信濃村上家 家臣団
 
 
 
  村上政国 (?〜1494年)
 村上家当主。村上頼平の父。義清の祖父。寛正二年五月、家督を相続。応仁元年十二月、小県郡、佐久軍を攻める。文明十一年八月、大井政朝が伴野康政に敗れ、大井家は徐々に衰退。文明十六年二月、子の頼平と共に大井城を攻め、二月二十七日に大井安房丸が降伏。大井安房丸を小諸に流し、大井康光を大井氏当主に迎えた。延徳元年六月、武田信昌は芦田城を攻めた。大井行満は村上政国に援軍を求めた。武田信昌は村上政国に敗れ、撤退している。長享元年九月、足利義尚の近江佐々木高頼征伐の際、御番衆として名がある。。長享年間、水内郡の保科正則を攻めた。正則は伊那郡に落ち延びた。明応二年三月、隠居。明応三年十月十一日没。子は頼平、頼房、義顕、頼胤。
 

 
  村上政国の子供
 
 
  村上頼平 (?〜1520年)
 村上政国の子。左衛門督、左京亮、信濃守、頼国、頼衡。文明十六年二月、父政国と共に大井城を攻める。延徳元年六月、武田信昌が芦田城主大井行満を攻めると、父と共に救援した。明応二年三月、家督を継ぐ。明応四年七月、高梨氏と争う。永正元年春、修善寺を修繕。永正二年、古山城主小川貞綱が謀反したため、牧之島城主香坂忠宗に討ち取らせた。永正六年七月、上杉顕定は越後攻めに際して村上頼平に援軍を要請。頼平は越後に向けて出陣した。その後、越後の長尾為景と結んで勢力を拡大する高梨政盛を警戒し、須田氏、島津氏らと結束を固める。永正十年五月、高梨政盛の死に乗じ、高梨澄頼を攻める。その際、須田氏、井上氏は村上頼平の家臣となり、かつて高梨氏に攻め滅ぼされた中野氏残党も村上軍に合流。同年七月、中野氏残党は小島田で挙兵したが、高梨澄頼に鎮圧された。永正十一年、小県郡の海野氏を攻める。砥石城を攻め落とすと、自身の隠居城にするため改修した。永正十二年四月、上洛して将軍足利義稙に拝謁。永正十五年、剃髪。砥石城に移り、居城葛尾城は嫡子義清に譲った。永正十六年二月、同盟を結んでいた島津貞忠が裏切り、長尾為景と結んだ。頼平はこれに激怒。同年五月、島津領である水内郡を攻めた。若槻城主若槻広隆を筑摩郡に追いやり、木堀将監を若槻城に入れた。島津貞忠は矢筒城に籠もったが落城。捕縛した島津貞忠を許し、家臣とした。同年八月、武田信虎が信濃佐久郡を攻める。応戦のため義清と共に佐久郡に出陣。永正十七年三月十七日没。子は義清、義兼。
 
 
  村上頼房 (?〜?)
 村上政国の子。頼平の弟。
 
 
  村上義顕 (?〜?)
 村上政国の子。頼平の弟。
 
 
  村上頼胤 (?〜?)
 村上政国の子。頼平の弟。
 

 
  村上頼平の子供
 
 
  村上義兼 (1503〜1533年 31歳没)
 村上頼平の次男。義清の弟。右兵衛佐。文亀三年生。天文二年六月十日没。子は義房。
 

 
  村上義清の子供
 
 
  村上義利 (?〜1555年)
 村上義清の長男。常陸介。弘治元年、川中島合戦で討死。
 
 
  村上義勝 (?〜?)
 村上義清の次男。弥二郎。子の勝重は榊原康政に仕えた。
 
 
  村上義照 (1543〜?)
 村上義清の三男。天文十二年、義清側室加治姫難産のおり、現長野市の村山荒神堂、荒神堂三宝大荒神に参拝したため無事に男子が産まれたという。おそらくは義照のことと思われる。僧籍となり善誉故念。天正三年、武州鴻巣勝願寺から信濃に戻り、荒廃した大信寺を再建。宗源寺と改称し、旧村上家臣を集め往源院、青松院、龍太院の三ヶ寺を開基。後に石川数正の子、三九郎が父の位牌を宗源寺に納め、香華院宗林寺と改称した。
 
 
  村上義邦 (1544〜?)
 村上義清の四男。国丸。詳細不明。
 
 
  村上国千代 (1550〜?)
 村上義清の六男。三河村上氏の祖となる。義清には、他に落とし子がいたとする説がある。
 

 
  村上一門
 
 
  村上義房 (?〜?)
 村上義兼の子。義清の甥。義房は義清の長女を娶ったとする系図がある。一説に山浦国清の父ともされる。
 
 
  村上義満 (?〜?)
 信濃村上一門。義清の娘を娶る。一説に戸田武蔵守勝成の子を養子に迎えた。これが後の村上周防守頼勝と云う。村上頼勝は越後村上城主となっている。
 
 
  小島兵庫助 (?〜1553年)
 村上一門。埴科郡狐落城守将。天文二十二年三月、武田家に寝返った大須賀久兵衛尉により、弟の小四郎、与四郎とともに討たれる。
 
 
  村上信濃守 (?〜?)
 信濃村上一族。武田信玄の攻撃により、駿河に逃れ今川氏真に仕えた。法名「日長」。
 
 
  内山清宗 (?〜?)
 信濃佐久郡内山城主。美濃守。大井氏一門。義清の大井氏懐柔政策のため、天文六年正月に義清の娘を娶る。海尻城代。天文十五年三月、武田家に奪われた海尻城奪回のため五千近い兵で包囲。真田幸隆は開城するが、直後に夜襲をかけて奪い返している。天文十五年五月、武田晴信の内山城攻めにより敗走。
 

 
 村上家 家臣団
 
 
  島津貞忠 (?〜?)
 水内郡長沼城主。永正年間、越後の長尾為景と結んで勢力を拡大する高梨政盛を警戒し、村上家、須田家らとの結束を深める。永正十年五月、高梨政盛の死に乗じて挙兵。同年七月、中野氏残党らが高森澄頼に挙兵すると、これを支援した。しかし、中野氏残党の乱は高梨澄頼に鎮圧された。同年八月五日、越後を攻める。永正十六年二月、長尾為景と結んだ。背信に激怒した村上頼平が水内郡を攻めたため、矢筒城に籠もる。長尾為景から援軍が派遣されたが落城。島津貞忠は捕らえられ、背信を許され村上家臣となった。
 
 
  保科左近将監 (?〜?)
 保科正則の弟。長享年間、村上政国に攻められ降伏。その後、村上政国に仕えて霧台城主となる。
 
 
  蘆田信守 (?〜?)
 蘆田信蕃の父。村上義清に仕える。
 
 
  屋代忠向 (?〜?)
 左衛門。村上政国、頼平の家老。村上政国の命により関谷城主関谷氏、寺尾城主寺尾氏を攻める。
 
 
  石川長昌 (?〜?)
 屋代国定の子。三郎。村上義清の傅役。小県郡石川庄を賜る。
 
 
  石川長高 (?〜?)
 石川長昌の子。永正八年正月、村上義清の近習となる。
 
 
  屋代政重 (?〜?)
 屋代政国の父。越中守、正重。村上三大老の一人。永正十五年、村上頼平は隠居に際して三大老に義清の補佐を命じた。天文五年、武田信虎に包囲された海尻城救援に向かい、撃退に成功。後に一族とともに武田信玄に仕える。子の政国は室賀光氏の娘を娶った。
 
 
  屋代基綱 (?〜1548年)
 屋代政国の長男。源五。天正十七年、上田原合戦にて討死。義清の身代わりになったという。この上田原合戦は村上勢の大勝であった。
 
 
  出浦国則 (?〜?)
 村上支族出浦氏。周防守。村上義清の傅役。妻は村上義清の乳母。子は清種。
 
 
  出浦清種 (?〜?)
 出浦国則の子。村上家中老。左衛門尉、主計頭。更級郡上平出浦城主。永正九年三月、村上義清の近習となる。天文五年、武田信虎に海尻城は包囲されるが、室賀光氏らとともに五千の兵を率いて撃退している。天文七年六月、長尾晴景来襲の際に主将格の一人として出陣。撃退に成功している。天文九年正月、海尻城城代だったが、留守中に武田家に攻撃され、開城してしまう。国人衆の蜂起に乗じて海尻城奪回に向かい、それに成功する。
 
 
  出浦清正 (?〜?)
 村上支族出浦一門。下野守。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。七つの首を取る。義清と共に越後に逃れる。弘治元年正月、村上国清の教育を命じられる。
 
 
  清野清秀 (?〜?)
 伊勢守。村上三大老の一人。道寿軒。埴科郡清野城主。海尻城守将。永正十五年、村上頼平は隠居に際して三大老に義清の補佐を命じた。天文元年三月、義清に叛いた海野幸善と戦う。天文十五年三月、相木昌朝の内通により落城。更級に逃れる。同年十二月、五千近い兵で海尻城を囲み、真田幸隆は城を開け渡す。しかし、幸隆は直後に夜襲を行い奪い返している。天正十八年正月、晴信の侵攻に対するため出陣している。義清とともに越後に逃れ、弘治元年正月には国清の教育を命じられる。
 
 
  清野清運 (?〜1547年)
 六郎次郎、友澄。清野清秀の一族か。天文十六年十一月、松尾城を攻めるが、真田幸隆の密命を受けて村上家に仕える須野原若狭守、惣左衛門兄弟の裏切りにより、薬師寺清三らとともに討死する。
 
 
  室賀盛清 (?〜?)
 村上三大老の一人。永正十五年、村上頼平は隠居に際して三大老に義清の補佐を命じた。
 
 
  楽岩寺光氏 (?〜1554年)
 村上家重臣。布引城主。駿河守、和泉守。室賀光氏。布引観音で有名な釈尊寺の末寺楽岩寺にいたため、楽岩寺殿と呼ばれる。永正十七年、村上頼平が没すると村上義清の命によって上洛。将軍足利義稙に拝謁し、頼平の死を伝えた。その際、村上義清は幕府御番衆に列せられた。天文五年、佐久郡海尻城が武田信虎に包囲されると、五千の兵を率いて撃退。天文五年、戸石城を改修。天文九年正月に海尻城は武田家に開城するが、それに反対する国人勢力が武田家に蜂起。それに乗じて三百人を率いて出陣。二の曲輪、三の曲輪を落とすも、本丸攻略に手間取り、援軍として向かった晴信、信繁兄弟に撃退される。出浦清種らが無事に海尻城奪回に成功している。翌月、再び武田家が攻撃してくるが主将として撃退。天文十五年三月に海尻城が、五月には内山城が陥落。義清の命で三千の兵を率いて奪回に向かうが撃退される。天文十六年二月、戸石城付近まで攻め込んできた板垣信方と戦い、自ら伏兵となっていた原虎胤により撃退される。同年十一月、真田家を出奔した須野原若狭守、惣左衛門兄弟を重用する義清に、幸隆の策略と諫言。村上勢は松尾城を攻めるが、予定通りに真田家に戻った兄弟により敗北。激怒する義清を戒め、弔い合戦に向かうが敗れる。天正十七年正月、晴信の来襲に対して川中島四郡の諸将を集め出陣。怒りに身を任せる義清を戒めるが、老臣や笠原氏の縁者などの反対により即刻野戦に持ち込むことに。これが有名な上田原合戦で、村上勢の大勝に終わるも多くの犠牲者が出た。天文十八年八月、晴信の佐久郡侵攻に備え戸石城に兵を集める。天文十九年、戸石城救援の先鋒となり、背後より武田勢を攻撃。晴信の大敗として有名な「戸石崩れ」のきっかけとなる。天文二十二年八月、義清が越後に逃れると武田家に降伏。義清の信濃復帰のために景虎と内通するが、その使者が馬場信房の家臣に捕らえられてしまう。内通の罪により自刃させられた。また、武田家に忠節を尽くしたために景虎は中西某に命じ、作成した偽書をわざと馬場信房の手に渡るように仕組む。これにより内通の疑い有りとして誅殺されたともいう。娘は義清の養女として、天文三年十月、屋代政国に嫁ぐ。
 
 
  若槻信寿 (?〜?)
 若槻国景の子。永正三年三月、村上義清の近習となる。
 
 
  若槻清尚 (?〜1548年)
 信濃村上家臣。左京亮。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。十三の首を取る。「若槻村上系図」は六月十五日に為景(晴景の誤り)と稲附原にて戦い、それは一日に十三度に及んだと記している。天正十七年、上田原合戦で討死した。「村上家伝」には義清が越後に落ち延びるとき、清尚の子、若槻左京進清継が従ったという。
 
 
  夏目次郎太郎 (?〜?)
 村上政国、頼平の家老。村上政国の命により関谷城主関谷氏、寺尾城主寺尾氏を攻める。
 
 
  成沢且親 (?〜?)
 越前守。村上政国、頼平の家老。村上政国の命により関谷城主関谷氏、寺尾城主寺尾氏を攻める。
 
 
  笠原清繁 (?〜1547年)
 新三郎。海尻城城代。志賀城守将。天文九年正月、出浦清種らとともに城を留守にしたところ、武田家に攻撃され開城してしまう。国人衆の蜂起に乗じて海尻城を奪回。再び城代になる。天文十五年三月、またも武田家は海尻城を包囲。相木昌朝が寝返り、城内に火を放ったために落城。五百の兵で囲みを破り更級に逃れる。天文十六年、縁者である上州菅野城主高田憲頼らとともに志賀城に籠もる。七月には武田勢により水を断たれ、援軍であった山内上杉家臣金井秀景らが討ち取られたために最後の突撃をする。このときに清繁は萩原弥右衛門に、高田憲頼は小出越前守に討たれ落城した。義清は病に伏していたために援軍に消極的だったが、残された清繁夫人が小山田信有に二十貫で買われたり、女子供が競売にかけられ遊女などにさせられたため、深く嘆き反省したという。後に謙信も義清が援軍に消極的だったことを非難している。清繁の墓は、触れれば祟りがあるとして現代も恐れられている。
 
 
  薬師寺清三 (?〜1547年)
 右近進。一騎当千の武士という。小県郡横尾城代。天文五年、義清は甲斐武田家への備えとして海尻城を改修。右近進は海尻城守将となる。天文九年正月、武田家の来襲によく耐えるも、同十六日に和解して城を渡すことになる。天文十五年、義清は長尾景虎との和平に際し、条件として魚沼郡などの返還を求められる。義清はこれを拒み白紙に戻してしまうが、清三は景虎こそ晴信に対抗できる武将として諫言している。天文十六年十一月、 真田家を出奔した須野原若狭守、惣左衛門兄弟を任され、松尾城を攻撃。二の曲輪まで攻め込んだとき、策略通りに真田家に戻った兄弟が門を閉め、弓の雨を降らせる。これにより清三は討死し、村上勢は大敗してしまう。清三の首は幸隆が甲斐まで送ったという。
 
 
  小野沢清長 (?〜?)
 式部丞。天文五年、武田信虎に包囲された海尻城に援軍として向かい、撃退する。
 
 
  赤池修理亮 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文十七年の上田原合戦で、甲斐兵に馬を刺され落馬した義清に自分の馬を渡す。この日、義清は三度も落馬したともいい、そのときに鼻を負傷している。
 
 
  中沢国季 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文十七年の上田原合戦で、義清は晴信と馬上で一騎打ちをしたという。このときに晴信は二ヶ所を負傷。このときに晴信と戦ったのは国季であるとも言い、川中島合戦に極めて似た逸話である。
 
 
  岩下次郎 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。十三の首を取る。この記録は「更級少将村上源府君年譜」にある。更級少将とは義清のことである。
 
 
  石黒弥五丞 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。十三の首を取る。
 
 
  鷺田掃部充 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。十二の首を取る。
 
 
  金井原弾正 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。十一の首を取る。天文十五年三月、戸石城守将となる。
 
 
  丸田市右衛門 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。十一の首を取る。
 
 
  鶴田勘由左衛門 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。十の首を取る。
 
 
  武井郷右衛門 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。七つの首を取る。
 
 
  久保仁兵衛 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文七年六月、越後長尾晴景の来襲の際に活躍。七つの首を取る。
 
 
  多知三多兵衛 (?〜?)
 天文五年、薬師寺清三らとともに海尻城守将。天文九年正月の武田家の来襲に活躍した。開城後、武田家に反対する国人勢力が蜂起した。
 
 
  小島重成 (?〜1548年)
 権兵衛。天正十七年正月、上田原合戦にて討死。この合戦で、村上勢は三百数十人が討死したという。
 
 
  雨宮正利 (?〜1548年)
 刑部。天正十七年、上田原合戦にて討ち死に。現在、上田市上田原の観音寺近くに墓がある。
 
 
  牧島基永 (?〜1548年)
 信濃牧島城主。玄蕃。天正十七年、上田原合戦にて討死。
 
 
  小沼川舎人亮 (?〜?)
 天文五年、薬師寺清三らとともに海尻城守将。天文九年正月の武田家の来襲に活躍。
 
 
  会田清幸 (?〜?)
 筑前守。東筑摩郡会田虚空蔵城守将。天文二十二年四月、武田家の攻撃により居城を焼かれ、葛尾城に逃れる。
 
 
  井上清忠 (?〜?)
 五郎。信濃村上家臣。海尻城守将となるが、天文九年正月の武田家の攻撃に耐えきれず更級に敗走。
 
 
  原車之助 (?〜1542年)
 信濃村上家臣。天文十一年三月九日、武田討伐に向かう信濃衆は、兵を休めるために滞在した瀬沢で甲州勢の猛攻に遭い敗走した。車之助はこのときに原美濃守虎胤に首を取られている。
 
 
  横田監物 (?〜1542年)
 信濃村上家臣。瀬沢合戦にて原虎胤に首を取られる。この日、虎胤は十一の首を取っている。瀬沢合戦はかつて虚構とされていたが、瀬沢合戦に参加した甲州勢樋口民部に宛てた感状が発見され、史実と確定された。
 
 
  津久左衛門 (?〜?)
 姓は「津」である。天文五年の改修後、戸石城守将となる。天文十五年三月、戸石城守将となる。
 
 
  斎藤朝実 (?〜?)
 斎藤国実の子。藤太。永正十年正月、村上義清の近習となる。
 
 
  宮下政福 (?〜?)
 周防守。和田城主。村上頼平に属した。
 
 
  尾張部三郎 (?〜?)
 村上頼平の家臣。尾張部に配置された。
 
 
  押鐘民部 (?〜?)
 村上頼平の家臣。押鐘に配置された。
 
 
  香坂忠宗 (?〜?)
 牧之島城主。永正二年、小川貞綱が謀反するとこれを討ち取る。
 
 
  小林平四郎 (?〜?)
 西上野の居住する。天文十七年二月二十二日、村上義清から書状を送られる。内容は上田原合戦での村上家の勝利についてである。
 
 
  依田新左衛門 (?〜?)
 信濃村上家臣。天文五年、戸石城を改修。
 
 
  布下雅信 (?〜?)
 信濃村上家臣。仁兵衛。布引館守将。天文五年、戸石城を改修。天文十八年八月、武田家の攻撃により戸石城に逃れる。後に武田家に仕えた。
 
 
  山田国政 (?〜1551年)
 荒砥城主、戸石城守将。備中守、越中守。村上家中老。真田幸隆の弟、矢沢頼綱は戸石城を守っていたが、天文二十年五月、兄の誘いにより武田家に寝返り、戸石城に火を放つ。これにより戸石城は陥落し、反乱軍に突撃した国政は討死した。
 
 
  小岩岳盛親 (?〜1552年)
 南安曇郡小岩岳城主。村上義清の支援を受け、武田家と対立する。天文二十一年八月十二日、武田家の攻撃により落城。子の盛通とともに討死した。
 
 
  三木新左衛門 (?〜?)
 信濃村上家臣。武田晴信の信濃侵攻により、義清は越後長尾景虎と和解することにした。新左衛門はその使者となるが、晴景時代に義清が手に入れた魚沼郡などの返還を求められたため、交渉は決裂してしまう。
 
 
  長谷倉熊之助 (?〜1547年?)
 信濃村上家臣。剛勇の士という。原虎胤に討たれる。「武具要覧」には虎胤の後日談として、熊之助が二寸に足りぬ小馬に乗っていたため、五寸に余る馬に乗った自分が勝ったのだ、と記している。馬上の身となれるのならば大きな馬に乗った方がよい、という話なのだが、日本の合戦が古くから弓などを主体としていたことを考えると、互いに馬上であれば、という話と考えるべきだろう。
 
 
  安中一藤太 (?〜?)
 上州安中城主安中氏の縁者。山内上杉家を離れ、弟の八木宗八郎とともに村上家に仕える。天文十七年、上田原合戦で宗八郎は討ち死に。一藤太は板垣信方の陣を強襲し、煙草を吸っていた信方に槍を突き、上条織部がその首を取ったという。これは俗説とされ、村上勢との接戦の中で討ち死にしたのが真実であるという。
 
 
  小田井信親 (?〜1544年)
 小田井城主。又六郎。天文十三年、武田家に攻められ討死。
 
 
  小田井治部左衛門 (?〜1544年)
 小田井信親の弟。天文十三年、武田家に攻められ討死。
 
 
  田口長能 (?〜?)
 田口城主。天文十七年八月、武田家に攻められる。田口長能は小田山信有の包囲を破り、逆に内山城を攻めた。武田晴信が救援に駆けつけたため、田口長能は敗走。行方不明になった。
 
 
  知久頼元 (?〜1555年)
 神之峰城主。天文二十三年七月、武田家に攻められる。八月、落城。知久父子は捕らえられ、甲斐に送られた。天文二十四年五月二十八日に処刑された。
 
 
  知久頼龍 (1543〜1555年 13歳没)
 知久頼元の子。天文二十四年五月二十八日に処刑された。十三歳。
 
 
  知久頼氏 (1546〜1555年 10歳没)
 知久頼元の子。天文二十四年五月二十八日に処刑された。十歳。
 
 
  木堀将監 (?〜?)
 若槻城主若槻広隆の一族。永正十六年、村上頼平が水内郡を攻めると降伏。筑摩郡に追われた若槻広隆に代わり、若槻城主となる。
 
 
  大日方長政 (?〜?)
 香坂忠宗の家臣。永正二年、小川貞綱が謀反すると香坂忠宗と共にこれを攻める。その功により、村上頼平から古山城を賜った。
 
 
  小川貞綱 (?〜1505年)
 古山城主。永正二年、村上頼平に謀反。香坂忠宗に攻められ討死。
 

 
  【付記】
 
 
 
 村上義清の父、顕国は斯波義良の娘を娶った。その間に生まれた義清は尾張斯波義統の従兄弟である。
 
 
 【村上義清と塩の販売ルート】
 越後に逃れた義清は、信濃に近い根知城五万四千石を与えられる。そこは信濃への塩輸送ルートであり、塩を支配することで間接的に旧領と接触していた。なお、塩の輸送に乗じて義清は馬子の姿となり、何度か旧領へ戻っていたという伝承がある。天正二年末、義清は病に倒れ、そして天正三年元旦に七十三歳で没した。春日山城外とも魚沼郡赤沼城ともいう。義清の法号は「日滝寺殿紅雲正清公大禅定門」。生涯の大敵武田信玄はその四ヶ月後に没している。
 
 
 
 【上杉謙信と山浦国清】
 村上国清は義清正室である小笠原長棟の娘の子供であり、長時の甥に当たる。謙信が永禄十二年三月、国清を養子として一門山浦氏を継がせたのは両家の血縁を取り込むためであろう。謙信は商業的同盟者越前朝倉義景の娘を養女とし、国清に嫁がせている。このように山浦国清は上杉謙信にとって重要な位置にあった。
 
 
 
戻る