南部家 家臣団
 
 
 
  南部信義 (?〜?)
 南部信時の長男。南部家当主。弟政康が跡を継ぐ。
 
 
  南部政康 (?〜?)
 南部信時の次男。南部家当主。右馬頭。子は安信、高信、長義、信房、秀範。
 

 
  南部政康の子供
 
 
  南部安信 (1493〜1525年 33歳没)
 南部政康の長男。南部家当主。大永五年四月没。三十三歳。子は晴政。
 
 
  南長義 (?〜?)
 南部政康の三男。
 
 
  石亀信房 (?〜?)
 南部政康の四男。
 
 
  毛馬内秀範 (?〜?)
 南部政康の五男。靱負左、信次。毛馬内古館主二千石。鹿倉郡支配のために配置された。永禄年間、安藤氏と争う。子は政次。
 

 
  南部晴政の子供
 
 
  南部晴継 (1560〜1572年 13歳没)
 南部晴政の嫡男。彦三郎。元亀三年八月四日、南部晴政が没したため二十五代当主となる。しかし、父の葬儀の帰りに凶賊に討たれる。元亀三年九月、十三歳という。法名「芳梢花公」。
 

 
  石川高信の子供
 
 
  浪岡政直 (?〜?)
 石川高信の子。南部信直の異母弟。彦次郎。兄信直は庶長子である。父高信が討たれると津軽郡代職を継いだ。津軽浪岡城主。なお、父石川高信は南部晴政の叔父とされるが、「寛政重修諸家譜」はこれに疑問があるとして晴政の弟ではないかとしている。同書は兄弟の順を南部晴政、石川高信、南長義、石亀信房、毛馬内秀範としている。
 

 
  南部信直の子供
 
 
  南部利直 (1576〜1632年 57歳没)
 南部信直の子。彦九郎、信濃守、晴直。従四位下。小田原参陣中、前田利家から一字を賜り元服。九戸攻めでは先陣。慶長四年、父の遺領を継ぐ。出羽合戦では最上義光に属す。和賀一揆鎮圧に功があった。慶長十五年三月、家康に拝謁。道阿彌肩衝を賜る。十六年十一月十一日、茶会を開く。十九年四月、越後高田城普請に参加。大坂冬の陣の直前、即座に伏見に参じたことを秀忠に賞される。家康も籠を利直の側に置くことで信任を表した。しかし、軍勢の遅参のため後方に配置される。夏の陣では領国に残るよう命じられる。将軍上洛などに度々供奉。寛永三年八月二十九日、従四位下。寛永九年八月十八日、五十七歳没。法名「月渓清公南宗院」。
 

 
  南部利直の子供
 
 
  南部家直 (1600〜1615年)
 南部利直の長男。兵六郎、経直。母は今渕将監の娘。庶長子として廃嫡された。元和元年一月十八日、十六歳没。
 
 
  南部政直 (?〜1624年)
 南部利直の次男。彦九郎。庶子であるため廃嫡された。花巻城代二万石として、居城を近世的な城に改築した。館は三戸城の桜小路南側。伊達領との国境を守った。寛永元年十二月、岩崎城代柏山伊勢とともに変死を遂げる。
 
 
  南部重直 (1606〜1664年 59才没)
 南部利直の三男。母は蒲生氏郷の娘。嫡子として家督を継ぐ。慶長十七年十二月二十日、秀忠が利直邸を訪ねた際に拝謁。元和四年十二月二十三日、従五位下山城守。寛永九年十月、父の遺領を継ぐ。十一月一日、父が賜った道阿彌肩衝、太刀を献上。同月六日、領地に赴く際に再び道阿彌肩衝を賜る。十二年、盛岡城に移る。十三年、参勤交代に遅参し蟄居。十四年十二月二十二日、許される。二十年六月十四日、和蘭船が領内に漂着。これを言上する。寛文四年九月十二日、五十九歳没。法名「三峯宗元即性院」。妻は加藤嘉明の娘。子の吉松、勝直が早世したため、家督は弟の重信が継いだ。。
 
 
  南部利康 (?〜?)
 南部利直の四男。申千代、彦八郎。南直義の跡を継ぐ。五千石。三戸城二ノ丸に居住。浅水城主。南部利直が江戸に向かうと、代わりに国政に参与した。寛永八年十一月二十一日、二十四歳没。寛永九年、南部信直は南部利康のために霊屋を建立した。申年生まれの南部利康を弔うため、霊屋の木鼻には猿の彫刻が施されている。
 
 
  南部重信 (?〜?)
 南部利直の五男。甥吉松、勝直の早世により、兄重直の養嗣子として家督を継ぐ。
 
 
  南部利長 (?〜?)
 南部利直の六男。
 
 
  南部直房 (?〜?)
 南部利直の七男。
 

 
  南部一門
 
 
  毛馬内政次 (?〜?)
 毛馬内秀範の子。権之助。慶長十二年春、利直の命により柏崎へ移った。
 
 
  毛馬内権佐 (?〜?)
 南部一門か。和賀一揆討伐では、大光寺左衛門と共に大手口先陣。搦手は桜庭安房に命じられた。
 
 
  東朝政 (?〜?)
 南部晴政の娘を娶る。
 
 
  南盛義 (?〜?)
 南部晴政の娘を娶る。
 
 
  八戸政義 (?〜?)
 八戸南部家当主。子は直栄。新田直政を養嗣子に迎えた。
 
 
  八戸直栄 (1561〜1595年 35歳没)
 八戸政栄の子。妻は南部信直の娘。文禄二年五月二十七日、南部信直は八戸直栄に手紙を出している。それによると、上方の大名は田舎の大名を馬鹿にするので、南部信直は月に一度、前田利家に挨拶する以外は外出しないようにしていた。他家との付き合いで恥をかかないよう朝から晩まで気を遣っていた。また、津軽為信は前田利家に挨拶した際、恥をかいたと云う。豊臣秀吉の天下統一により、地方出身の大名は上方の大名との交際という厄介な問題を抱えるようになった。文禄四年、三十五歳没。
 
 
  八戸直政 (1589〜1614年 26歳没)
 新田直政。文禄四年、八戸直栄が没したため、八戸政義の養嗣子として僅か九歳で八戸氏を継ぐ。慶長十九年、二十六歳没。妻は八戸祢々。
 
 
  八戸祢々 (?〜?)
 八戸直栄の娘。母は南部信直の娘。夫は八戸直政。慶長十年、夫直政が没すると南部利直の命により家督を継ぐ。後に剃髪して清心尼を称す。
 
 
  北秀愛 (?〜1598年没)
 信愛の子。稗貫広忠の居城島ヶ谷崎城は天正十九年、花巻城に改められた。秀愛は花巻城代となるが、慶長三年に没した。花巻城代には父信愛が命じられた。
 
 
  北愛継 (?〜?)
 北信愛の三男。九兵衛。二千石で軽米城主となる。
 
 
  北十左衛門 (?〜?)
 北信愛の養子。慶長五年、花巻城を攻める和賀忠親勢は伊達家の支援もあり、信愛も苦戦した。二の丸、三の丸が落とされ、十三名の兵と婦女子で攻撃をしのぐ有様だった。しかし、十左衛門の援軍が到着し、さらに町民の援護もあって和賀勢は撤退した。
 
 
  工藤政祐 (?〜?)
 葛巻城主。妻は九戸政実の娘。掃部助。九戸政実からの誘いを拒み、九戸の乱では信直を支持。これにより一千石を加増され、弟の直祐は田頭館に移った。
 
 
  泉山和泉 (?〜?)
 南部家臣。娘は南部信直の後妻となった。
 
 
  花輪朝重 (?〜?)
 花輪館主。十郎左衛門。田鎖一族。天文十五年に花輪館に移る。子は一朝。
 
 
  花輪一朝 (?〜?)
 花輪朝重の子。安房守。子は政朝。
 
 
  花輪政朝 (?〜?)
 花輪一朝の子。内膳。娘は南部利直の妾となり、四代藩主重信を産む。
 

 
  南部家臣
 
 
  一戸政包 (?〜1581年)
 平館城主。信濃。一千石。天正九年七月、兄の政連らとともに一戸城で九戸政実に謀殺された。
 
 
  七戸慶道 (?〜?)
 伊勢。七戸家国との関係ははっきりとしないが、七戸城主と伝わる。家国とは違う城を構えたのだろうか。九戸の乱に荷担し滅ぼされた。
 
 
  七戸将監 (?〜?)
 野辺地城主。七戸家の支族。野辺地城は後に石井伊賀の居城となる。
 
 
  金沢円松斎 (?〜?)
 石川高信の重臣。元亀二年春、石川高信は為信の堀越城修理依頼に応じる。完了後、為信は金沢円松斎、栃尾靱負、浪外記らを招き祝宴を主催。高信と親交を深めることで逆に油断をさせたのだろう。同年に石川城攻めを行っていることからもそれがわかる。
 
 
  大湯昌次 (?〜1591年)
 大湯館主、大湯鹿倉館主。四郎左衛門。南部一門大湯昌光の次男。父の遺領二千石を継ぐ。永禄元年、安藤家に通じる。南部、安藤両家との間で行動し、天正十七年には信直配下として比内大館城攻めに参加。天正十九年、かねてから親交のあった九戸家に荷担し、南部勢による大湯館攻撃後は九戸城に入城。捕縛され、栗原郡三迫にて自刃。為信に預けた二人の遺児は成人し、大湯家は後に津軽藩重臣の家柄となる。兄昌忠は九戸の乱で大湯彦六として信直勢に加わり、六千二百石とある。弟の次郎左衛門昌吉、彦左衛門昌致は九戸の乱の後、津軽家に仕官した。
 
 
  南部中務 (?〜?)
 上名久井館主。南部東氏。東氏は三戸城の東に館を構える重臣で、本姓は「工藤」である。
 
 
  石井伊賀 (?〜?)
 野辺地城主二千石。館は南部利直の子、利康の館の西隣にある。子の石井善太夫は花巻城家老となる。
 
 
  奥瀬内蔵之介 (?〜?)
 奥瀬館主、千石。南部氏に従い甲斐から移った小笠原安芸の子孫。九戸の乱では信直に属す。慶長四年には三百石に減じられている。
 
 
  沢田助三郎 (?〜?)
 沢田館主、千三百石。本姓は「恵比奈」。古くから南部家に重用された家柄で、九戸の乱では信直に属す。
 
 
  南直勝 (?〜?)
 七戸南部氏滅亡後、その名跡を継ぐ。子の七戸直時は七戸城主二千国となる。南部領内の城は四十八城で、三十六城が天正二十年に破却されることが決まる。七戸城も含まれているのだが、南氏が入るなど不明な点がある。ちなみに破却と言っても建物を壊すだけで、その他の造りは残された。
 
 
  切田兵庫介 (?〜?)
 切田村四百石。九戸の乱では信直に属し討死。本姓は「気田」で、南部家に甲斐より従う家柄。祖父気田弾正は十三代南部守行を支え、「鬼気田」、「鬼弾正」と呼ばれた勇将である。
 
 
  南部左門 (?〜?)
 南部一門という。大阪城に入城し、落城前に千姫を護衛し脱出した。
 
 
  滝本重行 (?〜1575年)
 播磨守。大光寺城代。天正二年八月十三日、為信を撃退。しかし、翌年元旦に落城し、弟刑部左衛門とともに落ち延びた。また、これは一説に天正四年の出来事とも言う。天正三年に討たれたという。為信と度々争い、特に為信に仕える乳井建清は父の敵と重行を憎んだ。
 
 
  千徳正武 (?〜1585年)
 田舎館城主、掃門。天正十三年五月二十日、為信の三千の兵に攻められ自刃。田舎館城に籠もった城兵の内、三百三十余名も自刃したという。妻の於市は小山内讃岐の娘で、慶長元年三月、為信の主催した法要の席で自刃した。彼女は親兄弟、そして夫が為信の軍により滅ぼされており、それに対する当て付けの機会を狙っていたのだろうか。
 
 
  千徳孫三郎 (?〜?)
 千徳城主。一戸姓。天正二十年、九州名護屋在陣。この時、信直は千徳城を破却。千徳氏の名もこれ以降、消えている。
 
 
  中津山善連 (?〜?)
 治郎左衛門。千徳善勝の異母弟。天正十一年から千徳城南の笠間城を守る。
 
 
  小山内讃岐 (?〜1571年)
 和徳城主。為信は石川城攻めと同時に和徳城も攻めた。讃岐の父満春、子の主馬、求馬、弥三郎の三兄弟と共に討たれる。娘の於市は千徳正武に嫁いでおり、家族を為信に滅ぼされた彼女は慶長元年三月に自刃した。
 
 
  堤弾正 (?〜?)
 津軽為信の相婿という。天正十三年、外ヶ浜一帯の地侍は為信に属したが、弾正は南部家を頼り落ち延びていった。
 
 
  大光寺正親 (?〜?)
 南部家臣。安東家との合戦で活躍した。天正十八年、為信は浪岡北畠氏を攻め、北畠氏の援軍に向かった正親も撃退された。
 
 
  南長勝 (?〜?)
 津軽郡代。天正十八年、為信に敗れ三戸に撤退した。
 
 
  桜庭兵庫 (?〜?)
 天正十一年、津軽一帯は凶作と疫病に悩まされていた。南部信直は津軽から年貢を納めさせ、自国に持ち帰ろうとするが、津軽為信はこれを拒み、逆に食料援助を訴えた。兵庫はこの時に津軽に向かった代官である。
 
 
  奥入瀬善九郎 (?〜?)
 油川城主。天正十三年三月二十七日、油川城は為信に攻略される。この時、善九郎は戦うことなく家族、家財とともに海路で落ち延びた。
 
 
  下田治太夫 (?〜?)
 五戸下田館、八百石。九戸の乱では信直に属す。
 
 
  平岡盛影 (?〜1571年)
 惣右衛門。滝本重行に仕え、高畑城主となる。高畑城は重行が乳井建清を抑えるために築城した。元亀二年、建清が挙兵したために落城。盛影も討たれた。
 
 
  津村伝右衛門 (?〜?)
 伝法寺館主、四百石。伝法寺羽立館館主も兼ねる。九戸の乱では信直に属し、羽立館を落とされて伝法寺館に籠もるが七戸家国を撃退した。
 
 
  豊良弾正 (?〜?)
 豊良館主。九戸の乱で七戸家国に攻められる。この館は豊良監物の館とも言い、監物は九戸側に属したとされる。別にもうひとつ館があって一族内乱になったのかもしれない。
 
 
  佐藤将監 (?〜?)
 天正二十年、洞内城主。将監の前の城主は洞内某で、七戸家国の攻撃により五戸に逃れている。
 
 
  赤沼備中 (?〜1539年)
 赤沼館主、厩役人。天文八年、近習頭奥瀬安芸に敗訴し、三戸城に火を放つ。安芸を切って逃走するが、その途中で下斗来昌家に誅殺される。
 
 
  伴作左衛門 (?〜?)
 九戸の乱の後に南部信直は、浅野長政の十人の家臣を貰い受けた。作左衛門はその一人で、浅野十人衆と呼ばれた。
 
 
  内堀四郎兵衛 (?〜?)
 前田利家の家臣であったが、九戸の乱の後に南部信直が貰い受ける。天正十九年のみ新堀城主となる。千石を知行した。
 
 
  葛西重隆 (?〜?)
 葛西重俊の弟。兄と同じく葛西重恒の養子となる。養父とともに南部家に仕え、慶長十七年六月、新堀城から土沢城に移封となる。
 
 
  近内長左衛門 (?〜?)
 利直に仕え、閉伊四十八郷総奉行七十石。千徳氏とは遠縁で、近内館主近内氏の者。
 
 
  江刺家瀬兵衛 (?〜?)
 慶長五年、内堀四郎兵衛と共に最上家への使者となり、和賀一揆が起きたことを伝えた。
 
 
  軽米兵右衛門 (?〜1591年)
 軽米城主。九戸の乱で討死する。軽米城主は北愛継に命じられた。
 
 
  野田政親 (?〜?)
 野田城主。一戸掃部助。九戸の乱では信直に属す。野田城は天正二十年に破却された。
 
 
  野田直親 (?〜?)
 「野田系図」異本に記される政親の兄。野田姓を称したのは直親からという。宇部館主。
 
 
  箱石左衛門丞 (?〜?)
 箱石館主。早池峯新山神社神殿建立に協力。慶長三年、新山神社宝前に幣帛を捧げる。
 
 
  槻館弥兵衛 (?〜?)
 元葛西家臣。南部家に仕える。槻館館主。後に遠野城代となる。
 
 
  浄法寺修理 (?〜?)
 浄法寺城主。九戸の乱では浅野長政の左先鋒となる。六千石。慶長五年、岩崎城攻めの不手際から改易断絶となる。一族の松岡館主松岡尾張は三百石を知行していたが、修理と同じく改易された。
 
 
  津軽石勝富 (?〜?)
 九郎。払川館主。千徳氏分流。天正十一年正月、千徳城の新年祝賀の席で討たれる。部下の石至八郎は深手を負い討たれるが、荒川佐助は津軽石館に逃れ籠城する。兵は八十名ほどだが、中津山善達の二百二十六名の兵を相手に善戦。しかし、夜に放火され、佐助は突撃をして討たれた。勝富の子は佐助によって城から逃れたという。
 
 
  米内右近 (?〜?)
 阿部氏庶流。上米内館主。天正末年、信直に不来方城警備を命じられる。
 
 
  亀ヶ森家衡 (?〜?)
 亀ヶ森館主。七百石で南部家に仕える。
 
 
  平館彦六 (?〜?)
 津軽石行重の子。信直の命で平館氏を継ぐ。
 
 
  栃内源蔵 (?〜?)
 栃内館主。高水寺斯波家臣だが、信直に寝返り長岡城を攻撃。子孫は重臣として明治に至り、戊辰戦争で軍事局総督となる。
 
 
  小枝指宗完 (?〜?)
 小枝指館主。左馬助。南部晴政に五百石で仕える。子の小次郎知宗は信直に、孫の又左衛門茂宗は利直にそれぞれ五百石で仕えた。知宗、茂宗の名は永禄元年、加倉郡諸侯が安藤氏の元に集まったときに見られる。永禄八年からは正式に南部配下となり、鹿倉郡が安藤勢に制圧され津軽に逃れてからも、信直によって旧領に戻ることが出来た。
 
 
  長牛友義 (?〜?)
 縫殿介。長牛館主。一戸南部氏の分流。永禄九年、安藤勢の攻撃を籠城で防ぎ、翌十年には小川の水を血で赤く染めたと言うほどの激戦の末、十月に三戸に撤退。破れはしたものの、十一年の信直による鹿館地方回復により再び長牛館主に復帰した。
 
 
  月館隠岐 (?〜?)
 瀬田石館主。瀬田石隠岐とも言う。天正十六年、高水寺斯波攻めで功があった。九戸の乱では弟の小平左近と共に信直に属し、九戸側の一戸城を攻撃した。
 
 
  五十目秀兼 (?〜?)
 兵庫。天正十年、浅利勝頼が秋田安藤家に謀殺されると、大館城代として大館地方を支配。しかし、十六年に南部家に内通し寝返る。南部家は大館地方を手に入れ、大館城には重臣北信愛が入城した。この功により十二所城代となる。
 
 
  石井又三郎 (?〜?)
 和賀一揆に参加しようとする白井右衛門と合戦になるが、又三郎は一番鑓の功を挙げた。
 
 
  高畑主水 (?〜?)
 白井右衛門の家臣、鈴木将監を討つ。八木澤興四郎は仁井田内膳を討ち取る。これにより右衛門は敗走した。
 

 
  【付記】
 
 
 
 南部信直は天正十三年、鷹買商人田中清六を通じて前田利家と接触した。
 
 
 
 【南部信直の家督相続】
 南部晴政嫡子晴継の死は南部信直か、もしくはその周辺の人物の策略であろう。晴政は石川父子と対立していた。特に家督問題があり、晴継が当主となるにはどうしても石川高信を討つ必要があった。そこで晴政は大浦為信を起用し、見事に高信を討った。しかし、その直後に自身も没してしまう。
 南部晴政の長女は信直に嫁いでいたが、この頃には没している。そのため次女を娶った九戸実親が二十六代候補となるが、北信愛が強引に信直を当主に迎え入れた。北信愛は石川家側の人間である。ちなみに南部家側の記録では天正九年に高信が、十年に晴政が没し、晴継が暗殺されたのは天正十年正月二十四日のこととしている。彼らの没年を約十年遅らせることで、その後の九戸家との内乱などを晴政の責任に転嫁したのだ。生前の晴政と信直は対立していたが、これを逆に良好な関係で晴継の後見を頼まれたなどとしている。南部家は信直の家督相続を正当化するため、記録を改ざんしている。
 「寛政重修諸家譜」もこの混乱の影響を受け、永禄六年三月十六日に晴政が、永禄八年正月二十四日に晴継が、そして石川高信は某年卒としている。
 
 
 
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