朝鮮出兵のため名護屋に在陣。後に業病を病み京都で没す。業病とはハンセン病である。祖父信秀も一説にハンセン病を病んだとされるが、孫と同じ名前であるために混同したのではないか。法名は「高厳」。室は稲葉一鉄の娘。子は重治、虎法師。女子は西尾氏教に嫁いだ。
 
 
  織田信高 (?〜1602年)
 織田信長の七男(八男)。幼名は小洞。信秀と併せれば大洞、小洞となり、信長のある種の表現力が伺える。母は信吉と同じお鍋の方。藤十郎、左衛門佐、従五位。本能寺合戦後、氏家行広に養われる。天正十九年、秀吉に仕え四月二十三日に千六十石。文禄四年七月十五日に近江愛知郡にて千石加増。関ヶ原合戦で西軍に加わったため所領没収。慶長七年十二月十二日没す。子は高重。
 
 
  織田信吉 (1573〜1615年 43歳没)
 織田信長の八男(九男)。母は信高と同じお鍋の方。幼名は酌。武蔵守。従五位下。出家して道卜。豊臣秀吉に仕え、近江千石。関ヶ原合戦で東軍に属す。法名は「雲厳」。お鍋の方は北政所の侍女になったとも、秀吉側室松の丸殿に仕えたともいう。子の左馬助は寛文五年に六十四歳で没した。
 
 
  織田信貞 (1574〜1624年 51歳没)
 織田信長の九男(十男)。幼名は人。雅楽助、左京亮、藤四郎。従五位下。生母は土方雄久の娘。本能寺合戦後、埴原加賀守長久に養育され、千石で秀吉の馬廻りに。関ヶ原合戦で西軍に加わるが安堵される。大坂の陣には徳川軍として出陣。寛永元年六月六日に没す。法名は法厳。子は貞次、貞置。
 
 
  織田長好 (?〜1604年)
 織田信長の十男(十一男)。左京亮、従五位下。信好。兄たちと同様に秀吉に仕える。慶長十四年七月十四日に没す。法名は「清厳」。
 
 
  織田長次 (?〜?)
 織田信長の十一男(十二男)。幼名はおゑん。長兵衛尉。
 

 
  織田信長の孫
 
 
  織田秀則 (?〜1625年)
 織田信忠の次男。秀利。織田信長の孫。兄秀信が本能寺合戦直後に死んでいれば、秀則が秀吉に担がれたかもしれない。寛永二年没。法名は「英厳」。秀則は、小吉秀勝と小督(浅井長政三女)の間に生まれた娘を娶る。秀吉からは一門の待遇を与えられたが、それほど優遇はされなかったようだ。女子は小笠原貞政に嫁いだ。
 
 
  織田秀雄 (1582〜1610年 29歳没)
 織田信雄の長男。織田信長の孫。文禄三年、秀吉から越前大野城四万五千石を与えられる。関ヶ原合戦で遅参し改易。慶長十五年八月八日に没す。
 
 
  織田某 (?〜?)
 織田信雄の次男。織田信長の孫。早世。
 
 
  織田高雄 (?〜?)
 織田信雄の三男。織田信長の孫。但馬守。早世。
 
 
  織田信良 (?〜1626年)
 織田信雄の四男。織田信長の孫。因幡守。兄たちの早世により信雄の後継者となる。寛永三年五月十七日没。法名は「松厳」。子は信昌。
 
 
  織田高長 (?〜?)
 織田信雄の五男。出雲守。兄信良が没するとその遺児信昌はまだ二歳だった。そのため織田高長が後見役となり、織田信雄の遺領を分け合った。法名「一厳」。四男信久は織田信昌の養子となった。
 
 
  織田信為 (?〜?)
 織田信雄の六男。
 
 
  織田良雄 (?〜?)
 織田信雄の七男。
 
 
  織田長雄 (?〜?)
 織田信雄の八男。
 
 
  織田重治 (?〜?)
 織田信秀の子。織田信長の孫。忠三郎、長兵衛。
 
 
  織田虎法師 (?〜?)
 織田信秀の子。織田重治の弟。織田信長の孫。
 
 
  織田高重 (?〜?)
 織田信高の子。織田信長の孫。長十郎。
 
 
  織田貞次 (1613〜1691年 79歳没)
 織田信貞の子。織田信長の孫。信次、新斎。元禄四年、七十九歳没。
 
 
  織田貞置 (1617〜1705年 89歳没)
 織田信貞の子。織田貞次の弟。織田信長の孫。宝永二年、八十九歳没。子孫は旗本となる。
 

 
  織田信長の甥
 
 
  織田信廉 (?〜1583年)
 織田達成の次男。津田信澄の弟。新八郎。織田信孝に仕え、信孝に殉じた。
 
 
  織田信糺 (?〜?)
 織田達成の三男。津田信澄の弟。織田信雄に仕える。後に阿波蜂須賀家に仕えた。
 
 
  津田昌澄 (1579〜1641年 63歳没)
 津田信澄の嫡子。織田達成の孫。藤堂高虎とともに朝鮮出陣。この功により秀吉の直臣となる。秀吉の死後は秀頼に仕え、大坂夏の陣では天満口に出陣。藤堂家と戦う。大坂落城後、秀忠に死を賜りたいと願い出るが、藤堂高虎、細川忠興、土井利勝らが幕臣として登用するよう進言。これにより交代寄合旗本二千石。昌澄の人柄によるものである。寛永十八年三月没。子は信高。信高は子の信成に千五百石、信英に五百石と二人の子供に分知。これにより織田達成、津田信澄の家系は幕府旗本として明治に至った。
 
 
  織田信重 (?〜?)
 織田信包の長男。秀吉に仕え伊勢国林城主一万六千石。小牧合戦、九州征伐出陣。欲が出たのか、わだかまりがあったのか、父の遺領を継いだ弟信則を不当として家康に訴える。これが災いし、逆に改易されてしまった。
 
 
  織田信則 (?〜?)
 織田信包の次男。父の遺領柏原蕃三万六千石を継ぐ。兄と領地を巡って裁判となるが、勝訴して正式に藩主となる。子は信勝。
 
 
  織田雪貞 (?〜?)
 織田信包の子。
 
 
  織田信当 (?〜?)
 織田信包の子。子孫は旗本となる。
 
 
  織田康長 (?〜?)
 織田信時の子。
 
 
  柘植正俊 (?〜?)
 織田信治の子。柘植氏の養子となる。後に幕府旗本となった。
 
 
  織田長孝 (?〜1606年)
 織田長益の長男。河内守。関ヶ原合戦で東軍に属したため、美濃国大野郡一万石の大名となる。慶長十一年七月没。子は長則。
 
 
  織田長政 (?〜?)
 織田長益の四男。元和元年、大和国武上郡戒重で一万石の大名となる。子は長定、政時。
 
 
  織田尚長 (?〜?)
 織田長益の五男。元和元年、大和国武上郡柳本で一万石の大名となる。
 
 
  津田利昌 (1575〜1658年 84歳没)
 津田長利の子。宗助、上総介。出家して隨安。明暦四年、八十四歳で没した。
 
 
  織田信弌 (?〜1582年)
 大橋重長の子。母は織田信秀の娘。天正九年の馬揃連枝衆にその名がある。勘七郎。天正十年六月没。
 

 
  織田信長の従兄弟
 
 
  織田信成 (?〜1574年)
 織田信光の子。市之助。織田信秀の七女を娶る。長島一向一揆で天正二年七月、三弟仙千代とともに討死した。
 
 
  織田信昌 (?〜1574年)
 織田信光の子。織田信成の弟。四郎三郎。長島一向一揆との合戦で討死。兄よりも一月遅れの八月のことである。
 
 
  織田仙千代 (?〜?)
 織田信光の子。織田信成の弟。
 
 
  中川重政 (?〜?)
 織田信次の子。八郎右衛門。黒母衣衆。子孫は加賀藩士となる。
 
 
  津田盛月 (?〜?)
 織田信次の子。中川重政の弟。四郎左衛門、隼人正。兄と共に黒母衣衆となる。
 
 
  津田盛月 (?〜?)
 織田信次の子。中川重政の弟。四郎左衛門、隼人正。兄と共に黒母衣衆となる。
 

 
  織田一門
 
 
  飯尾信宗 (?〜?)
 織田定宗の子。織田信秀の従兄弟。重宗、尚清。信秀の十女を娶る。父は桶狭間合戦で鷲津取出を守るが、討死した。信宗は赤母衣衆に属し、石山合戦、三木城攻め検視役などを務める。
 
 
  織田信張 (?〜?)
 三奉行織田藤左衛門家当主。母は斯波氏。従五位下左兵衛佐。織田信長の信任を得て和泉・紀伊方面の指揮を執る。和泉岸和田城主。天正九年正月、高野山の僧侶らが一揆を起こしたため、高野山を攻撃。子は信直。
 
 
  織田信直 (?〜1572年)
 織田信張の子。小田井城主。天正二年九月二十九日、長島一向一揆で討死。二十九歳没。妻は織田信秀の六女。子は信氏、忠辰。
 
 
  織田信氏 (?〜?)
 織田信直の子。竹千代。
 
 
  織田忠辰 (?〜?)
 織田信直の子。監物。
 
 
  織田敏宗 (?〜?)
 天文十三年八月、松平長親が没すると安祥城を攻めるため出陣。三千の兵を率いるも守将の防戦に阻まれ撤退。この時、腹に疵を負っていたと伝わる。
 
 
  津田出雲守 (?〜?)
 織田信秀の九女を娶る。
 
 
  津田元秀 (?〜1582年)
 元嘉。織田信秀の十一女を娶る。九郎左衛門。天正元年、越前代官。天正二年、越前に目付として派遣される。一向一揆に敗れ、越前から撤退した。天正十年、本能寺合戦で討死。
 
 
  織田四郎 (?〜?)
 織田一族。子は森田吉忠。
 
 
  森田吉忠 (?〜?)
 織田四郎の子。作蔵。妻は加藤順盛の娘。
 
 
  津田勘七 (?〜1582年)
 天正十年六月、本能寺合戦で討死。
 
 
  津田九郎次郎 (?〜1582年)
 天正十年六月、本能寺合戦で討死。
 
 
  佐治信方 (1553〜1575年 23歳没)
 織田信秀の娘を娶る。為興、信方、長宗。佐治家は知多半島西部に勢力を持つ海賊衆で、常滑焼きを伊勢神宮領として各地に点在する厨に船で運んでいた。織田信長は佐治家を重視し、佐治為興に妹を嫁がせ、一門衆に取り立てた。天正二年九月、長島一向一揆と戦い討死。「柳営婦女伝系」は故あって織田信包の家臣、津田直政が殺害したと記している。子は与九郎一成、中川久右衛門秀休。信方没後、妻は細川昭元に嫁いだ。
 
 
  佐治一成 (?〜?)
 佐治信方の長男。母は織田信長の妹。与九郎。織田信包に仕え、淀殿の妹、後の家光生母崇源院を娶る。小牧合戦後、家康が三河に戻れず難儀していると知り、進んで船を出して無事に三河まで送り届けた。家康は大いに喜んだが、秀吉は自らの相婿に相応しくないとして離縁させた。一成は激怒するが、どうすることも出来ず薙髪。佐治巨哉入道を称した。
 
 
  土田弥平次 (?〜1556年)
 織田信長の側室生駒殿の夫。一説に信長生母土田御前の甥。弘治二年四月二十五日、長山合戦で討死。後家となった生駒殿は、生駒本家に奉公。ここで信長の目にとまり、土田屋敷で嫡男信忠、次男信雄、岡崎信康室五徳を産み育てる。生駒殿については「武功夜話」に詳しく記されるが、同書は偽書であると判明している。
 
 
  小倉松寿 (?〜1582年)
 小倉実澄の子。母は後に織田信長の側室となったお鍋の方。織田信高、信吉の異父兄。幼名松千代。父実澄は近江佐々木氏に仕え、信長に内通したため自害させられた。
 
 
  丹羽氏勝 (1523〜1597年 75歳没)
 勘四郎、源六郎、勘助、右近大夫。元は一色姓で、尾張丹羽郡に居住したため地名を姓とした。岩崎城主。信長に仕え、近江観音寺城攻め、伊勢攻め、姉川合戦などで功があった。慶長二年十一月二十二日、七十五歳没。法名「雪庭道加」。継室は織田信秀の娘。子の氏次は信長、信雄に仕えるが、後に勘気を被り職を辞す。出奔し家康に仕えた。
 
 
  服部豊興 (?〜1547年)
 小平太、道珍。信長の曾祖父久長の弟、織田次郎左衛門敏任の孫。父は織田三郎左衛門敏豊。豊興の母は服部半蔵の父保長の姉であり、織田家を憚り服部姓を称した。兄は赤見信久、豊久。子の豊忠と共に天文十一年、小豆坂合戦で活躍。天文十六年七月十一日没。
 
 
  服部豊忠 (?〜1557年)
 豊興の子。尾張丹羽郡大赤見城主。権太郎。小豆坂合戦で功があった。弘治三年六月三日に没した。
 
 
  服部忠次 (1521〜1583年 60歳没)
 豊忠の子。小平太。今川義元を討ち取った服部小平太と同一人物とされるが、名前が同じ為に混同されたようだ。信長没後、家康に仕えたか。娘は伊勢松山城主服部采女正に嫁ぐ。天正十一年十月二日、六十歳没。法名「莫厳院道雄」。子の吉豊は松平忠吉に仕えた。
 

 
  有名武将の一門
 
 
  平手五郎右衛門 (?〜?)
 平手政秀の子。織田信長は平手五郎右衛門の愛馬が気に入り、譲るよう求めた。五郎右衛門が拒否すると、両者は不和になった。
 
 
  竹中重矩 (1546〜1582年 37歳没)
 竹中重元の次男。竹中重治の弟。久作。信長に仕え、姉川合戦では遠藤直継を討つ。兄と共に秀吉に属すが、天正十年六月六日、本能寺合戦直後の美濃一揆により討死。三弟は与右衛門。
 
 
  竹中彦八郎 (1565〜1582年 18歳没)
 竹中重元の四男。重治の末弟。織田信忠に仕え、天正十年六月二日、二条城合戦で討死。十八歳。
 
 
  竹中重利 (?〜?)
 竹中重光の子。重治の従弟。源助、伊豆守。重治から美濃長松を分けられ、長松城を築く。岩手城城代、菩提山城守将。豊後高田一万石。
 
 
  安藤郷氏 (?〜?)
 安藤守就の弟。山内一豊の姉を娶る。子孫の伊賀家は男爵となった。
 
 
  安藤尚就 (?〜1582年)
 安藤守就の子。北方城主、河渡城主。天正八年八月、武田家に内通したとして改易。父と共に美濃谷口村に隠棲。これは守就の妹が谷口住人改田伝右衛門に嫁いでいたためである。本能寺合戦後、北方城を奪い城主となる。しかし、稲葉一鉄に攻められ討死。これを「北方合戦」と呼ぶ。
 
 
  安藤七郎 (?〜?)
 安藤守就の子。尚就の弟。天正十年、北方合戦に参加。
 
 
  不破彦五郎 (?〜1582年)
 不破光治の次男。柴田家臣不破直光の弟。本能寺合戦で討死。
 
 
  佐藤方秀 (?〜1594年)
 美濃上有知城主。佐藤清信の子。六左衛門。元亀元年、金森長近の姉を娶る。六千貫。飛騨平定戦に参加。長近は飛騨平定後、方秀を萩原諏訪城代とした。一説に方秀が同城を築いたという。後に隠居。文禄三年没。法名「泰岑以安」。子は方政。
 
 
  妻木貞徳 (?〜?)
 妻木広忠の子。貞行。馬廻衆。天正十年、父が明智光秀に同心したため、責任を取り隠居。子の頼忠に家督を譲った。
 
 
  稲葉重通 (?〜1598年)
 稲葉一鉄良通の庶長子。貞通の兄。兵庫頭、勘右衛門、重執。秀吉の馬廻衆となり、小牧、九州、小田原と転戦。後に秀吉の御伽衆となる。慶長三年十月三日没。子の利貞は牧村政倫の養子となる。
 
 
  稲葉直政 (?〜?)
 稲葉一鉄良通の子。重通同母弟。深尾重時の娘を娶る。
 
 
  稲葉方通 (1567〜1640年 75歳没)
 稲葉一鉄良通の子。羽柴秀吉の馬廻衆となり、天正十年六月美濃安八郡西ノ保城主。九州、小田原攻めに参加。天正十八年、美濃加茂郡和知城主四千四百五十石。秀吉の遺物として国金の太刀を受領。後に尾張義直に仕える。寛永十七年十月没。妻は不和光治の娘
 
 
  稲葉典通 (1567〜1626年 60歳没)
 稲葉貞通の子。稲葉一鉄の孫。九州征伐で秀吉の怒りを買い伊勢朝熊に謹慎。文禄の役で渡海し、翌二年には秀長に六千石で仕える。同四年には再び秀吉に仕え、遺物として道永の太刀を受領。関ヶ原合戦では西軍に属す。寛永三年十一月十九日没。
 
 
  脇坂安明 (?〜1568年)
 脇坂安治の父。織田信長に仕える。永禄十一年、観音寺城攻めで討死。
 
 
  平野長治 (?〜?)
 船橋枝賢の子。平野万作の養子になる。万作はかつて後北条家に仕えていた。子は平野長泰。
 
 
  中川秀政 (?〜?)
 中川清秀の長男。天正七年二月二十七日、織田信長の娘を娶る。弟は秀成。
 
 
  中川秀成 (?〜?)
 中川清秀の次男。妻は佐久間盛政の娘で、新庄直頼の養女として嫁いだ。播磨三木城主。文禄三年、豊後岡城主。慶長元年、居城の普請を行う。
 
 
  徳山少左衛門 (?〜?)
 徳山則秀の父。天正八年、柴田勝家により加賀御幸塚城守将。
 
 
  毛利良勝 (?〜1582年)
 新介、新右衛門。今川義元を討ち取ったとされる。義元は良勝の右手人差し指を食いちぎったと伝わる。黒母衣衆。天正十年、甲斐征伐に参加。同年六月二日、二条城合戦で討死した。
 
 
  毛利岩 (?〜1582年)
 毛利良勝の子。信忠の小姓か。二条城合戦で父と共に討死した。
 

 
  織田家 家臣団
 
 
  武井夕庵 (?〜?)
 齋藤道三の家臣。肥後守。後に織田信長の側近となり、祐筆を務める。武田信玄、上杉謙信らへの書状も担当している。桶狭間合戦に際し神文を熱田神宮に奉納したという。永禄十年十一月、有名な「天下布武」の印判状を初めて記す。永禄十二年七月、山科言継は後奈良天皇十三回忌法要の資金調達のため岐阜城を訪問。その際に取次役を務める。天正二年、蘭奢待切り取りに供奉。天正三年七月、二位法印。天正六年正月、安土年賀の席次は信忠の次に位置した。「当代記」によると天正六年十月、織田信長が茶道に強い関心を抱いていることを危惧し、織田家の武勇が衰退すると諫言した。当時、武井夕庵は織田信長に諫言出来る唯一の重臣だった。「信長記」は武井夕庵が比叡山攻撃の際、佐久間信盛と供に信長に諫言したと記すが、同書の信憑性には疑問が残る。天正九年二月、馬揃に山姥役として参加。この時、七十歳を超える老齢だったと云う。本能寺以降、記録が途絶える。
 
 
  松井友閑 (?〜?)
 織田信長の祐筆。茶道に通じた風流人。「信長公記」首巻に甲斐武田信玄と尾張天永寺の僧侶天沢の会話が記されている。天沢は清洲の町人友閑が織田信長に謡曲「敦盛」を教えたと云う。松井友閑と同一人物だろうか。上洛した織田信長は堺の商人に二万貫の矢銭を支払うよう要求した。矢銭とは将兵の乱妨狼藉を逃れるため、寺社などが大名に支払うもので、矢銭を受け取った大名は乱妨禁止の制札を出した。堺の商人は周辺の防備を固めて抵抗しようとしたが、遂に信長に矢銭二万貫を支払い、松井友閑を堺代官に迎えた。永禄十二年正月、織田信長の命により、丹羽長秀と共に京の名物茶道具を購入。元亀元年、堺の商人から名物茶道具を購入した。松井友閑は入手した名物を鑑定し、値段を付けて対価を支払った。織田信長は購入した初花肩衝茶入、富士茄子茶入などを接客の際に用いて、自身の冨と権力の象徴とした。天正二年、蘭奢待切り取りに供奉。天正二年三月八日、相国寺茶会で茶頭となる。その際、今井宗久、津田宗及、千宗易らに茶を振る舞う。天正六年正月元旦、安土城茶会で茶頭となる。天正八年、佐久間信盛と共に織田信長の陣代として本願寺に入り、勅使の提案した和平案に応じた。天正八年八月、高野大衆一揆が荒木村重一派と結託しているのではないかと高野山に詰問。天正十年正月十一日、安土城の私邸に津田宗及を招き、茶会を開く。
 
 
  楠正虎 (1520〜1596年 77歳没)
 大饗正虎。長諳楠木正成の子孫を称す。天文二十二年四月十九日、大饗正虎は大和国信貴山毘沙門堂に願文を納める。自らを「楠大夫判官摂津守正成朝臣十一代嫡孫大饗長左衛門正虎」とした。正成の修羅闘諍の苦患を救い、正虎の武運増長を祈っている。永禄二年十一月二十日、正親町天皇は松永久秀の家臣大饗正虎に、「楠木正成の朝敵恩免の綸旨」を与えた。「建武之比、先祖正成依為朝敵、被勅勘、一流已沈淪訖、然今為其苗裔、悔先非恩免之事歎申入之旨、被聞食者也、弥可抽奉公之忠功之由、天気如此 悉之以状 永禄二年十一月廿日 右中弁(花押) 楠河内守殿」。楠木正成は正親町天皇に赦免されたことにより、国家の忠臣として讃えられるようになった。水戸光圀が楠木正成を絶賛したのも、朝敵の汚名が晴らされたからこそである。なお、大饗正虎は楠正虎に名を改めた。信長上洛後、織田家に祐筆として仕えた。後に豊臣秀吉の祐筆を務めた。慶長元年一月、七十七歳没。
 
 
  太田資房 (1528〜1609年 82歳没)
 太田牛一の名で広く知られる。又助、和泉守。信長の右筆であり、「信長公記」、「たいかうさまぐんきのうち」、「関ヶ原合戦記」などを記す。また、弓の名人でもあり、その腕を信長に賞賛されたと記している。信長の死後は秀吉の代官となる。秀吉の死後は秀頼に千石で仕える。
 
 
  余語久兵衛 (?〜?)
 坂井政尚の兄という。三河に生まれ、信長に仕えた。子の伊成は家康に仕えた。
 
 
  坂井政尚 (?〜1570年)
 右近。楽田城守将。近江堅田で敵将への諜略を行う。信長の信任を得て姉川合戦で先鋒を務めるが、浅井家に敗れる。元亀元年十一月、汚名返上のため浅井・朝倉連合と戦い討死した。
 
 
  坂井尚恒 (1555〜1570年 16歳没)
 坂井政尚の長男。久蔵。観音寺城攻撃などの功から、十三歳にして足利義昭から感状を賜る。姉川合戦で討死した。妻は森成政と再婚した。
 
 
  万見重元 (?〜1578年)
 仙千代。利発な信長の小姓で、フロイスも日本史に「寵童マメノセンジオ」と記している。天正六年八月十五日の相撲で奉行となる。彼自身は永田刑部少輔、阿閉孫五郎のどちらかと対戦して負けている。謀反した荒木村重説得に失敗。天正六年十二月、村重の居城を攻めて討死。他に佐脇良之なども小姓であった。
 
 
  長谷川秀一 (?〜?)
 馬廻衆筆頭格。幼名は竹。信長に仕え、万見仙千代討死後、その屋敷を譲り受ける。安土宗論で警固役。家康と穴山信君が上洛すると、その案内役となった。
 
 
  長谷川橋介 (?〜1573年)
 長谷川秀一の義父丹波守の弟。右近。織田信長の小姓。桶狭間合戦、伊勢攻めに参戦。後、信長の勘気により徳川家に身を寄せる。三方原ヶ合戦で徳川家に加勢し討死。子の友宗は松平忠吉、尾張義直に仕えた。
 
 
  簗田広正 (?〜?)
 別喜。天正三年、明智光秀、細川藤孝らと共に加賀に攻め込む。同年、佐々長穐、堀江景忠らと共に越前能美郡、江沼郡を任される。天正四年、領国支配がうまくいかないため加賀は柴田勝家に任されることとなった。
 
 
  武藤舜秀 (?〜?)
 天正二年正月、加賀一向一揆に備えるため羽柴秀吉、丹羽長秀、不破光治、丸毛光兼らと共に敦賀に出陣。天正三年八月十四日、敦賀に到着した前田利家の指揮下に入る。九月、信長から越前敦賀郡を賜る。
 
 
  市橋長利 (1513〜1585年 73歳没)
 九郎左衛門、一斎。元斎藤家臣。信長に仕え、伊勢攻めに参加。その後も姉川合戦、一向一揆討伐などに参加し、天正六年正月には芙蓉の絵を与えられた。本能寺後は秀吉に仕え、美濃福束城を与えられた。
 
 
  遠山友政 (1556〜1619年 64歳)
 父は遠山友忠、母は織田信長の姪。美濃国阿手羅城主。信長に仕えるが、天正十一年からは家康に仕え、榊原康政に属す。関ヶ原合戦の功により美濃国苗木城主。
 
 
  服部春安 (?〜1595年)
 津島服部氏。祖父は服部采女正。父は服部平左衛門。平左衛門は永禄四年五月十四日、森部合戦で斎藤家臣長井甲斐守を討つ。今川義元を討ち取った服部小平太とされるが、苗字が同じ為に混同された。信長没後、秀吉に仕える。天正十三年、従五位下采女正。文禄四年、秀吉事件に連座し自刃。
 
 
  服部弘宗 (?〜1582年)
 小藤太。津島服部氏。服部春安とは同族。父は服部三郎右衛門。兄は服部小平太。小平太が若隠居したため家督を継ぐ。桶狭間合戦では兄と共に出陣。今川義元を討ち取ったのは服部小平太ではなく、服部小藤太弘宗とする説がある。弘宗は今川義元の菩提を弔うために雲居寺を建立したが、何ら縁の無い今川義元のために寺を建立するはずがない。そこから弘宗が義元を討ち取ったという説が生まれた。永禄九年十一月、信長から知行安堵の書状を受ける。本能寺合戦で二条城を守るが討死した。
 
 
  木村高重 (?〜?)
 次郎左衛門尉。近江佐々木一族。安土城普請奉行。天主建造など優れた業績を残す。天正四年十一月十一日、織田信長は近江の諸職人に対し、安土城建設を賦課すると命じた。こうして集められた職人は岡部以言に下で働いた。
 
 
  西尾義次 (?〜?)
 小左衛門。安土城大手口から信忠邸にいたる石段、雛壇石垣建設の石奉行。他に小沢六郎三郎、吉田平内らがいた。
 
 
  小沢六郎三郎 (?〜?)
 安土城築城に際し、石奉行を務めた。
 
 
  吉田平内 (?〜?)
 安土城築城に際し、石奉行を務めた。
 
 
  小栗某 (?〜?)
 安土城築城に際し、石奉行を務めた。
 
 
  下方貞清 (?〜?)
 左近。上野城を築く。小豆坂七本槍の一人。妻は加藤順盛の娘。子の喜太郎は武田佐吉の養子となった。
 
 
  武田喜太郎 (?〜?)
 下方貞清の子。武田佐吉の養子となる。
 
 
  下方匡範 (?〜?)
 小豆坂七本槍の一人。左近。天文十一年八月十日、今川家との合戦の戦功から七本槍の一人に称された。また、この合戦は天文十七年の事とも云われる。
 
 
  岡田重能 (?〜?)
 小豆坂七本槍の一人。助左衛門。天文十一年八月十日、今川家との合戦の戦功から七本槍の一人に称された。また、この合戦は天文十七年の事とも云われる。
 
 
  佐々勝道 (?〜?)
 小豆坂七本槍の一人。隼人正。天文十一年八月十日、今川家との合戦の戦功から七本槍の一人に称された。また、この合戦は天文十七年の事とも云われる。
 
 
  佐々勝重 (?〜?)
 小豆坂七本槍の一人。孫助。天文十一年八月十日、今川家との合戦の戦功から七本槍の一人に称された。また、この合戦は天文十七年の事とも云われる。
 
 
  中野重吉 (?〜?)
 小豆坂七本槍の一人。又兵衛。天文十一年八月十日、今川家との合戦の戦功から七本槍の一人に称された。また、この合戦は天文十七年の事とも云われる。
 
 
  伊束法師 (?〜?)
 織田信長に仕えた易者。豊後の出身。尾張葉栗郡光明寺に居住。
 
 
  橋本一巴 (?〜?)
 幼少期の信長の鉄炮指南役。片倉一色城主。一把。子は道一。ちなみに雑賀衆はさらに幼年から鉄炮を学んでいた。信長は他に弓を大川大介、兵法を平田三位に学んでいる。
 
 
  橋本伊賀 (?〜?)
 織田信雄の鉄炮代官。橋本一巴の一門か。三千石。
 
 
  青山与三右衛門  (?〜?)
 織田信秀の重臣。内藤勝介らとともに、信秀より信長の傅役を命じられる。信長の元服を見届けた。
 
 
  加藤延隆 (?〜?)
 加藤一族。甥は商人加藤順盛。
 
 
  加藤景延 (?〜?)
 加藤延隆の孫。隼人佐。加藤順盛の娘を娶る。
 
 
  加藤順政 (?〜?)
 加藤順盛の子。吉郷。
 
 
  加藤弥次郎 (?〜1573年)
 加藤順盛の子。岩室勘右衛門、弥三郎。織田信長の小姓となる。元亀三年、三方ヶ原合戦で討死。
 
 
  加藤則安 (?〜?)
 加藤順盛の子。風斎。
 
 
  加藤宗淳 (?〜?)
 加藤順盛の子。寺西若狭守の娘を娶る。
 
 
  加藤延隆 (?〜?)
 加藤一族。妻は前田利家の姉。養子は奥村家勝。
 
 
  武田佐吉 (?〜?)
 織田信長の吏僚。石清水八幡宮造営に参加。妻は加藤順盛の娘。養子は下方貞清の子喜太郎。
 
 
  道家清十郎 (?〜1570年)
 道家助十郎の兄。元亀元年九月十九日、近江宇佐山城攻めで討死。清十郎は織田信長から天下一の称号を賜った勇士として知られる。元亀年間初期、織田信長が武田軍と東美濃で交戦した際、助十郎と共に敵の首三級を挙げる。織田信長はこれを喜び、清十郎の旗に自ら天下一と書き込んだと云う。しかし、元亀年間初期に織田家と武田家が争ったという記録は無い。織田家と武田家は元亀三年まで良好な関係を維持していた。これらの点から天下一の逸話は疑問が持たれている。
 
 
  道家助十郎 (?〜1570年)
 道家清十郎の弟。元亀元年九月十九日、近江宇佐山城攻めで討死。
 
 
  菅屋長頼 (?〜?)
 天正八年、前田利家、福富行清と共に能登在将となる。天正九年三月、七尾城守将。福富行清は富木城守将となる。同年八月、毛利攻めに参加するため、福富行清と共に畿内に戻る。
 
 
  福富平左衛門 (?〜?)
 天正十年六月五日、羽柴秀吉は中川清秀に書状を送り、織田信長と織田信忠が危機を脱し、近江膳所に逃れたと伝えた。同じ書状の中で平左衛門は明智勢を相手に三度も奮戦したと記されている。中川清秀に明智側不利という偽情報を伝え、光秀に加勢することを防ごうとしたのだろう。小早川隆景は天正十年六月十五日、福富平左衛門が明智光秀に加勢したと記している。
 
 
  市田祐定 (?〜?)
 五郎左衛門。安土城建設時、縄張りを行う。慶長七年、豊後佐伯城建設に参加。慶長十一年、佐伯城の完成により、近江に戻る。
 
 
  市田二郎兵衛 (?〜?)
 市田祐定の子。慶長七年、豊後佐伯城建設に参加。
 
 
  高木光秀 (?〜1574年)
 高木清秀の子。天正二年九月、伊勢長島一向一揆攻めで討死。
 
 
  高木貞家 (1545〜1568年 24歳没)
 高木貞久の子。彦七郎。永禄十一年五月、討死。二十四歳没。子は貞俊。
 
 
  高木貞利 (?〜?)
 高木貞久の子。彦六郎。今尾城主。妻は西尾信光の娘。
 
 
  高木貞秀 (?〜?)
 高木貞久の子。勝兵衛。織田信忠、織田信雄に仕える。後に徳川家臣となる。
 
 
  高木貞西 (?〜?)
 高木貞久の子。彦右衛門。養子として他家に入る。
 
 
  高木貞友 (1564〜1659年 96歳没)
 高木貞久の子。彦之助。織田信忠に仕える。天正六年、神吉城攻めに参戦。本能寺合戦後、織田信孝、織田信雄に仕える。後に徳川家臣となった。万治二年四月十七日、九十六歳没。
 
 
  高木貞俊 (?〜?)
 高木貞家の子。父貞家討死後、祖父貞久の養子となる。
 
 
  坪内利定 (1539〜1610年 72歳没)
 美濃松倉城主。斎藤家臣。後に織田信長、織田信忠に仕える。慶長十五年、七十二歳没。子は家定、秀定、定吉、正定、行定、定令。
 
 
  坪内家定 (?〜?)
 坪内利定の子。玄蕃頭。妻は生駒家長の娘。子は定仍、定次。
 
 
  坪内秀定 (?〜?)
 坪内利定の子。五郎左衛門。
 
 
  坪内定吉 (?〜?)
 坪内利定の子。加兵衛、定安。
 
 
  坪内正定 (?〜?)
 坪内利定の子。佐左衛門。
 
 
  坪内行定 (?〜?)
 坪内利定の子。久太郎。
 
 
  坪内定令 (?〜?)
 坪内利定の子。久三郎。
 
 
  一瀬久三郎 (?〜?)
 一向一揆との合戦に際し、信長の兜を北向きに置いてしまった。当時、兜を北向きに置くことは不吉とされていた。林佐渡守はすぐに気が付き、慌てて兜の向きを直すよう命じた。信長は一揆勢がどこから来るか分からないから兜の向きなどそのままで良いと言い放った。久三郎は信長の一言で面目を保ち、その日の一揆との合戦で一番鑓の武功を挙げた。それを知った信長は久三郎を呼び、今朝の事はどうかと尋ねた。久三郎が御陰で面目を保ちましたと御礼を述べると、信長は気を良くして感状や褒美を与えた。また、林佐渡守も呼んで久三郎に挨拶をさせたと云う。信長は家臣に冷淡だったと云われるが、手柄を挙げた家臣や、名誉を挽回するような家臣は厚く遇したのだ。
 
 
  福田与一 (?〜?)
 御弓衆。天正六年正月九日、安土城下の福田邸から火災が発生。その後の調べで福田与一は妻子を故郷に残していることが判った。信長は家臣に家族と共に城下町に住むよう命じており、福田与一はこれに反していた。信長は菅谷九右衛門に同様の者がいないか調べるよう命じた。調査の結果、御弓衆六十名、御馬廻衆六十名が故郷に家族を残していると判明した。織田信長は激怒し、こうした家臣の故郷の家を焼き払い、家族を強制的に安土城下に移住させた。
 
 
  沼清成 (?〜?)
 越後守。入道し任世。和泉綾井城主。織田信長に仕える。子の義清は大坂川口の合戦にて討死。孫の興清は秀吉に仕え、中村一氏に属す。関ヶ原合戦前、家康に忠功の旨を伝える。中村家改易後、興清は家康に召し出され秀忠に仕えた。
 
 
  毛利十郎 (?〜?)
 毛利敦元の子。父は天文十六年、稲葉山城攻撃で討死している。天文二十三年、斯波義統が暗殺されると、その遺児を信長に送り届けた。
 
 
  兼松正吉 (?〜?)
 姓は金松とも書く。元亀元年九月、一向一揆との合戦に参加。本願寺内衆長末新七郎を討つ。
 
 
  宮井恒忠 (?〜1556年)
 織田信行の小姓頭。勘兵衛。弘治二年八月、稲生合戦で前田利家に討たれた。
 
 
  塩川伯耆守 (?〜1582年)
 馬廻衆。本能寺合戦で討死。妻の御通は「浄瑠璃物語」を残した。
 
 
  伊東夫兵衛 (?〜?)
 某年六月十五日、津島神社にて津島踊りが行われた。その際、弁慶役を務める。
 
 
  市橋伝左衛門 (?〜?)
 某年六月十五日、津島神社にて津島踊りが行われた。その際、弁慶役を務める。
 
 
  木村次郎左衛門 (?〜?)
 天正十年五月二十九日、織田信長上洛に際して安土城留守居役となる。
 
 
  菅谷九右衛門 (?〜?)
 天正六年正月、織田信長から安土城下に居住する織田家臣のうち、家族を故郷に残している者がいるか調査するよう命じられた。
 
 
  木下祐久 (?〜?)
 天正二年、越前に目付として派遣される。一向一揆に敗れ、越前から撤退した。
 
 
  三沢英次 (?〜?)
 天正二年、越前に目付として派遣される。一向一揆に敗れ、越前から撤退した。
 
 
  塩河長満 (?〜?)
 天正七年九月、尼崎城に籠もった荒木村重を包囲するため、高山重友と共に七松取出に入る。
 
 
  中野一安 (?〜?)
 元亀元年九月、一向一揆との合戦に参加。他に湯浅直宗らも出陣した。
 
 
  福富秀勝 (?〜?)
 天正三年五月、長篠合戦で鉄炮衆を率いる。
 
 
  溝口常長 (1543〜1600年 58歳没)
 溝口左京亮の子。信長、秀吉、家康と主を変える。慶長六年、五十八歳没。法名「道鏡」。子は常吉、佐左衛門。
 
 
  遠山景行 (?〜1572年)
 明知城主。元亀三年十二月、武田家との上村合戦に敗れ自刃。子の景玄も討死した。
 
 
  山口飛騨 (?〜1573年)
 織田信長の小姓。桶狭間合戦、伊勢攻めに参戦。後、信長の勘気により徳川家に身を寄せる。三方ヶ原合戦で徳川家に加勢し討死。
 
 
  加藤弥三郎 (?〜1573年)
 織田信長の小姓。桶狭間合戦、伊勢攻めに参戦。後、信長の勘気により徳川家に身を寄せる。三方ヶ原合戦で徳川家に加勢し討死。
 
 
  飯沼長継 (?〜1583年)
 飯沼長就の子。織田家に仕える。姉川合戦、一向一揆戦参加。本能寺合戦後は秀吉に仕える。天正十一年、織田信孝に内通したとして氏家行広に殺害される。
 
 
  中川定成 (?〜1584年)
 犬山城守将。天正十二年、池田勢に攻められ討死。
 
 
  梶川高盛 (?〜?)
 坂井政尚討死後、楽田城主。
 
 
  国枝政森 (?〜?)
 修理亮。国枝氏は美濃土岐氏に仕えた家柄。慶長五年、織田秀信に属し本郷城を守るが、東軍に敗れ落城。
 
 
  梶原景義 (?〜1582年)
 羽黒城主。本能寺合戦で討死した。
 
 
  吉田守氏 (?〜1568年)
 尾張斯波氏庶流。吉田重氏の子。岩塚城主。織田家に仕える。永禄十一年、討死。
 
 
  毛利広盛 (1533〜1616年 84歳没)
 美濃毛利氏。織田家に仕える。元和二年没。子孫は尾張家に仕える。
 
 
  鏡島光信 (?〜?)
 鏡島江雲の子。美濃鏡島城主。杢兵衛。子は光政、光重。
 
 
  山本邑重 (?〜?)
 小六郎。織田信雄の鉄炮衆。天正十四年七月二十三日、千六百八十四貫七百五十三文を知行。
 
 
  山本邑次 (?〜?)
 山本邑重の子。平六郎。天正十六年十二月十六日、千六百八十三貫九百文を知行。
 
 
  加藤景村 (?〜?)
 市左衛門。天正三年五月、長篠合戦参加。徳川家への援軍として、君ヶ伏床・姥ヶ懐攻めに加わる。
 
 
  青山幸忠 (?〜?)
 新七郎。天正三年五月、久間山砦攻めに参加。
 
 
  武藤次久 (?〜?)
 弥兵衛。若狭出身。『四戦記聞』、『三州長篠戦記』は若狭の驍勇と記す。元亀元年の越前侵攻は武藤友益の鎮圧を口実としたもの。次久はこの同族か。天正三年五月、鳶ヶ巣山砦攻めに援軍として参加。後備え酒井忠次の部隊に属した。
 
 
  山口教継 (?〜1560年)
 鳴海城主。永禄年間、子の教吉とともに今川家に寝返る。永禄三年、信長はこれを織田家へ寝返って今川家を挟撃する策略との誤報を流す。山口父子は義元に誅殺された。
 
 
  佐脇藤右衛門 (?〜1556年)
 清洲城留守役。弘治二年、信広は信長に挙兵。清洲城を通るが、この時に接待しようと出てきたところを殺される。
 
 
  宮居眼左衛門 (?〜?)
 元亀元年四月、信長が開催した安土常楽寺相撲大会で優勝。信長に召し抱えられる。信長は重藤の弓を眼左衛門に与えるが、相撲で負ければ相手に奪われ、その弓が信長を射るかもしれないと言う眼左衛門の意見を聞き、優勝者に弓を与えることはなくなったという。この弓を与える行為が現在の「大相撲弓取り」の起源であるらしい。
 
 
  青地与右衛門 (?〜?)
 元亀元年四月の相撲大会で勝ち、信長に太刀、脇差を与えられて召し抱えられる。天正六年八月十五日の相撲大会では奉行。御厩別当に出世。天正九年の馬揃に名馬を曳いて参加。信長の愛馬である、常陸国多賀谷重経から贈られた黒河原毛の駿馬の世話をする。
 
 
  伴正林 (?〜1582年)
 甲賀住人。天正六年、七年の相撲大会で勝ち、それに感心した信長は百石で召し抱え、邸宅なども与えた。翌年の大会でも勝ち、五十石を支給された。後に厩番に出世する。馬の世話といっても、服装は高い物であった。本能寺合戦で討死。
 
 
  布施五介 (?〜?)
 甲賀出身。布施公保の与力。天正八年五月十七日の相撲大会で勝つ。信長は百石で召し抱えた。
 
 
  大塚新八 (?〜?)
 天正九年四月二十一日の相撲大会で勝ち、信長に百石で召し抱えられる。このように信長は相撲を愛し、勝者を召し抱えたため、城下町には力自慢が多く集まったという。
 
 
  真木与十郎 (?〜?)
 永禄年間初期、丹下取出を守る。
 
 
  佐藤三省 (?〜?)
 美濃加治田城主。永禄六年、丹羽長秀に内応する。
 
 
  幸田彦右衛門 (?〜?)
 織田信孝の傅役。織田信孝が神戸具盛に養子入りすると供奉。
 
 
  岡本良勝 (?〜?)
 織田信孝に仕える。織田信孝が神戸具盛に養子入りすると供奉。
 
 
  上条又八 (?〜?)
 織田信雄の家臣。大坂の陣に際して大坂城に残り、大野治房に属して夜討ちの功があった。
 
 
  不破源六 (?〜?)
 織田信雄に仕える。竹ヶ鼻城主。三千六百貫文。天正十二年、秀吉は竹ヶ鼻城に対して水攻めを行っている。源六は伊勢へ落ち延び、後に加賀前田家に仕えた。
 
 
  加藤忠景 (?〜1584年)
 織田信雄に仕える。太郎右衛門。天正十二年、小牧長久手合戦では丹羽氏重と共に岩崎城を守る。池田勢に攻められ討死。
 
 
  塙喜三郎 (?〜1576年)
 原田直政の一族。天正四年五月三日、原田直政と共に討死。
 
 
  那波与三 (?〜?)
 稲葉貞通に仕える。和泉。後に明智光秀に出仕するが、稲葉家との縁が切れていなかったため問題となる。稲葉貞通は織田信長に訴え、堀秀政が派遣され、与三に稲葉家に戻るよう命じた。なお、斎藤利三も稲葉家から明智家に移っている。
 
 
  弓削重蔵 (?〜?)
 河尻家臣。武田滅亡後、信州茶臼山城守将。
 
 
  松田雁助 (?〜?)
 安藤守就の家老。天正十年、岡八兵衛ら五百余名と共に北方城に籠もる。
 
 
  稲葉長右衛門 (?〜?)
 稲葉家臣。本田城主。同城は一説に寺西備中守の居城と言う。
 
 
  古田五郎兵衛 (?〜?)
 稲葉家臣。村瀬大隅の弟。天正十年、北方合戦で安藤守就の首を取る。
 
 
  加納悦右衛門 (?〜?)
 稲葉家臣。天正十年、北方合戦で安藤尚就の首を取る。
 
 
  中川重直 (?〜?)
 中川清秀の家臣。中川秀政の娘を娶る。
 
 
  中川正次 (?〜?)
 中川清秀の家臣。中川清秀の娘を娶る。
 
 
  寺井元定 (?〜?)
 中川清秀の家臣。中川清秀の娘を娶る。
 

 
  商人・文化人
 
 
  里村紹巴 (1525〜1602年 78歳没)
 臨江斎。法橋、法眼。奈良に生まれる。里村紹休に師事。三条西公条に和歌を学ぶ。連歌師として名を成した。天文二十一年、里村昌休が没すると、子の昌叱を娘婿に迎えた。三好長慶、織田信長、明智光秀、細川藤孝らと交流があった。天正九年四月、明智光秀や細川藤孝と天橋立を見物。その後、連歌会を開いた。天正十年五月二十七日、明智光秀に招かれ、愛宕山での連歌会に出席。同年六月二日、明智謀反によって二条城を逃れた誠仁親王のために荷輿を用意した。同年六月九日、吉田兼見邸にて明智光秀と夕食を共にする。明智光秀を討った羽柴秀吉は、里村紹巴も謀反に荷担したと疑いを抱く。その後、謀反に関与していないと認められた。文禄四年、豊臣秀次事件に関与したとして豊臣秀吉から冷遇され、三井寺にて謹慎。慶長二年四月十二日、七十八歳没。
 
 
  今井宗久 (1520〜1593年 74歳没)
 彦右衛門、兼員、昨夢斎。堺の豪商。近江高島郡に生まれる。堺にて商人となり、頭角を現す。武野紹鴎に商才を認められ、その娘を娶る。武野紹鴎から茶の湯の指南を受けた。永禄十一年、上洛した織田信長は堺の商人に二万貫の矢銭を課した。その際、堺の商人をまとめ上げ、織田信長に二万貫を支払い、松島の壷などを献上した。織田信長はこれを評価し、宗久を堺五ヵ庄代官職に任じ、淀川の関銭を免除した。天正二年三月八日、相国寺茶会に出席。松井友閑から茶を振る舞われる。天正十五年十月、北野大茶会で千宗易、津田宗及と共に茶頭となる。文禄二年八月五日、七十四歳没。
 
 
  津田宗及 (?〜1591年)
 津田宗達の子。隼人、助五郎。堺の豪商。茶人としても知られ、「宗及茶湯日記」を記す。永禄十一年、上洛した織田信長と堺の商人との関係を取り持つ。以後、織田信長や明智光秀らと茶の湯を通じて親交を深める。堺代官松井友閑と共に京、堺で集めた名物を鑑定し、値段を付けた。天正二年三月八日、相国寺茶会に出席。松井友閑から茶を振る舞われる。天正六年、羽柴秀吉の招きで三木城攻めの陣中に向かう。秀吉は織田信長から茶頭となる権利を認められたばかりで、同年十月十五日に平山付城で初めて茶会を主催した。津田宗及もその茶会に出席した。天正八年正月九日、明智光秀は津田宗及を招いて茶会を開いた。その際、明智光慶から小袖二重を四枚、賜った。正月二十六日、新年の挨拶のため安土城に登城した吉田兼見に対し、接客役として茶を振る舞う。九月二十一日、明智秀満の茶会に招かれる。十二月二十日、坂本城で明智光秀の茶会に招かれる。十二月二十一日、子の宗凡と共に明智光秀から小袖を賜る。天正九年正月十日、坂本城の茶会に出席。天正十年正月一日、安土城に年賀の挨拶に向かう。その際、織田信長に銭十疋を献上した。正月七日、坂本城の茶会に出席。正月十一日、安土城の松井友閑邸に招かれ、茶会に出席。正月二十五日、明智光秀の茶会に出席。正月二十八日、坂本城の茶会に出席。六月、上洛した徳川家康の接待役となる。八月十五日、銭屋宗納が開いた連歌会に出席。「われなりと まんずる月の こよひかな」と詠んだ。これは羽柴秀吉が明智光秀を討ち、織田家中での権力を強めた事を「まんずる月」と表現し、満月もやがては欠けていくと風刺した句とされる。天正十五年十月、北野大茶会で千宗易、今井宗久と共に茶頭となる。天正十九年四月二十日没。子は宗凡。
 
 
  津田宗凡 (?〜?)
 吉松。天正八年十二月二十一日、父宗及と共に明智光秀から小袖を賜る。天正九年正月十一日、坂本城の茶会の後、明智自然から小袖を賜る。
 
 
  加藤順盛 (?〜?)
 尾張熱田の商人。織田家の人質となった徳川家康の養育に携わる。子は順政、弥次郎、仁峯、則安、宗淳。
 
 
  不住庵梅雪 (?〜?)
 織田信長の茶頭。天正八年正月九日、明智光秀は津田宗及を招いて茶会を開いた。その際、明智光秀は不住庵梅雪の芋頭水指を使用した。
 
 
  玉越三十郎 (?〜1573年)
 尾張清洲の具足屋。三方ヶ原合戦時、長谷川橋介ら信長の元小姓に対し、合戦が迫っているから尾張に戻るよう説得。しかし、橋介らが拒否すると覚悟を決め、共に徳川方に属して戦い討死した。
 

 
  職人
 
 
  岡部以言 (?〜1582年)
 又右衛門。熱田神宮大工頭。元亀三年、熱田神宮修繕開始。天正元年、近江松原内湖にて百艘櫓の大船を一ヶ月半で建造。全長三十間、幅七間で数千名の将兵を搬送出来たと云う。一説に全長二十七間、幅九間とも云う。天正三年、神宮修繕を終える。天正四年正月、安土城建設を指揮。その際、織田信長は近江の諸職人に安土城建設に参加するよう賦課した。これにより杣(材木伐採)、大鋸挽、鍛冶、炭焼、桶結、屋葺、畳指、瓦師、漆師、白金屋、絵師が岡部以言の下で働いた。天正十年五月二十九日上洛。六月二日、本能寺合戦で討死。子は以俊。
 
 
  岡部以俊 (?〜1582年)
 岡部以言の子。天正十年五月二十九日上洛。六月二日、本能寺合戦で討死。
 
 
  中井正吉 (?〜?)
 法隆寺大工衆。方広寺大仏殿作事棟梁。子は正清。
 
 
  狩野永徳 (?〜?)
 天正四年、安土城建設に参加。天主内外の装飾を任された。子は山楽。
 
 
  観世太夫元盛 (?〜?)
 能楽者。元久。永禄十一年十月、足利義昭の征夷大将軍就任に際し、細川邸で開かれた祝宴で能が舞われた。本来、能は十三番であったが、信長の命で五番となった。金春元盛はシテを舞った。囃子方は観世左近太夫、観世小次郎。太鼓は金春流大蔵二介。小鼓は観世彦衛門。大太鼓は観世又三郎が務めた。
 
 
  幸若義重 (?〜?)
 幸若流家元。八郎九郎、幸若太夫。幸若舞は祇園御霊社の久瀬舞から発展した。後に幸若舞から浄瑠璃が生まれている。天正十年五月十九日、織田信長は徳川家康、穴山信君を安土城に招いて観能会を開いた。幸若義重は大職冠、田唄を舞った。翌二十日、梅若家久が織田信長に折檻されると、見かねて助けに入り、代わりに能を舞って信長の気を静めた。これにより黄金十枚を賜った。
 
 
  梅若家久 (?〜?)
 能楽者。妙音太夫広長、梅若太夫。観世流から梅若流を興す。猿楽を得意とした。天正十年五月二十日、織田信長は安土城に徳川家康、穴山信君を招き、観能会を開く。梅若太夫は能を舞ったが、織田信長はその能を見苦しいと罵倒し、人目も気にせず折檻した。見かねた幸若義重が助けに入り、代わりに能を舞って信長の気を静めた。
 
 
  畳指新四郎 (?〜?)
 大工。石見、宗珍。天正九年八月十七日、織田信長から天下一の称号と石見の名を賜り、諸役を免除された。豊臣秀吉からも天下一の称号を賜った。
 

 
  海賊衆
 
 
  淡輪主馬兵衛 (?〜?)
 淡輪海賊衆頭領。天正四年、石山本願寺に兵糧を搬入する毛利海賊衆に敗れた。
 

 
  僧侶
 
 
  沢彦宗恩 (?〜?)
 妙心寺派の禅僧で、悟溪八哲の一人。信長の心の師という。「信長」、「岐阜城」、「天下布武」の名付け親。土岐氏、織田氏から深く帰依される。
 
 
  朝山日乗 (?〜1577年)
 日蓮宗。出雲尼子氏に仕えた朝山五郎三郎善成が前身という。尼子氏を離れ、毛利氏に仕える。後に毛利氏から離れ上京。梶井宮家で出家した。後奈良天皇より上人号「日乗上人朝日山」を賜る。朝廷の祈念僧となり、外交交渉を得意とした。公家からも信任を得て、法華経を講じた。将軍義輝の使者として毛利・大友家の講和を斡旋。永禄十一年、上洛した織田信長に対し、朝廷から交渉役として派遣される。永禄十一年、宣教師フロイスに法論で敗れる。永禄十二年、村井貞勝とともに皇居修理奉行。義昭追放後は信長に仕え、毛利家への使者となった。天正元年十二月、丹波山国荘に移る。天正五年九月没。
 
 
  阿弥陀寺清玉 (?〜?)
 行き倒れの女性から生まれ、建仁寺に入ったという。永禄十年、松永久秀により焼かれた東大寺大仏殿再建のため、勧進上人になる。翌年三月、大仏殿再建の倫旨が下ると松永久秀や三好長逸らも援助を約束。元亀元年、久秀らに勧進を保障される。清玉は東大寺本願上人と呼ばれ、信長や家康、元就に信玄らの援助も得るが、大仏殿再建は果たせなかった。この再建は元禄年間に果たされる。本能寺合戦後、織田信長、信忠父子、森乱丸らの遺体を引き取り火葬。秀吉の法事修行、朱印地三百石寄進を拒んだため怒りを買い、信長の本当の墓所である阿弥陀寺は、秀吉が信長の墓所とした大徳寺総見院に繁栄を奪われる。無論、織田信長の遺体が見つかったという話は裏付けがなく、清玉の話も後世の史料に書かれたものである。
 
 
  仁峯 (?〜?)
 加藤順盛の子。仏門に入る。
 

 
  鉄炮鍛冶
 
 
  鉄炮屋与四郎 (?〜?)
 鉄炮鍛冶。天正七年、故あって牢につながれる。天正七年八月七日、前日から相撲大会で勝ち上がってきた伴正林は織田信長の家臣に取り立てられた。信長は褒美として、鉄炮屋与四郎の私物を正林に与えた。
 

 
 【付記】
 
 
 
 信長と道三の会見した聖徳寺は、無縁の場であったために選ばれた。僧俗の者は現世から縁を切ったため、中立の立場として和平の使者となることができる。聖徳寺の会見などはそういう意味合いがあった。
 
 永禄十二年、フロイスが信長にバナナを献上。これが最も古いバナナの記録である。
 
 天正十三年、金森長近は飛騨古川城に入城。城内に蛤石と呼ばれる石があり、それにちなみ城名を蛤城に改めた。
 
 
 
 【織田家の祖先】
 信長の祖は越前丹生郡織田荘劔神社の境内社、織田神社の神官であり、実質的には神社に仕える士豪であったとする説が有力と言う。織田神社は織田寺とも呼ばれ、最盛期には三十六坊十九院を有していた。寿永二年、平資盛の妾は近江蒲生郡津田郷に逃れ、津田親実を産む。津田は琵琶湖の重要港であり、織田氏庶流が津田姓を名乗るのはこの地に由来する。織田神社神主忌部氏は都へ向かう際、津田に逗留することを慣習としていた。親実はこの関係で忌部氏の養子となり、神職を継いで忌部親実を称した。八代の孫常昌は越前、尾張守護斯波氏に仕官。織田常昌を称し、織田氏は後に尾張に移った。織田氏は尾張斯波氏の重臣になった。信長の家系は織田氏の傍流である。平資盛の子孫かは定かではなく、後に系図を創作したとされる。だが、忌部氏の出であることは確かである。天正元年、織田家臣木下祐久は「おのおの存知の如く、織田寺の御事は、殿様の御氏神について、わけて御念を入れられ、御朱印を遣わされ候条」と書き残している。天正五年、柴田勝家は織田神社に千五百石余を寄進した。
 
 
 
 【織田家の勇将】
 天文十一年八月十日、今川家との合戦で功のあった七名は「小豆坂七本槍」と呼ばれた。織田信光、織田信房、岡田重能、佐々勝道、佐々勝重、中野重吉、下方匡範の七名である。また、この合戦は天文十七年の事とも云われる。
 
 
 
 【織田信秀の朝廷政策】
 伊勢神宮の式年遷宮は永享年間に行われて以来、中断されていた。そのため、伊勢神宮の神官は各地の大名に式年遷宮のための献金を呼びかけていた。織田信秀は伊勢神宮外宮仮殿の造営費として七百貫を献上。天文十年九月、献金の返礼として織田信秀は三河守に任官された。織田信秀は今川義元と領土争いを繰り返しており、三河出兵を正当化するため三河守の官途を求めたのだ。天文十四年、西三河での勢力拡大を喜び、織田信秀は朝廷に修理料四千貫を献上した。
 
 
 
 【織田信長の誕生日】
 織田信長の誕生日は天文三年五月十二日説が定説となっている。これはフロイスが「信長の誕生日を祝ってから、その喜びが十九日以上続かなかった」という意味の文を残したことに由来する。これを十九日目に討たれたとしたのが五月十二日説。だが、信長は安土城天主に移徒した天正七年五月十一日を吉日としている。天主は正月頃には完成しつつあったが、移徒を吉日まで伸ばしたことは非常に意味がある。「十九日以上」を十九日以上続いたが二十日目に討たれた、という意味で考えれば誕生日は五月十一日になる。つまり、信長の正しい誕生日は『天正三年五月十一日』になるのだ。
 
 
 
 【織田信行の名前】
 織田信行の名前は正確には信勝、達成である。根拠となるのは署名で、天文二十年九月二十日には勘十郎信勝。天文二十三年十月には信勝。天文二十三年十一月二十二日には勘重郎達成。天文二十三年十二月には達成。そして、殺された弘治三年には武蔵守を称していた。織田武蔵守達成が彼の最後の名前になる。信行という名前は後世になると出てくるのだ。森蘭丸が実際には「乱丸」であったように、後世の誤記なのだろう。さらに達成は信秀の嫡子であったと考えることができる。この時代の後家は、前当主が遺言で定めた嫡子を変えるほどの発言力があった。伊達政宗が家督相続のために弟を自刃に追い込んだのも、生母保春院が小十郎を嫡子として支持したためである。この場合、小十郎は嫡子としての資格を十分に持つことになり、政宗としては早急に解決したい問題であった。信長と達成の関係も同様で、生母土田御前(土田下野守政久の娘)が達成を支持したために信長を庶子、達成を嫡子としても問題はない。信長も政宗も下剋上に近い行為で家督を相続したことになる。
 
 
 
 【織田信長の最初の上洛】
 永禄二年二月二日、織田信長は上洛。足利義輝に拝謁した。斎藤義龍と交戦中のため美濃を通ることは出来ず、伊勢から近江を通って京に入った。また、上洛の隙を狙って斎藤義龍は刺客を放ったが、信長はその捕縛に成功している。
 
 
 
 【織田信長の経済政策】
 「多聞院日記」に記される塩の値段は、天正五年頃まで塩一斗につき代米六升代から七升代である。しかし、天正九年には塩一斗につき代米四升代にまで下落。英俊自身も翌十年、その安さを【今ノ様ニ安事ハ不覚】と驚いている。この状況は本能寺合戦後も継続し、天正十二年以降、大和郡山では二升代から三升代にまで下落した。これは瀬戸内海での塩の生産量の増加が理由だが、信長の関所や関銭の廃止や、商人側の変化なども関係した。このように信長は物価を下げ、流通を盛んにしようとしていた。
 
 
 
 【街道の整備】
 天正二年閏十一月、織田信長は尾張国の全ての道について、年三回の修理を命じた。天正三年十月、尾張国中の道に並木が植えられることになった。村々は木が枯れた場合、責任を持って植え替えるよう命じられた。天正四年二月、織田信忠は街道の整備の仕方を定めた。本街道の幅は三間二尺、脇街道は二間二尺、在所の道は一間。道の脇には松と柳を植えること。松と柳を用意するため、各地から植え替えることを許可した。こうした街道整備の命令は、やがて他国にも適応されるようになった。村井貞勝は京の道の整備を村々に命じている。
 
 
 
 【織田信長と茶道具】
 織田信長は茶道を愛した武将だった。織田信長に早くから仕えた平手政秀、松井友閑も茶道、連歌に通じており、。尾張瀬戸、尾張常滑、近江信楽、越前、丹波、備前は六古窯を呼ばれ、古来から陶器の名産地だった。特に尾張、美濃は畿内で使用される陶器の産地として有名で、海上交易を通じて蝦夷や琉球でも販売されていた。織田信長は六古窯の地を全て領し、その販売に大きな影響を有したと思われる。永禄十一年十月、上洛した織田信長に対し、松永久秀は九十九髪を献上した。今井宗久も松島の壷などを献上している。天正三年十一月二十八日、織田信長は信忠を岐阜城主に任じて、自身は佐久間信盛邸に移った。その際、茶道具ばかり持参したと云う。織田信長は家中の茶会で茶頭を務める者を重臣のみとした。明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家、佐久間信盛、瀧川一益、丹羽長秀など織田家を代表する家臣でなければ茶頭を務める事は許されなかった。茶会は織田家重臣としての権力を誇示する場となり、使用する茶道具の価値も高まった。
 
 
 
 【髑髏の酒宴】
 織田信長は朝倉義景らの頭骨を肴に酒宴を開いたとされ、信長の残忍な性格を示す一例とされている。しかし、「私要鈔」によると、応仁元年六月十四日、朝倉孝景は東軍武田信賢勢に勝利し、首級の前で酒宴を開いている。義景の祖も同じようなことをしたのだ。
 
 
 
 【織田家当主 織田信忠】
 天正元年七月頃、織田信忠は尾張を統治するようになった。天正三年十一月四日、織田信長は右大将大納言に昇進し、正親町天皇より盃を賜った。また、織田信忠は秋田城介に任ぜられた。天正三年十一月二十八日、織田信忠は岐阜城主となった。信長は信忠に伝来の家宝「星切の御太刀」などを譲り、自身は愛用の茶道具を持って佐久間信盛邸に移った。天正四年十一月十一日、織田信長は内大臣に昇進。天正五年十月、信忠は従三位佐中将に任官された。天正五年十一月、織田信長は右大臣に任官された。天正六年四月、織田信長は官職を辞した。同九日、織田信長は広橋兼勝に今後の任官は全て信忠に与えて欲しいと伝えた。天正十年二月、織田信忠は武田攻めに出陣。同年三月二十六日、信長は信忠に「天下の儀」を譲った。同年四月から五月にかけて、朝廷は今後の官職について織田信長に太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかを選ぶよう求めた。しかし、信長から返答は無かった。信長は朝廷に対し、任官は嫡子信忠に与えるよう求めており、そのため自身の任官に対して返答をしなかったのだ。同年四月、織田信忠は万里小路充房に正親町天皇への戦勝祈願御礼のため上洛すると伝え、その取次を依頼した。同年五月二十七日、織田信忠は妙覚寺に入った。五月二十九日、信長は本能寺に入り、茶会を開いた。
 
 
 
 【織田信長の高野山攻め】
 天正八年八月、織田信長は松井友閑を高野山に派遣し、高野大衆一揆が荒木村重一派と結託しているのではないかと問い質した。同年九月二一日、信長は高野大衆一揆に加わった真言宗の僧侶を捕縛し、誅殺した。そのため、高野大衆一揆は解散した。天正九年正月、僧侶らは高野大衆一揆を再び興し、根来衆もこれに同調した。そのため、信長は織田信張に高野山攻撃を命じた。織田信張は僧侶千三百八十三名を捕縛し、多くの僧侶が誅殺された。天正九年十月二日、堀秀政が織田信張軍に加わり、根来寺を攻撃。三百五十余名を捕らえ、人質にした。同年十月五日、筒井順慶も根来寺攻撃に参加。天正十年四月、織田信孝が高野山攻めの総大将となった。織田信孝は高僧百三十一名を討ったが、本能寺で織田信長が討たれたため、高野山攻めは中断された。
 
 
 
 【本能寺合戦】
 天正十年五月四日、歓修寺晴豊は安土城に向かい、京都所司代村井貞勝と面会。織田信長に太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかを選ぶよう求めた。五月十七日、羽柴秀吉は織田信長に毛利攻めの援軍派遣を願い出た。織田信長は自ら中国征伐に出陣する事を決め、明智光秀、細川忠興、筒井順慶に出陣を命じた。天正十年五月二十五日、明智光秀は丹波亀山城に戻る。五月二十六日、丹波愛宕山に参拝し、勝軍地蔵に戦勝を祈願し、籤を引いた。二十六日夜、愛宕山太郎坊に参籠し、籤を引いた。籤の結果が悪かったためか、明智光秀は三度、籤を引き直した。五月二十七日、明智光秀は丹波愛宕山西坊威徳院で百韻連歌会を開いた。五月二十九日、明智光秀は鉄炮、弾薬百駄を中国征伐のため西に発送した。六月一日夕刻、明智光秀は家臣を集め、森乱丸からの使者が来たを偽り、織田信長が明智軍を見たいと伝えてきたと述べた。そして、織田信長の下に向かう準備を急がせた。こうして明智光秀は一万三千余名を率いて出陣。同日夜、明智光秀は重臣を集め、織田信長を討つため本能寺に夜襲を仕掛ける事を伝えた。亀山城から南に向かうと条野、老ノ坂に出る。老ノ坂を越えると沓掛に、そこから京都に入り、桂川を渡ると本能寺付近に出る。強襲すれば織田信長は援軍を呼ぶ間も無いだろう。また、柴田勝家は上杉攻めのため北陸に、羽柴秀吉は毛利攻めのため西に、瀧川一益は新たな所領である関東に駐留している。彼等は交戦中の敵の追撃を恐れ、畿内に戻る事が出来ないだろう。細川藤孝や筒井順慶ら明智光秀の与力大名は所領にいるため、謀反後に呼びかければ明智軍に合流する可能性が高い。こうした利点を考慮した上で重臣等は謀反に賛成した。同日、織田信長は本能寺で茶会を開き、前関白近衛前久らを歓待した。夜には織田信忠が本能寺を訪れ、父信長と歓談し、二条城に戻っていった。六月二日未明、明智軍は沓掛で食事のために休憩した。そして安田正義を先行させ、先にいる者は誰であろうと切るように命じた。これにより、瓜作りのため真夜中から畑仕事をしていた百姓三十余名が討たれた。桂川を渡る時、明智光秀は足軽等に草履を履き替えるよう命じ、鉄炮足軽には火縄に火を付けさせた。全軍が川を渡り終えると、明智光秀は本能寺に夜襲を仕掛け、織田信長を討つ事を告げた。そして夜明けの頃、本能寺を強襲。合戦の声に驚いて起きた織田信長だが、事態を飲み込めず喧嘩騒ぎと勘違いした。森乱丸が明智光秀による謀反と報告し、応戦の意志を固めた。
 
 
 
 【豊臣秀吉に優遇された織田信雄】
 天正十二年十一月十五日、織田信雄は豊臣秀吉と講和。同年十一月二十六日、豊臣秀吉の奏上で織田信雄は正三位大納言に叙任された。同年十二月に豊臣秀吉は正二位内大臣に任官した。天正十五年十一月、秀吉は関白太政大臣、信雄は右大臣に叙任された。これにより織田信雄は「尾張内府」と呼ばれるようになった。天正十八年、小田原征伐後、豊臣秀吉は織田信雄に旧徳川領三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を与えようとした。しかし、信雄がこれを断ったため改易した。文禄三年、信雄は許され、御伽衆一万七千石となった。子の秀雄は越前大野四万五千石を賜った。このように豊臣秀吉は織田信雄を厚遇したが、信雄が命令に反したためやむなく改易した。信雄が旧徳川領移封に従っていれば全国有数の大大名となり、大きな影響力を有したと思われる。
 
 
 
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