加賀前田家 家臣団
 
 
 
  前田利隆 (?〜?)
 主膳正。「寛政重修諸家譜」に前田利家の祖父として名があるが、「寛永諸家系図伝」には名がない。これについて前田家は慶長七年に古い記録が焼失したため、寛永諸家系図伝編纂時には収録出来なかったとしている。利春以前の前田家に関する記録は皆無に等しく、利隆の事績は不明である。
 

 
  前田利隆の子供
 
 
  前田利昌 (?〜1560年)
 前田利家の父。荒子城主二千貫。蔵人、縫殿介、利春。永禄三年七月十三日没。法名「道機庵休岳居士」。
 

 
  前田利昌の子供
 
 
  前田利久 (?〜1587年)
 前田利昌の長男。犬千代、蔵人。荒子城主二千貫。永禄十二年、信長の命により家督を利家に譲ることとなる。この一件により兄弟は不和となった。利久室も前田家に伝わる家宝を利家に渡すまいと抵抗したと伝わる。後に七尾に移り、七千石。天正十五年八月十四日没。法名「真寂院孤峯一雲」。妻は滝川一益、益氏の妹。養子は滝川益氏の子、前田慶次郎。
 
 
  前田利玄 (?〜?)
 前田利昌の次男。娘は安見隠岐に嫁ぐ。
 
 
  前田安勝 (?〜1594年)
 前田利昌の三男。天正三年、千石。天正十一年、能登小丸山城主。天正十二年九月、佐々家臣神保氏張が勝山城を築くと、前田良継、高畠定吉、中川光重らと共に勝山城を攻める。しかし、守将袋井隼人の防戦により撤退した。しかし、九月中旬に石動山寺から使者が訪れ、勝山城の兵が越中守山に引き揚げたとの報告を受ける。そのため、再び勝山城を攻め、落城させた。後に七尾城代一万三千石。関東征伐参加。文禄三年五月二十三日没。法名「天翁道清居士」。子は利政。
 
 
  佐脇良之 (?〜1572年)
 前田利昌の五男。利家の弟。藤八郎、利之。佐脇興世の養子。永禄元年七月十二日、浮世合戦に参加。橋本一巴と戦い負傷した林弥七郎に切りかかり、左手に疵を負うも弥七郎の首を取る。この林弥七郎は北政所の父とされる。永禄三年、桶狭間合戦に参加。兄利家と共に赤母衣衆。元亀三年十一月、三方ヶ原合戦で負傷。疵がもとで床に伏し、十二月二十二日没。妻は後に浅井長政の娘、おそらくは淀殿の乳母となり、さらに前田利常次男利次の乳母となった。
 
 
  前田秀継 (?〜1585年)
 前田利昌の六男。右近。天正三年、千石。天正十一年、加賀津幡城守将七千石。天正十三年、子の利秀と共に越中今石動城を守り、佐々軍を退ける。同年、木舟城四万石。十一月二十九日、大地震により木舟城は倒壊、埋没。秀継夫妻は圧死した。法名「春光院密庵永伝居士」。木舟城は天正十四年五月頃まで改修され城として使われたようだが、後に破却されている。
 

 
  前田利家の子供
 
 
  前田知好 (1590〜1628年 39歳没)
 前田利家の三男。三九郎、修理、七左衛門、利包、有庵。慶長元年、兄利長の命により能登石動山の僧となる。九年、家に戻る。越中高岡三千石。慶長十五年、前田利好が没すると、養嗣子として跡を継ぐ。七尾城代一万三千七百五十石。大坂の陣に参戦。元和二年、京へ移る。鞍馬真勝院に居住す。寛永四年四月、近江宗沢寺に移る。五年六月二十三日没。三十九歳。法名「大巖院殿有庵宗無大居士」。
 
 
  前田利常 (1593〜1658年 66歳没)
 前田利家の四男。文禄二年十二月二十五日生。生母は寿福院。猿千代、犬千代、筑前守、従四位、小松中納言、利光。前田長種が養育係となる。慶長五年九月、丹羽長重への人質となる。利長の養嗣子となり、前田家当主の幼名である犬千代を名乗る。慶長六年、徳川秀忠の次女を娶る。慶長十年、家康の後見により元服。利長が隠居したため加賀藩三代藩主となる。慶長十九年九月十六日、家康から百十九万二千五百石余の相続を許される。同月二十三日、秀忠もこれを認める。大坂冬の陣では真田丸攻めの失敗を叱責される。夏の陣で大野治長勢を相手に奮戦し、この功から所領を四国全域に移されることとなる。しかし、利常はこれを辞し、北陸の地に残ることとした。寛永八年四月、大火により金沢城は焼失。そのため居城の修築を行う。同年秋、大坂の陣での戦功を再び吟味し、恩賞の過不足を補う。新たに家臣の子弟から供回りを召し抱える。これらの行為が幕府から疑惑の目で見られると、長男光高と共に江戸で向かう。横山康玄に弁明させ、幕府からの疑惑を解く。徳川家との血縁関係を維持するため、光高の後妻に水戸頼房の娘を迎えた。寛永十六年、光高に家督を譲る。寛永十七年、隠居。光高が金沢城内に権現堂を建立すると、徳川家の遠戚であるから家康を祀ることは許すが、天下が改まれば権現堂をどうするのか、城から数理離れた場所に建立すべきではないか、と不満を漏らしたと言う。利常は徳川家に従うことを不服としており、徳川家の定めた慣例であっても前田家だからとして従わないことがしばしばあった。他にも家康は利家よりも長生きをしただけであり、前田家は徳川家に取り立てられて大大名になったわけではないと語ったとも伝わっている。これらの指摘は正しく、利常は非常に冷静な判断力を持つ傑物であったとわかる。このような人物だからこそ、平時はあえて鼻毛を伸ばすなどうつけを装っていたのだろう。正保二年、光高が没したため孫の綱紀の後見役となる。万治元年十月十二日、六十六歳没。法名「微妙院一峰充乾大居士」。茶の湯を愛し、領内の工芸を育成した。
 
 
  前田利孝 (1594〜1637年 44歳没)
 前田利家の五男。生母は明運院。孫八郎。慶長九年、利長の命で江戸の芳春院の下へ向かう。大坂の陣では秀忠に属す。元和二年、上野七日市一万石余を賜る。寛永十四年六月四日、四十四歳没。法名「慈雲院真翁宗智大居士」。
 
 
  前田利貞 (1598〜1620年 23歳没)
 前田利家の六男。乙松丸、七兵衛、備前、利豊。慶長三年三月十六日生。生母は逞正院。慶長五年、神谷信濃が養育係となる。慶長十六年十一月、衣服料五百石。大坂冬の陣では兄知好に属す。この功により五千石を加増される。夏の陣に参戦。元和三年五月、秀忠に拝謁。御服を賜る。大坂両陣に際して登用した家臣を養うことが出来ず、元和三年六月に食禄返上を願い出る。元和三年八月二日、二十三歳没。法名「江月院照嶺永秋大居士」。
 

 
  前田一門
 
 
  前田利好 (1565〜1610年 46歳没)
 前田安勝の子。孫左衛門、良継。永禄八年五月八日生。天正三年、千石。後に七尾城代一万三千七百石。慶長十五年二月朔月没。「俊巖玉英居士」。養子は前田利家の三男知好。
 
 
  佐脇久好 (?〜?)
 佐脇良之の子。作右衛門。母が前田利次の乳母となったため、利次に仕える。八百石。
 
 
  前田利秀 (1568〜1593年 26歳没)
 前田秀継の子。又次郎、利次。天正十三年、今石動城を守り功があった。今石動城代四万石。関東征伐などで功があった。文禄元年、肥前名護屋在陣。文禄二年、病により帰国。同年十二月十九日、二十六歳没。法名「良将院光等正恵居士」。
 
 
  前田正虎 (?〜?)
 前田慶次郎の子。天正十八年九月、前田利家と共に「前田慶次郎」の名が津軽検地に見られる。
 
 
  前田種利 (?〜?)
 前田一族。尾張下之一色城主。与十郎。前田長種の父。前田玄以も前田利家と同族である。
 
 
  前田長種 (1551〜1631年 81歳没)
 尾張一色城主前田長定の子。与十郎、甚七郎、対馬守、勝安、源峰。織田家に仕え、前田城守将。小牧長久手合戦による織田信雄の攻撃により城から退く。後に前田利家に仕え、七尾城守将。後に守山城守将。四男利常の養育係となる。慶長四年、富山城守将。二万石。人持組頭。寛永元年、隠居。寛永八年三月十一日、八十一歳没。法名「狐雲源峰」。妻は前田利家の長女。子孫は八家老家として続いた。
 
 
  前田長知 (?〜?)
 美作守。慶長年間、前田長種と共に富山城を守る。
 
 
  前田三郎四郎 (?〜?)
 前田一族。尾張東起城主。
 
 
  太田長知 (?〜1602年)
 芳春院の妹の子。前田利長の従兄弟。喜藤次、但馬守。九州征伐参加。天正十八年以降、横山長知と対立。慶長四年の家康大坂入城に際し、上方の者を味方として家康を討つべきと主張。しかし、横山長知はそれを牽制するなど両者の対立は長期化した。慶長五年、前田利長の命により奥村栄明、山崎長徳らと共に御幸塚城を守る。八月、御幸塚に布陣。三堂山城までの行軍に関する軍議の中、松平康定と山崎長鏡が進路を巡って口論になる。太田長知は仲裁に入り、山崎の主張する進路を採用させた。八日夜、木場潟への進軍で六番手。途中、敗走する長連龍の部隊と合流した。、戦後、大聖寺城守将となる。慶長七年五月四日、前田利長の命を受けた横山長知に金沢城内で殺害される。先に家康を討つべきと主張したことを危険視されたのだろうか。
 
 
  土方雄久 (1553〜1608年 56歳没)
 芳春院の甥。前田利長の従兄弟。彦三郎、勘兵衛、河内守。織田信雄に仕える。秀吉と信雄との和平の使者となり、その功から尾張犬山城四万五千石。天正十八年、織田信雄が失脚したため秀吉に仕える。慶長四年、家康暗殺を計画した一人として常陸に流される。五年、家康に許され前田利長、利政兄弟を東軍に加勢させるための使者となる。関ヶ原合戦後、加賀に一万石。後に能登に移される。慶長九年、下総多古に五千石を加増。慶長十三年十一月十二日、五十六歳没。
 
 
  篠原一孝 (1562〜1616年 55歳没)
 芳春院の義理の従弟福原長重の養子。勘六、肥前守、出羽守。天正三年、百三十石。天正十一年、近江柳ヶ瀬合戦に参加。末森城救援に参加。関東征伐に出陣するも負傷。天正十九年、従五位下肥前守。文禄二年、利長が肥前守に叙任されたため、出羽守に改める。慶長五年、加藤重廉、有賀直政らと共に攻め落とした大聖寺城を守る。前田利常の重臣として領国経営に参加。豊臣家滅亡後、人持組頭。元和二年七月二十二日、五十五歳没。妻は佐脇良之の娘。
 
 
  小幡右京 (?〜?)
 前田利常生母寿福院の異父弟。寿福院の父は越前住人上木新兵衛だが、寿福院生母は新兵衛没後に小幡九兵衛と再婚した。前田利常に仕え一万石。弟宮内長次も利常に仕え、千九百五十石を知行した。
 

 
  有名家臣の一門
 
 
  本多政重 (1580〜1647年 68歳没)
 徳川家臣本多正信の次男。安房守、安芸守。怜悧な政治家であった父や兄よりも、剛毅な人柄で知られる叔父正重の気質に近い。読みも近いためか、いくつかの事跡が混同しているという。同輩であった秀忠の乳母の子岡部匠八を切り出奔。二万石で宇喜多家に仕える。関ヶ原合戦では秀家に従い西軍に属す。福島正則らに一時仕え、慶長七年には前田利長に三万石で士官。その後、直江兼続の娘を娶り養子として直江勝吉を名乗る。砲術田付流を学び、長尾上杉家中に教授したと言う。妻が没すると、兼続の弟大国定頼の娘を娶る。後に上杉家を離れるが、これは兼続の嫡子景明が家督を継ぐことを考慮したためである。慶長十六年四月、藤堂高虎から推挙され、七月に前田家に帰参。幕府との交渉役となるが、これは徳川家普代の者を重用することで幕府の警戒心を解こうとするものだった。家中仕置役も頼まれるが、若年を理由に固辞。脱藩者を探すため、刀利谷付近に藩士二人を派遣したことがある。慶長十九年二月、前田利長から大坂の合戦まで存命していれば自分は豊臣家に味方するが、利常は徳川家から嫁を迎えているのだから徳川家に味方するよう語った。利常が豊臣家に味方しようとした時は徳川家に味方するよう説得を命じられた。同年三月十三日付幕府宛の書状で、利長が政治から離れ京都に隠棲し、大坂や前田家とも関係を絶とうとしていると記した。同時に利長の病は悪化し、手足は不自由で飯を食うにも女中の手を借りるほどに難儀し、もはや来年までは持たないと記した。同年、前田家の新川郡支配が問題となっている。新川郡は佐々成政が肥後に移されると秀吉直轄領となり、文禄四年には前田利家に与えられた。しかし、これを正当と認める書状がなかったため、幕府はこれを問題とした。政重は江戸と北陸を幾度も往来し、新川郡支配を幕府に認めさせた。利長没後、二万石を加増され筆頭家老となる。大阪の陣で功があった。子孫は前田家重臣の家柄となる。
 
 
  長好連 (1582〜1611年 30歳没)
 長連龍の子。前田家に仕える。慶長五年八月八日、大聖寺城を出て御幸塚に布陣。小松城攻めの途中、丹羽勢の待ち伏せを受けて敗走した。慶長十六年、三十歳没。妻は前田利家の八女。
 
 
  山崎長郷 (?〜?)
 山崎長徳の次男。妻は宇喜多秀家と豪姫の娘。彼女は長郷没後、冨田氏に嫁いだ。
 
 
  富田景勝 (1559〜1583年 25歳没)
 富田景政の子。与五郎、吉右衛門。天正三年、百五十石。天正十一年四月、柳ヶ瀬合戦で討死。
 
 
  不破直光 (?〜1598年)
 不破光治の長男。彦三、勝光、家光。柴田勝家に仕える。賤ヶ岳合戦後、前田利家に仕える。末森合戦で先鋒。慶長三年没。
 
 
  中川光重 (1562〜1614年)
 清六郎、武蔵守、宗半、巨海斎。前田利家の次女を娶る。天正十年、織田信忠に仕える。高遠城攻めで功があった。本能寺合戦後、前田利家に仕え七尾城守将となる。金沢城改修時に倦怠を咎められ、天正十七年に能登津向村に蟄居。秀吉の御伽衆となり三千石。後に再び前田家に仕える。慶長五年、大聖寺城攻めに功があった。二万三千石。慶長十六年、隠居。養老料五千石。慶長十九年、五十三歳没。法名「茂庵宗繁」。
 
 
  後藤杢兵衛 (?〜?)
 後藤又兵衛の腹違いの弟と云われる。彦八。加賀前田家に仕える。石垣積みに長けた穴生衆。その技術は兄又兵衛や加藤清正から教わったと云う。母衣役六十俵。
 
 
  青木信照 (?〜1590年)
 善四郎。織田信長、前田利家に仕える。馬廻衆。六千三百五十俵余。天正十八年六月二十三日、八王子城攻めで討死。他に荒木善大夫も討死した。妻は前田安勝の娘。
 
 
  前田兵部 (?〜?)
 青木信照の三男。前田利好の養子となる。利好没後、家督を継いで八百石。後に池田治部左衛門に名を改める。
 

 
  加賀前田家 家臣団
 
 
  奥村永富 (1541〜1624年 84歳没)
 助十郎、助右衛門、伊予守、家富、快心。前田利春に養育される。利家の家督相続に際して前田家を離れる。天正元年八月、朝倉攻めに加わり再仕官。天正三年、百石。天正十年、能登石動山攻めに参加。天正十一年五月、末森城に入り改修を行う。天正十二年九月、佐々成政の攻撃を受けるが、援軍到着まで持ちこたえた。天正十三年四月、千秋範昌と共に上野村などを夜襲。天正十五年、九州征伐参加。天正十八年、関東征伐参加。慶長四年、利家の死により隠居。養老料三千三百石。大坂の陣では金沢城代として城を守る。寛永元年六月十二日、八十四歳没。法名「永富院快心宗活居士」。寛永元年六月十二日に没した。奥村家は加賀藩の八家老家のひとつとして重用された。
 
 
  奥村栄明 (1568〜1620年 53歳没)
 奥村永福の長男。助十郎、織部、河内守。天正十二年、末森籠城参加。天正十八年、関東征伐参加。慶長四年、父の隠居により一万六百五十石。慶長五年八月八日、大聖寺城を出て御幸塚に布陣。八日夜、木場潟への進軍で三番手を務めた。大坂両陣の功により一万三千六百五十石。元和元年、四代前田光高が生まれると蟇目役。以後、奥村家歴代当主は藩主正室の出産時に同役を務めることとなる。元和六年五月二十日、五十三歳没。法名「清雲院葉山久奕居士」。妻は山崎長徳の娘。
 
 
  奥村易英 (1571〜1643年 73歳没)
 奥村永富の次男。又十郎、主縫殿、備後、因幡、英郷。天正十二年、末森籠城参加。天正十八年、関東征伐参加。慶長五年、大聖寺城攻めで先鋒。大坂冬の陣に参加。夏の陣では金沢城代。元和二年、家老職。寛永八年、人持組頭、年寄。寛永二十年、隠居。養老料千石。寛永二十年十二月二十一日、七十三歳没。法名「放光院傑心自栄居士」。妻は横山長隆の娘。
 
 
  奥村栄頼 (?〜?)
 奥村永富の三男。栄顕。横山長知と対立。長知が前田家に再仕官するとこれに憤慨し、自ら前田家を離れる。
 
 
  村井長頼 (1543〜1605年 63歳没)
 村井長忠の子。長八郎、又兵衛、豊後守。加賀前田家宿老。弘治二年八月、稲生合戦後に前田利家に召し抱えられ、「又」の一字を賜る。元亀元年、越前手筒山合戦参加。同年、摂津天満合戦参加。この合戦で利家は名乗りを上げ、敵の首を取るなど大いに活躍した。元亀二年九月、金ヶ森攻めで功があった。天正元年八月、浅井・朝倉攻めに参加。天正三年、長篠合戦参加。同年、二百五十石。天正十年、石動山攻めで先鋒。天正十一年、賤ヶ岳合戦参加。天正十二年八月、佐々勢が前田領に攻め込むと、朝日山城を築く。天正十三年六月、神保氏張が阿尾城を攻めるとこれを撃退。一万千二百四十五石。末森城救援の際、近隣から五十歳ほどの山伏を呼び、「上手のはかせ」として重要。戦の趨勢を占わせた。文禄元年、隠居。養老料四千石。慶長四年、利長は家康の恫喝に屈し領国に戻る。利長の帰国は秀頼の後見役を放棄したことを意味している。長頼は奥村永富と共にこれを嘆いている。家康は長頼に宛てた慶長五年八月十六日付の直筆書状で、三成討伐が終われば芳春院を前田家に戻すとした。前田利長も芳春院は戻ってくると考えており、同年九月十八日付の長頼宛の書状で、家康から芳春院の話が出るので上方へ向かうよう命じた。しかし、同年十一月十日付の利長の書状には未だに家康から芳春院の話がないとある。長五年、芳春院に従い江戸に向かう。慶長十年十月二十六日、江戸で没した。六十三歳。法名「相光院岑月高斎居士」。子孫は八家老家として続いた。高山右近と仲が悪く、前田利長は遺戒として両者に和解を命じている。
 
 
  村井長次 (?〜1613年)
 村井長頼の長男。慶長十八年没。妻は前田利家の七女。彼女は細川忠隆に嫁ぐも離縁。長次と再婚した。
 
 
  村井長明 (1582〜1644年 63歳没)
 村井長頼の子。勘十郎、又兵衛、重頼、長之、雲入。文禄四年、前田利家の小姓となる。「国祖遺言」慶長四年三月十五日の項に、利家は咽から白く細い虫二匹を吐き出したとある。長明が虫を引きづり出したが、晩年の利家はこのような寄生虫、病気のため痩せ細っていたと言う。利家自身も体調不良を自覚しており、慶長三年四月、五月の二ヶ月間、上州草津で療養生活を送っている。慶長五年、大聖寺城攻めで疵を負う。四百五十石。慶長七年、前田家を離れる。慶長十三年、前田家に再仕官。大坂の陣で功により三百石。寛永十六年、前田利治に仕える。正保元年没。
 
 
  横山長知 (1568〜1646年 79歳没)
 横山長隆の次男。三郎、大膳、武蔵、山城守、夕庵、道哲。十五歳で利家に仕官。前田利長に仕える。加賀征伐参加。天正十一年、二百石。佐々成政が末森城を攻めると応戦に向かう。また、応戦の様子を語っている。それによると坪井山の成政の本陣周辺は金箔を捺した指物で金色に染まったと云う。九州征伐、関東征伐参加。八王子城攻めの武功のことで太田長知と対立。横山長知は敗れ、武功は太田長知のものとなった。両者の関係は修復せず、文禄元年四月には越中守山城付近で両名の小姓が刀傷沙汰を引き起こした。慶長四年、増田長盛、長束正家は家康に対し、前田利長が主謀者として浅野長政や大野治長と家康暗殺を企んでいると報告。家康は直ちに加賀征伐を決意した。細川忠興も家康から詰問を受け、直接弁明している。利長は宇喜多秀家から加賀征伐の危機を知らされ、横山長知を向かわせ弁明している。一説に、利長に危機を知らせたのは細川忠興と言う。長知は家康から「利長生母芳春院を人質とすること、家康に臣従するという誓詞を書くこと、徳川秀忠の次女と利長四弟利常の婚姻を認めること」という三条件を提示される。慶長五年、大聖寺城攻め参加。三万石。長知は重臣として前田利常の領国経営に参加。慶長七年五月四日、前田利長の命により太田長知を殺害。山崎長徳は共に太田長知殺害を命じられるが、横山長知が相談もなく先に太田長知を殺害したことに激怒。両者は生涯を通じて不仲となった。利長が遺戒の中で横山家、山崎家、神尾家の婚姻を命じたが、これはこうした対立を解消しようとしたためである。慶長十九年二月、前田利長が本多政重を重用したことを不満として職を辞し、比叡山に登る。大坂冬の陣のため再仕官。しかし、今度は横山長知と不和になっていた奥村栄頼が出奔している。加賀前田家中はこのように重臣間の対立、それによる家中の分裂が慢性化していた。元和六年、大坂城修築では本多政重と共に普請役。正保二年、隠居。家督を孫の忠次に譲る。養老料九千石。正保三年正月二十一日、七十九歳没。法名「円通院傑山長英居士」。妻は前田長種の妹。子は康玄、長次。
 
 
  木村宗明 (?〜?)
 木村重成の叔父。前田家に仕える。大坂の陣に際し、大坂城に入城。落城後、再び前田家に仕えた。子孫は中村を称した。
 
 
  松平康定 (?〜1620年)
 三河伊保城主松平紀伊守の次男。久兵衛、伯耆。柴田勝家、佐々成政に仕える。天正十三年、前田利長に仕える。九州征伐参加。慶長五年、慶長五年八月、御幸塚に布陣。三堂山城までの行軍に関する軍議の中、戦闘を避けるため山道を進むよう主張。木場潟から向かうよう主張する山崎長鏡と口論になる。太田長知の仲裁で山崎の案が採用された。八日夜、木場潟への進軍で一番手。八代橋付近で丹羽勢と交戦。小松浅井畷合戦参加。前田利長が隠居すると、その家老となる。金沢城代一万石。大坂の陣で武者奉行。元和六年没。後妻は前田長種の娘。子孫は八家老家となる。
 
 
  片山延高 (?〜1599年)
 内膳、伊賀、宗秀。天正三年、八十石。天正十三年秋、それまで守っていた白鳥城が、秀吉の佐々攻めの陣城となったため、岡嶋一吉と共に大峪城を築城し移った。慶長二年、両名は前田利長の命で呉服山を守る。しかし、呉服山は風が強いため安田城に居住した。慶長四年、病に臥した利家を家康が見舞うと、家康殺害を利家から命じられたと言う。しかし、延高はそれを拒否。利家没後、利長は家康から信頼される延高殺害を決意。慶長四年閏三月十日、延高殺害を命じられた石川源太、松田四郎左衛門に大坂で討たれる。
 
 
  神尾甚右衛門 (?〜?)
 佐々家臣。神尾之直の養父。後に前田利家に仕え二千石。
 
 
  神尾之直 (1565〜1643年 79歳没)
 堀田安休の子。神尾甚右衛門の養子となる。五郎八、図書、宗是。加賀前田家家老九千石。初め利長に仕え三千石。天正十三年、佐々家との合戦に参加。慶長五年八月八日、大聖寺城を出て三堂山城に布陣。利長の隠居に従い、高岡城に移る。同じ家老職の横山長知と不和になり、家中は両者の対立のため二分するほどだった。前田利長はこれを解消するため、遺戒として両家に婚姻を命じている。慶長十八年十月、利長から自らの病状を記した書状を送られる。大坂の陣に参戦。後に隠居し二千石。元和五年、病により京に移る。寛永十八年、信州松本城主堀田正盛に仕える。松本城代五千石。寛永二十年、七十九歳没。法名「一峯宗是」。
 
 
  青山吉次 (1542〜1612年 71歳没)
 与三、佐渡守。天正三年、千石。後に利長に仕え二千石。末森城救援に参加。佐々成政が肥後に移されると、越中魚津城は前田領となる。吉次は魚津城代に任命された。魚津城に移る前に郷田砦を一冬の間守っている。他に城生城守将も務めた。関東征伐では松井田城、八王子城攻めに参加。肥前名護屋に出陣。慶長五年、大聖寺城攻めでは金沢城留守居役。一万七千石。慶長十七年六月、七十一歳没。前田利家の姪を娶る。子の長正、孫の正次も魚津城代となった。
 
 
  岡島一吉 (1559〜1619年 61歳没)
 喜三郎、帯刀左衛門、備中守。天正三年、百石。天正十三年、大峪城築城。九州征伐、関東征伐に参加。天正十八年、中堂寺に田畠を寄進。慶長二年、呉服山守将。慶長四年、安居寺に石灯籠を寄進。慶長五年、大聖寺城攻めに参加。一万千七百五十石。大坂冬の陣で先鋒。大坂夏の陣で高岡城守将。元和五年没。
 
 
  寺西秀則 (?〜1611年)
 治兵衛、宗与。織田信長に仕え、佐久間信盛に属す。近江石部城主となる。天正三年、長篠合戦で負傷。天正四年、本願寺との合戦に参加。信盛失脚後、前田利家に属し、後に家臣となる。五千石。天正十三年、加賀松任城代官職。慶長四年、家康が謀反の気配有りと前田征伐を画策すると、横山長知と共に謀反の噂は事実無根と釈明した。慶長十六年没。
 
 
  大井直泰 (?〜?)
 久兵衛。生国は越前。前田安勝、利家に仕える。小丸山城守将。天正九年からは三輪吉宗と共に能登統治に参加。千二百五十石。元和元年、養老料五百石を賜る。子は厚用。娘は利家三男知好に嫁ぐ。
 
 
  神谷守孝 (?〜1632年)
 左近、信濃守。天正十九年、利家の近侍として千二百石。肥前名護屋に向かう。利家没後、高野山に墳墓を造営。大坂の陣に参戦。人持組頭。寛永九年六月三日没。妻は中川光重の娘。彼女は利家の孫娘である。
 
 
  岡田長右衛門 (?〜1619年)
 天正三年、七十石。利家の右筆、御算用奉行となる。後に同じ前田家臣新川儀太夫と争い隻眼となる。四千石。後に隠居し二千石。元和五年五月没。
 
 
  三輪長好 (?〜1630年)
 母は前田利長の乳母。作蔵、主水、志摩、一長、法受。天正三年、二百五十石。家老となり七千二百六十石。大坂の陣に参加。元和五年、隠居。養老料千石。寛永七年八月没。法名「日好」。
 
 
  高畠定吉 (1536〜1603年 68歳没)
 高畠吉光の子。孫十郎、織部、石見守、無心。天正三年、八百石。能登攻め参加。天正十年、石動山攻め参加。天正十一年、劔城守将。慶長五年、金沢城代。一万七千石。慶長八年正月三日、六十八歳没。法名「宗山日心居士」。
 
 
  高畠定良 (1537〜1601年 65歳没)
 高畠吉光の子。定吉の弟。九蔵、平右衛門。天正十二年、木舟城五千石。天正十八年、八王子城攻め参加。慶長五年、大聖寺城攻め参加。慶長六年没。
 
 
  三輪吉宗 (?〜1618年)
 藤兵衛。生国は大和国。朝倉義景に仕える。天正五年、前田利家に仕え七十石。後に能登七尾町奉行。千六百四十石余。慶長十八年、隠居。文禄元年十月十四日付の書状で、安宅船建造に必要な材木の調達を命じられる。文禄二年正月三日付の書状で、渡海に必要な軍船五艘と水夫を用意するよう命じられる。大坂の陣では七尾城留守居役。元和四年十一月没。
 
 
  土田作右衛門 (?〜?)
 佐々成政の末森城攻めの様子を語っている。それによると坪井山の成政の本陣周辺は金箔を捺した指物で金色に染まったと云う。同様の話を横山長知も語っている。
 
 
  横山長秀 (?〜1605年)
 因幡。慶長八年、御幸塚城守将。慶長十年十一月没。
 
 
  近藤長広 (?〜1611年)
 善右衛門、大和守。天正三年、二百石。末森城救援に参加。横山長秀没後、御幸塚城守将となる。慶長十一年、大聖寺城代一万千石。慶長十六年没。子は甲斐。
 
 
  津田刑部 (?〜?)
 大坂両陣に際し、富山城留守居役。
 
 
  竹田宮内 (?〜?)
 前田家臣。佐々成正が肥後に移されると、越中升形山城を守る。
 
 
  稲垣与右衛門 (?〜?)
 大坂冬の陣で高岡城守将。慶長十九年五月二十日、前田利長は同城にて没している。
 
 
  篠崎清了 (?〜?)
 織部。前田利秀に仕える。天正十三年以降、城生城守将。文禄二年、前田利秀が没すると今石動城は破却。織部は代わりにこの地の奉行となる。子の清政、孫の清長も同地の奉行職と務めた。
 
 
  山崎長鏡 (?〜?)
 文禄元年、越中放生津城守将。慶長五年八月、御幸塚に布陣。三堂山城までの行軍に関する軍議の中、木場潟から向かうよう主張。戦闘を避けるため山道を進むよう主張する山崎長鏡と口論になる。太田長知の仲裁で山崎の案が採用された。
 
 
  中川清六 (?〜?)
 天正十四年、山崎庄兵衛と共に越中増山城守将。
 
 
  菊池武勝 (?〜?)
 阿尾城主。右衛門。謙信没後、織田家に属す。信長から知行を賜り、佐々成政に仕える。天正十三年、前田家に内通。そのため同年六月、神保氏張の攻撃を受ける。前田家臣として一万石を賜り、山城紫野に隠棲。
 
 
  菊池安勝 (?〜1596年)
 菊池武勝の子。十六郎、伊豆。天正十三年から父と共に前田利家に仕官。九州征伐、関東征伐参加。一万石。慶長元年没。斎藤小次郎の子、大学が跡を継ぐ。大学は一万石の相続を許されず、新たに千五百石を与えられた。
 
 
  桜井勘助 (?〜?)
 天正十年、荒山合戦参加。天正十二年、末森合戦参加。
 
 
  小塚権太夫 (?〜1603年)
 慶長七年、太田長知が謀殺されると御幸塚城守将となる。慶長八年没。
 
 
  高畠茂助 (?〜?)
 利家能登入国後、宇野十兵衛と共に二穴城を守る。
 
 
  宇野宗右衛門 (?〜?)
 佐々成政に仕えるが、天正十三年頃からは前田家に仕えた。
 
 
  小塚藤右衛門 (?〜?)
 前田家臣。天正元年八月、浅井・朝倉攻めに参加。
 
 
  有賀直政 (?〜1603年)
 泰六、有賀斎宗元。朝倉家に仕えるが、主家滅亡後は前田利家に仕官した。慶長八年七月三日没。
 
 
  奥野讃岐 (?〜1607年)
 奥野与兵衛の子。弥一郎。蒲生氏郷、前田利家に仕える。末森城救援に参加。五千五百三十石。慶長十二年没。
 
 
  斎藤宗忠 (?〜1611年)
 朝倉家臣。六嶽城主。刑部、中務、夕雲。主家滅亡後、前田利家に仕官。九百石。末森城救援に参加。慶長十六年没。
 
 
  木村景行 (?〜1599年)
 三郎兵衛。八千石。慶長四年没。
 
 
  小塚秀正 (?〜1618年)
 八右衛門、淡路。前田安勝に仕える。加賀、能登攻めに参加。越中泊城守将。九州征伐、関東征伐参加。大聖寺城攻め参加。慶長七年、太田長知が謀殺されると大聖寺城守将。利長の隠居に従い高岡城へ移る。大坂両陣では金沢城代。元和四年七月十一日没。
 
 
  土肥伊予 (?〜1584年)
 畠山家臣土肥肥前の甥。前田家に仕える。天正十二年九月九日、佐々成政の末森城攻めにより討死した。
 
 
  木村作右衛門 (?〜?)
 文禄三年、秀吉は諸将に伏見城普請を命じる。利家は自ら土籠を担ぐなど積極的に弘治に参加したという。作右衛門は今村藤二郎、真柄助三郎、中川三四郎らと共に不真面目な態度で普請を行っているとして改易、追放された。
 
 
  四井主馬 (?〜?)
 慶長五年七月、大聖寺城攻めに参加。城中に火を放った。
 
 
  今枝直恒 (?〜?)
 慶長五年八月八日、大聖寺城を出て御幸塚に布陣。八日夜、木場潟への進軍で五番手。
 
 
  加藤朝重 (?〜?)
 里重。慶長五年八月、前田利長によって大聖寺城二の丸に配備される。
 
 
  浅井兵部 (?〜1600年)
 慶長五年七月、大聖寺城攻めに参加。討死した。
 
 
  木崎長左衛門 (?〜?)
 山崎長門に仕える。慶長五年七月、大聖寺城攻めに参加。敵将山口修弘の首を取った。
 
 
  水越縫殿助 (?〜?)
 足軽大将。慶長五年八月、小松城攻めに参加。八代橋付近で丹羽勢と交戦。
 
 
  岩田伝左衛門 (?〜?)
 慶長五年八月、小松城攻めに参加。八代橋付近で丹羽勢と交戦。
 
 
  井上勘左衛門 (?〜?)
 慶長五年八月、小松城攻めに参加。八代橋付近で丹羽勢と交戦。
 
 
  稲葉左近 (?〜?)
 使番。慶長五年八月、小松城攻めに参加。前田利長の命令で丹羽勢と交戦している部隊に遣わされ、利長到着まで丹羽勢を引きつけるよう伝えた。
 
 
  穴生源助 (?〜?)
 穴生衆。前田利家に仕える。
 
 
  小川長右衛門 (?〜?)
 穴生衆。前田利家に仕える。
 
 
  小瀬甫庵 (1564〜?)
 永禄七年、尾張春日井郡に生まれる。豊臣秀次に仕え、秀次自刃後は堀尾吉晴に仕える。吉晴没後は浪人し、前田三代利常に仕えた。寛永二年、「甫庵太閤記」を記す。
 

 
  僧侶
 
 
  大福寺北坊 (?〜?)
 真言密教の修験僧。前田利家から崇拝される。利家が上洛する際の安全祈願、厄除けの祈祷を行う。
 

 
  関係外国人
 
 
  脇田直賢 (?〜?)
 前田家臣。朝鮮人。金如鉄。宇喜多秀家の軍勢によって日本に渡る。前田利長に仕え、金沢町奉行となった。玉泉園を作る。
 

 
  【付記】
 
 
 
 【前田利家の名の由来】
 利家の「家」の一字は、烏帽子親である岩倉城主織田信家から賜ったもの。前田家は当初、織田信長の弾正忠家ではなく、織田信家の伊勢守家に属していた。
 
 
 
 【前田利家は隻眼だった】
 利家は弘治二年八月、稲生合戦で織田達成の重臣宮井勘兵衛に右目下を射抜かれた。利家はこの疵により右目を失明したとされる。
 
 
 
 【前田利長と芳春院】
 前田利家の生母は芳春院の生母の姉である。利家と芳春院は母方の従兄弟だった。前田利長は家康が関ヶ原合戦に勝てば芳春院を人質とする理由はなく、前田家に戻すものと思っていたようだ。しかし、家康は藩主の母という最大の人質、それも親豊臣派の筆頭的な立場にある加賀前田家からの人質を手放すことはなかった。直筆の書状で芳香院の返還を約束したが、人質政策のためにそれを反故にした。
 これは家康、利長両者の認識の違いであり、芳春院も当初はすぐに前田家に戻れると思っていたのかも知れない。それが自ら人質となると言う行為につながったのではないか。芳春院が前田家に戻ったのは利長没後であり、すでに徳川一門となった三代前田利常の時代である。そして、新たに利常の生母寿福院が人質として江戸に向かっている。
 利長は慶長十五年頃から梅毒を患い、やがては腫れ物のため歩行が困難になった。慶長十九年五月二十日、前田利長は高岡城で没した。享年五十三歳。
 
 
 
 【前田利長と霊山立山】
 古来より飛騨、越中の立山連峰は霊山として崇拝されていた。それは火山活動によって山肌が荒れ、地獄を思わせるような地形をしていたためである。死者の魂は立山に集まると信じられた。特に真言密教は立山を霊山として信仰した。前田利家は立山芦峅寺の六十六対の姥尊像を崇拝した。山の神は醜悪な姥とされる。
 
 
 
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