河野家 家臣団
 
 
 
  河野一門
 
 
  池原通吉 (?〜?)
 河野通直の父。高仙山城主。元亀三年、三好勢を撃退。永禄十二年、子の牛福丸が河野氏を継ぐ。通直である。
 
 
  来島長親 (?〜?)
 伊予一万四千石。関ヶ原合戦では大坂港を守る。東海地方などを攻撃し、奪った兵糧を大坂に送った。
 
 
  久留島通春 (?〜?)
 玖珠藩二代藩主。姓を来島から久留島に改める。
 
 
  河野通明 (?〜?)
 龍門山城主。大永年間、討死。
 
 
  戒能通運 (?〜?)
 河野一族。伊賀守。小手滝城主。天文年間、大熊城を築く。天文二十二年、大野利直に敗れ、大熊城に逃れる。大野氏とは何度も争っており、撤退する大野勢に追撃をかけて大打撃を与えたり、平岡房実や和田通興の助力を得て撃退したこともあった。
 
 
  戒能通盛 (?〜?)
 戒能通運の子。河野五家老、河野十八将の一人に数えられる人物。小手滝城主、大熊城主、鳥屋ヶ森城主。
 

 
  有名家臣の一門
 
 
  黒川元春 (?〜?)
 長宗我部国親の弟。元親の叔父。宗家と不和になり、伊予に移住。黒川山城主黒川通矩の助力を得て、享禄年間頃に剣山城を築城。元春は通矩に感謝し、姓を黒川に改めている。河野氏に仕え、道前平野に勢力を築く。高尾城主石川源太夫と争う。
 
 
  黒川通俊 (?〜1544年)
 黒川元春の子。剣山城主。天文十三年、戎能通運を攻めるも、逆に討死した。
 
 
  黒川通博 (?〜?)
 幸門城主正岡通純の子。黒川元春の養子。正岡氏は河野一族であり、黒川元春は通博の養子入りなどで河野氏との関係を深めた。元亀三年、高峠城攻めに参加。天正十三年、小早川勢に攻められ敗走。
 
 
 土居方玄 (1512〜1574年 63歳没)
 天文二年、太田城主。天正二年八月、長宗我部家との笹ヶ峠合戦で討死。
 
 
  土居方貞 (?〜?)
 土居方玄の子。孫九郎。幼少のため、大除城主大野直昌が後見役となる。天正十三年、四国征伐によって落城。後に帰農した。
 

 
  河野家臣
 
 
  大祝安用 (?〜1531年)
 大三島大山祇神社第三十一代大祝。兵庫助。子は安舎、安用、鶴。
 
 
  大祝安舎 (?〜?)
 大祝安用の長男。大三島大山祇神社第三十二代大祝。父の陣代として大内家に備える。天文十年、尼子軍は大内領に侵攻。大三島もその戦火に巻き込まれたが、村上通康らの加勢によって尼子軍を撃退した。
 
 
  大祝安房 (?〜1541年)
 大祝安用の次男。父の死後、三島城陣代となる。天文十年六月十八日、大内軍の白井膳胤、小原中務丞が大三島を攻める。その際、防戦して討死した。
 
 
  大祝鶴 (1524〜1541年 18歳没)
 大祝安用の娘。安舎、安用の妹。大永四年生。天文十年、大内家臣白井膳胤らの大三島攻めに抵抗。小原中務丞を討つ。天正十年、大内家の攻撃を退けた後に自害。十八歳没。辞世の句は「わが恋は 三島の浦のうつ うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」。越智安成と恋仲だったと云う。今も大山祇神社には鶴の着用したと云う紺絲裾素懸威銅丸が残されている。
 
 
  越智左近大夫 (?〜?)
 好味城代。子は安成。
 
 
  越智安成 (1522〜1543年 20歳没)
 越智左近大夫の子。天文十二年、大内家との合戦で討死。大祝鶴と恋仲だったと云う。
 
 
  大野直昌 (?〜?)
 大除城主。河野家重臣。
 
 
  河上安勝 (?〜?)
 天正二年、仏殿城主妻鳥光家が長宗我部家に通じたため、河野通直から討伐を命じられる。討伐を果たすと、恩賞として仏殿城を賜る。天正四年、大西元武に滅ぼされたとも、天正十年、長宗我部元親に滅ぼされたとも言う。
 
 
  武井宗意 (?〜?)
 本姓は武任。河野氏滅亡後、武井に改める。伊予に移った戸田勝隆に仕官。喜多郡を開発。文禄年間後、福島正則や加藤嘉明と交流を深める。慶長五年九月十五日、村上武吉から毛利家に加勢するよう求められた。
 
 
  宮内休意 (?〜?)
 慶長五年九月十五日、村上武吉から毛利家に加勢するよう求められた。
 
 
  宇野又八郎 (?〜?)
 慶長五年九月、加藤嘉明に加勢した。
 
 
  薦田義清 (?〜1585年)
 渋柿城主。天正五年、野々首合戦では松尾城主真鍋通近と共に、大西元武を打ち破る。天正十三年、金子元宅と共に野々市合戦に参加し、討死した。
 
 
  池原通成 (?〜?)
 高仙山城主。天正七年九月、村上通総に攻められるが撃退した。天正九年、来島通康、鹿島城代二神豊前守に敗れる。後に二神豊前守を破ったと云う。
 
 
  二神豊前守 (?〜?)
 伊予風早郡鹿島城代。天正七年九月、村上通総と共に高仙山城主池原通成を攻める。しかし、合戦に敗れて来島に落ち延びた。
 
 
  由並通資 (?〜?)
 由並城主。天正十三年、小早川隆景に攻められ開城。
 
 
  武田信勝 (?〜1585年)
 永禄年間頃、龍門山城主。天正十三年、小早川勢に攻められ討死。
 
 
  壬生川通国 (?〜1575年)
 鷺ノ森城主。金子氏、黒川氏と争う。元亀二年、両氏に攻められ落城の危機に陥るも、毛利家から援軍として派遣された高橋右京進と共に、撃退に成功した。元亀三年九月、三好勢との合戦に参加。天正三年、金子元宅、黒川通博の攻撃により討死。
 
 
  重見通種 (?〜?)
 近見山城主。大永二年、大内勢が大三島に攻め込むと、今岡治部丞、高山将監らと共に撃退。大永三年、河野家に叛いた鷹取山城主正岡経貞を攻める。享禄三年、叛意有りとして河野家に攻められる。周防に逃れ、同地で没した。
 
 
  重見通次 (?〜?)
 重見通種の弟。近見山城主。
 
 
  重見孫七郎 (?〜?)
 重見通次の子。天正十三年、小早川勢に攻められ落城。
 
 
  正岡経貞 (?〜?)
 鷹取山城主。大永三年、河野家に叛いたとして攻められる。後に許され、再び家臣となる。
 
 
  正岡紀伊守 (?〜?)
 高取山城主。天正十三年、小早川勢の侵攻を知り、開城した。
 
 
  中川親武 (?〜?)
 霊仙山城主。弟は任通。天正十三年、小早川勢に攻められ落城。
 
 
  南通方 (?〜1582年)
 横山城主。美作守。河野十八将の一人。元亀三年、石川通清征伐に参加。「士は戦場に臨めば死を軽んずるをもって栄となり、生を重んずるをもって恥となす。汝ら慎んでここを去ることなかれ」と味方を鼓舞し、自らも敵兵数名を斬ったと云う。天正十年二月十日、かねてから粟井川の利権を争ってきた粟上左衛門尉と、樫木鼻にて会合を持つこととなる。その席で、左衛門尉側に謀殺されてしまう。
 
 
  南通具 (1570〜?)
 南通方の子。亀寿丸、彦四郎。天正十年二月十日、粟上左衛門尉に父が謀殺される。通具は若年ながら百余名を率いて宅並城を攻め、左衛門尉を自刃させた。天正十三年、小早川隆景らに攻められ、城を逃れる。
 
 
  粟上左衛門尉 (?〜?)
 宅並城主。天正十年二月十日、粟井川の利権を巡り、南通方と会合を持つ。その席で通方を殺害。
 
 
  平岡房実 (?〜?)
 荏原城主。天文二十三年、久米岩伽羅城主和田通興を討つ。これは勢力を強めた和田通興が、河野家を軽んずるようになったためと云う。恩賞として和田氏の所領の三分の一、さらに吉山城を賜る。久万大除城主大野氏、豊後大友氏、大洲地蔵獄城主宇都宮氏など、多くの敵と争う。
 
 
  平岡通資 (?〜?)
 荏原城主。三好氏撃退に功があった。
 
 
  平岡通倚 (?〜?)
 荏原城主。天正十三年、四国征伐時に湯築城二の丸を守る。小早川隆景に攻められ落城。
 
 
  平岡通房 (?〜?)
 平岡通倚の子。弟直房は関ヶ原合戦時、他の河野旧臣と共に蜂起。しかし、加藤勢に鎮圧された。
 
 
  和田通勝 (?〜?)
 久米岩伽羅城主和田通興の一門。天文二十三年、通興は河野家に討たれる。それまでの和田一族の忠勤から、取り潰しを免れ、通勝が岩伽羅城主に任ぜられた。
 
 
  和田通繁 (?〜?)
 和田通勝の子。久米岩伽羅城主。天正十三年、小早川勢に攻められ落城。
 
 
  曾根高昌 (?〜1556年)
 左衛門尉。宇多源氏佐々木氏。近江岩上を領し、岩上姓を称す。高昌の代で近江愛知郡曾根に移り、曾根氏を称す。天文十二年、大内義隆を頼り、周防に移住。天文十三年、河野氏の招きにより、伊予に移住。曾根城主。これ以前から、曾根氏は伊予に居住していたとする説もある。弘治二年九月、西園寺氏と宇都宮氏が争うと、宇都宮氏に加勢して討死。
 
 
  曾根宣高 (?〜?)
 曾根高昌の子。丹後守。曾根城主。天正五年七月、龍王城主城戸直宗と争う。これは十一月のこととも伝わる。大除城主大野氏が城戸氏に加勢すると、立山境付近で僧に念仏を唱えさせ、高昌はすでに討死したと大野勢に虚報を伝える。気を緩めた大野勢を強襲し、撃退に成功している。龍王城を攻め取り、家臣河内吉行を入城させる。これにより、二十三ヶ村八千貫を領す。天正十三年、小早川隆景に降伏。一字を賜り、隆宣を名乗る。小早川氏転封後、戸田勝隆に改易される。
 
 
  久保照信 (?〜?)
 黒山城主。左兵衛。
 
 
  久保好武 (?〜?)
 久保照信の子。黒山城主。縫殿助。天正八年、長宗我部氏に攻められるも撃退。天正十三年、由並本尊城救援に向かう。同城落城後、六十余名で黒川城に籠もる。四国平定後、窪ヶ市に隠棲。
 
 
  梶尾伊豆守 (?〜?)
 高森城主。天正四年、伊予宇都宮家臣大野直之に攻められ、落城。河野氏を頼る。臨終の際、三人の子に高森城奪回が最良の供養であり、他の必要がないと言い残した。
 
 
  梶尾中務丞 (?〜?)
 梶尾伊豆守の長男。天正六年、弟の左衛門尉、修理と共に高森城奪回に成功。
 
 
  生口景守 (?〜?)
 河野家臣。沼田小早川一族。孫三郎。茶臼山城主。厳島合戦では毛利元就を支援。
 
 
  生口加賀守 (1560〜1596年 37歳没)
 井口一門。慶長元年、三十七歳没。
 
 
  生口三河守 (1575〜1598年 24歳没)
 井口一門。慶長三年、二十四歳没。
 
 
  生口孫九郎 (1601〜1617年 17歳没)
 井口一門。元和三年、十七歳没。
 
 
  石川通清 (?〜?)
 高峠城主。備後守。石川氏は伊予河野家家老として重用される。細川氏の代官的な存在として高峠城一帯を領有。近隣の黒川氏への備えとして、高尾城を築く。元亀三年、縁戚関係のある三好長慶の伊予攻めに加勢。道中案内役となるが、河野家の応戦を受け、三好軍は撤退している。天正十年、長宗我部元親に攻められ、降伏。妹は金子元宅に嫁ぐ。
 
 
  石川虎竹丸 (1578〜?)
 石川通清の子。金子元宅の後見を受ける。天正十三年、小早川隆景らに攻められ、八百余名と共に籠城。土佐に落ち延びる。
 
 
  石川越後守 (?〜1572年)
 福武山城主。石川源太夫の死後、高尾城を守る。元亀三年、三好氏の河野征伐により、高尾城を攻められ自刃。
 
 
  石川源太夫 (?〜?)
 高尾城主。知略に長けるも、石川宗家を軽んずる態度から、近隣の地頭に討たれた。
 
 
  金子元成 (?〜?)
 金子山城主。十郎。高尾城主石川氏の内乱を鎮圧。子は元宅、八郎。
 
 
  金子八郎 (?〜?)
 金子元成の子。元宅の弟。天正十三年、小早川勢との合戦で兄が討死すると、残された郎党と共に金子山城に籠もる。同年七月、落城した。
 
 
  桑原泰国 (?〜1585年)
 金子家臣。天正三年以降、鷺ノ森城主。天正十三年、小早川隆景に攻められ討死。
 
 
  藤田孫次郎 (?〜?)
 岡崎城主。高峠城主石川氏に属し、三千石を領す。
 
 
  藤田芳雄 (?〜1585年)
 岡崎城主。山城守。天正十三年、小早川家、吉川家に攻められ、金子元宅と共に高尾城に籠もる。野々市合戦に参加し、討死した。
 
 
  藤田俊忠 (?〜?)
 藤田芳雄の子。大隅守。天正十三年、野々市合戦に参加。戦後、安芸三原に逃れ、後に帰農した。
 
 
  松木安村 (?〜?)
 生子山城主。三河守。天正十三年、高尾城籠城に参加。
 
 
  兼頭修理 (?〜?)
 黒川通博の家臣。文台城守将。天正十三年、小早川勢に攻められ落城。
 
 
  臼坂弾正 (?〜?)
 黒川通博の家臣。文台城守将。他に武田備後守も守将を務めた。天正十三年、小早川勢に攻められ落城。
 

 
  海賊衆
 
 
  今城能親 (?〜?)
 肥前守。伊予宇和荘有間を領す。享禄三年、河野家臣の交名を作成。
 
 
  今岡民部 (?〜?)
 享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。小早川家の書状によると今岡氏は小早川氏の名を騙って乱妨狼藉を働いたと云う。
 
 
  今岡治部允 (?〜?)
 享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。
 
 
  東吉種 (?〜?)
 左近大夫。享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。後に能島村上家に仕える。天正十二年二月二十三日、周防秋穂にて能島村上武吉は真言宗寺院の寺領を安堵。その書状に名がある。
 
 
  岩城左衛門 (?〜?)
 享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。
 
 
  東条藤兵衛 (?〜?)
 享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。
 
 
  忽那新右衛門尉 (?〜?)
 享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。
 
 
  忽那通恭 (?〜1585年)
 本山城主。天正十三年、小早川勢との合戦で、忽那通実と共に討死。
 
 
  忽那豊前守 (?〜?)
 享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。
 
 
  忽那四郎兵衛 (?〜?)
 享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。
 
 
  矢野兵庫助 (?〜?)
 享禄三年、今岡民部の作成した交名に名がある。
 
 
 
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