三木家 家臣団
 
 
 
  三木直頼 (?〜?)
 三木家当主。三木良頼の父。大和守。「禅昌寺文書」は信仰心に厚く、善政を行った良将と直頼を高く評価している。桜洞城を築く。しかし、直頼は桜洞城の改修を行ったのであり、直頼の祖父久頼の代から居城として使用されていたとする説もある。甲城主東相模守、阿多野蔵人、黒川越中守らを滅ぼし、阿多野郡、馬瀬郡を手に入れた。大永六年、大野郡に攻め込む。三木家を飛騨の有力大名にのし上げた。家督は子の良頼が継ぐ。良頼は直頼の弟で、実は養子であるとも伝わる。
 
 
  三木久綱 (?〜?)
 三木自綱の叔父。永禄元年、自綱は高山外記を滅ぼすと久綱を天神山城主とした。
 
 
  三木頼一 (?〜?)
 三木直頼の子。良頼の弟か。新九郎。天文十三年三月十日、良頼と共に鍋山城を警備。
 
 
  姉小路信綱 (?〜1579年)
 三木自綱の長男。左衛門尉。桜洞城主。天正七年、謀叛の気配有りとして父に誅殺された。
 
 
  姉小路秀綱 (?〜1585)
 三木自綱の次男。天正十一年、鍋山顕綱が誅殺されるとその跡を継ぐ。鍋山城主、後に松倉城主。天正十三年、金森勢の飛騨攻めに抵抗するも、信濃へ逃れることとなる。その途中、落ち武者狩りにより討たれたと言う。秀綱は落ち延びる際、伝来の太刀「三池典太」を池ノ端惣左衛門という有力百姓に預けており、後に惣左衛門から高山国分寺に寄贈された。重要文化財「伝小烏丸の太刀」がそれである。
 
 
  姉小路基綱 (?〜1585)
 三木自綱の三男。季綱。次兄秀綱が松倉城主となると、代わりに鍋山城主となる。天正十三年、金森勢の飛騨攻めでは秀綱と共に松倉城を守る。しかし、信濃へ逃れる途中、落ち武者狩りによって討たれた。
 
 
  小島元頼 (?〜?)
 三木自綱の子。小島時光の養子となる。
 
 
  鍋山安室 (?〜?)
 鍋山城主。三木良頼の子、顕綱を養子とする。顕綱は家督相続を急ぐため安室を暗殺。安室の妻子を追放した。
 
 
  鍋山左近大夫 (?〜1585年)
 鍋山安室の子。鍋山顕綱に追放される。後に金森家に仕え、天正十三年、飛騨攻めの先鋒となる。同年、恩賞などの面で不満を抱き、飛騨国人衆と共に蜂起。しかし、金森可重に討たれた。
 
 
  広瀬宗城 (?〜1583年)
 高堂城主。山城守。三木自綱に従い、牛丸綱親を攻める。天正十一年、三木自綱に謀殺される。
 
 
  広瀬宗直 (?〜?)
 広瀬宗城の子。兵庫頭。父の死後、金森長近に仕える。天正十三年九月、飛騨攻めで先鋒。同年、金森氏に対して一揆を起こす。金森可重に鎮圧されると近江に逃れ、後に井伊家に仕官。
 
 
  田中与左衛門 (?〜?)
 広瀬家臣。田中城主。筑前守。
 
 
  藤瀬新蔵 (?〜?)
 三木家臣。天正十三年、金森勢の松倉城攻めで内通に応じる。城内に火を放ち、それを機に金森勢は総攻撃を行ったという。
 

 
  僧侶
 
 
  明叔慶浚 (?〜1552年)
 妙心寺派の高僧。三木一族。希庵玄密の師。大永七年四月、妙心寺にて出家。美濃愚渓寺を中興。享禄元年、三木直頼は荒廃した円通寺を再興し、寺名を禅昌寺に改め、明叔慶浚を住持とした。天文三年、美濃大円寺に入る。天文十年四月、今川義元に招かれ駿河臨済寺住持となる。その後、甲斐天輪寺に入り、甲斐恵林寺を中興した。駿河、美濃、尾張と移住。天文二十一年没。太原崇孚と懇意であり、年次は不明ながら忘年正月下旬に今川義元が出陣する予定だと伝えられた。また、「明叔録」を残した。禅昌寺二世杲天宗慶、五世功叔宗輔も「明叔録」に香語や法語を載せている。
 
 
  杲天宗慶 (?〜?)
 禅昌寺二世。
 
 
  功叔宗輔 (?〜?)
 禅昌寺五世。永禄七年、快川紹喜から書状を送られ、竹中重治の稲葉山城奪取について連絡を受ける。この時、快川紹喜は美濃か尾張に居住しており、竹中重治の行為を批判。斎藤龍興を守った家臣を忠臣と賞賛した。
 

 
  【付記】
 
 
 
 三木良頼は永禄元年に飛騨守、永禄二年に飛騨国司、永禄三年に姓を古河と改めた。これは姉小路家庶流古河氏を継いだことを意味する。永禄五年、姉小路氏を名乗り、自らを姉小路中納言、子の自綱には宰相を名乗らせた。
 
 
戻る