美濃土岐家 家臣団
 
 
 
  土岐頼武 (?〜?)
 美濃守護。大永五年、家臣長井長弘に背かれる。弟は頼芸、頼香、光親。子は頼純。
 
 
  土岐頼香 (?〜?)
 土岐頼武の弟。八郎。天文年間後期、斎藤道三に殺害された。妻は斎藤道三の娘。
 
 
  土岐光親 (?〜?)
 土岐頼武の弟。朝倉氏を頼って越前に逃れる。
 
 
  土岐頼純 (?〜1547年)
 土岐頼武の子。次郎。永正十五年、斎藤利良と共に越前に逃れる。後に美濃に戻る。大永七年、土岐頼芸に攻められ、越前に逃れる。天文四年、重臣斎藤利茂、越前朝倉氏、近江六角氏らと結んで長井規秀に挙兵。長井規秀に擁立された土岐頼芸を討とうとしたが、天文五年に六角定頼は土岐頼芸と和睦。天文七年頃、斎藤利茂が土岐頼芸と和睦したため、合戦は収束した。天文十五年、美濃に戻る。天文十六年十一月没。妻は朝倉孝景の娘、斎藤道三の娘。
 
 
  斎藤利国 (?〜?)
 斎藤妙椿の養子。妙純。文明十三年、斯波義廉の子を越前守護に迎えるよう朝倉氏景に提案。両者の和睦に尽力した。長享元年から延徳三年にかけて、朝倉家の越前統治について争論が行われる。尾張守護斯波義寛らは同族越前斯波氏を支持し、朝倉家の越前統治に反対した。斎藤利国は尾張斯波家に対抗するため、朝倉家を支持した。延徳三年四月二十日、朝倉貞景に娘を嫁がせる。これは朝倉家と美濃土岐家重臣が婚姻を交わすことで、尾張斯波家を牽制する目的があった。
 
 
  斎藤利良 (?〜?)
 永正十五年、土岐頼純と共に越前に逃れる。
 
 
  斎藤利茂 (?〜?)
 美濃守護代。天文四年、土岐頼純と共に長井規秀に挙兵。天文七年頃、土岐頼芸と和睦した。これにより、長井規秀との合戦は収束した。
 
 
  斎藤利賢 (?〜1586年)
 美濃斎藤一族。伊予守。明智光秀の叔母を、後妻として蜷川親俊の妹を娶る。子は利忠、利次。天正十四年五月二十三日没。法名「金栗院殿雲洞宗暁禅定門」。孫娘は長宗我部信親に嫁いだ。
 
 
  斎藤利忠 (?〜?)
 斎藤利賢の子。豊後守。妻は蜷川親順の娘。子は石谷兵部少輔、斎藤利三。娘は長宗我部元親、蜷川親長に嫁ぐ。
 
 
  斎藤利次 (1558〜1582年 25歳没)
 斎藤利賢の子。大八郎。天正十年六月、山崎合戦で討死。二十五歳。
 
 
  斎藤吉兵衛 (?〜?)
 蜷川親俊の子。斎藤利賢の養子。大和守。石谷兵部少輔の娘を娶る。
 
 
  長井長弘 (?〜1533年)
 長井新左衛門尉を取り立てる。大永五年、長井新左衛門尉と共に土岐頼武に謀反する。天文二年没。子は景弘。
 
 
  長井景弘 (?〜1534年)
 長井長弘の子。天文三年、長井規秀に討たれる。
 
 
  揖斐光親 (?〜?)
 土岐一族。揖斐城主。天文十六年、斎藤勢に攻められ落城。光親は城を落ち延びるが、後に一城を築き、城主に返り咲いたと言う。
 
 
  宮川安定 (?〜?)
 土岐一族。天文四年、舅大垣長家を討ち大垣城を築いたという。同城の築城は竹腰氏によるものとする説もある。
 
 
  鷹司冬明 (?〜1535年)
 長瀬城主。与十郎。関白鷹司氏を祖とする。弟政光との内乱が起こると、土岐頼芸の支持を受ける。天文四年八月十七日、斎藤道三の支持を得た政光に敗れ討死。政光は天文十七年、織田信秀に討たれている。
 
 
  長屋景興 (?〜1547年)
 土岐家臣。相羽城主。天文十六年十二月、斎藤勢に攻められ、子の景直と共に討死。一説に木曾屋に逃れ、隠棲したとも伝わる。
 
 
  師岡一羽 (?〜1593年)
 美濃土岐家に属し、父守常から神道流を、塚原卜伝から新当流を学び一羽流を興す。のちに皮膚が腐る大病を病み、文禄二年に病死した。ハンセン病ではないか。一羽の病と死は弟子の根岸兎角たちの決闘に発展する。
 

 
 【付記】
 
 
 
 【美濃守護代斎藤妙椿】
 寛正元年、美濃守護代斎藤利永が死没。弟の斎藤妙椿が守護代に就任した。妙椿は守護土岐家の意向を無視して尾張を攻めるなど、独立色を強めていった。妙椿は文明十二年二月に没したが、妙椿が長生きしていれば美濃一国を掌握していたかもしれない。
 
 
 
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